中山秀征(テレビタレント) ・ピンチがチャンスになる
中山さんは1967年生まれの57歳。 5歳の時に当時大人気だったフィンガーファイブに憧れて芸能界を目指します。 1985年お笑いコンビ「ABブラザース」としてデビュー」その後ソロとして活動を続け今年芸能生活40周年となりました。 数々のピンチをチャンスに変えて来た芸能生活について、又今年カンヌ映画祭で作品展を開催したライフワークの書道について伺います。
15歳で上京、今年で40周年。 今年カンヌ映画祭に書道家として御招待頂きました。 去年個展を群馬県でやりました。 去年の暮れに電話がありました。 デジタルアートをやっている赤松裕介君からでした。 彼は40年前、僕の家に下宿していたんです。 カンヌでコラボやりましょうという事でした。(詐欺かと思いましたよ。) 書道を始めたのは小学校1年生です。 小学校2年生で県に出展したら大きな賞を頂きました。 小学校、中学校と大きな賞を頂きました。 上京して以降時間がなかなか取れなくなってきて余りやっていませんでした。 子供には書道を習わせようと思って、そのついでに自分でも習い始めました。 毎日書道展で入選しました。 書道は自分の中では芯ですね。 個展をやらなかったらカンヌもなかったわけで、今やりたいと思う事はやろうと思いました。 40周年で自分の青写真をパンパンに埋めた感じです。
5月に「気くばりのススメ」と言う本を出版しました。 1か月で3万1000部突破しました。 まずは本気で相手の意見を聞いて、柳のようにしなやかに最後に自分の意見を言う。 徳光さんは話術、技術が凄いのは当たり前ですが、気配りの面で言うと、歌の特別番組で歌手の人は60名ぐらい出るわけです。 「中山秀ちゃんご丁寧にありがとう。」と言うんです。 どうしてかと思ったら徳光さんがゲストの方に手紙を書いていて、 僕の名前と竹下さんの名前が連名なんです。 手書きで書かれていて、凄いなあと思いました。
志村けんさんと出会ったのは30歳前でした。 良い言葉を一杯貰いました。 「いつまでも馬鹿でいろよ。」と言う言葉で「お前は司会をやったり情報番組などをやってゆくと思うが、知識が入って勘違いしてゆく。 そうすると人からみて上から目線になってゆく、上から目線になったら絶対駄目だから気を付けろ。」と言われました。 司会者はかっこよくやりたいという思いがどうしてもある。
「週刊金曜日」と言う萩本欣一さんの番組があり風見慎吾さんがバンドを勇退することになり、新メンバーを水面下で募集することになりました。 僕が16歳の時でした。 今週のゲストは聖子ちゃんなので、トランペットで「赤いスイートピー」吹いてくれる?と言われました。 トランペットは吹いたことはなかったんですが、夜までには吹けるようになりました。 金ちゃん番組?と書いてありました。 意味が分からなかった。 「実は風見さんが戻るという事になりました。」と言われました。 (脱退無し。) ピンチに落ち込むことはあると思いますが、しょうがないと思って、面白い方に振ってみる。 自分で深みにはまらないようにしているのかもしれません。
ピンチをチャンスにその① 呼ばれてもいないのに上京して栄養失調になった16歳。 フィンガーファイブに憧れ、中学2年で劇団にはいります。 3か月でテレビに出ることが出来ました。 行けそうだと思って上京したが、その後は受からなかった。 栄養失調になってしまいました。 倒れて病院に行ったら栄養失調と言われました。 オーディション雑誌から片っ端から受けて、その一つが大手の渡辺プロダクションでした。
ピンチをチャンスにその② 歌も芝居もイマイチで、バラエティー班にぎりぎり引き取ってもらう。 譜面も読めないし楽器も出来ないし、芝居の方がいいのではないかと言われました。 芝居をやり出したら芝居もイマイチだなあと言われてしまいました。 バラエティーは最後の砦でした。 高校から帰ってくるとレッスンを毎日やりました。 そのなかには作家志望の三谷幸喜さんもいました。 1985年、同プロダクションの松野大介さん(現在は小説家)とコンビ『ABブラザーズ』を結成しました。
渡辺プロダクションの社長が亡くなってから、変って行きました。 社員も辞めてゆく人たちが居ました。 先輩たちも辞めていきました。 クレージーキャッツは残って、俺と松本明子だけになってしまった状態でした。(20歳) チーフの塩崎さんが、ここをチャンスにしようじゃないかと言う考え方でした。 それ以降渡プロの形が随分変わって行きました。 今では一番大きいのはバラエティー班です。
ピンチをチャンスにその③ お笑い第3世代の波に飲まれて負けを認めた。 第3世代は「ダウンタウン」「ウッチャンナンチャン」 などでした。 連中は小さい時から志が一つで来ている、もうやらなくていいよと言われました。 ただ一人としてはこれからが勝負だと言われました。 自分の戦い方を見つけようと思いました。 歌、ドイラマなどをトライしました。 辞めたいと思ったことは一回もないですね。 テレビでは一人ではできなくていろいろな人が時間をかけて作ってきたものを僕たちは演じているわけで、丁寧に表現してあげたいと思っています。 書道も個展をやろうと思っています。