辻惟雄(美術史家) ・〔私の人生手帖〕
若冲や曾我 蕭白など忘れ去られていた江戸の画家たちに光を当てた名著「奇想の系譜」で日本の美術の常識を覆し、今年の文化勲章の受章者に選ばれました。 辻さんは1932年名古屋市生まれです。 産婦人科医の次男として医師になるべく東大に入ったものの、医学部での学業を断念して東大文学部に進むなど人生は挫折の連続だったと言います。 93歳になった今も研究を続けている辻さんはどのような挫折に直面し、どのように乗り越えてきたのでしょう。 いち早く日本美術の奥深さに着目をし、独自の世界を築いて来たのか、若冲の魅力なども併せて伺いました。
本がたくさんありますが、手書きのファイルノートだけでも100冊ぐらいあります。 当時美術史学科の学生でしたが、若冲の存在すら知りませんでした。 30代の頃ですが、ジョー・プライスというコレクターが若冲はないかと騒ぐんです。 それで見たら日本画離れした花鳥画で、これがアメリカに行ってしまったら日本では見られないだろうと思って、東京大学の学生に見せたいと思って一日だけ借りました。 プライスさんが何度も展覧会をされて、私は文章で協力しました。 2000年になって初めて京都国立博物館の若冲展で爆発しました。
小さいころは漫画を夢中になって観ていました。 東京都立日比谷高等学校を経て、東大の理科の二類にはいって、2年後にもう一度試験があってパスしないと医学コースに行けませんでした。 元々理科、数学は大嫌いで、絵を見る事描くことが大好きでした。 (高校時代から) 医学部を諦めました。 東京大学文学部美術史学科に進学。卒業後、同大学大学院に進みました。 中学3年の時に公園のスケッチをしたのを先生に褒められて絵が好きになりました。 描くよりも観ることが好きで、図書館の画集を観て感動していました。 当時は圧倒的に西洋美術で印象派、マティス、ピカソと言ったところが圧倒的な人気でした。 美術史学科は就職率の悪い人気のない学科でした。 就職が上手くいかなくて大学院進むことになりました。 2年後に修士論文を書かなければいけない。 先生が岩佐又兵衛をやったらどうかと言われました。 岩佐又兵衛の作品を観て吃驚して魅了されました。
卒業後38歳、1970年「奇想の系譜」を出版。 バランスの取れた美しい形よりもちょっとゆがんだ面白い形、色彩もバランスの取れた美しい色彩よりもちょっとどぎつい色が好きで(歳をとっていまは戻っています。)、曾我蕭白の群仙図屏風の色たるや、日本離れしていました。 絵、形、色も日本離れしていました。 ピカソなどにもなじんでいたので、江戸時代の絵画にそういうものがあるという事を見つけたのは本当に驚きでした。
長男は祖母たちにも溺愛されました。 長男はわがままだけれどのびのびと育ちました。 次男として2年後に生まれた私は、可愛がれれていたんでしょうけれども、兄に比べて自分はどうして虐待されているんだろうと言う様な幼い頃の潜在意識が、なんかそういったものに繋がっているような気がします。 或ることに集中するとほかのことを忘れてしまうという、そういう性格、変った人だという評判が小さい時から今に至るまでありまして、そういった人間でなければ見えない世界があって、それが「奇想の系譜」を読み継がせている理由ではないかと思います。
東北大学教授、東京大学文学部教授を経て、1996年、千葉市美術館館長に就任。 高畑勲さんは日本の漫画は絵巻物に源流があるんだと、それを展覧会でやりたいと言われました。 日本絵画の持っている、人が気付かなかった魅力と言うものが段々わかる様になって来たという事があると思います。 日本美術は日本語と深く関係していると云う事が言われる。 絵と言葉が見事な対象になている。 西洋ではそう事は無い。 象形文字、漢字そのものが形のイメージから来ている。 西洋学者が作った言葉で「命がないものにも命がある」と有りますが、日本の美術の中にそういった精神があるという事ですね。 若冲の絵、アニミズム(生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくはが宿っているという考え方。)の絵だと思います。 若冲、北斎などはアニミズムの強い人だと思います。 北斎の「神奈川沖浪裏」の波は生き物として描かれている。 生き物を観ている様な感想を持ちます。 雪解けの杉の葉に残った雪の形にしても目玉があって生き物がいるような感じです。 日本美術の魅力は動いているし明るいし、そこに遊び心があるという事を言いたいです。 絵は見て楽しむものであり、遊ぶものだという考えがあって、それが日本の絵の特色になっていると思います。
大学に入った時に発疹チフスにかかって、そのお陰でちょっと頭がおかしくなって暴れたことがあって、今の言葉でせん妄じゃなかったかと思います。 それが医学部に行けなかった大きな原因でもあるわけです。 留年して、そこで慰めとしての絵に落ち込んだりしました。 大きな挫折であったと思います。