2013年12月31日火曜日

池田清和(国際そば学会日本代表) ・私のそば人生

池田清和(国際そば学会日本代表)  私のそば人生
昭和22年生まれ 神戸学院大学栄養学部教授 専門は伝統食品の栄養学ですが、特にそばの研究に打ち込み、その栄養やおいしさを分析してきました。
そばが健康、長寿にかかわる様々な成分を豊富に含んだ優れた食品であることを解明し、国内ばかりでなく、海外でも食生活への積極的な利用を説き続けています。
そばは身近な食品で有りながらどんな栄養が含まれているのか、食品としての特性はあまり知られていません。
そば研究を生涯のテーマとしている池田さんにそばをめぐる風習を始め、そばにはどんな栄養が含まれ、どんな働きが期待できるのか、そば研究で見えてきた伝統食品そばの魅力と可能性などについて伺いました。

日本の和食が世界の無形文化遺産に認定された。
世界の人たちに和食を知っていただける事、日本は世界一の長寿国になっている。
特に女性は30年間近く世界一の長寿になっていて、長寿を支えているのが和食なんですね。
そばも素晴らしい和食の一つです。
そばは鎌倉時代 麺としては食べていなかった。
年越しそば、福岡県のあるお寺の坊さんが貧しい人にそばをふるまったら、翌年に振る舞われたひとたちから運が向いてきたといわれて、運そば説が言われているが、そのほかにもいろいろ説がある。
そばと言う言葉は「かど」と言う意味がある。 
そば麦と言う言葉で呼ばれ そばの実は三つの角があることから、みかど と呼ばれ、帝=天皇に通じる。 
天下安泰 家族安泰、そばは長いという意味があるので、長寿に通じる。
そばは切れるというが、嫌なことを切ってくれるという事もあり、年越しに食べられるという事もある。
そばは風が来て倒れてもすぐ立ち上がるという事から、縁起がいいといわれる。

そばの効能説 12月31日に食べて、食物繊維があって、いろいろなものを排泄してくれる効果があり、身を清めて新しい新年を迎えようと、言う様な事とも言われている。
日本古来の和食の一つ
ロシアの南の方が原産地と言われていたが、京都大学の先生が中国を回って遺伝子などを調べた結果、中国の南部が原産地であることが判明した。
朝鮮半島を通して日本に入ってきたといわれる。(後はシルクロードを通って中東、ヨーロッパへ)
麺で食べる食べ方は、日本、韓国、中国などで食べられるが、そういった食べ方は少ない。
そば米と言われるが、徳島県はひ弱な土地で米がとれにくいが、米代わりに利用した。
日本ではほかに山形県で利用されていて、むきそばと言われている。
ヨーロッパの方ではカーシャー(ロシア語)料理が多い。

1570年ぐらいに麺と言う言葉が登場する。 
長野、山梨県 あたりに出来て、江戸に入ってそばきりと言う食べ方が非常に広まったと考えられている。
砂場 もともとは大阪の店(江戸に家康が居を構えた時に来たと言われる)  
井原西鶴にもそばの話は出てくる。
鈴木梅太郎先生、満田久輝先生が食品関係で文化勲章をいただいているが、満田先生はわたしの恩師です。
満田先生の米の研究に興味を持った。 それからそばの研究を始めた。
国際そば学会が30年前ぐらいに出来た、以前宮崎で学会が行われ、そこで発表したり知り合いが出来て広がって行った。

さらしなそば:白いそば  いなかそば:黒いそば →ぬかみたいな部分が含まれているもので、ビタミン、ミネラル、ポリフェノール等いろんな成分が入っている。
麺、粉と水だけで作る文化、技術がすばらしい。
たんぱく質に興味があって、そばのたんぱく質を調べると、9つの必須アミノ酸があるが、
小麦はリジンのアミノ酸が少なく栄養価が40 米は68 そばは100 動物性たんぱく質に匹敵するような栄養価がある。
消化は小麦、米、そばの順に良い。 そばは一番悪いがそこに興味を持った。
消化が悪いと、人間の身体には悪いのは良くないと言われていたが、最近肥満の問題があり、それがコレステロールを下げる効果を持っていることが解ってきた。
栄養学から、いい面、悪い面が段々見えてきた。
そばにはほかに消化しにくいでんぷん(レジスタントスターチ)があり、食物繊維の様な働きをする。
江戸時代の本に、そばは人の腸胃の不快をこなすと書かれており、水に溶けないない食物繊維があるために便通を良くしたり、大腸がんの予防にもつながる。

そばゆ(飲むと健康 ビタミン、ポリフェノール等が溶け込んでいる)
うどんのゆ(飲んでも健康には関係ない)
ルチン ポリフェノールの一つの成分 普段食べているなかではそば以外にはほとんどない。
血管のもろさの改善作用、高血圧の予防効果がある。
カリウムも沢山含まれている。
カリウムはナトリウム(高血圧の原因物質の一つ)を排泄する効果がある。
小麦製品うどん、パンなどは塩を入れないとグルテンという成分が固まらないが。そばにはグルテンがないので、そばは塩を入れないので、減塩食物。
ビタミンCはほとんど入っていない。 ビタミン12も入っていない
ヘスペリジン (柑橘類に入っているがルチンと似た作用がある) 血管拡張する効果があり、ゆず湯はその効果がある。
いろんなものを食べるのが長寿の秘訣。

栄養、美味しいは表裏一体 疲れると甘いものが欲しくなる。
美味しさを分子レベルで調べようと、分子調理学を初めていいだした。
21世紀の調理学の本に投稿、美味しさを分子レベルから明らかにしようと、タンパク質、でんぷん、ルチン等がおそばの美味しさにかかわっていることが分かった。
そばには打ち立て、引きたて、ゆでたて、取り立てなどがあるが、調理したてがおいしいといわれるが、長く貯蔵すると食味が悪くなる。
温度、湿度、期間が影響している事が解った
石臼の合理性  粒度分布は普通のロールと違って、かなり細かい粒と粗い粒子が混在する。
粗い粒子がそばの香りを持ってきて、細かい粒子が粉をくっつける効果を持っている。
湿度、温度を低くして貯蔵する事が必要。
そば粉は風邪をひくと言われるが、ぼそぼそになってくる。

伝統食品の大切さ 米を中心に味噌汁、そばなど3000年の歴史がある。
脂肪エネルギー 30%以下にしてほしい。 
今は30%を超える人は3~4人に1人になってきている。
アメリカは40~50%になってきており、肥満になりやすい状況。
引き継いでゆくのは学校給食しかないといわれる。
そばなども学校給食の中に入れてゆく事によって、広がってくれればと思っている。
昭和21年の平均寿命は55歳、今は男性79歳、女性86歳  伝統食品と欧米風の食事が合わさってきたのでいい状況だが、今後30年、40年先は大丈夫だろうかと思う。
日本では麺に拘っているが、それ以外の食べ方を学校給食に取り入れたらいいのではないかと思う。
広くそばを利用して行けばいいと思っている。

20世紀はパンの時代、21世紀は麺の時代だといわれる。
うどんヌードル、ラーメンヌードル (日本の麺) アメリカでも興味を持ってきている。
もう少し、そばの新しい加工方法をやっていきたいと思っている。
17種の野生そばがあるが、食べるのは普通そばとだったんそばがある。
だったんそばはルチンが普通そばの100倍入っている。
糖尿病、脂質異常症などに改善効果があるが、硬くて食べにくいので、食べやすい方法を考えている。












































































2013年12月30日月曜日

2013年12月29日日曜日

五木寛之           ・歌の旅人(福井県)

五木寛之       歌の旅人(福井県)
福井は地味な感じがするが見どころ満載 歴史もあり 人脈、食べ物名物も多い。
宗教心が深い。
吉崎御坊  、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として越前吉崎にある北潟湖畔の吉崎山の頂に建立した。
蓮如 本願寺中興の祖 全国に教宣する。 南無阿弥陀仏と言うようになったのは蓮如の働き
全国からいろんな人たちが吉崎に集まってきた。 各地の門徒が泊る。(たや) 
名残の遺跡があるが当時は想像もつかないほどの賑わいだった。
高村光太郎の父の作った蓮如の像がある。
軍部が戦争で像を取り壊して持っていこうとしたが、村人達が取り囲んでそれを阻止したという話がある。
永平寺 10万坪と言われる、別世界  
道元 俗世間にかかわるのが嫌で自分の修行の場を作った。
現在も170人の修行僧が永平寺で学んでいる。

「私が生まれて育ったところ」  野路由紀子 歌
越前、若狭の国  湿度が高くて吉崎に蓮如が大津の方から来ていたんだが、京都に帰る。
一向一揆
住んでいる人の幸福度が上位、家族の結束が固い地域。   織物が盛んな地域だった。
県民気質 気は強いけど、負けず嫌いで辛抱強くて、がんばる。
寺院の7~8割が真宗 
以前は釜にお茶を煮立てて、自分の茶碗を持ってきてそのお茶を飲みながら、漬物をつまみ、宗教の事を話していたという風習があったそうです。

高石ともや ナターシャセブン  「思い出の赤いヤッケ」

三国は大きな港で北前船が停泊する場所だった。 花町として栄えた。 
哥川(かせん)という才能のある遊女いた。 俳人で 加賀野千代女と並ぶぐらい有名だった人。
三国は当時は栄華をきわめた街だが、現在は落ちついた街になっている。
カニは子供のおやつとして食べられてもいた。 たくさん取れていた。
橘 曙覧(あけみ) 「楽しみは」という和歌を読んでいる
「楽しみはまれにうおにて こらみながうましうましと いいてくうとき」
最古の木造天守閣 丸岡城

「東尋坊」 水森かおり 歌

高見順 水上勉 加古里子(さとし)、津村節子、藤田宜永 、岩崎ちひろ、舞城王太郎
俳人 荒川洋治 俵万智  映画監督吉田喜重  久里洋二 花菱あちゃこ 宇野重吉 
地球物理学者竹内均  理論物理学者南部陽一郎  フランス文学者桑原武夫  
漢文学者白川静
新しい時代を作ってきた方が多い。
反権力の姿勢を貫き通した人がたくさんいらっしゃる。

「振り向けば日本海」 五木ひろし 歌   五木寛之作詞    
中野重治  「五勺の酒」の言葉を二番に入れてある。
眼鏡は90%が作られている。さかえ   
小浜市 塗り箸 お寺がたくさんある。(海のある奈良)  こちら側が表日本の時代があった。
京都に近い為京都の文化と融合している部分がある。























2013年12月28日土曜日

中山清美(博物館館長)     ・琉球弧の視点で奄美を見つめる

中山清美(博物館館長)   琉球弧の視点で奄美を見つめる
琉球弧 亜熱帯域の島々 鹿児島県、沖縄県ではなくて、琉球弧の文化を発信できると思う
島では旧石器時代から住んでいる。 
今に至るまで限られた島の資源を利用して生活してきている。
八重山、沖縄、徳之島、奄美大島ぜんぶそれぞれ旧石器に相当する遺跡がある。
島なので公益交流なので、外来の物を上手く島化にして、島の文化化をしている。
島化→島のしたたかさ  琉球弧の島々は独自性を持っている。 共同体としても生きている。
船一つとっても、島の周辺域の漁をすると云う事で、速度の速い船(先がとがっている船)、 安定性はあるが早くない船(先が平ったい船)、があるが北部に行くと合いの子ができ上る。
日本には漢字文化が入ってくるがひらがな、カタカナが出来てくるが、日本文化を縮小したものがそのまま残っている。
外からの影響を受けていても独自性、方言、節回し、曲の違いなどがある。

皆島にどっぷり漬かっているので島の良さが解らない。 島から一歩も出たことがない人がいる。
最近はTV、ラジオ、等で海外情報が入ってくるがやはり島がいいと思っている。(なんとなく)
一度島の外に出ると島の良さが判る。
私も学生時代に外に行って島にもどってきたが、島の良さが分かった。
先史時代からの人も同じだと思うが、外来文化の影響を受けて、島の良さが生かされる。
外来との交流を閉じてしまっていると、全く島の良さは生かされないし、島の良さが育たない。

(大島紬と言えば奄美、 奄美と言えば、大島紬  大島紬にかかわっている人が私の周りにもいます。   歌と声に感動しました。(こうすけさんの曲 「家路」)   投書より)

今取り組んでるのが、それぞれの歴史や文化を考え始めていて、解決すべき問題は沢山出たと思う。
奄美、琉球の自然遺産への取り組み。
田中一村も大陸から島に来て、19年間島で生きてきて、集落の中でなく、周辺の森の中からのぞく様な絵ですね。
自然とのかかわりの深い絵だと思う。
19歳の時に書いていた、同胞自然 彼はこれをずーっと求めていたのではないかと思う。
日本でも忘れかけられている、奄美に来るとそれが生きている、それを完遂させたものではないかと思う。
同胞自然 自然から全て学んでで自然の中で生きている。
島の資源利用は森から海に至るまで、垂直利用なんですね。
垂直利用の中には集落があり、集落の奥の森には妖怪が住んでいて、深い森にに入ってゆくときには妖怪におまじないする。
木の実、猪等を取りに行くときは恐れが生ずる。
恐れて敬ってそれを守って残すという事が、島の中の道徳みたいなものになっている。

我々は当たり前に思っているが、外から来た人からみると、自分の世界に求めたのはこれかなとか、芸術の世界で田中一村はそれを見つけたのではないかと思う。
けんむん 身近でなおかつ恐れるもの。 妖怪なので、お年寄りにけんむんの事を話してくださいというとそんなことは知らないと、話してはくれない
自然に対する怖さを持っている。
最近の日本では自然を我々が支配したという様な気持ちになってきている。
きじむなー も妖怪の仲間  ぶながや  森の妖怪ですね。
恐れるものを大切にする、ある程度親しみを持たせるが、キャラクター化すると恐れなくなる。
しかし恐れなくなるとしっぺ返しを食らう。(ハブにあたったり  そういったいわれがある)
幽霊とけんむんは違う。 島ではまだ恐れがある。
だからけんむんは、島歌がいっぱいあるが、島歌では歌われない。

グローバルの視点は必要だはあるが、琉球弧のねっこは学ぶべきものが多いと思う。
どの島々を持っても、独自性はある。
島尾 敏雄さんが ヤポネシア(造語)作る。 言わんとするところは同じ  ヤポネシアの尻尾の方。
日本列島の縮図 鹿児島から台湾まで、188の島があり、68島が有人島。
琉球弧は自然の回復力、生物多様性と言うのが注目されている。
自然とのかかわりが色濃く残っている。
奄美群島は日本にはいったり、琉球に入ったり、アメリカに入って日本に復帰と繰り返しやってきた。
多様な影響を受けているが、島々にはそれが生きている。
生きていてそれぞれの歴史がある。  多様な文化を戦争によって受けたり、侵略によって受けたりするが、歴史を正しく見ていかないといけない。
どのような影響で入ってきたのか、琉球、薩摩、その後の文化がどう変化してきたか、それを島の人達がどうとらえてきたか、そういう捉え方が必要だと思います。
奄美群島は良く理解できる。 したたかさを正しく理解する、そのためにはどういったものがあるか、それが奄美群島内には強く生きている。
群島内が博物館と或る意味では言える。
ようやく方向性が見えてきたのではないかと思う。

大宰府の出先機関の遺跡。
中世史を塗り替える様なものが発見されつつある。
我々はローカルですが、ローカルだから出来るものがある。
環境循環型 ローカルだったから最先端を行っている。 それを宝にする。
グローバルの視点でローカルから学ぶ、地方にはまだ愛が生きてるのではないか。





























































2013年12月27日金曜日

三輪えり花(演出家・脚本家)   ・気軽に楽しくシェークスピア(再放送)

三輪えり花(演出家・脚本家)      気軽に楽しくシェークスピア(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/11/blog-post_21.html
ご覧下さい。

2013年12月26日木曜日

枡野 俊明(住職)        ・禅の心を暮らしに生かす

枡野 俊明(住職)    禅の心を暮らしに生かす
1953年、神奈川県の生れ 建功寺18代の住職で、又庭園デザイナーとしても国内だけでなく海外でも禅の庭の創作活動で高い評価を受けています。
今男女を問わず、様々な世代の人が禅の教えや言葉に引かれているといわれます。
枡野さんの著書はベストセラーと成り、法話を聞く会にも多くの人が集まります。
禅僧という立場から禅の教えを判りやすく語っていただき、新しい年を迎えるに当たって私たちが良い一年を送れるよう、暮らしの中で実践できる事などを教えて頂きます。

禅が注目されているが、一つは現代社会はストレスを感じている時代だと思う。 
物事が全て早く動いてゆく。
仕事をドンドンこなしていかなければならない。 
休むことなく動かなければならず、心がつかれてしまっている。
心の安定、安寧に魅力を感じている。 
20世紀は物の豊かさを実感できるよりどころだと信じてきたが、収入も増えて欲しいものを買うと、次の物、次の物を欲しいと思う(執着心)
執着心がドンドン膨らんでいってしまう。(執着心のスパイラル)
何が幸せなのか判らなくなってしまう。
本当の人間の豊かさ、幸せは何なんだろうと、考え始めた。 ヨーロッパが早かった。

物の豊かさが人間の生活の豊かさではないのではないかと思い始めて、日本、中国の一部だとか、心の豊かさこそ大事だと永年言ってきたじゃないかと、そこに目が向けられてきた。
ふーっと心の安定、心をどう穏やかにするかと言う風にむいてきた。
生活そのものが禅の修行だと考える。
「行、住、坐、臥」 皆修行なんだという事です。作務 生活そのもの全てが修行だととらえる。
言葉や書物では伝えられない、自分が行動をして行って、其中で自分がすとんと気がついた事、その気付きを大事にしてゆく。
生活の中の一つ一つの中で自分がふっと気がつく。
香厳撃竹」 僧(香厳)が墓の掃除を毎日毎日していて、或る日瓦のかけらが箒の先に当たって、竹やぶの竹に当たって、カーンと音がして、これだと覚った。
物事は因縁、一つの物では成り立たない。
瓦のかけらがあって、竹があって、箒があって、掃いた自分がいて、「カーン」と音がする。
原因、と縁が合わさったから初めて物事が成り立ってゆく。(大乗仏教の基本)

自分がデザインして出来上がった庭に春風が吹き、芽が出てきて、花を咲かせるが、人間がどうしようとするはかりごとではない、人間の謀りごとを越えている。
人間の謀りごとを越えている事を仏教では、ほとけだとか仏性と言うわけです。
それを大宇宙の真理だと私は言っている。   それは身の周りにどこにもある。

庭園デザイナーはわたし自身の修行の一つだと捉えています。
鎌倉中期から室町中期までは禅僧が自分の修行で会得した心の状態を何かに置き換えて表現しようとした。
禅はどう生きたらいいかと言う様に考えて、哲学に近いが哲学とも違う。
哲学は学問なので理論的に証明すればいいが、禅は行として続けていって、身体で証明しようとしている。
形の無い物を何かに置き換えて表現しようと、禅僧たちはかつてした。
平面に表現しようとしたのが、画僧  漢詩の世界が好きな人が、五山僧、空間的に表現しようとしたのが石建僧 庭園をデザインする僧 
一番有名なのが夢窓疎石
現在、僧侶で庭園デザインをしているのは私だけになってしまった。
座禅を組むという事は心が穏やかになる、いらぬ事に心が躍ることがなくなる。
調身、調息、調心 身体を先ず整える 次に呼吸を整える そうする事によって心を整える。
そうしないと座禅はできない。
初心者は作法があるので禅寺にいって学んだほうが入りやすい。
慣れてくると、椅子に座っていても、立っていても出来るようになる。

今の社会の特徴はあまりにも情報過多になっている。
選ぶ側が右往左往して、不安になる。 
起きてない事に対しても不安を感じてしまう。
今と言う事に対して徹することが必要、如何に自分の命を込めて行動してゆくかと言う事が不安を取り除いてくれる。
達磨大師が 弟子慧可に不安があるなら、不安を出してみなさいという。
出せないという事は実態がないと気付く。
先の事を不安に思っても、起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
脚下照顧 自分の足元を照らしなさい、そこに全力を投入しなさい。

人間関係に疲れてしまったという相談は多い。
自分をよく見られたいと、虚像が出来てしまって精神疾患見たいになってしまう。
昔は役割分担があって、組織的に、自分たちの立ち位置が判って、グループで成績を上げていったので横のつながりがしっかりしていた。
今は全部個人の競争になってきている。
それを数字だけで見比べられるのでストレスがたまってくるし、自分の得た情報を他人に教えたら、取られてしまうかも知れないという様になって、他人に陥れられてしまうかもしれないとか、会社の同じ部署の人を信じられなくなってしまう。
全部が競争相手になってしまい、相談できる相手が無くなってしまう。
数字、物だけを評価する、結果だけを評価する。
過程の評価が無い、それらに精神的な悩みを抱えて行って、周りには相談できない。
そのような人が禅寺に相談に来る。

人間関係 自分を良く見せたいという執着心がある。 
素直に表現できる人との付き合いをする。
周りの人間がどういう人間であるかとよーく見る事に依って、自分の先入観で見てしまうという事が無くなってくるのではないか。(成長させるために、厳しい言葉を言う場合もある)
自分が嫌なことをされたことは人には決してやらない。
自分の中の自分自身を信じてやってゆく。
坐 人、人(もう一人の自分)と話しあって、行動する。 
一番見ているのがもう一人の自分なんです。
手紙でいろいろ反響をもらっている場合が多い。

おだやかな表情で穏やかな話し方をすると相手も穏やかになる。
私が攻撃的な顔をして、攻撃的な言葉を発すると、相手も攻撃的に対応する。
和顔愛語(わげんあいご) 穏やかな笑みを浮かべながら慈しみの言葉を発する。
そうすると相手も返してくるので、自分も心地良くなる。
心が荒れていると、言葉も当然荒れてくるので、言葉は心のありようが出てしまう。
立ち居振る舞いを整える。 居儀を整えることが仏そのもの。
お辞儀、挨拶、話すときの心のありようは、立ち居ふるまいから繋がっている。
物事の始まる時点 物事が終わる時点、があるが、この1年間を過ごしたときに生産する、1年間をリセットする事が、お寺でやっている除夜の鐘 百八の煩悩をそこで振り払ってゆく。
清らかな心になったところで初詣でに行く。
一度初めに良い縁を結ぶことを縁起がいいという。
1年を良い縁を巡ってゆくようにと言う事で、初詣にゆく。

お守りは御神体の分身を自分が預かる、身につける、預かったものに何かあってはいけないので、危ないことには避けてゆく、結果的にその人を守ってゆくことになる。
禅僧は年が明けたときに、いつ自分の死が巡ってきてもいい様に、遺偈という漢詩をかく。
父が最後に残した遺偈は
「草を取り、誠経を整え、これ八十七年 ただ建功のために尽くす 信じて歩すれば安全静かなり」 
父は掃除、草取りを年中やっていた。 「建功」寺  名前が「信歩」
今年1年間はその言葉を寄りどころに生きていこうと自分で選んで目標にして、ノートに書いたり、書いて壁に張ったりして、違ったその年が始まるのではないでしょうか。
生きてゆくという事はどうしても何かに捕らわれてしまうが(執着心)、実は生れて来た時には何にもない。
亡くなってゆくときも何にも持ってゆくことはできない。
「人間本来は無一物」 ここに気が付くともう一回やり直しができるとか、使わないものはドンドン手放して行ってもいいんじゃないかと、守ろう、守ろうとするから人間は苦しむ。
そこに気がつくと気持ちが楽になる、凄く心が楽になる。
「無一物中、無尽蔵」 人間何も持っていないけれど、だれしも無尽蔵の可能性が皆さんの体の中に秘められている、だからやればできるんだという事が「無一物中、無尽蔵」。 

























































2013年12月25日水曜日

白潟八洲彦(砥部焼き職人)    ・世界平和を祈って、ろくろを回す

白潟八洲彦(砥部焼き職人)   世界平和を祈って、ろくろを回す
愛媛県伊予郡砥部町で長い間窯元をされている。  
第一線でそれぞれの道で活躍し、模範的な仕事をされてきた方に贈られる黄綬褒章をこの秋に受賞されました。
砥部町は250年の歴史を持つ焼き物の産地です。
この街で生まれた白潟さんは焼き物の手伝いをしているうちに、いつの間にか、砥部焼職人として一本立ちされました。
大型の轆轤を使い1mを越える白磁の作品が特徴で、ジュネーブの国連欧州本部にも大きな地球儀が飾られています。
世界平和を願い、轆轤を回す、白潟さんに伺います。

地球儀、1mを越えている。 
いい土があっても、いい腕があっても轆轤が回ってくれないと仕事にならない。
大型の轆轤が手に入って大活躍してくれました。
その後自分で改良した轆轤を作りました。
地球儀が国連欧州本部に飾られて、「生命の青い星、命の地球」 1995年に製作
砥部町が国連創設50周年のお祝いにと言う事で作ることになる。
世界平和、国境を書かない、国境のない地球儀を作る。
大陸が真っ白に塗られている。 海が青で、砥部中の窯元から呉須(青い顔料)をひと匙貰って作る。
5人の男性が手を握り合った絵が入ったものが軍縮会議上のロビーに置いてある

両親は磁器製作はやっていなくて、昭和45年に私が窯を作った。
砥部焼全体では世襲は少ない、一代限りが逆に多い。
定時制の高校がありそこに入って、昼間にいとこと一緒に共通の祖父、に昼間時間があるなら手伝えと言われてこの世界に入ったのが始まりです。
子供のころは山や川自然相手に遊び回っていた。
陶石(白い石)を買うが、場所に依って陶石の性質がちょっと違う。
もともとは砥石の産地で、正倉院の文書にも砥部の事が書いてあると言われている。
230数年前、江戸時代 砥部は松山に近いのに大洲藩だった。(飛び地)
有田では砥石が出てくる、磁器も出てくるので、砥部でも磁器ができるのではないかと有田より、160年遅れてスタートする。
瀬戸、九谷でも有田に技術を学んだ。

有田焼の場合は赤絵が上絵だが、基本は白磁に呉須だと思います。
益子は陶器の町(益子焼)  白いのが磁器、茶、黒いのが陶器と思ってもらうといいと思う。
一番大事なのが耐火度、可塑性がないと陶器には使えない。
備前焼も陶器 信楽焼は陶器 
原料の良さをいかに生かしてゆくかが、職人の仕事。
砥部では良い土が取れる。 粉砕して粘土を作る。 
裏方に支えられて窯元は仕事をさせてもらっている。
未熟な間は土は意地悪をする、こうしたいと思っても言う事を聞いてくれないが、腕が上がってくると、土も判ってくれて土がこうなった方がいいの、と土が先に動いくれるような感じになる。
失敗をたくさんして身体で土との相性を覚え、努力する。
ものを作ってゆくという事は面白い。

大量生産、は石膏型を使ったり、機械轆轤を使ったりいろいろ手法がある。
16年ぐらい前から毎年、干支の置物を作っている。
来年は馬、デザインがいろいろと大変、大きさを考えながらやる。  
フィリピン大潮で大変だった。
レイテ島 2年間いたところ  青年海外協力隊 向こうの国から要請がある。
45年前に焼き物の隊員がほしいと言ってきて、幸い行く機会があった。(2年間)
野焼き、原始的な手轆轤があるのみだった。
電気轆轤を持っていこうと思っていたが、電気を使っていなくて、蹴り轆轤を作って、窯も何基か作った。
土はいい土がなかなか見つからなかった。
焼き物は海辺に近いところでやるのが多いので今回の大潮については心配している。

轆轤は面白い、と同時に難しい。  どういう形を作りたいか、次々に出てくるようだと楽。
ほとんどの時間はなかなか頭に浮かばない。 駄目な場合は気分転換の仕事をしたりする。
形が気にいらない場合でも焼きまではいったが、最近は上手く形ができなかった場合はもう一度練り始めるようになってきた。
もの作りは集中して、気持ちよく作りたいが、雑念が入ってしまうのでは。
物作りもあまり気負わないでやった方がいいと感じたことがある。(80%程度)
短気なんだけれどのんきなところもあり、集中力、創造力なども必要かと思う。
昭和43年にフィリピンに行ったときに、日本兵がやった残虐行為をいろんな人から聞かされた。
人類と言うものは戦争の歴史だと思うので、もうそろそろ止めてもらったらいいと思って、そのためには国境がなくなればいいと思っている。
国境のない地球儀を作る。
原爆も唯一の経験国なので発言していかなければいけないと思う。

黄綬褒章 思ってもいませんでした。
現代の名工に選ばれて、そこで職人としては満足して、県から言われた時はお断りしました。
砥部焼の業界には受賞の流れがあって、貰っておけとの話があり、受諾する。
今までやってきた仕事をより完成度をあげていこうと思っている。












 







































2013年12月24日火曜日

妹川幸二(水車大工)       ・3連水車を守り続けて

妹川幸二(水車大工)     3連水車を守り続けて
九州福岡県朝倉市は九州の最大の川、筑後川が流れる田園地帯にあります。 
やや高台にあることもあって江戸時代はよく干ばつに悩まされました。
そこで約200年前に、筑後川から灌漑用水をひき、そこに水車を作って田んぼに水を流すようになりました。
高台に水を上げる揚水のための水車は能率を上げるために2連、3連の物がありました。
朝倉地方のあちこちに作られた水車は現在も3つ残り、豊かな水を35ヘクタールの田んぼに水を供給しています。
地元で大工さんをしている妹川幸二さんは子供のころから3連の風景に親しんできましたが、若い頃から、水車の維持管理の仕事にかかわるようになり、56歳の今も水車を動かす春から水を止める秋まで、毎日の様に水車の手入れを続けています。
3連水車を守り続ける苦労と心意気を伺います。

大きな水車、家一軒ぐらいの大きさが三つ付いている。
中心にどうぎ 、自転車のスポークの部分に当たる、ひのあし その先に輪板 その先に柄杓があって、回転して水を汲むようになっている。
直径が5m、中が4.2m、その後ろが3.9mぐらい 柄杓の数 48個 44個 40個になっている。
柄杓自体は金釘を使うが、全体を組み立てるときには、竹の釘を使う。
3連水車の一番大きいので10秒で1回転する。
揚水用の水車として、実働で回っているのはここだけ。
堰を作って水が全部跳ね板に当たるようにして、柄杓に水が入る。
柄杓1個に7,8リットル入る。 
3連が1基、2連が2基あります。   220年前ぐらいから使われている。
誰が作ったとかは判っていない。

部品も手作業で作るので、最初に作った人は試行錯誤で大変苦労したものと思われる。
水切りがないと真下に水が落ちてしまうが、水切りがあると、横に水が流れて、うまく樋に入るようになっている。
板をひじきにさしこんで止めるので全体に力が分かれる。
27歳ぐらいから妹川紀男さんに弟子入りして、やっている。
30歳過ぎからは一人でやっている。
親も大工で3年妹川紀男さんにお世話になり、親と同じ経験をしたいと思って弟子入りした。
24歳で大工になる。   妹川さんは水車の作る名人だった。
紀男さんは自分で盗みなさいというような人だった。(口で教えてもらわなかった)

朝、ちょっと見て回って、緩みが出た処を見つけると、修理したりする。
柄杓が壊れたりすると予備の物と交換したり其他いろいろな部品の不具合があったら修理している。
ゲートがあって、筑後川に水を流して、水車を止める。
水車が止まるまで1時間掛かる。
9月中旬ぐらいから、水の量を少なくして、10月11日は全部干してしまう。(観光用にはそれまで回す)
台風でも水車自体には影響なかった。 水量は門とかで調整するので。
紀男さんの時からマスコミに脚光を浴びて、有名になった。
解体の時にもその状況をマスコミに情報を流して見てもらった。
国の文化財指定になっているし、観光的な事もあるし、私がいなくなって、誰もしなくなったら
電動式になるのではないか、そうすると大工事になるし、米を作れない時期が出てしまうのではないかと思う。

3連水車は200年ずーっと動いているが、5年動かすと6年目には作りかえる。
技術の伝承が難しくなった。  
全部が根気の居る仕事 3日も4日も同じ仕事をいなければいけない。
後継者 2人いる。  作るだけだったら出来るが、維持管理、修理したりすることが大変。
会社務めをしていると(大工ではあるが)、そういった時間を取ることが難しいところがある。
会社の理解が必要。 
水車で食っていければいいが、どちらかと言うとマイナス面がある。
いずれどちらかに継いでもらわないと、私も辞められないので。
一緒に組み立てをやってもらっているので、要領は掴んできている。
まだ作っていない部品はあるので、まだ習ってもらう事はある。
胴木は24角形にする、日の足を差し込む部分に穴をあけるとか、組み立ての部分も有るので、こういったところの感を掴んでもらいたいと思う。

ずーっと水車は保存していってもらいたいと思う。
後10年ぐらいでバトンタッチしたいと思っている。(重い作業などもあり)










































2013年12月23日月曜日

新保 浩(社会福祉士)      ・自閉症の子と手を携えて19年 2

新保 浩(社会福祉士)   自閉症の子と手を携えて19年 2
4月から稜麻さんが一緒に生活するようになりました。
自閉症の方は感性が豊かだと聞いていますが?
必ずしも皆が能力を持っているわけではない。
自閉症の中にサヴァン症候群という障害の方がいるが、パーっと、トランプが落ちてなにか一枚足りなくて、数を数えてしまうとか、電話番号を電話帳全部覚えてしまうとか、ただ実際はほんの一部なんですね。
心の中に感じている事は我々以上に感じているという事は判ることがあります。
私の息子は音に対して物凄く敏感なんですけど、時々耳をふさぐ。
こうしたときになんでこうするのだろうと思う。 
我々の聞こえないような、音を感じていたりする能力を持っているのかなと思います。
5年前の音楽を突然思い出して歌ったりする。(その間に一回も同じ音楽を聞いていないはず)
記憶の中にぱっとスイッチが入ってそのような行動をしたりするかもしれない。

来年稜麻は20歳になる。
息子が成長してゆく中で、成長させられているのは自分だと思います。
如何に自分が未熟であったかと思い知らされる。
想像力と言うものがどんどん備わって行った。
父がアルツファイマーで母が車椅子で、もしこの状態が自分だったらどうだろうと考える様になった。
バリアーフリーじゃあないところでトイレに行きたくて、我慢していけない様な状況だったりするとどんなに辛いだろうと、想像させてくれたのは、稜麻がドンドン私を成長させてくれたのだと思う。
障害を持たない稜麻だったら、このような事を気付かずに過ごしてきてしまったかもしれない。
私の中では、他人を思いやる心が一番大事だと思っている。
人間は一人で生きていけないという事を凄く感じます。
足が不自由な方には、車椅子、杖が必要なように、目が不自由な人は眼鏡や、コンタクトレンズ等が必要であったり、耳が不自由な方には補聴器、手話とか必要であるように、息子に必要なのは人のサポートなんですね。

人との出会いとか、人の力を借りして、なんとありがたい事なんだろうと感謝の気持ちを自分が持てるようになったのは、稜麻が教えてくれたことだなあと思う。
4月からは地域のなかで新保さんが実践の場に一歩踏み入れた形ですね。
改めて息子が帰った時に息子と一緒に近所の方々に挨拶にうかがった 。
自閉症の簡単な説明と共に、時には大きな声を発してしまうかもしれないことも付け加えた。
息子が一番楽しみにしてるのは、お菓子を買ったりすることなので、買い物などをするので、いろいろ経験させてもらえませんかと、今はじめています。
息子が何よりも、笑顔で地域で生きてゆくことが最優先だと思って、今はそれを最優先にやっています。
地域の通商施設でちょっとした作業をしています。 
じっとしている部分がない事もあるし、作業をすることも難しいこともあるが、作業を一つずつ経験する様にやっています。

父と母にとってはなじみの深い家だが、トイレに行くのにも困難であるため、車椅子で楽に生活できるようにしないといけないと思って、バリアフリーにしたり、事務所を作ったり、立て替えた。
なんでそんなに頑張れるの、なんでそんなに強いの、とか言われるが、これが当たり前の生活であって、それぞれの方がそれぞれ生活している様に、私にとっては父、母、息子がそれぞれいろんなハンディキャップ持っていても、それが当り前の生活なので、全然苦労だとか大変だとは思ったことがありません。
笑い声は絶えない。  お互いに関わりを持っている。
息子がいる為に笑顔が楽しい事が増えました。
笑ってしまうような行動をするので、つい笑ってしまったりする。
母は父に対して、これは違うでしょうとか、認知症の父に言ったり、母が常に声かけをするので、ボケてはいられないというような感じで、進みが遅いのではないかなあと思う事がある。
母は常に父にしゃべるかけている。

私がいることによって皆にフォローができたりしている。
それぞれが頼りになる人で、バランスが取れていると思う。
ありのままに生きていく中で家族としてやっていこうというのが我が家のスタイルです。
最近本を出して、「笑う門には福来る」がある。 笑いが絶えない。声が常に発せられている。
怒って生きるのも、泣いて生きるのも、悲しい表情で生きるのも、同じ時間、どうせ生きるのなら、
笑って過ごした方がいいなあと思います。
人間だから怒りたい時もある、悲しい、苦しいとかいろいろあるが、そういった時間を出来るだけ短く出来たらいいなあと思います。
笑っている時間が多ければ多いほど、充実した人生になると思います。

自閉症と診断され、私たち親がいなくなったらどうなるんだろうというところからスタートした。
どちらからと言うと暗い未来を想定したが、それから10何年たって、今言えるのは息子の為に、息子と同じ障害を持つ人の為にも、何か社会が変えられる様な仕事をしたい。
将来、私が先にいなくなったときに、必ず地域で生きてゆけるようなものを作り上げておきたいと思う。
具体的にはまだちょっと出来てはいないが、施設に戻るのではなく、例えばグループホームを作って、地域の中で生きていけるような状態になればいいなあと思います。
息子が地域で普通に歩いていけるとか、いろいろな能力が出来てくれば、初めて其時にグループホームで生きていけると思うので、私と過ごしている間にスキルアップして、なにか作り上げたいなあと思います。

自宅に帰ってから、稜麻の顔が柔らかくなった。
コミュニケーションを取る時間か長くなってきた。
人生を楽しんでいる時が長く、多くなったのではないかと私の目では、そう思います。
稜麻はドライブが好きで、ドライブを凄く楽しんでいる。  
今楽しい事を彼に味わってもらう事が彼にとって充実した人生なのかなあと、ドライブを楽しんでもらっています。
ホームページにお出掛レポートで取り上げていたが、すごい参考になったとメッセージをもらった。
養護学校を通過して、施設に行ったときに、ここで暮らすんだよと言ったときに、息子の表情がガラッと変わって私の腕を放そうとしない。
稜麻の涙が一気に出てきて、後ろ髪を引かれながら、その場を離れなければならなかった。
この辛さは一生忘れないよ、お前が悲しんだ分、私が悲しんだ分絶対にプラスにするからと思った。
それが記憶と成っていまでも絶対に忘れられないです。
ようやく今年の4月に一緒に暮らせるようになった。

本来の家族の形に戻したかった。
仕事を辞める事がどんな状況になるかは判っていたが、それ以上に息子を戻さないと後悔するとおもった。    苦渋の決断をする。
ウインドサーフィンをもともとやっていた。
風上にはそのままは進めないが、45度でジグザグに行かないと目的地にいけないが、私たちには丁度其状態だと思っている、ジグザグと遠周りし、強風に出会うかもしれない、いろんな他の事に出会うかもしれない、でも目的地に向けてセーリングしてゆくのが我々の家族かなあと思います。
大海原を一緒にセーリングしてきてよかったなあと思う時が必ず来ると思います。

息子が小学校の1年生の時に、ある自閉症を持ったお母さんから「大丈夫、今は小さくて多動したりして大変な時期かもしれないけれど、大きくなったらドンドン落ち着いてくるよ」 と言われた。
この一言が私を支えてくれた一言だった。
この一言で、あっているんだろうと思ってそれを支えに生きてきたら、息子も肝癪を起さなくなってきた。
今度はわたしが、こういった子を持つ渦中にあるご両親に対してお力になれるのかなと思います。
将来に不安を感じるかもしれないが、時間、子供の成長、人との出会いなどに依って解消されると思います。
子供は障害があっても必ず成長してゆく。 これは心に留めておいてもらいたいと思います。
そして決して頑張りすぎないことだと思います。
僅かな時間でもいいから自分をケアする時間を設けてもらいたい。

今は思えないかもしれないが この子が生れてきてくれてありがとう、と思える時期がきっとあると思います。
わたし自身がそうで、稜麻がいて本当に良かったと思います。
リレーの様にこの事は伝えてゆきたいと思います。






































































2013年12月22日日曜日

新保 浩(社会福祉士)      ・自閉症の子と手を携えて19年

新保 浩(社会福祉士)   自閉症の子と手を携えて19年
長い人生の間には家族の誰かが、ある日突然不治の病に冒されたり、不慮の事故にあったりする事があります。
そんな時人々は我が身に降りかかった境遇と一体どう向き合って生きているのでしょうか。
神奈川県川崎市にお住まいの新保 浩さん48歳、 新保さんには19歳になる自閉症の稜麻君がいます。
先天性の自閉症は直る見込みのない障害です。
全国におよそ36万人いるともいわれます。
今年春稜麻君が養護学校高等部を卒業 、施設生活を終えて家に戻ってきています。
新保さんの家にはほか認知症の父と車椅子の母も一緒に生活しています。
自閉症の子供の世話と、両親の介護に毎日明け暮れで大変ですねと、皆さんから言われますが、我が家では毎日笑いが絶えませんと、新保さんは明るく語ります。
4人がどのようにお互いを支え合って暮らしているのでしょうか?
社会福祉士の新保さんにその人生哲学を語って頂きました。

私と息子の稜麻 19歳 父が84歳 母が81歳の4人が家族です。
私は5時半に起きている。  昔からマラソンが好きで朝ジョッギングを10km、毎朝走っています。
50分ぐらいで走っている。(本格的にマラソンをやっている 心と体にリフレッシュ)
父はアルツファイマー型の認知症で、完全に車椅子の母の2人の食事の用意、息子の地域の施設に通っているので、そこに送り出しまで含めてやる。
簡単なものを配膳する。 
両親は自分で食べられるが、息子は横についていて、食事の介護をしている。
息子は家を9時半前に出て、夕方4時半には帰ってくるという生活です。

自閉症 自ら閉ざしてしまう症状と言う風に考えている人が多いのではないかと思うが、
引きこもりと自閉症を同じと勘違いする人が多い。
自閉症は先天的な脳機能の障害と呼ばれていて、親の育て方、生活環境で起こされる様なものではなくて、一生付き合っていかなくてはいけないものになる。
①コミュニケーションがうまく取れない 会話、自分の意思を上手く伝達できない。
 相手の言葉や行動を正確に理解できない障害。
②社会の中で生活する場面において、困難な場面に出っくわす事が多い障害。
 集団行動が苦手だったり、ルールなどをなかなか理解できないために、我が道を行くといった  行動をするために、社会生活の中でうまく適応できないような事があるような障害。
③多くの方がこだわりの様なものを持っている。
 活動や興味の範囲が非常に狭くて、例えば、積み木を一列に並べている事をずーっと楽しん  でいたり、同じ言葉をつぶやいでいたり、同じ場所をぐるぐると回っていたり、稜麻は細長いも  のに拘りがあって、細いものを持っていると安心する。
この3つが自閉症の特徴的なもの

子供の育て方が間違っているからこの様な症状になった、というような、間違った考え方が従来周りで言われていた。
親御さんが凄く苦しめられて、子供を外に出さないような時代があった。
坂本竜馬が大好きで稜麻 という字を付けた。
3歳ちょっと前、センターの長の方から他の子供達と違う行動があり、専門の機関に見せた方がいいといわれ、専門の医療機関に見せたら、自閉症だと言う事が解った。
自閉症だったら自分で治そうと思った。 2回目に見せたら一生直りませんと言われた。
息子がこれから生きてゆくには大変な障害があることが解り、目の前が真っ暗になり落ち込んでしまった。   妻も泣き通していた。   夢を毎晩のように見た。
夢の中では子供はなんでもないと言っているが、起きると現実を見ていつも落胆していた。

サラリーマンなので息子と離れている時間が多い、母親から24時間眠ることができないといわれた。
心の痛みは24時間起きていたと今になって思う。
心の重みは父親とは違った想像も及ばないような苦しみだったと思う。
コミュニケーションがとれず、自傷、肝癪、パニックを起こして暴れる行動をする。
聴覚が過敏になって、バイクの音で泣く、子供の声を聞いただけで泣き続けるとか、最後には皿を洗っている時に皿同士がぶつかる音だけで、泣いてしまったりすることがあった。
当時の我々には判らなかった。
マンションに住んでいて、下の階から抗議があり、精神状態が追い込まれていって、母親のほうの実家で日中は過ごし、帰ってきて息子はドライブが好きで、乗せて毎晩ドライブに出かけた。
眠るまでしていた。(でも家のチャイムを押すと眼が覚めてしまったり、夜中の3時に起きてしまったりすることもままあった) 

母親の心労はドンドン重なって行った。 
絶対に別れないで暮らしていこうと思っていたが、母親の精神状態を見たときに、息子を離さなければいけないと感じた。
皆が傷つかない選択は何かを考えたが、養護学校に通うと同時に離婚という選択をしました。
妻を解放させてあげたい、息子にとっても気持ちを楽にさせてあげたい、選択肢はそれしかないと思った。
実家に戻って生活する様になった。(子供は6歳)
この選択は間違っていなかったという風にしたかった。
当時は両親も元気だった。 送り迎えは両親にやってもらっていた。
3年生になってゆくうちに行動も素早く、パニックの行動も酷くなって、手に負えなくなってくる。
今のスタイルでは難しいと判断して、入所施設に入れて、そこから養護学校に行くスタイルにする。(4年生の時から中学、高校  9年間 週末は一緒に過ごす)

そよ風の手紙 ホームページ  2001年7月から立ち上げる。立ち上げた理由
①息子の成長記録を自分自身で取りたいと思った。 稜麻の元気日記 
最初は少なかったが段々みてくれるようになった。
同じような障害を持った親御さんが多い。
自閉症と言われた時にはインターネットはまだあまり普及されていなかった。
②私の立ち上げたホームページを見て、元気で笑顔になってふっと力が抜けるような、南国のそよ風の様なホームページを作りたかった。 (2001年7月)
週1回発信  毎日事件がある 良い事悪い事 いろんな感動を与えてくれる事が毎日ある。
公園のトイレに入った時に息子がキャーッと叫んだことがあり、警察を呼ぼうかとの言葉があり、
関心があるうちは、問題ないなあと思って、そういったことを載せたりしている。
ある夜突然「パパ」と呼んだが、私が初めてパパと言う言葉を聞いた。(11歳の時)
その言葉に嬉しくて涙が出た。(自分でなかなか言葉を発する事ができない)
私を父親であることを認知して、私の事を声にして言ってくれた。
嬉しくて嬉しくてその晩、子供を寝かしつけたあと、一人で乾杯しましたね。

その感動は本当に、1歩出来た感動が大きな1歩で、人が感じる、何十倍も何百倍もする感動で
息子にはそういう感動をいつも、もらっています。
24時間、365日稼働するリサイクルの工場長をやっていました。
夜中でも当然呼び出される様なところだった。
私の中の価値観が変わってきた。  自分に対する欲望があったが、それが普通だと思った。
自閉症の息子と暮らすうちに、大事なものは何かと思ったときに、お金、地位、名声ではないと思った。
大切なことは、本当に人にどれだけ優しくできたのかとか、人にどれだけ元気を出してもらえるようなことができたのかとか、自分の価値観がシフトしていった。
仕事には意味があり、それなりに貢献はしているが、直接、元気、勇気とかちょっとしたサポートができないかを考えていた。
子供が卒業することになるので、社会福祉士の免許も取ったし、何かできないかと言う事で、皆が笑顔でいられるように、私も笑顔でいられるような事が出来ないか、息子が卒業する数年前に思いました。

2,3年の間で、準備をしてスタートした。
両親にはバリアーフリー、息子の部屋を作る様に動き始めた。
卒業半年前に退職をして、新たな仕事の準備を始めた。
一般社団法人 「そよ風の手紙」
①心の奥にあった母親のサポート  ママサポートを実際に始めた。
 一緒に立ち上げた自閉症を持つ母親が中心に心のケア―を始める。
②絵カードの店 言葉が理解できない、文字が解らなかったりする場合に、トイレの絵のカードを  利用する事によって自閉症の方のコミュニケーションが取れるのではないかと、やっている。
③パステルアート教室  障害を持っているお母さん、障害を持っている子供は習い事にいけな   い。 
 動き回ったり、奇声を発したりしてなかなか受け入れてくれるところが無いので、我々が立ち上 げたらどうかと思って、指で道具を使わずに絵をかける教室を立ち上げた。
 (母親と一緒に出来る)



















































2013年12月21日土曜日

本山秀毅(大坂音楽大学教授)     ・歌声は生きる力

本山秀毅(大坂音楽大学教授)     歌声は生きる力
京都私立芸術大学で声楽を専攻し、一旦中学校の先生になりましたが、教える前にもっと学びたいとドイツへ留学、そこで世界的なバッハの大家ヘルムート・リリングから合唱音楽の指導を受けました。   同時に教会でバッハの声楽曲が日常的に歌われ、人々の祈りや感謝の想いと重なっている様子を目の当たりにします。
人々が声を合わせ心をつなぐ歌う力に感動した本山さんは1988年に帰国、バッハの曲を専門とする合唱団を結成しました。
現在も教会やホールで演奏活動を続けています。
大学で教えながら、小学校から大学生まで様々なコーラスグループの指導をしています。
その本山さんが、東日本大震災の後、福島県の中学生の合唱を聞いて大きな衝撃を受けました。
中学生達が歌ったのは、旧約聖書の時代、故郷を焼かれ捕らわれた嘆きを歌った「エレミヤの哀歌」 と放射能汚染で離ればなれになった友への思いを込めた「群青」でした。
今回は本山さんにお聞きしました。

音楽に出会ったのは中学に入った時、音楽の先生が担任で、キリスト教の学校だったんですが、聖歌隊に来ないかと強く勧められて、入ったのが合唱との出会いでした。
一人で歌ってても大勢で歌ってても、それなりに楽しいんですが、違うメロディーが一つになってゆく
、気持ちの部分で非常に心が豊かになるというか、わくわくするというか、そういったものを子供のころに味わって、益々のめりこんでいった。
クリスマスに先生の家を歌って回る事があって、こういうシーズンにこんな風に歌を提供する事で、喜びが広がって行くんだなあと感じました。
意味がメッセージを届けてゆく、原体験をしたのではないかと思った。
演奏旅行 広島に行ったが、原爆病院、盲学校に行った記憶がある。
そこで演奏する段になって、視力の不自由な方は他の感覚を働かせて察知する。
これから始まると行った時の彼等の集中力、全身の神経が耳に集まる感じが痛いほどわかった。

音を発する事がこんなに責任のあることなのかと、彼らの様子を見て強く印象に残った。
音楽で一方的に発信していることが多いが、大切なことを教えてくれた経験だった。
中学校の先生になり、教えに行っている立場なのに学ぶことばっかりだった。
この様にして教えてゆくことが子供達にとって、本当に幸せなことなのかどうか悩んだ。
その後の人生を大きく変える人に会いました。
バッハの専門家として知られるヘルムート・リリング 
日本に来日していたときに、大学の先輩を介して知り合います。
海外の留学生を手厚く受け入れていたので、幸運な出会いだと思った。
1年で教員を辞めてドイツに留学し合唱の道に進むことになる。
留学中にも教会に行って感銘を受ける。
300年前のバッハの音楽が今の人々の暮らしに溶け込んでいる日常の光景でした。
独特の時間が再現される。最高の日曜日の朝のBGMの様な気がします。
歌詞に描かれている言葉を共通の物として認識する。 

今後の身の振り方をリリングに相談するが、君の役目は日本に帰ってここで学んだことを、種をまいて、育むのが私の希望だと言ってくれた。
日本に帰ってきて、自分の意志を理解してくださる方に話して、20数名集まってくれて、合唱団を立ち上げて、演奏会を行った。
バッハの音楽は理解して深く楽しめる。
感性と知性の部分を聴衆の人にも理解して頂きながら演奏会をしようと思った。
対話をしながらの演奏会を企画する。  理解して聞くと感じ方も違ってくる。
バッハの曲は教会の暦に応じて曲が出来ているので、我々の時間の過ごし方ともうまく一致する事が見つかって聞く楽しみを増やしてくれると思います。

震災の前から東北地方には足を運んでいたが、合唱が盛んなところだという事に由来します。
震災後、自分のできることは何かと考えた。
岩手県の沿岸部に行かせてもらって、合唱を指導した。
震災によって日常の時間の流れが妨げられるのが、一番悔しい様な気がした。
昨年1年間の音楽活動での中でも一番大切で衝撃を受けた。
浜通りは原発事故でいろいろな活動が滞っている地域だと言える。
南相馬市、いわき市とか数えるぐらいのグル―プの参加だと思っていた。
いわきからはかなりのグループが出てきたが、双葉、相馬地区はなかったが、南相馬市立小高中学校が一つだけエントリーしていた。
ここに名前が載るという事に至るまでには、本当に大きな苦労がある事を思いました。
どんな演奏をするのか期待していた。

エレミアの哀歌」作曲はアメリカの現代曲だが、歌詞は旧約聖書のエレミアにもとづいたもので故郷を破壊された、怒りの嘆きの歌
何を語っているかをぴーんときた。
演奏を聴いて、表現する激しさや意志、訴求力、指揮からでてくる想いは私が経験したことの無いような力強いものを持っていた。
感動という言葉でかたづけるには、あまりにもおおきな時間だった。 胸がいっぱいになる。
SNS 演奏を聞いたその夜にもその言葉にして発信した。
それを受け、指揮者の友達がそのことを指揮者に伝えたら、その夜のうちに指揮の先生がそのように受け取ってくださったという人が一人でもいたことは、私たちの演奏の意味が本当にあったと感激のメッセージを頂いた。

中学の現状とかをメッセージをやり取りしていた中で、「ファーモニージャパン」 という合唱に特化して被災地を支援をしようとする財団法人ですが、演奏会がある。
そこに彼等の合唱を招けないかと思って、動いて京都にまねいた。
「エレミアの哀歌」を歌った後、もう一曲聞いてほしいと別の曲を歌い始め得る。
震災以来2年間の想いをつづった生徒たちの言葉に先生が曲を付けたオリジナル曲だった。
卒業式の前後に起こった震災が下敷きにありながら、新しい人生を歩み出す節目になる時に作ったと言うんですが、これは単なる卒業ソングではなくて、災害にあって、その時を重ねてきた人たちだけが共有した思いをここに集めた作品だと思います。

群青」 曲も言葉も素晴らしい音楽、言葉です。
彼等からどんな気持ちから発信されてくるものかを理解していないと、聞いていて理解されませんよね。
歌詞を理解しようと聞き逃すまいとする気持ち、それが伝わって、聞いている人たちの感性を動かすこと。
中学生たちが京都に来て何が励みになったかと言うと、自分たちでも発信できると自信につながった。
歌う事で自分たちの価値がしっかりと示された。
歌の中の言葉 「別れ」 一生会えなくなってしまうかもしれないような友もいる。

日常から出てきた言葉だと思う。
震災でいろいろ曲ができたり、歌われたが、彼らからこういう形で曲ができてきたのは、そう多くはないのではないかと思う。
「群青」 言葉と想いが伝わってゆく中で、重なり、束になって広がり伝わってゆく。
人々の本質的にある心の感情まで高められてゆくような感覚を持つ。
音楽が持つ基本的なスタンスに通じる素晴らしい性質をあの曲は兼ね備えているものと感じる。
まるでそこに居合わせたかのような気持ちの共有化、バッハの曲も同じ事で、カンタータの最後に歌われえる音楽が当時の讃美歌だった事を考えると、気持ちの共有、思想も共有される。
「群青」  あの曲を歌ったときに聞いた人がどう思ったか、空気感、思った心持を共有していただけるのではないかと思う。

留学中に学んだことは、技術的なことを沢山学んだが、集積して行った最後にくるものは、
バッハの場合だったら、心をしっかりと伝えることだったと思う。
合唱から受ける事とどこか、つながるような気がしている。
彼らの合唱は凄い高度なものではないかもしれないが、しっかり目的を理解して、そこにつながっている。
ドイツでは技術が9割5分だったかもしれないが、それを形にしたところで浮かび上がってくるのが精神性だったりする。
願い、すがる、祈る 一つの大きな力になると、それを聞く人をも巻き込んでいうエネルギーを感じさせてくれるものです。

















































2013年12月20日金曜日

塩崎均(近畿大学学長、医師)   ・医者が癌になって判った事

塩崎均(近畿大学学長、医師)   医者が癌になって判った事
1944年和歌山県生まれ  1970年に大阪大学医学部を卒業した後、大阪大学第二外科助教授などを経て、2004年近畿大学医学部付属病院長に就任、2012年からは近畿大学の学長を務めています。
塩崎さんの専門は消化器外科です。
中でも食道がんについて生体に影響を与えずに、癌を確実に手術する方法を確立して、多くの患者を救ってきました。
その塩崎さんに癌が見つかったのは病院長に就任してから2年後のことでした。
其時癌専門医であったた塩崎さんはどう思い、どう行動し、どんなことが判ったのか、伺いました。

病院長になるにあたって、交換条件として癌の早期癌を見つける新しい装置を導入したかった。
5mmぐらいの塊の癌を見つけることのできる装置、うまく作動するかどうかを確認するために試験台に私がなった。
見つかったのは膵臓の裏と動脈の一番太い血管の周り(リンパ節)に、癌があることが分かった。
まさか、自分がとは思った。 毎年癌の検診をやっていたので。(この1年間は飛ばしたが)
ステージ4の一番悪い状況か、悪性リンパ腫のどちらかだった。
全く自覚症状はなく、2年前の撮影画像には何も映っていなかった。
胃がんからの転移であろうと診断された。

ここまで進んだ人は調べたところまず救えてなかった。
最初はなにも治療をしないで行こうと考えていた。
抗がん剤を使っても2~3%程度しか生きられそうもない状態だった。
死にゆくだけなので、残された時間をどういう風に使うか、だけを考えていました。
1週間で気持ちが変わってくる。
お前は一体何もしないでいいのかと、1週間後に考えるようになって、自分にやりたい治療をやって役にたてればいいと思った。
ふっとやりたいと思った治療があった。 楽な治療法ではなかった。
放射線治療、抗がん剤治療 併用をやって、どの程度効くのかを自分自身で確認したかった。
私の専門の食道がんではこの方法が意外とよく効いていたが、胃がんでは専門家に聞いても、効かないという事だったが、私は納得できなくて変な確信があり、やってやろうと思った。

放射線治療をすると、腸に穴が開くかもしれない、上手くいっても大腸、腸に10~15年で必ず癌ができますよ、おなかの中は放射線を当てることによって、癒着を起こすでしょうと言われた。
この事は念を押された。
私と同じ患者さんがいたとしても、その人にこの治療は出来ない。
それなりにちゃんとした根拠がないといけない。 倫理委員会を通さないといけない。
専門家が反対している治療だから、私以外にできないだろう思った。
抗がん剤の点滴、 11時から放射線治療をしてそのあとは病院長としての仕事をした。
一日も休まずに完遂した。  髪の毛は白くなるし、顔色は変わってくるし、でも結果的にはよかったと思う。 2カ月ぐらい治療した。
白血球、血小板が減ってこれ以上やると駄目だろうというところまでやりました。  
1ヶ月間空けて手術する。

9月に癌が見つかったが、8月には腰の手術はやっていた。
後輩で胃がんの専門家に、ここまでは取ってくれと依頼した。
腫れていたリンパ節は見事に消えてしまっていたのでそれなりの効果はあった。
不安は全然なかった。手術は午前9時から午後5時まで掛かった。
かなり広範な手術で、時間が長かったので、思った手術は出来たんだと私自身は思った。
スケジュールに乗って退院への道を進もうとおもったが、2日目で吐く様になった。
ある期間絶食をしないと、つなぎ目が腫れたり、狭くなったりする可能性があるので、自分で管を鼻から入れて胃の中の物を出してもらう様な操作をした。
いずれ長期戦になると思った。
1日5本2500ccの点滴をやっていた。 
寝て点滴しているだけなので自宅でも出来るので、正月を自宅で過ごす様にした。

30日、31日の夕方に血管が詰まって、近くの後輩の医師に頼んで処置をしてもらった。
正月は飲まず食わずに過ごそうと思っていた。
酒が好きだったもので、日本酒のお湯割りをどうと言われて、飲んでからよくなってきた。
アルコールは利尿作用があり、それで腫れがひいたのではないかと思う。
それで通り出したのではないかと思う。
4日に病院に帰る予定だったが、家で重湯見たいなものを食べて過ごした。
1日500gずつ減ってゆく。 15日ごろには15kg手術前に比べて減っていた。
よろよろしながら仕事に出て行った。
食事はなかなかうまく取れない、特に朝は駄目で、昼から食べれるようになって、夕食は飲みながらゆっくり食べる。
5kgは戻ってきたし、血圧も下がってきた。

手術してから8年になるが、ここまで生きているとはおもわなかった。
胃がん、リンパ節を顕微鏡で見てもらったが、癌があったと云いう跡はあるが、生きた癌細胞は無いという事で、生かさているなあと、たまたま運命、天命が私を生かしてくれたんだろうなあと思います。
近畿大学が中心になって、外科の先生方にこういう治療法もありますとやっていただいていますが、非常によく効いている。
一つの治療法として確立されてくるのではないかと期待している。
食道がんは扁平上皮癌 胃がんは腺癌と癌の質が違う。
欧米では線癌と同じようなものが食道癌の半数以上を占めている。
放射線を使うと非常によく効くというデータがあった。
食道と、胃の境目にはこのような治療をやっていたが,全く効かなかったが、放射線の機械も良くなり、抗がん剤も良くなり、今まで得られなかったような相状効果が得られるようになったことだと思います。

一番憧れていたのは、開発されていない東南アジアに行き役に立ちたいと憧れていた。
医師になるのが一番近道だろうと、外科の道がいいと思っていた。
診断から治療、治療が終わった結果まで一通り見られる事がいいと思った。
食道がんは早く大きくなる 胃がんの2倍の速さ。
2割の人が助かるというような感じだったし、肺、心臓など全ての機能を理解できないと手術を終わった後の管理ができないし、いろいろ勉強しないといけないので興味があったのでこの道に進んだ。
頸部の食道がんは丁度前に声帯があるので、少し大きくなると声帯に広がるので、声帯を取らなければいけない様になる。
早い癌であっても声帯を全部とることをやっていた。
声帯を残してやったことがあるが誤嚥する。(食べれない)
喉頭を上に釣り上げる方法と、のどの筋肉を切る操作をいっぺんにやってみる『喉頭温存術』、40代の営業の仕事の患者さんに其手術をして、非常にうまくいって声も出せる様になった。
放射線治療、抗がん剤の併用の治療もやっていて、最近は食道がんに対しても行い、今であると6割が声が残る様になった。
 
「笑顔を絶やさない」で接する。 患者さんと医者は対等ではない様に思われる。 
どうしても患者さんから見ると医者は上の立場に思える。
本当にそういったことを意識して患者さんに対応しないと、患者さんに対していい治療ができないと思う。
患者さんが本音でいろんなことを話してくれないと、いい治療ができない。
患者さんの立場になってみると胃を取るという患者さんは沢山いらっしゃるが、私の診察の場合は患者さんはあまり言わない。
自分の経験を語ってゆくことによって、本音を言ってもらえるようになった。
生きているという事、一度死ぬことも覚悟したので、死ぬと言う事はどういう事か、人と人との出会いも身に沁みて感じましたし、自分の中でいろんなことを考えられるようになった。
他の人に対しても同じような観点から話ができるようになってきた。






































































2013年12月19日木曜日

渡邊章一郎(版画店店主)     ・日本の版画を世界へ

渡邊章一郎(版画店店主)    日本の版画を世界へ
昭和33年東京都銀座の老舗版画店の三代目として生れました。
幼いころから北斎歌麿の浮世絵などに囲まれて育ち、知らず知らずのうちに本物を見る目を養ってきました。
大学卒業後、百貨店に勤めた後に、家業を継ぎ、現在は3代目として、木版画の海外への普及活動や浮世絵の鑑定、現代作家達の作品のプロデユースなどをしています。

銀座は完全に住居兼お店は無くなってしまって、大きなビルになってしまった。
最近では外国の店が多くなった。
一番古い記憶、祖父(渡邊庄三郎)、四角い額縁の様な中に空があり、雲が浮かんでいる、額縁の上の方からおじいさんの顔があり、話しかけている。そんな夢見ており、どぶ臭い、潮の匂いにもする。
私の祖父は、汐留川の運河があり、其周りを乳母車で散歩するのが日課になっており、私に時々話しかけていた。

明治42年に祖父が創業して、最初京橋で商売していた。
木版画を外国に売ってゆくという商売で、関東大震災があって全部焼けてしまって、再開するに当たって銀座に移ってきた。
前の家は3階が住居と木版画の製作の場所でもあったので、子供の時から職人さんに囲まれていたので、ずーっと見ていた。
自分は覚えていないが、判るわけの無い私に、北斎、歌麿、写楽等の名品を見せて、作品を説明していたらしい。(祖父は3,4歳の頃亡くなる)

理解も出来なかったと思うが、すごく大事なことだったと思う。
子供の時に判らなくてもいいから、記憶に叩きこむという事は大事なことだったんだと、今から思います。
美人画を並べられ見ても、20年ずつ違う作品を見ても同じ顔に見える。
同じ時代は皆同じ顔になる。 ある作家が当たると皆同じ顔になる。
今から思うと本当に英才教育をしてもらったと思う。
就職をしたが、就職先の百貨店の浮世絵の展覧会があって、担当の方がタイトルと名前が一致しないので、私が呼ばれて言ったら、ぴたりぴたりと当たった。
大学では商学部に入って、浮世絵、美術は教わってなかった。

「ウッドカット プリント」 と書かれている。 外国に美術品を売るという仕事をビジネスとして始めたので、外国に売るというのが中心になっている。
最近ではインターネットで全世界から注文を頂いている。
アメリカとヨーロッパは微妙に違う。
アメリカは大きくてダイナミックな構図で、色が鮮やかなものが好き。
ヨーロッパは日本と比較的近くて、繊細で微妙なタッチのもの、物凄く手が込んでいて、凄く時間と手間がかかっているなと言う事が判る作品が好まれる。
日本で好まれないのに外国で好まれ評価が高いものは日本で仕入れ外国に売る、日本では好まれ値段が高いものは外国では評価の低い作品を外国で仕入れて、日本で売るという事で
そういった作品を上手に購入して、儲けが出たと言っていた。
段々情報が世界で共通になってきて儲けは無くなってきた。
最近は瞬時でオークションの結果は判るので、無くなってきてる。

祖父の時代ではそういった差をいかにつかむかが、商売の上手くいくいかないの分岐点だった。
祖父は明治18年の生まれだが、海外に強い関心があった。
茨木から出てきて、小学校卒業ぐらいで質屋に入るが、英語を周りは学んでいて、世界地図を見て、貿易が一番日本に向いていることを教わった。
主人にお願いして英語を学んだ。
14,5歳の時に貿易商に入り、手掛けた仕事が美術品の輸出だった。
興味、知識がなかったが、外国人が日本では二足三文だったものを非常に高く評価して買ってゆくのに驚きを感じた。
審美眼、商売のこつをならって、20歳そこそこで独立して、外国に輸出する事を始めた。

ゴッホは浮世絵が大好きだとは知られているが、歌川広重の名所江戸百景のあたけの大橋、亀戸梅屋敷を升目に模写をして、油絵にもしている、このことは有名です。
幕末ごろにパリで万博があり、徳川幕府が1万点とも言われる浮世絵を出展した。
現地で売ってこいと言ってそれを旅費にあてて来いと言われて、それがもとで大変なブームになった。
その40年後に祖父は始める。
日本では還り見られなくて、捨ててしまうので、そういったものを集めて、外国に喜んでもらえる
金儲けも出来る、そんないい事はなかった。
文明開化以降、もともと浮世絵が持っていた報道性は新聞にはかなわない、写実性は写真にはかなわない、お土産についても絵はがき普及して浮世絵は駆逐されてしまった。
浮世絵師が明治になるといなくなってしまった。

祖父が創業したころは、かろうじて雑誌の口絵に多色刷りの浮世絵が使われた。
復刻版を作って、それはそれで売れるのではないかとか考えて、祖父は続けた。
作り方をマスターして、浮世絵のエッセンスを持った作品を現在の(祖父の時代)作品として売ったらどうなるかと考えて、外国人のお土産用に売ったら大変売れた。
どういう絵を書いたら、外国人に喜ばれるかが解ってきた。
太平洋航路などに依って、外国人がたくさん来るようになって、祖父と日本に来たオーストリアの外国人と意気投合して、作品を作る事になる。(大正4年)
其作品が15点残っている。  
イギリス人が2年間世界旅行をして最後に日本に来て、スケッチしたものを日本の木版画にしたいと言ってきた。(バートレットさん)
大英帝国全盛時で、大変な値段(10倍ぐらい)で取引ができ、職人も頑張って大変いい作品ができた。

今までの浮世絵には全くないような浮世絵が出来たりした。
家には数枚残っているのみ。
橋口五葉 浮世絵を作ってみようという事になり、2年近く研究しながら、大正5年に作品を作る。
「浴場の女」  100枚作って半分ずつにして、橋口は気にいらなくて全部捨ててしまった。
今では1枚1000万円するが。
鏑木清方を訪ねて行って、門下生の伊東 深水に興味をもったが、先生がいいといわないと版画を作れなかった。
了承してくれて、18歳の作品 たいきょうと言う名品が生まれた。
門下生が次々に作品を作ってくれるようになる。
伊東深水は日本画の押しも押されぬ巨匠になってゆく。
100数十点が私のところに残っている。
近江百景 川瀬巴水が風景画を希望、意見が一致して500数十点を作ってくれた。

日本では好まれていなくて、外国ではもっとも売れた。
昭和の広重と言われた。  
もともとあった日本の美しさ、名所旧跡ではなくちょっと違った角度からとらえる。
雨とか雪とか夕暮れ、月明かりの夜の景色に名品が多い。
ふわーっとした柔らかさがある。 
油絵を1年間学んでいるので、いろいろな画風を取り入れている。
日本のでも話題になってきている。
昭和32年に亡くなるが、しばらくは無名の作家であったが、ここ20年ぐらいで展覧会で展示されて一気に有名になった。
スティーブ・ジョブズが川瀬巴水の大ファンである。
(若い頃日本に来た時に店に立ち寄り、川瀬巴水の版画絵を沢山購入した)

生誕130年 日本国内でも世界中で展覧会をやっている。
昔は年配の方が多かったが、最近は若い方が非常に多い。
川瀬巴水の版画をみるとこれが日本の本当の景色ではないかと、逆に言うと日本が西洋化してしまったのではないかと半分残念な気がします。
関東大震災までは浮世絵でもうけたお金を全部川瀬巴水、伊東深水の新しい版画につぎ込んで実験的なことをやっていたが、無駄な金を使えなくなって、売れる作品を作っていかざるを得なかった。
売れ筋に方向転換したと言われるが、実際よく売れた。
世界恐慌の時代に大変外国によく売れた。 昭和初期
木版画が世界で愛好されていて、日本は木版画については世界で一番技術的にも優れた国だといわれているが、日本の方に伝わっていないのが残念です。
版画にもっと興味を持ってもらいたい。
外国に関しては手作業であるという事をもうちょっとアピールして、技が世界で日本しか優れた技術が残っていないという事強調したい。
海外の会場で実演してアピールする必要があると思う。

技術者は江戸時代は1000人はいたと思う、明治末 数100人  
現在は彫師は10人ぐらい、刷り師が60人ぐらい。
10年ぐらいでようやく一人前と言ったところでしょうか。 やりがいのある仕事だと思う。






























































2013年12月18日水曜日

稲垣篤子(菓子屋社長)      ・羊かんと共に60年

稲垣篤子(菓子屋社長)    羊かんと共に60年
1坪の小さな店ですが、この店で作る羊羹を求めて、毎朝開店前から長い行列ができます。
この羊羹を60年間作り続けているのが、稲垣篤子さん81歳です。
最高の味にこだわり、丹精込めて作る羊羹にどんな秘密が隠されているのでしょうか。
機械化が進みマニュアル的なもの作りが世の中にたくさんありますが、稲垣さんは、日々の気温や湿度、季節の移り変わり、材料の小豆の状態に依って、小豆の煮方、火加減、練りの強さ、時間など毎日変えているんだそうです。
60年間羊羹人一筋の人生を歩んで来た稲垣さんの羊羹へ込める思いはどんなものか伺います。

現在7時、開店前だがすでに40,50人の人が並んでいます。  一番先頭は4時50分に並ぶ。
幻の羊羹と言われている。(並んでも買えない場合がある)
40年ぐらい前から行列ができるようになった。  1」日に150本作っている。
小豆を3升以上炊いたら昔ながらの羊羹はできないといわれていて、3升を炊いたら50本になります。(1回)
それを1日に3回が限度になり、150本になる。 一人3本までなので50人が限度と成る。
私も食べたいときには並びます。(知り合いにも並んでもらう)
沢山作ることをすると目が届かないし、粗製乱造になる。
675円 値段を高くすることもしないことを貫いている。
先代が戦争でいろいろ体験してきて、私達も子供ながらにいろんな体験をしてきて、食べられれば私たちの生活は十分なので、お客さんにすこしでもいいものを値段を押さえて商売をする様にとの先代の教えなので、守っています。

小豆を前の晩に洗う→朝早くから炊く(3升 1時間30分程度)→潰して皮と中味を分ける
→さらす、絞ったものを練る (砂糖と寒天を溶かして沸騰させたものに容れる)→
最初さらさらしていて、煮詰まってきて粘り気が出る→白っぽい紫が澄んだ美しい紫になる
→手の感触、見た目、匂い、湯気の立ち上がりなどで判断してあげる。
練りも天気の温度、湿度などを肌で感じて、眼で見て、それで行うので毎日が微妙に違うと思う。
練りかげんで音が違う。 ナベ底は見えるが半紙一枚を残すような感じで、底を見ながら練る
美しい紫、火加減との兼ね合い  一瞬一瞬違う。
なるべく均等にナベ底に火が当たるように鍋を回りながら、注意深く行う。
銅鍋、熱伝導が一番早い、炭火で行う。

マニュアルに書いてある行間が大事だと思う。 
経験と勘で作り上げるのがいいと思う。
本当においしい食べ物は眼と指先の感じ、を集中して掴まなければ出来ないと思う。
父に作り方は教えてもらった。  厳しかった。
説明ではなくて、自分でやっているものをみて、食べて、こうだという。
核心をつーんと突いてくる。 
結果がどうだとは言わないので、自分でこうだったのかとか、いろいろ毎日考えた。

店を母に任せて父は満州に事業を起こした。 (小学校の1,2年の頃)
昭和19年に九州に疎開する。  
自然が豊かで面白かった。
弁当に地元の子は米を持ってきて、私は代用食(サツマイモ、かぼちゃとか)だったので
なぜ、何故違うのと疑問は涌いた。
美味しいものを食べたいとの思いはその時から湧いてきていた。
父が帰国して、和菓子屋を再開する。 作るものを絞って、だんご(串に二つ)、もなかの二つ
だんごにはあんこを付けて中に桜の花の塩付けを入れる。
それがよく売れた。

露店でやっていた。(夜には分解する) 
これが生活する事、生きることだと身を持って教えてもらった。
3年後に今の店が手に入る。 
従業員も雇えるようになったので、自分の事をやりたいと写真の大学に行きたいと父に言った。  プロの写真家になりたかった。
大学での宿題があり、砂川闘争の写真を撮った。  土門拳がその場にいた。
長女なので、親の姿を見て、手伝わなければいけないと思い、結局引っ張り込まれたような気がした。
販売だけではだめで、製造から知っていないとできないと思い、男の職人の世界にはいり、女でも負けてはいけないと思った。
父からは褒められたことはなかった。 
何が足りない、何が足りないといつも言われた。

羊羹のタイプは4つある。
①ぷりぷりするきんぎょくかんのような羊羹
②ぽくぽくする芋ようかんの様な羊羹
③するっとはいる水羊羹のような羊羹
④ねちっとするような羊羹
それを結んだ対角線の中心を家の羊羹にすると父から言われた。
そんなことは言われても判らなかった。
小豆の風味を羊羹に出す。
甥が3人入ってくれて、下の代に伝えていかなければいけない。
教えても噛み合わない部分があり、今の人はデジタルにものを考える。
先代から教えてもらったのは、書いてないもの、行間なることを伝えていかないといけないと気付いた。
大きくしないで今のままでいいから深くものを考えて、羊羹を作るように、人間もそういう風になってもらいたいと思っている。
今以上に皆さんに喜んで召し上がっていただく様に一層注意して作っていきたいと思います。























2013年12月17日火曜日

現田 茂夫(指揮者)       ・私の生き生き指揮者人生

現田 茂夫(指揮者)       私の生き生き指揮者人生
師走に入り、街ではクリスマスソングやベートーベンの第9交響曲の音色が聞かれる季節になりました。
現田さんは27歳の時に、オペラに指揮者として、デビューした後、オーケストラの指揮者として
実績を積んできました。 
その後13年間にわたり神奈川フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者として、指揮にあたり、その実力を飛躍的に向上させました。
現在ではプロのオーケストラを指揮するのはもちろん、アマチュア団体にも力を入れています。
年明け1月には、夫人のソプラノ歌手佐藤しのぶさんを主役にした「夕鶴」のタクトを取るなど注目を集めています。

指揮自体が身体を動かす、ので気を付けてはいます。
最近はなるべく歩く様に務めています。
第9はトータル7,8回はやっている。  第9は交響曲の金字塔と言ってもいぐらい素晴らしい。
シラーの詩を見て、構想30年以上練って作ってきただけの事はあって、世界中で演奏されている。  特に日本でも多く演奏されている。
毎年新しい発見があるので、指揮者として勉強になる。
年末、札幌交響楽団 九州交響楽団のニューイヤーコンサートツアーを行う。
自宅でゆっくりと言う正月は結婚して以来、ない状態です。
54歳 中堅 譜面の新しいところが見えてきたり、音は良く聞こえるようになってきた。

小、中、高と千葉県で育った。 長嶋茂雄さんに憧れて、野球に熱中していた。
小学校でクラブ活動始めるときに、合奏クラブに入った。   チェロを始めた。
6年の時に部長だったので、先生の代わりに指揮をすることはあった。
大学受験をするときに、音楽大学、指揮者になるという事がどこかに根深くあったんでしょうね。
高校3年になって決めた。
指揮者はピアノが弾けないといけないので、苦労した。
東京音楽大学、指揮科に入ったのが20歳だった。
このまま4年生になって指揮者になれるか、疑問があったので、芸大を受けて芸大に入る。
大学院がうかっていたが、大学の単位が足りなくて、大学院はいけなかった。
芸大を卒業したのは28歳になっていた。

指揮者としてのデビューが27歳  先生のカバン持ちみたいな事をやって、オペラのけいこなどを見て、オペラの副指揮者をやっていた。
新生日本交響楽団の指揮者として、そのまま引き続いて採用させてもらえる事になる。
大学院に行っていたら、このようにはならなかったかもしれない。
人間万事塞翁が馬ではないが、何がよくて何が悪いのかは分からない。
神奈川フィルハーモニー管弦楽団で13年、1996年から入って 2000年常任指揮者、プログラミング、運営の面にも参加、非常に勉強になった。
作曲家がこんな音というイメージしたのを、その感動を、楽譜を頼りに、現代の感覚を入れつつ、楽譜から逆算して、作曲家がどんなことを考えていたのか、音を実際に眼の前で音楽を作る。
音楽をお客さんに聞いていただいて、感動して、初めて完結するものだと思う。

人間が持っている感情は古代からそんなに変わらないと思う。
気持ちの大元、感動、を人に伝えてゆく作業は音楽家の使命だと思う。
ベートーベンの手書きの楽譜はマイクロフィルムで残っている。
印刷の楽譜ではないものが伝わってくる。
どう選択して演奏するかは、きりがない  今日、演奏する第9は今日しかない。
プロとノンプロ 音楽の好きの心を失わないで、職業的な技術を持っている人が本当のプロだと思う。
アマチュアオーケストラから熱心さから学ぶべき事は非常に多い。

自分の人生の中で大分、第9をやってきましたが、ある方が19年前と比べ成長されましたねと言われて、数を重ねてゆくにつれて、音符の今まで見えなかった部分が見えてくる事は、物凄く近年あります。
プロだとかアマチュアだとかを考えて指揮をしたことはないです。
同じプロダクションに2人でいないようにしているが、「夕鶴」では一緒にやる事になる。
團 伊玖磨先生とお話しする機会、見近に接する事があって、凄く勉強になった。
音楽って生き方が素直に出てしまう部分がある。
普段の取り組み方がつくづく大事だと思った。
團先生の直筆から伝わってくる。  「夕鶴
物事動機があるはずで、鶴がこう思ったからこういう音符がある、それを我々は、音符の中から動機の方まで読み取らなくてはいけない。
その作業が難しいし、面白いところであるが、非常に勉強になる。
「鶴」が考えたことが音符になる。 その状況を先取りして出ていないといけない。

演出(市川右近)、美術(千住博)、照明(成瀬一裕)、衣装(森英恵)など一流のドリームチームで行うので、必ずやいいものを作りたいと思っている。
本当に好きになったことがたまたま音楽だった。
好きになったことが職業として生活ができていることがすばらしく有難いことですし、パートナーが音楽を追求してゆく人間であった事、周りの方々に恵まれている事、「輪」って大事だと思う。
皆が同じ方向を向いてゆく素晴らしさ、それに携わることができたので本当に有難いと心から思います。
最終的にはお客さんに感動していただくのが一番で、作曲家の考えたものを自分なりの想いを
素直に伝えたいと思う。


















































2013年12月16日月曜日

大城和江(内科医)        ・山ガールから国際山岳医

大城和江(内科医)    山ガールから国際山岳医
大城さんは日本初の国際山岳医で、北海道の民間病院で循環器内科医として働いています。
国際山岳医は今から15年前にヨーロッパで始まった制度で山で起こり得る病気への対処法を身つけ、事故を未然に防ぐのが目的です。
この資格を取るためには150時間を越える講義、それにクライミングなどの実技を5年以内に終える必要があり、大城さんはこの資格を2010年に取得して、三浦雄一郎さんがエベレストに登頂したときには、山岳医として同行しました。
大城さんに山岳医療にかける思いを伺います。

、三浦雄一郎さんがエベレストに登頂の国際山岳医として同行、前進基地の6300mのところまで同行しました。
心臓が気にはなっていた。 発作は突然出てくるので不安だった。
兎に角意志の強い方ですね。  普段は淡々としている。
心臓発作は起きたら先ず死んでしまうので、リスクを減らすしかなかったので、水分をしっかり取るとか、自分のペースで行動してもらうしかなかった。
アドバイスを守ってもらったのも成功の一つだと思います。
山で起こりやすい病気やけがに対応したり、予防したりするが、広い意味では世界のどこの山でも、どんな国の人にも同じ質の医療を対応できるようにするという目標があって活動しています。

もともと山は好きだったが、ネパールにトレッキング行った時に、6,7年前に行ったときに高山病になった人がいて、無事に下山はしたと聞いたが、山で起こることをもっと知りたいと思ったし、できる事はなかったのかと、もっと勉強してみたいと強く思った。
制度はヨーロッパではじまってヨーロッパで英語ができるところと言う事で、イギリスに取りに行った。 (2009年の事)
カリキュラムは1カ月でいいんですが、山に登りたかったので一度病院を辞めさせてもらった。
救助、登山の技術、山で起こる病気のことなどを学びました。
人を助けるための最低限の技術も学びました。
費用は当人の貯蓄で賄った。   1年で国際山岳医の資格を取れた。
ヨーロッパでの仕事をする事も考えたが、日本に還元できないかと考えて日本に帰る事にした。

生れは長野県だったので、山と言う環境は身近だった。 兄弟は8人で私は7番目です。
母と共に病院に行ったりして、人を治す仕事はいいなあと思って、漠然とおもっていた。
卒業して、呼吸器に関する部署に入ったが、全体を観られるような事をしたかった。
人が死ぬのは心臓か肺だと思って心臓の勉強をした。
循環器の専門医を取るのに6年ぐらい勉強をやっていました。
親が他界してから段々外に出るようになりました。  歩いて登れる山に一人で行っていた。
北アルプスで練習をしました。 
ヨーロッパで暗い中登りだして、暗くて見えないが、音がして逃げたが落石があり、ザックなどが流されてしまって、自然の中では簡単に死んでしまうんだんなあと肌で感じてそう思った。
山に接して、楽しみ方を学ぶことができた。

病気の事は相談に乗るが、山に登るかどうかは当人が決めるので、その場では素直に聞かない人もいるのでは無いですかね。
2010年資格を取り、日本に帰ってきて、循環器内科の医師として病院に戻る。
非常勤にさせてもらっている。(登山がしたいので、時間が欲しいので)
頼み込んで登山者外来という新しい事をやらさせてもらっている。
山の遭難を減らしたいが、心臓の突然死がおおいので、予防していかないと意味がないと思った。
夏のシーズン前には多く来院する。(体調の確認などで)
北海道警察のアドバイザーとしてもやっている。
救助に対してアドバイザーをしたり、一緒に山に行って、こちらから声をかける活動をしている。
低体温症対策 厚いものを着る、きちんと食べる事(炭水化物)を推奨している。
体温が下がらずに運べる方法 湯たんぽ、濡れないように防水シート、ラッピング等で対処する。
遭難者数は増えているので、減らしたいとは思う。
中高年の登山  登山のいい事は自分にあった山を選んで、自分のペースで登れる事
装備も必要なものをきちんと用意して、必要な知識があるという事が遭難の予防には大事になります。
年末、年始の冬山遭難  低体温症は知識を持つ事で或る程度予防は出来る。  
しっかり食べる、濡れると凄く冷えるので濡れたものは着替える。
雪崩の事故は北海道は結構あるので、埋まってしまうと結構難しい。
埋まらないような行動学は専門の分野の方から学ぶ必要がある。
埋まったら出来るだけ早く掘り起こすことが重要、仲間を探すトレーニングも必要。

7,8月の夏山の遭難は多い。 北海道、長野は多い。(登山者が圧倒的に多いので)
自分の体力に見合った山を選ぶのが大切。 山の事を教えても貰いながら自立してゆく。
装備は凄く大事、いろいろ情報を集める。
いきなり本を読んで行っても、そうではないところもあって、通信手段を確保、GPSを持ってゆくとか、最悪自分を救う手段を持っていないと危ない。
経験からいろんなことを学ぶので、山に登るのには、常に危機感を持って行かないといけない。
体は動かす様にしている。 動いている方が自分で安心する。

中高年の遭難は多い。 ①転落、滑落、②心臓の突然死、③疲労とかで低体温症になってしまって、亡くなる方が多い。 この三つが多い。 冬では雪崩とかが出てくる。
心臓がどの程度耐えられるか、確認してから行った方がいい、34歳以上の男性に多い。 年間2週間以内しか動かない人が山で心臓に問題を起こすことが判ってきているので、普段から動いていたほうがいい。
山岳ファーストエイド講習会を開く。  登山者自身が自分を救う能力を挙げていかないと、遭難は減らないだろうと考えています。
ファーストエイド  応急処置、初期救助  救助にかかわる方に受けて頂いた。
医師、看護師、警察、一般の登山者などが参加してくださった。
日本でも国際山岳医の資格は取れる様になった。
人命救助、安全な山岳登山のサポートをしたいとの思いから、遭難救助のアドバイザーをやっているがこれからは遭難を未然に防ぐにはすそ野を増やす、質を向上させる。
応急処置を学ぶと、予防を考えるようになる。
ファーストエイドは登山者にとって登山技術の一つだと思うので、ファーストエイドに関する知識や技術を身につけて頂ければいいなあと思っています。


































2013年12月15日日曜日

鑪(たたら)裕和(医師)      ・地域医療を支える

鑪(たたら)裕和(医師)       地域医療を支える
昭和30年生まれ 平成8年に当時勤務していた東京都老人医療センター(東京都健康長寿医療センター) の同僚と共に板橋区で診療所と、訪問看護、リハリビなどのサービスをセットしたつくしんぼ会を立ち上げました。
今日はその活動を伺います。

鑪の名字 親戚が近所にはいない。 古い時代からの名前  弥生時代からの名前と思う。
もののけ姫の映画の場面でタタラ場(モデルは、現在の島根県の踏鞴(たたら)製鉄の関連施設だとされる)でタタラ族が製鉄をしている場面が出てくるが、
おそらく大陸文化がやってきて、出雲地方でた踏鞴(たたら)製鉄という製鉄文化が繁栄して行ったものと思う。
島根半島は出ぱっているが、もともと島根半島は沖にポツンと島があって、たたら族が製鉄のために、森林を伐採して禿山となり、結果、土砂が崩れ落ちて半島ができ上ったといわれている。

東京の板橋区で地域医療をしている。
勤務先が老人医療だった。 退院しても生活機能が落ちてしまう。
病気だけを観て居るだけででいいのかと思っていて、家に戻っても元の生活ができるようにした方がいいと思っていたのが25年前ぐらい。
海外で実践しているところが既にあり、見学などして、考えが間違っていないないことを確信する。
同じように思っている人が周りにもいたので、呼びかけをして、つくしんぼ会を立ち上げた。
立ち上げてから19年になる。  最初メンバーは17,8人
板橋区は大きな病院に恵まれたところ。 国内でも非常に恵まれた地域と思う。
平成12年に介護保険が始まったが、私たちが立ち上げたのは平成8年ですから、公的にバックアップしてもらったので非常にやりやすかった。
高齢者が一度生活機能を落としてしまうと(ADL)、いい医療を受けられたとは言えない。
病院がいっぱいあってもその網から沢山こぼれてしまっている人達がおり、それをカバーしなくてはいけない。

認知症で大病院に外来があるが、其あと患者をフォローしてゆく機能があるかと言うと、そういうわけにはいかない。(半年後、1年後の診療となったりする)
症状は進行してゆく。 生活が困難になってくると私たちのところに来る。
社会的障害に対してどう対応したらいいのか社会的資源とかを家族の方に教えている。
訪問看護、相談に乗ってゆく為に人を配置(ケアマネージャーとして働く)
ケアマネジャーは知識、経験がないといけないが、なかなか対応できる人がいない。
ケアマネージャーを教育している。
医者は常勤2人、非常勤が3人、訪問看護15人、外来看護師が何人か 理学療法士5名
リハリビは本来は生活再建が目的 ケアマネジャー 2名 事務スタッフ含め 50人ぐらい
外来患者 お年寄りが多いのでいずれ往診になるので往診に力を入れている。
外来をやっているところは患者さんとの付き合いが長い。
看取るときに自然体でお互い納得しながら最後を迎えるという良さがある。

患者さんが一番安心するのはこれからは一人で、介護するんではないんですよと言う事を話す。
看護する人をサポートしてあげますという事を看護者に伝える。
往診は患者に応じて間隔を判断する。
介護力があっての在宅医療。  家族を如何に支えてゆくかがポイントになる。
毎週木曜日に必ずミーティングを行う。
(総合的に判断してゆかなければならない、家族の気持ちをどうやって組み上げてゆくかが大きなポイントになる。  いろいろな意見が反映されるようにしている。)
金銭的な問題、どういった死生観を持っているかとか、情報を得る機会は医者だけではだめで、情報を流してもらう事がいい医療につながる。

公開講座は患者さんに対する医療を集団的に皆さんに伝えることを設定したが、地域の他のサービス業者と同じ言語で話せるように変わってきた。
教育の場が増えてきて、ケアマネージャーさんが減ってきて、家族教育が今後公開講座の主体になってゆくと思う。
連携して地域医療が叫ばれているが、専門者は少ないので、介護者、家族教育が大事になると思う。
開業したい医者がいれば、そのうけいれも積極的に行っている。
一人暮らしの方々の受け入れは? 介護者がいないと在宅医療ができないのではないかと思っていたが、完全独居が15%、日中独居が20%  1/3は独居なんですね。
在宅で生活を支えるという事は決してできないことではない。
老老介護、介護力として期待できない家族がある。  
6~7」割は介護者がいないような状態になってきている。
一般論として見れない事はないと思う。

自宅で亡くなる方は13% 80数%は病院で無くなる。 60年前は全くこれと逆だった。
在宅での看取るを推進してゆくためには、偏見を捨てていかなければならない。
死に様を見せる事が重要と言っていましたが、死を見ることを体験していない。
家で亡くなる方が増えてきて、死に様を孫に伝えていけば、死ぬという事は自然なことなんだと判ってくるのだと思う。
死の過程を説明する。 
家で無くなると警察が検死に来るのではないかと思っている。
24時間以内に患者さんを医者が観ていて、診断の結果、当然死に至るであろうと言う事が解っている状態であれば、死亡診断書を遺体を観ないで、書いてもいいという規定がある。
誤解されていて、24時間以内に医者が見ていなければ、警察の検視を見なければいけないと勘違いをしている。
在宅でのハードルがあることを思っている。
手引書でそういったことを拭ってあげたい。

早稲田の法学部に行き、そのあとから医師になる。
難民キャンプを訪れる事があって、学生時代に国境地帯に難民キャンプに通うようになって、医者の仕事がやりがいがあるなあと思ったのが医者になるきっかけになった。
公開講座、ケアマネージャーが講演をしていたが、本当にいい時代になったと思う。
医者になりたてのころに教授に頼まれて、往診をさせられた。
立派な家にいっても介護の仕方とか、そういったことが全然判らなくて、行って最初にやることが患者さんの着替え、布団の交換(汚物にまみれてしまって) おむつの当て方から教えなければいけない、一人ではやりきれなくなって、看護師を連れていくようになる。
やっと家で見るような体制ができる。
訪問看護ステーションを作る動機になったのは、多分そこら辺にあるのではないかと、その講演を聞きながら思った。
介護保険が始まって制度が充実してきて、家で支える時代になったんだなあと思います。
批判は受けてはいるが、これがあったからこそ在宅医療が充実してきたんだろうと思います。































































2013年12月14日土曜日

上原一彦(水生生物センター・研究員) ・絶滅寸前の天然記念物を救った市民力

上原一彦(水生・研究員)       絶滅寸前の天然記念物を救った市民力
いたせんぱら 鯉科の淡水魚 小型の鮒に似た魚 大坂周辺の淀川水系、富山平野 濃尾平野の川に住む魚で国の天然記念物に指定されています。
のように平たい体形で、色やかな部をもつ魚」の意である。
今年10月10日、大阪市旭区でいたせんぱらの放流式が行われました。
関係者地元の小学生たちがバケツに入れられたいたせんぱらを一斉に放流しました。

絶滅危惧種に指定されていた。  2005年を最後に淀川から姿を消していた。
市民の力で野生の状態での繁殖が確認されました。
いたせんぱらの人工繁殖の研究を続けてきた環境農林水産総合研究所 水生生物センター 上原一彦さんに伺います。
幼いころから父親に連れられて淀川で遊んでいました。
宮崎大学に進んだ上原さんは卒業後1993年大阪府立淡水魚試験所(水生生物センター)に入所、魚類の研究に携わりながら、いたせんぱら保護の活動に加わってきました。
市民の力が淀川のいたせんぱらの危機を何度も救ってきたと云う上原さんに、いたせんぱらの不思議な生態や淀川の歴史と共にあった其営みについて伺いました。

市民に依るいたせんぱらの放流は初めて。
密猟にならないように非公開でやっていた。
淡い紫色、おなかが黒いが、オスは卵を産む時期に変わったきれいな色になる。
絶滅寸前だった。 レッドリスト 
外来魚の駆除作戦、放流作戦をやってきた。
ブラックバス、ブルーギル 肉食の魚でもともといた淀川の魚を食べてゆく。
いたせんぱらを飼育増やしているので平成21年23年に500匹を放流すると云う試みをやってきた。
放流したものが子供を産んで966匹今年の春に確認されている。(自然の中で)
命のサイクルが確認された。
今年の秋の放流で晴れて、公開放流となった。

淀川川岸に池の様なところがあるが、人間が河川改修で石を積んでいったものが残っている。
ここに天然記念物のいたせんぱらが住みついている。
習性、生きた二枚貝に卵を産みつける。
メスは銀色、産卵管を貝の体に容れて卵を押し込むが、1秒程度で行う。
オスは貝が吸い込む管のところに精子をかけると、水と共に吸い込まれて受精する。
貝は嫌がるが、卵は一つ一つが粘着性があり、ひっついて固まるので吐き出そうとするが出来ない。
半年以上という長期間を母貝内で過ごした後、表層水温が20 ℃を超える5-6月に後期仔魚が母貝から浮出する。
江戸時代の頃には淀川にはいなかったといわれる。
河川改修が始まるのが、明治時代から昭和初めの頃。
大きな蒸気船を通そうとして、河川改修を行った。
川の真ん中は流れが速くなって、周辺は堆積されて、池の様なよどみ部分が出来て、いたせんぱらの住みやすい環境ができた。

昭和44年生まれ 淀川のほとりで育った。  淀川は遊び場だった。
父親は川に入って行って網で魚を取るようなことをやっていた。(観賞用) 
一緒に父と取っていた。  
知識がないので図鑑を観て鑑賞していた。
高度経済成長期で大気汚染、川が汚染されていた。
50年ごろには淀川はそれほど汚くは無くなった。
1971年 川幅を広げる大改修をすると云う事建設省が発表する。
淀川の魚にとってはピンチと成る。
1969年に高校生がいたせんぱらを取ったという事で注目を集める。
それが元になって、魚を守ろうとの運動が高まり、いたせんぱらを天然記念物にできないかと、署名活動を行う。
魚で天然記念物は一種類もなかったが、1974年に初めて指定される。

わんど は市民活動の成果で残すことに成功した。(淡水魚の楽園)
1983年 河口堰ができる。 
水をせき止めて川の水位を人工的に調整するもの。
池の部分に泥がたまったりするので環境が悪くなる。
いたせんぱらとかにとっては生活しにくいが、外来魚にとっては問題ない環境でドンドン増えていった。
平成10年の中ごろからの調査では特に増えてゆく間に、淀川の在来魚は急に減ってゆく。
淡水魚試験センターの研究員が150匹取ってきて細々と飼育し始める。
人工繁殖も検討する。(人工授精)  
貝への繁殖ではないやり方の方法の研究。
冬を貝の中で過ごすので、一旦低温の時期を経験させることで、成長させる。(2006年成功)
いたせんぱらが2006年に絶滅危惧となる。
外来種ブラックバス、ブルーギルがいる状況では餌をやっているような状況なので、根こそぎ駆除作戦を検討する。

わんどでの外来魚の駆除 好んではいる穴があるが、罠を仕掛けて一度はいると出られないようなものを作るとか、砂利の所に卵を産む習性があるので、砂利を置いたバットを置いて、卵を産んだら其バットを取り上げる方法等で対処する。
予想していた程度に3割になり、2,3年続けたら日本の魚が20種類ぐらいに増えてきた。
いたせんぱらは復活しなかった。
予算が国からでなくなって、市民が動き始めて、声を連携させて、いたせんぱら保全ネットワークを立ち上げた。.

行政関係、会社関係、市民等が連携。
30mの地引網を引いて、そこにいる魚を全部とり、中の魚を調べて、外来魚は駆除する。
続けている。  
ようやく2012年 前年育てた魚が産んでくれて、子供が育った。
わんどで稚魚が発見され、増えた状況が確認された。

いろんな生き物が沢山いる事がいいことだという、生物多様性の重要性が認識されつつある。
モデルケースの形で守ってゆく事になれば嬉しいと思います。
淀川は自然が残されている。
沢山の生き物がいるという淀川になっていることを望みます。


































2013年12月13日金曜日

金沢泰子(書家、歌人)      ・娘翔子の微笑みに支えられて(再放送)

金沢泰子(書家、歌人)           ・娘翔子の微笑みに支えられて(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/10/blog-post_15.html をご覧ください。

2013年12月12日木曜日

西澤孝一(坂村真民記念館)   ・念ずれば花開く

西澤孝一(坂村真民記念館長)    念ずれば花開く
愛媛県伊予郡砥部町に、昨年の春、坂村真民記念館がオープンしました。
坂村真民は弱者に寄り添い、勇気を与え97歳で亡くなった癒しの詩人で、其作品の生き方は多くの人たちに愛され続けています。
真民さんの詩は人間としていかに生きるかを、自分に問い続け、苦しみ、喜び、悲しみを判り易く表現したもので、なかでも石碑に刻まれている「念ずれば花開く」は御存知かと思います。
8歳で父を失った真民はどん底の貧しさの中、中学生になり、授業が終わると、往復12kmの道を走るように家に帰り、俵を編む内職仕事で家計を助けます。
25歳で朝鮮にわたり教員と成りますが、日中戦争がはじまります。
戦後故郷の熊本に帰国、愛媛県に移住して女学校の国語の先生になりました。
明るい自然に満ちた砥部町の山や川が、生きる力と詩の心をはぐくんで、亡くなる平成18年12月まで詩を作り続けました。 
坂村真民記念館の西澤孝一さんと真美子さんに伺いました。

「念ずれば花開く」  日本全国に石碑と成って残っている。 ほとんど自分で書いたもの
一番最初の碑ができたときには私(真美子)は21歳でした。 (京都 常照寺)
父の詩の事については知らなくて、ただの国語の先生だと思っていた。
除幕式があって、父の詩にふれて、父にはこのような世界、人達がいると初めてふれた。
除幕式に時雨が上がって、空気が動いた様な不思議な感覚があった。
もし除幕式に出なかったら、父の事が、この様な形で流れが、記念館にまで続いてゆくことがなかったと思います。
詩は読んでいないけれど、父の詩の世界の中では生きてきている、生活を通じて。
私(孝一)が先生にあったのは高校生 16歳の時です。
詩人とかではなくて坂村真美子さんのお父さんと言う形であっています。
詩人として初めて知ったのは18歳の時です。
詩集を県外の友人から紹介された。
真民が宇和島で高校の先生をしていた時に出会った。
大学をでて県庁に就職して30何年間務めるが、詩を作るとかは全くなかった。

18歳の時に読んだ詩集には家族を想う詩が多く、優しい人だなあと思った。
自分自身には厳しい物を抱えながら生きている人なんだなあと思いました。
父は自分の生活時間が決まっていて、自分の部屋でやっている。
仏教に出会ったころは、近くのお寺に座禅に行っていた。
自分を律する事がとても強かったが、家族にはこうしろとかは言わなかった。
春になると野に行ってせり、のびるだとかを取ってきたり、夏は海水浴に行ったりして、一緒に過ごしている記憶がある。
父はこうしなさいと云わない代わりに、私たち子供は自分で物事を決めるようになっていた。
父は生活の苦労というよりも、人間としてどう生きるかに、おもきを置いていたので、どう生きるかのほうを考えていたようだ。
  
「念ずれば花開く」  (自分の母を考えて作ったといわれる。)
「苦しい時、母がいつも口にしていたこの言葉を 私もいつ頃からか、唱えるようになった。
そしてそのたび、私の花が不思議と一つ一つ開いていった。」
祖母は5人の子を苦労を苦労と言わずに頑張って育ててきた。 真民が46歳の時の詩
祖母に対する恩返しだと云っていた。

自分自身がどう生きてゆくか、いい詩をかいて少しでも困っている人たちの助けになるような詩を一遍でも多く書きたい、其為には自分自身をもっともっと鍛え、もっともっと修業をしなくてはいけないと考えていた。
午前0時に起きて、真民流体操(ヨガのような)をして、お経を唱えて、ノートを書いて時間を過ごして、3時36分に外に出て、家にある「念ずれば花開く」の碑に額を付けて祈る。
鳥の声を聞いて、自分の部屋に戻って自分の仕事をして、其あと家を出てゆく。
毎日、雨の日も雪が降っても、正月でも休みなく、同様にやっていた。

796冊のノートがある。 
昭和26年から書き始めて亡くなる前の歳までずーっと書き続けたノートです。
詩も書いているが、自分自身が今日何を考え、どのような本を読んで、それをどのように受けとめた考えたか、其中から生まれてきた詩を書き留めて、何日かして其詩を推敲して、又違った詩を書くとか、そういう積み重ねがノートになっている。
よく書いた時期は1冊(30から50ページの大学ノート)が10日ぐらいで終わってしまう。
真民の、どのような時代を生きてきたのか、詩を作った背景を知るためにも、考え方を知る上でも是非必要なために、真民のノートを1年半懸けて、ざーっとですが、読んだ。

「歌」
「嬉しい時には嬉しい歌がうまれ、悲しい時には悲しい歌が生まれる。 出来るだけ嬉しい歌を作ろう。」
人生の事も言っている。  辛い事、悲しい事があっても、できるだけ嬉しい歌を作りたいと云う願いを込めた前向きの詩です。

「椿の蕾」
「童女は椿の蕾を手に一杯取っていた。 無残なことをする子だと思っていたが、私は黙っていた。  青梅ほどに膨らんだやえの椿の蕾までその子は取っていた。
いたずらにもほどがあると私は次第に腹が立ってきた。  だが童女の瞳は涼しかった。
冬の空の様に澄んで、けがれていなかった。  いたずらからだと考えたのは間違いだった。
童女は一つ一つむしっては、真っ赤な色に眼を見張っているのだった。
青玉のような蕾の中に、朱の色さした花弁が手品のように包まれている、自然の神秘を観ているのだった。
大人の知らない驚きを教えられてるのだった。
わたしにも一瞬稲妻のような驚きが身の内を走って行った。
童女の頭に夕日が落ちていた。 むかれた椿の朱は流れていた。」

初々しい眼で見ている。
何を観ても一生懸命見ている。
人は歳を取ると経験済みだという目で見てしまうが、自然に対する純真な心根を感じる。
90歳代を越えて来てから、ノートによく出てくる言葉 「しっかりしろ真民 まだまだこれからだ」
毎日出てくる。  
毎日反省しながら、もっといい人間になる生き方を求めている。亡くなるまで。 凄い人だと思う。
毎日、ろうそくに火を付けてお線香をあげるが、自分の心にも火を付ける。
何かをするのに、自分に言い聞かせる。 
云い聞かせないと流されてしまう。
自分からTVに出たりして、詩を人に知らせようとはしなかった。
周りが人づてに、全国に広がって行った。 
真民の詩をもっともっと知ってもらいたい。
「念ずれば花開く」の石碑が全国で700  世界で730ある。

相田 みつを 詩を書いて言葉からいろんな思いを感じる。
真民からも同様なものを感じる。
根底に仏教の教えと言うものが、両者が若い時に仏教を深く学んでいるので、そこが根底にあって、真民は真民流、相田さんは相田さん流の言葉で、表現されていると云う違いであっても、根底は同じものですね。
相田さんが無名の頃、鎌倉で真民が講演会をしていて、そこで最初出会いがあって、真民と相田さんの手紙のやり取りがあった。
真民は2006年、97歳で亡くなる。
記念館が建ったのは平成24年3月11日   学校があったところ。 
真民の詩を若い人たちに是非知ってもらいたいと、記念館を作った。
自分の人生の参考になる詩が沢山あると思う。

父が亡くなる前、鳥が好きで、正月にはよく「鳥になる」と色紙に書いて、2月には「国境の無い鳥になる」に替って3月には体調を崩してしまった。  最後の遺言のようなものと思っている。
父にとっては国境がない事がとても大切に思っていた。
昔から差別をとっても嫌っていて、国境がない事は、争いの無い事でずーっと望んでいた。
父が全集を出していて、扉にいつも言葉をかいていた。
父の生き方が解るような気がする。
1卷 縁に生きる 2卷 和に生きる  3卷 願いに生きる  4卷 いつ、意気に生きる 
5卷 守られて生きる6卷 共に生きる 7卷 善に生きる  
ここで父は亡くなった。 その後の詩を纏めて8巻は1周忌に出した。
父だったらなんて書くだろうと思ったら、ノートに祈ると多く書かれているので、「祈るに生きる」にしようと思った。
若い人に真民の願い、思い、を受け継いでもらいたい、と思う。

真民五訓
①くよくよするな ②ふらふらするな ③ぐらぐらするな ④ぼやぼやするな ⑤ぺこぺこするな


 














































2013年12月11日水曜日

車だん吉(タレント)         ・人生、高いばかりが夢じゃない

車だん吉(タレント)   人生、高いばかりが夢じゃない
これと言った当たり役が無い。   
萩本欽一さんから言われたことがある。
「ダン吉、山の頂上に立つと下からでは見えないものがあるんだよ」芸能界にはいった限りは山の頂上に立て」、欲のないダン吉さんに対する萩本さんなりの、叱咤激励の言葉でした。
しかしダン吉さんは上から見る事のできない性格なのだ。
生活ができる程度に働いて、後は自分が気持よく過ごせる場所があればいいんじゃないか、と自分を決めつけてきました。
お笑いタレント30年の車ダン吉さんに下町目線、庶民の目線で生きてきた芸能生活について伺います。

ピタゴラ装置 名古屋さんの後を継いで7年になる。  子供向け番組
なんで、と言うきっかけになる。
普段の目線とは違った視点で見るのが特徴的ですね。
お年寄りの方のファンが多い。
今年の1月に大人用に番組みをやったが局長賞をもらった。
ものの考え方、はすかいから見てみようと云う事は見えてきた。
視点を変えただけで、生き方もそうですね、言ったほうがいいのかな、言わないほうがいいのかなと思うが、やはり言った方が結果が出てきますから。

控えめな性格だが、どうしてこの世界に入ったのか?
昔から、落語、喜劇が好きだったのと、子供時代に、時代劇を観ていたので、銀幕で活躍するスターのかっこよさみたいなものにあこがれた部分があった。
学校は出たけれど行くところがないと云うところがあって、芸能界の方に行こうと思って、左とん平さんに弟子にしてもらおうと思って、行った。

入ったところ、厳しい面があった。  一番勉強になったのは萩本欽一さんと坂上二郎さんのコント55号でした。  内弟子見たいな感じだった。
萩本さんに聞いたら、俺はあいつ大っきらいだったんだよと言った。
坂上さんが自分のセリフを終わって引っ込むはずなのに引っ込まないで、一人で続けて受けていたので、冗談ではないと思って、お互いに2人でやっていて、7分で終わるはずが40分掛かって、こんな面白いやつがいるんだなと思って、組むんだったら二郎さんかなと思ったと云う。
「コントゼロ番地」をやっていたが、あんた舞台で仲がよすぎるねと言われた。
コント55号はお互いに負けるものかという様にやっていたので面白かったですね。
浅草での下ずみを長くやっていたので、その芸に支えられて、できたものと思う。
肌で感じた受け具合を知っていたので。

今では二郎さんは大好きと言っている。
萩本さんにはきつい事を言われた。 「ダン吉さん 芸能界でどのあたりにいると思う 芸能界で」と 突然云う。  「5~6合目ぐらいですかね」 というと
「俺はてっぺんだけどさ てっぺんでしか見られない景色があるんだよな」
「てっぺんに登りたいけど、自分の性格としてはだめでしょう」といったが。
55号に一緒に出ている人、ぐらいにしか見られなかった。
目線を変える必要があったと思う。
トップを目指すのは性格的に駄目でしょう。 消極的で、押しのけてと云う事が出来ない。

新しい目線、下がってみるという、一歩下がってみる目線、下から目線。
いくらか人気が出てくると、いつの間にか上から目線になっていることがあるのではないか。
「ぶらり旅」、庶民の目線で旅をする。
違う番組でインタビューとはこんなものかなあと、疑問に思っていた。
クワガタに関するインタビューで、クワガタの値段を観て、こんなにするんですか、と言うようなことを言って、その番組をやってこんなもんでいいのかなあと思っていた。
「ぶらり旅」では普段のさりげない言葉で接して、相手の人が気軽に話せるように対応した。
本の取材でぶらり旅見たいなものを企画しているとの事で、それに参加させてもらった。
カメラが後ろに無い恐さ、を感じた。
突然、こんにちわと言って、TVではないので、何だこいつは、と言うようなところから入ってゆく。
一面、面白さがある。

いろいろ話を聞いたり、こんな人生を歩んできたとか聞くと、どなたにでもTVで放送したいと云うような内容があるんですね。
コーヒー店、もう40年やっている人 仕入れた豆を炒るが、死に豆があり、一緒に炒ると本来の豆の味が変わってしまうので、分けなければならない。
人の目で無いと選別できない。 1日20kg より分ける 其の中から何百粒かを取る。
之をやらないと私の気持ちが済まないし、之をやらないと本来の豆の味が出ないので、やっているとの事。
コーヒーの匂いが体に沁み込んで、どこに行っても言われますとの事。
自分が死んだときに火葬場で燃やされたときに、コーヒーの煙に乗ってコーヒーの香りが出ていくと嬉しいですね、とおっしゃった。   
珈琲に対する思い、その人の人生が伺える。
リポーターをやらしていただいて、いろんな人に出会ったのは財産ですね。

こういった人間としての面白さを、漫画、富永一郎先生、鈴木 義司先生も一緒に出てたもので、漫画協会に席を置いていたりした。
漫画をかくようになって、人間観察をよくする様になりました。
防災かるた  千葉県夷隅市
採用されたものを絵にしてくれないかとの話があり、一緒にやらしてもらう事になる。
かるた会をやっていれば、防災教育になる。
食育かるたの要望もあり、今描いている。(小学生用のかるた)
秋山 駿 評論家  自分は路傍の石だと、自分は石目線であると云っている。
小林秀雄の評論もしているが、通俗的な作家の評論をしている。
藤沢周平山本周五郎 とか庶民目線で書いていて、人間の生き方を追求するひとたちだった。











































2013年12月10日火曜日

山本賢吾(写真家)        ・空飛ぶトラック1000機を追って

山本賢吾(写真家)     空飛ぶトラック1000機を追って
第二次世界大戦の頃アメリカで作られた旅客機DC3型機は、当時は極めて優秀な飛行高性能と頑丈で使いやすい事から空飛ぶトラックと呼ばれ、旅客機、輸送機合わせて約2万機以上がソ連、日本でも作られ、世界中の空で活躍しました。
戦後は軍から大量に払い下げられた機体が世界中の民間空港で利用され、日本でも20機近くが旅客機として各地の空を飛んでいました。
最近は日本で飛んでいる機体はありませんが、やはり使いやすい事頑丈なことが愛されて世界各地で使われています。
DC3にほれ込み、今でも飛んでいる機体のすべてを写真に納めようと努力を続けているカメラマンがいます。
世界に残る1200基のうち、すでに1000機を撮影、空飛ぶトラックCD3型機に寄せる熱い思いを伺います。

DC3とはどう飛行機か?  
ダグラス社が作った双発機、飛んでる姿が美しい、プロペラ機
第二世界大戦の前に作られた。 前輪が大きく後輪が小さく 機体が斜め上を向いている。
伊丹空港の近くで、生れたので、離陸する飛行機が旋回しながら高度を上げてゆくよう光景を見ながら育ったので、飛行機にあこがれた。

空飛ぶトラック 高校生のころに、雑誌をめくっているとそこに開発地上国で体に鞭をうちながら、騙し騙し飛び続ける第二次世界大戦の輸送機、爆撃機の写真集という短い文章があって感化されて直ぐにその雑誌を買った。
50年60年して第三世界で第二の人生を、体を酷使しながら、輝きながらも、使い捨てされてゆく、哀れさ、その辺を表した写真集、スイッチが入ったとしか説明ができない。
滅びてゆく姿をとった写真集だった。
第一卷、第二巻が出されたが直ぐに取り寄せてみたが、まえがきに書かれていたが、飛行機を取材しているときに、飛行機が撮影時に落ちて亡くなられたと記載されていた。

凄い衝撃を受けて、こんな素晴らしい飛行機の姿を後世にのこしていかないといけないと思った。
ステファンさんが亡くなられたので、誰がするのか、私でしょう 見たいに思って、大学は英語の学校に入り、出版関係につながると思って広告会社に就職した。
営業に入ってカメラマンからカメラの撮影技術を教えてもらった。
4年目過ぎに、TVを観ていたら、オーストラリアでCD3が落ちたというニュースを観た。
シドニーのバタニー湾に沈むが、其時に映像が全部残っていた。 30秒流された。
クジラが海に潜るような形でスーッと海に入って行った。
其映像もみて、そこで日本でこんなことしている場合ではないと、会社を辞めた。
取材を始めて25年になる。  
85カ国前後の飛行機を撮った。

最近はインターネットで機種をインプットすれば情報は大変多く得られるが、私が写真を取り始めた25年前では先ずは書籍、情報は5年前、10年前 宝探し状態で、聞いて聞いて、600機、500機になり、1990年代には450機、400機になり、確実に飛行可能な飛行機が減りだす。
姿を残さないといけないと400機を追った。
其為にあらゆる種類の職業の仕事をこなしてきた。(今でもそうだが)
.150~200万円 1年間で溜めて、使えるお金100~150万円で外国に行った。(20数年間)
商業出版なので写真を撮るのに、所有者の了解を得る必要がある。
簡単には了解を得られない場合がある、(特にイギリス、アメリカ等)
オーナーの心を解きほぐすようにしていって、撮るように交渉する。
先ずは人間を認めてもらう。   世界中に知り合いができた。(数百人)

最近では、DC3はあまり安全では無くなりつつある。
オーナー、パイロット、整備士と懇意になった。
ドイツ系ブラジル移民、マシャードさん 3日宿泊した。 
俺の飛行機、もう一機併撮しないかと言われた。 1時間飛ばすだけでも数十万円掛かるし、パイロットも必要、空撮よりなくなってゆくDC3を撮影する事を優先していた。
俺がただで飛んであげるから、お前撮れと云う事になり、セスナ機も用意してもらってそれに乗り、空撮を初めてさせてもらった。
今までに無い世界、空撮は頭になかったので、まさかブラジルでこうなるとは思わなかった。

飛べダコタ」映画   1946年イギリスの飛行機が佐渡の浜に不時着した。
其話を映画化しようとの事になり、映画会社がDC3をどうするか、私にところに来て、購入の話と、海外で買ったものを分解して、組み立てると云う事を担当させてもらった。
専門家に応援してもらった。 アメリカの友人 パオロット、オーナーで、整備士で連絡をしたら一つ返事で対応してもらった。
DC3については私のところにいろいろ相談が来るようになった。 購入の話とか修理の話とか。

途中で辞めようとは思わなかったのかとよく言われるが、夢を追うものの格言
夢を果たせない人は、人生いろんな身の回りの事、夢を辞める時に試練がある。
お金、身の回りの事、あらゆる理由を付けて夢を辞める、辞める理由を自分で付けているだけ。
夢をかなえる人は、それに打ち勝つ、いろんな試練が来ても自分なりに乗り越えていって、自分なりに夢を続けてゆく、続ける人だけが夢を追える権利があり、達成できる。

後、残っているのは200機 飛べるのは50機もないかもしれない。
20機が1年で無くなってゆく。(スクラップとなる)
再生してゆくDC3もあるので、800機ぐらいは継続してゆくのだろうと思っている。
国によって、かわいがられている国がある。 
 コロンビア、南アフリカが一番多く飛んでいる。
ボリビアでは低地の牧場に飛んで行って、牧場に着陸して、首都(高地)に肉を運んでくる。
徐々に道の整備をしてきて、道の輸送が発展してきたのでトラックの方が安価な為DC3にとってかわるようになった。
コロンビアでもジャングルに物資を運ぶのに利用されていたが、アンデス山脈を越えるのに4000mを越えなければならず、天候が急変するので事故が多発するため、政府が首都からアンデスを降りたところに滑走路を作り安全対策を行った。

北朝鮮にはDC3が24機残っている。  
衛星写真でDC3がギリギリで判別できるので、、アフガニスタンでも飛んでいる。
海の中ではそこに行くまでのチャーター代等々、取材単価が高くなってゆくので、撮れていない200機だったら今までの様には行かない。
今後取材費との戦いです。  出来るだけ完全な形として、本にして出版したい。





































2013年12月9日月曜日

広河 隆一(ジャーナリスト)      ・人間の戦場をつたえる

広河 隆一(ジャーナリスト)         人間の戦場をつたえる
中東問題や原発問題を中心に、40年以上取材活動を続けています。
9年前から写真月刊誌の編集長も務めて居ます。
広河さんがカメラをむけるのは弾が飛び交う戦場だけではなくて、飢餓、公害、原発事故などで幸福に生きる権利を奪われた、人間の戦場にいる人々です。
原発事故にあった、旧ソ連のチェルノブイリにはこれまで50回以上行って、甲状腺がんにかかった子供達の姿を伝えてきました。
同時に子供達を支援するチェルノブイリ子供基金の創設や、その経験を生かして、被災した福島の子供たちの健康維持を支援する保養プロジェクトを作り力を入れています。
広河さんに伺いました。

フォトジャーナリストと写真家の違い 写真家は風景、料理、ファッションとか大事な分野がある。
フォトジャーナリズムは世界で起こっているいろんな問題の背景を知ったり、何が起こっているかを伝えたり、伝える事に責任を持っているのはジャーナリストの仕事であり、志の持ち方が違うかもしれない。
撮ったらそれでおしまいではなくて、持ち帰って人々に伝える事で仕事が完結すると云う事です
自分が写真家とは思っていない。
インタビューの場合はTVの様に時間を持って、その人の言葉のよどみ、言葉が切れてしまったりすることを含めた報告の仕方があると思うが、そういうのには写真は不向きですね。

大学2年までは山岳部にいて山ばかり登っていたが、その人たちと自分たちはこのままでいいのか、世の中のことを何も知らない、世界の中で何が起こっているのか、日本で何が起こっているのか、もうちょっと見るべきではないかと話あった。
見るための武器として写真を使って見ようとサークルを立ち上げて、早稲田の中にそういうグループを作った。
最初視覚障害者の問題、離島問題、阿賀野川の公害等に取り組んでいた。
大学を出るころに、職業としては成り立たないと思ったので、将来の道を考えたいと思って、イスラエルの中には社会主義を実践する様な共同体があり、そこで見て、将来を考えて見たいと、カメラは使わずに、生活していた。
途中で、働いたところが昔はユダヤ人ではなしに、パレスチナ人が住んでいた村があったという事を知ってしまった。
それがきっかけになって、見逃したまま、素晴らしい共同体で生活しましたと持ちかえることが行かなくなり、カメラを取り出して、歴史から消え去ってしまうような昔パレスチナ人が住んでいた村を写真に収めてゆくことをした。

イスラエル滞在3年間 日本に戻り仕事をしていたが、又戻ってみたが、或る男が泣きながら何故もう一カ月前に来なかったのだと云う。
その人の息子さんが射殺された。  其村で6人が殺される。
加害者は証言する人間を嫌うので、そういった外国人、ジャーナリストがいれば絶対銃を乱射しなかった筈だと云っていた。
そういう時にいるのがジャーナリストだろうと言われた。  
抑止力としてのジャーナリストだと教えてくれた。

難民キャンプが封鎖されて、照明弾が打ち上げられていた。
そこに行かなければならないと思いながら、恐さがあり、何とか気を取りなおして7時頃に、他のジャーナリストを探して、声をかけたが行かないと云うので、近くまで行って危なそうだったらそこで帰ってこようと思って、小さなレコーダーをスイッチオンにしてポケットに入れて、おまえは私を見届けるんだと、キャンプに入っていった。
唯大勢の人たちが殺された後だった。
人はTV、映画を観るときの感覚で戦争映像を観る事が多いと思うが、最初の人は身体のどの部分かわからないような肉の塊でした。
次に持ちこまれたのは、砲弾で頭が真っ二つにされたものでした。

イラクのバクダッドでは高性能爆弾で破壊されたシェルターでしたが、そこではそこに逃げてきた一般市民、お母さんが壁際に子供を抱いたまま、焼きついていたが、臭いが伴う。
腐乱するだけではなしに死臭が身体にまとわりついて、洗っても取れないと云うか、臭いが後まで影響して、日本に帰って来てから1カ月たっても、焼いた鳥肉でも食べられなかった。
綺麗事の戦争、ゲームの様な戦争とは真反対、身体に取りついてしまったと云う事で、それが何千、何万と重なったものが戦争と言うそういう感じがします。

自分がジャーナリストだと云い聞かせないとシャッターを切ることはできない。
一発大砲を打つたびに身体が凍えてしまうような感覚になる
人間には生きる権利がある。  幸福に幸せに健康に生きる権利があるが、それを奪われてしまう場所は世界に一杯ある、飢餓、難民、公害等がそうです。
人間の戦場と呼んでいる。  武器、兵器が飛び交う場所よりも力を入れて撮っていた。
薬害エイズ、公害、核の惨事、日本でも水俣病とか  戦場と繋がっていると思う。
犠牲と加害の関係は全くよく似ている。 
加害者は被害を隠すという鉄則はあらゆる現場で全く同じ。
チェルノブイリ原発事故 子供たちの甲状腺癌の手術台に上った写真。
甲状腺は事故と関係ないと云っていたが、事故が起こってからいろんな異変が始まっている。
4から5年にかけてから何十人という単位に膨れ上がる。

その直前ぐらいから取材に行っていたが、なかなか事故との因果関係を認めないで、それをようやく認めるまでに10年間掛かった。
甲状腺癌は初期のころならば直るチャンスがあるが、スクリーニングができなくて逃してしまうと転移をしてしまう。  
身体のいろんなところに転移してゆき、最後には脳に転移して、救いようがなくなってしまう。
11歳の女の子、大丈夫だと云っていたが、急に手術が決まって、両親が来られない状況の中で一人でベッドに横になって、麻酔が始まると云う時にわんわんと泣いて、自分は麻酔を受けている間にこのまま死んでしまうのではないかと思い、唯私は何もできなくて、其女の子の手を握ってあげるだけだった。
幸い其女の子は初期だったので転移しないですんだ。
手術を見届けて、我々の作った保養所のところに甲状腺の手術をした人達も引き受けよう、医療の関係、早期発見の測定機、車両、医者の給与など日本のお金でやるからと言って、甲状腺の手術をした子供達が大量に保養所に入ると云う事がスタートしてゆく。

再発が怖い。 子供達は首の手術後を隠したりする。 水泳の授業は受けない、引きこもる、そうすると身体が弱くなり、免疫力がなくなるので、再発の可能性が増えることになる。
子供達に一番大事なことは生きる気力、そのためには保養所は役に立ってゆく、。
救援のために取材をする。 助けを訴えるためには写真が必要、撮ってもいいですかと、本人の了解を得て、撮って報道を繰り返してゆく。
チェルノブイリの時は報道と救援が切り離せない様になっていた。
手術をうけた女の子は、その後風の便りに結婚すると云いう話を聞いて、驚かしてやろうと結婚式場に行って、おめでとう、覚えているかと言ったら、吃驚して抱きついてきて、あの時手を握ってくれた、あったかい手をおぼえているとの事だった。
その後赤ちゃんを産んだと聞いている。

去年沖縄、久米島に沖縄くみの里 保養プロジェクトを立ち上げる。
全て支援金を募って、子供達は航空運賃を含めて無償で滞在できる形。
季節に依るが10日間  24日間  未就業児は母親と一緒
今までに合計で700何十人滞在している。
ここではいろいろなことを経験する。 
砂浜で歩いていたら泣き始めた子がいたが、聞いてみると、放射能が足につくと思って泣いていたが、説明してやると、段々と理解して最後には砂浜に自分の手を押しつけて記念にしたと云う光景を観た。
月に半分ぐらいは行っている。   

チェルノブイリでは写真を教えて、写真の撮り方を教えた。 ジャーナリスト教室を開く。
ジャーナリストとは何か、と問うた。
幸せに、健康に生きる権利 自分たちの生きる権利を守るためには、いろんな方法を考えている。
選挙、法律を作る、其為に自分たちの代表を選んだりするが、権力を持つと本当に守ってくれるかどうかわからないので、戦争に向かおうしているのか、平和に向かおうとしているのか、被害に及ぼすような工場、企業に味方して、そのことを黙っていようとするのか、判らなないから、生きる権利を全うするのには、知る権利を持たないといけない、知る権利を全うするためにはなかなか難しいので、ジャーナリストと言う仕事がある。
ジャーナリストは外人、大統領だろうが対等に話して、駄目だと云っても要求する権利がある。
知る権利がある。 だから現場で対等に話をする。
人間の生きる権利と一つに全くつながった仕事がジャーナリストだと云った。

ジャーナリストの仕事も 目の前で悲鳴を上げている人を助ける義務はある。
シャッターを切れない事もいっぱいある。 
むざむざと子供が殺されてゆく、難民キャンプでもそうだったし、甲状腺がんの子もそうだし、許せない、止める力は小さなものしかないが。
今年70歳  これからは? 「DAYS JAPAN」編集長の座を退き、別の人に譲る(保養所とかいろいろあって不可能)
一つ何を残すのかと言われれば、一人のジャーナリストに戻りたいと思います。
現場に立つと云う事に誇りを持つ人間なので、もう一回戻りたいと思います。











 






























2013年12月8日日曜日

藤本文昭(空襲・戦災を記録する会) ・残しておきたい空襲・戦災記録

藤本文昭(空襲・戦災を記録する会・全国連絡会幹事) 残しておきたい空襲・戦災記録
1941年12月8日、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争は、300万人を超える戦争犠牲者をかぞえ、数々のかなしい出来事が起こりました
戦時中愛媛県今治市はB29の空襲を3回受けています
藤本さんは教鞭を取っていた高校が空襲で崩壊し、校長を含む教職員5人、生徒4人が命を落とした事を知り、2002年から空襲体験者や、空襲にかかわったアメリカ兵の聞き取り調査を始めました
2007年ワシントンで日系2世の聞き取り調査をしたとき、真珠湾攻撃に参加した、今治市のゼロ戦パイロットが関わったハワイ、ニイハウ島事件の事も知ります
日本の真珠湾攻撃の時、ハワイ、ニイハウ島でどんな出来事があったのか、戦後68年、記憶の中から消え去ろうとしている悲惨な戦争の記録を残し、2度と戦争を起こさない様にしようと云う想いを、空襲戦災を記録する会、全国連絡会議幹事の藤本文昭さんに伺いました

発端、私が勤務していた今治市内の私立高校で2001年、文科省から総合的な学習の時間を高校でもスタートするようにとの、準備段階でした
当時、高校1年生を担当していた  
生徒の一名が学校の沿革史の一行に、昭和20念4月26日今治市爆撃、校舎全壊、校長他生徒あわせて9名が亡くなると書かれていた、私に聞いてきて、空襲で焼けたのだと云ったが、もう少し詳しく知りたいと云う事になり、母校の前身である女学校の戦災の記録を発掘する事からスタートして、今治市の戦災の発掘、愛媛県の戦災記録と段々と広がって行った  平和学習

ハワイのニイハウ島事件
調査発掘し終えて、複眼的視線で物事を見てみようとの事から、ニイハウ島事件を知るきっかけになったのは、戦時中に日本にいて、敵国人と言われたアメリカ人、イギリス人、だとかが、どういう境遇にいるかを調べていた
特にアメリカをテーマにした  
アメリカにいた日本人、日系人はどういう状況であったのかを調査し始めたところ、対象として協力していただいた、日系のハワイ生まれのおじいさんからアメリカ本土でも大変な思いをしたが、ハワイでも真珠湾攻撃を受けた直後は、日本人、日系人は辛い思いをしていた
ニイハウとうと言うところで日本兵を助けた日系人がいると云う事で、白人の怒りを買う、大きな引き金になったと云われた
生徒と一緒に国立公文書館に調査に行ったときに聞いた 近くに住んでいた日系二世の人

日系二世が日本兵を助けた記憶の話だったが
ニイハウ島はハワイ諸島で日本に一番近い島 個人所有の島なので観光地にもなっていない島
赤土ばっかりなのでいい作物は育たない、牧畜とか養蜂とかで細々と生活をしていた
ロビンソンと言う人が所有していたがラジオが1台あるのみ
日本とアメリカが戦争を始めた事もその島の人は知らなかった
日本の飛行機が不時着したが、パイロットの西開地重徳さんはピストル、書類を奪われる
パイロットは取り返したい思いがあった、原田良男という日系人と奥さんに保護され助けられる
ネイティブの人達との関係が悪くなってそのパイロットは殺されて、現場に居合わせた原田良男さんも猟銃で自殺すると云う顛末です
そのパイロットの人が今治の人だと判った

原田さんは日本には一度も来たことのない人だった
戦前、日本人学校もあり、日本の教育も受けていた人だった
ハワイアンが日本兵をやっつけたという報道がされた 
ハワイの地元の新聞に掲載された
戦争の話は被害者の話、途中から攻撃した側はどうだったんだろうとか、空の上から爆弾を落としていた人たちはどういう想いだったんだろうかと、視点の違うところから聞いてみようとスタートする
学校には予算が無いので自腹で行う   
全国に戦争を記録する会があるので、そういうところでアメリカ軍の資料を沢山収集している人がいるので、攻撃した人の話、等を教えてもらう様になる
国立公文書館に行けば詳しい事が判ると云う事が判った
今治を空襲した人に会えたのはアトランタにいた人  
最初メールでのやり取り、段々まどろっこしくなって是非本人に会いたいと云う事になって、生徒4名を連れてアトランタに行った

当時84歳 B29に乗って日本国内を爆撃していた人たちは、自分たちは命令を受けて、命令に従って攻撃したので個人的感情は考えもしなかったと云った
今治の時にも、地図の一点にしか過ぎないというイメージしかなかったと云った
今治の攻撃の時の感情を聞いたが、何にも感じなかった、今治は良く燃えた、この作戦は成功したと云う想いで引き返して行ったというような話だった 
これが1日目のインタビュー
2日目 最初、私を別室に呼んで、昨日の晩に随分考えたと、生徒の4人の家族の中に被害にあった人がいるか気になると云う事で、そのことを聞いてほしいとの事だった
4人の家族にはいなかった事を話すと、ああ良かったと云うような動作をした
これで気分が楽になったと云う もしかしたら自分が非常に悪い事をしたんではないかと思った、これまでこんな思いをした事が一度もなかったという
初めて攻撃された側、被害者側の想い、存在に初めて意識が向いたとの事
2日目以降のインタビューでは同情する思いがでるが、謝罪はする気持ちは無い、命令で行動したものだから、と言う事だった

其3年後に今治市に戦災の碑を建てるが、その人は除幕式の日に参加した
戦災の民間団体の方などとも話をしていた

戦争では、自分の心を無にしないとできないような状態ではなかったのかと推測する
其生徒たちは既に社会人になっているが、先生と共にフィールドワークをやったことがいい思い出になったと云っていました
その後の自分の、一方的なもの考え方でなく、じゃあ相手はどう考えているか、逆の立場であったらどう思うだろうと、複眼的なものの考え方が出来るようになったと云ってくれている

原田さんの家族は? 
パイロットの日本人は書類を取り返したいので手伝ってほしいとの思いであったが、それさえ戻れば、自分で燃やして自決すると云ったと云う
アメリカ軍に奥さんは身柄を拘束される スパイ容疑  
1944年の夏まで3年ぐらい家族から引き離されて、監禁所に容れられる  
1944年の夏には自由になる
カウアイ島に戻って3人の子供と再会して、裁縫がうまいので洋服の仕立てをやりながら3人の子供を育てるが、陰口をたたかれながら、生活をしてきたとの事だった
1991年にお亡くなりになったが、3人のうち2人はアメリカ本土に行き、リタイアして昨年にお目にかかっていろいろお話を伺いました(会いたいとリクエストしてから3年掛かる)
アメリカでは、原田さん家族は裏切り者のレッテルを張られた人達なので、会うのに時間はかかった  
日本人に会う事に対しては重たい事だった

ニイハウ島事件の関係者は皆いなくなったが、戦後ずーっと引きずっていることは原田さんご遺族にはある
お孫さんは50歳代で、今目の前の困っている人を助ける面では、おじいさん、おばあさんのした、この行為は誇りに思っていいんじゃないかと、ただ間違ってはいけないことは日本に対する愛国心だとか、アメリカに対する忠心と言う事っではない
目の前で一人でどうにもならない状況の人が書類を取り返したい、それを何とかしてやりたい、
そのあとは彼が自決するか投降して捕虜になるかは認識していないが、そういう想いをおばあさんから直接聞く事が出来た  
その行為は誇りに思っていいと思うとお孫さんはおっしゃる
3人の子供達はそのことを話そうとはしない
お孫さんが背中を押してくれなかったらお子さんたちはインタビューには応じてくれなかったかもしれない

国と国が戦をし始めると間に立って、友好だった人々が敵同士になってしまう
アメリカ生まれで日本で教育を受けて又アメリカに帰って行った人、偶然日米開戦の時に日本に住んでいたものだから、日本兵としてアメリカに対さねばならないと云う悲劇があったり、逆の立場があったり、原田さん家族の様な事があったり戦争は残酷だなあ思うし、戦後も続く
複眼的ものの見方が必要、記録してゆくことも必要
現在は横浜に住んでいるので、ここでの事も掘り起こして行ってみたいと思う


















 


































2013年12月7日土曜日

長沼毅(生物学者、広島大学准教授) ・微生物を追ってどこまでも

長沼毅(生物学者、広島大学准教授)   微生物を追ってどこまでも
極限の環境に生きる、微生物を追って深海、地底、北極、南極、砂漠、火山など調査、生命の起源を求め世界中の辺境を巡る行動力から科学界のインディージョーンズと呼ばれ、その研究手法は辺境生物学と呼ばれ海外でも注目されています
何故辺境の微生物を追いかけるのか其探究心はどこから来るのか、伺います

本当は出不精なんです 仕事なのでいやいや行っています
微生物はこんなところには、いないでしょうと言うころにもいる
それ相応に特殊な能力を持っている、煮えたぎった熱湯の中とか、氷の中でも生きている、そういうものを調べる事に依って生命の限界を求めたい
温度だったら何度まで耐えられるとか、酸、アルカリだったらどの程度まで耐えられるのか、限界を知りたいと思った
わざわざ辺境まで行く 地球にいる生き物たちの生命、命の本質が解ると思った
今までの生物学は飼いやすい生き物をやっている それらは生物界のど真ん中にいる
はじっこにいる生物を調べたくて、生物の輪郭に興味を持った  輪郭が描ければ生命の概略、全体像がつかめるのかなあと思っている

温度、酸、アルカリ等の厳しい環境、生き物は水が無いと生きられないが、水分が全くない砂漠でもそれなりに生きていける
そこが生命の本質かなあと思った
生き物としての生物はあまり興味が無い 子供の時から理屈ばっかり考える方だった
自分とは一体何だろう、自分は一体どうしてここにいるのだろうとか、幼稚園の頃思ったりした
其時の衝撃は忘れられない
高校時代に生物の時間があり、大嫌いだったが、生命の起源とはという文章があった
大学で生命の起源の勉強をしたくて、ある教授の教えを受けようとしたが、学部を間違えてしまった(生命の起源は化学の分野、同じ名前の先生がいた)
本命の先生がいまさらしょうがないと、そこで頑張ってと言われた
そうこうしているうちに、日本人の初の海底火山の調査のメンバーに、参加できる機会が訪れた

海底火山こそ生命起源の場であると、言うような説が出回ってきたばっかりだった
其時に乗った船が海洋科学技術センターの船だった
海洋科学技術センターに入り、引き続き海底火山の調査をすることになる
水深2000mぐらいのところにカメラ、ロボットを降ろして、調査する
海水が岩の割れ目をつたわって熱水になって出てくる  温度は300数十度 水圧が凄いので300度を超えても沸騰しない
見たことのない生物がいっぱいいる  そこはオアシスになっている

チューブワーム 筒の中にミミズのような生物がいる 1m長さ 太さ2~3cm  最大で3mぐらい
海底から立っている 何千本と白いチューブが 先端から赤いものがありそこから酸素を取りこむ
海底火山の周りに密集している  
チューブワームにとってはイオウは毒ガスではなく、エネルギー源です
チューブワームは食べない、動物なんだけれども、でんぷんを自分で作ってしまうおかしな生き物
澱粉は植物が太陽の光合成に依り作るが、チューブワームは暗黒の世界で、光の代わりにイオウの成分を取りこんで、酸素と反応させると化学エネルギーが出てくる、そうすると太陽と同じことができる、そうすると植物と同じことができる
高校の時にはチューブワームは発見されていたが、私は細かく調べた

深界6500でアメリカとヨーロッパの間に巨大な海底火山がありそこの調査に参加した
イオウをエネルギー源にする微生物をサンプルとして取ってきた
培養だと思ったら、培養する薬一式を忘れてきた 
海底では沸騰に似た現象があるそうすると、塩水と真水に分かれる
海底火山は塩水と真水が交互に出てくるのでそこに耐える
バクテリアを塩水と真水に交互に何回も入れてゆき、生き残ったのが一匹だけいた
これを持ち帰り、調べてみたら、そっくりな遺伝子を持った遺伝子が南極にいた
3400mの海底から取ったものと全く同じものが南極にいる
それで南極に行くしかないと思って南極に行く事になる

岩盤の至る場所から塩がある部分がある 
そこに行ってサンプリングして培養したらそいつなんですね
氷の表面は雪とか、風に乗って微生物がくる 
積って中にもいるので、氷自体が微生物の宝庫と言っていいほどです
今一番古いものは150万年前と言われているが、いろんな年代の微生物がタイムカプセルの様に保存されている
南極の氷に穴をあけて回収すると云う困難な作業が伴うが
150万年だったら、4000mぐらい  平均で2000mの氷がある
もし全部溶けたら70m海面が上がる  膨大な量
南極の氷の下には、液体の湖がある もともと南極には氷が無かった
もともとあった湖があり、その上に寒くなって氷が張って段々氷が広がって(3000万年前)湖の表面が凍っても、ある部分が水のまま取り残される  そういった湖が400個以上あると言われている

1番大きいものはボストーク湖と言われる  マイナス89度を記録したことがある処
湖の面積は琵琶湖の20倍 ロシア人たちが穴を掘っていて去年2月5日に貫通した
上に乗っていた氷の厚さは3769mだった  貫通した瞬間に水が逆流した
回収した水を分析したら、我々が全く知らないバクテリアがいた
過去1500万年間外界と隔離されていたので、独自の進化があったと思われる

南極は塩に強い微生物がいた 乾燥もしているので砂漠を目指すことになる
砂漠も同じようなバクテリアがいた
昼間50度、夜は0度 水滴になって霧になる それを利用する生き物がいる昆虫、植物、バクテリアがいる
サハラ砂漠で取ってきた塩に強いバクテリアを取ってきて、遺伝子を分析し、それに近いものをデータベースで調べたら、アメリカの地下500数十mの岩塩の地層から取れたものだった
それは2億5000万年前にできた地層だった
2億5000万年前に閉じ込められた 2億5000万年の永い眠りから目覚めさせた
フラスコの中で培養しているがそこで取った微生物と、私がサハラ砂漠で取った微生物が遺伝子的にほぼ同じ
時空を超えたつながりに、圧倒されてまだぼーっとしていて研究が進んでいない

遺伝子を調べる以上に、長い間眠っていられる秘密は何だろうとか、乾燥に強いんだったら、紫外線、X線等をあてて、様子を観ています  生命の限界を知りたい
X線に対して耐えられる  もともとX線には当たらないはずなのに、耐久する能力があり、無駄な耐久力だとは思うが、どうしてそうなのか 進化の裏返しなので

地球外生命にも興味がある  
①もし地球の生き物が地球の外に行ったら生きていけるのか
②地球外生命がいるとして、火星にも、いたら、彼等はどんな状況で発生し得るのか、どんな状況で生き延びられるのだろうか、を地球の生き物をモデルに考えたい
地球の中でも過酷と思われる生き物を一つずつ集めている
①地球が誕生した頃、温度、酸とか過酷な環境だったはずで、過酷な環境で我々の祖先はどのように生れたのだろうか
②もしかしたら地球の生命は宇宙から来たのではないのか
 何億年も宇宙空間を旅してくる能力はどういったものが必要だったのか

宇宙飛行士の試験を受けたことがある 書類選考で400人程度 、一次筆記試験、身体のチェック
で48名の中に私も残るが、その後1週間 ペアを組んでやるが私のペアが野口さんだった
この人は受かるだろうと私は思った(受かれば直ぐにでも宇宙にいけるような準備をしていた)
火星の表面に2台の探査機が動いている 
1台は10年ぐらい動いている もう一台は昨年8月に降りた(2台ともアメリカ) 
今は生命はいないが、過去にいたと云う痕跡を発見してほしいと思っている
日本もいよいよ、探査に名乗りを上げるらしい2020年ぐらいに(私もそのメンバーの一員になっている)
現場に行くと新たな着想が生まれる
あの時やっておけばよかったなあと、言う後悔が一番つらいと思う
「しない後悔よりもした後悔」 した後悔だったら自分も納得ずくなので、まあいいか、と思う
悩んだらやる
空ぶりの連続ですよ  勝つまで負ければいいと、人生勝つ事は一回か二回でしょう
生命の起源の解明に自分が一部、になっていると云うことが快感ですね
次は赤道直下の氷河 5000mを越えると氷河がある  赤道直下は四季が無いので南極、北極とは全く違うので、そこにいる微生物を捕まえたいと思っている
次は成層圏、空気のサンプリングをしたことが無いので、そこには微生物がいるのではないかとおもっている






































2013年12月6日金曜日

原口純子(ライター)        ・日中相互理解のために私の試み

原口純子(ライター)      日中相互理解のために私の試み
去年9月尖閣諸島を国有化した後、中国の各地で反日デモが続きました
現在でも政府間はもとより、国民の間でも良い感情持っておらず冷え込んだ関係が続いています
このような現状をうれいた中国に住む8人の日本人編集者たちが、このほど中国で暮らしている100人あまりの日本人の当時の体験を集めた本を出版し、注目を集めています
この本の中では中国の18の都市に住む日本人がいろいろな中国の人とのかかわりを通して体験した通常のニュースでは報道されない、様々な人の姿が描かれています
編集者の一人、ライター、エッセーイストの原口さんに伺います

日本の大学生の方も集まったが、中国の留学生等も多いし、関心を持って聞きにきている
在中日本人の108人の「私たちがそれでも中国に住む理由」 という本を出版
毎日、日記を付けていて、雑誌の仕事を中心にしているので、いろんなジャンルの方にお会いする
日本人ですと云うと9割方好意的で、或いは褒められることも非常に多い
日本人の真面目さ、清潔さ、技術力などでいい反応をする 
市民生活の間では好い感情で対応することが続いている
外国の人が部屋を借りるときに、日本人と言うと積極的に部屋を貸してくれる事が多い
部屋を綺麗に使う、きちんと部屋代を払うと云う事で日本のイメージで、得をする事もすくなくない
過去に戦争、現在の外交上の問題について意見を聞かれることは多いが、私の印象ではマイナスイメージは少数派で、一般的には日本人だと云う事で好意的に接する事は少なくない

私は、偶然から中国の生活が始まった
1993年に偶然暮らすことになり、それまではヨーロッパと縁の深い生活をしていました
フランスの映画を日本に供給する仕事をしていましたので、特にパリが多かった
パリでは出張だったが、映画の仕事にかかわっていたので、パリの映画監督、女優 などと接触したり、いろんな仕事をしました
フランス語はあまりできなかったので、自分の力でパリで暮らす日本人の人達と知り合って、本当にかっこいい人たちだと思いました
こんなにかっこいい仕事が海外にあるんだと云う事を知ったのが、今の自分につながっていることは間違いないですね
フリージャーナリスト、自分とは縁遠いと思っていたが1993年に偶然に家族が中国で暮らす様になったときに、中国にとどまるか、日本に戻るかという選択の中で、中国で頑張って中国語を勉強したら、あのような仕事ができるのではないかと頭の隅にあった
(主人の転勤で北京に)

フランスでは凄く幅広いジャンルの記事に接することができたが、中国語はできなかったので、政治経済社会問題の記事がほとんど 中国に住んでみるとそれ以外の記事が一杯作れるのではないかと思った
最初の頃は中国語を勉強しながらインタビューしていたので、聞き取れない部分もあったりして録音したものを聞いて、綱渡りのようなことをやっていた
徐々に出来る様になって言った
2000年以降 北京オリンピックとかもあり、日本人も中国に対して幅広い関心を持つようになった
うまく時代の波にも乗れた  
人々の日常の暮らし、自分の関心のあるテーマを拾って、書籍、雑誌を作ってゆく
毎月、中国の地方都市に行って、都市を紹介する 毎月6~8ページ そういった仕事があった

去年8,9月にデモが激化したが、黄山のふもとの町に取材に行く事になり、書道の墨作りで有名な街で、土地の人に親切に助けてもらって、どうしてこんなに良くしてくれるのかを尋ねたら、昔日本語を習った時に日本人の先生が本当に自分に良くしてくれたとの事、恩返しをするつもりでやっているとの事だった(反日デモの後だった)
6年間地方に行ったがいろいろ助けてもらった
本を出されたきっかけ  中国で大規模な反日デモが起きた 激しい暴力行為が映像で流された
現場以外に穏やかな日常が続いた現場も見れるし、デモが終わった次の日からの時間の流れを住んでいるのでずーっと見えているので、そういったことを日本に伝える事は無くて、日本の印象はデモの映像のままで中国の印象は止まったままなのではないかと思う
伝える事があるのではないかとの思いでした

毒餃子、PM2.5 SARS 其他大きな問題がそのたびにあるが、事件が起きていない日常生活があるので、それが私たちは見えるし、感じる   報道とのギャップを感じる
上海に住む100人の日本人にアンケートをとったが、ギャップがあるかどうか聞いたがギャップを感じると答えている人が9割を超えている
多様な領域から声を集めてみたら、住んでいる日本人の中国を観る多様な見方をみなさんに伝えられると思って企画、立ち上げました
企画が立ちあがったのは今年の3月、本が出版できたのが8月30日でした
本当に時間が無かった  
私たちが思っている以上に書くことを引き受けてくれた

地方の方と言うのは知り合う機会がなかなか無くて、地方の大学の職員のかた(中国人の人と家庭を持っている女性) メールで原稿が届く 赤ちゃんが生まれたばかり
回族 (イスラム系)とか、新疆ウイグル自治区ウルムチ地区 とかいろいろな内陸の人から届いた
いい話だけではなく、悲しい、苦い思いをした原稿も入っている
流通業、襲撃を受けた  
翌日の処理を日本人と中国人リーダーが率先して鼓舞して立ち上げようとしている
店を一人も辞める事も無く再立ち上げをしている
日本に対する中国人の反応  好意的な反応 
読んでくれた感想として、こんなに中国の事を愛してくれる日本人を知って私は泣きましたと云うようなことを書いてくれた人もいる
中国にいる日本人がこんなにいると知りませんでしたと云うような事も書かれている
日本で住んでいる中国人の人、祖国の印象が悪いものが伝わる事が多いが、この本が出てくれて喜んでいる、と言うような反応等

わたし自身中国北京に20年住んでいるので、日本人が住むのは当たり前というような思いがあったが、この本を手掛けて、いろんな領域で日本人が活躍して居ることを改めて知った  
日本の方からするとやはり少数派で、少数派の声を伝えてゆくことは、役割として大事だと思いました
領空上でも対立が起きているが、住んででいるものが伝えてゆくことは大事だと思いました
外交上は難しいものが続いているが、だからこそお互い、自分たちのことに目をふさぐのではなく、この本がお互いを知るヒントになればいいなあと思っています
厳しい状況だからこそ、民間人同士が手をつないで、多様な繋がりを日中で持つ事が大事なんだと思います

子供のころから活字が大好きで、本と雑誌の仕事が北京で出来るようになったので、これが一番の収穫、夢を実現させてくれたところ
中国って、ぱっと見ると綺麗さ、便利さは日本が勝っているような気がするが、深く知り合いになってゆくと温かさ、強さ、誠実さを理解する事が出来た事は人生にとって大きかったと思います
執筆者のその後の反応として周りからなんでお前は中国にいるんだと云われ続けたりしてきたが、この本の一人の執筆者として、こうなんだと云う事が出来てありがとうと言われた
今回いろんな領域の方が繋がる事で、お互い同士が更によく繋がることで、お互い同士が見えた、と言う事もあると思います
中国でもかなりメディアで好意的に報道されていて、中国の出版社から、中国語版の申し出が来ている
日本人の多様な声を中国社会に伝える事が出来て、さらにもっと大きな意義を持つと思うのでチャレンジしてゆきたいと思っている

中国版が出来たら、それの編集に関係した日中のスタッフ、及び執筆された108人が集まって、出版記念パーティーができればと思っています
















































2013年12月5日木曜日

宮本健真(阿蘇農業・遺産推進・会) ・阿蘇の草原を守る

宮本健真(阿蘇農業世界遺産推進協議会)     阿蘇の草原を守る
「阿蘇の草原を食の大地に」 
熊本の食材と向き合ってイタリアレストランを経営してきた宮本さんは農家の若者、世界に向かって数千年を維持してきた阿蘇の草原の必要性、いかにして草原を維持するか訴えてきました
その結果今年5月、国際連合食糧農業機関(FAO)が世界農業遺産に認定しました
世界農業遺産は国連が世界の伝統的な農業や、文化風習を守るためにできた制度で、人間の営みが対象になるのが特徴です
これまでに世界11カ国25か所日本では佐渡など5か所が認定されています

活火山がある処に5万人が住んでいる 
カルデラを人が住めるようにしてしまった  阿蘇は人が作りだした景観
ちょっと危機的な状況になってきている  2200から23000ヘクタールと言われている
野焼きをしているが野焼きをする人の高齢化、過疎化で人がいなくなった
農業の効率化で伝統的な農業が衰退してきて、戦後5万ヘクタールあった草原が半分になってきた
草原が無くなってくると、阿蘇の景観がまるっきり違ってくる
観光に物凄く影響する 農業も 草原は水の浸透性が非常にいい 地下に溜まって 阿蘇は一級河川の水源が6つある 流域の人口が230万人 流域で作られている農作物が物凄い人の生活を支える
阿蘇の水が不足されたり、汚染されると 水は福岡、大分、宮崎にも行っているので、阿蘇の草原を維持していくことは私たちの生活に大変な影響を及ぼす
ひごたい 日本が大陸と陸続きだったころ有った種類の花で、草原でないと育たない
1万数千年、繋がっていて大陸からきたものでそれから野焼きがずーっと数千年にわたって続いてきていたと云う事ですね

1万年前の地層から野焼きをしたと云う事が判ってきた
何千年にわたって野焼きをしてきた  
それがオオルリシジミとか貴重な古代の動植物のホットスポット、と成っている
阿蘇は雨が多い地域なので、ほうっておくと藪化してゆく、森林に戻ってしまう
地域住民、ボランティアの人が野焼きをして、守っている 人間が作り出した自然(半自然)
草と言うものをいろんな形で利、活用してきた  草とうまく付き合ってきたことが阿蘇の素晴らしさだと思う
27歳の時に修行のイタリアから帰ってきた
イタリアは都市国家の集まり  イタリアはいまだに,その地域の伝統料理や伝統食材が色濃く残っている
パスタ、チーズ等も地域色が残っている 全く食べるもの,味が違ってくる
父も長い間イタリア料理店をやっていたので、手伝いながらちょっと父と違った事をやりたかった
地元の食材を使おうと思って、八百屋で熊本産の食材を求めたらないという
阿蘇産の野菜はどこへ行っているのかを聞いても八百屋さんはわからないという

直売所をいろいろ回って、片っぱしから買ってゆく
自分に合う味の野菜を納めている農家の畑を見せてもらう事から始めた
店をオープンして、熊本で生産している農家といろいろ付き合うようになる
熊本は野菜の種類は多い  
まだ農業の事、流通のことは知らなかった
熊本産の野菜を使うようになったが、元気がないように思われていた
私は農家の皆さんから応援してもらったので、何かこの人たちに恩返しできるものは無いかと思って、模索をしていて、阿蘇の草原の危機、天草、とか農業に関する問題があって、民間人の立場から応援してゆくことができないか、やっていた
そんな時に、農水省から料理マスターズと言う賞を頂いた(国の認定料理人)

活動を草の根でやってきて、地元の自治体がコロッと変わって、面白い取り組みだと云う事で、
農家40軒有るので、もっと地域で取り組めば元気になると思って、その時知ったのが世界農業遺産だった(2年前)
能登、佐渡が日本で最初の世界遺産になった
農業遺産は地域の人達の営み、暮らし、伝統的な農業、知恵、環境 を守ろうとする事が目的
大事なのはどう地域と共存してゆくか、だと思う
本当の日本の活力は地方は元気になる事だと思う
農業、農業のはけ口は食しかない  
農家とレストランが力を合わせる事で元気にできないかと思って、世界遺産を取ろうと先の見えない旅に入った

最初10年ぐらいかけてやろうと思っていた(そんなに簡単に取れるとは思っていたので)
知ってもらうためにはショッキングなことをしないといけないと思った
懸賞論文に応募した  
書いたことは残ると思って、書いたら賞をもらってしまって一気に広がった
内容は 熊本の素晴らしさをもう一度見直しませんか、阿蘇、独自の伝統農業、気候も東北に似ている、天草は北の魚も食べれる、有明海の干拓地は又違った生態系がある、不知火海は地中海の様な温暖な気候があって、かんきつ類が育つ、と言う事で日本にある気候が凝縮されている、こんな素晴らしいところは無い   
阿蘇がポイント 
イタリアに行くための調査があり、視察があったが 野焼き 風の流れに依って火の付け方が変わるので難しい、彼らの思うような視察ができなかった
これではいけないと思って、決起集会をしたり、知事に話をしたりして、知事にも動いて頂いて、活動が実って、私、副知事、農家の皆さんの代表でイタリアに行ってプレゼンテーションをした

イタリアだと云う事もあり奮い立った
良い評価があり、1年後に世界農業遺産に登録された
大きな農業政策をしてほしい ヨーロッパは国が農業を守って独特の産物に対する名前とかを補償する
自分たちの農産物、文化を守る事に一生懸命です
日本にも素晴らしい農産物がたくさん有るので、地域一体となった農業の政策がほしい
たとえば、米の認証米制度で阿蘇の草原の確保  
農業だけでなく、観光にとっても目的になる
阿蘇の飲食店では阿蘇のコメが食べられるようにすれば、循環する
地元は仕事が無いので若者は外に出てゆくが、そういった歯止めにもなる
持続可能なものをこれからの時代に合うように進化させてゆく
守るものは守り、守るだけではなくて、どうやって発展させるかも必要
阿蘇の取り組みは、日本のいろんな問題を抱えている農業の一つのヒントになるのではないかと思っている
草原と共に共存する 地域の資源を利用する
今後10年間何もしなかったら、草原は半分になってしまうかもしれない



























2013年12月4日水曜日

葉山祥鼎(童話作家)      ・阿蘇の草原を守る

葉山祥鼎(童話作家)    阿蘇の草原を守る
世界最大級のカルデラ火山、熊本県、阿蘇には1000年にわたって人の手で造られた維持管理されてきた草原があります
しかし最近化学肥料の普及や、野焼きをする人の人が減り、野焼きする人出が足りなくなり、維持が苦しくなっています  貴重な阿蘇の草原を守ろうと活動している人の紹介です
「阿蘇の高原に絵本の丘を」
阿蘇の山腹で、自然環境保全の為にナショナルトラストならぬビレッジトラスト運動を10年前から提唱推進しているのが童話作家の葉山祥鼎さん65歳 葉祥明阿蘇高原絵本美術館館長もしていらっしゃいます

最近絵本の丘が綺麗になった 前は木も植えてきて綺麗になった  
敷地そのものが2万~3万坪ありますから、とても一人ではできないと判っていたが、自分でやるしかないと、鍬を買って先ず自分の歩きたい道を作って行った
鍬でやっていたが間に合わなくなってきて、刈り払い機を買いに行って、最初怖かったが、使って段々慣れてきて、思い通りに作りたかったが、道が中途半端に出来ていった
都会と違うのは時間の捉え方  村の人と一緒に野焼きに参加すると、風向き、を観てぱっと火を付けてよそに広がらないようにする(熟練が必要)
美術館の広場も野焼きする  村から何十人と手伝いに来てくれる
火の粉も飛んでくるがうまく処理する
1週間するとちゃんと青い芽が出てくる 

伸びてきたのを刈るだけ、それで芝が広がってきた
2m半の小道を作っているが、大体曲がっている 一直線だと先が見えてしまうが、先が見えないとどこに行くんだろうと好奇心がわく
虫、野ネズミ、雉、蛇、狸、狐等がいる
海外に行くと自然が荒々しくてとても人間の手に負えないが、阿蘇だと心地よい雰囲気で、大自然の中で共生ができる、だから阿蘇が好きなのではないか
絵本の美術館   風景として絵本の様な世界、風景を作りたかった
廻りの自然を取り込む  絵本の主人公になったような気がする
いろいろな動物たちに出会って、心のワンダーランドになる
野ネズミが草で丸い巣を作っているのを発見した(実にかわいい)

蛇をじーっと見ていると目がかわいい そういう時は子供に戻るのではないか
10年前にここにきてバジルの花を植えた 
色の青い蜂が飛んできて、羽音もせず威嚇もしない
一匹で明くる日も一匹だけ、目と目があった 
名前を聞きたいと思ったらブルービーだった
阿蘇に昔からいた人も知らなかった  希少種であることだと直感した
学術書を調べていたら学術名がルリモンハナバチだと判った
それから一週間ぐらいしたら5匹、10匹と群れになって飛んできた
7月上旬から9月上旬までですーっといなくなる
青い蜂にあってインスピレーションをもらって、絵本を書いている  「ブルービーとオールドツリー」
そうやって毎年、毎年インスピレーションをくれるわけです
台風で木が倒れて、飛べなくなった虫たちを黄色い鳥が助ける 
そういう場面を私は見ているわけですよ
絵本はイマジネーションだけでなく私は実体験をしているわけです

美術館に訪れる人は増えてきている  赤ちゃん連れがおおい
全国からいらっしゃる
観るだけの草原だけではなく、体感できる、そうすると草の上を歩く  生態系が判ってくる
其れを保つためにはいろいろやらなくてはいけないことが解って、草原の大切さが判って来る
道路を走って車の中から観るのは単なる風景ですよね
草むらを触る、虫の声、鳥のさえずりを聞くと自然って凄いと判ってくる
宣伝しなくても口コミで来てくれる 車椅子で来る人も多い
車椅子で来た人が、庭にでて立ちあがって歩いた 歩きたいと云う人間の魂を揺り動かすと云うか、心の窓が開くと云う事ですかね  自然の中にいると本能が出てくる
リピーターが多い 心のリセットをやっているのではないか

美しいと云う事、自然の美しさに勝るものは無いと思う 
草原から教えてもらう事がいっぱいある
都会にいるときは忙しさに追われているような状況だったが、こちらに来てはクリエーティブな忙しさになった
ここを作る構想はイギリスの影響を受けた  20数年前に行っていた時期があった
ナショナルトラストがいろんなものを保っている
きっかけとなったのはピーターラビットを書いたビアトリクス・ポター 
其方々が100年前に作って今に至っている
心のふるさととして阿蘇はあったが、とてもできないと思っていた
50年後にここに戻ってくるとは思わなかった
15年前にリゾート開発すると云う話を聞いてそれではいけないと、村の村長さんに会いに行った
残したいと思っているが放っておくわけにはいかないと村長さんも思っていた
村長さんから何とかしてほしいと言われて、お金がかかってしまうが、いろいろ苦労していたが、貸してくれる人がいて(銀行マン=侍みたいな人)、その人と出会わなかったら、これはできなかったでしょう

ナショナルトラストは壮大な組織  村々に綺麗な風景があるが、風景があらされない様に村の条令で、将来の人の為に残しておこうという運動で私が勝手にビレッジトラストとつけた
ちょっとしたきっかけが広がってゆく 
具現化してゆくと言うのは奇跡でも起こらないとできないと思っていた
現に出来ていると云うのは幸運だと思っている
私はここにきて、自分で自分の道を作ることを覚えた(大きな揺るがない自信がついた)
自分の作った道を皆が歩いている、こんな経験は無い
阿蘇五岳(杵島岳、烏帽子岳、中岳、高岳、根子岳)  中岳 噴火口になっている
五岳の姿は、釈迦が寝ている姿=涅槃像に似ていると言われている  
ジェイクの丘に立つと海からの風が来る  キツネが夕方一人で西側を、夕日を観ている 
其後ろから私がが見ていて、何をやっているのかなあと思っていると、風が吹いてくる
彼は山の事しか知らないので、風が海の事とか、海の向こうの事とかを教えてくれる
これもいつか本にしようと思っている  そうとしか思えない

自然と戯れながらだけではなくて、自分を成長させるために、詩をかく、文をかく
天に召されるまでいろんなことができるような自信がついてくる
兄の絵は阿蘇が基本になっている
もっともっと自然を知ることによって、大事さを知ってもらうための本を書くとか、いろんなことをやらなくてはいけないと思っている
阿蘇は世界農業遺産に認定された