2023年11月30日木曜日

橋本しをり(日本山岳会会長)      ・誰もが登山を楽しめる環境をつくるために

 橋本しをり(日本山岳会会長)      ・誰もが登山を楽しめる環境をつくるために

橋本さんは1952年神奈川県生まれで現在71歳。  幼少期から山に親しみ、医師を目指して進学した東京女子医科大学で山岳部に所属し、本格的な登山を始めました。 卒業した後は一旦山から離れたものの医療担当として登山を再開し、1988年に女子登山隊の隊長としてパキスタンにある8000mを越える山の登頂に成功しました。  そうした経験を生かし、2001年からはがん体験者と共に登山をする取り組みを続け、今年国内でも最も歴史のある日本山岳会の第27代会長に就任しました。  多くの人に山の魅力を伝えたいという橋本さんにお話を伺いました。

前期は副会長だったんですが、今度会長になり気負いがあるのかと言われれば、意識しているところはあるとは思います。  一人でも多くの人に山の魅力を伝えたいと思っています。  日本山岳会には33の支部があります。  参加して支部が活動の原点だとは思いました。   本部でどういう方針を立ててゆくか、新しい理事と共にやって行っています。  

「フロントランナーズ・クライミング・クラブ」は元々は日常の雑事を離れて、自然の中で山を歩くことで、自分を見つめる時間が持てるという事があって、楽しく山を登ることを目的に作られたがん体験者の登山サークルです。  1988年から96年までアメリカに留学していて、知り合ったドイツの研究員のところに遊びに行ったことがありました。 ドイツではがん患者だった人が一日自分が願った人(例えばプロテニスのグラフ)と過ごすと言ったことが行われていて、凄く喜んでいていいことだと思っていました。  1998年に新聞の片隅に日本とアメリカの癌の患者さんが2000年に富士山に登るという企画があって、ボランティアを募集しているという事でした。  応募したらすぐに実行委員会に入りませんかと言う連絡がありました。  それで活動を始めました。  がん克服日米合同登山と言うのは、日本で生き甲斐療法をしている伊丹仁朗先生が、アメリカの乳がん財団の会長と会ったことで、日本でも山登りで交流しましょうという事で始まったものです。 合計450名ぐらいで富士登山を行いました。 その後山登りを行う会を作ることを決心しました。  

癌体験者のQOL(生活の質)の研究が始まるところでした。 がん患者さんの登山前後でのQOL(生活の質)スコアーの変化を調査しました。 精神的面、身体の調子も良いことが判りました。 定期的な活動という事で「フロントランナーズ・クライミング・クラブ」ができて発展してきました。  がん患者さん、医療サポーター、山岳部の学生も参加しています。  この間栃木県の大平山に行って来て、259回目の山行でした。 毎月一回行っています。 「フロントランナーズ」はトップではなく、面でみんなで行きましょうという意味合いで付けました。 患者さんの病歴は私だけしか知らないことになっていますが、了解のもとにサポーターさんにも関わってもらったりしています。  今年日米の方たちと40名で富士山に登りました。 厳しい時には山岳サポーターが荷物をもって降りてきたりします。 サポーターの人も登山を楽しんでいると思います。癌は慢性的な病気だと言う事でそのたびに治療すればいいと言っていたアメリカの方の言葉が印象的でした。 

父が結核療養所に勤めていて、山あいのところでした。 中学の時に燕岳から槍ヶ岳までのコースに参加しました。 山の魅力を感じました。 大学に入って山岳部に入った時から本格的に山登りを始めました。 卒業したら一旦辞めたんですが、「山と渓谷」と言う雑誌を観たら、ブータンへの登山行があり、参加して再開しました。 山での自律神経の研究などをやって面白いという一面もありました。 山と医療の両輪で進めてきました。 毎年海外の高い山への挑戦はしていきました。  一人でも頂上に立つと登頂したことになりますが、多くの人が頂上に登れればいいと思いました。 

冬山にはまだ登りたいと思っていて、高尾山などへのトレーニングはしています。  日本山岳会は2025年に120周年を迎えます。 古道をみんなが登れるようにしたり、いくつかのプロジェクトがあります。 人生100年時代の安全登山と言うようなテーマで、登っていた方たちからエッセンスを聞いて回るとこことを120周年の記念行事としてやろという事でやり始めています。  登れる秘訣は仲間がいるという事だと思います。  日本山岳会にも女性は22%ぐらいいますが、役員へのなり手がなかなかいなくて、リーダーを育てていきたいと思います。 
























 










2023年11月29日水曜日

杉野宣雄(押し花作家)          ・〔心に花を咲かせて〕 押し花を世界に広めたい

杉野宣雄(押し花作家)        ・〔心に花を咲かせて〕  押し花を世界に広めたい 

杉野宣雄さんの作品が海外の大きな大会でグランプリを受賞するなど、世界的に活躍しています。  押し花をアートとして確立しようと、単に花を押して作る押し花だけでなく、押し花を使って金属加工とか、陶芸への活用など、技術的な可能性を追求しています。 現在50代半ばの杉野さんですが、押し花を始めた頃30年前は押し花といえば、女性を中心とした楽しみとか趣味の延長線上にあったように思われるのですが、男性の杉野さんがなぜ押し花をはじめ、その押し花をアートとして確立しようと思い、世界に広めようと思っているのでしょうか、押し花はどこから始まり日本で広がったのはいつごろなのか、などなど様々な押し花の話を杉野さんのかかわりと共にお聞きしました。

挟んで皺にならないようにつぶして押すと言う事で押し花になりました。 イタリアで生まれたと言われています。 1545年にルッカ・ギニと言う生物学者が冬場でも研究できるように押し花にして残したと言われています。  学術的の研究するために押し花を作っていた。 産業革命の時にヨーロッパ中心に活版印刷が生まれて、4色の印刷物がとても珍しい時期だったので、それをスクラップブックに貼って行って、コレクションする趣味がイギリスを中心に始まりました。 押し花も4色の印刷物と同じような扱いで、同じ様にコレクションしていったんです。  ビクトリア時代は押し花のスクラップの本がたくさんあるんです。  色が貴重でそれを集めるのが高貴な趣味として広がったらしい。  押し花が学術的な世界から趣味の世界に、花束をアレンジするように、デザインする世界に変って行った。 

1888年に押し花のデザインされた本を持ってきましたが、いろんな形にデザインされています。  その後アメリカのフィラデルフィアでは園芸がとても盛んで、押し花もとても盛んな地域です。  グレース・ケリーさんがモナコにモナコ公妃として行かれて活動する中で、押し花作家としても活動しました。 日本では室町時代に和紙の文化が相当広がりました。  障子とかに紅葉とか花びらを入れてやっていました。 それが押し花としてみれば日本では相当広がったと思います。  江戸時代中期に桜とかを押し花にしたものが見つかって博物館に残ったりしています。(手紙に添えた様なものかもしれない。)   江戸時代に第一次園芸ブームがあり、朝顔が突然変異でいろんな朝顔があり、それを押し花にしてコレクションしたというものがたくさん残っています。  今はないが黄色い朝顔などもありました。 日本は梅雨の時期があるので、1週間ぐらいで色が変わってしまったんです。綺麗に残したいということで、戦後たくさん生まれてきて、多くの人が色を残すように研究しました。  それから押し花を趣味として広げる人が出て来たと思います。 

私の祖父が植物の分類学をやっていて、牧野先生とも交流がありました。 標本がたくさん残っていましたが、余り綺麗ではありませんでした。  父が押し花を綺麗に残す技術を開発しました。 そこから押し花電報を父が始めて、広がって行きました。(今でもある。) 押し花電報を辞めて、父は手作りの良さを広げたいという事で、押し花教室を始めました。 私も押し花の仕事を手伝い始めました。  押し花の道具、作品が結構売れました。 押し花の仕事にやりがいを感じるようになりました。  結婚式のブーケにも、祝福する思いが宿っているので、それを押し花にして飾っておくといつまでも幸せになれるというようなことで、イギリスでは行われていて、日本でもやってみようと思いました。 喜んでもらえて、こんなにやりがいのある仕事はないと思いました。 

アメリカのオハイオ州に行った時に、湖のほとりにメープルの林がありました。 葉っぱにはいろんな色が混ざっていました。  これを押し花にして表現するという事で、植物ありきの表現に変って行きました。(自然界の美を生かす。)  作るのがより楽しくなりました。 基本的には主役の植物があって、その主役の植物を如何に周りの脇役の植物でデザインして行ったらより綺麗に見えるかというアドバイスのレッスンをします。 主役を発見することから押し花は始まります。 台紙に、写真の力を使ってぼかして遠近感をだして、そこに貼って押し花をリアルに表現することをやっています。   

押し花を絵画的に表現したり、インテリアとして飾れるようなものとか、色を変わらなくすると言うのが私たちの目標なので、そういった技術を施したものを押し花アートとして名付けています。  押し花の色が変わるのは、水分、酸素、紫外線が主な要因です。  私は台紙の上に花を置いたら糊付けしません。  台紙の裏側に乾燥剤などを置いて、ガラスとアルミに載せて、接着剤で止めて中の空気を抜きます。 空気を抜いて固定しています。 色が長く保てます。  ヨーロッパなどの乾燥地域では1か月ぐらい電話帳に挟んでおけばだいたい乾いていますが、やや茶色っぽくなります。 私の作品を始めてみた方は驚きます。 1997年のコンテストで、メープルの葉っぱの作品を出して、自信がありましたが、一等賞が取れなかった。 理由は、葉っぱは凄くきれいだったが、虫が食べているのをあえて使ったんですが、アメリカの審査員のコメントは虫が食べているから減点します、と言う事でした。(わびさびが通用しない)  国によっても好きな色は違います。 

グランプリをその後取って、その後は出品はしないで、生徒さんたちに出品を促しています。 賞をとった人は何人もいます。  押し花の世界には日本の技術が世界一です。  誰でも簡単な技術で押し花ができれば普及すると思いました。  それがテーマです。  楽しい押し花を日本の文化として広げたいと思いました。  押し花の交流が出来て仲間作りが出来ます。  黒い紙に三枚の葉っぱを並べた作品があり、植物の持っている美しさをちょっと工夫して、より美しくストーリーが感じる様に並べてあげるだけで、自然の美しさの姿を切り取ったような作品が出来て、皆さん感動してくださいました。 

1999年に世界押し花芸術協会を立ち上げました。 海外の方と押し花を芸術に高めようじゃないかと言う思いがありました。  コンテストがあり来年20回目になります。










































2023年11月28日火曜日

杉本昌隆(プロ棋士)           ・青は藍より出でて・・・

杉本昌隆(プロ棋士)           ・青は藍より出でて・・・

先月8冠達成と言う将棋界の偉業を達成した藤井聡太さんの師匠杉本昌隆さん、今年6月に「師匠はつらいよ」という本を出しました。 藤井聡太さんとの師弟関係のエピソードがユーモアたっぷりに描かれているとともに、将棋界の知られざる話なども紹介されています。 天才棋士を弟子に持った師匠の気持ちとはどんなものなのか、また杉本さんの将棋への愛を伺いました。

「師匠はつらいよ」は週刊誌に連載されていたものを集めて1冊の本にしたものです。  100話になって本になりました。 聡太少年が小学校1年生のころ、愛知県の東海研修会に入会しました。 私はその幹事をしていました。  一目見た時にほかの子と違うなと、センスもある、ひらめきもある、言う事もちょっと大人びていました。 発言が冷静で、特徴があると思いました。  負けると将棋盤を抱えて号泣すという一面もありました。 小学校3年生になると将来タイトルを取る一流の棋士になるなと思いました。  弟子にしたいという思いがありましたが、聡汰君とお母さんが来まして、プロの試験を受けたいので弟子にしてくださいという事で、直ぐ受けた覚えがあります。  

弟子入りにはアマ5段ぐらいの力は必要です。 プロの4段になる可能性はおよそ2割と言われていますので、なかなか積極的には弟子は取らない。 取った後も常に心配事はありますが、彼に関してはそういった心配事は全くなかったです。  弟子にした記念に一局指すんですが、ほぼ間違いなく師匠が勝つんですが、一回目で負けました。(当時小学校4年生)  当時私は7段でした。 才能に驚きました。 聡汰少年は自ら学んで成長してゆくタイプなので、手のかからない楽な弟子でした。 14歳2か月で最年少棋士デビュー。 いきなり29連勝という記録を達成します。  棋士になって一局目からの負け無しで、素晴らしかったと思います。 1年7か月で4段から7段まで昇段しました。特別でした。 その間に私は8段に昇段しました。   

私がプロとしてデビューしたのは21歳の時でした。 8段に昇段するまで30数年かかりました。 彼は4年9か月で9段でした。 彼は段とか自分の地位にあまりこだわらない気がします。 彼は攻めが得意で、決断してどんどん攻めてゆくタイプです。 私は守りで慎重に考えるタイプで全く逆です。  似ているところは一局の将棋で長く考えます。   若い弟子は自分にないものを持っています。 色々な弟子が居て、考え方が凄く参考になります。  公式戦では彼と3回対戦がありましたが、全部負けました。  肩書や段の上位が上座に座ります。 師弟の場合だと弟子が下座に座る事が多いです。 藤井8段がタイトルをもう取っていた時に3局目の対戦がありました。  彼が下座に座ってしまうかもしれないと思って、1時間ぐらい前に対局室に入って、下座のところに荷物を置いて彼が座れないようにしておいて、彼が上座に座って、「こちらで失礼します。」と一言がありました。

彼が4冠(竜王獲得)達成した一昨年、私の誕生日の日に彼が新記録を達成し、嬉しかった。 インタビューで彼が記者から聞かれて「師匠の誕生日のことは全く知りませんでした。」と答えていました。 その後「師匠への良いプレゼントができました。」と言ってフォローしてくれました。 恒例にお年玉を渡してきていましたが、受けとってくれていました。 20歳になってもう渡さなくてもいいかなという気がしましたが、教室にパソコンをプレゼントしてもらったので、お返しと言う意味合いで今年もお年玉を渡しました。

将棋連盟宛てにプレゼントを頂くという事があり、藤井8冠宛てに、バレンタインデーになるとたくさんのチョコレートが届きます。 タイトル戦は和服で指します。 彼が初めてタイトル戦に登場した時には和服一式をプレゼントしました。  着物ベストドレッサー賞に選ばれています。 

私が将棋を覚えたのは小学校2年生でした。 父に教わって将棋を指していましたが、町の将棋大会に出て、その時に審判長をしていたのが、後に師匠になる板谷進9段でした。  弟子入りしたのが小学校6年生でした。  板谷師匠は47歳の若さで亡くなってしまいました。(私が19歳 プロではなかった) 「将棋は体力」とよく言われていて、「体力がある若い時には一杯指して手を覚えるんだ。」と言っていました。 昨年棋士生活32年目にして公式戦通算600勝成し遂げる。(57人目)

「師匠はつらいよ」の中に一編「走る棋士」が日本文芸家協会の「ベスト・エッセイ2023のなかの一つに選ばれました。 文章が評価されたという事です。  対局に遅れると持ち時間が削られてしまいます。  交通機関のやむを得ない事情では遅れた時間分が引かれ、寝坊したとか、自分の責任による遅れになると、その3倍分が引かれます。 遅れそうになると走るわけで「走る棋士」を書きました。  21歳にの誕生日になるまでにプロの初段にならないといけない。 26歳の誕生日までにプロの4段にならないと退会しなければいけない。  誕生日は修業時代の苦しいことがよみがえって来ます。 だから誕生日は好きではないんです。       81歳で盤寿のお祝いがあります。(将棋盤のマス目が81) タイトル戦になると体重が2~3kg減るという事も聞きます。 頭を使うので甘いものを欲しくなる事が多いです。 対局ではあちこち移動するので、藤井8冠は大変だと思います。

人と人との触れ合いを大事にしていて、応援していただける有難さを感じています。   将棋を全く知らなかった人も、藤井8冠の活躍で興味を持ってくれるようになりました。 イベントなどには7,8割が女性です。 勝負飯、おやつがネット記事として直ぐ上がって来ます。 自分も同じものを食べたくて直ぐ売り切れになるそうです。  内閣総理大臣顕彰受賞は羽生善治さんに次いで将棋界で2人目の受賞です。  






















2023年11月27日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)           ・【絶望名言】チャイコフスキー(初回:2020/12/28)

 頭木弘樹(文学紹介者)       ・【絶望名言】チャイコフスキー(初回:2020/12/28)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2020/12/blog-post_28.htmlをご覧ください。

2023年11月26日日曜日

川邉サチコ(美容家)          ・高齢者に発破をかけたい!

川邉サチコ(美容家)          ・高齢者に発破をかけたい! 

川邉さんは1938年生まれ、東京都出身。 女子美術大学卒業後、すぐに結婚、義理の母となったのが当時を代表する美容科の一人であった柴山みよかさんでした。 家業は手伝わないと言って結婚しましたが、姑と二人でパリに行った時にヘアメークの学校で学び、帰国後仕事を始めることになりました。 一人娘を連れて離婚してからもヘアメークの仕事を続け、ファッションショーや広告、舞台と活躍の場を広げてゆきます。  実のお母様の介護をきっかけに自宅でサロンを開き、85歳の今も現役で執筆、撮影、お客様の対応と忙しい毎日を送っています。 

歳をとることを楽しんじゃうという事をもっと前向きに考えた方がいいんじゃないかと思います。 下町育ちで、たまたま美容科のところに嫁に行って、ファッションの方向に行っちゃって、いろんなことをやってきたけれど、いろんな方にお目にかかっていて、育ててくださったと思います。  歳をとっても凄く楽しいんだと言うとを、自分で演出できると思うんです。うちは綿布問屋でハンカチ屋でした。  流されて行っていつの間にか美術の道に進んでいったような感じです。 女子美術大学を卒業して、結婚して、義母芝山みよかの誘いで共にパリに行きました。(23歳)  ファッション、メーキャップに目覚め、この仕事は面白いと思いました。 

一日のショーに向けて、何か月も準備して、ひとつのファミリーみたいになって、一日凝縮した時間を過ごせる面白さがありました。 三宅一生さんがパリでやった時にもご一緒しました。 パリのオートクチュールが日本に来たころでした。  女の人が綺麗になってゆくことが面白いというのが私たちの仕事ですよね。 山口小夜子さんは表現する力を持ているモデルさんでした。 手足は長いけれどモデルさんとしては小さかった。  メイクをするとその雰囲気に自分がなれてオーラが出るんです。 そこからヘアスタイル、何を着せるか、と言うことでメイクは大事です。 山口小夜子さんのメイクをオリエンタル風に作ったんです。 となるとおかっぱしかなくて、ボブ(唇のラインから肩下くらいまでの長さのスタイルのこと。 基本的には丸みを帯びたフォルムであり、髪がまとまりやすいといった特徴を持つものが多い)にしました。  パリで勝負して結果が出ました。 その後に資生堂さんが使ってくれるようになってイメージガールになりました。  

皆と同じようにしていることは好きではなく、一生さんと一緒にやっているとどんどん前に行く事が出来ます。  離婚するときには両親に謝りに行きました。  実家には帰れないので娘を食べさせなければいけないと思いました。  一番迷惑を掛けたのは娘です。   当時、ヨーロッパの人たちと仕事をする場合は同等に扱ってもらえましたが、日本の場合は、上下関係がしっかりあって、我々の仕事は底辺なわけです。 「髪結いさん」と言われれていました。  ヘアメイクの地位を上げたいと思いました。 独りで頑張るしかなかった。

美容は辞めてしまおうかと言う時期があり、母の介護とぶつかりました。 デザインの関係の仕事も7年間やりましたが、自分では才能があるとは思っていませんでした。  南青山から渋谷に引っ越しましたが、なんか高齢者が綺麗ではないんですね。  大人の女がかっこよくならないと駄目じゃないかと思いました。 1994年、川邉サチコ美容研究所を設立しました。  毎日自分を整えてゆくことをやっていったらいいんじゃないかと思います。 全身が写る鏡が少ないので、いつも通るところに鏡を設置するといいと思います。  人は教えてくれないので、自分と鏡を信じた方がいいと思います。 自分の健康を管理する事が大事です。 もっと自分を見つめて大事にしてほしい。  大人の女がかっこよくなって欲しいです。   元気を維持する事はしっかり頑張ろう思います。

















2023年11月25日土曜日

龍田直樹(声優)            ・〔私の人生手帖〕

龍田直樹(声優)            ・〔私の人生手帖〕 

アニメーションは国内のみならず日本の魅力を代表するものの一つとして、海外でも高い人気を得ています。 アニメーションの世界で長年にわたって、高いクオリティーで幅広い役柄を演じてきた声優の龍田直樹さんです。 NHKでは毎週日曜夜7時30分からの「ダーウインが来た」生き物新伝説のヒゲじい、17年間の担当です。 藤子不二雄劇場「オバケのQ太郎」のキザオ、「ドラえもん」のスネ夫、長編アニメ―ショオン映画「となりのトトロ」ではねこバスを演じて、その名を一層高めました。 龍田さんは1950年和歌山県生まれ、幼いころからの映画好きが高じて、高校大学時代から役者を目指しましたが、1960年から声優として活動を始めるようになります。 人生の岐路には何があたのでしょうか。 これまでの声優人生を伺うとともに長く愛されてきたキャラクターの声はどのように生まれて、ともに歩んできたのでしょうか、お話を伺いました。

「となりのトトロ」で私がキャスティングされていたのは猫バスではないんです。 冒頭の軽三輪で引っ越す運転手の役だったんです。 収録の当日「これをやっといて」と言われたんです。 最後まで走っていました。  最初にアニメーションで役を貰った時に、気を付けるのはまずそのキャラクターがどんなイメージか、どんな声があっているのか、周りのキャラクターに対して自分のキャラクターはどの辺にいるのか、と言ったことを捜したうえで、役者同士で話し合う事があります。 

「ダーウインが来た」は今年で17年になります。 いい番組だと思っています。 スクープ君も11年やりました。  自分の地声と地声より高い声、低い声の3種類しかないわけです。  それに喉を詰めること、しわがれさせること、この組み合わせ、キャラクターの性格、年齢を入れることで作って行きます。  違うキャラクターの声をだしてしまうおとはまずないです。  いろんな動物をやらしてもらっていますが、会話をすると向こうも判ってくれる。 動物園にはよく行きました。 

最初は映画に関わる仕事をしたいと思っていました。 高校の時に演劇部に入っていて、学業がおろそかになり2浪しました。  2年間塾に行っていることにしてほとんど毎日映画を見ていました。  何とか大学に行きましたが、「男はつらいよ」が大好きで映画館に行きました。 当時500円。 「渥美清と山田洋次の世界」と言う雑誌があり、これも欲しいと思いました。  500円しかないので困っていると、浴衣姿の女性がふっと現れて、寅さんのチケットを呉れました。 映画を観て雑誌も買う事が出来ました。 雑誌には山田組の人たちが写っていて、そこに堺健一さんがいました。  先生に頼んで紹介してもらい、渥美清さんの演技も観る事が出来て大感動しました。 大学生で東京俳優学校にも行きました。 俳協の養成所へ行けと言われて、俳優を志してはいました。 

俳優では芽が出そうもないし、自分の武器は何かと思ったら声だと思いました。  声の仕事をし始めました。 人のやらないことをやろうと思いました。(競争率も低い)    そのうち人を楽しませたいという気持ちが強くなりました。  人間よりもゴミ箱とか、酷いものでは牛のふんをやりました。 面白いねと言われました。 

3年前ぐらいから歩いていると足がだるくなるんです。  病院に行ったら下肢拘束性静脈瘤と言われました。  膝の部分の血流が悪くなって末端までの血のまわりが悪くなる。 ヘビースモーカーでしたが、このまんまだと歩けなくなると言われ煙草は辞めました。   

進路を決める時には、父親からは声優、役者などは絶対やめろと言われました。 反発してやり始めました。 声優の若手を集めて「アタック」というグループを作りました。 いろいろ作って17年やりました。 解散して静かにしていましたが、「龍のとなり」を作りました。 「世相を切る」と言う番組があり、コロナで3年半ぶりに録音ができました。    異常気象で地球が壊れていっている様な感じだよね、という事と、人間は戦争をしたりして、自分たちのことばっかり考えて、もめごとばっかりやるんだろうとか、と言うようなことを話して、昔のことなども話題にします。  長く続けられればいいと思います。   ほっこりするようなアニメーションは中々なくて、そういたものをもうちょっと作ってくれると嬉しいです。 そういったものを書いてくれる作家さんも段々少なくなってきた。   自分のキャラクターを皆さんに可愛がってもらいたいと思います。  どんな役でもいいんですが、与えられた役を一番愛するというか、好きになりたい、出番を多くしてやりたい。  

 

























2023年11月24日金曜日

成田奈緒子(小児科医、発達脳科学者)  ・〔ことばの贈りもの〕 早寝早起きで健やかな脳を

成田奈緒子(小児科医、発達脳科学者)・〔ことばの贈りもの〕  早寝早起きで健やか

成田さんは1963年仙台市生まれの60歳。 神戸大学医学部卒業、米国セントルイスワシントン大学医学部、独協医科大学、筑波大学にて小児科の臨床と基礎研究に従事したのち、2009年より文教大学教育学部教授です。 2014年からは発達障害、不登校、引きこもりなどさまざまな不安や悩みを抱える親子、当事者の支援事業「子育て科学アクシス」を主宰しています。

脳と少数の臓器は生まれた後もまだ作られて行って行きます。  特に脳は18年ぐらいかけてやっと一人前の状態になってゆきます。 1歳ごろになると歩き出したり、ちょっとした言葉をしゃべるようになり、3歳ごろになると駆けたり文章でしゃべるようになって、これらは脳の発達という事になります。 脳がバランスよく育つ事が大事です。 バランスを整えるために親とか周りの大人がどう言う風にかかわればいいのかと言う事を追求してゆくことが重要になります。 

父が小児科医でした。 小児科は発達が加味されるという事が非常に面白い。 小児科は身体全体の臓器に関して勉強するので、その知識が元々あって、臓器をコントロールする自律神経があり、その神経は脳によってコントロールされているので、それがうまく育つかどうかという事が子供の状態がかなり変わります。 そういったことが面白くて、1998年アメリカの留学から帰ってきたころから、シフトしていきました。  

大人たちが子供に過干渉すぎるという事が、具体的には不登校枝であったり、加熱する受験戦争とかでいろんな身体症状、心理症状を出してしまう。 自律神経失調症といったものが多くなってきています。  発達障害の可能性があると診断されるお子さんが13年で約10倍に増えた、8,8%という数字も出ています。  しかし、発達中の子どもの脳の正しい発達が損なわれてしまったことによる、見た目の発達要害になっているお子さんも一定数含まれているというのが私の見解です。 

脳幹とか、最初に原始的な脳の部分(「身体の脳」と呼んでいる)が発達しなければいけない部分です。 寝る、起きる、食べるという機能が出来るようになることが、まず「身体の脳」が育つ、と言う事を覚えていただきたいと思います。 それが5歳までに確立されると第一段階の脳が良く育ちました、という事になります。  自立神経の機能は自分で全く意識していないのに、身体をいい具合に調整してくれる神経です。(心臓、腎臓、肺とか)  この神経も生まれた瞬間にはうまく働かないので、ここをしっかり作ることも5歳迄の子どもの子育てでは大事です。  一定の環境ではなく暑い、寒いをしっかり感じさせる。  血圧を一定に保つのも自立神経なので、ずーっと座りっぱなしでゲームをしたりするのは駄目です。 野原で転がったりするのがいいのですが、今は圧倒的になくなっています。   温度、湿度が設定された環境のなかで暮らし続けると、自立神経は本当に怠けてしまいます。 自律神経失調症になって、不登校とかいろいろな問題を出してしまう可能性があります。 刺激を与えないと脳は育ちません。 

睡眠は脳の構築材料であるので、睡眠は5歳までにしっかり確立しないといけない。 昼に活動する動物は、太陽が上がると活動して太陽が沈むと寝込むというものです。 生まれたばかりの赤ちゃんは夜も3時間おきに食事を貰って寝て、昼行性ではないんです。 これを昼行性の脳に育ててゆくのが子育てです。  ぐっしり眠れるのを5歳までに作らなければいけない。  5歳では11時間睡眠が必要であると教科書に載っています。 これは地球の夜の時間です。 いまはそんな子はいないです。(9時間ぐらい) 小学生は10時間寝なさいと書いてあります。 中高生は9時間、大人は8時間寝なさいと書いてあります。 現状、だいたいマイナス2時間程度になっています。 5歳では10時間は目指してほしい(夜8時から朝6時までとか)  私はいろいろ工夫して8時には子どもと一緒に寝ることにしました。(一緒に寝ると子供は安心する) 3時には起き出して家事などをこなしました。 

「身体の脳」の刺激は5感からの刺激を繰り返し与えることが大事です。 寝ることが大事なので兎に角8時までには寝かせる。  お腹が空いて食べることも大事で、食べることで強制はしなかったです。  いろんなものをバランスよく食べる。 私は5歳まではしゃべっていませんでした。 生物が好きで地面の蟻を見て居たりして、幼稚園も登園拒否をしていました。 夢はアメリカに行って研究者になりたいという事でした。  自分と母親の関係は良くなかった。  苦しい思いをしている親御さんたちに「大丈夫だよ」って言ってあげたいと思って、それが今の活動の原点なのかもしれません。

自分が育った時代の環境と今の環境は明らかに違うので、自分が踏んできた同じ道を踏ませないと子供は幸せになれないんだという価値観は持たない方がいいと思います。     時代の風を読んで時代の風にのって、自分にとって最も必要なものを見極め力と言うものを子供に付けるという事が一番大切なキーワードになると思います。 具体的に言うと「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えるということを、兎に角子供にいれて頂きたい。 失敗するときに、「ごめんなさい」が言えないといけない。 自分にできないことは誰かに助けてもらわないといけない。  その時には「ありがとう」と言う。 この二つが言えたら絶対生きて行けるんです。  自分のできることは誰かの助けになる。 この考え方が身に付けばうまく育ってゆくし、どんな世の中でも生きてゆけると思います。 ここが今たりないです。 困難が来ても、困難に立ち直れる力を身に付けていただきたい。


































2023年11月23日木曜日

いまいみさ(オリガミ作家)       ・〔私のアート交遊録〕 オリガミに思いを込めて

いまいみさ(オリガミ作家)     ・〔私のアート交遊録〕  オリガミに思いを込めて 

花の美しさや四季折々の行事を折り紙で表現し、手作りの楽しさを提案しています。   いまいさんの作品はかわいらしさや作り易さから、児童、保育士、看護師、高齢者にまで広く親しまれています。 さらにユーチューブやインタでの発信、ワークショップなどで魅力ある世界を公開しています。  紙を折る動作は脳の活性化や、手や指の機能訓練に繋がるだけでなく、折り紙は子供のころ誰もが経験している遊びであり、それを思いだしながら覚えているものから気軽に始められるため、認知症予防としても効果があると言われています。 折り紙を中心に身近な材料で手軽に作れる手作りおもちゃを提案しているいまいみささんは、今また折り紙を折ってメッセージを書き添える折り紙手紙にも力を入れています。 折り紙は簡単で楽しい、相手を思いながら折ってメッセージを書く、笑顔が生まれるハッピークラフトだと言います。 折り紙に込める思いを伺います。 

子どものころから折り紙は好きで、折り紙と聞いただけで心が温まります。 鶴は平和の象徴として折って祈りを込めて奉げたりするものなので、鶴はほとんどの方が折れるのではないでしょうか。  折り目をきちっとつけるという事をマスターれば、意外に簡単に折れます。  折り紙は世界中の皆さんが楽しんでいます。  私の本もヨーロッパ、台湾、中国、韓国など他の国にも出版しています。  私は介護施設、幼稚園、保育園に行く機会が多いんですが、毎日のように折られています。  色々なものが飾られています。    赤はりんごとかリンクして色を教えて、好きな色をほしがります。  繰り返し教えると小さい子でも折れるようになります。  自分で作ったという事が最高に楽しい。

折り紙は江戸時代1700年ごろに庶民に広がったと聞いています。 最初は和紙の折り紙で段々単色の折り紙になり、10色、20色になり今は60色になります。  子どもはめちゃめちゃ関心を持ちます。  私も母から教わって楽しい思い出しかないです。  今から思うと一つ一つ丁寧に教えてくれたと思います。 とりこになって行きました。 折り目正しく折らないとちゃんと作品は出来上がらないので、丁寧に愛情込めて折ることが大事です。  飾ったり、送ったり皆さんと共有することが多いです。 

七五三の女の子の折り紙は、いろんな種類を重ねて一枚に貼り合わせています。 羽子板、猫、梅、ウグイスなど。  手を動かすことはとっても脳によいと言われていて、認知症を予防する回想法と言う心理療法に近いと言われています。  折り紙は普段動かさない指もしっかり動かすので、健康のためにもいいと思います。  △に折る時に指を上から降ろしてきてプレスした状態でスライドして折って行くとしっかり折れます。 角と角をしっかり合わせることが一番のポイントです。 今は柄折り紙が沢山市場に出回っています。 カラーコーディネートするのも楽しいです。段々難易度を上げてゆくと素敵な作品がどんどん出来上がります。  作った作品をどこにどうやって飾るのか楽しんでいただきたいと思います。 

折り紙手紙もやっています。 ちょっとしたメッセージを書きます。 「頑張ってね」とか、お守りを作って「合格祈願」とか。 子どもがお父さんにビールの折り紙を作って「お疲れ様、パパいつも有難う」と書いておいてあると、凄く喜びます。 家族の中でやり取りするのも心温まります。  相手に送る気持ちを表現しているので、「ありがとう」と一生懸命書いたりしています。  高齢の方は鶴を折ったり、紙風船を折ったりすると、昔のことを思い出したりして、いろんなことを伝えてくれます。 

インスタグラムでも毎日発信しています。 季節に応じて作品を発信しています。 読者の皆様のも発信しています。  お薦めの一点は、百枚入りで赤の折り紙、青の折り紙、黄色の折り紙と、61色の折り紙がよく売れています。  季節を表現するのに61色の折り紙があると紅葉のグラデーションとか、鮮やかな折り紙が売られているので、お薦めの一点です。


































鶴岡剣太郎(スノーボード解説者)    ・逆境を力に変えて

鶴岡剣太郎トリノオリンピック・スノーボード代表、スノーボード解説者)    ・逆境を力に変えて 

スノーボードがオリンピックの種目になったのは、1998年の長野オリンピックから。   その少し前、21歳のころスノーボードに取りつかれた鶴岡さんは、大学卒業後も就職せずにアルバイトをしながら、競技生活を続けて世界を転戦し、トップスノーボーダーを目指しました。  ヨーロッパやアメリカの選手と力の差が大きい中、2006年トリノオリンピックの出場権を獲得、オリンピックでスノーボードのアルペン種目を滑ったアジアで最初の男子選手になりました。 スノーボードアルペン種目のパイオニア鶴岡さんに、そのオリンピックや道のり、スノーボードの魅力などを聞きました。

母親が福島県の出身だという事もあり、父も学生時代スキーに取りつかれて、私が生まれてからもゲレンデなどに連れていてもらったり、母の実家でそりで滑ったりしました。   雪って楽しいんだなと思いました。  1974年生まれで、スキーで世界を転戦するような選手になりたい、と言う様な思いがありましたが、叶わなかった。 挫折感のなかスノーボーダーをスキー場で見て、これだと思いました。  

スノーボードがオリンピックの種目になったのは、1998年の長野オリンピック大会。  ハーフパイプと大回転の2種目だった。 現在は5種目になりました。 スピード種目と演技で点数を競うフリースタイルに大きく分かれます。 私はスピード系をやってきました。時速60~70kmぐらいで滑っています。  中学では体力が将来スキーへ繋がるだろうと思って部活は陸上(走り幅跳びと110mハードル)をやりました。  イタリアのアルベルト・トンバ選手に憧れていました。  全国中学スキー大会では千葉では予選が無くて、3名全国大会に行きました。  とんでもない世界に挑戦したなと思いました。    

高校は山形県の羽黒高校、大学は仙台大学に行きました。 高校では男子だらけの寮生活でした。 スキーでは強豪校ではありませんでしたがのびのびと練習が出来ました。  大学で3年の時にインカレに出ましたが、300人中後ろから数えた方が早いというような成績でした。 スキーへの想いが薄れて行って、リフトに乗っていたら、楽しそうにやっているスノーボーダーを見て、これだと思いました。  スキーとは違ってものの1秒で倒れてしまいました。 とんでもないスポーツを始めてしまったなと言うのが最初でした。 最初はリフトから降りるのに30分ぐらいかかりましたが、段々3分、30秒になりました。 

段々うまくなってきたら、大会に出てみようと思うようになりました。 出場したら2位でした。 参加費が3000円でしたが、景品が凄くよかったです。 優勝者が海外旅行の航空券でした。  そこからうまくなろうと思ってはまって行きました。  就職はしましたが2週間で辞めて、スノーボードを競技選手として捉えようと思って、決断しました。  世界に挑戦すると言うことになると、周りからの協力、支えも必要だし、資金面も大変でした。 

1998年の長野オリンピックからスノーボードがオリンピックの種目になりました。  1999年に日本代表に召集される事になりました。  ソルトレイクオリンピックを目指したいと思いました。 全日本チャンピオンになってから道具に対する提供があったり、ワールドカップに挑戦しするときにも、遠征費を肩代わりしてくれたメーカーさんもいました。 非常に恵まれていたと思います。 ソルトレイクオリンピックへはポイントが足りずに行けませんでした。(27歳)  このまま競技生活をやっていていいのか、非常に悩みました。  次のトリノオリンピックに挑戦しようと思いました。 フランス人のコーチが日本代表のコーチになってくれました。  海外の高い技術をしっかりと私たちに教えてくれました。  トリノオリンピックに出場することが決まりました。  

スタートでは頭が真っ白になってしまっていました。 1回目はゴール前で転倒しました。 予選で敗退しました。(28位) それから18年が経ちました。  北京オリンピック、今年の世界選手権の解説もしました。 三木つばき選手が昨年の世界選手権で優勝したことによて、いろんなかたがたに勇気を与えたと思います。  自分の意志、行動で環境をどんどん変えてゆく、自分の努力で生き方も変える事によって、不可能と思えることも可能ににできる。  自分は出来るんだという事を信じて挑戦してほしいという事は、沢山の子どもたちに伝えて行きたいです。  



































2023年11月21日火曜日

大野真澄(シンガー・ソング・ライター) ・唄うことが大好きなんです

大野真澄(シンガー・ソング・ライター) ・唄うことが大好きなんです 

大野真澄さんは1949年愛知県出身。 1970年3人組フォークグループ「ガロ」を結成、1973年「学生街の喫茶店」がヒット、第24回NHK紅白歌合戦に出場しました。  現在はソロ活動のほか、伊勢正三さん、太田裕美さんと共に、「なごみーず」というユニットでも活動しています。  

2017年から愛知県の岡崎市民会館で友人と共にいろいろなミュージシャンを呼んでやっています。 今年は南こうせつさんと元ちとせさんです。 2016年が岡崎市の市制100年で岡崎市民栄誉賞を設けて、その賞を頂きました。 他に何人かいました。 それをきっかけにコンサートをやろうという事になりました。 

物心ついたころから歌は好きでした。 父が良く歌っていました。 叔父がレコードを回してラジオに繋いで音を出す機械を持っていて、いままで聞いていた流行歌とは全く違うものを聞いて、洋楽を聞くようになりました。  小学校の旅行のバスのなかではマイクを独占していました。 下校時も良く歌っていました。 人前で正式に歌うようになったのは中学3年、高校生になってからです。  ビートルズが出てきて吃驚しました。  高校2年生ぐらいから友達にアコースティックギターを借りて弾き始めました。  バンドを組むときにギターは上手い人が弾けばいいと思って、歌を歌えばいいと思いました。 高校2年生のころデパートの屋上でイベントがあり5人編成のバンドで出て、初めてお金を貰いました。(5人で1万円) 

企業に就職しようと思いましたが、イラストレーターを目指し、上京してセツ・モードセミナーに入学しました。  入学式には300人ぐらいいましたが、絵とかを教えるのではなく、講義とか自分の好きなような生き方を教える先生で、どんどん辞めていきました。   先輩にポスターを描く人がいて、御芝居のポスターを描いて、そのお芝居を観に行かないかと誘われて、観に行きました。  打ち上げに一緒に誘われて行きました。 東京キッドブラザース」に入らないかと誘われましたが、断り続けましたが、一度会う事になってしまいました。  入ってやっているうちに、ロックミュージカル『ヘアー』のオーディションを受けないかとの誘いがありました。  そのオーディション会場にいたのが、後の「ガロ」になる堀内護、日高富明が受けに来ていました。  かまやつひろさんとのご縁で3人が組むようになりました。

学生街の喫茶店」 リードボーカル:大野真澄

1973年「学生街の喫茶店」がヒット、第24回NHK紅白歌合戦に出場しました。   当時は自分たちの世界ではないと思いました。 1976年、ガロ解散。 2009年還暦を迎えました。 還暦で「THE ALFEE」の方から是非「ガロ」に曲を一緒にやりましょうと提案がありました。  真っ赤なエレキギターをプレゼントしてもらいました。 今年74歳、「セブンティータイムズセブンティー」と言うタイトルでずっとやっています。 70歳で70回ライブハウスツアーをやるという事でしたが、間にコロナが入ってしまいました。 30数回で止まってしまって、今年6月から再開しました。(50回近くになる) 

もっと「今を歌いたい」、今思っているいこと、今周りで何が起こっているのかとか、これから自分は何に向かって行ったらいいのかとか、明日のことを考える歌の方がいいと思います。






















2023年11月20日月曜日

長須与佳(尺八・琵琶奏者)       ・〔にっぽんの音〕

長須与佳(尺八・琵琶奏者)       ・〔にっぽんの音〕 

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

プロの演奏家で尺八と薩摩琵琶の奏者はいないです。  

1978年生まれ、茨城県出身。 茨城県那珂市ふるさと大使。 小学4年生まではピアノを習っていましたが、4年生より琴古流尺八薩摩琵琶を習い始める。 母が小学校の先生をしていて、4年生になった時に母が急に尺八を始めました。 尺八の先生のところに私と弟、妹を連れて通っていました。 それが私が尺八と出会うきっかけでした。 母は音楽と体育を教えていて、自分の国の音楽は一体何なんだろうと思わないように、伝統音楽の一つでもいいから、生音を演奏して子供に伝えたい、それが尺八だったんです。 

大藏:海外の人は自分の国の文化に対してリスペクトがある。 お母さんは凄い。

先生が短いものを渡してくれて、吹いてみたら音が鳴ってしまいました。(母はまだ音がでなかった。) 先生から「天才だよ。」と言われ尺八を始めることになり、母と一緒に習いました。  4年生の夏に、祖父母の納戸から白い布に包まれて薩摩琵琶が出てきました。祖父が薩摩琵琶を始めたが、琵琶の師匠が満州にいって、自分も戦争に行きました。 戦争から戻って来て師匠のところに預けておいた琵琶を戻したが、その後忘れていたみたいです。 凄くいい音のする琵琶でした。 現役でずっと使っていましたが、最近痩せてきてしまったので音がかわってきて、実家の方にあります。 

*「祇園精舎」 平家物語の冒頭の部分。 奏者:長須与佳

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」

小学校6年生の文集には、東京芸大に入ってステージでスポットライトを浴びて演奏する演奏家になりたいと書いていました。 東京藝術大学音楽学部邦楽科尺八専攻しとて、人間国宝である山口五郎先生に師事。 音大ではどこも琵琶をやっているところはありませんでした。 別に琵琶も並行して勉強しました。 2003年には第9回熊本全国邦楽音コンクールにて第一位最優秀賞を琵琶奏者として受賞。 2004年には尺八、琵琶奏者としてCDデビュー。 和楽器ユニットRin'のメンバーTomoca(Vo.、尺八、琵琶)としても活動。  2003年は琵琶を辞めるか、距離を置きたい時期でした。 最後に琵琶をやっていたという証のために第9回熊本全国邦楽音コンクールに参加しました。 最優秀賞になり、或る審査員から「琵琶は絶対やめてはいけない、続けなさい。」と言われました。(辞めることを言ってはいなかったのに) 

*「萌風 (きざしかぜ)」   作曲:長須与佳、演奏:長須与佳(尺八、琵琶)

尺八、琵琶の魅力は、人間臭いところが魅力だと思っています。 尺八は虚無僧の方が修行のため、供養のために吹かれて居たり、琵琶も盲僧の方が弾かれていたり、共通している部分は嘘をつかずにさらけ出すと言う部分ではないかと思います。 邪念が入ると必ず違う音を吹いてしまったりするんです。 無の心と言うか、余計なことを考えずに、一つのことに集中しなければ、この楽器たちは駄目なんだと私は思っています。

大蔵:狂言も同じです。 良く見せようとか、かっこよくしようとか、お客さんを笑わそうとか、そういう気持ちで舞台に立っていると、やっぱりいやらしい芸です。 凄く近いですね。

琵琶の弾き語りをしていると、物語の状況を思い浮かべながら弾き語りをしますが、その境地に入った時は、客席が漆黒の海に毎回なるんです。 (夜でピンスポットが月光になる)

日本の音とは、私にとっては尺八、琵琶になってしまいますが、それが素直に出せた音、それが日本の音です。 

個人的に学校公演をやっていて、先入観を持たない時期に聞いてもらいたいと感じています。 小学校低学年になればなるほどニュートラルで反応もいいですね。

大蔵:彼らは彼らなりに捉えて何かを感じています。 だから嬉しいんです。 僕が学校公演に行く時には兎に角楽しませる様にしています。

*「三日月」  作曲:長須与佳、演奏:長須与佳(尺八) 歌:長須与佳 編曲:中井智弥25絃箏奏者)








 

2023年11月19日日曜日

笠原将弘(日本料理店・店主)      ・〔美味しい仕事人〕 和食文化をつなぐ

笠原将弘(日本料理店・店主)      ・〔美味しい仕事人〕 和食文化をつなぐ

2013年の12月ユネスコ無形文化遺産に和食が登録されて間もなく10年になります。  この文化遺産と言う意味には、和食が日本の伝統的な食文化として評価されたことと、その一方で失わされつつある日本の伝統的な和食文化を、保護することがあげられます。   笠原将弘さんは和食が世界文化遺産に登録された翌年から、一般社団法人「和食給食応援団」の中心メンバーとして、学校給食を通じて子供たちに和食文化を伝える活動に取り組んでいます。 本格的に挽いた出汁の香りと味に子供たちは「美味しい」と素直に感激して、その感想を家庭に持ち帰ると言います。 「和食給食応援団」の活動の様子と、和食を日々の食卓でどの様に考えて行けばよいいのか、笠原さんに伺います。

和食が日本の伝統的な食文化として評価されみんな喜びました。 一方で失われつつある日本の伝統的な和食文化を、保護しなければいけない。  この10年で海外の方が日本料理に興味を持ったなと思います。 フランス、イタリア、スペインなどのシェフが凄く日本の食材を使うようにもなりました。 日本の中では大して変わっていないのではないかと思います。 ワサビ、ショウガ、ニンニクなどもみんなチューブで売っています。 海外では若い子が自分の国の料理のことは良く知っています。 日本の若い子に糠漬けをどうやってやるかと聞いても、多分わからないですね。  

懐石料理など日本料理と言うとどうしても高級なイメージがします。 手間がかかるというイメージもあります。  日本料理屋に行くとどこもお出汁にこだわっています。  家庭では顆粒出汁を使うのはいいと思います。  昆布とかで作ったお出汁は美味しいという事は知っておいていただきたいと思います。 「うま味」は日本人が発見した味覚なので。 日本人が毎日食べていたのが、和食なんじゃないかと思います。 まず白いご飯、味噌汁、季節にとれる野菜、魚など。  日本料理はベースの味が薄いので、海外のものを取り入れやすい。 日本人は器用んで、なんでも日本風にアレンジしてしまう。 日本のカレーはインドにはないと思います。 日本は発酵食品を上手く使っています。 味噌、醤油、お酢もそうですし、納豆、お漬物などもそうです。 

出汁の代表的なものは、昆布、鰹節、煮干し、干し椎茸、貝類など。 精進料理では大豆、かんぴょう、野菜の皮を干して、出汁をとったりします。 出汁は組み合わせると1+1が7にも8にもなります。 (昆布のグルタミン酸と、鰹節のイノシン酸) 日本の出汁は世界最速でとれます。 家でやる時には昆布、鰹節も全部水から入れて煮だして、こす時も絞ってそれで十分だと思います。  日本は海、山のものを両方恵まれてとれて、四季があって、旬の食材がとれて世界に誇りに思っていいと思います。 日本料理はヘルシ-でもあります。 「うま味」成分は、「そろそろお腹が一杯のなってっきたぞ」、と脳に教えてくれるらしいんです。 だから食べ過ぎないらしい。 「腹八分目」と言う言葉は海外にはないと思います。  海外の料理は油脂分と糖分で、食べた瞬間うまいと感じて、つい食べ過ぎてしまう。

箸で食べるという事も、良いと思います。 考えながら食べるし、口内調味と言って口の中で味を完成させるという食べ方。  おかずを食べたら無意識にそれに合うような量のご飯を食べ、口の中で味が完成する。  お味噌汁を飲んで、口をリセットする。 海外の料理は前菜から始まって、順に来て食べる。  

最初学校給食を作りに行く仕事をしませんかと、言われて給食を作って一緒に食べたりしていました。 献立表を見ると、自分たちのころと比べて圧倒的におしゃれな給食になっているんです。 和食が少ないなあと思いました。 子どもの好きな献立になってしまっている。(ハンバーグ、カレー、パスタとか) そこから「和食給食応援団」が始まりました。 2013年の12月ユネスコ無形文化遺産に和食が登録されて、その翌年から始まりました。  朝、圧倒的にパンが多いのにはショックでした。 昼も給食でパンとか、自分の国の料理をこんなに食べないのは日本人ぐらいではないかと思いました。  海外では自分の国の料理を多く食べます。  「和食給食応援団」も段々形になって行きました。 

給食はカロリー、塩分も決まっていて、予算もあるし、設備上の問題、器がないとか、結構苦労はします。  作って子供たちと一緒に食べます。  旨いとお替りに走ります。 イマイチだと箸の進みが遅いです。 本格的な出汁の授業では取り合いになったりします。 「うま味」は子供たちにも判ります。 お母さんたちがそれをきっかけに作るようになったら、嬉しいと思います。  和食を作り、食べることが環境に優しいです。(SDGsSustainable Development Goals) 食材を余すところなく使う、皮、骨なども煮だせばいい出汁がとれる。 保存食もいっぱいある。(塩漬け、燻製、発酵など) 郷土料理は和食料理の一つの根幹をなすものだと思います。  子どもたちに和食の魅力を知ってもらって和食の後継者として、和食の料理人が増えてくれればと思っています。










  
















2023年11月18日土曜日

さつき(ジャズボーカリスト)      ・何度倒れても歌いたい

さつき(ジャズボーカリスト)      ・何度倒れても歌いたい 

さつきさんは和歌山市出身のジャズボーカリスト。(57歳) 40代で患った脳出血で半身不随と失語症になり、歌うどころか話すことも難しくなりました。 その後懸命なリハビリを重ねた結果、音楽活動を再開、自らコンサートを企画するなど精力的に歌声を届けてきましたが、今度は急性骨髄性白血病に倒れ、再び声を失います。  度重なる試練を乗り越えて歌い続けるさつきさんに伺いました。

今、体調はすこぶるいいです。 先日ライブが終わってばかりですが、凄くいいライブになったと思います。 

ジャストワンオブ・ゾーズ・シングズ」(原題:Just One of Those Things)  歌:さつき

椅子に座って歌います。 ここの時にはこう言おうと書いているんですが、書いているのにもかかわらず、詰まっちゃうという感じなんです。 父がジャズ好きで、私が小学校のころビリ-・ホリデーの曲をよく聞いていました。 父の影響でジャズを聴き始めました。   20歳の時に大阪にあるホテルで歌って、初めてギャラを貰いました。 (映画音楽、ポピュラーソングを歌う。)  25歳で東京に住み始めます。 結婚して和歌山に里帰りして女の子を授かりました。  42歳になった時にタクシーに乗る時に頭が痛かったんです。 病院にいって倒れて、それが3日続きました。(3日後に意識が回復した。) 脳出血だった。  右手、右足が動きませんでした。 しゃべることもできませんでした。     娘の事だけは思い出しました。  入院中、歌手だったと言う事も忘れていました。       

退院して家に帰って、楽譜が一杯あり、私は歌手だったんだと思いました。 子どもは1歳半でした。 口、左手(利き手ではないほうの手)、左足でおむつを替えました。    歌うきっかけは主治医に薦められて、悩みましたが病院の納涼祭で「テネシーワルツ」を歌いました。  言語の先生にも凄くお世話になりました。  一緒にリハビリをしていた人たちからの応援もありました。  凄くへたくそでしたが、もの凄い拍手を貰いました。 お客さんは50人でしたが、500人、1000人の大観衆を前にしたような感覚でした。 歌に対して自信が持てました。  

当時歌を薦めてくれた伊藤先生(現在、愛知学院大学の健康科学部の教授)からメッセージがあります。 

「・・・ジャズシンガーだったという事を聞いて、音楽を通じて楽しみを見つけて欲しかったからです。 一回目は断られましたが、しつこく誘ってみたら歌ってみますと返事を貰いました。 ・・・本番で歌い出してからは大成功で終わりました。 ・・・さつきさんが生まれ変わって、失語症だけれどもほか患者さんにも一生懸命話しかけるようになりました。音楽の力ってすごいなあと感じました。 ・・・もっと歌って様々な人を勇気付けてください。」

最初コンサートをした時には、周りの人と一緒に企画して、800人ぐらいお客さんが来ました。 翌年2回目には1000人来ました。 3回目は雨だったので700人ぐらいでした。 4回目は急性骨髄性白血病になってしまい中止になりました。  定期健診でおかしいということになり、骨髄の検査をしてわかりました。(2016年5月) これで死ぬのだと思いました。  抗がん剤治療が始まりました。 吐き気、40℃以上の高熱がありました。  治療を乗り越えて退院することが出来ました。  またステージに戻りました。 

2019年又白血病と告げられました。 当時中学1年生だった娘のために生きなければと思いました。  この時に骨髄移植を受けました。 手術は成功して家に帰ってきましたが、寝たきりの様になってしまいました。 抗がん剤治療よりも苦しかったです。   「復帰への思いはあったものの、しゃべるのもしんどい期間が1年ほど続きました。   コロナ禍も重なり、なかなか活動再開とはなりませんでした。  ファンから『そろそろライブは?』と聞かれることが増え、このままだと忘れられてしまうのではないかと思って、ライブをすることを決断しました。 娘も高校生になりギターをやっています。                今は娘が私に憧れているみたいで、どこにでもついてきます。  

「生きて頑張るぞ。」と、毎朝鏡に向かって言っています。  私みたいに身体の不自由な方、健常者を含めて、何かに挑戦したらいいなと思います。  こんな身体で私が歌っているという事をしっかりと胸に刻んで帰ってもらいたいです。









 






















 


2023年11月17日金曜日

高泉淳子(俳優・劇作家)        ・今という瞬間を重ねて

高泉淳子(俳優・劇作家)        ・今という瞬間を重ねて

高泉さんは1958年宮城県生まれ。 早稲田大学社会科学部卒業後の1983年遊◎機械/全自動シアターを結成します。 この劇団の看板女優兼劇作家、演出家として活躍します。 子供から老人まで様々な役柄を演じ分け、劇団の人気演目から生まれたちりじり頭に黒メガネの少年「山田のぼる」で人気となり子供番組のMCとしても演出していました。 NHKでは週間子供ニュースのおかあさんとして司会を担当、このほか週間ブックレビュー、昭和演劇大全集の司会を担当しました。  今年は1989年より上演されている、高泉さんが構成、台本、主演を務めるア・ラ・カルト 役者と音楽家のいるレストラン』が35年目を迎えます。

1989年12月(ベルリンの壁が崩壊した年)ア・ラ・カルト 役者と音楽家のいるレストラン』と言う芝居を始めました。 早稲田の演劇研究会で演劇を始めて、映画のような、音楽でそのシーンがよみがえってくるというか、そういう事が演劇でもできないかと言う事がずーっと夢でした。 それがア・ラ・カルト 役者と音楽家のいるレストラン』と言うものでした。  今年35年目を迎えました。  映画の中の食べるシーンが好きでした。レストランで行って、手ごたえがあったので3年やらせてほしいと言いました。 バイオリニスト中西俊博さんに弾いてもらって、自分の中で物凄く広がって行きました。 音楽があったらそこにいろんな時間が流れてゆく、と言う事を感じてこれだなと思いました。 これをライフワークとしてやっていきたいと本当に思いました。 

うちは兄が二人いて従兄弟もほとんど男の子でした。 父が音楽と映画が大好きで、私はテレビが大好きで洋画などが一杯あり、父親と一緒に観て良く解説をしてくれました。  小学校5年の時の1月に父が脳溢血で亡くなってしまいました。  月曜ロードショーを父と一緒に観た翌日でした。  父からは「君が好きなものが、みんな好きだというものではないんだよ。」と言う事は注意されました。 「君が笑っている時に泣いている人もいる、君は見えないから注意しなければだめだ。」と言われたのが、最後の父の言葉でした。 それが役者だけでなく本も書くようになったのかもしれません。 或る時人は突然消えて居なくなるんだなと思いました。(父の後に祖父も亡くなる。) 老いるという事が怖かった。 30歳の時に老婆役をやって、自分の先がここなんだという事がふっと見えてきて、それから役者として変りました。   

図書館の帰りに、仙台の西公園にテントがあり、黒テントの方から観て行かないと言われました。 佐藤信さんの役者も素晴らしいし、次の日も見にいってそれからとりこになりました。  演劇部に行ってみようと思いました。 役者って、いくつになっても見えないんですね。 絵とか、楽器をやっていたりすると客観的に見える。 役者って、自分ではいいと思ってもなんかよく判らない。  いまだにそうですね。  主人公って、どこか欠落している、そこが切なかったり、愛すべきところだったり、まず人物を探るところから始まります。 本を書く時に、どういう人物が以下と言う時に出て来たのが、変な少年でした。  それが「山田のぼる」でした。  生きることに敏感な人物、それは生まれて間もない少年少女たち、それからこれから消えるかもしれないおじいちゃんおばあちゃんたち、どっちかでした。  時代を語らせるのに一番ビビッド(描写・記憶などが生き生きとした)なのは少年か少女だと思いました。 愛されるときどっちかなと思た時に少年だと思いました。 わざと年老いたセリフを言わせました。  「山田のぼる」は幼児からおじいさん伯母さん迄とりこになったところはありました。  本を書いてしまったので、やるのは私しかいないと思いました。 

青山円形劇場が閉鎖されてまいました。(2015年) ア・ラ・カルト』は今迄にないお芝居と思います。 短いお話があり、その間に音楽があり、人生模様の短編みたいなもので、余り他にはないように思います。  こういう芝居が消えては惜しいなあと思い、やり続けたいと思いました。  もう一つは私には辞める理由がない。 この二つがあり続けてきました。  身体が動けなくなるとか、声が出なくなるとか、どうしても出来ない頃が来ると思うので、その時に辞めればいいと思っています。  役者、映画にも出てみたいという気持ちが、今凄くあります。  

父は早く亡くなっていろんなことを教えてくれた、母は99歳になりますが、頑張って私に生きるという事を教えてくれています。  お芝居は上手い下手ではなくて、如何に相手を思う丁寧さがあるかどうか、それだけだと思います。 悪役であろうがどんな役であろうが、その役を丁寧にやるという事、だと思います。  丁寧にと言う事は、今持っている自分を全てだす、誠心誠意。  日常でも、こんな感じでいいかなと思って話した時は、絶対相手に通じないと思う。  言葉が少なくても、相手にこれだけは伝えたいと思って、丁寧に伝えたら、絶対伝わると思います。 














































2023年11月16日木曜日

秋川リサ(モデル/女優)        ・〔わたし終いの極意〕 センスのいいおばあちゃんに

秋川リサ(モデル/女優)   ・〔わたし終いの極意〕  センスのいいおばあちゃんに 

秋川さんは15歳でモデルとしてデビューし、その後テレビや舞台に活躍の場を広げました。 ビーズ刺繍作家としても顔も持っています。 プライベートではシングルマザーとして2人の子どもを育て上げ、認知症の母を看取りました。 その母の壮絶な介護経験が自身の老後について考えるきっかけになったといいます。 現在72歳の秋川リサさんに伺いました。

7年前に母親を亡くしています。(2016年)  介護の間は人生観を変えるような出来事がありました。  母は好きな男性がいないと安定しないというようなタイプという感じです。 結婚生活を望むのかというとそうではなく、私は婚外子、結婚もせず私を生んで未婚の母として私を育ててきました。  その後も私も何人かお父さんと呼んでみなさいと言う人を紹介されましたが、割とそのペースが速かったです。  私を親の様に育ててくれたのは祖母です。 祖母は明治生まれの元芸者でしたが、割と母よりも現代的な考え方をしていました。  非常に厳しい反面、これからの女性の生き方みたいなものを持っていて、結婚が全てでもないし、子供を持つ事だけが幸せではないし、自分で自立して働いた女性になりなさいと言う教育をした人です。 私が外国人の血が入っているという事も含めて、祖母としては将来を心配して、もしかして結婚は出来ないかもしれないので、自立した女になりなさいという教育だったのかもしれません。  「手に職を持て」と言っていました。  ほとんど祖母との時間でした。

母は78歳で彼氏が出来て、家を出て82歳で帰って来てそれから認知症になりました。 認知症になって彼とうまくいかなくなったのかもしれません。  戻って来て「私のお金がなくなった。」とか「盗まれた。」とか言っていました。 段々ひどくなってきて、買い物をしてもお金を払わずに持って帰ってきてしまい、商店街の方にご迷惑を掛ける状態になったり、犬の散歩に行って2時間半帰ってこないというようになりました。 自由奔放に生きてきた母が認知症になるとは想像していませんでしたが、どうしたらいいのか何も考えられませんでした。 

商店街の人の中にケアマネの資格を持っている人がいて、「ケアマネさんを付けたのか?」と言われて、ケアマネさんを付けた方がいいということから、その方からいろいろ伝授していただいて、最終的に介護施設を捜すまでに至りました。  在宅2年で、4年ぐらいが施設です。  2014年「母の日記」という本にまとめる。  日記だと判っていたら開けませんでした。 16歳から仕事を始めて、経済的な事は母に任せていました。 自分で管理しなければと思うようになった時に、通帳と一緒に大学ノートが何冊か出てきました。(家計簿かなと思った。) それが日記帳でした。 母が60代のちょっと前のものでした。 「産まなければよかった。」とかいろいろ書いてあり、こんなことを毎日思って暮らしていたんだと思いました。  当時は私が大黒柱で、家を建てたりもして、「なのに」という気持ちになりました。  早く施設に入れた方がいいという覚悟が出来ました。 

怒り、悲しみ以上のものを感じる自分が厭になりました。  私が築いたであろう財産がすってんてんになっていました。  「やって呉れちゃいましたね。」と、どういうわけか思わず笑ってしまいました。 私も60歳になるような年代でした。 本を出した後も借金とかいろいろ出てきました。  施設に預けるようになって精神的には楽になりました。    母親が亡くなった時には正直ほっとしました。  面会に行くと「あんた誰」とか孫とは判らなくなり、会話もままならなくなっていました。  私なりに出来る限りのことはしたので「行ってらっしゃい。」という感じでした。  「来世も貴方の様な子供を産みたい。」ともしも言ってら、私は丁重にお断りしようと思います。 「私にも母を選ぶ権利はあるでしょう。」、と言いたいです。 

母は10代の多感な時に戦争を経験して、恋愛をしたいときには男性は戦争にとられていないので、恋愛対象が外国人となってしまったことも何となくわかるような気もします。   母も戦争で傷ついた一人なのかもしれません。 母が亡くなって、次は私の番かと思いました。 子ども二人を生んでますが、その父親とは別れてます。 終活の取材が多いんですが、それは失礼だと思います。 早く死ねと言われているみたいで凄く嫌です。 順番が来るんだという事は思います。  日記とかは書かないし、ラブレターとかは全部焼きました。 家とかは生前に、息子、娘に分けました。 二人の私に対する役割分担は出来ています。  施設に入ることに関しては、施設でアルバイトをしたことがあるので、不満を聞く機会がありましたが、やっぱりどこかで子供に捨てられた感とか、裏切られた感を持つ方がいらっしゃるんですね。 娘からママはそうならないか、と言われたら微妙かなと思います。 頭がしっかりしている時に、死について話せる事は良いことだと思っています。 

子どもは家を出ていて、母は施設に入って、家にいるのは私と犬だけでした。  1階、2階は子供たちと母のスぺースで、私が3,4階を使う設計になっていて、何部屋かが空きました。 シェアハウスがいいんじゃないのと言われて、外国の方もOKというシェアハウスにしました。 今は4人います。 (日本人2人、トルコ、中国が1人) 以前は一緒に食事したりしましたが、今はプライバシーを守る時代になりました。  

今は着物に凝っていて、アフリカの生地で一重の着物を縫ったり、帯を縫ったり、ビーズ刺繍を織り込んだりしています。 日本の着物にビーズを施したりしています。 孫にも作ってやったりしています。  人間に大切なことは、読解力と想像力だと思います。 生き方を含めて「センスがいいね」、という生き方がいいと思います。 































  







藤島 大(スポーツライター)      ・ラグビーから見えてくるもの~フランスW杯を終えて~

 藤島 大(スポーツライター) ・ラグビーから見えてくるもの~フランスW杯を終えて~

フランスで行われていた4年に一度のラグビーのワールドカップが10月下旬に閉幕しました。決勝では南アフリカがニュージーランドを破って2大会連続4回目の優勝を飾り、日本代表は1次リーグ2勝2敗で2大会連続の決勝トーナメント進出はなりませんでした。 今日はラグビーワールドカップを1987年の第1回大会から今回の第10回大会まで、全て現地で取材さているスポーツライターの藤島さんに今回のワールドカップの総括、自身のラグビー経験者とし得たものなどを伺います。 藤島さんは東京都出身の62歳、早稲田大学で監督を務めたお父さんの影響で高校からラグビーを始め、ラグビー人気が最盛期と言われた時代に早稲田大学でもプレーを続けました。 大学卒業後はスポーツ新聞社で記者として働く傍ら、都立高校や母校早稲田大学でコーチを務めました。 現在はフリーのスポーツライターとして活躍中です。 

決勝では南アフリカがニュージーランドを破って2大会連続4回目の優勝を飾りましたが、南アフリカは勝負強いというか、根性がありますね。 準々決勝の対フランスが29-28、準決勝がイングラドに16-15、決勝がニュージーランドに12-11と全て1点差でした。 雨も降ってボールが滑りやすくなり、キャプテンにレッドカードも出てしまって、50分ぐらいを14人で戦うという事もあり、勝ちそうになったが閉じたラグビーに引きずり込まれていました。 アパルトヘイトで第1回第2回大会は出場できませんでした。 第3回大会で初出場で優勝しました。  かつては映画にもなりました。 

今回日本はチリとサモアには勝ちましたが、イングランドとアルゼンチンに負けて2勝2敗で決勝トーナメントには進む事が出来なかった。 ちゃんと仕上げて来たなとは思います。チリとの戦いで直ぐディフェンスが良くなったと判りました。  アルゼンチンとは拮抗した試合でした。(27-39) アルゼンチンはベスト4まで行きました。  リーチマイケルは今回が一番状態がいいとある人が言っていました。 日本のスクラムも全く変わりました。 海外チームで活躍する選手があまり多くない。  日本を強くするためには環境の整備、遠回りかもしれないが、草の根のラグビーに投資をする。 女子のラグビーをしっかりサポートしてゆく。 地道に積み上げたところが最後には強いです。 気概、知力のある、情熱にある指導者を迎えることも大事です。 高校生の競技人口が少ないのは問題だと思います。 

父も叔父もラグビーをやっていました。 父は早稲田大学のラグビー部の監督をしていました。 中学まではサッカーをやっていました。 高校からラグビーを始めた。 慶応の練習方法で辛かったです。 早稲田大学に進学してラグビー部に入りました。  高校時代から目立った選手も入って来ました。 練習は厳しかったです。 部員は90人ぐらいいました。 補欠が多かったです。 ポジションはフルバックでした。 当時は電車で会場まで電車で行っていました。  3年の時に大西鐵之祐さんという日本のラグビーの名将、(ラグビー日本代表監督)が監督としてきました。  まず理屈を入れる、理論から入りました。 でも最後は理屈ではないと言っていました。 

大西監督から「お前はもっとボールを好きにならないと駄目だ」と言われました。 当時はタックルが好きでした。 よく見られていたのが判りました。のちにコーチになった時に凄くいい勉強になりました。 スポーツ新聞社に入りました。 勤務しながら都立国立高校のラグビー部のコーチを始めました。 この生徒たちと深くかかわって行きたいと思いました。 コーチをしたくて会社を辞めました。 卒業生が早稲田に行くようになって、早稲田大学のコーチをやるようになりました。  監督が石塚武生さん、ヘッドコーチが本城和彦さんでした。 

スポーツ雑誌などにコラムを書くことが大好きです。  1998年からずっと新聞へのコラムを書いています。  「自分だけが見たものが万人のものになるかもしれない。それが芸術である。」と坂口安吾が言っていますが、その言葉が大好きです。 ラグビーの魅力は、「極めて身体的な競技なのに、身体的な競技ではない。」という事です。 人間のいろんな要素が引き出されるので、意外と身体的ではなくて、意外とみんなに出番がある。  いろんな自分の役割を全うできるという事はあります。  「ラグビーは面白いね」と言われるよりも、「ラグビーっていいものだね」と言われる方が嬉しいです。 「ラグビーって50点差がついても感動する」とあるサッカーの著名な人が言っていました。















 
























2023年11月14日火曜日

齋藤悌子(ジャズシンガー)        ・ジャズと共に

齋藤悌子(ジャズシンガー)        ・ジャズと共に 

齋藤悌子さんは1935年(昭和10年)沖縄県宮古市生まれ、88歳。 那覇高校3年生の時に音楽の先生に薦められアメリカ軍基地のジャズシンガーのオーディションを受けて合格、卒業後ジャズバンドのボーカリストとして10年間に渡って歌っていました。 その後バンドリーダーだった斎藤勝さんと結婚し、千葉県へ。 1989年沖縄県石垣市に家族で移住しましたが、数年後夫が急逝、そのショックで10年悌子さんはジャズを歌う事が出来なくなり、音楽とは離れた生活を送っていましたが、1年のブランクを経て再び歌い始めました。 2022年には人生初めてとなるオリジナルアルバムをリリースし、現在も精力的に活動しています。 

今年8月には、NHK福岡放送局が制作したドキュメンタリー「The Life~人生はジャズと共に 齋藤悌子87歳~」が放送されて九州でも大きな反響がありましたが、9月には2回も全国放送がありました。 オリジナルアルバムをリリースしました。 

10月10日が誕生日で88歳になりました。 沖縄県宮古市生まれ、疎開して終戦まで台湾にいて、宮古島に戻ってきました。 中学までは宮古島にいて、高校は那覇高校に行きました。  クラシックは好きでしたが、卒業後ジャズに惹かれて行きました。 アメリカのベースキャンプにはフィリピンとか日本本土からバンドが何年契約で来ていました。   或る5人のバンドには歌手が居なくて、受けてみたらスカウトしてくれました。     それから勉強しました。  そこのバンドリーダーが後の夫でした。 レコードを買って沢山練習をしました。 キャンプの軍人さんから10日に一遍ぐらいで英語の発音のレッスンをしてくれました。  

1ステージ45分ぐらいで、その中に歌が3、4曲ぐらいリクエストがあり歌って、3ステージぐらいありました。  基地の中にクラブステージがありました。  サラ・ヴォーンなどトップレベルのシンガーやミュージシャンが慰問に訪れるなど、一流の音楽に触れる機会もありました。  ビッグバンドも来て、楽器ごとに音合わせの時間をかけるのには吃驚しました。  当時「ダニーボーイ」は毎日のようにリクエストがありました。  レパートリーは数えきれません、リクエストは歌うようにしていましたので。 

「ダニーボーイ」を歌っていた時に、若い軍人と若い女性が踊っていて、若い軍人が涙を浮かべていました。  歌い終わってクラブの人に聞いてみたら、すぐにベトナムに行くという事でした。 聞いて辛くて、歌う時には必ずその話をして、「兎に角戦争はいけません」と大きな声で言います。 (ベトナム戦争は1961年から始まり激化していた。) 今年の慰霊の日にも石垣島で歌いました。  

結婚したのは25歳の時でした。  29歳で千葉県に引っ越しました。 子どもが二人出来て大きくなって、その間夫は音楽活動をしていました。 声がかかって又歌い始めました。  1989年沖縄県石垣市に家族で移住しました。 娘が喫茶店を始め1週間に一度ぐらい演奏して聞かせることを夫としていました。 5年後に夫が急逝してしまい、しばらくは音楽を聴くのが辛くて、音楽から遠のいていました。(10年ぐらい) 今は音楽が切り離せられない状況なので、声が衰えるのが怖いので、ボイストレーニングは毎日やっています。 

或る時喫茶店に入ったらジャズが流れていました。 聞いた途端に歌いたくなってしまい、それから始めました。   昨年は東京でコンサートもやりました。  米軍キャンプで歌うのとは雰囲気が全く違います。 クラシックをやっていて、なんでジャズに惹かれたのは私にもわかりません。 

6つ上の兄が牧師をしていて、沖縄の高等弁務官の就任式の時に、兄がお祈りを頼まれて、「今回の高等弁務官が最後の弁務官になりますように。」と言う御祈りをしたらしいです。  その時の反響が凄ったらしいです。(賛成派と反対派) いま兄は92歳です。  兄とたまたま那覇に行く機会があり、基地の前で早く撤退してほしという事で、皆で讃美歌を歌いました。  去年たまたまプラザハウスというところでライブをしましたが、そこは50年前にレコード、ドレス、靴を買ったりした場所でした。 50年前に買ったドレスを着てステージに出たら、兄が客席の一番前に座っていました。 歌い終わったら、兄が感極まってハグしてきて吃驚しました。  12月20日は宮古で私の76年振り里帰り公演を行います。 97歳になると、カジマヤー風車祭)という童心にかえるお祭りがあります。 それまで歌うと言ったら皆さん笑っていました。

人は歳を重ねるだけでは老いない。 理想を失った時に初めて老いが始まる。













































2023年11月13日月曜日

増田明美(スポーツジャーナリスト)   ・〔師匠を語る〕 取材の仕方の原点に永六輔あり

増田明美(スポーツジャーナリスト) ・〔師匠を語る〕  取材の仕方の原点に永六輔あり 

増田明美さんが師と仰いでいたのが、放送作家、作詞家、タレント、ラジオパーソナリティーと幅広いジャンルで大きな足跡を残した永六輔さんです。 

永六輔さん(本名:永孝雄)は1933年(昭和8年)6人兄弟の次男として東京浅草に生まれます。 生家は浄土真宗のお寺でした。 昭和27年早稲田大学に入学した永六輔さんんは音楽家でプロデューサーの三木鶏朗さんの門下生として、NHKの日曜娯楽番組の台本を書くうちに、それが本職となり大学を中退、本格的の放送の仕事に取り組むようになりました。  ラジオに続いてテレビ番組の構成も手掛けて、出演者としても活躍しました。 作詞家としても永六輔さんの功績も見事です。 作曲家中村八大さんとのコンビで送り出した「黒い花びら」「上を向いて歩こう」「こんにちわ赤ちゃん」など数々の名曲が大ヒット、又作家としても「芸人その世界」「無名人名語録」「大往生」などがベストセラーになりました。 

永六輔さんと言えば、やはりラジオです。 1967年(昭和42年)TBSラジオでスタートした「どこか遠くへ」から「土曜ワイドラジオ東京永六輔その新世界」を経て「六輔七転八倒90分」まで、長年ラジオのレギュラー番組を続けてきました。 2016年6月をもって「六輔七転八倒90分」は終了しました。  翌7月自宅で息を引きとります。  83年の生涯でした。 8月に青山斎場で行われた「「六輔永のお別れ会」は永六輔さんの次女の永麻里さんの「今日は泣かないでください。 皆で笑って帰りましょう。それだけお願いいたします。」で始まったと言います。 

選手を引退して、ラジオのパーソナリティーの仕事を頂いたことがきっかけで、勉強のためにいろいろな方のラジオを聞いていました。 永六輔さんの語り口が暖かくて、聞いていて楽しくて、ラジオなのになんで匂いが伝わるのだろうと思いました。 土曜ワイドラジオ東京「永六輔その新世界」にゲストとして出演することになりました。 一緒に歩いたり、講演を伺ったり、とかで交流が始まりました。 取材が大事、取材は材料を取るという風に書きます。 

現場に行って取材することの大切さを教えていただきました。 その人を知る時には実際に会って五感で感じ取ったものが大事なんだと言われました。 「会いたい人が居たらどんなに遠くでも会いに行って、その人に会って肌で感じたことを持って帰って来て、マイクの前でお話をしているだけですよ。」と言っていました。 その姿勢を教わりました。 永さんとお会いしなければ,いただく資料だけでお話していたかもしれません。 毎日新聞の自分のコラムに、「増田明美さんの解説も金メダル。」と書いてくださって、本当にうれしかったです。  人に対する興味も旺盛な方でした。 

増田明美さんは日本最高記録を12回塗り替えて、世界記録も2回塗り替えました。   しかし、ロサンゼルスオリンピックでは挫折をしました。 

「柳句会」という句会にも一緒に4回ぐらい連れて行っていただきました。 毎月17日にやっていました。 柳家小さん師匠、小沢昭一さん、加藤武さんなどがいらっしゃいました。 「夏の蝿鈍き動作も俺に似て」 小沢さん作   「言葉のぜい肉を取るためには、俳句がいいですよ」と言われました。  間の大切さなど、空気に触れられたことは私の財産になりました。  

毎日新聞で「さあ走りましょう」という誌上ジョギング講座をやった時期がありました。  紙面でアドバイスする。 ゲストを呼んでくれないかという事があり、永さんにお願いしまた。  永さんからいろいろテーマを頂きました。  私が41歳で結婚した時には、司会をして頂きました。(あまりそういったことはやらないタイプの人でしたが) 

最後になったレギュラー番組にも私も参加しましたが、スタジオの中にベッドがありました。  ぎりぎりまでベッドに寝ていて、始まる少し前に起きてきて、ラジオに向かっていました。 最後のころはちょっと聞きずらかったりしましたが、永六輔さんの土曜ワイド「永六輔その新世界」は皆さんが介護をするように聞いていました。 (永さんのことをみんな判っていたので) 枯れてゆく自分を観てもらいたいというようなことを言われていました。

私も覚悟はしていましたが、家族の方から連絡があり旅立たれたんだと知りました。   7月7日でした。  奥様が先に旅立たれましたが、旅先からも手紙を書き送っていました。 天の川で奥様と再会して、あちらの世界に行かれたなと思いました。  こんなに長くお付き合い(20年ほど)できるなんて思ってもいませんでした。  ロサンゼルスオリンピックでは挫折を味わい、競技者としては自信がありませんでした。 「増田明美さんの解説も金メダル。」と書いてくださって、頑張れるかもしれないという気持ちになりました。  永さんはお日様みたいな人でした。  葉書のやりとりは何度もありました。  一言でした。 「良かったね。」「ありがとう。」とか。 あった方には全員に書いていました。 そういう方でした。  

永六輔さんへの手紙

「天国の永六輔様・・・両国から泉岳寺まで一緒に歩きましたね。・・・いろいろなことを知らない私に永さんはいつも楽しそうに、沢山のことを教えてくださいました。 解説の仕事が始まると、「取材って材料を取るって書くでしょう。」と言って、現場に行って感じることが大切だと教えてくださいました。 ・・・手紙の一言がとっても嬉しかったです。・・・私は永さんのようになりたいと後ろを歩き続けていますが、自分がしゃべり過ぎてしまい、なかなか聞き上手にはなれません。 ・・・永さんとの出会いは私の一番の宝物です。本当にありがとうございました。」






























2023年11月12日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕

奥田佳道(音楽評論家)         ・〔クラシックの遺伝子〕 

世界的にオーケストラもレパートリーが広がってます。 ジョン・ウイリアムス(映画音楽)が指揮をしてコンサートをやりました。  ゲームの音楽をシンフォニーオーケストラがクールに演奏するというのも今、オーケストラの大事なレパートリーです。 ロックの中にもクラシックを受け継いでいるものもありますが、今の若いアーティストは歴史的なロックから逆に刺激を受けるという現象が起こっています。  その最先端を紹介しようと思って選びました。 日本で最も人気のあるバイオリニストの一人、石田泰尚が声を掛けて結成した石田組があります。 石田さんはワーグナーのオペラを上演するときにも、欠かせないバイオリニストです。

*「キル ザ キング」   リッチーブラックモア(Ritchie Blackmore,)が演奏した。   演奏:石田組  

*「輝ける7つの海」 ロックバンド「クイーン」のボーカリスト フレディ・マーキュリーポピュラー・ミュージックの歴史の中でもっとも偉大なシンガーの一人とされている)1974年にリリースした楽曲。 演奏:石田組

*「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」 フレディ・マーキュリー1985年に発表した楽曲   演奏:石田組

背景にはクラシックのアーティストがオープンマインドになったという事が言えると思います。 

プログレッシブ・ロック 1960年代から1980年代までイギリスで愛されたロック。ブリティッシュ・ロック 英国で作られたさまざまな形式のポピュラー音楽

今、CMやドラマでプログレのサウンドを実はよく聞いています。

*「アクア タルカス」 クラシック作曲家吉松隆さんがシンフォニーオーケストラに編曲 演奏:東京交響楽団

*「噴火」 「タルカス」から  大河ドラマ「平清盛」の中で使われた。吉松隆さん編曲                 演奏:東京交響楽団

*「サヴチョ3」 演奏:ネマニャ・ラドゥロヴィチ(ヴァイオリニスト) 作曲:アレクサンダル・セドラー























2023年11月11日土曜日

鳴沢真也(天文学者・理学博士)     ・地球外知的生命を探す(初回:2023/5/13)

 鳴沢真也(天文学者・理学博士)     ・地球外知的生命を探す(初回:2023/5/13)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2023/05/blog-post_13.htmlをご覧ください。

2023年11月10日金曜日

舞香(舞台俳優)            ・〔人生のみちしるべ〕 「文化を作る"風"になる」

 舞香(舞台俳優)         ・〔人生のみちしるべ〕  「文化を作る"風"になる」

舞香さんは昭和56年生まれ(42歳)、東京都出身。 東京を拠点に演劇活動を続けてきましたが、7年前東京を離れ、今は長野県の阿智村で暮らしています。 舞香さんはアイヌの少女知里幸恵の一生を演じる舞台を作り、2009年から上映をしています。 知里幸恵さんはアイヌで初めてアイヌの物語を文字にして表した「アイヌ神謡集」の著者で19歳で亡くなっています。 今年は知里幸恵の生誕120年の節目の年と重なり、舞香さんは全国各地で舞台「神々の謡~知里幸恵の自ら歌った歌」を上演しています。 舞香さんにとってアイヌの少女知里幸恵との出会いは演劇人生を変えるきっかけになったと言います。 

今は長野県の阿智村で暮らしています。 人口6000人ほどの村です。 星がきれいな村です。 東京で笹塚ファクトリーという劇場を運営していましが、劇場も閉館になり、地域起こし協力隊に応募していきました。 今はキャンプ場、直売所で働きながら、御芝居の仕事が入るとお芝居の方に行くという生活をしています。  村民劇プロジェクトを立ち上げて、阿智村は満蒙開拓で沢山の人を送り出した村で、満蒙開拓に特化した記念館がある村でもあります。  テーマに満蒙開拓に選んで村民劇の作品を作って行きました。 私は演出をやりました。 4作品ができました。  30人ぐらいの方が参加してくれました。   子供たちが大きくなって、満蒙開拓の問題に触れた時に、後になって繋がってゆくものになってくれたらいいなあと思います。  

いま、一人芝居もやっています。  色々な場所でやらせてもらっています。 実家が劇場をやっていましたので、演劇が身近にありました。 父母は制作側の人間でした。 大学では演劇のサークルに入りました。 劇団を旗揚げした時には2人の劇団でした。  相方に子供ができて一人になって、一人芝居に変ってゆきます。  脚本、演出も自分でやります。  敗者の歴史、消されてしまった歴史の方に関心が行きました。  中原中也さんの一人芝居などもやりました。 金子みすゞさんの生涯も演じました。  人の心の闇の部分が好きなんで、そこの部分を描いたりしました。  お客さんは私を通して後ろにあるものを想像してくれるので、リアルな世界が広がっているのではないかと思います。 

2009年からアイヌの少女知里幸恵の一生を演じる舞台を作って各地で上演してきました。  今年は知里幸恵の生誕120年の節目の年となります。 知里幸恵が金田一京助の元で編んだ「アイヌ神謡集」の刊行から100年という節目の年になります。  「神々の謡~知里幸恵の自ら歌った歌」を2年間で30か所近く上演しました。  知里幸恵さんを調べて行った時に、19歳という若さで亡くなっていて、「アイヌ神謡集」の本の校正を終えたその日に亡くなっていて、或る意味面白いと思いました。 調べてゆくにしたがって、どこから手を付けていいのか、どうぶつかって行っていいのかもわからなかった。 本番の2週間前になっても本が書けないんです。  父が「お客さに謝って半年伸ばすか」と言われました。 

何とかしようと思って、アイヌの団体による「鹿狩りツアー」に音楽担当の岩崎京子さんと一緒に参加しました。(3月)   ハンターさんと山に行って、その場でさばいて、持って帰って食べて、カムイノミ(「カムイ(神)・ノミ(~に祈る)」、すなわち人々が生活する上で必要なさまざまなことを神に祈る儀式)をして、帰ってくるというのが一連のツアーでした。  目の前で命を絶たれ、さばいて行く美しさがあって、鹿の顔も物凄く綺麗なんです。 命を絶たれる罪悪感もありました。  カムイノミをした時に自分が救われました。そこで何かに触れられたことが大きかったです。  「知里幸恵さんのお芝居をやりたいと思っていますが、本が書けなくています」と言ったら、「思うようにやりなさい」と言ってくれました。 自分にしか見えない知里幸恵像があるんだと思ったら、吃驚するぐらいすらすら書けてきました。 

彼女が残してくれた日記とか、ノートに書かれている言葉というのが、凄い苦悩だったり、苦しんでいる言葉、自分自身を責める言葉だったり、そういったものに溢れていて、「あっ、同じ人間なんだ」と思って、「人間知里幸恵さんを描きなさい」と言って貰えました。

「アイヌ神謡集」の序文は美しい文章です。 「二人三人でも強いものが出て來たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては來ませう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈つてゐる事で御座います。 」 と言うところがありますが、自分達アイヌの人たちは立場が弱いけれども、未来は、一緒に歩んでいる未来があるかもしれないよね、というお互いを尊重しあって、認め合って一緒に歩いてゆく日が来るよ、とこんな優しい言葉を19歳の少女が投げかけてくれている。  知らないことは罪だなと思ったり、知らないことで人を傷つけてしまったり、でもそこを一回受け入れてくれる知里幸恵さんたちの優しさ、そこに甘えてしまわないで、反省したりして、次どうするのという風な未来に持って行かなければいけないのは、和人側の必要なこと、役割だと思います。

知里幸恵さんの言葉は救いであるとともに、自分への戒めでもあります。  お芝居、演劇は自分にとっては原点であり、未来であるように思います。  何かを言う前に相手の立場になって考えてみるというのが、それの繰り返しで演劇は成り立つので、ちょっと立ち止まる時間が出来たり、考える余裕があったり、という風になって行ってくれるといいのかなあと思います。 「「風土」という言葉は風と土と書く、その土地、土だけだったら風土にはならない、よそから風が来ることで初めて風土になるんだよ」と言われて、「私たちは風でいいんじゃあないかな」と言ってもらって、凄くスーッとしました。 自分にも役割があったのかと思いました。 どこまでも飛んでいきますので、知里幸恵さんと出会っていただけたらと思います。
































2023年11月9日木曜日

三浦佐久子(作家)           ・「銅山の町に魅せられて」

三浦佐久子(作家)           ・「銅山の町に魅せられて」 

鉱毒被害で知られる足尾銅山は今年で閉山50年を迎えました。 足尾銅山と同じ栃木県にお住いの作家の三浦佐久子さんは、負の遺産と言われた銅山の町の暮らしや文化を掘り起こし、書籍にまとめてきました。  明治から大正にかけて日本文化を牽引した銅山の光と影を見つめてきた三浦さんにお話しを伺います。

足尾銅山は今年で閉山50年を迎えました。 小説を書きたかったんですが、情報科学研究センターという付属研究所があり、そこでコンピューターの研究をやっていて、作家活動も始めてはいました。  足尾に気が向いてからはドキュメントに興味が向いて、社会性のあるものに興味をもって、足尾にのめり込みました。 友人のご主人が足尾高校の校長先生をしていました。 足尾が閉山になって2年後でしたが、行ってみたいと思ったのが始まりでした。  足尾は公害の原点と言われていて、社会主義社会が崩壊する寸前の町を御覧なさいと、先生が言われて、国分の方に連れて行かれました。 地獄絵さながらの物凄く荒廃していた様子を見ました。 それが私の心に焼き付きました。 その後足尾に一人で行くようになりました。

足尾銅山と言えば田中正造、田中正造が果たした役割を知れば知るほど、公害の原点という事で足尾に汚名が着せられたわけです。  足尾銅山がどんな事をしてきて、どういう人がかかわってきたのか、興味が湧いて調べたくなりました。 知識を取り入れるために公民館に行きました。(図書館はなかった。) 資料は全くありませんでした。 町の古老を訪ねて歩きました。  坑夫の人生が渦巻いていました。 過酷な労働でした。  坑夫さんたち粉塵を吸って、珪肺という職業病に短いと3,4年でなっていました。 どす黒い血をはいて亡くなるという職業病です。  

縄文時代から足尾には人が住んでいたと言われます。  足尾銅山が出来て町は一変します。 日本中のあちこちから人が集まって来ました。  明治40年の後半から大正5年がピークで大正10年ぐらいまでは物凄くにぎやかな町でした。 鉱都と呼ばれて3万8000人ほどいたようです。(栃木県で宇都宮に次ぐ2番目)  娯楽も東京から呼び寄せました。(歌舞伎、相撲、大衆芸能など)  今の足尾は人口が2000人を切るぐらいです。

私は閉山になった後訪れました。  坑夫が居なくなりましたが、精練は続けていましたが、徐々に減っていきました。 足尾から自立した生き方がなかなかうまくいかなくて、今の状態になってしまいました。  1991年に「足尾を語る会」の活動を始める。 古老から聞いたことをノートにまとめ『壷中の天地を求めて』という本にしました。 その本を読んだ方々から電話があり、集まることになりました。 「足尾を語る会」ができました。 

語るだけだと消えて行ってしまうので、1年に1冊、自由に研究したものを発表するという形で創刊号が出来ました。  30年近くかかって20冊の本を出しました。 光の部分は足尾が日本に貢献したことで、外国から輸入した技術を足尾流に改善して、他の鉱山が参考にするという事で、足尾の技術は日本の最高峰をいっていました。 文化芸能の花を開かせた。  影の部分は発展してゆくほど公害がひどくなる。 田中正造もすばらしい人間ではありますが、古河市兵衛という、足尾銅山を公害を出しながらも、日本の国のために頑張ったわけです。  古河市兵衛については生い立ちから克明に調べました。 この二人があって初めて足尾銅山が日本に貢献したという風に理解しています。 古河市兵衛は自分をいけにえにして成功した銅山かなと思います。  周りからおしかりを受けますが、それは仕方のないことだと思っています。

歴史は勝者の歴史なので、負け組が歴史の裏側です。  裏側については余り誰も書きません。 裏側を観ないと本当の歴史は成り立たないのではないかと思います。 光と影があって一つになるという事です。 人間と言うものは自分が経験しないと、いくら知識があって学んでも、それを活用することは難しいんだなという事を思います。 94歳になりますが、生きるという事は、深い深い奈落の底に向かってゆくような、喜びに向かってゆくというよりも、私の場合は苦しみながら前に進むみたいなところがあります。 苦しみの中の微かな喜びを発見すると、何十倍にもなる喜びなのでそれが楽しくて、好奇心が旺盛なのかもしれません。 明治の建物で足尾銅山工業所(辰野金吾設計の明治の建物)を古い僅かな設計図を頼りに、今建築中で、2025年に建設予定です。 足尾銅山が操業して150年という事だそうです。 その建物を観るのが楽しみです。  ばらばらに書いたものがあるのでそれらを纏めたいという気持ちがあり、死ぬまでにもう一冊書き上げたいと思っています。

























 











 

2023年11月8日水曜日

川島幸希(蒐集家・近代文学研究者)   ・「初版本の楽しみ」

川島幸希(蒐集家・近代文学研究者)   ・「初版本の楽しみ」 

1960年(昭和35年)東京都生まれ、森鴎外夏目漱石の文豪たちの初版本や、自筆原稿などを収集してきました。 初版本には作家が本かけた思いが伝わり、時代を越えて文豪の思いを直に感じられるそうです。 

小学校の低学年のころから本好きででした。  私の勉強部屋が元祖父の書斎だった部屋です。 本がたくさんあり自然に本が好きになる環境にあったと思います。  文学全集が海外と日本と両方あって、それを片っ端から読みました。 名作をどんどん読んでいきました。 夏目漱石の本を小学校3年生の時に読んだんですが、その時の印象が深く残っていて、なんて暗い小説なんだろうと言う事と、先生が自殺するわけですが、妻は自殺した理由が判るかなという風に、子供ながらに思いました。  

ある作品が初めて本になったといのが初版本です。 芥川龍之介の「羅生門」が大正4年に帝国文学という雑誌に掲載されましたが、初めて本になったのは大正6年にオランダ書房という本屋から出ました。  祖父の書斎の初版本がいくつかありました。 オリジナルな形で本を読んでみたいと思い、それれがきっかけになりました。 スタートは高校1年生でした。  初めて行った時の夏目漱石の「文学論」という初版本がありました。  主要な作家の初版本はほとんどすべて持っています。 作家が作品に込めた思いを共有できる、という事と、初版本は時代の雰囲気を醸し出している。 本にこだわる作家と頓着しない作家がいますが、こだわった作家の本の方が面白いです。

萩原朔太郎の「月に吠える」は大正6年に初版本が発表されて、萩原朔太郎は凝り性の作家で本つくりにも自分の情熱を注ぎこんだ方です。  詩画集と言って詩と二人の画家の絵が入っています。 絵が朔太郎の詩とぴったり合って、素晴らしい本が出来ています。 近代の詩集の中では人気NO1だと思います。 初版本は500冊です。 詩集を刊行する際に国家から検閲があって、政治思想的な問題、性的な問題があるものには発売禁止の処分がある。 この本では二つの詩が性的な問題があるという事で、これを削除したら出していいという条件になりました。 削除されない本がごくわずか残っていて、10冊です。 7冊持っていましたが、朔太郎の文学館に寄付をしたので、今6冊になります。 朔太郎の思いがあるので、無削除と削除には大きな差があります。 

親しい古本屋がいますので、そういった人からいろいろな情報を得ます。 最近はネットオークションに出てくるものも増えました。  作家のサインが入った本、作家が書いた自筆の原稿などの収集もしています。 作家が直接手に触れただけでもワクワクします。   夏目漱石に関してはサイン本は日本で一番持っています。 自筆の原稿,、書簡ももっています。  直しがあるのでその作品の生成過程を知ることができます。  芥川龍之介はぎりぎりまで推敲を重ねてゆき完全なる作品を目指した。 書き損じの原稿も集めています。  作品になっていないものもあります。 芥川龍之介には伯母さんが取っておいたので膨大な反故原稿があります。  芥川龍之介は若いころは非常に勢いのある字で、最晩年の自殺した年の原稿も残っていますが、本当に弱弱しい字で、健康状態、精神的な状態が、字を見ただけでわかります。  

夏目漱石の代表作のほとんどが新聞連載だったので、原稿は朝日新聞に行くわけです。  「明暗」だけは弟子が欲しいということで返してもらっているが、原稿はいろんなところが持っている。  泉鏡花は原稿を戻すようにさせていたが、レアケースです。 「吾輩は猫である」の原稿は一部残っているが、一番最初の第一回の原稿です。 高浜虚子に言われて書き始めて、虚子の直しがかなりあったと伝えられている。  これをぜひ見てみたい。  出てこないかもしれませんが。 

コレクションの終活を考えています。 問題はいつ死ぬのか判らないので、難しい。   時代が変わってパソコンで作った方が便利なので、明治、大正、昭和は奇跡的な時代だったと後世からいわれるかもしれません。  作家の息つかい、生成過程、感動とかがもう原稿からは判らないわけです。 作家の原稿が商品として成り立たなくなります。 

最初の関心のスタートが何であれ、関心を持ってもらう事が大事なので、近代文学も親しんでもらえればと思います。  私は同時並行で、2,3冊から多い時には5冊以上読みます。 年配の人にはぜひ、若いころに読んだような本をもう一回読み直してほしいと思います。 目からうろこになる部分もあると思います。 若い人たちに伝えたいのは若いうちに一回読んで欲しいと思います。  長編小説は若いころでないとしんどいです。










































 











2023年11月7日火曜日

上田 誠(慶應義塾高校野球部 前監督) ・"エンジョイ・ベイスボール"でつかんだ日本一

上田 誠(慶應義塾高校野球部 前監督)・"エンジョイ・ベイスボール"でつかんだ日本一  

今年全国の高校野球で神奈川の慶應義塾高校が大正時代の第2回大会以来となる107年振り2回目の優勝を果たしました。 サラサラの神の選手たちの笑顔に高校野球の新時代の到来を感じた方も多いのではないでしょうか。 この慶応高校の日本一を支えたのが、野球簿に伝わるエンジョイ・ベースボールの精神です。 そしてその精神と自ら考える野球をチームに根付かせてきたのが、現在の森林監督の師でもある慶応高校野球部の前の監督、上田 誠さんです。上田さんは1991年から24年間に渡って監督を務めました。 107年振りの日本一の栄光はどのようにして掴むことが出来たのか、優勝の礎を築いてきた上田さんの野球哲学とは、を伺いました。

赤松が部長で教え子で、副部長の馬場、星野も教え子です。  これらが森林監督を助けてくれて、日本一になったのは格別でした。  森林監督も教え子です。  監督が日本一になるという事を言い続けてきました。 指導者として素晴らしい才能だと思います。 それに選手が乗って最後まで明るく楽しそうにやっていたところが素晴らしいと思います。  苦しい場面も楽しめるように鍛えて準備をしてきました。   3回戦、広陵高校との対戦では接戦になりましたが、その時も変わらずやっていたので、相手がミスをしえて勝たせてもらいましたが、普段通りに出来たのが勝因だったと思います。  そこでチームが変わりました。  体力つくりとか、メンタル面でトレーナーについてもらったことなどが良かったと思います。 

上田さんは神奈川県茅ケ崎市出身、小学校から野球を始め、湘南高校、慶応義塾大学で野球部に所属、練習に明け暮れてきました。  卒業後は英語教諭となり1991年に慶応義塾高校に赴任し、野球部監督になりました。 2005年の春の選抜、2008年には春、夏の甲子園に出場するなどチームを2度ベストに導いています。 現在は神奈川県学童野球指導者セミナー代表のほか、香川の独立リーグ香川オリーブガイナーズの球団代表も務め、後進の育成に力を注いでいます。 

秋田県に教育実習に行った時に、小中学生が懐いてくれて、教師って面白いと思って、教師の道に進みました。 1991年に慶應義塾高校野球部監督に就任しました。  甲子園は諦めきっているような状況でした。  エンジョイは楽しむこと、野球も自分から考えるから面白いので、監督の言われるまま、やっていたのでは面白くない。  自由に言える雰囲気を作り出すのは大事だと思います。 言ってくるいいことは受け入れる。  1998年から1年半アメリカの大学野球の強豪UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のボランティアコーチとして留学します。 指導法を学んで持ち帰りました。  それが野球の大きな転機になりました。

ゴロを打てと僕は言われ続けてきました。 アメリカではゴロを打ってもフェンスは越えられないと言われました。  フォロースルーが大きく振りきるバッティングでした。 ストライクは審判が打てと言ってバッターに送ってるんです。 ボールはアンフェアボールと言って不正投球でピッチャに送っているんです。 そういったところが野球の歴史の始まりです。 アメリカではトーナメント方式ではなく全部リーグ戦方式です。  日本は一回負けるとすべておしまいになるので、ミスしない選手ばかり使われる感じになります。 監督と選手はいつもコミュニケーションを取っていました。  個を見て個性を伸ばそうという思想が根底にあると思います。  こういう練習をしたらいいのではないかと自分で考えます。 強豪高校は正月三が日だけ休むというような時代いで、うちだけは年末から20日間ぐらいオフがありました。  他も真似るようになっていきました。

日本ではやっていなかったジャンピングスローなども取り入れていきました。(高校野球ではありえない時代でした。)  どう考えてもファーストに早く投げれる。  自分の決めた練習を365日ずーとやると「根性」は付くと思います。 チームの中で頑張って報われたりすると、みんなで喜びを分かち合うという事があり、それがアマチュア野球だと思います。 

部訓を作りました。 20か条あります。 ①日本一になろう。日本一になりたいと思わないものは日本一にはなれない。  ②グラウンドに出たら個人の技術、精神力を高める為の最大の努力をせよ。 ③チーム全体の流れを考えてプレーせよ。 ④一人一人キャプテンだと思っているチームのみが勝つ。  ⑤自分がやって50、人をやらせて50。(バレーの松平監督の言 自分が一生懸命にやっていても周りのひとがさぼっていては,チームとして機能しない。 人もやらせないと駄目。 そうしないと100%にならない。) 

小学生の野球の指導方法は高校野球を参考にするんです。  厳しい練習をして走らせて、長い練習をして、そうしないと勝てないというのをやるんです。  野球からどんどん離れて行ってしまう。  野球人口はどんどん減っています。  小中学校の方が試してみてくれたら嬉しいと思います。  今回の優勝は良い発信だったのではないかと思います。  1990年代の後半は神奈川県では2000チームありました。  今は500ちょっとです。  少子化の3倍のスピードで減っています。  中学校の部活動が55%減とか、高校野球も2015年から全国で毎年新入部員が1万人ずつ減っています。  9回2アウトでも逆転可能な、野球のまだあきらめないという競技性が好きですね。  野球は人生のストーリー性がでてくる競技なんで、それを参考に生きてもらえたら面白いと思います。
























































2023年11月6日月曜日

穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

 穂村弘(歌人)             ・〔ほむほむのふむふむ〕

昭和の歌を扱ってみたい。 中村草田男の俳句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」という句がありますが昭和6年に作られました。  今は令和で昭和から2回元号が変わって、遠くなったと思いました。  

*「五カウントまで反則が許されるプロレスみたいだったな昭和」   パロリズム?     プロレスは昭和に熱狂的に始まった。  スポーツであると同時に演劇的なジャンルである。 先生がいても、大学で酒も18歳でも許されたような気風があった。  セクハラ、パワハラなども微妙に横行していた。 反則だとは判っていても5カウントまでは微妙に見逃がさられる。  プロレスに例えられている。  

*「取り戻せ和式便所で朝刊を読んでいた時代の活力を」        パロリズム?    和式便所で新聞を読むというのは凄い足腰ですよ。   高度成長期の企業戦士みたいなイメージです。  

*「箱の中ひしめくひよこ吊り上げることが遊びの世界からきた」   原田        祭りの夜店で色の付いたひよこを売っていました。  ひよこ的には虐待というようなものだったと思います。  動物に対する意識も今とは違っていた。    

*「襟巻きのミンクのガラス玉の目がとろりと冷えてゆく冬の夜」   原多恵子?    狐の襟巻きなどしていました。  今は毛皮そのものが歓迎されない。                  

*「立ちションをしている人が三人も見たら戻れぬ元の世界に」    木村和夫?     三人も見たらタイムスリップして昭和に戻ってしまったのかなと思います。  

*「うっとりと煙草吸いたるいにしえの女優の口紅の色が知りたい」   岡村蛙?     これはモノクロのの画面ですね。  銀幕とスクリーンは語感が違いますね。 謎に包まれていた時代の遠い女優さんという感じです。

「太陽にほえろ」の中で若手の刑事役が殉職するんです。 かっこいい死に方をするわけです。 ショーケンが立ちションしていて、終わったところで急に刺される。 そのかっこ悪さがかっこいいという。 松田優作は撃たれて「なんじゃこりゃ」と血を観て驚きながら言って亡くなる。 その時に煙草を加えようとしてぽとりと落とす。 昭和の微妙な反則性、死ぬ間際の最後の反則という感じで、かっこよく見えた。 

*「押し入れの主なり多き瓶の中紅茶きのこはさびしくそびゆ」     笹公人?     紅茶きのこがありましたが、ピークはこの時点で過ぎている。 (押し入れに入れられている)  流行りの物が買っては放置される。  

*「昭和には寝ているだけで差をつける睡眠学習枕があったっけ」   藤田尚?      魔法気味。   時代の空気感が違う。   

*「番台からよう使いすぎと髪洗う母怒られき昭和十九年」     三井和夫?      お湯の使いすぎを叱られる。 髪の長い人は料金が違った。  時代によって髪を洗う頻度が違う。            

*「小学生が歌ってならぬと派出所の警官諭す黄色いサクランボ」  三井和夫?     お色気ソング(ゴールデンハーフ)  今は警官は諭したりはしない。  当時、近所のおじさんおばさんから叱られていました。  共同体の距離感が違った。 

*「賞味期限切れは任せろ俺たちは何でも食って生きてきたんだ」    新垣和夫?    戦後のかなりの時までは賞味期限はなかった。  

*「金次郎よもう勤勉の荷を下ろし寝むれ昭和の子も老いたれば」    森英人?    勤勉さを称賛する価値観が段々通用しなくなってきた。  

リスナーの作品」

*「十二時の時報の長く聞かざるを聞けば祖父母の家の香りす」  ろうそくしゅうごう?        

*「夢に見るあなたの姿夢になくなのにあなたの夢と知る夢」     白井義彦?

*印は漢字ひらがな等間違っている可能性があります。







   



























2023年11月5日日曜日

池田秀一(俳優・声優)         ・〔時代を創った声〕

池田秀一(俳優・声優)         ・〔時代を創った声〕 

アニメ「機動戦士ガンダム」のシャア・アズナブル「名探偵コナン」の赤井秀一、「ワンピース」では主人公ルフィーが憧れる大海賊シャンクスなど、数多くの作品を担当してきました。8歳のころから子役としてキャリアをスタートしています。  今年3月に、去年公開された劇場版「ワンピース フイルムレッド」のシャンクス役で第17回声優アワード助演声優賞を受賞しました。 

8歳からスタートして今年で65年になります。  近所に児童劇団に行っている子がいてて、受けてみてはと言われ、児童劇団の試験を受けてうまく合格することが出来ました。(小学校3年生)  今はなくなりましたが「劇団こまどり」と言いました。  スケジュールは学校が終わってからでしたので学校を休むという事はなかったです。 生放送の時代で失敗もありました。 集中力は鍛えられました。 ビデオが出てきても、通しで行うので生と一緒でした。 NHKのテレビドラマ次郎物語』(1964年)をやりましたが、30分一発勝負と言った感じでした。(中学3年生)  主役で2年間放送しました。  現場にはお手本があったのでそこから学んだものは一番多きかったです。 次郎物語』で芝居の面白さを感じました。 1963年に民放で「がしんたれ」をやりその後「路傍の石」をやって(中学2年)、優しい監督が激論を交わしていてそれを観て素敵だなあと思って映画監督になりたいと思いました。  

映画が下火になり、テレビが売れる時代になって行きました。(東京オリンピック)    大岡越前』、銭形平次』、大河ドラマ 『竜馬がゆく』、『元禄太平記』など多くの作品に出演するようになりました。 18歳で児童劇団を辞めて、しばらくフリーでやっていましたガ、そんなに甘いものではありませんでした。 外国映画の吹き替えを始めたのは24,5歳でした。 いろいろひどい目に遭いました。  自分には向いていないと思いましたが、或る作品でアテレコもいいなと感じて、段々自信もついてきてその気になって行きました。  アニメにも誘われていましたが、逃げていました。(違う土俵に感じた)   

1978年に逃げきれなくなって出演する事になりました。 音響監督松浦典良さんの勧めにより『無敵鋼人ダイターン3』に出演し、良い勉強になりました。 機動戦士ガンダム』のアムロ・レイ役のオーディションに参加しました。  シャア・アズナブルのイラストにインスピレーションを感じ、シャア役のテストを受け、その役を得ることになりました。  シャンクスを長年やっていて、久方ぶりにシャア・アズナブルをやったときに、ちょっと拗ねているような感覚を持ちました。(シャンクスを引きずったまま行ってしまったのかも)  

若い人へのアドバイスとしては、何もありません。 時代が違うので大変ですよね。 「頑張ってください。」というしかないですね。 一杯痛い目に合うかもしれないですが、先は開けていると思います。