2024年4月15日月曜日

とり・みき(漫画家)          ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京

とり・みき(漫画家)      ・〔師匠を語る〕 小松さんは今、宇宙にいるらしい 師匠:作家 小松左京 

とり・みきさんは1979年の新人賞で「僕の宇宙人」が入賞して漫画家デビュー、又一方では長年にわたってSF文学の巨匠小松左京さんの研究会「小松左京研究会」の創設メンバーの一人として、公私ともに小松左京さんの活動に寄り添って来ました。 小松左京さんは生前弟子は取らないと公言してきましたが、今回は学生時代から、長年にわたって小松さんの薫陶を受けたおひとりとして出演頂きました。 圧倒的な知性とユーモアで「日本沈没」「さよならジュピター」など執筆し、博覧会などビックイベントのまで務めた小松左京さんについての話を伺います。

小松左京さんに初めてお会いしたころは恰幅のいい巨体、トレードマークの眼鏡でした。  知識の大きさに恐れと言うか、畏怖を感じていました。 

小松左京さん、本名「小松実」さんは昭和6年(1931年)大阪で生まれます。 14歳で終戦を迎え、旧制第三高等学校に進み、そのころ「怪人スケレトン博士」と言う作品で漫画家デビューしたと言われます。 作家として世に出たのは31歳になってからでした。 京都大学在学中から同人誌などで小説を書いていましたが、昭和37年(1962年)SFマガジン10月号に掲載された『易仙逃里記』で作家デビュー、翌年星新一さんや光瀬龍達と日本SF作家クラブを立ち上げます。 「日本沈没」を刊行したのは1973年、テレビドラマ、ラジオドラマ、漫画、映画にもなりました。  まさに社会現象でした。 他にも「復活の日」「首都焼失」など話題作を次々に発表した小松左京さん、日本を代表するSF作家であるとともに、その活躍は多方面にわたっています。 

1970年の大阪万博ではテーマ館のサブプロデューサーを務め、花と緑の博覧会エキスポ90では総合プロデューサ-に就任、1984年(昭和59年)公開の映画「さよならジュピター」では原作、脚本、製作、総監督の4役を担いました。  NHKでも小松左京さん原作の少年ドラマ「宇宙人ピピ」、人形劇シリーズ「空中都市008」が1960年代に放送されて、未来への希望と科学の進歩の可能性を子供たちに示しました。  2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなりますが、小松さんは宇宙に取材に出た、星になったと表現するファンも数多くいます。 

小松さんの作品に出合ったのは漫画作品でした。 小学校低学年の頃の本で読みました。  この人は小説家なのに漫画のことをわかって書いてくれる人なんだと認識したのが一番最初です。 小学校高学年から中学生で初めて小説と接するわけですが、小松さん、星さんなどの小説を読み始めました。 SF小説にのめり込んでSF専門誌なども読み始めて、或る日SF雑誌の投稿欄を見ていたら、「小松左京研究会」を発足しますというのを見ました。 その会合に出掛け小松ファンの人たちに会い研究会にはいりました。  発起人の土屋さんと僕とで小松さんの家に伺う機会が出来ました。(1978年夏)   

最初会った時にはガチガチに緊張しました。 大阪の人も小松さんが呼んでくれて、ハイレベルな冗談を言ったりしていてなかなかか会話に入れなかったが、ようやく楽団の話になって会話に加われるようになりました。  小松さんが「さよならジュピター」を作ることになり、東京に事務所を開くことになりました。(80年代初め) そこで我々も会う機会が増えました。 小松さんは色々なチャンネルを持っていて、ぞれぞれいろんなチャンネルに詳しい人を集めると自分もいろいろな話をできるわけです。 

1984年に刊行された「しまった」(とり・みき傑作選)の巻末の解説を小松左京さんが書いています。  タイトルが「時をかける漫画家」 「時をかける少女」が好きで話をしていたので、小松さんも理解していてくれて嬉しかったです。 1979年「僕の宇宙人」で漫画家デビューしました。  世のなかの流行を扱った或る作品を手がけていた時に、電話でお叱りを受けました。 もしかしたら思いあがっていたのかなと思いました。 後日お会いしてそのことを話したら全然覚えていないという事でした。(真意は不明。)  その後SF漫画を描き始めました。  

小松左京さんにとって、戦争体験は大きかったと思います。 それを独特な形で表されていたと思います。 SFのような形にすれば、あの時に起きた価値の急激な転換、倫理観、正義と言ったものが一夜にしてガラッと変わってしまうような不条理な思いを、描けるのではないかと思います。  デビュー作の「地に平和を」と言う作品がまずそうですし、その後の短編、長編にも通底するテーマだったと思います。  苦悩をダイレクトに出すのではなくて、エンターテーメントとして自分は出すんだと、それをずっとやられた方ですね。  小松さんは「小松研究会」の若い世代の人とも接して、新しい世の中のトレンド、ミーハーな事など最新の情報を、我々を通じて摂取されていたんだと思います。 

基本的にはポジティブな方だったと思います。 2011年7月小松左京さんは80歳で亡くなります。 小松さんの名前の付いた小惑星があるみたいです。 本当に星になったんだという感じです。 小松さんは巨大な人であるゆえに、孤独なところもあったようです。 常に宇宙と人間と言う事を考えていました。  宇宙と個人を対比すると、圧倒的に孤独なんですね。 チャンネルが沢山あって、一つ、二つのチャンネルでは話す相手はいるが、自分のチャンネルを全て理解してくれる人はいなかったんだと思います。  宇宙と人間とは一体何なんだろう、という事を何とか自分の文学で表現したかったのではないかと思います。 

小松左京さんへの手紙

「小松さんお元気でしょうか。 ・・・今頃どこを航行していらっしゃるのでしょうか。  宇宙を意識し、どうなっているのか知りたくて、そこへ飛び出していこうとする人類。 と言うところまでは自然科学者の、機械工学者の、あるいは哲学者も考える事だと思いますが、小松さんはそれらの分野にも精通しながら、更にもう一段踏み込んで、自分のことを意識し、観測し、知ろうとしている存在を生み出してしまった宇宙は一体人間のことをどう思っているのだろうと、主語を宇宙に置き換えて、話されていたのをよく思い出します。 その点文学者でありSF作家であったと思います。・・・小松さんの優しい笑顔に随分甘えてしまっていたと思います。・・・いまだに釈迦の掌で遊ばされているという風に思います。・・・山崎真理さんとの共作者がいて、完結した「プリニウス」と言う作品はお眼鏡にかなった作品かなと勝手に自負しています。・・・どうか今の地球にがっかりしてつぶしてしまったりしませんように。」