2025年10月22日水曜日

堀内恒夫(野球評論家 元読売巨人軍監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 巨人V9を支えた大エースに聞く 前編

 堀内恒夫(野球評論家 元読売巨人軍監督) ・〔スポーツ明日への伝言〕 巨人V9を支えた大エースに聞く 前編

川上監督が率いる巨人が1965年から1973年まで9年連続して日本シリーズを制覇したVナインはプロ野球史上に燦然と輝く大記録です。 そのV9時代の大半を巨人のエースとしてチームを支え、通算203勝を挙げたのが堀内恒夫さんでした。 特にその1年間は開幕から13連勝を達成し、16勝を挙げるなど大活躍、一方でその奔放な言動から悪太郎とも呼ばれました。  一回目は悪太郎伝説はこうして生まれたです。

悪太郎と言われ始めたのはいつかはわからないです。  昭和23年生まれ。 山梨県甲府市出身。  養蚕業(生糸工場経営者)の家に生まれる。  女工さんが30から40人いました。 小学生時代に右手人差し指をうどん製作機に挟まれ、数ミリほど切断する大怪我を負っている。 指の形が変わったことが独特の大きなドロップカーブを生み出すきっかけになった。 ストレートを投げても自然に少し曲がるんです。(カットボール)  

V1の時には20勝投手が3人いました。(城之内さん、中村さん、宮田さん)それと金田さんが12,3勝しています。  昭和41年4月14日中日戦に登板しました。  3戦目に先発ピッチャーがいなくて、明日はどうせ雨だから堀内の名前を入れておけという事になったようです。  雨が降らず先発することになる。  あがっていてキャッチャーが見えなくて、あがっている様だったら最初の一球はバックネットの中ぐらいのところに投げろ、というアドバイスを貰っていたので、投げたらお客さんが笑ったので、それでキャッチャーが見えるようになりました。  5,6球の練習ではストライクは全然入らなかったが、本番の初球がストライクになりました。  7回満塁で私の代わりに代打で柳田さんが走者一掃の2塁打を打って、ひっくり返しました。  宮田さんがあとの3回投げて、宮田さんが生涯唯一のホームランを打たんです。 それで勝ちました。 その後13連勝しました。 打たれる気がしなかった。 

帽子の大きめのものを被って投げると帽子が横向きになり、そうすると迫力が出るというアドバイスを貰って、力投するアピールが必要なんだと言われました。  ダッグアウトとピッチャーのマウンド迄一直線に歩く様にも言われました。 9回投げると18往復で1本の道になります、そういう事も言われました。 (完投)  1年目は33回投げて16勝2敗でした。 防御率1、39。 新人賞と沢村賞を受賞。 (1年目) 

2年目の2月1日からキャンプが始まり、長距離を走った後3段跳をしたら、右足をついた瞬間にがくんときて、それが腰を痛めた原因だったようです。  アメリカでのキャンプがありましたが、それも腰が痛くていけませんでした。  背番号が21から18(エースナンバー)に変りました。(腰を痛める前に貰ったので、痛めた後だったら辞退していました。)  2軍で夏場まで居て、オールスター明けに復帰しました。 (腹筋を鍛えなさいと言われてやりました。)  その後勝って行って、10月10日広島戦でノーヒットノーラン達成。(ホームランを3本打つ。) 2年目は12勝2敗。  腰を痛めて以降に、「堀内は再起できないぞ。」と言われた時に、悪太郎がどうのこうの、悪太郎の目にも涙、と言ったことを書かれました。  武宮さん(川上哲治監督の2学年下でキャッチャー)が言っていました。 「合宿所には悪いのが3人いたな、王さん、柴田さんと堀内」と。