前村弘(元陸軍特別幹部候補生) 二度の特攻命令から生還して
大正14年長崎市生まれ 長崎商業高校を繰り上げ卒業して、17歳で志願して陸軍浜松第七航空隊飛行第62連隊の航法士となり、重爆撃機、飛龍に搭乗して、東海沖と沖縄戦の二度の特攻命令を受け出撃しましたが、奇跡的に生還しました
重爆撃機には操縦士、機関士、攻撃をする射手、通信士、航法士が搭乗して、前村さんは爆撃機の位置などを測るナビゲーター的な仕事、昭和20年の戦争末期は戦闘機や搭乗員の不足は甚だしく、重爆撃機も爆弾を機体に縛り付けて、敵艦に体当たりする特攻攻撃をするようになりました
前村さんが所属した飛行第62連隊も多くの特攻攻撃、出撃しましたが戦果はあげることができずに多くの命を落としました
戦後68年経ち、当時の状況を知る人も数えるばかりになりました
前村さんは生きて帰れたことに感謝し、二度と戦争をしてはいけないと、今も戦争体験を語り続けています
仲間が大勢亡くなって、戦友の顔を思い出される
戦後は亡くなられた人たちのお墓を10か所近くお参りしてきた
特攻隊として出撃されたのはうちの部隊の62連隊だけなんですね
飛龍 本来6~7人乗りこんで、敵の軍艦に爆弾を落とすこと
爆弾はワイヤーで縛りつけてあった
一番機に搭乗する 機関砲が一丁前にあった
初めての特攻命令 昭和20年3月19日 九州から帰ってぐっすりと眠っていたが、招集が掛った
飛行服に着替えて、駆け足で飛行場まで行った(15分ぐらいの距離)
幹部が大勢いた 15人ぐらい その前に整列する
戦隊長 から訓示 62連隊もいよいよ総力を挙げて、攻撃することになった、全員気を引き締めて、かかれと、順次出撃するものは、遺書と遺髪、遺礼を用意して、小包みにして自宅に送るように用意しておくようにとの、話があった
特攻攻撃徒の言葉は出なかった 黒板に攻撃は特攻とすると書いてあった
特攻攻撃に参加して死ぬと言う覚悟で皆集まってきているので、或る程度覚悟はしていたが
背筋がぞっとした
私の場合は、全部で4機の編隊の出撃 航法がしっかりしないと目的地まで行けないので、自分の腕で大丈夫だろうかと言う、責任を感じていた
航法 飛行機のナビゲーター
進路、方向、速度が正しく皆に伝わって、一機の脱落が無いように飛行を指示するのが仕事
筑波から一番機に乗り、浜松の南方180kmのところにアメリカの機動部隊が北上しているとの情報あり、出かけた
敵艦が見つからない、ちょうど低気圧が来ていて、雨が降っており、雲の中なので見つからない
高度150mぐらいまで低空飛行をしたが、見つけることは出来なかった
ガソリンが心配になり、兎に角一旦 浜松に帰ることにする
浜松の飛行場には3,4機別の部隊の飛行機が着陸に失敗してさかさまになっていた
3回目にようやく着陸に成功した
見つられなかったことに対して、残念に思った
1ヶ月後 4月17日 鹿児島の金谷から飛び立った
特攻機3機出撃 二番機に搭乗
前の晩、16日には出撃隊員12名が料亭で御馳走になるがあまり食べられなかった
17日は朝5時半に起こされて、朝食も食べずに飛行場に集結した
タラップを登る時に「これで地球ともお別れだ」と言う事を思った
飛龍に乗り込み、与論島の方に飛んで行った
一番機の飛行機がぱっと左から煙が出て、左に旋回した(敵にやられた)
あまりに近くに敵機があり双方が玉が打てなかった
鳥島を通って沖縄にいく予定で、飛んで行ったが、燃料が問題になり、敵機に体当たりするか、との話もあったが、敵機は軽量であり、こちらは重爆撃機で、爆弾は積んでいるし、それは難しいと言う事で、砂浜に着陸して、機体を壊さないほうがいいと私が意見具申した
結局島づたいに通って金谷に帰ってきた
乗っていた機体をみたら 2cmぐらいの穴が10cmおきに30発ぐらいの弾が当たっていた
危ないところだった
岐阜県の鏡が原に受領に行った飛行機さくら弾機 を受領に行っている
さくら弾機の試験飛行をやることになっていたが、直前に降りろと命令されて降りた、そこで命拾いをした
さくら弾機は3トンの爆弾を搭載して、命中すると1km四方を破壊できると言う触れ込みだった
救急車が行ったので何か有ったなと思ったら、飛行機のまえ、操縦席がぐしゃっと成っていて岡田曹長の命はこと切れていた
さくら弾機は一部ベニヤ板で覆われている、機関砲が積んであるのが飛龍であるが、機関砲はない(相手と応戦出来ない)、増加タンク (長距離跳べるようにガソリンタンクがある) この増加タンクを外して爆弾が置いてある(距離も飛べない)
軽々しい飛行機
3度命を落とす危険から逃れることができた
復員したのは8月末 長崎には帰らず母親の故郷の熊本に帰った
長崎、広島が特殊爆弾で全滅だと言う情報が有ったので、先ずは母親の実家にいくことにした
妹は被爆して亡くなる 父も被爆して8月11日に亡くなる
兄は軍隊に入ってフィリピンで亡くなる
母と長崎に行ったが、焼け野原になっており、家の脇に有った柿の木が青々としていたのが印象的だった
東京に戻ってきた時が20歳、元の会社に復職 その後セラミックの会社に行って働いた
戦友会の世話役をするが、数年前にあった戦友会の元の上官から 特攻隊は生きて帰ってはいけないんだ と言われた
なんで、この現代にそのようなことを言うのかとぎょっとした
浜松に帰って来た時には、その上官は 良く帰ってきた、急いで死ぬのが国のためではない、またこの次もあることだから御苦労と言ったのに 40年もたってからいうのか、解らない
日本全体を、社会の情報を見聞きするのにつけ、非常に情けない人間が多くなったとつくづく思います
しっかりしてない、ピシッとしていない、自分勝手と言うのが非常に目立つ
戦争のない、思いやりのある国になってほしいと思う