熊谷博子(映像ジャーナリスト) ・【わが心の人】山本作兵衛
明治25年福岡県生まれ、小さいころから筑豊炭田の坑内に入り、炭鉱夫として働いてきました。
60代半ばを過ぎてから子供や孫に炭鉱暮らしを伝えたいと、絵筆を取り自らの体験を描き続けました。
昭和59年亡くなりました。(92歳)
山本作兵衛さんの日記、絵は2011年5月25日に日本で初めてユネスコの世界記憶遺産となり筑豊の人達をびっくりさせました。
熊谷さんは作兵衛さんの絵に魅せられ、作兵衛さんゆかりの人を取材し、映画「作兵衛さんと日本を掘る」を製作しました。
ユネスコの世界記憶遺産は大変なものです。
他には例えばヴェート―べン第9の自筆の楽譜とか、アンネの日記とか、マグナ・カルタとか、フランスの人権宣言とかあり、作兵衛さんの絵、日記が入ったことは大変なことです。
日本では初めてのことです。
炭鉱の記録画です。
当時筑豊炭田に生きた一人の炭鉱夫が描いた赤裸々な労働の姿を描いている。
愛と尊敬を持って描いている。
2000枚以上描いたと言われる。
最初見て吃驚しました。
描き始めたのが60歳半ば過ぎてからです。
一度も専門的な絵の教育は受けたことが無い人でした。
7歳から親に付いて炭鉱に入って行って、小学校もろくすっぽ行けなかった人がこれだけ豊かな世界を描いた。
最初字も書けなかったが、20歳になって自分で漢和辞典を自ら写して字を覚えた。
脳に浮かんだものをそのまま取り出して、手の先などにそのまま伝わって来るような絵です。
絵の後ろ側から音が聞こえてくるような感じです。
本格的に描いたのは60歳半ばからです。
炭鉱の街のありとあらゆるものを描いた。
「母子入坑」が有名です。
振り返る母のまなざしが凄くいいです、筑豊の聖母子像と呼ばれています。
過酷な労働だけれども、女鉱夫の顔に寄って行くと余りにも美しく、艶っぽくてほつれ毛の一本一本まで丁寧に描かれている。
女鉱夫が背中に赤ん坊を背負ってカンテラを口にくわえて、200kgもの箱をズリズリと触りながら支えて行くと言う凄い情景もあったみたいです。
特に夫婦が多かったようです。
筑豊の言い伝えの中に「筑豊の男は女の尻の光で生き伸びてきた」と言う言葉があります。
いくら男が掘っても運ぶ女がいないとお金にはならないわけです。
落盤事故があったらひとたまりも無かったので、どれだけの人が亡くなっていったんだろうということ。
映画「作兵衛さんと日本を掘る」を作ろうと考えて完成まで7年がかりでした。
最初民放局から依頼されて、作兵衛さんのドキュメンタリーを作って欲しいと言われたが、作ったがTVの中ではカットが多くなって作兵衛さんの絵を見せたことにはならないと思って映画を作りました。
作っては直しの繰り返しでした。
作兵衛さんを描いたものは、現在でもあるし未来なんではないかと思いました。
いっときは300余りの大、中、小の炭鉱があったようです。
三池炭鉱は日本最大の炭鉱でしたが、女鉱夫は1930年までいました。
筑豊はそれより延びました。
105歳まで生き延びた女鉱夫に出会う事が出来て話を伺う事が出来ました。
かやのさんから細かな色んな話を聞けました。
上半身裸で短い腰巻で働いて本当に恥ずかしかったと言っていました。
そのうち夫は戦争に取られて、他人の男の人と一緒に働かなくてはいけなくなってかなりきつかったそうです。
最初会ったのが104歳で、立って迎えて下さって「貧乏が一番」と言われて、それが私を鍛えてくれて、「今が一番幸せ」とおっしゃいました。
子供を8人産んで、一人亡くし、戦後貧しさの中で6人もつぎつぎ亡くされ、最期は一人になって、そんな人生だったんで、今が一番幸せでという、その中で色んな方が助けてくれて、長生きしたからこうやってあなた方にも会えたんですよと言われました。
女鉱夫の仕事も他人事ではないと思います。
皮膚感覚であるのはベトナム炭鉱に入って撮影していたことがあり、3日間毎日入って、最期の日に遠くの方に小さい灯りがポツンと見えて、それを見た時にアーこれで生きて帰るんだなあと、思ったんだろうと皮膚感覚で思いました。
最期に表に出るまでは決して安心できる仕事場ではないとつくづく感じました。
鼻の中も耳の中も炭塵で洗っても洗ってもなかなか取れないんです。
ベトナムの人に画集を持って行って見せたんですが、同じだ同じだと叫んでいました。
作兵衛さんの自伝には自分たちの暮らしと言うのはちっとも変っていないと書かれている。
変わったのは表面だけであって、底の方は全く変わらなかったのではないか、炭鉱は日本の縮図のように思えて胸がいっぱいになりますという言葉があります。
作兵衛さんが60歳代になって働いていた山が閉山となり、日本は高度成長をひた走ることになる。
閉山と言う言葉そのものが、おまえたちはいらないと言われている気がして惨めだったと、しかしこれを見たら私たちの労働がこうやって支えてきたんだと、恥でも何でもないから大声で自信を持っていようと思ったとおっしゃいました。
三池は大炭鉱だったので残っているし世界遺産にもなったが、筑豊の場合は全部つぶしてしまった。
その中で炭鉱への差別もあったと思うし、それを言って下さる方もいませんでした。
筑豊にいたとはとは中々言えなかったと言います。
世界記憶遺産になって初めてここっていいんだと言えるようになったと言いますし、世の中も注目してくれる様になってよかったと思います。
作兵衛さんは当時としては女性に対する尊敬が強いんですよ。
だから描く女鉱夫は綺麗で美しい。
作兵衛さんはユーモアもありお酒が好きでした。
「ゴットン節」は筑豊で鉱夫の間で歌われていた歌ですが、ツルハシの音とか石炭を運ぶ車がゴットンと言う音と言うのもあります。
*「ゴットン節」を歌う作兵衛さんの歌
含蓄の深い歌だと思います。
労働って何なんだろう、労働者って何なんだろう、地の底の方からもう一回この国を見つめ直したい、この先を考えたいと言うのが、この映画と作兵衛さんを通した思いです。