2022年7月31日日曜日

宇梶剛士(俳優)            ・悩み苦しんでたどり着いた自分のアイヌ

宇梶剛士(俳優)            ・悩み苦しんでたどり着いた自分のアイヌ 

自らのルーツであるアイヌをテーマに、舞台を作ったり、北海道白老町にあるアイヌ文化の発信拠点民族共生象徴空間「ウポポイ」のPRアンバサダー大使を務めたり、アイヌ文化の伝えてとして活躍しています。   宇梶さんの母親の宇梶静江さんは、北海道白老町出身のアイヌで22歳の時に上京し結婚、宇梶さんが小さいころから、関東地方で暮らすアイヌの暮らしを支援し、人権を訴える活動に力を注いできました。   その影響もあって宇梶さんは幼少期から青年期にかけてアイヌの人権運動に奔走する母との関係に悩み苦しんだ人生を送ってきたと言います。  暴走族の総長となったり、17歳の時には暴力事件をおこして少年院に入ったりした宇梶さんがどのように俳優と言う未来を見出したのか、伺いました。

2018年からアイヌ文化の発信拠点民族共生象徴空間「ウポポイ」のアンバサダーを務める。 一体となって楽しめる場所です。   去年もアンバサダーとしてではなく個人として行って楽しんでました。    白老町に去年11月に母(89歳)が移住しましたが、早めに行きました。   

僕はやんちゃ坊主で親にも先生にもよく叩かれました。(50年以上前)   家には叔父が獲った鹿の角だとか、アイヌの彫刻とかいろいろなものがいっぱいありました。   食事も毎日オハウ(アイヌの伝統料理で、 さまざまな食材で作る汁物)で、これしか食べるものがないのかと思いながら、いやいや食べていました。   50歳になって、楽しみにして居酒屋に行こうと電話したら、御馳走作って待ってるよと言われて行ったら、オハウでした。  お前は毎日御馳走を食べていたんだなと言われて、「えっ」と思い直して40年違う認識を持っていたんだろうと、それからは食べるようになりました。   

僕が小学生の低学年のころから、母がアイヌの人権について身を投じて、女性が当時社会に問題提示するという事はなんで女がと言われるような時代でした。  全国を回って講演したり、シンポジュウムに参加したりして、なかなか家に帰ってくることが出来なくなりました。   父は1級建築士で高度成長期でもあり、父は月に一回、母は10日に一回と言うような状況になっていきました。   母との心が段々離れていき、小学校高学年からは両親とは口もききたくないというような状況になりました。   中学1年からは家を飛び出して、親とは同じ家の下という事がないままになり、野球に打ち込んでいました。  僕たちは先輩に毎日激しい暴力を加えられて、100人いた同期の部員が2年生の時には25人になってしまいました。  僕が首謀者で告発しました。   最初監督から野球をやる事を禁じられて、平日4時間、土日8時間グラウンドの隅に立たされていました。  どんどん戻されてついにひと月目に僕一人になってしまいました。  いろいろもやもやがあり僕が暴力事件を起こしてしまいました。  そこからすさみ度が大加速してゆきます。 

退学となりぐれて、それを聞きつけて北海道から叔父が来ました。  「おい剛士、アイヌは他人に迷惑をかけないんだ。」と言って、北海道に行くことになりました。  北海道でいろいろな肉体労働をしました。  叔父から火はまたぐなとか、川は汚すなとか言われたり、地鎮祭の替わりにカムイの祈りをしました。 アイヌ文化の種まきをされていました。

叔父は浦川治造です。   「ここできちんと仕事をできないやつがよそで何が出来るんだ。 まずここでやってみろ。」と言われて、悔しい思いをしました。  数か月で逃げかえって、荒れて、暴走族に入って、喧嘩をしたりして捕まって施設にいれられました。   茨城県の農村地帯で、農作業をやるなかで、土を耕していると、まさに足元を見ながらやる作業でした。  農作業をするなかで荒れた気持ちが収まって行きました。  なんで自分は悪いことをしたんだろうと遡って行きました。   柵があり鉄格子があるこんなところでお前は何やってんだと思って、これからどうするんだと、先生に相談して、高校に行き直したいという事を言いました。   親にも勉強したいと手紙を出しました。  両親ともにドリルとか問題集とか、送ってきてくれて、高校へ行き直したら活路が見いだせるような気がしました。   本当は5月までの期間でしたが、受験の日に茨城から東京に帰してくれました。  受験して又茨城の施設に戻りました。  合格して、母親がチャップリンの自伝の本を送ってくれました。(1000ページに及ぶ本)    子供のころに父親が家族を捨てて出て行って、貧困にあえぎながら母親は病気で話すことが出来なくなってしまい、心も病んでいき、苦難の歴史が綴られていて、俳優になるんだと努力を積み重ねて行って、チャンスが来た時に努力が認められてスターになって行くチャップリンの人生が絵が描かれていました。   読み終わって途轍もない恥かしさ、悔しさが襲ってきて、涙が止まらなくなってしまいました。     バイクででかい音を出したり暴れまわることを辞めようと反省の心が芽生えました。   その時に俳優になりたいと思いました。   

にしきのあきらさんの付き人を経て、18歳で菅原文太さんに弟子入り、80年代からは「一つ屋根の下」など数々の人気ドラマに、2000年代からはNHKの大河ドラマや、コミカルなCMなどにも出演、俳優として実績を重ねてきました。  2019年自らのルーツ、アイヌへの長年の思いの集大成となる芝居、「永遠ノ矢=トワノアイ」の脚本を書いて、東京や北海道など全国で舞台上演します。  評判を呼んだ舞台は映画化され今年北海道各地で上演されました。  アイヌ語で永遠の飛び続ける矢と言う意味を持つこの舞台、「トワノアイ」には、宇梶さん自身の経験や思いを詰め込みました。   舞台で描いたのはアイヌの人たちが受けてきた苦難の歴史です。  江戸時代にアイヌが一斉蜂起した戦いが描かれます。  宇梶さんは自身の人生を投影しました。

僕が30歳ぐらいの時に書き始めて、不十分なところもあり、学びが浅くて表面的であり、もっともっと学びを深めていかないといけないと思い、畏れをもってアイヌ文化を見つめることになった時間でした、その何十年間。   アンバサダーのお誘いもあり、NHKで作った永永遠のニㇱパ 〜北海道と名付けた男 松浦武四郎〜 主演:松本潤 でアイヌの役を演じましたが、画面で初めてアイヌ語をしゃべりました。   

自分はいったい何者なんだ、自分は何をどこに向かって歩いて行くんだというようなことを、物語の中で見つけ、歩み出そうとするのかと言うところで物語は終わって行くと思いますが、等身大の気持ちで描いたし見ていただきたい、というのが今回の作品では特にあります。   永遠に飛び続ける矢(=アイヌ語でアイ)、矢が意味することは一体どんなことなんだ、と考え続けることは、何か一つの結果が得ても、抱えてその経験をもとにまた考えてゆく。  




2022年7月30日土曜日

中村桂子(生命誌研究者)        ・生きものらしく自然体で老いる

 中村桂子(生命誌研究者)        ・生きものらしく自然体で老いる

「老いを愛ずる 生命誌からのメッセージ」と言う本を出しました。  難しい生命科学書ではなくて、老いをマイナスに捉えず愛でながら自然体で暮らせば、歳を取るのも悪くないと言います。  中村流老いの愛で方とはどんな愛で方なのか、又生命誌からのメッセージとはどんなメッセージなのか、伺いました。

人間は生き物だという事を考える事なので、難しい事ではないです。  「愛ずる」と言う言葉が自分の生命誌の考えに、一番基本に置いています。  「虫愛ずる姫君」平安時代に書かれたもの。  お姫様が虫が大好きで、毛虫もじっくり見ていると蝶々になって飛んで行く。  虫がいなかったら綺麗な蝶々は生まれない。   見かけが綺麗、綺麗じゃなくて、本当に生きている姿を見ると、とってもかわいらしくありませんか、と言うんです。  「愛ずる」という事を思っていて、歳をとるという事も、通常は厭なことですが、よく考えてよく見ると、とても大事なことだし、いいことがあるような気がしてきまして、「愛ずる」という事を歳をとってゆくことにも当てはめて考えてみたいと思いました。  

86歳になりました。  白髪が増えてきて、黒く染めてもらったりしましたが凄く面倒なんです。  雑誌にあった草笛光子さんみたいになりたいと美容師さんに言って、そうしたら楽で気持ちも落ち着いて、服装とのマッチングも考えられるし、兎に角時間がかからなくて楽です。   自然が好きですが、庭など正直掃除が面倒ですが、でも落ち葉を綺麗にするとスッキリします。  落ち葉が多少残っていても自然だと思って気にしません。  自然に生きる寅さんも大好きです。   寅さんが言う「きりがありませんから」と言う事がいいですね。  

小学校4年生の時に太平洋戦争が始まって、そういう時代に生きてきました。  大谷翔平君、藤井聡太君をこの本に書いたのは、投書に孫みたいで元気にしてもらっているとあって、読んで自分も同じだと思いました。   この二人が素晴らしいのは競争をしていないと思います。  自分が大好きなことを一生懸命やっている。   今は競争させ過ぎると思います。   生命誌は色々あり、蟻とライオンを見て、どっちが素晴らしいのと言ってもしょうがないわけです。  それぞれが思いっきり生きている姿を見るのが、本当に生きているという事を感じさせてくれて、そこで競争しても仕方がない。   この二人は思いっきりやっていますよね。  得意なことを伸ばせるようにするのが大人の役割なのかなあと思います。  

志村ふくみさん、人間国宝で、染色から織りの素晴らしい仕事をされました。  植物から色を取るではなく、頂くとおっしゃいます。   生きて行くためにはほかの命を頂いて暮らしていかざるを得ない。   「頂きます」という、自然からいろんなものを頂く、日本語は良いなあと思います。   

ジェファーソン  アメリカの独立をやった人ですが、凄く能力があったから自分はリーダーになるんだと勉強していろいろ文字を書いていたが、或る人が「君の書いているものには足りないものがある、謙虚という事だ。」と言ったそうで、リーダーになるためには謙虚が必要だという事で、素晴らしいことだと思います。  素晴らしいなあと思う方はみんな謙虚でいらっしゃいます。 (この件は本には記載されていないが)  

世界一貧しい大統領、ウルグアイのムヒカ大統領  報酬の大部分を財団に寄付し、月1000ドル強で生活しているため、「世界一貧しい大統領」として知られている。  日本に来た時に、「私は貧しいんではなくて、質素なんです。 やたらものを欲しがらないんです。 質素でいると自由になれるから、私は質素に生きているんです。」とおっしゃいました。 質素と言う言葉があった、これはいいなあと思いました。  心が豊かになります。   「貧しい人とはものを少ししか持っていない人ではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しない人だ。」と言っています。  そうなると心が貧しくなる。  

まど・みちおさん、代表作「ゾウさん」など、素敵な詩を書いています。        「ぼくがここに」と言う詩があります。 まどさんが一番好きだった詩だそうです。   

「ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として」

100歳を過ぎるまで詩を作っていました。

「生まれたところだけが故郷だけではなく、死んでゆくところも故郷  宇宙を故郷にすれば一緒のところになる。」  宇宙の果てまでは138億光年、その果てまで私たちの身体を作っているものと同じ様な物質であるという事は明らかで、私たちは星のかけらと同じで、星とつながっている。  亡くなったら又星に戻るのかなあと思います。   私たち生きものと言うのがこの地球上にいて、私たち生きもののなかに私はいるんだと思って生きているんです。  そうすると広い気持ちで生きられる。  宇宙の仲間と言うところまで広げられると、故郷って宇宙なんだよねと、このメッセージは私にとってもありがたい。 

異常気象、原因は私たちが欲を出し過ぎて、エネルギーをどんどん使い過ぎたことが原因の一つだと思っています。   自然界にはゴミはないんです。  あらゆるものが回っている。  お弁当もぽいと捨てるとゴミになり、ゴミは自分で作る物。  ゴミを土に戻すようにしています。  ゴミをださないような生き方が大事だと思います。  

コロナ、戦争している暇などありますか、と言うのが私が一番の思いです。  山下清さんの長岡の花火の絵がありますが、「みんなが爆弾なんか作らないで、綺麗な花火ばっかり作っていたらきっと戦争なんて起きなかった。」と言っていますが、世界中の人に聞いて欲しい。   中村哲さん、私たちの心の中に生きている素晴らしい方だと思います。    競争よりも共生ですね。  生き物はみんな共生をしています。 一つ一つの生き物が一生懸命生きている。  共に生きるという事をすることがそれぞれが一生懸命生きたうえで共に生きるのが一番いい、或る意味それしかないと思います。   あまり欲張らないで行くというのが、これから地球を愛でる生き方なのかなあと思います。

2022年7月29日金曜日

伊藤瑞子(小児科医)          ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】 「共有」の意識を子育ての出発点に

伊藤瑞子(小児科医) ・【みんなの子育て☆深夜便 ことばの贈りもの】  「共有」の意識を子育ての出発点に 

現在77歳、自ら開業した福岡市のクリニックで、今でも診療を行っています。  日本を代表する歌手MISIAさんのお母さんでもあります。   71歳の時に福岡市にある大学院に入り、「育児の共有」をテーマに論文を書き、社会に向けて発信し続けています。  同じく医師である夫の新一郎さんと共に、3人の子供を育てながら仕事に邁進してきた伊藤さん、今どのようなことを伝えようとしているのか、伺いました。

小児科医をしていて、子供の成長には親御さんをはじめたくさんの方々の、社会の、愛情が必要だと思って来たんですが、核家族が増えて、コロナもあり子供さんに関わる人数も制限されて、両親の協力が育児には大事だと改めて思いました。   育児不安、シングルマザーの貧困、虐待の増加など子供を取り巻く問題が増えてきました。  保育所の問題はお母さんの問題と言うような取り上げられ方だとか、2016年の育児書には父親の役割は、父親は影の存在もしないというような本も多かった。  25年間男性の育児休業を取ってほしいと政府が進めてきましたが、それもなかなか進んでこないという事もあり、社会全体で育児を考えるというより、育児は女性の問題だと、社会全体で思われているとずっと考えながらやってきました。  フランス在住の高崎順子さんの本で、「フランスはどう少子化を克服したか」と言う本を読みました。  「男を2週間で父親にする」、というショッキングな題が付いていました。   日本の男性は実は父親にはなっていないんじゃないかと思いました。 

もやもや思っていたことを一回勉強したいと思って、71歳で入学試験を受けて大学院に入りました。   論文のテーマは「育児の共有」、日本の男性に育児を体験して本当に父親になってほしいと思いました。   夫婦だけではなく社会も共有すべきだという考え方です。   父親と一緒に小児科に来るといい子で嬉しそうなんです。  普段泣く注射も泣かないとか。  父親の役割は大きいと感じていました。   大学では以前は良妻賢母を育てるための女子大学だったらしいですが、今は女性のリーダーを育てるという目標に理念を掲げてやっています。   大学院の時にアンケートを取ったんですが、男女ともに70%前後の人が男性の育児休業は必要だと答えています。  職場の理解がない、上司の理解がない、とかいろいろ意見を沢山いただきました。   10月からは父親の産休が取れることになりました。 

祖父がこれからの時代は女性でも独りで生きてゆく仕事を身に付けて行かなければならないと、ずーと言われていました。  中学生の時に医者に成ろうと決めました。  結婚して二人の子供を育てながら、基礎医学教室での学ばなければいけないことが沢山あって大変でした。  研究職だったので大きな学会に出さなければいけなくて、2回も十二指腸潰瘍になってしまいました。  素晴らしい小児科医の先生との出会いもあり、小児科医に成ろうと決心しました。   研修医が終わって2か月後に次女が生まれました。(33歳でMISIAを出産) 夫と同じ小児科医に成れて夫の協力も凄く得られるようになって、小児科医としての仕事が充実していきました。  育児の共有があれば働けると思いました。   3年間乗り越えれば仕事が続けて行けると実感しました。  

39歳の時に長崎県の対馬に渡ります。  夫が、離島に実際行って新しい医療を届けたり、医療過疎地域の保健、福祉を連携するシステムを作って現地で働いてみたいと言いだしました。   産科と小児科が一緒になって面倒を見ようという周産期医療を立ち上げてみようと重い決心をしました。  子供たちも大変だったと思いましたが家族で引っ越しました。  医療過疎地域だったので大変忙しかったです。   病院のそばに官舎があったので病院と家庭を行ったり来たりしました。(子供が眠ったのを見計らって、眠った振りもしていました。) 

病院の一室に小さな保育所があって、看護師さんが働くためには必要な保育所でした。  病院が移転して新しくするときにもっとしっかりして、たくさんの子供たちを見てあげられるような保育所を作りたいと思いました。   病気になると大変なので幼児保育も一緒に作りたいと思いました。    1994年、49歳の時に対馬の病院を退職、2年後に福岡市にクリニックを開業。    1991年夫だった院長が私を副院長にしました。  まるで私立の病院みたいに見えるからそれはできないと言われました。  妻と言う立場に置かれて理不尽だと思いました。  どちらかが辞めないと管理職にはなれないという不文律があったようです。  私は診療部長でしたが管理職ではありませんでした。  1992年に人事院に提訴しましたが、裁定は社会通念に合わないという事で却下れました。   夫は管理責任がとれないということで、夫は辞職して私も不服という事で辞職して福岡に行きました。   両親の介護のこともあり私が小児科院を開業しました。  2年後は夫も合流しました。 色々大変なことはありましたが、辞めると言う思いはありませんでした。 

MISIAは小さいころから音楽が大好きでした。   小学校5,6年生のころ私は歌手になりたいと言い出して応援したいと思いました。    高校に成ったら福岡で高校生活をしながら歌のレッスンをしたいという事で姉と一緒に福岡で生活するようになりました。  小学校2年生で自ら合唱団に入りました。    長崎では8月9日は原爆の日として全員登校して祈りを奉げ、戦争について、平和についてみんなで考える日になっています。   徹底して平和教育が行われています。  平和の大事さをみんなに伝えたいという事で反戦歌を歌うという事につながっているのではないかと思います。  MISIAが中学1年の時に湾岸戦争があり、人が死んでゆくことを直接自分の胸に響くような受け止め方が出来るようになり、長崎の平和教育はそうなっているんじゃなかと思います。   自分自身が何かしなければ、と言う思いがあったようです。  

ずーっと仕事を続けてきたので、仕事を続けてゆくという面では、子供たちは影響を受け継いでくれていると思います。   夫婦で医療をやってきて、社会に関心を持って、より良い仕事をして何とか社会に対する責任を果たしたいと思ってきました。  それを仕事としてやってきましたが、彼女の場合はボランティアとしてやりたいと思うのは、彼女の周りにいる人から学んで教えていただいて、活動が出来るようになったと思います。  周りの方々に私たちは感謝しています。  

  

2022年7月28日木曜日

市毛良枝(俳優)            ・【私のアート交遊録】芝居も登山も自然体!

 市毛良枝(俳優)            ・【私のアート交遊録】芝居も登山も自然体!

20歳でデビューし、数多くの映画、舞台、ドラマに出演してきました。  かつてはお嫁さんにしたい女優NO1と呼ばれた市毛さん、しかしそのイメージが市毛さんを悩ますことにもなりました。   それを救ってくれたのが、40歳の時の山との出会いでした。  キリマンジェロや槍ヶ岳など国内外の名峰に登り、山愛好家としても知られるようになります。   市毛さんに山への道へと開いてくれたのは登山家田部井淳子さん、田部井さんをはじめ山での多くの出会いが自分を解放してくれたと言います。  8月の山の日を前に俳優として、元祖山ガールとしても活躍している市毛さんに芝居や山への想いを伺いました。

山は40代で始めて30年近くになります。   同じ山に登っても全然違います。  花の咲くのが違ったり気象の変化も感じたりします。   自分の心持とか肉体の状況も違いますし、行ったメンバーでも違います。   40歳ごろに体調の変化もあり山との出会いがありました。   血液が肉体の中を回るという事を実感してしまいました。  最初に登った山が北アルプスの燕岳でした。  ハイキング程度といって言われていった山が2770mぐらいの山で2泊3日の行程でした。  帰ってきた時に3000m近い山に登れてしまったというのが、身体の底から湧きあがってくるような喜びでした。    自分では運動神経がないと思っていましたが、そうではなさそうだと思えました。   また行きたいと思いました。   水とか限りある資源という事をリアルに感じました。    

キリマンジェロにも行きました。  酸素があっても当たり前ではない、息をすることが当たり前ではないという事を経験してしまって、運動オタクになる大きなきっかけになりました。    高山病にかかり、後で思うとかなり命がけの状況のようでしたが、知識でさんざん与えられていましたが、自分に都合のいい様な解釈をしていて、気持ちの悪いのは貧血気味だからと勝手に思ってしまって、寝てしまったりしました。  寝ると余計気持ち悪くなりました。  寝てしまうと基礎代謝だけになるので酸素の取り込みが半分になってしまうんです。   ガイドさんからは気持ち悪うなったら寝ないでくださいとさんざん言われていました。  歩いてくれと言われて、酸素の取り込みが出来て気持ちが悪くなるのが収まりました。  それを経験して帰っても運動しようと思いました。

星が自分の足の下に見えて、星の中に私は立っているという思いがして、地球の一部、宇宙の一部になっている自分が寂しくないなあと思いました。  都会にいた方がよっぽど孤独だと思いました。   そのような感動が次々に現れるわけです。  辛いことはありますがまた行きたいと思ってしまいます。   30年のうち前半はかなり自由に行けましたが、後半は母の介護もあり、行きにくくなりました。   鍛えれば戻るという事が判ったので、山で培った知識を母のリハビリに100%注入して、理学療法士に成ろうかと思うぐらい好きな世界になってしまいました。   落ち込んだ時期もありましたが、周りの人に助けを求めて、何とか切り抜けました。    

20歳でデビューして、お嫁さんにしたい女優ナンバー1」とも呼ばれたりしましたが、ドラマで演じるようないい人でなかったりする部分もあったりして、人がそう思っているとそうしなければいけないような気になって、演じてしまう様なこともあって疲れてしまうようなことがありました。   山では地べたに寝てしまう事も出来、芸能界の厳しい世界と違って、山では全然関係なく泥だらけ、汗だらけになって、非常にプリミティブ(原始的な(もの)、根源的な(もの)、初期の、太古の、未発達な、素朴な、粗野な、原形、などの意味を持つ英単語)なところが楽しく思える。  本当の自分らしさを山で知った時に、帰った時にうまく対応できるような気になって来ました。  女優業を辞めたいという思いがありましたが、オファーがあるとそうもいかなくて、50点ぐらいのところで何とか頑張ろうと思いました。  25年目ぐらいの時に、感動したくて山に行っていたんだなあと思って、感動って大事だなあという事を山が教えてくれました。   60歳になって、女優を続けて行こうかなとやっと思えるようになりました。  

山をやらなかったら本を書く機会をいただけなかったと思います。  『山なんて嫌いだった』を出版。   田部井さんからは本当にいろんなことを教えていただきました。    彼女を取材するために行きましたが、私の方がしゃべっていたんじゃないかと思います、着いた頃には大好きになっていました。   親戚付き合いみたいに始まりました。  介護の時にも大変なことを知ってはいるが誘い出してくれたりしてくれました。  母と同じ年の同じ月に亡くなってしまって辛かったです。   山をやり始めて友達の形と量が変わりました。  本当に好きなことを語り合える人と出会えるようになりました。  金では買えない財産です。

環境の答えを山がくれたと思います。   水一つとってみても、まず山の環境を汚してはいけない。   海の環境を汚してしまうと降ってくる雨だって汚れてしまうというようなことを実地として判ります。   環境カウンセラーとしても資格を取って活動しています。  後100mで頂上と言うところで雨で視界が見えない様であれば「まあいいか」と帰ってきてしまう事もあります。  「まあいいか」で何とかここまで生きてこられた感じです。  60歳から社交ダンスを始めましたが、介護のことなどで山とか運動がなかなか出来なくなって友人に誘われて始めました。  楽しくなってはまりました。  

介護で辛いと思う時には母にもぶつけることがあったし、周りにも辛いといって吐き出したりしました。  抱え込まない、自分をいい子にしない、厭な部含めて自分なんだという事だという事だと思います。   山小屋がなかったような本当に何もないころの山に登ってみたいという事が一番の憧れです。  父と母は明治、大正生まれの人間で、父はクリスチャンで医師でした。  そんな中で古臭いものにはあこがれます。   日本の山でも降りてきたところに里の景色があるから一層美しいんですね。  農業地帯がなくなって工場になってしまったら、残念だなと思って、景色ごとアートと言う気がするんで、独りだけで盛り上がっています。



2022年7月27日水曜日

宮崎良文(千葉大学名誉教授)      ・【心に花を咲かせて】木の価値を科学的に検証

 宮崎良文(千葉大学名誉教授)     ・【心に花を咲かせて】木の価値を科学的に検証

緑の中にいるとなぜ気持ちいいのか、そんな疑問からその理由を科学的に突き止めようと研究されているのが宮崎良文さんです。   森林セラピーと呼ばれる自然界の樹木が人に与える影響から始まり、木と言う素材はどうなのか、などなど研究範囲は広がっているといいます。  科学的に検証とはどいう事なのでしょうか、何故その研究を始めたのでしょうか、そしていまどこまで判ってきているのでしょうか、世界にこの研究は進んでいるのでしょうか、この研究の先にどんな未来が見えるのでしょうか、 宮崎良文さんにお話を伺いました。

身体の脳の活動とか、身体の活動とか、生理的変化があるので、それをもって評価しようという事なんです。  木がよさそうだという事はみんな経験的に知っているわけです。  或る程度の結果も沢山あります。  だけど身体でどうなったかというデータがなかったんです。   自然に触れると身体が沈静化するとかリラックスします。  脳の活動を取ったり、自律神経活動でも交感神経、副交感神経活動を分けて測るんです。  唾液のストレスホルモン、コルチゾールを測ったりします。   それらを組み合わせて身体がリラックスしていると解釈するんです。  この進歩は最近のことです。  30年前ぐらいから急速に進歩してここ15年ぐらいには非常に精度よくなりました。   

脳の活動も近赤外分光法という、頭の中に弱い光を当てて戻って来る光を取るんです。   脳に血液が流れていて、赤っぽい光を入れると、血液で吸収されて戻って来る光が弱くなります。  入れる光と出た光を取ることによって血液の濃度が測れます。  血液の濃度が高いという事はそこに酸素を供給しているので脳が活動しているという事です。     わくわくするときもストレス状態の時にも活性化します。    脳が沈静化するとき、前頭前野の活動を取っていますが、自然に触れるとずーっと沈静化していきます。   200~300年では人の遺伝子は変化できないんです。  ずーっと昔の身体をもって今の都市化された社会で生活しているので、そこで摩擦が生じて俗にストレス状態が生じる。  そうすると免疫機能も低下することが判っているので、自然に触れることで勝手にリラックスしてしまう。(身体が反応してしまう。)   前頭前野の活動が緩やかになり、リラックスした時に高まる副交感神経活動は上がります。  ストレス時に高まる交感神経は下がります。  一連の変化を取ってリラックスをしているという評価をするという解釈をします。

大きい自然=森林、小さい自然=公園、大型の木造家屋、もっと小さい自然=ガーデニング、生け花、花、もっと小さい自然=木の香り などがあり、両面からせめて自然セラピーを明らかにしたいとデータを溜めています。   この分野のデータとしては世界で我々の研究室が一番多くデータを出しています。   森は14年間、2005年から全国63か所768のデータを取るという大型研究をしました。   公園、木材、花、木の香りなども手掛けています。    効果の方向は一緒でレベルが違います。  森に行くと効果は大きいです。   森が嫌いな人(スギ花粉とかで)はリラックスせず緊張します。  薔薇の香りの実験ではほとんどの人が好きですが、嫌いな人もいます。  嫌いな人はリラックスしません。 

沈静化と言っていますが、本来の人の状態に戻るという考え方で、それが沈静化と言う形で表れてくる。  快適感は昔は暑いか寒いかでしたが、適正な温度にしてやることで快適になる、受動的快適性と呼んでいます。  五感に関わる快適性は個人差が凄く大きいです。個人差と言う実態を明らかにすることが今望まれています。   個人個人へのアプローチ法が今はないが、将来的には必要になって来る。   平均値から個人へと言うのが望まれています。   

8階建ての木材会館がありますが、木をふんだんに使っています。  その実験を去年から始めています。  木の壁と白い壁を見た時の差、木の机と白い事務机との触った時の差、木の大ホールなど4年計画で進めています。  見る、触るでは思うような結果が出始めています。  最近は外国も参入してきました。  日本の分析技術、システム、機器は世界一です。   近赤外分光法が一番進んでいるのも日本の機器メーカーです。   

車椅子を使っている人に協力してもらって、盆栽を作ってもらいました。  車椅子の方、リハビリ病院の方、は健常者よりも大きくリラックスします。   東京の鬱の専門病院での患者さんの変化も大きいです。  健常者が10数%の変化に対して50%とか、脊髄損傷の方は100%変化しました、リラックス度が上がります。  大阪に障害を持っている子供たちの施設があり、そこと4年間共同研究をすることになりました。   予防医学的効果、病気を治すことはできないが、病気になりにくい身体をつくることは出来るんで、今はそれを目指しています。   脳が沈静化して本来の状態に戻り、効果が上がってリラックスする、交感神経機能が下がって落ちた免疫機能が改善する、そうすると病気になりにくい。 今それを目指しています。   僕の持っている最終目的は医療費の削減なんです。   サイエンスに基づいた予防医学的効果が行けるのではないかと思っています。  

子供のころから自然が好きでした。  父親が植物が好きで、庭に植物を植えていて手伝ったりしていました。  高校の時に何となく研究者に成れたらいいなあと思っていましたが、そのようになれるレベルではなかった。  一浪して国立大学に入りましたが、マスターのコースに行く事になりました。  東京医科歯科大学の先生が来て助手を取るという事になり、医学部ではないのに助教になりました。  3年間頑張り医学博士となりました。 その後森林総合研究所が僕を採用してくれました。  森林と木材の研究をはじめました。それが緑と医学との合体の基本となったわけです。    緑と医学は分野が違って縦割りなんです、縦割りは学問の大きな問題点だと思います。   共同研究で一番大事なのは人なんです、普通人脈が取れない。  

障害を持っている子供たちとかに対して、自然を上手に使って生活の質を自然によってあげることが出来たらいいなと思います。  横浜にあるギャンブル依存症の病院とも付き合いがあり、ギャンブル依存症の人もストレス状態が高いんですね。  車椅子の方々など強いストレスの方々に自然セラピーを上手に使っていただきたいが、そのためにはデータで、エビデンス(証拠・根拠、証言、形跡などを意味する英単語)と実践なんです。  自然が持っている生理的調整効果というものがあり、森林に行って血圧が下がる人もいるが、上がる人もいる、良く調べてみると、もともと血圧が高い人は下がって、血圧の低い人が上がる、いいレベルに近づく、それを生体調整効果と名付けました。   都市と森林で歩いた結果では都市ではだめでした。  血圧を適正なところに持って行ってくれるのが自然セラピーの大きなメリットだと思っています。  花を見るだけでも同じような効果があります。  中国が今森林浴に力を入れています。  アメリカ、ヨーロッパでも森林セラピー実験のブームになっています。  「森林浴」と言う日本の言葉が公用語になってます。

  

2022年7月26日火曜日

今井通子(登山家)            ・山に魅せられ、森に学ぶ

今井通子(登山家)            ・山に魅せられ、森に学ぶ 

ヨーロッパアルプスの三大北壁を女性として世界で初めて登頂に成功した登山家です。    今井さんは子供のころ長野県の蓼科で暮らし、長く山や自然にかかわってきました。    山や森の健康効果の研究にも取り組み、森林浴を健康増進や治療に役立てようという活動を行っています。 

*電話を介しての対談だったので聞き取りずらいところが多くて、間違った内容のところがあるかもしれませんのでご了承ください。 

先週岩手県の岩手町から八幡平の方に行って、姫神山に登りましたが8合目以上は天候が悪くて登れませんでした。   八幡平は下界は猛暑日でしたが、頂上付近は雹(ひょう)が降って風も物凄かったです。  60代の頃にも白馬岳に9月の1週目に登った時も、大雪渓の途中まで来たら急に寒くなって、マイナス2℃ぐらいになり、しゃべれなくなりました。   山の天気はニュース、新聞の天気予報とは全然合わないです。  狭い場所によっても違うし気象が荒くなってる感じがします。   

泌尿器科専門医、登山家、日本山岳ガイド協会特別顧問、国土緑化推進機構森の「名手、名人」選考委員会委員長、森林セラピーソサヤティー理事、エコツーリズム推進協議会アドバイザー、日本ユースホステル協会副会長など山に関する役職が並んでいます。  

山は大好きです。  国土緑化推進機構森の名手、名人選考委員会委員長と言うのはそのプロジェクトが2019年に終わったのでなくなりました。  

ヨーロッパアルプスの三大北壁はグランド・ジョラス マッターホルン北壁、アイガー北壁、グランド・ジョラス北壁で、マッターホルン北壁は若山さんと二人で女性同士で登って、アイガー北壁は男性たちと一緒に新しいルートで登り、グランド・ジョラス北壁は今の夫と頂上で結婚式を挙げようという事で登りました。   北壁は垂直を越えているところもあります。   ボルトを取り付けて3段ぐらいの梯子を取り付けて1mぐらいずつ上がります。真下は牧草地帯で牛が鳴いていたりします。   誰も見たことのないような芸術作品の岩の形とか、見られてそれなりに楽しいです。   

両親とも医師ですが、自然の中でのびのびを遊ばせることで健康管理をしようとしていました。    夏になると蓼科とか八方尾根とかに行って、地元の食材を食べて、小学校に入ってからは午前中は勉強、午後は川筋をずーっと上がって行って、森で遊んだりしました。 蛇を捕まえて渡すと或るおじさんがお金をくれるので、よく蛇を捜して捕まえましたが、後で知ったんですがマムシでした。 

高校3年生の時だけは受験勉強があり自然との付き合いはなく、身体が弱ったのを実感しました。  太陽に当たらないと駄目だと思って、大学では日に焼けるためにたまたま山岳部に入る事になりました。   道具類はかなり発達して荷物も軽くなりました。   一番大切なのは気候条件をよく知るという事と、地上の気象だけ観測していったのではだめで、1000mであれば1000mの気象はどうかという事をきちっと把握してから行かないと危ないと思います。    私は上空の予報の気象から見ていますが、当たらないとこの方が多いです。  現場に行って風が強い様であれば森に逃げます。   

登山は文明の利器はなかなか使えない。  頭を使うようにしています。  計画、・・・(よく聞こえず)気力とか、周りを見たり、危険と安全を見極めるために、回りの音とかにも敏感でなければいけない。   森林セラピーの指導員として行った時には、凄い大風で森の中にいた時に、弱った枝がドスンと目の前に落ちてきました。   そういったこともあります。     動物として大脳とか脳幹、小脳を含め、全部対応させないと自然との対峙は難しい。    医学的には証明されてはいないが、天然セラピーの場合は1982年ごろに林野庁長官・秋山智英さんが森林浴と言う療法をイメージして言葉を作りました。  1930年代にソ連の学者のB・Pトーキンさんが植物をいろいろ観察、実験をしていたら、植物自身が自分が生き延びるために微生物と戦って、微生物を殺してしまうとか、遺棄してしまうとか、無力化してしまうという揮発性物質を持っているという事に気が付いて、提唱された。 その6年後に野副 鉄男さんと言う科学者がタイワンヒノキからヒノキチオール微生物を殺してしまうとか、遺棄してしまうとか、無力化してしまうという揮発性物質)を発見、構造式も解明した。  身体にいいという事が証明された。  それから50年経ってしまって、トーキンさんが日本にきて「不思議な力 フィトンチッド」を出して、それを読んだ秋山さんがそういう事もあるんだと森林浴と言う言葉を、日光浴、海水浴となぞらえて、科学的に証明しようという事で都会にいるよりも森林に行った方がストレスがなくなることを突き止めました。  森が人にとって効果があるという証明する時期もあり、2003~6年ごろに、森にいた方が免疫力が増すと言う、自然免疫のNK細胞が増えるし、抗がんタンパク質も増える、という結果も出ました。 

林野庁は8項目を挙げています。  寒い時には森の中はあたたかい、暑い時には葉っぱから蒸発させているので涼しいです。  気候緩和機能がある。  それだけでも地球温暖化を防ぐようなこともできる。   文化機能としては森に関わる芸術、精霊、神社仏閣がある。   生産機能としては木材の生産など。  日本は森林の占める割合が多(68%)、天然林と人工林がある。   人間は搾取する側で、搾取する側にならないようにするためにはお金を払うしかない。   森を元気にするためには森にお金を払わなければならない。  森林セラピーで森林から私たちが元気にしてもらい、投資家、セラピスト、道の駅などの観光施設などに対し、仕事が豊かになれば、地元の行政が森の政治をしたりして、ぐるっと回るようですが、そうすると森が元気になると思って森林セラピーには力をいれています。  

森林サービス環境という事で森林セラピーとか森林に関わるいろいろなことをして、お金が入るが、官から民へと移行してきて、研究に関するお金も少なくなってきています。   日本衛生学会賞と言うのがありますが、いま私たちがやっているInternational Society of Nature and Forest Medicine の副会長が森林医学について日本衛生学会賞をもらいました。

2022年7月25日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】 ビートルズ(初回:2021/8/23)

頭木弘樹(文学紹介者)         ・【絶望名言】  ビートルズ (初回:2021/8/23)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2021/08/blog-post_23.htmlをご覧ください。

2022年7月24日日曜日

鈴木慶一(音楽家)           ・老いは"個性"、生涯バンド宣言

鈴木慶一(音楽家)           ・老いは"個性"、生涯バンド宣言 

70歳、北野武監督の映画「座頭市」の音楽を手掛けたことでも知られていますが、今年結成46年目を迎える6人組のロックバンド「ムーンライダーズ」ボーカルとリーダーなどを務めています。   鈴木さんは大田区で9人の大家族で生まれ育ちました。  俳優の父、映画や音楽が大好きな母や親せきの影響で幼いころからラジオから流れてくる欧米の音楽に親しみました。   1975年に「ムーンライダーズ」を結成、長期の活動の停止や、仲間の死を乗り越今年11年振りの新しいアルバムを発表しました。  バンドメンバーの平均年齢は70歳です。    

1995年と言うと阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、全日空の857便のハイジャック事件がありました。  メンバーの武川雅寛が乗っていて、無事帰って来ました。  人間愚かですから同じことを繰り返すんです。   日々生きているんで世の中の動きには影響されます。  

音楽に興味を持ったのは家庭環境があります。   ラジオが箪笥の上に有り、そこから音楽が降ってくるわけです。   ウクレレ、ギターもありました。  部屋を貸して、ピアノ教室もやっていました。    ベンチャーズのパイプラインと言う曲を聞いた時にギターを手にして音楽をコピーすることから始まります。   ずーっとラジオを聞いていました。   レコードを買うお金もなかった。   レコードを最初に買ったのはベンチャーズのパイプラインでした。    1965年に母親からエレキギターを買ってもらいました。ラジオからかかって来る音楽はフォークソングになってしまって、生ギター(アコースティックギター)を買って欲しいと言ったら買ってくれました。  毎日ギターを弾いていました。     中学3年生の時にビートルズが来日して、高校になると自分で作曲をするようになります。   高校卒業するころにヒット曲を出しました。  テープレコーダーを借りたりして録音もやっていました。  音楽の話はしたことはなかったが、あがた 森魚さんと会った最初の日ずーっと二人で音楽の話をしました。    二人で聞いたり聞かしたり音楽の話をしました。  ロック喫茶があって店に通い新しい音楽を聴く日々となりました。   ロック喫茶がライブをやる様になり、あがたさんらと小さなホールを借りてそこに出るようになりました。(1970年) 

1971年にロックバンド「はちみつぱい」を結成、74年に解散して 75年に「ムーンライダーズ」になります。  火の玉ボーイでアルバムデビュー。  アグネス・チャンのバックバンドを行うこと(週末に対応)により、バンドの経済的基盤を確立させました。  その後22枚のアルバムを出しました。   2回バンド休止をしました。  2回目が2011年から2021年まででした。   2020年にコロナが流行って家にいるし、そろそろやらないかと言う話が出ました。    即興で弾いているうちに段々メロディーが出来てきて、録音するとか、データを作る。  夢で出てきたのを飛び起きてデータを作ったりもします。

映画音楽では、北野武監督の映画「座頭市」、「アウトレイジ最終章」など。     「座頭市」でのタップダンス、リズムを作ってそれに私が足していった。   数年前に中国の映画音楽を二つやりました。  中国の音楽と日本の音楽を混ぜたりしました。    音楽は言葉にできないので、まず作って聞いてもらっていいのかどうか、監督によって注文が入るものもあります。    映像はまず見ます、それから作曲に入ります。  映画音楽をやるようになってからは抽象的な音楽の鳴る映画が好きです。  映画「メッセージ」の音楽は非常に抽象的です。   「座頭市」はいろんな要素を盛り込む必要があったけれど、「アウトレイジ最終章」はクールな無機的な音で行けたので、非常に楽しめました。  

「ムーンライダーズ」は大切な場所です。  なんでこんなに長くやっていたのかと言うと、みんなが大切だと思ったからじゃないですか。  特にリーダーと言うのはいないです。  2013年12月17日、メンバーのかしぶち哲郎さんが亡くなってしまいましたが、非常に悲しい出来事でした。   バンドにおいて経験は忘れちゃってもいい、忘れるから若いメンバーに助けてもらう。   忘れることは次に何かを作ろうとする。  吐き出して新しい音楽を聴いたり、映画を見たりすることによって新しい情報を入れて行って、それから作り出す。  困った時だけ経験をなでさするようにする。   これからやりたいことは11年休んでいたので「ムーンライダーズ」を死ぬまで行きましょう、という事です。

2022年7月23日土曜日

高階秀爾(美術評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

 高階秀爾(美術評論家)         ・【私の人生手帖(てちょう)】

1932年生まれ、西洋美術史の大一人者で研究や評論に大きな功績を残していました。   東大教授や国立西洋美術館館長などを歴任し、2012年には文化勲章を受章、20年の秋からは日本芸術院院長、岡山県倉敷市の大原美術館の館長は20年に渡って勤めています。   絵は観ると同時に読みとくものと言う持論と共に、高階秀爾さんが美術の道に進んだきっかけや、評論の奥深さなど、これまであまり語ってこなかった自身の人生について伺います。

日本芸術院院長、岡山県倉敷市の大原美術館の館長の仕事や、展覧会を回ったり、夜は執筆活動もしています。  「走るな、転ぶな、風邪ひくな」ということを考えて、健康の秘訣にしています。  国立西洋美術館がリニューアルして2年半ぶりです。  松方コレクションと言って、松方さんが集めたフランスの美術、戦争中フランスに接収されてしまったが、それが帰ってきて美術館を作ろうという事で美術館が出来て、その時に私もフランスにいたけれども、呼びもどされて就職しました。  受付、切符売り、お客さんの整理などいろいろやりました。    ミロのビーナスが来た時には上野の山は長蛇の列で、その整理や、夜はミロのビーナスを交代で宿直して寝ずの番をしました。   

西洋の美術は本当に身近になりました。   複製も立派になりましたが、やっぱり実物が持っている力、魅力はやっぱり本物見ないとわからない。  絵を一か所に集めて並べて本物を見る力、これは大きいなあと思います。   日本人は昔から美術作品を観るという事は好きなんですね。  奉納絵がありましたが、絵の魅力を教えると同時に文化、心の世界を伝える、美術館の仕事はそういう仕事が非常に大きいなと思います。  絵を読み解くのが大事だと思います。  

終戦が中学2年でした。 父は高等師範の哲学の先生をしていました。 家には哲学、文学関係の本がいっぱいありました。  父からは素読という事をやらされました。  説明はなかったが段々そのうちに理解していきました。  子供にも日本古典を暗記させました。 東大にいる時には絵を読む方法、絵を読み解く方法をいろいろ教えているので、美術を観る目と言うのは、同時に読み解く目で、それは私の活動の基礎で、今でもそうだと思います。

秋田に母、姉、妹と共に疎開しました。  角館中学に通いましたが、稲作の手伝いなどをしていました。  2年間秋田にいて、東京に戻ってきたら、父が公職追放という事になり、出版関係のアルバイトなどしました。  私もアルバイトをして大学に行きました。  名画座で映画をよく観に行きました。  フランスに憧れて留学試験を受けました。    パリに行って勉強に合間に映画観、ルーブル美術館などに行ったら、絵が凄いと思いました。   歴史、物語、人々の祈り、技術、が入っていて、調べれば調べる程ということで美術の研究をしました。   2年間いました。  その後は自分でアルバイトをしながら残りました。    文学の物語ともかかわりあって、ダンテの神曲とか、絵と結びついて来るわけです。  心の世界を広げてくれる。   シェイクスピア全集を読んだり、バルザックなど読んでいました。  

絵の理解は一目見てわかる部分と、後で考えてわかるものなどいっぱいあると思います。  繰り返し見ながら、それを自分がどう受け止めるか、という事だと思います。   5年間パリにいました。     自分自身にとって身体と精神の育った時代だったと思います。 美術史と評論を重ね合わせなければいけないという事を感じました。   美術作品と言うものは例えば歴史の上での生き証人みたいなものだと思います。  絵はものを言わないがそれにものを言わせるのが歴史家なんです。 評論家は美術作品が持っているものが、どういう意味を持っているか、今の我々にどう訴えるか、それを考えるのが評論の仕事だと思います。   美術史と評論を重ね合わせる必要があると思いました。    大事にしていることは自分の感覚に嘘をつかない、しかしそれが唯一とは思わない。   謙虚でありながらしかし自分を崩さない。  美術評論も時間をかけた嘘を付かない職人仕事だという風に言えるとも思います。   職人の道具に当たるものは言葉で言葉が大事です。   

「ピカソは剽窃の作家、美術だ。」  ピカソ:剽窃の論理』と言う本にしました。

剽窃:他人の著作から,部分的に文章,語句,筋,思想などを盗み,自作の中に自分のものとして用いること。 他人の作品をそっくりそのまま自分のものと偽る盗用とは異なる。)

ピカソは自分の世界を広げるために使ったんです。  それを私は剽窃と言う言葉を使って、ピカソの世界を知るためには必要なことだと思いました。   

戦後松方コレクションのない時代にピカソ、マチス、ブラックなどの展覧会を日本でやった時には東京、京都、福岡の博物館を借りてやりました。  大原美術館でもやりました。 大原美術館も92年になります。   若い人への援助などもやっています。 

2022年7月22日金曜日

中澤英高(友禅染作家)         ・友禅染に個性と新風を

中澤英高(友禅染作家)         ・友禅染に個性と新風を 

1941年東京生まれ、1947年に千葉県松戸市に引っ越しました。   大学の工業衣装科を卒業後、友禅染の職人であるお父さん福蔵?さんの元で修業を重ねました。   しかし伝統的な職人芸に飽き足らず、30代後半から着物の図案から仕上がりまで一貫して創作する友禅染め作家の道を歩み始めました。  1981年に日本伝統工芸展に初入選し、1986年には日本工芸会正会員に認定されています。   その後も文化庁長官賞、又21世紀伝統工芸世界工芸展で最優秀賞など多数の受賞歴があります。   筑波大学聾学校、現在の聴覚支援学校の染工科で10年間染色指導されているなど後進の育成などにもあたってきました。  

暑い夏に時期になると秋の展覧会に備えて又今年もかなと言う思いでいます。  私が出したのが第29回で今年が第69回で40年目の節目になります。  日本伝統工芸展です。  着物の一反が13~15mあります。  それを引っ張るにはそのぐらいの距離が必要で、土間でした。 濃い染色だと家が汚れる。  のりが適度な湿度が必要で、土間ですと自然の湿気でもって、のりが程よく戻る。  そういった理由で土間での作業となります。   今は仕事の量も減ったので板の間にしました。 

2月11日松戸市の教育委員会主催で松戸の作家の総会講座で、「一期一会」をテーマに話をしました。  市として美術館を新しく作りたいという思いがあり、その一環の一人として話すことになりました。   友禅染の作品も展示しました。  自然をテーマにした創作もの3点です。   

友禅染ですが、元禄のころ友禅斎(宮崎友禅)と言う禅僧が、寺の門前で白扇に絵を書いた、墨絵ではないかと言われている、それが巷で流行したという原点があります。   それまではほとんど刺繍と絞りでした。  費用と時間が掛かり、出来た着物も重かった。   描くことで図案が着物のなかで表現されるようになった。   そのころは尾形光琳とか文化が繁栄した時代でした。  素描が着物の中で流行した。  それが友禅染と言う言葉で今日あるわけです。   素描だったところに縁にのりで輪郭を取って、その中に色さしをするという形になりました。   

小学校時代は絵が好きでした。  大学の衣装科を出て、或る織物の大手の会社に就職しようとしたところ、家に帰って父の仕事を見た時に、父の仕事を離れられないと思いました。父親から師事されました。 「黙ってみてろ」とそういったことがしばらく続きました。  段々仕事も覚えて行きましたが、ほとんど座りきりの仕事の世界なので世の中の動きが判らないわけです。    最初は現金で振りこまれていたものが、小切手になり、手形になって行って、36,7歳のころで、このままではいけないなという直感があって、大きな転機になりました。   父親に辞めたいと申し出ましたら、大変怒りました。 結婚して子供が幼稚園ぐらいの時でした。   小山さんとの出会いがあり、(後で判ったが、伝統工芸展の重鎮の一人だった)伝統工芸展への参加を求められました。  初出品迄3年かかりました。  その間に伝統工芸展を見た時に友禅染でもこんな表現があったんだと驚きました。自分が出品したのが第29回で、今までどうして知らなかったんだろうと思いました。   1981年に初めて入選しました。(40歳)   1986年には日本伝統工芸会の正会員になりました。 

職人時代と創作の世界に入った違いは色々ありますが、創作に入ると物は売れないので、経済的には困りましたが、作る喜び、生きる喜びは職人時代には全く感じなかったのが、喜び感は有りました。    父との葛藤がありましたが、何度か工芸展で入るようになってからは、或る時父が「俺もやってみる」という事で創作活動を始めました。  その年にいきなり作って出して入選したんです。  それが何年か続いて、伝統工芸展に二人並んで、作品が展示されたりするんです、この時には感動しました。   その後銀座でギャラリーを借りて親子二人展を毎年開きました。    それからお客さんとの出会いが多くなりました。  

友禅染の技術を次の世代に残していきたいという思いで取り組んでいます。   東京芸術大学の中野正樹?さんとの出会いがあり、小さなマンションの一室を借りて、若い人を相手に教える事になりました。 新しい縁がいっぱいできまして、スケッチ旅行にも連れていってもらいまいた。   

1975年から84年にかけて、筑波大学聾学校、現在の聴覚支援学校の染工科で染色指導をしました。   ボランティアで2年間の予定が10年間勤める事になりました。  相手が聞こえないので意思の疎通が難しかったが、ものを作る姿勢を見せているうちに興味を持って作るようになっていきました。    横浜から通っていた女性がうちに通いながら10年ぐらいして、工芸展に出して4,5回入りました。 彼女は横浜の文化人として表彰されました。   「見ただけで好き嫌いをいうな」と言っています。   「毒でないかぎりまず口に入れて見ろ」と言っています。  「厭だったら吐き出せばいいし、悪いものなら自然に出てしまうから。」   「アンテナを張って、花がきれいならばどこがきれいなのか、葉っぱはとか、細かい目線を持っていると捉えることができる」と言っています。   


2022年7月21日木曜日

増田惠子(歌手)            ・【わたし終いの極意】 過去の私を抱きしめて

 増田惠子(歌手)          ・【わたし終いの極意】  過去の私を抱きしめて

1976年にピンクレディーとしてデビューします。   その活躍、社会現象にもなりました。   その後ソロでビューを果たしてから今年で40年、記念アルバムをリリースするなど精力的に活動しています。 

「Del Sole」    歌:増田惠子

「それより踊ってみて 過去をかかとで蹴り上げて あなたのそのつま先 前を向いてゆくでしょう」 という出だしの歌詞がかっこいいですよね。  私も元気を貰える歌詞です。   嬉しかったことや悲しかったことが沢山ある、そういう私と45年間ずーと私を応援してくれたファンの方々と一緒に生きてきたその自分が自分の両手で優しく抱きしめて、そしてまた一歩一歩前に進んでゆく、大丈夫よこの道は、だからみんなついていらっしゃいよっていう、だから恵ちゃんがそういってくれるからついていきたいなって思ってもらえるようなこれからの人生を喜びを分かち合い、悲しみはかかとで蹴り上げようって、「そしてこれから・・・」にしようと決まりました。  

40年前は24歳で、デビューして「ペッパー警部」からの4年7か月は壮絶な時間でしたが、誰にも経験できない素晴らしい時間を二人で紡いできたんだなという事と、その後ソロデビューしてからも沢山の人に恵まれ、有難いと言うしかありません。   40年、いとおしい時間でした。   30代後半までは体はトレーニングしていましたが、ボイストレーニングはしていませんでした。   或る時ミュージカルをやる機会があってボイストレーナーに付きました。   ボイストレーニングすることによって効果はわかりませんが自信にはなっています。   

1976年8月末にデビューして、踊って歌って好きなことをやらせていただいて、これは頑張ったなあと思うのは初めての武道館コンサートでした。  1977年の暮れでした。 一か月前から背中とかが痛くてスタジオの前で倒れてしまいました。   緊急手術で腹膜炎でした。   トイレに行く時間がないほどだったので痛くても病院に行く時間などありませんでした。   腹膜炎なので縫えないので傷が開いたままガーゼを詰めて毎日3回交換して、2週間の入院を要するところを8日間で退院して、翌日リハーサルしてガーゼのところにラップを巻いて、衣装を着てステージに立った時には、もうここで死んでもいいと思ったほどで一番幸せだったという経験でした。    絶対無理だと思っても人間やる気に成ったら何でもできるんだという事、それが人生の教訓と言うか、23歳までに経験した教訓でした。 その後は何が起ころうとへっちゃらでした。   いろんなことをプラスに考えられるようになったのも、あの4年7か月があったからだと思います。  

私が3歳の時に父が交通事故で亡くなってしまって、6歳上の姉と3歳上の姉がいて、母が働かなければいけなくなって、母の姉夫婦に預けられて土日に母が迎えに来て家に帰っていました。  3年間続いて、小学校に上がる時に家に戻る事になるとおばさんが悲しいという事を聞いてしまって、いろいろ考えておばさんのところにいることに自分で決めました。(本来は小林ですが、増田恵子になりました。)  歌手になりたいという夢があり、中学、高校と本格的に歌の勉強を始めました。   母は歌手になる事には応援してくれましたが、叔母は芸能界に入ることは反対して、仲たがいするようなこともありました。  母が「寂しい思いをさせた分なんでもしたい」といってくれたことが凄く力になりました。

叔母は子供がいなくて2001年に亡くなりました。  母は10年前6月に93歳で亡くなりました。  1カ月に一回は母のところに行くようにはしていました。  或る時に夫婦喧嘩をして母のところに行き、話をしようとしても自分のことばっかり話をして、私は話す機会を逸してしまって諦めて、帰る段になって玄関で後ろ向きで靴を履いていたら、「恵子、あんなに優しくて素敵な旦那さんはいないから一生懸命尽くして可愛がってもらわないと駄目だよ。」とい言われた時には号泣してしまいました。(判っていたんだと思いました。)  その1年後に亡くなってしまいました。   

独りであろうと家族があろうと、結局独りなんだなと思います。  本当の意味での終わってゆくという事はやっぱりある意味孤独と言うか、やっぱり人間は母の力で生まれるが、でも独りで産まれて独りで天に召されてゆくんだなあと感じました。   自分で生きてきたことに自分なりの誇り、一生懸命生きて来たという誇りみたいなものがあったから、それを上手にたたんでしなやかに逝ったんだなという感じがしました。   辛いことも悲しいこともあったけど、それが全部自分の心の財産になっているなあと、50歳過ぎてから思うようになりました。  歌詞の理解力も変わって深く変わってきました。   

若干体力、気力が弱くなってきたのかなあと感じて不安な面もありますが、それよりふくよかになった自分の感情とか、心の動きみたいなものが自分としてはどっしりあるので、若干体力、気力が弱くなっても(元気過ぎるところもあるので)、むしろ周りが安心して見ているのではないかと思います。   

12種類ぐらい薔薇を育てていますが、特に白薔薇が好きで、私が育てられている様な感じです。   花であれ息をしているんで、愛情を沢山かけている分、返って来ます。   若い時には正直すぎて生きづらいところもありましたが、薔薇の茎のように嵐とかに逆らわないで、しなっていれば、柔らかさがあれば、茎はまたまっすぐになって凛として咲いてくれる。   私もこのように生きて行きたいと思いました。

わたし終いの極意としては、笑顔が輝く人生を、という感じですかね。   私が輝く笑顔でいれば、伝染してみんなが輝く人生になるだろうという風に思って、天に召されても皆さんの心に輝くように焼き付けてやれと思っています。  40周年と言っても気負いはなく、ファンの皆さんと一緒に時間を紡いでいきたいし、ファンの皆さんにも恵ちゃんと一緒にこれからも歩いていきたいと思ってもらえるような私でありたいと思っています。


2022年7月20日水曜日

宮本慎也(プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】 意識を変えれぱすべてが変わる ~宮本慎也の野球論~

宮本慎也(プロ野球解説者)       ・【スポーツ明日への伝言】  意識を変えれぱすべてが変わる ~宮本慎也の野球論~ 

PL学園高校の時に全国優勝を体験、進学した同志社大学では神宮大会で優勝、プロ野球ヤクルトスワローズに入団してからは中心選手として3回の日本一に貢献するなど、輝かしい経歴を持っています。  個人としても守備の名手に贈られるゴールデングラブ賞を10回受賞、打者としては41歳5か月の最年長で2000本安打を達成しています。  宮本さんが野球を続ける中で大きな影響を受けたのが、プロ野球新人時代の監督だった野村克也さんだったと言います。  「意識が変わればすべてが変わる。」 野村監督の教え、宮本慎也さんご自身の野球への取り組み方などを伺います。

PL学園高校時代、寮生活だったので1年生の時には凄く厳しくて、2年生からは自分の練習もできますし、中村監督は甲子園へのことは言いませんでしたが、選手は甲子園へ出るだけではだめ、日本一目指していました。   2年生の時には春夏連覇をしましたが、3年生の力で優勝しています。  自分が3年生の時には甲子園には行けませんでした。  

小学生の時にはピッチャーで、中学では3球投げて首でした。  内野手になり、PL学園では1年先輩に立浪選手がいました。  何をやってもうまかったです。   相手に対する気遣いの凄い選手でした。  近づきたい一心でよく真似をしました。  プロになって最初にあった時に「お前がプロに入って来るとは思わなかった」と言われてしまいました。  

同志社大学ではいろんな野球があるんだなと経験させてもらいました。  プロ野球を目指すのが野球だと思っていましたが。  4年生の時にキャプテンをやってまして、勝てばもう一試合やれるところを僕がミスをしてしまって負けてしまって申し訳ない気持ちでした。 今でもその時のミスの感覚が残っています。   

当時生きてゆく術みたいなものは野村監督のお陰で、教えていただきました。   1994年のドラフトでヤクルトスワローズに入りました。    ミーティングは興味がありましたが、最初に言われたのがプロ野球選手である前に、一社会人だという事を言われました。  考え方、取り組み方、人とは、と言ったところから始まります。   野村野球とは何だと言われると、プロセス野球だと思います。  準備ですね。  いい結果、悪い結果に対して反省をしてそして新たに準備するという。   プロセスの段階で説明できないと凄く叱られます。   最初の頃はこれをやったら監督が怒るのではないかと、監督と試合をしていました。  野村監督から離れてから、今監督はどうしたいんだろう、僕がどう動けばチームがいい方に行くんだろうとか、そういう風に考えられるようになりました。     

身体の線が細くて(身長176cm、体重68kg)、入った時にこれではレギュラーは取れないと思いました。  監督が思ったように動ければゲームに出れるんじゃないかと思いました。   脇役の一流を目指そうと思いました。  自分でコントロールできる部分はプロセスだと思うんです。  技術的な努力、試合相手のデータ、自分がどう思われているか、と言ったことは自分でコントロールできる。  結果に対してはコントロールできない。  コントロールできることを100%に近い努力をしろと、言うところです。  

バッターのカウントに対する心理的なことなどをミーティングでやるわけです。  臨機応変に、相手とこちらの力量、状況応じてどんどん変わるので、しっかり頭の中で考えて整理してやりなさいと言われます。   変えるという事は怖さがあります。   「今の若いものは・・・・・」と言う言い方はするなと野村さんは言っていました。   僕の場合はつい言っちゃうんですが、でも現代っ子の考えも必要です。  

野村さんが亡くなられたのが2020年2月。   アテネ、北京オリンピックにキャプテンとしていきましたが、アテネは年齢層が近くて伝わりやすい方でしたが、北京では若い選手もある程度いてバランスが難しかった。   負けて凄くたたかれましたが、勉強にはなりました。  その時には臨機応変さは余り自分にはなくて、臨機応変さは身に付けないといけないと思いました。  

アマチュアの選手はどうやって取り組んでいるのか、どういう風にしてどういう風な選手になりたいのか、そこをまず理解してあげないとアドバイスできない。  いかにコミュニケーションを取るか、上手くできるかが大事です。  技術論も変わってきているので、判り易く説明してできないかなあと思っています。   打てないからと言って落ち込んではいられない、打てなかったら練習すればいい、反省してどうやったらいいか、それの繰り返しだよ、ずーとうまくはいかないから、失敗した時にどうやって反省して立ち上がってゆくかの方が、人間としての強さが身に付くんじゃないの、と言った話もします。

2022年7月19日火曜日

西里俊文(養護学校教頭・書家)     ・個性を大切に、認めあう

 西里俊文(養護学校教頭・書家)     ・個性を大切に、認めあう

西里さん(52歳)は青森県立八戸第二養護学校の教頭先生で書家でもあります。  1999年(平成11年)に5人の教え子と一緒に書道会を開いて今年23年経ちました。   

3月までは八戸聾学校で教員をしていました。  書道会はボランティアで教えています。  障害のある子が約8割ぐらいです。  現在は33人います。   最初は自宅を開放してそこでやっていました。  その後近くに家を建てたので、そのまま引き続きその家で教えています。    学校で書道を教えていましたが、或る子が続けたいといことでそこからスタートしました。   最初は書き順にこだわったりしましたが、なるべくいいところを引き出して作品つくりをした方がいいのではないかなあと思って、転換して教えてきました。 

「俊文書道会」では子供たちがいろいろ展覧会で賞をもらっています。  自身も2007年に第41回高木奨励賞、読売教育賞、人間力大賞、博報賞、毎日書道展賞などを受賞。  2020年障害学習支援活動に係る文部科学大臣表彰を受賞。  

「僕の中にライオンがいる」、「おならは友達なのだ」「なんでだろう心が一つに成れるのは」・・・・・等々、かなり好き勝手な文章のようなんですが、各会員さんと書く時に会話をして、いろいろ引き出してそれを作品にしたいなあと思って、そうすることでその人の個性とか、思いが作品の中に入って、いい作品が出来るのではないかと思ってやっています。「僕の中にライオンがいる」と書いた会員さんは筋ジストロフィーで電動車椅子で通ってまして、訥々と話しているなかで出来ました。  「筆文字で伝えたいことば大賞」を受賞しました。    メッセージ性のある作品だと思っています。  

個人の特性を生かしながら文字を選んだりしながら作品を作っていきます。  大きいのは全紙、縦が136cm横が70cmを2枚貼って、墨まみれになってもいいという感じでやっています。  青空のもとで書いたりもしました。  作品集「凸凹の書」 誰も凸凹を持っていると思いますが、凸凹の良さを磨いて指導の方がいいと思っています。   

うちの会の20周年と重なって2020年のパラリンピックがあるので、展示会を開こうと思ってましたが中止になって、2021年にもできなくて、2022年にできないかと再度会場を押さえているところです。  7月29、30,31日と行う予定です。  大きな作品は横が10m縦が4.8mが2点、8m級が3点あります。   褒めてもらう事が次につながると思いますので、展覧会は大事だと思っています。    

北海道出身で松前で生まれて、函館、その後弘前に住みました。  大学が弘前大学で、理学部です。   書道は小学2年から近くの書道教室に通っていました。  その後もずーっと続けて大学では佐藤先生と出会いました。  24歳で肢体不自由な養護学校に行きました。  教育をしながら書道は続けました。   そのなかでいろいろな賞を頂きました。    会員さんのエネルギーを糧に自分の作品に落としこもうかなと思っています。   養護学校に5年その後聾学校に7年第二養護学校に8年、聾学校に8年そして今年4月第二養護学校に戻りました。   高校で書道の先生を希望しましたが、特別な学校でそこで頑張れと言う風に思って、今は感謝しています。     

それぞれの会員さんの特性に応じて調整する場合もありますが、ない場合は上手く交われるようにしています。   うちの会員さんの何人かでユニットを作ってコラボの展覧会をしたいと思っています。   交わったことがない会員さん同士が交わって一つの展覧会を作るという形で展開していきたい。   いろいろな交わりをきっかけにして広がって行ければなあと思っています。   自分は書で成長させていただいたので、書で恩返しができればいいなあと思っています。


 


 

2022年7月18日月曜日

福田栄香(地歌筝曲演奏家)       ・【にっぽんの音】

 福田栄香(地歌筝曲演奏家)       ・【にっぽんの音】

案内役:能楽師狂言方 大藏基誠

1964年東京都出身  祖父は尺八名手荒木小童、祖母は地歌筝曲初代福田栄香       2009年に祖母の50回忌、父の7回忌が重なった時に、福田栄香の襲名公演を行いました。 琴や三味線は父親福田種彦より習いました。  

三味線は16世紀のころ中国から沖縄入って来ました。  琵琶法師が三味線を教わる事になって、その後バチを使うようになって17世紀に入ったころに三味線が人々に伝わりだした頃に、純音楽として栄えた芸能と言われていて、純音楽はお芝居の伴奏ではなく純粋に聞くための音楽と言う事で、地歌とは人々が生活する中で心情、男女の情愛、土地の景色、季節、風習、名物、文学、能、歌舞伎とかいろんなものを題材にして弾き歌いで演奏する三味線の音楽です。  今でいうポップスみたいな感じです。  

お琴は奈良時代に中国から入って来ました。  長く雅楽の楽器として使われてきて、平民には伝わる物ではなかった。 平家の滅亡と共にその逃亡者たちによって北九州にもたらされたと思われます。   17世紀になって八橋検校に渡って、八橋検校は音楽の専門家で三味線弾きでした。  手渡されたお琴を改良したり、作曲したり、創作したりして、本人は三味線も弾いてお琴も弾いていましたが、門下の人が一緒にして音楽性をもっと豊かにしようとしました。  お琴と三味線を前提にしていろいろ作曲されて行き一つのジャンルになってゆきます。  

持ってきたこの三味線は三弦と呼んでいます。  竿の太さ、胴の大きさも違いがあり、細竿、中竿、太竿と分かれています。  細かい技巧の長唄は細竿、太い迫力のもの(義太夫、津軽三味線)は太竿、地歌は中竿を使います。  中竿は音程も中音域で艶のある響き、余韻の味わい、さわり(共鳴)があります。

地歌の特徴は一つ一つの音節が長く伸ばす特徴があります。  一音の母音にも細かく節がつけられています。  地歌の発祥が髪形なのでイントネーションは関西風です。

*「雪」   歌、三弦:福田栄香

雪のシーンでよく流される曲です。 しかし地歌では鐘の音なんです。 

演奏と語りを融合させた歌語りという演奏会をやっています。  

*「夕顔」(源氏物語をもとに)の歌語り   歌、語り、三弦:福田栄香 

高校卒業後、ミュージカルに魅力を感じて身を入れたこともありますが、或る時父親の演奏で涙が止まらなくなってしまってとても感動したことがあって、戻ろうと思いました。

*「楓の花」  歌、琴(低音):福田栄香

日本の音とは、間の精神性と言うか美学と言うか、それが大きな要素になって成立しているもの、そこに日本の音、日本の音らしいものを感じます。  抽象的な表現ですが。


2022年7月17日日曜日

tetoteto(おむすびユニット)      ・【美味しい仕事人】 命のおむすぴを伝える

 tetoteto(おむすびユニット)      ・【美味しい仕事人】 命のおむすびを伝える

おむすびは私たちにとってソールフードともいえる存在の食べ物ですね。  東京や神奈川県を中心においしくて元気の出るおむすびを知って貰いたいと、活動しているおむすびユニット tetotetoのお二人のお話です。  井上由美子さん(54歳)と溝口裕子さん(50歳)は子供が幼稚園の時に知り合った20年来の友人です。  二人は命のおむすびともいわれるおむすびと出会って、そのおいしさを広く伝えたいとおむすびの会の活動を始めました。  おむすびユニット tetotetoのお二人にお話を聞きました。  

月に2,3回、多い時には4回ぐらい開いています。  募集はSNSとブログでお知らせしてメールで申し込みいただいています。   町田市のマンションの一室をお借りして開催しています。   6人が定員です。    お米を洗うところから見ていただいて、水加減が重要なので見ていただいて、梅干をほぐす、のりを切るところを皆さんと一緒にやって、おむすびをむすぶところをやります。    私たちが作ったお味噌汁と季節のお野菜みたいなものを乗せ、それをみんなで、食べるという感じです。  「おいしい」と言って食べてくれます。   佐藤初女さんが活動のきっかけになっています。  東京、神奈川以外でも声を掛けられて、遠いところでは茨城県、千葉県などへ行きました。 仲間が増えて行っている感じです。   

自分たちの長男、長女が、幼稚園で一緒でそこで知り合いました。(22,3年前)   溝口さんの運動会の時のお弁当が凄くかわいかったので声をかけました。  それがきっかけでした。  幼稚園のバザーに一緒に出さないかと誘ってtetotetoと言う名前を付けて出品しました。    おむすびの会を始めたのは2015年2月です。   

川崎のフリースクールがあり、お菓子を作るのを手伝いに行っていました。   佐藤初女さん(92歳)におむすびを教えていただきました。

参照:https://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/12/blog-post_6.html  

お米を洗うところからすべてみましたが、衝撃的でした。  作業と言うのではなく優しく対話するような感じでした。  食べて本当においしかったです。  これを共有したいという思いが起きました。  

佐藤初女さんは1921年に青森県で生まれ、小学校の教員を経て、1979年に弘前に染色工房を主宰されました。  1983年に自宅を開放して弘前「イスキヤ」を開設、1992年には岩木山の山麓に「森のイスキア」を開く。  助けを求める人を無条件に受け入れて、食事と生活を共にすることで多くの人を再出発させたという方です。  そこで登場するのがおむすびです。   「ものに優しくすることは自分に優しくすることなのよ」と言った言葉が心に残っています。   同じ命として自分のことのように扱う。  自分にとって痛いことを食材にもしない、皮をむく時にも優しくむきます、お米が吃驚しないようにお水もやります、すべてそういった感じです。   

優しく洗って30分置きますが、その時のお米を見て水加減を決めます。   梅干も海苔も丁寧に扱って、器にご飯を移して専用茶碗にご飯をちょっとずつ呼吸ができるようにと、入れてゆきます。  それを濡らしたまな板の上にひっくり返します。  梅干を入れて、手水をつけて丸の形にします。  海苔は正方形に切って上と下から貼ります。 真っ黒な丸いおむすびが出来上がり、タオルでちょっと寝かせます。  お米一粒一粒の味がします。

ゆっくり行動してみる、或る作業を一瞬ゆっくりやっただけで気持ちが落ち着くような気がします。  自分を大事にすることで人も大事に出来、食材なども大事に出来ると思います。   



2022年7月16日土曜日

宮本祖豊(比叡山観明院住職)      ・自分を見つめる

宮本祖豊(比叡山十二年籠山行満行者・比叡山観明院住職)・自分を見つめる

滋賀と京都にまたがる比叡山に天台宗の総本山延暦寺があります。  宮本さんはその延暦寺に開祖である最澄の時代から1200年間伝わる厳しい修業十二年籠山行の戦後6人目の満行者です。   比叡山の荒行と言いますと千日回峰行がよく知られています。  山中を一日およそ30km歩きそれを千日間7年かけて行う事から動の荒行と言われています。   一方宮本さんが成し遂げた十二年籠山行は静の荒行と言われます。   最澄の廟がある浄土院と言うお堂に十二年間1歩も外に出ず、たった一人で最澄の魂に仕え途中で辞めることも許されません。   宮本さんは北海道出身の62歳、1997年37歳の時にこの行に入りました。  それから12年およそ4500日の間勤め抜き、満行者となった時49歳になっていました。  長く孤独な修行の中向き合ってきたのは、自分自身の心だと言います。  宮本さんに修業に奉げたその半生と心を見つめる事の大切さについて聞きました。

今も毎日比叡山にお勤めに行きます。  子供のころから物理学に興味を持っていました。  高校卒業した時に大学受験でつまずきます。  それがきっかけで宗教の道に入りました。  自分自身を振り返った時に、東大に入れるような頭もないし、決して豊かな家庭ではなかった。   自分は徳の少ない人間だと思いました。    自分の人生はこれでいいのか、自分とは何なのか、生まれてきたのは何なのか、と言う思いがありました。    徳を積む人生、それに時間を費やしたいと思った時に、ひらめいたのが宗教でした。   北海道では神社仏閣よりもキリスト教会の方が多い。   洗礼を受けているわけでもないし、もっと入りやすい仏教を考えました。   仏教の本を読んでどんどん惹かれていきました。 

最澄が19歳の時比叡山で修業した時に書いた「願文」と言うものがあり、読んだ時に感銘しました。   「この世界は苦しみばかりで安らぐことなく、思い悩むばかり。  生まれてもその身体は儚くそして移ろいやすい。」 こうした無常観を詠う文章から始まります。1200年前にこんな人が居たんだと、それに1歩でも半歩でも近づきたいと思いました。  最澄が行なったように自分も十二年籠山行をやって自分を見つめてみたいと思いました。 仏教に入ることに対して両親は反対していたので、書置きをして出ていきました。  延暦寺へ何とか入れてい貰いましたが、或るきっかけで追い出されました。   お坊さんになりたいという思いが強すぎて、まだそういう段階ではないという事だったようです。   1か月ほどして再度お願いして許されました。  

34歳で住職の資格を得ました。   十二年籠山行に入る前に通らなければいけない修業がありました。  好相行です。  身も心も清らかにするためのお経です。  3000もの仏様を一仏一仏唱えながら、一日3000回五体投地で礼拝します。 五体投地は直立した状態で合唱を行い両膝両肘額を地面につけ、再び立ち上がって合唱するという礼拝方法のことです。  これを不眠不休で仏の姿が見えるまで行うと言います。  好相行に入った僧侶には3か月ほどで仏の姿が現れ満行すると言われてきましたが。私は3年を要することになりました。   

最初は元気ですが1週間ぐらいすると段々幻覚を見るようになります。   トイレ、水を被って沐浴、食事以外はお堂にこもって寝ないで五体投地で礼拝します。  4か月経っても現れてこないで、9か月でも現れてこなくて、やせ細ってきて、一旦中断して体力の回復を待つことにしました。(その間一日1000回ぐらいは行います。)   体力が戻って再度一からやり直しです。   9か月経った頃に真冬に2回目のドクターストップがありました。  又3度目を再開しました。  1か月程度過ぎた頃に目の前に仏様が現れました。   直感的に阿弥陀様だと感じました。  これを経験した先輩たちに報告しますと、これは本物であると認定されると満行者になります。

人間遠くを見過ぎたり、考えすぎたりすると自分自身が落ち込んでしまったりします。  今日一日だけ、あるいは一瞬だけ5分30分とかを全身でもって受け入れる、こういう風に思うと人間は何とかなるものですね。   24時間寝ないでしかも体を動かす、こういったことをすることで必然的に思考が止まって来る、我のない、無我の状態になります。  そういった状態の時に目の前に仏さまが現れることがあります。  仏様が見えるという事が目的ではなく、自分の心を清めてゆく、清まった印として見えるという事で心を清めてゆくという事の方が大切です。  

好相行を経て初めて取り組む事が出来る十二年籠山行、比叡山の山中にひっそりとたたずむ浄土院というお堂の中で行われます。  独り12年の間過ごす事になります。  39歳の時に十二年籠山行に入りました。   朝3時半に起きて、4時から1時間のお勤め、最澄様に朝ご飯を差し上げ、6時半から阿弥陀如来様の供養、日本国家の安泰、世界平和の祈願、10時に昼食を最澄様に差し上げる、境内、建物内の掃除、4時からお勤め、5時に門を閉めめ、仏教の勉強、座禅、写経をして9~10時に寝ます。   同じことを365日12年間続けます。   淡々と時間を感じない世界で生きている。    一番問題なのは体力が落ちてゆく、病気になったからといって降りて行って治療してもらうわけにもいかない。   自分の心を知ることがまさに修行であって、ただ食事を作る、掃除をするというのでは作業であって、そういった事では一歩も前に進まない。  自分自身と言う感覚がなくなれば、自然と一体となり孤独ではなかった。   他人のために他人のことを考えて何かをする、自分を捨てるためのいい手段と言う風には思います。(利他の心)  「一隅を照らす」と言う言葉がりますが、自分がやる事で周りをちょっと照す、そうするとどんどん周りが明るくなってゆく。  基本は一人一人です。  自分自身を見つめることで、自分の中の光を感じて、それでもって自分を照らせば当然周りの人も照らしてゆく、周りの人も自分自身を照らしてゆけば全部周りが明るくなる。   一日一回、目の前に5分でも10分でもいいから自分自身を振り返る時間を持っていただきたい。  そうすることで自分自身の新しい発見、気付きがあって、変わっていきます。  

2022年7月15日金曜日

梅津時比古(音楽評論家)        ・音楽も人生も自由に

梅津時比古(音楽評論家)        ・音楽も人生も自由に 

1948年神奈川県生まれ、音楽好きの両親のもとで育ち、小さいころからピアノやヴァイオリンを習いましたが、演奏家は目指さず、音楽評論の道を歩もうと早稲田大学第一文学部で西洋哲学を学びました。  卒業後は新聞社に入社し、新聞の音楽欄を担当、現在も特別編集委員として、音楽コラムを執筆しています。  またコンクールの審査や各地の音楽ホールの運営のアドバイスにも携わり、2013年4月から桐朋学園大学学長に就任、3期9年務め、今年の春退任するまでに大学院の設立やコンサートホールの建設などに尽力しました。   ドイツ歌曲を中心とした著書も多数あり、中でも2007年に発表したシューベルトの『冬の旅 24の象徴の森へ』が日本人として初めて本場ドイツで出版されるなど、国際的にも高い評価を受けています。

この春に出版したのがシューベルト作曲に歌曲「水車小の美しい娘」についての著書。   美しい水車小屋の娘」とほとんど訳されてきました。  原題では美しいが粉ひき屋さんの娘さんに直接かかるんです。   美しい水車小屋の娘」だと美しいが水車小屋にかかるのか娘にかかるのか論理的にははっきりしない。  水車小屋は童話的な小屋ではなくて、かなり大きな製粉工場なんです。   大きい水車では直径が12mぐらいのものもあります。  刃物を鍛造する水車小屋もありました。   人里離れた水車小屋がよからぬ人たちが集まる場所というイメージなんです。   人里離れた水車小屋はエロティシズムの対象になっていた面もあるんです。   そういったものは日本の文献等、表だったものには出てこない。  日本には伝わってもないので、水車小の美しい娘」とするきっかけだったわけです。   

シューベルトは詩を通して良く判っているんです。  水車小の娘を救済するという形で作曲しているんです。  25話あるがシューベルトが選んだのは20話で、省かれた5つを見てみるとエロティシズムなどが激しく書かれている詩なんです。  シューベルトは一つ一つの詩の読み込みに物凄く深いです。   シューベルトの曲は、明るい曲で進んでいるのにふっと悲しみの影が差す時があるが、詩の水面下のなかに悲しい潜在意識があるんだなと言うことが判るんです。  私はシューベルトによって詩の解釈の仕方を教わった気がしました。   シューベルトの魅力の一番大きいのは転調ですね。

小さいころピアノとヴァイオリンはやっていましたが、言葉がしゃべれない頃から蓄音機の前に座りっぱなしの子だったようです。  父が音楽が大好きでした。   姉はヴァイオリンが超優秀で演奏家として活躍しました。  私はヴァイオリンも駄目で歌も駄目でした。   中学のころから文学と音楽を融合した様な音楽評論をやりたいと思っていました。  音楽評論家の人から母に音楽評論家になるんだったら、外国語、特にドイツ語をやりなさいと言ったそうです。   大学では友達とロックバンドを組んだりして、ドラムスをやったりキーボードを弾いたりしていました。    クラシックもロックも好きなのでこちらが高級、こちらが低級と言うようなことは全くないですね。  

新聞社のクラシックの音楽担当になる事によって、そういった世界に入って行きました。  留学してケルン音楽大学で歌曲伴奏のクラスに入り浸っていました。   ドイツに行ってよかったのは日常生活の体験です、文化的体験、自然的な体験を含めて。   著書もそこで体験したのが根っこになっています。   日本に戻って、コンクールの審査や各地の音楽ホールの運営のアドバイスにも携わりました。    一次予選、二次予選で消えてゆく人たちがいますが、結果を求めて受けるのではなくて、誰かが聞いてくれる、そこがコンクールの一番いいところだと思います。   その人の音楽性に波長に合う人が必ず聞いている。  予選で落ちた人への才能の支援をしていきたいです。  

桐朋学園の特任教授に呼ばれて4年目に、一部の教授から学長にとの声があり、3期9年と務めました。   大学経営については寄付に対する考え方を変えたり、素晴らしい伝統だけに中で充足してしまうところがあるので外に向けて開いてゆくという事も考えました。  大学院も作りました。  桐朋学園は自由な校風があります。   コンクールでいい成績をおさめたりすると、テレビ、新聞などに出ますが、そのことを学内に掲示することはしない様に徹底してやっています。  コンクールに出た仲のいい友達同士でも仲たがいする可能性もあるかもしれない。   コンクールはその時のいろんな条件が整って1位とかになるが永遠の価値ではない。   SNSのいいところはすぐにパーっと売れることで、売れることを目指すのではなくて、リアルな小さな演奏会を大事にしたい。   私自身も小さな演奏会を歩いて聞きに行って、演奏の場を共有するような場を作りたいと思っています。 時代には合わないと思いますが、売れる演奏家だけがいいという風になっては残念だなと思います。  次に「白鳥の歌」に取り組みたいと思っています。



2022年7月14日木曜日

神戸孝夫(声楽家・医学博士)      ・日本歌曲の世界へようこそ

神戸孝夫(声楽家・医学博士)      ・日本歌曲の世界へようこそ 

静岡県静岡市葵区出身(67歳)、3歳でピアノを始め作曲に興味を持ちました。  国立音楽大学声楽科卒業後ドイツイタリアスイスに留学しましたが、声のトラブルで帰国。  この経験から声のケアの必要性を痛感し、専門的な研究を重ねて医学博士となりました。    以来多くの声楽家の指導やケアに当たっています。  又作曲家としても数々の日本歌曲を生み出し、この7月には自身の歌曲集を出版しました。   神戸さんは弱視で生まれ、46歳の時に視力をほぼ失っています。 

*「情熱」    歌:神戸孝夫

分はバリトンだと思うんですが、高い声も出たのでイタリア人の人から言われてテノールに転向しました。

黒板の文字が見えにくかったんですが、日常生活には苦労はありませんでした。   0.3ぐらいしかなかったです。  家にオルガンがありいたずらしているうちに、おばさんがオルガンではだめだからピアノを買ってもらいなさいと言われて、ピアノを買っておばさんに習う様になりました。  弱視だったのでおばさんも匙を投げてしまい、その後は独学で弾いていました。   小学校6年生の卒業演奏会の時には自分の曲を披露したりとかしていました。   母から要望されて月夜の晩に「月光」を弾いたりしました。   自分の好きな様に弾けるので常に弾いて遊んでいました。   先生から中学1年では作曲家は遅い、声楽なら間に合うと言われて、やっていたら段々好きになりました。   発声法はいろんな本を読み漁りました。 

ドイツの シュトゥットガルトに24歳の時に留学して、その後バリトンからテノールに変ってイタリアに行きました。  ドイツとイタリアでは全く違う発声法ですね。   喉に結節みたいなものが出来てしまって、声を壊して日本に帰ってきました。   手術をしましたが、声が出なくなってしまって、失意のどん底に落ちてしまいました。   恩師からは良かったじゃないかと言われて、君は音声の道(博士課程)に行くべきだと言われました。  の研究のために久留米大学医学部にて喉の構造と発声法を研究し、1997年に医学博士号を取得しました。   宇都宮大学では音響学を学びました。   久留米大学は11年間、並行して宇都宮大学へ行ったりしていたので忙しかったです。   喉を触ったりすることが必要なので、身体を触るのには免除がないと駄目だという事で指圧学校にも行きました。  

声帯の神経を反回神経と言って迷走神経から反回神経に枝分かれして、左右の神経の長さが違うのでどぅしても左右のトラブルが出て来ます。  途中に神経を圧迫するようなものがあると、どうしても声にビブラートが出てきたりふらついたりしてしまいます。  神経の動脈と静脈が通っているところを指圧でケアしていきます。  それが一番大切なことで全身医も効きますし、いいケアだと思います。  42~45歳ぐらいでだんだん目が悪くなってきました。   手術をしても駄目でした。   このハンディーが作曲と言う新たな道を開いてくれました。   いい恩師、いい友達の皆さんに支えられて、助けていただきました。   落ち込んで8Fから飛び降りれば、と言うようなことをふと思ったこともありますが、周りに迷惑をかけると思うと、とどまりました。   

日本歌曲と言う明快な仕切りはないが、著名な作曲家が作曲した日本語で歌う曲を一応日本歌曲と言っています。   私が弾いたものを楽譜にしていきます。  作詞もします。  生みの苦しみを感じたことは一度もありません。   日本語は一音一音がはっきりしているので、言語的にもこれだけ、ひとつの子音に一つの母音と言う言語はほかにあまり見当たらないような気がします。   日本語はピユアな言語だと思います。        「熊本城讃歌」 熊本城の地震の際に被災した人のために作りました。   娘も声楽の道に進みました。   

2022年7月13日水曜日

西本智実(指揮者)           ・音楽を通して平和を祈る

西本智実(指揮者)           ・音楽を通して平和を祈る 

大阪音楽大学作曲学科卒業後1996年、ロシア国立サンクトペテルブルク音楽院(指揮科)へ留学し、ロシア国立交響楽団首席客演指揮者や、サンクトペテルブルク国立歌劇場首席客演指揮者などを外国人として初めて歴任します。  その後欧州だけでなくアジアやアメリカにも進出、およそ30か国から招聘されるなど、世界中で活躍して現在はご自身で旗揚げしたオーケストラの芸術監督兼首席指揮者を務めるなど、指揮だけではなく演出にも関わり、さらに活動の場を広げています。

ロシアにもウクライナにもたくさんの友人がいます。  近しい関係で難しいことがあるけれども、まさか戦いが起きるとは思いたくもなかった。   戦争は誰も避けたい、一刻もこの状態が無くなるように、小さな力かもしれないが何とかしたいという気持ちでいっぱいです。  「鶴」と言う作品の背景は旧ソビエト時代に詩人が広島に訪れて、原爆のむごさを知らなければいけないと、生まれた曲が「鶴」と言う曲ですが、日本の象徴の鳥でもあるわけです。  「鶴」と言う曲をロシア、ウクライナでもほとんどの人が知っています。   向こうに届くように演奏の機会を考えています。  

ヴァチカン国際音楽祭はヴァチカンのサンピエトロ大聖堂はじめヴァチカン直轄のサンパウロ大聖堂などで、毎年秋に開催されている国際音楽祭で、このような聖地で音楽を演奏して神に奉げるという音楽祭は他にはないです。   カトリックの洗礼を受けていない我々でもそこに参加しているときことが高い意義があります。   2013年に招聘されて以降毎年招聘されて栄誉賞を授与されました。   世界を代表するオーケストラや合唱団がヴァチカンに招聘されて演奏しています。   日本で新設されたイルミナートフィルハーモニーオーケストラ、合唱団はアジアの団体として初めて招聘されて、しかもヴァチカン国際音楽祭名誉パートナーオーケストラ合唱団の称号を授与された。

ずーっと呼んでいただいているうちに交流が出来てきて、かつ世界に発信できる機会です。ヴァチカン運営のテレビ放送の中継によって世界35か国に伝えられている、世界に向けて音楽を通して平和を祈る、まさに今必要な事です。   ヴァチカンから発信するということは凄く重要なことだと思います。  

サンピエトロ大聖堂は非常に大きな建物で、ミケランジェロ、ベルニーニと言った方達の彫刻があり、絵画があり、人類の英知そのものなんです。   天井が物凄く高くて、自分たちの演奏が自分では聞こえない。(反射して直ぐ帰ってこない)   時差をもって上から降って来る、演奏が終わると残響音が降って来る。   コンサートとは違う感じが大聖堂では感じました。  レクイエム(祈りの曲)は神秘的な体験でした。  休符の時にも計算して作られていた。  毎年演奏しているのが「オラショ」と言う曲で、日本にキリシタン文明が入ってきて、その時に残して言った歌ですね。  オラショは祈りと言うラテン語です。   起源はイベリア半島で歌われていたグレゴリオ聖歌、江戸幕府の弾圧を逃れた隠れキリシタンの里、長崎県の生月島、発覚しないようにもごもごと言葉にしないように伝えた。  私の曾祖母はそこで生まれました。 その話は祖父から小学生のころ聞きました。 生月島に何百年も口伝だけで受け継がれたものを、元のオリジナルの状態のグレゴリオ聖歌として、ヴァチカンで演奏しました。   

もしかしたらこれをするために、何かこういう道を歩いたのかなあとさえ思いました。   凄く感動しました。   2013年以降毎年「オラショ」を演奏する事になりました。   今はコロナで中止になっています。   

1996年にロシア国立サンクトペテルブルク音楽院(指揮科)へ留学しました。  オペラの現場で仕事をしていました。   オーケストラの総譜を各楽器に移す作業が大変なんです。  照明、字幕も歌に合わせて出さないといけないのでこれも重要です。   音楽アシスタントもやりませんかと言われて、楽譜がもらえて、オペラのリハーサルの現場に携わって勉強できる、こんな機会は有りませんでした。   次には副指揮者はどうですか、とかいろいろ任され始めました。サンクトペテルブルク音楽院はロシアで一番古い音楽院です。   当時チャイコフスキーにしてもロシアの音楽家は外国から雇って演奏してもらったり踊ってもらったりするものであって、そういう事はしないのが慣例でした。    チャイコフスキーは官僚になる予定でしたが、自分は職業音楽家になると決めました。  カーネギ―ホールがオープンした時に指揮をしたのがチャイコフスキーでした。   チャイコフスキーの先祖は今のウクライナの土地です。   文化は接ぎ木だと思っていて、急には生まれない、影響されながら一緒に作ってゆく。   

指揮者はオーケストラ、合唱団などに対して一人で向き合っていて、或る意味ストレスがあります。  初めてのところで怖いとかと言う思いに対する訓練も必要です。  インターネットが普及し始めて、行ったことのない国立のオーケストラと急に連絡が来ます。   2002年に民間オーケストラ「ロシア・ボリショイ交響楽団ミレニウム」の首席指揮者に就任しました。(32歳)   当時はロシアは激動の時代で突然公演がストップしたりしました。    2004年 、チャイコフスキー記念財団・ロシア交響楽団の芸術監督 兼 首席指揮者に就任しました。   同年チャイコフスキー記念財団・ロシア交響楽団の芸術監督 兼 首席指揮者に就任しました。  2010年ロシア国立交響楽団首席客演指揮者を務める。  

オペラ劇場で指揮者をやっていたという事は強みでした。  オーケストラだけを指揮するとはまた違います。      私が演出をしだした一つの原因はオペラ劇場に呼ばれてオペラを指揮して、演出内容は聞かされてなかった。  私が考えていることと全く違っていた。  オペラは演出が凄く重要です。  2012年に日本でイルミナートフィルハーモニーオーケストラを旗揚げ。     外国の文化に接して外国では自然と対峙するような感じがあり、日本に帰って見ると自然と一体化するとか、そういう文化が凄いと思いました。 演出は自分ですべてやると言うわけではなく、相談してまとめ上げるようにしています。 逆境はそこが一つの変わり目と思ってエネルギーを向かわせてほしいと思います。    音楽は役に立っているのだろうかと、引きずることがありますが、「元気が出ました」とか言っていただけると、本当にやってよかったと思える言葉です。  音楽の力はいろんな人の役に立つかもしれないなあと思っています。  

2022年7月12日火曜日

山本學(俳優)             ・【出会いの宝箱】

 山本學(俳優)             ・【出会いの宝箱】

今日は共演した女優の中から望月優子さん、沢村貞子さん、杉村春子さん、山田五十鈴さんとのエピソードをお話いただきます。

弟の山本圭が急に亡くなってしまってしまいました。  転んでコロナ禍で病院が見つからなくて埼玉の病院に入院しました。  肺炎になったという事で朝7時に亡くなりましたという連絡が入りました。  会えないままに亡くなりました。(81歳)  共演は少なかったです。  

プロデューサーの石井ふく子さんの指示でいろんな女優さんと付き合わせていただきました。  20代は親子役が多かったです。    望月優子さん、沢村貞子さん、堀越節子さんとかお母さん役者とテレビとかで出ました。   当時は生でして、セリフを間違ったりしていても進まざる得なかった。   当時は舞台、映画に比べてテレビに出る俳優は格下でしたが、望月優子さんからはテレビが時代を引っ張ってゆく時代が来るから、テレビを馬鹿にしては駄目、とよく言われました。   沢村貞子さんが或る時に一人で稽古をしていて、こんな人でもここまで稽古をするのかと思うと、自分ではまだまだ足りないなと思いました。  昔の人は色々と教えてくれましたが、今そうやると、生意気だとか、余計なことを言うなとか、言われて仕舞い、いい時代に役者の仕事が出来たと思います。  

最初の映画「裸の町」(1957年)は余り印象がなく通行人みたいな役で出たと思います。杉村春子さんが出演していました。   舞台での「女の一生」は観て印象に残っています。  何べんも観ています。 華岡青洲の妻』ほか数えきれないほどあります。   三大女優と言われて山田さん、杉村さん、森さんのなかでは、最初に山田さん、次に杉村さん、結局森さんとが一番多かったです。   「菊枕」という山田さんとの夫婦役ではしがない男が偉大な女房をもってそれを支えてゆく、だらしない男だけど支えてゆく生き方があるんだなと、それが出ればいいんじゃないかなと思いました。    役者が一番大事なのは存在感、人間そのものがここにいるんだよと言う存在感を、山田さんが教えてくれました。    技とかそういうものではなくて、何十年と言うものがその人に積もっているというか。

杉村春子さんは芸という事にこだわっていることが強いと思います。   ある場面で杉村さんがセリフを言わなければいけない場面で僕に言わないんです。    こちらが何か言ってもしゃべらない、その後しゃべって行きましたが、一瞬セリフを忘れていたのかもしれないが、普通の役者がそういったことをやれば間が出来てしまいがやがやするが、ちゃんと芝居がなりたっているんですね、そういうところが面白いですね。    これも存在感と言うものだと思います。 

島崎藤村の「初恋」  初恋の相手は7,8歳のころに近所のお嬢さんに抱いた恋心を思いだしながら、歳を取ってから書いているもの。   

*島崎藤村の「初恋」   朗読:山本學                        リズムが出来上がっている。   60,70代の人が聞いた時に納得できる歌なのかなと思います。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみぞと

問ひたまふこそこひしけれ   

応接間に「小諸成る古城のほとり」と言う拓本が飾ってありました。

*島崎藤村の「小諸成る古城のほとり」  朗読:山本學 

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も籍(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香(かおり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛(歌哀し)
千曲川いざよう波の
岸近き宿にのぼりつ
(にご)り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む

*「千曲川スケッチ」  朗読:山本學 

光岳寺の暮鐘が響き渡った。 浅間も次第に暮れ、紫色に 夕映(ゆうばえ) した山々は何時しか暗い鉛色と成って・・・。

2022年7月11日月曜日

参議院選挙関係の放送のため放送中止。

 参議院選挙関係の放送のため「明日への言葉」の「師匠を語る」は放送中止となりました。

ご了承ください。

2022年7月10日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

2年ほど音楽祭も制限されたり、中止になっていたりしましたが、今年は大分開催されるようになりました。  来週から札幌でパシフィック・ミュージックフェスティバル札幌、秋には征爾小沢松本フェスティバルが行われます。   

*モーツアルト ヴァイオリン協奏曲 第5番 トルコ風の最後の楽章           オスマントルコが弱くなってきてトルコ音楽がウイーンなどでもてはやされる様になる。  新しい要素としてトルコの強いアクセントのある響きを入れて、ウイーン古典派の時代にトルコ風の音楽が流行しました。   今回トルコ風の遺伝子も紹介しますが、異文化の遺伝子がクラシックにどんな作用をもたらしたかと言うのを楽しんでみたいと思います。  

どんな楽器で表現するかと言えば、大太鼓、シンバル、トライアングル、ピッコロ、トランペットです。  頭に強いアクセントが来るのがトルコ風。 

*歌劇「後宮からの誘拐」からの序曲  作曲:モーツアルト              モーツアルトの若いころの曲で溌剌としている。   

交響曲第9番 のフィナーレにもトルコ行進曲とは銘うたわれてはいないけれど、シンバル、大太鼓、ピッコロが大活躍する場面があります。   

交響曲第9番 第4楽章から   作曲:ヴェートーベン               自分の崇高な人類愛を歌い上げる交響曲に人間にも世俗的な部分もあるんじゃないかと、第4楽章は山場がいくつかあるが、間奏曲と言っては失礼ですが、気分を変えるという、ヴェートーベンのプロデューサー気質があったのではないかと思います。 

*交響曲第4番 愛称「イタリア」の冒頭  作曲:メンデルスゾーン          

リヒャルト・シュトラウスにもイタリアを意識した響きがあります。  

*大オーケストラのための交響的幻想曲 「イタリアから」  作曲:リヒャルト・シュトラウス

リヒャルト・シュトラウスはイタリアに古くから伝わる民謡であると勘違いし、1886年に作曲した交響的幻想曲『イタリアから に「フニクリ・フニクラ」のメロディーを取り込んでしまった。  実は登山電車の世界最古のコマーシャルソングだった。 指揮するたびに使用料を払わなければならなかった。

*「中国人のギャロップ」  作曲:ヨハン=シュトラウス1世             テンポが速くて音域の高いものを強調している。  

*「ウエーバー主題による交響的変容」第2楽章 トゥーランドット 作曲:パウル・ヒンデミット      

*歌劇トゥーランドット』第一幕から  作曲プッチーニ

*「アンダンテ・カンタービレ」  作曲:チャイコフスキー             妹の嫁ぎ先がウクライナのカメンカ(ウクライナ語ではカミヤンカ)           「アンダンテ・カンタービレ」を聞いてトルストイが涙したという話もあり、チャイコフスキーにとっても最高の調べだと思います。



2022年7月9日土曜日

明和政子(京都大学大学院教授)      ・コロナ禍の今、子どもの心の発達を考える

 明和政子(京都大学大学院教授)      ・コロナ禍の今、子どもの心の発達を考える

京都大学霊長類研究所研でチンパンジーの心を研究、比較認知発達科学と言う分野を開拓し、人とほかの霊長類を胎児の時期から比較することで、人らしい心が何時どのように生まれてくるのかについて研究しています。   新型コロナウイルスの感染拡大でマスクの着用と密閉密集密接の3蜜を避けることが推奨されて2年余りが経ちました。   こうしたことが子供の脳や心の発達にどのような影響を及ぼすのか、ポイントは環境の影響を特に受けやすい時期、感受性期にあるという事です。  これをきっかけに今の子供たちを取り巻く環境についても考えます。 

人間の存在を生物の一種としてとらえた時に、人間と言う生物だけが持っている脳や心は一体どんなものなのか、という事です。   マスクをしていても目でコミュニケーションできると思いがちですが、大人の脳と子供の脳では全く違うものである、子供の脳は大人の脳のミニチュア版ではないという事です。  

人の脳の発達には環境の影響を受けて、変容しやすい或る特別な時期が何件かあります。  そのもっとも重要な時期の一つが乳幼児期です。  大脳皮質による視覚野、聴覚野の場所は生後数か月から7,8歳ぐらいまでに影響を受けると言われています。   マスクをしている状態と言うのは凄く危機を感じています。   赤ちゃんは誰かとコミュニケーションしながら大きくなっていきます。   目の前にいる人の表情を見ながら、自分でも真似することによって相手の言葉に段々気づいてゆくわけです。  ニコッと笑うと赤ちゃんも笑う。   その時に赤ちゃんに沸き立つ感情、これを笑っている人に当てはめるから心が理解できるんです。  マスクをしているとこういったことが経験できなくなる。  

言葉も全く同じです。  「パパ」「ママ」と赤ちゃんに語りかけると、赤ちゃんは生後半年ぐらいからよりも口元をよく見るようになるんです。  口の動く状況は目から視覚情報、聴覚情報から自分でも「パパ」とかやってみることによって、言葉を一つ一つ獲得してゆきます。   マスクによって学びの場が失われている事が過言ではないと思います。

前頭前野は人だけが獲得してきた脳の場所です。  チンパンジーも人とは全く違います。前頭前野がグーっと発達してくるのが生後4年目ぐらいからです。    前頭前野は自分が持っている心と相手が持っている心は別のもの、という事を次第に理解して、相手がどんなことを考えているか、相手の視点に立ってイメージすることができる。  いろんな人の豊かな表情を見ることによって、その人が今何を考えているのか、経験してゆくことが必要です。   マスクの問題を実験的に確かめることは難しい。  

保育園、幼稚園の先生が、子供たちの表情が乏しくなってきた、言葉の獲得がゆっくりになった、にっこり笑ってもマスクをしているので子供の反応が弱い、そうなると心のやり取りがなかなか難しくなっている、という様な声もよく聞きます。  子供同士でもマスクをしているとわかりづらい。  透明なマスクで表情を見せてあげる、のも代替案になるのかなと思います。   身振りを大げさにすることによって心の思いを伝える工夫もしています。   家庭ではマスク無しだと思うのでより豊かな表情を多く見せるとか、コミュニケーションをより多く取る工夫をしていただきたいです。  テレビからは視覚情報、聴覚情報だけに限られていて、身体接触がないわけです。   身体接触は子供の身体、脳の中に心地いい感覚を沸き立たせる重要な経験になるわけです。  抱っこしながら声をかけながら一緒にテレビを見ることは有効だと思います。  共有することが大事だと思います。 絵本の読み聞かせも重要だと思います。   

身体接触が制限されている今は、何かしらの問題が子供だけではなく大人にも起こる可能性が高いと思っています。   他の個体と接触するとオキシトシンと呼ばれる内分泌ホルモンが身体の中に沸き立つような仕組みを持っているんです。   ラブホルモンと言って気持ち良い感覚を沸き立たせるホルモンなんです。  赤ちゃんを抱っこすると赤ちゃんだけではなく抱っこする側にもオキシトシンが出来る。   これが身体接触の重要な点です。

非接触のコミュニケーションが日常化しました。  相手の痛みを感じるのは、身体接触があるからで、他人の痛みは自分の痛みだと共感して判るわけです。   あまり身体接触のなかった子供が共感、脳と身体の働きと言うものを私たちと同様に発達させてゆくことができるかどうか、それは未知数です。    オンラインによるコミュニケーションは便利なものが一杯ありますが、これは脳が完成した大人にとって便利だという事だけです。   人の脳は成長までに25年かかるので、今の環境が問題として現れてくる可能性もあります。

最近気になっているのが子育て中の親御さんの脳と心の問題です。  母親が一気に子育てを担っているという時代が来ています。  コロナ禍によって他者とのコミュニケーションが閉ざされてしまって、孤立育児がどんどん進んでいます。   若い母親は脳が未熟な存在なんです。   独りで子供を育てるという事は非常に難しい事です。  人は共同養育の中で進化した生物である、と言う考え方です。  産むのは女性ですが、育てる段階に成ったら、母親を取り巻く社会、集団のメンバーがともに関わる、これが共同養育です。  

人とチンパンジーは遺伝子の塩基配列が98%同じなんです。  子育ては両者はずいぶん違います。  チンパンジーは母親が独りで産み、独りで育てる生物で、それが出来るんです。  チンパンジーは7年に一回子供を産みます。  7年経つと子供は自立して母親の元を去ってゆきます。  排卵が起こって次の準備が整うわけです。   人は出産をして授乳していても2年経つと排卵は起こるんです。  短期間で産める身体を持っているわけで、これは凄く矛盾します。(子供の自立には時間がかかる)   母親だけで多数の子供を産んで育てることは不可能なんです。   昔は大家族で近所も関わっていて、共同養育は有ったんです。  ここ数十年で核家族化が進み母親が独りで子育てを行うようになり、現代の子育て問題の深刻さが深くかかわっている。    

現代版の共同養育社会の仕組みを新たに作ってゆく必要があります。  男性の子育て参画が是非必要だと思います。   子供を産めば母性みたいなものが自動的に沸き立って、子供を育てるのに必要な能力が沸き立ってくるわけではない、と言うのが最近の研究でわかって来ています。  親性、性差に関わりなく親に必要な脳と心が子育てと言う経験によってゆっくりと育まれて行く、という事が判って来ました。   MRIで父親たちの脳が子育てにどのように反応してゆくのか、長期的に調べました。  個人差大きいという事が一点目です。  パートナーの妊娠時点から親として必要な脳の働きが見事に現れる人もいれば、子供が生まれても脳の働きが活性化しない人もいます。   活性化が現る父親は2年前ぐらいまでに他人のお子さんに触れあったり、一緒に遊んだ経験のある方が親性の発達がいいという事が判ってきています。  ですから経験なんです。   人間とは何かという視点の中で、便利な世の中が誰のために、何にために必要なのか、という事を考える、科学者だけではなくて一般の人たちとの中で議論していかなければならないものだと思います。

2022年7月8日金曜日

山崎章郎(医師)             ・病院で死なないということ

 山崎章郎(医師)             ・病院で死なないということ

1947年福島県生まれ。  千葉大学医学部卒業後外科医としてキャリアを重ねましたが、終末期医療医への疑問を感じていた山崎さんは、ふとであった一冊の本アメリカの精神科医 エリザベス・キューブラー・ロス が死とその過程について書いた「死ぬ瞬間」に心を動かされ新たな道を模索し始めます。  1990年初めての著書病院で死ぬということ』を発表、患者が人間らしく穏やかな最後を迎えられるように、患者さん本人やその家族と真摯に向き合う姿は後に映画化されるなど、大きな反響を呼びました。  2005年地域に根差した訪問診療所を開設し、在宅緩和ケアの第一人者として活躍されてきましたが、先日病院経営の一線からは退きました。  実は4年前に大腸がんが見つかり、自らを実験台としながら現在の保健医療では零れ落ちてしまうがん患者へのケアの在り方を模索していて、これまでの経緯を綴った「ステージ4の緩和ケア医が実践するがんを悪化させない試み」を先月出版しました。  

大腸がんで両方の肺に転移がある状態で、ステージ4と言う状態になっています。  両方の肺に転移が見つかったのが2009年の5月でしたが、肺の転移病巣は大きくなっていない状態で、私の健康に及ぼすほどではないという状態です。 

24時間在宅で療養している皆さんの緩和ケアに携わってきました。  2005年から17年やってきましたが、がんが見つかって転移が判ってからは、患者さんの数を少し減らしてきました。   在宅の患者さんを24時間連絡が取れるような形で診療しています。   往診もしています。   この1週間で、長く療養していた人(3~10年)が3人亡くなられましたが、看取りをお願いしますと言われていて、看取ることが出来ました。 

2018年夏にお腹がぐるぐるという様なことが頻繁になってきました。  腸に狭いところがあるようなので、大腸がんだろうと確信しました。   がん患者さんを2000人以上の人生とお付き合いさせてもらってきて、がんを経験して人生を閉じてゆくのが、私の宿命なんじゃないのかなと或る時から思うようになりました。   自分から積極的にがんを見つけようという気にはならなかったです。   ショックを受けたというよりも、ようやく来るものが来たなと思いました。  家族、周りに伝えるとショックを与えてしまいました。   手術をして主治医から切除出来ましたと言われました。  ステージ3でしたが、再発を予防しましょうという事で、抗癌剤を勧められました。   一瞬ためらったが、医師として副作用などを自分も味わうべきなんじゃないのかなと思いました。  主治医が優しいので断りにくい思いもありました。   

3週間飲んで1週間休むという事を8回、ほぼ半年の治療でした。  2回目から吐き気が出て来て食欲不振になって来ました。  次に手足が黒ずんできて、指の筋にひび割れが入って来ます。  ひびが深くなると血が出てきて、ペットボトルを空けられなくなったり、車の運転時に痛みを感じました。  足裏にも同様な症状が出て来て歩くのが大変だったりしました。   4回目の時に先生に言って、1か月休みました。  そうすると食欲も出てきて手足もよくなりました。 その後薬の量を減らして頑張りました。    半年後、CT検査をしました。   抗がん剤の効果はなく、両方の肺に転移があることが判りました。流石に唖然としました。  ステージ4という事でした。   ステージ4では治癒を目指すことはできないというのはがん治療医の常識ですから、命を少しでも伸ばすことが次の目的になります。 

限界のある時間をどう生きるのかという事が最優先だろうと考えた時に、抗癌剤の副作用がなければ普通の生活ができたので、その間に仕事を継続して、でも悪化してゆくだろうから身辺整理をしていこうと思いました。   緩和ケアの仕事をやってきたので、がんがどんな経過を辿るか、どんなことが起こるかを予測されるという事と、何が起こってもどう対処すればいいかという事がわかっているわけです。   ですから死を恐れる必要はないと思っていました。  

ほとんどの人はステージ4の状態を経てから亡くなってゆくわけです。  ステージ4に対する全身治療は抗癌剤なんです。   抗癌剤を使わないとなると、そうすると終診と言われるわけです。  私が本を書くきっかけになったのも、抗癌剤を使わないとなると医療保険が使えなくなるので、長く生きたいと思うとさまざまな民間療法、代替医療とかあるのでそういうところに頼ってしまうわけです。  私が抗がん剤治療を放棄して見えてきた大きな課題だろうと思いました。 

上手くがんの勢いを押さえておとなしくしていて、と言うような取り組みが出来ないかと思い始めました。    理論的、科学的に筋の通っているもので、副作用のあまりないもの、出来るだけお金のかからないもの、臨床試験的なことに取り組めて、少しでも根拠の持ったものとして皆さんに提案できないかなあと、それに合うものを捜しました。  2019年の5月に見つかった状態よりは今年4月には小さい状態、共存出来ている状態が今も続いています。   自分の経験とかを纏めて提案してもいいんじゃないかと思いました。  今できる時に今出さないと出しそびれてしまう場合もあるかもしれないので、私の体験がヒントに成ればいいと思っています。  

ほとんどの先生が抗癌剤の治療がメインでサポートするような形でやっていて、私は抗癌剤治療をやりたくない人の為なので、ちょっと違いますが、医学的観点からみてそんなに外れているとは思っていません。  もし時間が伸びたなら伸びた時間を自分の大切な時間として生きる事の応援が出来るかもしれません。   クリニックをバトンタッチしましたが、自分自身の体力の低下、病気がどう変わるかわからないという不安から、今までのように責任を持った仕事ができないと感じていることも確かです。  

日野原先生が105歳の時に私は70歳で、日野原越えをと考えているうちにがんになってしまいました。   病院で死ぬということ』を出版してから30年ぐらいになりましたが ,当時がんですよと患者さんに伝えることはほとんどありませんでした。  今はきちんと病気のことをお伝えします。   患者さんが自己決定するチャンスも増えてきていると思います。  事実を伝えることは大事ですが、事実を向き合う人たちをきちんと応援してゆくようなこともやって初めてそこは意味のある人生界観になると思います。   がんが暴れ出しても、後2年ぐらいは生きられそうですし、もっと抑え込めたらもっと長く生きられるかもしれません。  今できる事、今思いついたこと、出来そうなことにチャレンジして前に進んでいきたい。   いろいろあの世で会いたい人が沢山いるので合う事を夢見ているので、私は死後の世界を信じたいと思っています。