2012年2月29日水曜日

司修(作家、画家)         ・私を捉えた賢治の心 2

司修  私を捉えた賢治の心
絵だけ書いていただけでは食えないので挿絵等を描いていた 
宮澤賢治の作品の挿絵を頼まれた  それが初めての賢治とのであい
童話全集の時には賢治のフアンになっていた  絵を描く事に絶望していた時 「作太郎」の詩が
有ったから絵を描けるようになった
賢治の童話を読んでゆくと 例えば『雁の童子』 ある意味でとっつきにくい難しさが有るが、
何か引っ張られるものが有って 何度も朗読するように
読んでゆくとですね、童話を理解するんじゃなくて なんども読んでゆく事によって 訳の判ん
なかった枠の中に自分が入ってしまって 読んでいる時は
外からそれを眺めていたんですけれども 中に入ってしまうと理解する必要が無くなるので、
その物語を絵にしてゆくと云う事が凄く自分で楽しみになったんです 

賢治の作品はどれもこれもそうだと思うんですが、「銀河鉄道の夜」にしても、決して優しいとは
言えないところが有るんですけれども なんだか判らないなあと思いながら読んでゆくうちに
引きこまれてそれこそ銀河鉄道の一乗客の様になってしまうと、もう読者ではなくなって、内側から
窓から銀河を見ている様な
そういう感覚にされてしまうんですね
多分私の経験では、良い感じにお酒に酔った時がそんな感じなんですが
賢治の挿絵を描いてゆくと云う事は自分の気持ちを表してゆくと云う事になる、凄く救われるし、
嬉しくなる
挿絵という自分の生活を守ると云う仕事の概念があって苦しい部分もあるんですけれど、自分が
絵を描いていると云う喜びの中に浸れる
描いている間、自分が存在しないんですね 

賢治の童話を一つ一つ絵にしてゆくと云う事は、それが生きるための仕事だという事になるんですね
『雁の童子』 という作品が絵を描くのに一番悩んだ 20年以上絵にできなかった  
最初に頼みに来た編集者が、自分が『雁の童子』を選んだ理由が 結婚してすぐに生まれた子供が
 生まれてすぐに亡くなってしまった
『雁の童子』 という作品は 亡くなった幼い子供に近づく要素のある物語なので それでこれを絵本
にしたいとおっしゃたんですね  
重い言葉であったが、しかし、それは素晴らしいと思った ただ賢治の童話を絵本にするのではなく
て、本当に切実な自分の思いを本にしたかったという
それを編集者が持ってくるんですからね

それを引き受けたんですが、編集者が色んな資料を持ってくる  その資料を見ながら、『雁の童子』
 を描いていこうと思ったんですが
絵ができるんですけれども、生まれてすぐに亡くなった子供の魂に伝えると云う事がこれで出来るの
だろうか と思うとできないんですよね
悩んでいるうちに トルファン ウルムチ?に旅行する集団が有って 一緒に行く事になる 
ほとんどシルクロードの寺院や廃墟が『雁の童子』 そのものの風景が有るんですね 
そのままを描けば『雁の童子』 を描けると思ったんです 
写真を撮ったり、スケッチしたりして帰って来たんですが、帰ってきて『雁の童子』 を読みながら
その絵を模索してみますと、最後に生まれたばかりで他界した子供に魂にこの絵を伝える事が
可能だろうかという問題が起こって来るんです

できないんですよね それが 絵ができてもその問題がネックになって 自分の中でOKが出せない
んですよ
かれこれ20年以上その編集者を待たしたんですけれど、私が遠くで個展等を開くとその人がふっと
現れて、展覧会を見て帰ってゆくんですよ
私が「まだできなくて・・」と謝る前にさっと帰って行ってしまう  
そういう事を22~23年かもっと続きましたかね 
或る時 私が胆のう炎で全身が痛みを持ってすぐに手術をしたんですけれども 手術は簡単で麻酔
に掛けられて眼が覚めた時には手術は終わっていたのですが
自分がどっかで死んで生き還ったような感覚がベッドの上でするもんなんですね
その時、体中チューブだらけで私が思ったのは、こういう風に描けたら『雁の童子』 を描けるんじ
ゃないかと思ったんです

死という事と 生きると云う事と 一つでなければ人間とはあり得ない  理屈で絵を描こうとして
いた様に思うんですよ
自分が手術をして助かったわけですから 問題ない場所にいるわけですけれども 
自分が生き還って来たと云う思いの中で何か浮かんだんですね
包帯した状態で『雁の童子』 を描いたんですよ もうこれ以上描けないと云う思いで本にし
て出したんですけれども 
賢治の童話と編集者の思いとですね 20数年という月日を経て絵本になりました
出来上がった絵というのは当初描いていた絵とは全然違うものになった 
その時には資料を見るとか全然いらないんですね

私としては『雁の童子』 を20数年間繰り返し考えてきて、生と死の問題だとか 
生きるという意味についてとか 『雁の童子』 とは無関係に 自分の問題として
生きたわけですから そのきっかけを与えてくれたと云う意味で時間がかかったと云う事は決して
無駄ではなかったと思うんです
宮澤賢治の作品は生きると云う事だとか、沢山そういういろいろな人間の事をテーマとして描かれ
ていますよね
賢治の作品は 今という時代を考えるテキストになっていると思う

真壁仁 農民詩人がいたんですけれども ちょっとしたきっかけが有って親しくして頂いた
その方が『グスコーブドリの伝記』を読んで、自分が山形の飢饉を受けて どう仕様もなくその飢饉を
外すことができなかったと云う悩みを持っていて
もし賢治の『グスコーブドリの伝記』を読んでいたらその時の山形の飢饉を外す事ができたんじゃない
かという反省を持っておられて、『グスコーブドリの伝記』という童話は
単に童話じゃなくて農民を救う言葉で充ちていてたと云うんですね
  
賢治の実際での東北に飢饉問題 歴史的にも相当ひどい飢饉を受けていて
賢治の家の庭先か 近くに遠い昔の飢饉を表わした石碑が有りますけれども、賢治が花巻で
生きている時に 東北が受けてきた問題抜きには童話も考えられなかったと思うんですね
賢治の作品は こうですよと、仏教の教えでは描いていないけど、仏教で謳われた教えというか
、救いというか それは物語として文学として伝えているのだと思いますね 
ある意味では新しい聖書とかお教とかと言えるのではないでしょうかね  
「注文の多い料理店」 
賢治は一人で歩き回り 動物と話したり 木や花やいろんなものと話ができると ある人が書いて
いたが、最初そんな事は無いだろうと思っていたが
人間てそれを願う人に取ってそれが可能になると思うんですね
この木と話したいとずっと思い続ける事ができたら、木は黙ったままだけれども 
その木にずっと話続ける人が居たらならば その木が或る日答えてくれる

答えた事に対してずっと待ってた様に木に話しかけて行く 
樹木に話してゆく事がその人以外は嘘みたいな事だけれども その人にとっては真実になってゆくと
思うんですね     
猫や犬に声を掛けている時にはその人に取ってみては動物と会話をしているのだと思うんですね
賢治が樹木や動物と会話をしていたと云う事を今は信じていますね  
童話にも色んな作品にちりばめられている
特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力である
   
それは作品に極めて個性的な魅力を与えた
人間が思い続けることで 死者と会話することもそうですが、人間が思い続けることであり得ない事
が起こって来て、人間の心はあり得ない事を一杯占めている
と思うんですね  有りえないものだらけが心だと云ってもいいぐらいに 生きている苦しみ、喜びと
いうのも 人間て皆 判らないまま一杯胸に秘めて行くと思うんですね
これが人間の謎だと思うんですよ
一人一人にしか宿らない謎 その謎を解いてゆくのが「想う」と云う事なんじゃないんですかね
宮澤賢治と言う人は小さい頃からずっと自然にそういう事をしてきたんでしょうね

色んな情報であったり、理屈で考えるようになって来ると、それは理屈に合わないとか 
そんなことがあるはずはないと云う事で排除してゆくし 人工的なものの中で
暮らしているので 五感の部分が発揮しにくいですよね
人間の心は変わってゆくが同じものを読んでゆく時に変わった内容を見方を見せてくれる 
読者の心が反映する事によって見えてくるものがある(文学の中に)
宮澤賢治は絵も残している  姫神山 日輪 
質店の息子であった賢治は、農民がこの地域を繰り返し襲った冷害などによる凶作で生活が困窮
するたびに 家財道具などを売って当座の生活費に
当てる姿をたびたび目撃、これが賢治の人間形成に大きく影響したと見られる
(また父親の対する嫌悪感もあり)

18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われる  
法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いで、父親との対立を深める
賢治は啄木からの影響を受けていた  啄木は貧困の底の底に生きていた 
貧困の末に亡くなったが豊かな生きかたをしたと思う
今後 大先輩の画家の昭和史を書きたいと思っている