2018年3月31日土曜日

吉俣良(作曲家・編曲家・音楽プロデューサー)・“有言実行”こそが、わが原動力

吉俣良(作曲家・編曲家・音楽プロデューサー)・“有言実行”こそが、わが原動力
大河ドラマの音楽を担当するということはどんなことなのか、自分が目標とすることを周りの大きな声でいうことによってこれまでの人生を切り開いてきたという吉俣さんに伺います。

1959年鹿児島市生まれ、来年還暦です。
サウンドトラックは20年やっているので100を越えている、曲は1500を越えていると思います。
NHKの大河ドラマ「篤姫」の時には1000曲いっていました。(10年前)
ドラマに音楽が重なることによって切なさ、悲しさ、嬉しさなどがちょっと前に出て来るように見えたら、音楽がひと押しになったと私は感じます。
篤姫の時には48曲を渡しましたが、自分の中でこの曲とこの曲はこういうところでかけてほしいと思っていたところに見事にそこにかかっていたので、よくぞこの曲をかけてくれたと思いました。
若いころにドキュメンタリーに2分半位の音楽を作ったことが有り、映像に音楽を当てるのはいいなあと思って作ってみたいと思いました。
モリコーネの音楽でジーンときて涙がこぼれてきたことが有り、感動しました。

5つのテーマ ドラマでは①温かい音楽、②切ない音楽、③嬉しい音楽、④サスペンス、⑤何気ない音楽と云う柱で作っています。
内容によって自分なりに考えます。
自分で思ってたりするのと違うシーンで使われたりする時もありますが、こういう使われ方もあるのかと思い新鮮に感じます。
2分45秒 音楽しか乗っていないのは大河ドラマしかないです、それだけ気合が入るし、緊張もします。
「篤姫」の話が来た時には思わずガッツポーズが出ました。
ニューヨークに行こうと思ったときにパスポートが切れているのが前日に判り、全部キャンセルして鹿児島に帰ろうとしたときに、NHKから話がしたいと連絡が有りました。
もし、ニューヨークに行っていたら、その話は無かったと思います。
最初テーマ曲を作りますが、1曲きまるまで1カ月かかりました。
どうしようかと思って、3週間鹿児島の空気を吸い、食事、仲間と毎晩呑んでたりしました。
帰ってきたら1週間でテーマ曲を含み7曲できました。
ホテルのベランダから桜島を観ていたら、桜島からなんか風が吹いたような気がしました。
苦しかったけれどいい経験になりました。

瞬発力はありますが、「努力と忍耐」は僕は苦手です。
15秒から20秒間考えて浮かばなかったら一旦止めます。
朝ドラは来ないだろうなと思っていたが、やりたいなといっていたら、2003年に朝ドラが来て、大河ドラマも可能性がゼロではないと思っていたが、大河ドラマをやりたいと言っていたら5年後に大河ドラマが来ました。
10年の間に言っていることが叶ったようになりました。
2003年にNHK連続テレビ小説こころ』で初めてNHK朝ドラの音楽を担当、その時から言っていました。
自分が何かしたいことがあったら、他の人に絶対言った方がいいと思います。
黙っていると何も起こらない。
色んな人に言って協力を仰ぐ。
言葉は魂となって、自分に還って来ると言うことはあるんだなあと思います。
アニメのほうをやりたいと思って言っていたら今年叶いました。
「有言実行」は叶わなかったときに恥ずかしくないのか、と言われたことはあるがいうのはタダだからと思っています。
周りからは努力っぽく思われるかも
しれないが、自分では楽しみながらやっているので、努力している感覚はないです。

自分の中に切羽詰まったものが無いので、やってこれたのかもしれない。
ピアノは8年間習ったが、音大にいっていないし、譜面も独学なので、流石に大河ドラマの時は先生に見せました。
ピアノは大嫌いでした、遊びたい時期だったので。(小学生時代)
高校時代は吹奏学部で2年生で部長をやっていました。
3年の時には自分が部長のようにふるまって、必死でやっていて、鹿児島では優勝しました。
九州大会の時には参加賞でした。
受験勉強をしなくてはいけなかったが、音楽浸けでした。
音大は考えてはいなかった。
大学では音楽サークルに入って、アルバイトで バンド演奏をしている時にプロのミュージシャンと知り合い、美空ひばりのバックバンドのオーディションに合格したことを契機に、大学在学中より本格的にプロとして音楽活動を開始する。

1000万円を稼ぐプロになりたいと言っていたら、叶うことができた。
演歌系、アイドル系などなんでもやっていたら、ロックの仲間から何のため音楽をやっているんだ、かっこ悪くないかと言われて全部辞めてしまいました。
そうしたらロックの仕事が来ました。
「サウンドトラック」をやりたい、「朝ドラ」、「大河ドラマ」をやりたいと言ってきて、叶ってきました。
本当に自分がやりたいことを皆に言っていると何人目かには、誰か目標にしてる事をかなうような近道の人がぱっと出てきたりする。
10年言っていますが、ヨーロッパ、アメリカの映画をやってみたい。


















2018年3月30日金曜日

新津春子(空港ビル清掃人)         ・掃除はやさしさ(H29/9/26 OA)

新津春子(空港ビル清掃人)         ・掃除はやさしさ(H29/9/26 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/09/blog-post_26.htmlをご覧ください。

2018年3月29日木曜日

服部公一(作曲家)            ・童謡は歴史遺産

服部公一(作曲家)            ・童謡は歴史遺産
「夕焼け小焼け」、「シャボン玉」、「おもちゃのチャチャチャ」、「アイスクリームの歌」などの童謡は中高年にとっては懐かしく、心に響く歌ばかりです。
服部さんは山形市生まれの84歳、山形県立山形東高等学校から学習院大学文学部哲学科に進学、学生時代からアマチュア音楽家として活躍し、NHKのオーディションに合格、大学を中退し、プロの作曲家として活動を始める。
服部さんが作曲した歌は、「アイスクリームの歌」、「マーチング・マーチ」など100曲以上あります。
特に「マーチング・マーチ」は1965年第7回日本レコード大賞童謡賞受賞しています。
童謡は最近あまり聞かれなくなってきたようですが、他の国には無く素晴らしい歌ばかりりだと言われています。
こういった童謡を将来に受け渡してゆくことが大事だと言っています。

祖父母も今の芸大でしたし、親爺の兄弟は美術の学校(?よく聞き取れず)でしたし、私の弟も彫刻家で、私だけ美術の方へは行かなかった。
服部良一さんの家とは関係ありません。
童謡は1000,2000曲はあると思います。
*「ぞうさん」
*「おもちゃのチャチャチャチャ」
*「僕らはみんな生きている」
*「北風小僧の寒太郎」


*「アイスクリームの歌」
これらは昭和30年代のもの、この時代の日本の童謡は世界に冠たるものだと思います。
100曲以上あります。
鈴木三重吉さんが「赤い鳥」と云う童謡童話雑誌を大正7年に始めて、童謡と云うこ言葉も出来ました。
唱歌は明治14年に唱歌集初編を文部省が出しましたが、訓話的、歴史的、花鳥諷詠になって来て、硬くなってきた。
子供の生活、子供の気持ちを歌う童謡を作らなくてはと云うことになり、詩人、作曲家はこれだと飛びついて来た。
難しい歌も入ってきた。
歌曲の始まりが「赤い鳥」だとおもっています。
NHKの国民歌謡が出来て、7インチ盤が出来て浪曲などがあったが、その中に童謡が有った。(レコード童謡)
戦争中は大政翼賛童謡が出来て、「進め少国民」「肩をならべて兄さんと」とか軍国童謡
が出来、私などは歌わされました。
敗戦になると180度文化が転換して「みかんの花咲く丘」とか海沼實童謡とかが広まってきて、NHKで「歌のおばさん」と云う番組が出来て、創作童謡が出来て来る。
團伊玖磨さんが「ぞうさん」などを作りました。
質的にも曲数的にも近現代の間に童謡が最もたくさんできたのが日本だと思います。
團伊玖磨先生、芥川也寸志先生、中山晋平先生方たちが作った童謡は日本人の宝じゃないかと思います。
今はあまり歌われない。
詩人作曲家総動員で芸術性の高い童謡を作ろうとしたのは、「歌のおばさん」、「歌の絵本」だったと思います。
昭和36年にTVで「歌の絵本」の番組が始まりました。
その頃から私どもの世代のクラシックの作曲家が協力しました。
残ったのは私ぐらいで、もういなくなりました。

祖母は東京音楽学校を2年で中退して(結婚して)、それが非常に心残りだったと思います。
私は何時からピアノを弾いたのか覚えていなくて、祖母が西洋音楽の楽しさをきっと教えたかったんだと思います。
自分の子は美術関係に進んで、孫にはと云う思いが有ったのかもしれません。
家にはおんぼろのピアノが有り、祖母が音楽教育を始めたんだと思います。
小学校は戦争の時代で、軍国主義一辺倒でピアノなどを弾いている子はぜい弱だと言われた。
毎日30分は弾くように言われて、厭だったがピアノを弾くとおやつをもらえるという事でやっていました。
小学校6年で敗戦となり、文化の質が変わりました。
ピアノが弾ける少年は珍しくて、ライトが当たって嬉しくなって自主的に音楽をするようになりました。
旧制中学に昭和21年に入り、高校生になった時にNHKのど自慢が始まり、山県放送局の人に言われて流行歌のピアノ伴奏(我が家で最も嫌われる)をやりました。

音楽の道に進もうと思ったが、祖母からは音楽の道では食えないと言われてしまいました。
医学部に無理やりいかされたが、半年位で音楽に戻りました。
NHKのオーディションが有り受かりました。
そうしたらNHKの幼児番組を担当することになり、想いと違ってがっかりしましたが、今は私の生涯のメインだと思っています。
幼児の音楽などは全然わからなかった。
お茶の水女子大学の松村康平先生の児童心理学のゼミに顔を出して実地に幼稚園を観たらどうかと言われて、そこが私の幼児音楽の始まりでした。
いい勉強になりました。

NHKの「音楽の花束」の音楽のスタッフになりました。
オーケストラの編曲の仕事に携わることが出来て勉強になりました。
NHKの「日本の現代音楽」にも携わりました。
1963年にアメリカのミシガン大学に留学しました。(音楽大学には行っていなかったので)ミュージックセラピーも学ぶ。
マーチング・マーチ」 1965年第7回日本レコード大賞童謡賞受賞。
認知症の方にも童謡を歌ってもらう事などはメインになって来ている。
音楽と治療が結びつくことを知りました。
文部省から誘いがあり学生と共にミュージックセラピーを勉強することになりました。(58歳の頃)
東京家政大学の大学院で12年(70歳まで)、東京家政大学附属みどりが丘幼稚園園長も兼任しました。
日本にある音楽的遺産である童謡を掘り起こして、お母さんコーラスの合唱にするとか、積極的に掘り起こしの仕事をしようと思います。




2018年3月28日水曜日

光田憲雄(大道芸伝承者)          ・庶民が支えた“大道芸”

光田憲雄(大道芸伝承者)          ・庶民が支えた“大道芸”
山口県長門市生まれ、71歳、子供のころに見た大道芸に魅せられました。
20歳過ぎに旅先で大道芸人と出会い、大道芸の指導を受ける様になります。
更に多くの大道芸人の元を尋ね消えかかった大道芸を学びました。
平成7年には大道芸を記録伝承しその復活再生を目的として日本大道芸の会を設立します。
60歳過ぎにサラリーマン生活を切り上げ大道芸の研究、記録をする一方、大道芸物売りの実演会に出演したり、希望者に大道芸の指導もしています。

物売りの為の工夫が芸になったという意味で大道芸です。
江戸時代は200種類はありました。
一番有名なのが「あさり売り」 「行く先の時計となりやこあきんど」
遠くから判るように大きな声でゆっくりと声をあげる。
納豆屋、豆腐屋、(朝食のおかず)
かりん糖売り(子供でも分かるように面白おかしく)
金魚売り(昼間時 テンポがゆっくり 桶をできるだけ揺らさないように)
さざえ売り、アサガオの苗売り(3月、4月)
江戸では「え」を「い」と発音していた。

山口県長門市では当時炭鉱で人がいっぱい生活していました。
子供の頃、家を出ると人だかりが有り、話が面白いものだから一番前で聞いていました。
疑心暗鬼で聞いているが、最後には買わないと損だという気分になり、子供では買えないような値段だったので、大人が羨ましくてしょうがなかった。
値段は現在の価格で大体1000~2000円位でした。
子供のおもちゃは大体100円位でした。
サラリーマンになって東京に来て旅行をして、木曽の民宿に泊まった時に、いつの間にか大道芸の話になって、教えてやろうかと云われて一つ返事で受けました。
広島の人だったので帰省のたびにその人の家に寄り教えてもらいました。
最初、録音を取らせてもらって、一生懸命に暗記しました。
繰り返し練習して身体に覚えさせる以外にないです。
完全にマスターしたら次の芸に進んでいいが、そうでないと中途半端なものになってしまう。
3年経ってスタートラインだと言われる、それを乗り越えて行くと自分のものになる。

サラリーマン生活しながら、色んな師匠の元を探し歩きました。
観たい祭りの時に休暇が取れず、歯がゆい思いをしたこともありました。
60歳過ぎにサラリーマン生活を切り上げ大道芸の研究が自由にできるようになりましたが、生きている人がほとんどいなくて、最後まで付き合ったのが去年に91歳位で亡くなってしまいました。
復活させるには、落語、古文書なども参考にしました。
桂米朝さんなどは大道芸を使ったりしています。
ガマの油売りも東京落語の三代目春風亭柳好 さんが筑波山にしました。
元々は上方落語で伊吹山でした。
最初、茨城県の歴史を調べたがどこにもなかった。
大道芸の歴史。
物売り系と芸能系に大きくわかれています。
物売りでは上方では室町時代、江戸では元禄初期位です。
芸能系は桓武天皇の時代に宮中に雑芸能をやるものが有ったが廃止されて、芸人たちが生活に困って河原などで芸を見せてお金をいただくという形で始まったと言われています。
あらゆる芸能の原点です。

「江戸の大道芸人 庶民社会の共生」と云う本を出版しました。
庶民の記録を発掘させたい。
実際の状況を正したと思っています。
記録、古文書を調べ、時系列にして行きました。
「日本大道芸辞典」がほぼ書き上がっています、500ページぐらいです。
まだ抜け落ちが一杯あると思いますが。
娯楽が少ない時代にお互いが楽しく生きようという感じで、知恵を絞ったので続いてきたと思います。
「大道芸通信」 月に一度出していて350号位になっています。
新しい情報、伝えられている芸、などを次世代に伝えたいという意識が有り練習しています。
入れ替わりもありますが、常時いるのが10人前後で、女性が熱心にやっています。
「深川江戸資料館」で大道芸の実演などもやっています。
1回の公演で200~300人が来ます。
後継者を育てていきたいと思います。
日本風俗史学会の会員としても活動しています。
論文を書かせてくれるので、そこでやっています。
定説とは違うことが結構出て来ます。



















2018年3月27日火曜日

小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事)    ・“あっちゃん”と語る被爆体験

小谷孝子(千葉県原爆被爆者の会理事)    ・“あっちゃん”と語る被爆体験
79歳、昭和14年広島県呉市の生まれ、6歳で広島市に引っ越しました。
昭和20年8月6日、原爆が投下され、建物の下敷きになった小谷さんはかすり傷で助かりました。
しかし、弟は全身やけどで死に、沢山の人々が苦しみながら死んでゆくむごい光景は長い間話すことはありませんでした。
高校卒業後に上京した小谷さんは幼稚園教諭として働き、子供の為に腹話術を習いました。
その腹話術の人形「あっちゃん」と一緒に8年ほど前から被爆体験を小中学校などで語り始めました。
3年前にはNGOピースボートの船に被爆者たちと乗って、3か月間乗って世界各国で被爆体験の証言もしました。
ピースボートが国際運営団体を努める核兵器廃絶国際キャンペーン(International Campaign to Abolish Nuclear Weapons、略: ICAN)は去年12月、ノーベル平和賞を受賞、小谷さんも受賞を祝うツアーに参加して、ノルウェーに行き、被爆証言を続ける決意を新たにしました。

1015年にピースボートが主催している被爆者が世界に被爆証言をしているツアーが有りそれに参加しました。
それからピースボートで呼ばれると証言に行ってそのつながりが有り、今回被曝者も一緒に行こうと言うことになり参加しました。
被曝者が26人でその中には健康を考えて2世の方も同行して、スタッフが4名加わり30名で行きました。
受章式は感動でした。
被曝者とアイキャンは200名位いました。
サーロー節子さんのスピーチで皆立ちあがって手を繋いで感動を表しました。
「人類と核兵器は共存できない、核兵器は必要悪ではなくて絶対悪だ」と訴えてました。
コンサートもありましたが2万人ぐらい入りました。
広島で被爆ピアノを調律してそれを弾かれて、とてもいい音が出て会場は感動しました。
人間は亡くなって行くがこういう形で世界に伝わって行くことは大切なことです。
司会者が核兵器禁止条約に署名していない国がある、核兵器の傘の下にいる国々が、ノルウェーもそうだとおっしゃって、会場からも大ブーイングが起きました。
世界には沢山の被害者がいて皆さんが立ちあがって核兵器のない世界にしましょうと、世界中が立ちあがっているということが凄く強い力になりました。
これからの日本、世界をになっていく子供たちに、こんなことが有った、今も世界には1万5000発以上の核兵器がある、皆でそれを止めましょう」と、本当の平和は武器ではなく心だと子供たちに伝えていて、それを又誰かに伝えていってほしいと思います。

昭和20年には広島市内で生活していました。
父が海軍でしたが、5歳の時に父が亡くなって呉から広島に引っ越して、4月に国民学校に入学してその8月に原爆が落ちました。
爆心地から2.5kmの処に住んでいました。
とてもいい天気で戦争中とは思えない様な静かさでした。
その日の昼に田舎に疎開することになっていて、兄弟4人で川に泳ぎに行こうとしていました。
B29かなあと云うことで気になったが、大丈夫と云うことになって皆駆け出しました。
私だけは喉が渇いたので、家に引き返しました。
水を飲んでいたときにガラス窓がぴかっと光って物凄い音がして家が壊れて下敷きになってしまいました。
母に助けられてかすり傷で助かりました。
母は兄弟を探しに行ったが、姉は全身やけど、兄はちょっと家の陰にいたのでやけどはしなかったが、爆風で頭や体にガラス破片が刺さって血だらけでした。
広島市内は火の海で人々は家の前を通って行き、私に「水をちょうだい」と云って、まるでお化けの様な様子でした。
ショックで立ちすくんでいました、これが地獄なのかなと思うようでした。
弟はなかなか探せず、ようやく見つかったが、顔は真っ黒で母が顔を拭いたら、顔の皮がずるっと剥けて垂れ下がってしまいました。
体の中まで熱線が届いて臓器まで焼けているわけです。
祖母も全身やけどで戻ってきました。
弟が8月10日の朝、意識がなかったのが目を開けました。
母が水を飲ませると「飛行機は恐ろしいね、お水は美味しいね」と一言残して3歳で亡くなりました。
暑い夏なので傷跡が膿んでウジがわいて火葬場に連れていくこともできず、母は涙も見せず自分で弟を火葬していました。
母は人の居ないところでどんなに泣いていた事だろうかと思います。

8月15日に終戦となり学童疎開で帰ってきましたが、ほとんどの子が両親を亡くしており原爆孤児になってしまいました。
学童疎開は2000人、3000人とも言われますが、人数ははっきりしていません。
簑島に原爆孤児の施設が出来上がって、私たちの世話をしながら母は時間を作って簑島に渡って原爆孤児の世話をしていました。
私はやけどをしていなかったので、いつもかまってもらえなくて、よその子の世話をしないで私のの世話をしてと泣きながら頼んだが、母は「わがままはいいさんな、あなたたちは夜になるとお母ちゃんは帰って来るでしょう。 島にいるあの子たちはもうなんぼ待っても2度と親は帰ってこんのよ」と云いました。
母はどんな大変な時でも自分のことだけではなく、人のことも大切にできる心の豊かな人になるのよと教えてくれました。
6年後に原爆による白血病で母は亡くなりました。(6年生の時)

母が亡くなってからは原爆の話、被爆の話は一切心の中にしまって2度と話をしないという気持ちになりました。
母が亡くなってから先生になろうという夢を持ってからはとにかく明るく生きようと、いつも明るく元気にしていました。
ケロイドがなくあなたは幸せだからそうしてニコニコしていられるのよ、と言われた時にはショックでした。
罪悪感がそこで襲って来ました。
私が原爆を語ってはいけないと思いました。
広島にいるのが嫌で、東京の専門学校に行って保育科をでて、幼稚園の先生になりました。
中学1年の時に友達のお母さんがとっても良くしてくれた幼稚園の先生で、わたしもその夢を持ちました。
3人の子供に恵まれました。
子供も大きくなり腹話術を始めました。
引きこもりの子がいて幼稚園に来ても窓の外ばっかり見ていて、心を開かせたいと思いました。
師匠は野田市朗牧師さんで腹話術を教えていました。
テクニックだけでは本当の笑顔にはならない、心を込めて先ず人格を磨きなさいと言われました。
引きこもりの子は何日目からは席に着くようになりました。
その子が有って今の自分が有るんだなあと思いました。
2003年に私が被曝者であるということを誰かから聞いて、師匠が「あんたは被曝者なんだから風化させないために、この子と一緒に語って行きなさい、辛い話だけどこの子が助けてくれるよ」とおっしゃってくださいました。
仕舞い込んであることだったので語るのは辛くて、姉に相談したら、「あなたは元気だから周りの事をみているんだから、その人たちの無念な思いを語っていきなさい、それがあなたの指名だ」と言われて、罪悪感を使命感に変えて語るようになりました。

最初は写真とか絵を使って話をしていたが、母の事、弟の事を話すと涙が出てきたりして、2010年に県庁に呼ばれてそこで話をすることになり、思い切って「あっちゃん」と一緒に話をしました。
師匠からは最初から「あっちゃん」と話すように言われていたが、できなかった。
「あっちゃん」に聞いてもらえるように話しなさいと言われました。
NGOピースボートの船では世界18カ国23都市を回りました。
広島の友達が何回か乗っていて、行くように勧められて2015年は戦後70年で募集が有り、子供にだったら出来るかなと思って参加しました。
インド、フランス、ノルウェー、パアンマ、ガテマラでは証言をしました。
「原爆を落としたアメリカを恨んではいませんんか?」との質問は必ずあります。
「被曝者は恨みを言いに来たのではない、恨みからは何にも生まれません、2度と同じことをしないでほしい、みなさんで核兵器のない世界にしましょうと呼びかけに来たんですよ」と話しました。
千葉県では1年間で30校ほど「あっちゃん」と一緒に被爆体験を語る活動をしています。
感想文もいただき、1枚1枚読ませてもらいます。
戦争を無くす仕事をしたいとか色々あり、元気をいただきます。
北朝鮮からミサイルを撃って来た時が有り、或る6年生が「どっかの国がやっつけちゃえばいいと思っていましたが、今日話を聞いて武器に対して武器で応戦するのは間違っている、やっぱり話し合いが大事、北朝鮮にも僕たちのような子供がいて子供が犠牲になるんですよね」、と言ってくれたんです。
担任の先生はそれを聞いてぽろぽろ涙を流していました。
家族がいて、朝ご飯を食べ、学校にいってと云うような平凡な普通の幸せがどんなに大切か、世界には不幸な国、人々が一杯いるので、争いは絶対無くして普通の生活を大切にしていってほしいと思います。







2018年3月26日月曜日

なかにし礼(作家・作詞家)       ・【謎解き うたことば】なかにし礼(2)

なかにし礼(作家・作詞家)   ・【謎解き うたことば】なかにし礼(2)
日本語学者 金田一秀穂
作家のつもりでいるが、作詞家時代が長かった。
作家になりたかった。
自由に大変憧れました。
「時には娼婦のように」 
吉田拓郎が自分たちの時代はコマーシャリズムに乗った歌ではないものを作ろうと云うことで「旅の宿」など彼らの歌を書き始めました。
それが行き過ぎて、1970年の安保の挫折感から来て、お互いにいたわり合う風潮が満ちて、男も女もいい子で優しい子になってしまって、人間のいいところばかりを見ながら暮らそうと言う、僕は大きな間違いだと思いました。
人間とは幅広くて、先ず人間であることを肯定しようと思って、それを言いたくて「時には娼婦のように」を書いた訳です。
「時には娼婦のように」
時には娼婦のように 淫らな女になりな 真っ赤な口紅付けて 黒い靴下付けて
大きく足を開げて 片眼をつぶってみせな 人差指でてまねき 私を誘っておくれ
バカバカしい人生より バカバカしいひと時が嬉しい ム・・ム・・
時には娼婦のように たっぷり汗を流しな 愛する私のために 悲しむ私のために」

歌を書くというのは現代の人に向かって書くのではなくて、10,20年50年後の人に向かって書いているんだと言うことで、感じる人が歌ってくれればいいというのが僕の鉄則です。
ひんしゅくを買うような歌を時々書かなくてはいけないと思うな。
周りを気にするようならば作家をやめた方がいいと思います。
*「恋のハレルヤ」
ハレルヤ 花が散ってもハレルヤ  風のせいじゃないハレルヤ  沈む夕陽はハレルヤ   止められない愛されたくて (愛されたくて) 愛したんじゃない (愛したんじゃない)    もえる想いをあなたにぶっつけた  だけなの帰らぬ あなたの夢が今夜も 私を泣かす  愛されたくて (愛されたくて) 愛したんじゃない (愛したんじゃない) もえる想いをあなたにぶっつけた  だけなの夜空に  祈りをこめてあなたの名前を呼ぶの
*「人形の家」
顔もみたくないほど あなたに嫌われるなんて とても信じられない 愛が消えたいまもほこりにまみれた人形みたい 愛されて捨てられて忘れられた 部屋のかたすみ    私はあなたに命をあずけた   
あれはかりそめの恋 心のたわむれだなんて なぜか思いたくない 胸がいたみすぎて ほこりにまみれた人形みたい 待ちわびて待ちわびて 泣きぬれる部屋のかたすみ   私はあなたに命をあずけた 私はあなたに命をあずけた

このことはあまり言わないできたが、自分なりの検証を考えているうちに、どうやって作詞家になったのかと考えたときにシャンソンの訳詩をやっていて、歌を書く方法論は自然に勉強してしまった。
1曲目は「涙と雨にぬれて」 すぐれた歌でも無くヒットもしなかったが、まあへたくそでした。(24,5歳)
戦争体験に勝る体験はない。
人間のおぞましさ、愚かさを学び、戦争体験で味わった場面を自分の脳裏に焼き付けてあるので、戦争反対の歌にするとかではなくて、そこにある人間の心理と言うものを歌謡曲にどうふうにしてけるいうかと云うものが、ひょっとすると歌を書く大きなきっかけになるかと自分で思いはじめて、二作目が「恋のハレルヤ」なんです。
「恋のハレルヤ」恋の歌ですが、僕の戦争体験した1年数カ月の間でいい事は一度もありませんでした。
日本に帰れるということになって、喜んで、待たされていよいよ船に乗ると言うことで浜辺に歩いて行って、小高い丘から真っ青な海と空が有り、沖にはアメリカの引き揚げ船を見た時にはこんな嬉しいことは無かった。
幸せを始めて感じたのがその瞬間でした、それを歌にしたかった。
国が負けたのは風のせいじゃない・・・、ハレルヤ=日本の国
 
昭和43年に「人形の家」 
満州に住んでいたものは関東軍に捨てられて、避難民になって今度は国から捨てられる。
避難民として帰る当てもない、深い悲しみでありやるせなさもあり、それを歌にしてみようと思って書いたものが「人形の家」になりました。
余ほど辛い恋をしたんじゃないのと云われましたが、黙っていました。
南北戦争から「風とともに去りぬ」が生まれた様に、戦争から作品が生まれないといけないと思いました。
小説家になって一日も早く『赤い月』を書きたかった。
自分が加害者になっていることをきちっと見つめられている。
当時7,8歳だったが、歴史の見方、価値観、自己正当化とかが、歴史の修正主義に繋がっていくが、そういうことはいけないと思って『赤い月』を書きました。
戦争は残酷な世界を作りだしたが、あってはいけないことだと思います。

*「グッバイ・マイ・ラブ」
忘れないわ・・・ 忘れないわ ・・・ もちろんあなたの名前
自分の恋の経験で、残酷だと思う、名前を忘れている。
レコーディングしているときに一番受けたのはここでした。
この歌は僕の好きな歌ベストセブンにはいります。
戦後50年たって旧満州の実家(造り酒屋)の場所に行ったが半分が公園、半分がビルが建っていてカラオケがあり、「グッバイ・マイ・ラブ」を歌っていてこれには絶句しました。
神様も味ないたずらをされると思って感激しました。























2018年3月25日日曜日

江夏豊(プロ野球評論家)        ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男(H29/8/27 OA)

江夏豊(プロ野球評論家) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】勝負に生きた男(H29/8/27 OA)
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2018年3月24日土曜日

福田靖(脚本家)             ・脚本から開けた人生

福田靖(脚本家)             ・脚本から開けた人生
大河ドラマ「龍馬伝」や今年秋の連続TV小説「まんぷく」の脚本を手掛けています。
故郷山口から脚本家を目指すまでの紆余曲折の人生を語っていただきました。
1962年山口県徳山市出身、演劇の分野に身を置いていたが、33歳の時に脚本家としてデビュー、2001年木村拓哉さん主演のTVドラマ「HERO」で一躍福田さんの名が知られるようになりました。
そのほか「海猿」「ガリレオ」共にシリーズ化され、映画化されるほど、数多くのヒットドラマを書いて来ました。
NHKでは2010年大河ドラマ「龍馬伝」を執筆、秋の連続TV小説「まんぷく」の脚本を担当される予定です。

年に3,4回は山口に戻ります。(高齢の両親がいる)
小説家と脚本家は違う、小説は自分の想像力をはばたかせて自由に書けるかもしれませんが、脚本は設計図だと思っていて、大河ドラマなら45分できちんと終わらなければならない、時間が決まっています。
ロケ、スタジオで撮影なのか、予算は、撮影期間はとか様々な条件があってそれを全部クリアした上で面白いストーリーを作ると言う、それがぼくのいう設計図と云うものです。
プロデューサー、監督と常に話し合いながら続けていくので、僕はあくまでもストーリーを作り、セリフも全部書きますが、現場に入ってしまうと僕の所から離れてしまいます。
だから監督さんが納得するまで書きなおします。

山口県立徳山高等学校に入学し演劇部でのびのび楽しくやっていましたが、演劇部を出ると静かにしていました。
明治学院大学文学部仏文科に入りましたが、勉強せずアルバイトをしたりしていて中退しました。
どうしようかと思ったときに、演劇でもやってみようかなと思いました。
裏方として小さな劇場でやっていたら、受けてしまいました。(23歳)
その時に電撃が走り、これだと、これをやる為に僕は生きてきたんだと思いました。
演劇と脚本は同じだと思うかもしれませんが、僕の中では違います。
演劇では1円にもならないが、それはそれで楽しくて、そうしているうちに10年経ってしまいました。
ハッと気が付いたのは33歳でした。
僕のやっていた演劇をTV局の人が会場にいて、TVドラマの方が向いていると思ったそうです。
その方が飲み屋で面白かったという話が有り、そこにたまたま僕を知っている人がいて、会わせてもらうことになり、その方からTVドラマを書いてもらえませんかと言われました。

名刺を貰いましたが、しかしただの社交辞令だったようです。
その後、その人の担当の脚本がうまくいかなくて、だれかいないかと思って僕を思い出してくれて、電話をもらって行くことになりました。
書いて送ったら採用されてTVに放送されました。
土曜日の夜の1時半からの放送でした。
反響はなかったが自分の名前がTVに出て嬉しかった。
10年は無駄ではなかったことが嬉しかったし、お金がもらえることも嬉しかった。
それで脚本家になろうと思いました。
しかし脚本家としての代打役でした。
「HERO」も同じで脚本家の方が書けないということになり、探していて10何人目かに話が来ました。(38歳)
絶対降りないと思って頑張って書いたら、採用されました。
第2話から担当しました。
人間追いつめられるとできるんですね。
私以外にドラマでの周りは超一流の人ばかりでした。
芝居をやっていた10年間はアルバイトをずーっとやってきたが、その経験が作品には活かされていませんでした。

大河ドラマの話をいただいたときに全く想定外だった。
歴史のことなどあまり知りませんでしたが、しかし、頑張りますと答えました。
どんな人をやりたいかと言われたが判らなくて、龍馬をやりましょうと言われて、それが
「龍馬伝」の始まりです。
「竜馬がゆく」とは又違う「龍馬伝」をやることになりました。
主人公はだれにするかと云うことになり、ドラマ「ガリレオ」をやっていたので福山雅治さんではどうですかといって、福山さんに話したらOKと云うことになりました。
成長してゆく龍馬、岩崎弥太郎と対比で書くならば、書けると思いました。
自分の中からしか言葉は出てこないので、自分なりに咀嚼して納得するものだけが出てくるものなので、自分なりの考え方、価値観が当然出てくるものだとつくづく思い知らされました。

書くことは孤独な作業で、或る時書けなくなってしまって、僕が喋ることを妻にパソコンに入力してもらって、それがうまくいって、以後口述筆記になりました。
アシスタントを雇って口述筆記をするようになりました。
朝晩家で一緒に食べたり、普通の生活をするように心がけています。
観る人達と同じ目線にいないと駄目だと思います。
連続TV小説「まんぷく」は大変な仕事を引き受けてしまったと思います。
インスタントラーメンを開発した安藤さんの奥さん(福子)を主人公にしたもの。
一日が楽しくなるようなドラマにしたいとは思います。
資料は全然なくて、話を僕が作ります。












2018年3月23日金曜日

中尾知代(岡山大学大学院  准教授)   ・捕虜たちの言葉に耳傾けて

中尾知代(岡山大学大学院社会文化科学研究科 准教授)・捕虜たちの言葉に耳傾けて
35年前大学3年生の時に、イギリスに留学した時に初老の男性二人からきつい言葉を投げかけられて強い衝撃を受けるという体験をしました。
この出来事がイギリスでオーラルヒストリーという学問の世界に進むきっかけの一つになりました。
オーラルヒストリーと云うのは庶民の細かな記憶や体験を映像や音声で残すものです。
中尾さんは岡山大学で教べんをとる一方、イギリスの大学などでオーラルヒストリーを続け、ケニアやミャンマーなどで、捕虜や兵士とそこの家族の言葉に耳を傾けてきました。
そのことから戦争や平和と云うものがどのように浮かび上がるのでしょうか。

35年前、ウォリック大学史学科に留学、比較文化的考察の学問と云う事でイギリスに行きました。
子供の頃から、海外の日本イメージに関心が有りました。
イギリスでは日本をどう思っているのだろうと強い関心が有りました。
言葉の勉強を先ずしようとウエールズにいって、食堂で二人の老人が階段を足を引きずりながらのぼって来て、どうしたのか聞いてみたら、「あんた日本からか」と先ず聞かれて、日本のアカンベーの仕草をして、義眼であることが判りました。
「戦争であんたらのお陰で眼を失った」と言われ、もう一人は「足を失ってついでに職も失った」と言われた。
答えようがなかった。
イギリスと戦争をしたがそこまで憎悪、憎しみを向けられるという経験までは予測していなかった。

オーラルヒストリーを知ってから35年経ってしまいましたが、これを理解して日本側との突き合わせをやりたいと思った。
イギリスに90年代から何度も行って、95年にVJ Dayと云う日本に勝ったお祭りがあり大変な盛り上がりです。
捕虜に関する新聞記事がいろいろ出ていたし、83年には「点呼(Tenko)」というTVドラマが有り、物凄い人気で、女性のイギリス人の抑留者が日本軍のもとでいかに苦労するかというものが有りました。
何故そこまで許せないのか聞きたいと思います。
捕虜の人に会えるように市長に紹介状を書いていただき、捕虜の方々に会う機会を得ました。
土地の新聞にもそのことが出ました。
ポール・トンプソン(国際オーラルヒストリー学会を作った人)からビルマ戦線のスリム将軍に手紙を書いていただいて会ってみようと言うことになりました。
毎年8月15日に慰霊祭があるが、そこに私を呼ぼうかとの話が有ったが絶対に呼ばないということでした。
思いを手紙に託して送り待ちました。
2年後ぐらいに会ってみようと言うことになりました。
日本軍がいかに酷い事をしたかと云うTVを観る、ビルマ戦線の軍人による如何に日本軍を許せないかと云う話を聞いて、その後一人ひとりのビルマ戦線の軍人、紹介して下さったご夫妻と、一番許せないと思った理由であったリスボン丸と云う事件で800名死んだ時の生き残りの人と話をすることができました。

りすぼん丸事件は足りない労働力の為に捕虜を日本に連れてきて働かせるが、連れて来る途中でアメリカ軍の爆撃で溺れた。
泳ぎ着いて助かろうとした人を日本人が着き落としたとか、いずれにしろ戦争で閉じ込められていた捕虜たちがハッチを開けるかどうかで、乗っていた軍人は開けるなと云うことで、船長は開けて助けたいと言うことで銃撃戦までになり、捕虜たちは生きようとして必死で、海に飛び込まなければいけないし、泳げない人もいたりして半数が溺死した。
日本人にとっては事故であったかも知れないが、イギリス人にとっては事故ではない、と云うことだった。
話をした3、4日後にはようやくすっきりした顔をしていて、ようやく日本人に伝えられたという達成感があると云った感じで、3,4回その後も会って段々友人になって行った。

一番言われたきついことは、未亡人の方が日本人が一緒にいるだけで厭と云う人でした。
その人とは話ができなかった。
その人の娘さんが私にハローと云っただけで怒ったそうです。
日本軍から受けた厳しいしつけ、暴行などが子供、妻にあたるとか、そういうことが多い。
直接の加害者が日本軍になる訳で、未亡人の方の方が怒りがより強いと云うことは聞かされていました。
BBCの黒人のアナウンサーが「日本人には残酷さの遺伝子があるかどうか」と云うことを先の未亡人から聞かされたと言ってきましたが、その考え方については驚きました。
日本人は親切、丁寧で繊細な文化、美意識を持っている、それがどうして残酷になれるのか、彼女が理解しようとして考えて努力の結果なんだなあと思いました。
戦争に関する考え方が違うと言うこともあるし、多くの方がなぜあそこまでしたのかと、理解したいと言う思いが向こうにもあるんだなと思いました。

理解したいと思ったときに私の側の一つに、ケニア、ミャンマーとかイギリス軍の一部として働かされた人達のことがありました。
アフリカの人自身がどう思っているのか聞きたくて、ケニアに行きました。
日本みたいに強制的に連れて行くのではなくて、運動をさせて優秀な人を連れて行くので、ケニアの人達の軍と戦う事は大変だったという証言もありました。
ケニアは山岳地帯が多いので、ビルマの山岳地帯での戦闘にケニア人は適していたと言われる。
岡山県の元の練兵場だった所にビルマの英霊の記念碑があり、毛利赤柴隊(※毛利末廣、赤柴八重蔵)という人達が建てたというものですが、その裏にどこに行ったかとかが書かれているが、アジアアフリカはぞの後どんどんど独立して行った、いつか岡山の子孫は誇りに思ってくれるに違いないという文章が彫ってある。

アフリカから出ていった人たちはどう思っているのか、日本が解放したと思っているのか、イギリス軍に喜んで仕えたのか、それは彼らにしかわからないので自分の耳で聞いてみたいと思いました。
ケニアに行って、2回目は日本にいるケニアの方から紹介されてその村に行きました。
メルー部族など、親イギリスではないほうだった。(土地を取り上げられたりした)
イギリスからお詫びと補償が行われているが、自分は無理やり連れていかれているので補償さえ貰いたくないと言っています。
訓練で足を悪くしてしまったと言っています。
ビルマ戦線の映像を持っていったが、それを見たときに、イギリスの将校を後ろから撃って殺して埋めたという、それは日本人が殺したことにしたと、非常に強い敵意をもった人が一人印象に残っています。
日本と戦っただけではなくイタリア、ドイツと戦ったとか、戦後イスラエルに駐留させられたとか、いろんな方に会って貴重な記録が残りました。

各国、各民族、各部族それぞれにいい分はあると思うし、それぞれ経験も違うと思う。
付き合わせて戦争の全体像を判って行くと言うことが行われていないと思うので、何とか可能にしたい。
日本でもソ連に抑留されているが、南方で抑留されている人達の記録はほとんど残っていない。
アーロン収容所だけが有名なだけで、他にもあると思う。
集めて突き合わせて行くことが大事だと思っています。
国際的なネットワークを作って行く、まだまだ新しく判ることは戦争に関して、戦前に関しての事などあると思います。
文書とオーラルヒストリー、個人の声など合せて作っていけるようにしたいと思います。
アメリカでは長崎が原爆にあったことは、余り知られていない、70もの都市が空襲にあったこともあまり知られていない。
イギリスではドイツとの闘いの中で空襲はある程度理解されている。
アメリカは真珠湾攻撃以外は本土を攻撃されていないので知らない。
アーカイブ化して付き合わせる責任があると思う。
過去の貴重な話を溜めこんでゆく。
聞き取りをする人たちを集めて相互協力して、やれる人が聞き取りをしに行って記憶の森みたいなものを作れれば、それが私たちの世界を守れる方法ではないかと思います。

戦友会での聞いたときに、戦争だけは駄目と若い人達に伝えてほしいと、みんな不幸になると肩をガクガクゆらせながら言って、私はうなずくだけでした。(インパール作戦に参加した人)
戦争に栄誉、名誉などない、戦争はいかにむなしいか、各国で経験した人の思い。
敵だった人が人間に見え直す瞬間があると言うことに立ち会うことが、オーラルヒストリーに立ち会うことで折々ありますが、人間に見え直す事の貴重さと云うことが、高齢者の方々は敵にあったことがあるので、実は一番可能なんです。
捕虜になったり、戦争を体験した人の、彼らの子供達は憎しみが固まりやすい感じがします。
戦いのリアリティーを本当に伝えておくこと、伝え合っておくことは物凄く大事だと思います。
交換交流して行くことが本当に大事なことだと思います。



















2018年3月22日木曜日

五木ひろし(歌手)            ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/2 OA)

五木ひろし(歌手)   ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/2 OA)
*「夜明けのブルース」(作詞・作曲:レーモンド松屋、編曲:レーモンド松屋・伊平友樹)
ラジオ深夜便で話があり、ブルースっていいなあと思っていたところ、深夜便だと夜明けが思い浮かび、「夜明けのブルース」としてタイトルを考えました。
自分で曲を作ろうと思っていたら、TVを見てレーモンド松屋さんを知って、ディレクターが電話を入れて、「夜明けのブルース」というタイトルで詩を書いてほしいと依頼しました、曲は僕が作ると言うことで。
歌詞に愛媛県の松山が出てきて、僕の本名だし、彼が松山で活躍していたとのことでした。
詩を見ているとメロディーが有るなと思って、曲も作っているでしょうと聞いたら、そうですと言うことで、そのままこれで行こうと言うことになりました。
船村徹先生が亡くなりましたが、審査委員長で10週曲を聞いていただきました。
私の恩師は上原げんと先生で上原げんと先生を尊敬していたのが、船村先生でした。
上原げんと先生の最後の弟子が僕でした。
船村先生も大恩人と思っています。
船村先生の曲も第5週の時に歌いました。

昨年イベントで船村先生の作品を僕なりに選曲して歌いました。
子供のころから聞いていた「別れの一本杉」、「みだれ髪」など含め船村先生の歴史を知っていますし、歌っている歌手の方も判ります。
「男の友情」 作詞家 高野公男さん(若くして亡くなられた)の作品を選んだり、星野哲郎先生、石本 美由起先生、西条八十先生とかと色んな歌手の方々の組み合わせもあります。
色んな方々の代表的作品、代表的な歌手と云うことで選びます。
船村先生は譜面をびじっと書きこんでいく作曲家です、感性で作曲して行く方もいます、僕もそのタイプです。
船村先生は譜面化しないと絶対出てこないようなメロディーを作ったりします。
だから歌う方は難しいですが、一度聴いたら凄く残るんです。
「ひばりの佐渡情話」では「さどの」という3つの言葉だけで何小節も使う作家はいなかったです。
「のぞみ」 先生が亡くなられたときに先生が大切にされていたということを後日知ってもう一度シングルにして入っています。
女囚の歌で、先生が慰問をされていて、刑務所に行って歌ったときに皆さんが泣いたという歌だそうです。
*「のぞみ」  (作詞作曲 船村徹)
ここから出たら  母に会いたい おんなじ部屋で  ねむってみたい そしてそして   泣くだけ泣いて ごめんねと  おもいきりすがってみたい   
ここから出たら   旅に行きたい 坊やをつれて  汽車にのりたい  そしてそして  静かな宿で ごめんねと おもいきり抱いてやりたい 
ここから出たら  強くなりたい 希望(のぞみ)を持って  耐えて行きたい そしてそして 命のかぎり美しく  もう一度生きて行きたい.

山口先生が芸名をどうしようかと云うことで、クラブに文壇の先生がよくきていて、五木寛之先生、生島治郎先生の「五木」、「治郎」で「五木治郎」としようと言う話が有りましたが、「五木四郎」という歌手がいることが判って、五木寛之先生のペンネームで「のぶひろし」というのが有り、それで「五木ひろし」と云うことになりました。
去年の11月に舞台5000回を達成することができました。
歌舞奏、歌う、舞う、奏でる、3つを行う事を僕が提案しました。
ほとんどでずっぱりです。
今は定期的に歌舞奏公演をやっています。
これはらラスベガスでの経験が生きています。
歌舞奏公演をやるにあたって3年間ぐらいは毎日楽器を演奏していました。
ギター、ピアノが弾けたりしたんでベースが有ったので、他の楽器にも向かって行けたのかと思います。
チャレンジするとプラスの拍手が生まれて来ます。
山口先生から継承と挑戦、この二つが今後のテーマだと言われました。
時代劇、歌うこと、これは継承ですがラスベガスは挑戦です。(最初から云われた)
でも段々判ってきたのは継承=チャレンジなんです。
若い頃の声をいまでもやっていこうとすることがチャレンジです。

*「ふりむけば日本海」  (作詞 五木寛之 作曲 五木ひろし) 
作曲を僕が先にして五木先生に詩を作っていただきました。
頭の中はいつも考えていますが、家には持ってこないです。(セリフを覚えることなど)
今後70代に入ってどんな楽しいことがあるかと楽しみにしています。
若いころから同じキーで歌ってきましたが、何処までできるか、そこがチャレンジです。
歳を重ねていけばいくほど規則正しい生活、前準備をしていかなければならない。
*「恋歌酒場」 (作詞 阿久悠  作曲 徳久広司)  新曲















2018年3月21日水曜日

五木ひろし(歌手)            ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/1 OA)

五木ひろし(歌手)   ・【芸の道 輝きつづけて新春スペシャル】(H30/1/1 OA)
昭和23年3月生まれ、昭和39年にレコード会社主催の全国歌謡コンクールで優勝し、「松山まさる」の名前でプロの道を歩みます。
その後「一条英一」、「三谷謙」と芸名を変える中で昭和45年TVのオーディション番組歌謡選手権で10週連続を勝ちぬいて優勝、翌46年の3月1日に「五木ひろし」に改めて、「よこはま・たそがれ」でレコードデビュー、ヒットチャート1位に上り詰めました。
以後「おまえとふたり」「長良川艶歌」などミリオンヒットを放ち、自身の他多くのアーティストへの楽曲も提供されています。
劇場公演の回数は昨年で5000回を越えて、紅白歌合戦出場も連続47回を数えています。
デビュー54年目の五木さんにこれまでの道のり、芸の道に対しての思いなどを伺います。

3月に70歳になります。
70代はどんな年になって行くんだろうと楽しみです。
*デビュー曲 「よこはま・たそがれ」 (作詞:山口洋子、作曲・編曲:平尾昌晃
デビューしたもののヒット曲に恵まれない時代が数年になりました。
最後の勝負と云うことでオーディション番組『全日本歌謡選手権』に出て、10週勝ち抜き、ゲスト審査員の山口洋子さん、平尾昌晃さんに出会って二人に見出されて「よこはま・たそがれ」に繋がって行きました。
あの出会いがなければ、この作品が生まれなかったし、いまの私は無かったです、私の人生を変えてくれた運命的な出会いでした。
1週1週が真剣勝負でした。
その後結果的には順調でしたが、売れない時代を何年も経験してくると、又元に戻るのではないかという不安が有りました。
そんな思いはずーっと何年も続きました。
基本的には今も同じです。
データの蓄積、アンテナを張っています。
どういう歌がはやっているのか、いま歌謡曲、演歌はどうなっているのかなどを雑誌で読んだり、どういう作家が油が乗っているのかとか色々見聞きしています。
外国に旅をすると、日本の歌の本質、良さがわかってきます。

昭和51年にラスベガスに行って3年間やりました。
プロダクションの社長がボクシング、キックボクシングもやっていて、キックボクシングを世界的に進出させると言う思いが有り、まず歌手でと云うことで日本を世界のレベルの持っていこうと言うことになって、大変でした。
英語の特訓を数か月かけ1,2時までやりました。
ラスベガスではトップレベルで全てに日本を越えていましたので、そこで得たものは後の自分のステージ、生き方、考え方など物凄く影響を与えてくれました。
厳しい3年間ですが、凄い勉強になった3年間でした。
社長は亡くなってしまいましたが大変感謝しています。
昭和46年紅白に初出場しました。
後でおふくろにTV見ていてくれたか聞いたら見れなかったと言って、出る直前から泣けて泣けてTVが見れなかったということでした。
やっと出れた紅白でしたから、親子ともども大感激でした。
*「おまえとふたり」(作詞:たかたかし、作曲:木村好夫、編曲:京建輔)
それまで演歌は悲しい歌が多かったが、この歌から幸せな歌が生まれるようになりました。
最も売れたのがこの歌でした。

自分としては常に不安で、どうしたらいいかと云うことで、独立をすることになります。
そして「おまえとふたり」が大ヒットしましたが、相当の決断がいりました。
これが第二番目の大勝負だったと思います。
そこから五木ひろしの第二期に入ってくる訳です。
*昭和57年 「契り」(作詞:阿久悠、作曲:五木ひろし、編曲:京建輔)
東映映画『大日本帝国』の主題歌 自分で作曲しました。
阿久悠さんの作詞したものを歌ってみたいと思っていましたので、念願がようやくかないました。
作曲に当たって最初の2行に悩みましたが、出来たおかげで一気に進んで行きました。
出来上がったものを映画音楽監督の山本直純先生のところへ持って行って、駄目と言われたら作りなおすようだったが、聞いていただいて良いねと云って下さいました。
メロディーは映画のなかで随分出て来ますが、ラストシーンで歌詞が出て来まして、感動的でした。
最初は平和を願う戦争映画の主題歌、二度目は新しい門出の新郎新婦に対しての歌。
お陰様で長く歌われてきました。

ポリープは前からあったが芝居の時に喉を痛めてしまい、手術をすると3週間休まなくてはいけない。
年を越えて1カ月休みを取り、手術をして復帰後最初の歌が「長良川艶歌」でした。
思いどうりに声が出ました。
特に高音がでて、低音が出にくくなりましたが、低音が出て落ち着くまでに3カ月ぐらいかかりました。
*昭和59年 「長良川艶歌」(作詞:石本美由起、作曲:岡千秋)






























2018年3月20日火曜日

角田太作(国立国語研究所名誉教授)    ・よみがえったワロゴ語

角田太作(国立国語研究所名誉教授)    ・よみがえったワロゴ語
1946年昭和21年群馬県生まれ。
東京大学で言語学を学び、オーストラリアの言語を研究する為に、モナシュ大学の大学院に留学、そして間もなく角田さんはオーストラリアの東北部で話されていたワロゴ語の最後の話し手、アルフ・パーマー (Alf Palmer) さんと出会います。
ワロゴ語を記録するほか、文化、歴史、風習等多岐にわたって調査を行いました。
角田さんは日本に帰ってからも、ワロゴ語の研究を続けていました。
帰国から20年後、オーストラリアから、ワロゴ語の復活をして欲しいとの要請が届き、2002年角田さんは夫婦でオーストラリアに渡って、ワロゴ語の教室を開き、ワロゴ語の復活の道を開きました。

陸上競技をやっていて、オーストラリアに行ってみようと思った。
口実としてはオーストラリアの言語の研究をしますと言うことだった。
奨学金を貰って1971年3月にオーストラリアに入りました。
アルフ・パーマー さんがワロゴと云う言語を知っていて、ワロゴ語を研究することになりました。
アルフ・パーマー さんは1972年の時に90歳だったと思います。
非常に元気でした。
若いころはカウボーイ、舟を作ったりしていたそうです。
言語をよく知っていたし、物語を延々と語ってくれたりしていました。
当時、私はモナシュ大学の修士課程の学生だったので修士論文を書くためのデータを得なければいけなくて、アルフ・パーマー さんの言葉を教えて下さいと言いました。
一生懸命教えてくれて、ワロゴ語は私が死んだら言葉も死んでしまう、私が知っている事は全部教えるからきちんと書いてくれと云いました。
言葉がいかに重要かと云うことを教えてもらいました。

アルフ・パーマー さんは研究者はなにをすべきかを教えてくれた。
おまえは私の言葉を調べて立身出世だけでいいのか、大事な仕事があるんじゃないのか、と云うことを教えてくれたと思います。
研究者は自分の利益、興味だけで研究していればいいのか、もっとほかにやることがあるのではないのか、研究者の役割、研究者の倫理とはなんだ、と云う様な事を教えてくれたと思います。
アルフ・パーマー さんは偉大な先生です。
私は余り英語は喋れなかったので、苦労しました。
言語調査するときに一人しかいないということは本当に難しいです。
一番中心的に調べたのは言語ですが、歴史、文化、昔の物語など、想像上の大きなウナギの話、なども記録しました。
名前の付け方、国によって違うが、神話の登場人物から名前をとったりした人もいました。
魚の取り方ではツタを揉んで水の中に入れると魚の神経をマヒさせる物質が有って、魚が浮き上がってくる、と云う様な事も伺いました。

言葉が無くなると文化まで消えてしまう。
ワロゴ語は文の作り方が世界でも非常に珍しい現象です。
あなた方の言語は宝石ですと言ったら物凄く喜びました。
短文、複文があるが「花子が本を読んだ」は短文、「花子は本を買って読んだ」は複文。
この地域の文の作り方は物凄く変わっているんです。
「花子が太郎を見て家に帰った」では帰ったのは花子だが(ほとんどの言語の場合)、この言語では帰ったのは太郎なんです。
教える時に、まず単語の発音から教えました。
次に短文を教え、簡単な会話も教えました。
その後に複文を教えました。
その後、練習問題を出したら全部正解でした。
あなたのお子さんたちの頭の中には宝石が入っているんですよと、そのことを親に話したら、涙ぐんで喜びました。(当時の事を思い出して涙し、ちょっと間があく)

47,8年前ですが、当時大きなテープレコーダーを持って行って録音しました。
まず最初に単語を聞いてレコーディングしました。
次に短文、次に物語を語ってもらったりしました。
録音は簡単だが、持ち帰って聞きながら文字化して行くが、知らない単語も出てくるし、知らない構文も出てくるし、新たに確認したりして、30分のテープを文字化するのに10時間ぐらいかかりました。
チェックも繰り返して行ったりして、6時間40分の録音したものは3カ月ぐらいかかり、非常につらかったが、文字化して良かったと思います。
学問的に見ても非常に貴重なものだと思います。
歴史的、文化的に見ても非常に貴重なものだと思います。
本は約800ページに成ります。
第一章ではこの地域の簡単な歴史、神話、文化的背景、地名を紹介。
第二章は音に関すること、母音、子音、音節など。
第三章は単語の作り方。
第四章は単文、疑問文、命令文、複文など。
第五章は付録として文化的、歴史的に面白い物語、部族間の喧嘩など。

この本はドイツで発行されました。
オーストラリアには8年間いました。
その後日本に帰って来て、大学で教べんをとりました。
オーストラリアから祖先の言葉を学びたいという知らせが来て、2000年に現地に行って2002年からレッスンを始めました。
日常生活は英語なのでワロゴ語とは全然違います。
角田三枝先生(妻)は同分野の研究者で修士号と博士号を持っていて、私が現地に行くときに一緒に来てくれて、レッスンの事など助言してくれました。
スケッチブックに絵を妻が書いてくれて、教材として使い子供たちは非常に喜びました。
単語1500の英語の辞書も作りましたが、写真、絵などがあると良いと思います。
なかなか現地にいけないが、私が教えたワロゴ語の正しい文を作った人が出て来ました。
(アルフ・パーマー さんの孫)
アルフ・パーマー さんの息子にノリス・パーマーさん(もう亡くなってしまっている)がいたが、その人のワロゴ語の名前を付けると言うことを或る子が自分から言い出した事もありました。
日本の高校の英語の教科書に、私がワロゴ語をアルフ・パーマー さんから学んだこととかを紹介していて、現地に行ってレッスンしたことなど、何故言語が大事なのかなどが書かれています。
世界各地で祖先の言葉を学ぼうという運動が起こっており、日本でもアイヌ語、琉球語などを学ぼうと云うことが起こっていて、言葉は祖先と自分たちを結びつける道具である、アイデンティティーの一部、伝統的な知識を伝える道具であるという事だと思います。
日本の文化でも英語に訳しても伝わらないことがいろいろあると思う。




















2018年3月19日月曜日

鈴木敦(鈴本演芸場)           ・【にっぽんの音】能楽師狂言方 大藏基誠

鈴木敦(鈴本演芸場)           ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠(案内役)
大藏さんは狂言と津軽三味線、狂言と落語などジャンルを越えた企画で若い世代に伝統技能の魅力を伝えています。
160年の歴史がある鈴本演芸場。

鈴木敦さんは7代目。
トリの方の幟をあげています。
席数は285席あります。
酒も持ち込んでやっていただいていいと言うことになっています。
祖父が提案してやってきました。
舞台は横4間あります。(昔の寄席は2間が普通だった)
マイクは埋まっていて電動で上がってきます。
落語で扇子の柄の部分で叩いて音を出したりしますが、歴代の師匠がずーっとやっているので触ってみると判る位のへこみが出来ています。
桃月庵ひしもち:前座に成り2年に成ります。
入門してから前座として楽屋入りするまで1年掛かりました。
今は前座さんが多くいます、上の前座が二つ目にならないと前座にはなれません。
大学にはいって落語に興味を持って、桃月庵 白酒が師匠ですが、非常に心を打たれて是非入りたいと思いました。(桃月庵ひしもち)
前座として太鼓の仕事もあります。

二番太鼓、開演5分前に打つ太鼓です。
客席から見て左側に太鼓部屋があり 3畳もないところに太鼓が置いてあります。
今日、笛を吹いてくれたのは春風亭 一花です。
太鼓は必修科目で笛は自主的にやっています。
笛をやると先輩方から重宝されます。
師匠の春風亭 一朝がずーっとやって、歌舞伎座で吹いていたこともあります。
その弟子なので笛をやりたいと思って師匠に習っています。(今度二つ目に成ります)
私は(春風亭 一花)見習いが1年半、前座が4年に成ります。
私は女性の落語家と云うことで、噺には男の人の話が多くあります、割と男の人が出てくる演目が好きで、それも積極的にやって行きたいと思っています。
前座の演目はシンプルなものが多く、基礎的なことと云うことで演目も或る程度限られています。
2つ目になるともう少し拡がっていきます。

一番有名なのは一番太鼓。
お客様を呼び込む太鼓。
(どんとこい どんとこい かねもってこい)
最後にばちを止めるときにクロスしたような形で止めるが、これは漢字の「入」でお客様が入るようにと云うことでこのようになっています。
終演時の追い出し太鼓。
(出てけ 出てけ 出てけ てんてんばらばら てんてんばらばら)
終わったあとに胴の部分を「カラカラ」と叩くが、終わったら客席が「空」になりましたという意味で、最後の追い出しが鋲の部分を擦るんです。
これは寄席のドアが閉まって、鍵をしたということになります。

銅鑼 落語の中に鳴りものが入った時などに使用します。(時間を知らせる)
拍子木 出囃子の中で拍子木をちょっと鳴らしたり、話の中に入れたりすることもあります。
四助(よすけ) 太鼓とか他のお囃子を助ける。
三味線 恩田えりさん 寄席の出囃子で生演奏をやっています。
*出囃子 5代目の柳家小さん師匠 「序の舞い」(今は寄席で聴くことはできない)
*変わった出囃子 チャイコフスキーの「白鳥の湖」 三遊亭白鳥
300曲以上あります。
紙切りとか落語以外にもあるのでレパートリーはかなりあります。
なかには弾き捨て、みたいなものもあります。
私(恩田えりさん)は寄席にずーっと居たかったので職業としては売店とかお囃子、席亭の3つが有り、お囃子を選びました。
国立劇場伝統芸能伝承者養成機関・寄席囃子コースに入って、修行してから寄席に入ります。
現在、東京で20数人います。
*出囃子 プロレスの曲 UWFのテーマをテーマにしている 鈴々舎 馬るこ

出囃子 落語家が出てきて座ってお辞儀をするまで。
その人の癖を知っておかないと上手いタイミングで終わることはできない。
体調によっても歩幅が違ったり、速さが違ったりするので、注意することが必要です。
「紙切り」では、お客様の注文なのでどんなものをやるのか分からないので、お囃子さんのセンスが大事です。(それれぞれのテーマによって選曲)








2018年3月17日土曜日

牧 慎一郎(天王寺動物園園長)      ・動物園ファンから動物園長に(H29/2/18 OA)

牧 慎一郎(天王寺動物園園長)・動物園ファンから動物園長に(H29/2/18 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/02/blog-post_18.htmlをご覧ください。

2018年3月16日金曜日

野下千年神父(長崎県宗教者懇話会)    ・宗教の壁を越え、ともに“平和”を祈る

野下千年神父(長崎県宗教者懇話会)    ・宗教の壁を越え、ともに“平和”を祈る
宗教の違いによる争いで多くの人が命を落としています。
宗教を理由とした差別や偏見で苦しむ人もいます。
異なる宗教同士が互いに理解しあうことができないのか。
この問いに半世紀近くにわたり取り組まれているのが、キリスト教カトリック神父野下千年さん(80歳)です。
カトリックの家庭に生まれ育ち、神父になった野下さん、力を入れているのは長崎の宗教者の団体でつくる長崎県宗教者懇話会の活動です。
長崎県宗教者懇話会は神道、仏教、キリスト教、新しい宗教を含めた宗教者同士が、お互いを知り尊重し合うことを目指して、式典を開いたり、祈りの場を設けたりするなど共に活動しています。
トルコのイスラム教の指導者とも交流を続けています。
どうすればほかの宗教を理解し受け入れることができるのか、これから宗教や信じることはどのような役割を果たすのか伺いました。

私の5代目上の先祖の夫婦は、大村牢内で獄死しました。
私の父は歴代のクリスチャンでした、母は仏教徒でした。
18歳の時に父と結婚しました。
母の姉の家が熱心な仏教徒で、泊りに行ったときなど私は一緒に朝仏壇に手を合わせていました。
従兄弟など彼ら仏教の子も家に来た時に、カトリックの家庭では朝夕に祈りを10分しますが、彼らも一緒にお祈りをしました。
信仰的に信じにいく訳ではなくて、そこは愛ですよ。
信じる者同士の心の通いをすると、お互い嬉しいでしょう。
それを子供のころから実感しました。
1963年から5年まで、バチカン公会議がローマで開かれました。
キリスト教を信じないほかの宗教にも素晴らしいものがある。
カトリック教会は違った宗教に中にある正しい宝、教えにしても何一つ排除しない、それを決定したのはバチカン公会議が初めてです。

江戸時代にキリストが禁止されて弾圧を受けました。
お寺はなかったが、曹洞宗の寺を置いてその天福寺の檀徒にならないといけなかった。
カモフラージュするようになって受けつがれて、明治6年の信仰の自由になるまでそうしていました。
そうして3つに別れました。
神父が来たのでキリスト教に戻りますと言う一団が教会作りに励み、隠れていたグループ、お寺さんに世話になろうという話し合いをし仏教徒になる、異教徒同士です。
喧嘩していることは見たことはないが、差別用語みたいな形で軽蔑をしたりしていることはあり、見えないカーテンみたいなものがありました。
3者の交流を持つためには何かないかと思ったのが、よりどころの枯松神社でした。
枯松神社は弾圧時代に集落の人たちがひそかに、信仰の指導者だった伝説の伝道師バスチャンの師であるサン・ジワンさんのお墓を訪問してお祈りをしていた。
ここだけはかつての共通の史跡だと思って3者を繋ぎ合わせることはできないかなと思って、同じ弾圧をうけた先祖たちの慰霊を一緒にしようじゃないかと云うことで、合同で祖先の為に祈る、供養をしようと云うことでした。
ここでミサをしようと云うことを提言したら、反対は全然ありませんでした。

ミサの中でどういうことで一緒に成れるか考えて提案したのは、ミサのなかで奉納と云う部分があるが、何を奉納するか、隠れキリシタングループはお祈り(オラショ(祈り))奉納、仏教徒は花と果物、カトリックはパンと葡萄酒、ここで一緒の奉納が成立するようにこれが私のアイディアでした。
これで3者が成立しました。
隠れキリシタンの村上さんとは密に交流をしました。
7年いましたが毎年クリスマスケーキを持ってきました。
おもちも貰いました。
村上さんは隠れキリシタンの信念を持っていました。
体が悪くなり入院して、正月3日に長男と甥児さんがきて、父が重篤に入っていて、父から自分が死んだら野下千年さんから送ってもらいたい、教会で葬式を挙げてもらいたいので頼んでくれと云うことでした。(隠れキリシタンの方法ではなくて)
その翌日亡くなり、葬式を済ませました。
隠れキリシタンの方も、仏教徒、カトリックの人もきてくれて感動しました。

長崎県宗教者懇話会の目的は宗教者の友好を作ることです。
違った宗教の垣根は高いです。
8月9日が長崎の原爆記念日にあたっていて、その前夜祭として8日の夕方に合同法要を営みます。
黙とうで祈ります。
神道、仏教、キリスト教、心の中ではそれぞれの唱えがあるかもしれませんが。
そして宗教を越えて全部で10曲ぐらい歌って、一番最後は献花になります。
長崎県宗教者懇話会では2005年から国を越えた宗教対話にも取り組み、被爆60年でカトリックのバチカンに行くことになりました。
2年後に仏教の巡礼、巡拝をしました。
2010年にはトルコでイスラム教指導者との対話をしました。
シーア派との交渉をしました。
日本ではこういうふうな事をしているというメッセージを伝えたかったわけです。
トルコのイスラムのなかの最高指導者の3人のうちの1人が中心で6人の方と対面しました。
世界の平和の為に一緒にお祈りをしますと言うことをいったら、違った宗教の人がどんなふうにやるのかと云って、黙とうすなわち言葉なしで心の祈りを合せていると言ったら、深い驚きと同時に頷きました。

モスクに入らせてもらったらいいかと言ったら、今すぐに行こうと言うことになりました。
1時間の礼拝式にあずかりました。
本来違った宗教は許されるものではないと思うが、よく許してくれたと思いました、話せば判る、と云うことだと思います。
意味のある出来事だったと思います、ほんとうに行って良かったです。
翌年8月9日の4か月前にトルコのイスラムから長崎に行きたいという連絡がありました。
8月9日の前々日から来て、実現しました。
トップの人は90歳で国の要職にあり、国から止められてしまった。
私宛の親書がきて、自分は日本で死んでもかまわないと思った、行きたかったけれど政府が許さない、私たちは誰もやがて逝く所で会う、神様のお庭で会いましょう、と書いてありました。
これは長崎県宗教者懇話会にとっても本当に良かったと思います。

真に正しい祈り、平和、お互いの幸せなど目指した祈りはどの祈りでも同じところに届いてゆく、人間の力を越える解決を神にお願いすることだと思います。
極端に云うと最もいい宗教は自分の宗教だという確信が、むしろ必要です。
その確信を持って手をつなぐ、それぞれが自分の信じている信仰に確固たる信念を持つ、それを捨てて仲良くなるのでは無く、それを持ちながら一緒になる。
そうした時に宗教者の集まりにパワーが出てくる。
お互いの宗教の良さを発見することですね。
本当の祈りをささげていれば戦えないと思います。
憎しみがおおっている祈りは祈りではない、相手の不幸を求めている祈りは祈りではない。
愛が伴わない祈りは駄目です。
祈りは相手の幸せを願う、愛の神様に対する、不幸な人に対する愛の言葉です。
それがないなら喧嘩になるでしょう。

いまなにを信じるか、役割、意味。
愛、希望、赦し、そういうものを養うことだと思います。
人間の能力を超えた存在に信頼する、そういうことを持って対処するから、自分を越えた善が有る、善の根源が神様だと思います。
その心に添い、その心にすがることによってよい希望を持つ。
場合によっては悪(間違った考え方)を消化する力になって行く、そう思っています。
















2018年3月15日木曜日

星野光世(元戦争孤児の会会員)      ・“戦争がうんだ子どもたち”の物語

星野光世(元戦争孤児の会会員)      ・“戦争がうんだ子どもたち”の物語
73年前の3月の東京大空襲で墨田区で蕎麦屋を営んでいた両親を失った星野光代さん(84歳)は、戦争さえなければと言う思いから、自分を含めた11人の戦争孤児たちの体験を絵本にまとめ、去年出版しました。
夫が亡くなるまで自分は浮浪児だったことを言えなかったことを後悔する人など、戦後ずっと記憶を封印してきた人が多く、自分たち親なき子が苦しめられた戦争を、今の子供には知らないままでいられるようにしたい、そんな願いを込めて絵本を作ったと言います。

昭和20年3月10日に東京大空襲。
11歳で小学5年生でした。
学校から集団疎開で千葉県の君津市に行っていました。
その日物凄い燃えカスがお寺の境内に飛んできました。
1週間後ぐらいに一人の男の人が半分焼け焦げた人がお寺に来ましたが、その人は疎開していた子を迎えに来た人でした。
東京は学校も家も焼けて、焼け野原になってしまったということを聞いて、あのときの燃えカスは東京から来たんだと言うことが判りました。
生き残った親がぽつぽつと迎えに来る訳ですが、私のところには来なくて、生徒の半数ぐらい残った時に母方の叔父が迎えに来ました。
突然「お父ちゃんもお母ちゃんも死んじゃったよ」と言うんです。
でも悲しみも涙も出なくて、そのことを何人も見ているので私の番が来たんだと思いました。

母の実家に行きました。
2カ月ぐらいしてから父の実家(新潟)に私と妹、弟が連れていかれました。
兄と、妹(赤ちゃん)と両親4人が亡くなりました。
新潟では祖母と小さい子供を3人かかえ僅かな農業をやっているところへ3人が転がり込んだから大変でした。
おばあさんには怒られてばっかりいましたが我慢していました。
食べ物もお湯のなかにご飯粒が浮いている位で、箸を使わずご飯を飲むだけでした。
千葉に親しい叔母がいたので或る時、窮状を訴える手紙を出して迎えに来てほしいと連絡しました。
しばらくしたら、私の祖母が怖い顔をして紙を見せにきましたが、それは手紙の下書きでした。(捨てたはずだったが、残っていました)
或る時、知っているおじさんから1晩泊りに来ないかと言われて、3人兄弟が一緒に幾つも山を越えていったら、凄いごちそうが用意されていました。
食べ終わったら、父の妹が今日からここの家の子になるんだと言うんです。
そこには子供が7,8人もいるんです。
ここにいたらもっと苦しくなると思って隙を見て逃げました。
必死で3人で逃げて峠の所で湧水を飲んだとたんに悲しみがこみ上げて来てきました。
その時だけは親の居ない辛さがこみ上げて来て思いきり泣きました。

行くところのないおばあさんのいる父の実家に帰ってきました。
最初怒ったが、逃げてきたと察して優しくなりました。
白いご飯を出してくれましたが、おばあさんが背を向けて泣いていました。
戦争で親が亡くなった子供の気持ちがやっとわかってくれたんだと思います。
叔父が復員したが生活は楽になりませんでした。
私と妹は母の郷里の千葉に、弟は新潟に別れて暮らすことになりました。
10年間別れて暮しました。
弟は実の親だと思っていましたが、東京に就職するために行くのですが、その時に知らされたようです。
周りから反対されたが、苦労覚悟の上で私も東京に出て来ました。
育ててもらった家からお嫁に行ったら、それは嫌だと思いました。
自由に生きたかった。
葛飾に父の一番上の姉が嫁いだ先が建築業をやっていて、そこで働いて結婚しました。

或る日インターネットで戦争孤児の体験の事が出ていて、両親が亡くなったと兄、弟と3人が残されて、親戚にばらばらに預けられて、9歳だったが学校にも行かされて貰えず、山に薪を拾って薪を一晩中燃やして、塩を取る仕事をさせられていた、と言うことでした。
弟が病気だと言うことを知らされ駆け付けたら、馬小屋に寝かされて「かあちゃん、かあちゃん」といって死んでいったんです。
それを見たその人は自分も惨めな死に方をすると思って、十幾日かけて逃げて東京まで歩いてきたそうです。
その間、どうやって雨露を凌いだのか、どうやって食べたのか覚えていないと言うんです。
東京で浮浪児生活をしていたら、トラックに乗せられて(浮浪狩り)、遠い所に捨てられたそうです。
こういったことをぜひ残さないといけないと思いました。

絵と文章で残してこれからの子供たちに伝えたいと思いました。
勝手に書くわけにはいかないので元戦争孤児の会の代表の金田茉莉さんに連絡して、本人に逢いたいといったら、病気で取材を受けられるような状況ではないので書いてもらってもいいという返事をもらいました。
*参照 「戦後70年、戦争孤児が歩んだ苦難の道」(金田茉莉)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/08/blog-post_12.html
墨田区の郷土文化資料館で戦争孤児展をやるということで、ここでの体験も書きました。
500部を自分で作って全国の博物館、資料館、記念館などに配らせていただきました。
野田正彰先生が目にとめて下さって、出版社を紹介してもらいました。
2年前が自費出版で、去年が出版社から絵本が出ることになりました。
11人は戦争孤児の人もいましたが、そうでない人もいます。

戦争孤児の悲惨な想像もつかないような暮らしなどが主な内容です。
戦争が色んな問題を起こして、大勢の人を苦しめて来ました。
戦争孤児の資料は少ない。
戦争孤児は訴えるすべも知らない。
これからの子供達が私達と同じ思いをするような時代がきたら大変ですから。
山田清一郎さん、よく生きてきたなと言う凄い体験をしています。
「見えない母に支えられて」という題名
神戸空襲の3月で父を、6月で母が亡くなり一人っ子で行き場がなくて、焼けのこった金庫の中で暮らしたそうです。
親の居ない仲間が何人かいて、貰う、拾う、盗んで食うしか生きられなかった。
今は段々戦争体験者が少なくなりました。

全国に散らばっている戦争孤児にアンケートを送って調査をして、実態を調べました。
全国学童疎開連絡協議会という組織が有り、そこに行けば何でも資料があると言われました。
戦争孤児の会は昨年で辞めることになりました。
高齢化、病気などで来られなくなってきてしまった。
孤児になった辛さ悲しみは、今になった方が悲しみは深いと或る方から言われました。
歳を取ると世の中が見えてくるので、それで感ずるところが違うと思います。
初版が4000部で、2カ月で重版に成りました。
絵も文章も初めてですが、本当にあったことだから残したい。
子供なら読んでくれると思って作ったが、その親御さんも読んでくれました。
戦争孤児の方々は語り部とかでも活動されています。
小学校1、2年生でも「何故戦争を始めたのですか?」という質問を受けたりします。
戦争さえなければ私たちみたいな戦争孤児が生まれないし、戦争ほど愚かなことはないと思います。
今の子供達は戦争を知らないまま育っていって欲しいと思います。

















2018年3月14日水曜日

荒井良二(絵本作家)           ・【人生のみちしるべ】“日常”の旅人(H29/4/12 OA)

荒井良二(絵本作家)    ・【人生のみちしるべ】“日常”の旅人(H29/4/12 OA)
1956年山形県生まれ、61歳。
1990年に絵本作家としてデビュー、2005年児童文学のノーベル賞と言われるスウエーデンの児童少年文学賞アストリッド・リンドグレーン記念文学賞を日本人で初めて受賞しています。
山形出身の荒井さんは2011年の東日本大震災で、作家としての活動に大きな影響を受けました。
誰の為に何を書くのか自問自答の迷いの中に落ち込んでいってしまったと言います。
迷いの中からやっと生み出した絵本で描いたものとは、伺いました。

60歳になってしまいましたが、頭の中は3~5歳ぐらいじゃないですかね。
書いているときとか、そんなふうに感じることが有ります。
二人いるような感じで、冷静な大人もいます。
はみ出してもいいんだと昔に思いました。
締め切りに頑張ってきましたが、ここ5,6年ちょっと変わってきました。
2011年12月出版 『あさになったので まどをあけますよ』
2016年9月出版  『きょうはそらにまるいつき』
この2冊は対になっています。
3・11の大震災で東北の被害が有って、その年はワークショップをやりに行きました。
何回か東北に通ってワークショップをやりました。
旗を作ろうとして「フラッグシップ」という名前にしました。
それをやりながら、この本を書いていました。(『あさになったので まどをあけますよ』)

僕のやっていることって何だろうなと言うことを考えてばっかりしていました。
気持ちが今までとは違う、迷い方と言うか、それが有りました。
これを描いていいのかな、から始まり、誰の為に描いているのかとか、自問自答しながら描いていました。
描くのは早い方なんですが、これからスローになってしまいました。
描けない時は描けなくていいんだと、自分に言い聞かせた記憶が有ります。
この本は通常より何倍もかかっています。
風景を一杯描きたくて、どっかしらに日本を感じさせて、どっか日本じゃないという風景をごちゃ混ぜにして、朝からの連鎖、暗い事とか夜になると怖いと言う子供たちの声を聞いたりして朝を繋げればいいのかなあと思って、朝だけにしようと思いました。
だから淡々としています、窓を開けるだけですから。

「朝になったので窓を開けますよ。 山はやっぱりそこにいて、木はやっぱりここにいる。
だから僕はここが好き。 
朝になったので窓を開けますよ。 町はやっぱり賑やかで、皆やっぱり急いでいる。
だから私はここが好き。
朝になったので窓を開けますよ。 川はやっぱり流れていて、魚はきっと跳ねていて。
だから僕らはここが好き。
君の街は晴れているかな。  
朝になったので窓を開けますよ。 晴れているのに雨が降っている。 やっぱり僕はここが好き。
朝になったので窓を開けますよ。 今日は大好きな木の下が私の部屋。
いつも風が吹いていて。 やっぱり私はここが好き。 
朝になったので窓を開けますよ。 海はやっぱりそこにいて空はやっぱりそこにある。 だから僕はここが好き。  君の街は晴れてるかな。 
朝になったので窓を開けますよ。」

海の絵は物凄く考えました。
窓から見える風景、これが有るから、俺なんだよな、僕なんだよな、と言うのを朝に0.何秒で感じていると思う。
それを描きたかっただけです。
 
『きょうはそらにまるいつき』 こちらは夜の風景です。
『あさになったので まどをあけますよ』と対にという意識は全然ありませんでした。
随分前から夜と月をそのうち作るぞ、と思っていました。
月から何かしら力を貰っているんだろうなと昔から思っていました。
それって大事だなと思っていました。
夕暮れの公園、乳母車の中から赤ちゃんが空を見ている絵。
赤ちゃんは空を月を感じているんじゃないかなと思いました。
バレエから帰る女の子、仕事を終わった洋裁店の親子、人間だけではなくて、公園に集まった猫たち、山の中の熊の親子、海のクジラまで出てきて月を感じる。

「きょうはそらにまるいつき 赤ちゃんが空を見ています。 
きょうはそらにまるいつき  バレエの練習が終わって、女の子がバスで帰ります。
きょうはそらにまるいつき  遠い遠い山のなかです。沢山遊んだ帰り道です。
きょうはそらにまるいつき  新しい運動靴を買って男の子がバスで帰ります。
きょうはそらにまるいつき  猫たちがたくさん集まってきました。
ミシンで洋服を作るお店です。仕事が終わってカーテンを閉めるところです。
きょうはそらにまるいつき 赤ちゃんが空を見ています。 空を見て笑っています。
皆の夜にそれぞれの夜に御褒美のようなお月さま。
ギターの音が聞こえます。 同じ歌を何度も何度も練習しています。
きょうはそらにまるいつき 遠い遠い海でクジラが大きく大きく跳ねました。
きょうはそらにまるいつき ご飯が終わっておじいさんが食器を洗っています。 
おばあさんが食器やコップをかたづけます。 
きょうはそらにまるいつき  赤ちゃんが空を見ています。 
きょうはそらにまるいつき  皆が空を見ています。
きょうはそらにまるいつき  御褒美のようなお月さま。」

月がそこにあると言うことを伝えたいから出来るだけ文章を削って、「今日満月だ」「本当だ」というそれを書きたかった。
絵本を描くとき、子供達を意識して、結果的に意識しないように完成させます。 
子供に見せたいけど、フィニッシュはただ子供向けにだけはフィニッシュさせないと考えています。 
絵本を描き始めると、子供と言うキーワードにぶつかり、大人は評論している。
子供の壁にぶつかって越えることはできないと思って、どうやって乗り越えたらいいんだろうとか、子供を乗り越えることは無理なのではないかと考えたりしました。
子供に寄り添えばいいんじゃないかと考えましたが、今でも回答なんてないです。
最初描けなくて、自分が子供の頃に何が好きだったか、全部文章に書き出しました。

絵本て、名作とかを今読んでみると、良い本だなあと思うが、時代って有るんだなあと言う気がしました。
受け取り方が違ってくる。
子供用に手取り足取り全部話が有って、絵本的事件が有って最後はハッピーエンドで終わるという、いい本だねと言う物の方が今は好きなのかなあと思いました。
名作と言われるものに感情の起伏が無い絵本で、一般の人でこれっていいと思う人でどれぐらいいるのかなあと思ってしまいました。
「ゆきのひ」(エズラ=ジャック=キーツ)とかとってもいい絵本ですが、今こういう本を読み取れる力ってあんまりないんじゃないかなあと思いました。
感動の質が均一化しているみたいな気がする。
自分が感動を引き寄せる力が有るような気がするんですが。
その時代時代に合わせると言うことも大事だが合せないと言うところも大事かなあと思っています。
合せないと言うところが作家性に繋がる大事な部分かと思います。






2018年3月13日火曜日

鈴木典夫(福島大学教授)         ・震災を乗り越え強くなる“支えあう力”

鈴木典夫(福島大学教授)     ・震災を乗り越え強くなる“支えあう力”
被災地では復興住宅の整備が進み、被災した人々も以前に比べて安定してきました。
しかし、東京電力福島第一原発の事故によって、避難が長期化している福島県では、住み慣れた地域から離れ、仮設住宅での生活を余儀なくされている人が少なく有りません。
そうした中で高齢者の支援は大きな課題です。
福島大学の教授で長年地域福祉に携わってきた鈴木さん(57歳)は、支援にはボランティアの力が欠かせないと話します。
日本全国で災害が発生するたびに発達してきたボランティア文化についての話、地域コミュニティーを支えるためには何が必要なのかについて伺いました。

7年間と言うのは長いというのは有りますが、今後10,20年と言うスパンで続くのかなと思います。
生活者が日常生活を取り戻すのが復興と思っています。
災害と言うことでボランティアを意識したのは、1991年雲仙普賢岳の火砕流災害だと自分の中では思っています。
仮設住宅が出来るんだと判り、それだけ大きな被害だったと思います。
当時、社会福祉協議会の職員として京都市の方に勤務していました。
1995年に阪神淡路大震災、なまでの映像が朝流されて、尋常ではない事が起こったと思いました。
応援体制を直ぐに組まなければいけないということで、私は芦屋市を担当して避難所の運営とかのサポートをしました。
2か月間で100万人の方が応援に駆け付けてくれて、ボランティア元年と言うふうに評価されました。

あれほどのボランティアの人達のマネージメントの経験がなかったので、私たち自身もかなり混乱しました。
震災でやるべきことは対人だけではなくやるべきことはたくさんあります。(物資の仕訳等々)
なるべく人に直に接して応援したいと思う人達が多い。
中に何が入っている判らないものは後回しになってしまう。
阪神淡路大震災の時のような小口物資(タオル、ハブラシ、石鹸、鉛筆などが少量入っている)の混乱は、その後は緩和されていると思います。
その後をみていると、支援物資の心得も変わってきていると思います。
中身に何が入っているか明記されていたり、同一物資は纏めて段ボールに入れてあったりするようになりました。

今は必要なボランティアが整理されてきた面があります。
多様なボランティアが必要だというふうに気付かされている。
仕分けだけを取って見ても、中越地震の時には福島大学の学生と共に山古志村の支援物資(体育館4個分)をひたすら仕分けをしていました。
おむつ一つでも詳細に仕分けをしました。
人に直に接したいと言う思いはあるが、ひたすら仕分をするなかでも人と接する時間は取れるので、それが続いてゆくと仕分けをしながら子供とか高齢者との話をする時間などが取れるようになってきて、信頼と言うものを厚くしていったと思います。
避難所は一つの避難の生活のスタイルになるが、自分たちも何かやろうと言うふうに高まってきたのではないかと思います。
中越地震の時には地元の中学、高校の学生が一緒に入ってくれるとか有りました。
映像で見ましたが、熊本の避難所の中で中学生が作業をしたり、子供達と遊んだりしていて、その姿を見て、災害が起きた時のボランティアの姿は外からの人達だけではなく、うちうちから若い人たちまで浸透していると思ったら、災害時のボランティアは少しづついい方向に定着が進んでいると思いました。

阪神淡路大震災の時は仮設住宅がコミュニティー単位ではなかったので、住む人がなかなか人間関係が作りにくいということもあり、孤立死と言うようなこともありました。
孤立が問題として解消していなくて、現在も続いていてそういうことは見逃してはならない。
30~50人が孤立死をしている。
10,20年のスパンで考えなくてはいけない震災と感じたときに、20年たてば故郷に戻れると言うところでの新しい故郷でのコミュニティー作りの中で孤立が起こる可能性もある。
中越地震では地域ごとに仮設住宅に入った。
東日本大震災でも自治体ごとでもって、その地域の人たちで生活できるように配慮がなされたが、お隣さんがお隣ではなくてコミュニティー単位と言えないと思う。
原発事故の影響で、浜通りの人たちが仮設住宅に暮らす時に、色々な地域分散していって、一旦ばらばらになった状態の時にお隣さん同士ということは非常に困難だった。
コミュニティー単位でという考え方が進んではきたが、それぞれ分散避難する中で東日本大震災ではかなわなかった。
原発事故の影響は大きかった。
7年経過して、仮設住宅からの住み替えが終盤に入った。
復興公営住宅への住み替え、故郷に帰る人も少数だがかなえられるようになってきた。
仮設住宅でのケア、復興公営住宅でのケア、戻れた人たちへのケア、新たな第3地域での生活者に対するケアも必要です。
多様な住まい方のケアが福島での現状だと思います。

福島大学の学生の災害ボランティアセンター(鈴木氏が顧問)、いまでも仮設住宅に住み込んでいる人たちがいます。
2か所の仮設住宅に2人づつ、4人が5ヶ月間暮らして、又別の人が暮らすと言うふうに継続的に住みこみをやってきました。
学生としての日常生活をしながら、「いる」という効果、普段子供からお年寄りまでいる中が一つの共同体というようなところがあるが、仮設住宅は若い人がいない共同体なのでいるだけでも世代間の渡りを付けられる、若い人の声が聞こえる。
コミュニティーの空気が変えられる
始めた時が震災後4年後だったが、すでに25%が空き屋に成っていて寂しさが生まれていた。
時間の過ごし方が画一化してきて、生活のメリハリが出てこなくなり引きこもり、人との会話が無くなってしまう。
学生たちが入ると会話が生まれ始めて、良い方向に動き出す。
双方による気遣いが心のケアに繋がって行く。

住む人がすくなくなってきて、仮設住宅の看取りをして行く。
仮設住宅にいても楽しいこともあったよね、こういうことを住んでいる人たちに残してあげることも大切なことだと思っています。
それが次の住み替えに必ずつながっていくと思います。
発生直後は学生の気持ちは使命感だったと思いますが、使命感型から7年経って今は関心型に成って来ているとは思います。
関心を満たすと離れて行く人も中にはいます。
孤立死、関連死、自死と言う様な事を起こしてはならないという気持ちを継いでいっています。
死を考えると言うことを問いかけている部分が、福島大学の場合は世代が交代しても大切にしていきたい、そういう人材が有るから継いでいるというふうに思います。
震災に限らず少子高齢者社会の中での関係性をどう維持してゆくのか、共通性もありそういったことに反映させることも可能だと思います。
継続してやって行く、連続してやってゆくことが大事だと思います。
長い時間軸を見て孤立死を起こさないという考え方はずーっと持ち続けていきたい。





















2018年3月12日月曜日

荒井秀樹(ノルディックスキー日本代表監督)・【“2020”に託すもの】障害者スキーとともに歩む道

荒井秀樹(ピョンチャンパラリンピックノルディックスキー日本代表監督)
・【“2020”に託すもの】障害者スキーとともに歩む道
アルペンスキー、クロスカントリースキー(ノルディックスキー)。
私が担当しているのはノルディックスキーと、射撃を組み合わせたバイアスロンという競技です。
目に障害がある方たち、身体に障害のある方達で競っているのがパラリンピックになっています。
バイアスロンは視覚障害の方も行います。
長野パラリンピック迄は全盲の方もエアーライフルを撃っていましたが、用具の進歩が進んで現在は視覚障害の方は音を聞き分けてビームライフルと言うものがあり、音響装置を付けて的の中心部に近づくと高い周波数の音が出て、撃ってゆくという競技に成って来ています。
2.5kmのコースを走って来て、息を殺して的を射て行くと言うことで、聴力検査と同じような音が出て1570HZの高い音になると10m離れた所に2.4cmの的が有り、それを撃ち抜いていきます。
至難の業です。
7.5kmの場合は、2回の射撃が有り、1回に付き5発、全部で10発撃って、1発外すごとにペナルティーが加算されて、150mのループを回ってコースを走って行く。

ノルディックスキーはスタンディングとシッティングがあります。
手や足の障害がある方たちが、障害の軽い重いについて一定の係数であわせてハンディー制にして平等にレースができるように成っています。
脊髄損傷などの選手はシットスキーでレースを行います。
2002年のソルトレイクは障害ごとに、全盲だったら全盲の選手だけで競っていました。
世界チャンピオンを一人にして欲しいとの要望から大きなカテゴリーに成りました。
それを平等にやる為にハンディー制を取り入れてのレースをおこなっています。
私は北海道の旭川の出身でクロスカントリースキーの盛んな地域です。
中学からクロスカントリースキーを始めて、大学出て江東区の役所に勤めていて、スキー部があり、クロスカントリースキーをやっていて、中学高校生もやっていることが判り、子供たちに教えたり、自分も国体を目指していた時代が有って、東京都のスキー連盟の部長だった工藤さんから1998年の白馬のオリンピックパラリンピックがあるが、パラリンピックの指導者を探していて、どうだろうかとの話が有りました。(1995年)

子供達と一緒にトレーニングをすればいいかと思って返事をしました。
しかし、まだ選手がいないということで吃驚した記憶があります。
パラリンピックには関心が向いていなかったようでした。
障害者スキーの振興はしていたが、競技として強化して行くところは進んでいなかった状況でした。
長野パラリンピックでは小林深雪(こばやし みゆき)さんがバイアスロン視覚障害で金メダルを取りました。
まさか2年間の強化で金メダルを取ると言うのは、思っていませんでした。
小林さんの力もありますが、日本中の方たちの応援する風が吹いて、小林さんに金メダルを取らせてくれたと思います。
1か月前にダボスで世界選手権があるのでそこに出場したかったが、協会費がなくて遠征にはいけませんでした。
チーム全員はいけませんでしたが、5人の代表で行ってきました。
その時に小林さんが3位に入りました。
スタンディングで8位に成った選手もいました。

1996年スウエーデンでIPC( International Paralympic Committee)の大会が開催されて、競技関係者が大会を見に行きましたが、凄くレベルが高くて、2年後にそこそこのレベルを持っていけるか心配でした。
岐阜県での全国中学校大会に片腕の中学生が出ていたと教えてもらって、名前も知りませんでした。
長野のときに出てもらおうと言う思いがありました。
資料を調べたが判らなくて、宿の人に聞けばわかると思って一軒一軒電話をしました。
岡山県のスキー連盟に電話して新田佳浩君だと教えてもらいました。
彼はバンクーバーで金メダルを2つ取って現在もピョンチャン目指していますが、新田君に会えたのはそういう経過でした。

最初パラリンピックに出ることについて父親からは、普通の子として育ててきたので障害者のパラリンピックに出ることにいい返事はもらえませんでした。
3歳の時にコンバインに左手を入れてしまって事故を起こして片腕を失ってしまったが、
その時に家族全員が、佳浩君を障害の子として育ててしまうと、負い目を負ってしまうので辞めようと言うことに成ったそうです。
一般の子供と同じように育てて行く訳です。
世界で活躍するパラスキーのビデオを見せて、佳浩君も挑戦したいという気持ちを持ってもらうことができました。
全国から60名位てをあげてくれましたが、経験者はほとんどいなかったです。
佳浩君が入ってくれたおかげでレベルもぐんと上がって、チームも纏まってきました。

1995年 60名から20名位にセレクトしてほしいと言われて、私は障害を持った人との交流がなくて、大浴場で背中を流しあったりした方がいいよと言われて、そこで色んなことが見えて来ました。
脊髄損傷の人の仕草、全盲の人で湯気、音を聞き分けて入浴する感覚、等それらを見て凄いなあと思いました。
スキーはバランンスが重要で、佳浩君は左手側の筋肉が細くてアンバランスでそちらを鍛えることを行ってきました。
ソルトレイクでは銅メダルでしたが、金メダルを取るまでには10年間かかりました。
大切なことは彼らをよく知ると言うことで、知ったうえで彼らの一番強みを見付けてあげて、継続する。
日立ソシューションズスキー部監督、その創設に関わりました。
スポンサー、強化費などの苦しい中、ソレトレイクに行きましたが、海外の選手たちが凄くレベルが高くなっていて、バックアップ体制もしっかりしていました。
日本は惨敗だったと思いました。
実業団チームをつくらないと強化はできないと思いました。
企画書を作ったりして手探りで活動を始めました。

結婚式での妙高高原からの帰りに、同席した人がいて、そのひとが日立ソリューションの役員の方でした。
環境の悪さなどでメダルが取れないといった話をして、実業団のチームを作りたいと言って名刺交換しました。(2004年4月)
8月にニュージーランドにスキーのトレーニングに行きましたが、日立ソリューションの渡辺さんに絵葉書を送りました。
渡辺さんが役員、社長に話をしてくれました。(2004年 アテネオリンピックの年)
9月にアテネパラリンピックが始まる。
11月にスキー部を創設することになりました。
私と小林さん、新田佳浩さん、太田渉子さんとともに実業団スキー部を創設しました。(公務員を辞めて飛び込む。 50歳)

それまでぼんやりした目標設定でしたが、最初に言われたことは目標を数字で表してほしいと言われて吃驚しました。
数値化することはトレーニングに大きな効果を出していると思います。
それが小林さんの金メダル、新田さんの2つの金メダルに、太田渉子さんが銀メダルを取ったのも企業が数値化をしてくれていろんなサポートをしてくれたお陰だったと思います。
本を出版した時の3つミッション ①勝利 ②普及 ③資金
体系的、理論的に勉強したいという思いが有って、大学院に行こうと思って、平田先生のところでこの3つの事がスポーツを発展すると言うことを学びました。(52,3歳)
色んな企業に実業団チームが生まれるといいと思っています。
ホームページに「情熱日記」を毎日投稿しています。
バンクーバーの事前合宿をしているときに、女性選手がお雛様を紙で作っていいなあと思って写真と日記風に書いて、2010年3月3日から毎日書いています。
そのことで自分もそこにいると言うことを確認できてよかったかな,とこれからも続けていきたいと思います。

長野の時に選手たちは、障害のある方たちがやっているスポーツだから凄いねと言うことはやめたい、と言っていました。
しかし、障害のある方たちの取り巻く環境はまだまだだと思います。
オリンピックもパラリンピックも同じ様に語られるようなそういう時代を今迎えているし、そういう時代にしなければいけないと思っています。
グットマン博士「失ったものを数えるな、有るものを最大限に生かせ」と言っています。
パラリンピックの精神だと思っていて、共生社会で実現しなければいけないし大切なことだと思います。
北海道では冬はスキー教室などがありますが、車いすの人は自習をしたりしているわけですがシットスキーはだれでもできるので、普及していければと思っています。











2018年3月11日日曜日

杜けあき(女優)              ・被災したふるさとに寄せる思い

杜けあき(女優)                     ・被災したふるさとに寄せる思い(インタビュー)
仙台市の出身、昭和54年に宝塚歌劇団に入団し、昭和63年には宝塚では東北出身者として初めてのトップスターになります。
代表作には「ベルサイユのばら」「ヴァレンチノ」、「忠臣蔵」など多くの作品があります。
宝塚を退団したのは平成5年、この年大衆演劇の舞台で優れた業績を示した芸術家に送られる菊田一夫演技賞を受賞されました。
その後、数々の舞台、TVなどに出演、現在はNHKラジオ「ごごラジ」の火曜日パーソナリティーも努めています。
宮城県共同募金会赤い羽根特使や宮城きずな大使を務めて、故郷宮城県、仙台市の魅力をPRしたりチャリティー活動に力を入れたりしています。

生まれたのは古河市で、父が警察官なので転勤が多かったです。
宝塚に行ってみて、遠くから故郷を見て良かったと思いますが、本当に良い所だと思います。
初舞台を踏んだ時に新幹線ができました。
それまでは宝塚から仙台まで11時間かかりました。
故郷の良さ、一番は人の温かさ、ゆったりした時間の過ぎ方、空気が澄んで空が高く緑がきれいで、故郷のありがたみが判りました。
同期生の中では一番私が遠かったので、帰る時間がなくて一人ぽつねんと宿舎にいた時もありました。
両親が手紙を書いてくれて、父も一日おきにくれて、今でも宝物です。
父が芸名を色々考えてくれて、「青葉城恋歌」がちょうどヒットしている時で、歌詞を見ていて杜と言う字は綺麗だと思っていて、民放の番組で「けさのけやき並木は・・・」とか「杜けやき」がいいかなと思いましたが、ちょっと古風な感じがして、もじって「杜けあき」という名前にしました。
名前を付けた当時、宮城県の県木だとは知りませんでした。
後から思ったのですが、こんなケヤキの木のような役者になりたいと思いました。
どっしりとして大地に根を生やした土台を持ち、小枝の先の繊細さ、人の機微や繊細さを表現できる役者になりたいと思いました。

2011年3月11日は東京で公演の為の荷作りをしていました。
阪神淡路大震災の時も辞めてから1年後の時でした。
その時もニュースを見てあり得ないと思いましたが、今回もあり得ないと思いました。
9・11の時にもあり得ないと思いましたが、その時に母が「世の中にあり得ないということはないのよ」とぼそっと言いました。
それをすごく思いました。
なかなか連絡が取れませんでした。(電話、メール)
2カ月後、各地の避難所の慰問に行きました。(それまでは舞台が有り行きたくても行けない状態だった。)
何か癒せることをしたいと思って、手のマッサージをしてあげたいと思ってハンドクリームを大量に買い込んで、避難所に行って手のマッサージをさせてもらいました。
ごつごつした手の人に当たった時に、漁師と言うことでいつまた漁に出られるか分からないと言っていました。
お母さんたちに当たった時はすべすべして綺麗な手だねと言ったら、でも何もすることがない、と言われて、胸が痛かったです。
色んな方の話を聞くことが出来て、100人ぐらいの人の話を聞けたのは私にとっても貴重なことでしたし、心の声を聞いたと思いました。

歌は歌うつもりがなかったがせっかく来たんだから歌ってほしいと言われて、宝塚の「すみれの歌」を「春すみれ咲き・・・」と歌い出しましたが、歌い出したとたんに体育館の空気がファーっと色が変わったんです。
おそらく現実から離れた色だったと思います、その時に私たちの仕事ってこういうことだとはっきり思いました。
歌ってほしいと言われたところでは歌っていいんだと思いました。
気負うことなく人それぞれの出来ることでいいのだと思います。
地元への思いを寄せて居ればおのずとやりたい事、やれることが見えてくるのではないかと思います。
2011年5月に神戸でコンサートをしたときに阪神淡路大震災から15年経っていて、神戸は変わっていて素晴らしいコンサートなどが有りました。
公演が終わってからスタッフがようやくスタートなんだと言っていました。
東北では復興するのは大変なことなんだなと実感しましたが、時間がかかろうが絶対成るんだと、未来を信じることが出来ました。

自然は本当に美しいが厳しいものだと実感しました。
かさ上げとかも見せていただき、放送当日に「大分出来上がって来て、半分ぐらい出来ましたでしょうか」と言ったときに、会場のお母さんが「まだ半分も行ってねー。始まったばっかりだー。」と叫んで、その声をきいて、「これが本当の声なんですよね」と言いました。
東北の魅力、豊かな自然は厳しいと言いましたが、この豊かな自然無くして東北の魅力はないと思います。
海、山、東北の自然の中で暮らしたからこそ、潔さ、耐える力などを見ていて、その力こそが日本の力になるのではないかと思います。
何なんでしょう、この温かさは。

















2018年3月10日土曜日

北原糸子(歴史都市防災研究所)     ・災害の歴史をたどり、今を生きる(H28/10/1 OA)

北原糸子(歴史都市防災研究所) ・災害の歴史をたどり、今を生きる(H28/10/1 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/10/blog-post.htmlをご覧ください。

2018年3月9日金曜日

今野 聡(ひばりFMメンバー)      ・南相馬 ひばりFMの7年

ひばりFMメンバー    ・南相馬 ひばりFMの7年
東日本大震災からまる7年になります。
南相馬市では一刻も早く水道、電気等、生活情報を市民に伝えようと、震災の翌月の4月に臨時災害FM局を立ち上げました。
最初これに関わったのは一般市民の人達で、避難生活が落ちついて来ますと、ひばりFMという愛称も付き、市民のラジオとして親しまれてきました。
この3月、初期の目的は終えたとして放送を終了することになりました。
南相馬 ひばりFMの中心のメンバーで今野 聡さん、この放送に携わった皆さんに伺います。

市役所の一角で放送を始めてまる7年に成る。
朝9時生放送を始めて朝昼晩とっています。
朝は「おはよう南相馬」 昼は「こんにちわ南相馬」 夜は「お晩です南相馬」
生放送でやっています。
9名のスタッフで、20代から60代、男性女性がおりまして、ほとんどのメンバーがながくやっています。
私は農業研修を受けてこれから農業でやっていけるかなあと思った処で、東日本大震災がきました。
パイプハウスを作る作業を一人でやっていたときに地震が来ました。
避難生活を始めることになりました。
機材操作の募集が有り、いじれるのではないかと思いました。
最初に面接に行ったときに機材操作の人はいるので取材をやって欲しいと言われ、取材スタッフとして入ることになりました。
やっているうちに、自分からも出演することになりました。

ここは7万人だったが、2万人位になってしまっていて、20km圏内は立ち入れないので、この町はどうなっていくんだろうと思って、町で起きていることを取材すると云う事は初めての体験だったし、やり甲斐がありました。
東京の日本国際ボランティアセンターの人(元新聞記者)が支援活動の中で来ていただきました。
2011年の7月にひばりFMに入ってラジオだけではなくて、ツイッターでも発信できればいいと思ってツイッターを始めました。
「相馬野馬追」のお祭りを7月下旬にやっていて、それを芥川賞作家の柳美里さんが見に来て居て、話をする機会があり、南相馬の人と話ができる番組をレギュラーで持ちたいと云うことで、二人と話す「ふたりとひとり」と言う番組が始まりました。
今では290回を越えるようになりました。
2015年4月には御家族で引っ越してこられました。
その後柳美里さんは小高区に引っ越しをされて本屋さんをやっています。
*柳 美里(作家)「福島・南相馬に生きる 」 2017年3月10日放送
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/03/blog-post_10.htmlを参照ください。

番組では色んな人にインタビューします。
被災の体験、今後のことについて、などさまざまです。
2012年6月から南相馬ひばりFMという愛称になりました。
30ぐらい臨時FMが立ちあがり、愛称を付けた方がいいのではないかと言うことで、公募した中から選んだのがひばりFMでした。
「相馬野馬追」祭りのメイン会場が雲雀ケ原という名称の原っぱで、この名称になりました。
*現在の放送の状況を一部放送する。
市民の方の反応はリクエスト曲、街で有ったことなどが来ています。
閉局すると云うことで感想を聞きたいと言うことで情報を取ったのですが、知らないことを一杯知ることが出来たとか、インターネットでも放送していたので南相馬市の状態はどうなのと言うような風評の中で、毎日やっていると言うしっかり伝えられる媒体であっとして大きな功績だったというような意見をいただきました。

ひばりFMを介して相馬市、自分に向き合う貴重な体験だったと思います。
色んな地元の方支援者(国内、海外)が会場に来ていただいたので、それも貴重な体験でした。
放射能に関して医師が解説する番組が有って力を入れてやった感じはあります。
坪倉正治医師が内部被ばくの検査を担当していて、毎週何日か通って診療されていました。
市内で講演もしていて、10分程度のシリーズものにすればいいと思って、放射線に対する疑問、質問に答えていくような形にしました。
80本位取りまして、その番組を聞いて安心したとか、南相馬に帰ろうと思ったとか、そういうところのお手伝いができたと思っています。

あらいずみ?さん:パーソナリティーとして参加。
2カ月で避難先から帰って来て震災等の助けになる様な事をやりたいと思うようなことがあり、手伝ってくれる人を募集しているからということを父から聞き来てみました。
最初何も分からなかったんですが、着て直ぐ坐って話をしてくれと言われて「えっ」と思ったのですが、何とかやり始めました。
マイクを通して自分の考えを言わなければいけないわけで、メールが来たりするようになって聞いてくれる人がいると言う反応が有った時に、やっている意味があるのかなと感じました。
自然災害の危険はなくなったわけではないので地元でも生かせる情報を発信できたらなと思ってやってきました。
この町で当たり前の生活ができたらいいなと思います。

佐藤孝一さん:パーソナリティー兼番組制作。
東京都葛飾区の出身です。
ボランティアで南相馬市に来たことがきっかけで、移住しました。
ゲストハウスを開業して鹿島区で運営していましたが、ひばりFMの「移住者のゆるゆる行くよ」と言う番組に出演することがきっかけで働くようになりました。
もっと南相馬市の事を知って発信したいと思ったので、少しずつ出来てきたのかなあと思って出演、業務をして良い経験をして感謝の気持ちでいっぱいです。

吉野よう子さん:パーソナリティーとして参加。
短くて長かった、長くて短かったような感じで皆さんに助けられてここまで来ました。
病院関係、買い物が出来るところとか、生で3回ずつ放送していて、思い出がある番組です。

私は7年間スタッフを務めてきて4月以降は何も決めていなくて、復興はまだまだだと思っていて、地域の復興にかわかるような、なにかをしていきたいと思っています。
経済的な関係で、コミュニティーFMを設立と言うふうにはいきませんでした。
3月25日が最後の放送なのでそれまで力を注いで行きたいと思います。



2018年3月8日木曜日

根本修二(福島県南相馬市 園芸会社社長) ・大震災を乗り越え、シクラメンで日本一!

根本修二(福島県南相馬市 園芸会社社長)・大震災を乗り越え、シクラメンで日本一!
大震災から今年でまる7年になります。
この地震で様々な産業が壊滅的な被害を受けましたが、根本さんの経営する根本園芸もハウスが倒壊し、そのうえ福島原発の影響もあって花を栽培することが不可能になりました。
その後こつこつと再建を進め、一昨年から自前のハウスを作って優良品種のシクラメンを育てて来ました。
そして去年、平成29年度花き品評会、シクラメンの部で第一位の農林水産大臣賞だけでなく2,3位にあたる賞も受賞して、1位から3位までを独占すると云う、初の快挙を成し遂げました。

縦横40m☓20mのハウスが6棟あります。
今はシクラメンは終わって春の花、母の日に向けて仕上げの段階に成っています。
ラナンキュラス、ペラルゴニウム、クレマチスなど母の日まで色んな花が続きます。
今年は寒くて、若干春めいてきたところです。
花は順調に進んできています。
東日本大震災で、原発事故もあり、避難生活ということで、花を作るのが難しい部分もありましたが、まわりからの支援もありようやく今回賞を貰ったと云うことは嬉しく思っています。
息子夫婦とやっています。
まさか1位から3位までを取れるとは思っていませんでした。
小高区という原発から12kmの所にありました。
震災前は今より若干多い面積でパートさんも結構多くいましたし、生産量も今の倍ぐらい生産していました。
夏は海からの風があり涼しく、冬は温暖ないいところで花栽培には適していました。

高校卒業後、埼玉県に研修に行き、それからスタートしました。
45年前の花作りの技術は試行錯誤でシクラメンから始めたが、上手くいかず一時止めました。
息子が高校卒後、後を継ぐと云うことで改めてシクラメンをすることになり、息子が栃木県に1年間研修に行って又始めました。
7年前に東日本大震災が有りましたが、当日は準備の為にパートさんは休んでもらっていました。
息子とハウスで仕事をしていました。
突然とんでもない揺れが起きて、ハウスはさほど被害はなかったが、重油タンクが倒れて油が流れ出していました。
大津波警報が有ったが、ここは津波が来ないだろうと思っていました。(海まで2km)
松林のむこうに真っ茶色な水煙が見えてとりあえず高い所に逃げました。
海辺の家屋が流されてきましたが、ハウスまでは直接には来なかったです。(川の堤防で止まる)
原発被害で避難したため水門が閉ったままだったので、その後川の水位が上がって、その後1か月間湖の状態に成っていました。

津波の翌日にラジオを聞いていたら10kmの避難指示が出て、12kmのところだったので避難した方がいいと思って飯館村に行きました。
飯館からも非難することになり翌々日山形の米沢の方に3週間避難しました。
茨木の古河に同業の友人がいて、来ないかと言うことで、母親(92歳)も連れてお世話になることになりました。
息子達は栃木でお世話に成った所で面倒を見てもらうようにお願いして、2か所にわかれて生活しました。
古河の鈴木さん宅には3か月お世話になり、息子たちは12月一杯までお世話になりました。
南相馬の状況も色々判ってきて、仮設住宅も建ってきて、避難生活をしているのが辛くて、地元で仕事をしてみたいと思っていたところ、仕事も出来るようになりました。
知り合いが花を作っていたが、数年前から辞めていて、ハウスが空いていたので話をしてここでやろうかなと思いました。

帰って来て原町(原発から20kmの所)で心配ないところだったので、借りてハウスの準備などを始めました
花作りそのものが体に染みついているので、他は考えられなかった。
シクラメンは11月が種蒔きなので、その準備とそのほかに1月に出荷できるものの体制を作りました。
息子が12月いっぱいで辞めて1月から宮城県の名取に息子の嫁さんとその子供はアパートを借りて暮らして、息子は原町の仮設を借りて生活しました。
息子も雇われの身だと仕事に対する意欲、気持ちが違うので、自分で経営をという思いがありました。
規模が小さく家族だけでやれたので、細かいところまで目が届くし、初心にかえって丹念に出来る。
シクラメン作りに専念できました。
納得の行くシクラメンを作れることができて来ました。
ピンチがチャンスと思い 市、県、国からの補助金を利用して鹿島区に土地を購入して、今までの反省点を考慮してハウスなどを造りました。

現在7棟目も予定しています。
震災後初めて品評会に出しました。
そうしたら1位~3位までを独占することになり吃驚しました。
最後に1鉢1鉢、葉と花をそろえる作業が大変ですが息子が丁寧にやりました。
1位はヨハンシュトラウスという品種です。(赤い色)
2、3位はシューベルトと云う品種です。(ピンク)
今までの努力が認めてもらったなあと大変喜んでいます。
周りのいろんな人たちから支援をいただきました。
花に関しては風評被害が少なかったので、再開したらすぐ声を掛けてくれと言うような話が有りました。
出荷先は8割は関東地区ですが、通販になると全国に行っています。
世代が変わると好みも違ってくるし、品質をよくして行くのがベストだと思っています。
マンションなど部屋がしっかりしてきて暖かくなってきているので、暖かいと長持ちをしないので、窓際の部屋の涼しい所に置いてもらうと長持ちをします。




















2018年3月7日水曜日

須藤亜佐子(相馬・弦楽器指導者 )    ・共に奏でる復興の調べ

須藤亜佐子(相馬子どもオーケストラ弦楽器指導者 )・共に奏でる復興の調べ
東日本大震災、原発事故と2度の大災害に見舞われた福島県相馬市で震災後演奏活動をしているのが相馬子どもオーケストラです。
子供達の弦楽器の指導に当たっているのが須藤さん62歳です。
須藤さんは南相馬市で教室を開き、子供達にヴァイオリンを教えていましたが、震災で教室が半壊、加えて原発事故で住んでいた地域が避難指示区域と成ったために生徒たちは散り散りになって音楽への情熱が失せる日々が続いていました。
そんな中で震災からの復興に向けて、相馬市で子供オーケストラを結成しようと云う話が持ちあがり、須藤さんが弦楽器の指導をすることをひきうける事になりました。
オーケストラは全て子供が無償で音楽教育を受けられる、エル・システマのシステムで運営されています。
オーケストラを通じて子供達の心の再生をはかろうと言う須藤さんたちの活動はどのようにして繰り広げてきたのか伺いました。

7年間あっという間に過ぎました。
当日、自宅で12,3人個人レッスンをしていました。
ヴァイオリンを始めたのは相馬の小学校で器楽クラブが有りそれがきっかけでした。
宮城県の音大に行きました。
午前中に相馬にはいり音楽教室をまさに始めようとした時に、今まで経験したことのない凄い揺れでした。
その時は大人の生徒でしたが、立ち尽くすだけで建物がつぶれると思いました。
揺れが収まって、チェロ、ヴァイオリンなど外に持ち出しました。
実家に帰ってからTVでみて、津波が10mとかで間違いじゃないのと思いました。
家は海から4km離れていました。
海の近辺の方が気の毒でなりませんでした。
原発事故では息子からメールが有りました。
避難指示が出てそのまま入れなくなりました。
もう終わりだなと言うような感じでした。
実家が相馬なのでそちらに母が一人でいたので、そちらに移りましした。
教室では生徒たちは散り散りになりしばらく連絡がつきませんでした。

ヴァイオリンケースを開けたのは1ヶ月後でした。
音楽をやろうと云う気持ちにはなりませんでした。
その頃は生きるのに精いっぱいでした。
訪問演奏が有りましたがそれさえ聞く気になりませんでした、なんかいやでした。
避難生活が1年ぐらい過ぎて、市役所から電話がありました。
子供オーケストラが出来るらしいと、そうなった場合は手伝ってもらえるか、楽器店から電話が有りました。
光がさして来たような感じでした。
エル・システマ(ヴェネズエラ発祥と言われる)と云うシステムで運営しようと云うものでした。
ドイツからの呼びかけでした。
エル・システマが相馬市と提携したので、運営資金は相馬市と国から60%、応援してくれる企業個人からが40%です。
相馬市教育委員会から校長さんに説明が有り、募集中のプリントを配付、楽器は無償で貸出します、お金はかからない、世界中から指導者が来る、誰でも入れます、と云うことで
70人ぐらいの子供たちが来ました。

二つのグループに分けてグループレッスンを開始しました。
最初、ヴェネズエラから指導者が来てくれて、やり方を教えてもらいました。
先ずはリズムから覚えさせて、弓を動かすところから初めて、「四匹のひつじ」の短いフレーズから弾き始めました。(4本の弦の番号で弾いてゆく)
リズムは体育の授業のように膝を曲げ伸ばしをします。
体を使ったものなので、子供達は楽しく始められました。
楽器を持ち始めてから一グループ15人にしました。
週1回ですが、家に持ち帰るようになり、メキメキ上手くなりまして、クリスマスには記念の演奏会をやる事が出来ました。
アントニオ・ヴィヴァルディの「調和の霊感 第8番」を一楽章やりました。
時間が足りないと云うことで、それまで私の自宅まで来て猛練習しました。
子供達の心の栄養にもなりました。

海外からも演奏に来てくれましたが、音楽って、言葉はいらないんですね。
指導を受けて子供達もどんどん乗って行きました。
ベルリンのほうからドイツに来て演奏してほしいとの連絡がありました。
会場も決まって、ベルリンフィルの方々と合同演奏ができることになりました。
ヴェートーベン 交響曲5番 「運命」を演奏することになりました。
一楽章は人生の悲しを表している。
四楽章になるとそれが喜びに変わって行く。
「運命」が私達の人生そのものかなと思って、その曲を勉強する事によってつかめると思いました。
「運命」の曲は正直1年早いと思いました。
ヴェートーベンの長のスケール(基礎練習)から勉強を始めました。
繰り返し繰り返し練習することによって弾けるようになっていきました。
一楽章通った時は涙が出ました。
管楽器が出来ていなくて高校のブラスバンドにも希望を募って混ざってもらいました。
合同練習の時間が取れなくて大変でした。
オーケストラになるとボリュームが違うので感動しました。

ドイツに行き、向こうのプロの方の指導で一回やるごとにレベルが上がって行きました。
夜だったので小さい子の眠気に心配しましたが、ベルリンフィルの方も加わりみんな見事に演奏しました。
お客さんは総立ちで拍手してくれて感動してくれました。
突っ走ってきたなあと思いますが、このペースで来たからヴェートーベンも弾けるようになったのかなあと思います。
なんとかクリアしてきて、あきらめない心が確実に育ってきていて、普通の生活にも活かせているんじゃなっかと思います。
歩みを止めないでずーっと歩み続けてほしいと云うのが願いです。













2018年3月6日火曜日

新実徳英(作曲家)            ・歌い継がれる“つぶて”ソング

新実徳英(作曲家)        ・歌い継がれる“つぶて”ソング
東京大学工学部を卒業した後、東京芸術大学に入り直したと云う経歴の作曲家です。
ピアノ曲や管弦楽、合唱曲などの作品が有ります。
NHKの全国学校音楽コンクールの課題曲でも、平成25年の高校の課題曲「ここにいる」を作曲したり、平成19年の小学校の課題曲「手をのばす」などの作曲もしています。
東日本大震災の直後新実さんはかつてから親交のあった福島の詩人和合亮一さんがツイッターで発信していた「詩の礫(つぶて)」の作品に曲を付けました。
悲しみが風化されないようにとつぶてソング12曲を作りました。

つぶてソング、東日本大震災は僕が生まれてから最大の惨事でした。
TVで津波が押し寄せる光景を見て物凄くショックを受けまいた。
大震災に対して何か共有できる歌を作りたいと思いました。
4月に友人が和合亮一さんが「詩の礫(つぶて)」と言うのをツイッターでやっていると云うことを教えてくれました。
「宇宙になる」という混声合唱曲で和合さんの詩で僕が書いているんで旧知の中でした。
ゲラ刷りを(40枚位)送ってもらいました。
是非歌にしたいと云うものがいくつもありました。
歌を作ることにしました。
3曲づつ作りました。
「あなたはどこに」と言うのが最初でした。
1ヶ月ちょっとで12曲を作りました。

*「あなたはどこに」(つぶてソング1) 作詩 和合亮一  作曲・編曲 新実徳英
あなたはどこに居ますか。
あなたの心は風に吹かれていますか。
あなたの心は壊れていませんか。
あなたの心は行き場を失ってはいませんか。

命を賭けるということ。
私たちの故郷に、
命を賭けるということ。
あなたの命も私の命も。
決して奪われるためにあるのではないということ。

人の事を思いやる心は凄く大事だと思います。
和合さんは自分の言葉に翼が付いて飛んでゆくようだと言っていました。
「詩の礫(つぶて)」と云うタイトルです。
僕は「つぶてソング」と名付けました。
2005年位に和合さんの詩の本を手に取っていました。
福島から作曲の依頼が来て作詞担当が和合亮一さんでした。
2009年に混声四部合唱曲を書いています。
その後大震災が起こって、「詩の礫(つぶて)」を知って和合さんに電話して、そして作曲に入って行きました。
7月3,4,5日あたりに、古河に知人がいて、石巻、気仙沼などに連れて行ってもらいました。
福島音楽堂でつぶてソングを歌いました。
放射能と言う歌もあり、福島音楽堂にも降っていて、この歌は歌えませんでした。
屋外から戻ったら髪と手と顔を洗いなさいと教えられたが、わたしたちにはそれを洗う水が無いのです、ということです。

メディアはニュースを求める、オールドを求めて居ない。
豊かな自然の中で暮らしていた方々が、そこから離れて劣悪な環境で暮らさなければいけないと云うことは本当につらいと思います。
つぶてソングとかを介して心がつながってくれれば本当にうれしいと思います。
作ったときは独唱版で2011年の年末に合唱版を作って皆に歌ってもらおうと思いました。
女声合唱、混成合唱、男声合唱の3つのバージョンを作りました。
忘れられないように、歌い継がれてゆくと云うことは意味があると思います。
東海大地震が起こらない保証は無いので明日は我が身と思わなければいけないと思っています。
合唱では心を一つにして歌うので熱い共感と言うものはあると思います。

その後和合さんの詩で「決意」(男声合唱曲)とか、「ふと口ずさむ」(女声合唱曲)
「黙礼する」(「黙礼」と云う詩集から)第一番、第二番 50分を越える曲です。
重い体験を共有する時に合唱という表現手段はとてもいいんじゃないかと思います。
「阿修羅」弦楽四重奏第二番 大震災の映像を見、怒りながら書いた曲です。
金管五重奏 「神はどこに」、「荒ぶる神・鎮める神」弦楽合奏と打楽器と尺八とソプラノが入っている。
音楽の役割は人間が一番辛いところへ向かって、何かを荷なって行く役割があるのではないかと感じていました。
震災後どうやって生きていくのか、どうやって作曲してゆくのか、自分の心の中に重いものがぶら下がっているような感じがしていて、重しをどうかしたいと思ったが、「つぶてソング」を作って心の重しは取れたかと言われると、一向に取れません。
いつもそのことを思うしかないと思います。
忘れないために震災後作曲した作品に通し番号AE(After The Earthquake )を付けています。
番号が72番になります。
ニューヨークで行われるピアノクインテッド 「魂の形」(ピアノ五重奏曲)、震災、理不尽な死を迎えざるを得なかった魂を思いながら書きました。
杜若(かきつばた)謡曲(在原業平にちなんだ話)を女声合唱にして欲しいという話が有り、
和合さんにおねがいしました。
他にも和合さんにお願いしています。(『筒井筒』ほか)

*「重なり合う手と手」(つぶてソング12)作詩 和合亮一  作曲・編曲 新実徳英
重なり合う手と手
重なり合う葉と葉
風にふかれている
木とわたしとあなた
ふるさとはあなたにとって
どんなものですか

もしもまよっているのなら
こうこたえるとよい

ふるさとは夕暮れ

2018年3月5日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】渋沢栄一

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)  ・【近代日本150年 明治の群像】渋沢栄一
講談師 神田蘭
日本資本主義の父と言われている。

講談による紹介。
渋沢栄一は1840年埼玉県深谷市に生まれる。
藍葉の販売、養蚕、農業と手広く手掛けていた豪農でした。
勉学に励むかたわら、家業の手伝いをしていたが、父の代行で岡部藩の代官所へ行く。
笛が嫁入りだから金を出すように言ってきたが、一存では決められないと断るが、烈火のごとく怒りだし、悔しさと官尊民卑の世の無常を痛切に感じる。
やがて尊王攘夷運動にのめり込み、高崎城ののっとりや横浜の外人襲撃を企てたりしたが、計画を断念、身の危険を感じ、京都と行く。
ひょんなことで一橋慶喜の家来となり、幕臣になる。
慶喜の弟徳川昭武に同行してパリ万博に行く。
ヨーロッパ各地を回り、先進技術、産業、経済を目の当たりにして感銘を受ける。
徳川昭武一行の案内役の銀行家のフリュリ・エラールが軍人のビレットと対等に話をしていて、日本では考えられないことだった。
日本では士農工商の身分制度がはっきりしていて武士と商人が対等には話せなかった。
ヨーロッパの文化を排除するのではなく受け入れることが日本の為になると思った。
これからは欧米並みに強くならなければならない、そのためには製鉄、造船など様々な産業が必要になって来る、と考える。
民間の力を活用するしかないと思って、株式の制度を勉強する。
帰国後静岡に商法会所を作る。
大蔵省の役人を経て民間の経済人として活動をスタート。
第一国立銀行、そしてその後数々の企業に関わって行く。
500社、600の教育機関、社会公共事業の支援を行う。
道徳、経済合一説、道徳と経済は両立させることができる、経済にとって道徳は不可欠、
道徳にとって経済は不可欠、と考える。
「自らの利益を第一に考えるべからず、商人にとって信用こそが根本、嘘などを付かず、商売はできる」と断言。
道徳論理、経済を結び付けることで日本の資本主義を発展させようと考える。
それを纏めたのが「論語と算盤」

「競馬の神様」大川慶次郎も渋沢家の血を引いている。
豪農の存在が資本主義の仕組みと密接な関係を持っていたのか、研究者がどう考えているのか。
13歳で江戸見物。
ひょんなことで一橋慶喜の家来となり、幕臣になる。
慶喜の弟徳川昭武に同行してパリ万博に行き、見聞を広める。
明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立、しかし大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。
明治5年 国立銀行条例を作る。
予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
第一国立銀行の頭取に就任。
明治9年に国立銀行条例を改正、全国各地に銀行を設立することになる。
鉄道を作る、地場産業を起こす。
企業の設立にかかわった数が500社以上にものぼる。
東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わる。
渋沢財閥と言ったものはつくらなかった。
明治42年(1909年)70歳の時にほとんどの関係事業から身を引く。
東京瓦斯、石川島造船所、東京人造肥料、帝国ホテル、東京製綱、東京紡糸、日本レンガ製造、東京海上火災保険、日本興行銀行・・・59社から身を引く。
大正5年(1916年)喜寿に第一銀行退く。

道徳経済合一説
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説く。
「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」と説く。
合本組織(株式会社)と論語
国家が栄えることを望むならば国を富ますことをしなければいけない。
国を富ますには科学を進めて商工業の活動に寄らねばならない。
その元は道徳であり、照準は論語に依るほかはない。
と言っている。

600もの教育、社会事業にかかわった。
教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所を設立しその後一橋大学になる。
大蔵商業学校、現在の東京経済大学 ・・・等々。
男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
明治35年商工会議所会頭としてアメリカのルーズベルト大統領とも会見している。
明治42年渡米実業家の団長としてタフト大統領、エジソンにも会っている。
ウイルソン大統領、ハーディング大統領とかとも会っている。
アメリカとの対立がだんだん激しくなってくるころ、民間レベルで修復させるために活躍する。(政治でも活躍する)
国際平和でも全国ラジオ放送中継で演説をしている。(昭和3年11月11日)
他国の理解を顧みないと云うことは正しい道徳ではない、共存共栄でなくては国際的に国をなしてゆくことはできない、と云う様な事を言っている。

民間外交の先駆者として、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。
1924年排日移民法が出来て、日米関係が悪化をして、これを和らげようと日米で人形の交換が行われた。
アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士、人形を通じての日本との親善活動がおこなわれた。
大正15年日本放送協会にも貢献している。(顧問)
昭和6年11月11日 91歳で亡くなる。














2018年3月4日日曜日

井上和彦(声優)             ・【時代を創った声】 

井上和彦(声優)             ・【時代を創った声】 
アニメサイボーグ 009の主役島村ジョー役や、キャンディーキャンディーのアンソニー役などで知られていますが、最初はプロボウラーを目指していたそうで、何故声優に成ったのか、どんな苦労が有ったのかなどについて伺います。

アニメサイボーグ 009 TVアニメとしては2作目 1979年からの放送。
24,5歳の頃でした。
石ノ森 章太郎原作。
「UFOロボ グレンダイザー」と云うアニメーションが有りその主人公をやらせてもらって、その終わりごろアニメサイボーグ 009をやる事に成っていて、急遽呼ばれて行ってオーディションを受けました。
セリフの時はよくなかったが、監督から「名前は」と聞かれて、「井上和彦です」と答えたら、島村ジョーはその声だよと言われて、受かってしまいました。
アニメサイボーグ 009は忘れることのできない作品でした。
テストの時にアドリブで「加速装置」と思わず言ってから、台本に加速装置と書かれるようになりました。
心の声と言ったものをつい言ってしまいますが、ふざけるなと言われてしまいます。

高校時代ボウリングがはやっていて、プロを目指してやってみたいと思ってました。
ボウリング場に行って、就職し、40ゲーム位やっていました。
アベレージが180位でないとプロに成れない状況でした。(一応そのレベルには行きました)
どうってことのないことでしたが、対人関係がうまくいかず退職しました。(半年)
2カ月ぐらき引きこもってしまいましたが、友人が声優の学校に行くので一緒に来てほしいということで、結局一緒に試験を受けることになり、受かることができました。
(友達は落ちてしまった)
1年間 週5日いって、1年の後半の1日は先生が永井一郎さんでした。
卒業するときにプロダクションに入れてもらいました。
仕事をぽつぽつ頂くようになって、芝居ができないとだめだと言われて、見学をさせてもらったりしました。
効果音を表舞台でやることになり、それが初舞台となりました。
神谷明さんがやっている芝居に代役をやったり、段々舞台に出るようになりました。
アルバイトも掛け持ちをして並行してやっていました。
「キャンディ・キャンディ」をやっていたときもアルバイトをやっていました。

「マジンガーZ」(1973年)の兵士役では、たまたま見学に行ったら、せっかくだからやらしてもらいなよと言われて、それがデビューと言うことになりました。
「UFOロボ グレンダイザー」では来なくていいよと言われたが、河原で3時間ぐらい毎日練習して、頑張りました。(3,4カ月)
翌年からレギュラーで使ってもらいました。
「一休さん」、「キャンディ・キャンディ」(丘の上の王子様 / アンソニー役)へと繋がっていきます。
「美味しんぼ」(1988年)の主人公・山岡士郎役でやっと少しわかりかけて来ました。
二日酔い出てくる場面が多く、二日酔いの声を出す時のONとOFFの切り替え、力を抜かなければいけないと云う役作りをしたのがあの役が初めてでした。
力を抜いた状態でぼそっと喋ると言うことは今まで無かった。
永井一郎さん、僕にとってもお父さんみたいな存在ですが、事務所をうつるときに裏切る形になり暫く口を聞いていただけない時期が有りました。(5~6年)

会うたびに「おはようごじます」と挨拶していましたがそっけない感じでしたが、いつか見てろと思っていました。
「コクーン」と言う作品で、一生懸命やって、終わった時にスタジオの所に永井さんがいて、「おつかれさまでした」といったら、「よかったぞ」といってさっと帰っていきました。
初めて認めてもらったと、暫くぼろぼろ涙を流しました。
晩年は永井さんの家に遊びに行かせてもらって、一緒に飲んで明け方の3時ぐらいまで永井さんの家で飲ませてもらって、色んな話をしました。
事あるごとに応援していただきました。
永井さんは、細かいことは自分で気づいて自分なりの芝居を見付けなさいみたいな、クリスマスツリーの一番上で輝いている存在です。

20年以上教えているが、それぞれが一生懸命なんですけれど、一生懸命がちょっと違うような気がします。
人と比べないで、自分なりの一生懸命さが出来ればいいんじゃないかと思います。
最近の若い人は出るのも大変ですが、自分でやりたいと思ったら夢に向かってどれだけ一生懸命にできるか、出来るだけ頑張ればいいと思う。
努力するという体質を持っていれば、どんな仕事に就いたところで努力する人に成っているので、例え声優で芽が出なかったとしても他に仕事に就いたときに、何かしら自分に向いている仕事に絶対に付けると思います。
努力体質の人になったらいいと思います。
私は生涯現役でやりたいと思います。














2018年3月3日土曜日

井上ウィマラ(高野山大学文学部教授)     ・社会で仏法を生かす

井上ウィマラ(高野山大学文学部教授)     ・社会で仏法を生かす
58歳、かつては僧侶をしていましたが、38歳で還俗してその後僧侶から離れた立場から瞑想を教えています。
最近では終末期医療に携わっている医師や看護師に仏教の瞑想をルーツにする心のトレーニング方法、マインドフルネスの指導もしています。
こうしたウィマラさんの活動は世界中で様々な人達との出会いを繰り返してきたことで生まれました。
あえて僧侶を辞めることで独自の道を歩む井上さんにその人生の軌跡、マインドフルネスとはどういうものか伺いました。

ウィマラと言う名前はビルマの仏教で出家した時にいただいた名前で、マラ=汚れ、ウィ=離れる、汚れから離れる、清浄と云う意味です。
還俗後も使っていますが、ウィマラと言う名前の頃の友達の方が非常に沢山で豊かで自分の事を深くわかって応援してくれる人も多いので、坊さんをやめたときに、ウィマラと言う名前が気に入っているので先生に使っていいかどうか聞いたら、許してくれました。
マインドフルネス、仏教の瞑想ルーツにする心のトレーニング方法がブームに成って来ていて、心理療法の医療でも取り入れられるようになって、病院の看護師さんが聞きに来てくれて、死の看取りに関連する医療関係者の人たちが勉強したいと云うことで呼んでいただいて勉強会をしています。
「念」→今ここで自分が何をしているのかをしっかりと意識している心が「念」という元々の意味です。
英訳ではマインドフルネスと訳されている。
心の向け方のトレーニングだと云うふうに考えてもらえればいいと思います。
坐って目を閉じて呼吸を感じてみましょうと云うのが一番のベーシックですが、日常生活のあらゆる場面でも、今自分の中でなにが起こっているのか、自分と相手の間で今何が起こっているのか、ありのままに観察して行くのがマインドフルネスなので、日常生活のすべてに応用してゆくことが可能で、応用してゆくことが一番理想的だと思います。

小学校に上がるかどうかのころに、凄く寒い冬の朝に、納屋の板の間から朝日が差し込んでくるのを見つめていた時に塵がキラキラ舞っている状況を見ました。
当時夜は田舎なので星空がきれいで天の川が見えていた。
朝日の中で塵が舞っているのを見て、ふと夜の天の川の様子が重なって見えてきた。
指先についている塵と同じ塵が目の前でキラキラ舞っている、天の川が重なって、もしかして目の前でキラキラしている塵の中にも天の川と同じぐらい広い世界があるのではないかとふっとそう思った。
世界を繋ぐ真理というか、パイプのようなものが見つかったら僕は自由に成れるだろうなあと、そう思いました。
高校の倫理社会の本の中に道元の言葉が出てきて、「仏教を学ぶことは自分について学ぶこと、自分について学ぶことは自分を忘れるところまで学ばなければならない、自分を忘れるところまで自分を学べばその時には周りのものがすべて命として自分を照らし出してくれる」と言うのが有りました。
それまで哲学とか、心理学などの本を読んでいたが、自分が知りたい核心をぐるぐる回っているだけで核心にスーと入って来るような文章には出会えなかった。
その言葉を読んだときに、よく判らないがこの人は僕の求めている核心にスーッと入っていける言葉と思って心引かれました。

高校3年の時にオートバイに乗って旅をしている時に永平寺にいきました。
座禅させてほしいと飛び込みましたが駄目でした。
しかし粘って7~10日間座禅させてもらいました。
足が痛かったのは覚えているが大きな体験といったことはなかった。
もう一回高校の生活に戻ろうとは思いました。
京都大学文学部哲学科に合格するが、授業では生きるための知恵を授けてもらうものとは違うと思いました。
中退しました。
25歳の時に出家をします。
周りに合せてキチキチっとやって行くことに対して合わなくて永平寺を飛び出してしまいました。
自分の求めているものとは違うという感じがしました。
北九州の門司にビルマの僧院が有って、そこに行きたいとは思わなかったが、南に行きたいと云う思いが有って旅をして、山の上に仏塔が見えて、友達が話していたところだと思い出して、瞑想を教えてもらいたいと電話をしました。
1週間寝起きをともにして、自由に瞑想するやり方を教えてもらいました。
それまでの禅宗の分刻みの瞑想とは全然違って無重力空間に放り出されたような自由さを体験しました。

枠が欲しいというような不安を感じました。(カルチャーショック)
2週間位経って、ここにいていいのかなあと思うようにもなりました。
1年ぐらいいて、院長先生から正式なお坊さんに成るかと問われて、ビルマに行くことになりました。
ビルマでは1時間座って(呼吸を見つめる)、1時間歩くと(感覚を見つめる)云うことを一日中やりました。
一日の終わりにどうだったかとインタビューがありました。
2週間ぐらいすると暑さにも慣れて深く瞑想するようになりました。
いちばん長く座っていたのは13時間ぐらいの時もありました。
一回坐るとパッと6時間ぐらい過ぎてしまうような状況になってきました。
横に成っても目が覚めっぱなしで3,4日位覚醒が続く状況が有りました。
自分の行動一つ一つを全て1m位後ろからTVカメラで撮影しているような感覚で自分を観察しているような感覚に成りました。
TVカメラで見張られている様な感覚から見守られている様な感覚に変わりました。
温かく包まれている様な感じで緊張は無かった。

芸事でもなんでも一つの道に抜けでてくると、自分自身を離れて見る様なもう一人の自分が観察する、見守ってくれるような温かさを持って観察するもう一つの意識がでてくると云う事がマインドフルネスと言う仏教瞑想の特徴かと思います。
経典の学問の勉強もしました。
ステアリングとブレーキがまだなので、学問の勉強を通して教えてやってほしいと先生から紹介状に書いていただきました。
「マインドフルネスの確立に関する教え」の中で、①自分の呼吸を観察する事、②相手の呼吸を観察すること、③自分の呼吸と相手の呼吸を交互に観察すること、3つのモードがあり、②,③の問題を解決したいと思いました。(経典では①しか教えない)
無意識の世界に触れるような気がしました。
無意識に関しては先生は知らないと答えました。
ここにいるか自分の道を探すか、急にここで決めろと先生から言われました。
ビルマを出ますと即答しました。

日本に戻って、弟がカナダのトロントに移住していて、弟の処を訪ねて行きました。
そこで瞑想を教えたりしていたら、カナダ人の瞑想グループに教えるようになった。
心理療法の方で教えてほしいと言ってきました。
セラピストを紹介してもらい、セラピーに関することを教えてもらいました。
どういうふうに話しているかの息使いは、相手の呼吸を観察に繋がる。
自分が知りたいと思っていた、他人の呼吸を観察することが判ってきました。
①自分の呼吸を観察する事、②相手の呼吸を観察すること、③自分の呼吸と相手の呼吸を交互に観察すること、の3つが心理療法士との交流の中で少しずつ解けて来ました。
瞑想の事を教えるときにも、仏教の大切な概念を教えるときにも、心理療法の言葉、精神分析の言葉を使った方がしっくりする、うまく伝わる場面が増えて行きました。
それで心理療法と仏教瞑想が繋がってきました。

弟の処で赤ちゃんが生まれて、生まれたばかりの赤ちゃんを祝福してほしいと渡してきました。
ビビってしまったが、赤ちゃんを受け取りましたが、その瞬間に「命を掛けて守ってあげよう」と言う思いが湧いてきて、物凄い驚きでした。
人生このままでいいのかなあと言う思いがわいてきて、このままいいお坊さんで終わってしまっては人生半分空っぽのまま(満たされないまま)で終わってしまうような気がしました。
土俵を変えて瞑想の技を修行しなおさないと人生満たされないと思いました。
なんでもありの生活の中で、坊さん時代からの観察する心、思いやる心みたいなものを試してみたいと思いました。
還俗することにしました。
マインドフルネス、自分の頭の中でぐるぐるまわりをして、自作自演の苦しみを作り上げてしまうことがあるが、それをアースする(放電させる)、体の感覚に一回おいて、呼吸に意識を向けることがとても役に立つ。
呼吸のリズムの感覚に心を向ける事で自然に頭の中の過剰電流が放出されて、そのひとにあったなすべきこと、考えるべきことが新しい感じで自然に見え直してくる。
そのための役に立ってくれるものではないかと思います。
















2018年3月2日金曜日

岩出雅之(帝京大学ラグビー部監督)     ・あきらめない心

岩出雅之(帝京大学ラグビー部監督)     ・あきらめない心
今年1月7日に東京の秩父宮ラグビー場で行われた、第54回全国大学ラグビーフットボール選手権大会の決勝で帝京大学は明治大学を21-20で破り、前人未到の9連覇を達成しました。
その帝京大学の監督岩出さんは1958年に和歌山県新宮市生まれの60歳、高校2年の夏にラグビーを始めますが、監督、コーチもいない、しかも少ない部員と言う環境の中で、チームメイト全員で力を合せ、翌年には県大会で優勝します。
互いに信頼し合い優勝という目標に向かう中で、選手の人間としての成長がチームの勝利につながることを知ったと云う岩出監督に教育者としての原点を伺いました。

9連覇に向かえる事が幸せなことなので、いい刺激に捉えるようにしています。
良いプロセスをしっかり高めていこうとしてきたので、それほどプレッシャーは感じていません。
第54回全国大学ラグビーフットボール選手権大会の決勝で、明治大学がリードで前半を終える。
後半明治大学の20-7 15分で14-20に、その後21-20と再逆転で勝利する。
人間は完ぺきではないので負けてしまうこともあるし、ただ学生が自分自身を見つめて成長させてゆくことに関わっていて楽しかったし、その延長で臨んだ試合だったので、信頼しきって彼らの力を出し切ることに、させて貰う様な存在だったと思います。

新宮高校を卒業後日本体育大学に入学、3年生の時に日本一を経験、滋賀県の職員として勤務して、八幡工業高校を7連覇、全国への県代表に導き、帝京大学の監督に就任、9連覇達成。
父が建設会社を経営していて、飲食の店もやっていて家族も手伝っていました。
中学は野球をやったが背番号を貰えませんでした。
友達に誘われてラブビー部に入りましたが、腰を痛めて足を引きずるようなことになって辞めました。
足が治ってから復帰し、タックルを褒めてもらいました。
3年生の時に練習試合が1回しかなかったが、人もあまりいない中、結果的には県で優勝することができました。
一生懸命やることの大切さ、自分たちでやる事の自主性を学んだ1年間だったと思います。
県代表として天理高校と対戦するが完敗でした。

お互いが少しずつ自信を作り上げ、信頼を作り上げる関係性と、体力が付いたり、ラグビーのイメージが持てたとか、ひとつずつ結果が出てきたので、自立すると云うことを学んだラグビー部の活動でした。
日体大に進んで3年生の時に全日本大学選手権で日本一を経験、キャプテンをして、全日本代表の選手にもなる。
大学では縦社会の関係なので自分自身をいかに奮いたたせてゆくか、惰性になると飲み込まれてしまうものがいっぱいあったし、精神的に鍛えられた時代だったと思います。
故郷で培ったもの、温暖の地での大自然のエネルギーを一杯いただいて、自主性を上手く引きだしてくれる新宮高校の校風だったので、しっかりと授かってきたエネルギーを立ち向かうエネルギーに上手くきりかえることができたのではないかと思います。

滋賀県の職員としてゆくが、高校で採用されて監督へと言う思いもあったが、そうはならずにもやもやした時もありました。(公園勤務、中学の教員)
色々な人との出会いがあり、教員のイロハを教えていただきました。
それらが今に大きな基礎を作ってもらったと思っています。
中学生を指導するなかで、やんちゃな子がいても綺麗に掃除が行き届いている教室は落ち着いている。
自分自身の心の中と外からの環境が上手く繋がっていると言うことを、直接的に学ばせて頂いたので、掃除をすればみんなは成長すると言うことが、何故かと云う理由を明示できないが、帝京大学ではそういうことがとても大切で下級生を巧く導いてゆく為の要素として、昔より今は理屈を学生たちにも説明できて学生たちも理解してより利用していける様には成って来ていると思います。
好循環で学生たちは育っているので、その中でもっとよりよくして行くためには何が必要かと言うことを学生たちに問いかけるぐらいで、すこしずつ僕が直接かかわる事を少なくして行ってます。
意志と行動と継続する、この3つをどう動かすか、人から作ってもらうのでは無く自分で作る。
元気いっぱいのエネルギーを持ち、合せられる、エネルギーを作れる力を学生スポーツの中で彼らが自分を育ててくれれば、勝ち負け以上に大切なことがそこに入っているんじゃないかと思います。

その後八幡工業高校を7連覇、全国への県代表に導くことになります。
1996年帝京大学の監督に就任。
チャンスを与えてもらいました。
カギとなる方との出会いがあり、その人たちに感謝したいと思います。
2009年初優勝。
ラグビーは良い社会人を育てるためのいいツールだと思っています。
私も最初先ず勝ちたいと先走っていて、学生たちも空回りしてしまいます。
10年ぐらい前、幸せに繋がる活動をしなければいけないのかなあと思える時が有って、それからチームが少しずつ変わってきたと思います。
勝利だけではなく、学生達の成長、未来での活躍に繋がる様な成長を、力をつける期間に成るように僕の頭も整理できて今日があるのではないかと思います。
練習時間の見直し、学問的にも健康であることを証明してやる、食べ物も栄養素をきちんとする、合理的な運動、そういった守りを大事にする。
選手の素質としては10年前と変わらないと思いますけど、コーチングスタッフ、精神的環境、ハードの環境、カルチャーの部分、怪我を防ぐ、精神的な安定感をどう作れる、前向きに全力を出し切れるものをどう作れるか、考え方のメソードが年々高まって来ているように思えます。

体育会の縦関係、以前はきっちりしていたが、縦関係の逆転、常識の転換、マネージメントのいくつかを僕なりに整理して本にまとめました。
他人の意志でやるのではなくて、自分のイメージと意志でやれる環境は作っています。
楽しむと云うことをテーマにしてきました。
中身をより充実させて実行できる力を身につけながら、10連覇できるように頑張っていきたいと思います。




















2018年3月1日木曜日

南伸坊(イラストレーター)       ・異才が描くのほほんアート

南伸坊(イラストレーター)       ・異才が描くのほほんアート
丸刈りでおむすび型の頭をトレードマークにされているイラストレーターとして知られています。
1947年東京生まれ、ガロと言う個性あふれる漫画家を数多く輩出して日本のサブカルチャー界をリードした漫画雑誌の編集長を長年務めた後フリーとなりイラストレーターを始め装幀デザイナー、エッセーイストとしても、マルチな才能を生かして活躍されています。
歴史上の偉人や有名人に扮して本人に成り切る本人術のシリーズも人気です。
古希を迎えられた南さんに伺いました。

見て気持ちが和む作品。
イラストレーターはそういった感じのものが頼まれる方が、いろんなものが来るので、必ずしも狙ってというものでもない。
絵と云うのは割と芸術とかはそこに主張があるものが正しいというか、言葉で判ることをわざわざ絵にするのはおかしいんじゃないかなあと思って、言葉で言うに言われない様な事をその絵を見ることによって伝わるのだったら、僕はその絵のほうが優れていると思う。
メディアに合った表現、例えば絵なら絵でしか表せないものが描けたら一番いいなあと思います。
小学校の6年生位にグラフィックデザイナーになりたいと言っていたことは覚えています。
おじさんが室内装飾などをする仕事をはじめて、自動車を買って乗せてもらっている間に、遠い親せきの家に行って大学生の女性がレタリングをやっていて、その女性が凄くかわいかった。
そっちに目がくらんだのと、そのお姉さんがグラフィックデザイナーになると云うことを聞いたんだと思います、それが一緒に成って自分もグラフィックデザイナーになろうと考えたものと思います。
中学2年に成った時にはグラフィックデザイナーに成るにはどこの学校に行ったらいいか等を考えていった。

週刊誌に掲載されている和田誠さんの広告を一生懸命見ていました。
映画も観に行くようになり、黒沢明が面白いと思いました。
羽仁 進さんの「不良少年」、ドキュメンタリー風の名作を見て、黒沢明は二番に成りました。
水木しげるさんの「河童の三平」 なまな感じで、作者が自分の書きたいものをダイレクトに出ていて、吃驚したし、感動しました。
高校受験で色々落ちてしまって浪人して、都立高の定時制に行って、編入試験を受けて受かろうと思ったが勉強してなかったし受からなかった。
もう一回高校受験をやって工芸高校に行って、水木さん和田さんにも会いました。
雑誌が図書館に置いてあって、澁澤 龍彥さんが「季刊みづゑ」で美術エッセーを書いていて、面白いと思いました。(図版が面白かった。初めて見る絵ばっかりだった。)
友達がガロと云う雑誌を持っていて、回し読みをしていて、どっかで読んだことがあると思ったのは水木しげるさんだった。
神保町の古本屋のデザイン雑誌を立ち読みすることをいつもやっていました。
水木さん、渋沢さん、(和田さん、羽仁さんは以前から知っていたが)、4人を知りました。

「話の特集」イラストレーターに宇野亜喜良、後藤一之、松永謙一、水田秀穂ら、写真家に篠山紀信、立木義浩、藤倉明治、小川隆之らを配していた。
その人たちが暫くするとどんどんメジャーに成って行く。
「話の特集」の愛読者だったと云うことが、自分にとって影響を受けました。
高校で数学で赤点を取っていて、何とか卒業しましたが、卒業式には出ませんでした。
東京芸大を受けたが、駄目で、デッサンの予備校に通って(3年間)、美学校のポスターを見て(時代錯誤の文字でしか書いてない)、有名人の名前がずらっと書いてあった。
木村恒久さんの名前も書いてあったので教室に行こうと思いました。
木村さんは難しい文章だった。
話も生徒に対して自分と同じレベルといった感じで話すが、難しい、初耳の話であったり、とにかく面白かった。

美学校は卒業証書もないし、就職の世話をする訳でもない、いつでもやめられる。
1969年(木村講師)、1970年(赤瀬川 原平講師)と行来ました。
漫画専門出版社の草分け的存在の青林堂に就職。(長井勝一氏が社長)
少人数ではあるが、編集長を務める。(7年)
イラストのアルバイトをしたり美術エッセーを書いてほしいとの要望があり、楽しくさせていただきました。
その時その時の人に支えられて、1980年に完全にフリーとなりました。
枝道を行って外れたと言っても、そこから行く道があると云うのは凄く思います。