2024年7月13日土曜日

里見 まさと(漫才コンビ“ザ・ぼんち”)   ・戦艦大和を講談で ~乗組員の体験を語り継ぐ~

 里見 まさと(漫才コンビ“ザ・ぼんち”)  ・戦艦大和を講談で ~乗組員の体験を語り継ぐ~

里見さんは「ザ・ぼんち」で1981年に上方漫才大賞を受賞、その後一旦コンビを解散したものの2002年に再結成、今も劇場を沸かせています。  里見さんが「ザ・ぼんち」の一時解散後の1989年、今から35年前に始めたのが、講談です。  以来、もう一つの芸として大切に話芸を磨いてきました。 そんな里見さんが2013年に出会ったのが、戦艦大和の生還者です。  戦艦大和は太平洋戦争の末期の昭和20年4月7日、米軍艦載機の激しい攻撃を受けて沈没しました。 乗組員3332人のうち生還したのは276人で、3056人が大和と運命を共にしました。 里見さんは生還者の話を聞いて、「戦艦大和と乗組員」という講談を創作、各地で公演を続けています。 何故この講談を始めたのか、何を伝えたいのかお聞きしました。 

元々は桂三枝さんから創作落語を一人でもしゃべるというのを磨こうという事でやらせて頂いていました。 落語もいいけど講談の方があっているんじゃないかと言われました。   父親は戦争で満洲に2回行っています。 戦争の話は子供の頃から聞いていました。 新聞で戦艦大和に載っていた方が、もう7,8人しかいないという事を読みました。 八杉康夫さんに会わせていただくことになりました。  語り部になって下さいと八杉康夫さんから言われました。(2013年 85歳)  攻撃を受けた様子などを全部語っていただきました。   17歳での体験でした。  それを元に「戦艦大和と乗組員」を創作しました。

「戦艦大和と乗組員」は30分余りの講談です。 呉の戦艦大和を観た時には「なんだこれは」と思ったそうです。(全長263m 幅38,9m ) エレベーター、エアコンもついている。  46センチ砲は42km先まで飛びます。 当時の最高飛距離は40km行くかどうかで、40kmの距離を保てば相手からの砲弾は届かず、こちらからは砲弾を浴びせることができるので不沈艦と呼ばれていました。 八杉康夫さんは測距手(相手との距離などを測る任務)でした。 大和が沈んだのが1945年4月7日。 沖縄では一般人が10万人ぐらい亡くなり、大和は沖縄に向かった。 

秘密裏に出てゆくが、日本の暗号がすでに解読されていた。 空を守る飛行機の護衛なしで、向かってゆく。  鹿児島県の坊ノ岬沖で米軍艦載機の激しい攻撃を受ける。  雲に隠れていて急降下しての攻撃でした。  一発の大砲も撃てなかった。 弱点の部分に魚雷を撃ち込まれる。  大和は段々傾いてゆく。 上司が日本刀で自害する様子を見てしまう。 八杉康夫さんは海に飛び込みます。 寒気、眠気が襲ってきました。  周りでは沈んでゆく少年兵などを見かける。 川崎少佐が丸太を譲ってくれる。 4時間後に日本の駆逐艦に出会い、懸命に泳いでゆく。  甲板に引き上げられて「助かった。」と大声で叫ぶ。甲板から見ると一人海の中に川崎少佐がいて、敬礼したのちに戦艦大和の方向に向かって泳いでゆく。 大声で「お戻りください。」と甲板上の人々が叫ぶが、振り返ることはなかった。  

その後八杉康夫さんは戦艦大和のことなどを講演して回って行きました。  昭和30年に八杉康夫さんは佐賀県に講演に行きました。 講演後或る女性が来て「まさか、うちの父の名前が出てくるとは思いませんでした。」と言いました。 「川崎勝己は私の父です。 軍からは大和にて死す、としか聞いていませんでしたが、八杉康夫さんの話を聞いて、父がどんな最後だったのかを知ることが判りました。 川崎勝己を誇りに思っています。」と言ってくれました。 八杉康夫さんは僕には「日本にだまされた。」と言っていました。  戦争になってしまうと勝った側も負けた側も誰一人幸せにはならない、生きて帰っても心に傷を負わされている、という事です。 絶対に戦争を起こしてはいけないと、何度もおっしゃっていました。 

父は眉毛のところに傷がありますが、1cm中央にずれていたら父は亡くなっていますし、僕も存在しませんでした。  父は亡くなるときには、兄弟誰も知らなかったんですが、「私の身体は献体に出してほしい。」という書き残しがありました。 アメリカの人たちのも、こんなことがあったんだという事を知って欲しいと思って、「戦艦大和と乗組員」の話を英語で話すようになりました。(8年前 アジア太平洋大学で講演)  79年間の平和が来るために、こんな方々が大変な思いをした人たちがいたという事を伝えたいです。