中川李枝子(作家) ・名作絵本は子育てから生まれた(初回:2015/5/6)
https://asuhenokotoba.blogspot.com/2015/05/blog-post_6.htmlをご覧ください。
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小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト) ・母の遺した我が家の歩み 後編
小澤幹雄さんは1937年(昭和12年)男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれました。 長男克己は彫刻、次男俊夫はドイツ文学と昔話の研究、三男征爾は音楽、幹雄は演劇の道に進みました。 父親は中国満洲の五民族の協和思想に共鳴し、政府に批判的でいつも憲兵や特高の監視を受けていたと言います。 父が亡くなり兄弟は戦中戦後の父親の活動などを知らないことに思いが至り、母が元気なうちにその記憶を残したいと録音します。 母が残した記憶は「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」として纏められ、そこから日本の戦中戦後の様子が垣間見えてきます。
ラグビーで指を怪我した征爾はピアノを諦め、親戚の斎藤秀雄氏のお宅に一人で伺って指揮をしたい旨話したら、来年音楽学校が出来るからそこに入って来なさいと言われて、それが桐朋学園の音楽科だったんです。 母が讃美歌を教えてくれたのが、我々4人の音楽に対してのきっかけだったと思います。 征爾は中学で合唱団を作って僕も入りました。 その時に歌ったのが全部讃美歌でした。 その合唱団が今でも続いています。 音楽に対する才能がありそうだという事で、父がピアノを購入する決心をするわけです。 ピアノの値段が3000円でした。 父は高級カメラなどを売ってようやく3000円を作ったらしいです。 父はカメラが趣味で家族を撮りまくって、アルバムが10冊ぐらいありました。 それを母が引き上げる時に全部持ってきました。 兄たち二人が横浜からリヤカーで3日かけて立川の家まで持ってきました。 心配で父も途中から参加した様です。 征爾は弾いてみて、音が「綺麗だね。」と言ったのを覚えています。(運んできて調律もしていないのでそうではなかったと思いますが。) 4人のために買ったピアノでしたが、翌日から征爾がほとんどずーっと弾いていました。
ラグビーに対しては母が指を怪我するからやめた方がいいと言われていたが、母に内緒でラグビーを続けてとうとう試合で指を何本も骨折して、鼻の骨も折って包帯だらけでピアノの先生のところにいったら、「小澤君ピアノだけが音楽ではないよ。指揮というものがあるよ。」と先生がおっしゃったというんですね。 素晴らしい征爾の一生を決める一言だったと思います。 豊増昇先生という方は当時は日本を代表するピアニストでしたが、征爾にはバッハしか教えなかったというんです。(他の生徒にはショパンとか教えたのにも関わらず。) 征爾はバッハをやったことが後々役だったと言っていました。 先生の兄さんとうちの父が中国で一緒に政治団体で政治活動をしていた。 そういった関係で弟子にしてくれたようです。
フランスの国費留学生の試験に落第してしまって、それでもフランスに行ってしまいました。 自分では受かるつもりだったが、フランス語が全然できなくて落ちてしまったらしいです。 スクーターを貨物船に積み込んでフランスに行っちゃったようです。 マルセーユからパリまでスクーターで1週間ぐらいかかって行ったそうです。 宿は安いユースホステルや野宿をしたそうです。 掲示板にブザンソン指揮者コンクール募集と書いてあったが、締め切りが過ぎていました。 諦めずに日本大使館に行って交渉したが何もしてくれず、諦めずアメリカ大使館にいったらブザンソン音楽コンクール事務所に連絡をして、締め切りが終わってしまっていたのに特別に受け付けて貰いました。 課題曲を一生懸命練習して優勝してしまいました。
フランスではカラヤン、バーンスタイン、シャルル・ミュンシュと言った指揮者から師事する。 井上靖さんがローマオリンピックの件でパリに取材をしに来ていたそうです。 出会って、コンクールで優勝したのにもかかわらず仕事が来ないので日本に帰ろうかと弱音をはいだら、先生は怒って「小説は書いても翻訳されなければ読まれない。 音楽は演奏すれば世界中の人に聞いてもらえるんだから、もっとフランスで頑張れ。」と言われたそうです。以後征爾は先生が亡くなるまで親しくしていました。
ヨーロッパで指揮者としてデビューした当初、新聞記者、評論家から「お前は日本人なのによくモーツアルト、ヴェートーベンが判るな。」と言われたそうです。 褒め言葉みたいではあるが、本当は判っていないだろうという差別的なニュアンスで、言われたというんです。(何年にも渡って言われた。) 東洋人が西洋人の音楽をどこまで理解できるかの実験が俺の使命だというようなことをよく言っていました。 言葉が通じないオーケストラでも俺は大丈夫だといっていました。 集中力があり、舞台の30分ぐらい前に15分ぐらい鼾をかいて寝たりするんです。 パッとタキシードに着替えて舞台に出てゆくんです。 朝4,5時に起きて集中的に勉強して覚えるらしいです。
立川は米軍が来て治安の悪い街になってしまったので、父は田舎に行って百姓をやろうという事で神奈川県の足柄の田んぼばっかりの藁ぶき屋根の家に引っ越して田んぼをやりましたが、会社を作って倒産したりしました。 僕が高校1,2年のころにはどうにもやっていけなくなって、歯科医院を作って何十年ぶりに歯医者を始めました。 母は愚痴一つ言わずにやって来ました。
征爾が高校をどこにするかという時に、玉川学園と成城学園があり、玉川学園は一貫教育で成城学園は来たいときに入って出たいときには出ればいいという事で、母と一緒に決めて成城学園に入ったそうです。 成城学園で音楽の仲間がいっぱいいたので、いい3年間を送りました。 いつか「俺が成城学園に行っていなかったら音楽家になっていなかった。」と言っていたことがありました。 或る合唱団に入って、指揮によって音楽が変ることを知ったそうです。 兄から指揮の練習方法などを教わりました。 貧乏で中学の授業料の滞納があり、掲示板に良く征爾と僕の名前が張り出されていました。 征爾は小田急小田原線で新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学しましたが、小田急電鉄の重役さんと知り合って、電車がただで乗れる株主券を呉れたと言って通っていました。
征爾が北京中央楽団で指揮を執ることになった中国再訪では、家族4人で行きましたが、大感激の中国再訪でした。 残念なのはあんなに行きたかった父が亡くなってしまっていました。 譜面台には父の写真、斎藤先生の写真、シャルル・ミュンシュの写真を置いて振っていました。 母が作って売っていた九重織りのネクタイは結構有名になり、銀座の有名な洋品店のショーウインドウに展示してあったそうです。 両親はこんなことをしてはいけないとか言わずに、自由にやらせてくれました。 母は明るくて前向きでした。 今考えると母が征爾を音楽の道に導いてくれた様な気がします。
小澤幹雄(舞台俳優・エッセイスト) ・母の遺した我が家の歩み 前編
小澤幹雄さんは1937年(昭和12年)男ばかりの4人兄弟の末っ子として生まれました。 長男克己は彫刻、次男俊夫はドイツ文学と昔話の研究、三男征爾は音楽、幹雄は演劇の道に進みました。 父親は中国満洲の五民族の協和思想に共鳴し、政府に批判的でいつも憲兵や特高の監視を受けていたと言います。 父が亡くなり兄弟は戦中戦後の父親の活動などを知らないことに思いが至り、母が元気なうちにその記憶を残したいと録音します。 母が残した記憶は「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」として纏められ、そこから日本の戦中戦後の様子が垣間見えてきます。
小澤征爾の二つ下です。 長男克己は昭和3年うまれ、次男俊夫は昭和5年うまれ、三男征爾は昭和10年生まれ、幹雄は昭和10年生まれ12年生まれ。 父は元々歯医者でしたが、政治団体の幹部として入って、政治活動をやっていました。 父小澤開作は山梨県西八代郡高田村出身で、草履を作って本代に当てた。 勉強が人一倍好きだった。 上京して東京歯科医専(現・東京歯科大学)で学び、歯科医の選定試験に最年少で合格。 24歳で満洲に歯科医として行く。 五民族の協和思想に共鳴し、政府を批判して「華北評論」という雑誌を編集発行する。 日本の軍などを批判したらしい。 睨まれて憲兵が毎日朝から来て父親の行動を監視していたらしい。 私は憲兵の顔を覚えているし、庭で遊んでもらった記憶があります。 小山さんという憲兵が父と酒を飲む交わすうちに、段々父に染まってしまって父の子分みたいになってしまった。
昭和53年に征爾さんが中国の楽団の指揮で北京に行くという事で、家族で当時住んでいた家に行きました。 父は中国にいきたいといっていたが、文革の間は駄目で、ようやく昭和53年に楽団の指揮で北京に行くという事で大歓迎を受けました。 北京中央楽団にコンサートマスターの楊秉孫さんという方は四人組を批判したために、監獄に入っていた人だそうです。 「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」は文庫本にもなっています。 母が喋ったことを聞き取って本にまとめたものです。 中国から引き揚げてくる時に父は日本を批判したために追放になってしまったらしいです。 昭和16年の3月に母と我々4人兄弟だけは日本に引き揚げてこれました。
私は早稲田大学在学中に学士演劇に夢中になり、卒業を待たずに東宝演劇部入団する。 学校に行きながら東宝の舞台を2年ぐらいやりました。 菊田一夫さんの面接を受けてそれだけで入ることになりました。 先生は「鐘のなる丘」「君の名は」などを手掛けるが、本当は演出家であり、劇作家です。 先生は小学校しか出ていなくて、養子に出されて点々と他人の手で養育された末、5歳のとき菊田家の養子になった。 兄の征爾とは顔つき、声なども似ていてよく間違われたりしました。 初舞台が五味川純平の「人間の条件」でした。 ベストセラーでした。 テレビで上演されてその後映画にもなりました。 「がめつい奴」「放浪記」などにも出演しました。 その後ミュージカル、東宝歌舞伎、現代劇などに出ました。
昭和35年「がめつい奴」では「がめつい」という言葉が流行語になりました。 大阪から上京してきた天才少女と言われる小学5年生の中山千夏さんと仲良しになりました。 お兄ちゃんお兄ちゃんとなつかれました。 「がしんたれ」は菊田一夫先生の自伝です。 「がしんたれ」は大阪の子供を軽蔑した様な言葉です。 菊田一夫先生の子供時代を中山千夏さんがやりました。 先生は大阪の薬種問屋に売られ、年季奉公をつとめますが、僕はいじめる兄弟子の役をやりました。 中山千夏さんは絵をやっていて個展を見に言ったりしました。
東宝ミュージカルの「王様と私」では王様の秘書役をやりました。 越路吹雪さんの付き人を会社の命令でやっていました。 越路さんが本格枝的にミュージカルをやるようになったのは「王様と私」だと思います。 母はクリスチャンで讃美歌を一杯覚えました。 日本に変えてきた時に母から4人兄弟は讃美歌を教わって沢山歌いました。 それが音楽との出会いでした。 そのころから征爾に耳は良かったです。 母は引き揚げてくる時にアコーデオンを持ってきてそれが役立ちました。 そのうち征爾も弾くようになってたちまちうまくなり、中学に通っていた兄が音楽室のピアノを使って手ほどきをしたらいです。 直ぐに上手くなって本格的にやらせたいという事で、食べるのも苦しい時代に父がピアノを購入してくれました。 3日かかって横浜から立川までリヤカーで兄たちが運びました。
父は歯医者はやりたくなかったが、食べてゆくために歯医者を始めましたが、72歳で亡くなってしまいました。 父は急死だったので父のことについては聞けなかったので、母から娘時代から現在までをしゃべってもらって、まとめたのが「北京の碧い空を わたしの生きた昭和」です。 征爾は成城学園に入って、音楽が盛んで征爾はラグビーもやって指を怪我してしまって、ピアノが出来なくなり、先生から指揮というものもあると言われて、親戚に斎藤秀雄という人がいるという事で、指揮の勉強をするようになりました。
立川の家では水が飲みたくれ防空壕から出て行った時に、アメリカの戦闘機から銃撃を受けました。 何とかあたらないで助かりました。 一生忘れられない思い出です。 8月15日の終戦の日はラジオの前にみんな集まって聞きました。 その時に父は「日本は戦争に負け得て良かったんだ。」と言っていました。 父は日本に戻って来てからも特高の監視がありました。 特高の人が、父が亡くなった時に母への手紙が来て、「小澤さんほど立派な人はいなかったというようなこと、ひそかに尊敬していました。というようなことが書いた手紙が来ました。 母はその手紙を読んで泣いていました。
父は行動的な人でベトナム戦争を何とかしたいという事で、アメリカのロバート・ケネディー氏に会って意見具申をしました。 長男は若くして亡くなりましたが、芸大の彫刻でしたが、ピアノも出来るし作曲も出来ました。 征爾に音楽を教えたのは兄でした。 兄がいなかったら音楽はやらなかったかも知れないです。 働き過ぎたのか病気で倒れてしまいました。 NHKの大河ドラマ「勝海舟」の時には、英語が出来たのでジョン万次郎の役をやりました。
近藤民代(神戸大学都市安全研究センター教授)・阪神・淡路大震災30年 神戸で学んだこと、伝えたいこと
1995年1月17日早朝、大都市を襲った阪神・淡路大震災は震災関連死を含めると6434人が亡くなる大きな災害でした。 犠牲者の7割から8割が圧死、窒息死でした。 多くの人が住んでいる家が崩れて、その下敷きになって亡くなったのです。 近藤さんはいまは建築物の安全、街の安全を考える建築都市計画を専門に研究していますが、当時は神戸大学工学部建設学科の1年生でした。 建築を学んでいた近藤さんはあの時何を目撃したのか、その後どのように研究テーマを模索したのか、今回は神戸大学工学部の教室で後輩の学生たちを交えて公開収録を行いました。
建築の都市計画、建築の単体の性能を安全にすること、建築が集まったときにできる街をどのように安全にしてゆくか、というようなことをやっています。 入学した時には建築学科だったので普通の建築士になろうと思っていました。
当時私は滋賀県の実家にいたので震度4ぐらいでした。 母親が神戸が大変なことになっていると言いに来ました。 ニュースで自分が通っているところが激震地だと初めて判りました。 10日後ぐらいの神戸の街に戻りました。 電車の車窓から被害状況を見ましたが、今でも目に焼き付いています。 工学部の説明会が1月31日にありました。 学生の安否についての情報を掲示板に貼り出して、情報を集めました。 全学では39人の生徒が亡くなっていて、工学部は10人が亡くなっています。 建設学科では2人亡くなっています。 国際文化学部の体育館の武道場も避難所になりました。
被災地の住宅の調査を行いましたが、私は実家でそのことを聞いたんですが、参加はしていませんでした。(怖かった。 今では後悔があります。) 4月には学校も再開しました。 防災については関心がありませんでした。 都市計画に関心があり、その研究室に行こうと思いました。 建築を安全に作るという事は教えていたが、どういう風に壊れたか、壊れるかという事は教えてなかった、そういう事を勉強しないといけないとある先生が言っていました。 建築が人の命を奪ったわけですから、それは安全ではなかったという事です。 復興の街作りが必要と思いました。 住民は元に戻りたい、行政は安全な街つくりをしたいという事で意見の対立も起きました。 住民主体の街つくりを支援する建築士、都市プランナーが組織しているNPOがアメリカ、イギリスなどにあり、5年間ぐらい調査していました。
安全でよりよい環境にしようと思っているのが復興で、こういうことをしたら自分たちも安全になるし、説得している専門家のドキュメンタリーを見て、こういう事をしていたんだと思いました。 こういう方向に行きたいと思っていました。 1998年大学院の1年生の時に震災犠牲者聞きがたり調査に加わりました。 建築がどうやって人を殺したのか、どうやって壊れたのかと言った事です。 聞いて間取りの図面を起こしたりもしました。 30人ぐらいのご家族の遺族の方から聞きました。 倒壊に対する技術があっても、それが社会で使われるという事には大きな隔たりあって、そこをどうやって埋めていくのかという事が課題です。
2005年アメリカのハリケーン、かトリーナの時には現地に入って、災害からの復興という事で取り組みました。 現地に入ったのは、発生後半年後ぐらいでした。 津波が来たような破壊状況でした。 復興計画に市民の声をどういう風に反映させて、対話をして計画が作れるかどうかという事でした。 阪神と同じで、最初は対立の状況でした。 ニューオリンズの市長が出した復興計画を白紙に戻しました。 地域ごとに、地域づくり協議会を作って、皆で考えて行こうということで、下からやり直しました。
2011年東日本大震災の時も妊娠中でした。(カトリーナの時も同様) 地元の高校生を定点観測を行いました。 町の状況がどいう風に変わってゆくのかという事を調べて、復興のきっかけにしてほしかった。 若い人たちが復興の担い手になって欲しかった。 災害に対して市民、研究者、行政などがアクションしてゆく事が進んで行けば、防災という事はそんなにいらないのではないかと思います。
柳家さん喬(落語家) ・私を会長とよぶな!
柳家さん喬さんは東京都墨田区出身、1948年生まれ76歳。 1967年に柳家小さん師匠に入門、前座は「小稲」、1972年二つ目に昇進して「さん喬」、1981年に真打に昇進ました。 さん喬さんは古典落語の名手として知られていて、古典落語の神髄を語る正統派落語の雄とか、上手くて面白い伝統派の代表選手、人情話も魅力的に出来る噺家などと言われています。 2012年度芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)受賞、2014年に国際交流基金賞 受賞(落語家としては初受賞)、浅草芸能大賞奨励賞受賞など多くを受賞しています。去年6月に落語協会会長に就任した柳家さん喬さんに伺います。
去年で落語協会創立100年になりました。 入門して50年以上になります。 会長職はまだ自分ではつかみ切っていないです。 一日5席は当たり前にこなしているような状況です。 6席というときもまれにあります。 若い頃にある落語を話していて、葛藤があるところで神経を入れ過ぎて酸欠になってしまったことがあります。 感情というものを入れるのはそういう事ではないんだ、お客様にどういう風に伝わるかであって、自分の感情を無理やり押し付けるという事は違うよねと思うようになりました。 或る落語会に有名な方たちが来たことがあり、そこで「高砂や」をやったんですが、笑わそうと一生懸命やったんですが、師匠のおかみさんから「くさく」やったんだろうと言われてしまいました。 過剰演技と「くささ」はちょっと違うかも知れませんが。 感情を伝えることが或る意味「くさい」という事になるのかもしれませんが。 先々代のつばめ師匠に「くさい」というのは良くないのか聞いたことがあるんですが、「若いうちにくさくなかったら、歳をとってからどうするの」と言われました。 若いうちにくさくやるから、歳をといってからは大げさな表現をしなくても角が取れて行って、真ん中の部分だけがお客様に伝わる。 若いうちにくさくやらないと角が取れない。
うちの師匠はいいところはいいと、悪いところはこうだと言ってくれました。(普通、良いところを弟子には褒めないが) ネタはざっと300ぐらいあります。 直ぐにやれるのは50ぐらいですかね。 話は百篇しゃべって初めていろいろなものを見い出せるものじゃないかなと思います。 お蔵になっていたものを引っ張り出して、年齢でものの見方、考え方が違うので、違うような話になって行く気がします。
2017年度に紫綬褒章受章しています。 師匠からは60代を頂点にするように言われました。 そうするとゆっくり下がって行く。 勉強を怠るとスパーンと落ちる。 人情話でも若いときと歳を取ってからでは随分と違ってくると思います。 すべて総合されたものが一人の噺家です。 先輩たちが残してくれたのは話の幹で、その幹から枝葉を付けてきたのがその時代その時代の噺家たちだと思います。 その花がその時代に有っているかどうかは演者の判断だと思います。 先々代彦六師匠がうちの師匠に私のことに対して、人情話をさせた方がいいと、言って下さったことがあるそうです。 ではやってみようと背中を押された思いはあります。 落とし話と人情話の両方ともちゃんとできる噺家になりたいとは思っています。
高校卒業してすぐに願っていた小さん師匠に入門出来ました。 師匠はくどくど言わずい一言いうだけで、返ってそれが考えることになります。 或る時に師匠に内緒で旅に出てしまいました。 帰ってきたら凄く怒られました。 何で一言言わないんだ、誰それ師匠に頼まれましたと、その師匠に会った時にうちの弟子がお世話になりましたと礼が言えるだろう、それが言えないことで俺が恥を掻くことになる、という事でした。 首になるのは覚悟しましたが、他に弟子がいっぱいいるのに、この着物たたんでおいてくれと穏やかに言うんです。 どれだけ救われたかわかりません。 大切な教えだと思います。
柳家喬太郎を初め沢山の弟子を抱えるようになりました。 芸は一代限りだと思っています。 芸を継承する事は大事だと思っていますが、芸の継承は本質的な部分であって表現の仕方を師匠そっくりにやって見ても、本来の継承にはならないと思います。 幹をちゃんと伝えてゆく、枝葉は自分が作る、そこは一代限りの枝葉、花であって、花は赤い花であっても次が黄色い花でもいいと思います。 落語にどっぷり浸かって行って、落語が兎に角好きですね。