芹澤廣明(作曲家) ・古希、アメリカで歌手デビュー
チェッカーズや中森明菜をはじめ数々の歌謡曲を手がけ、アニメソングの分野でも多くのヒット曲を生み出してきました。
去年70歳を過ぎてアメリカでシンガーソングライターとしてデビューを果たすなど、今も輝きのある日々を送っています。
芹澤さんの名曲を振り返りながら、音楽にかける思いや人生観についてなど伺いました。
71歳になります。
作った曲は2500曲以上になります。
*ヒット曲メロディー 短く数曲
聞くと当時のことを思い出します。
1,2分で作っていました。
2,3歳の頃から木琴とか買ってもらってやっていました。
小学校は音楽部でした。
小学校6年、中学1年のころにギターを友達から見せてもらってはまりました。
16、7歳の時には横須賀、米軍キャンプなどでバンドでギターを弾いていました。
趣味と実益を兼ねてやっていました。
18歳ぐらいの時にポップコンがあってギター部門で優勝しました。
NHKの或る音楽番組(ステージ101)でオーディションに受かりました。
洋楽をメインに若い人たちが集まっての音楽バラエティー番組でした。
この番組を通して「涙を越えて」なども生まれた。
この番組でいろんな曲を歌いました。
サラリーマンの給料が2万円ぐらいだった時に、作曲をすると印税が入ってくるという事で30歳ぐらいから始めました。
直ぐ曲は浮かんできました。
何曲かは没になりました。
自分の好きなものが売れるとそれしか作れないので、それじゃあなくてよかったと思います。
なるべく其歌手に合わせて作りました。
「少女A」は中森明菜さんに書いたものではなくて、たまたまそこに行ったんですね。
*「少女A」 中森明菜 作詞 売野 雅勇 作曲 芹澤廣明
*「涙のリクエスト」 チェッカーズ 作詞 売野 雅勇 作曲 芹澤廣明
最初はただの「リクエスト」でしたが、提案して「涙のリクエスト」になりました。
*「ジュリアにハートブレイク」 チェッカーズ 作詞 売野 雅勇 作曲 芹澤廣明
「オーマイジュリア」のところは私の娘がユリアといいますが、ひらめいてこうなりました。
*「Song for U.S.A.」 チェッカーズ 作詞 売野 雅勇 作曲 芹澤廣明
売野:一言でいうと運命、これに尽きます。
芹澤さんと会わなければ作詞家を続けていられなかっただろうと思います。
人生で一番大切な時間、ポイント、ポイントに芹澤さんがいて、導いてくれたというか、北極星みたいな人でした。
売野さんとはうまくいきました。
*「タッチ」 岩崎良美 作詞 康珍化 作曲 芹澤廣明
アニメソング
TVに放映されるのできちっとあっていないといけないので難しい。
2018年に『Light It Up!』で全米歌手デビュー。
3人ぐらいのアメリカの歌手が歌うがうまくいかなくて、僕が出すというっことになりました。
日本だけではなくてアメリカでやってみたいと思いました。
普遍性のあるもの、「タッチ」は広く聞いていただいていると思います。
アメリカでやっているものは自分の趣味でやっています。
今年も出します、趣味でやりたい。
*「Light It Up!」 芹澤廣明
2019年7月31日水曜日
2019年7月30日火曜日
林家正楽(紙切り) ・【母を語る】
林家正楽(紙切り) ・【母を語る】
1948年 昭和23年東京生まれ 東京都立小石川工業高等学校を卒業後、働きながら紙切りを学びます。
昭和42年2代目林家正楽のもとに入門、昭和45年林家一楽の名前で師匠の代役として初高座に上がります。
昭和58年第13回国立演芸場花形新人演芸会新人賞を受賞、昭和63年に林家小正楽襲名 、平成12年9月3代目林家正楽を襲名、襲名披露興行では紙切りで寄席史上初のトリを務めました。
お客さんのリクエストに応えて、しゃべりながら時事ネタからスポーツ、芸能ネタまで素早く切って見せる鮮やかな手さばきが人気です。
幼いころから母のそばで手仕事を見て育ったという正楽さんに伺います。
寄席の紙切りですが、落語協会は現在3人います。
もう一つの落語芸術協会も3人います。
私が入ったころは落語協会は師匠と私だけでした。
何も書いてない白い紙で形を作っていきます。
お客さんからお題を頂いて紙を切っていきます。
そのまま黒い台紙に入れてみせるのと拡大して見せるのとがあります。
紙の大きさは人によって違います。
私はA4の紙を使っています。
紙質は自分の好みのものを使っています。
例えば「テニス」という題で大阪なおみの特徴をつかんでわかるように切ります。
新聞、週刊誌を見て勉強します。
「夏」という漠然とした題では風鈴、夕涼み、花火、カブトムシなど結構多いです。
題で苦労するのも面白いです。
7月の声を聴くと七夕などが出てきます。
話をしながら体を動かしながらお客さんに退屈させないためというのがあります。
初代林家正楽の体の揺れ方がかっこよくてきれいでしたので、そこに近づけようとはしていますが。
小さいころは引っ込み思案でした。
小学校の通信簿では授業中私語が多いと指摘されていました。
3人兄弟で二人の兄がいました。
喧嘩はあまりしませんでした。
兄は活発で頭がよくて絵がうまくて、スポーツもできて凄い人で僕とは全然違います。
僕は運動神経が全然駄目でした。
母親は素敵な母親でした。
母親は絵も上手で手先が器用でした。
小学校1年の時に国語の教科書を無くしてしまって、その通りに教科書を丸ごと絵と字をそのまま書き写してしまいました。
小学校2年の時に絵画教室が何軒かあって、あるところに決めて1週間に2回ぐらい行っていました。
母が日本人形を作っていて、習っていたがそのうち教えたりしていました。
パーツなどを手伝わされましたが、遊びの延長みたいでやっていました。
家には藤娘など写真がいっぱいありました。
当時は落語を一杯ラジオでやっていました。
寄席に行きたいと思っていました。
中学の時には親に連れられて寄席に行きました。
その後は一人で行くようになりました。
初代の正楽なども見ました。
落語家になろうとは一切思いませんでした。
紙切りになろうと思たのは、高校を卒業して会社に入ったんですが仕事が面白くなくて、たまたま寄席に行ったときに、師匠(小正楽)の高座を見ているうちに俺はこれをやるんだと思ってしまいました。
弟子になりたいと思って、住所を聞いて埼玉県の春日部に行きました。
しかし、怖くなって帰ってしまって、手紙を書きました。
会って弟子にして下さいといって、弟子になることになりました。
馬を切ってくれてそれを見ながら作りましたが、最初はすごく時間がかかりました。
母親は紙切りになる事には反対はしなかったが、悲しい顔をしていました。
5年経って林家一楽という名をもらって、師匠が時間がダブってしまって、行くことになりました。
以後、寄席以外の場所でも仕事があって段々自信がついてきました。
母親に切ったものを見せましたが、良い悪いは一切言いませんでした。
母親は知り合いを集めて寄席にきてくれました。
兄は手が器用でした、学校の先生をやって今は退職しています。
向いているとか向いていないというようなことは絶対わからないですね。
紙切りは見ればわかるので、日本文化をほかの国の方に見てもらうという事で、20年ちょっと前までいろんな国に行きました。
富士山、三味線、生け花とか日本では出ないものが出てきます。
どこへ行っても注文があるのが龍ですね。
日本の行事のことを切っているときが一番楽しいです。
1月に七夕という注文がありましたが、思い出すまで時間が掛かりました。
お客さんによって「気」があるときと「気」がない時があり、それで出来が全然違ってきます。
今度台湾に行ってきます。
好きなことをさせてくれたという事は母親には感謝しています。
1948年 昭和23年東京生まれ 東京都立小石川工業高等学校を卒業後、働きながら紙切りを学びます。
昭和42年2代目林家正楽のもとに入門、昭和45年林家一楽の名前で師匠の代役として初高座に上がります。
昭和58年第13回国立演芸場花形新人演芸会新人賞を受賞、昭和63年に林家小正楽襲名 、平成12年9月3代目林家正楽を襲名、襲名披露興行では紙切りで寄席史上初のトリを務めました。
お客さんのリクエストに応えて、しゃべりながら時事ネタからスポーツ、芸能ネタまで素早く切って見せる鮮やかな手さばきが人気です。
幼いころから母のそばで手仕事を見て育ったという正楽さんに伺います。
寄席の紙切りですが、落語協会は現在3人います。
もう一つの落語芸術協会も3人います。
私が入ったころは落語協会は師匠と私だけでした。
何も書いてない白い紙で形を作っていきます。
お客さんからお題を頂いて紙を切っていきます。
そのまま黒い台紙に入れてみせるのと拡大して見せるのとがあります。
紙の大きさは人によって違います。
私はA4の紙を使っています。
紙質は自分の好みのものを使っています。
例えば「テニス」という題で大阪なおみの特徴をつかんでわかるように切ります。
新聞、週刊誌を見て勉強します。
「夏」という漠然とした題では風鈴、夕涼み、花火、カブトムシなど結構多いです。
題で苦労するのも面白いです。
7月の声を聴くと七夕などが出てきます。
話をしながら体を動かしながらお客さんに退屈させないためというのがあります。
初代林家正楽の体の揺れ方がかっこよくてきれいでしたので、そこに近づけようとはしていますが。
小さいころは引っ込み思案でした。
小学校の通信簿では授業中私語が多いと指摘されていました。
3人兄弟で二人の兄がいました。
喧嘩はあまりしませんでした。
兄は活発で頭がよくて絵がうまくて、スポーツもできて凄い人で僕とは全然違います。
僕は運動神経が全然駄目でした。
母親は素敵な母親でした。
母親は絵も上手で手先が器用でした。
小学校1年の時に国語の教科書を無くしてしまって、その通りに教科書を丸ごと絵と字をそのまま書き写してしまいました。
小学校2年の時に絵画教室が何軒かあって、あるところに決めて1週間に2回ぐらい行っていました。
母が日本人形を作っていて、習っていたがそのうち教えたりしていました。
パーツなどを手伝わされましたが、遊びの延長みたいでやっていました。
家には藤娘など写真がいっぱいありました。
当時は落語を一杯ラジオでやっていました。
寄席に行きたいと思っていました。
中学の時には親に連れられて寄席に行きました。
その後は一人で行くようになりました。
初代の正楽なども見ました。
落語家になろうとは一切思いませんでした。
紙切りになろうと思たのは、高校を卒業して会社に入ったんですが仕事が面白くなくて、たまたま寄席に行ったときに、師匠(小正楽)の高座を見ているうちに俺はこれをやるんだと思ってしまいました。
弟子になりたいと思って、住所を聞いて埼玉県の春日部に行きました。
しかし、怖くなって帰ってしまって、手紙を書きました。
会って弟子にして下さいといって、弟子になることになりました。
馬を切ってくれてそれを見ながら作りましたが、最初はすごく時間がかかりました。
母親は紙切りになる事には反対はしなかったが、悲しい顔をしていました。
5年経って林家一楽という名をもらって、師匠が時間がダブってしまって、行くことになりました。
以後、寄席以外の場所でも仕事があって段々自信がついてきました。
母親に切ったものを見せましたが、良い悪いは一切言いませんでした。
母親は知り合いを集めて寄席にきてくれました。
兄は手が器用でした、学校の先生をやって今は退職しています。
向いているとか向いていないというようなことは絶対わからないですね。
紙切りは見ればわかるので、日本文化をほかの国の方に見てもらうという事で、20年ちょっと前までいろんな国に行きました。
富士山、三味線、生け花とか日本では出ないものが出てきます。
どこへ行っても注文があるのが龍ですね。
日本の行事のことを切っているときが一番楽しいです。
1月に七夕という注文がありましたが、思い出すまで時間が掛かりました。
お客さんによって「気」があるときと「気」がない時があり、それで出来が全然違ってきます。
今度台湾に行ってきます。
好きなことをさせてくれたという事は母親には感謝しています。
2019年7月29日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】アルベール・カミュ
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】アルベール・カミュ
「絶望とは戦うべき理由を知らずして、しかもまさに戦わねばならぬという事だ」
(カミュ)
代表作として『異邦人』、『シーシュポスの神話』、『ペスト』、 『反抗的人間』。
生まれが1913年。
『異邦人』は発行部数の累計は大変な数だと思います。
海外ブックランキングではベスト5に入っています。
主人公は人を殺してしまうが、理由が太陽がまぶしかったと言うようなことで。
「絶望とは戦うべき理由を知らずして、しかもまさに戦わねばならぬという事だ」はカミュの手帖〈第2〉反抗の論理 の一節。
僕自身も難病になったときに、なんでなったのかという事は判らなくて、突然なってしまって、病気と闘わなくてはいけなくて理不尽な感じがしました。
この一節がまさにぴったりでした。
永井豪という漫画家の「真夜中の戦士」という短編漫画があるが、なんで戦うのかわからなくて戦うしかない。
理由が判らない戦いは非常につらい事です。
それが絶望につながる訳です。
カミュはアルジェリアの生まれです。
生まれてすぐに父親が第一次世界大戦で亡くなってしまいます。
母親は耳が不自由で読み書きもできなかった。
非常に貧しい状況に置かれてしまっている。
小学校の先生にいい先生がいてその先生のお陰で進学ができました。
ノーベル文学賞をとったときに、講演の出版をするときに、「ルイ・ジェルマン先生へ」と名前を入れて出版しています。
サッカーでプロを目指せるぐらいの実力があったが、結核になってしまう。
ここから生涯苦しみ続けることになる。
貧乏も結核もカミュのせいではなかったが、戦わねばならなかった。
「真に重大な哲学上の問題は一つしかない、自殺という事だ。
人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」 (『シーシュポスの神話』の一節)
カミュは不条理がセットみたいに言われるが、カミュ自身が不条理という言葉を広めた人。
不条理とはわかるようなわからない感じがする。
世の中、法則みたいなものを見つけたいと思うがなかなか見つからない。
どう思って見たところでそこからはみ出すことが起きる。
病気、災害などいろんな不測の事態が起きる、理不尽なことが起きると世の中なんて不条理だと思う訳です。
人間が世界を理解しようとするときに、うまく理解できなくてそこに不条理という感情が生まれる、とカミュは言っている。
簡単に人が亡くなる、こんな不条理なという事件事故が多い。
どうやったらどうなるかわからないとなると、無気力、投げやりになってしまうと思う。
『シーシュポスの神話』中では、「人生は意義がなければないだけ、それだけ一層よく生きられるだろうと思えるのであろう。」と言っている。
『シーシュポスの神話』はギリシャ神話を題材にたとえみたいにして使ってる。
神々がシーシュポスに刑罰を科した、シーシュポスに岩を山の頂まで運ばせ、岩が落ちていき、又岩を頂きに運ぶ、これを永遠に行わせるという罰を与える。
全く無意味なことをやらせる、無益で希望のない労働ほど恐ろしい刑罰はないと、そういう風にギリシャの神々は考えているというところがポイントです。
第二次世界大戦のナチスの拷問、杭を打ち込ませ、又それを抜かせる、それを繰り返させる、少々の拷問に耐えられる人でもこれは駄目だった。
まったく無益なことをさせられることは人間にとって非常に厳しい。
会社で頑張っても定年になって数年すればだれがやったのかもわからなくなるし、すべては結局虚しいという所に到達するといえば言えなくもない。
カミュはシーシュポスを不条理の英雄と呼んでいる。
「頂上を目がける闘争、ただそれだけで人間の心を満たすのに十分足りるのだ。
今やシーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。」
ふつうは生きる原動力はないが、シーシュポスはずーっとやっているわけで、そういうすべてが無くてもそれでも岩を押し上げることができる人間こそが英雄という事なんでしょうね。
普通はやめたくなると思うが、シーシュポスは下まで降りて行って持ち上げることに心を満たすに十分だといっている。
不条理と気づいた世の中で生きていくという事なんでしょうね、英雄になることは難しい。
「リトルホレスト」という映画、東京から東北に戻ってきた若い女性が、手間暇かけて自給自足をするが、きちんと生きて行くことが素敵なんです。
「生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない。」
(「裏と表」の一節)
本当に生きようとすると絶望が多い。
美しい風景をみて永遠の時を感じるが、美しい自然もいつかは滅びる。
絶望を踏まえないと、本当には愛せないとここでは言っている。
「カミュの手帳」の中で「美はできれば僕らの時間の続く限り引き伸ばしたいと願うような永遠を、垣間見せることによってぼくらを絶望に誘うのだ。」と言っている。
美しさに感動してこれが永遠であればいいと思うせいで、永遠ではないという絶望に誘われてしまう。
その絶望を踏まえて生きることは愛せということでもある訳です。
カミュの生まれたところはきれいな海があり、「カミュの手帳」の中でこう言っている。
「僕は海が存在してることを知っていた。だからこそ僕はこの死の時代のさなかで生きてこられた。」
「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。」
(『ペスト』の一節)
「ショーシャンクの空に」という映画で、刑務所に慣れてしまって釈放されるとかえって不安で、釈放されたが故の自殺をしてしまうというエピソードがあり、別の囚人が刑務所の塀を指さして言う、「あの塀を見ろよ、最初は憎み、次第に慣れ、長い月日の間に頼るようになる。」
絶望に慣れるという事はこういう事なんです。
どうしたらいいかというとカミュは反抗するという事と言っています。
「子どもたちが責めさいなまれるように作られたこんな世界は愛することなどは死んでもがんじえません。」とカミュはいっている。
不条理な世の中にはあくまで反抗する、言い続ける、それが大事だといっています。
「誰にでも判るが本当には判っていない基本的な事柄をいう勇気を失わなかった」とカミュのことを言っています。
いかなる状況でも、常にカミュは暴力や殺人はいけないというが批判を受けることもあった。
広島に原爆が落とされるが、連合国軍のほうでは第二次世界大戦に終止符を打つという事で喝さいされる面があったが、カミュだけは原爆投下の2日後に原爆反対の批判の文書を発表している。
どんな理由でもどんな局面でも殺人は駄目だといえる人は魅力的です。
カミュは1960年に南仏からパリに戻る途中で、親友が運転していた車が道路わきの木に衝突して46歳で亡くなってしまいます。
「我々はおそらくこの世界が子どもたちの苦しめられる世界であることを妨げることはできません。
しかし、我々は苦しめられる子どもの数を減らすことはできます。」 カミュ
「絶望とは戦うべき理由を知らずして、しかもまさに戦わねばならぬという事だ」
(カミュ)
代表作として『異邦人』、『シーシュポスの神話』、『ペスト』、 『反抗的人間』。
生まれが1913年。
『異邦人』は発行部数の累計は大変な数だと思います。
海外ブックランキングではベスト5に入っています。
主人公は人を殺してしまうが、理由が太陽がまぶしかったと言うようなことで。
「絶望とは戦うべき理由を知らずして、しかもまさに戦わねばならぬという事だ」はカミュの手帖〈第2〉反抗の論理 の一節。
僕自身も難病になったときに、なんでなったのかという事は判らなくて、突然なってしまって、病気と闘わなくてはいけなくて理不尽な感じがしました。
この一節がまさにぴったりでした。
永井豪という漫画家の「真夜中の戦士」という短編漫画があるが、なんで戦うのかわからなくて戦うしかない。
理由が判らない戦いは非常につらい事です。
それが絶望につながる訳です。
カミュはアルジェリアの生まれです。
生まれてすぐに父親が第一次世界大戦で亡くなってしまいます。
母親は耳が不自由で読み書きもできなかった。
非常に貧しい状況に置かれてしまっている。
小学校の先生にいい先生がいてその先生のお陰で進学ができました。
ノーベル文学賞をとったときに、講演の出版をするときに、「ルイ・ジェルマン先生へ」と名前を入れて出版しています。
サッカーでプロを目指せるぐらいの実力があったが、結核になってしまう。
ここから生涯苦しみ続けることになる。
貧乏も結核もカミュのせいではなかったが、戦わねばならなかった。
「真に重大な哲学上の問題は一つしかない、自殺という事だ。
人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。」 (『シーシュポスの神話』の一節)
カミュは不条理がセットみたいに言われるが、カミュ自身が不条理という言葉を広めた人。
不条理とはわかるようなわからない感じがする。
世の中、法則みたいなものを見つけたいと思うがなかなか見つからない。
どう思って見たところでそこからはみ出すことが起きる。
病気、災害などいろんな不測の事態が起きる、理不尽なことが起きると世の中なんて不条理だと思う訳です。
人間が世界を理解しようとするときに、うまく理解できなくてそこに不条理という感情が生まれる、とカミュは言っている。
簡単に人が亡くなる、こんな不条理なという事件事故が多い。
どうやったらどうなるかわからないとなると、無気力、投げやりになってしまうと思う。
『シーシュポスの神話』中では、「人生は意義がなければないだけ、それだけ一層よく生きられるだろうと思えるのであろう。」と言っている。
『シーシュポスの神話』はギリシャ神話を題材にたとえみたいにして使ってる。
神々がシーシュポスに刑罰を科した、シーシュポスに岩を山の頂まで運ばせ、岩が落ちていき、又岩を頂きに運ぶ、これを永遠に行わせるという罰を与える。
全く無意味なことをやらせる、無益で希望のない労働ほど恐ろしい刑罰はないと、そういう風にギリシャの神々は考えているというところがポイントです。
第二次世界大戦のナチスの拷問、杭を打ち込ませ、又それを抜かせる、それを繰り返させる、少々の拷問に耐えられる人でもこれは駄目だった。
まったく無益なことをさせられることは人間にとって非常に厳しい。
会社で頑張っても定年になって数年すればだれがやったのかもわからなくなるし、すべては結局虚しいという所に到達するといえば言えなくもない。
カミュはシーシュポスを不条理の英雄と呼んでいる。
「頂上を目がける闘争、ただそれだけで人間の心を満たすのに十分足りるのだ。
今やシーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。」
ふつうは生きる原動力はないが、シーシュポスはずーっとやっているわけで、そういうすべてが無くてもそれでも岩を押し上げることができる人間こそが英雄という事なんでしょうね。
普通はやめたくなると思うが、シーシュポスは下まで降りて行って持ち上げることに心を満たすに十分だといっている。
不条理と気づいた世の中で生きていくという事なんでしょうね、英雄になることは難しい。
「リトルホレスト」という映画、東京から東北に戻ってきた若い女性が、手間暇かけて自給自足をするが、きちんと生きて行くことが素敵なんです。
「生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない。」
(「裏と表」の一節)
本当に生きようとすると絶望が多い。
美しい風景をみて永遠の時を感じるが、美しい自然もいつかは滅びる。
絶望を踏まえないと、本当には愛せないとここでは言っている。
「カミュの手帳」の中で「美はできれば僕らの時間の続く限り引き伸ばしたいと願うような永遠を、垣間見せることによってぼくらを絶望に誘うのだ。」と言っている。
美しさに感動してこれが永遠であればいいと思うせいで、永遠ではないという絶望に誘われてしまう。
その絶望を踏まえて生きることは愛せということでもある訳です。
カミュの生まれたところはきれいな海があり、「カミュの手帳」の中でこう言っている。
「僕は海が存在してることを知っていた。だからこそ僕はこの死の時代のさなかで生きてこられた。」
「絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。」
(『ペスト』の一節)
「ショーシャンクの空に」という映画で、刑務所に慣れてしまって釈放されるとかえって不安で、釈放されたが故の自殺をしてしまうというエピソードがあり、別の囚人が刑務所の塀を指さして言う、「あの塀を見ろよ、最初は憎み、次第に慣れ、長い月日の間に頼るようになる。」
絶望に慣れるという事はこういう事なんです。
どうしたらいいかというとカミュは反抗するという事と言っています。
「子どもたちが責めさいなまれるように作られたこんな世界は愛することなどは死んでもがんじえません。」とカミュはいっている。
不条理な世の中にはあくまで反抗する、言い続ける、それが大事だといっています。
「誰にでも判るが本当には判っていない基本的な事柄をいう勇気を失わなかった」とカミュのことを言っています。
いかなる状況でも、常にカミュは暴力や殺人はいけないというが批判を受けることもあった。
広島に原爆が落とされるが、連合国軍のほうでは第二次世界大戦に終止符を打つという事で喝さいされる面があったが、カミュだけは原爆投下の2日後に原爆反対の批判の文書を発表している。
どんな理由でもどんな局面でも殺人は駄目だといえる人は魅力的です。
カミュは1960年に南仏からパリに戻る途中で、親友が運転していた車が道路わきの木に衝突して46歳で亡くなってしまいます。
「我々はおそらくこの世界が子どもたちの苦しめられる世界であることを妨げることはできません。
しかし、我々は苦しめられる子どもの数を減らすことはできます。」 カミュ
2019年7月28日日曜日
具志堅幸司(日本体育大学学長・日本体操協会副会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】
具志堅幸司(日本体育大学学長・日本体操協会副会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】 五輪メダリストの証言(初回:2008.05.23)
具35年前男ロサンゼルスオリンピック男子体操で、個人総合優勝した具志堅さんのお話をお聞きします。
現在は62歳、母校の日本体育大学の学長であり、日本体操協会の副会長です。
大阪の清風高校から 日体大に進み、1984年のロサンゼルスオリンピックで個人総合と吊り輪で金メダルを獲得しました。。
現役引退後は日体大の教授、監督として内村航平選手ら数多くのオリンピック選手を育て上げました。
2008年の北京オリンピックで体操日本男子の監督を務められましたが、その具志堅さんに当時の北京オリンピックメンバーが決まった直後に行った2008年5月のアンコール放送です。
アテネオリンピックの経験者が2人で後の人は若い選手です。
勢いがあるチームと同時に不安材料もあるという事も事実ですが、合宿などを見ていると非常に勢いもあります。
立派なナショナルトレーニングセンターができてそこで合宿をやっています。
1984年ロサンゼルスオリンピック。
規定演技、自由演技がありました。
最初のあん馬で失敗して個人総合5位からのスタートでした。
緊張してああいう経験は初めてでした。
あん馬が9.90 吊り輪が9.95 跳馬が10.0 平行棒で着地が失敗して9.90
鉄棒9.95 電光表示板が故障して3種目目から消えていた。
ピーター・ビドマー選手と首位を激しく争っていた。
5種目目で0.025上回っていてトップに立つが、電光表示板にはでない。
ピーター・ビドマー選手は最後が鉄棒で先に演技をして9.90でした。
アナウンサーとしては9.875以上で具志堅優勝と言いたかったが言えない状態だったがいってしまった。
床運動は得意ではなかった。
9.8出せればいいだろうとの思いで演技をしました。
最後の後方2回宙返りの着地で足が動いてしまった。
最高で9.8だろうと思いました。
スイスの審判員が10.0 アメリカの審判員が9.9を出しました。
日本の審判が9.8を出しました。
結果、9.9という事になり優勝することができました。
もし電光表示板が作動していたらアメリカの審判は9.9は出さなかったのではないかと思いました。
メキシコのオリンピックを子どものころ見て、おれもこんな風になれるかねと母親に聞いたら、母親が努力すればなれると言ってくれて、私の心に火がついて体操に取り組んでいくが、そういう立場になるとは夢にも思わなかった。
感無量で涙が出てきました。
2度の怪我もあったし、モスクワオリンピックのボイコットもあったし、オリンピックに縁がないまま終わってしまうのかなと一時期思った事ありました。
個人総合金メダル、種目別吊り輪が金、跳馬が銀、団体で銅、鉄棒で銅メダルを獲得。
世界選手権は4回連続出場し、金2個、銀5個、銅4個 全日本優勝が4回。
現役時代は記録にはあまり記憶はなかったです。
メキシコオリンピックで見た加藤沢男選手に憧れて体操を志しました。
小学6年生でメキシコオリンピックをみて中学に入って体操を始めました。
清風高校で高校総体で初優勝しました。(昭和49年)
個人総合優勝しました。
ロサンゼルスオリンピックの体操には6人のうち4人が清風高校出身者でした。
体操はローマ、東京、メキシコ、モントリオールと5連覇、世界選手権でも5連覇の時代でした。
その後日本は苦しい時代を迎える。
練習とは考えることだと思います。
なぜ今の演技はよくなかったのか、次はどうしてみようか、自分の中で組み立てていける選手がうまくなる可能性が高いと思います。
そのためにはいろんな経験が必要だと思います。
真面目さも大事な要素だと思います。
ほかにもいろいろあるが目標を具体的に持つことも大事です。
吊り輪の十字懸垂 静止は1秒だが静止を長く続けた。(観客へのアピール)
桑原昭吉という心の師匠がいまして、体操の生活化という事のテーマを投げるんです。
一流の舞台を見てそこから何を感じるのか一遍考えろという2つのテーマを与えられました。
観衆と一体となってるのが鮮明に浮かびました。
私も体操を通して観衆から拍手をもらえるような選手になりたいと思いました。
吊り輪の十字懸垂で長く止めれば観衆が振り向いてくれるのではないかと思いました。
イメージトレーニングが大事だと思います。
第3者的に自分を見て、試合は練習のつもりで、練習は試合のつもりで、難しいが10年近くかかったが最終的にはできました。
大学3年生の時にムーンサルトの着地で失敗して、腓骨が折れて、足の裏が変転して体操ができないかも判らないというようななけがでした。
手術後3日目にはベッドの上で古い自転車のチューブで引っ張ったり、鉄アレイを持ってきてもらってやったりしました。
腹筋、背筋を鍛えたりして、退院するときには力がついていました。
上半身に筋肉がついて十字懸垂も楽にできました。
怪我をしても、だからあきらめないという事も大事だと思いました。
心理学では「自分が思うような人間に段々になって行く」という言葉があるが、悪いことを思えば悪い方に考えるでしょうし、強くなりたいと思えば強くなるエネルギーが生まれると思います。
具志堅幸司は人一倍体操を強くなりたいと思った選手ではなかったのかなあと思います。
軸は富田で内村が食い込んできて坂本、中瀬、沖口など若いエネルギーを使いながらベテランを刺激しながら、なんとかオリンピック2連覇したいと思っています。
中国は頭一つ出ていますが、自分たちのやれる日本の体操を最後までやり通すという事だと思います。
自分が指導者になってみると、選手時代よりも厳しいと思っています。
具35年前男ロサンゼルスオリンピック男子体操で、個人総合優勝した具志堅さんのお話をお聞きします。
現在は62歳、母校の日本体育大学の学長であり、日本体操協会の副会長です。
大阪の清風高校から 日体大に進み、1984年のロサンゼルスオリンピックで個人総合と吊り輪で金メダルを獲得しました。。
現役引退後は日体大の教授、監督として内村航平選手ら数多くのオリンピック選手を育て上げました。
2008年の北京オリンピックで体操日本男子の監督を務められましたが、その具志堅さんに当時の北京オリンピックメンバーが決まった直後に行った2008年5月のアンコール放送です。
アテネオリンピックの経験者が2人で後の人は若い選手です。
勢いがあるチームと同時に不安材料もあるという事も事実ですが、合宿などを見ていると非常に勢いもあります。
立派なナショナルトレーニングセンターができてそこで合宿をやっています。
1984年ロサンゼルスオリンピック。
規定演技、自由演技がありました。
最初のあん馬で失敗して個人総合5位からのスタートでした。
緊張してああいう経験は初めてでした。
あん馬が9.90 吊り輪が9.95 跳馬が10.0 平行棒で着地が失敗して9.90
鉄棒9.95 電光表示板が故障して3種目目から消えていた。
ピーター・ビドマー選手と首位を激しく争っていた。
5種目目で0.025上回っていてトップに立つが、電光表示板にはでない。
ピーター・ビドマー選手は最後が鉄棒で先に演技をして9.90でした。
アナウンサーとしては9.875以上で具志堅優勝と言いたかったが言えない状態だったがいってしまった。
床運動は得意ではなかった。
9.8出せればいいだろうとの思いで演技をしました。
最後の後方2回宙返りの着地で足が動いてしまった。
最高で9.8だろうと思いました。
スイスの審判員が10.0 アメリカの審判員が9.9を出しました。
日本の審判が9.8を出しました。
結果、9.9という事になり優勝することができました。
もし電光表示板が作動していたらアメリカの審判は9.9は出さなかったのではないかと思いました。
メキシコのオリンピックを子どものころ見て、おれもこんな風になれるかねと母親に聞いたら、母親が努力すればなれると言ってくれて、私の心に火がついて体操に取り組んでいくが、そういう立場になるとは夢にも思わなかった。
感無量で涙が出てきました。
2度の怪我もあったし、モスクワオリンピックのボイコットもあったし、オリンピックに縁がないまま終わってしまうのかなと一時期思った事ありました。
個人総合金メダル、種目別吊り輪が金、跳馬が銀、団体で銅、鉄棒で銅メダルを獲得。
世界選手権は4回連続出場し、金2個、銀5個、銅4個 全日本優勝が4回。
現役時代は記録にはあまり記憶はなかったです。
メキシコオリンピックで見た加藤沢男選手に憧れて体操を志しました。
小学6年生でメキシコオリンピックをみて中学に入って体操を始めました。
清風高校で高校総体で初優勝しました。(昭和49年)
個人総合優勝しました。
ロサンゼルスオリンピックの体操には6人のうち4人が清風高校出身者でした。
体操はローマ、東京、メキシコ、モントリオールと5連覇、世界選手権でも5連覇の時代でした。
その後日本は苦しい時代を迎える。
練習とは考えることだと思います。
なぜ今の演技はよくなかったのか、次はどうしてみようか、自分の中で組み立てていける選手がうまくなる可能性が高いと思います。
そのためにはいろんな経験が必要だと思います。
真面目さも大事な要素だと思います。
ほかにもいろいろあるが目標を具体的に持つことも大事です。
吊り輪の十字懸垂 静止は1秒だが静止を長く続けた。(観客へのアピール)
桑原昭吉という心の師匠がいまして、体操の生活化という事のテーマを投げるんです。
一流の舞台を見てそこから何を感じるのか一遍考えろという2つのテーマを与えられました。
観衆と一体となってるのが鮮明に浮かびました。
私も体操を通して観衆から拍手をもらえるような選手になりたいと思いました。
吊り輪の十字懸垂で長く止めれば観衆が振り向いてくれるのではないかと思いました。
イメージトレーニングが大事だと思います。
第3者的に自分を見て、試合は練習のつもりで、練習は試合のつもりで、難しいが10年近くかかったが最終的にはできました。
大学3年生の時にムーンサルトの着地で失敗して、腓骨が折れて、足の裏が変転して体操ができないかも判らないというようななけがでした。
手術後3日目にはベッドの上で古い自転車のチューブで引っ張ったり、鉄アレイを持ってきてもらってやったりしました。
腹筋、背筋を鍛えたりして、退院するときには力がついていました。
上半身に筋肉がついて十字懸垂も楽にできました。
怪我をしても、だからあきらめないという事も大事だと思いました。
心理学では「自分が思うような人間に段々になって行く」という言葉があるが、悪いことを思えば悪い方に考えるでしょうし、強くなりたいと思えば強くなるエネルギーが生まれると思います。
具志堅幸司は人一倍体操を強くなりたいと思った選手ではなかったのかなあと思います。
軸は富田で内村が食い込んできて坂本、中瀬、沖口など若いエネルギーを使いながらベテランを刺激しながら、なんとかオリンピック2連覇したいと思っています。
中国は頭一つ出ていますが、自分たちのやれる日本の体操を最後までやり通すという事だと思います。
自分が指導者になってみると、選手時代よりも厳しいと思っています。
2019年7月27日土曜日
倍賞千恵子(女優・歌手) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
倍賞千恵子(女優・歌手女優・歌手) ・【舌の記憶~あの時、あの味】
「男はつらいよ」でさくらを演じてきた倍賞千恵子さんです。
長きにわたって「男はつらいよ」が愛されてきたのは、山田監督は変化球のピッチャー渥美さんを倍賞さんが名キャッチャーとして確実に受け止めたくれたことも大きいとおしゃっています。
倍賞千恵子さんは東京生まれで、少女時代に過ごした茨城での疎開時代が人生のスタートだといいます。
芸能界へはSKD松竹歌劇団からスタートを切り、1961年に松竹映画「斑女」で映画デビュー、歌手デビューは1962年の「下町の太陽」でした。
「さよならはダンスの後に」、「さくら貝の歌」、など数多くのヒット曲があります。
映画は「男はつらいよ」のほかに「家族」や「遥かなる山の呼び声」など170本を超え、今年も5月の下旬には最新作が公開されています。
「男はつらいよ」に息子満男役の吉岡秀隆さんや夫役の前田吟さんとともに20数年ぶりに参加した思いや、演じるにあたって大切にしてきたこと、どんな食べ物が記憶に残っているのか伺いました。
北海道には冬が好きで行くようになりました。
夏にも行くようになって、素敵な北海道です。
「男はつらいよ」が50本目となり今年の暮れに上映公開されます。
23年ぶりとなります。
最初のころはロケで落ち着かなかった。
セットにはいった時に、上がり框が低めになっていて手すりがあり、壁のところに取っ手がついてあったり、ガラッと変わって年代が経ってそうしたのかなと思いました。
寅さんがいないので、ふっと出てきそうに思ったりしました。
どこかにいるのではないかと思ってしまったりします。
映画の中で1/3を「男はつらいよ」で撮っていた訳です。
あの映画の中で社会とか、世間とか、人との関係そういうものを学んだんじゃないかと思っている作品です。
渥美さんは自分が具合が悪くても、相手の立場をいつも考えている方でした。
ステージに入りにくい役者さんと一緒にスタジオに入るという事をずーっとやってきました。
自分が具合悪くてもやってきたという事は相手の立場、思いやりがなければできないことだと思いますが、それを教えてくれたのが渥美さんなのかなと思います。
私の尊敬する人がさくらかもしれません。
1年に1本映画を撮っていく中で、いつもさくらが私の中にいました。
山田さんの作品にでるようになってから、ただ演じるのではなく、本当にその人になるという事を学んでそういう風にしか演じられないという風になっていったんだと思います。
「遥かなる山の呼び声」の時にも牛小屋の掃除をしたり乳しぼりをしたりやってゆくうちに匂いから身についていきました。
食べ物では疎開先を引き上げて東京に戻ってきたときに、学校での弁当で隣の子がお米屋さんで真っ白なお米の上に真っ黒な海苔が乗っていて、とってもうらやましくていつか私も海苔弁を食べるんだという夢がありました。
海苔がとっても好きになりました。
疎開していたころは前が山だったので、キノコ採っておいでといわれて、キノコを採りに行って晩御飯のおつゆになったりおかずになったりしました。
犬と一緒に行ったときにウサギを咥えてきて、埋めたのを父がもったいないといって掘り起こして食べたこともありました。
麦を噛んでいるとガムになるので、又麦を噛んでいるでしょうといわれたりしました。
母がけんちん汁をよく作ってくれましたが、無駄にしませんでした。
人参、大根など葉っぱは捨てなかったし、皮もそのまま使いました。
使い切ることを両親から教わり、無駄にしないという事を基本にしています。
山田さんは後方で自転車で通過する人にまで指導して、舞台の端端まで山田さんは演出をちゃんとなさっています。
一番大事なのはそこに映って人たちがちゃんと生きていないといけないという事です。
疎開先から歌は歌っていました。
学校放送でも歌わされたりしていました。
それがきっかけで小学生の時に姉と一緒にのど自慢に出て私だけ鐘が鳴って、レコード会社から来ませんかといわれてコード会社に入ることになりました。
冬は乾燥するので声を痛めるので、発声練習は風呂場でやります。
車の中では深呼吸、肺活量の練習などをやったりしています。
歳をとって声質は低くなっています。
「男はつらいよ」でさくらを演じてきた倍賞千恵子さんです。
長きにわたって「男はつらいよ」が愛されてきたのは、山田監督は変化球のピッチャー渥美さんを倍賞さんが名キャッチャーとして確実に受け止めたくれたことも大きいとおしゃっています。
倍賞千恵子さんは東京生まれで、少女時代に過ごした茨城での疎開時代が人生のスタートだといいます。
芸能界へはSKD松竹歌劇団からスタートを切り、1961年に松竹映画「斑女」で映画デビュー、歌手デビューは1962年の「下町の太陽」でした。
「さよならはダンスの後に」、「さくら貝の歌」、など数多くのヒット曲があります。
映画は「男はつらいよ」のほかに「家族」や「遥かなる山の呼び声」など170本を超え、今年も5月の下旬には最新作が公開されています。
「男はつらいよ」に息子満男役の吉岡秀隆さんや夫役の前田吟さんとともに20数年ぶりに参加した思いや、演じるにあたって大切にしてきたこと、どんな食べ物が記憶に残っているのか伺いました。
北海道には冬が好きで行くようになりました。
夏にも行くようになって、素敵な北海道です。
「男はつらいよ」が50本目となり今年の暮れに上映公開されます。
23年ぶりとなります。
最初のころはロケで落ち着かなかった。
セットにはいった時に、上がり框が低めになっていて手すりがあり、壁のところに取っ手がついてあったり、ガラッと変わって年代が経ってそうしたのかなと思いました。
寅さんがいないので、ふっと出てきそうに思ったりしました。
どこかにいるのではないかと思ってしまったりします。
映画の中で1/3を「男はつらいよ」で撮っていた訳です。
あの映画の中で社会とか、世間とか、人との関係そういうものを学んだんじゃないかと思っている作品です。
渥美さんは自分が具合が悪くても、相手の立場をいつも考えている方でした。
ステージに入りにくい役者さんと一緒にスタジオに入るという事をずーっとやってきました。
自分が具合悪くてもやってきたという事は相手の立場、思いやりがなければできないことだと思いますが、それを教えてくれたのが渥美さんなのかなと思います。
私の尊敬する人がさくらかもしれません。
1年に1本映画を撮っていく中で、いつもさくらが私の中にいました。
山田さんの作品にでるようになってから、ただ演じるのではなく、本当にその人になるという事を学んでそういう風にしか演じられないという風になっていったんだと思います。
「遥かなる山の呼び声」の時にも牛小屋の掃除をしたり乳しぼりをしたりやってゆくうちに匂いから身についていきました。
食べ物では疎開先を引き上げて東京に戻ってきたときに、学校での弁当で隣の子がお米屋さんで真っ白なお米の上に真っ黒な海苔が乗っていて、とってもうらやましくていつか私も海苔弁を食べるんだという夢がありました。
海苔がとっても好きになりました。
疎開していたころは前が山だったので、キノコ採っておいでといわれて、キノコを採りに行って晩御飯のおつゆになったりおかずになったりしました。
犬と一緒に行ったときにウサギを咥えてきて、埋めたのを父がもったいないといって掘り起こして食べたこともありました。
麦を噛んでいるとガムになるので、又麦を噛んでいるでしょうといわれたりしました。
母がけんちん汁をよく作ってくれましたが、無駄にしませんでした。
人参、大根など葉っぱは捨てなかったし、皮もそのまま使いました。
使い切ることを両親から教わり、無駄にしないという事を基本にしています。
山田さんは後方で自転車で通過する人にまで指導して、舞台の端端まで山田さんは演出をちゃんとなさっています。
一番大事なのはそこに映って人たちがちゃんと生きていないといけないという事です。
疎開先から歌は歌っていました。
学校放送でも歌わされたりしていました。
それがきっかけで小学生の時に姉と一緒にのど自慢に出て私だけ鐘が鳴って、レコード会社から来ませんかといわれてコード会社に入ることになりました。
冬は乾燥するので声を痛めるので、発声練習は風呂場でやります。
車の中では深呼吸、肺活量の練習などをやったりしています。
歳をとって声質は低くなっています。
2019年7月26日金曜日
いせひでこ(画家・絵本作家) ・【人生のみちしるべ】心が立ち止まる時、物語が生まれる(1)
いせひでこ(画家・絵本作家) ・【人生のみちしるべ】心が立ち止まる時、物語が生まれる(1)
1949年北海道札幌市生まれ、今年70歳。
13歳まで北海道で過ごしその後東京へ、東京芸術大学デザイン科を卒業されています。
パリを舞台に手作りの製本をする職人と少女のお話、「ルリユールおじさん」や植物園を舞台にした「大きな木のような人」、「チェロの木」など人気絵本を数多く出版し、受賞歴も多数あります。
今も長野県安曇野市の絵本美術館で原画展を開催中です。
原画展について、北海道で過ごした子供時代から20代でパリに留学した日々、絵を描くことへの思いについて伺いました。
真っ白いものをそばに置いておきたい。
壁も白です。
白いものを見ると手が動くというか、自分の中からのもので埋めたいという性格というか、その延長線上にいると思います。
白ってある意味での恐怖で、自分が埋められるかという恐怖がります。
果たして埋められるものを自分が持っているのかと、問われているような感じがします。
目の前には大きな窓があって、目の前が壁というのも駄目です。
童話作家の文に合わせてたくさんの挿絵を描いていた時期が長くありました。
100%自分の世界ではないので原画展ができない。
自分の絵を子どもたちに観てもらいたいという事があり、絵本を描くようになってからは原画展をやるようになりました。(30年前から始める)
絵本を描きたいと思ったのは、子供のなずけようのないような感情が本の中にしみじみと出ているような本が描けたらと思いました。
23歳の時の自分の作品を持っていることを忘れていました。
松方コレクションの歴史のことは詳しく知りませんでした。
印象派ならパリで出会って物凄くいろんなことを感じて自分の源になっている画家でもある訳です。
週刊誌にカラーで描きました。
マハさん(原田マハ)の小説の挿絵を描いている途中で引っ越しがあり、実家に整理に行ったら40年前の絵がいっぱい出てきて、すごく感動しました。
パリに行く前にそれまでの作品を全部焼いてしまいました。
ゼロからやってみようという思いがあったのかと思います。
真っ白になりたいという事がありました。
日本に帰ってきてその時パステルに夢中でした。
モチーフが目に付くもの全部パステルでやってみようと思いました。
若いってすごいことだと思いました。
ゴッホやモネもこういう思いで描いていたのかなあと思いました。
自分のその時代のが出てきて、これはマハさんのために描いた絵と私の若い時の絵を一緒にすることで何か面白いことができないかなと思って今度の原画展は両方出すことにしました。
絵本作家として3つの要素がつくっていると思います。
①13歳まで北海道で育ったこと。
②13歳からチェロを学んできたこと。
③23歳からパリに行ったこと
5歳のころ保育園で絵本に目覚めました。
いわさきちひろ、初山滋、武井武雄とかが好きでした。(当時は名前は知らなかったが)
紙を見ると絵を描くことが当たり前のこととしてやっていました。
小学校でも同様で白い紙を見ると落ち着きました。
父は銀行に勤めて日曜洋画家でした。
母は音楽が好きでヴァイオリンを習わされました。
北海道ならではの風景は13歳までの自分を作ってくれたと思います。
白とか雪が私の子ども時代を作ったみたいに、13歳でチェロと出会ったことはなくてはならないものでした。
東京でもヴァイオリンを母は習わせたかったが、或る人からヴァイオリンよりもチェロを勧められました。
佐藤良雄先生(パブロ・カザルスに師事)に習うことになりました。
佐藤良雄先生は心から尊敬できました。
チェロに関する絵本は描きました。
34歳の時に、子育ても大変、絵の仕事も大変、生活も大変な時代でチェロの先行きも判らないという時に或る日夢を見て、チェロを持って舞台に立ったら譜面台が真っ白いスケッチブックでした。
当時3時間ぐらいしか寝ていませんでしたので、休めという事だと思いました。
自分で手作りのカザルスへの旅を作って2週間の旅をしました。(精神の解放)
そこでそのまま歩きなさいと肯定されているような感覚になりました。
旅から帰り同じ忙しさに戻ってゆくが、全然苦ではなくなりました。
母は芸術家気質な母で文学、音楽もこれをやりなさいというようなタイプの母でした。
感動するが感動する言葉を母に奪われてしまっていた。
パリに行ったことは母から離れたという事も大きかった。
いつも母が大学の行事などにもついてきていました。
自分はないんだなという卒業の仕方をしました。
アンデルセンの雪の女王だけはすごく自分の納得の行く絵本ができたので、それだけは大事にとってありますが、それ以外は全部焼き捨てることにしました。
一人になりたいと思って、2週間のフランスの旅を見つけて申し込んで出かけて、結局帰りませんでした。
本当に自由を感じました。
1949年北海道札幌市生まれ、今年70歳。
13歳まで北海道で過ごしその後東京へ、東京芸術大学デザイン科を卒業されています。
パリを舞台に手作りの製本をする職人と少女のお話、「ルリユールおじさん」や植物園を舞台にした「大きな木のような人」、「チェロの木」など人気絵本を数多く出版し、受賞歴も多数あります。
今も長野県安曇野市の絵本美術館で原画展を開催中です。
原画展について、北海道で過ごした子供時代から20代でパリに留学した日々、絵を描くことへの思いについて伺いました。
真っ白いものをそばに置いておきたい。
壁も白です。
白いものを見ると手が動くというか、自分の中からのもので埋めたいという性格というか、その延長線上にいると思います。
白ってある意味での恐怖で、自分が埋められるかという恐怖がります。
果たして埋められるものを自分が持っているのかと、問われているような感じがします。
目の前には大きな窓があって、目の前が壁というのも駄目です。
童話作家の文に合わせてたくさんの挿絵を描いていた時期が長くありました。
100%自分の世界ではないので原画展ができない。
自分の絵を子どもたちに観てもらいたいという事があり、絵本を描くようになってからは原画展をやるようになりました。(30年前から始める)
絵本を描きたいと思ったのは、子供のなずけようのないような感情が本の中にしみじみと出ているような本が描けたらと思いました。
23歳の時の自分の作品を持っていることを忘れていました。
松方コレクションの歴史のことは詳しく知りませんでした。
印象派ならパリで出会って物凄くいろんなことを感じて自分の源になっている画家でもある訳です。
週刊誌にカラーで描きました。
マハさん(原田マハ)の小説の挿絵を描いている途中で引っ越しがあり、実家に整理に行ったら40年前の絵がいっぱい出てきて、すごく感動しました。
パリに行く前にそれまでの作品を全部焼いてしまいました。
ゼロからやってみようという思いがあったのかと思います。
真っ白になりたいという事がありました。
日本に帰ってきてその時パステルに夢中でした。
モチーフが目に付くもの全部パステルでやってみようと思いました。
若いってすごいことだと思いました。
ゴッホやモネもこういう思いで描いていたのかなあと思いました。
自分のその時代のが出てきて、これはマハさんのために描いた絵と私の若い時の絵を一緒にすることで何か面白いことができないかなと思って今度の原画展は両方出すことにしました。
絵本作家として3つの要素がつくっていると思います。
①13歳まで北海道で育ったこと。
②13歳からチェロを学んできたこと。
③23歳からパリに行ったこと
5歳のころ保育園で絵本に目覚めました。
いわさきちひろ、初山滋、武井武雄とかが好きでした。(当時は名前は知らなかったが)
紙を見ると絵を描くことが当たり前のこととしてやっていました。
小学校でも同様で白い紙を見ると落ち着きました。
父は銀行に勤めて日曜洋画家でした。
母は音楽が好きでヴァイオリンを習わされました。
北海道ならではの風景は13歳までの自分を作ってくれたと思います。
白とか雪が私の子ども時代を作ったみたいに、13歳でチェロと出会ったことはなくてはならないものでした。
東京でもヴァイオリンを母は習わせたかったが、或る人からヴァイオリンよりもチェロを勧められました。
佐藤良雄先生(パブロ・カザルスに師事)に習うことになりました。
佐藤良雄先生は心から尊敬できました。
チェロに関する絵本は描きました。
34歳の時に、子育ても大変、絵の仕事も大変、生活も大変な時代でチェロの先行きも判らないという時に或る日夢を見て、チェロを持って舞台に立ったら譜面台が真っ白いスケッチブックでした。
当時3時間ぐらいしか寝ていませんでしたので、休めという事だと思いました。
自分で手作りのカザルスへの旅を作って2週間の旅をしました。(精神の解放)
そこでそのまま歩きなさいと肯定されているような感覚になりました。
旅から帰り同じ忙しさに戻ってゆくが、全然苦ではなくなりました。
母は芸術家気質な母で文学、音楽もこれをやりなさいというようなタイプの母でした。
感動するが感動する言葉を母に奪われてしまっていた。
パリに行ったことは母から離れたという事も大きかった。
いつも母が大学の行事などにもついてきていました。
自分はないんだなという卒業の仕方をしました。
アンデルセンの雪の女王だけはすごく自分の納得の行く絵本ができたので、それだけは大事にとってありますが、それ以外は全部焼き捨てることにしました。
一人になりたいと思って、2週間のフランスの旅を見つけて申し込んで出かけて、結局帰りませんでした。
本当に自由を感じました。
2019年7月25日木曜日
山口仲美(埼玉大学名誉教授・国語学者) ・【私のアート交遊録】古典が教えてくれた生きるチカラ
山口仲美(埼玉大学名誉教授・国語学者) ・【私のアート交遊録】古典が教えてくれた生きるチカラ
1943年静岡県生まれ、古典の文体,擬音語、擬態語研究の第一人者として知られ、2008年には日本語学研究で紫綬褒章を受章、古典に潜む日本人の生きるうえでの知恵を判り易く語り多くのファンがいます。
中でも山口さんが引かれているのが「今昔物語」です。
大腸がんやすい臓がんを経験した時にも「今昔物語」に描かれていた人々から元気をもらっていたといいます。
その経験をもとに書いた「大学教授がガンになってわかったこと」では同じような病気に苦しむ人たちを勇気付けてきました。
現在も山口仲美著作集の刊行に向けて、精力的に活動を続けています。
人生100年時代に生きる私たちが、古典文文学に息づく人々の力強い生き方から学ぶべきこととは何か、人生を古典とともに歩んできたという山口さんに伺いました。
大腸がん、すい臓が という二つをやってしまいました。
5年たつと生存率は高くなるが、油断するといけないと思って用心しています。
日常生活は食べ物、運動を適当にするといったことに気を付けています。
生きがいを模索する。
今昔物語集の中の増賀上人というお坊さんの生き方が好きで、亡くなる前に弟子達に碁盤を持ってこいと言って10番勝負をして、やりたいと思っていたのであー満足したといって、次にあおり(馬具の一つ。鐙(あぶみ)と馬のわき腹との間に下げた、かわ製のどろよけ。)を持ってこいと言って、それを身に付けて踊って、若いころやりたいと思っていたといって、全部やりたいことをやって亡くなるわけです。
そんな生き方が大好きなんです。
大腸がんになって4年たってすい臓がんになり、自分のことを振り返って馬鹿だと思いました。
馬鹿な患者の体験「大学教授がガンになってわかったこと」を書けば賢い患者になってくれるのではないかと思いました。
早期発見しましたという便りをいくつかいただきました。
今昔物語集の中に1040ぐらいの説話があります。
長良川は氾濫して、少年が流されたが、木の葉をつかむ。
翌日水が引いて、少年は助かったと思ったら、崖のてっぺんから横に突き出ている大木の先端に乗っていたんです。
村人たちが少年を見つけたがなすすべもなかった。
少年は「このままいたらおっこちゃうよ、どうせ死ぬならやってみる、みんな網を集めて僕を受け止めて」といったんです。
飛び降りたら途中で気絶するが運よく網の上に落ちて、九死に一生を得たという話がありますが、この少年の「どうせ死ぬならやってみるというチャレンジ精神」が大好きなんです。
女性のくよくよ悩んでないで行動力のたくましさを感じさせる話があります。
浮気好きの夫がいて、奥さんは若い、奥さんはきれいに着飾って外出した。
笠をかぶっていて顔は見えない、夫が彼女を口説く、事実かどうか確認するそういう行動力のたくましさを教えてくれる。
夫はペコペコして謝って仲良く過ごすが、まだ落ちがついていて、旦那さんがなくなると奥さんは女盛りになって再婚したという話です。
浮気を事実かどうか自分で確認する、つつがなく生きる、次のチャンスがあったらそれにもしっかり乗る、現実にたくましく生きている。
こういったものも好きです。
たくましい女の生き方の話がいっぱいあります。
一人で生きるという覚悟ができている。
夫婦の信じあう力という話もあります。
中国の話で、中国では石の卒塔婆を作る。
石匠に王様が発注して立派な卒塔婆を見て、よその国に行っても立派なものを作るに違いないと思って、石匠を殺してしまおうとするが、卒塔婆の上にいるときに石匠は足場を崩してしまう。
石匠は降りられないが、妻は絶対いい知恵を出すに違いないと思って、服をといで糸にして糸を降ろした。
妻は夫は犬死するわけはないと思って、その糸を見つける。
妻は家に帰って大小のいろんな縄を持って、糸の先にもうちょっと太い縄を付けて夫に引き上げろと伝える。
夫は引き上げ、徐々に太い縄を上げてゆき、最後は人が伝わって降りられるような縄を伝って降りてその国から夫婦は逃げ出した。
信頼感に結ばれた夫婦の姿がある。
命よりも大切なものはないというそういう行動をします、庶民の世界、それが今昔の世界です。(1100年ごろの武士が台頭してくる前の世界)
貴族のみやびやかな生活が行き詰って次の力が台頭してくる、その先取りの時代です。
命があればいいじゃないか、というその考えが根幹にあるので知恵を絞って生き延びようとする、それが現代人に物凄く勇気を与えてくれる。
源氏物語をコミュニケーション論から見るという研究をした事があります。
当時の男女は現代の男女よりもっとコミュニケーション力があった。
男が現代よりもコミュニケーション力が優れていた。
一夫多妻制なので一人の男が複数の女性をリードしていかなければいけないので、コミュニケーション力がないと女性たちを統率できない。
まめなコミュニケーションを持っている。
会話のイニシアティブをとっているのは男性で、93%は男性から発話している。
女性は円滑なコミュニケーションを持っている。
女性が拒絶する仕方もなだめながらトラブルがないような拒絶の仕方をする。
女性には経済基盤があった時代でした。
女性に経済力がなくなって男性は別の女性のところに向かおうとするが、「どうぞそちらに行って」という、男性は新しい男ができたのではないかと疑がって見張るが、嫉妬心をジーっと抑え込んでいる女性をみて、仲が戻るという話、これは耐える力だと思います。
耐える力も生きるうえで必要ではないかと思います。
冷や汗をかく、というのも陳腐な言い方で今昔では「歯から汗出ず」と言ったりします。
「足の向きたらんかたに行く」 気の向くままというのではなくて。
ほかにもたくさんあります。
言葉が生きているという感じです。
擬音語、擬態語に凝っています。
「おべんちゃら」 弁舌の弁、弁がちゃらちゃらしているわけです。
最初は江戸時代だど「弁ちゃら」、明治では「おべんちゃら」になる。
つまみの「はたはた」 日本海側では11月下旬ごろからたくさん獲れるが、そのころは雷が鳴るが、室町時代には雷の音を「はたはた」と言っていた。
雷様をはたはた神と言っていた。
雷が鳴るころに獲れる魚だから「はたはた」と言っていました。
枕草子はエッセーだが、そうではなくて、マナー集とした読み方もあります。
「にくきもの」、忙しいのに長居をする人も「にくきもの」、せっかく夜来た男性が帰りそびれた人(当時は顔が見られる時期になると帰ってはいけない)を匿っているのにそこでいびきをかいてしまうもの、それも「にくきもの」です。
今昔は元気をもらえるし、表現が面白い。
下ネタも誠にうまくいやらしくなく描かれている。
今昔の作者は判っていません。
多分お寺のお坊さんではないかといわれています。(諸説あります)
巻28当たりから世俗説話の面白い話が満載です。
古典は短編から読んだ方がいいと思います。
命に勝るものはない、という考えが現代人に必要な気がします。
そうするといろんなことが許せるし、可能性が広がっていくと思います。
山口仲美著作集8巻を執筆中で巻4まで来ています。
いろんなことをやってうまい下手はどうでもよくて、楽しければいいという生き方をしてみることが100歳まで生きるコツだと思います。
1943年静岡県生まれ、古典の文体,擬音語、擬態語研究の第一人者として知られ、2008年には日本語学研究で紫綬褒章を受章、古典に潜む日本人の生きるうえでの知恵を判り易く語り多くのファンがいます。
中でも山口さんが引かれているのが「今昔物語」です。
大腸がんやすい臓がんを経験した時にも「今昔物語」に描かれていた人々から元気をもらっていたといいます。
その経験をもとに書いた「大学教授がガンになってわかったこと」では同じような病気に苦しむ人たちを勇気付けてきました。
現在も山口仲美著作集の刊行に向けて、精力的に活動を続けています。
人生100年時代に生きる私たちが、古典文文学に息づく人々の力強い生き方から学ぶべきこととは何か、人生を古典とともに歩んできたという山口さんに伺いました。
大腸がん、すい臓が という二つをやってしまいました。
5年たつと生存率は高くなるが、油断するといけないと思って用心しています。
日常生活は食べ物、運動を適当にするといったことに気を付けています。
生きがいを模索する。
今昔物語集の中の増賀上人というお坊さんの生き方が好きで、亡くなる前に弟子達に碁盤を持ってこいと言って10番勝負をして、やりたいと思っていたのであー満足したといって、次にあおり(馬具の一つ。鐙(あぶみ)と馬のわき腹との間に下げた、かわ製のどろよけ。)を持ってこいと言って、それを身に付けて踊って、若いころやりたいと思っていたといって、全部やりたいことをやって亡くなるわけです。
そんな生き方が大好きなんです。
大腸がんになって4年たってすい臓がんになり、自分のことを振り返って馬鹿だと思いました。
馬鹿な患者の体験「大学教授がガンになってわかったこと」を書けば賢い患者になってくれるのではないかと思いました。
早期発見しましたという便りをいくつかいただきました。
今昔物語集の中に1040ぐらいの説話があります。
長良川は氾濫して、少年が流されたが、木の葉をつかむ。
翌日水が引いて、少年は助かったと思ったら、崖のてっぺんから横に突き出ている大木の先端に乗っていたんです。
村人たちが少年を見つけたがなすすべもなかった。
少年は「このままいたらおっこちゃうよ、どうせ死ぬならやってみる、みんな網を集めて僕を受け止めて」といったんです。
飛び降りたら途中で気絶するが運よく網の上に落ちて、九死に一生を得たという話がありますが、この少年の「どうせ死ぬならやってみるというチャレンジ精神」が大好きなんです。
女性のくよくよ悩んでないで行動力のたくましさを感じさせる話があります。
浮気好きの夫がいて、奥さんは若い、奥さんはきれいに着飾って外出した。
笠をかぶっていて顔は見えない、夫が彼女を口説く、事実かどうか確認するそういう行動力のたくましさを教えてくれる。
夫はペコペコして謝って仲良く過ごすが、まだ落ちがついていて、旦那さんがなくなると奥さんは女盛りになって再婚したという話です。
浮気を事実かどうか自分で確認する、つつがなく生きる、次のチャンスがあったらそれにもしっかり乗る、現実にたくましく生きている。
こういったものも好きです。
たくましい女の生き方の話がいっぱいあります。
一人で生きるという覚悟ができている。
夫婦の信じあう力という話もあります。
中国の話で、中国では石の卒塔婆を作る。
石匠に王様が発注して立派な卒塔婆を見て、よその国に行っても立派なものを作るに違いないと思って、石匠を殺してしまおうとするが、卒塔婆の上にいるときに石匠は足場を崩してしまう。
石匠は降りられないが、妻は絶対いい知恵を出すに違いないと思って、服をといで糸にして糸を降ろした。
妻は夫は犬死するわけはないと思って、その糸を見つける。
妻は家に帰って大小のいろんな縄を持って、糸の先にもうちょっと太い縄を付けて夫に引き上げろと伝える。
夫は引き上げ、徐々に太い縄を上げてゆき、最後は人が伝わって降りられるような縄を伝って降りてその国から夫婦は逃げ出した。
信頼感に結ばれた夫婦の姿がある。
命よりも大切なものはないというそういう行動をします、庶民の世界、それが今昔の世界です。(1100年ごろの武士が台頭してくる前の世界)
貴族のみやびやかな生活が行き詰って次の力が台頭してくる、その先取りの時代です。
命があればいいじゃないか、というその考えが根幹にあるので知恵を絞って生き延びようとする、それが現代人に物凄く勇気を与えてくれる。
源氏物語をコミュニケーション論から見るという研究をした事があります。
当時の男女は現代の男女よりもっとコミュニケーション力があった。
男が現代よりもコミュニケーション力が優れていた。
一夫多妻制なので一人の男が複数の女性をリードしていかなければいけないので、コミュニケーション力がないと女性たちを統率できない。
まめなコミュニケーションを持っている。
会話のイニシアティブをとっているのは男性で、93%は男性から発話している。
女性は円滑なコミュニケーションを持っている。
女性が拒絶する仕方もなだめながらトラブルがないような拒絶の仕方をする。
女性には経済基盤があった時代でした。
女性に経済力がなくなって男性は別の女性のところに向かおうとするが、「どうぞそちらに行って」という、男性は新しい男ができたのではないかと疑がって見張るが、嫉妬心をジーっと抑え込んでいる女性をみて、仲が戻るという話、これは耐える力だと思います。
耐える力も生きるうえで必要ではないかと思います。
冷や汗をかく、というのも陳腐な言い方で今昔では「歯から汗出ず」と言ったりします。
「足の向きたらんかたに行く」 気の向くままというのではなくて。
ほかにもたくさんあります。
言葉が生きているという感じです。
擬音語、擬態語に凝っています。
「おべんちゃら」 弁舌の弁、弁がちゃらちゃらしているわけです。
最初は江戸時代だど「弁ちゃら」、明治では「おべんちゃら」になる。
つまみの「はたはた」 日本海側では11月下旬ごろからたくさん獲れるが、そのころは雷が鳴るが、室町時代には雷の音を「はたはた」と言っていた。
雷様をはたはた神と言っていた。
雷が鳴るころに獲れる魚だから「はたはた」と言っていました。
枕草子はエッセーだが、そうではなくて、マナー集とした読み方もあります。
「にくきもの」、忙しいのに長居をする人も「にくきもの」、せっかく夜来た男性が帰りそびれた人(当時は顔が見られる時期になると帰ってはいけない)を匿っているのにそこでいびきをかいてしまうもの、それも「にくきもの」です。
今昔は元気をもらえるし、表現が面白い。
下ネタも誠にうまくいやらしくなく描かれている。
今昔の作者は判っていません。
多分お寺のお坊さんではないかといわれています。(諸説あります)
巻28当たりから世俗説話の面白い話が満載です。
古典は短編から読んだ方がいいと思います。
命に勝るものはない、という考えが現代人に必要な気がします。
そうするといろんなことが許せるし、可能性が広がっていくと思います。
山口仲美著作集8巻を執筆中で巻4まで来ています。
いろんなことをやってうまい下手はどうでもよくて、楽しければいいという生き方をしてみることが100歳まで生きるコツだと思います。
2019年7月24日水曜日
平賀大蔵(鳥羽市立海の博物館館長) ・【心に花を咲かせて】もっと知ってほしい海のこと
平賀大蔵(鳥羽市立海の博物館館長・【心に花を咲かせて】もっと知ってほしい海のこと
海は魚や貝や海藻など様々な恵みを与えてくれて、日本人の生活にも大きな影響を与えてきました。
特に三重県は多様な海があって、海と人との関わりが直結した地域だという事です。
その三重県にあります鳥羽市立海の博物館は、様々な建築の受賞したおしゃれな建物でその中に船、漁具、魚や貝など海にまつわる様々なものが展示されていて、立体的な展示に子供たちは目を輝かせていました。
館長の平賀さんは地元で生まれて鳥羽の海のそばで暮らしてきた方です。
海に関する資料や情報を集めることを熱心に取り組まれ、それらを工夫して展示するだけでなく海を守る活動もしています。
海を通して平賀さんが伝えたいことを語っていただきます。
海をテーマに全面的に取り組んでいるのはここだけだと思います。
50年近くになります。(昭和46年に鳥羽市内に博物館がありました)
文化庁から国の重要有形民俗文化財に指定しないかという話があり、古い漁具、船を作る道具とか6879点が国の重要有形民俗文化財に指定されました。
ずーっと残さないといけないという事と、津波が来ても大丈夫という事で、現在の場所に移ってきました。
海岸線が三重県だけで1080kmあります。
伊勢湾に面しているところもあり、又黒潮が流れています。
リアス式の海岸があり海が変化に富んでいて、海にいる生き物が多種多様になってくる。
海の生き物をとるのにいろんな道具、方法を考えて捕まえて食べてきた。
漁村が140ぐらいあります。
養殖も盛んで真珠、あおさなどが多いです。
海にも四季があります。
沿岸の浅い海は皆さんが考えている以上に、いろんな生き物が生まれて育つ場所です。
三重ではアオリイカのことを藻イカと呼んでいます。
海藻が生えている膝よりも浅いところの海藻に卵を産みに来ます。
身近なところでたくさんの魚など育っていきます。
干潮、満潮で2mの差があります、その部分にいろんな生き物がいます。
岩場などの藻が生えているところを含めて藻場と呼んでいます。
卵は藻に引っ付いています。
海藻は大きな魚からの逃げ場所にもなっています。
日本各地で藻場が少なくなってきています。
海藻を食べてそこには身の入っていないウニなどが住みつきます。
藻場が少なくなってきた原因としては、高水温、水質の汚れ、ウニなど影響、海藻類の取りすぎなどがあります。
藻類が生える条件としては根が付く基盤がないとだめ、太陽の光を通す綺麗な海水、栄養が必要です。
いろんな生き物が共存しているのが豊かな海だと思っています。
「山は海の恋人」といわれますが、山から栄養が海に注いで海の生き物をはぐくむ。
生き物自体の種類が少なくなってきていることが大変なことだと思っています。
650人ぐらい海女さんがいますが、50年前には6000人を超える海女さんがいました。
アワビは三重県で1年で一番採れた時には700トンぐらいでしたが、今は50トンぐらいになってしまいました。
アワビは初夏から夏、サザエも採って、冬はナマコ、春はワカメ、ヒジキ、天草などいろいろ獲ります。
26地区あるが、地区によって決まりがあります。
6日しかアワビがとれない地区もあり、時間まで決まっていて、採れる大きさ(10,5cm以上)も決まっていて、資源を守っています。
アワビは10月から11月に産卵します。
伊勢海老は夏の間はとってはいけない。(卵を持っているとき)
先人たちのおかげでおいしいものを食べられる訳です。
魚市場には200種類ぐらい上がります。
サンマはほとんど少なりましたが、50、60年前はとっていました。
「サンマ」は生、「サイラ」は干物になったものを言います。
ボラは伊勢鯉といいます。
小さいボラは「おぼこ鯉」、もう少し大きくなると「すばしり」(すばしっこい)といいます。
二年目のボラを「青二才」といいます、青=若いという事です。
「いなせ」、「いな」という成長段階があり、それを背中から見た形の髷を昔結ったことから「いなせ」という言葉が出ています。
「とどのつまり」とは「とど」でボラは成長しないという事で「とどのつまり」といいます。
ボラは人間の生活環境の海とか川で育っています。
昭和30年代から汽水域が汚れて、ボラなどが臭い魚になって売れなくなってしまった。
ボラをとる漁具がいらなくなり、それが展示されています。
ボラの道具だけで1000点では利かないです。
昔は釣り針、釣り糸など全部手つくりでした、テグスは大きな毛虫から作ります。
50年前までは木の船しかありませんでした。
焼かれる資料の一歩手前だったものが結構あります。
修学旅行で年間5000人前後の子どもたちが来てくれるので、海とのかかわりを伝えようとしています。
海の恵みのことをよく話しています。
60年前のデータと比較すると、アマモの海藻は1/100になってしまいました。
アマモを増やそうという活動をしています。
膝ぐらいのところで子どもたちに獲ってもらうと30、40種類の魚などが獲れて、それを観察してもらいます。
そして1/100になってしまった理由などを話して、子供たちにアマモ場を広げてゆく活動に参加してもらったりしています。
海岸を埋め立ててコンクリートで固めてしまうと、海と人間のかかわりができなくなってしまう、自然の海岸、砂浜は人間とのかかわりを持ち、海のことをいろいろ勉強させてもらえます。
海は魚や貝や海藻など様々な恵みを与えてくれて、日本人の生活にも大きな影響を与えてきました。
特に三重県は多様な海があって、海と人との関わりが直結した地域だという事です。
その三重県にあります鳥羽市立海の博物館は、様々な建築の受賞したおしゃれな建物でその中に船、漁具、魚や貝など海にまつわる様々なものが展示されていて、立体的な展示に子供たちは目を輝かせていました。
館長の平賀さんは地元で生まれて鳥羽の海のそばで暮らしてきた方です。
海に関する資料や情報を集めることを熱心に取り組まれ、それらを工夫して展示するだけでなく海を守る活動もしています。
海を通して平賀さんが伝えたいことを語っていただきます。
海をテーマに全面的に取り組んでいるのはここだけだと思います。
50年近くになります。(昭和46年に鳥羽市内に博物館がありました)
文化庁から国の重要有形民俗文化財に指定しないかという話があり、古い漁具、船を作る道具とか6879点が国の重要有形民俗文化財に指定されました。
ずーっと残さないといけないという事と、津波が来ても大丈夫という事で、現在の場所に移ってきました。
海岸線が三重県だけで1080kmあります。
伊勢湾に面しているところもあり、又黒潮が流れています。
リアス式の海岸があり海が変化に富んでいて、海にいる生き物が多種多様になってくる。
海の生き物をとるのにいろんな道具、方法を考えて捕まえて食べてきた。
漁村が140ぐらいあります。
養殖も盛んで真珠、あおさなどが多いです。
海にも四季があります。
沿岸の浅い海は皆さんが考えている以上に、いろんな生き物が生まれて育つ場所です。
三重ではアオリイカのことを藻イカと呼んでいます。
海藻が生えている膝よりも浅いところの海藻に卵を産みに来ます。
身近なところでたくさんの魚など育っていきます。
干潮、満潮で2mの差があります、その部分にいろんな生き物がいます。
岩場などの藻が生えているところを含めて藻場と呼んでいます。
卵は藻に引っ付いています。
海藻は大きな魚からの逃げ場所にもなっています。
日本各地で藻場が少なくなってきています。
海藻を食べてそこには身の入っていないウニなどが住みつきます。
藻場が少なくなってきた原因としては、高水温、水質の汚れ、ウニなど影響、海藻類の取りすぎなどがあります。
藻類が生える条件としては根が付く基盤がないとだめ、太陽の光を通す綺麗な海水、栄養が必要です。
いろんな生き物が共存しているのが豊かな海だと思っています。
「山は海の恋人」といわれますが、山から栄養が海に注いで海の生き物をはぐくむ。
生き物自体の種類が少なくなってきていることが大変なことだと思っています。
650人ぐらい海女さんがいますが、50年前には6000人を超える海女さんがいました。
アワビは三重県で1年で一番採れた時には700トンぐらいでしたが、今は50トンぐらいになってしまいました。
アワビは初夏から夏、サザエも採って、冬はナマコ、春はワカメ、ヒジキ、天草などいろいろ獲ります。
26地区あるが、地区によって決まりがあります。
6日しかアワビがとれない地区もあり、時間まで決まっていて、採れる大きさ(10,5cm以上)も決まっていて、資源を守っています。
アワビは10月から11月に産卵します。
伊勢海老は夏の間はとってはいけない。(卵を持っているとき)
先人たちのおかげでおいしいものを食べられる訳です。
魚市場には200種類ぐらい上がります。
サンマはほとんど少なりましたが、50、60年前はとっていました。
「サンマ」は生、「サイラ」は干物になったものを言います。
ボラは伊勢鯉といいます。
小さいボラは「おぼこ鯉」、もう少し大きくなると「すばしり」(すばしっこい)といいます。
二年目のボラを「青二才」といいます、青=若いという事です。
「いなせ」、「いな」という成長段階があり、それを背中から見た形の髷を昔結ったことから「いなせ」という言葉が出ています。
「とどのつまり」とは「とど」でボラは成長しないという事で「とどのつまり」といいます。
ボラは人間の生活環境の海とか川で育っています。
昭和30年代から汽水域が汚れて、ボラなどが臭い魚になって売れなくなってしまった。
ボラをとる漁具がいらなくなり、それが展示されています。
ボラの道具だけで1000点では利かないです。
昔は釣り針、釣り糸など全部手つくりでした、テグスは大きな毛虫から作ります。
50年前までは木の船しかありませんでした。
焼かれる資料の一歩手前だったものが結構あります。
修学旅行で年間5000人前後の子どもたちが来てくれるので、海とのかかわりを伝えようとしています。
海の恵みのことをよく話しています。
60年前のデータと比較すると、アマモの海藻は1/100になってしまいました。
アマモを増やそうという活動をしています。
膝ぐらいのところで子どもたちに獲ってもらうと30、40種類の魚などが獲れて、それを観察してもらいます。
そして1/100になってしまった理由などを話して、子供たちにアマモ場を広げてゆく活動に参加してもらったりしています。
海岸を埋め立ててコンクリートで固めてしまうと、海と人間のかかわりができなくなってしまう、自然の海岸、砂浜は人間とのかかわりを持ち、海のことをいろいろ勉強させてもらえます。
2019年7月23日火曜日
十五代沈壽官(陶芸家陶芸家) ・薩摩焼400年の伝統とともに生きる
十五代沈壽官(陶芸家陶芸家) ・薩摩焼400年の伝統とともに生きる
薩摩焼は鹿児島に400年以上前から伝わる焼き物で、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際、薩摩家当主の島津 義弘が朝鮮半島から陶工たちを連れ帰ったことから始まります。
十五代沈壽官さんは本名大迫一輝さん1959年薩摩半島の中西部日置市東市来町美山に
15代続く窯元の家に生まれました。
1999年に沈壽官の名跡を襲名して、今年で20年、来月8月には還暦を迎えます。
先月お父様である14代を亡くされました。
400年の伝統を背負い生きること、先代への思いなどを伺いました。
父はいろんな意味で大きな存在でした。
昭和36年から当時父が34歳だった父が始めた「谷間の子らを救う会」がありました。
子どもの教育が均等に受けられないという事に父は憤りを感じました。
美山小学校ができ、PTAが次々に賛同して最後は鹿児島県庁に座り込みまで行い、2学年合わせて15人という水準の先鞭をつけました。
父はその中心人物でした。
1998年が私たちの先祖が当時の朝鮮から日本にわたってきて400年。
13代からの遺言があって、地震火災から古い作品を守るための美術館をつくる事、400年の節目を盛大に祝ってほしいとのことで父はそれを父は見事にやり遂げました。
それが終わったのが1998年11月30日でした。
その後襲名の話がありました。(父が73歳の時)
1999年1月15日に襲名しましたが、それはその前には他言してはいけないといわれていました。
職人さんたちの給料を間違いなく払って工房を維持してはいけないという事で無我夢中でやってきました。
職人が辞めていったりするので、失われた技術を取り返すこと、若い職人を育てるという事も同時にやっていかなければいけない。
目指してきた方向でキーワードが二つあって、ローカルであるという事と、アナログという事です。
鹿児島の風土がはぐくんできたもの、小さなオーダーにもこたえていかなくてはいけない。
世界の一流品といわれるものはローカルと、アナログという事です。
大学は早稲田の教育学部で地理歴史学でした。
音楽が好きで音楽を一生懸命やっていました。
聞くのが好きでソウルミュージックのサークルを作りました。
父の助言で京都に修行に行きました。
焼き物への適性があるのかなあと決めかねていましたが、15年頑張ってみるように言われました。
その後イタリアの国立美術陶芸科で学びました。
母親から容器を作ってほしいといわれて、考え始めたが、今までのいいとこどりなのではと考え始めたら疑心暗鬼になり作れなくなってしまっていた。
自分をがんじがらめにしているのではないかと思って、逃れるようにイタリアに行きました。
経験知識は生徒15人の中では一番あったと思うが、先生からデザインははじかれてしまい、そういったことが約1年間続きました。
1年ぐらいで日本に帰ろうと思いましたが、ある時に京都の色絵の先生で富本 憲吉先生が「模様から模様は作らず」という言葉がふっと思い浮かんで、何かを見てその人が感じたこと、それを感じたという輪郭のない自分の意志、発想を形にする可視化させたものが模様で、一つの模様は作者のいろいろなインプレッションが込められている。
模様だけをいじくりまわしてももはや模様ではないという事だと思いました。
自分にとっての模様であって、僕の線も色もなくそれで教授ははじいていたのではないかと思いました。
その晩20枚ぐらい書き上げて持っていきましたら、先生はブラボーと言ってくれました。
日本ではいったん職人を機械にしてしまうが全く逆でした。
イタリアには2年いました。
内面的なものを可視化させるのが「表現「」だと思いました。
意志を持つという事は大切だとイタリアで学びました。
韓国にも行きました。
大学院に入って、韓国語を学び、社会を学び陶芸のネットワークを作っていくのが父の思いであったと思いました。
いろんなことがあって日本人とは、民族とは何なんだろうという思いがありました。
日本にいれば朝鮮人といわれるし、向こうへ行けば400年の垢を洗い流せと言われて困ったなあと思いました。
大学に行くことはやめてキムチのかめを作る工場で働くことに決めました。
住み込みで働きましたが仕事はきつかったですが、貴重な経験でした。
司馬遼太郎先生に手紙を書いたことがありました。
民族というのは粗末なものです、文化の共有個体に過ぎず種族ではありません。
面差しは違う、面差しは風土によって作れる、大切なことはトランスする力だというんです。
ネーションといったものをトランスするという事が、今の日本人に一番大切なことなんだと、その場合日本人のアイデンティティーをしっかり持たなければいけない、その上で他国の心が判る日本人にならないといけないと書いてありました。
最後に小生も年少のころから、自らを一個の人類に仕立て上げることをしてきました、と書いてありました。
その手紙を読んだことによって、それがこれからの自分を縛るものではないという事は思いました。
伝承をきちっと守らないと革新は生まれてこないと思います。
400年祭は素晴らしかったです。
一番最初に我が家に伝わっている茶碗に「火ばかり茶碗」というのがあります。
秀吉の朝鮮出兵で多くの陶工たちが日本に連行されてきて、萩焼、有田焼など西の方はほとんどそうですが、土もうわぐすりも陶工も朝鮮だが火ばかりは日本のものだった。
逆に土もうわぐすりも陶工も日本で火だけを持ってこようという企画が持ちあがりました。
火は聖なるものなので、韓国の長老たちが火まで渡すのかという事を言うんです。
これは日本の若者と韓国の若者との未来に向けての話なんだといって了解してもらいました。
400年来の私たちの玉山神社に納めて、今でも灯っています。
同じ火で両方のものを焼こうという事にもなりました。
職人さんに給料を払うことで色々やってきたが、これだけは絶対にというものが見えてくると、そこを掘り下げてみたいと思うようになりました。
大事なのは原料と技術ですね。
薩摩焼の究極のありようを追っかけていきたい。
父に「一人前になるという事はどういうことか」と聞いたら「一人ぼっちになっても寂しがらない男になることだ」といわれました。
薩摩焼は鹿児島に400年以上前から伝わる焼き物で、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際、薩摩家当主の島津 義弘が朝鮮半島から陶工たちを連れ帰ったことから始まります。
十五代沈壽官さんは本名大迫一輝さん1959年薩摩半島の中西部日置市東市来町美山に
15代続く窯元の家に生まれました。
1999年に沈壽官の名跡を襲名して、今年で20年、来月8月には還暦を迎えます。
先月お父様である14代を亡くされました。
400年の伝統を背負い生きること、先代への思いなどを伺いました。
父はいろんな意味で大きな存在でした。
昭和36年から当時父が34歳だった父が始めた「谷間の子らを救う会」がありました。
子どもの教育が均等に受けられないという事に父は憤りを感じました。
美山小学校ができ、PTAが次々に賛同して最後は鹿児島県庁に座り込みまで行い、2学年合わせて15人という水準の先鞭をつけました。
父はその中心人物でした。
1998年が私たちの先祖が当時の朝鮮から日本にわたってきて400年。
13代からの遺言があって、地震火災から古い作品を守るための美術館をつくる事、400年の節目を盛大に祝ってほしいとのことで父はそれを父は見事にやり遂げました。
それが終わったのが1998年11月30日でした。
その後襲名の話がありました。(父が73歳の時)
1999年1月15日に襲名しましたが、それはその前には他言してはいけないといわれていました。
職人さんたちの給料を間違いなく払って工房を維持してはいけないという事で無我夢中でやってきました。
職人が辞めていったりするので、失われた技術を取り返すこと、若い職人を育てるという事も同時にやっていかなければいけない。
目指してきた方向でキーワードが二つあって、ローカルであるという事と、アナログという事です。
鹿児島の風土がはぐくんできたもの、小さなオーダーにもこたえていかなくてはいけない。
世界の一流品といわれるものはローカルと、アナログという事です。
大学は早稲田の教育学部で地理歴史学でした。
音楽が好きで音楽を一生懸命やっていました。
聞くのが好きでソウルミュージックのサークルを作りました。
父の助言で京都に修行に行きました。
焼き物への適性があるのかなあと決めかねていましたが、15年頑張ってみるように言われました。
その後イタリアの国立美術陶芸科で学びました。
母親から容器を作ってほしいといわれて、考え始めたが、今までのいいとこどりなのではと考え始めたら疑心暗鬼になり作れなくなってしまっていた。
自分をがんじがらめにしているのではないかと思って、逃れるようにイタリアに行きました。
経験知識は生徒15人の中では一番あったと思うが、先生からデザインははじかれてしまい、そういったことが約1年間続きました。
1年ぐらいで日本に帰ろうと思いましたが、ある時に京都の色絵の先生で富本 憲吉先生が「模様から模様は作らず」という言葉がふっと思い浮かんで、何かを見てその人が感じたこと、それを感じたという輪郭のない自分の意志、発想を形にする可視化させたものが模様で、一つの模様は作者のいろいろなインプレッションが込められている。
模様だけをいじくりまわしてももはや模様ではないという事だと思いました。
自分にとっての模様であって、僕の線も色もなくそれで教授ははじいていたのではないかと思いました。
その晩20枚ぐらい書き上げて持っていきましたら、先生はブラボーと言ってくれました。
日本ではいったん職人を機械にしてしまうが全く逆でした。
イタリアには2年いました。
内面的なものを可視化させるのが「表現「」だと思いました。
意志を持つという事は大切だとイタリアで学びました。
韓国にも行きました。
大学院に入って、韓国語を学び、社会を学び陶芸のネットワークを作っていくのが父の思いであったと思いました。
いろんなことがあって日本人とは、民族とは何なんだろうという思いがありました。
日本にいれば朝鮮人といわれるし、向こうへ行けば400年の垢を洗い流せと言われて困ったなあと思いました。
大学に行くことはやめてキムチのかめを作る工場で働くことに決めました。
住み込みで働きましたが仕事はきつかったですが、貴重な経験でした。
司馬遼太郎先生に手紙を書いたことがありました。
民族というのは粗末なものです、文化の共有個体に過ぎず種族ではありません。
面差しは違う、面差しは風土によって作れる、大切なことはトランスする力だというんです。
ネーションといったものをトランスするという事が、今の日本人に一番大切なことなんだと、その場合日本人のアイデンティティーをしっかり持たなければいけない、その上で他国の心が判る日本人にならないといけないと書いてありました。
最後に小生も年少のころから、自らを一個の人類に仕立て上げることをしてきました、と書いてありました。
その手紙を読んだことによって、それがこれからの自分を縛るものではないという事は思いました。
伝承をきちっと守らないと革新は生まれてこないと思います。
400年祭は素晴らしかったです。
一番最初に我が家に伝わっている茶碗に「火ばかり茶碗」というのがあります。
秀吉の朝鮮出兵で多くの陶工たちが日本に連行されてきて、萩焼、有田焼など西の方はほとんどそうですが、土もうわぐすりも陶工も朝鮮だが火ばかりは日本のものだった。
逆に土もうわぐすりも陶工も日本で火だけを持ってこようという企画が持ちあがりました。
火は聖なるものなので、韓国の長老たちが火まで渡すのかという事を言うんです。
これは日本の若者と韓国の若者との未来に向けての話なんだといって了解してもらいました。
400年来の私たちの玉山神社に納めて、今でも灯っています。
同じ火で両方のものを焼こうという事にもなりました。
職人さんに給料を払うことで色々やってきたが、これだけは絶対にというものが見えてくると、そこを掘り下げてみたいと思うようになりました。
大事なのは原料と技術ですね。
薩摩焼の究極のありようを追っかけていきたい。
父に「一人前になるという事はどういうことか」と聞いたら「一人ぼっちになっても寂しがらない男になることだ」といわれました。
2019年7月21日日曜日
棚瀬尚子(料理教室代表) ・【"美味しい"仕事人】世界の食で異文化交流を
棚瀬尚子(料理教室代表) ・【"美味しい"仕事人】世界の食で異文化交流を
外国の家庭料理を学ぶ人気料理教室。
料理の先生は日本に住む外国人です。
ユニークなのは先生の自宅が教室だという事、先生のお宅を訪ねていって本場の料理を教えてもらうというスタイルです。
レシピを学ぶことはその国の食文化を知ることにつながります。
日本語で学ぶことができますが、英語で教えてもらえば英会話の勉強にもなります。
この料理教室ができて20年、およそ2万人の会員が登録し、世界40か国の家庭料理を学んでいます。
世界の料理教室の場合は、東京を中心に約40か国の外国人のご家庭の家に日本人の方がホームステーをする感覚で料理を習いに行く、そういった料理教室です。
先生とだけではなくてご家族の方たちとも一緒に食べる場合もあります。
一番小さなグループで6名、大きいグループですと10名ぐらいが一回で習える人数です。
東京では60か所ぐらいです。
ほかには神奈川、千葉、埼玉、大阪、台湾でもあります。
台湾の方々から料理教室をやってみたいという問い合わせがあって、私が行ってみたのがきっかけとなりました。
教室が開かれるときには日本から台湾に出かけていきます。
およそ2万人の会員が登録しています。
日本語が半数、英語でも行います。
英語でも普段の会話が飛び交います。
英語も普段使わないとなかなか身につかないので。
インドの先生のご自宅に行ってヨガを最初に教えていただいたりもします。
チュニジアの先生にアラビア語の書き方を教えてもらったりもします。
2年前バターが不足している時には、アゼルバイジャンの先生が私の国ではバターを20個使うと言っていました。
みんなでバターを持ち寄りました。
2000年からスタートしました。
以前大手電機機器メーカーで働いていたところは、国際購買部の部門で日本から部品を買って世界各国の工場に送るという仕事をしていました。
世界各国の人々と話をしていました。
それぞれの国の違いを知ることが勉強になり視野も広がりました。
そういった方たちが日本に来るときに、一緒におにぎりを握って食べたり居酒屋に行ったりしました。
会社を辞めて英語能力が落ちてしまうのも寂しいし、いろいろな国の人たちとも繋がっていたいというのがきっかけで、料理教室を始めました。
教えてもらったパスタの料理にはまりました。
インドカレーを自宅で作ってもらたいという気持ちがあり、横浜のインターナショナルスーパーマーケットの掲示板にそういったことを教えてくれる方がいませんかと貼っておきました。
最初インドの方から連絡が来ましたが、知らない人を自宅に招いて教えることは怖いからできないと断られてしまいました。
その時にアメリカの米軍基地の方から連絡がり、やってみたいと電話がありそれがきっかけで料理教室を始めました。
最初3名でした。
いろいろトラブルだらけでした。
ケーキが凄く甘かったが、薄味にするのではなくて、味をそのまま伝えようと思いまし
た。(その国のままの味)
子どものころによく家にギリシャの方が遊びに来ていました。(祖父の友人)
小学校に入ったころ両親に世界の子どもたちをホームステーしたいと話したら、いろいろな国の子どもたちがショートですが、ステーしに来てくれました。
最初は母の友人のハーフのアメリカ人のお子さんが来てくれたのがきっかけです。
英語は全く話せませんでした。
しゃべれなくても一緒にいると楽しかったです。
一回の料理教室は短くて2時間、長いと11時から始まって夜の9時ごろまでやってることもあります。
南米圏、南欧圏の人たちはせっかく遊びに来たんだったら、料理教室を忘れて一緒に飲んで食べて遊ぼう、ダンスもしようという事になったりお喋りをすることになります。
一回でのレシピは4,5つぐらいです。
毎月料理は変えることになっていて、1年で60レシピ、3年で180レシピという事になると、料理の好きな方、探求心が強い方たちが集まってくるという事になります。
先生とは事前に打ち合わせをします。
ライスプディング、日本ではご飯を甘くして食べる文化が駄目そうで、牛乳を使うのが苦手なようです。
世界の料理となるとスパイスも違うし食材も日本で手に入らないという事もあります。
日本の食材を使って近いところまで再現してゆく作業があります。
皮付きの豚肉は東京だとなかなか手に入らないです。
中国、南米の方たちは皮をパリとさせて食べるとおいしいといいます。
郷土料理という事でおばあさんの時代の道具で作ったりするので、パスタを作るときにいろんな道具を持っています。
イスラム教の方はハラルで認定されているものを使います。
ヒンズーの方は牛肉は食べれないが、牛は私たちの神様よ、といった話を伺います。
イスラムのかたは豚肉を切ったことのあるキッチン、切っているキッチンでは料理することができない。
クリスマスは一番一年で華やかなシーズンですが、自分のクリスマスツリーを大切にするので、自分の国から運んできます。
雛飾りと同じような感覚があります。
タイの食事は右手にスプーン、左手にフォークを持って食べるのが一般的です。
マナーは厳格ではない。
イスラム教では食事では左手は使ってはいけない、不浄の手。
世界では手を使って食べる人たちは4割います。
手を使うことで香りを楽しめるし、手の方がおいしく感じることがあります。
先生はインターナショナルスクールのフードフェアーに行って、そこで料理上手な人を見つけてスカウトをしたり、料理好きそうな方を探してスーパーで声を掛けたりしています。
スターも誕生しています、ファン・インソンさんという韓国の料理研究家。
女性のようなかわいらしい方です。(奥さんが日本人)
キルギスの先生の教室が東京の羽村市にあり、羽村市が東京オリンピックのキルギスのホストタウンで、先生がその選手村の料理を作る事になりました。
外国の家庭料理を学ぶ人気料理教室。
料理の先生は日本に住む外国人です。
ユニークなのは先生の自宅が教室だという事、先生のお宅を訪ねていって本場の料理を教えてもらうというスタイルです。
レシピを学ぶことはその国の食文化を知ることにつながります。
日本語で学ぶことができますが、英語で教えてもらえば英会話の勉強にもなります。
この料理教室ができて20年、およそ2万人の会員が登録し、世界40か国の家庭料理を学んでいます。
世界の料理教室の場合は、東京を中心に約40か国の外国人のご家庭の家に日本人の方がホームステーをする感覚で料理を習いに行く、そういった料理教室です。
先生とだけではなくてご家族の方たちとも一緒に食べる場合もあります。
一番小さなグループで6名、大きいグループですと10名ぐらいが一回で習える人数です。
東京では60か所ぐらいです。
ほかには神奈川、千葉、埼玉、大阪、台湾でもあります。
台湾の方々から料理教室をやってみたいという問い合わせがあって、私が行ってみたのがきっかけとなりました。
教室が開かれるときには日本から台湾に出かけていきます。
およそ2万人の会員が登録しています。
日本語が半数、英語でも行います。
英語でも普段の会話が飛び交います。
英語も普段使わないとなかなか身につかないので。
インドの先生のご自宅に行ってヨガを最初に教えていただいたりもします。
チュニジアの先生にアラビア語の書き方を教えてもらったりもします。
2年前バターが不足している時には、アゼルバイジャンの先生が私の国ではバターを20個使うと言っていました。
みんなでバターを持ち寄りました。
2000年からスタートしました。
以前大手電機機器メーカーで働いていたところは、国際購買部の部門で日本から部品を買って世界各国の工場に送るという仕事をしていました。
世界各国の人々と話をしていました。
それぞれの国の違いを知ることが勉強になり視野も広がりました。
そういった方たちが日本に来るときに、一緒におにぎりを握って食べたり居酒屋に行ったりしました。
会社を辞めて英語能力が落ちてしまうのも寂しいし、いろいろな国の人たちとも繋がっていたいというのがきっかけで、料理教室を始めました。
教えてもらったパスタの料理にはまりました。
インドカレーを自宅で作ってもらたいという気持ちがあり、横浜のインターナショナルスーパーマーケットの掲示板にそういったことを教えてくれる方がいませんかと貼っておきました。
最初インドの方から連絡が来ましたが、知らない人を自宅に招いて教えることは怖いからできないと断られてしまいました。
その時にアメリカの米軍基地の方から連絡がり、やってみたいと電話がありそれがきっかけで料理教室を始めました。
最初3名でした。
いろいろトラブルだらけでした。
ケーキが凄く甘かったが、薄味にするのではなくて、味をそのまま伝えようと思いまし
た。(その国のままの味)
子どものころによく家にギリシャの方が遊びに来ていました。(祖父の友人)
小学校に入ったころ両親に世界の子どもたちをホームステーしたいと話したら、いろいろな国の子どもたちがショートですが、ステーしに来てくれました。
最初は母の友人のハーフのアメリカ人のお子さんが来てくれたのがきっかけです。
英語は全く話せませんでした。
しゃべれなくても一緒にいると楽しかったです。
一回の料理教室は短くて2時間、長いと11時から始まって夜の9時ごろまでやってることもあります。
南米圏、南欧圏の人たちはせっかく遊びに来たんだったら、料理教室を忘れて一緒に飲んで食べて遊ぼう、ダンスもしようという事になったりお喋りをすることになります。
一回でのレシピは4,5つぐらいです。
毎月料理は変えることになっていて、1年で60レシピ、3年で180レシピという事になると、料理の好きな方、探求心が強い方たちが集まってくるという事になります。
先生とは事前に打ち合わせをします。
ライスプディング、日本ではご飯を甘くして食べる文化が駄目そうで、牛乳を使うのが苦手なようです。
世界の料理となるとスパイスも違うし食材も日本で手に入らないという事もあります。
日本の食材を使って近いところまで再現してゆく作業があります。
皮付きの豚肉は東京だとなかなか手に入らないです。
中国、南米の方たちは皮をパリとさせて食べるとおいしいといいます。
郷土料理という事でおばあさんの時代の道具で作ったりするので、パスタを作るときにいろんな道具を持っています。
イスラム教の方はハラルで認定されているものを使います。
ヒンズーの方は牛肉は食べれないが、牛は私たちの神様よ、といった話を伺います。
イスラムのかたは豚肉を切ったことのあるキッチン、切っているキッチンでは料理することができない。
クリスマスは一番一年で華やかなシーズンですが、自分のクリスマスツリーを大切にするので、自分の国から運んできます。
雛飾りと同じような感覚があります。
タイの食事は右手にスプーン、左手にフォークを持って食べるのが一般的です。
マナーは厳格ではない。
イスラム教では食事では左手は使ってはいけない、不浄の手。
世界では手を使って食べる人たちは4割います。
手を使うことで香りを楽しめるし、手の方がおいしく感じることがあります。
先生はインターナショナルスクールのフードフェアーに行って、そこで料理上手な人を見つけてスカウトをしたり、料理好きそうな方を探してスーパーで声を掛けたりしています。
スターも誕生しています、ファン・インソンさんという韓国の料理研究家。
女性のようなかわいらしい方です。(奥さんが日本人)
キルギスの先生の教室が東京の羽村市にあり、羽村市が東京オリンピックのキルギスのホストタウンで、先生がその選手村の料理を作る事になりました。
2019年7月20日土曜日
山崎哲秀(犬ぞり北極探検家) ・極寒(ごっかん)の地にひかれて(2018・7・21)
山崎哲秀(犬ぞり北極探検家) ・極寒(ごっかん)の地にひかれて(2018・7・21)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/07/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2019年7月19日金曜日
川本三郎(評論家) ・【わが心の人】永井荷風(2019.4.19)
川本三郎(評論家) ・【わが心の人】永井荷風(2019.4.19)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_37.htmlをご覧ください。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2019/04/blog-post_37.htmlをご覧ください。
2019年7月18日木曜日
江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を
江幡千代子(ブックカフェ実行委員会代表) ・移動ブックカフェで交流を
キャンピングカーに絵本を積んで移動しながらブックカフェを開いでいるブックカフェ実行委員会の江幡さんに伺います。
江幡さんは1944年昭和19年仙台市生まれ、75歳。
32年前に横浜市の北部に広がる港北ニュータウンに移り住みました。
交通事情が不便で文化施設なども整備されていなかったため、皆でいろいろなイベントをして街作りをしたといいます。
本の好きな江幡さんは図書館ファンクラブや読み聞かせなどの活動をしながら、自宅には絵本を集めてふわり文庫という子供たちの居場所を作るなど本を通してコミュニティー作りに取り組みました。
長年街作り活動を作り続けて来た江幡さんが始めたのは、キャンピングカーによる移動ブックカフェでした。
移動ブックカフェ、どのような活動なんでしょうか。
人気絵本は300冊ぐらいブックカフェの車に乗ってしまっていまして、ふわり文庫には400~500冊になります。
おもちゃもたくさんあります。
本の読み聞かせは強制的にやっていました。
自治会主催で実現できて感激でした。
子供会の参加が素晴らしかったです。
ブックカフェは今年の4月にスタートしました。
トライアルを含めると13か所になります。
お寺の駐車場、保育園、畑の中でもやりました。
チャコ村、チャコさんと呼ばれたおばあさんのところで、おばあさんが亡くなったあともおばあさんがやっていたことを引き継いで、お孫さんが週に5日間も地域の拠点を運営しているところがあり、そこでもやりました。
中学生から小さな子供まで大勢いて、紙飛行機つくりなどやったり、チャコさんの友人のおばあさんたちが南京玉すだれをやったりしていました。
みんなで楽しんでいてこんな場所があるのかと思いました。
オレンジ色のキャンピングカーに本を積んで3時間で読める量として300冊の絵本を積んで停まったところにカフェを開いています。
車には15人ぐらいは入れるようになっていて、読み聞かせ、紙芝居などもやっています。
親御さんが読み聞かせをやったりもしています。
オレンジ色のキャンピングカーは小田原の町工場の川田さんと仲間の人たちがものつくりの面白さを伝えたいという事で、町工場を体験させたいとキャンピングカーを改造して「出張町工場」というのが正式な車の名前です。
川田さんとの出会いがありました。
町工場で働いている人は高齢者、外国の人、障害者とかの人たちでした。
そういう人たちこそそれぞれの力を発揮すると、素晴らしい会社になるんだという信念を持っている方です。
会社を経営している小澤さんという方がいて、地域が活性化してゆく活動をやっている方で、その場所をお借りして川田さんをお招きして物つくりの体験を地域の子どもにしていただくという事でキックオフの日に決めました。
その運動にはいろいろな方8人が集まり推進力になりました。
ほかにチョイボラ(ちょっとボランティアをしてくれている高齢者の人たち)の人にも助けられています。
欠かせない重要な要素になっています。
子どもが学校に行っている若いお母さんたちも集まってくれて、本にコーティングしてくれて雨でも安心できるようになりました。
夫にもいろいろ手伝ってもらっています。
テーブルのデザインなどもやってもらっています。
ほかにも周りからいろいろ手伝ってもらっています。
出身は仙台市で港北ニュータウンが出来てすぐに移り住みました。(32年前)
ふわり文庫は2017年の1月に開設しましたが、その1年前に3人目の孫を亡くしてしまいました。(3歳でした。)
絵本が大好きでした。
孫が生きた証として、孫の好きだった絵本を子どもたちに読んでもらう場所をつくりたいと思ってふわり文庫を作りました。
「ふわり]の「り」は亡くなった「りさ」の「り」の名前が入っています。
ある写真をインターネットで見つけて衝撃を受けました、その写真から移動して子供に本を読むように届けることができるんだと思いました。
図書館を応援する活動を20年ぐらいやってきました。
図書館が広げられたらいいという思いがありました。
鹿児島県指宿で移動図書館を作って、その車を作るお金を集めて実現したいという活動を見つけて、これだと思いました。(クラウドファンディング)
154人の方が140万円寄付してくださいまして、活動資金を得ました。
長い間地域の活動をやってきたので、そういったことが集約されたのかもしれません。
『まちの教室」の活動がユニークでした。
『街の音楽会」も毎年やっていました。
「ジグザグ散歩」も月1回やりました。
緑区の区役所の呼びかけもあり、緑区探検ウオーキングのイベントも行いました。
川辺のコンサートもやりましたが、「川風フェスタ」という大々的なフェスタ会場になりました。
そういった活動が面白いという事で横浜中の街作りが集まる「街作りフォーラム」がありそれに私も参加しました。(都築区になったばかりの頃)
「この街しっぽまでおいしいよ」というキャッチフレーズを作りました。
この街に住んでよかったなあ、この街いい街だなあと思うような街にしたいですよね。
街はみんなでいい街にしたいと思っていかないといい街になっていかないと思います。
課題はたくさんあります。
資金、本を置く場所、新しい拠点などありますが、きっとそれをなんとか協力してくれる人が現れるだろうなあと楽観しています。
幾つになってもできると思います。
自分一人ではできないが共感する人たちが増えてくれば、どんなことも可能になっていけるんだろうと思います。
絵本は本当にいろんなことを教えてくれる本当に幅の広い世界なので、たくさんの人たちに届けていきたいと思います。
いろんな出会いを楽しみたいと思います。
キャンピングカーに絵本を積んで移動しながらブックカフェを開いでいるブックカフェ実行委員会の江幡さんに伺います。
江幡さんは1944年昭和19年仙台市生まれ、75歳。
32年前に横浜市の北部に広がる港北ニュータウンに移り住みました。
交通事情が不便で文化施設なども整備されていなかったため、皆でいろいろなイベントをして街作りをしたといいます。
本の好きな江幡さんは図書館ファンクラブや読み聞かせなどの活動をしながら、自宅には絵本を集めてふわり文庫という子供たちの居場所を作るなど本を通してコミュニティー作りに取り組みました。
長年街作り活動を作り続けて来た江幡さんが始めたのは、キャンピングカーによる移動ブックカフェでした。
移動ブックカフェ、どのような活動なんでしょうか。
人気絵本は300冊ぐらいブックカフェの車に乗ってしまっていまして、ふわり文庫には400~500冊になります。
おもちゃもたくさんあります。
本の読み聞かせは強制的にやっていました。
自治会主催で実現できて感激でした。
子供会の参加が素晴らしかったです。
ブックカフェは今年の4月にスタートしました。
トライアルを含めると13か所になります。
お寺の駐車場、保育園、畑の中でもやりました。
チャコ村、チャコさんと呼ばれたおばあさんのところで、おばあさんが亡くなったあともおばあさんがやっていたことを引き継いで、お孫さんが週に5日間も地域の拠点を運営しているところがあり、そこでもやりました。
中学生から小さな子供まで大勢いて、紙飛行機つくりなどやったり、チャコさんの友人のおばあさんたちが南京玉すだれをやったりしていました。
みんなで楽しんでいてこんな場所があるのかと思いました。
オレンジ色のキャンピングカーに本を積んで3時間で読める量として300冊の絵本を積んで停まったところにカフェを開いています。
車には15人ぐらいは入れるようになっていて、読み聞かせ、紙芝居などもやっています。
親御さんが読み聞かせをやったりもしています。
オレンジ色のキャンピングカーは小田原の町工場の川田さんと仲間の人たちがものつくりの面白さを伝えたいという事で、町工場を体験させたいとキャンピングカーを改造して「出張町工場」というのが正式な車の名前です。
川田さんとの出会いがありました。
町工場で働いている人は高齢者、外国の人、障害者とかの人たちでした。
そういう人たちこそそれぞれの力を発揮すると、素晴らしい会社になるんだという信念を持っている方です。
会社を経営している小澤さんという方がいて、地域が活性化してゆく活動をやっている方で、その場所をお借りして川田さんをお招きして物つくりの体験を地域の子どもにしていただくという事でキックオフの日に決めました。
その運動にはいろいろな方8人が集まり推進力になりました。
ほかにチョイボラ(ちょっとボランティアをしてくれている高齢者の人たち)の人にも助けられています。
欠かせない重要な要素になっています。
子どもが学校に行っている若いお母さんたちも集まってくれて、本にコーティングしてくれて雨でも安心できるようになりました。
夫にもいろいろ手伝ってもらっています。
テーブルのデザインなどもやってもらっています。
ほかにも周りからいろいろ手伝ってもらっています。
出身は仙台市で港北ニュータウンが出来てすぐに移り住みました。(32年前)
ふわり文庫は2017年の1月に開設しましたが、その1年前に3人目の孫を亡くしてしまいました。(3歳でした。)
絵本が大好きでした。
孫が生きた証として、孫の好きだった絵本を子どもたちに読んでもらう場所をつくりたいと思ってふわり文庫を作りました。
「ふわり]の「り」は亡くなった「りさ」の「り」の名前が入っています。
ある写真をインターネットで見つけて衝撃を受けました、その写真から移動して子供に本を読むように届けることができるんだと思いました。
図書館を応援する活動を20年ぐらいやってきました。
図書館が広げられたらいいという思いがありました。
鹿児島県指宿で移動図書館を作って、その車を作るお金を集めて実現したいという活動を見つけて、これだと思いました。(クラウドファンディング)
154人の方が140万円寄付してくださいまして、活動資金を得ました。
長い間地域の活動をやってきたので、そういったことが集約されたのかもしれません。
『まちの教室」の活動がユニークでした。
『街の音楽会」も毎年やっていました。
「ジグザグ散歩」も月1回やりました。
緑区の区役所の呼びかけもあり、緑区探検ウオーキングのイベントも行いました。
川辺のコンサートもやりましたが、「川風フェスタ」という大々的なフェスタ会場になりました。
そういった活動が面白いという事で横浜中の街作りが集まる「街作りフォーラム」がありそれに私も参加しました。(都築区になったばかりの頃)
「この街しっぽまでおいしいよ」というキャッチフレーズを作りました。
この街に住んでよかったなあ、この街いい街だなあと思うような街にしたいですよね。
街はみんなでいい街にしたいと思っていかないといい街になっていかないと思います。
課題はたくさんあります。
資金、本を置く場所、新しい拠点などありますが、きっとそれをなんとか協力してくれる人が現れるだろうなあと楽観しています。
幾つになってもできると思います。
自分一人ではできないが共感する人たちが増えてくれば、どんなことも可能になっていけるんだろうと思います。
絵本は本当にいろんなことを教えてくれる本当に幅の広い世界なので、たくさんの人たちに届けていきたいと思います。
いろんな出会いを楽しみたいと思います。
2019年7月17日水曜日
河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦
河野匡(日本陸上競技連盟強化委員会ディレクター)・【スポーツ明日への伝言】酷暑と闘う!ランナーたちの挑戦
今回のオリンピックの陸上競技、特にマラソンの長距離種目は暑さなどとの戦いが予想されます。
マラソングランドチャンピオンシップとはどんな大会なのか、選ばれた人たちは暑さをどう克服してゆくのか、河野さんに伺います。
2000年のシドニーに犬伏孝之が代表になったときは2000年の2月に東京マラソンで代表が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックで伊藤舞が代表になったときには前年の世界陸上で入賞して早々と内定しました。
1年間の準備も経験したし、あっという間に準備しなければいけないというようなことも経験して、マラソンはオリンピックでは花形ですし、注目度が高い、相当プレッシャーがかかるという事はどちらの場合もありました。
年々マラソンを志して世界選手権、オリンピックで戦おうとか、戦えるというイメージがどんどんなくなってきているというのはあからさまに感じました。
メダルから遠ざかっているという現状でした。
2017年の夏から今年の4月30日までの指定されたマラソン大会に出場して条件をクリアするとその選手だけを集めてさらにレースを行って代表を決めていこうと、マラソングランドチャンピオンシップと呼んで9月15日に行うことになりました。
強化プロジェクトとしては瀬古氏がプロジェクトリーダーをやっています。
国内でも戦うイメージよりも選ばれるためのレースというようなイメージに変わってきて、シンプルに競争して勝ったものが行くんだという形を今回は東京オリンピックにもっていく、それで戦う意識が選手に育っていれば、可能性は見いだせるのではないかと思って仕組みを変えていこうと思いました。
何か変えないと日本のマラソンは変わらないという思いの共通認識はできたと思います。
男子が31人、女子は12人のレースが予定されている。
2時間11分が世界ランキング30位程度、世界で戦うには2時間8分30秒ぐらい、女子では2時間24分程度になるような仕組みを作っていけば、それを越えないと次のステージに行けないので、段階を追うという事が今の世代にはあっているのではないかと思いました。
ワイルドカード 国際陸連が世界記録を公認するような大会などに参加 マラソングランドチャンピオンシップの道にいろんな登り口を用意したかった。
しっかりとしたマラソンの経験値を持った選手をスタートラインに並べたいという意見もあったので、仕組みの中に取り入れていったというのがマラソングランドチャンピオンシップです。
2時間5分台の記録が出てきました。
2015年から1億円の報奨金を日本記録に出したのが強烈な飴だったと思います。
マラソングランドチャンピオンシップは鞭の部分でそれが合わさって良い記録が出てきたのではないかと思います。
9月15日はいい天気であってほしいとまず思います。
レースは誰もが予想できないマラソンレースになるのではないかと思います。
スタート1km地点からは本番とほぼ同じコースになっています。
女子は世界との距離にある程度の距離を維持していた。
日本記録は出ていないが世界とそんなに離れていない。
女子は早いレースになるのではないかと思います。
本番は女子が8月2日、男子が9日、暑さとの戦いもある。
①選ばれた選手が暑さに得意なのか、苦手なのか、個性をどう判断するか。(体質)
②暑さのなかでのコンディショニングをどうやれば疲労を残さず本番を迎えられるか。(トレーニング期)
③当日の天候にどう対応するのか。(本番)
2時間走る中で気温が30度を超えるとパフォーマンスが5%落ちる。
2時間3分で走る人が2時間9~10分のレベルになる。
今日本では2時間5分程度ですが、3%に抑えると2時間9~10分のレベルになる。
2~3%に抑えることができればメダルも見えてくると思います。
スタート時間が午前6時になりました。
温度もありますが一番敵なのは湿度なのかなあとも思っています。
今回のオリンピックの陸上競技、特にマラソンの長距離種目は暑さなどとの戦いが予想されます。
マラソングランドチャンピオンシップとはどんな大会なのか、選ばれた人たちは暑さをどう克服してゆくのか、河野さんに伺います。
2000年のシドニーに犬伏孝之が代表になったときは2000年の2月に東京マラソンで代表が決まりました。
2016年のリオデジャネイロオリンピックで伊藤舞が代表になったときには前年の世界陸上で入賞して早々と内定しました。
1年間の準備も経験したし、あっという間に準備しなければいけないというようなことも経験して、マラソンはオリンピックでは花形ですし、注目度が高い、相当プレッシャーがかかるという事はどちらの場合もありました。
年々マラソンを志して世界選手権、オリンピックで戦おうとか、戦えるというイメージがどんどんなくなってきているというのはあからさまに感じました。
メダルから遠ざかっているという現状でした。
2017年の夏から今年の4月30日までの指定されたマラソン大会に出場して条件をクリアするとその選手だけを集めてさらにレースを行って代表を決めていこうと、マラソングランドチャンピオンシップと呼んで9月15日に行うことになりました。
強化プロジェクトとしては瀬古氏がプロジェクトリーダーをやっています。
国内でも戦うイメージよりも選ばれるためのレースというようなイメージに変わってきて、シンプルに競争して勝ったものが行くんだという形を今回は東京オリンピックにもっていく、それで戦う意識が選手に育っていれば、可能性は見いだせるのではないかと思って仕組みを変えていこうと思いました。
何か変えないと日本のマラソンは変わらないという思いの共通認識はできたと思います。
男子が31人、女子は12人のレースが予定されている。
2時間11分が世界ランキング30位程度、世界で戦うには2時間8分30秒ぐらい、女子では2時間24分程度になるような仕組みを作っていけば、それを越えないと次のステージに行けないので、段階を追うという事が今の世代にはあっているのではないかと思いました。
ワイルドカード 国際陸連が世界記録を公認するような大会などに参加 マラソングランドチャンピオンシップの道にいろんな登り口を用意したかった。
しっかりとしたマラソンの経験値を持った選手をスタートラインに並べたいという意見もあったので、仕組みの中に取り入れていったというのがマラソングランドチャンピオンシップです。
2時間5分台の記録が出てきました。
2015年から1億円の報奨金を日本記録に出したのが強烈な飴だったと思います。
マラソングランドチャンピオンシップは鞭の部分でそれが合わさって良い記録が出てきたのではないかと思います。
9月15日はいい天気であってほしいとまず思います。
レースは誰もが予想できないマラソンレースになるのではないかと思います。
スタート1km地点からは本番とほぼ同じコースになっています。
女子は世界との距離にある程度の距離を維持していた。
日本記録は出ていないが世界とそんなに離れていない。
女子は早いレースになるのではないかと思います。
本番は女子が8月2日、男子が9日、暑さとの戦いもある。
①選ばれた選手が暑さに得意なのか、苦手なのか、個性をどう判断するか。(体質)
②暑さのなかでのコンディショニングをどうやれば疲労を残さず本番を迎えられるか。(トレーニング期)
③当日の天候にどう対応するのか。(本番)
2時間走る中で気温が30度を超えるとパフォーマンスが5%落ちる。
2時間3分で走る人が2時間9~10分のレベルになる。
今日本では2時間5分程度ですが、3%に抑えると2時間9~10分のレベルになる。
2~3%に抑えることができればメダルも見えてくると思います。
スタート時間が午前6時になりました。
温度もありますが一番敵なのは湿度なのかなあとも思っています。
2019年7月16日火曜日
石川九楊(書家・評論家) ・書は芸術なり!
石川九楊(書家・評論家) ・書は芸術なり!
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。
今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。
1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。
大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。
1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。
「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。
「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。
福井県生まれ74歳、5歳から大人に混じって書道を習い始めました。
大学は子供のころから憧れていた弁護士を目指し、京都大学の法学部に入学しましたが、1か月でその思いが壊れ、大学の書道部で本格的に書道に向かうようになりました。
卒業後は化学会社に入社しましたが、その会社を11年務めて退社、その後は書道を中心に仕事をするようになりました。。
今の石川さんの作品は細かい線で描く幾何学模様のようだったり、四方八方に広がる緻密な線の表現だったりと、読めないといわれることことが多くあります。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開き、青年期の作品から古典や最近の作品等展示して多くの人にインパクトを与えました。
作家としても活躍し100冊を超える書物を書き、「書の終焉」でサントリー学芸賞
「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
来月は名古屋で展覧会を開くことが決まっています。
今、90×65cmに2400字ぐらいの作品を作っています。
相当小さい字になります。
今日で5日目になります。
体調、気持ちが萎えてくるとやめて(1時間半ぐらい書いて)散歩などして、墨をすりなおしてまた1時間半ぐらいしてこれ以上持たないという事になると翌日にやります。
墨は放っておくと少し分離するので新しくその都度すりなおします。
気持ちが油断するとそのまま形になって現れますので気を付けます。
2年前の7月に上野で「書だ、石川九楊」展を開きましたが、見学者が多く僕も驚きました。
上野の森美術館の広さをうまく利用できました。
壁を作らずに広く見渡せるようにしました。
絵のような作品もあるが、自由に見ていただければいいと思います。
自分でもわからないところがありますので。
未意識に現れてきてしまうという、そこが表現の面白さだと思います。
83mにつないだ作品もありましたが、全部つなげたのは初めてでした。
1985年ぐらいからああいう風な形で書いてゆく段階に入りました。(40歳ごろ)
周りから読めないというように言われるようになりましたが。
書を見るうえで一番の失敗はなんて書いてあるかという風にアプローチする、そこから先が書の問題です。
「山」ならその人の山への理解、アプローチする角度、その人が使う意味とか、そういうものが全部出てきてしまうものだと思います。
作品が物語る、その作品の声を聴けばいいと思います。
例えば「言葉なんか覚えるんじゃなかった」という句があったときに、どういう風に書いたらその言葉と釣り合うようになるか、教わってきた上手に書けましたというようなものだとその言葉が逃げてしまうというか、辱めてしまうというか、それだったら活字でいい、どうやって「言葉なんか覚えるんじゃなかった」というフレーズを書として書けるか、書けないか、自分が一番響いてる言葉をどう書くかという事に腐心して、それを少しずつちょっとずつ何かが見えてくるものがあって、それを積み上げていったら、ついに普通に言えば読めない字になったという事です。
大人に混じって5歳から始めました。
小学校中学年になると賞をもらったりしてそれを励みに書きました。
中学は書道部に入り、先生が僕に大きな影響を与えてくれました。
褒められて書が楽しくなりました。
高校時代は先生とはそりが合わなかった。
展覧会とかに対して価値を持たない先生でした。
数学研究部に入りました。(幾何学が好きでした)
大学は書道部に入りました。
書いていくうえで手ごたえがありました。
10歳ぐらいに鉄道のストライキをやっているところに警察が来て理不尽な行為をみて、権力側とは違う形で役に立とうとおもって弁護士になろうと思っていました。
法律は法律に過ぎない、人間には法律以前の広大なルールがあって、それの方がとてつもなく大きい、それを抜きに法律を解釈することはつまらないと思いました。
いろんな状況があるときにそれを変える力には法律はならない。
司法試験に向けてはもうやめようと思いました。(入学1か月後)
残っていたのは書でしたが、何か世の中に役に立つことはしたいとは思っていました。
1967年に京都の化学会社に就職する。
大学の時に婚約をして食べてゆくために仕事をやる必要がありました。
働きながら書道はやっていました。
学問的に書をやる人と書を表現するところと二つに分かれてやっていました。
定年まで描けるか2,3年悶々としていたが、1978年に辞めました。(会社は11年間務める)
編集の仕事を頼まれるようになりそれが忙しくて、書ができなくなってしまいました。
彼女も会社を辞めて、彼女がギャラリーをやる事になり、買い上げる作品を作るという仕組みになって、それから作品がたくさん生まれるようになりました。
妻の力が偉大だったが、亡くなって半年になります。
「エロイエロイラマサバクタニ」という作品とか「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」、「罪と罰」というところを書いてきました。
「エロイエロイラマサバクタニ」というのは350×240cmぐらいの作品です。
イエスが十字架にかかったときに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(「我が神、我が神
どうして私を思捨てになったのですか」)と叫んだ言葉。
1968年から始まる世界の学生たちが世界を変えようとする運動が1970年ぐらいに収束するが、1970年の展覧会は100人も集まり本当に熱気がはらんで書について議論した。
1972年には一日誰も来ないという日もあり、ある種の空虚感が襲った。
その景色と重ねて「エロイエロイラマサバクタニ」を作った。
書いてゆくときに、こんな風な形になって現れて来るんだと、自分がその出来事のなかに入り込んでいきました。
「歎異抄」、「方丈記」、「徒然草」「源氏物語」歴史的なもの、2001年にアメリカ同時多発テロ9・11、お台場原発爆発事件3・11などなども手掛けてきました。
歴史的なものの後に「罪と罰」などを経て評論を作品にしたものとして9・11、3・11へと向かいました。
文筆活動は100冊を越えました。
「書の終焉」でサントリー学芸賞、「日本書史」で毎日出版文化賞、「近代書史」で大佛次郎賞などを受賞しています。
妻にはいろいろ負担をかけたと思います。
2019年7月15日月曜日
太田義昭(太田雄貴の父) ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト
太田義昭(太田雄貴の父) ・【アスリート誕生物語】フェンシング銀メダリスト
2か月に一回ぐらい雄貴と会って食事などしています。
日本フェシング協会会長として現在活躍中。
自分の工夫とアイディアをだしながら進化させるのが好きなようです。
フェンシングを通していろんな方と出会う中でそういったものが培われたのかなと思います。
3人兄弟の末っ子で、いろんな運動が大好きでやっていました。
負けず嫌いなところもありました。
私が高校の時にやっていたので、フェンシングをやってみないかといいました。
私も妻も小学校の教員をやっています。
子どもの笑顔が素敵なので子どもがにこにこしている状態を常に作りたかった。
子どもの気持ちになって考えるという事はしていました。
雄貴は小学校3年生ぐらいからフェンシングを始めました。
やっているとそれなりに結果が出てきました。
初めて6か月ぐらいで3,4年生の部で3年ぐらいやっている子に勝って優勝してしまいました。
そこから突っ走っていったように思います。
本当に自分の好きなところで成長してくれる一つになってくれればいいなあと思いました。
小さいときには僕が教えていましたが、クラブチームにも所属していて、そこのコーチにもしてもらって4年生の後半ぐらいからは、東京のほうに行って教えてもらうようにもなりました。
怪我した時もテーピングして練習したり、熱を出した時にも頭にぬれたタオルを巻いて形だけでもやろうという事でやったりしていました。
小学校3年生の5月1日から4300日休まずに練習してきました。
ドイツに短期留学して、ドイツでは練習しない時をきちっとして、メリハリをつけるという事でそれからしばらく練習を休むという事にしました。
3年続けると本物になっていくと思います。
そうなるともったいないあという事になり続けてきました。
2008年の北京オリンピックで銀メダル、2012年ロンドンオリンピックでの団体銀メダル獲得という事になりました。
高校ぐらいからは当人が一生懸命やりました。
自分が納得できないことはしない、どうしたらいいかを的確に考えてやった結果だと思います。
海外に行くと経費が掛かったし、勉強の時間も取れなくなるので、妻はフェンシングだけやっていていいのかという風な思いもあったようですが、フェンシングを通して人間を作れて海外にも行って、自分と力をいろんな人と比べながら暮らすのもいいのかなあと思って、その場を濁らしたこともありました。
妻はもっと勉強もという思いはあったようです。
高校インターハイを3連覇して、それを妻は見て感動しました。
以後は子供の活動を楽しみにするようになりました。
子育てをやるなかですこしずつ料理をやるようになって、うまいといわれるようになって私がつくるようになってきて、妻のおかげでできるようになりました。
フェンシング以外に注意したのが食事です。
一食10品ぐらい、自分のできる物をうまく組み合わせて料理していきました。
5秒で作る卵焼きを雄貴の奥さんに伝授しました。
子どもの才能を伸ばすためには、早咲き遅咲きがあるので、いろんなことを仕掛けてゆくことは必要かと思います。
子どもの反応をメモしていく。
まず3日やってみる、そうすると1週間は何とかなるが、1か月はちょっと難しいが、1か月過ぎたら大体向いているかどうかがわかる。
褒めることは大事だと思います。
小学校3年生は褒めると勘違いすることもあり、それも方向付けには大事です。
私のレベルは低くて、サービスばっかりしています。
子どもともに活動することで成長する姿を見るのは楽しいと思うので、自分自身を高めるチャレンジをしてもらうことで、子どもも成長させていただければと思います。
2か月に一回ぐらい雄貴と会って食事などしています。
日本フェシング協会会長として現在活躍中。
自分の工夫とアイディアをだしながら進化させるのが好きなようです。
フェンシングを通していろんな方と出会う中でそういったものが培われたのかなと思います。
3人兄弟の末っ子で、いろんな運動が大好きでやっていました。
負けず嫌いなところもありました。
私が高校の時にやっていたので、フェンシングをやってみないかといいました。
私も妻も小学校の教員をやっています。
子どもの笑顔が素敵なので子どもがにこにこしている状態を常に作りたかった。
子どもの気持ちになって考えるという事はしていました。
雄貴は小学校3年生ぐらいからフェンシングを始めました。
やっているとそれなりに結果が出てきました。
初めて6か月ぐらいで3,4年生の部で3年ぐらいやっている子に勝って優勝してしまいました。
そこから突っ走っていったように思います。
本当に自分の好きなところで成長してくれる一つになってくれればいいなあと思いました。
小さいときには僕が教えていましたが、クラブチームにも所属していて、そこのコーチにもしてもらって4年生の後半ぐらいからは、東京のほうに行って教えてもらうようにもなりました。
怪我した時もテーピングして練習したり、熱を出した時にも頭にぬれたタオルを巻いて形だけでもやろうという事でやったりしていました。
小学校3年生の5月1日から4300日休まずに練習してきました。
ドイツに短期留学して、ドイツでは練習しない時をきちっとして、メリハリをつけるという事でそれからしばらく練習を休むという事にしました。
3年続けると本物になっていくと思います。
そうなるともったいないあという事になり続けてきました。
2008年の北京オリンピックで銀メダル、2012年ロンドンオリンピックでの団体銀メダル獲得という事になりました。
高校ぐらいからは当人が一生懸命やりました。
自分が納得できないことはしない、どうしたらいいかを的確に考えてやった結果だと思います。
海外に行くと経費が掛かったし、勉強の時間も取れなくなるので、妻はフェンシングだけやっていていいのかという風な思いもあったようですが、フェンシングを通して人間を作れて海外にも行って、自分と力をいろんな人と比べながら暮らすのもいいのかなあと思って、その場を濁らしたこともありました。
妻はもっと勉強もという思いはあったようです。
高校インターハイを3連覇して、それを妻は見て感動しました。
以後は子供の活動を楽しみにするようになりました。
子育てをやるなかですこしずつ料理をやるようになって、うまいといわれるようになって私がつくるようになってきて、妻のおかげでできるようになりました。
フェンシング以外に注意したのが食事です。
一食10品ぐらい、自分のできる物をうまく組み合わせて料理していきました。
5秒で作る卵焼きを雄貴の奥さんに伝授しました。
子どもの才能を伸ばすためには、早咲き遅咲きがあるので、いろんなことを仕掛けてゆくことは必要かと思います。
子どもの反応をメモしていく。
まず3日やってみる、そうすると1週間は何とかなるが、1か月はちょっと難しいが、1か月過ぎたら大体向いているかどうかがわかる。
褒めることは大事だと思います。
小学校3年生は褒めると勘違いすることもあり、それも方向付けには大事です。
私のレベルは低くて、サービスばっかりしています。
子どもともに活動することで成長する姿を見るのは楽しいと思うので、自分自身を高めるチャレンジをしてもらうことで、子どもも成長させていただければと思います。
2019年7月14日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
奥田佳道(音楽評論家) ・【クラシックの遺伝子】
*ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第5番 第4楽章 「アダージェット」
ブルーノワルター指揮 ウイーンフィル管弦楽団演奏 1931年の録音。
作曲された時期はウイーン時代の「絶頂期」ともみられる期間に当たっている。
マーラーがなくなってから20年後。(マーラーを直接知っていた人たちの演奏)
ハープと弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっている。
19世紀末のウイーンの遺伝子息吹は作曲家にどんな風に伝わて行ったのか?
世紀末 爛熟期が終わりそこから離れてゆく、そういったものを嫌う雰囲気であったり、退廃的な独特な形式美みたいなものが美術の世界でも生まれる。
世紀末 美術界では クリムト 分離派の代表。
1897年はブラームス(63歳)が亡くなりクリムトが分離派を宣言する。(時代の節目)
同年5月ブスタフ・マーラー(36歳)が指揮者としてウイーン宮廷歌劇場にデビューする。(指揮者として頂点に立つ)
*交響曲第3番から第3楽章 ブラームス作曲(50歳)
映画『さよならをもう一度』で有名。
ブラームスはヨハン・シュトラウスと親交があった。
*ヨハン・シュトラウス作曲 ウエーベルン編曲 「宝石のワルツ」
当時としてはインパクトのある編曲だったが、今では古き良き時代のウインナワルツ。
*フランツ・レハール作曲 (世紀転換期の作曲家)「メリー・ウイドウ」「ヴィリアの歌」
「銀の時代」とよばれたウィンナ・オペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となった。
世紀転換期における、レハールには響きに独特の哀愁、かげりがある。
ヘルメス・ベルガー ヴァイオリンの名手、コンサートマスター。
*バレエ 「イベリアの真珠」から「ロマの踊り」
*クライスラーの「ウイーン風小行進曲」
*ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第6番 第1楽章
*ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第5番 第4楽章 「アダージェット」
ブルーノワルター指揮 ウイーンフィル管弦楽団演奏 1931年の録音。
作曲された時期はウイーン時代の「絶頂期」ともみられる期間に当たっている。
マーラーがなくなってから20年後。(マーラーを直接知っていた人たちの演奏)
ハープと弦楽器による第4楽章アダージェットは、ルキノ・ヴィスコンティ監督による1971年の映画『ベニスに死す』(トーマス・マン原作)で使われ、ブームの火付け役を果たしただけでなく、マーラーの音楽の代名詞的存在ともなっている。
19世紀末のウイーンの遺伝子息吹は作曲家にどんな風に伝わて行ったのか?
世紀末 爛熟期が終わりそこから離れてゆく、そういったものを嫌う雰囲気であったり、退廃的な独特な形式美みたいなものが美術の世界でも生まれる。
世紀末 美術界では クリムト 分離派の代表。
1897年はブラームス(63歳)が亡くなりクリムトが分離派を宣言する。(時代の節目)
同年5月ブスタフ・マーラー(36歳)が指揮者としてウイーン宮廷歌劇場にデビューする。(指揮者として頂点に立つ)
*交響曲第3番から第3楽章 ブラームス作曲(50歳)
映画『さよならをもう一度』で有名。
ブラームスはヨハン・シュトラウスと親交があった。
*ヨハン・シュトラウス作曲 ウエーベルン編曲 「宝石のワルツ」
当時としてはインパクトのある編曲だったが、今では古き良き時代のウインナワルツ。
*フランツ・レハール作曲 (世紀転換期の作曲家)「メリー・ウイドウ」「ヴィリアの歌」
「銀の時代」とよばれたウィンナ・オペレッタの第二黄金期を代表する作曲家となった。
世紀転換期における、レハールには響きに独特の哀愁、かげりがある。
ヘルメス・ベルガー ヴァイオリンの名手、コンサートマスター。
*バレエ 「イベリアの真珠」から「ロマの踊り」
*クライスラーの「ウイーン風小行進曲」
*ブスタフ・マーラー作曲 交響曲第6番 第1楽章
2019年7月13日土曜日
谷口美保子(実行委員会 委員長) ・【人ありて、街は生き】都賀川で流された子らを忘れない
谷口美保子(「7月28日を『子どもの命を守る日』に」実行委員会 委員長) ・【人ありて、街は生き】都賀川で流された子らを忘れない
10年前2008年7月28日、神戸市灘区を流れる都賀川が、急な雨で増水し5人が流されて亡くなりました。
極地的に降った大雨でわずか10分ほどの間に川の水位が1m30cmあまり上昇し、川のほとりの親水公園にいた市民に激流が襲いました。
民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。
7月上月上旬、10周年の忍ぶ会を3週間後に迎えて準備が行われていました。
7月28日 当日いい天気でした。
天気予報では大雨とのことだった。
2時ごろ雨が降ってきた。
その後ニュースで子供が流されていることが放送されていた。
亡くなった2人と同じ学童保育に3うちの人ともお世話になっていました。
神戸市灘区の住宅街を南北にを流れる都賀川でした。
六甲山に降った雨を集めて海に一直線に流すような川です。
傾斜が急で長さも1,8kmと短いコンクリートで固められた川です。
雨が降らないときには遊歩道も作られています。
2008年7月28日(月)の朝はとても天気が良かったです。
午後から急に暗くなってそのうちに雷が鳴りだしました。
午後1時55分に大雨洪水警報が出される。
2時20分ごろから雨が降り始め、2時30分過ぎに、52人の人が親水公園で水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
突然の豪雨で川が増水、16人が流されたり取り残されたりして、11人は助かったが、民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。
小学生のふたりは特別支援学級に通ってる児童でサポートのいるお子さんで水遊びに来ていた。
児童生徒は19人、大人は3人という体制だった。
大学生が小学生3人を引率して川下に行きました。
16人を2人の女性(60代と40代)が引率する形になりました。
とりあえず橋の下で雷を避けていたが、危ないので上がろうという事になった。
上がる階段が少なくてそこを目指してゆく。(上流70m先)
そこにたくさんの水が流れてきた。
2人が下流に流される。
一人の指導員が下流に走ったが、大学生は自分の判断で子どもたちを上げた。
大学生は携帯を持っていて上がる旨連絡しようとしたが、二人の指導員は学童保育所に置いて来ていたので連絡は取れなかった。
事故の検証をしたいという事で検証報告ができている。
関西学院大学の室崎教授が担当する。
指摘事項が3つあった。
①堤防の上へ避難する行動開始が遅れた。
行動を開始してから濁流に遭遇するまで2分前後ととても短かった。
②激流が向かってきた時点で16人を引率する指導員が一人しかいなかった。
③子供たちが激流に巻き込まれた時点で救助活動をしたが、力が及ばなかった。
雨が降った時の都賀川の危険性についての認識が指導員にかけていた。
人から警報が出ているといっていただいたのに軽視していたり、真っ黒い雲、雷などの前兆があったにも関わらず見逃していた。
危機意識が弱かった。
自然の危険についての保育所としての学習不足も反省材料であると報告されている。
上流と下流の複数のグループに分かれてしまった。
指導員相互の連絡を携帯電話でせずに隊列を離れたこと、避難時に一人体制になってしまった。
マニュアルがなかった。
検証報告で提示された課題をきちっとこれからやってゆくのが学童の責任ではないかと思います。
自分たちの検証を出してゆくのが亡くなられた家族などに対してできる誠意ではないかと思います。
翌年「7月28日を『子どもの命を守る日』に」という実行委員会を立ち上げる。
体験談、目撃談を集めたり、防災、地質学の専門家を招いて勉強会を開いたり、毎年小冊子にまとめてきました。
親水公園の整備自体に問題を投げかけた専門家もいました。
都会の中を一気に水を流し込む水路に、後から親水公園にして、増水時の警報も設置されていなかった。
取り残されるという事故がその前にもいくつか発生していた。
昭和13年には阪神大水害があり都賀川を含めて氾濫して、約700名の方がなくなっている。
昭和42年にも亡くなった方が84人という水害がありました。
天気のいい時には本当に穏やかな川に見えてしまう。
阪神淡路大震災の時にその水を使ったという身近な川というふうに感じられた。
この二つが恐怖を抱かなくなった要因かと思います。
ユニークな警報装置、注意書き設置、上がれるような場所、はしごなども作られました。
危険が高まってるというアンテナ、想像する力というものを身につけないといけないと思います。
10年前2008年7月28日、神戸市灘区を流れる都賀川が、急な雨で増水し5人が流されて亡くなりました。
極地的に降った大雨でわずか10分ほどの間に川の水位が1m30cmあまり上昇し、川のほとりの親水公園にいた市民に激流が襲いました。
民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。
7月上月上旬、10周年の忍ぶ会を3週間後に迎えて準備が行われていました。
7月28日 当日いい天気でした。
天気予報では大雨とのことだった。
2時ごろ雨が降ってきた。
その後ニュースで子供が流されていることが放送されていた。
亡くなった2人と同じ学童保育に3うちの人ともお世話になっていました。
神戸市灘区の住宅街を南北にを流れる都賀川でした。
六甲山に降った雨を集めて海に一直線に流すような川です。
傾斜が急で長さも1,8kmと短いコンクリートで固められた川です。
雨が降らないときには遊歩道も作られています。
2008年7月28日(月)の朝はとても天気が良かったです。
午後から急に暗くなってそのうちに雷が鳴りだしました。
午後1時55分に大雨洪水警報が出される。
2時20分ごろから雨が降り始め、2時30分過ぎに、52人の人が親水公園で水遊びやバーベキューを楽しんでいた。
突然の豪雨で川が増水、16人が流されたり取り残されたりして、11人は助かったが、民間の学童保育の指導員に引率された小学生2人、帰宅途中だった20代の女性と保育園児の姪、30代のアルバイト男性の合わせて5人の命が失われました。
小学生のふたりは特別支援学級に通ってる児童でサポートのいるお子さんで水遊びに来ていた。
児童生徒は19人、大人は3人という体制だった。
大学生が小学生3人を引率して川下に行きました。
16人を2人の女性(60代と40代)が引率する形になりました。
とりあえず橋の下で雷を避けていたが、危ないので上がろうという事になった。
上がる階段が少なくてそこを目指してゆく。(上流70m先)
そこにたくさんの水が流れてきた。
2人が下流に流される。
一人の指導員が下流に走ったが、大学生は自分の判断で子どもたちを上げた。
大学生は携帯を持っていて上がる旨連絡しようとしたが、二人の指導員は学童保育所に置いて来ていたので連絡は取れなかった。
事故の検証をしたいという事で検証報告ができている。
関西学院大学の室崎教授が担当する。
指摘事項が3つあった。
①堤防の上へ避難する行動開始が遅れた。
行動を開始してから濁流に遭遇するまで2分前後ととても短かった。
②激流が向かってきた時点で16人を引率する指導員が一人しかいなかった。
③子供たちが激流に巻き込まれた時点で救助活動をしたが、力が及ばなかった。
雨が降った時の都賀川の危険性についての認識が指導員にかけていた。
人から警報が出ているといっていただいたのに軽視していたり、真っ黒い雲、雷などの前兆があったにも関わらず見逃していた。
危機意識が弱かった。
自然の危険についての保育所としての学習不足も反省材料であると報告されている。
上流と下流の複数のグループに分かれてしまった。
指導員相互の連絡を携帯電話でせずに隊列を離れたこと、避難時に一人体制になってしまった。
マニュアルがなかった。
検証報告で提示された課題をきちっとこれからやってゆくのが学童の責任ではないかと思います。
自分たちの検証を出してゆくのが亡くなられた家族などに対してできる誠意ではないかと思います。
翌年「7月28日を『子どもの命を守る日』に」という実行委員会を立ち上げる。
体験談、目撃談を集めたり、防災、地質学の専門家を招いて勉強会を開いたり、毎年小冊子にまとめてきました。
親水公園の整備自体に問題を投げかけた専門家もいました。
都会の中を一気に水を流し込む水路に、後から親水公園にして、増水時の警報も設置されていなかった。
取り残されるという事故がその前にもいくつか発生していた。
昭和13年には阪神大水害があり都賀川を含めて氾濫して、約700名の方がなくなっている。
昭和42年にも亡くなった方が84人という水害がありました。
天気のいい時には本当に穏やかな川に見えてしまう。
阪神淡路大震災の時にその水を使ったという身近な川というふうに感じられた。
この二つが恐怖を抱かなくなった要因かと思います。
ユニークな警報装置、注意書き設置、上がれるような場所、はしごなども作られました。
危険が高まってるというアンテナ、想像する力というものを身につけないといけないと思います。
2019年7月12日金曜日
原田泰治(画家) ・にっぽんのふるさとを描く
原田泰治(画家) ・にっぽんのふるさとを描く
1940年長野県諏訪市生まれ79歳、1歳の時に小児まひにかかり両足が不自由になります。
大学卒業後は故郷諏訪市でグラフィックデザイナーとして仕事をする傍ら、少年時代を過ごした田舎をテーマに絵を描き始めます。
全国各地を取材した詩情豊かな作品は、1982年4月から2年半に渡り全国紙の新聞に掲載されました。
日本から失われつつある故郷の風景や祭り、風物史など後世に残しておきたい風景を描き続ける原田さんに伺います。
諏訪市の看板屋さんの家に生まれる。
兄弟4人で一番下です。
諏訪市から飯田(伊賀良村)に疎開して開拓農民として父は仕事をする。
母親(38歳)は2歳の時に看病疲れで亡くなる。
僕のことを考えてくれたのか、足の悪い新し母親と一緒に飯田で過ごすことになる。
4,5歳のころ動けないので高台の家から風景を眺めていましたが、それが原点になったと思います。(鳥のような俯瞰的な目)
遊び場へ友達に背負ってもらっていったが、動けないので自分で一人で草花など見て遊んでいました。(虫のような目)
見ていていろいろ発見がありました。
四季の移ろいの風景を飽きずに見ることができました。
その後また諏訪に戻ってきて、中学、高校は諏訪で過ごすことになる。
中学では空を描いていて、先生からはあまり描かなくていいから要領がいいと言われて、自信を失い絵は駄目でした。
父の兄弟は12人いて4人は芸術家でした。
叔父さんが銀座でデザインスタジオを20人ぐらい使ってやっていたのでそこへ行けばいいと思っていましたが、もう時代が違うから高校大学に行くべきだと諭されました。
それまで勉強は何にもやっていなかったので、定時制の高校に行くことになりました。
経済的な理由で定時制に来ている人が多くいて優秀でした。
いとこが絵を描いていたので、自分でもやろうと思って定時制に行きながら昼間は絵を描いていたりしました。
全国高校生ポスター募集コンクールがあり、愛鳥週間のポスターで佳作に入って自信がつきました。
6か月後に林野庁の募集があり、全国で2位になりました。(応募は4000点ぐらい)
副賞としてスチール製の本箱が届きました。
美術の道に進もうと決心しました。
デザインは落ちてしまって、油絵をやっていたので洋画へ入ることになりました。
デザインに入りたくてその授業に行きましたが、先生から文句を言われてしまいました。
もう一度デザインの基礎から一生懸命勉強し、いい成績で卒業出来ました。
おじさんの会社に入るわけですが、5か月でやめることになりました。
足が悪いのでラッシュアワーの通勤が厳しかった。
諏訪に戻ることにしましたが、デザインの仕事は何もありませんでした。
23,4歳で結婚して、地方の集落を回って展覧会のPRをしたりしていました。
飯田、諏訪の町から仕事が来るようになって食べていけるようになりました。
新聞にクロアチアの素朴画というものがあり、イワン・ラツコビッチという作家が自分の故郷をこよなく愛して、故郷のために描いている画家いるという事が書いてありました。
自分も故郷を描こうかなあと思って、それが発端で仕事の合間に描くようになりました。
最初は伊賀良村を描きました。
40歳で小学館絵画賞を受賞、故郷を描いたもの。
絵とデザインの両輪で生きて行こうと思いました。
2年後に全国紙の日曜版に紙面の半分を使って絵を掲載する仕事が舞い込んできました。
その後全国を歩いてやってほしいといわれ、文章も書いてほしいといわれました。
最初は文章を書くのが大変でした。
ファンレターが来て、その中に80歳のおばあさんから楽しみにしていますという手紙が来て、そのおばあちゃんのために書こうと書き始めたら文章が良くなってきました。
NHKの「明るい農村」もとても参考になりました。
幼児体験もあり、何でもないようなところを描いていました。
毎週の掲載なので当時睡眠時間は3、4時間ぐらいでした。
写真もたくさん撮りました。
今でも空から描き、その上に段々絵を乗っけていきます。(遠い所から描きます。)
人物には目鼻は描きませんでした。
1年で終わるつもりでしたが、2年やることになり、最終的には2年半になりました。
1998年に原田泰司美術館ができました。
日本っていいなあ、日本の四季はいいなあと思っています。
観光地だけではなくちょっとした集落へ寄ってみるとか、自分で旅を発見する時代になってきているのではないかと思います。
自分の故郷を描く絵画コンクールをやっています。
自分の目には伊賀良村というフィルターがあり、それを通しながら見ているかもしれない。
足が悪いためのそのおかげで限定した世界を見つめ、それでヨーロッパの絵を描いても伊賀良村が出てきます。
人間は掘り下げた故郷の見方をしてゆくと結構絵に忠実にでてくると思います。
自分の故郷を描いているのは少ないと思うので、長野県の合併前の故郷(○○村)を描き残したいという事と、子供たちに絵の楽しさを伝えたいし、障害者のためにバリアーフリーの運動も始めました。
1940年長野県諏訪市生まれ79歳、1歳の時に小児まひにかかり両足が不自由になります。
大学卒業後は故郷諏訪市でグラフィックデザイナーとして仕事をする傍ら、少年時代を過ごした田舎をテーマに絵を描き始めます。
全国各地を取材した詩情豊かな作品は、1982年4月から2年半に渡り全国紙の新聞に掲載されました。
日本から失われつつある故郷の風景や祭り、風物史など後世に残しておきたい風景を描き続ける原田さんに伺います。
諏訪市の看板屋さんの家に生まれる。
兄弟4人で一番下です。
諏訪市から飯田(伊賀良村)に疎開して開拓農民として父は仕事をする。
母親(38歳)は2歳の時に看病疲れで亡くなる。
僕のことを考えてくれたのか、足の悪い新し母親と一緒に飯田で過ごすことになる。
4,5歳のころ動けないので高台の家から風景を眺めていましたが、それが原点になったと思います。(鳥のような俯瞰的な目)
遊び場へ友達に背負ってもらっていったが、動けないので自分で一人で草花など見て遊んでいました。(虫のような目)
見ていていろいろ発見がありました。
四季の移ろいの風景を飽きずに見ることができました。
その後また諏訪に戻ってきて、中学、高校は諏訪で過ごすことになる。
中学では空を描いていて、先生からはあまり描かなくていいから要領がいいと言われて、自信を失い絵は駄目でした。
父の兄弟は12人いて4人は芸術家でした。
叔父さんが銀座でデザインスタジオを20人ぐらい使ってやっていたのでそこへ行けばいいと思っていましたが、もう時代が違うから高校大学に行くべきだと諭されました。
それまで勉強は何にもやっていなかったので、定時制の高校に行くことになりました。
経済的な理由で定時制に来ている人が多くいて優秀でした。
いとこが絵を描いていたので、自分でもやろうと思って定時制に行きながら昼間は絵を描いていたりしました。
全国高校生ポスター募集コンクールがあり、愛鳥週間のポスターで佳作に入って自信がつきました。
6か月後に林野庁の募集があり、全国で2位になりました。(応募は4000点ぐらい)
副賞としてスチール製の本箱が届きました。
美術の道に進もうと決心しました。
デザインは落ちてしまって、油絵をやっていたので洋画へ入ることになりました。
デザインに入りたくてその授業に行きましたが、先生から文句を言われてしまいました。
もう一度デザインの基礎から一生懸命勉強し、いい成績で卒業出来ました。
おじさんの会社に入るわけですが、5か月でやめることになりました。
足が悪いのでラッシュアワーの通勤が厳しかった。
諏訪に戻ることにしましたが、デザインの仕事は何もありませんでした。
23,4歳で結婚して、地方の集落を回って展覧会のPRをしたりしていました。
飯田、諏訪の町から仕事が来るようになって食べていけるようになりました。
新聞にクロアチアの素朴画というものがあり、イワン・ラツコビッチという作家が自分の故郷をこよなく愛して、故郷のために描いている画家いるという事が書いてありました。
自分も故郷を描こうかなあと思って、それが発端で仕事の合間に描くようになりました。
最初は伊賀良村を描きました。
40歳で小学館絵画賞を受賞、故郷を描いたもの。
絵とデザインの両輪で生きて行こうと思いました。
2年後に全国紙の日曜版に紙面の半分を使って絵を掲載する仕事が舞い込んできました。
その後全国を歩いてやってほしいといわれ、文章も書いてほしいといわれました。
最初は文章を書くのが大変でした。
ファンレターが来て、その中に80歳のおばあさんから楽しみにしていますという手紙が来て、そのおばあちゃんのために書こうと書き始めたら文章が良くなってきました。
NHKの「明るい農村」もとても参考になりました。
幼児体験もあり、何でもないようなところを描いていました。
毎週の掲載なので当時睡眠時間は3、4時間ぐらいでした。
写真もたくさん撮りました。
今でも空から描き、その上に段々絵を乗っけていきます。(遠い所から描きます。)
人物には目鼻は描きませんでした。
1年で終わるつもりでしたが、2年やることになり、最終的には2年半になりました。
1998年に原田泰司美術館ができました。
日本っていいなあ、日本の四季はいいなあと思っています。
観光地だけではなくちょっとした集落へ寄ってみるとか、自分で旅を発見する時代になってきているのではないかと思います。
自分の故郷を描く絵画コンクールをやっています。
自分の目には伊賀良村というフィルターがあり、それを通しながら見ているかもしれない。
足が悪いためのそのおかげで限定した世界を見つめ、それでヨーロッパの絵を描いても伊賀良村が出てきます。
人間は掘り下げた故郷の見方をしてゆくと結構絵に忠実にでてくると思います。
自分の故郷を描いているのは少ないと思うので、長野県の合併前の故郷(○○村)を描き残したいという事と、子供たちに絵の楽しさを伝えたいし、障害者のためにバリアーフリーの運動も始めました。
2019年7月11日木曜日
佐野公俊(脳神経外科医) ・目と手で生命(いのち)を吹き込む
佐野公俊(脳神経外科医) ・目と手で生命(いのち)を吹き込む
1945年東京生まれ、母方の祖父と身近にいた叔父がともに医師であったため、子供心に医師へのあこがれを持っていました。
都立戸山高校から慶応義塾大学医学部に進み、脳神経外科を専攻しました。
卒業後1976年に愛知県にある藤田保健衛生大学(現在の藤田医科大学)に赴任し、顕微鏡とCTを用いて数多くの手術を手がけました。
血管の中にできたこぶを取り除く脳動脈瘤手術が4300例、動脈や静脈の奇形を治す手術は300例に上ると言われます。
2010年に藤田医科大学を定年退職した後は、神奈川県にある新川橋病院の副院長に就任し名古屋市と川崎市を行き来しながら、脳外科の手術や外来患者の診察にあたっています。
長年にわたって数多くの手術を手がけてきた佐野さんは手術に向かう時の自分なりの境地に達したといいます。
名古屋に住んでいますが、日曜日の夜名古屋から川崎にきます。
もっと手術を広げようと関東でも仕事をすることを選びました。
川崎では月、火で手術をして水曜は外来を診ます。
外来が終わったら名古屋に戻り、木曜が外来、夕方テニスをして、金曜日が違う病院で外来、午後はいくつかの病院で手術を入れていたところで手術をして、土曜日も病院に行って日曜日はフリーで午後テニスをして夜には川崎に向かいます。
最初は新幹線でしたが荷物が多くて最近は車にしています。
運動をやらないで、仕事をやっていると精神的にも参ってしまいますから。
7月にはブラジルとメキシコの学会に呼ばれて講演を30分ぐらいずつやる事になっています。
藤田保健衛生大学にいたころインドから研修生が来ていて、それがもとでインドとの付き合いが始まりました。
カルカッタで佐野動脈瘤手術学校を作ることになり、ライブで手術を見せて終わった後解説してという事を年に3,4回やっています。
クモ膜下出血になると70%が寝たきりまたは死亡で、30%が軽い後遺症または正常ですので、くも膜下出血になってしまうときついので脳ドックを行うといいと思います。
顕微鏡は持っていけませんが、手術道具は自分の使い慣れたものは持っていきます。
なにはともあれ安全第一で、次に美しい手術を心掛けています。
昭和20年生まれ、前日は東京大空襲だった。
母親の実家が開業医で叔父が医者で、自分自身も医者という職業に憧れていました。
手が器用だったので外科医になりたいと思っていました。
千葉大学と慶應義塾大学に受かったが、慶応義塾大学に行くことにしました。
神経学があり面白いと思って、脳神経外科を選んで、耳鼻科の手術で顕微鏡を使っているのを見て自分が日本で初めての脳神経外科として取り込もうと思っていたら、卒業するころには日本にも用いられるようになりました。
菊池晴彦先生が顕微鏡を持ち込んだ方でした。
携帯の顕微鏡を自費で購入して手術の実力をつけていきました。
藤田保健衛生大学に行くことになりました。
新しくCTが導入され、脳の中が実際に見えることは革命的でした。
昭和50年代は診断、手術も全部スタートラインに全員が立ちました。
手術の回数が圧倒的に増えていきました。
脳動脈瘤手術が4300例を数えることになりました。
年に100回手術をしても45年近くかかる勘定になります。
新しい病院だったので自由に活動できました。
35歳で助教授になり、すごい早かったです。
ギネスにも脳動脈瘤手術の回数で載りました。
当時30時間寝たこともないこともありました。
絵を描くようにしています、写真はある一面しか描けないが絵は裏側も描けます。
注意書き、要点なども書き入れていますが、それを後輩たちが見てくれると継承してくれると思っています。
手術前と手術後を描いています。
予定と結果が同じになっていることが大切です。
手術で脳の血管を止めていないといけないが、15分が限度でそれ以上だと脳が死んでしまうのでクリップを使って、脳に障害を残さないようにします。
以前手術をする時間に遅れそうになってジープで近道を急いだ時に、左前輪を土手のバンクに落としてしまいハンドルを切ると転倒するので、そのまま降りて行ってしまえと思っていたら、一番下に小さいどぶ川があり、乗り越えたが田んぼに突っ込んでしまったが、その直前の瞬間にハンドルのスペースに潜り込んだ。
奇跡的に助かることになりました。
病院に急いで泥だらけの衣服を着替えて、子どもの脳の手術を無事こなしました。
ある時に大量な下血があり、胃を検査したらでかい腫瘍が見つかりました。
腹腔鏡手術が出始めたころだったが、切開して胃を取りだして切り取って縫う方法で行って4日で帰ってきて、そのまま仕事をして、3週間後にはテニスをしました。
自分は守られているというか、神がかり的なこともありました。
神様に、僕の手に乗り移ってくださいという気持ちでやっています。
自分がやってきて得たものを次の世代にバトンタッチするために残しておけば、必ず若者は越えていけると思うので、人類のためには巨象が出てきてほしいので、手や目がしっかりしている間に残していきたい。
「術前に悩むも、術中に迷うことなく、かん?にて6分、けん?にてひぶ?に見極め、手自由にして手に道具合うを忘れ、道具手に合うを知らず、心常にして空、独座大雄峰なり」
という境地ではないかと思います。
独座大雄峰 座禅を組めば雄大な山のごとくになる、顕微鏡の前に座ってそに没頭して雑念がなくなって、自分と手術の中に埋没してその中で自然と手を動かしている、そうしているとそれが一番綺麗な手術に結果的になっている、そういう意味です。
1945年東京生まれ、母方の祖父と身近にいた叔父がともに医師であったため、子供心に医師へのあこがれを持っていました。
都立戸山高校から慶応義塾大学医学部に進み、脳神経外科を専攻しました。
卒業後1976年に愛知県にある藤田保健衛生大学(現在の藤田医科大学)に赴任し、顕微鏡とCTを用いて数多くの手術を手がけました。
血管の中にできたこぶを取り除く脳動脈瘤手術が4300例、動脈や静脈の奇形を治す手術は300例に上ると言われます。
2010年に藤田医科大学を定年退職した後は、神奈川県にある新川橋病院の副院長に就任し名古屋市と川崎市を行き来しながら、脳外科の手術や外来患者の診察にあたっています。
長年にわたって数多くの手術を手がけてきた佐野さんは手術に向かう時の自分なりの境地に達したといいます。
名古屋に住んでいますが、日曜日の夜名古屋から川崎にきます。
もっと手術を広げようと関東でも仕事をすることを選びました。
川崎では月、火で手術をして水曜は外来を診ます。
外来が終わったら名古屋に戻り、木曜が外来、夕方テニスをして、金曜日が違う病院で外来、午後はいくつかの病院で手術を入れていたところで手術をして、土曜日も病院に行って日曜日はフリーで午後テニスをして夜には川崎に向かいます。
最初は新幹線でしたが荷物が多くて最近は車にしています。
運動をやらないで、仕事をやっていると精神的にも参ってしまいますから。
7月にはブラジルとメキシコの学会に呼ばれて講演を30分ぐらいずつやる事になっています。
藤田保健衛生大学にいたころインドから研修生が来ていて、それがもとでインドとの付き合いが始まりました。
カルカッタで佐野動脈瘤手術学校を作ることになり、ライブで手術を見せて終わった後解説してという事を年に3,4回やっています。
クモ膜下出血になると70%が寝たきりまたは死亡で、30%が軽い後遺症または正常ですので、くも膜下出血になってしまうときついので脳ドックを行うといいと思います。
顕微鏡は持っていけませんが、手術道具は自分の使い慣れたものは持っていきます。
なにはともあれ安全第一で、次に美しい手術を心掛けています。
昭和20年生まれ、前日は東京大空襲だった。
母親の実家が開業医で叔父が医者で、自分自身も医者という職業に憧れていました。
手が器用だったので外科医になりたいと思っていました。
千葉大学と慶應義塾大学に受かったが、慶応義塾大学に行くことにしました。
神経学があり面白いと思って、脳神経外科を選んで、耳鼻科の手術で顕微鏡を使っているのを見て自分が日本で初めての脳神経外科として取り込もうと思っていたら、卒業するころには日本にも用いられるようになりました。
菊池晴彦先生が顕微鏡を持ち込んだ方でした。
携帯の顕微鏡を自費で購入して手術の実力をつけていきました。
藤田保健衛生大学に行くことになりました。
新しくCTが導入され、脳の中が実際に見えることは革命的でした。
昭和50年代は診断、手術も全部スタートラインに全員が立ちました。
手術の回数が圧倒的に増えていきました。
脳動脈瘤手術が4300例を数えることになりました。
年に100回手術をしても45年近くかかる勘定になります。
新しい病院だったので自由に活動できました。
35歳で助教授になり、すごい早かったです。
ギネスにも脳動脈瘤手術の回数で載りました。
当時30時間寝たこともないこともありました。
絵を描くようにしています、写真はある一面しか描けないが絵は裏側も描けます。
注意書き、要点なども書き入れていますが、それを後輩たちが見てくれると継承してくれると思っています。
手術前と手術後を描いています。
予定と結果が同じになっていることが大切です。
手術で脳の血管を止めていないといけないが、15分が限度でそれ以上だと脳が死んでしまうのでクリップを使って、脳に障害を残さないようにします。
以前手術をする時間に遅れそうになってジープで近道を急いだ時に、左前輪を土手のバンクに落としてしまいハンドルを切ると転倒するので、そのまま降りて行ってしまえと思っていたら、一番下に小さいどぶ川があり、乗り越えたが田んぼに突っ込んでしまったが、その直前の瞬間にハンドルのスペースに潜り込んだ。
奇跡的に助かることになりました。
病院に急いで泥だらけの衣服を着替えて、子どもの脳の手術を無事こなしました。
ある時に大量な下血があり、胃を検査したらでかい腫瘍が見つかりました。
腹腔鏡手術が出始めたころだったが、切開して胃を取りだして切り取って縫う方法で行って4日で帰ってきて、そのまま仕事をして、3週間後にはテニスをしました。
自分は守られているというか、神がかり的なこともありました。
神様に、僕の手に乗り移ってくださいという気持ちでやっています。
自分がやってきて得たものを次の世代にバトンタッチするために残しておけば、必ず若者は越えていけると思うので、人類のためには巨象が出てきてほしいので、手や目がしっかりしている間に残していきたい。
「術前に悩むも、術中に迷うことなく、かん?にて6分、けん?にてひぶ?に見極め、手自由にして手に道具合うを忘れ、道具手に合うを知らず、心常にして空、独座大雄峰なり」
という境地ではないかと思います。
独座大雄峰 座禅を組めば雄大な山のごとくになる、顕微鏡の前に座ってそに没頭して雑念がなくなって、自分と手術の中に埋没してその中で自然と手を動かしている、そうしているとそれが一番綺麗な手術に結果的になっている、そういう意味です。
2019年7月10日水曜日
安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(2)
安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(2)
1979年からアニメ専門誌で5年連続アニメーター部門 1位があったが、1989年漫画専業となる。
アニメ界が1980年代で随分変わりました。
この世界でやっていけないとかなりはっきり見えてきて、いつかやめようと思って1989年に作った映画を最後にやめました。
メディアがリードして作っていくような空気がうまれました。
一つはオタク化(超マニア的な)、気持ちが悪かった。
もう一つは宮崎アニメが代表すると思うが、メディアが主導して発展してゆく。
「風の谷のナウシカ」1984年に作られて非常にいい作品でした。
宮崎駿、高畑勲氏などは正統派だった。
私の場合はどちらでもなかった。
居心地が悪くなり漫画に転向しました。
古代史にちょっとしたきっかけで興味を持ちました。
ノンフィクションのほうが面白いのではないかと思いました。
印税入ってくる漫画の方がギャラも全然よかった。
「ナムジ」、オオクニヌシノミコトなど日本の国の成り立ちを探る漫画でした。
出雲にも何度も行きました。
同じように「神武」も書きました。
古事記、日本書紀については戦前と戦後では評価ががらりと変わります。
戦前は神話で書いてあることをあたかも歴史のように教わって、信じさせられて、戦後は信用してはいけない、歴史とは全然縁のないものだといわれるようになって、歴史を考えるうえで素材として排除されるが、僕としては両方おかしいのではないかと思います。
何かそれに近い史実があったのではないかと思います。
日本近代史3部作については、現代史は戦争の歴史ですから、古代の神話と現代の戦争を中心にした歴史が物凄く密接に結びついちゃっているという、非常に日本の不思議な形を考えてみたいと思いました。
相変わらず古代の歴史は判らない、天皇陵も調べることができない。
現代史にかかわる事なので両方から攻めてみたいというのがありました。
日清戦争、松本健一さんという思想家で北一輝の研究で有名な方ですが、民主党政権の時に内閣官房参与になって亡くなられましたが、その方にいろいろ教えていただきました。
日本はどこで間違ったのかその方に聞いたら、対華21か条の要求をしたのが、第一次世界大戦中にやったが、これが決定的に間違いのもとだとおっしゃいました。
そこに至る経緯もあっただろうと思いました。
日清戦争あたりからおかしいのではないかと思いました。
勝海舟、明治天皇も反対しましたが、全体としてはいけいけという事で戦争になりそれから間違いだらけのような気がします。
中国と日本が朝鮮を取り合うわけで、その構図も今につながるなあと思います。
日清戦争は非常に大きな対象なのではないかと思いました。
日露戦争から日韓併合あたりまでの日本のありようを書いたのが「天の血脈」です。
ロシアと日本が朝鮮を取り合う構造で、いかに朝鮮という問題が日本にとって大きいか、という事がそこからわかると思います。
古代にさかのぼると、三韓征伐と言われている神話上の事件があります。
これも何かあったのではないかと考えました。
神功皇后(息長帯比売命)が渡来系の部族の出で、神功皇后が海の向こうに国があるから行こうというので、率先して行われるものが三韓征伐というものです。
神功皇后が帰ってきてお子さんを生むが記紀の神話でも月数が合わないと書いてある。
今生むわけにはいかないという事で腹帯を締めて、出産を遅らせて帰ってきてから生んだという非常に面白い表現を神話がしている。
仲哀天皇は遠征前に死んでしまっているので、そこから数えて勘定が合わない。
そういうきわどいことを神話にして昔の人は伝えた。
普通に考えるとお父さんは仲哀天皇ではないと疑うが、昔の人も疑ったんですね、だから腹帯をしめたとかいろいといって、日韓関係が微妙なものだという象徴じゃないかと思っています。
これと日韓併合を結び付けて書くというのは、問題提起になる。
伊藤博文を暗殺した安重根なども出てきます。(暗殺する前の状態ですが)
日本では暗殺者、韓国では英雄となっていますが、決して美化したりはしていません。
テロリストでもなく英雄でもなく描いています。
そういう人が劣情にかられる時代状況があり、その時に間違ったことを日本はしてしまったという事だと思います。
安重根も日本に憧れて日本のように朝鮮を近代化しようと一生懸命頑張った人で、日本に裏切られたと思ってテロに走るわけですから。
おっちょこちょいのところもあり勘違いもしている、皇帝を毒殺したのは伊藤だという風に勘違いもしている。
「虹色のトロツキー」 満州国を舞台にした作品。
日蒙ハーフの主人公 ウムボルト 満州建国大学の学生。
1991年ごろから書き始めました。
満州建国大学へかつていった人たちに取材に行ったときには警戒されましたが、優秀な人たちでした。
「五族協和、王道楽土」新しい国を作るんだという熱意に駆られてで行くわけですが、行ってみると違うという事である種のストライキもするわけです。
彼らの問題意識には打たれるものがあります。
日本では発禁で読めない本も読めるという事で行った人もいたようです。
満州建国大学に行って人生が狂った人もいたが、みんな満州建国大学に行ったことを誇りに思っています。
OBの方もほとんどなくなりましたが、感銘を受けました。
スターリンにトロツキーは暗殺されるが、ガンジーと一緒に満州建国大学の教授に招聘しようとしたらしい。
石原莞爾が創設のきっかけをつくるが、そういうことを考えたらしい。
主人公は「五族協和、王道楽土」の建設を信じて必死に生きていくが大きな歴史の流れに抵抗できなくて埋もれて流されてしまう。
満州国は歴史上の汚点で、侵略的な傀儡国家を作って潰れてしまって、入植者,邦人はたくさんの人がひどい目にあって死んでいって、そう言う間違ったことはしてはいけないという負の歴史一面だけで語られていて、それでは満州で生きた人は浮かばれないのではないか、理想に憧れて実現しようとした人たちの人生があったわけで、肯定的になる必要もないが、その時代に生きた人たちの思いは何だったのかなあという事を考えることはとても大事なことだと思います。
昔の人は間違えて馬鹿だったねというのは違うんで、我々よりもずーっと賢明だったのに間違えた、だからわれわれも十分に間違えるよと思わないといけないという気がします。
「乾と巽」シベリア出兵の話、去年書き始めました。
1918年 100年前にあったこととしてスタートしています。
約100年前に起きたシベリア出兵を舞台に、砲撃の名手である陸軍軍曹・乾と、気鋭の新聞記者・巽という2人の青年を通し、ロシアの戦場を駆け抜けた男たちの生き様が描かれる。
低い目線でその時代にちょっと参加した気分になりたい気がして書き始めました。
これを書ききれれば自分なりに近現代史を書ききれることになります。
歴史は大きな歯車で個人は非常にちいさなもので、それ自体ドラマのような気がします。
大きなうねりと小さな個人は大きなうねりと全く関係ないんじゃなくて、うねり自体は人間が生み出しているもので、それに人間が翻弄される。
人間のかかわりの問題だと思います。
ペンではなく毛筆で描いています。
中国の削用筆を使っています。
アシスタントは次男がやっています。
時代に絡んでゆく、そういう問題意識はどこかでもっていてほしい。
1979年からアニメ専門誌で5年連続アニメーター部門 1位があったが、1989年漫画専業となる。
アニメ界が1980年代で随分変わりました。
この世界でやっていけないとかなりはっきり見えてきて、いつかやめようと思って1989年に作った映画を最後にやめました。
メディアがリードして作っていくような空気がうまれました。
一つはオタク化(超マニア的な)、気持ちが悪かった。
もう一つは宮崎アニメが代表すると思うが、メディアが主導して発展してゆく。
「風の谷のナウシカ」1984年に作られて非常にいい作品でした。
宮崎駿、高畑勲氏などは正統派だった。
私の場合はどちらでもなかった。
居心地が悪くなり漫画に転向しました。
古代史にちょっとしたきっかけで興味を持ちました。
ノンフィクションのほうが面白いのではないかと思いました。
印税入ってくる漫画の方がギャラも全然よかった。
「ナムジ」、オオクニヌシノミコトなど日本の国の成り立ちを探る漫画でした。
出雲にも何度も行きました。
同じように「神武」も書きました。
古事記、日本書紀については戦前と戦後では評価ががらりと変わります。
戦前は神話で書いてあることをあたかも歴史のように教わって、信じさせられて、戦後は信用してはいけない、歴史とは全然縁のないものだといわれるようになって、歴史を考えるうえで素材として排除されるが、僕としては両方おかしいのではないかと思います。
何かそれに近い史実があったのではないかと思います。
日本近代史3部作については、現代史は戦争の歴史ですから、古代の神話と現代の戦争を中心にした歴史が物凄く密接に結びついちゃっているという、非常に日本の不思議な形を考えてみたいと思いました。
相変わらず古代の歴史は判らない、天皇陵も調べることができない。
現代史にかかわる事なので両方から攻めてみたいというのがありました。
日清戦争、松本健一さんという思想家で北一輝の研究で有名な方ですが、民主党政権の時に内閣官房参与になって亡くなられましたが、その方にいろいろ教えていただきました。
日本はどこで間違ったのかその方に聞いたら、対華21か条の要求をしたのが、第一次世界大戦中にやったが、これが決定的に間違いのもとだとおっしゃいました。
そこに至る経緯もあっただろうと思いました。
日清戦争あたりからおかしいのではないかと思いました。
勝海舟、明治天皇も反対しましたが、全体としてはいけいけという事で戦争になりそれから間違いだらけのような気がします。
中国と日本が朝鮮を取り合うわけで、その構図も今につながるなあと思います。
日清戦争は非常に大きな対象なのではないかと思いました。
日露戦争から日韓併合あたりまでの日本のありようを書いたのが「天の血脈」です。
ロシアと日本が朝鮮を取り合う構造で、いかに朝鮮という問題が日本にとって大きいか、という事がそこからわかると思います。
古代にさかのぼると、三韓征伐と言われている神話上の事件があります。
これも何かあったのではないかと考えました。
神功皇后(息長帯比売命)が渡来系の部族の出で、神功皇后が海の向こうに国があるから行こうというので、率先して行われるものが三韓征伐というものです。
神功皇后が帰ってきてお子さんを生むが記紀の神話でも月数が合わないと書いてある。
今生むわけにはいかないという事で腹帯を締めて、出産を遅らせて帰ってきてから生んだという非常に面白い表現を神話がしている。
仲哀天皇は遠征前に死んでしまっているので、そこから数えて勘定が合わない。
そういうきわどいことを神話にして昔の人は伝えた。
普通に考えるとお父さんは仲哀天皇ではないと疑うが、昔の人も疑ったんですね、だから腹帯をしめたとかいろいといって、日韓関係が微妙なものだという象徴じゃないかと思っています。
これと日韓併合を結び付けて書くというのは、問題提起になる。
伊藤博文を暗殺した安重根なども出てきます。(暗殺する前の状態ですが)
日本では暗殺者、韓国では英雄となっていますが、決して美化したりはしていません。
テロリストでもなく英雄でもなく描いています。
そういう人が劣情にかられる時代状況があり、その時に間違ったことを日本はしてしまったという事だと思います。
安重根も日本に憧れて日本のように朝鮮を近代化しようと一生懸命頑張った人で、日本に裏切られたと思ってテロに走るわけですから。
おっちょこちょいのところもあり勘違いもしている、皇帝を毒殺したのは伊藤だという風に勘違いもしている。
「虹色のトロツキー」 満州国を舞台にした作品。
日蒙ハーフの主人公 ウムボルト 満州建国大学の学生。
1991年ごろから書き始めました。
満州建国大学へかつていった人たちに取材に行ったときには警戒されましたが、優秀な人たちでした。
「五族協和、王道楽土」新しい国を作るんだという熱意に駆られてで行くわけですが、行ってみると違うという事である種のストライキもするわけです。
彼らの問題意識には打たれるものがあります。
日本では発禁で読めない本も読めるという事で行った人もいたようです。
満州建国大学に行って人生が狂った人もいたが、みんな満州建国大学に行ったことを誇りに思っています。
OBの方もほとんどなくなりましたが、感銘を受けました。
スターリンにトロツキーは暗殺されるが、ガンジーと一緒に満州建国大学の教授に招聘しようとしたらしい。
石原莞爾が創設のきっかけをつくるが、そういうことを考えたらしい。
主人公は「五族協和、王道楽土」の建設を信じて必死に生きていくが大きな歴史の流れに抵抗できなくて埋もれて流されてしまう。
満州国は歴史上の汚点で、侵略的な傀儡国家を作って潰れてしまって、入植者,邦人はたくさんの人がひどい目にあって死んでいって、そう言う間違ったことはしてはいけないという負の歴史一面だけで語られていて、それでは満州で生きた人は浮かばれないのではないか、理想に憧れて実現しようとした人たちの人生があったわけで、肯定的になる必要もないが、その時代に生きた人たちの思いは何だったのかなあという事を考えることはとても大事なことだと思います。
昔の人は間違えて馬鹿だったねというのは違うんで、我々よりもずーっと賢明だったのに間違えた、だからわれわれも十分に間違えるよと思わないといけないという気がします。
「乾と巽」シベリア出兵の話、去年書き始めました。
1918年 100年前にあったこととしてスタートしています。
約100年前に起きたシベリア出兵を舞台に、砲撃の名手である陸軍軍曹・乾と、気鋭の新聞記者・巽という2人の青年を通し、ロシアの戦場を駆け抜けた男たちの生き様が描かれる。
低い目線でその時代にちょっと参加した気分になりたい気がして書き始めました。
これを書ききれれば自分なりに近現代史を書ききれることになります。
歴史は大きな歯車で個人は非常にちいさなもので、それ自体ドラマのような気がします。
大きなうねりと小さな個人は大きなうねりと全く関係ないんじゃなくて、うねり自体は人間が生み出しているもので、それに人間が翻弄される。
人間のかかわりの問題だと思います。
ペンではなく毛筆で描いています。
中国の削用筆を使っています。
アシスタントは次男がやっています。
時代に絡んでゆく、そういう問題意識はどこかでもっていてほしい。
2019年7月9日火曜日
安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)
安彦良和(漫画家・アニメーションディレクター)・漫画・アニメで描く「戦争」と「人間」(1)
北海道遠軽町出身71歳、今年放送開始40周年を迎えた「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人です。
1979年に放送が始まった「機動戦士ガンダム」、様々なシリーズや劇場用映画がつくられ膨大な数のグッズを含め、日本を代表するコンテンツつの一つになっています。
安彦さんはアニメーターとして人気絶頂の時に漫画家に転身しました。
日本の近代史を検証する作品や日本の古代史の謎に挑む歴史漫画などを数多く描き、その流麗なタッチと抜群の構成力が高く評価されています。
「機動戦士ガンダム」のストーリーは、人口が増えて人類の半数が宇宙に移住した未来が舞台で、宇宙植民地スペースコロニーに住んで独立を求めるジオン公国と地球連邦軍との戦いを描いていて、戦いに巻き込まれて成長してゆく少年少女たちの物語。
安彦さんはキャラクターデザイン、アニメーションディレクターを担当する。
キャラクターデザインはロボット、船などをデザインした人は別で、僕がデザインしたのは人物のキャラクターです。
アニメーションディレクターは作画監督と日本語に訳してもいいです。
作画をする人は何人もいて、統一感を持たせなくては行けなくて、あとで直しを行います。
シナリオがつまらなかったらケチをつけたりするなど幅があります。
1979年4月から放送が始まり、劇場用映画、新シリーズなどが制作され、関連商品の売り上げが年間700~800億円と一つの産業になっている。
放送が始まってすぐに一部の若い年代層から反応がありました。
放送時間が5時30分からで視聴率は惨憺たるものでした。
52話のシリーズが43話で中止になりました。
監督などはがっかりしていましたが、現場は一杯一杯だったので僕はよかったと思いました。
中止が決まったちょっとあとにダウンして入院してしまいました。
肋膜の病気で半年入院しました、過労だったと思います。
突然発作が起きて呼吸ができなくなり、それが繰り返され、死ぬんじゃないかと思いました。
「機動戦士ガンダム」は物語が従来と違ってかなりリアルにできています。
戦争で主人公たちは一般の青少年、一般の市民の設定であり当時としてはちょっと考えられなかった。
主人公のアムロ・」レイは内向的で友達付き合いもうまくなくて喧嘩すると弱いとか設定が従来と違っていた。
古谷徹さんが声優としてオーディションを受けたそうです。
輸送船を設定、難民も収容する。
テーマはと聞かれたらありませんと言っていたが、なぜ戦争ってしてしまうのだろうと思って、人間って分かり合えたほうがいいよなあと後で考えたことですね。
1989年に漫画家に転向。
30年近くたって機動戦士ガンダムの総監督になる。
1991年からガンダムを漫画で描きなおす作業を3年と思っていたが10年かかりました。
ジオン公国の過去、どうして戦争になってしまったんだろうと思って、過去編を書かなければいけないと思ったりして10年かかってしまいました。
過去編の部分だけでも映像化しようとなったのは2013,4年のころでした。
その関係で総監督になることになりました。
生まれは北海道の遠軽町です。
当時人口は2万人ぐらいで大きかった。(大合併してもいまは2万人です)
はっかを作る農家の子どもでした。
よそのこと遊ぶのは苦手で絵を描くのは好きでした。
古いマンガ本を郵便屋さんを介してもらって読むのがうれしかったです。
将来は漫画家に成れたらいいなあと思っていました。(中学時代)
高校は遠軽高校で人前ではしゃべる事ができなかったが、ひょんなことで生徒会長などもやりました。
高校3年の時に政治的な問題に見ざめてベトナム戦争が拡大していった時期でした。
小人数のグループで紙に書いて文化祭に貼り出したりしました。
ノートに2冊分の漫画があり、スペイン内戦を描いたものでした。(高校3年の時)
大学は弘前大学に行きました。(内地にいきたいという思いがありました。)
全共闘的な組織を先頭に立って立ち上ようという流れになりました。
ヘルメットをかぶってとか、演説などもやりませんでした。
当時学生は3000人ぐらいでしたが、全共闘派の活動家は50人もいなかったと思います。
1969年の秋に大学本部の封鎖をやって1か月もしないで機動隊が解除しましたが、その首謀者という事で除籍処分という事になりました、5人退学になりその一人になりました。
あてもなく東京に出てきました。
挫折していたので労働者にもなれなかった。
最初は写植屋さんをやりましたが、新聞に虫プロの求人広告があり、受けてみたら受かることができました。
大学ノート2冊に描いたものを持っていったらそれが良かったのかもしれません。
入社当時社員は300人ぐらいいましたが73年ぐらいに倒産しました。
残党が散らばって、演出家、アニネーターがつくったグループと、中間管理者のグループがありそこの会社に仕事をもらいに行ってそれから付き合いが続いています。
「宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテを描いてほしいとの要請がありました。
「宇宙戦艦ヤマト」の半分ぐらいをやりました。
映画版の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の絵コンテをやって、あといろいろやりました。
仕事はすごく混んでいました。
1989年漫画家になる。
2019年7月8日月曜日
穂村 弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子
穂村 弘(歌人) ・【ほむほむのふむふむ】歌人 東 直子
(ちょっとまとめずらい内容でした。流れが見えにくいかと思います。)
(短歌の文字、漢字は違っているかもしれません)
「回転ドアは順番に」 穂村、東 共著
東:1990年代の後半ぐらいに穂村さんとのメールでの短歌やり取りを始めました。
穂村:メールでの短歌のやり取りを編集したり、作り直したり足したりしました。
短歌のやり取りの中で物語が見えてくるようにつくりました。
穂村:「月をみながら迷子になったメリーさんの羊を歌う女を連れて」
東:「笑っちゃうくらい天気が良くて笑ちゃうくらい不味いカレーを食べて」
「笑っちゃうくらい行く当てがなくて笑っちゃうくらい初めての道」
「ねえどこにつながっているのこの夜は」
「永遠の迷子でいたいあかねさす月見バーガー二つください」
穂村:書いたときに恋が盛り上がっていく時は割とすんなり書けたのですが、一番最後まで書けなかったのは出会いのシーンで、初々しい出会いを書きたいがそれが結構難しかったような記憶がある。
東:プロポーズのシーンの歌を作るって言われて苦労しました。
穂村:今読んだところは恋に落ちてゆくところ。
東:読むのは恥ずかしいようなところがありますが、作っているときには別人物、自分ではない人ですよね。
穂村:短歌は恥ずかしいという人は一定数常にいて短歌ウエットなジャルンらしい。
そうなったときにノリノリになってゆくような体質の人が短歌をやるイメージ。
穂村:「回転ドアは順番に」という本にタイトルを決めようとしたときに、「二匹」という案を出したら東さんにそれは絶対いやといわれて、順番に歌をやり取りをするという事で、結局いいタイトルにはなったと思いますが。
互選句
東:「自転車のサドルを高く上げるのが夏を迎える準備のすてべ」(穂村さんの句)
サドルを上げると強く踏むことができて、夏を楽しむぞ、気分を盛り上げて、サドルを上げるという事だけで表現しているのと、文体のリズムの良さ、疾走感があります。
穂村:人工物と季節の組み合わせには自分にはあるのかなあと思うところがあります。
前回の「錆びて行く廃車の山のミラーたち一斉に空映せ十月」での
廃車の山のミラーと空のように。
互選句
穂村:「好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃える湖」(東さんの句)
心の中の景色だと思います。
別れの歌だと思いますが、その人が去るだけではなくて、その人が持っていた世界根こそぎ自分の近くから消えてしまう。
それをカヌーによって表現されている。
夕映えみたいなイメージ、その鮮やかさ、燃える湖。
東:心の深いところにある何らかな心象風景を言葉で置き換えてゆく作業もあってこれはその一種ですね。
互選句
穂村:「そうですか綺麗でしたかわたくしは小鳥を売って暮らしています」(東さんの句)
不思議な後味の歌ですが、何が綺麗でしたかはこの短歌だけではわからない。
東:郷ひろみさんと松田聖子さんは昔恋人同士でしたが、聖子さんが先に結婚してひろみさんのところにインタビュアーが行って「聖子ちゃん綺麗でしたよ」と言ったら、郷ひろみがちょっと躊躇して「そうですか綺麗でしたか」というところをTVで見て、「そうかそう言うしかないか」と同情もありました。
穂村:魂が抜けたような感じで、そこが良くて、「わたくしは小鳥を売って暮らしています」とよくこんな風につけるなあと東さんらしい才能だと思います、失恋があまりにも重くてちょっと浮世離れしてしまった。
東さん好みのシチュエーションですかね。
互選句
東:「まだ好きと不意に尋ねる滑り台に積もった雪の色を見つめて」(穂村さんの句)
「まだ好き」とたった4文字のセリフですが、悲しさがあります。
好きか確認せずにはいられないような、関係が冷えてきたような気持が言わせたんじゃないかと思いますが、その時に見たのが滑り台に積もった雪の感じがなんとも言えない。
細部の設定が妙にリアリティーがあって迫ってきて、すぐに溶けてしまいそうな雪で、先の風景も見せてくれて、変わってゆく関係性を投影されていて好きです。
穂村:実体験ではないですね。
雪の積もった滑り台は本来の機能はできなくなっている。
短歌を作るときの癖になっているのかも。
東:切なさがエネルギーになるという事はありますよね。
互選句
穂村:「花子さんがミカンを三つ買いましたおつりは全部砂に埋めます」(東さんの句)
不思議な短歌です。
お金を砂に埋めてしまうというのは、この世界ではない。
花子さんがいる場所はこの世界とは違う価値軸の体験の世界だという感じがして、そこに変な安らぎみたいなものを感じます。
東:この歌は作ったときに明確に覚えています。
おつりなんてそんなめんどくさいことは考えずに砂に埋めとけばいいと、応援歌のつもりで書きました。
互選句
東:「終バスに二人は眠るむらさきの降りますランプに取り囲まれて」
今にも楽しい時間が終わりを告げようとしている瞬間で、もう降りますという紫色に光るイメージがとてもきれいではかなくて、甘美さとはかなさの両面があると思います。
ポイントは紫色を選んでいるという事だと思います、暖色と寒色の両方はいっている、色の感覚が素晴らしい。
穂村:止まりますと書いてあるが止まりますでは短歌にはならない、降りますランプじゃないと。
東:「水中翼船炎上中」は穂村さんが11年ぶりに本を出されて、長い時間のなかで起こったエピソードを恋愛ではない切り口から時間をテーマにまとめられた歌集でテーマ、世界観が変わってきたのかなと思います。
穂村:東さんの作品が変わってきたという以上に東さんの作り出す世界の受け入れられ方のほうが変わったという印象は僕は持っています。
昔、今日読んだような歌を見た先輩たちはふわふわした童話的な世界だというよう言葉を言っていた記憶があるが、童話っぽいところはあるかもしれないが、別のリアリティーを示しているという事が東さんの作品で浸透してきたような気がします。
。
(ちょっとまとめずらい内容でした。流れが見えにくいかと思います。)
(短歌の文字、漢字は違っているかもしれません)
「回転ドアは順番に」 穂村、東 共著
東:1990年代の後半ぐらいに穂村さんとのメールでの短歌やり取りを始めました。
穂村:メールでの短歌のやり取りを編集したり、作り直したり足したりしました。
短歌のやり取りの中で物語が見えてくるようにつくりました。
穂村:「月をみながら迷子になったメリーさんの羊を歌う女を連れて」
東:「笑っちゃうくらい天気が良くて笑ちゃうくらい不味いカレーを食べて」
「笑っちゃうくらい行く当てがなくて笑っちゃうくらい初めての道」
「ねえどこにつながっているのこの夜は」
「永遠の迷子でいたいあかねさす月見バーガー二つください」
穂村:書いたときに恋が盛り上がっていく時は割とすんなり書けたのですが、一番最後まで書けなかったのは出会いのシーンで、初々しい出会いを書きたいがそれが結構難しかったような記憶がある。
東:プロポーズのシーンの歌を作るって言われて苦労しました。
穂村:今読んだところは恋に落ちてゆくところ。
東:読むのは恥ずかしいようなところがありますが、作っているときには別人物、自分ではない人ですよね。
穂村:短歌は恥ずかしいという人は一定数常にいて短歌ウエットなジャルンらしい。
そうなったときにノリノリになってゆくような体質の人が短歌をやるイメージ。
穂村:「回転ドアは順番に」という本にタイトルを決めようとしたときに、「二匹」という案を出したら東さんにそれは絶対いやといわれて、順番に歌をやり取りをするという事で、結局いいタイトルにはなったと思いますが。
互選句
東:「自転車のサドルを高く上げるのが夏を迎える準備のすてべ」(穂村さんの句)
サドルを上げると強く踏むことができて、夏を楽しむぞ、気分を盛り上げて、サドルを上げるという事だけで表現しているのと、文体のリズムの良さ、疾走感があります。
穂村:人工物と季節の組み合わせには自分にはあるのかなあと思うところがあります。
前回の「錆びて行く廃車の山のミラーたち一斉に空映せ十月」での
廃車の山のミラーと空のように。
互選句
穂村:「好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃える湖」(東さんの句)
心の中の景色だと思います。
別れの歌だと思いますが、その人が去るだけではなくて、その人が持っていた世界根こそぎ自分の近くから消えてしまう。
それをカヌーによって表現されている。
夕映えみたいなイメージ、その鮮やかさ、燃える湖。
東:心の深いところにある何らかな心象風景を言葉で置き換えてゆく作業もあってこれはその一種ですね。
互選句
穂村:「そうですか綺麗でしたかわたくしは小鳥を売って暮らしています」(東さんの句)
不思議な後味の歌ですが、何が綺麗でしたかはこの短歌だけではわからない。
東:郷ひろみさんと松田聖子さんは昔恋人同士でしたが、聖子さんが先に結婚してひろみさんのところにインタビュアーが行って「聖子ちゃん綺麗でしたよ」と言ったら、郷ひろみがちょっと躊躇して「そうですか綺麗でしたか」というところをTVで見て、「そうかそう言うしかないか」と同情もありました。
穂村:魂が抜けたような感じで、そこが良くて、「わたくしは小鳥を売って暮らしています」とよくこんな風につけるなあと東さんらしい才能だと思います、失恋があまりにも重くてちょっと浮世離れしてしまった。
東さん好みのシチュエーションですかね。
互選句
東:「まだ好きと不意に尋ねる滑り台に積もった雪の色を見つめて」(穂村さんの句)
「まだ好き」とたった4文字のセリフですが、悲しさがあります。
好きか確認せずにはいられないような、関係が冷えてきたような気持が言わせたんじゃないかと思いますが、その時に見たのが滑り台に積もった雪の感じがなんとも言えない。
細部の設定が妙にリアリティーがあって迫ってきて、すぐに溶けてしまいそうな雪で、先の風景も見せてくれて、変わってゆく関係性を投影されていて好きです。
穂村:実体験ではないですね。
雪の積もった滑り台は本来の機能はできなくなっている。
短歌を作るときの癖になっているのかも。
東:切なさがエネルギーになるという事はありますよね。
互選句
穂村:「花子さんがミカンを三つ買いましたおつりは全部砂に埋めます」(東さんの句)
不思議な短歌です。
お金を砂に埋めてしまうというのは、この世界ではない。
花子さんがいる場所はこの世界とは違う価値軸の体験の世界だという感じがして、そこに変な安らぎみたいなものを感じます。
東:この歌は作ったときに明確に覚えています。
おつりなんてそんなめんどくさいことは考えずに砂に埋めとけばいいと、応援歌のつもりで書きました。
互選句
東:「終バスに二人は眠るむらさきの降りますランプに取り囲まれて」
今にも楽しい時間が終わりを告げようとしている瞬間で、もう降りますという紫色に光るイメージがとてもきれいではかなくて、甘美さとはかなさの両面があると思います。
ポイントは紫色を選んでいるという事だと思います、暖色と寒色の両方はいっている、色の感覚が素晴らしい。
穂村:止まりますと書いてあるが止まりますでは短歌にはならない、降りますランプじゃないと。
東:「水中翼船炎上中」は穂村さんが11年ぶりに本を出されて、長い時間のなかで起こったエピソードを恋愛ではない切り口から時間をテーマにまとめられた歌集でテーマ、世界観が変わってきたのかなと思います。
穂村:東さんの作品が変わってきたという以上に東さんの作り出す世界の受け入れられ方のほうが変わったという印象は僕は持っています。
昔、今日読んだような歌を見た先輩たちはふわふわした童話的な世界だというよう言葉を言っていた記憶があるが、童話っぽいところはあるかもしれないが、別のリアリティーを示しているという事が東さんの作品で浸透してきたような気がします。
。
2019年7月7日日曜日
小宮和枝(俳優・声優) ・【時代を創った声】
小宮和枝(俳優・声優) ・【時代を創った声】
劇団テアトルエコーで50年近く活動を続けています。
声優にとってやはり芝居が基本だという小宮さんに伺いました。
『ハーイあっこです』のあっこ、『うる星やつら』のラン(2代目)、『ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、『24 -TWENTY FOUR-』の大統領夫人役などを演じる。
小学2年生のころアナウンサーになりたかった。
小学校2年生の時にNHKの東京放送児童劇団に入りました。
正義感が強かった感じです。
中学3年まで児童劇団にいて、高校生の時に週3日集まって勉強しました。
新劇の雑誌に劇団テアトルエコーを見て試験を受けに行きまして通ることができました。
お茶を出したりすべてが手作りで、アットホームな感じのところでした。
当時は声優学校などはなかった時代だったので、劇団に声がかかると実地で、スタジオで勉強するという感じでした。
先輩を見てこうやるんだと見よう見まねでやりました。
声だけの役に対して違和感はなかったです。
若い劇団の人がいますが、夢は声優ですといいますが、顔から上だけと思ったら大間違いですよとは言っていますが。
基本は舞台だと思います。
昔は大先輩がいてテスト、ラストテスト、本番と三回ありますが、その都度アドリブが違う人がいました。
それに対応しなければ行けなくて本当に鍛えられました。
それに見合う返し方も、それを越えてはいけないと思っていました。
1979年にアニメ「金髪のジェニー」で主役をやることになりました。
南北戦争時代のアメリカを舞台にした大農園の娘の話。
見直してみたら透き通ったきれいな声でした。
初めての主役に対しては頑張らなければいけないと思い緊張はしました。
1988年には「いきなりダゴン」、宇宙人のダゴンが昆虫たちと冒険をする物語。
同年『ハーイあっこです』のあっこ役をやる事になりました。
アニメと映画の吹き替えと同じぐらいの割合で仕事をしていました。
映画の吹き替えの時にはまず演技に沿うことを念頭に行うために、映画を凄く細かく見ます。
ガヤ撮り(周りのガヤガヤした声)がありますが、ボキャブラリーの乏しい人は大変です。
ボキャブラリーの乏しい人はがやでも紡いでいけない。
いろんな引き出しを用意していないと、ガヤ一発で分かります。
洋画ではウーピー・ゴールドバーグ、ナンシー・アレン、ベット・ミドラー、キャシー・ベイツなどを担当しています。
洋画の場合はその役者さんの役にエールを送るというか、生き方に同調する、エールを送る。
どういう役でも品が必要だと思うんです、悪役でも下町のおばちゃん風でも品は必要だと思います。
エールを送ると同時にその役者さんと品をさやい?です。(一体となるというのは違う)
距離を保ったうえでのリスペクト(respect)だと思います。
『ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、いじわるをいう性格のきつい役ですが、照れたりするところがかわいい。
アニメでも癖の強いばあさんをやらせていただきますが、語尾でせりふは変わります、ちょっとの溜めでキャラクターを出せます。
普段いろんな方を見て、その人のことをいろいろ想像するので電車の中は楽しくて飽きないです。
20代の後半は急性盲腸になったり、声帯炎になり声が出なくなったりして苦しかったが、代わりの方がいくらでもいるんだと感じました。
そういったことに対して自問自答して苦しかった。
健康でないと何も生まれません。
三味線、長唄、マラソン、ジャズダンスなどやっていて、肺活量は3600ccぐらいあります。
三味線は名取をいただきました。
三味線は勘で引かなければいけないところが面白いです。
歳をとると音域が下がってきますが、長唄をやっていて上の音が下がらずにいてよかったです。
若い人は自分のセリフばかりに神経が行ってしまって、その前後関係とか、人間関係がおろそかになっている方もいます。
心を動かすこと、気持ちをブロックしては駄目だと思います。
劇団テアトルエコーで50年近く活動を続けています。
声優にとってやはり芝居が基本だという小宮さんに伺いました。
『ハーイあっこです』のあっこ、『うる星やつら』のラン(2代目)、『ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、『24 -TWENTY FOUR-』の大統領夫人役などを演じる。
小学2年生のころアナウンサーになりたかった。
小学校2年生の時にNHKの東京放送児童劇団に入りました。
正義感が強かった感じです。
中学3年まで児童劇団にいて、高校生の時に週3日集まって勉強しました。
新劇の雑誌に劇団テアトルエコーを見て試験を受けに行きまして通ることができました。
お茶を出したりすべてが手作りで、アットホームな感じのところでした。
当時は声優学校などはなかった時代だったので、劇団に声がかかると実地で、スタジオで勉強するという感じでした。
先輩を見てこうやるんだと見よう見まねでやりました。
声だけの役に対して違和感はなかったです。
若い劇団の人がいますが、夢は声優ですといいますが、顔から上だけと思ったら大間違いですよとは言っていますが。
基本は舞台だと思います。
昔は大先輩がいてテスト、ラストテスト、本番と三回ありますが、その都度アドリブが違う人がいました。
それに対応しなければ行けなくて本当に鍛えられました。
それに見合う返し方も、それを越えてはいけないと思っていました。
1979年にアニメ「金髪のジェニー」で主役をやることになりました。
南北戦争時代のアメリカを舞台にした大農園の娘の話。
見直してみたら透き通ったきれいな声でした。
初めての主役に対しては頑張らなければいけないと思い緊張はしました。
1988年には「いきなりダゴン」、宇宙人のダゴンが昆虫たちと冒険をする物語。
同年『ハーイあっこです』のあっこ役をやる事になりました。
アニメと映画の吹き替えと同じぐらいの割合で仕事をしていました。
映画の吹き替えの時にはまず演技に沿うことを念頭に行うために、映画を凄く細かく見ます。
ガヤ撮り(周りのガヤガヤした声)がありますが、ボキャブラリーの乏しい人は大変です。
ボキャブラリーの乏しい人はがやでも紡いでいけない。
いろんな引き出しを用意していないと、ガヤ一発で分かります。
洋画ではウーピー・ゴールドバーグ、ナンシー・アレン、ベット・ミドラー、キャシー・ベイツなどを担当しています。
洋画の場合はその役者さんの役にエールを送るというか、生き方に同調する、エールを送る。
どういう役でも品が必要だと思うんです、悪役でも下町のおばちゃん風でも品は必要だと思います。
エールを送ると同時にその役者さんと品をさやい?です。(一体となるというのは違う)
距離を保ったうえでのリスペクト(respect)だと思います。
『ER緊急救命室』のケリー・ウィーバー役、いじわるをいう性格のきつい役ですが、照れたりするところがかわいい。
アニメでも癖の強いばあさんをやらせていただきますが、語尾でせりふは変わります、ちょっとの溜めでキャラクターを出せます。
普段いろんな方を見て、その人のことをいろいろ想像するので電車の中は楽しくて飽きないです。
20代の後半は急性盲腸になったり、声帯炎になり声が出なくなったりして苦しかったが、代わりの方がいくらでもいるんだと感じました。
そういったことに対して自問自答して苦しかった。
健康でないと何も生まれません。
三味線、長唄、マラソン、ジャズダンスなどやっていて、肺活量は3600ccぐらいあります。
三味線は名取をいただきました。
三味線は勘で引かなければいけないところが面白いです。
歳をとると音域が下がってきますが、長唄をやっていて上の音が下がらずにいてよかったです。
若い人は自分のセリフばかりに神経が行ってしまって、その前後関係とか、人間関係がおろそかになっている方もいます。
心を動かすこと、気持ちをブロックしては駄目だと思います。
2019年7月6日土曜日
近藤雄生(ライター) ・吃音もどかしさの中で
近藤雄生(ライター) ・吃音もどかしさの中で
近藤さんは42歳、同じ言葉をくりかえすなどスムーズに話すことができない吃音、近藤さん自身もかつて吃音があり東京大学工学部から大学院に進んだものの、就職を諦めアジア各地で取材をするフリーのライターになりました。
そんな近藤さんの吃音があるきっかけでほとんど解消しました、
日本に帰国した後は吃音をテーマに当事者およそ50人とその家族言語聴覚士などあわせて80人以上に5年をかけて取材、もどかしさの中で生きる吃音の当事者の声と現状を著「吃音 伝えられないもどかしさ」にまとめました。
吃音のある人達の悩みと現状を伺いました。
真剣に悩みだしたのが高校に入った時でしたが、小学校時代からちょっと話しずらいことがありましたが、全く気にはしていませんでした。
駅でお金を両替しようと思った時に急にうまく言えなくてお金を引っ込めたことがあり、そのことがショックで話せないという事を自覚したことがあります。
部活、受験などがあり高校3年生の時にいろんな場面であり、深刻に悩むようになりました。
ファーストフードでの注文時などグループを代表して注文しなくてはいけないときがあるが、しなくても済むような位置に座るとか、いろいろ工夫して隠すために細かいことにすごくエネルギーを使いました。
大学受験の時には面接があるところはやめようと思いました。
名前と受験番号が言えないと思ったので、自分の名前のように言い換えのできない言葉って一番きつかったです。
浪人して精神的にもかなり落ち込んで、心療内科のカウンセリングにも通った時期がありました。
東京大学工学部に入って4年間で直さないといけないと思いました。
原因も判らない、治療法があるわけでもなし、神経質だからなのかと思って、一人旅をしたりして、心境が変わるのではないかと思ったが変わりませんでした。
大学院に行くことになり、自分の席が電話の一番近いところで、電話が鳴ったらどうしようと、集中出来ない時期もありました。
就職はできないだろうし、文章を書きたいという気持ちが出てきていて、理系の道からずれていきました。
旅をすること自体に興味を持って、沢木耕太郎さんなんかの本が好きでノンフィクションを書きたいという気持ちが出てきました。
100万円もっていれば2,3年何とか東南アジアなら物価が安いので何とかなるのではないかと思って、その間にライターとして自立できるかできないかやってみようと思いました。
オーストラリアで知り合って付き合っていた彼女がいて、彼女も旅が好きで、結婚してその3か月後に一緒に旅に出ました。
最初はオーストラリアに行きました。
英語で話す時には言いずらい言葉があると会話が続かないという事もありましたが、英語でしゃべれなくても、英語は判らないんだと思ってもらえる気持ちの楽さがありました。
そういったことは海外では気楽で居心地がよかったです。
オーストラリアではボランティアしたり、車を買って7000km旅をして半年いて、そこから東ティモールに行きました。
そこからインドネシア,シンガポール、マレーシア、ブルネイと東南アジアを北上し中国まで行って中国に1年間いて、中国の大学に二人で行き中国語を勉強しました。
日常会話はできるようになりました。
ある日を境に吃音が出なくなりました。
そこから何かがかわって話しやすくなりました。
いろんな国を旅をしている中で複合的な内面的な変化によって、自分の中で抱えたプレッシャー、緊張感みたいなものが薄まったのかもしれません。(推測)
吃音のある人は100人に一人と言われています。
2~5歳で20人に一人発症するといわれていますが、成長の過程で8割ぐらいが治ってゆくといわれます。
100万人がいるといわれます。
吃音には3種類があり①連発、②難発(冒頭の言葉が出ない)、③深発(意図せずに伸びてしまう)。
連発から始まって重くなると難発になりしゃべれなくなってくる。
脳の研究が進んできて脳のどこかに原因となるものがあるのではとか、遺伝的な要因があって、それに環境が合わさった結果起きるといわれるが、詳しいことは判らないといわれます。
私の本の中に高橋さんという方が出てきます。
高橋さんは吃音がひどくて高校時代にはいじめにあい、高校を中退して自殺未遂をされるということがあった方です。
10年ぐらい引きこもりで、話さない仕事をしながら、娘さんと二人で暮らしている。
高橋さんとはNHKのある番組で6年前に知り合いました。
訓練をされて、話しやすい話し方をする手法を身に付けることができました。
基本的にはゆっくり話すことを軸にして、訓練をして身に付ける。
言語聴覚士が指導しましたが、その方も吃音があった方でした。
その方は自分で考えて直した方法で、その方法で訓練をしました。
彼は警察官で吃音が原因で殉職しようという思いまで至った方で、結局吃音がもとで警察官をやめてしまいました。
いろいろ職業を変えてきたが、結局言語聴覚士の学校に通って、自分で治す方法を考えていったそうです。
特別な方法ではないが、効果があったのは彼の熱意があったからだった、と高橋さんは言っています。
北海道で看護師をしていたかたはお会いしたことはないのですが、自死されてしまったという方がいました。
ご家族、友達とお会いして彼のことも書いています。
警察官になりたくて7年間挑戦したが駄目で、34歳で看護師になり4か月後に自死してしまいます。
彼の友達からするととても明るいという事でしたが、周りからとのギャップがあることをこの本から伝えたかった。
吃音の人と話をする時には急かせないという事はありますが、こういったマニュアルというようなものはないと思います。
相手が何をしてほしいんだろうと真剣に考えて、吃音のあるなしにかかわらず、相手と向き合う時に人と人が思いやってコミュニケーションをするという事が大事だと思います。
信頼関係が大事だと思います。
近藤さんは42歳、同じ言葉をくりかえすなどスムーズに話すことができない吃音、近藤さん自身もかつて吃音があり東京大学工学部から大学院に進んだものの、就職を諦めアジア各地で取材をするフリーのライターになりました。
そんな近藤さんの吃音があるきっかけでほとんど解消しました、
日本に帰国した後は吃音をテーマに当事者およそ50人とその家族言語聴覚士などあわせて80人以上に5年をかけて取材、もどかしさの中で生きる吃音の当事者の声と現状を著「吃音 伝えられないもどかしさ」にまとめました。
吃音のある人達の悩みと現状を伺いました。
真剣に悩みだしたのが高校に入った時でしたが、小学校時代からちょっと話しずらいことがありましたが、全く気にはしていませんでした。
駅でお金を両替しようと思った時に急にうまく言えなくてお金を引っ込めたことがあり、そのことがショックで話せないという事を自覚したことがあります。
部活、受験などがあり高校3年生の時にいろんな場面であり、深刻に悩むようになりました。
ファーストフードでの注文時などグループを代表して注文しなくてはいけないときがあるが、しなくても済むような位置に座るとか、いろいろ工夫して隠すために細かいことにすごくエネルギーを使いました。
大学受験の時には面接があるところはやめようと思いました。
名前と受験番号が言えないと思ったので、自分の名前のように言い換えのできない言葉って一番きつかったです。
浪人して精神的にもかなり落ち込んで、心療内科のカウンセリングにも通った時期がありました。
東京大学工学部に入って4年間で直さないといけないと思いました。
原因も判らない、治療法があるわけでもなし、神経質だからなのかと思って、一人旅をしたりして、心境が変わるのではないかと思ったが変わりませんでした。
大学院に行くことになり、自分の席が電話の一番近いところで、電話が鳴ったらどうしようと、集中出来ない時期もありました。
就職はできないだろうし、文章を書きたいという気持ちが出てきていて、理系の道からずれていきました。
旅をすること自体に興味を持って、沢木耕太郎さんなんかの本が好きでノンフィクションを書きたいという気持ちが出てきました。
100万円もっていれば2,3年何とか東南アジアなら物価が安いので何とかなるのではないかと思って、その間にライターとして自立できるかできないかやってみようと思いました。
オーストラリアで知り合って付き合っていた彼女がいて、彼女も旅が好きで、結婚してその3か月後に一緒に旅に出ました。
最初はオーストラリアに行きました。
英語で話す時には言いずらい言葉があると会話が続かないという事もありましたが、英語でしゃべれなくても、英語は判らないんだと思ってもらえる気持ちの楽さがありました。
そういったことは海外では気楽で居心地がよかったです。
オーストラリアではボランティアしたり、車を買って7000km旅をして半年いて、そこから東ティモールに行きました。
そこからインドネシア,シンガポール、マレーシア、ブルネイと東南アジアを北上し中国まで行って中国に1年間いて、中国の大学に二人で行き中国語を勉強しました。
日常会話はできるようになりました。
ある日を境に吃音が出なくなりました。
そこから何かがかわって話しやすくなりました。
いろんな国を旅をしている中で複合的な内面的な変化によって、自分の中で抱えたプレッシャー、緊張感みたいなものが薄まったのかもしれません。(推測)
吃音のある人は100人に一人と言われています。
2~5歳で20人に一人発症するといわれていますが、成長の過程で8割ぐらいが治ってゆくといわれます。
100万人がいるといわれます。
吃音には3種類があり①連発、②難発(冒頭の言葉が出ない)、③深発(意図せずに伸びてしまう)。
連発から始まって重くなると難発になりしゃべれなくなってくる。
脳の研究が進んできて脳のどこかに原因となるものがあるのではとか、遺伝的な要因があって、それに環境が合わさった結果起きるといわれるが、詳しいことは判らないといわれます。
私の本の中に高橋さんという方が出てきます。
高橋さんは吃音がひどくて高校時代にはいじめにあい、高校を中退して自殺未遂をされるということがあった方です。
10年ぐらい引きこもりで、話さない仕事をしながら、娘さんと二人で暮らしている。
高橋さんとはNHKのある番組で6年前に知り合いました。
訓練をされて、話しやすい話し方をする手法を身に付けることができました。
基本的にはゆっくり話すことを軸にして、訓練をして身に付ける。
言語聴覚士が指導しましたが、その方も吃音があった方でした。
その方は自分で考えて直した方法で、その方法で訓練をしました。
彼は警察官で吃音が原因で殉職しようという思いまで至った方で、結局吃音がもとで警察官をやめてしまいました。
いろいろ職業を変えてきたが、結局言語聴覚士の学校に通って、自分で治す方法を考えていったそうです。
特別な方法ではないが、効果があったのは彼の熱意があったからだった、と高橋さんは言っています。
北海道で看護師をしていたかたはお会いしたことはないのですが、自死されてしまったという方がいました。
ご家族、友達とお会いして彼のことも書いています。
警察官になりたくて7年間挑戦したが駄目で、34歳で看護師になり4か月後に自死してしまいます。
彼の友達からするととても明るいという事でしたが、周りからとのギャップがあることをこの本から伝えたかった。
吃音の人と話をする時には急かせないという事はありますが、こういったマニュアルというようなものはないと思います。
相手が何をしてほしいんだろうと真剣に考えて、吃音のあるなしにかかわらず、相手と向き合う時に人と人が思いやってコミュニケーションをするという事が大事だと思います。
信頼関係が大事だと思います。
2019年7月5日金曜日
吉澤久子(保育園元園長) ・全力人生~母、園長、そして画家として
吉澤久子(保育園元園長) ・全力人生~母、園長、そして画家として
30歳の時に自ら保育園を立ち上げ園長として勤めてきましたが、60歳の時に突如足が動かなくなり、そのころ絵を描き始めました。
身の回りにある画材を使って自由に描かれる吉澤さんの作品はフランスの著名な画家の目に留まり、2016年モナコ日本芸術祭で芸術創造賞を受賞 、その後ヨーロッパを中心に高い評価を得ています。
二人の息子の母として園長先生として遅咲きの画家として、何事も全力で取り組んできたという吉澤さんにこれまでの歩みを伺いました。
はがき大ぐらいから全部合わせると4000枚を描いています。
人に差し上げたりしています。
保育園の合間にインテリアコーディネーターをしていました。
40歳代前半でした。
「孤高の豹」実際の豹の目などはグリーンではありませんが、豹の絵で目と耳と鼻の部分は色をアレンジしています。
学校を出たら銀行に行って結婚を機に引っ越してきて、まったくの田舎で何にもなくて食べてゆくのにどうしたらいいかわからなかったが、小さな菓子問屋ではたらいていました。
無認可の保育園に1歳の子どもを預けるのに3万円掛かり、給料が5万円で貧乏な生活をしていました。
コンピューターの操作ができたのでやっていたが、仕事の内容に比べて短大で入ってきた人のほうが給料が高くて談判をしましたが駄目でした。
一生懸命勉強して保育士の国家試験を受けることにしました。
一回で全科目合格しました。
保育園を作るにあたっては行政との交渉から銀行との資金繰りなどを何とか行って立ち上げることができました。
新卒者を6人雇いましたが、こちらが変わらないといけないと思って、講習に行ったり、研修を受けたり学んでいきました。
夜に新幹線を使っての大学に行きました。(38歳で入学)
2年間で全科目とって4年の時に卒論を出して卒業式に出ることができました。
若いころは島を含めて日本中いろいろ旅をして歩きました。
子どもに対しては小学校の時には参観日にはいかないし運動会もいかなくてほったらかしでした。
私が仕事ができなくなると食べていけないからという事は子供たちは知っていましたから。
60歳になったら軟骨がすり減って突然歩けなくなりました。
手術をして人工関節の受けをはめ込みましたが、血流が悪くてむくんでしまって歩けないのでしばらく車いす生活をしました。
リハビリを3年間行って、やっと立てるようになり両方に杖をついて歩くようになりました。
ようやく杖なしでも歩けるようになりました。
気分的に解放されて、書道もやっていたが大きな書はかけないし、絵を描こうと思いました。
国内の作品展に出展して落選はありませんでした。
「モナコジャパン」という雑誌の表紙を飾ってるのが私の写真です。
グレー・スケリーの生誕90周年のお祝いの席で配ったものです。
実際に描いたのは2009年で、ボール紙に白いワンピースを着た女性が青いソファーに腰かけて微笑みながらこちらを見ている、という感じです。
フランスの一番大きな古い美術団体の会長(アラン・バザール)から高い評価をしていただきました。
そんなことがあるのかなあと不思議な気持ちでした。
「孤高の豹」が受賞後、海外の作品展に入選しています。
動物、花の作品が多いです。
カバの作品も色使いがカラフルになっています。(スペインでの受賞作品)
保育園にいる時が自分らしく居られるところだと思います。
財産に執着していてもいい人生は送れないと思います、内面が充実しないと思います。
心がめらめらと動く時があるかもしれないが、その時にはちょっと大き目なものに挑戦
してみたいと思います。
今までで一番大きいのが30号ですから。
エンディングノートを書いていて、お墓はいらないと書いています、創設者なのでその石碑があるので、その石碑に私の名前が書いてあるので墓代わりになるので。
葬式もしなくてもいいが、最後に送り出すときには大好きな「真珠採りタンゴ」の曲でもかけてくれれば最高だと書いています。
30歳の時に自ら保育園を立ち上げ園長として勤めてきましたが、60歳の時に突如足が動かなくなり、そのころ絵を描き始めました。
身の回りにある画材を使って自由に描かれる吉澤さんの作品はフランスの著名な画家の目に留まり、2016年モナコ日本芸術祭で芸術創造賞を受賞 、その後ヨーロッパを中心に高い評価を得ています。
二人の息子の母として園長先生として遅咲きの画家として、何事も全力で取り組んできたという吉澤さんにこれまでの歩みを伺いました。
はがき大ぐらいから全部合わせると4000枚を描いています。
人に差し上げたりしています。
保育園の合間にインテリアコーディネーターをしていました。
40歳代前半でした。
「孤高の豹」実際の豹の目などはグリーンではありませんが、豹の絵で目と耳と鼻の部分は色をアレンジしています。
学校を出たら銀行に行って結婚を機に引っ越してきて、まったくの田舎で何にもなくて食べてゆくのにどうしたらいいかわからなかったが、小さな菓子問屋ではたらいていました。
無認可の保育園に1歳の子どもを預けるのに3万円掛かり、給料が5万円で貧乏な生活をしていました。
コンピューターの操作ができたのでやっていたが、仕事の内容に比べて短大で入ってきた人のほうが給料が高くて談判をしましたが駄目でした。
一生懸命勉強して保育士の国家試験を受けることにしました。
一回で全科目合格しました。
保育園を作るにあたっては行政との交渉から銀行との資金繰りなどを何とか行って立ち上げることができました。
新卒者を6人雇いましたが、こちらが変わらないといけないと思って、講習に行ったり、研修を受けたり学んでいきました。
夜に新幹線を使っての大学に行きました。(38歳で入学)
2年間で全科目とって4年の時に卒論を出して卒業式に出ることができました。
若いころは島を含めて日本中いろいろ旅をして歩きました。
子どもに対しては小学校の時には参観日にはいかないし運動会もいかなくてほったらかしでした。
私が仕事ができなくなると食べていけないからという事は子供たちは知っていましたから。
60歳になったら軟骨がすり減って突然歩けなくなりました。
手術をして人工関節の受けをはめ込みましたが、血流が悪くてむくんでしまって歩けないのでしばらく車いす生活をしました。
リハビリを3年間行って、やっと立てるようになり両方に杖をついて歩くようになりました。
ようやく杖なしでも歩けるようになりました。
気分的に解放されて、書道もやっていたが大きな書はかけないし、絵を描こうと思いました。
国内の作品展に出展して落選はありませんでした。
「モナコジャパン」という雑誌の表紙を飾ってるのが私の写真です。
グレー・スケリーの生誕90周年のお祝いの席で配ったものです。
実際に描いたのは2009年で、ボール紙に白いワンピースを着た女性が青いソファーに腰かけて微笑みながらこちらを見ている、という感じです。
フランスの一番大きな古い美術団体の会長(アラン・バザール)から高い評価をしていただきました。
そんなことがあるのかなあと不思議な気持ちでした。
「孤高の豹」が受賞後、海外の作品展に入選しています。
動物、花の作品が多いです。
カバの作品も色使いがカラフルになっています。(スペインでの受賞作品)
保育園にいる時が自分らしく居られるところだと思います。
財産に執着していてもいい人生は送れないと思います、内面が充実しないと思います。
心がめらめらと動く時があるかもしれないが、その時にはちょっと大き目なものに挑戦
してみたいと思います。
今までで一番大きいのが30号ですから。
エンディングノートを書いていて、お墓はいらないと書いています、創設者なのでその石碑があるので、その石碑に私の名前が書いてあるので墓代わりになるので。
葬式もしなくてもいいが、最後に送り出すときには大好きな「真珠採りタンゴ」の曲でもかけてくれれば最高だと書いています。
2019年7月4日木曜日
竹本勝紀(銚子電鉄社長) ・ローカル線の社長は運転士
竹本勝紀(銚子電鉄社長) ・ローカル線の社長は運転士
57歳、もともと税理士で2012年に銚子電鉄の社長に就任しました。
銚子電鉄はこれまでも厳しい経営状態が続き、会社のホームページにぬれせんべいを買ってください、というメッセージを掲げ舞い込んだ注文で危機を乗り切ったこともありました。
竹本さんは社長就任後、こうした状況を乗り切る方策の一つとして、自ら電車の運転免許証を取得することを考え3回目の挑戦で運転免許を取得しました。
銚子電鉄は全長が6、4kmと短いが緑のトンネルといわれるように清々しくて景色が楽しめる路線です。
週末は観光のお客さんが多くて全体の売り上げの7割以上が観光のお客様の収入となっています。
父が税理士を50年やっていて、兄もやっていて私も税理士になりました。
15年ほど前に私の知り合いの弁護士の先生が、銚子電鉄の顧問弁護士を務めていて経営が厳しい鉄道会社があり、会計を見る人がいないので助けてほしいといわれました。
自己破産の申し立てをしたいが裁判所に納める用納金もないとのことでした。
そこからのスタートでした。
銚子市から補助金も受けていましたが、打ち切られてしまいました。
労働組合から借金をしてそこから給料を払うということまでになりました。
社員と一緒にぬれせんべいを売るところから始めました。
以前は京成電鉄のグループにいたが経営悪化で離脱せざるを得なくなり、次に引き受けてくれた会社もバブル崩壊で平成10年につぶれてしまいました。
自助努力でということでぬれせんべいを始めたのが24年前でした。
当時の駅長がぬれせんべいの社長になったことが有名になり一時期ぬれせんべいが凄く売れたこともありましたが、下火になってしまいました。
私はネットで売るしかないと思いました。
オンラインショップを家族全員で対応しました。
一日1万円程度得ましたが、どうにもならない額でした。
悲痛なお願い文、「ぬれせんべい買ってください、電車修理代を稼がなければいけないんです」、と書き込んでそれで大きなブームが生まれました。
当時2億円強から4億2000万円に増えました。(約2倍)
注文がさばききれなくなりました。(バックオーダーを中止しました)
最後の発送が半年後になってしまいました。
預金残高1億円になりましたが、全額債務の充当に充てざるを得なかった。
何とか生き残っていけるとは思いました。
車両が老朽化していたので伊予鉄道から4両の中古車両を買い付けました。
車両1両が12万円でした。
運搬費が3000万円、ワンマン運転の工事とかで全部含めて、4両で1億6000万円
になりました。
銀行からお金を借りました。
顧問税理士になったのが平成17年で、3年後に取締役に就任しました。(ボランティア役員)
東日本大震災によって隣の旭市で津波で亡くなったり、原発事故で風評被害で銚子市では観光客が激減してしまいました。
平成23年度からはまた大赤字になってしまいました。
資金繰りが厳しくなり、運転資金が厳しくなり、どこかの傘下に入るべきとの話もありました。
何度も取締役会を開いて、最終的には私が一時期社長になるということになりました。
傘下に入るためのハンコを押す係が私でした。
しかしその話がたち切れになり、経営改善計画書を出してくれれば新しい資金も出せなくもないということで、千葉県の中小企業再生支援協議会に飛び込んで、支援を受けながらむこう10年の経営改善計画をまとめました。
銚子電鉄の必要性についても議論をしていただきました。
必要だということで市でも支援をしてもらえる結論にいたり、支援が復活しました。
観光資源としても重要だということで県知事にも陳情に行き、県の支援もいただけるようになりました。
国、県、市の協調補助が始まりました。
一旦私の使命も終わったのでやめようと思いましたが、周りから止められて、1年半かけて運賃改定をすることになりました。(平成27年)
端的に言うと運転手が足りなかったし、私が運転手であるという事は経費が掛からない。
同じハンドルを握ることで社員との気持ちの共有ができるのではないか、線路の状況が把握でする、という事もありました。
筆記試験は一回で受かったが、技能試験は3回かかりました。
一回目は完全な準備不足でした。
二回目は出来が良かったが、一か所だけスピードオーバーでした。
スピードメーターは隠されていて見ることができない、15kmで徐行するところを3kmオーバーしてしまっていた。
事故対応などいろいろな試験もあります。
三回目で受かって感慨深いものがあります。
台湾、香港からのお客さんも多く来るようになりました。
顧客第一主義でやっています。
銚子はさばの漁獲量が日本一なのでさばのヘッドマークとして「3843」と書いてサバの絵をあしらって「さばよみ号」として、「この電車内で歳を聞かれたらさばを読んでください」と書いています。
経営はまだ足元が怪しい状況ではいます。
設備投資、修繕など当初補助は全体で2/3でしたが、だんだん減ってきています。
車両の検査費用1両1500万円が全額カット、県も同様で市だけは1/6を堅持してくれています。
ローカル線の使命は地域貢献だと思っています。
57歳、もともと税理士で2012年に銚子電鉄の社長に就任しました。
銚子電鉄はこれまでも厳しい経営状態が続き、会社のホームページにぬれせんべいを買ってください、というメッセージを掲げ舞い込んだ注文で危機を乗り切ったこともありました。
竹本さんは社長就任後、こうした状況を乗り切る方策の一つとして、自ら電車の運転免許証を取得することを考え3回目の挑戦で運転免許を取得しました。
銚子電鉄は全長が6、4kmと短いが緑のトンネルといわれるように清々しくて景色が楽しめる路線です。
週末は観光のお客さんが多くて全体の売り上げの7割以上が観光のお客様の収入となっています。
父が税理士を50年やっていて、兄もやっていて私も税理士になりました。
15年ほど前に私の知り合いの弁護士の先生が、銚子電鉄の顧問弁護士を務めていて経営が厳しい鉄道会社があり、会計を見る人がいないので助けてほしいといわれました。
自己破産の申し立てをしたいが裁判所に納める用納金もないとのことでした。
そこからのスタートでした。
銚子市から補助金も受けていましたが、打ち切られてしまいました。
労働組合から借金をしてそこから給料を払うということまでになりました。
社員と一緒にぬれせんべいを売るところから始めました。
以前は京成電鉄のグループにいたが経営悪化で離脱せざるを得なくなり、次に引き受けてくれた会社もバブル崩壊で平成10年につぶれてしまいました。
自助努力でということでぬれせんべいを始めたのが24年前でした。
当時の駅長がぬれせんべいの社長になったことが有名になり一時期ぬれせんべいが凄く売れたこともありましたが、下火になってしまいました。
私はネットで売るしかないと思いました。
オンラインショップを家族全員で対応しました。
一日1万円程度得ましたが、どうにもならない額でした。
悲痛なお願い文、「ぬれせんべい買ってください、電車修理代を稼がなければいけないんです」、と書き込んでそれで大きなブームが生まれました。
当時2億円強から4億2000万円に増えました。(約2倍)
注文がさばききれなくなりました。(バックオーダーを中止しました)
最後の発送が半年後になってしまいました。
預金残高1億円になりましたが、全額債務の充当に充てざるを得なかった。
何とか生き残っていけるとは思いました。
車両が老朽化していたので伊予鉄道から4両の中古車両を買い付けました。
車両1両が12万円でした。
運搬費が3000万円、ワンマン運転の工事とかで全部含めて、4両で1億6000万円
になりました。
銀行からお金を借りました。
顧問税理士になったのが平成17年で、3年後に取締役に就任しました。(ボランティア役員)
東日本大震災によって隣の旭市で津波で亡くなったり、原発事故で風評被害で銚子市では観光客が激減してしまいました。
平成23年度からはまた大赤字になってしまいました。
資金繰りが厳しくなり、運転資金が厳しくなり、どこかの傘下に入るべきとの話もありました。
何度も取締役会を開いて、最終的には私が一時期社長になるということになりました。
傘下に入るためのハンコを押す係が私でした。
しかしその話がたち切れになり、経営改善計画書を出してくれれば新しい資金も出せなくもないということで、千葉県の中小企業再生支援協議会に飛び込んで、支援を受けながらむこう10年の経営改善計画をまとめました。
銚子電鉄の必要性についても議論をしていただきました。
必要だということで市でも支援をしてもらえる結論にいたり、支援が復活しました。
観光資源としても重要だということで県知事にも陳情に行き、県の支援もいただけるようになりました。
国、県、市の協調補助が始まりました。
一旦私の使命も終わったのでやめようと思いましたが、周りから止められて、1年半かけて運賃改定をすることになりました。(平成27年)
端的に言うと運転手が足りなかったし、私が運転手であるという事は経費が掛からない。
同じハンドルを握ることで社員との気持ちの共有ができるのではないか、線路の状況が把握でする、という事もありました。
筆記試験は一回で受かったが、技能試験は3回かかりました。
一回目は完全な準備不足でした。
二回目は出来が良かったが、一か所だけスピードオーバーでした。
スピードメーターは隠されていて見ることができない、15kmで徐行するところを3kmオーバーしてしまっていた。
事故対応などいろいろな試験もあります。
三回目で受かって感慨深いものがあります。
台湾、香港からのお客さんも多く来るようになりました。
顧客第一主義でやっています。
銚子はさばの漁獲量が日本一なのでさばのヘッドマークとして「3843」と書いてサバの絵をあしらって「さばよみ号」として、「この電車内で歳を聞かれたらさばを読んでください」と書いています。
経営はまだ足元が怪しい状況ではいます。
設備投資、修繕など当初補助は全体で2/3でしたが、だんだん減ってきています。
車両の検査費用1両1500万円が全額カット、県も同様で市だけは1/6を堅持してくれています。
ローカル線の使命は地域貢献だと思っています。
2019年7月3日水曜日
安倍寧(音楽評論家) ・ショービジネスの魅力を語る(2)
安倍寧(音楽評論家) ・ショービジネスの魅力を語る(2)
クラシック以外の音楽、ポピュラー音楽と言われているもの、ジャズ、シャンソン、中南米の音楽など様々あるが、この50年はロックが重要な役割を果たしてきました。
ポピュラーミュージックというものが日本人のエンターテーメントの主流を占めるようになった。
ラジオ、レコード(CDなども含め)も大きな音楽を伝える媒体として無視できない、この二つは音楽を伝える重要な媒体だと思います。
特に1945年以降は音楽が国民のエンターテーメントの大きな流れ、映画と並行してポピュラーミュージックがエンターテーメントの主流という時代があった。
舞台でも全然音楽が入っていないものがあったが段々なじめなくなりました。
大衆音楽が国民的なエンターテーメントの主流になってきて、舞台にも影響を及ぼした。
もともと西洋にはオペラというものがある。
帝劇でオペラを根ざそうとしてローシーがきてやったが、根付かなかった。
浅草にローシーとその一派が流れて行って、浅草オペラができる訳です。
アメリカ映画を通して音楽はシンクロナイズしていた。
チャップリンが有名でした。
マイフェアレディーのピッカリング大佐(軍人で言語学者)を益田喜頓がやったがすごかった。
「益田喜頓」というのはアメリカの喜劇役者のバスターキートンからきている。
映画、舞台の影響を受けて来た。
ミュージカルには浅草出身の人たちが大いに活躍しました。
古川ろっぱ、榎本健一などは浅草出身の喜劇俳優です、こういう人たちが初期のミュージカルを支えていました。
益田喜頓は自然に西洋人になっていたが、無声映画トーキー初期からの時からアメリカの喜劇を学んだ成果なんです。
八波むと志が江利チエミのイライザのお父さん役をやったが抜群でした。
浅草出身でその流れを今辛うじて踏んでいるのが、ビートたけしです。
その前は渥美清です。
越路吹雪は高校の時に見て吃驚したが、宝塚時代から宝塚をちょっとはみ出している(大人っぽかった)といわれていた。
越路吹雪はカルメンをやったが、不良少女のカルメンと書かれたぐらい、宝塚の枠をはみ出していたというのはその新聞批評からも判ります。
越路吹雪は「王様と私」、「南太平洋」などをやっているがもう一つ全体的にしっくりこなかった。
大阪でも「メイム」とかもやっているがスケールがもともと大きい人だったので相手役に恵まれなかった。
ミュージカルをできる俳優が存在しなかったので、喜劇的な俳優を起用することが多かった。
越路吹雪はシャンソンを勉強していた。
シャンソンを輸入したのは宝塚でした。
宝塚ではフランス系のエンターテイメントを輸入していた。
戦後になり、アメリカの兵隊たちが見に来るようになり、越路吹雪はミュージカルナンバーを歌わせたほうがいいんじゃないかというようになる。
進駐軍の兵隊たちが日本ではなかなか手に入らない譜面もあるしレコードもあるので、越路吹雪に届けて勉強しなさいということになる。
ジャズやアメリカのポピュラーソングと越路吹雪の出会いとなる訳です。
越路吹雪には宝塚で培ったシャンソンとアメリカの音楽との二つがあるわけです。
浅利慶太と越路吹雪を紹介して、新しい何かができるのではないかと思いました。
越路のシャンソンリサイタルとミュージカルと二つの花が開きました。
ドイツ、ロシアの演劇を日本に輸入する傾向が強かった。
浅利慶太はそれに抵抗するようにフランス演劇をやろうということで、劇作家のジャン・ジロドゥ、ジャン・アヌイとかそういう人たちのものを紹介した。
私は企画、演目選定、そういう役割をしました。
アメリカではポピュラーミュージックとミュージカルは兄弟のようなものでした。
ヒット曲のもとは実は全部ブロードウエーのショーなんです。
例えばサウンドオブミュージックの「ドレミの歌」ウエストサイドストーリーは「トウ ナイト トウ ナイト」などなど。
劇団四季が転機となったのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」
(聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル 、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲)
ミュージカルの流れからすると異端であった。
作曲家の村井邦彦が「ジーザス・クライスト・スーパースター」のことを教えてくれました。
プロデューサーの一人とあってそこから話が始まりました。
ニューヨークで「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見て、一言でいうと腰が抜けました。
甘美な作品が多かった中で、ジーザスとユダの関係が凄くおもしろかった。
今までのミュージカルでは題材になるような人間関係ではなかった厳しい人間関係が描かれていて、そこにガンガンなるようなロック音楽が寄り添っている。
音楽もロック的な要素とオペラ的な要素が一緒になっている、すべてが新しい。
日本に紹介するということになりました。(1973年)
アメリカでは正当な芸術は何かというと舞台芸術であるというこ
とです。
ブロードウエー=リジッド(Rigid 厳格、正当などの意味)とよばれている。
ディズニーはブロードウエーに参入したいと思った。
自分たちの作ったアニメーションには全部音楽がついている。
「美女と野獣」の音楽は高く評価され、社長のマイケル・アイズナーが先頭に立って、ミュージカルに参入することになる。
「ライオンキング」(ディズニー作品)の大ヒットがでた。(エンターテーメントの王者と女性の前衛演出家ジュリー・テイモアが手を組む)
新しい要素を入れてゆくことが、エンターテーメントの発展してゆくことの重要な要素だと思います。
話題になっている「ハミルトン」 初代財務長官とラップを組み合わせている。
クラシック以外の音楽、ポピュラー音楽と言われているもの、ジャズ、シャンソン、中南米の音楽など様々あるが、この50年はロックが重要な役割を果たしてきました。
ポピュラーミュージックというものが日本人のエンターテーメントの主流を占めるようになった。
ラジオ、レコード(CDなども含め)も大きな音楽を伝える媒体として無視できない、この二つは音楽を伝える重要な媒体だと思います。
特に1945年以降は音楽が国民のエンターテーメントの大きな流れ、映画と並行してポピュラーミュージックがエンターテーメントの主流という時代があった。
舞台でも全然音楽が入っていないものがあったが段々なじめなくなりました。
大衆音楽が国民的なエンターテーメントの主流になってきて、舞台にも影響を及ぼした。
もともと西洋にはオペラというものがある。
帝劇でオペラを根ざそうとしてローシーがきてやったが、根付かなかった。
浅草にローシーとその一派が流れて行って、浅草オペラができる訳です。
アメリカ映画を通して音楽はシンクロナイズしていた。
チャップリンが有名でした。
マイフェアレディーのピッカリング大佐(軍人で言語学者)を益田喜頓がやったがすごかった。
「益田喜頓」というのはアメリカの喜劇役者のバスターキートンからきている。
映画、舞台の影響を受けて来た。
ミュージカルには浅草出身の人たちが大いに活躍しました。
古川ろっぱ、榎本健一などは浅草出身の喜劇俳優です、こういう人たちが初期のミュージカルを支えていました。
益田喜頓は自然に西洋人になっていたが、無声映画トーキー初期からの時からアメリカの喜劇を学んだ成果なんです。
八波むと志が江利チエミのイライザのお父さん役をやったが抜群でした。
浅草出身でその流れを今辛うじて踏んでいるのが、ビートたけしです。
その前は渥美清です。
越路吹雪は高校の時に見て吃驚したが、宝塚時代から宝塚をちょっとはみ出している(大人っぽかった)といわれていた。
越路吹雪はカルメンをやったが、不良少女のカルメンと書かれたぐらい、宝塚の枠をはみ出していたというのはその新聞批評からも判ります。
越路吹雪は「王様と私」、「南太平洋」などをやっているがもう一つ全体的にしっくりこなかった。
大阪でも「メイム」とかもやっているがスケールがもともと大きい人だったので相手役に恵まれなかった。
ミュージカルをできる俳優が存在しなかったので、喜劇的な俳優を起用することが多かった。
越路吹雪はシャンソンを勉強していた。
シャンソンを輸入したのは宝塚でした。
宝塚ではフランス系のエンターテイメントを輸入していた。
戦後になり、アメリカの兵隊たちが見に来るようになり、越路吹雪はミュージカルナンバーを歌わせたほうがいいんじゃないかというようになる。
進駐軍の兵隊たちが日本ではなかなか手に入らない譜面もあるしレコードもあるので、越路吹雪に届けて勉強しなさいということになる。
ジャズやアメリカのポピュラーソングと越路吹雪の出会いとなる訳です。
越路吹雪には宝塚で培ったシャンソンとアメリカの音楽との二つがあるわけです。
浅利慶太と越路吹雪を紹介して、新しい何かができるのではないかと思いました。
越路のシャンソンリサイタルとミュージカルと二つの花が開きました。
ドイツ、ロシアの演劇を日本に輸入する傾向が強かった。
浅利慶太はそれに抵抗するようにフランス演劇をやろうということで、劇作家のジャン・ジロドゥ、ジャン・アヌイとかそういう人たちのものを紹介した。
私は企画、演目選定、そういう役割をしました。
アメリカではポピュラーミュージックとミュージカルは兄弟のようなものでした。
ヒット曲のもとは実は全部ブロードウエーのショーなんです。
例えばサウンドオブミュージックの「ドレミの歌」ウエストサイドストーリーは「トウ ナイト トウ ナイト」などなど。
劇団四季が転機となったのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」
(聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル 、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲)
ミュージカルの流れからすると異端であった。
作曲家の村井邦彦が「ジーザス・クライスト・スーパースター」のことを教えてくれました。
プロデューサーの一人とあってそこから話が始まりました。
ニューヨークで「ジーザス・クライスト・スーパースター」を見て、一言でいうと腰が抜けました。
甘美な作品が多かった中で、ジーザスとユダの関係が凄くおもしろかった。
今までのミュージカルでは題材になるような人間関係ではなかった厳しい人間関係が描かれていて、そこにガンガンなるようなロック音楽が寄り添っている。
音楽もロック的な要素とオペラ的な要素が一緒になっている、すべてが新しい。
日本に紹介するということになりました。(1973年)
アメリカでは正当な芸術は何かというと舞台芸術であるというこ
とです。
ブロードウエー=リジッド(Rigid 厳格、正当などの意味)とよばれている。
ディズニーはブロードウエーに参入したいと思った。
自分たちの作ったアニメーションには全部音楽がついている。
「美女と野獣」の音楽は高く評価され、社長のマイケル・アイズナーが先頭に立って、ミュージカルに参入することになる。
「ライオンキング」(ディズニー作品)の大ヒットがでた。(エンターテーメントの王者と女性の前衛演出家ジュリー・テイモアが手を組む)
新しい要素を入れてゆくことが、エンターテーメントの発展してゆくことの重要な要素だと思います。
話題になっている「ハミルトン」 初代財務長官とラップを組み合わせている。
2019年7月2日火曜日
安倍寧(音楽評論家) ・ショービジネスの魅力を語る(1)
安倍寧(音楽評論家) ・ショービジネスの魅力を語る(1)
静岡県出身86歳.高校生の頃、進駐軍向けラジオ放送と当時東京有楽町にあった日劇のショーに接したことで、ショービジネスとの世界に憧れました。
大学在学中から主に内外のポピュラー音楽やミュージカルについての記事や批評の執筆をつづけてきました。
江利チエミ、越路吹雪、フランク・シナトラなど伝説となったアーティストたちをリアルタイムで見聞きし論じています。
また日本レコード大賞実行委員、審査員を務めたり劇団四季の取締役としてミュージカル公演の企画交渉を担当されました。
現在に至るまで幅広く音楽界で活躍されています。
「王様と私」というのは、ブロードウエーミュージカルの歴史の中で古典的な作品になってしまっている。
王様を演じたのがユル・ブリンナー、迫力のある俳優で。
タイ国の国王、時代は1860年代ぐらいの話、ヨーロッパの列強から圧力を受けて開国しなくてはいけない状況だった。
イギリス人アンナが家庭教師としてもろもろのことを教える。
西洋を代表するアンア、東洋を代表するシャム王の対立と和解の物語、リチャード・ロジャースがミュージカルに仕立てた傑作中の傑作、ブロードウエーで上演されたのが1951年(昭和26年)。
「シャル ウイー ダンス」などは特に有名です。
文化の対立と個人の気持ちが引き合うというロマンスと両方が重なり合うその象徴が「シャル ウイー ダンス」。
いろいろなひとがやったがユル・ブリンナーを越える人はいないが、2015年ニューヨークのリンカーンセンターで再演しようということになった。
シャム王を誰にするか考えたところ、東洋人ということで渡辺謙が起用された。
演出家の仕事はキャスティングで1/3~1/2ぐらいは決まってしまうといっていいぐらい。
こういう新しいシャム王像を作りたいという考えがあって渡辺謙を引っ張って、それなりのことが頭の中にあったと思う。
私が見たときには威風堂々としていました。
舞台がそのまま日本に来ることになりました。
オリジナルキャストを呼ぶ。
渡辺謙はその年のトニー賞のミュージカル男優賞の候補になった。
ノミネートされるということ自体が勲章だと思う。
私は昭和8年静岡県生まれです。(86歳)
東京都立日比谷高等学校を経て慶應義塾大学卒業。
高校時代はみんな好きなことをやっていました。
友人の江藤淳はそのころからエッセー、文芸評論、作曲などもしていました。
慶應義塾文学部に進んで劇団四季の創設者の浅利慶太と出会うことになる。
有楽町に日劇があり日劇ダンシングチームがありスターたちが出演していました。
そこに振付家で出演者でもある益田孝さんがいました。
1951年(昭和26年)「王様と私」が上演され他同じ年に帝劇でミュージカルが上演された。
「モルガンお雪」という作品で益田孝さんが振付家で出演もしていました。
モルガンはアメリカの大富豪の御曹司、お雪は祇園の芸者で実在の人物で、恋をして結婚するという話で実話です。
御曹司を古川ろっぱ、お雪お宝塚の越路吹雪が演じました。
僕の同級生たちの日劇ファンが面白そうだから見に行こうということになりました。
一回見たらもう一回行こうということになりました。
これが私の人生を決定付けたかもしれません。
当時アメリカの音楽が入ってきて、ラジオはNHK、FENでアメリカの音楽が鳴っていて聞いていました。
越路吹雪が「ビギン ザ ビギン」を歌っていました。(コール・ポーター作曲)
日劇、帝劇に行くと日本人が生で歌っていて、ラジオで聞いたアメリカの音楽とうたう日本の歌手との出会いがありました。
そういった歌手は進駐軍のキャンプのクラブで歌ったりしていましたが、日本人向けのコンサートをやっていてそういうものも聞きました。
大学在学中に音楽評論家として仕事をスタートしていました。
ジャーナリズムもまだあまり復活していないような時代でした。
段々新聞も復活してきてスポーツ紙が出始め、芸能関係も取り上げられ映画、歌謡曲なども取り上げられました。
ジャズコンサートなども行われたりして、そういった記事も書くようになりました。
新聞記者のかたから書いてみないかと誘われて、大学4年生のころから書き始めました。
美空ひばりは歌詞もすぐ覚えてしまうし、言葉をキャッチする能力があるので、英語でもずいぶん歌っています。
1963年日本で初めての日本語での「マイ・フェアー・レディー」に江利チエミが主演される。
言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げる。
その花売り娘を江利チエミ、ヒギンズ教授を高島忠夫がやった。
江利チエミは下町育ちなので下町娘をやるのにはぴったりだったが、レディーという雰囲気が身に付けられるか疑問視されたが、見事にこなすことができた。
涙涙のカーテンコールだった。
演出家の菊田一夫さんが初めて日本でやろうということになる。
当時ハリウッドで作られた音楽映画がたくさんあったが、音楽家を主人公にしたものが多く歌、音楽が存分に取り入られていた。
比べるとミュージカル運動の先兵だった菊田さんに批判が向かって、何とか日本のミュージカルをどうしたらいいか考えていて、アメリカで当たった作品を丸ごとやってみたらどうだろうということで、昭和38年9月に上演したのが「マイ・フェアー・レディー」ということです。
1965年から毎年ブロードウエーに行っています。(500本以上か?)
魅力は歌、踊り、芝居そういったものが混然一体となっていて、一つの人生模様を描き出す、その醍醐味ですね。
静岡県出身86歳.高校生の頃、進駐軍向けラジオ放送と当時東京有楽町にあった日劇のショーに接したことで、ショービジネスとの世界に憧れました。
大学在学中から主に内外のポピュラー音楽やミュージカルについての記事や批評の執筆をつづけてきました。
江利チエミ、越路吹雪、フランク・シナトラなど伝説となったアーティストたちをリアルタイムで見聞きし論じています。
また日本レコード大賞実行委員、審査員を務めたり劇団四季の取締役としてミュージカル公演の企画交渉を担当されました。
現在に至るまで幅広く音楽界で活躍されています。
「王様と私」というのは、ブロードウエーミュージカルの歴史の中で古典的な作品になってしまっている。
王様を演じたのがユル・ブリンナー、迫力のある俳優で。
タイ国の国王、時代は1860年代ぐらいの話、ヨーロッパの列強から圧力を受けて開国しなくてはいけない状況だった。
イギリス人アンナが家庭教師としてもろもろのことを教える。
西洋を代表するアンア、東洋を代表するシャム王の対立と和解の物語、リチャード・ロジャースがミュージカルに仕立てた傑作中の傑作、ブロードウエーで上演されたのが1951年(昭和26年)。
「シャル ウイー ダンス」などは特に有名です。
文化の対立と個人の気持ちが引き合うというロマンスと両方が重なり合うその象徴が「シャル ウイー ダンス」。
いろいろなひとがやったがユル・ブリンナーを越える人はいないが、2015年ニューヨークのリンカーンセンターで再演しようということになった。
シャム王を誰にするか考えたところ、東洋人ということで渡辺謙が起用された。
演出家の仕事はキャスティングで1/3~1/2ぐらいは決まってしまうといっていいぐらい。
こういう新しいシャム王像を作りたいという考えがあって渡辺謙を引っ張って、それなりのことが頭の中にあったと思う。
私が見たときには威風堂々としていました。
舞台がそのまま日本に来ることになりました。
オリジナルキャストを呼ぶ。
渡辺謙はその年のトニー賞のミュージカル男優賞の候補になった。
ノミネートされるということ自体が勲章だと思う。
私は昭和8年静岡県生まれです。(86歳)
東京都立日比谷高等学校を経て慶應義塾大学卒業。
高校時代はみんな好きなことをやっていました。
友人の江藤淳はそのころからエッセー、文芸評論、作曲などもしていました。
慶應義塾文学部に進んで劇団四季の創設者の浅利慶太と出会うことになる。
有楽町に日劇があり日劇ダンシングチームがありスターたちが出演していました。
そこに振付家で出演者でもある益田孝さんがいました。
1951年(昭和26年)「王様と私」が上演され他同じ年に帝劇でミュージカルが上演された。
「モルガンお雪」という作品で益田孝さんが振付家で出演もしていました。
モルガンはアメリカの大富豪の御曹司、お雪は祇園の芸者で実在の人物で、恋をして結婚するという話で実話です。
御曹司を古川ろっぱ、お雪お宝塚の越路吹雪が演じました。
僕の同級生たちの日劇ファンが面白そうだから見に行こうということになりました。
一回見たらもう一回行こうということになりました。
これが私の人生を決定付けたかもしれません。
当時アメリカの音楽が入ってきて、ラジオはNHK、FENでアメリカの音楽が鳴っていて聞いていました。
越路吹雪が「ビギン ザ ビギン」を歌っていました。(コール・ポーター作曲)
日劇、帝劇に行くと日本人が生で歌っていて、ラジオで聞いたアメリカの音楽とうたう日本の歌手との出会いがありました。
そういった歌手は進駐軍のキャンプのクラブで歌ったりしていましたが、日本人向けのコンサートをやっていてそういうものも聞きました。
大学在学中に音楽評論家として仕事をスタートしていました。
ジャーナリズムもまだあまり復活していないような時代でした。
段々新聞も復活してきてスポーツ紙が出始め、芸能関係も取り上げられ映画、歌謡曲なども取り上げられました。
ジャズコンサートなども行われたりして、そういった記事も書くようになりました。
新聞記者のかたから書いてみないかと誘われて、大学4年生のころから書き始めました。
美空ひばりは歌詞もすぐ覚えてしまうし、言葉をキャッチする能力があるので、英語でもずいぶん歌っています。
1963年日本で初めての日本語での「マイ・フェアー・レディー」に江利チエミが主演される。
言語学が専門のヒギンズ教授はひょんなことから、下町生まれの粗野で下品な言葉遣い(コックニー英語)の花売り娘イライザをレディに仕立て上げる。
その花売り娘を江利チエミ、ヒギンズ教授を高島忠夫がやった。
江利チエミは下町育ちなので下町娘をやるのにはぴったりだったが、レディーという雰囲気が身に付けられるか疑問視されたが、見事にこなすことができた。
涙涙のカーテンコールだった。
演出家の菊田一夫さんが初めて日本でやろうということになる。
当時ハリウッドで作られた音楽映画がたくさんあったが、音楽家を主人公にしたものが多く歌、音楽が存分に取り入られていた。
比べるとミュージカル運動の先兵だった菊田さんに批判が向かって、何とか日本のミュージカルをどうしたらいいか考えていて、アメリカで当たった作品を丸ごとやってみたらどうだろうということで、昭和38年9月に上演したのが「マイ・フェアー・レディー」ということです。
1965年から毎年ブロードウエーに行っています。(500本以上か?)
魅力は歌、踊り、芝居そういったものが混然一体となっていて、一つの人生模様を描き出す、その醍醐味ですね。