桑原衛(NPOふうど代表) ・自然のエネルギーで暮らしを作る
埼玉県小川町で自然エネルギーを利用して循環型農業を実施しているグループ。
家庭から出る生ごみをバイオガス技術で液体肥料とガスを作り、液体肥料で有機農業をおこないガスで発電しています。
生ごみを提供する町民には地域通貨を渡し、季節の野菜を購入すると言う地域内の経済サイクルも行われています。
桑原さんは60歳、東大工学部で水資源の開発や利用法を学び、ODA政府開発援助や、JICA (国際協力機構)等で発展途上国の水資源開発に関わってきました。
この活動を続けるうちに、桑原さんはネパールでバイオガス技術による自然エネルギーを利用した生活に触れ、同時にその土地の風土を生かした暮らし作りを進める、地理学者三沢勝衛の理論にも出会い、バイオガス技術を利用し、地域に合った暮らしを小川町で始めました。
「ぶくぶく農園」と名付けた桑原さんの経営は米、野菜、果樹、養鶏、養蜂など沢山の作物を作ります。
この循環型農業に賛同して小川町に移り住む若い人が増え、NPAふうどの会員は40人を越えました。
家はできるだけ農業資材を使わないで作ると言う農業を目指しているので、なんでこれで虫が付かないのだろうと不思議がるが、色々秘密があります。、
無農薬、化学肥料を使わない。
「ぶくぶく農園」 私は元々土木技術者でバイオガス技術に引かれて色々な活動が始まっています。
ベースになっているのが微生物です。
微生物がぶくぶく元気に育っている様にと言うことで「ぶくぶく農園」になっています。
バイオバス技術は原料はそこにある有機物を有効に利用しようと言う技術です。
学校給食、家庭の残飯を集めてガスを発酵させてガスを作ります。
農家がメインで集まって、農業の肥料を作る、地域で使えなくなったものを街作りに生かしていこうと言う活動をしていて、中心になっているのがバイオガス技術です。
1990年ごろにバイオガスプラントを作って作ってそれを生かして町と連携して生ごみを肥料にしてエネルルギーにしようとしています。
小川町の役場が事務局になって有志が40人集まり議論して、その分科会が生ごみを生かして行こうと言うことで15年、ようやく今の形が出来て来ました。
米がメイン、野菜全般、養鶏、養蜂(娘が全部やっています)などをやっています。
3ヘクタール位を借りてやっています。(私、妻、娘)
畑で鶏の餌を作って残渣を畑にすき込んで、養鶏で鶏糞を畑に入れて、肥料は買わないです。
自然循環型農業、循環を成り立たせるためには色んな人の協力、困難さが色んなところに隠れているとつくづく思います。(理想だとは思っていない)
小川町自然エネルギー研究会を有志と一緒に立ち上げました。
1998年に自然エネルギー学校を立ち上げました。(日本で最初)
農家がメインでほぼ有機農家、町民の生ごみ、学校給食から出てくる残飯。
運ばれてきた残飯をバイオガス技術を使って資源化する。
農家にとっては肥料が得られる、役場では焼却処分しないで済む、処理コストが安いので税の節約、もったいなさが救われる。
バイオガス技術は日本各地にあるが、施設が立派で施設コストもかかるし、運転経費もかかる。
設計は自分たちでやって、建設は地元の大工さん、運転は農家がやる、維持管理はNPOがやって日本でもっとも経済性のいいプラントにした。
生ゴミ提供家庭には年間3000円相当のものを渡すと言うことにしました。
「ふうど」と言う地域通貨を作って、それを使うと小川の野菜が買えると言うことにしました。
見学する方が多いですが、たんぼのなかにぽつんと建っているだけです。
小川町を選んだ理由
①一番上の娘が気管支が悪くて早く東京から離れて空気のいいところに行きたかった。
②1987年ジャイカでネパールに行っていたときに、バイオガス技術に出会って非常に感動しました。
牛の糞でガスを作って肥料を作っていた。
それがきっかけで1990年四川省にバイオガス研究センターで勉強して、帰ってきてバイオガスをやらないかとアナウンスして、その時に声がかかったのが小川町でした。
自分が図面を書いて、皆で穴を掘ったりしながら手作りで全部作りましたが、それがとても面白かった。
バイオガスキャラバンを始めました。
ボランティアでバイオガスの建設に協力してもらう、学ぶために、自分のために、人のために 3回協力してもらう。(建設コストはかからない)
資材の基地が小川町でした。
大学で水門学を勉強しました、雨が降って一部が川、地下、蒸発してぐるぐる回っている。
安心して使える水の量、大雨が降った時に堤防の高さをどのぐらいにしたらいいかとか、
水をめぐる色々なことを勉強するのが水門学です。
三沢勝衛の風土に合った暮らしがあると言う説に出会った。
「風土産業論」を書いた人で、外にものを探すのではなくて地域にあるものを如何に活用するか、それが地域を豊かにして行く。
地域にあるものをいかに読み切るかと言うことを、もっと勉強する必要があると言うことが全体を通してのメッセージです。
これがもとになり自分の方向が見えて来ました。(30代なかば)
小川町に来て色々な人に出会って良かったと思います。
いつも問題にぶつかりながら対応して来ていて、今も続いています。
どうやって後継者を育てていくかと言うことがすごく大事で、自分に反発してくる後継者が育ってくれる必要があると思います。
教えてしまうと失敗が出来ない、失敗をする機会を失ってしまう。
自由に色々やってもらうことで、町のいい後継者を作ることだと思いますが難しいことで、忍耐力が必要だと思います。
大震災が2011年にあって、人が変わったように思います。
家族とは、どういうふうにして自分の暮らしを守って行くのかとか、立ち止まって考え直したのではないかと、日本中で起こっているのではないかと感じています。
4年前ベトナムに行く機会があったが、或る村の村長が35歳で、村を動かしている人たちはみな30代で、60代の人たちは悠々自適でやっていて、30代、40代の人たちがどんどん表に出て行く形、問題があった時には我々が助言が必要であれば助言する、そういう町であってほしい、そう言う有機農業のグループであって欲しい。
2017年10月31日火曜日
2017年10月30日月曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦
頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】中島敦
「俺は詩によって名をなそうと思いながら進んで詩についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に務めたりすることをしなかった。
己のたまに有らざることを恐れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、益々己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。」(「山月記」からの抜粋 中島敦)
中島敦は1909年生まれ 太宰治、大岡昇平、松本清張も同年に生まれている。
「どんなに面白い作品でも教室でテキストとして使うと途端に面白くなくなってしまう。」と言っている。
何故虎になるか、人の性格、性質は猛獣みたいなもので、それを猛獣使いのようにうまくコントロールしなくてはいけないが、自分はそれに失敗したので虎になってしまったと言っている。
心の中の猛獣、「山月記」の場合は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。
その説明が先ほどの冒頭の引用の部分。
詩人になりたかったのに全力では努力しなかった、自分に才能がないかもしれない、才能がない場合全力で努力して詩人になれなかったら、自尊心が傷ついてしまう、それが恐ろしくて努力できなかった。
一方で才能があるのではないかと言う思いもあったから、諦めきることもできなくてどっちもできなかった。
そういう心理を臆病な自尊心、尊大な羞恥心と呼んでいる。
自分で自分にハンディーを与えて失敗した時に、自尊心に傷つかないようにあらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行ってしまう。
「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために堂々とした詩家に成った者が幾らでも居るのだ。
それを思うと俺は今も胸を焼かれるような悔いを感じる。」(「山月記」からの抜粋)
全力で努力するという事はなかなか難しい、それで失敗したらどうしようと考えるとなかかな全力で努力という事はできない。 そして自分で自分の足を引っ張ってしまう。
「落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの余見からてんで努力をしようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないため、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。」(カメレオン日記から)
成功しないだろうからそもそも努力しない、厭な目に逢いたくないから人と付き合わない、相手から嫌がられないように人に何も頼まないようにする、ネガティブシンキングのポイントを突いている。
ネガティブシンキングはいい面は全て失うことにもなってしまう。
厭なことが起きない代わりに良いことも起きない。
人はずーっと同じ状態が続くと段々不幸な気持ちになるらしい。
幸福な気持を或る程度保つためにはずーっとちょっとずつ良い事がないと無理で、ずーっと同じ状態だと段々不幸な気持になって来る。
快適な生活を続けていると、快適に感じる幅が狭くなって来る、僅かなことでも不快に感じるようになる。
幸福に生きていたいと思ったら、不快も必要なんです。
ポジティブシンキングでもなくネガティブシンキングでもなく、程ほどが良いわけです。
ほどほどなのかどうか、8分目食べなさいと言われても今6分目なのか7分目なのか8分目なのか、なかなかわからない、失敗しながら身につけて行くしかない。
パラオから妻にあてた手紙
「そりゃあね、丈夫な人ならそうして後20年ぐらい大丈夫、生きられる自信のある人なら2年や3年おまえたちと離れて情けない暮らしをしても、後でそれを取り返すことが出来るんだから良いさ、しかし僕には将来どれだけ生きられるやらまるで自信がない。
それを思うと見栄も意地もない、ただただお前たちとの平和な生活を静かに楽しみたいと言うだけの気持ちになる。
それが一番正直なところなのに、おれはいまごろこんな病気の身体をして、何のためにうろうろと南の果てをうろついているんだ、全く大馬鹿野郎だな俺は。」 (昭和16年9月20日 パラオから妻にあてた手紙)
中島敦は喘息が持病だったが、暖かい方がいいということで、たまたま南方の仕事で行く機会があった。
給料の1/3が薬代に費やされたと言う。
行ったとたんに南国ならではの病気もあり、又病気になってしまう。
嘆きの手紙を奥さんに送っている。
中島は自分が子供のころには家庭に恵まれなかった、両親が離婚、母親とは行き別れ、5歳の時に父親が再婚するが二番目の母親からは虐められ、三番目の母親は浪費家で莫大な借金に苦しめられる。
中島自身は結婚してからは家庭を大事にしている。
成績優秀で東京帝大を卒業して、大学院を途中で辞めて横浜の女子高の先生になってしまう。(周囲はかなり驚く)
学者になりたかったのではなくて小説家になりたかった。(小説家になる為に女子高の先生になって時間がとれる方を選んだ)
しかし喘息の病気になってしまい、お金に困り小説もうまくいかない。
そのままの状態で南国へ行ってしまうが、南国での病気になってしまう。
全然違うほうに人生が反れて行ってしまう。
「夜、床に就いてからじっと目を閉じて、人類が無くなった後の無意味な真っ黒な無限の時の流れを想像して恐ろしさに耐えられず、アッとおおきな声を出して飛び上がったりすることが多かった。
その度に幾度も父に叱られたものである。
夜、電車通りを歩いていて、ひょいとこの恐怖が起こって来る。
すると今まで聞こえていた電車の響きも聞こえなくなり、擦れ違う人の身も目に入らなくなって、ジーンと静まりかえった世界の真ん中にたった一人でいるような気がしてくる。
その時、彼の踏んでいる大地は何時もの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった冷え切った丸い遊星の表面なのだ。」 (「狼疾記」の一節)
宇宙的孤独のような感じ、人類もいなくなって、太陽も消滅して無の世界を心配している。
この短編小説の冒頭に孟子の言葉を引用している。
「その一指を養い、しかもその肩と背を失いても知らざれば、すなわち狼疾の人となさん」 (孟子の言葉)
一本の指をかばって、逆に肩や背まで失ってしまうような人は心の乱れている人だ。
短編の最初に引用している。
優先順位を間違えてしまう、それをやってしまうのが人間。(後から考えると、つまらないことにこだわって肝心なことを失敗する)
「みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上(のぼ)らむとする人間(ひと)よ切なし」
「しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも」
「俺は詩によって名をなそうと思いながら進んで詩についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に務めたりすることをしなかった。
己のたまに有らざることを恐れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、益々己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。」(「山月記」からの抜粋 中島敦)
中島敦は1909年生まれ 太宰治、大岡昇平、松本清張も同年に生まれている。
「どんなに面白い作品でも教室でテキストとして使うと途端に面白くなくなってしまう。」と言っている。
何故虎になるか、人の性格、性質は猛獣みたいなもので、それを猛獣使いのようにうまくコントロールしなくてはいけないが、自分はそれに失敗したので虎になってしまったと言っている。
心の中の猛獣、「山月記」の場合は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。
その説明が先ほどの冒頭の引用の部分。
詩人になりたかったのに全力では努力しなかった、自分に才能がないかもしれない、才能がない場合全力で努力して詩人になれなかったら、自尊心が傷ついてしまう、それが恐ろしくて努力できなかった。
一方で才能があるのではないかと言う思いもあったから、諦めきることもできなくてどっちもできなかった。
そういう心理を臆病な自尊心、尊大な羞恥心と呼んでいる。
自分で自分にハンディーを与えて失敗した時に、自尊心に傷つかないようにあらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行ってしまう。
「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために堂々とした詩家に成った者が幾らでも居るのだ。
それを思うと俺は今も胸を焼かれるような悔いを感じる。」(「山月記」からの抜粋)
全力で努力するという事はなかなか難しい、それで失敗したらどうしようと考えるとなかかな全力で努力という事はできない。 そして自分で自分の足を引っ張ってしまう。
「落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの余見からてんで努力をしようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないため、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。」(カメレオン日記から)
成功しないだろうからそもそも努力しない、厭な目に逢いたくないから人と付き合わない、相手から嫌がられないように人に何も頼まないようにする、ネガティブシンキングのポイントを突いている。
ネガティブシンキングはいい面は全て失うことにもなってしまう。
厭なことが起きない代わりに良いことも起きない。
人はずーっと同じ状態が続くと段々不幸な気持ちになるらしい。
幸福な気持を或る程度保つためにはずーっとちょっとずつ良い事がないと無理で、ずーっと同じ状態だと段々不幸な気持になって来る。
快適な生活を続けていると、快適に感じる幅が狭くなって来る、僅かなことでも不快に感じるようになる。
幸福に生きていたいと思ったら、不快も必要なんです。
ポジティブシンキングでもなくネガティブシンキングでもなく、程ほどが良いわけです。
ほどほどなのかどうか、8分目食べなさいと言われても今6分目なのか7分目なのか8分目なのか、なかなかわからない、失敗しながら身につけて行くしかない。
パラオから妻にあてた手紙
「そりゃあね、丈夫な人ならそうして後20年ぐらい大丈夫、生きられる自信のある人なら2年や3年おまえたちと離れて情けない暮らしをしても、後でそれを取り返すことが出来るんだから良いさ、しかし僕には将来どれだけ生きられるやらまるで自信がない。
それを思うと見栄も意地もない、ただただお前たちとの平和な生活を静かに楽しみたいと言うだけの気持ちになる。
それが一番正直なところなのに、おれはいまごろこんな病気の身体をして、何のためにうろうろと南の果てをうろついているんだ、全く大馬鹿野郎だな俺は。」 (昭和16年9月20日 パラオから妻にあてた手紙)
中島敦は喘息が持病だったが、暖かい方がいいということで、たまたま南方の仕事で行く機会があった。
給料の1/3が薬代に費やされたと言う。
行ったとたんに南国ならではの病気もあり、又病気になってしまう。
嘆きの手紙を奥さんに送っている。
中島は自分が子供のころには家庭に恵まれなかった、両親が離婚、母親とは行き別れ、5歳の時に父親が再婚するが二番目の母親からは虐められ、三番目の母親は浪費家で莫大な借金に苦しめられる。
中島自身は結婚してからは家庭を大事にしている。
成績優秀で東京帝大を卒業して、大学院を途中で辞めて横浜の女子高の先生になってしまう。(周囲はかなり驚く)
学者になりたかったのではなくて小説家になりたかった。(小説家になる為に女子高の先生になって時間がとれる方を選んだ)
しかし喘息の病気になってしまい、お金に困り小説もうまくいかない。
そのままの状態で南国へ行ってしまうが、南国での病気になってしまう。
全然違うほうに人生が反れて行ってしまう。
「夜、床に就いてからじっと目を閉じて、人類が無くなった後の無意味な真っ黒な無限の時の流れを想像して恐ろしさに耐えられず、アッとおおきな声を出して飛び上がったりすることが多かった。
その度に幾度も父に叱られたものである。
夜、電車通りを歩いていて、ひょいとこの恐怖が起こって来る。
すると今まで聞こえていた電車の響きも聞こえなくなり、擦れ違う人の身も目に入らなくなって、ジーンと静まりかえった世界の真ん中にたった一人でいるような気がしてくる。
その時、彼の踏んでいる大地は何時もの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった冷え切った丸い遊星の表面なのだ。」 (「狼疾記」の一節)
宇宙的孤独のような感じ、人類もいなくなって、太陽も消滅して無の世界を心配している。
この短編小説の冒頭に孟子の言葉を引用している。
「その一指を養い、しかもその肩と背を失いても知らざれば、すなわち狼疾の人となさん」 (孟子の言葉)
一本の指をかばって、逆に肩や背まで失ってしまうような人は心の乱れている人だ。
短編の最初に引用している。
優先順位を間違えてしまう、それをやってしまうのが人間。(後から考えると、つまらないことにこだわって肝心なことを失敗する)
「みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上(のぼ)らむとする人間(ひと)よ切なし」
「しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも」
「 あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふほかに途(みち)なし」
「石となれ石は恐れも苦しみも憤(いかり)もなけむはや石となれ」
「いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか」
(「昭和12年の短歌作品 28歳」)
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、喘息と気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
日本に戻って、作家デビューする、この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。
奥さんは「かわいそうに、かわいそうに」といって、泣き伏していたらしい。
「常々、彼は人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらないのだ」(「李陵」の一節)
人にはその人にふさわしい出来事しか起きないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を送っていると感じている人達、何故自分はこんな自分にふさわしくない人生を生きなければいけないんだろうと思いながら生きている人達、そういう人たちは実は多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみるものがあるのではないかと思います。
「いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか」
(「昭和12年の短歌作品 28歳」)
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、喘息と気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
日本に戻って、作家デビューする、この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。
奥さんは「かわいそうに、かわいそうに」といって、泣き伏していたらしい。
「常々、彼は人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらないのだ」(「李陵」の一節)
人にはその人にふさわしい出来事しか起きないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を送っていると感じている人達、何故自分はこんな自分にふさわしくない人生を生きなければいけないんだろうと思いながら生きている人達、そういう人たちは実は多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみるものがあるのではないかと思います。
2017年10月29日日曜日
釜本美佐子(日本ブラインドサッカー協会)・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る
釜本美佐子(NPO法人日本ブラインドサッカー協会代表理事)
釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)
・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る
ア:釜本邦茂選手はメキシコオリンピックで6試合で7得点を取り、大会の得点王となる。
釜本美佐子:視覚ブラインドサッカーはかなり知られるようになってきたが、認識ではまだマイナーではないかと思っています。
視覚障害者ですら視覚ブラインドサッカーを知らない人がいます。
ア:2004年のアテネから正式種目になり、日本は4回のパラリンピックではまだ出場がない。
釜本美佐子:2020年の地元開催と言うことで、今回初めて出場することになりました。
釜本美佐子:5人兄弟で兄が2人、私がいて、下に邦茂(4歳違い)、その下に妹がいます。
弟が中学に入って、何にしようかと思ったときに、その時に私がサッカーを勧めました。
釜本邦茂:もしかしてオリンピックに出られると言われて、サッカーにしました。
釜本美佐子:私は英語を勉強する方向に行きました。(海外が一つのモチベーションになったと思います)
ア:大阪外国語大学で英語を学んだ後、通訳の試験に合格、大手旅行会社の第一期のツアーコンダクターとして採用されて、140カ国余りに日本の旅行客を案内しました。
講演、旅行の本も数多く出版、10数年後子供たちのための英語塾を開きました。
50歳過ぎに突然目の病気で、いずれ失明すると宣告されました。
日本ブラインドサッカー協会を作ることになって、2002年発足と同時に理事長となってそれから15年協会のトップを務め続けています。
5年前視力が全くなくなりましたが、一人でマンションで暮らし、ブラインドサッカーと視覚障害者のための活動に忙しい毎日を過ごしています。(現在76歳。)
釜本美佐子:ツアーコンダクターと言うことで海外に行くと言うことになったのは一つの分岐点だったと思います。
突如目が見えないと言う状況になり、すべて放棄しなくてはいけなくなり、それが一番の精神的ショックでした。
網膜色素変性症協会に入り、会長もやって、目が見えないと言うことを受け入れることが又大きな転機になりました。
徐々に見え無くなって行って、色もピンク、黄色が見えなくなり色合いの世界も無くなっていきます。
今は全く見えないが、家の中では日常生活、料理も自分でやっていて外出はヘルパーさんが来てくれるので毎日の生活としてやっています。
網膜色素変性症は日本に3万人いると言われる。
「3秒悩んで決める、判断基準は後悔しないこと」
決断は早いです。
間違っていたら決断をし直せばいいし、くよくよ悩まないをモットーにしています。
釜本邦茂:気が強いし、凄いなあと思います。
楽しい自分の人生をしているなあと思います。
釜本美佐子:早稲田大学の最後の試合は家族全員で見に行って、就職先が決まっていないと言うことでしたが、翌朝の新聞でヤンマーに決まったと新聞に書いてあり、新聞で知りました、自由な家族だったと思います。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのことは全然知らなくて、やり方も知りませんでした。
釜本美佐子:2002年に日韓ワールドカップが行なわれたが、2001年に韓国に行って視覚障害者のブラインドサッカーを導入して、普及活動を11月に大阪府立盲学校で行いましたが、その時に弟が来てびっくりしました。
釜本邦茂:大阪協会の岩井さんに観に行きませんかと言われて行きました。
釜本美佐子:ブラインドサッカーは私の後半の人生を大きく変えてくれました。
視覚障害者がサッカーが出来る、こんな素晴らしいことはないと思いました。
日本でもやらなければ、と言う思いで韓国から帰って来ました。
5人制のサッカー 4人が全盲、全盲に近い 40m☓20mの面積、ゴールキーパーが一人。
声を出してくれるガイドがいて、ボールはシャカシャカと言う音が出るようになっています。
条件を同じにするために、全員がアイマスクをします。
声を出せるのは選手とガイドと監督だけです。
ボールを取りに行く時は声をかけないと反則になります。
シーンとして観客には見てもらいます。
釜本邦茂:横田基地から飛行機が飛んで来た時には試合が中止になった時がありました。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのポスターに出ました。
ア:京都山城高校で高校日本一になり、早稲田大学では天皇杯の2回の日本一に成り、大学2年の時の東京オリンピックでベスト8のメンバー、メキシコオリンピックではブラジル、スペインと引き分けて決勝ラウンドに進み、順々決勝の時フランスに釜本さんが2点を入れて勝ち、準決勝ハンガリーには破れたが、3位決定戦で2点を釜本さんが入れて2-0で勝ち銅メダル、この大会では7点をあげて大会の得点王となりました。
ヤンマージーゼルではリーグ7回の得点王、チーム優勝4回黄金期を築き、日本代表を14年間務め日本サッカー協会の最多得点保持者になっている。
ガンバ大阪の初代監督、日本サッカー協会副会長、参議院議員を務める。
釜本美佐子:一番の追っかけは母親で私は二番目でした。
釜本邦茂:海外のプロチームからのオファーが5カ国からありました。
行くのだったらドイツと思ったが、肝炎になり行きませんでした。
ア:ブラインドサッカーでは3年前世界選手権で12カ国が出場、日本は6位、現在ランキングは8位。
釜本美佐子:選手の若返りが必要で、ここで若返りをしないと2020年が苦しくなるという危惧があります。
競技人口は日本選手権の出場チームは全国で19、20チームになってきています。
釜本邦茂:日本のサッカーチームも若返りが必要だと思います。
今は役割が決まっていなくて、点を取れないことにもなってるのかもしれない。
11人同じ練習をしていてもしょうがないと思う、個人の練習をしないといけない。
スペシャリストを作ってほしいと思っている。
強くなってゆくためには①普及、②強化、③財政が豊か、3つの要素が必要。
釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)
・【スポーツ名場面の裏側で】釜本姉弟、サッカーを語る
ア:釜本邦茂選手はメキシコオリンピックで6試合で7得点を取り、大会の得点王となる。
釜本美佐子:視覚ブラインドサッカーはかなり知られるようになってきたが、認識ではまだマイナーではないかと思っています。
視覚障害者ですら視覚ブラインドサッカーを知らない人がいます。
ア:2004年のアテネから正式種目になり、日本は4回のパラリンピックではまだ出場がない。
釜本美佐子:2020年の地元開催と言うことで、今回初めて出場することになりました。
釜本美佐子:5人兄弟で兄が2人、私がいて、下に邦茂(4歳違い)、その下に妹がいます。
弟が中学に入って、何にしようかと思ったときに、その時に私がサッカーを勧めました。
釜本邦茂:もしかしてオリンピックに出られると言われて、サッカーにしました。
釜本美佐子:私は英語を勉強する方向に行きました。(海外が一つのモチベーションになったと思います)
ア:大阪外国語大学で英語を学んだ後、通訳の試験に合格、大手旅行会社の第一期のツアーコンダクターとして採用されて、140カ国余りに日本の旅行客を案内しました。
講演、旅行の本も数多く出版、10数年後子供たちのための英語塾を開きました。
50歳過ぎに突然目の病気で、いずれ失明すると宣告されました。
日本ブラインドサッカー協会を作ることになって、2002年発足と同時に理事長となってそれから15年協会のトップを務め続けています。
5年前視力が全くなくなりましたが、一人でマンションで暮らし、ブラインドサッカーと視覚障害者のための活動に忙しい毎日を過ごしています。(現在76歳。)
釜本美佐子:ツアーコンダクターと言うことで海外に行くと言うことになったのは一つの分岐点だったと思います。
突如目が見えないと言う状況になり、すべて放棄しなくてはいけなくなり、それが一番の精神的ショックでした。
網膜色素変性症協会に入り、会長もやって、目が見えないと言うことを受け入れることが又大きな転機になりました。
徐々に見え無くなって行って、色もピンク、黄色が見えなくなり色合いの世界も無くなっていきます。
今は全く見えないが、家の中では日常生活、料理も自分でやっていて外出はヘルパーさんが来てくれるので毎日の生活としてやっています。
網膜色素変性症は日本に3万人いると言われる。
「3秒悩んで決める、判断基準は後悔しないこと」
決断は早いです。
間違っていたら決断をし直せばいいし、くよくよ悩まないをモットーにしています。
釜本邦茂:気が強いし、凄いなあと思います。
楽しい自分の人生をしているなあと思います。
釜本美佐子:早稲田大学の最後の試合は家族全員で見に行って、就職先が決まっていないと言うことでしたが、翌朝の新聞でヤンマーに決まったと新聞に書いてあり、新聞で知りました、自由な家族だったと思います。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのことは全然知らなくて、やり方も知りませんでした。
釜本美佐子:2002年に日韓ワールドカップが行なわれたが、2001年に韓国に行って視覚障害者のブラインドサッカーを導入して、普及活動を11月に大阪府立盲学校で行いましたが、その時に弟が来てびっくりしました。
釜本邦茂:大阪協会の岩井さんに観に行きませんかと言われて行きました。
釜本美佐子:ブラインドサッカーは私の後半の人生を大きく変えてくれました。
視覚障害者がサッカーが出来る、こんな素晴らしいことはないと思いました。
日本でもやらなければ、と言う思いで韓国から帰って来ました。
5人制のサッカー 4人が全盲、全盲に近い 40m☓20mの面積、ゴールキーパーが一人。
声を出してくれるガイドがいて、ボールはシャカシャカと言う音が出るようになっています。
条件を同じにするために、全員がアイマスクをします。
声を出せるのは選手とガイドと監督だけです。
ボールを取りに行く時は声をかけないと反則になります。
シーンとして観客には見てもらいます。
釜本邦茂:横田基地から飛行機が飛んで来た時には試合が中止になった時がありました。
釜本邦茂:ブラインドサッカーのポスターに出ました。
ア:京都山城高校で高校日本一になり、早稲田大学では天皇杯の2回の日本一に成り、大学2年の時の東京オリンピックでベスト8のメンバー、メキシコオリンピックではブラジル、スペインと引き分けて決勝ラウンドに進み、順々決勝の時フランスに釜本さんが2点を入れて勝ち、準決勝ハンガリーには破れたが、3位決定戦で2点を釜本さんが入れて2-0で勝ち銅メダル、この大会では7点をあげて大会の得点王となりました。
ヤンマージーゼルではリーグ7回の得点王、チーム優勝4回黄金期を築き、日本代表を14年間務め日本サッカー協会の最多得点保持者になっている。
ガンバ大阪の初代監督、日本サッカー協会副会長、参議院議員を務める。
釜本美佐子:一番の追っかけは母親で私は二番目でした。
釜本邦茂:海外のプロチームからのオファーが5カ国からありました。
行くのだったらドイツと思ったが、肝炎になり行きませんでした。
ア:ブラインドサッカーでは3年前世界選手権で12カ国が出場、日本は6位、現在ランキングは8位。
釜本美佐子:選手の若返りが必要で、ここで若返りをしないと2020年が苦しくなるという危惧があります。
競技人口は日本選手権の出場チームは全国で19、20チームになってきています。
釜本邦茂:日本のサッカーチームも若返りが必要だと思います。
今は役割が決まっていなくて、点を取れないことにもなってるのかもしれない。
11人同じ練習をしていてもしょうがないと思う、個人の練習をしないといけない。
スペシャリストを作ってほしいと思っている。
強くなってゆくためには①普及、②強化、③財政が豊か、3つの要素が必要。
2017年10月28日土曜日
三田村邦彦(俳優) ・新潟で育まれた俳優人生
三田村邦彦(俳優) ・新潟で育まれた俳優人生
昭和28年生まれ、新潟県新発田市出身、俳優にあこがれ高校を卒業後に上京して俳優になります。
主演映画「限りなく透明に近いブルー」でデビューし,その後民放のTVドラマ、NHK壬生の恋歌など数々のドラマ、映画舞台に出演してきました。
俳優を志した三田村さんが地元、家族、仕事とどの様に付き合ってきたか伺いました。
30数年前、番組のドラマの主題歌など歌っていてコンサートをやりましたが、地元でやらないといけないと言われてやったが、二度とやりたくなかった。
伯父さんと目があったり同級生が手をふっていたり恥ずかしいなあと思って、それからはコンサートをやっていません。
昭和47年に高校を卒業して上京して、46年になります。
小学校の3年生ぐらいに俳優になりたいと思っていました。
アメリカ映画「雨に唄えば」を観て、その楽しさ、生き生きして、素敵な仕事だなあと思ったのが小学校の高学年の時でした。
父親からは医者に成れと言われていたが、役者になる夢はずーっと黙っていました。
中学2年で、ある人生計画を立てました。
高校は地元で大学に行くような顔をして勉強しようと決めました。
新発田高校2年で理系(医者になるには理系)を選び、その夏休みに大学の下見と言うことで、2週間東京に出ました。
あらかじめ調べておいて全て劇団、お芝居を見て、戻って来ました。
高校3年の時に大学の受験に行き全て白紙で出しました。
地元と東京の予備校の資料を集めて、東京の予備校にいくほうが進学率が高い事を父親に説得して東京に行くことにしました。
新宿から15分の小さい部屋のアパートを借りて、予備校には行かずにタレントセンターを受けて特待生として受かって、翌年文学座を受けようとしました。
父親にはもう嘘をつけないと思って父親に手紙を出しました。
1週間後にアパートの暗がりに女性(母親らしい)が立っていました。
恐る恐る行ったら「邦彦」と言ってウワーッと泣かれて、部屋に上がり話を一晩中話しました。
お前を連れて帰らないと私は家に入れてもらえないと言われてしまって、朝方に帰ろうと言うことになり、上野駅で特急に乗ることになり、ベルが鳴る前に飛び降りようと思いました。
ベルが鳴りこの機会しかないと駆け出したが、母親も必死についてきてしまいました。
力づくで母親を車内に押しやり、しまる瞬間まで押し込んで、僕はホームに素早く離れました。
母親が涙をぼろぼろ流して悲しそうな顔で僕をじーっと見ていて遠くなっていくが、その時にはさすがに心が痛かったですね。
4,5日してから父親から手紙が来て、嘘を言って親を騙して今まで生きてきて許せない、勝手にしろ勘当だと言う手紙を貰って、小躍りしました。
万歳しました、俺の人生の始まりだと思いました。
翌年文学座を5000人が受けて、一次試験で落ちてしまって、もう一回ちゃんと勉強しようと思って次の年に文学座、劇団青俳(滑り止め)を受けました。
文学座はやはり5000人ぐらいが受け、一次は受かって(100人ぐらい受かった)面接で親の援助があるか聞かれて勘当されたので援助は有りませんと答えました。
アルバイトはとび職など色んな仕事をしました。
親に頭を下げて援助を受けるように言われたが頼めませんとかなりの口論になりました。
文学座は多分駄目だと思いました。(やはりだめだった)
劇団青俳では一次が受かって、面接で木村功さんの舞台を見て感動してどうしてもこの劇団に入りたいと思うといって、親の援助はあるのかと聞かれ有りますと答えました。
(学習能力に依る嘘)受かりました。
アルバイトしながらですと、お金が底をついて出来なくなる。
金曜日の夜から土、日、月曜日朝までアルバイトをして3万円貰えた。(大卒初任給8万円ぐらい)
本公演、稽古、準備などがあり、下っ端は色んな事をやらなくてはいけなくて、2カ月アルバイトはできなくなり、1週間50円で生活したことがあります。
どうしようもなくなってアパートを変えると、小包みが届いていて、手紙、着るもの、お金が入っていたり、母親からのものでした。(何回かある)
ある主役の話があり断ったが、蜷川さんからお前は馬鹿かと言われました。
その後「限りなく透明に近いブルー」の話があって本を買って読んだら、判らなくて8ページ読んでゴミ箱に捨ててしまいました。
村上龍さんから会ってくれないかとしつこく言われて会って、台本を渡されました。
やっぱり良く分からなくて、本を捨てた話もしました。
どこが判らないのか検証しようと言うことで、直すよとそこまで言ってくれました。
でも断わってしまいました。
蜷川さんから又連絡がありお前みたいな馬鹿は見たこと無い、こんなチャンスは人生に一回無い方が多いのに、2回も断るなんてどうしようもない馬鹿だと言われました。
村上龍さんから連絡があり台本を変えたので、もう一回読んでほしいと言われて、ここまで変えてくれたという事で、映画でデビューさせてもらいました。
封切りが1977年だったと思います。
「例えば愛」と言うドラマでも出させてもらいました。
週4日、5日の収録で2日、3日のアルバイトをしていました。
「必殺仕事人」で京都にいったらアルバイト先が無くて、困って交渉して週3万円を支給してもらうことになりましたがギリギリの生活でした。
松竹の撮影だが東映の寮に1400円で泊っていました。
藤田まことさんからは食事によく誘ってもらいました。
どうしてこんなに引き出しの多い人だろうと思って、公私ともに観察しました。
或る時藤田さんから自分の事を少しづつ話して貰うようになって、藤田まことさんの人生は本当に大変な人生を送られたことが判りました。
昭和28年生まれ、新潟県新発田市出身、俳優にあこがれ高校を卒業後に上京して俳優になります。
主演映画「限りなく透明に近いブルー」でデビューし,その後民放のTVドラマ、NHK壬生の恋歌など数々のドラマ、映画舞台に出演してきました。
俳優を志した三田村さんが地元、家族、仕事とどの様に付き合ってきたか伺いました。
30数年前、番組のドラマの主題歌など歌っていてコンサートをやりましたが、地元でやらないといけないと言われてやったが、二度とやりたくなかった。
伯父さんと目があったり同級生が手をふっていたり恥ずかしいなあと思って、それからはコンサートをやっていません。
昭和47年に高校を卒業して上京して、46年になります。
小学校の3年生ぐらいに俳優になりたいと思っていました。
アメリカ映画「雨に唄えば」を観て、その楽しさ、生き生きして、素敵な仕事だなあと思ったのが小学校の高学年の時でした。
父親からは医者に成れと言われていたが、役者になる夢はずーっと黙っていました。
中学2年で、ある人生計画を立てました。
高校は地元で大学に行くような顔をして勉強しようと決めました。
新発田高校2年で理系(医者になるには理系)を選び、その夏休みに大学の下見と言うことで、2週間東京に出ました。
あらかじめ調べておいて全て劇団、お芝居を見て、戻って来ました。
高校3年の時に大学の受験に行き全て白紙で出しました。
地元と東京の予備校の資料を集めて、東京の予備校にいくほうが進学率が高い事を父親に説得して東京に行くことにしました。
新宿から15分の小さい部屋のアパートを借りて、予備校には行かずにタレントセンターを受けて特待生として受かって、翌年文学座を受けようとしました。
父親にはもう嘘をつけないと思って父親に手紙を出しました。
1週間後にアパートの暗がりに女性(母親らしい)が立っていました。
恐る恐る行ったら「邦彦」と言ってウワーッと泣かれて、部屋に上がり話を一晩中話しました。
お前を連れて帰らないと私は家に入れてもらえないと言われてしまって、朝方に帰ろうと言うことになり、上野駅で特急に乗ることになり、ベルが鳴る前に飛び降りようと思いました。
ベルが鳴りこの機会しかないと駆け出したが、母親も必死についてきてしまいました。
力づくで母親を車内に押しやり、しまる瞬間まで押し込んで、僕はホームに素早く離れました。
母親が涙をぼろぼろ流して悲しそうな顔で僕をじーっと見ていて遠くなっていくが、その時にはさすがに心が痛かったですね。
4,5日してから父親から手紙が来て、嘘を言って親を騙して今まで生きてきて許せない、勝手にしろ勘当だと言う手紙を貰って、小躍りしました。
万歳しました、俺の人生の始まりだと思いました。
翌年文学座を5000人が受けて、一次試験で落ちてしまって、もう一回ちゃんと勉強しようと思って次の年に文学座、劇団青俳(滑り止め)を受けました。
文学座はやはり5000人ぐらいが受け、一次は受かって(100人ぐらい受かった)面接で親の援助があるか聞かれて勘当されたので援助は有りませんと答えました。
アルバイトはとび職など色んな仕事をしました。
親に頭を下げて援助を受けるように言われたが頼めませんとかなりの口論になりました。
文学座は多分駄目だと思いました。(やはりだめだった)
劇団青俳では一次が受かって、面接で木村功さんの舞台を見て感動してどうしてもこの劇団に入りたいと思うといって、親の援助はあるのかと聞かれ有りますと答えました。
(学習能力に依る嘘)受かりました。
アルバイトしながらですと、お金が底をついて出来なくなる。
金曜日の夜から土、日、月曜日朝までアルバイトをして3万円貰えた。(大卒初任給8万円ぐらい)
本公演、稽古、準備などがあり、下っ端は色んな事をやらなくてはいけなくて、2カ月アルバイトはできなくなり、1週間50円で生活したことがあります。
どうしようもなくなってアパートを変えると、小包みが届いていて、手紙、着るもの、お金が入っていたり、母親からのものでした。(何回かある)
ある主役の話があり断ったが、蜷川さんからお前は馬鹿かと言われました。
その後「限りなく透明に近いブルー」の話があって本を買って読んだら、判らなくて8ページ読んでゴミ箱に捨ててしまいました。
村上龍さんから会ってくれないかとしつこく言われて会って、台本を渡されました。
やっぱり良く分からなくて、本を捨てた話もしました。
どこが判らないのか検証しようと言うことで、直すよとそこまで言ってくれました。
でも断わってしまいました。
蜷川さんから又連絡がありお前みたいな馬鹿は見たこと無い、こんなチャンスは人生に一回無い方が多いのに、2回も断るなんてどうしようもない馬鹿だと言われました。
村上龍さんから連絡があり台本を変えたので、もう一回読んでほしいと言われて、ここまで変えてくれたという事で、映画でデビューさせてもらいました。
封切りが1977年だったと思います。
「例えば愛」と言うドラマでも出させてもらいました。
週4日、5日の収録で2日、3日のアルバイトをしていました。
「必殺仕事人」で京都にいったらアルバイト先が無くて、困って交渉して週3万円を支給してもらうことになりましたがギリギリの生活でした。
松竹の撮影だが東映の寮に1400円で泊っていました。
藤田まことさんからは食事によく誘ってもらいました。
どうしてこんなに引き出しの多い人だろうと思って、公私ともに観察しました。
或る時藤田さんから自分の事を少しづつ話して貰うようになって、藤田まことさんの人生は本当に大変な人生を送られたことが判りました。
2017年10月27日金曜日
松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家) ・わくわく読書(2)
松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(2)
東京に戻ってから、自分の家で文庫を開きました。
子供にサービスをすることをしたかった。
家を改造して週に一回近所の子供達に来てもらいました。
350冊ぐらいでした。
6月に開いて12月には倍になりました。
11月頃には登録者が100人ぐらいになりました。
家庭文庫ではアメリカで習得してやりたいと思ったことが100%出来ました。
読み聞かせの反応は凄かったです。
東京にある4つの文庫で働いている人たちが1月に一回集まって話をしていたのですが小さすぎると言うことで、少し大きい図書館がほしいと言うことになり、法人化したらどうかと言う話が持ち上がりました。
最初は建物もなく、アパートを借りて、すこしずつ広げていきました。
建物が出来たのは設立してから20年後になります。
法人化は石井先生の提案で、弁護士さんと話し合って、手続きを始めたが、財産もなく本当は認可されないような状況でした。
石井桃子さん、土屋滋子さん、佐々梨代子さん等が今後10年間これだけの寄付しますということで認可が下りました。
財政的には厳しくて、設立準備委員会の時代から出版を始めてその現金収入があり、支援の賛助会員の支え、寄付などで何とかやってこられました。
現在も厳しさは続いています。
心配性でなかったからやってこられたのかと思います。
一般の人の関心も高まって来ました。
中学に入って英語の勉強を始めましたが、英語が好きでした。
話す事に関しては大学で教わりました。
大阪の図書館で働いていたときに、訳してみませんかと言われて始めました。
その後次々に翻訳をするようになりました。
翻訳の仕事で生活を支えて来ました。
ブルーナさんはデザインの世界でも絵本の世界でも沢山の仕事を残されました。
オランダに行ったときに松井さんはこれはすごい本だと直感されて「うさこちゃん」の翻訳出版をしました。
石井桃子さんから翻訳を次は頼むと言われて、私はオランダ語が出来ないのでオランダ語を勉強すると同時に、野坂悦子さんに原文を単語を一つづ意味を書いてもらって、意味を大事にして4行に収める事を考えました。
オランダ人の勤勉さ、清潔さ、日常の生活をしっかり生きている、そういう子供の生活を本当によく描いています。
いい絵本を読んでやっていると子供達は本の中に入り込んでいると言うことがよくわかります。
子供と一緒に本を読んでいると自分一人では起きない事が起きます。
子供が小さな事に対しても目を通して、子供がいうことでえっと思う時があります。
アメリカにいるときは英語の読み聞かせもやっていました。
反応は全く同じです、同じ所で同じ顔をします。
違うところは日本の子供はキスと言う言葉などには過剰に反応します。
日本語の文章はは高低のアクセントで、英語はアクセントが強弱なので、いい英語の本は声を出して読むとひとりでに強弱のリズムが付いてきて心地良くなります。
200冊ぐらいを訳してきました。
世界中のいい児童文学を日本の子供は読めると言うことが幸せだと思います。
空想の世界の楽しさ、ユーモアとかが外国文学にあるので幸せだと思います。
子供が本を好きになる秘訣としては、子供の生活の中に本があるという事と、大人が子供に本を読んでやる、この二つだと思います。
子供の時に本を読んでやっておいたら、大人になった時にこんないいことがあると言うこともあるかもしれないけれど、子供が子供の時点で楽しい思いをするのだったら、後に影響を残さなくてもいいと思っています。
結果のために今本を読むと言うことではないと思っています。
楽しさを子供の時に味わってもらいたいと思います。
東京に戻ってから、自分の家で文庫を開きました。
子供にサービスをすることをしたかった。
家を改造して週に一回近所の子供達に来てもらいました。
350冊ぐらいでした。
6月に開いて12月には倍になりました。
11月頃には登録者が100人ぐらいになりました。
家庭文庫ではアメリカで習得してやりたいと思ったことが100%出来ました。
読み聞かせの反応は凄かったです。
東京にある4つの文庫で働いている人たちが1月に一回集まって話をしていたのですが小さすぎると言うことで、少し大きい図書館がほしいと言うことになり、法人化したらどうかと言う話が持ち上がりました。
最初は建物もなく、アパートを借りて、すこしずつ広げていきました。
建物が出来たのは設立してから20年後になります。
法人化は石井先生の提案で、弁護士さんと話し合って、手続きを始めたが、財産もなく本当は認可されないような状況でした。
石井桃子さん、土屋滋子さん、佐々梨代子さん等が今後10年間これだけの寄付しますということで認可が下りました。
財政的には厳しくて、設立準備委員会の時代から出版を始めてその現金収入があり、支援の賛助会員の支え、寄付などで何とかやってこられました。
現在も厳しさは続いています。
心配性でなかったからやってこられたのかと思います。
一般の人の関心も高まって来ました。
中学に入って英語の勉強を始めましたが、英語が好きでした。
話す事に関しては大学で教わりました。
大阪の図書館で働いていたときに、訳してみませんかと言われて始めました。
その後次々に翻訳をするようになりました。
翻訳の仕事で生活を支えて来ました。
ブルーナさんはデザインの世界でも絵本の世界でも沢山の仕事を残されました。
オランダに行ったときに松井さんはこれはすごい本だと直感されて「うさこちゃん」の翻訳出版をしました。
石井桃子さんから翻訳を次は頼むと言われて、私はオランダ語が出来ないのでオランダ語を勉強すると同時に、野坂悦子さんに原文を単語を一つづ意味を書いてもらって、意味を大事にして4行に収める事を考えました。
オランダ人の勤勉さ、清潔さ、日常の生活をしっかり生きている、そういう子供の生活を本当によく描いています。
いい絵本を読んでやっていると子供達は本の中に入り込んでいると言うことがよくわかります。
子供と一緒に本を読んでいると自分一人では起きない事が起きます。
子供が小さな事に対しても目を通して、子供がいうことでえっと思う時があります。
アメリカにいるときは英語の読み聞かせもやっていました。
反応は全く同じです、同じ所で同じ顔をします。
違うところは日本の子供はキスと言う言葉などには過剰に反応します。
日本語の文章はは高低のアクセントで、英語はアクセントが強弱なので、いい英語の本は声を出して読むとひとりでに強弱のリズムが付いてきて心地良くなります。
200冊ぐらいを訳してきました。
世界中のいい児童文学を日本の子供は読めると言うことが幸せだと思います。
空想の世界の楽しさ、ユーモアとかが外国文学にあるので幸せだと思います。
子供が本を好きになる秘訣としては、子供の生活の中に本があるという事と、大人が子供に本を読んでやる、この二つだと思います。
子供の時に本を読んでやっておいたら、大人になった時にこんないいことがあると言うこともあるかもしれないけれど、子供が子供の時点で楽しい思いをするのだったら、後に影響を残さなくてもいいと思っています。
結果のために今本を読むと言うことではないと思っています。
楽しさを子供の時に味わってもらいたいと思います。
2017年10月26日木曜日
松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家) ・わくわく読書(1)
松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(1)
東京中野区にある東京子供図書館は公益財団法人の図書館で子供の本と読書を専門としています。
図書館を設立したメンバーの一人松岡さんは82歳です。
アメリカの大学院で児童図書館学科を専攻した後公共図書館で児童図書館員として勤務しました。
日本に帰国後大阪の図書館に勤務しましたが、子供の仕事を専門に続けることが出来ないことが判って東京の自宅で家庭文庫を開きました。
300冊ほどの本でのスタートでしたが、アメリカの図書館で行っていた読み聞かせなどのサービスを実施しました。
その後松岡さんの文庫など都内の家庭文庫が母体となり東京子供図書館が設立されました。
子供に読書のわくわく感を伝えようと活動を繰り広げる東京子供図書館、1日目は図書館を設立するまでを中心に伺います。
うちでは読んでもらいたい子供には心行くまで読むと言うことをしているので、ずっと帰るまで読んでもらっている子もいます。
そばに本が有るだけでもいいし、本が有る場所に身を置くと言うことでもいいし、本の持っている力が本の中に有ると思うので、空気のようににじみ出て、その空気の中に身を置くと言うのはいいことだと思います。
児童室には8000冊ぐらいで、少ないがほとんど基本的な要求は満たすことが出来ると思います。
私は本が好きですし、子供が好きです。
子供のころはそんなに本を読んでいたとは思いません、本はあまりなくて図書館などはありませんでした。
繰り返し読んでいたことは事実です。
8歳上の姉に親が本を買ってくれてそれを読んでいました。
一人でいることが好きでぼんやり空想をすることをよくしていたように思います。
小学校には体育館がなくて体育の日が雨の時にはよく話をする機会があり、よく先生に呼ばれて本の話をしたりして、人に話をすることが好きだったんだと思います。
自分で本が手に入るようになってからは随分読んだと思います。
高等学校の時に転校しましたが、図書館に本が沢山あり毎日通って本を読んでいました。
一日一冊と自分で決めて手当たりしだい読みました。
この世の中には自分とはまったく違う興味を持って、まったく違う境遇で、まったく違う生き方をしている人たちが大勢いることが、私の中に育ってきたように思います。
子供の本に関する仕事をしたいという願いは漠然とありましたが、職種としてどんなことが有るか分からなかった。
小説を書こうかと思ったが、やって見て駄目だと思いました。
英語をやれば役に立つと思って大学では英語の勉強をしました。
卒業後、家庭教師をしながら過ごしていました。
新聞の片隅に慶応大学の図書館学科で学生を募集していると言う小さな広告を見て、図書館学科と言うのは聞いたことがなくて、卒業論文を書くときにライブラリーと言う言葉によく出会って、児童文学とライブラリーがなんとなく関係があると言うことがわかっていたので、図書館学科では子供の本や子供の文学の事を勉強できるのではないかと思って、出かけて行って編入試験を受けて3年生に編入しました。
踏ん切りのつかないたちですが、その時の行動は自分でも不思議に思っています。
勉強は分類法、目録法、参考資料などが主なことでしたが、目録には興味が持てませんでした。
渡辺 茂男先生がアメリカで勉強して、児童図書館員として働く経験も持って、子供に対する読書サービスの事を教えていただいて、とっても嬉しかったです。
子供の時に図書館の存在を知らなかったので、慶応大学の図書館学科に行って一番よかったのは、そこで公立図書館の存在とその役割の大きさについて知ることが出来たことです。
アメリカの公立の図書館には必ず児童室があって、専門の児童図書館員が子供達をいい読書人に育てるための色んなサービスをおこなっているということを知って、子供と一緒に本を楽しんで、話を語ったりする事が仕事として出来ることが夢のようなことでした。
終戦後、占領軍の教育視察団が日本の教育は余りにも学校教育に偏重しすぎて、社会教育に全然関心が向けられていない、だから日本を民主国家にするためには、学校だけではなくて公立の公共図書館が社会教育の中心にならなくてはいけない、そのためには公共図書館で働く図書館員を育てなくてはならないということで、アメリカの図書館協会から先生が派遣されてたち上げた学校だったので、公共図書館の存在と子供にサービスをするということを叩きこまれたことは本当にありがたかったです。
日本には児童図書館員と言う職業はなくて、図書館学科の図書館員として働いていたら、留学の機会に恵まれました。
アメリカのミシガン州のウエスタンミシガン大学の図書館学科(大学院)に留学しました。
難しい分類法、目録法等は日本で勉強しているので取らなくていいと言ってもらったので有難かったです。
子供の読書に関する色々な科目だけを取れたので、充実したいい時期でした。
地元の児童図書館を見学などもさせてもらって、実際の体験をしてみたいと言う気持ちが強くあって、先生から声をかけてもらって市立図書館に面接もなく採用されました。
ボルティモア市は98万人ぐらいの都市で、中央館のほかに25分館があり、一番小さい図書館に配属されました
館長(大人担当)と児童図書館員1人で、そこに私が加わりました。
子供達から色々要望されて、行ったり来たりして足が膨らんで靴がはけられなくなるぐらい動きました。
夏休み前は8つの学校の各クラスに行って、夏休みになったら来て下さいと行って廻ったりして、色々楽しくやりました。
市には児童図書館員が35人ぐらいいて、毎月一回ミーティングしたり、本の選択委員会があり、新刊書の検討をして購入するかどうかを討議して決めたり、新人の研修会で話し方の研修があったりして、いい図書館員になるためのプログラムが有りました。
この分館では8割がたが黒人の地域で、図書館がなければ本を読めない様な所でしたが、いい本がたくさんあるのでよろこんで読んで帰っていました。
学生ビザで行っていたので、延長するとなると移民局に行って手続きをしなければいけなくて、日本に早く帰ってこのような図書館をやりたくて1年で帰って来ました。
大阪の市立中央図書館の小中学生室で働くことになりました。
アメリカと日本は驚くべき差でした。
受験生の勉強部屋でした、800席も有るおおきな学習室があり、図書館の本は一冊も使わずに自分の参考書で勉強する、と言うようなところでした。
本を読んであげようかというと変な顔をされたりしました。
余り厭だと言わない小さな子に読んであげていたら、友達を連れて来て、聞いてくれたりしました。
本を読んで聞かせることを一生懸命しました。
複本は入れない規則があるとか、図書館員は児童室に入れる本を選ぶ権利がなくて、アメリカとは考えられない差でした。
一番大変だったのは人は3年働いたらそこにはいられないという規則も有りました。
2年半働いて辞めることになってしまいました。
東京中野区にある東京子供図書館は公益財団法人の図書館で子供の本と読書を専門としています。
図書館を設立したメンバーの一人松岡さんは82歳です。
アメリカの大学院で児童図書館学科を専攻した後公共図書館で児童図書館員として勤務しました。
日本に帰国後大阪の図書館に勤務しましたが、子供の仕事を専門に続けることが出来ないことが判って東京の自宅で家庭文庫を開きました。
300冊ほどの本でのスタートでしたが、アメリカの図書館で行っていた読み聞かせなどのサービスを実施しました。
その後松岡さんの文庫など都内の家庭文庫が母体となり東京子供図書館が設立されました。
子供に読書のわくわく感を伝えようと活動を繰り広げる東京子供図書館、1日目は図書館を設立するまでを中心に伺います。
うちでは読んでもらいたい子供には心行くまで読むと言うことをしているので、ずっと帰るまで読んでもらっている子もいます。
そばに本が有るだけでもいいし、本が有る場所に身を置くと言うことでもいいし、本の持っている力が本の中に有ると思うので、空気のようににじみ出て、その空気の中に身を置くと言うのはいいことだと思います。
児童室には8000冊ぐらいで、少ないがほとんど基本的な要求は満たすことが出来ると思います。
私は本が好きですし、子供が好きです。
子供のころはそんなに本を読んでいたとは思いません、本はあまりなくて図書館などはありませんでした。
繰り返し読んでいたことは事実です。
8歳上の姉に親が本を買ってくれてそれを読んでいました。
一人でいることが好きでぼんやり空想をすることをよくしていたように思います。
小学校には体育館がなくて体育の日が雨の時にはよく話をする機会があり、よく先生に呼ばれて本の話をしたりして、人に話をすることが好きだったんだと思います。
自分で本が手に入るようになってからは随分読んだと思います。
高等学校の時に転校しましたが、図書館に本が沢山あり毎日通って本を読んでいました。
一日一冊と自分で決めて手当たりしだい読みました。
この世の中には自分とはまったく違う興味を持って、まったく違う境遇で、まったく違う生き方をしている人たちが大勢いることが、私の中に育ってきたように思います。
子供の本に関する仕事をしたいという願いは漠然とありましたが、職種としてどんなことが有るか分からなかった。
小説を書こうかと思ったが、やって見て駄目だと思いました。
英語をやれば役に立つと思って大学では英語の勉強をしました。
卒業後、家庭教師をしながら過ごしていました。
新聞の片隅に慶応大学の図書館学科で学生を募集していると言う小さな広告を見て、図書館学科と言うのは聞いたことがなくて、卒業論文を書くときにライブラリーと言う言葉によく出会って、児童文学とライブラリーがなんとなく関係があると言うことがわかっていたので、図書館学科では子供の本や子供の文学の事を勉強できるのではないかと思って、出かけて行って編入試験を受けて3年生に編入しました。
踏ん切りのつかないたちですが、その時の行動は自分でも不思議に思っています。
勉強は分類法、目録法、参考資料などが主なことでしたが、目録には興味が持てませんでした。
渡辺 茂男先生がアメリカで勉強して、児童図書館員として働く経験も持って、子供に対する読書サービスの事を教えていただいて、とっても嬉しかったです。
子供の時に図書館の存在を知らなかったので、慶応大学の図書館学科に行って一番よかったのは、そこで公立図書館の存在とその役割の大きさについて知ることが出来たことです。
アメリカの公立の図書館には必ず児童室があって、専門の児童図書館員が子供達をいい読書人に育てるための色んなサービスをおこなっているということを知って、子供と一緒に本を楽しんで、話を語ったりする事が仕事として出来ることが夢のようなことでした。
終戦後、占領軍の教育視察団が日本の教育は余りにも学校教育に偏重しすぎて、社会教育に全然関心が向けられていない、だから日本を民主国家にするためには、学校だけではなくて公立の公共図書館が社会教育の中心にならなくてはいけない、そのためには公共図書館で働く図書館員を育てなくてはならないということで、アメリカの図書館協会から先生が派遣されてたち上げた学校だったので、公共図書館の存在と子供にサービスをするということを叩きこまれたことは本当にありがたかったです。
日本には児童図書館員と言う職業はなくて、図書館学科の図書館員として働いていたら、留学の機会に恵まれました。
アメリカのミシガン州のウエスタンミシガン大学の図書館学科(大学院)に留学しました。
難しい分類法、目録法等は日本で勉強しているので取らなくていいと言ってもらったので有難かったです。
子供の読書に関する色々な科目だけを取れたので、充実したいい時期でした。
地元の児童図書館を見学などもさせてもらって、実際の体験をしてみたいと言う気持ちが強くあって、先生から声をかけてもらって市立図書館に面接もなく採用されました。
ボルティモア市は98万人ぐらいの都市で、中央館のほかに25分館があり、一番小さい図書館に配属されました
館長(大人担当)と児童図書館員1人で、そこに私が加わりました。
子供達から色々要望されて、行ったり来たりして足が膨らんで靴がはけられなくなるぐらい動きました。
夏休み前は8つの学校の各クラスに行って、夏休みになったら来て下さいと行って廻ったりして、色々楽しくやりました。
市には児童図書館員が35人ぐらいいて、毎月一回ミーティングしたり、本の選択委員会があり、新刊書の検討をして購入するかどうかを討議して決めたり、新人の研修会で話し方の研修があったりして、いい図書館員になるためのプログラムが有りました。
この分館では8割がたが黒人の地域で、図書館がなければ本を読めない様な所でしたが、いい本がたくさんあるのでよろこんで読んで帰っていました。
学生ビザで行っていたので、延長するとなると移民局に行って手続きをしなければいけなくて、日本に早く帰ってこのような図書館をやりたくて1年で帰って来ました。
大阪の市立中央図書館の小中学生室で働くことになりました。
アメリカと日本は驚くべき差でした。
受験生の勉強部屋でした、800席も有るおおきな学習室があり、図書館の本は一冊も使わずに自分の参考書で勉強する、と言うようなところでした。
本を読んであげようかというと変な顔をされたりしました。
余り厭だと言わない小さな子に読んであげていたら、友達を連れて来て、聞いてくれたりしました。
本を読んで聞かせることを一生懸命しました。
複本は入れない規則があるとか、図書館員は児童室に入れる本を選ぶ権利がなくて、アメリカとは考えられない差でした。
一番大変だったのは人は3年働いたらそこにはいられないという規則も有りました。
2年半働いて辞めることになってしまいました。
2017年10月25日水曜日
大野田勝行(元航空工学エンジニア) ・命を守る飛行機を
大野田勝行(元航空工学エンジニア) ・命を守る飛行機を
戦時中日本軍が行っていた特別攻撃、特攻、そのために開発された兵器の一つが航空機型の特攻兵器、「桜花」です。
神奈川県横須賀市に有った海軍航空技術廠でひそかに作られました。
名古屋市に住む大野田さん(95)は「桜花」の設計や製造に携わったエンジニアです。
当時どのような心境で「桜花」を作っていたのか、戦後も旅客機の開発に携わった大野田さんは今飛行機にどのような思いを寄せているのか伺いました。
「桜花」はロケット機で自分からは飛べない、飛行機にぶら下げて行って、ロケットに点火して飛び出す。
ロケットエンジンで目的に突入するわけです。
「桜花」の操縦席の前は爆薬、操縦席の後はロケットエンジン、真ん中に兵隊さんが乗る訳です。
着陸する車輪もない、(そりの様なものは有るが)
長野県の松本で生まれて、松本飛行場があってよく遊びに行きました。
子供のころから飛行機にあこがれました。
旧制中学を卒業後、浜松高等工業学校(静岡大学の前身)で航空工学を学ぶ。
大学卒業前に技術士官コースを受ける。
三菱重工の試験を受けて、受かって入社して直ぐに海軍に行きました。
軍艦に乗せられて中国の青島に連れて行かれて、山東大学に行ってしごかれました。
ボートが一番厳しかった。
11月だったので北海道よりも北なので、凄く寒いし、ボートのしごきで尻も痛んだ。
内地に戻ってから海軍航空技術廠(戦闘機の開発拠点)に入りました。
ほとんどものは作らず、作ったのは「桜花」位です。
三菱もここからの指示で行い、海軍で受け入れるかどうかを審査するところです。
堀越さんがゼロ戦を設計したが、海軍で使えるかどうかを審査するところです。
「秋水」ロケット機は、ドイツのロケットエンジンを潜水艦で持ってきた。
「桜花」の全長は5~6m、ジュラルミンで表面は塗っていない。
人がはいるところは狭い。(無駄なものは一切ない、軽いことが大事)
普通、落下傘を座席のクッションに使ったりするが、それも無い。
生き延びることは考えない、お国のために命を捨てると言う事だった。
日本は国産が厳しい、ジュラルミンを作り出す資源がほとんど無かった。
鉄板を薄くして軽く細工してジュラルミンに代わる方法はないか、などを考えました。
工場見学に行ったことが有るが、品川で部品を作っているのが、駆り出された芸者衆、飲み屋等の女の人でした。
「回天
」特攻潜水艦は人間魚雷だが、「桜花」は人間爆弾ですよ。
軍艦に向かうが、仕留められればいいけれども、ほとんど駄目ですよ。
そのようになるんではないかと憶測は有りましたが、作らなければいけない状況であった。
横須賀の空軍廠にいるときに学生時代の同級生が、特攻隊を志望していてお別れに来ました。
横須賀の飲み屋に行って話したりしたが、逝ってしまいました。
特攻に行くことは彼は言わなかったが、それとなくこちらもわかってしまいました。
戦争は国のためになんとか耐えて勝たないといけない、という気持ちにみんななってしまう、それはしょうがない。
「桜花」を一機作れば一人誰かが亡くなるがそれでもつくらなければいけなかった。
「桜花」50機を航空母艦「信濃」に積んで南方の戦場に輸送しようと思って房総半島を出たら、潜水艦にやられてしまって全部沈んでしまった。
誰も乗ることはなかった、聞いた瞬間は物資の無い中せっかく並大抵な苦労ではなく作った物が沈んでしまって、くそっと思った、涙が出ました。
50人が助かったのでよかったという気持ちには直ぐには成らなかった、それは複雑です。
目的を達したとしても特攻の人達の事を思えば万歳と言う訳にはいかない。
戦争は矛盾だらけ、でもそれが戦争。
戦後、三菱の名古屋の工場が焼け野原になり、長野県の松本に移りました。
そこで農機具の設計などをやり、私は脱穀機を設計しました。
その後名古屋に戻ってきて、国産機の開発を目指しました。
昭和34年 国産プロペラ機MU2をリーダーとして開発に携わる。
ゼロ戦などはレシプロエンジンと言いますが、ターボプロップエンジンはジェットエンジンでその推進力をプロペラに変えるものです。
ドイツのハノーバの航空ショーに出すために、ゼロ戦のパイロットと一緒にドイツの航空局に行ったが、ドイツにもメッサーシュミットと言う戦闘機が有りそのパイロットがいて、2人で審査することになった。
結果的に700機以上を売り出した。
飛行機を作ると言う仕事が出来ると言うことに対して幸せだと思いました。
「桜花」は夢がない、MU2は夢がある、それが一番大きな違いです。
「桜花」を使ったら命を断たれる、MU2は夢を運べる。
好きなところへ行けるし、ビジネスでいい仕事が出来るとか、色々エンジョイできる。
もっと平和に安全に向かってほしいと思います。。
トラブルフリーの乗り物の代表みたいになってほしい。
戦時中日本軍が行っていた特別攻撃、特攻、そのために開発された兵器の一つが航空機型の特攻兵器、「桜花」です。
神奈川県横須賀市に有った海軍航空技術廠でひそかに作られました。
名古屋市に住む大野田さん(95)は「桜花」の設計や製造に携わったエンジニアです。
当時どのような心境で「桜花」を作っていたのか、戦後も旅客機の開発に携わった大野田さんは今飛行機にどのような思いを寄せているのか伺いました。
「桜花」はロケット機で自分からは飛べない、飛行機にぶら下げて行って、ロケットに点火して飛び出す。
ロケットエンジンで目的に突入するわけです。
「桜花」の操縦席の前は爆薬、操縦席の後はロケットエンジン、真ん中に兵隊さんが乗る訳です。
着陸する車輪もない、(そりの様なものは有るが)
長野県の松本で生まれて、松本飛行場があってよく遊びに行きました。
子供のころから飛行機にあこがれました。
旧制中学を卒業後、浜松高等工業学校(静岡大学の前身)で航空工学を学ぶ。
大学卒業前に技術士官コースを受ける。
三菱重工の試験を受けて、受かって入社して直ぐに海軍に行きました。
軍艦に乗せられて中国の青島に連れて行かれて、山東大学に行ってしごかれました。
ボートが一番厳しかった。
11月だったので北海道よりも北なので、凄く寒いし、ボートのしごきで尻も痛んだ。
内地に戻ってから海軍航空技術廠(戦闘機の開発拠点)に入りました。
ほとんどものは作らず、作ったのは「桜花」位です。
三菱もここからの指示で行い、海軍で受け入れるかどうかを審査するところです。
堀越さんがゼロ戦を設計したが、海軍で使えるかどうかを審査するところです。
「秋水」ロケット機は、ドイツのロケットエンジンを潜水艦で持ってきた。
「桜花」の全長は5~6m、ジュラルミンで表面は塗っていない。
人がはいるところは狭い。(無駄なものは一切ない、軽いことが大事)
普通、落下傘を座席のクッションに使ったりするが、それも無い。
生き延びることは考えない、お国のために命を捨てると言う事だった。
日本は国産が厳しい、ジュラルミンを作り出す資源がほとんど無かった。
鉄板を薄くして軽く細工してジュラルミンに代わる方法はないか、などを考えました。
工場見学に行ったことが有るが、品川で部品を作っているのが、駆り出された芸者衆、飲み屋等の女の人でした。
「回天
」特攻潜水艦は人間魚雷だが、「桜花」は人間爆弾ですよ。
軍艦に向かうが、仕留められればいいけれども、ほとんど駄目ですよ。
そのようになるんではないかと憶測は有りましたが、作らなければいけない状況であった。
横須賀の空軍廠にいるときに学生時代の同級生が、特攻隊を志望していてお別れに来ました。
横須賀の飲み屋に行って話したりしたが、逝ってしまいました。
特攻に行くことは彼は言わなかったが、それとなくこちらもわかってしまいました。
戦争は国のためになんとか耐えて勝たないといけない、という気持ちにみんななってしまう、それはしょうがない。
「桜花」を一機作れば一人誰かが亡くなるがそれでもつくらなければいけなかった。
「桜花」50機を航空母艦「信濃」に積んで南方の戦場に輸送しようと思って房総半島を出たら、潜水艦にやられてしまって全部沈んでしまった。
誰も乗ることはなかった、聞いた瞬間は物資の無い中せっかく並大抵な苦労ではなく作った物が沈んでしまって、くそっと思った、涙が出ました。
50人が助かったのでよかったという気持ちには直ぐには成らなかった、それは複雑です。
目的を達したとしても特攻の人達の事を思えば万歳と言う訳にはいかない。
戦争は矛盾だらけ、でもそれが戦争。
戦後、三菱の名古屋の工場が焼け野原になり、長野県の松本に移りました。
そこで農機具の設計などをやり、私は脱穀機を設計しました。
その後名古屋に戻ってきて、国産機の開発を目指しました。
昭和34年 国産プロペラ機MU2をリーダーとして開発に携わる。
ゼロ戦などはレシプロエンジンと言いますが、ターボプロップエンジンはジェットエンジンでその推進力をプロペラに変えるものです。
ドイツのハノーバの航空ショーに出すために、ゼロ戦のパイロットと一緒にドイツの航空局に行ったが、ドイツにもメッサーシュミットと言う戦闘機が有りそのパイロットがいて、2人で審査することになった。
結果的に700機以上を売り出した。
飛行機を作ると言う仕事が出来ると言うことに対して幸せだと思いました。
「桜花」は夢がない、MU2は夢がある、それが一番大きな違いです。
「桜花」を使ったら命を断たれる、MU2は夢を運べる。
好きなところへ行けるし、ビジネスでいい仕事が出来るとか、色々エンジョイできる。
もっと平和に安全に向かってほしいと思います。。
トラブルフリーの乗り物の代表みたいになってほしい。
2017年10月24日火曜日
仲川文江(手話通訳者) ・ろう者の被爆 伝え続けて
仲川文江(手話通訳者) ・ろう者の被爆 伝え続けて
77歳、広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちの体験を本にまとめたり、被爆者に代わって手話で伝えてきたりしました。
原爆が投下されてから72年、耳の聞こえない被爆者がいた証しを残そうという仲川さんにお聞きしました。
広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちは、戦後遅くなってから調査した関係で、はっきりしていないのですが、およそ200人ぐらいかなと言われています。
実際には200人よりはずっと多いと思います。
今も健在な方は4人です。
私が取材できる人は2人で、2人は県外です。
高齢なのでいつも面会できる訳ではなくて、元気で活動できる人は一人もいないので、今は最後のチャンスだと思っています。
耳に音とか言葉が残っている年齢から失聴された方は、音、言葉の記憶があるので自分で声を出すことが出来る。
音、言葉の記憶のない、先天性とか、耳に音とか言葉が残っていない年齢から失聴された方は手話でないと意志は伝わりません。
手話は顔の表情(喜怒哀楽)、スピード、強弱等あり、要素と言うものはものすごくたくさん有ります。
そういうものが全部出来て初めて通じると言うことになります。
手話から日本語の文章に変えることは結構大変です。
私の両親は耳が聞こえないが、兄弟は耳が聞こえたので幼い頃手話を習得しました。
私は手話を先に覚えたと思います。
祖父母、伯母等もいたので喋る言葉も自然と覚えました。
戦時中、灯火管制があるときには光が漏れないようにするが、そうすると両親とは意志が通じなくなるので、点けたままにしていましたが、最後には軍の方が来て電球を持って帰ってしまいました。
5歳の私を一緒に連れて行って、返してほしいと言ったが、拒否されてしまいました。
私がちゃんと電気消しますと言って、何とか電球を返して貰いました。
戦後広島市に移って、父が耳の聞こえない人達を含めた木工所を建てて、社宅には6家族の耳の聞こえない家族がいました。
そこはみんな手話でしたので、手話での通訳をしました。
耳の聞こえない人が病気になった時などは学校まで迎えに来て、授業を抜けて病院の方と手話で通訳をしたりしました。
沢山の耳の聞こえなくなった人たちの中で育ったので、私の持っている手話の力はその頃から培ってきたものだと思います。
40年ほど前に、広島県手話通訳問題研究会を立ち上げて、間もなく被爆した耳の聞こえない人達の体験の聞き取りを始めました。
私たちの親団体からの依頼で、聞こえない人達の戦争はどうだったかと言うことを全国的に集めたいと言うことでしたが、とんでもないことだと思いました。
音声言語と手話言語は根本的に違う。
断ったがしつこくお願いされて、とりあえずやってみようと思ったことと、今までの聞こえない人たちの生活はどう言うふうに残っているのかなと思って、調べてみたが聞こえない人の話はどこにも残っていなかった。
書くことの訓練はしていないので、発した言葉がどういう文字になるかということはおざなりになっていた。
自分の気持ちを文章に表せないので、聞こえない人の文化、歴史、生活も何にも残っていないので、聞こえない人がいなかったと一緒。
そういう状況を知ったので、ではやってみようと思いました。
最初は物凄く警戒されました。
雑談しているうちに、段々話してくれるようになりました。
被爆した体験のしんどさは一緒ですが、違うところは情報量の違いです。
原爆は特殊爆弾と言うことは理解しているが、放射能、被爆による体調の変化、体調の変化を理解するのに早い人で10年、判らない人は20年、30年もかかっています。
今の病気が放射能障害ではないか、そのためには手帳が無いといけないと判ったころには30年もたっている。
被爆したと言うことに対する証人も探すのも大変です。
被爆のせいだと判るのは20年も30年もたってしまっている。(被爆したという概念がない)
聞こえる親はほとんど手話はできないので、伝えることが出来ない。
「被爆障害」と言う言葉などは言えない、伝えられない。
情報が積み重なって、理解されるのに時間がかかる、終戦を知らなかった人も沢山います。
「そうだったのか」と諦めるしかないです。
聞こえないお嫁さん、お姑さん、聞こえる赤ちゃん3人が広島駅前で被爆して大やけどを負って、姉さんのところまでやっと歩いて行ったが、おぶっていた赤ちゃんは頭から大やけどを負っていて、自分は前が大やけどで重症で、一緒に寝ていたが3日目に赤ちゃんが亡くなるが、赤ちゃんを抱き締めたかったが出来なかったと、手話でおっしゃるわけです。
それがたった一つの手話で、抱けなかったことへの無念さ、悔しさ、情けなさ、不憫さなどがたった一つの手話で表現する訳です。(全身で表現する)
その時の顔、身体の動きが言葉にできない、それを文章にできない。
書いては消したり繰り返したが、どうしても「3日目に亡くなりました。」しか書けなかった。
一冊目の時は大変な反響でした。
文章にならない所っていっぱいあるんですよね。
見ることと、聞く言葉の違いの難しさを本当に苦しみました。
文章の限界を知り、疑問を感じ始めました。
広島市が被爆体験の伝承の事業を始めたと言うことを聞きました。
私たちも手話で残せばいいと思って、去年伝承班と言う形でスタートして育成と言うところから始めました。
被爆者の方からは、この活動に対してとっても喜んでくれています。
この夏に手話で体験を披露する機会が有ったが、会場はコトリとも音がしないで、じーっと食い入るように見ていて、終わっても会場は動きませんでした。
東京にもう一方いますが、取材をしたいがもうギリギリで、何故もうちょっと早くやらなかったのかと思っています。
77歳、広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちの体験を本にまとめたり、被爆者に代わって手話で伝えてきたりしました。
原爆が投下されてから72年、耳の聞こえない被爆者がいた証しを残そうという仲川さんにお聞きしました。
広島に投下された原爆で被爆した耳の聞こえない人たちは、戦後遅くなってから調査した関係で、はっきりしていないのですが、およそ200人ぐらいかなと言われています。
実際には200人よりはずっと多いと思います。
今も健在な方は4人です。
私が取材できる人は2人で、2人は県外です。
高齢なのでいつも面会できる訳ではなくて、元気で活動できる人は一人もいないので、今は最後のチャンスだと思っています。
耳に音とか言葉が残っている年齢から失聴された方は、音、言葉の記憶があるので自分で声を出すことが出来る。
音、言葉の記憶のない、先天性とか、耳に音とか言葉が残っていない年齢から失聴された方は手話でないと意志は伝わりません。
手話は顔の表情(喜怒哀楽)、スピード、強弱等あり、要素と言うものはものすごくたくさん有ります。
そういうものが全部出来て初めて通じると言うことになります。
手話から日本語の文章に変えることは結構大変です。
私の両親は耳が聞こえないが、兄弟は耳が聞こえたので幼い頃手話を習得しました。
私は手話を先に覚えたと思います。
祖父母、伯母等もいたので喋る言葉も自然と覚えました。
戦時中、灯火管制があるときには光が漏れないようにするが、そうすると両親とは意志が通じなくなるので、点けたままにしていましたが、最後には軍の方が来て電球を持って帰ってしまいました。
5歳の私を一緒に連れて行って、返してほしいと言ったが、拒否されてしまいました。
私がちゃんと電気消しますと言って、何とか電球を返して貰いました。
戦後広島市に移って、父が耳の聞こえない人達を含めた木工所を建てて、社宅には6家族の耳の聞こえない家族がいました。
そこはみんな手話でしたので、手話での通訳をしました。
耳の聞こえない人が病気になった時などは学校まで迎えに来て、授業を抜けて病院の方と手話で通訳をしたりしました。
沢山の耳の聞こえなくなった人たちの中で育ったので、私の持っている手話の力はその頃から培ってきたものだと思います。
40年ほど前に、広島県手話通訳問題研究会を立ち上げて、間もなく被爆した耳の聞こえない人達の体験の聞き取りを始めました。
私たちの親団体からの依頼で、聞こえない人達の戦争はどうだったかと言うことを全国的に集めたいと言うことでしたが、とんでもないことだと思いました。
音声言語と手話言語は根本的に違う。
断ったがしつこくお願いされて、とりあえずやってみようと思ったことと、今までの聞こえない人たちの生活はどう言うふうに残っているのかなと思って、調べてみたが聞こえない人の話はどこにも残っていなかった。
書くことの訓練はしていないので、発した言葉がどういう文字になるかということはおざなりになっていた。
自分の気持ちを文章に表せないので、聞こえない人の文化、歴史、生活も何にも残っていないので、聞こえない人がいなかったと一緒。
そういう状況を知ったので、ではやってみようと思いました。
最初は物凄く警戒されました。
雑談しているうちに、段々話してくれるようになりました。
被爆した体験のしんどさは一緒ですが、違うところは情報量の違いです。
原爆は特殊爆弾と言うことは理解しているが、放射能、被爆による体調の変化、体調の変化を理解するのに早い人で10年、判らない人は20年、30年もかかっています。
今の病気が放射能障害ではないか、そのためには手帳が無いといけないと判ったころには30年もたっている。
被爆したと言うことに対する証人も探すのも大変です。
被爆のせいだと判るのは20年も30年もたってしまっている。(被爆したという概念がない)
聞こえる親はほとんど手話はできないので、伝えることが出来ない。
「被爆障害」と言う言葉などは言えない、伝えられない。
情報が積み重なって、理解されるのに時間がかかる、終戦を知らなかった人も沢山います。
「そうだったのか」と諦めるしかないです。
聞こえないお嫁さん、お姑さん、聞こえる赤ちゃん3人が広島駅前で被爆して大やけどを負って、姉さんのところまでやっと歩いて行ったが、おぶっていた赤ちゃんは頭から大やけどを負っていて、自分は前が大やけどで重症で、一緒に寝ていたが3日目に赤ちゃんが亡くなるが、赤ちゃんを抱き締めたかったが出来なかったと、手話でおっしゃるわけです。
それがたった一つの手話で、抱けなかったことへの無念さ、悔しさ、情けなさ、不憫さなどがたった一つの手話で表現する訳です。(全身で表現する)
その時の顔、身体の動きが言葉にできない、それを文章にできない。
書いては消したり繰り返したが、どうしても「3日目に亡くなりました。」しか書けなかった。
一冊目の時は大変な反響でした。
文章にならない所っていっぱいあるんですよね。
見ることと、聞く言葉の違いの難しさを本当に苦しみました。
文章の限界を知り、疑問を感じ始めました。
広島市が被爆体験の伝承の事業を始めたと言うことを聞きました。
私たちも手話で残せばいいと思って、去年伝承班と言う形でスタートして育成と言うところから始めました。
被爆者の方からは、この活動に対してとっても喜んでくれています。
この夏に手話で体験を披露する機会が有ったが、会場はコトリとも音がしないで、じーっと食い入るように見ていて、終わっても会場は動きませんでした。
東京にもう一方いますが、取材をしたいがもうギリギリで、何故もうちょっと早くやらなかったのかと思っています。
2017年10月21日土曜日
藤本聰(柔道男子 銅メダリスト) ・あきらめずに目指し続けた努力のメダル
藤本聰(柔道男子 銅メダリスト) ・あきらめずに目指し続けた努力のメダル
(リオデジャネイロパラリンピック柔道男子66キロ級 銅メダリスト)
徳島県出身、過去5大会のパラリンピックに出場しています。
背負い投げを武器にアトランタ、シドニー、アテネでは3大会連続の金メダル、北京五輪では銀メダルを獲得しました、ロンドンでは代表選考会でライバルの広瀬さんに敗れて5大会連続出場は成りませんでした。
更に藤本さんを襲った両手首のけが、一時は選手生命すら危ぶまれました。
さまざまな困難を乗り越え自身と向き合ったリオまでの4年間、41歳で銅メダルを獲得した藤本さんの姿は多くの人に勇気と感動を与えました。
メダルの一番大きいのが96年のアトランタ、緑のリボンが2000年のシドニー、一番小さいのがアテネ3連覇達成、北京はヒスイの石が入っていて重たい、ロンドン大会はありません、この間のリオで銅メダルを取れました。
目の障害者のために音が鳴るようになっていて、金メダルが一番高い音になっています。
20年間この世界に関わって来ました。
今年で42歳になりました。
生まれた時から目が悪くて、左はほとんど見えず、右は0.3とか0.4有ったと思うんですが、学校では席は一番前にと言うことを親が先生に伝えてました。
徳島商業の柔道部の監督の小泉先生が盲学校に勤務された経験も有ったと言うことで、理学療法師に成ってみないかと言う事で盲学校に入りました。
そこでパラリンピックと言うことも知りました。
夜遅くまで勉強した為に視力が落ちて0.1位だと思います。
網膜色素変性症(中心しか見えない)、黄斑変性症(周りは見える)、弱視(ぼやっと見える)3種類有る。
顔が判らず挨拶しないで誤解されたり、小さいものが見えないので掃除が苦手です。
この8年間は大変でした。
手首が曲がらずに3回手術をしましたが、やるたびに悪くなりました。
背負い投げが得意技ですが、それが出来なくなりました。
ロンドンの代表決定戦で広瀬さんに負けて出られませんでした。
今なにが出来るのか考えました。
やっていなかった技なども取り組みました。
怪我をしたところをどう補うか、トレナーの稲垣さんとやらせてもらいました。
トレーニング内容の説明。
筋肉がそこで鍛えられました。
きめ細やかさが日本人の強さだと言われました。
徳島商業の柔道部のコーチを現在やっています。
そこで色々学びました、指導者は実践者たれ。
柔道に勝るよろこびはない、柔道は生きがいです、「継続は信なり」(信念、自信、確信、信頼)
今の心を信じているかどうか、信念を持つ。
続けることによって、自信が出来て来る。
試合で結果が出ると確信に成る。
そうすると人に信頼されるようになります。
後悔だけは絶対したくなかったので、懸命に練習をしました。
言い訳をしないと言うことが大事だと思います。
諦めなければ何とかなります、本気でやれば大体できます、逆境はマンネリ化を打破して自分を大きく成長できるチャンスです。
もうこれ以上できないと言うところまで追いこんで練習をすると腹が決まります。
試合中にいかに冷静に立ちまわれるかが大事です。
ミスジャッジがあったりするが、それに対して気持ちが切り替えられるかどうか、引きずってしまうと駄目、そこで負けです。
練習が2割、試合でいかに実行できるか(メンタルを含めて)が5割、運がどれだけかは未知数です。
終わったら反省する、これのくり返しです。
苦手な事をする、これも意識してやっています。
いかに日常的なことにそれを落としこめるかどうかです。
結果を求めるのではなくて、情熱を持つ、向上心、探究心、悔しさ、行動力を起こして楽しむことが大事だと思います。
障害者に対しては一方的な思い込みがあるかもしれないが、自分で体験することが大事だと思います。
そうすると考え方が変わったと言う人がいっぱいいます。
助けてもらう側は自分のことは自分でする、これは大前提になります。
助けてもらう時の信頼関係、必要以上に助けない。
残された時間が3年間ありますが、武道館で君が代を聞けるように、それを見て引退したいと思います。
(リオデジャネイロパラリンピック柔道男子66キロ級 銅メダリスト)
徳島県出身、過去5大会のパラリンピックに出場しています。
背負い投げを武器にアトランタ、シドニー、アテネでは3大会連続の金メダル、北京五輪では銀メダルを獲得しました、ロンドンでは代表選考会でライバルの広瀬さんに敗れて5大会連続出場は成りませんでした。
更に藤本さんを襲った両手首のけが、一時は選手生命すら危ぶまれました。
さまざまな困難を乗り越え自身と向き合ったリオまでの4年間、41歳で銅メダルを獲得した藤本さんの姿は多くの人に勇気と感動を与えました。
メダルの一番大きいのが96年のアトランタ、緑のリボンが2000年のシドニー、一番小さいのがアテネ3連覇達成、北京はヒスイの石が入っていて重たい、ロンドン大会はありません、この間のリオで銅メダルを取れました。
目の障害者のために音が鳴るようになっていて、金メダルが一番高い音になっています。
20年間この世界に関わって来ました。
今年で42歳になりました。
生まれた時から目が悪くて、左はほとんど見えず、右は0.3とか0.4有ったと思うんですが、学校では席は一番前にと言うことを親が先生に伝えてました。
徳島商業の柔道部の監督の小泉先生が盲学校に勤務された経験も有ったと言うことで、理学療法師に成ってみないかと言う事で盲学校に入りました。
そこでパラリンピックと言うことも知りました。
夜遅くまで勉強した為に視力が落ちて0.1位だと思います。
網膜色素変性症(中心しか見えない)、黄斑変性症(周りは見える)、弱視(ぼやっと見える)3種類有る。
顔が判らず挨拶しないで誤解されたり、小さいものが見えないので掃除が苦手です。
この8年間は大変でした。
手首が曲がらずに3回手術をしましたが、やるたびに悪くなりました。
背負い投げが得意技ですが、それが出来なくなりました。
ロンドンの代表決定戦で広瀬さんに負けて出られませんでした。
今なにが出来るのか考えました。
やっていなかった技なども取り組みました。
怪我をしたところをどう補うか、トレナーの稲垣さんとやらせてもらいました。
トレーニング内容の説明。
筋肉がそこで鍛えられました。
きめ細やかさが日本人の強さだと言われました。
徳島商業の柔道部のコーチを現在やっています。
そこで色々学びました、指導者は実践者たれ。
柔道に勝るよろこびはない、柔道は生きがいです、「継続は信なり」(信念、自信、確信、信頼)
今の心を信じているかどうか、信念を持つ。
続けることによって、自信が出来て来る。
試合で結果が出ると確信に成る。
そうすると人に信頼されるようになります。
後悔だけは絶対したくなかったので、懸命に練習をしました。
言い訳をしないと言うことが大事だと思います。
諦めなければ何とかなります、本気でやれば大体できます、逆境はマンネリ化を打破して自分を大きく成長できるチャンスです。
もうこれ以上できないと言うところまで追いこんで練習をすると腹が決まります。
試合中にいかに冷静に立ちまわれるかが大事です。
ミスジャッジがあったりするが、それに対して気持ちが切り替えられるかどうか、引きずってしまうと駄目、そこで負けです。
練習が2割、試合でいかに実行できるか(メンタルを含めて)が5割、運がどれだけかは未知数です。
終わったら反省する、これのくり返しです。
苦手な事をする、これも意識してやっています。
いかに日常的なことにそれを落としこめるかどうかです。
結果を求めるのではなくて、情熱を持つ、向上心、探究心、悔しさ、行動力を起こして楽しむことが大事だと思います。
障害者に対しては一方的な思い込みがあるかもしれないが、自分で体験することが大事だと思います。
そうすると考え方が変わったと言う人がいっぱいいます。
助けてもらう側は自分のことは自分でする、これは大前提になります。
助けてもらう時の信頼関係、必要以上に助けない。
残された時間が3年間ありますが、武道館で君が代を聞けるように、それを見て引退したいと思います。
2017年10月20日金曜日
竹内昌彦(NPO法人 ヒカリカナタ基金) ・アジアの子らにヒカリを
竹内昌彦(NPO法人 ヒカリカナタ基金)・アジアの子らにヒカリを
72歳、元岡山県立岡山盲学校の教頭で全盲です。
幼い頃目が見えないことで虐められら体験から命の大切さや障害者への理解をうったえる講演を全国各地で行いその回数は2300回を超えました。
講演の収益金を元にこれまででモンゴルやキルギスに、視覚障害者のための学校や施設を建てました。
又昨年11月にはアジアの子供たちに目の手術の費用を援助するNPO法人「ヒカリカナタ基金」を設立し、これまで70人を超える子供たちが光を取り戻しています。
竹内さんの活動を支えるのはどんな思いなのか伺いました。
視力のない子供たちに視力をプレゼントしたい、それを日本からはるか彼方へ送ると言う意味で「ヒカリカナタ基金」と言う名前にしました。
モンゴル、キルギス合わせて70人以上の子供の視力が改善したと聞いています。
きっかけはモンゴルで視覚障害の子供を盲学校にいかせたいとの運動が有り、遊牧民なので学校に行くには遠いので、行かせることはできないと言うことでお金を出して、グランバートルの盲学校に連れて行ったら、医者がちょっとした手術で視力が回復するから普通の学校に行けばいいと言われました。
15万円あれば2人見えるようになるがお金がないので、と言う電話がかかって来ました。
手術をして貰い、治ってその子たちは学校に行けるようになりました。
そのことで、できるだけ頑張って見えるようにしてやりたいと思いました。
開発途上国では視力の有る無しは道はないし点字ブロックはないし非常に厳しいので、学校を作るよりももっと大事だと思って目標をこれに切り替えました。
アジアにはちょっとした手術で目が見えるようになる人が大勢いる。
今年の12月にはネパールに行って、組織にお願いして目の見えない子供の手術をしたいと思っています。
昔から日本にはアジアなどに大規模に支援活動をしているグループが沢山あります。
そのグループに持ち込んで応援してくれないかと言えば、快く受け取ってくれる面が有り、ネパール、来年はミャンマー、事情さえ許せばタイ、フィリピン、カンボジア等多くの国の子供に注目したいと思っています。
2011年モンゴルに盲学校を建て、キリギスには2015年に視覚障害者のための施設を建てました。
きっかけとなったのは3つ有り
①現役のころから人権問題として、障害者理解を深めたいとの教育界の動きが始まりました。
障害者への差別問題も学校で教育の材料として取り上げたいと言うことで、障害者の話を1991年から私は講演の要請を受けるようになりました。
講演をすると御礼が出るが、臨時収入でよろこんでいていいのかという不安が有り、とりあえず貯金をしましたが、それが100万円を超えました。(何か出来そうな額になった)
②沖縄にアジアの国の視覚障害者のリーダーを集めて、視覚障害者でも日本にはマッサージという職業が有ると言うことをリーダーに教えて、目が見えなくても働けると言う種を蒔こうと言う計画が始まりました。
その教師団に私にも来いと言う話が持ちかけられました。
各国ではどうやってマッサージを皆のものにしていいかわからないと言うことで、私の貯金で学校を作れないかなあと思いました。
③モンゴルのガンズリグという若者が日本に来て、按摩、鍼、灸の国家試験を日本語で受けて資格を取って国に帰って、後輩たちに教えていると言うことが判ったが、学校がなくて苦労しながら教えていると言うことで、学校さえ作ってあげれば勉強しやすいと言うことでモンゴルに決めて話を進めました。
学校を作って寄宿舎、食堂を作って、コンピューターを習う部屋、英語を習う部屋も作って総合力の付いた卒業生を出そうと2011年に建て、300人卒業しました。
卒業生には、あなた方が今一番大事だと、あなた方がいい仕事をしたらモンゴルの国は認めてくれる、あなた方がいい加減な仕事をしたら目の見えない人にはマッサージは無理だという結論になるので頑張れとハッパをかけて、今病院とかマッサージ治療院などで一生懸命働いています。
NHKの取材が有り、TVに向かって自分は物乞いをしていたがマッサージを習って家も建てて、お嫁さんが来て、子供が出来、あのころを思うと本当に幸せになれたと言ってくれて実に気分のいい話でした。
キルギスにも広げました。
1945年生まれ、(中国の天津で生まれる)父が外務省がらみの仕事していたが、半年後に日本が負けて引き上げの時に、私は船の中で風邪をこじらせ肺炎になり40℃の熱が出て、右の眼を壊してしまい、左の眼は多少は見えて普通の小学校に行き来ました。
黒板もよく見えなくて、いじめられたりしました。
2年生の2月に網膜剥離を起こして完全に見えなくなってしまいました。
遊びなどについていけないことが悔しかったし、さびしかったりしました。
点字を覚えて、親はなんでもやらしてくれたのでそんなに辛いとは思いませんでした。
中学3年生の時には進路を決めなくてはいけないが、本来目が見えたら絵が好きで設計図を書くことがしたかった。
家は考えて妻に説明して方眼紙に書いて貰って、建築業者に見せたらこれはすぐ建ちますねと言われました。
子供時代はいじめにあい辛かったし、悲しかった。
性分としては気が強くて、彼らに仕返しをしたりもしました。
小学校2年生の時には凄くいい先生で物凄く私を大事にして褒めてくれました。
講演では自分の体験を正直に話します。
自分の生き方から何かヒントを見つけてくださいと言っていますが、いじめに依り自殺する人がいるのでやはり死ぬな、親がどれだけ悲しむか、辛かったら学校を休んでもいい、そのうちきっといい事が回って来るから辛い時にはねばれ、凌げ、とにかく死なずに待っているようにと、声を大にしていっています。
自分は親からこんなに大切にされていると言うことを知ったので、だから簡単に死ぬわけにはいかなかった、親を喜ばせたい安心させたいと言うのが生きる上で大きな原動力でした。
私の長男が重い脳性小児麻痺で寝たきりで、言葉も出なかった。
喜怒哀楽ははっきりしているが、言葉が出なくて、7つで亡くなりました。
あのときぐらい悲しいことはなかった、だから死ぬなと言いたい。
その時以来、お金に対する執着力が減ったと思います。
あの子のためにお金を残そうと思った、身体障害者手帳もある医者が早く作ってくれ、この子に一番味方になるのはお金です、この子のために貯金しなさいと言われて、お金に執着しましたが、長男が亡くなり何にも意味が無くなった。
結婚し24歳で小さな家も建て幸せの基礎が作れたと思った瞬間にあの子が生まれ、その後自分の求める幸せはあっという間に崩れる。
もっと確実な幸せは人が喜ぶことをしたい、人に幸せをあげられたらこれほど気分のいい事はないと思うようになりました。
あの子が命を捨てて我儘な私を叱り教えてくれました、それからの学校の仕事もそういう見方で頑張りましたが、生徒のためにと思っていろいろ提案しましたが回りからは嫌われました。
点字ブロックは岡山県で世界で初めて敷設されて今年50年で、点字ブロックの石碑をつくって、点字ブロックを守る会の代表をしています。
三宅精一という目の見える人が目の見えない人が、少しでも歩きやすいにと言うことで点字ブロックを作り、自分のお金で工事して反対される中をつないできた。
点字ブロックの石碑を作ったら、饅頭、せんべい、歌、キャラクターなどが出来て点字ブロックへの理解が広がりました。
自分の幸せを求めても小さい、大勢の人がよろこんでくれたら10人なら10倍です。
目の見えない子供の目を少しでも治してやりたい、ここに来た訳です。
ここまで来るのには色々苦労は有りましたが、モンゴルでは最初の学校は国が認めて国立になりました。
私は目さえ見えたらと日に何度も思いました、親からは本当に色々して貰ったが、私はあの子にしてやれなかったのは目が見えないからで、目さえ見えたらもっとしてやりたかった。
目が見えない不便さはどんどん良くなったが、目が見えない悲しみはいつになっても消えないと思う。
逆手にとって目が見える人にも出来ない人生をやってやろうではないかと思って、今の私の人生は目が見えないから出来上がった人生です。
妻には親に反対されて結婚して、長男を亡くした時には両親に悪いことをしたかなあと思いましたが、あとからよかったなあと思わせてやると言う気負いが私に有りました。
妻からはこんなに面白い亭主を持ったのはいない、あなたのおかげで色んな経験をして、面白かったかなあと言ってくれて、ちょっと気が楽になりました。
結婚48年を過ぎました
これからも健康を維持して今目標にしていることを投げ出さずに、「ヒカリカナタ基金」の活動を頑張って、講演も続けようと思っています。
組織を世界的に広げて私が死ぬまでに1000人にしたいと思います。
72歳、元岡山県立岡山盲学校の教頭で全盲です。
幼い頃目が見えないことで虐められら体験から命の大切さや障害者への理解をうったえる講演を全国各地で行いその回数は2300回を超えました。
講演の収益金を元にこれまででモンゴルやキルギスに、視覚障害者のための学校や施設を建てました。
又昨年11月にはアジアの子供たちに目の手術の費用を援助するNPO法人「ヒカリカナタ基金」を設立し、これまで70人を超える子供たちが光を取り戻しています。
竹内さんの活動を支えるのはどんな思いなのか伺いました。
視力のない子供たちに視力をプレゼントしたい、それを日本からはるか彼方へ送ると言う意味で「ヒカリカナタ基金」と言う名前にしました。
モンゴル、キルギス合わせて70人以上の子供の視力が改善したと聞いています。
きっかけはモンゴルで視覚障害の子供を盲学校にいかせたいとの運動が有り、遊牧民なので学校に行くには遠いので、行かせることはできないと言うことでお金を出して、グランバートルの盲学校に連れて行ったら、医者がちょっとした手術で視力が回復するから普通の学校に行けばいいと言われました。
15万円あれば2人見えるようになるがお金がないので、と言う電話がかかって来ました。
手術をして貰い、治ってその子たちは学校に行けるようになりました。
そのことで、できるだけ頑張って見えるようにしてやりたいと思いました。
開発途上国では視力の有る無しは道はないし点字ブロックはないし非常に厳しいので、学校を作るよりももっと大事だと思って目標をこれに切り替えました。
アジアにはちょっとした手術で目が見えるようになる人が大勢いる。
今年の12月にはネパールに行って、組織にお願いして目の見えない子供の手術をしたいと思っています。
昔から日本にはアジアなどに大規模に支援活動をしているグループが沢山あります。
そのグループに持ち込んで応援してくれないかと言えば、快く受け取ってくれる面が有り、ネパール、来年はミャンマー、事情さえ許せばタイ、フィリピン、カンボジア等多くの国の子供に注目したいと思っています。
2011年モンゴルに盲学校を建て、キリギスには2015年に視覚障害者のための施設を建てました。
きっかけとなったのは3つ有り
①現役のころから人権問題として、障害者理解を深めたいとの教育界の動きが始まりました。
障害者への差別問題も学校で教育の材料として取り上げたいと言うことで、障害者の話を1991年から私は講演の要請を受けるようになりました。
講演をすると御礼が出るが、臨時収入でよろこんでいていいのかという不安が有り、とりあえず貯金をしましたが、それが100万円を超えました。(何か出来そうな額になった)
②沖縄にアジアの国の視覚障害者のリーダーを集めて、視覚障害者でも日本にはマッサージという職業が有ると言うことをリーダーに教えて、目が見えなくても働けると言う種を蒔こうと言う計画が始まりました。
その教師団に私にも来いと言う話が持ちかけられました。
各国ではどうやってマッサージを皆のものにしていいかわからないと言うことで、私の貯金で学校を作れないかなあと思いました。
③モンゴルのガンズリグという若者が日本に来て、按摩、鍼、灸の国家試験を日本語で受けて資格を取って国に帰って、後輩たちに教えていると言うことが判ったが、学校がなくて苦労しながら教えていると言うことで、学校さえ作ってあげれば勉強しやすいと言うことでモンゴルに決めて話を進めました。
学校を作って寄宿舎、食堂を作って、コンピューターを習う部屋、英語を習う部屋も作って総合力の付いた卒業生を出そうと2011年に建て、300人卒業しました。
卒業生には、あなた方が今一番大事だと、あなた方がいい仕事をしたらモンゴルの国は認めてくれる、あなた方がいい加減な仕事をしたら目の見えない人にはマッサージは無理だという結論になるので頑張れとハッパをかけて、今病院とかマッサージ治療院などで一生懸命働いています。
NHKの取材が有り、TVに向かって自分は物乞いをしていたがマッサージを習って家も建てて、お嫁さんが来て、子供が出来、あのころを思うと本当に幸せになれたと言ってくれて実に気分のいい話でした。
キルギスにも広げました。
1945年生まれ、(中国の天津で生まれる)父が外務省がらみの仕事していたが、半年後に日本が負けて引き上げの時に、私は船の中で風邪をこじらせ肺炎になり40℃の熱が出て、右の眼を壊してしまい、左の眼は多少は見えて普通の小学校に行き来ました。
黒板もよく見えなくて、いじめられたりしました。
2年生の2月に網膜剥離を起こして完全に見えなくなってしまいました。
遊びなどについていけないことが悔しかったし、さびしかったりしました。
点字を覚えて、親はなんでもやらしてくれたのでそんなに辛いとは思いませんでした。
中学3年生の時には進路を決めなくてはいけないが、本来目が見えたら絵が好きで設計図を書くことがしたかった。
家は考えて妻に説明して方眼紙に書いて貰って、建築業者に見せたらこれはすぐ建ちますねと言われました。
子供時代はいじめにあい辛かったし、悲しかった。
性分としては気が強くて、彼らに仕返しをしたりもしました。
小学校2年生の時には凄くいい先生で物凄く私を大事にして褒めてくれました。
講演では自分の体験を正直に話します。
自分の生き方から何かヒントを見つけてくださいと言っていますが、いじめに依り自殺する人がいるのでやはり死ぬな、親がどれだけ悲しむか、辛かったら学校を休んでもいい、そのうちきっといい事が回って来るから辛い時にはねばれ、凌げ、とにかく死なずに待っているようにと、声を大にしていっています。
自分は親からこんなに大切にされていると言うことを知ったので、だから簡単に死ぬわけにはいかなかった、親を喜ばせたい安心させたいと言うのが生きる上で大きな原動力でした。
私の長男が重い脳性小児麻痺で寝たきりで、言葉も出なかった。
喜怒哀楽ははっきりしているが、言葉が出なくて、7つで亡くなりました。
あのときぐらい悲しいことはなかった、だから死ぬなと言いたい。
その時以来、お金に対する執着力が減ったと思います。
あの子のためにお金を残そうと思った、身体障害者手帳もある医者が早く作ってくれ、この子に一番味方になるのはお金です、この子のために貯金しなさいと言われて、お金に執着しましたが、長男が亡くなり何にも意味が無くなった。
結婚し24歳で小さな家も建て幸せの基礎が作れたと思った瞬間にあの子が生まれ、その後自分の求める幸せはあっという間に崩れる。
もっと確実な幸せは人が喜ぶことをしたい、人に幸せをあげられたらこれほど気分のいい事はないと思うようになりました。
あの子が命を捨てて我儘な私を叱り教えてくれました、それからの学校の仕事もそういう見方で頑張りましたが、生徒のためにと思っていろいろ提案しましたが回りからは嫌われました。
点字ブロックは岡山県で世界で初めて敷設されて今年50年で、点字ブロックの石碑をつくって、点字ブロックを守る会の代表をしています。
三宅精一という目の見える人が目の見えない人が、少しでも歩きやすいにと言うことで点字ブロックを作り、自分のお金で工事して反対される中をつないできた。
点字ブロックの石碑を作ったら、饅頭、せんべい、歌、キャラクターなどが出来て点字ブロックへの理解が広がりました。
自分の幸せを求めても小さい、大勢の人がよろこんでくれたら10人なら10倍です。
目の見えない子供の目を少しでも治してやりたい、ここに来た訳です。
ここまで来るのには色々苦労は有りましたが、モンゴルでは最初の学校は国が認めて国立になりました。
私は目さえ見えたらと日に何度も思いました、親からは本当に色々して貰ったが、私はあの子にしてやれなかったのは目が見えないからで、目さえ見えたらもっとしてやりたかった。
目が見えない不便さはどんどん良くなったが、目が見えない悲しみはいつになっても消えないと思う。
逆手にとって目が見える人にも出来ない人生をやってやろうではないかと思って、今の私の人生は目が見えないから出来上がった人生です。
妻には親に反対されて結婚して、長男を亡くした時には両親に悪いことをしたかなあと思いましたが、あとからよかったなあと思わせてやると言う気負いが私に有りました。
妻からはこんなに面白い亭主を持ったのはいない、あなたのおかげで色んな経験をして、面白かったかなあと言ってくれて、ちょっと気が楽になりました。
結婚48年を過ぎました
これからも健康を維持して今目標にしていることを投げ出さずに、「ヒカリカナタ基金」の活動を頑張って、講演も続けようと思っています。
組織を世界的に広げて私が死ぬまでに1000人にしたいと思います。
2017年10月19日木曜日
樂吉左衞門(陶芸家 樂焼十五代) ・一碗は宇宙を宿す(H29/5/3 OA)
樂吉左衞門(陶芸家 樂焼十五代) ・一碗は宇宙を宿す(H29/5/3 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/05/blog-post_3.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/05/blog-post_3.htmlをご覧ください。
2017年10月18日水曜日
田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家) ・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”
田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家)・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”
72年前激しい地上戦の有った沖縄戦、石垣島の有る八重山地方には第二の沖縄戦と呼ばれているものがあります。
それが戦争マラリアです。
マラリアはマラリア原虫を持った蚊に刺されることによってかかる病気です。
発熱、寒気などの症状があらわれ重症になると死に至ります。
戦時中八重山では日本軍によって、住民たちが山間部や西表島などに避難を強いられました。
そしてマラリアにかかり3647人が亡くなりました。
マラリアで家族を失った田本さんは10年前、その経験を「あの夏の日に」と言う歌にしました。
この歌は今沖縄県内の小学校や式典で歌われています。
この歌に込めた思いを伺いました。
「あの夏の日に」の前半部分の歌詞
「あの夏に日に逝った家族のお話をしましょう。
あの戦争で兄は弾に撃たれ激戦の嘉手納で戦死した。
母の祈りもむなしく散ってしまった兄。
ああ、この世でもう会えない兄。
母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。
歌の大好きな静子だった。」
あの戦争でマラリアにかかって亡くなるし母も亡くなると言うことで、よく田本さんは生きて来ましたねとそういった感想が寄せられます。
音楽で伝えられたらどうだろうと思って、大変な思いで悲しみを耐えて曲を作りました。
戦争の悲惨さをどうにかして、多くの方たちに伝えようと言う思いが強かったからだろうと思います。
7歳で戦争を体験して、悲惨な状況を体で感じているので、子供の頃の気持ちで、子供のころの体験を具体的に真実を伝えることがいかに大事かと思った次第です。
1937年12月に石垣島の平得(ひらえ)と言う地区に生まれました、12兄弟の5男です。
緑が多く、台風が来るので高い家は建たなくて、山の頂上、海も見えるのどかなところでした。
デイゴの花が家々に咲いて見事でした。
小さい頃は無口な子供でしたが、歌を歌うことは大好きでした。
父が沖縄の古典音楽の 野村流を指導していたので、踊りもしていましたので家は賑やかでした。
艦砲射撃が有り、深夜の出来事で、父の大きな声で防空壕に入るようにとの声が聞こえて、家族皆が防空壕に逃げ込みました。
地響きとともにすさまじい音が聞こえてきました。
防空壕がつぶれるのではないかと、ここで死ぬのかと思いました。
入口から見ると隣の家が火に包まれていました。(茅葺の屋根だった)
1週間後に軍からの避難命令が出ました。
沖縄では「やきー」と言ってマラリアの事を呼んでいました。
作戦上、住民がいるとアメリカの軍艦が石垣島を囲って上陸するのではないかとの噂も有りました。
戦うのに足手まといになると言うこともあったようで、避難しなさいと軍からの命令が有ったと聞いています。
命令に抵抗する者もいたと思いますが、空襲が頻繁に続けば生き残れないとそう皆も思って、現実にはそうもいきませんでした。
波照間島の人は西表島に避難したが、波照間島には元々マラリアは無かったが、将校が強制的に避難させた。
食糧を調達する手段、波照間島の家畜を兵隊の食糧にすると言う思いが有ったと聞いています。
私たちは於茂登山(おもとやま)の麓に山小屋(6畳ぐらい)に2カ月避難しました。
食糧には苦労しました、たにしなどを取って食べました。
兄は戦争が始まって3月に戦死したと言う訃報が届いて、母がそれを聞いて体調を崩してしまいました。
妹も亡くなってしまう。
歌詞にも書かれている。
「母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。」
静子が生きていたら歌が大好きで、「お母さん」と言う歌があって歌っていたと姉たちが話してくれました。
母に抱かれている姿を庭で立って見ていました。
母が泣き崩れて「静子、静子」と呼んでいたのが耳から離れません。
戦時中はマラリアの特効薬キニーネと言う薬は有りますが、軍が一杯所有していたと言われるが、一般市民にはあてていませんでした。
母にもマラリアの症状が出てくる。
震えが止まらない、全身が大きく上下に震える、40℃以上の高熱が出る。
体力のない人は亡くなって行く。
冷たい水を汲みにバケツを持って何度も往復して、母の額にかけてやります。
背中に剃刀の刃で傷を付けて血を拭き取り、悪い血を抜き取る、と言うことをしました。
何日も寝ていると床ずれが出来て、ウジ虫が出ていました、残酷です。
「あの夏の日に」の歌詞にも書かれている。
「悲しみに負けじと、笑顔を見せた母もまたマラリアに侵されていた。
於茂登山裾野 田のほとり、避難小屋で来る日も来る日も高熱と震えに苦しみ続けた母、
母の最期はあまりにも悲惨だった。」
生まれて4カ月になる弟がいましたが、母が亡くなったため、弟も段々体が弱って栄養失調になり、亡くなってゆきました。(すすり泣く声)
そういったことを体験して現在が有るわけです。
アメリカ兵がジープで来て、はじめて見て吃驚しましたが、怖い思いは持たなかったです。
その後マラリアを撲滅したのはアメリカのDDTのお陰ですから。(1950年代)
マラリアの有る山へ島々の人を送りやった日本軍のやり方、作戦上と言っても悔しいですよ。
マラリアが有ると、マラリアで多くの方が亡くなったことを知っていたはずで、軍に対しては怒りを覚えますが、空襲時には逃げる場所もないし、どうしようもなかったです。
上京して東京音楽大学に進み、音楽の先生として働くことになりました。
美空ひばりと同じ歳で、一緒に成長したと思いが有り勇気付けられました。
定年退職して石垣に戻ってきて、戦争マラリアの遺族会が子供たちに歌を歌ったり、戦争の悲惨さ、平和の尊さを、大切さを伝えようとやっていて、或る方から一緒にやっていきませんかと声がかかり、やらなくてはいけない仕事だと思いました。
2007年「あの夏の日に」を作詞作曲をしました。
*「あの夏の日に」 作詞作曲 田本徹
最後の「この悲しみをこの悲しみを繰り返してはいけない」
これは戦争を二度と起こしたらいけませんと言うメッセージです。
72年前激しい地上戦の有った沖縄戦、石垣島の有る八重山地方には第二の沖縄戦と呼ばれているものがあります。
それが戦争マラリアです。
マラリアはマラリア原虫を持った蚊に刺されることによってかかる病気です。
発熱、寒気などの症状があらわれ重症になると死に至ります。
戦時中八重山では日本軍によって、住民たちが山間部や西表島などに避難を強いられました。
そしてマラリアにかかり3647人が亡くなりました。
マラリアで家族を失った田本さんは10年前、その経験を「あの夏の日に」と言う歌にしました。
この歌は今沖縄県内の小学校や式典で歌われています。
この歌に込めた思いを伺いました。
「あの夏の日に」の前半部分の歌詞
「あの夏に日に逝った家族のお話をしましょう。
あの戦争で兄は弾に撃たれ激戦の嘉手納で戦死した。
母の祈りもむなしく散ってしまった兄。
ああ、この世でもう会えない兄。
母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。
歌の大好きな静子だった。」
あの戦争でマラリアにかかって亡くなるし母も亡くなると言うことで、よく田本さんは生きて来ましたねとそういった感想が寄せられます。
音楽で伝えられたらどうだろうと思って、大変な思いで悲しみを耐えて曲を作りました。
戦争の悲惨さをどうにかして、多くの方たちに伝えようと言う思いが強かったからだろうと思います。
7歳で戦争を体験して、悲惨な状況を体で感じているので、子供の頃の気持ちで、子供のころの体験を具体的に真実を伝えることがいかに大事かと思った次第です。
1937年12月に石垣島の平得(ひらえ)と言う地区に生まれました、12兄弟の5男です。
緑が多く、台風が来るので高い家は建たなくて、山の頂上、海も見えるのどかなところでした。
デイゴの花が家々に咲いて見事でした。
小さい頃は無口な子供でしたが、歌を歌うことは大好きでした。
父が沖縄の古典音楽の 野村流を指導していたので、踊りもしていましたので家は賑やかでした。
艦砲射撃が有り、深夜の出来事で、父の大きな声で防空壕に入るようにとの声が聞こえて、家族皆が防空壕に逃げ込みました。
地響きとともにすさまじい音が聞こえてきました。
防空壕がつぶれるのではないかと、ここで死ぬのかと思いました。
入口から見ると隣の家が火に包まれていました。(茅葺の屋根だった)
1週間後に軍からの避難命令が出ました。
沖縄では「やきー」と言ってマラリアの事を呼んでいました。
作戦上、住民がいるとアメリカの軍艦が石垣島を囲って上陸するのではないかとの噂も有りました。
戦うのに足手まといになると言うこともあったようで、避難しなさいと軍からの命令が有ったと聞いています。
命令に抵抗する者もいたと思いますが、空襲が頻繁に続けば生き残れないとそう皆も思って、現実にはそうもいきませんでした。
波照間島の人は西表島に避難したが、波照間島には元々マラリアは無かったが、将校が強制的に避難させた。
食糧を調達する手段、波照間島の家畜を兵隊の食糧にすると言う思いが有ったと聞いています。
私たちは於茂登山(おもとやま)の麓に山小屋(6畳ぐらい)に2カ月避難しました。
食糧には苦労しました、たにしなどを取って食べました。
兄は戦争が始まって3月に戦死したと言う訃報が届いて、母がそれを聞いて体調を崩してしまいました。
妹も亡くなってしまう。
歌詞にも書かれている。
「母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。」
静子が生きていたら歌が大好きで、「お母さん」と言う歌があって歌っていたと姉たちが話してくれました。
母に抱かれている姿を庭で立って見ていました。
母が泣き崩れて「静子、静子」と呼んでいたのが耳から離れません。
戦時中はマラリアの特効薬キニーネと言う薬は有りますが、軍が一杯所有していたと言われるが、一般市民にはあてていませんでした。
母にもマラリアの症状が出てくる。
震えが止まらない、全身が大きく上下に震える、40℃以上の高熱が出る。
体力のない人は亡くなって行く。
冷たい水を汲みにバケツを持って何度も往復して、母の額にかけてやります。
背中に剃刀の刃で傷を付けて血を拭き取り、悪い血を抜き取る、と言うことをしました。
何日も寝ていると床ずれが出来て、ウジ虫が出ていました、残酷です。
「あの夏の日に」の歌詞にも書かれている。
「悲しみに負けじと、笑顔を見せた母もまたマラリアに侵されていた。
於茂登山裾野 田のほとり、避難小屋で来る日も来る日も高熱と震えに苦しみ続けた母、
母の最期はあまりにも悲惨だった。」
生まれて4カ月になる弟がいましたが、母が亡くなったため、弟も段々体が弱って栄養失調になり、亡くなってゆきました。(すすり泣く声)
そういったことを体験して現在が有るわけです。
アメリカ兵がジープで来て、はじめて見て吃驚しましたが、怖い思いは持たなかったです。
その後マラリアを撲滅したのはアメリカのDDTのお陰ですから。(1950年代)
マラリアの有る山へ島々の人を送りやった日本軍のやり方、作戦上と言っても悔しいですよ。
マラリアが有ると、マラリアで多くの方が亡くなったことを知っていたはずで、軍に対しては怒りを覚えますが、空襲時には逃げる場所もないし、どうしようもなかったです。
上京して東京音楽大学に進み、音楽の先生として働くことになりました。
美空ひばりと同じ歳で、一緒に成長したと思いが有り勇気付けられました。
定年退職して石垣に戻ってきて、戦争マラリアの遺族会が子供たちに歌を歌ったり、戦争の悲惨さ、平和の尊さを、大切さを伝えようとやっていて、或る方から一緒にやっていきませんかと声がかかり、やらなくてはいけない仕事だと思いました。
2007年「あの夏の日に」を作詞作曲をしました。
*「あの夏の日に」 作詞作曲 田本徹
最後の「この悲しみをこの悲しみを繰り返してはいけない」
これは戦争を二度と起こしたらいけませんと言うメッセージです。
2017年10月17日火曜日
河原忠之(ピアニスト・コレペティトウール) ・オペラ歌手をコーチする
河原忠之(ピアニスト・コレペティトゥール)・オペラ歌手をコーチする
54歳、ピアニストとして日本を代表する歌手や器楽奏者が共演者にこぞって指名する人気の人で多くの音楽家から信頼されています。
男性オペラ歌手4人とのユニット、IL DEVU(イル・デーヴ)、このピアニストでもあります。
IL DEVU(イル・デーヴ)、オペラ歌手4人と河原さんを合わせて総重量500kgと言う噂の太めのユニットだそうです。
河原さんのもう一つの顔がコレペティトゥール、オペラ歌手をコーチする人のことで、日本でも最近すこしずつ知られるようになりました。
イタリアにも留学し、現在は母校の国立音楽大学と大学院で准教授、新国立劇場オペラ研修所の音楽主任講師を務めています。
来月の3日と5日に紀尾井ホールで行われなわれるオペラ、「オリンピーアデ」でコレペティトゥールであり指揮とチェンバロを演奏する河原さんに伺いました。
食べ物が好きなもので体重100kgは超えています。
それぞれ忙しくてイル・デーヴはなかなかスケジュールが合わないのが大変です。
テノールの望月哲也さん・大槻孝志さん、バリトンの青山 貴さん、バスバリトン山下浩司さん、ピアノ河原忠之さん。
合唱経験者が多いので、グループとして素晴らしと思います。
ここで「温もり」というCDを出しましたが、癒されると言うファンの方が凄く多いです。
*「いのちの歌」
自分たちも癒されていると思います。
また明日からがんばろうと言う気持ちになります。
指揮をする、チェンバロ演奏、コレペティトゥール、全部しなくてはいけなくて大変です。
コーチングすることですが、造語でコル(共に)とレペティトゥール(繰り返し行う人)
で、何回も何回も練習に付き合って、どういうふうに役作りをしていくかまでかかわってアドバイスするトータル的なコーチングです。
オペラは2~3カ月前から準備しますが、最初がコレペティトゥールの稽古で、アンサンブルになり、指揮者が入り、演出家が入り、音楽稽古、最終的には本番を迎えるわけです。
コレペティトゥールは全部把握していないといけない縁の下の力です。
自分はどういうふうに歌い手と接しているかと考えると、人間なので、肉体的、精神的にもデリケートで有り、歌い手に対しての尊敬の念がないといけない、(気遣いとか、自分自身歌が好きだった)歌う人を尊敬していたので、信頼が厚いと言うふうに言っていただけるようになったと、自己分析しています。
歌手が主役、こっちはわき役と言うことをわきまえていないとバランス良くお客様に聞こえないですね。
歌手に対しての尊敬をもってやると言うことが大切だと思います。
「伴奏」は伴って奏でる。
ブレスのタイミングを把握して一緒にブレスをしないとだめだし、一番は言葉です。
私は言葉が好きでした、言葉に関心がないとこの職業は難しいと思います。
手は中学時代から大きかったです。
子供のころは人がどういうふうに思っているかなあと気にしていました。
静かに人の意見を聞いたり、人がどういうふうに言ったりしているか静かに聞いている人でした。
実家が中華料理をやっていたので、中学のころから身長は今のように伸びていました。
小学校3年からやりましたが、ピアニストの年齢から言うとかなり遅いです。
親がステレオを持っていたので片っぱしから聞きました。
ジャンルを問わず、水前寺清子さんとか「ラブユー東京」とかよく聞きました。
仲のいい子がオルガンをやっていて、聞きに行って自分もやりたいと思いました。
そこからピアノを始めました。
「バイエル」教則本で先生から教えてもらって数週間後にはここまでにしましょうと言うレッスンでした、自分ではもっとやりたかったが、気が付いたら「バイエル」教則本を数カ月で終われました。
この職業は耳が良くないと成り立たない処があります。
自分が出した音が自分で聞けるので、どういう音か判断できないと仕事しづらい。
2~3回先生が変わって、その最後の先生が国立音楽大学の付属の高校の先生だったので、そのまま付属高校に入りました。
学年が130人ぐらいいて、クラスが4クラスあって、男は6人でした。(ピアノ科が4人)
声楽科に一人いてその友人と親しくなっていきました。
彼がいたから今の自分があると思います。
言葉が好き、芝居も好きだったので彼と一緒にオペラ研究部を作り、仲間を集めてオペラを演奏しました。
今のオペラ界を見ると、入場料が高いとか、一見難しそうだと言うことも有り、どうしても年齢の高い方とか、オペラは見るのに3~4時間かかるのでどうしても足が遠ざかってしまうのではないかと思います。
オペラはこんなに素晴らしいと言うことを伝えてあげたいので、若い人にオペラに来てほしいと思います。
大学に入ってより世界が広がって、大学2年生の時には仕事をしていました。
卒業後、大学院に行って、卒業後2年してイタリア音楽が好きだったので、イタリアに留学しました。
2年弱イタリアにいて、日本の仕事の話があって日本に戻って来ました。
ドイツ、ウイーンにも行きたかったので、短期でもいいから勉強したいと思っています。
自分が演奏することを辞めてしまうと教えることはできるが、自分から何かが無くなっていくばっかりになるので、自分も勉強して自分も舞台に立っていかないといけない。
イタリアでコレペティトゥールを習ってきました。
日本でも最近認知されてきました。
日本ではコンクールで優勝して華やかな経歴を持っている人がオペラを振ると言うパターンが多いが、たたき上げてコレペティトゥールから指揮者になって、全部色んな事を教えながら棒を振ると言うことがヨーロッパの歴史の中に有るので、日本に根付かせたいと言う野望を持っていたが、なかなか難しい。
指揮をやるとテクニックだけでなくて大勢の人を引っ張って行く要素がないと駄目だと言うことがやってみると思います。
料理は音楽と通じる物があります。(5感で感じるとか、)
本当に心からおいしいと思うような音を出したい。
54歳、ピアニストとして日本を代表する歌手や器楽奏者が共演者にこぞって指名する人気の人で多くの音楽家から信頼されています。
男性オペラ歌手4人とのユニット、IL DEVU(イル・デーヴ)、このピアニストでもあります。
IL DEVU(イル・デーヴ)、オペラ歌手4人と河原さんを合わせて総重量500kgと言う噂の太めのユニットだそうです。
河原さんのもう一つの顔がコレペティトゥール、オペラ歌手をコーチする人のことで、日本でも最近すこしずつ知られるようになりました。
イタリアにも留学し、現在は母校の国立音楽大学と大学院で准教授、新国立劇場オペラ研修所の音楽主任講師を務めています。
来月の3日と5日に紀尾井ホールで行われなわれるオペラ、「オリンピーアデ」でコレペティトゥールであり指揮とチェンバロを演奏する河原さんに伺いました。
食べ物が好きなもので体重100kgは超えています。
それぞれ忙しくてイル・デーヴはなかなかスケジュールが合わないのが大変です。
テノールの望月哲也さん・大槻孝志さん、バリトンの青山 貴さん、バスバリトン山下浩司さん、ピアノ河原忠之さん。
合唱経験者が多いので、グループとして素晴らしと思います。
ここで「温もり」というCDを出しましたが、癒されると言うファンの方が凄く多いです。
*「いのちの歌」
自分たちも癒されていると思います。
また明日からがんばろうと言う気持ちになります。
指揮をする、チェンバロ演奏、コレペティトゥール、全部しなくてはいけなくて大変です。
コーチングすることですが、造語でコル(共に)とレペティトゥール(繰り返し行う人)
で、何回も何回も練習に付き合って、どういうふうに役作りをしていくかまでかかわってアドバイスするトータル的なコーチングです。
オペラは2~3カ月前から準備しますが、最初がコレペティトゥールの稽古で、アンサンブルになり、指揮者が入り、演出家が入り、音楽稽古、最終的には本番を迎えるわけです。
コレペティトゥールは全部把握していないといけない縁の下の力です。
自分はどういうふうに歌い手と接しているかと考えると、人間なので、肉体的、精神的にもデリケートで有り、歌い手に対しての尊敬の念がないといけない、(気遣いとか、自分自身歌が好きだった)歌う人を尊敬していたので、信頼が厚いと言うふうに言っていただけるようになったと、自己分析しています。
歌手が主役、こっちはわき役と言うことをわきまえていないとバランス良くお客様に聞こえないですね。
歌手に対しての尊敬をもってやると言うことが大切だと思います。
「伴奏」は伴って奏でる。
ブレスのタイミングを把握して一緒にブレスをしないとだめだし、一番は言葉です。
私は言葉が好きでした、言葉に関心がないとこの職業は難しいと思います。
手は中学時代から大きかったです。
子供のころは人がどういうふうに思っているかなあと気にしていました。
静かに人の意見を聞いたり、人がどういうふうに言ったりしているか静かに聞いている人でした。
実家が中華料理をやっていたので、中学のころから身長は今のように伸びていました。
小学校3年からやりましたが、ピアニストの年齢から言うとかなり遅いです。
親がステレオを持っていたので片っぱしから聞きました。
ジャンルを問わず、水前寺清子さんとか「ラブユー東京」とかよく聞きました。
仲のいい子がオルガンをやっていて、聞きに行って自分もやりたいと思いました。
そこからピアノを始めました。
「バイエル」教則本で先生から教えてもらって数週間後にはここまでにしましょうと言うレッスンでした、自分ではもっとやりたかったが、気が付いたら「バイエル」教則本を数カ月で終われました。
この職業は耳が良くないと成り立たない処があります。
自分が出した音が自分で聞けるので、どういう音か判断できないと仕事しづらい。
2~3回先生が変わって、その最後の先生が国立音楽大学の付属の高校の先生だったので、そのまま付属高校に入りました。
学年が130人ぐらいいて、クラスが4クラスあって、男は6人でした。(ピアノ科が4人)
声楽科に一人いてその友人と親しくなっていきました。
彼がいたから今の自分があると思います。
言葉が好き、芝居も好きだったので彼と一緒にオペラ研究部を作り、仲間を集めてオペラを演奏しました。
今のオペラ界を見ると、入場料が高いとか、一見難しそうだと言うことも有り、どうしても年齢の高い方とか、オペラは見るのに3~4時間かかるのでどうしても足が遠ざかってしまうのではないかと思います。
オペラはこんなに素晴らしいと言うことを伝えてあげたいので、若い人にオペラに来てほしいと思います。
大学に入ってより世界が広がって、大学2年生の時には仕事をしていました。
卒業後、大学院に行って、卒業後2年してイタリア音楽が好きだったので、イタリアに留学しました。
2年弱イタリアにいて、日本の仕事の話があって日本に戻って来ました。
ドイツ、ウイーンにも行きたかったので、短期でもいいから勉強したいと思っています。
自分が演奏することを辞めてしまうと教えることはできるが、自分から何かが無くなっていくばっかりになるので、自分も勉強して自分も舞台に立っていかないといけない。
イタリアでコレペティトゥールを習ってきました。
日本でも最近認知されてきました。
日本ではコンクールで優勝して華やかな経歴を持っている人がオペラを振ると言うパターンが多いが、たたき上げてコレペティトゥールから指揮者になって、全部色んな事を教えながら棒を振ると言うことがヨーロッパの歴史の中に有るので、日本に根付かせたいと言う野望を持っていたが、なかなか難しい。
指揮をやるとテクニックだけでなくて大勢の人を引っ張って行く要素がないと駄目だと言うことがやってみると思います。
料理は音楽と通じる物があります。(5感で感じるとか、)
本当に心からおいしいと思うような音を出したい。
2017年10月16日月曜日
ヒダノ修一(太鼓ドラマー) ・【にっぽんの音】
ヒダノ修一(太鼓ドラマー) ・【にっぽんの音】
1969年生まれ 横浜育ち、鼓道で太鼓を習得後、いろいろなひとたちとセッションしている。
2歳からピアノ、小学校でドラム、中学高校でギター、ベースなどバンドをやり、18歳のときに太鼓と出会う。
父はジャズ好きで母はクラシック好きでした。
クラシックとジャズを高校時代をやって、オペラの歌がやりたくて音楽大学を受験しようと思って受けて落ちて、浪人しようと思ったら太鼓に出会って、物凄い衝撃を受けました。
これなら世界にいけるかもしれないと思いました。
鼓道を見せてもらって、その当日に入れてくれと叫んで、オーディションに来いと言われて佐渡島に行って、翌年19歳で初めて太鼓に触れて鼓道の生活がスタートしました。
自分の名前でやってみたいと思ったのが20歳で、辞めてジャズクラブを案内されて、飛び入りで演奏したら面白くてジャズ界に太鼓でもぐりこみました。
23歳で1300万円の太鼓を買いました、重さは500kg、扉2枚分の大きさ。
トラックも買い、太鼓をセットする機械を100何十万円、全部で1800~1900万円の借金を23歳で背負いました。
世界40カ国以上にいきました。
スティービー・ワンダーからユーチューブで私を見たと言うことで、2010年アジアツアーの2週間前突然電話がかかり、2週間後から始まるがスティービーのためにスケジュールが空けられるかとのことで、(夏場でかきいれ時だったが)5秒考えて「当然だ」と答えました。
友達を無くす勢いで謝罪、謝罪でした。
スティービーとハグしましたが、「ととろ」とハグしているようで優しい気持ちになってこれから2週間全力で働こうと思いました。
ブラジルのセルジオ・メンデスに和太鼓と言っても通じないので、太鼓を叩くドラマーと言うことで、「太鼓ドラマー」と言うふうに呼ぶことにしました。 (太鼓は世界語になっている)
和太鼓と言う様になったのは戦後で、それまでは単に太鼓と言っていました。
私が持っている太鼓の種類は7~8種類です。
盆踊りに使う太鼓は盆太鼓とか、斜め太鼓(斜めにセット)と言ったりします。
日本の太鼓は空気孔があいてないが、アフリカ、アジアの太鼓はどこかに空気孔があいていて、カランと乾いた音がするが、日本の太鼓は湿った音がしてそれが特徴です。
昔は神事に近い、雨乞い、病気平癒とかとしてやってきて村長が叩いたりしていた。
リズムとして発達していなかったので、一拍子で好きに叩く、その人の気分によって違う。
嵐、ももいろクローバーZとも一緒にやったり、T.M.Revolution(西川貴教のソロプロジェクト)、フレンチの三国シェフ、料理の鉄人坂井さん、中華の鉄人脇屋さん、等にも太鼓を教えています。
おおきな太鼓だと1kmぐらい届きます。
モンゴルの大平原でどこまで聞こえるか実験したことがあるそうですが、日本人の耳で2.5km、モンゴル人の耳で4km先まで聞こえたそうです。
耳の聞こえない人にも太鼓の音は感じられる。(身体、肌で感じられる)
*一人で3人分多重録音した「いつまでも」 演奏 ヒダノ修一
海外に行ったときに、日本人を見せてくれと必ず言われます。
太鼓は自分を興奮させるリズムがあり、サンバみたいです。
若い時はロック、歳をとって来るとクラシック、そういう感覚は有ります。
一つ一つの音をより大事にするようになりました。
若い時は間が開いてしまうのが気になっていましたが、間をたのしむようになりました。
グループとして16000団体ぐらい有ると言われています。
アメリカで1000団体、ヨーロッパ、アジアでも有り、太鼓を作る人までいます。
広めた人たちがいて、70年代、80年代世に世界ツアーを行って、世界中に火を付けて各国の火付け役がいて、弟子を育てて太鼓と云えばどこでも通じるようになりました。
プロとしての判断領域がはっきりしていません。
*EnTRANSのアルバムから一人で12人分多重録音した「コロンブス」 作曲、演奏 ヒダノ修一
(EnTRANS=スパイダースの井上堯之(G)、ゴダイゴのミッキー吉野、カシオペアの鳴瀬喜博、カーティス・クリーク・バンドの八木のぶおが集結)
日本の音 からすの鳴く声 テンポが同じで鳴いているのにしびれます。
海外ではカラスの鳴き声を聞かないです。
井上ひさしさんからの言葉で座右の銘にしている。
「難しい事を易しく、易しい事を深く、深い事を愉快に、愉快なことを真面目に」という言葉がありこれが好きで、難しい事をやりたいが易しく見せないと人は付いてこない、易しいだけでは軽いので深みが必要、深さを愉快にしないと面白くない、愉快なことを真面目にやりたい。
これはどんなものにも通じると思う。
太鼓はリズムがなく、だからこそ人生が出るので、ポップな太鼓を見せていきたい。
「アースリズム」 5カ国のアーティストを集めてジャパンツアーをやります。
1969年生まれ 横浜育ち、鼓道で太鼓を習得後、いろいろなひとたちとセッションしている。
2歳からピアノ、小学校でドラム、中学高校でギター、ベースなどバンドをやり、18歳のときに太鼓と出会う。
父はジャズ好きで母はクラシック好きでした。
クラシックとジャズを高校時代をやって、オペラの歌がやりたくて音楽大学を受験しようと思って受けて落ちて、浪人しようと思ったら太鼓に出会って、物凄い衝撃を受けました。
これなら世界にいけるかもしれないと思いました。
鼓道を見せてもらって、その当日に入れてくれと叫んで、オーディションに来いと言われて佐渡島に行って、翌年19歳で初めて太鼓に触れて鼓道の生活がスタートしました。
自分の名前でやってみたいと思ったのが20歳で、辞めてジャズクラブを案内されて、飛び入りで演奏したら面白くてジャズ界に太鼓でもぐりこみました。
23歳で1300万円の太鼓を買いました、重さは500kg、扉2枚分の大きさ。
トラックも買い、太鼓をセットする機械を100何十万円、全部で1800~1900万円の借金を23歳で背負いました。
世界40カ国以上にいきました。
スティービー・ワンダーからユーチューブで私を見たと言うことで、2010年アジアツアーの2週間前突然電話がかかり、2週間後から始まるがスティービーのためにスケジュールが空けられるかとのことで、(夏場でかきいれ時だったが)5秒考えて「当然だ」と答えました。
友達を無くす勢いで謝罪、謝罪でした。
スティービーとハグしましたが、「ととろ」とハグしているようで優しい気持ちになってこれから2週間全力で働こうと思いました。
ブラジルのセルジオ・メンデスに和太鼓と言っても通じないので、太鼓を叩くドラマーと言うことで、「太鼓ドラマー」と言うふうに呼ぶことにしました。 (太鼓は世界語になっている)
和太鼓と言う様になったのは戦後で、それまでは単に太鼓と言っていました。
私が持っている太鼓の種類は7~8種類です。
盆踊りに使う太鼓は盆太鼓とか、斜め太鼓(斜めにセット)と言ったりします。
日本の太鼓は空気孔があいてないが、アフリカ、アジアの太鼓はどこかに空気孔があいていて、カランと乾いた音がするが、日本の太鼓は湿った音がしてそれが特徴です。
昔は神事に近い、雨乞い、病気平癒とかとしてやってきて村長が叩いたりしていた。
リズムとして発達していなかったので、一拍子で好きに叩く、その人の気分によって違う。
嵐、ももいろクローバーZとも一緒にやったり、T.M.Revolution(西川貴教のソロプロジェクト)、フレンチの三国シェフ、料理の鉄人坂井さん、中華の鉄人脇屋さん、等にも太鼓を教えています。
おおきな太鼓だと1kmぐらい届きます。
モンゴルの大平原でどこまで聞こえるか実験したことがあるそうですが、日本人の耳で2.5km、モンゴル人の耳で4km先まで聞こえたそうです。
耳の聞こえない人にも太鼓の音は感じられる。(身体、肌で感じられる)
*一人で3人分多重録音した「いつまでも」 演奏 ヒダノ修一
海外に行ったときに、日本人を見せてくれと必ず言われます。
太鼓は自分を興奮させるリズムがあり、サンバみたいです。
若い時はロック、歳をとって来るとクラシック、そういう感覚は有ります。
一つ一つの音をより大事にするようになりました。
若い時は間が開いてしまうのが気になっていましたが、間をたのしむようになりました。
グループとして16000団体ぐらい有ると言われています。
アメリカで1000団体、ヨーロッパ、アジアでも有り、太鼓を作る人までいます。
広めた人たちがいて、70年代、80年代世に世界ツアーを行って、世界中に火を付けて各国の火付け役がいて、弟子を育てて太鼓と云えばどこでも通じるようになりました。
プロとしての判断領域がはっきりしていません。
*EnTRANSのアルバムから一人で12人分多重録音した「コロンブス」 作曲、演奏 ヒダノ修一
(EnTRANS=スパイダースの井上堯之(G)、ゴダイゴのミッキー吉野、カシオペアの鳴瀬喜博、カーティス・クリーク・バンドの八木のぶおが集結)
日本の音 からすの鳴く声 テンポが同じで鳴いているのにしびれます。
海外ではカラスの鳴き声を聞かないです。
井上ひさしさんからの言葉で座右の銘にしている。
「難しい事を易しく、易しい事を深く、深い事を愉快に、愉快なことを真面目に」という言葉がありこれが好きで、難しい事をやりたいが易しく見せないと人は付いてこない、易しいだけでは軽いので深みが必要、深さを愉快にしないと面白くない、愉快なことを真面目にやりたい。
これはどんなものにも通じると思う。
太鼓はリズムがなく、だからこそ人生が出るので、ポップな太鼓を見せていきたい。
「アースリズム」 5カ国のアーティストを集めてジャパンツアーをやります。
2017年10月14日土曜日
渡邉文隆(京都大学iPS細胞研究所) ・研究に託す思い、受けとめて
渡邉文隆(京都大学iPS細胞研究所)・研究に託す思い、受けとめて
2006年に京都大学の山中教授がマウスから初めてiPS細胞を作ることに成功して注目され、翌2007年には人のiPS細胞を作ることに成功、2012年にノーベル賞を受賞して、世界から注目を集めました。
このiPS細胞の発見から 10年世界の研究の拠点となっている京都大学iPS細胞研究所では多くの研究者やスタッフが働いています。
その研究を支える財源は国からの期限付きの研究費が中心ですが、民間からの寄付も大切な役割をはたしています。
寄付を申し出る市民のみなさんの中には、自ら病気と闘っている人や難病患者の遺族もいて寄付の窓口には研究を託すさまざまな声が寄せられています。
京都大学iPS細胞研究所、所長室基金グループ長の渡邉さんにうかがいます。
オープンラボ、研究室が開かれた状態になっていて、壁が無く、隣の研究者らと意見交換が簡単に出来ます。
下のフロアとの行き来がしやすいように吹き抜けでラセン階段も有ります。
教職員数は約400人、研究支援者。
iPS細胞、幹細胞の一種、色んな細胞のもとになる細胞の一種、人工的にほかの種類の細胞から遺伝子を導入することによってつくられた多能性幹細胞で、2つの特性がある。
①さまざまな細胞に変化することができる。
②どんどん増やしてほぼ無限に作ることができる。
iPS細胞は再生医療と、創薬医療の2つの使い道がある。
①再生医療、弱ったり駄目になってしまった細胞にiPS細胞などから作りだして、移植をすることによって改善しようとするのが、再生医療の分野におけるiPS細胞の活用です。
ES細胞から研究は進められていました。
iPS細胞の臨床研究が一番最初に始まったのが、加齢黄斑変性という病気です。
網膜が病的に変性してしまう、そこに同じような網膜の細胞を植え付ける。
パーキンソン病の治験の計画、筋ジストロフィー、血小板減少症、じん臓疾患、ガンの研究などをしています。
パーキンソン病の原因となるドーパミンの不足、ドーパミンを生み出す細胞を入れるというのも有りますが、若い状態の細胞を移植して徐々に成熟していって役割を果たすようなやり方があります。
神経の病気の患者さんがいるとすると、患部は取りだして観察は難しいので、iPS細胞を使えば、血液を取ってiPS細胞に変化させて神経に変えてやれば、患者さんの神経細胞とほぼ同じものがたくさん得られる。
色んな薬を振りかけてどの薬が効くのか調べられるようになったのは大きいです。
iPS細胞を使えば動物実験だけではなくて、薬の効果を予め調べるツールとして使える。
拒絶反応は完全に解決した訳ではないが、汎用性のある移植用のiPS細胞を作って行くプロジェクトが順調に進んでいます。
がん化に対してはiPS細胞の作り方が進歩して、がん化のリスクが非常に少ない作り方が出来るようになっています。(10年前とはかなり違う作り方をしています)
国際広報室の中にサイエンスコミュニケーターと言う職種の人たちがいて、高い専門性と平易に説明する技術も持っている人達で、判り易く説明する活動をしています。
iPS細胞の持っている倫理的な問題を明確化、整理して対処法を検討する部門も有ります。
基金グループ、研究者をささえるスタッフを安定して雇用するには自主財源が欠かせない。
国からの支援があるが、資金は期間限定で有り、教職員の終身雇用はできない。
期間限定になっていて雇用が保障されない、400人のうち9割が期限付きの雇用になっています。
これからがまさに重要な10年、20年になって行くと思います。
技術員、特許化する人、広報員など研究を支援するスタッフは色んな研究チームの業務を手伝うスタッフなので、長く勤める人が多いのでその人たちの雇用を支えることは重要です。
iPS細胞研究所の場合は、基本特許について他の研究機関には無償で、企業にも安く提供し、特許料で雇用を賄うことはできません。
2009年にはiPS細胞研究基金を設置していました。(米国を参考)
多くの方々にこの基金の事を知ってもらえるような広報活動を行っています。
2015年度のiPS細胞研究所の総支出が73億円で8割が国からの期限付きの予算になっています。
9%(7億円)が国から基盤的なお金が毎年支給されて、iPS細胞研究基金からは5%(3~4億円)位です。
期限付きの予算が減らされる可能性もありますから、教職員を減らす可能性もあり、一般市民から集める基金を潤沢にしなければいけないことにもなります。
中学3年の時に父親(大学の教員)を食道がんで亡くしました。
高校で奨学金の事を知って、京都大学に理系で入学することになりました。
専攻は生理学、副専攻は社会学でした。
ボランティアに関わる様になり、エイズで父母を亡くしたウガンダの子供達のサマーチャンプでエイズの事に関心を持ち、ウガンダに1年間調査に行きました。
エイズ支援していましたが、村の中だけで500人ぐらいエイズで親を亡くした子供たちがいましたが、足長育英会が作った足長ウガンダの組織では150人しかケア出来なかった。
ウガンダでは何万人とかになり、アフリカでは想像できない数に上りました。
精神的に挫折して、違う道にしようと思いました。
親をエイズで亡くして、なお心臓に病気を抱えていた女の子(10歳)に出会って、そのままだと命が亡くなることがわかっていた。
友人と帰国してから募金をしようと言うことになり、友人と募金活動を始めましたが思うようには金が集まらなかった。(200万円必要)
最後に80万円募金してくれる人(医療関係者)がいて、インドに渡って無事に手術をして、今元気に暮らしているようです。
一人だけを助けるのは不平等ではないかと言われたりもしましたが。
7年間会社員生活をしました。
その後結婚して2010年子供が生まれて、先天的に異常(食道閉鎖症)があると言われて、生後1日目に6時間の手術をして、何とか助かりました。
これを経験してアフリカの家族の苦痛のことは何にも理解していなかったことが判りました。
日本の医療に恩返ししなければいけないと思うようになりました。
2013年6月から寄付金募集専門職員として勤め始めました。
年間14000件の寄付があります。
病気の子がiPS細胞研究を知って、手紙を書いてこづかいから寄付をしてくれたり、高齢の方から自分には間に合わないが子、孫が病気で苦しまないように財産を残して、それを使ってもらいたいとか、病気で亡くされた遺族の方からとかいろいろ有ります。
大切に使う義務があると思います。
医療従事者の現役を退いた女医のかたからの電話で、余りにも大きな額だったので、その理由を話されているうちに嗚咽が聞こえてきました。
自分が医師として治せなかった患者さんがたくさんいたが、引退して10年たつが忘れられずに、自分の代わりに新しい技術で患者さんを治してほしいと言う話でした。
2012年ノーベル賞を山中先生が頂いたときに、まだ一人も救ってない、と言っていましたが、数限りない難病があるので、今後5年、10年やって行くので息の長い基金だと思います。
ヤフーネット募金と言う仕組みがあり、そこと一緒にやらせていただいて1円分からの寄付が出来るようになりました。
クレジットカードの寄付もあり、又問い合わせ番号を判りやすい番号にしました。
0120-80-8748 80=走れ 8748=山中伸弥(やまなかしんや)
2006年に京都大学の山中教授がマウスから初めてiPS細胞を作ることに成功して注目され、翌2007年には人のiPS細胞を作ることに成功、2012年にノーベル賞を受賞して、世界から注目を集めました。
このiPS細胞の発見から 10年世界の研究の拠点となっている京都大学iPS細胞研究所では多くの研究者やスタッフが働いています。
その研究を支える財源は国からの期限付きの研究費が中心ですが、民間からの寄付も大切な役割をはたしています。
寄付を申し出る市民のみなさんの中には、自ら病気と闘っている人や難病患者の遺族もいて寄付の窓口には研究を託すさまざまな声が寄せられています。
京都大学iPS細胞研究所、所長室基金グループ長の渡邉さんにうかがいます。
オープンラボ、研究室が開かれた状態になっていて、壁が無く、隣の研究者らと意見交換が簡単に出来ます。
下のフロアとの行き来がしやすいように吹き抜けでラセン階段も有ります。
教職員数は約400人、研究支援者。
iPS細胞、幹細胞の一種、色んな細胞のもとになる細胞の一種、人工的にほかの種類の細胞から遺伝子を導入することによってつくられた多能性幹細胞で、2つの特性がある。
①さまざまな細胞に変化することができる。
②どんどん増やしてほぼ無限に作ることができる。
iPS細胞は再生医療と、創薬医療の2つの使い道がある。
①再生医療、弱ったり駄目になってしまった細胞にiPS細胞などから作りだして、移植をすることによって改善しようとするのが、再生医療の分野におけるiPS細胞の活用です。
ES細胞から研究は進められていました。
iPS細胞の臨床研究が一番最初に始まったのが、加齢黄斑変性という病気です。
網膜が病的に変性してしまう、そこに同じような網膜の細胞を植え付ける。
パーキンソン病の治験の計画、筋ジストロフィー、血小板減少症、じん臓疾患、ガンの研究などをしています。
パーキンソン病の原因となるドーパミンの不足、ドーパミンを生み出す細胞を入れるというのも有りますが、若い状態の細胞を移植して徐々に成熟していって役割を果たすようなやり方があります。
神経の病気の患者さんがいるとすると、患部は取りだして観察は難しいので、iPS細胞を使えば、血液を取ってiPS細胞に変化させて神経に変えてやれば、患者さんの神経細胞とほぼ同じものがたくさん得られる。
色んな薬を振りかけてどの薬が効くのか調べられるようになったのは大きいです。
iPS細胞を使えば動物実験だけではなくて、薬の効果を予め調べるツールとして使える。
拒絶反応は完全に解決した訳ではないが、汎用性のある移植用のiPS細胞を作って行くプロジェクトが順調に進んでいます。
がん化に対してはiPS細胞の作り方が進歩して、がん化のリスクが非常に少ない作り方が出来るようになっています。(10年前とはかなり違う作り方をしています)
国際広報室の中にサイエンスコミュニケーターと言う職種の人たちがいて、高い専門性と平易に説明する技術も持っている人達で、判り易く説明する活動をしています。
iPS細胞の持っている倫理的な問題を明確化、整理して対処法を検討する部門も有ります。
基金グループ、研究者をささえるスタッフを安定して雇用するには自主財源が欠かせない。
国からの支援があるが、資金は期間限定で有り、教職員の終身雇用はできない。
期間限定になっていて雇用が保障されない、400人のうち9割が期限付きの雇用になっています。
これからがまさに重要な10年、20年になって行くと思います。
技術員、特許化する人、広報員など研究を支援するスタッフは色んな研究チームの業務を手伝うスタッフなので、長く勤める人が多いのでその人たちの雇用を支えることは重要です。
iPS細胞研究所の場合は、基本特許について他の研究機関には無償で、企業にも安く提供し、特許料で雇用を賄うことはできません。
2009年にはiPS細胞研究基金を設置していました。(米国を参考)
多くの方々にこの基金の事を知ってもらえるような広報活動を行っています。
2015年度のiPS細胞研究所の総支出が73億円で8割が国からの期限付きの予算になっています。
9%(7億円)が国から基盤的なお金が毎年支給されて、iPS細胞研究基金からは5%(3~4億円)位です。
期限付きの予算が減らされる可能性もありますから、教職員を減らす可能性もあり、一般市民から集める基金を潤沢にしなければいけないことにもなります。
中学3年の時に父親(大学の教員)を食道がんで亡くしました。
高校で奨学金の事を知って、京都大学に理系で入学することになりました。
専攻は生理学、副専攻は社会学でした。
ボランティアに関わる様になり、エイズで父母を亡くしたウガンダの子供達のサマーチャンプでエイズの事に関心を持ち、ウガンダに1年間調査に行きました。
エイズ支援していましたが、村の中だけで500人ぐらいエイズで親を亡くした子供たちがいましたが、足長育英会が作った足長ウガンダの組織では150人しかケア出来なかった。
ウガンダでは何万人とかになり、アフリカでは想像できない数に上りました。
精神的に挫折して、違う道にしようと思いました。
親をエイズで亡くして、なお心臓に病気を抱えていた女の子(10歳)に出会って、そのままだと命が亡くなることがわかっていた。
友人と帰国してから募金をしようと言うことになり、友人と募金活動を始めましたが思うようには金が集まらなかった。(200万円必要)
最後に80万円募金してくれる人(医療関係者)がいて、インドに渡って無事に手術をして、今元気に暮らしているようです。
一人だけを助けるのは不平等ではないかと言われたりもしましたが。
7年間会社員生活をしました。
その後結婚して2010年子供が生まれて、先天的に異常(食道閉鎖症)があると言われて、生後1日目に6時間の手術をして、何とか助かりました。
これを経験してアフリカの家族の苦痛のことは何にも理解していなかったことが判りました。
日本の医療に恩返ししなければいけないと思うようになりました。
2013年6月から寄付金募集専門職員として勤め始めました。
年間14000件の寄付があります。
病気の子がiPS細胞研究を知って、手紙を書いてこづかいから寄付をしてくれたり、高齢の方から自分には間に合わないが子、孫が病気で苦しまないように財産を残して、それを使ってもらいたいとか、病気で亡くされた遺族の方からとかいろいろ有ります。
大切に使う義務があると思います。
医療従事者の現役を退いた女医のかたからの電話で、余りにも大きな額だったので、その理由を話されているうちに嗚咽が聞こえてきました。
自分が医師として治せなかった患者さんがたくさんいたが、引退して10年たつが忘れられずに、自分の代わりに新しい技術で患者さんを治してほしいと言う話でした。
2012年ノーベル賞を山中先生が頂いたときに、まだ一人も救ってない、と言っていましたが、数限りない難病があるので、今後5年、10年やって行くので息の長い基金だと思います。
ヤフーネット募金と言う仕組みがあり、そこと一緒にやらせていただいて1円分からの寄付が出来るようになりました。
クレジットカードの寄付もあり、又問い合わせ番号を判りやすい番号にしました。
0120-80-8748 80=走れ 8748=山中伸弥(やまなかしんや)
2017年10月13日金曜日
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(2)(H29/4/28 OA)
池田理代子(劇画家・声楽家)・強く美しく、振り返ることなく(2)(H29/4/28 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/04/2.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/04/2.htmlをご覧ください。
2017年10月12日木曜日
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(1)(H29/4/27 OA)
池田理代子(劇画家・声楽家) ・強く美しく、振り返ることなく(1)(H29/4/27 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/04/blog-post_27.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/04/blog-post_27.htmlをご覧ください。
2017年10月11日水曜日
石澤良昭(上智大学教授) ・アンコールワット修復は地元の力で
石澤良昭(上智大学教授) ・アンコールワット修復は地元の力で
アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞をこの夏受賞されました。
この賞は毎年アジアの平和や発展に尽くした個人や団体に贈られるもので、これまでマザー・テレサ、ダライラマ14世などが受賞しています。
石澤さんの受賞理由は世界遺産アンコール遺跡群の修復や保全などに、半世紀にわたり尽力されたことでした。
石澤さんはカンボジアの世界遺産アンコール遺跡群の研究の第一人者で、1970年代のポルポト政権下での虐殺や内戦を乗り越え遺跡の修復や保全にあたって来ました。
大切にしたのは遺跡の修復や保全を現地カンボジアの人たち自身にやってもらうこと、資金の手当てに苦労しながら、半世紀にわたり粘り強く地道な努力を積み重ねてこられました。
石澤さんは現在79歳、遺跡修復にかける思いや、目指すものをお聞ききします。
私がカンボジアに行って行って感激したと言うのが、原動力だと思います。
あれだけ大きな石造建造物、石造伽藍は世界に類例がない。
石が砂岩で積み上げられているのが、何処にもない、カンボジアだけにある遺産で、非常に技術的にもすぐれていたので、800~1000年もってきた。
しかし経年劣化により痛んできていますので、それを取りかえるのが私たちの修復作業の一部です。
解放勢力の避暑地であったので、守られてきたと言うことがあります。
もともとはアンコールワットはカンボジア流に作り直されたヒンズー教のお寺です。
中央塔は65mあり、それを800年前に作った訳で、技術料は凄いです、
クメール王朝、9~15世紀まで続く。
インドシナ半島のほとんどがカンボジア王朝で、小さなものからを含めると2300を超えると思います。
一番立派なものがアンコールワット。
中に壁に彫られているデバターと言う女神、アプサラス(天女)があり、メッセージがあるのではないかと考えています。
(デバター=遺跡のあらゆる所に女神「デバタ−像」があり、それぞれ表情も違っている。回廊の右には、左右四本ずつの手を持った高さ3メートルくらいのヴィシュヌ神の立像が安置されている。参拝に訪れた人達は、この像に手を合わせお祈りしていた。)
(アプサラス=インド神話における水の精で、その名は「水の中で動くもの、雲の海に生きるもの」の意。天女とも称され、一説では乳海攪拌の時に生まれた存在という。)
アンコールワットは接着剤を使わずに65mまで建てた。
石と石をすり合わせて、途中で水、砂をそこに噛みこませながら長く何回も磨っているうちに表面張力でピタッとくっつくわけです。
実験しましたが裏付けを取れました。
仏教のお寺に変えているが、そこを信仰の場所として村人の参詣が絶えません。
アンコールワットに寄せる思いは強いと思います。
1960年に大学4年生の時にアンコールワットに出かけて驚いてしまいました。
①65mまで大きいお寺を作る当時の建築技術は何なのか?
②作りだした当時の社会はどういう社会なのか?
2つの疑問をしっかり研究しようと思いました。
アンコールワットは大帝国だったと言うことが判りました。
ベンガル湾から南シナ海まで陸路で物が入ってきたんではないかと思います。
ヤシの葉っぱに文字が書かれていて、裁判記録、税金の文書などがあったが、無くなってしまって社会の仕組みなどが判らなかった。
古クメール語で壁に彫ってある文字を調べると、お寺に寄進して、寄付台帳を読むと、当時の社会構造、税金などの事が判った。
拓本にとって、少しずつわかって来ました。
1970年からカンボジアの混乱が始まり、24年間4つの派に分かれて戦ってきた。
1980年になりカンボジアの中に入り込み、ポルポト時代がいかにひどかったかが判りました。
TVの取材があり同行しました。
43名の知人がいたが知識人の虐殺に会い、3名の友人としか再開できず、自分たちの手で遺跡を直せるように、私どもが支援することを掲げてやって来ました。
破壊の原因は
①植物の根が石の間にはいって石を破壊する。
②雨水が地下にしみ込み、土台を柔らかくして、重いものが崩れてくる。
③カビが表面に付着すると蟻酸を出して石を溶かしてしまう。
若いカンボジアの人達に技術、保存方法を学んでもらって彼らがやれるように私たちが助けるわけです。
40数名各地に赴いてやってきてやって来たが、10年、間があって遺跡が損傷してきたわけです。
カンボジアの悲惨な状況を見て、黙ってはおれなかった、私の性分でした。
ポルポトの後の政権は国連に誰も席を持っていなかったので、誰も助けにこなかった。
上智大学のレスキュー隊として出かけてカンボジアの人たちを助けようと始めました。
人手が無くて、最初村人にアルバイトしてもらって根を切ったり、水を抜いたりしました。(一時的保全)
お堀は水草が生えていて、草を切りました。
5~6年は瞬く間に過ぎましたが、村人とは仲良くなりました。
色んな方から寄付を貰ったり、企業からも寄付をして貰いました。
数百万円/年かかるので、毎年寄付くださいと言うことでお金を頂戴しました。
アンコールワットを中心とするアンコール王朝の研究は興味をそそられました。
アンコール王朝は戦争、戦争で滅びて、そして現在に至っています。
大陸の歴史は力が正義なのでどうしてもそうなってしまいます。
カンボジアの人たちが頑張れるようにアンコールワットで平和な時代に戻って一緒に仕事をしようと言う呼びかけが皆さんの共鳴を頂いたようです。
アンコールワットは信仰の対象なので、お手伝いすることで功徳というか、来世に繋がると言う気持ちを誰もが持っています。(単なる作業ではない)
日本人が何で来ているんだと言われますが、カンボジア語で話をすると理解してくれました。
カンボジアには「お金の有る人がお金のない人に与えて当たり前、お金のない人がお金の有る人から貰って当たり前」こういう言葉があり、日本人がやってあげて恩義を感じるとかはありません。
フランス植民地という時代があり、1953年に独立、1901年からフランスチームが来てアンコールワットを直しているが、カンボジア人が駄目だから俺たちが直していると言うことだった。
60年になって私が入って行って、一緒にカンボジア人と仕事をしたが、カンボジア人は優秀で手先が器用だった。
カンボジア人に依る遺跡の支援と言うことに私は徹しました。
私どもの大学のイエズス会で人材養成研究センターを建てて人材養成の活動を始めました。
宗派を超えてボランティアで奉仕活動をしていきました。(国内では募金活動、遺跡修復に依る文化復興)
アンコールワットの修復をすることによってカンボジア人が熱を帯びて来ました。
アンコールワットに寄せる思いは誰もが持っていて、いまでも夕涼みを兼ねて家族、親戚が集まっている風景が伺えます。
アンコールワットは民族の和解、文化復興を兼ね、カンボジアの平和につながってゆくという、一つの塊みたいなものですね。
12年かかってアンコールワットの西参道を修復しました、その前に石工を育てましたが、
ボランティアで8年間小杉さんが手伝ってくれて、100m直しました。
100人ぐらいが手伝ってくれましたが、幹部を育てるために、日本に連れて来て、上智大学の大学院で6年間で学位を取る指導をしました。
ドクターが7名、修士が11名、全員カンボジアに戻って第一線で活躍しています。
(局長クラス、大学の先生、プノンペン大学の副学長とか)
初期のころ、食糧問題があり、遺跡は後でいいのではとの意見もあったが現在まで続いています。
政府の要請ではなくて、奉仕活動なので思ったようには行かなかったが、働き方が違うこともあり、「郷に入れば郷に従う」と言うことで進めてきました。
修復は又新たに始まりました。
研修生が一人前になって彼らがやる場所をあえて残しておきました。(100m分)
アドバイスは欠かさずにやっています。(7~8割は完成されつつある)
村には古い技術が残っているので、そういったものを応用しながら最新技術(事前調査の機器など)を組みこませています。
アンコール遺跡を子供たちに知ってもらうために大学院生が教育をしています。
カンボジアの後継者が育ってきていることは大きな力だと思います。
彼らが自分たちで自分たちの遺跡を直す日が近いと実感しています。
アジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞をこの夏受賞されました。
この賞は毎年アジアの平和や発展に尽くした個人や団体に贈られるもので、これまでマザー・テレサ、ダライラマ14世などが受賞しています。
石澤さんの受賞理由は世界遺産アンコール遺跡群の修復や保全などに、半世紀にわたり尽力されたことでした。
石澤さんはカンボジアの世界遺産アンコール遺跡群の研究の第一人者で、1970年代のポルポト政権下での虐殺や内戦を乗り越え遺跡の修復や保全にあたって来ました。
大切にしたのは遺跡の修復や保全を現地カンボジアの人たち自身にやってもらうこと、資金の手当てに苦労しながら、半世紀にわたり粘り強く地道な努力を積み重ねてこられました。
石澤さんは現在79歳、遺跡修復にかける思いや、目指すものをお聞ききします。
私がカンボジアに行って行って感激したと言うのが、原動力だと思います。
あれだけ大きな石造建造物、石造伽藍は世界に類例がない。
石が砂岩で積み上げられているのが、何処にもない、カンボジアだけにある遺産で、非常に技術的にもすぐれていたので、800~1000年もってきた。
しかし経年劣化により痛んできていますので、それを取りかえるのが私たちの修復作業の一部です。
解放勢力の避暑地であったので、守られてきたと言うことがあります。
もともとはアンコールワットはカンボジア流に作り直されたヒンズー教のお寺です。
中央塔は65mあり、それを800年前に作った訳で、技術料は凄いです、
クメール王朝、9~15世紀まで続く。
インドシナ半島のほとんどがカンボジア王朝で、小さなものからを含めると2300を超えると思います。
一番立派なものがアンコールワット。
中に壁に彫られているデバターと言う女神、アプサラス(天女)があり、メッセージがあるのではないかと考えています。
(デバター=遺跡のあらゆる所に女神「デバタ−像」があり、それぞれ表情も違っている。回廊の右には、左右四本ずつの手を持った高さ3メートルくらいのヴィシュヌ神の立像が安置されている。参拝に訪れた人達は、この像に手を合わせお祈りしていた。)
(アプサラス=インド神話における水の精で、その名は「水の中で動くもの、雲の海に生きるもの」の意。天女とも称され、一説では乳海攪拌の時に生まれた存在という。)
アンコールワットは接着剤を使わずに65mまで建てた。
石と石をすり合わせて、途中で水、砂をそこに噛みこませながら長く何回も磨っているうちに表面張力でピタッとくっつくわけです。
実験しましたが裏付けを取れました。
仏教のお寺に変えているが、そこを信仰の場所として村人の参詣が絶えません。
アンコールワットに寄せる思いは強いと思います。
1960年に大学4年生の時にアンコールワットに出かけて驚いてしまいました。
①65mまで大きいお寺を作る当時の建築技術は何なのか?
②作りだした当時の社会はどういう社会なのか?
2つの疑問をしっかり研究しようと思いました。
アンコールワットは大帝国だったと言うことが判りました。
ベンガル湾から南シナ海まで陸路で物が入ってきたんではないかと思います。
ヤシの葉っぱに文字が書かれていて、裁判記録、税金の文書などがあったが、無くなってしまって社会の仕組みなどが判らなかった。
古クメール語で壁に彫ってある文字を調べると、お寺に寄進して、寄付台帳を読むと、当時の社会構造、税金などの事が判った。
拓本にとって、少しずつわかって来ました。
1970年からカンボジアの混乱が始まり、24年間4つの派に分かれて戦ってきた。
1980年になりカンボジアの中に入り込み、ポルポト時代がいかにひどかったかが判りました。
TVの取材があり同行しました。
43名の知人がいたが知識人の虐殺に会い、3名の友人としか再開できず、自分たちの手で遺跡を直せるように、私どもが支援することを掲げてやって来ました。
破壊の原因は
①植物の根が石の間にはいって石を破壊する。
②雨水が地下にしみ込み、土台を柔らかくして、重いものが崩れてくる。
③カビが表面に付着すると蟻酸を出して石を溶かしてしまう。
若いカンボジアの人達に技術、保存方法を学んでもらって彼らがやれるように私たちが助けるわけです。
40数名各地に赴いてやってきてやって来たが、10年、間があって遺跡が損傷してきたわけです。
カンボジアの悲惨な状況を見て、黙ってはおれなかった、私の性分でした。
ポルポトの後の政権は国連に誰も席を持っていなかったので、誰も助けにこなかった。
上智大学のレスキュー隊として出かけてカンボジアの人たちを助けようと始めました。
人手が無くて、最初村人にアルバイトしてもらって根を切ったり、水を抜いたりしました。(一時的保全)
お堀は水草が生えていて、草を切りました。
5~6年は瞬く間に過ぎましたが、村人とは仲良くなりました。
色んな方から寄付を貰ったり、企業からも寄付をして貰いました。
数百万円/年かかるので、毎年寄付くださいと言うことでお金を頂戴しました。
アンコールワットを中心とするアンコール王朝の研究は興味をそそられました。
アンコール王朝は戦争、戦争で滅びて、そして現在に至っています。
大陸の歴史は力が正義なのでどうしてもそうなってしまいます。
カンボジアの人たちが頑張れるようにアンコールワットで平和な時代に戻って一緒に仕事をしようと言う呼びかけが皆さんの共鳴を頂いたようです。
アンコールワットは信仰の対象なので、お手伝いすることで功徳というか、来世に繋がると言う気持ちを誰もが持っています。(単なる作業ではない)
日本人が何で来ているんだと言われますが、カンボジア語で話をすると理解してくれました。
カンボジアには「お金の有る人がお金のない人に与えて当たり前、お金のない人がお金の有る人から貰って当たり前」こういう言葉があり、日本人がやってあげて恩義を感じるとかはありません。
フランス植民地という時代があり、1953年に独立、1901年からフランスチームが来てアンコールワットを直しているが、カンボジア人が駄目だから俺たちが直していると言うことだった。
60年になって私が入って行って、一緒にカンボジア人と仕事をしたが、カンボジア人は優秀で手先が器用だった。
カンボジア人に依る遺跡の支援と言うことに私は徹しました。
私どもの大学のイエズス会で人材養成研究センターを建てて人材養成の活動を始めました。
宗派を超えてボランティアで奉仕活動をしていきました。(国内では募金活動、遺跡修復に依る文化復興)
アンコールワットの修復をすることによってカンボジア人が熱を帯びて来ました。
アンコールワットに寄せる思いは誰もが持っていて、いまでも夕涼みを兼ねて家族、親戚が集まっている風景が伺えます。
アンコールワットは民族の和解、文化復興を兼ね、カンボジアの平和につながってゆくという、一つの塊みたいなものですね。
12年かかってアンコールワットの西参道を修復しました、その前に石工を育てましたが、
ボランティアで8年間小杉さんが手伝ってくれて、100m直しました。
100人ぐらいが手伝ってくれましたが、幹部を育てるために、日本に連れて来て、上智大学の大学院で6年間で学位を取る指導をしました。
ドクターが7名、修士が11名、全員カンボジアに戻って第一線で活躍しています。
(局長クラス、大学の先生、プノンペン大学の副学長とか)
初期のころ、食糧問題があり、遺跡は後でいいのではとの意見もあったが現在まで続いています。
政府の要請ではなくて、奉仕活動なので思ったようには行かなかったが、働き方が違うこともあり、「郷に入れば郷に従う」と言うことで進めてきました。
修復は又新たに始まりました。
研修生が一人前になって彼らがやる場所をあえて残しておきました。(100m分)
アドバイスは欠かさずにやっています。(7~8割は完成されつつある)
村には古い技術が残っているので、そういったものを応用しながら最新技術(事前調査の機器など)を組みこませています。
アンコール遺跡を子供たちに知ってもらうために大学院生が教育をしています。
カンボジアの後継者が育ってきていることは大きな力だと思います。
彼らが自分たちで自分たちの遺跡を直す日が近いと実感しています。
2017年10月10日火曜日
神田紅(講談師) ・“万芸一芸を生ず”に導かれ(H29/5/19 OA)
神田紅(講談師) ・“万芸一芸を生ず”に導かれ(H29/5/19 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/05/blog-post_19.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/05/blog-post_19.htmlをご覧ください。
2017年10月9日月曜日
鈴木大地(スポーツ庁長官) ・スポーツが創る未来とは【“2020”に託すもの】
鈴木大地(スポーツ庁長官) ・スポーツが創る未来とは【“2020”に託すもの】
誕生してから3年目に入ったスポーツ庁は今年から新しい5ヶ年計画をスタートさせています。
スポーツが作る未来とは鈴木大地さんに伺います。
自分たちが周りの皆さんと一緒にスポーツ庁の仕事をどうやって進めていくのかと言うところから始めて、スポーツ行政が進めていけてるのかなあと思っています。
体育の日は東京オリンピックの開会式を契機につくられて、記念すべき、非常に大事な日だと思いますが、時代の移り変わりとともに、ビジネス、エンターテイメントとして考える方もおり、従来の体育という概念ではとらえきれない面が出て来ました。
体育の日もスポーツという名前に変わってくるかもしれません。
スポーツに対する世の中の見方も変わってきたので、スポーツの方がふさわしくなってきたのかなと言う気がします。
これまで水泳を中心にスポーツと関わって来ましたが、障害者スポーツを含めて夏、冬のオリンピック、パラリンピック、学校体育、部活など幅広くスポーツ行政があり、地方を元気にできるのではないかとか、ビジネスパーソンとの向き合い、働き方改革など色んな事と接するようになりました。
競技団体の役員とかやってきて少しづつ今の役に立っていると思います。
パラリンピックも昨年初めてみて、競技性の高いものであることを知りませんでした。
今年4月から第二期スポーツ基本計画 2017年~2022年3月までの期間。
「スポーツが変える、未来を創る」と、巻頭に書いてある。
4つの指針
①国民がスポーツで人生が変わる。
②スポーツが社会を変えて行く。
③スポーツを通じて世界とつながって行く。
④未来を創って行く。
①国民がスポーツで人生が変わる。
人に依っては選手として大成して行く、単純に面白いと感じて健やかに過ごせる。
高齢者がスポーツをすることで交流、健やかな長生きの生活が出来る。等
今、成人がスポーツをやるのは42、5%→65%にしたい。(2022年までに)
ライフスタイルのなかにスポーツを取りいれて行く。
競技スポーツを考えがちだが、娯楽、気分転換などもスポーツなので、自ら意図的に身
体を動かしてゆく。
亡くなる前の10年間が健康でなかったりする時期があって平均寿命がありが、健康寿命
を伸ばす役割があるのでは無いかと思います。
出来れば病気にならない身体をキープするのが一番いい。
定期的にスポーツ、運動されている方はやっていない人よりも健康的です。
スポーツを強制はできないが、持っている機能を使ってゆくことは大事だと思います。
スポーツ嫌いを少なくして行く話をした時に、ほっといてくれと言うことが出てきて、
体育の授業が嫌いにさせてきたという一面があり、体育の授業の事も推進していきたい
と思っています。
一般の女性に関してしては、一番低くなっているのが20~40代の人達です。
生活の中でのライフスタイルを少しいじる。
中学の部活、種類が少ないので辞めてしまうと言うケースがあり、女性のスポーツ参加
を促すような施策をしていきたいと思っています。
出産後も選手を続けるようにも対応できるように色々整備してゆきます。
バレー、サッカー、バスケットボール等有力な高校の選手が大学に行かずに、企業チー
ムに行く場合が多いが、良い環境で出来ると言う。
教員免許が取れなかったりするので、指導者も少なくなる、競技団体の役員も少なくな
ってしまう。
大学のスポーツ環境を整えて行くことが、女性の社会進出にも繋がって来ると思いま
す。
②スポーツが社会を変えて行く。
スポーツの効果、一番大きいのが健康な体を作って、元気に溌剌と人生を送っていけ
ることが可能性としてある訳です。
年間の医療費が40兆円を超えて行っており、これをスポーツが国民に浸透してゆくこと
で医療費の右肩上がりを軽減する事が出来るのではないかと思っています。
それを元に大きく社会を変えることができるのではないかと思っています。
自分の事は自分でする、社会に対して、迷惑をかけない生き方と言ってもいいかもしれ
ません。
そのためにはスポーツの役割は大きいと思います。
今のスポーツ市場5.5兆円→15兆円に拡大(2025年までに)
欧米では過去10年で2倍、3倍に伸びているが、日本では2002年~2012年までに7兆
円あったものが5.5兆円にシュリンクしてしまった。
スポーツは経済成長の分野で期待されている。
施設を街のなかに作って街作りの中心として街を変えてゆくという動きもあり、広島球
場は大きく広島の街を変えて広島市民のいい生き方の中心的な存在だと思います。
スタジアム、アリーナ構想。
地方では素晴らしい環境があるが、地方に根差したありかたが地方の元気、アイデンテ
ィティーを今一度取り戻すきっかけになってくれればいいと思います。
誕生してから3年目に入ったスポーツ庁は今年から新しい5ヶ年計画をスタートさせています。
スポーツが作る未来とは鈴木大地さんに伺います。
自分たちが周りの皆さんと一緒にスポーツ庁の仕事をどうやって進めていくのかと言うところから始めて、スポーツ行政が進めていけてるのかなあと思っています。
体育の日は東京オリンピックの開会式を契機につくられて、記念すべき、非常に大事な日だと思いますが、時代の移り変わりとともに、ビジネス、エンターテイメントとして考える方もおり、従来の体育という概念ではとらえきれない面が出て来ました。
体育の日もスポーツという名前に変わってくるかもしれません。
スポーツに対する世の中の見方も変わってきたので、スポーツの方がふさわしくなってきたのかなと言う気がします。
これまで水泳を中心にスポーツと関わって来ましたが、障害者スポーツを含めて夏、冬のオリンピック、パラリンピック、学校体育、部活など幅広くスポーツ行政があり、地方を元気にできるのではないかとか、ビジネスパーソンとの向き合い、働き方改革など色んな事と接するようになりました。
競技団体の役員とかやってきて少しづつ今の役に立っていると思います。
パラリンピックも昨年初めてみて、競技性の高いものであることを知りませんでした。
今年4月から第二期スポーツ基本計画 2017年~2022年3月までの期間。
「スポーツが変える、未来を創る」と、巻頭に書いてある。
4つの指針
①国民がスポーツで人生が変わる。
②スポーツが社会を変えて行く。
③スポーツを通じて世界とつながって行く。
④未来を創って行く。
①国民がスポーツで人生が変わる。
人に依っては選手として大成して行く、単純に面白いと感じて健やかに過ごせる。
高齢者がスポーツをすることで交流、健やかな長生きの生活が出来る。等
今、成人がスポーツをやるのは42、5%→65%にしたい。(2022年までに)
ライフスタイルのなかにスポーツを取りいれて行く。
競技スポーツを考えがちだが、娯楽、気分転換などもスポーツなので、自ら意図的に身
体を動かしてゆく。
亡くなる前の10年間が健康でなかったりする時期があって平均寿命がありが、健康寿命
を伸ばす役割があるのでは無いかと思います。
出来れば病気にならない身体をキープするのが一番いい。
定期的にスポーツ、運動されている方はやっていない人よりも健康的です。
スポーツを強制はできないが、持っている機能を使ってゆくことは大事だと思います。
スポーツ嫌いを少なくして行く話をした時に、ほっといてくれと言うことが出てきて、
体育の授業が嫌いにさせてきたという一面があり、体育の授業の事も推進していきたい
と思っています。
一般の女性に関してしては、一番低くなっているのが20~40代の人達です。
生活の中でのライフスタイルを少しいじる。
中学の部活、種類が少ないので辞めてしまうと言うケースがあり、女性のスポーツ参加
を促すような施策をしていきたいと思っています。
出産後も選手を続けるようにも対応できるように色々整備してゆきます。
バレー、サッカー、バスケットボール等有力な高校の選手が大学に行かずに、企業チー
ムに行く場合が多いが、良い環境で出来ると言う。
教員免許が取れなかったりするので、指導者も少なくなる、競技団体の役員も少なくな
ってしまう。
大学のスポーツ環境を整えて行くことが、女性の社会進出にも繋がって来ると思いま
す。
②スポーツが社会を変えて行く。
スポーツの効果、一番大きいのが健康な体を作って、元気に溌剌と人生を送っていけ
ることが可能性としてある訳です。
年間の医療費が40兆円を超えて行っており、これをスポーツが国民に浸透してゆくこと
で医療費の右肩上がりを軽減する事が出来るのではないかと思っています。
それを元に大きく社会を変えることができるのではないかと思っています。
自分の事は自分でする、社会に対して、迷惑をかけない生き方と言ってもいいかもしれ
ません。
そのためにはスポーツの役割は大きいと思います。
今のスポーツ市場5.5兆円→15兆円に拡大(2025年までに)
欧米では過去10年で2倍、3倍に伸びているが、日本では2002年~2012年までに7兆
円あったものが5.5兆円にシュリンクしてしまった。
スポーツは経済成長の分野で期待されている。
施設を街のなかに作って街作りの中心として街を変えてゆくという動きもあり、広島球
場は大きく広島の街を変えて広島市民のいい生き方の中心的な存在だと思います。
スタジアム、アリーナ構想。
地方では素晴らしい環境があるが、地方に根差したありかたが地方の元気、アイデンテ
ィティーを今一度取り戻すきっかけになってくれればいいと思います。
スポーツと関わるときにする人、見る人、支える人がおり、アリーナなどは地元のチー
ムを市民が応援に行く色彩が強いと思うので、色んな人たちがスポーツと関わる多様
性、色んな社会を提供してゆくことが大事だと思っています。
スポーツでお金を稼ぐことに対して、一部では抵抗感があるが、収益を環境整備に充て
て、整備した環境でスポーツ人口が増えて行く、正への好循環を目指しています。
ビジネスとしてスイミング業界も成り立っていて、そこから得たものがあるのではない
かと思います。
大学のスポーツの試合がどのぐらいメディアに取り上げられているかと言うと高校より
も少なくなってしまってます。
まだここには潜在能力が眠っているのではないかと思います。
大学スポーツの活性化が必要だと思っています。
ソウル大会の1年後にミシガン大学に留学しましたが、アメリカのフットボールを見に
行ったときに10万人のスタジアムに一杯入っており凄いなと思いました。
カルチャーギヤップを感じまして、旗振り役になって、地域でスポーツで盛り上がるよう
な雰囲気を日本全体で作っていけたらと思います。
障害者スポーツは厚生労働省の所管が数年前文科省、2年前からスポーツ庁に移管されて
急速に進行しているところです。
いずれ健常者も障害者になるのではないかと言うことで、障害者スポーツの皆さんがや
りやすいように社会を変えて行く、誰もがよりよい社会として生きていけることにつな
がるものと思っています。
③スポーツを通じて世界とつながって行く。
③スポーツを通じて世界とつながって行く。
「スポーツ フォ トモロウ」と言うプログラム 100カ国以上の人と1000万人以上
の人達とスポーツ交流を行う。
日本から指導者を送る、日本の学校のシステムなどを輸出してやってみる。
スポーツの持つ力、規律、教育としてスポーツを捉えて、外国に輸出することで協力が
出来るのではないかと思っています。
スポーツでの国際協力が可能になって積極的に進めています。
オリンピックを通じて、心底スポーツっていいなあと思いました。
お互いが敵ですが信頼しあえる間柄になりました。
④未来を創って行く。
大きな大会が3つ続きますが、誇りを各人に持ってもらえるような大会にしたいです。
2020年を契機にスポーツをする人がより増えて、健康な国民を大勢作っていき、健康に
対して、自分の将来に対して目くばせできるような国にして行く、と言うことで、2020
年を契機に活力のある国にスポーツを通じてしてゆく、これが2020年のレガシーとして
残していけるようにしたいと思います。
2017年10月8日日曜日
戸田恵子(女優・声優) ・【時代を創った声】
戸田恵子(女優・声優) ・【時代を創った声】
『それいけ!アンパンマン』の、アンパンマン 『きかんしゃトーマス』のトーマス、『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎など数多くのキャラクターを演じているとともに、TVでも大活躍されています。
アンパンマンの放送開始が1988年、回数でおよそ1350話。
収録も30年目に入りまして、年に一度映画も作ってきて、来年の映画が30本目なります。
最初のうちは普通の仕事と変わらずスタートしましたが、やなせたかし先生の思いが物凄く詰まった作品だと言うことを、やってゆくうちに皆も感じつつあっという間の30年に成りました。
60歳になりましたので、人生の半分をアンパンマンに費やしてきました。
アンパンマン=柳瀬先生と思っていますので、私にとってアンパンマンは師匠ですね。
他に色々仕事もありますが、休みなくやって来ました。
キャラクターの数ではギネスに乗るぐらい凄い数があるので、どうしても印象の薄い物も当然ありますし、なかなか全部覚えているのかと言うと自信がないですが、或る番組であの時は答えられました。
アンパンマンの世界観を届けようと、週に一回集まってぶれずに頑張っていこうとしています。
初代の監督さんが推薦して下さり、柳瀬さんに聞いていただいて、戸田さんで良いのではないかと言うことになりました。
私にできるのかどうかと思いましたが。(他の人は全員オーディションを受けた方々)
自分たちも楽しみながらやっている番組です。
母親の勧めで小学校5年生からNHK名古屋放送児童劇団に入りました。
『中学生群像』で子役出演、人と会うのが楽しかったです。
お稽古ごと(詩吟、剣舞、お茶、お花、ピアノ、バレエ、書道・・・)も色々やり、とにかく忙しかったです。
劇団に入ってからは忙しくてお稽古ごとは行かなくなりました。
1974年に上京し、スカウトされて16歳の時にあゆ朱美の芸名でアイドル演歌歌手としてデビューしました。
歌手になりたいと言う強い思いは無かったです。
なかなか売れなくて、4年間歌手の仕事をしながらほかの仕事もしていました。
ある番組で一緒になった野沢那智さんから声を掛けられました。
「劇団薔薇座」へ研究生として入団しました。
想像以上に地味な感じな劇団で小さくて、地味な感じ。
舞台と言う世界観が、お客さんに全身をさらして、編集とか、カットとかない世界観をお客さんがジャッジするところは、それなりに評価されるのではないかと期待はありました。
野沢さんは外で見た感じとは違って厳しかったです。
朝から夜中までずーっと稽古しなければいけませんでした。
野沢さんに縦に首を振ってもらうために10年間過ごしてきました。
途中で何度もやめたいと思いましたが。
後半は外に出て行くこともありましたが、余りに自由で最初はよそに出るのが怖かったです。
1978年 ロボットアニメ『無敵鋼人ダイターン3』
その前に吹き替えとして行って来いと言われて、『眠れる森の美女』のオーロラ姫役で声優デビューしたが、セリフがあまりなかったが、とてもスムーズにできました。
その時は原音を聞けて色々参考になりましたが、アニメでは何にも音がなくて、なにをどうしたらいいのかわからなかった。
大変苦労しました。
先輩方の声優さん達と毎週会って話をさせていただくことが、大きな力になりました。
仕事自体はそう簡単にうまくいかなかった。
キャラクターに私の血が入っていかなかった。
やって行く間に多少慣れて来ました。
『機動戦士ガンダム』、『ゲゲゲの鬼太郎(3作目)』、『きかんしゃトーマス』に繋がって行く。
声の仕事と言うふうに狭く考えるのではなくて、全部おおきな俳優の仕事の中に一部だと捉えられるようになりました。
経験したことがないこと、特にアニメなど、イマジネーションの世界に入ると、自分で作っていかなくてはいけない発想力というか、そういったものを普段なるべく色んなものを見れたらいいと思うようになりました。
経験だけでなくて、知恵とか知識とかをいろいろ吸収して積んでいこうと思いました。
昔の作品が又若い人がやると言う事に対して、そういう作品に早くから関わっていたことに対しては凄くうれしいです。
若い声優さんに対しては俳優に成りなさいと言うことでしょうか。
自分が演じると言うことが大一番に、体感の中から声優と言う仕事が生まれてくると思います。
厳しい時代があってコツコツやってきたことを誰かが見ていたことが、先々又違うことで芽が出たりすることがありましたと伝えたい。
ボランティアの仕事を50代から始めて、講演会とかで人生観などを話しますが、子供たち向けのアニメーションとか、海外から集めて観てもらいたいと言うような事、広げて全国に持っていけたらいいなあと思います。
国によって切り口が違うので、親などから教え切れないこともあるので映画を観てもらいたい。
『それいけ!アンパンマン』の、アンパンマン 『きかんしゃトーマス』のトーマス、『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎など数多くのキャラクターを演じているとともに、TVでも大活躍されています。
アンパンマンの放送開始が1988年、回数でおよそ1350話。
収録も30年目に入りまして、年に一度映画も作ってきて、来年の映画が30本目なります。
最初のうちは普通の仕事と変わらずスタートしましたが、やなせたかし先生の思いが物凄く詰まった作品だと言うことを、やってゆくうちに皆も感じつつあっという間の30年に成りました。
60歳になりましたので、人生の半分をアンパンマンに費やしてきました。
アンパンマン=柳瀬先生と思っていますので、私にとってアンパンマンは師匠ですね。
他に色々仕事もありますが、休みなくやって来ました。
キャラクターの数ではギネスに乗るぐらい凄い数があるので、どうしても印象の薄い物も当然ありますし、なかなか全部覚えているのかと言うと自信がないですが、或る番組であの時は答えられました。
アンパンマンの世界観を届けようと、週に一回集まってぶれずに頑張っていこうとしています。
初代の監督さんが推薦して下さり、柳瀬さんに聞いていただいて、戸田さんで良いのではないかと言うことになりました。
私にできるのかどうかと思いましたが。(他の人は全員オーディションを受けた方々)
自分たちも楽しみながらやっている番組です。
母親の勧めで小学校5年生からNHK名古屋放送児童劇団に入りました。
『中学生群像』で子役出演、人と会うのが楽しかったです。
お稽古ごと(詩吟、剣舞、お茶、お花、ピアノ、バレエ、書道・・・)も色々やり、とにかく忙しかったです。
劇団に入ってからは忙しくてお稽古ごとは行かなくなりました。
1974年に上京し、スカウトされて16歳の時にあゆ朱美の芸名でアイドル演歌歌手としてデビューしました。
歌手になりたいと言う強い思いは無かったです。
なかなか売れなくて、4年間歌手の仕事をしながらほかの仕事もしていました。
ある番組で一緒になった野沢那智さんから声を掛けられました。
「劇団薔薇座」へ研究生として入団しました。
想像以上に地味な感じな劇団で小さくて、地味な感じ。
舞台と言う世界観が、お客さんに全身をさらして、編集とか、カットとかない世界観をお客さんがジャッジするところは、それなりに評価されるのではないかと期待はありました。
野沢さんは外で見た感じとは違って厳しかったです。
朝から夜中までずーっと稽古しなければいけませんでした。
野沢さんに縦に首を振ってもらうために10年間過ごしてきました。
途中で何度もやめたいと思いましたが。
後半は外に出て行くこともありましたが、余りに自由で最初はよそに出るのが怖かったです。
1978年 ロボットアニメ『無敵鋼人ダイターン3』
その前に吹き替えとして行って来いと言われて、『眠れる森の美女』のオーロラ姫役で声優デビューしたが、セリフがあまりなかったが、とてもスムーズにできました。
その時は原音を聞けて色々参考になりましたが、アニメでは何にも音がなくて、なにをどうしたらいいのかわからなかった。
大変苦労しました。
先輩方の声優さん達と毎週会って話をさせていただくことが、大きな力になりました。
仕事自体はそう簡単にうまくいかなかった。
キャラクターに私の血が入っていかなかった。
やって行く間に多少慣れて来ました。
『機動戦士ガンダム』、『ゲゲゲの鬼太郎(3作目)』、『きかんしゃトーマス』に繋がって行く。
声の仕事と言うふうに狭く考えるのではなくて、全部おおきな俳優の仕事の中に一部だと捉えられるようになりました。
経験したことがないこと、特にアニメなど、イマジネーションの世界に入ると、自分で作っていかなくてはいけない発想力というか、そういったものを普段なるべく色んなものを見れたらいいと思うようになりました。
経験だけでなくて、知恵とか知識とかをいろいろ吸収して積んでいこうと思いました。
昔の作品が又若い人がやると言う事に対して、そういう作品に早くから関わっていたことに対しては凄くうれしいです。
若い声優さんに対しては俳優に成りなさいと言うことでしょうか。
自分が演じると言うことが大一番に、体感の中から声優と言う仕事が生まれてくると思います。
厳しい時代があってコツコツやってきたことを誰かが見ていたことが、先々又違うことで芽が出たりすることがありましたと伝えたい。
ボランティアの仕事を50代から始めて、講演会とかで人生観などを話しますが、子供たち向けのアニメーションとか、海外から集めて観てもらいたいと言うような事、広げて全国に持っていけたらいいなあと思います。
国によって切り口が違うので、親などから教え切れないこともあるので映画を観てもらいたい。
2017年10月7日土曜日
中川 毅(古気候学研究センター長) ・5万年の歴史の物差しを掘り出す(H27/9/5 OA)
中川 毅(古気候学研究センター長) ・5万年の歴史の物差しを掘り出す(H27/9/5 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_5.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/09/blog-post_5.htmlをご覧ください。
2017年10月6日金曜日
荘村清志(ギタリスト) ・70歳は通過点(2)
荘村清志(ギタリスト) ・70歳は通過点(2)
スペシャルプロジェクトと言うのを始めて、3年間で4回特別なコンサートをする計画。
普段できない様な形の演奏会をやろうと言うことで、第一回目が今年の3月、さだまさしさんをお呼びしてジョイントコンサートをしました。
さだまさしさんは子供の頃からクラシックのバイオリンを一生懸命プロを目指してやっていました。
小学校5年の時に全日本コンクールの西日本大会で2位になったりしました。
歌だけでは無くて、バイオリンもやっていただくことになりました。
ピアソラの「デュエルタンゴ」、「オブリビオン」 、「カヴァティーナ」の3曲をやっていただこうと言うことになりました。
素晴らしい演奏をしていただきました。
さだまさしさんから歌を歌うように言われて、初めて人前で歌を歌いました。
さだまさしさんはお客さんを楽しませる話をされるので楽しいです。
第二回目は来年6月6日にやることが決定していまして、バイオリンの古澤 巌さん、彼とは前からジョイントコンサートをやっています。(アコーディオンのcoba (コバ 小林 靖宏 )さん、テノール歌手の錦織 健さんも呼びます 3人のゲスト)
武満徹さんには、1974年のリサイタルの時にギターのオリジナル曲がなかなか無かったので、武満徹さんにいきなり電話をして曲のお願いをしました。
断わられるかと思ったが、ギターを持って来なさいと言われました。
武満徹さんは柔らかく、優しく、ユーモアもあるし全然イメージとは違っていました。
5回目にお会いした時に曲がかけそうな気がすると言われました。(1973年9月頃)
野球の話になって、巨人がファンだと言ったら、曲を作るのはやめたと真顔で言われてしまって、これからタイガースファンに成りますと思わず言ってしまいました。
武満徹さんは純粋で子供の様なところがあります。
「フォリオス」という3部作が出来上がって、楽譜を頂いたと同時に巨人ファンに戻りました。
その後家族ぐるみのお付き合いをさせていただいています。
25年周年リサイタルがあり曲をお願いしたのですが、物凄く忙しくなっていて、無理だと断られたが、30分後に電話があり広告に予告を載せなければ書いてもいい(間に合わないかもしれない)と言われて、その後3カ月に「エキノクス」と言う楽譜と手紙をいただいて感動しました。
武満徹さんはギターと言う楽器が好きなようです。
武満徹さんは95年に体調を崩されて、入院されて、2週間に一回見舞いに行っていましたが、はがきが舞い込んで吃驚しました。
「・・・明るい顔を見ると希望がわいてきます。
まだもう少しの辛抱ですが、頑張る覚悟です。
出たらギター曲、良い物を一曲 きよちゃんのために書くつもりで寝ながら構想を練っています。
楽しみにしていてください。」
武満徹さんにある御代田の家に来ないかと言われて、出来上がっていて吃驚しました。(1995年11月)
「森の中で」と言うタイトル 3曲あって大自然をテーマにした作品。
その2曲目を頂きました。
武満徹さんは1996年2月20に亡くなりました。
武満徹さんはあらゆるジャンルの音楽にアンテナを張って聞いていて、色んなものを吸収しようとしていたようです。
「オーバーザレインボー」をアレンジしてくれました。
他にビートルズとかを含めて「12の歌」と言うタイトルでレコーディングしました。
僕がクラシックの硬い演奏をしていたので、音楽に酔いしれてギターを楽しんで弾いてくれればいいなあという思いで、12曲をアレンジしたと言うことを武満徹さんの奥さんから、武満徹さんが亡くなられたあとに聞きました。
*ビートルズ「ミッシェル」のアレンジ曲 荘村清志演奏
スペインにいたときに武満徹さんと一緒に旅行をしたこともあり、楽しい思い出がたくさんあります。
ナルシソ・イエペス先生からは「間の取り方」を勉強しました、間の取り方を自分で見つけて、その間の取り方を取る事に依ってその曲が生きてくる。
武満徹さんからはいろんなものから学ばなければいけないと言うことを学びました。
岸田今日子さんからも詩を朗読する迫真に迫る気持ちの集中する姿、芸の力に感動しました。
2015年イ・ムジチ合奏団(イタリアの室内楽団)と演奏旅行をしました。
スペシャルプロジェクトの3回目はバッハの演奏会をやりたい。(2019年春)
4回目はオーケストラとの協奏曲の夕べ、みたいなものを考えています。
常に吸収すると言う事をやっていれば表現力が増してゆくと思います。
人間は進歩することが快感につながってゆくと思います。
歳を取ったから衰えて行くのではつまらない、歳を取ったからこそ素晴らしいもの、味が出てくると言う事でないと生きていてもつまらないので、そういう路線でこれからもやって行きたい。
スペシャルプロジェクトと言うのを始めて、3年間で4回特別なコンサートをする計画。
普段できない様な形の演奏会をやろうと言うことで、第一回目が今年の3月、さだまさしさんをお呼びしてジョイントコンサートをしました。
さだまさしさんは子供の頃からクラシックのバイオリンを一生懸命プロを目指してやっていました。
小学校5年の時に全日本コンクールの西日本大会で2位になったりしました。
歌だけでは無くて、バイオリンもやっていただくことになりました。
ピアソラの「デュエルタンゴ」、「オブリビオン」 、「カヴァティーナ」の3曲をやっていただこうと言うことになりました。
素晴らしい演奏をしていただきました。
さだまさしさんから歌を歌うように言われて、初めて人前で歌を歌いました。
さだまさしさんはお客さんを楽しませる話をされるので楽しいです。
第二回目は来年6月6日にやることが決定していまして、バイオリンの古澤 巌さん、彼とは前からジョイントコンサートをやっています。(アコーディオンのcoba (コバ 小林 靖宏 )さん、テノール歌手の錦織 健さんも呼びます 3人のゲスト)
武満徹さんには、1974年のリサイタルの時にギターのオリジナル曲がなかなか無かったので、武満徹さんにいきなり電話をして曲のお願いをしました。
断わられるかと思ったが、ギターを持って来なさいと言われました。
武満徹さんは柔らかく、優しく、ユーモアもあるし全然イメージとは違っていました。
5回目にお会いした時に曲がかけそうな気がすると言われました。(1973年9月頃)
野球の話になって、巨人がファンだと言ったら、曲を作るのはやめたと真顔で言われてしまって、これからタイガースファンに成りますと思わず言ってしまいました。
武満徹さんは純粋で子供の様なところがあります。
「フォリオス」という3部作が出来上がって、楽譜を頂いたと同時に巨人ファンに戻りました。
その後家族ぐるみのお付き合いをさせていただいています。
25年周年リサイタルがあり曲をお願いしたのですが、物凄く忙しくなっていて、無理だと断られたが、30分後に電話があり広告に予告を載せなければ書いてもいい(間に合わないかもしれない)と言われて、その後3カ月に「エキノクス」と言う楽譜と手紙をいただいて感動しました。
武満徹さんはギターと言う楽器が好きなようです。
武満徹さんは95年に体調を崩されて、入院されて、2週間に一回見舞いに行っていましたが、はがきが舞い込んで吃驚しました。
「・・・明るい顔を見ると希望がわいてきます。
まだもう少しの辛抱ですが、頑張る覚悟です。
出たらギター曲、良い物を一曲 きよちゃんのために書くつもりで寝ながら構想を練っています。
楽しみにしていてください。」
武満徹さんにある御代田の家に来ないかと言われて、出来上がっていて吃驚しました。(1995年11月)
「森の中で」と言うタイトル 3曲あって大自然をテーマにした作品。
その2曲目を頂きました。
武満徹さんは1996年2月20に亡くなりました。
武満徹さんはあらゆるジャンルの音楽にアンテナを張って聞いていて、色んなものを吸収しようとしていたようです。
「オーバーザレインボー」をアレンジしてくれました。
他にビートルズとかを含めて「12の歌」と言うタイトルでレコーディングしました。
僕がクラシックの硬い演奏をしていたので、音楽に酔いしれてギターを楽しんで弾いてくれればいいなあという思いで、12曲をアレンジしたと言うことを武満徹さんの奥さんから、武満徹さんが亡くなられたあとに聞きました。
*ビートルズ「ミッシェル」のアレンジ曲 荘村清志演奏
スペインにいたときに武満徹さんと一緒に旅行をしたこともあり、楽しい思い出がたくさんあります。
ナルシソ・イエペス先生からは「間の取り方」を勉強しました、間の取り方を自分で見つけて、その間の取り方を取る事に依ってその曲が生きてくる。
武満徹さんからはいろんなものから学ばなければいけないと言うことを学びました。
岸田今日子さんからも詩を朗読する迫真に迫る気持ちの集中する姿、芸の力に感動しました。
2015年イ・ムジチ合奏団(イタリアの室内楽団)と演奏旅行をしました。
スペシャルプロジェクトの3回目はバッハの演奏会をやりたい。(2019年春)
4回目はオーケストラとの協奏曲の夕べ、みたいなものを考えています。
常に吸収すると言う事をやっていれば表現力が増してゆくと思います。
人間は進歩することが快感につながってゆくと思います。
歳を取ったから衰えて行くのではつまらない、歳を取ったからこそ素晴らしいもの、味が出てくると言う事でないと生きていてもつまらないので、そういう路線でこれからもやって行きたい。
2017年10月5日木曜日
荘村清志(ギタリスト) ・70歳は通過点(1)
荘村清志(ギタリスト) ・70歳は通過点(1)
昭和22年岐阜市出身 70歳 9歳からギターを始めて、10代半ばで巨匠ナルシソ・イエペスに認められて4年間スペインで教えを受けました。
昭和44年に日本でデビュー、以来日本を代表するギタリストとして活躍しています。
昭和49年にはNHKの番組、「ギターを弾こう」の講師としてギターの普及にも貢献しました。
2007年放送の「趣味悠々」でも講師を務めています。
現在東京音楽大学客員教授として若手の教育にも取り組んでいます。
30代の頃、ギターばっかりやっていたのを、スポーツをやろうと思って35歳からテニスをやり始めました。
普段も歩くようにしています。
精神的には20代のつもりでいるので、70歳と言う自覚はないです。
歳を取るにしたがって、深まって来ると言う感じはしています。
若いころはとにかく正確に弾くと言うことでしたが、音楽に酔いしれると言う事はなかったが、50歳を過ぎてから自分でギターを弾いていて内側からよろこび、悲しみがこみ上げてくるふうに段々なって来ました。
若いころはギターと格闘していたと言う感じで弾いていたイメージがあります。
50歳を過ぎたころからギターの音は小さい音が魅力的だと自分で思えるようになって、それからギターを弾くのが楽になりました。
弱い音の間に強く弾くと、強さがより大きく聞こえると言うことで、幅が広がりました。
左手は弦を押さえるので爪はきっちり切ってあり、右手は弦を弾くので爪を長くしてあります。(クラシックギターの奏法)
紙やすりを使って爪の手入れをしています。
10月13日(70歳の誕生日)、記念リサイタルを行います。
詩の朗読も行います。
スペインのフアン・ラモン・ヒメネス(ノーベル賞を受賞)という詩人が書いた散文詩「プラテロと私」(100編以上ある)の中からイタリアのマーリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコが28曲選び出して、それにギターのオリジナル曲を付けています。
詩の朗読をしているときに常にギターがバックで流れています。
朗読を中嶋 朋子さんが行います。
藤木 大地さんに武満徹さんの曲の中から歌っていただきます。
出身が岐阜で小学校卒業するまで居ました。
ギターを始めたきっかけは父がギターが好きで、ギタリストに成りたかったそうですが、ギターで生活するという事ができなかった時代でサラリーマンになりました。
9歳のときに父から教えてもらって始めました。(毎日1時間のレッスン)
言われるままに弾いていました。
中学に入るときに父の仕事の関係で東京に引っ越しました。
小原安正先生に習い始めました。(怖い先生でした)
15歳のときにスペインの巨匠ナルシソ・イエペスさんが日本に演奏旅行で来まして、歓迎パーティーで10人ぐらいでギターを弾いたら、スペインに来たら教えてあげると言う確約を頂いて、16歳のときにスペインに留学と言うことになります。
自ら行くと言うよりも、父親が修行して来いと言うふうな感じでした。
4年間スペインで修行しました。(1964年~)
羽田から飛び立ったんですが 1ドル360円の時代で往復60万円、100人ぐらいが見送りに来てくれました。
父親も小原安正先生も怖かったが、ナルシソ・イエペス先生は優しく、にこにこしながら教えて下さいまして、楽しい4年間でした。
スペイン語は中学1年の時から基礎を習い始めましたが、ホームステー先で会話の多くを学びました。
夏休みに先生の家でテラスで海の音を聞きながら、週に2回レッスンを受けたことも想い出にあります。
1968年に帰国、翌年日本でデビューをします。
上手く弾けたとは思ったが、終ったあとになんか空虚感があり、ギター浸けだったので、ちょっとギターから離れて(本、映画、芝居、友人と酒を飲むとか)、生活の幅を意図的に広げていくようにしました。
再びギターを弾くと言うことに戻った時に、ギターの音に酔いしれることが少しづつ出来るようになりました。
デビュー25周年の時も自分を追い込み過ぎて、完璧にと言う思いが強くて結局うまくいかなかったが、その1週間後に演奏があったが、その間練習は一切やらなかったが、自分なりに凄くうまく行きました。
練習の仕方を出来るだけ通して、楽しんで演奏すると言う方向に変えてゆき、練習時間も少なくて済み、プレッシャーも無くなりました。
余った時間を映画などにつぎ込み、そうすることによって自分の表現力がどんどん増えて行くことに気づいて、自分の生活パターンも変えていきました。
そうして演奏が楽しくなりました。
*映画禁じられた遊びから「愛のロマンス」 荘村清志さん演奏
自分一人の力なんて知れているので、色んな人のエネルギーをどんどん自分の中に蓄えて行くことによって、表現力が増えて行くことだと思います。
色んな人が演奏するが弾く人の音色が音としてあらわれてくる、そこがまた面白いと思います。
1974年4月から「ギターを弾こう」の講師を務める。(1年間)
25歳の時でした。
TVに慣れていないので、喋ること、時間の管理への対応が大変でした。
2007年、「趣味悠々」で皆で名曲を弾きましょうということで講師をする。
東京音楽大学でプロを目指す学生たちにレッスンを厳しくしています。
昭和22年岐阜市出身 70歳 9歳からギターを始めて、10代半ばで巨匠ナルシソ・イエペスに認められて4年間スペインで教えを受けました。
昭和44年に日本でデビュー、以来日本を代表するギタリストとして活躍しています。
昭和49年にはNHKの番組、「ギターを弾こう」の講師としてギターの普及にも貢献しました。
2007年放送の「趣味悠々」でも講師を務めています。
現在東京音楽大学客員教授として若手の教育にも取り組んでいます。
30代の頃、ギターばっかりやっていたのを、スポーツをやろうと思って35歳からテニスをやり始めました。
普段も歩くようにしています。
精神的には20代のつもりでいるので、70歳と言う自覚はないです。
歳を取るにしたがって、深まって来ると言う感じはしています。
若いころはとにかく正確に弾くと言うことでしたが、音楽に酔いしれると言う事はなかったが、50歳を過ぎてから自分でギターを弾いていて内側からよろこび、悲しみがこみ上げてくるふうに段々なって来ました。
若いころはギターと格闘していたと言う感じで弾いていたイメージがあります。
50歳を過ぎたころからギターの音は小さい音が魅力的だと自分で思えるようになって、それからギターを弾くのが楽になりました。
弱い音の間に強く弾くと、強さがより大きく聞こえると言うことで、幅が広がりました。
左手は弦を押さえるので爪はきっちり切ってあり、右手は弦を弾くので爪を長くしてあります。(クラシックギターの奏法)
紙やすりを使って爪の手入れをしています。
10月13日(70歳の誕生日)、記念リサイタルを行います。
詩の朗読も行います。
スペインのフアン・ラモン・ヒメネス(ノーベル賞を受賞)という詩人が書いた散文詩「プラテロと私」(100編以上ある)の中からイタリアのマーリオ・カステルヌオーヴォ=テデスコが28曲選び出して、それにギターのオリジナル曲を付けています。
詩の朗読をしているときに常にギターがバックで流れています。
朗読を中嶋 朋子さんが行います。
藤木 大地さんに武満徹さんの曲の中から歌っていただきます。
出身が岐阜で小学校卒業するまで居ました。
ギターを始めたきっかけは父がギターが好きで、ギタリストに成りたかったそうですが、ギターで生活するという事ができなかった時代でサラリーマンになりました。
9歳のときに父から教えてもらって始めました。(毎日1時間のレッスン)
言われるままに弾いていました。
中学に入るときに父の仕事の関係で東京に引っ越しました。
小原安正先生に習い始めました。(怖い先生でした)
15歳のときにスペインの巨匠ナルシソ・イエペスさんが日本に演奏旅行で来まして、歓迎パーティーで10人ぐらいでギターを弾いたら、スペインに来たら教えてあげると言う確約を頂いて、16歳のときにスペインに留学と言うことになります。
自ら行くと言うよりも、父親が修行して来いと言うふうな感じでした。
4年間スペインで修行しました。(1964年~)
羽田から飛び立ったんですが 1ドル360円の時代で往復60万円、100人ぐらいが見送りに来てくれました。
父親も小原安正先生も怖かったが、ナルシソ・イエペス先生は優しく、にこにこしながら教えて下さいまして、楽しい4年間でした。
スペイン語は中学1年の時から基礎を習い始めましたが、ホームステー先で会話の多くを学びました。
夏休みに先生の家でテラスで海の音を聞きながら、週に2回レッスンを受けたことも想い出にあります。
1968年に帰国、翌年日本でデビューをします。
上手く弾けたとは思ったが、終ったあとになんか空虚感があり、ギター浸けだったので、ちょっとギターから離れて(本、映画、芝居、友人と酒を飲むとか)、生活の幅を意図的に広げていくようにしました。
再びギターを弾くと言うことに戻った時に、ギターの音に酔いしれることが少しづつ出来るようになりました。
デビュー25周年の時も自分を追い込み過ぎて、完璧にと言う思いが強くて結局うまくいかなかったが、その1週間後に演奏があったが、その間練習は一切やらなかったが、自分なりに凄くうまく行きました。
練習の仕方を出来るだけ通して、楽しんで演奏すると言う方向に変えてゆき、練習時間も少なくて済み、プレッシャーも無くなりました。
余った時間を映画などにつぎ込み、そうすることによって自分の表現力がどんどん増えて行くことに気づいて、自分の生活パターンも変えていきました。
そうして演奏が楽しくなりました。
*映画禁じられた遊びから「愛のロマンス」 荘村清志さん演奏
自分一人の力なんて知れているので、色んな人のエネルギーをどんどん自分の中に蓄えて行くことによって、表現力が増えて行くことだと思います。
色んな人が演奏するが弾く人の音色が音としてあらわれてくる、そこがまた面白いと思います。
1974年4月から「ギターを弾こう」の講師を務める。(1年間)
25歳の時でした。
TVに慣れていないので、喋ること、時間の管理への対応が大変でした。
2007年、「趣味悠々」で皆で名曲を弾きましょうということで講師をする。
東京音楽大学でプロを目指す学生たちにレッスンを厳しくしています。
2017年10月4日水曜日
保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー) ・竹に魅了された男(H29/7/11 OA)
保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男(H29/7/11 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post_11.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/07/blog-post_11.htmlをご覧ください。
2017年10月3日火曜日
柴内裕子(動物病院総院長) ・ペットを見守り60年
柴内裕子(動物病院総院長) ・ペットを見守り60年
82歳、現役の獣医師、獣医師を志したのは戦時中のつらい体験がきっかけでした。
これまでペットの飼い方やしつけ方の相談のほか、病院や高齢者施設へペットを連れて訪問するボランティア活動などにも取り組んできました。
柴内さんは犬や猫たちは人に安らぎと信頼感を与えてくれる大切なパートナー、伴侶動物だと言います。
ペット動物と人の豊かな共存社会のために活動を続ける柴内さんに伺いました。
動物の医療は専門化していて、腫瘍、血液とか様々な分野がありますが、当病院にはそれぞれ専門家がいます。
しつけ、食事、散歩先での問題とか日常の問題を診療の間に相談にのるのが一番大事だと思っています。
開業当時よりも倍ぐらい寿命が伸びたと思います。
フィラリア、心臓に寄生する蚊が媒介する病気も完全に防ぐ事が出来ましたし、感染症もワクチンができたので、ワクチンと予防薬が使えただけでも命が倍になっています
食事、生活環境もよくなってきたし、犬が平均で14歳、猫が15歳を越してきました。
長寿に対応した医療相談が増えて来ました。
猫は泌尿器疾患、じん臓疾患、犬の場合は心臓疾患、腫瘍疾患が多いです。
薬品、医療機器、化粧品とか、人間が使うものは実験動物が昔は使われたが、人間と同じ医療と言うことが注目を受けています。
今は犬も室内で飼うのがとても多くなっています。
犬は群れの動物なので、昔は庭につないで1~2回散歩に連れて行ってもらっていただけだった。
部屋で一緒に暮らすと、犬はなんでも理解してよい子に育ち、犬も幸せ、人もハッピーです。
猫は単独動物なので、人とピッタリしていなくてはならないわけではない。
猫も人のぬくもり、会話になじんできて、幸せに室内で暮らせます。
外に出すと交通事故に遭ったり感染症になったり、行方不明になったりしますので、猫も部屋の中で暮らす方が、環境を整えてやれば良いと思います。
自由に遊ばせる場所もなくなってきたので、閉じ込めた責任は人間にあると思います。
30年前に日本動物病院協会と言う獣医師の団体を作って、獣医学を介して社会に貢献しようというボランティア活動を始めました。(私が責任者だった)
高齢者施施設、ホスピス、小学校など色々なところへ行って、動物を介在した人の治療などを行っています。
発語の言語療法とか、身体の障害にある方が手足のトレーニングのための作業療法、理学療法の現場で望まれた行動の出来る犬に育てた犬を連れて行って、一緒に行動することによってトレーニング、治療などの活動をしています。
子どもたちにとって、思うようにならないと言うことが大事な存在だと思います。
動物と一緒に接していると緊張感がほぐれて副交感神経が働いてストレスが少ない。
昭和34年に大学を卒業しましたが、小学校の4年生の時に終戦を迎えた年に、獣医師は男性ばかりでしたが戦争に皆行ってしまって、小動物の医者はいなかった。
捨てられた犬を兄弟で拾ってきて育てたり、犬、猫、孔雀、鶏、アヒルなど家にはいろんな動物がいました。
父は鶏が好きで出張先からいい鶏と言って鶏を送ってきたりしました。
戦争が激しくなったときに、軍隊にシェパードなどの大型犬を連れていかれてしまって、本当につらい思いをしました。
戦火で焼けたので鳥小屋に残っていたチャボが雛を抱いて、自分の体が真っ黒になっているのに雛を抱えて死んでいました。
親子の愛情、保護する意識に動物の世界には素晴らしい思いがあるとつくづく思いました。
女の獣医になれば、男性の様に戦争に行かなくて動物の面倒を見てあげられると思って獣医師になりました。
10歳ぐらいで、動物を介して温もり、命の大切さを学ぶことで人生が大きく変わることがわかっている。
子供達は悩み事があると犬や猫に悩み事を話すそうで、安堵感を得る大事な相手だと言われます。
高齢者の施設に行くと、無表情の人が多いが、犬たちが入って行くと皆笑顔になり、手を差し伸べて、赤ちゃん言葉で話掛けたりして、人間の内在している優しさを引き出してくれる名手です。
静岡に学童疎開を1年間いて、その後高等学校に行き来ましたが、他人のご飯を食べないと人の事が判らないと言う話を母がしょっちゅう話していて、3日通って休学して職業安定所にいって女中奉公したいと言って、何とかある店にいって住み込みで1年間いて、他人のご飯がよくわかりました。
翌年又試験を受けて合格して高校に行きました。
日大の獣医学部に行きました。(三軒茶屋の近く)
女子トイレもなくて(職員用のみ)、クラスは男性ばかりでした。
ペットではなくて農業用の動物(牛、馬など)が主でした。
素手で動物の手術をしていた時代でした。
大学を出て3~4年して赤坂の地の獣医病院にお手伝いに行って、その後開業医になりました。(27歳)
「名犬ラッシー」とかディズニーとかで、コリー、スパニエル、スピッツなどを飼う人が多くなったが流されて、飼い主は個性的ではなかった。
ペットブームで歩道にならんで下さったり、大変でした。
若い時は2日間ぐらい夜あまり寝なくても対応できたりしました。
動物たちは私の生涯の先生だとつくづくそう思います。
日本ではあまり動物と暮らすことを、もっと自然なものにしていかないといけないと思います。
正しいしつけをしてよそ様に世話をかけない子に育てることが飼い主にとっては一番大事だと思います。
社会の中で動物の良さをもっと活用していただければいいと思います。
82歳、現役の獣医師、獣医師を志したのは戦時中のつらい体験がきっかけでした。
これまでペットの飼い方やしつけ方の相談のほか、病院や高齢者施設へペットを連れて訪問するボランティア活動などにも取り組んできました。
柴内さんは犬や猫たちは人に安らぎと信頼感を与えてくれる大切なパートナー、伴侶動物だと言います。
ペット動物と人の豊かな共存社会のために活動を続ける柴内さんに伺いました。
動物の医療は専門化していて、腫瘍、血液とか様々な分野がありますが、当病院にはそれぞれ専門家がいます。
しつけ、食事、散歩先での問題とか日常の問題を診療の間に相談にのるのが一番大事だと思っています。
開業当時よりも倍ぐらい寿命が伸びたと思います。
フィラリア、心臓に寄生する蚊が媒介する病気も完全に防ぐ事が出来ましたし、感染症もワクチンができたので、ワクチンと予防薬が使えただけでも命が倍になっています
食事、生活環境もよくなってきたし、犬が平均で14歳、猫が15歳を越してきました。
長寿に対応した医療相談が増えて来ました。
猫は泌尿器疾患、じん臓疾患、犬の場合は心臓疾患、腫瘍疾患が多いです。
薬品、医療機器、化粧品とか、人間が使うものは実験動物が昔は使われたが、人間と同じ医療と言うことが注目を受けています。
今は犬も室内で飼うのがとても多くなっています。
犬は群れの動物なので、昔は庭につないで1~2回散歩に連れて行ってもらっていただけだった。
部屋で一緒に暮らすと、犬はなんでも理解してよい子に育ち、犬も幸せ、人もハッピーです。
猫は単独動物なので、人とピッタリしていなくてはならないわけではない。
猫も人のぬくもり、会話になじんできて、幸せに室内で暮らせます。
外に出すと交通事故に遭ったり感染症になったり、行方不明になったりしますので、猫も部屋の中で暮らす方が、環境を整えてやれば良いと思います。
自由に遊ばせる場所もなくなってきたので、閉じ込めた責任は人間にあると思います。
30年前に日本動物病院協会と言う獣医師の団体を作って、獣医学を介して社会に貢献しようというボランティア活動を始めました。(私が責任者だった)
高齢者施施設、ホスピス、小学校など色々なところへ行って、動物を介在した人の治療などを行っています。
発語の言語療法とか、身体の障害にある方が手足のトレーニングのための作業療法、理学療法の現場で望まれた行動の出来る犬に育てた犬を連れて行って、一緒に行動することによってトレーニング、治療などの活動をしています。
子どもたちにとって、思うようにならないと言うことが大事な存在だと思います。
動物と一緒に接していると緊張感がほぐれて副交感神経が働いてストレスが少ない。
昭和34年に大学を卒業しましたが、小学校の4年生の時に終戦を迎えた年に、獣医師は男性ばかりでしたが戦争に皆行ってしまって、小動物の医者はいなかった。
捨てられた犬を兄弟で拾ってきて育てたり、犬、猫、孔雀、鶏、アヒルなど家にはいろんな動物がいました。
父は鶏が好きで出張先からいい鶏と言って鶏を送ってきたりしました。
戦争が激しくなったときに、軍隊にシェパードなどの大型犬を連れていかれてしまって、本当につらい思いをしました。
戦火で焼けたので鳥小屋に残っていたチャボが雛を抱いて、自分の体が真っ黒になっているのに雛を抱えて死んでいました。
親子の愛情、保護する意識に動物の世界には素晴らしい思いがあるとつくづく思いました。
女の獣医になれば、男性の様に戦争に行かなくて動物の面倒を見てあげられると思って獣医師になりました。
10歳ぐらいで、動物を介して温もり、命の大切さを学ぶことで人生が大きく変わることがわかっている。
子供達は悩み事があると犬や猫に悩み事を話すそうで、安堵感を得る大事な相手だと言われます。
高齢者の施設に行くと、無表情の人が多いが、犬たちが入って行くと皆笑顔になり、手を差し伸べて、赤ちゃん言葉で話掛けたりして、人間の内在している優しさを引き出してくれる名手です。
静岡に学童疎開を1年間いて、その後高等学校に行き来ましたが、他人のご飯を食べないと人の事が判らないと言う話を母がしょっちゅう話していて、3日通って休学して職業安定所にいって女中奉公したいと言って、何とかある店にいって住み込みで1年間いて、他人のご飯がよくわかりました。
翌年又試験を受けて合格して高校に行きました。
日大の獣医学部に行きました。(三軒茶屋の近く)
女子トイレもなくて(職員用のみ)、クラスは男性ばかりでした。
ペットではなくて農業用の動物(牛、馬など)が主でした。
素手で動物の手術をしていた時代でした。
大学を出て3~4年して赤坂の地の獣医病院にお手伝いに行って、その後開業医になりました。(27歳)
「名犬ラッシー」とかディズニーとかで、コリー、スパニエル、スピッツなどを飼う人が多くなったが流されて、飼い主は個性的ではなかった。
ペットブームで歩道にならんで下さったり、大変でした。
若い時は2日間ぐらい夜あまり寝なくても対応できたりしました。
動物たちは私の生涯の先生だとつくづくそう思います。
日本ではあまり動物と暮らすことを、もっと自然なものにしていかないといけないと思います。
正しいしつけをしてよそ様に世話をかけない子に育てることが飼い主にとっては一番大事だと思います。
社会の中で動物の良さをもっと活用していただければいいと思います。
2017年10月2日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・正岡子規【近代日本150年 明治の群像】
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・正岡子規【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
正岡子規 生誕150年 1867年生まれ。 俳句の改革者、野球の愛好者、闘病と言うイメージが強い。
講談で紹介
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
1867年、松山藩の下級役人の長男として生まれる。
幼いころから漢詩、小説に親しみ、自由民権運動の影響を受け政治家を目指して、16歳で上京、東大予備門に入学。
出会ったのが夏目漱石、2人は意気投合、寄席によくいっていた。
野球ではキャッチャーとして活躍。
22歳の時喀血、結核を発症、この時ほととぎすを題材にした句を40~50句つくり、子規と号した。
子規とはホトトギスの事で、ホトトギスは喉から血が出るまで鳴き続けると言われて、血を吐きながら歌を詠み続け自分になぞらえたものと思われる。
14年の間闘病しながら創作活動、最後の6~7年はほとんど寝たきり、20万句程残している。
明治30年俳句雑誌「ほととぎす」を創刊、翌年、「歌よみに与ふる書」を、新聞に連載。
古今集を否定、万葉集を再評価、写実主義をといで、俳句や短歌の世界に革新を起こす。
「あららぎ」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」についての論争が起きる。
へちま、咳をきる効果があったそうで庭に植えてあった。
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「おとといのへちまの水も取らざりき」
見たまま、あるがままを句にする子規の俳句魂がここに集結していると思う。
今年8月に未発表の5句が発見される。
「寝後れて新年の鐘を聞きにけり」
「暗きより元朝を騒く子供哉」
「うらうらと初日の影や枯木立」
「初夢や巨燵ふとんの暖まり」
「留守の戸に名刺投込む御慶かな」
慶応3年(1867年)10月に松山市で生まれる。
旧松山中学から東大予備門に入学。
夏目漱石、南方熊楠らと同級。
秋山真之とも親友だった。
野球が大好きでキャッチャーをやっていた。
英語の言葉を日本語に置き換えて、野球殿堂に入っている。(2002年)
バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球 等。
「今やかの 3つのベースにひとみちて そぞろに胸の うちさわぐかな」
しき=ほととぎす
長生きはできないと思っていたと思われる。
明治の文化人は雅号を持っている。
大学は中退してしまう。(社会と関わる)
新聞記者として日清戦争の従軍記者として自ら進んで遼東半島に行く。
喀血して日本の松山に帰ってくるが、そこで松山中学に先生として赴任していた夏目漱石と出会い、下宿に転がり込む。
漱石は結核の子規をよく迎えたと思う。
文学論をたたかわせる。
上京して、子規庵に住む事になる。
色々人を呼んで句会をやったようです。(リーダー的存在)
結核菌が脊椎を犯して脊椎カリエスになってしまうが、表面的には明るい、強い意志を持った人だった。
母と妹の律さんが看病して明治の女性は凄かった。
秋の句
「赤とんぼ筑波に雲もなかりけり」
「行く我にとどまる汝に秋二つ」
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」
子規は与謝蕪村を再評価した。(枯れている感じを評価)
お金とか、名誉とかを捨て去った様なところにある文学のありよう、この2人は似ている。
「歌よみに与ふる書」では、古今集を否定、万葉集を評価しているが、その文章が過激です。
古今集(貴族)は生活実感に根ざしていないことに対して評価が低かったようです。
俳句の世界、歌の世界を人々に開いたという功績があると思います。
ありのまま、写実を高く評価するようにした。
「あららぎ」派
病状が悪化して寝たきりになる。
エッセーも出している。
痛みがある中でよくここまで仕事をしたと感心します。
明治34年11月6日に子規からロンドンの漱石へ出した手紙がある。
「僕はもうダメになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。
だから新聞雑誌などにも少しも書かない。手紙は一切廃止。
それだからご無沙汰して済まぬ。
今夜はふと思いついて特別に手紙を書く。
いつかよこしてくれた君の手紙が非常に面白かった。
近来僕をよろこばせたものの随一だ。
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へいったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるのなら僕の眼の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
無理な注文だが。
絵葉書も確かに受け取った。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。
不折(中村不折)は今パリにいってコーランの所に通っているそうじゃ。
君におうたら鰹節一本送るなどと言っていたが、もうそんなものは食うてしまってあるまい。
虚子は男子をあげた、僕が「年尾」と付けてやった。
高桑闌更(たかくわらんこう)死に、非風(新海非風)死に、みな僕より先に死んでしまった。
僕はとても君に再会することは出来ぬと思う。
万一出来たとしてもその時は話も出来なくなっているであろう。
実は僕は生きているのが苦しいのだ、僕の日記には古白曰来(こはくいわくきたれ)の4字が特書してあるところがある。
書きたいことが多いが苦しいから許してくれたまえ。
明治34年11月6日」
この時の漱石はまだ小説家ではなかった。(大学教員)
その後小説家になったが子規の影響があったのでは。
翌年明治35年9月19日に亡くなる。(34歳)
講談師 神田蘭
正岡子規 生誕150年 1867年生まれ。 俳句の改革者、野球の愛好者、闘病と言うイメージが強い。
講談で紹介
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
1867年、松山藩の下級役人の長男として生まれる。
幼いころから漢詩、小説に親しみ、自由民権運動の影響を受け政治家を目指して、16歳で上京、東大予備門に入学。
出会ったのが夏目漱石、2人は意気投合、寄席によくいっていた。
野球ではキャッチャーとして活躍。
22歳の時喀血、結核を発症、この時ほととぎすを題材にした句を40~50句つくり、子規と号した。
子規とはホトトギスの事で、ホトトギスは喉から血が出るまで鳴き続けると言われて、血を吐きながら歌を詠み続け自分になぞらえたものと思われる。
14年の間闘病しながら創作活動、最後の6~7年はほとんど寝たきり、20万句程残している。
明治30年俳句雑誌「ほととぎす」を創刊、翌年、「歌よみに与ふる書」を、新聞に連載。
古今集を否定、万葉集を再評価、写実主義をといで、俳句や短歌の世界に革新を起こす。
「あららぎ」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」についての論争が起きる。
へちま、咳をきる効果があったそうで庭に植えてあった。
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「おとといのへちまの水も取らざりき」
見たまま、あるがままを句にする子規の俳句魂がここに集結していると思う。
今年8月に未発表の5句が発見される。
「寝後れて新年の鐘を聞きにけり」
「暗きより元朝を騒く子供哉」
「うらうらと初日の影や枯木立」
「初夢や巨燵ふとんの暖まり」
「留守の戸に名刺投込む御慶かな」
慶応3年(1867年)10月に松山市で生まれる。
旧松山中学から東大予備門に入学。
夏目漱石、南方熊楠らと同級。
秋山真之とも親友だった。
野球が大好きでキャッチャーをやっていた。
英語の言葉を日本語に置き換えて、野球殿堂に入っている。(2002年)
バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球 等。
「今やかの 3つのベースにひとみちて そぞろに胸の うちさわぐかな」
しき=ほととぎす
長生きはできないと思っていたと思われる。
明治の文化人は雅号を持っている。
大学は中退してしまう。(社会と関わる)
新聞記者として日清戦争の従軍記者として自ら進んで遼東半島に行く。
喀血して日本の松山に帰ってくるが、そこで松山中学に先生として赴任していた夏目漱石と出会い、下宿に転がり込む。
漱石は結核の子規をよく迎えたと思う。
文学論をたたかわせる。
上京して、子規庵に住む事になる。
色々人を呼んで句会をやったようです。(リーダー的存在)
結核菌が脊椎を犯して脊椎カリエスになってしまうが、表面的には明るい、強い意志を持った人だった。
母と妹の律さんが看病して明治の女性は凄かった。
秋の句
「赤とんぼ筑波に雲もなかりけり」
「行く我にとどまる汝に秋二つ」
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」
子規は与謝蕪村を再評価した。(枯れている感じを評価)
お金とか、名誉とかを捨て去った様なところにある文学のありよう、この2人は似ている。
「歌よみに与ふる書」では、古今集を否定、万葉集を評価しているが、その文章が過激です。
古今集(貴族)は生活実感に根ざしていないことに対して評価が低かったようです。
俳句の世界、歌の世界を人々に開いたという功績があると思います。
ありのまま、写実を高く評価するようにした。
「あららぎ」派
病状が悪化して寝たきりになる。
エッセーも出している。
痛みがある中でよくここまで仕事をしたと感心します。
明治34年11月6日に子規からロンドンの漱石へ出した手紙がある。
「僕はもうダメになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。
だから新聞雑誌などにも少しも書かない。手紙は一切廃止。
それだからご無沙汰して済まぬ。
今夜はふと思いついて特別に手紙を書く。
いつかよこしてくれた君の手紙が非常に面白かった。
近来僕をよろこばせたものの随一だ。
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へいったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるのなら僕の眼の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
無理な注文だが。
絵葉書も確かに受け取った。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。
不折(中村不折)は今パリにいってコーランの所に通っているそうじゃ。
君におうたら鰹節一本送るなどと言っていたが、もうそんなものは食うてしまってあるまい。
虚子は男子をあげた、僕が「年尾」と付けてやった。
高桑闌更(たかくわらんこう)死に、非風(新海非風)死に、みな僕より先に死んでしまった。
僕はとても君に再会することは出来ぬと思う。
万一出来たとしてもその時は話も出来なくなっているであろう。
実は僕は生きているのが苦しいのだ、僕の日記には古白曰来(こはくいわくきたれ)の4字が特書してあるところがある。
書きたいことが多いが苦しいから許してくれたまえ。
明治34年11月6日」
この時の漱石はまだ小説家ではなかった。(大学教員)
その後小説家になったが子規の影響があったのでは。
翌年明治35年9月19日に亡くなる。(34歳)