2024年6月30日日曜日

原由美子(スタイリスト)         ・着ることをもっと大事にしてほしい

 原由美子(スタイリスト)         ・着ることをもっと大事にしてほしい

原さんは1945年生まれ、神奈川県出身。 父は著述家の原奎一郎、祖父は総理大臣の原敬。 慶應義塾大学文学部仏文学科卒業後、雑誌の翻訳を始めて、ちょうどそのころ創刊された女性ファッション誌「アンアン」にスタッフとして参加、1972年からまだ日本に定着していなかった職業スタイリストとして仕事を始め、数々の雑誌のファッションページに携わってきまいた。 2000年ごろからは、洋服だけではなく着物のスタイリングにも積極的に取り組み、洋服とは異なる和服着物の楽しみ方を提案しています。 スタイリストとなって半世紀あまり、衣服は自分を表現する手段である、そして自分のスタイルをみつけること、紙面を通して伝え続けてきた原さんにお話を伺いました。

小さいころはおしゃれとか着るものには、女の子なので或る程度関心はありました。 父が服飾評論家の原奎一郎です。 母も洋服を作ったり、美容師でした。 1964年の東京オリンピックの入場式をモノクロの画面で観ていたら、「真っ赤なブラザーです。」と叫ぶんで、「真っ赤なんだ。嫌だー。」と言ったら、父が「ブレザーと言うのは燃えるようなという事で、赤が基本なんだよ。」と言っていました。  父はイギリスに留学していました。 祖父が原敬で暗殺されるという事件がありましたが、「帰るに及ばす。」と言う連絡があり、お葬式とかには帰らなかったそうです。  暗殺され時に薄いピンクのシャツを着ていて、おしゃれな人だったという話は聞きました。  16歳になった時に、父が「セブンチーン」を買って来てくれるようになってくれました。 

鎌倉に住んでいて、海からは15分ぐらいの裏山があるところでした。  野生の水仙なども咲いていて、良い環境でした。  慶應義塾大学文学部仏文学科に進みました。 真面目に勉強はしました。 「女子学生亡国論」というのがありましたが、勉強してもいいじゃないかと言う思いはありました。  それまで13年間女ばかりの学校に通っていました。 フランスの雑誌について、どういう内容かを訳す仕事を頼まれて、それがフランスの「ELLEでした。 平凡出版(現・マガジンハウス)が新しい女性誌をだすという事で、「ELLE」の日本版という事でした。  雑誌の材料を観れたことは大きかったと思います。   

1972年よりスタイリストの仕事を始めました。  1973年婦人公論』と言う雑誌が読み物が主体だった雑誌に、ファッションを再開するからという事で、やってみないかと言うお話を頂きました。 「アンアン」よりは大人の読み物で、テーマとかモデルとかはお任せしますという事でした。 これをやれたのは良かったと思います。 

「アンアン」の仕事をしていた時に、社員になら兄かと言う半紙がありましたが、その時にはすごく悩んで、婦人公論』もやっていたので社員になったらそれが出来なくなるし、展示会なども参加したいので、続けられる保証が無いので、社員になるのは辞めました。  フリーで事務所を立ち上げました。  コマーシャルの話もありましたが、対応はしませんでした。 雑誌への思い入れがありました。 

書くと言う仕事もし始めました。 最初の頃には、判らないことがると父に相談したりしました。 鎌倉にいた幼いころに、日本舞踊を習いました。  着物の衣装に興味があり楽しかったです。 着物のページを婦人公論』でやって、クロワッサン』でもやらせていただいて、着物屋さんから顧問的に選びとかやってみないかと言われました。 春夏秋冬にも対応できて、正装として美しく着物のような民族衣装は他にはないのでは仁かと思います。 着物は日本人には似合うので、どんな色、どんな柄を持ってきても着れるんですね。  それが凄いと思います。 大胆な色でも着てしまうと収まるんですね。 

印象に残っているのは、最初に1973年に見た高田賢三のファッションでした。  大きな会場で行って、雑誌モデルを全員使っていて、それまでは向こうではそういったことはしていなかった。 感激しました。  着ることの楽しさは、自分の中では仕事としてしまったので、楽しくはなくなっちゃいました。  大人の方、若い人でももうちょっと着る事を大切に考えたらいいな、という事はあります。  初めて会った人が見る時、貴方は着るもの最初の印象になっているわけです。  特定に誰かに会いに行くんではなくて、常のそうなわけです。 毎日着替えるという事は大事にしていると思うんですが、その人を覚えられない。 年齢が年齢なので、そういう気を遣う自分が厭になる。 でもどうでもいいというわけにも行かないが。  





















栁川春己(パラリンピックマラソン金メダリスト・「光は見えなくても人生は明るい」

栁川春己(パラリンピックマラソン金メダリスト・「光は見えなくても人生は明るい」 

栁川春己さんは昭和31年佐賀県生まれ。 生後6か月で小児緑内障になり、8歳で視力を失いました。  佐賀県立盲学校卒業後、早稲田鍼灸院開業。 33歳でマラソンを始める。 バロセロナパラリンピックに初めて出場、 1996年のアトランタパラリンピックのマラソン競技で金メダルを獲得しました。 その後トライアスロンとかいろんなスポーツに」チャレンジします。 幼少期からパラリンピックで金メダル、世界の頂点に立つまでどんな思いで向き合って来たか、お話を伺いました。

6歳で盲学校に入学して、14年間お世話になりました。 小学校の頃は夕食後の自由時間に野球をするのが習慣でした。 生後6か月で小児緑内障になり、九大の病院に行って10数回手術をして九大の紹介で盲学校に入学するわけです。 ずっと一緒だった母親と別れることになり、その時には校長先生には大変お世話になりました。 鉄棒、柔道(最後は2段)をやったりして、身体を動かして汗を流すことが大好きでした。  野球はハンドボールぐらいの大きさのボールを使います。  ピッチャーが転がして、手を叩いた合図で打ちます。 鍼灸院を地元で開業したのは1980年です。  1985年に結婚し子供も生まれました。 野球は続けていました。 

マラソンの大会があるというので誘われました。 大分のチャレンジマラソンの3kmコースに出場しました。 17分58秒でゴール出来ました。 伴走者の方から又来年来るように言われました。(52歳の女性でした。)  諫早からきた川島さんが参加していました。 彼は3kmを12分で走っていました。(トライアスロン、フルマラソンなど行う選手) ハワイのホノルルフルマラソンを2回も完走して感動したことを話してくれました。 円周走の練習方法も教えてもらいました。(運動場の中心に杭を打ってそこからロープを20mつけてぐるぐる回る方法)  

円周走を実際にやってみて、自由さを感じました。(12月) 1月からその方法で練習を開始しました。  ホノルルマラソンを目標に立てました。 1月は1周125m、1日1500m(12周)走りました。 2月には24周、3月は48周、その後10km迄走れるようになりました。 ロードレースがあり、伴奏者を名乗り出てくる人が居ました。(寿司屋の主人) 1990年6月に10kmにエントリーして朝6時スタートでした。 49分6秒で関す出来ました。

その後20km、30kmの練習をしてホノルルマラソンに参加しました。 3時間56分19秒で4時間を切ることが出来ました。  バロセロナパラリンピックには3時間10分を切ったら推薦をするという話がありました。  3時間を切るという情報はないといいことを聞きまいた。 スナックのマスターがもしかしたら3時間を切れるかもしれないと言ってくれました。 週に2回一緒に付き合うと言ってくれました。(一般道を走れる。 1990年12月) 一般道から山の道も走ろうという事になりました。 いろいろと厳しい練習が加わってきました。  11月の大会がありそこに参加して、2時間55分10秒で目標を越えてしまいました。  1991年は自分の人生を変えるような1年でした。  

バロセロナパラリンピックに初めて出場、スタートは夕方でした。 伴走者のスナックのマスターが35kmで足が痙攣しました。 足をマッサージすることを3回繰り返してゴールすることができました。 6位入賞でした。 新たに伴奏者を紹介してもらいました。 新日鉄の安田恭平さん?でした。(実業団の第一線のランナー)  左右への曲がる事、登り下り速度のなどの情報を教えて貰えれば大丈夫と言ったら、安心してくれました。 

1996年のアトランタパラリンピックでは、前回バロセロナパラリンピックで金メダルをとった世界記録保持者のイタリアのカルロ?選手が2時間43分台を持っていたので、彼をマークして走りました。  彼はペースが上がらなくて5km地点で2人が前に飛び出したので、それについていくという事になりました。 16km地点で追いついて、メキシコの選手は下がって行きましたが、コロンビアの選手は絶好調でした。  21km地点で安田さんが段差を見逃して、僕が転んでしまいました。  安田さんは心臓が凍り付く想いだったと、後で言っていました。  手は擦り傷がいっぱいありましたが、足は無傷でした。(柔道の受け身が役立つ。) 

もう全力を出すのみだと思いました。 28km地点の下りでスパートしたら30km地点で100mの差がついて、30km過ぎるとなかなか身体が動かず、安田さんが励ましたり怒ったり、イタリアの選手が後ろから来ているとかいろいろやってくれました。  ゴールした時にはホッとしたという感じでした。 2時間50分56秒でした。 君が代が胸にジーンと響きました。 親にはいろいろ迷惑を掛けてきたので、親孝行が初めて出来たと感じました。 その後はトライアスロンにも挑戦しています。 2007年にはゴールまで帰ってこられました。   今年は全国障害者スポーツ大会が佐賀県で開催されます。 野球の部で指定選手に選ばれて、参加する予定です。 「目が見えなくても夢は観れる。 光は無くても人生は明るい。」  目標を持って生きて行けば人生は明るくなると思っています。 











2024年6月28日金曜日

木村 有子(チェコ語翻訳家)        ・〔ことばの贈りもの〕 チェコは私の心のふるさと

 木村 有子(チェコ語翻訳家)     ・〔ことばの贈りもの〕 チェコは私の心のふるさと

木村さんは1962年東京生まれ。 小学校3年生から3年間プラハで暮らしました。 日本の大学を卒業した後、プラハのプラハ・カレル大学に2年間留学。  その後ドイツの大学でも学びを深べました。 現在は翻訳家としてチェコの絵本や映画字幕の翻訳などを手掛けています。 今年の初めにはチェコでの暮らしや翻訳家になるまでの道のりを、「チェコのヤポンカ」と言う本にまとめました。 

「ヤポンカ」女性と言う意味です。 チェコはドイツ、ポーランド、オーストリア、スロバキアを境にしています。  1989年のビロード革命の後、1993年にチェコとスロバキアに分離独立をしました。 面積は北海道と同じぐらいで、人口は東京都より少し少ない1100万人です。 緯度は樺太ぐらいです。 気温はかなり下がります。 1968年にチェコ事件があり、「プラハの春」と言う民主化運動だったんですが、ソ連とワルシャワ条約機構軍が軍事力で押さえた事件でした。 新聞記者の父は首都プラハに支局を開設することになって私たち家族も1970年の夏にプラハに行くことになりました。 私がいたのは約3年間です。 夜は暗いし人があまり歩いてはいませんでした。  いきなりチェコ語の世界に入ってしまいました。 身振り手振りからのスタートでした。 

9月が新学期でした。 日本人はゼロでした。 休み時間になるとみんな寄ってきて無視されていないという感覚がありました。 言葉も順次慣れていきました。 チェコの人は週末に別荘で暮らすことが多いんです。  誘われて森のなかに入って行ってキノコを捜したり遊びました。 母も妹もチェコの人tの付き合いがあり、私も親しい友達とその家族の人とも付き合いが出来ました。 漢字も書けなくなってきていて、父も心配して私は先に一人で日本に帰ることになりました。(父の実家)  日本に戻ってきた時の方がよそ者扱いという感じでした。  私が中学1年生の秋に家族が帰ってきました。  

チェコに対する思いとチェコ語が喋れなくなったギャップに気が付いて、もう一回チェコ語をやり直したいと思って、大学卒業後チェコに留学することにしました。 西側諸国から来ているというので、警戒された部分もありました。 4人寄れば一人はスパイかもしれないというようなことも言われて、「気を付けろ。」と言うアドバイスを貰っているうちに委縮してきてしまいました。 人を信用していいのかどうか考えてしまいました。 子供の頃の知り合いの家族からいろいろお世話になったり、新しく知り合いになった人もいて、プラハから3時間ぐらいのところで楽しく一緒に過ごすこともありました。  東ドイツの女性とも親しくなり東ドイツに一緒に行ったりもしました。  ベルリンの壁も観てきました。 

1986年に留学を終えて日本に帰ってきました。  1989年に夫の語学留学に伴ってドイツの西ベルリンに行くことになりました。  天安門事件があったり、激動の年と言われました。 11月9日に西ベルリンの壁に立ち会ってしまいました。 東ベルリンの車や人が入ってきていました。  大歓声、熱狂でした。 東ベルリンに住んでいる友人とは3年振りに会う事が出来ました。  彼女は冷静で拍子抜けしました。 

チェコ語の翻訳家として絵本の翻訳、映画の字幕の翻訳を手掛けるようになりました。   子供の頃見たチェコの絵本に感動はしていました。  チェコの本を紹介できればいいなあと思いました。(中学生時代)  翻訳に当たっては子供時代の経験が凄く役に立ちました。  最初の翻訳の仕事は映画の字幕の仕事でした。  辞典が無くてチェコ語を英語、英語を日本語と言う風にいて調べました。 

絵本の翻訳は40歳になって初めて出来ました。(「もぐらくん」シリー) ワクワク、感慨深いものがありました。  母はパワフルでチェコに行っても馴染むのが早かったです。母は現在89歳です。  チェコでは温かい人達に巡り合えて、幸せな子供時代を過ごす事が出来たことが、わたしのその後のやりたい事、生涯を決めたと言っても過言ではないと思います。  恩返しにチェコの優れた本を一冊でも多く日本に紹介したいと思ています。








2024年6月27日木曜日

矢野きよ実(書家・パーソナリティ)    ・〔私のアート交遊録〕 “いい日になりますように”

矢野きよ実(書家・パーソナリティ)  ・〔私のアート交遊録〕 “いい日になりますように” 

名古屋を中心にラジオやテレビのパーソナリテイとして幅広い層から支持されています。 書道かとしても独特の世界観が注目を集めている矢野さん、特にその書体や矢野さんが生み出す言葉、「無敵」、「奇跡」、「生きている」、「生きたい」、「君のために」、などと言った独創的な言葉選びも、観る人を虜にしています。 さらに東日本大震災から、医師団と被災地に入り、被災地を支援するプロジェクトを立ち上げました。 そこで始めた「書きましょ」と言う活動では、子供たちが書いた書を預かり、全国で展示、子供達の心を多くの人たちに伝える講演を行ってきました。 多方面で生きる事、命の大切さを伝える活動を続けている書家の矢野きよ実さんに、言葉や文字の持つ力、人とのつながりに力を注ぐその思いを伺いました。

洋服屋さんをやっていて、親が忙しくて段ボールの中に入れられて、近所のおばさんが抱いて連れて行って、お風呂にいれてくれたり、ご飯を食べさせてくれたりして育ちました。 無口な静かな子でした。 学校に入っても人とあまりしゃべれませんでした。  タイガーマスクの歌をきっかけに、歌を歌うようになって変わりました。  下町なので、人が集まるところには手伝いに行くように育ちました。

書道家「霄花(しょうか)」として活躍しています。 大きな宇宙に咲くちいさな花であれ、という意味の名前です。 習字を始めたのは6歳からで、書を始めたのは17歳からです。  「はと」と言う字をかいたら、父が上手いとほめてくれてそれから署が好きになりました。 文鎮もその時にもらって今も大事に使っています。 17歳の時に父と一緒に書を習い始めましたが、ちちが48歳の時に亡くなってしまいました。 書を習いに行くのを辞めようと思ったら、筆を貰ってなんでもいいから書きなさいと言われました。 「悲しい」と言う言葉を、畳一畳ぐらいの紙を呉れて、100枚、200枚と毎週書きました。 先生が愛知県美術館に公募展に出してくれました。  ある審査員が「これ駄目だな。 さみしすぎるものな。」と言ったのを聞いて、私にすれば賞よりも物凄い褒め言葉で、書をやろうと思いました。 

「無敵」は代表作になっています。 30数年前に書いたものです。 自分には負けないという気持ちで書いて、それがバッチになって、ジャーナリストの鳥越俊太郎さんが付けてきました。  2005年に大腸がんになって、「病気は敵ではなく、自分に負けないため。」と言われました。 今も付けてもらっています。 鳥越さんがクリント・イーストウッドに会った時に、クリント・イーストウッドがどうしても欲しいという事で、バッチを付けています。 いろいろな人たちが付けていてくれます。  「花ちゃんの味噌汁」と言う映画での乳がんで亡くなった方へギターリストの三宅伸治さんが差し上げています。 熊本大震災で、書がチャリティーに用いられたりして、そういって歩いていくんだなと思いました。 10年前に私は肺腺癌になりました。 2/3の肺を取りました。  自分のお守りみたいなものです。 秋野暢子さんも食道がんを患って、バッチを今も付けています。 「無敵」戦うものではなくて、自分と向き合うものです。 被災地に行くと子供たちが書いて居たり、学校の玄関などに「無敵」と言う言葉が貼ってあったりします。 病院などにも貼ってあります。 

「生きている 生きてやる 生きたい 君のために」は寛仁親王の主治医が愛知県の方で、それをお持ちいただいています。  「かかってこい」は負けたくはない、力が無い自分にも負けないよと言う気持ちで、そこに書をしたためます。 相手ではなく自分に向けて言っています。  

「いい日になりますように」は優しさを感じさせる言葉です。 10年前に手術をした時に、明日は判らない、だから今日がいい日であるように、まず今日でいいよねと、今日いい日にしようと言ったらそれが一番かなと思います。  仲良しの親友が或る日すい臓がんが見つかって、3か月で死んでしまいました。  「いい日になりますように」はその人その人の生き方の中で、広がってゆくんだなと思いました。 

朝茶はその日の難逃れで、お茶を大事に入れなさいという事で、叔母の入れるお茶が物凄くおいしんです。 一服すると穏やかな気持ちになります。  書も「間」があり、その余白も美しさであり、書、お茶、お花、なども「空間の美」ですね。 

東日本大震災の後の復興支援、震災後すぐに行きました。 石巻から入って行ったところでは300人余りが亡くなって、遺体捜査をしていた人が硯を見つけて、硯をもらい受けて名古屋に帰って来ました。  その硯でいろんな作品を書きました。  3か月後に或る体育館に行きました。 そこで子供たちが「負けてたまるか」とかいろいろ書きました。 胸のなかにあるものを手を通して筆で書いてみてくださと言って、脇では何も言わない。 陸前高田では2011年10月に一番最初に書いた子が「ちち」と書きました。 他には流された人の名前とか、「時」「いま」「時間」「一人にしないで」「夢のなかであおうね」とか書きますが、書かない子もいて10分前だと言うと、突然書きだした子がいました。 「いいことがある」と書きました。 「絶対いいことがある」と書いて「いいことがある」を10分間書き続けました。 

私の手を握って園ちゃん?が「友達が幼稚園のバスに乗ってみんな死んでしまった。」と言うんです。 フラッシュバックで2年間お母さんにも何も言えなくなってしまいました。 友達は間違って天国行きのバスの乗ってしまったので、私たちもいずれ乗るよ、そうすれば会えるよ、と言ったら「みんな元気に」と書きました。  先生が次の日からしゃべり出しました、と言うんです。  「ちち」と書いてくれた子が「持って行ってくれ。」という事で、その後全国の美術館とかいろいろなところで、展示しました。 「忘れられるのが怖いから返さないでくれ。」と言われて今も預かっています。 何千枚も預かっています。

全国の児童養護施設にも常に行っています。  「殺さないで」「虐待はこわい」「いじめないで」「親は鬼」「こんなところに来たくて来たわけではない」とか施設の子供の心の叫びをかいていて、被災地の子とは全く違う書を書きます。 デーケアのおじいちゃんおばちゃんも書いてもらいます。  家族の方はおじいちゃんおばちゃんはみんな死にたいんだと思っていたというんです。 でも「生きたい」「生きる」「好きな人の昔の名前」「お母さん会いたい」と書きます。 

「無敵」プロジェクトは一番参加した時には石巻でお祭りをやった時には250人行きました。  皆が出来ることをやる。  会えた人が大事です。 「離れているけれども思ってもらっている。 離れているけれどもみんな味方で私はいたい。 味方でいてくれる。」 綺麗なものを見た時に誰の顔が浮かぶか、家族の顔、友達の顔。 「人の思いが人を良くする。」、という事を信じていて、それで生かして貰っていると思います。 一番のお薦めは「綺麗な夕焼け」だと思います。(同じ夕焼けを一緒に見る。)











 

2024年6月26日水曜日

平栗智子(ガーデナー)          ・〔心に花を咲かせて〕 運命に導かれて作った牧場の宿根草ガーデン

 平栗智子(ガーデナー) ・〔心に花を咲かせて〕 運命に導かれて作った牧場の宿根草ガーデン

園芸と無縁の世界でサラリーマンをしていた平栗さん、ひょんなことから園芸の世界に入って、思わぬ成り行きで牧場の中に宿根草ガーデンを作ることになったと言います。 以来10年、今や園芸のプロも注目するガーデナーとなり、ガーデンは多くの人を惹きつけています。

広さは900平米ぐらいです。   お庭は園路は直線ではない方がいいと教えられて、曲がりくねっていると先に何があるのか、という事で小島が沢山あるような光景です。  植生を考える時には、色は最後に決めています。  多年草のものを沢山植えていますので、花によっては1週間で花が終わってしまうようなものもあるので、草姿を重点にいろいろ考えています。 花が無い時でも楽しめるように、シーズンを通して楽しめるように,、枯れ色まで考えています。  枯れる色が黒っぽくなるのか、ベージュの色も明るいのか暗いのかと言うのも考えています。  基本的にはオープンしてから枯れてゆくまで、植え替えはしません。 空間を楽しんでもらえるように 、様々なものが混ざるような植え方をデザインしています。 AとBの組み合わせを用意して、咲き方が微妙にずれてしまっても、A,Cとか、A,DとかA,Eは上手くいくかもしれないと、準備は怠らないようにしています。 

葉っぱのラインが綺麗なものを私はよく使います。  「天使の釣り竿」がピンクの花で茎が細くてゆらゆら揺れますが、その手前にアザミの仲間のエリンジウムと言うシルバーがかったグリーンの花が咲くと「天使の釣り竿」がより際立ちます。 緑が多いと花が濃くても花を落ち着かせてくれます。  葉っぱが沢山あるような植物を使っているので、色の構成みたいにはならないガーデンです。  

営業職時代に一日中パソコンを見つめている仕事をしていました。 次に変わるならば全く違う仕事、時間に追われない仕事をしてみたいと思っていました。  園芸が出来る職業訓練校に3か月通いました。  たまたま園芸店の仕事があり、お世話になりました。 その店はサンプルガーデンが出来るようになっていて、それに直ぐ手を上げました。 ボランティア活動に参加してそこでも学びました。 宿根草に興味を持っていて、園芸店が閉店することになった時に、一緒に働いていた友人が「ガーデナーになっちぇばいいのに。」とポロっといったんです。 いろいろご縁があり、閉店するときに私が担当していた服部牧場さんに苗を引き取っていただくという話があり、引き取ってもらって、その後見に来てくれないかとの話がありました。  苗を植えたりしているうちに楽しくなってきました。 庭を大々的に作りたいという事で、牧場の社長に直談判しました。 それまでにもイギリスのガーデンの本とか、ブログなどでいろいろと勉強はしていました。 社長へのプレゼンは一発で通りました。

イギリスのガーデンを一念発起して見に行きました。 美術館併設のガーデンがあり、オランダの有名なガーデンデザイナーのピイト・アンドロスさんの設計のガーデンを見て、感激してしまいました。 こういうガーデンを是非作りたいと思いました。  社長からは思っていた場所とは違う場所を案内されました。  いまはガーデンになっている高台の場所でした。  長方形の場所ですが、今思うとかえって良かったと思います。  節約する中で株を増やしたり、挿し木にしたりして工夫して増やしていきました。  図面をおこして、梱包資材のひもで或るマスを作って島状に一つ一つ作って行きました。  自由にやらせて頂きました。 その時、その時に知り合った方に応援、助けていただいて今日まで来ました。 

懐かしいヒマラヤユキノシタとか、イネ科のすすき、ネコジャラシとかなども植えています。 穂が風に揺れて綺麗です。 宿根草に対するコントロールは常にしています。    一人でやっているので、真っ暗になる、もう無理かなあと思うぐらいまでやっています。  いろんな品種を試して、いろいろ判って来るので花のリレーが出来るようになります。  この仕事を通していろいろな人に出会って、それが何よりかもしれません。  又植物への興味が尽きなくて、いろいろな植物との出会いがあって、その後ろにはやっぱり人が居るというところですかね。  「夢中であるという事は夢の中である。」と言う言葉を20代で聞いて、そのままの人生かもしれないですね。  私は植物のしもべですね。 そういった付き合い方ですね。














2024年6月25日火曜日

松原伸生(人間国宝)           ・白と藍の染めの美、長板中形を受け継いで

松原伸生(重要無形文化財「長板中形」保持者・人間国宝)・白と藍の染めの美、長板中形を受け継いで 

「長板中形」は江戸時代から伝わる技法で、型紙を使い藍で染めます。 白と藍の対比が美しく清涼感を生み出すために芸術的な感覚や優れた技術が求められます。 松原さんは昭和40年東京江戸川区の生まれです。 松原さんの祖父も「長板中形」の人間国宝で、その技はその息子たち4人に受け継がれました。 その一人が松原さんの父です。 松原さんは都内の高校を卒業後、千葉県君津市に家族で引っ越しました。 作品を一貫して作るには太陽の光や風など自然の力が欠かせないと言います。 自然に恵まれた工房で厳しい父の指導を受けながら技術を磨きました。 伝統的な「長板中形」の技法を体得し、作品を作り続けた松原さんは2021年に紫綬褒章を受章しています。 技の継承にかける松原さんの思いを伺いました。

「長板中形」の特徴は藍と白のコントラストが一番の見どころかと思います。 藍染は日本中にありますし、日本人が好きな色かなと思います。 「長板中形」の素材は木綿が主体になっています。 伊勢型紙を用いますが、点々がいっぱい詰まったような細かい模様、それを小紋と言う呼び方をして、「江戸小紋」とかがあり、大紋、大柄は袢纏(はんてん)、暖簾とかの大きな形紙があり、その中間にあたるのが「中形」と言う様な模様のサイズから来ています。  白生地の上に伊勢型紙を使って、表面と裏面と両面から防染?糊を置く、それから藍で染める。 それを洗って糊を落とすという事になります。 

去年重要無形文化財保持者に認定されましたが、自分には程遠いものだと思っていました。 祖父が昭和30年の第一回の文化財保持者として認定を受けましたが、僕が生まれた時には他界してしまっていました。 人間国宝になってプレッシャーを感じます。 祖父は相当な頑固者だという事を父から聞いています。 それまでは分業であったものを祖父は変えました。 自分で全ての作業をすればどこが悪くて、どうすればいいのか端的に判るわけです。戸籍上は12人子供がいたそうです。 小さいうちに亡くなったり、、戦争で亡くなったりして、父の仕事を手伝い始めたのが4人の子供です。 そのうちの2番目が父になります。 江戸川区に住んでいました。 父の兄弟とその子供たちで住んでいて、一番多い時には17人ぐらいいました。  私には妹が2人います。 

都立工芸高等学校デザイン科を卒業後、長板中形や藍形染めの技術を父から学び始めた。 日本工芸会に入りましたが、先輩たちには人間国宝が何人かいらっしゃいます。  日本工芸会は発足が70年以上前になります。 人間国宝の作品の発表、啓蒙活動などをしていて、年に一回日本伝統工芸展を行っています。 7つの分野に別れています。 

学び始めた時には段々手狭になったことと、自分のアイデンティティーを保つことが出来るのか気になって父に相談したら、環境のいい千葉県の君津市に移ることになりました。  住まいと工房の建屋の建築から始めましました。  父は藍染だけではなく、日本工芸会の常任理事、染色部会の会長も務めていたので、他の物つくりの人たちのプロに接する機会を与えてくれて、作品を観る機会もあり非常に勉強になりました。  自分で常にいいものを見る、人の言っていることの本質に耳を傾ける、やり始めたらやり通しなさい、という事は父から言われました。  

防染に使う糊の材料はもち米から作る粉(餅粉)に石灰を加えて茹でて練り上げた「きのり」と言うものと、ぬかに石灰を加えて作る「小紋ぬか」(さらに細かい)それらを併せて防染糊として使います。 水を加えて柔らかさを調整します。  糊を乾かすのには天日で行います。 「ごいれ」と言って、大豆を一晩水にふやかして、大豆で作った呉汁を使いますが、反物に刷毛で汁を浸み込ませる作業も太陽のもとで行います。 風が吹いてくれるとなお都合よく乾いてくれる。  自然環境を上手く利用させてもらっています。 一反染めるのに10日ぐらいは掛かります。 

「長板中形」は夏の衣装なので、模様を楽しむ。 脈々と繋がってきているものにはそれなりの強さがあります。 「長板中形」は一旦途絶えて、再認定されています。 祖父が昭和30年に亡くなり、68年経ってここで改めて認定されました。  一番うれしいのは、身にまとって、気持ちが豊かになっているのが見て取れると、自分の遣り甲斐がそこで完結するというか、作てよかったという思いになります。 

周りのいろんな方に可愛がってもらったことは、非常に恵まれていると思いました。   この仕事を続けて行って、「長板中形」を広く皆さんに知っていただくことと、後継者を育ててゆく、とかいろいろあります。 2年前から長女が始めました。 父の大変さが少しわかった感じがします。 美術大学に行って講義をしたり,個展の場所でも話す機会を持っています。 






2024年6月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 没後100年フランツ・カフカ

頭木弘樹(文学紹介者)          ・〔絶望名言〕 没後100年フランツ・カフカ 

フランツ・カフカは1883年生まれ、1924年6月3日に亡くなりました。 フランツ・カフカは20世紀最高の作家の一人と言われ、世界のさまざまな作家に影響を与えています。

「或る人物に対する後世の人たちの判断が同時代の人たちの判断よりも正しいのは、その人物がもう死んでいるからである。 人は死んだ後に初めて一人きりになった時に初めてその人らしく開花する。」   カフカ

カフカはチェコ出身に小説家で、変身審判』『』『失踪者』『流刑地にて』など があります。  20世紀最高の作家の一人と言われ、世界のさまざまな作家に影響を与えています。 今年カフカ没後100年になります。 

時代ごとにどういう人が凄いかは時代によって変わって来る。 殿様に忠誠を尽くすとか、革命をするとか、お金を儲けるとか、時代によって異なる。 でもそのずっと後に時代になると、そういった基準は意味がなくなって、そういう基準では判断されなくなる。 普遍的な視点で見られる。  バッハの生きていた時代にはバッハの音楽は時代遅れといわれていた。 亡くなって忘れ去られてしまって、再評価されたのは没後100年ぐらいです。  カフカも没後100年で、より純粋に味わえるのではないかと思います。 

「家庭生活、友人関係、結婚、仕事、文学などあらゆることに私は失敗する。 いや、失敗する事さえできない。」  カフカ

失敗するという事はなにかに挑戦するから失敗もするわけですが、何もしなければ失敗することもない。 失敗するという事は行動が前向きなんですね。 

「僕は一人で部屋にいなければならない。 床の上に寝ていればベッドから落ちることが無いと同じように、一人で居れば何事も起こらない。」  カフカ

仕事をしないと生きて行けなかったが、カフカは仕事をするのも嫌がった。 

「仕事に行こうとすると、故郷を去らねばならない人の悲しさに襲われる。」 

「都会の路地を引きずられてゆく生まれて間もない臆病な子犬と変りない。」

カフカは仕事はちゃんとやって出世もしている。 カフカが務めていたのは労働者傷害保険協会(半官半民の役所)で、弱い人への共感が凄く有って、労働者が怪我をしてやってくると、仕事を適当にやるわけにはいかなかった。 カフカが任された仕事は、仕事中の事故を無くすための活動をすることで、事故が減れば保険金も払わすに済むので、会社のためになる。  カフカは心配性なのでこういう仕事はもってこいなんです。 

カフカが出世して給料も上がった時の言葉                              「将来に向かって歩くことは僕にはできません。  将来に向かってつまずくこと、これは出来ます。  一番うまくできるのは倒れたままでいる事です。」  カフカ

「彼女無しでは僕は生きていけないし、彼女と一緒では僕は生きていけない。」 カフカ   

カフカは3回婚約して3回婚約破棄している。 生涯独身となる。 結婚願望は強かった。 

「僕は結婚と子供とを或る意味では、地上で努力して手に入れる値する最高のものと見なしています。」 カフカ

「何故僕は結婚しなかったのでしょうか。 結婚を決意した瞬間からもはや眠れなくなり、昼も夜も頭がカッカし、生きているというより絶望してただうろついているだけ、と言う状態に陥りました。 原因は不安、虚弱、自己軽蔑などによる漠然としたストレスです。」カフカ

カフカは決断することなく永遠に迷い続ける。 3回のうち2回は同じ女性なんです。 優柔不断も凄いですね。  それで先ほどの言葉が出てくる。 「彼女無しでは僕は生きていけないし、彼女と一緒では僕は生きていけない。」 この言葉は日記にも書いているし、友達にも、彼女への手紙にも書いている。  カフカは500通以上の手紙を書いていて会ったのは数回だった。 カフカは生身の人間が苦手で、手紙の恋愛が好きだった。 

「無駄な筋肉は僕にとって、なんと縁遠い存在だろう。」 カフカ

カフカは水泳は得意で、ボートも漕いでいたが、決して強くなろうとはしなかった。   強い父親への反発もあった。  相手の女性はフェリーツェと言う人で、家計を支えるために10代から働き始めた。 タイピストから始めて20代で重役にまで出世する。 当時は男性社会なので風当たりは強かった。  しかしカフカはそうは思わなかった。 男らしさ、女らしさにはこだわらなかった。  

カフカの友人のマックス・ブロートのお陰でカフカの本は世に出ることが出来た。 カフカはブロートに対して、書いたものは焼く様に遺言でブロートに伝えているが、焼かなかった。 カフカが焼く様に言っていたという、但し書き付きで出版し、得たお金はカフカの両親と最後の恋人に渡して、自分は一切受け取らなかった。  ブロートはカフカを世に知らしめたようにヤナーチェクも同様にした。

*ピアノソナタ 「1905年10月1日 街角より」 第一楽章 作曲:ヤナーチェク

「一方からは父が、もう一方からは母が僕の意志をほとんど破壊してしまった。 それは逃れようのないことだった。」  カフカ

父は貧しい境遇の中から、頑張って一代で裕福になってきた。 仕事もできて、経済力もあり、逞しさがあった。 カフカとはまるで話が合わない。 

父への手紙                                          「僕に必要だったのは、少しの励ましと優しさ、僅かだけ僕自身の道を開いてもらう事でした。 それなのに貴方は逆にそれを閉ざしてしまった。 もちろん僕に別の道を歩ませようとする善意からです。  しかし僕にはその能力がなかった。 例えば上手に敬礼したり行進したりしたりする僕を貴方は褒めて励ましてくれました。 けれども僕は未来の兵士ではなかったのです。  又よく食べて さらにビールさえ飲めた様な時、あるいは意味もわからぬ歌を真似たり、貴方の好きな言い回しをあなたの後について、かたことで言えた時、貴方は僕を励ましてくれました。 けれどもそんなことは僕の未来とは何のかかわりもなかったのです。」  カフカ

こういうすれ違いは悲しいです。 母親は優しかったが父親の味方だった。 

「幸福な人間は忘れています。 自分は歩いているのではなく、倒れているのだという事を。」  カフカ

順調にずっと歩いている気でも、いつ倒れるか判らない。 気が付いたら倒れていたという事もあるかもしれない。  失ってしまうといけないものを、それでも失ってしまうとどう生きて行っていいかわからない。 倒れるしかない。 


恋人のドーラと公園を散歩していたら人形をなくしてしまった少女と出会った。 人形を失ったという事は人形とこれからも生きてゆく」未来まで失ったことになると感じた。 カフカは人形はちょっと旅行に出ただけだと言って、次の日から人形は旅先から送って来る手紙を書いて少女に毎日渡した。  当時カフカは病状が重くなって、残された時間はなかった。  ドーラによると小説を書くのと同じ真剣さで書いていたという事だった。 3週間書き続けて、その結末は色々な人と出会ってその人形はしあわせな結婚をするという事だった。 それで少女は人形とはもう会えないと納得した。  僕(頭木)も難病になり、人生がひっくり返っったような感じでしたが、カフカに助けられました。 この番組〔絶望名言〕の成立のきっかけにもなりました。  

カフカはこれでよく生きて行けるなあと思いますが、その答えになるような言葉を最後に伝えます。

「救いがもたらされることは決してないとしても、ぼくはしかし何時でも救いに値する人間でありたい。」  カフカ 












 







2024年6月23日日曜日

森山開次(ダンサー 演出家)      ・〔夜明けのオペラ〕 オペラは究極の身体表現

 森山開次(ダンサー 演出家)      ・〔夜明けのオペラ〕 オペラは究極の身体表現

森山開次さんは1973年神奈川県生まれ。 21歳でダンスを始め、2001年「夕鶴」でプロ活動を開始、和の素材をとりいれた独自の表現で注目を集めます。 2005年の舞台「『KATANA』はニューヨーク・タイムズ紙に「驚異のダンサーによる驚くべきダンス」と絶賛されました。 2007年にはヴェネチアビエンナーレ(1895年から開催されている現代美術の国際美術展覧会。)に招聘され、以後国内外の舞台やテレビ、映画などで幅広い活動を続けています。2012年発表の新作「マンダラの宇宙」で第63回芸術選奨新人賞を受賞、2019年に「ドン・ジョバンニ」で初のオペラ演出を手掛け、2021年の2020東京パラリンピック開会式では演出、チーフ振り付けを担当しました。 今年の9月から11月まで全国7都市で展開される全国共同制作オペラ公演「ラ・ボエーム」では演出、振り付け、美術、衣装のすべてを手掛けます。 

ダンスをやる前には絵を描くことが好きでした。 作る事とダンスをいつもセットでやっているので、それが僕の好きなスタイルです。 小さいころは人の前で表現するのは苦手でした。 たまたま 舞台を観に行く機会があり、キラキラ輝いて素敵に見えて、悩んで何も踏み出せない自分が悔しくて、大学を中退してミュージカルの劇団に入りました。 高音の声がでなくて苦労したのを覚えています。 初めて踊りに出会ってのめり込みました。  踊りのレッスンをしている中で、今まで感じたことのない不思議な感覚がありました。 最初に作った作品は雨をテーマにした「デュオのダンス」でした。 日本の和のテーマを用いることが多いですね。 

能楽の津村禮次郎さんとは、僕が作品を作り始めた頃、お能の方を紹介してほしいと言ったら、突然の出会いがありました。  作品を作りたいとお願いしました。 その後の僕の舞踊人生にも大きな影響を与えました。  そこにいる様でいないものに興味を持っていました。 存在することとしないことの間を踊りたい、幽玄というか、踊ると何かの境目に触れるというか、そういう感覚になります。 私は踊り始めた時に「私はここにいません。」と踊ります。 自分の感覚とフィットしたんだと思います。 能は幽玄で私はここには居ないという事からスタートする。 

2019年の「ドン・ジョバンニ」では、井上さんから言われて、はすぐに引き受けました。  「ドン・ジョバンニ」は以前に舞台で踊ったことがあるので縁を感じました。 

「ドン・ジョバンニ」の「カタログの歌」 歌:オットー・エーデルマン

「ドン・ジョバンニ」を演出をして手ごたえがありました。 

「ラ・ボエーム」では演出、振り付け、美術、衣装のすべてを手掛けました。 助けて貰いながら、多くのスタッフとさらにコミュニケーションが増えました。 2か月で7都市8公演です。 大変です。 1週間ごとに新しい「ラ・ボエーム」を作ってゆく感じです。 芸術家として共感できる部分が沢山有ると思います。  踊りと音楽は分けがちですが、僕は余り分けないで考えていきたいと思ています。  歌いながら踊って欲しいと思います。  日本人としての視点、視野は持っていたいと思います。 

「ラ・ボエーム」から「冷たい手」 歌:ルチアーノ・パヴァロッティ










 

2024年6月22日土曜日

正置友子(絵本学研究家・青山台 文庫主宰) ・人生を支える絵本 ~団地の絵本文庫50年の日々

正置友子(絵本学研究家・青山台 文庫主宰) ・人生を支える絵本 ~団地の絵本文庫50年の日々 

正置友子さんは1973年に団地の一室で文庫を始め、去年で開設から50年になります。  絵本を学問として研究してきた経験や、子供たちを絵本を読む日々で判った絵本の力についてお聞きしました。

千里ニュータウンと言うところですけれども、青山台文庫と言う名前ですが、青山台の入居が始まって、結婚と同時に入居しましたが、最初来た時には誰も知りませんでした。 人と人との関係が出来ていって、時が流れていきました。 絵本学の研究者でもあります。  56歳から6年間イギリスに留学、論文も書きました。 絵本とは何かという事を研究するのが絵本学です。 イギリスでは絵本の歴史を研究しました。 ビクトリア時代のイラストレーターのウォルター・クレイン絵に出会ってはまってしまいました。 

「生きていることはどういう事なんだろう。」と 子供の頃からずーっと思っていて、本の中に答えがあると思って本を読んでいました。 結婚して3人の子供が生まれましたが、それでもずっと思っていました。  「生きているから生きているんだ。」と夫から言われましたが、納得できず、その時手にしたのが児童文学で感動しました。(30代) 生きていることはこんなに素晴らしい事かと思いました。 周りの人に読んでもらいたいと思ったのが文庫の始まりでした。(1973年)  大人に読んで貰いたいと思ったら子供が100人ぐらい来ました。  幼稚園から小学校の子も来ました。  1978年以降は団地の集会所で週一回開催するようになりました。  図書館と比べて文庫は縛りが少ないです。  人と人との関係性の密度が高いです。  

2001年からは「抱っこで絵本の会」を始めて、赤ちゃんとお母さんとの絵本の会です。  ブックスタートはイギリスで1922年に始まり、赤ちゃんが生まれると絵本をプレゼントするというものです。 日本でも2001年から始まります。 0歳とお母さんが来ていただく会です。 1歳になれば辞めるつもりでしたが、1歳になり、2歳になっても別れられなくなりました。  一番多く読んだ本は「いないいないばあ」です。  大人の場合は一遍読むともう知っていると思う。  子供は何度読んでも発見があるみたいです。 「いないいない」の次には「ばあ」を期待するんだという事が判りました。 当たり前みたいですが。 お母さんが顔を隠すという事はいなくなってそのつらい体験があれば、この絵本も身体で感じられるだろうと思います。  顔を隠された悲しみと、出た時の喜びとが表されている。 何度も読んで貰っているのにもういいと言わないのだろうと思うと、人生ってそうだねと、出会いがあって別れがあって、そういう事が「いないいないばあ」じゃないかと思います。  このことの次はどうなるのかなと、想像する、それが出来るということは凄いことだと思います。 

現実世界で、ある行為をしたら、例えば誰かを殴ったら、その人は痛いと思うだろう、厭がるだろう、という事です。 次はどうなるのだろうと予想してめくるわけです。  想像することができるという事は、人間は生まれながらにして持っているとしか、私は思えませんでした。 想像する種は持っているが、その芽が出たり花が咲くのは大人の役割だと思います。  水をやったり栄養をやらないとイマジネーションの種が枯れてしまう。 絵本はドアのようなもので開くと新しい世界があります。 時間の経過があります。 絵本は子供にとって宝物になります。 読んであげた人にとっても宝物になります。 一緒に読んで深くその世界に入った絵本があれば、その子の一生を伴奏することができる、と私は思っています。 絵本は人と人を結ぶことが出来る。 翻訳することで国境を越えることができる。  絵本は世界の平和に役立ってくれると思います。

生きるための絵本: 命生まれるときから命尽きるときまでの絵本127冊」と言う本を出版しました。 それぞれの年代に対してのお薦めの絵本を紹介しています。 大人へのお薦めの絵本17冊が出てきます。 

「おじさんの傘」 雨の日も傘を閉じたおじさんの話。 話を聞いた80代ぐらいの人が「自分も同じです。」と言うんです。 「妻からプレゼントされた傘があり、妻が亡くなり傘をさせないんです。」、という事でした。 

「小さいお家」 田舎の静かな丘の上に立つ小さな家があるが、どんどん開発されてゆき、最後は高いビルに挟まれてしまうという内容です。  「小さいお家」は女性なんです。  環境が変わってゆくところを見続けるんです。  早く早くではなく、ゆっくりと生きて暮らしてゆきたい、この一冊の中で100年以上の長い時間が流れるが、これは女の物語だと思いました。 そこに居続ける事、世の中を見続ける事、動くと見えないことがあるかもしれない。(早く通り過ぎるから。)  

文庫を始めたのが1973年ですが、文庫は何千と有りましたが、どんどん減って行って、来る子供もどんどん減って行って、あるいは皆無になって行って、文庫が閉じているところが多い。  これからの子供たちのことと、読書のことを思います。 こういう時代だから文庫を続けたい。 本を読むという事は一生を支えると思います。 その原点が文庫だと思います。 

















 










2024年6月21日金曜日

橘田智雄(貿易会社経営)        ・ALSの妻を看取って

 橘田智雄(貿易会社経営)        ・ALSの妻を看取って

6月21日は世界ALSデーです。 ALSと言うのは筋萎縮性側索硬化症と言って全身の筋肉が徐々に動かなくなる難病です。 国内におよそ1万人の患者がいると言われていす。   東京都内で貿易会社を営む64歳の橘田智雄さんはALSの妻の初代さんの在宅介護を8年続けてきました。 途中数年は実の母の遠距離介護も重なって橘田自身も心身に変調をきたしたと言います。 去年2月に初代さんが亡くなったあと、橘田さんが介護生活のあれこれを漫画に描いて、SNSで公開するようになりました。 ALSと言う病気について知って欲しいという思いと共に、今まさに誰かの介護をしている人たちに伝えたいことがあると言います。

妻がALSと診断されたのは2016年2月でした。 2015年の5月ぐらいから通勤の途中で、転んだりしました。 合気道をやっていて、道場で突然転んだりしました。 最初街中の整体、鍼灸とかに通いましたが、わからないという事で大学病院に行きました。 大学病院では妻のALSの進行は早いと言われました。 進行の遅い人もいます。(30年、40年) 途中で進行の止まる方もいます。 ALSと言う言葉さえ知らずにネットで調べました。 いろいろ症状が書かれていましたが、想像つかなかったです。  進行が早くて、その先取りをして対処するという事に気持ちがいっていました。  例えば声が出なくなるとしたら、新しいコミュニケーション装置を準備しなければいけないとか。 指が動かなくなるようであれば物理的にオンオフ出来るスイッチを用意するとか、でもそれも何か月かで使えなくなってしまいますが。 何か月ごとに次の対処を更新していかなくては駄目でした。 私が全て準備していきました。 

妻は小説の企画編集、配信をやっていました。 地方新聞の連載の企画をして、作者と交渉をして案を練って小説を書いてもらって、各地方紙に配信する仕事をやっていました。  在宅介護が始まるまで仕事は続けていました。 2016年の夏に石垣島に旅行に行きましたが、その1か月後に呼吸困難になってしまいました。 気管切開をして人工呼吸器をつけなければいけなくなりました。 口から食べられなくなるので胃ろうも付けることになりました。  コミュニケーション装置の練習などを含めて、9月頃から3か月入院しました。 その後に在宅が始まりました。(2016年11月)  妻の身体が動けるうちに旅行しようという事で、医療関係を考えて国内にしようという事になり石垣島に行きました。(バリアフリーツーリズムを展開していた。)  楽しい時間を過ごせました。 

人工呼吸器をつける手術では、声が出なくなりますが、手術としてはよくないが、空気がちょっと漏れて数か月は何とか声を出せて会話することは出来ました。 手に力があったころはパソコン画面に出てくる文字で、自分が使いたい文字がでてくるとスイッチを押すようにして、会話しました。 手の力がなくなると風船型のスイッチに替わってパソコンを動かしたりしました。 それが駄目になると視線が使えたので、視線入力(視線を感知するセンサーがパソコンのディスプレーの下についている。)で文字をピックアップして言葉、文章を作りました。 又パソコンに声を出させてコミュニケーションをとることもしました。 文字板での視線によるコミュニケーションの方法もやりましたが、先読みはするなと言われました。

病気に対する文句、嘆きは聞いたことが無いです。  それまで病院で妻の看病に関わってきた人たちから在宅介護に関わる人たちに対して情報を引き渡す会議があるんですが、その時に妻はパソコンの音声で自分の発言をしました。 「私はこんなに難しい病気であったのだから、他の人には見られない景色がある筈だ。 その景色を存分に楽しんでやろうと思います。」と言う風に言ったんです。  これはある意味私にとっては衝撃的でした。 病気に対して正面から向き合って行こうと思っているんだと思いました。 

仙台にいる実母の遠距離介護と重なっていました。(妻が転び出す1年前からスタート)  90歳間近になって、転び出したので、骨折をして寝たきりにはなって欲しくなかった。  二人の介護をするという事で精神的にもおいつめられました。 月に1,2度は行っていました。(父はだいぶ前に亡くなっている。)  私は一人っ子で介護者としては一人なのできつかったです。  母が2017年10月末に亡くなりましたので、妻の介護とは3年間重なっています。  躁うつ病、睡眠障害に悩まされました。 予想もしていなかった脊柱管狭窄症を患って背中が痛くなったり、足がしびれて動かなくなったりしました。(手術をして入院もしました。) 私も要介護者になっています。 

在宅介護になるとドクター、ナース、ヘルパーさんが来ますが、24時間、365日家にはヘルパーさんが来ます。  プライベートの生活空間に赤の他人(感謝はしていますが)が入り込んでくることは、体調にドンときました。  妻に当たってしまったこともあります。 妻は「身体を大事にしてね。」と文字盤でいったかもれないです。 近所には大学の先輩、同輩、後輩、友人などが住んでいて、その人たちが私たちを精神的に手伝ってくれたんです。 一番は私の話をよく聞いてくれたり、妻に話かけてくれたりしてくれました。  本読みプロジェクトを立ち上げて、名前を付けたのは妻です。 39人になりましたが、妻が読んでほしい小説、エッセーなど、自宅のスマホで録音して、クラウドにあげて、いろいろ操作をして、ブレットでヘルパーさんが操作をして妻が聞くという事です。  クラウドには数百点は上がっていると思います。 「本読みは私を私たらしめるもの。」と妻は文字盤に示しました。 本読みがあるから私が私で居られる。 生き甲斐であったと思います。 

妻は昨年の2月に亡くなりました。(介護は8年間)  進行性の病気に負けないように、次々起こることに対して、先取りをして負けないように頑張るという人生のやり方を得ました。 大勢の人に頼る、助けを求めて自分を励ましてやってゆく。 公的支援に頼るという事も大事だと学びました。 社会的介護が必要だと思います。 私が辿り着いた言葉は「離れればもっと優しくなれる。」という事です。 心、精神的な面で妻に、被介護者に寄り添ってあげる。

「主介護者」介護する側の一番責任を持たなければいけない人間。 漫画で「主介護者」というタイトルにしました。 一番伝えたいことは「貴方一人ではないんだよ。」という事です。 孤独にならないで欲しい。 









2024年6月20日木曜日

藪光生(全国和菓子協会専務理事)    ・〔わたし終いの極意〕 和菓子で心の栄養を

 藪光生(全国和菓子協会専務理事)    ・〔わたし終いの極意〕 和菓子で心の栄養を

藪さんは今年80歳、もともとは建築業界で仕事をしていましたが、縁あって1978年に和菓子協会に入りました。 以来46年和菓子文化の継承と普及に取り組んでいます。 和菓子は心の栄養と説く藪さんに、お話を伺いました。 

6月16日が和菓子の日となっています。 848年(承和15年)当時疫病が非常に流行って、その疫病を退散するために神前にお菓子などを供えて、疫病の退散を祈願するんです。  元号を嘉祥と改めて、仁明天皇が就任しました。 その故事に習って和菓子の日と決めました。 嘉祥の祝いは江戸時代に入って、徳川幕府が非常に大事にしたお祀りで、将軍家お目見え以上の士分には将軍が自らお菓子を差し上げるという事をやっていました。 それが段々民間の方に移って、銭16文で菓子を買って食べると健康に良いという縁起があるという事で、明治までは盛んな行事でした。 御維新で廃れてきて、1979年(昭和54年)に第一回として復活したというのが話の謂われです。 

お菓子の本を見ると、果物がお菓子のルーツという事になっています。 私としては加工したものでないとお菓子とは言いにくいと思っています。 団子とか餅がルーツだと思います。 ドングリも食べたいがアクがつよくて食べられないが、つぶして水に浸すとアクが亡くなることを学習するわけです。 アクをぬいた粉を丸めて焼いたり煮たりしていた。 それが団子のルーツだと思います。 餅は日本最古の加工食品と言っていいと思います。 お餅にしておけば常温でずっともつ。 神前に供えていたが、これもお菓子のルーツだと思います。 

羊羹(ようかん)、羊の肉の入ったお吸い物を羊羹と呼んでいました。 白魚が入っていれば白魚羹とかあり48羹有ったと言われています。 仏教伝来以来、牛肉、羊の肉は食べないので、羊の肉に似せて小麦とか小豆の粉を練ったものをいれて、模造品の羊羹を食べていました。 それが蒸し羊羹に変化し羊羹になります。 4代将軍家綱の頃に寒天が発明されます。  小麦粉の代わりに寒天を入れて蒸さずに練り上げて作る練り羊羹が出来ます。 和菓子は常に生活文化の中で変化してきています。 吊るし柿をうらごしてそれに寒天を加えてアンを加えて柿羊羹が出来ます。 

日本人は入ってきたものを工夫してよりよいものにしてゆきます。 ポルトガルから伝わってきたカステラですが、カステラには膨張剤は使いません。 卵と小麦粉と砂糖だけでふわっとした感じにします。 伝来してきた当時はそんなお菓子ではなく硬いビスケットのようなものでした。 カステラを焼く時には泡切りと言って、泡を切るような操作をします。 そうしないと均一に気泡が浮かばない。 その操作を3回ぐらい繰り返します。 そんなことをやってお菓子を作っているのは世界中どこに行ってもありません。 常に手が加えられてよくなってきています。 

私が働いていた建築会社が倒産して、得意先にしていたところで和菓子屋のビルがありました。 倒産と言う中で大変なんですが、ビルの竣工まで私が面倒を見ました。 それがご縁で和菓子の仕事をするようになりました。 或る時に柏餅を100個ぐらい買うことになり、中身を見ると硬さ、味などいろいろとあり、これは料理の世界と同じだと思いました。私は元々料理が好きだったので、和菓子の世界にすっと入っていけました。

和菓子の調査では年寄りは好むけれども若い世代は好まない傾向がありました。 スナック菓子は低年齢層は食べるが、高年齢層は食べない。 洋菓子は20,30代は食べるが子供、年寄りはあまり食べない。  これは大変だという事になりました。 同じ調査を27年後にやりましたが、全く同じ傾向でした。 加齢による嗜好の変化が起きているのではないかと思いました。  

和菓子店によって、それぞれ個性があります。(手作りによる個性) 季節の移ろいと共に和菓子がある。  季節にならないと売られないものがある。(桜餅、柏餅など) 季節を表演するものがある。(2月は梅をかたどったお菓子、3月は桜と言う風に季節を表現する。) 季節を感ずることによって情感を感じる。 目でも楽しめることができる。   菓子は人なりと言う言葉が有りますが、作った人の心が見えるような気がします。     

葛(くず)はいかにも冷やして召し上がって下さいと言う様な感じです。 でも冷やすと葛の澱粉は老化して硬くなります。 常温で、見た目で涼しげな感じを感じていただく。  江戸時代にはおはぎのことを「隣知らず」と言うんです。  おはぎのことを昔は「はぎの餅」と言っていて、餅と言うのにペッタンペッタンつかないから、隣の人は作っているかどうかわからないから「隣知らず」と言ったそうです。  おはぎのことを「北窓」、とも言いました。 北の窓には月が無い、突きがない。 「夜舟」とも言います。 夜は危ないので舟を着けない、突けないという事でそうも言われていました。 

和菓子から一番学んだことは、興味を失わないという事です。 何故こうなったんだろうかとかいろいろ思います。 いくつになっても知らないことがあるので、それに興味を持つ事がもとになっています。 最中は宮中で月見の宴をした時に出された、白い丸餅の菓子が、中秋の名月に似ていた。(「 水の面に 照る月なみを かぞふれば 今宵ぞ秋の 最中なりける 」 江戸時代、その句に因んだ「最中の月」という菓子が誕生する。

60歳まで仕事人間でしたが、60歳以後は休日は妻のために使うという事を宣言しました。 以後20年間かたくなに守っています。   「今が一番しあわせですね。」と妻が言ってくれるので、こんな幸せなことはないと日々生きています。 学生時代からジャズボーカルで歌っていました。 67,8歳の頃に若者に説教する機会があり、人間はそれぞれ計り知れない能力を持っている。 しかし人間は怠けものが多い。 君たちは怠けてはいけない。 例えば僕が楽器はいじったことはないが、明日からドラムの練習をしたら、1年間したらプロと一緒にやってみると宣言したんです。 毎日必ず30分早く起きて1年間練習をしました。 以後ずっとドラムをやっています。 若い人には常に可能性に向き合って欲しいと思います。 ドラムは68歳からやっています。  新しいストレスを掛けると古いストレスは消えて行きます、それがストレス解消法です。  一生懸命やらないとストレスにはならない。(仕事も遊びも) 和菓子を通じて日本人の持っている生活文化のすばらしさみたいなものをわかって頂きたい。 わたし終いの極意とは、俳句もやっていて俳句に託して「余生とは何時からをいう蝉しぐれ」、余生はないかもしrない。





















2024年6月19日水曜日

梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督)   ・〔スポーツ明日への伝言〕 最後の猛牛・近鉄の魂を受け継い

梨田昌孝(野球評論家 元プロ野球監督)   ・〔スポーツ明日への伝言〕 最後の猛牛・近鉄の魂を受け継い 

梨田さんは1953年(昭和28年)島根県浜田市出身。 島根県立浜田高校を卒業後1972年ドラフトと2位で近鉄バッファローズに入団、17年の現役生活でベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回獲得するなど、リーグ屈指の強肩のキャッチャーとして活躍、1979年近鉄球団初のリーグ優勝、更に翌年リーグ連覇に大きく貢献しました。 引退後はコーチ、二軍監督を経て、2000年から大阪近鉄バッファローズの監督として指揮をとり、監督2年目にチームをリーグ優勝に導きますが、球団合併により近鉄球団は2004年55年の歴史に幕を下ろし、梨田さんは近鉄最後の監督となりました。 その後北海道日本ハムファイターズ、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めて、監督として通算805勝を挙げています。 この間現場から離れた時にはNHKの野球解説者としてわかり易く親しみ易い解説を聞かせていただいています。 2020年の春には新型コロナウイルスに感染、重症化して一時は集中医療室での治療が続きましたが、幸いにも一命をとりとめて、現在はお元気に御活躍中です。

近鉄がプロ野球からなくなって20年になります。 近鉄は弱いんですが、自由奔放にやったという気がします。 電鉄として400kmあまりあり、凄いと言う感じはありました。(知名度は低かった。)  子供の頃は広島カープのファンでした。 個人的には長嶋さん、王さんのファンでした。 セリーグはメジャー、パリーグは二軍と言うような感じでした。 ドラフト2位で、1位は佐々木恭介さんでした。 3位が橘健治さんほかそうそうたるメンバーでした。  2,3年後には47年に入団した選手は5人スターティングメンバーにでているというほど、当たり年のドラフトでした。  

2年目が終わったところで西本幸雄さんが監督になりました。 ここからチームが変りました。 私と羽田が挨拶に行った時に「3年後にお前たちを1000万プレーヤーにする。」とおっしゃいました。  妥協しない方でした。  雪が降っても雨が降っても練習を途中で止めるという人ではありませんでした。  情熱、愛情は感じました。 1979年球団初のリーグ優勝がありました。  リーグ優勝がかかる相手が阪急ブレーブスでした。 阪急には近鉄は弱かったんですが、逃げて打たれる、得意じゃない球で打たれるのが、キャッチャー、ピッチャーとしても不本意だと思って、最後のバッターにシュートを選んで正解だったと思います。 リーグ優勝に慣れていなかったので、実感がなかなか湧いてこなかったですね。 

1977年入団6年目にファールが右手中指にあたって、根元が亀裂骨折をしました。 強肩でしたが、山波のボールしか投げれなくなりました。 なかなか可動域ももどってきませんし、腫れも引きませんでした。 盗塁させないためには、まず強肩ですが、次に取ってからすぐ投げる、三番目がコントロールよく投げる、四つ目ボールの回転のいい球を投げる、という事を考えました。 取ってからてのひらを上手く使って早く右手にボールを移す練習を何万回、何十万回とやって、又左足を25度ぐらい前に出して、ステップの角度を小さくして投げれるようにしました。 投球時間が早くなってきて、段々指の可動域ももとに戻って来ました。 盗塁を段々刺せる様になってきました。 盗塁阻止率は5割3分6厘と言う数字はパリーグ歴代トップはいまだに譲っていません。  1979年優勝した年の対阪急線は阻止率が7割8分でした。(盗塁王の福本さんがいた。)

身体が硬いのと、構えからテークバックするときには普通は上がるんですが、下がる癖がなかなか直らなかった。  グリップを下に置いたら上がるしかないと思ってそれをやったのと、柔らかく見せるために手を振ってみました。 それが「こんにゃく打法」と言われるようになりました。 

1988年に仰木監督に代わる。 前年に引退を考えていました。  仰木さんと話をして辞めると言ったら、「選手としては期待はしないが、コーチと選手のパイプ役をやって欲しい。」と言われもう1年やる事になりました。  あの1年が自分にとっては勉強になった1年でした。  「10・19」 この年は西武が強くて9月半ばで6ゲーム差をつけられていた。 近鉄が追い上げて行き、10月16日に西武が全日程を終了。 近鉄は残り4試合で3勝すれば優勝。 17日には阪急に敗れる。 18日にはロッテに勝つ。 10月19日にダブルヘッダーがありここで連勝すれば近鉄の優勝となる。  ロッテとの第一試合、3対3で9回で2アウト2塁で、ピッチャーが牛島投手に替わって、代打梨田となりました。 もうこの打席で辞めるつもりでした。 野球人生を振り返りながら、バッターって振らないと駄目だよな、と純粋な気持ちになれました。  初球がボール2球目をセンター前にヒットを打って、決勝点になりました。 第二試合が4対4、4時間まであと3分と言うところでキャッチャーとして登場。  引退してNHKの解説などをして、その後1993年近鉄にコーチとして戻る。 2軍監督を経て2000年に大阪近鉄バッファローズの監督として指揮を執る。  1年目は最下位、2年目はリーグ優勝。

2年目は機動力野球を封印しました。 チーム防御率が4,98でした。 ランナーを貯めて一発と言うように切り替えました。  逆転が多かったです。  チームが勝つためには何が最善かを考えていて、ポジションの移動なども考えて、いい結果が出ました。     胴上げをしてもらったのは、何とも言えない感動でした。  2004年に近鉄とオリックスが合併ました。  55年の歴史に幕を閉じることになりました。 辛かったです。  先の話が出来なくなると心も閉鎖的になる。 前向きな話は一切ない。 その時に僕が言ったのは「ボールは一個しかない。 3時間一個のボールに集中してくれ。」と言いました。「大阪ドームでは最後の試合だが、どのチームでユニホームを着ようが、今みんなが付けている背番号は永久欠番だ。 胸を張ってやってくれ。」といって、皆が涙してその場を去って試合に備えてくれました。  









岩本光弘(全盲海洋冒険家)        ・見えないからこそ、生きられる

 岩本光弘(全盲海洋冒険家)        ・見えないからこそ、生きられる

岩本さんは熊本県天草市生まれの57歳。 幼少期から弱視で、16歳の時に全盲になりました。 筑波大学理療科教員養成施設に進学し、在学中アメリカのサンフランシスコ州立大学に留学しました。 その後筑波大学の盲学校で14年間教員を務めました。 その傍らアメリカ人の妻の影響でヨットにのめり込んで行きます。 2006年ヨットが盛んなアメリカ西海岸のサンディエゴに移住します。 2013年にはニュースキャスターの辛坊治郎さんとヨットでの太平洋横断に挑戦しますが、航海8日目にクジラがヨットに衝突し、断念しました。  2019年再びアメリカ人男性と太平洋横断に挑戦し、全盲のヨットマンとして世界で初めて無寄港の太平洋横断に成功しました。

宮古島トライアスロン大会に出場、12時間の制限時間に対して11時間59分20秒でした。 2014年から始めました。 2013年に救命筏で11時間漂流したので、海が本当に怖かったです。  最初は海に顔を浸けられなかったです。 

13歳ぐらいから徐々に視力を失って行って、16歳の時に全盲になってしまいました。      徐々に目が見えなくなってゆくというのが本当に辛かったです。 恐怖と不安が入り混じっていました。  野球をやっていて飛んでくるボーrが見えないし、バッタボックスでも空振り三振して、苦しかったです。 見えないくなっているという事を言えなかった。(認めたくなかった。) 弟に助けられながら自転車を並走させたりしました。 自分で歯磨き粉を歯ブラシに付けられなくなったのが一番ショックでした。 歩いていても階段から落ちるようになって傷ついてしまい、母親が見かねて杖を渡してくれました。 「お前は目が見えなくなっていることを受け入れろ。」と言う風に聞こえました。 杖をつき返して、「なんで俺を生んだんだ。」と言い返しました。 この人生は誰かの迷惑にしかならない、と思って、自分が死んでしまえばだれかに迷惑を掛けることはない、と思いました。 

橋の欄干に両手と右足を乗せて海に飛び込もうとしました。 両手には力が入るんですが、右足に力が入らないんです。 何度もやりましたが。 昨夜寝れなかったし、疲れてきて公園のベンチに寝て、もう一回エネルギーを貯めて死のうと思いました。  すっと眠っていたら、私を養子にしようと思っていた叔父がいました。 叔父は天国に行ってしまっていて、その叔父からメッセージを受けるんです。 「お前が見えなくなったことには意味があるんだ。 見えないお前がいろんなことに挑戦することで、見えていても困難や苦難にいる人たち、何のために生きているのか判らない人たちに、勇気と希望を与えるためにお前は見えなくなったんだ。 自殺なんかしないで真っすぐ生きろ。 いろんなことに挑戦しろ。」と言うメッセージでした。 パッと目が覚めましたが、意味が分からなかった。 一つ思ったのは死んではいけないんだなという事でした。 自殺を諦めて家に帰って行きました。

いろんなことをやる中、或る時に富士山に登頂すること決めました。 友人とやっとの思いで頂上に着きました。 そこの光景を友達が説明してくれていました。 周りの人が僕が目が見えない事に気付いて、「凄いですね。 私たちはもっともっとやれますね。 勇気づけられました。」と言われた時に、叔父からのメッセージは本当だなと思いました。

鍼灸の技術を教えたいと思って東京行きました。 目が見えない事でのアパート探しから大変でした。 筑波大学理療科教員養成施設に進学しました。 アメリカの視覚障害教育を学びたいと思いました。 筑波大を休学しサンフランシスコ州立大学へ単身留学することを決心しました。 アメリカは障害があっても通常の学校で教育をすることに感激しました。  ただすべてが上手く行っているわけではないことも知ることになりました。 生活上いろいろ苦労もありました。

帰国後筑波大学附属盲学校鍼灸手技療法科の針灸教員に就任しました。 14年間教鞭を取らせていただいで、本当に楽しかったです。 生徒からの相談事にちゃんと対応できているのかわからないので青山学院の二部で心理学を学びました。 妻はアメリカ人で、僕がアメリカから帰国後、英会話スクールに通い始めて、英会話を教えていた先生の友達が妻です。妻が以前アメリカではヨットに乗っていました。 当時は稲毛海岸近くに住んでいて、散歩していたら、ヨットレンタルがあり、乗ってみることになりました。 妻に言われるままにやり屈辱感がありましたが、自然との一体感を感じ、続けることを決心しました。 

2013年にニュースキャスターの辛坊治郎さんとヨットでの太平洋横断に挑戦します。  3日までは順調で4,5日目ぐらいから台風崩れの低気圧にであって、5mの波と15mの風に苦しみました。  6日目(6月21日朝7時)大きな音がしました。 船が横倒しになりました。 海水が入ってきて救命筏に乗り換えて11時間漂流しました。 怖かったです。  全盲で無謀だという事で、いろんなメディアに叩かれSNSでバッシングを受けました。 6か月ぐらい鬱になりました。 安全であるためには一生涯家にいるように言われたのが一番つらかったです。 

2019年再びアメリカ人男性と太平洋横断に挑戦することにしました。 一度目では得られない感動が待っているんだと、その感動を得るために怖いけどもう一度挑戦しようと思いました。  「僕は見えるけれどもセーリングスキルはない、君には視力はないけれども、セーリングスキルはあるじゃないか。 お互いにできなところを補い合いながら逝けば我々の夢は絶対に実現するからいっしょにやろうよ。」と言われました。  一回目よりも大きな嵐に会いました。 低気圧は4,5個は覚悟していましたが、10個の低気圧に会い、本当に辛かったです。 お湯を沸かすことも出来ず、そうなると食事もできません。 クジラには祈るしかなかったです。  無寄港には意味があると思っていました。 4月20日に福島に到着しました。 その時には母親に僕が投げたロープを受け取って貰いました。  「なんで俺を生んだんだ。」と吐いてしまった言葉、その心の傷がスーッとなくなって行きました。  クジラを恨んだこともありましたが、その苦労があったから感動があったと思います。 

本当にいろんなかたがたのサポートによって、ここまで生きれました。 人だけではなく宇宙のエネルギー、ご先祖様などに助けられてここまで来ました。  天は僕をもう少し多くの人を人を救うために、あの太平洋で救ってくださったんだなと、もっともっと多くの人達の困難、苦難を乗り越えてゆく力を多くの人に与えたいと思っています。  環境が幸せにするのではない、自分の心です。 人と比べ始めるからいけない。 足るを知る、今与えられていることに感謝をして、当たり前をありがとうに変える時、人生は素晴らしいものになる。 幸福は自分の心の中にある、と言う風に思います。 海は包容力がある、海に話を聞いてもらう。  「ありがとう」を世界に広げる「グローバルありがとうプロジェクト」を通して、「ここにあることは奇跡なんだ」と「ありがとう」の言霊を通して自殺をなくし、子供たちに笑顔を与え、世界平和を目指すという事を目標に次のチャレンジをしていきたい。









2024年6月17日月曜日

中西レモン(唄い手)           ・〔にっぽんの音〕能楽師狂言方 大藏基誠

 中西レモン(唄い手)           ・〔にっぽんの音〕能楽師狂言方 大藏基誠

唄:仏さまをたたえる、と言う意味もあります。 真言宗では梵唄ぼんばい)と言う言葉が有ります。 天台宗だと声明(しょうみょう)と言ったりします。 私のジャンルは庶民の歌という事で民謡ですね。 関西の盆踊りの歌、「江州音頭」を習っています。 やぐらにあがって歌を歌っています。 関東地方だとそういった文化があまりない。 群馬では八木節があり、やぐらにあがって歌を歌っています。佃島に古い盆踊りがあって、そこでは音頭取りがやぐらにあがって音頭を取るという事がありますが、案外少ないです。 盆踊りを中心にライブハウスとかで活動しています。 中学校の時にたまたまカセットテープで民謡を聞きました。 そして民謡が好きになってしまいました。 周りはバンドブームでした。

* 「斉太郎節」 宮城県の民謡  歌:中西レモン

元を辿ると、「銭吹き唄」と言うのがあって、金属を溶かす時の「たたら」を踏むときの歌ではないかと言われています。 その後櫓をこぐ作業などにも転用されたと言われています。

ソーラン節などは網を引く時の歌ですね。 「斉太郎節」は舟を漕ぐときの歌と言われています。 

(大蔵:僕は母が他の実家が銚子だったので小学生の時には大漁節を聞きました。)

NHKのラジオの民謡番組も聞いていました。 画家としても活動していて、アルバムのジャケットの絵も全部手掛けています。 浮世絵が元です。 菱川師宣がベースで、レコードの方は竹原 春朝斎がベースになっています。 

人前で歌うようになったのは「江州音頭」を習ってからです。 初代桜川唯丸師匠から教わりました。  西日本の民謡の中には「くどき」という形式があり、七七調とか七五調と言われる詩形があって、叙事詩になっています。 「江州音頭」も七五調で物語を辿って行きます。 

*「さのせ」 歌:初代桜川唯丸

昔は盆踊りは出会いの場でした。 

州音頭唯丸節「八百屋お七」から「お七寺入り」 歌:中西レモン  

日本の音とは、時代を遡ったりした歌、それぞれの地域にある歌声とか、そういったものを楽しめると、とっても面白いなあと思います。

データだけ残っても駄目で、人の口に介してこそ歌ですから。




 

2024年6月16日日曜日

片岡 護(イタリア料理店 オーナー・シェフ)・〔美味しい仕事人〕 イタリアンをもっと身近に

片岡 護(イタリア料理店 オーナー・シェフ)・〔美味しい仕事人〕 イタリアンをもっと身近に

 日本でイタリア料理が一般に広まって行ったのは1970年代後半から80年代にかけてと言われています。 当時イタリア料理のことをイタ飯と呼ぶなど、ポピュラーな料理になって行きました。  片岡護さんはそうした時代に、本格的でしかも和食の心にも通じるイタリア料理を提供して、日本にイタリア料理を広めていった料理人のお一人です。

日本イタリア料理協会の代表も務めています。  料理講習会もありますし、給食見たいな事もやります。(別の団体があり、学校に行ってイタリア料理だけではなく、学校料理を作ります。) 日本のイタリア料理店は3万軒ぐらいあります。 東京は8000件ぐらいです。  イタリアの旬の食材もはいって来ます。 僕が一番好きなのはグリーンピースです。 そう言った食材の難点はちょっと高いという事です。 イタリアの食材も段々日本でも作れるようになりました。 

僕の店は1983年にオープンしました。  戦前から有った店も数える程でしたがありました。 一般的になってっ来たのは80年代で今は花が咲きました。  工業デザイナーを目指して芸大に行こうとしましたが、2浪して、その後イタリアの総領事館でコックの話がたまたま来ました。  周りの相談して、コックになりますと言ったら、もうコックは決めてあると言われてしまいました。 日本料理の「つきぢ田村」で3か月修行することになりました。 そこからイタリアに行きました。 総領事とその奥さんが食べる事が好きでした。  奥さんが料理が上手でしたので、奥さんに習ってちゃんとやりなさいと言われました。  絵筆を包丁に持ち替えたという感じです。 芸大から予備校に来ていた先生が「皿の上にデザインするのとキャンバスの上にデザインするのと同じだよ。」と言われて、そうだと思いました。 

ミラノに行って奥さんに習いましたが、毎日お小言で大変でした。  現地の日本料理屋さんのご主人と友達になって教えて貰ったり、イタリア料理は総領事のお友達を介して、いろいろなところにいかされました。  総領事館のコックとして信用がありましたので、いろいろ勉強させてもらいました。  でも大変でした。 ウナギ料理を頼まれてもさばき方も知らないので、ウナギ料理店に行って教わりました。  素人でもできる方法があり、ウナギを新聞紙にくるんで冷凍して、冬眠したところを生きているうちに、さっとさいちゃうんです。 おろし終わって頭をポンと落とした時点で目が覚めるという方法です。 ウナギの匂いはおいしそうな匂いなので子供たちが寄って来ます。  イタリアでもウナギを食べますが、ウナギのかば焼きにはかなわないです。 いろんなイタリア料理店に行って習いました。(休日)  料理を習うために全部お金をつぎ込みました。  パスタの美味しい店をやりたいという目標もありました。  最初にカルボナーラを食べて感激しました。

日本から総理大臣とかVIPが来ますが、豆腐などは日本から取り寄せます。 でも自分には技術が無いので豆腐の作り方はあの店に行って習いなさいということになります。 自分でやっても最初はなかなかできないんです。 大豆はイタリアもありますが、小さくて硬くて違うんです。 白い豆腐にならなくてちょっと茶色っぽくなります。 日本の大豆で作ると本当に美味しい豆腐が出来て、それをいろいろな料理に広めていきました。  イタリアは鮭は取れないので天然の冷凍の鮭を買いに行きます。 解凍して開いて塩を振って地下室に吊るしておきます。  そうすると凄くおいしい鮭が出来るんです。 

帰国後、洋食の修行をしなさいという事でかなり有名な店に入りました。(25歳)  色々あり、気を使うのが大変でした。  もう一度イタリアで修業をすることになりました。(3か月ぐらい)  戻って来てからイタリアレストランを6年間行いました。 34歳の時に独立したのが今のお店です。  6年間やっていた時のレジ係が妻です。 その時の店は自分がやりたいと思っていた小皿料理で毎日満席でした。 いろんなイタリア料理を知って欲しかったという事と日本料理のイメージもありました。 伝統的な料理ではなく、健康、盛り付けなどを考えた新しい料理が広がって行きました。  

日本料理は油などをあまり使わないので軽い。 イタリア料理も比較的軽くて似た面があります。 一番の共通点はパスタ、麺にあると思います。 ソースが違うだけの話です。  麺は歯ごたえのあるもの、のど越しです。 75歳になりますが、パスタは永遠だと思っているので、自分のパスタ観をやって行きたいと思っています。



















鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方

鳥居本 幸代(京都ノートルダム女子大学名誉教授)・平安貴族の女性たち その暮らしと生き方

およそ1000年前を舞台にした大河ドラマ「光る君へ」は当時の生活習慣、風俗にも興味を抱かせてくれます。 とりわけ主人公の紫式部や清少納言など華麗な衣装で登場する貴族の女性たちはどんな暮らしぶりで、どんな人生を歩んだのか、平安時代の服飾文化や生活を研究している鳥居本さんに源氏物語や紫式部日記、枕草子など小説や日記、随筆を参考に解き明かしていただきます。

一条天皇が年少で即位される場面がありますが、その時の装束は悪霊を再現されたと思いました。 即位の時に着られるものは平安時代の装束ではないんです。 奈良時代以来のものでして、私たちが持っているイメージとは違うものなんです。 孝明天皇も着られているんです。(江戸の終わり) 紫式部の実家が戸が入っていなくてがらんとしていて、いつも庭がみえていますが、夜は建具で閉じますが、朝になると開け放してしまいます。   外光を取り入れなくてはいけない。  油は高価なのでなるべく点ける時間を少なくして、外光に頼る。 冬は寒いです。 天井が無くて屋根裏が丸見えなんです。 床は板敷でまだ畳の文化が無いんです。 座る部分だけ畳があった。 寒いので一杯着ます。十二単と言っても十二枚とは限らない。 建物は神殿つくりと言われていて、前に広い庭があり、大きな池がありますが、夏には水面から冷たい風が吹き込んでくる。 冬は着こむ。 庭から見えてしまうので簾をかけてその内側に壁代と言って今のカーテンのようなものがあり、下から上に巻き上げるようになっている。

お風呂場は無くて、建物と建物の間に渡り廊下があり、屏風をぐるっと回して盥を置いて、今でいう行水のようなものです。 髪の毛は身長よりも長いです。 陰陽道の占いに従って、洗う日があって、2か月も洗わない月があります。 旧暦の7月に大々的に鴨川で髪の毛を洗いますが、乾かすのが大変でした。 お化粧は毎朝します。 米、小麦を粉状にして水でといでつけていました。  鉱物性の白粉が伝わって来ます。(水銀,鉛) 伸びがよかったのでそれを塗りつけていた。  平安時代の女性の平均寿命は30代と言われますが、これも一因していたんだと思います。 白粉は身体に悪かった。 

眉毛は毛抜きで抜いて、その上に描いていました。  目と眉毛の間が開いている方が美男、美女だと言われていたのでぼやっとした眉毛を描いています。 貴族は男も薄化粧をしています。 女性は12歳ぐらいで成人して、男性は10歳未満から20歳まで幅がありますが、成人するとお歯黒をしています。(虫歯予防も兼ねていた。)  女性は笠の周りに薄い布が貼ってあり、周りの人からはっきり顔が見えない様になっている。  平安時代は道路事情が悪いので埃っぽくて、髪の毛はしょっちゅう洗えないので埃の予防にもなります。 身分の高い女性は成人すると男性には顔を見せない。  几帳(平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄を下げた間仕切りの一種。)や御簾越しに話をする。 貴族の男性は家の中でも常に烏帽子をかぶっています。 烏帽子などの被り物を付けるという習慣は冠位十二階までさかのぼります。(603年) 

身分の高い人は白米を食べています。  食事の時間は10時と午後の4時の二回です。  もち米を蒸します。   噛む力はありました。(しもぶくれはその影響)  男性は女性を覗き見にいきます。  気に入ると和歌を詠んで文を送ります。 季節の枝にそれを結びつけます。 なかなか本人からは得られないので、親とか、乳母が男性の将来性を値踏みするわけです。 大丈夫そうだとなると何度か文を取り交わす。 正妻は同居して、側妻は夫が来なくなれば自然に離婚となってしまう。(経済的な基盤が崩れてしまう。)   嫉妬は起こります。  「もの見」と「もの詣」があり貴族の女性は公にはこの二つしか外出の機会はなかった。  「もの見」はお祭りとか天皇の行幸を見学に行く。 「もの詣」は神社お寺などにお参りに行く。  

上級貴族は自分の娘を天皇の妻にすること、入内(じゅだい)を目指します。 藤原兼家(藤原道長の父)は3人の娘が天皇或いは東宮の奥さんになっている。 次女は円融天皇に入内しています。 ここから兼家は権力を伸ばしていった。 男の子を生んでくれて天皇になると外祖父になれる。(権力を握れる) 一条天皇は7歳で即位しているので、外祖父である兼家が実際の政治を動かして行く。(摂政関白)  兼家が亡くなると長男の道隆が跡を継ぐ。 定子が入内して一条天皇の中宮になる。 道長の娘彰子も入内する。 この時だけ二人の中宮が並び立つことになる。 今度は道長が外祖父になって実権を握る。 

定子に仕えたのが清少納言、彰子に仕えたのが紫式部。 中宮になると文化サロンを作り、和歌に優れて女性、文学に優れた女性などを集めます。 「女房」と言われて、相談役、教授役など教養を高めてゆく役割が大きかったと思います。 定子は父親が亡くなり、兄伊周が事件で追われる身となり、バックボーンがなくなる。  定子は出家と言う事になる。 彰子は入内するときに、40人ぐらいの優れた女房を連れて来た。 私的な役目なので給金は実家持ちとなります。  清少納言と紫式部は会っていないという事が定説になっています。(大河ドラマでは会っているという事になっている。)  清少納言は漢文の才があるとひけらかしていると、紫式部は批判の文を記載している。 清少納言が退いた後に、紫式部が女房になる。 清少納言は零落してしまう。  紫式部は結婚して死別してから彰子に仕えている。 紫式部の子供が賢子(かたいこ)というが、天皇の乳母になります。 乳母も実権を握ることが出来る。  

当時の女性は自分の思いを叶えさせてくれるのは観音様だという事で、平安末期に観音信仰がとても流行りまして、心の拠り所として仏教を持っていたのではないかと思います。 








































2024年6月14日金曜日

新沢としひこ(シンガーソングライター)  ・〔人生のみちしるべ〕 いつもそばに歌があったから

新沢としひこ(シンガーソングライター)  ・〔人生のみちしるべ〕 いつもそばに歌があったから 

新沢としひこさんは昭和38年生まれ。 父親は保育園園長、母親も保育士と言う家庭で育ち、小さいころから歌や絵を多くの人に届ける仕事をしたいと考えていたと言います。    10代から弾き語りのライブをはじめ、20代で中川ひろたかさんと共に子供の歌を作り、発表してきました。 「世界中のこどもたちが」「にじ」「はじめの一歩」など、テレビ番組を「おかあさんといっしょ」でもおなじみのロングヒット曲を沢山生み出してきました。   保育園、幼稚園、小学校などでも歌われています。 現在日本童謡協会の副会長も務める新沢としひこさんに伺いました。

シンガーソングライターだけではなく、音楽事務所の所長、日本童謡協会の副会長、大学で教えていたりしています。 新しい歌も作ってゆく童謡の協会です。  初代会長がサトウハチロウさんです。 子供の頃から子供の仕事をしたかったんです。  自己主張も強いし、自分のなかの表現するものと言うのは止められないものと思って、押さえつけないように生きてきました。 自分の中の子供って大事に思っていて、大人になったらもうおしまいだという風に思っていました。  30歳ぐらいになってやっとあきらめがつきました。  子供の頃は大人っぽくて、大人になったら子供っぽくなっていきました。 思ったよりも子供は大人だから、そう思って歌を作ります。 日本著作権協会に登録したのが700曲ぐらいあります。 登録していない方が多いです。

「世界中のこどもたちが」は作詞が私で、中川ひろたかさんが作曲しました。(昭和62年に作る。) 当時はメディアから完全無視でした。 雑誌に楽譜が出ただけでした。 NHK、フジテレビなどにも楽曲を持って行っていますが、駄目でした。 童謡ではないと言われがちでした。 保育現場、子供たちが支持して歌ってくれました。 段々浸透していきました。  何十年も経ってから童謡集にも入るようになりました。 

中川さんとのい出会いは、中川さんが27歳、僕が18歳の時でした。 月刊誌に毎月曲を作ることを始めたのが、23,4歳でした。 『月刊音楽広場』(クレヨンハウス、現:『月刊クーヨン』)に歌を連載することになりました。 4か月ぐらいしたらなかなか書けなくなってしまいました。  「子供讃歌」でいいんだと言われて、そこで吹っ切れて、「世界中のこどもたちが」と「ハッピーチルドレン」という詩を書きました。

この童謡は凄いと思っているのは「あいあい」「歌えバンバン」「ちいさい秋みつけた」です。 「ちいさい秋みつけた」は幼稚園の時に聞きましたが、衝撃を受けました。 意味が分からないけど素敵と思いました。  保育園に務めるようになって、「まっかな秋」「歌えバンバン」を歌ったら、子供たちが「まっかな秋」の倍ぐらいの声で「歌えバンバン」を生き生きと歌ったんです。 こういう歌を作るべきだと思いました。 子供たちからのリクエストがあって「あいあい」を歌いました。 自分では好きではなかったんですが、子供たちが物凄く盛り上がるんです。  分析してみました、子供たちには歌わされている感がないんです。  何の理屈もない。  自分としてこういったものを書いていいのかどうか、人生の課題として「あいあい」は大きく存在するんです。 「ちいさい秋みつけた」「歌えバンバン」は見習うべきもので「あいあい」はどうすべきか課題みたいなものです。

昭和38年生まれ。 父親はキリスト教系の保育園園長、母親も保育士で、姉と私と弟の3人兄弟です。 父親は保育士の仕事をして欲しいと思っていました。 姉も弟も保育士になりました。  僕は音楽とか絵とか芸術の方に行きたかったんです。 父からはそれらは保育に役に立つと言われていました。  優しくできなかったという風に書いた方が優しい感じがするんです。 自分の中に悪いところがあると感じた方が、善なるものがちゃんと伝わったりするんです。  自分の負の部分をちゃんと見つめて大事に出来た、という姉の存在は凄く大事でした。  本当は触れられたくないところとか、コンプレックスはあるよねと、そういうところを認めるという事が僕の大前提になっています。 子供のあどけないいい部分だけを見るのではなく、意地悪だったり残酷なところもあり、子供は大人っぽいと思っているんです。 大人は段々子供になってゆくぐらいに思っています。 

人間は脳の動物だと思っていて、自分は左脳は大人の部分、右脳は子供の部分と言うのがあって、右脳がタレントで左脳がマネージャ―、右脳が選手でで左脳が監督、みたいな感じが僕のなかあります。 左脳は間違える(理屈)が、右脳は間違えない(感覚)。 支持をしたり技術を学んでゆくのは左脳、心を表現したいというようなことは右脳。 その組み合わせで僕は生きていると思う。 つまり子供は間違えない、大人は間違えると思っています。 子供を大事にしながら、大人がちゃんと作品を作らして上げるというのが僕の一番正しいやり方です。 僕の道しるべは、僕のなかの子供、子供が道しるべなんです。 子供を尊敬して子供をキープすることが大事、と言う風に大人はいなくては駄目です。 そうやって作品を作って行けば間違いないと思っています。 






 














吉田一平(ゴジカラ村 創設者)       ・みちくさしながら、ゆっくりいこうよ!

 吉田一平(ゴジカラ村 創設者)       ・みちくさしながら、ゆっくりいこうよ!

現在78歳になる吉田一平さんは、生まれ育った愛知県長久手市にゴジカラ村と言うコミュニティーを作りました。 ゴジカラ村のゴジカラは仕事を終わったことを指すアフターファイブの意味です。 効率の良さや結果だけを重視するのではなく、遠回りするもよし、それぞれの個性や存在を尊重し子供から大人まで障害のある無しに関わらず、だれにも役割を持って暮らす事を目指しています。 3ヘクタールある雑木林を中心とする村内には、幼稚園や託児所、高齢者施設、保健師や看護師を育成する専門学校や古民家が建ち並び、多世代の人たちが行き交います。 地域の人たちから一平さんの愛称で親しまれている吉田一平さんに伺いました。

遊戯が無く、自然が遊戯です。 歩いて行ける距離にいろんな施設があります。  5時までの社会はみんな追い立てまくられて、沢山仕事をしたり、いい成績をとったりして、そういう社会ではないところを作りたかった。 もっとゆっくりして,障害があってもいいよ、大丈夫と言うような空間を作りたかった。  私は商社マンでした。 時間=コストと言う社会にいました。(15年間)  昭和50年代になると身の回りが豊かになったが、更に走ろうとしてきた。 そろそろゆっくり暮らしたらどうなんだという事です。 

体調を崩して辞めて、地域に戻ってきたら、雑木林、田んぼなどがなくなって開発されて住宅にするという時代でした。  雑木林を残して子供たちをそこで遊ばせたいというのが最初でした。 33,4歳で地域に戻って、たいよう幼稚園を初めに作りました。    母親は昭和10年に長男を生んで、6人兄弟で4人の兄と姉が亡くなりました。 私は末っ子で病気がちでしたが、兎に角母親としては生きて行ってほしかった。 母親は馬車馬のように働いていまいたが、本当に貧しい暮らしでした。  私が5歳から25歳までの母親の日記があります。 田畑のこと、私のことがほとんどでした。 のんびり、ゆっくりせよと言い続けていました。 父親も勉強のことなどは言わないで真面目にやっておれと言っていました。 

会社を辞めた頃に、子供が金属バットで親を殺したとか、学校に行けないとか、いろんなことが起きました。 私はなんとか遊ばしてやろうと思いました。 生きていることがこんなに面白いというところを作ってやりたかった。 遊びは自分で探して自分で作るものです。 それがきっかけとなりゴジカラ村を作ることになりました。  人ってなんで生まれてくるんだろうと思いました。  後白河法皇によって編まれた「梁塵秘抄」の中の「遊びをせんとや生まれけむ。 戯れせんとや生まれけん。」(人は遊びをしようと生まれてきた。戯れにただ興じようと生まれてきた。)と言いうう言葉に出会って、遊ぶために生まれてきたんだと思いました。  3,4,5歳ぐらいまでに面白いなあという事があると、生きてゆく上の大きな軸をもって生きると思う。 

いろんな施設にも道草の食えるような空間を作って来ました。 山には葉っぱがあるが全部違うし、ゆっくり見たことが無い。 今の世の中は発達障害、認知症、などがあり、ちょっとゆっくり、ちょっと物事の習得が遅い、走っている人から見ると遅く感じる。 走っている人たちは走癖症だと思う。 走っている社会は許容力が無い。 おおざっぱな空気があると他の人が入って来ても許せる。 

昨年9月まで長久手市長を3期12年務める。 遠回りをすると大勢が楽しめる。 上手くいかないとみんなに役割が生まれる、という事を言い続けてきました。 自分たちでものを考えて自分たちで生きてゆく、基本的な暮らしのやり方が出来なくなってしまう。 東日本大震災があった年に四国のお遍路に行きました。  1200km、40日間一日30kmをひたすら歩きました。 市長を辞めてもう一度行ってみたいと思って行きました。 いろいろ感動しました。 一回目はひたすら歩きましたが、2回目はスマホがありいろいろ情報が入り、いろいろ考えて、人は情報で苦しめられることを知りました。 雑談からでてくる夢とか、道草を許せる心があるところを作て行きたい。  だいたい、ぼちぼち、ゆっくりでいいから、違う種類の人が混ざって暮らす時に、だいたい、ほどほど、まあまあ、と言うのがキーワードです。  雑木林は未完成、未完成はいいね楽です。 















2024年6月12日水曜日

樋口恵子(評論家)            ・機嫌よく90代を生きる(後編)

樋口恵子(評論家)            ・機嫌よく90代を生きる(後編) 

相続者が一人娘なので、そういう事を見越しながら家を建てました。(8年前) 猫が4匹います。 猫歴70年です。 肺結核で1年自宅で療養していました。 兄も肺結核になり旧制中学の3年生で亡くなりました。  慰めになったのは兄の残した本と猫でした。 以来猫は守り神みたいになりました。 

「高齢社会をよくする女性の会」を立ち上げました。 女性は依存する方向に社会が作られてきました。  高齢社会になると女性が自立できる存在に、今から用意しなければいけないと思います。  女性の老後の生活設計を立てようと、そういったPRは随分してきたと思います。 高齢になるほど女性の比率は高い。  65歳以上で女性を100とした時に男性は76,6です。 80歳以上になると女性を100とした時に男性は57,9となり随分違います。(2022年調査)  講演が終わった後に、ある男性から我々は婆さんの世話になって死ぬんだという事がよーくわかりましたと言われました。 

80代後半になりますと、男性は30,4%、女性は81%になる。 80代前半では配偶者と死別した方が男性は16,8%と少数派、女性は57.7%で過半数なんです。 歳をとればとるほど、男性は妻に看てもらう人の比率が高くなるのに、女性は歳をとるほど一人になって生きることがおおくなり、覚悟が違わなければいけないが。 残された女性の人生もハッピーなものであってほしいと思います。 

介護保険制度の設立に対して大きな役割を果たした。 1970年の高齢白書では長い間の家族制度などの伝統が含み資産になっており、欧米諸国の様に騒がなくてもいいじゃないか、とまでは書いていないがそれに近いことが書かれています。  お嫁さん、あるいは在宅家族が介護をするという事が当たり前と言う感覚が長かった。 ワークライフバランスと言っていたのを、ワーク、ライフそれにケアを入れて欲しいと思います。 ケアという事を社会全体のなかで重視して、きちんと報われて、ケアをしている人が人生が押しつぶされないようにと言うのが、介護保険制度が出来る頃の私のスタンスだったと思います。

「高齢社会をよくする女性の会」を拡げて行こうという過程でコロナの問題が起きました。 介護と言うと世の中から負い目を背負ているような感じがあった。  介護については行政的にも政策的にもケアの重要性は高まってきていると思います。  育児休業、介護休業が広がりつつあり、これは結構なことだと思います。 樋口恵子賞が出来て、今年で3回目になります。 津田梅子賞などを頂いて、それが原資となりました。  対象は女性同士が励ましあった事、女性のファインプレー、寄付など、具体的な行動を起こした人に対して行っています。 いい行動に対して素直に拍手を送るという、ごく当たり前なことをしていきたい。 樋口恵子賞としては中国の帰国者を支援している人、自立の思いの強いグループ、エンディングサポートをしているエンディングセンターなどが受賞しました。

年寄りは機嫌よく生きなければいけないですね。  「ありがとう」と言って死ねそうなのを、今一番良しとしています。 



















2024年6月11日火曜日

樋口恵子(評論家)            ・機嫌よく90代を生きる(前編)

 樋口恵子(評論家)            ・機嫌よく90代を生きる(前編)

樋口さんは東京生まれの92歳。 東京大学卒業後、時事通信社、学習研究社、キャノンの勤務を経て評論家活動に入りました。 「高齢社会をよくする女性の会」理事長で介護保険の実現に力を尽くしました。 樋口さんは健康寿命と平均寿命の間のおよそ10年間を「よたへろ期」と命名し、痛いところだらけでよたよたヘへろへで頑張っている自分の姿を表現しています。 人生100年時代をどう生きるか、老いを豊かに機嫌よく90代を乗り切りたいという樋口恵子さんに伺いました。

私は身体が弱くて、中学1年で1年間休学しているんです。 悪くいくと駄目なほうに行く、上手く助かれば普通に生きられるという事でしたが、半分過ぎから上向いてきました。    兄が死んで一人っ子になっていたので 親たちも必死でした。  

「老~い、どん」「どっこい生きてる90歳」「91歳、ヨタヘロ怪走中!」「老いの福袋 - あっぱれ! ころばぬ先の知恵88」「老いの上機嫌 - 90代! 笑う門には福来る」「90歳になっても、楽しく生きる」などの本を出版。 対談もやっていて「上手く老いる」( 和田秀樹共著) 和田さんは高齢者の側が90代、100代という年を喜んで迎えて、幸福な老後を過ごそうと言う事を声を大にしておっしゃっています。 私も同感していました。 

「高齢社会をよくする女性の会」理事長ですが、皆で新しものに対応して、便利なものは便利なものとして使って行こうではないかという事で、若宮正子さんなんて本当にいいお手本だと思います。 「もう駄目」と言わないで、「まだできる」と思ってやっていきたい。 無駄な努力ができるのは歳をとった人の徳の一つではないでしょうか。  

1932年東京生まれの92歳。 東京大学卒業後、時事通信社、学習研究社、キャノンの勤務を経て評論家活動に入りました。 東京家政大学名誉教授、その大学の女性未来研究所の名誉所長。 1983年NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」の理事長になり、2000年の介護保険を実現、2003年に都知事選に出馬(70歳)、落選する。 上手く断ってしまえばいいとは思いましたが、損をするというのは覚悟の上でした。(大人の料簡)  100歳を生きるという事は大変生きているというだけで表彰状ですね。    84歳で家を建て替えましたが、へこたれました。  都知事選に出て一つの教訓があります。 厭なこともありましたが、人生100年挑戦していることはとってもいいことだと言ってもらって、とても嬉しかったです。  築30年木造住宅でした。 リフォームはしていましたが。  人生100年型の生活設計についてはまだ研究が十分ではないです。 少ない資源をみんなで分かち合って生きてゆくとすると、どういう分かち合い方、どういうシェアの仕方がいいのかという事は、人生100年の家庭生活を設計するのは今が初めてなんです。 いい知恵を集めてやって言って下さい。 

どんなものにも品物なりの命があって、その中で自分が豊かに暮らせたのだから、ありがとうと言う気持ちになっています。  本なども捨てるのが大変でした。 1957年25歳で結婚しました。 翌年娘が誕生しました。 31歳で夫が亡くなりました。  1982年50歳の時に新しいパートナーとの出会いがありました。 

「高齢社会をよくする女性の会」 普通の市民運動だと思ってやっていきました。  女性はあまりスキルに恵まれていないので、男性並みの年金を貰おうと思うと大変なハンディーがあります。  年金制度が男性中心に出来ている。  よりよい保障制度を作って行かなければならない。  介護保険制度もさっさと採り入れました。 1988年66歳で乳がんの手術をしました。  89歳の時にも二度目の乳がんの手術をしました。  どうやら克服しました。 「生涯現役一有権者、生涯現役一消費者」、「高齢者よ、大きな夢を描こう」と言っています。 夢も希望も無くなったらおしまいです。 生き延びて何をするかが問われている。 よりよい生き方をいくつ迄も探っていきたい。 

和田秀樹さんもたいだんいなかで「高齢者よもっと人生を楽しもう」と言っています。   「幸齢者」になるための10の秘訣。                                 ①人それぞれです。                                ②自分自身の基準でこれだというものを拾い上げる。                 ③意欲は死ぬまで枯らさない。                           ④老けたくなければ引退してはいけない。                      ⑤しっかりいん・・?たけて腹9分目                            ⑥財布は一生手放さず。                                       ⑦もっと自己主張を。                                      ⑧人とのつながりを認め合い、助け合う。                           ⑨どんな状況でも誰かのために、と言う発想が自分を救う。                  ⑩先の不安よりも今を生きよう、楽しもう。                          



































2024年6月10日月曜日

真田ナオキ(歌手)            ・〔師匠を語る〕 面白い声してるな。明日から付き人になれ ~吉幾三~

真田ナオキ(歌手) ・〔師匠を語る〕 面白い声してるな。明日から付き人になれ ~吉幾三~ 

2020年に第26回日本レコード大賞最優秀賞新人賞を受賞して、活躍中の歌手にシンガーソングライターである師匠吉幾三さんについて伺います。 志を胸に歩み出した一人の青年は試行錯誤と出会いを繰り返し、或る時師と仰ぐ人にたどり着きます。 真田ナオキさんと吉幾三さんの師弟関係は、偶然の中から突然始まりました。 今までの形にこだわらない新しい時代の、でも実は古風なのかもしれない師弟の結びつきについてのお話です。

吉幾三さん、本名は鎌田善人さん1952年(昭和27年)青森県五所川原市出身。(9人兄弟の末っ子) 父親は民謡歌手。 中学を卒業後上京、歌手を目指して浅草の音楽教室に通います。 先生は美空ひばりさんを育て上げるなど、当時の歌謡界を代表する作曲家米山正夫さんでした。 米山さんからは最初津軽弁を直すように注意されましたが、最終的にそのままでいいとお許しが出たことから、故郷津軽こそが自分自身の掛けがえのない個性だと考えるようになりました。 1973年(昭和48年)コマーシャルソング「恋人は君ひとり」で歌手デビューそのころの芸名は山岡英二で、その後1977年(昭和52年)に吉幾三に改名、その年自身の作詞作曲で故郷五所川原をモチーフにして歌った「俺は絶対!プレスリー」が初めてヒット、「俺は田舎のプレスリー」と言うタイトルで勝野洋さん主演の映画にもなりました。 

しかしその後ヒットは続かず、昼間は喫茶店、夜はナイトクラブでギターを弾いて苦難の日々を過ごしますが、1984年(昭和59年)作詞作曲家として千昌夫さんに「津軽平野」を提供、またこの年千昌夫さんプロデュースで発表した俺ら東京さ行ぐだ」が大ヒット。 一躍人気者になりました。 1096年(昭和61年)には自ら作詞作曲をした「雪国」が初のオリコン1位を獲得、その後も作詞作曲家として千昌夫さんをはじめ、多くの歌手の皆さんに作品を提供、またCMソング、テレビドラマのてーマソングも数多く手がけています。 故郷を大事にする心は今も揺るがず、コロナ禍の自粛期間には津軽弁で対策を知らせるラップ調のユニークな曲を作ったことでも話題になりました。 

真田ナオキ、1989年生まれ、現在34歳。 埼玉出身で吉幾三さんはCMの人だと思っていました。 面白いおじさんと言うイメージがありました。 たまたま吉幾三の「酔歌」のレコードを買ったのが最初でした。 最初の頃は同じ人だとは思っていませんでした。  東日本大震災で何もできない不甲斐なさを感じていたら、テレビで当時小学校5年生ぐらいの白澤みさきさんが民謡クラブの女の子として、歌っている姿を見て、感動して、歌い手を志すようになりました。(21歳)  歌の勉強をする様になって4年ぐらいしてから知り合いが吉幾三さんと食事をするという事で同席することになりました。 歌を聞いてもらうことになり「面白い声だなあ。」と言われました。 「弟子になれ。」といきなり言われました。 翌日電話をしたら一切覚えていませんでしたが、弟子になれました。 (2015年) 声は自分で作って行きました。  

レッスンは全然ありませんでした。 曲が3曲送られてきて2曲をメインに練習をさせて貰いました。 弟子らしい弟子はしてきませんでした。 その後歌のレッスンは厳しかったです。 褒められることはほとんどなかったです。  くじけそうな気持になっている時に、「ナオキ頑張っているなあ。」との一言があり涙が出ました。  弟子入り後の翌年2016年に「れい子」でデビュー。 (作詞作曲:吉幾三)  経済的にも厳しい時に、歌を歌う機会を設けてもらって、その代金を頂いたりしました。  いつか師匠をハワイに連れてゆこうという夢があり、その足しにしようと頂いたものは大事に持っています。 「俺の作った歌を歌ってくれてありがとうな。」と言われると頑張らなければと思います。 

2020年に第26回日本レコード大賞最優秀賞新人賞を受賞して、ようやく吉幾三の弟子だと胸を張って言えるようになりました。  受賞したことを師匠に電話をいれたらお互いが言葉にならないように泣きました。  目標は紅白歌合戦ですね。 その後ジョイントコンサートが出来ればと言うのが夢です。 作曲も出来ればと思います。

師匠への手紙

「・・・弟子入りさせてもらってからあっという間に9年になりました。・・・デビュー当時から何度も助けられています。・・・困った時、くじけそうになった時には歯を食いしばって頑張ります。・・・改めてこんなに暖かくて優しくて面白くて何よりかっこいい師匠に出会えたことが人生の財産です。 ・・・吉幾三の弟子という事にはパワーがあります。 ・・・いつか師匠に自慢してもらえるぐらいの弟子になって、今度は僕が師匠とお母さんを旅行に招待します。 ・・・身体に気を付けてください。たまには休肝日を取ってください。 ・・・一人の人間として師匠の様にかっこよく生きられるように頑張ります。・・・。」

「謙虚でいなさい。」という事と、「歌手だけど人間らしくありなさい。」と言う言葉は、大切にしています。





 



2024年6月9日日曜日

畑村洋太郎(東京大学名誉教授)      ・「失敗学」の視点で「老い」の問題に対処する

畑村洋太郎(東京大学名誉教授)      ・「失敗学」の視点で「老い」の問題に対処する 

畑村さんは1941年東京生まれ。 東京大学工学部機械工学科卒、大学院機械工学修士課程修了、長年大学で教えてきました。 専門は機械工学ですが、同時に世の中の失敗に注目し体系的にまとめた「失敗学」を提唱しました。 失敗学会の設立にも携わり、「失敗学のすすめ」「だから失敗は起こる」など著書も多数あります。 83歳になった畑村さんは失敗と人間の老いには共通する点があると指摘し、今年一月「老いの失敗学」「80歳からの人生をそれなりに楽しむ」と言う本を出しました。 ご自身の老いの体験を交えながら失敗学で得られた知識を老いが抱える問題の対処に生かせるかもしれないという考えから、執筆をされたと言います。 

「三現」、現地に行く、現物に触る、現人と議論する、という3つを主題にして、いろんなことをやっていました。  コロナで全部面と向かって話をするという事が出来なくなって、ほとんど全部やめることになってしまいました。 新しい本を作らないかと言う話があって、突然できてきたのが「老いの失敗学」という本です。  老いて行くという事とネガティブな事で語られているけれど、新しい事、自分がそれまでに考えていなかったことと言うのがいろんな形で出てきているというのを書いてみました。  

大学でこういうものを作るにはこう作ったらいいよとか、こう考えたらいいよとか、教えていて、上手くいくやり方を教えていました。 学生はつまらなそうに居眠りをするんです。 しかし失敗のなかで対応する中で進歩してゆくんです。 失敗と言うのはどんなふうに失敗してしまうのか、その中からどんなふうに進歩してゆくにか、人類の作ってきた知識、経験はそういった失敗の中から全部が出来上がっているというのを考えて、学生に教えてみたらいいのではないかと思って、失敗ばっかりを集めた本を作ったんです。 その本が物凄くよく売れました。 飛行機、大きなつり橋などは使えるようにするまでに、物凄い失敗、事故をおこしているんです。 

失敗と人間の老いには共通する点があります。 どちらも初めて出会う事なんです。 初めから失敗をするんだという風に、きちんと自分の考えが進んでいれば、起こる結果が酷いものにならないし、学び取るものも凄くきっちりと学び取るという事が出来るようになる。 「老いの失敗学」と言う風にまとめててみることにしました。  前向きに捉えないと学べないし、自分自身の生き方自身が貧相なものになってしまう。  

自分が年を取って意識するようになったのは3つあります。 ①歩くのが遅くなった。  ②転ぶという事がある。(頭を打つと致命的な損傷になる。) ③頭の働き。(どうしても失敗の取り扱いは経年変化が起こるという事をはっきりと意識しないといけない。)    経年変化は、人の頭、身体の全部の動きは時間と共に衰えてゆくという線に全部乗っている。 代替わりが一回あるごとに、その人の持っている知見、経験とか、いろんな考えが半分に減ってしまう。 一世代が起こるごとに1/2、1/2、1/2に減ってゆくと、それを40回繰り返すと1/1兆ぐらいになる。 歩くのが1/1兆になるという事は動かないという事です。 そういったことが数値化が出来る。 

東日本大震災にも当てはまります。 津波が大災害を起こすことを津波学者は言っていたのに、記録があるにもかかわらず滅多にある事ではないから、いちいち取り上げて考えなくてもいいんだよと、日本中がそれに染まっていた。 代替わりしてゆくと、本当はあった事なのに、なくなってしまう、忘却曲線と言う考えで言わないといけないも物凄く大事な知識です。 

運転免許証の返納を家族に言い負かされてやりました。 東池袋で暴走して人が亡くなりました。 失敗は誰でもするんだとずっと言って、それが致命的にならないようにするのは運転をしないという事なんじゃないのと言われました。 何のために「失敗学」をやったのかと言われてぐうの音がでませんでした。  ①運転が出来なくなって不便になりました。  ②自動車、運転に全く関心がなくなってやりたいとも思わない。  

記憶力の低下、人の名前が思い出せないという事もありますが、漢字が書けなくなるという事があります。 使わないものは出来なくなる。 合唱はいいと思って始めました。   20年続けてきましたが、老いの為にことごとく駄目になりました。 指先に湿り気がなくなると楽譜のページがめくれなくなる、それがまず辛かった。  歌う事の楽しさはあります。 足を引っ張てしまうという思いはあります。 

福島第一原子量発電所の大事故の様は、日本の国全体のエネルギーが依存しているようなところの事故は、必ず起こるんです。  事故は起こらないんだという事を前提にして、全部を作っていた。  便利でいいものがあるんだったら見つけてきて使えばいいという事になってしまって行って、大きなことが起こるんだという事を考えて、それに対応するという事の準備を全くやっておかなかった。  政府から原因究明をやって欲しいと言われました。 しかし、原因究明をやっただけでは意味がないんですと、いいました。 検証をしないといけないんだと言いました。 原因究明、起こさないか、被害を小さくする方法を同時にやるのでないと、一つも事故から学んだことにはなりませんと言いました。 1年半をかけて報告書をまとめました。  しかし、全然満足ではないんです。 原因究明も表面的なところをなぞっただけで、本当の原因究明が出来ているとは思えないからです。 

老いも何も出来なくなっちゃったという、そっちの方向から見ているだけでは、物凄くもったいない気がします。 新し世界が開けるような事がありうることなんだという事に気が付かないのはもったいない。   優先する事は自分が快適に生活が出来るかどうか、やれることは少ない事しかできない、出来ないという事を知ったうえでやれるところまでを努力する。 手帳を大事にして、記憶力の低下を防ぐために活用しています。

成長してゆく過程では、失敗の連続を起こしながらその中から学んでゆくんだという事で、成長しようとすれば失敗は必ず裏腹でそいつがついて回るんだという事を認めて、失敗が悪いことだとか、損なことだとか、やってはいけないことだとか、否定的なものの見方はよそうよと、きちんとした体形的な人間の持っている宝としてきちんと扱おうという学問の体系を作るのがいいという風に自分では思いました。 

芸術とかには関心がなかったが、ピカソの「ゲルニカ」を見た時に、自分の頭に中がピカソの絵と直接に話をし始めたんです。 頭がめちゃくちゃに動いたんです。 今まで自分のやってきた経験とか、物を言ったり考えたりしてきたことは、表面的で浅い事しか言っていなかったんだなあと考えるようになって、「失敗学」を契機にして自分のものの見方がガラッと変わってしまった。


















2024年6月8日土曜日

田辺青蛙(作家)            ・怪談に刻まれた街の記憶を集めて(初回:2023/5/6)

田辺青蛙(作家)        ・怪談に刻まれた街の記憶を集めて (初回:2023/5/6)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/05/blog-post_6.htmlをご覧ください。

2024年6月7日金曜日

晃(元フィンガー5)(歌手)       ・自分の歌をさがし続けて

 晃(元フィンガー5)(歌手)       ・自分の歌をさがし続けて

晃さんは1961年沖縄県出身。 幼いころからロックやソウルと言った洋楽に親しみ、1972年小学校5年生と時に「フィンガー5」としてデビュー、「個人授業」「恋のダイアル6700」「学園天国」と言った楽曲がヒットして彼らのファッション、ダンス、ルックスなども話題になって、当時の若者たちの心をつかみました。 死して今も歌い続けています。

「フィンガー5」は引退はしていなくてやろうと思えばできるんです。 全国津々浦々お客さんのところに行くコンサートをやっています。 月に10数か所回っています。 今歌っているのは「個人授業」「学園天国」です。

生まれた時には米軍が統治していた返還前です。  テレビがNHKと民放の2チャンネルだけでした。 ラジオはFENとか英語のラジオ番組ばっかりです。  日本の歌謡曲、ポップスなどはほとんど聞いてないです。 家がクリーニング屋とダンスホールみたいな形でバーをやっていたので、外人さん向けの曲ばっかり流していました。 影響でそればっかり聞いていました。 町を歩いていても洋楽しか聞こえてきませんでした。 3人の兄が踊りを踊らせるためのバンドをやっていました。 或る音楽祭で3人が出て優勝してしまって、東京へ出てみたらどうかという事になりました。  3人だと足りないので妙子と僕にも入れという事になり、横田基地へ何とか頼み込んでようやく許可が出てやってみたら、大うけしました。  

そこから本格的に5人で始めました。  僕はサイドボーカルでした。 ベトナム戦争の時代で、子供は本国にいて、僕らを見て思い出して泣くんです。 歌を歌うと泣きながらお金(チップ)が飛んでくるんです。  ポケットに一杯入ってこれで火がついちゃいまして、一生懸命歌いました。 (小学校2年生ぐらい)  4,5年やっていたが売れなくて1972年に沖縄に帰ろうかと言う話が持ち上がった時に、最後のチャンスを欲しいと言われてキングレコードからフィリップスレコードに移籍して、キャロル(ロックバンド 矢沢永吉など)と同じディレクターの人から活動を開始しました。 或る時都倉俊一さんに聞いてもらう機会がありました。 そして作っていただいたのが「個人授業」でした。   当時の僕をイメージしていました。   作詞は阿久 悠先生でした。  小学生でサングラスは当時はいませんでしたが、サングラスを100個近くは会場で投げています。  

歌番組が多い時代で凄く忙しかったです。 寝るのが朝の4,5時ごろで7,8時ごろには起きて学校に行って、1~2時間学校にいて、次に仕事場に行くような状況でした。 学校では寝ていました。(先生が寝かせてくれました。)  

精神状態がだめになり、体力も駄目になり、限界で家族全員でアメリカに逃げました。  アメリカのレベルの高さにびっくりしました。 半年して日本に帰って来ましたが、声変わりがして、あのような楽曲は出来なくなりました。  活動は停止しました。(1977,8年 中学生) 17,8歳のころいろいろ仕事につきましたが、精神的にもまいっているしお金もなく、大変でした。(親が使い果たしていました。)

或る人から「開き直って、元フィンガー5の晃ですと名乗ってやればいいんじゃないの。」と言われて、名乗り始めました。 いろいろな仕事をしてきて、「又ゼロから始めるなら音楽をやったらどうか。」と言われて、再デビューしました。  その場の雰囲気をみて、選曲していきました。  63歳になりました。 大人の歌も歌いたいですね。 
















2024年6月6日木曜日

斎藤明美(文筆家)            ・高峰秀子が変えた私の人生

 斎藤明美(文筆家)            ・高峰秀子が変えた私の人生

斉藤明美さんは昭和31年高知県生まれ。 高校教師、テレビ番組の構成作家を経て週刊誌の記者を20年務めました。 2009年松山善三・高峰秀子夫妻の養女となり、お二人を看取りました。 今年は女優高峰秀子さんの生誕100年に当たり、様々な催しが開かれています。 

養女になった翌年2010年に高峰秀子さんが亡くなり、松山善三さんもその6年後に91歳で亡くなりました。 週刊文春の巻末に「私の大好物」というグラビアがあって、そこの取材をしたのが最初です。  大物ってこういう人だなと思いました。 人間の桁が違うという感じがしました。 高峰とは27回仕事で取材をしています。 気さくな一面もありました。  自分を作ってもおおきく見せようとしても全く無駄だとわかった瞬間に、自分のありのままで仕方ないんだと思いました。 世間の基準とか、他の人がそうだからとか、一切ないので、相談もしないし、自分で考えて決めるという感じです。 5歳の時からずっと働いているので、怖いというか隙が無いんです。 尺度を自分の中に持っている。

生誕100年、誕生日が3月27日です。 東京タワーで展覧会が行われました。 台所、映画のダイジェスト版などが展示されたりしました。 映画は生涯で319本だったと思います。 紹介できたのはほんの一部でした。

2009年松山善三・高峰秀子夫妻の養女となりました。  戸籍上の繋がりと言うだけで高峰は親戚に搾取されてきた人なので、松山と綺麗な戸籍になったところに、何故他人を入れるのかと言う不可解な事ですが、私の父が亡くなって1か月して言い出しました。   病院に行っても肉親ではないと病状が聞けないので、養女になってよかったと思います。  一を言えば百を知るような人だった、それでいて肝腎なことをひとことで答える、饒舌な人ではなく、寡黙なほうで面白いことを言う。 人に迷惑を掛けないように、煙の様になって消えて行きたいと、人に会う事が嫌いだったので、だから女優が嫌いでした。 私のことは忘れて欲しいという人でした。  生誕100年と言っていろんなことをしているのは、彼女は非常に不本意で本当にあの子は馬鹿です、そう思っていると思います。

人が潔くないのは欲しいものがあるからです。 お金、名誉、他人に好かれたい、綺麗だと思われたい、良い人だと思われたい。  だから普通の人は潔くない。 高峰は欲しいものが無いから。 人にどう思われたってかまわない。 だから高峰は非常にかっこよかった。 女優を辞めてからは、大きな家は必要が無いと言って家を壊して小さな家を建てて住みました。  50歳ぐらいから全部削ぎ落していきました。  70代の終わりになったら外に出るのも辞めて、本を読んだり食事を作る、という事に専念しました。 もともとそれを望んで居た人なので。  父ちゃんが居なかったら紙のコップとお皿で済ましていると思う、松山がいるから綺麗な焼き物のお皿に美しい料理を盛るが、一人だったらそんなことはしないと言っていました。 高峰は松山が大好きだったから。 誠実が洋服を着ているような人でそこが好きですと言っていました。 

5歳の時にデビューして母親役の人がご飯を食べに家によく連れて帰っていたそうで、30歳ぐらいの未婚の人で振袖に着替えお膳の前に座ると、お母さんが横でべったりとおさんどんからなにから世話をしていた。 それを見た5歳の高峰は、こんなことではこの人は駄目だなと思ったそうです。 吃驚して後からそう思ったのではないかといったら、「いいえはっきり覚えています」、と言いました。 人間が本来持っていたい資質、他人への思いやり、迷惑を掛けない、悪いことをしてはいけない、とか最低限度の人としての資質を高峰は全部持っていた人だと思います。  そばにいて気持ちが良かったし、言う事の筋が通っていた、楽しいし、美人でした。  彼女は自分では美人とは思っていなくて、自分を馬鹿だと思っていた、つまり学校に行っていなうから。 それが非常に哀れですよ。  毎日、本を読んでいて、どうしてそれほど読むのかを聞いたら、「劣等感ですね。」と言いました。

2010年87歳で亡くなりました。 すべてが終わったと思いました。  実の母が亡くなった時には高峰が助けてくれ、高峰が亡くなった時には松山がいてくれたことでちゃんとしなければいけないと思いました。  松山とその後6年暮らして、どうして高峰があれほど松山が好きだったのかという事がわかったような気がしました。 人を幸せな気持ちにしてくれる。 そばにいるだけで心が温かくなるような。  高峰はずっと戦って来た人だから、松山のなかに楽園を見たと思います。 一人の人間として非常に尊敬しているので、人に知って欲しい、特に若い人に知って欲しい。 高峰と松山には身に余るような幸せを貰ったと思っています。