永田和宏(歌人・細胞生物学者) ・老いを照らす短歌
永田さんは1947年生まれ、千葉県出身。 湯川秀樹博士に憧れて京都大学に進学し、同時に入会した京大短歌会で後に妻となる歌人河野裕子さんと出会いました。 短歌と科学の2足の草鞋を履き続け39歳で京都大学の教授となります。 短歌では迢空賞、現代短歌大賞を受賞、又研究では日本人として初めてハンス・ノイラート科学賞を受賞するなど、どちらの世界でも第一線で活躍して来ました。 現在は宮中歌会始の詠進歌や新聞歌壇の選者、宮内庁御用掛、JT生命誌研究館館長を務めています。 2010年に妻の河野裕子さんが亡くなってからは二人の思い出を作品として発表し、ドラマ化もされました。 永田さんは今年の春、エッセイと短歌で綴る「人生の後半にこそ読みたい秀歌」を出版しました。 河野さんを亡くして15年ご自身後期高齢者となり、老いを迎えるための人生観を古今の短歌に探りました。
細胞生物学者と言うのは、細胞は一番小さな生命の最小単位ですが、細胞が生きて行くためには、細胞のなかにはタンパク質だけでも10万種類ぐらいのタンパク質がそれぞれの役目を果たしながら細胞の命を支えているわけです。 それぞれのタンパク質がどのような働きをして、細胞が生きて行くためのこの部分にこんな仕事をしているというのを研究しているわけです。 コラーゲンが作られるためには作るのに別のタンパク質が必要で、私が見つけた分子シャペロン(分子介添え役 さまざまな物質で混み合った細胞内で、フォールディング途上の不安定な中間体や熱で変性したタンパク質が凝集にならないようフォールディングを助けているタンパク質が存在します。) はアメリカ留学中に見つけました。 この研究を長くやっていました。
タンパク質はアミノ酸が連なったものですが、間違って不良品のタンパク質が出来ます。 そのままにしておくといろいろな障害が起きます。 例えばアルツファイマー病、パーキンソン病とかいろいろな神経変性疾患を起こす。 間違って作られた不良品のタンパク質を如何に除いてやるか、元に戻してやるかという事がとても大事で、これをタンパク質の品質管理と言います。 間違って作ったら直そうとしますが、どうしても直せなかったら分解してい仕舞う、こういう品質管理の機構が働いています。 それに関わる新しい遺伝子をいくつか見つけました。 サイエンスの面白いのは一つ答えが出た、やったと思うと必ず別の問いが出てくるんです。
歌の方で言うと、或るものを見た時に自分だったらこんなふうに感じるだという、自分だけしか感じられない思いが出てくる。 それを言葉にして表現できるのが非常に楽しいです。2つのことをやるというのは、後ろめたさ以外なかったですね。
「人生の後半にこそ読みたい秀歌」 人生後半、老後と言うのはどんどん面白くない人生になってゆくようなイメージを持ちます。 後半の方がいろんなバラエティーがあって、年齢、時間に裏打ちされた感じ方の深さがあって、この一冊にしてみて自分で発見でした。
動物は性の成熟年齢と言うものがあって、子供が生めるようになる、子供が生めるような年齢から最大寿命は大体5~6倍とだいたい決まっている。 人間だけがそれよりもはるかに長く生きる。 生命にとって一番のミッションを解かれたあとの生の時間をどんなふうに生きるかという事は、最近になってようやく直面した問題でもあるわけです。 人生後半になって詠んだ歌を読んでゆくというのは、とても大きな示唆、ヒントを与えてくれる。
「人は皆慣れぬ齢を生きているゆりかもめ飛ぶまるき?曇天」 私の娘の歌
皆初めての齢を生きているという事に気が付いた歌。 人生の後半もいろんな後半があるんだよという事を紹介したい。 共感と自分にないことに対しる驚きと言うのは歌を読んでいくと色々あります。
「明かる過ぎる秋の真昼間百円の老眼鏡をあちこち置く」 共感できる。
「銀行の監視カメラにお辞儀して嬉しくおろす初の年金」
「老衰をわがするまでにかかるという数千万円を悲しく思う」 稼ぎつつ老いて行かなければならない。 どんなふうに人生設計しなければいけないのだろうか、と言った歌。
この20年気が付いた歌に介護のジャンルの歌が大きな割合を占めるようになった。
「浅き眠りの父をかたえに?読みふける介護の歌なき万葉集」 言われてみるまで考えたことがなかった。
「初めてのおむつをした日母が泣いた私も泣いた春の晴れた日」 こういう時代になったんだなとよくわかります。 こういった経験をした人は多いと思います。
妻が亡くなりましたが、ありえないことが起きたという感じでした。 がんの歌を作ると妻が死ぬという事をどっかで思い浮かべながら作ることが多いので、作らなかったんですが、再発してからはそうも言っていられなくなり、
「歌は残り歌に私は泣くだろういつか来る日をいつかを恐る」? 普段の言葉では言えないが、私の歌を読んで気持ちを一番よくわかってくれただろうと思います。
「お父さん頼みましたよわが髪を撫でつつこらえ残せし言葉」 亡くなる2,3日前の歌です。
娘の言った言葉に、「歌を一首つくると時間におもりが付く。」と言いました。 一首作るとその時の時間がありありと思い出される。 歌がなかったら思い出なんてどんどん少なくなっていって、限られた思いでしか残らない。 他人の歌なのだけれども、自分の思い出としてよみがえって来るという歌がいくつもあります。
「逝きし夫(つま)のバックの中に残りし二つ穴空くテレホンカード」 今亡くなろうとしている人に「ありがとう」と言う言葉を伝えるくらい難しいことはないですね。 言ってしまったら別れを告げるに等しい。
市川康夫?先生の所へ亡くなる前の日に行ったことがあります。 先生にはご厄介になったので「ありがとう」の一言が言いたくて行ったんですが、ついに「ありがとう」は言えませんでした。 「また来ます。」と言って病室を出たら、先生が「永田君 ありがとう。」と叫んだんですね。 私からも「ありがとうございます。」と言ったつもりでしたが、嗚咽の方が酷くて伝わったかどうかわかりません。 その夜に亡くなりました。 先生の「ありがとう」がその後の私を支えてくれたと思います。
人生後半、気を付けないと自分の生活圏がどんどん狭くなってしまう。 刺激が少なくなって、喜怒哀楽が少なくなって面白味のない人生になってゆく。 いろんなものに共感するという事がとても大事です。 共感力を如何に高めて行くかという事が人生の後半でとても大事な事だと思います。 私は酒が好きなので酒の歌を結構作っています。 若山牧水は酒が好きで一日一升飲んでいた。 僕もそのくらい飲んじゃいます。
「足音を忍ばせて行けば台所に我が酒の瓶は立って待ちおる」
寂しがり方が15年経つと段々違ってきます。 初め大きな欠落感がありました。
「あほやなあと笑いのけぞりまた笑うあなたの椅子にあなたがいない」 笑い出すと止まらない妻でした。 今の自分を観てくれているひとがいない、その寂しさが大きいです。 私は外で食べるという事が出来なくて、買ってきたもので食事を作ります。 作ることはできなかったので、妻が料理の仕方を教える取ったんですが、拒否しました。 それは妻の死を認めるという事になってしまうので。 独りになって段々作れるようになってきました。 今の自分を観て欲しいし、褒めて欲しい。 褒めてくれる人がいないという事は悲しい事です。
宮内庁御用掛 3代前には直接皇居に行って、お会いして指導されていたようです。 以降はファックスになりました。 私の代からはメールが主になりました。 皇族の方々はメールで歌を送ってこられます。
美智子様は現代に百人の歌人のなかにいれた方です。 未発表のものを私の方で選んで「ゆふすげ」と言う歌集になりました。
「まなこ閉じひたすら楽ししたのし君のリンゴ食みいます音をききつつ」 皇太子のころにリンゴを食べている、美智子様が目を閉じて音だけを聞いている、それだけで楽し楽し。
ヒントを差し上げるというスタイルで行っています。
二足の草鞋を履くという事には後ろめたさがあって、両方進めてゆくためには睡眠時間を削るしかないですね。 今でも朝4時ぐらいまで起きています。