山極壽一(京都大学総長) ・ゴリラに学ぶ"人間らしさ"
昭和27年東京生まれ、66歳、京都大学、大学院で京大が世界をリードしてきた霊長類を学びました。
研究者として主にゴリラをアフリカなど野外で研究され、進化の過程で700万年前人間の祖先と別れたゴリラを通して、生活や社会の由来を探求してこられました。
4年前に京大総長に選らばれた際には山極さんを慕う多くの研究者が山極さんに研究の第一戦を離れられると、霊長類学が停滞してしまうと、総長就任には反対の声が上がりました。
それほど日本の霊長類学にとっては余人には代えがたい存在となっています。
ゴリラは深夜には寝ていますが、聞き耳を立てています。
ひょっとするとラジオの「深夜便」を聞いているかもしれません。(笑い)
40年位ゴリラの研究してきましたが、朝暗いうちにキャンプを出て陽が昇るころにゴリラのベッドに到着します。
眠たい顔で起きた時に挨拶に行ってゴリラと一緒に過ごします。
私一人なので人間の言葉を喋る必要はありません
日柄、ゴリラの様子を見ながらその行動をフィールドノートに書いています、これが私の調査の真髄です。
ゴリラは怖いと思っている人が多いが、いかめしい顔をしてドラミングの行動を知っているからだと思います。
ドラミングの行動は19世紀の中盤に欧米人に発見された時に、探検家を震え上がらせた行動で、それを見て探検家たちはゴリラは野蛮で凶暴、戦い好きな野獣だと表現してしまって、100年ずーっと続いて動物園でも鎖に繋がれて孤独な生活を送らされてきましたが、それは大きな誤解だった。
私の師匠の米国人女性博士ダイアン・フォッシーさん、彼女が1967年からアフリカのルワンダやウガンダにまたがるヴィルンガ火山群(4000m級の山々が連なる)に単身いって、自分がゴリラの群れの中に入って、自分がゴリラになってゴリラの観察をしてみると、ドラミングって攻撃的なものではない、色んな意味で使われる行動だと発見しました。
わたしも同様にゴリラの群れにはいっていって観察して、ゴリラは攻撃的ではないと思うようになりました。
ドラミングはジャンケンのパーの形で胸を打ちます。
ゴリラの胸は息を吸うと太鼓の様な役目をします。
パーで叩くことによって大きな音が出て、2km四方に渡って響き自分の集団ではない他の集団のゴリラにも聞こえるようになります、遠距離間のコミュニケーションです。
近くにいるゴリラにとって見ては自己主張のディスプレイなんです。
ドラミングは9つ中の動作の一つに過ぎません。
相撲の動作と同じようなものだと思っています。
まず尊居、身体を揺らして、ホウホウと口を尖らして声を出して、草を掴んでバッとして、二足でたちあがってパカパカパカとして横向きに走って当たりの木を掴んで、大地をバンと叩いて終わります、それが一連の動作になります。
二足で立って胸を打つ姿勢が美しい。
人間に当てはめた時にこれだと思いました、歌舞伎の見得なんです、おなじ構えだと思いました。
ゴリラと人間と全く見たことも会ったことも無い二つの生き物が、同じ様な姿勢を完成させたということは、社会が男に求めている期待と言うのは、よく似ているのではないかと思い当たりました。
戦うものではなくて自分に周囲の注目をひきつけて、自己主張する、それが美しくないといけない迫力がないといけない。
集団と集団同士が出会った時に、リーダーが出てきてお互いがディスプレイ合戦をする訳です。
そこでは戦わない。
オスは共にメンツを保ったままひき分けることができる。
戦ったら勝敗が付くし大けがをするのでそんなことはしたくない。
そのためにああいうディスプレイが発達した。
闘いを避け威厳を保つための姿勢なんです。
人間も実は勝敗を付けたいんじゃない、負けたくない、そういう気持ちが人間の社会でもゴリラと同じように作っているのではないかということです。
ゴリラには負けましたという姿勢、負けましたという表情も無い。(猿にはある)
日本猿の2頭の処に餌をやると強い猿が餌を奪う。
弱い方は歯を剥いて敵意が無いこと、自分の弱さを相手にひけらかす。
弱い方がひきさがることによってトラブルを解消する。(猿の重要な原理)
ゴリラは負けまいと言う姿勢がゴリラの社会を作っていて、勝とうとする姿勢ではない。
日本猿は勝とする社会、必ず勝つものがいて、負けた方は恨みを抱いたり反感を持ったりするので離れていくか、復讐されるかもしれない。
勝ち続ければ勝ち続けるほど孤独になって行く。
ゴリラ社会は勝とうとしない、負けまいとするだけ、威張る姿勢は出てこない、自己主張をしなければいけない。
良い塩梅で相手、周りが判るように自己主張をしなければいけないというのがゴリラの社会です。
仲間を失うことも無い。
我々人間はそっちの方にルーツを持っている。
ゴリラ、猿も笑います。
ゴリラは笑い声を立てます。(腹を震わせて笑います)
人間は口先で笑いますが、あれはだめです。(笑い)
腹を抱えて笑うという事をしないといけない、それがゴリラから受け継いできた人間らしい笑いなんです。
人間にも元々は言葉はなかった。
長い進化の過程を言葉なしで過ごしてきた、我々人間の感情は言葉のない時代に作られたと思います。
言葉より大切なものが我々のコミュニケーションにはずーっとある訳です。
顔の表情、仕草、構えなど、私はそれをゴリラから学びました。
人間の脳は1400cc、ゴリラの脳は500cc以下、人間の脳が大きくなったのは言葉(知性)から来たと思われるが、言葉のルーツはせいぜい7万年前位からということが判ってきました。
チンパンジーの祖先と約700万年前に別れて人間は独自の進化を始めました。
先ず二足歩行だが、その頃チンパンジーとは変わらない脳を持っていた。
それが500万年間続くわけで、その間脳は大きくならず、200万年前にようやく600ccを越えて、150万年掛けて今の脳の大きさになりました。
人間の脳が大きくなったのは言葉をしゃべりはじめたからではないんです。
脳が大きくなった結果として言葉を喋るようになったということです。
脳を大きくした理由とは。
イギリスのロビン・ダンバーという人類学者、面白いことを発見した。
どういう行動、特長が脳を大きくすることに役立っているのか、食べるものなどいろいろ調べてみたが関係なかった、結果は集団の大きさだった。
脳の中の新皮質といわれる部分が大きくなると脳全体が大きくなる。
新皮質が脳に占める割合が高いほど集団の平均サイズが大きい事が判った。
人間も言葉を喋っていない時代(200万年前から40万年前にかけて)集団が徐々に大きくなっていって、脳が増大したということが推測できるようになりました。
猿は集団の中でだれが強く、誰が弱いか常に頭に入れておかないと適当な振る舞いはできない。
仲間の数が増えると複雑になり記憶する量が増える、それが脳を大きくする原因だったと思われる。(ダンバー説)
ダンバーは人間の脳の大きさを推定して、脳に匹敵する当時の人間の集団の平均値を求めた。
脳が大きくなっていない時代の脳、350万年前では500cc以下、ゴリラの集団サイズに匹敵する、10~20人位。
600ccを越えた頃の集団は30人位。
1400ccではどの位の集団で生きるのに適しているか計算してみると150人位。
1万5000年前に我々は農耕牧畜を始めました。
それまでは狩猟採集、自然の恵みだけで過ごしてきた。
現在でもそういった生活は生きていて移動生活をしているが、150人ぐらいの集団になっている。
人間の脳の大きさはずーっと狩猟採集生活に適するような形として作られてきて、40万年前には完成されてしまっていて、それから劇的にコミュニケーションの様式がかわったとしても脳は大きくなっていないということかもしれません。
脳の大きさが決まってしまってきているということは非常に重要で、人間が信頼できる人々の数はせいぜい150人ぐらいということかも知れないということです。
我々はインターネット、スマホなどで膨大な数の人とやりとりしているが、そのなかで本当に信頼できる人達はどのくらいなのか、何千人、何万人に到っているのだろうか。
顔の浮かぶ人、何か体験として身体に埋め込まれた人達、自分が困った時になにも疑わずに相談できる人は150人を越えない数なのではないかと思えるわけです。
言葉によって我々の心が作られているような気がするが、実はそうではなくて身体が反応するということが人間的な特徴なのではないかと思える訳です。
食物を分けあって食べる、共食という行為、人間が二足歩行した時に顕著になり始めた行動だと思います。
他の霊長類は運んで分けあって食べると言うことはしない。(人間だけがする)
人間を信用すると言う事、他の種は自分しか信用しない。
信用しているから他の人間のものも食べる、現代はシステム化して当たり前だと思っているが、当たり前ではない。
我々は信用の上に社会を築いている。
信用できる人の数はわれわれの身体では150人を越えないという事を覚えておいてください。
二足歩行によって手が自由になり、色んな副産物が生まれました。
人間は成長の遅い子供を持ちながら(類人猿から引き継いだ遺産)、肉食獣に囲まれて生き延びるために人為的に多産に、毎年子供を産むようになった。
オランウータンは7年間乳を吸って育つ、ゴリラは3~4年、チンパンジーは5年。
離乳した時には永久歯が生えて大人と同じ食べ物が食べられる。
人間は本来6年乳を吸ってもいいが、1年で離乳するようになってしまった。
そして直ぐ子供が産めるようになり多産の道をあゆんできた。
子育てに老年期の人が大いに手を貸してくれたからこそ、沢山の子供達が生き延びることができた。
今は少子高齢化社会になり人類の進化にとっては全く新しい出来事で、これからそれに向けて社会を変えていかなくてはいけない。
何故人間は高齢になるズーっと前に子供を産むのをやめてしまうのか、何故難産になってきたのか。
200万年前の脳が大きくなり初めて、予め脳の大きな子を生むのか、小さな頭の子を産んで生後脳を大きくするのか、選択せざるを得なくなった。
二足歩行をしてしまったので骨盤の形が変形してしまった。
産道を大きくさせずに小さな子を産んで急速にその脳を発達させる道を選んだ。
ゴリラの赤ちゃんの脳は人間の脳と変わらない大きさで生まれて来る。
ゴリラの赤ちゃんの脳は5年間で2倍になる。
人間の赤ちゃんの脳は1年間で2倍になります。
ゴリラの赤ちゃんはガリガリで1.6kg位です。
人間は3kg位で体脂肪率が全然ゴリラと違って、ゴリラの体脂肪率は5%以下、人間の赤ちゃんは15~25%あります。
脳を急速に育てるためです。(脳は脂肪)
離乳が早い分、体脂肪が補ってくれる。
人間の赤ちゃんが共同保育されるように生まれてくる。
ゴリラの赤ちゃんは全然泣かないで抱かれて育っていきます。
人間の赤ちゃんは本当にうるさい、お母さんが赤ちゃんを手放すから泣くわけで、自己主張、自分の機嫌の悪さをを判ってもらえないから、誰にでも判るように泣くわけです。
あやす時に赤ちゃんにかけるトーンは民族文化を越えて人類同じ性質を持っていると言われます。
あやす時にトーンが普段より高く、繰り返しが多いという特徴を持っている。
だれにも習わなくても出来る。
その声に安心して赤ちゃんはにっこりほほ笑む、これがみんなだまされる、赤ちゃんに奉仕する。
人間の赤ちゃんは周りの人を自分を育ててくれるように、ひき込む特徴を持って生れて来る、それがゴリラの赤ちゃんと違う。
人間は食べる行為を変え、子供を脂肪に包まれた頭でっかちになるような赤ちゃんを大勢作らなくてはいけなくなったゆえに、共同で保育をせざるを得なくなって、それが人間の社会を大きくした原因だと思います。
おたがいが影響し合って社会脳として脳が大きくなったと思います。
言葉ではない身体のコミュニケーションで我々は社会をもう一度作り直さないといけない、そういう身体を我々はしているという事を頭に入れて下さい、これはゴリラからの提言です。
2018年6月30日土曜日
2018年6月29日金曜日
安野光雅(画家) ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク
安野光雅(画家) ・【人生のみちしるべ】鏡の国のボク
1926年大正15年生まれ、92歳、島根県出身
子供の頃鏡を畳の上に置いてそこに映る世界を覗きこみ、空想を膨らませて遊んでいたと言います。
終戦後徳山市から23歳で上京、小学校の教師として働きながら本の装丁の絵の仕事などを手がけていましたが、36歳で教師を辞め画家として独立、安野さんが絵本作家としてデビューしたのが1968年42歳の時です。
今年は絵本作家デビューから50周年です。
繊細な風景画を始め、多彩なテーマ、楽しいアイディアに満ちた絵本を次々に生み出し、国際アンデルセン賞を始め数々の賞を受賞されています。
「旅の絵本」が5年ぶりに新刊発表。(スイス編)
文字が無い絵本で、最初文字が無いからわからないと言う人がいたが、文字を通して説明的に理解すると言うのは、絵は説明なんかじゃないと言いましたが、判ってくれたかどうか判りません。
心臓にパイプを入れる手術、がんの放射線治療(10年前)をしましたが、現在元気でいます。
1時まで起きていてそれから寝て、8時頃には眼をさまします。
絵は昼も夜も描いています。
島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。
3月20日生まれなのでクラスでも小さく、学校が厭だった。
おはじきも持っていかなくてはいけなくて、おはじきは家にはなくて貝殻を持っていかなくてはいけなくてみんなと同じではなく厭だった。
絵は好きで勝手に色々描いていました。
絵かきになりたいとは小さいころから思っていました。
絵かきが一度家に泊まりに来て、軸ものを描いていました。
手本にすずめの絵を描いてくれましたが、すずめの絵を描けると言うふうにはいきませんでした。
絵描きでも宿屋の倅というのがいて茂田井武、ドボルザーク、児島虎次郎とかがいます。
児島虎次郎は大原美術館を作った大原孫三郎という人の友人でした。
京都の美術館を作った安藤忠雄がよく勉強していて、本から出てくる言葉があり気があいました。
終戦後、復員して先生にならないかという話があり、小学校の代用教員になりました。
教科書が無くて桜の花を断面図を描いてはなびら、おしべ、めしべがあり実になって行くと説明したが、生徒から玉椿にはおしべが無いというのがいて、確認したが本当におしべはなかった。
後で調べてみたらおしべが花びらに変化したということだった。
子供は色んな事を知っているものです。
19歳で兵隊に行きした。
両親は64,5歳で「年寄りを残していきますのでよろしくお願いします」、ということだったが私は先のことしか思っていなかった。
親の方は今生の別れと思っていたようだが、私はなんにも考えずに行きました。
陸軍だったが船舶兵で自動小銃一発で沈む様なベニヤ板の船だった。
敗戦の日は歩哨に立っていたが、上官が隠匿物資を何度も持ち出していた。
両親のもとに帰っていきましたが、触らないでと言われて着ているもの全部煮沸消毒することになりました。(しらみなどを全部殺す作業)
これで人間になったという感じでした。
代用教員の後、23歳で上京しました。
絵描きになる為にいつか東京に行こうと秘かに思っていました。
小原國芳さんが地方講演に来て、私の描いた絵に目が止まったそうで、玉川学園の創立者で、学校に来て絵の先生になってほしいとの要請がありました。
養運寺に泊って玉川学園に会うために通い、ようやくあえました。
玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。
山手線を一周回ったが東京は焼け野原で、どこも同じだと思って、劣等感が消えると言うか、勉強すれば何とかなると思いました。
一分一秒無駄にしてはいけないと勉強しました。
「雲中一雁」という篆刻を見て2万円ということで買えなかったが、その時これなんだと思いました。(自分のことのように思いました、一人で生きていこう)
本の装丁の絵の話があり、百科事典20冊出るが、一つ書いてほしいということでその後要望もあり、同じテーマで16描かないといけない。
人の顔をそれぞれ違うので、よしやろうと思いました。(5万人いれば5万あるので驚かなくなった)
井上ひさしの「長屋の仇討」で堀部安兵衛をかき上がって、ポスターも貼られていて、
題名が変わりましたと連絡があり「犬の仇討」ということになったとの事。
ポスターをあらためて書いてほしいということで3日で書き上げ対応しました。
ヨーロッパに初めて行って、コペンハーゲンの素晴らしさに感動しました。
その後42歳で絵本作家としてデビューし、『ふしぎなえ』を製作。
1926年大正15年生まれ、92歳、島根県出身
子供の頃鏡を畳の上に置いてそこに映る世界を覗きこみ、空想を膨らませて遊んでいたと言います。
終戦後徳山市から23歳で上京、小学校の教師として働きながら本の装丁の絵の仕事などを手がけていましたが、36歳で教師を辞め画家として独立、安野さんが絵本作家としてデビューしたのが1968年42歳の時です。
今年は絵本作家デビューから50周年です。
繊細な風景画を始め、多彩なテーマ、楽しいアイディアに満ちた絵本を次々に生み出し、国際アンデルセン賞を始め数々の賞を受賞されています。
「旅の絵本」が5年ぶりに新刊発表。(スイス編)
文字が無い絵本で、最初文字が無いからわからないと言う人がいたが、文字を通して説明的に理解すると言うのは、絵は説明なんかじゃないと言いましたが、判ってくれたかどうか判りません。
心臓にパイプを入れる手術、がんの放射線治療(10年前)をしましたが、現在元気でいます。
1時まで起きていてそれから寝て、8時頃には眼をさまします。
絵は昼も夜も描いています。
島根県津和野町の旅館を営む家に生まれる。
3月20日生まれなのでクラスでも小さく、学校が厭だった。
おはじきも持っていかなくてはいけなくて、おはじきは家にはなくて貝殻を持っていかなくてはいけなくてみんなと同じではなく厭だった。
絵は好きで勝手に色々描いていました。
絵かきになりたいとは小さいころから思っていました。
絵かきが一度家に泊まりに来て、軸ものを描いていました。
手本にすずめの絵を描いてくれましたが、すずめの絵を描けると言うふうにはいきませんでした。
絵描きでも宿屋の倅というのがいて茂田井武、ドボルザーク、児島虎次郎とかがいます。
児島虎次郎は大原美術館を作った大原孫三郎という人の友人でした。
京都の美術館を作った安藤忠雄がよく勉強していて、本から出てくる言葉があり気があいました。
終戦後、復員して先生にならないかという話があり、小学校の代用教員になりました。
教科書が無くて桜の花を断面図を描いてはなびら、おしべ、めしべがあり実になって行くと説明したが、生徒から玉椿にはおしべが無いというのがいて、確認したが本当におしべはなかった。
後で調べてみたらおしべが花びらに変化したということだった。
子供は色んな事を知っているものです。
19歳で兵隊に行きした。
両親は64,5歳で「年寄りを残していきますのでよろしくお願いします」、ということだったが私は先のことしか思っていなかった。
親の方は今生の別れと思っていたようだが、私はなんにも考えずに行きました。
陸軍だったが船舶兵で自動小銃一発で沈む様なベニヤ板の船だった。
敗戦の日は歩哨に立っていたが、上官が隠匿物資を何度も持ち出していた。
両親のもとに帰っていきましたが、触らないでと言われて着ているもの全部煮沸消毒することになりました。(しらみなどを全部殺す作業)
これで人間になったという感じでした。
代用教員の後、23歳で上京しました。
絵描きになる為にいつか東京に行こうと秘かに思っていました。
小原國芳さんが地方講演に来て、私の描いた絵に目が止まったそうで、玉川学園の創立者で、学校に来て絵の先生になってほしいとの要請がありました。
養運寺に泊って玉川学園に会うために通い、ようやくあえました。
玉川学園出版部で本の装幀、イラストなどを手がけた。
山手線を一周回ったが東京は焼け野原で、どこも同じだと思って、劣等感が消えると言うか、勉強すれば何とかなると思いました。
一分一秒無駄にしてはいけないと勉強しました。
「雲中一雁」という篆刻を見て2万円ということで買えなかったが、その時これなんだと思いました。(自分のことのように思いました、一人で生きていこう)
本の装丁の絵の話があり、百科事典20冊出るが、一つ書いてほしいということでその後要望もあり、同じテーマで16描かないといけない。
人の顔をそれぞれ違うので、よしやろうと思いました。(5万人いれば5万あるので驚かなくなった)
井上ひさしの「長屋の仇討」で堀部安兵衛をかき上がって、ポスターも貼られていて、
題名が変わりましたと連絡があり「犬の仇討」ということになったとの事。
ポスターをあらためて書いてほしいということで3日で書き上げ対応しました。
ヨーロッパに初めて行って、コペンハーゲンの素晴らしさに感動しました。
その後42歳で絵本作家としてデビューし、『ふしぎなえ』を製作。
2018年6月28日木曜日
神田松鯉(講釈師) ・"男の美学"を語る
神田松鯉(講釈師) ・"男の美学"を語る
昭和17年生まれ、昭和36年新劇俳優としてデビュー、歌舞伎界を経て昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。
これまでに第一回講談奨励賞、第六回放送演芸大賞ホープ賞、第43回文化庁芸術祭賞受賞。
「赤穂義士伝」、「祐天吉松」、「村井長庵」など数々の古典の連続物などを中心に幅広く活躍されています。
松鯉さんがこだわりを見せるのは連続ものと男の美学です。
講釈師の声帯ではないと講釈ができにくいところがある。
昔は綺麗な声だと言われました。
新劇の役者の時に声学もやっていますが、講釈は作り上げた声です。
空気の出入りが時速300km/hと言われます。
擦すれて傷ができそのうち固まってきて声帯が一面たこになり、講釈の声帯になります。
腹式呼吸でズーとやっていたら高い声がでなくなってしまったが。
この声になったのは10~20年前ですかね。
身体の力が抜けたからかもしれないが高い声も出るようになりました。
昭和20年8月15日未明に大空襲がありました。(3歳の時の伊勢崎大空襲)
日本最後の本土大空襲、家が焼けてしまって前橋に引っ越しました。
4人兄弟の長男で、惣領の甚六でした。
中、高校時代に役者になりたいと思いました。
文学少年で詩を書いて本も読みました。
水戸黄門記など読んでいました。
言葉を矯正しようと思ってアナウンス学校に行きました。
その後劇団文化座の研究所に入り勉強しました。
2年で卒業して俳優集団民衆舞台(桑山正一さんが創設)に入りました。
旗揚げ公演に出演しました。
或る人が紹介してくれて、歌舞伎をやらないかと言われました。
2代目中村歌門先生に入門して1年位いました。
楽屋を肌で感じたことは大きかったです。
昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。(27歳)
演劇の朗読は基本なので喋ると、桑山さんがお前は講談だと言われ続けて来ました。
何処がそうなのか本物の講談を聞いたが判らず、いっそ講釈師になろうと思ったのかもしれない。
当時二代目神田山陽師匠はとっつきやすさがありました。
師匠の芸は明快で軽いんで、だから受けます。
私はいくらやっても軽さはでなくて重いんです、或る時点からそうなりました。
「ゆうた」(お面をかぶって幽霊の役をやってお客さんの周りを回る)をひと夏で120回位やったことがあります。(師匠が怪談を120高座をやっているという事)
昭和52年真打ちになる。(7年でなりましたが、いまは13~15年かかります。)
講釈師の世界では当時分裂していたりしていました。
昭和63年度の第43回文化庁芸術祭賞受賞
平成4年「3代目神田松鯉」を襲名。
2代目神田松鯉師匠に対してうちの師匠は「おやじ」と呼んでいて親しみを持っていたようで、その師匠から神田松鯉を継がないかと言われていて、まだまだと思っていました。
2代目神田松鯉師匠のご遺族まで紹介されて、松鯉を襲名することになりました。
2代目神田松鯉師匠とは芸風が違うが、自分なりの松鯉を作っていこうと思いました。
ネタはだいたい500席はあります。
講談には連続物と一席物があります。
徳川天一坊は20席の連続物になります。
連続物のいいところだけ取る、いいとこ読みが多いですが、連続物にこだわっています。
連続物は山場とだれ場もありますが、だれ場をどうやって工夫してお客さんに聞いてもらうか、これが勉強になります、講釈師の技量にもつながってきます。
明治時代は一人の講釈師が1カ月2カ月かけて連続物をやっていました。
戦後になって連続物をやる場所がなくて、一席物をやることになっただけですから。
本来の形を継承しておきたい。
最初「三方ヶ原」から教えます。
全6巻ある、これが基本なのでまずこれから教えます。
その後武芸物を教えます。(宮本武蔵伝など)
もう一つが男の美学、わたしの人生のテーマです、義侠心が最大のテーマです。
それぞれの立場で男の美学がある。
保身に走らない、自己犠牲・・・敬天愛人に近いのではないか。
こうありたいと柱を立てると無意識に近づいてゆくと思う。
芸はお客様と一緒に作り上げるものだと思う。
シャボン玉理論、シャボン玉のなかにお客さんと一緒に入りその呼吸がお客さんと一緒になり、薄いシャボン玉の皮が破れない。
そういうことは数年に一度あればいい方だと思います。
困っている人に黙って情けを掛ける、掛けられた恩を忘れない、これが男気だと思います。
講談教室を17,8年やっています。
盛況で小学6年生も入ってきました。
昭和17年生まれ、昭和36年新劇俳優としてデビュー、歌舞伎界を経て昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。
これまでに第一回講談奨励賞、第六回放送演芸大賞ホープ賞、第43回文化庁芸術祭賞受賞。
「赤穂義士伝」、「祐天吉松」、「村井長庵」など数々の古典の連続物などを中心に幅広く活躍されています。
松鯉さんがこだわりを見せるのは連続ものと男の美学です。
講釈師の声帯ではないと講釈ができにくいところがある。
昔は綺麗な声だと言われました。
新劇の役者の時に声学もやっていますが、講釈は作り上げた声です。
空気の出入りが時速300km/hと言われます。
擦すれて傷ができそのうち固まってきて声帯が一面たこになり、講釈の声帯になります。
腹式呼吸でズーとやっていたら高い声がでなくなってしまったが。
この声になったのは10~20年前ですかね。
身体の力が抜けたからかもしれないが高い声も出るようになりました。
昭和20年8月15日未明に大空襲がありました。(3歳の時の伊勢崎大空襲)
日本最後の本土大空襲、家が焼けてしまって前橋に引っ越しました。
4人兄弟の長男で、惣領の甚六でした。
中、高校時代に役者になりたいと思いました。
文学少年で詩を書いて本も読みました。
水戸黄門記など読んでいました。
言葉を矯正しようと思ってアナウンス学校に行きました。
その後劇団文化座の研究所に入り勉強しました。
2年で卒業して俳優集団民衆舞台(桑山正一さんが創設)に入りました。
旗揚げ公演に出演しました。
或る人が紹介してくれて、歌舞伎をやらないかと言われました。
2代目中村歌門先生に入門して1年位いました。
楽屋を肌で感じたことは大きかったです。
昭和45年二代目神田山陽さんに入門、講談の世界に入りました。(27歳)
演劇の朗読は基本なので喋ると、桑山さんがお前は講談だと言われ続けて来ました。
何処がそうなのか本物の講談を聞いたが判らず、いっそ講釈師になろうと思ったのかもしれない。
当時二代目神田山陽師匠はとっつきやすさがありました。
師匠の芸は明快で軽いんで、だから受けます。
私はいくらやっても軽さはでなくて重いんです、或る時点からそうなりました。
「ゆうた」(お面をかぶって幽霊の役をやってお客さんの周りを回る)をひと夏で120回位やったことがあります。(師匠が怪談を120高座をやっているという事)
昭和52年真打ちになる。(7年でなりましたが、いまは13~15年かかります。)
講釈師の世界では当時分裂していたりしていました。
昭和63年度の第43回文化庁芸術祭賞受賞
平成4年「3代目神田松鯉」を襲名。
2代目神田松鯉師匠に対してうちの師匠は「おやじ」と呼んでいて親しみを持っていたようで、その師匠から神田松鯉を継がないかと言われていて、まだまだと思っていました。
2代目神田松鯉師匠のご遺族まで紹介されて、松鯉を襲名することになりました。
2代目神田松鯉師匠とは芸風が違うが、自分なりの松鯉を作っていこうと思いました。
ネタはだいたい500席はあります。
講談には連続物と一席物があります。
徳川天一坊は20席の連続物になります。
連続物のいいところだけ取る、いいとこ読みが多いですが、連続物にこだわっています。
連続物は山場とだれ場もありますが、だれ場をどうやって工夫してお客さんに聞いてもらうか、これが勉強になります、講釈師の技量にもつながってきます。
明治時代は一人の講釈師が1カ月2カ月かけて連続物をやっていました。
戦後になって連続物をやる場所がなくて、一席物をやることになっただけですから。
本来の形を継承しておきたい。
最初「三方ヶ原」から教えます。
全6巻ある、これが基本なのでまずこれから教えます。
その後武芸物を教えます。(宮本武蔵伝など)
もう一つが男の美学、わたしの人生のテーマです、義侠心が最大のテーマです。
それぞれの立場で男の美学がある。
保身に走らない、自己犠牲・・・敬天愛人に近いのではないか。
こうありたいと柱を立てると無意識に近づいてゆくと思う。
芸はお客様と一緒に作り上げるものだと思う。
シャボン玉理論、シャボン玉のなかにお客さんと一緒に入りその呼吸がお客さんと一緒になり、薄いシャボン玉の皮が破れない。
そういうことは数年に一度あればいい方だと思います。
困っている人に黙って情けを掛ける、掛けられた恩を忘れない、これが男気だと思います。
講談教室を17,8年やっています。
盛況で小学6年生も入ってきました。
2018年6月27日水曜日
西川右近(日本舞踊家 西川流総師) ・"芸どころ名古屋"をふたたび
西川右近(日本舞踊家 西川流総師) ・"芸どころ名古屋"をふたたび
1939年名古屋市生まれ、79歳、3歳で初舞台、芸歴は70年以上。
2014年まで31年間西川流の家元を務めて来る。
その経験、日本舞踊の枠にとどまらない多彩な活動について伺います。
日本舞踊は色々な流儀がある。
日本舞踊協会に所属しているだけで200以上あります。
江戸時代まで遡っていくと3つ位の流派なんです。
お茶、お能のように一つの哲学をつくった人がいないから沢山の流派が出来ているが、比較的古い歴史があるのが西川流です。
初代西川西川鯉三郎という人は元々は江戸にいたが、名古屋に行った時が江戸の終わりの頃です。
東京では弟子が継ぐことになった時に、一番、二番目に古い方が亡くなってしまった。
一番若い人が花柳流の流祖になっている。
三番目の人が名古屋に行って西川流となり家元西川流となっています。
現在弟子は全国4800人ぐらいいますが、そこで弟子を持っていたり把握はできないです。
私自身は東京、金沢、大阪など色々行っています。
家元時代は全国を駆け巡っていましたが、3年前から息子が家元になったので、少なくなってきました。
初舞台は3歳といわれるが、お猿さんの恰好をしているのは覚えている。
父と母は6代目菊五郎師匠の弟子でした。
名古屋に西川流を継ぐ人がいなくて師匠に言われて名古屋に行きました。
4,5歳で戦争の慰問隊として一緒に連れていかされました。
6歳で初めて、父が名古屋をどりを県からの要請で踊った時に一緒に踊りました。(昭和20年9月)
劇場の窓ガラスが割れるほどの大入り満員でした。(心の癒し)
焼け野原にバラックが建ち屋根が出来てきて、人間の復興の力を子供心に凄いと思いました。
二回目御園座でやったのが戦後3年目でした。
今の名古屋をどりよりもその頃の名古屋をどりの方がお客様から切望されていたと思います。
疎開先のおばあちゃんが畑から内緒だよと言ってトウモロコシを持ってきて、醤油を付けて焼いて食べさせてくれたのが生涯で一番おいしかったと思います。
先代の尾上松緑師匠には部屋子のように可愛がってもらいました。
よく御園座へ行って遊んでいました。
劇場での折り箱の寿司を握るお手伝いなどもしました。
或る時6世藤間勘十郎師匠(後の2代目藤間勘祖)を見た瞬間に判らないが、踊りをやりたいと思いました。(15,6歳の頃)
それまではおだてられて踊らされていた。
自分の手本を発見して、いっぺんに踊りが好きになってしまいました。
名古屋をどり 舞踊の大衆化に重きを置いていい先生と出会って舞踊劇を作って、それが川端康成先生、北条秀司先生、吉川英治先生、船橋先生など数えたらきりがないです。
そういった先生方と出会ったのも踊りを好きになった要因かもしれません。
川端康成先生の弟子になりたいと言った時もありました。
僕たちは切符を売りたいと言ったが、北条秀司先生からは稽古稽古と言われました。
「稽古が十分してあってお客がいない舞台と、お客が一杯いて稽古がしていない舞台とお前たちどっちがいいんだ」と言われました。(本当にいい勉強になりました。)
私の人生は自分の努力というよりも、良い方に恵まれたということが一番大きいと思います。
出演者も長谷川和夫さん、美空ひばりさん、市川 笑三郎さん、アグネス・ラムさん、佐久間良子さん、山本富士子さんなど色んな方がゲスト出演させて頂きました。
美空ひばりさんからは「どうして私を呼んでくれないの」と言われたが、「呼ぶほどのギャラが払えないし忙しいそうなので」といったら、「それが水臭いというのよ」といって出て下さいました。
出ていただいたが、当日はお母さんが手術をする日でした。
3日間来てくれましたが。舞台を終わるとさっと帰って行って母の所に行っていたようですが、我々には悟られないようにふるまっていました。
舞踊劇の執筆など30数本、エッセー、時代小説など書いています。
対談、ラジオのパーソナリティーなどもやってきました。
ラジオドラマ、TVの仕事にも関わりました。
TVドラマが始まって2年間ぐらいやった所から「中学生日記」が始まりました。
日本舞踊を取り入れたエクササイズ。
病気をして筋力が衰えたが踊りの稽古をしたら筋力が戻ってきて、身体に効く事があるのではと思って、平成14年ぐらいから湯浅景元先生(元中京大学教授)に踊りが運動になるかを聞いたら、興味があるので日本の踊りをスポーツ化したサイエンスにしようと言うことで、機器を取り付けたりして血圧、脈拍など色んなデータを取りました。
動きが緩やかなので高齢者の介護予防、幼稚園などに取り入れてもらっています。
平成19,21年にかけて厚生労働省のモデル事業にもなりました。
筋力を鍛えることと、コミュニティーを作ること、ミスしたりして笑って運動するそれが大事だと思います。
イベントをプロデュース、対談(鳳蘭さん、原辰徳さん、市川 笑三郎さんなど)とか。
人に会うことは勉強になるが、その人の凄さを知らずに終わってしまうのはもったいない。
ものを見るとつい興味がわく、妻を8年間在宅介護して亡くなってしまったが、在宅介護も興味が起こります。
どうやると被介護者が楽しい毎日を送れるかを演出して行くか、踊りは演出家なので、こうやると喜ぶみたいだと興味が湧いてくる。
気づく、それが面白い。
2018年中日劇場が閉館、5年ぶりに御園座が生まれ変わる。
坪内逍遥先生の少年期に見た歌舞伎の印象の本があるが、昔名古屋は芸どころと言われていたと書かれていて、今後名古屋はどうなっていくんだろうと書かれている。
名古屋にしかないというものを作らないといけないと思います。
1939年名古屋市生まれ、79歳、3歳で初舞台、芸歴は70年以上。
2014年まで31年間西川流の家元を務めて来る。
その経験、日本舞踊の枠にとどまらない多彩な活動について伺います。
日本舞踊は色々な流儀がある。
日本舞踊協会に所属しているだけで200以上あります。
江戸時代まで遡っていくと3つ位の流派なんです。
お茶、お能のように一つの哲学をつくった人がいないから沢山の流派が出来ているが、比較的古い歴史があるのが西川流です。
初代西川西川鯉三郎という人は元々は江戸にいたが、名古屋に行った時が江戸の終わりの頃です。
東京では弟子が継ぐことになった時に、一番、二番目に古い方が亡くなってしまった。
一番若い人が花柳流の流祖になっている。
三番目の人が名古屋に行って西川流となり家元西川流となっています。
現在弟子は全国4800人ぐらいいますが、そこで弟子を持っていたり把握はできないです。
私自身は東京、金沢、大阪など色々行っています。
家元時代は全国を駆け巡っていましたが、3年前から息子が家元になったので、少なくなってきました。
初舞台は3歳といわれるが、お猿さんの恰好をしているのは覚えている。
父と母は6代目菊五郎師匠の弟子でした。
名古屋に西川流を継ぐ人がいなくて師匠に言われて名古屋に行きました。
4,5歳で戦争の慰問隊として一緒に連れていかされました。
6歳で初めて、父が名古屋をどりを県からの要請で踊った時に一緒に踊りました。(昭和20年9月)
劇場の窓ガラスが割れるほどの大入り満員でした。(心の癒し)
焼け野原にバラックが建ち屋根が出来てきて、人間の復興の力を子供心に凄いと思いました。
二回目御園座でやったのが戦後3年目でした。
今の名古屋をどりよりもその頃の名古屋をどりの方がお客様から切望されていたと思います。
疎開先のおばあちゃんが畑から内緒だよと言ってトウモロコシを持ってきて、醤油を付けて焼いて食べさせてくれたのが生涯で一番おいしかったと思います。
先代の尾上松緑師匠には部屋子のように可愛がってもらいました。
よく御園座へ行って遊んでいました。
劇場での折り箱の寿司を握るお手伝いなどもしました。
或る時6世藤間勘十郎師匠(後の2代目藤間勘祖)を見た瞬間に判らないが、踊りをやりたいと思いました。(15,6歳の頃)
それまではおだてられて踊らされていた。
自分の手本を発見して、いっぺんに踊りが好きになってしまいました。
名古屋をどり 舞踊の大衆化に重きを置いていい先生と出会って舞踊劇を作って、それが川端康成先生、北条秀司先生、吉川英治先生、船橋先生など数えたらきりがないです。
そういった先生方と出会ったのも踊りを好きになった要因かもしれません。
川端康成先生の弟子になりたいと言った時もありました。
僕たちは切符を売りたいと言ったが、北条秀司先生からは稽古稽古と言われました。
「稽古が十分してあってお客がいない舞台と、お客が一杯いて稽古がしていない舞台とお前たちどっちがいいんだ」と言われました。(本当にいい勉強になりました。)
私の人生は自分の努力というよりも、良い方に恵まれたということが一番大きいと思います。
出演者も長谷川和夫さん、美空ひばりさん、市川 笑三郎さん、アグネス・ラムさん、佐久間良子さん、山本富士子さんなど色んな方がゲスト出演させて頂きました。
美空ひばりさんからは「どうして私を呼んでくれないの」と言われたが、「呼ぶほどのギャラが払えないし忙しいそうなので」といったら、「それが水臭いというのよ」といって出て下さいました。
出ていただいたが、当日はお母さんが手術をする日でした。
3日間来てくれましたが。舞台を終わるとさっと帰って行って母の所に行っていたようですが、我々には悟られないようにふるまっていました。
舞踊劇の執筆など30数本、エッセー、時代小説など書いています。
対談、ラジオのパーソナリティーなどもやってきました。
ラジオドラマ、TVの仕事にも関わりました。
TVドラマが始まって2年間ぐらいやった所から「中学生日記」が始まりました。
日本舞踊を取り入れたエクササイズ。
病気をして筋力が衰えたが踊りの稽古をしたら筋力が戻ってきて、身体に効く事があるのではと思って、平成14年ぐらいから湯浅景元先生(元中京大学教授)に踊りが運動になるかを聞いたら、興味があるので日本の踊りをスポーツ化したサイエンスにしようと言うことで、機器を取り付けたりして血圧、脈拍など色んなデータを取りました。
動きが緩やかなので高齢者の介護予防、幼稚園などに取り入れてもらっています。
平成19,21年にかけて厚生労働省のモデル事業にもなりました。
筋力を鍛えることと、コミュニティーを作ること、ミスしたりして笑って運動するそれが大事だと思います。
イベントをプロデュース、対談(鳳蘭さん、原辰徳さん、市川 笑三郎さんなど)とか。
人に会うことは勉強になるが、その人の凄さを知らずに終わってしまうのはもったいない。
ものを見るとつい興味がわく、妻を8年間在宅介護して亡くなってしまったが、在宅介護も興味が起こります。
どうやると被介護者が楽しい毎日を送れるかを演出して行くか、踊りは演出家なので、こうやると喜ぶみたいだと興味が湧いてくる。
気づく、それが面白い。
2018年中日劇場が閉館、5年ぶりに御園座が生まれ変わる。
坪内逍遥先生の少年期に見た歌舞伎の印象の本があるが、昔名古屋は芸どころと言われていたと書かれていて、今後名古屋はどうなっていくんだろうと書かれている。
名古屋にしかないというものを作らないといけないと思います。
2018年6月26日火曜日
中村元(水族館プロデューサー) ・弱点を武器に
中村元(水族館プロデューサー) ・弱点を武器に
62歳、大学卒業後三重県内の水族館に入社した中村さんはアシカのトレーナーとしてスタートした後、ラッコ、ジュゴンなど当時は無名だった動物を前面に押し出し、当時ブームの立役者として活躍しました。
2001年水族館を退社した後、日本初の水族館プロデューサーとして全国各地の水族館のリニューアルなどを担当します。
それぞれの水族館の弱点を進化の武器に変える手法でリニューアルを成功させてきました。
水族館の仕事と合わせ中村さんが力を入れているのが、バリアーフリーの観光地作りです。
障害がある人、高齢者が安心して旅ができる観光地作りを進め、訪れる人を増やすのが目標です。
ビルのてっぺんに水族館を作ろうとすると、水の重さが大変です。
そうすると大きな水槽が作れなくなる。
厳しかったのは屋上を使うことでした。(建築基準法上使いにくい場所)
この弱点をどうやってクリアーしようかと思ったのが、ペンギンの水槽でした。
空をバックにしたら少ない水で広く見える。
ペンギンを飛ばせて見せようという大それたことではなくて、空をバックにいかに広く見せようかと思いました。
生き生きした姿は水中から見上げると見られ、目を合わすこともできる、そういった感動を見せたいと思いました。
大学卒業後三重県内の水族館に入社。
特に水族館、動物が好きという訳ではなった。
動物の事を知っておかないと経営、営業ができる訳ではないので3年間やらせてほしいと頼み込みました。
魚の種類など全く知らなかったが、1万種以上載っている本を買わされて全部覚えろと言われました。
アシカとペンギンに興味を持ちましてアシカを担当することに決めました。
ショーに出せないアシカを言う事を聞くようにして欲しいと言われて、接すると性格の違いを感じて、性格に合わせて何かをしてあげると色んな事が出来るようになって来るんです。
決まったやり方では駄目なアシカたちでした。
そのアシカ達を使って1年後にデビューしたんです。
今までのショーとは全く違ったショーでした。
お客さんが笑って楽しむショーにしました。
輪を投げるのをわざと一回失敗させて、そうするとアシカが台から降りてきて咥えて自分の首に通す、アシカが主人公になり拍手喝さいとなる。
水族館は動物の凄さを見せるものだと思っています。
3年後営業に移りましたが、従来のやり方ではお客さんは増えないだろうと感じました。
大学時代は映画を作ったりしていたので、スナメリ(ネズミイルカ科)の出産をビデオで撮りました。
へその緒がぷつんと切れるところまで映りました。
NHKのTVの知り合いに電話したら興奮して是非送って欲しいとのことで送ったら、世界で初めての映像と言うことで次の日からTVで全国放送になってどんどん放映されました。
次の週の土、日からお客さんが一杯来ました。
団体旅行に頼っていてはだめだと言うことも判りました。
個人を対象にするにはメディアを利用することだと思って、広報担当が必要だと思いました。
タツノオトシゴは魚だとは一般には判らない、卵ではなく同じ形の赤ちゃんがオスのお腹から出てくる、物凄く面白いと思った。
TVを呼びましょうと言ったが、周りはそれほど面白い話ではないと言っていました。
二人での広報を作ってラッコ、ジュゴンなど面白いことを撮って、お客さんが沢山来てくれました。
副館長になり、経営のやり方などの違いもあって辞めることにしました。
或る出資者からの水族館のリニューアルの話がありそのお手伝いをしました。
それがきっかけとなり水族館プロデューサーになりました。
最後までかかわったのが7館有ります。
条件が悪ければ悪いほど燃えてしまいます。
北海道の北見市の「北の大地の水族館」は弱点だらけでした。
大雪山のふもとで人が住んでいない、北見市の市街地から1時間かかってしまう。
お金も掛けられないということで2億5000万円とのことで、建て直しだけで3億円でも厳しく、淡水魚しか飼えないということだった。
北海道の魚か熱帯淡水魚(ペットショップで売っている魚)しかいない。
日本一の貧乏水族館だけれど世界初を持っているという事を使おうとずーっと言いつづけました。
水塊を見せようと、湖に潜って美しいと思われる光景を作ろうと考えました。
オショロコマ(イワナの仲間)を見せるために滝壺の水槽(滝壺を見上げる水槽)を考えました。
白い泡が凄い勢いで流れ、そこにオショロコマの群れが集まってくるそういうふうにしました。
安くするために外に穴を掘って窓を付けて水槽にしました、流れる川にしました。
冬は寒いので川が凍るので氷の下を見せる世界初の水槽です、というのを作りました。
いまでも大人気で真冬でもお客さんが来てくれます。
年間2万人のお客さんだったのが、年間30万人来るようになり、7年目になっているが10万人は来ています。
三重県にいたころに伊勢志摩の観光客を増やすように知事から言われて、バリアーフリーを考えました。(お客さんの層を増やす事、障害者、高齢者を受け入れる)
お客さんは感動するところに行きたい、そこが大事だと思う。
バリアーフリーの情報よりもバリアーの状況が知りたい(段差のレベルなど)との事。
観光地はコミュニティーのマーケット、一人でも行きたくないと言う人がいれば行けない。
コミュニティーのマーケットは体の不自由な人が基準になる。
完璧なバリアーフリーしなくてもいいと思っている。
最初は伊勢志摩の観光客を増やすということで始めたが、今は関係ないがボランティアで続けています。
ニッチ産業でニッチなことばっかりやっていて成功して、ニッチをメジャーにして行くトリックを使って上手くできたのかと思います。
次の世代の育成に頑張っていきたいと思います。
62歳、大学卒業後三重県内の水族館に入社した中村さんはアシカのトレーナーとしてスタートした後、ラッコ、ジュゴンなど当時は無名だった動物を前面に押し出し、当時ブームの立役者として活躍しました。
2001年水族館を退社した後、日本初の水族館プロデューサーとして全国各地の水族館のリニューアルなどを担当します。
それぞれの水族館の弱点を進化の武器に変える手法でリニューアルを成功させてきました。
水族館の仕事と合わせ中村さんが力を入れているのが、バリアーフリーの観光地作りです。
障害がある人、高齢者が安心して旅ができる観光地作りを進め、訪れる人を増やすのが目標です。
ビルのてっぺんに水族館を作ろうとすると、水の重さが大変です。
そうすると大きな水槽が作れなくなる。
厳しかったのは屋上を使うことでした。(建築基準法上使いにくい場所)
この弱点をどうやってクリアーしようかと思ったのが、ペンギンの水槽でした。
空をバックにしたら少ない水で広く見える。
ペンギンを飛ばせて見せようという大それたことではなくて、空をバックにいかに広く見せようかと思いました。
生き生きした姿は水中から見上げると見られ、目を合わすこともできる、そういった感動を見せたいと思いました。
大学卒業後三重県内の水族館に入社。
特に水族館、動物が好きという訳ではなった。
動物の事を知っておかないと経営、営業ができる訳ではないので3年間やらせてほしいと頼み込みました。
魚の種類など全く知らなかったが、1万種以上載っている本を買わされて全部覚えろと言われました。
アシカとペンギンに興味を持ちましてアシカを担当することに決めました。
ショーに出せないアシカを言う事を聞くようにして欲しいと言われて、接すると性格の違いを感じて、性格に合わせて何かをしてあげると色んな事が出来るようになって来るんです。
決まったやり方では駄目なアシカたちでした。
そのアシカ達を使って1年後にデビューしたんです。
今までのショーとは全く違ったショーでした。
お客さんが笑って楽しむショーにしました。
輪を投げるのをわざと一回失敗させて、そうするとアシカが台から降りてきて咥えて自分の首に通す、アシカが主人公になり拍手喝さいとなる。
水族館は動物の凄さを見せるものだと思っています。
3年後営業に移りましたが、従来のやり方ではお客さんは増えないだろうと感じました。
大学時代は映画を作ったりしていたので、スナメリ(ネズミイルカ科)の出産をビデオで撮りました。
へその緒がぷつんと切れるところまで映りました。
NHKのTVの知り合いに電話したら興奮して是非送って欲しいとのことで送ったら、世界で初めての映像と言うことで次の日からTVで全国放送になってどんどん放映されました。
次の週の土、日からお客さんが一杯来ました。
団体旅行に頼っていてはだめだと言うことも判りました。
個人を対象にするにはメディアを利用することだと思って、広報担当が必要だと思いました。
タツノオトシゴは魚だとは一般には判らない、卵ではなく同じ形の赤ちゃんがオスのお腹から出てくる、物凄く面白いと思った。
TVを呼びましょうと言ったが、周りはそれほど面白い話ではないと言っていました。
二人での広報を作ってラッコ、ジュゴンなど面白いことを撮って、お客さんが沢山来てくれました。
副館長になり、経営のやり方などの違いもあって辞めることにしました。
或る出資者からの水族館のリニューアルの話がありそのお手伝いをしました。
それがきっかけとなり水族館プロデューサーになりました。
最後までかかわったのが7館有ります。
条件が悪ければ悪いほど燃えてしまいます。
北海道の北見市の「北の大地の水族館」は弱点だらけでした。
大雪山のふもとで人が住んでいない、北見市の市街地から1時間かかってしまう。
お金も掛けられないということで2億5000万円とのことで、建て直しだけで3億円でも厳しく、淡水魚しか飼えないということだった。
北海道の魚か熱帯淡水魚(ペットショップで売っている魚)しかいない。
日本一の貧乏水族館だけれど世界初を持っているという事を使おうとずーっと言いつづけました。
水塊を見せようと、湖に潜って美しいと思われる光景を作ろうと考えました。
オショロコマ(イワナの仲間)を見せるために滝壺の水槽(滝壺を見上げる水槽)を考えました。
白い泡が凄い勢いで流れ、そこにオショロコマの群れが集まってくるそういうふうにしました。
安くするために外に穴を掘って窓を付けて水槽にしました、流れる川にしました。
冬は寒いので川が凍るので氷の下を見せる世界初の水槽です、というのを作りました。
いまでも大人気で真冬でもお客さんが来てくれます。
年間2万人のお客さんだったのが、年間30万人来るようになり、7年目になっているが10万人は来ています。
三重県にいたころに伊勢志摩の観光客を増やすように知事から言われて、バリアーフリーを考えました。(お客さんの層を増やす事、障害者、高齢者を受け入れる)
お客さんは感動するところに行きたい、そこが大事だと思う。
バリアーフリーの情報よりもバリアーの状況が知りたい(段差のレベルなど)との事。
観光地はコミュニティーのマーケット、一人でも行きたくないと言う人がいれば行けない。
コミュニティーのマーケットは体の不自由な人が基準になる。
完璧なバリアーフリーしなくてもいいと思っている。
最初は伊勢志摩の観光客を増やすということで始めたが、今は関係ないがボランティアで続けています。
ニッチ産業でニッチなことばっかりやっていて成功して、ニッチをメジャーにして行くトリックを使って上手くできたのかと思います。
次の世代の育成に頑張っていきたいと思います。
2018年6月25日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】ゴッホ
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】ゴッホ
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」 ゴッホ
「ひまわり」、「夜のカフェテラス」、「糸杉」 など沢山の作品がある。
ゴッホは日本びいき、浮世絵などに興味を持つ。
1853年オランダ生まれ(黒船到来の年)、南フランスで沢山の名画を描いた。
画家として活躍したのは10年間。
画家を目指したのは27歳と遅い。
37歳で亡くなっている。
生きている間は一点しか売れなかったという。
弟テオが画商をしていて仕送りをして貰って生活していた。
ゴッホは手紙を多く書いていて、弟に対してが特に多い。
ゴッホは確認されているだけで800通以上になる。
ゴッホが亡くなり、弟も亡くなり弟テオの妻ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、書簡集が評判になり有名になる。
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」
この手紙を書いた時期は悲しい状況だった。
若いころで初期の名作「ジャガイモを食べる人々」を書いた後ぐらい。
食費を切り詰めて体が衰弱して歯が欠けたりした時期だった。
自分がそのような状況であるならば、楽しそうに歩いている姿を本来妬ましいはずだが、他の人が悲しいであろうことに目を向けている。(共感)
25歳のころに伝道師になろうとして修行するが、熱心すぎて貧しい人にあげてしまい自分は裸同然で歩いたりして、持っているものをあげてしまい、やり過ぎると言うことで追い出されてしまう。
ゴッホの特徴はいつも熱心すぎて常にうまくいかない。
小林秀雄はゴッホは炎の人で「いつも沸騰している精神」と言っている。
「怠惰と性格の無気力、本性の下劣さなどからくるのらくら者がいる。
君が僕をその手の人間だと判断したければしたらいい。
他方、それとは違うのらくら者、不本意ののらくら者がいる。
こちらは心の中では活動への大きな欲求にさいなまれながらも何もしていない。
それは彼が何一つすることが不可能な状態にあるからだ。」(弟テオへの手紙)
不本意なのらくら者、自分は内に秘めたものは有るんだけれどでもできない、社会の中でそうなってしまうこともある。
ゴッホは中学校中退しているが、勉強ができなかった訳ではない。
英語、ドイツ語、フランス語などを使いこなしている。
手紙も文学性も高い。
親は大学まで行かせる予定だったが、自分で中退してしまっている。
性格的な問題でおそらく学校が合わなかったと思われる。
学歴がなく無職になって、金銭的に弟の世話になる。
「人は往々にしてなんとも得体のしれぬ恐ろしい籠、実に実に恐ろしい檻の中の囚人となって何もできない手詰まり状態に置かれてしまう。
われわれを閉じ込めるものが何か、壁の中に囲い込むものが何か、埋葬してしまうらしいものは何か、人は必ずしもそれを言うことができない、が、それでも何か得体のしれない柵を格子を壁を感じ取っている。
そこで人は自問する。
ああ、こんなことが長く続くのか、いつまでも永久にこうなのか。」
檻とか籠とかをかならずしも、それを言葉に表すことができないと言っている。
私(頭木)が「自分で何を悩んでいるかわからない」と言ったら、大笑いされて「自分で何を悩んでいるか判らないということはあり得ない」と一笑されて、悩みははっきりしているもんだと受け付けられなかった。
悩みは正体不明な悩みもあることは感じる。
悩みの言語化、数値化を求められるが、言語化、数値化をしないと解決策も出てこない、それが出来ないという事は良くないとされて、なんともいえないもやもやしたものは除外されて考えられる。
あの女=ゴッホが真剣に結婚しようと考えた女性。
ゴッホは彼女を娼婦と書いていて、子供がいてしかも妊娠中だった。
彼女に会ってゴッホは放っておけなくなった。
周囲から結婚を反対されて、彼女に問題があることは知っていたが、でもゴッホは「彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」と言っているのが素晴らしいと思う。
不摂生で病気になったとしても、自業自得だと言う人もいるが、仮に100%不摂生で病気になったとしても、自業自得だったとしても、病気の苦しみは大き過ぎると思う。
ゴッホはそれを感じている。
周囲が強烈に引き裂こうとするので別れることになるが、ゴッホは彼女が出産して落ち着くまで見届けています。 安産にならなくて手術になって大変だったので、ゴッホがいなかったらどうなっていたのか判らない。
「僕の判断する限りでは世間には僕の様に何事も思うようにいかず、働き通した末何処に助け様も無い状態に追い込まれる人々が他にもいるのだ。」 (ゴーギャンへの手紙)
見えている人たちはなんとかやっている人達で、収入はあるし動けてるし、ものは持てるが、そういうことができない人達は出歩かないので目に見えない。
そういうのをゴッホは感じ取っている。
「絵で生計をたてられるようになったら、どんなに幸せかと思う。
あんなにたくさん油絵を描いて、一枚も売れないとなると実に情けない。」 (ゴッホ)
10年間に2000点を描いているが、弟が画商をやっているが売れない、苦しい。
どうしようもない所に追い込まれている人がいる、そういう所に目を向けようとしているところがいいなあと思います。
ついにゴッホは自殺してしまうが、最近は自殺ではなかったかもしれないという説が出てきている。
2011年に他殺説を発表した。
「ファン・ゴッホの生涯」という分厚い本。(ピューリッツァー賞受賞コンビによる奇跡的ゴッホ伝。)
この中で他殺説が紹介されている。
自殺に関しては不可解なことが色々あった。
ピストル自殺で自分で撃ったということだが、自分で撃った割には角度がおかしい。
絵を描きに出かけていたが、画材などが全部消えている。 謎の自殺だった。
他殺説がかなり有力な説として出てきている。
この本によると、当時ゴッホをいじめていた村の16歳の少年がいた。
そのうちの一人はピストルを持っていて、ゴッホをからかっているうちに銃が暴発して、ゴッホに当たってしまったのではないかというのが新しい説です。
ゴッホは家に戻って「治療してくれ」と言っているが、それも納得する。
でもゴッホは「自分で自分を傷つけた」とはっきり言っている。
だから自殺だと言われている。
ゴッホの人柄を考えると、少年には未来があるので少年をかばって、自分が撃ったことにしたということにすれば納得がいく訳です。
調べに来た警官に「だれも責めないでください、自分を殺したかったのは僕なんです」と言っている。
自殺と考えるとちょっと変で、誰かをかばったとしたら言葉として自然です。
もしそうだとすると自分をいじめた少年までかばって、人の為にかばいながら死んだゴッホらしいと思います。
「絵を描くのは悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術を作ることです。」(ゴーギャンへの手紙)
悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術、これこそゴッホが生涯を通じて目指していたことではないかと思う。
「芸術の中には何と多くの美しいものがあることか、人が見たものを記憶にとどめておくことができる限り、決してむなしいとか本当に孤独だとか言うことはない。
決して独りぼっちにはならない。」 (弟への手紙)
ヴェートーベンもゴッホも同じ様な境地にたどり着いているが、コースが逆で、芸術から入った人、人を助けたいという気持ちから入った人、両者が芸術は悲しみに傷ついた心を慰める事が出来るんだという境地に、別ルートからたどり着く、そこが面白い。
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」 ゴッホ
「ひまわり」、「夜のカフェテラス」、「糸杉」 など沢山の作品がある。
ゴッホは日本びいき、浮世絵などに興味を持つ。
1853年オランダ生まれ(黒船到来の年)、南フランスで沢山の名画を描いた。
画家として活躍したのは10年間。
画家を目指したのは27歳と遅い。
37歳で亡くなっている。
生きている間は一点しか売れなかったという。
弟テオが画商をしていて仕送りをして貰って生活していた。
ゴッホは手紙を多く書いていて、弟に対してが特に多い。
ゴッホは確認されているだけで800通以上になる。
ゴッホが亡くなり、弟も亡くなり弟テオの妻ヨーが3巻の『ファン・ゴッホ書簡集』を出版し、書簡集が評判になり有名になる。
「春なのだ、しかし何と沢山な沢山な人々が悲しげに歩いていることか」
この手紙を書いた時期は悲しい状況だった。
若いころで初期の名作「ジャガイモを食べる人々」を書いた後ぐらい。
食費を切り詰めて体が衰弱して歯が欠けたりした時期だった。
自分がそのような状況であるならば、楽しそうに歩いている姿を本来妬ましいはずだが、他の人が悲しいであろうことに目を向けている。(共感)
25歳のころに伝道師になろうとして修行するが、熱心すぎて貧しい人にあげてしまい自分は裸同然で歩いたりして、持っているものをあげてしまい、やり過ぎると言うことで追い出されてしまう。
ゴッホの特徴はいつも熱心すぎて常にうまくいかない。
小林秀雄はゴッホは炎の人で「いつも沸騰している精神」と言っている。
「怠惰と性格の無気力、本性の下劣さなどからくるのらくら者がいる。
君が僕をその手の人間だと判断したければしたらいい。
他方、それとは違うのらくら者、不本意ののらくら者がいる。
こちらは心の中では活動への大きな欲求にさいなまれながらも何もしていない。
それは彼が何一つすることが不可能な状態にあるからだ。」(弟テオへの手紙)
不本意なのらくら者、自分は内に秘めたものは有るんだけれどでもできない、社会の中でそうなってしまうこともある。
ゴッホは中学校中退しているが、勉強ができなかった訳ではない。
英語、ドイツ語、フランス語などを使いこなしている。
手紙も文学性も高い。
親は大学まで行かせる予定だったが、自分で中退してしまっている。
性格的な問題でおそらく学校が合わなかったと思われる。
学歴がなく無職になって、金銭的に弟の世話になる。
「人は往々にしてなんとも得体のしれぬ恐ろしい籠、実に実に恐ろしい檻の中の囚人となって何もできない手詰まり状態に置かれてしまう。
われわれを閉じ込めるものが何か、壁の中に囲い込むものが何か、埋葬してしまうらしいものは何か、人は必ずしもそれを言うことができない、が、それでも何か得体のしれない柵を格子を壁を感じ取っている。
そこで人は自問する。
ああ、こんなことが長く続くのか、いつまでも永久にこうなのか。」
檻とか籠とかをかならずしも、それを言葉に表すことができないと言っている。
私(頭木)が「自分で何を悩んでいるかわからない」と言ったら、大笑いされて「自分で何を悩んでいるか判らないということはあり得ない」と一笑されて、悩みははっきりしているもんだと受け付けられなかった。
悩みは正体不明な悩みもあることは感じる。
悩みの言語化、数値化を求められるが、言語化、数値化をしないと解決策も出てこない、それが出来ないという事は良くないとされて、なんともいえないもやもやしたものは除外されて考えられる。
言葉にできないものって、それだけでも攻撃されてしまう事がある。
ゴッホは炎の人でいつも沸騰しているから、あっちにぶつかりこっちにぶつかり籠を感じると思います。
「籠の鳥も春が来ると、自分が役立つはずの何かがあると強く感ずる。
何かやるべきことがあると強く感ずるが、それをやることはできない。
何なのか、それはどうもよく思い出せない。
そして頭を籠にぶつける、でも籠はびくともせず鳥は苦悩で頭が変になる。」(弟への手紙)
*歌「ビンセント」 アメリカのシンガーソングライターのドン・マクリーンがゴッホに捧げる曲を書いている。 歌詞はゴッホに呼び掛ける様に歌っている。
「僕はとても憂鬱な気持ちでよくあの女と子供達のことを考える。
なんとか暮らしていけたらいいのだが。
それは彼女自身の責任だと人は言えよう。
確かにそうではあろう、ただ彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」 (1883年 ゴッホ30歳の時に弟へあてた手紙)
ゴッホは炎の人でいつも沸騰しているから、あっちにぶつかりこっちにぶつかり籠を感じると思います。
「籠の鳥も春が来ると、自分が役立つはずの何かがあると強く感ずる。
何かやるべきことがあると強く感ずるが、それをやることはできない。
何なのか、それはどうもよく思い出せない。
そして頭を籠にぶつける、でも籠はびくともせず鳥は苦悩で頭が変になる。」(弟への手紙)
*歌「ビンセント」 アメリカのシンガーソングライターのドン・マクリーンがゴッホに捧げる曲を書いている。 歌詞はゴッホに呼び掛ける様に歌っている。
「僕はとても憂鬱な気持ちでよくあの女と子供達のことを考える。
なんとか暮らしていけたらいいのだが。
それは彼女自身の責任だと人は言えよう。
確かにそうではあろう、ただ彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」 (1883年 ゴッホ30歳の時に弟へあてた手紙)
あの女=ゴッホが真剣に結婚しようと考えた女性。
ゴッホは彼女を娼婦と書いていて、子供がいてしかも妊娠中だった。
彼女に会ってゴッホは放っておけなくなった。
周囲から結婚を反対されて、彼女に問題があることは知っていたが、でもゴッホは「彼女の不幸は彼女の責任を越えて大きくなるのではないかと僕は心配している。」と言っているのが素晴らしいと思う。
不摂生で病気になったとしても、自業自得だと言う人もいるが、仮に100%不摂生で病気になったとしても、自業自得だったとしても、病気の苦しみは大き過ぎると思う。
ゴッホはそれを感じている。
周囲が強烈に引き裂こうとするので別れることになるが、ゴッホは彼女が出産して落ち着くまで見届けています。 安産にならなくて手術になって大変だったので、ゴッホがいなかったらどうなっていたのか判らない。
「僕の判断する限りでは世間には僕の様に何事も思うようにいかず、働き通した末何処に助け様も無い状態に追い込まれる人々が他にもいるのだ。」 (ゴーギャンへの手紙)
見えている人たちはなんとかやっている人達で、収入はあるし動けてるし、ものは持てるが、そういうことができない人達は出歩かないので目に見えない。
そういうのをゴッホは感じ取っている。
「絵で生計をたてられるようになったら、どんなに幸せかと思う。
あんなにたくさん油絵を描いて、一枚も売れないとなると実に情けない。」 (ゴッホ)
10年間に2000点を描いているが、弟が画商をやっているが売れない、苦しい。
どうしようもない所に追い込まれている人がいる、そういう所に目を向けようとしているところがいいなあと思います。
ついにゴッホは自殺してしまうが、最近は自殺ではなかったかもしれないという説が出てきている。
2011年に他殺説を発表した。
「ファン・ゴッホの生涯」という分厚い本。(ピューリッツァー賞受賞コンビによる奇跡的ゴッホ伝。)
この中で他殺説が紹介されている。
自殺に関しては不可解なことが色々あった。
ピストル自殺で自分で撃ったということだが、自分で撃った割には角度がおかしい。
絵を描きに出かけていたが、画材などが全部消えている。 謎の自殺だった。
他殺説がかなり有力な説として出てきている。
この本によると、当時ゴッホをいじめていた村の16歳の少年がいた。
そのうちの一人はピストルを持っていて、ゴッホをからかっているうちに銃が暴発して、ゴッホに当たってしまったのではないかというのが新しい説です。
ゴッホは家に戻って「治療してくれ」と言っているが、それも納得する。
でもゴッホは「自分で自分を傷つけた」とはっきり言っている。
だから自殺だと言われている。
ゴッホの人柄を考えると、少年には未来があるので少年をかばって、自分が撃ったことにしたということにすれば納得がいく訳です。
調べに来た警官に「だれも責めないでください、自分を殺したかったのは僕なんです」と言っている。
自殺と考えるとちょっと変で、誰かをかばったとしたら言葉として自然です。
もしそうだとすると自分をいじめた少年までかばって、人の為にかばいながら死んだゴッホらしいと思います。
「絵を描くのは悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術を作ることです。」(ゴーギャンへの手紙)
悲しみに傷ついた心に慰めを与える芸術、これこそゴッホが生涯を通じて目指していたことではないかと思う。
「芸術の中には何と多くの美しいものがあることか、人が見たものを記憶にとどめておくことができる限り、決してむなしいとか本当に孤独だとか言うことはない。
決して独りぼっちにはならない。」 (弟への手紙)
独りぼっちで、虚しくて、孤独な人がいて、でも芸術を見れば不幸が慰められるという事を言っている。 そのための芸術を作るという事が自分にとっては絵を描くことだと、それがゴッホが目指したことだと思うし、ゴッホの魅力はそういうところにあると思います。
ヴェートーベンもゴッホも同じ様な境地にたどり着いているが、コースが逆で、芸術から入った人、人を助けたいという気持ちから入った人、両者が芸術は悲しみに傷ついた心を慰める事が出来るんだという境地に、別ルートからたどり着く、そこが面白い。
2018年6月24日日曜日
紫舟(書家) ・【私の“がむしゃら”時代】
紫舟(書家) ・【私の“がむしゃら”時代】
NHK、2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字や美術番組「美の壺」の題字や番組内の文字を手掛けています。
2010年には書道界の芥川賞と言われるて 手島右卿賞を受賞、伝統的な所から三次元の立体的な書、アニメーションのように文字が動くデジタル作品等新しい作品を手掛け、世界各地の展覧会でも人気を博しています。
書道を始めたのは6歳の時、小学校を卒業する時には八段になっていたと言います。
大学卒業後は神戸のアパレルメーカーで広報の仕事をしますが、3年で退職、将来やりたいことは何なのかを考え続けた結果、書家の道を選びます。
半年後には個展を開くなど自ら活動の場を切り開いて行った紫舟さんですが、書を世界にと意気込んで参加したイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレで挫折を味わったと言います。
書家の道を選ぶまでの悩み抜いた日々、世界の舞台で味わった挫折から何が生まれたのか、伺いました。
祖母が孫全員に日本舞踊と習字を学ばせたいという願いがあり、日本舞踊を3歳から始めて6歳から習字を始めるのがルールでした。
祖母も京都から家元を呼んで自分自身も学んでいました。
私の書の先生はスパルタで夕方から24時を回っても帰らせてくれないし、泣いてみても出来るまで通用しなくて帰らしてくれなかった。
好き嫌いというよりも自分ではしなければならないと思っていました。
才能もセンスもないと思っていました。
先生の熱心さ、費やした時間の長さなどにより周りよりも早く上達したか、位ですね。
上から下に真っ直ぐな線を描くと言うことは今でもできないです。
小学校を卒業する時には八段になっていました。
高校生まで続けていました。(大学に行くために一時辞める)
子供のころから絵を描くことが好きで絵描きになりたいと思っていました。
自分にどんなセンスがあるか、いろんな習いごとをしてみたがどれもダメだった。
やればできると言う自信があったのは結局書だけだった。
書は手放すことはできなかった。(我慢と忍耐を学ぶ)
大学時代に色々考えたが何を選択していいかわからなかった。
大学卒業後、住みたい街に住みたいと思って、神戸で好きな合気道をしようと思いました。
広報の仕事を担当することになり、海外でイベントをするとか、色々と華々しい仕事をしましたが、別に自分がクリエーティブな仕事をする訳ではなかった。
葛藤があり3年は続けようと思っていたが、リセットしないと始まらないと思って、全てを手離してみようと思いました。
会社を辞めるのが初めての自分自身での選択でした。
それまではレールに乗っているだけだと言う思いがありました。
職を探すのにどうしたらいいかわからない時に、合気道の先生から言われた「自分の内面をもっとちゃんと見なくてはいけない」という事を思いだして、3か月は何も決めず自分に聞いてみよう思いました。
自分に問いつづけました。
会社にいるころは会社をバックになんでもできるようにおもっていたが、今は何もできない自分に気づきました。
朝起きると顔が涙で濡れている、そんな日々の中で或る日お腹の奥底に残っていたのが書家でした。
書は好きではないし楽しくもないし才能も無いと思っていて、そこに蓋をしてしまっていたのかもしれません。
小学生のころは書にコンプレックスを持っていたが、年賀状のあて名書きにはオリジナルな字を書いていて褒められたりはしていました。
25歳の時に振り返った時にはそのようなことを思い出したりしました。
書家になると決めて心が軽くなるという経験をして、これを信じようと思ってコンビニで書道道具を買って、書いたものを大阪のギャラリーにいって伊部?さんに見ていただいて、書家になります、個展をさせて下さいと言いました。(半年後に個展をしました。)
お酒のラベルに書が使われたら素敵だなあと思いました。
映画の題字が書けたらいいなあと、書いた字がTVに映ったらどんなに凄いんだろうと、この3つが出来たらいいなあと思いました。
エネルギーを感じさせるような書体で書いたものを1000通以上出しました。
1ヶ月後に依頼をいただいて、最初がVシネマの映画の題字でした。
竹内 力さん主演の「無間地獄」です。
それぞれを生かす為の書を書くことを教えていただきました。
浜崎あゆみさんのミュージックDVD、映画にもなった「月に沈む」の題字も書かせてもらいました。
最初の3か月で願っていた3つのことができました。
最初の個展はさんざんでした。
良い作品だとは思っていましたが、未熟者が書いた未熟な作品だったんでしょうね。
一生やらないと思いましたが、恩人がいて「表現者というものは人に見てもらう事でしか成長しない。・・・」と言われて、発奮することにしました。
2005年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品(審査員枠で出す)
通用していないと実感していて、まざまざと見せつけられて飛行機で泣きながら帰って来たというような感じでした。
世界に通用する表現者になりたいと思って、招待状が来るまでは世界には出ないでいようと思いました。
紙の中に閉じ込められている限り伝わらないのではないかと思って、紙から解放して立体的にしました。
立体造形にすること、文字の歴史をたどってみると紙は最近の技術、紙の誕生よりも前から文字は生まれていて、竹、骨などに書かれていたりしていた。
甲骨文字の彫られていた感じは今も残っている。
文字の歴史を遡ることで立体にすると言う事が誕生しました。
文字は元々立体だった。
「寂」という書、三次元、人の抱えている寂しさを表現するために影だけが異様な雰囲気で揺らめいているという作品です。(内容をよく理解できず)
2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書く。
コンペだったので私は本命でないことは重々承知していて、本を読んだりしました。「龍」は横の線が多くふとったどっしりしたものになりやすいので、福山さんのようなすらっとして龍馬のエネルギッシュな若々しいものにしたいと思って書きました。
海外からも招待されるようになり感謝しています。
フランスは日本の文化を憧れていて、フランスで展示出来て嬉しかったです。
日本語を彫刻にしたが、日本語が判らない筈なのに限りなく近い感想を言い当てて来たりします。
ミラノではこれまでの立体的な作品や最新作なども展示しました。
デジタルも使って文字や絵が動いてゆく作品がある。
NHK、2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字や美術番組「美の壺」の題字や番組内の文字を手掛けています。
2010年には書道界の芥川賞と言われるて 手島右卿賞を受賞、伝統的な所から三次元の立体的な書、アニメーションのように文字が動くデジタル作品等新しい作品を手掛け、世界各地の展覧会でも人気を博しています。
書道を始めたのは6歳の時、小学校を卒業する時には八段になっていたと言います。
大学卒業後は神戸のアパレルメーカーで広報の仕事をしますが、3年で退職、将来やりたいことは何なのかを考え続けた結果、書家の道を選びます。
半年後には個展を開くなど自ら活動の場を切り開いて行った紫舟さんですが、書を世界にと意気込んで参加したイタリアのヴェネツィア・ビエンナーレで挫折を味わったと言います。
書家の道を選ぶまでの悩み抜いた日々、世界の舞台で味わった挫折から何が生まれたのか、伺いました。
祖母が孫全員に日本舞踊と習字を学ばせたいという願いがあり、日本舞踊を3歳から始めて6歳から習字を始めるのがルールでした。
祖母も京都から家元を呼んで自分自身も学んでいました。
私の書の先生はスパルタで夕方から24時を回っても帰らせてくれないし、泣いてみても出来るまで通用しなくて帰らしてくれなかった。
好き嫌いというよりも自分ではしなければならないと思っていました。
才能もセンスもないと思っていました。
先生の熱心さ、費やした時間の長さなどにより周りよりも早く上達したか、位ですね。
上から下に真っ直ぐな線を描くと言うことは今でもできないです。
小学校を卒業する時には八段になっていました。
高校生まで続けていました。(大学に行くために一時辞める)
子供のころから絵を描くことが好きで絵描きになりたいと思っていました。
自分にどんなセンスがあるか、いろんな習いごとをしてみたがどれもダメだった。
やればできると言う自信があったのは結局書だけだった。
書は手放すことはできなかった。(我慢と忍耐を学ぶ)
大学時代に色々考えたが何を選択していいかわからなかった。
大学卒業後、住みたい街に住みたいと思って、神戸で好きな合気道をしようと思いました。
広報の仕事を担当することになり、海外でイベントをするとか、色々と華々しい仕事をしましたが、別に自分がクリエーティブな仕事をする訳ではなかった。
葛藤があり3年は続けようと思っていたが、リセットしないと始まらないと思って、全てを手離してみようと思いました。
会社を辞めるのが初めての自分自身での選択でした。
それまではレールに乗っているだけだと言う思いがありました。
職を探すのにどうしたらいいかわからない時に、合気道の先生から言われた「自分の内面をもっとちゃんと見なくてはいけない」という事を思いだして、3か月は何も決めず自分に聞いてみよう思いました。
自分に問いつづけました。
会社にいるころは会社をバックになんでもできるようにおもっていたが、今は何もできない自分に気づきました。
朝起きると顔が涙で濡れている、そんな日々の中で或る日お腹の奥底に残っていたのが書家でした。
書は好きではないし楽しくもないし才能も無いと思っていて、そこに蓋をしてしまっていたのかもしれません。
小学生のころは書にコンプレックスを持っていたが、年賀状のあて名書きにはオリジナルな字を書いていて褒められたりはしていました。
25歳の時に振り返った時にはそのようなことを思い出したりしました。
書家になると決めて心が軽くなるという経験をして、これを信じようと思ってコンビニで書道道具を買って、書いたものを大阪のギャラリーにいって伊部?さんに見ていただいて、書家になります、個展をさせて下さいと言いました。(半年後に個展をしました。)
お酒のラベルに書が使われたら素敵だなあと思いました。
映画の題字が書けたらいいなあと、書いた字がTVに映ったらどんなに凄いんだろうと、この3つが出来たらいいなあと思いました。
エネルギーを感じさせるような書体で書いたものを1000通以上出しました。
1ヶ月後に依頼をいただいて、最初がVシネマの映画の題字でした。
竹内 力さん主演の「無間地獄」です。
それぞれを生かす為の書を書くことを教えていただきました。
浜崎あゆみさんのミュージックDVD、映画にもなった「月に沈む」の題字も書かせてもらいました。
最初の3か月で願っていた3つのことができました。
最初の個展はさんざんでした。
良い作品だとは思っていましたが、未熟者が書いた未熟な作品だったんでしょうね。
一生やらないと思いましたが、恩人がいて「表現者というものは人に見てもらう事でしか成長しない。・・・」と言われて、発奮することにしました。
2005年ヴェネツィア・ビエンナーレに出品(審査員枠で出す)
通用していないと実感していて、まざまざと見せつけられて飛行機で泣きながら帰って来たというような感じでした。
世界に通用する表現者になりたいと思って、招待状が来るまでは世界には出ないでいようと思いました。
紙の中に閉じ込められている限り伝わらないのではないかと思って、紙から解放して立体的にしました。
立体造形にすること、文字の歴史をたどってみると紙は最近の技術、紙の誕生よりも前から文字は生まれていて、竹、骨などに書かれていたりしていた。
甲骨文字の彫られていた感じは今も残っている。
文字の歴史を遡ることで立体にすると言う事が誕生しました。
文字は元々立体だった。
「寂」という書、三次元、人の抱えている寂しさを表現するために影だけが異様な雰囲気で揺らめいているという作品です。(内容をよく理解できず)
2010年大河ドラマ「龍馬伝」の題字を書く。
コンペだったので私は本命でないことは重々承知していて、本を読んだりしました。「龍」は横の線が多くふとったどっしりしたものになりやすいので、福山さんのようなすらっとして龍馬のエネルギッシュな若々しいものにしたいと思って書きました。
海外からも招待されるようになり感謝しています。
フランスは日本の文化を憧れていて、フランスで展示出来て嬉しかったです。
日本語を彫刻にしたが、日本語が判らない筈なのに限りなく近い感想を言い当てて来たりします。
ミラノではこれまでの立体的な作品や最新作なども展示しました。
デジタルも使って文字や絵が動いてゆく作品がある。
2018年6月23日土曜日
秋山章(友禅作家) ・婚礼衣装ひとすじに
秋山章(友禅作家) ・婚礼衣装ひとすじに
昭和6年山梨県生まれ、宮大工の修行に入って3年間働き、或る日婚礼衣装をまとった花嫁の姿を見てその美しさに感動しました。
一生の仕事にしたいと京都に出ます。
最初は振袖を仕入れて販売していましたが、自分が思い描く図案で作りたいと、20代前半で会社を作りました。
87歳になる現在も結婚式で花嫁が輝く姿を夢見て婚礼衣装を作り続けています。
私はシーズンとか関係なく、仕事は忙しいです。
作品が仕上がると過去になります、新しさに向かって力が欲しくてもがいています。
ファッション、服飾を作っているのではなく、日本の結婚式という儀式の衣を作っているので、根本的なものは祈りと儀式です。
出会ったことへの感謝の祈りと人と人とが結ばれる結婚式、人間として最高の儀式であると思うので、自分を育ててくれた周りの人に感謝を伝えながら美しい花嫁になっていただきたい、これが望みです。
作品は全て絹の白生地から染めています。
白無垢、白い絹の生地に菊、桜等の花、鶴などの伝統模様が刺繍、金箔などで描かれた上品な作品。
うちかけは本手描き友禅、金箔細工、螺鈿細工が施されていて光り輝く豪華絢爛な衣裳。
金彩工芸は私の特徴です。
本手描き友禅の上に金箔、銀箔、螺鈿が豪華に描かれている。
衣裳は重くはなくて、友禅の一番の特徴は女性の体をまろやかに包み込み、シルエットが綺麗に作れます。
京友禅は総称でその本手描きは全部手で作ったものが本手描き友禅です。
友禅は江戸時代に京都に住んでいた絵師宮崎友禅斎さんが始めたと伝えられている。
色が滲まないように糸目に糊を置いて他の色と混じらないようにしていった染めの方法が友禅染めです。
京友禅、江戸友禅、加賀友禅それぞれに特徴があります。
京都の本手描き友禅の場合は、作品が美しくなるためには自由に取り入れます。
加賀友禅は友禅で仕上がっている、金彩、刺繍などはしていなくてシンプルです。
作品が美しくなるためには自由なので、私は人のやらないことばっかりやってきました。
私は婚礼衣裳しか作れません。
昭和6年山梨県生まれ、尋常小学校を卒業して昭和20年14歳で終戦を迎える。
自由が来ると思ってホッとしました。
父が宮大工で3年間修業をする。
短い期間徹底して教えてもらうべき、一道抜ける、その言葉を父から叩きこまれました。
修行のその期間が私の人間、心を作ってくれたと思います。
婚礼衣装をまとった花嫁さんに出会って、衝撃を受けてころっと自分の人生観が変わってしまいました。
父は亡くなってしまっていて、違う道に進むことに母は許してくれました。
京都に行き、黒振袖を問屋で仕入れて販売をしました。(技術、知識、お金も無かったから)
色とか柄に就いて問屋さんに訴えたが聞いてくれなくて、職人を呼んでいただいて、自分流に作っていただくことから始まりましたが、スムーズにはいかなかった。
職人から無理だと言うことで自分で作ることを考えました。(20歳)
積んである生地、職人が持っている色を使って、職人と触れ合うことになりました。
全部自分流で繰り返しながらやってきました。
友禅に入れたのは友禅を知らなかったからで、奥行きの深さを知りませんでした。
ものを作る喜びは一面に有りますが、とにかく苦しさの連続でした。
20,30代は人の何倍も働いたと思っていて、ストレスも感じました。
良い物を作りたいというストレス、思うように仕事が進まない、そんな中で黄疸になり肝硬変になり3か月入院してしまいました。
それまで一日80本、酒も飲みました。(ストレス、心をいやす為)
無謀だった自分に気が付いてその時から煙草はぷっつりやめて、酒も薬程度しか飲まなくなりました。
その時から朝の運動(1時間40分)を始めました。(今は2時間運動)
食事も周りが気を付けてくれ、よく眠るようにしました。
結婚も多様化しています。
挿友禅、金彩工芸、螺鈿細工に付いて。
アトリエには天の恋人がいて、恋してして恋してこういうものを着せたいと思って作っています。
アトリエの仕事が一番エネルギーを使います、そこで職人さんへの指示書が仕上がると80%終わります。
友禅は基本的には一工程一人でなければいけない。
色を作ることが一番大事ですから、色が決まるまでに時間がかかります。
ぼかし、色の組み合わせなど、ちょっとした違いでも変わって来る。
職人とは怒鳴ったり、喧嘩をしたりしてやっています。
金彩工芸は苦労して開発してきました。
金の中に銅、銀とか混ぜてどう調和をとっていくかということで、どの工程でも一流でないとバランスが取れないといけない所に難しさがあります。
職人は身内、分身です、信頼関係が大事になっていきます。
みんな個性を持っているので、心を一つにするということが大事で、そうしないと一枚のうちかけは仕上がらないと思います。
螺鈿細工は重箱など硬いものの素材に一般的に使われていますが、布に使うのは稀で且ちょっとの処にしか使っていませんが、私はもっと広い面積に使います。
美しいものに憧れていて色々工夫して取り入れ、理想を追い掛けています。
同じうちかけを親子3代で使われているという話も聞いています。
作品はいつも生きている、老いない、枯れない、朽ちないということがとっても大事だと思っています。
昭和6年山梨県生まれ、宮大工の修行に入って3年間働き、或る日婚礼衣装をまとった花嫁の姿を見てその美しさに感動しました。
一生の仕事にしたいと京都に出ます。
最初は振袖を仕入れて販売していましたが、自分が思い描く図案で作りたいと、20代前半で会社を作りました。
87歳になる現在も結婚式で花嫁が輝く姿を夢見て婚礼衣装を作り続けています。
私はシーズンとか関係なく、仕事は忙しいです。
作品が仕上がると過去になります、新しさに向かって力が欲しくてもがいています。
ファッション、服飾を作っているのではなく、日本の結婚式という儀式の衣を作っているので、根本的なものは祈りと儀式です。
出会ったことへの感謝の祈りと人と人とが結ばれる結婚式、人間として最高の儀式であると思うので、自分を育ててくれた周りの人に感謝を伝えながら美しい花嫁になっていただきたい、これが望みです。
作品は全て絹の白生地から染めています。
白無垢、白い絹の生地に菊、桜等の花、鶴などの伝統模様が刺繍、金箔などで描かれた上品な作品。
うちかけは本手描き友禅、金箔細工、螺鈿細工が施されていて光り輝く豪華絢爛な衣裳。
金彩工芸は私の特徴です。
本手描き友禅の上に金箔、銀箔、螺鈿が豪華に描かれている。
衣裳は重くはなくて、友禅の一番の特徴は女性の体をまろやかに包み込み、シルエットが綺麗に作れます。
京友禅は総称でその本手描きは全部手で作ったものが本手描き友禅です。
友禅は江戸時代に京都に住んでいた絵師宮崎友禅斎さんが始めたと伝えられている。
色が滲まないように糸目に糊を置いて他の色と混じらないようにしていった染めの方法が友禅染めです。
京友禅、江戸友禅、加賀友禅それぞれに特徴があります。
京都の本手描き友禅の場合は、作品が美しくなるためには自由に取り入れます。
加賀友禅は友禅で仕上がっている、金彩、刺繍などはしていなくてシンプルです。
作品が美しくなるためには自由なので、私は人のやらないことばっかりやってきました。
私は婚礼衣裳しか作れません。
昭和6年山梨県生まれ、尋常小学校を卒業して昭和20年14歳で終戦を迎える。
自由が来ると思ってホッとしました。
父が宮大工で3年間修業をする。
短い期間徹底して教えてもらうべき、一道抜ける、その言葉を父から叩きこまれました。
修行のその期間が私の人間、心を作ってくれたと思います。
婚礼衣装をまとった花嫁さんに出会って、衝撃を受けてころっと自分の人生観が変わってしまいました。
父は亡くなってしまっていて、違う道に進むことに母は許してくれました。
京都に行き、黒振袖を問屋で仕入れて販売をしました。(技術、知識、お金も無かったから)
色とか柄に就いて問屋さんに訴えたが聞いてくれなくて、職人を呼んでいただいて、自分流に作っていただくことから始まりましたが、スムーズにはいかなかった。
職人から無理だと言うことで自分で作ることを考えました。(20歳)
積んである生地、職人が持っている色を使って、職人と触れ合うことになりました。
全部自分流で繰り返しながらやってきました。
友禅に入れたのは友禅を知らなかったからで、奥行きの深さを知りませんでした。
ものを作る喜びは一面に有りますが、とにかく苦しさの連続でした。
20,30代は人の何倍も働いたと思っていて、ストレスも感じました。
良い物を作りたいというストレス、思うように仕事が進まない、そんな中で黄疸になり肝硬変になり3か月入院してしまいました。
それまで一日80本、酒も飲みました。(ストレス、心をいやす為)
無謀だった自分に気が付いてその時から煙草はぷっつりやめて、酒も薬程度しか飲まなくなりました。
その時から朝の運動(1時間40分)を始めました。(今は2時間運動)
食事も周りが気を付けてくれ、よく眠るようにしました。
結婚も多様化しています。
挿友禅、金彩工芸、螺鈿細工に付いて。
アトリエには天の恋人がいて、恋してして恋してこういうものを着せたいと思って作っています。
アトリエの仕事が一番エネルギーを使います、そこで職人さんへの指示書が仕上がると80%終わります。
友禅は基本的には一工程一人でなければいけない。
色を作ることが一番大事ですから、色が決まるまでに時間がかかります。
ぼかし、色の組み合わせなど、ちょっとした違いでも変わって来る。
職人とは怒鳴ったり、喧嘩をしたりしてやっています。
金彩工芸は苦労して開発してきました。
金の中に銅、銀とか混ぜてどう調和をとっていくかということで、どの工程でも一流でないとバランスが取れないといけない所に難しさがあります。
職人は身内、分身です、信頼関係が大事になっていきます。
みんな個性を持っているので、心を一つにするということが大事で、そうしないと一枚のうちかけは仕上がらないと思います。
螺鈿細工は重箱など硬いものの素材に一般的に使われていますが、布に使うのは稀で且ちょっとの処にしか使っていませんが、私はもっと広い面積に使います。
美しいものに憧れていて色々工夫して取り入れ、理想を追い掛けています。
同じうちかけを親子3代で使われているという話も聞いています。
作品はいつも生きている、老いない、枯れない、朽ちないということがとっても大事だと思っています。
2018年6月22日金曜日
片桐はいり(俳優) ・映画は夢、映画館はふるさと
片桐はいり(俳優) ・映画は夢、映画館はふるさと
東京都出身、成蹊大学在学中から劇団に所蔵して注目されました。
その後、舞台、TV、映画と個性あふれる演技で存在感を発揮しています。
NHKの番組では朝の連続TV小説の「あまちゃん」、最近のドラマでは朗読をテーマにしたこの「声をきみに」に出演しました。
「もぎりよ今夜も有難う」という本を出版。
もぎり=劇場・映画館・競技会場などの入場口や受付で、入場券の半券をもぎ取ることを指す。
著書の最初に「自からの出自を問われたら映画館の出身ですと、胸を張って答えたい」と記載。
映画が好きで映画館にいたのでこの世界に入ったみたいなところが大きいので、映画館出身の俳優だと言ってしまいます。
小さいころから映画が好きで「101匹のわんちゃん」が最初の記憶で、自分でお金を払って最初に行ったのは「ジョーズ」です。
お風呂にも入るのが怖かった。
「キングコング」が一番泣いた映画です。(自分を重ねたのかも)
映画とその日のコンディションによって見る場所を決めたいのですが、座席が指定されてしまう場合もあるので残念な思いもあります。
いつも行く近所の映画館は私の席は決まっています。
中学時代から一人で映画館に入っていました。
最近、神経質になりすぎている人がいるのではないかと思う時があります。
ペットボトルで水を飲んでも、「何飲んでるの!」と言われてしまいました。
昔の映画館はワイワイ言いながら見ていた印象があるので、映画に引き込む力がそれ位なくてどうするとちょっと思ったりします。
最近応援上映がはやってきています。(みんなで声出して応援したり、歌ったり、踊ったりする)
暗い中にいるのが得意で、一人になれるので良いなあと思います。
歩いてすぐのところに映画館があるのでしょっちゅう行っています。
もぎりもやったりします。(お金はもらっていませんが)
お客さんの案内、掃除などもしています。
観る時は2日に一遍ぐらい観ています。(舞台がある時はそうはいきませんが)
スクリーンの大きい所で見るのがいいですね。
映画館は一人でいるんだけれど、一人ではないと言うところがいいです。
大川監督と菊地健雄監督が是非協力して下さると言うことで短編を6本作って順番に半年間に渡って上映する企画があります。
タイトルも「もぎりさん」です。
改装前の映画館で撮って7月13日からキネカ大森映画館で本編の前に観られます。
18歳の頃から銀座の映画館でもぎりをしました。
映画を観たいがために観放題に観させていただきました。
映画館には渥美清さんも来て下さいました。
とらさんの映画で、もぎりの役をやりました。
お客さんが一斉に笑うのでドーンと扉が鳴りました。(劇場が呼吸していました)
大学で劇団に入って、コマーシャル映画に出ることになり、映画にも出ることになりました。
「自由な女神たち」1987年 松坂慶子さんの整形前という設定の映画でした。
その映画のもぎりもやっていましたが、その後映画に出るようになって徐々にもぎりをやらなくなってしまいました。
映画館に来たらなんか印象に残ってもらえればという思いがあり、案内とかでもやっています。
母親の介護をしていて、8時位に眠ってしまうので9時頃から映画を見に行くことをやっていました。
ほぼ10年位は介護をしてきました。
2011年の大震災が有った後、一人で家にいて電気使ったり色々することが落ち着かない時があった時に、映画館とか図書館などの場所は有難いと思いました。
自分が生きている間は映画館はあって欲しいと思います。
NHKのドラマ、朗読をテーマにした「この声をきみに」に出演。
人間って声を出すと気持ちが変わると言うか、気持ちよくなりました。
素敵な本を声を出すといいということを、落ち込んでいた人に勧めたら本当に気持ちが良くなったということでした。
太宰治が映画のことを書いているエッセー。
「もの思う葦」の中に入っている「弱者の糧」一部を朗読。
「映画を好む人には弱虫が多い。 私としても心の弱っている時にふらっと映画館に吸い込まれる。
心の猛っている時には映画なぞ見向きもしない。 時間が惜しい。
何をしても不安でならぬ時は映画館に飛び込むとホッとする。
真っ暗いのでどんなに助かるかわからない。
誰も自分に注意しない。 映画館の一隅に坐っている一刻だけは全く世間と離れている。
あんないいところはない。 私はたいていの映画には泣かされる。
必ず泣くと言っても過言ではない。 愚作だの傑作だのとそんな批判の余裕など持ったことが無い。 観衆とともにゲラゲラ笑い、観衆とともに泣くのである。
5年前船橋の映画館で、「新佐渡情話」と言う時代劇を観たが、ひどく泣いた。
あくる朝、目が覚めてその映画を思い出したら嗚咽が出た。
黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。
あくる朝思いだして又泣いたというのは流石にこの映画一つだけである。
どうせ批評家に言わせると大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。
あれはよかった。 なんという監督(清瀬英次郎)の作品だか一切判らないが、あの作品の監督には今でもお礼を言いたい気持ちがある。 私は映画を馬鹿にしているのかもしれない。
芸術だとは思っていない、お汁粉だと思っている。 けれども人は芸術よりもお汁粉に感謝したい時もある。 そんな時は随分多い。 やはり5年前船橋に住んでいた時のことであるが、苦し紛れに市川まで何の当ても無く出かけて行って、懐中の本を売りそのお金で映画を見た。 「あにいもうと」というのをやっていた。 この時にも酷く泣いた。
おもんの泣きながらの抗議がたまらなく悲しかった。 私は大きな声をあげて泣いた。
たまらなくなって便所へ逃げて行った。 あれもよかった。
私は外国映画はあまり好まない、会話が少しも判らず、さりとてあの画面の隅にちょいちょい出没する文章をいちいち読み取ることも至難である。
私には文章をゆっくり調べて読む癖があるのでとても読み切れない、実に疲れるのである。・・・・・私が映画館に行く時はよっぽど疲れている時である。
心の弱っている時である。 破れてしまった時である。 真っ暗い所にこっそり坐って誰にも顔を見られない。 少しほっとするのである。 そんな時だからどんな映画でも骨身にしみる」
東京都出身、成蹊大学在学中から劇団に所蔵して注目されました。
その後、舞台、TV、映画と個性あふれる演技で存在感を発揮しています。
NHKの番組では朝の連続TV小説の「あまちゃん」、最近のドラマでは朗読をテーマにしたこの「声をきみに」に出演しました。
「もぎりよ今夜も有難う」という本を出版。
もぎり=劇場・映画館・競技会場などの入場口や受付で、入場券の半券をもぎ取ることを指す。
著書の最初に「自からの出自を問われたら映画館の出身ですと、胸を張って答えたい」と記載。
映画が好きで映画館にいたのでこの世界に入ったみたいなところが大きいので、映画館出身の俳優だと言ってしまいます。
小さいころから映画が好きで「101匹のわんちゃん」が最初の記憶で、自分でお金を払って最初に行ったのは「ジョーズ」です。
お風呂にも入るのが怖かった。
「キングコング」が一番泣いた映画です。(自分を重ねたのかも)
映画とその日のコンディションによって見る場所を決めたいのですが、座席が指定されてしまう場合もあるので残念な思いもあります。
いつも行く近所の映画館は私の席は決まっています。
中学時代から一人で映画館に入っていました。
最近、神経質になりすぎている人がいるのではないかと思う時があります。
ペットボトルで水を飲んでも、「何飲んでるの!」と言われてしまいました。
昔の映画館はワイワイ言いながら見ていた印象があるので、映画に引き込む力がそれ位なくてどうするとちょっと思ったりします。
最近応援上映がはやってきています。(みんなで声出して応援したり、歌ったり、踊ったりする)
暗い中にいるのが得意で、一人になれるので良いなあと思います。
歩いてすぐのところに映画館があるのでしょっちゅう行っています。
もぎりもやったりします。(お金はもらっていませんが)
お客さんの案内、掃除などもしています。
観る時は2日に一遍ぐらい観ています。(舞台がある時はそうはいきませんが)
スクリーンの大きい所で見るのがいいですね。
映画館は一人でいるんだけれど、一人ではないと言うところがいいです。
大川監督と菊地健雄監督が是非協力して下さると言うことで短編を6本作って順番に半年間に渡って上映する企画があります。
タイトルも「もぎりさん」です。
改装前の映画館で撮って7月13日からキネカ大森映画館で本編の前に観られます。
18歳の頃から銀座の映画館でもぎりをしました。
映画を観たいがために観放題に観させていただきました。
映画館には渥美清さんも来て下さいました。
とらさんの映画で、もぎりの役をやりました。
お客さんが一斉に笑うのでドーンと扉が鳴りました。(劇場が呼吸していました)
大学で劇団に入って、コマーシャル映画に出ることになり、映画にも出ることになりました。
「自由な女神たち」1987年 松坂慶子さんの整形前という設定の映画でした。
その映画のもぎりもやっていましたが、その後映画に出るようになって徐々にもぎりをやらなくなってしまいました。
映画館に来たらなんか印象に残ってもらえればという思いがあり、案内とかでもやっています。
母親の介護をしていて、8時位に眠ってしまうので9時頃から映画を見に行くことをやっていました。
ほぼ10年位は介護をしてきました。
2011年の大震災が有った後、一人で家にいて電気使ったり色々することが落ち着かない時があった時に、映画館とか図書館などの場所は有難いと思いました。
自分が生きている間は映画館はあって欲しいと思います。
NHKのドラマ、朗読をテーマにした「この声をきみに」に出演。
人間って声を出すと気持ちが変わると言うか、気持ちよくなりました。
素敵な本を声を出すといいということを、落ち込んでいた人に勧めたら本当に気持ちが良くなったということでした。
太宰治が映画のことを書いているエッセー。
「もの思う葦」の中に入っている「弱者の糧」一部を朗読。
「映画を好む人には弱虫が多い。 私としても心の弱っている時にふらっと映画館に吸い込まれる。
心の猛っている時には映画なぞ見向きもしない。 時間が惜しい。
何をしても不安でならぬ時は映画館に飛び込むとホッとする。
真っ暗いのでどんなに助かるかわからない。
誰も自分に注意しない。 映画館の一隅に坐っている一刻だけは全く世間と離れている。
あんないいところはない。 私はたいていの映画には泣かされる。
必ず泣くと言っても過言ではない。 愚作だの傑作だのとそんな批判の余裕など持ったことが無い。 観衆とともにゲラゲラ笑い、観衆とともに泣くのである。
5年前船橋の映画館で、「新佐渡情話」と言う時代劇を観たが、ひどく泣いた。
あくる朝、目が覚めてその映画を思い出したら嗚咽が出た。
黒川弥太郎、酒井米子、花井蘭子などの芝居であった。
あくる朝思いだして又泣いたというのは流石にこの映画一つだけである。
どうせ批評家に言わせると大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。
あれはよかった。 なんという監督(清瀬英次郎)の作品だか一切判らないが、あの作品の監督には今でもお礼を言いたい気持ちがある。 私は映画を馬鹿にしているのかもしれない。
芸術だとは思っていない、お汁粉だと思っている。 けれども人は芸術よりもお汁粉に感謝したい時もある。 そんな時は随分多い。 やはり5年前船橋に住んでいた時のことであるが、苦し紛れに市川まで何の当ても無く出かけて行って、懐中の本を売りそのお金で映画を見た。 「あにいもうと」というのをやっていた。 この時にも酷く泣いた。
おもんの泣きながらの抗議がたまらなく悲しかった。 私は大きな声をあげて泣いた。
たまらなくなって便所へ逃げて行った。 あれもよかった。
私は外国映画はあまり好まない、会話が少しも判らず、さりとてあの画面の隅にちょいちょい出没する文章をいちいち読み取ることも至難である。
私には文章をゆっくり調べて読む癖があるのでとても読み切れない、実に疲れるのである。・・・・・私が映画館に行く時はよっぽど疲れている時である。
心の弱っている時である。 破れてしまった時である。 真っ暗い所にこっそり坐って誰にも顔を見られない。 少しほっとするのである。 そんな時だからどんな映画でも骨身にしみる」
2018年6月21日木曜日
南杏子(医師・作家) ・人生最期を穏やかに
南杏子(医師・作家) ・人生最期を穏やかに
厚生労働省の推計では2025年には年間死亡者数が150万を越える多死社会が到来すると予想されています。
南さんは自らの経験をもとに如何にして穏やかな終末期を迎えるかというテーマを医師、患者、家族の立場から丁寧に小説を描き注目を集めています。
内科医として日々高齢者の診察に当たる南さんに患者や家族が最後に幸せと感じる医療とはどういうものか、人生最後の医療の在り方について伺います。
子供が2歳の時に医学部に入学しました。
大学を卒業した後、出版社に勤務して育児雑誌を担当して、医師の仕事はいいなあと思っていました。
産休育児休暇を取った時にイギリスに住んだんですが、アロマセラピーを勉強したり、解剖生理学を勉強する機会が有り医学が面白いと更に感じました。
イギリスから帰国する時に新聞を読んで、医学部の学士入学の制度があることを知りました。
受験をして合格して33歳になって医学部に入り、卒業が38歳でした。
研修医時代も睡眠が数時間で毎日耐えられたのも勉強できる喜びの方が勝っていました。
老年内科が中心になり、最初大学病院で3年間専門の内科をまわって勉強させてもらいました。
その後市立の病院に行き色々な科を回りながら勉強しました。
今の病院は入院患者の平均年齢は89歳で、高齢者が中心になっている終末期医療の病院です。
日々診療している時に色んな言葉を患者さんから聞きますが、ぎりぎりの状況の中から発せられる言葉は深いものがあり、ハッとするようなものがたくさんあります。
私だけの感動にしておきたくはなかった。
御家族との話し合う時間も多くありました。
迷いとか、預けたことに後悔している方とか、皆さんの気持ちが揺れている、特に食べられなくなった時にはどんな医療方針にするかを話をする時に、終末期どんなふうに過ごしますかという時に私自身が勉強になると言うか、真剣に話をしてきた中で考えてきたことを残したいと言うことが溜まっていって、他の人の為に役に立つのではないかと言うことでそれを聞いていただければいいなあと思いました。
10年前に小説教室のカルチャーセンターに行きました。
今の病院に移って仕事が規則的になり、自分の時間が持てるようになって対応できるようになりました。
娘は大学生で医学部に行っていますが、小説に関してアドバイスなどもしてくれます。
デビュー作「サイレント・ブレス」 無理な延命医療、ばたばたした終末期医療、そういった時間ではなくて、最後に静かな看取りの時を迎える様な医療ということを言いたいと思いました。
小説では若い女性の医師が在宅医療専門の訪問診療クリニックに移動を命じられて、死を待つばかりの患者と一緒に人生最後の日を迎えるまでの6つの短編になっている。
「サイレント・ブレス」の1作目 末期乳がんの45歳の女性で一見気丈にふるまっているが、死を受け入れる心を安らかにする時間について臨床宗教師(坊さん)に接する。
社会的な痛み、精神的な痛み、魂の痛みなどがあるが、魂の痛みに対してしっかり向き合ってあげられるようなのはやっぱり宗教家の方だと思います。
東日本大震災の後に東北大学では臨床宗教師の養成講座を作って、広まったようです。
主人公は自分は死ぬために自宅に戻ったと言っているが、後で担当医師はあの人は人生の最後を生きるために自分の家に戻ったんだと言っています。
慣れ親しんできた場所はその人の人生の中で凄く大事な場所だと思うし、食べ物を味わうとか、庭がみたいとか、最後に過ごしたい場所はそれまで過ごしてきたところなんだろうなと感ずることが多かった。
私も在宅医療は経験がありますが、素人が簡単にやれるものではないと言うのが実感です。
祖父を介護する祖母のお手伝いをした経験がありますが、辛かったことも多くありました。
まずマンパワーが足りない。(24時間の介護となると限界が来てしまう)
色んな技術、設備もそろって初めて在宅介護ができると言う現実があるので最後は施設、病院でとか、ということになってしまうのではないかと思います。
今のように介護保険があると社会の問題だという、そういうふうに考えられるようになりそういうふうに思えるだけで救いになる制度だと思います。
「サイレント・ブレス」の3作目 高級住宅街に娘の介護を受けながら住んでいる老衰気味の老婦人、胃ろうの問題がクローズアップされている、ケースバイケースだと思ってはいるが。
この方は胃ろうを作っても誤嚥は防げないとか、いろいろケースがあるので、胃ろうに向いている人と向いていない人がいるので見極めながらやっています。
家族からの凄く要望があると医師が拒否できるかというと、そういう訳にも行かなくて話をしても諦めきれないようであると、胃ろうを作って経過をもつということも無いわけではありません。
胃ろうはお断りしますと言うことは、元気なうちに意思表示が必要な時代になってきたのかなあと思います。
小説の中の文章 「終末医療では医療者も家族も逆算の思考が必要だ」と言っているが、
後何カ月生きられるかということになったら、10年、20年後肺がんにならないように禁煙することに意味があるのか、そういう意味合いです。
そうなった時に残された人生を楽しみたいから、塩分制限ではなくしっかり味の付いた美味しい食べ物を食べたいし、酒煙草も楽しみたいし、リハビリで苦しむのではなく、のんびり寝て暮らしたいというのであれば、それも半年の命だったら私はいいと思いますが、一方家族は真逆だったりする訳です。
逆算をしていけば少しでも心地良く過ごせるように医師も家族も考えてあげると思います。
5作目 消化器がんの権威の名誉教授だが膵臓の末期がんになり、自分の余命も判っていて、延命治療をするなと拒否をして点滴も拒否して自然に最期を迎えて行く。
「食べられなくなったら自分は死ぬんだ、自分は死ぬために自宅に戻ったので治療は要らない。」と話す。
老衰って苦しくないんです。
食べなくなるということは生命活動を閉じて行く当たり前のプロセスの一つで食べたくなくなる。
からだの持っている蓄えを使いきって、最後蝋燭が消えるように楽な感じで穏やかな表情で亡くなる。
医療には限界があるとこの老教授は言っていて、医師は治療の戦いを辞めることが敗北と勘違いしている。
死なせてしまうことは負けと言うふうに医師は勘違いしているのではないかとこの教授は言っている。
どういうふうにゴールに向かっていい状態で最期を迎えられるか、ということを言いたかった。
1分1秒でも命を長くするのは当たり前の医師としての務めだったが、そこにこだわり続けていると、点滴、管だらけというような、ちょっと過剰な医療をすることによって却って命を縮めたりするそういった印象はあります。
寄りそうような医療が必要だと思います。
老教授は医者には二つのタイプがあると言っている、死んでゆく患者に関心を持つ医師と関心を持たない医師がいる、関心を持って温かく見守ってあげてよ、ということを後輩の若い医師に伝えている。
「人は必ず死ぬ、死を負けと思わない死が必要だ。」と老教授は言っている。
6作目 主人公の女性医師の父親が誤嚥性肺炎で入院して最後は自宅に戻って最期を看取る。
最後は「点滴を外して」と、母が決断する。
最後の章を書くには勇気がいりました。
安楽死のような感じだったりとか、死なせてしまうようなそんな感じに受け取られて、物凄く嫌な気持ちで読む方もいるのではないかなあという風に怖かったです。
延命ばっかりにとらわれ過ぎていると大切な最後の時間が苦しい時間になってしまう。
自分の医療をやるうえでも自戒を込めて書きました。
苦しいのに耐えるばっかりの治療ではなくて、心地良さを優先する医療と言うのが患者さんが求めていることだし、家族の方も求めていることじゃないかと思うので、幸せそうな顔をしているかどうかが問題で、そこを大事にする医療をこれからも探していかなければいけないと思っています。
厚生労働省の推計では2025年には年間死亡者数が150万を越える多死社会が到来すると予想されています。
南さんは自らの経験をもとに如何にして穏やかな終末期を迎えるかというテーマを医師、患者、家族の立場から丁寧に小説を描き注目を集めています。
内科医として日々高齢者の診察に当たる南さんに患者や家族が最後に幸せと感じる医療とはどういうものか、人生最後の医療の在り方について伺います。
子供が2歳の時に医学部に入学しました。
大学を卒業した後、出版社に勤務して育児雑誌を担当して、医師の仕事はいいなあと思っていました。
産休育児休暇を取った時にイギリスに住んだんですが、アロマセラピーを勉強したり、解剖生理学を勉強する機会が有り医学が面白いと更に感じました。
イギリスから帰国する時に新聞を読んで、医学部の学士入学の制度があることを知りました。
受験をして合格して33歳になって医学部に入り、卒業が38歳でした。
研修医時代も睡眠が数時間で毎日耐えられたのも勉強できる喜びの方が勝っていました。
老年内科が中心になり、最初大学病院で3年間専門の内科をまわって勉強させてもらいました。
その後市立の病院に行き色々な科を回りながら勉強しました。
今の病院は入院患者の平均年齢は89歳で、高齢者が中心になっている終末期医療の病院です。
日々診療している時に色んな言葉を患者さんから聞きますが、ぎりぎりの状況の中から発せられる言葉は深いものがあり、ハッとするようなものがたくさんあります。
私だけの感動にしておきたくはなかった。
御家族との話し合う時間も多くありました。
迷いとか、預けたことに後悔している方とか、皆さんの気持ちが揺れている、特に食べられなくなった時にはどんな医療方針にするかを話をする時に、終末期どんなふうに過ごしますかという時に私自身が勉強になると言うか、真剣に話をしてきた中で考えてきたことを残したいと言うことが溜まっていって、他の人の為に役に立つのではないかと言うことでそれを聞いていただければいいなあと思いました。
10年前に小説教室のカルチャーセンターに行きました。
今の病院に移って仕事が規則的になり、自分の時間が持てるようになって対応できるようになりました。
娘は大学生で医学部に行っていますが、小説に関してアドバイスなどもしてくれます。
デビュー作「サイレント・ブレス」 無理な延命医療、ばたばたした終末期医療、そういった時間ではなくて、最後に静かな看取りの時を迎える様な医療ということを言いたいと思いました。
小説では若い女性の医師が在宅医療専門の訪問診療クリニックに移動を命じられて、死を待つばかりの患者と一緒に人生最後の日を迎えるまでの6つの短編になっている。
「サイレント・ブレス」の1作目 末期乳がんの45歳の女性で一見気丈にふるまっているが、死を受け入れる心を安らかにする時間について臨床宗教師(坊さん)に接する。
社会的な痛み、精神的な痛み、魂の痛みなどがあるが、魂の痛みに対してしっかり向き合ってあげられるようなのはやっぱり宗教家の方だと思います。
東日本大震災の後に東北大学では臨床宗教師の養成講座を作って、広まったようです。
主人公は自分は死ぬために自宅に戻ったと言っているが、後で担当医師はあの人は人生の最後を生きるために自分の家に戻ったんだと言っています。
慣れ親しんできた場所はその人の人生の中で凄く大事な場所だと思うし、食べ物を味わうとか、庭がみたいとか、最後に過ごしたい場所はそれまで過ごしてきたところなんだろうなと感ずることが多かった。
私も在宅医療は経験がありますが、素人が簡単にやれるものではないと言うのが実感です。
祖父を介護する祖母のお手伝いをした経験がありますが、辛かったことも多くありました。
まずマンパワーが足りない。(24時間の介護となると限界が来てしまう)
色んな技術、設備もそろって初めて在宅介護ができると言う現実があるので最後は施設、病院でとか、ということになってしまうのではないかと思います。
今のように介護保険があると社会の問題だという、そういうふうに考えられるようになりそういうふうに思えるだけで救いになる制度だと思います。
「サイレント・ブレス」の3作目 高級住宅街に娘の介護を受けながら住んでいる老衰気味の老婦人、胃ろうの問題がクローズアップされている、ケースバイケースだと思ってはいるが。
この方は胃ろうを作っても誤嚥は防げないとか、いろいろケースがあるので、胃ろうに向いている人と向いていない人がいるので見極めながらやっています。
家族からの凄く要望があると医師が拒否できるかというと、そういう訳にも行かなくて話をしても諦めきれないようであると、胃ろうを作って経過をもつということも無いわけではありません。
胃ろうはお断りしますと言うことは、元気なうちに意思表示が必要な時代になってきたのかなあと思います。
小説の中の文章 「終末医療では医療者も家族も逆算の思考が必要だ」と言っているが、
後何カ月生きられるかということになったら、10年、20年後肺がんにならないように禁煙することに意味があるのか、そういう意味合いです。
そうなった時に残された人生を楽しみたいから、塩分制限ではなくしっかり味の付いた美味しい食べ物を食べたいし、酒煙草も楽しみたいし、リハビリで苦しむのではなく、のんびり寝て暮らしたいというのであれば、それも半年の命だったら私はいいと思いますが、一方家族は真逆だったりする訳です。
逆算をしていけば少しでも心地良く過ごせるように医師も家族も考えてあげると思います。
5作目 消化器がんの権威の名誉教授だが膵臓の末期がんになり、自分の余命も判っていて、延命治療をするなと拒否をして点滴も拒否して自然に最期を迎えて行く。
「食べられなくなったら自分は死ぬんだ、自分は死ぬために自宅に戻ったので治療は要らない。」と話す。
老衰って苦しくないんです。
食べなくなるということは生命活動を閉じて行く当たり前のプロセスの一つで食べたくなくなる。
からだの持っている蓄えを使いきって、最後蝋燭が消えるように楽な感じで穏やかな表情で亡くなる。
医療には限界があるとこの老教授は言っていて、医師は治療の戦いを辞めることが敗北と勘違いしている。
死なせてしまうことは負けと言うふうに医師は勘違いしているのではないかとこの教授は言っている。
どういうふうにゴールに向かっていい状態で最期を迎えられるか、ということを言いたかった。
1分1秒でも命を長くするのは当たり前の医師としての務めだったが、そこにこだわり続けていると、点滴、管だらけというような、ちょっと過剰な医療をすることによって却って命を縮めたりするそういった印象はあります。
寄りそうような医療が必要だと思います。
老教授は医者には二つのタイプがあると言っている、死んでゆく患者に関心を持つ医師と関心を持たない医師がいる、関心を持って温かく見守ってあげてよ、ということを後輩の若い医師に伝えている。
「人は必ず死ぬ、死を負けと思わない死が必要だ。」と老教授は言っている。
6作目 主人公の女性医師の父親が誤嚥性肺炎で入院して最後は自宅に戻って最期を看取る。
最後は「点滴を外して」と、母が決断する。
最後の章を書くには勇気がいりました。
安楽死のような感じだったりとか、死なせてしまうようなそんな感じに受け取られて、物凄く嫌な気持ちで読む方もいるのではないかなあという風に怖かったです。
延命ばっかりにとらわれ過ぎていると大切な最後の時間が苦しい時間になってしまう。
自分の医療をやるうえでも自戒を込めて書きました。
苦しいのに耐えるばっかりの治療ではなくて、心地良さを優先する医療と言うのが患者さんが求めていることだし、家族の方も求めていることじゃないかと思うので、幸せそうな顔をしているかどうかが問題で、そこを大事にする医療をこれからも探していかなければいけないと思っています。
2018年6月20日水曜日
トロック祥子(陶芸家) ・光になりたい少女
トロック祥子(陶芸家) ・光になりたい少女
1944年愛知県生まれ、「光になりたい」この言葉は祥子さんが小学生の頃の自分の思いを綴った作文の言葉です。
祥子さんは19歳の時、ハンガリー動乱でアメリカに亡命した青年と東京で知り合い、国際結婚をしアメリカに渡ります。
1960年時代はアメリカはベトナム戦争、反戦運動、それに自由と平等を求めるウーマンリブの運動が盛り上がりを見せていました。
アメリカ社会で祥子さんは女性の自立、人々のとの考え方や生き方の多様性などを学ぶ一方、夫の女性問題、娘の薬物中毒など様々な悩みを抱え込みます。
その時人生の支えになったのが焼き物つくり、陶芸でした。
陶芸で身を立てる決心をし、35年前備前市に工房を作ります。
備前焼は土作り、窯焚き、窯出しなど様々な手間と時間がかかる仕事です。
中でも祥子さんが取り組んだ作品に裸婦像がります。
細工物を作る教えを受け工夫を凝らして焼き上げましたが、納得できる作品を作りあげるにはとても苦労が有ったといいます。
工房を作って35年になります。
1956年(54年前)にハンガリー動乱で大学生の3/4が亡命しました。
夫の場合はオーストリアに出てマルセイユでアメリカの貨物船に乗せてもらってニューヨークに渡りました。
アメリカではキリスト教のベースの国でとっても親切で、夫はモンタナ大学に奨学金をもらっていきました。
カトリックの家庭で息子のように可愛がられて学業を終わりました。
修士課程、博士課程を修了しています。
その後夫は日本に来ました。
私は名古屋ではなく東京の女子大に行きたいと思って東京に出て来ました。
夫に見染められて強引に結婚ということになりました。
彼は25歳で私は19歳でした。
結婚して2カ月で妊娠しました。
彼は難民だったので子供はどうするかというのが問題になりました。
アメリカに行って市民権をとってから私を呼び寄せると言うことでした。
ハワイで市民権を得ることができて電報をアメリカ大使館に送ってくれ、私はビザをいただいてアメリカに飛びました。(1963年)
東京オリンピックの前年で自由に旅ができない時代だった。
片道切符を買うために父は田んぼを一枚売ってお金を作ってくれました。
彼の叔父の家にいって、みんなハンガリー人で英語は話せずどうしようかと思いました。
夫がアメリカンドリームを求めるためにコロンビア大学のネービス研究所?に入って、大学院の勉強をさせてもらいということで通っていました。
私は家で辞書を使って英語の勉強をしました。
中学校卒業の時の文集。
「光のある間に光のことなるために光を信じなさいと教えられたことが有りました。
女学校時代に希望に満ちていた人が、歳をとるにつれて生活の喜びを感じなくなることは、本当に悲しいことです。
次々におこることに心を奪われていつの間にか希望をうしなって居たのです。
人生に明るい希望を持ったらその希望を信じて生き続けたいと思います。」
とにかく一歩でも前に進まなければというような生活でした。(子育て、英語、夫との会話など)
私が23歳の時に夫がスタンフォード大学に就職して近くにあるカルフォリニア大学の一部の大学に英文科に入って私は英語の勉強をしました。
美術の単位も取らなければいけないということで陶芸が有り、入ったら楽しくてしょうがなかった。
ベンソン先生が褒め方が上手な先生でした。
ニューヨークに住んでいた時にウーマンリブ運動活動が広がって行きました。
私は夫に付いていくしかないという様な生活をしていました。
アメリカはお金は全部夫が握っていて、彼の収入とか、どう使っていたのか全く知りませんでした。
娘は大学を奨学金を貰って卒業しましたが、フルタイムで働いて私立大学に行かせない限りは二人の子供を育て自分でやっていけるだけの給料は取るようになりました。
コカイン中毒でぼろぼろになって帰っていた娘がそこまで成長しているとなると、わたしたちがやってきたウーマンリブ運動も間違っていなかったという気がします。
日本の陶芸は外国にはない美術としての価値が有ります。
祖父がお茶をしていて小さいころから見ていました。
有るデパートで備前焼の個展をやっていて、いっぱい色々作品があり素敵な色でした。
物凄く新鮮に見え感動ました。
武蔵野美術大学に行って勉強したいのですがどこか紹介して欲しいと頼んだら、その先生は備前焼だったら紹介出来る人がいると言うことで、行きました。
山本陶秀先生のお宅でした。
武蔵野美術大学を卒業した息子さんが3人の子持ちの女は弟子に取ることはできないといって、窯業試験場を紹介してくれました。
金重陶陽先生の息子さんの金重道明さんから良い備前焼の土を触らしてもらうと、本当に素晴らしい土でした。
アメリカでの土とは雲泥の差でした。
アメリカの土は粉の土に水を入れて機械で撹袢して粘土にするのでぱさぱさな感じです。
ロンドン大学の陶芸科にも行ったことが有りますが、アメリカと同様なものでした。
備前の土は田んぼから掘り出した土を庭で乾燥させて癖を取ってから、砂とか石を外して細かく叩いてそれを水に戻すが、丁寧にかき混ぜて沈殿させます。
土にかける手間が凄いです。
備前焼は1~2週間窯で焼きしめます。(3人で8時間交代)
若いころは20kg位粘土を練りましたが今は3kg練れないと思います。
夫は女性にもてる人で家族を苦しめました。
ロンドン大学の2番目の娘がマリファナになりいつの間にかコカイン中毒になってしまいました。
窯出しの手伝いに日本に呼んで連れて来た時には、ふっくらとしていた娘が骨と皮だけのようになっていてショックでした。
暴れ出すようになって精神科に入れて、薬が切れてきて手紙が書けるようになって、広島に良い先生がいると言うことで、連れて行きました。
玄米食、野菜、魚などを工夫をして食べさせて段々戻ってきて、1年半ぐらいすると自転車で走れるようになりました。
娘は友人の工房に通うようになって行きました。
娘が2年後にアメリカで勉強したいと言い出して、友人が受け入れてくれてサンフランシスコの私立大学に入学できて勉強しました。(24,5歳)
経済の勉強をして、その後大学院をどうするかという時にスタンフォード大学から全額給付の奨学金が貰える話が有りそのままでいれば博士課程を修了できたが、価値観が合わなくて2年で辞めてしまいました。
就職したが、その後資格を取ってカウンセラーになっています。(次女)
長女も感染症の医者になって自分で稼いでいます。
観音像は粘土の紐を積み重ねて行って大体の形を作って、潰れないような硬さになった時に衣のひだとか仕あげて行きます。
金井 春山先生が細工物を作っていて横で見よう見まねで作っていましたが、友人の父親が京人形師原孝洲先生で観音像を持っていって見せたら骨が出来ていないと言われました。
夫がロンドンに転勤になりロンドン大学の陶芸科にはいって、デッサン、人体のスケッチなどの勉強をしていたが、上手くいかず基本的な骨格をしっかり備えた人骨像と人体とを並べて描いて勉強していきました。
その後裸婦像も作る様になりました。
展示会を開いてその像も買っていただきました。
1944年愛知県生まれ、「光になりたい」この言葉は祥子さんが小学生の頃の自分の思いを綴った作文の言葉です。
祥子さんは19歳の時、ハンガリー動乱でアメリカに亡命した青年と東京で知り合い、国際結婚をしアメリカに渡ります。
1960年時代はアメリカはベトナム戦争、反戦運動、それに自由と平等を求めるウーマンリブの運動が盛り上がりを見せていました。
アメリカ社会で祥子さんは女性の自立、人々のとの考え方や生き方の多様性などを学ぶ一方、夫の女性問題、娘の薬物中毒など様々な悩みを抱え込みます。
その時人生の支えになったのが焼き物つくり、陶芸でした。
陶芸で身を立てる決心をし、35年前備前市に工房を作ります。
備前焼は土作り、窯焚き、窯出しなど様々な手間と時間がかかる仕事です。
中でも祥子さんが取り組んだ作品に裸婦像がります。
細工物を作る教えを受け工夫を凝らして焼き上げましたが、納得できる作品を作りあげるにはとても苦労が有ったといいます。
工房を作って35年になります。
1956年(54年前)にハンガリー動乱で大学生の3/4が亡命しました。
夫の場合はオーストリアに出てマルセイユでアメリカの貨物船に乗せてもらってニューヨークに渡りました。
アメリカではキリスト教のベースの国でとっても親切で、夫はモンタナ大学に奨学金をもらっていきました。
カトリックの家庭で息子のように可愛がられて学業を終わりました。
修士課程、博士課程を修了しています。
その後夫は日本に来ました。
私は名古屋ではなく東京の女子大に行きたいと思って東京に出て来ました。
夫に見染められて強引に結婚ということになりました。
彼は25歳で私は19歳でした。
結婚して2カ月で妊娠しました。
彼は難民だったので子供はどうするかというのが問題になりました。
アメリカに行って市民権をとってから私を呼び寄せると言うことでした。
ハワイで市民権を得ることができて電報をアメリカ大使館に送ってくれ、私はビザをいただいてアメリカに飛びました。(1963年)
東京オリンピックの前年で自由に旅ができない時代だった。
片道切符を買うために父は田んぼを一枚売ってお金を作ってくれました。
彼の叔父の家にいって、みんなハンガリー人で英語は話せずどうしようかと思いました。
夫がアメリカンドリームを求めるためにコロンビア大学のネービス研究所?に入って、大学院の勉強をさせてもらいということで通っていました。
私は家で辞書を使って英語の勉強をしました。
中学校卒業の時の文集。
「光のある間に光のことなるために光を信じなさいと教えられたことが有りました。
女学校時代に希望に満ちていた人が、歳をとるにつれて生活の喜びを感じなくなることは、本当に悲しいことです。
次々におこることに心を奪われていつの間にか希望をうしなって居たのです。
人生に明るい希望を持ったらその希望を信じて生き続けたいと思います。」
とにかく一歩でも前に進まなければというような生活でした。(子育て、英語、夫との会話など)
私が23歳の時に夫がスタンフォード大学に就職して近くにあるカルフォリニア大学の一部の大学に英文科に入って私は英語の勉強をしました。
美術の単位も取らなければいけないということで陶芸が有り、入ったら楽しくてしょうがなかった。
ベンソン先生が褒め方が上手な先生でした。
ニューヨークに住んでいた時にウーマンリブ運動活動が広がって行きました。
私は夫に付いていくしかないという様な生活をしていました。
アメリカはお金は全部夫が握っていて、彼の収入とか、どう使っていたのか全く知りませんでした。
娘は大学を奨学金を貰って卒業しましたが、フルタイムで働いて私立大学に行かせない限りは二人の子供を育て自分でやっていけるだけの給料は取るようになりました。
コカイン中毒でぼろぼろになって帰っていた娘がそこまで成長しているとなると、わたしたちがやってきたウーマンリブ運動も間違っていなかったという気がします。
日本の陶芸は外国にはない美術としての価値が有ります。
祖父がお茶をしていて小さいころから見ていました。
有るデパートで備前焼の個展をやっていて、いっぱい色々作品があり素敵な色でした。
物凄く新鮮に見え感動ました。
武蔵野美術大学に行って勉強したいのですがどこか紹介して欲しいと頼んだら、その先生は備前焼だったら紹介出来る人がいると言うことで、行きました。
山本陶秀先生のお宅でした。
武蔵野美術大学を卒業した息子さんが3人の子持ちの女は弟子に取ることはできないといって、窯業試験場を紹介してくれました。
金重陶陽先生の息子さんの金重道明さんから良い備前焼の土を触らしてもらうと、本当に素晴らしい土でした。
アメリカでの土とは雲泥の差でした。
アメリカの土は粉の土に水を入れて機械で撹袢して粘土にするのでぱさぱさな感じです。
ロンドン大学の陶芸科にも行ったことが有りますが、アメリカと同様なものでした。
備前の土は田んぼから掘り出した土を庭で乾燥させて癖を取ってから、砂とか石を外して細かく叩いてそれを水に戻すが、丁寧にかき混ぜて沈殿させます。
土にかける手間が凄いです。
備前焼は1~2週間窯で焼きしめます。(3人で8時間交代)
若いころは20kg位粘土を練りましたが今は3kg練れないと思います。
夫は女性にもてる人で家族を苦しめました。
ロンドン大学の2番目の娘がマリファナになりいつの間にかコカイン中毒になってしまいました。
窯出しの手伝いに日本に呼んで連れて来た時には、ふっくらとしていた娘が骨と皮だけのようになっていてショックでした。
暴れ出すようになって精神科に入れて、薬が切れてきて手紙が書けるようになって、広島に良い先生がいると言うことで、連れて行きました。
玄米食、野菜、魚などを工夫をして食べさせて段々戻ってきて、1年半ぐらいすると自転車で走れるようになりました。
娘は友人の工房に通うようになって行きました。
娘が2年後にアメリカで勉強したいと言い出して、友人が受け入れてくれてサンフランシスコの私立大学に入学できて勉強しました。(24,5歳)
経済の勉強をして、その後大学院をどうするかという時にスタンフォード大学から全額給付の奨学金が貰える話が有りそのままでいれば博士課程を修了できたが、価値観が合わなくて2年で辞めてしまいました。
就職したが、その後資格を取ってカウンセラーになっています。(次女)
長女も感染症の医者になって自分で稼いでいます。
観音像は粘土の紐を積み重ねて行って大体の形を作って、潰れないような硬さになった時に衣のひだとか仕あげて行きます。
金井 春山先生が細工物を作っていて横で見よう見まねで作っていましたが、友人の父親が京人形師原孝洲先生で観音像を持っていって見せたら骨が出来ていないと言われました。
夫がロンドンに転勤になりロンドン大学の陶芸科にはいって、デッサン、人体のスケッチなどの勉強をしていたが、上手くいかず基本的な骨格をしっかり備えた人骨像と人体とを並べて描いて勉強していきました。
その後裸婦像も作る様になりました。
展示会を開いてその像も買っていただきました。
2018年6月19日火曜日
新井光風(書家) ・思い切り吸って吐き出せ
新井光風(書家) ・思い切り吸って吐き出せ
東京出身81歳、67歳で恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。
現在は日展の理事で全日本書道連盟理事長、大東文化大学名誉教授持勤めています。
書道に興味を持ったのは高校時代、昭和の大書家西川寧(やすし)の作品を見たのがきっかけです。
書道部や書道塾には行かずに独自に学んで展覧会にも作品を出品して勉強してきました。
58歳で大東文化大学教授になり、学生には中国などの昔の作品を手本にして学ぶ臨書を沢山やって力を蓄え作品作りの時にそれを吐き出すようにしなさいと教えて来ました。
臨書は空気を吸うこと、表現する事は空気を吐くこと、吸ったものが無いと吐けないと言います。
理由は特にないのですが、髭を生やし始めたのは5,6年前ごろかと思います。
大学を退職して暇になるのかなあと思っていたが、いつの間にか結構忙しくなって、今の方が忙しいです。
毎週火曜日、土曜日は稽古をやっていました。
展覧会の審査があちこちで有り、講演なども入っています。
自分の勉強もやっています。
8月15日に行われる武道館の追悼式、1999年から標柱に「全国戦没者の霊」の文字を書いています。
毎回緊張の度合いは変わらないです。
書の目的が違うので徹底的に私が無い状態に仕上げるためには、普段よりよっぽど大変です。
自分をコントロールするところから始まります。
古代文字の専門で、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)などがあるが、書いているうちにさかのぼっていていつの間にか篆書になっていました。
書体には楷書、行書、草書などがあるが、古いものでは隷書があるが、遡ると篆書になります。
篆書にも沢山の書体が有り、最初の文字の起源(象形文字)に近いようなものもあります。
個展は二回しか開いていないです。
常に先を考える姿勢が長く続いてきたので、個展を開くという考えはあまりなかったです。
一回目(76歳)は新作が半分、二回目(80歳 昨年)は全部新作でした。
80歳で自分のすべてを出し切った個展をやろうと思いました。
二回目は3年間だったので毎日書きました。
二回目の時には夢中になっていました。
一回目とは違って書に対する姿勢みたいなものを示したかった。
昭和12年渋谷生まれ。
小学生の頃、彫刻刀で柱に彫っていたりして(怒られなかったが)形にしたかったようでしたが、かなりいたずらだったようです。
筆が家に有ったので、興味は持っていたようです。
ぐにやっとした感触に妙に興味を持ちました。
作品を書くと言うようになったのは17歳でした。
西川先生の書道講座を見て大変凄さを感じました。
自分が変わる瞬間が自分の中に有りました。
高校生ぐらいまで書道部や書道塾には行かず、やっていました。
西川先生の本を見てから全てが始まり、そこからがスタートになりました。
臨書は取りつかれるように夢中になって書き始めました。
中国の書を読むために勉強をしました。
西川先生の本は片っ端から読んで書に対する姿勢を学んでいきました。
仕事は塾のような形で教えて私の収入になっていきました。
家は呉服屋で最初は継ぐつもりでしたが、興味の中心は文字らしくて、調べごとも好きで継ぐことは止めてしまいました。
呉服屋は両親の時代で閉じてしまいました。
27歳の時に西川先生に入門しました。
2時頃から稽古しているが、稽古が終わるのは夜中の1,2時で、朝迄というようなこともありました。
先生は時間の観念は有りませんでした。
その日に習った事は忘れてはならないと思うので、その場ではメモ出来ないので一回整理しないといけないので整理して時には眠れなかったです。
何事においても自分はゼロからだと思っていたので、ちょっと知識を得ると自分が伸びたような感じがします。
作品は、幻、幻影を考えていて、1,2カ月前から書きたいものが頭の中にぼんやり出て来るんですね。
そのうちに段々或る幻にピントが合うように見えだしてきます。
見えてくるとその瞬間に書きたくなります。
展覧会が繋がって来るとそれができなくなるので、より具体的にするためには必死で頭の中で作業をするので辛いです、簡単にはいかない。
これなら書けると思って書いても、一回で書けたことは一度も無いです。
追い求めるものに近づくことはできますが、これだと云うものは一度もありません。
書は怖い、恐ろしい、いくらやっても相手は近づいてくれない。
難しいと同時に面白いんでしょうね。
書というものはいつもがスタートなんじゃないんでしょうかね。
半紙は失敗しても捨てられるという気楽さがあるが、折帖で書いた場合は途中で捨てると言う訳にはいかないのでスタートから一生懸命にやらざるを得ない。
退官してから220冊になります。
今までの土台をもう一回固める必要があるのではないかと思って、80歳以後の私の表現はそのままで行きたくなくて、今まで以上のものを土台として固める必要がある。
夢中になれて幸せです。
限り無く吸い込むいだけ吸いこまないと、前に進む為の準備なので、そうしないと出せない。
自分を見つめ直して自分の中の足りないものを探して行って、補った時に自分が又違うものになれる、その繰り返しだと思います。
東京出身81歳、67歳で恩賜賞、日本芸術院賞を受賞。
現在は日展の理事で全日本書道連盟理事長、大東文化大学名誉教授持勤めています。
書道に興味を持ったのは高校時代、昭和の大書家西川寧(やすし)の作品を見たのがきっかけです。
書道部や書道塾には行かずに独自に学んで展覧会にも作品を出品して勉強してきました。
27歳の時西川寧(やすし)さんに弟子入りしました。
58歳で大東文化大学教授になり、学生には中国などの昔の作品を手本にして学ぶ臨書を沢山やって力を蓄え作品作りの時にそれを吐き出すようにしなさいと教えて来ました。
臨書は空気を吸うこと、表現する事は空気を吐くこと、吸ったものが無いと吐けないと言います。
理由は特にないのですが、髭を生やし始めたのは5,6年前ごろかと思います。
大学を退職して暇になるのかなあと思っていたが、いつの間にか結構忙しくなって、今の方が忙しいです。
毎週火曜日、土曜日は稽古をやっていました。
展覧会の審査があちこちで有り、講演なども入っています。
自分の勉強もやっています。
8月15日に行われる武道館の追悼式、1999年から標柱に「全国戦没者の霊」の文字を書いています。
毎回緊張の度合いは変わらないです。
書の目的が違うので徹底的に私が無い状態に仕上げるためには、普段よりよっぽど大変です。
自分をコントロールするところから始まります。
古代文字の専門で、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)などがあるが、書いているうちにさかのぼっていていつの間にか篆書になっていました。
書体には楷書、行書、草書などがあるが、古いものでは隷書があるが、遡ると篆書になります。
篆書にも沢山の書体が有り、最初の文字の起源(象形文字)に近いようなものもあります。
個展は二回しか開いていないです。
常に先を考える姿勢が長く続いてきたので、個展を開くという考えはあまりなかったです。
一回目(76歳)は新作が半分、二回目(80歳 昨年)は全部新作でした。
80歳で自分のすべてを出し切った個展をやろうと思いました。
二回目は3年間だったので毎日書きました。
二回目の時には夢中になっていました。
一回目とは違って書に対する姿勢みたいなものを示したかった。
昭和12年渋谷生まれ。
小学生の頃、彫刻刀で柱に彫っていたりして(怒られなかったが)形にしたかったようでしたが、かなりいたずらだったようです。
筆が家に有ったので、興味は持っていたようです。
ぐにやっとした感触に妙に興味を持ちました。
作品を書くと言うようになったのは17歳でした。
西川先生の書道講座を見て大変凄さを感じました。
自分が変わる瞬間が自分の中に有りました。
高校生ぐらいまで書道部や書道塾には行かず、やっていました。
西川先生の本を見てから全てが始まり、そこからがスタートになりました。
臨書は取りつかれるように夢中になって書き始めました。
中国の書を読むために勉強をしました。
西川先生の本は片っ端から読んで書に対する姿勢を学んでいきました。
仕事は塾のような形で教えて私の収入になっていきました。
家は呉服屋で最初は継ぐつもりでしたが、興味の中心は文字らしくて、調べごとも好きで継ぐことは止めてしまいました。
呉服屋は両親の時代で閉じてしまいました。
27歳の時に西川先生に入門しました。
2時頃から稽古しているが、稽古が終わるのは夜中の1,2時で、朝迄というようなこともありました。
先生は時間の観念は有りませんでした。
その日に習った事は忘れてはならないと思うので、その場ではメモ出来ないので一回整理しないといけないので整理して時には眠れなかったです。
何事においても自分はゼロからだと思っていたので、ちょっと知識を得ると自分が伸びたような感じがします。
作品は、幻、幻影を考えていて、1,2カ月前から書きたいものが頭の中にぼんやり出て来るんですね。
そのうちに段々或る幻にピントが合うように見えだしてきます。
見えてくるとその瞬間に書きたくなります。
展覧会が繋がって来るとそれができなくなるので、より具体的にするためには必死で頭の中で作業をするので辛いです、簡単にはいかない。
これなら書けると思って書いても、一回で書けたことは一度も無いです。
追い求めるものに近づくことはできますが、これだと云うものは一度もありません。
書は怖い、恐ろしい、いくらやっても相手は近づいてくれない。
難しいと同時に面白いんでしょうね。
書というものはいつもがスタートなんじゃないんでしょうかね。
半紙は失敗しても捨てられるという気楽さがあるが、折帖で書いた場合は途中で捨てると言う訳にはいかないのでスタートから一生懸命にやらざるを得ない。
退官してから220冊になります。
今までの土台をもう一回固める必要があるのではないかと思って、80歳以後の私の表現はそのままで行きたくなくて、今まで以上のものを土台として固める必要がある。
夢中になれて幸せです。
限り無く吸い込むいだけ吸いこまないと、前に進む為の準備なので、そうしないと出せない。
自分を見つめ直して自分の中の足りないものを探して行って、補った時に自分が又違うものになれる、その繰り返しだと思います。
2018年6月18日月曜日
木場大輔(胡弓奏者) ・【にっぽんの音】
木場大輔(胡弓奏者) ・【にっぽんの音】
案内役能 楽師狂言方 大藏基誠
胡弓 竿の長さが三味線の半分、材質 棹にインド原産の紅木 (こうき)、胴は中国原産の花梨(かりん)で出来ている。
縦に構えて弓で弾く、弓は紫檀、花梨、竹などで出来ていて毛は円筒状に束ねた馬尾毛を使って緩めに無造作に束ねているような状態。
弦を擦って音を鳴らす原理の楽器を擦弦楽器と言って、擦弦楽器としては日本では唯一の楽器です。
約400年の歴史のある楽器で江戸時代初期にはすでに記録が残っています。
三味線、琴の後方の目立たない様な位置で演奏します。
胡弓が主役になる曲はほとんど残っていなくて、古典の世界で言うと「鶴の巣籠」「蝉の曲」「千鳥の曲」の三曲が西日本における伝統的な本曲として有ります。
江戸の方でもいくつかありましたが、ほとんど演奏することはない状態です。
大抵三味線と一緒に演奏されて、単独では演奏されることのなかった楽器です。
伊勢神宮への参道で街道を行き来する人達に路上で聞かせていた、女性の芸能者たちが演奏していたり、それが歌舞伎の中に取り入れられたりしています。
中国の擦弦楽器である二胡とよく間違われるが、二胡は弦が二本しかないが、胡弓は三本有ります。
二胡は二本の弦の間に弓の毛が挟まっていて、弓の毛の裏側、表側の両面を使って二弦を弾き分ける、世界でもまれな構造をしている。
胡弓の弓は楽器から独立している。
雅楽の時代を除くと明らかな外国起源の音楽が曲として残っていなくて、おそらく外国から楽器自体がやってきて曲と一緒に伝承されると言うことはないと思います。
胡弓は哀愁が漂う音です。
指ではじいて鳴らすこともできる。(三味線のような演奏)
弦二本同時に演奏することもできる。(二本同時に音を出せ音の深みが増す)
義太夫のように激しく演奏することもあります。
新しい奏法も有ります。(昨年作曲した「空中都市」という一部分を演奏)
弦を一本足して四弦にして低音域まで音源が広がっています。
大正時代に宮城道雄先生が開発された宮城道雄胡弓あるいは大胡弓という楽器が有ります、三味線と大きさがほとんど変わらない胡弓があるが、大胡弓の音域を兼ね備えた楽器としてこの四弦胡弓を8年掛かりで作りました。
古典曲も演奏できるし、新しい表現もできます。
三味線、琴の演奏家が伸びる音が欲しい時に胡弓に持ち替えて演奏すると言うスタイルなので、胡弓を前面に押し出して活動してくると言う人が出てこない形なので、そこを何とか誰か一人でも変えて行く様な演奏家が出て来ない限り、ずーっと胡弓は影の存在であり続ける宿命を背負っている楽器なので、私は胡弓に出会って魅力を感じるものがあってこの楽器に人生を捧げてみようかと思っています。
父がフォークソングが好きで歌っていてギター、バンジョー、コントラバスが家にあったが触ることはあまりなかったが、エレクトーンを中学の時に習い始めてピアノをやろうとして、ジャズピアノを始めました。
高校生の時に作曲に興味を持っていました。
世界の楽器にも興味を持っていました。
二胡も面白いと思って大学で一年間習いました。
二胡をやっていくうえで伝統音楽の体系を習わないといけないということもあり、二胡の音色は魅力的だが自分のものにはならないのではとの思いもあり、悩んでいる時に胡弓という別の楽器があるらしいということを見聞きして、胡弓の存在を知りました。
(それまで二胡を胡弓と勘違いしていた面が有った)
原一男先生に習い始めました。
胡弓の背負ってきた歴史を考えると、胡弓に専念する人が出てこないから知られない楽器で居続けたのかと思って、自分が胡弓に専念して胡弓の為の作品を作って胡弓の可能性を色んな方に知ってもらいたいと思うようになりました。
*「焔(ほむら)」 胡弓に秘めた炎を爆発させるような表現にしたいと思って作った曲です。
日本の音 僕は余韻だと思います。
日本人って、ぱっと出た瞬間の音ではなくてその後に響いている余韻の方を聞いていると思います。
琴、三味線とか撥弦楽器のような余韻を楽しむのが日本の音感覚だと思うので、胡弓のように音の伸びる楽器はともすると撥弦楽器の余韻を殺しかねない。
胡弓がメジャーになれない一つの要因だったのかもしれない。
胡弓の演奏技法を工夫すれば同じ様な余韻を表現できるので、余韻ができるように工夫をしていて、もっと胡弓が余韻を楽しめる楽器として広まってくれたらなと思っています。
優れた独創曲を発信すること、胡弓のアンサンブル 琴、三味線、三曲合奏があるが、胡弓だけでアンサンブルを組む、その面白さの可能性を色々胡弓の低音域を開発したりしてもっと広めていきたいと思っています。
案内役能 楽師狂言方 大藏基誠
胡弓 竿の長さが三味線の半分、材質 棹にインド原産の紅木 (こうき)、胴は中国原産の花梨(かりん)で出来ている。
縦に構えて弓で弾く、弓は紫檀、花梨、竹などで出来ていて毛は円筒状に束ねた馬尾毛を使って緩めに無造作に束ねているような状態。
弦を擦って音を鳴らす原理の楽器を擦弦楽器と言って、擦弦楽器としては日本では唯一の楽器です。
約400年の歴史のある楽器で江戸時代初期にはすでに記録が残っています。
三味線、琴の後方の目立たない様な位置で演奏します。
胡弓が主役になる曲はほとんど残っていなくて、古典の世界で言うと「鶴の巣籠」「蝉の曲」「千鳥の曲」の三曲が西日本における伝統的な本曲として有ります。
江戸の方でもいくつかありましたが、ほとんど演奏することはない状態です。
大抵三味線と一緒に演奏されて、単独では演奏されることのなかった楽器です。
伊勢神宮への参道で街道を行き来する人達に路上で聞かせていた、女性の芸能者たちが演奏していたり、それが歌舞伎の中に取り入れられたりしています。
中国の擦弦楽器である二胡とよく間違われるが、二胡は弦が二本しかないが、胡弓は三本有ります。
二胡は二本の弦の間に弓の毛が挟まっていて、弓の毛の裏側、表側の両面を使って二弦を弾き分ける、世界でもまれな構造をしている。
胡弓の弓は楽器から独立している。
雅楽の時代を除くと明らかな外国起源の音楽が曲として残っていなくて、おそらく外国から楽器自体がやってきて曲と一緒に伝承されると言うことはないと思います。
胡弓は哀愁が漂う音です。
指ではじいて鳴らすこともできる。(三味線のような演奏)
弦二本同時に演奏することもできる。(二本同時に音を出せ音の深みが増す)
義太夫のように激しく演奏することもあります。
新しい奏法も有ります。(昨年作曲した「空中都市」という一部分を演奏)
弦を一本足して四弦にして低音域まで音源が広がっています。
大正時代に宮城道雄先生が開発された宮城道雄胡弓あるいは大胡弓という楽器が有ります、三味線と大きさがほとんど変わらない胡弓があるが、大胡弓の音域を兼ね備えた楽器としてこの四弦胡弓を8年掛かりで作りました。
古典曲も演奏できるし、新しい表現もできます。
三味線、琴の演奏家が伸びる音が欲しい時に胡弓に持ち替えて演奏すると言うスタイルなので、胡弓を前面に押し出して活動してくると言う人が出てこない形なので、そこを何とか誰か一人でも変えて行く様な演奏家が出て来ない限り、ずーっと胡弓は影の存在であり続ける宿命を背負っている楽器なので、私は胡弓に出会って魅力を感じるものがあってこの楽器に人生を捧げてみようかと思っています。
父がフォークソングが好きで歌っていてギター、バンジョー、コントラバスが家にあったが触ることはあまりなかったが、エレクトーンを中学の時に習い始めてピアノをやろうとして、ジャズピアノを始めました。
高校生の時に作曲に興味を持っていました。
世界の楽器にも興味を持っていました。
二胡も面白いと思って大学で一年間習いました。
二胡をやっていくうえで伝統音楽の体系を習わないといけないということもあり、二胡の音色は魅力的だが自分のものにはならないのではとの思いもあり、悩んでいる時に胡弓という別の楽器があるらしいということを見聞きして、胡弓の存在を知りました。
(それまで二胡を胡弓と勘違いしていた面が有った)
原一男先生に習い始めました。
胡弓の背負ってきた歴史を考えると、胡弓に専念する人が出てこないから知られない楽器で居続けたのかと思って、自分が胡弓に専念して胡弓の為の作品を作って胡弓の可能性を色んな方に知ってもらいたいと思うようになりました。
*「焔(ほむら)」 胡弓に秘めた炎を爆発させるような表現にしたいと思って作った曲です。
日本の音 僕は余韻だと思います。
日本人って、ぱっと出た瞬間の音ではなくてその後に響いている余韻の方を聞いていると思います。
琴、三味線とか撥弦楽器のような余韻を楽しむのが日本の音感覚だと思うので、胡弓のように音の伸びる楽器はともすると撥弦楽器の余韻を殺しかねない。
胡弓がメジャーになれない一つの要因だったのかもしれない。
胡弓の演奏技法を工夫すれば同じ様な余韻を表現できるので、余韻ができるように工夫をしていて、もっと胡弓が余韻を楽しめる楽器として広まってくれたらなと思っています。
優れた独創曲を発信すること、胡弓のアンサンブル 琴、三味線、三曲合奏があるが、胡弓だけでアンサンブルを組む、その面白さの可能性を色々胡弓の低音域を開発したりしてもっと広めていきたいと思っています。
2018年6月17日日曜日
川島良彰(コーヒーハンター José.) ・【“美味しい”仕事人】
川島良彰(コーヒーハンター José.) ・【“美味しい”仕事人】
61歳、1年のうち100日以上世界のさまざまなコーヒー生産国で過ごしている川島さん、幻のコーヒーの木マスカロコフェアや幻の品種ブルボンポワントゥを発見して、コーヒーハンターのホセと世界中に知られている人です。
10代で単身エルサルバドルに渡ってから、現在まで海外で長きにわたりコーヒー栽培に携わっている川島さん、「生産者と消費者をコーヒーでつなぐ」というテーマでコーヒー人生について伺います。
コーヒーの香りは本当に癒されます。
良いコーヒーは香りの余韻の長さが違います。
エルサルバドルは中米で一番小さな国です。
この国に行って僕の人生は変わってしまいました。
1999年にマダカスカルに行って、マダカスカルにしかないマスカロコフェア(カフェインがほとんどないコーヒー)を探しに来ましたが、マダカスカルではマスカロコフェアを知っている人が誰もいませんでした。
ジャングルで探す旅が始まりました。
フランスの植民地時代にフランスの研究者たちがやっていた森になった試験場跡を探し当てました。
その時に現地人からコーヒーハンターと呼ばれるようになりました。
静岡市のコーヒー焙煎卸業の家に生まれ、幼稚園の時から父がおいしいミルクコーヒーを作ってくれて、長男だったので継ぐことを意識していました。
どうしてもコーヒーの取れるところに行きたくて、小学6年生の時に東京のブラジル大使館に手紙を書いて、コーヒー園で働きたいと出しました。
父親から中学を出てからとか高校をと、どんどん伸ばされてしまいました。
高校2年の時に父がコーヒー視察旅行でメキシコ、中米を旅をしてきて、メキシコの大学にいくかと言ってくれて、父の知り合いが駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏だったので、父と一緒に相談にいったらエルサルバドルに来なさいと言うことになり決まりました。
18歳でエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス大学に留学しました。
言葉を覚えて、国立コーヒー研究所にアポなしで所長に合わせてほしいと行って、コーヒーへの思いを伝えました。
追い出されたがその後毎日1カ月研究所に通って、所長室に坐り込みました。
一カ月後に所長室に入れてもらって話を聞いてくれて、若い農学博士が僕の為にカリキュラムを作ってくれました。
後で知りましたが、そこは世界最先端の研究所でした。
1975年にエルサルバドルは四国よりちょっと大きな国ですが、世界で3番目のコーヒー生産国でした。
大学は休学届を出して研究所に通いましたが、父にもばれてしまって父の家業の後を継がないと言ったら勘当されてしまいました。
人工授粉、剪定、などいろいろ教えていただきました。
その時の所長はその後農務大臣になりました。
駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏、所長など恩人が一杯います。
格差が激しく70,80年代は中南米は一番荒れた時代でした。
反政府活動が始まり、首都攻防戦もあり79年には革命が起きましたが、そのころもずーっといました。
友人も7人組がはいって家から連れ出されてどうなったのか判りません、多分殺されていると思います。
ベネケ大使も実業家になられましたが暗殺されて、知り合いは7人位は殺されてしまいました。
首都から出てはいけないと言われていたが、結局ロサンゼルスに疎開しました。
大手のコーヒーメーカーの創業者との出会いが有り、ジャマイカのブルーマウンテンの農園開発を手伝って欲しいと頼まれました。
その人は奈良の田舎からリヤカー一台で今の会社を作った人で、リヤカーでコーヒーの行商をしていた時の夢が農園を持てるようなコーヒー屋になることで、農園を持つならブルーマウンテンの農園で、日本には判る人がいないから君に会いに来たんだと言われました。
私に会う前に、会長は父の所に行って「うちの会社に入れたいが」といったら、父は「もう勘当しているので好きなように」と言ったそうです。(笑い)
エルサルバドルは母国のように思っていたので、エルサルバドルに戻りたくてその話はお断りしました。
政情が安定していたら研究所に戻り、駄目だったら日本に帰ろうと決めました。
もし日本に帰ることになったらと言って会長が名刺を渡してくれました
2カ月後にエルサルバドルに戻ったら先生もゲリラから脅迫されて国外追放になり、研究所も縮小され駄目だと思って日本に帰ることにしました。
会長の名刺から電話をしたら、「来ると思っていた、ポジションは残してあるので直ぐジャマイカに行ってくれ」と言われました。
農園経営はやったことが無いのでと言ったら、「君はコーヒーを栽培することができるのでワシよりましだ、責任は全部取るから暴れてこい」と言われました。(25歳の時)
3億円を資金として渡されました。
凄くいい勉強になりました。
ジャマイカは治安が良くなくて銃を持ちながらの仕事でした。
山火事が大変でした。
隣りの農園から火が出て2/3やられてしまい、精神的にも肉体的にもくたくたになりました。
1988年9月にハリケーン ギルバート(20世紀最大と言われ、風速95m)にやられて全滅しました。
ジャマイカで屋根が残った家は一軒も無かった。
9月なので倒れている木に実がなっているが、地上30cm位の所から切りました。
根を守ることができて、2年で再生しました。
その後会長からハワイのコナを元気にさせろと言われて、いい生産者からコーヒーを買って日本に送るようにいわれ、なおかつ自社の農園を作って技術革新をしたものをコナの生産者に指導するように言われて行きました。
ブルドーザーで溶岩をはがして、溶岩を細かく砕いて土を掘り起こして反転させて畑作りをしていきました。
ハワイで払う労働者の時給がジャマイカの日給ぐらいで、人件費がめちゃくちゃ高かったです。
1999年マダカスカルでマスカロコフェアを探しに行き、ブルボン島でブルボン種から突然変異でできた品種ブルボンポワントゥが絶滅してしまって、文献では香りが非常に高くてカフェインが通常の半分しかないということだった。
ブルボンポワントゥを探しに行ったが、農政局長に会いに行ったが鼻で笑われて無いと言われて、ブルボン種のこの島の重要性を話したら一緒に探そうと言うことになり、その時は見つからなかったが、3カ月後にハワイに連絡が有り30本近く見つかったからすぐ来いということで行きまして、ようやく2007年に日本でデビューさせました。
当時、100gで7000円でしたが、社内からは絶対に売れないということだったが、2週間で完売しました。
51歳で会社を辞めて独立しました。
年の1/3位は産地には行っています。
どうやったらちゃんと競争力のあるコーヒーを売れるようになるのか、ルワンダで作ってちゃんと売れるように助けるのが僕の使命だと思っています。
コーヒーを通して生産国と消費国を繋ぐ懸け橋になりたいと思っていたが、気が付いたら生産国同士をつなげる活動(木の育て方、生産方法など)をするようになってきました。
61歳、1年のうち100日以上世界のさまざまなコーヒー生産国で過ごしている川島さん、幻のコーヒーの木マスカロコフェアや幻の品種ブルボンポワントゥを発見して、コーヒーハンターのホセと世界中に知られている人です。
10代で単身エルサルバドルに渡ってから、現在まで海外で長きにわたりコーヒー栽培に携わっている川島さん、「生産者と消費者をコーヒーでつなぐ」というテーマでコーヒー人生について伺います。
コーヒーの香りは本当に癒されます。
良いコーヒーは香りの余韻の長さが違います。
エルサルバドルは中米で一番小さな国です。
この国に行って僕の人生は変わってしまいました。
1999年にマダカスカルに行って、マダカスカルにしかないマスカロコフェア(カフェインがほとんどないコーヒー)を探しに来ましたが、マダカスカルではマスカロコフェアを知っている人が誰もいませんでした。
ジャングルで探す旅が始まりました。
フランスの植民地時代にフランスの研究者たちがやっていた森になった試験場跡を探し当てました。
その時に現地人からコーヒーハンターと呼ばれるようになりました。
静岡市のコーヒー焙煎卸業の家に生まれ、幼稚園の時から父がおいしいミルクコーヒーを作ってくれて、長男だったので継ぐことを意識していました。
どうしてもコーヒーの取れるところに行きたくて、小学6年生の時に東京のブラジル大使館に手紙を書いて、コーヒー園で働きたいと出しました。
父親から中学を出てからとか高校をと、どんどん伸ばされてしまいました。
高校2年の時に父がコーヒー視察旅行でメキシコ、中米を旅をしてきて、メキシコの大学にいくかと言ってくれて、父の知り合いが駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏だったので、父と一緒に相談にいったらエルサルバドルに来なさいと言うことになり決まりました。
18歳でエルサルバドルのホセ・シメオン・カニャス大学に留学しました。
言葉を覚えて、国立コーヒー研究所にアポなしで所長に合わせてほしいと行って、コーヒーへの思いを伝えました。
追い出されたがその後毎日1カ月研究所に通って、所長室に坐り込みました。
一カ月後に所長室に入れてもらって話を聞いてくれて、若い農学博士が僕の為にカリキュラムを作ってくれました。
後で知りましたが、そこは世界最先端の研究所でした。
1975年にエルサルバドルは四国よりちょっと大きな国ですが、世界で3番目のコーヒー生産国でした。
大学は休学届を出して研究所に通いましたが、父にもばれてしまって父の家業の後を継がないと言ったら勘当されてしまいました。
人工授粉、剪定、などいろいろ教えていただきました。
その時の所長はその後農務大臣になりました。
駐日エルサルバドルの大使ベネケ氏、所長など恩人が一杯います。
格差が激しく70,80年代は中南米は一番荒れた時代でした。
反政府活動が始まり、首都攻防戦もあり79年には革命が起きましたが、そのころもずーっといました。
友人も7人組がはいって家から連れ出されてどうなったのか判りません、多分殺されていると思います。
ベネケ大使も実業家になられましたが暗殺されて、知り合いは7人位は殺されてしまいました。
首都から出てはいけないと言われていたが、結局ロサンゼルスに疎開しました。
大手のコーヒーメーカーの創業者との出会いが有り、ジャマイカのブルーマウンテンの農園開発を手伝って欲しいと頼まれました。
その人は奈良の田舎からリヤカー一台で今の会社を作った人で、リヤカーでコーヒーの行商をしていた時の夢が農園を持てるようなコーヒー屋になることで、農園を持つならブルーマウンテンの農園で、日本には判る人がいないから君に会いに来たんだと言われました。
私に会う前に、会長は父の所に行って「うちの会社に入れたいが」といったら、父は「もう勘当しているので好きなように」と言ったそうです。(笑い)
エルサルバドルは母国のように思っていたので、エルサルバドルに戻りたくてその話はお断りしました。
政情が安定していたら研究所に戻り、駄目だったら日本に帰ろうと決めました。
もし日本に帰ることになったらと言って会長が名刺を渡してくれました
2カ月後にエルサルバドルに戻ったら先生もゲリラから脅迫されて国外追放になり、研究所も縮小され駄目だと思って日本に帰ることにしました。
会長の名刺から電話をしたら、「来ると思っていた、ポジションは残してあるので直ぐジャマイカに行ってくれ」と言われました。
農園経営はやったことが無いのでと言ったら、「君はコーヒーを栽培することができるのでワシよりましだ、責任は全部取るから暴れてこい」と言われました。(25歳の時)
3億円を資金として渡されました。
凄くいい勉強になりました。
ジャマイカは治安が良くなくて銃を持ちながらの仕事でした。
山火事が大変でした。
隣りの農園から火が出て2/3やられてしまい、精神的にも肉体的にもくたくたになりました。
1988年9月にハリケーン ギルバート(20世紀最大と言われ、風速95m)にやられて全滅しました。
ジャマイカで屋根が残った家は一軒も無かった。
9月なので倒れている木に実がなっているが、地上30cm位の所から切りました。
根を守ることができて、2年で再生しました。
その後会長からハワイのコナを元気にさせろと言われて、いい生産者からコーヒーを買って日本に送るようにいわれ、なおかつ自社の農園を作って技術革新をしたものをコナの生産者に指導するように言われて行きました。
ブルドーザーで溶岩をはがして、溶岩を細かく砕いて土を掘り起こして反転させて畑作りをしていきました。
ハワイで払う労働者の時給がジャマイカの日給ぐらいで、人件費がめちゃくちゃ高かったです。
1999年マダカスカルでマスカロコフェアを探しに行き、ブルボン島でブルボン種から突然変異でできた品種ブルボンポワントゥが絶滅してしまって、文献では香りが非常に高くてカフェインが通常の半分しかないということだった。
ブルボンポワントゥを探しに行ったが、農政局長に会いに行ったが鼻で笑われて無いと言われて、ブルボン種のこの島の重要性を話したら一緒に探そうと言うことになり、その時は見つからなかったが、3カ月後にハワイに連絡が有り30本近く見つかったからすぐ来いということで行きまして、ようやく2007年に日本でデビューさせました。
当時、100gで7000円でしたが、社内からは絶対に売れないということだったが、2週間で完売しました。
51歳で会社を辞めて独立しました。
年の1/3位は産地には行っています。
どうやったらちゃんと競争力のあるコーヒーを売れるようになるのか、ルワンダで作ってちゃんと売れるように助けるのが僕の使命だと思っています。
コーヒーを通して生産国と消費国を繋ぐ懸け橋になりたいと思っていたが、気が付いたら生産国同士をつなげる活動(木の育て方、生産方法など)をするようになってきました。
2018年6月16日土曜日
前畑洋平(産業遺産コーディネーター ) ・“廃墟”から“遺産”へ
前畑洋平(産業遺産コーディネーター NPO法人J-heritage代表 )・“廃墟”から“遺産”へ
39歳、群馬県の富岡製糸場や長崎県の端島、通称軍艦島がユネスコの世界遺産に登録されるなど産業遺産への関心が高まっています。
しかし保存整備が行われている産業遺産はごく一部で廃墟と化した場所も少なくないのが現状です。
前畑さんは人知れず解体されてゆく産業遺産を見学記録することを目的に、9年前30歳の時にNPO法人を立ち上げ、神戸を拠点に全国でツアー見学会や保存活用に関する企画運営を行っています。
又或る廃墟を残そうとインターネット上で寄付を募るクラウドファンディングを行い、国の登録有形文化財の指定を目指して活動をしています。
産業遺産の価値と魅力は何なのか、伺いました。
産業遺産というと広くなってしまいますが、人間が生きていくうえで必要な生産活動を全て産業と言いますが、特に後世に残す価値や意味がある遺構を産業遺産と言います。
国内だと軍艦島、富岡製糸場などが有ります。
文化庁が文化財として認められている、幕末から戦前戦時中の時間軸になるものもあります。
軍艦島は江戸時代には炭鉱として発見されていました。
明治の産業革命で島津家が操業していた集成館工場群であったりとかも江戸時代から開発が進められていた。
石見銀山も有ります。
軍艦島は最盛期には5000人が住んでいて、当時世界一の人口密度を誇っていて人口密度は東京の9倍と言われていました。
明治時代に鉄が必要で八幡製鉄所に石炭を供給すると言うことで、明治の近代化に大きく貢献したという意味で価値が注目されています。
炭鉱住宅は日本の試験的な高層住宅ですが、文化財的な価値は評価されていない。
古くは大正一桁の時代の高層住宅の建物が残っています。(最高で9階建て)
海底水道、海底ケーブルで電気を送っていました。(日本初)
昭和49年に閉山、無人になる。
世界遺産に登録されたのは明治時代のものに限られていて大正、昭和の物は対象になっていない。
建物は廃墟の状態、30号棟(1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパート)は倒壊してもおかしくないような状態だが保存の対象にはなっていない。
知られていない産業遺産はあるが、人知れず崩落する場所もある。
地域の人は負の遺産として考えてしまう。
私は昔廃墟に興味を持っていたが、壊されるものがいろ色々なあってそのうちこのままではいけないと思い、NPO法人J-heritageを立ち上げて神戸を拠点にしています。
全国を回っています。
小学校のころに映画を見て廃墟に関して興味を持つようになりました。
通っていた小学校の前に廃工場があり、そこに遊びに行って秘密基地を作ったりしてそれがきっかけになりました。
会社に入って車に乗るようになり全国を回るようになりました。
兵庫県の神子畑選鉱所(みこばたせんこうしょ)があり、見学に行ったら、建物は壊されていてコンクリートの遺構だけになっていた。
人が勝手に入って事故があったりしてはいけないということで、壊してしまう場所があると言うことで、許可をもらって遺産としての価値が有るのならば、そういったアプローチをしていった方がいいと思いましてNPOを立ち上げました。
僕たちはコーディネートをする立場で、多くの人に情報を発信してそこに連れてゆく役割です。
遺産として残していこうと思った時には地域の人がやはり主役です。
愛媛県の今治市にある四阪製錬所、上陸できないので船でしか見られないが、吃驚するほど貴重な建物工場群が残っていました。
病院、学校、住友家の別邸、明治期から使われている工場群が有りました。
公害克服の為に島に移して、象徴の煙突があります。
長崎県の諫早市の旧長崎刑務所が印象に残っています。
明治の5大監獄の一つで、明治時代から使われていたもので壊されることになっていて、レンガ作りの立派な建物で感動したが、壊されてしまいました。
奈良少年刑務所はほぼ当時のままの状態で残っています。
窓の上はアーチになっておりおシャレな刑務所になっている。
五翼放射状舎房と呼ばれていて、中央に立つとすべての舎房が一元監視できる。
前身は奈良監獄で、当時明治41年(1908年)に竣工した山下啓次郎設計による「明治の五大監獄」の一つ。
寮美千子さんが受刑者に対して詩の先生をしていたが、協力をしていただいて見学をさせてもらい、その保存にかかわりました。
(参照:「寮 美千子(作家・詩人)・心をほぐす詩の授業」
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/01/blog-post_21.html)
2017年に国の重要文化財に指定され、残ることが決まりました。
ホテルとして利用することが計画されています。
神戸の麻耶観光ホテル、廃墟になってしまった戦前のホテルがあるが、壊そうとしているところを何とか残せないかということをNPOでお手伝いをさせてもらっています。
20年以上廃墟になってる。(廃墟マニアの人気スポットになっている)
所有者と会う機会が有り、地元団体、NPOなどで残して活用していこうと検討しています。
インターネット上で寄付を募るクラウドファンディングを行い、720万円支援をいただいて、国の登録有形文化財の指定を目指して活動をしています。
昭和4年に建物が出来て、1990年代までは活用されたがその後廃墟になってしまいました。(その後復活の時期もあったが、又廃墟になる)
ケーブルカーでの足の利用だったが、太平洋戦争の影響がありレジャー目的の鉄道という事で不要不急の鉄道という事で鉄道を供出されてしまって、営業休止を余儀なくされてしまう。
戦後復活するが台風で損壊したりして、修復できず又廃墟になってしまったりした。
産業遺産にはそれぞれ物語が有り歴史が有ります。
姫路モノレール、戦後復興の象徴の一つですが、赤字で営業を終えてしまいました。
1966年に行われた姫路大博覧会(地方博覧会)の会場輸送の手段として作られたもの。
いろいろな問題が有り8年で営業を終えてしまった。
モノレールの橋脚が一部残っています、また去年まで中間駅の大将軍駅が残っていたが、残念ながら取り壊されてしまいました。
昭和30年代にはやった円形校舎、資材が少なくて済むが増築できなくて、その後生徒が少なくもなり壊されていってしまっているものが結構あります。
遺産を継承していく仲間を作っていけたらと思っています。
39歳、群馬県の富岡製糸場や長崎県の端島、通称軍艦島がユネスコの世界遺産に登録されるなど産業遺産への関心が高まっています。
しかし保存整備が行われている産業遺産はごく一部で廃墟と化した場所も少なくないのが現状です。
前畑さんは人知れず解体されてゆく産業遺産を見学記録することを目的に、9年前30歳の時にNPO法人を立ち上げ、神戸を拠点に全国でツアー見学会や保存活用に関する企画運営を行っています。
又或る廃墟を残そうとインターネット上で寄付を募るクラウドファンディングを行い、国の登録有形文化財の指定を目指して活動をしています。
産業遺産の価値と魅力は何なのか、伺いました。
産業遺産というと広くなってしまいますが、人間が生きていくうえで必要な生産活動を全て産業と言いますが、特に後世に残す価値や意味がある遺構を産業遺産と言います。
国内だと軍艦島、富岡製糸場などが有ります。
文化庁が文化財として認められている、幕末から戦前戦時中の時間軸になるものもあります。
軍艦島は江戸時代には炭鉱として発見されていました。
明治の産業革命で島津家が操業していた集成館工場群であったりとかも江戸時代から開発が進められていた。
石見銀山も有ります。
軍艦島は最盛期には5000人が住んでいて、当時世界一の人口密度を誇っていて人口密度は東京の9倍と言われていました。
明治時代に鉄が必要で八幡製鉄所に石炭を供給すると言うことで、明治の近代化に大きく貢献したという意味で価値が注目されています。
炭鉱住宅は日本の試験的な高層住宅ですが、文化財的な価値は評価されていない。
古くは大正一桁の時代の高層住宅の建物が残っています。(最高で9階建て)
海底水道、海底ケーブルで電気を送っていました。(日本初)
昭和49年に閉山、無人になる。
世界遺産に登録されたのは明治時代のものに限られていて大正、昭和の物は対象になっていない。
建物は廃墟の状態、30号棟(1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパート)は倒壊してもおかしくないような状態だが保存の対象にはなっていない。
知られていない産業遺産はあるが、人知れず崩落する場所もある。
地域の人は負の遺産として考えてしまう。
私は昔廃墟に興味を持っていたが、壊されるものがいろ色々なあってそのうちこのままではいけないと思い、NPO法人J-heritageを立ち上げて神戸を拠点にしています。
全国を回っています。
小学校のころに映画を見て廃墟に関して興味を持つようになりました。
通っていた小学校の前に廃工場があり、そこに遊びに行って秘密基地を作ったりしてそれがきっかけになりました。
会社に入って車に乗るようになり全国を回るようになりました。
兵庫県の神子畑選鉱所(みこばたせんこうしょ)があり、見学に行ったら、建物は壊されていてコンクリートの遺構だけになっていた。
人が勝手に入って事故があったりしてはいけないということで、壊してしまう場所があると言うことで、許可をもらって遺産としての価値が有るのならば、そういったアプローチをしていった方がいいと思いましてNPOを立ち上げました。
僕たちはコーディネートをする立場で、多くの人に情報を発信してそこに連れてゆく役割です。
遺産として残していこうと思った時には地域の人がやはり主役です。
愛媛県の今治市にある四阪製錬所、上陸できないので船でしか見られないが、吃驚するほど貴重な建物工場群が残っていました。
病院、学校、住友家の別邸、明治期から使われている工場群が有りました。
公害克服の為に島に移して、象徴の煙突があります。
長崎県の諫早市の旧長崎刑務所が印象に残っています。
明治の5大監獄の一つで、明治時代から使われていたもので壊されることになっていて、レンガ作りの立派な建物で感動したが、壊されてしまいました。
奈良少年刑務所はほぼ当時のままの状態で残っています。
窓の上はアーチになっておりおシャレな刑務所になっている。
五翼放射状舎房と呼ばれていて、中央に立つとすべての舎房が一元監視できる。
前身は奈良監獄で、当時明治41年(1908年)に竣工した山下啓次郎設計による「明治の五大監獄」の一つ。
寮美千子さんが受刑者に対して詩の先生をしていたが、協力をしていただいて見学をさせてもらい、その保存にかかわりました。
(参照:「寮 美千子(作家・詩人)・心をほぐす詩の授業」
http://asuhenokotoba.blogspot.com/2017/01/blog-post_21.html)
2017年に国の重要文化財に指定され、残ることが決まりました。
ホテルとして利用することが計画されています。
神戸の麻耶観光ホテル、廃墟になってしまった戦前のホテルがあるが、壊そうとしているところを何とか残せないかということをNPOでお手伝いをさせてもらっています。
20年以上廃墟になってる。(廃墟マニアの人気スポットになっている)
所有者と会う機会が有り、地元団体、NPOなどで残して活用していこうと検討しています。
インターネット上で寄付を募るクラウドファンディングを行い、720万円支援をいただいて、国の登録有形文化財の指定を目指して活動をしています。
昭和4年に建物が出来て、1990年代までは活用されたがその後廃墟になってしまいました。(その後復活の時期もあったが、又廃墟になる)
ケーブルカーでの足の利用だったが、太平洋戦争の影響がありレジャー目的の鉄道という事で不要不急の鉄道という事で鉄道を供出されてしまって、営業休止を余儀なくされてしまう。
戦後復活するが台風で損壊したりして、修復できず又廃墟になってしまったりした。
産業遺産にはそれぞれ物語が有り歴史が有ります。
姫路モノレール、戦後復興の象徴の一つですが、赤字で営業を終えてしまいました。
1966年に行われた姫路大博覧会(地方博覧会)の会場輸送の手段として作られたもの。
いろいろな問題が有り8年で営業を終えてしまった。
モノレールの橋脚が一部残っています、また去年まで中間駅の大将軍駅が残っていたが、残念ながら取り壊されてしまいました。
昭和30年代にはやった円形校舎、資材が少なくて済むが増築できなくて、その後生徒が少なくもなり壊されていってしまっているものが結構あります。
遺産を継承していく仲間を作っていけたらと思っています。
2018年6月15日金曜日
本田美和子(国立病院機構東京医療センター ) ・ユマニチュードを日本に紹介して
本田美和子(国立病院機構東京医療センター 総合内科医長)・ユマニチュードを日本に紹介して
認知症患者の数が、団塊の世代が75歳以上になる2025年には、700万人になると予想されるが、認知症の人達とどのように接したら良いのかが、医療や介護の現場で大きな課題の一つになって来ました。
本田さんは1993年筑波大学筑波大学医学専門学部を卒業、アメリカの大学病院に勤めるほか、日本で内科医として20年余り働いてきました。
認知症の医療介護と向き合い、試行錯誤の日々を過ごす中で、本田さんはプロのケア技術を誰にでも出来るように体系化し効果が高いと注目されている、フランス生まれの認知症ケア、ユマニチュードに出会いました。
6年前から日本に導入し、普及に努めています。
ユマニチュードというのは人間らしさを取り戻すという意味のフランス語の造語です。
フランスで介護の施設、病院の職員向けにどうやればいい介護が提供できるかということを40年間現場でやってきた方々がいるが、その方々が作り上げた基本的な考え方と(哲学)と具体的な技術が一体化したケアの技法です。
英語で読むとヒューマニチュード(Humanitude)になります。
私は内科医になって、仕事をやり始めたころと今では社会の状況が変わって、20年前ごろは病院にいる患者は自分の病気が判っていて、病気を良くしたいと思って検査、治療などに協力してくれ、協力し合うと言うことが前提になっていた。
今は90,100歳以上の方が入院するが、非常に脆弱な状況で認知機能が落ち来てしまっている方がおり、自分が何処にいるのか判らない、目の前にいる人が何をする人なのかが判らない、どうしてこんな痛い事をされるのかわからない。
働いている人にとっては提供したいという治療を受けとってもらえないという事態になる。
そのような思いを届ける技術が無いと駄目な時代になってきたがどうするかわからない。
フランスではそういう取り組みをしている人がいることを雑誌を見て知りました。
知っておきたいと思って、或る日聞きに行きたいと思って2011年夏にメールを送りました。
エイズについての仕事をやっていましたが、良い薬が出来て、長生きが出来るようになり、エイズの高齢の方の問題が出てきて、ユマニチュードを知りたいと思いました。
新しい分野で高齢者への医療を実践したいと思いました。
日本の看護師、介護士さんには絶対出来ると思いました。
あなたと私はここにいてとってもいい関係にあるんだと言うことを互いにやりとりをし合うと言うことが大事なんです。
言葉によって色々話すが、これだけでは一方通行になり、相手から持ってきたものを受け取っているんだと頷いて返してくれることで、良い関係があると言うことが二人は判る、それを医療で実現すると言うことがユマイチュードなんです。
ケアされる人からは色々の情報を発信している。(声、音、仕草等)
限界まで近づいたと思った時に声をかける。
良い語彙を選ぶ、声は低く大きくしない。
目を合わせて声を掛けた2秒以内に触れた方がいい。
なるべく鈍い所、背中、肩等にゆっくりと触る。
掌、顔は敏感なので触らない。
ケアをする時には腕を掴むと言うことは吃驚するので、下から支えて広い範囲にする。
介護が楽しくなったと言う人が増えました。
介護される人も穏やかに過ごすことができる。
互いに良い時間を過ごしたということを互いに認識し合う時間が増えて行くのではないかと思います。
今年は新しく地域社会でユマニチュードを学んで、みんなで高齢の人にお元気に過ごしていただけるようにという自治体が増えてきました。
福岡市では「プログラム100」というプロジェクトが出来て進められていて、リーディング事業として採択されて2年前からやっています。
公民館でユマニチュードを学ぶということを行っています。
小学生にも学んでもらっていて、先生に対して教え方を教えることなどもやっています。
救急隊の隊員の方にも学んでもらうと言うこともやり始めました。
家族介護をしている方に対しては、短い時間で教材を渡すような形で役立ててもらえればということをしていてDVDの教材も作りました。
家族の心持ち、考え方、技術が変わったという声をいただきました。
一人では頑張り過ぎないということは重要で、助けを求めてもらいたい。
地域で支えて行く、そのためには様々な取り組みが有ります。
日本科学技術振興機構から研究費をいただいて、5年間に渡ってユマニチュードが何故有効なのか、多くの方に学んでいただくためにはどうしたらいいのか、大学の先生たちと一緒にチームを作ってやっているところです。
困っている様子をビデオにとって安全なサイトに持ってきて提案することができる。
試行的ですがやっています。
課題は学ぶ時はしっかり基本から学んで、ビデオなども使っていただけたらと思います。
上手く行かないに時にユマニチュードを学ぶと判るようになります。
教える人が圧倒的に足りないのでAIを使ったり様様な技術を使って行きたい。
介護に困っている方にはユマニチュードは伸び代があると思います。
地方への展開も進めています。
海外に付いても講義に出かけたりしています。(アメリカ、アジアなど)
病院は病気で困ってる人を待っている、ユマニチュードは介護士に限らず、医師、看護師、家族、店員など誰かを大事に思ってその人を尊重するという社会は、日本に限らず必要になって来ると思います。
困っている人を助けると言う考え方を実践するにあたって、ユマニチュードという技術は役に立つのではないかと思います。
そうして行くと人と人が良い関係を結んでゆくという社会が実現されて行くと思います。
社会の中で目を合わせて「こんにちわ」と言ったりすることで、人と人との良い関係を生みだすきっかけにもなります。
人が人とやりとりがある時には、その人を大事にすると言う気持ちがなければ駄目なんじゃないかと思います。
認知症患者の数が、団塊の世代が75歳以上になる2025年には、700万人になると予想されるが、認知症の人達とどのように接したら良いのかが、医療や介護の現場で大きな課題の一つになって来ました。
本田さんは1993年筑波大学筑波大学医学専門学部を卒業、アメリカの大学病院に勤めるほか、日本で内科医として20年余り働いてきました。
認知症の医療介護と向き合い、試行錯誤の日々を過ごす中で、本田さんはプロのケア技術を誰にでも出来るように体系化し効果が高いと注目されている、フランス生まれの認知症ケア、ユマニチュードに出会いました。
6年前から日本に導入し、普及に努めています。
ユマニチュードというのは人間らしさを取り戻すという意味のフランス語の造語です。
フランスで介護の施設、病院の職員向けにどうやればいい介護が提供できるかということを40年間現場でやってきた方々がいるが、その方々が作り上げた基本的な考え方と(哲学)と具体的な技術が一体化したケアの技法です。
英語で読むとヒューマニチュード(Humanitude)になります。
私は内科医になって、仕事をやり始めたころと今では社会の状況が変わって、20年前ごろは病院にいる患者は自分の病気が判っていて、病気を良くしたいと思って検査、治療などに協力してくれ、協力し合うと言うことが前提になっていた。
今は90,100歳以上の方が入院するが、非常に脆弱な状況で認知機能が落ち来てしまっている方がおり、自分が何処にいるのか判らない、目の前にいる人が何をする人なのかが判らない、どうしてこんな痛い事をされるのかわからない。
働いている人にとっては提供したいという治療を受けとってもらえないという事態になる。
そのような思いを届ける技術が無いと駄目な時代になってきたがどうするかわからない。
フランスではそういう取り組みをしている人がいることを雑誌を見て知りました。
知っておきたいと思って、或る日聞きに行きたいと思って2011年夏にメールを送りました。
エイズについての仕事をやっていましたが、良い薬が出来て、長生きが出来るようになり、エイズの高齢の方の問題が出てきて、ユマニチュードを知りたいと思いました。
新しい分野で高齢者への医療を実践したいと思いました。
日本の看護師、介護士さんには絶対出来ると思いました。
あなたと私はここにいてとってもいい関係にあるんだと言うことを互いにやりとりをし合うと言うことが大事なんです。
言葉によって色々話すが、これだけでは一方通行になり、相手から持ってきたものを受け取っているんだと頷いて返してくれることで、良い関係があると言うことが二人は判る、それを医療で実現すると言うことがユマイチュードなんです。
ケアされる人からは色々の情報を発信している。(声、音、仕草等)
限界まで近づいたと思った時に声をかける。
良い語彙を選ぶ、声は低く大きくしない。
目を合わせて声を掛けた2秒以内に触れた方がいい。
なるべく鈍い所、背中、肩等にゆっくりと触る。
掌、顔は敏感なので触らない。
ケアをする時には腕を掴むと言うことは吃驚するので、下から支えて広い範囲にする。
介護が楽しくなったと言う人が増えました。
介護される人も穏やかに過ごすことができる。
互いに良い時間を過ごしたということを互いに認識し合う時間が増えて行くのではないかと思います。
今年は新しく地域社会でユマニチュードを学んで、みんなで高齢の人にお元気に過ごしていただけるようにという自治体が増えてきました。
福岡市では「プログラム100」というプロジェクトが出来て進められていて、リーディング事業として採択されて2年前からやっています。
公民館でユマニチュードを学ぶということを行っています。
小学生にも学んでもらっていて、先生に対して教え方を教えることなどもやっています。
救急隊の隊員の方にも学んでもらうと言うこともやり始めました。
家族介護をしている方に対しては、短い時間で教材を渡すような形で役立ててもらえればということをしていてDVDの教材も作りました。
家族の心持ち、考え方、技術が変わったという声をいただきました。
一人では頑張り過ぎないということは重要で、助けを求めてもらいたい。
地域で支えて行く、そのためには様々な取り組みが有ります。
日本科学技術振興機構から研究費をいただいて、5年間に渡ってユマニチュードが何故有効なのか、多くの方に学んでいただくためにはどうしたらいいのか、大学の先生たちと一緒にチームを作ってやっているところです。
困っている様子をビデオにとって安全なサイトに持ってきて提案することができる。
試行的ですがやっています。
課題は学ぶ時はしっかり基本から学んで、ビデオなども使っていただけたらと思います。
上手く行かないに時にユマニチュードを学ぶと判るようになります。
教える人が圧倒的に足りないのでAIを使ったり様様な技術を使って行きたい。
介護に困っている方にはユマニチュードは伸び代があると思います。
地方への展開も進めています。
海外に付いても講義に出かけたりしています。(アメリカ、アジアなど)
病院は病気で困ってる人を待っている、ユマニチュードは介護士に限らず、医師、看護師、家族、店員など誰かを大事に思ってその人を尊重するという社会は、日本に限らず必要になって来ると思います。
困っている人を助けると言う考え方を実践するにあたって、ユマニチュードという技術は役に立つのではないかと思います。
そうして行くと人と人が良い関係を結んでゆくという社会が実現されて行くと思います。
社会の中で目を合わせて「こんにちわ」と言ったりすることで、人と人との良い関係を生みだすきっかけにもなります。
人が人とやりとりがある時には、その人を大事にすると言う気持ちがなければ駄目なんじゃないかと思います。
2018年6月14日木曜日
浅井隆(映画館経営・プロデューサー) ・人生はミニシネマ・パラダイス
浅井隆(映画館経営・プロデューサー) ・人生はミニシネマ・パラダイス
63歳、寺山修二が主催した演劇実験室「天井桟敷」を経て1987年に映画の配給会社を設立、その後ミニシアターを作り30年に渡って映画の世界に携わってきました。
浅井さんにミニシアターの面白さとその可能性を語っていただきます。
ほぼ毎年カンヌ映画祭に行っています、20年近く行っています。
「万引き家族」はカンヌでは見ませんでした。
ファッション系、メークアーティストとかのドキュメンタリーとかの映画を数本買付けました。
ベルリン映画祭は2月にあるので、こちらも出かけます。
トロント映画祭にも行っています。
渋谷宇田川町の雑居ビルに映画館が3つありそれぞれ40から58席あります。
年間上映数は200本以上になり、3スクリーンで毎日平均10作品ぐらいは上映しています。
お客様が観たいものを上映する、DCP(デジタルシネマパッケージ)システムで、映画がデジタルデータになったのでハードディスクの中に映画一本入っています。
極端に言えばインターネットでダウンロードして手元に映画を手に入れる時代になっているので映写室はない。
コンピューターのサーバーに入れれば上映が出来る状態になりました。
デジタルの恩恵を受けて幅広い上映をやっています。
配給会社としてスタートしてここ10年は映画上映を大きな柱として進めています。
洋画は海外から日本で上映する権利、パッケージ(DVD、ブルーレイにする)、TV放送、インターネット配信等の権利を買って、それを行使してお金を得るのが基本のビジネスです。
スマホでも見られるようになったが、映画館への影響はないです。
2017年から映画館はちょっと増えています。
少子高齢化は避けられないが、東京に関してはお客さんは増えています。
大阪の府立池田高校に通っていたので、その時に寺山さんの本に接して、演劇実験室「天井桟敷」をやっている事を知りました。
「邪宗門」を公演することを知って観たいと思って観に行きました。
凄い衝撃を受けました。
唐十郎の赤テントなども大阪にやって来た時には通いました。
高校卒業後上京して予備校に通っていました。
天井桟敷の「盲人書簡」というチラシを見て、そこに劇団人募集の事が書いてあり、面接を受けて劇団の研究生になりました。
スタッフの仕事の方がおもしろいと思って、その後舞台監督になりました。
劇団からはお金をもらったことはないです。
お金になるならなんでもアルバイトをしました。
海外公演もあり、親からお金を借りて行きました。(1975年ごろ 20歳位)
1か月ぐらいオランダに行きました。
オランダのミルキーウエイ、カルチャースポットがあり(東京にはない)、そこに毎晩遊びに行きました。
色んなことがごちゃ混ぜにやっていました。(演劇、ダンス、音楽とか細分化されてなかった)
イランのシラーズのペルセポリス演劇祭で「阿呆船」という公演を市場でやったことが有るが、オフの時にコロシアムに行った時にはモーリス・ベジャールが横に座って見ていました。
海外ではいろいろ著名な劇団との接触が有りました。
天井桟敷には約10年いました。(寺山さんが亡くなるまで)
アップリンクシアターで劇団をやっていましたが、活動を中止することになりました。
映画の配給をやってみようかなと思いました。
渋谷に事務所が有り、そのビルの30畳の空き室があると言うことで借りて、映画、イベント、その他いろいろやっていました。
宇田川町にその後移りました。
カフェ、レストランは作りたかったので作りました。(映画などを見た後の喋る場所)
DCP(デジタルシネマパッケージ)のプロジェクターは昔は1台2000万円位したものが、今はプロジェクターが300万円前後になったって処理スピードも速い。
機材は500から600万円あれば揃います。
映画館自体は手軽に作れるレベルにはなったが、何を上映するかが問題だと思います。
地方でもミニシアターが90年代に出来た映画館があるが100席前後で今では大きすぎるような状況で、50席前後のマイクロシアターの映画館がいくつか出来つつあります。
映画に触れてほしいと思います。(他人と一緒に見る空間)
映画を見ながら叫んだり、歌ったり、クラッカーを鳴らしたり、お客さんは映画と一体になって騒ぐ楽しみ方を発見したので、或るインド映画以外にもそういう楽しみ方が広がってきています。
映画には観たことも無い世界、観たことも無い時代に連れて行ってくれる面白さがあると思います。
配給会社の人は映画の監督に会えたり色んな人に逢うことができます。
吉祥寺に映画館5スクリーン30から90席ぐらいの映画館を12月に作る予定です。
音にこだわる映画館にしたいと思っています。
もっと全国にマイクロシアターを作ってコミュニティーの場にして貰えればいいと思います。
色んな国の作品を上映しているので映画を見てもらって、映画を通して世界へ繋がる窓として楽しんでもらえればいいと思います。
63歳、寺山修二が主催した演劇実験室「天井桟敷」を経て1987年に映画の配給会社を設立、その後ミニシアターを作り30年に渡って映画の世界に携わってきました。
浅井さんにミニシアターの面白さとその可能性を語っていただきます。
ほぼ毎年カンヌ映画祭に行っています、20年近く行っています。
「万引き家族」はカンヌでは見ませんでした。
ファッション系、メークアーティストとかのドキュメンタリーとかの映画を数本買付けました。
ベルリン映画祭は2月にあるので、こちらも出かけます。
トロント映画祭にも行っています。
渋谷宇田川町の雑居ビルに映画館が3つありそれぞれ40から58席あります。
年間上映数は200本以上になり、3スクリーンで毎日平均10作品ぐらいは上映しています。
お客様が観たいものを上映する、DCP(デジタルシネマパッケージ)システムで、映画がデジタルデータになったのでハードディスクの中に映画一本入っています。
極端に言えばインターネットでダウンロードして手元に映画を手に入れる時代になっているので映写室はない。
コンピューターのサーバーに入れれば上映が出来る状態になりました。
デジタルの恩恵を受けて幅広い上映をやっています。
配給会社としてスタートしてここ10年は映画上映を大きな柱として進めています。
洋画は海外から日本で上映する権利、パッケージ(DVD、ブルーレイにする)、TV放送、インターネット配信等の権利を買って、それを行使してお金を得るのが基本のビジネスです。
スマホでも見られるようになったが、映画館への影響はないです。
2017年から映画館はちょっと増えています。
少子高齢化は避けられないが、東京に関してはお客さんは増えています。
大阪の府立池田高校に通っていたので、その時に寺山さんの本に接して、演劇実験室「天井桟敷」をやっている事を知りました。
「邪宗門」を公演することを知って観たいと思って観に行きました。
凄い衝撃を受けました。
唐十郎の赤テントなども大阪にやって来た時には通いました。
高校卒業後上京して予備校に通っていました。
天井桟敷の「盲人書簡」というチラシを見て、そこに劇団人募集の事が書いてあり、面接を受けて劇団の研究生になりました。
スタッフの仕事の方がおもしろいと思って、その後舞台監督になりました。
劇団からはお金をもらったことはないです。
お金になるならなんでもアルバイトをしました。
海外公演もあり、親からお金を借りて行きました。(1975年ごろ 20歳位)
1か月ぐらいオランダに行きました。
オランダのミルキーウエイ、カルチャースポットがあり(東京にはない)、そこに毎晩遊びに行きました。
色んなことがごちゃ混ぜにやっていました。(演劇、ダンス、音楽とか細分化されてなかった)
イランのシラーズのペルセポリス演劇祭で「阿呆船」という公演を市場でやったことが有るが、オフの時にコロシアムに行った時にはモーリス・ベジャールが横に座って見ていました。
海外ではいろいろ著名な劇団との接触が有りました。
天井桟敷には約10年いました。(寺山さんが亡くなるまで)
アップリンクシアターで劇団をやっていましたが、活動を中止することになりました。
映画の配給をやってみようかなと思いました。
渋谷に事務所が有り、そのビルの30畳の空き室があると言うことで借りて、映画、イベント、その他いろいろやっていました。
宇田川町にその後移りました。
カフェ、レストランは作りたかったので作りました。(映画などを見た後の喋る場所)
DCP(デジタルシネマパッケージ)のプロジェクターは昔は1台2000万円位したものが、今はプロジェクターが300万円前後になったって処理スピードも速い。
機材は500から600万円あれば揃います。
映画館自体は手軽に作れるレベルにはなったが、何を上映するかが問題だと思います。
地方でもミニシアターが90年代に出来た映画館があるが100席前後で今では大きすぎるような状況で、50席前後のマイクロシアターの映画館がいくつか出来つつあります。
映画に触れてほしいと思います。(他人と一緒に見る空間)
映画を見ながら叫んだり、歌ったり、クラッカーを鳴らしたり、お客さんは映画と一体になって騒ぐ楽しみ方を発見したので、或るインド映画以外にもそういう楽しみ方が広がってきています。
映画には観たことも無い世界、観たことも無い時代に連れて行ってくれる面白さがあると思います。
配給会社の人は映画の監督に会えたり色んな人に逢うことができます。
吉祥寺に映画館5スクリーン30から90席ぐらいの映画館を12月に作る予定です。
音にこだわる映画館にしたいと思っています。
もっと全国にマイクロシアターを作ってコミュニティーの場にして貰えればいいと思います。
色んな国の作品を上映しているので映画を見てもらって、映画を通して世界へ繋がる窓として楽しんでもらえればいいと思います。
2018年6月13日水曜日
立川談春(噺家) ・落語の格闘家
立川談春(噺家) ・落語の格闘家
談春さんの大ホールでの独演会は常に満員で、チケットが取りにくい噺家さんの一人です。
1966年東京生まれ、高校を中退して立川談志さんに入門。
1997年に真打ちに昇進、来年で噺家生活35年になります。
噺家として林家彦六賞や国立演芸場花形演芸会大賞など、受賞の他に師匠の立川談志さんとの関係などをつづったエッセー「赤めだか」が講談社エッセー賞を受賞しました。
俳優としても才能豊かな面を見せています。
談春さんは2010年から精力的な活動をして新しい世界を広げようと活動しています。
師匠が忙しかったので前座のころが一番忙しかったです。
チケットの取り辛さ。
落語は何処でチケットを買っていいのか売り出しの場所はどこなのか 横断的な組織が無い、落語は個人芸なので人の為に汗を流す人がいないと出来ないので、見に行こうと思った時に取り辛いということはあると思います。
落語はあまり大きなホール、マイクをつかって聞いても面白くないと言うことでぬくもりのあるホールでやる、呼べる人数からすると小さめなホールでやるので取り辛いということはある。
落語ってこういうもんだと言う思いこみすらお客さんに無くなりました。
聞いていると喋っていることが絵に浮かぶ、何であろうと興味を持ってくれて、面白いからと思って観客動員数が増えてきた。
落語家は1000人を越えました。ぼくがはいったときは300人ちょっとでした。
落ちるところまでとことん落ちたからだと思います。
かたくなに変えないでやっていることを振り向いてくれた幸運が、今の落語の観客動員数の増加の一番の理由だと思います。
談志が独演会をやる、古今亭志ん朝が独演会をやって300人のホールが満員になる、やっぱり凄いと言っていた時代で、今は1000人のホールを満員にしても落語界で何のニュースにもならない。
1966年生まれ、51歳。
17歳で入門したが、ボートレーサーになりたかった。
戸田に競艇場があり、小学生の時に見に行って、かっこいい選手に出会って、中学卒業したらボートレーサーになろうと思いました。
腕さえあればいいじゃないかという思い込みは早いうちからありました。
相撲、競馬が好きだった。
相撲は中入り後の取り組み内容などを全部覚えて銭湯で大人に向かって喋っていました。
段々期待されるようになりました。
競馬は馬の名前を覚えて自分なりの実況していました。
テープレコーダーを買ってもらって、競馬のアナウンサーの実況を録音して覚えていました。
そういったことが落語をやる時に有利だったと思います。
落語は聴いて覚えました、聞く量が圧倒的に多かった。(他の人は喋って覚える)
師匠の噺を完璧に覚えてやろうと思いました。
しかし完璧に似ませんでした。
リズム、息継ぎを真似ようとしました。
2011年11月に立川談志師匠が75歳で亡くなる。
71歳位にどうしたんだろうと思っていたら、亡くなってしまいました。
改めて物凄い人の弟子になったと思いました。
半分までのところまでいけるかどうかとか、生きている時とは違う複雑な思いがあります。
師匠は落語に関してはピュアでした。
落語を何としても次の世代にも娯楽として届けたいという強烈な意志があり、それがゆえの行動だったが、行動の仕方が大多数の落語家さんにはなかなか理解されない。
その組織にいて改革が進まなければいらつく。
真打ち昇進試験というきっかけがあって出た。
全く勝算があって出たのではなくて、いい度胸だと思います。
「赤めだか」福田和也さん(文芸評論家)から書いてくれと言われて、書き始めました。
辞めたくて、本にすれば辞めるのも可能だと言うことで本にしたら講談社エッセー賞をもらうことになりました。(10年前)
それが3,4年前にドラマになりました。
真打ちは落語家の最高の位だが、真打ちは落語協会、芸術協会なり組織が決めるが、談志は立川流なので談志が決める訳ですが、1年半後輩の立川 志らくに真打ちを抜かれました。
そこで序列が変わってしまった。
抜かれて、どうしたら世間的にチャラに出来るのか、抜かれて怒らない奴なんだ、というイメージが僕に付いて、その後頑張って無いじゃないかと、酷い事を談志はするなと思ったが、やっぱり談志の眼は正しかったとなりそうになっているのをどうするんだと言った時に家の師匠を驚かすのにはどうしたらいいかと言ったら、柳家小さん師匠の所から出て行った談志師匠に対して、柳家小さん師匠は破門にした。(内容がいまいち判らない)
柳家小さん師匠が真打ちトライアルの会に来ていただいたことは世間的には柳家小さんもOKとしているということ。
弟子としては傲慢だが談志に対する当て付けでした。
柳家小さん師匠は出てくれるということになって、それならば談志師匠も挨拶に行くと言うことになりました。
俺はとんでも無い事をしているということと、落語における師弟(柳家小さんと談志)というものを最後に書き記したのを感動してくださった。
師弟、理不尽と矛盾しかないと思うことが多いが、或る年齢になってからでないと判らない、血が繋がっていない師弟だからこその情緒があるのではないか。
立川談志の実像はよっぽど気を付けないと、とても怖いことだと思っています。
TVドラマ、映画など出演して勉強になりました。
スタッフの頑張りには吃驚、貴重な経験でした。
大きなホールでやるとなると落語本来を伝えるやり方では次にお客さんが来てくれないという感性が働きますが、落語の匂いは残したい。
談春さんの大ホールでの独演会は常に満員で、チケットが取りにくい噺家さんの一人です。
1966年東京生まれ、高校を中退して立川談志さんに入門。
1997年に真打ちに昇進、来年で噺家生活35年になります。
噺家として林家彦六賞や国立演芸場花形演芸会大賞など、受賞の他に師匠の立川談志さんとの関係などをつづったエッセー「赤めだか」が講談社エッセー賞を受賞しました。
俳優としても才能豊かな面を見せています。
談春さんは2010年から精力的な活動をして新しい世界を広げようと活動しています。
師匠が忙しかったので前座のころが一番忙しかったです。
チケットの取り辛さ。
落語は何処でチケットを買っていいのか売り出しの場所はどこなのか 横断的な組織が無い、落語は個人芸なので人の為に汗を流す人がいないと出来ないので、見に行こうと思った時に取り辛いということはあると思います。
落語はあまり大きなホール、マイクをつかって聞いても面白くないと言うことでぬくもりのあるホールでやる、呼べる人数からすると小さめなホールでやるので取り辛いということはある。
落語ってこういうもんだと言う思いこみすらお客さんに無くなりました。
聞いていると喋っていることが絵に浮かぶ、何であろうと興味を持ってくれて、面白いからと思って観客動員数が増えてきた。
落語家は1000人を越えました。ぼくがはいったときは300人ちょっとでした。
落ちるところまでとことん落ちたからだと思います。
かたくなに変えないでやっていることを振り向いてくれた幸運が、今の落語の観客動員数の増加の一番の理由だと思います。
談志が独演会をやる、古今亭志ん朝が独演会をやって300人のホールが満員になる、やっぱり凄いと言っていた時代で、今は1000人のホールを満員にしても落語界で何のニュースにもならない。
1966年生まれ、51歳。
17歳で入門したが、ボートレーサーになりたかった。
戸田に競艇場があり、小学生の時に見に行って、かっこいい選手に出会って、中学卒業したらボートレーサーになろうと思いました。
腕さえあればいいじゃないかという思い込みは早いうちからありました。
相撲、競馬が好きだった。
相撲は中入り後の取り組み内容などを全部覚えて銭湯で大人に向かって喋っていました。
段々期待されるようになりました。
競馬は馬の名前を覚えて自分なりの実況していました。
テープレコーダーを買ってもらって、競馬のアナウンサーの実況を録音して覚えていました。
そういったことが落語をやる時に有利だったと思います。
落語は聴いて覚えました、聞く量が圧倒的に多かった。(他の人は喋って覚える)
師匠の噺を完璧に覚えてやろうと思いました。
しかし完璧に似ませんでした。
リズム、息継ぎを真似ようとしました。
2011年11月に立川談志師匠が75歳で亡くなる。
71歳位にどうしたんだろうと思っていたら、亡くなってしまいました。
改めて物凄い人の弟子になったと思いました。
半分までのところまでいけるかどうかとか、生きている時とは違う複雑な思いがあります。
師匠は落語に関してはピュアでした。
落語を何としても次の世代にも娯楽として届けたいという強烈な意志があり、それがゆえの行動だったが、行動の仕方が大多数の落語家さんにはなかなか理解されない。
その組織にいて改革が進まなければいらつく。
真打ち昇進試験というきっかけがあって出た。
全く勝算があって出たのではなくて、いい度胸だと思います。
「赤めだか」福田和也さん(文芸評論家)から書いてくれと言われて、書き始めました。
辞めたくて、本にすれば辞めるのも可能だと言うことで本にしたら講談社エッセー賞をもらうことになりました。(10年前)
それが3,4年前にドラマになりました。
真打ちは落語家の最高の位だが、真打ちは落語協会、芸術協会なり組織が決めるが、談志は立川流なので談志が決める訳ですが、1年半後輩の立川 志らくに真打ちを抜かれました。
そこで序列が変わってしまった。
抜かれて、どうしたら世間的にチャラに出来るのか、抜かれて怒らない奴なんだ、というイメージが僕に付いて、その後頑張って無いじゃないかと、酷い事を談志はするなと思ったが、やっぱり談志の眼は正しかったとなりそうになっているのをどうするんだと言った時に家の師匠を驚かすのにはどうしたらいいかと言ったら、柳家小さん師匠の所から出て行った談志師匠に対して、柳家小さん師匠は破門にした。(内容がいまいち判らない)
柳家小さん師匠が真打ちトライアルの会に来ていただいたことは世間的には柳家小さんもOKとしているということ。
弟子としては傲慢だが談志に対する当て付けでした。
柳家小さん師匠は出てくれるということになって、それならば談志師匠も挨拶に行くと言うことになりました。
俺はとんでも無い事をしているということと、落語における師弟(柳家小さんと談志)というものを最後に書き記したのを感動してくださった。
師弟、理不尽と矛盾しかないと思うことが多いが、或る年齢になってからでないと判らない、血が繋がっていない師弟だからこその情緒があるのではないか。
立川談志の実像はよっぽど気を付けないと、とても怖いことだと思っています。
TVドラマ、映画など出演して勉強になりました。
スタッフの頑張りには吃驚、貴重な経験でした。
大きなホールでやるとなると落語本来を伝えるやり方では次にお客さんが来てくれないという感性が働きますが、落語の匂いは残したい。
2018年6月12日火曜日
太田朋子(国立遺伝学研究所名誉教授) ・遺伝の世界はワンダーランド
太田朋子(国立遺伝学研究所名誉教授) ・遺伝の世界はワンダーランド
生物の進化について19世紀のチャールズ・ダーウィンが唱えた自然選択説と、適者生存が良く知られていますが、偶然に発生した突然変異のうち、環境に適したものが生き残るという説に対して分子進化のレベルでは進化に寄与する突然変異はどれが残るか全くの偶然ではないし、また環境に適合するものだけが生き残るものではないという、ほぼ中立説が定説になっています。
このほぼ中立説を45年前に発表したのが日本の国立遺伝学研究所名誉教授の太田さんです。
84歳になります。
近年DNAの解読が進んで、膨大な遺伝子データが発表されました。
それ等のデータが太田さんのほぼ中立説の正しさを実証しました。
太田さんは猿橋賞の第一回受賞者であり、2015年にはウェーデン王立科学アカデミーからクラフォード賞 を受賞しています。
午前中は毎日研究所に来ていて次々に新しい論文が出されているので目を通すようにしています。
メンデルはこつこつとエンドウ豆の実験をして、現在でいう統計処理をしていて、誰も考えていなかった凄い法則を見付けたのは凄いと思います。
ゲノム、DNAの研究がそんなに進んでいなかった頃は、花が赤いか白いかというような形質に関する遺伝子があってその遺伝子が増えたり減ったりすると言うことで解析してきた。
現在の遺伝子構造から考えることとは単純すぎていました。
1981年には猿橋賞の第一回受賞者となりました。
2015年にはクラフォード賞 を受賞しました。
生物の多様性の分野はノーベル賞の対象になっていないので、何年に一度対象が回ってきます。
とてもうれしかったです。
生物の進化については自然選択説と適者生存説が良く知られているが、遺伝子レベルではどの突然変異が残り継承されるかについてはほぼ中立だと言うほぼ中立説を立てる。
或る程度の選択は働くけどほぼ中立に近い。
遺伝子レベルの突然変異を考えた時に、その突然変異は自然淘汰に良いか中立か悪いかとクラスわけして考えたのが、私の上司の木村資生先生が提唱されました。
中立は全く偶然、突然変異を持っているかいないかは個体にとって生存に全く関係ない、そういうのが中立突然変異です。
突然変異はその多くはDNAの塩基を一つ置き換える、それに伴ってタンパク質のアミノ酸が一つ取りかわる、それが一番よく遺伝子進化で研究されてきた類の突然変異、アミノ酸が取り変わる、それが一番おおきいです。
自然淘汰が働くかどうかの間に僅かですが、ちょっとだけ効果をもつような突然変異があるのではないかと考えました。
生物のタンパク質の働き塩基の問題を考えるにあたって、非常にうまく働いて機能が調和されている。
一般に言われていたことは突然変異とはランダムに起きます。
おそらくはその調和を乱すような働きをするのが弱い効果をもった突然変異のなかにも一杯あるに違いないと考えました。
ほぼ中立説を提唱した時に弱有害突然変異仮説とも呼ばれます。
全く突然に起こった突然変異が継承されるかどうかは、環境に適した良い効果が残るという説だけではなくて、弱い有害な効果を残しつつ淘汰されてゆくという説を考えました。
自然淘汰説の人達からは批判されました。
タンパク質の高次構造(ヘモグロビンとか)など或る程度の知識はありましたので複雑な構造をしていて、その構造がどううまく保たれているのか、ランダムな突然変異が起こったら、そういったうまく調和した構造の配列を乱すだろうと考えました。
ある幅を持たす為にも弱有害突然変異は意味がある場合があります。
遺伝子レベルの進化と形の進化とを直接調べて検討することが出来るようになったのはごく最近のことです。
70年代には全然できませんでした。
ゾウの鼻を長くするとか遺伝的形質は遺伝子そのものよりも、遺伝子を発生の段階でいつどこでどのように使うかが大事なんです。
受精卵から分裂分化して凄い複雑な過程を経て人間になるわけですが、どの遺伝子がどう働くのか、それが判りかけてきたのは最近です。
人間の遺伝子は2万数千と言った数です。
ゲノムは30億の塩基対からできていて、巧く折りたたまれていて目に見えない細胞の中の核にしっかり入っている。
30億のゲノムの中に2万数千個の遺伝子がパラパラと存在している。
タンパクコード遺伝子は1.5%でほんのわずかです。
ほとんどは、発生の過程で遺伝子をどう発現するか、そういうことに関わっている、発現調節に関係している。
遺伝子はヒストンと呼ばれるたんぱく質があるが、ヒストンタンパク質と一緒になってクロマチンという構造を作っています。
クロマチンがどのように働いているのかということについて、ごく最近面白いことがわかってきました。
遺伝子発現が実に巧妙なシステムで行われています。
人間の存在する環境は色々あるが、環境に応じて必要な遺伝子を発現する仕組みが見えて来ました。
環境とコミュニケーションするシステムがクロマチンにある訳です。
柔軟にできていて、環境にも適応出来れば、一つの遺伝子が何かの都合で巧く働けなくなった時にも、システム全体としては変なことにはならないでなんとか機能できる、ロバストな仕組みがある。(ちょっとした変化に鈍感なシステム)
本当にうまくできていて感心します。
どの生き物も出会った環境の変化を仕組みに取り入れながら進化してきているので、みんなすごいシステムを持っています。
愛知県出身、東京大学農学部を卒業。
中学、高校は数学が好きだったが、働き口がないということで農学部に進みました。
幾何などは好きでした。
考える事は好きだったので、1962年から66年までアメリカに留学しました。
分子生物学が発展していました。
遺伝学の大学院のコースで又我が国の研究者が遺伝番号を見付けたと話していたことを思い出します。
PHD(博士水準の学位)と子供の子育てと並行やってきて周りから関心されました。
1966年日本に帰国、国立遺伝学研究所での研究生活に入りました。
分子進化学(遺伝子の進化)、集団遺伝学の理論と結合して自然淘汰説、中立説など進化の機構を検討しようという学問分野がちょうどスタートした時期でした。
木村資生研究室では毎日議論していました。
ほぼ中立説に関しては木村先生は論理的なことを好み中立説で物事を説明しようとされた訳で、私は現実的でややこしいほぼ中立説でした。
子供は児童館がありそこから4時頃に帰ってきて、家ではそんなに長くは考えたりはしませんでした。
当時は子育てを支援する施設は少なかったが、何とかやってきました。
木村先生からは早く帰っても結果さえ出せばいいと温かく見てもらえました。
私が始めたころは分子進化学が出来たばかりの頃だったので、或る意味幸運だったと思います。
ほぼ中立説が広く一般に認められるまでにはいきませんでしたが、ゲノムプロジェクトが進んで、人とチンパンジーと比べられるようになって、一般にほぼ中立予測が当てはまると言うふうになってきたと思います。
若い人には定説にこだわらないで自由にデータをしっかり謙虚に見て、自分がどう感じてどう考えるかどのようなひらめきを得たかとか、ということを大事にして仕事を進めて行ってもらいたいと思います
生物の進化について19世紀のチャールズ・ダーウィンが唱えた自然選択説と、適者生存が良く知られていますが、偶然に発生した突然変異のうち、環境に適したものが生き残るという説に対して分子進化のレベルでは進化に寄与する突然変異はどれが残るか全くの偶然ではないし、また環境に適合するものだけが生き残るものではないという、ほぼ中立説が定説になっています。
このほぼ中立説を45年前に発表したのが日本の国立遺伝学研究所名誉教授の太田さんです。
84歳になります。
近年DNAの解読が進んで、膨大な遺伝子データが発表されました。
それ等のデータが太田さんのほぼ中立説の正しさを実証しました。
太田さんは猿橋賞の第一回受賞者であり、2015年にはウェーデン王立科学アカデミーからクラフォード賞 を受賞しています。
午前中は毎日研究所に来ていて次々に新しい論文が出されているので目を通すようにしています。
メンデルはこつこつとエンドウ豆の実験をして、現在でいう統計処理をしていて、誰も考えていなかった凄い法則を見付けたのは凄いと思います。
ゲノム、DNAの研究がそんなに進んでいなかった頃は、花が赤いか白いかというような形質に関する遺伝子があってその遺伝子が増えたり減ったりすると言うことで解析してきた。
現在の遺伝子構造から考えることとは単純すぎていました。
1981年には猿橋賞の第一回受賞者となりました。
2015年にはクラフォード賞 を受賞しました。
生物の多様性の分野はノーベル賞の対象になっていないので、何年に一度対象が回ってきます。
とてもうれしかったです。
生物の進化については自然選択説と適者生存説が良く知られているが、遺伝子レベルではどの突然変異が残り継承されるかについてはほぼ中立だと言うほぼ中立説を立てる。
或る程度の選択は働くけどほぼ中立に近い。
遺伝子レベルの突然変異を考えた時に、その突然変異は自然淘汰に良いか中立か悪いかとクラスわけして考えたのが、私の上司の木村資生先生が提唱されました。
中立は全く偶然、突然変異を持っているかいないかは個体にとって生存に全く関係ない、そういうのが中立突然変異です。
突然変異はその多くはDNAの塩基を一つ置き換える、それに伴ってタンパク質のアミノ酸が一つ取りかわる、それが一番よく遺伝子進化で研究されてきた類の突然変異、アミノ酸が取り変わる、それが一番おおきいです。
自然淘汰が働くかどうかの間に僅かですが、ちょっとだけ効果をもつような突然変異があるのではないかと考えました。
生物のタンパク質の働き塩基の問題を考えるにあたって、非常にうまく働いて機能が調和されている。
一般に言われていたことは突然変異とはランダムに起きます。
おそらくはその調和を乱すような働きをするのが弱い効果をもった突然変異のなかにも一杯あるに違いないと考えました。
ほぼ中立説を提唱した時に弱有害突然変異仮説とも呼ばれます。
全く突然に起こった突然変異が継承されるかどうかは、環境に適した良い効果が残るという説だけではなくて、弱い有害な効果を残しつつ淘汰されてゆくという説を考えました。
自然淘汰説の人達からは批判されました。
タンパク質の高次構造(ヘモグロビンとか)など或る程度の知識はありましたので複雑な構造をしていて、その構造がどううまく保たれているのか、ランダムな突然変異が起こったら、そういったうまく調和した構造の配列を乱すだろうと考えました。
ある幅を持たす為にも弱有害突然変異は意味がある場合があります。
遺伝子レベルの進化と形の進化とを直接調べて検討することが出来るようになったのはごく最近のことです。
70年代には全然できませんでした。
ゾウの鼻を長くするとか遺伝的形質は遺伝子そのものよりも、遺伝子を発生の段階でいつどこでどのように使うかが大事なんです。
受精卵から分裂分化して凄い複雑な過程を経て人間になるわけですが、どの遺伝子がどう働くのか、それが判りかけてきたのは最近です。
人間の遺伝子は2万数千と言った数です。
ゲノムは30億の塩基対からできていて、巧く折りたたまれていて目に見えない細胞の中の核にしっかり入っている。
30億のゲノムの中に2万数千個の遺伝子がパラパラと存在している。
タンパクコード遺伝子は1.5%でほんのわずかです。
ほとんどは、発生の過程で遺伝子をどう発現するか、そういうことに関わっている、発現調節に関係している。
遺伝子はヒストンと呼ばれるたんぱく質があるが、ヒストンタンパク質と一緒になってクロマチンという構造を作っています。
クロマチンがどのように働いているのかということについて、ごく最近面白いことがわかってきました。
遺伝子発現が実に巧妙なシステムで行われています。
人間の存在する環境は色々あるが、環境に応じて必要な遺伝子を発現する仕組みが見えて来ました。
環境とコミュニケーションするシステムがクロマチンにある訳です。
柔軟にできていて、環境にも適応出来れば、一つの遺伝子が何かの都合で巧く働けなくなった時にも、システム全体としては変なことにはならないでなんとか機能できる、ロバストな仕組みがある。(ちょっとした変化に鈍感なシステム)
本当にうまくできていて感心します。
どの生き物も出会った環境の変化を仕組みに取り入れながら進化してきているので、みんなすごいシステムを持っています。
愛知県出身、東京大学農学部を卒業。
中学、高校は数学が好きだったが、働き口がないということで農学部に進みました。
幾何などは好きでした。
考える事は好きだったので、1962年から66年までアメリカに留学しました。
分子生物学が発展していました。
遺伝学の大学院のコースで又我が国の研究者が遺伝番号を見付けたと話していたことを思い出します。
PHD(博士水準の学位)と子供の子育てと並行やってきて周りから関心されました。
1966年日本に帰国、国立遺伝学研究所での研究生活に入りました。
分子進化学(遺伝子の進化)、集団遺伝学の理論と結合して自然淘汰説、中立説など進化の機構を検討しようという学問分野がちょうどスタートした時期でした。
木村資生研究室では毎日議論していました。
ほぼ中立説に関しては木村先生は論理的なことを好み中立説で物事を説明しようとされた訳で、私は現実的でややこしいほぼ中立説でした。
子供は児童館がありそこから4時頃に帰ってきて、家ではそんなに長くは考えたりはしませんでした。
当時は子育てを支援する施設は少なかったが、何とかやってきました。
木村先生からは早く帰っても結果さえ出せばいいと温かく見てもらえました。
私が始めたころは分子進化学が出来たばかりの頃だったので、或る意味幸運だったと思います。
ほぼ中立説が広く一般に認められるまでにはいきませんでしたが、ゲノムプロジェクトが進んで、人とチンパンジーと比べられるようになって、一般にほぼ中立予測が当てはまると言うふうになってきたと思います。
若い人には定説にこだわらないで自由にデータをしっかり謙虚に見て、自分がどう感じてどう考えるかどのようなひらめきを得たかとか、ということを大事にして仕事を進めて行ってもらいたいと思います
2018年6月11日月曜日
田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀(2)
田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事)・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀(2)
前回は2000年ごろまでの話、佐伯 達夫会長、牧野 直隆会長時代。
大きな人気を得ながら高野連が将来を見据えながら続けている様々な取り組について伺います。
選抜での21世紀枠。
春休みに行うので日程的な問題もあり、通常は32校となり代表を送れない地区が出てくる。
GHQの意向もあり全国という名前を外したいきさつもあるが、今になったら出場校を増やしてほしいとかの苦情が出てきて、牧野さんが自由に何処の地区でもチャンスがあれば出られる発想が必要だと言うことでした。
「教師冥利につきることとはどいうことか」ということでアドバイスをもらって教室ではなくてグラウンドに置き換えた場合はどうすべきかを考えて、ちょっとの違いで代表になれないとか、地域に非常にいい影響を与えているチームを選んだらどうだろうということに行きついて、牧野さんに相談したら、面白いからいいのではないかということになり、21世紀に向けて良い案を出してほしいと言われた。
21世紀枠で2001年に福島県の安積高等学校と沖縄県の宜野座高校が甲子園に来ました。
当時のキャプテンが私の所に来て、甲子園に出たことで関心を集めたことで、努力しなくてはだめだと言うことで、大学を出て6年間沖縄の教員採用試験にチャレンジして那覇商業の先生になりましたと言うことで、まさに21世紀枠の狙い通りだと思います。
タイブレーク制が導入、今年から導入されました。
94年からアジア大会、世界大会迄行くとタイブレーク制が導入されていて、ピッチャーの投球傷害、選手の健康管理などを考えると、これからの時代はどこかで区切りを付けてやらないといけないのではないかと思いました。
1986年の天理高校の本橋投手、91年の沖縄水産の大野投手痛々しい形で決勝では投げていて、なんとかしなければと言うことで、93年の大会で投手の関節機能検査をしました。
それは大きな変革だったと思います。
故障の内容を見ると小学校、中学校の時代に故障しているというのが結構あるのでこの問題はみんなで考えていかなければいけない問題だと思っています。
暴力、いじめ、体罰、などの問題。
佐伯さんは暴力の問を講演をしていましたが、「暴力は心が貧しいからだ」というように説いていました。
最近はいじめが出てきて、信じられないがそういう環境になってきてしまっている。
2007年プロ野球選手会が協力してくれてシンポジウムを行っていたが、地元の理事長の松本さんが、宮崎出身の木村拓也さん、青木 宣親さんに対して「シンポジウムを開いてくれるのはうれしいが暴力事件、いじめがあって残念だ」とポロっと言ったのを聞いて、3時間のシンポジウムが終わった後に暴力、いじめに関して話し始めました。
「いじめなどちっぽけな考えで駄目だ、世界を目指せ」というようなことを話してみんなシーンとなってインパクトがありました。
2007年特待生問題、尾藤竜一さんを塾長に山下さん等が指導者への教育として甲子園塾を開きました。
生徒に手を出すのは即効性を求めるからで、選手を育てるのには急いでは駄目だと、作物を育てるように大事に見守ってやることが大事だといっていました。
生徒とのコミュニケーションも大事だと話していました。
2002年脇村春夫さんが高野連の会長になる。 自身が高校球児
湘南高校で初出場初優勝の時の選手で東大でもキャプテンを務める。
野球が大好きな人です。
不祥事件があるのは指導者の問題もあると思うので「育成功労賞」というものを設けて、表彰する。(8名)
8月15日に毎年やっています。
戦争での鎮魂とともに高校野球ができるのも平和のお陰なので平和が続くようにという願いを込めて、「育成功労賞」の方々を含めて黙とうをしていただいています。
プロとアマチュアの問題。
プロ野球選手会の松原徹さん、(事務局長)からオークションで溜まったお金が1000万円になるので使い道をどうするか、についての相談がありました。
高校野球への恩返しをしたいと言うことでした。
2002年に一回戦で負けてしまった高校野球チームにボール半ダースずつ送ることにしました。
400人余りのプロ野球選手が自分の高校野球に対する思いをはがき大の紙に書いてもらって、箱に入れて各学校に選手が直接送りました。
メッセージ集も作って、シンポジウムでは自分たちは高校時代にこういうことをやったから今プロ野球選手になれた、君たち高校生はこう言うことをやっておくべきだと言うこの2点をテーマにしてプロの選手たちに語っていただきました。
3時間のメニューで2000人位夏各会場に集まってくれて、生徒は熱心にメモを取って聞いていました。
全国を回ろうと言うことになり、8年間かかったが6会場づつで回り切りました。
シンポジウムを各地で開くと先ず大事なことは、どの会場にもプロ野球のセリーグ、パ-グの球団の代表が冒頭5分間挨拶します。
シンポジウムは御当地の選手を出すので、教師の方でもあれは教え子だと言うことにもなり、話も熱心に生徒も聞いているので、プロ野球との関係もなんか考えないといけないなと考えるようになりました。
特待生の問題、越境入学などが昔からあり、20年ぐらい前に野球留学という形で地元の選手があまりいなくてどういうものかということになりました。
有るべき姿を考えようと言うことになり、いいきっかけになったと思います。
佐伯さんという偉大な人がいて高校野球が育ってきたという思いとともに、地方に出かけて行くと甲子園には行っていないが素晴らしい指導者に出会ったりして考え方が変わってきました。
野球を通じて将来社会に役立つ青少年を育成するんだと、勝つだけではなく日頃きちっと指導している先生がいると言うことを見ると、高校野球はそういった点では非常に大切かと思います。
約2000校/4000校は一回戦で負けてしまうが、敗者から学ぶものは物凄く大きくて、特に高校野球は大切にしていることと思います。
連盟史を作っているが学ぶ事がいっぱいあり、振り返って足跡をたずねてもらえれば指導者にとって新たな思いが開けるのかなあと思うので、良い指導者として生徒を育成していただければと思います。
前回は2000年ごろまでの話、佐伯 達夫会長、牧野 直隆会長時代。
大きな人気を得ながら高野連が将来を見据えながら続けている様々な取り組について伺います。
選抜での21世紀枠。
春休みに行うので日程的な問題もあり、通常は32校となり代表を送れない地区が出てくる。
GHQの意向もあり全国という名前を外したいきさつもあるが、今になったら出場校を増やしてほしいとかの苦情が出てきて、牧野さんが自由に何処の地区でもチャンスがあれば出られる発想が必要だと言うことでした。
「教師冥利につきることとはどいうことか」ということでアドバイスをもらって教室ではなくてグラウンドに置き換えた場合はどうすべきかを考えて、ちょっとの違いで代表になれないとか、地域に非常にいい影響を与えているチームを選んだらどうだろうということに行きついて、牧野さんに相談したら、面白いからいいのではないかということになり、21世紀に向けて良い案を出してほしいと言われた。
21世紀枠で2001年に福島県の安積高等学校と沖縄県の宜野座高校が甲子園に来ました。
当時のキャプテンが私の所に来て、甲子園に出たことで関心を集めたことで、努力しなくてはだめだと言うことで、大学を出て6年間沖縄の教員採用試験にチャレンジして那覇商業の先生になりましたと言うことで、まさに21世紀枠の狙い通りだと思います。
タイブレーク制が導入、今年から導入されました。
94年からアジア大会、世界大会迄行くとタイブレーク制が導入されていて、ピッチャーの投球傷害、選手の健康管理などを考えると、これからの時代はどこかで区切りを付けてやらないといけないのではないかと思いました。
1986年の天理高校の本橋投手、91年の沖縄水産の大野投手痛々しい形で決勝では投げていて、なんとかしなければと言うことで、93年の大会で投手の関節機能検査をしました。
それは大きな変革だったと思います。
故障の内容を見ると小学校、中学校の時代に故障しているというのが結構あるのでこの問題はみんなで考えていかなければいけない問題だと思っています。
暴力、いじめ、体罰、などの問題。
佐伯さんは暴力の問を講演をしていましたが、「暴力は心が貧しいからだ」というように説いていました。
最近はいじめが出てきて、信じられないがそういう環境になってきてしまっている。
2007年プロ野球選手会が協力してくれてシンポジウムを行っていたが、地元の理事長の松本さんが、宮崎出身の木村拓也さん、青木 宣親さんに対して「シンポジウムを開いてくれるのはうれしいが暴力事件、いじめがあって残念だ」とポロっと言ったのを聞いて、3時間のシンポジウムが終わった後に暴力、いじめに関して話し始めました。
「いじめなどちっぽけな考えで駄目だ、世界を目指せ」というようなことを話してみんなシーンとなってインパクトがありました。
2007年特待生問題、尾藤竜一さんを塾長に山下さん等が指導者への教育として甲子園塾を開きました。
生徒に手を出すのは即効性を求めるからで、選手を育てるのには急いでは駄目だと、作物を育てるように大事に見守ってやることが大事だといっていました。
生徒とのコミュニケーションも大事だと話していました。
2002年脇村春夫さんが高野連の会長になる。 自身が高校球児
湘南高校で初出場初優勝の時の選手で東大でもキャプテンを務める。
野球が大好きな人です。
不祥事件があるのは指導者の問題もあると思うので「育成功労賞」というものを設けて、表彰する。(8名)
8月15日に毎年やっています。
戦争での鎮魂とともに高校野球ができるのも平和のお陰なので平和が続くようにという願いを込めて、「育成功労賞」の方々を含めて黙とうをしていただいています。
プロとアマチュアの問題。
プロ野球選手会の松原徹さん、(事務局長)からオークションで溜まったお金が1000万円になるので使い道をどうするか、についての相談がありました。
高校野球への恩返しをしたいと言うことでした。
2002年に一回戦で負けてしまった高校野球チームにボール半ダースずつ送ることにしました。
400人余りのプロ野球選手が自分の高校野球に対する思いをはがき大の紙に書いてもらって、箱に入れて各学校に選手が直接送りました。
メッセージ集も作って、シンポジウムでは自分たちは高校時代にこういうことをやったから今プロ野球選手になれた、君たち高校生はこう言うことをやっておくべきだと言うこの2点をテーマにしてプロの選手たちに語っていただきました。
3時間のメニューで2000人位夏各会場に集まってくれて、生徒は熱心にメモを取って聞いていました。
全国を回ろうと言うことになり、8年間かかったが6会場づつで回り切りました。
シンポジウムを各地で開くと先ず大事なことは、どの会場にもプロ野球のセリーグ、パ-グの球団の代表が冒頭5分間挨拶します。
シンポジウムは御当地の選手を出すので、教師の方でもあれは教え子だと言うことにもなり、話も熱心に生徒も聞いているので、プロ野球との関係もなんか考えないといけないなと考えるようになりました。
特待生の問題、越境入学などが昔からあり、20年ぐらい前に野球留学という形で地元の選手があまりいなくてどういうものかということになりました。
有るべき姿を考えようと言うことになり、いいきっかけになったと思います。
佐伯さんという偉大な人がいて高校野球が育ってきたという思いとともに、地方に出かけて行くと甲子園には行っていないが素晴らしい指導者に出会ったりして考え方が変わってきました。
野球を通じて将来社会に役立つ青少年を育成するんだと、勝つだけではなく日頃きちっと指導している先生がいると言うことを見ると、高校野球はそういった点では非常に大切かと思います。
約2000校/4000校は一回戦で負けてしまうが、敗者から学ぶものは物凄く大きくて、特に高校野球は大切にしていることと思います。
連盟史を作っているが学ぶ事がいっぱいあり、振り返って足跡をたずねてもらえれば指導者にとって新たな思いが開けるのかなあと思うので、良い指導者として生徒を育成していただければと思います。
2018年6月10日日曜日
太田幸司(プロ野球解説者) ・【スポーツ名場面の裏側で】延長18回引分け再試合
太田幸司(プロ野球解説者) ・【スポーツ名場面の裏側で】延長18回引分け再試合
今年の夏甲子園で行われる全国高校野球選手権は、100回の記念大会を迎えます。
1969年(昭和44年)の松山商業対三沢高校の大会史上初めての延長18回引き分け、再試合の決勝戦をベストゲームにあげる高校ファンが多くいます。
当時の三沢高校のエース太田幸司さんに伺います。
松山商業との決勝で27イニングを一人で投げ抜き、準優勝投手となりました。
甲子園アイドルの元祖と言われ、昭和45年にドラフト1位で近鉄に入りました。
オールスターゲームでは新人から3年連続でファン投票で1位に選ばれる人気でした。
近鉄13年間で58勝を挙げその後巨人、阪神に移りますが、一軍登板はありませんでした。
32歳で引退後プロ野球解説者として活躍するとともに、現在は日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーとして活躍中です。
大会史上初めての延長18回引き分け、再試合から49年になります。
前年の2年生の時に初出場でその時は50回の記念大会でした。
3人の子供がいて娘が宝塚の月組で活躍、長男が5年前京都代表福知山成美高校キャプテンで甲子園に出場(95回大会)、次男が今高校3年生で甲子園を目指して猛練習中。
兵庫県から2校出られるので2倍のチャンスがある。(出られれば100回大会)
三沢市で昭和27年に生まれる。
父が米軍の三沢基地に勤務していて小学生のころから基地内の天然芝で硬式ボールを使って野球を始める。
高校2年の時に青森大会準優勝、夏の50回大会では青森県で優勝して甲子園初出場。
昭和44年春に選抜で甲子園初出場、夏に甲子園準優勝。
昭和44年春の選抜では浪商と延長15回で敗れる。
昭和44年夏、1回戦が大分商業戦、熱くてふらふらしていた、延長10回で3-2でサヨナラ勝ち。
2回戦は大阪明星高校、2-1で勝利。(相手投手が良かった)
3回戦から調子が上がってきて準々決勝が京都の平安高校2-1で勝つ。
準決勝岡山の玉島商業戦は3-2で勝利。
女性ファンが試合に勝つたびに増えて行きました。
決勝戦は松山商業との対戦。
あまりプレッシャーは感じていませんでした。
井上投手は正確なコントロールと落差のあるカーブが武器。
9回終了で0-0 延長戦に入る。
エースとエースの意地のぶつかり合いというような感じでした。
淡々と回が進んでゆく。
井上投手は明治大学、朝日新聞に入り野球担当記者になる。
三沢高校が15回裏1アウト満塁のチャンスが来る。
ノーストライク3ボールとなり、押し出しだと思った。
次のボールが低めだったがストライクと判定。
2ストライク3ボールとなり打ったがピッチャーごろとなる。
ピッチャーがはじいてショートが取ってキャッチャーに投げ2アウト満塁。
1番に戻って1ストライク3ボール 打った球がセンターフライ。
僕のスピードは落ちてなかった、むしろ調子が上がっていた。
力が抜けてバランス良く投げられた。
4時間16分の大熱戦、0-0で引き分けとなるが、とにかく横になりたいと思った。
朝起きた時には身体がパンパンで起きられなかった。
顔を洗おうと思ったが右手が上に上がらなくて顔をさげた、箸を持つ手が肩より上に上がらなかった。
マウンドに立てるのかなと思って球場に着きました。
1回の表3番がレフトへの2ランホームラン。
配球を変えて対応する。
1回裏1点を返す。
相手は中村投手に変わる。
結果的に4-2で松山商業が勝利。
伝説と言われる試合となる
ドラフト会議で近鉄が1位指名。
監督が三原監督。
名前も知らない選手が凄い球を投げていて吃驚して、2軍で最初はみっちり鍛えようと思っていた。
ロッテとの第一試合7回で1-1の同点、リリーフでプロ初登板となる。
2-1となり9回表打たれて同点2-2になる。
近鉄は9回裏レフトに2ランホームランとなり勝利投手になる。
この年25試合に登板1勝4敗
オールスターファン投票で1位となり、オールスターゲームに出場 全パが6回まで13-6とリードし、登場する。
1アウト満塁となり王選手の2塁打で2点、1アウト2,3塁となり4番長嶋となりピッチャー交替となる。
1勝しかしていないピッチャーが選ばれてどうするのと、ファン投票の状況をみて思いました。
スポーツ新聞を見るのが地獄でした。
張本さんなどは温かく迎えてくれました。
46年 0勝1敗で ファン投票1位となる。
その時のオフは野球を辞めようかと思いました。
甲子園で18回投げたことがプレッシャーにもなったが、自分の心の支えにもなりました。
或る人から高校野球の時のプライドは捨てなさいと言われ、フォームを変えてシュート、スライダーを覚え再スタートしました。
6月に1軍に上がり、プロ入り2勝目となる。
ファン投票で又1位に選ばれる。
オールスターゲームに出場、1,2回を0で抑えるが、3回1点を先制されノーアウト1、2塁となり王、長嶋を迎えることになる。
王選手にはスライダーでショートフライ、長嶋選手にはシュートでセカンドごろでピンチをしのぐ。
敗戦投手にはなったが新しく自信を持ち出しました。
3年目は2勝し、4年目を迎えることになった。
その後5年間で3度の二桁投手となるが、27歳のシーズンに7勝するがその試合で肩を痛めてしまう。
31歳で巨人に移籍するが、1軍でマウンドに立つことはなかった。
阪神に移籍するが、結果は出せなかった。
ドラマチックな試合を経験していろんなことがあったが、努力しない人は成功はしない、どっかでチャンスはあると思い続けて頑張らないといけないと思います。
女子の日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーとして、10年前に始めるがその時に比べて選手として活躍している人が本当に増えて来ました。
秋にジャパンカップがあり、日本のNO1チームを競います。
ワールドカップも2年に一度やっていて、日本は5連覇しています。
今年6連覇を狙っています。
組織だってやっているのは日本だけです。
女子の甲子園高校野球ということを夢見ています。
今年の夏甲子園で行われる全国高校野球選手権は、100回の記念大会を迎えます。
1969年(昭和44年)の松山商業対三沢高校の大会史上初めての延長18回引き分け、再試合の決勝戦をベストゲームにあげる高校ファンが多くいます。
当時の三沢高校のエース太田幸司さんに伺います。
松山商業との決勝で27イニングを一人で投げ抜き、準優勝投手となりました。
甲子園アイドルの元祖と言われ、昭和45年にドラフト1位で近鉄に入りました。
オールスターゲームでは新人から3年連続でファン投票で1位に選ばれる人気でした。
近鉄13年間で58勝を挙げその後巨人、阪神に移りますが、一軍登板はありませんでした。
32歳で引退後プロ野球解説者として活躍するとともに、現在は日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーとして活躍中です。
大会史上初めての延長18回引き分け、再試合から49年になります。
前年の2年生の時に初出場でその時は50回の記念大会でした。
3人の子供がいて娘が宝塚の月組で活躍、長男が5年前京都代表福知山成美高校キャプテンで甲子園に出場(95回大会)、次男が今高校3年生で甲子園を目指して猛練習中。
兵庫県から2校出られるので2倍のチャンスがある。(出られれば100回大会)
三沢市で昭和27年に生まれる。
父が米軍の三沢基地に勤務していて小学生のころから基地内の天然芝で硬式ボールを使って野球を始める。
高校2年の時に青森大会準優勝、夏の50回大会では青森県で優勝して甲子園初出場。
昭和44年春に選抜で甲子園初出場、夏に甲子園準優勝。
昭和44年春の選抜では浪商と延長15回で敗れる。
昭和44年夏、1回戦が大分商業戦、熱くてふらふらしていた、延長10回で3-2でサヨナラ勝ち。
2回戦は大阪明星高校、2-1で勝利。(相手投手が良かった)
3回戦から調子が上がってきて準々決勝が京都の平安高校2-1で勝つ。
準決勝岡山の玉島商業戦は3-2で勝利。
女性ファンが試合に勝つたびに増えて行きました。
決勝戦は松山商業との対戦。
あまりプレッシャーは感じていませんでした。
井上投手は正確なコントロールと落差のあるカーブが武器。
9回終了で0-0 延長戦に入る。
エースとエースの意地のぶつかり合いというような感じでした。
淡々と回が進んでゆく。
井上投手は明治大学、朝日新聞に入り野球担当記者になる。
三沢高校が15回裏1アウト満塁のチャンスが来る。
ノーストライク3ボールとなり、押し出しだと思った。
次のボールが低めだったがストライクと判定。
2ストライク3ボールとなり打ったがピッチャーごろとなる。
ピッチャーがはじいてショートが取ってキャッチャーに投げ2アウト満塁。
1番に戻って1ストライク3ボール 打った球がセンターフライ。
僕のスピードは落ちてなかった、むしろ調子が上がっていた。
力が抜けてバランス良く投げられた。
4時間16分の大熱戦、0-0で引き分けとなるが、とにかく横になりたいと思った。
朝起きた時には身体がパンパンで起きられなかった。
顔を洗おうと思ったが右手が上に上がらなくて顔をさげた、箸を持つ手が肩より上に上がらなかった。
マウンドに立てるのかなと思って球場に着きました。
1回の表3番がレフトへの2ランホームラン。
配球を変えて対応する。
1回裏1点を返す。
相手は中村投手に変わる。
結果的に4-2で松山商業が勝利。
伝説と言われる試合となる
ドラフト会議で近鉄が1位指名。
監督が三原監督。
名前も知らない選手が凄い球を投げていて吃驚して、2軍で最初はみっちり鍛えようと思っていた。
ロッテとの第一試合7回で1-1の同点、リリーフでプロ初登板となる。
2-1となり9回表打たれて同点2-2になる。
近鉄は9回裏レフトに2ランホームランとなり勝利投手になる。
この年25試合に登板1勝4敗
オールスターファン投票で1位となり、オールスターゲームに出場 全パが6回まで13-6とリードし、登場する。
1アウト満塁となり王選手の2塁打で2点、1アウト2,3塁となり4番長嶋となりピッチャー交替となる。
1勝しかしていないピッチャーが選ばれてどうするのと、ファン投票の状況をみて思いました。
スポーツ新聞を見るのが地獄でした。
張本さんなどは温かく迎えてくれました。
46年 0勝1敗で ファン投票1位となる。
その時のオフは野球を辞めようかと思いました。
甲子園で18回投げたことがプレッシャーにもなったが、自分の心の支えにもなりました。
或る人から高校野球の時のプライドは捨てなさいと言われ、フォームを変えてシュート、スライダーを覚え再スタートしました。
6月に1軍に上がり、プロ入り2勝目となる。
ファン投票で又1位に選ばれる。
オールスターゲームに出場、1,2回を0で抑えるが、3回1点を先制されノーアウト1、2塁となり王、長嶋を迎えることになる。
王選手にはスライダーでショートフライ、長嶋選手にはシュートでセカンドごろでピンチをしのぐ。
敗戦投手にはなったが新しく自信を持ち出しました。
3年目は2勝し、4年目を迎えることになった。
その後5年間で3度の二桁投手となるが、27歳のシーズンに7勝するがその試合で肩を痛めてしまう。
31歳で巨人に移籍するが、1軍でマウンドに立つことはなかった。
阪神に移籍するが、結果は出せなかった。
ドラマチックな試合を経験していろんなことがあったが、努力しない人は成功はしない、どっかでチャンスはあると思い続けて頑張らないといけないと思います。
女子の日本女子プロ野球機構のスーパーバイザーとして、10年前に始めるがその時に比べて選手として活躍している人が本当に増えて来ました。
秋にジャパンカップがあり、日本のNO1チームを競います。
ワールドカップも2年に一度やっていて、日本は5連覇しています。
今年6連覇を狙っています。
組織だってやっているのは日本だけです。
女子の甲子園高校野球ということを夢見ています。
2018年6月9日土曜日
城みさを(手織適塾SAORI 前主宰) ・“自分らしさ”を織る(H17年5月14日 OA)
城みさを(手織適塾SAORI 前主宰) ・“自分らしさ”を織る(H17年5月14日 OA)
さおり織りは独自の手織り機を使って織りあげるものです。
初心者がこの織りをする時には縦糸は既に組み込まれています。
そこに自分の好みで色とりどりの横糸を織りこんでいきます。
特に見本や手本があるものではなく、織るにあたってのルール 、規則と言ったものもありません。
自由奔放に好きに織ることによって出来上がった織物に自分の感性が現れると言うものです。
織りあげた布は幅が50cmから60cm余り、ショールやマフラー、壁掛けになったりしますけれども、長いものを織りあげると洋服にも仕立てることができます。
色は赤、だいだい、ピンク、黄色、黄緑、緑、薄い青、濃い青など様々です。
それがワンピースになったり貫頭衣ふうになったり、ロングコートになったり、チャンチャンコになったりします。
このさおり織り、昭和44年に当時50代の後半だった城みさをさんにより生みだされました。
2005年当時92歳だった城みさをさんへのインタビューです。
3番目の息子が独立する時にこれからは好きなことをさせてもらいましょうと喜びました。
それまでは織物などは一切関係ありませんでした。
きっかけは以前母親がやっていた手織りを母親にもう一度やらしたいなあと思って居ました。
近くに織り屋さんが沢山あったので手おり機を作ってやろうと思いました。
参考の本を取り寄せ材木を取り寄せてやっていました。
そうしたら夫が眺めていて手伝ってくれて、織り機が完成しました。
母親がやっているのを見ていて、一つ珍しいものを見つけました。
私も自分で勝手に考えていて、やっていたら縦糸が一本抜けていたものがあり、これは傷ものだと言われました。
それを聞いて私の感性でもっと傷を付けてやろうと思いました。
以前生け花をやっていて、自然そのままの美しいものをわざわざ折ったり切ったりして一つの型をこしらえている、こんな詰まらんことを人間がやるのかなあと考えていました。
自分の好きな生け方をやろうと思いました。
生け花は、自然の美しいものを如何にしてその美しさをなお一層強調して、あー綺麗だなあと思ってみる様になっているのが生け花ということの勉強だと思います。
一つの型を追いかけるのが習慣になっていたが、しかしそんなものを追いかけることがどんなに嬉しいのかと思いました。
師匠から離れで自分の生け方をしていました。
大阪府立三国丘高校の校長先生が面白い生け花をやるそうなので来てほしいということで、行って教えることになりました。
自分がこうしたら面白いということをやってごらん、と言うと生徒はなんとかできるんです。
最初5,6人でしたがどんどん増えて行きました。
自分で綺麗なところを見つけて行くと面白いんです。
一人ひとりの感性を引っ張りだすことの勉強だったわけです。
ほうぼうの学校から来てくれと言われて多忙になり、ついに入院しました。
織りも自分の感性で織る様になる。
絶対に人の真似はすまいと思っていました。
出来たマフラー10本を大阪心斎橋の店に持っていったら9800円で売れていました。
1000円で売れたら嬉しいと思っていました。
店の人、お客さんがそれぞれに美しさをみつけだしたということ以外考えられない。
織らせてほしいと言う人達が10人現れてきて、自宅で織って素晴らしいものを織ってきてくれました。
織る前に「あなたの好きなように織えばいいのよ」と言いました。
そのうちに全国に広がって行きました。
自分の中に有ったものが外に現れた、自分で見つけた喜びだと思います。
「さおり織り」 一人ひとりの違い、差異を織る、そこから「さおり織り」としました。
「山路きて何やらゆかしすみれ草」 芭蕉の句
「何やらゆかし」、という言葉でみんな魅かれている。
「何やらゆかし」を一つのマフラーにぶつける、自分が見付ける。
ああしなさい、こうしなさいと言うように導く訳ではなくてその人が持っているものを上手く引っ張り出してゆくのが、城みさを流ということです。
雰囲気を作り出すのが私です。
1979年に「手織り適塾SAORI」 をスタート。
人が尋ねるまでは答えない、質問されて初めて答えると言うのが主義主張です。
「何やらゆかし」というものの魅力を中心に持って行くとそれぞれに考えます。
1980年第一回障害者の為の手織り教育研究会を開く。
障害の向こうの先生が講習会に来て感動して、大阪の大きな施設「金剛コロニー」から呼ばれて行きました。
そこは前から織り物をしていて、見せてもらったが均一に織られていて残念に思ったが、古い別の箱から見えていた布があり、それを見たら素晴らしかった。
それは最初の頃の作品だった。
明日からは何にも云わないようにと言って帰ってきました。
今度行ってみたら我々が飛びつくような凄いものばかりが織れていて吃驚しました。
子供達が私に飛びついて来るんです。
それを見ていた先生はそれまでのやり方が間違っていたことが判ったんでしょうね、明日からは黙って放っておいてくださいと言ったその成果が物凄かったんです。
自由に好きにやったらすごかった。
広島にも行って、あなたの好きに織ってといったら、喜んであるお嬢さんが織ってくれました。
以前はそのお嬢さんは夜中に飛び出したり、100m競争で先頭がゴールする時に30m位のところを歩いているような子供だったそうでした。
その子がさおり織りに出会ってやって見て、自分を自由に表現できることを知って、すっかり自信が付いて変わることができて、いくらお礼申しても言い足りませんと言って下さいました。
何度も何度も頭を下げて下さいました。
3歳の時から今まで(20歳)カメラ向けたいと思ったことのない子ですと言われました。
あの子の喜ぶ顔を見てくださいと言って喜んで泣いていました。
私は特別の能力を持っていた人間ではなくて、天から貰った先天的感性というものをそのままに表現出来ているということをもって素晴らしい者だと私は思っているから。
親から貰った先天的なものを凄く素直に認めることを喜びとしている。
自分の親ほど大事な人はいない、その感性を受け継いでそれを表現しているのを先生から褒められる、これが嬉しい。
褒められればその人は幸せな気分になるし、それが究極の目的なんです。
自分しかできないものを自分の中からおびきだすことのできた喜び、何よりの喜びがあるから。
さおり織りは独自の手織り機を使って織りあげるものです。
初心者がこの織りをする時には縦糸は既に組み込まれています。
そこに自分の好みで色とりどりの横糸を織りこんでいきます。
特に見本や手本があるものではなく、織るにあたってのルール 、規則と言ったものもありません。
自由奔放に好きに織ることによって出来上がった織物に自分の感性が現れると言うものです。
織りあげた布は幅が50cmから60cm余り、ショールやマフラー、壁掛けになったりしますけれども、長いものを織りあげると洋服にも仕立てることができます。
色は赤、だいだい、ピンク、黄色、黄緑、緑、薄い青、濃い青など様々です。
それがワンピースになったり貫頭衣ふうになったり、ロングコートになったり、チャンチャンコになったりします。
このさおり織り、昭和44年に当時50代の後半だった城みさをさんにより生みだされました。
2005年当時92歳だった城みさをさんへのインタビューです。
3番目の息子が独立する時にこれからは好きなことをさせてもらいましょうと喜びました。
それまでは織物などは一切関係ありませんでした。
きっかけは以前母親がやっていた手織りを母親にもう一度やらしたいなあと思って居ました。
近くに織り屋さんが沢山あったので手おり機を作ってやろうと思いました。
参考の本を取り寄せ材木を取り寄せてやっていました。
そうしたら夫が眺めていて手伝ってくれて、織り機が完成しました。
母親がやっているのを見ていて、一つ珍しいものを見つけました。
私も自分で勝手に考えていて、やっていたら縦糸が一本抜けていたものがあり、これは傷ものだと言われました。
それを聞いて私の感性でもっと傷を付けてやろうと思いました。
以前生け花をやっていて、自然そのままの美しいものをわざわざ折ったり切ったりして一つの型をこしらえている、こんな詰まらんことを人間がやるのかなあと考えていました。
自分の好きな生け方をやろうと思いました。
生け花は、自然の美しいものを如何にしてその美しさをなお一層強調して、あー綺麗だなあと思ってみる様になっているのが生け花ということの勉強だと思います。
一つの型を追いかけるのが習慣になっていたが、しかしそんなものを追いかけることがどんなに嬉しいのかと思いました。
師匠から離れで自分の生け方をしていました。
大阪府立三国丘高校の校長先生が面白い生け花をやるそうなので来てほしいということで、行って教えることになりました。
自分がこうしたら面白いということをやってごらん、と言うと生徒はなんとかできるんです。
最初5,6人でしたがどんどん増えて行きました。
自分で綺麗なところを見つけて行くと面白いんです。
一人ひとりの感性を引っ張りだすことの勉強だったわけです。
ほうぼうの学校から来てくれと言われて多忙になり、ついに入院しました。
織りも自分の感性で織る様になる。
絶対に人の真似はすまいと思っていました。
出来たマフラー10本を大阪心斎橋の店に持っていったら9800円で売れていました。
1000円で売れたら嬉しいと思っていました。
店の人、お客さんがそれぞれに美しさをみつけだしたということ以外考えられない。
織らせてほしいと言う人達が10人現れてきて、自宅で織って素晴らしいものを織ってきてくれました。
織る前に「あなたの好きなように織えばいいのよ」と言いました。
そのうちに全国に広がって行きました。
自分の中に有ったものが外に現れた、自分で見つけた喜びだと思います。
「さおり織り」 一人ひとりの違い、差異を織る、そこから「さおり織り」としました。
「山路きて何やらゆかしすみれ草」 芭蕉の句
「何やらゆかし」、という言葉でみんな魅かれている。
「何やらゆかし」を一つのマフラーにぶつける、自分が見付ける。
ああしなさい、こうしなさいと言うように導く訳ではなくてその人が持っているものを上手く引っ張り出してゆくのが、城みさを流ということです。
雰囲気を作り出すのが私です。
1979年に「手織り適塾SAORI」 をスタート。
人が尋ねるまでは答えない、質問されて初めて答えると言うのが主義主張です。
「何やらゆかし」というものの魅力を中心に持って行くとそれぞれに考えます。
1980年第一回障害者の為の手織り教育研究会を開く。
障害の向こうの先生が講習会に来て感動して、大阪の大きな施設「金剛コロニー」から呼ばれて行きました。
そこは前から織り物をしていて、見せてもらったが均一に織られていて残念に思ったが、古い別の箱から見えていた布があり、それを見たら素晴らしかった。
それは最初の頃の作品だった。
明日からは何にも云わないようにと言って帰ってきました。
今度行ってみたら我々が飛びつくような凄いものばかりが織れていて吃驚しました。
子供達が私に飛びついて来るんです。
それを見ていた先生はそれまでのやり方が間違っていたことが判ったんでしょうね、明日からは黙って放っておいてくださいと言ったその成果が物凄かったんです。
自由に好きにやったらすごかった。
広島にも行って、あなたの好きに織ってといったら、喜んであるお嬢さんが織ってくれました。
以前はそのお嬢さんは夜中に飛び出したり、100m競争で先頭がゴールする時に30m位のところを歩いているような子供だったそうでした。
その子がさおり織りに出会ってやって見て、自分を自由に表現できることを知って、すっかり自信が付いて変わることができて、いくらお礼申しても言い足りませんと言って下さいました。
何度も何度も頭を下げて下さいました。
3歳の時から今まで(20歳)カメラ向けたいと思ったことのない子ですと言われました。
あの子の喜ぶ顔を見てくださいと言って喜んで泣いていました。
私は特別の能力を持っていた人間ではなくて、天から貰った先天的感性というものをそのままに表現出来ているということをもって素晴らしい者だと私は思っているから。
親から貰った先天的なものを凄く素直に認めることを喜びとしている。
自分の親ほど大事な人はいない、その感性を受け継いでそれを表現しているのを先生から褒められる、これが嬉しい。
褒められればその人は幸せな気分になるし、それが究極の目的なんです。
自分しかできないものを自分の中からおびきだすことのできた喜び、何よりの喜びがあるから。
2018年6月8日金曜日
本田明子(料理研究家) ・【わが心の人】小林カツ代
本田明子(料理研究家) ・【わが心の人】小林カツ代
昭和12年大阪生まれ、あらゆるジャンルの料理を家庭料理としてとらえ、身近な食材で手軽においしくできる方法を考案し、ラジオやTV、雑誌などで紹介しました。
その温かな人柄と語り口でお茶の間の人気者になりました。
平成26年亡くなられましたが、亡くなった後も料理の本の出版が続き小林さんのレシピや生き方が多くの人に支持されています。
ゲストは最初の内弟子として23年間小林さんと共に過ごされた料理研究家の本田明子さん。
小林さんのことを師匠と呼んでいます。
小林さんは落語が大好きでした。
先生と呼んでいいのはスタッフと弟子だけでそれ以外は名前を呼んでもらったりしていました。
短大を卒業する冬に小林さんに出会いました。
母が小林さんの料理の本を買ってきて作っていました。
私も小林さんの本で作ると作りやすくて料理に自信が付いてきて、どんどん積み上げて来ました。
弟子になりたいと知人に伝えてもらいましたが、すでにアシスタントが3名位いて実現しませんでした。
卒業する暮れに、お茶を飲みに来るようにということでお会いすることができました。
帰りにいきなり明日から来ますかといわれて、行きますと即答えました。
先生のキッチンスタジオは自宅兼スタジオで、夜になると家族のリビングになるという形でした。
その後、家とは切り離した仕事場としてスタジオが出来ました。
家庭料理を伝えて行く使命を持っていたので、豪華な台所ではなくて、普通の台所を持っていました。
先生が倒れるまで常に普通の台所を、という姿勢でした。
材料も調味料も特別なものではなかったです。(近所で賄える食材)
それぞれの食材はその専門の店の人に聞きなさいと言うことは徹底していました。
肉屋さん、八百屋さんとはずーっと会話をして買い物をしていました。
美味しいという結果に至るまで、これは本当に必要なのかを常に考えていました。
ハンバーグの焼き方をレストランで見て、焦げ目だけフライパンで焼いて付けたらオーブン使っていたのを見て、フライパンで焦げ目を付けた後お湯を注いでハンバーグに火が入る、お湯がなくなる時間がほぼ同じの時が焼き上がり、食べてみたらおいしかった。
美味しくて簡単に出来る方法を常に考える人で魅力的でした。
ほうれん草は葉から入れて茹でるとスーッと入って行く、この方法も農家さんからの情報で試して上手くいっている。
人の話を受け入れる才能は凄いと思います。
料理家になって知名度が上がると食べさせてもらうことが少なくなるのですが、何人かは食べて食べてといってくれる人がいて、多少アレンジをして教えてもらった人の名前を本に紹介する時に入れています。
「わが道をいくワンタン」という作り方も進化していっている。(ばらばらに作り上げる)
家庭料理ということを掲げるからには、簡単に買えないものを使って料理してはいけないと本当によく言われました。(家庭で直ぐ手に入る食材を使う)
人の生活は色んな状況があり忙しい時はたびたびあるので、こうでなければいけないと、縛るようなことは言ってはいけないと常に言っていました。
頭からこうしなさいという指導はしませんでした、とにかく見ていなさいと言われました。
内弟子では最初の2年間は弁当をスタッフ全員に作ってこなくてはいけない、スタッフが働く時に5人分作ってきて500円で売る。
冷めてもおいしくなければいけないので、作り方の説明をしたりして、ここが違うとか話し合って、あとから身に付いたなと今でも感じています。
次には2,3年まかない料理をしてそれも同じ様にして勉強になりました。
伝えたい味は先生は持ってきて食べさせてくれました。
料理の仕方を耳から伝える疑似語みたいな伝え方が上手かったです。
動物が好きで犬、猫、鶏などを飼っていましたが、人間を含めて全ての生き物が大好きでした。
人間を含めて全ての生き物がお腹がすくということがあってはならない、ということをしょっちゅう言っていました。
世界中の子供のお腹がすくということをさせてはならないと言うことに繋がる訳です。
今目の前にある食べ物を如何に最大限に生かして、おいしく作るにはどうしていいかを考えてると言うことは良く聞かされていました。
昭和12年大阪生まれ、あらゆるジャンルの料理を家庭料理としてとらえ、身近な食材で手軽においしくできる方法を考案し、ラジオやTV、雑誌などで紹介しました。
その温かな人柄と語り口でお茶の間の人気者になりました。
平成26年亡くなられましたが、亡くなった後も料理の本の出版が続き小林さんのレシピや生き方が多くの人に支持されています。
ゲストは最初の内弟子として23年間小林さんと共に過ごされた料理研究家の本田明子さん。
小林さんのことを師匠と呼んでいます。
小林さんは落語が大好きでした。
先生と呼んでいいのはスタッフと弟子だけでそれ以外は名前を呼んでもらったりしていました。
短大を卒業する冬に小林さんに出会いました。
母が小林さんの料理の本を買ってきて作っていました。
私も小林さんの本で作ると作りやすくて料理に自信が付いてきて、どんどん積み上げて来ました。
弟子になりたいと知人に伝えてもらいましたが、すでにアシスタントが3名位いて実現しませんでした。
卒業する暮れに、お茶を飲みに来るようにということでお会いすることができました。
帰りにいきなり明日から来ますかといわれて、行きますと即答えました。
先生のキッチンスタジオは自宅兼スタジオで、夜になると家族のリビングになるという形でした。
その後、家とは切り離した仕事場としてスタジオが出来ました。
家庭料理を伝えて行く使命を持っていたので、豪華な台所ではなくて、普通の台所を持っていました。
先生が倒れるまで常に普通の台所を、という姿勢でした。
材料も調味料も特別なものではなかったです。(近所で賄える食材)
それぞれの食材はその専門の店の人に聞きなさいと言うことは徹底していました。
肉屋さん、八百屋さんとはずーっと会話をして買い物をしていました。
美味しいという結果に至るまで、これは本当に必要なのかを常に考えていました。
ハンバーグの焼き方をレストランで見て、焦げ目だけフライパンで焼いて付けたらオーブン使っていたのを見て、フライパンで焦げ目を付けた後お湯を注いでハンバーグに火が入る、お湯がなくなる時間がほぼ同じの時が焼き上がり、食べてみたらおいしかった。
美味しくて簡単に出来る方法を常に考える人で魅力的でした。
ほうれん草は葉から入れて茹でるとスーッと入って行く、この方法も農家さんからの情報で試して上手くいっている。
人の話を受け入れる才能は凄いと思います。
料理家になって知名度が上がると食べさせてもらうことが少なくなるのですが、何人かは食べて食べてといってくれる人がいて、多少アレンジをして教えてもらった人の名前を本に紹介する時に入れています。
「わが道をいくワンタン」という作り方も進化していっている。(ばらばらに作り上げる)
家庭料理ということを掲げるからには、簡単に買えないものを使って料理してはいけないと本当によく言われました。(家庭で直ぐ手に入る食材を使う)
人の生活は色んな状況があり忙しい時はたびたびあるので、こうでなければいけないと、縛るようなことは言ってはいけないと常に言っていました。
頭からこうしなさいという指導はしませんでした、とにかく見ていなさいと言われました。
内弟子では最初の2年間は弁当をスタッフ全員に作ってこなくてはいけない、スタッフが働く時に5人分作ってきて500円で売る。
冷めてもおいしくなければいけないので、作り方の説明をしたりして、ここが違うとか話し合って、あとから身に付いたなと今でも感じています。
次には2,3年まかない料理をしてそれも同じ様にして勉強になりました。
伝えたい味は先生は持ってきて食べさせてくれました。
料理の仕方を耳から伝える疑似語みたいな伝え方が上手かったです。
動物が好きで犬、猫、鶏などを飼っていましたが、人間を含めて全ての生き物が大好きでした。
人間を含めて全ての生き物がお腹がすくということがあってはならない、ということをしょっちゅう言っていました。
世界中の子供のお腹がすくということをさせてはならないと言うことに繋がる訳です。
今目の前にある食べ物を如何に最大限に生かして、おいしく作るにはどうしていいかを考えてると言うことは良く聞かされていました。
2018年6月7日木曜日
河野博文(元プロ野球選手・農業) ・セカンドキャリアは農業で
河野博文(元プロ野球選手・農業) ・セカンドキャリアは農業で
高知県出身56歳、駒沢大学に進んだ河野さんは1984年ドラフト1位で日本ハムに入団しました。
先発とリリーフ兼任で最優秀防御率を獲得します。
1994年に巨人に移籍して、1996年に最優秀中継ぎ投手賞を受賞、1999年に自由契約になり 2000年に引退しました。
引退後はプロ野球独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスのコーチになり群馬県へ。
ここで玉ねぎ農家を紹介されたのがきっかけとなり、農業を一から勉強して農家に転身しました。
現在、農家として1年に180トンの玉ねぎを生産しているほか、玉ねぎを使った居酒屋を経営しています。
華々しい現役を経て次のステップに進むのに苦労するプロ野球選手が多い中で、農家に転身した河野さんに伺いました。
玉ねぎ料理は珍しいので評判はいいです。
巨人時代に「ゲン」ちゃんと呼ばれていました。
長嶋選手にもそう呼ばれていて、周りからも河野と呼ばれたことは一度も無いです。
小学校の時はソフトから始めて、中学では軟式野球をやりました。
高知明徳高校の校長先生が家まで来て、来てほしいということで明徳高校に進みました。
寮生活で規則も厳しかったです。
高校3年生の時には7球団ぐらいがプロのスカウトが来ましたが、まだ自分には実力が無いと思っていました。
高校の先輩が駒沢大学にいたので駒沢大学に進みました。
1年生はほとんど奴隷みたいな感じで自分のことはできなかったですね。
3年生から試合に出られるようになり、優秀選手とか、日米の試合にも出さしてもらいました。
セリーグに入りたかったが、監督には何も言えなかった。
1984年ドラフト1位で日本ハムに入団しました。
最初のころは先発を任されて、1年目は8勝11敗でした。
1年目は無我夢中でした、レベルが全然違っていました。
練習の厳しさも違っていました。
日本ハムでは先発、中継ぎ、押さえもやりました。
1994年にFAで巨人に移籍しました。(34歳)
色んな面で巨人が凄いと思いました。
観客、マスコミが多いのにはびっくりしました。
1996年に最優秀中継ぎ投手賞を受賞しました。
年齢とか、怪我とかもあり、球団の若返りかもあり、1999年に自由契約となりました。
2000年に呼ばれて引退することになり、頭が真っ白になりました。
膝が炎症を起こしていてそれが致命傷だったと思います。
親戚の建設会社にいって営業の仕事などをすることになりました。
頭を切り替えてこなしてゆきました。
プロ野球独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスから誘いがあり、ピッチングコーチをやることになりました。
初めてピッチャーを教えると言うことで経験をもとにやって行きました。
シーズン中に妻が病気になり、余命1ケ月ぐらいしかないと病院から電話がかかってきて、それから病院につきっきりで、乳がんで1ケ月で亡くなってしまいました。(42歳)
子供が二人いて高校生だったので、小さくなくてまだ良かったです。
子供も一とき元気が無かったです。
元西武・駒崎幸一さんからの薦めもあり、出来るだけ農薬を使わないで有機農業で安心安全でおいしい野菜を作らないかということで、農業も高齢化になっていて、農業をやることに決心しました。
玉ねぎの農家に研修に2年間行きました。
先ずは肥料の入れ方、マルチ(ビニール)の掛け方、植え方など教えてもらいました。
自分の作ったものを売ると言うことは、農業に関する許可が必要で認定されるのが大変でした。(認定まで1年かかりました)
法人になる為には5反の面積が必要で畑を借りるのが大変でした。
農業を志してから4年目で40トンの玉ねぎが出来ました。
種から育てて苗を11月ごろに植えて、新玉ねぎが5月ごろになります。
有機肥料を2週間に一回散布するが、手押し車で1町歩をやるので結構大変です。
一人でなく手伝ってもらいながらやっています。
収穫の時には感動しました。
野球と農業を比べたら農業の方が大変かもしれません。
今年で8年になりますが、最初は販路がなくて20トンぐらいは捨ててしまいました。
販路の開拓を怠っていて翌年からは販路を決めて売れるようになりました。
知り合いを通じてスーパーさんとかにいって、自分の作ったものと味を比べてもらって開拓していきました。
玉ねぎを加工して売るというような多角化を進めて行きました。
社員は3人います。
農家はなかなか儲からないので、有機でやるとか、野菜に付加価値を付けることが必要かと思います
野球選手は毎年100人位は引退して行きます。
次は何しようと言うことは多分考えていないと思います。
スポーツ界全体でと思うが、セカンドキャリアをもっと考えてもらいたいと思います。
来月ぐらいで高崎の店は閉めてしまって、6月位から東京に事務所を移転して東京で動こうと思っています。
インドネシアに行ったが、海外でも人を雇って農業が出来ればと思っています。
インドネシアは人口が2億5000万人ぐらいなので、色んな商売できるものが一杯あるので日本に輸入すると言うようなことも考えています。
高知県出身56歳、駒沢大学に進んだ河野さんは1984年ドラフト1位で日本ハムに入団しました。
先発とリリーフ兼任で最優秀防御率を獲得します。
1994年に巨人に移籍して、1996年に最優秀中継ぎ投手賞を受賞、1999年に自由契約になり 2000年に引退しました。
引退後はプロ野球独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスのコーチになり群馬県へ。
ここで玉ねぎ農家を紹介されたのがきっかけとなり、農業を一から勉強して農家に転身しました。
現在、農家として1年に180トンの玉ねぎを生産しているほか、玉ねぎを使った居酒屋を経営しています。
華々しい現役を経て次のステップに進むのに苦労するプロ野球選手が多い中で、農家に転身した河野さんに伺いました。
玉ねぎ料理は珍しいので評判はいいです。
巨人時代に「ゲン」ちゃんと呼ばれていました。
長嶋選手にもそう呼ばれていて、周りからも河野と呼ばれたことは一度も無いです。
小学校の時はソフトから始めて、中学では軟式野球をやりました。
高知明徳高校の校長先生が家まで来て、来てほしいということで明徳高校に進みました。
寮生活で規則も厳しかったです。
高校3年生の時には7球団ぐらいがプロのスカウトが来ましたが、まだ自分には実力が無いと思っていました。
高校の先輩が駒沢大学にいたので駒沢大学に進みました。
1年生はほとんど奴隷みたいな感じで自分のことはできなかったですね。
3年生から試合に出られるようになり、優秀選手とか、日米の試合にも出さしてもらいました。
セリーグに入りたかったが、監督には何も言えなかった。
1984年ドラフト1位で日本ハムに入団しました。
最初のころは先発を任されて、1年目は8勝11敗でした。
1年目は無我夢中でした、レベルが全然違っていました。
練習の厳しさも違っていました。
日本ハムでは先発、中継ぎ、押さえもやりました。
1994年にFAで巨人に移籍しました。(34歳)
色んな面で巨人が凄いと思いました。
観客、マスコミが多いのにはびっくりしました。
1996年に最優秀中継ぎ投手賞を受賞しました。
年齢とか、怪我とかもあり、球団の若返りかもあり、1999年に自由契約となりました。
2000年に呼ばれて引退することになり、頭が真っ白になりました。
膝が炎症を起こしていてそれが致命傷だったと思います。
親戚の建設会社にいって営業の仕事などをすることになりました。
頭を切り替えてこなしてゆきました。
プロ野球独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスから誘いがあり、ピッチングコーチをやることになりました。
初めてピッチャーを教えると言うことで経験をもとにやって行きました。
シーズン中に妻が病気になり、余命1ケ月ぐらいしかないと病院から電話がかかってきて、それから病院につきっきりで、乳がんで1ケ月で亡くなってしまいました。(42歳)
子供が二人いて高校生だったので、小さくなくてまだ良かったです。
子供も一とき元気が無かったです。
元西武・駒崎幸一さんからの薦めもあり、出来るだけ農薬を使わないで有機農業で安心安全でおいしい野菜を作らないかということで、農業も高齢化になっていて、農業をやることに決心しました。
玉ねぎの農家に研修に2年間行きました。
先ずは肥料の入れ方、マルチ(ビニール)の掛け方、植え方など教えてもらいました。
自分の作ったものを売ると言うことは、農業に関する許可が必要で認定されるのが大変でした。(認定まで1年かかりました)
法人になる為には5反の面積が必要で畑を借りるのが大変でした。
農業を志してから4年目で40トンの玉ねぎが出来ました。
種から育てて苗を11月ごろに植えて、新玉ねぎが5月ごろになります。
有機肥料を2週間に一回散布するが、手押し車で1町歩をやるので結構大変です。
一人でなく手伝ってもらいながらやっています。
収穫の時には感動しました。
野球と農業を比べたら農業の方が大変かもしれません。
今年で8年になりますが、最初は販路がなくて20トンぐらいは捨ててしまいました。
販路の開拓を怠っていて翌年からは販路を決めて売れるようになりました。
知り合いを通じてスーパーさんとかにいって、自分の作ったものと味を比べてもらって開拓していきました。
玉ねぎを加工して売るというような多角化を進めて行きました。
社員は3人います。
農家はなかなか儲からないので、有機でやるとか、野菜に付加価値を付けることが必要かと思います
野球選手は毎年100人位は引退して行きます。
次は何しようと言うことは多分考えていないと思います。
スポーツ界全体でと思うが、セカンドキャリアをもっと考えてもらいたいと思います。
来月ぐらいで高崎の店は閉めてしまって、6月位から東京に事務所を移転して東京で動こうと思っています。
インドネシアに行ったが、海外でも人を雇って農業が出来ればと思っています。
インドネシアは人口が2億5000万人ぐらいなので、色んな商売できるものが一杯あるので日本に輸入すると言うようなことも考えています。
2018年6月6日水曜日
飯島惠道(ケア集団代表・尼僧) ・死別の悲しみに寄り添う
飯島惠道(ケア集団代表・尼僧) ・死別の悲しみに寄り添う
54歳、長野県松本市にある尼寺の東昌寺の住職を務めています。
生みの母親が飯島さんを育てることができなかったため、生後すぐに寺に引き取られ、尼僧の母に育てられました。
好きな人生を歩めばいいと言う母の言葉に後押しされ、看護師としておよそ 5年間諏訪中央病院で終末期医療に携わりました。
37歳の時尼僧の祖母が高齢となり体が弱ってきたため寺に戻ります。
終末期医療の現場で飯島さんは沢山の死と向き合ってきました。
育ての親である先代の住職尼僧の母との別れも経験するなかで、2006年飯島さんは死別を経験した人を地域で支えようと「ケア集団ハートビート」を立ち上げ活動を行っています。
東昌寺は今は曹洞宗のお寺ですが、お寺が出来た時は臨済宗のお寺だったそうです。
4代目から尼僧が住職を務めていて、私で15代目のお寺です。
全国的にみると尼寺は少なくて、更に今は尼僧の数が減っていると言うことで尼寺の数も減少傾向にあると思います。
生まれてすぐに引き取られて、二人の尼僧さんに育てていただきました。
年上がおばあちゃん、その下の尼僧さんをお母さんと呼んでいて、血縁ではありません。
授業参観PTAにも参加してくれて、特別な子と言う訳では無く天真爛漫に私も妹(6つ違い)も学校に行けた気がします。
周りでは弟、妹がいるのに私には妹がいないということで、淋しさを感じて或る時に喋れなくなってしまって、縁があったらと思っていたら話があって、妹が出来たということらしいです。
祖母や母はとっても厳しく育てられたそうで、子供時代に判るようになってからこのお寺に来て、厳しく育てられ辛い思いもしたそうで、いまは時代が違うので子供の意志を尊重してのびのび育ててあげようと言うことで、育てたというふうに聞いたことがあります。
お陰で天真爛漫で居られたのかなと思います。
お経も自然に覚えて、月まいり(経ち日)に一緒に付いて行きました。
お坊さんだからかしこまりすぎないというか偉そうにとかせずに普通に話を聞くとか、親身になって話をするとか、それが基本なのかなということを体で覚えて行ったような気がします。
中学、高校ぐらいから将来はお坊さんになると漠然と思っていましたが、高校2年の時に
腎臓病の病気にかかって、入院生活を体験して、看護師さんの卵(実習生)が来て居て、そういう道があることを知りました。
看護学校の勉強をして看護師の道に進みました。
反対はされないで、何をしてもいいからお盆は手伝いに来てほしいとは言われました
5年間諏訪中央病院で働かせてもらいました。
地域医療に力を入れていて、やり甲斐を感じながら勤務できたと思います。
働き始めて死というものがとても怖くて、不全感というか、自分は何もできなかったということしか感じられなかったが、色々体験して家族のつながりを改めて感じたり、一生懸命に生き切ると言うことを実際に出来るんだと、生きざま、死にざまを学ばしていただきました。
生ききると言うことが、残された家族にとって大きな力で背中をおしてくれることにつながると、言うことを学ばしていただいたと思います。
40代の女性でがんが転移して、家で最後まで過ごしたいと希望して家族のことを思っていて、家族は家族でその方のことを思っていて、最初すれちがっていてお互いの本心を言わずにしていました。
本音を言った時に初めて家族が団結して、二交替、三交替の介護が始まりました。
調子のいい時にドライブに行くことになり、わたしも付き添っていって、一週間後には穏やかに息を引き取りました。
お母さんが好きだった薔薇の香りのローションを娘さんが塗って、旅経ちのスーツを着せてあげて、お母さんが好きだった音楽を流して、そこに居させていただけたことがありがたかったし、理想的な看取りが出来たのかなと思いました。
お互いにお互いを思いやる大切さ、お互いの立場に立って考えて行動することの大切さを学びました。
道元禅師の言葉 「同事」相手の立場に立って行動していきましょう、ということを改めて感じました。
その看護した方から「あなたの役目は仏教と介護の両方に風穴を開ける役目よね」と言われました。
そこから私の世界が広がり深まったと思いました。
グリーフケア、生老病死 病院ではなくて社会の中で看護師として実践して行くことが又新たなステージなのかなと思います。
私を育ててくれた尼僧さんが高齢になってお寺の仕事が大変になってきたこと、お寺が古くなってきて建て替え工事も本腰を入れないといけないと思ってお寺に帰ってきました。(37歳)
お坊さんとしての色んな事をそれからも学びました。
尼僧は自分で弟子を取ることはできなくて、檀家さんも取ることができなくて、菩提寺にはなれないお寺かといえると思います。
私のお寺は中小零細企業のような感じですが、かゆい所に手が届くような身近な存在になれると思います。
2011年から住職になりました。(7年)
病院で勤務している中で、ケアはできるが、亡くなった方の御家族に対して看護師は手が出せない。
御家族に対する関係性が必要だと思って、「ケア集団ハートビート」を立ち上げました。
グリーフケアを中心に活動しています。
死別の辛い体験を分かち合うことで心が軽くなり、次の一歩を踏み出すことが出来ると思っています。
信州大学の山崎浩司先生が冊子(スコットランドにあった冊子)を導入したいと言うことで、ケア集団ハートビートが和訳をして、さらに長野県中心地方で使えるような冊子にしようと言うことで「大切な人を亡くした時」という冊子を発行することになりました。
悲しみと向き合いつつ生きると言うことは悲しいことだが変化があるものです。
旅のようなものだと感じています。
乗り越えるという表現があるが、乗り越えると終わると言う訳ではなくて、行ったり来たりしながら反応の仕方、捉え方がちょっとずつ変わっていて、自分を大きくしてくれたり成長させてくれたりするものと捉えています。
先代が亡くなった時に直接に看取ることができなかったことに対して、自分を責める思いがあります。
他界した次の日に病院に行くことになってしまいした。
辛かったけれど受け止めるしかなくて、少し休ませてもらったが、待っていてくれる信徒さんがいることが判ってようやく腰が上がりました。
先代は他界するその日の朝まで、身体の悪い中をタクシーを呼んだりして月まいりに行っていました。
風穴を開けて風通しを良くして、どっちの世界にいる人も充実した人生を歩めるように私なりの風を吹かせたいと思っています。
尼僧には結婚に対して今一つ認知されていなくて、格差があるが、自分の気持ちに素直に生きて行って仏道も歩んでいければいいのではないかと思って、自分を振り返った時にこの人と一緒に居たいという思いの或る人との出会いの中で、結婚を決意し昨年末に結婚しました。
妹の子供が仏教の勉強をしていて、将来的には継いでくれるような意志を持っているので、時代に沿った形で継いでやって行ってくれればいいと思います。
今後も生き切れるような社会を作るところで、私にできることをさせていただきたいと思っています。
54歳、長野県松本市にある尼寺の東昌寺の住職を務めています。
生みの母親が飯島さんを育てることができなかったため、生後すぐに寺に引き取られ、尼僧の母に育てられました。
好きな人生を歩めばいいと言う母の言葉に後押しされ、看護師としておよそ 5年間諏訪中央病院で終末期医療に携わりました。
37歳の時尼僧の祖母が高齢となり体が弱ってきたため寺に戻ります。
終末期医療の現場で飯島さんは沢山の死と向き合ってきました。
育ての親である先代の住職尼僧の母との別れも経験するなかで、2006年飯島さんは死別を経験した人を地域で支えようと「ケア集団ハートビート」を立ち上げ活動を行っています。
東昌寺は今は曹洞宗のお寺ですが、お寺が出来た時は臨済宗のお寺だったそうです。
4代目から尼僧が住職を務めていて、私で15代目のお寺です。
全国的にみると尼寺は少なくて、更に今は尼僧の数が減っていると言うことで尼寺の数も減少傾向にあると思います。
生まれてすぐに引き取られて、二人の尼僧さんに育てていただきました。
年上がおばあちゃん、その下の尼僧さんをお母さんと呼んでいて、血縁ではありません。
授業参観PTAにも参加してくれて、特別な子と言う訳では無く天真爛漫に私も妹(6つ違い)も学校に行けた気がします。
周りでは弟、妹がいるのに私には妹がいないということで、淋しさを感じて或る時に喋れなくなってしまって、縁があったらと思っていたら話があって、妹が出来たということらしいです。
祖母や母はとっても厳しく育てられたそうで、子供時代に判るようになってからこのお寺に来て、厳しく育てられ辛い思いもしたそうで、いまは時代が違うので子供の意志を尊重してのびのび育ててあげようと言うことで、育てたというふうに聞いたことがあります。
お陰で天真爛漫で居られたのかなと思います。
お経も自然に覚えて、月まいり(経ち日)に一緒に付いて行きました。
お坊さんだからかしこまりすぎないというか偉そうにとかせずに普通に話を聞くとか、親身になって話をするとか、それが基本なのかなということを体で覚えて行ったような気がします。
中学、高校ぐらいから将来はお坊さんになると漠然と思っていましたが、高校2年の時に
腎臓病の病気にかかって、入院生活を体験して、看護師さんの卵(実習生)が来て居て、そういう道があることを知りました。
看護学校の勉強をして看護師の道に進みました。
反対はされないで、何をしてもいいからお盆は手伝いに来てほしいとは言われました
5年間諏訪中央病院で働かせてもらいました。
地域医療に力を入れていて、やり甲斐を感じながら勤務できたと思います。
働き始めて死というものがとても怖くて、不全感というか、自分は何もできなかったということしか感じられなかったが、色々体験して家族のつながりを改めて感じたり、一生懸命に生き切ると言うことを実際に出来るんだと、生きざま、死にざまを学ばしていただきました。
生ききると言うことが、残された家族にとって大きな力で背中をおしてくれることにつながると、言うことを学ばしていただいたと思います。
40代の女性でがんが転移して、家で最後まで過ごしたいと希望して家族のことを思っていて、家族は家族でその方のことを思っていて、最初すれちがっていてお互いの本心を言わずにしていました。
本音を言った時に初めて家族が団結して、二交替、三交替の介護が始まりました。
調子のいい時にドライブに行くことになり、わたしも付き添っていって、一週間後には穏やかに息を引き取りました。
お母さんが好きだった薔薇の香りのローションを娘さんが塗って、旅経ちのスーツを着せてあげて、お母さんが好きだった音楽を流して、そこに居させていただけたことがありがたかったし、理想的な看取りが出来たのかなと思いました。
お互いにお互いを思いやる大切さ、お互いの立場に立って考えて行動することの大切さを学びました。
道元禅師の言葉 「同事」相手の立場に立って行動していきましょう、ということを改めて感じました。
その看護した方から「あなたの役目は仏教と介護の両方に風穴を開ける役目よね」と言われました。
そこから私の世界が広がり深まったと思いました。
グリーフケア、生老病死 病院ではなくて社会の中で看護師として実践して行くことが又新たなステージなのかなと思います。
私を育ててくれた尼僧さんが高齢になってお寺の仕事が大変になってきたこと、お寺が古くなってきて建て替え工事も本腰を入れないといけないと思ってお寺に帰ってきました。(37歳)
お坊さんとしての色んな事をそれからも学びました。
尼僧は自分で弟子を取ることはできなくて、檀家さんも取ることができなくて、菩提寺にはなれないお寺かといえると思います。
私のお寺は中小零細企業のような感じですが、かゆい所に手が届くような身近な存在になれると思います。
2011年から住職になりました。(7年)
病院で勤務している中で、ケアはできるが、亡くなった方の御家族に対して看護師は手が出せない。
御家族に対する関係性が必要だと思って、「ケア集団ハートビート」を立ち上げました。
グリーフケアを中心に活動しています。
死別の辛い体験を分かち合うことで心が軽くなり、次の一歩を踏み出すことが出来ると思っています。
信州大学の山崎浩司先生が冊子(スコットランドにあった冊子)を導入したいと言うことで、ケア集団ハートビートが和訳をして、さらに長野県中心地方で使えるような冊子にしようと言うことで「大切な人を亡くした時」という冊子を発行することになりました。
悲しみと向き合いつつ生きると言うことは悲しいことだが変化があるものです。
旅のようなものだと感じています。
乗り越えるという表現があるが、乗り越えると終わると言う訳ではなくて、行ったり来たりしながら反応の仕方、捉え方がちょっとずつ変わっていて、自分を大きくしてくれたり成長させてくれたりするものと捉えています。
先代が亡くなった時に直接に看取ることができなかったことに対して、自分を責める思いがあります。
他界した次の日に病院に行くことになってしまいした。
辛かったけれど受け止めるしかなくて、少し休ませてもらったが、待っていてくれる信徒さんがいることが判ってようやく腰が上がりました。
先代は他界するその日の朝まで、身体の悪い中をタクシーを呼んだりして月まいりに行っていました。
風穴を開けて風通しを良くして、どっちの世界にいる人も充実した人生を歩めるように私なりの風を吹かせたいと思っています。
尼僧には結婚に対して今一つ認知されていなくて、格差があるが、自分の気持ちに素直に生きて行って仏道も歩んでいければいいのではないかと思って、自分を振り返った時にこの人と一緒に居たいという思いの或る人との出会いの中で、結婚を決意し昨年末に結婚しました。
妹の子供が仏教の勉強をしていて、将来的には継いでくれるような意志を持っているので、時代に沿った形で継いでやって行ってくれればいいと思います。
今後も生き切れるような社会を作るところで、私にできることをさせていただきたいと思っています。
2018年6月5日火曜日
久田恵(ノンフィクション作家) ・予定より早く終の棲家へ
久田恵(ノンフィクション作家) ・予定より早く終の棲家へ
北海道出身、70歳。 大学を中退して人形劇団に入り、その後様々な職業を経験し、シングルマザーが子連れで働ける場所を求めて、サーカスに入団します。
そのときのことを描いた作品「サーカス村裏通り」でノンフィクション作家としての地位を確立します。
1990年には「フィリピーナを愛した男たち」という作品で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
この賞は2005年には息子の稲泉連さんも受賞しています。
久田さんは親の介護をしながら自宅の一階を劇場に改造して、人形劇に熱心に取り組んできました。
この春栃木県にある高齢者向け住宅に移りました。
栃木県に移って空気感、風景、気候みたいなものが身体にしっくりきます。(故郷のような感じ)
取材で来た時に、となりが牧場で、微かな香りがして子供の頃の故郷を思い出しました。
シングルマザーで家の息子も不登校になるが、保育園に行きたがらなくなってしまって、心が暗くなってサーカスしか行くしかないねとか言われて、サーカスの裏方として就職することになりました。
人生でたった一度の誰も体験できないプレゼントと言うことで、保育園に行かない息子は毎日サーカスを見続けました。
生き返ったような感じで、或る意味では教育的効果は凄く大きかったと思います。
その後実家に戻り、介護の生活に入る。
母が64歳で倒れてしまいました。
18年ぶりに母から一緒に住まないかと言われました。
自立して自分で生き切るんだと行って出て行って、今になって自分のしたことが親に取っては大変だったと思います。
父親が会社を休んだことないのに一週間休んだりしたが、当時私は悪いこととは思わなかった。
その凄く大きな後悔が、私が介護を20年やり続けた理由でもあるので。
物書きとして自立したのは母が倒れてからなんです。
単行本を書く道に進んだのは介護の為でしたが、それもよかったと思います。
子供を育てて行くのに在宅で仕事ができるし、自分で調整できるので良い方に行ったと思います。
母の介護ができたし、父とも同居できました。
最初は毎日バトルで大変でした。
母親似だと思っていたが、長い間父と暮らしているうちに私の性格は父親似だと思うようになりました。
親子というのはどういう人か判るまで随分長い時間がかかりますね。
息子が15歳の時に不登校になった時に、父は大反対するかと思ったが、その時に笑って、「若い者にとって1,2年はなんぼのものかだと、人生を今我慢したからと言って良いことはない」と言ったんです。
簡単にOK出してくれて、わたしは救われました。
父は「学校なんてなかなかやめられるものではないが、ちゃんと辞めたなんて大したもんだ」と本気で息子を褒めるんです。
息子の不登校が我が家では何一つ問題にならないで済んで凄く父に感謝しています。
そのことに対することがあるから、父の介護は全うしなくてはいけないと思って看ました。
今は私が祖母になって当時の両親のこととかを思い起こします。
無我夢中でやっていて見えてないことが有ったんだなと思います。
子育てが大変だったので、たった一日でもいいから何の心配も無い一日があったらいいと思って、週一回はあなたたちにしてあげると言って孫の面倒を見ましたが、それが結構大変でした。
でも私の志はもう伝わってないかもしれません。
20歳で家出をしてフリーターみたいに色々してきましたが、人形劇の研究生募集で住み込み可と言うことでそこで台本を書いていました。
人形劇は好きでした。
父の介護と並行して人形劇の方にも進みました。
人形劇の昔の研究生の人達が集まってきたりして、ついに自分の家を人形劇場にしてしまいました。
障害を持っている人も参加出来る。
シニアの世界に人形劇を増やせたら楽しいと思います。
両親を看取って、自分も90位になって無理だと思った時に同じ施設に入ろうかとも思ったが、都会から離れて那須に住むことを決めました。
草の根の介護士さんたちが発見してきた声を集めたいと思って取材を6人で始めて掲載していたが、3年目に入って、見聞きしたりした中で日本の介護観を根本的に変えていきたいと思っていて、コミュニティーに取材に行ったら、その場所が衝動的に自分に合うと言う気がしたんです。
北海道の故郷に似ていて、即決めました。
これから団塊の世代が後期高齢者になって行った時代にどうなるか、介護で若者を圧迫することになるが、それはまずいのではないかと思って、お世話してくれるのを待つのではなくて、自らがどんな介護を受けてどんな老後を暮らしてどんなふうにして行くかということを、自分たちが具体的に実践してゆく時代に入っているんじゃないかなあと思います。
自主介護の運動も起こってもおかしくないと思っていたら、現実に似たようなスタイルの考え方の人が施設、コミュニティーを作ったりしているということでその方向性は正しいと思います。
サービス付き高齢者住宅。
食事は朝は自分で作りますが、昼と夜は食堂で食べて一切作りません。
仕事もはかどるし違うところに時間が使えるので、大変有効です。
70代の間に自分の方向を決めた方がいいかなということが自分の中にあります。
でも何が起こるかわからないので、それを最終と決めなくてもいいと思います。
子供が老いた親を経済的に扶養するという発想はかき消えてしまって、自覚していかないと大変なことになると思う。
新しい価値観で生き抜く道を模索していくことがすごく重要だと私は思っています。
衝動的に移り住む事にしたのでまだ整理しきれていなくて、体力気力あるうちにしておかないとまずいと思った、早すぎるのではと言われたが遅くはなかったと思います。
今は地方も溶け込みやすくなって、新しく作っていこうという気持ちは都会よりも大きいと思っていて、地方の可能性を凄く感じました。
北海道出身、70歳。 大学を中退して人形劇団に入り、その後様々な職業を経験し、シングルマザーが子連れで働ける場所を求めて、サーカスに入団します。
そのときのことを描いた作品「サーカス村裏通り」でノンフィクション作家としての地位を確立します。
1990年には「フィリピーナを愛した男たち」という作品で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
この賞は2005年には息子の稲泉連さんも受賞しています。
久田さんは親の介護をしながら自宅の一階を劇場に改造して、人形劇に熱心に取り組んできました。
この春栃木県にある高齢者向け住宅に移りました。
栃木県に移って空気感、風景、気候みたいなものが身体にしっくりきます。(故郷のような感じ)
取材で来た時に、となりが牧場で、微かな香りがして子供の頃の故郷を思い出しました。
シングルマザーで家の息子も不登校になるが、保育園に行きたがらなくなってしまって、心が暗くなってサーカスしか行くしかないねとか言われて、サーカスの裏方として就職することになりました。
人生でたった一度の誰も体験できないプレゼントと言うことで、保育園に行かない息子は毎日サーカスを見続けました。
生き返ったような感じで、或る意味では教育的効果は凄く大きかったと思います。
その後実家に戻り、介護の生活に入る。
母が64歳で倒れてしまいました。
18年ぶりに母から一緒に住まないかと言われました。
自立して自分で生き切るんだと行って出て行って、今になって自分のしたことが親に取っては大変だったと思います。
父親が会社を休んだことないのに一週間休んだりしたが、当時私は悪いこととは思わなかった。
その凄く大きな後悔が、私が介護を20年やり続けた理由でもあるので。
物書きとして自立したのは母が倒れてからなんです。
単行本を書く道に進んだのは介護の為でしたが、それもよかったと思います。
子供を育てて行くのに在宅で仕事ができるし、自分で調整できるので良い方に行ったと思います。
母の介護ができたし、父とも同居できました。
最初は毎日バトルで大変でした。
母親似だと思っていたが、長い間父と暮らしているうちに私の性格は父親似だと思うようになりました。
親子というのはどういう人か判るまで随分長い時間がかかりますね。
息子が15歳の時に不登校になった時に、父は大反対するかと思ったが、その時に笑って、「若い者にとって1,2年はなんぼのものかだと、人生を今我慢したからと言って良いことはない」と言ったんです。
簡単にOK出してくれて、わたしは救われました。
父は「学校なんてなかなかやめられるものではないが、ちゃんと辞めたなんて大したもんだ」と本気で息子を褒めるんです。
息子の不登校が我が家では何一つ問題にならないで済んで凄く父に感謝しています。
そのことに対することがあるから、父の介護は全うしなくてはいけないと思って看ました。
今は私が祖母になって当時の両親のこととかを思い起こします。
無我夢中でやっていて見えてないことが有ったんだなと思います。
子育てが大変だったので、たった一日でもいいから何の心配も無い一日があったらいいと思って、週一回はあなたたちにしてあげると言って孫の面倒を見ましたが、それが結構大変でした。
でも私の志はもう伝わってないかもしれません。
20歳で家出をしてフリーターみたいに色々してきましたが、人形劇の研究生募集で住み込み可と言うことでそこで台本を書いていました。
人形劇は好きでした。
父の介護と並行して人形劇の方にも進みました。
人形劇の昔の研究生の人達が集まってきたりして、ついに自分の家を人形劇場にしてしまいました。
障害を持っている人も参加出来る。
シニアの世界に人形劇を増やせたら楽しいと思います。
両親を看取って、自分も90位になって無理だと思った時に同じ施設に入ろうかとも思ったが、都会から離れて那須に住むことを決めました。
草の根の介護士さんたちが発見してきた声を集めたいと思って取材を6人で始めて掲載していたが、3年目に入って、見聞きしたりした中で日本の介護観を根本的に変えていきたいと思っていて、コミュニティーに取材に行ったら、その場所が衝動的に自分に合うと言う気がしたんです。
北海道の故郷に似ていて、即決めました。
これから団塊の世代が後期高齢者になって行った時代にどうなるか、介護で若者を圧迫することになるが、それはまずいのではないかと思って、お世話してくれるのを待つのではなくて、自らがどんな介護を受けてどんな老後を暮らしてどんなふうにして行くかということを、自分たちが具体的に実践してゆく時代に入っているんじゃないかなあと思います。
自主介護の運動も起こってもおかしくないと思っていたら、現実に似たようなスタイルの考え方の人が施設、コミュニティーを作ったりしているということでその方向性は正しいと思います。
サービス付き高齢者住宅。
食事は朝は自分で作りますが、昼と夜は食堂で食べて一切作りません。
仕事もはかどるし違うところに時間が使えるので、大変有効です。
70代の間に自分の方向を決めた方がいいかなということが自分の中にあります。
でも何が起こるかわからないので、それを最終と決めなくてもいいと思います。
子供が老いた親を経済的に扶養するという発想はかき消えてしまって、自覚していかないと大変なことになると思う。
新しい価値観で生き抜く道を模索していくことがすごく重要だと私は思っています。
衝動的に移り住む事にしたのでまだ整理しきれていなくて、体力気力あるうちにしておかないとまずいと思った、早すぎるのではと言われたが遅くはなかったと思います。
今は地方も溶け込みやすくなって、新しく作っていこうという気持ちは都会よりも大きいと思っていて、地方の可能性を凄く感じました。
2018年6月4日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】平塚らいてう
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・【近代日本150年 明治の群像】平塚らいてう
神田蘭(講談師)
講談による紹介
「元始女性は太陽であった」という言葉が有名。
女性解放運動のパイオニア。
1886年(明治19年)2月10日 東京の麹町に3人娘の末娘として生まれる。
本名:平塚 明(ひらつか はる)
父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏で恵まれた環境で育つ。
父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす。
1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に入学。
翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、平塚明(ひらつかはる)失望する。
哲学、宗教を学び始めて、禅の修行をも始めて悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。
神田蘭(講談師)
講談による紹介
「元始女性は太陽であった」という言葉が有名。
女性解放運動のパイオニア。
1886年(明治19年)2月10日 東京の麹町に3人娘の末娘として生まれる。
本名:平塚 明(ひらつか はる)
父・平塚定二郎は明治政府の高級官吏で恵まれた環境で育つ。
父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられ、「苦痛」の5年間を過ごす。
1903年(明治36年)に「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れて日本女子大学校家政学部に入学。
翌年に日露戦争が勃発すると、徐々に国家主義的教育の度合いが強くなり、平塚明(ひらつかはる)失望する。
哲学、宗教を学び始めて、禅の修行をも始めて悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。
1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業、女子英学塾(現在の津田塾大学)で漢文や英語を学び、文学にも目覚める。
処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田草平が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。
塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で心中未遂事件をしてしまう。
先生と生徒との恋と言うだけでなく、森田草平は東京帝国大学卒業で夏目漱石の弟子で、妻子持ち、平塚明(ひらつかはる)は明治政府の高級官吏の娘で才色兼備、大スキャンダルに発展し、新聞雑誌が掻き立てる。
明治期では妻子ある男との心中は汚れた女、ふしだらな女となってしまう。
このことがきっかけとなり平塚明(ひらつかはる)は女性差別を痛感し、女性解放の運動を起こしてゆく。
日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』を製作する。(創刊号は、1911年(明治44年)9月に創刊)
冒頭には「元始女性は太陽であった。神聖な人であった。今女性は月である。
他によって生き、他の光によって輝く。病人のような青白い顔の月である」と書かれている。(「平塚らいてう」のペンネームが生まれる。)
「雷鳥」から来ている、どんな困難をも乗り越えて羽ばたきたい、強くありたいと言う彼女の思いが込められているのかもしれない。
平塚明(ひらつかはる)は様々な勉強をしている。
森田草平は夏目漱石の弟子だが、一番夏目漱石先生に迷惑を掛けた人だったらしい。
平塚明(ひらつかはる)はその時に22歳、心中事件の時には森田草平は頼りないということで、愛想を尽かしたということで、恋に恋していたというような状況かもしれない。
死生観が人とは違うところに行っていたのではないか。
二人はそれぞれの道を進む。
女性だと言うことで色んなしがらみがある、しがらみをぶちやぶろうと思った。
青鞜社を立ち上げた資金は母からの援助で「いつか来るであろう娘明の結婚資金」を切り崩したもの、と言われる。
父親は平塚明(ひらつかはる)にヨーロッパ的な教育をしていたが、女に学問は必要ないというふうになっていったと言われるが、政府のあり方に従わないと官僚としての立場があったのかもしれない。(心の中では女性も学問は必要だと思っていたのかもしれない)
『青鞜』の表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。
『青鞜』は「ブルー ストッキング」を訳したもので生田長江が名前を付けてくれた。
生田長江は東京帝大出の新任教師で女性に文学を教えていて開明的な人だった。
女性の解放と言うことをやるとどうしても、共産主義との距離が近くなる可能性が出てくる。
共産主義者との交わりも出てくる。
1913年2月号の付録に福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられる(発刊から2年位)
らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始める。
1912年夏に茅ヶ崎で5歳年下の画家志望の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)を始めている。
若い「つばめ」の由来
「相手の女性よりも年下の恋人」をつばめと呼ぶのは、奥村がらいてうと別れることを決意した際の手紙の一節、「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」
を、らいてうが『青鞜』上で発表し、一種の流行語になったことに由来する、と言われている。
伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲って、その1年後には、伊藤野枝と交際を始めた大杉栄が、以前より大杉と交際していた神近市子に刺される「日蔭茶屋事件」があり、『青鞜』は休刊することになった。
伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲って、その1年後には、伊藤野枝と交際を始めた大杉栄が、以前より大杉と交際していた神近市子に刺される「日蔭茶屋事件」があり、『青鞜』は休刊することになった。
平塚らいてうは高い所にいて、群れを作らない存在であった。
1919年(大正8年)11月24日に新婦人協会が出来るが、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を柱にして女性の政治的、社会的自由を確立させようと、日本初の婦人運動団体として設けられた。(市川房枝、奥むめおらの協力)
1921年(大正10年)に過労に加え、房枝との対立もあり協会運営から退く。
平塚らいてうは一匹狼的な存在ではあると思う。
1919年(大正8年)11月24日に新婦人協会が出来るが、「婦人参政権運動」と「母性の保護」を柱にして女性の政治的、社会的自由を確立させようと、日本初の婦人運動団体として設けられた。(市川房枝、奥むめおらの協力)
1921年(大正10年)に過労に加え、房枝との対立もあり協会運営から退く。
平塚らいてうは一匹狼的な存在ではあると思う。
1923年(大正12年)らいてうは文筆生活に入る。(論理的な指導者的な人)
第二次世界大戦後は婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。
1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。
1971年(昭和46年)5月24日に85歳で逝去した。
「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した
1953年(昭和28年)4月には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。
1971年(昭和46年)5月24日に85歳で逝去した。
「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した
2018年6月3日日曜日
古川登志夫(声優) ・【時代を創った声】
古川登志夫(声優) ・【時代を創った声】
71歳。 『うる星やつら』(諸星あたる)『ドラゴンボールZ』(ピッコロ)『機動戦士ガンダム』の数々の役、『北斗の拳』などなど、沢山の作品に関わる。
『うる星やつら』は1982年の放送でした。
それまで担当したものは2枚目が多かったが、諸星あたるは3枚目で、声優としての守備範囲を広げてくれた代表作の一つのような感じです。
放送が始まって間もなく、声がキャラクターのイメージに合わないと投書があり、声を変えてみないかと言われました。(ショックでした、降板させられるのかと思った)
原作者の高橋留美子先生が、ある雑誌でインタビューをうけていてイメージ通りだと言うことで、そのまま続投させていただきました。
転換期の作品になりました。
一行の台詞の中で、前半は2枚目の感じで喋って後半はナンパな感じで喋ることがあり、不連続の連続、ということで褒めて頂いたことがあります。
富山敬さんの軽妙な役の時が参考になると思って聞いて勉強しました。
富山敬さんには憧れていました。
中学1年の時に児童劇団に入団。
兄から両親への手紙の中に児童劇団子役募集のパンフレットが同封されていて、それがきっかけになりました。
東京に出してくれと親に頼み込んだが最初大反対でしたが、なんとか説得し毎週休みに東京に通いました。
栃木県の訛りが直らなくて苦労しました。
子役としては鳴かず飛ばずでした。
稼げなくてアルバイトばっかりでした。
仕事は25歳ぐらいからやり出しましたが、本当に稼げるようになったのは30歳ぐらいからでした。(アニメで主役をやるようになった)
そのきっかけとなったのが、1976年からの放送の「マグネロボ ガ・キーン」という巨大ロボットアニメの主役でした。
それから自分でも吃驚するぐらい忙しくなりました。
最初の主役の収録の時には色々判らないこともあり苦労しました。
先輩から色々学びました。
周りより自分が下手でいつもプレッシャーを感じました。
1977年に古谷徹ら声優仲間とともにバンド「スラップスティック」を結成する。
コンサート出来る位曲が出来るようになり、コンサートを開いてライブも出しましょうと言うようにもなりました。
趣味で始めたのが忙しくなってきてしまいました。
有名な方々から作曲をしていただきまして、吃驚しました。
スキルアップの為にレッスンとか負担になってきました。
「チップス」海外ドラマ (カリフォルニア・ハイウェイパトロール (California Highway Patrol) ) の主役の話があり、6年半続きました。
その後海外ドラマも手掛けるようになりました。
格闘場面などではマイクロフォンからある一定の距離を保ちつつ、アクションも想定してやるのが大変だが、舞台でやってきたことが役に立ちました。
マイクロフォンの使い方は先輩の背中を見て、距離感、息使いなどを勉強しました。
若い声優の人達には、夢を描いてスタートしたときに、ふっと思いつきで辞めたというのではなくて、或る程度の結果が出るまでちょっと頑張ってくれればいいと思います。
プラスアルファの演技、自分独自なものを加味して行くと言うことを考えるようになっています。
個性が重んじられる時代かと思いますが、自分だったらどうなるのか、プラスアルファを考えてチャレンジしてもらえたらと思います。
ディレクターは自然に喋って欲しいというような事を言います。(自分にフィットした喋り方)
海外からオファーをいただくことがあって16回ほど行きましたが、、国境、言語や民族などを一足飛びに結びつけてしまう日本のポップカルチャという魅力的なツールだと思っていて、これを世界に喧伝するセクションが必要だと思っていて、そんな役割も担っていけたらと思っています。
71歳。 『うる星やつら』(諸星あたる)『ドラゴンボールZ』(ピッコロ)『機動戦士ガンダム』の数々の役、『北斗の拳』などなど、沢山の作品に関わる。
『うる星やつら』は1982年の放送でした。
それまで担当したものは2枚目が多かったが、諸星あたるは3枚目で、声優としての守備範囲を広げてくれた代表作の一つのような感じです。
放送が始まって間もなく、声がキャラクターのイメージに合わないと投書があり、声を変えてみないかと言われました。(ショックでした、降板させられるのかと思った)
原作者の高橋留美子先生が、ある雑誌でインタビューをうけていてイメージ通りだと言うことで、そのまま続投させていただきました。
転換期の作品になりました。
一行の台詞の中で、前半は2枚目の感じで喋って後半はナンパな感じで喋ることがあり、不連続の連続、ということで褒めて頂いたことがあります。
富山敬さんの軽妙な役の時が参考になると思って聞いて勉強しました。
富山敬さんには憧れていました。
中学1年の時に児童劇団に入団。
兄から両親への手紙の中に児童劇団子役募集のパンフレットが同封されていて、それがきっかけになりました。
東京に出してくれと親に頼み込んだが最初大反対でしたが、なんとか説得し毎週休みに東京に通いました。
栃木県の訛りが直らなくて苦労しました。
子役としては鳴かず飛ばずでした。
稼げなくてアルバイトばっかりでした。
仕事は25歳ぐらいからやり出しましたが、本当に稼げるようになったのは30歳ぐらいからでした。(アニメで主役をやるようになった)
そのきっかけとなったのが、1976年からの放送の「マグネロボ ガ・キーン」という巨大ロボットアニメの主役でした。
それから自分でも吃驚するぐらい忙しくなりました。
最初の主役の収録の時には色々判らないこともあり苦労しました。
先輩から色々学びました。
周りより自分が下手でいつもプレッシャーを感じました。
1977年に古谷徹ら声優仲間とともにバンド「スラップスティック」を結成する。
コンサート出来る位曲が出来るようになり、コンサートを開いてライブも出しましょうと言うようにもなりました。
趣味で始めたのが忙しくなってきてしまいました。
有名な方々から作曲をしていただきまして、吃驚しました。
スキルアップの為にレッスンとか負担になってきました。
「チップス」海外ドラマ (カリフォルニア・ハイウェイパトロール (California Highway Patrol) ) の主役の話があり、6年半続きました。
その後海外ドラマも手掛けるようになりました。
格闘場面などではマイクロフォンからある一定の距離を保ちつつ、アクションも想定してやるのが大変だが、舞台でやってきたことが役に立ちました。
マイクロフォンの使い方は先輩の背中を見て、距離感、息使いなどを勉強しました。
若い声優の人達には、夢を描いてスタートしたときに、ふっと思いつきで辞めたというのではなくて、或る程度の結果が出るまでちょっと頑張ってくれればいいと思います。
プラスアルファの演技、自分独自なものを加味して行くと言うことを考えるようになっています。
個性が重んじられる時代かと思いますが、自分だったらどうなるのか、プラスアルファを考えてチャレンジしてもらえたらと思います。
ディレクターは自然に喋って欲しいというような事を言います。(自分にフィットした喋り方)
海外からオファーをいただくことがあって16回ほど行きましたが、、国境、言語や民族などを一足飛びに結びつけてしまう日本のポップカルチャという魅力的なツールだと思っていて、これを世界に喧伝するセクションが必要だと思っていて、そんな役割も担っていけたらと思っています。
2018年6月2日土曜日
岡本彰夫(奈良県立大学客員教授) ・古の大和へ
岡本彰夫(奈良県立大学客員教授) ・古の大和へ
22歳で奈良県の春日大社に奉職し、長年権宮司として祭りの復興に尽くしました。
長い年月の中で人々が受け継いできたものこそ意味があると考える岡本さんに、古の大和、奈良の歴史が教えてくれた事、未来に伝えたいことを聞きました。
神様との最初の接点、物心付いたころからずーっとお参りしていました。
父とは生き別れですでにいなくて、母親と婆さんに育てられて、家が人に騙されたり財を取られたり悲惨な目に遭って没落していました。
人間が信じられなくなっていました。
神や仏を通して人間を信じると言うことで、祖先と神様を大事にする家に生まれて、母親や婆さんのあとをついてお百度を踏んでいました。
真心込めてお参りしていただけでした。
宇陀郡は神武天皇が菟田下県(うだのしもつあがた)に入ってこられたと記紀に載っているから国の始まりということで非常に誇りを持っています。
祖母からは昔語りを聞いて育ちました。(古事記、日本書紀の物語)
民俗学の宝庫みたいのところでした。
子供のころから続けてやってきたことと、自分の為に生きることはわびしいと思って人様の役に立つことをしたいと思う、この二点があって成就させるためには、神や仏に使える仕事に付きたいと思いました。
大学卒業後、22歳で奈良県の春日大社に奉職しました。
春日大社は天下国家を守ってくれる神様で、国がお社を建立して国家が祭った神社、側面では藤原一門が氏神と崇敬したという多面性を持っている。
1250年前にご鎮座、この場所は大和の霊地、神地なので、その前から神の地としてあがめられていました。
春日 すがすがしい、きよらかの「すが」に「か」という接頭語が付いたんだと言われています。
神様の建御雷命(たけみかづちのみこと)が白い鹿に乗って柿の木を鞭にして鹿島神宮からきたということで、今その子孫が奈良公園で1200頭ぐらいいて、鹿を呼び捨てにしないで「御神鹿(ごしんろく)」と呼んでいます。
国学院大学に入った時は周りは神主の子弟が多かった。
自分は作法一つしらなかったので、作法のクラブに入りました。
三大勅祭(賀茂神社の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭)のご奉仕をしたいと、勉強させてもらって、春日大社の宮司さんから卒業したら入って来なさいと言われて38年勤めさせた頂きました。
神道は広くて深くて大変です。
神道への入り方はいろいろあるが、私はお祭りに興味があったので祭司から入らせて貰いました。
明治時代になると神仏分離政策の影響で多くの神事が簡略化されたり、廃止されたりしました。
古い時代のものを旧儀と言います。
旧儀の復興に関わってきました。
春日大社の旧儀の復興を行う。
文書、記録が沢山残っていました。
調べると祭りの規模、儀式の数も全然違っていた。
原点に戻らないと判らないことが多いので旧儀の復興を行うことにしました。
春日若宮おん祭の旧儀復興する時に、稚児が興福寺から出てくるが、ひで笠に五色の紙を切った紙垂(しで)を従者がちぎって神前に投ずということがあるが文書では判らず、若松にかけるんだと言うことを或る所から聞いて判った、それから聞き取りが重要だと判った。
記録を読む中で先人が込めた深い思いに気づきます。
大事なものを土の上に置く場面があるが、机に置かなければいけないと思っていたが、清らかな土になるまでの御奉仕を普段から先人はなさっていると言うことで、よっぽど御奉仕されていたことだと思います。
儀式の古い形のものは全て未来へ送る為の大切な手段で全部その中に織り込んである。
儀式はもう一回見直さないといけないということを痛切に思いました。
心を知るためには形から入っていかないと心を知ることはできない。
理屈ではなくて実践する、その中から判って来る。
大和古物、連綿と続く大和の美術工芸品は明治維新の時代の奔流にのみ込まれて、価値観の転倒で放出せざるを得なくなって怒涛のごとく現れて来る。
資料を集めました。
良い作品が一杯あるのに運が悪かったら評価されない、残したかったし検証したかった、いいかえれば職人たちの供養をしたかった。
大和の1300年の歴史は途切れて居ない、美術工芸品も連綿と残っている。
美術工芸品を手にとって居ないと判らないので集めました。
奈良人形、神事人形、素朴に一刀で彫った如く彫ってあり、絵付けは極彩色で、日本の文化を代表するもので、雅(都)とひなび(田舎)が交錯するもの。
神様に捧げるものなので目に見えない足の裏まで彫ってある。
神様に捧げるものなので手抜きはしない。
高度な技術を要する、真心が必要。
何十年、あるいはそれ以上経ってから漆が薄くなってきて、下の模様が見えてきたりする。
詔のなかに「中今」と書いてあるが、かつての歴史があり、今があり未来の布石になる。
「今」という存在は「中」で、前と後ろがあると言うことで、すでに奈良時代の人が考えていた。
後ろを考えると言うことは勉強になる。
伝えられてきた知恵を若い人達に伝えて行くことが役目だと考えています。
人様の役に立とうと考えて神主になったはずが、あの人のお陰で今日あるなといってもらう人が何人いるか聞いてみたら、いないと言うことが50歳で気が付きました。
人間としてするべきことをしていないと思って後進の育成をしようと思って、「利他」、ということをさしていただこうと思いました。
何を土台にした考えるか、止まり木が必要。
死ぬまで必要とされる人生を送りたいと思います。
自分の出来る範疇で役に立つと言う人が一杯増えてくれないと、そういったことをきちっとやりたい。
奈良にいるので奈良を通じて日本人が誇りを取り戻してくださることが大事で、託されたものがあると言うことは何よりの証拠だと思います。
奈良は奥が深い。
奥へ奥へ入らしていただく人生を歩まないとだめだと60歳を過ぎてつくづく思います。
そのためには一杯色んなものを見たり読んだり聞いたりする事だと思います。
詰め込んで、死ぬまで持っていけないので途中で捨てて行くが、大事なものの残りが本物だと思います。
22歳で奈良県の春日大社に奉職し、長年権宮司として祭りの復興に尽くしました。
長い年月の中で人々が受け継いできたものこそ意味があると考える岡本さんに、古の大和、奈良の歴史が教えてくれた事、未来に伝えたいことを聞きました。
神様との最初の接点、物心付いたころからずーっとお参りしていました。
父とは生き別れですでにいなくて、母親と婆さんに育てられて、家が人に騙されたり財を取られたり悲惨な目に遭って没落していました。
人間が信じられなくなっていました。
神や仏を通して人間を信じると言うことで、祖先と神様を大事にする家に生まれて、母親や婆さんのあとをついてお百度を踏んでいました。
真心込めてお参りしていただけでした。
宇陀郡は神武天皇が菟田下県(うだのしもつあがた)に入ってこられたと記紀に載っているから国の始まりということで非常に誇りを持っています。
祖母からは昔語りを聞いて育ちました。(古事記、日本書紀の物語)
民俗学の宝庫みたいのところでした。
子供のころから続けてやってきたことと、自分の為に生きることはわびしいと思って人様の役に立つことをしたいと思う、この二点があって成就させるためには、神や仏に使える仕事に付きたいと思いました。
大学卒業後、22歳で奈良県の春日大社に奉職しました。
春日大社は天下国家を守ってくれる神様で、国がお社を建立して国家が祭った神社、側面では藤原一門が氏神と崇敬したという多面性を持っている。
1250年前にご鎮座、この場所は大和の霊地、神地なので、その前から神の地としてあがめられていました。
春日 すがすがしい、きよらかの「すが」に「か」という接頭語が付いたんだと言われています。
神様の建御雷命(たけみかづちのみこと)が白い鹿に乗って柿の木を鞭にして鹿島神宮からきたということで、今その子孫が奈良公園で1200頭ぐらいいて、鹿を呼び捨てにしないで「御神鹿(ごしんろく)」と呼んでいます。
国学院大学に入った時は周りは神主の子弟が多かった。
自分は作法一つしらなかったので、作法のクラブに入りました。
三大勅祭(賀茂神社の賀茂祭(葵祭)、石清水八幡宮の石清水祭、春日大社の春日祭)のご奉仕をしたいと、勉強させてもらって、春日大社の宮司さんから卒業したら入って来なさいと言われて38年勤めさせた頂きました。
神道は広くて深くて大変です。
神道への入り方はいろいろあるが、私はお祭りに興味があったので祭司から入らせて貰いました。
明治時代になると神仏分離政策の影響で多くの神事が簡略化されたり、廃止されたりしました。
古い時代のものを旧儀と言います。
旧儀の復興に関わってきました。
春日大社の旧儀の復興を行う。
文書、記録が沢山残っていました。
調べると祭りの規模、儀式の数も全然違っていた。
原点に戻らないと判らないことが多いので旧儀の復興を行うことにしました。
春日若宮おん祭の旧儀復興する時に、稚児が興福寺から出てくるが、ひで笠に五色の紙を切った紙垂(しで)を従者がちぎって神前に投ずということがあるが文書では判らず、若松にかけるんだと言うことを或る所から聞いて判った、それから聞き取りが重要だと判った。
記録を読む中で先人が込めた深い思いに気づきます。
大事なものを土の上に置く場面があるが、机に置かなければいけないと思っていたが、清らかな土になるまでの御奉仕を普段から先人はなさっていると言うことで、よっぽど御奉仕されていたことだと思います。
儀式の古い形のものは全て未来へ送る為の大切な手段で全部その中に織り込んである。
儀式はもう一回見直さないといけないということを痛切に思いました。
心を知るためには形から入っていかないと心を知ることはできない。
理屈ではなくて実践する、その中から判って来る。
大和古物、連綿と続く大和の美術工芸品は明治維新の時代の奔流にのみ込まれて、価値観の転倒で放出せざるを得なくなって怒涛のごとく現れて来る。
資料を集めました。
良い作品が一杯あるのに運が悪かったら評価されない、残したかったし検証したかった、いいかえれば職人たちの供養をしたかった。
大和の1300年の歴史は途切れて居ない、美術工芸品も連綿と残っている。
美術工芸品を手にとって居ないと判らないので集めました。
奈良人形、神事人形、素朴に一刀で彫った如く彫ってあり、絵付けは極彩色で、日本の文化を代表するもので、雅(都)とひなび(田舎)が交錯するもの。
神様に捧げるものなので目に見えない足の裏まで彫ってある。
神様に捧げるものなので手抜きはしない。
高度な技術を要する、真心が必要。
何十年、あるいはそれ以上経ってから漆が薄くなってきて、下の模様が見えてきたりする。
詔のなかに「中今」と書いてあるが、かつての歴史があり、今があり未来の布石になる。
「今」という存在は「中」で、前と後ろがあると言うことで、すでに奈良時代の人が考えていた。
後ろを考えると言うことは勉強になる。
伝えられてきた知恵を若い人達に伝えて行くことが役目だと考えています。
人様の役に立とうと考えて神主になったはずが、あの人のお陰で今日あるなといってもらう人が何人いるか聞いてみたら、いないと言うことが50歳で気が付きました。
人間としてするべきことをしていないと思って後進の育成をしようと思って、「利他」、ということをさしていただこうと思いました。
何を土台にした考えるか、止まり木が必要。
死ぬまで必要とされる人生を送りたいと思います。
自分の出来る範疇で役に立つと言う人が一杯増えてくれないと、そういったことをきちっとやりたい。
奈良にいるので奈良を通じて日本人が誇りを取り戻してくださることが大事で、託されたものがあると言うことは何よりの証拠だと思います。
奈良は奥が深い。
奥へ奥へ入らしていただく人生を歩まないとだめだと60歳を過ぎてつくづく思います。
そのためには一杯色んなものを見たり読んだり聞いたりする事だと思います。
詰め込んで、死ぬまで持っていけないので途中で捨てて行くが、大事なものの残りが本物だと思います。
2018年6月1日金曜日
谷川俊太郎(詩人) ・【対談】2人の詩人から“ことばの贈り物”
谷川俊太郎(詩人) ・【対談】2人の詩人から“ことばの贈り物”
工藤直子(詩人)
共に80歳を越えても元気なお二人、パワフルで楽しいお話が繰り広げられました。
谷川さんは1931年生まれ、86歳。 工藤さんは1935年生まれの82歳。
工藤:私が40歳の後半に富士山麓の村で初めてお会いしました。
谷川:旦那さんとくっついたり別れたりしている人で、一度も嫉妬という感情を経験したことのない女性だと言うことで、凄く興味があって会いに行きました。
工藤:20代のころから、いまでもそうですが、焼き餅を焼くというのが余りはっきり判らない、女友達に総スカンを喰らっています。
50歳になっても元気でストレスを押さえ付けた影響が無いので良いんじゃないですかといったが、谷川さんが80歳になったら溜めておいた焼き餅が噴出するかもしれないと言ったんです。
谷川:でも噴出していないですね、人間的な特徴が無くて虫、魚、草とかの命とおんなじなんだ、多分。
工藤:「ふわふわ」というタイトルに決まった時は嬉しかった。
対談が何回かあり、それを纏めて、何十年かに渡っての谷川さんとの対談なんです。
焼き餅問題が何回かにも渡って出てきています。
私は本当に私に似た若い人が出てきているんじゃないかと思っているんです。
谷川:4時台は安眠しています、6時ごろに起きだしています。
眠れないということはほとんどないです。
工藤:いつ起きていつ寝るかはその時次第です。
会社務めを26歳で辞めて、それ以後は糸の切れた凧のようにしています。
それが出来ない時、子供がいたり相方がいたりして出来ない時、自分勝手ができないがでもしちゃうんです。
その代わり、「ごめんなさい」と本気で謝ります。
「お母さんだって都合があるのよ」といったことはないです。(言い訳はしない)
谷川:この人は武士の心意気だね、いざとなったらこの人は切腹する人だね。(笑い)
夫婦喧嘩はしたことないの。?
工藤:夫婦喧嘩はしたことないです。
谷川:それも不思議でしょう。
工藤:身ごもったら母の感覚になると聞いていたが、親友の佐野洋子さんと二人で似たような時期に子供生んでいるが、彼女の場合は生まれた瞬間母性が出てきたと言っています。
谷川:父と母は仲が良すぎて子供なんか要らないと思っていたんですが、祖父(母の父)が絶対孫が欲しいということで中絶せずに僕が命拾いしたんです。
生まれた途端に母性がでて、12月に生まれたのにあせもを作っていました。
工藤:動いた時には誰かがいるんだと思って、物凄く奇妙に思いました。
その時の詩を書いています。(「逆さに眠る無遠慮な怪物」というタイトル)
生まれた瞬間を楽しみにしていたが、生まれた瞬間にこんなちっちゃな友達ができたと思いました。
盟友(命の友達)という感じでした。
なんで母親にならなかったんだろうと思いました。
子供には丁寧語で喋っていてそれが一番自然でした、だから友達なの。
谷川:僕も似ているところがあります。
子供の教育を問われた時に教育したという意識がない。
初めて抱いた瞬間は絶対命を掛けてもこれを守るぞと、感動がわいたんです。
少し大きくなったら子供というより完全に友達になっちゃいましたね。
しつけるという意識がないから親として失格だったと思うが、言葉で言わなくても子供は行動を見ているからそれでいいんだと思っていました。
母親が叱っていました。
工藤:子供は駄々をこねなかった、駄々こねてもおやつを貰える訳でもないし、自然に自分のペースでやっていました。
命にかかわる事以外は基本的に見守るという感じです。
「あんたのために言っているのよ」と云わないようにした。
年長さんの頃、お小遣いはどうするのかと思っていたが、「お母さん、しつけとおこづかいは発作的にするからね」と子供に言いました。(笑い)
子供からは「発作的ってなに」と言われました。(笑い)
しつけも「こうしなさい」と言ったり言わなかったりするよと言いました。
谷川:子供はよく育っているよ。
工藤:子供は子供で大変だったと思う。誰のせいにもできない。
「さようなら」 谷川さんの詩
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない
工藤:詩の中の一行、二行が物凄く心にしみることがあるが「さようなら」という詩の中で 「ぼくもういかなきゃなんない」というのがそうなんです。
「さようなら」というタイトルの詩であるのに「さようなら」という言葉は詩の中には入っていない。
一行一行が少年の色んな思いのつぶやきがそっと並べられている感じがする。
谷川:何の計画も無く書き始めたら出来た詩でこれは最たるものです。
母親が死ぬのが凄く怖くて、自分が死ぬよりも愛する人が死ぬのが怖かった。
母親に対する気持ちが底にあると思います。
この詩には色んな見方がある。
工藤:詩というものは作者のものでもあるけれど、一旦手を離れて文字になってみんなの前に現れたら読者のものだと、谷川さんは繰り返しおっしゃる、それが嬉しい。
谷川:紙の上の活字には詩なんかない、それを受け取ってくれて感動、反応があって初めて詩が立ちあがるという感じです。
時が経ってから感動する詩がある。
*「おまじない」作詩 工藤直子 作曲 新沢としひこ
谷川:魅かれる言葉は無い、言葉は平等。
メディアで流通している嫌いな言葉はいっぱいある。
工藤:タイトルになった「ふわふわ」とか、花が咲いて近づいてゆく時の「すりすり」とか、「ほろほろ」とか割合好きです。
*「しーん」 作詞 谷川俊太郎 作曲 小室 等
工藤直子(詩人)
共に80歳を越えても元気なお二人、パワフルで楽しいお話が繰り広げられました。
谷川さんは1931年生まれ、86歳。 工藤さんは1935年生まれの82歳。
工藤:私が40歳の後半に富士山麓の村で初めてお会いしました。
谷川:旦那さんとくっついたり別れたりしている人で、一度も嫉妬という感情を経験したことのない女性だと言うことで、凄く興味があって会いに行きました。
工藤:20代のころから、いまでもそうですが、焼き餅を焼くというのが余りはっきり判らない、女友達に総スカンを喰らっています。
50歳になっても元気でストレスを押さえ付けた影響が無いので良いんじゃないですかといったが、谷川さんが80歳になったら溜めておいた焼き餅が噴出するかもしれないと言ったんです。
谷川:でも噴出していないですね、人間的な特徴が無くて虫、魚、草とかの命とおんなじなんだ、多分。
工藤:「ふわふわ」というタイトルに決まった時は嬉しかった。
対談が何回かあり、それを纏めて、何十年かに渡っての谷川さんとの対談なんです。
焼き餅問題が何回かにも渡って出てきています。
私は本当に私に似た若い人が出てきているんじゃないかと思っているんです。
谷川:4時台は安眠しています、6時ごろに起きだしています。
眠れないということはほとんどないです。
工藤:いつ起きていつ寝るかはその時次第です。
会社務めを26歳で辞めて、それ以後は糸の切れた凧のようにしています。
それが出来ない時、子供がいたり相方がいたりして出来ない時、自分勝手ができないがでもしちゃうんです。
その代わり、「ごめんなさい」と本気で謝ります。
「お母さんだって都合があるのよ」といったことはないです。(言い訳はしない)
谷川:この人は武士の心意気だね、いざとなったらこの人は切腹する人だね。(笑い)
夫婦喧嘩はしたことないの。?
工藤:夫婦喧嘩はしたことないです。
谷川:それも不思議でしょう。
工藤:身ごもったら母の感覚になると聞いていたが、親友の佐野洋子さんと二人で似たような時期に子供生んでいるが、彼女の場合は生まれた瞬間母性が出てきたと言っています。
谷川:父と母は仲が良すぎて子供なんか要らないと思っていたんですが、祖父(母の父)が絶対孫が欲しいということで中絶せずに僕が命拾いしたんです。
生まれた途端に母性がでて、12月に生まれたのにあせもを作っていました。
工藤:動いた時には誰かがいるんだと思って、物凄く奇妙に思いました。
その時の詩を書いています。(「逆さに眠る無遠慮な怪物」というタイトル)
生まれた瞬間を楽しみにしていたが、生まれた瞬間にこんなちっちゃな友達ができたと思いました。
盟友(命の友達)という感じでした。
なんで母親にならなかったんだろうと思いました。
子供には丁寧語で喋っていてそれが一番自然でした、だから友達なの。
谷川:僕も似ているところがあります。
子供の教育を問われた時に教育したという意識がない。
初めて抱いた瞬間は絶対命を掛けてもこれを守るぞと、感動がわいたんです。
少し大きくなったら子供というより完全に友達になっちゃいましたね。
しつけるという意識がないから親として失格だったと思うが、言葉で言わなくても子供は行動を見ているからそれでいいんだと思っていました。
母親が叱っていました。
工藤:子供は駄々をこねなかった、駄々こねてもおやつを貰える訳でもないし、自然に自分のペースでやっていました。
命にかかわる事以外は基本的に見守るという感じです。
「あんたのために言っているのよ」と云わないようにした。
年長さんの頃、お小遣いはどうするのかと思っていたが、「お母さん、しつけとおこづかいは発作的にするからね」と子供に言いました。(笑い)
子供からは「発作的ってなに」と言われました。(笑い)
しつけも「こうしなさい」と言ったり言わなかったりするよと言いました。
谷川:子供はよく育っているよ。
工藤:子供は子供で大変だったと思う。誰のせいにもできない。
「さようなら」 谷川さんの詩
ぼくもういかなきゃなんない
すぐいかなきゃなんない
どこへいくのかわからないけど
さくらなみきのしたをとおって
おおどおりをしんごうでわたって
いつもながめてるやまをめじるしに
ひとりでいかなきゃなんない
どうしてなのかしらないけど
おかあさんごめんなさい
おとうさんにやさしくしてあげて
ぼくすききらいいわずになんでもたべる
ほんもいまよりたくさんよむとおもう
よるになったらほしをみる
ひるはいろんなひととはなしをする
そしてきっといちばんすきなものをみつける
みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる
だからとおくにいてもさびしくないよ
ぼくもういかなきゃなんない
工藤:詩の中の一行、二行が物凄く心にしみることがあるが「さようなら」という詩の中で 「ぼくもういかなきゃなんない」というのがそうなんです。
「さようなら」というタイトルの詩であるのに「さようなら」という言葉は詩の中には入っていない。
一行一行が少年の色んな思いのつぶやきがそっと並べられている感じがする。
谷川:何の計画も無く書き始めたら出来た詩でこれは最たるものです。
母親が死ぬのが凄く怖くて、自分が死ぬよりも愛する人が死ぬのが怖かった。
母親に対する気持ちが底にあると思います。
この詩には色んな見方がある。
工藤:詩というものは作者のものでもあるけれど、一旦手を離れて文字になってみんなの前に現れたら読者のものだと、谷川さんは繰り返しおっしゃる、それが嬉しい。
谷川:紙の上の活字には詩なんかない、それを受け取ってくれて感動、反応があって初めて詩が立ちあがるという感じです。
時が経ってから感動する詩がある。
*「おまじない」作詩 工藤直子 作曲 新沢としひこ
谷川:魅かれる言葉は無い、言葉は平等。
メディアで流通している嫌いな言葉はいっぱいある。
工藤:タイトルになった「ふわふわ」とか、花が咲いて近づいてゆく時の「すりすり」とか、「ほろほろ」とか割合好きです。
*「しーん」 作詞 谷川俊太郎 作曲 小室 等