鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方
およそ1000年前を舞台にした大河ドラマ「光る君へ」は当時の生活習慣、風俗にも興味を抱かせてくれます。 とりわけ主人公の紫式部や清少納言など華麗な衣装で登場する貴族の女性たちはどんな暮らしぶりで、どんな人生を歩んだのか、平安時代の服飾文化や生活を研究している鳥居本さんに源氏物語や紫式部日記、枕草子など小説や日記、随筆を参考に解き明かしていただきます。
一条天皇が年少で即位される場面がありますが、その時の装束は悪霊を再現されたと思いました。 即位の時に着られるものは平安時代の装束ではないんです。 奈良時代以来のものでして、私たちが持っているイメージとは違うものなんです。 孝明天皇も着られているんです。(江戸の終わり) 紫式部の実家が戸が入っていなくてがらんとしていて、いつも庭がみえていますが、夜は建具で閉じますが、朝になると開け放してしまいます。 外光を取り入れなくてはいけない。 油は高価なのでなるべく点ける時間を少なくして、外光に頼る。 冬は寒いです。 天井が無くて屋根裏が丸見えなんです。 床は板敷でまだ畳の文化が無いんです。 座る部分だけ畳があった。 寒いので一杯着ます。十二単と言っても十二枚とは限らない。 建物は神殿つくりと言われていて、前に広い庭があり、大きな池がありますが、夏には水面から冷たい風が吹き込んでくる。 冬は着こむ。 庭から見えてしまうので簾をかけてその内側に壁代と言って今のカーテンのようなものがあり、下から上に巻き上げるようになっている。
お風呂場は無くて、建物と建物の間に渡り廊下があり、屏風をぐるっと回して盥を置いて、今でいう行水のようなものです。 髪の毛は身長よりも長いです。 陰陽道の占いに従って、洗う日があって、2か月も洗わない月があります。 旧暦の7月に大々的に鴨川で髪の毛を洗いますが、乾かすのが大変でした。 お化粧は毎朝します。 米、小麦を粉状にして水でといでつけていました。 鉱物性の白粉が伝わって来ます。(水銀,鉛) 伸びがよかったのでそれを塗りつけていた。 平安時代の女性の平均寿命は30代と言われますが、これも一因していたんだと思います。 白粉は身体に悪かった。
眉毛は毛抜きで抜いて、その上に描いていました。 目と眉毛の間が開いている方が美男、美女だと言われていたのでぼやっとした眉毛を描いています。 貴族は男も薄化粧をしています。 女性は12歳ぐらいで成人して、男性は10歳未満から20歳まで幅がありますが、成人するとお歯黒をしています。(虫歯予防も兼ねていた。) 女性は笠の周りに薄い布が貼ってあり、周りの人からはっきり顔が見えない様になっている。 平安時代は道路事情が悪いので埃っぽくて、髪の毛はしょっちゅう洗えないので埃の予防にもなります。 身分の高い女性は成人すると男性には顔を見せない。 几帳(平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄絹を下げた間仕切りの一種。)や御簾越しに話をする。 貴族の男性は家の中でも常に烏帽子をかぶっています。 烏帽子などの被り物を付けるという習慣は冠位十二階までさかのぼります。(603年)
身分の高い人は白米を食べています。 食事の時間は10時と午後の4時の二回です。 もち米を蒸します。 噛む力はありました。(しもぶくれはその影響) 男性は女性を覗き見にいきます。 気に入ると和歌を詠んで文を送ります。 季節の枝にそれを結びつけます。 なかなか本人からは得られないので、親とか、乳母が男性の将来性を値踏みするわけです。 大丈夫そうだとなると何度か文を取り交わす。 正妻は同居して、側妻は夫が来なくなれば自然に離婚となってしまう。(経済的な基盤が崩れてしまう。) 嫉妬は起こります。 「もの見」と「もの詣」があり貴族の女性は公にはこの二つしか外出の機会はなかった。 「もの見」はお祭りとか天皇の行幸を見学に行く。 「もの詣」は神社お寺などにお参りに行く。
上級貴族は自分の娘を天皇の妻にすること、入内(じゅだい)を目指します。 藤原兼家(藤原道長の父)は3人の娘が天皇或いは東宮の奥さんになっている。 次女は円融天皇に入内しています。 ここから兼家は権力を伸ばしていった。 男の子を生んでくれて天皇になると外祖父になれる。(権力を握れる) 一条天皇は7歳で即位しているので、外祖父である兼家が実際の政治を動かして行く。(摂政関白) 兼家が亡くなると長男の道隆が跡を継ぐ。 定子が入内して一条天皇の中宮になる。 道長の娘彰子も入内する。 この時だけ二人の中宮が並び立つことになる。 今度は道長が外祖父になって実権を握る。
定子に仕えたのが清少納言、彰子に仕えたのが紫式部。 中宮になると文化サロンを作り、和歌に優れて女性、文学に優れた女性などを集めます。 「女房」と言われて、相談役、教授役など教養を高めてゆく役割が大きかったと思います。 定子は父親が亡くなり、兄伊周が事件で追われる身となり、バックボーンがなくなる。 定子は出家と言う事になる。 彰子は入内するときに、40人ぐらいの優れた女房を連れて来た。 私的な役目なので給金は実家持ちとなります。 清少納言と紫式部は会っていないという事が定説になっています。(大河ドラマでは会っているという事になっている。) 清少納言は漢文の才があるとひけらかしていると、紫式部は批判の文を記載している。 清少納言が退いた後に、紫式部が女房になる。 清少納言は零落してしまう。 紫式部は結婚して死別してから彰子に仕えている。 紫式部の子供が賢子(かたいこ)というが、天皇の乳母になります。 乳母も実権を握ることが出来る。
当時の女性は自分の思いを叶えさせてくれるのは観音様だという事で、平安末期に観音信仰がとても流行りまして、心の拠り所として仏教を持っていたのではないかと思います。