2022年10月31日月曜日

柳瀬博一(東京工業大学教授)       ・コロナ禍で父を看取りわかったこと

 柳瀬博一(東京工業大学教授)       ・コロナ禍で父を看取りわかったこと

東京工業大学でメディア論を講義する柳瀬さんは昨年5月、87歳のお父さんを看取りました。   時あたかもコロナ禍の真っただ中、入院中の面会もままならずお通夜、葬式もひっそり執り行ったと言います。  そんな中思いがけず納棺の手伝いをするはめになったことからお父様と最後に濃密な時間が持てたと言います。   コロナ禍で看取ったからこそ分かった肉親との最後の別れについて伺いました。

昨年5月20日に亡くなり、1年半近くになります。  お通夜もお葬式も何もできない、お骨になって帰ってくるまで会えない状態でした。 父はコロナで亡くなったわけではないんですが、ワクチンも普及していないし、治療もない状態だったので、最後に父にあったのは2年前の夏が最後でした。  「親父の納棺」という本にまとめました。

父は朝が早くて、日曜日に一緒にいる時間があるかないかぐらいでした。  母がカトリックで僕も洗礼を受けて居まして、父も隠居してからカトリックになって教会のボランティアなどを熱心にやっていました。  釣りも大好きで家庭菜園をやったり悠々自適の暮らしをしていました。   父が体調を崩して、コロナ禍で母も付き添うのをはばかられるような状態でした。   家に戻ってきましたが、母だけではとても無理だろうという事で特別老人ホームに入所することに決まりました。   病院の廊下で父とは母私と弟で10分ぐらい会う事が出来ました。(9/4)   その後介護施設に入って一度も会っていないです。  

リモート会議サービスが出来るように介護士さんに指導して、母と、私、弟、海外にいる妹夫婦をつなげて、それを12月、3月の2回行いました。  体調を崩して4月に入院して5月20日に亡くなりました。  私たち兄弟は父の臨終には立ち会えませんでした。   遺体が実家の和室に安置されましたが、何となくしっくりしないもやもやとした感じがありました。   翌日金曜日に葬儀会社の方が来ました。   段取りと予算についての相談がありました。  日曜日にお通夜、月曜日葬儀、近所の教会でやりましょうと言う事になり火葬場で焼いて終了というような段取りになりました。   コロナ禍なのでほとんど家族葬というような形になりました。   

「着替えをするのでお父さんの一番好きだった服を用意してください」と言われてびっくりしてしまいました。   そう言った女性は納棺士の方でした。  白装束だと思っていましたが、どうも変わってきている見たいです。    母親が英国製の一流ブランドのジャケットを選びました。  僕が社会人になって父に送ったイタリア戦のネクタイも出て来ました。  結局下着、靴下、シャツなど全部選びました。  写真をとってもいいのか納棺士の方に聞いたら「いいですよ」と言ってくれました。   着替えの手伝いについて言われて兄弟で行う事になりました。  着ていたのは浴衣のような着物と、紙おむつだけでした。   

父の体重は痩せて50kg前半だと思います。  パンツを履かせるために弟と足と腰を持ったのですが、結構重いんです。  足首を持つように言われて、硬直していると思って持ったら柔らかくて動くのでびっくりしました。  納棺士の方がいろいろなところをマッサージしていて、どうしてかと思ったら、温めると関節が柔らかくなるんです。  膝も曲がるし簡単にパンツを履かせることが出来て吃驚しました。  死体から生きている感じに変わるんですね。    シャツを着せる時に、シャツを裏返しにして手を通して、父の手を握って、空いた手でひっくり返すんです。  それを左右やるわけです。   父の手を握る時に、手を握るという事は他と比べて凄く情報量が多くて、一本一本全部マッサージしていてくれていたので、冷たいんですが手が柔らかくて、ぎゅっと握れるんです。   そこで死んでいるけれども生きている感覚に僕の主観がガチャンと変わったんです。  自分の良く知っている父の手でした。  過去のいろいろなことを思い出しました。

納棺士の方が父に話しかけるですね、「いいお洋服ですね。」「ネクタイ素敵ですね。」というように。  聞いたらいつもそうされているという事でした。  着替える時も薄化粧するときもずーっと話かけるそうです。   最初は儀式的な事かなと思ったんですが、やっているうちに違うと思いました。   これは死体ではなく親父だなと思いました。  亡くなっているけれども、ものではなく人なんだと、旅立つまでの最後のケアをしているわけです。  シャツを着替えさせている時に納棺士の方が「シャツの背中のところのしわをちゃんと直してください、そうしないと気持ち悪いじゃないですか。」というんです。  遺体だけれども死んだわけではなくて生きているんです。  

納棺士の方は亡くなった人間とその周りの家族の方のつながりをちゃんと作ってくれるんです。  洋服選びから始まって、ネクタイ迄ちゃんと締めましたが、ネクタイ迄やったのは初めてだと言っていました。   二日間こんなに親父と一緒にいたのは40年近くで初めてでした。  

納棺士の世界はどうなっているんだろうと思って、有名な納棺士の学校の校長先生に会いに行くことにしました。  先生は「東京の葬儀の質は低い。」と言っていました。  亡くなると病院から葬儀場に送られるケースが多い。  そこでのお通夜がほとんどです。  翌日同じ場所で葬儀を行う。  そのまま火葬場で荼毘に付される。  棺の中に収められた状態でのエンジェルケア、もっとゆっくり家族と出会う時間、お手伝いする時間を作ってあげたいが、東京の場合は物理的になかなかできない。  どうにかしてそういった時間をもっと増やせないものかと、話していました。   

養老孟司さんとは個人的にも親しくしています。  東京大学解剖学教室の一番偉い方でこんなに死体を実際に扱ってきた人はいないです。  「死んでいるけれども生きている感覚に僕の主観がガチャンと変わったんです。」と言ったら、「それはねえ、お父さんの身体が三人称から二人称に変ったんだよ。」と言いました。   二人称になった瞬間に生きている生きていないにかかわらず、感じている当人にとっては生きている人なんですね。   このプロセスがきっちりやるかないかでは、人間にとって亡くなった人との関係性にとって重要なポイントなのかなあと思います。  

親父ともっと話しておけばよかったと思います。   コロナ禍だったからこそ会えなかった1年半の喪失感は埋めようがないが、たまたま納棺士のかたが素晴らしい方だったので、最後のケア、エンジェルケアの当事者として僕ら家族が出来たという事。  ケアは生きている人にすることと思っていたが、荼毘に付されるまでの間も立派なケアの対象の時間であり、その時間をきっちり持ち、その時間がコロナ禍だったからこそ家族で向き合う事が出来た。  弔問客よりも亡くなった方と時間を積極的に持つという事を意識したほうが、きっちり看取れるのではないかと思います。  

2022年10月30日日曜日

阿部隆弘(NPO法人コーディネーター)  ・『有言実行』で障害者と農家の架け橋に

 阿部隆弘(NPO法人コーディネーター)  ・『有言実行』で障害者と農家の架け橋に

農業の現場では高齢化などによって担い手の減少が止まらず、労働力の不足が深刻です。   一方障害者の方々のさらなる雇用や活躍の場が求められています。  そんな中、農業と福祉が手を結んで障害者が農業の担い手となる取り組みが広がっています。   今日は大きな成果をあげて注目を集めているNPO法人香川県社会就労センター協議会のコーディネーター 阿部隆弘さんに、その仕組みや成功の秘密、そして市役所の定年後に大きく道を開き71歳の今が一番充実しているという、阿部さんの情熱と人生について伺います。

ニンニクが最盛期になっていて、全国2位の出荷量で、他にブロッコリー、玉ねぎ、うどんに使う青ネギ、金時ニンジンなど作っています。   香川県では高齢化で農業では働き手を必要としています。   仕事を捜している障害者、福祉関係の間を結び付けるコーディネーターの仕事をしています。   NPO法人香川県社会就労センターは昭和58年に県内の身体障碍者施設と知的障害者施設を中心に発足しました。  現在は県内の80%の障害者就労施設が加盟しています。  平成20年にNPOの法人化を取得しました。   農家とNPO法人が農作業を請け負う契約をします。  身体障碍者施設に対して参加を募集します。  仕事の内容によって作業金額を決めて実施しています。   ポイントは障害者を農作業に派遣する共同の受注農作業システムを確立したことです。  今は101の農家さんに40の施設に参加して貰っています。 

農家さんによって作業の内容、日にちが違いますので、施設の方で合わせて対応しています。   スタート時の平成23年には18ヘクタール、令和3年では27,5ヘクタールと1.5倍になりました。    ニンニクの定植、ビニールのマルチを掛けて芽出し作業、翌年5月収穫という事になります。  収穫は楽しくやり易い作業です。  農家さんとは作業内容を分担しています。   菜の花の切り取り作業で午前、午後の作業者の長さの連絡がちゃんと伝わらずに、倍の長さで切っていることがあり、そういった失敗もあり、もう来なくいいと断られてしまったという失敗もありました。 

施設の職員さんが十分に理解してもらって指導するようになっています。  最初のころは不安視されましたが、段々と口コミで広がって行きました。  職員と障害者さん合わせるとスタート時に比べて7.8倍になっています。   コロナの影響もありました。  コーディネーターとしてはまず情熱が必要で、気力、体力も必要です。  

元々は高松市役所の水道局の事務の仕事をしていました。  11年前に定年退職して、嘱託でその後も2年間いました。   在職中に3年間福祉事務所で身体障碍者のケースワーカーを担当した経験があり、香川県社会就労センター、から声が掛かりました。  迷いましたが、この仕事の先輩が急死して、彼の娘さんが障害者で、彼の志もあるので最終的に引き受けることにしました。  主に農家さんから作業の内容など教わりました。   協議会の大きな目的としては、障害の種類を問わず働くことを支援して障害者の工賃の増額をしてゆくことが目的です。   雇用契約を結ぶA型では令和2年では全国平均で月平均7万9600円ですが、一般的に就労できないB型では平均1万5770円です。  香川県では令和3年1万6890円で約1000円ほどは全国平均よりも高くなっています。  

『有言実行』と言いう事でやってきました。  まず目標を立て努力してきました。   国内では全国市役所卓球大会、四国市役所卓球大会に何度も出場しました。   日中国交記念20周年の卓球大会にも出場しました。  20歳の時に四国の東半分を自転車で回りましたが、途中で死にかけました。  徳島で友人宅に泊って飲み過ぎて、翌日の出発が1時間遅れてしまって、飲まず食わずで出かけました。   意識を失いかけていた時にトラックの運転手から声を掛けられ、「さっき崖から落ちよったぞ。 湧水を飲んで休憩していかんと、死んでしまうぞ。」と言われ対応してその時にはうまくいきました。   翌年オートバイで夕暮れに交通事故を起こしてしまいました。  軽乗用車とぶつかり肩に白い骨も見え出血もしていました。  一回目は血を止める手術、2回目は骨、筋を繋ぐ手術をしました。 リハビリを始めて、その時に水道局に対して恩返しをしないといけないと思いました。

その時から身体を鍛えることを継続していきました。  いつ自分も障害者になるのか判らないので、身近に感じていました。   障害者の方、農家の方にも正直に本音で言ってもらう事が大事です。   それが『有言実行』になるわけです。  今年から新たに水耕栽培をはじめました。  ベビーリーフという植物です。   

喜ばれる仕事を継続していきたいですね。  農業と福祉の連携については全国にこうしたシステムが浸透すれば、地域の活性化になるし、高齢化でも農業も続けられるので、障害者、農家の方が元気になれば地域も元気になると思います。  天候、農家さんからの依頼内容などいろいろあるので細かいスケジュール、対応が必要です。


2022年10月29日土曜日

羽田美智子(俳優)           ・今伝えたい ふるさとの食の魅力

 羽田美智子(俳優)           ・今伝えたい ふるさとの食の魅力

茨城県常総市(旧:水海道市)出身  1988年のデビュー以来、数々のドラマやバラエティー番組で活躍です。  そのかたわら、3年前営業を辞めていた茨城の実家の商店をインターネットのオンラインショップとして開業、身体に良いと言われる食材や、生活用品など全国の生産者の元へ自ら出向き現場を取材、厳選した品々をインターネットを通じて販売し、後継者問題などに悩む生産者を応援する活動を行っています。   その活動などを通じて感じる食の大切さ、故郷茨城が持つ魅力などを伺いました。  

7年前の関東東北豪雨の際、2日後に水戸放送局のラジオに出演しました。  東京も線状降水帯の中になり、当日の朝実家に電話をして、避難したほうがいいのではないかと告げました。  聞き入れてはくれなくて、いよいよお昼ごろ決壊するかもしれないという事になり、家族をつくば市に避難させました。  翌日、翌々日水戸放送局に行く予定だったので、自分も常総市に入ることが出来ました。  市内に入りできる事からしました。   台風19号の被害もあり、中川、久慈川が大規模に氾濫することで、ここ10年が茨城は水害に見舞われている。  

実家は水海道一高校の近くにある高校生が立ち寄る商店(駄菓子屋)でした。  私は水海道二高校という女子高でしたが、家に帰ると一校生がパッと見るんで、帰るのが何となく嫌でした。  中学生の頃、従兄弟が東京で歯医者のインターンをやっていて、八重歯の矯正のために東京に通っていました。  その帰り道に芸能界の人にスカウトされました。   その時は親に猛反対されました。  短大に入った時に占い師に見てもらった時に芸能界に行きなさいと言われて、ピーンと来てしまいました。  NHKの朝ドラのオーディションを受けて、そこからこの世界に入って来ました。  コロナ禍になる前まで、ずーっと忙しかったです。   

母が三食ずーっと作ってくれる親だったので、健康が当たり前でした。   独り暮らしをするようになって、ロケ弁だらけで睡眠不足も重なり体調を崩しました。  食事に対する意識が変わりました。  7年前の食事が今の身体を作っているという事を聞きました。  体調を崩し始めたのが27歳の時でした。(18歳までは親元にいた。)    それからは健康に気を遣うようになりました。   主食は茨城のお米、味噌も地元の味噌で野菜たっぷり、昔からの発酵食品などを食べます。    番組でニューギニアに1週間ホームステーすることがありましたが、同じものを食べてましたが、凄く体調がよくなりました。  日本人は外国食も沢山あり、いろんなものを食べ過ぎるという事を聞いたことがあります。消化処理する能力を使い過ぎているという事を聞きました。  

水害にあった常総市も穀倉地帯で、コメ、野菜も豊富に取れるところです。  実家の商店は2015年に閉店しました。(両親の高齢化等)    「人生をリセットする。」  一回り上の方たちと話すなかで「人生52年説」を聞きました。  昔は52歳で寿命が終わっていたが、食生活が豊かになって、長生きするようになったが、そもそもその年齢辺りが人生が終わる仕組みで、何か成し遂げた後は52歳ぐらいで亡くなるという話を聞きました。   一度目の人生は親から受け継いだもの、そこから自分の二度目の人生は始まるんだよと聞いた時に、その考え方は好きだと思いました。   自分でも52歳ぐらいでリセットしたいと思いました。   今は女優の仕事が7割ぐらい、実家の家業を継いだものが3割ぐらいという事で二足の草鞋を履いたのが52歳の出来事でした。  

店を構えたかったが、そうすると女優業が出来なくなってしまうので、オンラインショップをやってみようかと何気なく発想しました。(2019年開業)   そのあとコロナ禍となってオンラインショップをやってよかったなと思いました。     自分自身がよかったと思って使い続けるものだけを紹介するという風にこだわってやっています。   全国に行っています。  取材に行ったり、工場見学などもします。   働いている場所を見ると清潔さ、商品に対する愛情とか大体見えてくるものがあります。   扱っているものは茨城のお米、雑穀米、味噌、ぬか漬け、小豆島の醤油、オリーブオイル、・・・撥水コート、パジャマ、カイロなど60点ほどやっています。   

物つくりに対する理解が深まりました。   値段には理由があるという事がやっと判りました。  本当にいいものは手間暇かけるのでコストがかかってきます。   茨城のお米「ミルキークイーン」は粘り気があって甘くて丁寧に作られたお米です。   雑穀米は苦手でしたが、雑穀米マイスターの厳選する雑穀米は本当においしんです。  それをお米にいれることによって栄養素が取れるし、おいしいし最高だなと思います。   「ミルキークイーン」とは違いますが、ぬかが白くてその糠漬けがおいしいんです。   

何時までも作ってもらいたいので、全力で応援したいと思います。   矢張り人が凄く大切です。  その人たちが豊かにならないと難しいと思います。  そうしないと続いて行かないんじゃないかと思います。   健康って身体だけではなくて、心が健康でないといけないという事は凄くわかるんです。   コロナ禍で人と人との距離が出来てしまったのは問題だと思っています。  声を掛け合って励まし合う、笑い合うという事は凄く大事な事だと思います。   ストレスはなくしたいですね。   笑顔は大事ですね。  お金がかからないお布施(笑顔、言葉・・・)はいくらでもできるという事を教えてもらい、笑顔、言葉がけを心がけています。   

2022年10月28日金曜日

村瀬幸浩(元・一橋大学講師)      ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕 性教育にかけた半生

村瀬幸浩(元・一橋大学講師日本思春期学会名誉会員)      ・〔みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの〕  性教育にかけた半生

1941年愛知県名古屋市生まれ、80歳。  高校時代はバスケット部キャプテン、文芸部を作って同人雑誌も出しました。(創刊号で終了)  東京教育大学を卒業後、和光高等学校保健体育科教諭として25年間勤務。 その間総合学習として人間と性を担当、思春期の子供たちに正しい性知識と自分の身体を守るための大切さを伝えてきました。  

1970年代、優生保護法の改正問題があり、中絶をもっと厳しくしようという法案がでて、それに対して女性を中心に社会問題が出てくる。  そことで授業に取り上げようという事が、私が性教育に足を踏み込む大きなきっかけでした。  性に関することは学んではいませんでしたので、勉強してこういう世界があるんだという事を知りました。   それから約50年が経ちます。  エロ本と猥談ぐらいの知識しかなく、結婚して無残な状況だという事を知りました。   これがきちんとクリアできなかったら、結婚生活は駄目になって行く、魅力がなくなってゆくという事に気が付いて、結婚してから3年後ぐらいに勉強を始めました。   これを高校時代に知っていたらという思いがあり、始めていきました。 教える価値があるなあと思いました。  学校内で了解を求めて性教育実践をスタートしました。 1982年山本直英さん高柳美知子さんらの"人間と性"教育研究協議会の設立に加わり、代表幹事となる。   1989年に高校を退職、 その後は大学で25年間性科学の講義を担当。  現在も講演などで性教育に携わっています。

2020年3月出版の「おうち性教育はじめます 一番やさしい!犯罪・SEX・命の伝え方」漫画イラストレーターのフクチマミさんと一緒に作った本。  20万部を超えるベストセラーになる。  親に読んでもらうのが目的でした。  いやらしいという思いがあるかもしれないが親の取り巻く社会の価値観、文化がそう言う風なものにしてきた。  平たく言えば男尊女卑です。  強力に押し込んだのが明治憲法です。  男が家庭を支配してゆく、女は支えるだけの役割という男尊女卑でセックスは下半身の面白おかしいものだというような文化を作ってきた。  

女性だけ集まって月経とか勉強する、男はサッカーなどをやっているという状況でした。   私たちの言いたかったのは男女別生ではなく男女共生なんです。  相手のことを良く判らないと、学ばないと、面白おかしく作られた性情報ではパートナーとして生きてゆく力は絶対付きません。  結婚して月経に関することなど勉強し始めました。  「女性に関することを勉強するのはうれしいが、私も男の人のことは全然知りません」と妻から言われました。  男のことやセックスのことに関心を持つのはハスッパな女だと言うような見方をされてきた。  

高校の先生になって、高校生のころから勉強すればいい関係を作れるという気持ちになりました。   日本では大人とか知恵を持った人がそうではない人に上から教えるという事を教育と言っている。  一番大事なのは子供の中にある力を引き出すことが大事です。  日本は教えるばっかりです。   子供が生まれてすぐに母親が抱く、一体感を沁み込ませてゆく。  自分は生まれてきて良かった、生きていることは良いことだという事のスタートになる。   そして性教育が始めまってゆく。   乳を飲むことによって唇が快感を感じる。 排便、排尿の快感、思春期を過ぎて性の快感となって性行為となって行く。  人は愛されたように愛する。  いじめたり、暴力は全部が全部ではないが、乳児、子供のころ大事にされて安心感を味わったことがないことと関係がある。  いじめたことを怒ったりせず、タッチングとリスニングこの二つが相手の存在を大事にすることの決定的に重要な働きかけです。   それをちゃんとやる親であること。  親の言葉のかけ方、笑顔、親のお互いの態度、暴力を見聞するとかないかどうか、そういったことの全部が子供のセクシャリティー、性のあり方を形作っている。 愛も暴力も本能ではない、と言っています。  学習によって身に付ける能力であり感性だと思っています。   

好奇心と疑問が出てくると言葉による教育という事になります。  「僕はどこから生まれてきたの」という質問に対しては、まず逆に聞き返したらと言います。 間違っていたら、ブー、合っていたらピンポン。  赤ちゃんが生まれる専門の通り道があると言いますが、子宮、産道とかを話すには知識がいります。   おしっこが出るそばに普段は閉じている柔らかい管から出てくると言います。   性に関することを使い慣れることが大事です。知識は勉強すればできるけど意識は行動を通してしか変わらない。  

1982年 科学、人権,自律、共生という4つのキーワードをもとに子供と共に性のあり方や生き方を考える性教育の実践研究団体、"人間と性"教育研究協議会を山本直英さん高柳美知子さんらと立ち上げました。  研究サークルが全国で出来ていきました。   忙しくなって多い時には1年間に170回ぐらい講演をおこないました。  学校との両立が出来なくなってきて、辞めると経済的にも厳しくなるので家族会議をしたら、「辛いことがあるならやったら」と言われて、その言葉で励まされました。  性教育だけになり気持ちが楽になりました。

エイズ問題も起きてきて、国も性教育とエイズ教育とをくっつけて性教育をしなくてはいけなくなってきた。  1992年は性教育元年と言われています。  先生方はパニックになり研究会に殺到してきました。  その流れに対して苦々しく思っていた人たちがいました。2002年に学校教育に目を向けるようになります。   2003年に学校ではこんなことを教えていると新聞に掲載されました。  マスコミも良く判っていない時代だったので乗ってしまい批判を受けました。   委縮して後退していきました。  今でも学校は停滞、後退しています。   それに代わってネットとかで性教育の発信が広がってきています。  

これからは第一に男子にきちっと教えてゆくことが必要です。  二番目には性と暴力との問題があり、性と主体性、性と暴力との問題をもっと重視してゆく必要があります。  快楽の問題は全く除外されてきました。  快楽を卑しいと捉えるのではなくて、生き甲斐、生きる意欲、生きるエネルギーに繋がってゆく問題だという事にして、きちっと味わい表現する力を身に付けてゆくことを位置づけてゆく必要があります。  あと性の多様性の問題です。  幸せになるための教育、幸せに生きるための性教育に変ってゆくためには、失敗を恐れて何もしないというのではなく、失敗があったら立ち直れるように切り替えていかないといけないと思います。  そのためには親自身のセクシャリティーが問われて来ています。  日本人の意識を少しずつ変えていきたいですね。



 

2022年10月27日木曜日

藤井亮(映像作家・クリエイティブディレクター)・【私のアート交遊録】 面白いと思えるものを自分の手で

藤井亮(映像作家・クリエイティブディレクター)・【私のアート交遊録】  面白いと思えるものを自分の手で 

藤井さんは実写、アニメーションを問わずインパクトのある映像を数多く制作してきました。   滋賀県の石田三成CM』をはじめ、NHK『ミッツ・カールくん』など、独創性の高いコミカルでインパクトの強い作品を手掛けてきました。   この夏もNHKのEテレで、芸術家岡本太郎さんの世界観を元にした特撮作品TAROMAN 岡本太郎式特撮活劇』を制作し、おおきな反響を呼びました。  この作品はTAROMANが怪獣となった岡本太郎の作品と戦うという、70年代の特撮ヒーローをマージュした短編特撮番組です。    主役のTAROMANは正義の味方ではなくシュールででたらめなやり取りで奇獣、怪獣と戦う存在です。   岡本太郎の疾走する眼や 駄々っ子などの作品が造形化されたものです。  藤井さんが考える面白い世界について伺いました。

TAROMAN』は思っていた以上に反響があって吃驚しています。  こういった特撮がみたかったとか、子供たちの反応がよかったりしました。  これを見て岡本太郎が判ってきて、より興味を持つ人は書籍を読むとかに繋がっていけばいいと思っています。  最初は変なおじさんというようなイメージがありましたが、太陽の塔を見てから凄いぞと思って好きになって行きました。  迫力に圧倒されました。  岡本太郎には「でたらめにやってごらん。」という言葉があって、それをテーマにして特撮を作りたいと思っていたので、ちゃんとでたらめに出来るように頑張ったつもりです。 

脚本を書く時に一番苦労して、 岡音太郎の言葉を曲解してはいけないと思って、気を使い過ぎても面白くならないと思って、いろいろ腐心した記憶があります。  「でたらめにやってごらん。」「自分の歌を歌えばいいだよ。」「一度死んだ人間に成れ。」 「同じことを繰り返すぐらいなら死んでしまえ。」とかどれも響きますね。  今回は言葉から作っていきました。   「でたらめにやってごらん。」という言葉があったからこそ中途半端に出来ないという怖さがあって、ずーっとその言葉が頭に残っていて、特撮映画を馬鹿にしたものにはしたくなかった。  でたらめって簡単そうで一番難しい。  

「好かれる奴ほどだめになる。」「積み重ねより積み減らし」という様なことも岡本太郎は言っていました。  「好かれる奴ほどだめになる。」結果的に自分を狭い方に閉じ込めてしまうのではないかと思います。  根っこは褒められたいという気持ちはあると思いますが、過剰に褒められたりは危ないんだろうなと思います。  

「同じことを繰り返すぐらいなら死んでしまえ。」 これは凄く怖い言葉ではあります。 人間癖みたいなものがあって、似たようなものを作ったり楽をしようとしたりするが、この言葉によって同じことをしないようにしました。  10分番組ですが凄いカロリーを使って作ってしまいました。   

1970年代の特撮番組を再放送しているという定義です。  大阪でTAROMAN』祭りをやったんですが、入館迄1時間待ちとかという様な状況になっていて、一日3000人ぐらいの来場者が来ました。  

武蔵野美術大学をでて、広告代理店に入ってCMの制作を14年ほどやっていました。  映像を作りたかったが、当時はユーチューブもなかったので、テレビか、映画か、CMぐらいの選択肢しかなかった。  長いものは作れないと思ってCMの世界に入りました。  

滋賀県の石田三成CM』 もともとは滋賀県のPRの動画の仕事があって、当時大河ドラマの「真田丸」があって、石田三成も大きく取り扱われるという事があったので、琵琶湖以外でPRできるものを考えて欲しいという要望があり、県が武将をPRすることはないと思って滋賀県が石田三成をPRすることは面白いぞと思って、提案しました。  冷酷なイメージがあるので、石田三成のイメージを変えたいと思って作りました。  

根本には面白いものを作りたいという思いはあります。  自分が描いたものが人が笑ってくれるのは嬉しいという思いは、子供時代からありました。   大学で5人ぐらいで映像を作って発表するという授業があって、どっと受けた瞬間があって、その時の気持ちよさが忘れられなくて、そこから映像を作ることにはまってしまいました。  電通関西支社の面白CMを作るところに入って、言葉、セリフの面白さが全然できていなかったので、言葉に対して一から学び直して、絵と言葉の両方で面白くさせることを学ぶ事が出来ました。  

NHK『ミッツ・カールくん』 5秒という制限があったので、音だけで勝負しようと思って、みつかるをキャラクターにしようと思ってミッツ・カールくんというキャラクターを作りました。長く物を作っていきたいという事は念頭にあって、ドラマ、映画みたいなものを作ってみたいという思いは有ります。  なんでも映像化してもいいよと言ったら、藤・F・不二夫先生のモジャ公かなと思っていて、ちゃんと作れば凄くおもしろいSFのいい映画が出来るのではないかと思います。




2022年10月26日水曜日

外山康雄(水彩画家・ギャラリー主宰)  ・【心に花を咲かせて】 野の花絵に野の花を添えて

 外山康雄(水彩画家・ギャラリー主宰)  ・【心に花を咲かせて】  野の花絵に野の花を添えて

1940年東京深川生まれ。  南魚沼市に古民家を再生した野の花絵のギャラリーがあります。   そこは野の花絵の画家として知られる外山康雄さんの個人ギャラリーで、和風の建物の入り口には大きな壺があって、こんもりと季節の花が生けられています。     入口の暖簾をくぐると壁のちょっと低めの位置に野の花の絵が沢山飾られ、その前に絵と同じ野の花が飾られているんです。  よく見かけるイヌタデなども外山さんの絵になるととっても魅力的で、そのまえに飾られている本物のイヌタデも輝いて見えてきて、なんだかそこにいると野原に遊んでいる気にもなる、とっても不思議な感覚なんです。   何故そのようなギャラリーを作ったのか、野の花の絵を描くのは何故なのかなど伺いました。

最初は野の花を一緒に飾る事はなかったんですが、たまたま本物の花があって喜ばれて、この展示方法があるのかなと思って段々変わっていきました。  季節の花を描いているのでこういう展示方法が可能となりました。  花を届けてくれる方がいます。  野の花が咲いているような演出の仕方がいいと思って、低めに展示しています。 

最初は油絵で風景とか人物を描いていましたが、仕事をしながらだったので、油絵は準備とか洗ったりすることが大変でつい遠ざかってしまいました。   スケッチブックをもって散歩に出たら花に出会いました。(35歳ぐらい)  印刷会社でデザインなどの仕事をしていました。  花の持っている特徴とかすばらしさをどうにか描けないものかと思って、スケッチして色もできるだけ忠実に丁寧に描きました。  描き貯めたものを友達が観て、もったいないという事でロビーを借りて飾りました。  はがき大だったので額にいれて飾りました。  その後段々作品も大きくなりました。  植物と同じ大きさに描くという事はこだわっていました。   

店の撫子と野に咲く撫子の姿が全然違うんですね。  知り合いからも日本の花を持ってきてくれたりして、益々日本の花に興味を持つようになりました。  除草剤をまいて野の花も消えてしまうものもあります。  野の花の輝きを一瞬で描いてしまおうというような感覚で描いています。  花の場合はできるだけその日のうちに仕上げてしまいます。   

ギャラリーは20年目になります。  56,7歳で会社を辞めて、60歳からギャラリーをはじめました。   リピーターの方が多くて、その人たちが応援してくださっているので、それを力にして続けています。   湯沢駅に新幹線が出来た頃に、広い駅長室で展覧会をしないかと言われて飾ったら、東京のギャラリーの方が絵が欲しいのでうちと契約してほしいと言われて自信が付きました。   寝込んでしまってその契約はなくなりましたが。 絵を売るのが本意ではないので、売らないで見てもらえるようにという事で、野の花のギャラリーが実現しました。   絵葉書、便せんなどを作っている会社が私の名前入りで売ってもらえるので、ギャラリーは続けてこられました。  

ギャラリーの最初の頃の絵の方がよかったように思います。  段々花に媚びるというか、見せるための絵を描いてしまう、それが目に付くようになってしまったような気がします。茎なども、いくら細くても平行線を引いてあげて下書きを描いてあげれば楽なんです。  地面から水を吸い上げることを意識して描いています。  茎は1mmもないような線です。面相筆を使っていた経験があるので細い茎などに色を付ける時その筆は使いやすいです。 下書きはシャープペンシルの0.3mmというのがあり、それで引きます。  面相筆一本で描きます。  絵具は普通の絵の具です。  その会社も製造を中止してしまいましたが、沢山いただいて150歳ぐらいまで使えそうな量です。  

借金をして古民家を購入しました。 反対する人もいましたが、妻が賛成してくれました。   古民家を購入するというのは偶然です。  周りの人からいろいろ応援していただきました。   山野草はほとんで持ってきてもらえます。  地域の人にも応援してもらっていて、雑草取り、飾りつけなどもやってもらったりしてます。   

野の花を見ていると人間の創造力なんて大したことないとつくづく思います。   本物の花を見て描けば神様の作った造形の凄さなどを伝えられるのではないかと思って、出来るだけ忠実に写生するように心がけています。  絶えず綺麗だなあという気持ちと凄いなあという気持ちと、小さな花の世界だけど周りに宇宙が広がっているという気持ちを絶えず忘れないようにすれば、これからも描けるんじゃないかなあと思っています。  花そのものに感動させる力があると思います。  人との出会い、花との出会い、運がよかったと思います。

2022年10月25日火曜日

三宅裕司(喜劇俳優・演出家)      ・喜劇を追求し続けて

 三宅裕司(喜劇俳優・演出家)      ・喜劇を追求し続けて

1951年(昭和26年)東京都千代田区生まれ。  明治大学卒業後、6年間の俳優修行を経て、1979年団スーパー・エキセントリック・シアター(SET)を旗揚げ。  以降座長として公演を行っています。  又、バラエティー番組の司会やドラマ、ラジオのDJなどでも活躍しています。   NHKでは連続テレビ小説1996年の「ひまわり」でヒロインの叔父役、2015年「あさが来た」では渋沢栄一を、2017年「ひよっこ」では駄菓子屋の店主を演じています。

今年71歳、60~68歳までは色々と身体の故障がありました。(脊椎間狭窄症、前立腺肥大、骨折など)  団スーパー・エキセントリック・シアターが60回目の公演を迎えました。(13年目)    1999年以降は毎年新作です。  新作は作っていて面白くて燃えるものがあります。  熱海五郎一座も年に2回でこれも新作です。  レギュラーも減ってきてあまり増やさないようにして、今は団スーパー・エキセントリック・シアターをやって、ビックバンドジャズのライブをやって、熱海五郎一座をやって、そのほかに劇団こどもSETをやって、それが大体毎年の形になっています。  

高校から大学にかけて落語研究会で落語をやっていて、エレキバンド「ベンチャーズ」をやってそこからジャズコングバンドとコミックバンドをやって、学園祭とかいろいろやっていました。   母親が日本舞踊を教えていて、小学校低学年からやっていました。  その関係で三味線、小唄、長唄を習っていました。  そういったことが落語に影響しました。 叔母がSKDだったり、叔父が芸者さんの置屋をやって居たり、いくらでも芸能関係がありました。   一番下の叔父が良く映画に連れて行ってくれました。  映画館に歩いて行けるところが4つぐらいありました。  映画は良く観に行きました。  叔父たちがクレージーキャッツ、落語などのファンだったので、叔父にクレージーキャッツショーに連れて行って貰った時もあり、凄い財産になったと思いました。  クレージーキャッツがジャズ喫茶で1週間ぐらいやっていて、そのうちの何日間は行っていて、入れ替え無しでコーヒー一杯で最終ステージまで居ました。  ステージ上から植木さんから「お前まだいるのか」と言われました。  

クレージーキャッツに憧れて、落語研究会で落語をやって、ミュージカルアクションコメディーという劇団を作ったのも、クレージーキャッツの影響は大きいです。  ビックバンドを聞く機会がなくなり、その生の音を聞いてもらいたいという思いがあり、いろいろ動いてビックバンドを結成することが出来ました。  ラテンビックバンド(東京キューバン・ボーイズ)とジャズビックバンド(シャープ&フラッツ)が対決するライブを叔父と一緒に見に行きました。(小学校高学年)  感動しました。   落語をやって、ビックバンドをやって、ジャズコングバンドをやって学園祭のスターでした。  

大学を卒業してから喜劇役者になりたいと親に言って、劇団東京新喜劇に行くことにしました。   15人と一緒に劇団を脱退して団スーパー・エキセントリック・シアターを作りました。   最初の作品がみんなの不満が残る作品で、回りから演出をやってほしいという要望があり、2作目(「リボンの騎士」)から演出を手掛けてそれが大成功でした。 役をやりながら演出もやるのは大変でしたが、そのころは燃えていましたから。(28歳) 新劇出身者ばかりですが、コメディーの楽しさを判ってもらえました。   

東京喜劇は、大阪喜劇のなかでいろいろありますが、藤山寛美さんの人情喜劇に近いものだと思います。  ストーリーがあってその役柄で、その役柄が変な設定に紛れ込んでしまって、真剣にやっているがおかしいというのが僕のやりたい笑いなんです。   その中に音楽のかっこよさがあって、音楽のかっこよさとのばかばかしい設定の落差が非常に大きいと思います。  そういうものが東京喜劇だろうと自分では思っています。    結局「シャボン玉ホリデー」に行きつくのかなという感じがあります。  

次にどう喜ばそうかと思って、その連続で43年間になりました。  アルバイトなどをしてやっていましたが、時間が足りなくて思うようにレベルが上がらなくて、何とかレッスンをやって役者としてやらなければいけないことのレベルを上げたいと思って、マスコミに売れなければ駄目だと思って、兎に角沢山稼いでそれをみんなの給料に回して、レッスンにいれて、劇団のレベルを上げるという事をやりました。   それが凄くよかったなあと思います。   

売れるようになってテレビ、ラジオにも出る様になって、うまくいかないことをテレビ、ラジオのせいにしたり、逆に劇団のせいにしたりするわけです。  いろいろとストレスが溜まってきたりしました。  人気が上がると自分は凄いんだな、天才なんだなと勘違いするわけです。 入院し外から芸能界を見ることができ、自分を客観的にみられるようになって、気付きました。  岸谷五朗寺脇康文も自分たちでそれぞれ劇団をやりたいという事で辞める事になり、これはいかんと思いました。  三宅、小倉で何とかしていかないといけないと思いました。   結局は二人が辞めたことが三宅、小倉のコンビにはプラスに働きました。

映画『壬生義士伝では真面目な役をやってシリアスな演技が評価され、優秀助演男優賞を受賞。   あれは大変でした。  

40年以上やってきたので、若い人たちに教えておきたいと思って、劇団こどもSETをやっています。   本公演をやった次の年に子供たちだけで大人の作品をやるというコンセプトでやりました。  オーディションをやって稽古をして1年を掛けてやります。  笑いって、お客さんの前で生の舞台でやらないと絶対身に付かないと思うからです。   一言でド―っと受ける瞬間と、絶対受けると思って言った一言がシーンとしてしまう地獄の瞬間の両方を味わってほしいと思います。

「堕天使たちの鎮魂歌 夢色ハーモニーは永遠に」公演中。  今回初めて歌だけに特化しました。   歌をテーマにして爆笑音楽喜劇を作ろうと思いました。  



2022年10月24日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 中原中也

 頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  中原中也

詩人中原中也は明治40年山口県生まれ、昭和12年10月22日に30歳の若さで亡くなりました。没後85年になります。  

汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる。  汚れつちまつた悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる。  汚れつちまつた悲しみは  たとえば狐の皮    汚れつちまつた悲しみは  小雪のかかつてちぢこまる  汚れつちまつた悲しみに なにのぞむなくねがふなく 汚れつちまつた悲しみは  倦怠のうちに死を夢む  汚れつちまつた悲しみに  いたいたしくも怖気づき  汚れつちまつた悲しみに  なすところもなく日が暮れる。」   中原中也

結婚の翌年刊行した詩集『山羊の歌』、中也の死の翌年出版された第2詩集『在りし日の歌』の2冊の詩集を残している。 

山口県出身で中原中也と私(頭木)は同じ学校でした。  太宰治檀一雄は熱海でさんざん飲み食いして遊んでお金が払えなくなってしまった。  檀一雄を人質にして太宰治が東京へお金を借りに行くという話がありました。  戻ってこないので借金取りと一緒に太宰治を捜しに行くと、井伏鱒二の家で呑気に将棋などをしていた。  檀一雄が怒ると、「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」と言う風に言ったとのこと。   檀一雄は随分人をひどい目に合わせているが、檀一雄を太宰治はさらにひどい目に合わせている。   その太宰治をさらに上回るのが中原中也です。  それを檀一雄は2冊の本に書いている。 中原中也は飲み屋で太宰治に絡み始める。  

「酔いが回るにつれて例の凄絶な中原が絡みになり、太宰はしきりに中原の鋭鋒?を避けている。 しかし、中原を尊敬していただけにいつの間にかその声は例の甘くたるんだような響きになる。  「はい、そうかしら」そんなふうに聞こえてくる。  「なんだ おめえは あおさが空に浮かんだような顔をしやあがって  ぜんたい おめえは何の花が好きだい。」  今にも泣きだしそうな声で 途切れ途切れに太宰は言った。   「お お の は な」?、 「だからおめえは」 その後の乱闘は一体誰と誰が組み合ったのか  いつの間にか太宰の姿は見えなかった。」

別の時にも3人で飲んでいて中原が太宰に絡むんですね。 

「太宰は中原から同じように絡まれ逃げて帰った。  中原はどうしても太宰のところに行くと言ってきかなかった。 雪の夜だった。  家を叩いた。  太宰は出てこない。  「なんだろう 眠ってる? 起こせばいいじゃねえか」  勝手に二階に上がり込んで大声でわめいて中原は太宰の消灯した枕元を脅かしたが、太宰はうんともスンとも言わなかった。  あまりに中原の狂態が激しくなってきたから私は中原の腕を捉えて、そのまま雪の道に引きずり下ろした。  「この野郎」と中原は私に食って掛かった。  たわいのない腕力である。 雪のうえに放り投げた。」  

中原中也は太宰治をひどい目に合わせ、太宰治は檀一雄をひどい目に合わせて、檀一雄は中原中也をひどい目に合わせるんですね。

その後中原中也と檀一雄は女性のところへ遊びに行くが、

「3円を2円に根切りさらに1円50銭に値切って宿泊した。  中原は1円50銭を支払う段になって又1円に根切りあげるとそうそう追い立てられた。  雪が夜中の雨にまだらになっていた。   中原はその道を相変わらずうそぶく様に「汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる 」と低吟して歩く。   やがて車を拾って川上鉄太郎氏の家に出かけて行った。  多分車代は同氏から払ってもらったのではないだろうか。」

いろんな友達と絶交されたりすることもあったようです。  一方でとっても魅力があったようです。   小林秀雄が中原中也について「初対面の時から魅力と嫌悪と同時に感じた。」と書いています。  

詩人の茨城のり子が中原中也について以下のように書いています。

「残された詩やたくさんの人たちが書いている思い出話を読むと、次々と友人たちと絶交し、人に絡み吼え、人に敬遠されるという風で、痛ましい青春の炸裂音が鳴っています。」 

痛ましい青春の炸裂音が鳴っています。」という表現がぴったりだと思います。

「サーカス  サーカス小屋は高い梁  そこに一つのブランコだ  見えるともないブランコだ   頭倒(あたまさか)さに手を垂れて   汚れ木綿(もめん)の屋蓋(やね)のもと  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん ・・・・」    中原中也(詩集『山羊の歌』のサーカスの一部)

僕(頭木)が病院で中原の詩を読むようになったきっかけはこの詩なんです。  ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というブランコが揺れる雰囲気が出てますね。

「わが生活  私は苦しかった そして段々人嫌いになって行くのであった  世界は次第に狭くなって  やがては私を絞め殺しそうだ   だが 私は生きたかった  生きたかった」    中原中也(失恋した時の思いを書いた随筆の一節)

同棲していた女性が別の男性のところに行ってしまう。 しかも別の男性というのは親友だった。  親友というのは小林秀雄なんです。 

中原中也は医者の家の長男として生まれる。  小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれた。  山口中学校に12番の成績で入る。 数か月後には80番に落ち、翌年には120番まで落ち、ついには落第してしまう。(文学にのめり込む。)   16歳になる時に京都に転校、一人で下宿生活をする。  3歳年上の女優長谷川奏子と出会い同棲するようになる。  18歳になるちょっと前に二人で東京に出てくる。  小林秀雄と出会って親しくなる。   18歳の時に長谷川泰子は小林秀雄のところに行ってしまう。  引っ越しの手伝いなどもする。    

「友に裏切られたことは、身も知らぬ男に裏切られたことより悲しいということは誰にでもわかる。  しかし、立ち去った女が自分の知っている男のところにいるという方が、知らぬ所へ行ったというより良かったと思う感情が私にはあるのだった。」

こうも言っている。 「私はもう悔しかった。  私は悔しき人であった。」

それで段々人嫌いになって行く。 孤独になって普通死にたいと思うが、中原中也は   「私は苦しかった そして段々人嫌いになって行くのであった  世界は次第に狭くなって  やがては私を搾め殺しそうだ   だが 私は生きたかった  生きたかった」 というんです。   

「・・・・・・ あゝ おまへはなにをして来たのだと……  吹き来る風が私に云ふ」 (帰郷)

「 月夜の晩にボタンが一つ   波打際なみうちぎわに、落ちていた。 それを拾って、役立てようと は思ったわけでもないが なぜだかそれを捨てるにしのびず  僕はそれを、たもとに入れた。  月夜の晩に、ボタンが一つ  波打際に、落ちていた。  それを拾って、役立てようと  僕は思ったわけでもないが  月に向ってそれはほうれず  なみに向ってそれは抛れず  僕はそれを、袂に入れた。  月夜の晩に、拾ったボタンは 指先にみ、心に沁みた。  月夜の晩に、拾ったボタンは どうしてそれが、捨てられようか?  (月夜の浜辺)

落ちているボタンは役には立たないが、中原中也はボタンに違う魅力を感じるわけです。 ごみとして捨てることはできない。  人間も役に立つか経たないか、見られがちです。 基準がそこだけなんて狭すぎますね。  

幼 年 時 私の上に降る雪は 真綿(まわた)のようでありました   少 年 時  私の上に降る雪は霙(みぞれ)のようでありました    十七〜十九  私の上に降る雪は 霰(あられ)のように散りました   二十〜二十二  私の上に降る雪は  雹(ひょう)であるかと思われた    二十三   私の上に降る雪は   ひどい吹雪(ふぶき)とみえました  二十四  私の上に降る雪は  いとしめやかになりました……」    (「生い立ちの歌」の前半) 

雪の降り方で自分の人生を表している。

「不幸が人を磨く  本当だよ」  (中原中也の二十歳の時の日記から)

26歳で結婚して文也という男の子が生まれて、この子をとってもかわいがる。   29歳の時にNHKに就職しようとしたが落ちてしまう。  文也が2歳の時に亡くなってしまう。  その後心を病んで精神病院に入院することになる。   思い出の家が厭で退院後鎌倉に引っ越す。  結核性脳膜炎で亡くなる。(30歳)

「私は常に夢見ている。  夢を見ようとも見まいともしないで私は夢見ているのである。 これは私が衣食住してゆくことの上には、大いに不便なわけでそれは年来の経験で否が応でも知っている。  そうして不便が嬉しくはちっともない。  しかし、人生にはどんなすさんだ社会にもなお小唄があるように、詩人というものは有るものなので、その詩人なるものに多分は生まれついてる。  いな、それ以外ではつぶしのきかないのが私というものだったのである。」   (「わが生活」の一節) 

2022年10月23日日曜日

角田鋼亮(指揮者)           ・〔夜明けのオペラ〕

角田鋼亮(指揮者)           ・〔夜明けのオペラ〕 

東京芸術大学指揮科を修了し、ベルリン音楽大学に留学。 2008年には第4回カラヤン生誕100周年記念の同コンクールで2位を受賞。  これまでに読売交響楽団や東京都交響楽団など日本各地の交響楽団を指揮し、去年はNKH交響楽団との共演を行いました。    オペラでは日生オペラ、ヘンデルとグレーテル、アラジンと魔法のヴァイオリンの全国ツアーに参加。 2019年に愛知芸術文化選賞、文化新人賞を受賞、若手指揮者として全国を飛び回って活躍しています。  現在は名古屋のセントラル愛知交響楽団の常任指揮者、仙台フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めています。  

オペラ関係の指揮も多くなりました。   もともとオペラが大好きでシンフォニーと両輪にかけてやって行きたいという気持ちが強かったので、嬉しいです。  母親がピアノ教師をしていて、3歳ぐらいでピアノを始めました。  音楽教室に通い始めて音楽は楽しいなと感じ始めました。  母親がクラシックの演奏会などにも連れて行ってくれるようになりました。  或る時小澤征爾さんが指揮する子供向けのコンサートがあって、オーケストラの世界に出会いました。 ヴィバルディーの「四季」の中の「夏」を演奏したのを覚えています。  音楽はいろんなイメージを与えてくれるものなんだという事を知って演奏の面白さを知りました。

「四季」の中の「夏」 作曲:ヴィバルディー

小学校のころから物語を作って音楽をはめるみたいな作曲を良くしていました。   父親の転勤に合わせて名古屋の小学校に3年生の時から行きました。  ピアノ、作曲、ドラム、とかいろいろやりました。  小学校6年生から中学1年生にかけてはパリのサルプレイエル というホールで自作曲を演奏する機会がありました。  シンバルを叩かせてもらったりしました。  中学高校一貫校でオーケストラ部があって、そこの学校に入りたいと思って入って入部して、最初は大笛をやりました。  顧問の先生が私がピアノや作曲をしていたことを知っていて、中学3年生から指揮をやってみないかと言われ、指揮を習い始めました。  高校を卒業するまで指揮パートをやりました。  おおらかな学校で物理、歴史などはいいから音楽の勉強をやりなさいと言われてやっていました。   仲間にも恵まれて、今東京フィルでコンサートマスターをやっている近藤薫君とか仙台フィルでインスペクターをやっている稲辺敦君などの同級生もいました。  園田さんは吹奏楽部でトランボーンを吹いていました。   園田さんが東京芸術大学指揮科に入ったので、芸大に入るための勉強方法とか伺いました。   顧問の先生がウインフィルと繋がりがあったりしてウインフィルのメンバーが我々のオーケストラの指導をしに来てくれたりしました。   

東京芸術大学指揮科に入る事になりました。  大学3年生の時に、仲間たちと交響曲を勉強していきたいといことで、モーツアルトだけをやる事を組織してみました。   30人ぐらいです。   交響曲をちゃんと演奏するには、モーツアルトが残したオペラのことを知らないと演奏できないという事に気付き始めて、いろいろオペラをやり始めました。   バリトンの上江隼人さんとか、合唱団の中には小林沙羅さんとか、今は第一線でで活躍している方がいました。  一番印象に残ったオペラは「フィガロの結婚」です。  いろいろなことを全部自分でやりました。  

「フィガロの結婚」からもう飛ぶまいぞこの蝶々」  作曲:モーツアルト

高校生の時にベルリンフィルが来日して、ブルックナーの交響曲第5番に深い感銘を受けました。  その時の指揮者がクラウディオ・アバドでいつかベルリンに行きたいと思っていました。  ベルリンに留学することになりました。  言葉の中に凄く音楽の要素を感じている。  ドイツの哲学が音楽の形式と結びついていて、音楽の背景に言葉とか哲学がしっかりとあるというところが、日本だけでは感じられなかったところかと思います。

ベルリンフィルはリハーサルから本番まで付きっ切りで見て居られたりしました。(5年間)  2006年、第3回ドイツ全音楽大学・指揮コンクールで最高位を獲得。      2008年、第4回カラヤン生誕100周年記念の同コンクールでも2位入賞。

オペラの指揮で心がけていることは、言葉ありきなので、言葉を自分の身体にいれるという事と、ドラマなので、人と人の関係性を頭にいれておくこと、を大事にしています。

来年、モーツアルトのオペラを演奏会形式で上演する事になっていて「ドン・ジョヴァンニ」から始めて「魔笛」とかやってゆく予定です。

「ドン・ジョヴァンニ」から「お手をどうぞ」   作曲:モーツアルト



2022年10月22日土曜日

大矢正成(元・JR東海野球部監督)    ・「うまくいかない」あなたへ

 大矢正成(元・JR東海野球部監督)    ・「うまくいかない」あなたへ

愛知県出身、東邦高校で1977年に坂本投手とバッテリーを組んで準優勝、法政大学、JR東海の選手、監督を経て2013年から10年に渡って甲子園の高校野球放送の解説者を務めました。   今年の夏の決勝戦の解説をもって勇退されました。  閉会式では「社会に出ればうまくいかないことも多いので、高校野球で学んだ強い心があればきっと乗り切れる。」というメッセージを送って、多くの共感を呼びました。  ご自身の人生のなかでうまくいかない時に大事にしてきたことについて伺いました。

大好きな高校野球に63歳まで関われたことに対して本当に感謝しています。  計133試合を解説させてもらいました。   入社6年目の昭和62年、28歳の時に民営化となりJRとなりました。  当時社会人野球の現役の選手でした。  生活は大丈夫だろうかと一気に不安がのしかかってきました。  50代の後半で全く経験のない仕事を任されて、不安に駆られて眠れない日もありました。  そんな時に高校時代を思い起こしました。  1年生の時に対外試合1年間出場停止という経験をしています。  あの時に比べればという事が支えになって苦難に時期を乗り越えることが出来ました。  コロナ禍で様々な制約がかかってやりたくてもできない、想像できない辛い経験をしてきたと思います。  そこから学んだこと、乗り越えてきた強い心がきっと、彼らが社会に出ても支えになるのではないかと思って、閉会式であのような言葉になったんだなあと思います。   反響の多さにびっくりしました。 

東邦高校の3年生の時には夏の甲子園で準優勝、法政大学へ進み、JR東海の選手、監督を経てNHKの解説者になりました。  中学3年生の時に地元の進学校に進む予定でしたが、周りの反対を押し切って甲子園に行くために東邦高校に進学しました。  入学まもなく部内不祥事によって連帯責任という事で、対外試合1年間出場停止となりました。   これは本当にこたえました。  周りからも冷たい目で見られて自暴自棄になりかけました。  そんな時母親から「なんで東邦を選んだのか。」とか言われてめちゃくちゃしかられました。  目が覚めて気持ちを立て直して逆境を乗り切りました。  それがインパクトとして残っています。 3年生の嗚咽が今でも耳に残っています。   100人以上いた部員も半分以上辞めてしまいました。  みんなの思いが3年生の夏に花が開いたと思います。  

法政大学に入り、2年生からベンチ入りをさせてもらいました。  4年生の内田さんがキャプテンで3番バッターでキャッチャーでした。  春のリーグ戦は内田さんがマスクをかぶるとみんな思っていましたが、直前に練習で足を骨折してしまいました。  急遽私が代役をすることになりました。   明治との2試合目に初ヒットがレフトへのホームランでした。   私が3年生の時には木戸が2年生でずーっとレギュラーキャッチャーで出ていました。   キャッチャーのポジションを争ったことが、後々社会人になっても、我慢強さ、負けず魂に繋がって、社会人野球で8年現役という事に繋がったと思います。 

トーナメントなので勝つ確率の高い選手を選ぶという事は仕方のない事です。      座右の銘があり、「喜神を含む」 昭和歴代首相の指南役と謳われた安岡正篤さんの言葉です。  「どういう立場に立たされようと、それに心を乱されることなく心の奥深い部分にいつも喜びの気持ちを抱いて事に当たればどんな運勢でも開けないものはなくその運気は上昇気流に乗って開けてゆく。」  人生を成功に導く極意ですが、自分にはこの神が付いていると思って、苦しい時、逆境の時、災難に遭った時でも心の奥に喜びをもって全力を尽くせと言う事だと思います。  

名古屋放送局から2003年の時依頼がありそこで10年解説をしました。  その後に甲子園の解説をすることになりました。   40代で解説をする人が多い中で、53歳でやる事になり異質な人が来たなというような雰囲気でした。   夢がかなったのでやる気満々でした。   キャッチャーだったので配球面にスポットを当てると、キャッチャーの視点で深い試合がみられるのではないかと思って、スコアーブックをつけて勉強しながら解説をするという事で試合に臨みました。(平成16年以降)   そこから段々積み上げて行って今のスタイルになりました。   一球一球、球種をつけます。 コース別にも表します。  そうすると配球の傾向も判って来ます。  試合の状況が判る様になって来ました。  

一番印象に残っているのは2017年の夏の甲子園で、一回戦仙台育英高校と北海道の瀧川西高校が対戦して仙台育英高校が15対3で勝ちました。  瀧川西高校のレフトの佐野選手が地方大会でキタキツネにグローブを盗まれたというエピソードがあり、事前のアンケートに書いてありました。  佐野選手と話をして、「多分僕の匂いが好きだったと思います。」と言われて二人で大笑いしました。  3回に佐野選手がレフトフライでそのグローブで捕りました。   グローブをクローズアップで写すわけです。(スタッフに話をして頼んであった。) この時に話さないといけないと思って、その話をしました。   その後彼は市役所に就職しましたが、グローブの件で有名になって慕われて仕事にも役立ったという事でした。  

長い人生、うまくいかない時もありますが、自分が出来ることを一生懸命やれば、必ず見てくれる人がいるので、そういった人が助けてくれますし、自分の信念を持って事に当たればきっといいことがあるよと、前向きな気持ちがあるといいと思います。


中西真(東京大学医科学研究所教授)   ・"老化"のない社会をめざして

  中西真(東京大学医科学研究所教授)   ・"老化"のない社会をめざして 

1960年(昭和35年)生まれ、61歳。  人類がかつて経験したことのない超高齢化社会へ突入しようとしている日本、日本は世界で1,2位を争う長寿国ですが、平均寿命と健康寿命には10年近い差があります。  中西さんたちは老化細胞を取り除いて、人の健康寿命を大幅に伸ばそうという研究を進めています。  内外で大きな注目を集めています。  内閣府が進めるムーンショット型研究開発事業、高齢化社会や地球温暖化など重要な社会課題に対して挑戦的な開発を進める事業、これがムーンショット型研究開発事業の一つでもあります。

老化というと歳を取って身体が衰えたりいろいろな病気が出てくると言われています。   いろいろなところで慢性の炎症が起こっていて、炎症が身体の力を落としたり機能を低下させたり病気になるようなポッチを作ると言ったようなことが言われています。  炎症を引き起こす細胞が生まれるというか、そういうものが身体の中のあちらこちらに蓄積してくるというわけです。   その一つが老化細胞と言われています。  人の細胞は試験管で培養すると、無限に増殖するわけではなくて、あるきまった回数分裂すると、それ以上分裂できない。 増殖をした後に細胞は二度と増殖は出来ないが、細胞はずーと生き残っていて、その細胞を老化細胞と言います。  その細胞があちらこちらにいて、歳を取るにしたがって溜まってゆく。   老化細胞は周りの細胞に炎症を起こすようないろんな物質を出している。  そういったものが身体に溜まる事によって、臓器や組織などいろんなところに小さな小さな、でも有為な慢性の炎症が起こってきて、それによって臓器や組織などの機能が衰え、力が衰え病気の発祥が起こるという事になります。  

普通、人間の身体に備わっている免疫によって老化細胞が出来ると取り除かれるように出来ているが、一部の老化細胞はその免疫から逃れるようにして身体の中で生き続けて、それが蓄積されていくと言われています。  しわ,臓器の劣化などはそうですが白髪や薄毛はまだ完全には判っていません。    ストレスは物理的なストレス、精神的なストレスいろいろあると思いますが、明らかな物理的なストレス、紫外線に当たるとかで老化が進む、老化作用が生じるという事は判っています。   

本来は老化細胞は死んでゆく細胞ですが、細胞が老化するとたくさんのたんぱく質を作ってしまうので、その中の一部が非常にへんちくりんなタンパクが出来てしまって、そういうものが細胞のなかに蓄積をしてしまうと、細胞のいろいろなところに穴をあけてしまって、そうすると全体が酸性化してしまって、そうすると通常は死んでしまうが、老化細胞は何とか酸性を中和して生き残っていきます。  グルタミンというアミノ酸をグルタミン酸に変えることでアンモニアを生成させてアンモニアで中和させて老化細胞は生き残っているという風に考えられています。   老化細胞を取り除くことによって、慢性炎症が少しでも抑えられることによって、老化が改善されることは考えられます。

老化は身体が衰退するという事になるので、死亡率が上がるというのが一つの指標になります。  その観点で見ると人は歳を取るほど死亡率は上がってゆきます。  亀、サメ、ネズミの仲間も齢を取っても死亡率は全然変わらないという生物がいます。   老化の表現がみられないと捉える事が出来る。   深海のクジラは400年ぐらい生きていると言われています。  クラゲの仲間のヒドラという生物は最低でも1200~1500年は生きていると言われています。   人間の寿命には限界がるという事は最近分かりました。 平均寿命は延びてきているが最大寿命は120年という事が言われています。  

老化細胞を特殊な技術で除いてゆくと、老化の速度が急激に遅くなって病気も起こりにくいという事が判って来ました。  老化細胞を薬で除去すれば老化を遅くしたり、病気を防いだりすることが可能じゃないかという事で研究が進んでいきました。   我々は老化細胞を取り除くような薬を開発したいという事で、グルタミンというアミノ酸をグルタミン酸に変えることでアンモニアを生成させないための酵素を阻害させてやれば、老化細胞は酸性のままで死んでしまうだろうという事を考えて、そういった事を研究しています。  マウスにその薬を与えると老化細胞は除去されて、老化の現象が元に戻るという事が判りました。

人間に例えると70~80歳のマウスをアンモニアを酸性にさせる酵素を阻害するような薬を与えると、通常は加齢に伴って腎臓、肺、肝臓などにいろいろ変化がみられるが、そういったものが改善することが判りました。  その酵素はがんの治療薬としてアメリカで開発が進んでいます。  臨床治験に入っていて、実際に癌に利くかどうかは判っていないが、人に対しては強い副作用がある薬ではないという事までは判っています。   加齢に対する、老化に伴う病気への治療薬として使ってゆくことはできるのではないかと考えています。  

老化は徐々に進んできた変化なので、急激に治すのではなく徐々に治してゆくものです。 癌とは使い方も容量も全然違って少ない量、頻度で使ってゆくと思います。  がんはどんどん増殖してゆくのですが、細胞が増殖してゆくためにはDNAも増やさないといけない。   DNAの元になるのがグルタミン酸というアミノ酸で、そういうものをたくさん作ることで、がん細胞は増殖してゆく。  グルタミンからグルタミン酸へ変換する酵素を捜してやるとDNAの原料がうまく作れなくて細胞が死んでしまうというメカニズムと言われています。

慢性炎症というのが老化の大きな特徴ですが、慢性炎症はがんを引き起こす一つのトリガーになっているという事は判っています。  胃がんはヘリコバクターという胃の中に住む細菌が大きな原因になっています。  慢性胃炎になって胃がんの原因になっていることが判っています。  大腸がんの原因も腸の炎症が多いなトリガーになることが判っていて、炎症を抑えるような薬を服用すると大腸がんの発症を抑えられるという報告もあります。 

小さいころは活発な子で、林で昆虫を捕ったり草野球をやったりしていました。   祖父は金属の合金の研究をしていました。  自分も研究の道へという思いはありました。   本もよく読んでいました。   中学、高校はそちらに時間を費やしてしまい読書は少なくなりました。  名古屋市立大学医学部に進学しサッカー部に入りました。  大学6年間はサッカー漬けでした。   サッカーは今でもいい思い出になっています。   ゴールキーパーでした。  ディフェンスの動き、フォワードの動きは常に見ていてボール以外も気にしていなくてはいけなくて面白いポジションでした。  研究はチームワークが重要でスポーツに似ているところもあります。  大学院では朝の9時から夜中の3時ごろまでずーと研究するというのが或る意味当たり前なスタイルで土、日もやりました。   1993年にはアメリカの大学にも留学しました。  その時に老化細胞の研究を始めました。  

何故2度と増殖しなくなるのか、その仕組み解析をしました。  母校に戻って名古屋市立大学の教授になりました。(2000年)  2016年に東大医科学研究所に行きまして教授になり、2021年1月にアメリカの科学雑誌「サイエンス」に論文を発表、老化細胞を選択的に除去するGLS1阻害剤が加齢現象を老年病、生活習慣病を改善させることを証明する論文でした。  国内外から大きな反響がありました。   老化が実は防ぐことが出来るかもしれなという事が徐々に判って来て、そういう意味では反響がありました。  

内閣府が進めるムーンショット事業に組み込まれてプログラムマネージャーを務めています。  2040年までに主要な疾患予防を克服し、100歳まで健康不安なく人生を楽しむための持続可能な医療介護システムを実現すると言いうのが、ムーンショット事業です。   その中の一つが老化細胞をなくして健康寿命を延伸するという研究が含まれています。  10人のチームでやっています。  ほかに脳機能低下に関しては慶応大学の吉村先生を中心に、脳の老化に関しては九州大学の伊藤先生、老化細胞の除去についてにワクチンに関しては順天堂大学の南野先生、腎臓の老化に関しては京都大学の柳田先生、、幹細胞の減少に関しては東京大学の岩間先生など、役割分担をして、一つの大きな目標に向かって研究しています。

5年後ぐらいまでには、社会実証への目途をつけていきたい。  腎臓は透析という形での唯一の治療になっていますが、改善する薬、技術とか、他に脂肪性肝炎とかも標的になります。  高齢者への治験の難しいのは、厚生省は老化はまだ病気として認めていません。 老化に伴った病気に伴った治療を手掛かりに薬を作って行けば、老化が薬で改善することが判ってくれば、老化そのもの標的にした治療が出来るようになるのではないかと思います。  アルツハイマー型の認知症  脳の老化、特に神経の中にできそこないなタンパク質が蓄積してくることが脳の老化の病態なんですが、そういうものを標的にした治療と言ったものを今一生懸命やっています。    

老化の測定技術も開発しています。  老化を予測する、老化の速度をきちっと測定する技術も開発しています。  数値で出てくるようにしています。  トータルとして我々は人としてどの程度老化しているのか、きちっと測定するシステムが大事だと思っています。 

矢張り健康が代えがたい幸福だと思います。  病気になることは苦痛だと思いますので、如何に病気になることを防ぐかという事を目指したいと思います。  できれば健康寿命と人の最大寿命が限りなくゼロに近いのが世の中になればと思います。  健康寿命が延びないと物凄い医療費になるので、治療、薬、技術を開発して真剣に考えてゆく必要があります。  老化細胞を溜めない生活が大事だと思います。  運動は大事ですが、過度な運動は避けるべきだと思います。  毒になる酸素の代謝物が出来てしまう。 それが身体のなかのDNAを攻撃して細胞が老化してしまう。  カロリーの取り過ぎも良くないです。 ストレスのない生活が大事だと言いますが、全くストレスがないという事も身体によくないという事も判っています。  適切なストレス、適切なカロリー、適切な運動を自分で守ってやってゆくかどうか、という事が大事だと思います。  一日をリズム正しく過ごす事も大事です。



2022年10月20日木曜日

大庭照子(歌手・日本国際童謡館館長)   ・【わたし終いの極意】 年齢は宝もの

大庭照子(歌手・日本国際童謡館館長)   ・【わたし終いの極意】  年齢は宝もの 

今年84歳、およそ50年前NHKの「みんなのうた」で歌った「小さな木の実」が大ヒットして、これを機に日本の童謡のすばらしさを全国に届けたいとスクールコンサートを開催、これまで訪ねた学校は延べ3000校にのぼります。   また日本国際童謡館館長として童謡の継承、普及活動に取り組む一方、「年齢は宝もの」コンサートを各地で開き、齢を重ねる事のすばらしさを伝えています。  

* 「小さな木の実」  歌:大庭照子  作詞:海野洋司 原曲の作曲者:ジョルジュ・ビゼー 編曲:石川皓也

この歌に出会って私の宝物になっているという事はNHK様様です。  年齢は宝もの」コンサートを各地で開いています。   生きていてこそこの人生花ざかりがありますよ、面白いことがいっぱいある、厭なことがあっても自ら命を落とすという事は絶対思わないで欲しいというのは最初からありました。  年齢は宝物と思うようになりました。 37歳の時です。 年齢は宝もの」コンサートが終わった後、小学校5,6年の女の子が「大場さんはいくつですか。」と尋ねてきました。  一番聞いて欲しくない年齢だったので誤魔化して「じゅうさん ななつ」といったら、ポカンとした顔で帰って行きました。 帰る時に子供たちが全員で手を振ってくれましたが、子供たちの前で年齢を誤魔化したのは、自分の人生を否定していたんじゃないかと思いました。  これからは年齢を正直に言って行こうというのがきっかけでした。   

宗教家の手島郁郎先生がロバート・ブラウニングの詩を訳したものに出会っていることも凄い力になりました。  「老い行けよ,我と共に  最善はこれからだ   人生の最後、そのために最初は作られた ・・・  すべてを神にゆだねよ」 この詩に出会った時に本当に宝物と思いました。  老いてゆくことに覚悟が出来ました。  歳を重ねるにつれ浄化されてきて、心がワクワクするこんな人生が来るとは思わなかった。  

熊本県出身、高校時代まで過ごしました。  健康で小、中、高と無欠席でした。  昭和24年のNHKの熊本の児童合唱団の一期生です。   幼稚園の学芸会でマリア様役は誰にしますかと言われた時に、まっさきに手を上げましたが、先生が困った顔をしてあなたにはもっと良い役が来るからと言われました。  選ばれたのマリア様にぴったりの綺麗な女の子でした。  幼稚園が孤児院と一緒で、孤児院の子を私が意地悪して、先生が物置に連れて行って、弱いものをいじめることはどんなに間違っているか、弱い人を助けることは当たり前のこと、素晴らしい事であることを先生が教えてくれました。   小、中、高のいろいろな先生からいろいろなことを教えていただきました。   

強い母とおとなしい仏様の様だと言われた父の両方を客観的に見ながら人生を重ねました。 母の影響は大きかったです。   毅然としてお腹の中に収めておかなくてはいけないという事を言われました。   独りで生きてゆく力を身に付けなさいとよく言われました。 声は良かったので歌で勝負と言いう事で音楽の道への後押しをしてくれました。   昭和32年フェリス女学院短期大学音楽科に進みました。  卒業後書生として銀行の頭取の家に5年間過ごしながら歌の勉強の仕事をしました。   部屋代食べるものは無料でした。

乳がんをしたり、童謡の歌から信じられないような展開に成ったりいろいろありましたが、50、60、70代の時に物凄く苦労をしましたが、孤独と孤立は違うという、私は孤立はしていないという自信はあります。  孤独は自分自身の思いのなかで孤独を楽しむこともできますし、つながりを持てる時間もあるが、孤立はたった一人で自分は誰にも世話にはならない自分で生きて行くんだということで良くないと思います。   振り返って自分の人生これでよかったと思わないといけないと思います。   神様から頂いた人生であって、ああすればよかったこうすればよかったと思う事はありますが、そっちのスイッチを押したら自分の人生を否定することになると思います。

日本童謡学会が設立されて、今までわからなかったこと間違っていたことの童謡の歴史に関することが判ってスッキリしました。  夢を実現するためにはいかにいろんな人と手を組むか、という事だと思います。  「年齢は宝もの」に新しくボニージャックスのメンバーが加わりました。   去年西脇久夫さんが亡くなられて、3人での出発になっています。テナーが吉田秀行さん(57歳)、バリトンの鹿島武臣さん(88歳)、バスの玉田元康さん(88歳)です。  志が同じ人と出会えたことは嬉しいし、良かったです。 

わたし終いの極意としては、諦めないという事です。  最後の最後まで与えられたチャンスをつかんでいきたいと思います。




2022年10月19日水曜日

福西崇史(NHKサッカー解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】 サッカー・ワールドカップ カタール大会 どう戦う?どう見る?

 福西崇史(NHKサッカー解説者)        ・【スポーツ明日への伝言】  サッカー・ワールドカップ カタール大会 どう戦う?どう見る?

11月20日に開催されるワールドカップカタール大会まであと一月になりました。    大会に臨む日本代表は11月1日に発表されることになっています。  福西崇史さんに今回日本は どう戦うのか、またワールドサッカーの見方、楽しみ方などを伺います。    福西さんは愛媛県生まれで1976年生まれ。  新居浜工業高校卒業後、1995年(平成7年)ジュビロ磐田に加入、ボランチとして年間王者3回、アジアクラブ選手権優勝などジュビロ磐田の黄金時代を支えました。  ワールドカップには2002年大会日韓大会、2006年ドイツ大会に日本代表として出場しています。  現在はサッカー解説をしながらサッカー教室などサッカー普及のための活動を続けています。 

2002年大会日韓大会の時には事前に知らされることなく、名前が出るまでは判らない状況でした。 選ばれた時には物凄く嬉しかったです。  2006年ドイツ大会の時には回りからは選ばれるでしょうとは言われたが、本当かどうかはわからなくて、自分でテレビの前で聞きました。  今回の枠は26人で、プラス3人をどう選ぶのかは注目しています。  交代も3人から5人に増えて、試合のなかで流れがあるので、選択をどうするのかですね。    日本は11月23日が初戦になります。    海外で戦っている選手が多くいてシ-ズン中なんです。  コンディションとしては良いコンディションでサッカーが出来るのではないかと思います。   チームの準備としてはなかなかできない。  一次リーグでは、ドイツ、コスタリカ、スペインの順に戦っていきます。   強豪です。  

初戦で勝ち点が取れるか取れないかで大きな要因にはなると思います。   初戦、守備に時間を使わなくてはいけない事になると思います。  その中で数すくないチャンスを生かせるかどうか、と言ったところだと思います。   状況に応じた対応は必要だと思います。   ドイツは18大会連続出場、20回目の出場で優勝が4回で、強いです。   優勝を狙うチームは7回戦うが、予選リーグにはピークを持ってこない。  しかし前回一戦目で敗れているので、負けられないという思いがあり、日本戦に対しては準備してくると思います。  

コスタリカは守備もしっかりしているのですが、日本もある程度ボールが持てると思います。  個の能力は高いので、カウンターは怖いと思います。  ドイツとスペインに比べればランキングも日本に近いところにあるので、勝ち点3は欲しいところではあります。

スペインも強いです。  優勝候補と言われるぐらいのチームですから。   日本の勝ち点の状況、スペインの勝ち点の状況で変わるところは有ると思います。  

小学校4年生から地元のサッカーチームに入りました。  幼稚園から中学まで体操をメインでやっていました。   中学の時に楽しさ、面白さからサッカーを選びました。   体操をやったことがサッカーにはいろいろいい面がありました。   体幹の強さ、バランス感覚などの影響がよかったです。   新居浜工業高校はサッカーのうまい選手が集まってきていたので、選択しました。   高校総体の愛媛県予選の準決勝で南宇和高校と対戦して、南宇和の選手を視察しに訪れていたジュビロ磐田石井知幸スカウトが僕を見つけてくれたのがプロに入るきっかけとなりました。  

1995年(平成7年)ジュビロ磐田に入団しました。   ハンス・オフト監督でした。   元々フォワードでしたが、周りの選手のレベルが高すぎて、どうしたらいいか悩みも出て来ました。  ボランチへのコンバートはどうかと言われて、即座に受けました。  オールマイティーにやらなければいけないポジションではありました。  守備への勉強の比重が大きかったです。  ブラジル代表のドゥンガ選手が入ってきて組むことになり、過大なる力を貰いました。 お手本が目の前にいました。  ミスをすることは仕方がないが、同じミスはするなとは、口を酸っぱく言われました。  プロとはどういうものかを学びました。 僕自身体力がないしスピードもないので、ドゥンガ選手も動かなくてあれだけの存在感を示すのはなんでだろうと疑問に思いました。   凄く見ていて、サッカーにおいてのポジショニングを学びました。   

ボランチは会社で言えば中間管理職のようなものだと、本には書いています。  攻撃、守備の部分でもやらなければいけない。   戦術という組織と個の力を融合させていかないと勝てないなと思います。  世界的にも個の力よりも組織の力を重んじるようになりました。  点を取るためにどういう動きをしている、どういう駆け引きをしているという事が判って来るとサッカーは面白く見れるのではないかと思います。





2022年10月18日火曜日

吉弘辰一(林業家)             ・亡き兄と災害に強い山を目指して

 吉弘辰一(林業家)             ・亡き兄と災害に強い山を目指して

福岡県久留米市で木材を販売する製材所を営んでいます。 2017年7月の九州北部豪雨で、同じく林業家の兄稜人すみとさんを亡くしました。  山のプロと言われた稜人さんは生前から強い山作りに取り組んでいました。   吉弘さんはその兄の遺志を受け継ぎ、山作りや後継者育成に尽力しています。  日本の林業の課題や減災のための間伐の重要性などについて伺いました。

新しい森林の産業機械の展示が3年振りに行われて、二人できました。  林業は瀕死の状態から少しは起き上れた状態かなと思います。   国土の7割近くが林地で、7割の資源を我々は無駄にし過ぎしてきたのかなあと思います。   国の成長の原動力の一部としてとらえるべきではなかったのかなあと思います。 

私は製材所に婿養子出来ています。  小川姓でしたが、28歳の時にお見合いをさせられて、その相手が吉弘さんでした。  結婚して製材所を継ぐ意識はそれほどなかったんです。   木材市場でセリ人をしていました。  結果としては良い嫁さんに出会ったと思います。  2年ほどしてうちの製材所の経営状態が良くないことに気付きました。    木造建築の製造工場だったのを ホームセンター専門の工場に変えてゆきました。  15年ぐらいでスイッチングしましたが間違ってはいなかったと思います。  

私は物心つたときからヤギの乳しぼりをやっていました。  レンゲ畑に放牧して育てたりしていました。  周りは山ばっかりでした。  男兄弟二人と女兄弟3人でした。  兄は父から受け継いだ林業をしぶしぶやっていました。   現金収入が少ないので兄はトラックの運転手もしていました。   父は私が中学2年生の時に亡くなりました。(58歳)    兄は本腰をいれて林業に取り組みだしました。  私は18歳で工業高校を出て、飛行機関係の仕事に就き楽しく過ごしました。   仲間で福岡に集まって将来小型飛行機を作る会社を作ろうじゃないかという事で、みんなでお金を稼ごうとしていました。 オイルショックを経験してこれでは食っていけないという思いがあり、福岡市木材協同組合職員募集というチラシを見て、行きました。   木材市場での経験、飛行機、船の技術的なスキルがたまたま足し算が出来て、特殊な製材所にのし上がることが出来ました。   

私は原木市場に製材所として買い付けに行きました。  兄は原木として出荷する立場なんです。  うまく林業界で連携が出来ていきました。   2017年7月の九州北部豪雨で大きな被害が出て、兄が命を落としてしまいました。    みるみる空が真っ黒になって何か起きていると思って、兄の携帯電話に電話をいれました。  呼び出すんですが出ないんです。  しばらくして又掛けたら通話中の信号でした。  実は通話中は水に浸かって流された証拠でした。  私は久留米市、兄とは川を挟んだ対岸の朝倉市でしたが、様子が全く違っていました。   又来るかもしれないので林業の在り方を根から変えなくてはいけないなと思いました。  森林の整備の在り方を見直そうという事で議論をして、強い山作りをやって行こうじゃないかという事で進めている途中です。 

兄が目指していた林業というのは、結果として強い山作りなんだなと気が付きました。   持続的に林業を経営してゆくためには、こうあるべきだという哲学を持って経営していました。   手入れの行き届いた山ばっかりでした。  適切な間伐がなされて治山治水が結果としてうまくいっていったと思います。  間伐が行き届いていない山は真っ暗で草がない。 そこでは小さな石が流れてゆき低いところに集まり、もっと大きの雨が降ると小石の集団がどっと流れます。  その時の力は木を押し倒す力があります。  

間伐が進まない理由は、費用が発生する。  100万円の山を作るのに200万円の経費を使うのかという話なんです。  30年ぐらいそんな林業が続いていました。  間伐をやらない日本の林業にしてしまった。  後継者も育てない、だから山も育たないという悪循環にはまってしまいました。     レーザーにより詳細な地形のデータが判るので、地形の傾斜角度が判ると木がない山の状態が見えてくる。  建築基準法で言う崖が30度で、崖崩れがしているところは30度以上が多いんです。  土砂災害は自分達では防げないが、流木災は最小限に食い止めることができるんではないかと思いました。  樹齢60年程度の木を30度ぐらいの傾斜勾配から低い地に変えていった方が土砂災害が起きた時に被害が少なくなるのではないかという視点で進めています。  災害防止に寄与することも山作りの一つの手ではないかと思います。   

間伐をするとマイナスになっていたものが、バイオマス発電が朝倉にもできて、原価割れしない程度で買い取ってもらえるようになったので、マイナスにはならない程度になりました。  県有林、国有林は貴方の持ち物ですよと言っています。  ニュースなどに出てくる山に関してアンテナを立てていただきたい。    山への見方が変わってくると思います。  薄い黄緑が増えたという事は山が荒れている証拠です。  針葉樹の山が減っているという事になります。(手入れされなくなった山が増えた。)    若い人たちが楽しんで林業が出来る、そんな職場つくりをしていきたいと思っています。  山作りの前の人つくりだと思います。

2022年10月17日月曜日

はなわちえ(津軽三味線奏者)      ・【にっぽんの音】

 はなわちえ(津軽三味線奏者)      ・【にっぽんの音】

山田路子(篠笛・能管奏者)

おもだか秋子(民謡歌手)

夏に伝統芸能フェスティバルが行われました。(埼玉、千葉、東京、神奈川の12か所で開催) 地域の小学生と保護者さんとを対象に伝統芸能に触れてもらおうというイベントです。   広く伝統芸能に触れてもらうという画期的なイベントです。  「才色兼美」というグループで活動しています。   日本の美しい音色を使って世界中の踊れる音楽を演奏しようというコンセプトでのユニットです。  5人がフルメンバーですが、編成を変えていろいろやっています。   他に尺八が柴香山さん、奄美民謡の里アンナさんが加わります。  

アゼルバイジャンに行った時に一緒になって声を掛けて結成するに至りました。  

*東京音頭    歌、演奏:才色兼美

John Ryan's Polka(ジョンライアンズポルカ アメリカ映画「タイタニック(Titanic)」で用いられたアイリッシュ・トラッド。(アイルランドの曲) 演奏:才色兼美

和楽器や伝統芸能は静かに聞かなきゃいけないというイメージがあると思うので、こちらからリズミカルな音楽をやる事で、聞いている人も踊りたくなるような、垣根を越えてみんなで楽しむような空間を作りたいと思って、踊れる音楽をやってきました。  ジョンライアンズポルカは譜面に起こしました。  邦楽はそもそも譜面がないんです。 

篠笛とピッコロ、フルートは似ていると思います。  

はなわ:茨城出身ですが、祖母が趣味で三味線を習っていて、9歳で三味線をやりたいと言ったら、茨城は津軽三味線人口が多くて、近所に津軽三味線教室があるのでそこに通い始めたのがきっかけです。  子供用の三味線はないので小ぶりの三味線を使いました。   1998年に津軽三味線全国大会C級部門のチャンピオン、2000年に同大会A級女性部門に初挑戦して17歳で最年少のチャンピオンとなり、レコード会社から声を掛けられたのがプロになるきっかけです。  

山田:母が地域の太鼓チームに入ってやっているのを見て中学生の時にやってみたいと思いました。  和太鼓がある高校に行って、篠笛もあり、やっていたら能楽師の一噌幸弘先生を紹介していただいて、ライブを見て、凄く自由にいろいろな表現をしていて、おもしろそうだと思って笛の道を志しました。  

おもだか:母も歌い手で、お腹の中にいる時から聞いていました。  気が付いた時には歌っていました。  歌は2歳から、太鼓は3歳から、三味線は5歳から、津軽三味線が6歳から始めました。   小学生からお弟子さんに教えたりしていました。   高校生でプロデビューしました。  時間が取れないので定時制の高校に行きながら、昼間は教えたりステージに出ていました。  

日本の音とは?

はなわ:鈴虫とかヒグラシとか虫の声、風流だと思います。  海外の人は雑音にしか聞こえないそうです。  

山田:海外公演を終わって帰ってきた時に、沢庵を食べる音、あれはやっぱり日本だなと思います。 

おもだか:ありきたりで、やっぱりお祭りの音ですね。  子供の時から盆踊りが好きで、自転車を飛ばして盆踊りの会場に踊りに行くような子でした。  

はなわ:伝統芸能フェスティバルを経て感じたのは、子供たちの体験してもらう事は凄く自分も楽しいなと思ったし、経験することはその人の財産になるので、日本の伝統に触れるきっかけを作れるような、活動などをもっとやって行けたらなと思います。   

おもだか:民謡にとらわれずにいろんなジャンルに挑戦して歌っていきたいと思います。

山田:まだあまり踊りの人とご一緒していないので、視覚的にも楽しめる踊りを付けられたらいいなと思います。  自分で踊り吹きが出来たらいいなと思います。

2022年10月16日日曜日

森田釣竿(鮮魚店店主)         ・【美味しい仕事人】 ロックで魚食文化を盛り上げタイ

森田釣竿(鮮魚店店主)  ・【美味しい仕事人】  ロックで魚食文化を盛り上げタイ 

2000年までは世界有数の魚食国だった日本では、急速な魚離れが進んでいると言われます。   そうしたなかで魚と音楽を融合させたフィッシュロックバンドが魚食文化の啓蒙活動を展開しています。   バンド名は「漁港」、リーダーの森田釣竿さん(48歳)は千葉県浦安市の鮮魚店3代目の店主です。  ライブハウスやコンサートのステージではマグロなどの解体や食べ方の説明をやって、若者たちへのアピールに手ごたえを感じると言います。  こうした活動に2016年水産庁からお魚語り部を任命されています。  魚を多くの人々にもっと好きになってもらいたいと活動をしている森田さんに伺いました。

NHKEテレの「「ギョギョッとサカナ☆スター」」総合テレビでも「超ギョギョッとサカナ☆スター」に時々出演。  サカナ君からは船長と呼ばれています。  森田釣竿は芸名です。 

祖父が鮮魚店を創業して72年目になります。   魚はしゃべれないので替わってしゃべってあげないと可哀そうです。  もし自分がアジだったらこう食べて貰いたいとか。  昔は個人店が多かったので食の情報交換があり、食文化が育っていたのではないでしょうか。   今はそういう機会がなくなってきている。  

バンド結成が2000年、メジャーデビューが2004年。 バンド「漁港」の合言葉が「日本の魚食文化を戻したい。」です。   父親から店を継いだがお客さんが来なくなってしまって、たまたま音楽が好きで音楽活動はずーっとやっていたので、遊びのバンドと仕事の魚屋を融合させてやってしまえばいいんじゃないかと思いました。   当時ハードスケジュールでしたが、苦に思わなかったです。  

*「マグロ解体マグロック」  バンド演奏:「漁港」

マグロの解体ライブをやったりします。   マグロはトロ、赤身などの一部に集中しますが、頭、心臓、胃なども美味しく、それでマグロ一匹なんだという事で、余すことなくいただくことでマグロは成仏するんだと言いうメッセージでライブをやっています。     代表曲には「鮪 マグロ節」「鮪 マグロ節」枕崎!勝男武士HUNAMUSHI」などがあります。  

2016年水産庁からお魚語り部を任命されました。  親からはこれからは魚屋は衰退するので継がないで、勉強していいところへ行けと言われていました。  親が苦労して魚を売る姿はかっこいいと思っていました。  美容師などの仕事もしましたが、似合わないのに似合うと言ったり嘘をつくんです。  でも魚屋は嘘を言わない。  やっぱり魚屋は気持ちのいい仕事だと思いました。   仕事とか、魚とかが好きじゃないとお客さんにばれちゃうと思うんです。   魚って正直です。  どんな魚でも目が可愛いんです、正直な目をしているんです。  うちでは魚を丸ごと買ってもらう事を推薦しています。    さばくと小さな魚が出てきたりして、生きてゆくためには小さな魚を食べるし、海の中の世界が見えてきます。  鰹はさばくのには手ごろではないかと思います。  マグロに似て身の部位ごとに調理法によって味が変わってくる。  

一匹の魚に集中して食べてしまおうという事を推奨しています。   一回の食事にいろんなものを食べることに皆さん馴れてしまっています。  例えば鯖だったら半身を酢でしめてしめ鯖にしたり残りを半分にして味噌煮、塩焼きで食べるとか。  アラで出汁をとればお吸い物になる。  昔はそうやっていました。  刺身もつけだれによっても色々楽しめます。  いろいろ試すことで食べ方が広がると思います。   ぶれない、媚びない魚屋さんになりたいと思っています。   一匹自分でさばけば、愛着は湧くし魚に対する思いも違ってくるし、何よりも自分でさばくと美味いです。  

2022年10月15日土曜日

寺内順子(シンママ大阪応援団・代表理事)・シングルマザーの"実家"ができました(初回:2021/12/11)

寺内順子(シンママ大阪応援団・代表理事)・シングルマザーの"実家"ができました(初回:2021/12/11) 

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/12/blog-post_11.htmlをご覧ください。

2022年10月14日金曜日

鈴木まもる(絵本作家・鳥の巣研究家)  ・〔人生のみちしるべ〕 鳥の巣がぼくに教えてくれること

鈴木まもる(絵本作家・鳥の巣研究家)  ・〔人生のみちしるべ〕  鳥の巣がぼくに教えてくれること 

昭和27年(1952年)生まれ、70歳。  20代で絵本の仕事を始め、絵本や童話のイラストの仕事はこれまでに200冊余り、2年前2020年には「あるヘラジカの物語」という絵本が「親子で読んで欲しい絵本大賞」を受賞するなど、活躍しています。  30代からは独学で鳥の巣の研究と集をはじめ、鳥の巣研究家として海外にまで活動の場を広げてきました。   これまでに集めた鳥の巣は100種類、1000個以上です。

今朝は4時に起きました。 朝は頭がすっきりするので朝から絵を描いています。 午後3,4時になると野良仕事的なことをやらなければいけないので、草刈りとかして夕方夕飯になります。  鳥の巣は繫殖期は怖がるので探さないようにしています。  9月に栃木県小山市の美術館で鈴木まもる絵本と世界鳥の巣展を開催。  鳥の巣は卵を産んで雛が育つともう使わないので、集めても鳥が困ることはないです。   どうやって作ったんだろうという興味で巣が段々集まってきました。   何の鳥の巣なのかはわからないので、図書館に行って調べてもありませんでした。    鳥類学者ではその研究対象の鳥の巣は判るが、それ以外は判らない。  外国などを含め形、材質とかいろんなものがあり、探しに行きたくなって、そうするといろんな巣があって、鳥の巣とはなにかみたいなことが出て来ました。  鳥類学者は巣の形とかどういう風に作るのかという事には興味はなかったんだと思います。  

鳥の巣を見に来れない方は、絵本という形で描きました。  蜘蛛の糸を、くちばしで葉っぱに穴をあけて、そこを縫っている鳥がいて、巣にしている。  これには吃驚しました。ハタオリドリといって、猿が近づけないような細い枝先にヤシの葉とかで籠のように編んでぶら下げて作ります。  人間の妊婦さんのお腹の形と同じ形になっています。  外敵から雛の命を守る、厳しい外の環境から雛の命を守るために作るのが鳥の巣なんです。   外国の研究者の方から凄いというコメントを頂いています。   

東京の新宿で生まれました。  遊ぶのが好きで絵を描くのが好きでした。  高校生では自分なりにストーリーを作って、講談社に持っていきました。   高校生の後半から絵本を描き始めました。  受験をする頃に世界を放浪するか、芸大で技術の基礎を学ぶか、考えて、世界の放浪は無理だろうという事で、東京芸術大学に入りました。  立体的なものをやりたかったので陶芸を専攻しましたが、どうも自分のやりたいこととは違うような気がして中退してしまいました。   絵本を描くようになって山の中で偶然鳥の巣を見つけました。  綺麗で見るとお茶椀型をしていました。  何故鳥の巣が好きなのか判らなかったが、鳥の巣は親からすれば小さい雛の命が元気に育つために作っているので、形は絵本とは違いますが、やっていることは同じだと思うんです。  

200冊余りになります。  考えてやる事ではなくて、方法論じゃないので、自分の気持ちにあった色なり形なりが画面に定着されるまでやっているような感じです。 多様性が大事だと思います。 

「あるヘラジカの物語」   写真家の星野道夫さんが残した一枚の写真から生まれた絵本。    裏表紙に二頭の大きなヘラジカの角が絡み合ったまま骨になっている写真があります。   以前からこの写真は知っていましたが、或る日の夜中にパッと目が覚めて、この写真の絵本を作ろうと全体像が出来ていて、どうやってそういう状態になったのか、繁殖期にある一頭のオスのところに別のオスが来て戦いが始まって、角が絡み合った取れなくなって両方が弱って行って、オオカミ、熊、その他小動物が来て、結果的に最後になったという風に絵本として膨らませました。  アラスカに取材に行って絵を描きました。

鳥の生態、どうして飛ぶようになったのか、どうして恐竜から鳥になったのか調べてゆくと、巨大隕石がぶつかって恐竜が絶滅して鳥だけ今の世の中に残ったという事が、今の恐竜学では理由が判っていない。  それは鳥の巣だという視点がないからだと思います。  大型恐竜の巣の化石はあるが、小型恐竜から鳥に至る間の巣の化石はないんです。  今生きている鳥はずーとつながってきているので、そこから逆に紐解いてみようという事で構想を考えてまとめていきました。  

今年出版された「戦争をやめた人たち- 1914年のクリスマス休戦」 鉛筆画で絵描かれた絵本。  第一次世界大戦の本当にあった話からのものです。  イギリスとドイツが塹壕で撃ち合いをしている時に、クリスマスのイブの日にドイツ軍が歌を歌っているのが聞こえて、メロディーはわかるので、クリスマスなんだ、僕らも歌おうという事になって、イギリス軍も歌い始める。  翌日ドイツ軍の一人が何も持たずに塹壕から出てくる。  お前も来いとイギリス軍に合図する。   イギリス軍からも一人出てきて近づいてきて、鉄条網のところでメリークリスマスと言って握手する。  周りもワーッと出てきて家族の写真を見せたり、一緒にご飯を食べたりしだす。  若い兵士が着ている服を紐に丸く縛ってサッカーを始めてしまう。  それが戦場の一か所だけではなくて、いろんなところで起こったらしいです。  相手が敵ではなくて同じ人間なんだと判れば戦争は出来なくなると思うんです。  自分たちが何をすることが戦争をしないことに繋がるのか、という事がこの話には含まれていると思ったので、披露したいと思いました。  

この時にはロシアのウクライナに対する軍事侵攻はなかった時でした。  戦争なんて起こる筈がないと思っていたので、あとがきの後の絵は別の絵を考えていましたが、戦争が始まってしまったので、「この星に戦争はいりません。」という風にしました。  世界中の子供たちが輪になって繋がっていて、動物たちも集まっている絵です。

自分が多様性なりに惹かれるのは、独裁的なものを抑制する、個人個人が自分らしく生きるということに繋がると思います。   領土を広げるためだとか、お金を儲けるためだとか、そういう風にしてゆくと、個人の命、子供の命とかがないがしろになって行ってしまうと思うので、一番大事なのは命なので、幼い命を守る、元気に育つ環境、鳥が巣をつくると同じように人間もいろんんな巣、職業といういろいろな巣を作っているんだと思います。  それぞれ、らしい鳥の巣をつくることが大事だと思います。




2022年10月13日木曜日

原武史(政治学者・放送大学教授)    ・鉄道は人生にとって大切な文化

原武史(政治学者・放送大学教授)    ・鉄道は人生にとって大切な文化 

1962年東京生まれ。  専攻は日本政治思想史ですが、鉄道や団地の研究にも造詣が深く、関連の図書も多数あります。   鉄道に関する最近の出来事では福島県と新潟県を結ぶJR只見線が10月1日の朝、2011年の豪雨災害から11年振りに全面復旧したというニュースがあります。     

只見線の復旧は画期的な出来事だと思います。   大赤字であれば災害で不通になってしまうとバス路線に転換するとかという話が出てくるわけですが、沿線の自治体、福島県が何度もJRに対して話を続けて10年以上かかって復旧したという事で、それを後押しした郷土写真家の星賢孝さんの存在も大きいです。  沿線の風景の写真をSNSに上げて大きな反響を生みました。  只見線は福島県の会津若松駅と新潟県の小出駅を結ぶ路線です。  星さんを主人公にした映画(「霧幻鉄道 只見線を300日撮る男」)が出来ました。  只見川の風景が美しい。  海外の人たちも惹きつけます。  廃線させるかどうかは今までは地元の意向だけで決められていたが、今回のケースは、風景が地元の人たちだけではなくて、それ以外の人たちを強く惹きつけることが判ったという事が大きなことです。  

父親が東京生まれ、東京育ちでした。  鉄道の黄金期を少年、青年期を過ごした。    新橋で育っているので、鉄道開業の地で育ったという事は大きいです。  1972年C62蒸気機関車の模型を父親から買ってもらいました。  父親は7月に亡くなりました。  鉄道100周年(1972年)の時には記念のSLに乗ることが出来ました。  C57を新橋、横浜を一往復しました。  乗車券は10枚だったと思いますが、抽選で当たりました。   中学時代にはある展示会のために国鉄からダイアグラムを手にいれました。 横浜線の研究でしたが、何度も国鉄本社に行っているうちにもらえました。  

高校時代鉄道研究会に所属して夏休み(1978年)1年生の時に半月で北海道全線に乗りました。 今と違って物凄く線が多かったです。  70年代の国鉄は一方で近代化、高速化を進めていて、他方では今では信じがたいような列車がまだ存在していました。   その一つが新宿から松本に行く列車でした。  昭和の初めに中央線が甲府迄電化されますが、その時に登場したのが新宿を12時半にでる長野行きの客車があり、これがそのまま残りました。  長野から松本になるがルートは変わっていない。  電気機関車が旧型の客車を引っ張るその編成も変わってはいない、そういう列車が70年代にも新宿駅にあったという事です。   2,3分おきにオレンジの電車が動いていましたが、新宿駅の3番線だけは時が止まったように動かない。  受験で塾に行くために中央線を使っていましたが、わざとその列車に乗って弁当を食べたりしていました。  

鉄道は明治の初めにできて近代化の象徴みたいになりましたが、もうちょっと遡るとペリーの来航があり、小型の蒸気機関車を持って走らせていてインパクトがあったと思います。  急いで鉄道を完成させた。  60年代まで鉄道が主役で高速道路が出来るのは60年代以降となり、モータリゼーションもそうです。   鉄道150年に歴史のなかで、100年ぐらいは鉄道が輝いていた。  国鉄の赤字路線問題が深刻化するのはその後です。  人生の大事な節目(出征、結婚、就職とか)の中で鉄道が必ず出て来ます。   

国鉄の分割民営化が1987年に行われる。  鉄道150年の歴史の中では最大の分岐点ですが、徐々に完全民営化がなされる。   在来線の廃止が地域を衰退させてゆく面があります。  北海道は網羅的に線があり、札幌以外でも栄えていた都市はありました。    今はどんどんなくなって行ってしまって、都市は衰退していって札幌に一極集中することになる。  それ以外のところでも同様な現象が起きている。   バスに代替すればいいのではないかという見方があるが、バスになるとメチャクチャ時間がかかる。 学校にも通えなくなる。    三陸鉄道が開業したことによって、通学区域が拡大して喜ばれた。  バスに転換すると観光客が来なくなってしまう。 

『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』を最近出版。  谷崎、三島が「目的地に向かって早くゆくだけが、鉄道の魅力ではないだろう。」と言っているわけです。   それに耳を傾ける感じではない。   谷崎が言っているような景色を見る感覚が今は薄れてしまっている。  小松左京が予想した2020年の東京、まさにコロナ禍を言い当てている。   日本の鉄道はスピード化が究極のサービスだという事でずーっとやってきたが、コロナになってテレワークが普及してしまうと、移動しなくて良くなる。   今まで目指してきたサービスの方向性を問われて来た。   そうなると鉄道が持っている別の価値に注目しなければけない。  それは何なのかというとパソコンに向かい合っているだけでは決して味合う事の出来ないような体験が、列車に乗ることによって出来るんだという事をもっと宣伝しないといけない。  今までは列車に乗っている時間は無駄なものであって、1秒でも減らすことが最大のサービスだという事でやってきたわけです。  その発想を転換しないといけない。  

函館本線の小樽、長万部間が廃止することが決まりましたが、単に線路を撤去するだけではなくて、100年以上の記憶を同時に失わせることになる。  三陸鉄道の復旧では出来るところから動かすという事で、動く列車に手を振ったんですね。  鉄道の持っている象徴性、鉄道が動き出すことによって地域の復興が動き出したという事を象徴しているからだと思います。  駅舎は人々が集まる場所ではあるが、バス停は目印に過ぎない。

中国、韓国、台湾などでは新幹線もあれば在来線の特急、普通列車などもそのままあり、お客は選択ができる。  日本では事実上新幹線でなければいけないようなダイヤ改正されてしまう。  日本は過度の新幹線信仰があって、地域の日々利用している便利さなどは敬遠される。  しわ寄せを地元が負担をしている、歪んだ構図がある。    路面電車はバリアーフリーだし環境にも優しい。  東京でも復活させようという考えもあるようですが。  今は荒川線だけです。 

阪急電鉄小林一三は客がいなければ客を作り出せばいいじゃないかという事で、郊外に住宅地を作ってゆくとか、終点の温泉地をとか、当時誰も考えていなかった発想で、新しい土地の需要を作り出すわけです。  鉄道は時代によって或る役割を変えてきたという事があるわけです。  今は時代の境目に差し掛かっていると思います。  地球環境問題、鉄道は二酸化炭素の排出量は少ない、バリアーフリー(今後高齢者が増えてきて運転ができない人が増えてくる。)  

2022年10月12日水曜日

名取紀之(編集者)           ・鉄路に夢を紡いで

名取紀之(編集者)           ・鉄路に夢を紡いで 

1957年東京生まれ、65歳。 子供のころから鉄道の魅力に惹かれ26年間に渡って月間鉄道雑誌の編集長を務めました。  編集局長を最後に定年退職し、自身で鉄道図書出版の事業を立ち上げ、出版した書籍はいずれも高い評価を得ています。  

今年は日本の鉄道150年という事ですが、残念ながらコロナで鉄道会社は元気がなくなってしまいました。  コロナ前にはいろいろの企画があり楽しみにしていました。  イギリス、ドイツではの150周年記念では物凄く盛大な国家的なイベントでした。  イギリスでは創業期から近代期まで次から次にやって来るような素晴らしい企画がありました。  日本でも期待をしていたのですが、ちょっと残念でした。  JCIIというフォトサロンで写真展はやっています。  岩波書店が出版した「汽車の窓から」という本では、東海道線を東京から大阪までずーっと撮影をし続けた記録ですが、この中からセレクトしたもの65点を展示しています。  これをぜひ見ていただければと思います。  

鉄道100年の時は国鉄でした。   1972年(昭和49年)で国鉄が総力を挙げていろんなイベントを行いました。   一番有名なのは、今は京都鉄道博物館になっていますが、蒸気機関車館を作りました。  全国から蒸気機関車を集めて動体で保存しようという壮大な計画でした。    リニアモーターカーが初めて浮き上がる姿を1972年に出来ています。(国立市の鉄道技術研究所で公開)  

小学生のころ鉄道模型に興味を持って、そこから鉄道に引き込まれて行きました。    西大寺鉄道の小さいジーゼルカーを模型に作りました。  紙で作りました。  ラッカーで色を塗って、電気屋さんからモーターを買ってきて、モーターを取り付けて動かしました。  当時は行ってみないと判らないものだらけでしたのでとにかく行って観るという事でした。    1972年は「ディスカバージャパン」を始めた時で、心に突き刺さってあっちこっちへ行こうと思いました。    学割、周遊券で安く利用が出来ました。  北海道の16日間の周遊券を利用して1泊も宿に泊まらないで帰ってきたことがありました。 (すべて夜行列車で移動)   夜行列車の雰囲気は独特でした。  ボックス席でいろいろ大人とおしゃべりしたり、外の世界と接するという事では、学生としては凄くインパクトがありました。   

都立高校ではアルバイトは出来たので、国鉄の本社に行ってアルバイトをしたいという事を話して、雇ってもらう事になりました。  本が好きで本屋さんでもアルバイトをしました。  大学に入ってから編集に興味を持って、アルバイトとして編集のアシスタントに使ってもらうようになりました。   休刊が決まってしばらくしてから、読者の方が来て「長い間ご苦労様でした。」と言って一升瓶を持ってきました。   こんなに愛される仕事があるんだと思いました。  あの光景というのは原点ですね。   その後の僕を決定付ける瞬間でした。   鉄道は趣味にした方がいいと思って、印刷会社に入って5年間勤務しました。  活版印刷が終わってオフセット印刷に移行する寸前でした。  活版印刷がリアルに見れた最後の世代でしたので、いい時に印刷会社で勉強させてもらったと思いました。  それが後々凄く力になりました。    

1986年出版社に転職、鉄道雑誌『Rail Magazine編集長となる。(29歳)   当時は国鉄の巨大な組織だったので、この若造がというような雰囲気でなかなか相手にしてくれずやりにくかったです。  1987年に国鉄が分割民営化する。  国鉄という共通言語がなくなってしまい、分割民営化されると地域のジャンルになってしまう。  雑誌の方向性を見出すのが大変でした。  分割民営化はエポックとして雑誌が売れる一つのベースにはなりました。   国鉄の色ですが、東京で使っていた車両が地方のどこに転配されても、不自然ではない色が国鉄の色なんですね。  分割民営化されるとそこだけの色になってしまうわけです。  国鉄は全国区ゆえの凄さはありました。   

今では雑誌だけではないかも知れませんが、興味の対象がスポットになってしまいました。2017年に退職、個人で図書を出版する事になります。  納得のゆく本を作りたいと思いました。   売れる売れないを最優先にしてしまう事を辞めたいなと思いました。   「地方私鉄1960年代の回想」「C62重連最後の冬」を出版し、高い評価を得ました。

インダストリアルナロー  営業用の鉄道ではなくて、鉱山、林形、農業とかのために敷設された鉄道で、一般の人は基本的には乗れない。  そういったものに興味があって、インダストリアルナローと呼ばれています。  在来線よりも狭い軌道です。  そういったところに鉄道の原点が残っています。 世界各地に出かけて行っています。(観光用、保存用は除いています。)   生活路線として生きているナローゲージに魅力を感じていますが、残念ながらどんどんなくなってしまっています。   石炭運搬の廃止、森林伐採の廃止などにより廃線になってきています。  

日本の鉄道は産業として見てみるといい方向に行っていると思いますが、趣味としてみると段々味気なくなって来ました。  


2022年10月11日火曜日

上杉剛嗣(駅弁愛好家)         ・旅情をかきたて時代を映す「駅弁掛け紙」

 上杉剛嗣(駅弁愛好家)         ・旅情をかきたて時代を映す「駅弁掛け紙」

三島市在住の高校の先生 上杉剛嗣さん(62歳)は半世紀にわたって駅弁の掛け紙を収集し、その数は何と1万枚を越えます。  休みの日はほとんど全国を飛び回って駅弁掛け紙のコレクションに余念がありません。   駅弁掛け紙の魅力を伺いました。

コロナ禍で一時車で行きましたが、この半年は列車の旅も増えてきて、週末は駅弁を捜しに全国を飛び回っています。   駅弁に興味を持ったのは掛け紙(お弁当を包んで居る紙)からです。   中学校1年生の時に北海道にブルートレインで旅行をして、帰りに青森駅で買った駅弁の掛け紙がねぶた祭りの武者絵でねぶた祭りの前日に購入しました。   その掛け紙を持ち帰ってアルバムに貼った時から、意識して集めるようになり駅弁自体も好きになりました。   百貨店の駅弁大会もあり、そういうところで全国の有名な駅弁を食べているという事を中学校のころからしていました。   高校1年生の時に九州に旅行しましたが、西鹿児島駅に売られている豚骨弁当、ムツゴロウちらし寿司(佐賀県肥前山口駅の駅弁)というものがどうしても欲しかったんですが、売り切れていて買う事が出来ませんでした。  駅弁屋さんに手紙を書いて掛け紙だけ送ってもらったこともあります。  この2,3か月では九州に2回、北海道1回、東北2回、北陸3回、山陰2回、四国1回、南紀1回、関東中部は月に1~2回行っています。  飛行機も使って九州と北海道を2泊3日で旅をしたこともあります。  2003年に「駅弁の小窓」というホームページを立ち上げて、全国の駅弁ファン、駅弁屋さんなどとつながりが出来て、のぼりを立てて案内してくれた時もありました。  

半世紀にわたって集めた掛け紙は1万枚を超えています。   駅弁の中身を想像するような絵が描かれている。  旅情を掻き立てる様な絵が描かれいます。  オホーツク弁当は昭和55年のものですが、オホーツク海、流氷が流れている、ノトロ岬があり原生花園があり夏にはいろんな花が咲き乱れ、そういった風景が描かれている掛け紙になっています。  天の橋立の駅弁、15年前に駅弁は撤退しましたが、掛け紙はずーっと残ります。   静岡県沼津の三島駅で売られている鯛めし、鯛が飛び跳ねている絵が描かれています。    新宿駅の駅弁(鳥飯が有名)には近代的なビルが4棟描かれています。  

中学生の時に旅行雑誌に駅弁の掛け紙を集めているという事を投稿したら、年配の読者から「日華事変一周年」と記された古い駅弁の掛け紙が送られてきました。   それまでは地理的な平面だけでしたが、歴史という縦軸があるという事に気付かされました。  駅弁が出来てから140年ぐらい経っていますが、明治、大正、昭和の時代の掛け紙、日本が統治していたころの台湾、朝鮮、満洲などの掛け紙を買い集めたりしました。   世相を反映するものもあることを発見しました。  

名古屋駅の明治20年代の掛け紙、「折り詰めお辯当」と書かれた木版画をバレンで擦って作られた掛け紙です。  明治39年に弁当の種類、弁当の等級、価格、製造している店の名前、駅付近の名所、旅客案内などの下絵が義務付けられるようになって、石版印刷へと移行していきます。  色鮮やかに描かれるようになりました。  大正11年に平和記念東京博覧会があり、4月12日にイギリスの皇太子が来日したことを記念して、共通デザインの掛け紙が使用されました。   日本の国旗とイギリスの国旗が周りに交互に並べられていて、真ん中にイギリスの王冠、花があしらわれている。  戦時中は戦意高揚のスローガンが書かれたりしています。  昭和13年には日独伊防共協定を記念した駅弁もあります。 戦争末期、直後などは紙も手に入らなくなり、戦前使っていた紙の裏にスタンプでお弁当と書いて、本当に簡易な掛け紙が出て来ます。    

日本が統治していたころの台湾、朝鮮、満洲などでも駅弁はありました。  中央に朝鮮半島の絵が描かれていて、下の方に鉄道の地図マークがあり、中央を蒸気機関車(特急アジア号と思われる)の絵が描かれている。    満鉄直営の構内食堂があり、そこで作られた駅弁で、鼠色の仏舎利塔が描かれている北の大地を思わせるような絵柄になっています。 台湾では、掛け紙に台湾全図が描かれた「バナナ饅頭」という駅弁ではないですが、戦前から台湾バナナは有名でした。  色鮮やかに描かれています。  樺太にもあります。  樺太の南半分の地図と針葉樹の木,SL、岬などが描かれ、山火注意と赤いスタンプが押されている。

駅弁の会員の企業の数はピークの1967年の405社から、現在86社となっています。    JRになって駅弁を大量流通できる専門子会社が出来て、地方の小さな商店は経営難に落ちったのが最大の要因です。  新幹線網が出来て窓が開かなくなり、ホームで売ることが出来なくなった。    車で行くようになってから2年間で9万kmになりました。   飛行機+レンタカーという事もあります。  応援してくれる家族には感謝しかありません。

「伊豆半島ジオパーク」をPRする駅弁を共同開発しました。  生徒たちにメニューを考えさせました。  掛け紙から見えないものを想像して味わう、その時代の考え方、人々の生活の様子、美しい景色、時代を越えた旅情、郷愁、そういったメッセージが掛け紙から伝わってきますので、心で味わってください。

2022年10月10日月曜日

神田伯山(講談師)           ・【師匠を語る】 神田松鯉

 神田伯山(講談師)           ・【師匠を語る】  神田松鯉

神田 松鯉(かんだ しょうり)さんは日本講談協会名誉会長、落語芸術協会相談役を務める。  群馬県出身、80歳。  高校卒業後役者になり、新劇や歌舞伎の舞台に立った後、二代目神田山陽に入門し、真打に昇進したのは1997年、1992年に三代目 神田 松鯉を襲名します。  長年長編講談の復活と継承に積極的の取り組み2019年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。   

うちの師匠は本当に大きい人ですね。  チャーミングなところもいっぱいある師匠です。 高校、大学時代、落語、講談を聞いて24歳で三代目 神田 松鯉に入門しました。   やっぱり講談が面白くて、うちの師匠が一番よかったですね。  硬軟取り入れて芸を操っていました。  ネタ数も500と信じられないぐらいの数を覚えています。  私を入れて弟子は8人居ますが、個性がバラバラです。  個性をつぶさない。   神田 松鯉に断られたら弟子入りは辞めようと思いました。  作戦としては二代目 神田山陽(師匠の師匠に当たる)の命日(10月30日)に行きました。  もう高座を終えて帰っていて、翌日電話をして喫茶店で会って直ぐ取ってもらいました。   私にも弟子が二人いますが、師匠は「会った瞬間にやる気がわかるよ。」と言っていましたが、二人は会った瞬間にやる気を感じました。(20数名来ていましたが、)  「弟子は家族だ。」とうちの師匠はおっしゃいます。  私は師匠とは違って二人は赤の他人だと思っています。 いい意味での赤の他人で、気の使い、距離感など大事にして、師匠と弟子の濃密さも大事にしています。    師匠からはその距離感を教わりました。  

修業は厳しいけれども絶対にやめるなとは師匠から言われました。   教えたこと、その時間が無になってしまうので、恩を仇で返してはいけないと言われました。  厳しい稽古が続きました。  直球で来ました。  師匠から神田松之丞という名を頂きました。   普段は優しかったですが、稽古の時には厳しかったです。   「三方ヶ原軍記」は講釈師が必ず通る道ですが、老人の落語とか講談が好きだったので、老人の口調がついてしまっていて、「三方ヶ原軍記」は若さが売りなんだから、まず老人の口調から実年齢にしなさいと言われました。    段々不機嫌になって厳しくなっていって、そうじゃないそうじゃないと言われ、どう違うのか判らず、もういいや自分で思った通りに大きな声を出してやろうと思ったら、「それだ。」と言われたんです。   次に「鉢の木」を習うんですが、師匠がやると50分ぐらいの読み物で、気合いを見せるための1週間で覚えました。  それは凄く褒めてもらいました。  

前座の時には時によってお茶の温度だとか身の回りのことについていろいろ気を使いますが、お客様にも理屈としては気を遣うことにもなって行くわけです。   師匠と弟子での「親子会」をやる事を提案しました。  師匠は連続物を大事にされる方で、「親子会」で師匠と交代で連続物をやって段々と信頼関係というものを勝ち得たんじゃないかと思います。   9月28日が師匠の誕生日で、80歳の誕生日を歌舞伎座で行う事になりました。  講談師が歌舞伎座でやるのは大正14年以来だそうです。(97年振り)        夢のような「親子会」でした。  師匠は良いことはいい、駄目は駄目と明確で、明確でないと弟子は困ってしまいます。   門弟一同でお金を出し合って歌舞伎の楽屋に使う暖簾を送りました。  大変喜んでいただきました。  

落語芸術協会の二つ目11人で結成されたユニット「成金」に、講談師としては唯一所属。  前座が4年で二つ目が10年ぐらいです。  武者修行時代に前に出てどれだけ恥をかくか、という事について師匠は、二つ目でCDを出そうとしたときにも、どんどんやるようにと言いました。  2020年真打昇進と共に神田伯山を襲名。  43年間空席だった偉大な名跡。   伯山については本などを読んで知っていました。   明確に意識したのは二つ目の後期ぐらいでした。  或る講談師の先生の会に行った時に、「伯山という名前を継ぐ人は出るんですかね。」「いないでしょう。 伯山という名前を知っている人だったら継ぎたいとは思いませんよ。」と笑っていました。  その時に心の底から、だったら継いでやろうと思いました。   真打昇進と共に名前について、師匠のところに行って「名前なんですけど」と言ったら、師匠が間髪入れずに「伯山か。」と言ったんです。  結局伯山を継がしていただくことになりました。  師匠がお見遠しだったのかもしれません。 

師匠からの言葉では「絶対やめるな。」という事と「俺が弟子にとって良かったと思う弟子になってくれ。」と言われた事で、深い言葉だと思います。  落語、講談などの芸能は歳を取ってから味の出る芸能だと思うんで、65歳辺りは一番バリバリのころだと思いますのでいい講釈師になっていたいです。 

師匠には長生きして欲しいです。  国の認めた宝でもあるので、講談というのはこういうものであるという事をトップランナーでいていただきたいと思います。  

2022年10月9日日曜日

柳家小ゑん(落語家)          ・落語と鉄道と私

柳家小ゑん(落語家)          ・落語と鉄道と私 

明治5年10月14日に新橋、横浜間で初めて鉄道が営業運転を始めてから150年を迎え、鉄道のみならず鉄道文化全体に光があてられています。   そんな中、東西の落語会で鉄道や鉄道ファンを取り上げた鉄道落語と呼ばれる新しいジャンルが話題になっています。  鉄道落語の産みの親である第一人者、そしてご自身も鉄道マニアであるという落語家の柳家小ゑんさんに鉄道落語が生まれたきっかけ、ファンや関係者の反応、落語家の目線でみる鉄道や鉄道ファンの魅了などについて伺います。

昭和23年(1953年)東京都目黒区生まれ。  昭和50年1月に5代目柳家小さん師匠に入門、昭和54年二つ目に昇進した時に小ゑんという名前を使い始める。   昭和60年9月真打に昇進、三遊亭 圓丈さんと共に新作落語を作って、古典と新作の二刀流として現在活躍。

新作落語は二つ目のころから作ってやっていました。  代表的なのが「ぐつぐつ」ですね。 おでんの種を擬人化した話。    「銀河の恋の物語」も今でもやっています。  鉄道落語では最初に作ったのが「鉄の男」です。(20年ほど前)   新作落語会ではやりましたが、寄席では無理だろうと思って4年ぐらいやりませんでした。   池袋演芸場でやったら、受けました。   落語をよく聞きにくる或るおじいさんがいて、面白かったと言われて、実は落語よりも鉄道の方が好きだというんです。  それからやるようになって、「鉄の男」を全部やると40分弱あるので、二つにわけて短くしてやったりしています。   鉄道ファンだけを集めてやったこともありますが、マニアの反応は凄いですね。 「鉄寝床」というのもあります。   普通の「寝床」がありますが、そのパターンで、大旦那が鉄道マニアなんです。  模型が好きで、長屋の人を集める。 

古今亭駒治さんが鉄道の戦国絵巻みたいな、鉄道の擬人化、を作って聞いたら面白くて、一緒にやるかという話になりました。   やっていたら、上方にも二人いて、4人で鉄道落語会を年に一回やっています。   三遊亭ときんさんが私の話の「恨みの碓氷峠」をやりたいという話がありまして、30分ぐらいの話ですが。   ミステリー調の話です。    「鉄ちはや」は元ネタが「ちはやぶる」です。    小さん師匠の13回忌が末廣亭であって、師匠の得意ネタを弟子が日替わりでやる事になって、一日が埋まらなくて、「ちはやぶる」だったが、こちらに振られて鉄の「ちはや」でいいからやってくれと言われて、その時には普通の「ちはやぶる」をやったんですが、後で「鉄ちはや」が気になって、新作にできないかなと思って調べたら、竜田川という駅があるんです。  千早という駅もあるんです。 これは出来るのではないかという事で作ってしまいました。  池袋演芸場でやりましたら物凄く受けました。    CDも作りました、   「鉄指南」というのもありますが、「あくび指南」と似たようなものです。  

僕は兄弟3人で末っ子です。   母方の田舎が岡山で、小学校に上がる前ぐらいから姉と兄と3人で必ず夏休みに行っていました。  24時間ぐらいかかりました。  蒸気機関車でしたが、途中から電化されました。   貨物列車が材木、牛、豚などを積んでいました。  模型も沢山作りました。  子供も鉄道好きになり、「あさかぜ」がなくなるというので、「あさかぜ」に子供が乗って、模型の「あさかぜ」をそこで走らせたいという事になり、模型の「あさかぜ」を作って、寝台車のベッドで走らせました。  

うちは目蒲線で昔は3両編成でした。  今は観光でSLが走っていますが、乗るとあの速度と揺れがたまらないですね。  岡山へ行った当時の原風景をしっかり覚えていますね。夜行列車がなくなってしまったのは残念ですね。

今度「鉄の芝浜」というのを作りたいと思っています。