木戸浦健歓(造船会社社長) ・100年続く港町の中核に
宮城県気仙沼市から。 東日本大震災で大きな被害を受けながらも復活を遂げた造船会社があります。 長年ライバルとしてしのぎを削った同業5社がそれぞれの看板を下ろし、合併の決断をして再出発したのです。 100年先の未来に続く港町の中核となることを目指し、みらい造船と名付けられました。 社長の木戸浦健歓さんは52歳、船大工の祖父を持ち幼いころから船作りを間近で見てきたと言います。 未曽有の災害から12年、どんな困難を乗り越え、挑戦を続けているのか、伺いました。
今作業しているのが420トンある船です。 巻き上げ漁業の運搬船と言われるもので、魚を海から陸上迄運ぶための船です。 この船は作るのに11か月ぐらいかかります。 その前に設計作業が1年半から2年ぐらいかかるので、足かけ3年ぐらいになります。 いろんな人たちの経験であったり、技術というようなものがあって、初めてこのような形になります。 設計通りの船が出来上がるのは驚きです。 気仙沼に造船業が出来たのは江戸末期のはずです。 鉄ではないですが。 100年以上の歴史があるという事です。
同業5社がそれぞれの看板を下ろし、設立したのが2015年、それから8年になります。 震災から12年経ちましたが、振り返ってみると早かったですね。 日々新しいことの積み重ねでした。 新会社になって20隻ぐらい作ってきました。 漁業の好調もありますが、やはりお客様の支えがあったから、順調にこれたと思います。 祖父が船大工だったので小さいころから祖父の後をくっついて回っていました。 重いものを吊り上げたり、動かしたり、火花が出て居たり、刺激的なところは覚えています。 仕事の大変さは何も思っていませんでした。 地元の高校卒業後はアメリカ、カナダへ10年以上留学しました。 子供のころからラグビーをやっていて、外国に行きたいという思いは漠然と持っていました。
家族と相談してアメリカに行く事になりました。 船を作るための設計、デザインの学校にも行きました。 社会人になってゆくことが視野に入ってくると、自分はどのような職業でこれからの人生を過ごしたいのかという事になった時に、子供のころから親しんでいた造船であれば、苦しいことがあってもやれるんじゃないかと思いました。 最初は右も左の判らないような状況でした。 設計、デザインの学校で一番学んだことは、何をしているかという事ではなくて、それをどうやってやっているのか、というのが自分にとって重要で、それをどうやってやっているのか、という事は学校の中で一番努力したと自負しています。 これから新しいことをやるのにも、これからどうやってやるのかという事を自分の中の軸にすれば、どこでも、何をやっても大丈夫と思って、新しいことをやるのにもハードルは下がった、という思いはあります。
3月11日は私は出張に行く途中で、気仙沼市内を車で走っていました。 信号が停止して、同乗者が津波が来るはずだという事で家族に連絡し、会社に戻り始めましたが、海水が引いてゆくのを見て高いところに避難しました。 従業員の人たちは全員避難していました。 造船所はゴミ置き場の様にいろんなものが散乱していました。 泥と砂で地面は覆われていました。 造船所にあった船は一隻もなくなりました。 桟橋に停めていた船もなくなっていました。
1週間以内に皆さんが会社の方に戻り始めました。別にこちらが指示しないのに、淡々と片付け、清掃などの作業をしていました。 心強い思いをしました。 船を修理のために気仙沼に持っていきたいので、いついつまでに造船所を直してほしいという話がありました。 福島で遠洋のマグロ船を動かしているお客様でした。 3か月から半年でないと造船所の方は無理ですと言いましたが、2か月後持ってゆくので、一日24時間働くようにと言われました。 4か月後にその船は気仙沼に戻って来て修理する事が出来ました。 関連の業者にも仕事がもたらさせるので一刻も早く修理が必要であった、という事でした。
立派な設備を残せば、私以外の人でもそれを運用して、これまでと同じような仕事をして続けられる、というような造船所を作りたいと思いました。 これから100年使い続けられるような造船所を作りたいと思いました。 他の造船所のかたも完全復旧は出来ないと薄々感じていたと思います。 設備が海水に浸ってしまうと中々難しいところがあり、修理修理となってしまう可能性が高い。 選択肢としては、従来と違う場所に新しい施設を作る、というのをとらざるを得ない。 国土交通省の助けを貰いながら補助金を利用するという事ですが、条件としては複数の会社が一つになって引っ越しなさいという事でした。 全員反対でした。 父親も反対でした。
今の造船所を元通りにして稼働させても、10年後、何年後かわからないが、木戸浦造船所がなくなってしまうかもしれない。 話し合う中で、木戸浦造船所という名前はなくなってしまっても、造船所が残った方がいいんじゃないかという事で、最終的に賛成してもらいました。 毎日毎日大変で、毎日毎日楽しかったです。 一人ではできなかったことを一緒になったらできるという事を日々経験しました。 船の作り方、修理の仕方はそれぞれ会社によってカラーがありますが、新しい技術を間近で見ることが出来て、合併したメリットだと思います。 仲良くやろうというようなことは考えていませんでした。努力をしながら組織を作っていきましょうねというような感じでした。 取り繕うという事はしませんでした。 100年後も残っている企業でありたいという思いはあります。 船は物凄い人が携わって一つの船が出来るものなので、船主さんの夢と希望なので、それを作り上げてゆく驚きと感動ですね。