リービ英雄氏は英語を母国語とし、日本語の作品を書く初めての日本文学作家
新宿ある古い家屋(畳、襖、障子 日本語を書く空間)に住む・・・落ち着いて書ける
「天安門」・・・現代の中国を日本語で書く
1993年 一週間 北京に行った (軽い気持ち) ソ連と同じように自由が利かないと思った
言葉の衝撃があった→幼い時に聞いていた台湾での言葉を30年ぶりに聞いた→30年の時間が消滅した
言葉、輝く断片、音 そのものを聞いた →子供時代に戻った
広大な場所に毛沢東の肖像 (権力が集中した場所)天安門を見たときの衝撃を日本語で伝えたいと思った とりつかれた
天安門が不思議だったのは13億人の権力の中心の場所 革命 60年の歴史 私的余地が全くない公の場所
日本文学を 天安門を書くという大きな実験をした
柿本人麿呂の歌をよみがえらせる(天安門で作者が)・・・かげろうになっている、暑さ、歴史、人民「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」が印象的だった その時真夏で何万人がかげろうになっている
暑い中歩き出したら、すべてかげろうに包まれていたわけです
文学と言うのは合理的に説明できない
今まで読んできたものが何かに触発されて思わず出てくる 場違いの場所で出てくる
しかし 場違いじゃないかもしれないと後から判ってくる 結果として
現代の中国を 今の目で 今の言葉で、表現して書いた・・・「天安門」という本
ジャーナリストが中国について書いた物にはいい本がある
凄く内容が面白いのですが、ジャーナリズムでしょう ノンフィクションでしょう
日本の表現の歴史の中に入り込んで書く
中国に行って一番怖いのは病気になること 大体薬を持ってゆく 日本のいい薬
何十回と中国に行ってシルクロードの天水と言う街がある 西にゆくと本当に田舎
めちゃくちゃ暑いので喉が渇いてレストランで辛いカレーを食べる
ミネラルウオーターを注文しガバガバ飲みだす 飲んでいる時にちょっと味が違うなと思う
あるところへ来て腹が下ってどうしようもなくなる
トイレに駆け込み又ホテルに戻って日本の薬を飲むが全く効かない
あんたが偽物の水に当たった 仮のたばこ 仮の軍人・・・偽物社会に生きている
仮の水、かりそめの →もう一つの意味が現れてくる
かりそめの水を飲みかりそめに生きている
「ジャースウィー」→「ジャースウェー」→「カースウィー」→カーリー」・・・偽物と同時にかりそめ
一過性のもので小説にもなるのかなと思う→「仮の水」・・・小説
「外人が外人でなくなった」と言う表現があった 1000年前の中国の都に西洋から渡って来た人達がいて、そしてそこで中国名を貰って中国人になった人がいる
古代のユダヤ人の話 ヨーロッパからシルクロードを通ってカイフンという都にたどり着いて 旧約聖書を全部中国語で読んで、1000年中国人として生きていた
と言うところがある 移民するとか越境するとか 現代的と思われるが1000年前ヨーロッパから旧約聖書を持って移動し、中国人として1000年生きてきた
・・・急に日本語が浮かんできて「外人が外人でなくなった」
本当のアイデンティティーて何なのかなあと思ったときにそれは言葉だと思う
日本の歴史があるから文化がある それをよそから発見するという事もある
堺を越えて入り込む 越境と言葉も本で出している
日本人でドイツ語を書く人もいるし、いろんなくにの人が日本の小説を書くようになった
異言語に触れて触発されるという事はある もう一つの言葉に身をさらしてそのことによって文学を書く この時代だから良く見えてくる大きなテーマだと思う
今まで 日本文学と世界と言うと日本の作家が外国人と同じように、現代生活をしているのを書いて、それが翻訳されて読まれるという事それはとてもいい事だと思う
日本人として生まれなかった人が、日本の中で同じよそから入り込んで日本の中で世界に通用するもう一つの現代を自分で見つける事もあるのではないか
・・・本当の日本文学の国際化
日本語で書く世界文学というもう一つの世界があるのではないか と喜びを感じながらいままでやってきた
日本の特徴は何なのか 日本の魅力はなんなのか 簡単には答えられない
大きすぎて深すぎて一言では言えない
一つ書き言葉でいえば、漢字があり、カタカナがあり、ひらがながあり、アジア大陸から輸入したものもあれば、日本独自の表現もある
それは全部混ぜて複雑な多次元な美しさと生命が日本語の書き言葉の中にある
日本に戻って来て、アルファベット一色の国、漢字一色の国、の国で体験したものを、決して一色ではない歴史のある国の言葉で書きたくてしょうがない
天安門が文庫本になって普通の読者の手に入るようになったのは私にとって大変なこと さらに勇気付けられて次の段階に行きたくなっちゃう
読まれれば読まれる程書きたくなっちゃう