先輩医師が院長をやっていたが、自宅の病院を継ぐことになり、誘われて後を継ぐことにした
日本人患者を治療するドクターは一杯いるが、外国人患者を治療するドクターは君しかいないと感動的なことを云われ従事する事にする
ベトナム戦争のときに生まれ、サイゴン陥落のときに9歳 都市機能は全くなし
家族は無事だった 兄が日本に留学の時に5歳 他は女性姉妹
父は政府の関係者 私は母親を手伝って家族を養う
ボートピープル 1975年に脱出しようとするが(12歳)失敗・・・ベトナムと中国の戦争 徴兵制度があり男一人だったので逃がす目的で脱出するが失敗
船に乗る前に見つかって失敗 7回ぐらいトライするが失敗
8回目の時に日本の政府に兄が交渉して、合法的に難民制度を利用して来日することになる 医師を志したきっかけは10歳のときに読んだ本により医療の仕事をやりたいと思った
日本で中学2年に編入して1年間勉強して高校受験
日本語が駄目だったので日本語を一生懸命に勉強する
大學医学部受験 一浪する 2年目に合格
費用はある団体が対応してくれる事になっていたが、他に多くの対象者がいた為補助出来ないと連絡有
曽野綾子が新聞に投稿してくれて反響があり、杏林大学理事長も応援してくれる
奨学金制度も利用 で入学できるようになる
その後、嫌がらせの手紙もあり「全国の善意が無駄使いである
もし医者になりたければ、国立の大學を狙え、 狙えなければ諦めて 君はただインテリぶったこじきだ」 手紙を読んで心がみじめになる
手紙を保存、自分を失いそうになった時、壁にぶつかった時に読むようにしている
手紙から得たものは・・・世の中甘くない どんな運命も受け入れられる人間になりたい 父親が日本に来る意味を説いた
日本にくるのはより良い生活を求めるだけでなく、ベトナムの人権はなかった、自由はなかった、それを訴えなければならない
父は若いころフランスから教育を受けていた(自由、人権、博愛)
医者になって4年目、2番目の姉が結婚、ベトナム合法難民から外されていた
彼女の子供 大学一年生で日本に留学したいとの思いあり 甥を日本に留学させる事にする
来日し、1年数カ月して愛媛大學医学部に合格
医師として嬉しい事、毎日が楽しい、外国人1~1.5割 金持ちから貧しい人までいる
東南アジアの若い女性は元気がない →白血病ではないか→大きな病院を紹介→白血病だった→オーバーステイであり保険がない→ベストは本国に帰る事
(末期症状)→数年後彼女のフィアンセが来日→病気が治って元気にしているとの事→私の選択が正しかったことをに自分自身嬉しいと思う
難民としての課題、心に残っていて、自分の人生の方向性として、進めてゆきたい
十代の夢は歌手であった 歌う時だけが違った人になれる