2015年9月3日木曜日

大竹 博(副理事長)       ・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年

大竹 博(NPO法人世田谷区視力障害者福祉協会副理事長)・まさかの坂を乗り越えて 光を失い20年
大竹さんは52歳、糖尿病が原因で20年前に失明、その10年前22歳の時に健康診断で糖尿病を患う可能性があると注意を受けていましたが、特に何もせず過ごしてきました。
突然仕事中に目がかすみ始め、光を失ったのです。
いつか再び光を取り戻すことができると信じて、治療を始めた大竹さんですが、完全に失明したことをなかなか受け入れられなかったと言います。
大竹さんに光を失うまでの経緯、失明という現状からどうやって乗り越えてきたか、などを伺いました。

32歳の時に失明、健康診断等で危険という事は指摘されていたが、普段と変わらない生活をしていたが夕方、目の中が真っ白、(真っ赤になるという様な予兆が無く)出血、目が破裂した。
ちょっと光がまぶしい、視力が少し落ちている事は気付いていたが、まさかこうなるとは思わなかった。
視力は低下してきましたが、痛みは全くありませんでした。
白いレースのカーテンに黒いすすが上から舞い降りてくるような感じでした。
両方の掌をみると、自分の左手の人差し指が見えなかった。(仕事中だった)
翌日休息を取ったが、食欲が無く、新聞とか文字が見えなくなっていたので、眼科に出かけた。
糖尿病の病気は持っていないかを問われて、もしかしたら治らなくなるかもしれないと言われた。
大学病院に駆け込んで検査してもらったが、糖尿病性網膜症という重度の症状であると言う事が判った。
糖尿病の合併症は5年で神経等がやられて、10年で目の異変、網膜症という事で、とうとう病気が起きてしまった。
入社して半年後に糖尿病が出ている事を健康診断では気付いていました。

糖尿病は身体のあらゆる視神経、細胞がやられてしまう事の説明を受けて、目も全く見えなくなるかもしれないと言われながら様々な手法で医者と病気との戦いが始まった。
週に1度内科的な治療、眼科的な治療のお世話になりました。
レーザー治療、出血しているところを固めて先ずおさめること、そして血糖のコントロールよくしてゆく。
繰り返し1年間治療を行なってきた。
普段の生活すらも送る事が出来ないかもしれない、人生の覚悟をしないといけない、長い戦いが始まるかもしれないと、恐ろしい驚きの宣告を受けました。
治療に専念するために退職をせざるを得なくなりました。
周りで一番衝撃だったのは両親、そして職場の仲間、友人たちだったが、段々友人たちとはコンタクトしなくなっていった。
生きることがこれほど痛くつらいという事になるなんて想像もしなかったので、自分自身路頭に迷った。

通院、退院してから様々な人との出会いがあったことが自分の人生の宝だと思っています。
光を失って、人生生かされている、生きていかなければいけないんだと言う事は私にとってのおおきな転換期がありました。
通院している時に、或る視覚障害者との出会いが大きなきっかけでした。
全盲の人が私の膝にぶつかって、話をしてみると北海道から一人で通院している事が判った。
目が不自由でもこれだけ生活ができるんだと言う事、明るく輝き前向きに生きている人の人生経験を私なりに理解して、下向きになっている自分が恥ずかしいと感じた事が大きな転換期になった。
目が不自由でも点字、パソコンで多くの仲間がいろいろ助けてくれて、色々出来るんだよ、人生楽しめるんだよと言う事を教えてもらいました。
たった1時間ぐらいの時間の中で、人生の視覚障害の先輩の助言があったからこそ、私は次へのステップに動く事が出来たので人生の恩師だと思っています。
文字を習得する、情報を習得するためには、6点の点字があることを教えてもらいました。
東京の点字図書館とかで様々な所で学ぶことができるし、白い杖を使っていろんなところに出かけることができる、自立訓練があるので、是非学んで頑張ってほしいと言われた。

思いきって外向きに向けてみようと、大きな転換期があり、情報源としてラジオを活用している。(ラジオ深夜便とかいろいろ)
ラジオ深夜便の聞いている中から刺激を受けて、社会とのコンタクトをとってみようと思いました。
白い杖は拒否反応があったが(医学でまた見えるようになるのではないかとの思いがあり)、受け入れるようになった。
医者と話をして手術をすれば貴方の目は半年ぐらいで回復する見込みがあるという事で、一大
決意をして12回の手術をしたが、やればやるほど回復が遅くなり、見えるようになるかもしれないという助言があったが、駄目だった。    
先ず地元の新宿にある点字図書館で点字の勉強会があることを教わって、1年半点字を読むことについて研修会でお世話になりました。
段々情報が活用できると言う事で凄く嬉しくなりやる気ができて、点字が外向きに出るきっかけになったと思います。
自分の視野が広まり、一生忘れない有難いスタートだと思っています。
点字だけの情報では困難になってきているが、現在視覚障害者は32万人位おり、点字の情報を活用しているのは1割弱と言われる。

私の日々の活動のテーマに、心のバリアーフリー、人作り、もの作り、多くの人に様々なことを理解してもらうために、色々取り組みをしています。
ハード面 バリアーフリー、ユニバーサルデザインがひろまってきました。
健常者がエレベータに我先に乗って来たりするが、社会のモラルの問題、理解しお互いの気持ちでありがとう、お先にどうぞと、言う様なゆとりができる仕組みになって、伝えてゆく事が私たちの一番の願いであり、
実現できる事への取り組みのチャレンジだと思います。
障害は不自由であっても、不幸ではない、障害は個性である、人それぞれ苦しみがあり、しかし乗りきってこの事を社会に理解してもらい、共助、一緒に、やって行かなければいけない、この事が大切だと思います。
ハード面、ソフト面が一体となって理解して解決していくようにチャレンジして頂く事が、私たちの望むことだとも思います。

5年前に亡くなった母のコメント
母は癌で1年の闘病で他界、父もその3カ月後呼吸器の病気で他界しました。
手術をする時に、私と母が一緒にドクターの説明を受けに行った時、母が医師に向かって
「私は歳取った人間でこれからの人生もう長くない、先生私の目を我が息子に差し伸べて取り替えて、私の眼が自分の息子に変わるなら替えてもらえないか」との訴えだった。
いまだに忘れられない母の言葉でした。
この言葉がきっかけとなって、親、兄弟、仲間、いろんな形で支えてくれた人の思いを、受けとめなければいけない、やらなければいけない、ということが自分の人生の大きな転換期になったと思います。
私自身失明というものは明かりを失うばかりでなく、命を失うと書くぐらい衝撃でした。
この言葉を絶対に無駄にしてはいけない、これからも人のために、社会のために、皆のために頑張ってやって行かないといけないと、気付いて、学び、目標に向かってトライすることができました。
昨年9月に結婚する事が出来て、妻が眼の替わりになり一緒に身体の一部になって生活を共にしてくれています。
夫婦で社会にチャレンジして助けること、社会の人達に恩返ししなければいけないと思っています。
社会の人達に理解してもらい、みんなで助け合って楽しい社会になるように、という努力はして行きたいと思います。