2020年9月30日水曜日

浅田次郎(作家)            ・書くことは至福 後編

 浅田次郎(作家)            ・書くことは至福 後編

父親が新宿の闇市で商売を初めてうまくいって割と裕福な生活をしていましたが、小学校3年生ぐらいで家が破産してしまいました。  キリスト系の私立の小学校に通っていましたが、歩けるところでしたが、女中二人を付けて運転手が車で送ってくれました。 破産して両親も離婚して、親戚の家に引き取られて田無の小学校に通えという事になりましたが、そのまま通い続けて駒場東邦中学(中高一貫の学校)に入学、読書が大好きで中学には立派な図書館があり喜びました。

貸本屋でよく読みましたが、図書館はただで読めるのでうれしかった。

中学2年の時には遊び感覚で「伊豆の踊子」などを書き換えたりしていました。 投稿もしました。

学校も不登校になったりして、2学年より中央大学杉並高等学校へ転入し、大学については、性格的に理屈に合わないことが嫌いで、ロックアウト中の大学に行くのが嫌でした。  僕はアルバイトをしたりして苦学生だったので、学生運動をする学生は金には困っていないという事ははっきり判りました。 

昭和45年三島事件がありましたが、とてもショッキングでした。 夕方死んだという事を知りました。 これがきっかけで陸上自衛隊に入隊しました。  三島さんとは出版社へ行っていたりしたので会ったことがありました。  学生運動の時代に割腹自決という事であまりにも時代錯誤という感じがして頭の中は謎だらけでした。  単純に自分で行ってみようと思って自衛隊の第32普通科連隊に入りました。  1973年に任期満了で除隊しましたが、この時が人生の別れ道だと思いました。 意外とはまってしまいました、あの世界が身体にあっていましたので一生いたいと思いました。  しかしここを出れば小説家になれるのではないかと思いました。

ファッションの仕事をし始めて小説家になっても続けました。(50歳過ぎまで)

1991年40歳でデビュー作『とられてたまるか!』を出版。

その前も投稿を続けていましたが、出すたびに名前を変えていました。 気楽でした。

浅田次郎は投稿した主人公の名前です。 それが選考の後ろのほうに残っていたので使ってしまいました。

1995年 地下鉄(メトロ)に乗って』で第16回吉川英治文学新人賞。 父親をモデルに。

45歳の時に『蒼穹の昴』 帯に「これを書くために作家になった」と書かれていて、これは担当編集者が考えたものです。 作家が恥ずかしがるキャッチが一番いいといわれました。  僕の小説の中では一番直球を投げた感じがします。  中学の時に漢詩の世界に触れたときに世の中にこんなに美しい言葉があるのかなあと思いました。 漢詩の本を読み漁っていきました。  漢詩を理解するためには歴史を理解していなければわからないことですので、中国の歴史も読むようになりました。  それが読書傾向のお城になったのかなあと思います。  近代中国の科挙試験を舞台にした王朝小説を書きました。(直木賞候補になる)

46歳の時に「鉄道員(ぽっぽや)」で第16回日本冒険小説協会大賞特別賞、第117回直木三十五賞を受賞。

賞をいただくたびにこれ以上のものを書かなければいけないという気持ちには賞をいただくたびに思いました。

2000年 『壬生義士伝』で第13回柴田錬三郎賞。

2006年 - 『お腹召しませ』で第1回中央公論文芸賞と第10回司馬遼太郎賞。

2008年 - 『中原の虹』で第42回吉川英治文学賞。

2010年 - 『終わらざる夏』で毎日出版文化賞。

2017年 - 『帰郷』で第43回大佛次郎賞

2000年にベストドレッサー賞をいただいた時には母親がすごく喜びました。

ギャンブルが好きで父は競輪、私は主に競馬をやっています。 馬も4,5頭います。

自分の本業を全うしてから道楽をするというのは、確実にやっていますが、自分の道楽は何かというとやっぱり読み書きだけのような気もします。 ほかの0.1%でほかの道楽をやっているという感じです。

書き続けている限り読み続けてなければならないと思っています。

過去の自分、現在の自分、未来の自分というのがいつも意識できるのが、僕の仕事だと思います。

テーマはまだいっぱいあります。







2020年9月29日火曜日

浅田次郎(作家)             ・書くことは至福 前編

 浅田次郎(作家)             ・書くことは至福 前編

昭和26年生まれ68歳、今年3月に「流人道中記」という長編の時代小説を出版し話題になりました。 40歳の時に「とられてたまるか」で作家デビュー、1995年に「地下鉄(メトロ)に乗って」で吉川英治文学新人賞を受賞、1997年「鉄道員(ぽっぽや)」で直木賞を受賞しています。  その後も多くの本を出版し人情味あふれる作家として知られています。  読むこと書くことが大好きな浅田さんに伺いました。

若い時は長編小説だけで5本を持っていた時もあったので、今そのやり方をしてはクオリティーを下げる結果になるので少なくしようと思っています。  着物を良く着るようになりましたが、着ていて楽で夏涼しくて冬暖かいです。  時代小説は資料をたくさん使うので、普通の机椅子だと資料が沢山置けないので、周り360度に資料が置けるほうが仕事がしやすいが、畳の上ではズボンでは痺れて駄目で、着物だと下半身が自由で楽です。

「流人道中記」は大変ご好評をいただいています。

1860年姦通の罪を犯したという旗本青山玄葉に奉行所が切腹を言い渡したが、「痛てえからいやだ」と切腹を拒否したので、松前藩への流罪判決が下って、護送人に選ばれた19歳の見習い与力石川音次郎と共に奥州街道を北へと二人で歩んでいき、そこでの出来事が楽しい話、悲しい話、せつない話があとからあとから出てくる、といった内容の話。

江戸時代は遠いようで近い。  この小説を書く前に「一路」という小説を書きましたが、自分で書いておいて面白くて好評だったので、こういったものを書きたいと思って、罪人と護送役人の旅道中記を考えました。(創作です でも史実を曲げてはいけない。)

昔は一緒に汗を流して一緒に飯を食って、1か月も歩いて旅をした場合に別れの時にはどんな気持ちだろうと想像するんですね。  のっぴきならない事情がからまっていた場合には相当別れは重たいものだと思って想像して書きました。

我々の時代は映像を映し込んでそれをデッサンする作業をしているのではないかと思って、自分が小説を書き始めるときにそれを一番恐れました。  小説という成果を受け継いでゆくからには自分と同じ先人たちと同じレベルの仕事をしないといけないが、便利になって社会が変わっていった場合に、先輩たちと同じ仕事ができないかも知れない。  一番怖いのが映像化されれている自分の頭だと思って、映像をデッサンせずに自分がスクリーンの内側に入っている気持ち、360度登場人物と時間と空間を共有してその中で小説を書いている呼吸を自分ではいつも意識しています。

他の作家がどういう仕事の仕方をしているのかは分らない。

2000年「壬生義士伝」は、初の時代小説、「一路」は2013年、「大名倒産」2019年、「流人道中記」が2020年。

この本を書きたいから資料を読むというのでは時代小説は書けません。 

僕の小説では幕末の10年間に集中していますが、この時代のことはわかるし、資料もあるし自信もありますが、ちょっとずれたら自信がないです。(時代背景、社会背景を知らない。)

明治時代に連載小説が生まれてヒットして、新聞だったら日刊で書いてゆく、週刊誌、月刊誌とそれぞれ違うのでどれだけかかるかはそれによって違う。

日刊には日刊に合う素材があると思う。 外国には無いスタイルなので外国では理解できない。

同時連載で似たような素材を使ったら危ないので気を付けないといけない、かけ離れていると頭は簡単に切り替えられる。

短編はこつこつ書いています。  1997年に「鉄道員(ぽっぽや)」を出版しています。

短編のひらめきはある時一つの塊になって落ちてきて、机ではなく歩いている時とかにふっと落ちてきます。

茫洋としたイメージを捕まえておいて、ストーリーも自分の頭の中で組み立てておいてそれを自由に書いていくというほうがいいものができると思います。 長編のほうがもっと自由です。

デビューしたころはワープロに変えてと言われたが出来なかった。 今でも万年筆で書いています。  字を書くのは嫌いではないです。

日本語の文章は和歌や俳句で分かる通り、どれだけ短い文章の中に大きな世界を閉じ込めるかという事に尽きると思いますが、それが日本の極意だと思います。  原稿用紙に書くときには肉体的負荷がかかる分だけ、何とか短くして書かなくてはいけないという風に文章を作っていると思うので、これは大事なことだと思っています。 そうするとワープロには乗り移れません、自信がないです。

なるたけ削り落としたそぎ落とした短い文章の中に大きな世界を閉じ込めるんだという気持ちで書き続けていかなければいけないので、それには肉体的な負荷をかけることが一番早道だと思います、だから手で字を書きます。











2020年9月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】正岡子規 (初回:2019.9.24)

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】正岡子規 (初回:2019.9.24)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/09/blog-post_23.html をご覧ください。


2020年9月27日日曜日

谷保恵美(スタジアムアナウンサー)   ・球場アナウンスひとすじ30年

 谷保恵美(スタジアムアナウンサー)   ・球場アナウンスひとすじ30年

プロ野球の球場アナウンスをを30年間勤め、前人未到の一軍公式戦担当連続1600試合、通算1800試合を達成した千葉ロッテマリーンズの谷保さん、小さいころから野球少女だった谷保さんは球場アナウンスの仕事をしたいと、12球団に片っ端から電話をかけて就職活動を展開、どの球団からも 空きがないと断られましたがあきらめず、ロッテオリオンズから経理の仕事ならと採用されました。  就職1年後球場アナウンスの仕事に空きが出て念願のデビュー、それから30年間ファンや選手に明るく爽やかな名調子で球場アナウンスを続けてきました。 30年の間にはどんな喜びや苦労があったのか伺いました。

球場に通わない生活が初めてなので変な感じでした。 3か月遅れて始まり、お客様がいない球場でのスタートだったのでこんなに寂しいもの何だなという事を実感しました。 お客さんが来てくれるようになってそれを見ただけでも感動しました。

北海道帯広の出身で、父が野球が好きでナイター中継を毎日TVで見ていました。  父は自分も野球をやっていたし高校野球の監督もしていて、甲子園には二つの高校で2回づつ出場しました。

私は高校では野球部のマネージャーをしていました。  短大でも野球部のマネージャーをしていました。  そこのリーグ戦でアナウンサーを担当しました。

卒業後、12球団に電話をかけて相談しましたが、断られてしまいました。  アルバイトをしながら電話をして、ロッテオリオンズから経理の仕事ならと採用されました。

野球での経理の仕事をしているだけで感激でした。 1年後に1軍を担当していたアナウンサーが辞めて、2軍担当の人が1軍に回り私が2軍のアナウンサーを担当することになりました。

仕事をやりながら球場に通ったりして色々勉強をしました。  一番最初の時は緊張して今でも思い出します。(1991年)

1991年8月には川崎球場で1軍を初めて担当しました。 通算1800試合以上を担当することになりました。  最初のころ一軍では緊張感が凄かったです。

元気な声が伝わるように普段から心掛けていました。 スコアブックを付けながらやっています。 双眼鏡をもって交代選手があるかどうかとか見ています。  新聞をスクラップしたものも持っています、特に春先は新人、新外国人もいるので。 のど飴も持っています。

マリンスタジアムは海の近くで風も強くて屋外球場なので反響が毎日違うので、なるべくはっきり聞こえるように考えながらやっています。  名前によって難しい発音もありますので色々工夫しています。

三郎選手の名前は長く呼んでいましたが、最後の試合の時には特に長く名前を呼んで、喜ばれました。

風邪をひかないようにしているのですが、1度試合に行ってから40℃の熱が出てきてしまってその日は大変でした。 そのシーズンの最後の試合で初芝選手の引退セレモニーの日でもありました。  家では首にタオルを巻いたり乾燥には気を付けています。

親戚、友達とかの冠婚葬祭には出れなかったりして、残念でもありつらかったです。   祖母の葬式には出られなくて本当につらかったです。 そのときにも明るい爽やかな声を出さなくてはいけないし。

連続では1600試合を超えました。  最初が1996年の近鉄戦、達成が昨年西武戦でした。

電車が止まってしまって、携帯もない時代だったのでイライラした時もありました。

通算1800試合は最初は1991年8月で、達成が昨年7月のオリックス戦でした。  選手の立つお立ち台に上がらせてもらって祝福を受けて感動しました。

試合開始から終了まで緊張して、「試合終了でございます」と言って終わるとホッとするのでやり甲斐を感じます。

祖母からは「感謝しなさい」「思いやりを持ちなさい」「謙虚な気持ちを持ちなさい」という言葉を言われていて、大人になって大事な言葉だなあと思うようになりました。

優勝の瞬間は千葉ではないので千葉の皆さんと一緒にその瞬間を体感したいです。





2020年9月26日土曜日

いとうせいこう(作家・クリエイター)  ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

 いとうせいこう(作家・クリエイター)  ・【私の人生手帖(てちょう)】後編

戦後75年を迎えましたが、平和の俳句の取り組み、NHKTVを良くご覧になるという方ですと「植物男子ベランダー」というドラマの原作がいとうさんのエッセーです。   音楽好きの方ですとリズムに乗せて歌ってゆくラップの先駆けの一人としても知られています。 仏像や文楽、能などの伝統芸能にも精通してその多彩ぶりは周知の通りです。  いとうさんは1961年東京葛飾区で生まれました、1984年大学を卒業後出版社の編集部に就職1986年に退社、TVの司会や音楽、舞台などで活躍、1988年に作家としてデビューしました。  2013年に『想像ラジオ』で野間文芸新人賞を受賞しています。  来年3月に還暦を迎えるいとうさんの人生手帳にはどんな思いがつづられてきたのでしょうか。

父親が俳句の会にも入っていて、観ていましたが句集などをたまに読むことがあり、与謝野蕪村、芭蕉、小林一茶とか読んできて、五、七、五はズバッと言ってきて、僕みたいな気の変わりやすい人間にとっては凄くいいメディアなんです。  金子 兜太さんと出会ってから対談の本を出して、凄く楽しかったです。

5年前から平和の俳句を一般の方から募集、自分の戦争体験、どういう思いでいるかなどが一緒にびっしり書かれています。  花鳥風月だけではなくて、自分の社会的なメッセージも入れられるので、そのことは大きいと思います。

どういう言葉でいえるかという事をとても悩ましく考えています。 説得力は物凄く短いか、ある程度長いかだと思っていて、小説も俳句もやっています。

文字として外にだすときに、「・・・だが」と書いて帰結するときに思ってもみないことを書いたりするときがあります。  柄谷 行人という人は「書くことは生きることだ」とズバッというんです。 生きることは間違ってみたり違う路線にいったり、思いもよらないことが起きるが同様に書くことにも起きる。 平和の俳句は続けていきたい。

生きる命は限りがあるので、その中でどのぐらい自分が人の心の中に奇跡を起こすことができるか、という事が出来ればと思っています。

しゃべるという事は必ず誰かと対面しているので、相手の様子を見ながらしゃべるとか、相手の質問に答えるようにしゃべるとかありますが、書くときには人は横にいないので大きくメディアが違うので、思いもよらないことが起こってくる。

書くことはストレス発散にもなるかもしれないし、自分を深く考えるという事になる。  その時に日記、俳句、エッセーでもいいし、何か自分より外に吐き出してしまうことは大事なんだと思います。

しゃべることは外に向けてしゃべること、自分にむけてしゃべることとに使い分けができると思います。

どこかに自信がないと人は踏み出せないし、新しいことをしようとできないし、人にも良くできないので、自分を自信が持てるように自分に言い聞かせて飼いならします。

40代初めのころに、あさってから本番という時にパニック障害になってしまって、あの時は苦しかったですね。 大竹さんが「公演は辞めてもいいんだ」といって呉れて、「だけどお前が本当に駄目だと言って舞台から降りるときまでやらないか」と言われて、やらざるを得なかった。 薬を飲みながら過ごして、地獄の中で何十日と芝居をやっという事が自信につながりました。 周りからも助けられました。

ラジオのスタジオに入るのは怖かったです。

そうなったきっかけは、大学で教えないかという話があり、1対1で話すのは得意ですが、1対多は苦手で、勉強もしないといけないと思って、「現象学」の本を読んだが1ページもわからないうちに教える時間が段々迫ってきてしまったのが一番大きかったと思います。

もっと自由にしてコンプレックスをなくしたらいいのではないかと言われて、もっと自信を持とうと思って、4年間大学で教えて自分でも払拭できました。

自分でそういった経験をしたので、周りの他人に対しても敏感に反応するようになり、気を使うことができるようになりました。

人間は人間の中で生きているので、生者の声も死者の声も両方とも聞きながら、バランスとして歩んでいきましょうよという事の死者の中には、調子の悪い人、弱者も入っているし、これから生まれる人、ずーっと過去に死んだ人も入っている、そういうもののその総体として人間社会というものがあるんだと、そういう一つ一つのことが自分にとっては無ければそうはならなかったという、不思議な生きていくことの奇跡ですかね、1個欠けるとずいぶん違っていたことがいっぱいあるんじゃないかなあと思います。

今年は2作を書いてしまって、小説でないと言えないフィクションの不思議な世界があるので、そういうものを自分の中で試していきたいと思っています。

音楽と一緒にやるのにふさわしい詩をたくさん書いて音楽と共に人に届けていきたいなあと思っています。




2020年9月25日金曜日

落合恵子(作家・児童書専門店主宰者)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

 落合恵子(作家・児童書専門店主宰者)  ・【ママ☆深夜便 ことばの贈りもの】

今年落合さんにエネオス児童文化賞が贈られました。 児童文化の発展に貢献した人や団体に贈られる昭和41年以来の長い歴史を持つ賞で、落合さんは長年にわたって子供と本の掛け橋となり、自らも絵本の翻訳や創作をするなど精力的に子供の文化の発展に力を尽くしてきたことが評価されました。  民放のアナウンサーだった落合さんが児童書専門店を開いたのが1976年、そこに有機栽培野菜の販売コーナーを作り、自然食レストランを始め、ついにはオーガニック雑貨や衣類の販売まで、自分がどうしても欲しいものが無かったら自分が作るしかないと45年の間に活動の分野を広げてきました。  一方プライベートではシングルマザーとして落合さんを産み育てたお母さんを介護の後看送り、又この数年友人たちを看送ることも増えて来ました。  自らの最後を意識するようになった今、ご自身の人生を振り返って子供たちに伝えたいこと、残したいことを伺いました。

児童書専門店を開いてから45年になります。  

元々出版社に入りたくて試験を受けましたが、全部失敗して最後に入社できたのは民放のラジオ局でした。  当時TVが上がってきてラジオが下り坂でした。

いろんな仕事をしたりいろんな人との出会いがあり幸せでしたが、女性のアナウンサーの珍しい時代でした。 報道をやりたかったが駄目でした。 海外の取材、雑誌の取材などもさせていただきました。

海外では古い子供の本屋さんがあり、本を読んだりしているところを見ると、文化のスタートってこんなものだと思ったが、日本にはありませんでした。  自分がどうしても欲しいものが無かったら自分が作るしかないと思って、やろうと決めました。

エッセー集「スプーン一杯の幸せ」出版して大勢の方に読んでいただいて、これが私の子供の本屋さんの資金になっています。

環境問題も含めて考える若いお母さんが出現してきて一緒に勉強会などやりました。 絵本の店から、水、有機栽培農産物の販売、自然食のレストランを作って、安心なおもちゃ、女性の生き方を扱った本もあり活動もどんどん広がっていきました。

子供の時に母は仕事を持っていて、ゆっくり向かい合う時間がなかったので、寝る前に一冊必ず読んでくれましたが、とっても幸せな時間で、あの時間をもう一回シェアしたいという事もあり、大人になって絵本を読み返してみると新しい発見がありまして、大人にとっても意味がある本だと思いましたし、3年で終わりといっていたが、やりますと続けたのかもしれない。

「スプーン一杯の幸せ」の印税をいただき、信じられないお金が入ってきて、これは使わなければ間違っていると思いました。 

母を7年間介護して、そのことは「泣き方を忘れていた」という小説にしました。 新聞連載では書けないものがあり、しかし介護の現実の中ではとても大事なことなので書かなければいけないと思っていて、それを書いたのがこの小説です。

母とはともすると濃密になりがちでしたので、お互いに精神的な距離を取ろうとしました。母が認知症になったときにもっと近くにいたかったので、手をつなぐとか、家で私が看させてくださいという事に結び付いたのかもしれません。 母のそばにいたいと思いました。

母の背中を洗っていたりすると「ありがとう」と本当にありがとうという感じで言っていました。 「悪いね」とか「大丈夫」とか言っていました。 母の世代は大変なことでも「大丈夫」と言って、自分にも言い聞かせることで乗り越えてきたのかなあと思います。  「あなたのお父さんにあたる人が大好きだったのよ」とも言っていました。

当時母はシングルマザーなんて言う言葉は無くて、後ろ指を指されて生きてきましたが、その私生児が婚外子という言葉になったりほかの言葉に替わったが、社会には差別とか偏見があります。  偏見がある限り私は私生児、婚外子ですと言い続けます。

「明るい覚悟」 最後を考えることを含めて、可能な限り自分で決めてゆくと考えることによって、明るく軽やかな覚悟になるのではないかという思いで、書きあげました。 いくつかの絵本の内容が差し込まれています。(飛んで行った風船は、ベンのトランペット、アフリカ系アメリカ人のことなど)

子供の周りにどんな大人がいるか、それ自体がもう一つの環境問題だと思っています。

今主宰している子供の本屋は5万冊ありますが、それはほとんど目を通しています。

本というのは本と人が出会うだけではなくて、一冊の本の中で人と人とが出会う事も出来るのが本の素敵なところですし、何百回も読み返してほしい。

「7世代先の子供たちのことを考える」これは、ネイティブ・アメリカンの教え。 ダイヤモントーヤさんが日本に来た時に言った言葉で、「7世代先の子供たちのことを考えなさい。どんなに便利でどんなに効率的なものでも、これを選択したことによって7世代先の子供たちが苦しむことは絶対してはいけないよ」と言われたと彼女は言っていました。

「行列ができていて並ぶと何かが手に入るが、その時にほかの人を押しのけて一番前に行こうというのは人間として恥ずかしいいことだと知りなさい。」という事も教わってこられたという事でした。

血の縁だけがすべての体験の原点かというとそうでもない部分があると思う。 私は彼ら彼女たちの母ではないけれど叔母的な存在にはなれると思います。

75歳になりましたが、自分が想像していた老いと違います。  老いるという事は何かを失うものでもあるが、何かを獲得することでもあるので、この両方を持って生きているのが私の老いだと思うし、最後の日々を迎えるまで可能な限り私はなりたい私に向かって歩いていきます。  それも私の「明るい覚悟」かなと思います。

私の好きな言葉で「私の後ろをついてこないでください。 私はあなたをリードすることはできません。 私の前を歩かないでください。 私はそれに従うことはできません。 私ができるのは隣りあわせに、こういって一緒に歩いていきましょう。」という言葉で、リードするわけでもなく、従うわけでもなく一緒に歩いていこうよ、それかなあと思います。



















2020年9月24日木曜日

小島理恵(ガーデンキュレーター)    ・【私のアート交遊録】人の心に宿る庭を目指して

小島理恵(ガーデンキュレーター)  ・【私のアート交遊録】人の心に宿る庭を目指して 

小島さんはガーデンデザインから施工、手入れまで一貫して行うというスタイルで庭つくりにあたっています。  とりわけ科学的な農薬や肥料を使わないというのが小島さんの基本です。 個人の庭から地域の公園、ミュージアム、マンションの植栽管理、環境保全のシンボルともいえる里山の保全など多岐にわたる小島さんのガーデニングにかける夢を伺います。 

キュレーターとは学芸員という意味と編集者的な意味がありますが、編集者に近いと思います。 日本庭園では職人さんに任せるような形ですが、お客さんと職人と環境、植物をうまくフィットさせてゆくような役割という感じです。 ガーデンキュレーターは私が勝手にくっつけました。

「オーガニックなガーデニング」は科学的な農薬や肥料を使わないという方針で進めています。 漢方薬を農業用にブレンドしたものがあり定期的に散布してゆくことで病害虫を防いでゆくやり方をしています。 コロナの影響で家庭菜園が増えてきました。

横浜出身ですが、祖母と同居していて畑仕事、庭でバラを育てたりするのが好きで手伝ったりしていました。 結果的には今につながっていたのかもしれません。  女子高だったので先生などからは専門職を身に付けなさいというような事を言われましたが、環境保護ブームがあり環境の勉強をしておこうと思って、信州大学農学部森林科学科に行きました。

夏休みのアルバイトは山小屋でずーと過ごして、冬はスキー場でアルバイトをして毎日スキーするとかしていました。 早寝早起きになり朝日を浴びることができました。

4年生では研究室に行き、午前中勉強して、昼はおむすびを車で出かけて雑木林で焚火しながらおむすびを食べて戻ってきて論文を書くなどしていました。  テーマは人工林が問題になってきていて、里山の部分が荒廃しているという事が問題になっていましたので、そういう問題に対して違う価値を見出すことができないか、という事を考えていました。

一回人が手を入れたら必ず最後まで手入れし続けなけらば行けないという事も学びました。

卒業後、バブル崩壊で氷河期になり、先輩を頼って造園会社に来ました。 

ほとんどが男性で作業着も一緒ですごく嫌でした。 ガーデニングブームもあり、ニーズが出始めていましたが、ニーズに合わせられないという事に対してはめんどくさいという事で疑問を抱きました。

会社を辞めてからイギリスに毎年一回ぐらいいって、土、気候、建築、庭などを見て回りました。  

花屋さんでアルバイトをしながら、インテリアの学校に行っていました。

部屋の中と庭とがマッチングしていないことにはどうにかならないかという思いがありました。 

ガーデンキュレーターによる里山再生事業という形で、友人たちとアイデアを出し合って事業化しようという事で始めたところです。 邪魔だから伐採するとかではなくて、治山的なこととか景観的なバランスを考えたうえで事前にちゃんと手入れをしてゆく事、資金をどう集めるかなどを考えています。

里山を手入れしたところで儲かるのとかあり、皆さん手が出せなかった。 お金ではなくて違う意味のこととうまくリンクさせて環境に関心を持っていただくとか、手入れをして保っていければいいのかなあと思います。

スクール事業も来年始めようと思っていて、各都道府県に最低一人5年以内にいるようにして、少しずつ広がって行くのが夢です。

世界のガーデナーは異口同音に二つのことを言っています。 ①花を作るということは大地に絵を描く様なものだが、自然のリズムと一緒に呼吸を合わせることによって、思い描けるような花の世界が出てくる。  ②自然に対して敬虔な気持ちを持つことによってどれだけ私たちは救われたかという事を言っています。

草花の寿命は短いが、今から自分が植える樹木は全部自分より後の時代まで生きるという事を思って、その木がいかに長く元気で生きてくれるかという状況を整えてあげて、共に暮らす方たちがいつも目をかけてあげたいような気持になるような仕事をしていかなければいけないと思いました。

秋はリスタート、リニューアルするのに一番いいです。 枯れるリスクが少ないので秋、冬にやるのがいいと思います。

お薦めの本「園芸家12ケ月」 カレル・チャペックの著書 共感する面があると思います。



2020年9月23日水曜日

稲垣典年(高知県立牧野植物園アドバイザー)・【心に花を咲かせて】人生150年、理想の植物園をつくりたい

稲垣典年(高知県立牧野植物園アドバイザー)・【心に花を咲かせて】人生150年、理想の植物園をつくりたい 

高知県の五台山に県立牧野植物園があります。  これは日本の植物学の父と言われる牧野富太郎の業績を継承するためにつくられた植物園です。  その牧野植物園に高知の植物の生き字引と言われ、80歳になる今も職員として仕事をされている方が勤続50年の稲垣さんです。 稲垣さんが県立牧野植物園で仕事をすること、仕事をしたり休みの日にはほとんど山歩きをしているという、その元気の元は何なのでしょうか。

日本の植物学の父と言われる牧野富太郎氏を継承するために作られた県立牧野植物園で、昭和33年4月に発足しています。   牧野富太郎氏は昭和32年に亡くなりました。

父親が教師をしていて、私は1940年生まれで、牧野植物図鑑が出たのは1940年10月3日に初版が出て、記念に初版で購入しました。  美術を高校までやっていて理系が得意でして、昆虫、植物など興味を持っていて、登山もやっていたのである程度植物のことを知っていたので京大に入って、その後東大に行くように言われて、1年足らずで国家公務員の試験を受けて文部技官として6年いました。 

植物園に勤務していたが、高知に来ないかと言われて1970年4月に行くことになり、「日本一小さい植物園だが世界に通用する植物園を作り上げてくれ」という風に言われました。

今は20ヘクタールありますが、当時は3ヘクタール足らずでした。

海外を含めて色々な植物園を見に行って調べて、漫画家の横山隆一さんとかはらたいらさんとかと話をして構想を考えました。  

構想を提出したら当時の5代目の園長がいいと言ってくれたが、お金の関係で出来ないという事で、その後少しずつ提案を重ねて、20年ぐらいして県がとりあげてくれましが、財政課などもとても無理だといわれてしまいました。

高知県では植物園を表に出そうという事になって始まりました。 できたのが1999年の11月1日でオープンしました。 その間に担当部署がいろいろ変わってしまってその都度ゼロから説明しなくては行けなくて大変でした。

一般の人に美しいと思ってもらうためには、春には60種類の野生のつつじ、秋だったら100種類の野生の菊を調べて、日本の野生の植物という事を基本に置いてやりました。   僕の現役のころは購入植物はゼロで、時間はかかるが全部採集品です。  牧野植物園をベースにした考え方で裏日本にもいくつか植物園ができました。  各地域で各地域の絶滅危惧種といわれる植物を植物園で保存するという事を考えるようになってきました。

自然風にしてゆくほうがいいと思います、自然に近い状態で集約して見られるという形を求めています。  最初は手間がかかるかも知れないが、落ち着いてくるとお互いが助け合う形になってくれると思います。

人間が改良した植物、園芸品種は極力避けてはいます。

牧野富太郎がかかわったり、命名したりし植物を集めて自然風に見せて、それが8ヘクタールで まだ2/3残っているのでそこをどんな形にするか、考えています。

日本の植物は圧倒的に種類が多くて、五台山の200ヘクタールにシダ植物が100種類ぐらいありますが、アラスカでシダはたくさんあるが、あの面積で種類は50種類ぐらいです。

最近では高知県の植物誌を作るのに10数年かけてやりましたが、そのために高知県の各地域を歩きましたし、帰化植物の調査などもしました。 帰化植物の調査では最初の調査と比べて倍ぐらいの種類が出てきて、量も倍ぐらいになってきています。

牧野植物園に来れば、シーズンごとに判りますよという展示をしていきたいという事です。

植物は本当にバラエティーに富んでいて面白いです。

年ごとに同じ日同じ場所へ行きますが、いろんなのに出会います。

コウロギ蘭は牧野富太郎が見つけて長い間そこにしかないといわれていたが広い範囲で見つかりました。

植物園には週の半分で、あとの半分は山に出かけています。  54歳の時に心臓を取り出して手術をするという大掛かりな手術を12月15日にしましたが、1月25日に退院しました。散歩していいといわれて病院では階段の上り下りをして足を鍛えて2月には山に行きました。8年前に牧野富太郎の生誕150年祭をやりましたが、その時に若い同僚の女性が「稲垣さんは150年祭を自分でやりなさい」と言われ、死ぬ暇がないという話をしたことがきっかけで「50歳までが少年、100歳までが青年、150歳までが壮年、150歳過ぎたら老年」というふうな言葉を作りました。

牧野富太郎は沖縄以外は行っていて、同じコースを同じように歩いてみたら面白いのではないかと思って、今も牧野富太郎が確認した植物があるかどうか、そんなことを想像しながら歩いたり、スケッチも絵描いているのを見つけるのも面白いと思いますが、同じところに行っても大木があったりして見えなかったりするが、牧野富太郎の追体験するわけですが、参加者は喜んでくれます。

牧野富太郎は94歳で亡くなりますが、ごく近くまで山に行っていたと思われます。

自然界では地域を代表するものが一年中咲いています、必ずどっかに一輪でもいいから咲いているという植物園になれば最高だと思います。  







2020年9月22日火曜日

小林克也(ディスクジョッキー)     ・しゃべって歌って50年

小林克也(ディスクジョッキー)     ・しゃべって歌って50年 

小林さんは昭和16年広島県福山市に生まれ、上京後大学で学びながら外国人観光客のガイドをしたり、コンサートの司会をしたりして英語とアナウンスに磨きをかけました。  昭和45年ラジオで初放送以来50年人気ディスクジョッキーとして活躍し続けています。  又ミュージシャンとして俳優としても存在感を発揮しています。

声だけは小さいころから大きかったです。  ディスクジョッキー生活は50年。  ラジオは大好きでしたがなかなかチャンスが来ませんでしたが、いつの間にか10本になりました。

60代ぐらいまでは回顧するのはなかったが、昔の光景を思い描くようになりました。

私の英語はいろんな訛りがあり、日本語も訛りがあり今でもアクセントには自信がないです。

TVは洋楽を紹介する番組で今はBSで放送しています。 あとはみんなラジオで9時間の生放送があり、朝の9時から夕方の6時までで、2回ぐらい寝てしまったことがあります。

音楽は気になる音楽とか好きな音楽しか聴かないです。  深夜便はラジオっぽいラジオだと思っています。 僕はラジオは一人でやるものだと思っています。

音楽でイントロでしゃべるのはイントロを殺してしまうので、よくない、いかに曲を大切にするかという事をアメリカなどでは考えています。  日本ではみんな殺してしまう。

ラジオの時代はずーと続くと思っています。 

ラジオ大阪でラジオ番組「スネークマンショー」を開始、例として「寿司屋日米摩擦」のCD、伊武雅刀さんと2人の掛け合いによるコントを番組の曲間に挟む形式でアドリブがたくさん入ってる。

アメリカの小さなラジオ放送局で好きな音楽を流すことをやっていて、パーソナルでいいなあと思って、あこがれみたいなものを持っています。

ラジオは音楽と違って、かっぱらいはOKですから、自分のアイデアをいいように盗まれたなという事が判るわけです。  オマージュ(芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事を指す用語)なんだなという風に聞くとみんななんか作品は繋がっていると思います、映画でも小説でも。

1982年に中年バンド「小林克也 & ザ・ナンバーワン・バンド」を結成、音楽活動を始める。 

『うわさのカム・トゥ・ハワイ』 デビュー曲「うわさのカム・トゥ・ハワイ」は日本語ラップのはしりとして一部に評価が高い。

*「美しき日本」 作詞:小林克也  ジョン・ウエインがアメリカをたたえる歌を日本にしたらどうなるのかと思って参考にして地図を見ながら1時間でつくりました。

同じことをやりたくないという思いはありますね。 来年80歳になりますが、仲間とか後輩が病気などで先に逝ってしまうと、僕はやってていいのかなという思いもあります。




 








2020年9月21日月曜日

佐藤和哉(篠笛奏者)          ・【にっぽんの音】

佐藤和哉(篠笛奏者)          ・【にっぽんの音】 

佐賀県唐津市出身、中学生の時、地元の祭り“唐津くんち”のお囃子の練習に参加して、初めて横笛に触れる。  少年時代は、ピアノ(小学校)、ドラム(中学)、ギターに弾き語り(高校)など音楽に没頭。  大学在学中に篠笛、和太鼓の演奏を聴いて笛でも普通に楽しめる音楽ができるんだという事を知って、篠笛をやっていこうと思いました。 現在は各地の演奏会で演奏を行うほか、作曲家としても活躍。

“唐津くんち”は江戸時代末期から盛り上がってきた祭りで、14台の山車が街の中を練り歩きます。  秋の例大祭で11月2,3,4日と3日間行われる日本でも有名な祭り。 お囃子のメインになるのが太鼓と笛と鐘です。 太鼓は大太鼓と締め太鼓を一人で、鉦も一人、 笛は7,8人が山車に乗ります。

“唐津くんち”が好きで中学生の時にお囃子の練習に参加しました。 笛というと祭りの為だけにやっていました。  唐津の笛も古典調なのでドレミができなかった。 

大学生の時にドレミに調律されている笛があることを知りました。 大学卒業後、洋楽器をやっている自分に違和感を感じていて、海外(トルコのイースタンブール)に行ったときに日本人だという事を実感するときがありました。  そういう思いをガツンと覆したのが篠笛でした。 ドレミに調律された笛と出会って、これだったら自分の中から生まれてくる音楽を日本らしい音で表現できるんだと感じました。

自分の音楽が人の役に立てるかもしれないと思えた瞬間でした、それでプロになれるかもしれないと思いました。  どれだけ心を籠められるのかという事が必要不可欠だなあと思いました。  

2013年NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』主題歌「雨のち晴レルヤ」(ゆず)には、モチーフとして自身作曲の「さくら色のワルツ」が採用される。

*「さくら色のワルツ」  作曲、奏者:佐藤和哉

とてもやさしく、癒される曲

曲を作る時には僕の場合は自分が感動することが第一で、笛の音がどんな風に流れたらこの景色が感動的になるんだろうと思った時に聞こえてくる感じがあります。  頭で聞こえてくる旋律を口笛にして録音します。 それから主旋律が出来上がってきます。

*「遠い雲の上」    作曲、奏者:佐藤和哉

僕が感じる日本の音は梵鐘です。  海外の自然の景色の中に梵鐘の音がゴーンと鳴ると、瞬間にその景色が日本を帯びるような不思議な力があると感じます。

コロナの為、オンラインサロンとして景色のいいところで演奏して、動画にとって配信しています。 笛で景色を彩る全国観光大使をやりたいです。

*「唐津曳山囃子」    奏者:佐藤和哉






2020年9月20日日曜日

上田勝彦(東京海洋大学客員教授)    ・【美味しい仕事人】魚食文化を伝える

上田勝彦(東京海洋大学客員教授)    ・【美味しい仕事人】魚食文化を伝える 

四方を海に囲まれたた日本、魚を食べる習慣は多彩な調理法や保存方法を生み魚食文化を育んで来ました。  しかし10年余り前から魚の消費は落ち込んできているといわれています。  魚の臭みや調理の手間などがネックになっているようです。  そんな魚を取り巻く厳しい状況を打開しようと活動している人がいます。  東京海洋大学客員教授の上田さん(55歳)は50歳の時に水産庁を退職するまで官僚として水産資源を管理する仕事をしていました。  日本の豊かな魚を食べる、魚食文化を守ってゆくためには消費者の理解を得る事こそが必要と在職中から魚をめぐる食育や調理法の講習を引き受けて全国各地を飛び回ってきました。   そして現在は自らを魚食文化復興伝道師として魚食文化の復興を本業に据えて日本の風土に根差した食の形を再構築していきたいと活動しています。

物心ついたころから魚が好きで、友達よりも飯よりも魚でした。 川の中とか海の中で見ると陸上動物とは違う生命の躍動感があるわけです。

幼稚園は仙台、小学校時代は千葉の松戸、中学校時代はオーストラリア、高校時代は品川区の小山台高校、大学が長崎大学の水産学部に行きました。

オーストラリアでは海の近くに住んでいてパラダイスでした。

長崎は離島あり、海岸線もいろんなタイプの海岸線があり海の標本箱のようなところでした。 魚種もたくさんあります。  漁師の家で働きながら大学に行きました。

バイクにテントを積んで回って漁師の家に泊めていただいて働いて、又次に行っていろんな漁業を体験しました。  

卒業後9.6トンの船に乗っていましたが、高齢化で乗組員が少なくなっていって、仕事にならなくなり船長と2.5トンにしましたが食っていけなくなり、周りから中央に行けと言われ、水産庁に入りましたが、自分の中では出稼ぎというような感じでした。

最初漁業保険の仕事をしました。  その後漁礁を入れる仕事をして、その後瀬戸内海方面で密猟を取り締まるとかやっていましたが、神戸大震災に遇い復興支援などをしました。 その後捕鯨担当、海洋資源開発センターでマグロ漁場の開拓などして、鳥取県漁業調整事務所で5年半いましたが、本庁に帰って加工流通の仕事をしました。  25年務めて辞めることになりました。

資源管理というところにいましたが、資源管理というところは獲りたくてもやせ我慢をするわけですが、心折れるところがあり、そこを支えてくれるのが消費の力なんです。

現場にいて考える中で国としてどうしたらいいのかなと考えて、「魚を伝えて国興す」という思いが湧いてきました。 

要望に合わせてお世話できることをお世話する、伝えられることは伝えるという事をやっているうちにその割合が増えてゆき役所の仕事が滞るようになり、選択して、水産庁を50歳で退職して、会社を立ち上げればという助言があり会社を立ち上げることになりました。

島国の国民がご飯を食べて健康でいられるかを考えると、魚、米、野菜の基本路線は外せないが、何故か日本はそれらをないがしろにして他の物を育てようとしている。

魚食の復興を何とかしようと思いました。  日本は7000の島で出来ていていますが、山が深くて飲める水が潤沢にあります。  しかしその基盤が大分崩れてきてしまっている。

魚を食べない文化が育っていて、消費者サイドをどうにかしないといけないと考えました。会社を立ち上げて5本の柱を立てて活動をしています。 

①生産者、(漁師)   ②市場など(加工流通業者) ③小売り(魚屋、スーパー)  ④飲食店、料理人   ⑤家庭の食卓(主婦)

連動して育成していってつなげるという方向にこの数年間でならざるを得なかった。

活〆の技術、鮮度保持技術も地域、魚種などによって色々変わりますので、継続的にお世話できるようにする事です。  

獲ってきた魚を休ませてリラックスさせたところで一発で殺して、元気に心臓が動いているうちに注文をいただく。  血は全部抜かないとか冷やし方も重要で5段階の技術が必要です。   

市場の仲買も漁師と一体となって頑張っているところもあります。 僕の仕事は調整をする役割でもあります。

魚屋は過去のデータでは3年間で1万軒ぐらい減ってしまいました。  大手量販店が増えてしまって在庫を抱えてもリスクが少ない冷凍品が増えてしまいます。  昔の魚屋さんは判りにくいものなのでお客さんを育てながらやってきた。

理解あるスーパーもあり、スーパーの育成は重点事項の一つです。

日本調理師会の人の言うには若い人たちの魚を扱うレベルが低くなってきている。 おろした身だけ納入されたり、1/4欲しいとかと言ったりするために基礎的な修行する場がなくなる。  そして決まり切った魚しか扱わないようになる。

長野県でも4軒教えていますが、4年目になりますがメキメキと育ちました。

人間の第4の欲求は教わる欲求だそうで、第5の欲求は伝える欲求だそうです。  一般の方に料理講習初めて6年目になりますが、伝えるときに最初は野菜とのバランスとかで美味しく食べられることを教え、それができると自信ができて、そうすると自分でもさばきたくなります。

薄塩をあてる、日本酒は臭み成分を無くしてくるので加えて、ぐらぐら煮る、この3つが基本で、これは網走の郷土料理です。  魚は種類も多い、大きさも違い、季節によって味が違ってややこしいが、湯煮という一つの工程を踏めばどんな魚でも美味しくなる。

役所時代にやってきたことと今やっていることと中身の本質は変わらないです。 コロナでいろんなことを考えさせられました。 以前から通販をしていた人はうまくいっています。応援したいという漁師、応援したいという魚屋、料理屋は共通していますね。

























2020年9月19日土曜日

松本康治(出版社代表)         ・【人ありて、街は生き】「レトロな銭湯に愛をこめて」

 松本康治(出版社代表)     ・【人ありて、街は生き】「レトロな銭湯に愛をこめて」

松本さんは大の銭湯好きです。  仕事帰りや出張先では銭湯に立ち寄ります。     これまでに古き良き時代の面影を残す各地の銭湯をブログや本にまとめてきました。   ここ数年はSNSなどのインターネットでのやり取りで興味を持った若者たちが銭湯を訪れるようになり、さらには経営が厳しくなった銭湯を自分たちの手で支えようという動きも各地で広がっているといいます。                           松本さんと親しい銭湯好きの仲間が経営している大阪此花区の千鳥温泉にて伺いました。

大人は440円、貸しタオル20円になっています。                   奥に自転車があり高価な自転車に乗ってくる人が安心できるように置いてあります。   主浴槽といろんな電気風呂とかジェット風呂とか水風呂とかがあります。 

「レトロ銭湯へようこそ」関西版、西日本版を出版、この2冊に102軒全部行きました。 ここはいいなあと思ったところを改めて取材しなおした本です。           「旅先銭湯シリーズ」2巻出ていて、旅行に行った時の銭湯です。            地方では一軒もなくなってしまった街もたくさんあります。             「レトロ銭湯へようこそ」関西版は2015年に初版が出ています。            建物が洋風な趣がありますが、国の登録有形文化財に指定されていましたが、今年2月に辞めてしまい惜しいです。  (昭和12年に建設したもの)     

京都は柳行李という籠があり、脱いだ服を籠にいれて、籠もとロッカーにいれるという文化で、京都には百何十軒ありますが、全部この形式になっています。           地域性があるのが銭湯の面白いところです。                     大阪では湯船の周りに腰掛ける段があり、ここに座って体を洗ったりします。      東京は必ず一番奥に纏めて湯船があり、手前に洗い場が並んでいて、奥壁には富士山の絵があり天井が大阪よりドンと高くなっています。                   神戸の長田区の扇港湯のお風呂屋さんでは浴室の真ん中に幅数10cm、長さ3mの細長い湯船がありここは入っては駄目で、汲みだして体を洗うためのもので、神戸と明石にしかないスタイルです。

銭湯のピークが1970年頃で、以降一貫して減り続けています。             かつてお風呂屋さんは花形商売で儲かっていたころのお風呂屋さんは豪華なつくりになっていまして、一日の終わりとして贅沢な時間を過ごしていました。            家庭に内風呂が作られるような時代になると暮らしの中のいろんな人との繋がりやリフレッシュの仕方が忘れていきました。

気が付いたら黙って一人ぼっちで小さなお風呂に入っている、選択肢として別のもの、昔よかったものを置いておいてもいいのではないかと思っていて、何とか残したいと思います。大きなお風呂では掃除が大変、燃料は高くつく、ボイラー等に設備も老朽化して取り替えようとすると大変なお金がかかってしまうので、代替わりせずに辞めてゆくところが多いです。

東京では2013年度を底に一軒あたりのお客さんはじわじわ増えてきています。      古い作りのお風呂屋さんに入ることが若者にも人気があり、再発見されてきている。  2016年にはいろいろドラマや映画にもなりました。                  銭湯を残したいという事で活動し始めた人たちがこの数年出てきました。        佐賀県では恵びす湯一軒しか残っていなくて、何とか残したいという事でムギさん(中島彩希さん)という女性が近くにゲストハウスを作って泊まったお客さんをお風呂屋さんに送り込む込むことをしています。                            そういった方が日本中のあちこちに出始めています。                 京都の若い男性で、湊 三次郎さんは辞めてしまったお風呂屋さん、もう辞めるというお風呂屋さんにやらせてくださいといって、借りて復活させる活動をやっています。      遊郭建築も残っていて注目されているエリアです。                  彼がやりだすと赤字だったところが大繁盛しています。                その一軒目を足掛かりに滋賀県大津で何年か辞めていた都湯を借りて復活させて、3軒目、4軒目を今準備中です。                               ユーチューブで発信をしている人もいて、若い人が次々に来ています。

淡路島の岩屋に古い扇湯がありまして、一昨年ボイラーが壊れて辞めようという事で、見てもらったら付属備品が壊れていただけだったので、直して、私も掃除を手伝ったりビラまきなどしていました。  SNSで宣伝などもしました。                商店も辞めていってお風呂屋さんだけ応援していてもゴーストタウンになったら先が見えていると思って、辞めてしまった八百屋さんを借りてハイボール屋さんを始めました。 

卵型の湯船がありその周りに座る段があり、向き合うように内向きに座っていて日本ではここだけだと思います。 

それぞれの街にはまだ銭湯が残っているかもしれないのでそれを見つけて、みんなで応援して盛り上げていただければいいなあと思います。




  


2020年9月18日金曜日

楊 慧(太極拳師範)          ・師・楊名時の志を引き継ぐ

 楊 慧(太極拳師範)          ・師・楊名時の志を引き継ぐ

楊名時さんは京都大学に留学し、日中の懸け橋となる外交官を目指しましたが、戦争のため夢かなわず日本にとどまりました。   大学などで中国語を教えていました。     1950年代中国では昔から伝わる多くの太極拳の流派を整理統合して国民だれでも親しめる太極拳にしました。   楊名時さんは幼いころから太極拳を身に付けていましたが、日本で学んだ禅、能、華道など和の心を加味して日本人に合ったゆったり呼吸する健康太極拳を作りました。    長女の楊慧さんは父であり師である楊名時さんの太極拳の心と技を引き継いで40年経っています。   いまでは海外にまで愛好者が広がっています。

健康太極拳、誕生して60年になります。   60周年を記念してみんなで太極拳をしましょうと企画していましたが、コロナで出来なくなってしまいました。          「太極拳で100歳まで健やかに美しく生きましょう」という本を出版しました。     平均寿命が長くなって、健康寿命と簡単に言うが、なにか一つのことを続けてゆくことって素敵なことだという事を伝えたかった。      太極拳は何歳からでも始められます。身体をさまざまに動かして行きますが、それを続けることで本当に心を落ち着かせてすがすがしい気持ちになります。

太極拳は中国で長い歴史の中で生まれた体術です。  攻撃があって防御もある。    背景には東洋の宇宙観、自然に流れる偏りのない、陰と陽、天と地、明と暗、というように混とんと混ざり合いながら一つのものが形作られるという大きな宇宙観があります。   手の動きも半分はゆっくり休み半分は活動して、あなたの体は小宇宙ですと、大宇宙とも繋がりながら良い流れを身体を作ってゆくのが太極拳だといわれました。         大きな世界の中に自己をゆだねて調和してゆく思想を背景に持ちながらの武術です。   1950年代中国では昔から伝わる多くの太極拳の流派を整理統合して24の動きにしました。

父は1943年に京都大学に官費留学しました。(戦時中)                生まれた家は豊かで優秀な生徒で、留学の機会があるという事を知って、留学を志したようです。     1年目は東京で過ごして日本語を学んで、金田一先生とか日本の素晴らしい先生方が指導しました。  京都大学に入ってお寺などをめぐったり、能楽堂とかに連れて行ってもらったりして日本の文化に触れることができました。  禅も学びました。

外交官になりたいという夢も持っていました。                    平和を願う気持ちを父は持っていまた。                       太極拳を日本に普及したいという思いがあり、太極拳を介して日中の懸け橋になるのではないかと思ったそうです。  30代に半ばには太極拳の指導を始めていきました。  

私が高校生ぐらいの時に太極拳をやってみようという思いが出てきて父に指導してもらうことになりました。

父は言葉では教えてくれなくて黙って真似をしなさいというだけでした。        今思うとあんな素晴らしい教え方してもらったと感謝しています。           ゆっくり柔らかく、心も体も柔らかくという事を教わりました。

指導を始めて40年になります。                           基本的にはいつくつかの大事な体の使い方のポイントがあります。

①姿勢を整える。(上虚下実) 上半身は楽にして、下半身はしっかり足元を踏みしめる。②陰陽バランス (内外相合)体の左右、前後のバランスをとる。 内は心、外は動き、太極拳の型などのバランス。                             ③心、息、動の一致  心と息と動きを一致させる。

いい呼吸ができたなと感じた感覚を大事にしながら、自分にできる簡単なことを続けてほしい。  

「あいおおく」という言葉があります、 「あ」は焦らず(ゆっくりでいいですよ)、「い」は威張らず(謙虚でいなければいけない)、「お」は怠らず(続ける事)、「お」は怒らず(怒ると心身のバランスも崩れてしまう)、「く」は腐らず(いろんなことを受け入れながら、ゆっくり進めばいい)  人を愛し、自分を愛し、人生を愛していきなさいという生きてゆく道を示唆する優しい言葉だと思います。 (「愛多く」)

太極拳は足の動きが入っていて、柔軟に使ってゆくので足腰を丈夫にするというのはずーっと言われてきました。   

24の動作の中にあらゆる筋肉関節をまんべんなく使って、上下左右前後のバランスがおのずと取れてゆくという動作になっていて、中心軸が崩れることなくいい筋肉を作り上げて、柔軟にしてゆくので足腰が丈夫になって転倒予防に役立つという事は明らかになってきています。     パーキンソン病の治療として適用されたり、骨粗鬆症、メンタルヘルスなどにも効果があります。

継続は力なり、続けているといいものを積み重ね養ってゆくことができる。       「健康、友好、平和」 健康な体と心を持つことで、身近な人と友好の場を持てて、結果として平和につながってゆくと思います。

 

2020年9月17日木曜日

上野 誠(奈良大学教授)        ・墓じまいと家じまい

 上野 誠(奈良大学教授)        ・墓じまいと家じまい

上野さんは1950年福岡県の商家の次男として生まれましたが、俳人だった母親の影響もあり国文学を学ぶため上京、国学院大学に入学、その後奈良大学に職を得ます。       福岡の実家は長男に任せていたところ60歳で亡くなったため、お母さんを奈良に呼び寄せ7年間介護したのち見送りました。    学者としてご自身の思考の拠り所である古典と自らの体験を往復しながらつづった著書、「万葉学者、墓をしまい母を送る」は 今年の日本エッセーイストクラブ賞を受賞しました。                     葬儀や介護など家にまつわる様々な問題を一つ一つ乗り越えたのち、今どのような感慨を抱いているのか伺いました。

遠隔授業ではこちら側が熱意をもってやらないと、みんな聞けないと思います。     対面の面白さはその場で何か起こるかわからない、授業と授業の無駄話などそういったことが勉強だと思います。

研究室からは三笠山が見えるし、4階からは三輪山が見えますし、西には生駒山が見えて、地の利を生かす勉強を教えたいと思っています。   元号が発表された昨年の4月1日から2週間はスターみたいな感じでした、いろんなメディアが次々に来ました。        万葉集の巻の5からのまさに良い天気のときに素晴らしい梅の花見ができた、そういう平和な時代がやってきてほしいという願いが込められた年号です。             年号は国民の希望の形ですので、よい時代がやってくるかどうかは我々の一人一人の努力にかかわってくるわけです。

「万葉学者、墓をしまい母を送る」は今年の日本エッセーイストクラブ賞を受賞しました。    お前は次男だから後をつながなくていいという事で万葉集の勉強をしていきましたが、店が立ち行かなくなって自主廃業して、兄と家族が母親と一緒に暮らしていましたが、兄が59歳でがんで他界してしまいまして、母は九州の博多なので奈良に呼ぶしかないと思って7年間介護して見送って、7年間の経験と、中学2年生の時の祖父の死、父親の死、兄の死、母親の死を通じて、死とのかかわりについて考えて、小さな家族の歴史と、古典を重ねあわせて、葬式、お墓のことについてなどについて考察していきました。       心性(心の在り方)の歴史、40年間の間にどのように変わっていったかを考えてみました。

祖父の死はいまだに忘れられないです。   郷里の福岡県の朝倉市では亡くなった人の体を綺麗にするために湯灌ということをしますが、亡くなった方をお風呂でお湯をかけて身体を綺麗にしてあげますが、これは女性の仕事になっていますが、私は13歳で大人ではないという年齢だったので、母親とおばあさんが私におじいさんの遺体を背負わせてお風呂まで運ぶという事をしましたが、死者の肌触り、死者の冷たさを知るわけです。        お風呂に入れて綺麗にして寝床に戻すわけですが、終わったあと腰を抜かして動けなかった、鮮烈な経験をしました。

火葬になってお墓に入ってしまえば肉体が失われるわけですが、肉体をいとおしんであげるという役割があるわけです。                            葬儀の下支えをするのは女の仕事なんですね。 弔問客に全部食事を出さないといけない。1000食以上になるので、一日中料理作って洗い物をしている。             男は段取りはするがぐずぐず酒を飲んでいたりする。

我々は社会を維持してゆくために金を使い、時間をつかっていたが、そういうことを辞めようという事になってゆくと、現在では家族葬になっていっている。

結婚式も仲人立てて、主賓のご挨拶があったりしていましたが、結婚式も小さくなるし、葬式も小さくなって、個人一人一人に合った形で、お金もかけないようにしようという風に変わってきている。    それは人間と社会のかかわりあいというものが変化している事と連動しているわけです。

1970、80年代では夜中の1時、2時に親父が5,6人を連れてきて朝まで飲むという事になって母親はおつまみを作ったりして、朝まで飲んで、朝もそうめんを出したりしていたが、今そんなことをしたら即離婚ですよ。

私たちは一人一人を大切にするという事によって、助け合いをしないで済むようになっていったというような、そういう時代の葬儀の在り方がいろいろあるのではないかと思っています。      この40年で急激に日本の社会は変わってきたと思います。

おじいさんは昭和5年に2階建ての大きなお墓を建てて、1階の納骨室には人が入れるほどで大理石を使って大きな門がある大きなお墓で、祖父母が死んで、お墓が老朽化して、私の家の経済力ではお墓が維持できなくなってしまいました。                小さなお墓にするという墓じまいするわけです。

7年間母親を介護するわけですが、母親は九州で俳句をしていて九州でも一流の位置にあったと思いますが、母親の影響で万葉集を勉強することになったわけですが、母親は介護のために息子の仕事に影響を与えたくないと思うわけです。               そこで一つの哲学を持ったんです、介護する側が幸せでなかったら介護される側は安心して介護を受けられないわけで、そうするといろんなことが決まってくるわけです。

後押ししてくれたのが古典で、「 この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我はなりなむ」   人間というものは最後には死ぬものであるのでこの世に生きている間は楽しく生きるべきだ、この世で楽しく生きることができればあの世で虫になっても鳥になってもいい、という大伴旅人の万葉集の歌です。

介護や死を考えるときに読んだ古典が「臨済録」という禅の本ですが、こだわりの対象となるものであったならば、仏様でも殺すくらいの覚悟がないと駄目だよ、というのが臨済の教えなんです。   何とかして解き放つ必要があるだろうと、その哲学は中国の六朝思想と言って陶淵明などはその影響を受けていて、老荘思想の影響を受けているが、そういう多きな知の流れがあって、世の中いろんなやり方がある思って、母親と話し合って胃ろうはやめよう、酸素吸入はやろうと、写真も元気のいい時に取ろうという事でした。

介護はするほうは日本一の親孝行を演じているわけですが、介護される母親は健気に気の強いさっぱりしたごりょんさん(商家では主に「若奥さん」を意味する)を演じて、逝くという事です。

インドで死の間際にガンジス川のほとりで死にたいというので家族がじいさん、ばあさんと一緒に旅をしてガンジス川まで行くことがあるらしいが、死を巡る旅で一番重要だと思ってるのは、旅というのはその場所を愛してその場所を楽しまないと旅にはならない。    介護施設の秋祭りなどがあると鉢巻をしてはっぴ着て綿菓子など作ったりしてやると、母親も喜びます、その施設にいるときには全力投球する。

一冊にまとめましたが、古典の研究者がどう考えながら墓じまいして、母を送ったかという事で考えてみました。     母親と一緒にいた7年間と40年間の我が家の葬儀、お墓をめぐる状況、それを取り囲む社会と個人との関係といった事を書いてみました。

ホモサピエンスほど大きく協力をして食料を融通しあうことによって命をつないできた動物はなく、そのことによって大きく発展したわけですが、又ホモサピエンスほど大きな殺し合いをする動物もまたいない。 病というものと闘いながら人類は生きていたが、そのたびに社会を大きく変わってきたと思う、大きな疫病は時間を早回しする力があると思うんです。会社が人生そのものであった時代から在宅勤務を進めて余裕のある社会を作ろうといってもなかなか進まなかったが、コロナで知ったと思います。自分が持っている哲学、自分が持っている職業、自分が持っている文化、伝統、そういうような事を私自身は強く考えました。

「生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は楽しくをあらな 」       人間は最後には死んでしまうのでこの世にある間は楽しくいかなければいけない。    楽しくある為にはどうしたらいいかがなくてはいけない。               その人が持っている地域社会の力で介護の在り方は変わってくると思います。      万葉集の注釈を書きたいと思っていて、万葉集は4516首あって20巻ですが、注釈を書くとなると10年かかり、5年間で刊行するとなると15年間かかります。            自分のライフスタイルはおのずからどういう形がいいか考えることになるので、自分に必要なもの、不要なものを選りわけてゆく、そういう風に考えながらやるしかないですね。




                  



2020年9月16日水曜日

三田村昌鳳(ゴルフジャーナリスト)   ・【スポーツ明日への伝言】達人に学ぶゴルフの道

三田村昌鳳(ゴルフジャーナリスト)  ・【スポーツ明日への伝言】達人に学ぶゴルフの道 

様々なスポーツの中でもゴルフはプレーヤーの心の動きがそのままプレーに反映されるスポーツだといわれ、18ホールを回る一つのラウンドがしばしば人生に例えられたりします。   ゴルフの達人といわれるような人たちはゴルフにどう向き合っていったのか、長年にわたって達人たちの姿を追ってきたゴルフジャーナリストの三田村さんに伺います。

最新クラブを使うと飛ばしたいとか寄せたいというような欲望が強くなりす。      ヒッコリー(クルミの木の材質)を使うと飛びませんが、ゲームを楽しむという事に集中出来たのかも知れません。  100年以上昔のゴルファーはある種精神的な楽しみ方をしていたのかなと思います。    一番典型的な格言としては「ゴルフは18ホール回るのは航海と一緒だ」と、船旅で荒波に揺られて、出発してどうやって戻ってこれるかという事と18ホールを回る事は同じであると。

ゴルフは自然と人間がぶつかり合うわけです。   海沿いのコースでプレーするとさっき晴れていたのに雨だとか、風だとか自然に対して小さなボールを打って格闘しあって戻ってくるのがゴルフの基本なので、そういう言葉がけっこうあります。   運動しているのは打つのはせいぜい2秒で、100叩いても200秒、それを4時間でゲームするわけです。  運動以外は3時間57分が結局心と頭の気持ちの格闘が多いんす。            総合して考えるとメンタルみたいなものが物凄く作用するわけです。

「調身、調心、調息」 調べるという言葉が身を整えるという意味があります。     ボギーをたたいてしまい、その気持ちを引きずったままその後池に2回入れてしまい勝てなかった、「ティーショットの前に深呼吸すべきだった」といったプレーヤーがいました。  まさに「調身、調心、調息」すべきだと思います。

アマチュアの最強プレーヤーと言われた中部銀次郎さん、とプロのジャンボ尾崎さん。  ジャンボ尾崎さんは典型的なプロゴルファー、派手さがあり、飛ばす、パフォーマンスもいい、人気も物凄くある。                              中部銀次郎さんはこれ以上の真のアマチュアゴルファーはいないというぐらいなピュアーなアマチュアゴルファーで、ジャンボ尾崎さんが北極ならば、中部銀次郎さんは南極、取材すると選手たちはその内側にいます。

中部銀次郎さんは山口県下の関出身で2001年に食道がんのために59歳で亡くなる。   生涯アマチュアゴルファーとして日本アマチュア6回優勝。               ジャンボ尾崎さんは73歳、今なお現役で日本ツアーだけで94勝、世界ゴルフ殿堂入りを果たしている名プレーヤーです。

中部さんは小さいころから身体が弱くて医師が匙を投げるぐらい弱くて、父親に連れて行ってもらって散歩したらどうかと言われてゴルフと出会った方で、天才といわれるが、努力家だったと私は思います。   対人恐怖症的なところがあり、ゴルフのためにそれを克服するために先ずできないデパートの店員に話しかけることをしたり色々努力をした人でした。平均の法則という事がありますが、いいことも悪いことも足して2で割ったらそれが自分なんだと、平均値ならいいんではないかというような考え方です。             

中部さんはピュアーなアマチュアゴルファーでして、ボビー・ジョーンズというアメリカのアマチュアゴルファーがいまして、マスターズを作った人で、1930年には年間グランドスラム(全英オープン、全英アマ、全米オープン、全米アマ)のタイトルを取って引退した人ですが、アマチュアリズムを最後まで追求した人で、中部さんについてもそう思います。   ゴルフをするというのは自分自身の本質に出会うという、そういうところが多いのでアマチュアは昔は出てきたのかなあと思います。

ジャンボ尾崎さんはとんでもない我儘な人なんですが、本音は実はそうではない。    私が取材をしていた時は一番スランプの時で、本を見てみると赤線が引いてあったり、ノートを開いてみるときれいな字で、忍耐とは・・・、とか自分で気が付いたことが書いてあり、それを見たときに根は凄くまじめで、うまくなってもう一回返り咲くために苦労は惜しくないという事でした。   スランプで克服するために3年かかろうが、そのあとの10年王座を手中に収めたら、そんなに3年を捨てることは惜しくないだろうという表現をしました。  選手の方はみんな今をみているが、その先、もっと先というような、設計が立体的にできていることが達人なんだと思いました。

ジャンボ尾崎さんがある時ふっと「ゴルフクラブを抱えていないと眠れないんだ」といったことがありましたが、長嶋さんとの対談でそのことを言ったら、「それの気持ちよーくわかる、我々もバットを抱えていないと眠れない」と聞いた時に、お二人ともそんな風には見えないが、内側ではそういうことをしているんだなあと驚きました。           いいところを見て興奮して感動してもらうのがプロゴルファーなんではないかと思います。

ジャック・ニクラウス、2000年の全米オープンを最後に出ませんという記者会見がありました。    インタビューの最後に「・・・来年全米オープンは出ない、引退するといっても、・・なんだ今日のゴルフは、さあ練習にでも行こうか、と思っちゃうんだよね。」という言葉を聞いた時に、強い選手は自分に許せない、ちょっとでもうまくいかないことがあると練習するとう貪欲さというものを持っているんだろうと思います。

タイガー・ウッズも円熟になってきている。  2秒で切り替えられるか、心の動揺が大きく作用する、タイガー・ウッズもコントロールできると、ジャック・ニクラウスは言っていました。

マスターズは綺麗なゴルフ場で、戦うというとかではなくていいパフォーマンスしたいというコメントが多いが、全米オープンだと競争してというようなコメントが多い。     舞台によっていろいろと違う。  自然に対しては自分は脆い、大自然とどう調和がとれて手を出して握手できるか、戦うとか歯向かってゆくだけでは駄目なんじゃないか。

ゴルフを取材してきて魅力のある人間が見れる、ゴルフは人間性を教えてくれたりするという事が取材する側としての魅力があります。

シニアーオープンは今年100年目の鳴尾ゴルフクラブで行われますが、注目しているのが藤田寛之選手です。                                 鳴尾はバンカーが全体で81ありグリーン周りがほとんどバンカーでグリーンも難しい、コースマネージメントが問われる。 藤田寛之選手は優勝争いをするのではないかと思います。

赤星六郎さんは100年以上まえのアマチュアゴルファーで、「ゴルフ場に行ってスコアーだけを持って帰ってきては駄目だよ」という表現がありますが、点数が良ければいいというだけではなくて、メンタルな面が要求されるという事で、ボールの打ち方はうまいがゲームが下手という若い選手がいっぱいいて、スイングの山とゲームの山を二つ登っていけるような考え方をしてゆくとかなりチャンスがあると思います。




2020年9月15日火曜日

高橋英樹(俳優)            ・人生楽しまなければ損! ~趣味は「家族」

 高橋英樹(俳優)            ・人生楽しまなければ損! ~趣味は「家族」

映画黄金時代の作品に数多く出演、TVでは時代劇スターの地位を確立し、現在はドラマのほかバラエティー番組など幅広く出演しています。  そんな高橋さんを支え続けたのは家族でした。   趣味は家族と公言する高橋さん、4月には待望の孫も誕生しました。   又今年度からNHKEテレの「にっぽんの芸能」の司会も務めています。  芸の基本は歌舞伎俳優から教わったという高橋さん、何を思い挑戦し続けているのか伺いました。

コロナウイルスで病院にも入れなくて、娘は一人で行って一人で産んだという感じです。  孫を生んでくれて感謝です。    この子が母親になっている、という感動がありました。自分が母親になってから親の有難みを大分感じてるみたいです。

家族と一緒にいることが一番の幸せだと思っています。

娘の真麻に対しては仕事をする人間としての心構えとしては、デビュー当時は自分の思ったような仕事ができないとか、仕事がいただけないとかの苦労もあり、腐っていた時がありましたが、自分の思うような仕事ではない仕事を依頼されたときこそ、誠心誠意命がけで頑張れと、そうするとみている人は頼んでよかったという結論になるから、それを一つ一つクリアーしてゆくことが、これからの仕事の役に立つというような話はしました。

デビュー当時から朝早かろうが夜遅かろうがどんな時でも、仕事ができる事がうれしくてしょうがなかった、苦だとか嫌だとか思ったことはなかったです。

高校生で日活ニューフェースとしてデビュー、翌年映画に出演、主役には恵まれなくてこれだけやって辞めようと思っていたが、青い山脈でがんちゃんというわき役をやりましたが、どんなに小さな役でも一つの作品の中にはそれが生きてゆく瞬間があるという事に初めて気が付いて、それからはどんな役でもいただいた役は誠心誠意務めていくという事に決心しました。

他人の映画、舞台など暇さえあれば見てきました。  そして視野を広げていきました。

1968年24歳の時にNHK大河ドラマ「竜馬がゆく」で時代劇との出会いがあり、これで人生が変わりました。  武市半平太をやることにより世間で大きく評価が変わってきました。NHKEテレの「にっぽんの芸能」の司会を担当することになり、ついに来たかと喜びました。

1973年29歳で大河ドラマ「国盗り物語」で主役の織田信長、その後桃太郎侍主演。

夢はあと1000人斬りたい、今までに約7万人斬っています。

私がこうして仕事をできるのも奥さんのお陰です。  奥さんが機嫌よくなるように自分を律するようにしています。

何故か初めて会った瞬間に、結婚という字が思い浮かびました。   電話番号を聞き出してお付き合いが始まりました。  電話している最中に寝てしまった、1時間半から2時間経って電話したまま寝ちゃったと思ったら、耳元で「起きた?」って言ったんです。  その間ずーっと待っていたんですね、それを聞いた時に運命の人と思いました。

若い時はとげとげしいというか激しい人間でしたが、奥さんのお陰で丸く削ってもらって、いまやつるつるの人間になりました。  奥さんの存在が本当に大きいです。

1981年 結婚して7年目に真麻が授かりました。(その間流産を繰り返しました。)  真麻の時にもエコーでピッ、ピッとなくて「残念ですが」、と言われたが、神社仏閣などに手を合わせたり写経していましたが、1週間後に診たらピッ、ピッとなって感動しました。

とにかく動かないようにという事で気を付けました。  よくぞうちに生まれてきたという感じでした。  奥さんの第一声が「ごめんね。 ガッツ石松見たいな子なの」という事でした。   孫も同じような顔をしていました。

子供を育てるために休業宣言をして、育児のためにいろいろやりました。 

娘が毎朝オニオングラタンを食べたいという事で、前の晩にスライスして炒めて翌日グラタンにしてそれを朝ご飯を食べた上にそれを食べていたので、どんどん肉がついてしまったと思います。   私は結構マメなほうです。

仕事は大好きですが、仕事を安心させてくれるのが、奥さんの力なんです。  お互いがそれぞれのやっていることを尊重し、信頼しあうことが一番大事なものと思います。

悩むことは10分悩みますが、悩んでも解決しないし、悩む必要はないと思いました。 人生訓は「まあ いいか」です。 

2004年「家族上手に生きる」という本を出版。   家族上手に生きるためには、先ず自分を捨てることですね。 「自分が・・・」という言う考え方を捨てて、先ず家族、奥さんがどう考え何をしたいか、そのために私は何をすればいいか、という風にすることですね。

「家族上手に生きる」の本のなかで真麻が「両親が私の源」と記しているが、二人で一所懸命育ててきた過程は間違いではなかったのかなと思います、子供を愛し、子供のために一生懸命仕事をし、子供を育ててゆく過程がちゃんと子供に伝わっていたんだと思います。

NHKEテレの「にっぽんの芸能」の司会をすることによって、日本人の持つ文化程度の高さを改めて感じることによって、伝統芸能のすばらしさをより一層感じるようになりました。   第一回目のゲストが仁左衛門さんで50年ぶりで、仁左衛門さんとは50年前に共演したことがあり、この番組に出てもらって改めて感動しました。

人生楽しくてしょうがないです、ありがたいです、あらゆる人に感謝しています。









2020年9月14日月曜日

星 真奈美(オリンピック2大会メダリスト 星奈津美選手の母)・【アスリート誕生物語】

星 真奈美(オリンピック2大会メダリスト 星奈津美選手の母)・【アスリート誕生物語】 

2012年ロンドン2016年リオデジャネイロオリンピックの200mバタフライで2大会連続銅メダルを獲得。  2016年8月に結婚して現役引退。  結婚の相手は私の小学生からの親友の息子さんです。

奈津美が水泳を始めたきっけは、2歳上に兄がいて水泳を始めたときに、見学に行って自分もやりたいという事でスイミングに入れました。  運動神経はどちらかというとないほうです。

一度やると決めたらできるまでやるタイプでした。  水泳にはどんどんのめり込んでいきました。     試合にでてもタイムは後ろのほうでした。 

子供のころは外の公園などで遊ぶタイプで、ほかにやりたいと言ってピアノと剣道をやっていました。  勉強は嫌いなタイプでしたが、特に私からは口出しはしませんでした。  できたときには子どもが自分で充実感を得られたほうが、その先成長できるのではないかと思い口出しはしませんでした。

食べ物は好き嫌いがあってネギ、タマネギは食べませんでした。  タマネギを入れないで作っていました。  お菓子が大好きでした。

中学校の時に初めて全国大会で優勝できて、ナショナルチームに入って合宿などしますが、めざせ北京という風に言われましたが、夢の夢だと思っていました。   子供のころにコーチから背が小さかったのでバタフライがいいといわれてバタフライをやるようになりました。

北京の会場ができてこけら落としの大会があり、そこで4秒近く自己更新して優勝して、いっきにオリンピック候補のように新聞でも書かれてオリンピックを意識するようになりました。

日本代表選手として選ばれて合宿の連続でした。  北京オリンピックでは10位でした。

その後日本記録を更新して、2012年ロンドのオリンピックで銅メダルを獲得しました。 私はメダリストになれただけですごいと思いましたが、インタビューで「悔しい」という言葉が出ました。   それを聞いて病気を持っていたので、又4年間繰り返すんだという風に思いました。

私が同じ甲状腺の橋本病というのを患っていまして、通院しているときに甲状腺は遺伝性があるので小学校6年生の時に診てもらった時に、いずれ発症するかもしれないといわれていいましたが、高校1年生の時にバセドー病が発症していることが判りました。

バセドー病になると階段を上がっただけで息切れしたり、歩いているだけで走っているのと同じような心拍になるという状況です。  記録が伸びてきている状況の時に発症してしまったのが、私自身ショックで娘に対しても申し訳ないという思いがしました。  投薬治療で数値の安定化をしました。

2014年のアジア大会の時に調子が良くないといって、凄く疲れると言っていまして、病院にいったら数値が上がっていてこの状況では激しい運動はできないといわれました。   泣きながら私のところに電話をしてきました。   ほかの治療法があるのかどうかとか、先生ともう一度相談するように言いました。(リオデジャネイロまでには2年足らずでした。)  先生から手術の提案があり手術をして1週間で退院して、3週間自宅療養してすこしづつプールに入って軽めの運動を開始しました。

コーチが変わって平井先生になりました。  

リオデジャネイロ大会では銅メダルを獲得することができましたが、その前年に世界選手権で金メダルを取ってほかの選手よりも先にオリンピックを決めたところがあり、そこから逆にプレッシャーがかなりありました。

ロンドンと同じ同メダルですが、まったく違ったものでした。   オリンピックの応援には3大会とも行っていません、地元の方々と一緒に応援しました。

オリンピックに行けたということは、本当に水泳が好きで、好きなことをこつこつ続けてきたことが一番大きいと思います。

私は泳げません、かなづちです。  私が泳げないので一切口出しができなかったのが返っていいのかなあと思います。

今までいろんな人に支えられて今があるることを本人も判っていることと思いますが、それを忘れることなくいろんな人に感謝しながら、娘が水泳を教える中で、水泳が楽しいんだという事を伝えられるよう、そういうことをずーと続けていってほしいなと、それが本人にとっても幸せなことだと思うし、私にとっても奈津美を生んでよかったと思います。











2020年9月13日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

 奥田佳道(音楽評論家)         ・【クラシックの遺伝子】

映画に使われたクラシック音楽。 原点復帰。 1971年 アンディーキューブリック監督の 「時計仕掛けのオレンジ」のテーマ。 
人間の狂気であるるとか社会の不条理を描いた映画。 
「2001年宇宙の旅」 監督:スタンリー・キューブリック   全篇にわたってクラシック音楽の名高い楽曲が数多く用いられている。 
『ツァラトゥストラはかく語りき』『美しく青きドナウ』など使われている。  
*ヘンリー・パーセル作曲  メアリー女王の葬送音楽からマーチ ティンパニーの響きと金管楽器が重々しい、これから葬儀が始まる告知をしている場面。 
葬送音楽の原点になった曲。 
ヘンリー・パーセルも30歳で亡くなり、メアリー女王も若くして亡くなる。 

シンセサイザーは1960年代後半ぐらいから実際にいろんな音楽に使われてきて、クラシック音楽をいろんなアレンジでシンセサイザー化していった。  
シンセサイザーと言えば富田勲さん、亡くなって14年になります。  1932年生まれ2006年に亡くなっている。 
映画、NHKの大河ドラマの音楽、ドキュメンタリー、新日本紀行、NHKスペシャルの音楽など担当しています。 富田さんはシンセサイザーのサウンドを通じて多くのクラシック音楽に光を当てました。   「月の光」、「展覧会の絵」、ストラビンスキーの「火の鳥」、「惑星」、「ヘンデルとグレーテル」などなど。

 *ベルナマスク組曲から「パスピエ」 「月の光」 作曲:ドビュッシー編曲:富田勲   
シンセサイザー 富田さんは常に頭に中には森の風景、夜の風景、木のぬくもり、温もりをシンセサイザーがどこまで出せるか、表現、追及していきました。

 映画「ベニスに死す」 監督はルキノ・ヴィスコンティ  テーマ曲にグスタフ・マーラーの交響曲第5番・第4楽章アダージェットを使用。 
映画「シャイン」 監督:スコット・ヒックス  ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」 オペラでも「ショーシャンクの空に」で「フィガロの結婚」   「月の輝く夜に」で「ラ・ボエーム」 「ゴットファーザーパート3」で 「カヴァレリア・ルスティカーナ」など。  
映画「みじかくも美しく燃え」 モーツァルトの『ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467』と、ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲『四季』が使用されている。 
*『ピアノ協奏曲第21番ハ長調 K.467』  
*映画「アマデウス」のオープニングテーマ モーツアルト 「交響曲第25番 ト短調 K.183」 
*映画「バベットの晩餐会」   ブラームスのワルツ 「ワルツ 変イ長調 Op.39-15 」
 *映画「スターウォーズ」 「ルークとレイア」 「帝国のマーチ」 指揮:ジョン・ウイリアムス  演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

2020年9月12日土曜日

山極壽一(京都大学学長、霊長類学者)  ・「心優しい隣人ゴリラ」(初回:2012/4/7)

 山極壽一(京都大学学長、霊長類学者)  ・「心優しい隣人ゴリラ」(初回:2012/4/7)

https://asuhenokotoba.blogspot.com/2012/04/blog-post_7.htmlをご覧ください。

2020年9月11日金曜日

柳田邦男(ノンフィクション作家)    ・【人生のみちしるべ】人は" 物語"を生きている 前編

柳田邦男(ノンフィクション作家) ・【人生のみちしるべ】人は" 物語"を生きている 前編 

柳田さんは1936年栃木県生まれ84歳、東京大学卒業後にNHKの記者として事故や災害の現場を多く取材し38歳で退職、ノンフィクション作家として執筆に専念されます。   「マッハの恐怖」、「がん回廊の朝」、『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死の11日』などで受賞歴は多数あります。   柳田さんがここ20年あまり大切なテーマの一つとしているのが絵本です。   全国各地で講演会など絵本の普及活動に取り組んできました。  今年「人生の一冊の絵本」という本を執筆、150冊の絵本を読み解きながら絵本と出会った人たちの様々な人生模様が描かれていて話題となっています。

コロナ問題の取材をしていて、沢山コロナで亡くなった病院の取材など連続してやっています。  自分自身老いたなあという風に後ろ向きを持たない性格なんだと思います。  若いころから現場に行くことが体に染みついているのが前向きにしていると思います。

8月12日、日航機事故の標高1500mぐらいの御巣鷹山へも杖一本で登りました、ずーと登ってきて今年で35年目になります。

人間の命や生きることの一番大事なことを教わるような感じで会う、これは現場ではなくては出来ないですね。

「どうして絵本の活動をされるのか」とよくいわれますが、厳しい社会問題に取り組むというのは、人間の命の問題が基本的なテーマだと思っています。

基本的なテーマは「現代人の命の危機」という事です。  子供が心の形成をしてゆく、立派に成長してゆき幸せをつかんでゆくという子供の社会は非常に危機的な要素を含んでいる。  子供に対する虐待、いじめ、ネット社会の中で子供は親身になって友達同士のふれあいといったことがネット社会の中で希薄になってきている。   これはまさに命の危機でもあるわけです。

子供の心の成長をしっかり支えてあげるにはどうあるべきか考えると、絵本というのが登場してくるわけです。  絵本でしっかり子供の人格形成、人間形成が育って来るとその子の一生が変わるに違いない。  大きな違いが出てくるわけです。

1936年栃木県に生まれ、9歳で終戦を迎える。  小学校3年生の終わりのころ東京大空襲がありました。  鹿沼は東京から100km離れているのに東京の空がどす赤い色に染まっていました。   震えるような気持ちで南の空をじーっ見つめていた自分がいました。

3年生になり7月に鹿沼でも軍需工場があり空襲がありました。  B29の大編隊でした。防空壕に入っていたら突然物凄く明るくなりました。  照明弾が落ちてきて街中が照らされ、焼夷弾が空一面に落ちてきてもう駄目だと思いました。  工場だけでなく200世帯ぐらいが焼かれました。  19歳の兄が仙台にいて矢張り空襲に遇い歩いて福島まで逃げて貨物列車にのって鹿沼まで帰ってきましたが、病気で亡くなり、ショックを受けて父も亡くなりました。  8月に終戦を迎えました。  戦争体験、父や兄の死、それらのことが命のことを考える原点になったと思います。

夫と子供を亡くして鬱になるような状況でしたが、母は淡々と日常を過ごしました。   長男が戦争から帰ってきて古書店を開いて生活を維持しました。  「しかたなかんべさ」、「なんとかなるべさ」が母の口癖でした。  現実をありのままに受け入れるしかない。  その口癖が自分に染みついていますね。

1960年23歳の春にNHKに入社 広島放送局で記者として働き、1974年38歳で退職、ノンフィクション作家となりました。   父無し子と言われ差別され、貧しい人間が差別されることはおかしいと思って、何とか改革しなくてはいけないと高校の時には議論していました。  世の中の構造を考えるには、経済が大事だと、経済の構造が大事だと思って、東京大学に行って経済学部に入りましたが、イデオロギーは人間を幸せにするかどうかという事に疑問を持ち出しました。   

国家というものが権力志向の人間が権力を握って、権力を守るために一つの枠組みの中で国を切り回してゆく中で、貧しいもの、教育の低い人が軽蔑される。   どうすべきか考えたときに、もっと現場を知って自分で自分の思想を作らなければいけないということを大学に入ってすぐに考えました。  それが学生時代の自分の宿題でした。

取材記者になるのが一番いいのではのではないかと考え、NHKが受かりました。    ラジオだったので内容が短く、問題を深く追いかければ追いかけるほど消化不良になりフラストレーションがたまってしまって、退社してしまいました。

「現代人の命の危機」という問題に焦点を合わせて、心の豊かな社会を作るってどういう事なんだろうと思うとすごく難しい、人間の欲望という問題が絡むと争いがおこる。    そんな中で本当に心豊かに人々が繋がりあい、より良き社会を作ってゆくという事は至難の業だが、希望は捨ててはいけない、未来を信じて少しずつ現実にできる事からよりよくして行く。  作家でも地道に手伝うことができればいいのではないかなと思いました。

(1993年の夏57歳の時に25歳の次男洋二郎さんが心の病の末、自死しようとして脳死状態になるという経験をします。  『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死の11日』を執筆。)

戦争とは違って個人的ですが大事件でした。  人間と社会についての本質的なものを見ようとしてきた作家である自分にもっと深いところから、いわば直撃弾を受けたような感じです。   高校時代から少し心を病みだして、私も気づかなかった。     大学受験を失敗して浪人したころに表面化してきました。   2階から飛び降りようとして精神科に通うようになり5年間通院しましたが、息子との会話は頻繁にやりました。  1浪後大学に行きましたが、不登校でしたが、本は物凄く読んで、いろいろ鋭く質問してきました。     俺の心の深いところの苦しみを判っているのか、作家なんだから判るだろうといわれても、答えられなくて考えさせられました。   自死を図って脳死状態になり11日間ICUにいました。    昏睡状態と見えるかもしれませんが、意識がある時の議論した延長戦をそこでやっているわけです。  いいろんなことを問いかけてくるんです。 魂のコミュニケーションかもしれない。  

精神性の命を考えるようになりましたが、脳死状態での会話というものは、第三者から見ると父親の頭の中で何かが回転しているだけだと科学的な説明ではそうかもしれないが、僕自身の実感としては息子とぎりぎりのところの会話をしていた。   息子から突っつかれるからもっと深く考えなければいけないという動機になるわけです。   精神性の命、肉体は滅びても決して滅びることはないと気付かせてくれたこと自体が、息子からのメッセージであり言葉だと思っています。  それが自分の人生の中では大きな節目になりました。    

現場を大事にしたい、現場を見なければ自分の思想は作れない、という事ですが、深いところに脈々と今に伝わっていることが見えてこない、今まで見てきた事実とは表面的なものでしかないのではないか、もっと心の深いところにあるものを見なければいけないのではないか、という事と、息子の脳死状態は全く今までと違う現場で、もっと地層の奥深いところそこまで掘り下げるべき現場、それを問いかける現場だと思いました。

息子の生きた証は『犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死の11日』に書きましたが、扉を開けただけで、その深いところに何があるかという事は一生をかけて、少しでも少しづつでも書いてゆくしかないと思っています。

日航機事故の現場、35年経った今年御巣鷹山に登っても、事件が起きた当時登ったときとは全く違った姿で見えてくる。  その中ではっと気づかされるものがあります。  ニュース記者のように人に伝えられるものではなくて、どういう言葉で表現できるものなのか、これから時間をかけて考えなければならない。 






2020年9月10日木曜日

木下 晋(画家)            ・たどり着いた鉛筆画の世界

 木下 晋(画家)            ・たどり着いた鉛筆画の世界

木下さんは富山県出身73歳、木下さんの鉛筆画が注目されるようになったのは人間国宝となった盲目の吟遊詩人瞽女(ごぜ)の小林ハルを描いた作品だといわれます。  鉛筆画は10H~10Bまでの鉛筆を使って描く独特の画法です。  木下さんは人物を中心にハンセン病の回復者だったり、谷崎潤一郎の作品「痴人の愛」のモデルとなった94歳の女性だったり、インドの修行者やニューヨークのホームレスなど、苛酷な人生を生きる人の顔を描いています。 鉛筆画で描かれた年齢を重ねた人の表情から発生するエネルギーは見る人の心を強く揺さぶります。 木下さんは戦後ほどなく一家の生活が破綻し、飢えに苦しむ生活を体験します。 木下さんに光が差したのは木下さんの絵の才能に気づいた中学の美術教師の勧めで本格的に美術を学ばせてもらったことでした。   17歳の時、自由美術協会展に応募したクレヨンがが最年少で入選し、大きな話題となります。  彫塑、クレヨン、油絵などの経験を重ね自信作を持ちアメリカに出かけます。   600ほどの画廊を訪ね売り込みますが断られ作品つくりの壁に悩みます。   そんな時たまたま出会ったのが瞽女(ごぜ)の小林ハルだったのです。 木下さんは小林ハルの 声に刺激を受け奮い立ったのです。  この出会いが彼の絵を鉛筆画へと決定付けたのです。  たどり着いた鉛筆画の世界、画家木下さんに伺います。 

妻の介護をしながら絵を描いています。  パーキンソン病で15,6年前からですが、判ったのはこの5,6年前です。  妻をモデルにしたほうがより中に入っていけます。

颯爽としたときと比べると、本人もいまの自分の意識がついていっていない感じです。

20,30年前から高齢の人の顔を描くようになりました。

中学になって美術部の先生が彫刻をやってみないといわれました。 美術の先生が美人でした。 

鉛筆は10H~10Bまでの22段階の濃淡があります。  

作品はアメリカの美術教科書にも取り上げられたり、絵本「ハルばあちゃんの手」になったりして、又野性のパンダを見に中国まで行きました。

東京大学工学部建築科非常勤講師を10年やりましたが、高校中退の学歴、先輩としては安藤忠雄さんで専任教授として入っています。 建築の分野の世界的な権威がいっぱいいます。

最初東京大学の授業に行ったときに全然駄目で、学級崩壊みたいでした。  以前アメリカの大学で教えたときにはそんなことは全然ありませんでした。  

助手の人が見かねて「君たちは恥ずかしくないのか、君たちはいやしくも東大生。 ここに先生が来られて聖なる授業だ。」と言って、怒ったわけで、そうしたらシーンとしてしまいました。  助手の人は学生たちから尊敬されている人でした。

高校2年の時に自由美術協会展に応募、学校に新聞社が来てびっくりしました。

題は「起つ」、キャンバスは高くて買えないので、ベニヤ板にクレヨンのくずを貰ってきて描きました。   1964年のデビュー作でした。

裸の人物が後ろに手を組んですくっと立っていて、後ろから描いた構図で金剛仏が立っているような感じですが、何故かというとそれまで彫刻の勉強をしていましたので彫刻的な描き方になりました。

2,3歳ぐらいから家の内外で描いていたようです。  父はとび職でしたが、家が焼けてしまって竹やぶの中に住んでいました。(戦後間もないころ)

母親が出て行ってそのあとを追ったんですが、見失って夕方ごろになるとお腹がすいたのでパン屋のところでつい手を出してしまって、家に帰ると父の怒られるので帰りたくなくて、児童相談所に身柄を渡されました。  父や担任が来たが会わずにいたら最後に校長先生が来て話をして、「ああ、無情」の本(1本のパンを盗んだことをきっかけに、結果として19年間もの監獄生活を送ることになったジャン・ヴァルジャンの生涯を描く作品)を置いていきました。  本を読んで自分でも希望があるんだと思いました。 その後も本を何冊か持ってきてくれました。

中学では美人の美術の先生に憧れて、その先生が人(富山大学の大滝先生)を紹介して美術を勉強する環境になりました。

生活保護を受けていたので東京の彫刻家を紹介してくれて東京に行くわけですが、先生が旅費などを出してくれました。  東京の彫刻家の木内克先生は先生の先生でして、そのまた先生がロダンとかアリスティド・マイヨールが先生なんです。

東京に着いて上野のベンチで寝ていたら家出少年だと間違われ、木内克先生と会うといっても警察官は信用していませんでした。 信用されないまま一応パトカーで木内克先生のところに連れていかれたが、先生が私に向かって「木下さん」といったもので警察が逆にびっくりしてしまいました。

その後絵で入選したが、トラブルがあり経済破綻、生活苦、高校中退という事になってしまいました。

結婚には反対され妻とは駆け落ちすることになりました。

ニューヨークで世界的芸術家荒川 修作さんはわけのわからぬ日本人などは会うことができないことでしたが、会うことができました。  というのは荒川 修作さんの先生が瀧口 修造さんという詩人で日本にシュルレアリスムを取り入れたりした人で富山の隣村の出身でニューヨークに行ったら荒川 修作さんを訪ねなさいという事で荒川 修作さんはあってくれました。

母は知的障害もあり放浪癖があり、私は反発していましたが、荒川さんにその話もしましたが興味を持って会いたいとまで言ってくれました。  母親もモデルとしてみることになりました。  母親を含めて興味を持った人にはどんな人生を送ってきたのかとか、話を聞くことが大事だと思います。

1981年の5月にニューヨークから帰ってきて鬱々としていた時に、温泉で気を紛らして帰ろうとしたら、盲目の吟遊詩人の小林ハルさんの瞽女(ごぜ)唄があるから聞きなさいと言われて、唄いだしたら金縛りにあったような感じでした。  衝撃を受けました。

モデルになっていただくために2年ほど何度も通いました。  そこから私の人生は変わりました。  

たとえどんなにしんどくても一歩でも二歩でも前に進むことが大事で、小林ハルさんとか母親に見習いました。

進んで失敗するんだったらまだしも、進まないで失敗したほうがもっとダメージが大きいと思います。










2020年9月9日水曜日

鹿沼由理恵(パラリンピックメダリスト) ・ただひたすらに前を向いて

 鹿沼由理恵(パラリンピックメダリスト) ・ただひたすらに前を向いて

鹿沼さんは東京都町田市出身39歳、2016年のリオデジャネイロパラリンピックの自転車競技女子タンデム個人ロードタイムトライアル視覚障害者クラスで銀メダルを獲得しています。 その後トライアスロンに転向して東京パラリンピックを目指していたんですが、リオの前から苦しんでいた両腕の神経麻痺が悪化し、左腕の切断を余儀なくされます。  ちょうど同じころ最愛の母親をがんで亡くすという悲しみも経験しました。  でも鹿沼さんはトップアスリートとしての道を追い求めています。  トライアスロンからブラインドマラソンを経て今は再び自転車での競技復帰を目指しトレーニングに励む毎日です。   ただひたすらに前に進む鹿沼さん、その強い心を支えるのは何なのでしょうか。

女子タンデム個人ロードタイムトライアルはタンデムという視覚障害者が乗る二人乗りの自転車で前に同性の健常者が乗って後ろに視覚障害者が乗って、漕いでタイムを競う競技です。

平坦もあり、傾斜の坂もあります。  ロードタイムトライアルは30kmです。

脇真由美選手と一緒に乗りました。  スタート1分前にギアを調整しようとしたら、一番重いギアのまま動かなくて、スタートが重くて走り切りました。  2位に入ったことは理解していませんでした。

クロスカントリースキーの競技の選手をやっていました。  2010年のバンクーバーのリレーで5位、個人種目でも3種目出場しました。   2012年の冬にクロスカントリーの練習中に転倒して左肩じん帯を痛めてしまってあきらめ、自転車タンデムがあるといわれて自分でもできるかなと思ってそれがきっかけで始めました。

風を切る感覚気持ちよくて、脚力も自転車のほうが要ると思っていけるかなと思いました。

2012年に転向して4年後にはメダルを取ることができました。

2015年に自転車で落車して転倒して怪我をして、そのあとに大会に出たときにぎりぎり入賞できた状態でした。

2016年にピークを持って行けたと思います。

手首から先が痺れていてハンドルを強く握れなかったので、スタッフにテーピングしてもらって指も力が入らなくて指の間で抑えるハンドルの握り方を3か月前に変えました。

リオから戻ってから病院に行きましたら、両腕の絞扼性末梢神経障害という診断でした。

原因は不明で、痛みがあってもハンドルを握って自転車に乗っていたことで悪化させてしまいました。

2018年3月中旬に左腕の切断手術をすることになりました。  切断することによって又その先を生かすことが自分にとってこの腕への恩返しと思って切断しました。

同じころ母がすい臓がんで闘病していました。

切断の場所に物をくっつけて抑えたりしていました。  例えば食器を洗う時は左腕にスポンジを固定して右腕で食器をもって右腕を動かして洗うという方法にしました。

復活を目指していたのでぎりぎりのラインのところを切断しましたが、最終的に一番無難なところを3回目で切りました、肩から10cmぐらいのところです。

母は2018年の9月に亡くなりました。 母を見送ってから3度目の手術を受けました。

視力は0.04で視野も真ん中が見えなくて周りが見える形です。   視線を動かして見えないところを補っているという形です。

東京大会に選手として出れないのは悲しかったが、選手として自分がやってこれたのはいろんなところで支えてもらって、応援してくださる人がいたからこそ自分は選手をやってこれたと思います。

小さい頃はほとんど外で遊んでいました。  怪我をして泣いて帰ってもあんたがやったから泣いても仕方ないでしょうと言われました。

小さいころから目の見え方は同じでした。 正常はどんな見え方なのかわかりませんでした。

自転車に転向した時にはスピードが出るので危険だという事は母は言いたかったと思うが、自分がやると決め、静岡で怪我をして入院して、毎日来なくてもいいよと言ったんですが、町田市から電車で通ってきて何も言わずに身の回りの世話をしてくれていました。  この先続けるかどうかの決断を自分でしなさいという、決断する場所を与えてくれたという意味では毎日通ってくれていたことは一番の思い出です。

復活を応援してくださる方のためにも、もう一度自転車で復活したいです。  障害者自転車とタンデムの仲間を増やしていけたらと思います。

タンデムは関東で走れるのは千葉県と群馬県と茨城県の一部だけですが、世界ではどこでも走れるというのがほとんどです。

去年マラソンで日本代表を決める大会で町田市から2名出ましたが、子供たちと一緒に応援できたらと思って、町田市内には小学校が42校あって、回ってたすきにメッセージを書いてもらって集めました。 オリンピックの競技パラリンピックの競技が身近に感じられることを伝えられたらいいなあと思います。

スポーツから得られることは、生活の一つ一つがそこに全部結び付けられることですかね、食べる事、寝る事もそうですが、スポーツ、自分が好きなものを高めてゆくにはどうしたらいいかいろんなものを調べたり、気になる選手のことを調べたりするのは楽しいし、そういうところも繋がっていくのかなあと思います。

今は病院の管理の事務で仕事をしています。 出勤する前に自転車を1時間ぐらい漕いで、仕事帰りに2時間ぐらいランニングして帰ってきます。 

視覚障害は先天で自分の感覚として比べるものがなくて、腕の切断に関してはやれていたことが同じようにできなくなるという比べるものがあり、切断した腕がまだ長い時には例えばペットボトルを腕に挟めたが、10cmぐらいになるとそれができなくなったが、腕を上げて顔との間で挟めることができるようになるとか、生き方のいろんな可能性を見出せる、共生社会と言われる中で自分の体がそういうことだと思っています。 自分の体をフルに生かしてそこに自分も関われたらいいなあと思っています。

自分との向き合いの連続だと思っています、自分のやりたい気持ちにどう自分がついていくかというか、自分のメンタルを強い方向にもっていかなければいけないし、周りから何を言われてもわが道を行くタイプです。

この先の目標は自転車で復活して皆さんに恩返しをすることです。










2020年9月8日火曜日

山辺ユリコ(女優・手話劇団主宰)    ・手話でつづる希望の舞台

山辺ユリコ(女優・手話劇団主宰)    ・手話でつづる希望の舞台 

山辺さんは1960年京都生まれ、父親が時代劇の俳優をしていた影響があって、芸能界になじみがありました。  その後移り住んだ熊本で歌手デビュー、東京パンチョスのリーダーチャーリー石黒さんにスカウトされて上京し歌手活動を続けました。   1995年石井福子プロデューサーとの出会いから念願の女優の仕事を始めました。   そして1998年山辺さんは手話とカルチャーショックを受けるほどの出会いがあり、2002年に手話劇団ハートフルハンドを立ち上げました。   聴覚障害者と耳の聞こえる人が入り混じってお芝居と歌、手話ダンスを演じます。  東京日本橋の三越劇場を主な会場として公演は今年の2月で19回になりました。

3月からイベントというイベントが中止になって、稽古場もクローズとなってじーっと家に耐えていましたが、9月に無観客でやってもらえませんかという事になり、ユーチューブでネット配信にチャレンジしようという事になり、予算がないので自分たちで撮る練習をしたりしながら、いよいよ大詰めで編集しながら撮っています。

手話劇は現代版「桃太郎」を行います。  雉は地味なので雉ではなく鶏にしました。

私たちの手話はつたないので表情、唇の動きなどトータルで読み取ってもらっていますが、そんな中でマスクは大きな障害です。 顔が見えるものを付けて普段は稽古しています。

父は東映の京都太秦で俳優をしていました。  両親の離婚という大きな山があって、芸能界をはなれてしまったら、やりたくなってしまいました。   夫婦で役者をやっていると昔は食べていかれなくて、母はサポートする側に回って父と別れて母の夢を絶たれてしまって、私が女優になりたいと言ったら、母が判ったと言って背中を押してもらいました。

祖母の介護で熊本に行くことになり、ミス熊本になり、「のど自慢大会」に優勝した翌年「木下由里子」の芸名で地元歌手としてデビュー、芸能界への思いが強くなり東京に単身で出てきました。  チャーリー石黒さんにスカウトされました。

1985年に「悲しみ紀行」で歌手デビュー、レコードも出しましたが、ファンが歌もいいがおしゃべりがもっといいという事で、主人が石井福子プロデューサーと仲が良くて、石井先生のところに連れて行ってもらいました。  2回目に着物を着て会ってほしいという事で会いに行ったら仕事をいただくことになりました。

「花井紫」という芸名でドラマ、舞台をやりました。 充実して楽しかったです。

1997年に母が乳がんで亡くなってしまいました。  心臓のほうにがんができていて手術も出来なくて気が付いた時から10か月で亡くなってしまって、がん撲滅チャリティーのカラオケ大会を主催しました。  手話を付けて歌いたいという問い合わせがあり、「風の盆恋唄」を歌って、それを聞いて衝撃してカルチャーショックを受けました。

「風の盆恋唄」を手話で教えてくださいと言って、手話の勉強を始めました。

聞こえない方に伝えるためには、こういう風なパフォーマンスをしないと歌って伝わらないいんだなあと思った時に、自分が今まで歌ってきたのが何だったのかなあという思いにさせられたのと、母が亡くなったことでがん撲滅をやって出会った手話なので、手話という財産を与えてくれたのだなあと思いました。

手話というやりたいと思うことができるという事は楽しかったです。

手話劇団「ハートフルハンド」を立ち上げたときにはまだ手話は上手ではありませんでした。

耳の聞こえない方たちがダンスを踊っていて、発表会があるので見に来てほしいという事で、どうやって音楽を、リズムをとっているのか興味を持ってしまって、それを見て踊りのうまいとか下手とかを超越した伝えたいという思いが私の胸に届き涙がでてきました。

一回目は三鷹の武蔵野芸能劇場で行うことになりました。(2002年)

最初は5人でしたが公演の時には20人になりました。

最初なかなか伝わらなくて考えが甘かったなあと思い知りました。

今年で19回目で、第一部はお芝居、第二部が手話ダンスと歌という構成です。

島唄を第一回目でやろうとしたときにはテンポが違っていて、一か月やってもうまくいかなくて辞めようかとも思いましたが、メンバーの知的障害がある男の子の姉さんもダンスをやっていて、根気よくずーっと手取り足取りでやっていたら、ある時に判ってくれて、なにを分かったような顔をして劇団を立ち上げてしまったんだろうとちょっと恥ずかしかったです。

2015年からは石井福子プロデューサーが監修という形でやっていただきました。

それまで演出は私の演出をやっていましたが、宝塚の人が出るという事で自信を無くして先生に監修をお願いしました。

メンバーの知的障害がある男の子(こうちゃん)は最初どう接したらいいか、関り方が判らなかったが、メンバーの若い男の一人がいつの間にか言葉が通じていないのに友達となって遊んでしました。  ハートでつながっていました。

こうちゃんは舞台が好きでお芝居をやらせることになりました。  母親がいままで苦しそうな顔をして寝ていたんですが、康史の寝顔が明るくなったんですよという事でした。

そのお母さんの言葉もありやめれられなくなりました。

眼も見えなくて耳も聞こえない櫻井ようこさんにメンバーが舞台を見に来ないかと誘って、舞台をはけた後にお会いしたら、「凄く楽しかった、何をやっていたかはよくわからなかったが、周りにいる聞こえない人がすごい騒いでいて、聞こえない人が手を取って一生懸命説明してくれて、楽しかった」という事でした。

メンバーに入れてほしいという事になり、不安はありましたが、パワーにあふれた方でスカイという盲導犬と現れたときにはこの人ならば大丈夫だと思いました。  必ず補助してくれる友達を連れてきますという事で来ていただきました。

先生が盲導犬も一緒にだったらいいんじゃない、と言うことになって、スカイの動きに合わせて芝居したりして、自然な演技になりました。

スカイも引退することになり今年の公演を最後に引退することになりました。

特別ゲストとして第一回目からずーっとつづけてきてくれた穂積 隆信さんほか、長門勇さん、谷幹一さん、元宝塚歌劇団の汐美 真帆さん、汀 夏子さん、大津美子さん、小林綾子さんなど多くのゲストに来ていただきました。   一谷伸江さん、お笑いコンビ『ピンクの電話』の清水 よし子さんなどにも出ていただきました。

皆の夢は地方公演をして様々な障害を持っている方たちと交流していきたいという事はありますが、それぞれ様々な条件があります、去年埼玉の大宮市民会館で出来たことがありがたいと思っています。

コロナ禍でストップしているので、再開をどうしたらいいか目の前の問題があります。

取り合えずユーチューブでアピールしていきたいと思います。

















2020年9月7日月曜日

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 中止!

穂村弘(歌人)             ・【ほむほむのふむふむ】 

台風10号関連のニュースの為【ほむほむのふむふむ】は中止となりました。

ご了承ください。

2020年9月6日日曜日

森 功至(ナレーター・声優)      ・【時代を創った声】

 森 功至(ナレーター・声優)      ・【時代を創った声】

森さんは子役出身でサイボーグ009や科学忍者隊ガッチャマンなどのアニメの主役を演じると共にナレーターとして多くの番組のナレーションを担当してきました。  声優と呼ばれる事に抵抗を感じるという森さんにこれまでの苦労を始め声の仕事の魅力などについてうかがいます。  自動車レースのアニメマッハGoGoGo(第1作)の主役三船剛、サイボーグ009(第1作)の島村ジョー、科学忍者隊ガッチャマンの大鷲の健役など多くのキャラクターを演じてこられました。 又多くの吹き替えやナレーションなどを務められ現在も活躍中です。

7月に無観客でのトークショーをやりました。 ゲストで井上和彦さんもお迎えしてネット配信でやりました。  あがり症というか、ナレーションをやっていましたが、しゃべる前に手にびっしょり汗をかいてしまいます。 何年やっても緊張してしまいますが、しゃべり始めると忘れて行っちゃうという感じです。

ある放送局で主役のオーディションがあって、母親が応募しましたが、オーディションが終わった翌日に届いて、母親が交渉してまたの機会にしてくださいと言われてしまいました。

又親に連れていかれた処があり、そこの児童劇団の面接に受かっていまに至っています。

映画の仕事をしていましたが、子役から段々歳を重ねていって壁を感じて、ある時に大人のプロダクションに入っていきましたが、人生経験が浅いため自分の引き出しが少なくてどう表現していいかわからない。  役者としてはへたくそな役者でした。

この世界は向いていないのかなあと思って、一時期この世界から足を洗ったことがあり、床屋さんの専門学校に1年間勉強して、卒業試験に2000円必要だったが2000円がなくて卒業試験を受けられなくなって断念しました。 また戻ってきましたが、もう一回辞めたい時期がありましたが、デスクをやらないかと言われて、やっていたらマネージャーに配属されましたが、そこがとても面白かったです。  人の気持ちを自分に振り向けさせることが面白かったです。

外国映画のホームドラマがあり、オーディションを受けて以来この世界にどっぷり浸かっています。

何でもかんでもポジティブに考えています。

アニメマッハGoGoGoの主役を担当することになりましたが、楽しくてしょうがなかった。

顔出しの仕事はそういつまでもいい役ばっかりやれないなあと思っていましたので、役者生命として考えるとどうしたものかと思っていたら、アニメマッハGoGoGoと出会って、声だけなのに芝居がすごくて、声だけでこれだけ表現できるんだと思って、先輩たちの所属している事務所に入れてもらいました。

マッハGoGoGoの翌年、1968年がサイボーグ009、タイガーマスク、科学忍者隊ガッチャマンの大鷲の健役、宇宙の騎士テッカマンの主役、など担当してゆきました。  恵まれていたんだ、ラッキーだったと思いました。  今だったらたくさんの人がいてオーディションには受からないと思います。

先輩たちは役者で声の仕事もしていたので、声優という言葉ができても俺は役者だというように言っていて、私も同様にこだわりがあります。

アニメは夢を売る仕事で、僕が声のお手伝いはしているが、僕がその役ではない、アニメのほうのキャラクターで、顔なんか出すべきではないと思っていましたが、インターネットなどの時代になると古臭い概念は捨ててもいいんじゃないかなあと思うようになりました。

40歳ぐらいからナレーターの仕事を始めましたが、まったく違います。

ナレーションは僕そのものです、演じているんではないんで、自分がこれを表現する。

歳をとればとるほど同じ原稿を読んでいても滲み出てくるものが全然違うので、常に勉強だと思います。

その時その時感じたことを声に出しています、ハートがないと伝わらないんです。

いかに自分を客観視できるかどうかが大事です、でも教えるという事は難しいです。











2020年9月5日土曜日

岡 まゆみ(大阪大学大学院 人間科学研究科 )・「川で溺れた人を助けようとして 亡くなった夫から学んだこと」

岡 まゆみ(大阪大学大学院 人間科学研究科 )・「川で溺れた人を助けようとして 亡くなった夫から学んだこと」 

大阪府に住む岡まゆみさん(40歳)、夫の孝さんは2012年自宅近くの河川敷でジョギング中に小学生と中学生がおぼれているのを見つけて川に入りました。  小学生は助かりましたが中学2年生の男の子と助けようとした孝さんが命を落としました。  子供たちは川を横断するように転々と置かれていたコンクリートブロックの上で遊んでいて川に落ちたと見られています。  当時岡まゆみさんは小学校1年生の男の子と3歳の女の子の子育ての真っ最中でした。  突然夫を亡くし自分を見失いそうになった岡さんでしたが、やがて大阪大学の大学院に進学して安全行動学を学ぼうと決意しました。 岡さんはそこで何を学び社会に何を伝えようとしているのか伺いました。

2012年4月21日(土)午後のことでした。  主人は時間があるとジョギングするような人でした。  その日も2時ぐらいに走ってくると言って出ていきました。  4時に息子がスイミングに行く日なのでどんなに遅くてもその時間には帰ってきていましたが、4時になっても帰ってきませんでした。   熱中症とか、けがで搬送されているのではないかと胸騒ぎがして、消防署に電話で問い合わせました。   救急センターにつながって、そういった方は運ばれているが既に亡くなっていますと言われて、意味が判らなかった。  「川で子供さんを助けてなくなりました」と言われました。  浅い安全な川だと思っていたのでどうしてという思いでした。

警察の人が遺体の確認にご自宅に行きますと言われて、えっ誰のと思いながら、主人の実家に電話をしたら、お母さんが出て「亡くなったかもしれない」といわれました。

警察官が2人家に来て、「写真を確認してください」と言われて、見たくなくて「嫌です」といったんですが、見たら夫でした。 子供2人(5歳と2歳)と一緒にパトカーに乗って警察に行きました。  マスコミが来ているので裏からはいることになりました。

遺体の確認という事でめくったら夫が寝ていました。  夫は当時大手電気メーカーの半導体の開発をやっていました。  野球をやったり走ったり泳げる子煩悩な夫でした。(美化されているようなところの書き方もありましたが) 

安威川は憩いの場というような存在です。  転々とブロックコンクリートが川を渡るように置いてあり、そのうえで遊んでいた4人のうち中学生と小学生が川に転落して助けようとしたという事です。

夫が最初に見つけたらしくて走ってゆくのを観た人がいます。 護床ブロックは流れをせき止めるが、下流に行くときに勢いを増すそうでそこに滝のようなくぼみができて、当時では2~4mの深さがあったと聞いています。(後日測定)

過去にも子供がおぼれたことがあるそうですが、その時には助かったようでした。

柵もなくてどうぞ入ってくださいというような形状で、納得がいかなくて、行政とやり取りをしました。  茨城土木事務所に行って、柵を立てるとか、ロープを張るとかやってほしいといったんですが、「河川の使用は自己責任のなかでの自由使用という原則がある」といわれました。  事故現場は全く改善されないまま終わってしまった時に、茨城市長と話をする機会を得て説明したら、水深を測ろうという事で2mの水深以上は看板が立てられました。   8年経っているので看板は景色の一部のようになってしまっている。

夫が亡くなることによって私は自分半分が死んだと思いました。  自分の生きている意味とは何なんだろうと思って、これから生きるのは子供の為しかないと思いました。

並行して行政に話をしに行っているなかで、「又言っている」というように感じました。

大学院に行って知識を身に付ければ、話をちゃんと聞いてくれるのではないかと思って大学院に行こうと決めました。  大阪大学の人間科学部の中に安全行動学研究分野というところがありここだと思いました。

事故が発生するメカニズムが必ずあるが、事故が起こるときにはストップをかけるセーフティーネットがあるが、偶然突き抜けてしまい事故が発生するという事、これかと思いました。

私は文学部出なので心理学分野は全く素人なので、1年目は普通の授業を受け、3年かけて修士論文を終了しました。

入ったときには高校の講師も続けていて午前中は講師、午後は大学に行き、5時ぐらいには子どもの面倒をする毎日1年続けていましたが、そこで切れてしまって、よくないと思って2年目からは仕事を辞めました。 修士論文の年末以降あたりからの期間は子供を実家に預けて取り組みました。  「小学生対象の安全教育の実践と効果測定」という事で安全教育プログラムを考えました。  子供たちと一緒に回って危険個所を子供目線で見つけて、どうしたらいいのか、いけないのかを考えて標識、ポスターを許可を得られたところに貼って、その実践と効果を論文にしました。  情報の共有もでき危険の感受性が強くなりました。

大学院修了後、教員に戻ろうかと思っていた時に教授から特任研究員として残って今のことをやらないかと言われ、今も大学に残っています。

講演をする機会も増えてきて、自分で情報を提供する勉強会も開催したりしています。

現場の一人一人の先生方にどうやったら事故が防げるのかとか、どんな事故がおこっているのかとかを知っていただきたい。

クラウドファンディング、いろんな人に読んでもらおうといろんなシーンごとにイラストを付けて本にしようと思っていて、お陰さまで403万円集まり本にできると思います。

行政のかたは原則論を掲げて、柵はつくらないと言っていましたが、夫の父親がその担当者に「あなたの子供が同様なことになっても原則論をたてに柵を作ろうとしませんか」と、声を震わせながら言いましたが、行政のかたはもう一歩踏み込んでもらって身内だったらと考えて対策を打ちたてていってほしいと思います。

夫の事故現場は前回の事故の通報しても市には記録が残っていなくて、事故が起きなかったと同じ事になってしまう。

ボランティアで夜の見回りだとか安全行動しているが、善意だけでは限界があり、みんなで協力でき、報酬があるような形でみんなが参加できればずーっと継続できると思います。  もう少し大きな組織として広げて行けたらなあと思います。




 

2020年9月4日金曜日

国府弘子(ピアニスト)         ・心筋梗塞からの生還

国府弘子(ピアニスト)         ・心筋梗塞からの生還 

国立音楽大学ピアノ科を卒業後単身渡米、帰国後1987年デビューしました。  以来ご自身のトリオでのコンサートやオーケストラとの公演まで幅広く活躍しています。  国府さんは昨年11月神奈川県川崎市でのリハーサルのあと 突然胸の痛みに襲われそのまま緊急入院しました、心筋梗塞でした。   現在はすっかり回復されライブ活動など精力的に取り組んでいます。  心筋梗塞が起こった時の様子やその後の経過について伺いました。

8月の終わりにはライブがありました、きちっと感染対策の姿勢を感じたらみんなで出来る限り気を付けながら行いました。  

22年間続けてきたトリオなので、自粛の時期も3人で連絡を取り合って、逆にコミュニケーションを取り合えました。

昨年の11月、川崎の大きなホールでのコンサートで、お昼ごろ入って、リハーサルを何人かでして、私がリーダーだったので、みんあにあれこれ命令してリハーサルが終わったところで、心臓のあたりが激痛が走りました。  汗で下着も洋服もぐしゃぐしゃに濡れるぐらいでした。   救急車が連れて行ったのは2分ぐらいの近くの心臓の専門の病院で、痛みの発症から1時間もしないで手術が始まりました。  それがラッキーでした。

血管が明らかに詰まってしまっていて、腿の付け根から心臓の近いほうまで、針金みたいなものを血管のなかを大きなスクリーンで見えて、痛みは麻酔と手術でとれました。

手術室にはジャズがかかっていましたが、ステントの手術(大動脈瘤のカテーテル治療)は意識がある状態でやるものなので音楽は凄くリラックスする効果があるという事でした。

「コンサートは6時からなのであと1時間休めば行っていいですかね」と医師に話したら、目をむいて「なにゆうてんねん、これ心筋梗塞やで、まだこれから脳を検査して、脳に飛んでいたら何梗塞かいってみいい」と言われてしまいました。   コンサートは私を含めて4人でやる予定でしたが、3人が私の分まで頑張ってくれました。

後でコンサートを録音したのを聞いて、泣きながら聞きました。

脳の検査では問題ありませんでした。

人間って、血管と筋肉が身体を作っているので、血管に対してはまったく取らないわけにはいかないが油、糖、塩分とかが問題を起こすこともあります。

半年から4か月前ぐらいから自覚症状はありました、鍵盤ハーモニカを吹くと物凄く心臓がどきどきして汗をだらだらかいてしまっておかしいなとは思いました。

今はNHKのラジオ体操をやっています。 

手術後1か月休んで活動を開始しました。

ちょっとおかしいと思ったら大事になる前に見ていただきたいと思います。

新しいアルバムをちょうど作り終わったときで、興奮と疲れをため込んでいたと思います。

*「ジャズばあちゃん」 演奏:ヴァイオリンに早稲田桜子さんと国府弘子トリオ 新しいアルバム「ピアノパーティー」より

恩師とか大先輩とかが旅立って呆然としているときに、残された同志、息子さんとか、お孫さんとかと集まった機会でぐっと親しくなって、人と人とをつなげていくんだなあと思いました。

リストの「愛の夢」を英語で結婚記念日の長いコンビを組んできた相棒に感謝を贈る歌詞を付けて、別の「愛の夢」に替わって「ドリーム オブ ラブ」というタイトルで露崎春女さんに歌ってもらっています。  アルバムの一枚の中にいろんなジャンルの音楽が盛りだくさんに入っていて、区別しないで構成されています。

大学で客員教授として講義もしています。  セラピーとか激励みたいなところがある授業なのでオンラインではちょっと伝わらないので、残念です。

何かをやるときに成功体験というものがどれだけ大事か、それでいいんだと誰かに言ってもらえると勇気が音の音色の艶を付けてくれちゃうんです。 いいところを言ってあげると激変します。

春には出来なかったコンサートですが、秋の終わりぐらいにはスケジュールが埋まってきています。





2020年9月3日木曜日

佐藤 優(作家)            ・私の"還暦"からの人生戦略

 佐藤 優(作家)            ・私の"還暦"からの人生戦略

60歳、埼玉県立浦和高校、同志社大学大学院神学研究科を卒業後、外務省に入省、旧ソ連の大使館勤務を経て外務省の主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍しました。 しかし2002年には背任と偽計業務妨害で逮捕起訴され、2009年に有罪が確定して失職します。 この間1年半近く拘置所で過ごしました。  その後裁判の続く中で書いた「国家の罠」で毎日出版文化賞特別賞を受賞、「自壊する帝国」では新潮ドキュメント賞、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞して作家の道を歩み始めました。  以来国際情勢や宗教、教育などをテーマにした多くの著作を発表しています。 今年還暦を迎えた佐藤さんは人生後半からの生き方のヒントをつづった、「50代からの人生戦略」という本を出版し、反響を呼んでいます。  佐藤さんに自身の人生や若者たちの教育への思い、還暦からの生き方について伺います。

東京で生まれてすぐ、埼玉に移りました。  その後埼玉県立浦和高校に入りました。

入学した年の夏に海外に単独で行きました、当時のソビエト、中央アジア、東ヨーロッパ諸国に行きました。  英語も好きでしたが、違う体制の国を観てみたいと思ったのと、中学校1年生の時からハンガリーの友達と文通をしていました。  父が後押しをしてくれました。

父は銀行員をしていまして資本主義体制の最前線でやっているが世の中はどう変わるかわからないという事とか、東京大空襲を経験して航空隊に入って通信兵として中国に行きましたが、国、政府、マスメディアもかなずしも本当のことを伝えないこともある、体制も色々変わってくることもあるから、日本と全く異なる体制の共産圏を観ておくことはいいことだと父が後押しをしてくれました。

当時の日本の住宅事情、公共交通機関と比べてレベルはソ連、東欧は高かった、特に東欧諸国は高かった、食事も豊かでした。  イメージとは違ってました。

1975年から約10年後に再訪しましたが、その時はむしろ貧しくなっていました。

1975年ごろは社会主義体制の頂点のころでした。

ハンガリー、ポーランドで知り合った社会主義の同世代の若者たちは英語がうまくて、自分の考えていることをしっかり言う、自由に言う、政府への批判、将来の自分のビジョンについて語る。    受験戦争もありませんでしたので本もよく読んで内面的な自由がある国だと思いました。

高校で夏休みの宿題が思ったようにいかず、やる気をなくして、まわりも受験でびくびくしているし面白くないと思って、倫理社会を担当していた堀江朗郎先生が、歴代のアメリカの大統領に強い影響を与えたラインホールド・ニーバーという政治学者で神学者の「光の子と闇の子」という本の原典講読をやって物凄く難しい英語で、受験英語はほんの入り口なんだという事を知って、又神学って面白いなあと感じたわけです。  それで大学、大学院では神学科に進みました。

大学の2回生の時にチェコの神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカのテキストと出会って、1930年代のスペイン市民戦争、ファシズム、ナチスの台頭があり、ファシズムの台頭を阻止しないといけないと言い出して、第二次世界大戦中はアメリカに亡命して、戦後共産主義化したチェコスロバキアに帰国しますが、共産党の協力者になったのではないかと批判されるが、人間とは何かという事で社会主義社会の中から変えることをやっていて、それをベースにして生まれてくるのがプラハの春で、同時に核廃絶をやらなければいけないという事を考えて活動していた人です。

ソ連が戦車を入れてくるが、徹底的にソ連を批判する。 反体制派の烙印を押されて、プラハの春の翌年12月に亡くなった神学者で日本ではほとんど資料が集められない。

外務省専門試験があり受かるとプラハの大学に留学できるらしいとのことで、いろいろいきさつがある中で結局外交官になることになりました。

「蘇る怪物」ソ連崩壊前後のロシア人の知識人達とのつきあいの話。

1979年に同志社大学神学部に入って、85年に大学院修士課程を修了して第一回目の青春があり、86年からイギリスにホームステーしたときにはもう一回中学高校に還ったような感じでした

2002年には背任と偽計業務妨害で逮捕起訴される。

検察官もなかなか魅力的な人で彼らは彼らなりの正義をもとに追及してゆくし、鈴木宗男さんは鈴木さんなりの正義を追及している。 商社から賄賂を取って北方領土をおかしいことをしている言う話ではなかった。  実際にそういう風な犯罪の認定はなかった。

人間を深く見るという意味では獄中の512日は非常にいい経験になりました。

獄中では原書(外国語)は差し入れができなくて、日本語のものだけとなり、原文の太平記を通読するとか、ヘーゲルの「精神現象学」を通読するとか、いろいろトライできたのは非常によかったです。 

最後の半年は両隣が確定死刑囚でした。  連合赤軍事件の坂口弘さんで、坂口さんがすごい読書家でした。  差し入れ品を観てこんな本を読んでいるのかとかいろいろ想像したりして、まったく口がきくことができなかったが、差し入れ品を観るだけでコミュニケーションができるというところで勉強になりました。

真面目な人間がどこかで道を外した時にどこでそれを引き取とめるかという事になると教育の役割、友人の役割は大きいのではないかなあと思います。

正義感、理想は誰もが持っているが、若いうちは理屈では大人と同じような形で把握できるが、皮膚感覚でそこから何が起きるかとか、体験のところが足りない部分があるので、そこで道を間違えてしまってはいけないと思うわけです。

ある時に坂口氏がオウム真理教の人たちに向けた手紙を新聞を通じて発表するが、ちゃんと出頭したほうがいいと、教祖に帰依してそういった行動をとったと思うが、どこか踏み外すことが気付くはずだと、その感覚を大切にしたほうがいいとこういうよびかけをしているということを、獄を出た後に知って、彼の獄中での生き方と非常にに近いと思いました。

正義感が強く、行動力がある人はそのエネルギーが間違った方向に行っちゃうという、そういうことを阻止するのは人間的感化だと思います、ですから教育への強い関心を持ちました。

同志社大学の神学では組織神学でキリスト教の理論の細かい事を教えています。

浦和高校では3年生を相手にユルゲン ハーバーマスというドイツ社会哲学者の「認識と関心」という本を日本語と、英語での読解をしています。

2年生にはユヴァル・ノア・ハラリさんのホモ・デウスを中心にそれに関連した様々な新書たくさん読ませました。  国際的なことに関心を持って進路を変えた生徒もいました。

灘高校の生徒たちが7年続いて私のところに訪ねてきて数時間かけてゼミナールをやっています。 ほかにもいろいろ授業をしています。

自分自身の可能性をあえて低くしてしまっているような生徒が自分の等身大の可能性を観てそれにすこし上積みしていきたいと思うように変わっていく姿を見るのは、高校でも大学でも面白いです。

還暦になったとたん急に元気がなくなってしまう同級生などを観ていると、還暦対策はその10年ぐらい前から人生設計しないといけない、そんなテーマに関心が出てきました。

作品を書いている中から次のテーマがおのずから決まってきます。

再雇用になると貯金を切り崩してゆく人生になると思うと急に不安になってくる。 

会社を辞めて家にいると、それまでは男は昼間はいないという事で成り立っているので、突然昼間にいると家庭という有機体の中では異物ですからはじき出されてしまうので、早いうちに知っておいたほうがいい。  家庭の中の言葉使いには気を付けたほうがいいです。

もし私が外務省に勤め続けていたら、定年の壁はなかなか乗り越えられない大変な壁として立ち向かったなあと思うと、私が「50代からの人生戦略」を書いたほうがいい仕事ではないかと思えてくるわけです。

分野の違う人との対談、それによって考えるきっかけを得られる、考え方がどうまとまってゆくかという事のプロセスを読者に提示できる、こういうところは対談本の魅力です。


2020年9月2日水曜日

大島満吉(葛根廟事件慰霊の会代表)   ・生存者が語る「葛根廟事件」

 大島満吉(葛根廟事件慰霊の会代表)   ・生存者が語る「葛根廟事件」

昭和20年8月14日 終戦の前日 旧満州の草原でおきた葛根廟事件では1200人の日本人避難民が旧ソ連軍の侵攻で壊滅状態になりました。  その惨状は余りにも過酷でこれまで身内にも話すことができなかったといいます。   大島満吉さんは家族6人で避難を始め、当時日本人とモンゴル人の交流の場であった、葛根廟というラマ教(チベット仏教)の寺院に身を寄せようとした8月14日ソ連軍の攻撃を受けました。   一年後日本に引き揚げたのは約110人だけでした。  大島さんは葛根廟で亡くなった方々の霊を慰める慰霊の会の代表を務めています。  当時9歳だった大島さんはご自身の体験と亡くなった方や生存者の方を丹念に調べ葛根廟事件を次世代に伝えています。

葛根廟事件が起きてから75年経って、映画にもなったりして少しずつ知られるようにはなりました。  自分たちでは正直なところ、身内の人にも話せないというような非常につらい話があるのでものに書いて書き残すことはできて、生存者の方が手記を残しているのがいくつかあります。   自決の話があるのでどうしてもこの話は苦しくて一般に話すことはないんです。  10年ぐらい前から若い方々が戦争のことを語り継ごうというような研究会みたいなものがいくつかあり、その方々から声があり、その話をしたときに主催してくれた方々からいい話を聞かせてもらいました、と言われましたが、頼まれたときには話すことができますが、そうでないときには一切話ができないのが現実です。

早稲田大学のある教授から学生に話してくれないだろうかという事を言われました。  

京都大学でも学園祭で話す機会を得ました。

田上龍一(40代)監督からも映画化したいという事で実現ました。  後世に伝えるべきだという事で映画を作っていただき見たらよくできていて吃驚しました。

8月9日にソ連が宣戦布告をして日本に戦争を仕掛けてきました。  11日の爆撃で全部通信関係が不通になる爆撃を受けました。  関東軍はいなくて、軍は軍の組織を守る、国の行政機構を守るのが第一優先であって市民は市の管理の管轄なんだという事を知りませんでした。  避難するのには徒歩しかなかった。   リヤカーに荷物を積んで11日に出発しました。

両親と兄弟は男3人、妹の6人家族でした。  兄が10歳、私が9歳でした。

14日の朝はソ連軍が予想外に早く来るという事で、朝早く出かけました。  葛根廟まで2,3kmのところまで来ましたが、隊列を調整するために休憩という事になりました。   ものの何分かしないうちに、山の稜線にソ連の戦車が待っていました。

日本人の一団に突っ込み、人々をなぎ倒し、機銃弾を浴びせた。  母親と私と弟、妹で慌てて逃げ出しました。(父と兄は別になっていた。)

逃げる途中で偶然豪がありそこに飛び込みましたが、20,30分したら静かになり3人の兵隊が豪に現れて日本の軍隊だと思ったら、ソ連兵で母親が伏せるように仕草をしました。

女子供4人だったので危害を加えられなくて、30m先に男を含んだ30名ぐらいが固まっていて、それの兵隊がその人たちに向けて撃って全員が死んでしまいました。 

兵隊は移動していって、気が付いた時には逃げてきた人たちは誰もいませんでした。

父と兄の姿は見えませんでした。 

軍の人から生きている人は40人ぐらいいます、自由行動してください、重傷者がいっぱいいて歩けなくてもう生きる道がなくなって放ったらかして自分たちが行くのではなくて、自分たちも責任を取りたいので、どうしても死を望むなら自決を補助します、といったんです。

小さい子がいるところはそれぞれ処分してください、という事でした。

自分たちは生きられないと母は覚悟して3歳の妹を自分の手にかけざるを得なかった。

自決ほう助しますという事で私たちも並んで順番を待つことにしました。 私たちは最後から7番目ぐらいのところにいました。

軍人の人が人の命をとるという事が大変で疲れてしまって、一休みすることになり待たされることになりました。   その間に中国の地元の人たちが亡くなった人、生きている人を含めた日本人の物取りに来ました。

そこに父と兄が来て会うことになりました。  逃げようという事になったが、母は妹と一緒にここで死にたいという事したが、父が何とか説得して、一緒に並んでいた小山校長の子供たちがいたが告げずに夜に豪を脱出しました。

40年後になって一緒に並んでいた小山校長の子供の一番下の子が残留孤児になって帰ってきました。  対面した時に告げずに逃げたことがものすごく心の中の痛手になって残りました。    「よく生きてくれたね」と一言言いたかったが、涙で声が出ませんでした。

新疆にたどり着いたのは15,6人ぐらいでした。  全部で1年後に日本に帰ってきたのは110人ちょっとでした。

父が病気になり、食べるものもなくて長男が貰い物をして、その後あるおじさんが働くことに対して段取りをしてくれました。  半分の南瓜をくれてこれがみんなを救えると言って兄は泣きながら帰ってきました。  父が回復していきました。

日本に帰ってきたのは昭和21年10月1日に帰ってこられました。

昭和45年に父は葛根廟の大草原で亡くなった方々を慰霊しようという事で命日会を始めました。

8月14日の命日会は30人ぐらい参加して、95歳まで父はやってきました。

昭和53年の命日会の時に森繫久彌さんが追悼の辞を寄せてくださいました。

新疆在住の大串さんが当時新疆放送局のアナウンサーとして働いていた森繁久彌さんと親交があったそうです。 大串さんが本をお書きになったときに追悼の辞を寄せていただき、自ら詩に音楽を付けて草原の音もつけて貴重なCDがあります。

戦後75年の記念誌「今に想う」が今年できました。 ほぼ一人で作り上げました。

若い方も関心を持ってくれるようになりましたが、生存者にとって私たちにとって時効はないですから、気持ちの中でさっぱりしないので、後世の方に戦争は絶対駄目だという事を強調していかないといけないと思います。






2020年9月1日火曜日

山本 學(俳優)            ・【わが心の人】俳優 森光子

 山本 學(俳優)            ・【わが心の人】俳優 森光子

森光子さんはライフワークである舞台、放浪記、この舞台で2000回を超えるロングラン公演を達成しました。   日本のお母さんとしても親しまれ、2009年には国民栄誉賞を受けています。   2012年11月亡くられました。(92歳)   俳優の山本學さんは放浪記の舞台で森光子さんと長く共演されました。

私は83歳になりました。  森さんは元気であれば今年100歳の誕生日を迎えるはずです。

森さんは本当に人に対する気遣いが深い方でした。 僕は新劇からはいりましたが、最初は役者になる気はなくて舞台装置をやりたくてこの世界に入りたかったんですが、東野英治郎さんに相談に行ったら、シェークスピアも読んだこともないのに、舞台装置なんかやるなんて考えるな、俳優座の養成所に入れ、とにかく試験を受けろという事で結局入ってしまいました。

人を観て過ごしてきて、そういうことが森さんの芝居に出て、森さんを観る一つの礎になったのかなと思います。  

放浪記で一緒になったのが昭和62年11月からで、役は安岡信雄という事でした。

森光子さんに一生懸命尽くすがあまり相手にされないという役でした。

それなりの人間像は頭に浮かぶんですが、どうしてもそれができないんですがという風に言っていたら、森さんはいいと言ってたわよと下宿のおかみさん役の人から言われました。(森さんからの根回しがあったようです。)

森さんの細やかさに吃驚しました。

22年間役を続けてこられました。

2000回までやって最後のあいさつで、私は「長い間ありがとうございました」と言って、森さんが次に挨拶するわけですが、「私はそうは思わないんです、私は申し訳ないけどあれだったらやります。」と言って、僕は仰天しました、その時森さんは89歳でした。

2000回の一年前に森さんは凄く体調が悪くてもやり遂げられて、2000回の時には見違えるように元気になりました。

僕は2000回で降りることにしました。

でんぐり返しがうまくいかなくなって、森さんやめてくださいと言ったら、辞めないと言っていましたが、87歳の時からでんぐり返しの場面が万歳三唱に替わりました。

2012年11月に92歳で亡くなられましたが、弔辞を呼んでほしいといわれて、読んで持ち帰ってしまいました。

「・・・あなたはもうこの世にはいらっしゃらないんですね。  どうしても信じられませんというと、「そうよ私はもういないのよ、でもね今日は皆さんのために一日だけ帰ってきたの」と言ってその辺から出ていらっしゃるような気がします。  そういうおちゃめで人を驚かすことがお好きでしたね。・・・・大先輩なのにいつも対等に話をしてくださいました、そのことは私にとっても大きな教えでした。  ・・・「どっこいしょ」と言って座ったら山本さん「どっこいしょ」はいけません、「イエイ」とおっしゃいと言われ、イエイと言って立つことはできてもイエイと言って座ることはできないですね。  人から森さんってどんな方かと言われるとよくこの話をしました。・・・この人は本当に人間が好きで体の芯から女優さんそのものだ。  私なんて足元にも及ばない強い方だと思いました。・・・森さんのTV番組を観ていたら、役者は寂しくなければいけないんです、役者は日常が幸せいっぱいじゃあうまくいかないんです。」  心に残る言葉でした。  いつも冗談を言って明るく話をされていながらやぱり寂しかったんだなあと思いました。・・・放浪記の台詞で言っていました、「文子さん苦労してきたものは自分自身に対して律儀で几帳面なものです。    ただそれが他人にはわからないだけです。    自分の育ちを恨むよりほかしょうがありませんね。」・・・舞台でそのセリフを言うと文子さんはぽろりと涙を流されました。  私が舞台でみた森さんの初めての涙でした。  ・・・天国に行かれても舞台をやり続けると思います。  でも一時10代の少女のころに還り、芝居の事はすっかり忘れて、温泉にゆったり浸かって家族の交流の幸せを心行くまで味わってくだい。 ・・・・・森さん実に多くのことを言葉ではなく身をもって教えてくださってありがとうございました。  森さんに贈る言葉はただありがとうございますという言葉です、「本当にありがとうございました。」           2012年12月7日  山本 學

いろんな大女優とお芝居でお付き合いしていますが、それぞれみんな違うんですね。 普通の人に近い生活感覚のなかであれだけの芝居ができる人の技、を森さんに感じました。

不思議な方だなあと思います。

激しい言葉もパッとできるような、強いものも中に持っていて、そういうことを全部人に見せることを嫌わないというか、舞台のうえでも ぱっとかわれるという、苦労してきたんだなあと思います。