岡本教義(愛媛県原爆被害者の会 会長) ・14歳の地獄。被爆者救護の島で
8月6日広島原爆の日です。 爆心地から南東に6km広島湾にある周囲およそ5kmの金輪島、原爆投下直後大榮の被爆者がここに運び込まれましたが、その記録は乏しいのが実情です。 島には陸軍の船舶司令部が設けられ、当時14歳だった岡本教義さん(94歳)が勤務していました。 被爆者を船から引き揚げる作業で、自身も間接被爆、島は地獄のような光景となりました。 戦後は職を求めて松山市に移住したものの、病気や差別に苦しんだ岡本さん、60歳になり戦争の記憶を語り継ぐ活動をはじめ、現在は愛媛県原爆被害者の会 会長を務めています。 今年戦後80年を迎えて一層募る平和への危機感、その思いを伺いました。
9人兄弟の5番目、1945年3月に学校を卒業して、軍族となって広島市中心部の実家を出て広島港にある旧陸軍船舶司令部の寮で暮らしていました。 金輪島は日清日露戦争のころからの本隊の要塞で、日本の地図には載っていない。 軍事施設があるという事を公にはできなかったようです。 原爆が投下された時には、朝礼が終わって南西の方向でぴかっと光りました。 白い煙が真っすぐ上がって横に広がりました。 金輪島では間口10m長さ20mぐらいの倉庫、木工所が潰れました。(爆風と海のしぶき) ありとあらゆるむしろ、毛布、テントを出すように言われました。 夕方3時ごろから船が広島から来るようになりました。 人をピストン輸送しました。 負傷者を船から持ち上げます。 肩を貸して手を持つと腕の皮膚がツルっと抜ける。 前は焼けただれるが、背中は綺麗なのでそこに手を添えて移動する。 自分の親や兄弟ももしかしたらそうなっているのかとふっと思いつきました。 水を持ってきて傷を洗ったりしてあげる。 何のためかと言うとそこにはウジ虫が沢山湧いているのを取ってやるためです。 恐る恐るやると上官が来て、親や兄弟そう思ったら手ぬるいことができるかと酷く怒られました。
お母さんが一生懸命に子供に乳を飲まそうとしている。 しかし子供は息絶えているから口が開いてない。 名前を呼んで一生懸命飲まそうとしていた光景を思い出します。 火葬場に行く時の臭いは思い出します。 人間の末路かなあと言う臭いがしています。 魚の腐ったものよりもまだ悪い。 息絶え絶えに「水を呉れ」と言うので綿花に水を浸して飲ましてあげると、兵隊に見つかって怒られる。 「火傷をしている人間に水を飲ましたら死ぬんだ。お前はそういう事が判らぬか。」と言うんです。 14歳の子供にわかるわけないです。 いずれ死んでしまう様ならば水を飲ましてあげて、「美味しかった。」と言ってもらえればそれに越した事は無い。 目を盗んで水を飲ましてあげて、10分もするとその人はいきを引きとる。 そのことはいまだに気になってはいます。 医者は軽症者には水を飲ませてもいい、重傷者には飲ませないようにと言うが、人間1/3火傷をすると助からないという事は後々わかるが、水を飲ませたのが良かったのかどうなのか、教えてもらえません。 これは永遠に僕が死ぬまでもっていかなければいけない事かと思います。
家族を捜すための許可を貰って、8月13日に広島市街に入りました。 焼け野原で歩いても歩いても瓦礫ばかりでした。 似ているなと思って声を掛けたら弟でした。 帰ったら両親もいました。 全員無事でした。 父親は喉頭がんで、戦後の生活はどん底でした。 食べ物には苦労しました。 電気工場に見習いに行きました。 (広島) その後松山に永住することになりました。
被爆者を介護する時に間接的に被爆しました。 喉頭がんが2回、舌癌が1回やっています。21歳のころに娘さんと結婚することになり、親に話に行ったら被爆者と結婚したら奇形児が生まれるから、結婚したらいけないと反対されました。 原爆手帖を持っている、原爆被害者と言うだけで結婚が出来ませんでした。 その後別の人と結婚することになりましたが、被爆のことは結婚後に嫁に話しました。 60歳になって定年になったら定年離婚となりました。 30年間辛抱してくれました。
語り部になったのは愛媛県原爆被害者の会 に入ってからです。 60歳を過ぎてがんになった時に原爆のことなどいろいろ考えました。 病室で自身の経験をノートに書いてみました。 会長職を5,6年やっていますが、段々人が少なくなって平和運動が薄れていくのではないかと言う危惧をしています。 若い人に平和の尊さを噛み締めて欲しい。 選挙の投票率も少ない。 今自分がやらなくても他人がやってくれるからと人任せにして、これは一番危ない事です。 平和はどこから来ているのかという事を噛み締めて欲しい。 今の若い人は平和ボケしている、なんかおかしいですね。 戦争になる根本はどこにあるか、こういうことを考える若者は一人でもおりますか。 核兵器廃絶に関して理屈無し、絶対に持ったらいけない。
去年ノーベル平和賞受賞、日本原水爆被害者団体協議会の活動が注目されましたが、全世界の人から核兵器の廃絶と言うものに対して、もっと目を向けなければいけないという警鐘のための尻叩きのものと僕は感じています。 80年は第一歩です。 今は小さな平和です。 今の平和はほころびています。 ほころびを糸と通そうか、抜こうか中途のところです。 情けない事です。 何べんもがんを患ってもなおかつ生かしてもらっていることは、まだまだ僕の努力が足りないから、もう少し頑張れもう少し頑張れと、生かされているのではないかと思います。 どんなことがあっても戦争だけは止めて下さい。