本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】渋沢栄一
講談師 神田蘭
日本資本主義の父と言われている。
講談による紹介。
渋沢栄一は1840年埼玉県深谷市に生まれる。
藍葉の販売、養蚕、農業と手広く手掛けていた豪農でした。
勉学に励むかたわら、家業の手伝いをしていたが、父の代行で岡部藩の代官所へ行く。
笛が嫁入りだから金を出すように言ってきたが、一存では決められないと断るが、烈火のごとく怒りだし、悔しさと官尊民卑の世の無常を痛切に感じる。
やがて尊王攘夷運動にのめり込み、高崎城ののっとりや横浜の外人襲撃を企てたりしたが、計画を断念、身の危険を感じ、京都と行く。
ひょんなことで一橋慶喜の家来となり、幕臣になる。
慶喜の弟徳川昭武に同行してパリ万博に行く。
ヨーロッパ各地を回り、先進技術、産業、経済を目の当たりにして感銘を受ける。
徳川昭武一行の案内役の銀行家のフリュリ・エラールが軍人のビレットと対等に話をしていて、日本では考えられないことだった。
日本では士農工商の身分制度がはっきりしていて武士と商人が対等には話せなかった。
ヨーロッパの文化を排除するのではなく受け入れることが日本の為になると思った。
これからは欧米並みに強くならなければならない、そのためには製鉄、造船など様々な産業が必要になって来る、と考える。
民間の力を活用するしかないと思って、株式の制度を勉強する。
帰国後静岡に商法会所を作る。
大蔵省の役人を経て民間の経済人として活動をスタート。
第一国立銀行、そしてその後数々の企業に関わって行く。
500社、600の教育機関、社会公共事業の支援を行う。
道徳、経済合一説、道徳と経済は両立させることができる、経済にとって道徳は不可欠、
道徳にとって経済は不可欠、と考える。
「自らの利益を第一に考えるべからず、商人にとって信用こそが根本、嘘などを付かず、商売はできる」と断言。
道徳論理、経済を結び付けることで日本の資本主義を発展させようと考える。
それを纏めたのが「論語と算盤」
「競馬の神様」大川慶次郎も渋沢家の血を引いている。
豪農の存在が資本主義の仕組みと密接な関係を持っていたのか、研究者がどう考えているのか。
13歳で江戸見物。
ひょんなことで一橋慶喜の家来となり、幕臣になる。
慶喜の弟徳川昭武に同行してパリ万博に行き、見聞を広める。
明治2年(1869年)1月に静岡で商法会所を設立、しかし大隈重信に説得され、10月には大蔵省に入省することとなる。
明治5年 国立銀行条例を作る。
予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に井上馨と共に退官した。
第一国立銀行の頭取に就任。
明治9年に国立銀行条例を改正、全国各地に銀行を設立することになる。
鉄道を作る、地場産業を起こす。
企業の設立にかかわった数が500社以上にものぼる。
東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙(現王子製紙・日本製紙)、田園都市(現東京急行電鉄)、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖など、多種多様の企業の設立に関わる。
渋沢財閥と言ったものはつくらなかった。
明治42年(1909年)70歳の時にほとんどの関係事業から身を引く。
東京瓦斯、石川島造船所、東京人造肥料、帝国ホテル、東京製綱、東京紡糸、日本レンガ製造、東京海上火災保険、日本興行銀行・・・59社から身を引く。
大正5年(1916年)喜寿に第一銀行退く。
道徳経済合一説
幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説く。
「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」と説く。
合本組織(株式会社)と論語
国家が栄えることを望むならば国を富ますことをしなければいけない。
国を富ますには科学を進めて商工業の活動に寄らねばならない。
その元は道徳であり、照準は論語に依るほかはない。
と言っている。
600もの教育、社会事業にかかわった。
教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所を設立しその後一橋大学になる。
大蔵商業学校、現在の東京経済大学 ・・・等々。
男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。
明治35年商工会議所会頭としてアメリカのルーズベルト大統領とも会見している。
明治42年渡米実業家の団長としてタフト大統領、エジソンにも会っている。
ウイルソン大統領、ハーディング大統領とかとも会っている。
アメリカとの対立がだんだん激しくなってくるころ、民間レベルで修復させるために活躍する。(政治でも活躍する)
国際平和でも全国ラジオ放送中継で演説をしている。(昭和3年11月11日)
他国の理解を顧みないと云うことは正しい道徳ではない、共存共栄でなくては国際的に国をなしてゆくことはできない、と云う様な事を言っている。
民間外交の先駆者として、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換するなどして、交流を深めることに尽力している。
1924年排日移民法が出来て、日米関係が悪化をして、これを和らげようと日米で人形の交換が行われた。
アメリカ人宣教師のシドニー・ギューリック博士、人形を通じての日本との親善活動がおこなわれた。
大正15年日本放送協会にも貢献している。(顧問)
昭和6年11月11日 91歳で亡くなる。