2013年10月31日木曜日

山田二郎(虎造節保存会名誉会長)   ・甦れ、浪曲師広沢 虎造(再放送)

山田二郎(虎造の次男 虎造節保存会名誉会長) 甦れ、浪曲師広沢 虎造の再放送
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/09/blog-post_19.htmlをご覧ください。

2013年10月30日水曜日

やなせたかし(漫画家)       ・やなせたかし、アンコール放送 2

やなせたかし(漫画家)     やなせたかし、アンコール放送 2
アンパンマンの誕生の前の仕事、戦後日本広告会の第一回のポスター展が三越であった
応募したらデパートの部で第一位になった
生意気な態度があって、落とされたが、同郷の人に救われて、三越に入ることになった
包装紙に三越の字を書いてほしいと、包装紙デザインの人から言われて書いたが、未だに使われている
漫画の投稿もやって、入選して仕事も頼みに来る人もいて、月給の3倍程度になり、会社を辞めた
家もその時に建てた 妻も共働きで働いていた
ビールの王様 CM漫画を書いた  
原稿料もよくこれが独立の一つのきっかけになった

永六輔が突然現れて、大阪で「見上げてごらん夜の星を」のミュージカルをやるので、舞台装置の担当をやってくれと言われて、舞台装置はやった事は無いと言ったら、大体は私が教えるからと言って大阪に行くことになる  
そこでいずみたくとも知り合いになった
その後も舞台装置を頼まれるようになったが、お金にならないのが判った 
収入0になってしまいそうだった
佐野さんがきて、TVに構成をやってくれと言われる 
テーマソングを作ることになり「手のひらを太陽に」を作った 作曲をいずみたくにたのむ
歌手は宮城まり子に頼む  NHKの「みんなの歌」で歌われるようになる
教科書にも掲載されるようになり、現在でも歌われると云う事になる
結構印税が入ってきて、詩をその後も作ったが、売れなかった

何もやっても一流では無い 漫画、詩をかいても一流ではない
「アンパンマン」の歌は残っている
優しさがある  「生きる」という言葉が入っている  
生きることは大変なことではある、大事であるが、自分の命を粗末にすることは我慢が出来ないから、生きることは凄い大切なんだと、「生きる」と言う言葉がほとんど全部の歌に入っている

TVで漫画学校の先生役をやる クイズ番組だった 
そこで最初の3分間時間を貰って絵の書き方をやっていた 
その番組でバーで突然持てるようになった
手塚治虫さんから電話がかかってきて、「千夜一夜物語」をやるので、きてほしいといわれて、キャラクター作りをやり、意外とすらすらと出来て、面白かった
アニメの社会に入って行った   
いまでも一番不思議なのは宮城まり子さんが舞台構成を頼みに来たのかわからない
「ガード下の靴磨き」を歌ってヒットしていた  
リサイタルをやるのでステージ構成をしてほしいと電話が来る(最初のリサイタル)

羽仁進さんから電話がかかってきて、シナリオを書いてほしいと頼まれる
何人かの人にラブストーリーを書いてほしいといわれ、その中からこれで行きましょうと、私のが選ばれることになるが、シナリオを書くことはやったことは無く、シナリオの書き方の本を購入して書くことになる
妻からよくないといわれ、5回書き直して、OKとなる
シナリオの勉強もさせてもらった
80歳になってから、ミュージカルをやることになる
大和田りつこ、岡崎裕美さんがコンサートをやっていて、20分のミュージカルをやるので、書いてくれと言われて、其れが評判が良くて、全部ミュージカルにしようと云う事で、作、演出をやる事になるが、どっか隙間風があり、そこを埋めようとするが、埋めるために人を呼ぶとお金がかかってしまうので、自分でやることになる(歌う事は作曲もする事になる)
面白くなって、ステージで歌うとは夢にも思わなかった

ミッシェル・カマと云う名前で、作詞、作曲とした(やなせたかしだと軽く思われると思って)
ステージに出ると何故か元気になる
去年 腎臓を片方取る(初期の癌だったが)  歯の上の方が腫れてきて、切開
癌が膀胱に転移していて、9個有った物を電気メスで切り取る
今のところは完治しているが、再発の可能性が無いとは言えないといわれる
今度だした本の帯には、「86歳、僕の人生はこれから始まる」と書いてある
これからは、チャリティーとか人を喜ばせることをやっていきたい、病気の子供を慰問するとか

人に優しく、権力には媚びない、何よりも人生は楽しまなくては駄目 
歌の歌詞にも出ている

亡くなる数時間前まで、病室で仕事の打ち合わせをしていて、周りのだれもが又帰ってくると信じていたという事です
天命
90歳を過ぎてから、天命という言葉は口癖のように言っていたから、之は周りの人は遺書ではないと云っているが、天命と言う詩の中に生き方があらわされているような気がする

「天命」  やなせたかし
見覚えのある絶望の岸 ここまで何度か追い詰められ、助からないと思ったが、
奇跡的に九死に一生何とか生き伸びてきた  
生きとし生ける者には天命がある 
もはや無駄な抵抗はせぬ
ゼロの世界へ消えて行くのでござる  
拙者覚悟はできているから、焦らずしばらくお待ちくだされ

亡くなる前、病室で
「神様、仏様  ありがとう、 ありがとう、ありがとう  
皆さん  ありがとう、 ありがとう、ありがとう」
と口癖のように言っていたそうです

心よりご冥福をお祈りします







2013年10月29日火曜日

やなせたかし(漫画家)       ・やなせたかし、アンコール放送

やなせたかし(漫画家)     やなせたかし、アンコール放送
絵本やアニメのアンパンマンの作者として知られる、やなせさんは心不全のため今月13日に亡くなりました、94歳でした
この時間はやなせさんを偲んで、平成18年1月3日にラジオ深夜便で放送したインタビューを再放送します
やなせさんは当時86歳です

朝から晩まで仕事をしている 午後は誰か来ているので、ここのところ仕事になりません
アンパンマンは58歳の時に書きだす
今もそんな歳の人が書いているのかと、吃驚するらしい
自然にストーリーが出てくる   全部人を助ける話
アンパンマンは私が兵隊に行っていて、上海の近くで、終戦を迎えた
正義は逆転するんだと云う事、かならずしも正義は一定ではない
我々は正義の戦いだと言われて、中国の民衆を救わなくてはいけないと云って、戦ったが、終わってみれば悪いことばっかりやっていた
飢えると云う事が一番つらかった

もし正義の味方だったら、何も怪獣をやっつけるとかではなく、先ず飢えている人を救うのが、正義の味方だと思った
阪神大震災とか起きたときに、先ず水と、パン、握り飯でもいいが、とりあえず命を助ける為には食べさせなくてはいけないので、アンパンが一番いいと思った
先ず飢えている人を救う、其れがアンパンマンの元になっている
ひもじい人を助ける、スーパーマンを作ろうと思うのは、その時からずーっと思っていた
最初はアンパンを配るおじさんだったが、自分の顔を食べさせるのが一番いいと思った
正義を行うと云う事になれば、どうしても自分が傷をつくと云う事を考えないとできない

最初、評判が悪くて、散々な評判だった
絵本を書くのはしばらくやめていたが、自分で編集をやっていた本では、ずーっと続けてきた
正義は自己犠牲がないと出来ない
其れは自分の戦争体験と関わっている、戦争は一種の殺人なんですよ
戦争と言うもの自体がいけない
戦地では、不思議なんだけど、辛いはずなのに、その場にいるとそれほど辛くない
どんなところにいても或る種の面白さはある
紙芝居作って、農村を回ると、皆喜んで、村中から集まってくる(中国人に)
戦争は実際に弾を撃っている時間は非常に少ない、歩いているか、駐屯しているか
その時間の方がはるかに長いので、そこの民衆と付き合うようになる
模造紙一面に書いて、めくり式(箱などがあるわけではない)でやっていた
兵隊にはいろんな人がいる(写真家、監督、農家等いろいろ)ので、いろんなことが直ぐに出来る

学者になろうと思っていたが、中学校に行くと成績が悪くて、絵の成績が良くてデザインの方に行った(数学が全然判らなくなってしまった)
漫画は当時は多くなかった のらくろとか読んでいた
横山隆一さん(フクちゃんで有名)は10年先輩 遊び行くと、漫画家に興味を持った
製薬会社(銀座が好きで、銀座に近い会社に入った)、
東京高等工芸学校(現在、千葉大学の建築科にわずかにある)に入った
デザイナーになるのだったら、机にかじりついて勉強しても駄目、銀座に行きなさいと、先生から言われたので毎日、夜の12時過ぎまでいた
就職しても毎日、銀座に行きたかったので、田辺製薬に行った

九州の小倉部隊にゆき、大本営としては、敵は台湾を制圧するためには対岸の中国に渡るだろうと、そのために福州に行かされたが、こちらには来ないで沖縄に来たので、敵は来なかった
食料の倹約があったので、ひもじい思いをした
戦争から帰ってきて、郷里の高知新聞社に1年、(父親が新聞記者) 
雑誌を出す事になって、雑誌の編集部に回された、之が非常に良かった
雑誌の編集の仕方を全部覚えてしまった(絵も書くし、なんでもやった)
ここで結婚もする  父は32歳で亡くなった
父親の文章、絵も観ている(私よりも上手かった) 
父は講談社→中国語ができるので引き抜かれた朝日新聞→中国、ここで亡くなる
家にいないときに亡くなったので、実感はあまり無かった

今でも父親の残した絵、文章などを時々見る
辛い事も或る種の面白さはある
山に登るのには苦労するが、其れが面白いという事もある
父親がいたら、英語、中国語も得意なので、どこかに留学していたかもしれない
作家はもちろんだが、苦労しないと、血肉を削ってゆかないと、漫画家でも書けない
劣等生だったので、皆に判るように書ける
私は3流だと思っている   偉い人にはなりたくないと思っている  恐れる人にはなりたくない
私のアンパンマンのファンは1歳未満からいる  キャラクターは2200種類までになった 
最初はアンパンマン、ジャムおじさん、バタコさん、カレーパンマン、バイキンマンと止まらなくなった

子供はあまり子供っぽく扱われるのはいや 
3歳以下は難しいことも、優しいことも判らないが、だから自分の考えていることをぶつける
大きくなってから、大人になってから判ればいい

「そうだ嬉しいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも、何のために生れて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのは嫌だ  今を生きる事で熱い心燃える
だから君は行くんだ  微笑んで そうだ嬉しいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも
あー、アンパンマン 優しい君はいけ 皆の夢守る為」 
「何のために生れて、何をして生きるのか」 哲学の永遠の命題
子供に判るように、というのは間違い 
難しいから子供向きではないと止めると云うのは間違い
そのまま難しいものをぶつけるべき


























 

2013年10月28日月曜日

天野祐吉            ・隠居大学(所ジョージ)

天野祐吉         隠居大学(所ジョージ
(9月28日収録したもの  天野祐吉さんを偲んで)
遊びの天才 全てを遊びにしてしまう 所ジョージさん
初期の歌を聞いて私は度肝を抜かれた   
「虫の歌」 (机の上を這ってゆくゆく虫がいる  気にしない、気にしない ・・・・「無視」!)
歌 (裸の豚がいる 酢豚!)     意味がないところに面白さがある ナンセンス
「新東京音頭」を作ろうとしている  盛り上がっているので悪口が書けなくて
今のオリンピックは西洋で、成立した競技の会だから、向こうの人が強いので、
レスリングが若しはずれたら、レスリングを東京でやればいい

「新東京音頭」 所ジョージ 作詞
「東京五輪に花が咲く 老いも若きも犬も猫も、なんもかんも大騒ぎ 世界の平和の道しるべ
おもてなしから見れば、世界がつながる明日になる ほら真面目だ心に金メダルを 
人生に金メダルを 皆で胸を張るんだ 一度や二度の涙は ここからは笑い話だ」
(比較的真面目)

余計なことを足してゆくと、楽しむことが増えるのではないかと思って、楽しめる人が増える
歳を重ねてきた方が、感じるものが多くなってきた
若い時は感覚はシャープだが、狭いのかもしれない
歳をとると朝、目が覚めただけでも、有難いと思うようになった
ペットボトルをそれぞれに、役割を決めて、使用すると有難さが判る
コンビニが増えて便利であると、感じなくなってしまう

会議でペットボトルが出されるが、ラッパ飲みをするが、ラッパ飲みが普通になってしまっている
(器では飲まない)   量が多いので、飲み残しも多い
一人で生きていけない方法
最低が1000円札(おつりなし)  1本100円で10本購入することになる 
100円で買いたいなと思う人は10人と仲良くする
一人で生きてゆく人は1本1000円で買えばいい

世の中便利になり過ぎたが、その分幸せになったかというと、逆に不幸になったというケースがいっぱいある
リニアー新幹線がどうして必要なのか、判らない
人間の速度で、一番人間的な速度は馬車の速度で それ以上早いのは人間にとって害はあっても益は無いといった人がいた
害は景色が皆見えなくなって、流れてしまう  

地面もアスファルトになってしまっていて、ドンドン暑くなってしまってきている
都市化、木を切ってしまって、自然が全然無くなってしまう  虫が無くなる、ミミズが無くなる
異常の暑さの情報はだすが、それに対してどうすればいいかの対応策は考えない、その情報はない
なんでも楽しむようにする、ごみを捨てるのに、面白くないと思って捨てるのか、楽しんで捨てるのか、楽しんで捨てたほうがいい(楽しんで捨てるような方法を考える)
平賀源内 早くから隠居して、楽しんだ人


















2013年10月27日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(青森県)

五木寛之         歌の旅人(青森県)
青森は津軽と南部に分かれる
津軽紀行、津軽放浪記 若いころに書いた(30年、40年前)
人間臭さ、懐かしさ、言葉にできない熱さ(地熱の様な)を感じるところ
淡谷のり子 (反骨精神の持ち主)自分の個性を貫き通した人  「雨のブルース」  
体制に組み込まれていない魅力がある
菅原 都々子  「月がとっても青いから」  吉幾三 工藤勉(シャンソン歌手、津軽弁で歌う)
詩人 高木恭造(津軽弁方言詩人)  一戸謙三 植木陽介 
奈良岡朋子(女優、父は洋画家の奈良岡正夫)  

寺山修司(多彩な人 詩人、演出家、舞台プロヂューサーとか有りとあらゆる事通じる) 
「時には母の無い子のように」 (寺山修二 作詞  カルメンマキ 歌) 
作家 太宰治  佐藤紅緑(サトウハチロウの父)  石坂洋次郎 
 三上寛(フォークシンガー、俳優、詩人、エッセイスト)
 高木恭造、葛西善蔵(作家)、  
地方で出版すると云う事は大変なこと  津軽書房  才能のある方々を支える
赤坂憲雄(民族学者) 「東北学」と言う一つのジャンルを打ち立てた
それが種になって「津軽学」と言う雑誌を出している 
三上寛 歌「夢は夜開く」  

陸 羯南(日本新聞創刊)  羽仁 もと子(日本で女性初のジャーナリスト、自由学園の創立者)  
沢田 教一(写真家) 
高橋竹山(津軽三味線)
津軽の歌は、出だしの一声で、客をどってんさせねばまいねえ(吃驚させないといけない)
差別と闘いながら、その中から出てくる音楽に魅力がある
八甲田山 酸ケ湯温泉 たっぴ岬
太宰治の記念館 高い塀  大不況で農民が土地を手放すときに、地主が其れを買い求め、
大きな地主になったところが多いので、防御のかまえは凄かった
太宰治はそういった生家に対する、反抗が有ったのではないか

相撲     鏡里、若乃花、栃ノ海、隆の里 旭富士、貴ノ波、舞の海、高見盛 
レスリング 伊調姉妹  小原 日登美 

青森は九州の福岡と共通するところがある  
ちょっと見栄っ張りと言うか、そういったところがあり、自己表現欲が強いというか、そういったことから芸術家とかが一杯でてくるんじゃないでしょうか

「赤い靴のタンゴ」 奈良光枝(美貌の歌手) 歌  西条八十(作詞) 古賀政男(作曲)

恐山 凄いところ 菅江 真澄が書いているが死者の眠る山  
亡くなった人に大きな声で呼び掛ける
いたこ(東北地方などで口寄せ(神仙や死者・行方不明者の霊などを自身に乗り移らせてその言葉を語ること)を行う巫女 
最近は老婆ではなく、若くて綺麗ないたこが出てきている
三大霊山 (高野山、比叡山、恐山)
奥入瀬、十和田湖、白神山系   ねぶた(青森) ねぷた(弘前) 
上原げんと(作曲家)  「港町13番地」 「私は街の子」(古いほう、美空ひばり 歌)


2013年10月26日土曜日

明日への言葉は地震情報、台風情報の為中止

明日への言葉は地震情報(福島県沖 M7.1)、台風情報(台風27号)のニュースの為、中止です。

2013年10月25日金曜日

大蔵 暢(老年医学専門医)    ・新進気鋭の老年科医、幸せな老後を語る

大蔵 暢(とおる)(老年医学専門医)    新進気鋭の老年科医、幸せな老後を語る 
日本人の高齢化は、今、世界の最先端を走っています
日本では今高齢化率、65歳以上の人口が総人口に占める割合が21%を越えて、世界に先駆けて超高齢化社会に突入しました
大倉さんは現在40歳、富山大学医学部を卒業した後、聖路加国際病院で日野原先生について老年医学を学びました
その後アメリカに留学し、ミシガン大学の老年医学センターでは最先端の高齢医療制度を学びました
大倉さんによると、老年医学の基本的な考え方は、老いに依る虚弱体質や生活習慣病とどう付き合い、どうより良く生きるかだと話しています

普段は主に世田谷区用賀に在る老人ホームで訪問診療をしています
介護付き有料老人ホームでは短い時間で対応できるようになっている
老年医学への関心  1990年代後半は臓器中心の医療から病気中心の医療から、全体を見ようと云う流れが出てきた(総合医療)
それでも高齢者は上手に見れないので、たまたま留学して、高齢者医療を学ぶ機会を得て、老年医学を志ました 

老年症候群の診察室」の本   
①内臓のいろんな機能が落ちて弱弱しくなる、「虚弱性」 いろんな病気が出てくる  
②いろんな病気が出てくる   それらがからみついて「複雑性」がある
③患者一人一人が違って「多様性」がある
日野原先生のもとで学ぶ 当時90歳を超えていた
研修医を集めて、話をする 患者さんのところに行って診察するが、ドンドン元気になってゆく
日野原先生は、患者さんとの間の取り方、触り方、声のかけ方、声のトーンとかは非常に絶妙、ベットサイド力を学んだ 

アメリカに行って老年医学を学ぶ  
日本では総合的に見る医学の流れがあったが、アメリカは確立していた
医学の研究に於いては、政府がかなりのお金を投入して、研究を振興しているので、医学研究と言う意味では世界のトップですね
65歳以上は皆保険になっているので、一定以上の医療は受けられるようになっている
老年医学は日本ではまだ研究指向、アメリカでは高齢者をどう見るかと言うところをかなり重点を置いている
認知症、動脈硬化をもっているひとを、どういうふうに診療するかに焦点が充てられている

人間の老化 
①虚弱化   日々老いてゆく  全ての臓器、筋力等の低下  薬(副作用)、お酒残ってゆく
  処理能力が落ちてくるのが要因  
②老年症候群  めまい、転倒  若い人は原因が1つか2つ  
 高齢者のめまいは脳の血流が落ちてしまう、耳の原因、心の問題、目、聴力が落ちる、関節 がぎくしゃくしたりいろんな多くの原因が重なって、めまい症状が出てくる
 薬をもらってもなかなか良くならない、完治は難しい、受け入れてゆく

めまいは若い人は耳か、頭か、心か 3つが原因になっている
高齢者は全体が関与していることが多いので、全身をくまなく見ないといけない
認知症の介護でめまいが出てきたとかもある(家庭、社会との関連もある)
治癒か癒しを目指すのか?  状況に応じて、治癒できるか、臨機応変に対応する
老年の乳がん患者 抗がん剤を投与しないで、美味しいものを食べたり安らかにと言う事で楽しく生活している
むしろそのほうが残された時間が長くなるというデータも出ている

チームアプローチ 高齢者を観るのには医者だけではだめで、より長く生きるのは勿論だが、より良く、質を良くしないといけない
医療以外のサポートが必要 看護師、介護師、ケアーマネージャー、リハリビ、 チームを組んで取り組む必要がある
生活の場にいる高齢者  今の自分に対して「不満」を持っている 
身体の具合が悪くなったりすると、出来た事ができない、楽しくない、お金は入らない等々
将来に「不安」 、死が近づいてくることに対してのいろいろな不安
私の両親は心の準備 お金の準備を進めていて面白いと思った
一人暮らしになった場合?  
最後まで一人で生活するのは難しくなってきている、最後の5年ぐらいはサポートが必要
介護保険だけでは難しい
家族の負担が高まるので、アメリカでは施設が出来てきているので、シフトしてきている

私がホーム診療をしているところは、高級な部類に入っていて人的資源も多い、恵まれた環境に在るが、チームアプローチがまだバラバラなところがある
アメリカは医療、介護が高い  日本では自己負担が少なくなっている
老人介護、医療はそれなりのお金が必要なので、日本人はもっと考える必要がある
地域、医療を受ける病院の2つしかない
アメリカはリハリビが充実している  入院、治療→リハリビ→自宅に帰る
日本のリハリビは若い人に対してが主で、虚弱高齢者に対しては、能力、機能的に低いと思う
保険診療ができないという面があり、行政がどうしてゆくのかという処の理解が必要

社会がそういった考え方にならないといけない
「老年症候群の診察室」はソフト面 ミクロ的で、医者、看護師、ケアースタッフ、ケアーマネージャーが高齢者のベッドサイドでどうやったらいいのか、施設の中でどうして行ったらいいかを総合的に書いたもので、実はそれだけではだめで、システムと言うものがあって、アメリカで見てきたものを、どういう風に持ち込んだらいいか、ハード面、マクロ的なものを近い将来、日本の高齢者医療のレベルを上げると云うのには、ミクロ面、マクロ面でやっていかなければならない
生活の質を上げる、生活の場に医療を持ちこんで、医療を携帯しながらここで生活をしてもらうと云うような実験をしている

①高齢者が社会の大半を占めるようになると、若さ以外の価値を見出してもらいたい
定年してからではなく、早め早めから30代、40代の頃から、50代、60代、70代の事を考えていただきたい
②情報が氾濫しているので、その中から如何に取捨選択をしていくかが、重要で、そのためには医療アドバイザー、医療者のだれか 身近で何でも聞ける、理想的にはホームドクター、近くに信頼できる医療者を一人探して、なんでも相談できる人を身近にいてくれる事





 



















2013年10月24日木曜日

磯井純充(街ライブラリー提唱者)    ・感動を共有しよう、街ライブラリー

磯井純充(街ライブラリー提唱者)  感動を共有しよう、街ライブラリー
最近、自分たちの手で小さな図書館を作る街ライブラリーが、広がりを見せています
街ライブラリーとは駅、カフェ、病院など、人が気軽に立ち寄れる場所に本棚を設け、自分が感動したあるいは、感銘を受け本を皆で持ち寄って、本を通して人の縁を紡いでいこうと云うものです
言わば作家と読者の関係が縦糸ならば、読者同士の横糸の関係とでもいえるでしょうか
10/27日から始まる読書週間を前にして街ライブラリーの提唱者、磯井義光さんに伺います 
 
人と人がつながるきっかけに、しようとする動きが街ライブラリー
本を持ち寄ってもらうが、その時に、小さなメッセージカードを用意していて、其カードに何故本を持ってきたかを一言書いてもらって、次に読んでもらった人がよかったら、連句のようにお返しの言葉を書いてもらうという事で、カードに書いてもらう
カードを本の後ろに入れて、共通の本棚に入れる
街のいろんなカフェ、お寺、ギャラリー、駅などのいろんなところに置いて行きながら、そこで人と出会っていきましょうという、活動です
2011年の春ぐらいから始めた

最初は大阪の大阪城の近くの古いビルの一角で、始めた
私が生まれた場所なので、地元の同級生とか、友達に知恵を借りたりして、始めた
10坪ぐらい~20坪に広がり、お金がなくて、奈良県の吉野村から卸し値で木を買ってきて、木を大工道具を作って箱を作って積み上げて、本棚にしたりした(手作り図書館)
今では3000冊集まった(2年半)
捨てる本は持って来ないでください、皆さんと共有したい本を持ってきませんか、感動した、為になったとか、共有したい感覚を皆さんで繋げてゆくと、非常に本の楽しみも、2倍、3倍、となり、人との出会いも生れてくるので非常に面白い

集まりをする時に本を一冊持ってきてもらって、自己紹介でなく、本紹介をしてもらうと、その人の人柄、考えていることなど、心のうちがちょっとだけ判る
人間には違う面をいろいろ一杯持っていて、そのことが凄く大事なんですね
自分の視野を広くするためには、いろんな本を紹介してもらった本を手に取ってみる、その人の興味から本に興味が行ったりして、人から本に出会える事は物凄く大事なこと
結果的に相手の人を大事にする様になる
人の声を大事にしないといけない

会社では文化教育活動を18年間やってきた
オーナー社長の私塾を作って育てていたが、六本木ヒルズに有料図書館を作るまでやったことがあった
会員が3000人   手作りの私塾が一番面白かったなあと思った
データでしか人を見れなくなってしまっていた
組織に頼らないで、自分でやった方が長続きするのではないかと思った
60か所全国に出来た  歯医者さんの受付、お寺の本堂の横、ギャラリーの一角、自宅とか
いろいろ誕生している
大阪府立大学の一角に、作った  本棚に囲まれたサテライトキャンパスにしようと提案していた
本を入れるのに自由にしたいということで、0冊からスタートする図書館を作ろうと、昨年の10月からスタートした
本を植えるお祭り(植樹祭に倣って)をしようと第一回に今年の3月に行う

48グループ(500人)に分かれた、テーマを持って、本を持ち寄る
半年で4000冊集まる メッセージが書かれている
語り合う会、物作りをする会とか、交流を深めましょうという交流会館の様なところ(500平米)
数名レベルの小さなイベントでいい  
お互いに聞きあう、教えあう、本当のいみでの交流ができると思う
年齢、性別を越えて共有して頂くことが大事なんだと思う
少人数だと、顔が見える中での情報の大事さ、話している人に対しての大事さが全然違う
分母が多いほうがいいという社会になってしまったが、少人数の方が人間的な関係が近づける
人間的に近づける関係性を作りたかった
漫画、雑誌でも構わない、そこに自分がちょっとでも人に伝えたいことがあれば、輝いてゆく瞬間が生まれるのではないかと思う

食の本、靴(健康のためにはこんな靴が良いとか) 十人十色のアイディアを持ってきて、其れを生かそうと思っている
自分が本で学んできたこと、考えていることを発表する場がない(カラオケのように歌う場があるのに対し)
本も増えているし、イベントもいろいろ増えて、日々変化してきたいる、成長してきている

島根県松江 曽田篤一郎文庫ギャラリーがある
娘さんが本好きで、おじいさんも本好きで、その娘さんが早く亡くなってしまった
本好きの想いを何とか結実させたいと、おじいさんの家を改造して、数千冊ある本をセットした
おじいさんが体調を崩して、市の応援隊が100人出来て、募金、本を持ち寄ったりして運営されている(普通の図書館とは雰囲気が違うなかで運営されている)
岩手県 大槌町  森の図書館 夫婦2人でやっている
イングリッシュガーデン風の庭  地震でまだ回復できていない
こういう中で子供が本を読めない中で育っていくのは善くないと、子供たちにメルヘンの世界を提供したいと、私財をなげうってやられている
風の電話  電話は繋がっていなくて、ノートが置いてあってここで亡くなった方と話をしてくださいと云う事になっている(非常に感動した)

新潟県 面白い本屋をやっている  地下室 入れるのは29歳未満
寄付で若い人に読んでもらいたい本が地下室に置いてある  
懐中電灯を渡して、無造作に積まれてある本の中から本を探して出会いをしてもらう

サミット、図書館、本屋が集まってもらって、運営方法、本の選択等を話し合ってもらった事がある
児童図書館 もものこぶんこ 30代の兄弟が運営している
読み聞かせ、をやったりして居る所、その図書館のカンパをしようと、急遽展開した
個人図書館は行政からお金をもらっていないので、全部自分たちでやっているので、お互いに苦労は分かっているので、確認し合えた一日だった
一人の勇気、行動がいろんな人を巻き込んでゆく  
小さな図書館の図鑑を作ってみようと思っている(総集編) 紹介したい図書館を本に収録したい

本の力は最初思っていたよりも、いろんな立場の人が集まってくる道具になっている
我々は他人の声を聞いているようで、聞けない
街ライブラリーをやって、人に興味を持つきっかけになった
自分が変わる事に依って、周りが変わってくる、周りが変わったことで、自分が感化されまた変わってくる
街の中で「酵母菌」が出ていけば結果的にその街が、すごく楽しい街になるかも知れない










































 










2013年10月23日水曜日

大庭照子(日本国際童謡館館長、歌手)・小さな木の実、大樹に育て

大庭照子(日本国際童謡館館長、歌手)   小さな木の実、大樹に育て 
昭和20年小学生になった大場さんはラジオから流れてくる童謡を聞くことが大好きな少女でした
4年生になると熊本のNHK熊本児童合唱団に合格、高校でもコーラス部、大学ではクラシックを勉強して、プロの道を歩んできました 
昭和46年NHK「皆の歌」での「小さなこの実」が評判と成り、大場さんの人生を変えてゆきます
「小さな木の実」 大樹に育て   伺います

水前寺公園の近くで生まれた 
近くに動物園があり、戦争の時に象が殺されたのを覚えている
NHKラジオが戦後どのように、如何に童謡を聞くためにどんなに憧れていたか、今のアイドルのあのエネルギーよりもっと強かった
昭和32年大きな荷物と大きな夢を持って、横浜のフェリス女学院短期大学音楽科に入る
クラシックを勉強する  母親の想いを託された
人間向き、不向きがある
教育は甘やかすという事は大きな間違いだと思う    親も先生を尊敬していた

シャンソンコンクール、加藤登紀子さんが脚光を浴びて、コンクールで2位になるが、ここに生きる場がない(昭和43年 30歳)
2位で親から叱咤されて、「皆の歌」なら顔が出ないので、歌った
「小さな木の実」 昭和46年 大ヒット曲になる            教科書に載る
スクールコンサート 全国の小学校、中学校、高校、養護学校、盲学校、ろう学校などを回って、童謡等を歌ってきた   
和歌山県では1月、生活していた、1日2回   3,000校を越えている 
老人施設でも歌う

昔と今の子供の違いは?  
子供は子供昔も今も変わらない 環境が違った
30年前も子供たちの自殺が多かった時もある
命の大切さを歌った歌  シャボン玉  
野口雨情が娘を亡くして悲しみの中で作った詩
赤い鳥運動 この事を知って社会運動としてやってゆこうと思った
「からす」 替え歌しか知らない子がいた 
 本当の歌を知って感動したとの話をしてくれた

「長崎の鐘」 自分は被爆者であり、いろんな体験をして、上から目線で子供達に教育していたのではないかと、非常に反省している 
大場さんの歌声で長崎の鐘を歌っていただくと、、もっと深く子供達に伝える事が出来るのではないかと、これから是非長崎の鐘を歌って欲しいとのリクエストを頂いた
作詞したサトウハチロウの兄弟が亡くなっている
平和の歌として長崎の鐘は大事にしたいと思った
先生方が苦労されているが、根幹は家庭ですね  
マスコミがちょっとでもいいから、素晴らしい教育をしている学校だとか、地域を紹介、報道してほしい

平成6年 日本国際童謡館をバブルの時でもあり、4億円かけて設立する 熊本県阿蘇
大失敗はしたが、ソフトは生きていると思う
自分一人でやりすぎたことは深い失敗だったが、之が童謡の社会運動に物凄く役立っている
骨を折って入院しているときに、全部自分が間違っていたことに気がついて、それで、全部恨みが無くなり、解放された
童謡館を改めて動かすべく、話しあいを進めている
歌い手を育てる事が大事なので頑張っている      
音楽事業をバトンタッチする人も出てきている


























2013年10月22日火曜日

大町志津子(オペラ衣装デザイナー)  ・オペラの衣装に魅せられて

大町志津子(オペラ衣装デザイナー)  オペラの衣装に魅せられて
ヨーロッパ在住の唯一の日本人オペラ衣装デザイナーとし永年イタリアを中心に活躍している大町志津子さんに伺います
大町さんは1954年生まれ 岡山県美作市出身 神戸の短大を出てメーカーに就職しますが、自分の好きな道を求めて、25歳で単身ロンドンに渡りました
イタリア国立ベネチア、アカデミーに入学、美術の勉強を始めます
卒業後はファッションデザイナーとして働き、衣装の魅力に目覚め、舞台衣装や映画製作の中心地、ローマを拠点にし、ビスコンティ監督の映画や舞台衣装の仕事にかかわるようになります
オペラの舞台衣装こそ自分が求めていたものと確信します
ローマのオペラ劇場でのアイーダ、ベネチアのフェニーチェ劇場の椿姫を始め、数々の劇場でオペラ衣装を手がけてきました
異文化の中で様々な葛藤や、病気をも乗り越えて自分の道を歩み続ける大町さんに伺います

イタリアで30年近く舞台衣装を担当  今は母の看病をしながら行ったり来たりの生活
美作で18歳まで、そのあと神戸に行き、どうも私の人生ではないのかなあと、思いロンドンに行った
絵の勉強をするために先ず語学学校に行った
サッチャー首相になったときに、外国人に対して大幅に税金が上がりイタリアに来た
授業料が年間3万円とかだった(日本では当時30万円以上だった)
先生の教室を選んで勉強するが、最初基礎的な事、アートは教えるものではないというような考え方で持っているものを引き出すのが教育だと言われた
私が筆で描く、墨絵の濃淡について先生が感動して、ぴったり寄り添うようになったが、来てもらいたくないようにしていた(先生の後ろに在る世界と戦っていた)
最後に自分のものができるようになった(私に勝ったんだねと先生から言われた)

その後絵をやめて、衣装の世界に入るが、先生から絵を描き続けなさいといわれる
友人がブティックをやっていて、進めてくれてファッションの世界に入った
仕事をしながら、ミラノに通うようになる(3日間)
ある日突然癌だと判り、癌の手術をする 日本に一時帰国 (34歳の時)
やっとスタートラインに立ったと思ったときにそのようになってしまった
父がお前は今帰る時期ではないと、イタリアに追い返された
ミラノの学校 休学中だったが、元気になったので再入学ができた
癌の細胞検査に20日間かかったが、その時は5年ぐらいに感じた
その時に、生きている私にしかできないことがあるのではないかと、先ずは其れを探そうと思った(まだ衣装の世界などは考えてはいなかった時代)

卒業制作に夜会服を作った  古い帯を使って夜会ドレスを作って、銀賞を頂いた
副賞として、ファッションデザイナーの方の家に3か月ステー出来る物だった
ファッションは消耗品なので、もっと違う分野があるのではないかと言われたりしていた
衣装を作っているアトリエを見に行ったら、オペラの立派な衣装だった
その時はじめて、衣裳って、こんなに凄いものなの、生地の種類、色、形、歴史があり、文化がありヨーロッパの凝集されたものが衣装にあった   これだと思った
長い自分探しの旅だった
より高い経験を積むにはどうしたらいいか、全く判らなかった
知りたいことを10項目を書いて知り合いの人にいったら、全部答えてくれた

先ず作品を観てどんなものが作られているか見なさいと、自分が良いと思う先生につきなさい
ビスコンティのアトリエは世界でNO1と言われるところで、他のアトリエとは全然違う
話したが、今は駄目なので後3カ月先に電話をしてきなさいと言われた
其れは社交辞令だったようだったが、2年間して粘り勝ちした
アクセサリーを作る人が病気になり、代役をすることになる
チネチッタの作業場に行く事になる(夢に思っていたところだった)
映画にもかかわる 新国立オペラ劇場のコケラ落としをすることになり、一緒に行きたいと嘆願して、叶う事になった

ヨーロッパの文化はアルプスの山のようにそびえている
蟻がどうして山を登るのと言うような感覚で、夜も寝ずにやっていたりした
判ったのは、やっぱり最終的に舞台に上がったものを見るときですよね
きちっとした時代考証、とか総合的なもの、イタリアが持つ文化は深くて長いものがある
総合芸術を体験できたので、これから10年は歩いていけると思った
厳しい競争社会なので、戦っていかなければいけないことがある
ヨーロッパにはヨーロッパの歴史があって其れが衣装に出てくる
椿姫をやった時に、私らしい衣装を作りたいと思った
私の文化とは何かを探した  
研ぎ澄まされて無駄のない物を見つめる、極める衣装を作りたいと思った
やっとこれで先生に出来ましたというようなものができました

経験を日本の若い人たちに、チャンスがあると言う事 衣装と言うものの深さをもっと知ってもらいたいと思う








































2013年10月21日月曜日

小山内正広(線路技術スペシャリスト)   ・線路メンテナンス一筋

*コラムニストの天野祐吉さん(80歳)が間質性肺炎で、亡くなられた報に接して、深く哀悼の意を表します
恥ずかしいことですが、私が天野さんのことを知る機会になったのが、この放送の「隠居大学」を聞く様になってからです
軽妙な話口の奥にどっしりとした考え・思想の持ち主であると、常々聞きとめていました
天野さんの「隠居大学」が聞けなくなると思うと、残念でなりません  御冥福をお祈りします

小山内正広(線路技術スペシャリスト)    線路メンテナンス一筋
線路のメンテナンス、保守点検のスペシャリスト 小山内正広さんは定年までの40年間、国鉄とJR東日本で線路のメンテナンス一筋に徹しました
その知識と経験をかわれて、中国、台湾、韓国、ベトナム、ミャンマー等からメンテナンスの技術指導に定年後にまねかれています
鉄道は作った時から、劣化がはじまるので、作った時からその対策が必要だと線路技術のスペシャリスト、小山内さんに伺います

JR北海道の不祥事、非常に残念です   危険基準値は当然判る
レールとレールの間の距離 1067mmが基本だが30mm以上広がった場所がある
普通は10mmぐらいに広がったら直すというのが、当たり前
直さなかったら、列車の速度を下げるとかの対処が必要だったと思う

ミャンマー コンクリートの枕木なので、ほとんど広がりは無かった
日本のローカル線よりはしっかりしている
線路の上下が平滑にメンテナンスができないかと思う     最高速度が50kmちょっとの速度
列車が乗ってない状態で20mm、列車が乗ると1.3~1.5倍 30mm近くになる
平滑化するために、日本のメンテナンスの技術を必要としている
継ぎ目の強化、強いボルトを使えないか、バラスト(石で出来ている)の量が足りない
日本でもコンクリートの枕木ができたのは、新幹線が出来てから
橋梁は古いが、枕木の構造、継ぎ目の構造を直すと結構使える 100年近い

新幹線 事故がない、定時運転  誇れる技術だと思う
定期的検査をきっちりやるのが、一番のポイントだと思う
東海道新幹線ができたころは、毎日やっていたが、今は3日から7日に1回
レール、枕木、レールの凹凸は定期点検とは別に決めている(俗称 心電図と呼んでいる)
悪いところがあったら、報告して、1週間以内、1カ月以内、1年以内に修正することを区分けする
直す技術、効率化  昔は手作業(つるはしとスコップ) 
自動で出来るような機械が導入されている

ミャンマーは日本の50年前の状況
新幹線の技術協力が8割なので、ミャンマーは珍しい
インド、韓国、台湾、中国は全部新幹線の新しい線路はどういう構造が良いか、そのメンテをどうするか をやっている
車両はヨーロッパから、線路は自分たちでやる 締結装置はヨーロッパ、枕木、レールは自国、作り方は日本の技術、といろんな組み合わせでやっている
メンテナンスをやってゆくのに大変かなあと思う
自分たちの技術にしようと、かなり勉強はしている(産学協同で)

事故は出来てから、10年ぐらいに成ると起こるといわれる
作る技術→メンテ技術  1セットでコンサルを希望するようになっている  
日本ではないので対応するようにしていかないといけない
リスクがあることを含めて技術供与しないといけない
在来線は70~80kmだったが、120~130kmの速度になってきている
新幹線の凹凸 列車が乗った状態で10mで6mm  レールの表面の凹凸 1mで0.3mm

車掌になりたくて国鉄に就職、上野駅に配属 土木の夜学の大学に行く
学んだことが生かせるように、保線の仕事になる
最初、新宿保線区でつるはしを使って作業をするが、そこでいろんなことを学んだ
東日本大震災の時に、新幹線の復興は驚異的な早さ トンネルを含めて200kmで1カ月
新潟地震の時は全長が数km、ほとんどトンネルで3か月 
阪神淡路大震災の時の経験で、構造物を補強していたので被害が物凄く少なかった
補強がなければ、倒れた橋が相当数出たと思う
線路のゆがみ補修と、電柱が倒れたので、その修正を行った

退職する直前に、工学博士を取る
今は鉄道工学が存在しない   海外で仕事をするときに、資格が信用度を評価される
安全の語り部  2カ月に1回講演を行う
安全は基礎のところをしっかりとしないと駄目
大事故は基本が守られていないときに、とんでもない事故になる
脱線事故、死ぬような事故現場には必ず行くが、結果を見るとどうしてこんなことができないのか、と思う
情報収集 生の情報が現場に行かないで、人に聞いただけで考えるのは、ずれが多いので、
必ず物を観る、現場を見る事が大事です


















































2013年10月20日日曜日

安井幸生(通信教育振興会会長)   ・定時制通信教育から見えてくるもの

安井幸生          定時制通信教育から見えてくるもの
(財団法人東京都高等学校定時制通信教育振興会会長)
昭和14年東京生まれ 昭和38年東京理科大学を卒業後、都立向島商業高校と大崎高校で教鞭をとりました
昭和60年に杉並区教育委員会に転出、その後都立教育研究所。都の教育庁指導部と教育行政に携わりました
平成8年に単位制高校の都立新宿山吹高校の校長に就任し、4年間、開校6年目を迎えた学校の課題に取り組みました
平成23年4月からは東京都高等学校定時制通信教育振興会の会長として、生徒の就職や就学面での支援、外部に向けての広報など幅広い活動をしています
安井さんは今年、春の叙勲で瑞宝章受賞を受けています
定時制通信制教育の現状や課題について伺います

目的が定時制、通信制に在籍している生徒を支援する全国の組織なんです
各都道府県に、それぞれの自治体の振興会があり、私は東京都を受け持っている
先生方も支援する、学校を支援する
教育関係を整える   或る学校にエアコンがないと、エアコンの設置等も含まれる
主には生徒の学校外のスポーツ、文化に支援をすることが多い
生徒に雇い主、親御さん等も含まれる
ほとんど寄付金に頼っている  東京都はだいぶ前から打ち切られてしまった

フルタイム パートタイム学校と言う風に英語から入ってきた 其れを全日制、定時制と訳した
パートタイムだから昼間があってもいい  夜間定時制はあるが、昼間定時制(看護師等)少ない
期間定時制も以前はあった(農閑期に学校を開校する)
最近は定時制も多様化している    
高校生は332万人 1割弱が定時制(11万人弱)と通信制(19万人)
昭和23年、通信制の出発のころは1万人いなかった
昭和36年になって、全日制、定時制、通信制、高等学校の中に、勉強の中味が同じにした
区分無く卒業できるようになった
若いうちに高校に行く機会がなく、大人になってから通信制を活用するようになった(お母さん)

勤労青少年が通う学校のイメージがあったが、20数年前までで、ドンドン減り始めた
無理して仕事をしなくても経済的に間にあってしまう
全日制で中途でやめてしまって、改めて卒業したいとの話があって、単位制高校ができ上った
前の単位を認める制度、残りの単位数で卒業できる
併習 2つの学校から単位を取れるとか、柔軟な制度になった
全国で全日制単位制高校は全国で300校ぐらいある
72単位で卒業できる(必修科目+自分の好きな科目)
中途退学の生徒が増えたためと思われる 一時 東京では何万人と増えた時期があった
辞めた学校には行きたくない
 
通信制が増えてきた背景 人との接し方がうまくない、苦手な子が増えてきている
通信制は入りやすくなってきたのもある
大学在学中から、NHK 皆の科学で楽しい実験室に一員として参加、司会なども経験
教育の現場と行政との両方を経験したのが、非常に勉強になった
区立養護学校、科学教育センターなどでも、自分自身が学ぶ場所がいろいろあって、随分教育の見方が変わった
自分の子供に対する接し方も変わった
今子供が何をしたいのか、聞いてあげる  子供は期待している

山吹高校3代目の校長に就任  東京都で初めて作った単位制高校
課題山積だった   
朝から学校はやっている 午前4、午後4、夜4校時 12校時がある
先生の勤務時間をどう不満なく分配するかが課題だった
4部制で 4時間単位の学校があるとすると6校になり、その他に通信制を持っていて、もうひとつ一般都民の学習する講座(生涯教育講座) 日曜日までやってた
8校分受け持っていた事に相当する 
93人の教師、非常勤が120人になった 生徒も多い 900名程度
学年の区分がないので、生徒がいろいろ混ざっている
一人一人がしっかりしていないといけない、自分で時間割を作っていかないといけない
同一集団に帰属しないので、自分がどうしたいのか、目的意識を持たないといけないことになる

満足して卒業できる学校にしないといけないと思った
野球の夏合宿、スキー教室など、生徒と一緒に行って付き合う事をモットーにした
重いものを抱えたものを心に持って歩んできた人もいました
こちらからのメッセージが届く、読み取りができるものがあって、褒める材料があると、もっぱらそれを使いました
卒業生といまだに付き合いがある生徒もいます
不登校だったので入ったという生徒もいる
人間関係を修復する為に教師と付き合って欲しい
小さいころの親御さんとの関係で引きずってきているのではないかと思ったりする

学校外の生徒の支援をする 生徒生活体験発表 50数名集められて、発表会がある
NHKも後援する、ラジオでも放送される予定になっている
それぞれの個性に沿った学習の仕方が可能であるので





































2013年10月19日土曜日

西川玄房(住職)         ・食(じき)も又禅なり 「頂きます」に感謝と自戒を込めて

西川玄房(住職)   食(じき)も又禅なり 「頂きます」に感謝と自戒を込めて
京都妙心寺塔頭 東林院の住職 西川玄房さん 74歳のお話
西川さんは妙心寺の境内に建てた、専用の厨房で一般の人を対象にした、精進料理の教室を開いています
毎回定員一杯になるほどの人気です
昭和14年岐阜県の禅寺に生れた西川さんは、中学を卒業後、京都の竜安寺での修業を経て、岐阜県の道場に入り、本格的に禅の修行に取り組みました
ここで任されたのが、食事の支度を担当する「典座」と言う役割です
料理の楽しさや食材を無駄なく生かしきる大切さを学んだ、ここでの修行体験が西川さんのその後の人生の礎になりました
食事の前にいう「頂きます」、にはどんな意味が込められているのかなど、伺います

60歳までは本山に務めさせてもらって、定年と成り、ボケてくるといけないので、好きな料理を通じて、気楽に開かれた禅寺を目指して、精進料理教室を始めた
精進料理を通じて、仏の戒め、命の尊さ、もったいない、無駄を省く、有難い、料理を造りながら、自分の生活に生かすことができればと、思います
料理教室を始めて15年になるが、世間知らずだったが、皆さんが来られたおかげで、いろいろな知識、社会の裏表、教えていただいた
料理教室を通して「頂きます」「ごちそうさま」本来の意味を教えていただいた

子供のころ、正月15日 父が朝一番にお勤めしているときに、あずき粥を器に入れられたものと箸を持たされて、庭の木々に備えておいでと、毎年5,6回続いた
生きとし生けるものへの感謝の表し、施しの心  
丁度餌のない時に、鳥が食べにくることがあるかもしれない
自然の摂理、生き物を大切にしなさい、感謝をしなさいよと、私にやらさしてくれたものと思う
最近、体験教室がいろいろあると思う
竜安寺での食事  おかずを学校の帰りに、自分なりに考えて、予算内で購入してつくる
崩れた豆腐などをもらってきたりする
道元禅師850年前 禅の修行として取り入れる  
食も修行のうち、食をつくるのも、食べるのも、座禅をしたり、拓鉢をしたりお勤めをしたりするのと同じように、修行の一つとして励みなさいよと言う事だと思います

食べる食材にも命がある、その命を活かしきって、自分の命も保たれている
心身共に健康であるからこそ、しっかりした修行もできる
最近食べ散らしが多いが、食材とは何かという事を考える必要がある
食材の無駄のないようにする理解する必要がある
岐阜の道場に行く 5年間世話になる
祈座てんぞうりょう 台所の当番  老師の身の回りの当番 とか当番がいろいろある
料理の坊主はろくな坊主にはなれないと、老師から言われるが、料理らしい料理を作れと言っている、精進しろと理解している
どうとるかはその人の心次第 どう受け止めて良い方に持ってゆく

一挙手一投足 全てのことを全身全霊で持って、うちすすみなさいと、其れが禅の修行であるという事で、行動しなさいと言っている   
食べ三昧遊び三昧 中途半端は止めなさいと云う事
「なりきる」  無心になるように、我を捨てろ、馬鹿になれ 成りきりなさいということ
その都度、その都度 その場に成り切りなさい 
先ず野菜の身になりきりなさい その野菜をいかに生かすべきか(嘆かれないように)
料理をつくるとき、「時」に成り切りなさい、「ひと」になりきりなさい 
季節、春夏秋冬 その季節に取れるもの 旬の食材を頂くのが一番いい
食べていただく人がいろいろあるが、年寄り、不自由な人とかいろいろいるので、食べやすいこととかを考えて作る
場所 お祝い、葬式 それなりの材料の使い方、盛り方があると思うので工夫しながら考える

精進料理 ごま豆腐 ごまの持ち味を最高に出すように、急がず、遅からず、すりつぶす
自然のその季節にでまわる素朴な材料をつかって、親切丁寧に 最大限活用する当たり前のこと、無駄のないように全てを活かしきる、精進する料理
生きとし生けるものを頂いている  命をひきついでゆく 食べられた野菜、動物にしても感謝しているかもしれない、感謝して綺麗に食べてあげる 「ご馳走様でした」
五味五色五法」 いつつの方法、色、味  取り合わせる
淡味 本来持っている素材の味  一般に、だし、調味料をつかうが、極力控える
素材の味をいかに出しきるか    
素材に味がないものが最近は出回っている      「あく」も持ち味の一つ
仏心 思いやりの心 愛  お互いひかり輝くなら、世の中を明るくしてくれる

精進料理のたべる 心構え
①多くの人の手数と労力の苦労を想い、自然の営みに感謝しながら頂く
②自分が食事を頂くことに対して、それだけの務めをしているかどうか、反省する
③不平、不満を抱かず、飲みすぎ、食べ過ぎせず、ほどほどに、貪る心を起こさないように、食  べ物は、心の修行であるという気持ちで、食べてもらいたい
④食事は飢えや渇きをいやして、心身の枯れるのを、病気に成るのを防ぐための薬だと思って、 食べてください
⑤食事に依って正しく生きることを、成就、全うするために、反省と感謝をこめて食べる事が大切
 
これら五つを一番簡単に表現したのが 「頂きます」と「ご馳走様でした」
電気一つでも、小さな虫、植物が犠牲になってダムができたりして居るので、生き物の命が伝達されたもの

自分の体に、良いものは7里四方の食べ物が一番いいと、親から常々言われていた
季節に出回る地産地消 が良いと思う
食に依って自分たちは保たれているという事を通じて、命をいかに生かしきるか
料理を通じて、「縁」が広がることが、私の宝でもあり、綺麗な心を一つ持って帰られたら有難いと思う
「一壺天」(いっこてん) 壺の中には壺のなかに天地がある
人の心にもそれぞれ、各自宇宙がある  その宇宙と全体の宇宙が一つになった時に大きく生まれ変わることができる、即ち悟りの境地 分別、執着を打ち払って、清浄無垢の世界が悟り
素直な気持ちで三昧になっていただければいいと思う























2013年10月18日金曜日

山崎充哲(お魚ポストの会代表)   ・多摩川を死の川から救って

山崎充哲(お魚ポストの会代表)     多摩川を死の川から救って
東京と神奈川の境を流れる多摩川は、1960年代から70年代のころ、酷く汚れていて死の川とまで呼ばれる時代がありました。
然し、住民の協力などでアユが再び泳ぐ綺麗な川になりました。
川崎市に住む山崎さんは、子供のころから多摩川を見続けてきました。
1970年代から、この多摩川で今も続く大きな問題はブラックバス、ピラニアなど外来種が多く見つかっていることです。
山崎さんはこのままでは、生態系が崩れてしまうと、こういった外来種の魚を引き取る、お魚ポストをつくりました。
家で飼えなくなった熱帯魚などを預かる活動です。
多摩川は熱帯魚を多く見る事が出来ると云う事から、南米のアマゾン川をひっかけて、多摩ゾン川と呼ばれるようになり、山崎さんは多摩川の様子を「多摩ゾン川、多摩川で命を考える」と言う本をに纏めました。
そしてこの本が今年7月第60回産経児童出版文化賞の大賞に選ばれました。

この本自体が、私が普段思っていること、多摩川で活動した内容を、淡々と書きつづる、多摩川の教科書、そんな感じで子供たちに訴える本に作り上げて、まさか賞をもらえるとは思わなかった。
多摩ゾン川には熱帯魚がいる、どうして熱帯魚が住めるのかというと、多摩川が温暖化したことも事実、なんで熱帯魚がいるのかと言うと、皆飼いきれない人が、川に捨てちゃったから居るんだよね、と言う事です。
事実を知ろうじゃないかと言う事から始まっている。
熱帯魚は高級魚ですが   昭和40年終わりごろから見受けられた。
グッピーを捕まえるとラッキーと思って家に持ち帰ったが、今はそういうレベルを越えている。
日本の在来種を脅かすぐらい増えてしまった。
ブラックバス、ミドリ亀(ミシシッピーアカミミガメ  北アメリカの亀) 多摩川では悪さをする。 

捨てないでほしいと訴えている。 
昔は汚かったので、金魚を捨てても生きていけないほどだったが、今はとても綺麗になったので、
生きていけるだろうと、川に逃がしてしまう。(悪意がないので困ったところ)
2011年3・11 水槽が揺さぶられて、水槽が壊れたりして、魚が飼えないと捨ててしまう事があった。
お魚ポスト→多摩川に外来種を捨てるのを辞めてくださいと言う事で、魚を預かる。
預かった熱帯魚・亀などを新しいお客さんを探す。(命のリレー)
飼育放棄をするのであんまりほめられたことではないので、ちょっと嫌みを言う事もある。
金魚を多摩川に捨てに来た子がいた→捨てられなくて泣いていた→いけすに飼ってあげるからという事で受け取った→夏休みが終わるころは金魚は300匹になった→そのことが学校に広がる
情操教育にもいいかなあと思って、金魚を飼っていた。

多摩川の源流は笠取山のめずひと言うところ。  サンショウウオといわなが住んでいる。
全長138km  人口が密集する地域。 
今の30代、40代の人達は昔に戻りたくないという。 
60代~70代の人は昔は綺麗だったねと言う。 
昔は下水処理場が完備していなくて、生下水そのまま出ていた。
泡が立って匂いが物凄く酷い時代もあった。
多摩川は水で流したものを全部受け入れなくてはいけないが、受け入れ切れなかった。
昭和40年代から平成までの20年間ぐらい、汚れがひどかった時代。
性能のいい下水処理場が出来て、驚くぐらい下水処理場からでる水は綺麗になったが、匂いが問題。
洗剤、柔軟剤の化学合成された香り 其れに塩素が加わると非常に嫌なにおいになる。
今は薄まるのと、川の自浄作用が働く 川面に立って臭いという事は無くなりました。
下水処理場の出口はちょっとにおいます。
洗剤に匂いを付けるのではなく、洗った後に自分の好きな香りをたんすの中に石鹸を偲ばせるぐらいでいいのではないか、と思っている。

多摩川を流れている水の6~8割は下水処理の水です。 
奥多摩の綺麗な水は全部水道水で飲んでしまうんです。
川崎、世田谷、狛江の水の冬は8割、夏は6割ぐらいの水が下水処理した水です。
普段から水の使い方を考える、節水も一つの手段。
5年で死の川になりましたが、30年経ってやっと死の川から脱却して、今の状態です。
次に下水処理場が止まったら、ありとあらゆる生物が死んで、復活するまで50年、それよりもっとかかるかもしれない。
平成になってようやくすこしずつ、少しずつ綺麗になってきた。
多摩川の上流に少しずつ、少しずつ、下水処理場が出来てきた。
この5~6年特に綺麗になった。  
ヤツメウナギ、絶滅危惧種だが、川崎に多摩川で取れてこれは本当に驚いた(2006年たまたま一匹魚類調査で取れた) 青梅にはヤツメウナギは住んでいる。
人間が手を加えた川なので、人間が管理してやらないと、自然の川の自浄作用だけでは綺麗にならない(次の子供たちにバトンタッチしていかなければいけない)

3歳ぐらいのころに父親と一緒に釣りに行った写真が残っている。
小学校の頃は父親といつも釣りに行っていた。
小学校の頃「3kの川」 汚い、臭い、危険  行ってはいけない川だった。
大学生のころは釣りがしたくて、行ったが、一番汚い頃の川だった、死の川の象徴だった。
ゴミ拾いから多摩川の活動が始まった。
活動を始めたのが大学1年の時だった(昭和52年ぐらい 日大水産学科)
川崎河川漁業協同組合の総代、 魚協の組合員であれば増殖、啓発、啓もう活動の権利が許される。  
バードウオッチング、多摩川リバーガイド(多摩川の広報委員) 等をやっている。
学生時代アルバイトを沢山やる。   
環境コンサルタントの手伝い 工事現場に行って生物の保護に関与。
地域に関する文献や図鑑を読むと同時に、自分の経験でやってきた。
淡水魚 150種類、 鳥では200種類、 植物では3000種類は頭の中に叩き込んでおかないと、コンサルはできないので、図鑑片手に、天然記念物、絶滅危惧種を守るようにその場で直ぐに発信できるように活動する。

一番危惧するのが、見つからなかった事  本当はいるのに技術不足で見つけられなければ、なし崩しに工事を進めてしまう、そうすると本当に絶滅してしまう恐れがある。
ある程度の開発は必要だが、いい形で進める。
開発を止める必要はないが、生き物に対して不利にならないように知恵を最大限使ってやる事が必要、それに対してのコストは惜しまないでくださいという形で話し合ってきた。
国交省、ゼネコンとけんかしてでも、何とか生き物を守ってやろうとそういった仕事をしてきましたが
結果として随分干されてしまいました。
コンサルは中立な立場ではないといけないと思っている。  
保護団体のつもりではないが、でも開発側にとっては都合の悪い人間だったんですね。
今後も考え方を曲げるつもりは無い。

卒業後、釣り具メーカーに勤めたが、釣りができると思ったが、忙しくて釣りをできる時間は無かった。   サラリーマンは2年で辞める。
その後、自然環境調査コンサルタントの会社を興した。 
バブル期で大きな工事の自然環境調査コンサルをやった。(魚、鳥、両生類、爬虫類、哺乳類、昆虫など) 今も細々やっているが、開発はほとんどないので。
小学校のボランティアが多い。
今の親が自然との体験、経験がないので、子供は聞くこともできないし、子供にいろんな経験値を伝えて子供に学んでもらう。
環境学習は 理科、社会、道徳などの総合教育になる。 毎年何千人と教えている。

川で遊ぶことは危険なこともあるので、川に行くときの心得を話す。
①一人で川にはいかない。(落ちたときにだれが助けるのか)
②濁った川には近づかない。(深さが判らない)
③ライフジャケットを着ると安全。
④困ったことがあったら、大人に声をかける。(子供だけで対応してはいけない大人に相談する)
⑤サンダルで川に行かない。(サンダルは流されるのでそれに気を取られ、危険な目に合う)
水の事故を減らすことが、ずーっと多摩川を好きになってもらう基本だと思っている。

多摩川はいい子を育てるよい川になってきているので、どうやって流域の皆さんに知ってもらって、流域のみなさんが川に行ける様な環境を整えて行くかだと思います。
川をどう生かしていけるか、川に関心を持っていただきたい。
いけないのは無関心だと思いますので。 無関心が川を汚すことになる。
家族からもう少し睡眠時間をとりなさいと言われている。
倒れたことは2回有る。 
1回めは狭心症、2回目は心筋梗塞で寿命宣告をされるほど酷い状況だった。
川を渡ろうとしていて、ライフジャケットがないじゃん、ではこの川は渡れないよねと言う事で目が覚めました。(三途の川だったのかもしれない) 物凄く痛くて意識を失っていた。
両親の顔が浮かび、目が覚めたら、もう怖いものなしで、其れが今の原動力です。
子供たちが今順調に育っているので、その子たちが大人になった時には、魚を多摩川に絶対に捨てることはなく、ごみ一つ捨てることはないでしょう。











  
























































2013年10月17日木曜日

久本雅美(女優、タレント)      ・私のがむしゃら時代

久本雅美(女優、タレント)    私のがむしゃら時代
昭和33年、大阪出身  子供の頃から周りを笑わせる面白い子でしたが、お笑いの世界に入るつもりはなかったと云います
大きな転機は、短大を卒業して、将来の道を模索していたところ、友人と上京して、たまたま東京ボードヴィルショーの舞台を観たこと、あまりにかっこいい笑いの舞台に、久本さんは劇団に入り、女優になることを決意します
然し、当時団員の募集は無く、両親も強く反対しますが、そこをがむしゃらに頑張り、最後は主催者の佐藤B作さんの面接にも合格、晴れて東京ボードヴィルショーのメンバーになります
然しそこからが女優として、コメディエンヌとして大きな試練でした

父はトラックの運転手 母は保育士  弟、妹の5人家族
親戚関係では私が一番無口でした  父が一番元気で面白い人です 母も朗らかです
私は完全に父親似です    小学校3,4年ぐらいから変わってきた
高校の時に朝礼の時に、朝礼台に立たされて、日本一のおしゃべりですと、校長先生か、教頭先生に紹介されて、皆が立ち去るまで立たされていたことがある
小学校の作文は、将来は男の人に混じって仕事をしたいと書いてあった(新聞記者に)
大学の時に、ディスクスジョッキーになりたいと思って、話し方教室に1年間通った
東京に遊びに行き機会があって、東京ボードヴィルショーを友達と観に行く

新宿、アシベにいく 「7人の侍」 パロディー おなかを抱えて笑った 
吃驚するぐらいかっこよかった
そこで、お笑いの女優になろうと思った 血が騒いだ
東京に行くために、お金を稼ぐために朝から晩まで働いた(昼間はデパート、夜はスナックなど)
行く、3日前に親に話す 両親ともきょとんとしていた (この時点では受かってなかった)
東京ボードビルショーの方には入れてほしいと、毎日電話していた
弟の車で運転してもらい東京に行く(でるときに父に会うが、ドライブに行くと云って出掛けた)
その時にラジオから、松山千春の「大空と大地の中で」 が聞こえてきて、自分の心と曲の内容がばっちり噛み合って、頑張れと応援歌に聞こえる 

家は決めていたので、友達と一緒に住む 稽古場の前をぐるぐる6周回る
扉を開いて、東京ボードビルショーに容れてくださいと大きな声で声を出す
佐藤B作がOKしたらいいからという事で家に帰るが、その時はどう家に帰ったかは判らなかった
佐藤B作に面接した  君は何ができるのと言われたが、何もできなかったので、「元気です」と言ったら、元気が一番だなと言ってくれて、入る事が出来た
柴田理恵がその前に入っていた
素人とプロの差は雲泥の差なので、厳しくてしょっちゅう怒られていた
お笑いとはどういう事か、四苦八苦していた  ドンドン自信を無くしていった
才能は無いんじゃないかと、迷いはいっぱいあった

兎に角、人と自分を較べるのは辞めようと、自分が面白がっていることは何かを探そうと、本を読んだり、舞台を観たりしましたが、一番は現場のたたき上げです
失敗して、反省して、やって失敗して、反省して、ようやく成功して、やって失敗して、反省してという舞台に立って現場で自分の中で積み上げてゆくことは、大きいと思います
1982年 22歳で入って25歳で辞める  劇団の旗揚げをする
自分が目指すお笑いはまだできなかった
二人羽織で顔をくずす、演技で面白がられたが、2回目は演技の無さが露呈して、受けなかった

次が女の囚人役でお笑いをとれば、罪が軽くなるという設定で、女4人が漫才をして笑ってもらって刑を軽くするという、封印していた大阪弁を使う
それまでは男性のつま的な役割だったので、女4人でやる事は画期的だった
始まったらどかんどかん笑ってくれて、終わったら皆感動してしまった
楽屋で抱き合いながら泣いた
軌道に乗り始めてTVにも、ではじめる  TVは瞬発力 スピードの速さは半端ではない
舞台は長く稽古をして、ふたを開けてみないと判らない  緊張感、充実感がある

舞台があるから今の自分がある  台本も書いたりして、あまりにも忙しくて、一杯一杯になる
TVだけにしようかなと思ったこともある
若手が必死になって頑張っている姿を見て、号泣して観ていた
終わって抱きついた、辞めるところだったので皆に元気付けられて、辞めることをやめた
両親にはいろいろと励まされた
下品だとか言われたりしたが、或るときに司会者が母にお子さんはこのようですが、どう思いますかと質問したときに、母は10人中10人が娘のことを好きだとは無理だと思います
だけど10人中2人が、家の娘を観て元気になってくれたら嬉しいです
その2人を大事にしたい、大事にしてもらいと思ってるんです、と言ってくれた

「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」  母に、前で何百回言われたか、判らない
お金はとても大事だから、価値ある使い方をしなさい
結婚はやらなくても、やらなくてもどっちでもいい、だけど彼氏を持つんだよ、心がぎすぎすするから、と母から言われた
生涯現役でありたいと、思っている  お笑いの人生であり続けたい  




















2013年10月16日水曜日

ポール・スミザー(ガーデンデザイナー)   ・本物のイングリッシュガーデンは日本の植物で

ポール・スミザー(ガーデンデザイナー)     本物のイングリッシュガーデンは日本の植物で
デザイン、書き方とか自分で学んで勉強した
植物の話をいろいろしていて、その中で日本の植物は好きだった
シダ類、とか、球根類、低木 日本に来るチャンスがあって日本に来た
成田から東京に向かっているときに、綺麗にイネ科の植物が道の両脇に生えている(雑草だが)
カラマグラスティスとか凄い綺麗でした イギリスではお金を払って購入するが、何故か高速道路の両脇に生えている(最初人が植えたのかなと思ったが、そんな量は植えられないので)
茶色い穂を出している植物があり、車を急ブレーキで止めさせ、写真撮りたいと言ったら、「ちからしば」 日本ではそこらへんにある植物だった

種を取って畑に植えたが、おじいさんが来て家の畑にはいっぱいあるから、取りに来いと言われた
5~6年後、「ちからしば」を鉢に植えた
近くに在るものでも、旨く植栽すれば、綺麗に見える  見せ方が大事
ヨーロッパではお金を払わないといけない様な草が、日本ではいっぱいあった
原種の「ぎぼうし」はなかなか買えない 
井の頭公園でも「すげ」があり、種がついていたので、その種をまいたらでてきて、ぎぼうしとバランスがよく、いい組み合わせだった

19歳のときに日本に来た  遊び場はブナ林だった 自然のなかで花を観ていた
庭作りのコンセプト  
なんで庭に肥料をやらなくてはいけないのか、なんで消毒しなければいけないのか、自然はそのようなことはしていない、基本を学んで、やらなければどうなるのかとか
5年やらなければどうなるか、やっぱりいらなかった
親に本をもらって、読んだら、一般の家にいろんな生き物を呼ぶ庭造りが書いてあった
そこには野草を沢山増やしたかったら、肥料をやらないほうがいいと書いてあった
肥料を上手に使う植物はドンドン大きくなって葉が茂って、日陰を造り、他の植物を追い出してしまう
やらないほうが、みんな同じような少ない領分で頑張るしかないから、いろんな種類が生えるようになる

実際にやったらそのようになった、勝手にいろんな植物が生えてくる
そうやって15年以上やっているが、花壇に植わっている株と比べると、一回り小さいが健康です
植物が好む場所に、その植物を植えると、何にもやらなくても大丈夫
イギリス的な植物の庭を造っているのかと思われるが、日本の植物を結構使っているが、デザイン的にはイギリス的な雰囲気がある
野草は園芸品種にくらべると花が小さいが、見せ方が大事、雰囲気が違ってくる
イギリス、アメリカなどの花壇では場所によっては、半分ぐらいは日本原産の植物になっている
日本は植物の宝庫 
「べにしだ」は日本の古い公園に行けば、大体自然に生えている
私の先生は「べにしだ」」が好きで、春の時期にピンク色の綺麗な芽を出すが、ホームページの一番いい場所に「べにしだ」の写真を載せている
 
ガーデンを造る場合に日本の植物は半分は越えている 
日本の野草だけを使っているところもある
本当に気に入っている場所に生えている植物は、基本的には自分が何とかする
虫に攻められても、自分の力で何とかする
その植物が好む場所を用意させてあげる事が大事  
日当たりのいい場所を好むものとか、後は腐葉土とバーク堆肥を入れれば、ミミズが来て、堆肥をたべて出したものが植物にとっていいものなので、栄養を取りやすい状態になっていて、土に穴も開けてくれて、空気が入り込み易い状態になる
細かい作業はバクテリアがやってくれる
肥料をやりすぎると、柔らかくて必要以上に大きい葉っぱを付けて、風にやられてしまう
柔らかいのでむしにも食われやすい  硬いと虫も好かない

多年草は3年ぐらいすると、他の植物を追い出そうとするので、株分けして一番いい部分だけ残して植え直す
イングリッシュガーデン 自然な感じに見えるが、控えめな植物があるので、調整は必要
イギリス、コッツウォルズ 「コッツウォルズストーン」を使った建物群が特徴的な景観 
真似て庭石を造ろうとするが、日本でも昔、自分の地域の石の材料を使っていたか、石なども考えた方がいい
取鳥のとしろこフェアーで庭を造るが、鳥取の石、材料で作っている メイン会場を担当する
石を使って60cmったち上げて、やせた土地にして、鳥取に自生している植物を使う
植え方を考慮 海辺に自然に生えている植物を使っている
鳥取らしさを出そうと、地元の物、使用する  一切消毒はしない
造園する人たちにも、参考になるようになればと思う
輸入が簡単にできるようになったので、似たような景色になってしまっている
新しいもの、珍しいものにはしる時期があるが戻る

昔から見ているものは、懐かしくなる
最近は日本が落ち着いてきて、日本の昔のよさ、建物から、何から、丁度振り返ってきている時期だと思う




















2013年10月15日火曜日

金沢泰子(書家、歌人)      ・娘翔子の微笑みに支えられて

金沢泰子(書家、歌人)     娘翔子の微笑みに支えられて
昭和18年千葉県の生まれ  幼いころから習字に親しみ、明治大学に進んでから、本格的に書の道に取り組まれました
42歳で翔子さんを出産、52日後に翔子さんがダウン症であることを知らされ、生涯で最も深く辛い絶望を持ったと日記にお書きになっています
金沢泰子さんは、奇跡は起こらず翔子は今でもダウン症ですが、娘の無垢の微笑みが、私の心に奇跡を起こし、暗闇から光を見つける事が出来ましたと、お話になります。
泰子さん、翔子さん親子は如何にして闇を脱したのでしょうか。

翔子さんは今年、28歳、母の指導で5歳で筆を持ち、10歳で般若心経を書き、20歳で個展を開くなど、才能は順調に開花しました
去年の大河ドラマ、平清盛の題字を書き広く知られる様になりました
翔子さんは各地で席上揮毫を行っていますが、代表作の一つ 、風神雷神は、京都の建仁寺で俵屋宗達の屏風絵、風神雷神と並んで展示されました


東京国体の開会式  5m四方に「夢」を書く    25kgの筆で翔子が書く
当人はプレッシャーは無かった   良い字だった、初めて書家だと思った
翔子は、私の書道室で子供、障害者に教えている 
翔子の愛、思いやりは私の教えではない  
無心の心から来る愛情みたいなものに接すると、幸せになっちゃうんですね
「奇跡は起こらなかったが、祥子は幸せな人生を送っている」と著書に書いている
奇跡とは、ダウン症よ治ってほしいとの思いだった
神に執拗にせがみました   
私の命と引き換えでもいいから、治ってほしいと思った
奇跡は起こらなかったが、いろんないいことが起こって、翔子もいい子になって、ダウン症が治ると言う奇跡はおこらなかったが、形を変えて奇跡のような事が私に起こったのかなあと思う

勿論書道で評価していただいて、嬉しいです 自分の存在を認めて頂いた。
「爪噛み」が20歳のころまであったが、精神的なものだから止められなくて、20歳の時に個展をやって、皆に褒めてもらって、存在を認めてもらったら、「爪噛み」は治った
知らず知らずに、障害者だから、特別扱いをしていたものと思う
人間て、自分の存在を認めてもらいたいと思うんだなあと、思いました
IQが低いので、凄い特別な不思議な空間を持っている 
科学的検証、社会的常識がない、から幻想の世界と現実の世界との堺がない
偉いとか、偉くないとか、お金持ちとか判らないから、全くそこに差は無い、だから動じない
美しい花があったりすると手をあわしている、石も月も犬も人間も樹も、私の心を動かしていたと、言う事がこの年になって気がついた (翔子の平等観を教えられる)

書道も50年やっているが、翔子に敵わないのは、私は鍛錬し過ぎて、観念的になっている
翔子は純粋な魂から出る線なんですよ、だから感動を呼ぶ
私は形は綺麗ですが、翔子はただ喜んでもらいたいとの想いで書くので素晴らしい
翔子は、今の豊饒な時間を生きている(社会的な欲望がない)  
彼女は不幸ではない、あれができないから不幸だとか、そういったことは絶対ない、今やっている事がやりたかった事ですから
禅とかなんとかで着く境地みたいな、社会的欲望が無いと云う事は本当にその場でだけで満ち足りて、優しさだけが出てくる。
子育て日記を公開したのは、泣きながら育ててしまった、之はとても悔まれたので、泣きながら育てないでという事を、障害者の子を持っている人たちに、伝えたかった
私は知的でないものは美しくないと、若いころから嘘ぶいていた
当時、閉鎖的で隠して育てていたので、涙にくれてダウン症の告知を受けた
告知された日から、苦しさから日記を付けた   
始末しようと思うくらい苦しんだ 
死のうと思ったが、なかなか死ねなかった事を日記の隅に書いてある

泣きながら育てていたが、翔子は涙をぬぐってくれていた 
不思議な微笑みがあった いつもにこにこしていてくれた
苦しい中で、健常者が生れたら絶対できない様な、絆が生まれた
信じれば子供は疑わない   
当時は隠して育てていて、5年間日記を付けていたが、5年で終わった
TVを観ていて、翔子の名前でドラマに出ていて、「翔子っていい名前だね」と言う形で、日記が終わった   
初めてここで立ち上がれた  苦しい時に書いていたので、保育園にも行くようになった
そこからどんどんこの子の良さが判ってきた
何をやっても最下位なんですが、にこにこ喜んで最下位を引き受ける
最下位を守りながら、20歳まで来ましたが、それが翔子にとって幸いでした
ビリでいいと覚悟したので、楽になりました
本を読んでいて、「神はこの世に不必要なものは造られない」というこの一つのフレーズに救われた(覚悟ができた  翔子の役目があったんだと) 
人と比べると、障害者だが、比べなければ、障害者ではない
苦しい人とかかなしい人とかに、心が痛むんですね
翔子は純粋な魂は争いを嫌う、優しくなれる、人間じゃないと思うような優しさがある時がありますね 
「天使が降りたとすればそれは翔子だろう」と本に書かれている

障害者を持つと云う事は、私が死んだ後を考えないといけない 
言葉が不自由なので友達はできないものと思って、 一人の孤独な時間を自分で過ごせるようにしておかないといけないと思って
写経  二人でずーっと孤独な作業をやってきた 書道  それがいつの間にか基本になった
①身の回りを綺麗にしないと嫌われるので、掃除を一緒にやってきた
②料理ができる事 小さいころから過激なほどやってきた 周りから非難されてもやってきた
  今は上手になった TVみてレシピを頭に一杯入っている
③5歳から書道をやらせ、10歳で般若心経を書く 272文字 朝から晩まで毎日書いた
 小学校4年で普通学級にいけなくて、あまりに悔しくて般若心経の作品を作っちゃえと思った
 難しい文字ばっかりだが、朝から晩までやっていた
厳しく指導したりして、翔子は涙を流しながら書くが、一行書くと「お母さん、ありがとう」という
10組 3000文字を書いた、それが基礎になった

能力を信じてあげて欲しい、能力を認めてあげて欲しい  
障害者をもっているお母さんたちに言いたいのは、過保護が一番駄目にしてしまうかもしれない
子育てで一番必要なのは、信じてあげる事  信じることは、親しかできない
翔子が昨年2月に骨折してしまって、1か月入院してしまって、建長寺展に間に合わなくなってしまった  
3月初めまでに書かなくてはいけなくて、「一期一会」と大きく書かせようとしたが、骨折して車椅子なので書かせられなくて、車椅子でも書けるように、急遽千字文を書かせようとした
10日間で仕上げた  痛み止めを飲んで、涙を流しながら書きあげました
出来るよねと、信じてあげる事ですね

今年、中尊寺、建長寺、建仁寺、・・・10月東大寺で個展をやって、一連の作品が終わる
マネージャーがいない中で、いい仕事が沢山来ることができた
いわき市に金沢翔子美術館、銀座の歌舞伎座の裏に金沢翔子美術館、修善寺にも金沢翔子美術館がある  
建仁寺で俵屋宗達の屏風絵(国宝)、風神雷神と並んで風神雷神の翔子の書が展示される
人智を超えた力があると思う、8年間でこれだけの事をできる書家はいないと思う、何かすごい力が動いているとしか思えない、そうすると感謝の気持ちしかない
もし翔子が健常な子だったらここまでこれなかったと思う
もっと競争社会に入っていると思うし、本当の魂は競争でもなく、其時を楽しく生きて、100%の喜びと豊かな時間が過ごせることが判った

ダウン症だと告知された時に、日記の最初に「私は今日世界で一番悲しい母親だろうと」と書いたが、26年経って、二人で風呂に入って全部電気を消して、窓辺に見える月を見ていたときに 、翔子に「幸せ?」と聞かれて、私は「日本一幸せだよ」と言って、涙があふれてきた
障害者を持っているお母さん達に言いたい、絶対いい時が来る
障害者を授かると、厳しい事があるが、死ぬに死ねなく死ぬより苦しい時があるが、なにもがいやな事ではなくなってくる
出来るだけ翔子を観てもらって、大丈夫だよと、大丈夫だよと、之が私の仕事になっている

















2013年10月14日月曜日

上田篤(建築学者)        ・縄文の心が時代を蘇らせる

上田篤(建築学者)        縄文の心が時代を蘇らせる
昭和5年生れ 京都大学、大阪大学、京都精華大学などで、教鞭をとってこられました
昭和45年には大阪で開かれた大阪万博のお祭り広場の、設計を担当したほか、京都の町屋に注目して、町屋ブームに火を付け、各地の町造りに携わってきました
5重の塔の研究をし、超高層ビルの建築に貢献されています
世界の文明に関心を持ち、とりわけ縄文文化の歴史的意味の解明に取り組んでこられました
縄文時代の豊かで平和な暮らし方に、今学ぶべきものがあるのではないかと考えています

縄文時代は桃源郷だったと思う    
1万2000~3000年前から始まっている   1万年続く
縄文時代の1万年は大分詳しくわかってきている(世界史の中でもほかに例がない)
毛皮を着て、やりを持って走りまわっていたような様子をイメージしているのですが、一口に言って野蛮人であると、然し、高度経済成長での開発で、日本中あちこちから遺跡が見つかってきた
縄文時代の生活が浮かび上がってきた
一番問題は文字がないという事  
文字が無いのにも関わらず、生活様式はかなり進んでいた
文字中心の歴史と言うものを見直さなくてはいけないと思う
国家が無くても、衣食住が1万年間ほとんど変わらず続いてきた

大阪で昭和45年に万博が開かれた  
最初広場を造ってくれと言われた(お祭り広場)
万博ではかつてないこと、工業製品を売るためのものだが、工業博、しかしお祭りをするという事は文化博になちゃった
丹下健三さんと私が受け持つことになる 私は地上の建物、地下の建物を担当、丹下さんは空中の、大屋根を造った(幅150m、長さ300mの屋根を6本の柱で支える)
真中に穴があいてるが、ここに岡本太郎さんの彫刻を造ることになる
岡本さんに之は何ですかと言ったら一言「これは縄文だ」と言った (太陽の塔)
それが私と縄文との出会いだった

日本の住まいを勉強してきたが、日本の住宅は外国の住宅と、どれも似ていない特殊な住宅
日本人は靴を脱ぐが、ほかは土足で入ってくる
家の中に日本では神棚、仏壇がある 
神様、仏さまの住まいをかたどったもの
家の中に教会のミニチュアとかは飾って無い  
これらが長年の疑問だった
結論を私が出したのは、日本の住まいは神様の住まいで、そこに人間が入り込んだのではないか、とおもったが、では神様は何だという事になると判らなかった
20数年前、沖縄へ行って古い家の調査をしていたときに、住まいの一番奥に、炉があって、炉の管理を主婦が行う
まさに神様のように扱っている 火の神様だと、太陽からやってくると、太陽の子其れが火だと、その火の神様を祭るのが主婦の仕事だという

風習は沖縄で何百年の昔から続いていた   
「おもろそうし」歌集 万葉集の様なものがある
歌に火の神様の歌が出てくる   
2500年~2700年前に稲作が入ってくる    
稲作以前が縄文時代、その後弥生時代になる
沖縄は縄文時代が遅くまであった  
沖縄は縄文時代の風習なんだなあと、思った

追い求めていた家の神様が、縄文時代にひょっとしたら、本土の家でも縄文時代にまでさかのぼるのではないかと思った
神棚、仏壇  神様は聖なる世界 そこに俗なる人間が入り込んで、一緒に生活して、無礼千万な事は聖なる世界では許されない
聖と俗は全然空間が別だと、言う事ががーんとしてある
日本は家の中が聖と俗がごちゃごちゃにあるが、決していい加減にあるのではなく、しっかりとしたシステムがある
家にいろりがあって、いろりの奥に聖なる何かが置かれているケースが多い

入口は南側に在り、玄関は特殊な扱いをしていた
玄関を入った真下のところに不幸にして死んだ子供たちが、埋葬されているケースが多い
玄関に当たるところは特別な意味があると思われる
縄文時代は母系制社会だった   
主婦は炉の灰も一緒に持ってきている(実家の灰)
日本の古い時代も、母系制社会であったかもしれないと思うようになった
世界中の住宅の調査をして、アメリカインディアンの住まいを調べた
イロッコイ族について詳しくわかってきた 
縄文とまさに同じ、本格的農耕はやっていない、文字も無し、然し非常に豊かな生活をしている  小さな集団
家は大家族 血縁社会でお互いの結束が固い、内部で争いがない
若い男女には伴侶がないので、男はほかの家に求婚に出かける(つまどい

生れた子供は、全部その女の家の子供になる  
男は滞在しても、短期間(自分の子供かどうかわからない) 父は確立していない  
母系社会では父は存在しない
縄文時代もそうだったのではないかと思う  大家族だから平和に過ごせる
白川村 合掌作りの家 大家族 30~50人が住んでいる
白川村を調べると、縄文時代までさかのぼる 縄文時代から住んでいる
母系制社会だから、団結して、争いがない 平和に1万年続く
弥生時代には縄文時代より全然短かったのに、戦争がいっぱいあった
縄文時代はテリトリー争いがなかった
食生活は 草を取る、木の実を取る事は簡単だが、大きな魚をとる、獣を取ることは大変

やな、うけ 急流に段差を作っておいて、駕籠のように編んだものを置いておいて、駕籠で捉える
落し穴を作っておいて、獣を取る、知恵仕事をして食料を取っていた
(弓矢などの狩猟方法もあったが)
季節ごとの食料があって、貯蔵しておく必要がないので、他の大家族、他の人々が攻めてこない
争い事は無い 
採集形態 原始的に思われるが、知恵で以って人々は生活してきた
大体半径3kmぐらいのテリトリー 「里」と呼んでいるが 女の人でも自由に動ける範囲、四季折々の食料を取って生きていける 

採集→狩猟→農耕→工業→情報産業  と言われるが、採集は知恵のいる仕事 
父系制は 古墳時代から 奈良時代は父系制確立(実態は母系社会なのではと思う)
正月のおせち料理  山海の珍味 ほとんど縄文人が食べて居たものと同じ
餅も里芋の餅があったといわれる
貝は何時でも食べられるので、いつも取っているかと言えば、そうではなくて、大方4,5,6月ごろに食べられている なぜなら、一番おいしいから、旬だから
ご来光を拝む 縄文の信仰   太陽信仰はどこにでもあるが、全然違う 
日本では女たちが太陽を観測していた、1年の季節が判る 
天候を観測 太陽を実用の道具にしていた

Jappan Jを大文字で書くと「日本」 jを小文字で書くと「漆」の事
漆の国と言われているが、縄文遺跡から漆が発屈された 
5000年、6000年、8000年前の物が発屈されている
漆の技術は縄文時代の技術と今と変わらない技術だった
鍋物料理 火にかけて皆で共通の鍋から突っつく  火の信仰の残り
大切なことは、父性原理と母性原理の違い
よい子は我が子  誰に後を継がせるか・・・父性原理
我が子は善い子  全部平等 優秀だろうが、不美人であろうが差別しない・・・母性原理
父性原理は競争原理になる  進歩、淘汰、争いも起きる
母性原理は平等原理   平和がくる
奈良時代は律令制度が入ってくる、明治維新では西洋の父系制度がドンと入ってきた

父性原理で社会は進歩するが、動乱、戦争が起きる  
弥生時代は戦争が多かった 奈良、平安時代 も同様  
鎌倉、江戸時代は母性原理が働いた時代
明治で戦争がまた起きるが、復興、高度成長経済、バブルを経て、父性原理(競争原理)から、また母性原理が働き始めた様に思う











 









 


















































  

2013年10月13日日曜日

山本麗子(料理研究家)      ・移住20年、自然と人とのおつきあい

山本麗子(料理研究家)  移住20年、自然と人とのおつきあい
山本さんの両親は東京大田区で大衆食堂を営んでいました
子供のころ麗子さんの周りにはたくさんの料理がありましたが、特にお父さんが作る中国料理が、大好きだったそうです
今から20数年前、離婚を期に住みなれた東京を離れ、長野で新たな生活を始めます
小高い丘の上に建つ家、その小道にはほうき草が植えられて、ほんのりと色ずいていました
移住20年、自然と人間のお付き合い 伺いました

桜が好きで、桜を家の周りに植えて、100本になる
生徒が遠いところから来る(岡山、関西、福島など)    
日常の家庭料理を教えている 
家庭も歳をとってくると、人数が少なくなるが、食べる人が一緒にいれば楽しく食べられる
楽しい食事は?→先ずは友達を作ること、誰かを呼んだり、遊びに行ったりする
ほめ上手になる  うんと褒めて帰ってくる   
其れがエネルギーになって頑張れる
東御市(とおみ)に住んでいる  
田中駅からはタクシーで1500円の距離(歩くと3時間かかる)
移り住んで22年になる   
最初この場所を案内されるが、藪の中を上がっていって、上がり終えたところで景色の良さに感動して直ぐにここだと決めた

松は残した方がいいと、言われ、桜は毛虫が出るので取った方がいいといわれたが、桜も残してもらった (6~7本)
その後毎年 5~6本植えてゆき、現在のように100本になってしまった
自分の土地は600坪  4歳から東京にいたので、東京は40年近くなる
建物を含めて、1000万円足りなくて、銀行と折衝して、何とか借りることができた
玉村豊男さんの尽力もあった  
10年ぐらいで何とか返済できた
最初 お菓子教室を開く 2年 卒業した人に料理を教えるようになり、その後料理が主体になる

大衆食堂をやっていたので、見よう見まねで、小学校の時から厨房に入って、手伝っていた
東京で15年お菓子の教室を開いていた
信州に来たら、食材の購入が東京とは違って、不便でこの土地の食材を使った方がいいと思った、其れが全国に広がるものだと考えた
身近なもので料理をすることに変更した     
土にあった野菜というものがある
ここは粘土土 水分が土に入っていかないので、味の濃いものができるので、ジャガイモなどは
いい  
適さないものは10年ぐらいかかって、土地改良をしてきた(ニンジンなどは最初味が濃すぎた)

ここで生活してゆくには何でもやらなければいけないと思って、新聞のコラムの投稿にしても、話があった時に、なんとかやってきた
地元のTV局、FMにも参加させてもらったりしている
地域の中に入り込まないといけない
現在120名がいる  2週に分けて1週目は木、金、土  2週目は金、土 でこなしている
笑顔で作らないと旨くはならない
ここに来る前に離婚して、一人になり、新しい人生をもらったんだから、もうこれっ一人で楽しく生きていこうと決めた
頑張れば自給自足ができると思った  
自分のキッチンを是非持ちたかった
一大決心をして、信州に来ようと思った

離婚のときに自分が大嫌いになっていた 離婚は自分が決めたことを壊すことだったので
そのときは幸せな顔をしていなかった
あなたは夢がかなってここにきて、楽しい顔をしないと、人はあなたが幸せなのかどうか、応援してくれた人が山本麗子が幸せで楽しくやっているって、思わないとそのひとたちに申し訳ないでしょうと言ってくれた人がいた
笑顔でいなさい、笑顔でいれば幸せに成れるからと言ってくださった
笑顔の練習をした  
いろんなことをふっ切ろうと、夢がかなったんだから、幸せそうな顔をしないと駄目だと、笑って暮らすようになったら、半年ぐらいたった時に笑顔が素敵だねと言われた
自分しか幸せにしてくれる人はいない
緑をいつも観ていたいと思い、窓を一杯作った
料理離れをしている若い人に、朝ごはんを子供に食べさせてあげるようにと話している





























2013年10月12日土曜日

露の団六(落語家)        ・寄席も社会もバリアフリーで行きましょう

露の団六(落語家)   寄席も社会もバリアフリーで行きましょう
55歳 神戸市東灘区生れ 大学在学中に師匠 末野五郎さんに入門 上方落語で30年以上活躍してきました
そんな団六さんが、ラジオ番組や、エッセーで折に触れて語ってきたのが、2歳上の兄、紀男さんのことです
紀男さんはダウン症で、知的障害や心臓の合併症があります
昭和30年代、心臓病などの合併症のあるダウン症の子供の寿命はかなり短いと言われていました
しかし、兄紀男さんは明るく前向きな両親、元気に駆け回る兄弟、近所の子供たちと成長してゆきます
知的障害児の為の通園施設から、当時受け入れを始めた公立の養護学校へと進み、一人で電車通学をし、作業所で働くまでになりました
団六さんは来月、11月23日、大阪北区の天満天神繁昌亭で知的障害、発達障害の人が持つ療育手帳を持参する人は無料と言うバリアフリー寄席を開きます
障害がある兄と共に歩んできた、団六さんの、50年あまりの道のり、兄弟児としての想い、団六さんが考えるバリアフリーとは何なのか、伺いました

県営住宅に住んでいた 祖父母が隣りの棟に住んでいた 
昭和31年生まれの紀男さん 33年生まれの私  
兄は泣かない 離乳食も食べない、ハイハイもしない  
個人差があるとのことでほったらかしにしていたが、私が生まれて、9か月で私が歩いた
身長も私の方が高くなって、私のお古を2年上の兄が着ているようになった
おかしいと、神戸大学の病院に行って、血液検査をしてダウン症と判定された
寿命が長くないことを言われて、3日ぐらい泣いた

両親もそこで開き直った  
運命や、寿命や、家には弟がおるので、夢をかなえてくれると考えたようだ
物ごころついてくると、兄と遊ぶのではなく、友達と遊ぶ方が楽しくなった
幼稚園に通う時に、兄が暴れる  
グラウンドで遊んでいたら、兄が入りたくて門扉をガーンと叩くが、中に入れるわけにはいかなかった(意志表示をする)
小学校に入る時に、就学通知が来るが、母親は1日でもいいから小学校に入れさせたいと、学校に連れて行ったが、先生からは無理と言われた(何かあったら困るといわれて)
芦屋の三田谷(さんだや)学園と言うところへたどり着いたが、それまでに2年掛かっている

学園ではわがままは許されない 
嫌いなものも食べざるを得ず、身長、体重も急に増えてきて、健康になって行った
段々兄だという事を判ってきて、私を叩いたりするようにもなったりした
下街だったので周りはあまり偏見もなかったし、世話も焼いてくれて、私に関していじめは無かった   
兄は神戸市立青陽東養護学校分教室に入れることになる 
スクールバスで通っていたが、慣れてきたら自力通学をやってみませんかと、先生から言われる
電車通学ができるようになる
父親は大正15年に生まれる 父親は兄には優しかった
万博へは兄を連れてゆくとパニックになるので、私を連れてゆく
兄が物を忘れたりすると、私が必ず怒られた
父は器用で、左利きだが両手で一緒に書けるので、ガリ版で刷って、配布物を作ったりした
高校を出てすぐに、父は亡くなる  そのあと相次いで、祖父母も亡くなってしまった

内弟子になって、私がいなくなって兄は精神的におかしくなった
医者に観てもらったら、アルツハイマーになっているようだと云う事で、今の施設に入っている
見舞いに行ったときに、昔は握り返したが、今は握り返さないようになった
神戸大学教育学部を卒業後教員を目指す
家から通える職業はどうかと言う事を考えて、教員を目指そうとした
結婚に際して、兄のことを言われたらどうしようと考えたらどうしようと、考えていた
両親に結婚のお願いをしたら、落語家だから、駄目だと反対されたが、兄の事ではなかったと判って、勝手に入籍、勝手に結婚した

障害のある兄と暮らしてきてどうか?→障害者の会での話、子供のころは判らない、結婚で悩む人は多い    転勤のある人などは厳しい見たい
我々、健常者にとって便利なものは、障害者にとっても便利
バリアーフリー寄席、療育手帳のある人は無料   出来れば父親も一緒に来てほしい
誰にでもわかるような話を考えている
映画、寄席等は気兼ねするので、行かないので、この場所は何もしてもいいからという事でやる
2年前、アフリカの太鼓を持ってきて叩くので、そっちで叩くのではなく、上がってこいと言って、一緒に三味線などでやったこともある
誰にでも判る簡単な落語をして、終わった後に、来た健常者の人と、知的障害の人が抱き合っていた、それでいいんじゃあないの










































2013年10月11日金曜日

澤田長二郎(津軽鉄道社長)    ・「おらどの鉄道」ピンチがチャンス

澤田長二郎(津軽鉄道社長)    「おらどの鉄道」ピンチがチャンス
澤田さんは昭和15年 青森県五所川原市の生れ 73歳 
一橋大学を卒業した後、大手商社に就職、定年退職後は関連会社の社長を務めていましたが、2004年、平成16年63歳のときに、故郷の五所川原市にUターンしました
それまで縁のなかった津軽鉄道の社長になりました
津軽鉄道は青森県の津軽半島の中心の五所川原から、半島の西側を北上する全長20kmのローカル鉄道です
地域のモータリゼーションの進展などで、乗客が減り続け、長年厳しい経営状態が続けていましたが、イベント列車として有名になったストーブ列車を初め、トレインアテンダントの導入など特色のある鉄道作りを打ち出して、経営危機を乗り切ってきました
自分たちの鉄道 「おらどの鉄道」をどう経営してきたのか、そのカギとなるのは何だったのか、伺いました

稲の黄金色、日本海の方に落ちて行く夕日、のコントラスト 非常に綺麗だと皆さんに喜んでもらっています
ストーブ列車が有名 12月1日~3月31日までと成っています
入社当初は、板ガラスの輸出が主体、その後いろんな商品を扱ったり、いろんな分類の取引をやるという事で広がって行ったが、雑貨派でした
海外はタイ、バンコック、オーストラリア 通算で11年間
定年退職後、関連会社 板ガラスの原料になる砂の開発員をやっていた関係で、日本で国内販売する会社でやっていた
45年ぶりにUターンする (選択肢は3つ有ったが、妻の要望もあり、故郷に帰ってくる)
1年間は何もしないで、やっていたが、調子が狂うようになってきて、鉄道の話があり、1年経たないうちにこの道に進むようになった

不安はあった 鉄道とのかかわりは無かったので
平成9年まで、国の方から損失を補助するシステムがあったが、変わって、補てんが無くなり、累損が6000万円強となり、債務超過になった (資本金が5000万円)
今後どうしたらいいのか、個々に当たって話をした
どうやってお客さんを増やそうか、其れが収入増につながるので、どうやってコストを下げてゆくかを最初始めた
地域の方に現状を知っていただく  
地域の人が鉄道をどういう風に思っているのか、続けてほしいのか、辞めてしまっていいのか、を情報を聞いた(地域との情報などの交流)
2006年津軽鉄道サポーターズクラブを創設 最盛期は700名のメンバーが集まる
いろいろ検討した  
津軽鉄道単独で新しいアイディアが出るが、人出、お金がかかるのでなかなかできない

アイデャを深堀をする、人的な面、でいろんなことがやりやすくなった
①サポーターズクラブが中心になって地域おこし  観光資源の見直し
②鉄道に乗って懇親会  イベント
③サポーターズクラブができて他のいろいろなところとの連携ができてきた
鉄道をひとつの核として、地域を結集する力になったのかと思う
津軽鉄道の活性化→地域の活性化 
ストーブ列車 鈴虫列車 とかアイディアを出しあってきた
ストーブ列車はずっと前からあった 歌声列車、螢列車、お茶会列車、ライブ列車等
如何にお客様を増やすか、いろんなイベントを続けて行くしかないと思った

一過性ではあるが、積み重ねでいかに増やしてゆくか、努力をしてゆくことしかないのかなあと思う
新しいアイディアを出してゆく  いいアイディアには賞を出す
あまり否定しないように、出来るようにするためにはどうするかと、検討する
アテンダント  飛行機で言うとスチュワーデスの様な役割、トレインアテンダント
沿線の観光の案内を車内でしたり、年配の方の乗り降りの手伝い、県内、県外のイベントの有った時に出かけて、地域を紹介する
当初7人、現在は6人でやっている  
「津軽半島観光アテンド」という新たな名前にして活動している
津軽弁が伝わりやすいようにして、基本は津軽弁でやっている

津軽鉄道が漫画になっている  最初写真集が出た 鉄道の良さを情報発信 
その後漫画「ちゃぺ」ができた  津軽弁で「小さな子猫ちゃん」
風景、車内の出来事等を展開する  笑いあり、涙ありの評判が良かった
「絆」 地域鉄道  地域の人が必要としない鉄道だったら意味がないので、地域の人たちと一緒に盛り上げてゆくのがローカル鉄道のいいところだと思う
北海道新幹線はあと2年半ぐらい  
津軽も駅ができるので、最後のチャンスとして何とか生かしていきたい
津軽半島の観光 北海道新幹線とのかかわり 今別からの二次交通として大事になる
DMV  線路があるところは鉄道として車輪で走って、線路が無くなるとバスの様になったりする交通システムを導入したいと思っている
広い範囲の交通手段として、有効利用ができると思う

青森が通過点になってしまうという危惧があるが、そうならないように、ピンチをチャンスにすることを考えてゆく必要がある
心の持ち方一つだと思う
もうちょっと若いころもっと勉強していればよかったと思うとか、反省ばかりですね
楽しくやりたいし、楽しくやれば長く続く














































2013年10月10日木曜日

青島 広志(作曲家、指揮者)    ・オペラ王ベルディーの考えた老後の幸せ

青島 広志(作曲家、指揮者)      オペラ王ベルディーの考えた老後の幸せ
10月10日はイタリアのオペラ王、ベルディーの生誕200年になります
ベルディーのオペラ、椿姫、アイーダ、リゴレットなどは今なお世界中で、演奏されている、人気オペラです
東京芸術大学出身、作曲家、指揮者、ピアニスト、コンサート、イベントなどのプロデユースなど、多方面で活躍されている、青島広志さんに、ベルディーオペラの特徴と、彼の作品の楽しみ方などについて伺います 

オペラの素晴らしいものを27作、書いている  
オペラは1曲が3時間、4時間かかるし、楽譜にすると、3時間分は何万ページにもなってしまうぐらいに多いので、人間業ではないなと言う事になる
最も早くかけた人で、モーツアルトがいるが、オペラは30作あるが、ベルディーの方が今現在毎日上演されている(世界中で)  モーツアルトの場合は5作程度
ベルディーは物凄く有名な作品を沢山作っているので、オペラ王と言われる
ワーグナーもいるが全作で、10作ぐらい この人は台本も自分で書いている
西の方はベルディー、東の方はワーグナー がオペラ王

1600年にイタリアでオペラができた  イタリア語がオペラに適している
オペラだけを書いている人は昔からいた
ベルディーは内容が濃い 私は若いころはベルディーは好きではなかった
ここまではらわたを見せなくても、いいんじゃないかと思っていた
(出来るだけ口をあける 臍のあたりまでが楽器のように、どんな後ろまでも聞こえるように)
藤原義江先生 日本のオペラ界の草分け、テノールの声 ベルディーはテノールにいい歌を書いた
日本人はメロディーに弱い、心を動かされる  
歌謡曲はほぼメロディーでしか作られていない
アリアだけで感じる  以前は全部の上演は無かった
作品を全部見るようになったのは、かなり後の話で、それに耐える人と耐えられない人がいて
私は耐えられなかった
外国人はあれが普通なのでは 

歌舞伎と似ているように思う ベルディーはほとんど歌っている
椿姫は主人公が結核だが、物凄い声を張り上げて歌っている(リアリズムではない)
イタリア人はこういうものだと云うものを持っている
ベニス 船頭が歌う  ご飯を食べに入ると、物凄い大きな声でカンツオーネを歌っているし、私などは静かにご飯を食べたいと思っている 小さい声で歌ってほしい
他の国はうるさくない シャンソンとか
イタリアは歌、言葉と国民性があっていると思う
気持ちが高まってくれば、いまの音程関係は非常に広がってゆく ベルディーは一番顕著
死ぬ場面まで大きな声で歌っている

ベルディーは歌のハートがいい 自分で勉強したと思われる
ベートーベンの曲を聴いてよく勉強したと思われる
ベルディーは素人の家に生まれた バッハは家系が全部音楽家 ほかにも
ベルディーは音楽大学を落ちている 
ピアノが下手だった ちゃんとした先生に教わっていなかった
基本ができていなかった 人差し指がマムシ指 へこんでしまう人がいる
ベルディーはそうだったのではないかと思う    和声学ができなかった人ではないかと思う 
ベルディーは力強さがある

「行け、お黄金の翼に乗って」
旧約聖書の物語
イタリアはいろんな小さい国に分かれていたと思う  
これを歌って統一しましょうと、戦争の時はいまは苦しいけど戦争が終わったら、素晴らしい明日が待っているんだと、皆で歌っていたということで、第二の国歌と言われている
ベルディーは国会議員になってるが、何年間と自分で決めてやっていたので、政治には凄く興味を持っていた人ではない
慈善事業に力を入れたが、国会議員になった後の頃の話です

歌えなくなった人たちへの援助をした(現代風老人ホーム)
3時間の物を書くには3,4年はかかると思う
イタリア人は同胞にはいい  
私はオペラからこの世界に入り込んだ もともとは少女漫画家になりたかった
病気の為に足が悪くて、歩けなかった  ピアノを習ってた 
家には足踏みオルガンのようなものがあり、祖母がもっと弾いてといわれて弾けるようになった
ピアノを習いに行くと、少女漫画があり、順番を待つ間に其れを読んでいた
少女漫画家になりたいと思うようになったが、中途で諦めた
ピアノを勝手に弾くような事が好きだったが、先生はそのような人は作曲家になると良いと、捨て台詞のようにいった
作曲に行ったら、先生がしつこく教えてくれるので、芸大の作曲科に入ってしまった

大学院に行ったが、あまりにも難しいことを言うので、学校が嫌になった
林光先生が自分がオペラの指揮をやるので、一緒に来ないかと言われた
オペラの仕事をするようになった    オペラを4年もやっていたので、オペラを書いて辞めようかなと思ったら、遠藤周作先生の「黄金の国」の台本があって其れに曲を付けたら、素晴らしいといわれて、大学院に行って、2時間半のオペラにして、大学院を出た
東京都の芸術祭の主催公演になって、文化会館の大ホールで2日間やった、其れがオペラの始まりだった
今はオペラを演出する方が好きです
演出をやると、どんな作品を書いてくれてもこっちの思うようになる
作品に死ぬと書いてあっても、生かしてしまう事も出来る

オペラに行けば、全部自分で好きにできると思った 音もかける、衣装もデザインができるし、生かすも殺すも自由にできるので
ワーグナーは其れに近い  神話を自分で作ってしまった
歳を取ってくれば取るほど、周りの台本作家は若くなるので、いろいろと命令している
音楽の世界で歳をとることは、悪いことではない
指揮者は若いうちは物凄く身体を動かすが、80代になってくれば皆がやってあげる
ほんの少し手を動かすことで、この人はどういう風にやってほしいとくみ取るので、この世界は歳をとっていられる

ベルディーは87歳まで書いている  日本人ではそこまでは書けないだろう
初めは判りやすいものを観ることが、いいと思う
子供にもわかるような作品 魔笛とか  舞台は現実味を帯びているものをやってもしょうがない
有名なメロディーを覚える→その曲を中心に聞いてゆく
日本語で或る程度歌ってもらうもの  字幕スーパーを観ると、演技者が観にくくなる
ベルディーは、前史、何故今までこうなっていて、こうなっているのかという事を、ほんのちょっとで説明するので判りにくい  ここが問題です

慈善事業とか、やったことと、作品は別のものだと思う
ベルディーは嫌な部分もあるし、好きな部分がある
「自分には経験できない様な人生が舞台にはある」 と林真理子先生はいう
入れこんじゃった方がいい 女の人は入れこみやすいと思う
主役の人に自分を重ね合わせることができる     男は冷めた目で観る
ベルディーは迫力がある ヨーロッパの国力が有った時代の曲 オーケストラの人数60~80人で
モーツアルトは30人ぐらい  
物凄い劇的な音がでる  噴火、雷 凄い音が出る




























2013年10月9日水曜日

河村都(幼児教育アドバイザー)    ・チャレンジ人生から学んだもの

河村都(幼児教育アドバイザー)    チャレンジ人生から学んだもの
旺盛なチャレンジ精神で数多くの職業を経験してきました
都内の幼稚園で、6年間教諭を務めた後、26歳のときに、NHKのお母さんと一緒に、の絵のコーナーでお姉さん役として、レギュラー出演しました
その後、結婚、出産、子育てを経験しながら、大学の非常勤講師を務めたり、一般の会社に入って人材育成や、社長室長をこなすなど、さまざまな仕事をこなしてきました
その間、5年にわたって母親の介護にも、携わってきました
6年前に、これまでの経験を生かそうと幼児教育の会社を立ち上げて、現在に至っています

基本的にはお母さん方の講演、幼稚園、子供達への保育園の先生たちの研修、オリジナル知育教材を使っての指導、お母さん方のなやみを聞くママズトーク、を中心に仕事をしている
今の小さな子は、とても重い荷物をしょっている
重い荷物は、親の期待、夢、希望だったりで、子供たちは動いている
情報過多の時代で、親たちは、いろいろなことに振り回されていってしまっている
情報の交通整理、子供たちの荷物の軽減に努めているが
祖父母の期待まで背負っている
子供を育ててよかったと思われるには、どうしたらいいかという事を念頭に考えてやっている

6年間幼稚園の先生をする(年少)   お母さんたちが年上で、怖いんだなあと先ず思った
プラスのオーラを持っている母親もおり、勉強になった
NHKのお母さんと一緒のレギュラーになる   
クラスの受け持ったお母さんが、NHKのお母さんと一緒の初代のプロヂューサーだったんで、アルバイトをしないと誘われた
オーディション番組に出る(実は試作番組であるといわれていたが)
飯沢正、有名な劇作家のもとで、人形劇にして、人形を通して、TVと子供たちとの橋渡し役をこなすお姉さん役だった(2年間)

子供番組なのに、あれだけ多くの人が影で働いているとは、スタジオに行って初めて経験した
こまかい事まで手抜きしないで、番組を作っていくんだなあと、本当に驚くことばかりだった
最初3分間の絵の紹介をするのだが、失敗すると、全てやりなおすことなるので、緊張してやった
「お母さんと一緒」に出ているときに、結婚をして、大学の非常勤講師をする(表現教育)
どう伝えるかの手段が、学校の授業ではやってこなかったので、子供たちの先生になるという事は、そこが重要なところなので、表現教育の授業だった
子供が2歳になってから非常勤講師をしていた    好奇心が旺盛なタイプです
25年間 会社で働く  仕事は司会、仕事が増えて、いろいろ経験をする
基になるのは人と人との人間関係 大人になって教えるのは難しいことだと思った
如何に高学歴であっても、小さなときから、培ってきて身についてきたことなんだんなあと感じた
幼児教育の大事さを痛感する  
原点は幼児教育なんだと25年間のうち、最後の3年間に思うようになった

今子育てをしている親たちに伝えたかった 2007年の1月に会社を辞めて、行動を開始する
幼児教育の会社を設立する
母親が寝たきりだったので、介護で一番大変な時期でもあった
一番好きな言葉が 「前に前に」 前には必ず未知なものがある、そうすると、トライしたい
辛いことは受けとめ方次第だと思う
誰もが歳をとってゆくので、年取ってゆく姿を見て行く、介護してゆくのは、私の娘に対する
子育ての基本になるのではないかと思った
口で言って教えるものでななく、いろいろ見て、人への優しさを育んでいくのではないかと思う
今は核家族が多くなってしまっているが、お年寄りの存在は凄い大事だと思う

私は子供にはあまり期待していなかったので、どんなことでも受け入れることができた
生れついた性格はないと思っている 
家庭環境、友達、就いた職業などで培われるのではないか
幼児教育をやっていると、子供教育と大人教育はイコールになるなと思う
幼稚園の先生は若い人が多い 
先生が逆に母親から言われたりしてしまう場合があるので、そういった研修もしている
ハッピートライアングル  子供-両親-先生方  
三角形がどうやって流れていくか、と言うと、コミュニケーションが良いと、すごく流れが良い
トライアングルが綺麗な音を出すが、コミュニケーションが悪くなると、鈍い音しかでない
コミュニケーションをよくして、トライアングルの綺麗な音を出すようにして、その綺麗な音を子供たちに聞かせてあげたい
会社でも同様 私-部下-上司  このトライアングルをよくしてゆくことが大事

おもてなし=ホスピタリティー  相手をすこしだけ思いやる、其れを育ててゆく
ホスピタリティーマインド→相手の心をすこしだけ思って、自分で何かを行動する
子供たちの教育の中には、生きていない様な気がするので、私は伝えたいと思っている
人生、生きていけばいくほど、いろんなやりたいことが、目に入ってきてしまうので、一つずつトライして、積み重ねていって、その経験を子育てしている大人たちに伝えて、横に更に広げてゆく、子育て支援をもっと深くしていきたいと思う
歳は取るのではなくて、積み重ねるものだと思う
経験をどうやって生かして、これからの人たちに伝えてゆくかが、重要だと思う

































1974年


2013年10月8日火曜日

梶野清子(92歳)        ・原爆を体験して(戦争平和インタビュー)

梶野清子(92歳)     原爆を体験して(戦争平和インタビュー)
広島で被爆し、現在松山市にお住まいの、梶野清子さん
勇さんと結婚し、娘さんの弘子さんが生まれた1年後に昭和20年8月6日を迎えました
被爆したあの日の光景とともに、被爆者、母、祖母として原子爆弾が遺伝子に刻まれた事実に、苦しみ悩む人生を過ごしてきました
終戦から68年にわたって、一切誰にも語らず、記憶の奥底に封印して生きてきた、梶野さんの92年の人生を伺います

8時ぐらい前に警戒警報があって、斜め前の防空壕に入ったとたんに、おじいさんがメガホンで空襲警報が無くなったので、出ておいでと言われて、家に帰ったところに原爆が来た
爆心地から1km 弘子は2階の梁にぶら下がっていた
弘子を抱っこしたまま、裏の川の方に逃げて行った  妊娠していた(7カ月)
川上の方から真っ黒になって、雲が下りてきた 其れは怖かった
大きな黒い雨が降ってきた そんなに長くは降らなかった
段々引き潮になって、人がどんどん流れる、小舟に人がぶら下がって、手が離れてそのまま沈んでゆく、その光景をこの目で見ました
飛行機が錐揉みをして落ちてゆくのも観た   
橋が木の橋で、焼けては落ちて行った
家が焼けた火の粉も飛んでくるので、弘子を抱っこして水に潜る

その時に不思議なんですが、私を起こして抱きしめてくださった人がいた
どなたかはわからない 引き潮の時にはいなかった 流れなくて済んだので助かった
そういう奇跡を体験した   避難場所に行った
裸足なので、足が焼けてしまっていた(太ももも身がそげる)
道行く人はほとんど、男か女か判らない 
倒れた人はお腹の被爆のところが腐って、白くなっていて、何かと思ったらウジが湧いていた
観ただけで胸が張り裂ける、地獄のような光景だった

主人はリュックに詰めて、お母さんをお見舞いに行こうと思って、電車に乗った処を原爆にあった
弘子は何も言わないで、息だけはしていたが、まさに死んだような状況だった 
トラックに乗せてもらって、北部の方の壬生に避難した
その時は肉親は亡くなっていることは知っていた
弘子は壬生に行ってからお医者さんに行って、亡くなりました  1週間も持たなかった
その時に私も倒れて、そこからは弘子を見ていない
主人が弘子を山のどこかで、薪で燃やして、骨を取ってどうかする事も知らなかった
主人は聞くなと、一切言わなかった
おなかの赤ちゃんをちゃんと産まないといけないとの思い
500~600gの小さい赤ちゃんだった 強く生きてもらいたいと思って「剛」と言う字を付けた

康子(長女)、ひろみ(次女)をもうけることができた
疎開先では、生活ができないので、戻ってきた
松山での暮らしは、あの人は原爆を受けているので、原爆がうつるよ、とか、病気がうつるとか、パーっと自分のうちに逃げてしまう
其れは悲しかったですね、あんな悲しい思いは無かったですね
店に行っても、買いたいものを売っていませんと、言われたことがあった(目の前にあるのに)
被曝すると髪の毛が抜けると云う事で、髪の毛は、かつらなのとかも言われた、そんな悲しい思いは何年もした
貧血が多かったし、身体が痛いこともあった
力仕事をした翌日は休まなくてはいけなかった(身体が動かない)
更年期の様な症状(34,5歳の時)で、頭がおかしいのではないかと、言われて、精神病院に行ったほうが良いのではないかと医者から言われたりもした

今だに腹が立つのは、ABCC 外国に人が検査するとか、身体を見てもらったらいいといわれて、広島に行ったら、入ったとたんに、着物を全部脱がされて、パンツまで脱がされて、ガウンを着せられて、変な部屋に入れられて、どうも協力有難うございましたと、追い出された
被爆データを取るためのものだったが、説明は一切ない
被爆してから何十年もすると、被爆症状が伝わってくる
怖さがあるから、其れを聞くと先先寝てしまうので、いつかは同じようになるのではないかと思った
下の子が、今日は母が死ぬんじゃないか、今日は母が死ぬんじゃないかと思っていたようで、日記に記載していた
新聞か、ニュースで子供たちは自然と両親が被爆したことを、知ったようだ
(私からは一切言わなかった)

「剛」が人工透析をしなくてはいけなくなった 被爆が原因ではないかと、母親として悩んだ
31歳で亡くなった   
口で言える様な母親としての悲しみは、誰にも話したくない、一番悲しい事ですね
剛についていきたかった  我が子に先立たれるくらい、悲しいことは無い
剛と同じぐらいの人を見ると、あの人は剛ではないかと、思ったりする
被爆二世 康子さん、ひろみさん 疲れ方が普通ではないなと、心配する事はある
ひろみの男の子(長男)は白血球が、3000あったよと 言われて、普通だったので涙が出てきた
被爆3世まで、影響するかどうか、いつも心配してきた

福島第一原発→こんな苦しみは日本人の皆が味わう事は一番嫌
今の被爆と、私たちが受けた被爆はどのような違いかは、判らないので、とやかくは言えない
戦争だけはしたらいけない それ以外にないですか  戦争は一番悲惨
孫、ひ孫が戦争に駆り出されることは、絶対嫌、どこへでも行って辞めさせたいと思う
原爆にあっているので、その悲惨さは、口で言える悲惨さじゃあないです
故郷の広島には、もう二度と帰ろうとは思わない  もうみんな死んでいるので
何年か前、広島の美術館に行こうと、友達に言われて、行こうと船に乗って、さーっと行くけれども、私はすぐ前にでられない  
涙がこぼれて、帰る家がないのを思ったら、悲しくて、私を待っているのは電車の線路だけですもの、変わらないのは、其れは悲しかったですよ(来るんじゃなかったと思った)
広島には帰りたいとは思わないし、行きたいとは思わない

広島に足を運ぶ事ができないのは、決して広島のことを嫌いになったのではありません
生まれ育った大切な故郷であり、大好きな街であったからこそ、幸せだった時の思い出を心の中に大切にしまっておきたいからです

























2013年10月7日月曜日

蟻塚亮二(精神科院長)      ・戦争が与えた深い心の傷について(戦争平和インタビュー)

蟻塚亮二(精神科院長)   戦争が与えた深い心の傷について(戦争平和インタビュー)
太平洋戦争末期、沖縄では激しい地上戦が行われました
犠牲者は20万人を越え、沖縄県民の4人に一人は犠牲になったといわれます
其沖縄で、去年、沖縄戦を体験した高齢者を対象に沖縄戦があたえた心に影響について大規模な調査が行われました
調査を行った一人、66歳の精神科医の蟻塚良治さんに、戦争が沖縄の高齢者に与えた深い心の傷について、お聞きします

各市町村の老人のデイケアに集まる人を対象に、戦争体験を持った人から話を聞いた
75~89歳 431人 統計学的にデータに欠損がないのが、401人
過去の戦争の時の記憶が消えた記憶 ほっとな記憶がトラウマです
トータルすると39%の人がトラウマのハイリスク  神戸の震災は22%と言われる(5年後の調査)
68年経って約40%は信じがたいこと(心の傷の深さ) PTSD
老人性うつ病と一括して言われるが、聞いて見ると、トラウマを抱えていて、トラウマが暴れて眠れなくて眠れなくて鬱になるとか、不眠症、身体が痛いとか、頭が苦しくて、幻聴が聞こえるとか、いろいろ或る

読谷村 沖縄戦で米軍が初めて沖縄にはいってきたところ  124人 調査の1/4強
一番多いのが中途覚醒型の不眠 戦時記憶がよみがえってくる(フラッシュバック)
死体のにおいがよみがえってくる
或る種の人格変化、親族が亡くなったという事をきっかけに、戦争の時の記憶がよみがえってきて、発作が起きて、眠れないとか、精神病的な幻聴 とか起きる
背中におもちゃの赤ん坊をしょっていたおばあさん 98歳 (認知症)
背中の赤ん坊は3カ月だから、ミルクをやらなければいけないので、家に帰らなければならないと、病院に来た人がいて、話を聞いたら、その人の5人いた子供が戦時中に4人亡くなってしまった  背中の赤ん坊は、きっとそのなかの一人でしょう
認知症の中にも、戦争記憶を抱えている人がいた そんな例が一杯ある

認知症は、普通物を忘れるから認知症と思われるが違う
老人性認知症の特徴は印象に残る記憶は、より先鋭化して記憶に残る
それ以外の記憶は脱落する
強烈な記憶はより先鋭化する  
一般論としても、老人のうつ病を見たら、精神療法の基本は、過去の人生の中であなたの一番辛かったことは何かと、一生懸命聞くことだと、私等は教えられている
沖縄戦の場合にそんな風にしてトラウマが、今も影響していることが、今回初めて知って吃驚した
晩発性PTSD 晩年になってから、何十年もたってから発生するPTSD
普通はトラウマがあってから、6カ月ぐらいで発症する
定年退職したとか、仕事を息子に譲るとか、親族が亡くなったとかをきっかけに老いに直面する
自分が生きていた過去を全部もう一回総括して、過去の一番つらい記憶に直面する事になるので、そこで見たくなくても、見ざるを得ない
そこでもう一回再編成しないと、老境に入っていけない

約20年前に、今回の調査の中心になった「當山富士子先生が、保健婦として地域で健康調査をやった時にあきらかにPTSDを発見、その後の追跡調査がされなかった(ごく一部の地域だった)
系統的に調べた人がいない
家庭のなかでは戦争を語るのはタブーだったので、吾々世代の精神科医もあまり見ようとしなかったのかもしれない(トラウマ二次事象かもしれない)
戦争語りべ 3日寝ないのを覚悟出来ましたと言っているので、語りながら感情が激してくると思います  
でも其れを乗り越えられた人だと思います

2010年12月に一番最初に気がついたが、 年寄りの奇妙な不眠症の人が立て続けにきた
不眠症にもいろいろあるが、来院した人たちは、どのタイプにも当てはまらない
うつの症状がない→偶然アウシュビッツから帰った人の精神状況を書いた論文を読んでいた
その精神症状と(不眠のタイプ)と来院した不眠が全く同じだった
中途確定型不眠で、うつ病傾向がとても少ない、戦争体験がある
60歳以上で不眠になったとか、親族が亡くなったとか、仕事を退いたとか、見てきたら続々見つかってきた(戦争をトラウマに持った不眠症の人)
身体化障害もある 腰、頭、足が痛いというような症状(死体を踏んだのでその思いから足が痛い等 いろいろな体験から生ずる)

杖をついて歩いてきていた人が、すたすた歩くようになった
ほっとな記憶が語れないのを、安心感を持って語るようにする
かたるには涙が出てくるような状況だが、この人だったら語ってもいいという、信頼関係を持つ事が必要
一般の整形外科に行っている人たちの中には、腰が痛い、足が痛いと云っているが、よく聞けば実は戦争トラウマになっているのが原因になっている人がいると思います
渡嘉敷島の集団自決の話を聞くチャンスがあって、話を聞いて、之は精神医学的な現象が重なっているなと、直感した
心理的な梗塞状況で起きている 
全国各地で大空襲があったが、影響があったと思われるが、それとの関係が顕在化されない

あるパンフレットに書いてあったことで、62歳の男性が、妹が最近亡くなって、沖縄戦と同じようなPTSDが出てきた
フラッシュバックしてきて眠れない  (東京大空襲との関連もある)

分離 頭の切り替えをやらないと、いけない  家庭は人間の心のベースキャンプ
ベースキャンプが血みどろになれば、極論すると、精神病状態です
精神病状態とは自分の自我をコントロールできない
そこから精神病が多発する可能性はある、理論的にはある
沖縄の病院から福島の病院の精神科医の所長として、東日本大震災で被害にあった、かた達のケアに4月から担当
日常の場が変わってしまった 福島の場合は、災害精神医学、 沖縄の場合もかなり災害精神医学に共通するものがある
沖縄戦の場合には戦争だから、人が人を殺すという尋常でない価値観がまかり通る場面だから、福島と沖縄の違う所  似ているところもある

不眠症、沖縄戦の不眠に近い 診る上で、とっても役立っている  トラウマ型不眠
余震を気にして眠れないが、治療して怖くなるほど寝むれたと言っていた人もいる
トラウマ型のPTSDがあるという事  沖縄、大空襲、大災害
社会全体が判ってあげること、そうすると言ってもいいんだという雰囲気になる




























 




2013年10月6日日曜日

山田清一郎(元教師)       ・戦争孤児となって(戦争平和インタビュー)

山田清一郎(元教師)       戦争孤児となって(戦争平和インタビュー)
神戸市に生まれ、10歳のときに神戸大空襲で戦争孤児になりました
太平洋戦争では山田さんのように、両親を亡くした戦争孤児が多く産み出され、当時の厚生省の調べでは、その数はおよそ12万人に登りました
山田さんは両親の死後、毎日食べる物を求めて、孤児仲間と街をさまよいながら、生活する浮浪児生活を神戸や東京で2年間経験しました
孤児としての人生で心の支えとなったのは、何か山田さんに聞きました

昭和20年空襲で両親を亡くす 3月18日 夜 神戸大空襲で亡くなった 全部焼けてしまった
焼け跡に、母親と一緒に父親の骨を探したが、骨すら残っていなかった
6月5日 昼間の空襲で、防空壕が作ってあり、そこに母親と一緒に逃げ込んだ
焼夷弾がばらばら落ちてくるが、どういうものかあまり知識がなかった
防空壕に入っていれば安全と思っていたが、崩れてきたので、大人たちの誘導で子供が入り口に行き、大人達は生き埋めになってしまった

山の方にただ逃げるだけ、2時間たってから戻ってくるが、防空壕があちこち燃えている
1年ぐらいたって、離れるときに、防空壕に立ったら、土が硬くて取れない、ぼろぼろ涙が出てきて、ここにいる人たちはもう亡くなったんだなあと思った
一人になり、食べなくてはいけない、先ず食い物をどうするか、これが何よりの問題だった
金は無い、誰かにもらう事もできない   落ちているか、落ちていない
食い物を如何に手に入れるかが、生きるかどうかだった

私たち子供たちは大人の居るところには居られなかった 
駅の待合室には大勢の人たちが来ていて生活していた、そういうところは追い出されてしまう
食べるものを探しにふらふらあちこち回って、拾ったり、取ったりして食べていた
食べ物をくれた人はいなかった (拾うか、盗む) 
冷蔵庫より更に大きい壊れた金庫がありその中で、5人ぐらいがそこで暮らした
腹は始終痛くなる 仲間の1人は、特に腹が痛くなり、苦しくて死んでしまった
腹が痛くなることは判っていても、食わなければ生きていけなかった
食べ物を盗んでくうという事に対して、罪悪感は無かった、慣れてしまった

あきらと2人でトマトを盗んで、追いかけられて、広い道路に行ったときに、ジープに轢かれて、トマトを抱いてあきらは死んでしまう
これは衝撃的な事で、私はそのことは忘れられないし、今でもトマトを見るたびに思いだして、食べることができないぐらい悲しい事件でした
周りにいる人たちは、誰もこなかった 浮浪児だし、イヌと同じなので
6月に孤児になって、10月ごろに進駐軍が来て、連れて行かれて、そこで初めてシャワーを使って身体を洗った、それまでは一切身体は洗ってなかったし、着替えるのも一切なかった
今考えると、人間は強いと思った、耐えられる
進駐軍が来てから、あまりに浮浪児が多いので、何とかしろと言う事で、県や市に言ったんだと思います 
野良犬が皆の迷惑だから、汚いから、これを「かりこみ」、と言う形で捕まえてくる、その野良犬が浮浪児だった  小屋に収容した

裸にして、水をかける、そして檻に入れる  思いやりも、優しさも全くなかった
アメリカ人がやるのであれば、判る、敵だから、でも同じ日本人が日本人の子供に、そういう事が出来ると云う事が日本人の冷たさを私は忘れられない
「刈り込み」はアメリカ軍の要請で、県や市が動いたので、県や市の職員がやったのではないかと思う
檻の中に入れられて、食べ物はもらえたが、畑などに連れ出されたが、あまりにもきつくて自由がなくて、殴られたりするから、それが嫌で跳び出したり、、逃げ出したりする
逃げる→つかまる→入れられる→逃げる→つかまる→入れられる その繰り返しだった
何のために施設を造ったのか、この子たちをどうしようとしたのか、何もない

東京に行く  あきらが亡くなって、一人になって、新たに友達が出来て、東京に行こうと誘われて東京に行くことになる
汽車はただ乗り 駅員も改札口で見て見ぬふりをする
復員軍人が来て、列車の中にいて、「戦争孤児は俺達の責任だ」と、涙を流しながら謝ってくれる人もいた
東京に来たら生活のレベルも上がった  金で買えるようになった 金はどこから来たかと言うと、仕切る兄貴分みたいな者がいて、今日はもく拾い(タバコ拾い)をやってくれと言って、金をくれた、買って食う事が出来るようになる

長野に孤児施設ができる  大本営の施設が半分ぐらい出来ていた
そこに内閣、天皇とか、空襲がひどくなったら、避難するという、一角に造られた学習院と言うところに、地元の仏教界の人たちが、孤児の施設を造るという事になる
落ちついたのが12名 
昭和19年ごろから、大本営の施設を作るために強制的に労働者を集めて、防空壕、鉄筋の建物を造るために工事を始めた 
施設作成の為の土地にいる人たちは強制撤去させられた
戦争が終わって、中途で工事は中止、中途半端な大本営の後に、戦争孤児が来た、野良犬が来たという事で凄い反発が強かったみたいです
だから学校に行けるどころではなかった  村を挙げて反対した

精神鑑別審査 地元に対する言い訳のような証明、その後ようやく通学できるようになった
最初は行ったら教室がない 物置を改造したようなところをあてがわれて、そこに入れられた
「犬小屋」「浮浪児小屋」と書いてあった
学校の先生まで同調していたので、悲しかった(温かく迎える教師が一人もいなかった)
学校へ行ったのは3年ぶりとなる  私は中学1年だが、小学校6年で入る
学力を付けるのには自分たちで頑張るしかないと、毎日3時間 読む、書く、暗記の勉強をした
7月には追い付いた
中学卒業まで施設にいた
外国船の船長になるという夢があったが、特別奨学資金の試験に受かれば、奨学金が出ると言うので、受けて、全国で5人のうちに入れて、富山商船学校に入学することができた
1年経ったらお金がでなくなって、辞めざるを得ず、東京に出てきて、定時制に行き始めた

定時制高校に4年、更に大学の夜間に行くが、仕事をする合間を縫って学校に行っていた
30いくつのバイトをする
身分証明書がなくて、住み込み先を追われたことがあり、山手線に2晩寝たことがあった
やんなって、死にたくなった事がある(浮浪児の時はそんなことを考えたことは無かった)
挫折感を味わった 20、21歳のころ
トマトを抱きながら死んでいったあきらのこととか、母親の事とかを思い起こして、ここで俺が死んでしまったら、あの人たちにどうするんだろうと、ふっと突き上げてきて、何としても生きなければという支えになったと思う

将来を考えるようになったのは、大学は定時制2年で、昼間に編入試験を受けて、受かって、独立してやれる仕事、教師の世界が向いているかなあと思った
(自分の体験したことを子供たちに教えられる、人間の生き方、環境が厳しくても自分を活かす)
27歳で、埼玉の中学校に赴任する
17年間 10歳からよくここまで頑張ったなあと自分自身、思う
教師を34年間やったが、17年と34年を較べたら、34年間の方が倍だが、17年間の方が物凄く長くて、苦しかったという事ですよね
思いだすのは辛いことばっかり、苦しいことばっかり、優しくしてくれた人は本当に片手で数えるぐらい
これからが始まりであるのに、やっと終わったという感じだった

あの時を越えたから、今がある
完全に戦争は風化している  戦争孤児と言う言葉さえ知らない
そういう子供たちに、自分の体験を話すことで、自分たちの年頃で一人で生きてきたんだ、周りが冷たい中で生きてきた、戦争がいかにいけないことか、と言う事を子供たちが一番よく感じ、感想文に書いてくれる
強く生きていきたいという事を書いてくれる

「私には戦争を止める力は無いけれど、これから戦争を起こしてはいけないという気持ちだけは
ずーっと持っていたい」、と書いてくれた子がいた
やがて講演、話す事が出来ない事が必ず来るわけなので、できるうちに、できることをやってゆく












 



















2013年10月5日土曜日

木島英登(バリアーフリーコンサルタント)   ・車椅子で世界を駆ける

木島英登(バリアーフリーコンサルタント)   車椅子で世界を駆ける
大阪生まれ 40歳 高校3年生の時に、ラグビー部の練習中に脊髄損傷で、下半身不随となり、車いすでの生活になりました
大学を卒業して、大手の広告代理店に入試やし、31歳で独立、マーケティングの仕事の経験を生かし、バリアーフリー関連ビジネスのコンサルティング業務を行っています
仕事も兼ねて世界の観光地、やホテル、スポーツ施設、交通機関などのバリアーフリーの現状を見て歩き、其情報を著書やホームページなどで発信しています
これまでに訪ねた国は、なんと124カ国、世界で何を見て、どんな経験をしたのか、本当のバリアーフリーとは何か、伺いました

水泳と自転車をたまにやっている  小学校の時はサッカー、自転車に乗って親戚に行っていた
ラグビーは高校生の時から、始める 
3年生の時に練習中に下敷きになるような形で、上に10人ぐらい乗って、脊髄が折れてしまった
脊髄神経が遮断されて、へそから下が動かなくなった
最初、医者は下半身不随となることを、言ってくれなかった 
周りは基本的には変わっていなかった、車椅子になってから接した人で、あからさまに、かわいそうな人とか、がいたのは事実
昔からの知り合い、友達は態度が変わることは無かった

進学校だったので、リハリビを含め、1浪し、大学を目指した 神戸大学に入学する
ソーシャルカウンセラー 話し合う  資格があった方がいいから、税理士、会計士、公務員が良いとアドバイスをしてくれたが、カチンと来た 
自分の希望を聞く前に進路を示されて、希望通りに理科系を受けた →神戸大学に入る
神戸大学の最初の車椅子学生だった  徐々に施設が整えられたが
階段のみの教室は、教室を変更してもらうとかで対応してもらう
大手広告代理店に入社、31歳で独立、バリアーフリー関連ビジネスのコンサルティング業務を行っています
日本と世界の違い バリアフリーに関して情報発信している 
講演、サービス業の研修、バリアーフリー設備、サ―ビスするうえでのコンサルティング、執筆活動などをしている
小さい時から世界のことに興味があった
124カ国を訪問したが、最初大学1年の時にアメリカに行くが、英語が話せた方がいいと思ってホームステー、語学学校にも行く
20年前だが、アメリカでは車椅子でも、どこにでもいける
トイレでも大きくなっていて、車椅子専用ではないが、利用は可能
街中を歩いていて、じろじろ見られることは、なかった(当時日本では視線を感じた)

明らかに危ないところにはいかないが、大丈夫です
不便なのは、ホテルに泊まるときに、安い宿に泊まろうとするときには、階段しかなかったり、部屋が狭くて困ったりするが、観光地では、声をかけて手助けしてもらうので大丈夫です
アフリカに行ったときに、砂漠とかでは進めない
ドイツでノイシュヴァンシュタイン城 ディズニーランドのシンデレラ城のモデルとなった城
友達とレンタカーで行った 城は山の上にある あまり歩けない人の為に馬車が走っている
強引に馬車の高い位置に乗るが、御者が乗るなと、車椅子で行っても御城は見れないと
御城の近くに行きたいだけだと伝えたが、周りの御客に聞いたが、私の意見が正しいと云ってくれた

城の中は階段だらけであったが、同意してくれた人たちなどを含めて、バケツリレーのようにして、運んでくれて、お城見学ができて、感動的だった(これが一番の思い出)
バリアーがあっても、人々の助けで、見られることは、在ると思うので、そういうシーンに巡り合えると楽しい
マカオに行ったが、ディスコが夜の2時ぐらいからが面白いと、酔っ払った勢いで踊った
女性が近づいてきて、一緒に踊ろうと、楽しんで最後にはキッスをしてくれた
旅行先で散髪をする 最低で20円がある  散髪の仕方が違ったり、店主と仲良しになれる
トルコで顔そりを頼むと、マッチに火を付けて、耳の中に入れて、耳の毛を焼く(吃驚)

旅のコツ→
①なんでもやってみる 牛にひかれて山を登ったり、布に包まれて運ばれたり、いろいろ      カンボジアのアンコールワット 像の道(昔大様が像に乗って通った道)  
子供に教えてもらって段差  のない道を通る
②困難を楽しむ  困難は助けてもらうチャンスだとか、人と出会えるチャンスが増える
③笑顔  万国共通の言語  怒ってたりすると助けてはくれない 笑顔でコミュニケーションを取る、ど  この国でも同じ共通言語
 荷物が無くなってしまったり、車椅子が出てこなかったこともある 
 怒ってもしょうがないし、パニックになるので、笑顔で話す

ヨーロッパ 新しい路面電車が走っていて、便利、 富山、広島で一部新しい路面電車が走っている
路上が駅なので直ぐ乗れる、段差もない、車椅子でも一人で乗れる
日本では導入が遅れている
ドイツ、車椅子でも乗れる車両 椅子が跳ね上げ式になっている 
自転車も乗れるようになっている(通勤に自転車を奨励している)
バス ノンステップバスがたくさん導入されている はぼ100%導入
日本の場合は道路が1車線だったりして、バス停が小さい

対応は日本は丁寧 電車に乗るときに、日本では駅員が手助けをするが、日本だけ
一人で乗れるような構造にするのが、一番いいとは思うが
関西では声をかけると、駅員は手伝う様なシステムになっている(関東では言わなくても手伝う)
本当のバリアーフリーは機会の平等  本人がやりたいのであれば、できるようにしてあげる
最初から駄目だと言われてしまうのは、残念です

ノルウェーでエレベータがあって安い宿を紹介してもらって、1800円と言う事で行ったら、3階でエレベーターがなかった  
あなたは安い宿を希望しているのでしょうと、階段があるよと言ったら、そうよ階段よと、でも担いでもらったらいいでしょうと、ホテルの人が担いでくれた
状況に応じてバリアーをなくせればいいと思う

エジプトに行ったら、タクシーの運転手は車椅子を上にあげて、おろすときに自分ではめんどくさいので、近くの人を呼んで、おい、おろしてやってくれと、頼んでおろしてもらった
人同士が日本でも助け合ったりするのもいいのではないかと思う
東京オリンピック・パラリンピックに期待するのは、、障害のある人にも、ボランティアやってほしいと思う
其れがいろんな垣根を無くすチャンスに成ると思います
人生何があるかわからないので、楽しく生きようよと、やりたいことがあったら何でもチャレンジする、 「なんにでもチャレンジ」が座右の銘

なになにだからと否定される事無く、誰もが自分らしい人生を生きる権利があるという事を伝えたり、わたし自身が楽しく生きることによって、証明されたりすると思う
一方通行ではなくて、誰もが手助けして、誰もが手助けされる 
日本は健常者、障害者が分かれてしまっている 
障害がある人も手助けする方になったりすることによって、本当の心のバリアーフリーというか、お互いさまみたいなところが、なればいいなあと思います
設備のバリアーフリーと心のバリアーフリーとがあって、本当の住みよい社会だと思います













2013年10月4日金曜日

中村千恵子(会社会長)      ・日本初の西洋楽器店を率いて

中村千恵子(会社社長)    日本初の西洋楽器店を率いて
東京、銀座で創業139年の西洋楽器の販売やホールをお持ちの会社会長中村さんに伺います
立教大学経済学部を卒業後、一旦家庭に入りましたが、その後、母親の後を継いで、社長を務め、現在は代表取締役会長です

来年で創業140年になる  銀座3丁目にある  同じ場所でずーっとやっている
一番最初は明治6年にキリスト教解禁があって、宣教師の方が讃美歌を皆さんにお渡ししないと布教ができないとこのことで、スタートする
オルガン、讃美歌が必要で、煉瓦街にスタートする
曾祖父が創業 
4人のクリスチャンになられる方から、布教活動がスタートしている
その後曾祖父と出会って、お手伝いすることになったのが、スタートする
曾祖父が、田地田畑を売り払って、東京に来て、海軍兵学校にいきたかったが、落ちてしまった
悲観して国には帰れないと、皇居のお堀に飛び込んだが、泳げたので助かったが、其時に原胤昭さんと出会って、一緒に働かないかと言われた、という

音楽にかかわりながら、海外の楽器を取り入れて、西洋音楽を普及したいのと、学校に音楽教育を広めたいとの想いがあった
倉田繁太郎(曾祖父)  女系で2代目 母が1歳にならない時に亡くなる 
母の兄達も早くなくなる(父は戦死)  母は倉田まき(94歳) 私は嫁に出るが、後を継ぐ
主人が社長になって、戦争で建物を破壊されたが再建をした

マダム中村 9階建てのビルの9階にホールを持っている 
150席 こじんまりしたホール    歓談できるスペースのサロン、テラスがある
8階にも演奏スペースがある  水曜日に無料ランチタイムコンサート 370回ぐらいになる
ハープが必ず入るようになっている(皆に知ってもらう様に、ハープの普及)
いろんな楽器を知ってほしいとの想いがある
自動演奏装置 考案して一手に販売 偽物がたくさん出た
明治天皇に献上 別荘で楽しんだのではないかと思う
ハーモニカ、マンドリン等を普及  其時に必ず日本のメロディーの楽譜を作っている(一人学び)

母の兄は教育映画を16mm、作る  「蝉の一生」、「蛙の一生」 等を作る
関東大震災のときにすっかり焼ける、第二次世界大戦のときに3月10日 大空襲でも焼ける
関東大震災のときに、丸ビルにも店があって、バラックを建てて、直ぐにスタートができた
大空襲の後も、なんとか建物を建てることができた
本業は音楽、音楽配信が変わると、父は早くから、考えていたようだ
イベントも20回以上をやってきている  
ガス灯 明治7年にともる ガス灯通り 
音楽を中心とした文化の交流会 17年前に立ち上げる サロン  月に1回 80人ぐらい
「おもてなし」 銀座の想い、キーワード  心地よく過ごしていただく
8年前から 蜂蜜をやっている 養蜂 屋上で飼っている   蜂蜜を使ったお菓子を作る
被災地の野菜の販売などもやっている 
























  



2013年10月3日木曜日

森尻強(東京家政大学教授)    ・元気のカギは足裏に在り

森尻強(東京家政大学教授65歳)   元気のカギは足裏に在り
東京の女子大学で体育関連科目を担当している、森尻さんは教授として学校に勤めるようになってから、雨の日に大勢の女子大生が、頻繁に後ろを振り返って、スカートの裾をを気にしている姿をよく見ました
泥はねだなと、おもいながらも、何故泥はねが起きるのだろう、何故同じ箇所が汚れるのだろう、
そんな疑問から学生達の歩き方の実態を、調べてみました
其調査から判ったことは、正しい歩き方をすれば、泥はねは起きないことでした
其れは足の裏を見ればわかります
元気のカギは足裏に在り

猫背の人の足裏、私(アナウンサー)がピタリと当たっている(ショックだった)
色別、白がかかとに多く力がかかっていると云う事は、重心が後ろにかかっているという事、そうすると身体を前に持っていこうとする 
其れが猫背のきっかけ  足の指が映っていない 足の指が映るように歩かないといけない
足の裏は全部姿勢に関わってくる
地面をつかむように歩く
マラソンの有森裕子、三浦雄一郎、の足の写真は綺麗に足の裏がはっきりと映っている

きっかけは雨の日の泥上げを見ていて、素晴らしく跳ね上がるなと思って、足の裏、姿勢を調べる大きなきっかけだった
まわりもはね上げているので、学生たちは気にしていない
女性は80%、跳ね上げるが、男性は20%と少ない
姿勢を較べると女性の方が明らかに悪い
泥はねを調べると、驚いたことが3つあり
①右足のはねが、左足に付き、左足のはねが、右足につく(交差する)
②同じところにはねが上がる
③どちらか、多くはねが上がる

姿勢を直すと歩き方が良くなり、歩き方が良くなるとはねが上がらなくなる
そうすると身体全体にいい結果が出てくる
筋肉の使い方が良くなるので、疲れない 健康美人 大きな変化がある
女性は猫背が一番多い  男性も一番おおいのが猫背
肩こり、背中が痛い 腰痛 膝が痛い 足首が痛い などは圧倒的にバランスが悪いために、身体に異常が出てくる
実は子供のころから姿勢が悪い 
立ち始めた子供等は逆に少ないが、身体が強くなって、どういう姿勢でも歩けるようになると、とたんに泥はねが始まってくる
靴の減り方も違ってくる

女性は小さい頃サンダルをはかせるが、サンダルは足を引きずらないと歩けない
男性はスニーカーなので、歩きやすい
子供には家の中でははだしで歩かせることが良い
指を使ってしっかり床を掴んで歩くことがいい
姿勢は耳の穴から肩を通って、腰、膝頭、土ふまずに来るように立ってほしい
濡れた足で立って観ると簡単にチェックできる
①足の輪郭がはっきりしている         ②5本の指がしっかり見える   
③重心は両足の真ん中か、ちょっと前ぐらい

幼稚園年長ぐらいから悪くなるので、よく見てやる必要がある
特に女性は、内また、x脚、0脚とかになりやすい
正面から見たときも、頭の傾き、肩、腰、等の線が平行になるようにしないといけない
頭は5~6kgの重さがある 其れを支えているので、前に行ったり、後ろに行ったりすると大きな負担になる、姿勢が悪くなる
高齢者には転倒予防のために、正しい姿勢は重要

耳から土踏まずまで垂直な正しい姿勢では、骨盤がすこし前に来る
足の指で地面をつかむようになると、そうすると、上からの重力が軽減するし、肩が凝らなくなったとか、膝の痛みがなくなったとか、便秘がなくなったとか、となる
足の指を使う事が非常にいい  血行も良くなる
足の指が動かない様な靴はよくない、特に女性の靴は先端が細いためよくない
腰が曲がると→背中が曲がって→股関節が曲がる、そうすると→ひざが曲がる→膝が外側に曲がる→足首に負担がかかる→つま先が外側にむく→典型的なO脚になる
股関節を伸ばす→腰を伸ばすことになる→背中も自然に伸びる
へそを上下に伸ばす(股関節を伸ばす)
相撲で、しこを踏み、蹲踞(そんきょ)、仕切りを何回かするが、準備体操になっている
蹲踞(そんきょ)の姿勢など一連の流れが大切  
蹲踞→を折り、爪先立ちで腰を下ろした状態 相撲剣道などで相手と見合う時に、この姿勢を取る。
最近和式トイレが無くなったが、しゃがみ込みの姿勢がいい
幼稚園などでは、水中運動 水中ウオーキング 土の上で遊ばせてあげる
股関節 つま先立ちで歩く 片足でかかとで歩く 前後ではなく左右に歩く
プール内でのカニ歩き 中腰で歩く  プールの中で運動する時代
子供からお年寄りまで、やってもらいたい

ハイヒール、下着、おしゃれの身に持っているもの よくない
特に靴はよくない ヒールの低いものの方が身体には優しい
ハイヒールは最悪にバランスが悪い  特に階段で怪我をすると大怪我になることが多い
姿勢も悪くなる
足の裏を見つめて40年になる
怪我の予防、病気の予防、元気でいられる、長生きができる と言う事につながるのではないか
自分を直す    股関節は生れてすぐに違ってくる  
靴の減り方、しぐさ 親子を調べてみると結構似ている
足の裏、大事に、姿勢を大事に それでダイエットもできるし、筋肉も、トレーニングもできるし、其れが気がつくのは、歳をとってからなので、それでは遅い
今が大事なので、何気ない生活の中で、歩くこと、立つこと 運動をやるように心掛けたらいいと思う、其れが貯金になる











































2013年10月2日水曜日

吉成信夫(森と風の学校代表)   ・森で子供達を育てたい

吉成信夫(NPO法人森と風の学校代表) 森で子供達を育てたい
1956年東京生まれ  昔から宮澤賢治のファンで度々、岩手県を訪れて、17年前に脱サラして、一の関市に家族で移住しました
石と賢治のミュージアム研究専門員を経て、県立児童館、岩手子供の森館長を一時兼任しながら、
岩手県葛巻町に廃校跡を利用して、自然の中で子供たちを育てようと、NPO法人森と風の学校を2001年に設立しました
学校は標高700mの山あいで、自然エネルギーを活かした循環型の暮らしを家族やスタッフとしています
ここでは四季折々に野菜の収穫、かまどなどを使っての食事造りなど体験する子供スクール、を開いたり、指導者の育成、研修会などを行っています
森と風の学校を始めた狙い、森の中で子供たちを育てることの大切さなどを伺います

子供のころは東京、保谷に住んでいた 当時は魚とりや、なんでもやっていた
大学卒業後、何のために働くのか判らなくて、やたらめったらいろいろな仕事をした 7,8つぐらい
途方に暮れている頃に、「高く遠くに跳ぼうとするほど、助走距離は長い」というむのたけじの詩集があって、その言葉に出会って、ぼろぼろ涙がでてきて、今は助走なんだと、俺が今やっているのは助走なんだと、いつか高く遠くに跳べるかもしれないと思った
そこで自分が冷静に見られるようになった
いろんな業界を歩いているのであれば、コンサルタントトになってしまえばいいのではと気がついた
35,6歳には役員になっていたが、金を稼ぎたいわけでもないので、環境問題と仕事で出会っていた
環境問題にかかわる世界中の人たちと合うようになって、世の中の流れは速く動いているし、うねりを感じた

サリン事件が起きた サリン事件を起こす、前の車両に乗っていた
もしかしたら死んでいたかもしれないと、ショックだった
NGO時代、企業で一緒にやっていた人間が海外で急死してしまった
このまま二足のわらじを履いて限界までやっていたら、自分もそうなるのではないかと、危機感があって、そろそろ生き方を変えないといけない思った
1996年 賢治生誕100年でしたので、その年に決めました
賢治が作ろうとしていた「羅須地人協会」のような学びの場所を作りたいと思った

自分が迷っていると、合わせ鏡のように賢治が童話の世界に現れる
岩手県に誰も知らない中で行った
一関 賢治が東北砕石工場の技師の時代で、その販売で営業のため東京に行って、そこで倒れて「雨にも負けず」ができた
石と賢治のミュージアム 開設の時からかかわった
当時の町長からアドバイザー成ってほしいと言われて、石と賢治のミュージアム、と関わるようになる
石と賢治のミュージアム 抜本的に修正することができた
NPO森と風の学校 廃校を使ってやろうとは決めていた
葛巻町は風サミットをやったり、自然エネルギーに非常に力を入れなじめていた時期
役場に知り合いがいて、話をすると、にこっと笑って5つ候補を提示してくれた

見た瞬間に、ここだと決めた
20代のころは子供は嫌いだった 28歳で子供が生まれて、自分に子供を育てて30代になって子供は好きになり、その後自分の原風景をさかのぼりながら、たどり着いたのが、学校だった
自分が求めたい学校を作りたいと思った
デンマークに昔は農民のための学校、今は生のための学校、どう生きていくかの学校、が100校ぐらいあるが、先生と生徒が固定した関係ではなくて、学びあいの関係、水平上の関係、一緒に
学びあうと云う場所  そういう場所を作りたかった
この場所は周りが森だらけ  ロビンフッドが好きでシャーウッドの森 帰る場所が森  
森が好き   風は滞らない   「森と風の学校」とした

一番長かったのは19泊20日、子供を預かって自然エネルギーや、未来のことをここで生活をしながら、学びあう場所  四季折々、全国から集まってもらってやる
ハンドメードで畑、住居、花壇 設計もやってゆく  大人のための学校
岩手凡人サミットをやったり、森の中で本を読んだりする活動などもやっている
製糸会社の人に話をして、森も使えるようになった
循環型生活 うんち、おしっこの再利用   電気 太陽光発電している
ここから旅立っていった人がいろいろ活躍している(食べ物にかかわっている人たちが多い)
3.11以後は、特に自分で業を興していってもらいたいと思っている

県立児童館館長 子供にかかわる  
当時の増田知事から、全面的に館長としてやってほしいと云われた
県の職員とケンカできるようでないと、上手くいかないとのことで、全面的に任してくれるのか聞いたら、任せると言われたので、やりましょうと云う事になる(決定まで3カ月かかった)
10年で200万人が来た   
周りが100軒ぐらいしかないところだが、いろいろ考えて、今は全国でも指折りの児童館として、今も生き延びている
創造的破壊 破壊をしなくてはいけない 
もともとあったものが駄目だったら、全部つぶしても、誰かが責任を持ってやり直ししかない
根本的理念から全部メスを入れたので、今だから言えるが、恐怖でした
細かいところの遊具、本等まで私は全て、一緒にかかわった
大人も子供もポケーっとする場所

3.11は非常に大きな影響があったし、与え続けている 
津波の被害はもちろんだが、放射能汚染がまだ終結していないし、「森と風の学校」 てどういった所と言われたら、子供たちとこれからの時代をサバブする、生き延びてゆくために必要なものを学ぶ為の学校、それも楽しみながら と思っている
自然エネルギー、生活技術、アート、未来への目、子供の時にきちんと考える芽を育てたいと思った
これから先、東北に未来のモデルのようなものがない
持続可能な地域作りを見直そうと沿岸でも出来てきている
漁師が、自伐林業を始める ところもあって、考え始めている

絵本フェスティバル 3年前から始める 沿岸で3.11前も、直後も、今も、地元に住んでいる方々が、地元の子供のために読み聞かせをやっている方がいて、そういう方々を御招待して、1年間やってきたこと等を含め、交流をつなげながら、繋がりを緩やかに付けていこうとしています
大船渡、震災直後から走りまわっていた人もいた 絵本は子供とも大人とも向き合える
絵本は関係作りのツール
仮設住宅の子供達 表情が違う 大声を出せない 
小さい声しか出ない その辛さを感じた
「森と風の学校」に中に森の子育て研修センターが今年出来たが、指導者、支援者の研修を全国回ってやってきたが、この場所に来てもらって、ゆっくりとした時間の中で一緒に学びあう場所を造りたいと思っていて、数を増やしたいと思う

ラジオのメディアは高校生、中学生には一番ぴったりする
ラジオ番組を造るんだったら、堰を切った様にしゃべる
番組を即興で、その場で考えながら、協力しながら作る 
日本では子供ラジオがめちゃくちゃ弱い
スウエーデンでは子供ラジオ専門局が3局ある(国営放送)
人の一つのセクターとして、子供と言うものを、社会的に自立してゆく一つのセクターとして認めてもらいたい
子供たちの為のラジオ番組も作りたい  
災害FMが任期切れ、お金が無くなって、潰れてゆくので、皆で手を組んでラジオ番組を作って、お互いに配信すると云う事を、来年作ってみたいと夢として思っている






























































2013年10月1日火曜日

室井摩耶子(ピアニスト)       ・ピアノは私の元気の基

室井摩耶子(ピアニスト)    ピアノは私の元気の基
大正10年 東京生まれ 6歳からピアノを始め、昭和16年東京芸術大学を卒業後研究科に進み、昭和20年 23歳の時にピアニストとして、デビューします。
昭和31年モーツアルト生誕200年記念祭に、日本を代表として、音楽の都、ウイーンに派遣され、第一回ドイツ政府給付留学生として、ベルリン音楽大学に留学後、26年間海外を拠点に演奏活動をしてきました
「人は最後の時を迎えるまで成長、明日は今日よりきっと幸せ」 をモットーにしています
85歳から始めたパソコンとデジタルカメラを趣味に、92歳を迎えた今も、1日4時間、ピアノに向かい、年に数回はピアノトークコンサートを開く、と云う室井さんに伺いました

ピアノを弾くにはエネルギーを必要とする 肉体的には大丈夫だが、練習は5,6時間になると、集中力が無くなる
楽譜は、そのまま弾くのと、それではちょっとどうにもならない音がある
演奏家に依って随分と違ってくる  
楽譜は優しいが、ただ音を出すのと、ベートーベンの音楽的な意志を出すのではちょっと違ってくる
ピアノを始めたのは、あの頃は稽古事を始めるのは、6歳6カ月6日が良いという説があった
父が買ってくれたのが最初です
両親は音楽家ではない 父は工学関係でラジオの製作をやっていて、母は普通の専業主婦だが、私が生れた1年後のころに、1922年、アインシュタインが来日したときに、慶応大学の講演を聞きに行っている(好奇心の強い人だった)

父は新しいアイディアが好きで、時計を使って、ラジオがつくように、と言う事を考えていた
20歳のときに、卒業して研究科に進み、23歳のときにピアニストとしてデビューする
NHKのソリストとしてデビュー 日本交響楽団 戦争中だった
1945年に東京大空襲があった  3月10日は浅草  1月は銀座がやられた
ウイーンに派遣される  日本の音楽などまだほんの始まりで、自分の演奏に不満だった
何かに欠けているように自分では感じた
ヨーロッパに行きたいと云う感じは、常に思っていた
1956年にヨーロッパに行かないかと言われ時には、是非行きますと飛び上がった

35歳、モーツアルト生誕200年祭 行ったら、音楽会議と言う名目で、来たのは皆おじさん、おばさんばっかりだった 一流の人々が盛装してきていた
私は着物を着て行って凄く持てた    当時日本人の音楽家は珍しかった
なんで日本人がベートーベンを弾くんだというような感じだった
ドイツでは世界150人のピアニストとして取り上げられた
(ピンとこなかったが後で凄い事だと思った)
1982年 61歳の時に決断して、日本に帰ってくる 
ドイツの生活と音楽間の生活がバックに在るが、生活を見ているとドイツ人は凄く自分自身の考え、自分自身の生活を大事にしている
自分自身の考えで成長していかなければいけないと言う感覚が物凄く強い
そういう生活様式を見ると、人間と言うものがいつも成長していなければならない
演奏会では毎年、名演奏家が変わってくる
自分はやっぱり自分自身をしっかり作っていかなければいけないと云う事で、61歳のときに、外国にいるとやっぱり外国人で、甘えが出るので、自分の生活も甘やかされているところがあると思って、日本に帰ってくる

ピアノを始めて80年を越える    
いろんな曲を100回以上弾いているが、一度とても上手くいったとしても、その次に弾くときに譜面を見るが、其時にベートーベンはこんな事で、こんな音でこんなことを言っていると、新しい発見がある
32番ソナタはとっても難しくって、最初に音楽理論でいえばおかしな出始めがする
お釈迦様の涅槃だという
それで私は宗教と言うものが、人間の悲しみと言うものに、どれほど深く食い込むかという事を、覚りましたね
其れがずた袋なんですよ  いろんな経験をその袋に中に入れて、取っておく
そうすると32番ソナタを弾くと、之はあれだけ人間の心の中に沁み込む悲しみなのだと判るわけです
向こうの人はよく、何にもしないで演奏をしろと言うが、よくわからない(無心というもの)

ピアノの極意は、、宮本武蔵のハエつかみだと、聞いた事があるが?→
吉川英治の本を読んだことがあるが、無心で力を抜いてと云う事はよく言われる
よくよく考えてみたら、宮本武蔵が飛んでるハエを箸で捕まえると云うところがでてくるが、捕まえる瞬間、瞬間の動きはピアノの何にもしていないのに通じる(身体に力が入っていない)
瞬間にこういう音を出さなければいけないか、瞬間がつかめる
そうすると、涅槃がどういう悲しみであって、そういう時はどういう音がほしいのか、ベートーベンがどういう音がほしかったのかが判ったら、それにエイっと掴んでゆくわけです
「人は最後の時を迎えるまで成長、明日は今日よりちょっと幸せ」
「明日は今日より幸せ」と言うのはちょっと違うが、明日は今日から成長している自分をみたい
自分を見たときに、悲しみとはこういう事なんだと、発見する
発見はそれまで知らなかったことの裏返し  この喜びは嬉しい

「辛い経験も歳を重ねれば、宝物」
旋盤工として勤労動員されていた時もあった 病気にも何度か患う
87歳のときに、肺がんを宣告された   発見されたのが演奏会の2か月前、2か月してから手術したらいいかと言ったら、先生に怒られて怒られて
腱鞘炎になり、半年弾くことができなかったが、無理をして何とかピアノを始めた
肉はよく食べる ドイツに行ったときに、寮の人たちが夜7時ぐらいから、12時過ぎまで踊っていたりするが、翌朝はけろっとしている
おかゆなどを食べると緊張感が1時間程度だが、肉を食べるとそれが4時間続く
値段は高いが、ひれ肉でないと駄目 100g食べている 

パソコン、デジタルカメラ 85歳から始める  好奇心が旺盛ですね
これから発見によって何が出てくるかわからないので、まだまだ発見していかなければと思っている
「頭陀袋」 今までの経験を沢山詰め込む  もともとは昔の坊さんが修行のために、各家を回ってお経を読んでいたが、感謝の意味を持って頭陀袋にいろんなものを入れてくれる
頭陀袋にいろんな経験を沢山詰め込むと、段々発酵してきて、素晴らしいお酒になってゆく
人間が豊かになることは事実なので、頭陀袋にいれてゆく