2018年5月31日木曜日

伊藤比呂美(詩人)            ・ワカモノに告ぐ

伊藤比呂美(詩人)            ・ワカモノに告ぐ
東京都出身、62歳、今年春から早稲田大学文学部の任期付き教授となり、20年ぶりにアメリカから帰国、住まいの熊本と東京を往復する生活が始まりました。
青山学院大学在学中から詩を発表し、性や身体をテーマにした過激な表現で注目を集め、第16回現代詩手帖賞を受賞し、女性詩人ブームをリードしました。
育児エッセーのジャンルを開拓、「良いおっぱい悪いおっぱい」はベストセラーになって、今も読み継がれています。
その後日米を往復する遠距離介護や自分自身の更年期を描いた作品を多数発表、「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」で萩原朔太郎賞、紫式部文学賞を受賞しました。
アメリカに渡るきっかけになった28歳年上の再婚相手を2年前に見送って3人の娘さんは独立、犬1匹だけを連れて帰国した伊藤さんに伺いました。

父がいた時は1カ月に一遍は帰ってきていましたが。
早稲田大学文学部の任期付き教授となり、教えることと書くことの違いもあり、面白いです。
連れ合いがアーティストで28歳年上でハロルド・コーエンと言いますが、彼が自分のアート中心でそれを見て自分も直したが、でもハッと気が付いたら私もそうでしたので、こういう生活は人には薦められませんね。
決していい夫婦ではなかった、喧嘩ばっかりしていて、でも一番ショックだったのはもう一人で喋る相手がいなくて、彼は何だったんだろうと思いました。
淋しさ、宇宙空間に一人残されたらこんな感じだろうなと思いました。
夫は88歳直前で亡くなりました。
父の介護と犬の介護もして、亡くなって、暫くしてからまた犬を飼いました。
連れ合いが最後の数カ月リハリビホームに入ったが犬を連れて行きました。
夫が亡くなって犬だけになってしまいました。

二人の子供が10歳位の時にアメリカに行きましたが、三人目の一番下の子を育ててみたら
しつけが違うんです。
文化として食卓では箸の持ち方とかあるが、むこうで一番大切なのは人の前を横切って手を伸ばさないとか、バターを取ってくださいとか受け応えして言って貰う。
英語に苦労したのは、文化の張り巡らされた根っこの低いところから文化が違っていて、そこから出てきた英語なんだなと子供を育てて判りました。
ハロルドからは、仕事が一番で家庭は隅っこにと言うことを学んだことはよかったです。
一人の男が強くて大きくて社会的にも立派な仕事をしていた人がどんどん弱くなっていって、手の中で死ぬようにして死ぬんです。
2年位の間だったが、そこまで看取ったのが何よりの経験でした。
ハロルドが死んで暫くしてからもっと介護したいと思いました。

親とか連れ合いが亡くなって自由になった感じがします。
更年期が50代からあるが、更年期が楽しかった。
介護したりしてみんな同じように大変で、立場が同じ様で更年期はそういうものがいっぱいあって楽しかった
60代は寂しい時期だと思いました。
色んな人が亡くなっていき、介護とか自分を支えるものが亡くなって来ると、後は御迎えを待つばかりというような感じだったが、でも何て自由なんだと思いました。
連れ合いが亡くなり家庭が消滅して、自由です。
石牟礼道子さんが亡くなって寂しいです。
『苦海浄土 わが水俣病』は本当に良かったですね。

『ウマし』 新しく刊行、食べることを書いている。
連れ合いが死んで2年になるが、オファーがあり早稲田大学文学部の任期付き教授として仕事をすることになり沈みかけていた舟が助かりました。
娘は鹿乃子が34歳、サラが32歳、トメが22歳になりました。
大学では詩と小説とクリエイティブライティングが2時間であと文学とジェンダーだが、ほとんどやっていなくて人生相談になっています。(正規の授業以外等)
アメリカの女子大学は凄く意識が高くフェニミズムで面白い教育でした。
日本の若い人は喋れなくなっているのかなと思ったら、そうでもなく結構はっきり意見を言ってくれて嬉しい誤算でした。
ジェンダー論に使われる教材として私の詩があったわけなので、ジェンダー論は何も知らないです。
私のクラスで学べるものがあるとしたら、何言っても良いということかな。
多様性という、色んな人がいて良いんだ、なんでもありなんだと言うことを教えたい気がします。

教えるのは向いていない様な気もします。
アメリカにいた時に同時代のものをほとんど読めなくなって古典、お経とかにはまっていったと思います。
いまは熊本に起こった紳風連の乱について書いています。
明治9年に起こった元武士の反乱で150人蜂起して、80人ぐらいが切腹している。
地元のものなので、ここ1,2年歴史文学館に行って読み解いてきました。
歴史文学は苦手な分野ですがやっていきたい。

「今日」(伊藤比呂美訳)
(子育てに頑張っているママに贈る詩がとても共感できると話題になっている。)
「今日、わたしはお皿を洗わなかった
ベッドはぐちゃぐちゃ
浸けといたおむつは
だんだんくさくなってきた
きのうこぼした食べかすが
床の上からわたしを見ている
窓ガラスはよごれすぎてアートみたい
雨が降るまでこのままだとおもう

人に見られたら
なんていわれるか
ひどいねえとか、だらしないとか
今日一日、何をしてたの? とか

わたしは、この子が眠るまで、おっぱいをやっていた
わたしは、この子が泣きやむまで、ずっとだっこしていた
わたしは、この子とかくれんぼした。
わたしは、この子のためにおもちゃを鳴らした、それはきゅうっと鳴った
わたしは、ぶらんこをゆすり、歌をうたった
わたしは、この子に、していいこととわるいことを、教えた

ほんとにいったい一日何をしていたのかな
たいしたことはしなかったね、たぶん、それはほんと
でもこう考えれば、いいんじゃない?

今日一日、わたしは
澄んだ目をした、髪のふわふわな、この子のために
すごく大切なことをしていたんだって

そしてもし、そっちのほうがほんとなら、
わたしはちゃーんとやったわけだ」













2018年5月30日水曜日

堺屋太一(作家)            ・【対談】平成三十年(2)

堺屋太一(作家)         ・【対談】平成三十年(2)
又吉直樹(お笑いタレント・小説家) 
小説「花火」をヒントに、平成の若者が何を感じてきたのか、ポスト平成の日本について語り合います。
(*内容を上手く纏めることが難しく、うまく伝わらないかもしれません。)

堺屋:小説「火花」売れない芸人の話を読んで感激しました。
売れない芸人がいかにのたうち回る様な苦しみをして、大成はしないけれども生きていく姿が実に良く描かれていました。
又吉:小説を書くことになってテーマも自分で決めて良いということだったので、人と人との関係性みたいなところを描いていって、その後何か見えてくるのかなあと思ったのが一番最初に思い付いた部分で、芸人の先輩後輩の関係性を書いてみようと思いました。

「火花」は主人公である後輩の徳永、先輩が神谷。
*漫才師として弟子入りする場面が語られる。
又吉:お笑い芸人として19歳からやってきて辞めて行った後輩があるが、辞めて行ったことに恥ずかしがることはないと思いますが。
辞めた後輩が来た時に、恥ずかしがることはないといったが、何故恥ずかしがる必要が無いと言う事を、具体的に恥ずかしがることが無いという事を話せなかった。
判らないまま書き始めました。
堺屋:成功しなかった芸人の話はこれほど感動的なものだとは思わなかった。
成功した芸人の話は感動的だとは思ったが、成功しなかった芸人の話をこんなに奥深い人間観察で描かれたものは面白かったですね。
昭和は高度経済成長があったが平成になると大きな事が無い、どういうように平成を小説化すると言うと非常に難しい時代です。
小説の最後の神谷さんには芸人魂みたいなものを感じました。
大きな夢が実現しなくなった世の中に、自分にも可能性がある夢を実現しようとすると、TVに出ること、そのためには運動選手、芸能人になるか。
それに向かって実現することは大変ですが、TVに出て人気者になりたいという人がワーッと増えてきているのは平成末期の特徴だと思います。

又吉:ブラジル、アルゼンチンではプロサッカー選手になるのに貧困から脱出するためにハングリー精神でやってきたが、かつて芸人もそういう役割があったのではないかと思います。
堺屋:芸人を目指すことは非凡な人生でないと、平凡に生きていたのでは芸人にはなれない。
予想外の人生を出来るだけ、それを或る選択枝として子供達が選べるようなジャンルにしたいと思います。
小、中学校から、君は大学を出て大企業に勤めて、役所に勤めて定年まで行って、というような教育が多い。
平凡な人生を求められる、それを実現しているのが今の日本だと思います。
又吉:僕がそういうことを判ったうえで、勇気を出して芸人になったかというとそうではなくて、僕は多分最初からその枠組みからこぼれおちていて守るものが無かったから、チャレンジし易かった部分があると思います。
大学を出た後、大企業に就職できるというような条件があったらどうだったんでしょうね。
僕は将来何もないからチャレンジできた部分もあると思います。
堺屋:自分で起業した人、10人ほど組織して「だるま会」を作って、(1989年)数十億円位の売り上げだった。
皆さんに「一部上場会社になりましょうね」と言ったら8人とも一部上場会社になって今は日本の稼ぎ頭になっている。
そういう人を見ていると七転びハ起きで、昭和の時代はあったが、今は非常に少ないですね。
起業を起こす人は非常に限られてきている。
起業を起こす起業率は日本は世界で一番低い、というのは安全志向になってきている。

*辞めて行く徳永に対して先輩の神谷が伝えるシーン、言葉。
又吉:書いてゆく中で神谷がどういう考え方をしているのかということは僕の考えがあると思うが、辞めて行った後輩が別の仕事をしている事に対する後ろめたさがあるという
発言に対して、直ぐに何も言ってあげられなかったことに対して掘り下げて行った時に、僕と神谷という人物の考えは近いと思います。
堺屋:一つの職業を目指して途中で挫折して辞めて行った人、そういう人の積み上げの上に頂点が立っている。
これが世間ではなかなか見えないけれど貴重なものだと思います。
又吉:大きな夢を持てない、ということに対して内に秘めている人はあると思うが、言って行った方が周りに協力者が出てくるので、自分もチャレンジしやすくなる。
言うと周りから言われたりしやすい時代でもあり、なので内に秘めている人もいると思います。
夢はそれぞれあると思います。
ピースというコンビで二人で活動しているが、合い方が昨年拠点をアメリカに移したが、色々言われていました。
合い方のチャレンジ自体は凄く面白いと思う。
世の中をなめ過ぎているのではないかという様な声もあったりします。
本人が背負うリスクなので、恐怖はあると思うが、僕は応援したい。
今は芸人を目指しているのは減ってきていると思います。
自分で動画を撮って作品化する職業などが出てきて、平成の芸人のあり方とは違う新しい段階に突入し始めていて、小中学生に聞くと自分で動画を撮ってというようなことに興味を持って夢を感じている人がかなり増えています。

堺屋:多種多様な夢を持つ人が世の中に増えてほしい。
チャレンジをするということ自体が社会の多様性を作って、意外性を生み出すだろうと思います。
日本は意外性がほとんどない、多様性がなくなってきている。
この30年間、日本で行ったことは良くない、(一方でいえば平等で生きられるということだが)便利だが、面白くない社会になったと思う。
多少不便でも面白い社会になった方がいいと思う。
又吉:型にはまりやすい社会にはなってると思う。
僕がアパートを借りる時にアルバイトをして対応しますという芸人を目指そうとしている人に対して、良くないという社会の人はそれなりにまっとうなことを言っていると思うが、そこに閉じ込められてしまいやすいというか、夜に働く人に対しては迷惑だとか、だとすると夜間の店は成り立たなくなるので、そういったっことを伝えたら、考えを改めてはくれました。
でもそういった考え方は社会全体にあるので難しい。

堺屋:多様性のある世の中を作らないといけないと思っていて、国会でそういったことを論議してもらいたいと思っているが、日本の国を今後をどうするか、国会で議論してほしい。
小説「平成三十年」には新しい政治家 織田信介が登場して政府や社会の仕組みを根本的に替えていこうと言うことを提案している。
この織田信介に一番似ているのがトランプさんです。
トランプさんは既存の政党に乗らずに自分で支持者を集めて、織田信介が日本に登場したらちょうどトランプさんになるんですね。
組織されていない、恵まれない人に訴えて支持を集める政治家、既存の官僚と違うやり方をされるとメディアから批判されるが、それでもやり抜く強力な政治家が出てきたらいいなあと思っています。
又吉:どうなんですかね、刺激的な政策を持ち出す。
堺屋:危険は物凄くある、もしかしたら大失敗するかもしれない。
そういう刺激が一回あった方が平成30年眠れるような日本を打ち破れるかもしれない。
貧しい人の味方になれるような人はだれかということは非常に難しい。
小説の中でも既存の政党では出来ないことをやろうとしている。

又吉:日本人の終身雇用型の働き方とか、大人とはこういうことだというなんとなく持っているイメージにとらわれないようにそれぞれが考える。
刺激的な人が現れた時に手放しで乗るのではなく、それぞれが咀嚼して、それぞれが自分の頭で考える、人任せにしない時代になって行くと、自分が幸せになると言うことを含めて、もうちょっと安全な環境があるなかでも、自分が考えると言うことになっていけば面白くなるのではないかと思う。
堺屋:役人の引いたレールをエスカレーターのごとく動く社会は危険だと思う。
その社会をやったのが昭和10年代、戦争に向かったのは官僚と軍人が全部レールを引いてそこに日本人を乗せた。
選べる社会にしないといけないと思います。
芸能界で成功する人は一握りで、遥かにリスキーな生活だと思うが、日本にこれだけいると言うことが多様性であり、意外性だと思うので、そういう人を絶やしてはいけないと思う。
又吉:難しいのはそれが駄目だった時に絶望しない、終わりではないということが社会全体に広がったらいいですね。
堺屋:失敗、一つの目標を諦めた時に救済の方法として生活保護、福祉を充実しないといけない、底辺に安全ネットを引くことは必要だと思う。
又吉:上の世代の正義が日本全体の正義になっていて、僕らなりに大変だと言うことを言っても届きにくいし、甘えているのではないかといってつぶされることが多い中で、みんなやっている人もいてもうちょっとそれぞれ世代ごとに隔絶があってはいけないと思っています。
根本には愛みたいなものを持っていてもらいたいと思います。
堺屋:もっともっと又吉さんの職業の様な方が色々チャレンジしてほしいと思います。





2018年5月29日火曜日

堺屋太一(作家)            ・【対談】平成三十年(1)

堺屋太一(作家)         ・【対談】平成三十年(1)
又吉直樹(お笑いタレント・小説家) 
堺屋さんは20年前に「平成三十年」という小説で日本の社会の未来を予測し、その後小渕内閣で閣僚の一員として国作りに関わりました。
現在37歳の又吉さんは人生の大半を平成の時代に過ごしてきました。
平成27年にはお笑い芸人の若者たちの姿を描いた小説「花火」で芥川賞を受賞しています。
平成とはどんな時代だったのか、ポスト平成時代の日本に何を期待するのか、堺屋さんが書いた「平成三十年」を読み解きながら二人にとっての平成を語りあいます。

又吉さんは大阪府寝屋川市生まれ、37歳、作家。父親が沖縄出身。
平成27年に「花火」で芥川賞。
堺屋さんは大阪市生まれ、82歳、通産省時代は大阪万博を発案。
堺屋:沖縄が本土に復帰した時沖縄海洋博の準備をする。
当時首相だった佐藤栄作さんに沖縄はどうなったら成功なのかと聞いたら、人口を減らすなと言いました。
沖縄の人口をどうやったら減らさないか、観光業よりないと、ハワイのような街にしたいと思って、万博のような博覧会ということで沖縄海洋博を開きました。
未来予測小説を多数発表、戦後のベビーブーム世代を団塊の世代と名付けたのが堺屋さん。
「団塊の世代」がベストセラーになる。

「平成三十年」は平成9年から10年にかけて新聞に連載していた小説。
主人公は団塊ジュニア世代で43歳、キャリア官僚の木下和夫。
木下がベンチャー企業出身の大臣による改革に巻き込まれてゆく。
平成30年の社会を取りまく背景として少子高齢化、社会保障費、医療費の増大、財政赤字など閉塞感にある日本が予想されていた。
朝日新聞から頼まれた時に、平成になって5,6年の頃だったので、平成の終わりごろを予測しようと思いました。
自分が生きられる限界が平成30年ごろだと思って、好奇心と一緒に長生きしたいと思いました。
平成9,10年はバブルがはじけて冷戦構造が終わって、大変に時代が変わる、激動が続くのではないかという時代でした。
激動ではなく静かな時代になるだろうと言うのが私の予測でした。
小説の第1章は[何もしなかった日本]という章の名前になっているが、今見ると何もしなかった日本というよりもっと何もしなかった日本というのが現実です。

小説の冒頭では朝の木下の家庭の消費税の話、8%から10%、12%となり20%を検討しているということを夫婦で会話している状況から始まる。
年収は4000万円というものの収入の4割は税金と社会保険に天引きされる。
20年前に比べて消費者物価はおよそ3倍になっている。
21世紀当初木下の手取り年収800万円、月給40万円強にしか当たらない。
そのうえ消費税12%、燃料税、酒たばこ税、自動車税などお金を使うたびにかかる税金がある。
何とかやっていけるのも公務員宿舎の家賃が安いからやっていけるようなもの。
民間人が聞けば贅沢な感じだ。・・・・・。

堺屋:インフレ傾向だと思ったが、現実にはデフレになって行って物価が上がらない、石油が値下がりするということで逆になったが。
この小説では消費税も20%ぐらいにあがることになっているが、だから何もしなかった日本よりももっと何もしなかった日本ではないかという気がします。
小説のなかでの予測で、鳴り物入りで取り入れられた小選挙区制が、清潔な政治も円滑な政権交代も起こさないことへの幻滅、貧富の格差増大、過疎と集中が進むことへの憤り、ソフト分野の進歩は欧米に立ち遅れ、大量生産ではアジアの成長地域に追いつかれたといういらだちも大きい。
まさに今の時代。
住居地域の高齢化、森林の荒廃、農村の過疎、観光業は割高、地域サービス型商店街は空洞化、高齢者生活支援、どれも上手くいっていない。
これも予測があってしまった。
一番当たったの少子高齢化。
厚生労働省は団塊の世代の波が何度もやって来ると言っていたが、団塊の世代の子は増えたが、孫は増えていない。
日本の現在の人手不足、成長しない、低欲社会をつくっている。
産児制限が行き過ぎたこともあるが、結婚そのものに男が結婚したくなくなったんですよ、これが一番日本の欠点だと思います。

又吉:結婚するタイミングが遅れていっているのは経済力の部分もあると思っています。
堺屋:貧しくても子供は出来る。(終戦後の団塊の世代)
   少子化は理屈と結果が逆になっている。
   どうしたら子供が増えるかを内閣も真剣に考えないといけない。
又吉:僕らの生活水準が下がっている中で、ドラマに出てくるような大人にいつになったら大人になれるのかと言う、僕らは何処で大人になるんだろうと言う、そこにとらわれ過ぎていて、平成の親世代のあり方というのと、それとは全然違うタイプの家族の作って行き方がもう少し何パターンかあればと思っていて、一つしかない様な気がする。
自由にスタイルにこだわらず、成功例を僕ら世代で何個か示すことが出来れば、新しい形の家族の作り方が出来ていけるのかなと思います。
堺屋:官僚主導の、結婚して子供を託児所に預けて働き、家をローンで組んで建て、中高年になったら子供とは別れ、老夫婦で寂しく暮らす、そういった流れの生活パターンをこなすことによって、福祉、税金でも有利にできているので、世の中がワンパターンの人生になってきている。
楽しい社会は多様化、いろんなパターンで生きられる人生でないとたのしくない、多様化が必要です。
もう一つは意外性が必要、多様化と意外性を排除してしまう。
安全で安心で正確な国はないがどうも楽しくないという、これを楽しい社会にしなければいけない。
又吉:官僚主導のパターンみたいなものに入れなかった人達は、なんか劣っているんだと思い過ぎているから、違う価値基準で楽しく生きれるんだと切り変えることができたらどんどん多様化していくのだと思いますが。

連載が終了後に小渕内閣の経済企画庁長官になる。
堺屋:その頃はバブルがはじけて倒産会社の処理がたいへんでした。
又吉:サッカーに当時明け暮れていたが、ニュースは暗かった印象があり、99年になった時に本屋の棚に前向きで行こうとかという本がいっぱいあり、今前向きなのではないと思いました。
堺屋:先ずは経済を回さなければいけないと、高度成長ではなくてもう一度家庭生活が楽しい日本にしたいと思いました。
でも駄目でした。
隣近所との付き合いと言うことも無くなってきていて、会社から帰ったら寝るだけといった状況でした。
先ずは経済危機を乗り越えて、その次に楽しい日本を作ろうと、万国博覧会は楽しかったと思います。
イベントをどんどんやる世の中が出来たらいいと思います。
音楽でも演劇でももっともっと人々が集まれるような世の中が出来たらいいと思います。
私自身がやったのは大阪万博と沖縄では海洋博をやって、沖縄を観光地にして人口も増えて成功だったと思います。

又吉:予想した問題点を阻止できなかった点とは?
堺屋:一番は小渕総理の急死です。
小渕さんとの間でこうやろうと話し合ってやってきたことができなくなった。
森内閣では全閣僚はそのままで森さんだけが新たに入ってきて不慣れなところもあり、官僚がどっと入ってきて官僚主導になって、官僚主導からの脱却という小渕さんの願いが挫折してしまいました。
世論では改革を望んでいたのは1割で、望んでなかった人は1割で、8割が無関心で、その8割がどういう方向に行くかは、マスコミとか事件とか偶然的なことで動く訳です。
改革をしていこうと言うのはいつの時代でも1割程度です。
その流れを作っていくのが政治だろうと思いますが、なかなか難しいところです。
小泉さんは改革を進めて良かったと思いますが、小泉さんが終わったらもとに戻ったという感じですね。

又吉:昭和から平成になった時は8歳でしたが、よく覚えています。
子供心に何故か昭和が終わるのは嫌だと言うふうに思っていました。
平成になってそこからは自分がこれから大人になっていくという意識はあったが、小学校の先生にこのなかで大学にいけるのは半数だと言われて、大人になって調べてみたらやはり半数だった。
自分はどういう大人になって行くのか、何ができるのかとかは考えていました。
芸人になりたいと思ったのは小学校3,4年生位の時でした。
家は貧しくて月に一回位外食に行って、焼き肉屋に行っても兄弟で一番下だったが、父親だけが一杯食べていて、僕が最初にお茶漬け頼んだりして気を使ったりしていました。
高校卒業後吉本の養成所に入って、上京します。
アルバイトをしたりもしましたが、ネタを作る時間に当てたかったので、時間を有効に使うようにしていました。
堺屋:芸人になりたいと言うことは大変だと思いますが、どこから出てくるんですか?
又吉:考えることが好きとか、自分の作ったものを発表したいと言う欲求と、楽しんでもらった時に凄くうれしいということです。







2018年5月28日月曜日

頭木弘樹(文学紹介者)          ・【絶望名言】芥川龍之介(H29/6/26 OA)

頭木弘樹(文学紹介者)      ・【絶望名言】芥川龍之介(H29/6/26 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/06/blog-post_26.htmlをご覧ください。

2018年5月27日日曜日

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】

奥田佳道(音楽評論家)          ・【クラシックの遺伝子】
グリーグ作曲『ペール・ギュント』組曲から「朝」
フルートの調べ、グリーグがどんな朝をイメージしたかということは謎。
劇の中ではアフリカのモロッコで迎えら朝ということになっているが、作曲家は北欧のノルウエーなので、北欧の海辺などの朝を想像して良いのではないか。
ウイーンフィル


ハイドン 作曲 交響曲 第6番 ニ長調『朝』 第4楽章 Finale,Allegro
ハイドンは交響曲を104番迄作っているので、早い時期の交響曲。
第1楽章は日の出を彷彿とさせるゆっくり堂々とした序奏に始まる。

シューベルト作曲 「美しき水車小屋の娘」のなかの 第8曲「朝の挨拶」
切ない青年の気持が繊細に歌われている感じ。

*シューベルト作曲 「美しき水車小屋の娘」のなかの 第2曲「どこへ?」
青年が旅を始めたばかりのころ。

ラフマニノフ 編曲 第2曲「どこへ?」 ピアノ演奏
キラキラ感と川の流れのうねりが感じられる。

リヒャルト・シュトラウス 「あした」
新婚の妻パウリーネのために書かれたと伝えられる「4つの歌曲」作品27の締めくくりに位置する。簡素ながら、非常に繊細な美しさを持った作品。

ヨハン・シュトラウス 「朝の新聞」
オッフェンバックは日頃から世話になっている新聞への感謝をこめて、ウィーンのジャーナリスト協会の「コンコルディア」が主催する舞踏会に、『夕刊』というワルツを作曲して提供した。
シュトラウス2世にもワルツの提供を依頼するとともに、タイトルを『朝の新聞(朝刊)』としたいと提案し、シュトラウス2世はそれを受け入れ作曲した。


2018年5月26日土曜日

秋川リサ(女優・モデル・ビーズ作家)    ・母を送り、これからの私

秋川リサ(女優・モデル・ビーズ作家)    ・母を送り、これからの私
秋川さんは15歳でモデルとしてデビュー、現在も女優、タレント、ビーズ作家
の顔を持っています。
母の介護のことをつづった本を出版して話題になりました。
秋川さんの母親は82歳で認知症になり、7年間の介護の末に2016年89歳で亡くなりました。
介護中に自らも介護施設で働いて様々な事を学んだといいます。

現在65歳。
「60歳、だからなんなの」を出版。
1968年化粧品会社のサマーキャンペーンとしてモデルとして活躍、雑誌のトップモデルとしても活躍、役者、舞台でも活躍。
ビーズの刺繍の教室をやってもいますがBS放送で仕事をしたり、舞台、ラジオの仕事、NHKの介護の番組、講演もやらせてもらっています。
母が店をつぶしてしまって働きなさいと言われて、校則の厳しい学校だったのでアルバイトなどできなくて、学校を変更して、ひょんなことからモデル事務所の面接に行った時に或る人に出会って、その人は繊維メーカーの広告を一手に引きうけてた方で、繊維メーカーの専属になって、同じスタッフの人が化粧品メーカーの宣伝もしていて、あっという間にTVコマーシャルなどに出るようになりました。
人生って一瞬で変わるんだと言うことを高校生の時に経験してしまいました。
それから自分のイメージについてゆくのが大変だった。
金銭的な問題も解決しました。

40歳代で、娘の花嫁衣装は自分で作ると勝手に決めて、ビーズ刺繍の教室を始める先生と出会って、ウエディングビーズ刺繍は綺麗だと言われて、習おうと思いました。
何年かして大腿骨骨折という大けがをしてしまい、キャシー中嶋さんがお見舞いに来て教室を開きなさいと言われて、全国15か所ぐらいのカルチャースクールで教えていました。
生徒が300人ぐらいいましたが、辞めて行く理由がほとんど介護でした。
今は細々とやっています。
2014年7月に「母の日記」を出版、「60歳、だからなんなの」を去年出版。
「母の日記」は親子の確執のあるなかでの介護で覚悟して書いたが意外と批判は少なかった。
あけすけに書いてよかったと思います。(親の介護はそうそう綺麗事では行かない)
2016年6月に89歳で亡くなりました。
ほっとした思いはあります。

2年前ぐらいからは家族を認識することもできませんでしたし、言葉を発することもできなくなり、施設に入って施設の人には感謝です。
私なりにやることはすべてやったという自負はあります。
息子31歳、娘は30歳で特に娘には介護を手伝ってもらって感謝しています。
私の父はアメリカ軍人で私が生まれる直前にベルリンに行ってしまって、ほとんど私を育てたのは祖母で、母は店をやって好きな人が出来てしまうと、店はどうでも良くなってしまうタイプでした。
母の認知症が発覚したのは2009年ごろでした。
買い物をしても後で持ってきますと言って、払わなかったことが色々ありました。
これからどうしたらいいだろうと深刻になりました。
足腰は丈夫だったので2,3時間は歩きまわることもありました。
ケアマネージャーさんを紹介してもらう事になり、デイサービスのことなどを商店街の人達から教えてもらいました。
2年の在宅介護、3年間の有料老人ホーム、2年間の特別養護老人ホームに入ることになりました。

通帳は母に預けておいたので、見事に全部0円に近かった。
詐欺に引っ掛かっていたのか、男性に貢いできたのかなと、その時に思いました。
唖然と思いましたが、笑うしかなかった。
仕事を始めてから最も貧乏になりました。
母の日記を見付けて、大きなお金が動いている時にNとか、Mとか書いてあり、誰かに貸しているのなら取り戻そうと思ったが。
日記には、私、家族に対しての罵詈雑言が書かれていました。
常にストレスを持って、余り前向きな人ではなかったし、人生を余り楽しまなかった。
母に言わせれば戦争のせいと思ってネガティブに思っていて、常に不満を持って生きてきて、その救いを男性に求めるけど男性もお金目当てだったのかなと思います。
母の存在を認めているつもりだったが、喪失感というか、そういったものが段々と出てきて、この思いのままで在宅介護は無理だと思いました。
介護の現場ってどうなのか、いくら用意したら良いのかとか、介護する側はどんな現実なんだろうと言うのを見たいと言ったら、或る企業の社長からではうちで働いて見ますかと言われて、介護施設で働きました。

母が亡くなる前から働き始めました。
レクレーション施設の運営を手伝いをするのが仕事でしたが、人手が足りないのが現実で、介護される側もお金を払っているんだから何をやっても許されるだろう的な考えの方の人もおり、寄りそう介護一人ひとり個性に合わせた介護は理想的ですが、現実はいつも人手不足で厳しい現場でした。
腰をみんな痛めます。
ロボットにも手伝ってもらわないと大変だと思います。
ジュエリーコーディネーター3級という資格を取りました。
体力を考えると介護の資格は厳しいと思いました。
私はお金の援助はできないが、人、いろいろ人材で伝手を使ってと言うことが私に出来ればと思って、若い方を巻き込んで一緒に人生を楽しんでいかないといけないと、いろんな分野の人たちと話をしてお互い刺激をし合うので、お年寄りも勿論呼ぶし面白いです。











2018年5月25日金曜日

柚木沙弥郎(染色家)           ・【人生のみちしるべ】愉快に“今”を生きる(2)

柚木沙弥郎(染色家)     ・【人生のみちしるべ】愉快に“今”を生きる(2)
工芸とか手仕事とか、それまで興味をもたなかったが、一つのことを極める、柳先生にしても芹沢先生にしても、色んなことをやるな、何か一つの事を一生懸命やる様に言われました。
特に工芸は材料、仕事のプロセスが非常に大事な仕事なので、およそ半分以上材料、仕事の工程から生まれていると思うんです。
体でもって覚えないといけない、良い材料は僕たちの時代は自然の物、絹、木綿とか、手紬の物が段々そういうものは日本では作れなくなったがまだありました。
良い材料があれば染めなくてもいい、そのもの自身に美しさがあるから。
簡単に言うと染色なんか無くたっていいわけです。
生地を生かすことが大事。
模様を感じないほどそこに一体化すると言うこと、生地を生かすような模様を付ける。
洋服にするとかカーテンにするとかは、後半の問題、布を獲得した人がすればいいことであって、布を生かすような模様を作ることが私の仕事という考えです。
日常の色々なものを見ていると、見過ごしているようなものの中に面白さがあるものがたくさんあります。
自然の石が美しいと思っていたが、柳先生はそれに人間の手を加えた、彫刻すると言うこと、その時やっぱり美しくなる。

生け花と同じように手を入れていって、そういうものを作ると実物の花よりももっと美しいものになる、人間が作る造形の面白さというもの、我々にはそういうところが面白いんです。
伝統に縛られたら面白くない。
インドの刺繍なども親から伝わったものだと思いますが、それを繰り返したらあんなには続かない、自分のひらめきを入れて行くと続いてゆく。
決まりごとがありながら今自分が心惹かれるものを入れていく、だからその仕事が繋がって行くと思うんです。
こうやんなさいといわれて仕事は続くものではない。
面白さを発見することです。
そういう状態にもっていくしかない、社会全体の問題だと思う。
一杯ものがあって便利で、特に都会などはそうだが、そういうものの中でも静かでいられるか、社会全体を静かにして統一のある感じ、そういう方向に持って行く必要がある。
パリなんかそういう街ですね。
成熟したというのはそういう文化だと思う。
どんなに忙しくてもバカンス、そういうことを優先させる、前からの流れがある。
自分がやっている仕事が安心してすることができる、そういう社会が一番幸せだと思います。

欲しいもの、ものではなくて人間の本質的なものは何か、それは結局生きていること生き生きしている者には魅力があり、みんな生き生きしたい。
そこんところがだんだん薄れちゃったと思います。
誰かが「こんにちわ」と言い出せばいい。
ゴミ出しに持って行くが、高齢者がいて「お早うございます」と言っても声を出さない。
都会の生活というものはそういうもんなんですよ。

60歳代にスランプがあったが、窮屈な考えがありました。
こうでなくてはならないということが心の中に壁を持っていました。
そのことに気が付いたのは大きな展覧会があって、やりつくしたような思いがあって染色は辞めようかと思って、後は自分の真似の繰り返し。
たまたまアメリカのサンタフェに行って、サンタフェはメキシコに近くて、フォークアートミュージアム(おもちゃの美術館)があって、アレキサンダー・ジラードがハーマンミラーのテキスタイル部門デザインディレクターをしていて、世界のおもちゃの展示をしていて、メキシコの人が藁とか針金だとかそこらにあるもので作ってあって、それを見た時に生き生きしていた。
それを見ている時に染色にこだわることはないと思った。
自分の中に帰れば何をやってもいいんだと思いました。
つまり生き生きしていることはこういうことだと思いました。
印刷に元々興味があって、72歳で初めて絵本を出版。
絵本は子供の本だが子供に限らないと思う、大人が見てもいいと思う。
僕自身が面白いからやるんです。
芸術という言葉は好きではなくて、もうちょっと気楽に考えたらいいと思う。

85歳で初めてパリのギャラリーで個展を開く。
新人として挑戦。(元女子美術大学の学長ということは伏せて)
父親が第一次世界大戦の時に留学して、写真集があり3冊になったが、戦争で焼けてしまった。
父から聞いていたことは文化、アートを大事にするところだとよく聞いていたので何としてもパリに行きたいと思っていました。
ギャラリー・ヨーロッパという画廊があったが、認めてくれないと貸してはもらえない。
反響があり3年連続で開催しました。
フランス国立ギメ東洋美術館の学芸員の人が来て、92歳の時にギメ東洋美術館で私の展覧会が行われることになりました。
作品も今パリの国立の美術館に収蔵されています。(寄贈しました)
寄り道があったとしてもそれでいいと思います。
オファーがあれば僕は張り切るんです。

ネガティブな部分があるが(体力が追いつかないとか)、楽しくなくちゃつまらないはず、本当は人間というものは明るいと思う、肯定的、ただそれが見えていないだけ、現在色々苦しい事があるから見えないだけであって。
軍隊で周りに囲まれても、草一本が生えているだけでそこに楽しみを見つけるとか。
人間は区切らない、今何歳だとか区切らない。
そこをどうやって仕事、遊びととかをどうするか、これからの一つの問題だと思います。
気力、情熱、熱があれば出来ると思う、冷めてしまったら駄目ですね。
或る程度のおっちょこちょい性、母親からくぎを刺されてる調子に乗るなということを余り自分でセーブしてしまうと駄目。
チャンスがあればやる、やってみないとわからない。
作品自身と周りの環境、その両方がうまく溶け合って展示はあると思う。
くそ力みたいなものが民芸館にはある。
民芸館には出来るだけ一人で行ってほしい、自分で自分に自問自答する時と場所なんだと、自分の場を作って欲しい。

















2018年5月24日木曜日

麿赤兒(舞踏家・俳優)          ・75歳、倒れても踊り続ける

麿赤兒(舞踏家・俳優)          ・75歳、倒れても踊り続ける
1965年唐十郎の劇団・状況劇場に入団、劇団を象徴する俳優として活躍、1972年に舞踏集団・大駱駝艦を創立、以来46年に渡って国内外で講演を続けて来ました。
麿赤兒さんにその波乱の人生と舞踏にかける思いを伺います。

中学高校時代から演劇部でした。
親がいないとか、親が戦争で亡くなったとか訳ありの子がいろいろ居ました。
見よう見まねに勝手に演劇部を作って部長をやって、7,8人集まりました。
奈良県立畝傍高等学校へ行ったが、演劇部は一人もいない。
1年から部長になり、図書室で高校演劇の物を読んだり、段々欲が出てきて色々本を読んで勉強しました。
早稲田大学に入学しました。
1,2カ月で挫折して授業は出なくて、アルバイトを探して、色々やったんですが遊び(映画芝居を見たり、パチンコなど)に使って、授業料を払えなくて、中退しました。
劇団『ぶどうの会』の研究生になりました。
その劇団も半年で解散してしまって、宮本研さんとかが「変身」という劇団を作り、そこに入って主役をやることになり、一生懸命稽古をしていましたが、突然おまわりさんに捕まることになってしまってその芝居に穴をあけることになってしまいました。
酒を飲んでこわもての人と喧嘩になりましたが、そのうち忘れていたが、1年後に警察から来るようにいわれて、警察署に出かけていったら逮捕状を出されてしまいました。
2日間泊められてしまって、劇団を首にするかどうかで擁護派と反対派に別れて、その後政治的なものになり、段々居たたまれなくなりました。
ヒッピーがはやり始めた頃、喫茶店に入り浸れているうちに、唐十郎さんから声を掛けられました。
一緒に飲みに行ってそのまま彼のアパートに居候することになりました。
彼は芝居を書いていたりしていました。
21歳から彼と芝居を7,8年一緒にやりました。
最初の公演はテント公演を思い付いて花園神社にテントを立てて「腰巻お仙」をやったら好評でした。
青年男女の恋愛がもつれにもつれて迷宮に段々旅をするようなお芝居ですが、時空を越えてしまっていつの時代かわからないような芝居でした。
嬉々としてやっていたが、段々覚めてきて、台詞が長くなり難解になり、一生懸命にはやったが、子供が出来てお金も必要になったりして、辞めて金を儲けることにしようと思って、産地直送の米を売ったりすればもうかると言う話もありやったが駄目だった。

風月堂でも知られるようになった頃、ある女性が来て付いてきてほしいということで付いて行ったら、舞踏家の土方巽さんの稽古場でした。
50坪ぐらいありました。
ドテラを着て一見ホームレスのような格好でしたが、眼光の鋭い人でした。
金粉ショーをやることになり、あまり稽古もしないで放り出されました。
昼間は空いているので稽古場として使わせてほしいということで稽古をしていました。
土方のブレーン 澁澤龍彦さん、細江英江さん、種村季弘さんとかの文学者、文化人が一斉にうちの劇団に芝居をみに連れて来て、面白いと広げてくれて人気が上がってきました。
状況劇場を私が辞めたということが広がって、若い人が来るようになりました。
夏に裸で寝ている若者たちの姿を見て、これにクラシックを掛けて、このまま舞台にして少し加工すれば面白いと思って、色々なイメージが出てきました。
天賦典式という形でコンセプトを広げればいいと思って、どんな身体にハンディーがあろうが、精神的にハンディーがあろうが、生き物としての尊厳みたいな事を思い出して、天賦の才能にしようと、体が宝だと言うようなことから始まりました。
1972年に独自で舞踏集団・大駱駝艦を旗揚げしました。

金粉ショーで若い人が動くと言うのを売りでやってみようとしました。
舞台で20分なら20分、えっと思わせたいと言う思いが出てきて、急に奇声をあげたり突然松明をお客さんに放り投げるとか、スタンドプレイをして目をこっちに向かせたいと、色々なことに目覚めると言うことはありました。
結構お金は儲かりました。
そのお金で劇場を借りて踊りに注ぎこみました。(20年位続ける)
1982年に初めて海外公演をする。
日本で前衛と言われているものがこういうものだと素直に受け取ってくれる。
アメリカンダンスフェスティバルは歴史があり、お客さんの眼が高い。
今年で大駱駝艦創立46年目になります。
3月に新国立劇場でも公演しました。
舞踏も曲がり角に来ている。
もう一度見直したいという気持ちがふつふつと出てきて、舞踏全体をもっと浮き彫りにする努力はしていきたい。
生きているのが、あらゆるる仕草、動作、精神的な作用みたいなものが全部踊りだと言うふうなことが判ってくると楽しいと思います。
20年前に胃がんの手術をして4/5を切除、筋肉がたるんでこないようにはしているが、筋肉を鍛えたり歩いたり走ったりしています。







2018年5月23日水曜日

合瀬潤一郎(ギター製作者)         ・目指せ!佐賀発ビンテージギター

合瀬潤一郎(ギター製作者)         ・目指せ!佐賀発ビンテージギター
3月まで放送された連続TV小説「わろてんか」のオープニングで流れた主題歌の「明日は何処から」この曲のボーカルバックは佐賀市の合瀬さんが製作したアコースティックギターが使われていました。
合瀬さんは49歳、16年間ギター製作会社でギターを製作していましたが、最初から最後まですべて自分で作りたいと、11年前会社を辞めて独立、佐賀市内の工房でギターを作り続けています。
注文を受けてから作るオーダーメイドで、音楽界で活躍するギターリストから多くの注文が入っていると言うことです。
手にする人に使い込まれていくことで佐賀発のビンテージギターになれば、というのが合瀬さんの目標です。

家の車庫を改造して工房にしました。
自分だけでやりたいと思ったので、一人で最初から最後までやっています。
3月まで放送された連続TV小説「わろてんか」の主題歌でギターを弾いていたのは佐橋 佳幸さん。
佐橋さんのお弟子さんが私のギターを使っていてそういう流れで、お会いして、作って欲しいということになりました。
軟らかめな感じの音がほしいというで、佐橋さんは凄いギターを沢山持っていて、かぶらないようにうちのギターらしさが出るような材料を選んで作ったのですが、頻繁に使ってもらっています。
小さいころからプラモデルをつくっていて、祖母が作ると褒めてくれて、もっと上手に作りたいと思ってものを作るのが上手になったのかと思います。
漠然とものを作りたいという思いはありました。
工業高校に入って、基本的なことしか学べなくて、自分で思い描いていたものとは違っていました。
発電所を建設する会社に就職しました。
部品を組み立てて発電所を作る作業をしました。
プレハブの宿泊所に詰めて作業をしていました。
金属を扱う作業でやっているうちに体に合わない様な感じがするようになりました。
木工をやりたいという気持ちが大きくなってきました。

暇な時間に自分で木を持ってきてギターの改造とかやっていました。
退職してギターを作ろうという思いの中で、佐賀県なので楽器を作るところがなくて、あるギターを製作する学校があり問い合わせて、東京の学校で一年間学びました。
エレキギターの製作を学び3本作りました。
就職先がなくて、佐賀県に帰って来た時に、電話帳の中から楽器関係を探して、久留米で楽器を作る工場があることが判り電話をしたら、たまたま辞めた人がいたので入社することになりました。
クラシックギターの専門の工場でした。
一番最初材料を仕入れて乾燥させてギターの部品を作るところでずーっとやっていました。
材料を仕入れるのに大量に仕入れるので、短時間で調べることを10年以上やっているうちに、手にもった感触、重さ、湿り具合とか、これは良いなということが瞬間で判るようになって来て、材料の見極めが出来るようになりました。

部品を作るのは単調で、凄い良い材料を使って凄い良い部品を作りたいと思うようになってきました。
20人位の会社で、自分の思いとは違う製品になってしまって、忸怩たる思いがありました。
どうやったらいいものが出来るか試していましたが、海外製の良いブランドにはかなわないと苦労したし、悩んでいました。
海外製のものを調べてコピーを何度となく作ってきたが、思うようなもの出来なかった。
ガレージを改造してテーブルなど作りながら、ギターを一本作ってみたら良い音の出るギターを作ることができました。
2,3本と作っても良いものが出来ました。
一人で作るようになってから、道具も自分で作らなくてはいけなくなって、道具も作って、そうしたら作り方も変わって、音も変わってきたことが判りました。
作業の方法、工程は見ただけでは判らない。
色んな作り方でやったら面白い様にいろいろ音が変わってきて、言われた音を出せるようになってきました。

会社を辞めて独立しました。(11年前)
その頃にリーマンショックが起こって、1,2年は作っても売れませんでした。
佐賀の地元の楽器店と懇意にさせていただくきっかけがあり、地元のミュージシャンに使ってもらって、口コミで佐賀県内に広がって行きました。
プロに使ってもらって評価してもらった方がいいのではないかと言われて、ギターに携わっている音響の方からの評価が高くて、プロの方にも広がって行きました。
コンサートツアーでは楽器にダメージを起こすことが多いらしくて、数百万円のギターを簡単に持っていけるかというとそうはいかないので、それに順ずるものが求められるので、うちのギターを選んでもらえるものと思います。
値段は30~40万円位です。
電話をかければ直ぐ通じて、直してと言えば簡単に直せる人がいて、替わりをと言えば出せる状況などが、重宝にされている理由かと思います。
どういうギターを作って欲しいということは、言葉によって伝えられるが、音のニュアンスがそれぞれ感じ方が違うので、それが難しい。

「バシャーン」というのを作ってくれと言われて、作って渡したが、「バシャーン」という感じではないと言われた。
私にとっては「バシャーン」は出ていたが、その人にとっては「バシャーン」ではなかった。
その人の「バシャーン」は僕にとっての「ドカーン」だった。
言う人と受け取る側の違いを掴むのが難しい。
音源を聞かせてもらって、これがいいと言ってもらえるのがやりやすい。
良い物を作るということに関しては順調には来ていると思います。
ギター屋さんとしてはポンコツです。(なかなか稼げない)
工場にするということはあり得ない。
基本はいい音がしてみんなに大切にして貰える様なギターを作って、僕が居なくなっても大事にして貰えて、それがいつかビンテージと呼ばれる日が来るのではないかと思っています。











2018年5月22日火曜日

原田尚美(第60次南極観測隊副隊長)     ・両極を究める

原田尚美(第60次南極観測隊副隊長)     ・両極を究める
海洋研究開発機構の地球環境観測研究開発センターの研究員でセンター長代理も務めています。
専門は生物地球化学、もう一つが古海洋学。
学生時代にも南極観測隊の一員として南極に行ったことがあります。
南極、北極が原田さんの研究対象です。
日本の南極観測隊で女性が副隊長以上を努めるのは、原田さんが初めて。
今年の秋に出発する第60次南極観測隊の副隊長、夏隊の隊長を兼務する原田さんに伺いました。

地学、生物学、雪氷学とか専門分野ごとに分科会をして、次にどんな研究をするかを毎日のように開始されていて、そこに出席してどんな観測を計画しているかと勉強している段階です。
副隊長としては隊長を支える仕事になりますが、夏隊長と副隊長の区別はないような気がします。
輸送、建築、観測とか多くの仕事を二人で役割分担をしながらこなしています。
6月の中旬には隊員が決まります。
越冬隊は1年半分の計画を立てないといけない。
専門は生物地球化学、もう一つが古海洋学。
生物地球化学は地球上で生物が存在している場所における生き物を介した循環、流れと環境と生物の間の相互作用、さまざまなそこに存在しているプロセスを明らかにする学問で、私の場合は海洋に生息している植物や動物のプランクトン、そういった生物が作り出す物質、炭素、水素とかを材料にした有機化合物の存在量とか、化合物同士の濃度比を環境の指標にして、海洋の環境の変化を調べると言う研究をしてきました。
そういった海洋の環境を古くまでさかのぼる学問が古海洋学ということになります。
両者は密接に関係しています。

地球温暖化という深刻な状況におかれていて、海洋でも起きていて、海洋の中における温暖化を主体とした様々な変化が起きている。
そこに生息している微小プランクトンがどのように応答して変化しているのか、そういうことを調査するグループで研究しています。
北極海については海氷がどんどん溶解してしまって、2030年には夏場はほとんど海氷は無くなってしまうのではないかと予想されている。(環境が激変している地域の一つ)
生息生物が減ってしまったり、他の生物に置き替わるのではないかと調査研究をしています。
北極海は海洋酸性化にしても常に先取りして起きているが、亜寒帯域の我々の所にもやがてやって来るかも知れない環境の変化なので、将来起こりうるかも知れない環境の変化と生物の応答を先取りして調査することのできる、海域の一つでもある訳です。
海洋酸性化は大気中の二酸化炭素が海洋の表層に溶け込んでいって、現在海洋は弱アルカリ性ですが、二酸化炭素が溶け込むことによって中性あるいは酸性の側に傾いていく、それを海洋酸性化と呼んでいます。

炭酸カルシウムを甲殻に持つ生物(貝とか)が海洋酸性化の環境にさらされると殻が作りにくくなるとか、溶けてしまうそんな状況が来るのではないかと懸念されています。
防ぐと言うことはもうできない。
排出の量を最大限に抑制して行くと言うことが出来れば最悪の状況は免れることができるかもしれないが、二酸化炭素が吸収される場所は海で、海洋酸性化は確実に悪化するという事象です。
かつて二酸化炭素濃度が高かった時代の海の深い生物の一部は絶滅しているということが報告されている。
種類が大きく入れ替わる可能性もあり、食物網にも影響を及ぼす可能性があります。

北海道帯広で生まれました。
運動はあまり好きではなかったので家の中で遊んでいました。
理科系は嫌いでした。
本は良く読んでいたので国語が好きでした。
国語の学校の先生になりたいと思っていました。
高校に入って専門的になり、系統だてることに理解して、特に興味を引くことになったのが化学の授業でしたが、自分で参考書を買ったりして勉強してたら面白いことに気づきました。
3年生の時に地球化学の弘前大学の先生から地球化学があると言うことを聞いて、非常に興味を持ちました。
地球温暖化という言葉を雑誌を通して知ることになり、名古屋大学の半田暢彦先生の記事でした。
弘前大学に進んで地球化学の研究室に入りました。
卒業論文が大気化学で、指導してくれた先生が南極に行かれた経験のある先生でした。
名古屋大学の大学院に進みました。
半田先生から海洋学の面白さも教えていただきました。

修士課程の2年間厳しく指導されました。
せっかくフィールドワークの研究室に来たので、一度海に出たいと半田先生に頼みこみました。
修士論文の目途を付けて、東京大学の海洋研究所の白鳳丸という研究船に乗せてもらいました。
非常に楽しくて、色んなサンプルを採取して、サンプルの貴重さに感動して虜になりました。
すでに就職は決まっていたが、「分析は君の後輩やるから大丈夫だから」と言われて、その瞬間「私がやります」と言っていました。
博士課程の進学を決めました。
南極で海水中の生物が作りだす粒子(セジメントトラップ(Sediment trap)係留系)を定期的に取って、季節変化、海洋環境との関係性などを調べる観測をする。
南極でそれをやることになり派遣して欲しいと半田先生の所に話が来て、男性の先輩は厭だと言うことで私が行きますと立候補しました。
先生からは大反対でしたが、なんとか説得しました。
博士論文はどうするんだと言うことだったが、既定の論文を仕上げて且、南極の論文を仕上げるといって了解してもらいました。(1991年 27年前)

当時女性としては2人目でした。
南極は景色はほぼ想像通りでしたが、風が無いとシーンとして音がしなくて本当に凄く驚き感動でした。
海洋観測をしながら昭和基地に向かいました。
復路で設置したあった係留系を回収することにしていました。
2カ月位生物が作り出す粒子を取り続けるという観測でした。
回収しようと地点にいったら無くなっていました。(原因不明)
2010年ごろから北極に携わるようになりました。
北極は温暖化が顕著に現れているところで、南極では兆候が無いです。(非常に大きな大陸の上に大きな氷があるので、ひとたび兆候が現れた時にはインパクトは計り知れないと思います。

先ずは自分が動く、そうありたいと思っています。
夫と共通な趣味を持ちたいと思っていて、それが山登りでした。
年間7~8つ昇っています。
大雪山は花が見事で思い出に残っています。
今回は役割も大きくて、冷静に一歩引いて心の中は第一回目よりも落ち着いた感じでいけそうだと思っています。




2018年5月21日月曜日

里アンナ(歌手)             ・【にっぽんの音】

里アンナ(歌手)             ・【にっぽんの音】
能楽師狂言方 大藏基誠
NHK大河ドラマ「西郷どん」にメインテーマ歌で参加。
奄美大島の出身で島唄の歌い方で歌っている。
作曲家の富貴晴美さんがコンサートに来てくれて、NHK大河ドラマ「西郷どん」の音楽担当し作曲することになり、歌ってほしいという話をいきなりいただきました。
テーマ曲で歌わせていただくことになりました。
西郷さんが奄美で暮らしていたときを自分でイメージしながら歌いました。
奄美の皆さんにも喜んでいただきました。

鹿児島県奄美大島出身、島歌を習い始めたのは3歳からで祖父から教えてもらいました。
最初は祖母から機織りをしながら口ずさんでいるのを覚えました。
母方の祖父が三線も弾けるから一緒に歌ってみてはどうかということで習いました。
奄美民謡大賞などの大会で度々受賞、その後高校卒業後は歌手を目指して上京しました。
ポップスの歌手として歌っていました。
原点に戻って島歌を歌おうと考えました。
ミュージカルのオーディションがあると言うことを知って、悩んで居た時期でもあったので挑戦してみようと思いました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』でファンテーヌを演じる。
奄美で島歌というと集落の歌を指していて、集落ごとに少しづつイントネーションとか言葉も違います。
メロディーが一緒でも50ぐらい歌詞があります。

*「朝花節」 歌を歌う時に一番最初に歌う歌、お祝いなどにも歌われる。

奄美大島で大きく分けて笠利節(かさんぶし)とひぎゃ節(東唄)があります。
私は笠利節の方ですが、一般の人には判らないです。
北の方は波も穏やかで高い山が無いが、南は波も荒いし高い険しい山が多くて、地形なども歌に影響しているようです。

*「糸繰り節」 大島紬の糸繰りしながら歌ったもので、糸は切れてしまっても結び直すことができるけれども、人と人との縁は簡単に結び直すことができないと歌っています。

薩摩の時代に作られた歌詞が多く残っています。
琉球王国だった時代のものは聞いててたのしいようなメロディーとか歌詞が多かったようですが、薩摩の時代に入ってからはやはり歌詞も生活の苦しみだとか辛さなどをポジティブに捉えて、書かれている歌詞も沢山あります。
豊年節は本土では豊作を祝うと言うことが多いと思うが、奄美では薩摩から運ばれてくる食糧などを自分たちの作った砂糖とか大島紬と替えて食糧を貰うという形で、舟が来るのを喜ぶという歌詞になっています。

西郷さんの二番目の奥さんの愛加那さんのお兄さんの奥さんの役、里千代金役で出演する。
この役に出演することによって歌詞の解釈だったりとかも、違うところから見えてくるものがあったりして良い勉強になりました、今後活かせていけたらいいと思いました。
奄美の三線は沖縄の三線とほとんど同じ大きさですが、弦は沖縄の弦よりも細いです。
皮は昔はニシキヘビでしたが、今はプラスチックが多いです。
バチは耳かきのような長さの道具です。
元々は竹でしたが、これはプラスティックです。
奄美では女性のキーに合わせて調弦するので高いです。
三線は男性が弾くものでした。
裏声も、女性が歌う時にキーに合わせてお囃子と掛け合いで男性が歌うが、その時に地声では出ないので裏声を使って歌ったことからはじまったという説もあります。

スイスにいって歌いましたが、日本の歌なのに日本語に聞こえない、そこが興味深いとか美しい音楽だと言ってもらえることが多かったです。
海外に行って音楽の伝統のものの力とか素晴らしさを改めて感じます。
*「行きゅんにゃ加那













2018年5月20日日曜日

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む

鳥居大資(ソースメーカー社長)      ・【“美味しい”仕事人】和のソースに挑む
美味しいモノがあふれている日本の食、そのおいしいものの舞台裏で食を支えている人たちがいます。
フライなどにかける、ウスターソースはイギリスが発祥と言われています。
それが日本に伝わり、独自の製法が生み出されました。
現在大手メーカーの他、全国各地で地ソースを製造している会社が多数あって、それぞれの地域の嗜好に応じて生産されています。
静岡県浜松市のソースメーカーは大正13年の創業で、地元産の野菜や果物を原料に昔ながらの木桶で熟成させるなど丁寧なソース作りを続けています。
3代目社長の鳥居さん、(47歳)は大手商社や世界的な電機メーカで海外を飛び回る仕事をしていましたが、16年前に家業を継ぎました。
外国の人にも日本の出汁文化をアピールできるような和のソース作りに取り組んでいる鳥居さんに伺います。

ウスターソース、中濃ソース、トンカツソースそういったものを作っています。
粘度の差で分けています。
イギリスのウシターが発祥の地と言われています。
イギリスのウシターソースはしょっぱい、酸っぱいというような味でした。
日本に渡って来たのは明治になってからです。(西洋醤油と言われていた)
以前はカレーにかけていた。
コロッケ、メンチカツなどは油であげているので、酸味が入ることで脂っこさをソースが和らげてくれる。
今年で創業94年になります。
地ソース、地域地域でソース屋があります。
全国では100社以上あります。
西日本、関西の方に多くあります。
粉もの、お好み焼き、たこ焼きなどが関西が多いのでその関係で関西の方が多いです。

洋食屋さんが増えてきて祖父が教えてもらいながら作ってきたと言われます。
工場の食堂に卸していました。
最初は野菜を煮込むところから始まります。
玉ねぎ、ニンジン、ニンニク、セロリ、トマトなどを使っています。
生が良いので地元を優先的に使っています。
酵素、タンパク質なので高温では失活してしまうので、なるべくゆっくり低温で煮込んでいくことを心がけています。
コクが出る、甘みが増すことを狙ってゆっくり低い温度から煮込んでいきます。
煮込んだ野菜を石臼の機械に入れて行くと、種や皮も丸ごとすりつぶしてくれる。
石臼だと食感が滑らかな感じになって行く。
パウダーやペーストは簡単に買うことができるが、すでに加熱されていて、煮込むほど風味、香りが飛んで行ってしまう。
加熱する回数は少ない方がいい。

味付けは「さ し す せ そ」の「さ、し、す」 砂糖、塩、酢を入れます。
酢は重要なので自家製です。(30年前から)
自家製の酢はつんとした感じはないです。
香辛料を次に入れていきます。
ティーバックに紅茶を入れたようなふうに、香辛料を入れて出来上がったソースに浸けこんでいきます。
欲しいのは香りだけなのでこのような方法でやります。(味をいれこまない)
こんぶ、鰹節も使っています。
アンチョビはイギリス人にとってのうま味だったが、日本に来てからはアンジョビではなくて昆布、うちではそれに鰹節を加えて出汁を取っています。(和のうま味の基本)
グルタミン酸とイノシン酸を足すとうま味が1+1が3ぐらいになる。
私の代からそのようにしました。
寝かせておくとそれぞれの味がなじんでくるので、木桶熟成をやっています。
木桶は上手に使えば100年以上持つなということが判りました。
木桶はメンテナンスが大変で高価でもあります。
素材を楽しみたいと言うお客様が増えてきているので、調味料が素材を邪魔してはいけないということで、私どもにとっては追い風だと思います。
それが大手メーカーとは違うところです。

学生のころは海外の方に目が向きました。
外交官になるにはと言うことを考えて、外務省でアルバイトをしました。
その後カナダに留学しました。
学生論文で入選して日米学生会議にも出席しました。
大学卒業後、スタンフォード大学の大学院で学び修士課程を修了する。
アジアに特化した政治、経済の国際関係の勉強をさせてもらいました。
大手商社に入社、バブルがはじけた時で審査部で不良債権になるならないのぎりぎりのところの取引先を勉強しました。
大手電機メーカー(GE)に就職。
2004年家業に戻る。
会社を運営スタイルはこうも違うのかと言うことを勉強しました。
私が家に戻って来る直前に父が倒れてしまうと言うことがありました。
2001年から毎年新しいものに挑戦してきました。
すこしずつ素材が改良されている中でソースがどれだけ変わっているのかということに対して、一つのアンチテーゼとして出したかった。
食の世界では直ぐに新しいものには飛び付かない傾向にあり、半歩先をねらってきました。
スパイス感のしない状態に持っていこうと試みました。
香辛料の量を押さえたものを作っていきました。

2012年には半径50km以内の原料で作る、地ソースのベースのような考え方。
東日本大震災を経験して、本当に地元だけで回せるのか、その時にどういう味になるのかということのトライアルでした。
2014年には和食に合うソース、2015年には浜名湖産の牡蠣を使ったオイスターソースには塩麹八丁味噌を使い、2016年には米の甘みを生かしたソースなど和の原料を使う。
ソースが世界の中に受け入れられた時に、原材料だけを見たらすぐにぱくられてしまう。限り無く日本ならではのものを使ったソースだと言うことになると、日本からという起点が出来るので、原材料をより日本ならではのものにしています。
和食に使える芯が無いと、着地点がないのではないかということになってしまって、日本人が普段食べているものによりソースを浸透させたいという狙いはあります。
ウスターソースも進化して、ウスターソースでいいのかなあとの思いもあり、名前も考えないといけないのかも。
















2018年5月19日土曜日

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと(H29/11/4 OA)

楠木新(人事・キャリアコンサルタント)  ・定年後をイキイキと(H29/11/4 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/11/blog-post_4.htmlをご覧ください。

2018年5月18日金曜日

内藤啓子(長女)              ・【わが心の人】阪田寛夫

内藤啓子(長女)              ・【わが心の人】阪田寛夫
詩人、作家 大正14年大阪生まれ、東京大学卒業後、朝日放送に入社、ラジオ番組の制作などに携わりました。
しかし文筆業に専念するために退社し、昭和50年には「土の器」で芥川賞を受けました。
また童謡「サッちゃん」「歌えバンバン」「夕日が背中を押してくる」など作詞者としても知られています。
平成17年阪田寛夫さんは亡くなられました。(79歳)

昨年「枕詞はサッちゃん」を出版。
父は小説とノンフィクションの中間見たいなことをコツコツと丁寧に書いた人でした。
阿川佐和子さんとは幼馴染で中野区の鷺宮の20軒ほどの団地の中で一緒に育ちました。
「強父論」を阿川佐和子さんが父のことを書きました。
「サッちゃん」は佐和子さんがモデルになっていると言われているが。
実はモデルの方に迷惑がかかってはいけないということで父は黙っていたが、大坂の幼稚園の一期上にさち子さんと言う方がいて、名前の響きが好きなのと風のように走る女の子で、初恋だったのかなと思うんですが、阿川さんとの対談でようやく発表しました。
言葉と曲がぴったり合っていて、一字一句変えられないと父は言っていました。
父が亡くなったとに、大阪の幼稚園に歌碑が出来ました。
妹(大浦みずき)と一緒に除幕式に行きました。

阪田一家と吉田一家(母の家)は近くに住んでいました。
共に裕福なクリスチャンの家庭で、南大阪幼稚園を作るにあたっても両家が力を尽くして、「サッちゃん」のモデルは一期生、父は二期生、母は三期生でした。
父は悪ふざけする感じの子だったようです。
母は8人兄弟の末っ子で物おじしないタイプで大柄な人でした。
阪田家の長男のかずお?と吉田家の長女のみえが恋愛結婚して、その二人がめんどうな親戚を増やしたくないということで弟と妹をくっつけちゃえと言うことだったようで、母はみんなが結婚せいと言っていたからしょうがないから結婚したわと言っていました。
父はラジオ番組の制作などに携わりましたが、退社して文筆業に専念するようになりまた。
すでに「サッちゃん」の音楽著作権料が入って来ると言うのも一つの要因だとは思いますが。
両親が毎日大喧嘩していました。
或る時「今日から俺を叔父さんと呼べ」と言い出したんです。
離婚するということになって、言われたその日から「叔父さん」と言い出しました。
でも結局離婚しませんでした。

母も3回危篤になり、父も最後に具合が悪くなり、聴覚は最後まで残るので呼びかけなさいと言われて、「叔父さん」とか言ってしまってはまずいので名前を呼んでお茶を濁しました。
父は外面が良くて、外ではほとんどしゃべらず照れ屋で自意識過剰なタイプでした。
家族でどこかに行くことは皆無でした。
しゃべらず照れ屋の父が詩「猫を飼う規則」を朗読する。
父はメモ魔でなんでも書いて取っておくので、母は燃えるごみにすればすっきりすると言っていました。
一作品に段ボール一箱あり、書き上がっても取っておくわけです。
私に清書の鉢が回ってきました。
昭和40年代前半にドラマを担当していましたが、筆が遅かったです。
出来栄えについては常に聞いてきましたが、その対応が難しかった。
手紙を出した手紙のコピーなども残しておきました。
ユーモアの感覚は詩の方に生かされていると思います。
「おなかのへるうた」 作詞 阪田寛夫 作曲 大中恩
大中恩さんは阪田寛夫のいとこです。

旧制高校は高知で三浦朱門さんとは寮で同室でした。
その後もずーっと交流が続きました。
まど・みちおさんと一緒に詩集を出したりしています。
父はお金には恵まれませんでしたが、まわりの方には恵まれたと思います。















2018年5月17日木曜日

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命

春風亭一朝(噺家)             ・いつもイッチョウ懸命
1950年東京足立区生まれ、67歳、高校卒業後、粋でいなせな噺家として知られる五代目春風亭柳朝師匠に弟子入りしました。
一朝さんはその江戸前の芸風を見事に受け継いでいて、 江戸っ子を演じさせたらこれほど似合う噺家は珍しいと言われる程です。
江戸の言葉を正しく話せることから、大河ドラマ龍馬伝などの時代劇で江戸弁の指導などもしています。
笛の奏者としても二つ目時代はプロとして歌舞伎で吹くこともしていました。
今年入門から50年の一朝さんに伺います。

枕でのフレーズの定番「イッチョウ懸命頑張ります」はいつごろ始めたのかは覚えていません。(二つ目のころからか)
今年芸歴50年、でもあっという間ですね。
特にお祝い事はしません。
兄が落語の本を買ってきて面白くて、TVで落語の番組を見てからですかね。(中学2年)
自分で覚えて教室でやっていました。
先代の金馬師匠、圓歌師匠、志ん朝師匠などを覚えています。
TVの素人寄席には高校2年の時に出ました。
予選で100人ぐらいいて駄目だとおもっていたら、本選に出ることになりました。
文楽師匠、ミヤコ蝶々師匠、アダチ 龍光師匠、一龍斎 貞丈師匠など審査員はそうそうたるメンバーでした。
その番組で4回出ました、その番組で真打ちとなりました。
「上手いね噺家になりなさい」、と文楽師匠に言われてその気になりました。

小さい時はこまっちゃくれた子だったようで、いたずらばっかりやっていました。
小学校のころは野球選手に憧れていました。
めんこ、ビー玉、べーごまなどをやっていました。
兄弟は兄がいました。
高校は都立化学工業高等学校に行きました。
落語家になりたかったが、高校にはいかなければ駄目だと親から言われて、「落ち研」があったので選びました。
「落ち研」は2人でした。
年に1~2つ位を本で覚えて文化祭でやったりしていました。
3年なる前に噺家になろうと思って、弟子にいったが、学校に通いながら噺家見習いをしていました。
林家正蔵(彦六)師匠の処にいったが、弟子が一杯いた為惣領弟子の春風亭柳朝師匠の処に行くことになりました。(高校2年)

父は日本刺繍の職人ですが、落語が好きで反対はしませんでしたが、母親が良い顔をしませんでした。
新人でも良い着物を着ていました。
春風亭柳朝師匠は絵に描いた江戸ッ子という感じで言葉に関してうるさかったです。
「がぎぐげご」は特に注意されました。
普段の俺を見ていろというような感じでした。
落語は直ぐに覚える様な感じでこなせました。(よく聞くようにしていました)
稽古は色んなところでやっていました。
1970年4月 前座になる。名は朝太郎。
1973年9月 二つ目昇進し、一朝に改名。
1980年 弟弟子春風亭小朝が一朝よりも先に真打昇進
1982年12月 真打昇進するが、師匠柳朝が脳梗塞に倒れる。
1984年 第4回国立演芸場花形新人大賞受賞。
1986年 文化庁芸術祭優秀賞受賞
1991年2月7日 師匠柳朝死去。(私が41歳の時)

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」などの時代劇で江戸弁の指導することになる。
最初は「半七捕物帳」でした。
「龍馬伝」では勝海舟への指導でした。
物語に関する資料を集めて勉強などしました。
義父の五代目片岡 市蔵さんが綺麗な江戸弁を喋っていましたので、師匠もそうですので両方から影響を受けました。
二つ目の頃歌舞伎で笛を吹いていて、7,8年やりました。
妻とは楽屋で会ったり、浅草の喫茶店で会ったりしているうちに、付き合うようになりました。
高校の時に笛を買って吹き始めて、噺家になってから先生のところに行って学ぶようになりました。
弟子は10人います。
2007年 総領弟子朝之助が6代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進。
2012年 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進。
なんかきっかけを掴んでうまく作用するとそうなるんですね。
変な方にはいかないように(基本ができていないのに話を今風に壊すとか)だけは、弟子に対して気を配っています。












2018年5月16日水曜日

池内了(名古屋大学名誉教授)        ・科学の光と影

池内了(名古屋大学名誉教授)        ・科学の光と影
73歳、日本の科学の第一線からは引退されているが、様々な分野の科学技術に造詣が深く、日本科学会のご意見番的存在と言われています。
そして私達は発展進化してきた科学技術の成果のうえに生きているが、その科学は善悪両面がある、光と影、裏と表の二面性があると説き続けています。
池内さんは多くの著書を通じて科学の内実を伝え、科学の未来をバラ色に描くのではなく、科学は使い方次第で善から悪に転嫁する事を忘れずに、むしろ科学がもたらす影を常に想像してその弊害を少なくするために、科学とどう付き合うべきかを考え続けて来ました。
現代の科学と社会の関係がいかにあるべきかを考え、著作活動に加えて講演、講座に多忙を極める池内さんに伺います。

小さいころから物を知りたがる、聞きたがる、仕組みを考えたがる理科的な発想を持っていました。
4歳上の兄がいて、何をやっても負ける訳です。
兄を観察して唯一勝てるのが理数系だと思いました。
日本で唯一ノーベル賞を貰った湯川さんに憧れていました。
素粒子物理学をやろうと思って京大に行きました。
全国から優秀な人間が集まって来る訳で、宇宙物理学を選びました。
湯川先生の一番弟子の林先生が助教授にいましたが、素粒子物理学から宇宙物理学に向かったので私も行きました。
40歳過ぎたころから新聞に科学者の観点から世の中の様々な出来事を論評するという記事を書いて来ました。
生物、化学、数学など様々あり、基礎的な部分は押さえておかないといけないと思いました。
子供向けの岩波ジュニア新書を読んで、大まかなことを探ります。
関連文書を数冊読んで、幅をひろげました。(全分野浅いが)
広い観点、違った観点から論ずれば面白いのではないか、という事を取り上げてそれを本にしてまとめてみようと思ってやってきました。

1995年大阪大学で教授をしていましたが、3つの大きなことが起きました。
①1月に阪神淡路大震災が起きて6000人以上の方が亡くなった。
地震は予知できない、明らかなのに今でも予知できるという看板を掲げて科学者がのうのうとやっているのはけしからんと言うことを新聞に書きました。
東日本大震災で予知できないことが認められた。
②3月にオウム真理教事件(サリンをばらまいて死者が出た)が起こりました。
阪大の出身者がオウム真理教のナンバー2にいると、宇宙物理学出身ではないかと、お前の弟子なのかと、もしそうならばお前の教育が悪かったんだという手紙を読者から貰いましたが、弟子ではないと言ったが。
大学で私たちは教えていますが、私は物理学を教えていましたが、大学では知識を教えているだけ、知識が世の中にどのように生きているかについてはなにも教えていない。
世の中に科学と社会との関係に対してなにも教えていないので、大学教育としてはおかしいのではないかと思いました。
倫理的な考え方を身につけるべきだと考えて、科学と社会の側面を意識しました。

③12月には高速増殖炉のもんじゅがナトリウム漏れを起こして、ストップしてずーっと動かないまま去年廃炉になってしまった。
核燃料リサイクルは非常に技術レベルが高くて、もんじゅは原型炉だがもっともっと小さな炉から実験に順次取り組む必要があると、いっぺんに飛びつくのはナンセンスだとこれも書きました。
3つの大事件が起こって、科学と社会に関して研究を進めることが必要だとずーっと考えるようになりました。

科学によって非常に人間生活、社会生活、生産力とが良くなって来る部分が光の部分だとすると、弊害もある訳でそれを影と呼んでいます。
自転車、車、飛行機、人間の足の代わりの能力を拡大するが、車に乗ると歩かなくなり糖尿病にかかりやすくなる。
手計算、漢字も書けなくなる。
エアコンを使うと快適になるが、人間は汗をかかなくなり、急に暑い所に来た時には汗が出せなくなり、熱中症になったりする。
固有の能力を保ちたいのなら、余り科学に頼らない方がいいということです。
科学の民生利用と軍事利用、人を活かすために使えるし殺す為にも使われる、二面的な使われ方。
GPSは軍事的な目的に使われたが(潜水艦の位置、軍隊の位置など)、今はカーナビに使われている。
便利だと言うだけでは、危ないということです。
役に立つ科学と役に立たない科学があるが、役に立つばっかりが強調されて本来の科学
としての哲学的な部分とか、精神的な分野があり、商用主義が広がりすぎていて科学の純粋性が失われている。

人類の未来を考えてみた時に、ホーキングも言っているが「滅びに向かっている」と言っているが、もう少し俯瞰してみて、どういう方向に言ったらいいか考えてみたいという気持ちは強くなりました。
3・11の東日本大震災に対してどのように対応すべきか、を考えた時に僕は逆行していると思っている。
海岸べりの上に埋め立てをして50階とかのマンションを作る訳で、液状化問題、大きな津波が来た時には非常に危ない。
リニア新幹線など、より発展という論理ばかり追及していて、もうそろそろ発展という論理は止めて充実という豊かさを求める時代として次の時代を考えないと行きずまりますと僕は考える訳です。

はたして人間は原子核そのものをコントロールできるのだろうか。
100%安全な技術はあり得ない。
技術とどう付き合うかの問題になって来る。
原発はやめるべきであると考えている。
海底で掘削して資源を取るなどあるが、ほんとうに慎重にやらないと大変な事態を引き起こす可能性がある。
メタンハイドレートなどは下手に空中に散布してしまうと、温暖化バスとしては炭酸ガスの25倍あり、いっぺんに地球温暖化してしまう可能性がある。
寺田寅彦が1935年に亡くなっているが、80年以上前に、「科学によって人間は傲慢になっている、傲慢になってはいけない」と書いています。(地球物理学の科学者)
「天災は忘れたころにやって来る」
「文明が進むにしたがって、人間は次第に自然を征服しようという野心を生じた」

スケールアップ、スピードアップしているが、その結果として事故が起きると凄い悲劇がおこる。
新幹線技術は素晴らしいが、直下型地震があったりすると大丈夫か、よほど慎重に運転しないといけないと思う。
これ以上余り便利さ、効率性は求めなくていいのではないかと思っている。
「必要は発明の母」という言葉があるが、今は「発明は必要の母」となって来ているのではないか。
思いがけない発明が如何にも自分が必要であったかのように誤認する、その結果として発明が刺激を与えてより必要性を高めて行く。(企業戦略)
消費者の欲望を引っ張り出す為に広げて行く。
便利さを追求して行くと人間の固有能力が失われてゆく、人間が退化に向かってゆく。
AIが広がり色んなものに適用されると、余裕の時間が出来るが、教養を高めるための本を読んだり、名曲を聞いたりすればいいが、無駄につかってしまって、より忙しくなる。
AIは人間に危険なものであるとホーキング氏は警告している。
50年ぐらいの間に警告の兆候が出てくるのではないかと思っています。
















2018年5月15日火曜日

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび

村上真平(農園代表)            ・“自然農園”の夢、ふたたび
福島県生まれ、59歳、実家の農業を継ぐため三重県にある愛農学園農業学校で有機農業を学びました。
卒業後は20年間インドやバングラディッシュで農業の指導に当たり、帰国してからは福島県の飯館村で自然農法による農園作りに取り組んでいました。
村上さんが考える自然農園が実現しつつある矢先に東日本大震災、全てを失ってしまいました。
最終的に母校を避難先にした村上さんは三重県を拠点にして再び自然農園をスタート、持続可能な自然農法を通して新しいコミュニティーを作りたいとお話してくださいました。

福島県では藤の花が咲くと霜が降らなくなり、きゅうり、いんげんとかの苗を畑におろすということをしていました。
こちらに来ても同じです。
花、鳥の声、カッコウが鳴けば苗を植えても大丈夫だと福島では言っていました。
こちらに来て5年目になります。
標高が640mあります。
若干温かいがあまり変わらず、福島でやっていたリズムとほとんど変わらずにやっています。
自然農業は有機農業という一つのカテゴリーの中の一種で、自然のルール、自然が持続可能に何万年も築いたルールに沿った農業と考えています。
自然の森にはさまざまな虫などがいて、あれほど持続可能なものはないです。

持続可能性は3つのものによって作られている。
①植物が育って行く中で、植物、動物、微生物という、植物は太陽によって光合成をして食べ物を作る、それに動物が乗る、そしてどちらも死んでしまえば微生物が分解して戻して来る、循環というものが森林では行われ土が豊かになって行く。
疲弊することがない。
②生命は循環しているが、一つのものに頼らない。
安定するためには多様性が絶対必要で植物、動物、微生物が多様になる。
多様であるがゆえに様々な条件の中で生きていけるものがあり、それが繋がって循環している。
安定性は多様性から来ている。
③多層性、土、森の土は落ち葉により覆われていて、草、小さい木、中間の木、大きい木
という訳で多層に覆われている。
森は動けないので育つためには太陽の光、雨が必要で、この多層性が、太陽であれば強い光は上の方が使ってだんだん弱くなるに従って全部使って、太陽の光を最大限に使うシステムがある。
雨はショックをやわらげて出来た土を流さないように必ず守っている。
水源は森がショックを和らげてゆっくり土のなかに溜めて行くのでそれが水源になる。
太陽と雨を最大限に使うシステムを森が持っている。
最大限に使いなおかつ安定する多様性がもので循環している。
①循環、②多様性、③多層性が持続可能にする一番の基本だと思っています。

農業が1万5000年前に始まった時に先ず森を切る。
多層性が無くなってしまう。
自分の好きなものだけを植えるから多様性が無くなる。
収穫して持って行ってしまうので循環が壊れる。
農業は自然が持っている、循環、多様性、多層性を無意識に壊している。
豊かな土地が砂漠化している。
そこから自然農業は自然が持続可能にしている、それを農業の中に取り戻してゆくというふうに考えています。
飯館村で自然農園を作ってきた。
2002年から2011年まで9年間行ってこちらに移って来ました。
草生栽培、なるべく耕さないということを考えました。
土の上に有機物をおいておくと土がどんどん柔らかくなる。
作物の間には草が生えてくるが、或る程度大きくなると切ってそこのは畑に帰してあげると言うことをやってきました。
妻は結婚する前、自然食レストランをしていました。
2003年に結婚、飯館村で自然農園を基にしたエコビレッジコミュニティーと言っていた活動をしていました。
レストラン、石窯パン工房、農家民宿、海外の有機農業を勉強しに来た人たちにも教えていました。
賛同してくれる人が増えれば、自然に対して負荷のない生き方が出来るだろうと思いました。
2011年にはほぼ思惑通りの環境が出来上がり、2011年4月には一緒にと言うことで1家族が来ることになっていました。
イメージしてコミュニティーが出来ると思っていました。

原発に関しては勉強していました。
自動停止したということでほっとしたが、夕方になった時に非常電源が津波でだめになって外部電源は鉄塔が倒れて駄目で、バッテリーで1時間ということを聞いた時に、最悪は原子炉が飛んでしまうのではないかと焦りましたが、その後インターネットで調べたら冷えてきているような情報がありました
妻が夜中の2時に出先から来て避難しようと言ってきました。
インターネットで調べてみたら原発が冷却できなくなったと言う事だった。
直ぐに出ていこうと言うことで家族5人、研修生一人とで12日の明け方3時に妹の家がある山形県米沢に行きました。
その後妻の実家の浜松に行きました。
その後行き場のない人たちが20人ほどいたので、愛農学園に電話をして一時避難をさせてほしいと頼みました。
16日に他の避難者を含めて愛農学園に行きました。
昔16歳で愛農学園に来ましたが、当時愛農学園は4年制でした。
愛農学園はキリスト教を基本的な考えにして有機農業を教える農林高校でした。

長男なので、父親は卒業後継いでくれると思っていたが、2年間自由な時間を欲しいといったら良いと言ってくれました。
自転車での日本一周をするということで始めた半年後に戻って欲しいと言われて、もどりました。
その間に父親と決裂してしまいました。
世界中のどこに行っても生きていける人間になりたいと思ってインドに行くことを決めました。
それが人生の転機になり、20年間海外で暮らすことになりました。
貧しい人々に対してやっていることに色々考えて、シャプラニール海外協力の先駆けみたいな団体からバングラディッシュに行ってほしいということで行きました。
3年過ごすうちに農民と農業のあり方が非常に大きな問題があり、有機農業自然農業を進める方向に行きたいと思いました。
有機農場を作ったり、それをトレーニングすると言う仕事をしていました。
60,70年代からは種も買ってくる、農薬を使い、化学肥料を使って出来た農産物は安いということになって来ました。
有機農業がそういうことを解決するものだと思いました。

自然を収奪しないやり方。
環境問題、温暖化など様々な問題があるのは、人間が自然との生き方に対して利用はするが、循環の作用の中で生きて行くことを忘れていることが大きな問題になっていると感じてきています。
今は貧富の格差が物凄い。
世界のトップ8人の持っている財産は貧しい人の35億人と同じだというからむちゃくちゃです。
発展途上国など弱い立ち場の人達を搾取するようなことには関わりたくないと、飯館村で始める時のモットーとしました。
学ぶ場にしたいということで研修を一緒にしたいという事に関しては受け入れています。
フランスから一週間ほど研修に来たりもしています。
子供達の料理教室もやっています。
そのほかにも農産加工の物をワークショップでやってみたいと思います。
自分でものを育てて出来たものを調理するとかしたら、もっとそういう場ができると良いということで繋がって行く、そして農に関わって行く場所を作ろうと言うことで始まっています。









2018年5月14日月曜日

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事)   ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀

田名部和裕(日本高等学校野球連盟理事) ・【“2020”に託すもの】高校野球と歩んだ半世紀 (1)
今年の全国高校野球は100回を迎えます。
関西大学卒業後、1968年 日本高等学校野球連盟の事務局に入り、事務局長、参事、2010年からは理事として半世紀に渡って高等学校野球を内側から支えてこられました。
1968年は50回大会の年で大阪興國高等学校が優勝、翌年は三沢-松山商業の延長18回決勝再試合があった年です。
大学時代もマネージャーをしてきました。
関西大学は朝日新聞の運動部のお手伝いをしたりスコアブックを付けたりなどしていました。
高野連が人を探していて、どうだと言うことでが話がありました。
野球のことが出来ればと思いました。
戦後高校野球の再開の話があり、GHQが日本の大改革を進めてゆく中で、新聞社が大会を主催すると言うのは適当ではないと言うことだったが、文部省の助言もあり、連盟と言う組織を作って両方でやったらどうかということで、大会を復活するために高野連を作ることになりました。

ルールの整備、大会参加資格など徐々に固めて行きました。
野球統制令を廃止して独立した組織を作らないと学生野球は発展しないと、当時の人が随分苦労したようです。
戦後の1946年 第28回大会、西宮球場で復活、19校(全国でも745校)だった。
50回の時には全国で3900を超える数になる。
2県で1チームでは予選で負けると出られないので、自分の県から出したいと言う思いが強くて、増やしてゆくという事もありました。
宿舎(大部屋)、練習場の確保の問題などがありました。
起きている間はビジネスホテルのドアを開けて解放的にするとかアドバイスしたりしていました。
洗濯機の調達とか、宿舎側の協力などがありました。
出場校が49校になり、練習場の確保をなんとか70か所ぐらい行いましたが、結構大変でした。

当時高野連会長は佐伯達夫さん、高校野球は教育、人間形成の場であるということで高校野球を引っ張って行く。
不祥事に対しては厳しかった。
佐伯さんは常にかばんの中にはがきが入っていて、筆まめな人でした。
情報を沢山の人から収集するのが得意でした。
佐伯さんは野球はお金がかかるので質素にということをやかましく言っていました。
1973年にハワイのチームがアルミのバットを持って行って使っていいかどうかの話があり、佐伯さんはそれを見て翌年には直ぐに決めました。
最初は周りからの反対意見がありましたが、進めて行きました。
金属バットで一番お世話になったのは芝浦工大の学長をされた大本修先生、金属バットは宇宙開発事業の一つの成果である軽い金属、先生は終生出来るだけ木製に近づけるようにという話はありました。
もう一人お世話になった人として加藤正夫?先生、東京大学校工学部、金属の材料工学 戦前ゼロ戦の制作にもかかわった人です。
1990年に亡くなったが弔辞のなかで戦前は戦争にかかわったが、晩年は平和の仕事、高校野球の金属バットのお手伝いが出来て本当に良かったという内容を聞いて感動しました。

1995年阪神淡路大震災、牧野会長の安否、甲子園球場はどうなんだろうと思いました。
一段落した後にバイクで出かけましたが、ゆく所の景色では野球はしばらく無理だと思いました。
高速道路は真横になぎ倒されていましたし、2,3年は無理だろうなあと思っていましたが、甲子園はシーンとして大丈夫でした。
高校野球をやることで復興の邪魔になるのではという思いもあり、意見が別れました。
えんどうやすお?さん(朝日新聞運動部長)から、モスクワオリンピックのことを知ってるかといわれて、JOC委員長の栗本?さんに晩年お会いした時に生涯で一番つらかったのはモスクワオリンピックに行けないこと選手に伝えたことだったという話をしてくれて、努力しないでやらないと言うことでは駄目だと言うことで、まずは頑張ってみろと言われて踏ん切りがつきました。
2月15日に知事さんに相談に行きましたが、「被災地にも桜が咲く頃明るい話題がいるでしょう、おやんなさい」と言われました。
電車もなく交通対策が大変でした。
佐伯さんの不祥事に対する厳しさが、交通対策に関する交渉でも信頼してもらい、了解してもらいその時涙が出ました。

その時は高野連は牧野さんでした。
牧野さんは21年間高野連を務めました。
ストライクを先に言うのは日本だけで、牧野さんに言ったら替えたら方がいいんではないかと言われて、東京にいって話を進めようとしたが反対された。
物事が定まるには3つの法則がある、と言われた。
①なんか最初にやろうとすると馬鹿にされる。
②更に進めると猛烈に反対される。
③或る日自明の理と突然認められる。
最初リズムが違うという感覚があったが、今ではそうしないと不自然な感じさえします。












2018年5月13日日曜日

土門正夫(元NHKアナウンサー)     ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)

土門正夫(元NHKアナウンサー) ・【特選 スポーツ名場面の裏側で】五輪放送の証言(H21/9/25 OA)
去年の5月に87歳で亡くなった元NHKのスポーツアナウンサーの土門さんを偲んで再放送お聞きいただきます。
昭和26年NHKに入り、以来37年間スポーツ実況アナウンサとして数々の名放送をしてきました。
野球、バレーボール、体操、駅伝、ラグビーなど担当種目は30を越えました。
30歳の時の昭和35年のローマ大会から昭和59年のロサンゼルス大会まで夏と冬、併せて7回のオリンピック放送を担当し、日本人選手の金メダル放送は20回を数えました。
又紅白歌合戦の総合司会や、スタジオ番組スポーツアワーも担当し、笑顔とさわやかな口調と、心に残るコメントは多くのファンの感動を呼びました。

NHKを退職したのは57歳で辞めて今79歳ですから22年前になります。
健康診断は13,4年やっていませんので体は大丈夫だと思います。
松本:入社4年目で昭和50年春の選抜で第二試合を放送することになっていたが、緊張で夜眠れず大遅刻をして入場行進開会式に間に合わず、土門さんから「入場行進開会式を見ずに選抜放送が出来るか、何を思ってるんだ」と怒られました。
土門:あの感激に満ちた入場行進を見ずして高校野球の雰囲気の何が判るんだと、怒った覚えがあります。
昭和26年に赴任しましたが、アナウンサーになる気はなかった。
5年生の中学も精密機械でずーっと理工系でした。

昭和39年東京オリンピック 当時34歳、東洋の魔女と言われた女子バレー、ソ連との決勝。
一番印象的に覚えているのは、物凄い歓声でサイドアウトが5,6回あって最後のソ連のオーバーネットの瞬間静寂が訪れて、その後ウワーっと物凄い歓声があり、河西キャプテン 彼女だけ泣いてないんです。
後でどうしてと聞いたら、キャプテンだけは審判などに挨拶にする、それまでが私の役目なんです、泣いていられますかというんです。
彼女がいたからコントロール出来たんですね。
カラーのTV放送でした、マラソンも全コース中継であのオリンピックはNHKの技術さんの大勝利だったんです。
閉会式ではTV担当。
日本の運営なので何分何秒までびしっと決まっていたが、旗の列のむこうから山のように人がなっていて、後は滅茶滅茶でした。
だからこっちは真っ青でした。
これを言ってやろうと思っていたが何にもなしで、何を言ったか覚えていませんでした。
放送が終わった瞬間に皆が真っ青で、東京オリンピックの放送をめちゃくちゃにしてしまったと皆黙って、暫く坐っていて皆で謝ろうといって放送スタッフの大部屋に行ったら、
大拍手です、良かった、面白かった、と言われました。

僕はその後打ち上げなど色々やったらしいんですが、覚えて居ないんです、どういうふうに家に帰ったのかも覚えて居ないんです。(酔っぱらってじゃなくて)
イギリスの有名なジャーナリストが東京オリンピックの最高の成功は閉会式であると言っていました。
その後のオリンピックは全部あのスタイルですからね。
その閉会式を実況したのが土門正夫です。
昭和47年ミュンヘンオリンピック、男子団体4連覇の時に決勝の模様を放送。
TV実況放送。 最後の演技 塚原の鉄棒 月面宙返り
体操で3つ団体優勝の放送を担当して幸せな男だと思います。
同じミュンヘンの男子バレーボールが金メダルをとる。
準決勝、決勝で大逆転する。
2年前、ブルガリアに2セット取って逆転負けしている。
準決勝でブルガリアと対戦、2セット取られていて、松平監督は選手を集めて、「おい、これから2時間半じっくり試合を楽しもうぜ、やろうぜ。 2年前を思い出せ。」と言ったんです。
中村祐造、南 克幸選手のベテランを2人を入れて雰囲気を変えて大逆転した。

日本はソ連に弱かったが、準決勝で東ドイツがソ連を破って、相性のいい東ドイツと決勝を行うことになる。
東ドイツを破って日本が金メダルを取る。
選手は喜びに舞いあがっていました。
高校野球で自分が放送した中で一番印象に残っているのは昭和53年 60回大会
決勝での高知商業とPL学園。(この時初めてPL学園が優勝する)
監督が鶴岡さん(鶴岡一人さんの御子息)、解説が松永怜一さん(鶴岡監督の恩師)
優勝した瞬間に松永さんは目を真っ赤にして絶句し何も言えなかった。
0-2でリードされていたPL学園が9回の裏に一挙3点をいれて逆転サヨナラ優勝する。
準決勝でも中京に0-4リードされていたのを9回裏で同点にして延長戦で勝っている。
監督の一声があり逆転のきっかけを作っている。
昭和60年10月16日タイガースが対ヤクルト戦、21年ぶりに神宮球場で優勝するが、その時に実況をしました。
掛布選手のポールに当たるホームランから追撃が始まった。
物凄い歓声でした。
吉田監督はキャンプから徹底的に基本からやりました。

僕は自分が楽しむことを兼ねて言うと、スポーツで一番好きなのがラグビーです。
男と男がガーンとぶつかり合うあの迫力は最高です。
釜石の7連覇の時の試合に入る時に放送に入った時に歓声が凄くぞくぞくとして喋れなかったです。
昭和26年に広島に赴任、ガーンとやられて、辞めてやろうかとふてくされていました。
翌年ヘルシンキでオリンピックがあり、和田信賢さん(大先輩)が出かける時に一緒に行った志村正順さんが医師から「この方はこのまま仕事をしたら命の保証はありません」と言われるぐらい和田さんはからだの具合が悪かった。
でもオリンピックのテーマ音楽が始まると、今までの具合の悪さは吹っ飛んで、別人のような声で喋り始めて、和田さんの放送を聞いて何故か背すじがゾクゾクとするような感覚があり、じーっと聞いていました。
大会中に倒られてパリで一人で入院して日本に帰りたいと言って亡くなられました。
それを聞いて、この商売は命を掛けてまでやる仕事なのだと、初めて和田さんに教えてもらいました。
よし、一つやってみるか、それから真剣にやり出しました。

負けたくないから人が一やれば二をやってやると思いました、資料を調べるとか勉強すると言うことはだれでもやることですから。
しかし申し訳ないと言うことでは、家庭サービスは全くしませんでした。
スポーツ実況アナウンサーは楽しかったかと問われると、楽しくはありません、NHKを辞めて60歳過ぎてから、こんな面白い部分があるのかと思いました。
NHKという枠を自分ではめていたような気がします。
それまでは常に色々反省点を考えてしまいました。
パーフェクトはないです。
ロサンゼルスオリンピックのことに繋がるのですが、女子マラソンが初めて行われて、アンデルセンという選手が30何番目かに入って来てヨロヨロやっとゴールインして、静寂だったところに大歓声が起こり、その放送をラジオでやっていて高橋進さんと二人で涙が出てラジオなのに喋れなかった。
やっとぽつぽつ喋って、その後大反省して、上司に大変申し訳ないことをしたと、どういう理由があるにせよ放送出来ないほど涙を流してしまったことに対して謝りました。
でも「あれはあれでいいんだよ」と言ってもらいました。
頭で考えた言葉、作られた言葉は他人の心は打たない、あれでいいんだよと言ってくれました。
心の息づかい、鼓動、心の言葉が本当の実況なんだと思いました。
最近のことを一言言えば、あまりにも大向こう受けする放送が多過ぎるのではないか。
自分で人に受けようと思って放送している気持ちはあなたの気持の中にありませんか、
そういう言葉がちょっと耳について気になる今日この頃です。

















2018年5月12日土曜日

本郷由美子(精神対話士)         ・娘の思いを支えに生きる(H28/12/10 OA)

本郷由美子(大阪・池田小事件遺族 精神対話士)・ 娘の思いを支えに生きる(H28/12/10 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_10.htmlをご覧ください。

2018年5月11日金曜日

若竹千佐子(作家)            ・63歳、デビュー作で“芥川賞”

若竹千佐子(作家)            ・63歳、デビュー作で“芥川賞”
今年1月「おらおらでひとりいぐも」で63歳で芥川賞を受賞しました。
1954年岩手県遠野市生まれ、岩手大学教育学部を卒業し、数年間に渡って臨時教員を経験、その後結婚し上京、専業主婦として過ごしてきました。
小説を書き始めたきっかけは、ご主人を脳梗塞で亡くし落ち込む若竹さんに息子さんが小説講座を薦めたことでした。
8年間通い小説の基礎から学びました。
受賞作は夫を亡くした74歳の女性桃子さんの物語で東北弁を随所に活かして書かれています。

受賞して夢にも思っていなっかったことで4カ月たってはしゃぎ過ぎで、もうすぐいい加減前を見て次のことを思うようになりました。
岩手県遠野市生まれです。
子供のころから大柄な小娘で、三人兄弟の末っ子で、賑やかな家族で大事に甘やかされて育ちました。
本は大好きで兄、姉が借りてきた本を読んだり、最初に買ってもらった本が「安寿と厨子王」で祖母に字を習いながら、今度は自分が読んで祖母に聞かせるようになりました。
「風と共に去りぬ」は暗記するぐらい読みました。
岩手大学教育学部へ入学して、趣味で小説を書くようなライフスタイルを望んで居ました。
臨時教員をしながら本採用を目指していましたが、駄目でした。
どう生きていったらいいか考えていた時期でした。
向田邦子さんが大好きで、全編書きうつしたのが何作かありました。
シナリオの勉強をしたいと東京に行ってみようと思って、現在の埼玉県さいたま市の学習塾に住みこんで塾の先生をやりました。
慣れてきた頃、親から見合いの話があり会ったら、私の好きな男のタイプで、結婚しました。

私が30歳の時に千葉の方に来ました。
専業主婦で暮らしてきましたが、小説家になりたいという思いは頭の中にありました。
自分はどういう人間だとか、世の中はどういう世の中なんだろうかということについては書き記したいという思いがあり、書いたりはしていました。
河合隼雄さん、上野千鶴子さんの哲学的な本の感想なども書いていました。
何にもないところから一人の人間を生き生きと立ち上げたいなという思いはありました。
小説に出てくる「桃子」さんは74歳。
東京オリンピックの時は10歳でしたが、こういう世界があると言う思いがすごく新鮮で「桃子」さんの人生が変転するきっかけはどうしても東京オリンピックにしたかった。
9年前に57歳で脳梗塞で主人が亡くなりました。
がっかりして、何か意味があるような気がして、それを探したいと思いました。
根本先生の小説講座があると、息子が見つけて来ました。
根本先生はどんなボールを投げても受け止めてくれる安心感がありました。
「小説は哲学です」と言われました。

小説は悲しいというような内容だけではなくて、悲しいと思っている主人公をもっと上から見つめる目線があって、客観的に書く必要があると言うことを教わったり、又講座の仲間たちとのいい出会いがありました。
書いたものをお互い同士が批評し合って、最後に先生が講評するというスタイルでやっていました。
最終的には書き続ける意志が大事だと思いました。
小説は首都近郊の住宅地、「桃子」さんが故郷を離れた形を設定、そうすると或る意味浮遊感、根無し草的な生き方、ほとんどの人が戦後してきたわけで、何処に自分の居場所をみつけるかということは大きな問題で、一人ひとりが何かに繋がっていないと自分を確定していられないという、そういった不安とかを心に抱えながら生きていっている現代人、地縁血縁を離れた新しい人、その人がどうやって心に安定感を見付けられるか、しかし「桃子」さんは周辺とは交わらないという設定。
「桃子」さんの心をとらえるのは何か、ということで八角山、故郷に繋がる言葉を大事にして、そこが「桃子」さんの出発点だと言うものを故郷と話した所に「桃子」さんの居場所を置いたんです。

ポツンと都会に生きていて、帰属するものを探さなくてないけないが何処かに安定した幸せが求められるのかなという問いかけもあったが、その時に自分の子供のころ使った言葉をツールにして、自分を掘り下げて行くと言うふうにしたかった。
孤独の良さ、孤独だから自分に深く問いかけられるし考えられる。
老いていることと孤独ということは或る意味背中合わせになっているが、プラスで考えられるようなに生き方を書いてあげたかった。
私自身も一人で生きて行くので、孤独は必要だと言うぐらいに思っています。
常に悲しみの中に喜びがあると言うのは私の発見というか、マイナスの中にプラスを見付けると言うか、そういうことだったんです。
今は子供達は大きくなって夫も亡くなって、私をこの世に引きとめるものは客観的にはなにもなくて、でも私が生きてゆくとしたらそれは何なんだろうと思うと、この世にはもう用済みだけれども、私の自由意思で自己決定権を持って考えたことを行為する、その喜びを継続することが私のこれからなんだろうと、自由だと言うのが一番ですね。

母親には母親の人生があり楽しんで生きていってお前とは別なんだよ、と言うことを子供に言ってやることが、子供にとっても親切だと思っています。
おらはおらにしたがう、が一番いいと思います。
老いをいかに生きるかという小説があっていいと思う、これから長い時間が老いの時間でどうやって生きていくかの小説がもっとあっていいと思う。
頭の中で考えている処は小説の分野だと思います。
私は何を考えているんだろうの方が興味があり、問いを見付けてその答えを探す過程が物凄く面白くて、判ったことを面白おかしく書きたいみたいな感じです。
自分に対しての分析癖と分析したことを面白おかしく言及する癖、そんなことを小説に書けたらいいなあと思います。
私は内省する脳内のことを書いていこうと思っているんですが、社会に目を見けた視線も必要だと思っています。
やっぱり小説は面白くなければと思っていて、面白い小説は書きたいとは思っています。














    2018年5月10日木曜日

    吉岡秀人(医師)              ・“日本の心”で人を救う

    吉岡秀人(医師・ジャパンハート最高顧問)   ・“日本の心”で人を救う
    52歳、2004年国際医療支援団体ジャパンハートを立ち上げミャンマーを中心にカンボジア
    ラオスなど東南アジアの発展途上国で支援活動を続けています。
    1年のうち8カ月は海外に行っているという吉岡さん、支援活動の現状とジャパンハートを立ち上げる迄の道のり、医療にかける思いなどを伺います。

    ジャパンハートと名付けた思いは日本の文化、伝統から生まれる考え方に裏打ちされた国際協力の支援の仕組みがきっと世の中にとって相当役に立つだろうと、欧米とは違った日本人にしかできない国際協力をやっていこうという思いを込めています。
    欧米などの考ええ方は満たされたもの、豊かなものが義務として貧しきもの弱いものを助ける、そこに彼らの誇りなり喜びがあるが、日本人はちょっと違って自分が貧しくても人を助けることに美徳があり、相互扶助的な感覚ですが、僕らのカルチャーを使って世の中に貢献していこうと言うことです。
    日本発祥の国際医療ボランティア団体は珍しいです。
    日本は戦争に負けてから国際性が一旦落ちてきて、ヨーロッパなどは長い伝統があり元々豊かで、経済だけでなくて、周辺も発達してきた。
    日本は戦争後経済だけは発展させてきたが、周辺分野の意識は仕組み作りから遅れてきた。
    NGOなんかでも評価されているということはないんじゃないでしょうか。

    日本人は英語が出来ないといけない、とかフランス語が出来ないといけないと思っている。
    何故かと言うと日本の国際協力の大きなNGOがないから、この一言に尽きる。
    多国籍の所に日本人が混ぜてもらって、言語を覚えていかなくてはいけない。
    英語圏の人達がいて日本人はカルチャーは違うが入ってやると、ほんとうはその国の文化伝統を生かした、慣習を共有した同じ国の人が入ってやっていて意志の疎通も取り易い、考え方も共通しやすい、それぞれの団体にはポリシーがあってそれぞれの国のバックグラウンドにしたポリシーがある。
    日本人がアメリカ人に混じっても日本人のカルチャーが出せるかというと出せない。
    多様性とか日本人のいいところが発揮できないので、そういうのを解消するためには日本から国際的なNGOを作るしかないと言うことです。

    高度な英語のコミュニケーション能力が必要で、アメリカに語学留学を3年間する、その間に国際協力を辞めてしまう人が9割以上います。
    そのエネルギーがあればどれぐらいの人たちの役に立てただろうと考えた時に凄いことになっていると思う。
    その仕組みを作ればいいというのが僕の発想です。
    現地の人は英語を話せないので英語を覚えるなら現地語を覚えてほしいというのがスタンスです。
    ミャンマーを中心にカンボジア、ラオスなど東南アジアの発展途上国で医療の支援活動を続けています。

    手術、特に子供の医療を中心にやる団体で、日本でも医療者の足らない地域医療の現場場、へき地、離島に支援という事で送っています。
    医療は体だけ治したらいいというわけではなくて、心のケアも非常に大切で、こういう分野にも積極的にかかわっています。
    小児がんは日本で2500人から3000人新しく小児がんになり、この中の数十%は亡くなってゆくと言うのが現実です。
    当人の治療はするがメンタルな部分、家族のメンタルなことが発生するが、今まではそういったことは考えていなかった。
    経済的な問題等も出てくる。
    元気な間に家族と一緒に思い出を作ってあげるとか、旅行に一緒に連れていくとか、兄弟同士の時間を作って医療者が付き添ってあげる、スマイルスマイルプロジェクトと呼んで活動しています。

    東南アジアでは今は、エイズ、マラリアなどで死んでゆく人達がいます。
    田舎ではいまだに電気が通っていない所がおおい。
    病気しても医療機関にアクセスできない。
    カンボジアには大きな病院を作りました。
    ミャンマーでは外国に対して受け入れが厳しい政府と、優しい政府があり、状況に合わせて病院を借りたり作ったりしています。
    仏教のお坊さんが運営している病院がありその病院を借りて治療をしたりしています。
    薬には問題があって、アジアで出まわっている薬は中国、インド製で物凄く質に問題があって全く効かないとか。物凄く効きすぎるかということがあります。
    同じ量の麻酔でも効かなかったり、効きすぎたりしてしまう。
    同じ種類の薬を日本製に変えたら効いたということが度々あり薬の扱い方に本当に困っています。
    日本の企業が早く海外進出してそういう薬を駆逐していってほしいと思います。
    現地のニーズに合わせて作るプロジェクトでないと上手くいくわけがないということが僕の考え方で、そうすると政府の補助金は使えないので多くは寄付と自分達でお金を生み出すことも一部やっていて成り立っていて日本ではかなり珍しい組織だと思います。

    医師、看護師、ボランティア等がみずからお金を出して医療活動に参加するというスキームを作った訳です。
    一人参加するのに6,7万円、他に航空券、保険代も自ら払って医療活動する事になります。
    今は700人ぐらいいます。
    2020年までには1000人にもっていきたいと思っています。
    この方法は日本らしいところだと思います。
    いまの若い人達は物から精神的な豊かさにシフトしています。
    精神性の高いことが出来ると言うことは意識の進化だと思います。
    ボランティアの期間はそれぞれで2,3日から2,3年ということもあります。
    24,5年前は医療で国際協力には決死の覚悟で行けと言われていて、帰ってきたら就職先もない、いったら年収は途絶える、結婚はできない、家庭は持てないそういう覚悟で行けと言われていたが、僕は或る時気付いて国際協力をするのに覚悟はいるのかなと、今はアジアは発展してこの時代に東南アジアに国際協力に行くのに決死の覚悟が要るのかと気づく訳です。

    時代に合った仕組みがあるのではないかと思いました。
    休暇を使ったりして出来る範囲でいいと、何も犠牲にする必要はないと思います。
    1人の人間がが決死の覚悟で1年行ってくれるよりも、100人の人が3日間行ってくれた方がよっぽどバリエーションが高まり良いと思ったんです。
    現実に数百人が集まり増えていっています。
    人の育成については言葉は限定的で生きる雛型を見せておくといいと思っていて、人と接する時に応対、表情一つで伝わることはあってそういうことを若い人たちに伝えて行く事が一番の教育だと思います。
    医療は失敗したら人の体が壊れる命を失うので、努力が足りない人に対しては怒ったりするのは当たり前なのでしっかりやります。
    現地の医療担当者を丁寧に扱って一緒にやる事によって現地の人の心も動いて信用してくれるようになる。
    言葉があまり出来なくても時間を掛ければ伝わって行くものだと思います。

    1965年大阪の吹田市の生まれです。
    地下道に手足をなくした人が軍服を着て、暗くなると帰って来て子供の頃それを見て気持ち悪かった。
    同じころに大阪万博があり、同じ街でそういう姿があり、そこで僕は育ちました。
    1965年は中国では毛沢東の文化大革命が始まり、その後数千万人が餓死したと言われ、ベトナムではアメリカが空爆して、数年後カンボジアではポルポトが国民の1/4位殺して、韓国では80年代までが軍事政権で、飛行機で1、2時間程度の場所の差、20年程度の時間の差、人の運命は僅かな時空のずれでこんなに変わるものだと中学校のころに、はたと気が付きました。
    時間と空間のずれたポイントに僕は幸運に生まれてきて幸せだと感じて、何か世の中にしなければ申し訳ないと思いだしたのが、10代の頃でした。
    思い付いたのが医者しかなかったので医者になろうと決心しました。
    大分大学医学部に行きました。
    大学病院の医局に入ると組織の関係で抜けられなくなるので、最初から民間の救急病院に入ってしがらみから抜けることと、一日も早く技術を身につけることにしました。
    2、3日に一回は当直があり厳しかったことはあります。
    途上国に行くには産婦人科の治療が出来ないとだめなので、学ぶために鎌倉の産婦人科へ数か月ステーして、その後通いました。
    夕方まで大阪で診察して新大阪までダッシュして新幹線でいって鎌倉に午後11時ごろに着いて、寝れるのは行き帰りの新幹線の中でした。
    着いた翌日の夜8時まで産婦人科で働いて最終の新幹線に乗り帰ったら又救急病院で働きました。
    それを1年位週一回やっていました。

    ミャンマーでは20万人の日本兵が亡くなりその遺族の人による慰霊を行ってきたが、老齢化して慰霊が続けられなくなって、(1995年の時)ミャンマーで医療をして助けてほしいと彼らがWHOに相談していて、あるNGOを紹介されてそこから僕の方に連絡があってミャンマーに行かないかと相談がありました。
    若かったし一人で行きました。
    行ったところは8万人の街でした。
    政府の作った診療所を巡回診療していました。
    生まれたばかりの奇形児がほったらかしになっていたり、大やけどの子が皮膚が滅茶滅茶にくっついたまま生きているとか、日本にあるあらゆる病気があり、エイズは蔓延していたし酷い状態でした。
    自分に与えられた中で何処まで出来るのか、何処まで挑めるかだけだと思っています。
    自分の心にしたがってやってきただけです。
    究極にたどり着いた結論というのは、あらゆる苦労は自分の為にやっている、苦労から得たいろんなことが自分の為の将来の役に立ち、今も役に立っている。

    そのことが自分の中で理解出来ているから、その苦労を受け入れて生きている。
    苦労して得たものは自分の存在の尊さです。
    人は自分の事をどれほど大切に思えるか、そのためには自分がどういうものなのか理解できないといけないが、でも人間って自分の事を理解できない。
    ぼくらにとっての鏡はなにかというと世の中なんです。
    僕はやっていて、そうするとみんなが喜んでくれる、そうするとあなたは大切な人です価値ある人ですというメッセージを、直接的ではないが彼らは発信してくる訳です。
    それが僕の中に降り積もって来て、自分の事を自分が大切に出来るようになる。
    そうすると心から人の事を大切に出来るようになる。
    どんどんやればやるほど世の中の人が喜んでくれる。
    人を助けたら僕のことを助けたいと思う、僕に対して何かしたいと皆が思ってくれる。
    皆が僕を大切にしてくれるようになる、僕が得た一番のものは結果的には、自分の人生を大切にしよう大切にしようと生きていたら、世の中の皆が僕のことを大切してくれるようになった。
    これが僕が得た一番大きなものなんです。

    ジャパンハート 2004年に立ち上げましたが、僕の目から見てろくな組織がなかった。
    人の命を数量だけで数えているような人ばっかり周りにいて、医者としての生きざまにとって大切なことでこういう人達と一緒に医療をやって行ったら僕の人生がすり減るなと思ったんです。
    助からないかもしれない子にお金を掛けて働き掛けるという発想はまずないです。
    それでも家族の精神的なこと、その子が生まれてきて良かったと思ってもらえる医療があると思って実現するために作るしかないと思ったのがジャパンハートです。
    小児がんへの取り組み、治療の概念を変える、治療だけだったものに加えて家族へのメンタルなこと、経済的なことを含めてアプローチするのが医療なんだと言う形で日本社会に発信していきたいという思いがあります。
    医療の奥にある色々なものにアプローチする、それは医療者だけでは出来ないので多くの人に活動に協力して貰って、もっと大きな医療を作って行くというのが僕の目標となります。





    2018年5月9日水曜日

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(2)

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(2)
    還暦を過ぎてから新たな写真にチャレンジしています。

    家族は妻長男3人でしたが、長男は独立して妻とねこが8匹います。
    ねこは怒った顔を携帯で撮ってSNSに載せています。
    近くに依らなくてはいけなくて、ねこは近寄られるのが嫌いなので撮るのが難しい。
    車(古い車)とゴルフが好きです。
    ゴルフでは一番行っていた時にはハワイへは120回以上行っています。
    今は数ラウンドです。
    59歳の時に食道がんが出来て食道を全摘出しました。
    背中から切って食道を切って胃を繋いでいます。
    沢山は食べられなくなりました。
    煙草は50歳で辞めましたが遅かったです。
    酒は手術のあとに辞めましたが、3年後にちょっと試して今は以前と同じ量になりました。

    年配の方を撮るようになりました。
    最初友人から撮り始めました。
    遺影ではなく寿影としました。
    親族を撮ったりしていたがNGを喰らいました。
    自分の知っている主人とは違うと言うようなことを言われました。
    背景は白あるいは薄いグレーにしています。
    撮る時に宝物を一つだけ持ってきてほしいと言います。
    刀であったり、石であったりしました。
    それをもちながら僕と話をするんです、そうすると顔がほぐれるんです。
    緊張が随分ほぐれて良い顔をするんです。
    みんな喜びましたが、残念ながら何人かその写真を使いました。
    笑っている顔なので心配はしたが、楽しそうだといって喜んでもらいました。
    何年かやっているうちに有名な方も撮るようになりました。

    漫才師の内海桂子さん、竹中平蔵さん、川渕三郎さん、野球の江本 孟紀さん、三遊亭円楽さん、萩本欽一さんなどがいます。
    内海桂子さんはサンゴ(指輪と帯締)でした。(96歳)
    いい顔をして話してくれて凄く良かったです、エネルギーを貰いました。
    竹中平蔵さんは初めて書いた本(300ページ位)を持ってきました。
    毎日3ぺージ書くことに決めて書いてきたそうです。
    誇らしげな良い顔でした。
    三遊亭円楽さんは扇子を持ってきて一人でずーっと喋っていました。
    僕は後で扇子を買いに行きました。
    川渕三郎さんはテーブルナプキンに色んな人のサインが書いてありそれを持ってきました。
    楽天の球団の関係者、360人から730人のVサインを撮りました。(顔が判るように撮って欲しいとの要望がありました)
    その時は5分位の時間で撮りました。
    鈴木亜久里さんは家族の写真を持ってきて撮りました。(ハンドルとかヘルメットかと思ったが)
    3年ごとに更新しようと思っていて自分が元気でないと撮れないです。

    心にピントを合わせると本当に良い表情が出てくると思います。
    宝物が上手く取り持ってくれます。
    寿影は5~10分で撮ります。(300~500枚)
    ルノワールの「可愛いイレーヌ」を国立新美術館で見たが、目にピントが合っていると思った。
    ピントを何処にするかはカメラマンの意志だと思います。
    様々なところでテストで助手に撮ってもらっています。
    僕の宝物はやはりカメラです。(複数)
    最初にグラビアを撮った時のニコンFはまだ持っています。
    寿影はまだ100人満たないです。
    寿影を撮るのに移動スタジオでやって行きたいという思いがあります。















    2018年5月8日火曜日

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(1)

    渡辺達生(カメラマン)          ・心にピントを合わせる(1)
    69歳、独学で写真を学び篠山紀信さんと並び称されるグラビアカメラマンとなりました。
    これまで40年間に4000人以上のモデルを撮影、これまでに出版した写真集は230冊を越えます。
    女性グラビアの巨匠と言われるまでになった足跡を訪ね撮影の苦労、エピソードなどを伺います。

    写真は親爺がカメラを何台か持っていたので小学校のころから気になっていました。
    生まれは山梨県で、8歳の終わりごろまでいました。
    父の転勤で代官山の社宅にきました。
    事務所も麻布などに行きましたが、こっちに戻ってきてしまいました。
    大学は成蹊の経済学部に籍を置きました。
    高校に行く頃には写真に自信がありましたが、親爺の意向もあり成蹊大学に行くことにしました。
    大学の3年の終わりごろ映画が好きな人がいて、現場を手伝いに来るように言われて、演出家に紹介されて週刊サンケイに知り合いがいるからということで行きました。
    週刊サンケイの写真部の暗室で現像する仕事をしました。
    直ぐ先輩に色々聞いてその繰り返しで覚えて行きました。
    篠山紀信さんが好きでした。
    『GORO』という雑誌の編集部に移って仕事をしている時に、篠山さんのゲラ刷りを貰って研究しまくりました。

    機械の操作だけは一杯やらないとだめです。
    どのレンズを使ったらいいかとか、常に考えています。(野球で言うと素振り、キャッチボールに相当します)
    何処から何処まで区切って撮るか、常に訓練しています。
    カメラを向けて1対1で撮ろうとする時に、お互いが知らないとちょっと気まずいし厭なのでお互いが喋って、友達になってからでないと厭だと思っています。
    褒めること、貶すのも一つです。(ただただ褒めても駄目)
    メーク中などに顔の形を物凄く見ていて特徴を見つけます。
    また撮って欲しいと言う人が結構いて、小野真弓さんは6冊(1冊100ページ)撮りました。

    40年間でモデルを4000人以上撮りました、230冊になりました。
    雑誌の表紙は1枚ですが、10分位で400から500枚撮りその中から一枚を選びますから、それを考えるとかなりな枚数になります。
    海外にいって500~600本とってX線から保護してテスト現像するが、大丈夫かどうかその時は怖いです。
    デジタルで今は自分でもモデルさんも見る事が出来るが、緊張感がなくなると言うこともあり良い面、悪い面もあります。
    武田久美子さんの貝殻のビキニは30万部を越えました。
    残念ながら僕のアイデアではなかった。
    彼女が貝殻で水着を作ったら面白んじゃないかということで作りました。

    川島なお美さんの写真集は50~60万部になりました。
    最近はネットで、なんで本の手触りを感じないのかなあと思います。
    15歳の片平なぎささんの水着のページを作ったのですが鮮烈に残っています。
    広告で宮沢りえさんと後藤久美子さんの写真を撮りましたが 12歳の時に2人で一画面を撮りましたが、可愛かったです。
    グアムで斎藤慶子さんを撮りましたが、それも記憶に残っています。
    人里離れたビーチに行ったりするとチームとの一体感が出てきたりして楽しいです。
    鈴木優華さんの笑顔が好きです、会うとまず笑うんです。

    美空ひばりさんの「河の流れのように」のジャケットを撮りました。
    レコードが出て直ぐに亡くなりました。
    良い表情を撮ることが出来ました。
    石川さゆりさん、山下久美子さんなどなども。
    グラビアはちょっとしたニュースだと思います。
    10,20年たった時にこの時私はこんなことをやっていたと、思いだしたりできる様なそんなつもりでもやっています。
    どうやって撮っているのか、ほんとうは見てほしいとは思いますが。
    弟子は24人ぐらいいます。
    撮影現場はお祭りみたいに大騒ぎです。
    最後には必ず笑顔でピースサインを撮ります。









    2018年5月7日月曜日

    本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】大隈重信

    本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・【近代日本150年 明治の群像】大隈重信
    講談師 神田蘭

    講談による紹介
    天保9年(1838年)2月 佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。
    7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、退学させられる。
    その後自分の意志で国学、蘭学、英語を学び、弘道館の教授として働くようになる。
    アメリカの独立宣言に大きな影響を受けて政治家になる事を決意、討幕を目指して脱藩する。
    やがて討幕がかない明治新政府でもって近代日本の基礎を作って行くわけですが,政治家として重信は二度内閣総理大臣を務め教育者としては早稲田大学を創立し、佐賀七賢人の一人に数えられ数々の偉業を成し遂げる。
    明治14年では挫折を味わい、爆弾にみまわれ右足を無くし、離婚を経験、それでもめげず前へと進む精神力、何故そんな精神力をもてたのか、それには母親三井子の教えが根本にあったと言われます。
    重信が幼い頃、親戚の子供達と共に虫取りに出かけたが、籠を持つ係を押し付けられるが、捕まえたセミを逃してしまってばかり。
    親せきの子供達からうすのろとののしられ、泣かされてばかりいたそうです。
    泣いて帰って来る重信に母親は、男は泣くんじゃないとは言わずに、温かい目でいつも見守っていたと言います。
    12歳の時に父親が他界、その後母親は5人の子供を育て上げて行く。
    母親が子供達に常々言っていた教えが5つあるそうです。
    ①喧嘩をしてはいけません。
    ②人をいじめてはいけません。
    ③いつも先を見て進みなさい。
    ④過ぎたことをくよくよ振り返ってはいけません。
    ⑤人が困っていたら助けなさい。

    重信は生前母のことを、「吾輩は母一人の手で育てられたが、15,6歳の頃は乱暴者で餓鬼大将のようであった。 友人が遊びに来たが、母はたいそう友人が訪ねてくることを非常に喜んで手料理をこしらえて馳走してくれた。」言っている。
    晩年の重信は自分の家に人が尋ねてくることを非常に好んだと言われる。
    毎日20~70人が大隈邸を訪れていたとか。
    母親三井子の影響があると思われる。

    重信は砲術師の家300石の上士の家に生まれる。(年収2000万円は軽く超えている)
    『葉隠』は佐賀の武士の精神のよりどころだった。
    この時代はオランダ語が多く学ばれるが英語を学んでいるということは先見の明がある。
    佐賀藩校英学塾「致遠館」で教授フルベッキに英語を学んだ。
    副島種臣と共に重信は助教授となって指導に当たった。
    副島種臣は書家としても有名。
    大隈は貿易、財政でも頭角を現す。
    外交が得意で財政面でも抜きん出ていた。
    キリスト教の弾圧に関して英国公使パークス(傲慢高圧な人)、と交渉することになるが大隈が総大将になり対峙した。
    パークスが大隈のような下級な人間とは相手にできないと言った時に、「あなたもイギリス国王を戴いてここにいるのなら、私は天皇を戴いて全権として対峙している。
    それがいやだったら談判は無し」と言ったら、困って交渉せざるを得なくなった。
    ヨーロッパのこと、キリスト教のこと、法律の体系を知っていたのでパークスは吃驚してしまった。

    誰もがこいつは出来ると言うことが判って明治新政府でも要職についてゆくことになる。
    明治政府で彼がやったのは財政畑で、税金をどう取るかということで辣腕をふるった。
    財政のトップになり殖産興業政策を推進した。
    明治10年西南戦争がおこり、明治14年には政変が起きる。
    大久保利通が暗殺され、だれが継ぐのかいうと伊藤博文、大隈重信がいた。
    日本の政治をどういう形にするかと言った時に、政党による政治、憲法を作り憲法により政治を動かしてゆく、そういったことを整備する必要が有った。
    岩倉具視は保守で政党政治を否定、伊藤博文は政党政治は必要だがゆっくりやっていこうという考え、大隈重信は欧米を見ても政党政治をやるのが本筋なので早く議会を開かなくてはいけないという立場だった。
    岩倉と伊藤が手を組んで大隈は失脚すると言うことになる。(「明治14年の政変」)
    伊藤と大隈は終生ライバルということになって行く。
    明治15年 大隈は立憲改進党を結成、総理に就任、東京専門学校(現早稲田大学)を開設。

    明治21年 大隈が外務大臣に就任、大隈の外交手腕を評価する伊藤は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選ぶ。
    明治22年に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、右脚を切断するとともに辞職した。
    条約改正を成し遂げる一つの方法として外国人を裁判官として任用する、そうすれば外国も日本を信用してくれるだろうという思惑だった。
    売国奴だと言うことで爆弾を投げつけることになる。
    順天堂医院院長の佐藤進、ドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツらによって右脚の切断手術が行われた。
    犯人のことを馬鹿な奴だとか一切言わなかったということでした。
    明治23年第一回衆議院選挙、帝国議会が召集される。
    議会と藩閥(薩長)との戦いが繰り広げられてゆく。
    明治31年板垣退助などと憲政党を結成、第一次大隈内閣が成立。(薩長以外で始めて内閣を組織 「隈板内閣」)

    明治40年 いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任。
    明治42年 伊藤博文はハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。
    大隈は「あいつらしい死に方をしやがった」と言って、ワンワン泣いたそうです。
    明治45年 天皇崩御。
    大正3年 第二次大隈内閣成立。  第一次世界大戦勃発。
    大正5年 第二次大隈内閣解散。
    大正11年に亡くなる。
    日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催され、式には約30万人の一般市民が参列。




    2018年5月6日日曜日

    加藤みどり(声優)             ・【時代を創った声】加藤みどり(2)

    加藤みどり(声優)       ・【時代を創った声】加藤みどり(2)
    サザエさん役を演じ続けて来年は50年を迎えます。
    加藤さんがサザエさん役を務め始めてからの出来事や趣味の競馬を仕事にしてからの苦労などについて伺います。

    サザエさんは1969年放送開始、来年で50年。
    オーディションに行って男役かと思っていたらサザエさん役でした。
    その時に来て居たディレクターが見ていて、物凄く明るいということが気にいったようです。
    そそっかしいけど馬鹿ではない、明るいけどなんとかではない、サザエさんになる条件がいくつかあるらしくて、あれでいいということになったらしいんです。
    私自身、そそっかしいです。
    私が一番年下でキャリアも少なくて、スタジオでは緊張していました。
    周りは全部押さえてあるから安心するように言われました。
    余計なことを考えなかったのが結果として良かったと思います。
    2代目のカツオの高橋和枝さんになった時に、先輩ですし可愛がってくれて、どうやっても受けてくれて凄くやりやすかったです。
    サザエさん役を受けた時に他のアニメーションはやってはいけないと言われましたが、よく判りません。
    役をやる上で明るくて素直さは大事ですよと言われました。
    他のアニメには出たいとは思わなかった。

    競馬の放送番組は厳しくて、放送は必ず自分で裏を取って来るように言われて、許諾を得
    たものしか話してはいけないということで、確約をとる為に取材にゆくので、放送する為の必要な勉強が足で歩いてやって、騎手、厩舎、調教師、牧場、中央競馬界の全体のシステム 全部一つ一つ回って色々判ってくるのに20年かかっています。
    朝4時半に起きて調教を見て、木曜日午後はサザエさんの放送、土、日は競馬があり、自分で全部資料を作ります。
    徹底的に教育されましたが、面白かった。
    ゲスト的な立場で番組には出ていましたが、そこまで勉強しないと出してもらえなかった。
    一生懸命やる人間に対しては支えてくれました。
    競馬は今では文化としてのスポーツになって来ています。
    牧場にたんぽぽの花が咲き、木が生え、牧場は生命を作る場所なので、物凄く感動することが沢山あります。
    良い人と良い馬がいれば必ず感動する良い話がいっぱいあります、だからやめられない。

    周りの人がいてくれてサザエなんだと思います。
    製作する人間、そういう人達のお陰でここまで来ているので、そういう人達の感謝は絶対忘れてはいけないと思います。
    始まったときは私が一番下だったので我儘は通ったが、今は上の方になっているので、我儘は言えない、私は皆に気を使わないので皆が気を使ってと言いました。
    若い声優の人たちには「自分たちで頑張んなさい」、ということと、ガラスの後ろにいる人達に帰る時に「ありがとうございました」というようにそれが礼儀だよと云うんですが、言わない。
    逆にそういうことが出来る子はどんどん伸びて行く偉くなってゆく。
    大切なのは礼儀ですよ。
    オンエアを見ることです。
    結果が出ない努力は努力ではない、方向が違う。
    皆がやっている時にはスタジオからは絶対でなかったが、スタジオを出て行ってしまって人の演技を見ない、身になると思うが。
    夢を追いかけて行く為には努力と良い先輩を持つこと。
    遊びの中からは良い仕事は出てこないが、良い仕事の中からは必ず良い遊びが出てくる。
    人間関係が大事だと思います。
    上手くいかない場合が6割は自分にある、後の4割は典型的に合わない人がいる、それは割り切る。
    何かして貰ったら「有難う」と感謝の言葉をいう、それが言える生活が健康で長生きが出来る。







    2018年5月5日土曜日

    樋田毅(ジャーナリスト)          ・銃に倒れど、ペンは折らせず

    樋田毅(ジャーナリスト)          ・銃に倒れど、ペンは折らせず
    元朝日新聞の記者、昭和53年に入社、高知支局から兵庫県西宮市の阪神支局、大阪などで勤務、今日年退職して現在はフリーのジャーナリストとして活動しています。
    31年前1987年の5月3日に起きた朝日新聞阪神支局襲撃事件、樋田さんは後輩の記者を亡くしながらも取材班のキャップとして長年にわたって取材の最前線に立ちつづけました。
    事件は16年前に時効を迎えました。
    しかし樋田さんは事件の取材を続け、記事や本の執筆、講演などを続けています。

    お墓参りは5月3日の前に行って事件解決の誓いをします。
    朝日新聞は辞めたので家族と一緒に冥福を祈りたいと思います。
    事件は31年前1987年の5月3日の夜に起きる。
    朝日新聞阪神支局に目だし帽をかぶった男が無言で散弾銃を発砲。
    当時29歳だった小尻知博記者が殺害され、犬飼兵衛記者が右手薬指と小指を失う重症を負いました。
    最初の事件の後、赤報隊と名乗る犯行声明文が送られて、その後名古屋にある朝日新聞の関連施設での発砲事件や静岡支局の爆破未遂事件などが相次いで、広域重要116号事件に指定して捜査を行ってきたが、朝日新聞阪神支局襲撃事件は平成14年に時効を迎えて、他の事件も平成15年に全て時効となる。
    この事件への怒り、何としても犯人にたどり着きたいと言うのが一番大きいです。
    御両親にも犯人を必ず見つけ出すという事を約束しましたが、ご両親は亡くなられてしまいました。
    いまも取材をしています。
    言論の自由を全く無視した行為を赤報隊はしてきたこれは許せない行為だと思います。

    1952年4月愛知県生まれ、早稲田大学に進む。
    小さいころからおぼろげにジャーナリストになりたいと思っていて、大学時代には学生運動が盛んでした。
    新しい自治会を作ろうという運動をして私は新しい自治会の委員長をしていました。
    世の中の推移を眺め観察する新聞記者の役割をみて新聞記者になろうと思いました。
    面接の時に「何のために新聞記者になりたいのか」と問われて、「社会正義の実現の為です」と答えました。
    1978年に朝日新聞に入社。
    入社6年目、1983年に兵庫県のある市で公金横領事件があった。
    情報に基づいて本人に会いに行ったら、事実を認めた。
    その経緯を記事にした数日後、市役所の職員が自殺をした。
    その元は私の記事なので家に電話をしたら、奥さんが出て「あなたのことを一生恨みます」と言われて、ショックだった。
    記事に書くけれども字にするということは色んなものを背負うことでもあり、新聞記者として責任もあり重い仕事だと改めて自覚しました。

    その後大阪の社会部に異動、35歳の時に阪神支局襲撃事件が発生する。
    5月3日に休暇をとって夜くつろいでいた時に、TVのニュースで小尻知博記者が撃たれたということで、電話をしても通じなくて深夜に電話ががり、翌早朝来るように言われました。
    小尻知博記者は家族思いの誠実な良い記者だったと思います。
    赤報隊から犯行声明文が出される。
    朝日新聞、戦後の色んなものに対する敵意を感じました。
    声明文には怒り感じました。
    徹底的にこちらも身構えて赤報隊の正体を突き止める、犯行声明を見ながらこう思いました。
    最初2週間は朝から晩まで近辺の施設などの聞き込み調査をしました。
    その後特命取材班に入って、デスクからこれからは「君たちは原稿は書くな、犯人を追いかけろ、とにかく犯人を捕まえてこい、それがお前たちの仕事だ」と言われました。
    右翼取材をしようという事で、勉強したり取材をしてきました。
    記者なのに警察と同じことをしてきました。
    記事を書けないということは大きなストレスでした。

    事件の被害者であり、取材者であるという意味では他社から抜かれる様なことがあってはならなかった。
    被害者として捜査に協力するがどこまで協力するか、取材源の秘匿と言うことも大事なことで、捜査機関に伝えることでどんなことが起きるのか、言論の自由が補償されなくなる可能性もある、一方は権力機関なので、どこで折り合いをつけるのかということが大事です。
    取材をして行くとこのあたりが犯人ではないかと段々に浮かび上がって来るが、捜査機関なのではないので我々は白黒を付けることはできない。
    色々思い悩むことだらけでした。
    特命取材班にいた時も、事件が時効になって一人で取材をした時の色んな人に会いますが、事件が解決するかもしれないと考えながら、もし真犯人であればどんな原稿を書こうかと思って会いますが、犯人とは決めつけられないというふうにがっかりしてしまう結果が多かった。
    結果としては犯人像にはたどり着けずに30年以上過ぎてしまいました。

    時効を迎えてしまったが忸怩たる思いが浮かび上がってきます。
    そのことをご遺族の御両親に報告しました。
    朝日新聞のコメントとして、我々には時効はない、言論機関へのテロは認められないという思いは、時効によって変わることはない、ということでした。
    昨年の12月に朝日新聞を退職した後も取材活動をしています。
    自由な立ち場として取材の経緯を振り返る本を書きたいと言うふうに思っていて、2月の末に出すことが出来ました。
    この本をきっかけに新たな情報もあり、これから時間をかけてゆっくりやって行きたいと思います。
    右翼の人達とは300人は会っていると思います。
    右翼の人にとって、右翼の人は赤報隊を支持すると言うことは言われました。
    意見の違いに対して、殺してもいいという赤報隊の考えは我々は認められない。
    天誅は右翼の人にとって大事な考え方だと言うことは、私は認められませんとはっきり言って事件の解決に向けてご協力して下さいというやりとりをして、右翼の取材を続けて来ました。
    いったいこの事件はどうして起きたのか、この事件は何だったのか、という大きな謎があってこれを何としても解決していきたい、赤報隊との戦い、ギブアップしてはいけないことだと思います。

    赤報隊は単なる殺人グループなのか、思想グループなのかと問いたい。
    思想グループであるのならば名乗り出て何故あの事件を起こしたのか、何故小尻知博記者を殺害したのかしっかり語って欲しい。
    時効から15,6年たっているので、名乗り出ても刑事責任はないので語って欲しい。
    あの事件が未解決になっている中、ネットなどでは朝日新聞が又跋扈(ばっこ)してきているので赤報隊にお出まし願おうか、というような危険な言葉がネットなどで飛び交う中、大変な時代になっているかもしれないと思います。
    言論の自由を、テロが二度と起きない様な、私も一記者に戻ってそのために貢献したいと思っています。







    2018年5月4日金曜日

    沖藤典子(ノンフィクション作家)      ・老いてこそ冒険

    沖藤典子(ノンフィクション作家)      ・老いてこそ冒険
    昭和13年北海道の出身、北海道大学を卒業後、市場調査機関に勤務しキャリアを重ねましたが、夫の転勤や親の介護に直面し、退職を余儀なくされます。
    昭和54年自身の体験を纏めた「女が職場を去る日」はベストセラーとなりました。
    以来、結婚、子育て、介護といった女性を取り巻く様々な問題をテーマに執筆、講演を続けています。

    子供の頃山羊の小屋を見に行って、その時のドキドキした感じを私は冒険と言わせてもらっています。
    わくわくする心を大事にしたいと言う思いがあります。
    高校2年の時に世界史を習って本当にびっくりしました。
    生涯に3つの冒険をしようと思いました。
    ①エジプトのピラミッド、②中国の万里の長城、③アメリカのエンパイアステートビル、を見る。(高校生の時の思い)
    40年かけて達成しました。
    78歳の時にネパールに行く機会があり、ヒマラヤを見物しようと計画しました。
    高山病に掛かったりして家に帰って来てもう直ぐの処でひっくり返って救急車で運ばれ入院しました。(骨折して12日間入院)
    「命短し無理せよ老婆」というスローガンを立てて実行したが「命短し転ぶな老婆」といましめています。

    旅行のパンフレットを集めるのが好きです、行ったつもりになっています。
    なるべく自分で自分を励ますと言うことをしないと老いは楽しくないです。
    「女が職場を去る日」ドラマにもなる。
    父ががんを発病して仕事、子育て、介護で苦しみました。(40年前)
    これから高齢者社会が来ると、必ず年寄りのお世話の問題が出てくると思って勉強しようと思って、
    特別養護老人ホームに1年間行きました。
    介護の問題は愛情も大事だけれど専門的な知識、技術が無いと年寄りがかわいそうだと思いました。
    社会的なスキルを蓄積する制度が必要だと思いました。
    今は介護保険になっていろいろ議論もあるが、経済的条件で社会的な介護が受けられるよりも、本人の必要性に応じて受けられる今の介護の方が人の理にかなっていると思います。
    見る側の家族の方がどんどん年齢が高くなってきている。
    私も経験しましたが、老いたる妻の夫への介護も大変だなと思いました。

    良妻押し付けは世の中に多いですね。
    心の葛藤を全部良妻と言う言葉で押しつぶされる。
    出来るだけのことをしようと思っているが、自分自身が老いて疲れ果ててしまって私が先に倒れたらどうしようと思ってしまうわけです。
    11か月入院して家に帰って来た時には嬉しかったが、22日目に心不全で亡くなりました。
    夫の転勤は当時は単身赴任ということはなくて、私は会社を辞めて一緒に行きました。
    本を書いた時には400枚の原稿を20日で書いています、一日20枚書いて胸の中にたぎる思いを吐き出す思いで、それがエネルギーになるんですね。
    色々過去のことを思い出すが、この歳になるとあれだけ泣き叫んだこととか怒ったこととかが全部綺麗な思い出になってるんです、不思議ですね人間の心って。
    老いというものは心をまろやかにしてくれる部分があるのではないかと思います。
    子供も独立して現在は一人で暮らして3年になります。
    老いの時期というのは神様は与えてくれた解放の時期だとしみじみ思います、大切に生きたいと思っています。

    趣味をいくつかやっています。
    「共同参画市民スタデー21」男性女性地域の人達が皆で集まれるような会を作って16年になります。
    その人たちとお付きあいをしているのがとっても楽しいです。
    勤トレのジムにも通っています。(去年の12月から 79歳)
    筋肉が付いてきて階段の上り下りは平気です。
    口の筋肉が衰えると発音が悪くなる。
    独身で男性の高齢者は喋ることが少ないので、口の筋肉が衰えるので問題になっている。
    口の筋肉を鍛えるにはコーラス、朗読もいい。
    女性が長生きするのはお喋りで笑うからだと本当にそう思っています。
    朗読型の「平家物語」もやっています。
    俳句もやっています。
    大勢の中に自分の身を置くと、人様の発するエネルギーみたいなものが身体の中に入って来る。

    一か月に一回はピーっとしたおしゃれをするのがいいと思います。
    孤独は豊かな孤独はあるが、孤立は良くない。
    キーワード「他人様幸せ」他人様によって幸せを得る。
    何かあった時に近所の人たちが良くしてくれる。
    有るがままの自分で有るがままの日々を過ごしていこうと思っています。
    図書館が近いので良く行きます。
    日々冒険です。
    今の80代は昔の70代の体力を持っていると医師が言っていますが、年齢で一括りにするということはしないようにしています、私は私。
    夢手帳、自分がやりたいこと行きたいことを書いておくとかが、大事です。
    詩吟をやろうかと10年悩んでいます。(躊躇することもあります)
    自分を「機嫌よく、元気良くさせる」、そのためにはちょっとした冒険をする。
    楽天的であるということは大事で、余りくよくよ考えない、しかし用心も必要。
    80代で見るべきものを3つ考えていて、体力気力と相談して達成しようと思います。

















    2018年5月3日木曜日

    奥山景布子(作家)             ・尾張から日本の未来を見据えた男

    奥山景布子(作家)             ・尾張から日本の未来を見据えた男
    1966年愛知県生まれ、名古屋大学大学院博士課程を修了後、教員などを経て創作を始めます。
    2007年、戦に敗れた平家に仕えていた女性の悲哀を描いた、「平家蟹異聞」でオール読物新人賞を受賞、デビュー後も名古屋で執筆を続け、最近では子供向け歴史小説なども手掛けています。
    去年12月には幕末の尾張藩主徳川 慶勝と3人の弟を描いた長編小説「葵の残葉」を発表しました。

    本ばかり読んで人と付き合うのが苦手な子供時代でした。
    父の工場のダンボールの中に入って本を与えられて、本を読んでいたりしました。
    (幼稚園から小学校1,2年の頃)
    一人で過ごさなくてはいけないので、大きな音の中で本を読んでいました。
    伝記(紫式部、ヘレン・ケラーなど)多く読んでいました。
    東京に身を置くよりも、地方都市に身おく方がプラスな面もあるので、何の疑問をもったこともないです。
    名古屋に居たから書けたというのが「葵の残葉」。
    尾張徳川家14代の藩主徳川慶勝(よしかつ)と3人の弟を描いた長編歴史小説。
    尾張藩の傍系である高須松平家に生まれる。
    徳川慶勝の3人の弟は徳川慶勝の次に尾張藩主となる徳川茂徳(もちなが)、会津藩主の松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平 定敬(さだあき)、この兄弟。
    「葵の残葉」は幕末敵味方として戦うことになってしまう4兄弟を描いた長篇小説。

    徳川慶勝公は幕末のキーパーソンですが知名度が低い。(地元でも)
    初代尾張藩主徳川義直(とくがわよしなお)徳川家康の9男。
    官軍が江戸まで行く間にかなりの距離時間がある筈で、易々と進軍出来たのかおかしいと思う。
    徳川系の藩が攻撃もしないで通してしまったのか、実はそれに深くかかわったのが尾張家で、そこについては何にも出てこない。
    豊臣方の進攻、本来西からの備えに対して抵抗すべき人々が配置されているはずなのに、官軍がやすやすと突破できたのは尾張徳川家、徳川慶勝公の存在が凄く重要であるが、何故今まで語られなかったのか是非知ってほしいと思います。
    戊辰戦争は会津ではなくて尾張だったかもしれないし、日本が二つに割れてとか、そこに外国が付け込んできてとか、今の日本はなかったかもしれないと思います。

    尾張藩の歴代藩主が主に政務をとっていたのは二の丸御殿でした。(現在はない)
    尾張勤皇青松葉事件遺跡という石碑が建っています。
    朝廷を中心にした新しい政治の動きがあり、一方で幕府が政治をするものだという考えもあり、尾張がどちらに付くのか気にしていた。
    徳川慶勝公がその選択をするのに家中の幕府方に近い考えの藩士を処刑したり、蟄居謹慎とか厳しい処分を課したりしたのが、青松葉事件です。
    犠牲があったお陰で戦場にならずに済んだし、東海道、中山道沿いが戦場にならなかったのはこの事件があったからこそだと思います。
    14人の死者があったことを美的に語るのではなくて、有ったことを忘れないでほしい。

    鳥羽伏見の戦いで新政府軍が圧勝して、慶喜が逃げてしまうが、京都にいた慶勝公の立場が悪くなる。
    慶勝公と松平春嶽(容保)はそれまでは慶喜公と朝廷できちっと話をさせようとして、出来るだけ戦わないで、朝廷と幕府での新しい体制を作るのに参加して欲しいと言う動きをしていた。
    逃げてしまったのでいっぺんに立場が悪くなってしまった。
    朝廷方から忠誓を誓うことを見せろと言うことで家臣を粛清しなければいけなくなった。
    岩倉具視から京都から帰って幕府側に付くのなら勝手にどうぞ位に云われたようで、後から助けを求められても知らないよ、と冷たく言われてあえて戦うことをしなかった。
    慶勝公は新しい物事が好きで、西洋事情にも明るい方だったようで内戦をしていたら西洋列強に日本が分割されてしまうかもしれないという危機感を持っていて、あえて泣いて徳川方を切って、新しい体制に尾張方が参加する方を選んだということだった。
    慶勝公は写真が好きで自画像なども撮ったり、名古屋城の写真なども撮っている。
    現像液を含め写真に関するいろいろな研究もしていた。
    兄弟の写真も全部残っている。

    長州の征討に慶勝公は出かけるが、出来れば丸く収めようとしていたものと思われる。
    長州は3人の家老の首を差し出して戦争にはいたらなかった。
    慶勝公は今は内戦をしている場合ではないと、確固立たる信念のもとに戦いを行わなかったと私は思います。
    明治11年に兄弟4人で写っている写真を見た時に興味を持ちました。
    調べれば調べるほどスケールが大きくなりました。
    膨大な資料の中からどれを取るかということを考えなくてはいけなくて、何処まで捨てて書き切るかというふうに収斂していきました。
    第一次長征の時には西郷が参謀を務めたが、西郷さんの写真を撮っていたら面白かったなあと思いますが。(対面シーンを想像して小説には書きました)
    大きな声の方に耳を傾けがちですが、黙って全て自分の中に収めて退場してしまう人が中にはいますが、そういう人達が実はどんなことを考えていて、物事を考える時間をどう過ごしたのか、もう一回注目して人間を観察する必要があるかもしれません。


       


















    2018年5月2日水曜日

    今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家)      ・時代に挑み、時代に残す

    今泉今右衛門(人間国宝 陶芸家)      ・時代に挑み、時代に残す
    55歳、江戸時代佐賀藩の御用窯で焼かれていた色絵磁器の技法を受け継いでいる家元に生まれました。
    同じく人間国宝だった13代今泉今右衛門のもとで学び2002年に14代今泉今右衛門を襲名しました。
    墨はじきという技法などを駆使し父親が切り開いた表現をさらに進化させました。
    2014年に陶芸家としては史上最年少51歳で人間国宝に認定されています。
    今泉さんは有田400年の歴史は常に時代に挑み続け何かを残してきたと語ります。
    今泉さんが時代にどの様に挑み何を残そうとしているのか伺いました。

    それぞれの仕事を分業でして行っています、江戸時代からやってきています。
    陶器と磁器、一番判りやすいのは原料が陶器は粘土、土で、磁器の場合は石です。
    白い石を細かく砕いて水の中を通して粘土を作って行く。
    磁器の石が400年ほど前に有田の地で見つかって、日本における磁器の発祥の地になったわけです。
    色絵磁器、表面にガラス質の釉薬があるが、その下にある染付の藍の色、釉薬の上に赤緑、黄色などの綺麗な色柄が施されていてこれを色絵磁器と言います。
    鍋島藩の御用窯として作られた焼き物、その中でも特に色絵が付いたものが当時凄く賞美られたことによって、鍋島の焼き物を総称して色絵鍋島といいます。
     
    まず生地を作る仕事があります、ろくろでつくってそれを削り上げて生地を作って行く。
    その表面を拭き上げて行く、水拭きという仕事があります。
    それを素焼きの窯に入れてその後下絵、(通常染付と言う)青い色の線描きをしてその後面を塗りますが、線描きと面を塗る人も違います。
    釉薬をかけて本窯で焼きますが、釉薬をかける人、窯焚きさんも違います。
    その後に本窯から上がってきたものの上に、色絵付けの赤、面それぞれが分業していきます。
    それぞれが高い特殊な技術を要するので一人の人間では出来にくい、分業する事によってスペシャリストの仕事を併せて出来る仕事で、分業でしかできない仕事が大切。

    文様のデザインの形を一つ一つ新しいものを決めて行くことは代々の今右衛門がしてきました。
    自分で全てを作り上げるのではなく職人さんに手伝ってもらうこともあります。
    人間の手で書いてゆくと均一な線を描いていこうとして、雪の結晶など60度の角度で書いてゆくが、人間の書くものだと微妙に違ってきます。
    コンピューターではきっちり書くことが出来るが、何か温かみが無い。
    微妙な違い、揺らぎが美しいのではないかと思います。
    人間の手で出る来るものの良さが出てこその手で作る意味だと思うので、これから凄く重要になって来る時代だと思います。
    書いてゆく時間をかけることによって、時間がその人の考え方価値観を作り出してゆく、その違いはあると思っています。

    13代今泉今右衛門の次男として生まれる。
    小さいころから色々な物を作ることが好きでした。
    大学は工芸工業デザイン学科、立体を作るデザインの方です。
    卒業後陶芸とは関係にないインテリアの会社に3年間いました。
    最初営業、宣伝などをして、その後憧れをもっていた京都の鈴木治先生(戦後の日本陶芸を代表する陶芸家の一人、陶芸による新しい造形表現を目指して前衛陶芸家集団「走泥社」を結成)の所に修行に行きたいと思って父と一緒にお願いに行きました。
    週に3日行って、現代彫刻をしていたので小さな模型を持って行くと「我々がしているのは陶芸なんやで」と言われたが当時理解できなかった。
    その後有田に帰って来て仕事をして行く段階で、陶芸は彫刻とは違って、新しい形状であっても彫刻ではなくて陶芸であることの大切さ、陶芸、工芸の一番大切なところを判っていながら現代陶芸をされたんだと後になって判りました。
    色々言われたが判らなかったことが、家に帰って仕事をして行く段階であの言葉はこういうふうな言葉だったのかと後で色々判りました。

    27歳の時に有田に戻ってきました。
    周りはどんどん作品を作って発表していたので焦り不安は感じました。
    家の仕事の手伝いをしながらやっていましたが、父はこうしろとはあまり言わない人でした。
    父とは11年間一緒に仕事をしていましたが、雑談しながら美術のことなど話していました。
    或る時父の代わりに取材の話があり、「焼き物を作る上で大切なものは何ですか」と父に聞いたら、自分としては文様のリズミカルなところとか言いだすのかと思ったら、父は一言「人間性だよ」と言って、人間性が全て出てるものであるし、大切なことであると、11年間父は人間性を伝えたかったのだと思います。

    有田に帰って来てから数年経った頃、或る人から手紙をいただきました。
    自分は11代今右衛門をお世話したと、お世話したから花瓶を送ってくれと言うことで、父は花瓶を送ります。
    半年後、親戚が花瓶を持っていったので、先祖の供養にもう一度花瓶を送ってほしいとの事でした。
    父はそうかと言って送るんです、また半年して火事になったので又送ってくれと言われて周りは騙されているから送らない方がいいと言ったが、父は祖先がお世話になったのは事実かもしれない、誠意を持って接すれば人はだましきれないと言って、手紙も書いて送ったりしていたら、或る時から刑務所から手紙が来るようになって、父は手紙を返信する。
    その人が刑務所から出る時に逢いたいと言うことで、逢いに来て今までは自分は人様に顔向けできることはしてなかったが、今右衛門さんのお陰で真人間になれるかもしれないということでその場で号泣して帰って行かれました。
    父は人間性と言うことを大切に、地で生きていった人だったと思います。
    父は色鍋島の様な厳格なきちっとしたところが好きではなくて、ざっくりとした土物くさいうぶな感じが好きでした。
     吹 墨 (ふきずみ)という技法を鍋島の世界に取り入れて、全面に絵の具を吹きかける、グレーの絵の具を吹きかける、新しい世界を確立していった。
    最初は賛否両論あったが、信念を持っていく中で伝統工芸展で賞をいただいたり、日本陶芸展で受賞したりして自信を深めて行きました。

    2001年父が亡くなりましたが、その前に14代をどうするかお前たちで決めろと言われて、兄は商売をするから作る方は弟に任せると言うことになりました。
    90歳まで生きていけるほど元気だった父が75歳で亡くなり、維持できるかという不安が大きかった。
    墨はじきという江戸時代からの技法があるが、それを一つの柱にしようと言うことで色々試験をしながら仕事を始めて行きました。
    白抜きの線描きの技法で書道の墨で文様を描いてゆく。
    墨で描いた上に絵の具を載せて一度素焼きの窯に入れると、炭が燃えてなくなって白抜きの線が浮き出でくると言う染色の郎闋染と全く一緒の技法が江戸時代からありました。
    その技法に魅力を感じて取り掛かっていました。
    昔の物を見ていったら、波の部分の白の部分に筆の打ち込みがある。
    文様の背景に使われている。(人が気付かないような部分に繊細な技法が施されている)
    色鍋島は品格の高いものが作られるが、品格はその人の人間性とかがにじみ出るものなので、意識するものではないと思っていたが、出来上がった時に人が気付かない様な所にまで手間暇をかけるので分業と言う仕事でしかできないが、そういうことの積み重ねが品格に繋がるのではないかと思います。

    墨はじきを取り入れたことで何が進化したのか判らないが、自分の中で墨はじきを取り入れて行くことで墨はじきに気づいてゆく、それが大切だと思っています。
    「伝統は相続できない」、とよく父が言っていましたが仕事をする中で自分で気が付いて何かを積み上げて行くものであるというふうに思いました。
    プラチナと言う技法、金属の光に対するあこがれが自分の中にありまして、最初銀を使っていたが黒くなってゆく途中が汚くて、仕方なくプラチナを使いました。
    見え方が全然違って新しい雰囲気を編み出すことが出来ました。
    輝き、周りの色を取り込み、見る角度によって見え方が違う。
    感動する思いさえあれば思っていたことが出来るのではないかと、学生の時に感動した雪の結晶の第一印象、ずーっと思っているとどこかで仕事と思いが結びつくことがあるのではないかと思います。
    伝統は参考として写真とか数字とかはなければいけないが、それにとらわれてはいけない。
    時代に挑みつつ結果的に何か残って居ると言うことの大切さが陶芸の中にあるのではないかと思います。
    常に時代に挑んでゆく姿勢が必要だと思います。


















    2018年5月1日火曜日

    萩本欽一(コメディアン)          ・【母を語る】

    萩本欽一(コメディアン)          ・【母を語る】
    昭和16年東京台東区生まれ、駒込高等学校を卒業後浅草東洋劇場に入り、昭和37年フランス座で坂上二郎さんと出会い、昭和41年コント55号を結成、浅草演芸場で初舞台を披露、その後人気となりTVやラジオ、映画出演などで大活躍をします。
    昭和44年にはゴールデンアロー特別賞を受賞、昭和50年から60年代にかけて自身の名前を付けたTV番組「欽ちゃんシリーズ」で日本中の人気者になります。
    平成8年にはNHKの朝の連続TV小説「ひまわり」ではナレーターを務めました。
    平成16年には社会人入試で駒沢大学に入学し話題となりました。

    4月からの「萩本欽一の人間塾」の第一回は駒沢大学の学長さんと話をする。
    入学当初に最初に出会った教授(当時)でした。
    今年で卒業ですが、面白いのでもう2年やりたい、大学の空気感が好きです。
    今年77歳になります。
    僕にとって大学はボケのリハリビセンターです。(試験がある)
    覚えるのに若い頃の3倍かかります。
    母親から叩かれたのは2回で、1回は「あいうえお」を書いたら「字は人の為に書く」と言って叩かれた。
    「字は人の為に書く」ということをお経のようにいわれました。
    小学校の1年の時に名前を書いた時に先生から褒められて、勉強が厭では無くなったので、叩かれたことは無駄ではなかった。
    兄弟は男が4人、女が二人いて3男です。
    母親は子供を育てるのが好きな人でした。

    母親は上手いウソを言う人でした。
    半分は嘘でした。
    父親は土曜日にしか帰ってこなかったが、男は月曜日から金曜日まで働く、毎日家に帰って来る様な仕事をしているのは大したことはないと言ってました。
    偉いお父さんだと思っていたが、借金とか家に帰れない事情があっただけでした。
    高校生になってから気が付きました。
    子供にお父さんは立派だと言うふうに育てるのが一番と思ったんだと思います。
    小学校の通信簿を見て出来が良くワーと言って喜び、中学では中位でワーと言って綺麗に真ん中に揃ってと言って、高校の時に250人中210番と言う時があって、その時はワーと言ってその声が上がり下がりして良いところがなくて最後に「欽一、後ろに40人いるね、ハイ」といって渡してくれて良い母親に当たったと思いました。
    それからいやに母親が好きになりました。

    借金取りに母親は「ごめんなさい」の一言の連呼でした。
    その時に涙がこぼれて居たたまれなかった。
    母親を助けられないのはお金だと思って、中学卒業してコメディアンが結論だった。
    母親は「絶対に高校、大学に行かなければ駄目、でもその道も有りかもね」、の繰り返しでした。
    高校でも、「大学は行かなければ駄目、でも就職もあるかも」、ということでした。
    兄の時にはまだお金があったので大学に行きました。
    父親は逃げ回っていて当時会っていませんでした。
    最初は映画スターが若くして家を建てられるということで、映画スターになろうと思ったが目が垂れていて駄目そうで、コメディアンは目が垂れている人がいるので目指しました。
    高校卒業後東洋劇場に入りました。
    父親が東洋劇場が建てた家に住んでいて、その関係で紹介されて入りました。
    何もできないのでタダで入りましたが、掃除をしていたら来月から3000円と言われました。
    仕事は自分で探すものだなと思いました。
    最初台詞を貰った時は上がってしまって言えなかったので、そうならないように4時間前に行って舞台で台詞を言ったり、舞台掃除をしていたりしました。
    そういったことは母親の教えだと思いました。

    母親からもう一回叩かれたのは、お使いに行ってくれと言われて、「厭だ」と言ったら、あまりうるさく言うので「いいよ、判ったよ、行ってやるよ」といったら叩かれました。
    ぱーんと叩いて「行くなら気持ち良くいけ」と言われました。
    「いやいや行くのが一番腹が立つ」と言われました。
    アルバイトをしていた時に、目覚ましを掛けて起きようとしていたが、その5分前に起きてきて僕を起こすんです。
    「目覚ましで自分で起きるから」といったが、「お前が何て言おうと絶対起こす」と言って目に涙をためて怒った。
    その姿に、こんな素敵な母親がいるのかと、怒って感激させられる母親の顔は大好きです、母を何とかしてあげると思って頑張りました。

    TVからスカウトされてTVに出て、まだVTRが止められない時代で19回失敗して首になりました。
    2カ月ぐらいして頑張ってやり直そうかと思ったときに坂上二郎さんから電話が来ました。
    人生辛いことが必ずやって来るが、辛いことなど今考えるとない、辛いことがいい事の前兆だと思っています。
    28歳で銀行からお金を借りて建て売りを買いました。
    それから3年後には有名になってきました。
    喜んでくれる顔を期待して玄関から「かあちゃん」と声を出していったら、母親から「昼間帰って来るんじゃない、夜帰って来なさい、近所にばれたらどうするの」といわれてしまいました。
    コメディアンが私の息子だと判ったら言えないと思って、それから母親は避けていました。
    長野オリンピックで閉会式の司会をやった時に、それを見て母親が「そんなに悪いことをしていたんじゃないんだね偉いね」といって、母親(80歳)が欽一に会いたいと言ってくれたがその頃忙しくて、年に2回病院に入って(死にそうで病院入院したと言うと僕が行くので)会うとすぐ退院していました。

    母は101歳になる1週間前に亡くなりました。
    母親にはとても良い影響を受けて有難いと思います。
    大学はなくならないいつまでもあるから、歳とってでも仕事で稼いで自分のお金で大学に行くからと言ったら「そうだね、それもありだねー」と言った幸せそうな顔をいまだに忘れられない。
    大学の入学願書に母親との約束を書きました。(母親への孝行)
    年月が経つほど僕が考えたんじゃない、その根底には母親の教えがあったのかもしれないという思いです。
    一番感謝していることは、気持のいい嘘をありがとう、今の自分があるのはあの見事な嘘、やはり怒って優しいというのはかあちゃんしかいない。