頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】向田邦子(2018年2月26日OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/02/blog-post_26.htmlをご覧ください。
2018年12月31日月曜日
2018年12月29日土曜日
笠松泰洋(作曲家) ・音楽はジャンルを超え、国境を越える
笠松泰洋(作曲家) ・音楽はジャンルを超え、国境を越える
1960年福井市生まれ、幼いころから音楽が大好きで、東京大学入学と同事にミュージカル作曲家三善晃さんのもとで作曲を学びました。
現在はジャンルを越えて活躍、演劇では蜷川幸雄さん演出の一連の作品、映画では是枝裕和監督の作品の音楽を担当、年明けに画イギリス、オーストリア、南米で公演を行なう予定です。
生れて初めてピアノを触らせてもらったら、雷のような音がして、習いたいと思って親にねだりました。
小学校2年生のころに、父がLPレコードを聞かせてくれて、「新世界」が良くてよくて毎日聞いていました。
小学校4年位から大笛が一番好きになって、中学に入ったら吹奏楽部があり福井県に3校しかなかったが大笛があり、そこの音楽部に入りました。
中学生2年位の時に曲を作りたくなってメロディーが浮かんで書きとって、作ってみたら、ぴったり二部形式に成っていて、そこにたどり着くのに半年かかりました。
作曲を習いたいと思って、誰に習ったらいいか考えながら高校に行きました。
高校2年の秋に、作曲家三善晃さんの作品をTVで聞いて、不思議な曲だと思いました。
解説を聞いて眼から鱗でした。
高校3年の時に福井でモーツアルトのピアノ協奏曲をやって、ソリストが井上先生でした。
井上先生に相談したら、東京に行って手紙を出したら何とかなるかもしれないと言われて、決心しました。
三善晃先生は桐朋学園の学長で、手掛かりは無くいて、先生の後輩になって対応すれば何とかなるのかなあと思って、本当に一生懸命勉強しました。
入学式の前の直接電話をして話したら会いに来なさいと言うことになって、入学式の前日に先生の家に行って話をして弟子入りしていただきました。
最初の2週間は学校にはいかないで先生の処に行きました。
30代の半ばで蜷川行雄さんの演劇の音楽に起用されることになり、それが大きな転換期でした。
生活費は塾、予備校の英語の先生をして生計を立てました。
大学時代にいくつかアート的な衝撃に出会いました。
蜷川行雄さん、日生劇場でのマクベスの公演は余りに凄くて吃驚しました。
音楽の使い方が全く考えられないものでした。
3年の夏に池袋に行ったら蜷川さんがいて、友人が僕の疑問に対して話を聞いてほしいといったら、気さくに応じてくれました。
マクベスのあんな場面に凄く綺麗な曲を何故取り入れたのかを聞きました。
実は、この曲(リクイエム)が好きで好きでしょうがなくて、この音楽に合わせてあのがマクベスだったと言っていました。
そんなことを聞いてくれたのは君だけだと言って喜んでいました。
蜷川さんとはその後12年ぐらいは一度もお会いしませんでしたが、又池袋でばったり会いました。
テープを送って欲しいといわれて、送ったが、1年後ぐらいに電話があり、仕事がしたいということだった。
「真田広之主演のハムレットの音楽を笠松君に任せるからよろしく」という話でした。
いきなり大きな仕事を任されました。(35歳5月)
カセットテープを聞いてもらったら、気に入ってくれて、出だしの演出を変えると言ってくれました。
最初の3分間で照明、舞台、音楽全部使って勝負を決めると言うか、自分の作品にお客を連れ込む。
蜷川幸雄さんは色んなことに関して本当に学びの連続でした。
三善晃先生に次いで蜷川行雄さんは第二の師匠でした。
琵琶と篳篥(ひちりき)はペルシャの楽器で、中東の方には楽器が残っているという事で一緒に演奏したら面白いのではないかと思いましたので、つてもないままに10日間イースタンブールに行きました。
いろいろダブルリ-ドの楽器を店で探して、30軒ぐらい行って来ました。
蜷川さんの2000年の「グリ-クス」という10時間に及ぶお芝居の音楽の準備でした。
10個のギリシャ劇の話を1時間ずつに縮めて、10話連続で繋がった話でした。
蜷川さんは計算できないことに挑む人で、みんなが考えて一番いいものに作り上げると言うような感じでした。
私は映画音楽、バレエ音楽、合唱曲等ジャンルが広いですが、思わぬところから話があったりします。
是枝さんの映画の音楽も作りたいと思って、是枝さんにこちらから電話をして、会いましょうということになり、「ワンダフルライフ」の音楽に繋がる訳です。
蜷川さんの仕事をすることによって多く人との関わりが出来て、仕事が広がり増えて行きました。
ありとあらゆるるジャンルの事をやりたいです。
音楽がどういう役割を担うかという事を見極めることはとても重要です。
2000年の「グリ-クス」では138曲作りました。
トルコで購入した楽器など使っていて、いつの間にか演奏をするようになりました。
ウード→琵琶の元になる楽器ですが、ヨーロッパではマンドリンになってギターになるわけです。
中東っぽい音楽をする事を3人で始めました。
ピアノのルーツを辿ってて行くとイスラム圏にあるカーヌーンと言う琴で、オルガンの鍵盤をくっつけてみて改良していったらチェンバロの原型なんです。
辿ってゆくとすべての音楽は繋がってると気付きました。
文化庁文化交流士になりましたが、1年以内、1カ月以上海外に行って文化活動をしてきなさいというものです。
すべて自分で活動計画などを立てなくてはいけない。
今後オペラとミュージカルの作曲はやりたいです。
1960年福井市生まれ、幼いころから音楽が大好きで、東京大学入学と同事にミュージカル作曲家三善晃さんのもとで作曲を学びました。
現在はジャンルを越えて活躍、演劇では蜷川幸雄さん演出の一連の作品、映画では是枝裕和監督の作品の音楽を担当、年明けに画イギリス、オーストリア、南米で公演を行なう予定です。
生れて初めてピアノを触らせてもらったら、雷のような音がして、習いたいと思って親にねだりました。
小学校2年生のころに、父がLPレコードを聞かせてくれて、「新世界」が良くてよくて毎日聞いていました。
小学校4年位から大笛が一番好きになって、中学に入ったら吹奏楽部があり福井県に3校しかなかったが大笛があり、そこの音楽部に入りました。
中学生2年位の時に曲を作りたくなってメロディーが浮かんで書きとって、作ってみたら、ぴったり二部形式に成っていて、そこにたどり着くのに半年かかりました。
作曲を習いたいと思って、誰に習ったらいいか考えながら高校に行きました。
高校2年の秋に、作曲家三善晃さんの作品をTVで聞いて、不思議な曲だと思いました。
解説を聞いて眼から鱗でした。
高校3年の時に福井でモーツアルトのピアノ協奏曲をやって、ソリストが井上先生でした。
井上先生に相談したら、東京に行って手紙を出したら何とかなるかもしれないと言われて、決心しました。
三善晃先生は桐朋学園の学長で、手掛かりは無くいて、先生の後輩になって対応すれば何とかなるのかなあと思って、本当に一生懸命勉強しました。
入学式の前の直接電話をして話したら会いに来なさいと言うことになって、入学式の前日に先生の家に行って話をして弟子入りしていただきました。
最初の2週間は学校にはいかないで先生の処に行きました。
30代の半ばで蜷川行雄さんの演劇の音楽に起用されることになり、それが大きな転換期でした。
生活費は塾、予備校の英語の先生をして生計を立てました。
大学時代にいくつかアート的な衝撃に出会いました。
蜷川行雄さん、日生劇場でのマクベスの公演は余りに凄くて吃驚しました。
音楽の使い方が全く考えられないものでした。
3年の夏に池袋に行ったら蜷川さんがいて、友人が僕の疑問に対して話を聞いてほしいといったら、気さくに応じてくれました。
マクベスのあんな場面に凄く綺麗な曲を何故取り入れたのかを聞きました。
実は、この曲(リクイエム)が好きで好きでしょうがなくて、この音楽に合わせてあのがマクベスだったと言っていました。
そんなことを聞いてくれたのは君だけだと言って喜んでいました。
蜷川さんとはその後12年ぐらいは一度もお会いしませんでしたが、又池袋でばったり会いました。
テープを送って欲しいといわれて、送ったが、1年後ぐらいに電話があり、仕事がしたいということだった。
「真田広之主演のハムレットの音楽を笠松君に任せるからよろしく」という話でした。
いきなり大きな仕事を任されました。(35歳5月)
カセットテープを聞いてもらったら、気に入ってくれて、出だしの演出を変えると言ってくれました。
最初の3分間で照明、舞台、音楽全部使って勝負を決めると言うか、自分の作品にお客を連れ込む。
蜷川幸雄さんは色んなことに関して本当に学びの連続でした。
三善晃先生に次いで蜷川行雄さんは第二の師匠でした。
琵琶と篳篥(ひちりき)はペルシャの楽器で、中東の方には楽器が残っているという事で一緒に演奏したら面白いのではないかと思いましたので、つてもないままに10日間イースタンブールに行きました。
いろいろダブルリ-ドの楽器を店で探して、30軒ぐらい行って来ました。
蜷川さんの2000年の「グリ-クス」という10時間に及ぶお芝居の音楽の準備でした。
10個のギリシャ劇の話を1時間ずつに縮めて、10話連続で繋がった話でした。
蜷川さんは計算できないことに挑む人で、みんなが考えて一番いいものに作り上げると言うような感じでした。
私は映画音楽、バレエ音楽、合唱曲等ジャンルが広いですが、思わぬところから話があったりします。
是枝さんの映画の音楽も作りたいと思って、是枝さんにこちらから電話をして、会いましょうということになり、「ワンダフルライフ」の音楽に繋がる訳です。
蜷川さんの仕事をすることによって多く人との関わりが出来て、仕事が広がり増えて行きました。
ありとあらゆるるジャンルの事をやりたいです。
音楽がどういう役割を担うかという事を見極めることはとても重要です。
2000年の「グリ-クス」では138曲作りました。
トルコで購入した楽器など使っていて、いつの間にか演奏をするようになりました。
ウード→琵琶の元になる楽器ですが、ヨーロッパではマンドリンになってギターになるわけです。
中東っぽい音楽をする事を3人で始めました。
ピアノのルーツを辿ってて行くとイスラム圏にあるカーヌーンと言う琴で、オルガンの鍵盤をくっつけてみて改良していったらチェンバロの原型なんです。
辿ってゆくとすべての音楽は繋がってると気付きました。
文化庁文化交流士になりましたが、1年以内、1カ月以上海外に行って文化活動をしてきなさいというものです。
すべて自分で活動計画などを立てなくてはいけない。
今後オペラとミュージカルの作曲はやりたいです。
2018年12月28日金曜日
五味太郎(絵本作家) ・みんな、人生楽しもうぜ! ~2回目
五味太郎(絵本作家) ・みんな、人生楽しもうぜ! ~2回目
1945年東京生まれ73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューされました。
『きんぎょがにげた』、『みんなうんち』、『さる・るるる』など、かくし絵や言葉遊びの要素のある本は特に人気があり、30年来読み繋げられるロングセラーも数多くあります。
先月は絵本の人をテーマに創作の舞台裏、そこに込めた思いを伺いました。
今月は子供をテーマに伺います。
五味太郎さんはこれまで絵本のほかに、「勉強しなければ大丈夫」、「大人問題」、「丈夫な頭と賢い身体になる」等の本を出版され、子育て、教育、子供と学校等についてご自身の思いを語っています。
「改訂版 勉強しなければ大丈夫」を今年出版。
子供とおとなの対立場面がめんどくさいと無意識に思っていたが、絵本を始めて最初にぶつかったのが、子供と大人ということでした。
子供の頃どうでしたかと質問を受けるが、子供をやった覚えが無いんですよ。
だから子供のつもりが無いんだよねと言うのが、前提になっていて、同時にそれぞれなんだよねと思うんです。
絵本は児童書と呼ばれていて、絵本と児童書は全然違うなと思うのが僕の結論です。
児童書は大人が子供に向かって目的を持って書く本だと思う。
簡単に言うと余計な御世話だと思う。
子供にやさしさとかを説くなという感じです。
子供時代、自転車は大人用しかなかったので三角乗りをしていたが、子供用は有難いようだけれども怪しい、ビジネスチャンスなんですね。
子供用に本を作って、ついでに子供を指導し、方向付けをして学ばせてというその位置にあるのが児童書と呼ばれているのが一般だと思う。
児童書の中に絵本っぽいものがあったから、絵本は児童書なんじゃないのかということになった。
今は学校に行ってない子はレイアウトしきれていない子で、アウトサイダーだから、子供は学校にレイアウトして、そのあとは家庭にレイアウトする。
そうじゃないものを真ん中(社会の中間層)は許されなくなった。
面倒を見なくてはいけないと真ん中は思いこむ、その方が真ん中の社会は運営がしやすい。
子供と老人はじゃまなんだよね、ということがどんどん進んで行ってしまった。
チルドレンズブックとフィクチャーブックの判らていない世界のころに入ったものだから、チルドレンズブックの一ジャンルだという形でいうと、打ち合わせなどでぎくしゃくする訳です。
子供達は僕の本に出会うと何を言ってるのか判らなくて、本だと思う様になる。
そうすると単純に信用されるようになる。
絵の場合は単純に自分で読むしかない、試験になじまない。
学校が整備されていないころ、選択肢だらけだったが、余りにも選択肢が無い。
学校に行くしかなくなった。
私は学校って先生の為にあるんだと気がつきました。
食い扶持があるから。
今人格まで、正しい人とか、正しい身体だとか、そこまで管理をするそのステムの中にいるしかない。
個性を伸ばすと言う事も言っているが、そこから脱却できない、次のビジョンが生れてこない。
子供達がハッピーではない、本当に気の毒だと思う。
子供達は体力がないから反乱できない。
生れて良かったなあって思ってほしいと思う。
下の娘は自分のペースが会って乱されるのが好きではない。
学校には行かないと言うから、「オウ」と言うだけだった。
指導欲が無かった、娘から普通の親はもっと厳しく言うとか言っていました。
自分の暮らしが忙しかったが、子供の居所は判っていた。
毎年子供同士が1,2件子供同士の殺し合いがあって、起こり続けていて、本質的に考えようとする気が、社会的に起きないことが不思議でしょうがない。
子供達はつまらない、退屈なんだよね、うろうろするしか無くて、そのうち何がね、というのは簡単な話で、生活がつまらない、多くの子はもしかすると崖っぷちなんじゃないのかなあ。
兵器産業がもうかる、だから戦争が無くなる訳が無い。
被害を受けちゃうのは子供でしょう、女、老人でしょう。
大原則は個だと思う、個についてもっと気楽に慎重にやっておいた方がいいような気がする。
自分の質、自分の個とはどんな質なのだろうと、自己発見できるようなのはどんなシステムが一番いいのかなという事をもっと研究した方がいいと思います。
長い事絵本作家をやってこられたが、気分の整え方、体調等工夫してきたんだと思います。
テニス、チェロ、マージャン上手くなりたいと思う。
ちょっと良くなると、上手くなると、楽しい。
努力、上達、感謝とか高校生とかのころと70歳では文字は同じでも意味が違う。
1945年東京生まれ73歳、工業デザイナーを経て28歳で絵本作家としてデビューされました。
『きんぎょがにげた』、『みんなうんち』、『さる・るるる』など、かくし絵や言葉遊びの要素のある本は特に人気があり、30年来読み繋げられるロングセラーも数多くあります。
先月は絵本の人をテーマに創作の舞台裏、そこに込めた思いを伺いました。
今月は子供をテーマに伺います。
五味太郎さんはこれまで絵本のほかに、「勉強しなければ大丈夫」、「大人問題」、「丈夫な頭と賢い身体になる」等の本を出版され、子育て、教育、子供と学校等についてご自身の思いを語っています。
「改訂版 勉強しなければ大丈夫」を今年出版。
子供とおとなの対立場面がめんどくさいと無意識に思っていたが、絵本を始めて最初にぶつかったのが、子供と大人ということでした。
子供の頃どうでしたかと質問を受けるが、子供をやった覚えが無いんですよ。
だから子供のつもりが無いんだよねと言うのが、前提になっていて、同時にそれぞれなんだよねと思うんです。
絵本は児童書と呼ばれていて、絵本と児童書は全然違うなと思うのが僕の結論です。
児童書は大人が子供に向かって目的を持って書く本だと思う。
簡単に言うと余計な御世話だと思う。
子供にやさしさとかを説くなという感じです。
子供時代、自転車は大人用しかなかったので三角乗りをしていたが、子供用は有難いようだけれども怪しい、ビジネスチャンスなんですね。
子供用に本を作って、ついでに子供を指導し、方向付けをして学ばせてというその位置にあるのが児童書と呼ばれているのが一般だと思う。
児童書の中に絵本っぽいものがあったから、絵本は児童書なんじゃないのかということになった。
今は学校に行ってない子はレイアウトしきれていない子で、アウトサイダーだから、子供は学校にレイアウトして、そのあとは家庭にレイアウトする。
そうじゃないものを真ん中(社会の中間層)は許されなくなった。
面倒を見なくてはいけないと真ん中は思いこむ、その方が真ん中の社会は運営がしやすい。
子供と老人はじゃまなんだよね、ということがどんどん進んで行ってしまった。
チルドレンズブックとフィクチャーブックの判らていない世界のころに入ったものだから、チルドレンズブックの一ジャンルだという形でいうと、打ち合わせなどでぎくしゃくする訳です。
子供達は僕の本に出会うと何を言ってるのか判らなくて、本だと思う様になる。
そうすると単純に信用されるようになる。
絵の場合は単純に自分で読むしかない、試験になじまない。
学校が整備されていないころ、選択肢だらけだったが、余りにも選択肢が無い。
学校に行くしかなくなった。
私は学校って先生の為にあるんだと気がつきました。
食い扶持があるから。
今人格まで、正しい人とか、正しい身体だとか、そこまで管理をするそのステムの中にいるしかない。
個性を伸ばすと言う事も言っているが、そこから脱却できない、次のビジョンが生れてこない。
子供達がハッピーではない、本当に気の毒だと思う。
子供達は体力がないから反乱できない。
生れて良かったなあって思ってほしいと思う。
下の娘は自分のペースが会って乱されるのが好きではない。
学校には行かないと言うから、「オウ」と言うだけだった。
指導欲が無かった、娘から普通の親はもっと厳しく言うとか言っていました。
自分の暮らしが忙しかったが、子供の居所は判っていた。
毎年子供同士が1,2件子供同士の殺し合いがあって、起こり続けていて、本質的に考えようとする気が、社会的に起きないことが不思議でしょうがない。
子供達はつまらない、退屈なんだよね、うろうろするしか無くて、そのうち何がね、というのは簡単な話で、生活がつまらない、多くの子はもしかすると崖っぷちなんじゃないのかなあ。
兵器産業がもうかる、だから戦争が無くなる訳が無い。
被害を受けちゃうのは子供でしょう、女、老人でしょう。
大原則は個だと思う、個についてもっと気楽に慎重にやっておいた方がいいような気がする。
自分の質、自分の個とはどんな質なのだろうと、自己発見できるようなのはどんなシステムが一番いいのかなという事をもっと研究した方がいいと思います。
長い事絵本作家をやってこられたが、気分の整え方、体調等工夫してきたんだと思います。
テニス、チェロ、マージャン上手くなりたいと思う。
ちょっと良くなると、上手くなると、楽しい。
努力、上達、感謝とか高校生とかのころと70歳では文字は同じでも意味が違う。
2018年12月27日木曜日
高田繁(前横浜ベイスターズGM) ・プロ野球への伝言
高田繁(前横浜ベイスターズGM) ・プロ野球への伝言
昭和43年に巨人からデビュー、以来50年に渡りプロ野球の仕事に携わってきましたが、今年を最期にプロ野球界から離れることになりました。
ドラフト会議が最期の仕事になりました。
2011年12月に就任、7年間を振り返ってみると、まず2年間の約束でした。
当時65歳、チーム作りに手を貸しててほしいという事で引き受けました。
結局7年になりました。
現役を経てNHKの解説員、コーチ、監督等、フロント、GMプロ野球の仕事を浪人しないで50年間過ごしてきてこんな幸せな事は無いです。
1945年に疎開先の鹿児島で生まれました。
大阪に戻ってきて、浪商高校、明治大学、ドラフト1位で巨人に入団。
尾崎行雄投手を擁して優勝、大学時代は7シーズン連続ベストナイン(1年秋から)、通産127安打の東京6大学の記録も作る。
昭和43年に巨人からデビュー、いきなりレギュラーに定着して3割、20盗塁以上、新人王、日本シリーズでも活躍して走攻守揃った選手として巨人のV9に貢献、ゴールデングラブ賞を外野手で4回、内野手で2回取る。
5年間3塁をやりましたが、外野の方が自信がありました。
35歳で現役を引退しました。
野球解説の後、日本ハムの監督、巨人のヘッドコーチ、二軍監督、日本ハムのGMを務める。
2008年からはヤクルトスワローズの監督、2010年5月に監督辞任、やりきったなあと思いました。
横浜ベイスターズが誕生して2011年にGMの話が来ました。
監督、選手等のチーム作り編成の仕事を先頭に立って、中心でやると言うことです。
お金のことに関しては専門家が担当するということにはっきりしていました。
フロントがチーム作りをして監督に渡すと言うようなことは日本ではあまりないと思います。
どちらがいいかというと、何とも言えないと思いますが。
監督が変わるとガラッと変わることだけは避けた方がいいと思います。
アメリカと同じような形、フロンがチーム作りをやって欲しいと、日本ハムから言われました。
我々フロントが行って、ファームの選手の育成方法を話し合う。
ダルビッシュの時には一軍にいったら力を出すと思って、ヒルマン監督に強く推薦して、それから彼は1軍に定着しました。
糸井は4年ピッチャーをしましたが、チームで一番足が早いし打撃もいいのでという事で野手に転向した方がいいのではないかと、強く要請しました。
来年の1軍のキャンプには参加できなけらばいらないからと言ったら、あれだけの選手になりました。
イージーフライをミスしていたことがあるが、まさかゴールデングラブ賞を取る選手になろうとは思わなかった。
選手の持っている能力、変更のタイミングが重要です。
なかなか3拍子揃っている選手は少ないが、バッティングがいいから1軍の代打で貢献してくれるのではないかという選手もいます。
日本ハム時代の事をDeNAでも踏襲しています。
東 克樹、阪口 皓亮、今永 昇太、山﨑 康晃、等の選手のプランニング、先発ピッチャーは3人ぐらいしか見あたりませんでした。
今年あたりからは野手も高校生から取りたいと思っています。
マネーゲームの様に選手を取ってと云うよりも、自前で選手を育てて行くことが重要だと思っています。
広島、日本ハムはFAを一人も取っていませんが、強いチームが出来ていますから、それを参考にしたりすると強いチームをつくる面白さがあると思います。
今後はアマチュアを好きな時に行って、教えに行きたいなあと思っています。
庭に野菜、花を植えて育てるのが楽しみです。
野球離れ、我々が子供のころはまずは野球でしたが、今は色々なスポーツがあり、野球人口は少なくなってきていますが、指導者は野球の面白さを教えて行ってほしいと思います。
ファンにサインをするとかも大事ですが、良い内容の試合をすることによって、まだまだ野球は栄えると思います。
昭和43年に巨人からデビュー、以来50年に渡りプロ野球の仕事に携わってきましたが、今年を最期にプロ野球界から離れることになりました。
ドラフト会議が最期の仕事になりました。
2011年12月に就任、7年間を振り返ってみると、まず2年間の約束でした。
当時65歳、チーム作りに手を貸しててほしいという事で引き受けました。
結局7年になりました。
現役を経てNHKの解説員、コーチ、監督等、フロント、GMプロ野球の仕事を浪人しないで50年間過ごしてきてこんな幸せな事は無いです。
1945年に疎開先の鹿児島で生まれました。
大阪に戻ってきて、浪商高校、明治大学、ドラフト1位で巨人に入団。
尾崎行雄投手を擁して優勝、大学時代は7シーズン連続ベストナイン(1年秋から)、通産127安打の東京6大学の記録も作る。
昭和43年に巨人からデビュー、いきなりレギュラーに定着して3割、20盗塁以上、新人王、日本シリーズでも活躍して走攻守揃った選手として巨人のV9に貢献、ゴールデングラブ賞を外野手で4回、内野手で2回取る。
5年間3塁をやりましたが、外野の方が自信がありました。
35歳で現役を引退しました。
野球解説の後、日本ハムの監督、巨人のヘッドコーチ、二軍監督、日本ハムのGMを務める。
2008年からはヤクルトスワローズの監督、2010年5月に監督辞任、やりきったなあと思いました。
横浜ベイスターズが誕生して2011年にGMの話が来ました。
監督、選手等のチーム作り編成の仕事を先頭に立って、中心でやると言うことです。
お金のことに関しては専門家が担当するということにはっきりしていました。
フロントがチーム作りをして監督に渡すと言うようなことは日本ではあまりないと思います。
どちらがいいかというと、何とも言えないと思いますが。
監督が変わるとガラッと変わることだけは避けた方がいいと思います。
アメリカと同じような形、フロンがチーム作りをやって欲しいと、日本ハムから言われました。
我々フロントが行って、ファームの選手の育成方法を話し合う。
ダルビッシュの時には一軍にいったら力を出すと思って、ヒルマン監督に強く推薦して、それから彼は1軍に定着しました。
糸井は4年ピッチャーをしましたが、チームで一番足が早いし打撃もいいのでという事で野手に転向した方がいいのではないかと、強く要請しました。
来年の1軍のキャンプには参加できなけらばいらないからと言ったら、あれだけの選手になりました。
イージーフライをミスしていたことがあるが、まさかゴールデングラブ賞を取る選手になろうとは思わなかった。
選手の持っている能力、変更のタイミングが重要です。
なかなか3拍子揃っている選手は少ないが、バッティングがいいから1軍の代打で貢献してくれるのではないかという選手もいます。
日本ハム時代の事をDeNAでも踏襲しています。
東 克樹、阪口 皓亮、今永 昇太、山﨑 康晃、等の選手のプランニング、先発ピッチャーは3人ぐらいしか見あたりませんでした。
今年あたりからは野手も高校生から取りたいと思っています。
マネーゲームの様に選手を取ってと云うよりも、自前で選手を育てて行くことが重要だと思っています。
広島、日本ハムはFAを一人も取っていませんが、強いチームが出来ていますから、それを参考にしたりすると強いチームをつくる面白さがあると思います。
今後はアマチュアを好きな時に行って、教えに行きたいなあと思っています。
庭に野菜、花を植えて育てるのが楽しみです。
野球離れ、我々が子供のころはまずは野球でしたが、今は色々なスポーツがあり、野球人口は少なくなってきていますが、指導者は野球の面白さを教えて行ってほしいと思います。
ファンにサインをするとかも大事ですが、良い内容の試合をすることによって、まだまだ野球は栄えると思います。
2018年12月26日水曜日
糸井重里(コピーライター) ・おもしろいを追いかけ続けて
糸井重里(コピーライター) ・おもしろいを追いかけ続けて
1971年にコピーライターとしてデビュー、、数多くの広告を手がけてきました。
50歳の時に立ち上げたベルサイト、ほぼ日刊糸井新聞、通称「ほぼにち」、今年創刊20周年、ネット上の活動に留まらず、イベントの開催とか、学びの場の提供など更なる進化を遂げています。
加えて作詩、執筆、ゲームやアプリの製作等ジャンルを問わず,多彩な家活動を重ねてきました。
番組でこの秋お届けしたラジオ深夜便「あなたとわたし」の歌詞も糸井重里さんの手に依るものです。
時代の最先端を走り続けている糸井さんに「ほぼにち」糸井新聞の20年の励みと社長として面白い企画を生み出すヒント、新らたな年にむけての意気込みなど伺います。
ラジオ深夜便「あなたとわたし」の作詩
世の中全般の普通の言葉は愛しているとか、愛してないとかという事がすごく大事にされていて、愛が表現されていないと終わっているかのように思いがちだが、旅先で老夫婦を見るとあまり喋っていない。
こういう関係っていいなあと思っていて、いつか描けられたら良いと思って、それをやって見ようと思いました。
「ほぼにち」のウェブサイトを立ち上げたのが、1998年の6月6日でした。
50歳直前だったので、なんかこのまま終わるのはやだなあと思いました、ネガティブが非常に意識していました。
人が喜んでくれる方に歩きたいから、居場所を見つけて、若い人と同じスタートラインでやりたかった。
過去に作ったもの、自分は昔こういうやつだったというのは嬉しくないので、今日の何かで問いかけたいというのがあって、息を止めて方向展開したような気がします。
大事件の後は大変でした、震災後お金のことをなかなか書けなくて、それを書くのは半日かかりました。
全く冗談で終わるのがありますが。
「ほぼにち」からは色んな企画が飛びだして、次々に新しいものがあると言うイメージがあるが、こうしたら面白いのではないかというポジティブなことはやりたくてしょうがないが、今が苦しくない限り余り新しい事を生み出すことは人間あまり得意ではない。
不足感、心配、退屈しているなど、そういうタイプのものがアイディアです。
よわったなあから始めって、会いたいなあと思うことから、行けばいいなと、一人でくことから出来る。
小さい時から必要があって喋ったりして、喋るのは子供のころから得意ではなかった。
大人になると目的があって喋るが、目的があって喋るのは得意ではないです。
本当に心が動くかどうかみたいなところを、もう一回問いかけるが、「面白いと思います」と言えるのが大体新人なんです。
付き合いの長い人になると「そうなんですよね」というんです。
何なんだろうねと探して行くんです。
気持、感じ方が必要で、一番原始的なところに戻っていきます。(時間がかかります。)
考えの広がり、深さが出来て来ます。
何処の会社も同じかもしれないが、売れる商品が稼いでいる。
大福餅が名物の店で、色んな生菓子が置いてあっても、売り上げは大福餅が作っているが、大福餅しか置いてなかったら、大福餅も美味しくなくなるんです。
張り切って和菓子を作っているおじさんと喋って、一生懸命やっていると言うフレッシュさを感じる。
絶対良いんだというものがあればいいわけで、店を開けている日の稼ぎが、休んでいる稼ぎ日の稼ぎを埋めてくれるので、平行に平等に同じ様に一生懸命やるのはあまり意味がない。
父は68歳で亡くなりました。
父の歳を越えるときは少し怖かったです。
そこを越えたら、後はおまけかもねというような気持もあります。
やれる事が減っていると言うので数えたらきっと減っていると思いますが、減った分を他でカバーできるのではないかという事があるので、増えた分の方がおおきいんです。
一緒にやろうということで、自分では得意なことでは無くても、やれる人がいれば増えたという事なんです。
範囲がどんどん増えて行って喜ぶ数の人も増えていて、一人でやろうとしていたころと比べて、何倍にも増えて来ることが実感できる訳で、歳を重ねて行っても楽しいことばっかりです。
人生100年時代、俯瞰して考えることと、具体的な自分の実感とはあんまり混ぜて悩みを増やさない方がいいんだと思います。
自分を必要としている人がいると言うことは、うれしい事なんで、それを作ると言うのが退屈しのぎの最高のコツだと思います。
ボランティアではせっかくやってやったのにとか、愚痴は言わないことですね。
100年時代、押しつけると人は怒ります。
日常に会う人に、ご機嫌で挨拶される人になっていれば、それでいいと思っています。
いてもいい人になりたい。 いてほしいというふうに思われることは押しつけがなしくなると思う。
100%ではなくて、40%出来ればいいと思いいます。
1971年にコピーライターとしてデビュー、、数多くの広告を手がけてきました。
50歳の時に立ち上げたベルサイト、ほぼ日刊糸井新聞、通称「ほぼにち」、今年創刊20周年、ネット上の活動に留まらず、イベントの開催とか、学びの場の提供など更なる進化を遂げています。
加えて作詩、執筆、ゲームやアプリの製作等ジャンルを問わず,多彩な家活動を重ねてきました。
番組でこの秋お届けしたラジオ深夜便「あなたとわたし」の歌詞も糸井重里さんの手に依るものです。
時代の最先端を走り続けている糸井さんに「ほぼにち」糸井新聞の20年の励みと社長として面白い企画を生み出すヒント、新らたな年にむけての意気込みなど伺います。
ラジオ深夜便「あなたとわたし」の作詩
世の中全般の普通の言葉は愛しているとか、愛してないとかという事がすごく大事にされていて、愛が表現されていないと終わっているかのように思いがちだが、旅先で老夫婦を見るとあまり喋っていない。
こういう関係っていいなあと思っていて、いつか描けられたら良いと思って、それをやって見ようと思いました。
「ほぼにち」のウェブサイトを立ち上げたのが、1998年の6月6日でした。
50歳直前だったので、なんかこのまま終わるのはやだなあと思いました、ネガティブが非常に意識していました。
人が喜んでくれる方に歩きたいから、居場所を見つけて、若い人と同じスタートラインでやりたかった。
過去に作ったもの、自分は昔こういうやつだったというのは嬉しくないので、今日の何かで問いかけたいというのがあって、息を止めて方向展開したような気がします。
大事件の後は大変でした、震災後お金のことをなかなか書けなくて、それを書くのは半日かかりました。
全く冗談で終わるのがありますが。
「ほぼにち」からは色んな企画が飛びだして、次々に新しいものがあると言うイメージがあるが、こうしたら面白いのではないかというポジティブなことはやりたくてしょうがないが、今が苦しくない限り余り新しい事を生み出すことは人間あまり得意ではない。
不足感、心配、退屈しているなど、そういうタイプのものがアイディアです。
よわったなあから始めって、会いたいなあと思うことから、行けばいいなと、一人でくことから出来る。
小さい時から必要があって喋ったりして、喋るのは子供のころから得意ではなかった。
大人になると目的があって喋るが、目的があって喋るのは得意ではないです。
本当に心が動くかどうかみたいなところを、もう一回問いかけるが、「面白いと思います」と言えるのが大体新人なんです。
付き合いの長い人になると「そうなんですよね」というんです。
何なんだろうねと探して行くんです。
気持、感じ方が必要で、一番原始的なところに戻っていきます。(時間がかかります。)
考えの広がり、深さが出来て来ます。
何処の会社も同じかもしれないが、売れる商品が稼いでいる。
大福餅が名物の店で、色んな生菓子が置いてあっても、売り上げは大福餅が作っているが、大福餅しか置いてなかったら、大福餅も美味しくなくなるんです。
張り切って和菓子を作っているおじさんと喋って、一生懸命やっていると言うフレッシュさを感じる。
絶対良いんだというものがあればいいわけで、店を開けている日の稼ぎが、休んでいる稼ぎ日の稼ぎを埋めてくれるので、平行に平等に同じ様に一生懸命やるのはあまり意味がない。
父は68歳で亡くなりました。
父の歳を越えるときは少し怖かったです。
そこを越えたら、後はおまけかもねというような気持もあります。
やれる事が減っていると言うので数えたらきっと減っていると思いますが、減った分を他でカバーできるのではないかという事があるので、増えた分の方がおおきいんです。
一緒にやろうということで、自分では得意なことでは無くても、やれる人がいれば増えたという事なんです。
範囲がどんどん増えて行って喜ぶ数の人も増えていて、一人でやろうとしていたころと比べて、何倍にも増えて来ることが実感できる訳で、歳を重ねて行っても楽しいことばっかりです。
人生100年時代、俯瞰して考えることと、具体的な自分の実感とはあんまり混ぜて悩みを増やさない方がいいんだと思います。
自分を必要としている人がいると言うことは、うれしい事なんで、それを作ると言うのが退屈しのぎの最高のコツだと思います。
ボランティアではせっかくやってやったのにとか、愚痴は言わないことですね。
100年時代、押しつけると人は怒ります。
日常に会う人に、ご機嫌で挨拶される人になっていれば、それでいいと思っています。
いてもいい人になりたい。 いてほしいというふうに思われることは押しつけがなしくなると思う。
100%ではなくて、40%出来ればいいと思いいます。
2018年12月25日火曜日
山田和夫(子ども食堂代表) ・妻のレシピが遺したもの
山田和夫(子ども食堂代表) ・妻のレシピが遺したもの
70歳、60歳になった時に経営していた会社を辞め、年金を元にゆったりとした生活を考えていました。
ところが妻の和子さんが病気になり闘病生活の末に亡くなりました。
和子さんが残したのは一枚のレシピでした。
自宅でパン屋を経営していた和子さんは、レシピにパンの作り方を書いて居ていました。
和夫さんはそのレシピを基にパンを焼き始め、ホームレスの人達に配るようになりました。
この活動がきっかけとなり、山田さんは子供たちの為に、自宅を開放して子供食堂も始めました。
妻和子さんが残したレシピがきっかけで、二つの社会的な活動を始めた山田さん、10年間の歩み、そしてその意味合いについて伺いました。
最初は1階の一部屋だけでやっていましたが他の部屋、2階にもということになり、私の居場所は寝室だけになりました。
これは自分の第二の人生なんだなあというふうに現実を受け止めています。
想像もしていなかった、片方の車輪がが亡くなってしまって、それを受け入れることが大変でした。
子供とのかかわり合いをするようなおもちゃの小売店に勤めました。
暫くして、ドイツの世界で一番大きい見本市がニュルンベルクでおこなわれるが、見学に行かせてもらいました。
小売店ではない方向に行きました。
鉄道模型コーナーがあり、トンネルを作っている会社があり、おじいさん二人で楽しそうにやっているんで、こんな形でおもちゃの産業に関われたら、小売店より楽しいのではないかと思って、小売店を辞めて始める事になりました。
当時は大手6社ががっちりと押さえていて、入って行く余地が無くて、スポーツとおもちゃの間のようなマーケット、スポーツ玩具は大手がやっていなくて始めました。
暫くして日本剣玉協会の人と知り合って、設計図があるのでそれに沿って作ってもらいたいという事で作り始めました。
左利き用にも変えられる、配慮がありました。
長年剣玉を作ってきてあきが来ていて、年金を貰って第二の人生に移っていいのかなと思って62歳の時に辞めました。
妻が子供の世話をしなくてもよくなってから、自宅でパンを焼いて玄関を改造してパンを売る商売を始めました。
これからといった矢先に妻が体調を悪くして、胃の内視鏡を見てもらったが問題が無かったが、エコー検査をしたらがんがあるという事で、すい臓がんと言われました。
進行は第4ステージで転移も見受けられるという事で吃驚しました。
違う病院にも行ったが診断は同じでした。
抗がん剤、手術、放射線治療があるが、転移もしているのでどれをやっても本人が苦しむだけだという事でもうなすすべもないという事で、民間療法でやって行くしかないという事で実行していました。
暫くして痛みが出てきて、緩和ケアの病院に入院することになりました。
一日だけ自宅に帰りたいと申し出をして、帰ってきて家にいたいということ家に留まるようにしました。
その後息を引き取ってしまいました。(告知から半年でした。)
音がするのでパン屋はやっていませんでしたが、亡くなる3週間前に私にパンを焼いてほしいと言ってきました。
池袋の路上生活者を支援する団体の方と知り合って、売れのこりのパンを寄付するという事を妻はやっていました。
毎週水曜日に夜回りする活動がありまして、おにぎりなどを配るのですが、寄付したパンも配って欲しいという事でパンの寄付もしていました。
私にもそのことをして欲しいという事を言ってきましたが、出来ないと言って断ったが、2日後にパンを焼くレシピを渡されました。
妻は天然酵母で焼いていて、その場合には2日ぐらいかかり、イーストで焼くと3,4時間で焼くことができるのでそれを手渡されました。
亡くなってから色々やることがあって忙しかったが、なんにもやる事が無くなったなあと思った時に、レシピを思いおこしました。
毎週水曜日に50個 、こつこつ作り始めましたが、硬かったです。(醗酵が足り無かった。)
自然醗酵のレシピだったが(夏場用)、始めたのが冬場で醗酵不足だったようで、ホイロ(醗酵容器)を使い始めてからは、自慢できるようなパンを作れるようになりました。
作って直ぐに手渡していました。(生活者を支援する団体を介して)
2010年1月から2011年3月の震災の時までは一人でやっていましたが、震災で気持ちが暗くなってパンを焼くのを辞めてしまいました。
7月ぐらいに団体の方から、私達も手伝いますからやりましょうと言うことで、一緒にやるようになりました。
50個焼いてましたが、焼く人達の報酬が無いので、年金生活では現金をわたすのがきついし、原料も費用がかかるので、その分を稼げばいいと思って働き始めました。
魚を三枚にする作業をすることになりました。
一緒に作業をする4人とは50個から100個を焼くことにして50個分はそれを分けるという事にしました。
子供の貧困問題の為にも手を貸してほしいという事を言われました。
子供に食の支援をすることになり、まず見学することになりました。
暖簾に子供食堂という文字が書かれており、それなら私にもできると思いました。
小さな食事会というイメージでしたが、保健所と相談して飲食の営業許可を申請しました。
条件をクリア―して始めました。
援軍も来てくれました。(10人ぐらい)
最初に来たのは、ほとんどが小学生で10名ぐらい来ました。
外国籍の子も来ていて、食事後にインドの子が歌を歌ってくれました。
紙芝居をやったらそのうちに、小学校の高学年の女の子が自作の紙芝居をつくってきたりしました。
滞在時間は1時間半で、食事が終わってもなかなか帰らなかったです。
行政も子供の貧困問題に何かできないかという事で豊島区から活動資金を援助するようになりました。(活動費の半額)
手伝ってくれる人は81歳が最高齢で、学生の参加も多いです。
親御さん併せて50人ぐらい、お手伝いが20人位なので一番多い時には70人位になります。
貧困という事でやってきましたが、子供食堂に参加されするということは、予定を立てないとなかなか来られない、口には出せないがそれぞれ荷物をしょっていると推測はしています。
妻と海外旅行とかを考えていたのが全然変わってしまって、周りから推されてこういう形になったというのが率直な気持ちです。
妻は社会と繋がりを持っていて、そのことを私にもしなさいと言っていたんですが、私としては全然考えていませんでしたが、パンを焼くことで、たった一りになってしまった私が社会と沢山の人と繋がって行っているんですが、意図したかどうか判りませんが、結果としてそうなりました。
70歳、60歳になった時に経営していた会社を辞め、年金を元にゆったりとした生活を考えていました。
ところが妻の和子さんが病気になり闘病生活の末に亡くなりました。
和子さんが残したのは一枚のレシピでした。
自宅でパン屋を経営していた和子さんは、レシピにパンの作り方を書いて居ていました。
和夫さんはそのレシピを基にパンを焼き始め、ホームレスの人達に配るようになりました。
この活動がきっかけとなり、山田さんは子供たちの為に、自宅を開放して子供食堂も始めました。
妻和子さんが残したレシピがきっかけで、二つの社会的な活動を始めた山田さん、10年間の歩み、そしてその意味合いについて伺いました。
最初は1階の一部屋だけでやっていましたが他の部屋、2階にもということになり、私の居場所は寝室だけになりました。
これは自分の第二の人生なんだなあというふうに現実を受け止めています。
想像もしていなかった、片方の車輪がが亡くなってしまって、それを受け入れることが大変でした。
子供とのかかわり合いをするようなおもちゃの小売店に勤めました。
暫くして、ドイツの世界で一番大きい見本市がニュルンベルクでおこなわれるが、見学に行かせてもらいました。
小売店ではない方向に行きました。
鉄道模型コーナーがあり、トンネルを作っている会社があり、おじいさん二人で楽しそうにやっているんで、こんな形でおもちゃの産業に関われたら、小売店より楽しいのではないかと思って、小売店を辞めて始める事になりました。
当時は大手6社ががっちりと押さえていて、入って行く余地が無くて、スポーツとおもちゃの間のようなマーケット、スポーツ玩具は大手がやっていなくて始めました。
暫くして日本剣玉協会の人と知り合って、設計図があるのでそれに沿って作ってもらいたいという事で作り始めました。
左利き用にも変えられる、配慮がありました。
長年剣玉を作ってきてあきが来ていて、年金を貰って第二の人生に移っていいのかなと思って62歳の時に辞めました。
妻が子供の世話をしなくてもよくなってから、自宅でパンを焼いて玄関を改造してパンを売る商売を始めました。
これからといった矢先に妻が体調を悪くして、胃の内視鏡を見てもらったが問題が無かったが、エコー検査をしたらがんがあるという事で、すい臓がんと言われました。
進行は第4ステージで転移も見受けられるという事で吃驚しました。
違う病院にも行ったが診断は同じでした。
抗がん剤、手術、放射線治療があるが、転移もしているのでどれをやっても本人が苦しむだけだという事でもうなすすべもないという事で、民間療法でやって行くしかないという事で実行していました。
暫くして痛みが出てきて、緩和ケアの病院に入院することになりました。
一日だけ自宅に帰りたいと申し出をして、帰ってきて家にいたいということ家に留まるようにしました。
その後息を引き取ってしまいました。(告知から半年でした。)
音がするのでパン屋はやっていませんでしたが、亡くなる3週間前に私にパンを焼いてほしいと言ってきました。
池袋の路上生活者を支援する団体の方と知り合って、売れのこりのパンを寄付するという事を妻はやっていました。
毎週水曜日に夜回りする活動がありまして、おにぎりなどを配るのですが、寄付したパンも配って欲しいという事でパンの寄付もしていました。
私にもそのことをして欲しいという事を言ってきましたが、出来ないと言って断ったが、2日後にパンを焼くレシピを渡されました。
妻は天然酵母で焼いていて、その場合には2日ぐらいかかり、イーストで焼くと3,4時間で焼くことができるのでそれを手渡されました。
亡くなってから色々やることがあって忙しかったが、なんにもやる事が無くなったなあと思った時に、レシピを思いおこしました。
毎週水曜日に50個 、こつこつ作り始めましたが、硬かったです。(醗酵が足り無かった。)
自然醗酵のレシピだったが(夏場用)、始めたのが冬場で醗酵不足だったようで、ホイロ(醗酵容器)を使い始めてからは、自慢できるようなパンを作れるようになりました。
作って直ぐに手渡していました。(生活者を支援する団体を介して)
2010年1月から2011年3月の震災の時までは一人でやっていましたが、震災で気持ちが暗くなってパンを焼くのを辞めてしまいました。
7月ぐらいに団体の方から、私達も手伝いますからやりましょうと言うことで、一緒にやるようになりました。
50個焼いてましたが、焼く人達の報酬が無いので、年金生活では現金をわたすのがきついし、原料も費用がかかるので、その分を稼げばいいと思って働き始めました。
魚を三枚にする作業をすることになりました。
一緒に作業をする4人とは50個から100個を焼くことにして50個分はそれを分けるという事にしました。
子供の貧困問題の為にも手を貸してほしいという事を言われました。
子供に食の支援をすることになり、まず見学することになりました。
暖簾に子供食堂という文字が書かれており、それなら私にもできると思いました。
小さな食事会というイメージでしたが、保健所と相談して飲食の営業許可を申請しました。
条件をクリア―して始めました。
援軍も来てくれました。(10人ぐらい)
最初に来たのは、ほとんどが小学生で10名ぐらい来ました。
外国籍の子も来ていて、食事後にインドの子が歌を歌ってくれました。
紙芝居をやったらそのうちに、小学校の高学年の女の子が自作の紙芝居をつくってきたりしました。
滞在時間は1時間半で、食事が終わってもなかなか帰らなかったです。
行政も子供の貧困問題に何かできないかという事で豊島区から活動資金を援助するようになりました。(活動費の半額)
手伝ってくれる人は81歳が最高齢で、学生の参加も多いです。
親御さん併せて50人ぐらい、お手伝いが20人位なので一番多い時には70人位になります。
貧困という事でやってきましたが、子供食堂に参加されするということは、予定を立てないとなかなか来られない、口には出せないがそれぞれ荷物をしょっていると推測はしています。
妻と海外旅行とかを考えていたのが全然変わってしまって、周りから推されてこういう形になったというのが率直な気持ちです。
妻は社会と繋がりを持っていて、そのことを私にもしなさいと言っていたんですが、私としては全然考えていませんでしたが、パンを焼くことで、たった一りになってしまった私が社会と沢山の人と繋がって行っているんですが、意図したかどうか判りませんが、結果としてそうなりました。
2018年12月24日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】モーツァルト
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】モーツァルト
「僕たち家族4人は幸福でも不幸でもありません。
僕はそのことを神に感謝しています。
みんなが健康でさえあればそれでいいのです。
幸福というものは想像の中だけにあるのですから。」
この番組 【絶望名言】が本になりました。
海外ではクリスマスに自殺してしまうというのがとっても多い。
クリスマスが来たのに、自分の人生には救いがないということに絶望してしまう。
フランクル 精神科医のユダヤ人だったが、アウシュビッツの収容所に入れてれてしまうが、クリスマスには解放されるといううわさが流れる。(根拠は無かった)
クリスマスには解放されなくて、絶望して多くの人が亡くなったと言われる。
私(頭木)は20代から30代にかけては、クリスマスから正月は病院で過ごしていましたのできつかったです。
同じ部屋の人も皆落ち込んでいました。
看護師さんがケーキを持ってきてわけて食べるのですが、私は腸の問題で絶食なので、他の5人は隠すようにして食べるのですが、音が聞こえてきたりして、自分は非常に惨めな思いをしました。
モーツアルトが亡くなったのが、12月5日でその後、作品レクイエムが出来あがったのは、12月10日に初演されて今でもクリスマスコンサートでよく演奏されました。
モーツアルトが生れたのは1756年1月27日 歌麿、葛飾北斎が生まれたころと同時代です。
母親はモーツアルトが21歳の時に亡くなる。
天才少年として有名だった。
成人するころはザルツベルクで宮廷音楽家をしていた。
人間関係の問題で辞めてしまって、各地を転々とするが、神童と言われたころほど注目が集まらなかった。 20歳の時に父親あてに書いた手紙の一部が冒頭のもの。
(姉が一人いた。)
「幸福に生きることは魔法でも使わないかぎりは僕にはできない。」 (翌年親友に宛てた手紙の中から)
父親は同様に音楽の才能があったが、モーツアルトの才能を発見して厳しくしつけるようになる。
モーツアルトは35年10カ月ほど生存したが、10年2カ月ほどを旅の空で過ごした。
父親との旅はこの時初めて一緒に行くことは無くて、母親との旅の中で1年たたないうちに亡くなってしまう。
母親を亡くした悲しみの中、ピアノソナタ 第8番イ短調ケッヘルを作曲する。
短調で書かれているのがこの曲ともう一つ位です。
「この手紙を書いていると涙がぽたぽたと紙の上に落ちた。
でももう陽気にしよう、ほら沢山のキスが飛びまわっているよ。
捕まえて、僕も3つ捕まえたよ、なんて素敵なんだ。」
33歳の時に妻に送った手紙の一節
*ピアノ協奏曲第26番 戴冠式
モーツアルトに目をかけてくれていた、ヨーゼフ2世が亡くなって、レオポルド2世が即位することになり、戴冠式が行われたが、モーツアルトは呼ばれなかった。
お金にも困っていたモーツアルトは色んなものを質に入れて、無理やり出掛けた。
自分で演奏会を開いて演奏したのが、この曲だが余りお客さんは来てくれず、その時妻に書いたんがこの手紙なんです。
太宰治に通じるところがあるような気がする。
無理に明るくふるまっていた。
辛い時に元気そうにするのは辛いものがある。
感情労働、表向きと内心が違う。
「死というのはよく考えてみれば人生の真の到達点です。
僕はこの人間の最良の友と数年来、とても慣れ親しんでいます。
その姿はもう僕にとって、少しも恐ろしいものではなく、安らぎと慰めを与えてくれるものとなっています。
僕はまだこんな若いのですが、夜ベッドに入って眠るとき、もしかしたら明日はもうこの世には居ないのではないか、そんなふうに考えない日はありません。」
(30歳の時の父親への手紙 父親への最期の手紙)
*歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
35歳でモーツアルトは亡くなる。
ドン・ジョヴァンニは女たらしで、新しい女性の寝室に忍びこんだ所、騎士団長である父親に見つかってしまい、父親を殺してしまう。
ドン・ジョヴァンニは悔い改めないので、本当に地獄に引っ張り込まれて焼かれてしまう。
モーツアルトは放蕩していた。
父親からもたしなめられていたが、モーツアルトは改心はしなかった。
「最期の時を告げる金が成っているのを感じます。
自分の才能を本当に楽しむ前に、終わりが来てしまったのです。
人はだれも自分の人生を思うようにはできません。
ペンを置きます。
これは僕の弔い歌です。」
(34歳の時にドン・ジョヴァンニ等の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテに送った手紙 偽物かもしれないとも言われているが
。)
*「レクイエム」 モーツァルトの死により作品は未完のまま残され、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成された。
出だしは暗いが重厚感があって訴えかけて来る。
明るい受ける曲を作っていたが、ついに正面から暗い曲を書いたという事もあったの
かもしれない。
*最期に完成されたピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 k.595 第二楽章
「僕たち家族4人は幸福でも不幸でもありません。
僕はそのことを神に感謝しています。
みんなが健康でさえあればそれでいいのです。
幸福というものは想像の中だけにあるのですから。」
この番組 【絶望名言】が本になりました。
海外ではクリスマスに自殺してしまうというのがとっても多い。
クリスマスが来たのに、自分の人生には救いがないということに絶望してしまう。
フランクル 精神科医のユダヤ人だったが、アウシュビッツの収容所に入れてれてしまうが、クリスマスには解放されるといううわさが流れる。(根拠は無かった)
クリスマスには解放されなくて、絶望して多くの人が亡くなったと言われる。
私(頭木)は20代から30代にかけては、クリスマスから正月は病院で過ごしていましたのできつかったです。
同じ部屋の人も皆落ち込んでいました。
看護師さんがケーキを持ってきてわけて食べるのですが、私は腸の問題で絶食なので、他の5人は隠すようにして食べるのですが、音が聞こえてきたりして、自分は非常に惨めな思いをしました。
モーツアルトが亡くなったのが、12月5日でその後、作品レクイエムが出来あがったのは、12月10日に初演されて今でもクリスマスコンサートでよく演奏されました。
モーツアルトが生れたのは1756年1月27日 歌麿、葛飾北斎が生まれたころと同時代です。
母親はモーツアルトが21歳の時に亡くなる。
天才少年として有名だった。
成人するころはザルツベルクで宮廷音楽家をしていた。
人間関係の問題で辞めてしまって、各地を転々とするが、神童と言われたころほど注目が集まらなかった。 20歳の時に父親あてに書いた手紙の一部が冒頭のもの。
(姉が一人いた。)
「幸福に生きることは魔法でも使わないかぎりは僕にはできない。」 (翌年親友に宛てた手紙の中から)
父親は同様に音楽の才能があったが、モーツアルトの才能を発見して厳しくしつけるようになる。
モーツアルトは35年10カ月ほど生存したが、10年2カ月ほどを旅の空で過ごした。
父親との旅はこの時初めて一緒に行くことは無くて、母親との旅の中で1年たたないうちに亡くなってしまう。
母親を亡くした悲しみの中、ピアノソナタ 第8番イ短調ケッヘルを作曲する。
短調で書かれているのがこの曲ともう一つ位です。
「この手紙を書いていると涙がぽたぽたと紙の上に落ちた。
でももう陽気にしよう、ほら沢山のキスが飛びまわっているよ。
捕まえて、僕も3つ捕まえたよ、なんて素敵なんだ。」
33歳の時に妻に送った手紙の一節
*ピアノ協奏曲第26番 戴冠式
モーツアルトに目をかけてくれていた、ヨーゼフ2世が亡くなって、レオポルド2世が即位することになり、戴冠式が行われたが、モーツアルトは呼ばれなかった。
お金にも困っていたモーツアルトは色んなものを質に入れて、無理やり出掛けた。
自分で演奏会を開いて演奏したのが、この曲だが余りお客さんは来てくれず、その時妻に書いたんがこの手紙なんです。
太宰治に通じるところがあるような気がする。
無理に明るくふるまっていた。
辛い時に元気そうにするのは辛いものがある。
感情労働、表向きと内心が違う。
「死というのはよく考えてみれば人生の真の到達点です。
僕はこの人間の最良の友と数年来、とても慣れ親しんでいます。
その姿はもう僕にとって、少しも恐ろしいものではなく、安らぎと慰めを与えてくれるものとなっています。
僕はまだこんな若いのですが、夜ベッドに入って眠るとき、もしかしたら明日はもうこの世には居ないのではないか、そんなふうに考えない日はありません。」
(30歳の時の父親への手紙 父親への最期の手紙)
*歌劇『ドン・ジョヴァンニ』序曲
35歳でモーツアルトは亡くなる。
ドン・ジョヴァンニは女たらしで、新しい女性の寝室に忍びこんだ所、騎士団長である父親に見つかってしまい、父親を殺してしまう。
ドン・ジョヴァンニは悔い改めないので、本当に地獄に引っ張り込まれて焼かれてしまう。
モーツアルトは放蕩していた。
父親からもたしなめられていたが、モーツアルトは改心はしなかった。
「最期の時を告げる金が成っているのを感じます。
自分の才能を本当に楽しむ前に、終わりが来てしまったのです。
人はだれも自分の人生を思うようにはできません。
ペンを置きます。
これは僕の弔い歌です。」
(34歳の時にドン・ジョヴァンニ等の台本を書いたロレンツォ・ダ・ポンテに送った手紙 偽物かもしれないとも言われているが
。)
*「レクイエム」 モーツァルトの死により作品は未完のまま残され、弟子のフランツ・クサーヴァー・ジュースマイヤーにより補筆完成された。
出だしは暗いが重厚感があって訴えかけて来る。
明るい受ける曲を作っていたが、ついに正面から暗い曲を書いたという事もあったの
かもしれない。
*最期に完成されたピアノ協奏曲 第27番 変ロ長調 k.595 第二楽章
2018年12月23日日曜日
佐藤天彦(将棋棋士) ・【私のがむしゃら時代スペシャル】~名人への道のり(後半)
佐藤天彦(将棋棋士)・【私のがむしゃら時代スペシャル】~名人への道のり 後半
小学5年正の時に2度目の挑戦でプロ棋士養成機関、奨励会に入会、プロになれるのは1割から2割、厳しい年齢制限のあるシビアーな戦いの中で、プロ一歩手前の3段まで上がったのものの、最後の関門をなかなか突破できず、もがいていた高校時代迄ういかがいました。
その後佐藤さんはどのように名人位への道を歩んだのか、壁が立ちはだかるたびにどのように乗り越えていったのでしょうか、後半をお聞きください。
高校3年間のうちにプロになるという気持ちでやってきたので、高校生活も楽しみながらというふうに考えていましたが、叶わなかったということは大きな出来事でした。
実家に帰るのか、もう少し関東連に居させてもらえるのか、そういう事を話し合う会議もありました。
3段リーグを突破するには13,4勝すれば突破できるが、11、12勝どまりの時もありました。
26歳の誕生日迄に到達しないとプロに成れない、年齢制限もあります。
去る直前のその人の辛い雰囲気が醸し出されている時もありますので、独特の空気感があるので、こちらもより深刻な気持ちで対局するということはありました。
10人入ったとするとプロになるのは1,2名になります。
3段に行く前で退会する人も沢山います。
高校卒業してからは、後1年居させて欲しいいう事を親に話して約束しました。
26歳までしがみついてプロへ、という思いは無かったです。
仕送りは以前のようには貰えないという事で、将棋連盟の教室のお手伝いをさせてもらってアルバイトして将棋も自分なりに頑張りました。
次のリーグ戦でプロになる事が出来て、ホッとしました。
自分と同世代では私より先に行っていた人もいたので、遊んでいる暇はないと思って勉強をしっかり続けようと思いました。
C2,C1、B2,B1、Aと5つのクラスがあり、Aで勝って初めて名人に挑戦が出来る。
各クラスのリーグ戦が1年に一回行なれる訳です。
Aで勝って名人への挑戦が初めて出来る。
C級2組で4年ぐらいいましたので、3段リーグとC級2組で8年ぐらいいたことになります。
仲間が追い越して先に行くので焦る気持ちはあり、もしかしたら駄目かなと思ったりしました。
停滞している時期にピアノもやり、リフレッシュしたと思いました。
その頃から勝ち始める事が出来始めました。
C級2組を抜けてから割合と早い段階で、どのクラスも抜ける事が出来てAクラスまでたどり着けました。
2015年タイトル戦に挑戦、羽生さんとでしたが、2勝3敗で負けてしまいました。
棋王戦にも挑戦することになり、相手は渡辺さんでしたが、渡辺さんとは私が中学生渡辺さん高校生のころから親交がある方で、1勝3敗で破れてしまいました。
2016年 名人戦で羽生さんに挑戦、結果を出したいと思いました。
羽生さんは1995年に7冠を達成した人でした。
初戦は落してしまう。
2局目では2年ぐらいはやっていなかった、自分の好きな戦法(やぐら)をやって見ようと思いました。
逆転勝ちをすることが出来ました。
3,4,5局と3連勝して7番勝負を勝つことができました。
一人になって初めて実感がわいて来始めました。
名人位は400年の中で26名で、制度が変わって実力戦になってからは13人目です、それまでは世襲でした。
将棋を楽しみたいとか、タイトル戦のだいご味を味わいたいとか、自分自身が棋士を目指す上での基盤になっている大切な部分なので、自然体で持ったうえでやっていきたいと思っています。
自分らしさを失わない方が、いい結果が最終的にはなって来ると思います。
バランス型の将棋になっていると思います。
28歳史上4番目の若さで名人になり3連覇しています。
コンピューターが新しく示して来る価値観は、今までの人間の常識では計れないものがたくさんあり、それを取り入れ様とすると崩れてしまう。
そうすると判らなくなってしまうようなことがあります。
僕の場合は色々な物を取り入れたいと思っているので、先人達とコンピューターソフトが示す価値感も柔軟に取り入れて行きたいので、バランスとりなが取り入れて行きたいと思います。
今は戦国時代と言われています、7,8人にタイトルが分散している。
先のことはあんまり考えないが、30年後魅力的な面白い棋士でありたいと思います。
来年は名人防衛、と別のタイトルが欲しいです。
小学5年正の時に2度目の挑戦でプロ棋士養成機関、奨励会に入会、プロになれるのは1割から2割、厳しい年齢制限のあるシビアーな戦いの中で、プロ一歩手前の3段まで上がったのものの、最後の関門をなかなか突破できず、もがいていた高校時代迄ういかがいました。
その後佐藤さんはどのように名人位への道を歩んだのか、壁が立ちはだかるたびにどのように乗り越えていったのでしょうか、後半をお聞きください。
高校3年間のうちにプロになるという気持ちでやってきたので、高校生活も楽しみながらというふうに考えていましたが、叶わなかったということは大きな出来事でした。
実家に帰るのか、もう少し関東連に居させてもらえるのか、そういう事を話し合う会議もありました。
3段リーグを突破するには13,4勝すれば突破できるが、11、12勝どまりの時もありました。
26歳の誕生日迄に到達しないとプロに成れない、年齢制限もあります。
去る直前のその人の辛い雰囲気が醸し出されている時もありますので、独特の空気感があるので、こちらもより深刻な気持ちで対局するということはありました。
10人入ったとするとプロになるのは1,2名になります。
3段に行く前で退会する人も沢山います。
高校卒業してからは、後1年居させて欲しいいう事を親に話して約束しました。
26歳までしがみついてプロへ、という思いは無かったです。
仕送りは以前のようには貰えないという事で、将棋連盟の教室のお手伝いをさせてもらってアルバイトして将棋も自分なりに頑張りました。
次のリーグ戦でプロになる事が出来て、ホッとしました。
自分と同世代では私より先に行っていた人もいたので、遊んでいる暇はないと思って勉強をしっかり続けようと思いました。
C2,C1、B2,B1、Aと5つのクラスがあり、Aで勝って初めて名人に挑戦が出来る。
各クラスのリーグ戦が1年に一回行なれる訳です。
Aで勝って名人への挑戦が初めて出来る。
C級2組で4年ぐらいいましたので、3段リーグとC級2組で8年ぐらいいたことになります。
仲間が追い越して先に行くので焦る気持ちはあり、もしかしたら駄目かなと思ったりしました。
停滞している時期にピアノもやり、リフレッシュしたと思いました。
その頃から勝ち始める事が出来始めました。
C級2組を抜けてから割合と早い段階で、どのクラスも抜ける事が出来てAクラスまでたどり着けました。
2015年タイトル戦に挑戦、羽生さんとでしたが、2勝3敗で負けてしまいました。
棋王戦にも挑戦することになり、相手は渡辺さんでしたが、渡辺さんとは私が中学生渡辺さん高校生のころから親交がある方で、1勝3敗で破れてしまいました。
2016年 名人戦で羽生さんに挑戦、結果を出したいと思いました。
羽生さんは1995年に7冠を達成した人でした。
初戦は落してしまう。
2局目では2年ぐらいはやっていなかった、自分の好きな戦法(やぐら)をやって見ようと思いました。
逆転勝ちをすることが出来ました。
3,4,5局と3連勝して7番勝負を勝つことができました。
一人になって初めて実感がわいて来始めました。
名人位は400年の中で26名で、制度が変わって実力戦になってからは13人目です、それまでは世襲でした。
将棋を楽しみたいとか、タイトル戦のだいご味を味わいたいとか、自分自身が棋士を目指す上での基盤になっている大切な部分なので、自然体で持ったうえでやっていきたいと思っています。
自分らしさを失わない方が、いい結果が最終的にはなって来ると思います。
バランス型の将棋になっていると思います。
28歳史上4番目の若さで名人になり3連覇しています。
コンピューターが新しく示して来る価値観は、今までの人間の常識では計れないものがたくさんあり、それを取り入れ様とすると崩れてしまう。
そうすると判らなくなってしまうようなことがあります。
僕の場合は色々な物を取り入れたいと思っているので、先人達とコンピューターソフトが示す価値感も柔軟に取り入れて行きたいので、バランスとりなが取り入れて行きたいと思います。
今は戦国時代と言われています、7,8人にタイトルが分散している。
先のことはあんまり考えないが、30年後魅力的な面白い棋士でありたいと思います。
来年は名人防衛、と別のタイトルが欲しいです。
2018年12月22日土曜日
寺内順子(シンママ大阪応援団・運営) ・シングルマザーに寄り添う(2018年1月20日OA)
寺内順子(シンママ大阪応援団・運営) ・シングルマザーに寄り添う(2018年1月20日OA)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/01/blog-post_20.htmlをご覧ください。
放送した年の3月にはシンママ大阪応援団の一般社団法人化が実現、寺内さんは代表理事になり、4月にはシンママ家族の実家のような存在にする為、家を借りて宿泊が可能な拠点「ZIKKA」を設けました。
熊本にも「シンママ熊本応援団」が出来て、活動を始めています。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2018/01/blog-post_20.htmlをご覧ください。
放送した年の3月にはシンママ大阪応援団の一般社団法人化が実現、寺内さんは代表理事になり、4月にはシンママ家族の実家のような存在にする為、家を借りて宿泊が可能な拠点「ZIKKA」を設けました。
熊本にも「シンママ熊本応援団」が出来て、活動を始めています。
2018年12月21日金曜日
平岳大(俳優) ・【わが心の人】平幹二朗
平岳大(俳優) ・【わが心の人】平幹二朗
平幹二郎さんは昭和8年広島市に生まれました。
昭和31年俳優座に入団して初舞台を踏み、同じ年に映画デビューを果たしています。
翌年にはTVにも初出演しました。
以来舞台、映画、TVと幅広い役を演じています。
舞台ではシェークスピアの作品やギリシャ悲劇を中心に存在感のある演技で注目されました。
TVでは「三匹の侍」で茶の間の人気者となり、NHKの大河ドラマでは「樅の木は残った」、「国盗り物語」などで主役を演じています。
日本を代表する名優のひとりとして、又演出家としても活躍しました。
平成28年10月22日に亡くなられました。(82歳でした)
父は180cmありました。(私は183cm)
目、声も似ていると言われます。
前の晩は父と一緒に結構お酒を飲んでいました。
もう一軒行こうという事で亡くなってしました。
平幹二郎は本名です。(一人っ子でした)
佐久間良子さんと結婚して双子を産んでまた吃驚されました。
父のやっていたシェークスピアの作品やギリシャ悲劇等もよりも、母の方の芝居の方が見やすかったです。
小学校に1,2年の頃学芸会で主役をやりました。
やる前はドキドキしたが、上がってからは凄く記憶があります。
サッカーの試合等に行くとあいつが平幹二郎、佐久間良子の息子だと言われて、わずらわしく思っていた時期がありました。
俳優になろうとは全く思っていなかったです。
親の名前が無いところで試したいと思って、アメリカに行くことを決めました。
高校1年の一学期以降に行きました。
アメリカに行っても、日本人とあえば現実に引き戻される訳です。
ブラウン大学、大学院と進みましたが、一学期で辞めました。
高校3年の時にブラウン大学の数学のクラスに行くことができました。
そこでAを取ってブラウン大学に進むことができました。
大学を卒業してやることが見つけられなくて、その後自閉症の子供達の学校のスタッフをやっていました。
俳優になろうと思ったのは、日本に帰ってきて会社務めを始めて、なんか違うかなあという思いがありました。
本当にやりたいことを親に言わなかったりして、自分とむきあわないと後悔するなあと思って、やってみたいと思ったのが役者でした。
両親が役者をやってたので、いったいこの人達はなにをやってんだろうと、ちょっと覗いてみたかったのかもしれません。
母は大反対でした。
父も辞めときなさいと言いました。
父から電話がかかってきて立食パーティーがありそこに行った時に、「鹿鳴館」のプロデューサーの方がいて、息子役を岳大がやればいいんじゃないと言ったようで、後日話があり今に至る訳です。(27歳の時)
右も左もわからない時だったので、何が出来て何が出来なかったのかもわからなかった。
父の演出の「リア王」に出た時がありましたが、台詞が判らないとかコテンパンに言われました。
日々色んな舞台上での挑戦をやって行く時に、俳優としての表現を広げて行こうとはしていました。
蜷川幸雄さん演出の舞台でも父は色んな工夫をしたり、色んな役に挑戦していました。
新国立劇場で「山の巨人たち」(イタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの遺作)をやりましたが、 フランスの演出家がジョルジュ・ラヴォーダンが演出しましたが、父が言っていたのは「俺はようやっと目が覚めた」というんです。
「おれの芝居は臭いがそれでいいんだ」というんですが、ラヴォーダンは素の部分で芝居をしろ、というんです。
大御所的な存在になってやりたい放題だったが、外国人の監督が駄目だしをしてくれて、「自分は目が覚めた」という事を70代後半になって言っていました。
自分は強い表現をしたいと言っていましたが、日本は老人を演じると褒められるが、自分はそれをしたくないんだと言っていました。
枯れた演技は褒められるけれど、枯れた演技はしたくないとずーっと言っていました。
「世直しバラエティー カンゴロンゴ」カンゴロンゴ役は一番ま逆にあるところだからやってみたかったと思います。
主に漢籍(つまり漢文による古典)を典拠とする「お言葉」を用いて、現代社会の悩みに立ち向かうミニドラマを中心に展開される。
去年の暮れにアメリカの映画をやらせてもらって、今まで刺激してなかった脳が刺激されたような気がしました。
英ロンドンと東京が舞台の新ドラマ 日本語の「義理」と「恥」がタイトルになっている『GIRI/HAJI』、10年アメリカでやってきたことと、日本でやってきた役者ということがリンクしたという感じがします。
どう広がっていくのか一つの経験として終わってしまうのか、判りませんが、海外のチャンスを探していきたいと思っています。
日本で見られるのは、後1年後位になると思います。
本当に面白い作品だと思うので、是非見ていただきたいと思います。
新しい扉が開いたというよなな感じです。
平幹二郎さんは昭和8年広島市に生まれました。
昭和31年俳優座に入団して初舞台を踏み、同じ年に映画デビューを果たしています。
翌年にはTVにも初出演しました。
以来舞台、映画、TVと幅広い役を演じています。
舞台ではシェークスピアの作品やギリシャ悲劇を中心に存在感のある演技で注目されました。
TVでは「三匹の侍」で茶の間の人気者となり、NHKの大河ドラマでは「樅の木は残った」、「国盗り物語」などで主役を演じています。
日本を代表する名優のひとりとして、又演出家としても活躍しました。
平成28年10月22日に亡くなられました。(82歳でした)
父は180cmありました。(私は183cm)
目、声も似ていると言われます。
前の晩は父と一緒に結構お酒を飲んでいました。
もう一軒行こうという事で亡くなってしました。
平幹二郎は本名です。(一人っ子でした)
佐久間良子さんと結婚して双子を産んでまた吃驚されました。
父のやっていたシェークスピアの作品やギリシャ悲劇等もよりも、母の方の芝居の方が見やすかったです。
小学校に1,2年の頃学芸会で主役をやりました。
やる前はドキドキしたが、上がってからは凄く記憶があります。
サッカーの試合等に行くとあいつが平幹二郎、佐久間良子の息子だと言われて、わずらわしく思っていた時期がありました。
俳優になろうとは全く思っていなかったです。
親の名前が無いところで試したいと思って、アメリカに行くことを決めました。
高校1年の一学期以降に行きました。
アメリカに行っても、日本人とあえば現実に引き戻される訳です。
ブラウン大学、大学院と進みましたが、一学期で辞めました。
高校3年の時にブラウン大学の数学のクラスに行くことができました。
そこでAを取ってブラウン大学に進むことができました。
大学を卒業してやることが見つけられなくて、その後自閉症の子供達の学校のスタッフをやっていました。
俳優になろうと思ったのは、日本に帰ってきて会社務めを始めて、なんか違うかなあという思いがありました。
本当にやりたいことを親に言わなかったりして、自分とむきあわないと後悔するなあと思って、やってみたいと思ったのが役者でした。
両親が役者をやってたので、いったいこの人達はなにをやってんだろうと、ちょっと覗いてみたかったのかもしれません。
母は大反対でした。
父も辞めときなさいと言いました。
父から電話がかかってきて立食パーティーがありそこに行った時に、「鹿鳴館」のプロデューサーの方がいて、息子役を岳大がやればいいんじゃないと言ったようで、後日話があり今に至る訳です。(27歳の時)
右も左もわからない時だったので、何が出来て何が出来なかったのかもわからなかった。
父の演出の「リア王」に出た時がありましたが、台詞が判らないとかコテンパンに言われました。
日々色んな舞台上での挑戦をやって行く時に、俳優としての表現を広げて行こうとはしていました。
蜷川幸雄さん演出の舞台でも父は色んな工夫をしたり、色んな役に挑戦していました。
新国立劇場で「山の巨人たち」(イタリアのノーベル賞作家ルイジ・ピランデルロの遺作)をやりましたが、 フランスの演出家がジョルジュ・ラヴォーダンが演出しましたが、父が言っていたのは「俺はようやっと目が覚めた」というんです。
「おれの芝居は臭いがそれでいいんだ」というんですが、ラヴォーダンは素の部分で芝居をしろ、というんです。
大御所的な存在になってやりたい放題だったが、外国人の監督が駄目だしをしてくれて、「自分は目が覚めた」という事を70代後半になって言っていました。
自分は強い表現をしたいと言っていましたが、日本は老人を演じると褒められるが、自分はそれをしたくないんだと言っていました。
枯れた演技は褒められるけれど、枯れた演技はしたくないとずーっと言っていました。
「世直しバラエティー カンゴロンゴ」カンゴロンゴ役は一番ま逆にあるところだからやってみたかったと思います。
主に漢籍(つまり漢文による古典)を典拠とする「お言葉」を用いて、現代社会の悩みに立ち向かうミニドラマを中心に展開される。
去年の暮れにアメリカの映画をやらせてもらって、今まで刺激してなかった脳が刺激されたような気がしました。
英ロンドンと東京が舞台の新ドラマ 日本語の「義理」と「恥」がタイトルになっている『GIRI/HAJI』、10年アメリカでやってきたことと、日本でやってきた役者ということがリンクしたという感じがします。
どう広がっていくのか一つの経験として終わってしまうのか、判りませんが、海外のチャンスを探していきたいと思っています。
日本で見られるのは、後1年後位になると思います。
本当に面白い作品だと思うので、是非見ていただきたいと思います。
新しい扉が開いたというよなな感じです。
2018年12月20日木曜日
宇野亜喜良(イラストレーター) ・不滅の女性美を描き続けて
宇野亜喜良(イラストレーター) ・不滅の女性美を描き続けて
名古屋市出身84歳、横尾忠則さんと共に日本を代表するイラストレーターの一人です。
確かな描写力とデザイン力、幻想的でロマンチックな画風によって企業のポスタ-や化粧品の広告、女性雑誌の表紙、本の挿絵、絵本、舞台美術など膨大な仕事を手掛けて来ました。
おしゃれで抒情的で官能的でもある少女、女性像は世代を越えたファンを持っています。
1999年に紫綬褒章、2010年には旭日小綬章を受賞されています。
いままでの道のりとその独自の小女像、女性像、イラストレーションの面白さなどについて伺います。
銀座のデパートで個展が開かれていましたが、年に1本はやっています。
ダビンチはサウスポーで鏡文字がかけるが、ぼくもそういう事が出来てサイン会でもやっています。
サイン会は2時間ぐらいありました。
ファンは年輩から若い人までいて、それは嬉しいです。
今の人は漫画チックな絵で漱石、太宰を感じたりとかなんでしょうね。
出版物の仕事は減ってきました。
発想をみずみずしくということは、僕の頭に中ではないですね。
あまり考えないようにして女の子を描いていますが、今の風俗をまとった若い女の子を描くというのは全然なくて、植物と、動物は一緒になりえないが、絵の上では可能だと非現実的な事が絵画だと出来る訳です。
1960年に日本宣伝美術会で賞を貰った作品が繊維の作品を描いたんですが、目覚めたのはその頃だと思います。
父は室内装飾の仕事をしていました。
父と一緒に写生に行って、描いたりしていました。
学校でポスター書くことがありましたが、みんな文字をまず書いて隙間に絵を描いていましたが、私は書きたい絵をて描いて、油絵具を使って上塗りできるので、レイアウトとか文字の事とか考えないで描くことができました。
絵を描くことは好きでした。
中学のころは絵画研究所に行きました。
その後グラフィックデザイナーに入って行きました。
2,3回賞を貰ったりしてデザイナーの方が面白いと思いました。
絵画では考え方が無いといけないと思ったんですが、グラフィックデザインだったら、依頼を受けたものをどう構成していくかとか、一種の技術なので技術家になった方が面白いと思いました。
母の経営する喫茶店の壁面に壁画を描いたりしたのを、新聞社が取り上げてくれたりしました。
高校卒業後上京しました。
高校の図案科の先生が紹介してくれて、1年後に社員になりました。
仕事の内容は新聞広告、パッケージング等をやっていました。
1960年日本デザインセンターに入りました。
原弘さん(出版物のデザインが多いデザイナー)、亀倉雄策さん(東京オリンピックのポスターを作った人)、山城隆一さん(おキャれなデザインをする人)の3人が創立者でした。
出来たその年に雇ってもらいました。
その一年後に横尾忠則が入ってきました。
1964年に原田維夫と3人で辞めました。
3人で仕事をやっていましたが、原田維夫は仕事が来ていましたが、私たちはあまり仕事がありませんでした。
寺山修司さんとの出会いがあり、寺山さんの舞台、宣伝美術を手がけるなどしました。
「ひとりぼっちのあなたに」というエッセーを寺山修司さんが出しましたが、ロマンチックでアングラをする人とは思えない。
装丁と挿絵を担当することになり、この時に瞳が大きくあごの小さな少女が出て来る。
少女ものには憧れていたものがあって、少女はこういうものだと思って雑誌で覚えて行った事があると思います。
無意識に、皆さん、時代によって変容してゆく女性像でしょうね。
私の場合はあいまいで、特定な年代層とか描かないですね。(国籍もはっきりしないような)
寺山修司さんの「天井桟敷」に横尾などとポスターの制作をする。
ポスターが芝居の内容に影響を与えることもありました。
おっぱいからミルクを絞っているヌードの女性を描いたら、寺山さんが気に入ってくれて、女優にやらせたこともあります。
寺山修司さんとの付き合いは1970年代の半ばのころまでだったと思います。
主観、自分の情感を出さないで、生活して行った方がいいのかなという時代があって、2000年に入って又60年代の女の子を又描きたいと思いましたが、情感とか何かによるデフォルメが描けなくなっていて、ちょっと焦りましたが、今はその時代とは違うけれど女の子が描けるようにはなりました。
1980年代、時代小説の挿絵も描いていました。
木枯らし紋次郎が最初の時代ものでした。
10年間ぐらい、ダンスの組織があってその舞台装置を頼まれて、そのうちもう少し面白くしたいと思って、構成、台本等を手掛けましたが、面白かったです。
イラストレーションの面白さは、計算しないでものが出来ることとか、編集の担当者が面白ければいいとか、人と話をしたりして、人と話す事が好きだなあと最近思っています。
木村恒久さんが私のことを幇間の様だと言ってくれるが、その幇間の比喩が面白いと思いました。
ここの処4回デパートで展覧会をやっていますが、60年代後半から70年代前半かけての頃の事が又求められているような思いがあります。
名古屋市出身84歳、横尾忠則さんと共に日本を代表するイラストレーターの一人です。
確かな描写力とデザイン力、幻想的でロマンチックな画風によって企業のポスタ-や化粧品の広告、女性雑誌の表紙、本の挿絵、絵本、舞台美術など膨大な仕事を手掛けて来ました。
おしゃれで抒情的で官能的でもある少女、女性像は世代を越えたファンを持っています。
1999年に紫綬褒章、2010年には旭日小綬章を受賞されています。
いままでの道のりとその独自の小女像、女性像、イラストレーションの面白さなどについて伺います。
銀座のデパートで個展が開かれていましたが、年に1本はやっています。
ダビンチはサウスポーで鏡文字がかけるが、ぼくもそういう事が出来てサイン会でもやっています。
サイン会は2時間ぐらいありました。
ファンは年輩から若い人までいて、それは嬉しいです。
今の人は漫画チックな絵で漱石、太宰を感じたりとかなんでしょうね。
出版物の仕事は減ってきました。
発想をみずみずしくということは、僕の頭に中ではないですね。
あまり考えないようにして女の子を描いていますが、今の風俗をまとった若い女の子を描くというのは全然なくて、植物と、動物は一緒になりえないが、絵の上では可能だと非現実的な事が絵画だと出来る訳です。
1960年に日本宣伝美術会で賞を貰った作品が繊維の作品を描いたんですが、目覚めたのはその頃だと思います。
父は室内装飾の仕事をしていました。
父と一緒に写生に行って、描いたりしていました。
学校でポスター書くことがありましたが、みんな文字をまず書いて隙間に絵を描いていましたが、私は書きたい絵をて描いて、油絵具を使って上塗りできるので、レイアウトとか文字の事とか考えないで描くことができました。
絵を描くことは好きでした。
中学のころは絵画研究所に行きました。
その後グラフィックデザイナーに入って行きました。
2,3回賞を貰ったりしてデザイナーの方が面白いと思いました。
絵画では考え方が無いといけないと思ったんですが、グラフィックデザインだったら、依頼を受けたものをどう構成していくかとか、一種の技術なので技術家になった方が面白いと思いました。
母の経営する喫茶店の壁面に壁画を描いたりしたのを、新聞社が取り上げてくれたりしました。
高校卒業後上京しました。
高校の図案科の先生が紹介してくれて、1年後に社員になりました。
仕事の内容は新聞広告、パッケージング等をやっていました。
1960年日本デザインセンターに入りました。
原弘さん(出版物のデザインが多いデザイナー)、亀倉雄策さん(東京オリンピックのポスターを作った人)、山城隆一さん(おキャれなデザインをする人)の3人が創立者でした。
出来たその年に雇ってもらいました。
その一年後に横尾忠則が入ってきました。
1964年に原田維夫と3人で辞めました。
3人で仕事をやっていましたが、原田維夫は仕事が来ていましたが、私たちはあまり仕事がありませんでした。
寺山修司さんとの出会いがあり、寺山さんの舞台、宣伝美術を手がけるなどしました。
「ひとりぼっちのあなたに」というエッセーを寺山修司さんが出しましたが、ロマンチックでアングラをする人とは思えない。
装丁と挿絵を担当することになり、この時に瞳が大きくあごの小さな少女が出て来る。
少女ものには憧れていたものがあって、少女はこういうものだと思って雑誌で覚えて行った事があると思います。
無意識に、皆さん、時代によって変容してゆく女性像でしょうね。
私の場合はあいまいで、特定な年代層とか描かないですね。(国籍もはっきりしないような)
寺山修司さんの「天井桟敷」に横尾などとポスターの制作をする。
ポスターが芝居の内容に影響を与えることもありました。
おっぱいからミルクを絞っているヌードの女性を描いたら、寺山さんが気に入ってくれて、女優にやらせたこともあります。
寺山修司さんとの付き合いは1970年代の半ばのころまでだったと思います。
主観、自分の情感を出さないで、生活して行った方がいいのかなという時代があって、2000年に入って又60年代の女の子を又描きたいと思いましたが、情感とか何かによるデフォルメが描けなくなっていて、ちょっと焦りましたが、今はその時代とは違うけれど女の子が描けるようにはなりました。
1980年代、時代小説の挿絵も描いていました。
木枯らし紋次郎が最初の時代ものでした。
10年間ぐらい、ダンスの組織があってその舞台装置を頼まれて、そのうちもう少し面白くしたいと思って、構成、台本等を手掛けましたが、面白かったです。
イラストレーションの面白さは、計算しないでものが出来ることとか、編集の担当者が面白ければいいとか、人と話をしたりして、人と話す事が好きだなあと最近思っています。
木村恒久さんが私のことを幇間の様だと言ってくれるが、その幇間の比喩が面白いと思いました。
ここの処4回デパートで展覧会をやっていますが、60年代後半から70年代前半かけての頃の事が又求められているような思いがあります。
2018年12月19日水曜日
清水幸雄(宝石研磨職人) ・180面体 桔梗カット
清水幸雄(宝石研磨職人) ・180面体 桔梗カット
甲府市の研磨職人67歳、機械をつかわず手の感触だけで宝石を研磨する削り職人の第一人者です。
世界でも清水さんにしかできない技が、水晶に180面ものカットを施す桔梗カット、桔梗の花のように見えるから名付けられたそうです。
3年前に現代の名工となり、現在は山梨県立宝石美術専門学校で後継者の育成にも力を注いでいます。
カーボランダムという砂で人工的に作った固い砂で、砂を回転するこの盤に落として削って行くという原理なんです。
粗擦りの次に中擦りに行きます。
回転する盤は鉄で同じですが、砂が違って細かいです。
宝石は熱に弱いので摩擦熱をかけないように水を使った研磨方法をします。
パウダー状の細かい砂になります。
徐々に砂を細かくして行って最期に仕上げをします。
ケヤキの盤を使って緑色の研磨剤を使って光らしています。(水晶の場合)
石の種類によって研磨剤を変えて行きます。
ガラス等硬度5ぐらいのものについては、本当は柳の木がいいんです。
硬い石では胴盤にダイアモンドパウダーを塗って磨きます。
綺麗に磨き上がります。
180面体 桔梗カット 水晶です。
今の処私だけしかできないです。
原石をまず粗擦りしますが、正12面体 正五角形が12個集まった形にします。
正五角形を又5つに磨り分けるんです、そうすると60面になります。
60面をさらに倍にしますと、120面になります。
五角形の辺が残っているので、両方のカットから三角形をつくっていきますと、全部二等辺三角形になり、ここで初めてここが15面になり、12☓15で180面になる訳です。
一面一面を見ると二等辺三角形に見える訳です。
麻の葉模様に似ているがそれは六角形なのですが、これは五角形と六角形の組み合わせなんです。
すべて手作業でないと出来ないんです。
この仕事は兄がやっていていつの間にかやっていました。
中学卒業後、夜間高校に行きながらやりました。
仕事に入った当時、10軒に一軒ぐらいは水晶の研磨をやっていました。
甲府の北に昇仙峡があり水晶が取れていました。
江戸時代末期に京都に玉つくりをする職人が居て、その人が昇仙峡の奥の神社があり、そこに玉つくりを教えたわけです。
その神官が3人の弟子に教えたというのが始まりらしいです。
甲府では機械を使わないというのが特徴です。
機械を使わない方法は世界中探してもどこにもないです。
ドイツでは全て機械研磨です。
ドイツでも桔梗カットに挑戦し1年後には出来ると言っていましたが、できませんでした。
50歳近くになった時に、師匠からなんか特別なものをやらないといけないと言われて、師匠から与えられたのが桔梗カットでした。(師匠は出来ていた)
2,3個失敗したが直ぐできるようになりました。(師匠に教えられた訳ではなかった)
使っていると砂がドロドロになるが、その砂洗いが冬場は辛かったです。
一番は、地球が産んでくれたものを、自分の力で何処まで綺麗にできるか、石が喜んでいるという石の声が聞こえるような感じが時々します。
研磨するには石の性質、特徴とかを把握しなければいけない。
天然なので同じ顔をしているものは無いので、何処が一番綺麗に見えるか、何処が一番大きく取れるかを考えないといけない。
1カラットは0.2gで1カラットでも大きく価値が変わってくる。
宝石は輝きが大事です、光をいかにに多く反射させるかです。
周りは良評価してくれるが、本当に満足したのは今まで一個も無いです、本当はこうなるべきだと必ず反省の方が多いです。
現在は山梨県立宝石美術専門学校で後継者の育成にも力を注いでいます。
今は昔のように教えると誰も付いてこないです。
研磨は女性の方が向いているような気がします。
うちの会社で仕上げたものを何十万個、何百万個売るわけですが、一般の方が身に付けているのを見たことが無いです。
一杯研磨師がいれば、他にも出来る人がかなりいると思いますが。
若いころは心身共に辛い思いをしましたので、優しく教えるようにしています。
綺麗なものをつくるためには、辛い仕事が多いです。
その石を如何に綺麗に見せるか、全部原石はそれぞれ違うので、その石とのコミュニケーションをとっていかないといけないと思っています。
原石からの桔梗カットのビデオを撮ってもらってあります。
昔は教えてくれと言っても教えてくれなかったが、私は自分が出来るものは隠すことはしないし、やりたいという人が来たら教えます、出来るできないかは別ですが。
褒めて伸ばすという事をやっています。
生徒が先生と勝負しようということになり、生徒は右手で、私はやったことのない左手でやりましたが、どっちがやったかわからないで評価してもらったら、私の方は評価は良かった、という事がありました。
彼は自信があったと思う、学年の中で一番上手かったし。
鮎釣りが好きで、全国鮎釣り行脚をしてみたい。
友釣りは面白いと思います。
年齢からくる身体の衰えがあるが、今後も研磨の研鑽は必要だと思います。
甲府市の研磨職人67歳、機械をつかわず手の感触だけで宝石を研磨する削り職人の第一人者です。
世界でも清水さんにしかできない技が、水晶に180面ものカットを施す桔梗カット、桔梗の花のように見えるから名付けられたそうです。
3年前に現代の名工となり、現在は山梨県立宝石美術専門学校で後継者の育成にも力を注いでいます。
カーボランダムという砂で人工的に作った固い砂で、砂を回転するこの盤に落として削って行くという原理なんです。
粗擦りの次に中擦りに行きます。
回転する盤は鉄で同じですが、砂が違って細かいです。
宝石は熱に弱いので摩擦熱をかけないように水を使った研磨方法をします。
パウダー状の細かい砂になります。
徐々に砂を細かくして行って最期に仕上げをします。
ケヤキの盤を使って緑色の研磨剤を使って光らしています。(水晶の場合)
石の種類によって研磨剤を変えて行きます。
ガラス等硬度5ぐらいのものについては、本当は柳の木がいいんです。
硬い石では胴盤にダイアモンドパウダーを塗って磨きます。
綺麗に磨き上がります。
180面体 桔梗カット 水晶です。
今の処私だけしかできないです。
原石をまず粗擦りしますが、正12面体 正五角形が12個集まった形にします。
正五角形を又5つに磨り分けるんです、そうすると60面になります。
60面をさらに倍にしますと、120面になります。
五角形の辺が残っているので、両方のカットから三角形をつくっていきますと、全部二等辺三角形になり、ここで初めてここが15面になり、12☓15で180面になる訳です。
一面一面を見ると二等辺三角形に見える訳です。
麻の葉模様に似ているがそれは六角形なのですが、これは五角形と六角形の組み合わせなんです。
すべて手作業でないと出来ないんです。
この仕事は兄がやっていていつの間にかやっていました。
中学卒業後、夜間高校に行きながらやりました。
仕事に入った当時、10軒に一軒ぐらいは水晶の研磨をやっていました。
甲府の北に昇仙峡があり水晶が取れていました。
江戸時代末期に京都に玉つくりをする職人が居て、その人が昇仙峡の奥の神社があり、そこに玉つくりを教えたわけです。
その神官が3人の弟子に教えたというのが始まりらしいです。
甲府では機械を使わないというのが特徴です。
機械を使わない方法は世界中探してもどこにもないです。
ドイツでは全て機械研磨です。
ドイツでも桔梗カットに挑戦し1年後には出来ると言っていましたが、できませんでした。
50歳近くになった時に、師匠からなんか特別なものをやらないといけないと言われて、師匠から与えられたのが桔梗カットでした。(師匠は出来ていた)
2,3個失敗したが直ぐできるようになりました。(師匠に教えられた訳ではなかった)
使っていると砂がドロドロになるが、その砂洗いが冬場は辛かったです。
一番は、地球が産んでくれたものを、自分の力で何処まで綺麗にできるか、石が喜んでいるという石の声が聞こえるような感じが時々します。
研磨するには石の性質、特徴とかを把握しなければいけない。
天然なので同じ顔をしているものは無いので、何処が一番綺麗に見えるか、何処が一番大きく取れるかを考えないといけない。
1カラットは0.2gで1カラットでも大きく価値が変わってくる。
宝石は輝きが大事です、光をいかにに多く反射させるかです。
周りは良評価してくれるが、本当に満足したのは今まで一個も無いです、本当はこうなるべきだと必ず反省の方が多いです。
現在は山梨県立宝石美術専門学校で後継者の育成にも力を注いでいます。
今は昔のように教えると誰も付いてこないです。
研磨は女性の方が向いているような気がします。
うちの会社で仕上げたものを何十万個、何百万個売るわけですが、一般の方が身に付けているのを見たことが無いです。
一杯研磨師がいれば、他にも出来る人がかなりいると思いますが。
若いころは心身共に辛い思いをしましたので、優しく教えるようにしています。
綺麗なものをつくるためには、辛い仕事が多いです。
その石を如何に綺麗に見せるか、全部原石はそれぞれ違うので、その石とのコミュニケーションをとっていかないといけないと思っています。
原石からの桔梗カットのビデオを撮ってもらってあります。
昔は教えてくれと言っても教えてくれなかったが、私は自分が出来るものは隠すことはしないし、やりたいという人が来たら教えます、出来るできないかは別ですが。
褒めて伸ばすという事をやっています。
生徒が先生と勝負しようということになり、生徒は右手で、私はやったことのない左手でやりましたが、どっちがやったかわからないで評価してもらったら、私の方は評価は良かった、という事がありました。
彼は自信があったと思う、学年の中で一番上手かったし。
鮎釣りが好きで、全国鮎釣り行脚をしてみたい。
友釣りは面白いと思います。
年齢からくる身体の衰えがあるが、今後も研磨の研鑽は必要だと思います。
2018年12月18日火曜日
福田淑子(歌人・カウンセラー) ・孤独を詠み、歌に生きる
福田淑子(歌人・カウンセラー) ・孤独を詠み、歌に生きる
東京生まれ、埼玉県の県立高校で国語の教師として定年まで教え、現在は法政大学の講師として言語、国語科教育法を教えています。
短歌には縁が無かった福田さんは、10数年前に長い入院生活を送った際に、知人の勧めで短歌の懸賞評論文に応募しました。
テーマはふくいくたる反逆斎藤ふみ論、この作品入選は逃しましたが、翌年文芸埼玉に掲載されました。
これがきっかけで短歌をつくる様になり、2007年には「孤独なる球体」で大西民子賞を受賞、去年は歌集「ショパンの孤独」で第13回日本詩歌句協会の短歌部門の優秀賞を受賞しました。
福田さんの短歌の世界は孤独が重要なキーワードです。
歌集「ショパンの孤独」が受賞して以降、見知らない方から反応があって、沢山の方と繋がっているんだなと実感しました。
ベテランの歌人、俳人も読んでくださって、こういう集まりに来ないかと広がるんですね。
一番最近の歌
「魂がモバイル画面に吸い込まれ人が消えゆく帰りの車内」
「生れいずる以前よりある天体の光を受けて一人を満たす」
赴任していた高校にに村永和弘?さんがいましたが、評論集を書いていてそれをくれるんですが、感想をいうために見ざるをえませんでした。(まだ興味が無かった)
大腿骨の大手術をして4カ月仕事を休んで入院していましたので、身動きができませんでした。
村永さんが斎藤ふみさんの全歌集を持ってきて、その方が亡くなられたが、彼女の主催していた結社で短歌評論を募集している、という事でこれを読んで書いたらどうかと言われました。
一席になると10万円貰えるという事で、9000首以上を2,3度読みました。
評論を書いて応募しましたが、受賞には至りませんでした。
もう一度書きなおして、翌年文芸埼玉70号記念号という事で短歌評論を募集していましたので、応募したら見事載せていただきました。
歌も作れる評論家になりなさいと言われて、作り始めました。
短歌朝日に投稿して取り上げられました。
「バッハ聞く死にわたるまでバッハ聞くまだ生きること続けて見るか」?
「いかなれば野の花のごとく柔らかにつゆをいだきてしずまりいるや」?
大々的に取り上げられて有頂天になりました。
2017年「ショパンの孤独」 464首
「身体をぬるるに任せ一筋の我も水脈雨降り続く」
地球は水の星ですが、自分の身体の中にも水脈があり、地球も自分も一つだなあと思う事によって地球と一体感を持てる、雲や空と一体感が持てるということは私のカンフル剤なんです。
「グールドのピアノ骨身に沁み渡り我37兆細胞淨化す」
「37兆細胞のざわめきてカチカチは円る音が聞こえる」
ミクロになったり、マクロになったり、視点を変えると、スーッと呼吸ができる。
グレン・グールドというピアニストが、ゴルトベルク変奏曲というとっても素晴らしい演奏をしていて、それを聞いていると骨身にしみるだけでなくて、細胞全部が洗われて生まれ変われるという気がしてくる。
37兆ある細胞が一個一個跳ねているのではないかと思うと、いとおしくなる。
「陶酔?はつかの間ゆえにいとおしく花びら流れショパンの雨だれ」
「風立ちぬ馴染みしものへの未連など放り投げたし帽子のごとく」
齢を重ねて行くと過去や未連があるが、それを引きずっていると時々重いので、放り投げて全部淨化して生まれ変わりたいと思った時に作った歌です。
「陰謀に隠されいるかたちあおいうす紫に花開きおり」
孤独という言葉は私にはなじみがあります。
一番人間が寂しいというには、一人でいる時にはそんなに寂しくはない。
誰かと一緒にいて、その方がとってもいい方だとしても長い事一緒にいる時に、一人だけ外れてしまうという事があり、タイトな関係性の中で親しい友人が夫婦でいたりすると、私は外れているなと思う事があります。
そういうときは寂しいです、居場所がない。
そういうときは一人になって音楽を聞いたり、本を読んだりすると、外れることが可能な年齢になったのですが。
人って孤独じゃないですか。
「天空の星の孤独を思いたり金星水星また離れ行く」
広い空間でぽつんと浮いているのが、子供のころの体験と似た現象だと思って、天空の孤独に感情移入する訳ですが、星は寂しいんじゃなくて孤独だと思うんですが。
「エチュードに太古の風の吹きすさぶ立ちあがり来るショパンの孤独」
ショパンは私の中では寂しさととことん付き合って、孤独からこの音をつくりあげたのではないかと、孤独を愛していたからこの音が出てきたのではないかと思いました。
「体操の呼吸ずらしてひそかなる抵抗はかるくくられたくなく」
考え方、生き方、価値観、感じ方などそういうものが同調してくるのは、呼吸困難に陥るわけです。
ここから先というのが何かあるが、そういうとき孤独を思いだすわけです。
カウンセリングの勉強を長い事勉強してきました。(30代の後半ぐらいから)
前の臨床心理医師会会長の村瀬嘉代子さんから20年ぐらい指導していただきまいた。
歌集を謹呈致しました。
見かけとは違ってしみじみとそれでいて広く突き抜けたおおらかさのある短歌に感じ入りましたと評価していただいて、こう受け取る村瀬先生に感動しました。
読み取り側の豊かさ凄さで作品は生かされていくんだろうなと思います。
4歳年下の弟が自死しました。
父も不慮の事故で早く倒れてしまい、母も私が成人して直ぐに亡くなってしまいました。
弟を亡くした時には理解できなくてただ呆然として涙が出てきませんでした。
バッハのコンチェルトを聞いたら、突然涙が出続けてしまい、1時間以上泣いていました。
カウンセリングをしていたのに、弟に対してはカウンセリング的に対応していませんでした。
人それぞれその時精一杯なので、そこでそうせざるを得なかったということは、わたしも弟の事を自分の家族にかまけて見きれなかったので、精一杯というのはどうしようもないじゃないかなと、生き続けるしかない。
前よりも思いが深く届く人間になっていくしかないと思って作った歌です。
学校でいじめが無くならないのは、アクティブで元気な子等は行事等手伝ってくれるので先生にとって有難い生徒で、不器用だったりする生徒は仲間に入れなかったりするが、短歌の授業をしていましたが、或る生徒は仲間に入ることはできませんでした。
その子が作った歌
「友達を作れるものなら作ってるお道具箱の紙と鋏で」
その後彼女は爆発的に作って今は歌集を出そうかという歌人になっています。
短歌は苦しい思いを吐き出すのに非常にいいツールです。
歌によって理解してもらうことによって人は繋がる。
「一滴の悲しみおさえいんゆ(隠喩?)とす言葉と言葉の海を泳ぎて」
「たはやすく平和が好きというなかれ光り届かぬ闇を泳ぎぬ」
「殺すなよ人はやがて死ぬものぞつかのまわれら共存共栄」
東京生まれ、埼玉県の県立高校で国語の教師として定年まで教え、現在は法政大学の講師として言語、国語科教育法を教えています。
短歌には縁が無かった福田さんは、10数年前に長い入院生活を送った際に、知人の勧めで短歌の懸賞評論文に応募しました。
テーマはふくいくたる反逆斎藤ふみ論、この作品入選は逃しましたが、翌年文芸埼玉に掲載されました。
これがきっかけで短歌をつくる様になり、2007年には「孤独なる球体」で大西民子賞を受賞、去年は歌集「ショパンの孤独」で第13回日本詩歌句協会の短歌部門の優秀賞を受賞しました。
福田さんの短歌の世界は孤独が重要なキーワードです。
歌集「ショパンの孤独」が受賞して以降、見知らない方から反応があって、沢山の方と繋がっているんだなと実感しました。
ベテランの歌人、俳人も読んでくださって、こういう集まりに来ないかと広がるんですね。
一番最近の歌
「魂がモバイル画面に吸い込まれ人が消えゆく帰りの車内」
「生れいずる以前よりある天体の光を受けて一人を満たす」
赴任していた高校にに村永和弘?さんがいましたが、評論集を書いていてそれをくれるんですが、感想をいうために見ざるをえませんでした。(まだ興味が無かった)
大腿骨の大手術をして4カ月仕事を休んで入院していましたので、身動きができませんでした。
村永さんが斎藤ふみさんの全歌集を持ってきて、その方が亡くなられたが、彼女の主催していた結社で短歌評論を募集している、という事でこれを読んで書いたらどうかと言われました。
一席になると10万円貰えるという事で、9000首以上を2,3度読みました。
評論を書いて応募しましたが、受賞には至りませんでした。
もう一度書きなおして、翌年文芸埼玉70号記念号という事で短歌評論を募集していましたので、応募したら見事載せていただきました。
歌も作れる評論家になりなさいと言われて、作り始めました。
短歌朝日に投稿して取り上げられました。
「バッハ聞く死にわたるまでバッハ聞くまだ生きること続けて見るか」?
「いかなれば野の花のごとく柔らかにつゆをいだきてしずまりいるや」?
大々的に取り上げられて有頂天になりました。
2017年「ショパンの孤独」 464首
「身体をぬるるに任せ一筋の我も水脈雨降り続く」
地球は水の星ですが、自分の身体の中にも水脈があり、地球も自分も一つだなあと思う事によって地球と一体感を持てる、雲や空と一体感が持てるということは私のカンフル剤なんです。
「グールドのピアノ骨身に沁み渡り我37兆細胞淨化す」
「37兆細胞のざわめきてカチカチは円る音が聞こえる」
ミクロになったり、マクロになったり、視点を変えると、スーッと呼吸ができる。
グレン・グールドというピアニストが、ゴルトベルク変奏曲というとっても素晴らしい演奏をしていて、それを聞いていると骨身にしみるだけでなくて、細胞全部が洗われて生まれ変われるという気がしてくる。
37兆ある細胞が一個一個跳ねているのではないかと思うと、いとおしくなる。
「陶酔?はつかの間ゆえにいとおしく花びら流れショパンの雨だれ」
「風立ちぬ馴染みしものへの未連など放り投げたし帽子のごとく」
齢を重ねて行くと過去や未連があるが、それを引きずっていると時々重いので、放り投げて全部淨化して生まれ変わりたいと思った時に作った歌です。
「陰謀に隠されいるかたちあおいうす紫に花開きおり」
孤独という言葉は私にはなじみがあります。
一番人間が寂しいというには、一人でいる時にはそんなに寂しくはない。
誰かと一緒にいて、その方がとってもいい方だとしても長い事一緒にいる時に、一人だけ外れてしまうという事があり、タイトな関係性の中で親しい友人が夫婦でいたりすると、私は外れているなと思う事があります。
そういうときは寂しいです、居場所がない。
そういうときは一人になって音楽を聞いたり、本を読んだりすると、外れることが可能な年齢になったのですが。
人って孤独じゃないですか。
「天空の星の孤独を思いたり金星水星また離れ行く」
広い空間でぽつんと浮いているのが、子供のころの体験と似た現象だと思って、天空の孤独に感情移入する訳ですが、星は寂しいんじゃなくて孤独だと思うんですが。
「エチュードに太古の風の吹きすさぶ立ちあがり来るショパンの孤独」
ショパンは私の中では寂しさととことん付き合って、孤独からこの音をつくりあげたのではないかと、孤独を愛していたからこの音が出てきたのではないかと思いました。
「体操の呼吸ずらしてひそかなる抵抗はかるくくられたくなく」
考え方、生き方、価値観、感じ方などそういうものが同調してくるのは、呼吸困難に陥るわけです。
ここから先というのが何かあるが、そういうとき孤独を思いだすわけです。
カウンセリングの勉強を長い事勉強してきました。(30代の後半ぐらいから)
前の臨床心理医師会会長の村瀬嘉代子さんから20年ぐらい指導していただきまいた。
歌集を謹呈致しました。
見かけとは違ってしみじみとそれでいて広く突き抜けたおおらかさのある短歌に感じ入りましたと評価していただいて、こう受け取る村瀬先生に感動しました。
読み取り側の豊かさ凄さで作品は生かされていくんだろうなと思います。
4歳年下の弟が自死しました。
父も不慮の事故で早く倒れてしまい、母も私が成人して直ぐに亡くなってしまいました。
弟を亡くした時には理解できなくてただ呆然として涙が出てきませんでした。
バッハのコンチェルトを聞いたら、突然涙が出続けてしまい、1時間以上泣いていました。
カウンセリングをしていたのに、弟に対してはカウンセリング的に対応していませんでした。
人それぞれその時精一杯なので、そこでそうせざるを得なかったということは、わたしも弟の事を自分の家族にかまけて見きれなかったので、精一杯というのはどうしようもないじゃないかなと、生き続けるしかない。
前よりも思いが深く届く人間になっていくしかないと思って作った歌です。
学校でいじめが無くならないのは、アクティブで元気な子等は行事等手伝ってくれるので先生にとって有難い生徒で、不器用だったりする生徒は仲間に入れなかったりするが、短歌の授業をしていましたが、或る生徒は仲間に入ることはできませんでした。
その子が作った歌
「友達を作れるものなら作ってるお道具箱の紙と鋏で」
その後彼女は爆発的に作って今は歌集を出そうかという歌人になっています。
短歌は苦しい思いを吐き出すのに非常にいいツールです。
歌によって理解してもらうことによって人は繋がる。
「一滴の悲しみおさえいんゆ(隠喩?)とす言葉と言葉の海を泳ぎて」
「たはやすく平和が好きというなかれ光り届かぬ闇を泳ぎぬ」
「殺すなよ人はやがて死ぬものぞつかのまわれら共存共栄」
2018年12月17日月曜日
宮本芳彦(太鼓・神輿製造販売会社) ・【にっぽんの音】
宮本芳彦(太鼓・神輿製造販売会社) ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
会社は今年で157年を迎えています。
私は8代目になります。
林 英哲さんには団扇太鼓、小さな太鼓等色々作らせていただいています。
歌舞伎座が新しくなりましたが、その時に新しい大太鼓を納入させていただきました。
3尺大太鼓です。
劇場開きの時に一番太鼓を鳴らす習わしがありますが、「どーん どーん どんと来い」というようなリズムでお客様を入れ込むのと、邪気を払うということで、そんなことの囃し方が行います。
相撲巡業、国技館の太鼓もやらせてもらっています。
能楽の世界の能の囃子方が使う道具も作っています。
宮内庁の雅楽の鼉太鼓(だだいこ)も作っています。
全島8m位の装飾性のあるだだいこです。
太鼓だけではなくお祭りと伝統芸能の一切がっさいを作っています。
昔は山城屋という屋号でやっていて、茨城県の土浦から明治時代になって浅草に来ました。
お神輿を作り始めたのは昭和の初期だったと思います。
お神輿を作って欲しいとの要望があり、そこから作り始めました。
商品数は数えたことが無いです、太鼓だけでも30種類を作っていて、それぞれサイズ展開があり何百という種類の太鼓を作っていると思います。
ばち、笛、雅楽の道具、衣裳、草履、提灯、足袋、神輿、飾り紐など多岐にわたっています。
お神輿は特別注文でその地方に合わせたものもつくったりしています。
お神輿はそれぞれ違っています。
林 英哲さんの太鼓は緩くしてあって、低音が凄く滑らかに出るように配慮されています。
反対に秩父の夜祭の太鼓は、極限まで高く革を張って高い音を出していくようになっています。
太鼓の革を張る時に立ち会うようなこだわるお客様もいます。
太鼓をやる人の人口は増えています。
いいものを届けたいというものがあるので、舞台芸能の品質を求めたいというお客さんの場合は、コストパーフォーマンスを無視したぐらいまで追求しなければいけない事もあります。
売れれば何でもいいという訳にはいきません。
和太鼓は基本的に代表的なものは、欅の木をくりぬいて作った胴に牛革を鋲で留めますが、強い胴にあった強い芯のある音が出ます。
つくり込みの結果がいまの日本の太鼓だと思いますので、それを大事にしていきたいと思います。
入れ子方式で作れるので、外で大きな胴を作って、中で中位のを作って、その中で更に小さいのをつくっていきます。
一番内側が能楽で使う締太鼓とかの大きさのものになります。
それを3~5年乾燥させて、最終的に胴の形にします。
うちの会社では太鼓職人は25~30人の職人さんがいます。
専門性の高いものは専門性を突き詰めて行きますが、ローテーションをしながら満遍なく技術を覚えて行く人達もいます。
太鼓なら太鼓が好きと思える人が多いです。
要望に対して出来るようにしないと成長していかないので、達成したいという事が大きいと思います。
海外に向かって英語で太鼓と笛のオンラインレッスンが受けられる課金制のサイトをやっていたりします。
日系人のアイデンティティーを取り戻していこうという事で、太鼓が使われてきまして、発展していって、日系人という事を越えて純粋に表現として、パフォーミングアートとして楽しまれるようになりました。
太鼓の持っている普遍的な価値は、その音で人を寄せるということはあるのかなあと思います。
*林 英哲さん 山下洋輔さんで モーリス・ラヴェルの「ボレロ」 演奏
江戸時代の山車の復元にも携わりました。
赤坂の氷川神社に江戸時代の山車のパーツがたくさん出てきて、復元しようという事になり、私達もお手伝いしました。
江戸時代のお祭りは背の高い人形山車がメインでした。
明治時代になって電線とか交通事情とかで背の高い人形山車が出来なくなって、以後倉庫にしまわれていました。
お神輿は神社に一基あって宮神輿と呼ばれていた。
町神輿がだんだん増えていって、町神輿は町々が競い合って装飾性が強い。
氏子の地域を神輿が回ることで、地域の繁栄や幸せを願うというコンセプトですが、そういったことが余り伝えられていないと思います。
なんでやっているのかという事を、問い直す事が必要なのではないかと思うが、形だけになってきてしまっているような気がします。
仕事先の繁栄を願うのであれば、仕事先のお祭りに参加するのも一つの形だと思うので、企業単位で関わってくるという事もあると思います。
日本の音、余韻が特徴だと思います。
余韻の部分に美しさがあると思います、それが間というものに繋がっていくと思います。
能楽師狂言方 大藏基誠
会社は今年で157年を迎えています。
私は8代目になります。
林 英哲さんには団扇太鼓、小さな太鼓等色々作らせていただいています。
歌舞伎座が新しくなりましたが、その時に新しい大太鼓を納入させていただきました。
3尺大太鼓です。
劇場開きの時に一番太鼓を鳴らす習わしがありますが、「どーん どーん どんと来い」というようなリズムでお客様を入れ込むのと、邪気を払うということで、そんなことの囃し方が行います。
相撲巡業、国技館の太鼓もやらせてもらっています。
能楽の世界の能の囃子方が使う道具も作っています。
宮内庁の雅楽の鼉太鼓(だだいこ)も作っています。
全島8m位の装飾性のあるだだいこです。
太鼓だけではなくお祭りと伝統芸能の一切がっさいを作っています。
昔は山城屋という屋号でやっていて、茨城県の土浦から明治時代になって浅草に来ました。
お神輿を作り始めたのは昭和の初期だったと思います。
お神輿を作って欲しいとの要望があり、そこから作り始めました。
商品数は数えたことが無いです、太鼓だけでも30種類を作っていて、それぞれサイズ展開があり何百という種類の太鼓を作っていると思います。
ばち、笛、雅楽の道具、衣裳、草履、提灯、足袋、神輿、飾り紐など多岐にわたっています。
お神輿は特別注文でその地方に合わせたものもつくったりしています。
お神輿はそれぞれ違っています。
林 英哲さんの太鼓は緩くしてあって、低音が凄く滑らかに出るように配慮されています。
反対に秩父の夜祭の太鼓は、極限まで高く革を張って高い音を出していくようになっています。
太鼓の革を張る時に立ち会うようなこだわるお客様もいます。
太鼓をやる人の人口は増えています。
いいものを届けたいというものがあるので、舞台芸能の品質を求めたいというお客さんの場合は、コストパーフォーマンスを無視したぐらいまで追求しなければいけない事もあります。
売れれば何でもいいという訳にはいきません。
和太鼓は基本的に代表的なものは、欅の木をくりぬいて作った胴に牛革を鋲で留めますが、強い胴にあった強い芯のある音が出ます。
つくり込みの結果がいまの日本の太鼓だと思いますので、それを大事にしていきたいと思います。
入れ子方式で作れるので、外で大きな胴を作って、中で中位のを作って、その中で更に小さいのをつくっていきます。
一番内側が能楽で使う締太鼓とかの大きさのものになります。
それを3~5年乾燥させて、最終的に胴の形にします。
うちの会社では太鼓職人は25~30人の職人さんがいます。
専門性の高いものは専門性を突き詰めて行きますが、ローテーションをしながら満遍なく技術を覚えて行く人達もいます。
太鼓なら太鼓が好きと思える人が多いです。
要望に対して出来るようにしないと成長していかないので、達成したいという事が大きいと思います。
海外に向かって英語で太鼓と笛のオンラインレッスンが受けられる課金制のサイトをやっていたりします。
日系人のアイデンティティーを取り戻していこうという事で、太鼓が使われてきまして、発展していって、日系人という事を越えて純粋に表現として、パフォーミングアートとして楽しまれるようになりました。
太鼓の持っている普遍的な価値は、その音で人を寄せるということはあるのかなあと思います。
*林 英哲さん 山下洋輔さんで モーリス・ラヴェルの「ボレロ」 演奏
江戸時代の山車の復元にも携わりました。
赤坂の氷川神社に江戸時代の山車のパーツがたくさん出てきて、復元しようという事になり、私達もお手伝いしました。
江戸時代のお祭りは背の高い人形山車がメインでした。
明治時代になって電線とか交通事情とかで背の高い人形山車が出来なくなって、以後倉庫にしまわれていました。
お神輿は神社に一基あって宮神輿と呼ばれていた。
町神輿がだんだん増えていって、町神輿は町々が競い合って装飾性が強い。
氏子の地域を神輿が回ることで、地域の繁栄や幸せを願うというコンセプトですが、そういったことが余り伝えられていないと思います。
なんでやっているのかという事を、問い直す事が必要なのではないかと思うが、形だけになってきてしまっているような気がします。
仕事先の繁栄を願うのであれば、仕事先のお祭りに参加するのも一つの形だと思うので、企業単位で関わってくるという事もあると思います。
日本の音、余韻が特徴だと思います。
余韻の部分に美しさがあると思います、それが間というものに繋がっていくと思います。
2018年12月16日日曜日
芹沢安久(西伊豆しおかつお研究会会長) ・【美味しい仕事人】かつお節の元祖を守る
芹沢安久(西伊豆しおかつお研究会会長) ・【美味しい仕事人】かつお節の元祖を守る
和食には欠かせない鰹節そのうまみは和食への関心が高まっている海外からも注目が集まっています。
静岡県西伊豆町田子地区では鰹節の元祖ともいえる塩鰹が現在も生産されています。
地元ではお正月の神棚に備えることから、正月魚ともよばれ年末が生産のピークです。
しかし塩鰹をつくるのが全国でもこの地域だけになったと言います。
そこで塩鰹の食文化を伝えると共に町おこしにも役立てようと町の有志で普及活動に取り組んでいます。
今ちょど最盛期です。
干す時間は3週間です。
11月ぐらいから西風が吹くので乾燥に利用しています。
鰹の内臓を抜いて、塩を沢山詰めます、1匹の鰹に2kgの塩を使います。
500本ぐらい作るので塩を1トンちょっと使います。
2週間浸けこんで、綺麗に洗って吊るして日影で3週間干します。
正月に稲わらで飾って玄関、神棚などにおそなえします。
神様へのお供えだったりとか、悪い事が起きないとか、家族の健康を願ったりします。
神様のお下がりを食べるという文化があるわけです。
食べることによって無病息災、開運、鰹が沢山取れるようになど祈願するわけです。
凄くしょっぱいので塩抜きして食べますが、こっちの人は塩抜きしないで食べます。
生ハムみたいに薄く切って酢につけて食べたり、レモンを絞って食べたりします。
一般的には焼いて食べます。
お茶づけにしたり、味噌汁代わりにお湯を注ぐと鰹スープになり、これが鰹だしの始まりだといわれています。
歴史は凄く古くて古墳時代あるいは飛鳥時代と言われています。
江戸時代になってから鰹節が出来て来る訳です。
昔は日本中で作られていたが、それが食文化の変化などからすべてなくなってしまって、この西伊豆地区だけになってしまいました。
正月に飾って食べるという文化が、ここだけになってしまいました。
江戸時代に西伊豆では鰹の3大産地、鰹節の3大名産地として有名でした。
土佐、薩摩、伊豆の3つが鰹の産地、鰹節の3大名産地として有名でした。
昔は鰹節船が40隻ありました、鰹節屋さんも40軒ありました。
田子湾は寄りあい港と言われて、嵐が来た時などに逃げ込む港でした。
そこから注文が多く来て、沢山鰹節をつくるようになり江戸等に運ばれました。
鰹節の発祥の地は和歌山県ですが、その製法を土佐の余市?という方が1800年代に伊豆に伝えるわけです。
製法を改良して西伊豆節をつくるわけです。
江戸で売ったら爆発的に売れました、鰹節が本枯節になって行きます。
本枯節の基礎を作ったのが田子節になります。
本枯節の一番おいしい食べ方は料理の直前に必要分だけ削って食べるのが一番です。
もう削らなくなったので、本枯節も後10年もすれば消えるのではないかと言われています。
食べなくなると作らなくなる。
本枯の鰹節をつくるのには生から半年かかります。
その間には50~60の複雑な工程があります。
簡単に言うと4つの皇帝になります。
①まず独特の切り方で鰹を切ります。
②煮込みます、90℃で2時間煮込む、骨を抜く、穴があいてしまうので余った身をペースト状にして穴を埋めます。
③焙乾します、薪を使って燻し乾かしてゆきますが、色々な方法があります。
うちでは手火山式焙乾製法という最も古い焙乾法を使ってやります。
2mに縦穴が掘ってあって、薪を投げ入れて火を付けて直接焙し乾かす製法でう。
表面が固くなるとうまみが逃げない。
それを何回も繰り返すが、その間に一日やったら一日休ませる、という手法を摂ります。
(少し戻しながら水分を抜いてゆく)
10回の焙乾をするのに1カ月ぐらいかかります。
半年持つ保存食になるが、更に持たせるために発行させます。
④麹菌の力によって水分を取ります。
杉の樽のなかに入れて高温多湿のむろの中においてカビをつけて20から30日置きます。
カビ臭くなるので天日干しをして今度は麹菌を弱らせます。
手で表面の麹菌を払って、また樽に入れて20から30日するとカビが復活して、水分、脂分を取ります。
そしてまた天日干しをします。
6から8回繰り返します。
そうすると半年ぐらいかかってしまいます。
手火山式焙乾製法にはルールがあって必ず地元の薪を使います。
ならくぬぎ、桜をブレンドして使います。
地元の木を使うことによって山が綺麗になり、川が綺麗になり、海が綺麗になります。
自然と自分たちの暮らしが繋がって、初めて自分たちの暮らしが成っているという事を昔の人は伝えたかった。
塩鰹は厳粛な行事となっていった。
この方法は東北、北海道に行くとしゃけに、日本海に行くとブリに変わって行く。
船主は塩鰹2本を神社仏閣に奉納する。
その後1本を船主は乗組員に対して料理する訳です。
食べた瞬間に「今年も宜しく」ということで契約する訳です。(神様がいる中での契約)
1本貰っても食べきれないという事があるが、食べてもらわないものはだんだん無くなって最終的には無くなってしまうという事で危機感があり、10年前からしおかつお研究会を立ち上げて、残しておこうという事で、切り身にしたり、焼いたり色々な方法を考えました。
食べやすくするためふりかけも作りました。
最初売れなかったが、宣伝して少しずつ売れるようになり、御当地グルメにも参戦して、うどんにふりかけて西伊豆塩鰹うどんということで、温泉卵もいれました。
2010年から学校給食で、西伊豆塩鰹うどんを提供していただくようになり、段々地元に浸透していきました。
鰹文化を語る上にもルーツと言える塩鰹節は、欠かせないものなので伝えて行きたいと思います。
うちの会社は見学できるようになっていて、昨年外国の方も160人ぐらい見学に来ています。
塩鰹節を見て「年神様だね」といってくれて、外国の人はよく勉強して見に来ていると思いました。
和食には欠かせない鰹節そのうまみは和食への関心が高まっている海外からも注目が集まっています。
静岡県西伊豆町田子地区では鰹節の元祖ともいえる塩鰹が現在も生産されています。
地元ではお正月の神棚に備えることから、正月魚ともよばれ年末が生産のピークです。
しかし塩鰹をつくるのが全国でもこの地域だけになったと言います。
そこで塩鰹の食文化を伝えると共に町おこしにも役立てようと町の有志で普及活動に取り組んでいます。
今ちょど最盛期です。
干す時間は3週間です。
11月ぐらいから西風が吹くので乾燥に利用しています。
鰹の内臓を抜いて、塩を沢山詰めます、1匹の鰹に2kgの塩を使います。
500本ぐらい作るので塩を1トンちょっと使います。
2週間浸けこんで、綺麗に洗って吊るして日影で3週間干します。
正月に稲わらで飾って玄関、神棚などにおそなえします。
神様へのお供えだったりとか、悪い事が起きないとか、家族の健康を願ったりします。
神様のお下がりを食べるという文化があるわけです。
食べることによって無病息災、開運、鰹が沢山取れるようになど祈願するわけです。
凄くしょっぱいので塩抜きして食べますが、こっちの人は塩抜きしないで食べます。
生ハムみたいに薄く切って酢につけて食べたり、レモンを絞って食べたりします。
一般的には焼いて食べます。
お茶づけにしたり、味噌汁代わりにお湯を注ぐと鰹スープになり、これが鰹だしの始まりだといわれています。
歴史は凄く古くて古墳時代あるいは飛鳥時代と言われています。
江戸時代になってから鰹節が出来て来る訳です。
昔は日本中で作られていたが、それが食文化の変化などからすべてなくなってしまって、この西伊豆地区だけになってしまいました。
正月に飾って食べるという文化が、ここだけになってしまいました。
江戸時代に西伊豆では鰹の3大産地、鰹節の3大名産地として有名でした。
土佐、薩摩、伊豆の3つが鰹の産地、鰹節の3大名産地として有名でした。
昔は鰹節船が40隻ありました、鰹節屋さんも40軒ありました。
田子湾は寄りあい港と言われて、嵐が来た時などに逃げ込む港でした。
そこから注文が多く来て、沢山鰹節をつくるようになり江戸等に運ばれました。
鰹節の発祥の地は和歌山県ですが、その製法を土佐の余市?という方が1800年代に伊豆に伝えるわけです。
製法を改良して西伊豆節をつくるわけです。
江戸で売ったら爆発的に売れました、鰹節が本枯節になって行きます。
本枯節の基礎を作ったのが田子節になります。
本枯節の一番おいしい食べ方は料理の直前に必要分だけ削って食べるのが一番です。
もう削らなくなったので、本枯節も後10年もすれば消えるのではないかと言われています。
食べなくなると作らなくなる。
本枯の鰹節をつくるのには生から半年かかります。
その間には50~60の複雑な工程があります。
簡単に言うと4つの皇帝になります。
①まず独特の切り方で鰹を切ります。
②煮込みます、90℃で2時間煮込む、骨を抜く、穴があいてしまうので余った身をペースト状にして穴を埋めます。
③焙乾します、薪を使って燻し乾かしてゆきますが、色々な方法があります。
うちでは手火山式焙乾製法という最も古い焙乾法を使ってやります。
2mに縦穴が掘ってあって、薪を投げ入れて火を付けて直接焙し乾かす製法でう。
表面が固くなるとうまみが逃げない。
それを何回も繰り返すが、その間に一日やったら一日休ませる、という手法を摂ります。
(少し戻しながら水分を抜いてゆく)
10回の焙乾をするのに1カ月ぐらいかかります。
半年持つ保存食になるが、更に持たせるために発行させます。
④麹菌の力によって水分を取ります。
杉の樽のなかに入れて高温多湿のむろの中においてカビをつけて20から30日置きます。
カビ臭くなるので天日干しをして今度は麹菌を弱らせます。
手で表面の麹菌を払って、また樽に入れて20から30日するとカビが復活して、水分、脂分を取ります。
そしてまた天日干しをします。
6から8回繰り返します。
そうすると半年ぐらいかかってしまいます。
手火山式焙乾製法にはルールがあって必ず地元の薪を使います。
ならくぬぎ、桜をブレンドして使います。
地元の木を使うことによって山が綺麗になり、川が綺麗になり、海が綺麗になります。
自然と自分たちの暮らしが繋がって、初めて自分たちの暮らしが成っているという事を昔の人は伝えたかった。
塩鰹は厳粛な行事となっていった。
この方法は東北、北海道に行くとしゃけに、日本海に行くとブリに変わって行く。
船主は塩鰹2本を神社仏閣に奉納する。
その後1本を船主は乗組員に対して料理する訳です。
食べた瞬間に「今年も宜しく」ということで契約する訳です。(神様がいる中での契約)
1本貰っても食べきれないという事があるが、食べてもらわないものはだんだん無くなって最終的には無くなってしまうという事で危機感があり、10年前からしおかつお研究会を立ち上げて、残しておこうという事で、切り身にしたり、焼いたり色々な方法を考えました。
食べやすくするためふりかけも作りました。
最初売れなかったが、宣伝して少しずつ売れるようになり、御当地グルメにも参戦して、うどんにふりかけて西伊豆塩鰹うどんということで、温泉卵もいれました。
2010年から学校給食で、西伊豆塩鰹うどんを提供していただくようになり、段々地元に浸透していきました。
鰹文化を語る上にもルーツと言える塩鰹節は、欠かせないものなので伝えて行きたいと思います。
うちの会社は見学できるようになっていて、昨年外国の方も160人ぐらい見学に来ています。
塩鰹節を見て「年神様だね」といってくれて、外国の人はよく勉強して見に来ていると思いました。
2018年12月15日土曜日
以倉紘平(詩人) ・言葉の海に漕ぎ出でて ・・・夜学生と見つめた戦後の日本
以倉紘平(詩人) ・言葉の海に漕ぎ出でて ・・・夜学生と見つめた戦後の日本
昭和40年から33年間大阪市内の工業高校定時制の教壇に立ち、高度経済成長の若者たちとともに社会を見つめて来ました。
1992年に詩集「地球の水辺」で詩壇の芥川賞と言われる、「H氏賞」を受賞、そして2000年には『プシュパ・ブリシュティ』で現代詩人賞を受賞しています。
この秋刊行した詩集「遠い蛍」には、がんで亡くなった娘いずみさんへの思いを綴った詩も収められています。
これまでの人生の道筋、現代詩の現状を語っていただきます。
詩というのは一般の人に読んでいただかないことには、あまり意味がないのではないかと思います。
僕は狭い詩人だけの世界だけで通用する詩は、どうかなという考えです。
感動が無ければ詩にはならないと思います。
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」
古今集の紀貫之の言葉で、人の心を種にもって歌が生れると言っています。
万葉集にあったストレートに述べるということから、段々言葉を飾る方に行って、飾りを大事にして心をわすれていると、藤原定家が言っていて、根が深いんです。
自由詩の場合は心の感動が中心になるのではないかと思います。
萩原朔太郎なんかも内面律、内面のリズムが大事だといっています、或る種音楽性が無いと。
大阪府立今宮工業高等学校定時制の先生をしながら詩作を続けて来ました。
詩を書いているとはだれも知りませんでした。
昭和40年から33年間大阪市内の工業高校定時制の教壇に立ちましたが、生徒から学ぶ事が多かったです。
当時はいろいろ家庭の事情があって定時制の高校に来ていました。
多くは父親を亡くして母親を楽にさせたいという思いで、昼は仕事をして夜定時制に来ていました。
「最期の夜学生」 詩の朗読
学校は午後5時半から始まるが、この子の場合は一旦家に帰って、母の具合を見て学校に行くのでどうしても遅刻が増えるんです。
1970年代半ばのころのことです。
1992年に出版したH氏賞受賞した「地球の水辺」から
「夜学生 1」 詩の朗読
実習工場があり旋盤とかがあるが、「実習工場には石鹸と警察の匂いがする、整理整頓が行き届いて清潔になっている」こんなことを良く書くなあと思いました。
「足し算が汗をかいている」という表現、 掛け算は汗をかかないが足し算が汗をかいているという、どうしててこんな事が思い付くのかと思いました。
本当に吃驚しました。
1970代の初めに減反農政で、家族が都会に出て来るしか無くて、全日制よりも夜学の方の生徒は多かったです。
親は中小企業に就職しますが、交通事故とか病気になったりして、残された子供たちは家計を支えるということになったんだと思います。
家で勉強して1級建築士になった人も結構いました。
「夜学生 母親」詩の朗読
平成になって行った時には夜間高校の生徒は変質していきました。
まずクラスの人数が減っていきました。
人数が10人位になるとクラスの体を成さない。
個人一人ひとりが自分の世界だけ出来ていればいい、というふうな考え方に段々なっていった。
私は高校3年のころに井上靖さんの「北国」を読んだときからが詩との出会いでした。
その時に凄く感動しました。
井上靖さんが選考委員長をされた、「日の門」という詩集で第1回福田正夫賞受賞しました。
井上先生から表彰状を直に貰って家に呼んでもらう事が出来ました。
1992年に「地球の水辺」でH氏賞を受賞しました。
1998年に近畿大学の文芸学部に迎えられることになりました。
研究、創作に別れていたが私は両方やっていました。
ゼミの数は多かったです、20人を越えていました。
2009年8月 娘のいずみ(35歳)を亡くしてしまいました。
東京で演劇をやっていて文学座に入って、その後文学座を離れて芝居を自由にやっていました。
肺がんでして、転移をしていました。
12月に入院して270日ぐらい私も病院に泊り込んでいました。
今でもこんなことが僕に身に起こるとは思いませんで居た。
「遠い蛍」の中には娘との日々をつづった詩があります。
私の命と混ざり合って、一種の共同作業の様に作品が生まれました。
娘の事を書くと、娘に助けられているような気がします。
言葉を生み出したというのは、この大宇宙をつくりだしたこの命の不思議じゃないかなあと思っています。
2016年から2年間、現代詩人会の会長を務めました。
全国を7ブロックに分けて、それぞれの団体が集まって2020年の11月にイベントをやりましょうと計画しています。
2019年に10月にプレイベントを福井県坂井市三国町で行われます。
文学の街で福井県は文化に理解のあるところです。
平沢輝男?さんが三国の図書館に本を寄付をしていただいて、お父さんが平沢貞二郎さんでH氏賞に最初に資金を提供された方です。
頭文字をとって「H氏賞」となっています。
私は夜学生から感動を貰いましたので、感動を伝えることが詩だと大きな柱がありますが、阿部昭さんがあるがままの人生、長い熟視、ひそやかな感動の声、というのが阿部さんの短編小説の作法なんで、我々は日々生きていて、あー人生ってこんなもんかなあと思いますが、あるがままの人生、長い熟視、ひそやかな感動の声、こういうのが私の作品を作る時のモットーにしています。
井上靖さんが、この頃の詩は難解になり過ぎていて独りよがりになり、読者を狭めていると1985年ぐらいからおっしゃっていて今も続いている。
詩人がそれぞれにもう一度考えてみる必要があるのではないか、と私は考えているが。
詩って面白いなあと思えるような作品をつくることが詩人の役割だと思っていて、一般の人にも理解していただいて、参加するようにしていただきたいと思っています。
昭和40年から33年間大阪市内の工業高校定時制の教壇に立ち、高度経済成長の若者たちとともに社会を見つめて来ました。
1992年に詩集「地球の水辺」で詩壇の芥川賞と言われる、「H氏賞」を受賞、そして2000年には『プシュパ・ブリシュティ』で現代詩人賞を受賞しています。
この秋刊行した詩集「遠い蛍」には、がんで亡くなった娘いずみさんへの思いを綴った詩も収められています。
これまでの人生の道筋、現代詩の現状を語っていただきます。
詩というのは一般の人に読んでいただかないことには、あまり意味がないのではないかと思います。
僕は狭い詩人だけの世界だけで通用する詩は、どうかなという考えです。
感動が無ければ詩にはならないと思います。
「やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」
古今集の紀貫之の言葉で、人の心を種にもって歌が生れると言っています。
万葉集にあったストレートに述べるということから、段々言葉を飾る方に行って、飾りを大事にして心をわすれていると、藤原定家が言っていて、根が深いんです。
自由詩の場合は心の感動が中心になるのではないかと思います。
萩原朔太郎なんかも内面律、内面のリズムが大事だといっています、或る種音楽性が無いと。
大阪府立今宮工業高等学校定時制の先生をしながら詩作を続けて来ました。
詩を書いているとはだれも知りませんでした。
昭和40年から33年間大阪市内の工業高校定時制の教壇に立ちましたが、生徒から学ぶ事が多かったです。
当時はいろいろ家庭の事情があって定時制の高校に来ていました。
多くは父親を亡くして母親を楽にさせたいという思いで、昼は仕事をして夜定時制に来ていました。
「最期の夜学生」 詩の朗読
学校は午後5時半から始まるが、この子の場合は一旦家に帰って、母の具合を見て学校に行くのでどうしても遅刻が増えるんです。
1970年代半ばのころのことです。
1992年に出版したH氏賞受賞した「地球の水辺」から
「夜学生 1」 詩の朗読
実習工場があり旋盤とかがあるが、「実習工場には石鹸と警察の匂いがする、整理整頓が行き届いて清潔になっている」こんなことを良く書くなあと思いました。
「足し算が汗をかいている」という表現、 掛け算は汗をかかないが足し算が汗をかいているという、どうしててこんな事が思い付くのかと思いました。
本当に吃驚しました。
1970代の初めに減反農政で、家族が都会に出て来るしか無くて、全日制よりも夜学の方の生徒は多かったです。
親は中小企業に就職しますが、交通事故とか病気になったりして、残された子供たちは家計を支えるということになったんだと思います。
家で勉強して1級建築士になった人も結構いました。
「夜学生 母親」詩の朗読
平成になって行った時には夜間高校の生徒は変質していきました。
まずクラスの人数が減っていきました。
人数が10人位になるとクラスの体を成さない。
個人一人ひとりが自分の世界だけ出来ていればいい、というふうな考え方に段々なっていった。
私は高校3年のころに井上靖さんの「北国」を読んだときからが詩との出会いでした。
その時に凄く感動しました。
井上靖さんが選考委員長をされた、「日の門」という詩集で第1回福田正夫賞受賞しました。
井上先生から表彰状を直に貰って家に呼んでもらう事が出来ました。
1992年に「地球の水辺」でH氏賞を受賞しました。
1998年に近畿大学の文芸学部に迎えられることになりました。
研究、創作に別れていたが私は両方やっていました。
ゼミの数は多かったです、20人を越えていました。
2009年8月 娘のいずみ(35歳)を亡くしてしまいました。
東京で演劇をやっていて文学座に入って、その後文学座を離れて芝居を自由にやっていました。
肺がんでして、転移をしていました。
12月に入院して270日ぐらい私も病院に泊り込んでいました。
今でもこんなことが僕に身に起こるとは思いませんで居た。
「遠い蛍」の中には娘との日々をつづった詩があります。
私の命と混ざり合って、一種の共同作業の様に作品が生まれました。
娘の事を書くと、娘に助けられているような気がします。
言葉を生み出したというのは、この大宇宙をつくりだしたこの命の不思議じゃないかなあと思っています。
2016年から2年間、現代詩人会の会長を務めました。
全国を7ブロックに分けて、それぞれの団体が集まって2020年の11月にイベントをやりましょうと計画しています。
2019年に10月にプレイベントを福井県坂井市三国町で行われます。
文学の街で福井県は文化に理解のあるところです。
平沢輝男?さんが三国の図書館に本を寄付をしていただいて、お父さんが平沢貞二郎さんでH氏賞に最初に資金を提供された方です。
頭文字をとって「H氏賞」となっています。
私は夜学生から感動を貰いましたので、感動を伝えることが詩だと大きな柱がありますが、阿部昭さんがあるがままの人生、長い熟視、ひそやかな感動の声、というのが阿部さんの短編小説の作法なんで、我々は日々生きていて、あー人生ってこんなもんかなあと思いますが、あるがままの人生、長い熟視、ひそやかな感動の声、こういうのが私の作品を作る時のモットーにしています。
井上靖さんが、この頃の詩は難解になり過ぎていて独りよがりになり、読者を狭めていると1985年ぐらいからおっしゃっていて今も続いている。
詩人がそれぞれにもう一度考えてみる必要があるのではないか、と私は考えているが。
詩って面白いなあと思えるような作品をつくることが詩人の役割だと思っていて、一般の人にも理解していただいて、参加するようにしていただきたいと思っています。
2018年12月14日金曜日
山田優美子(学校事件事故遺族会理事) ・【人権インタビューシリーズ】身近に潜む"指導死"
山田優美子(学校事件事故遺族会理事) ・【人権インタビューシリーズ】身近に潜む"指導死"
学校での教員の不適切な指導が、生徒の自殺を招く指導死と呼ばれる事案が、私達の身近なところで相次いでいます。
今朝は遺族でつくる指導死親の会で活動する山田さんに伺います。
山田さんは7年前に、当時高校2年生の次男を自殺で失いました、
そこには野球部の指導者の行きすぎた指導が、深くかかわっていたと言います。
身近に潜む指導死、山田さんに伺いました。
指導死、教員の指導が原因とした子供の自殺を総称して指導死と呼んでいます。
増えているというよりは表面化してきた感じです。
2011年に息子を亡くしましたが、それまでは全く関心がありませんでした。
野球が好きな子供で、入学して直ぐ硬式野球部に入部しました。
先輩たちがすごく優しいと言っていましたが、夏を過ぎたころから恭平が愚痴を言うようになり、あの監督(二軍監督で副部長)は直ぐに殴るので厭だというようになりました。
自分は殴られた事は無いが、友達が殴られるのを見て、厭だと言っていました。
2年生になって直ぐに、再び恭平が野球部を辞めると言ったことで、厭けがさしたんだなと思いました。
その日帰宅した恭平は肩を落としていて、辞められなかったということでした。
練習試合が終わって帰って来た恭平が落ち込んでいて、部員が3人休憩時間に殴る蹴るの暴行を受けたということでした。
しかし、ほかに恭平自身がボールを落としたという事で、みんなの前でユニホームを脱がされて「消えろ」と一喝されたそうです。(亡くなった後で判った事)
部活に行かなくなって、一週間後に副部長が恭平が練習に来ていないことに気が付いて、教官室に呼び出されたそうで怖かったと思う。
頭が痛くて学校には行きたくないという事で、学校は休ませました。
翌日は送りだしましたが、学校には向かわずに隣町にある廃車の中に入って、練炭を使って亡くなっていました。
アンケート、聞きとり調査もされないままで終わりました。
遺書が無いということと恭平は殴られていないという事で、学校と恭平の自殺の間には何も関係ないと言われました。
文科省に手紙を出して教育委員会も動いて第三者委員会が調査をすることになりましたが、それでもまだ判らなくて県知事に陳情して、新たな第三者委員会が出来ました。
その結論としては暴力が一定数あり、それを見て鬱状態になり、鬱により自殺したという事になりました。
今年5月に愛知県弁護士会の人権救済の申し立てにより学校、当時の副部長に措置が取られる。
部活の中の暴力行為が事件であると認定された文言があり、それが一番欲しかった結果だなと思いました。
30年間で78件の数が報告されているが、ごくごく一部だと思います。
私が把握しているだけでも、明らかに指導死だと思う案件があり、諦めてしまって指導死にカウントされない事案が何件もあります。
指導死とパワハラは似ていると思います、物的証拠がない。
指導死の難しいところは、先生に悪意があってやっている訳ではないという事が多い。
地域の声が、いい先生だという事を言っていたりすることもあります。
そうするとなかなか声をあげられなくなってしまう事もあります。
何でどこかで助けてあげられなかったのかとか、親として自分自身に対して、自責の念を起こしてしまう事もあります。
恭平への体罰はなかったが、指導死は暴力が振るわれていなかった事案がほとんどなんです。
心を一気に追い込めるのは、先生ならではの関係性の問題なんです。
個室で長々説教されて、教師から「お前は生きる価値がない」なんて言われると、子供は自分は生きてゆく価値が無いのかなと思ったりするわけです。
追いつめられて突発的に自殺してしまう事があります。
先生の立場はどれだけ怖い存在なのか、を自覚して指導してほしいと思います。
子供のプライドも気にして、どう指導するのかを考えてもらいたい。
私は子供の自主性を尊重するあまり、子供の話を聞けませんでした。
野球部を辞めるとか、学校を辞めるとか、色んな選択肢がある事を言ってあげるべきだったなと後で思いました。
社団法人「カナリアハート」を立ち上げました。
私自身子育てに自信がなくなり、自我の崩壊というような思いがありました。
そういった人達がいれば、受け入れられる場所を提供したいと思いました。
運営して行く為には資金が必要で、あえて寄付だけでやっていきたいと思っています。
他の選択肢、角度を変えて見ることをお勧めしたいと思います。
殴られた子たちに聞いたことがあるが、エラーをしたり、色んなことに対して殴られた自分が悪いというんです。
それが私にとってはショックでした。(理不尽だとかは一切思わない)
子供達は自分たちに人権があるという事を教わって来ていない。
もっと声をあげるべきだと思います。
学校での教員の不適切な指導が、生徒の自殺を招く指導死と呼ばれる事案が、私達の身近なところで相次いでいます。
今朝は遺族でつくる指導死親の会で活動する山田さんに伺います。
山田さんは7年前に、当時高校2年生の次男を自殺で失いました、
そこには野球部の指導者の行きすぎた指導が、深くかかわっていたと言います。
身近に潜む指導死、山田さんに伺いました。
指導死、教員の指導が原因とした子供の自殺を総称して指導死と呼んでいます。
増えているというよりは表面化してきた感じです。
2011年に息子を亡くしましたが、それまでは全く関心がありませんでした。
野球が好きな子供で、入学して直ぐ硬式野球部に入部しました。
先輩たちがすごく優しいと言っていましたが、夏を過ぎたころから恭平が愚痴を言うようになり、あの監督(二軍監督で副部長)は直ぐに殴るので厭だというようになりました。
自分は殴られた事は無いが、友達が殴られるのを見て、厭だと言っていました。
2年生になって直ぐに、再び恭平が野球部を辞めると言ったことで、厭けがさしたんだなと思いました。
その日帰宅した恭平は肩を落としていて、辞められなかったということでした。
練習試合が終わって帰って来た恭平が落ち込んでいて、部員が3人休憩時間に殴る蹴るの暴行を受けたということでした。
しかし、ほかに恭平自身がボールを落としたという事で、みんなの前でユニホームを脱がされて「消えろ」と一喝されたそうです。(亡くなった後で判った事)
部活に行かなくなって、一週間後に副部長が恭平が練習に来ていないことに気が付いて、教官室に呼び出されたそうで怖かったと思う。
頭が痛くて学校には行きたくないという事で、学校は休ませました。
翌日は送りだしましたが、学校には向かわずに隣町にある廃車の中に入って、練炭を使って亡くなっていました。
アンケート、聞きとり調査もされないままで終わりました。
遺書が無いということと恭平は殴られていないという事で、学校と恭平の自殺の間には何も関係ないと言われました。
文科省に手紙を出して教育委員会も動いて第三者委員会が調査をすることになりましたが、それでもまだ判らなくて県知事に陳情して、新たな第三者委員会が出来ました。
その結論としては暴力が一定数あり、それを見て鬱状態になり、鬱により自殺したという事になりました。
今年5月に愛知県弁護士会の人権救済の申し立てにより学校、当時の副部長に措置が取られる。
部活の中の暴力行為が事件であると認定された文言があり、それが一番欲しかった結果だなと思いました。
30年間で78件の数が報告されているが、ごくごく一部だと思います。
私が把握しているだけでも、明らかに指導死だと思う案件があり、諦めてしまって指導死にカウントされない事案が何件もあります。
指導死とパワハラは似ていると思います、物的証拠がない。
指導死の難しいところは、先生に悪意があってやっている訳ではないという事が多い。
地域の声が、いい先生だという事を言っていたりすることもあります。
そうするとなかなか声をあげられなくなってしまう事もあります。
何でどこかで助けてあげられなかったのかとか、親として自分自身に対して、自責の念を起こしてしまう事もあります。
恭平への体罰はなかったが、指導死は暴力が振るわれていなかった事案がほとんどなんです。
心を一気に追い込めるのは、先生ならではの関係性の問題なんです。
個室で長々説教されて、教師から「お前は生きる価値がない」なんて言われると、子供は自分は生きてゆく価値が無いのかなと思ったりするわけです。
追いつめられて突発的に自殺してしまう事があります。
先生の立場はどれだけ怖い存在なのか、を自覚して指導してほしいと思います。
子供のプライドも気にして、どう指導するのかを考えてもらいたい。
私は子供の自主性を尊重するあまり、子供の話を聞けませんでした。
野球部を辞めるとか、学校を辞めるとか、色んな選択肢がある事を言ってあげるべきだったなと後で思いました。
社団法人「カナリアハート」を立ち上げました。
私自身子育てに自信がなくなり、自我の崩壊というような思いがありました。
そういった人達がいれば、受け入れられる場所を提供したいと思いました。
運営して行く為には資金が必要で、あえて寄付だけでやっていきたいと思っています。
他の選択肢、角度を変えて見ることをお勧めしたいと思います。
殴られた子たちに聞いたことがあるが、エラーをしたり、色んなことに対して殴られた自分が悪いというんです。
それが私にとってはショックでした。(理不尽だとかは一切思わない)
子供達は自分たちに人権があるという事を教わって来ていない。
もっと声をあげるべきだと思います。
2018年12月13日木曜日
ロバート ・キャンベル(日本文学者) ・【人権インタビューシリーズ】『ここにいるよ』と言える社会に ~ゲイ公表の先に~
ロバート ・キャンベル(日本文学者) ・【人権インタビューシリーズ】『ここにいるよ』と言える社会に ~ゲイ公表の先に~
今年 8月に御自身がゲイであることを公共の場で明らかのしました。
何故今声を上げたのか、そこには日本社会全体へのメッセージが込められていました。
きっかけは政治家が事実とは全く異なることを沢山書いた寄稿文が発表されて、その寄稿文の中ではゲイ、レスビアンは生産性が無いから社会的な支援を必要としない、社会的な制度をその人たちが生きやすいように改善、改正する必要が無いのではないのかとか、そういう人たちが増えることによって社会に不幸が増えて行く、幸福が社会の中から減って行くというようなことが書いてあって、反駁するような気持が強くあって、一番言いたいことを自分の経験を乗せて運んでいかないと、伝わらないのではないかなあと思って、文章の途中で僕はゲイであるという事を公表しました。
ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーといわれる人々はそれぞれ違う個性を持っていて、社会の一員としてこと成る力を持っている中で、同じ様な土俵に立って始めて人間としてのポテンシャルが発揮できるものだと思うが、現状の中ではポテンシャルを自由に発揮できる社会になっていないと言う事を感じました。
排除はされないが、言えば見えないところで信頼とかが奪われてしま可能性がある。
見えない駆け引きの中に性的マイノリティーが実際に生きている。
ナベブタのようなものを取ってしまった方がいいことだと思うし、日本社会全体にとってプラスになる、豊かな社会に繋がることだと思いました。
『ここにいるよ』はLGBTだけでは無くて障害を持ち人だとか、主張できないでいる。
(LGBT(エル・ジー・ビィー・ティー)とは、女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の各単語の頭文字を組み合わせた表現である。)
『ここにいるよ』という事を言わないと自分の居場所が定まらない。
「日本では秘すれば花」という言葉が有るが、見て見ないふりという方向に働く。
みんなで認め合って社会として家族として、それが働くように思考を変えて認め合って行こうという方向に世界が動いている。
私は正面から書いた訳ですが、その先の所、自然に納得できるようにと言葉を選んで書きました。
あえて言う場面が今まであまりなかったかもしれない。
半年近くが経過してみんな温かいです、色メガネで見られていない。
やってみることによって多くの人達に小さな力を、いい意味での圧をかけるという事が出来るのかなあと思います。
公表することによって不利益は以外にないですね。
均等に世の中に宣言するという事をしてみると、自覚していなかったが幕があったのかもしれない。
心が開きやすくなったと思います。
結婚についてもパートナーは日本人ですが、昨年アメリカで結婚しました。
LGBTの関係は日本の社会の中で輪郭が無い、フレームが無い、権利も義務もない他人同士です。
昨年10月に数十人集まってもらって、みんなに披露しました。
無心に喜んでくれて祝福してくれて、言葉にできないぐらい幸福感というか、この人達と付き合ってきて良かったと思いました。
男性同士、女性同士が結婚するとどうなるの、結婚そのものがぐらつくのではないのか、少子化に拍車がかかるのではないのかとか、そう思う人も実際にいるんですが、決してそんなことはないと思います。
結婚の平等は選択支を与えることによって、全体の社会の足腰を少しだけ強くして行くという事なんですね、それを皆さんに納得してもらえるかという事が大きな課題だと思います。
LGBTの理解が普及して行って、こういう人達が私達の社会にいるんだという事を理解している人たちがたくさんいますが、つぎにはその人達を日常に織り込んでゆくことが次のステップだと思います。
究極的にはその人が幸せなことが訪れた時に、手放しで祝福することができる事、悲しい事が起きた時に一緒に悲しむ事それができるかできないか、とっても大事な事だと思います。
LGBT、人権に関して、日本の社会がスピーディーにより安定して幸せに暮らせるような方向に向かおうとしているのではないかと思います。
オリンピックを迎えるにあたって、その半年前から各国の報道陣が入ってきて、日本の隅々までがどうなっているのか、世界中に可視化されると思う。
千載一遇のきっかけだと思うので楽しみにしています。
10位の自治体がパートナーシップ条例をつくっていて、様々な社会福祉、市民生活の中で平坦になると思います。
少しずつ広がって転がり始めて行っていると思います。
『ここにいるよ』と言わなくても、自然に時間空間の中で知れ渡っていって、なんてことないとなれば一番いいですね。
日本という国は地元から民間から色んなことが議論され、行政、政治家にその声が届いて条例制度が変わったりする。
点々となっていたものが、段々網の目のようになって細かくなって行って制度が変わって行く。
納得してもらうのが大事ですね、そのためには二つあると思います。
自分と違いを持つ人を受け止めて中に入れて自分のエネルギーの一つにしたり距離を置いたりするかして、どう理解を深めるか。
社会の制度をみんなが合意をして、作り変えるという事も重要です。
手術を受ける時の同意書、遺産相続、遺族年金、税金等も大きな段差があります。
生きやすいように均等に広がっていくようになって、初めて混ぜ混ぜ状態ということになると思います。
これまでやってきたことを積み上げて、これからやることは全うしてゆくことだと思います。
そうすることによってLGBTの人々の空気を混ぜ混ぜにすること、喚起して行く事、自由にして行くことが自分ができる事、それに繋がるんだと思っています。
今年 8月に御自身がゲイであることを公共の場で明らかのしました。
何故今声を上げたのか、そこには日本社会全体へのメッセージが込められていました。
きっかけは政治家が事実とは全く異なることを沢山書いた寄稿文が発表されて、その寄稿文の中ではゲイ、レスビアンは生産性が無いから社会的な支援を必要としない、社会的な制度をその人たちが生きやすいように改善、改正する必要が無いのではないのかとか、そういう人たちが増えることによって社会に不幸が増えて行く、幸福が社会の中から減って行くというようなことが書いてあって、反駁するような気持が強くあって、一番言いたいことを自分の経験を乗せて運んでいかないと、伝わらないのではないかなあと思って、文章の途中で僕はゲイであるという事を公表しました。
ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダーといわれる人々はそれぞれ違う個性を持っていて、社会の一員としてこと成る力を持っている中で、同じ様な土俵に立って始めて人間としてのポテンシャルが発揮できるものだと思うが、現状の中ではポテンシャルを自由に発揮できる社会になっていないと言う事を感じました。
排除はされないが、言えば見えないところで信頼とかが奪われてしま可能性がある。
見えない駆け引きの中に性的マイノリティーが実際に生きている。
ナベブタのようなものを取ってしまった方がいいことだと思うし、日本社会全体にとってプラスになる、豊かな社会に繋がることだと思いました。
『ここにいるよ』はLGBTだけでは無くて障害を持ち人だとか、主張できないでいる。
(LGBT(エル・ジー・ビィー・ティー)とは、女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の各単語の頭文字を組み合わせた表現である。)
『ここにいるよ』という事を言わないと自分の居場所が定まらない。
「日本では秘すれば花」という言葉が有るが、見て見ないふりという方向に働く。
みんなで認め合って社会として家族として、それが働くように思考を変えて認め合って行こうという方向に世界が動いている。
私は正面から書いた訳ですが、その先の所、自然に納得できるようにと言葉を選んで書きました。
あえて言う場面が今まであまりなかったかもしれない。
半年近くが経過してみんな温かいです、色メガネで見られていない。
やってみることによって多くの人達に小さな力を、いい意味での圧をかけるという事が出来るのかなあと思います。
公表することによって不利益は以外にないですね。
均等に世の中に宣言するという事をしてみると、自覚していなかったが幕があったのかもしれない。
心が開きやすくなったと思います。
結婚についてもパートナーは日本人ですが、昨年アメリカで結婚しました。
LGBTの関係は日本の社会の中で輪郭が無い、フレームが無い、権利も義務もない他人同士です。
昨年10月に数十人集まってもらって、みんなに披露しました。
無心に喜んでくれて祝福してくれて、言葉にできないぐらい幸福感というか、この人達と付き合ってきて良かったと思いました。
男性同士、女性同士が結婚するとどうなるの、結婚そのものがぐらつくのではないのか、少子化に拍車がかかるのではないのかとか、そう思う人も実際にいるんですが、決してそんなことはないと思います。
結婚の平等は選択支を与えることによって、全体の社会の足腰を少しだけ強くして行くという事なんですね、それを皆さんに納得してもらえるかという事が大きな課題だと思います。
LGBTの理解が普及して行って、こういう人達が私達の社会にいるんだという事を理解している人たちがたくさんいますが、つぎにはその人達を日常に織り込んでゆくことが次のステップだと思います。
究極的にはその人が幸せなことが訪れた時に、手放しで祝福することができる事、悲しい事が起きた時に一緒に悲しむ事それができるかできないか、とっても大事な事だと思います。
LGBT、人権に関して、日本の社会がスピーディーにより安定して幸せに暮らせるような方向に向かおうとしているのではないかと思います。
オリンピックを迎えるにあたって、その半年前から各国の報道陣が入ってきて、日本の隅々までがどうなっているのか、世界中に可視化されると思う。
千載一遇のきっかけだと思うので楽しみにしています。
10位の自治体がパートナーシップ条例をつくっていて、様々な社会福祉、市民生活の中で平坦になると思います。
少しずつ広がって転がり始めて行っていると思います。
『ここにいるよ』と言わなくても、自然に時間空間の中で知れ渡っていって、なんてことないとなれば一番いいですね。
日本という国は地元から民間から色んなことが議論され、行政、政治家にその声が届いて条例制度が変わったりする。
点々となっていたものが、段々網の目のようになって細かくなって行って制度が変わって行く。
納得してもらうのが大事ですね、そのためには二つあると思います。
自分と違いを持つ人を受け止めて中に入れて自分のエネルギーの一つにしたり距離を置いたりするかして、どう理解を深めるか。
社会の制度をみんなが合意をして、作り変えるという事も重要です。
手術を受ける時の同意書、遺産相続、遺族年金、税金等も大きな段差があります。
生きやすいように均等に広がっていくようになって、初めて混ぜ混ぜ状態ということになると思います。
これまでやってきたことを積み上げて、これからやることは全うしてゆくことだと思います。
そうすることによってLGBTの人々の空気を混ぜ混ぜにすること、喚起して行く事、自由にして行くことが自分ができる事、それに繋がるんだと思っています。
2018年12月12日水曜日
紅谷浩之(在宅医療専門医) ・【人権インタビューシリーズ】医療的ケア児にも"Happy"を
紅谷浩之(在宅医療専門医)・【人権インタビューシリーズ】医療的ケア児にもも"Happy"を
医療的ケア児というのは、タンの吸引、人工呼吸など医療的ケアなどを常に必要とする子供達のことです。
以前は生き続けることが難しいとされましたが、医療の進歩によって医療的ケアさえあれば成長することができるようになったために、医療的なケアを常に必要とする子供の数がこの10年でおよそ2倍のペースで増え続けているという事です。
しかしそうした子供達の多くはケア体制が無い限り、子供時代を特別支援学校などで過ごして、成人したあとも働くこともままならず、病院や自宅で過ごす生活を余儀なくされています。
さらに教育のほか家族をサポートする介護の制度など社会全体の支援体制も追い付いていないのが現状です。
全国でいち早く医療的ケア児を支援する施設を立ち上げた福井県の医師、紅谷さんにお聞きしました。
医療的ケア児というのは病気や障害があって医療的なケア、いろう、タンの吸引、人工呼吸、導尿、栄養の点滴の必要のあるもの、などの子供達です。
人工呼吸器を付けても走ったり、パソコン操作ができる子たちもいます。
サポートする仕組み自体がまだ足りていないという事が現状だと思います。
一般的に19歳までを指しています。
平成28年で医療的ケア児は1万8272人という数字が出ています。
医療の発達があって、今までは命を落としたお子さんが一命を取り留めて、医療のサポートによってしっかり育つようになりました。(増加している)
7,8年前に在宅医療を立ち上げて、在宅医療を始めた時に尋ねてきて、医者と患者という関係で出会いました。
高校3年生の子に対して、卒業後にどうするのか母親に聞いてみたが、「医療的ケア児障害者はデイサービスは非常に数が限られていて、探したがすべて断られました」と言われました。
「新たに離れた病院に入るか、自宅で閉じこもって過ごすかどちらかの選択しかない」と言われました。
当時オフィスビルの様なワンフロアーにマット、ベットを置いて過ごすという事を始めました。
最初彼が週に3日ぐらい過ごす施設として作り運営しました。
福祉施設として経営が成り立つわけがないので、ラボというようなイメージで始めました。
2カ月後には、子供達が5,6人来ていました。
1、2歳~20歳代の人達でした。
全員が在宅医療で私が診ていたお子さんたちでした。
使いたい希望者が他にも沢山いたことに驚きました。
楽しそうに過ごしていることを見て、御家族も喜んでくれて、居場所をつくることに対して最初にきっかけを作ってくれた子は、すごいパワーを持っているんだと思いました。
彼等の強みとかできるところを引き合わせると、こういう場所をつくる勢いを僕たちにくれて、そこに他の子たちが来れる場所も、そういうふうにエネルギーを発散する力がこの子たちにあるんだと気が付いて、この子たちに何かをしてもらいながら、僕たちも含めてみんながハッピーになるような仕組みを、一緒に考えていけるきっかけになるんだと思いました。
看護師のほかに保育士も入ってもらって活動の幅が広がって行きました。
今のケアラボは一軒屋の民家を借りて、畳の部屋を中心に30人ぐらいが登録されていて毎日来るのは10~15人が来て居ています。
スタッフも10~15人以上は来ています。
家族の人も、ケアラボに行って成長したわが子を見ると、私が365日死ぬまで一緒にいなくてはいけなかったと思っていたのが、ひょっとして違うのかなと気付いてきて、結果としてお母さんたちが自分のやりたい仕事をやる事が出来るようになったと思います。
ここのケアラボのお母さんたちは仕事に就いている人が7割になります。
全国の似たような施設では5%未満と言われています。
この子らも学校に行くことが普通だと感じたので、できる事があればサポートしたいと思いました。
他の子供達が通う保育園に通わせたいと言う希望のお母さんがいて、僕たちのやったサポートは、ケアラボに通ってもらってお母さんと離れた経験をして貰って、どんなサポートが必要か、半年間かかって医療的な事などをを理解して、私たちの経験を保育園の人にシェアして貰って、サポートの手法を段々に移行して、私達の手を段々離して行きました。
小学校に通った事例もありました。(今は3年生)
脳の病気があって気管切開していて、痰の吸引が必要で、身体障害があって右手右足が不自由でまっすぐ歩くことが難しいというお子さんでした。
初めはやり着利していると責任問題などがありましたが、当人が学校に通いたいという事を言って、先生たちも段々動いて行きました。
お互いが医療、教育それぞれが補いながら、やっていこうという事で受け入れていただきました。
子供達は吃驚するぐらい当たり前と、自然に受け入れて行ってくれました。
幼稚園、小学校から医療的ケア児が一緒にいれば、理解の仕方が違うと思う。
医療的ケア児が母親と一緒にいると、ケアを受ける側にずーっといるという思いがあるが、学校など繋がりのある処に行くと、友達とのコミュニケーションとか、地域の理解とか、自分が保育園に通う事でお母さんが働けるようになるとか、役割とか循環が生まれて来るというのは、人としての成長が大きいと思います。
自分の社会的居場所というのを病気の軸だけじゃないところで見付けた彼等は自信を持って過ごしている様に思います。
3年前から軽井沢への宿泊旅行もしています。
家だけではない体験を通して、次にやりたいことに繋がって行くと思います。
今年で4年目になりますが、医療的ケア児が散歩していたりすると、段々違和感が無く声をかけてくれたりするようになりました。
大げさに言うと地域社会を変えていっているような感覚があります。
病気や障害といった課題、悪いところを一個一個潰してゆく作業を続けて居ても、なかなか先が見えなかったりすることが多くなったとしても、何が出来るか何が楽しいかという、いいところを見つけて繋いでゆく作業をして行くほうが、人はハッピーを感じるという事なんです。
繋がりを持つということは重要な時代になってくるので、彼等は軽井沢の事などを通して私達に教えてくれるのではないかと思います。
繋がりと選択肢があるということは、凄く人間として必要だし、みんなが持てればいいと思っています。
医療者という立場で言うと、日本が今世界で一番子供が死なない国、一番子供が死なない国は同時に世界で一番子供が幸せに成長していける国でないといけない思っていて、新生児を専門にしている先生や産婦人科の先生が、頑張って繋ぎ止めた命のバトンを、地域にいる医療者である私たちがそれをしっかり受け止めて、その子たちが本当に生れてきて良かったと思えるような社会をつくることに向きあって行きたい。
医療的ケア児というのは、タンの吸引、人工呼吸など医療的ケアなどを常に必要とする子供達のことです。
以前は生き続けることが難しいとされましたが、医療の進歩によって医療的ケアさえあれば成長することができるようになったために、医療的なケアを常に必要とする子供の数がこの10年でおよそ2倍のペースで増え続けているという事です。
しかしそうした子供達の多くはケア体制が無い限り、子供時代を特別支援学校などで過ごして、成人したあとも働くこともままならず、病院や自宅で過ごす生活を余儀なくされています。
さらに教育のほか家族をサポートする介護の制度など社会全体の支援体制も追い付いていないのが現状です。
全国でいち早く医療的ケア児を支援する施設を立ち上げた福井県の医師、紅谷さんにお聞きしました。
医療的ケア児というのは病気や障害があって医療的なケア、いろう、タンの吸引、人工呼吸、導尿、栄養の点滴の必要のあるもの、などの子供達です。
人工呼吸器を付けても走ったり、パソコン操作ができる子たちもいます。
サポートする仕組み自体がまだ足りていないという事が現状だと思います。
一般的に19歳までを指しています。
平成28年で医療的ケア児は1万8272人という数字が出ています。
医療の発達があって、今までは命を落としたお子さんが一命を取り留めて、医療のサポートによってしっかり育つようになりました。(増加している)
7,8年前に在宅医療を立ち上げて、在宅医療を始めた時に尋ねてきて、医者と患者という関係で出会いました。
高校3年生の子に対して、卒業後にどうするのか母親に聞いてみたが、「医療的ケア児障害者はデイサービスは非常に数が限られていて、探したがすべて断られました」と言われました。
「新たに離れた病院に入るか、自宅で閉じこもって過ごすかどちらかの選択しかない」と言われました。
当時オフィスビルの様なワンフロアーにマット、ベットを置いて過ごすという事を始めました。
最初彼が週に3日ぐらい過ごす施設として作り運営しました。
福祉施設として経営が成り立つわけがないので、ラボというようなイメージで始めました。
2カ月後には、子供達が5,6人来ていました。
1、2歳~20歳代の人達でした。
全員が在宅医療で私が診ていたお子さんたちでした。
使いたい希望者が他にも沢山いたことに驚きました。
楽しそうに過ごしていることを見て、御家族も喜んでくれて、居場所をつくることに対して最初にきっかけを作ってくれた子は、すごいパワーを持っているんだと思いました。
彼等の強みとかできるところを引き合わせると、こういう場所をつくる勢いを僕たちにくれて、そこに他の子たちが来れる場所も、そういうふうにエネルギーを発散する力がこの子たちにあるんだと気が付いて、この子たちに何かをしてもらいながら、僕たちも含めてみんながハッピーになるような仕組みを、一緒に考えていけるきっかけになるんだと思いました。
看護師のほかに保育士も入ってもらって活動の幅が広がって行きました。
今のケアラボは一軒屋の民家を借りて、畳の部屋を中心に30人ぐらいが登録されていて毎日来るのは10~15人が来て居ています。
スタッフも10~15人以上は来ています。
家族の人も、ケアラボに行って成長したわが子を見ると、私が365日死ぬまで一緒にいなくてはいけなかったと思っていたのが、ひょっとして違うのかなと気付いてきて、結果としてお母さんたちが自分のやりたい仕事をやる事が出来るようになったと思います。
ここのケアラボのお母さんたちは仕事に就いている人が7割になります。
全国の似たような施設では5%未満と言われています。
この子らも学校に行くことが普通だと感じたので、できる事があればサポートしたいと思いました。
他の子供達が通う保育園に通わせたいと言う希望のお母さんがいて、僕たちのやったサポートは、ケアラボに通ってもらってお母さんと離れた経験をして貰って、どんなサポートが必要か、半年間かかって医療的な事などをを理解して、私たちの経験を保育園の人にシェアして貰って、サポートの手法を段々に移行して、私達の手を段々離して行きました。
小学校に通った事例もありました。(今は3年生)
脳の病気があって気管切開していて、痰の吸引が必要で、身体障害があって右手右足が不自由でまっすぐ歩くことが難しいというお子さんでした。
初めはやり着利していると責任問題などがありましたが、当人が学校に通いたいという事を言って、先生たちも段々動いて行きました。
お互いが医療、教育それぞれが補いながら、やっていこうという事で受け入れていただきました。
子供達は吃驚するぐらい当たり前と、自然に受け入れて行ってくれました。
幼稚園、小学校から医療的ケア児が一緒にいれば、理解の仕方が違うと思う。
医療的ケア児が母親と一緒にいると、ケアを受ける側にずーっといるという思いがあるが、学校など繋がりのある処に行くと、友達とのコミュニケーションとか、地域の理解とか、自分が保育園に通う事でお母さんが働けるようになるとか、役割とか循環が生まれて来るというのは、人としての成長が大きいと思います。
自分の社会的居場所というのを病気の軸だけじゃないところで見付けた彼等は自信を持って過ごしている様に思います。
3年前から軽井沢への宿泊旅行もしています。
家だけではない体験を通して、次にやりたいことに繋がって行くと思います。
今年で4年目になりますが、医療的ケア児が散歩していたりすると、段々違和感が無く声をかけてくれたりするようになりました。
大げさに言うと地域社会を変えていっているような感覚があります。
病気や障害といった課題、悪いところを一個一個潰してゆく作業を続けて居ても、なかなか先が見えなかったりすることが多くなったとしても、何が出来るか何が楽しいかという、いいところを見つけて繋いでゆく作業をして行くほうが、人はハッピーを感じるという事なんです。
繋がりを持つということは重要な時代になってくるので、彼等は軽井沢の事などを通して私達に教えてくれるのではないかと思います。
繋がりと選択肢があるということは、凄く人間として必要だし、みんなが持てればいいと思っています。
医療者という立場で言うと、日本が今世界で一番子供が死なない国、一番子供が死なない国は同時に世界で一番子供が幸せに成長していける国でないといけない思っていて、新生児を専門にしている先生や産婦人科の先生が、頑張って繋ぎ止めた命のバトンを、地域にいる医療者である私たちがそれをしっかり受け止めて、その子たちが本当に生れてきて良かったと思えるような社会をつくることに向きあって行きたい。
2018年12月11日火曜日
小井塚千加子(NPO法人MMA 事務局長)・【人権インタビューシリーズ】人生を変えるファンデーション
小井塚千加子(NPO法人MMA 事務局長)・【人権インタビューシリーズ】人生を変えるファンデーション
メディカルメイクとは皮膚の変色、傷害、事故の傷跡などをファンデーションを使って自然に隠すメークアップ技術の事です。
小井塚さんも顔に生まれつきのあざがあります。
自らも悩みながら20代の頃からから肌に疾患がある人達などに寄りそって来ました。
17年前NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーションの設立に携わって、講演会などを通じてメディカルメイクの普及に努めています。
生まれつきあざがあったり、交通事故で傷になったり火傷になったり、皮膚の色が変わっているところにファンデーションを付けて判らなくする技術です。
黒いあざなど簡単に隠れてしまいます。
病院で治療している途中にこのファンデーションを使いなさいとか紹介いただいています。
一番最初に来たのは広島の原爆乙女の人がアメリカに治療に行った時に、アメリカで教えて貰って、1セット持って帰りました。
メディカルメイクアップというものがある事が判りました。
アメリカで黒い肌の人が真っ白くなる技術があることが判って、この製品が最初に入ってきました。
私は顔半分にあざがあり、中学の時にはじめてファンデーションの事を知りました。
高校卒業後にデパートに行って、やってもらった時に凄く厚化粧されて、黒いのが隠れて良かったと思う反面、こんなに厚くしなければいけないのかと思って、このメーカーに入ってしまえと思ったのが動機でした。
私は顔の半分はあざになっています。
中学の時には目の周りだけでしたが、高校卒業するころは顔半分になりました。
講演会などにはテーマがあり、白斑の時にはその方々及び関係の方が来ます。
接する時には相手の身になることだと思います。
赤ちゃんのお尻にある蒙古斑が顔に出たと母が言っていました。
治療はドライアイスを皮膚に当ててやけどをさせて皮を剥いていくという方法でした。
傷が残るので先生がメディカルメイクアップを教えてくれました。
明るい子ではあったと思うが、子供時代のことはあんまり覚えていないですね。
表面上明るくふるまっていたという事があったと思います。
友達とはあまり深入りしたくないという事があったと思います、そうすると顔の事を言わなければいけないし、しょっちゅう会わなければいけないという事があったと思います。
素顔でいた時の自分の気持ちは、今お母さん達にも言えるし子供達にも言えます。
保育士になりたいと思って、保育専門学校に行きました。
メディカルメイクアップに出会って、黒い所が白くなったので嬉しいと思った。
壁みたいだから(凄い厚化粧)一緒に行った姉は帰ろうと言いました。
保育士は素顔の人が多くて、化粧をしていたのは私だでしたので、化粧が子供の洋服についてはいけない、触られたら取れてしまうという事を絶えず考えていて、合わないなあと思いました。
このメーカーに入ってお化粧を上手になろうと思いました。(20歳)
症状をカバーするメイクアップアーティストの部署に入りました。
同じ立場になってものが考えられるので、共有できる部分がいっぱいある訳です。
あざに関する悩みの部分、あざの人の多さなどが判りました。
悩みは計り知れないと思う、手紙、電話などで相談するのはまだ救われると思うが、相談もできず引きこもってしまう人などもいます。
聞いてあげることが一番かと思います。
色々悩みを聞いてきましたが、会って相談するという事が一番かと思います。
NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーションの設立に携わりました。(51歳)
化粧の仕方だけでなく、悩みを聞いてもらいたい、製品販売ではなく指導を中心にやろうと思って2001年に開設しました。
一日4名程度来ます。
中学からポツンポツンと出てきて20歳過ぎてほぼ全身白斑になってしまって、どうやってこれから生きて行こうかと言う人にも出会いました。
何気なく「アッ」と言われたりするが、言われた方はショックなので見せない方がいいなということと、相手にも不愉快させたくないというのが、メディカルメイクアップだと思います。
メイクをしないで生きることは、私としては生きずらいです。
症状などは違ってきても、昔から悩みの内容は変わらないです。
隠させてあげられたという喜びはあります。
昔は判らなくて相談に来ることが多かったが、ネットなどで購入して色々経験して最期に相談に来る人が多いです。
一度隠すと素顔が出せないという悩みがあり、自分の欠点を出せないということはあると思います。
日本人は肌に対して、皮膚に対して敏感で、なくなってくれればいいと思うが、人と違う処をあまり気にしないで欲しいというところもあります。
かける言葉ではなくて、黙って寄り添うしかないのかなあと思います。
人と同じでなくてもその人の個性としてみとめてあげましょう、ということではないかと思います、違っても異様な目で見ないでほしいということではないですかね。
私はメディカルメイクアップ で人生を変えられたので、悩んでいる方は是非一歩前に進んでもらいたいと思います。
メディカルメイクとは皮膚の変色、傷害、事故の傷跡などをファンデーションを使って自然に隠すメークアップ技術の事です。
小井塚さんも顔に生まれつきのあざがあります。
自らも悩みながら20代の頃からから肌に疾患がある人達などに寄りそって来ました。
17年前NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーションの設立に携わって、講演会などを通じてメディカルメイクの普及に努めています。
生まれつきあざがあったり、交通事故で傷になったり火傷になったり、皮膚の色が変わっているところにファンデーションを付けて判らなくする技術です。
黒いあざなど簡単に隠れてしまいます。
病院で治療している途中にこのファンデーションを使いなさいとか紹介いただいています。
一番最初に来たのは広島の原爆乙女の人がアメリカに治療に行った時に、アメリカで教えて貰って、1セット持って帰りました。
メディカルメイクアップというものがある事が判りました。
アメリカで黒い肌の人が真っ白くなる技術があることが判って、この製品が最初に入ってきました。
私は顔半分にあざがあり、中学の時にはじめてファンデーションの事を知りました。
高校卒業後にデパートに行って、やってもらった時に凄く厚化粧されて、黒いのが隠れて良かったと思う反面、こんなに厚くしなければいけないのかと思って、このメーカーに入ってしまえと思ったのが動機でした。
私は顔の半分はあざになっています。
中学の時には目の周りだけでしたが、高校卒業するころは顔半分になりました。
講演会などにはテーマがあり、白斑の時にはその方々及び関係の方が来ます。
接する時には相手の身になることだと思います。
赤ちゃんのお尻にある蒙古斑が顔に出たと母が言っていました。
治療はドライアイスを皮膚に当ててやけどをさせて皮を剥いていくという方法でした。
傷が残るので先生がメディカルメイクアップを教えてくれました。
明るい子ではあったと思うが、子供時代のことはあんまり覚えていないですね。
表面上明るくふるまっていたという事があったと思います。
友達とはあまり深入りしたくないという事があったと思います、そうすると顔の事を言わなければいけないし、しょっちゅう会わなければいけないという事があったと思います。
素顔でいた時の自分の気持ちは、今お母さん達にも言えるし子供達にも言えます。
保育士になりたいと思って、保育専門学校に行きました。
メディカルメイクアップに出会って、黒い所が白くなったので嬉しいと思った。
壁みたいだから(凄い厚化粧)一緒に行った姉は帰ろうと言いました。
保育士は素顔の人が多くて、化粧をしていたのは私だでしたので、化粧が子供の洋服についてはいけない、触られたら取れてしまうという事を絶えず考えていて、合わないなあと思いました。
このメーカーに入ってお化粧を上手になろうと思いました。(20歳)
症状をカバーするメイクアップアーティストの部署に入りました。
同じ立場になってものが考えられるので、共有できる部分がいっぱいある訳です。
あざに関する悩みの部分、あざの人の多さなどが判りました。
悩みは計り知れないと思う、手紙、電話などで相談するのはまだ救われると思うが、相談もできず引きこもってしまう人などもいます。
聞いてあげることが一番かと思います。
色々悩みを聞いてきましたが、会って相談するという事が一番かと思います。
NPO法人メディカルメイクアップ アソシエーションの設立に携わりました。(51歳)
化粧の仕方だけでなく、悩みを聞いてもらいたい、製品販売ではなく指導を中心にやろうと思って2001年に開設しました。
一日4名程度来ます。
中学からポツンポツンと出てきて20歳過ぎてほぼ全身白斑になってしまって、どうやってこれから生きて行こうかと言う人にも出会いました。
何気なく「アッ」と言われたりするが、言われた方はショックなので見せない方がいいなということと、相手にも不愉快させたくないというのが、メディカルメイクアップだと思います。
メイクをしないで生きることは、私としては生きずらいです。
症状などは違ってきても、昔から悩みの内容は変わらないです。
隠させてあげられたという喜びはあります。
昔は判らなくて相談に来ることが多かったが、ネットなどで購入して色々経験して最期に相談に来る人が多いです。
一度隠すと素顔が出せないという悩みがあり、自分の欠点を出せないということはあると思います。
日本人は肌に対して、皮膚に対して敏感で、なくなってくれればいいと思うが、人と違う処をあまり気にしないで欲しいというところもあります。
かける言葉ではなくて、黙って寄り添うしかないのかなあと思います。
人と同じでなくてもその人の個性としてみとめてあげましょう、ということではないかと思います、違っても異様な目で見ないでほしいということではないですかね。
私はメディカルメイクアップ で人生を変えられたので、悩んでいる方は是非一歩前に進んでもらいたいと思います。
2018年12月10日月曜日
山田ルイ53世(お笑いコンビ 髭男爵) ・【人権インタビューシリーズ】ひきこもりからのルネサンス
山田ルイ53世(お笑いコンビ 髭男爵)・【人権インタビューシリーズ】ひきこもりからのルネサンス
兵庫県出身、中学2年生の夏から6年間引きこもり生活を送りました。
内閣府に依ると山田さんのように学校、職場になじめず、自宅に半年以上閉じこもっている引きこもりの人は15歳~39歳までだけで推計54万人に昇ります。
山田さんはどんなきっかけで引きこもり生活が始まり、どの様にして現在まで生きてきたのか伺います。
本名は山田順三、1975年兵庫県三木市出身 43歳、1999年デビュー。
2006年お笑い番組の準決勝進出でデビュー。
2015年「ヒキコモリ漂流記」を出版。
「一発屋芸人列伝」が第24回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズムの作品賞に選ばれる。
小さい頃は結構活発でやんちゃで、リーダー的な存在でした。
勉強もできた方でした。
名門の六甲中学校に進学する。
勉強、部活などにも頑張っていました。
通学は2時間かかって、寝るのが12時で起きるのが5時頃で結構ハードでした。
登校途中にお腹が痛くなり大便の方のそそうをしてしまいました。
汚れたズボンなどは洗って乾かしていたが、臭いが出てきて両隣が気が付いて、周りに広がって言った。
それがきっかけとなったのか、すぐに夏休みに入り学校には行かなくてもよくて、普段なら直ぐに片付けてしまう宿題もなぜか宿題にも手が付かず、夏休み明けの登校初日に学校には行けなくなってしまった。
しばらくしたら行こうと思っていたが、1日休むと1日分行きたくなくなり、どんどんと負債が溜まって行くような感じになり、なんとなく休んでいたら全然いけなくなってしまった。
それまで優等生的に生きてきたのに、親はパニックでした。
昼夜逆転生活になって行きました。
調子のいい時は昼間にパンツ一丁で屋根の上で日焼けしたりしていました。
小学生の時親から貰った天体望遠鏡で友達の登校風景などをみていたりしてました。
夜中に2,3時にジョギングすることはできたが、昼間は外を歩くことはできませんでした。
引きこもり始めて1年後ぐらいには町中が知っているような状況でした。
厄介なことに神童感がとろ火のようにあり、今は休んでいるがちょっとその気になれば以前のようになれると、それが心の安定を保っているような状況だったと思います。
虚無感にもとらわれました。
働かなくてはいけなくなって、近所のコンビニに行かざるを得なくなりました。
友人が見に来たりして、話しかけてきて、「勉強全部終わったからちょっとバイトしている。」と答えて、また完全に引きこもりました。
いまでもちょっと出無精的なことはあります。
引きこもりはだれでも起きる可能性はあると思う。
いつも真面目に頑張っている人はなっちゃう可能性があるかもしれない。
20歳手前まで引きこもっていました。
成人という言葉がパワーワードで、そこで焦りました。
なんとか勉強できるようになって愛媛大学法文学部に入学することになります。
とりあえず山から転げ落ちるのが止まったというような感じでした。
大学の1年先輩がお笑いをしたいという事で、先輩が付き合っていた女性が短大の文化祭の実行委員長をしていて、学園祭で披露できるという事で、私がネタを書くことになりました。
漫才をやったらめちゃくちゃ受けて、全国大会に出場しようということになり、相方が頭が真っ白になってしまい、台詞が全部飛んじゃって、恥ずかしい思いをしました。
帰りに先輩は他にやる事があると言いだして、裏切られた感じがしてその晩に一人でやる決心をして、大学を辞めて東京に行きました。
売れなかったらどうしようと、引きこもりの時と同じような感覚がありました。
ブレークした時には安心感がありました、引きこもりの脱出が出来たと感じました。
社会復帰できたなあと感じました。
自分の人生をリセットできるのは自分しかいないので、何回でもリセットしていいと思います。
リセットするということは今までの自分を全否定するのではなくて、あったことはあったこととして、受け止める。
引きこもった6年間をばねにしてというふうに思われるかもしれないが、引きこもった6年間は自分自身としては完全に無駄だったという思いはあります。
無駄があるのが罪悪だというふうな風潮が強すぎる気がして、しんどい思いがすると思う。
兵庫県出身、中学2年生の夏から6年間引きこもり生活を送りました。
内閣府に依ると山田さんのように学校、職場になじめず、自宅に半年以上閉じこもっている引きこもりの人は15歳~39歳までだけで推計54万人に昇ります。
山田さんはどんなきっかけで引きこもり生活が始まり、どの様にして現在まで生きてきたのか伺います。
本名は山田順三、1975年兵庫県三木市出身 43歳、1999年デビュー。
2006年お笑い番組の準決勝進出でデビュー。
2015年「ヒキコモリ漂流記」を出版。
「一発屋芸人列伝」が第24回編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズムの作品賞に選ばれる。
小さい頃は結構活発でやんちゃで、リーダー的な存在でした。
勉強もできた方でした。
名門の六甲中学校に進学する。
勉強、部活などにも頑張っていました。
通学は2時間かかって、寝るのが12時で起きるのが5時頃で結構ハードでした。
登校途中にお腹が痛くなり大便の方のそそうをしてしまいました。
汚れたズボンなどは洗って乾かしていたが、臭いが出てきて両隣が気が付いて、周りに広がって言った。
それがきっかけとなったのか、すぐに夏休みに入り学校には行かなくてもよくて、普段なら直ぐに片付けてしまう宿題もなぜか宿題にも手が付かず、夏休み明けの登校初日に学校には行けなくなってしまった。
しばらくしたら行こうと思っていたが、1日休むと1日分行きたくなくなり、どんどんと負債が溜まって行くような感じになり、なんとなく休んでいたら全然いけなくなってしまった。
それまで優等生的に生きてきたのに、親はパニックでした。
昼夜逆転生活になって行きました。
調子のいい時は昼間にパンツ一丁で屋根の上で日焼けしたりしていました。
小学生の時親から貰った天体望遠鏡で友達の登校風景などをみていたりしてました。
夜中に2,3時にジョギングすることはできたが、昼間は外を歩くことはできませんでした。
引きこもり始めて1年後ぐらいには町中が知っているような状況でした。
厄介なことに神童感がとろ火のようにあり、今は休んでいるがちょっとその気になれば以前のようになれると、それが心の安定を保っているような状況だったと思います。
虚無感にもとらわれました。
働かなくてはいけなくなって、近所のコンビニに行かざるを得なくなりました。
友人が見に来たりして、話しかけてきて、「勉強全部終わったからちょっとバイトしている。」と答えて、また完全に引きこもりました。
いまでもちょっと出無精的なことはあります。
引きこもりはだれでも起きる可能性はあると思う。
いつも真面目に頑張っている人はなっちゃう可能性があるかもしれない。
20歳手前まで引きこもっていました。
成人という言葉がパワーワードで、そこで焦りました。
なんとか勉強できるようになって愛媛大学法文学部に入学することになります。
とりあえず山から転げ落ちるのが止まったというような感じでした。
大学の1年先輩がお笑いをしたいという事で、先輩が付き合っていた女性が短大の文化祭の実行委員長をしていて、学園祭で披露できるという事で、私がネタを書くことになりました。
漫才をやったらめちゃくちゃ受けて、全国大会に出場しようということになり、相方が頭が真っ白になってしまい、台詞が全部飛んじゃって、恥ずかしい思いをしました。
帰りに先輩は他にやる事があると言いだして、裏切られた感じがしてその晩に一人でやる決心をして、大学を辞めて東京に行きました。
売れなかったらどうしようと、引きこもりの時と同じような感覚がありました。
ブレークした時には安心感がありました、引きこもりの脱出が出来たと感じました。
社会復帰できたなあと感じました。
自分の人生をリセットできるのは自分しかいないので、何回でもリセットしていいと思います。
リセットするということは今までの自分を全否定するのではなくて、あったことはあったこととして、受け止める。
引きこもった6年間をばねにしてというふうに思われるかもしれないが、引きこもった6年間は自分自身としては完全に無駄だったという思いはあります。
無駄があるのが罪悪だというふうな風潮が強すぎる気がして、しんどい思いがすると思う。
2018年12月9日日曜日
木村興治(日本卓球協会名誉副会長) ・【スポーツ名場面の裏側で】日本卓球 王者復活
木村興治(日本卓球協会名誉副会長)・【スポーツ名場面の裏側で】日本卓球 王者復活
77歳、秋田市出身、県立秋田高校から早稲田大学に進み日本選手権でシングルスに2回優勝、世界選手権では男子ダブルスと混合ダブルスで3個の金メダルを獲得しました。
現役引退後は日本卓球協会副会長、国際卓球連盟副会長としてルールの改正など活躍をされました。
日本卓球 王者復活と題して伺います。
11月の中旬、上海には一緒に激戦した仲間がいて、民間の卓球愛好家の方との交流に日中平和友好条約記念の年という事で、行ってきました。
35年前に国際卓球連盟の理事になって、2005年から2期8年副会長を務め、現在会長アドバイザー。
卓球は狭い所で誰でもできるスポーツですが、福原愛さんが3歳の時からプレーをして、世界で活躍する素晴らしい選手になりました。
それを見ている若い選手が福原愛さんから学んだと思います。
プロの試合を見ていただくような環境が出来て来ました。
水谷選手、張本選手などに声援が飛び交っています。
女子団体ではロンドンオリンピックで銀、リオでは銅、男子団体はリオで銀を取りました、これが大きいです。
中国では女子も背が高くて台から少し離れて正確なプレーをしますが、日本選手は背が低いのでそれが出来ず台にへばりついて、リスキーですがそれをやってのけて、それは中国にとってもいいと率直言ってくれました。
中国にもそういう選手が欲しいと言っているわけです。
1950~1970年代は卓球と言ったら日本のお家芸でした。
1952年ボンベイの世界選手権に参加、7種目中3つ優勝するという事で世界を驚嘆させました。
自分たちが考えた用具を使って、当時守りの選手が中心だったが、攻撃で打ち破って行きました。
男子は世界選手権では団体5連覇でした。
女子も団体4連覇でした。
シングルスの世界チャンピオンは男女13人出ています。
中国の台頭があり長い低迷の時期もありました。
早稲田大学2年の時にマッカーサー杯があり、荻村 伊智朗選手に勝って、昭和36年北京で行われた世界選手権の日本代表の6人の中に選ばれる。
団体5連覇を続けていたが、中国との戦いになる。
荻村選手、星野選手、木村選手3人が出場、木村選手が2勝したが、荻村選手が1勝2敗、星野選手が0勝3敗 3勝5敗で中国に敗れ、6連覇は成らなかった。
中国の練習を見た時にこれは日本にはないタイプだなと新鮮に映りました。
前陣で守りもやる、攻撃もやる、速攻でした。
男子ダブルスの決勝も行われる。
星野、木村組とハンガリーのシド、ベルチック組の対戦となる。
第一セット日本、第二セットハンガリー、第三セットは星野選手がつないで木村選手が強打を決めるというパターンで取って、第四セットも連取、3-1で優勝する。
団体が破れて、ホッとしたというのが実感でした。
昭和36年12月全日本選手権大会、三木選手と木村選手の決勝となる。
第一セット、木村選手、第二第三セットは三木選手、第四セットは木村選手、第五セット21-12で勝って、優勝する。
昭和39年東京オリンピックの年だったが、卓球は種目には入っていなかった。
12月全日本選手権大会が行われる。
決勝は木村選手と小中選手、第一第二セットは木村選手、第三第四セットは小中選手が取る。
第五セットは21-19で木村選手が勝つ。
バックハンドが強い選手だったので、相手が待っているバックに逆に強いボールを打ってぎりぎりの処で勝つことができました。
1963年プラハ(22歳)、1965年ユーゴの大会(24歳)で混合ダブルスで2連覇を果たす。
プラハでは木村興治,伊藤和子組-三木圭一,関正子組
ユーゴでは木村興治,関正子組-中国
1967年ストックホルム大会の混合ダブルスでは木村興治,深津尚子組-長谷川信彦,山中教子組の決勝で敗れる。
私としてはダブルスはプレーしやすいタイプだった。
当時は選手自身が練習計画を立てて、どういうような新しい技術に挑戦するかというのがスタンダードでした。
1971年名古屋の世界選手権をきっかけにピンポン外交が行われた。
1967年、1969年の世界選手権には中国は文化大革命で試合に出ていませんでした。
1971年の大会には是非中国も出てほしいという事で解決のめどが立ってきて、世界選手権の後半になって中国がアメリカ選手団を招くということになって、ピンポン外交がスタートしたと言われています
1972年の5月にはニクソン大統領が中国訪問、田中角栄総理が9月に訪中し、国交正常化を果たす事になる。
荻村さんは周恩来首相に何度ともなく接触して実現に向けて努力したと言われています。
国際卓球連盟としてボールの大きさを変えたり、1ゲーム21点から11点に変えたりしました。
ラバーの質、接着剤などにより攻撃中心の卓球となり38mmのボールではラリーが続かなくなり、卓球の面白さに欠けるようになる。
ボールを大きくして40mmにしました。
21本だと長く、ギリギリの勝負にしようという事で11点にしました。
卓球は世界NO1の加盟です。(国ではなくて協会の加盟です)
アフリカでも高価な投資が無くできるスポーツです。
雨の日でも老若男女ができます。
伊藤 美誠(いとう みま)選手を破ろうと中国の選手が頑張っていますが、伊藤 美誠選手もこれからいろんなことをまだやりますから。
77歳、秋田市出身、県立秋田高校から早稲田大学に進み日本選手権でシングルスに2回優勝、世界選手権では男子ダブルスと混合ダブルスで3個の金メダルを獲得しました。
現役引退後は日本卓球協会副会長、国際卓球連盟副会長としてルールの改正など活躍をされました。
日本卓球 王者復活と題して伺います。
11月の中旬、上海には一緒に激戦した仲間がいて、民間の卓球愛好家の方との交流に日中平和友好条約記念の年という事で、行ってきました。
35年前に国際卓球連盟の理事になって、2005年から2期8年副会長を務め、現在会長アドバイザー。
卓球は狭い所で誰でもできるスポーツですが、福原愛さんが3歳の時からプレーをして、世界で活躍する素晴らしい選手になりました。
それを見ている若い選手が福原愛さんから学んだと思います。
プロの試合を見ていただくような環境が出来て来ました。
水谷選手、張本選手などに声援が飛び交っています。
女子団体ではロンドンオリンピックで銀、リオでは銅、男子団体はリオで銀を取りました、これが大きいです。
中国では女子も背が高くて台から少し離れて正確なプレーをしますが、日本選手は背が低いのでそれが出来ず台にへばりついて、リスキーですがそれをやってのけて、それは中国にとってもいいと率直言ってくれました。
中国にもそういう選手が欲しいと言っているわけです。
1950~1970年代は卓球と言ったら日本のお家芸でした。
1952年ボンベイの世界選手権に参加、7種目中3つ優勝するという事で世界を驚嘆させました。
自分たちが考えた用具を使って、当時守りの選手が中心だったが、攻撃で打ち破って行きました。
男子は世界選手権では団体5連覇でした。
女子も団体4連覇でした。
シングルスの世界チャンピオンは男女13人出ています。
中国の台頭があり長い低迷の時期もありました。
早稲田大学2年の時にマッカーサー杯があり、荻村 伊智朗選手に勝って、昭和36年北京で行われた世界選手権の日本代表の6人の中に選ばれる。
団体5連覇を続けていたが、中国との戦いになる。
荻村選手、星野選手、木村選手3人が出場、木村選手が2勝したが、荻村選手が1勝2敗、星野選手が0勝3敗 3勝5敗で中国に敗れ、6連覇は成らなかった。
中国の練習を見た時にこれは日本にはないタイプだなと新鮮に映りました。
前陣で守りもやる、攻撃もやる、速攻でした。
男子ダブルスの決勝も行われる。
星野、木村組とハンガリーのシド、ベルチック組の対戦となる。
第一セット日本、第二セットハンガリー、第三セットは星野選手がつないで木村選手が強打を決めるというパターンで取って、第四セットも連取、3-1で優勝する。
団体が破れて、ホッとしたというのが実感でした。
昭和36年12月全日本選手権大会、三木選手と木村選手の決勝となる。
第一セット、木村選手、第二第三セットは三木選手、第四セットは木村選手、第五セット21-12で勝って、優勝する。
昭和39年東京オリンピックの年だったが、卓球は種目には入っていなかった。
12月全日本選手権大会が行われる。
決勝は木村選手と小中選手、第一第二セットは木村選手、第三第四セットは小中選手が取る。
第五セットは21-19で木村選手が勝つ。
バックハンドが強い選手だったので、相手が待っているバックに逆に強いボールを打ってぎりぎりの処で勝つことができました。
1963年プラハ(22歳)、1965年ユーゴの大会(24歳)で混合ダブルスで2連覇を果たす。
プラハでは木村興治,伊藤和子組-三木圭一,関正子組
ユーゴでは木村興治,関正子組-中国
1967年ストックホルム大会の混合ダブルスでは木村興治,深津尚子組-長谷川信彦,山中教子組の決勝で敗れる。
私としてはダブルスはプレーしやすいタイプだった。
当時は選手自身が練習計画を立てて、どういうような新しい技術に挑戦するかというのがスタンダードでした。
1971年名古屋の世界選手権をきっかけにピンポン外交が行われた。
1967年、1969年の世界選手権には中国は文化大革命で試合に出ていませんでした。
1971年の大会には是非中国も出てほしいという事で解決のめどが立ってきて、世界選手権の後半になって中国がアメリカ選手団を招くということになって、ピンポン外交がスタートしたと言われています
1972年の5月にはニクソン大統領が中国訪問、田中角栄総理が9月に訪中し、国交正常化を果たす事になる。
荻村さんは周恩来首相に何度ともなく接触して実現に向けて努力したと言われています。
国際卓球連盟としてボールの大きさを変えたり、1ゲーム21点から11点に変えたりしました。
ラバーの質、接着剤などにより攻撃中心の卓球となり38mmのボールではラリーが続かなくなり、卓球の面白さに欠けるようになる。
ボールを大きくして40mmにしました。
21本だと長く、ギリギリの勝負にしようという事で11点にしました。
卓球は世界NO1の加盟です。(国ではなくて協会の加盟です)
アフリカでも高価な投資が無くできるスポーツです。
雨の日でも老若男女ができます。
伊藤 美誠(いとう みま)選手を破ろうと中国の選手が頑張っていますが、伊藤 美誠選手もこれからいろんなことをまだやりますから。
2018年12月8日土曜日
プラユキ・ナラテボー(タイ・スカトー寺副住職)・"今ここ"に気づく
プラユキ・ナラテボー(タイ・スカトー寺副住職)・"今ここ"に気づく
56歳、プラユキさんはタイの北東部、チャイヤプーム県にあるスカトー寺で副住職を務める日本人の僧侶です。
30年前に大学を卒業後、タイで出家しました。
プラユキさんの元には、今不安や悩みを抱えた数多くの日本人が訪れます。
人々は今どんな悩みを抱え、その悩みにどう向き合うのかお聞きしました。
スカトー寺にはこれまで2000人以上の日本人が訪れました。
人間関係が大きいです、親子関係、夫婦関係など、ラインとかフェースブックなどを通じての苦しみなどもあります。
自己否定につながり、それが自分等は生きてる価値がないというような感じになってしまったりします。
先ず安心して貰う、自分にも居場所があったんだなと、自分らしくあっていいんだという、その辺の安心感が起こると非常に楽になっていきます。
次に問いかけて行く、虐げられてきたとか、表面では怒りですが、その奥にはこうあってほしいというそのような気持ちがあり、それが叶わなくてて落胆して、叫びが怒りになったりしている。
一緒にどうしたら実現できるか、一緒に考えてみようという感じです。
あるがままの感情を先ずは認めて行く、というところから始まります。
苦しみには原因がある、原因を取り除いて、取り除ければ苦しみからの開放がある。
無明、見ていない、はっきり判っていないから、闇雲に動いて行ってしまう。
欲が起こったり、怒りも起こったり苦しみにはまってゆく。
無明を消して言ったら、誰でもが苦しみから解放される。
仏教への影響については、一番のベースは母親でした。
お経を読んだり浄土宗の保育園に勤めたり、ボランティアなどをするなど、後姿を見てきて、段々と自分も影響を受けてきたと思います。
高校時代読書が好きで影響を受けたのが宮沢賢治で、「世界全体が幸せにならないと個人の幸せが無い」というフレーズに直観的に「そうだよ」と感じてしまいました。
進学先も哲学科を選びました。
アジア、アフリカ、難民問題、飢餓の問題を考えたり、ユニセフの募金活動に参加して呼びかけたり、NGOのボランティア活動などをしました。
闇雲にやればやるほど疲れてしまったりして、無力感を感じたりしました。
タイの農村地域に2週間滞在するワークショップへの参加がありました。
水道、ガス、電気が無かった地域だった。
そこでの手伝いが大きな体験でした。
ものがあれば幸せになれるというふうに感じていたが、一緒に生活していて村人たちの方が幸せそうにしているし、子供達も目を輝かして行き来している姿を見て、幸せはものとかではなくて、心が関係しているのかなあという体験でした。
自然と共存している感じでした。
もう一つは仏教だと思いました、タイでは95%仏教の信仰があります。
そこには宮沢賢治の思いを実践する姿がありました。
大学卒業後、25歳の時に小さな村のスカトー寺で出家しました。
朝3時~3時半に起きて、4時にはみんなと一緒に読経をします。
先生の説法とか瞑想をして5時過ぎまで行います。
その後托鉢に出かけます、5kmぐらい歩きます。
7時に戻ってきて、食事をします。
夜6時ぐらいからもう一度読経して説法を聞いて、瞑想したりします。
日中は全部瞑想していてもOKです。
瞑想中に蚊が飛び交ったりしましたが、かゆみ痛みがきて、感じているうちにそれを乗り越えると集中する感じになれたりしました。
蚊に献血しているような感じで、或る種の母親疑似体験をしたような感じになりました。
しかし外界からの騒音などに対して悩むようになりました。
スカトー寺の住職のルアンポー・カムキアン師はタイでは優れた瞑想の指導者として知られていました。
「どういう心の現象であっても、あるがままに気付いて見ることだ」と言われて、瞑想にも色々種類があることを知ることができました。
目をつむるのではなくて、目を開けたまま手を動かす、手動瞑想と言っています。
手は昨日の手でもなく、明日の手でもない、ここにあるもの。
現実的な手をハッと気づくと、妄想、雑念が消えてゆくというようなところがあります。
それを中心に教えていただきました。
集中する心をコントロールをしていって、心の状態を変えて行くという、集中瞑想的な事を目指すが、こっちはそれを目指していない、コントロールを入れないで、ただ起こってくるがままに、ただちゃんと気付いて観察して理解して行こうという、そういったスタイルの瞑想法です。
気付き→今ここにある現象、あるがままに淡々と明晰に見て行こうという感じです。
「過ぎ去れるを追うことなかれ、いまだ来たらざるを想うことなかれ、過去そはすでに過ぎ去りたり、未来そはいまだいたらざるなり、さればただ現在するところのものをそのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく動ずることなくそを見極め、そを実践すべし。
ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。」
手動瞑想
背筋を正して、手を膝に置く、右手を立てる、上に持って行く、お腹にもって行く。
左手を立てる、上の持って行く、お腹にもって行く。
右手を胸に持って行く、外側に伸ばしてゆく、下ろします、伏せます。
左手も同様に胸に持って行く、外側に伸ばす、下ろします、伏せます。
これが一サイクルです。
気づきのエッセンス
今自分の膝の上に手が立っているなと確認する事、上に持ってきたらここにあると気付く事。
自分で確認する感じ。
一コマ一コマを位置確認する感じ。
記憶が蘇って心の中でおしゃべりが始まるが、それは雑念、妄想と言っているが、
気づきの瞑想コンセプトだと、それもある種の色付けになってしまう、あるがままにという事が凄く大事で、それが起こった時にはたぶんそれは思考は思考として、気分は気分として、雑念だと思わないで(雑念を増幅させない)、受容してあげようという感じです。
このプロセスが大事です。
暴言を吐くとか暴力になるとか、心が止まらずに発展してしまうが、知らずに無意識にやってしまっていることを、じゃあもっといい選択があるという事を見付けられる、心を暴走させない。
怒りにはまり込んだら見えないので、怒っていることが見えて来ると、その奥の気持ちに目が行くことが可能になって来る。
怒りの原因が見えるようになって来る、その奥には願いがあるという事が見えて来るようになって、願いを叶え行くにはどうやったらどう実現してゆくのか、吟味できるようになる。
安らいでいる人が、イライラしている人に対して安らぎを与えられて、波及効果が更に広がって行く。
56歳、プラユキさんはタイの北東部、チャイヤプーム県にあるスカトー寺で副住職を務める日本人の僧侶です。
30年前に大学を卒業後、タイで出家しました。
プラユキさんの元には、今不安や悩みを抱えた数多くの日本人が訪れます。
人々は今どんな悩みを抱え、その悩みにどう向き合うのかお聞きしました。
スカトー寺にはこれまで2000人以上の日本人が訪れました。
人間関係が大きいです、親子関係、夫婦関係など、ラインとかフェースブックなどを通じての苦しみなどもあります。
自己否定につながり、それが自分等は生きてる価値がないというような感じになってしまったりします。
先ず安心して貰う、自分にも居場所があったんだなと、自分らしくあっていいんだという、その辺の安心感が起こると非常に楽になっていきます。
次に問いかけて行く、虐げられてきたとか、表面では怒りですが、その奥にはこうあってほしいというそのような気持ちがあり、それが叶わなくてて落胆して、叫びが怒りになったりしている。
一緒にどうしたら実現できるか、一緒に考えてみようという感じです。
あるがままの感情を先ずは認めて行く、というところから始まります。
苦しみには原因がある、原因を取り除いて、取り除ければ苦しみからの開放がある。
無明、見ていない、はっきり判っていないから、闇雲に動いて行ってしまう。
欲が起こったり、怒りも起こったり苦しみにはまってゆく。
無明を消して言ったら、誰でもが苦しみから解放される。
仏教への影響については、一番のベースは母親でした。
お経を読んだり浄土宗の保育園に勤めたり、ボランティアなどをするなど、後姿を見てきて、段々と自分も影響を受けてきたと思います。
高校時代読書が好きで影響を受けたのが宮沢賢治で、「世界全体が幸せにならないと個人の幸せが無い」というフレーズに直観的に「そうだよ」と感じてしまいました。
進学先も哲学科を選びました。
アジア、アフリカ、難民問題、飢餓の問題を考えたり、ユニセフの募金活動に参加して呼びかけたり、NGOのボランティア活動などをしました。
闇雲にやればやるほど疲れてしまったりして、無力感を感じたりしました。
タイの農村地域に2週間滞在するワークショップへの参加がありました。
水道、ガス、電気が無かった地域だった。
そこでの手伝いが大きな体験でした。
ものがあれば幸せになれるというふうに感じていたが、一緒に生活していて村人たちの方が幸せそうにしているし、子供達も目を輝かして行き来している姿を見て、幸せはものとかではなくて、心が関係しているのかなあという体験でした。
自然と共存している感じでした。
もう一つは仏教だと思いました、タイでは95%仏教の信仰があります。
そこには宮沢賢治の思いを実践する姿がありました。
大学卒業後、25歳の時に小さな村のスカトー寺で出家しました。
朝3時~3時半に起きて、4時にはみんなと一緒に読経をします。
先生の説法とか瞑想をして5時過ぎまで行います。
その後托鉢に出かけます、5kmぐらい歩きます。
7時に戻ってきて、食事をします。
夜6時ぐらいからもう一度読経して説法を聞いて、瞑想したりします。
日中は全部瞑想していてもOKです。
瞑想中に蚊が飛び交ったりしましたが、かゆみ痛みがきて、感じているうちにそれを乗り越えると集中する感じになれたりしました。
蚊に献血しているような感じで、或る種の母親疑似体験をしたような感じになりました。
しかし外界からの騒音などに対して悩むようになりました。
スカトー寺の住職のルアンポー・カムキアン師はタイでは優れた瞑想の指導者として知られていました。
「どういう心の現象であっても、あるがままに気付いて見ることだ」と言われて、瞑想にも色々種類があることを知ることができました。
目をつむるのではなくて、目を開けたまま手を動かす、手動瞑想と言っています。
手は昨日の手でもなく、明日の手でもない、ここにあるもの。
現実的な手をハッと気づくと、妄想、雑念が消えてゆくというようなところがあります。
それを中心に教えていただきました。
集中する心をコントロールをしていって、心の状態を変えて行くという、集中瞑想的な事を目指すが、こっちはそれを目指していない、コントロールを入れないで、ただ起こってくるがままに、ただちゃんと気付いて観察して理解して行こうという、そういったスタイルの瞑想法です。
気付き→今ここにある現象、あるがままに淡々と明晰に見て行こうという感じです。
「過ぎ去れるを追うことなかれ、いまだ来たらざるを想うことなかれ、過去そはすでに過ぎ去りたり、未来そはいまだいたらざるなり、さればただ現在するところのものをそのところにおいてよく観察すべし。
揺らぐことなく動ずることなくそを見極め、そを実践すべし。
ただ今日まさになすべきことを熱心になせ。」
手動瞑想
背筋を正して、手を膝に置く、右手を立てる、上に持って行く、お腹にもって行く。
左手を立てる、上の持って行く、お腹にもって行く。
右手を胸に持って行く、外側に伸ばしてゆく、下ろします、伏せます。
左手も同様に胸に持って行く、外側に伸ばす、下ろします、伏せます。
これが一サイクルです。
気づきのエッセンス
今自分の膝の上に手が立っているなと確認する事、上に持ってきたらここにあると気付く事。
自分で確認する感じ。
一コマ一コマを位置確認する感じ。
記憶が蘇って心の中でおしゃべりが始まるが、それは雑念、妄想と言っているが、
気づきの瞑想コンセプトだと、それもある種の色付けになってしまう、あるがままにという事が凄く大事で、それが起こった時にはたぶんそれは思考は思考として、気分は気分として、雑念だと思わないで(雑念を増幅させない)、受容してあげようという感じです。
このプロセスが大事です。
暴言を吐くとか暴力になるとか、心が止まらずに発展してしまうが、知らずに無意識にやってしまっていることを、じゃあもっといい選択があるという事を見付けられる、心を暴走させない。
怒りにはまり込んだら見えないので、怒っていることが見えて来ると、その奥の気持ちに目が行くことが可能になって来る。
怒りの原因が見えるようになって来る、その奥には願いがあるという事が見えて来るようになって、願いを叶え行くにはどうやったらどう実現してゆくのか、吟味できるようになる。
安らいでいる人が、イライラしている人に対して安らぎを与えられて、波及効果が更に広がって行く。
2018年12月7日金曜日
高島悦子 ・"大連、私の戦争記憶
高島悦子 ・"大連、私の戦争記憶
中国大連で生まれ育ち、今年87歳。
昭和18年4月大連羽衣高等女学校に入学、12歳でした。
戦争は日に日に厳しくなり、敵の言葉という事で、英語の授業は無くなります。
授業時間も削られ、モールス信号や、小銃の扱いなどの軍事訓練、つるはしを振り上げ穴を掘りモッコ担ぎの労働など、痩せて小柄な少女には大変つらいものだと言います。
8月15日に終戦、社会秩序は大混乱、ソ連軍兵士の乱入で、女性が襲われ乱暴狼藉の状態の中、高島さんのお母さんはいつでも子供達と死ぬ覚悟で、青酸カリを身に付けていたと言います。
そして抑留生活の1年半は生きるのに必死、虚弱体質のうえ栄養失調で高島さんはとてつもない不安の中にいたと言います。
昭和25年2月厳しい寒さの中、引き揚げ船が大連の港を離れた時、高島さんの耳に強く残るのは雪交じりの甲板で、男たちの血を吐くような怒号と罵声でした。
多感な少女時代を戦争に巻き込まれた高島さんは、悪魔の様な戦争体験を伝え残す義務があると、その思いを本にまとめました。
戦争体験も薄れる一方で、この本(「あれから70年」)を3年前に書いて良かったと思います。
女学校では同級生は250名ぐらいいました。
小学校は6年間組み変えなしでした。
大連聖徳小学校でしたが、今年同級生は年に4回集まりました(7、8人)が、人数は段々減ってきています。
「配られし隣組なる寄合に青酸カリなる薬包のあり」高島悦子
母は万一の時にはこれで命を捨てるんだと言っていました。
8月15日の記憶は空は青く物凄く暑い日でした。
もっこ、ツルハシなどで海岸線に沿って戦車壕の穴を掘るので、おなかがぺこぺこになってしまうので梅干し弁当と焼きおにぎり二つ持って行って、焼きおにぎりは3時に食べました。
当時みんな栄養失調でした。
秘録大東亜戦争満州編(昭和28年)
「8月21日午前10時、ソ連軍の進駐部隊が大連駅を出発して町を行進してきた。
戦争が終わった平和的な進駐とは見えず、戦場に突入してくるような勢いだった。」
私は3階の窓から隠れて見ていました。
戦車がものすごい音でした。
一番初めに入ってきたのは、頭は坊主で刺青をしていて、囚人部隊だったと言われています。
日本人街に入ってきましたが、当時12歳だったのではっきりしたことは判らなかったが、友達のお母さんが「大連物語」という一冊の本を出して、それが終戦直後の大連の事を知るのに大変参考になりました。
8月15日で世の中がひっくり返ってしまってとにかく怖いという雰囲気でした。
「玄関のベルに茶の間をたちし娘は野獣の兵に連れ去られゆく」高島悦子
その女性は19歳の女性で妹が私と同級生でした。
翌日血みどろの状態で帰ってきて亡くなってしまった。
大連はヨーロッパ風の街でした。
「満州唱歌」がありました。(高島悦子さんが歌う。)
冬は氷点下10度位になります。
小学校6年の時には遠足で旅順まで45km歩いて行きました。
匍匐(ほふく)訓練(伏せた状態で移動すること)などもやらされました。
木銃を持って、救急看護品を必ず持って通学していました。(終戦の年、女学校3年生の時)
コロ島には引き揚げ船が来るが、大連港には1年半全然来ませんでした。
帰れるのか疑心暗鬼で孤独にさい悩まされました。
「非民かと疑心暗鬼の飛び交えり引き揚げ船は姿を見せず」高島悦子
食べるものは露天に豊富にありましたが、職場を失った日本人が多いから自分の家財道具、着物を売って購入していました。
女学校1年生の1月ごろに男の国語の先生が突然姿を消しましたが、隠密召集だったようです。(戦争末期には兵隊不足で40代の男性が招集されるようになる。)
先生がお亡くなる前に、原稿を戦後史の一端だと言って私にことづけてくれました。
それによるとミズリー号で条約が結ばれたが、まだ上官の命令で先生たちは蒋介石の国民軍と一緒に八路軍と戦っていたという事が書いてありました。
「あれから70年」を書き残してよかったと思いました。
大連から戻ってきて、ずっと後になって中学から基礎の勉強をやり直したいと相談に行ったら、卒業終了証を持っていると、駄目だと言われたが、定時性の高校からでないと駄目だと言われて、大阪市立都島工業高等学校で勉強のスタートができました。(平成9年卒業)
戦争の話などできるような状況ではなかったが、知って欲しいと思いました。
引き揚げ船の中でも一騒動ありましたが、船長が厳しく言っておさまりました。
船中で病気で亡くなると海に捨てるしかなかった。
佐世保に着くころ、船上からみんなで懐かしく眺めたことは思い出します。
広島の山国の田舎の駅に着いて、祖母が待っていてくれて、よもぎ餅を食べて本当においしかったです、生涯忘れられない味です。
中国大連で生まれ育ち、今年87歳。
昭和18年4月大連羽衣高等女学校に入学、12歳でした。
戦争は日に日に厳しくなり、敵の言葉という事で、英語の授業は無くなります。
授業時間も削られ、モールス信号や、小銃の扱いなどの軍事訓練、つるはしを振り上げ穴を掘りモッコ担ぎの労働など、痩せて小柄な少女には大変つらいものだと言います。
8月15日に終戦、社会秩序は大混乱、ソ連軍兵士の乱入で、女性が襲われ乱暴狼藉の状態の中、高島さんのお母さんはいつでも子供達と死ぬ覚悟で、青酸カリを身に付けていたと言います。
そして抑留生活の1年半は生きるのに必死、虚弱体質のうえ栄養失調で高島さんはとてつもない不安の中にいたと言います。
昭和25年2月厳しい寒さの中、引き揚げ船が大連の港を離れた時、高島さんの耳に強く残るのは雪交じりの甲板で、男たちの血を吐くような怒号と罵声でした。
多感な少女時代を戦争に巻き込まれた高島さんは、悪魔の様な戦争体験を伝え残す義務があると、その思いを本にまとめました。
戦争体験も薄れる一方で、この本(「あれから70年」)を3年前に書いて良かったと思います。
女学校では同級生は250名ぐらいいました。
小学校は6年間組み変えなしでした。
大連聖徳小学校でしたが、今年同級生は年に4回集まりました(7、8人)が、人数は段々減ってきています。
「配られし隣組なる寄合に青酸カリなる薬包のあり」高島悦子
母は万一の時にはこれで命を捨てるんだと言っていました。
8月15日の記憶は空は青く物凄く暑い日でした。
もっこ、ツルハシなどで海岸線に沿って戦車壕の穴を掘るので、おなかがぺこぺこになってしまうので梅干し弁当と焼きおにぎり二つ持って行って、焼きおにぎりは3時に食べました。
当時みんな栄養失調でした。
秘録大東亜戦争満州編(昭和28年)
「8月21日午前10時、ソ連軍の進駐部隊が大連駅を出発して町を行進してきた。
戦争が終わった平和的な進駐とは見えず、戦場に突入してくるような勢いだった。」
私は3階の窓から隠れて見ていました。
戦車がものすごい音でした。
一番初めに入ってきたのは、頭は坊主で刺青をしていて、囚人部隊だったと言われています。
日本人街に入ってきましたが、当時12歳だったのではっきりしたことは判らなかったが、友達のお母さんが「大連物語」という一冊の本を出して、それが終戦直後の大連の事を知るのに大変参考になりました。
8月15日で世の中がひっくり返ってしまってとにかく怖いという雰囲気でした。
「玄関のベルに茶の間をたちし娘は野獣の兵に連れ去られゆく」高島悦子
その女性は19歳の女性で妹が私と同級生でした。
翌日血みどろの状態で帰ってきて亡くなってしまった。
大連はヨーロッパ風の街でした。
「満州唱歌」がありました。(高島悦子さんが歌う。)
冬は氷点下10度位になります。
小学校6年の時には遠足で旅順まで45km歩いて行きました。
匍匐(ほふく)訓練(伏せた状態で移動すること)などもやらされました。
木銃を持って、救急看護品を必ず持って通学していました。(終戦の年、女学校3年生の時)
コロ島には引き揚げ船が来るが、大連港には1年半全然来ませんでした。
帰れるのか疑心暗鬼で孤独にさい悩まされました。
「非民かと疑心暗鬼の飛び交えり引き揚げ船は姿を見せず」高島悦子
食べるものは露天に豊富にありましたが、職場を失った日本人が多いから自分の家財道具、着物を売って購入していました。
女学校1年生の1月ごろに男の国語の先生が突然姿を消しましたが、隠密召集だったようです。(戦争末期には兵隊不足で40代の男性が招集されるようになる。)
先生がお亡くなる前に、原稿を戦後史の一端だと言って私にことづけてくれました。
それによるとミズリー号で条約が結ばれたが、まだ上官の命令で先生たちは蒋介石の国民軍と一緒に八路軍と戦っていたという事が書いてありました。
「あれから70年」を書き残してよかったと思いました。
大連から戻ってきて、ずっと後になって中学から基礎の勉強をやり直したいと相談に行ったら、卒業終了証を持っていると、駄目だと言われたが、定時性の高校からでないと駄目だと言われて、大阪市立都島工業高等学校で勉強のスタートができました。(平成9年卒業)
戦争の話などできるような状況ではなかったが、知って欲しいと思いました。
引き揚げ船の中でも一騒動ありましたが、船長が厳しく言っておさまりました。
船中で病気で亡くなると海に捨てるしかなかった。
佐世保に着くころ、船上からみんなで懐かしく眺めたことは思い出します。
広島の山国の田舎の駅に着いて、祖母が待っていてくれて、よもぎ餅を食べて本当においしかったです、生涯忘れられない味です。
2018年12月6日木曜日
杵屋勝国(長唄三味線方) ・伝統芸能の継承者として
杵屋勝国(長唄三味線方) ・伝統芸能の継承者として
福岡県出身73歳、幼い時から三味線を習い始め、14歳で名取りとなり勝国の名を許されました。
高校2年生で上京、家元である 7代目杵屋勝三郎さんの元に稽古に通いながら、東京芸術大学を卒業、以後プロの演奏家として活躍しています。
力強く華やかな演奏に定評があり歌舞伎舞踊の出囃子で、立て三味線を務めるなど、長唄界をけん引する存在で、先ごろJXTG音楽賞邦楽部門を受賞されました。
第48回JXTG音楽賞邦楽部門を受賞。
繊細さ豪快さを併せ持つ名人芸、歌舞伎の縦三味線として、長唄界をけん引するという事で受賞。
勘三郎さんご一家とは17、18代目、今回の勘九郎さん、3代に渡って私は後ろで三味線をひかせてもらっています。
17代目は花道に出てくるだけで絵になりました。
18代目は踊りに人間味が出て、彼も楽しく踊って私も楽しく三味線をひかせていただきました。
勘九浪さんの場合は踊りは18代目の勘三郎さんよりはお上手だと思っています。
人間味という意味ではまだ若いので足りないのかなあと思っています。
八丁八舞で今回やりました、丁は三味線のことで(八丁=三味線が8人)、舞は唄(八舞=唄が8人)のことです。
お囃子さんがその前に7,8人でやっています。
立て三味線は中央にいて、重要な役割です。(指揮者のような役割をします。)
私は立て三味線を30年以上やらせてもらっています。
私の掛け声が指揮者の指揮棒の役割をします。
坂東玉三郎さんなどとも舞台で一緒にやらせてもらいますが、玉三郎さんは天才ですね。
テンポのいいのが我々では「乗り」がいいと言います。
玉三郎さんは自分のいいように弾いてくれと言われて、それに合わせて踊るので非常に私はやりやすいです。
玉三郎さんとは35,6年の付き合いでもあります。
玉三郎さんの「鷺娘」、500回以上一緒にやらせていただいています。
18代目は亡くなるのが早すぎました、もっともっといい役者になるところでしたが。
(57歳で亡くなる)
歌舞伎は25日間ですが、自分であー良かったなと思うのは2,3日間しかないです。
欠員になると大変なので、風邪など一番心配しています。
私は三味線は6歳の6月6日から始めましたので66,7年になります。
柳川の隣りの街で料理屋をやっていて、両親が趣味で長唄をやっていました。
唄が父親で、三味線がは母親がやっていました。
隣りが先生の家で週のうちに5日間15分ぐらいやっていました。
子供用の三味線は無くて大人用のを使ってバチは小を使っていました。
中学になるころには、杵屋寿太郎先生の処に1時間半かけてお稽古に行きました。
そのうち、高校2年の時に東京に行くことになりましたが、プロになるということは考えていませんでした。
東京芸大の邦楽科に行くことになり、山田抄太郎先生がいて、人間国宝で文化功労者でその方から習いました。
先生の弾いているものから、こんな素敵な長唄三味線はあるのかと思って、なんかひらめきました。
その時プロになりたいと思っていプロを目指して行きました。
本来は15歳にならないと名取りの試験は受けられなかったようだが、杵屋寿太郎先生の強い後ろ盾で14歳で名取りの試験を受けて、受かる事が出来ました。
14歳で七代目家元、杵屋勝三郎先生より杵屋勝国の名を許される。
杵屋勝三郎先生は財団法人を立ち上げ、その理事長でもありました。
その後私も副理事長になり、杵屋勝三郎先生が亡くなる前に、理事長就任を要請されて理事長になりました。
これからは世の中の常識知り、とにかく基本が大事だと家元からは教わりました。
家元から受け取った事を今度は後輩たちに、正しく伝えようという気持ちです。
邦楽は普段あまり触れる機会がないが、若い人たちに観たりやっていただくしかないです
ね。
学校の音楽の先生たちに三味線を教えて、現物を学生たちに教えていただきたいと思っています。
長唄は長いので、一番短いものでも10分かかり長い曲だと1時間以上のものがあるので、曲のいいさわりのいいところを4,5分に纏めてそれを5曲位にして、短かくしものの抄曲集をやると興味を持ってもらいます。
僕はやはり古典が好きです。
8代目襲名の時には国立大劇場で400名を集め大合奏をしました。
歌舞伎の舞台に立ったり、弟子の指導、色々演奏会もやっています。
若いころはがむしゃらに三味線を弾いていたと思いますが、人生経験を踏むと、人間味のある弾き方はないだろうかと考えまして、もっと深みを研究しようという気持ちになってきています。
芸を研究することは当たり前で満足という事は無くて、今後も芸を研究するとともに、後継者を育てることが義務だと思っています。
福岡県出身73歳、幼い時から三味線を習い始め、14歳で名取りとなり勝国の名を許されました。
高校2年生で上京、家元である 7代目杵屋勝三郎さんの元に稽古に通いながら、東京芸術大学を卒業、以後プロの演奏家として活躍しています。
力強く華やかな演奏に定評があり歌舞伎舞踊の出囃子で、立て三味線を務めるなど、長唄界をけん引する存在で、先ごろJXTG音楽賞邦楽部門を受賞されました。
第48回JXTG音楽賞邦楽部門を受賞。
繊細さ豪快さを併せ持つ名人芸、歌舞伎の縦三味線として、長唄界をけん引するという事で受賞。
勘三郎さんご一家とは17、18代目、今回の勘九郎さん、3代に渡って私は後ろで三味線をひかせてもらっています。
17代目は花道に出てくるだけで絵になりました。
18代目は踊りに人間味が出て、彼も楽しく踊って私も楽しく三味線をひかせていただきました。
勘九浪さんの場合は踊りは18代目の勘三郎さんよりはお上手だと思っています。
人間味という意味ではまだ若いので足りないのかなあと思っています。
八丁八舞で今回やりました、丁は三味線のことで(八丁=三味線が8人)、舞は唄(八舞=唄が8人)のことです。
お囃子さんがその前に7,8人でやっています。
立て三味線は中央にいて、重要な役割です。(指揮者のような役割をします。)
私は立て三味線を30年以上やらせてもらっています。
私の掛け声が指揮者の指揮棒の役割をします。
坂東玉三郎さんなどとも舞台で一緒にやらせてもらいますが、玉三郎さんは天才ですね。
テンポのいいのが我々では「乗り」がいいと言います。
玉三郎さんは自分のいいように弾いてくれと言われて、それに合わせて踊るので非常に私はやりやすいです。
玉三郎さんとは35,6年の付き合いでもあります。
玉三郎さんの「鷺娘」、500回以上一緒にやらせていただいています。
18代目は亡くなるのが早すぎました、もっともっといい役者になるところでしたが。
(57歳で亡くなる)
歌舞伎は25日間ですが、自分であー良かったなと思うのは2,3日間しかないです。
欠員になると大変なので、風邪など一番心配しています。
私は三味線は6歳の6月6日から始めましたので66,7年になります。
柳川の隣りの街で料理屋をやっていて、両親が趣味で長唄をやっていました。
唄が父親で、三味線がは母親がやっていました。
隣りが先生の家で週のうちに5日間15分ぐらいやっていました。
子供用の三味線は無くて大人用のを使ってバチは小を使っていました。
中学になるころには、杵屋寿太郎先生の処に1時間半かけてお稽古に行きました。
そのうち、高校2年の時に東京に行くことになりましたが、プロになるということは考えていませんでした。
東京芸大の邦楽科に行くことになり、山田抄太郎先生がいて、人間国宝で文化功労者でその方から習いました。
先生の弾いているものから、こんな素敵な長唄三味線はあるのかと思って、なんかひらめきました。
その時プロになりたいと思っていプロを目指して行きました。
本来は15歳にならないと名取りの試験は受けられなかったようだが、杵屋寿太郎先生の強い後ろ盾で14歳で名取りの試験を受けて、受かる事が出来ました。
14歳で七代目家元、杵屋勝三郎先生より杵屋勝国の名を許される。
杵屋勝三郎先生は財団法人を立ち上げ、その理事長でもありました。
その後私も副理事長になり、杵屋勝三郎先生が亡くなる前に、理事長就任を要請されて理事長になりました。
これからは世の中の常識知り、とにかく基本が大事だと家元からは教わりました。
家元から受け取った事を今度は後輩たちに、正しく伝えようという気持ちです。
邦楽は普段あまり触れる機会がないが、若い人たちに観たりやっていただくしかないです
ね。
学校の音楽の先生たちに三味線を教えて、現物を学生たちに教えていただきたいと思っています。
長唄は長いので、一番短いものでも10分かかり長い曲だと1時間以上のものがあるので、曲のいいさわりのいいところを4,5分に纏めてそれを5曲位にして、短かくしものの抄曲集をやると興味を持ってもらいます。
僕はやはり古典が好きです。
8代目襲名の時には国立大劇場で400名を集め大合奏をしました。
歌舞伎の舞台に立ったり、弟子の指導、色々演奏会もやっています。
若いころはがむしゃらに三味線を弾いていたと思いますが、人生経験を踏むと、人間味のある弾き方はないだろうかと考えまして、もっと深みを研究しようという気持ちになってきています。
芸を研究することは当たり前で満足という事は無くて、今後も芸を研究するとともに、後継者を育てることが義務だと思っています。
2018年12月5日水曜日
小宮康正(江戸小紋染色家・人間国宝) ・今も輝く江戸小紋を
小宮康正(江戸小紋染色家・人間国宝) ・今も輝く江戸小紋を
昭和31年東京葛飾区生れ、62歳。
中学校を卒業した後父親のもとで修行し、伝統的な江戸小紋の染色技術を身につけました。
江戸小紋は遠目は一色の無地に見えますけれども、近づくと非常に細かな柄が見せる粋な着物です。
祖父も父親も江戸小紋の人間国宝で、同じ分野の3代連続認定は初めてです。
江戸時代の技術を受け継いで、着る人が輝くような江戸小紋を作りたいと、取り組む小宮さんに伺いました。
遠目は一色の無地に見えますけれども、近づくと非常に細かな柄が見せる粋な着物で、日本人ならではの感覚かもしれません。
紫色の反物は半円形に粒粒が描かれ連続している、鮫小紋という柄ですが、鮫肌から来たと言われています。
緑のものは縦に一杯模様が入っていて、両子持ち縦枠という柄ですが、縦枠という柄はお湯が沸くとか揺らぎというところから来ていると言われます。
非常に着やすい縞の柄になります。
絹の美しさで、ライトが当たるとキラッと輝くような美しさになります。
如何に絹の素材を生かすかと考えて、染めないとこういった輝きは出ません。
触ると滑らかで身にまといやすいのではないかと思います。
今年9月に江戸小紋の製作に精通しているという事で人間国宝になりました。
祖父も父親も江戸小紋の人間国宝で、同じ分野の3代連続認定は初めてです。
次の世代にどうやって続けて行くか重圧もあります。
無形というのは技術を次の時代に受け継いでいってもらうことで、初めて無形の精神が受け継ぐので、今の時代を生きないと次の世代に受け継いでいかない。
祖父が人間国宝に認定された時に「江戸小紋」というふうに名付けられました。
昭和25年に文化財保護法が出来て認定制度が始まり、昭和30年に他の小紋と区別するために「江戸小紋」と云う名称になりました。
江戸時代に武士の裃に使われていた。
小紋はいつの時代からあるのか定かでないが徐々に細かくなってきた。
華美にならないようにという事で一色になったと思われる。
柄は武家文化で発達したものと、町民遊びの文化から発達したものとがあります。
型紙は200以上の細かな柄があります。
80柄が常時動いていると認識しています。
伊勢で型屋さんがいて彫っています。
型紙一枚に一カ月かかります。
私は武家文化のきちんと並んだものの柄が好きです、難しさもあり奥が深いです。
絹は透明性の繊維なので、その繊維に色を入れてあげることによって、海の青とか空の青などを表現したいと思っています。
江戸小紋、幅広く色んな形で使う事が出来ます。
紋を付けて帯で調整すると結婚式でも耐えられると思います。
着やすいものを作らないと着物も出番が少なくなると思います。
昭和31年東京葛飾区生れ、姉がいて末っ子でした。
小さいころから仕事場に出入りしていました。
中学卒業後この道に入りました。
家で仕事をやるもんだというふうに育てられたので、自然と仕事に入って行きました。
型付けは80~100ぐらいあります。
難しさは一型目を置いて、一型目の粒が12m同じに置くというのが、難しいです。
それは誰がやっても不可能で、地直しという作業をして修正して初めて綺麗な江戸小紋が出来てゆきます。
教わることはそんなにある訳ではなくて、自分でやるしかない、見てやるしかない。
ヘラの持ち方は3日で決まると言われているが、後は自分でやるしかないです。
父からは40迄に色んなことをやり終わるように言われました。
自分のなかで許してしまう事が起こる。
息子たちに教えるにも体力がいる。
新しい小紋の柄も考えています。
ものに対して取り組む姿勢をきちんと伝えることによって、伝統は繋がるような気がします。
大根、おろしがねの柄があるが、かぶもあってもいいと思ってかぶのデザインを作って型屋さんに彫ってもらって作っています。
周りの力を借りていいものは出来て行くわけです。(道具、材料など)
型紙を彫る技術を残して初めて伝統というのが繋がるわけです。
型紙があって初めて小紋が残る訳です。
日常で着物を着ている人は多くはないのが現状で、江戸小紋は世界にまれにみる優れたものなので、足元をきちんと固めないと世界に発信する事は出来ないので、よりいいものを作って世の中に出してゆく事によって、日本に根づかしていかないといけないと思うので、世界には出て行けないと思います。
人形に着せる着物、なかなか難しい。
人形は動かないので、光が当たる率が高くて色あせるのが恐ろしかったので、人形には着せたくない部分があったが、やって見ないかと言われて一部やってます。
好評のようです、人形は世界を渡り歩く事は出来る。
かいこが紡ぎ出す糸によって着物ができる、着物は究極のエコ、仕立てれば親から子、孫へとずーっと長く着られる。
しっかりとした技術を入れることによって、人が使った時になんかいいよねと言うものになる。
プラスチックと漆塗りでは、見た目は同じでも全く違う、着物でも何か違うよねというものをつくれば愛していただけると思う。
昭和31年東京葛飾区生れ、62歳。
中学校を卒業した後父親のもとで修行し、伝統的な江戸小紋の染色技術を身につけました。
江戸小紋は遠目は一色の無地に見えますけれども、近づくと非常に細かな柄が見せる粋な着物です。
祖父も父親も江戸小紋の人間国宝で、同じ分野の3代連続認定は初めてです。
江戸時代の技術を受け継いで、着る人が輝くような江戸小紋を作りたいと、取り組む小宮さんに伺いました。
遠目は一色の無地に見えますけれども、近づくと非常に細かな柄が見せる粋な着物で、日本人ならではの感覚かもしれません。
紫色の反物は半円形に粒粒が描かれ連続している、鮫小紋という柄ですが、鮫肌から来たと言われています。
緑のものは縦に一杯模様が入っていて、両子持ち縦枠という柄ですが、縦枠という柄はお湯が沸くとか揺らぎというところから来ていると言われます。
非常に着やすい縞の柄になります。
絹の美しさで、ライトが当たるとキラッと輝くような美しさになります。
如何に絹の素材を生かすかと考えて、染めないとこういった輝きは出ません。
触ると滑らかで身にまといやすいのではないかと思います。
今年9月に江戸小紋の製作に精通しているという事で人間国宝になりました。
祖父も父親も江戸小紋の人間国宝で、同じ分野の3代連続認定は初めてです。
次の世代にどうやって続けて行くか重圧もあります。
無形というのは技術を次の時代に受け継いでいってもらうことで、初めて無形の精神が受け継ぐので、今の時代を生きないと次の世代に受け継いでいかない。
祖父が人間国宝に認定された時に「江戸小紋」というふうに名付けられました。
昭和25年に文化財保護法が出来て認定制度が始まり、昭和30年に他の小紋と区別するために「江戸小紋」と云う名称になりました。
江戸時代に武士の裃に使われていた。
小紋はいつの時代からあるのか定かでないが徐々に細かくなってきた。
華美にならないようにという事で一色になったと思われる。
柄は武家文化で発達したものと、町民遊びの文化から発達したものとがあります。
型紙は200以上の細かな柄があります。
80柄が常時動いていると認識しています。
伊勢で型屋さんがいて彫っています。
型紙一枚に一カ月かかります。
私は武家文化のきちんと並んだものの柄が好きです、難しさもあり奥が深いです。
絹は透明性の繊維なので、その繊維に色を入れてあげることによって、海の青とか空の青などを表現したいと思っています。
江戸小紋、幅広く色んな形で使う事が出来ます。
紋を付けて帯で調整すると結婚式でも耐えられると思います。
着やすいものを作らないと着物も出番が少なくなると思います。
昭和31年東京葛飾区生れ、姉がいて末っ子でした。
小さいころから仕事場に出入りしていました。
中学卒業後この道に入りました。
家で仕事をやるもんだというふうに育てられたので、自然と仕事に入って行きました。
型付けは80~100ぐらいあります。
難しさは一型目を置いて、一型目の粒が12m同じに置くというのが、難しいです。
それは誰がやっても不可能で、地直しという作業をして修正して初めて綺麗な江戸小紋が出来てゆきます。
教わることはそんなにある訳ではなくて、自分でやるしかない、見てやるしかない。
ヘラの持ち方は3日で決まると言われているが、後は自分でやるしかないです。
父からは40迄に色んなことをやり終わるように言われました。
自分のなかで許してしまう事が起こる。
息子たちに教えるにも体力がいる。
新しい小紋の柄も考えています。
ものに対して取り組む姿勢をきちんと伝えることによって、伝統は繋がるような気がします。
大根、おろしがねの柄があるが、かぶもあってもいいと思ってかぶのデザインを作って型屋さんに彫ってもらって作っています。
周りの力を借りていいものは出来て行くわけです。(道具、材料など)
型紙を彫る技術を残して初めて伝統というのが繋がるわけです。
型紙があって初めて小紋が残る訳です。
日常で着物を着ている人は多くはないのが現状で、江戸小紋は世界にまれにみる優れたものなので、足元をきちんと固めないと世界に発信する事は出来ないので、よりいいものを作って世の中に出してゆく事によって、日本に根づかしていかないといけないと思うので、世界には出て行けないと思います。
人形に着せる着物、なかなか難しい。
人形は動かないので、光が当たる率が高くて色あせるのが恐ろしかったので、人形には着せたくない部分があったが、やって見ないかと言われて一部やってます。
好評のようです、人形は世界を渡り歩く事は出来る。
かいこが紡ぎ出す糸によって着物ができる、着物は究極のエコ、仕立てれば親から子、孫へとずーっと長く着られる。
しっかりとした技術を入れることによって、人が使った時になんかいいよねと言うものになる。
プラスチックと漆塗りでは、見た目は同じでも全く違う、着物でも何か違うよねというものをつくれば愛していただけると思う。
2018年12月4日火曜日
毛受敏浩(日本国際交流センター執行理事 )・今、移民を考える
毛受敏浩(日本国際交流センター執行理事 )・今、移民を考える
63歳、徳島県に生まれ大学を卒業した後、兵庫県庁に就職しました。
その後アメリカの大学院で学びました。
34歳の時に日本国際交流センターに働き始め、草の根の国際交流や県人会義などに携わり、外国人定住政策の専門家になりました。
毛受敏浩(めんじゅ としひろ)さんが去年出版した、『限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択』この本では外国人の受け入れについて、国民的議論をすべき時が来ていると説いています。
どうすれば国民の理解を得られるのか伺いました。
日本国際交流センターは1970年にできた純粋な民間の団体で、当時は日米関係が民間で交流するという事が始まった時代で、日本国際交流センターが先鞭を点けたということです。
民間外交のパイオニアと呼んでいます。
兵庫県庁に10年間勤めていて、その後34歳の時に日本国際交流センターに働き始めました。
日本の人口が減って行って大変だと思いました。
外国人との交流で、外国人に定住して活躍してもらう事が、経験上私としてはストレートに考えられるのですが、国内では移民ではないかということで抵抗が強い。
国立社会保障人口問題研究所という機関が、日本の将来の人口を出しているが、2020年代には600万人人口が減ると予想しています。
2010年代は270万人ぐらいなので2020年代に一挙に減っていって、2030年代になると、800万人になる。
高齢者は増えて来る。
日本の享受している豊かさ、利便性がなくなってきて、生活が回らなく様になるという危機感を持っています。
日本は1000兆円を越える借金があるので、人口が減ると借金が返せなくなると国家破綻のような話になるので、何としても政府は地方創成とかやっているが、残念ながら人口のストップがかかっていない。
出生率が1.43が2.1になればほぼ維持できると言われるが、もう間に合わないと本に書いています。
人口を維持してゆくことを考えると、全員が結婚して2人以上生れて初めて人口維持ができるが、今の状況では不可能だと思います。
政府は2014年に地方創成という事で、人口減少をなんとか止めようという事で年間1兆円使っているが、止まる気配はない、悪くなっているのが現実です。
先進国で外国人の受け入れをやってない国は無いわけです。
日本もいよいよその方向に達してきていると思っています。
ヨーロッパのスイスでは人口数百万で国民所得が高いという国もありますが、現実には外国の人が働いています。
2100年には5072万人になるという数字もあるが、どうなるんだろうと思います。
中規模の割と目立たない国になってしまって、最悪のケースは若い人たちは高齢者ばかりいる日本よりも、若い人の居る国に移住してゆくことになりかねないとも思います。
今日本には270万人の外国人がいます、中国、韓国が多いが、最近はベトナム、ネパール等が急増しています。
ベトナム、ネパール等は技能実習制度で入ってきて働いていたり、留学生が急増してます。
考え方は技術を習って母国に持ち帰るという事だが、この2年間で10万人増えていますが、人手不足で労働力として期待したいという事で増えたんだと思います。
本音は労働力として受け入れたい、しかし建前は国際貢献という事でずれがある。
年間7000人の人が技能実習できても、途中で居なくなってくるという事も起こっています。
移民という事を本などに書いて10年間活動してきたが、ネットでは非国民と言われたりしました。
移民=犯罪者予備軍みたいなイメージを抱く人がいて、政府もまだ今回の件も移民政策ではないと言っています。
ようやく議論のところまできたと思います。
介護なども外国人の人に入ってもらわないと段々回らなくなって来ると思います。
留学生がアルバイトをしているが、留学生に労働力を期待する国はあまりない。
新宿は人口の12%が外国人になっています。
新宿の今年の成人式では外国人の割合は 45%だったと言われます。
新宿には50以上の日本語学校があります。
日本には130以上の国の方が来ています。
新宿でのアンケートでは、外国人が入ってきた方が望ましいという方が、望ましくないよりも多かった、という結果があります。
外国人が増える問題についての質問では、①ゴミの出し方、②騒音、③駐車場となっていて、外国人が多い地域でも大きな問題は起こっていないということだと思います。
外国人の方としてはしっかりしたオリエンテーションをして欲しいという要望があります。
マナーとかのしっかりしたシステムが無いので、私は全国的な事をやるべきだと思っています。
ヨーロッパの移民政策でドイツは復興の過程で人手不足になって、ヨーロッパ、トルコ等からも大量に受け入れていた。(1950年代~1970年代初頭)
フランスなどでは植民地から受け入れていたりした。
移民の人達、特に子供は可能性がある人達だと思う。
ヨーロッパでは移民難民問題で大変だが、ドイツとしては必要な人材をどのぐらい確保するかということでは問題になっていなくて、突然我々を入れろという難民の人達で、憲法で受け入れることを決めていて、メルケルさんは100万人の人が突然来て受け入れる体制ができていなくて大混乱になった。
急な難民が押し寄せてヨーロッパは困っている状態です。
トランプさんも不法移民の対応、イスラムへの反発がある。
日本も受け入れ体制をしっかりしないといい人材は来ないと思う。
ドイツではドイツ語学習を600時間することを義務付けていて、全国に数千か所あってそこで学習することが出来ます。
韓国も同じ様な制度をやっていて、415時間勉強して下さいということになっています。
基本はその国の言葉をしっかり学んでもらうという方針がしっかりしている。
定住で来て家族も呼び寄せて生活できる、家族子供が生まれて成長してゆく、こういうことを移民というと思うが、政府としては移民政策ではないと言っている。
自民党内でも一部反対者があるが、野党も与党も方向性は或る意味同じだと思うので、最終的には外国人の人が来て働いてもらって、優秀な人は定着して貰うというふうに収斂していくとは思うが、タブー視されていたものの蓋が開いたのでごたごたしていると思う。
どうやったらウインーウインの関係ができるのかが大切だと思います。
日本に行ってみたいと思う様に工夫をして、方針転換をして行くことが重要かなと思います。
63歳、徳島県に生まれ大学を卒業した後、兵庫県庁に就職しました。
その後アメリカの大学院で学びました。
34歳の時に日本国際交流センターに働き始め、草の根の国際交流や県人会義などに携わり、外国人定住政策の専門家になりました。
毛受敏浩(めんじゅ としひろ)さんが去年出版した、『限界国家 人口減少で日本が迫られる最終選択』この本では外国人の受け入れについて、国民的議論をすべき時が来ていると説いています。
どうすれば国民の理解を得られるのか伺いました。
日本国際交流センターは1970年にできた純粋な民間の団体で、当時は日米関係が民間で交流するという事が始まった時代で、日本国際交流センターが先鞭を点けたということです。
民間外交のパイオニアと呼んでいます。
兵庫県庁に10年間勤めていて、その後34歳の時に日本国際交流センターに働き始めました。
日本の人口が減って行って大変だと思いました。
外国人との交流で、外国人に定住して活躍してもらう事が、経験上私としてはストレートに考えられるのですが、国内では移民ではないかということで抵抗が強い。
国立社会保障人口問題研究所という機関が、日本の将来の人口を出しているが、2020年代には600万人人口が減ると予想しています。
2010年代は270万人ぐらいなので2020年代に一挙に減っていって、2030年代になると、800万人になる。
高齢者は増えて来る。
日本の享受している豊かさ、利便性がなくなってきて、生活が回らなく様になるという危機感を持っています。
日本は1000兆円を越える借金があるので、人口が減ると借金が返せなくなると国家破綻のような話になるので、何としても政府は地方創成とかやっているが、残念ながら人口のストップがかかっていない。
出生率が1.43が2.1になればほぼ維持できると言われるが、もう間に合わないと本に書いています。
人口を維持してゆくことを考えると、全員が結婚して2人以上生れて初めて人口維持ができるが、今の状況では不可能だと思います。
政府は2014年に地方創成という事で、人口減少をなんとか止めようという事で年間1兆円使っているが、止まる気配はない、悪くなっているのが現実です。
先進国で外国人の受け入れをやってない国は無いわけです。
日本もいよいよその方向に達してきていると思っています。
ヨーロッパのスイスでは人口数百万で国民所得が高いという国もありますが、現実には外国の人が働いています。
2100年には5072万人になるという数字もあるが、どうなるんだろうと思います。
中規模の割と目立たない国になってしまって、最悪のケースは若い人たちは高齢者ばかりいる日本よりも、若い人の居る国に移住してゆくことになりかねないとも思います。
今日本には270万人の外国人がいます、中国、韓国が多いが、最近はベトナム、ネパール等が急増しています。
ベトナム、ネパール等は技能実習制度で入ってきて働いていたり、留学生が急増してます。
考え方は技術を習って母国に持ち帰るという事だが、この2年間で10万人増えていますが、人手不足で労働力として期待したいという事で増えたんだと思います。
本音は労働力として受け入れたい、しかし建前は国際貢献という事でずれがある。
年間7000人の人が技能実習できても、途中で居なくなってくるという事も起こっています。
移民という事を本などに書いて10年間活動してきたが、ネットでは非国民と言われたりしました。
移民=犯罪者予備軍みたいなイメージを抱く人がいて、政府もまだ今回の件も移民政策ではないと言っています。
ようやく議論のところまできたと思います。
介護なども外国人の人に入ってもらわないと段々回らなくなって来ると思います。
留学生がアルバイトをしているが、留学生に労働力を期待する国はあまりない。
新宿は人口の12%が外国人になっています。
新宿の今年の成人式では外国人の割合は 45%だったと言われます。
新宿には50以上の日本語学校があります。
日本には130以上の国の方が来ています。
新宿でのアンケートでは、外国人が入ってきた方が望ましいという方が、望ましくないよりも多かった、という結果があります。
外国人が増える問題についての質問では、①ゴミの出し方、②騒音、③駐車場となっていて、外国人が多い地域でも大きな問題は起こっていないということだと思います。
外国人の方としてはしっかりしたオリエンテーションをして欲しいという要望があります。
マナーとかのしっかりしたシステムが無いので、私は全国的な事をやるべきだと思っています。
ヨーロッパの移民政策でドイツは復興の過程で人手不足になって、ヨーロッパ、トルコ等からも大量に受け入れていた。(1950年代~1970年代初頭)
フランスなどでは植民地から受け入れていたりした。
移民の人達、特に子供は可能性がある人達だと思う。
ヨーロッパでは移民難民問題で大変だが、ドイツとしては必要な人材をどのぐらい確保するかということでは問題になっていなくて、突然我々を入れろという難民の人達で、憲法で受け入れることを決めていて、メルケルさんは100万人の人が突然来て受け入れる体制ができていなくて大混乱になった。
急な難民が押し寄せてヨーロッパは困っている状態です。
トランプさんも不法移民の対応、イスラムへの反発がある。
日本も受け入れ体制をしっかりしないといい人材は来ないと思う。
ドイツではドイツ語学習を600時間することを義務付けていて、全国に数千か所あってそこで学習することが出来ます。
韓国も同じ様な制度をやっていて、415時間勉強して下さいということになっています。
基本はその国の言葉をしっかり学んでもらうという方針がしっかりしている。
定住で来て家族も呼び寄せて生活できる、家族子供が生まれて成長してゆく、こういうことを移民というと思うが、政府としては移民政策ではないと言っている。
自民党内でも一部反対者があるが、野党も与党も方向性は或る意味同じだと思うので、最終的には外国人の人が来て働いてもらって、優秀な人は定着して貰うというふうに収斂していくとは思うが、タブー視されていたものの蓋が開いたのでごたごたしていると思う。
どうやったらウインーウインの関係ができるのかが大切だと思います。
日本に行ってみたいと思う様に工夫をして、方針転換をして行くことが重要かなと思います。
2018年12月3日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】森鴎外
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】森鴎外 講談師 神田蘭
講談による紹介
森鴎外は1862年2月17日(文久2年1月19日) 石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)生れ。 本名は森 林太郎
藩医家の嫡男として、幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。
9歳の時に15歳の学力があったと言われる。
1872年(明治5年)10歳の時に廃藩置県となり、父と上京。
12歳の時に入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
本科に進んで医者になる勉強をしていたが、文学に関心を持ち、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
大学卒業後はドイツへ留学。
ドイツ留学時の恋愛が後の名作「舞姫」を生んだのです。
二葉亭四迷「浮雲」と並んで近代日本文学における目覚めた自我の新しい人間類型をうちだしたと評価されている。
小説家と医者の二足のわらじを履いて活躍して行く。
医者としては陸軍の軍医部長として日露戦争に出征し、40代でトップに上り詰める。
小説家としては数々の名作を生み出してゆく。
「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」等々。
森鴎外の、「最後の一句」「お上のことには間違いがございますまいから」と娘が言うがこれが、「最後の一句」の有名な台詞。
(「本当にあなたたちの裁定は正しいの?あなたたちは父親を処刑しようとしているけれど、その裁定に自信があるわけではないのでしょ?」ということでしょう。人が人の命を奪うのに、自信がある人なんていません。 彼らの事なかれ主義の「役人根性」をグサッと刺したものと思う。)
色んな意味が込められているような気がする。
大好きな食べ物はまんじゅう茶漬けとか。
代々津和野藩の典医を務める森家に生まれる。(40石位)
軍医のかたわら深夜3,4時には起きだして、それからが森鴎外の人生、二人分の人生を過ごす。
第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
そうさせたのは親ではないか。
卒業時に8番であるために大学に残って研究者に残る道は閉ざされた。
親友の賀古鶴所(かこ・つるど)の勧めで東京陸軍病院に勤務することでドイツへの留学の道も開かれて来る。
1884年(明治17年)6月ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。
ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリン等にいく。
ベルリンでは北里柴三郎とともにコッホに会いに行った。
ほぼ4年間ドイツに行っていた。
ライバルだった石黒忠悳氏は男爵になったが、森鴎外はなれなかった。
軍医はトップに行っても中将だった。
森鴎外は名誉ということに拘泥する訳では無かったと思う。
帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。(女性は説得されて帰国する。)
作品で「エリス」という名前で登場するが、実際の名前は「エリーゼ」という。
1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」など)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。
「即興詩人」など訳が名作で原作を越えてしまったと言われる。
森鴎外は樋口一葉を見出した。(古文調の格闘高い文章)
森鴎外は歴史研究者になっても超一流の歴史研究者になっていたと思う。
晩年、史伝という分野を切り開いた、「渋江抽斎」が有名。
1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現・東京国立博物館)総長兼図書頭に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任した。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(7月6日付け)が有名。
その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。(60歳)
(原敬も同様な事を言っている。)
講談による紹介
森鴎外は1862年2月17日(文久2年1月19日) 石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県津和野町町田)生れ。 本名は森 林太郎
藩医家の嫡男として、幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。
9歳の時に15歳の学力があったと言われる。
1872年(明治5年)10歳の時に廃藩置県となり、父と上京。
12歳の時に入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
本科に進んで医者になる勉強をしていたが、文学に関心を持ち、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていた。
大学卒業後はドイツへ留学。
ドイツ留学時の恋愛が後の名作「舞姫」を生んだのです。
二葉亭四迷「浮雲」と並んで近代日本文学における目覚めた自我の新しい人間類型をうちだしたと評価されている。
小説家と医者の二足のわらじを履いて活躍して行く。
医者としては陸軍の軍医部長として日露戦争に出征し、40代でトップに上り詰める。
小説家としては数々の名作を生み出してゆく。
「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」等々。
森鴎外の、「最後の一句」「お上のことには間違いがございますまいから」と娘が言うがこれが、「最後の一句」の有名な台詞。
(「本当にあなたたちの裁定は正しいの?あなたたちは父親を処刑しようとしているけれど、その裁定に自信があるわけではないのでしょ?」ということでしょう。人が人の命を奪うのに、自信がある人なんていません。 彼らの事なかれ主義の「役人根性」をグサッと刺したものと思う。)
色んな意味が込められているような気がする。
大好きな食べ物はまんじゅう茶漬けとか。
代々津和野藩の典医を務める森家に生まれる。(40石位)
軍医のかたわら深夜3,4時には起きだして、それからが森鴎外の人生、二人分の人生を過ごす。
第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学。
そうさせたのは親ではないか。
卒業時に8番であるために大学に残って研究者に残る道は閉ざされた。
親友の賀古鶴所(かこ・つるど)の勧めで東京陸軍病院に勤務することでドイツへの留学の道も開かれて来る。
1884年(明治17年)6月ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、ドイツ留学を命じられた。
ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリン等にいく。
ベルリンでは北里柴三郎とともにコッホに会いに行った。
ほぼ4年間ドイツに行っていた。
ライバルだった石黒忠悳氏は男爵になったが、森鴎外はなれなかった。
軍医はトップに行っても中将だった。
森鴎外は名誉ということに拘泥する訳では無かったと思う。
帰国直後、ドイツ人女性が来日して滞在一月ほどで離日する出来事があり、小説「舞姫」の素材の一つとなった。(女性は説得されて帰国する。)
作品で「エリス」という名前で登場するが、実際の名前は「エリーゼ」という。
1889年(明治22年)1月3日、『読売新聞』の付録に「小説論」を発表、外国文学などの翻訳を手始めに(「即興詩人」「ファウスト」など)熱心に評論的啓蒙活動を続けた。
「即興詩人」など訳が名作で原作を越えてしまったと言われる。
森鴎外は樋口一葉を見出した。(古文調の格闘高い文章)
森鴎外は歴史研究者になっても超一流の歴史研究者になっていたと思う。
晩年、史伝という分野を切り開いた、「渋江抽斎」が有名。
1918年(大正7年)12月、帝室博物館(現・東京国立博物館)総長兼図書頭に、翌年1月に帝室制度審議会御用掛に就任した。
1918年(大正7年)9月、帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任した。
「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言(7月6日付け)が有名。
その遺言により墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻された。(60歳)
(原敬も同様な事を言っている。)
2018年12月2日日曜日
日髙のり子(声優) ・【時代を創った声】
日髙のり子(声優) ・【時代を創った声】
アニメ「タッチ」でのヒロイン、浅倉南役で知られている日高さんですが、小学生のころから児童劇団で活動を続け、高校生の頃からアイドル歌手としてデビューしました。
どうしても演技はしたいという思いから、声優の道に進まれた日高さんに伺いました。
『タッチ』(浅倉南役)、『となりのトトロ』(草壁サツキ役)、『らんま1/2』(天道あかね役)などを担当。
舞台ラジオでも活躍。
アニメ「タッチ」は1985年から放送された作品で、高校野球を通しての青春漫画がアニメ化されたもの。
その前の作品に参加していてアフレコの帰りに、声を掛けられて「今度タッチという作品のオーディションを受けてもらうから」とういう話があり、それがきっかけでオーディションを受けました。
『タッチ』に関しては超日常なので会話が普通なので、自分の中学時代のころを思い出して、ナチュラルにやりたいという事と、もっと明るくという事でやっているうちに オーディションが終わってしまいました。
自分としてはもやもや感がある中で終わってしまって、合格できる自信は無かったが受かる事が出来ました。
『タッチ』では声優として1年経たないうちでした。(22歳の時)
『タッチ』はセリフが極端に少なくて難しかった。
例えば切なさとか色んな思いを含まれていての「たっちゃん」と名前をいう一言なので、難しい部分がありました。
間が長いと緊張してしまったり難しかったです。
周り中先輩だらけで、足をひっぱっていることを自分自身理解していました。
考えさせられる部分が多かったので、考える癖が付いてその後の作品はやりやすかったです。
声を出す時に、話し相手との距離感を出すのが難しかった。
『タッチ』をやっていて周りから笑われて、そのうちそれに慣れてしまって、失敗が怖くなくなったのが少し良かったです。
後になって見てみると、変なところが沢山あって、まだ私自身が気が付いていないところも沢山あると思います。
失敗と思ったけれど、いいんじゃないのと監督さんから言われたものなどもあります。
のびのびと演技をさせてもらえて、後々の仕事にプラスになった部分があります。
高校生の時に、ドラマに出演して、私が選ばれて主題歌を歌ったことがあり、「そのうちアイドルとしてデビューしようね」とよく言われていました。
しかし女優になりたいという思いがあったので、ピンとこなかったが、「歌で全国の人に名前と顔を覚えてもらうのもいいのではないか」と言われて、その方に気持ちが傾いて行きました。
歌はそんなに得意ではなかったが、「レッツゴーヤング」は男子5名女子5名のグループで、歌い踊ることが楽しかったです。
その後ラジオ番組、バラエティー番組のレギュラーが決まったりして来ました。
歌手活動が大きくなりました。
タレント活動としてのレギュラーが増えて行きました。
ラジオを聞いている方から、声に特徴があるので声優に向いているのではないかとの便りを頂いて、そこから声優の仕事をやってみたいと思いました。
自分の人生で出会った人の数が多いほど、自分の中の引き出しに、色んなパターンの人達のタイプ、人生がインプットするところがあり、それが演技の中で生かされることが多いのではないかと思います。
1984年に声優デビューして「超時空騎団サザンクロス」「よろしくメカドック」「タッチ」とたて続けに来ました。
『となりのトトロ』(草壁サツキ役)、『らんま1/2』(天道あかね役)に繋がって行きました。
『となりのトトロ』では小学生を演じることになり、声を高めに、声が元気よくという様に言われました。
ナチュラルにというところを凄く意識してやりました。
サツキ役は自分の幼少時代と重なる部分があると思います。
声優の仕事が好きになって、できるだけ長く続けたいと思った時に、ヒロインが多かったので、大きなイメージチェンジが必要ではないかと思って、男の子の役をやりたいと思いました。
声という可能性にチャレンジし始めた時期でした。
張り切り過ぎて声がガラガラになり、男の子役への道は厳しいというところもありましたが、やっているうちに翌年にはNHKの「ふしぎの海のナディア」でも肩の力を抜いて男の子役をこなす事が出来ました。
作品をやりながら育ててもらったという思いが強くありました。
結婚、出産して「ワンピース」という作品ではベルメールというお母さん役をやりました。
いままで無かった母性みたいなものが楽に出せるようになったと思いました。
声優の仕事も声に特徴があって出た瞬間から良い役を貰えたりする人と、なかなかもらえない人がいると思うが、辛いこととか苦しいこととか、自分の未来に不安を感じたりすることは絶対に起こりうると思うが、そういう気持ちに負けないで、本当にやりたいのであれば諦めないことだと思います。
厭なことから逃げないで、それを乗り越える強さを持って声優としての学ぶべきもの、メンタルの部分、双方を頑張って続けていたら、いつか実を結ぶのではないかと思います。
アニメ「タッチ」でのヒロイン、浅倉南役で知られている日高さんですが、小学生のころから児童劇団で活動を続け、高校生の頃からアイドル歌手としてデビューしました。
どうしても演技はしたいという思いから、声優の道に進まれた日高さんに伺いました。
『タッチ』(浅倉南役)、『となりのトトロ』(草壁サツキ役)、『らんま1/2』(天道あかね役)などを担当。
舞台ラジオでも活躍。
アニメ「タッチ」は1985年から放送された作品で、高校野球を通しての青春漫画がアニメ化されたもの。
その前の作品に参加していてアフレコの帰りに、声を掛けられて「今度タッチという作品のオーディションを受けてもらうから」とういう話があり、それがきっかけでオーディションを受けました。
『タッチ』に関しては超日常なので会話が普通なので、自分の中学時代のころを思い出して、ナチュラルにやりたいという事と、もっと明るくという事でやっているうちに オーディションが終わってしまいました。
自分としてはもやもや感がある中で終わってしまって、合格できる自信は無かったが受かる事が出来ました。
『タッチ』では声優として1年経たないうちでした。(22歳の時)
『タッチ』はセリフが極端に少なくて難しかった。
例えば切なさとか色んな思いを含まれていての「たっちゃん」と名前をいう一言なので、難しい部分がありました。
間が長いと緊張してしまったり難しかったです。
周り中先輩だらけで、足をひっぱっていることを自分自身理解していました。
考えさせられる部分が多かったので、考える癖が付いてその後の作品はやりやすかったです。
声を出す時に、話し相手との距離感を出すのが難しかった。
『タッチ』をやっていて周りから笑われて、そのうちそれに慣れてしまって、失敗が怖くなくなったのが少し良かったです。
後になって見てみると、変なところが沢山あって、まだ私自身が気が付いていないところも沢山あると思います。
失敗と思ったけれど、いいんじゃないのと監督さんから言われたものなどもあります。
のびのびと演技をさせてもらえて、後々の仕事にプラスになった部分があります。
高校生の時に、ドラマに出演して、私が選ばれて主題歌を歌ったことがあり、「そのうちアイドルとしてデビューしようね」とよく言われていました。
しかし女優になりたいという思いがあったので、ピンとこなかったが、「歌で全国の人に名前と顔を覚えてもらうのもいいのではないか」と言われて、その方に気持ちが傾いて行きました。
歌はそんなに得意ではなかったが、「レッツゴーヤング」は男子5名女子5名のグループで、歌い踊ることが楽しかったです。
その後ラジオ番組、バラエティー番組のレギュラーが決まったりして来ました。
歌手活動が大きくなりました。
タレント活動としてのレギュラーが増えて行きました。
ラジオを聞いている方から、声に特徴があるので声優に向いているのではないかとの便りを頂いて、そこから声優の仕事をやってみたいと思いました。
自分の人生で出会った人の数が多いほど、自分の中の引き出しに、色んなパターンの人達のタイプ、人生がインプットするところがあり、それが演技の中で生かされることが多いのではないかと思います。
1984年に声優デビューして「超時空騎団サザンクロス」「よろしくメカドック」「タッチ」とたて続けに来ました。
『となりのトトロ』(草壁サツキ役)、『らんま1/2』(天道あかね役)に繋がって行きました。
『となりのトトロ』では小学生を演じることになり、声を高めに、声が元気よくという様に言われました。
ナチュラルにというところを凄く意識してやりました。
サツキ役は自分の幼少時代と重なる部分があると思います。
声優の仕事が好きになって、できるだけ長く続けたいと思った時に、ヒロインが多かったので、大きなイメージチェンジが必要ではないかと思って、男の子の役をやりたいと思いました。
声という可能性にチャレンジし始めた時期でした。
張り切り過ぎて声がガラガラになり、男の子役への道は厳しいというところもありましたが、やっているうちに翌年にはNHKの「ふしぎの海のナディア」でも肩の力を抜いて男の子役をこなす事が出来ました。
作品をやりながら育ててもらったという思いが強くありました。
結婚、出産して「ワンピース」という作品ではベルメールというお母さん役をやりました。
いままで無かった母性みたいなものが楽に出せるようになったと思いました。
声優の仕事も声に特徴があって出た瞬間から良い役を貰えたりする人と、なかなかもらえない人がいると思うが、辛いこととか苦しいこととか、自分の未来に不安を感じたりすることは絶対に起こりうると思うが、そういう気持ちに負けないで、本当にやりたいのであれば諦めないことだと思います。
厭なことから逃げないで、それを乗り越える強さを持って声優としての学ぶべきもの、メンタルの部分、双方を頑張って続けていたら、いつか実を結ぶのではないかと思います。
2018年12月1日土曜日
宮崎駿(アニメーション映画監督) ・【スペシャル対談】宮崎駿×中川李枝子
宮崎駿(アニメーション映画監督) ・【スペシャル対談】宮崎駿×中川李枝子
中川李枝子(絵本作家 「グリとグラ」の作者)
宮崎駿さんの映画 「となりのトトロ」の主題歌「散歩」は実は中川李枝子さんの作詩です。
映画の上映が終わっても、子供達に歌い継がれる曲にして欲しい、という宮崎さんの依頼に応え、子供達に大人気の主題歌は中川さんの手によって誕生しました。
それから30年来親交のあるお二人が宮崎さんのアトリエで子供をテーマに対談しました。
宮崎さんのアトリエは大きな木々に囲まれた一軒屋で、隣には10年前に宮崎さんがスタジオのスタッフの為に建てた保育園がありました。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2015/05/blog-post_6.html参照
宮崎:学生の頃、1962年『いやいやえん』が出た時は驚天動地というか、今でも思いますけれど素晴らしいものが出たと思いました。
保育園の中が海になって、クジラが泳いできてそれが全く不思議ではなくて、謎のガスコンロがあり、中川さんに説明を聞くまでは判りませんでした。
これはとんでもない本が出たと思いました。
中川:子供達はニュースをよく見ているんです、南極から帰ってきた人たちが、花束を貰うシーンが子供達には面白かったらしくて、海の方に行っては帰ってくるんです。
その遊びを見ていました。
子供達と話を作ろうと言ったら、クジラ取りの話から始まりました。
ネタを貰ってその中から話ができました。
宮崎:これを映像にするにはどうしたらいいか考えました。
中川:あの短編映画には吃驚しました、あの通りになったので。
宮崎:図書室に地下に自家発電機があるが、そこの階段は急でそこには絶対子供はいかない。
子供達は物凄く敏感なんです。
『いやいやえん』は今までの児童文学とは違っていた。
保育園の遊びがそのまま教室が海になってしまうので、映画にしようとすると考えますよ。
理屈で映画にしようとすると、海になりましたと突然カットが変わってもだめなんです。
子供の時にはそれがなれるんですよ、それを映像にしてみたい、ただそれだけです。
中川:小さな無認可の保育園の主任保母に成れるという事でそこに就職したんです。
園長から、子供が毎日喜んでくる保育園にしてくださいと言われて、保育以外は何もしなくていいと言われました。
この仕事はもうからないから、楽しまなければ割が合わないと言われました。
親からお前も保育料を払えと、言われました。
自分も楽しんだので、今思うと私も保育料を払うべきだったと思います。
そこは駒沢のオリンピック公園になっているが、その当時は駄々っぴろい原っぱでした。
天谷保子さんが質素なバラック小屋を建ててそこで「緑保育園」を作って、主任保母を雇うという事で私が来ました。
宮崎:空き地ができると子供達が集まってくる、自由な感じというのはただの空き地の時にあるんですよ。
怪我をしてもいいというような覚悟で、親が遊びに行かしてくれるスペースがあればいいなあと思いますが。
原っぱって、どこに行っちゃたんだろうと思います。
エストニアに行ったことがありますが、古い町が草ぼうぼうでそれが懐かしかった。
草ぼうぼうの原っぱを見ていると、子供時代の自分たちの子供時代が飛び出してくるんではないかと思いました。
中川:存分に遊ばせたい、子供達は走るのが好きで、とにかく走りたい。
駒沢にも小さい山があり、わざと汗水たらして海が見えるだとかアメリカが見えるだとか言うんです。
宮崎:「3匹のクマの家」という保育所、狭いけど作ってみたかったのと、保育園の問題でどうしようかと思っているお母さんがいた時期でした。
中川:嬉しそうに遊び回っているところが一番可愛いです。
喧嘩なんて日常茶飯事ですが、両方の言い分をよく聞かないといけない。
宮崎:子供はでこぼこの石があっても躓かない。
コンクリートは怪我をするが、自然のもの、石、木、草もなじみがいい。
草ぼうぼうの原っぱが欲しいですね。
中川:子供は大事な存在です、このごろはみんな自分の子供だと思います。
児童憲章の三原則、
①児童は人として尊ばれる。
②児童は社会の一員として重んじられる。
③児童は幸せに育つ権利がある。
子供を大事にしていきたい。
宮崎:児童文学を学んでいたころは、破れ続ける可能性がある、次々に可能性を失ってゆくのが子供なんだと、言うふうな問題意識をもっていたが、今もあまり変わっていない。
何か良かったというものに出会えるといいなと思います。
スタッフの子供達も居なくなって、この保育園とどう向き合うか、仕切り直しをしないといけないと思います。
今の世の中では大人がもっと子供にかかわることが、社会を変えることになるのではないかと思っているが、今この国の大問題だと思っています。
中川:関心を持っていないですね。
子供は大人を見てるんですよ、子供に馬鹿にされないように、大人は子供を馬鹿にしない、そう思います。
お子さんを持っている両親は羨ましい、お父さんお母さんが大好きです。
お父さんお母さんより子供の方がみんなちょっと優れている。
子供には自分より優れているところがある。
どんなに私が可愛がってもお母さんにはかなわなかった。
宮崎:息子が二人いるが、二人目が大学に入る時に家を出て行った時、子育てが終わったんだと思いました。
その時までの子育てが一番いい時だったと思います。(後で判ることなんですが)
中川李枝子(絵本作家 「グリとグラ」の作者)
宮崎駿さんの映画 「となりのトトロ」の主題歌「散歩」は実は中川李枝子さんの作詩です。
映画の上映が終わっても、子供達に歌い継がれる曲にして欲しい、という宮崎さんの依頼に応え、子供達に大人気の主題歌は中川さんの手によって誕生しました。
それから30年来親交のあるお二人が宮崎さんのアトリエで子供をテーマに対談しました。
宮崎さんのアトリエは大きな木々に囲まれた一軒屋で、隣には10年前に宮崎さんがスタジオのスタッフの為に建てた保育園がありました。
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2015/05/blog-post_6.html参照
宮崎:学生の頃、1962年『いやいやえん』が出た時は驚天動地というか、今でも思いますけれど素晴らしいものが出たと思いました。
保育園の中が海になって、クジラが泳いできてそれが全く不思議ではなくて、謎のガスコンロがあり、中川さんに説明を聞くまでは判りませんでした。
これはとんでもない本が出たと思いました。
中川:子供達はニュースをよく見ているんです、南極から帰ってきた人たちが、花束を貰うシーンが子供達には面白かったらしくて、海の方に行っては帰ってくるんです。
その遊びを見ていました。
子供達と話を作ろうと言ったら、クジラ取りの話から始まりました。
ネタを貰ってその中から話ができました。
宮崎:これを映像にするにはどうしたらいいか考えました。
中川:あの短編映画には吃驚しました、あの通りになったので。
宮崎:図書室に地下に自家発電機があるが、そこの階段は急でそこには絶対子供はいかない。
子供達は物凄く敏感なんです。
『いやいやえん』は今までの児童文学とは違っていた。
保育園の遊びがそのまま教室が海になってしまうので、映画にしようとすると考えますよ。
理屈で映画にしようとすると、海になりましたと突然カットが変わってもだめなんです。
子供の時にはそれがなれるんですよ、それを映像にしてみたい、ただそれだけです。
中川:小さな無認可の保育園の主任保母に成れるという事でそこに就職したんです。
園長から、子供が毎日喜んでくる保育園にしてくださいと言われて、保育以外は何もしなくていいと言われました。
この仕事はもうからないから、楽しまなければ割が合わないと言われました。
親からお前も保育料を払えと、言われました。
自分も楽しんだので、今思うと私も保育料を払うべきだったと思います。
そこは駒沢のオリンピック公園になっているが、その当時は駄々っぴろい原っぱでした。
天谷保子さんが質素なバラック小屋を建ててそこで「緑保育園」を作って、主任保母を雇うという事で私が来ました。
宮崎:空き地ができると子供達が集まってくる、自由な感じというのはただの空き地の時にあるんですよ。
怪我をしてもいいというような覚悟で、親が遊びに行かしてくれるスペースがあればいいなあと思いますが。
原っぱって、どこに行っちゃたんだろうと思います。
エストニアに行ったことがありますが、古い町が草ぼうぼうでそれが懐かしかった。
草ぼうぼうの原っぱを見ていると、子供時代の自分たちの子供時代が飛び出してくるんではないかと思いました。
中川:存分に遊ばせたい、子供達は走るのが好きで、とにかく走りたい。
駒沢にも小さい山があり、わざと汗水たらして海が見えるだとかアメリカが見えるだとか言うんです。
宮崎:「3匹のクマの家」という保育所、狭いけど作ってみたかったのと、保育園の問題でどうしようかと思っているお母さんがいた時期でした。
中川:嬉しそうに遊び回っているところが一番可愛いです。
喧嘩なんて日常茶飯事ですが、両方の言い分をよく聞かないといけない。
宮崎:子供はでこぼこの石があっても躓かない。
コンクリートは怪我をするが、自然のもの、石、木、草もなじみがいい。
草ぼうぼうの原っぱが欲しいですね。
中川:子供は大事な存在です、このごろはみんな自分の子供だと思います。
児童憲章の三原則、
①児童は人として尊ばれる。
②児童は社会の一員として重んじられる。
③児童は幸せに育つ権利がある。
子供を大事にしていきたい。
宮崎:児童文学を学んでいたころは、破れ続ける可能性がある、次々に可能性を失ってゆくのが子供なんだと、言うふうな問題意識をもっていたが、今もあまり変わっていない。
何か良かったというものに出会えるといいなと思います。
スタッフの子供達も居なくなって、この保育園とどう向き合うか、仕切り直しをしないといけないと思います。
今の世の中では大人がもっと子供にかかわることが、社会を変えることになるのではないかと思っているが、今この国の大問題だと思っています。
中川:関心を持っていないですね。
子供は大人を見てるんですよ、子供に馬鹿にされないように、大人は子供を馬鹿にしない、そう思います。
お子さんを持っている両親は羨ましい、お父さんお母さんが大好きです。
お父さんお母さんより子供の方がみんなちょっと優れている。
子供には自分より優れているところがある。
どんなに私が可愛がってもお母さんにはかなわなかった。
宮崎:息子が二人いるが、二人目が大学に入る時に家を出て行った時、子育てが終わったんだと思いました。
その時までの子育てが一番いい時だったと思います。(後で判ることなんですが)