2024年5月16日木曜日

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中!

菅原進(歌手(ビリ―バンバン))     ・〔わたし終いの極意〕 76歳、日々進化中! 

ビリ―バンバンは1969年にメジャーデビュー、3歳上の兄孝さんと歌う「白いブランコ」や「さよならをするために」が大ヒット、1972年には紅白歌合戦に初出場を果たしました。 今年でデビュー55周年を迎えますが、その途中にはともに大病を患うなど大きな変化もありました。 菅原さんは現在76歳、ソロ活動も活発にやっています。 さいきんではアニメソングや若手アイティストの楽曲をカバーして、動画サイトで配信、幅広い世代から反響を呼んでいます。 

動画サイトは2年ぐらい前からアニメの歌とか、歌いました。 若い人はテンポが速いが、僕の場合若い人には歌えないゆっくりとしたテンポで歌おうと思いました。 Adoさんの「うっせいわ」というカバー、オリジナル曲はエネルギッシュですが、僕が歌いと違い印象になります。 ゆっくりだし、歌詞の意味がつかみやすくなります。 再生回数が150万回。 動画がモノクロです。 ゲーム音楽もカバーしています。 それまでのビリーバンバンの世界観とは全く違います。 若い人たちは全然発想が違うので、それを歌いたいと思いました。    

中学校時代からアメリカンポップスが大好きでした。 シングル盤を100枚ぐらい買いました。 それを聞いて、それが僕の音楽の始まりでした。 母は音楽が大好きで、父は音痴でした。 兄弟は3人ですが、一番上の兄が一番うたがうまかったんですが亡くなってしまいました。  次男の孝兄さんも歌が好きでした。  父が浜口庫之助先生を知っていて、紹介してもらって、兄と共に先生の学校に通うようになりました。(高校2年)  2年後に兄弟でやろうという事が決まりました。  自分では中学生のころから歌で生きて行こうと決めていました。  先生のお屋敷に白いブランコが有ったんです。 そこに座って作詞家の小平なほみさんと作ったのが「白いブランコ」なんです。 ヒット曲になりました。

それから55年になりましが、いろんなことがありました。 兄とは喧嘩が絶えなかったですね。 1976年に一回解散をしました。 半分以上は喧嘩別れと言うような感じでした。  6,7年後に再結成をしました。  一人でCDを出しましたが、仕事もなくなって来てその時が一番大変でした。 酒を飲んだり、妻とは喧嘩をしたり人生が荒れていました。  再結成をした時にCMソングがヒットしました。 再結成は母からのアドバイスでした。  2014年に兄が盲腸のガンの手術をしました。 その2か月後に僕が脳出血で倒れてしまい、ビリーバンバンはもうおしまいかなと思いました。  後遺症が残って歩くこともなかなかできなくなり、声も出づらくなりました。  健康に気遣って塩分を控えめにしていましたが、手術をして先生からは塩分が足りなすぎると言われました。 塩分も大事なんです。  

兄も車椅子ではあるが元気になり、母がまた二人でやりなさいと言ってくれて、1年後には再び開始しました。  母は僕たちのステージを一番前で見て泣いていました。 それを見てこっちも泣いてしまいました。 母は96歳で亡くなりました。 母の存在が全てと言うような感じです。 椅子から降りて寝てそのまま亡くなって、本当に天国に行ったんだなと感じました。   父も92歳で眠るように亡くなりました。  父は凄く真面目で寡黙で90歳でコンピューターを始めました。 筆でいつも朝書いていました。  父が90歳の時に60人ぐらい呼んでパーティーをやったんですが、父からも仲良くやるように言われて、ぐっと来てしまいました。

僕も両親と同じように眠るように逝きたいと思います。 終活は全くないです。 遺言状はもう書いてあります。  欲はもう捨てました。  どんどん歌っていきたいという、歌の欲はあります。 声のためにはお風呂のなかで200回腹筋運動をしています。 手足も結んで開いてを200回やります。  最後の遊びは散歩だと思います。 1時間ぐらい歩きます。  コロナ禍で丁度その時にアニメの曲を歌いました。 それが今話題になっています。 いくら喧嘩をしても兄弟愛ですね。 2022年にドラえもんの映画の歌を歌いましたが、兄弟愛がテーマになっています。  「心ありがとう」

55周年を迎えることになり、77歳にもなります。  ともかく歌を歌いたし、アルバムを作りたいと思っています。  生きていくうえで優しさがベストです。 わたし終いの極意としては、楽しく生きる、嘘をつかない、心はピュアに生きたい。 ネガティブにならないで、いつもポジティブに生きることが一番楽です。 先は判らないので、考えても仕方ない、なるようになる。