加藤登紀子(歌手) ・「私と歌と福島と」
歌手生活53年、娘が3人、次女のYae(やえ)さんは歌手。
母は101歳で亡くなりましたが、90歳の時に100歳まで目指そうと言いました。
健康の事を書き始めました。
原稿用紙では書けないと言って、広告の裏に書いていました。
清書して読んでみたら見事に自分史だったんですね。
私も協力して仕上げたのが母が91歳の時でした。
父も70歳過ぎてから自費出版で本を一つ書いてくれています。
一人の人が経験したことは一冊の本にしてもページが足りないほどのコンテンツが有るものです。
100年の人生を4幕に例えると、4幕目はフィニシュを楽しむというか、4幕目のストーリーは幕をどうやって下ろそうかというのが、演出家、劇作家が考えることだと思います。
学校で習う歴史は点と線の概要で判ったような気持ちになるのはよくない。
福島の震災にしても、小さいストーリーが大事だと思うんです。
或る人が私しか経験したことしかないこと、私が言わなければ無かったことになってしまう。
是非、全部世の中にださなければいけない、という気持ちになったほうがいいと思う。
「ほろ酔いコンサート」28歳の時から始めています。
きっかけは「知床旅情」がヒットした年て、紅白にも出してもらいましたが、新聞記者たちが「偉そうなお登紀さんは見たくない、地べたで歌っているような人で居てくれ」ということで「ほろ酔いコンサート」を日劇ミュジックホールで行いました。
こんなに楽しくなるのかと発見があって、その後恒例化しました。
歌手になった時は判らなかったが、歌っていることによって、仕事をしてみたら歌うことは凄いことだと段々判ってきました。
人間って、命を育てる力、思い出、言葉、歴史こういうものが積み重なれるということが人間の特徴だと思うんです。
積み重なれる土壌をもった心を皆持っているんです。
別々の袋を持っているが、中に入っている中身は結構同じではないということをフッと思う訳です。
私であることを歌っても、絶対通じるという保証はないが、伝わっているなと思ったことがある事が繰り返された時に本当に感動しました。
歌は種だと思っている。
種が飛んで行って、人の心の土に根を張るかもしれないという感じがある。
段々歌うと言うことは凄いなあと思い始めました、それからです本気になったのは。
シャンソンの大会にでて、2回目に優勝して翌年歌手になりました。
謎のぜんそくに掛かって歌えないのかと思ったら、一晩オンオンと泣いたんです。
そんなに歌いたいのかと、自分に対する発見だった。
私はやっぱり歌いたいんだと判って、翌年シャンソンコンクールを受けたんですが。
こんなに長く歌うことになるとは思わなかった。
50歳になった時に発見したんですが、50mプール以上の長さのプールは無い、100mはターンをすればいい。
頑張って生きても100歳なんで、75歳からのターンは1回目のターンの人と同じ所にいる訳です。
孫と一緒に母が食べていて、同じになっちゃったねと言ったんです。
100歳は0歳だ、同じでいいと言ってこの子と一緒になっちゃった、と母は笑っていました。
50歳をターンの時期にしようと思った時は、大きな壁を感じました。
同じ様には歌えない。
身体は常に変化してゆくから、新しい発見もある、ずーっと続けるようにしましょうねと、思っています。
「少年老い易く、老人老い難し」
そう簡単に老いてたまるか、ということと、老いてゆくことは困難なことでもある。
言葉、国、言語、肌の色も違うが、命そのものはジェル状で型が無いと形にはならない。
本当の本体は液体のようなもので、本体同士はすぐにでも溶けあえる、そんなものよ書いたが、発見したのはウラジオストックで10代後半の人に話をしていたが、フッとその時にロシアと日本は歴史上、戦争を含めて交流した。
だからロシア人を知っている。
母は生き抜くために、ロシア人に話しかけて、故郷はどこかとか家、母親はどこでまっているかと聞いたりして、みんなぼろぼろ泣いた。
戦争している相手だって戦争はしたくないわけですから。
カラフトでは日本人の血液も混じっている、文化も混じっている全部「混じりっ子」。
80数歳のおばあちゃんが「だから素晴らしい」と言ってくれた時は本当に泣いてしまいました。
何処へ行っても地面に座るみたいな感じで、出会うことは何処の国でも大事です。
去年は小高に行かしていただいて、帰還ができるようにはなったが、子供達、育てる世代は帰還が困難な状況にある。
鴨川の高校生と福島の高校生との交流会で、鴨川の高校生は地元には就職先が無いので東京に行くと言ったが、福島の高校生は「僕たちは決して福島を離れない、僕たちは福島を復興させる責任があるから、福島に残ります」と言ったんです。
福島の先生に聞いたら、「もっと自由になってもらいたいと思っている、もっと自由に人生を選択していいんだと、私は伝えたかった。」と言っていました。
「自由に選択できる事が出来ることを国が保証して欲しい。
子供達は福島というところを理解するためにも、子供達は外に出ることはいいと思う、自由に羽ばたいてもいい」と私は思います。
2030年ごろになるとAIが凄くなって、労働する人間がいなくてもよくなっちゃうと言う人がいますが、命っていくら21,22世紀になろうがほとんど命なんですよ。
人間は生命体として地球の上に発生してきた歴史を全部経験して生まれて来る。
13億年程度の歴史を経て人間の命は存在しているので、命としての本体は変わらない。
男性は家事をしたほうがいいと思います。
家事は毎日の仕事です。
クリエーティブな仕事です。
第4幕のプラン
加藤登紀子からの歴史から離れて、恋の4楽章、恋が始まって、とまどい、別れ、追憶(これが素晴らしい)、最後は永遠が見えてくる、これが私たちの特権です。
2018年9月30日日曜日
2018年9月29日土曜日
厚子・東光・フィッシュ(フィッシュ・ファミリーー財団理事) ・行動する女性を応援したい
厚子・東光・フィッシュ(フィッシュ・ファミリーー財団理事)・行動する女性を応援したい
フィッシュさんは今年75歳、大学を卒業後TVのプロデューサーなどを経て、渡米、夫とももに1999年に財団を設立、移民や母子家庭などの支援を続け、その後日本女性のリーダーシップ育成プログラムをスタートさせました。
2011年の東日本大震災の時は、緊急援助基金を立ち上げて総額およそ100万ドルを被災地におくりました。
日米理解の促進などが評価され、2012年に日本の外務省から2013年にはアメリカホワイトハウスから表彰されています。
フィッシュさんがこう言った活動に取り組むことになった、経緯や母国日本への思いなどを伺います。
ボストンでやっているプログラムに来ていただく人4人選択していただきました。
採用のインタビューに来ました。
夫ラリーと1999年に財団を設立しました。
アメリカにはファミリー財団が何万何十万とありますが、日本ではまだ財団はありますが、家族財団は少ないと思います。
アメリカでは税金控除があり、社会貢献のためにお金を使えればいいと言うことで、
私達はリタイアしているが、老後にどういう生き方をしようと思った時に、多少の蓄えがあったので、社会が良くなるためにお金が使えるのであればと思って設立しました。
移民問題、アメリカは移民で成り立っている国なので、移民を受け入れなければ、語学とか仕事を探してあげるお手伝いをしないと、アメリカは伸びて行かないと思うので、移民問題が一番大事です。
地域の貧困のお子さんたちに教育の場を与える、技術を教えて職業についていただく、そういう事をやっている団体に援助しています。
長期に支援をしてお金のことを心配しないで活動していただきたい。
プログラムに対して支援する団体は多いが、運営費を出す所は無いんです。
プログラムというのは直接活動に対するお金ですが、運営費はそこに働いている方の給料なので、出す団体はそういうところには興味がない。
私達はそれが無ければ働く人達はこまると思って支援をしますし、主人は銀行家なので運営の仕方を教えることもしています。
日本女性のリーダーシップの育成プログラムは2006年に始まりました。
資金調達のむずかしさ、運営の難しさ、リーダーとして色々やって来たけれど難しい問題に直面してどうしていいかわからない方達を選んできていただいて、リーダーシップのノウハウ、スキル、運営の方法とかを学んでいただいています。
実践的に学んでいただく。
4~6人/年 50人は卒業生がいます。
途上国向けの公衆衛生をやっている団体があるが、そこのお手伝いをしていたが、アジア人の女性の自立と健康というスピーチする人についてきたが、日本の方から質問が多かった。
女性の立場が他のアジアと同等か低い場合もあり、どう解決したらいいかという質問が沢山出ました。
スピーカーのキャサリンと帰って立ち上げようとしました。
チャンピオン・オブ・チェンジ・ジャパン大賞
2013年にオバマ大統領が作られた賞で、アジア太平洋間のアジア女性の中で、社会貢献に尽くしている人達に賞を与えようと言うものです。
私が第一回チャンピオン・オブ・チェンジ・ジャパン大賞をいただくことができました。
日本でも地域で社会貢献している方たちに光を与えようと思って、日本でも去年作りました。
対象の方には100万円送っています。
子供の時は覚えているのは乾燥芋などで過ごしてきました。
男女共学のテストケースの生徒で、教育大付属に行っていたので男女共学の最初の生徒ということになりました。
女子は10%位少なかったです。
テニスを始めて中学から大学までやっていました。(シングル)
父は外交官をしていてグローバルな考え方を持っていましたので、その影響を受けました。
母は父が早く亡くなったので、英語が出来たのでアメリカが行う国勢調査の仕事をしました。
MPがジープで迎えに来ましたので、それを見て働くことはかっこいいなあと後姿を見て思いました。
私は英語を使える仕事をしたいと思って、アメリカ商工会議所の秘書、広告会社、スポーツをプロモートする会社など色々なところに行きました。
仕事の醍醐味を若い頃色々経験することができました。
主人と結婚して香港に行きました。(夫は極東支配人として)
給料の10%を社会貢献に寄付したいけどいいかといわれて、OKしました。
理由が判るまでにはだいぶ時間がかかりました。
全米で一番大きな途上国向けの公衆衛生をやっているMSHがODAのお金をアフリカに使いたいと言うことだった。
道路、港、橋などに日本はアフリカに凄く援助していましたが、アメリカは人々の公衆衛生にもお金を使ってほしいと思っていたので、日本人を必要としていた。
私は公衆衛生など知識が無かったが、団体を立ち上げた方が、アフリカで子供の死亡率の一番高いのがマラリア、下痢で、下痢の解消には綺麗な水を飲む、食べる前に手を洗う、トイレをつくる、そうすれば下痢がほとんど解消できる、それを現地の人に教えて、自立し衛生的で平和で楽しい生活を送っていけるようにすれば、自分たちの役目は終わるんだと説明してくれました。
それなら簡単そうだと思ってお手伝いします、と言うことになりました。
ボストンのある大きな病院の院長の息子の医師から、「病院で対応すれば年に十数人は助けられるかもしれないが、アフリカで公衆衛生に関われば一日で百人二百人とか助けられる。」
「それがぼくの小児科としての使命だ」と言ったのを聞いて衝撃を受けました。
高尚な考えを持って生きている人がこの世の中にいる、と言う事を思ってもいなくて衝撃を受けました。
それが私の人生を変えた、自分が人としてどうやって生きたらいいのか、そういう事を考えさせられる機会に恵まれました。
アメリカ人って自分より恵まれていない人を、助ける事の意義をしっかり考えて、そういうことに根差した生き方をする人がいる社会なんだなと思いました。
主人の給料の10%を社会貢献に寄付すると言う事が、素晴らしいことなんだと改めて思いました。
移民の国なので、地域で教会、学校をつくって行く、素晴らしいと思いました。
主人との出会い、MSHとの出会い、そのキーパーソンが日本で講演した方です。
そんな出会いがあり、今のこういうプログラムをつくっているわけです。
仕事を探したがいくら動いても面接まではいかなかった。
日本を土壌にした物を強みにして、マサチューセッツ州は日本との文化交流をしていなかったので、ガバナー州知事に手紙を書きました。
直ぐ電話があり、短期、長期の提案書を提出してみないかと言われて、吃驚しました。
企画書を提出したら、直ぐ電話があり直接話を聞きたいので、会って欲しいということだった。
その場で採用になり予算を立て、アシスタントをつけてくれ、明日から働いてほしいということだった。
内容さえよければ、誰であろうと、どこの学校に行っていようと関係ない、アメリカの国はしっかりしたビジョンが有って実行するプランがあり、やる気があれば夢がかなう国だなあと、自分が身をもって経験しました。
私を信用してくれましたので、それには実行して証明しようとしました。(5年間)
自由、平等はアメリカにおいて一番大事で、日本に帰ってくると、男女はまだまだ平等ではないし、権利を主張してはいけない様な国です。
女性は勇気を持って発言して行かないといけないと思います。
教養ある傍観者にならないでほしい、自分たちの知識経験を社会のために使って下さい、行動とってください、声を上げて下さい、それが実行され叶った時の喜びは忘れられないと思います。
自分の国に還元して行きたいと思います。
失敗をすることによって次に進む道が開けて来ると思います。
隅の方で黙ってノートを取っていたが、何にも言わないと意見が無いと思われてしまう、この国は自分の意見をきちんと言わないといけないことを第一日目に学びました。
言わないと相手に理解してもらえない、口にしないと知識、能力もないと判断されてしまう。(日本との文化の違いを感じました)
ここのところ、日本の変化が目に見えます。
プログラムをとった方、賞を取られた女性たちがプロフェッショナルとして、政治、企業の方針などに対して提案できる人になって欲しい、その兆しは出てきていると思う。
フィッシュさんは今年75歳、大学を卒業後TVのプロデューサーなどを経て、渡米、夫とももに1999年に財団を設立、移民や母子家庭などの支援を続け、その後日本女性のリーダーシップ育成プログラムをスタートさせました。
2011年の東日本大震災の時は、緊急援助基金を立ち上げて総額およそ100万ドルを被災地におくりました。
日米理解の促進などが評価され、2012年に日本の外務省から2013年にはアメリカホワイトハウスから表彰されています。
フィッシュさんがこう言った活動に取り組むことになった、経緯や母国日本への思いなどを伺います。
ボストンでやっているプログラムに来ていただく人4人選択していただきました。
採用のインタビューに来ました。
夫ラリーと1999年に財団を設立しました。
アメリカにはファミリー財団が何万何十万とありますが、日本ではまだ財団はありますが、家族財団は少ないと思います。
アメリカでは税金控除があり、社会貢献のためにお金を使えればいいと言うことで、
私達はリタイアしているが、老後にどういう生き方をしようと思った時に、多少の蓄えがあったので、社会が良くなるためにお金が使えるのであればと思って設立しました。
移民問題、アメリカは移民で成り立っている国なので、移民を受け入れなければ、語学とか仕事を探してあげるお手伝いをしないと、アメリカは伸びて行かないと思うので、移民問題が一番大事です。
地域の貧困のお子さんたちに教育の場を与える、技術を教えて職業についていただく、そういう事をやっている団体に援助しています。
長期に支援をしてお金のことを心配しないで活動していただきたい。
プログラムに対して支援する団体は多いが、運営費を出す所は無いんです。
プログラムというのは直接活動に対するお金ですが、運営費はそこに働いている方の給料なので、出す団体はそういうところには興味がない。
私達はそれが無ければ働く人達はこまると思って支援をしますし、主人は銀行家なので運営の仕方を教えることもしています。
日本女性のリーダーシップの育成プログラムは2006年に始まりました。
資金調達のむずかしさ、運営の難しさ、リーダーとして色々やって来たけれど難しい問題に直面してどうしていいかわからない方達を選んできていただいて、リーダーシップのノウハウ、スキル、運営の方法とかを学んでいただいています。
実践的に学んでいただく。
4~6人/年 50人は卒業生がいます。
途上国向けの公衆衛生をやっている団体があるが、そこのお手伝いをしていたが、アジア人の女性の自立と健康というスピーチする人についてきたが、日本の方から質問が多かった。
女性の立場が他のアジアと同等か低い場合もあり、どう解決したらいいかという質問が沢山出ました。
スピーカーのキャサリンと帰って立ち上げようとしました。
チャンピオン・オブ・チェンジ・ジャパン大賞
2013年にオバマ大統領が作られた賞で、アジア太平洋間のアジア女性の中で、社会貢献に尽くしている人達に賞を与えようと言うものです。
私が第一回チャンピオン・オブ・チェンジ・ジャパン大賞をいただくことができました。
日本でも地域で社会貢献している方たちに光を与えようと思って、日本でも去年作りました。
対象の方には100万円送っています。
子供の時は覚えているのは乾燥芋などで過ごしてきました。
男女共学のテストケースの生徒で、教育大付属に行っていたので男女共学の最初の生徒ということになりました。
女子は10%位少なかったです。
テニスを始めて中学から大学までやっていました。(シングル)
父は外交官をしていてグローバルな考え方を持っていましたので、その影響を受けました。
母は父が早く亡くなったので、英語が出来たのでアメリカが行う国勢調査の仕事をしました。
MPがジープで迎えに来ましたので、それを見て働くことはかっこいいなあと後姿を見て思いました。
私は英語を使える仕事をしたいと思って、アメリカ商工会議所の秘書、広告会社、スポーツをプロモートする会社など色々なところに行きました。
仕事の醍醐味を若い頃色々経験することができました。
主人と結婚して香港に行きました。(夫は極東支配人として)
給料の10%を社会貢献に寄付したいけどいいかといわれて、OKしました。
理由が判るまでにはだいぶ時間がかかりました。
全米で一番大きな途上国向けの公衆衛生をやっているMSHがODAのお金をアフリカに使いたいと言うことだった。
道路、港、橋などに日本はアフリカに凄く援助していましたが、アメリカは人々の公衆衛生にもお金を使ってほしいと思っていたので、日本人を必要としていた。
私は公衆衛生など知識が無かったが、団体を立ち上げた方が、アフリカで子供の死亡率の一番高いのがマラリア、下痢で、下痢の解消には綺麗な水を飲む、食べる前に手を洗う、トイレをつくる、そうすれば下痢がほとんど解消できる、それを現地の人に教えて、自立し衛生的で平和で楽しい生活を送っていけるようにすれば、自分たちの役目は終わるんだと説明してくれました。
それなら簡単そうだと思ってお手伝いします、と言うことになりました。
ボストンのある大きな病院の院長の息子の医師から、「病院で対応すれば年に十数人は助けられるかもしれないが、アフリカで公衆衛生に関われば一日で百人二百人とか助けられる。」
「それがぼくの小児科としての使命だ」と言ったのを聞いて衝撃を受けました。
高尚な考えを持って生きている人がこの世の中にいる、と言う事を思ってもいなくて衝撃を受けました。
それが私の人生を変えた、自分が人としてどうやって生きたらいいのか、そういう事を考えさせられる機会に恵まれました。
アメリカ人って自分より恵まれていない人を、助ける事の意義をしっかり考えて、そういうことに根差した生き方をする人がいる社会なんだなと思いました。
主人の給料の10%を社会貢献に寄付すると言う事が、素晴らしいことなんだと改めて思いました。
移民の国なので、地域で教会、学校をつくって行く、素晴らしいと思いました。
主人との出会い、MSHとの出会い、そのキーパーソンが日本で講演した方です。
そんな出会いがあり、今のこういうプログラムをつくっているわけです。
仕事を探したがいくら動いても面接まではいかなかった。
日本を土壌にした物を強みにして、マサチューセッツ州は日本との文化交流をしていなかったので、ガバナー州知事に手紙を書きました。
直ぐ電話があり、短期、長期の提案書を提出してみないかと言われて、吃驚しました。
企画書を提出したら、直ぐ電話があり直接話を聞きたいので、会って欲しいということだった。
その場で採用になり予算を立て、アシスタントをつけてくれ、明日から働いてほしいということだった。
内容さえよければ、誰であろうと、どこの学校に行っていようと関係ない、アメリカの国はしっかりしたビジョンが有って実行するプランがあり、やる気があれば夢がかなう国だなあと、自分が身をもって経験しました。
私を信用してくれましたので、それには実行して証明しようとしました。(5年間)
自由、平等はアメリカにおいて一番大事で、日本に帰ってくると、男女はまだまだ平等ではないし、権利を主張してはいけない様な国です。
女性は勇気を持って発言して行かないといけないと思います。
教養ある傍観者にならないでほしい、自分たちの知識経験を社会のために使って下さい、行動とってください、声を上げて下さい、それが実行され叶った時の喜びは忘れられないと思います。
自分の国に還元して行きたいと思います。
失敗をすることによって次に進む道が開けて来ると思います。
隅の方で黙ってノートを取っていたが、何にも言わないと意見が無いと思われてしまう、この国は自分の意見をきちんと言わないといけないことを第一日目に学びました。
言わないと相手に理解してもらえない、口にしないと知識、能力もないと判断されてしまう。(日本との文化の違いを感じました)
ここのところ、日本の変化が目に見えます。
プログラムをとった方、賞を取られた女性たちがプロフェッショナルとして、政治、企業の方針などに対して提案できる人になって欲しい、その兆しは出てきていると思う。
2018年9月28日金曜日
田村セツコ(イラストレータ) ・【人生のみちしるべ】あなたにハッピーを!(2)
田村セツコ(イラストレータ) ・【人生のみちしるべ】あなたにハッピーを!(2)
1938年東京都生まれ80歳、現在も第一線で活躍するイラストレーターで、エッセイストです。
1950年代に可愛い少女のイラストで雑誌界にデビュー、60年代は少女雑誌、「リボン」や「なかよし」の人気イラストレーターに、70年代にはキャラクターグッズが人気を博します。
サンリオが発行している「いちご新聞」に1975年の創刊から現在も連載を続けています。
ここ数年は自分のライフスタイルやファッションを語る本を次々に出版、今年出版した「孤独を楽しむ本 100の私の方法」は若い世代から田村さんの同世代まで多くの女性たちの心を掴み人気を呼んでいます。
現在一人暮らし、明るくなると目が覚め,暗くなると寝ると言う正しい生活をしています。
正式に起きるのは6時です。
手も動く足も動くと感じて、毎日嬉しいって感じです。
コーヒー、紅茶、日本のお茶をカップに作って、気分によって先に何を
飲むかを決めて、飲んでスタートします。
その後朝食を取って、9時位から仕事を始めます。
綺麗さっぱりな部屋にあこがれてはいるんですが、捨てきれれないものが溜まってしまって、色々な作品が一杯あります。
メモ、落書きは自然に身に付いているので、メモ類は一杯溜ります。
メモを見れば思いだすので、いつでも見れるようにしています。
お坊さんのお話で、「自分の周りはみんな先生」とか、「みんな親戚」とかという言葉が気に入っています。
親、そのまた親をたどって行くと結局みんな親戚なんだと言うことです。
イラスト アンド エッセー、ちょっと文字を添えて行く。
子供の時からお婆さんはかっこいいと思っていました。
優しいような怖いような怪しいような不思議な存在だと思っていました。
お婆さんになるのは楽しみでした。
「いちご新聞」にハッピーおばさんのオシャレ話とか、50年前から出てきています。
おばさんは外人みたいな人でお説教、アドバイスでも何でもOKなんです。
昭和50年からいまでも連載が続いている。
伝えたいことは、少女たちにどんな状況があっても、ハッピーを感じられるタフな心を持ってほしいという事かと思います。
ハッピーとは、素敵なドレス、不自由のないお金、美しい顔とかではなくて、オリジナリティーのあるその人自身が見つけるもの、工夫して自分が発明するようなものだと思うんです。
芯のところではちゃんとしていて欲しいという願いがあります。
みんなそれぞれ才能があるので、それに気付いてほしい。(おばあさんって、タフで賢いんです)
よそに目を向けて人目を気にするとか、人からどう思われたいとか、そういうことはもう卒業してほしい。
「孤独を楽しむ本」、究極の人生のテーマが孤独を克服することではないかと、出版部の人が決めて、100個孤独を楽しむ方法を思い浮かべて下さいと言われました。
私は孤独、寂しいとかは毎日感じます。
それは生きている証拠だと思っています。
どんなに賑やかでも楽しくてもふっと気付くと、孤独は逃れられないと思う。
俯瞰して見てみると、寂しいとか言っている自分がいて、同じようなことを考えている人が、近所に、東京に、日本に、世界に一杯いるわけです。
そういう中の一人なので、そこに固まっていたら時間がもったいないという感じです。
生きている時に孤独を味わうんだと思います。
お母さんと妹を介護、68歳の時から6年間二人を介護しました。
父は病院にお世話になりましたが、母は絶対に家でということで、妹はパーキンソン病で二人を引き取って、介護しました。
共倒れになると周りから言われましたが、出来るところまでやろうと思ったら、以外と大変ではなかった、心温まる日々でした。
オムツの取り替えも簡単で、毎回感動します。
私が赤ちゃんの時に母がしてくれた恩返しだと思って、何でもします、というような感じでした。
ヘルパーさんから言われたことは、「親の介護で一番大切なのは褒めてあげることよ」と言われました。
親は子供に褒められるチャンスは非常に少ない。
「さすが」「お陰さまで」こう言った言葉は良いですね。
シンプルな短い言葉でいいと言います。
褒めるのは点滴よりも効くと言われています。
その間仕事もして、個展もしました。
周りからはやつれていたとか言われましたが、そんな自覚は無かったです。
やることをやると後はすっきりします。
世話をしている間に逆に元気を、エネルギーをもらえるような話も入って来ました。
「不思議な国のアリス」は若い頃唐突に色んな事が起きて、意味がわからないと思っていたが、歳を取ったら急に身近に感じられて、生きている時は日々何が起こるかわからない冒険の道のりという事を教えてもらったのかなと思いました。
どんな立場の人でもアリスだなと思うようになりました。
日々やっていることが冒険だと思えば耐え忍ぶことができる、メルヘンに助けられる。
少女ものと決めないで、大人がそういった本のヒロインからヒントを貰うのは恥ずかしい事ではないと思います。
絵日記、自由に描いて日を書いて、言葉を書いて、今日という日は昨日でもない、明日でもないとても大切な日と考えて、それを毎日書いたら365ページになり素敵な絵本になるわけです。
幸せをゲットできるし、自分を励ますことができて絵日記はお勧めです。
今の自分を励ましてくれる。
最悪な気分でもそれを書くことによって気分がすっきりしてきます。
18,9歳の時に会社を辞めて、フリーになって仕事が無くてさまよっていた日々が私を導いてくれたと思います。
そのことは苦いよく効く薬だと思っています。
一番大切なものは父と母にもらった命と思います。
1938年東京都生まれ80歳、現在も第一線で活躍するイラストレーターで、エッセイストです。
1950年代に可愛い少女のイラストで雑誌界にデビュー、60年代は少女雑誌、「リボン」や「なかよし」の人気イラストレーターに、70年代にはキャラクターグッズが人気を博します。
サンリオが発行している「いちご新聞」に1975年の創刊から現在も連載を続けています。
ここ数年は自分のライフスタイルやファッションを語る本を次々に出版、今年出版した「孤独を楽しむ本 100の私の方法」は若い世代から田村さんの同世代まで多くの女性たちの心を掴み人気を呼んでいます。
現在一人暮らし、明るくなると目が覚め,暗くなると寝ると言う正しい生活をしています。
正式に起きるのは6時です。
手も動く足も動くと感じて、毎日嬉しいって感じです。
コーヒー、紅茶、日本のお茶をカップに作って、気分によって先に何を
飲むかを決めて、飲んでスタートします。
その後朝食を取って、9時位から仕事を始めます。
綺麗さっぱりな部屋にあこがれてはいるんですが、捨てきれれないものが溜まってしまって、色々な作品が一杯あります。
メモ、落書きは自然に身に付いているので、メモ類は一杯溜ります。
メモを見れば思いだすので、いつでも見れるようにしています。
お坊さんのお話で、「自分の周りはみんな先生」とか、「みんな親戚」とかという言葉が気に入っています。
親、そのまた親をたどって行くと結局みんな親戚なんだと言うことです。
イラスト アンド エッセー、ちょっと文字を添えて行く。
子供の時からお婆さんはかっこいいと思っていました。
優しいような怖いような怪しいような不思議な存在だと思っていました。
お婆さんになるのは楽しみでした。
「いちご新聞」にハッピーおばさんのオシャレ話とか、50年前から出てきています。
おばさんは外人みたいな人でお説教、アドバイスでも何でもOKなんです。
昭和50年からいまでも連載が続いている。
伝えたいことは、少女たちにどんな状況があっても、ハッピーを感じられるタフな心を持ってほしいという事かと思います。
ハッピーとは、素敵なドレス、不自由のないお金、美しい顔とかではなくて、オリジナリティーのあるその人自身が見つけるもの、工夫して自分が発明するようなものだと思うんです。
芯のところではちゃんとしていて欲しいという願いがあります。
みんなそれぞれ才能があるので、それに気付いてほしい。(おばあさんって、タフで賢いんです)
よそに目を向けて人目を気にするとか、人からどう思われたいとか、そういうことはもう卒業してほしい。
「孤独を楽しむ本」、究極の人生のテーマが孤独を克服することではないかと、出版部の人が決めて、100個孤独を楽しむ方法を思い浮かべて下さいと言われました。
私は孤独、寂しいとかは毎日感じます。
それは生きている証拠だと思っています。
どんなに賑やかでも楽しくてもふっと気付くと、孤独は逃れられないと思う。
俯瞰して見てみると、寂しいとか言っている自分がいて、同じようなことを考えている人が、近所に、東京に、日本に、世界に一杯いるわけです。
そういう中の一人なので、そこに固まっていたら時間がもったいないという感じです。
生きている時に孤独を味わうんだと思います。
お母さんと妹を介護、68歳の時から6年間二人を介護しました。
父は病院にお世話になりましたが、母は絶対に家でということで、妹はパーキンソン病で二人を引き取って、介護しました。
共倒れになると周りから言われましたが、出来るところまでやろうと思ったら、以外と大変ではなかった、心温まる日々でした。
オムツの取り替えも簡単で、毎回感動します。
私が赤ちゃんの時に母がしてくれた恩返しだと思って、何でもします、というような感じでした。
ヘルパーさんから言われたことは、「親の介護で一番大切なのは褒めてあげることよ」と言われました。
親は子供に褒められるチャンスは非常に少ない。
「さすが」「お陰さまで」こう言った言葉は良いですね。
シンプルな短い言葉でいいと言います。
褒めるのは点滴よりも効くと言われています。
その間仕事もして、個展もしました。
周りからはやつれていたとか言われましたが、そんな自覚は無かったです。
やることをやると後はすっきりします。
世話をしている間に逆に元気を、エネルギーをもらえるような話も入って来ました。
「不思議な国のアリス」は若い頃唐突に色んな事が起きて、意味がわからないと思っていたが、歳を取ったら急に身近に感じられて、生きている時は日々何が起こるかわからない冒険の道のりという事を教えてもらったのかなと思いました。
どんな立場の人でもアリスだなと思うようになりました。
日々やっていることが冒険だと思えば耐え忍ぶことができる、メルヘンに助けられる。
少女ものと決めないで、大人がそういった本のヒロインからヒントを貰うのは恥ずかしい事ではないと思います。
絵日記、自由に描いて日を書いて、言葉を書いて、今日という日は昨日でもない、明日でもないとても大切な日と考えて、それを毎日書いたら365ページになり素敵な絵本になるわけです。
幸せをゲットできるし、自分を励ますことができて絵日記はお勧めです。
今の自分を励ましてくれる。
最悪な気分でもそれを書くことによって気分がすっきりしてきます。
18,9歳の時に会社を辞めて、フリーになって仕事が無くてさまよっていた日々が私を導いてくれたと思います。
そのことは苦いよく効く薬だと思っています。
一番大切なものは父と母にもらった命と思います。
2018年9月27日木曜日
関口祐加(映画監督) ・待ち受ける"死"に向けて
関口祐加(映画監督) ・待ち受ける"死"に向けて
2009年に横浜市の実家で認知症になった母を介護し、映画「毎日がアルツハイマー」を撮りました。
そして今年、「毎日がアルツハイマー」の3作目「毎日がアルツハイマー〜ファイナル」を完成させました。
テーマは「最後に死ぬ時」です。
母の介護に向き合ってきた関口さん自身も大きな手術を受けました。
母の認知症と向き合って今年で9年目、死は必ず訪れる、穏やかな死を迎えるにはどうしたらいいのか、母をこれからどう介護して、自分はどう生きて行ったらよいのか、などについて伺います。
3作目を完成しましたが、私の中では3作目が一番気に入っています。
2作目を作った時にパーソン・センタード・ケアと出会って、その後で医学監修していただいている荒井先生などに、「君のライフワークはお母さんを撮ることだから」と言われたが、パーソン・センタード・ケアを知ってしまった私にはハウ・ツーになってしまうと思ったので、それは映画としては面白くないので、深いテーマが無いのかなあと煮詰まっている時に、私の足がどんどん悪くなって、車いす移動するぐらいになってしまいました。
先天性股関節変形症だった。(生まれた時に脱臼して生まれてきたらしい) 要介護2
手術しなければいけない状況になってしまった。
7週間入院しました、(初めて母から離れることになる)これが楽しかった。
同室になった山田さんと出会いって、3作目の方向性が決まりました。
私自身がどうなるかわからないと言った処に行ってと言うのが「毎日がアルツハイマー〜ファイナル」だった。
山田さんは明るく冗談を言って、何より自分の様子を見せられる。
癌で亡くなって行く時に大きな問題が3つある。
①心の不安、死んでいくわけだから。
②呼吸が苦しくなる。
③痛みのコントロールが段々難しくなってゆく。
そんな問題があるから人工的に本人を昏睡状態にしてあげる、そんなことがあるんだと思いました。
「そんなことは世界中どこでもやっている」と言われて、えっと衝撃を受けました
日本では30代の医者はオープンにしているが、日本語で言うと終末期の鎮静死ですね。
安楽死は薬を入れたとたんに絶命するが、鎮静死は薬を徐々に入れて行くので、患者の体力によって時間が違ってくる。
その時に安楽死とどう違うのと思ってしまいます。
その手法は日本ではグレーゾーンです。
家族には受け入れられないということもあり、そういう人には眠りながら死んでいったという美しいストーリーにしておいて、判る人には家族にきちっと言います。
日本ではグレーゾーンなので、そういうのがあると言うことが判らない、そういうことが難しいと思っていますが、それが今回衝撃的でした。
映画の1と2は私は介護する、看取りをする側でしたが、今回は自分のこととして捉えてくださるので、自分はどうしたらいいんだろう、どうされたいんだろうと、それはいいことではないかと思います。
介護は9年目になりますが、介護よりも映画を作る方が大変です。(笑い)
介護は自分が出来ないことは助けてもらう、その思想でズーっときているので、どうにもならない大変さは一回も無いです。
介護は愛ではなくて、理性が必要であると思います。(冷静に)
母は要介護4です。
母の兄弟は6人でしたが、映画を作った途端(認知症となった内容)一切連絡が来なくなりました。
本音で生きている人は少ないと思う、良妻賢母をかなぐりすてる、そこが魅力的です。
認知症の前の虚構の母は、母も辛かったと思う。
大学卒業後オーストラリアに行き、29年間親と離れていた。(年一回位は帰国)
母が認知症の症状が出てきて、戻ってきました。
日本は先祖のご縁があって生まれた国ですが、オーストラリアは自分が選んでいきたいと思った国なので、仕事を見付け映画監督になったので、オーストラリアを捨てる気持ちはまったくなかった。
オーストラリアで国際関係論の修士課程を取って、日本で大学の教授になるということが母の夢でもあった。
国際関係論の修士課程がつまらなくて、友人が私のクラスに来ればと誘われ、文化人類学で映像を見てディスカッションすると言う面白いことを体験、そこで映像に目覚めてしまいました。
映画監督になろうと思ったが、母は激高しました。(23歳の頃)
1989年に「戦場の女たち」で映画監督デビュー。
1992年 「When Mrs. Hegarty Comes to Japan」(日本未公開)を監督。
2007年 「THE ダイエット!」
2012年 「毎日がアルツハイマー」 1本目
2014年 「毎日がアルツハイマー」 2本目
2018年 「毎日がアルツハイマー〜ファイナル」 3本目
何故そうするのか、そうする為の理屈を考えると言う事は父からの影響が強いです。
自分で考える力を養っていかないといけないと言う事を、父方はずーっとしていました。
自分を信じる力がすごく強くなりました。
小さい時の教育は大切です。
大変ということはあるが、自分で出来ないという思いは人生で一回も思ったことはないです、その基盤を作ってくれたのは祖母だと思います。
死を意識した終わりからの介護、ゆるい管理の仕方、がちがちの管理をしない、何故か、死んでいくんだから。
介護に焦点を当てるのではなく、いい死をどうやって迎えさせてあげられるのか、ということが、私にとっても後悔しない介護だと思うんです。
今、今日後悔しないで生きているかどうか、終わりから考えてどうするか、特に介護は大切だと思います。
緩やかな介護は突然死に導くのではないかと思う。
栄養師はいないし、薬は少なくするし、本人に好きなものを食べさせてあげる。
出きることは自分でやる、本人がやる気になるのが大切だから尊重してあげる。
本人をいい気持にさせてあげる、そうするとめぐりめぐって私のため、そこなんです。
笑いを提供する、ここが大きい。(創意工夫する)
自主幇助、選択肢を持つことで使わないという選択ができる。
安楽死は私はいやなんです。
オランダは合法、そうすると医者が安楽死に慣れてしまう、それが厭です。
安楽死は医師が全て準備して、薬で絶命できる。
自主幇助は最後の決断は自分がする、医者ではない。
治癒できない病気を持っているということと、一番大切なのは頭がクリアということです。
自主幇助は、映画の中でも言っているが、家族ともオープンにして話合わないといけないと思う。
一番いいのは死んでゆく本人が一番納得できる死に方がいいと、私は思っています。
ヒューマニティーを持った医者がいいと思います。(人間関係を持つ)
認知症ケア・アカデミィー・ジャパンを作りたいと思っています。
2009年に横浜市の実家で認知症になった母を介護し、映画「毎日がアルツハイマー」を撮りました。
そして今年、「毎日がアルツハイマー」の3作目「毎日がアルツハイマー〜ファイナル」を完成させました。
テーマは「最後に死ぬ時」です。
母の介護に向き合ってきた関口さん自身も大きな手術を受けました。
母の認知症と向き合って今年で9年目、死は必ず訪れる、穏やかな死を迎えるにはどうしたらいいのか、母をこれからどう介護して、自分はどう生きて行ったらよいのか、などについて伺います。
3作目を完成しましたが、私の中では3作目が一番気に入っています。
2作目を作った時にパーソン・センタード・ケアと出会って、その後で医学監修していただいている荒井先生などに、「君のライフワークはお母さんを撮ることだから」と言われたが、パーソン・センタード・ケアを知ってしまった私にはハウ・ツーになってしまうと思ったので、それは映画としては面白くないので、深いテーマが無いのかなあと煮詰まっている時に、私の足がどんどん悪くなって、車いす移動するぐらいになってしまいました。
先天性股関節変形症だった。(生まれた時に脱臼して生まれてきたらしい) 要介護2
手術しなければいけない状況になってしまった。
7週間入院しました、(初めて母から離れることになる)これが楽しかった。
同室になった山田さんと出会いって、3作目の方向性が決まりました。
私自身がどうなるかわからないと言った処に行ってと言うのが「毎日がアルツハイマー〜ファイナル」だった。
山田さんは明るく冗談を言って、何より自分の様子を見せられる。
癌で亡くなって行く時に大きな問題が3つある。
①心の不安、死んでいくわけだから。
②呼吸が苦しくなる。
③痛みのコントロールが段々難しくなってゆく。
そんな問題があるから人工的に本人を昏睡状態にしてあげる、そんなことがあるんだと思いました。
「そんなことは世界中どこでもやっている」と言われて、えっと衝撃を受けました
日本では30代の医者はオープンにしているが、日本語で言うと終末期の鎮静死ですね。
安楽死は薬を入れたとたんに絶命するが、鎮静死は薬を徐々に入れて行くので、患者の体力によって時間が違ってくる。
その時に安楽死とどう違うのと思ってしまいます。
その手法は日本ではグレーゾーンです。
家族には受け入れられないということもあり、そういう人には眠りながら死んでいったという美しいストーリーにしておいて、判る人には家族にきちっと言います。
日本ではグレーゾーンなので、そういうのがあると言うことが判らない、そういうことが難しいと思っていますが、それが今回衝撃的でした。
映画の1と2は私は介護する、看取りをする側でしたが、今回は自分のこととして捉えてくださるので、自分はどうしたらいいんだろう、どうされたいんだろうと、それはいいことではないかと思います。
介護は9年目になりますが、介護よりも映画を作る方が大変です。(笑い)
介護は自分が出来ないことは助けてもらう、その思想でズーっときているので、どうにもならない大変さは一回も無いです。
介護は愛ではなくて、理性が必要であると思います。(冷静に)
母は要介護4です。
母の兄弟は6人でしたが、映画を作った途端(認知症となった内容)一切連絡が来なくなりました。
本音で生きている人は少ないと思う、良妻賢母をかなぐりすてる、そこが魅力的です。
認知症の前の虚構の母は、母も辛かったと思う。
大学卒業後オーストラリアに行き、29年間親と離れていた。(年一回位は帰国)
母が認知症の症状が出てきて、戻ってきました。
日本は先祖のご縁があって生まれた国ですが、オーストラリアは自分が選んでいきたいと思った国なので、仕事を見付け映画監督になったので、オーストラリアを捨てる気持ちはまったくなかった。
オーストラリアで国際関係論の修士課程を取って、日本で大学の教授になるということが母の夢でもあった。
国際関係論の修士課程がつまらなくて、友人が私のクラスに来ればと誘われ、文化人類学で映像を見てディスカッションすると言う面白いことを体験、そこで映像に目覚めてしまいました。
映画監督になろうと思ったが、母は激高しました。(23歳の頃)
1989年に「戦場の女たち」で映画監督デビュー。
1992年 「When Mrs. Hegarty Comes to Japan」(日本未公開)を監督。
2007年 「THE ダイエット!」
2012年 「毎日がアルツハイマー」 1本目
2014年 「毎日がアルツハイマー」 2本目
2018年 「毎日がアルツハイマー〜ファイナル」 3本目
何故そうするのか、そうする為の理屈を考えると言う事は父からの影響が強いです。
自分で考える力を養っていかないといけないと言う事を、父方はずーっとしていました。
自分を信じる力がすごく強くなりました。
小さい時の教育は大切です。
大変ということはあるが、自分で出来ないという思いは人生で一回も思ったことはないです、その基盤を作ってくれたのは祖母だと思います。
死を意識した終わりからの介護、ゆるい管理の仕方、がちがちの管理をしない、何故か、死んでいくんだから。
介護に焦点を当てるのではなく、いい死をどうやって迎えさせてあげられるのか、ということが、私にとっても後悔しない介護だと思うんです。
今、今日後悔しないで生きているかどうか、終わりから考えてどうするか、特に介護は大切だと思います。
緩やかな介護は突然死に導くのではないかと思う。
栄養師はいないし、薬は少なくするし、本人に好きなものを食べさせてあげる。
出きることは自分でやる、本人がやる気になるのが大切だから尊重してあげる。
本人をいい気持にさせてあげる、そうするとめぐりめぐって私のため、そこなんです。
笑いを提供する、ここが大きい。(創意工夫する)
自主幇助、選択肢を持つことで使わないという選択ができる。
安楽死は私はいやなんです。
オランダは合法、そうすると医者が安楽死に慣れてしまう、それが厭です。
安楽死は医師が全て準備して、薬で絶命できる。
自主幇助は最後の決断は自分がする、医者ではない。
治癒できない病気を持っているということと、一番大切なのは頭がクリアということです。
自主幇助は、映画の中でも言っているが、家族ともオープンにして話合わないといけないと思う。
一番いいのは死んでゆく本人が一番納得できる死に方がいいと、私は思っています。
ヒューマニティーを持った医者がいいと思います。(人間関係を持つ)
認知症ケア・アカデミィー・ジャパンを作りたいと思っています。
2018年9月26日水曜日
関谷忠一(とちぎ自然塾塾長) ・自然に生き、生かされて
関谷忠一(とちぎ自然塾塾長) ・自然に生き、生かされて
68歳、大学を卒業後念願が叶って、鮎釣りのトーナメントプロになりました。
4年目に、大会で優勝しています。
その後は優勝から遠ざかって、悩む日々が続いたということです。
そんな中、鬼怒川の川岸を歩いていたある日、プロの大会の勝ち負けにこだわるより自然とともに生きる道があるのではないかと言う考えが浮かんで、その後とちぎ自然塾などをスタートさせました。
今では塾生は300人ほどに増えて、魚釣り、里山の散策、バードウオッチングなど豊かなアウトドアライフを共に楽しんでいます。
関谷さんが考えてきた自然に生き、生かされる道とはどのようなものなのか、関谷さんや塾生が得たものはなんなのか伺いました。
この時期中禅寺湖にボートを浮かべて、わかさぎ釣りをしながら紅葉を眺める活動をしています。
山の幸を取ってきて料理して食べることもやっています。
父は技術屋で変電所を転々としましたので、地域地域の自然を見せてもらいました。
父親から色々自然の遊びを教えてもらいました。
父親から鮎釣りを教えてもらったのが、鮎釣りの世界に入って行ったきっかけだったと思います。
幼稚園の年長で鮎を初めて釣りましたが、その時の事は鮮明に覚えています。
小学校の3年生の時に鮒釣りに父といった時に、からませてしまったが、「釣りをやるやつは自分がそれが出来なかったらやめてしまえ」と厳しく言われて、今でも忘れません。
釣りは「見る釣り」「見られる釣り」「見せる釣り」がある。
「見る釣り」は相手の釣りを盗め、そして「見られる釣り」になりなさい、最後は「見せる釣り」すなわち教えられる釣りになりなさいと言うことです。
高校生になってからは学校をサボって、鮎の解禁の日には川の方に行っていました。
大学生になると足が強かったので、皆さんがいけない様な激しい釣りをしました。
妻を連れて釣りに行くと一生懸命釣りに没頭をするので真っ赤になって怒りましたが、活動を認めてくれてはいます。
「貴方、家庭と、仕事と釣りと何を選ぶの」と言われた時に、「釣り」と答えたら、妻も釣りに対する敵視が始まったのかもしれません。
大学卒業後商社に入って営業の仕事をしました。
営業は外回りで車で動くたびに川、橋、山等があり、こんな仕事を選んで良かったなあと思いました。
相手のお客さんと釣りの話も出来て営業成績も良かったです。
釣りがしたくて会社を辞めることになりました。(ヘッドハンティングといった感じ)
販売店の社長でした。
仕事の合間に釣りができるようになりました。
釣り具のメーカーさんから質問を受けるようにはなっていました。
30代半ばの頃、日本プロ友釣り協会が出来て全国から腕自慢が集まり、参加することになりました。
1時間ごとにエリアを交換してどちらが多く釣ったかという試合をしました。
色んな地域の川でやって行きました。
その時は40人ぐらいいました(現在は100名程度)
最初のころは試合にはなりませんでした。
プロは失敗をうまくカバーする、カバーの仕方を知っている、それがプロだと思いました。
或る時、このまま行くと勝てるチャンスが出るかもしれないと思いました。(動じることも無くなった)
プロになって4年目で大会で優勝しました。(釣りの神様がいると思いました)
雷雲が現れて、危険だと言うことでテントなどを撤去した方がいいのではないかと、運営側に忠告しました。(気持の余裕もあった)
水位が10cm増えてきて、釣ろうとしている鮎はどっかに退避しているはずだと思いました。
1時間後には絶対どこかに来て僕のつりざおにかかってくれるはずだと感じ、次から次にかかってきました、そして優勝しました。
その後そう甘くは無かった。
自然との向き合い方を、どこかで何か表現していかなくてはいけないと思いました。
鬼怒川の河原でうとうとしていたら、「いつまで勝った負けたとやっているんではなくて、自然とのかかわり方、自然の中で思ったことを次の世代に残せるような活動をしてみたらいいのではないのか」と微かに聞こえたような気がした。
父と一緒にいった大芦川は、昔そのままの綺麗な川、自然があった。
古民家があり、ああいう場所で自然の学校をやったらきっと皆さんが喜んでもらえるのではないかとちょっと漏らしたら、貸してくれることになりました。
娘が幼稚園の先生で家を一緒に見てもらった気に入りました。
トーナメントプロを辞めて、釣りの普及には携わっていきたいと思いました。
野山の修行も始めました。
古民家に寝泊まりして自然を五感で感じようとしました。
キノコ採り、山菜の名人の人から山に一緒に入って、色々なことを教えてもらいました。
夜中には何か判らないがギシギシ音がしたり、戸が開いたりしましたが、怖いことがありましたが、段々克服していきました。
皆さんにテーマを共有して次の世代に伝えて行く活動、自然との共生を考えてそれを実践して行こうと言う事を始めました。
柏の葉は枯れても落ちないで、次の芽が出て来るまで堪えている。
何故5月5日の柏の葉で餅を包んで食べるのか、「子供の成長、新芽が出て来るのを待って親は散ってゆくんだぞ、だから5月5日に子供の成長を願って柏餅を食べるんだよ」と教わりました。
薬草など沢山教わりました、それを情報交換して行く。
自然塾は僕が教わるためにできたような感じすらします。
子供達は色々教えてくれます。
野生の三つ葉での香りをかがせると、なんだっけなあと言いながらお母さんが作ってくれる茶碗蒸しの香りがすると言うんですね、何て素晴らしい感性をもった子だと思いました。
川の魚を見た時の、子供の表現は凄いと思いました。
最初の子供たちの目と帰るときの目の力が違います。
その子供達とハイタッチして帰るんですが、活動のなかの一番楽しい時なんだと感じます。
「大芦川自然クラブ」「とちぎ自然塾」「シニア自然塾」等があります。
「大芦川自然クラブ」はみんなで楽しんで行こうということで時には食事、お酒を飲んだりして親睦を温めていこうと言うことです。
「とちぎ自然塾」はお互いに学んで、自然への奉仕もしていこうとしています。
「シニア自然塾」はシニア同士が集い、繋がり、四季の自然を楽しむコミュニティです。
68歳、大学を卒業後念願が叶って、鮎釣りのトーナメントプロになりました。
4年目に、大会で優勝しています。
その後は優勝から遠ざかって、悩む日々が続いたということです。
そんな中、鬼怒川の川岸を歩いていたある日、プロの大会の勝ち負けにこだわるより自然とともに生きる道があるのではないかと言う考えが浮かんで、その後とちぎ自然塾などをスタートさせました。
今では塾生は300人ほどに増えて、魚釣り、里山の散策、バードウオッチングなど豊かなアウトドアライフを共に楽しんでいます。
関谷さんが考えてきた自然に生き、生かされる道とはどのようなものなのか、関谷さんや塾生が得たものはなんなのか伺いました。
この時期中禅寺湖にボートを浮かべて、わかさぎ釣りをしながら紅葉を眺める活動をしています。
山の幸を取ってきて料理して食べることもやっています。
父は技術屋で変電所を転々としましたので、地域地域の自然を見せてもらいました。
父親から色々自然の遊びを教えてもらいました。
父親から鮎釣りを教えてもらったのが、鮎釣りの世界に入って行ったきっかけだったと思います。
幼稚園の年長で鮎を初めて釣りましたが、その時の事は鮮明に覚えています。
小学校の3年生の時に鮒釣りに父といった時に、からませてしまったが、「釣りをやるやつは自分がそれが出来なかったらやめてしまえ」と厳しく言われて、今でも忘れません。
釣りは「見る釣り」「見られる釣り」「見せる釣り」がある。
「見る釣り」は相手の釣りを盗め、そして「見られる釣り」になりなさい、最後は「見せる釣り」すなわち教えられる釣りになりなさいと言うことです。
高校生になってからは学校をサボって、鮎の解禁の日には川の方に行っていました。
大学生になると足が強かったので、皆さんがいけない様な激しい釣りをしました。
妻を連れて釣りに行くと一生懸命釣りに没頭をするので真っ赤になって怒りましたが、活動を認めてくれてはいます。
「貴方、家庭と、仕事と釣りと何を選ぶの」と言われた時に、「釣り」と答えたら、妻も釣りに対する敵視が始まったのかもしれません。
大学卒業後商社に入って営業の仕事をしました。
営業は外回りで車で動くたびに川、橋、山等があり、こんな仕事を選んで良かったなあと思いました。
相手のお客さんと釣りの話も出来て営業成績も良かったです。
釣りがしたくて会社を辞めることになりました。(ヘッドハンティングといった感じ)
販売店の社長でした。
仕事の合間に釣りができるようになりました。
釣り具のメーカーさんから質問を受けるようにはなっていました。
30代半ばの頃、日本プロ友釣り協会が出来て全国から腕自慢が集まり、参加することになりました。
1時間ごとにエリアを交換してどちらが多く釣ったかという試合をしました。
色んな地域の川でやって行きました。
その時は40人ぐらいいました(現在は100名程度)
最初のころは試合にはなりませんでした。
プロは失敗をうまくカバーする、カバーの仕方を知っている、それがプロだと思いました。
或る時、このまま行くと勝てるチャンスが出るかもしれないと思いました。(動じることも無くなった)
プロになって4年目で大会で優勝しました。(釣りの神様がいると思いました)
雷雲が現れて、危険だと言うことでテントなどを撤去した方がいいのではないかと、運営側に忠告しました。(気持の余裕もあった)
水位が10cm増えてきて、釣ろうとしている鮎はどっかに退避しているはずだと思いました。
1時間後には絶対どこかに来て僕のつりざおにかかってくれるはずだと感じ、次から次にかかってきました、そして優勝しました。
その後そう甘くは無かった。
自然との向き合い方を、どこかで何か表現していかなくてはいけないと思いました。
鬼怒川の河原でうとうとしていたら、「いつまで勝った負けたとやっているんではなくて、自然とのかかわり方、自然の中で思ったことを次の世代に残せるような活動をしてみたらいいのではないのか」と微かに聞こえたような気がした。
父と一緒にいった大芦川は、昔そのままの綺麗な川、自然があった。
古民家があり、ああいう場所で自然の学校をやったらきっと皆さんが喜んでもらえるのではないかとちょっと漏らしたら、貸してくれることになりました。
娘が幼稚園の先生で家を一緒に見てもらった気に入りました。
トーナメントプロを辞めて、釣りの普及には携わっていきたいと思いました。
野山の修行も始めました。
古民家に寝泊まりして自然を五感で感じようとしました。
キノコ採り、山菜の名人の人から山に一緒に入って、色々なことを教えてもらいました。
夜中には何か判らないがギシギシ音がしたり、戸が開いたりしましたが、怖いことがありましたが、段々克服していきました。
皆さんにテーマを共有して次の世代に伝えて行く活動、自然との共生を考えてそれを実践して行こうと言う事を始めました。
柏の葉は枯れても落ちないで、次の芽が出て来るまで堪えている。
何故5月5日の柏の葉で餅を包んで食べるのか、「子供の成長、新芽が出て来るのを待って親は散ってゆくんだぞ、だから5月5日に子供の成長を願って柏餅を食べるんだよ」と教わりました。
薬草など沢山教わりました、それを情報交換して行く。
自然塾は僕が教わるためにできたような感じすらします。
子供達は色々教えてくれます。
野生の三つ葉での香りをかがせると、なんだっけなあと言いながらお母さんが作ってくれる茶碗蒸しの香りがすると言うんですね、何て素晴らしい感性をもった子だと思いました。
川の魚を見た時の、子供の表現は凄いと思いました。
最初の子供たちの目と帰るときの目の力が違います。
その子供達とハイタッチして帰るんですが、活動のなかの一番楽しい時なんだと感じます。
「大芦川自然クラブ」「とちぎ自然塾」「シニア自然塾」等があります。
「大芦川自然クラブ」はみんなで楽しんで行こうということで時には食事、お酒を飲んだりして親睦を温めていこうと言うことです。
「とちぎ自然塾」はお互いに学んで、自然への奉仕もしていこうとしています。
「シニア自然塾」はシニア同士が集い、繋がり、四季の自然を楽しむコミュニティです。
2018年9月25日火曜日
岸本葉子(エッセイスト) ・10年後もはつらつと
岸本葉子(エッセイスト) ・10年後もはつらつと
大学卒業後会社務めや中国留学を経て、エッセイストとして活躍、一人暮らしや食、旅などを題材にした柔らかく知的なエッセーが多くの人たちの共感を呼んでいます。
NHKEテレのNHK俳句にも出演し、俳句にも表現を広げています。
4年前に岸本さんは認知症の父親を5年間の在宅介護の末に看取りました。
岸本さん自身の年齢が60歳に近付き、老いを少しづつ意識し始めてからは、父親の介護から学んだことを生かして、10年後も溌剌と生きるための老い仕度を始めています。
エッセーが体験、見聞きした事を元に感じた事、考えたことを書くもので、段々テーマも年齢につれて、最近では老いが気になるようになりました。
不安と恵みという意識、老い=不安は多々あります。
一方で長く生きられたことも当たり前ではないんだなと思うと、老後の時間を不安一色に染めないで、有難く楽しむ姿勢も忘れずにいたいと思っています。
父は母を亡くして暫く生きていましたが、昼間放っておけないことが出てきて、2009年から兄弟で交替交代で介護するようにしました。(5年間)
最後に一般病院に入院して亡くなりました。
平日の昼間は姉が看て、平日の夜は兄が看て、私が週末の昼夜を担当しました。
それまでに色々症状がありましたが、一番驚いたのは父が心臓の病気を持っていましたが、付添で行ったら医師からどうして治療放棄をしていたのか言われて、数年間通院していなかったと言うことで、薬も飲んでいなくて通院もしていなかったということが判りました。
介護の局面は5年間で変わって行きます。
最後は下の世話等、安全と衛生を保つことに集約していきますが、その前には色んな段階があります。
夜寝る前にトイレに行こうと促しても行かないが、寝て30分後には必ず起きだして父はトイレに行くので、一緒に介添えしなくてはいけない。
時間軸が真っ直ぐあって、それに沿って行動を割り振っていると思うが、父は時間の軸に沿って行動を組み立てることができない、日々、瞬間瞬間を生きているのかなあと思いました。
後で父の日記が出てきて、判らなくなってみんなに迷惑を掛けたくない、ということが書いてあり驚きました。(介護の最初の頃)
父の介護が始まる前、7,8年前に私は虫垂癌を患いました。
周りにも少し癌が広がってる状況でした。
再発がなさそうだという時期になるころ、父の介護が始まりました。
長い先が予測できなくて、それを元に行動を割り振れない何かもどかしさがありました。
不安感、自分は役に立たなくなってゆくのではないかとか、孤独感、疎外感は認知症と共通しているなあと思いました。
認知症の本を読んで心に響くことが書いてありました。
脳の機能の低下には根本的な治療は無いが、自尊心が傷ついたり、孤独、疎外感を覚えるそうした精神的な局面は、心情に寄り添うことで改善できると書いてあり、がんと重なっていると思いました。
父は大きな問題を黙ってしょい込んでいると思うと、それは大きな転換点でした。
認知症を患っている人の根本にあるのは、不安であると書いてありました。
私の癌の治療後の心象風景は、灰色の湿原が広がっていて、目に見えない落とし穴が一杯あって、よく見えないが湿原の中をたった一人でさまよいながら歩いて行くしかない、そういった感じでした。
きっと父も同様なのかなあと思いました。
心に父との共通項があると、事柄の受け止め方も全く変わって行くものだなあと思いました。
父は90歳で亡くなりました。
親が教えてくれることは大きいなあと思いました。
歳をとると言う事は私にとっては未知の体験が、こういうことだと言う事を身を持って知らせてくれたと思います。
兄弟との仲も結びなおしてくれました。
40歳で病気をして、40代の後半から介護をして、気が付くと50歳という年齢を過ぎていました。
父が亡くなって1年半が自分の住まいのリフォームでした。
トイレと寝室が近くしようと思いました。
介護をして貰うにはトイレは広い方がいい。
壁を取り除いてトイレ、洗面所、脱衣所を兼ねるようにしました。
できるだけ長く自立して暮らせたら、気分が上がる空間で暮らせるなと思ったんです。
そうすると筋肉に行く訳です。
父はもう少し筋肉があれば、トイレへ一人でいって用を足せる期間が、長かったのではないかと思いました。
私は介護が終わってから、ジム通いをするようにしました。
家でも片足立ちを1分するだけで、骨への刺激は50分のウオーキングに匹敵すると本で読んだことがあります。(筋肉ではなく骨)
バランスクッションの上に、片足立ちをすると大変鍛えられる。
夢中になれることを持つということは、非常に大事だと思います。
私の場合は俳句が生涯の趣味になりそうだと思いました。
今年で俳句を作る様になって10年になります。(お金はかからない)
句会などで交流もできる。
仕事が無くなったあとも、続けて行ける趣味だと思いました。
夢中になれることをもっている人は、老いにも強いと癌の医師から言われました。
(老い=病気と置き替えることもできる)
前は目標をたてて、そこに向かって計画的に努力してゆくことは、生きる姿の基本にありましたが、病気を経験して、父の認知症の姿を見て、時間軸に沿って目標を設定して計画を立てて努力して行く生き方は、全てではないということが判りました。
一人でいる状況は自分にとって快適であるなと思っていました。
一人で快適に生きてゆくためには、どれほど多くの周りの人の有形無形の支えがあるか、ということも痛感しました。
その時の思い付いた備えはしつつも、今は今として最大限享受することが無いと、今の時間がもったいない、今を楽しむことも大切かと思います。
大学卒業後会社務めや中国留学を経て、エッセイストとして活躍、一人暮らしや食、旅などを題材にした柔らかく知的なエッセーが多くの人たちの共感を呼んでいます。
NHKEテレのNHK俳句にも出演し、俳句にも表現を広げています。
4年前に岸本さんは認知症の父親を5年間の在宅介護の末に看取りました。
岸本さん自身の年齢が60歳に近付き、老いを少しづつ意識し始めてからは、父親の介護から学んだことを生かして、10年後も溌剌と生きるための老い仕度を始めています。
エッセーが体験、見聞きした事を元に感じた事、考えたことを書くもので、段々テーマも年齢につれて、最近では老いが気になるようになりました。
不安と恵みという意識、老い=不安は多々あります。
一方で長く生きられたことも当たり前ではないんだなと思うと、老後の時間を不安一色に染めないで、有難く楽しむ姿勢も忘れずにいたいと思っています。
父は母を亡くして暫く生きていましたが、昼間放っておけないことが出てきて、2009年から兄弟で交替交代で介護するようにしました。(5年間)
最後に一般病院に入院して亡くなりました。
平日の昼間は姉が看て、平日の夜は兄が看て、私が週末の昼夜を担当しました。
それまでに色々症状がありましたが、一番驚いたのは父が心臓の病気を持っていましたが、付添で行ったら医師からどうして治療放棄をしていたのか言われて、数年間通院していなかったと言うことで、薬も飲んでいなくて通院もしていなかったということが判りました。
介護の局面は5年間で変わって行きます。
最後は下の世話等、安全と衛生を保つことに集約していきますが、その前には色んな段階があります。
夜寝る前にトイレに行こうと促しても行かないが、寝て30分後には必ず起きだして父はトイレに行くので、一緒に介添えしなくてはいけない。
時間軸が真っ直ぐあって、それに沿って行動を割り振っていると思うが、父は時間の軸に沿って行動を組み立てることができない、日々、瞬間瞬間を生きているのかなあと思いました。
後で父の日記が出てきて、判らなくなってみんなに迷惑を掛けたくない、ということが書いてあり驚きました。(介護の最初の頃)
父の介護が始まる前、7,8年前に私は虫垂癌を患いました。
周りにも少し癌が広がってる状況でした。
再発がなさそうだという時期になるころ、父の介護が始まりました。
長い先が予測できなくて、それを元に行動を割り振れない何かもどかしさがありました。
不安感、自分は役に立たなくなってゆくのではないかとか、孤独感、疎外感は認知症と共通しているなあと思いました。
認知症の本を読んで心に響くことが書いてありました。
脳の機能の低下には根本的な治療は無いが、自尊心が傷ついたり、孤独、疎外感を覚えるそうした精神的な局面は、心情に寄り添うことで改善できると書いてあり、がんと重なっていると思いました。
父は大きな問題を黙ってしょい込んでいると思うと、それは大きな転換点でした。
認知症を患っている人の根本にあるのは、不安であると書いてありました。
私の癌の治療後の心象風景は、灰色の湿原が広がっていて、目に見えない落とし穴が一杯あって、よく見えないが湿原の中をたった一人でさまよいながら歩いて行くしかない、そういった感じでした。
きっと父も同様なのかなあと思いました。
心に父との共通項があると、事柄の受け止め方も全く変わって行くものだなあと思いました。
父は90歳で亡くなりました。
親が教えてくれることは大きいなあと思いました。
歳をとると言う事は私にとっては未知の体験が、こういうことだと言う事を身を持って知らせてくれたと思います。
兄弟との仲も結びなおしてくれました。
40歳で病気をして、40代の後半から介護をして、気が付くと50歳という年齢を過ぎていました。
父が亡くなって1年半が自分の住まいのリフォームでした。
トイレと寝室が近くしようと思いました。
介護をして貰うにはトイレは広い方がいい。
壁を取り除いてトイレ、洗面所、脱衣所を兼ねるようにしました。
できるだけ長く自立して暮らせたら、気分が上がる空間で暮らせるなと思ったんです。
そうすると筋肉に行く訳です。
父はもう少し筋肉があれば、トイレへ一人でいって用を足せる期間が、長かったのではないかと思いました。
私は介護が終わってから、ジム通いをするようにしました。
家でも片足立ちを1分するだけで、骨への刺激は50分のウオーキングに匹敵すると本で読んだことがあります。(筋肉ではなく骨)
バランスクッションの上に、片足立ちをすると大変鍛えられる。
夢中になれることを持つということは、非常に大事だと思います。
私の場合は俳句が生涯の趣味になりそうだと思いました。
今年で俳句を作る様になって10年になります。(お金はかからない)
句会などで交流もできる。
仕事が無くなったあとも、続けて行ける趣味だと思いました。
夢中になれることをもっている人は、老いにも強いと癌の医師から言われました。
(老い=病気と置き替えることもできる)
前は目標をたてて、そこに向かって計画的に努力してゆくことは、生きる姿の基本にありましたが、病気を経験して、父の認知症の姿を見て、時間軸に沿って目標を設定して計画を立てて努力して行く生き方は、全てではないということが判りました。
一人でいる状況は自分にとって快適であるなと思っていました。
一人で快適に生きてゆくためには、どれほど多くの周りの人の有形無形の支えがあるか、ということも痛感しました。
その時の思い付いた備えはしつつも、今は今として最大限享受することが無いと、今の時間がもったいない、今を楽しむことも大切かと思います。
2018年9月24日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言アンコール】中島敦
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言アンコール】中島敦
(初回2017年10月30日OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。
(初回2017年10月30日OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/10/blog-post_30.htmlをご覧ください。
2018年9月23日日曜日
デヴィ夫人(タレント) ・【私のがむしゃら時代】デヴィ夫人 2回目
デヴィ夫人(タレント) ・【私のがむしゃら時代】デヴィ夫人 2回目
正式に大統領夫人になるのは、3年後の1962年 自分が守り続けると心に決めいていた日本の母と弟が亡くなってから間もなくのことです。
それから3年1965年インドネシアではクーデターが起き、スカルノ大統領は実権を失い、1970年に亡くなります。(デヴィ夫人30歳の時)
スハルト新政権下のインドネシアでも、マスコミで非難された続けた日本でも暮らすことが出来ず、デヴィ婦人は一人娘のカリナさんとフランスに渡り、華やかな社交界に身を置きますが、10年後インドネシアに戻り、実業家としての日々を送ることになります。
現在タレントとして幅広く活躍のデヴィ夫人にどのようなガムシャラらな日々があったのか、どのような思いで道を切り開いてきたのか伺います。
妻としての役割はほとんど無くて、この方の健康を気を付けて政務をやってもらおうと思い、一番いいアシスタントになることが私のベストなのかなあと思いました。
11月3日に簡素なイスラム教にのっとった結婚式はしました。(大統領官邸内の小さなモスク)
日本には母と弟がいて日本の籍は抜くと言う事は思ってもいませんでした。
スカルノ大統領に呼ばれてインドネシアにいってから2週間の予定だったが、日本には帰りませんでした。
年に1回日本には帰ってきましたが、最初の時は母も弟も元気でした。
私という娘がいたということは諦めて、私という姉がいたことは諦めてと言うような冷たい言葉を残したこともありました。
大臣、官邸の方等には私が結婚したことは知っていましたが、一般の庶民には知らされていなかった。
1962年2月に母が亡くなり、その2日後に弟が自殺して、日本国籍になっていることは必要無くなり未練も無くなり、3月3日にインドネシア国籍を取り名前もデヴィ・スカルノに変わり正式に大統領夫人になりました。
インドネシア語の勉強、歴史、伝統、慣習などを身につけました。
フランス語とピアノも習いました。
大統領とのコミュニケーションは英語でした。
若い外国の女性が妻となると言うことに関しては、冷ややかに見る人達もいました。
他にも妻がいまして、彼女のいやがらせと彼女の一派から策謀に遭いました。
時間とともに私を守ってくれる人が増えてきて、陸軍の奥様方は私派でした。
1965年インドネシアではクーデターが起き、スカルノ大統領は実権を失い、1970年にスカルノ大統領は亡くなります。
フランスに渡り華やかな社交界に身を置きます、公爵と婚約という言うこともあったが破局、1979年にインドネシアに戻る。
(スカルノ派の人間が66年から69年までに、120万人殺されてしまいました。)
インドネシアに戻りカリナとともにいると、周りから大勢集まってきたり、新聞などに大々的に報道されたりしました。
石油関連事業を興し実業家として活動し始めたが、スハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたという。
カリナはボストン大学に入って、卒業すると同時にアメリカに行きたいと思っていました。
インドネシアの生活が非常につらくなって、1991年ニューヨークに移住する。
国連環境計画があり特別顧問として働きながら生活していました。
日本にいた9カ月間にマスコミからのバッシングがあり、日本には二度と踏むまいと言う気持ちで日本を立ちました。
或る時TVを見ていて、100歳以上の人が3千何百人がいるということで、或る意味凄いショックでした。
100年生きられると思った時に、新しい人間として生きてみたいと思いました。
美川憲一さんの紹介でTV番組に出ることになり、ニューヨークと東京を往復するようになりました。
新聞にタレント デヴィ夫人と書かれていてすごくショックでした。
これからはタレントとして人生を謳歌すればいいのではないかと思うようになり、いろんなことにトライするようになりました。
今は中傷記事でも反論できるが、40年間外国にいた時には反論する機会さえ無くて書かれ放題でした。
それが無くなったので安らかな時間というか、今は言われたら言い返します。
105歳まで生きたいという目標はあります。
地球温暖化は危惧しています。
正式に大統領夫人になるのは、3年後の1962年 自分が守り続けると心に決めいていた日本の母と弟が亡くなってから間もなくのことです。
それから3年1965年インドネシアではクーデターが起き、スカルノ大統領は実権を失い、1970年に亡くなります。(デヴィ夫人30歳の時)
スハルト新政権下のインドネシアでも、マスコミで非難された続けた日本でも暮らすことが出来ず、デヴィ婦人は一人娘のカリナさんとフランスに渡り、華やかな社交界に身を置きますが、10年後インドネシアに戻り、実業家としての日々を送ることになります。
現在タレントとして幅広く活躍のデヴィ夫人にどのようなガムシャラらな日々があったのか、どのような思いで道を切り開いてきたのか伺います。
妻としての役割はほとんど無くて、この方の健康を気を付けて政務をやってもらおうと思い、一番いいアシスタントになることが私のベストなのかなあと思いました。
11月3日に簡素なイスラム教にのっとった結婚式はしました。(大統領官邸内の小さなモスク)
日本には母と弟がいて日本の籍は抜くと言う事は思ってもいませんでした。
スカルノ大統領に呼ばれてインドネシアにいってから2週間の予定だったが、日本には帰りませんでした。
年に1回日本には帰ってきましたが、最初の時は母も弟も元気でした。
私という娘がいたということは諦めて、私という姉がいたことは諦めてと言うような冷たい言葉を残したこともありました。
大臣、官邸の方等には私が結婚したことは知っていましたが、一般の庶民には知らされていなかった。
1962年2月に母が亡くなり、その2日後に弟が自殺して、日本国籍になっていることは必要無くなり未練も無くなり、3月3日にインドネシア国籍を取り名前もデヴィ・スカルノに変わり正式に大統領夫人になりました。
インドネシア語の勉強、歴史、伝統、慣習などを身につけました。
フランス語とピアノも習いました。
大統領とのコミュニケーションは英語でした。
若い外国の女性が妻となると言うことに関しては、冷ややかに見る人達もいました。
他にも妻がいまして、彼女のいやがらせと彼女の一派から策謀に遭いました。
時間とともに私を守ってくれる人が増えてきて、陸軍の奥様方は私派でした。
1965年インドネシアではクーデターが起き、スカルノ大統領は実権を失い、1970年にスカルノ大統領は亡くなります。
フランスに渡り華やかな社交界に身を置きます、公爵と婚約という言うこともあったが破局、1979年にインドネシアに戻る。
(スカルノ派の人間が66年から69年までに、120万人殺されてしまいました。)
インドネシアに戻りカリナとともにいると、周りから大勢集まってきたり、新聞などに大々的に報道されたりしました。
石油関連事業を興し実業家として活動し始めたが、スハルト政権成立により、元大統領夫人としての外交的立場を失っていたという。
カリナはボストン大学に入って、卒業すると同時にアメリカに行きたいと思っていました。
インドネシアの生活が非常につらくなって、1991年ニューヨークに移住する。
国連環境計画があり特別顧問として働きながら生活していました。
日本にいた9カ月間にマスコミからのバッシングがあり、日本には二度と踏むまいと言う気持ちで日本を立ちました。
或る時TVを見ていて、100歳以上の人が3千何百人がいるということで、或る意味凄いショックでした。
100年生きられると思った時に、新しい人間として生きてみたいと思いました。
美川憲一さんの紹介でTV番組に出ることになり、ニューヨークと東京を往復するようになりました。
新聞にタレント デヴィ夫人と書かれていてすごくショックでした。
これからはタレントとして人生を謳歌すればいいのではないかと思うようになり、いろんなことにトライするようになりました。
今は中傷記事でも反論できるが、40年間外国にいた時には反論する機会さえ無くて書かれ放題でした。
それが無くなったので安らかな時間というか、今は言われたら言い返します。
105歳まで生きたいという目標はあります。
地球温暖化は危惧しています。
2018年9月22日土曜日
平野暁臣(岡本太郎記念館館長) ・ベラボーなものを作る
平野暁臣(岡本太郎記念館館長)・ベラボーなものを作る~太陽の塔 誕生物語~
芸術家岡本太郎の代表作で1970年の国際博覧会大阪万博のシンボル「太陽の塔」が耐震工事と塔内の修復を終えて、今年の春からおよそ半世紀ぶりに内部が一般公開されて、毎日多くの見学者が訪れています。
塔の高さは約70m、塔の中にはダイナミックに枝を広げる、高さ41mのオブジェ生命の木があり、緑色の幹から延びるオレンジや、青、黄色の枝に、古代から生息するアメーバーやクラゲ、三葉虫、恐竜、ゴリラ、クロマニヨン人等、183体の生物模型が下から上に進化を辿るように、取りつけられています。
来場者は周囲に設置された階段を昇りながら鑑賞します。
岡本太郎は平成8年(1996年)に84歳で亡くなりました。
岡本太郎のパートナーであった岡本敏子さんの甥で、この再生プロジェクトの指揮をとった岡本太郎記念館館長の平野暁臣さんに、太陽の塔はどのような経緯で作られ、岡本太郎はなにを伝えたかったのか伺いました。
大阪万博はおよそ6400万人の来場者が来ました。
当時小学校6年生で万博が見られたのはクラスで3~4人位でした。
当時万博一色でした。
これまで大阪万博を越える興奮、感動は味わったことは無かったです。
目の前に広がってる景色がSFの世界でした。(宇宙船、コンピューター、レーザー光線、動く歩道、全天全周映像、月の石など)
太陽の塔を岡本太郎がアトリエで原形を作っているのを見ていました。
当時怪獣ブームが起こった時期でした。
太陽の塔は見るからに怪獣の様な感じがしました。
大人に伝えると同様に幼稚園の僕にきちんと対応してくれていましたが、僕には全く判らなかった。
塔の高さは約70m、腕の長さがおよそ25m、根元の直径が約20m。
中には生命の木が立っている。
中の壁が赤いが岡本太郎が決めた色です。。(炎、血)
太陽の中にあるものは、単なるディスプレイでは無くて、太陽の塔の内臓なんです。
赤は岡本太郎が一番好きでした。(岡本芸術の核心的な色)
基本的な修復の方針をどうするかを最初悩みました。
時代に合わせて再創造とか、その反対もあるが、基本的には70年当時に戻す、ただし今の技術でより前に進める事が出来るものは(照明、造形技術など)、そういうようにしようとしました。
当時目指していたことは躍動する生命感、吹きあげる生命のエネルギーとかを表現したかった。
単細胞から人に至るまで40億年に渡る命の歴史を貫いて、エネルギーが吹きあげているんだと、そういうことを表現したかったのですが、照明はいまいちでぼーっとした感じだった。
今は照明設備などが進んでいるので、当時やりたかったことを表現するためにできることは進めようと思いました。
生命の木には単細胞生物から人に至る33種類の生物が、一本の木に成っている訳です。
進化は段々上等になって行くと言う事だから、一番下が下等で上が上等になると思いたくなるが、実は逆なんです。
みんな一本の木に連なってるわけで、アメーバーも人間も同列同格で、人間の自分の根源、根っこを遡るとアメーバーになる。
みんな生き物は一体で上下関係はない。
人間の中には40億年の命の歴史が全部入っている、そういう訳なんです。
岡本太郎は「俺が一番表現したいのは、この単細胞なんだ」と言っています。
「アメーバーは自由自在に生きている、俺は単細胞になりたいんだ」と岡本太郎は言っています。
ユニークな塔が大阪万博のシンボルとなっているが、そういう思いでは無かった。
丹下さんが作った大屋根の中にテーマ展示空間を作ってくれと頼まれただけだった。
太陽の塔の案がでてきて一番驚いたのが岡本太郎に発注した万博協会の人々でした。
あのプランは岡本太郎が構想したものです。
屋根の下に納めろという様な意見もあったが、丹下健三さんがそれを許したのが凄かったと思います。
あれは上下交通の縦シャフトでもあるわけです。
地下と空中を両方とも使いたかったと考えたわけです。(機能を最初から考えていた)
全体のテーマは「人類の進歩と調和」で、普通に考えれば進歩は先端技術を考えるが、岡本太郎はそもそも人類は進歩なんかしていないと考えていたわけです。
岡本太郎は本当の調和は、全く対局的な意見がぶつかりあった先に開けるものであると、言うようなことを言う訳です。
岡本太郎が一番力点を置いたのが地下展示でした。
3つのゾーンがあって①命、②人、③祈り。
①命では、我々の命を作っている物質 タンパク質、DNAとかRNAとかを 5億倍に引き延ばされていて、その中に観客が包まれる空間があって、中央に受精卵のような卵があり、色んな生き物が生まれるシーンが映される。
②人、狩猟採集時代に自然と闘いながら溶け込みながら舞台の様に広がっている。
自然と闘いながら狩猟時代の生きざまが表現されている。
③祈り、世界から集めてきた仮面、神像等が空間一杯に吊られている。
神々の森と言った空間。
それを観終わると太陽の塔があって、そこには生命の木があり40億年の歴史がある。
それを抜けると、空中提示で大屋根の中に入って、未来をテーマにした展示ですが、色んな矛盾、原爆の問題、生と死、人間の抱えている矛盾、葛藤をさらけ出している。
「未来を考えるなら根源に立ち戻れ」と岡本は言っている訳です。
「進歩と調和」の本質は何なのか、岡本太郎は未来はそんなに明るいものだとは考えてはいなかった。
未来をテーマにした空中展示でさえ、貧困、原爆、色んな問題をそのまま見せているわけです。
大屋根は3ヘクタールを持っている床なんです、空中都市のプロトタイプだったんです。
新しい空中都市の提言だったんです。
大屋根に穴をあけて、未来財産とは全く逆のベクトルを向いたものを、どんと突き立てて浴びさせることで、次のものが待っている、それこそが調和なんだと、それが岡本太郎の思想で、それを訴えているのが太陽の塔です。
縄文時代の生き方、精神を思い出せ取り戻せと岡本太郎は言っている、それが太陽の塔の象徴だと思っています。
岡本太郎は縄文土器と出会って吃驚する。
縄文土器の造形の美しさもさることながら、そういうものを作った人達の精神、暮らしの中に根づいていた生活観、美意識、価値観、そういうものに感動するわけです。
孤独、恐怖、歓喜が表裏一体、そういう生き方こそ人間らしい生き方じゃないかと、岡本太郎は考える訳です。
弥生時代になり管理型の社会構造になって行く。
人間が機械のように、部品のように、奴隷のようになってしまったと太郎は考えた。
縄文精神が完全に無くなって、小市民的な管理社会になってしまって2000年続いている。
しかし我々のなかにはまだ縄文時代の精神、魂が刻まれていて、それを取り戻せと多分言いたかったと思う。
岡本太郎は太陽の塔の事を神像と呼んでいました。
万博を未来財産の産業展示会に終わらせずに、岡本太郎は人間本来の荘大な祭りにしたかった。
パビリオンは壊すことになったが、太陽の塔も撤去対象だったが、結局壊さなかった。
当時は世の中全体がはしゃいでいた、未来の技術の展示に対して、そんな時に命の根源、40億年の命の歴史、呪術的な世界、狩猟時代の精神とか、当時では響くわけがない。
当時はずれていたと思うが、でも今なら分かると思う。
命とは何か、人間らしい生き方とは、何が幸せなのかなど、自分で見付けていかなくてはいけない、今の我々にとっての課題だと思う。
技術の進歩は本当に人を幸せにするのか、このまま行っていいのだろうか。
岡本太郎は「未来を考えるのならば、生き物とは何か、我々の命とは何か、自分の根源にあるものはなにか、をもう一回見直せ」と言っているわけです。
芸術家岡本太郎の代表作で1970年の国際博覧会大阪万博のシンボル「太陽の塔」が耐震工事と塔内の修復を終えて、今年の春からおよそ半世紀ぶりに内部が一般公開されて、毎日多くの見学者が訪れています。
塔の高さは約70m、塔の中にはダイナミックに枝を広げる、高さ41mのオブジェ生命の木があり、緑色の幹から延びるオレンジや、青、黄色の枝に、古代から生息するアメーバーやクラゲ、三葉虫、恐竜、ゴリラ、クロマニヨン人等、183体の生物模型が下から上に進化を辿るように、取りつけられています。
来場者は周囲に設置された階段を昇りながら鑑賞します。
岡本太郎は平成8年(1996年)に84歳で亡くなりました。
岡本太郎のパートナーであった岡本敏子さんの甥で、この再生プロジェクトの指揮をとった岡本太郎記念館館長の平野暁臣さんに、太陽の塔はどのような経緯で作られ、岡本太郎はなにを伝えたかったのか伺いました。
大阪万博はおよそ6400万人の来場者が来ました。
当時小学校6年生で万博が見られたのはクラスで3~4人位でした。
当時万博一色でした。
これまで大阪万博を越える興奮、感動は味わったことは無かったです。
目の前に広がってる景色がSFの世界でした。(宇宙船、コンピューター、レーザー光線、動く歩道、全天全周映像、月の石など)
太陽の塔を岡本太郎がアトリエで原形を作っているのを見ていました。
当時怪獣ブームが起こった時期でした。
太陽の塔は見るからに怪獣の様な感じがしました。
大人に伝えると同様に幼稚園の僕にきちんと対応してくれていましたが、僕には全く判らなかった。
塔の高さは約70m、腕の長さがおよそ25m、根元の直径が約20m。
中には生命の木が立っている。
中の壁が赤いが岡本太郎が決めた色です。。(炎、血)
太陽の中にあるものは、単なるディスプレイでは無くて、太陽の塔の内臓なんです。
赤は岡本太郎が一番好きでした。(岡本芸術の核心的な色)
基本的な修復の方針をどうするかを最初悩みました。
時代に合わせて再創造とか、その反対もあるが、基本的には70年当時に戻す、ただし今の技術でより前に進める事が出来るものは(照明、造形技術など)、そういうようにしようとしました。
当時目指していたことは躍動する生命感、吹きあげる生命のエネルギーとかを表現したかった。
単細胞から人に至るまで40億年に渡る命の歴史を貫いて、エネルギーが吹きあげているんだと、そういうことを表現したかったのですが、照明はいまいちでぼーっとした感じだった。
今は照明設備などが進んでいるので、当時やりたかったことを表現するためにできることは進めようと思いました。
生命の木には単細胞生物から人に至る33種類の生物が、一本の木に成っている訳です。
進化は段々上等になって行くと言う事だから、一番下が下等で上が上等になると思いたくなるが、実は逆なんです。
みんな一本の木に連なってるわけで、アメーバーも人間も同列同格で、人間の自分の根源、根っこを遡るとアメーバーになる。
みんな生き物は一体で上下関係はない。
人間の中には40億年の命の歴史が全部入っている、そういう訳なんです。
岡本太郎は「俺が一番表現したいのは、この単細胞なんだ」と言っています。
「アメーバーは自由自在に生きている、俺は単細胞になりたいんだ」と岡本太郎は言っています。
ユニークな塔が大阪万博のシンボルとなっているが、そういう思いでは無かった。
丹下さんが作った大屋根の中にテーマ展示空間を作ってくれと頼まれただけだった。
太陽の塔の案がでてきて一番驚いたのが岡本太郎に発注した万博協会の人々でした。
あのプランは岡本太郎が構想したものです。
屋根の下に納めろという様な意見もあったが、丹下健三さんがそれを許したのが凄かったと思います。
あれは上下交通の縦シャフトでもあるわけです。
地下と空中を両方とも使いたかったと考えたわけです。(機能を最初から考えていた)
全体のテーマは「人類の進歩と調和」で、普通に考えれば進歩は先端技術を考えるが、岡本太郎はそもそも人類は進歩なんかしていないと考えていたわけです。
岡本太郎は本当の調和は、全く対局的な意見がぶつかりあった先に開けるものであると、言うようなことを言う訳です。
岡本太郎が一番力点を置いたのが地下展示でした。
3つのゾーンがあって①命、②人、③祈り。
①命では、我々の命を作っている物質 タンパク質、DNAとかRNAとかを 5億倍に引き延ばされていて、その中に観客が包まれる空間があって、中央に受精卵のような卵があり、色んな生き物が生まれるシーンが映される。
②人、狩猟採集時代に自然と闘いながら溶け込みながら舞台の様に広がっている。
自然と闘いながら狩猟時代の生きざまが表現されている。
③祈り、世界から集めてきた仮面、神像等が空間一杯に吊られている。
神々の森と言った空間。
それを観終わると太陽の塔があって、そこには生命の木があり40億年の歴史がある。
それを抜けると、空中提示で大屋根の中に入って、未来をテーマにした展示ですが、色んな矛盾、原爆の問題、生と死、人間の抱えている矛盾、葛藤をさらけ出している。
「未来を考えるなら根源に立ち戻れ」と岡本は言っている訳です。
「進歩と調和」の本質は何なのか、岡本太郎は未来はそんなに明るいものだとは考えてはいなかった。
未来をテーマにした空中展示でさえ、貧困、原爆、色んな問題をそのまま見せているわけです。
大屋根は3ヘクタールを持っている床なんです、空中都市のプロトタイプだったんです。
新しい空中都市の提言だったんです。
大屋根に穴をあけて、未来財産とは全く逆のベクトルを向いたものを、どんと突き立てて浴びさせることで、次のものが待っている、それこそが調和なんだと、それが岡本太郎の思想で、それを訴えているのが太陽の塔です。
縄文時代の生き方、精神を思い出せ取り戻せと岡本太郎は言っている、それが太陽の塔の象徴だと思っています。
岡本太郎は縄文土器と出会って吃驚する。
縄文土器の造形の美しさもさることながら、そういうものを作った人達の精神、暮らしの中に根づいていた生活観、美意識、価値観、そういうものに感動するわけです。
孤独、恐怖、歓喜が表裏一体、そういう生き方こそ人間らしい生き方じゃないかと、岡本太郎は考える訳です。
弥生時代になり管理型の社会構造になって行く。
人間が機械のように、部品のように、奴隷のようになってしまったと太郎は考えた。
縄文精神が完全に無くなって、小市民的な管理社会になってしまって2000年続いている。
しかし我々のなかにはまだ縄文時代の精神、魂が刻まれていて、それを取り戻せと多分言いたかったと思う。
岡本太郎は太陽の塔の事を神像と呼んでいました。
万博を未来財産の産業展示会に終わらせずに、岡本太郎は人間本来の荘大な祭りにしたかった。
パビリオンは壊すことになったが、太陽の塔も撤去対象だったが、結局壊さなかった。
当時は世の中全体がはしゃいでいた、未来の技術の展示に対して、そんな時に命の根源、40億年の命の歴史、呪術的な世界、狩猟時代の精神とか、当時では響くわけがない。
当時はずれていたと思うが、でも今なら分かると思う。
命とは何か、人間らしい生き方とは、何が幸せなのかなど、自分で見付けていかなくてはいけない、今の我々にとっての課題だと思う。
技術の進歩は本当に人を幸せにするのか、このまま行っていいのだろうか。
岡本太郎は「未来を考えるのならば、生き物とは何か、我々の命とは何か、自分の根源にあるものはなにか、をもう一回見直せ」と言っているわけです。
2018年9月21日金曜日
筒井之隆(安藤百福発明記念館横浜館長) ・【わが心の人】安藤百福
筒井之隆(安藤百福発明記念館横浜館長) ・【わが心の人】安藤百福
安藤百福さんは明治43年生まれ、世界初のインスタントラーメンやカップめんを発明し、世界の食の変革をもたらしました。
平成 19年2007年1月に亡くなられました。 96歳でした。
安藤百福発明記念館横浜館長 筒井之隆さん 同志社大学を卒業後、読売新聞大阪本社に入社し記者をしていました。
取材を通して安藤さんと親しくなり、スカウトされて日清食品に入社しました。
朝のTV小説「まんぷく」がそろそろ始まる。
モデルが安藤百福さんと仁子さんご夫妻。
安藤百福さんの資料は何にもないんですが、安藤仁子さんをよく知る人に取材して、今まだ判らなかったことが一杯わかってきました。
安藤仁子さんの展示会を開いて、来年3月末で開催しようとしています。
朝のTV小説「まんぷく」で事実だけ深刻に描かれても面白くないので、面白おかしくて展開するだろうと期待しています。
私は22年間そばに居て薫陶を受けてきました。
日本人ってインスタントラーメンが好きなんですね。
安藤百福発明記念館横浜館は今年で7年目ですが、毎年100万人の人が来ています。
自分でデザインして、スープ、具材を選んでオリジナルのカップラーメンを持って帰れるようになっています。(1日 3500人)
ここのコンセプトは小さいお子さんに発明発見の大切さを伝えたい、これは安藤百福さんの強い思いです。
安藤百福さんは小さい時に両親を亡くして、大変苦労して大きくなりました。
インスタントラーメンの発明が、今世界で年間1000億食です。
子供達に小さな発明発見でも実現すると、こういう大きなことができると言うことを是非伝えたいと、クリエーティブ シンキング(Creative Thinking)を呼びかけているんです。
大人は500円いただいていますが、高校生以下は無料で入れるようになっています。
発明した時の小さな小屋が再現されている。
元々はこういうみすぼらしい小屋からできたということを、子供達に見せたいと言うことで、奥さんの反対があったが展示に至ったそうです。
インスタントラーメンの発明も47歳のときであった。
最初の事業で資産を蓄え、その後失敗したり成功したり繰り返して、47歳の時に信用組合の理事長をやっていたが倒産して、責任を取って財産を全部失います。
人も離れ仕事も無くなり、一念発起でインスタントラーメンの発明に取り組み、1年半位かけて研究して成功されたということです。
安藤百福さんは食べ物の苦労をずーっとしてきて、終戦後は食べるものも無く餓えて亡くなっていく人を沢山見て来ました。
人間に取って食べ物がいかに大事かを肝に銘じた。
阪急梅田駅の裏に闇市が建っていて、戦後或る屋台の前に物凄い人の行列がならんでいた。
そこでラーメンをみんなが幸せそうに食べていました。
ラーメンはこんなに人を幸せにするんだと言うことを思ったそうです。
栄養食品の開発をしていた時期があり、自分で研究所を作って、アメリカの余剰小麦を日本に持って行って日本人に食べさせようとして、学校給食はパンでした。
安藤百福さんはそれに異論を唱えた。
ラーメンみたいなものを作ればどうかということを提唱した。
ラーメンならスープ、具材、栄養もあり、(一汁三菜)が丼の中に全部入っているから、何故やらないのかとお役人に言ったそうです。
長持ちしないので麺類作っても大量に流通したり、全国の学校に配ることは無理だと、あんたが考えたらどうかと言われてしまった。
それが頭にこびりついて10年経ってから、倒産になった時に思い出して、ラーメンを作れば多くの日本人に喜んでもらえるのではないか、ということで取りかかったという事です。
一番苦労したのが、スープの味をしみ込ませることと、長期保存ができないといけない。
即席性がないといけないということで、お湯を掛けて直ぐフワーッとラーメンになるという発想は、今まで誰もやってこなかったことをやろうとする訳です。
これに悩んでいた時に安藤仁子さんが天ぷらを揚げていた。
衣を付けた天ぷらを油の中に入れると、水分の重さで沈んで、水分をはじき出してカラッと揚がったてんぷらが浮き上がってきて、その時にひらめいた。
麺で試してみたら、麺が水分をはじき出して浮きあがってきてカラッとした状態になっていた。
水分をはじいてほとんど水分の無い無菌状態を維持できるような麺になり、何も添加しなくても半年以上保存できる状態が出来た訳です。
水分をはじく時に無数の穴が明き(多孔質)、麺にお湯を掛けた時に穴に浸透していって、3分でおいしい麺の状態に復元できることになり、これが今世界で作られている基本技術なんです。(それを越える技術は無いんです)
簡便に食べられるラーメン、袋入りのラーメンは世界には普及していかなかった。
外国には丼も箸も無いから、容器に麺を入れてフフォークで食べるような商品を開発したら世界商品になるのではないかと考えた。
研究を開始する。(61歳)
遂に完成してそれが包装容器であり、物流の容器であり、食べる時には調理用容器でもあり、丼でもあるということを大層自慢していました。
宇宙食の開発なども手掛ける。
多分ものつくりが好きだったと思います。
研究開発してそれを発売して、多くの人に喜んでもらいたいという想いが物凄く強い人です。
私は新聞社にいて、安藤百福さんに出会った時には気持ちのゆとりがあるころで、郷土料理はきっと身体に良くて素晴らしいことがあるはずだから、一度調べたいと言う話があり、そこから日本全国の郷土料理を3年半ぐらい調べ歩きました。
忙しい人なので1泊2日なんです。(温泉とゴルフが好きでした)
会社に来ないかとの要請があったが、暫く返事をしなかった。
うちに来て新聞をつくればいいんじゃないかと言われて、新しい社内報を作ることになりました。
新聞社からは3週間前では就業規則違反だと言われてしまい、安藤さんがうちの社長に話をしてくれました。
退社することになりましたが、必要無くなったら戻してほしいと、うちの社長が言ってくれて男冥利につき感動しました。
安藤百福さんは、社員の方は物凄く厳しい怖い人だというと思いますが。性格的には凄くチャーミングな方でシャイなところもあって、好奇心が旺盛な人です。
安藤百福さんと延べ35日間中国に行ってラーメンを食べましたが、300食たべました。(一日 10食ぐらい)
昭和33年ごろに街頭TVに沢山集まる人々を見て、TVという媒体はこれから物凄く力を持つだろうと、いきなりコマーシャルを作って放送したんです。(好奇心、先見性)
会長室の奥に立派な調理室があった。
時々自分で作って一緒に食べたりしました。
納豆の粘り、臭いを消す為の対応も考えたりしました。
納豆ピラフの作り方を指示したりして、夕方には出来たのかとせっかちに電話していました。
96歳、(2007年) 1月2日にゴルフで109を出しました。
4日に年頭の挨拶を30分間立って話しました。
5日に心筋梗塞で亡くなりました。
「元気に生きて元気に死ぬ」と言う人生を見事に全うされました。
安藤百福さんは明治43年生まれ、世界初のインスタントラーメンやカップめんを発明し、世界の食の変革をもたらしました。
平成 19年2007年1月に亡くなられました。 96歳でした。
安藤百福発明記念館横浜館長 筒井之隆さん 同志社大学を卒業後、読売新聞大阪本社に入社し記者をしていました。
取材を通して安藤さんと親しくなり、スカウトされて日清食品に入社しました。
朝のTV小説「まんぷく」がそろそろ始まる。
モデルが安藤百福さんと仁子さんご夫妻。
安藤百福さんの資料は何にもないんですが、安藤仁子さんをよく知る人に取材して、今まだ判らなかったことが一杯わかってきました。
安藤仁子さんの展示会を開いて、来年3月末で開催しようとしています。
朝のTV小説「まんぷく」で事実だけ深刻に描かれても面白くないので、面白おかしくて展開するだろうと期待しています。
私は22年間そばに居て薫陶を受けてきました。
日本人ってインスタントラーメンが好きなんですね。
安藤百福発明記念館横浜館は今年で7年目ですが、毎年100万人の人が来ています。
自分でデザインして、スープ、具材を選んでオリジナルのカップラーメンを持って帰れるようになっています。(1日 3500人)
ここのコンセプトは小さいお子さんに発明発見の大切さを伝えたい、これは安藤百福さんの強い思いです。
安藤百福さんは小さい時に両親を亡くして、大変苦労して大きくなりました。
インスタントラーメンの発明が、今世界で年間1000億食です。
子供達に小さな発明発見でも実現すると、こういう大きなことができると言うことを是非伝えたいと、クリエーティブ シンキング(Creative Thinking)を呼びかけているんです。
大人は500円いただいていますが、高校生以下は無料で入れるようになっています。
発明した時の小さな小屋が再現されている。
元々はこういうみすぼらしい小屋からできたということを、子供達に見せたいと言うことで、奥さんの反対があったが展示に至ったそうです。
インスタントラーメンの発明も47歳のときであった。
最初の事業で資産を蓄え、その後失敗したり成功したり繰り返して、47歳の時に信用組合の理事長をやっていたが倒産して、責任を取って財産を全部失います。
人も離れ仕事も無くなり、一念発起でインスタントラーメンの発明に取り組み、1年半位かけて研究して成功されたということです。
安藤百福さんは食べ物の苦労をずーっとしてきて、終戦後は食べるものも無く餓えて亡くなっていく人を沢山見て来ました。
人間に取って食べ物がいかに大事かを肝に銘じた。
阪急梅田駅の裏に闇市が建っていて、戦後或る屋台の前に物凄い人の行列がならんでいた。
そこでラーメンをみんなが幸せそうに食べていました。
ラーメンはこんなに人を幸せにするんだと言うことを思ったそうです。
栄養食品の開発をしていた時期があり、自分で研究所を作って、アメリカの余剰小麦を日本に持って行って日本人に食べさせようとして、学校給食はパンでした。
安藤百福さんはそれに異論を唱えた。
ラーメンみたいなものを作ればどうかということを提唱した。
ラーメンならスープ、具材、栄養もあり、(一汁三菜)が丼の中に全部入っているから、何故やらないのかとお役人に言ったそうです。
長持ちしないので麺類作っても大量に流通したり、全国の学校に配ることは無理だと、あんたが考えたらどうかと言われてしまった。
それが頭にこびりついて10年経ってから、倒産になった時に思い出して、ラーメンを作れば多くの日本人に喜んでもらえるのではないか、ということで取りかかったという事です。
一番苦労したのが、スープの味をしみ込ませることと、長期保存ができないといけない。
即席性がないといけないということで、お湯を掛けて直ぐフワーッとラーメンになるという発想は、今まで誰もやってこなかったことをやろうとする訳です。
これに悩んでいた時に安藤仁子さんが天ぷらを揚げていた。
衣を付けた天ぷらを油の中に入れると、水分の重さで沈んで、水分をはじき出してカラッと揚がったてんぷらが浮き上がってきて、その時にひらめいた。
麺で試してみたら、麺が水分をはじき出して浮きあがってきてカラッとした状態になっていた。
水分をはじいてほとんど水分の無い無菌状態を維持できるような麺になり、何も添加しなくても半年以上保存できる状態が出来た訳です。
水分をはじく時に無数の穴が明き(多孔質)、麺にお湯を掛けた時に穴に浸透していって、3分でおいしい麺の状態に復元できることになり、これが今世界で作られている基本技術なんです。(それを越える技術は無いんです)
簡便に食べられるラーメン、袋入りのラーメンは世界には普及していかなかった。
外国には丼も箸も無いから、容器に麺を入れてフフォークで食べるような商品を開発したら世界商品になるのではないかと考えた。
研究を開始する。(61歳)
遂に完成してそれが包装容器であり、物流の容器であり、食べる時には調理用容器でもあり、丼でもあるということを大層自慢していました。
宇宙食の開発なども手掛ける。
多分ものつくりが好きだったと思います。
研究開発してそれを発売して、多くの人に喜んでもらいたいという想いが物凄く強い人です。
私は新聞社にいて、安藤百福さんに出会った時には気持ちのゆとりがあるころで、郷土料理はきっと身体に良くて素晴らしいことがあるはずだから、一度調べたいと言う話があり、そこから日本全国の郷土料理を3年半ぐらい調べ歩きました。
忙しい人なので1泊2日なんです。(温泉とゴルフが好きでした)
会社に来ないかとの要請があったが、暫く返事をしなかった。
うちに来て新聞をつくればいいんじゃないかと言われて、新しい社内報を作ることになりました。
新聞社からは3週間前では就業規則違反だと言われてしまい、安藤さんがうちの社長に話をしてくれました。
退社することになりましたが、必要無くなったら戻してほしいと、うちの社長が言ってくれて男冥利につき感動しました。
安藤百福さんは、社員の方は物凄く厳しい怖い人だというと思いますが。性格的には凄くチャーミングな方でシャイなところもあって、好奇心が旺盛な人です。
安藤百福さんと延べ35日間中国に行ってラーメンを食べましたが、300食たべました。(一日 10食ぐらい)
昭和33年ごろに街頭TVに沢山集まる人々を見て、TVという媒体はこれから物凄く力を持つだろうと、いきなりコマーシャルを作って放送したんです。(好奇心、先見性)
会長室の奥に立派な調理室があった。
時々自分で作って一緒に食べたりしました。
納豆の粘り、臭いを消す為の対応も考えたりしました。
納豆ピラフの作り方を指示したりして、夕方には出来たのかとせっかちに電話していました。
96歳、(2007年) 1月2日にゴルフで109を出しました。
4日に年頭の挨拶を30分間立って話しました。
5日に心筋梗塞で亡くなりました。
「元気に生きて元気に死ぬ」と言う人生を見事に全うされました。
2018年9月20日木曜日
香取章子(ちよだニャンとなる会代表理事) ・ペットは終生責任をもって!
香取章子(ちよだニャンとなる会代表理事) ・ペットは終生責任をもって!
今日から動物愛護週間、犬や猫を家族の様に可愛がっている家族も多いと思います。
一方で飼い主がなく殺処分されてしまった犬や猫は、平成28年度1年間で全国で5万6000頭にのぼります。
実にその8割に当たる4万6000頭が猫です。
東京都千代田区では2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
行政とボランティアがうまく連携した猫の保護、譲渡活動は千代田モデルと言われ全国の注目を集めています。
そのボランティアグループ「ちよだニャンとなる会」代表理事の香取さんに先駆的な千代田モデルの活動の実態と猫と人間のあるべき環境について伺いました。
5匹飼っていますが、全部飼い主がいなかった猫です。
私は千代田区に生まれ育ちました。
かつては千代田区内でも飼い主がいない猫が暮らしていました。
ビル街にも猫がいました。
元々猫が好きでしたが、悲惨な状態が目について仕方なかった。
当時は雑誌の編集の仕事をしていて時間が無かった。
18年近い取り組みがあって、2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
2011年から千代田区内で保護された猫が東京都動物愛護相談センターで取り扱われて処分になることはないということになっています。
2000年に千代田区の飼い主の居ない猫の去勢不妊手術費助成事業を始めました。
繁殖を抑えようと立ち上がりました。
2000年は動物愛護管理法、動物愛護法が施行された年でもありました。
猫の繁殖力は生後半年の雌猫が妊娠し始めたりして、年に2~3回出産します。
1度の出産で4~5頭の子猫を出産します。
一生に200頭の子猫を産むと言われています。
交尾するとほとんど100%妊娠します。
猫は爆発的に増えて行きますので、不妊去勢手術が一番の猫問題を解決に向けての鍵になります。
手術の費用が雄が1万7000円、雌が2万円。(妊娠中は2万5000円)
ボランティアも募集しました。
会報を作り始めたりしました。
「ちよだニャンとなる会」という名前がいつの間にか出来ました。
2011年に殺処分ゼロになりました。
歩きたばこの禁止も全国で一番最初に千代田区が始めました。
猫の飼い主がいるかどうかを調べ、一時保護して協力動物病院に運んで去勢手術をして、耳先をV字カットをして手術をしたという目印にしました。(ピアスを付けたが取れてしまう)
TNR活動(トラップ(Trap)、ニューター(Nyuta 去勢不妊手術)、リターン(Return)を千代田区が事業を推進して行く中で、相当猫の繁殖が押さえられてきて、劇的に減っていきました。
猫の譲渡活動も進めて来ました。
2014年から保護、譲渡にお金が掛かるので、検査医療処置費を1頭6000円助成するようになりました。
TNTA活動、(ニューター、テイム(Tame 人に慣らす)、アダプト(Adapt 譲渡する))
人に慣れていない猫を人に慣らす、そして譲渡する。
協力動物病院に安価で預かっていただくことになりましたが、その費用が一番おおいです。
1匹7万5000円を上限に預かり費用を助成されるようになりました。
ワクチン、病気も治す、そして初めて譲渡できることになる。
ウイルス検査、ダニ、寄生虫の駆虫もして、ワクチン接種、去勢手術、個体識別のマイクロチップも埋め込んで責任譲渡します。
譲渡会は年間5~6回開催しています。
次は10月14日、千代田区役所で行います。
譲渡は年間50頭位です。(おとなの猫が多い、病気障害のある猫を含めるので)
情報の受発信を大事にしています。(インターネット、フェイスブック、会報など)
イベントもやっています。(2016年から開催)
今年は1万4000人が来ました。
イベントの収益は経費を引いて猫の医療費に活用しています。
このイベントでも譲渡会を行っています。
「千代田モデル」と言われています。
行政、ボランティア、区民、在勤者も巻き込んで、みんなで取り組んでいこうと言うことでやってきました。
年間予算は750万円位です。
今年4月に動物愛護係を創設して珍しい係だそうです。
猫の活動を通して物凄く知り合いが増え、話ができたりして楽しいです。
人口は6万人を越えましたが、一時期3万人台だった時もあります。
昼間は85万人位になります。
6万人の9割がたはマンションに住んでいますが、猫の繋がりから話が盛り上がったりしています。
17年間の活動で猫を介在して、コミュニケーションネットワークが広がってきました。
一番の課題は殺処分ゼロの記録を続けて行くためには、譲渡しにくい猫ばかりで、譲渡型保護猫カフェを秋葉原地区でオープンする予定です。
旧旅館を使ってやります。(古民家再生ということで)
3・11の時に仙台市からの要請を千代田区が受けて、被災地で生まれた子猫を引き受けて譲渡先を見つける活動を行っています。
ペットを災害時にどうするか、という問題がある。
人命優先とはいえ、ペットも家族の一員であるという認識はたててほしい。
逆の言い方をすると、被災したとはいえ、その人、家族に終生飼育を全うしてもらいたい。(同行避難)
高齢者の多頭飼育の崩壊の問題もあります。
世話をし切れなくなって不妊去勢手術を怠り、増えて行ってついに世話をしきれないまま
不衛生な環境の中で共にいると言う、多頭飼育の崩壊が全国各地で発生しています。
これからの課題となって行くと思います。
ペットが行き場を失わないように、最低限のことをしていかないといけないのかと思います。(次の飼育者を紹介等)
公正証書の遺言、ペットとお金を一緒に遺贈するという形の遺言。
養育費、医療費、謝礼の3つの意味を込めて金額を設定すればいいのかと思います。
私は猫を引き受けてくれる人を指定して、公正証書に書いてあります。
動物愛護管理法という法律が有るが、飼い主が終生責任を持って飼育すべき愛護動物と定められている。
今日から動物愛護週間、犬や猫を家族の様に可愛がっている家族も多いと思います。
一方で飼い主がなく殺処分されてしまった犬や猫は、平成28年度1年間で全国で5万6000頭にのぼります。
実にその8割に当たる4万6000頭が猫です。
東京都千代田区では2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
行政とボランティアがうまく連携した猫の保護、譲渡活動は千代田モデルと言われ全国の注目を集めています。
そのボランティアグループ「ちよだニャンとなる会」代表理事の香取さんに先駆的な千代田モデルの活動の実態と猫と人間のあるべき環境について伺いました。
5匹飼っていますが、全部飼い主がいなかった猫です。
私は千代田区に生まれ育ちました。
かつては千代田区内でも飼い主がいない猫が暮らしていました。
ビル街にも猫がいました。
元々猫が好きでしたが、悲惨な状態が目について仕方なかった。
当時は雑誌の編集の仕事をしていて時間が無かった。
18年近い取り組みがあって、2011年から猫の殺処分ゼロが7年間も続いています。
2011年から千代田区内で保護された猫が東京都動物愛護相談センターで取り扱われて処分になることはないということになっています。
2000年に千代田区の飼い主の居ない猫の去勢不妊手術費助成事業を始めました。
繁殖を抑えようと立ち上がりました。
2000年は動物愛護管理法、動物愛護法が施行された年でもありました。
猫の繁殖力は生後半年の雌猫が妊娠し始めたりして、年に2~3回出産します。
1度の出産で4~5頭の子猫を出産します。
一生に200頭の子猫を産むと言われています。
交尾するとほとんど100%妊娠します。
猫は爆発的に増えて行きますので、不妊去勢手術が一番の猫問題を解決に向けての鍵になります。
手術の費用が雄が1万7000円、雌が2万円。(妊娠中は2万5000円)
ボランティアも募集しました。
会報を作り始めたりしました。
「ちよだニャンとなる会」という名前がいつの間にか出来ました。
2011年に殺処分ゼロになりました。
歩きたばこの禁止も全国で一番最初に千代田区が始めました。
猫の飼い主がいるかどうかを調べ、一時保護して協力動物病院に運んで去勢手術をして、耳先をV字カットをして手術をしたという目印にしました。(ピアスを付けたが取れてしまう)
TNR活動(トラップ(Trap)、ニューター(Nyuta 去勢不妊手術)、リターン(Return)を千代田区が事業を推進して行く中で、相当猫の繁殖が押さえられてきて、劇的に減っていきました。
猫の譲渡活動も進めて来ました。
2014年から保護、譲渡にお金が掛かるので、検査医療処置費を1頭6000円助成するようになりました。
TNTA活動、(ニューター、テイム(Tame 人に慣らす)、アダプト(Adapt 譲渡する))
人に慣れていない猫を人に慣らす、そして譲渡する。
協力動物病院に安価で預かっていただくことになりましたが、その費用が一番おおいです。
1匹7万5000円を上限に預かり費用を助成されるようになりました。
ワクチン、病気も治す、そして初めて譲渡できることになる。
ウイルス検査、ダニ、寄生虫の駆虫もして、ワクチン接種、去勢手術、個体識別のマイクロチップも埋め込んで責任譲渡します。
譲渡会は年間5~6回開催しています。
次は10月14日、千代田区役所で行います。
譲渡は年間50頭位です。(おとなの猫が多い、病気障害のある猫を含めるので)
情報の受発信を大事にしています。(インターネット、フェイスブック、会報など)
イベントもやっています。(2016年から開催)
今年は1万4000人が来ました。
イベントの収益は経費を引いて猫の医療費に活用しています。
このイベントでも譲渡会を行っています。
「千代田モデル」と言われています。
行政、ボランティア、区民、在勤者も巻き込んで、みんなで取り組んでいこうと言うことでやってきました。
年間予算は750万円位です。
今年4月に動物愛護係を創設して珍しい係だそうです。
猫の活動を通して物凄く知り合いが増え、話ができたりして楽しいです。
人口は6万人を越えましたが、一時期3万人台だった時もあります。
昼間は85万人位になります。
6万人の9割がたはマンションに住んでいますが、猫の繋がりから話が盛り上がったりしています。
17年間の活動で猫を介在して、コミュニケーションネットワークが広がってきました。
一番の課題は殺処分ゼロの記録を続けて行くためには、譲渡しにくい猫ばかりで、譲渡型保護猫カフェを秋葉原地区でオープンする予定です。
旧旅館を使ってやります。(古民家再生ということで)
3・11の時に仙台市からの要請を千代田区が受けて、被災地で生まれた子猫を引き受けて譲渡先を見つける活動を行っています。
ペットを災害時にどうするか、という問題がある。
人命優先とはいえ、ペットも家族の一員であるという認識はたててほしい。
逆の言い方をすると、被災したとはいえ、その人、家族に終生飼育を全うしてもらいたい。(同行避難)
高齢者の多頭飼育の崩壊の問題もあります。
世話をし切れなくなって不妊去勢手術を怠り、増えて行ってついに世話をしきれないまま
不衛生な環境の中で共にいると言う、多頭飼育の崩壊が全国各地で発生しています。
これからの課題となって行くと思います。
ペットが行き場を失わないように、最低限のことをしていかないといけないのかと思います。(次の飼育者を紹介等)
公正証書の遺言、ペットとお金を一緒に遺贈するという形の遺言。
養育費、医療費、謝礼の3つの意味を込めて金額を設定すればいいのかと思います。
私は猫を引き受けてくれる人を指定して、公正証書に書いてあります。
動物愛護管理法という法律が有るが、飼い主が終生責任を持って飼育すべき愛護動物と定められている。
2018年9月19日水曜日
美輪明宏(歌手) ・平和への思いを歌に込め(2)
美輪明宏(歌手) ・平和への思いを歌に込め(2)
美輪さんが見た戦時中の親子の愛、無償の愛を歌った「愛の賛歌」に込められた想いなどを伺います。
原爆の後で死体を掘り起こすが、焼けただれた親子の死体が出てきて、自分は焼けただれても子供だけは助けたいと、必ず覆いかぶさってお腹の下にしっかり子供を抱き込んで亡くなっている。
親子というものはやっぱりこうでありたいと思います。
炭みたいにまっ黒けでした、それを見ました。
うちに勤めていたボーイさんが出征して、駅に行ってホステスさんらとともに「万歳、万歳」と言って汽車を送り出しゆっくりと動き出して行きました。
さんちゃんはタラップに立っていました。
出発し始めた時に、さんちゃんのお母さんが人々を押しのけて、タラップに立っているさんちゃんの足元にしがみついて「死ぬなよ どげんしても死ぬなよ、生きて帰ってこい」と言ったんです。
軍属みたいな人が立っていて、「貴様」といってお婆さんの襟首を掴んで放り投げたんです。
鉄柱が有り鉄柱に頭をぶつけて、即死しなかっただけ不思議でした。
さんちゃんが最後に見たのは、母親が憲兵に突き飛ばされて、血だらけの顔を見ながら出征して行ったわけです。
さんちゃんの顔はすさまじい顔でした。
二度と徴兵制度なんかしてはだめですよ。
愛の中でも色んな種類の愛が有ると思う。
恋愛、恋が先で愛が後、愛恋とは言わない。
恋の段階では待ち合わせをした時に遅れたりすると、待たされた自分の方のプライドや怒りの方が大事で、相手のことは考えていない。
愛迄行くと、自分が待たされているという事よりも、相手のことが心配になり、やっと来てくれると「アー良かった」と言って相手を気遣う言葉を言ってあげたりする。
買い物をしても相手のことばかり考える。
そういうことができるのが愛だと思います。
愛だけになると、永遠、与えっぱなし、見返りが返ってこなくてもそんなの平気なんです。
だから私の「愛の賛歌」がNHKの紅白で歌った時は、「花子とアン」での柳原白蓮の駆け落ちのシーンで「愛の賛歌」の歌がまるまる4分使われて大反響がありましたが、それが愛だからです。
原詩がそういうふうにできているんです。
色んな方が「愛の賛歌」を歌いますが、みんな恋なんです。
越路吹雪さんが歌ったのは、あれはあれでポピュラーにするには、あれで必然性があってそれはそれで良かったと思いますが、でも愛ではないんです。
岩谷時子 日本語詞
「あなたの燃える手で 私を抱きしめて ただ二人だけで生きて行きたいの
ただ命のある限り私は愛したい 命の限り私は愛したい ・・・・」
原詩をよく読んでみると、それとはどうもしっくりしない。
「高く碧い空が 頭の上に落ちてきたって この大地が割れてひっくり返ったって
世界中のどんな重要などんな出来事だってどうってことはありゃしない
貴方のこの愛の前には
朝目が覚めた時 あなたの掌の下で私の身体が愛に震えている
私はそれだけで十分
もし貴方が行けと言うんだったら 世界の果てまでだって付いてゆくし
もし貴方が盗めと言うんだったら どんな高い宝物だって お月さまだって盗みにいくわ
もし貴方がそうしろと言うんだったら ブロンドだって染めるし
もし貴方が言うんだったら 愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ
もし貴方が言うんだったら どんな恥ずかしい事だって 人前であろうとなんだろうとやってのける
そしてやがて時が過ぎて死が、私から貴方を引き裂いたとしても それも平気よ
だって私も必ず死ぬのだから そして死んだ後でも 二人は手に手を取って
あのどこまでもどこまでも広がる真っ青な空の碧の中で
永遠の愛を誓い合うのよ そしてそういう私達を神様が永遠に結びつけて下さる
祝福して下さるだろう」
そういった歌詞だったんです。
ピアフはそういう人だったんです。
(インターネットからの美輪明宏 日本語詞
「高く碧い空が 落ちてきたとしても 海が轟いて 押し寄せたとて
あなたがいる限り 私は恐れない 愛する心に 恐れるものは無い
貴方が言うなら この黒髪を何色にでも
貴方が言うなら たとえ地の涯(は)て 世界の涯ても
貴方が言うなら どんな恥でも 耐え忍びます
貴方が言うなら 愛する国も 友も捨てよう」)
皆さんに愛というものはこういうものですよ、という事を知って欲しかったんです。
フランスで2本映画が出来ているが、全部中途半端で恋なんです。(我まま、無教養)
私は若い皆さんに気付いてもらおうと、何度も何度もお芝居にしてやっています。
今はIT社会、デジタル社会は便利で利便性ばっかり考えて作られたもので、それの引き換えに健康を失ってしまった。
人間は肉体と精神で出来ているが、健康を維持する食料は過剰なぐらい出回っている。
精神の健康を維持するものは何かというと良質な文化です。
若者が大音響で歌う歌はエネルギーを発散させるにはいいかもしれないが、優しくする、安らぎ、癒す、それには程遠い。
名曲はメロディーが美しい、音楽はメロディー、ハーモニー、リズム、強弱の4つがそろって良質な音楽となる。
人間は自分の身を守ろうとしてアップアップする。
親が子を殺し、子が親を殺す恐ろしい時代になり、無差別殺人事件などが起きてきている、言葉、文化です。
昔は言葉が綺麗でした。
丁寧語を使っていた。
ねぎらいの言葉、感謝の言葉を気前よく使っていた。
そうすると節度、儀礼、人としてちゃんと尊敬されていると思う。
感情を理性で抑えたりバランスを取って、自分が自由自在に感情を処理することは一番難しい。
怒るは感情的、叱るは諭すという事(主体性を持たせて自分で答えを出させるように順々と説いてゆく。)
親子では無くて、子供でも人間としてとらえる事が大事です。
人間として世の中を上手くしていくための通行手形が「微笑み」です。
微笑んでいる人間を嫌いな人はいないと思います。
愛にも色んな愛があるので、秋のコンサートにはそれを並べて曲にして進行していくことにしています。
人間はみんな天命を持っている、この世の中に役目を授かっていない人は誰もいません、だから私はこうやって元気に生かされているんだと思います。。
美輪さんが見た戦時中の親子の愛、無償の愛を歌った「愛の賛歌」に込められた想いなどを伺います。
原爆の後で死体を掘り起こすが、焼けただれた親子の死体が出てきて、自分は焼けただれても子供だけは助けたいと、必ず覆いかぶさってお腹の下にしっかり子供を抱き込んで亡くなっている。
親子というものはやっぱりこうでありたいと思います。
炭みたいにまっ黒けでした、それを見ました。
うちに勤めていたボーイさんが出征して、駅に行ってホステスさんらとともに「万歳、万歳」と言って汽車を送り出しゆっくりと動き出して行きました。
さんちゃんはタラップに立っていました。
出発し始めた時に、さんちゃんのお母さんが人々を押しのけて、タラップに立っているさんちゃんの足元にしがみついて「死ぬなよ どげんしても死ぬなよ、生きて帰ってこい」と言ったんです。
軍属みたいな人が立っていて、「貴様」といってお婆さんの襟首を掴んで放り投げたんです。
鉄柱が有り鉄柱に頭をぶつけて、即死しなかっただけ不思議でした。
さんちゃんが最後に見たのは、母親が憲兵に突き飛ばされて、血だらけの顔を見ながら出征して行ったわけです。
さんちゃんの顔はすさまじい顔でした。
二度と徴兵制度なんかしてはだめですよ。
愛の中でも色んな種類の愛が有ると思う。
恋愛、恋が先で愛が後、愛恋とは言わない。
恋の段階では待ち合わせをした時に遅れたりすると、待たされた自分の方のプライドや怒りの方が大事で、相手のことは考えていない。
愛迄行くと、自分が待たされているという事よりも、相手のことが心配になり、やっと来てくれると「アー良かった」と言って相手を気遣う言葉を言ってあげたりする。
買い物をしても相手のことばかり考える。
そういうことができるのが愛だと思います。
愛だけになると、永遠、与えっぱなし、見返りが返ってこなくてもそんなの平気なんです。
だから私の「愛の賛歌」がNHKの紅白で歌った時は、「花子とアン」での柳原白蓮の駆け落ちのシーンで「愛の賛歌」の歌がまるまる4分使われて大反響がありましたが、それが愛だからです。
原詩がそういうふうにできているんです。
色んな方が「愛の賛歌」を歌いますが、みんな恋なんです。
越路吹雪さんが歌ったのは、あれはあれでポピュラーにするには、あれで必然性があってそれはそれで良かったと思いますが、でも愛ではないんです。
岩谷時子 日本語詞
「あなたの燃える手で 私を抱きしめて ただ二人だけで生きて行きたいの
ただ命のある限り私は愛したい 命の限り私は愛したい ・・・・」
原詩をよく読んでみると、それとはどうもしっくりしない。
「高く碧い空が 頭の上に落ちてきたって この大地が割れてひっくり返ったって
世界中のどんな重要などんな出来事だってどうってことはありゃしない
貴方のこの愛の前には
朝目が覚めた時 あなたの掌の下で私の身体が愛に震えている
私はそれだけで十分
もし貴方が行けと言うんだったら 世界の果てまでだって付いてゆくし
もし貴方が盗めと言うんだったら どんな高い宝物だって お月さまだって盗みにいくわ
もし貴方がそうしろと言うんだったら ブロンドだって染めるし
もし貴方が言うんだったら 愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ
もし貴方が言うんだったら どんな恥ずかしい事だって 人前であろうとなんだろうとやってのける
そしてやがて時が過ぎて死が、私から貴方を引き裂いたとしても それも平気よ
だって私も必ず死ぬのだから そして死んだ後でも 二人は手に手を取って
あのどこまでもどこまでも広がる真っ青な空の碧の中で
永遠の愛を誓い合うのよ そしてそういう私達を神様が永遠に結びつけて下さる
祝福して下さるだろう」
そういった歌詞だったんです。
ピアフはそういう人だったんです。
(インターネットからの美輪明宏 日本語詞
「高く碧い空が 落ちてきたとしても 海が轟いて 押し寄せたとて
あなたがいる限り 私は恐れない 愛する心に 恐れるものは無い
貴方が言うなら この黒髪を何色にでも
貴方が言うなら たとえ地の涯(は)て 世界の涯ても
貴方が言うなら どんな恥でも 耐え忍びます
貴方が言うなら 愛する国も 友も捨てよう」)
皆さんに愛というものはこういうものですよ、という事を知って欲しかったんです。
フランスで2本映画が出来ているが、全部中途半端で恋なんです。(我まま、無教養)
私は若い皆さんに気付いてもらおうと、何度も何度もお芝居にしてやっています。
今はIT社会、デジタル社会は便利で利便性ばっかり考えて作られたもので、それの引き換えに健康を失ってしまった。
人間は肉体と精神で出来ているが、健康を維持する食料は過剰なぐらい出回っている。
精神の健康を維持するものは何かというと良質な文化です。
若者が大音響で歌う歌はエネルギーを発散させるにはいいかもしれないが、優しくする、安らぎ、癒す、それには程遠い。
名曲はメロディーが美しい、音楽はメロディー、ハーモニー、リズム、強弱の4つがそろって良質な音楽となる。
人間は自分の身を守ろうとしてアップアップする。
親が子を殺し、子が親を殺す恐ろしい時代になり、無差別殺人事件などが起きてきている、言葉、文化です。
昔は言葉が綺麗でした。
丁寧語を使っていた。
ねぎらいの言葉、感謝の言葉を気前よく使っていた。
そうすると節度、儀礼、人としてちゃんと尊敬されていると思う。
感情を理性で抑えたりバランスを取って、自分が自由自在に感情を処理することは一番難しい。
怒るは感情的、叱るは諭すという事(主体性を持たせて自分で答えを出させるように順々と説いてゆく。)
親子では無くて、子供でも人間としてとらえる事が大事です。
人間として世の中を上手くしていくための通行手形が「微笑み」です。
微笑んでいる人間を嫌いな人はいないと思います。
愛にも色んな愛があるので、秋のコンサートにはそれを並べて曲にして進行していくことにしています。
人間はみんな天命を持っている、この世の中に役目を授かっていない人は誰もいません、だから私はこうやって元気に生かされているんだと思います。。
2018年9月18日火曜日
美輪明宏(歌手) ・平和への思いを歌に込め(1)
美輪明宏(歌手) ・平和への思いを歌に込め(1)
歌手、俳優、演出家など様々な活躍をされている美輪さん、1935年長崎県で生まれました。
料亭やカフェなどを営む裕福な家庭で育ちました。
15歳で歌手を目指し上京、音楽学校に進学します。
しかし実家が破産し、学費が払えず退学を余儀なくされ生活は行き詰まります。
その状況を救ったのが、東京銀座に開店したばかりのシャンソン喫茶「銀巴里」でした。
17歳だった美輪さんはそれからおよそ40年店のステージで、愛と平和をテーマに歌い続けました。
今日は美輪さんの戦後と重なる思い出の地「銀巴里」、そして代表曲「ヨイトマケの唄」の誕生についての話を伺います。
「銀巴里」跡という石碑が建っています。
喫茶店が一軒潰れただけで、その喫茶店の跡に石碑があって記念碑が建つなんてないですよ。
入口から地下に入って行くようになって、壁一面パリの街の景色が見下ろすように描いてあって、中に入ると廊下があって広々としていました。
ソフトドリンクを飲みながらシャンソンを聞くわけです。
普通のお客さんではない方が多かった。
美術、文学、音楽、政治、経済、スポーツなどんな話をしても丁々発止でやっていけるだけの凄い知識をもった文化人が多かった。
有名人も沢山いました。(三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、大江健三郎、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一、遠藤周作、絵描きだと岡本太郎ら 数えきれないほど)
北海道の青年たちが冬に仕事が無いので出稼ぎに来て、なかにはなけなしのお金をはらって来てくれますが、はたしてこのお金に匹敵するだけの歌を歌っているんだろうかと思いました。
それが原点になっています。
「銀巴里」からプロとしての私の歩みが始まりました。
お客さんが悲しみ、苦しみやいろんなものを抱いて来る方もいるので、私が苦しいとか悲しいとかうちひしがれて、内的な問題をそのまま抱えてお店の中をうろうろすると雰囲気が悪くなるので、だから私はプライベートをお客様の前に持ち出してはならないという気概で接します。
お客さんと顔見知りになり色々話をしますが、自分のことは一切しない、聞くだけです。
思い出が山ほどできます、それが私の宝物になっています。
お国訛りには暖かくて愛が有ると思います、
15歳まで長崎にいました。
お風呂屋さんもやっていて番台にいて、当時中流の上の人でも来ますが見ると、着物は皆立派でも裸になると情けない気の毒な身体をしていました。
逆にヨイトマケの若者、労働者は粗末なものを脱ぐが、ギリシャ彫刻のような素晴らしい身体をしていました。
着る物ってなんだろうと思いました。
カフェ(バーに近いような)もやっていましたが、要職にあるような方(政治家、お坊さん、学校の先生など)がお忍びで来る訳です。
酔うほどに正体を現して、ホステスさんのスカートに手を突っ込んだり、頭を突っ込んだりして、頭にビールを掛けられてへらへらしている、一体昼間の顔はなんなの嘘じゃないかと思いました、ですから私の前に権威は通じなくなりました。
人を見る時に、年齢、性別、国籍、肩書き、容姿、一切吹っ飛ばしてしまって見えないものを見る、それは心、目の前にいる人の心が綺麗か汚いか、清らかか、まともか、それだけが問題であって、それを見る癖が付いてしまいました。
小学校の低学年の時に、父兄会が有り皆さんおしゃれしてきていて、遅れてきたお母さんがハッピ姿で臭いも凄かった。
一番できの悪い子のお母さんだった。
休憩時間になって自分の子が鼻を垂らしていて、そのお母さんは自分の口で鼻をすすって窓から吐いたんです。
どうして手拭を使わないのかと思ったら、頭にかぶる商売ものだから手拭いは使えなかったということだった。(後から聞いた話)
可愛くてしょうがないと言う様に、一生懸命自分の子供の身なりなどを整えてやっていました。
気取っていてお互いに着ているものを品定めしているお母さんたちが、凄く卑しく見えました。
汚いお母さんが光明皇后の前に現れた薬師如来の様に見えたんです。
或る時その子がいじめられてお母さんの所に戻って行く時に、一緒に付いて言ったら、貧乏人だからと言っていじめられたというようなことを言ったら、金持ちだからと言って偉いんじゃない、勉強ができると言っても偉くはない、人間で一番偉いのは神様の前できちっと立って真っ直ぐに神様の目を見える、優しくて清らかで、一生懸命働いて、正直でそれが一番偉いんだとだから泣くな、お前は一番偉いんだ、と言いました。
それを聞いた時に、感動しました。
或る屋台でトラブルがあって、やくざが縄張りの件で青年を脅かしていた。
その親分がシャンソンファンで「銀巴里」に来ていて知っていたので、可愛そうなので赦して貰える様に話をしました。
そうしたらその青年が売り物の香水を持って「銀巴里」に来ました。
売り物の香水は受け取りませんでした。
その青年が時々来るようになって、話を聞いたら波乱万丈の人生でした。
満州で終戦後にロシア兵が襲ってきて、父親がエンジニアだったが、その両親が目の前で殺されて、お手伝いの中国人が私の子だと言って助けてくれたそうです。
船に乗せてもらって九州に帰ってきて、廃品回収業のおじいさんの元に引き取られたが、お爺さんが亡くなってしまって、遺体をリヤカーに積んで、焼き場に持って行って、これからどうしようかと考えたそうです。
戦争孤児を引き取る施設があって、そこへ自分から行ったが、中学になると追い出されてしまう。
あらゆることをやって、今大学に行っているとの事であった。
ヘルメットで工事現場にいたので、その若者はエンジニアを目指していたが、なれなかったのかと聞いたら、なれたということだった。
別れて「銀巴里」に向かう途中に単純なメロディーが聞こえてきた。
忘れていた小学校時代の同級生のお母さんのヨイトマケの姿が焼き付いていたのが蘇ってきて、直ぐうちに帰って譜面を書いて詩を書いたら、1~2時間足らずで出来上がってしまいました。
「銀巴里」から帰って、友達呼んで赤飯炊いてお祝いしたら、彼が両手をついて泣きだしました。
自分は生まれてこの方、自分のことでお赤飯を炊いて祝ってくれた人は一人もいなかったということで嬉しいと言って、一生忘れませんと言って、みんな貰い泣きしました。
その時私はこういう歌が出来たといって、披露したら皆良い歌だと言って泣いてくれました。
ビジュアル系の「メケメケ」を辞めて、素顔でワイシャツ一枚で歌う様になったもんだから、商品価値がなくなったということで、仕事が全然来なくなりました。
戦争反対というようなものはだめだと言われました。
或るTV局から電話があり、歌ってほしいということで、歌ったら凄い反響でした。
2万通の手紙が来ました。(労働者、母子家庭などから)
TV局からアンコールが有り、そうしたら5万通の手紙がまた来ました。
社会派と言われていたが、それから受け入れてもらえるようになりました。
歌手、俳優、演出家など様々な活躍をされている美輪さん、1935年長崎県で生まれました。
料亭やカフェなどを営む裕福な家庭で育ちました。
15歳で歌手を目指し上京、音楽学校に進学します。
しかし実家が破産し、学費が払えず退学を余儀なくされ生活は行き詰まります。
その状況を救ったのが、東京銀座に開店したばかりのシャンソン喫茶「銀巴里」でした。
17歳だった美輪さんはそれからおよそ40年店のステージで、愛と平和をテーマに歌い続けました。
今日は美輪さんの戦後と重なる思い出の地「銀巴里」、そして代表曲「ヨイトマケの唄」の誕生についての話を伺います。
「銀巴里」跡という石碑が建っています。
喫茶店が一軒潰れただけで、その喫茶店の跡に石碑があって記念碑が建つなんてないですよ。
入口から地下に入って行くようになって、壁一面パリの街の景色が見下ろすように描いてあって、中に入ると廊下があって広々としていました。
ソフトドリンクを飲みながらシャンソンを聞くわけです。
普通のお客さんではない方が多かった。
美術、文学、音楽、政治、経済、スポーツなどんな話をしても丁々発止でやっていけるだけの凄い知識をもった文化人が多かった。
有名人も沢山いました。(三島由紀夫、川端康成、野坂昭如、大江健三郎、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一、遠藤周作、絵描きだと岡本太郎ら 数えきれないほど)
北海道の青年たちが冬に仕事が無いので出稼ぎに来て、なかにはなけなしのお金をはらって来てくれますが、はたしてこのお金に匹敵するだけの歌を歌っているんだろうかと思いました。
それが原点になっています。
「銀巴里」からプロとしての私の歩みが始まりました。
お客さんが悲しみ、苦しみやいろんなものを抱いて来る方もいるので、私が苦しいとか悲しいとかうちひしがれて、内的な問題をそのまま抱えてお店の中をうろうろすると雰囲気が悪くなるので、だから私はプライベートをお客様の前に持ち出してはならないという気概で接します。
お客さんと顔見知りになり色々話をしますが、自分のことは一切しない、聞くだけです。
思い出が山ほどできます、それが私の宝物になっています。
お国訛りには暖かくて愛が有ると思います、
15歳まで長崎にいました。
お風呂屋さんもやっていて番台にいて、当時中流の上の人でも来ますが見ると、着物は皆立派でも裸になると情けない気の毒な身体をしていました。
逆にヨイトマケの若者、労働者は粗末なものを脱ぐが、ギリシャ彫刻のような素晴らしい身体をしていました。
着る物ってなんだろうと思いました。
カフェ(バーに近いような)もやっていましたが、要職にあるような方(政治家、お坊さん、学校の先生など)がお忍びで来る訳です。
酔うほどに正体を現して、ホステスさんのスカートに手を突っ込んだり、頭を突っ込んだりして、頭にビールを掛けられてへらへらしている、一体昼間の顔はなんなの嘘じゃないかと思いました、ですから私の前に権威は通じなくなりました。
人を見る時に、年齢、性別、国籍、肩書き、容姿、一切吹っ飛ばしてしまって見えないものを見る、それは心、目の前にいる人の心が綺麗か汚いか、清らかか、まともか、それだけが問題であって、それを見る癖が付いてしまいました。
小学校の低学年の時に、父兄会が有り皆さんおしゃれしてきていて、遅れてきたお母さんがハッピ姿で臭いも凄かった。
一番できの悪い子のお母さんだった。
休憩時間になって自分の子が鼻を垂らしていて、そのお母さんは自分の口で鼻をすすって窓から吐いたんです。
どうして手拭を使わないのかと思ったら、頭にかぶる商売ものだから手拭いは使えなかったということだった。(後から聞いた話)
可愛くてしょうがないと言う様に、一生懸命自分の子供の身なりなどを整えてやっていました。
気取っていてお互いに着ているものを品定めしているお母さんたちが、凄く卑しく見えました。
汚いお母さんが光明皇后の前に現れた薬師如来の様に見えたんです。
或る時その子がいじめられてお母さんの所に戻って行く時に、一緒に付いて言ったら、貧乏人だからと言っていじめられたというようなことを言ったら、金持ちだからと言って偉いんじゃない、勉強ができると言っても偉くはない、人間で一番偉いのは神様の前できちっと立って真っ直ぐに神様の目を見える、優しくて清らかで、一生懸命働いて、正直でそれが一番偉いんだとだから泣くな、お前は一番偉いんだ、と言いました。
それを聞いた時に、感動しました。
或る屋台でトラブルがあって、やくざが縄張りの件で青年を脅かしていた。
その親分がシャンソンファンで「銀巴里」に来ていて知っていたので、可愛そうなので赦して貰える様に話をしました。
そうしたらその青年が売り物の香水を持って「銀巴里」に来ました。
売り物の香水は受け取りませんでした。
その青年が時々来るようになって、話を聞いたら波乱万丈の人生でした。
満州で終戦後にロシア兵が襲ってきて、父親がエンジニアだったが、その両親が目の前で殺されて、お手伝いの中国人が私の子だと言って助けてくれたそうです。
船に乗せてもらって九州に帰ってきて、廃品回収業のおじいさんの元に引き取られたが、お爺さんが亡くなってしまって、遺体をリヤカーに積んで、焼き場に持って行って、これからどうしようかと考えたそうです。
戦争孤児を引き取る施設があって、そこへ自分から行ったが、中学になると追い出されてしまう。
あらゆることをやって、今大学に行っているとの事であった。
ヘルメットで工事現場にいたので、その若者はエンジニアを目指していたが、なれなかったのかと聞いたら、なれたということだった。
別れて「銀巴里」に向かう途中に単純なメロディーが聞こえてきた。
忘れていた小学校時代の同級生のお母さんのヨイトマケの姿が焼き付いていたのが蘇ってきて、直ぐうちに帰って譜面を書いて詩を書いたら、1~2時間足らずで出来上がってしまいました。
「銀巴里」から帰って、友達呼んで赤飯炊いてお祝いしたら、彼が両手をついて泣きだしました。
自分は生まれてこの方、自分のことでお赤飯を炊いて祝ってくれた人は一人もいなかったということで嬉しいと言って、一生忘れませんと言って、みんな貰い泣きしました。
その時私はこういう歌が出来たといって、披露したら皆良い歌だと言って泣いてくれました。
ビジュアル系の「メケメケ」を辞めて、素顔でワイシャツ一枚で歌う様になったもんだから、商品価値がなくなったということで、仕事が全然来なくなりました。
戦争反対というようなものはだめだと言われました。
或るTV局から電話があり、歌ってほしいということで、歌ったら凄い反響でした。
2万通の手紙が来ました。(労働者、母子家庭などから)
TV局からアンコールが有り、そうしたら5万通の手紙がまた来ました。
社会派と言われていたが、それから受け入れてもらえるようになりました。
2018年9月17日月曜日
寺澤康行(日本鳴く虫保存会) ・【にっぽんの音】
寺澤康行(日本鳴く虫保存会) ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
くさひばり
ラフカディオ・ハーンがこの虫が好きで自宅で飼っていた。
午前中にも鳴くので、朝鈴という別名もあります。
1cm程度の大きさ。
11月位まで聞ける。
この会が出来てから51年目で、私が虫を飼い始めたのが昭和25年です。
担任の先生が5匹鈴虫をくれて、そこから始まりました。
作ったきっかけはカンタンという虫がいますが、この虫の人工飼育がなかなかできなかった。
小野さんという方が成功して、その技術をみんなに広げたいと言うことと、鳴く虫全部をやろうじゃないかと言うことになりました。(都市開発で虫が段々居なくなってきた)
①虫の飼育能力の向上。
②虫の文化を皆さんに知ってもらおう。
この二つの目的で活動しています。
鈴虫を無料配布をやってその時にアンケートをやりましたが、なんで飼いたいのかというと男性は郷愁なんですね。
今年3月には去年よりも3.1℃平均気温が高かった、4月は2.5℃高かった。
そうすると虫に対しる影響が有り早く孵化して、早く成長することになる。
9月にコンクールをやるが、その時にはお爺さんになってしまって鳴かなくなってしまうと言うことがある。
虫の寿命は大雑把に、土の中に8カ月、地上に出てきてから4カ月です。
暑いとどんどん成長してしまう。
鳴く虫コンクールは20回目になります。
鈴虫、松虫、カンタンの3種類の競技を行います。
この3種類は声がいいので選びました。
鈴虫は地面に卵を産みますが、松虫、カンタンは草の茎に産みます。
カンタンは茎の20cm以上の処に産む、松虫は地面の近くの茎の処に産む。
鈴虫は黒、松虫は茶色、カンタンは黄色から緑色。
体色が保護色になっている。(場所を住み分けている)
審査員は15名程度で、①綺麗な声、澄んだ声、②大きな声、③長く鳴く
この三つでポイントが入ります。
鳴き声もある程度飼育で工夫ができます。
コンクールで優勝した虫の子供がそれを引き継ぐかどうかですが、、卵を100個以上産むので、どれが引き継いでいるのかどうか判らないので、中途で匙を投げてしまいます。
審査の時間が夕方6時~6時40分ぐらいで、普通これらの虫が鳴くのは7時30分過ぎなので、早いからなかなか鳴かない。
暗くするがそれだけでは鳴かない、がっかりして帰ると電車の中で鳴いたりするわけです。
ですから誰が優勝するかはやってみないと判らない。
一緒に鳴くので聞き分けが難しい。
鈴虫は リーン リーン リーンと3回鳴いてお休みします。
松虫は チンチロリン チン チン チンチロリンと鳴いて休みます。
カンタンはルー ルー ルー・・・、と1時間以上鳴いています。
カンタンの鳴く好きな温度は24~26℃位です。
それ以上高いと声が高くなって行って、それ以上になると鳴かなくなります。
求愛の声なので、鳴くのは雄です。
実験で若い雄、ちょっと歳取った雄と、雌を置いて同時に鳴かせた時にどっちに行くかというと、雌は高い音、澄んだ音の方に行くということが判りました。
雌は、若くて大きな声で元気に鳴くのがいい、結局若い方に行きました。
人間が聞いても澄んだ声で大きな声で鳴く方がいいですね。
かねたたき くさひありとおなじ位の大きさ
くつわむし 6cm位の大きさ 馬のくつわのガチャガチャする音から来たらしい。
昔には何処にでも居たが今は東京にはいないと思う。
綴れ刺せ (つづれさせ) 着物のボロを刺す様に鳴く。
10月ごろでも鳴く。 ぼろを繕って春からの野良着に使いなさいよと鳴いている。(肩刺せ、裾刺せ というふうに聞こえると言う訳です)
つづれさせコウロギの誘い鳴きを録音したが本当に貴重なものです。
エンマコウロギ 閻魔様に似ているということだがいかつい顔をしています。
縄張り宣言の声、求愛だと違っている。
ピアノの一番高い音が4100ヘルツだが、カンタンが2500~3500ヘルツ、
エンマコウロギもほぼ同等。
それよりも他の虫は全部高い、ウマオイは高い方は1万4000ヘルツ位あります。
「スィーッチョン スィーッチョン」と聞こえる。
高い周波数は歳をとると聞こえなくなる。
5種類位鳴いていてもどの虫かどの虫かは判ります。
青松虫は「リ リ リ リ リ リ」と鳴いて鈴虫と間違われますが、鈴虫は東京にはいません。
青松虫は都会の街路樹などでも鳴いています。
虫の声には自分が癒されます。
能楽師狂言方 大藏基誠
くさひばり
ラフカディオ・ハーンがこの虫が好きで自宅で飼っていた。
午前中にも鳴くので、朝鈴という別名もあります。
1cm程度の大きさ。
11月位まで聞ける。
この会が出来てから51年目で、私が虫を飼い始めたのが昭和25年です。
担任の先生が5匹鈴虫をくれて、そこから始まりました。
作ったきっかけはカンタンという虫がいますが、この虫の人工飼育がなかなかできなかった。
小野さんという方が成功して、その技術をみんなに広げたいと言うことと、鳴く虫全部をやろうじゃないかと言うことになりました。(都市開発で虫が段々居なくなってきた)
①虫の飼育能力の向上。
②虫の文化を皆さんに知ってもらおう。
この二つの目的で活動しています。
鈴虫を無料配布をやってその時にアンケートをやりましたが、なんで飼いたいのかというと男性は郷愁なんですね。
今年3月には去年よりも3.1℃平均気温が高かった、4月は2.5℃高かった。
そうすると虫に対しる影響が有り早く孵化して、早く成長することになる。
9月にコンクールをやるが、その時にはお爺さんになってしまって鳴かなくなってしまうと言うことがある。
虫の寿命は大雑把に、土の中に8カ月、地上に出てきてから4カ月です。
暑いとどんどん成長してしまう。
鳴く虫コンクールは20回目になります。
鈴虫、松虫、カンタンの3種類の競技を行います。
この3種類は声がいいので選びました。
鈴虫は地面に卵を産みますが、松虫、カンタンは草の茎に産みます。
カンタンは茎の20cm以上の処に産む、松虫は地面の近くの茎の処に産む。
鈴虫は黒、松虫は茶色、カンタンは黄色から緑色。
体色が保護色になっている。(場所を住み分けている)
審査員は15名程度で、①綺麗な声、澄んだ声、②大きな声、③長く鳴く
この三つでポイントが入ります。
鳴き声もある程度飼育で工夫ができます。
コンクールで優勝した虫の子供がそれを引き継ぐかどうかですが、、卵を100個以上産むので、どれが引き継いでいるのかどうか判らないので、中途で匙を投げてしまいます。
審査の時間が夕方6時~6時40分ぐらいで、普通これらの虫が鳴くのは7時30分過ぎなので、早いからなかなか鳴かない。
暗くするがそれだけでは鳴かない、がっかりして帰ると電車の中で鳴いたりするわけです。
ですから誰が優勝するかはやってみないと判らない。
一緒に鳴くので聞き分けが難しい。
鈴虫は リーン リーン リーンと3回鳴いてお休みします。
松虫は チンチロリン チン チン チンチロリンと鳴いて休みます。
カンタンはルー ルー ルー・・・、と1時間以上鳴いています。
カンタンの鳴く好きな温度は24~26℃位です。
それ以上高いと声が高くなって行って、それ以上になると鳴かなくなります。
求愛の声なので、鳴くのは雄です。
実験で若い雄、ちょっと歳取った雄と、雌を置いて同時に鳴かせた時にどっちに行くかというと、雌は高い音、澄んだ音の方に行くということが判りました。
雌は、若くて大きな声で元気に鳴くのがいい、結局若い方に行きました。
人間が聞いても澄んだ声で大きな声で鳴く方がいいですね。
かねたたき くさひありとおなじ位の大きさ
くつわむし 6cm位の大きさ 馬のくつわのガチャガチャする音から来たらしい。
昔には何処にでも居たが今は東京にはいないと思う。
綴れ刺せ (つづれさせ) 着物のボロを刺す様に鳴く。
10月ごろでも鳴く。 ぼろを繕って春からの野良着に使いなさいよと鳴いている。(肩刺せ、裾刺せ というふうに聞こえると言う訳です)
つづれさせコウロギの誘い鳴きを録音したが本当に貴重なものです。
エンマコウロギ 閻魔様に似ているということだがいかつい顔をしています。
縄張り宣言の声、求愛だと違っている。
ピアノの一番高い音が4100ヘルツだが、カンタンが2500~3500ヘルツ、
エンマコウロギもほぼ同等。
それよりも他の虫は全部高い、ウマオイは高い方は1万4000ヘルツ位あります。
「スィーッチョン スィーッチョン」と聞こえる。
高い周波数は歳をとると聞こえなくなる。
5種類位鳴いていてもどの虫かどの虫かは判ります。
青松虫は「リ リ リ リ リ リ」と鳴いて鈴虫と間違われますが、鈴虫は東京にはいません。
青松虫は都会の街路樹などでも鳴いています。
虫の声には自分が癒されます。
2018年9月16日日曜日
小池理雄(お米マイスター) ・【"美味しい"仕事人】お米の魅力を伝えたい
小池理雄(お米マイスター) ・【"美味しい"仕事人】お米の魅力を伝えたい
小池さんは東京原宿精米店の3代目です。
原宿はファッションの街として、若者や外国からの訪問客で賑わう町です。
町からお米屋さんが消えて行く中で、小池さんは生産者と消費者を結ぶ活動を続けています。
お米マイスターとしてお米の魅力を伝えている小池さんのお話です。
お米マイスターはお米屋さんが持っている資格で、お米屋さんの組合が認定している資格です。
お米マイスターは日本全国のお米の特徴をきちんと説明出来たり、お米の食べ方、お米の特徴、稲の育ち方等、お米に関すること全て詳しい人で、且消費者の人に判り易く説明できる人です。
三つ星と五つ星があって、私は五つ星の方で難しい試験もあります。
試験の事前にお米が送られてきて食べて感想を述べるなど、口述試験、どういう品種なのかなど、お米を知らないと受かることができない試験です。
お米屋さんなので精米技術が大事なので、精米のやり過ぎ、少な過ぎなど食べてみたり触って見て判るのでそういう試験もあります。
精米は玄米のぬかの部分を取って白米にする作業で、目方の約1割がぬかですが、玄米のぬか層と白米の層の間に亜糊粉層(あこふんそう)という、うま味が詰まっている薄い層が有り、それを残しつつ、お米粒が割れないように精米する。
品種、気温湿度によって違ってくるので、お米を見ながら精米するというのが我々の仕事です。
生産者さんのお米の種の選択、どうやって栽培、収穫後の調整、我々がどうやって精米するのか、おいしさジャンクションがあります。
色々なイベントにも出かけて行きます。
皆さんは品種は判っていると思いますが、食べ比べは無いと思います。
お米に関心を持ってもらうことが、お米消費拡大の大事なことだと思っています。
毎年農家さんとも10か所ぐらい話をします。
生産者と消費者は興味の持ちどころが違うので、それをつなげるのが私の役目だと思っています。
今年は石垣島まで行きます。
稲は元々南方、東南アジアから伝わってきたので、沖縄も一つのルートで稲作の歴史は古い。
沖縄の早場米、「ひとめぼれ」が6月には都内に出て来る。
田んぼが有ることで治水が出来て、里山の風景も守られている。
田んぼは自然と調和をして作物を作っている、優れた設備だと思っています。
佐渡島に朱鷺(とき)が300羽ぐらいいるが、そこは田んぼが餌場になっていて、そこには魚、昆虫がいないと絶滅してしまう。
農薬を使わない、田んぼの面積を増やそうと言う取り組みを佐渡ではしています。
今はおいしいだけでは差別化できなくなって、そこから先はどうするのかということが今の話のようになるわけです。
原宿でやっているが、情報発信がしやすい。
サラリーマンを10年前までやっていて父の具合が良くなくて継ぎました。(3代目)
日本全国でお米屋さんから買っているのは、
7%位と言われて少ない。
お客さんへのヒアリングをして、粘り、甘味、もっちりさ、価格などを聞いて新しい別のお米の紹介などをします。
レストラン、食べ物屋さんが多いが、お付き合いをして販売しています。
お届けするものはブレンド米が多いです。
以前は一般的には価格調整などでしたが、それぞれの美味さの要望に合わせたものを調整します。
要望に対して単一銘柄では表現できなくなってきている。
原宿の「穏田キャットストリート商店街」で80年以上やっています。
昔、穏田川が流れていたが、暗渠になってしまっていて、猫が結構いまして、このような名前になりました。
「おんでん」には二つあって隠田、穏田 江戸時代の葛飾北斎の冨嶽三十六景の中の一つに「おんでん」の水車と言う絵が有り、その水車は穏田川にかかっていた。
元々は伊賀者の忍者の里がこのあたりと言われて、穏田と言われた。
当時水車が結構あって、水車で精米をしていた、歴史のある街です。
大学卒業後出版社に勤務して編集の仕事をしていました。
社会保険労務士の試験を取って、コンサルティング会社に入って7,8年勤務しました。
父が倒れた時に、周りを見渡すと私しかいなかった。(長男の末っ子だった)
小学校時代から手伝っていたので、すんなり入れました。
やって見て本当に奥が深いなと思いました。
10年近くやっているが、判らないことが一杯あります。
お米を食べて評価する時に、お米面接表を付けていて、8つの切り口で評価して作文して点数を出しています。
最近の代表格は山形の「つや姫」と、北海道の「ゆめぴりか」です。
新潟県の「新之助」、福井県の「いちほまれ」、富山県の「富富富(ふふふ)」、石川県の「百万石」、宮城県は「だて正夢」などが出てきています。
生産量では「コシヒカリ」が30%を越えています。
「コシヒカリ」の子供である「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」と合わせると全体の6割を占めています。
新しくいろいろ出てきているが、まだ少ないのが現状です。
お米の消費量は毎年さがってきていますが、広めるためには新しい品種は大事だと思います。
ブレンドもみなさんがやってみても、いいのかなと思います。
そういった楽しみ方もあると思います。
玄米を食べたがるのが奥さんで、白米を食べたがるのは旦那さんでそういった時に、5分突きのものもあります。
精米機の性能がいいので、今はヌカが取れている。
研ぐのもいい加減でいいと思う。
米を水に浸けるのに、冬は1時間、夏は30分と言われているが、できればその倍は浸けてほしい。
お米の中にしっかり水が浸透します。
水が熱伝導の役割をして、しっかり熱が行き渡って結果として、でんぷんがもっちりと仕上がる。(アルファー化米)
水に浸けておいた方が、でんぷんを糖化するアミラーゼが活発に動くといわれていて、水に浸けておくとそれだけで全然違います。
炊飯器は水を浸けないことを前提に設計されている事が多いので、浸けたものを普通のモードでやると間違えるかもしれないのでモードの確認が必要です。
土鍋も結構いいと思います。
お米は精米した時点から酸化が始まります。
できれば空気を密閉した状態で低温で保存するといいと思います。
お米は呼吸しているので、呼吸すると養分が失われて行くので、呼吸しないようにした方がいいと思います。
玄米は保存していると臭いが付きやすいので気を付けてほしい。
地域が発展するように一つの商店として頑張っていきたいと思います。
稲作文化を守る最前線にいると思っているので、少しでも寄与できればと思っています。
小池さんは東京原宿精米店の3代目です。
原宿はファッションの街として、若者や外国からの訪問客で賑わう町です。
町からお米屋さんが消えて行く中で、小池さんは生産者と消費者を結ぶ活動を続けています。
お米マイスターとしてお米の魅力を伝えている小池さんのお話です。
お米マイスターはお米屋さんが持っている資格で、お米屋さんの組合が認定している資格です。
お米マイスターは日本全国のお米の特徴をきちんと説明出来たり、お米の食べ方、お米の特徴、稲の育ち方等、お米に関すること全て詳しい人で、且消費者の人に判り易く説明できる人です。
三つ星と五つ星があって、私は五つ星の方で難しい試験もあります。
試験の事前にお米が送られてきて食べて感想を述べるなど、口述試験、どういう品種なのかなど、お米を知らないと受かることができない試験です。
お米屋さんなので精米技術が大事なので、精米のやり過ぎ、少な過ぎなど食べてみたり触って見て判るのでそういう試験もあります。
精米は玄米のぬかの部分を取って白米にする作業で、目方の約1割がぬかですが、玄米のぬか層と白米の層の間に亜糊粉層(あこふんそう)という、うま味が詰まっている薄い層が有り、それを残しつつ、お米粒が割れないように精米する。
品種、気温湿度によって違ってくるので、お米を見ながら精米するというのが我々の仕事です。
生産者さんのお米の種の選択、どうやって栽培、収穫後の調整、我々がどうやって精米するのか、おいしさジャンクションがあります。
色々なイベントにも出かけて行きます。
皆さんは品種は判っていると思いますが、食べ比べは無いと思います。
お米に関心を持ってもらうことが、お米消費拡大の大事なことだと思っています。
毎年農家さんとも10か所ぐらい話をします。
生産者と消費者は興味の持ちどころが違うので、それをつなげるのが私の役目だと思っています。
今年は石垣島まで行きます。
稲は元々南方、東南アジアから伝わってきたので、沖縄も一つのルートで稲作の歴史は古い。
沖縄の早場米、「ひとめぼれ」が6月には都内に出て来る。
田んぼが有ることで治水が出来て、里山の風景も守られている。
田んぼは自然と調和をして作物を作っている、優れた設備だと思っています。
佐渡島に朱鷺(とき)が300羽ぐらいいるが、そこは田んぼが餌場になっていて、そこには魚、昆虫がいないと絶滅してしまう。
農薬を使わない、田んぼの面積を増やそうと言う取り組みを佐渡ではしています。
今はおいしいだけでは差別化できなくなって、そこから先はどうするのかということが今の話のようになるわけです。
原宿でやっているが、情報発信がしやすい。
サラリーマンを10年前までやっていて父の具合が良くなくて継ぎました。(3代目)
日本全国でお米屋さんから買っているのは、
7%位と言われて少ない。
お客さんへのヒアリングをして、粘り、甘味、もっちりさ、価格などを聞いて新しい別のお米の紹介などをします。
レストラン、食べ物屋さんが多いが、お付き合いをして販売しています。
お届けするものはブレンド米が多いです。
以前は一般的には価格調整などでしたが、それぞれの美味さの要望に合わせたものを調整します。
要望に対して単一銘柄では表現できなくなってきている。
原宿の「穏田キャットストリート商店街」で80年以上やっています。
昔、穏田川が流れていたが、暗渠になってしまっていて、猫が結構いまして、このような名前になりました。
「おんでん」には二つあって隠田、穏田 江戸時代の葛飾北斎の冨嶽三十六景の中の一つに「おんでん」の水車と言う絵が有り、その水車は穏田川にかかっていた。
元々は伊賀者の忍者の里がこのあたりと言われて、穏田と言われた。
当時水車が結構あって、水車で精米をしていた、歴史のある街です。
大学卒業後出版社に勤務して編集の仕事をしていました。
社会保険労務士の試験を取って、コンサルティング会社に入って7,8年勤務しました。
父が倒れた時に、周りを見渡すと私しかいなかった。(長男の末っ子だった)
小学校時代から手伝っていたので、すんなり入れました。
やって見て本当に奥が深いなと思いました。
10年近くやっているが、判らないことが一杯あります。
お米を食べて評価する時に、お米面接表を付けていて、8つの切り口で評価して作文して点数を出しています。
最近の代表格は山形の「つや姫」と、北海道の「ゆめぴりか」です。
新潟県の「新之助」、福井県の「いちほまれ」、富山県の「富富富(ふふふ)」、石川県の「百万石」、宮城県は「だて正夢」などが出てきています。
生産量では「コシヒカリ」が30%を越えています。
「コシヒカリ」の子供である「あきたこまち」「ひとめぼれ」「ヒノヒカリ」と合わせると全体の6割を占めています。
新しくいろいろ出てきているが、まだ少ないのが現状です。
お米の消費量は毎年さがってきていますが、広めるためには新しい品種は大事だと思います。
ブレンドもみなさんがやってみても、いいのかなと思います。
そういった楽しみ方もあると思います。
玄米を食べたがるのが奥さんで、白米を食べたがるのは旦那さんでそういった時に、5分突きのものもあります。
精米機の性能がいいので、今はヌカが取れている。
研ぐのもいい加減でいいと思う。
米を水に浸けるのに、冬は1時間、夏は30分と言われているが、できればその倍は浸けてほしい。
お米の中にしっかり水が浸透します。
水が熱伝導の役割をして、しっかり熱が行き渡って結果として、でんぷんがもっちりと仕上がる。(アルファー化米)
水に浸けておいた方が、でんぷんを糖化するアミラーゼが活発に動くといわれていて、水に浸けておくとそれだけで全然違います。
炊飯器は水を浸けないことを前提に設計されている事が多いので、浸けたものを普通のモードでやると間違えるかもしれないのでモードの確認が必要です。
土鍋も結構いいと思います。
お米は精米した時点から酸化が始まります。
できれば空気を密閉した状態で低温で保存するといいと思います。
お米は呼吸しているので、呼吸すると養分が失われて行くので、呼吸しないようにした方がいいと思います。
玄米は保存していると臭いが付きやすいので気を付けてほしい。
地域が発展するように一つの商店として頑張っていきたいと思います。
稲作文化を守る最前線にいると思っているので、少しでも寄与できればと思っています。
2018年9月15日土曜日
延原武春(日本テレマン協会音楽監督) ・大阪からバロック音楽を広めて55年
延原武春(日本テレマン協会音楽監督) ・大阪からバロック音楽を広めて55年
この楽団はステージのある大きなホールではなく、室内楽にふさわしい場所を求めて演奏活動行って来ました。
大阪、船場の大正末期に建てられたレトロなビル大阪倶楽部の一室や、阪神間の閑静な住宅街にあるカトリック夙川教会の聖堂、大阪中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂などで定期的に演奏会を開催しています。
17世紀から18世紀にかけて活躍した作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann) このテレマンに魅せられた延原武春さんが、室内楽団や合唱団を立ち上げて音楽活動を続けて来ました。
今年活動を続けて55年になります。
バロック音楽、1700年代に入ってからのバッハ、ヘンデル、テレマン、ビバルディーを中心に始めた楽団です。
特にテレマン 有名な作曲家です。
いままでの作曲家で一番沢山曲を作った人と言われています。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人です。
バッハとも交友関係が長く、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。
私は小学校の頃、絵とヴァイオリンを習っていました。(戦後間もない頃)
中学ではコーラス部を立ち上げたりしました。
ヴァイオリンはあまり一生懸命ではなかったが、オーケストラを立ち上げてた時に役に立っています。
大阪音楽大学付属高校に入って、宮本先生から大笛を始める様に言われて始める。
クラリネットに似ているが、2枚リードになっていて難しい木管楽器です。
リードを自分で削って作らなくてはいけなかった。
リードは葦(フランスのある場所で取れる葦)
毎日8時間位勉強しました。
そこでテレマンの楽譜と偶然に出会うことになりました。
テレマンの研究会を作ってテレマンの事を調べだしたりしました。
バロック音楽に魅力を感じました。
外交官のお別れなどの会で呼ばれて、演奏して素敵な経験を何回かしました。
大阪音楽大学に入って、テレマンアンサンブルを結成し、本格的な活動を始める。
1963年 始めて外で演奏会を正式にしました。(名古屋)
大笛、リコーダー、チェンバロ、チェロ 4人でやりました。
根拠地となったライブハウスが、伯母がやっていたバーのような店をやっていて、そこを強引にバロックが出来るスナックにしたいと言うことで、チェンバロを置いてやりました。
本当に酒を飲みながら聞いてくれる人が聞いてくれるのだろうか、ちゃんと生活に結びついてるのだろうかとか、自分で実験したかったが沢山のお客が来てくれました。
しかし、店の経営は回転が悪くて駄目でした。(2,3年は続いた)
仲間も増えてきて、津村別院に理解あるお坊さんがいて、バロックをやってもいいと言うことで、チェンバロを運んで月例会を行いました。
その後人も増えてマネージメント出来る様な体制を作りました。
合唱団も作る事になり昭和44年に、バッハの作ったカンタータという宗教音楽をやってみたかった。
大阪テレマン協会になり、1979年には日本テレマン協会になる。
日本と言うふうに名前を付けた方が動きやすいということで日本テレマン協会としました。(ほかにも理由があるが)
教会ではなかなか演奏会はさせてもらえなかった。
1980年代は外国からやって来るアーティストとの共演も増えた時代でした。
1984年12月にライプツィヒのゲヴァントハウス・バッハオーケストラを、1985年にズール・フィルハーモニー、1989年にはライプツィヒ放送管弦楽団を客演指揮しました。
ヨーロッパでは産業革命以降、沢山のオーケストラが出来ました。
1990年ぐらいから古楽器を使おうと言うことで、日本テレマン協会でもやり始めました。
援助もして貰いながら楽器を集めて、できるようにしました。(大変だったが)
1995年にはほとんど集まりました。
2015年から中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂の集会室で演奏会を始めました。
ヴェートーベンのピアノ協奏曲が5曲あるが、それを全部やりたいと言うことで、探して中央公会堂の集会室でやったらすごくいい音がしたんです。
天井が高いのと響きが良くて、大正時代に建ったというのが凄いですね、宮殿のようです。(建て27m 横35m)
演奏者のステージとお客さんが同じ床面。
ヨーロッパでは凄く古楽器が盛んで、館、教会、お城などが有り盛んになります。
中之島ではいい場所が有ったと思っています。
中之島を中心にもう一回新しい文化を上げたいと思います。
この楽団はステージのある大きなホールではなく、室内楽にふさわしい場所を求めて演奏活動行って来ました。
大阪、船場の大正末期に建てられたレトロなビル大阪倶楽部の一室や、阪神間の閑静な住宅街にあるカトリック夙川教会の聖堂、大阪中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂などで定期的に演奏会を開催しています。
17世紀から18世紀にかけて活躍した作曲家、ゲオルク・フィリップ・テレマン(Georg Philipp Telemann) このテレマンに魅せられた延原武春さんが、室内楽団や合唱団を立ち上げて音楽活動を続けて来ました。
今年活動を続けて55年になります。
バロック音楽、1700年代に入ってからのバッハ、ヘンデル、テレマン、ビバルディーを中心に始めた楽団です。
特にテレマン 有名な作曲家です。
いままでの作曲家で一番沢山曲を作った人と言われています。
ヘンデルとはライプツィヒ大学時代からの友人です。
バッハとも交友関係が長く、バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの名付け親にもなった。
私は小学校の頃、絵とヴァイオリンを習っていました。(戦後間もない頃)
中学ではコーラス部を立ち上げたりしました。
ヴァイオリンはあまり一生懸命ではなかったが、オーケストラを立ち上げてた時に役に立っています。
大阪音楽大学付属高校に入って、宮本先生から大笛を始める様に言われて始める。
クラリネットに似ているが、2枚リードになっていて難しい木管楽器です。
リードを自分で削って作らなくてはいけなかった。
リードは葦(フランスのある場所で取れる葦)
毎日8時間位勉強しました。
そこでテレマンの楽譜と偶然に出会うことになりました。
テレマンの研究会を作ってテレマンの事を調べだしたりしました。
バロック音楽に魅力を感じました。
外交官のお別れなどの会で呼ばれて、演奏して素敵な経験を何回かしました。
大阪音楽大学に入って、テレマンアンサンブルを結成し、本格的な活動を始める。
1963年 始めて外で演奏会を正式にしました。(名古屋)
大笛、リコーダー、チェンバロ、チェロ 4人でやりました。
根拠地となったライブハウスが、伯母がやっていたバーのような店をやっていて、そこを強引にバロックが出来るスナックにしたいと言うことで、チェンバロを置いてやりました。
本当に酒を飲みながら聞いてくれる人が聞いてくれるのだろうか、ちゃんと生活に結びついてるのだろうかとか、自分で実験したかったが沢山のお客が来てくれました。
しかし、店の経営は回転が悪くて駄目でした。(2,3年は続いた)
仲間も増えてきて、津村別院に理解あるお坊さんがいて、バロックをやってもいいと言うことで、チェンバロを運んで月例会を行いました。
その後人も増えてマネージメント出来る様な体制を作りました。
合唱団も作る事になり昭和44年に、バッハの作ったカンタータという宗教音楽をやってみたかった。
大阪テレマン協会になり、1979年には日本テレマン協会になる。
日本と言うふうに名前を付けた方が動きやすいということで日本テレマン協会としました。(ほかにも理由があるが)
教会ではなかなか演奏会はさせてもらえなかった。
1980年代は外国からやって来るアーティストとの共演も増えた時代でした。
1984年12月にライプツィヒのゲヴァントハウス・バッハオーケストラを、1985年にズール・フィルハーモニー、1989年にはライプツィヒ放送管弦楽団を客演指揮しました。
ヨーロッパでは産業革命以降、沢山のオーケストラが出来ました。
1990年ぐらいから古楽器を使おうと言うことで、日本テレマン協会でもやり始めました。
援助もして貰いながら楽器を集めて、できるようにしました。(大変だったが)
1995年にはほとんど集まりました。
2015年から中之島にあるレンガ作りの大阪市中央公会堂の集会室で演奏会を始めました。
ヴェートーベンのピアノ協奏曲が5曲あるが、それを全部やりたいと言うことで、探して中央公会堂の集会室でやったらすごくいい音がしたんです。
天井が高いのと響きが良くて、大正時代に建ったというのが凄いですね、宮殿のようです。(建て27m 横35m)
演奏者のステージとお客さんが同じ床面。
ヨーロッパでは凄く古楽器が盛んで、館、教会、お城などが有り盛んになります。
中之島ではいい場所が有ったと思っています。
中之島を中心にもう一回新しい文化を上げたいと思います。
2018年9月14日金曜日
桜沢エリカ(漫画家) ・人生55(GOGO)!
桜沢エリカ(漫画家) ・人生55(GOGO)!
東京都出身、55歳 10代でデビューして以来、コミック誌やファッション誌などで活躍、1990年代に発表された「メイキン・ハッピィ」で人気漫画家としての地位を確立しました。
時代や社会の制約に負けず、しなやかにしたたかに生きるヒロインの姿に声援を送るファンも多く、女性の気持をリアルに表現した作品には定評があります。
そのほか、猫との生活を描いた「シッポがともだち」や、「もふっ・とさせて」ご自身の出産、育児といった経験をもとに描いた「今日もお天気」など、エッセー漫画も桜沢さんのプライベートを垣間見えると好評です。
最近では趣味やファッションにまつわる記事を発信するブログなど、活躍の場を広げています。
よく続けてきたなという感じがします。
平成前後のバブル期は謳歌していないです。
その頃の代表作が「メイキン・ハッピィ」です。
宝くじが当たって、豪邸を経て東京に戻ってアパートに戻るがそこから又一歩踏み出してゆく。(主人公が女性だったからよかったのかもしれない)
お金よりも大事なものが有るのかもということ、最終的に残るものはなんだろうと言うことですかね。
その後飛ばして書いたが、失恋とかあって落ち込んで半年休業しました。(30歳前位)
その間に貯金を使い尽くしてしまった。
働いていたからお金が有ったんだと気が付きました。
そこから生きて行くために書くんだ、という方向にチェンジしました。
その5年間ぐらいは辛かったです。
その後結婚して子供が授かって、子供のためにとかということで辛いという気持ちが無くなりました。
現在「こまどりの詩(うた)」を週間誌に連載。
20代の女の子が主人公。 母親、おばあちゃんに遡って行く。
その前が「スタアの時代」 昭和の映画スターを主人公にして書いている。
女性週刊誌らしいものをと思ったが、今では考えられない様なお金の使い方とか色々なエピソードが出て来ます。
「スタアの時代」の1,2,3巻は高倉健さんと江利チエミさんを中心にお話を作っています。
義理のお姉さんと一緒に住んでいて、そのお姉さんに邪魔をされて高倉健さんと離婚したんです。
本当の原因が何だったのかはわからないところが多くて、創作して書いた部分もあります。
週刊誌は毎週流れて行くので「つづく」でいいんです。
一番難しいのが背景(風景、小物、着ているものなど)で、資料を集めてやっています。
黒電話の実物を買ったりしました。
男性のズボンの履き方の位置も昔よりも下がってきています、そういったことも注意しています。
水、木、金で仕事をしていて金曜日にアップします。
夫には家事の事を色々やってもらっています。
夫とは5年付き合ってきて、子供が授かり結婚することにしました。
専業主夫としてやってもらっていますが、当時としては目立ちました。
私は子供におっぱいをやっただけで、後は夫に全部やって貰いました。
今は猫が3匹いてエッセー漫画を描きました。
仕事は自分の為だけにやっていたら息詰まりすね、誰かの為でないと続けられないのかなと思います。
上の子が小学校卒業ぐらいでエッセーを止めました。(今は18歳)
男の子は優しいと思います。
夫は3年前から友達のカレー屋さんの手伝いをするようになりました。(週1~2、3日)
ベビーシッターも始めて、5歳児から大人気だそうです。(才能かも)
子供に手がかからなくなって、夫は持て余してジムに行っていたりしていました。
夫はお金も稼ぐようになり旅行に連れて行ってもらったりしました。
私の趣味はバレイ、歌舞伎などの観賞。
バレエに関する漫画も描いています。
若いころはセックスシーンを描くのが有る意味楽しかったが、今はバレエを描くのが好きです。
和服も好きです。
3年前にお茶を始めて和服にのめり込みました。
20歳で着付け教室に行ったりして、30代になる頃に友人が着ているのに触発されました。
妊娠して着物との付き合いは無くなり、40代にはいった時に地味な訪問着などを作りました。
3年前にお茶を始めて又、和服にのめり込みました。
お茶はそのことに集中して無になれるので面白いです。(日常の生活と切り離せる)
今の目標は60歳で赤い振袖を着ることかもしれない。(20歳で振りそでを着れなかったから)
知られざる人にスポットを当てたものを書いてみたい。
東京都出身、55歳 10代でデビューして以来、コミック誌やファッション誌などで活躍、1990年代に発表された「メイキン・ハッピィ」で人気漫画家としての地位を確立しました。
時代や社会の制約に負けず、しなやかにしたたかに生きるヒロインの姿に声援を送るファンも多く、女性の気持をリアルに表現した作品には定評があります。
そのほか、猫との生活を描いた「シッポがともだち」や、「もふっ・とさせて」ご自身の出産、育児といった経験をもとに描いた「今日もお天気」など、エッセー漫画も桜沢さんのプライベートを垣間見えると好評です。
最近では趣味やファッションにまつわる記事を発信するブログなど、活躍の場を広げています。
よく続けてきたなという感じがします。
平成前後のバブル期は謳歌していないです。
その頃の代表作が「メイキン・ハッピィ」です。
宝くじが当たって、豪邸を経て東京に戻ってアパートに戻るがそこから又一歩踏み出してゆく。(主人公が女性だったからよかったのかもしれない)
お金よりも大事なものが有るのかもということ、最終的に残るものはなんだろうと言うことですかね。
その後飛ばして書いたが、失恋とかあって落ち込んで半年休業しました。(30歳前位)
その間に貯金を使い尽くしてしまった。
働いていたからお金が有ったんだと気が付きました。
そこから生きて行くために書くんだ、という方向にチェンジしました。
その5年間ぐらいは辛かったです。
その後結婚して子供が授かって、子供のためにとかということで辛いという気持ちが無くなりました。
現在「こまどりの詩(うた)」を週間誌に連載。
20代の女の子が主人公。 母親、おばあちゃんに遡って行く。
その前が「スタアの時代」 昭和の映画スターを主人公にして書いている。
女性週刊誌らしいものをと思ったが、今では考えられない様なお金の使い方とか色々なエピソードが出て来ます。
「スタアの時代」の1,2,3巻は高倉健さんと江利チエミさんを中心にお話を作っています。
義理のお姉さんと一緒に住んでいて、そのお姉さんに邪魔をされて高倉健さんと離婚したんです。
本当の原因が何だったのかはわからないところが多くて、創作して書いた部分もあります。
週刊誌は毎週流れて行くので「つづく」でいいんです。
一番難しいのが背景(風景、小物、着ているものなど)で、資料を集めてやっています。
黒電話の実物を買ったりしました。
男性のズボンの履き方の位置も昔よりも下がってきています、そういったことも注意しています。
水、木、金で仕事をしていて金曜日にアップします。
夫には家事の事を色々やってもらっています。
夫とは5年付き合ってきて、子供が授かり結婚することにしました。
専業主夫としてやってもらっていますが、当時としては目立ちました。
私は子供におっぱいをやっただけで、後は夫に全部やって貰いました。
今は猫が3匹いてエッセー漫画を描きました。
仕事は自分の為だけにやっていたら息詰まりすね、誰かの為でないと続けられないのかなと思います。
上の子が小学校卒業ぐらいでエッセーを止めました。(今は18歳)
男の子は優しいと思います。
夫は3年前から友達のカレー屋さんの手伝いをするようになりました。(週1~2、3日)
ベビーシッターも始めて、5歳児から大人気だそうです。(才能かも)
子供に手がかからなくなって、夫は持て余してジムに行っていたりしていました。
夫はお金も稼ぐようになり旅行に連れて行ってもらったりしました。
私の趣味はバレイ、歌舞伎などの観賞。
バレエに関する漫画も描いています。
若いころはセックスシーンを描くのが有る意味楽しかったが、今はバレエを描くのが好きです。
和服も好きです。
3年前にお茶を始めて和服にのめり込みました。
20歳で着付け教室に行ったりして、30代になる頃に友人が着ているのに触発されました。
妊娠して着物との付き合いは無くなり、40代にはいった時に地味な訪問着などを作りました。
3年前にお茶を始めて又、和服にのめり込みました。
お茶はそのことに集中して無になれるので面白いです。(日常の生活と切り離せる)
今の目標は60歳で赤い振袖を着ることかもしれない。(20歳で振りそでを着れなかったから)
知られざる人にスポットを当てたものを書いてみたい。
2018年9月13日木曜日
桑田ミサオ(笹餅製造販売業) ・75歳で起業・やればできた、私の会社
桑田ミサオ(笹餅製造販売業) ・75歳で起業・やればできた、私の会社
1927年昭和2年生まれ 91歳、笹餅は笹の葉で包んだ素朴な餅菓子ですが、桑田さんが本格的に笹餅作りを始めたのは保育所の用務員を60歳で定年退職した31年前の事でした。
きっかけは農協婦人部から局売所での農産物の出品を誘われたことでした。
人に買っていただける商品を出す事になり、桑田さんは改めて母親から笹餅作りを習い直します。
或る時特別養護老人ホームの慰問に誘われお餅を持って行った処、お年寄りたちが涙をながして喜んでくれたと言います。
桑田さんはこんなに喜んで頂ける笹餅作りを一生続けようと思います。
75歳の時に総菜や菓子製造業の許可を取り、一人で会社を立ち上げます。
79歳の時には赤字続きの地元津軽鉄道の支援活動に車内販売で協力、歌う笹餅売りのおばあちゃんと評判になります。
84歳の時、農山漁村の地域を元気付けたということで、農林水産大臣賞を受賞します。
笹餅は人と人とのつながりを広げ、桑田さんにさらなる飛躍をもたらすことになりました。
餅は見た目羊羹のような感じで、半分こしあんを使っています。
粘り気があり、笹の葉の香りが少しします。
母から教わったものから工夫して作りました。
「1を聞いたら10覚えなさい」と母から言われました。
母の言うとおりにやっても食べ物の時代が違ってきていると思って、自分なりに工夫しました。
元々は端午の節句に食べる餅でした。
ひ孫がいますが、今一生懸命習っています。
保育所の用務員を60歳で定年退職して、調理師の免許も取りました。
「までなお餅」 までだなあ→丁寧に作っている。
小学4年生に教えたりしていますが、上手に作ります。
最初笹餅ではなく、農協婦人部から頼まれ赤飯、大福餅などを作っていました。
或る時特別養護老人ホームの慰問に誘われ、あわ餅を120個作って持って行きました。
あわ餅を食べてねといったら、いままでにこにこしていたおばあちゃんが下を向いて涙を流してくれました。
自分で作ったのを思い出したのかもしれません。
これからずーっと作ろうと思ってお餅作りを始めました。
販売には許可が必要で、一定の設備も必要です。
段々評判が良くなってスーパーストアなどから頼まれて、ちゃんとした加工場が必要ということで許可を取り、一人で会社を立ち上げます。
地元津軽鉄道が赤字続きで、すこしでも役に立ったらと思って入りました。
電車の中で販売も担当しました。
お客さんから「津軽平野」を歌ってほしいと言われましたがそれは歌えないが、「津軽じょんがら節」なら歌えると言いました。
歌う前から大拍手を受けました。
なんて言って歌ったらいいのか判らず考えた時に、岩木山を歌おうと思って「津軽平野はお山で飾る、今日の皆さん手拍子で飾る、私この場を歌っこで飾る」と即興でやり一曲歌えました。
大拍手を受けました。
その後津軽民謡を習うことになりました。
84歳の時、農山漁村の地域を元気付けたということで、農林水産大臣賞を受賞します。
賞を受けた翌日に東日本大震災が起こりました。
自分に何かできることは無いかと模索しましたが、心配で体調を崩してしまいました。
植村教授からお見舞いの電話があり、涙が止まりませんでした。
お餅を送りました。(食べた学生さんから御礼の手紙をいただきました。)
久慈高校、陸前高田高校(600個位)、山田高校とか被害の大きかった高等学校に千羽鶴ならぬ千個餅を送りました。
6km位ある所に自転車で笹を取りに行ったりしていましたが、熊が出るということで控えるようにして他の人に頼むようになりました。
入る学校があれば入って勉強したい、そう思います。
遠慮が有ったが今はみんなが私に対して恵みの態度で接してくれるから、怒りとか悩みとかないです。
お客さんから聞いたり話したりして、得るものがありますし、これからも気持ち次第で人生充実していきます。
セミナーに呼ばれて学生に何を求めるかということが有ったが、母から生まれていろんなことを経験して、母から学んだことを言って、最後に皆さんには能力、実力が有ります、これからどうか幸せな人生を得ることを念じて私の話を終わります、と言って帰ってきました。
生徒さんからメッセージをいただき、私も母が大好きでこれから色んな事を母と話をして、子供の親になった時に誇れる親になりますとの内容があり、それを見て泣きました。
1927年昭和2年生まれ 91歳、笹餅は笹の葉で包んだ素朴な餅菓子ですが、桑田さんが本格的に笹餅作りを始めたのは保育所の用務員を60歳で定年退職した31年前の事でした。
きっかけは農協婦人部から局売所での農産物の出品を誘われたことでした。
人に買っていただける商品を出す事になり、桑田さんは改めて母親から笹餅作りを習い直します。
或る時特別養護老人ホームの慰問に誘われお餅を持って行った処、お年寄りたちが涙をながして喜んでくれたと言います。
桑田さんはこんなに喜んで頂ける笹餅作りを一生続けようと思います。
75歳の時に総菜や菓子製造業の許可を取り、一人で会社を立ち上げます。
79歳の時には赤字続きの地元津軽鉄道の支援活動に車内販売で協力、歌う笹餅売りのおばあちゃんと評判になります。
84歳の時、農山漁村の地域を元気付けたということで、農林水産大臣賞を受賞します。
笹餅は人と人とのつながりを広げ、桑田さんにさらなる飛躍をもたらすことになりました。
餅は見た目羊羹のような感じで、半分こしあんを使っています。
粘り気があり、笹の葉の香りが少しします。
母から教わったものから工夫して作りました。
「1を聞いたら10覚えなさい」と母から言われました。
母の言うとおりにやっても食べ物の時代が違ってきていると思って、自分なりに工夫しました。
元々は端午の節句に食べる餅でした。
ひ孫がいますが、今一生懸命習っています。
保育所の用務員を60歳で定年退職して、調理師の免許も取りました。
「までなお餅」 までだなあ→丁寧に作っている。
小学4年生に教えたりしていますが、上手に作ります。
最初笹餅ではなく、農協婦人部から頼まれ赤飯、大福餅などを作っていました。
或る時特別養護老人ホームの慰問に誘われ、あわ餅を120個作って持って行きました。
あわ餅を食べてねといったら、いままでにこにこしていたおばあちゃんが下を向いて涙を流してくれました。
自分で作ったのを思い出したのかもしれません。
これからずーっと作ろうと思ってお餅作りを始めました。
販売には許可が必要で、一定の設備も必要です。
段々評判が良くなってスーパーストアなどから頼まれて、ちゃんとした加工場が必要ということで許可を取り、一人で会社を立ち上げます。
地元津軽鉄道が赤字続きで、すこしでも役に立ったらと思って入りました。
電車の中で販売も担当しました。
お客さんから「津軽平野」を歌ってほしいと言われましたがそれは歌えないが、「津軽じょんがら節」なら歌えると言いました。
歌う前から大拍手を受けました。
なんて言って歌ったらいいのか判らず考えた時に、岩木山を歌おうと思って「津軽平野はお山で飾る、今日の皆さん手拍子で飾る、私この場を歌っこで飾る」と即興でやり一曲歌えました。
大拍手を受けました。
その後津軽民謡を習うことになりました。
84歳の時、農山漁村の地域を元気付けたということで、農林水産大臣賞を受賞します。
賞を受けた翌日に東日本大震災が起こりました。
自分に何かできることは無いかと模索しましたが、心配で体調を崩してしまいました。
植村教授からお見舞いの電話があり、涙が止まりませんでした。
お餅を送りました。(食べた学生さんから御礼の手紙をいただきました。)
久慈高校、陸前高田高校(600個位)、山田高校とか被害の大きかった高等学校に千羽鶴ならぬ千個餅を送りました。
6km位ある所に自転車で笹を取りに行ったりしていましたが、熊が出るということで控えるようにして他の人に頼むようになりました。
入る学校があれば入って勉強したい、そう思います。
遠慮が有ったが今はみんなが私に対して恵みの態度で接してくれるから、怒りとか悩みとかないです。
お客さんから聞いたり話したりして、得るものがありますし、これからも気持ち次第で人生充実していきます。
セミナーに呼ばれて学生に何を求めるかということが有ったが、母から生まれていろんなことを経験して、母から学んだことを言って、最後に皆さんには能力、実力が有ります、これからどうか幸せな人生を得ることを念じて私の話を終わります、と言って帰ってきました。
生徒さんからメッセージをいただき、私も母が大好きでこれから色んな事を母と話をして、子供の親になった時に誇れる親になりますとの内容があり、それを見て泣きました。
2018年9月12日水曜日
宮脇 修(フィギュアメーカー創業者) ・九十にして夢見る小僧
宮脇 修(フィギュアメーカー創業者) ・九十にして夢見る小僧
2001年には卵型のチョコレートのおまけ食玩が大ヒット、その作品は国内だけでなく海外でも人気をあつめクールジャパンと呼ばれる新しい日本の文化となっています。
高知県黒潮町の出身、青春時代は15歳で職を求めて旧満州に行って終戦を迎えました。
満州ではB29による空襲や、敗戦国となって外国人から襲撃を受けるなど、日本に引き揚げるまでに、常に命の危険を感じながらの生活だったということです。
その時代を生き抜いたことが、何事にも前向きに取り組める原点になったと言います。
日本に引き揚げた後は、職が安定せず36歳で起業しました。
一代で時代の最先端のフィギュアメーカーを築きあげた原動力は、子供のような純粋な気持ちを忘れず、夢を描き続けることだと話しています。
90歳になったいまも、新しいことに取り組む宮脇さんに伺います。
たえず新しい試み、一つの夢を次々に果たしていきたいと思います。
冒険する心、自分が90歳になって餓鬼(子供)になったと思います。
6年生の時に父親が病気になり、14,5歳で朝3時~7時ごろまで漁業の網上げをやってそれから学校に行きました。
帰ってくると網の準備などをしていました。(今までで一番仕事をした時代だった)
性格はガキ大将で悪かったと思います。
楽しみは魚、獲物を取った時の感動でした。
満鉄は中国の東北地方にあり、そこは給料が良かったので、満鉄に行こうと思いました。
少年雑誌で見たゴビの砂漠で馬族の大将をやっている日本人がおり、それに物凄くあこがれました。
この二つの理由で満鉄に就職しました。
満州製鉄に出入りする単純な記録係をしました。
一番怖かったのがB29が重慶から100機位飛んできて、1トン爆弾を落とすわけです。
二回目の時には直撃を受けて防空壕の近くに1トン爆弾が20個位落ちました。
首が飛んだのを見たり、先輩の背中に火が付いてそれを消したりしました。
ただ恐怖だけでした。
ロシア軍の侵攻、国民軍の侵攻が有り、略奪が有りました。
日本人であるという誇りだけは持っていたので、生きなければいけないという思いでした。
日本に帰れるかどうかが心配でした。
引き揚げるまでは給料は貰えました。(ソ連の荷物運びの手伝いをやらされました)
ソ連が略奪したものを持って帰る作業の手伝いだった、というこは後で知る訳ですが。
先輩たちは抑留され連れて行かれました。
満州から日本に戻り職を転々(30位の職)として、昭和40年ごろ家族もできて、30代半ばで当時流行していたプラモデル店の開業を思い立つ。
大阪に広さ5平方メートルの小さな店を始め、「海洋堂」という名前にしました。
子供達を楽しませるアイデアを次々次に実現させてゆく。
子供達が喜ぶことが商売の第一条件です。
たえず新しい夢を追ってお金をつぎ込むので、経営という話にはならないわけです。
2001年には卵型のチョコレートの食玩が大ヒットする。
現在では年商25億円となる。
原型師の作った作品に僕は全部名前を入れた、それが原型師の始まりです。
ものつくりは不器用でもできる、待つという事、それをするといいものが出来て来る。
昔はお寺に泊って食べさせて、泊った人に絵を描いてもらったりして、日本全国のお寺の襖絵などになっているので、それを真似てフィギュア作りにやって見ようと思って、全国からものつくりの子が来て何日か泊って出て行く。
信頼関係が一番で、評価されると言う事、みんなで喜べるという形になる。
もう会社は大きくしなくていいと思っている。
有る金で上手くやりくりしようと思うと夢が小さくなってしまう。
90になって人生楽しい、反対する人がいないから。
これからどれだけ生きられるか判らないが、生きていたら何かしないと申し訳ない。
90歳になると明日死ぬかも知れないが、あれしようこれしようと思って夢を持っていたら死も怖くは無い、そう思う。
生きている限りは、特に歳を取ったら、それを世の中の人達に自分の知識なり、経験なりを還元してゆく、一つも残さないようにやっていけたら最高だと思う。
2001年には卵型のチョコレートのおまけ食玩が大ヒット、その作品は国内だけでなく海外でも人気をあつめクールジャパンと呼ばれる新しい日本の文化となっています。
高知県黒潮町の出身、青春時代は15歳で職を求めて旧満州に行って終戦を迎えました。
満州ではB29による空襲や、敗戦国となって外国人から襲撃を受けるなど、日本に引き揚げるまでに、常に命の危険を感じながらの生活だったということです。
その時代を生き抜いたことが、何事にも前向きに取り組める原点になったと言います。
日本に引き揚げた後は、職が安定せず36歳で起業しました。
一代で時代の最先端のフィギュアメーカーを築きあげた原動力は、子供のような純粋な気持ちを忘れず、夢を描き続けることだと話しています。
90歳になったいまも、新しいことに取り組む宮脇さんに伺います。
たえず新しい試み、一つの夢を次々に果たしていきたいと思います。
冒険する心、自分が90歳になって餓鬼(子供)になったと思います。
6年生の時に父親が病気になり、14,5歳で朝3時~7時ごろまで漁業の網上げをやってそれから学校に行きました。
帰ってくると網の準備などをしていました。(今までで一番仕事をした時代だった)
性格はガキ大将で悪かったと思います。
楽しみは魚、獲物を取った時の感動でした。
満鉄は中国の東北地方にあり、そこは給料が良かったので、満鉄に行こうと思いました。
少年雑誌で見たゴビの砂漠で馬族の大将をやっている日本人がおり、それに物凄くあこがれました。
この二つの理由で満鉄に就職しました。
満州製鉄に出入りする単純な記録係をしました。
一番怖かったのがB29が重慶から100機位飛んできて、1トン爆弾を落とすわけです。
二回目の時には直撃を受けて防空壕の近くに1トン爆弾が20個位落ちました。
首が飛んだのを見たり、先輩の背中に火が付いてそれを消したりしました。
ただ恐怖だけでした。
ロシア軍の侵攻、国民軍の侵攻が有り、略奪が有りました。
日本人であるという誇りだけは持っていたので、生きなければいけないという思いでした。
日本に帰れるかどうかが心配でした。
引き揚げるまでは給料は貰えました。(ソ連の荷物運びの手伝いをやらされました)
ソ連が略奪したものを持って帰る作業の手伝いだった、というこは後で知る訳ですが。
先輩たちは抑留され連れて行かれました。
満州から日本に戻り職を転々(30位の職)として、昭和40年ごろ家族もできて、30代半ばで当時流行していたプラモデル店の開業を思い立つ。
大阪に広さ5平方メートルの小さな店を始め、「海洋堂」という名前にしました。
子供達を楽しませるアイデアを次々次に実現させてゆく。
子供達が喜ぶことが商売の第一条件です。
たえず新しい夢を追ってお金をつぎ込むので、経営という話にはならないわけです。
2001年には卵型のチョコレートの食玩が大ヒットする。
現在では年商25億円となる。
原型師の作った作品に僕は全部名前を入れた、それが原型師の始まりです。
ものつくりは不器用でもできる、待つという事、それをするといいものが出来て来る。
昔はお寺に泊って食べさせて、泊った人に絵を描いてもらったりして、日本全国のお寺の襖絵などになっているので、それを真似てフィギュア作りにやって見ようと思って、全国からものつくりの子が来て何日か泊って出て行く。
信頼関係が一番で、評価されると言う事、みんなで喜べるという形になる。
もう会社は大きくしなくていいと思っている。
有る金で上手くやりくりしようと思うと夢が小さくなってしまう。
90になって人生楽しい、反対する人がいないから。
これからどれだけ生きられるか判らないが、生きていたら何かしないと申し訳ない。
90歳になると明日死ぬかも知れないが、あれしようこれしようと思って夢を持っていたら死も怖くは無い、そう思う。
生きている限りは、特に歳を取ったら、それを世の中の人達に自分の知識なり、経験なりを還元してゆく、一つも残さないようにやっていけたら最高だと思う。
2018年9月11日火曜日
古庄紀治(染織家) ・藍染に生きる
古庄紀治(染織家) ・藍染に生きる
70歳、藍染の青は古くから生活に密着した、すがすがしい色として親しまれてきました。
江戸幕府は庶民の着る物の色を制限しましたが鼠、藍、茶は例外としたため、渋くて美しい藍色が様々に工夫されました。
藍色は多くの植物から染めだされますが、なかでも蓼藍(たであい)は桃山時代から阿波地方で栽培が盛んとなって、徳川家御用の高級品から庶民向け物まで生活用品に幅広く使われてきました。
所が明治に入って化学染料の流入によって、植物染料の藍の利用は一気にすたれてゆくことになりました。
そんな中で徳島市の古庄家は代々植物染料の藍を使った藍染めに取り組み、6代目の紀治さんも昔ながらの手法による藍染めを受け継いでいます。
特に紀治さんは難しいと敬遠されていた絹の藍染めを復活させ、国から現代の名工に、徳島県からは無形文化財保持者に選ばれています。
藍染めの注文が増えて来ましたが、藍を知らない人からの注文が多いので、日にちが間に合わないということが多いです。
せめて1カ月半ぐらいが欲しい。
オリンピックの影響が強いと思う。(オリンピックのマークが藍の色に指定された)
戦争中に食べ物しか育てなくてはいけないということで藍は1年草なので種を育てるが大変だった。
戦後は食料優先で後回しにされた。
私は次男で継ぐ気持ちは無かったが、回り回って継ぐことになりました。
継ぐにあたって全国の染めている家を回って、目は肥えました。
絹は触るなよということは言われました。(絹は染まりにくい)
阿波藩の城主が徳島の藍以外を継ぐはずは無いと思って、藍色の昔のやり方を勉強しました。
そうすると生地を選ぶが、染まるようになりました。
現在やっている方法は江戸中期のやり方です。
天然藍でやると染まり具合を自分の意志で調節ができます。
天然藍は繊維の間に入って行きやすい。(深く染まる)
人工だと表面につきやすい。
木綿、麻などを天然で染めると10g位重くなる。(500g位に対して)
そうすると強さが増してくるし、虫が寄ってこない。
樟脳の代わりに藍の風呂敷で着物を包むと言うことをしていました。(防虫効果)
個人差はある様ですが、アトピーの皮膚表面に弱い子供達にも効果がある。
藍の原料 すくも 藍の葉っぱを腐葉土にしたようなもので色素が入っています。
アルカリの液でないと溶けださないので、木の灰の上澄み、石灰、糖蜜、強力粉を使っています。
以前は酒を使っていましたが、ドバイの方の注文で酒は使わないで染めてほしい(宗教上)ということが有り糖蜜、強力粉でやっています。
江戸時代京都では上職人がお公家さん侍、下職人は町人のものを染めていました。
上職人が酒を使っていた。 下職人はふすまなどを使っていた。
徳島では酒の搾りかすと糖蜜を使っていた。
1週間から10日掛けて作ります。(その1週間前から色々準備が有ります)
藍の特徴が一番出しやすいのは絞り染めだと思います。
絹を染める時には木綿を染める時よりも少しアルカリの度合いを低くします。
絹の素材が関係してくる。
絹の繊維の中にたんぱく質・フィブロインという成分が有り、そのふちにセリシンというものがひっついていて、藍はそのセリシンに付くわけです。
セリシンを取ってしまっている方が、くさび染めとか化学染料で染める時には綺麗に染まります。
ですからセリシンを取ってしまった布が多い訳です。
10分と30分浸けるとでは藍の濃さは違います、30分をめどに染めて行きます。
12分以上浸けた方がむらができにくい。
藍色を濃くするためには繰り返します。
木綿、麻は色がきれいになるまで時間がかかります(6から8分位)、絹は時間が短い(1分30秒から2分位)。
それ以上長いと下が濃くなって、短いと上が濃くなる。
技術的には絹は難しい。
45年藍染めをやっていますが、防染方法も常に新しい技術が出来ているので、それを試さなくてはいけなくて勉強しなくてはいけない事が沢山あります。
抜染という色を抜く方法、無地の布を紺に染めたものに対して模様を型で糊をおいて、日光に当てて色を抜く方法があるが、6年ぐらいで出来て来ました。
レーヨンを染めるのに染まらない様なレーヨンが出てきたりしています。
ナイロンはよく染まるが、ポリになるといくらやっても染まらない。
染まらないレーヨンはポリ系の再生繊維だと思う。
染まらないものは大豆を摺って、その絞った液を布に塗って染めていたが、早く良く染まっていたが、レーヨンにそれをすれば染まるかもしれないが、はがれる可能性がある。
徳島のすくもが少なくなっているので、それをなんとかしないといけないと思っている。
藍の苗を作る人が少なくなってきている。(高齢化、機械化もされていない)
買った物を使ってもらった方が色が綺麗になる(不純物がなくなって行く)ので使ってもらいたい、置いておくと焼けたりする原因になる。
天然藍は折った所が色あせても戻ってくるが、化学藍は戻ってはこない。
沼津の灰の入手も難しくなってきています。
バイオマスの灰が上手く利用できれば安心ですが。
藍の色を出す方法も沢山あるので(薬品、天然等)、ものによっては色が直ぐ抜けてしまうことが有るので、聞いてからにした方がいいと思います。
70歳、藍染の青は古くから生活に密着した、すがすがしい色として親しまれてきました。
江戸幕府は庶民の着る物の色を制限しましたが鼠、藍、茶は例外としたため、渋くて美しい藍色が様々に工夫されました。
藍色は多くの植物から染めだされますが、なかでも蓼藍(たであい)は桃山時代から阿波地方で栽培が盛んとなって、徳川家御用の高級品から庶民向け物まで生活用品に幅広く使われてきました。
所が明治に入って化学染料の流入によって、植物染料の藍の利用は一気にすたれてゆくことになりました。
そんな中で徳島市の古庄家は代々植物染料の藍を使った藍染めに取り組み、6代目の紀治さんも昔ながらの手法による藍染めを受け継いでいます。
特に紀治さんは難しいと敬遠されていた絹の藍染めを復活させ、国から現代の名工に、徳島県からは無形文化財保持者に選ばれています。
藍染めの注文が増えて来ましたが、藍を知らない人からの注文が多いので、日にちが間に合わないということが多いです。
せめて1カ月半ぐらいが欲しい。
オリンピックの影響が強いと思う。(オリンピックのマークが藍の色に指定された)
戦争中に食べ物しか育てなくてはいけないということで藍は1年草なので種を育てるが大変だった。
戦後は食料優先で後回しにされた。
私は次男で継ぐ気持ちは無かったが、回り回って継ぐことになりました。
継ぐにあたって全国の染めている家を回って、目は肥えました。
絹は触るなよということは言われました。(絹は染まりにくい)
阿波藩の城主が徳島の藍以外を継ぐはずは無いと思って、藍色の昔のやり方を勉強しました。
そうすると生地を選ぶが、染まるようになりました。
現在やっている方法は江戸中期のやり方です。
天然藍でやると染まり具合を自分の意志で調節ができます。
天然藍は繊維の間に入って行きやすい。(深く染まる)
人工だと表面につきやすい。
木綿、麻などを天然で染めると10g位重くなる。(500g位に対して)
そうすると強さが増してくるし、虫が寄ってこない。
樟脳の代わりに藍の風呂敷で着物を包むと言うことをしていました。(防虫効果)
個人差はある様ですが、アトピーの皮膚表面に弱い子供達にも効果がある。
藍の原料 すくも 藍の葉っぱを腐葉土にしたようなもので色素が入っています。
アルカリの液でないと溶けださないので、木の灰の上澄み、石灰、糖蜜、強力粉を使っています。
以前は酒を使っていましたが、ドバイの方の注文で酒は使わないで染めてほしい(宗教上)ということが有り糖蜜、強力粉でやっています。
江戸時代京都では上職人がお公家さん侍、下職人は町人のものを染めていました。
上職人が酒を使っていた。 下職人はふすまなどを使っていた。
徳島では酒の搾りかすと糖蜜を使っていた。
1週間から10日掛けて作ります。(その1週間前から色々準備が有ります)
藍の特徴が一番出しやすいのは絞り染めだと思います。
絹を染める時には木綿を染める時よりも少しアルカリの度合いを低くします。
絹の素材が関係してくる。
絹の繊維の中にたんぱく質・フィブロインという成分が有り、そのふちにセリシンというものがひっついていて、藍はそのセリシンに付くわけです。
セリシンを取ってしまっている方が、くさび染めとか化学染料で染める時には綺麗に染まります。
ですからセリシンを取ってしまった布が多い訳です。
10分と30分浸けるとでは藍の濃さは違います、30分をめどに染めて行きます。
12分以上浸けた方がむらができにくい。
藍色を濃くするためには繰り返します。
木綿、麻は色がきれいになるまで時間がかかります(6から8分位)、絹は時間が短い(1分30秒から2分位)。
それ以上長いと下が濃くなって、短いと上が濃くなる。
技術的には絹は難しい。
45年藍染めをやっていますが、防染方法も常に新しい技術が出来ているので、それを試さなくてはいけなくて勉強しなくてはいけない事が沢山あります。
抜染という色を抜く方法、無地の布を紺に染めたものに対して模様を型で糊をおいて、日光に当てて色を抜く方法があるが、6年ぐらいで出来て来ました。
レーヨンを染めるのに染まらない様なレーヨンが出てきたりしています。
ナイロンはよく染まるが、ポリになるといくらやっても染まらない。
染まらないレーヨンはポリ系の再生繊維だと思う。
染まらないものは大豆を摺って、その絞った液を布に塗って染めていたが、早く良く染まっていたが、レーヨンにそれをすれば染まるかもしれないが、はがれる可能性がある。
徳島のすくもが少なくなっているので、それをなんとかしないといけないと思っている。
藍の苗を作る人が少なくなってきている。(高齢化、機械化もされていない)
買った物を使ってもらった方が色が綺麗になる(不純物がなくなって行く)ので使ってもらいたい、置いておくと焼けたりする原因になる。
天然藍は折った所が色あせても戻ってくるが、化学藍は戻ってはこない。
沼津の灰の入手も難しくなってきています。
バイオマスの灰が上手く利用できれば安心ですが。
藍の色を出す方法も沢山あるので(薬品、天然等)、ものによっては色が直ぐ抜けてしまうことが有るので、聞いてからにした方がいいと思います。
2018年9月9日日曜日
桜庭吉彦(釜石シーウェイブス GM) ・【"2020"に託すもの】楕円球にのせた釜石の夢
桜庭吉彦(釜石シーウェイブス GM) ・【"2020"に託すもの】楕円球にのせた釜石の夢~ワールドカップ・ラグビーまであと1年~
身長192cmです。
ポジションは前から2列目、押しと空中戦を求められる。
1966年9月22日 秋田県生まれ。
秋田工業高校、3年生で全国高校ラグビー花園優勝。
前年度まで日本選手権7連覇を達成した新日本製鐵釜石製鉄所に入社。
同製鉄所に勤務しながら、法政大学通信課程を卒業。
1986年からは日本代表にも選ばれ、W杯にも1987・1995・1999の3大会に出場した。
2001年に新日鐵釜石は「釜石シーウェイブス」となり、2002年ヘッドコーチに就任。
いっとき現役復帰するが現在は監督。
2019年のワールドカップのアンバサダーも兼任。
アンバサダーはより多く皆さんにラグビーを知ってもらう役割です。
ワールドカップは2019年9月20日から11月2日まで行われます。
大分盛り上がってきています。
釜石市ではスタジアムもできて、間近に迫ってきているという感じです。
被災地では唯一震災からの復興を世界に発信するいい機会にもなると思います。
人口は3万5000人です。
スタジアムを作った所一帯は非常に被害が大きかった地域で、地元の小学校と中学校が建っていたところでした。
手に手をとって高台に避難をして、子供たちは一人も犠牲者を出さなかった、釜石の奇跡と言われている地域です。
3・11の時には事務所で地震を迎えました。
揺れが今まで経験したことのない揺れで、大津波警報が発令されて川を上がってきた津波があふれて、駅前は50cm位でしたが車が取り残された人を引き上げる手伝いをしました。
まずは生活をいかにして行くかが第一歩でした。
チームメイトの家族が被災したりしているので、何か出来ることは無いかということでスタートしました。
ボランティアをする中で、ラグビーで勇気付けてほしいということでチームで活動することになりました。
釜石に何か未来に残すものとして、ラグビーワールドカップ招致に繋がっていったと思います。
ワールドカップ第3回の時にニュージーランドに17対145というスコアで負けた試合が本当に悔しかったです。(1995年 南アフリカで行われる)
でも得たものも多かった。
振り返ってみるともっと自分たちで出来ることが有ったというのが一番悔しいです。
精神的なものがあったと思います。(闘争心とか)
スタジアムで彼等は歌を歌うんですが、それにも圧倒されました。
家族が、地域が一つになれる場面かと思います、釜石では是非そうしたいと思います。
ラグビーを始めたのは高校2年生からです。(それまでは野球のピッチャー)
当時身長は190cmありました。
僕にとっては大きいボールが合っていたと思います。
最初からポジションはフォワードで、走るのは早くはなかったです。
高校のコーチに言われたのは、「フォワードというのはお姫様を運ぶ馬車でいいんだ」と言われました。
そういう思いでプレーしてきました。
ラグビーが本当に好きになったのが、新日鉄釜石が7連覇をする前の前座の試合で、高校の東西対抗で試合をした時でした。
その時に釜石の応援団がスタンドから非常に熱い応援をしてくれました。
凄いエネルギーが出てきて、楽しくラグビーを無我夢中でした瞬間でした。
1985年から新日鉄釜石に入りました。(7連覇の翌年)
新日鉄釜石は7連覇をして、地方の人達に勇気を与えるチームだったと思います。
冬は実践的な練習ができなかったとかのハンディーはあったと思うが、むしろそれを強みにするような心構えとか取り組みが、強さに繋がって行ったと思います。
逆境の中でこそ付く力が有ると思っていて、苦しい場面、逆境の中で取り組んで得るものがあって、それが今でも生きていると思います。
2001年から「釜石シーウェイブス」となりました。(クラブチーム)
2005年現役に復帰(39歳)、自分が先頭に立ってチームを鼓舞したいと思いましたが力不足でした。
釜石のラグビーはひたむきなラグビーだと思います、倒されても倒されても起き上がって前に進んでいく、これだと思います。
現在「釜石シーウェイブス」はジャパンラグビートップリーグの2部にあたるジャパンラグビートップチャレンジリーグに所属しています。
今シーズンはワールドカップに向けた最後のシーズンなので、4位以内に入ってトップリーグの入れ替え戦に出場することが目標で、あわよくば勝ってトップリーグに名を連ねることがベストだと思います。
選手を集めてきて多様な選手を纏めて行くのは大変なことですが、一方で釜石だから出来ることでもあるので、魅力あるチームになって行く事は日本のラグビー界にとっても貴重な存在になって行くと思うので、是非いいチームを作っていきたいと思います。
来年のワールドカップには海外からもワールドカップを見に来ますので、主体的に参加することでラグビーワールドカップは成功に繋がって行くと思いますので、是非一人一人が主役になってワールドカップに参加してほしいと思います。
身長192cmです。
ポジションは前から2列目、押しと空中戦を求められる。
1966年9月22日 秋田県生まれ。
秋田工業高校、3年生で全国高校ラグビー花園優勝。
前年度まで日本選手権7連覇を達成した新日本製鐵釜石製鉄所に入社。
同製鉄所に勤務しながら、法政大学通信課程を卒業。
1986年からは日本代表にも選ばれ、W杯にも1987・1995・1999の3大会に出場した。
2001年に新日鐵釜石は「釜石シーウェイブス」となり、2002年ヘッドコーチに就任。
いっとき現役復帰するが現在は監督。
2019年のワールドカップのアンバサダーも兼任。
アンバサダーはより多く皆さんにラグビーを知ってもらう役割です。
ワールドカップは2019年9月20日から11月2日まで行われます。
大分盛り上がってきています。
釜石市ではスタジアムもできて、間近に迫ってきているという感じです。
被災地では唯一震災からの復興を世界に発信するいい機会にもなると思います。
人口は3万5000人です。
スタジアムを作った所一帯は非常に被害が大きかった地域で、地元の小学校と中学校が建っていたところでした。
手に手をとって高台に避難をして、子供たちは一人も犠牲者を出さなかった、釜石の奇跡と言われている地域です。
3・11の時には事務所で地震を迎えました。
揺れが今まで経験したことのない揺れで、大津波警報が発令されて川を上がってきた津波があふれて、駅前は50cm位でしたが車が取り残された人を引き上げる手伝いをしました。
まずは生活をいかにして行くかが第一歩でした。
チームメイトの家族が被災したりしているので、何か出来ることは無いかということでスタートしました。
ボランティアをする中で、ラグビーで勇気付けてほしいということでチームで活動することになりました。
釜石に何か未来に残すものとして、ラグビーワールドカップ招致に繋がっていったと思います。
ワールドカップ第3回の時にニュージーランドに17対145というスコアで負けた試合が本当に悔しかったです。(1995年 南アフリカで行われる)
でも得たものも多かった。
振り返ってみるともっと自分たちで出来ることが有ったというのが一番悔しいです。
精神的なものがあったと思います。(闘争心とか)
スタジアムで彼等は歌を歌うんですが、それにも圧倒されました。
家族が、地域が一つになれる場面かと思います、釜石では是非そうしたいと思います。
ラグビーを始めたのは高校2年生からです。(それまでは野球のピッチャー)
当時身長は190cmありました。
僕にとっては大きいボールが合っていたと思います。
最初からポジションはフォワードで、走るのは早くはなかったです。
高校のコーチに言われたのは、「フォワードというのはお姫様を運ぶ馬車でいいんだ」と言われました。
そういう思いでプレーしてきました。
ラグビーが本当に好きになったのが、新日鉄釜石が7連覇をする前の前座の試合で、高校の東西対抗で試合をした時でした。
その時に釜石の応援団がスタンドから非常に熱い応援をしてくれました。
凄いエネルギーが出てきて、楽しくラグビーを無我夢中でした瞬間でした。
1985年から新日鉄釜石に入りました。(7連覇の翌年)
新日鉄釜石は7連覇をして、地方の人達に勇気を与えるチームだったと思います。
冬は実践的な練習ができなかったとかのハンディーはあったと思うが、むしろそれを強みにするような心構えとか取り組みが、強さに繋がって行ったと思います。
逆境の中でこそ付く力が有ると思っていて、苦しい場面、逆境の中で取り組んで得るものがあって、それが今でも生きていると思います。
2001年から「釜石シーウェイブス」となりました。(クラブチーム)
2005年現役に復帰(39歳)、自分が先頭に立ってチームを鼓舞したいと思いましたが力不足でした。
釜石のラグビーはひたむきなラグビーだと思います、倒されても倒されても起き上がって前に進んでいく、これだと思います。
現在「釜石シーウェイブス」はジャパンラグビートップリーグの2部にあたるジャパンラグビートップチャレンジリーグに所属しています。
今シーズンはワールドカップに向けた最後のシーズンなので、4位以内に入ってトップリーグの入れ替え戦に出場することが目標で、あわよくば勝ってトップリーグに名を連ねることがベストだと思います。
選手を集めてきて多様な選手を纏めて行くのは大変なことですが、一方で釜石だから出来ることでもあるので、魅力あるチームになって行く事は日本のラグビー界にとっても貴重な存在になって行くと思うので、是非いいチームを作っていきたいと思います。
来年のワールドカップには海外からもワールドカップを見に来ますので、主体的に参加することでラグビーワールドカップは成功に繋がって行くと思いますので、是非一人一人が主役になってワールドカップに参加してほしいと思います。
山下泰裕(全日本柔道連盟会長) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
山下泰裕(全日本柔道連盟会長)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪メダリストの証言
山下泰裕さんは現在61歳、熊本県出身、熊本九州学院から東海大学相模高校に転校、東海大学に進学し、全日本選手権9連覇、3回の世界選手権とロサンゼルスオリンピックは金メダルを獲得。
その間、対外国人選手には無敗を含めて、28歳で引退するまで203連勝を続け、アマチュアスポーツ界で初めて国民栄誉賞を受賞しました。
2016年2月のアンコール放送。
12月中旬にブラジルに出張しました。
リオオリンピックのオリンピック村、試合会場などの視察に約90名のメンバーで訪問しました。
現在の肩書きが東海大学体育学部教授,副学長、理事、全日本柔道連盟副会長兼強化委員長、JOC理事で強化副本部長、日本のナショナルトレーニングセンターのセンター長など。
2020年の東京オリンピックまでは腹をくくってやるが、それ以後は若い人にバトンタッチしたいと思います。
いい形で強化は進んでいると思います。
今と未来に生きる自分でありたいと思っています。
現役を辞めた時には、数十年後に私が亡くなった時にはあの山下はオリンピックでも勝っていたんだと、言われるぐらい次の人生を頑張りたいと思いました。
でも不可能だと思いました。
いつも紹介の時には金メダルを取ったことと、国民栄誉賞で終わるんです。
1980年モスクワオリンピックは日本は不参加。
その前のモントリオールオリンピックは高校3年生で補欠でした。
世界選手権は79年のパリ、81年のオランダ、83年のモスクワ、3つの世界選手権の95Kg超級は3連覇、全日本選手権も8連覇中だったが、ロサンゼルスオリンピックは27歳の時で絶頂期ではなかった。(体力的にも落ちてきていた。)
モスクワオリンピック当時が一番良かった時期でした。
ロサンゼルスオリンピック大会は231人の日本選手団のキャプテン。
公式戦は連勝記録が194連勝を続けていた。
やることをやりつくしてこれが最後のオリンピックになるだろうと思っていました。
60kg、65kg級で細川選手、松岡選手が金メダルを取り、それ以後4つの階級一つも取れずにいた。
その後95kg超級斎藤選手が金メダルを取る。
私は無差別級に出場、15名が参加。
1回戦は試合開始27秒大外刈りを返しての一本勝ち。
2回戦で西ドイツのアルトゥール・シュナーベルと対戦、2分50秒寝技で勝利。
一礼したあと、足を引きずる。
内またを仕掛けた時に軸足である右足に痛みが走って、肉離れを起こしてしまった。
得意技は右足一本で支えて相手に技を仕掛けるので、私にとっては非常に厳しかった。
準決勝の相手はフランスのデル・コロンボ戦、(過去全て一本勝ちをした相手だった)
10cm背が高い相手で、奥襟を取られて肩から倒れて「効果」を取られてしまう。
無意識に体が反応するはずだったが、けがをした足が動かなかったから棒立ちで受けて相手の大外刈りをもろに食らってしまった。
「お前が一生懸命頑張ります、頑張りますと言ってきた頑張りはこの程度のものか、足をけがしてこんな無様な試合をするためにオリンピックに来たのか」と、こんな声が私の内側から聞こえて来ました。
この程度の足のけがで負けてたまるものかと、鬼のような顔をして立ち上がって行ったと思います。
私の本能の叫びだと思います。
そこから相手は守りに入って行きました。
大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。(2分10秒)
決勝は巨漢エジプトのモハメド・ラシュワン選手。
ラシュワンのコーチは「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示したそうです。
師匠の佐藤先生は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスする。
又「この試合で俺と思えの師弟関係は最後にしよう。」言う話が有りました。
「現役最後の試合と思って行け」と先生は言いたかったんだと思います。
いかに戦うかというしかなかった。
払い腰をし掛けてきた時に無意識に身体を開いてかわして、ラシュワン選手の身体が崩れる。
その瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固めに入り一本勝ちで金メダル獲得する。
中学2年生の時に「将来の夢」という作文の中で一生懸命柔道に励んでオリンピックに出て日の丸を仰ぎ見ながら金メダルを、というのが俺の夢だと言うようなことを書きました。
自分の夢が現実になった瞬間でした。
あーっ俺は世界で一番幸せな男なんじゃないかなと心の底から思いました。
1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて国民栄誉賞を授与されました。
1985年4月には最後となる全日本選手権に出場して、決勝では斉藤仁選手が相手。
判定勝ちして、全日本選手権9連覇を達成した。
斎藤選手は去年に亡くなってしまって残念です。(2015年1月20日に亡くなる。)
自分の夢、目標が明確であった、それは極めて大事なことだと思います。
身体が自らその方向を向いて行動をし始める。
なすべきことがなんなのかということが見えてくる。
素直な心を持っているといろんな人から色んなことを学ぶ事が出来る。
恩師の佐藤先生はマスコミに「何か教えると山下は吸い取り紙が水を吸い込むように吸収して行く」と言っていました。
中学の時の恩師は私に常に高い目標を設定しました。(高校生では全日本に出ろとか)
「普通の人間は10教えて4か5吸収する方がいい方で、6つか7つ位吸収うするのがなかななかで、お前は俺が10言ったら12吸収した」、と言っていました。
素直な心で聞き、流されないで自分の考えを持っていることが大事。
自分が目ざしているいただき、選手時代にこんなものではいかんこんなものではいかんという思いが、現役を辞めて初めて自分が登って来た道を振り返って、こんなに頑張ってこんな結果を残したのか、いや俺自分をほめてもいいんじゃないかと現役を辞めた時に思いました。
自分で現役と引退後で自分の評価は変わりました。(引退が28歳)
現役を引退して
①全ては終わった、これから全てゼロからのスタートだ。
②柔道の指導者として生きて行きたい、自分の手で世界に通用する選手を育ててみたい。
③柔道日本の復活に微力を尽くしたい。
④選手山下の頑張りだけには負けたくない、選手山下以上の情熱と創意工夫で第二の人生を生きて行きたい。
その後30年間頑張ってきたが、選手時代に貫いてきた生き方の過去は振り返らない、今とこれからに生きる自分でありたい、という思いは私自身の人生に対する姿勢は選手時代も今も変わらないのではないかと思います。
私が一番大事にしているのは「活き活きと生きる」なんです。
ただがむしゃらに頑張るのではなく、じっくり考えることも大事です。
ありのままの自分で生きて行きたい。
人間は人生を通して成長し続けること、学び続けることができると言う思いがあるので、自分の生き方に繋がってきているのかもしれません。
山下泰裕さんは現在61歳、熊本県出身、熊本九州学院から東海大学相模高校に転校、東海大学に進学し、全日本選手権9連覇、3回の世界選手権とロサンゼルスオリンピックは金メダルを獲得。
その間、対外国人選手には無敗を含めて、28歳で引退するまで203連勝を続け、アマチュアスポーツ界で初めて国民栄誉賞を受賞しました。
2016年2月のアンコール放送。
12月中旬にブラジルに出張しました。
リオオリンピックのオリンピック村、試合会場などの視察に約90名のメンバーで訪問しました。
現在の肩書きが東海大学体育学部教授,副学長、理事、全日本柔道連盟副会長兼強化委員長、JOC理事で強化副本部長、日本のナショナルトレーニングセンターのセンター長など。
2020年の東京オリンピックまでは腹をくくってやるが、それ以後は若い人にバトンタッチしたいと思います。
いい形で強化は進んでいると思います。
今と未来に生きる自分でありたいと思っています。
現役を辞めた時には、数十年後に私が亡くなった時にはあの山下はオリンピックでも勝っていたんだと、言われるぐらい次の人生を頑張りたいと思いました。
でも不可能だと思いました。
いつも紹介の時には金メダルを取ったことと、国民栄誉賞で終わるんです。
1980年モスクワオリンピックは日本は不参加。
その前のモントリオールオリンピックは高校3年生で補欠でした。
世界選手権は79年のパリ、81年のオランダ、83年のモスクワ、3つの世界選手権の95Kg超級は3連覇、全日本選手権も8連覇中だったが、ロサンゼルスオリンピックは27歳の時で絶頂期ではなかった。(体力的にも落ちてきていた。)
モスクワオリンピック当時が一番良かった時期でした。
ロサンゼルスオリンピック大会は231人の日本選手団のキャプテン。
公式戦は連勝記録が194連勝を続けていた。
やることをやりつくしてこれが最後のオリンピックになるだろうと思っていました。
60kg、65kg級で細川選手、松岡選手が金メダルを取り、それ以後4つの階級一つも取れずにいた。
その後95kg超級斎藤選手が金メダルを取る。
私は無差別級に出場、15名が参加。
1回戦は試合開始27秒大外刈りを返しての一本勝ち。
2回戦で西ドイツのアルトゥール・シュナーベルと対戦、2分50秒寝技で勝利。
一礼したあと、足を引きずる。
内またを仕掛けた時に軸足である右足に痛みが走って、肉離れを起こしてしまった。
得意技は右足一本で支えて相手に技を仕掛けるので、私にとっては非常に厳しかった。
準決勝の相手はフランスのデル・コロンボ戦、(過去全て一本勝ちをした相手だった)
10cm背が高い相手で、奥襟を取られて肩から倒れて「効果」を取られてしまう。
無意識に体が反応するはずだったが、けがをした足が動かなかったから棒立ちで受けて相手の大外刈りをもろに食らってしまった。
「お前が一生懸命頑張ります、頑張りますと言ってきた頑張りはこの程度のものか、足をけがしてこんな無様な試合をするためにオリンピックに来たのか」と、こんな声が私の内側から聞こえて来ました。
この程度の足のけがで負けてたまるものかと、鬼のような顔をして立ち上がって行ったと思います。
私の本能の叫びだと思います。
そこから相手は守りに入って行きました。
大内刈りと横四方固めの合わせ技で逆転した。(2分10秒)
決勝は巨漢エジプトのモハメド・ラシュワン選手。
ラシュワンのコーチは「初めの一分間は我慢して攻めないように」とラシュワンに指示したそうです。
師匠の佐藤先生は「投げられても一本取られなければいい、寝技に持ち込んで勝つ方法もある」と冷静にアドバイスする。
又「この試合で俺と思えの師弟関係は最後にしよう。」言う話が有りました。
「現役最後の試合と思って行け」と先生は言いたかったんだと思います。
いかに戦うかというしかなかった。
払い腰をし掛けてきた時に無意識に身体を開いてかわして、ラシュワン選手の身体が崩れる。
その瞬間を捉えて押さえ込みに持っていき、横四方固めに入り一本勝ちで金メダル獲得する。
中学2年生の時に「将来の夢」という作文の中で一生懸命柔道に励んでオリンピックに出て日の丸を仰ぎ見ながら金メダルを、というのが俺の夢だと言うようなことを書きました。
自分の夢が現実になった瞬間でした。
あーっ俺は世界で一番幸せな男なんじゃないかなと心の底から思いました。
1984年10月9日にはこれまでの活躍が高く評価されて国民栄誉賞を授与されました。
1985年4月には最後となる全日本選手権に出場して、決勝では斉藤仁選手が相手。
判定勝ちして、全日本選手権9連覇を達成した。
斎藤選手は去年に亡くなってしまって残念です。(2015年1月20日に亡くなる。)
自分の夢、目標が明確であった、それは極めて大事なことだと思います。
身体が自らその方向を向いて行動をし始める。
なすべきことがなんなのかということが見えてくる。
素直な心を持っているといろんな人から色んなことを学ぶ事が出来る。
恩師の佐藤先生はマスコミに「何か教えると山下は吸い取り紙が水を吸い込むように吸収して行く」と言っていました。
中学の時の恩師は私に常に高い目標を設定しました。(高校生では全日本に出ろとか)
「普通の人間は10教えて4か5吸収する方がいい方で、6つか7つ位吸収うするのがなかななかで、お前は俺が10言ったら12吸収した」、と言っていました。
素直な心で聞き、流されないで自分の考えを持っていることが大事。
自分が目ざしているいただき、選手時代にこんなものではいかんこんなものではいかんという思いが、現役を辞めて初めて自分が登って来た道を振り返って、こんなに頑張ってこんな結果を残したのか、いや俺自分をほめてもいいんじゃないかと現役を辞めた時に思いました。
自分で現役と引退後で自分の評価は変わりました。(引退が28歳)
現役を引退して
①全ては終わった、これから全てゼロからのスタートだ。
②柔道の指導者として生きて行きたい、自分の手で世界に通用する選手を育ててみたい。
③柔道日本の復活に微力を尽くしたい。
④選手山下の頑張りだけには負けたくない、選手山下以上の情熱と創意工夫で第二の人生を生きて行きたい。
その後30年間頑張ってきたが、選手時代に貫いてきた生き方の過去は振り返らない、今とこれからに生きる自分でありたい、という思いは私自身の人生に対する姿勢は選手時代も今も変わらないのではないかと思います。
私が一番大事にしているのは「活き活きと生きる」なんです。
ただがむしゃらに頑張るのではなく、じっくり考えることも大事です。
ありのままの自分で生きて行きたい。
人間は人生を通して成長し続けること、学び続けることができると言う思いがあるので、自分の生き方に繋がってきているのかもしれません。
2018年9月8日土曜日
9/6 9/7日 9/8は中止
北海道で地震が発生し、その臨時ニュース報道及び雨天情報等の為、9/6 9/7 9/8の明日への言葉は中止になっています。
「6日午前3時7分頃、北海道南西部の胆振(いぶり)地方を震源とする地震があり、厚真(あつま)町で震度7を観測した。
厚真町では大規模な土砂崩れが起きるなど、9人が死亡,305人が負傷し、行方不明者や連絡が取れない人は28人に上る。
道内のほぼ全世帯の約295万戸が一時停電、今日時点で約1/4余りが回復、完全復旧には1週間ほどかかる見通し。
震源の深さは37キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・7と推定される。
今回の地震は、地盤が押されて上下にずれる「逆断層型」の直下型地震で、2004年の新潟県中越地震と同じタイプ。
「平成30年(18年)北海道胆振東部地震」と命名した。」
亡くなった方へのご冥福と、出来るだけ早く復興されることをお祈りいたします。
「6日午前3時7分頃、北海道南西部の胆振(いぶり)地方を震源とする地震があり、厚真(あつま)町で震度7を観測した。
厚真町では大規模な土砂崩れが起きるなど、9人が死亡,305人が負傷し、行方不明者や連絡が取れない人は28人に上る。
道内のほぼ全世帯の約295万戸が一時停電、今日時点で約1/4余りが回復、完全復旧には1週間ほどかかる見通し。
震源の深さは37キロ、地震の規模を示すマグニチュード(M)は6・7と推定される。
今回の地震は、地盤が押されて上下にずれる「逆断層型」の直下型地震で、2004年の新潟県中越地震と同じタイプ。
「平成30年(18年)北海道胆振東部地震」と命名した。」
亡くなった方へのご冥福と、出来るだけ早く復興されることをお祈りいたします。
2018年9月5日水曜日
蜂谷久美子(シベリア抑留者の娘) ・2人の妻と生きた父
蜂谷久美子(シベリア抑留者の娘) ・2人の妻と生きた父
73歳、終戦の年現在のピョンヤンで生まれました。
その一年後に父弥三郎さんが家に突然乗り込んできた旧ソ連兵に連行されてしまいます。
「何も悪いことはしていないから直ぐ戻る」、そう言い残した父弥三郎さんはついに家に帰って来ませんでした。
弥三郎さんはスパイ容疑をかけられ、シベリアの強制収容所に抑留され過酷な日々を過ごすことになります。
久美子さんと母の久子さんは戦後の混乱期を必死に乗り切り、シベリア抑留から引き上げてくる人の情報を探し続けました。
しかし、消息はつかめないままでした。
ところが終戦から50年が経ったある日、弥三郎さんがロシアで生存しているという情報が突然と入り、事態は大きく動いていきます。
半世紀に渡り父と離れ離れの生活を余儀なくされた蜂谷久美子さんに伺いました。
母が亡くなって8年父と一緒に過ごしましたが、日本でも18年間過ごせました。
最新医療の病院で亡くなり、父も本望では無かったかと思います。
思いだすのは自分が良き時代に覚えた歌であるとか、口ずさみました。
一緒にいて私も覚えてしまいました。
口がほとんどきけなくなった状況でも「久美子、久美子」と言って私の手をしっかり握って感謝の気持ちを伝えました。
最後娘と一緒に暮せたことは嬉しかったのではないかと思います。
父については小さい頃の記憶は全く残っていません。(別れたのは1歳の頃)
母に育ててもらって大学にまで行かせてもらいました。
母の口癖は「どんな状況になるか判らないから、一人でも生きれるように資格などを取っておかないといけない」とずーっと言われました。
1995年ソ連が崩壊したが、それまで父はソ連から監視された状態だった。
1995年ごろに日本につてのある人を探して、その人に自分はこうこうですと言うメモを託しました。
その人が日本に帰って来た時に、本籍の滋賀県草津市に持っていかれました。
向こうからうちに連絡がありました。
翌年に私と主人とで会いに行きました。
ハバロフスクから又飛行機に乗り継いでいったら、父が空港に来ていました。
一瞬抱きあい泣きました。
日本語でしっかり話ができ嬉しかったです。
日本語を忘れまいと百人一首、教育勅語、日本の歌などで忘れまいとしたそうです。
深夜放送で「おしん」を欠かさず聞いていたそうです。
いつかは帰りたいという思いが有ったそうです。
裁判が有り、実刑が下り10年の刑が下って強制労働にでるなかで、それが非常に苦しかったようです。
そんな状況の中でよく生きられたなあと思います。
理髪、指圧の仕事を覚えたりしながら、ソ連の人達から信用を少しずつ得ながら生活していたようです。
日本から何年もたってから小包が届いたようで、その中に私たちの写真が入っていて、日本に帰ってるんだと言うことが確認できたようで、本人もいずれ日本に帰りたいと強く思ったようです。
再会したその日の夜には、お土産を渡したり母からの手紙、友達の手紙を渡したりしました。
日本の歌のカセットテープ等も準備していきました。
日本で暮らしていた当時のことなど一晩中話し合いました。
母からの手紙にはずーっと今まで生きてきた状況が書いてあり、最後に一度顔をみせてくださいと最後に書いてありました。
父はロシアで知り合ったクラウディアさんと結婚していました。
35年も一緒に過ごしていました。
父は「ここで最期を迎えさせてもらいたい」という話をするんです。
私達が帰国する前の日に、クラウディアさんが「日本に帰った方がいいんじゃないか」と切り出しました。
クラウディアさんを残しては帰れないとその日は言っていました。
クラウディアさんは「こんな楽しそうな弥三郎さんを見るのは初めてだ」とその日に言っていました。
私達の状況が判るに従って、私だけこんなことを思っていてもだめだと言うようなことを感じられたんでしょうか。
一旦帰国して父の決断を待ちました。
7カ月後父は日本への帰国を決断、改めてロシアに行きました。
クラウディアさんにとっては凄く複雑だったと思います。
明日帰るという夜、二人の話す様子が判りました。
新潟に飛行機が降りるんですが、ずーっと下を見ていました。
本来父は外国人扱いになるはずですが、日本人と同じ出口から出させてもらいまして、感激していました。
母は鳥取で待っていました。
抱き合って泣き出すしかないという感じでした。
81歳と79歳になっていました。
家に帰ってからは結婚する前、結婚後の4年間等の昔話をしていました。
母が亡くなる91歳で亡くなりますが、最初の4年間と最後の10年間一緒に過ごしました。
クラウディアさんとはずーっと文通していました。(1カ月に2~3通位)
クラウディアさんが日本に来た時に母は「クラウディアさんがいてくれたおかげで弥三郎は元気でおれたんです」と気持をしっかり伝えていました、私もそう思います。
クラウディアさんは温厚な情の厚い方です。
戦争によって人生が狂った人は沢山いると思います、そういう様なことを考えた時に、戦争って国と国との争いだけではなくて、人の一生を左右することが沢山ある訳で、むごいもので戦争ってだめですね。
人の運命ってわからないものだと思います。
戦争はむごいものだと思います。
どんな状況の中でも自分を見失わないに様に、生きることが大事なんじゃないかと思います。
73歳、終戦の年現在のピョンヤンで生まれました。
その一年後に父弥三郎さんが家に突然乗り込んできた旧ソ連兵に連行されてしまいます。
「何も悪いことはしていないから直ぐ戻る」、そう言い残した父弥三郎さんはついに家に帰って来ませんでした。
弥三郎さんはスパイ容疑をかけられ、シベリアの強制収容所に抑留され過酷な日々を過ごすことになります。
久美子さんと母の久子さんは戦後の混乱期を必死に乗り切り、シベリア抑留から引き上げてくる人の情報を探し続けました。
しかし、消息はつかめないままでした。
ところが終戦から50年が経ったある日、弥三郎さんがロシアで生存しているという情報が突然と入り、事態は大きく動いていきます。
半世紀に渡り父と離れ離れの生活を余儀なくされた蜂谷久美子さんに伺いました。
母が亡くなって8年父と一緒に過ごしましたが、日本でも18年間過ごせました。
最新医療の病院で亡くなり、父も本望では無かったかと思います。
思いだすのは自分が良き時代に覚えた歌であるとか、口ずさみました。
一緒にいて私も覚えてしまいました。
口がほとんどきけなくなった状況でも「久美子、久美子」と言って私の手をしっかり握って感謝の気持ちを伝えました。
最後娘と一緒に暮せたことは嬉しかったのではないかと思います。
父については小さい頃の記憶は全く残っていません。(別れたのは1歳の頃)
母に育ててもらって大学にまで行かせてもらいました。
母の口癖は「どんな状況になるか判らないから、一人でも生きれるように資格などを取っておかないといけない」とずーっと言われました。
1995年ソ連が崩壊したが、それまで父はソ連から監視された状態だった。
1995年ごろに日本につてのある人を探して、その人に自分はこうこうですと言うメモを託しました。
その人が日本に帰って来た時に、本籍の滋賀県草津市に持っていかれました。
向こうからうちに連絡がありました。
翌年に私と主人とで会いに行きました。
ハバロフスクから又飛行機に乗り継いでいったら、父が空港に来ていました。
一瞬抱きあい泣きました。
日本語でしっかり話ができ嬉しかったです。
日本語を忘れまいと百人一首、教育勅語、日本の歌などで忘れまいとしたそうです。
深夜放送で「おしん」を欠かさず聞いていたそうです。
いつかは帰りたいという思いが有ったそうです。
裁判が有り、実刑が下り10年の刑が下って強制労働にでるなかで、それが非常に苦しかったようです。
そんな状況の中でよく生きられたなあと思います。
理髪、指圧の仕事を覚えたりしながら、ソ連の人達から信用を少しずつ得ながら生活していたようです。
日本から何年もたってから小包が届いたようで、その中に私たちの写真が入っていて、日本に帰ってるんだと言うことが確認できたようで、本人もいずれ日本に帰りたいと強く思ったようです。
再会したその日の夜には、お土産を渡したり母からの手紙、友達の手紙を渡したりしました。
日本の歌のカセットテープ等も準備していきました。
日本で暮らしていた当時のことなど一晩中話し合いました。
母からの手紙にはずーっと今まで生きてきた状況が書いてあり、最後に一度顔をみせてくださいと最後に書いてありました。
父はロシアで知り合ったクラウディアさんと結婚していました。
35年も一緒に過ごしていました。
父は「ここで最期を迎えさせてもらいたい」という話をするんです。
私達が帰国する前の日に、クラウディアさんが「日本に帰った方がいいんじゃないか」と切り出しました。
クラウディアさんを残しては帰れないとその日は言っていました。
クラウディアさんは「こんな楽しそうな弥三郎さんを見るのは初めてだ」とその日に言っていました。
私達の状況が判るに従って、私だけこんなことを思っていてもだめだと言うようなことを感じられたんでしょうか。
一旦帰国して父の決断を待ちました。
7カ月後父は日本への帰国を決断、改めてロシアに行きました。
クラウディアさんにとっては凄く複雑だったと思います。
明日帰るという夜、二人の話す様子が判りました。
新潟に飛行機が降りるんですが、ずーっと下を見ていました。
本来父は外国人扱いになるはずですが、日本人と同じ出口から出させてもらいまして、感激していました。
母は鳥取で待っていました。
抱き合って泣き出すしかないという感じでした。
81歳と79歳になっていました。
家に帰ってからは結婚する前、結婚後の4年間等の昔話をしていました。
母が亡くなる91歳で亡くなりますが、最初の4年間と最後の10年間一緒に過ごしました。
クラウディアさんとはずーっと文通していました。(1カ月に2~3通位)
クラウディアさんが日本に来た時に母は「クラウディアさんがいてくれたおかげで弥三郎は元気でおれたんです」と気持をしっかり伝えていました、私もそう思います。
クラウディアさんは温厚な情の厚い方です。
戦争によって人生が狂った人は沢山いると思います、そういう様なことを考えた時に、戦争って国と国との争いだけではなくて、人の一生を左右することが沢山ある訳で、むごいもので戦争ってだめですね。
人の運命ってわからないものだと思います。
戦争はむごいものだと思います。
どんな状況の中でも自分を見失わないに様に、生きることが大事なんじゃないかと思います。
2018年9月4日火曜日
村木厚子(元厚生労働省事務次官) ・私はなかなかしぶとい
村木厚子(元厚生労働省事務次官) ・私はなかなかしぶとい
高知県出身62歳、1978年昭和53年に当時の労働省に入省、女性政策、障害者政策などに携わってきました。
2009年当時雇用均等児童家庭局長だった村木さん、郵便の割引制度をめぐる事件で突然逮捕され、無実を訴えたものの半年間拘置所で拘留されました。
2010年大阪地裁は検察が描いた事件を否定、村木さんに無罪判決を言い渡しました。
村木さんは復職し、2013年から2015年まで厚生労働省の事務次官を務めました。
退職後は大学の客員教授などに就任し、人権や共生社会の講演を行っています。
役所に37年半いたので違ったことをやりたいと思って,大学とか民間企業で働きましたが、やはり違って新しい経験をさせてもらいました。
教授も初めての経験なので物凄く面白いです。
大学でも1年生を教えているので、自分の娘よりもはるかに若い人を教えているのでこれも面白いです。
当時学校の先生か公務員になるかしか選択肢がなかったので、公務員という道になりました。
労働省が一番女性の雇用に積極的だったので労働省に入りました。
最初の日に初めて会った上司に、お茶くみをさせるかどうかで課が真っ二つになり、激論したが負けてしまったのでお茶くみをしてくれと言われました。
国会の答弁の準備の作業等で夜中まで仕事をしていました。
働く女性の為の政策が一番多かったんですが、障害のある人の政策、子供支援、働き方改革の関連の仕事もしました。
5年で係長、10年で地方の課長。
後半は男性女性ということは無くなってきました。
郵便の割引制度をめぐる事件に突然巻き込まれ、うその証明書の発行に関わったとして、虚偽誘引公文書作成などの罪に問われた。
偽の証明書を使って障害者団体と偽ってダイレクトメールを送って儲けている団体が有ると言うことが沢山報道されていた。
係長が逮捕されたので吃驚しました。
その上司、関係者が地検に呼び出されて、事情聴取を受けました。
取り調べを受けた人が「村木さんから言われてやりました」という様な報道がどんどん
されて、一方で私だけが呼び出されないということが長くありました。
いったい何が起こっているんだろうと当惑していました。
地検からようやく呼び出しがあり、大阪地検に出かけて行きました。
偽の障害者団体の人に会ったかどうか、証明書を頼まれたか、部下に指示をしたのかどうか、部下の作った証明書を受け取って自分が団体に渡したのではないかというようなことを聞かれました。
5年前だったので、物凄く色んな人に会っていたのであっていないという自信は無かった。
偽の障害者団体に偽の証明書を出してくれと誰からも言われていないし、支持したことも無いので証明書を渡すことなどあり得ないと言いました。
その日の夕方に「逮捕します」と言うことになってしまいました。
一番心配していたのは当時高校3年生の娘と社会人の娘がいて、夫は海外に出張中でしたので、報道でいきなり娘たちが知ると言う事なのでそれだけは避けたいと思いました。
なんとかメールで「たいほ」という文字だけを夫に知らせました。
事態を察知して娘たちの面倒を見てくれるのではないかと思いました。
拘置所に連れていかれて、取り調べが始まりました。
拘留期間は10日、一回延長ができるので合計20日間取り調べると言うことで、貴方の場合は起訴されることになるでしょうと最初に言われました。
もう一つ私の仕事は貴方の供述を変えさせることですと言いました。
調書は検事さんに聞かれてそれに対して喋ったら、要約して文書にするものだと思っていたが全く違っていた。
事件のストーリーがあり、それに沿わない話は私がいくら話をしても調書に作られない。
身に覚えのない調書についてはサインを拒否しました。
私はやっていません、ということを最後の最後に作った調書にサインをしました。
虚偽誘引公文書作成で起訴される。
ほんとうは何が起こったのか、何処で検事は間違えているのか、何を主張すれば間違いが正せるのか、探していかなければと覚悟しました。
保釈は私だけされませんでした。(他の方は罪を認めたので保釈されました)
拘置所は大変規則正しくて、7時30分起床、9時就寝、3食きちんと出て来ます。
週2,3回は風呂に入ります。(脱ぎ始めてから風呂に入り着るまでの時間は15分と決まっているので色々工夫をしました。)
面会は途中からOKとなり一日一組15分位です。
取り調べは最初の20日間が終わると取り調べが出来ないので、一日中拘置所の中にいるという生活をすることになります。
私は変わったのか、私は失ったのかということを自分に問いかけました。
私は変わっていない、私はなにもやっていないし変わってはいない。
私から離れて行く人が沢山いるかもしれないと思いました。
ずーっと応援している人がいて頑張れというメッセージが届きました。
失ったこともあるかもしれないが、こんなに自分は持っているじゃないかと思って、落ちつきました。
家族は信じていると思っていたが、弁護士さんとは会えるので、紙を持って来て下さって「真実を貫け」と書いてあってその下に同僚とか友達の名前がずらーっと書いてあってそれが大きな支えになりました。
証言に立った人たちが村木さんが関わったという供述調書の内容を、裁判で覆して行っていくつか客観的な証拠が出て来ました。
フロッピーディスクの内容が検察側のストーリーとは違う日付になっていたり、頼まれたはずの国会議員がゴルフ場にいたとか、どんどん当初言われていたストーリーとは違って裁判は動いていきました。
当初にどうしてサインしたのかという事に対しては、脅されたり、誤解するような誘導とかがどんどん出てきて、裁判が少しづついい方向に向かう感じがしました。
4回目でようやく保釈申請が認められました。
拘留期間が164日になります。
拘置所の中の生活はとっても落ち着いて辛い感じは無かったが、冷暖房が無いので体調を考えると、冬いたくないなあと思いました。
11月に保釈が決まってホッとしました。
マスコミに追いかけられた経緯があり、今後も続くことは辛いと思って記者会見を開いて立場、気持ちを説明して暴力的な取材は辞めてくれ、というお願いもしていこうと言うことになり、記者会見を行いました。
それをきっかけにマスコミの対応は変わったと思います。
裁判長から無罪の言い渡しが有りました。
ほっとはしたが控訴が有るのではないのかと思いました。
いくら供述調書が具体性があり、整合性があり、迫真性があっても人の記憶、供述は色んな間違いが入り込むことが有る、客観証拠と照らし合わせながら見ていかなければいけないと、裁判官が言ってくれたことは嬉しかったです。
長い裁判を闘うと言う覚悟でいたが、1年3カ月で終わってくれてほっとしています。
職場に戻れることが確定してとてもうれしかったです。
担当したのが子供の政策で遣り甲斐が有り嬉しかった。
2013年に厚生労働省の事務次官になる。
組織の縦割りを排除するのは、大変難しいと改めて感じました。
部下というのは上から見ていても実態はなかなか判らなくて、彼等の部下から話を聞くと非常にそれが良く見えると言うのが判ってとても面白かった。
実は下の方が正しい評価をしているということを実感しました。
如何に組織、部署が連携できるかを一生懸命やりました。
若い人達の話を直接聞くとか、勉強会をやると言うことが刺激になりました。
その時その時が精一杯でそれしかやりようがなかったと思います。
子供を大切にできる社会にする、これが自分の一番の関心事項かなと思っています。
高知県出身62歳、1978年昭和53年に当時の労働省に入省、女性政策、障害者政策などに携わってきました。
2009年当時雇用均等児童家庭局長だった村木さん、郵便の割引制度をめぐる事件で突然逮捕され、無実を訴えたものの半年間拘置所で拘留されました。
2010年大阪地裁は検察が描いた事件を否定、村木さんに無罪判決を言い渡しました。
村木さんは復職し、2013年から2015年まで厚生労働省の事務次官を務めました。
退職後は大学の客員教授などに就任し、人権や共生社会の講演を行っています。
役所に37年半いたので違ったことをやりたいと思って,大学とか民間企業で働きましたが、やはり違って新しい経験をさせてもらいました。
教授も初めての経験なので物凄く面白いです。
大学でも1年生を教えているので、自分の娘よりもはるかに若い人を教えているのでこれも面白いです。
当時学校の先生か公務員になるかしか選択肢がなかったので、公務員という道になりました。
労働省が一番女性の雇用に積極的だったので労働省に入りました。
最初の日に初めて会った上司に、お茶くみをさせるかどうかで課が真っ二つになり、激論したが負けてしまったのでお茶くみをしてくれと言われました。
国会の答弁の準備の作業等で夜中まで仕事をしていました。
働く女性の為の政策が一番多かったんですが、障害のある人の政策、子供支援、働き方改革の関連の仕事もしました。
5年で係長、10年で地方の課長。
後半は男性女性ということは無くなってきました。
郵便の割引制度をめぐる事件に突然巻き込まれ、うその証明書の発行に関わったとして、虚偽誘引公文書作成などの罪に問われた。
偽の証明書を使って障害者団体と偽ってダイレクトメールを送って儲けている団体が有ると言うことが沢山報道されていた。
係長が逮捕されたので吃驚しました。
その上司、関係者が地検に呼び出されて、事情聴取を受けました。
取り調べを受けた人が「村木さんから言われてやりました」という様な報道がどんどん
されて、一方で私だけが呼び出されないということが長くありました。
いったい何が起こっているんだろうと当惑していました。
地検からようやく呼び出しがあり、大阪地検に出かけて行きました。
偽の障害者団体の人に会ったかどうか、証明書を頼まれたか、部下に指示をしたのかどうか、部下の作った証明書を受け取って自分が団体に渡したのではないかというようなことを聞かれました。
5年前だったので、物凄く色んな人に会っていたのであっていないという自信は無かった。
偽の障害者団体に偽の証明書を出してくれと誰からも言われていないし、支持したことも無いので証明書を渡すことなどあり得ないと言いました。
その日の夕方に「逮捕します」と言うことになってしまいました。
一番心配していたのは当時高校3年生の娘と社会人の娘がいて、夫は海外に出張中でしたので、報道でいきなり娘たちが知ると言う事なのでそれだけは避けたいと思いました。
なんとかメールで「たいほ」という文字だけを夫に知らせました。
事態を察知して娘たちの面倒を見てくれるのではないかと思いました。
拘置所に連れていかれて、取り調べが始まりました。
拘留期間は10日、一回延長ができるので合計20日間取り調べると言うことで、貴方の場合は起訴されることになるでしょうと最初に言われました。
もう一つ私の仕事は貴方の供述を変えさせることですと言いました。
調書は検事さんに聞かれてそれに対して喋ったら、要約して文書にするものだと思っていたが全く違っていた。
事件のストーリーがあり、それに沿わない話は私がいくら話をしても調書に作られない。
身に覚えのない調書についてはサインを拒否しました。
私はやっていません、ということを最後の最後に作った調書にサインをしました。
虚偽誘引公文書作成で起訴される。
ほんとうは何が起こったのか、何処で検事は間違えているのか、何を主張すれば間違いが正せるのか、探していかなければと覚悟しました。
保釈は私だけされませんでした。(他の方は罪を認めたので保釈されました)
拘置所は大変規則正しくて、7時30分起床、9時就寝、3食きちんと出て来ます。
週2,3回は風呂に入ります。(脱ぎ始めてから風呂に入り着るまでの時間は15分と決まっているので色々工夫をしました。)
面会は途中からOKとなり一日一組15分位です。
取り調べは最初の20日間が終わると取り調べが出来ないので、一日中拘置所の中にいるという生活をすることになります。
私は変わったのか、私は失ったのかということを自分に問いかけました。
私は変わっていない、私はなにもやっていないし変わってはいない。
私から離れて行く人が沢山いるかもしれないと思いました。
ずーっと応援している人がいて頑張れというメッセージが届きました。
失ったこともあるかもしれないが、こんなに自分は持っているじゃないかと思って、落ちつきました。
家族は信じていると思っていたが、弁護士さんとは会えるので、紙を持って来て下さって「真実を貫け」と書いてあってその下に同僚とか友達の名前がずらーっと書いてあってそれが大きな支えになりました。
証言に立った人たちが村木さんが関わったという供述調書の内容を、裁判で覆して行っていくつか客観的な証拠が出て来ました。
フロッピーディスクの内容が検察側のストーリーとは違う日付になっていたり、頼まれたはずの国会議員がゴルフ場にいたとか、どんどん当初言われていたストーリーとは違って裁判は動いていきました。
当初にどうしてサインしたのかという事に対しては、脅されたり、誤解するような誘導とかがどんどん出てきて、裁判が少しづついい方向に向かう感じがしました。
4回目でようやく保釈申請が認められました。
拘留期間が164日になります。
拘置所の中の生活はとっても落ち着いて辛い感じは無かったが、冷暖房が無いので体調を考えると、冬いたくないなあと思いました。
11月に保釈が決まってホッとしました。
マスコミに追いかけられた経緯があり、今後も続くことは辛いと思って記者会見を開いて立場、気持ちを説明して暴力的な取材は辞めてくれ、というお願いもしていこうと言うことになり、記者会見を行いました。
それをきっかけにマスコミの対応は変わったと思います。
裁判長から無罪の言い渡しが有りました。
ほっとはしたが控訴が有るのではないのかと思いました。
いくら供述調書が具体性があり、整合性があり、迫真性があっても人の記憶、供述は色んな間違いが入り込むことが有る、客観証拠と照らし合わせながら見ていかなければいけないと、裁判官が言ってくれたことは嬉しかったです。
長い裁判を闘うと言う覚悟でいたが、1年3カ月で終わってくれてほっとしています。
職場に戻れることが確定してとてもうれしかったです。
担当したのが子供の政策で遣り甲斐が有り嬉しかった。
2013年に厚生労働省の事務次官になる。
組織の縦割りを排除するのは、大変難しいと改めて感じました。
部下というのは上から見ていても実態はなかなか判らなくて、彼等の部下から話を聞くと非常にそれが良く見えると言うのが判ってとても面白かった。
実は下の方が正しい評価をしているということを実感しました。
如何に組織、部署が連携できるかを一生懸命やりました。
若い人達の話を直接聞くとか、勉強会をやると言うことが刺激になりました。
その時その時が精一杯でそれしかやりようがなかったと思います。
子供を大切にできる社会にする、これが自分の一番の関心事項かなと思っています。
2018年9月3日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・近代日本150年 明治の群像】荻野吟子
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・近代日本150年 明治の群像】荻野吟子
講談師 神田 蘭
近代日本における最初の女性の医師免許を取得した荻野吟子を取り上げる。
講談による紹介
明治の初めこの日本には女医さんはおりませんでした。
強い意志で苦難を乗り越え日本の女医第一号になった。
1851年3月3日(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
10歳のころは四書五経をそらんじていたとか。
17歳で荻野吟子は北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男の元へと嫁ぐ。
結婚して1年もたたぬうちに淋病にかかってしまう。
夫の女遊びが原因で淋病をうつされた。
激しい痛みと精神の苦痛、療養の為実家に帰るとその夫とは協議離婚となる。
周りの冷たい目もあり家に引きこもることになる。
順天堂医院に入院し婦人科治療をうける事になる。
治療にあたった方が全員男性で恥ずかしさ、恐ろしさ、情けなさで頭が真っ白になり、こんな恥ずかしい思いをするなら死んだほうがましだと思った。
せめて女性の医者がいてくれたらと吟子は思いました。
入院生活は1年に及び屈辱的な診療の度にその思いを強くしていきます。
自分が医者になればいいんだと決意をする。
江戸時代に素晴らしい教育をしていたからこそ明治時代に花開いて発展していったと思う。
勉強の仕方が桁違いに凄かったと思う。
やってから理屈を付ける方がいいのかもしれない。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。(23歳)
本当に幅広く勉強する。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
生徒74人で明治12年卒業するが首席で卒業。
高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。
優秀な成績で卒業(31歳)。(周りからいじめにあいながら)
医師試験を受けさせてもらえなかった。(今まで前例がない女医が居ないという理由)
東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。
つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
1908年(明治41年) - 荻野吟子は帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年)荻野吟子は逝去した。満62歳。
「荻野吟子の命とありぬ冬の利根」 金子兜太
講談師 神田 蘭
近代日本における最初の女性の医師免許を取得した荻野吟子を取り上げる。
講談による紹介
明治の初めこの日本には女医さんはおりませんでした。
強い意志で苦難を乗り越え日本の女医第一号になった。
1851年3月3日(嘉永4年) - 武蔵国幡羅郡(はたらぐん)俵瀬(たわらせ)村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与(かよ)の五女(末娘)として生をうける。
10歳のころは四書五経をそらんじていたとか。
17歳で荻野吟子は北埼玉郡上川上村(現在の熊谷市上川上)の名主の長男の元へと嫁ぐ。
結婚して1年もたたぬうちに淋病にかかってしまう。
夫の女遊びが原因で淋病をうつされた。
激しい痛みと精神の苦痛、療養の為実家に帰るとその夫とは協議離婚となる。
周りの冷たい目もあり家に引きこもることになる。
順天堂医院に入院し婦人科治療をうける事になる。
治療にあたった方が全員男性で恥ずかしさ、恐ろしさ、情けなさで頭が真っ白になり、こんな恥ずかしい思いをするなら死んだほうがましだと思った。
せめて女性の医者がいてくれたらと吟子は思いました。
入院生活は1年に及び屈辱的な診療の度にその思いを強くしていきます。
自分が医者になればいいんだと決意をする。
江戸時代に素晴らしい教育をしていたからこそ明治時代に花開いて発展していったと思う。
勉強の仕方が桁違いに凄かったと思う。
やってから理屈を付ける方がいいのかもしれない。
1873年(明治6年) - 上京し、国学者で皇漢医の井上頼圀(よりくに)に師事。(23歳)
本当に幅広く勉強する。
1875年(明治8年) - 東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)の一期生として入学。
生徒74人で明治12年卒業するが首席で卒業。
高階経徳が経営する下谷練塀(ねりべい)町(現在の秋葉原)の私立医学校・好寿院に特別に入学を許される。
優秀な成績で卒業(31歳)。(周りからいじめにあいながら)
医師試験を受けさせてもらえなかった。(今まで前例がない女医が居ないという理由)
東京府に医術開業試験願を提出したが却下、翌年も同様であった。
つづいて埼玉県にも提出したが同じ結果だった。
医師試験を受けさせてもいいのではないかという人も出て来る 、その一人が森鴎外の上司の軍医監で子爵の石黒忠悳(ただのり)で知遇を得て長與 專齋という方(医師免許制度の父と言われる)に石黒忠悳さんが談判に行ってくれた。
井上頼圀先生も資料をあさってくれたらしい。
その資料の中に古代に女性の医学博士がいるとの記載があった。
井上頼圀先生は吟子さんを好きだったらしくて後妻にならないかと持ちかけたが断ったが、先生と弟子との関係は続いた。
1884年(明治17年)9月 - 医術開業試験前期試験を他の女性3人と受験、吟子1人のみ合格。(物理学、化学などなど)
1885年(明治18年)3月 - 後期試験を受験し合格。
外科学、内科学、産科学、婦人科学、眼科学、細菌学、臨床実験など非常に難しい。(34歳)
外科学、内科学、産科学、婦人科学、眼科学、細菌学、臨床実験など非常に難しい。(34歳)
新聞や雑誌で「女医第一号」として大きく扱われる。
湯島に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。
女性がたくさん来て、花柳病が如何に多いか実感したそうです。
1886年(明治19年) - 海老名弾正から『日本開化小史』の著書で有名な田口卯吉らとともにキリスト教の洗礼を受ける。
キリスト教婦人矯風会にも参加し、その風俗部長に就任するとともに、廃娼運動にも取り組む。
江戸時代の墓が多く発掘されたりするが、多いのは子供の骨と梅毒になった人の骨(骨が黒くなるので判る)
男は吉原に行って梅毒に感染することが多かったようだ。
1890年(明治23年)11月25日 - 39歳の時、13歳年下の同志社の学生で、新島襄から洗礼を受け敬虔なキリスト教徒だった志方之善(しかたゆきよし)と周囲の反対を押し切り再婚する。
夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から北海道へ渡る決意を吟子に告げる。
吟子も東京の医者をたたんで北海道に移る。
1897年(明治30年)海辺の瀬棚の会津町(現 本町の一部)で診療所を開業する。
夫の之善はいろいろな方面に手を出して腰の定まらない人間だった。
1905年(明治38年)夫の之善は病を得て9月23日瀬棚で逝去。1908年(明治41年) - 荻野吟子は帰京、本所区小梅町に医院を開業し晩年を送る。
1913年(大正2年)荻野吟子は逝去した。満62歳。
「荻野吟子の命とありぬ冬の利根」 金子兜太
2018年9月2日日曜日
石丸博也(声優) ・【時代を創った声】
石丸博也(声優) ・【時代を創った声】
77歳、高校卒業後劇団ひまわりで演技の勉強をしました。
アニメ マジンガーZでは兜甲児役、吹き替えではジャッキー・チェンの役を40年以上担当しています。
1982年の『スネーキーモンキー 蛇拳』が最初の作品。
ジャッキー・チェンの映画ととも発展してゆく香港とか、景色が判ります。
マジンガーの兜甲児役を付けてくれたのが録音ディレクターの春日正伸さんで怖かった。
最初声優になろうとは思わなかった。
声優の仕事は月1回で給料も安かった。(声優という言葉も無かった。)
小学校、中学校時代勉強をやらなかった。
日記を書けなくて母親から頭を殴られたりしました。
高校卒業後、予備校に行くが、予備校にはいかずに友達が競輪が好きで一緒に学費を使って競輪、競馬などで遊びました。
映画が当時全盛で憧れていました。
それで劇団ひまわりに入って演技の勉強をしていたら面白くなりました。
劇団ひまわりで児童劇をやって、東京都演劇コンクールで最優秀賞を貰いました。(私が主役でした。)
当時はただただ一生懸命やっていたような感じでした。(プロになろうと言うことはあまり考えてはいなかった。)
お金が無かったが、28歳ぐらいで結婚しました。(相手の父親は反対したようですが)
小さな汚いアパートを借りて過ごしますが、ファンが来てくれるが恥ずかしくて逢えなかった。(マジンガーZでは兜甲児役をやっていた。)
テレ症で上手くやろうとか、間違いなくやろうと言う思いが先立ち、つい周りのことを気にしてしまうので、集中力が足りないのでなかなかうまくできなかった。
役に没頭すればやれるはずだと、周りを気にしなくなってから面白くなりました。
ジャッキー・チェンの役をもらった時は、ちゃんとやってやろうと腹の中で思って戦いました。
収録現場では先輩から「トチ丸」と言われていましたが、何くそという思いがありました。
なぜかファンクラブが出来て、その頃アニメの火付けになったと思います。
仙台では盛況のサイン会だったが、九州に行った時にはサイン会が有ったが人がいなかった、そんな時もありました。
声優は表には出ないようにした方がいいというようなことを言われました。
映画は月に一本程度でぶつかると声優の仕事を断ったりしていて、或る人からどっちかにした方がいいと言われました。
自分を成長させないと俳優も声優も上手くならないのではないかと思いました。
人間成長していけば色んな見方が出来るし、色んな考え方を自分の中で成長させていかないと、上手い役者にはなれないのではないかと思いました。
アルバイトの仕事、日常の生活の中でも考えて勉強になりました。
ジャッキーの映画はこんなに長く続くとは思いませんでした。
ジャッキーの演技も変わってきて、景色なども都会化して時代の流れを感じます。
お互いに歳をとってきているので、そういう面では自然体で演じることができて良かったです。
今、兜甲児役やろうとしたら多少若ぶったりして作りますがそうだとだめですね、でもやってみたい気はします。
若い人たちは売れようと思って一生懸命やっているが、売れないからと言ってがっかりするな、売れたからと言ってのぼせるな、だと思います。
一回や二回は誰にでもチャンスはあるので、そのチャンスは必ず逃がさないようにすることが大事だと思います。
それには人と人との出会いと、普段いろいろ観察してどんな役が来ても大丈夫なようにするとか、あと自分を知ること(自分に合ったものはこれだというもの)だと思います。
声のいい悪いは関係無い、上手い下手はあるが。
77歳、高校卒業後劇団ひまわりで演技の勉強をしました。
アニメ マジンガーZでは兜甲児役、吹き替えではジャッキー・チェンの役を40年以上担当しています。
1982年の『スネーキーモンキー 蛇拳』が最初の作品。
ジャッキー・チェンの映画ととも発展してゆく香港とか、景色が判ります。
マジンガーの兜甲児役を付けてくれたのが録音ディレクターの春日正伸さんで怖かった。
最初声優になろうとは思わなかった。
声優の仕事は月1回で給料も安かった。(声優という言葉も無かった。)
小学校、中学校時代勉強をやらなかった。
日記を書けなくて母親から頭を殴られたりしました。
高校卒業後、予備校に行くが、予備校にはいかずに友達が競輪が好きで一緒に学費を使って競輪、競馬などで遊びました。
映画が当時全盛で憧れていました。
それで劇団ひまわりに入って演技の勉強をしていたら面白くなりました。
劇団ひまわりで児童劇をやって、東京都演劇コンクールで最優秀賞を貰いました。(私が主役でした。)
当時はただただ一生懸命やっていたような感じでした。(プロになろうと言うことはあまり考えてはいなかった。)
お金が無かったが、28歳ぐらいで結婚しました。(相手の父親は反対したようですが)
小さな汚いアパートを借りて過ごしますが、ファンが来てくれるが恥ずかしくて逢えなかった。(マジンガーZでは兜甲児役をやっていた。)
テレ症で上手くやろうとか、間違いなくやろうと言う思いが先立ち、つい周りのことを気にしてしまうので、集中力が足りないのでなかなかうまくできなかった。
役に没頭すればやれるはずだと、周りを気にしなくなってから面白くなりました。
ジャッキー・チェンの役をもらった時は、ちゃんとやってやろうと腹の中で思って戦いました。
収録現場では先輩から「トチ丸」と言われていましたが、何くそという思いがありました。
なぜかファンクラブが出来て、その頃アニメの火付けになったと思います。
仙台では盛況のサイン会だったが、九州に行った時にはサイン会が有ったが人がいなかった、そんな時もありました。
声優は表には出ないようにした方がいいというようなことを言われました。
映画は月に一本程度でぶつかると声優の仕事を断ったりしていて、或る人からどっちかにした方がいいと言われました。
自分を成長させないと俳優も声優も上手くならないのではないかと思いました。
人間成長していけば色んな見方が出来るし、色んな考え方を自分の中で成長させていかないと、上手い役者にはなれないのではないかと思いました。
アルバイトの仕事、日常の生活の中でも考えて勉強になりました。
ジャッキーの映画はこんなに長く続くとは思いませんでした。
ジャッキーの演技も変わってきて、景色なども都会化して時代の流れを感じます。
お互いに歳をとってきているので、そういう面では自然体で演じることができて良かったです。
今、兜甲児役やろうとしたら多少若ぶったりして作りますがそうだとだめですね、でもやってみたい気はします。
若い人たちは売れようと思って一生懸命やっているが、売れないからと言ってがっかりするな、売れたからと言ってのぼせるな、だと思います。
一回や二回は誰にでもチャンスはあるので、そのチャンスは必ず逃がさないようにすることが大事だと思います。
それには人と人との出会いと、普段いろいろ観察してどんな役が来ても大丈夫なようにするとか、あと自分を知ること(自分に合ったものはこれだというもの)だと思います。
声のいい悪いは関係無い、上手い下手はあるが。
2018年9月1日土曜日
白井聡(政治学者)保阪正康(評論家) ・対談「平成最後の夏に」~後編~
白井聡(政治学者)保阪正康(評論家) ・対談「平成最後の夏に」~後編~
白井:平成になっても日本の社会構造というのは、戦前から引き継いでいる国体なるものが、いまだもって生きているのではないかということになったが、それを証するような事件、出来事が起きているような感じがする。
戦後日本はあの戦争への後悔と反省とに立ち、いろんな場面で言ったり書いたりしているが「本当かよ」、という事が問われている。
3・11福島原発事故の時に、事故対処のあり様を見て、あの戦争の時と同じではないのかと思いました。
最近では日大のアメリカンフットボールの問題、ボクシング協会の問題、とか本当にそっくりなんです。
神風特攻隊にどうやって上官は兵を送りこんだか、全員熱烈志願という体裁を作って志願させる。
それとそっくりなんです。
国体というものを清算できていないということが明らかになっていて、国体の核心とはどこにあるんだと考えた時に、「国体論 菊と星条旗」の本で着目しているのは、支配の現実が有るのにもかかわらず、それを否認するような支配という変な支配です。
戦前、天皇陛下と赤子(民族の父である天皇とその子供)の関係だから、そこには愛が有るだけで支配は無いということになって、家族国家観といわれるが、これが引き継がれていて、アメリカが父のように日本を愛してくれているというのが、根本的な妄想としてあって、そういう中で国体が引き継がれてしまった。
そのことによる社会の腐食みたいなものが、いま本当に深刻な形でおきているのではないか、これが平成の末期の姿だと思う。
保阪:平成の時代の基本的問題はいくつかあると思うが、日本的共同体が清算しきれていないと言うのが、今の話の通りだと僕も思います。
日本人が共同体を作る時の原形は江戸時代の農村社会にあるわけで、それがずーっと延長する形で明治、大正、昭和そして今も続いている。
日本の軍隊は典型的な家族共同体で、上官を父と思え母と思え、上等兵を兄と思えというような疑似的な国家共同体を作って、俺とおまえは生死を共にするんだと言う形で軍隊の構造が出来る訳ですが、その構造体のある単位では、ある局面では強いが、戦争が機械的な局面、広範囲な戦略、戦術を使う段になると途端に破綻してしまう。
何故かと言うと、戦争は見えない形で戦う時には想像力、分析力などが必要であるのに、目の前の敵と戦うのみが戦争であるという妙な戦争観を持ってしまって、戦闘そのものが何よりも尊っとばれるということになってしまう。
戦争は戦うだけではなくて、戦闘に伴う色んな政治とか訳だけれど、そういうものが何か無視されてしまった処はあると思います。
平成の時代の基本的な問題の中にオウムの問題は昭和から引きずっているが、オウムの問題が象徴的なんだろうなと思います。
あそこに入っていった人達は共同体の中での何か安寧とか、現実社会から逃避するものを求めての共同体が有ると思って入っていったんだろうと思いますが、入っていく動機というのは以外に知的な階層が多かった。
知的な人達であるからこそ、精神的な空洞化に恐れをなしたり、気付いて入って行くと言うこともある。
白井:あの事件は衝撃を受けたが、僕と同世代の人が書いている人の中では、ひょっとすると自分は行きかねなかったんだと論じる方がいますが、僕個人としてはそういう感覚は無いです。
見るからにおかしいと思いました。
死刑が執行されて本当にオウムを葬り去ったということになったのか、というのが大いに疑問です。
知的レベルの高い人がはいっていったが、それに比すべきものは今は何かというと、ある種の歴史修正主義、陰謀論などにはまる人も知的レベルの高い人がはまる可能性がある。
陰謀論などを信じてしまうというのは、その前提として世界で起こることを統一的な手段によってすべてを理解したいという欲望が有るから、唯一原因ということで陰謀組織を想定するわけです。
ある種オウム的想像力みたいなもの、これは葬られたかのように見えて、歴史修正主義、陰謀論の燎原の火のような広がりというものを見ると、オウム的なものは勝利しているんじゃないかという気がしています。
保阪:歴史修正主義の広がりというのに対して、僕らはある不気味さを感じました。
不気味さはオウムと繋がるような精神構造があるんだというね。
歴史修正主義に対しては可成り注意をする必要がある。
先達の生きた姿を語るときには良いも悪いも無く、それを客観化しながらそこから、教訓を学ぶことは大事だと思うと言うことで、私はいうけれども、なぜあれほど国家というものに対して自分が遺棄をする。
その遺棄をすることの精神性というものを課題にそこに求めてしまうのだろう。
この求めてしまう国家というものが、実は白井さんのいう様にアメリカという国体が出来上がっているとするならば、むしろこれは非日本なわけで、この矛盾というものがどういうふうにしてこれから形になっていくのか僕は不安です。
白井:戦後史は結局アメリカの機密文書の公開というところに、物凄く事実の確定をそれに頼らざるを得ない。
私達は私達の歴史を自ら書けない構造の中にいる。
保阪:戦争が終わった時、資料を全部といいほど焼却した。
資料を焼却したしたという心理はポツダム宣言で戦争責任者をさばくと言う一項があるからそれにおびえて、戦争に関するものを燃やしたと言う指導者の無責任さが有る。
それは次の世代に対する侮辱なんだと、如何に卑劣なんだと怒らなければいけない。
基本的に国策に関わった資料を残すという事は、次の世代への責任なんだよね。
責任をこんなに軽く考えている。
政策決定し、実行したことに対しては、その責任はその時代に対して負うだろうけど、問題はそうやって託された人が歴史の中でも託された責任をどう考えるかということです。
どうして国民があんなに玉砕、特攻等国民の命をあれほど酷い状態にしたのか、その権利は歴史の将来、過去の人達からあなたに付与されているのかという視点、僕はこれをかなりいいたい。
過去、未来の私達の歴史を背負った責任というものを、戦争指導者たちが考えていないというのが日本の特徴だと思います。
今私たちが生きている、非軍事の時代の政策は一番日本の個性、性格、考え方が出来るはっきりさせているはずだが、アメリカを国体とするような形で属国化しているというような政治が進められているとするならば、私達の国の基本的な問題がそこにあると思う。
その最大の問題はなんなんでしょうか、と言うことです。
白井:今は二度目の国体の崩壊の局面に立ち会っているとみなしていますが、一番明瞭に知らしめたのは、今上天皇のお言葉だったと思います。
象徴天皇とはなんなんだと言う事を、ご自身が真剣に考え抜いて実践してこられた。
結論は日本国民の統合の象徴なんだ、この事を何度も強調された。
今統合がズタズタになってきていますよね、ということに対する危機感だと思うし、国民の統合が存在しないのならば、統合の象徴もあり得ないし、そこまでの危機感がにじんだ言葉だと思います。
保阪:天皇が一番最初に行っている言葉の中に「私はこれを個人として言う。」とおっしゃった。(憲法上の制限があり、内閣の助言と、承認が無いと発言できない。)
色々訴えた後に、天皇は最後に「国民の理解を求めます。」と言っている。
これは天皇と国民の間に介在するものがいないという事。
ジャーナリズムの側で判断すると、天皇と内閣の間に齟齬をきたしている、ということだと思う。
齟齬の本質は何なんだろうと言うことです。
乱暴な表現になるかもしれないが、もしかしたら政治が属国化の中の中心にいる、国体、アメリカという側にいる政治なんだと言うふうにかんぐることもできる。(微妙な問題だと思うが)
白井:おかしな形の対米従属、属国であることを否認するような属国というおかしなことをやっていることによって、国民統合がズタズタになってきているという訳で。
そこをみなおさないと国民統合は回復できないというふうにならざるを得ない。
保阪:日本人本来の基本的な立脚点、日本人固有の伝統的な精神が崩れている。
かつての国体の代わりにアメリカを据えることで、私たちはある精神作用、気持ちがならされているそれが延長している。
それを変えるとするならば、個人の発想法、歴史に対する目、日常の視点、生活の小さな規範を変えなければいけないということで、それを言う意味で言うと個人の個人の自己意識の変革ですね。
白井:大変な時代になった。
権威と権力、この分業が良好であるとこのシステムはうまく回るが、動乱期には権力と権威が対立する関係になってしまう。
大きな社会的な混乱を伴うような変革が訪れて、次の時代に行く。
例えば、鎌倉幕府の北条宗家と後醍醐天皇の対立とか。
あのお言葉が出た時に私はこれは太平記とか平家物語とかを読まなければいけないと、直観的に思いました。
そういうことに匹敵するようなとんでもないことが今おきていると感じました。
保阪:天皇と私たちの関係、天皇と権力の関係について言えば、権威と権力の分立という事に対して知恵が働いて、日本はバランスを摂ってきたと思う。
歴史の中で観て行くと答案が積まれてていると思う。
江戸時代は権威と権力を上手く分立していたと思う。
いい答案、合格点だと思う。
昭和10年代の答案は天皇と国民の間に軍が入ってきて、軍の教育の上の天皇が入ると言うことで、天皇のために命を捨てる、天皇は神であるというような事が入り込んで、それを国民に強要するというような形で答案が出来上がって、歴史的にああいうふうになった。
あれは落第点だった。
今の答案は実は答案は天皇からこういうふうに私はやっている、皆さんも私と一緒に考えて下さい、答案を書きましょうと言っている。
今上天皇のビデオのメッセージは凄く重いものを持っている。
日本人の立脚点、日本人の精神性に置き換えれば、基本的問題だなあと言うことになります。
白井:ボールは天皇から国民の側に投げられた。
これに誰が答えるのか、もし誰も答えなければ、天皇制というのは必要ないという結論が出ると言う事で、それでいいのかと言うことですね。
保阪:我々も答案を書いて一緒に書くことによって、この時代の天皇と私達の存在理由、絆を確かめましょうと講演などで言うんですが、日常の旧来のあるものが日本の形を崩してきているので、それをきちんと見抜く様にすればおのずから変えざるを得ないという結論だと思うのですが。
白井:近代天皇制と言うものに対して、天皇自らが一定の幕引きをしているのではないかと思うことが有る。
天皇の仕事として一番大事なのは、祈りであるということをはっきり言ったわけです。
天皇自身による祈りが一瞬でも途絶えてはいけないということで、日本国民が幸福になるのも不幸になるのも祈りにかかっているんだと、これはきわめて前近代的なものです。
前近代的な仕事にこそ天皇の神髄が有ると言うことを述べた。
一見古代的なものに見えるが、実は近代化を推進するための装置だった訳です。
天皇制は近代性そのものだと言うことが判ってくる。
戦後或る種アメリカニズムが入ってくる、それが或る意味天皇制のような形で機能する。
それは実は天皇制は近代性そのものなんだと言う事が判ってくるわけです。
それは実は天皇制の本質ではないと、天皇自身がおっしゃったということである。
保阪:歴代天皇は皇統を守ることが在位する理由だから、その目的には手段がある、天皇の重要な手段、一番重要なのは祈りで、一瞬たりとも絶えてはいけない。
普遍的な役割りがあり、ある時代には憲法や管領としての要求されるものに対して、応じて行くと言うことも目的を達成する為の手段だと思うが、手段に戦争というものを選んだ時代があった。
戦争という手段を選んだが故の昭和天皇の奉納はかなり深いものが有ったと思う。
戦争という手段を選ぶ事の恐怖、崩壊解体するという意識はあったと思う。
軍はそこに入りこんで戦争しないとこの国は潰れると恫喝したと思う。
戦争という形を通じて私たちは天皇制は温存された。(国体護持は達せられた)
国体は普遍的な意味で存在する国体ではなくて或る流動性を持っている。
例えば、天皇はアメリカになったり、天皇を支える国民の意識によってそれが変化してゆくことを言っている訳です。
未来に希望、明るい光を見なければ前に進めないと思うので、明るいものは何なんだろうと思うと、天皇という制度が今後新しい天皇になった時に、どういう天皇像を作るんだろうと言うことに関心があります。
今の皇太子が天皇になっても3つで語ることができるだろうと予測します。
①天皇、②科学技術、③ナショナリズム
10年、15年以内にイギリスの王室と日本の皇室が中心になって、王室サミットを開くのではないかと思う。
政治、経済、外交を論じるのではなくて自然環境、疾病に対する人類愛などに意見を提示すると言う形になるのでは、そうでないと王室、皇室の存在は何なのかと言う事を問われてい行く。
こういった方法も一つ考えられると思う。
白井:元号がいつまで続くのか。
この制度をどう持ち続けるのか。
みやび、文化的価値というか、みやびであることと客観的前提が崩壊してきてしまった。
グローバリゼーションの結果かもしれない。
こういったことを直視することから新しい時代が始まるだろうと思います。
保阪:次の時代の呼吸はどんなものかわからないし、その呼吸と折りあいが付くかどうか判らない。
今日話をして感動したことが二つあります。
①今の時代に生きている人の問題意識は可成り世代にこだわらず同じだと言う事。
②私たちの目の前に観ている風景、光景は何かの反映、歴史の反映、哲学、思想などの反映だと言う事を常に感じていますが、そういう事を感じている人との会話は大事だと思います。
(内容を上手く伝えられなかったかも知れません)
白井:平成になっても日本の社会構造というのは、戦前から引き継いでいる国体なるものが、いまだもって生きているのではないかということになったが、それを証するような事件、出来事が起きているような感じがする。
戦後日本はあの戦争への後悔と反省とに立ち、いろんな場面で言ったり書いたりしているが「本当かよ」、という事が問われている。
3・11福島原発事故の時に、事故対処のあり様を見て、あの戦争の時と同じではないのかと思いました。
最近では日大のアメリカンフットボールの問題、ボクシング協会の問題、とか本当にそっくりなんです。
神風特攻隊にどうやって上官は兵を送りこんだか、全員熱烈志願という体裁を作って志願させる。
それとそっくりなんです。
国体というものを清算できていないということが明らかになっていて、国体の核心とはどこにあるんだと考えた時に、「国体論 菊と星条旗」の本で着目しているのは、支配の現実が有るのにもかかわらず、それを否認するような支配という変な支配です。
戦前、天皇陛下と赤子(民族の父である天皇とその子供)の関係だから、そこには愛が有るだけで支配は無いということになって、家族国家観といわれるが、これが引き継がれていて、アメリカが父のように日本を愛してくれているというのが、根本的な妄想としてあって、そういう中で国体が引き継がれてしまった。
そのことによる社会の腐食みたいなものが、いま本当に深刻な形でおきているのではないか、これが平成の末期の姿だと思う。
保阪:平成の時代の基本的問題はいくつかあると思うが、日本的共同体が清算しきれていないと言うのが、今の話の通りだと僕も思います。
日本人が共同体を作る時の原形は江戸時代の農村社会にあるわけで、それがずーっと延長する形で明治、大正、昭和そして今も続いている。
日本の軍隊は典型的な家族共同体で、上官を父と思え母と思え、上等兵を兄と思えというような疑似的な国家共同体を作って、俺とおまえは生死を共にするんだと言う形で軍隊の構造が出来る訳ですが、その構造体のある単位では、ある局面では強いが、戦争が機械的な局面、広範囲な戦略、戦術を使う段になると途端に破綻してしまう。
何故かと言うと、戦争は見えない形で戦う時には想像力、分析力などが必要であるのに、目の前の敵と戦うのみが戦争であるという妙な戦争観を持ってしまって、戦闘そのものが何よりも尊っとばれるということになってしまう。
戦争は戦うだけではなくて、戦闘に伴う色んな政治とか訳だけれど、そういうものが何か無視されてしまった処はあると思います。
平成の時代の基本的な問題の中にオウムの問題は昭和から引きずっているが、オウムの問題が象徴的なんだろうなと思います。
あそこに入っていった人達は共同体の中での何か安寧とか、現実社会から逃避するものを求めての共同体が有ると思って入っていったんだろうと思いますが、入っていく動機というのは以外に知的な階層が多かった。
知的な人達であるからこそ、精神的な空洞化に恐れをなしたり、気付いて入って行くと言うこともある。
白井:あの事件は衝撃を受けたが、僕と同世代の人が書いている人の中では、ひょっとすると自分は行きかねなかったんだと論じる方がいますが、僕個人としてはそういう感覚は無いです。
見るからにおかしいと思いました。
死刑が執行されて本当にオウムを葬り去ったということになったのか、というのが大いに疑問です。
知的レベルの高い人がはいっていったが、それに比すべきものは今は何かというと、ある種の歴史修正主義、陰謀論などにはまる人も知的レベルの高い人がはまる可能性がある。
陰謀論などを信じてしまうというのは、その前提として世界で起こることを統一的な手段によってすべてを理解したいという欲望が有るから、唯一原因ということで陰謀組織を想定するわけです。
ある種オウム的想像力みたいなもの、これは葬られたかのように見えて、歴史修正主義、陰謀論の燎原の火のような広がりというものを見ると、オウム的なものは勝利しているんじゃないかという気がしています。
保阪:歴史修正主義の広がりというのに対して、僕らはある不気味さを感じました。
不気味さはオウムと繋がるような精神構造があるんだというね。
歴史修正主義に対しては可成り注意をする必要がある。
先達の生きた姿を語るときには良いも悪いも無く、それを客観化しながらそこから、教訓を学ぶことは大事だと思うと言うことで、私はいうけれども、なぜあれほど国家というものに対して自分が遺棄をする。
その遺棄をすることの精神性というものを課題にそこに求めてしまうのだろう。
この求めてしまう国家というものが、実は白井さんのいう様にアメリカという国体が出来上がっているとするならば、むしろこれは非日本なわけで、この矛盾というものがどういうふうにしてこれから形になっていくのか僕は不安です。
白井:戦後史は結局アメリカの機密文書の公開というところに、物凄く事実の確定をそれに頼らざるを得ない。
私達は私達の歴史を自ら書けない構造の中にいる。
保阪:戦争が終わった時、資料を全部といいほど焼却した。
資料を焼却したしたという心理はポツダム宣言で戦争責任者をさばくと言う一項があるからそれにおびえて、戦争に関するものを燃やしたと言う指導者の無責任さが有る。
それは次の世代に対する侮辱なんだと、如何に卑劣なんだと怒らなければいけない。
基本的に国策に関わった資料を残すという事は、次の世代への責任なんだよね。
責任をこんなに軽く考えている。
政策決定し、実行したことに対しては、その責任はその時代に対して負うだろうけど、問題はそうやって託された人が歴史の中でも託された責任をどう考えるかということです。
どうして国民があんなに玉砕、特攻等国民の命をあれほど酷い状態にしたのか、その権利は歴史の将来、過去の人達からあなたに付与されているのかという視点、僕はこれをかなりいいたい。
過去、未来の私達の歴史を背負った責任というものを、戦争指導者たちが考えていないというのが日本の特徴だと思います。
今私たちが生きている、非軍事の時代の政策は一番日本の個性、性格、考え方が出来るはっきりさせているはずだが、アメリカを国体とするような形で属国化しているというような政治が進められているとするならば、私達の国の基本的な問題がそこにあると思う。
その最大の問題はなんなんでしょうか、と言うことです。
白井:今は二度目の国体の崩壊の局面に立ち会っているとみなしていますが、一番明瞭に知らしめたのは、今上天皇のお言葉だったと思います。
象徴天皇とはなんなんだと言う事を、ご自身が真剣に考え抜いて実践してこられた。
結論は日本国民の統合の象徴なんだ、この事を何度も強調された。
今統合がズタズタになってきていますよね、ということに対する危機感だと思うし、国民の統合が存在しないのならば、統合の象徴もあり得ないし、そこまでの危機感がにじんだ言葉だと思います。
保阪:天皇が一番最初に行っている言葉の中に「私はこれを個人として言う。」とおっしゃった。(憲法上の制限があり、内閣の助言と、承認が無いと発言できない。)
色々訴えた後に、天皇は最後に「国民の理解を求めます。」と言っている。
これは天皇と国民の間に介在するものがいないという事。
ジャーナリズムの側で判断すると、天皇と内閣の間に齟齬をきたしている、ということだと思う。
齟齬の本質は何なんだろうと言うことです。
乱暴な表現になるかもしれないが、もしかしたら政治が属国化の中の中心にいる、国体、アメリカという側にいる政治なんだと言うふうにかんぐることもできる。(微妙な問題だと思うが)
白井:おかしな形の対米従属、属国であることを否認するような属国というおかしなことをやっていることによって、国民統合がズタズタになってきているという訳で。
そこをみなおさないと国民統合は回復できないというふうにならざるを得ない。
保阪:日本人本来の基本的な立脚点、日本人固有の伝統的な精神が崩れている。
かつての国体の代わりにアメリカを据えることで、私たちはある精神作用、気持ちがならされているそれが延長している。
それを変えるとするならば、個人の発想法、歴史に対する目、日常の視点、生活の小さな規範を変えなければいけないということで、それを言う意味で言うと個人の個人の自己意識の変革ですね。
白井:大変な時代になった。
権威と権力、この分業が良好であるとこのシステムはうまく回るが、動乱期には権力と権威が対立する関係になってしまう。
大きな社会的な混乱を伴うような変革が訪れて、次の時代に行く。
例えば、鎌倉幕府の北条宗家と後醍醐天皇の対立とか。
あのお言葉が出た時に私はこれは太平記とか平家物語とかを読まなければいけないと、直観的に思いました。
そういうことに匹敵するようなとんでもないことが今おきていると感じました。
保阪:天皇と私たちの関係、天皇と権力の関係について言えば、権威と権力の分立という事に対して知恵が働いて、日本はバランスを摂ってきたと思う。
歴史の中で観て行くと答案が積まれてていると思う。
江戸時代は権威と権力を上手く分立していたと思う。
いい答案、合格点だと思う。
昭和10年代の答案は天皇と国民の間に軍が入ってきて、軍の教育の上の天皇が入ると言うことで、天皇のために命を捨てる、天皇は神であるというような事が入り込んで、それを国民に強要するというような形で答案が出来上がって、歴史的にああいうふうになった。
あれは落第点だった。
今の答案は実は答案は天皇からこういうふうに私はやっている、皆さんも私と一緒に考えて下さい、答案を書きましょうと言っている。
今上天皇のビデオのメッセージは凄く重いものを持っている。
日本人の立脚点、日本人の精神性に置き換えれば、基本的問題だなあと言うことになります。
白井:ボールは天皇から国民の側に投げられた。
これに誰が答えるのか、もし誰も答えなければ、天皇制というのは必要ないという結論が出ると言う事で、それでいいのかと言うことですね。
保阪:我々も答案を書いて一緒に書くことによって、この時代の天皇と私達の存在理由、絆を確かめましょうと講演などで言うんですが、日常の旧来のあるものが日本の形を崩してきているので、それをきちんと見抜く様にすればおのずから変えざるを得ないという結論だと思うのですが。
白井:近代天皇制と言うものに対して、天皇自らが一定の幕引きをしているのではないかと思うことが有る。
天皇の仕事として一番大事なのは、祈りであるということをはっきり言ったわけです。
天皇自身による祈りが一瞬でも途絶えてはいけないということで、日本国民が幸福になるのも不幸になるのも祈りにかかっているんだと、これはきわめて前近代的なものです。
前近代的な仕事にこそ天皇の神髄が有ると言うことを述べた。
一見古代的なものに見えるが、実は近代化を推進するための装置だった訳です。
天皇制は近代性そのものだと言うことが判ってくる。
戦後或る種アメリカニズムが入ってくる、それが或る意味天皇制のような形で機能する。
それは実は天皇制は近代性そのものなんだと言う事が判ってくるわけです。
それは実は天皇制の本質ではないと、天皇自身がおっしゃったということである。
保阪:歴代天皇は皇統を守ることが在位する理由だから、その目的には手段がある、天皇の重要な手段、一番重要なのは祈りで、一瞬たりとも絶えてはいけない。
普遍的な役割りがあり、ある時代には憲法や管領としての要求されるものに対して、応じて行くと言うことも目的を達成する為の手段だと思うが、手段に戦争というものを選んだ時代があった。
戦争という手段を選んだが故の昭和天皇の奉納はかなり深いものが有ったと思う。
戦争という手段を選ぶ事の恐怖、崩壊解体するという意識はあったと思う。
軍はそこに入りこんで戦争しないとこの国は潰れると恫喝したと思う。
戦争という形を通じて私たちは天皇制は温存された。(国体護持は達せられた)
国体は普遍的な意味で存在する国体ではなくて或る流動性を持っている。
例えば、天皇はアメリカになったり、天皇を支える国民の意識によってそれが変化してゆくことを言っている訳です。
未来に希望、明るい光を見なければ前に進めないと思うので、明るいものは何なんだろうと思うと、天皇という制度が今後新しい天皇になった時に、どういう天皇像を作るんだろうと言うことに関心があります。
今の皇太子が天皇になっても3つで語ることができるだろうと予測します。
①天皇、②科学技術、③ナショナリズム
10年、15年以内にイギリスの王室と日本の皇室が中心になって、王室サミットを開くのではないかと思う。
政治、経済、外交を論じるのではなくて自然環境、疾病に対する人類愛などに意見を提示すると言う形になるのでは、そうでないと王室、皇室の存在は何なのかと言う事を問われてい行く。
こういった方法も一つ考えられると思う。
白井:元号がいつまで続くのか。
この制度をどう持ち続けるのか。
みやび、文化的価値というか、みやびであることと客観的前提が崩壊してきてしまった。
グローバリゼーションの結果かもしれない。
こういったことを直視することから新しい時代が始まるだろうと思います。
保阪:次の時代の呼吸はどんなものかわからないし、その呼吸と折りあいが付くかどうか判らない。
今日話をして感動したことが二つあります。
①今の時代に生きている人の問題意識は可成り世代にこだわらず同じだと言う事。
②私たちの目の前に観ている風景、光景は何かの反映、歴史の反映、哲学、思想などの反映だと言う事を常に感じていますが、そういう事を感じている人との会話は大事だと思います。
(内容を上手く伝えられなかったかも知れません)