2012年9月19日水曜日

道下俊一(86歳)        ・北海道の赤ひげ先生と言われて 2



道下俊一(86歳)  北海道の赤ひげ先生と言われて    2
2年目に入った時からも 同じだった  盲腸の人が来た  
看護婦に手術をしたことが有るかと、言ったら全然ない とのことで 道具はあるかと言ったら この前 物置を整理したら、それらしいものが有ったとの事で 盲腸や、お産の道具が錆びないで、そのまま有った  
学生の頃に病院に行った事があり、自分では手術したことはないが、経緯は解っていた  
看護婦に手洗いの消毒から含めて盲腸の手術の第1号をやった
麻酔を掛けて、喉がからからになりながら、盲腸を取って、切り口を縫い終わったときは、
精も根も尽き果てて 手術術は成功した その後2,3回もやった
各科の本は常に用意しておいた  村の人達は今度来た先生は盲腸の手術もできるので根室
まで行かなくていいよと  噂が広がった

盲腸ができるのなら、お産だってできるだろうと、お産も何例かやったね
霧多布でも大変だった  停電になって蝋燭を頼りに手術したことも有った
毎年同じような事が8年間有った 村長等が押しかけてくるので、帰るための荷物を作る、
そして解く  それが我が家の年中行事になった
昭和35年5月24日 朝 どんどん叩かれて、玄関に出たら、腰の痛いと言っていた爺さんが、
真剣な顔をして 先生、奥さんと子供を山に逃がせ 津波が来るぞって
船を出すのに浜に行ったら、海が無くなっているんだ、と言うんですよ  
まだ薄暗かったが山の方のお寺に行った
入院している患者で、歩ける人は誘導して看護婦が避難させた  
前の晩に手術した患者は私と用務員が担架で運んだ

チリ地震による大津波だった  地震が無いのに 起きるはずが無いと言っていた  
ある村落では誰も無くならなかった  後での情報では、私の友達が 海を見て海が無くなって
おり、津波が来るぞと、村落の人全員を避難させた
長男は小学校の1年生、下は2歳でおんぶして高いお寺に逃げた  
救急薬品だけは用意した   11人が無くなった
初めて取り上げた女の子も津波で亡くなってしまった   14回も津波が往復した  
どう仕様も無かった  家も崩壊した

子供も怖がって、おじいちゃんの処(札幌)に帰ろうと言うので、津波が落ち着いたら、
今度こそどういわれようが絶対に 帰ろうと思った
避難所にいる人達が、はしかと水疱瘡とが随分はやって、津波で助かった人を亡くしてなるものかと、昼も夜も随分と頑張りました
前年に伊勢湾台風が来て 其の時に水の便が悪く 赤痢が多発した  
そのことが有って村長に言った
村長に霧多布の若竹だけでも 簡易水道を作れと そうでもしないと毎年赤痢が発生するぞと、また隔離病棟を建てろと その二つを提言しました
その年 34年に簡易水道ができた  
そのために今回の大津波では、赤痢の発生は無かった  
どんなに言われようと、今度こそ絶対に札幌に帰ろうと思っていた  
霧多布から見る夕日が凄く綺麗なんですよ 少し心にゆとりができたのか、一つ 気付いた
8年の内に 2回も津波にやられて 財産を失った人が一人も霧多布を捨ててないということ
だったんですよ  それに気付いたときは背中に水を浴びせられた
様な気持ちになりましてね、そして診療所に帰ってきて、一人の高校生が風邪で来て、
お前のところはまたやられたなと お前の家も船も全部持って行かれたんじゃないかと、
どうしてお前こんな怖いところにいるんだと言ったら、「ここは故郷だ、故郷を捨てられるか」と
言ったんですよ  
故郷を考えてみて、生れたところも故郷でしょう、旅の先でここは気に入ったなと、少し長く住んで
みようと思ったのも、私は故郷だと思うんですよ、私の生きざまを
知ってくれている人が多くいる所も故郷だと思って、私は帰ることを止めて、この青年たちと
一緒に霧多布の復興にかけようと思った

妻にこの事を言ったらボロボロボロボロ泣きだして、診療所に逃げて行った 
夕方に帰ってきたら、夕餉の支度をしていた
その後 さっきはごめんなさい 急に言われたからどう答えたらいいか判らなかったが、
貴方が残るのなら私も残りますと言ってくれてた
妻は花が好きで1年後帰る 1年後帰ると言う事で1年草を育てていた 
だけど 其の時は桜の苗を買ってきて いつ咲くか判らないが決心を示してくれた
今は大きくなって2本が咲いている   
津波が無かったら私の人生は違ったものになっていただろう
先生に病院と土地を全部上げようと議会で決めた  もうNOとは云えなくなった   
土地と建物をもらうわけにもいかず 私名義には成らなかった

浜中町名誉町民になった  47年いた 
私は街作りは人作りだと思うんですよ  子供に剣道を教えて、礼儀、作法、挨拶を教えて 3年経ったら釧路管内を制覇しました 
女子は姉妹で東京に行って、定時制高校の全国大会で剣道で優勝して帰ってきたりした
霧多布浜太鼓 、日本の郷土芸能の会長と知り合いになり、来てくれて 霧多布浜太鼓の
シナリオを書いてほしいとの要望にこたえてくれた
冬のしばれた海で鎮まりかえった海、春の訪れとともに活況を呈する出漁太鼓で、 
海と人間との戦い 霧多布というのは 鯨の取れる所だった

鯨と人間との戦い 漁に行って、大漁で帰ってくる船 むかえる浜は大漁岩太鼓  
津波に会って、恵みを与えてくれる海ではあるが、或る時には怒りをぶちまけてくる  
海、最後にそれに敬虔な祈りをささげて太鼓を打ち上げる 
シナリオがあるので第11回日本の祭 の時に開幕演奏を頼まれて打ってきた
子供を育てる、地域の文化を育てることもやってきた  吉川英二賞を貰った
予防衛生  之からの子供達の為に教育をした  検診、予防注射の普及に努めた
医学の世界は専門職が発達してきた しかし狭い分野しか知らない
   
妻には感謝しています  口では言ったことは無いのですが  
この頃講演に行くと偉かったのは奥さんだと回りから言われた
最近ではへき地医療というのは難しい  
若い医師への提言  やっぱり基本的に問診を十分すれば診療の半分は終わっているぞと、 患者との対話を十分に取れ    カルテの裏側   真剣に捉えている医者も一杯いる  
私が見た患者が今後を継いでいる(東大を出た)    
へき地は 自由が無い アルコールが嫌いだったから出来たと思う
カルテの裏側が判っただけでも良かったと思っている