頭木弘樹(文学紹介者) ・【絶望名言】 ゲーテ
「絶望することが出来ないものは生きるに値しない。」
「快適な暮らしの中で創造力を失った人達は無限の苦悩と云うものを認めようとしない、でもある、あるんだ。」
「どんな慰めも恥ずべき物でしかなく、絶望が義務であるような場合が。」(ゲーテ)
病気、事故災害あるいは裏切り、失恋、孤独、受け入れがたい現実に直面した時、人は絶望します。
絶望の言葉を紹介すると云うことでお叱りを受けるかと思ったが、以外にそういうことはなくて心に響いたとか、絶望の言葉なのに生きる糧になるとおっしゃって頂き嬉しかったです。
人間は昼と同じく夜も必要としないだろうか、とゲーテは言っています。
ドイツの世界的作家、25歳の時に書いた「若きウエルテルの悩み」で有名になる。
「ファウスト」を完成した直後に82歳で亡くなる。
第二次大戦中にユダヤ人の少女がナチスの収容所に入れられて、どうにも耐えられないと云う時に、倉庫の隅で半分破れた国語の本を見つけて、そこにゲーテのファウストの一節が書かれていて、凄く感動して救われたと云う話を書いています。
「陽気さと真っ直ぐな心があれば、最終的には上手くいく」、と云うようなことも言っています。
沢山の恋をして74歳の時に19歳の少女に結婚を申し込んだりしている。
ゲーテ自身が絶望を多く体験している。
最初6歳の時、(1755年11月1日)地震、津波で6万人の人が亡くなる。
この時に非常に強いショックを受けて、これが一生ゲーテの心に響き続ける。
神にたいして怒りを感ずる。
自然の中に神が存在すると云うような考え方になって、自然信仰みたいな境地に達する。
自然は豊かさももたらすが、恐ろしい災害をもたらす。
ただ祈るしかない境地と云うのは宮古島に行ってから理解出来るようになった。
(台風の恐ろしさ)
「私はいつも皆から幸運に恵まれた人間だと褒めそやされてきた。
私は愚痴などこぼしたくないし、自分のこれまでの人生にケチをつけるつもりもない。
しかし実際には苦労と仕事以外の何物でもなかった。
75年の生涯で本当に幸福だった時は1か月もなかったと言っていい。
石を上に押し上げようと、繰り返し永遠に転がしているようなものだった。」(ゲーテ)
ゲーテは幸福な人生を送った人だと思っているが、伝記絵?がない、人生が上手くいっているのでドラマチックにならない。
82歳でファウストを完成させて 数カ月後に亡くなる。
あらすじで見るとゲーテの人生は幸福だが、ひそかな悲しみを秘めている。
ヴァイマル公国という国で大臣になるが、ちいさくまずしくて、人口は6000人、面積は埼玉県の半分ぐらいで、ゲーテは財政、外交、農業、鉱山開発、軍備の縮小なんでもやらなければならなかった。
この時代は作品をなにも書けなかった。
作品が世の中に評価されないことを嘆いて、塵の中でうごめく虫の努力にすぎないと、言っている。
ゲーテの周りでは大切な人が次々に亡くなって行く。
4人の弟、妹を亡くしている。
親友シラー(10歳下)もゲーテよりもだいぶ前に亡くなってしまう。
母、妻も亡くなり、81歳の時に息子が一人いたが、亡くなってしまう。
多くの喜びの一方で、多くの悲しみもゲーテは経験している。(光の強いところでは影も濃い)
人生をあらすじで見てしまいがちだが、細やかに見て行くと幸福な人の人生も沢山の悲しみがあったり、不幸な人生の中にも沢山の喜びがあったりする。
あらすじで生きたかった時には、昼の味噌汁がうまかったかなどはどうでもいいと思っていたが、今は寒い時に飲んだ味噌汁が温かかったとか、そういうことが人生で大きく、細やかな部分に段々目が行くようになると人生に対する感じ方も大きく変わって来ると思います。
病気をしてみると、花の綺麗さ、自然などの一つ一つが身にしみて感ずることがあります。
曲「魔王」 息子に対する父親の愛があふれている。(ゲーテが実際に目撃したことで、父親病気の息子を抱えて馬で医者の所へ走って行った。それを書いている。)
祖父は蹄鉄を作る職人で苦労して巨万の富を得るが、父親は苦労知らずで育って、地位、名誉は無かったので、ゲーテに全てを託す。
ゲーテは作家になりたかったが父は法律を学ばせる。
大学に行くが、初めての一人暮らしで羽目を外して結核になり、ぼろぼろで家に戻って来る。
命が危ない時もあり、その時に父親とは決定的にこじれてしまう。
「父の家から出ることにあこがれた、父との間がうまくいかなかった。
私の病気が再発した時や、なかなか良くならなかった時に父は短気を起こした。
・・・・そのことをおもうとどうしても父の事をゆるす事が出来なかった。」
父親はゲーテの病気が治らないことにいらいらしてきて、息子への失望を隠しきれなくなる。
弱った時に冷たくされるともはや元の気持ちでは付き合い切れず、不仲であれば決定的な駄目押しになってしまう。
カフカとゲーテは似通った境遇にあるが、カフカの父親はカフカが病気になると非常に心配し借金して対応した。
内臓の病気は気の持ちようだと言われやすい。
対応してくれる人が「変わらない」と云うことは、一番感謝します。
当たり前に接してくれる事はとっても有難かったです。
「涙とともにパンを食べたことのないものには人生の本当の味は判らない。」
「ベッドの上で泣き明かしたことのないものには人生の本当の安らぎは判らない。」
「暑さ寒さにくるしんだものでなければ人間と云う物の値打ちは判らない。」
「人間は昼と同じく夜を必要としないだろうか。」
絶望を踏まえたうえでの希望ですね。
陽気なゲーテではあるが、人生には苦しみ悲しみ悩み暗さが必要だと何度も繰り返し言っている。
雨の日の魅力にも気付きたい。
絶望を踏まえたうえでなお陽気に生きてゆく、こういう人こそ本当の明るい人だと思います。
ゲーテは父親とは上手くいっていなくて、
2017年7月31日月曜日
2017年7月29日土曜日
松原仁(公立はこだて未来大学副理事長)・鉄腕アトムに憧れて
松原仁(公立はこだて未来大学副理事長)・鉄腕アトムに憧れて~AI(人工知能)と歩んだ道
最近AI(人工知能)いう言葉を良く聞くと思います。
学習をしたり、推し量ったり認識をしたり判断をしたりといった人間の様な知能をもたせたコンピューターシステムのことです。
データを蓄積して状況に応じた適切な対応を選択できると云うものです。
コンピューター将棋、車の自動運転等AIが大きな役割をはたしています。
そんな人工知能研究の日本における第一人者が函館にいます。
公立はこだて未来大学副理事長で人工知能学会の前の会長の松原さんです。
57歳、東京出身、東京大学大学院を卒業後、電子技術総合研究所に勤務、2000年から公立はこだて未来大学に赴任してAIの研究をリードしてきました。
AIに短編小説を書かせて、文学賞の選考を通過するなど、まるで映画のような未来を現実のものにしています。
鉄腕アトムにあこがれて研究の世界に入ったんですが、かつては人工知能研究に対するアレルギーが理系の中でさえ存在したといいます。
平坦ではなかった研究者人生を振り返って頂くとともに、AIが私達の暮らしにもたらすものについて語っていただきます。
1959年に東京で生まれました。
1963年に日本初のアニメ、鉄腕アトムが始まってそれを非常に喜んで見ていました。
天馬博士が自分の子供が亡くなって替わりに鉄腕アトムを作ったが、成長しないのでサーカスに売り飛ばすが、お茶の水博士が引き取って正義の味方として育てる。
何故か天馬博士が好きになりました。
小学校低学年の時には極々普通の目立たない子供でした。
母親が本好きで、本を買うと云うとこづかいを出してくれて、本好きで育ちました。
TVは30分しか見られなくて、鉄腕アトムは貴重でした。
将来はエンジニアになりたいと思っていました。(ロボットを作る博士)
星新一さんのファンになって、全作品を読みました。
中学に入って数学だけは勉強しました。
フロイトの本を読んだが、何か良く判らないが、意識とは何かというような内容でした。
アトムは心を持ったロボットで、心とはなんだろうと、そのあとの人工知能にも繋がったと思います。
中学の時に将棋も好きだったので将棋の研究もしました。
1977年東京大学に入って、コンピューターの勉強を始めて、最初から将棋のプログラミングをやりました。
人工知能は人間がどう考えているか、人間の心はどうなっているのかを学ぶもので、人工知能が自分のやりたい事ではなかったのかと思いました。
人工知能のブームが3回あり今が3回目です。(1、2回目は期待外れだった)
私が始めたころは1回目のブームの後で冬の時代でした。
井上博允先生、ロボットの第一人者で研究テーマの最後に人工知能と書いてあった。
井上先生の研究室に入ることになりました。
最初に言われたのが、君は人工知能をやりたいと言っているが、僕は判らないからと言われました。
アメリカは人工知能の研究が進んでいて、人工知能の研究室があって楽しそうだったので、もしやりたいと思う学生がいたらやらせてもいいかなと思ったら、君が引っ掛かったと云うようなことを言われました。
君は自習したまえと言われました。
他の研究室にも人工知能に関して興味のある学生がいて、そのメンバーで勉強会を2週間おきに勉強しました。
当時日本には人工知能に関する物は無かったので、英語の論文、英語の本を読む。
中島秀之さん(元学長)、片桐 恭弘さん(今の学長)、など10人ぐらいでした。
2回目のブームが来るが、そこが唯一の勉強会(あいうえおの会)で、85年頃には100人ぐらいに急に膨らみました。(その頃学会が出来ました)
井上先生からは将棋のことなどは表に出さず、ロボットのAIと云うことで研究しなさいと言われました。(夜に将棋のプログラムをこつこつやっていました)
86年に電子技術総合研究所(つくば市)日本で一番人工知能研究者が集まっているということでそこ行きました。
研究所に入っても3~4年ロボットのAIをやっていました。
30歳になった時にそろそろ将棋を公式に研究題材として始めました。
将棋の本の購入などには苦労しました。(研究のためのものなのかどうか)
2010年~2015年ぐらいにプロ棋士に勝つと書いていました。
当時は絶対にそんなことはないと周りでは言われていました。
日本初の世界標準を作ろうと思いました。
何にしようかということから始まって、野球、サッカーなどがありましたが、サッカーは
世界で最も人気のあるスポーツなので始めた。
1997年第一回世界大会を名古屋でロボサッカーをやりました。
目標を立てて、2050年までにワールドカップ優勝チームに勝つ人間型ロボットチームを作る、という無謀と思われるかもしれませんがそうして始めました。
ロボット同士を無線でつなぐが、サッカー場だといろんな無線が飛び交ってるので無線がとどかなくて、動かなかった。
毎年やっていて、今は40~50カ国でサッカーロボットの研究をやっています。
災害救助、ロボットがマネキンを探す。
二酸化炭素を出すようなマネキンがあり、それは生存していることになる。
ロボカップで、当初は日本のロボットが強かったが、最近は外国のロボットが強くなってきています。
観光、農業、漁業、共同での研究開発、沢山のデータから学習するのが得意なのでデータがほしい。
地方都市はデータから近い。
定置網は環境に優しいが、どの魚が入っているか、あげてみないと判らない。
メジマグロ(小さいマグロを取るとペネルティー)を取る前に知りたいと云う事があり、魚群探知機を取り付けて実際にどんな魚がどれくらい捕れたか、大量に毎日データを取って、コンピューター学習させることによって、或る程度網を上げる前に魚の種類が判るようになってきました。
もう一歩進めようとしていて、メジマグロがこれぐらいいるから今回は網を上げないとか、メジマグロが少ないから網を上げると云うように指示できるようになって来ると思います。
人工知能の研究は、考えることとは、心とは、感情とはどういうこととかを考えることなので、人間を考えると云うことなんです。
人工知能は道具なので、仲間として取り入れて、その技術によって仕事の内容が変わると思います。
実社会は範囲が区切れないので人工知能には解けないので、人間の出番だと思います。
人工知能を人間が上手く使いこなして、より良い社会が実現されることを祈っています。
最近AI(人工知能)いう言葉を良く聞くと思います。
学習をしたり、推し量ったり認識をしたり判断をしたりといった人間の様な知能をもたせたコンピューターシステムのことです。
データを蓄積して状況に応じた適切な対応を選択できると云うものです。
コンピューター将棋、車の自動運転等AIが大きな役割をはたしています。
そんな人工知能研究の日本における第一人者が函館にいます。
公立はこだて未来大学副理事長で人工知能学会の前の会長の松原さんです。
57歳、東京出身、東京大学大学院を卒業後、電子技術総合研究所に勤務、2000年から公立はこだて未来大学に赴任してAIの研究をリードしてきました。
AIに短編小説を書かせて、文学賞の選考を通過するなど、まるで映画のような未来を現実のものにしています。
鉄腕アトムにあこがれて研究の世界に入ったんですが、かつては人工知能研究に対するアレルギーが理系の中でさえ存在したといいます。
平坦ではなかった研究者人生を振り返って頂くとともに、AIが私達の暮らしにもたらすものについて語っていただきます。
1959年に東京で生まれました。
1963年に日本初のアニメ、鉄腕アトムが始まってそれを非常に喜んで見ていました。
天馬博士が自分の子供が亡くなって替わりに鉄腕アトムを作ったが、成長しないのでサーカスに売り飛ばすが、お茶の水博士が引き取って正義の味方として育てる。
何故か天馬博士が好きになりました。
小学校低学年の時には極々普通の目立たない子供でした。
母親が本好きで、本を買うと云うとこづかいを出してくれて、本好きで育ちました。
TVは30分しか見られなくて、鉄腕アトムは貴重でした。
将来はエンジニアになりたいと思っていました。(ロボットを作る博士)
星新一さんのファンになって、全作品を読みました。
中学に入って数学だけは勉強しました。
フロイトの本を読んだが、何か良く判らないが、意識とは何かというような内容でした。
アトムは心を持ったロボットで、心とはなんだろうと、そのあとの人工知能にも繋がったと思います。
中学の時に将棋も好きだったので将棋の研究もしました。
1977年東京大学に入って、コンピューターの勉強を始めて、最初から将棋のプログラミングをやりました。
人工知能は人間がどう考えているか、人間の心はどうなっているのかを学ぶもので、人工知能が自分のやりたい事ではなかったのかと思いました。
人工知能のブームが3回あり今が3回目です。(1、2回目は期待外れだった)
私が始めたころは1回目のブームの後で冬の時代でした。
井上博允先生、ロボットの第一人者で研究テーマの最後に人工知能と書いてあった。
井上先生の研究室に入ることになりました。
最初に言われたのが、君は人工知能をやりたいと言っているが、僕は判らないからと言われました。
アメリカは人工知能の研究が進んでいて、人工知能の研究室があって楽しそうだったので、もしやりたいと思う学生がいたらやらせてもいいかなと思ったら、君が引っ掛かったと云うようなことを言われました。
君は自習したまえと言われました。
他の研究室にも人工知能に関して興味のある学生がいて、そのメンバーで勉強会を2週間おきに勉強しました。
当時日本には人工知能に関する物は無かったので、英語の論文、英語の本を読む。
中島秀之さん(元学長)、片桐 恭弘さん(今の学長)、など10人ぐらいでした。
2回目のブームが来るが、そこが唯一の勉強会(あいうえおの会)で、85年頃には100人ぐらいに急に膨らみました。(その頃学会が出来ました)
井上先生からは将棋のことなどは表に出さず、ロボットのAIと云うことで研究しなさいと言われました。(夜に将棋のプログラムをこつこつやっていました)
86年に電子技術総合研究所(つくば市)日本で一番人工知能研究者が集まっているということでそこ行きました。
研究所に入っても3~4年ロボットのAIをやっていました。
30歳になった時にそろそろ将棋を公式に研究題材として始めました。
将棋の本の購入などには苦労しました。(研究のためのものなのかどうか)
2010年~2015年ぐらいにプロ棋士に勝つと書いていました。
当時は絶対にそんなことはないと周りでは言われていました。
日本初の世界標準を作ろうと思いました。
何にしようかということから始まって、野球、サッカーなどがありましたが、サッカーは
世界で最も人気のあるスポーツなので始めた。
1997年第一回世界大会を名古屋でロボサッカーをやりました。
目標を立てて、2050年までにワールドカップ優勝チームに勝つ人間型ロボットチームを作る、という無謀と思われるかもしれませんがそうして始めました。
ロボット同士を無線でつなぐが、サッカー場だといろんな無線が飛び交ってるので無線がとどかなくて、動かなかった。
毎年やっていて、今は40~50カ国でサッカーロボットの研究をやっています。
災害救助、ロボットがマネキンを探す。
二酸化炭素を出すようなマネキンがあり、それは生存していることになる。
ロボカップで、当初は日本のロボットが強かったが、最近は外国のロボットが強くなってきています。
観光、農業、漁業、共同での研究開発、沢山のデータから学習するのが得意なのでデータがほしい。
地方都市はデータから近い。
定置網は環境に優しいが、どの魚が入っているか、あげてみないと判らない。
メジマグロ(小さいマグロを取るとペネルティー)を取る前に知りたいと云う事があり、魚群探知機を取り付けて実際にどんな魚がどれくらい捕れたか、大量に毎日データを取って、コンピューター学習させることによって、或る程度網を上げる前に魚の種類が判るようになってきました。
もう一歩進めようとしていて、メジマグロがこれぐらいいるから今回は網を上げないとか、メジマグロが少ないから網を上げると云うように指示できるようになって来ると思います。
人工知能の研究は、考えることとは、心とは、感情とはどういうこととかを考えることなので、人間を考えると云うことなんです。
人工知能は道具なので、仲間として取り入れて、その技術によって仕事の内容が変わると思います。
実社会は範囲が区切れないので人工知能には解けないので、人間の出番だと思います。
人工知能を人間が上手く使いこなして、より良い社会が実現されることを祈っています。
2017年7月28日金曜日
中谷加代子(高専生殺害事件被害者遺族)・“責める”ではなく“寄りそう”(H29/3/21 OA)
中谷加代子(山口女子高専生殺害事件被害者遺族)・“責める”ではなく“寄りそう”(H29/3/21 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/03/blog-post_21.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/03/blog-post_21.htmlをご覧ください。
2017年7月27日木曜日
大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(2)
大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(2)
蛍の生態調査をやっていたりすると、次の年に行ったら無くなってしまったりして、群生地があっと驚くような光景で見えた場所がなくなっていると云う、そういう場面を何回か味わってすごくショックでした。
見れないと云うことでそれが一つのきっかけでした。
水質汚濁、河川改修が進んで行ってコンクリート化されて、住宅地が増えて蛍がどんどんいなくなってしまった。
ゲンジボタルを中心にしてこれをきっかけにして、岩戸川のところで蛍が消える寸前で大発生して、そのあと水質汚濁でいなくなってしまった。
地域の人たちが元の様に戻してほしいと市に陳情に行きました。
私も含めて論議を重ねて、河川形態を蛍が住めるような環境に入れ込んでいこうとしました。
行政が動いてくれて、一緒に論議を重ねて行き、改修が始まりました。
下水工事、コンクリート護岸に色々工夫して行って、10年、20年継続して、続けるうちに今は沢山の蛍が飛ぶようになりました。
そういう場所が横須賀で30か所ぐらいになりました。
地元の人が熱心になればなるほどこちらも動かされて支援したいと思いました。
そうすることが今までやってきた研究を市民のみなさんに還元する一つになって行くんじゃないかなあと思いました。
出来ることとできないことがあるので、現実的な対応は何かと云うことを話し合って、出来ることをやっていきます。
地域の人たちが主体になって行かない限りそこまではなかなかできない。
私のキーワードは継続です。
ドキドキワクワク、楽しさ、やる方がそう思っていないと継続できない。
市内だけでなく周辺に広がってきています。
自生する環境を作って行く、そのためには蛍のメッセージを聞くしかない。(辛抱強く)
蛍の光の揺らぎ、初めて見ても日本人のDNAに刻み込まれているというか、同じようなベースに立ってしまう。
蛍たちがこのままいったらどうなるの、私たちが消えたらあなた達は将来どうなると思っているのと、問いかけられているような気がします。
良い米が取れるところは水資源が豊かで、トンボがいたり蛍がいた。
経済は変化するが、日本人が培ってきた文化性の問題は営々と続いてきているので、これを失ったら日本人のステータスが無くなると思う。
わたしたちが心豊かに平和に生きるための、感性を子供たちにも伝えて行くそういう役割を担っている。
街興しにも必要だと思うが、観光資源として活用するのもいいと思うが、自生する様な中でやる分には良いが、度を越してはいけないと思います。
生物多様性ということもあるが、蛍の種の多様性ということもあり、同じ源氏蛍でも多様性を重要視しています。(なんでも蛍が増えればいいと云うことではない)
西は九州、東は青森県まで自分の目で見て蛍の記録を取って行きました。
西と東で光り方が違うことが判りました。
西日本はせっかち、約2秒に一回光る。(オスの光り方)
東日本では約4秒に一回光ります。
東日本に西日本から持ってきた蛍はそのまま変わらない。
東日本と西日本の文学性でも感性の違いがある。
蛍がいるところにはトンボ等いろいろいるので、それを包括して私たちは蛍の里作りを通して後ろを押してゆく、それが問われていると思っています。
西日本と東日本の違い、中部日本でフォッサマグナがあり、いろんな生き物の分布境界域になっていてバリアになっていて蛍でも同様だと思われる。
東日本と西日本の蛍の光り方の違いは、ある集団が東に広がって行き、フォッサマグナとか突然変異などで2秒発光が1回抑えられると4秒になる。
これは推論です。
増やそうと思ったときに西日本は集団が大きいので、手っ取り早くやるのには、西日本の蛍を持ってくればいいが、それは困ったことになる、一旦はいると元に戻すことはできなくなる。
元に戻そうと云う動きが多摩動物公園、世田谷区などで始まっています。
当時西日本の蛍を取り入れたが、昔のような蛍に戻したいと云う話が持ち上がって、東日本蛍の卵を取って増やしていって、西日本蛍を排除して行って、完全にというのは、今後の問題だと思います。
皇居外苑の蛍、皇居のお堀の水質が悪くてアオコが発生、大浄化作戦が始まり、そんななかで蛍が見つかり、極限定された場所に細々と残っていた。
環境省が遺伝子を調べてみたら、元々いた集団だということがわかった。
400年前の地図を見ると、東京湾が江戸城のすぐ近くまで広がっていて、バッファーとして湿地が沢山ありました。
湿地には水生生物、蛍など沢山いて、湿地を埋め立てて江戸城の築城に伴って新たなお堀に奇跡的な状況下で適応した、まさに奇跡としか思えない。(400年前)
その蛍の子孫が今も現存している、そういうことからプロジェクトは始まっている。
年間10匹ぐらいしか出てこない、絶滅的な危機。
来年か再来年 100匹でたら10匹とっても絶滅はしないと提言。
その年の5月に100匹近く出てくれた、奇跡に近い。(翌年はそんなに出ていない)
その中から採卵して、累代を続けて今は3000匹になりました。
2か所で生き飼い保全の実験をしているが、放したらでてくるがぬかよろこびできない。
来年引き継いでちゃんと出てくれるかどうか、モニタリングしないといけないと言っています。
千代田区での照明の問題など配慮して行く事は必要だと思います。
今後の蛍との付き合い方、蛍の言い分を聞いてゆくことが必要だと思います。
試行錯誤しながら蛍に聞いて付き合ってゆく事が必要です。
蛍の生態調査をやっていたりすると、次の年に行ったら無くなってしまったりして、群生地があっと驚くような光景で見えた場所がなくなっていると云う、そういう場面を何回か味わってすごくショックでした。
見れないと云うことでそれが一つのきっかけでした。
水質汚濁、河川改修が進んで行ってコンクリート化されて、住宅地が増えて蛍がどんどんいなくなってしまった。
ゲンジボタルを中心にしてこれをきっかけにして、岩戸川のところで蛍が消える寸前で大発生して、そのあと水質汚濁でいなくなってしまった。
地域の人たちが元の様に戻してほしいと市に陳情に行きました。
私も含めて論議を重ねて、河川形態を蛍が住めるような環境に入れ込んでいこうとしました。
行政が動いてくれて、一緒に論議を重ねて行き、改修が始まりました。
下水工事、コンクリート護岸に色々工夫して行って、10年、20年継続して、続けるうちに今は沢山の蛍が飛ぶようになりました。
そういう場所が横須賀で30か所ぐらいになりました。
地元の人が熱心になればなるほどこちらも動かされて支援したいと思いました。
そうすることが今までやってきた研究を市民のみなさんに還元する一つになって行くんじゃないかなあと思いました。
出来ることとできないことがあるので、現実的な対応は何かと云うことを話し合って、出来ることをやっていきます。
地域の人たちが主体になって行かない限りそこまではなかなかできない。
私のキーワードは継続です。
ドキドキワクワク、楽しさ、やる方がそう思っていないと継続できない。
市内だけでなく周辺に広がってきています。
自生する環境を作って行く、そのためには蛍のメッセージを聞くしかない。(辛抱強く)
蛍の光の揺らぎ、初めて見ても日本人のDNAに刻み込まれているというか、同じようなベースに立ってしまう。
蛍たちがこのままいったらどうなるの、私たちが消えたらあなた達は将来どうなると思っているのと、問いかけられているような気がします。
良い米が取れるところは水資源が豊かで、トンボがいたり蛍がいた。
経済は変化するが、日本人が培ってきた文化性の問題は営々と続いてきているので、これを失ったら日本人のステータスが無くなると思う。
わたしたちが心豊かに平和に生きるための、感性を子供たちにも伝えて行くそういう役割を担っている。
街興しにも必要だと思うが、観光資源として活用するのもいいと思うが、自生する様な中でやる分には良いが、度を越してはいけないと思います。
生物多様性ということもあるが、蛍の種の多様性ということもあり、同じ源氏蛍でも多様性を重要視しています。(なんでも蛍が増えればいいと云うことではない)
西は九州、東は青森県まで自分の目で見て蛍の記録を取って行きました。
西と東で光り方が違うことが判りました。
西日本はせっかち、約2秒に一回光る。(オスの光り方)
東日本では約4秒に一回光ります。
東日本に西日本から持ってきた蛍はそのまま変わらない。
東日本と西日本の文学性でも感性の違いがある。
蛍がいるところにはトンボ等いろいろいるので、それを包括して私たちは蛍の里作りを通して後ろを押してゆく、それが問われていると思っています。
西日本と東日本の違い、中部日本でフォッサマグナがあり、いろんな生き物の分布境界域になっていてバリアになっていて蛍でも同様だと思われる。
東日本と西日本の蛍の光り方の違いは、ある集団が東に広がって行き、フォッサマグナとか突然変異などで2秒発光が1回抑えられると4秒になる。
これは推論です。
増やそうと思ったときに西日本は集団が大きいので、手っ取り早くやるのには、西日本の蛍を持ってくればいいが、それは困ったことになる、一旦はいると元に戻すことはできなくなる。
元に戻そうと云う動きが多摩動物公園、世田谷区などで始まっています。
当時西日本の蛍を取り入れたが、昔のような蛍に戻したいと云う話が持ち上がって、東日本蛍の卵を取って増やしていって、西日本蛍を排除して行って、完全にというのは、今後の問題だと思います。
皇居外苑の蛍、皇居のお堀の水質が悪くてアオコが発生、大浄化作戦が始まり、そんななかで蛍が見つかり、極限定された場所に細々と残っていた。
環境省が遺伝子を調べてみたら、元々いた集団だということがわかった。
400年前の地図を見ると、東京湾が江戸城のすぐ近くまで広がっていて、バッファーとして湿地が沢山ありました。
湿地には水生生物、蛍など沢山いて、湿地を埋め立てて江戸城の築城に伴って新たなお堀に奇跡的な状況下で適応した、まさに奇跡としか思えない。(400年前)
その蛍の子孫が今も現存している、そういうことからプロジェクトは始まっている。
年間10匹ぐらいしか出てこない、絶滅的な危機。
来年か再来年 100匹でたら10匹とっても絶滅はしないと提言。
その年の5月に100匹近く出てくれた、奇跡に近い。(翌年はそんなに出ていない)
その中から採卵して、累代を続けて今は3000匹になりました。
2か所で生き飼い保全の実験をしているが、放したらでてくるがぬかよろこびできない。
来年引き継いでちゃんと出てくれるかどうか、モニタリングしないといけないと言っています。
千代田区での照明の問題など配慮して行く事は必要だと思います。
今後の蛍との付き合い方、蛍の言い分を聞いてゆくことが必要だと思います。
試行錯誤しながら蛍に聞いて付き合ってゆく事が必要です。
2017年7月26日水曜日
大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(1)
大場信義(全国ホタル研究会名誉会長)・ホタルのヒミツ(1)
72歳、神奈川県鎌倉市出身、東京理科大学を卒業後、企業の研究所に勤務してから横須賀市の自然人文博物館の学芸員として長年螢研究に取り組みました。
全国各地で蛍の調査を行って新種の発見や不思議な生態の解明をしたほか、海外に出向いて日本の蛍のルーツを探る調査もしてきました。
一方で蛍の生息環境を守る取り組みをしている人たちにさまざまなアドバイスを行っています。
蛍研究45年になりますが、昆虫が好きでした。
職業についたときに、命に触れ合うと云う事が最低限譲れないところでした。
バクテリア等の微生物とか、酵素とか分子生物学的な背景の方の企業の研究に入って、やっていました。
研究が一段落して、昆虫の研究をしたいと思っていた矢先に発光反応に上司が眼を付けて、横須賀市に博物館があるが、そこの館長さんが世界的な発光生物の研究者で羽根田弥太先生でした。
その先生にお会いしてから、昆虫と発光生物で蛍ということになりました。
学校の先生も一時経験しました。
企業の研究でも学校でも同質でそれぞれドキドキわくわくしました。
蛍研究は独自でやって来ました。
面白い、楽しい、不思議、何故だろうと云う思いに支えられてきました。
同じ源氏蛍でも環境が違うと、全然違う挙動を示すとか色いろありました。
蛍は物を言わない生き物で、環境の問題とか最終的なジャッジは蛍がすべきだと思っていて、私自身が蛍から教わりました。(蛍のメッセンジャーだと思っています)
蛍が光っているのは雄雌のコミュニケーションだと思っていて、他に身を防衛する、相手をびっくりさせるために光る。
蛍はにおいを出します、捕食者が食べた時に苦かったりすると、学習して光っているものは苦いと云うことで、止めようと云うような構図が出来ると思います。
食べられる頻度が下がって来る。
オスはメスを見つけなければいけないので、卵を産むためにはオスと交尾しないといけない。
自分がオス、メスであることを判らせるために光るが、オスとメスで光り方が違う。
源氏蛍がこれがオスだとかメスだとか、判別が非常に難しい。
平家蛍は明らかにオスとメスでの光り方が違う。
源氏蛍はオスはメスを探すときに一斉に飛び出して、集団で同時についたり消えたりします。
メスは下の方でぼーっと光ります。
そういう行動によってたがいに識別します。
種類によって固有なコミュニケーションのやり方をしています。
2000種類世界にいますがそれぞれ違います、中には光らないホタルもいます。
新種の蛍、30年前西表蛍が見つかりました。
冬に飛ぶ蛍がいたが、それを雨の中を調査していたが、或る時一日中降る中に雨がぱっと15分間止んだ時があり、見たことのない様な幼虫のようなお尻を上げて光る蛍がいたんです。
どう見ても幼虫に見えたが、足の形態、口の様子などを見ると成虫の形質をしていた。
それはメスでオスが違う処にいるのではないかと思って探し求めたが、メスしか見つからなかった。
その後も行ったがメスしか見つからなかった。
オスは光からないと云う事がその後に判った。
オスの活動する時間帯は冬に出てくる。(12月~1月)
メスがオスと会うために光っていた。
オスが飛んでいてまっしぐらに飛んで行って交尾をして、交尾が終わると直ぐにメスは無駄な光を放たなくなる。
パタパタと消えてしまって、あとは何も無くなってしまって、それがオスを探すのが困難だという背景が判りました。
メスは産卵するが、土に潜って卵を産む。(陸生の蛍)
日本には源氏蛍、平家蛍、久米島蛍の3種が水生の蛍で、世界では8種しかいない。
日本では陸生の蛍が約50種いるが、そのひとつが西表蛍です。
里地の石垣など、学校の校庭などにいます。
世界的にみても貴重な蛍で、石垣、西表、浜島の3島にいますが、世界に類をみないほど生息密度が高い。
メスの体長は1cmぐらいで卵を産む時に身体を丸めこみ、30個ぐらいを産卵して抱きかかえる。
卵を産んでリング上に成った時に光る位置をお尻から変えてしまう。
卵を守るために身体のふしぶしに3点づつ発光器があり、丸く光って見える。
身体が丸くなっているので、相手を脅かすために目玉のような模様となっている。
オスもメスも強烈なにおいを出すので、鳥などは食べたくないと思う。
光る為の2つの回答を私に与えてくれた(コミュニケーションと防衛)
幼虫型蛍はいったいどこからやってきたんだろうと思いました。
台湾を調査すると似たような蛍がみつかりました。
大陸を調査すると、マレー半島、シンガポールには似たようなほしむし?(星虫?)と云うのがいることが判り、タイなどにも西表蛍そっくりの蛍が見つかりました。
中国大陸雲南省2000mぐらいのところで共同研究者と10年間調査を続けましたが、中国大陸には色んな種類の蛍が見つかり、新種も見つかりました。
南米ブラジルなどに鉄道虫がいて頭から赤い光を出して、メス成虫は幼虫型で防衛シグナルも全く同じです。
蛍が大陸間を移動できるわけがなく、大陸が繋がっていた頃でないと説明がつかない、その頃に祖先が出てきて、大陸移動とともにそれぞれの大陸で固有の進化を遂げて、今現存している、歴史的背景が、気が遠くなる時間を掛けて成立していった。
それを西表島の西表蛍が示してくれた。
羽根田先生が戦前、パプアニューギニア、ニューブリテン、ラバウルなどで木に蛍の大群が光っているのを見ました。(一晩中光っているという話だった)
木の伐採が進んで木がきわめて少なくなってきた。
木で蛍がどうして大群で光っているのだろうという疑問があった。
密林の中のオスとメスの出会いの場所だった。
集まれる数が木のサイズによって違う。
幼虫は陸生の貝を食べるので、餌不足の問題もあり、それを回避するために、卵を産むときに分散する。
餌問題で木のサイズをどうやって判断しているのかも判らない、生命の不思議、命の営みの不思議です。
キリギリスの身体が手足は普通の緑色、身体は黒、頭は赤で蛍のようなキリギリスが蛍の木の周りにいます、擬態といいますが。
蛍に似た恰好をしてなんらかの仕組みで外敵から身を守ってると云うことだと思います。
そのような昆虫が1本の木に10数種類います。
甲虫、キリギリス、蛾がいたりしていて本当に吃驚で、それが現実に起こっている訳ですが、それは謎です。
森林伐採が進んでいて、どんどん消えてしまうので、このようなミステリーは全部消えてしまい、取り返しができないので、二度と省みることが出来ない状況で、余りに大きな喪失感がぼくにはあってならない、これは消してはいけない。
しかし大変難しい。
せめて多くの人に伝え、蛍は光っていることによって伝えているんだと云う風に感じています。
72歳、神奈川県鎌倉市出身、東京理科大学を卒業後、企業の研究所に勤務してから横須賀市の自然人文博物館の学芸員として長年螢研究に取り組みました。
全国各地で蛍の調査を行って新種の発見や不思議な生態の解明をしたほか、海外に出向いて日本の蛍のルーツを探る調査もしてきました。
一方で蛍の生息環境を守る取り組みをしている人たちにさまざまなアドバイスを行っています。
蛍研究45年になりますが、昆虫が好きでした。
職業についたときに、命に触れ合うと云う事が最低限譲れないところでした。
バクテリア等の微生物とか、酵素とか分子生物学的な背景の方の企業の研究に入って、やっていました。
研究が一段落して、昆虫の研究をしたいと思っていた矢先に発光反応に上司が眼を付けて、横須賀市に博物館があるが、そこの館長さんが世界的な発光生物の研究者で羽根田弥太先生でした。
その先生にお会いしてから、昆虫と発光生物で蛍ということになりました。
学校の先生も一時経験しました。
企業の研究でも学校でも同質でそれぞれドキドキわくわくしました。
蛍研究は独自でやって来ました。
面白い、楽しい、不思議、何故だろうと云う思いに支えられてきました。
同じ源氏蛍でも環境が違うと、全然違う挙動を示すとか色いろありました。
蛍は物を言わない生き物で、環境の問題とか最終的なジャッジは蛍がすべきだと思っていて、私自身が蛍から教わりました。(蛍のメッセンジャーだと思っています)
蛍が光っているのは雄雌のコミュニケーションだと思っていて、他に身を防衛する、相手をびっくりさせるために光る。
蛍はにおいを出します、捕食者が食べた時に苦かったりすると、学習して光っているものは苦いと云うことで、止めようと云うような構図が出来ると思います。
食べられる頻度が下がって来る。
オスはメスを見つけなければいけないので、卵を産むためにはオスと交尾しないといけない。
自分がオス、メスであることを判らせるために光るが、オスとメスで光り方が違う。
源氏蛍がこれがオスだとかメスだとか、判別が非常に難しい。
平家蛍は明らかにオスとメスでの光り方が違う。
源氏蛍はオスはメスを探すときに一斉に飛び出して、集団で同時についたり消えたりします。
メスは下の方でぼーっと光ります。
そういう行動によってたがいに識別します。
種類によって固有なコミュニケーションのやり方をしています。
2000種類世界にいますがそれぞれ違います、中には光らないホタルもいます。
新種の蛍、30年前西表蛍が見つかりました。
冬に飛ぶ蛍がいたが、それを雨の中を調査していたが、或る時一日中降る中に雨がぱっと15分間止んだ時があり、見たことのない様な幼虫のようなお尻を上げて光る蛍がいたんです。
どう見ても幼虫に見えたが、足の形態、口の様子などを見ると成虫の形質をしていた。
それはメスでオスが違う処にいるのではないかと思って探し求めたが、メスしか見つからなかった。
その後も行ったがメスしか見つからなかった。
オスは光からないと云う事がその後に判った。
オスの活動する時間帯は冬に出てくる。(12月~1月)
メスがオスと会うために光っていた。
オスが飛んでいてまっしぐらに飛んで行って交尾をして、交尾が終わると直ぐにメスは無駄な光を放たなくなる。
パタパタと消えてしまって、あとは何も無くなってしまって、それがオスを探すのが困難だという背景が判りました。
メスは産卵するが、土に潜って卵を産む。(陸生の蛍)
日本には源氏蛍、平家蛍、久米島蛍の3種が水生の蛍で、世界では8種しかいない。
日本では陸生の蛍が約50種いるが、そのひとつが西表蛍です。
里地の石垣など、学校の校庭などにいます。
世界的にみても貴重な蛍で、石垣、西表、浜島の3島にいますが、世界に類をみないほど生息密度が高い。
メスの体長は1cmぐらいで卵を産む時に身体を丸めこみ、30個ぐらいを産卵して抱きかかえる。
卵を産んでリング上に成った時に光る位置をお尻から変えてしまう。
卵を守るために身体のふしぶしに3点づつ発光器があり、丸く光って見える。
身体が丸くなっているので、相手を脅かすために目玉のような模様となっている。
オスもメスも強烈なにおいを出すので、鳥などは食べたくないと思う。
光る為の2つの回答を私に与えてくれた(コミュニケーションと防衛)
幼虫型蛍はいったいどこからやってきたんだろうと思いました。
台湾を調査すると似たような蛍がみつかりました。
大陸を調査すると、マレー半島、シンガポールには似たようなほしむし?(星虫?)と云うのがいることが判り、タイなどにも西表蛍そっくりの蛍が見つかりました。
中国大陸雲南省2000mぐらいのところで共同研究者と10年間調査を続けましたが、中国大陸には色んな種類の蛍が見つかり、新種も見つかりました。
南米ブラジルなどに鉄道虫がいて頭から赤い光を出して、メス成虫は幼虫型で防衛シグナルも全く同じです。
蛍が大陸間を移動できるわけがなく、大陸が繋がっていた頃でないと説明がつかない、その頃に祖先が出てきて、大陸移動とともにそれぞれの大陸で固有の進化を遂げて、今現存している、歴史的背景が、気が遠くなる時間を掛けて成立していった。
それを西表島の西表蛍が示してくれた。
羽根田先生が戦前、パプアニューギニア、ニューブリテン、ラバウルなどで木に蛍の大群が光っているのを見ました。(一晩中光っているという話だった)
木の伐採が進んで木がきわめて少なくなってきた。
木で蛍がどうして大群で光っているのだろうという疑問があった。
密林の中のオスとメスの出会いの場所だった。
集まれる数が木のサイズによって違う。
幼虫は陸生の貝を食べるので、餌不足の問題もあり、それを回避するために、卵を産むときに分散する。
餌問題で木のサイズをどうやって判断しているのかも判らない、生命の不思議、命の営みの不思議です。
キリギリスの身体が手足は普通の緑色、身体は黒、頭は赤で蛍のようなキリギリスが蛍の木の周りにいます、擬態といいますが。
蛍に似た恰好をしてなんらかの仕組みで外敵から身を守ってると云うことだと思います。
そのような昆虫が1本の木に10数種類います。
甲虫、キリギリス、蛾がいたりしていて本当に吃驚で、それが現実に起こっている訳ですが、それは謎です。
森林伐採が進んでいて、どんどん消えてしまうので、このようなミステリーは全部消えてしまい、取り返しができないので、二度と省みることが出来ない状況で、余りに大きな喪失感がぼくにはあってならない、これは消してはいけない。
しかし大変難しい。
せめて多くの人に伝え、蛍は光っていることによって伝えているんだと云う風に感じています。
2017年7月25日火曜日
天野安喜子(鍵屋15代目花火師) ・夜空と畳に華咲かせ
天野安喜子(鍵屋15代目花火師、国際柔道連盟審判員)・夜空と畳に華咲かせ
花火が打ち上がる時にかかるおなじみの掛け声、玉屋、鍵屋は共に江戸時代に名をはせた花火店の名前ですが、今もなお商売を続けているのは鍵屋だけです。
天野さんはその鍵屋の15代目を2000年30歳の若さで襲名しました。
天野さんは花火師として多忙を極める一方で、女性審判員のさきがけとして、2008年の北京オリンピックや今年の全日本選手権など大舞台にも立ち、審判員としても活躍しています。
7月、8月は花火の打ち上げが忙しい時期で、6月は安全に対する対策を主催者と協議したり、花火がきちんと思うようなものが出来ているかどうかの確認作業だったりします。
火薬に火を付ける時には、集客するのでもっと対策があるのではないかと神経をすり減らしているところです。
江戸川区と、市川市で見られるので合計で139万人の集客を誇っています。
音楽を入れたり新しい要素を取り入れたりしていますが、私は一番「間の取り方」を意識しています。
鍵屋の場合100%、遠隔操作で打ち上げを行っていて(電気点火)、コンピューター制御と、手動制御があり、コンピューター制御は事前にプログラミングするので、穏やかな中で間を取ってしまうので、私が手を振りおろすと手動制御で瞬時にボタンを押す、間の取り方を自由自在に行うようにしています。(300回近く手を振ってやっています)
視線は花火の筒口の方を見ています。(花火そのものはあまり見られません)
春先に試験打ちをしたりして、花火の組み合わせ、薬品の付けくわえ方など、想像しながら試験打ちしています。
物語性を醸し出して舞台として打ち出しているのが鍵屋の特徴かも知れません。
同じ様なピンク色でも表現により主催者側と協議しながら決めていきます。
人の心を動かすには人が生み出さないといけないと思っているので、童心に帰ったような気持ちでやります。
花火の特質は、色、形、光、音(リズムを含め)あるが、私が一番魅力を感じているのが音で、音の演出をすると迫力が見ているお客さんに伝えることができる。
花火の置く位置で船の上と土の上では若干音が違っていて、船では鉄板をはじくような音に成り、土だとドスンというような低い音に成る。
①地面から出るときの音 ②上空にヒューというように上がって行く音、③花火がさく裂する音 ④花火自体が持っている音 4種類あるので工夫を凝らして音を楽しんでもらう。
小学校2年生ぐらいの時に「私パパみたいになる」、と云ったようです。(記憶にはありませんが)
花火師としてまた柔道も館長をやっていて父がカッコよかった。
母からも「父はかっこいい人だ」と言われ続けました。
仕事としては父親、女性としては母親という身近に目標がありました。
継いだあとから人柄まで見られるようになり、人間性を磨かなければいけないんだと云うことでプレシャーを感じ始めました。
職人さんとか信頼関係が結ばれていると自分のことはどうでもよくなってくる。
機縁との背中合わせの現場なので、トラブルが対処できるようになって、職人と意見を交わしたりして来てからは、自分の角がとれたと思います。
自分の目標として人より3倍は動くと云うことを決めていました。
子供を育てる事によって、自分も成長して大きな視野の中で相手を捉えるられようになりました。(35歳以後)
いい信頼関係を得られるようになりました。
初代が1659年に店を開いて、代ごとに何かを残しているので15代目も何かを世に残せよと父から受け継ぎました。
父は遠隔操作の手法を、13代は本を残すとか、その前は色々形、色を付けるとかやってきました。
花火を芸術の面で研究、大学院に行って博士号を取る。
今までは花火師がこの花火良いんですよと云う文献は多かったが、見ている側がどういう印象を持ったかの研究がなされてなかった。
このリンクによって花火の音から迫力を味わうとか、美的感覚とか、心理的部分と花火の特質を結び付けるような考察をする事が出来ました。
柔道の審判員としてオリンピックとか全日本選手権とかで畳に上がっています。
一階は柔道場になっていて父が柔道場を開きました。
私は第一期門下生になり、福岡国際女子柔道では銅メダルを貰うことが出来ました。
ハングリー精神が理解できなくて、練習を決まったメニューしかこなさなかった柔道の選手時代を過ごし、私がやっている以上に私が戦う選手はさらに練習しているんだという恐怖ということを知らずに過ごしていました。
それがあったからこそ今の自分があると思います。
妬みはかなりのエネルギーを使うのでその無駄なエネルギーを自分を生かすためのエネルギーに向けるべきだとか、恐怖だったら潔く真っ向勝負していれば後悔ではなくて違う新たな道を進んでいこうという勇気に代わってゆくので、柔道生活を送ってきてよかったと思います。
柔道を止めるころに女性の審判員も育てたいとの話があり、審判員へのきっかけになりました。
S,A,B,C級のランクがあり、Cから始まりその都度筆記試験、実地試験があります。
アジア圏から推薦されインターナショナルの試験があり、世界ジュニアの大会にエントリーしていただいて、世界ジュニアの大会、次に世界選手権、それからオリンピックになっても競技中ずーっと試験をさせられていて、一握りの審判員だけがファイナルブロックで決勝を裁けるようになります。
お陰さまで男子重量級の主審を仰せつかりました。
審判員は裁く仕事ではあるが演出をも一種担っている部分もあります。
瞬時の判断と勇気が必要で花火との共通性があると思います。
嬉しかったのは「天野先生にしごかれて負けるのなら悔いはない」、とおっしゃってくださる監督、コーチがいると云うことと、主審は天野審判員と言われたときに、「それだったら間違いない」とおしゃって頂く、信頼されていることが嬉しいし、公平に期待にこたえられるような審判員に訓練を重ねていかなければいけないと思います。
今出来きることイコール今やらなければいけないことでしょうと、押しているような感じがします。
辛い経験をしてきたからこそ今がある、雑草の様に生きるという言葉が人への感謝の気持ちを忘れてはいけないという言葉に自分のなかの美学が変わって、年を重ねるといいというのは本当なんだなあと思います。
そういった変わらぬ自分に対して一応は〇印をつけてあげたいと思います。
15代目としてはリズムを含めた音、魅力的だった、面白かったといわれる花火師になりたいと思います。
花火が打ち上がる時にかかるおなじみの掛け声、玉屋、鍵屋は共に江戸時代に名をはせた花火店の名前ですが、今もなお商売を続けているのは鍵屋だけです。
天野さんはその鍵屋の15代目を2000年30歳の若さで襲名しました。
天野さんは花火師として多忙を極める一方で、女性審判員のさきがけとして、2008年の北京オリンピックや今年の全日本選手権など大舞台にも立ち、審判員としても活躍しています。
7月、8月は花火の打ち上げが忙しい時期で、6月は安全に対する対策を主催者と協議したり、花火がきちんと思うようなものが出来ているかどうかの確認作業だったりします。
火薬に火を付ける時には、集客するのでもっと対策があるのではないかと神経をすり減らしているところです。
江戸川区と、市川市で見られるので合計で139万人の集客を誇っています。
音楽を入れたり新しい要素を取り入れたりしていますが、私は一番「間の取り方」を意識しています。
鍵屋の場合100%、遠隔操作で打ち上げを行っていて(電気点火)、コンピューター制御と、手動制御があり、コンピューター制御は事前にプログラミングするので、穏やかな中で間を取ってしまうので、私が手を振りおろすと手動制御で瞬時にボタンを押す、間の取り方を自由自在に行うようにしています。(300回近く手を振ってやっています)
視線は花火の筒口の方を見ています。(花火そのものはあまり見られません)
春先に試験打ちをしたりして、花火の組み合わせ、薬品の付けくわえ方など、想像しながら試験打ちしています。
物語性を醸し出して舞台として打ち出しているのが鍵屋の特徴かも知れません。
同じ様なピンク色でも表現により主催者側と協議しながら決めていきます。
人の心を動かすには人が生み出さないといけないと思っているので、童心に帰ったような気持ちでやります。
花火の特質は、色、形、光、音(リズムを含め)あるが、私が一番魅力を感じているのが音で、音の演出をすると迫力が見ているお客さんに伝えることができる。
花火の置く位置で船の上と土の上では若干音が違っていて、船では鉄板をはじくような音に成り、土だとドスンというような低い音に成る。
①地面から出るときの音 ②上空にヒューというように上がって行く音、③花火がさく裂する音 ④花火自体が持っている音 4種類あるので工夫を凝らして音を楽しんでもらう。
小学校2年生ぐらいの時に「私パパみたいになる」、と云ったようです。(記憶にはありませんが)
花火師としてまた柔道も館長をやっていて父がカッコよかった。
母からも「父はかっこいい人だ」と言われ続けました。
仕事としては父親、女性としては母親という身近に目標がありました。
継いだあとから人柄まで見られるようになり、人間性を磨かなければいけないんだと云うことでプレシャーを感じ始めました。
職人さんとか信頼関係が結ばれていると自分のことはどうでもよくなってくる。
機縁との背中合わせの現場なので、トラブルが対処できるようになって、職人と意見を交わしたりして来てからは、自分の角がとれたと思います。
自分の目標として人より3倍は動くと云うことを決めていました。
子供を育てる事によって、自分も成長して大きな視野の中で相手を捉えるられようになりました。(35歳以後)
いい信頼関係を得られるようになりました。
初代が1659年に店を開いて、代ごとに何かを残しているので15代目も何かを世に残せよと父から受け継ぎました。
父は遠隔操作の手法を、13代は本を残すとか、その前は色々形、色を付けるとかやってきました。
花火を芸術の面で研究、大学院に行って博士号を取る。
今までは花火師がこの花火良いんですよと云う文献は多かったが、見ている側がどういう印象を持ったかの研究がなされてなかった。
このリンクによって花火の音から迫力を味わうとか、美的感覚とか、心理的部分と花火の特質を結び付けるような考察をする事が出来ました。
柔道の審判員としてオリンピックとか全日本選手権とかで畳に上がっています。
一階は柔道場になっていて父が柔道場を開きました。
私は第一期門下生になり、福岡国際女子柔道では銅メダルを貰うことが出来ました。
ハングリー精神が理解できなくて、練習を決まったメニューしかこなさなかった柔道の選手時代を過ごし、私がやっている以上に私が戦う選手はさらに練習しているんだという恐怖ということを知らずに過ごしていました。
それがあったからこそ今の自分があると思います。
妬みはかなりのエネルギーを使うのでその無駄なエネルギーを自分を生かすためのエネルギーに向けるべきだとか、恐怖だったら潔く真っ向勝負していれば後悔ではなくて違う新たな道を進んでいこうという勇気に代わってゆくので、柔道生活を送ってきてよかったと思います。
柔道を止めるころに女性の審判員も育てたいとの話があり、審判員へのきっかけになりました。
S,A,B,C級のランクがあり、Cから始まりその都度筆記試験、実地試験があります。
アジア圏から推薦されインターナショナルの試験があり、世界ジュニアの大会にエントリーしていただいて、世界ジュニアの大会、次に世界選手権、それからオリンピックになっても競技中ずーっと試験をさせられていて、一握りの審判員だけがファイナルブロックで決勝を裁けるようになります。
お陰さまで男子重量級の主審を仰せつかりました。
審判員は裁く仕事ではあるが演出をも一種担っている部分もあります。
瞬時の判断と勇気が必要で花火との共通性があると思います。
嬉しかったのは「天野先生にしごかれて負けるのなら悔いはない」、とおっしゃってくださる監督、コーチがいると云うことと、主審は天野審判員と言われたときに、「それだったら間違いない」とおしゃって頂く、信頼されていることが嬉しいし、公平に期待にこたえられるような審判員に訓練を重ねていかなければいけないと思います。
今出来きることイコール今やらなければいけないことでしょうと、押しているような感じがします。
辛い経験をしてきたからこそ今がある、雑草の様に生きるという言葉が人への感謝の気持ちを忘れてはいけないという言葉に自分のなかの美学が変わって、年を重ねるといいというのは本当なんだなあと思います。
そういった変わらぬ自分に対して一応は〇印をつけてあげたいと思います。
15代目としてはリズムを含めた音、魅力的だった、面白かったといわれる花火師になりたいと思います。
2017年7月24日月曜日
松本隆(作詞家) ・【謎解き うたことば】
松本隆(作詞家) ・【謎解き うたことば】
日本語学者 金田一秀穂
言葉の魔術師といわれている松本さんの作った歌は2100を越えて400組近くのアーティストに歌詞を書いています。
松本隆さんに日本語学者 金田一秀穂が聞きます。
「木綿のハンカチーフ」
普遍 木綿は一番安いもの 木綿は死語に近い、死語は好きです。
スニーカーではなくて「ズック」が好きです。
「ビー玉」 京都の一流料亭で食事した時に、いとさん(女将さん)が最後に出てきて、あらかじめ用意する間がなかったと思うが、ポケットからビー玉出したんです、嬉しかった。(「硝子の少年」がヒットした半年後ぐらい)
「木綿のハンカチーフ」
恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた 私は
欲しいものは ないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで 帰って
染まらないで 帰って
・
・
・
ハンカチーフも死語です。
恋人よ という呼びかけも死語に近いかもしれない。
「セクシャルバイオレットナンバー1 」・・・
外来語と日本語の組み合わせが多い、反対語を組み合わせるのも多い。
「しあわせ未満」、「ふられてBANZAI」・・・
ジャンルを超えています、派閥にも属してもいないし、作詞家協会にも入っていません。
詩を作ってから曲を作って行ったり、逆もあります。
順番的には詩が先にあるとは思いますが、抑揚がついて、メロディーになって、それに膨らませるとサウンドになって、日本の場合真逆になっていて、それが音楽が衰退している一つの原因になっていると思います。
漠然と何となくこんな形かなあと最初浮かびます。
自分の日常のなかで心は動いていて、詩を書くようなポジションの心の位置があって、そこに持っていくのが大変です。
もやもやとしたものが詩に成って行くと思います。
タイトルが思い付いて半年後ぐらいに詩が出来ると云うようなこともあります。
長い詩を2時間ぐらいで作って、吉田拓郎に渡してたら、3分ぐらいで作ってしまったものもあります。
「はいからはくち」
ノスタルジック つげ義春さんの絵の世界に似ている気がします。
「・・・です」「・・・ます」 は話し言葉と書き言葉の合間をねらいたいと思いました。
「・・・だぜ」石原裕次郎の言葉に良く出てくる、ちょっと不良っぽい湘南言葉。
今の日本の言葉は荒っぽい、いい加減さがあるが、言葉は大体いい加減で、地方によっても時代によっても違う。
曖昧模糊としたまんま流れて、行ってその時代の日本語になって行く、それはしょうがない。
最近僕の詩を朗読するのが流行っていて、「初恋」をすーちゃん(田中好子)が朗読してくれたが、物凄いインパクトだった。
朗読すると凄く新鮮で、音楽を取っ払っても歌詞は成立すると思いました。
中原中也にささげる詩 「砂時計」 松本隆作詞 つんく作曲
海鳴りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
無理やりに鋏で切った
愛だから逆に縺れる
運命を遮りたくて
出した手がもう折れそうで
ほら雨が雪になりそう
泣き言は喉で封じた
・
・
・
日本語学者 金田一秀穂
言葉の魔術師といわれている松本さんの作った歌は2100を越えて400組近くのアーティストに歌詞を書いています。
松本隆さんに日本語学者 金田一秀穂が聞きます。
「木綿のハンカチーフ」
普遍 木綿は一番安いもの 木綿は死語に近い、死語は好きです。
スニーカーではなくて「ズック」が好きです。
「ビー玉」 京都の一流料亭で食事した時に、いとさん(女将さん)が最後に出てきて、あらかじめ用意する間がなかったと思うが、ポケットからビー玉出したんです、嬉しかった。(「硝子の少年」がヒットした半年後ぐらい)
「木綿のハンカチーフ」
恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
いいえ あなた 私は
欲しいものは ないのよ
ただ都会の絵の具に
染まらないで 帰って
染まらないで 帰って
・
・
・
ハンカチーフも死語です。
恋人よ という呼びかけも死語に近いかもしれない。
「セクシャルバイオレットナンバー1 」・・・
外来語と日本語の組み合わせが多い、反対語を組み合わせるのも多い。
「しあわせ未満」、「ふられてBANZAI」・・・
ジャンルを超えています、派閥にも属してもいないし、作詞家協会にも入っていません。
詩を作ってから曲を作って行ったり、逆もあります。
順番的には詩が先にあるとは思いますが、抑揚がついて、メロディーになって、それに膨らませるとサウンドになって、日本の場合真逆になっていて、それが音楽が衰退している一つの原因になっていると思います。
漠然と何となくこんな形かなあと最初浮かびます。
自分の日常のなかで心は動いていて、詩を書くようなポジションの心の位置があって、そこに持っていくのが大変です。
もやもやとしたものが詩に成って行くと思います。
タイトルが思い付いて半年後ぐらいに詩が出来ると云うようなこともあります。
長い詩を2時間ぐらいで作って、吉田拓郎に渡してたら、3分ぐらいで作ってしまったものもあります。
「はいからはくち」
ノスタルジック つげ義春さんの絵の世界に似ている気がします。
「・・・です」「・・・ます」 は話し言葉と書き言葉の合間をねらいたいと思いました。
「・・・だぜ」石原裕次郎の言葉に良く出てくる、ちょっと不良っぽい湘南言葉。
今の日本の言葉は荒っぽい、いい加減さがあるが、言葉は大体いい加減で、地方によっても時代によっても違う。
曖昧模糊としたまんま流れて、行ってその時代の日本語になって行く、それはしょうがない。
最近僕の詩を朗読するのが流行っていて、「初恋」をすーちゃん(田中好子)が朗読してくれたが、物凄いインパクトだった。
朗読すると凄く新鮮で、音楽を取っ払っても歌詞は成立すると思いました。
中原中也にささげる詩 「砂時計」 松本隆作詞 つんく作曲
海鳴りのもっと深くで
人魚たち 泣いてるみたい
無理やりに鋏で切った
愛だから逆に縺れる
運命を遮りたくて
出した手がもう折れそうで
ほら雨が雪になりそう
泣き言は喉で封じた
・
・
・
2017年7月23日日曜日
河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】
河西昌枝(東京五輪女子バレーボール主将)・【特選 スポーツ名場面の裏側で】
東洋の魔女の金メダル
山梨県の出身、昭和39年東京オリンピック女子バレーで日本が金メダルを取った時のセッターでキャプテンでした。
大松監督のもと大阪の実業団チーム日紡貝塚のメンバーで全日本チームを構成し、当時日本国内では6年間、175連勝無敗で海外からは「東洋の魔女」と呼ばれました。
東京オリンピックのチームは世界バレーボール連盟から2001年20世紀の最優秀チームに選ばれ河西さんは個人として2008年世界バレーボールの殿堂入りも果たしました。
日本バレーボール協会女子強化委員長を務め、2004年のアテネオリンピックでは女子バレーの団長でした。
亡くなる3年前、喜寿77歳の年の平成22年10月15日の再放送。
現役時代174cm、今は171cmです、いまは中村昌枝です。
動ける間はなるべく出てみなさんに会いたいと思います。
昭和39年10月10日 東京オリンピック開会式
女子は金メダル、男子は銅メダルを獲得。
決勝は日本対ソビエト。(共に全勝で決勝を迎える)
10月23日 駒沢体育館で始まる。
日本が2セット連取、第3セット14-9 あと1ポイントで日本が優勝。
鈴木文弥アナウンサーは金メダルポイントと連呼するが、ここから4連続ポイント14-13
まで追い上げてくる。
普段ないようなミスがあり、焦りが出て追いつかれるが、自分では「大丈夫だから」とみんなに言っていたが(冷静さをよそおっていたが一番ドキドキしていたのは自分だったかもしれないが)、6回のローテーションがあって宮本さんのサーブを相手がレシーブしたが、放っておけば日本に入ってきたところをバックプレイヤーが手をだしてネット上で日本の方に手が出たと云うことで、オーバーネットで15-13日本優勝と決まった時は「終わった」と思いました。
もしジュースに成って取られたらと思うと必死でした。
視聴率は80%を超えた。
審判はオーバーネットを良く見ていたと思います。
大きな期待で日本の女子バレーは金メダルといわれながらやってきたので、期待にこたえることが出来て良かったと云う嬉しさと、これを最後にみんな辞めるつもりだったので、こういうところで試合をするのは、これが最後だったと云う思いもありました。
プレッシャーと感じるのか、応援と感じるのか、個人と団体だと違うと思います。
応援しているのだから勝つしかないと思っていました。
前の晩は普通に寝て、プレッシャー(当時はこういう言葉はなかったが)はなかったです。
当時は一段高い所にキャプテンだけが上がる訳ですから、キャプテンの役目としてそこまでは泣かなかったです。
バレーボールはオリンピック種目ではなかった。
日本が世界のヒノキ舞台に立ったのは1960年ブラジルの世界選手権でした。
あれよあれよと勝っていって決勝でソ連に負けて2位だった。
ソ連に勝てば世界一になれるんだと思いました。
そこから世界一を目指して死に物狂いの練習を4年間しました。
1962年モスクワで世界選手権があり、日本が初めてソ連を破って優勝する。
(モスクワへ行く前に東京オリンピックでバレーボールが正式種目になることが決まる)
オリンピックまでやりますかと質問されて、私はオリンピックまではやりませんと云いました。
世界選手権で優勝したら世界一周旅行をさせてくださいと約束しました。
優勝してイギリス、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイと回って来ました。
大阪に帰って来て凄い人盛りで、あらゆるところからこのメンバーでという話もありましたが、29歳で辞める覚悟でいました。
4歳下の宮本さんにキャプテンをと思っていました。
それぞれ家族との相談をしてとの事で、正月明けメンバーが集まって「やりますからお願いします」と云うことになりました。
それからの2年間は内容的にも時間的にも全然違う2年間でした。
応援にこたえるには勝つしかないと思いました。
昭和34年から6年連続の無敗の175連勝。
オリンピック前年、日紡貝塚単独チームがヨーロッパに遠征してソビエト、東ドイツに圧勝してこの時の余りの強さに対して「東洋の魔女」といわれた。(遠征戦22戦全勝)
回転レシーブなど当時はやらないことをやって、人間業ではないと云うことでそういう表現に成ったものと思います。
受けたらすぐ立って次のボールの行方を追ってという一連の動作をする、ということを大松監督が考えて、なんでっもいいから転がってみろといわれて、小さい人の転がり方がいいと云うことで、毎日やってるうちに先生の思うような見本が出来てきて、左右前後どこに投げられても飛び込んであげられる様になって行くが、それまでに1年ぐらいかかる。
とにかく打撲がひどかった、頭、首、肩、肘、一番ひどいのが腰の骨、背骨、膝、体中打撲だらけでした。
回転レシーブの時は恰好が悪くてシャットアウトとしていました。(マスコミからは秘密練習しているといわれましたが)
練習でできるようになると、かするぐらいで何処も打たなくなる。
「やればできる」と云うことは一つ一つの練習から身につけていきました。
できたと云うことは結果であって、できるまでの過程で何を身に付けるかと云う事が物凄く人間を強くして来ました。
大松監督は一口でいえば格好よかった。
当時は練習の時などは男性は常に先生一人でした。
男女の遠征でのバスのなかで喋ったり笑ったりするのが先生は厭で、それから男女は別々でした。
大松監督の本の中に、
ソ連に勝つためにはソ連の一倍半は練習した。
精神鍛錬こそがアマチュアスポーツ本来の目的であり世界制覇はその副産物である。
バレーボールにヒロインはいらない。
精神力でしっかり支えられて6つの歯車がかみ合ってさえいればそれで十分。
勝たねばならぬと考える前に、やらねばならぬ根性、人間の限界を超えた苦しい練習で鍛えることによってそれが培われる。
東洋の魔女の金メダル
山梨県の出身、昭和39年東京オリンピック女子バレーで日本が金メダルを取った時のセッターでキャプテンでした。
大松監督のもと大阪の実業団チーム日紡貝塚のメンバーで全日本チームを構成し、当時日本国内では6年間、175連勝無敗で海外からは「東洋の魔女」と呼ばれました。
東京オリンピックのチームは世界バレーボール連盟から2001年20世紀の最優秀チームに選ばれ河西さんは個人として2008年世界バレーボールの殿堂入りも果たしました。
日本バレーボール協会女子強化委員長を務め、2004年のアテネオリンピックでは女子バレーの団長でした。
亡くなる3年前、喜寿77歳の年の平成22年10月15日の再放送。
現役時代174cm、今は171cmです、いまは中村昌枝です。
動ける間はなるべく出てみなさんに会いたいと思います。
昭和39年10月10日 東京オリンピック開会式
女子は金メダル、男子は銅メダルを獲得。
決勝は日本対ソビエト。(共に全勝で決勝を迎える)
10月23日 駒沢体育館で始まる。
日本が2セット連取、第3セット14-9 あと1ポイントで日本が優勝。
鈴木文弥アナウンサーは金メダルポイントと連呼するが、ここから4連続ポイント14-13
まで追い上げてくる。
普段ないようなミスがあり、焦りが出て追いつかれるが、自分では「大丈夫だから」とみんなに言っていたが(冷静さをよそおっていたが一番ドキドキしていたのは自分だったかもしれないが)、6回のローテーションがあって宮本さんのサーブを相手がレシーブしたが、放っておけば日本に入ってきたところをバックプレイヤーが手をだしてネット上で日本の方に手が出たと云うことで、オーバーネットで15-13日本優勝と決まった時は「終わった」と思いました。
もしジュースに成って取られたらと思うと必死でした。
視聴率は80%を超えた。
審判はオーバーネットを良く見ていたと思います。
大きな期待で日本の女子バレーは金メダルといわれながらやってきたので、期待にこたえることが出来て良かったと云う嬉しさと、これを最後にみんな辞めるつもりだったので、こういうところで試合をするのは、これが最後だったと云う思いもありました。
プレッシャーと感じるのか、応援と感じるのか、個人と団体だと違うと思います。
応援しているのだから勝つしかないと思っていました。
前の晩は普通に寝て、プレッシャー(当時はこういう言葉はなかったが)はなかったです。
当時は一段高い所にキャプテンだけが上がる訳ですから、キャプテンの役目としてそこまでは泣かなかったです。
バレーボールはオリンピック種目ではなかった。
日本が世界のヒノキ舞台に立ったのは1960年ブラジルの世界選手権でした。
あれよあれよと勝っていって決勝でソ連に負けて2位だった。
ソ連に勝てば世界一になれるんだと思いました。
そこから世界一を目指して死に物狂いの練習を4年間しました。
1962年モスクワで世界選手権があり、日本が初めてソ連を破って優勝する。
(モスクワへ行く前に東京オリンピックでバレーボールが正式種目になることが決まる)
オリンピックまでやりますかと質問されて、私はオリンピックまではやりませんと云いました。
世界選手権で優勝したら世界一周旅行をさせてくださいと約束しました。
優勝してイギリス、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、ハワイと回って来ました。
大阪に帰って来て凄い人盛りで、あらゆるところからこのメンバーでという話もありましたが、29歳で辞める覚悟でいました。
4歳下の宮本さんにキャプテンをと思っていました。
それぞれ家族との相談をしてとの事で、正月明けメンバーが集まって「やりますからお願いします」と云うことになりました。
それからの2年間は内容的にも時間的にも全然違う2年間でした。
応援にこたえるには勝つしかないと思いました。
昭和34年から6年連続の無敗の175連勝。
オリンピック前年、日紡貝塚単独チームがヨーロッパに遠征してソビエト、東ドイツに圧勝してこの時の余りの強さに対して「東洋の魔女」といわれた。(遠征戦22戦全勝)
回転レシーブなど当時はやらないことをやって、人間業ではないと云うことでそういう表現に成ったものと思います。
受けたらすぐ立って次のボールの行方を追ってという一連の動作をする、ということを大松監督が考えて、なんでっもいいから転がってみろといわれて、小さい人の転がり方がいいと云うことで、毎日やってるうちに先生の思うような見本が出来てきて、左右前後どこに投げられても飛び込んであげられる様になって行くが、それまでに1年ぐらいかかる。
とにかく打撲がひどかった、頭、首、肩、肘、一番ひどいのが腰の骨、背骨、膝、体中打撲だらけでした。
回転レシーブの時は恰好が悪くてシャットアウトとしていました。(マスコミからは秘密練習しているといわれましたが)
練習でできるようになると、かするぐらいで何処も打たなくなる。
「やればできる」と云うことは一つ一つの練習から身につけていきました。
できたと云うことは結果であって、できるまでの過程で何を身に付けるかと云う事が物凄く人間を強くして来ました。
大松監督は一口でいえば格好よかった。
当時は練習の時などは男性は常に先生一人でした。
男女の遠征でのバスのなかで喋ったり笑ったりするのが先生は厭で、それから男女は別々でした。
大松監督の本の中に、
ソ連に勝つためにはソ連の一倍半は練習した。
精神鍛錬こそがアマチュアスポーツ本来の目的であり世界制覇はその副産物である。
バレーボールにヒロインはいらない。
精神力でしっかり支えられて6つの歯車がかみ合ってさえいればそれで十分。
勝たねばならぬと考える前に、やらねばならぬ根性、人間の限界を超えた苦しい練習で鍛えることによってそれが培われる。
2017年7月22日土曜日
岩根順子(三方よし研究所 専務理事) ・ 近江商人の商いに学ぶ
岩根順子(三方よし研究所 専務理事) ・ 近江商人の商いに学ぶ
かつて近江を本拠地に全国各地で商いを展開したのが近江商人です、八幡商人、日野商人、琵琶湖の東の湖東商人など、今の滋賀県から生まれた商人達のことで、その経理理念は売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よしの精神だったといわれています。
近年企業の倫理が問題になる中、その近江商人の経営理念を学ぼうと、滋賀県内で研修を行う企業が増えています。
そんな三方よしの精神を広げようと活動しているのが、滋賀県彦根市に拠点がある、NPO法人三方よし研究所です。
三方よしは昭和10年~20年に急に広まった言葉で、近江商人が共通の経営理念として考えていたのが、三方よしといわれ、売り手によし、買い手によし、世間によし、三つをまとめて商売するのが一番大事だと云うことでした。
中村治兵衛が孫にいい伝えたことを書いた巻物があります。
自分の商売を子々孫々に残してゆくためにはこういった心がけが必要だと云う事が書かれています。
以前県庁の仕事をしていまして、近江商人の事についてのイベントをすると云うことで、手伝うことになり、近江商人の考え方を滋賀県の産業おこし、街作りに生かしていこうと云うプロジェクトでした。
全国各地の近江商人の足跡を調べて、平成3年の世界あきんどフォーラムを迎えました。
記念品を作ろうと、滋賀大学の小倉栄一郎先生に『近江商人の理念 近江商人家訓撰集』を作っていただきました。
小倉先生が講演とか本で紹介していて、近江商人の理念を本にして三方よしがトップに出ていました。
堤清二さん(セゾングループのトップ)が新聞で素晴らしいことで学ばなければならないということ言っていました。
そういったことから急速に広まりました。
近江商人あきんど委員会を発展的に解消しようということになり、もったいないと云うことでNPO法人をたちあげ啓蒙運動を始めました。(会員30名+賛助会員30名ぐらい)
世界あきんどフォーラムを迎えるにあたって、江南 良三さんが本を作りたいと云うことでそれが「近江商人列伝」と云う本でした。(反響がすごかった)
近江商人をルーツにしている企業としては伊藤忠、西川産業、高島屋、日本生命、東洋紡など他にもたくさんあり、初代豊田自動車の社長の豊田利三郎さんは彦根藩士の方で豊田家に婿入り、住友鉱山の広瀬 宰平さん、伊庭貞剛さんも滋賀県の出身です。
全国にある近江屋と呼ばれるのもそうだと思います。
海の国(琵琶湖)、道の国(街道が一杯走っている)、仏の国(比叡山延暦寺)この3つの要素が沢山の商人を生んだ源泉ではないかと話しています。
最澄の「利他」と云う言葉、それがイコール「三方よし」じゃないかと思います。
近江商人が長い時間を掛けて理念を積みかさねてきたんだと思っています。
信長が安土に城を作って楽市楽座を作って、商売の源泉を作りました。
幕末に成って来ると先進的な藩主が出てきて、百姓をやりながら暇なときは他のことで稼いでもいいと云う御触れをだしています。
そういう人が繊維を紡いだりとか、よそから仕入れたものをよそに売ったりしていました。
東北には手形なしで行けたという特権があります。
近江は87万石で半分は彦根藩、膳所藩であとの半分はほとんどお殿さまが複合している。
山形の紅花を持ち帰って京都でべにに変えて売りに行くと云う、「諸国産物回し」という商売をしていました。(ニシン、昆布、アワビとか北前船を使っていました、そして肥料にしたり綿業を盛んにしていて、行きも帰りも商売する)
本宅は近江において、あちこちに商店を設ける。
よその国で商売するので、その藩としては面白くないので排斥しようと云う圧力があり、他国で商いする時にはその土地の人の気持ちをくみ取って商売する、いい加減な商売はだめ、高く売ってはだめ、という風な商いをした。
秩父事件が起きた時、大きな店は全部略奪されるようなことがあったが、矢野喜兵衛さんところだけはなかった、事件から50年前に天保の大飢饉のときに殿様の命令ではなくて矢野さん自身で布施米を出しました。
そのことが地元の人にずーっと云い伝えられ地元の事を思って商売しているということで、秩父事件の時にもあそこには手をかけてはいけないと云うことになったらしい。
この土地のために何か役に立ちたいと云うことで塚本 定右衛門さんは山梨に植林をして100年たって素晴らしいヒノキの山に成っているらしいです。
伊藤忠兵衛さんは「商いは菩薩の行」と云っていて、利益はこちらから設けてやろうという事では無くて、高望みするのではなくて、成る様になると云う考え方だと思います。
近江八幡、西川利右衛門さん、「先義後利栄」と言っている、いい事を先に施しをすると利益は後から付いてくる、そして栄える。
豊郷小学校 土地、建物を寄付した。
当地出身の豪商・薩摩治兵衛をはじめとする有力者から寄付金を得て、校舎を新築
丸紅の専務取締役であった古川鉄治郎が学校の新築費用の寄付を申し出、2代目校舎が建築された。
自分の家を建てる時にも、世の中が不景気の時に自宅を普請すると云う事が良くあった様です。(そのほかに橋の普請とかもいとまがありませんでした)
若い人にこの現実を良く知ってもらいたいと活動しています。
民間の経済団体が多いですが、婦人会の方が近江商人の奥さんはどのような暮らしをしていたのかと云う問いがありました。
近江商人は単身赴任だったんです、上り口に男の下駄を並べていたり(亭主はちゃんといます)、奥さんは読み書きそろばんを指導したり、人事権を持っていて、仕事ができるようになったら出店先に送り込んだりします。
三方よし研究所では、今年から講師養成講座を設けました。
堅実に企業存続させて行く時に何が必要か考えた時に、社員のための会社に成っているか、それがあって始めて相手さんが満足していただける、そういう関係が持続することによって社会が潤ってくるのではないかと、今振り返る時期ではないかと思います。
先人の工夫を改めて見直されています。
日本は長寿企業が多いので、海外からの研修があります。
企業の歴史が少ない中国、韓国、台湾が多いです。
月に2~3社来ます。
一番大きな世間と云う輪の中がうまく収まる様に二つの物(売り手よし、買い手よし)が調子よくリンクして行くという、そういうふうな社会になればいいと思うので、本来の世間よしと云う考え方を広めて行く必要性があるのではないかと思います。
いい事は密やかにする、そして自分がやったと威張らない。
かつて近江を本拠地に全国各地で商いを展開したのが近江商人です、八幡商人、日野商人、琵琶湖の東の湖東商人など、今の滋賀県から生まれた商人達のことで、その経理理念は売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よしの精神だったといわれています。
近年企業の倫理が問題になる中、その近江商人の経営理念を学ぼうと、滋賀県内で研修を行う企業が増えています。
そんな三方よしの精神を広げようと活動しているのが、滋賀県彦根市に拠点がある、NPO法人三方よし研究所です。
三方よしは昭和10年~20年に急に広まった言葉で、近江商人が共通の経営理念として考えていたのが、三方よしといわれ、売り手によし、買い手によし、世間によし、三つをまとめて商売するのが一番大事だと云うことでした。
中村治兵衛が孫にいい伝えたことを書いた巻物があります。
自分の商売を子々孫々に残してゆくためにはこういった心がけが必要だと云う事が書かれています。
以前県庁の仕事をしていまして、近江商人の事についてのイベントをすると云うことで、手伝うことになり、近江商人の考え方を滋賀県の産業おこし、街作りに生かしていこうと云うプロジェクトでした。
全国各地の近江商人の足跡を調べて、平成3年の世界あきんどフォーラムを迎えました。
記念品を作ろうと、滋賀大学の小倉栄一郎先生に『近江商人の理念 近江商人家訓撰集』を作っていただきました。
小倉先生が講演とか本で紹介していて、近江商人の理念を本にして三方よしがトップに出ていました。
堤清二さん(セゾングループのトップ)が新聞で素晴らしいことで学ばなければならないということ言っていました。
そういったことから急速に広まりました。
近江商人あきんど委員会を発展的に解消しようということになり、もったいないと云うことでNPO法人をたちあげ啓蒙運動を始めました。(会員30名+賛助会員30名ぐらい)
世界あきんどフォーラムを迎えるにあたって、江南 良三さんが本を作りたいと云うことでそれが「近江商人列伝」と云う本でした。(反響がすごかった)
近江商人をルーツにしている企業としては伊藤忠、西川産業、高島屋、日本生命、東洋紡など他にもたくさんあり、初代豊田自動車の社長の豊田利三郎さんは彦根藩士の方で豊田家に婿入り、住友鉱山の広瀬 宰平さん、伊庭貞剛さんも滋賀県の出身です。
全国にある近江屋と呼ばれるのもそうだと思います。
海の国(琵琶湖)、道の国(街道が一杯走っている)、仏の国(比叡山延暦寺)この3つの要素が沢山の商人を生んだ源泉ではないかと話しています。
最澄の「利他」と云う言葉、それがイコール「三方よし」じゃないかと思います。
近江商人が長い時間を掛けて理念を積みかさねてきたんだと思っています。
信長が安土に城を作って楽市楽座を作って、商売の源泉を作りました。
幕末に成って来ると先進的な藩主が出てきて、百姓をやりながら暇なときは他のことで稼いでもいいと云う御触れをだしています。
そういう人が繊維を紡いだりとか、よそから仕入れたものをよそに売ったりしていました。
東北には手形なしで行けたという特権があります。
近江は87万石で半分は彦根藩、膳所藩であとの半分はほとんどお殿さまが複合している。
山形の紅花を持ち帰って京都でべにに変えて売りに行くと云う、「諸国産物回し」という商売をしていました。(ニシン、昆布、アワビとか北前船を使っていました、そして肥料にしたり綿業を盛んにしていて、行きも帰りも商売する)
本宅は近江において、あちこちに商店を設ける。
よその国で商売するので、その藩としては面白くないので排斥しようと云う圧力があり、他国で商いする時にはその土地の人の気持ちをくみ取って商売する、いい加減な商売はだめ、高く売ってはだめ、という風な商いをした。
秩父事件が起きた時、大きな店は全部略奪されるようなことがあったが、矢野喜兵衛さんところだけはなかった、事件から50年前に天保の大飢饉のときに殿様の命令ではなくて矢野さん自身で布施米を出しました。
そのことが地元の人にずーっと云い伝えられ地元の事を思って商売しているということで、秩父事件の時にもあそこには手をかけてはいけないと云うことになったらしい。
この土地のために何か役に立ちたいと云うことで塚本 定右衛門さんは山梨に植林をして100年たって素晴らしいヒノキの山に成っているらしいです。
伊藤忠兵衛さんは「商いは菩薩の行」と云っていて、利益はこちらから設けてやろうという事では無くて、高望みするのではなくて、成る様になると云う考え方だと思います。
近江八幡、西川利右衛門さん、「先義後利栄」と言っている、いい事を先に施しをすると利益は後から付いてくる、そして栄える。
豊郷小学校 土地、建物を寄付した。
当地出身の豪商・薩摩治兵衛をはじめとする有力者から寄付金を得て、校舎を新築
丸紅の専務取締役であった古川鉄治郎が学校の新築費用の寄付を申し出、2代目校舎が建築された。
自分の家を建てる時にも、世の中が不景気の時に自宅を普請すると云う事が良くあった様です。(そのほかに橋の普請とかもいとまがありませんでした)
若い人にこの現実を良く知ってもらいたいと活動しています。
民間の経済団体が多いですが、婦人会の方が近江商人の奥さんはどのような暮らしをしていたのかと云う問いがありました。
近江商人は単身赴任だったんです、上り口に男の下駄を並べていたり(亭主はちゃんといます)、奥さんは読み書きそろばんを指導したり、人事権を持っていて、仕事ができるようになったら出店先に送り込んだりします。
三方よし研究所では、今年から講師養成講座を設けました。
堅実に企業存続させて行く時に何が必要か考えた時に、社員のための会社に成っているか、それがあって始めて相手さんが満足していただける、そういう関係が持続することによって社会が潤ってくるのではないかと、今振り返る時期ではないかと思います。
先人の工夫を改めて見直されています。
日本は長寿企業が多いので、海外からの研修があります。
企業の歴史が少ない中国、韓国、台湾が多いです。
月に2~3社来ます。
一番大きな世間と云う輪の中がうまく収まる様に二つの物(売り手よし、買い手よし)が調子よくリンクして行くという、そういうふうな社会になればいいと思うので、本来の世間よしと云う考え方を広めて行く必要性があるのではないかと思います。
いい事は密やかにする、そして自分がやったと威張らない。
2017年7月21日金曜日
大野義夫(カントリー歌手) ・アイ・ラブ・ヨーデル!
大野義夫(カントリー歌手) ・アイ・ラブ・ヨーデル!
昭和6年東京杉並生まれ。
中学生の頃お兄さんからウクレレを教わり、その後自作自演のスチ-ルギターでハワイアンバンドを作って、お祭りの演芸会などで演奏していました。
法政大学入学と同時にウエスタンジョリーボーイズを結成、6大学音楽リーグ戦、アメリカ軍のキャンプなどで活躍しました。
その後、マウンテンボーイズ、サンズオブドリフターズ等いくつかのバンドに参加、1957年3月、「堀威夫とスイングウエスト」発足と同時に参加し、以後60年余りにわたって、戦後のカントリーアンドウエスタンの世界をリードしてきました。
1960年にオーストラリア、ハワイ、アメリカ本土をバンジョーとヨーデルの武者修行で回ったことが今日の大野さんを作ったと言います。
85歳の今も現役歌手としてライブやコンサートで活躍しています。
今は月に2から3回やっています。(1時間を2回で一つ)
声は最近歳とともに出るようになった感じはしています。
ヨーデルの場合が半音下げて歌います。
風呂に入って20~25分歌っています、それが練習です。
ヘッドホーンして30分ぐらい歌ったりもします。
以前は腕立て伏せ100回やっていたりしました。
ヨーデルはアメリカからレコードを取り寄せて擦り切れるまで聞き練習しました。
1945年 14歳の時にウクレレが置いてあるのでいじってそこから始まりました。
或る時スチ-ルギターの音が聞こえてきて凄い音だと思って、購入するには高かったので作ろうと云うことになりました。
友人が楽器屋のスチ―ルギターのメッキ屋で失敗したものから集めて作りました。
買うと7000円が1000円ぐらいでできました。
9月にお祭りがあり申し込んで出演しました。
昭和26年5月11日に新橋のRAAビアホール米軍専門のホールに行ったときに原田さんのスチールギターを聞いたときに凄く上手くて自分では無理だと思って辞めると言ったら、歌も歌うと云うことでそこに入りました。
ウクレレ、ギターをやっていたら、バンジョーを頂き(オーストラリアのジョン・ベスパーさんがヨーデルを歌う、バンジョーを弾く人)周りは誰も弾いていなくて、弾き方が判らなくて、オーストラリアにいい先生がいるのでいかないかと堀さんからいわれて、それが本気になってきてほんとうに行く事に成りました。
ヨーデルはスイスのアルプス地方とは違うが、ウエスタンスタイルはステージでもうけるように自分なりに勉強しました。
ウイリー沖山さんとはヨーデルの言葉が違いますが、共演するようにもなりました。
23年前喉にポリープが出来て、ヨーデルの声が出にくくなりました。
平成6年6月6日に手術をして貰って、声が出るのかと思って心配だったが声が出て嬉しかったです。
法政大学に入学して、6大学音楽リーグ戦がありそこでやっていました。
法政大学ではウエスタンジヨリーボーイズで2年ちょっとやっていました。
サンズオブドリフターズには変遷してゆきますが、坂本九、井上ひろし、岸部清、桜井輝夫などがいました。
1957年(昭和32年)3月に「堀威夫とスイングウエスト」を結成し、そこに加わりました。(9人バンド 今も全員生きています)
昭和34年8月から12月までオーストラリアでバンジョーの勉強をしました。
午前中は庭で練習して、自分が思っている習いたいバンジョーのスタイルではなかったが、一生懸命やりました。
週末にはパーティーがあり、日本の歌を歌えと云うことで黒田節などを歌い他にも向こうの歌も歌いました。
ハワイ経由でアメリカに渡って、グランド・オール・オプリ(テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組 「カントリーの最も有名な舞台」と呼ばれる)に東洋人として初めての出演となりました。
テンポが早くてヨーデルを入れてみんなを知っている曲を選べと云うことで、「コロンブス監獄のブルース」をやったら大喝采を浴び、一生忘れられない思い出です。(1960年5月7日)
帰国後、スイングウエストから独立して、自分のバンドを作って3人で始めて、その後編成が増えて行きました。
米軍キャンプがまだ華やかだったので、稚内から青森から関東、横浜、九州、沖縄(返還前)まで行きました。
韓国、グアム、フィリピンなどに行きました。
「大野義夫&カントリー メイツ」と「マウンテンプレイボーイ」(ジミー時田)と一緒に成って「フォーークソングとカントリーの夕べ」と云うことで日本国中回りました。
頑張って新しい歌も挑戦しています。
昭和6年東京杉並生まれ。
中学生の頃お兄さんからウクレレを教わり、その後自作自演のスチ-ルギターでハワイアンバンドを作って、お祭りの演芸会などで演奏していました。
法政大学入学と同時にウエスタンジョリーボーイズを結成、6大学音楽リーグ戦、アメリカ軍のキャンプなどで活躍しました。
その後、マウンテンボーイズ、サンズオブドリフターズ等いくつかのバンドに参加、1957年3月、「堀威夫とスイングウエスト」発足と同時に参加し、以後60年余りにわたって、戦後のカントリーアンドウエスタンの世界をリードしてきました。
1960年にオーストラリア、ハワイ、アメリカ本土をバンジョーとヨーデルの武者修行で回ったことが今日の大野さんを作ったと言います。
85歳の今も現役歌手としてライブやコンサートで活躍しています。
今は月に2から3回やっています。(1時間を2回で一つ)
声は最近歳とともに出るようになった感じはしています。
ヨーデルの場合が半音下げて歌います。
風呂に入って20~25分歌っています、それが練習です。
ヘッドホーンして30分ぐらい歌ったりもします。
以前は腕立て伏せ100回やっていたりしました。
ヨーデルはアメリカからレコードを取り寄せて擦り切れるまで聞き練習しました。
1945年 14歳の時にウクレレが置いてあるのでいじってそこから始まりました。
或る時スチ-ルギターの音が聞こえてきて凄い音だと思って、購入するには高かったので作ろうと云うことになりました。
友人が楽器屋のスチ―ルギターのメッキ屋で失敗したものから集めて作りました。
買うと7000円が1000円ぐらいでできました。
9月にお祭りがあり申し込んで出演しました。
昭和26年5月11日に新橋のRAAビアホール米軍専門のホールに行ったときに原田さんのスチールギターを聞いたときに凄く上手くて自分では無理だと思って辞めると言ったら、歌も歌うと云うことでそこに入りました。
ウクレレ、ギターをやっていたら、バンジョーを頂き(オーストラリアのジョン・ベスパーさんがヨーデルを歌う、バンジョーを弾く人)周りは誰も弾いていなくて、弾き方が判らなくて、オーストラリアにいい先生がいるのでいかないかと堀さんからいわれて、それが本気になってきてほんとうに行く事に成りました。
ヨーデルはスイスのアルプス地方とは違うが、ウエスタンスタイルはステージでもうけるように自分なりに勉強しました。
ウイリー沖山さんとはヨーデルの言葉が違いますが、共演するようにもなりました。
23年前喉にポリープが出来て、ヨーデルの声が出にくくなりました。
平成6年6月6日に手術をして貰って、声が出るのかと思って心配だったが声が出て嬉しかったです。
法政大学に入学して、6大学音楽リーグ戦がありそこでやっていました。
法政大学ではウエスタンジヨリーボーイズで2年ちょっとやっていました。
サンズオブドリフターズには変遷してゆきますが、坂本九、井上ひろし、岸部清、桜井輝夫などがいました。
1957年(昭和32年)3月に「堀威夫とスイングウエスト」を結成し、そこに加わりました。(9人バンド 今も全員生きています)
昭和34年8月から12月までオーストラリアでバンジョーの勉強をしました。
午前中は庭で練習して、自分が思っている習いたいバンジョーのスタイルではなかったが、一生懸命やりました。
週末にはパーティーがあり、日本の歌を歌えと云うことで黒田節などを歌い他にも向こうの歌も歌いました。
ハワイ経由でアメリカに渡って、グランド・オール・オプリ(テネシー州ナッシュヴィルのラジオ局WSMの毎週土曜夜のカントリー・ミュージックの公開ライブ放送のラジオ番組 「カントリーの最も有名な舞台」と呼ばれる)に東洋人として初めての出演となりました。
テンポが早くてヨーデルを入れてみんなを知っている曲を選べと云うことで、「コロンブス監獄のブルース」をやったら大喝采を浴び、一生忘れられない思い出です。(1960年5月7日)
帰国後、スイングウエストから独立して、自分のバンドを作って3人で始めて、その後編成が増えて行きました。
米軍キャンプがまだ華やかだったので、稚内から青森から関東、横浜、九州、沖縄(返還前)まで行きました。
韓国、グアム、フィリピンなどに行きました。
「大野義夫&カントリー メイツ」と「マウンテンプレイボーイ」(ジミー時田)と一緒に成って「フォーークソングとカントリーの夕べ」と云うことで日本国中回りました。
頑張って新しい歌も挑戦しています。
2017年7月20日木曜日
渡辺祥二(農業生産法人代表) ・新しい発想で魅力ある農業を
渡辺祥二(農業生産法人代表) ・新しい発想で魅力ある農業を
岐阜県出身、元々建設関係の仕事をしていました。
あるとき自然を守る農業の仕事をしたいと、思いたち作物を探していたところ、熱帯原産のドラゴンフルーツという珍しい果物に出会いました。
10数年前にこの植物の苗木を輸入して栽培に取り組み、今では果物として食べるほか、ジュースやジャムに加工して商品化に成功しました。
一方渡辺さんはヤギさん除草隊と云うものを組織して、ヤギを利用して緑地などの除草にあたり里山の保全や景観の保持に努めています。
これらのユニークな活動が認められて、今年の2月には第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞しました。
家畜ではなく益畜、昔からある言葉ですがもう一回復活させようとするのが今のとりくみです。(除草管理)
第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞。
農業に挑戦し始めた頃は冷ややかに見られていたが、10年余り継続して大きな賞を取れるまでになりましたが、評価が一転するのは明らかに時代の流れが変わったと云う印象の方が強いです。
高校大学でも農業は学んだことは無く、何をするんだろうなと云う目で見られていたのではないかと思います。
建設業の仕事を10年ちょっとやっていました。
当時公共工事の減少の時代で、不安を漠然と抱えていました。
農業用水、ため池、インフラ整備など農業の方々との接点はありました。
年何回も収穫できるもの、熱帯果樹に着目して、経験も一年のうちに何回かはできるので、アセロラ(フロリダスイーツ)にこだわってスタートしました。
アセロラの苗を買い付けに行ったときにドラゴンフルーツを知って、そこからドラゴンフルーツにはまって行きました。
今はドラゴンフルーツは3次ブームに成っています。
元々はサボテンの実です。
ドラゴンフルーツにも色々あり30品種があって、果肉の色、味も違うので、本来持っているポテンシャルをどう引き出すか、答えがないのでそういったところに魅かれました。
海外と日本では栽培環境が違うので、最初温度を上げないといけないのかなと思っていましたが、一番重要なのは5月6月太陽の光がどれだけ浴びれるかによって、蕾を出すタイミングとかがあると思っていて、冬場、収穫時期を考えて行くことによって案外いいものが出来るのではないかと思いました。
一番ネックになるのは冬場の温度ですが、重油を炊いていたが、温泉を使えばいいと地元の方からの助言もあって、是非やってみようと思いました。
ドラゴンフルーツは夜に花が咲くので、花を見に来る温泉観光客もいて、観光業とリンクする形になっていて、出荷先もなかったので観光客に食べてもらう仕組みをどう作っていくか、地域に循環できるような仕組み作りに心掛けました。
始めた当初、人脈もなかったし、資金もなかったし、その中でどうやるか、苦肉の策でした。
ハウス栽培なので梅雨の時期も問題ないです。
月下美人よりも1周り2周り大きくて、直径30cmある様な大輪を夜咲かせます。
花も営業ツールの一つでもあります。
ヤギを使った除草。
建設業時代公園なども作って森林の開発をやったりしていて、測量で入ってゆくと開発行為自体に対してあまりいい思いは無くて、その後の維持管理をしっかりしなくてはいけないと思っていた。
ベトナムに行った時に道路の土手に牛と牛飼いさんを見て、なんとなくいいなあとおもいました。
九州でヤギをレンタルすると云う話題を耳にしました。
ハウス脇の銀杏畑で高齢で面倒見れないと云うことで、ヤギが草を食べて除草管理ができるし、動物がいることで従業員が毎日元気かなと思って、仕事に来るのが楽しみになると言われて、それに魅かれて銀杏畑の管理を始めました。
2頭から7頭へと増えて行って、市の職員が草刈りをやっている光景を見て、ヤギでやってみようと実験が始まりました。
業務としてスタートしました。
ヤギさん除草隊として業務を遂行するためには、コストの管理もしっかりして行かないといけないと思いました。
人との比較計算が必要になり、岐阜大学の先生達と実証実験を始めて、一緒にやらせてもらっています。
大学、自治体と私達とで始めて、5年目になります。
食性が保たれるか、健康管理も見ていかないといけない。
現状人力よりも1/3削減できているが、安くなった分をコストをあげて農業
者の収入を増やすか、あるいはどこに投資するのか、地域全体を見た仕組みを作れないかやっています。
次の世代のためにも3/3でもいいのではないかと思っていて、焦点を当て直して、昔あったいい循環を今の形にどう展開するかが、次の世代を育てることに良いヒントになるのではないかと思います。
ヤギさんと学生のふれあい授業などもやったり、ヤギの堆肥を使ってヤギとともに耕作放棄地などの開墾してスイーツをと云うような活動もしています。
日本は学生がやる研究費をサポートする仕組みがないので、やれる範囲で研究費を出したり一緒にやったりしています。
地元の若い優秀な人たちが残る仕組みを作れるようにして行かないといけないし、現実に岐阜大学の学生が入ってくれています。
地域の子供は地域で育てると云う仕組みのことに対してヤギさん達はヒントを与えてくれていると思います
農業は夢があります、政府の云うような儲かる農業もありますが、お金ではなくて夢を
実現できる、夢に向かって突き進む様な人がいないといけない、そういった選択肢を提供する必要があると思います。
コミュニケーションさえ生まれれば、何とかなるような気がします。
岐阜県出身、元々建設関係の仕事をしていました。
あるとき自然を守る農業の仕事をしたいと、思いたち作物を探していたところ、熱帯原産のドラゴンフルーツという珍しい果物に出会いました。
10数年前にこの植物の苗木を輸入して栽培に取り組み、今では果物として食べるほか、ジュースやジャムに加工して商品化に成功しました。
一方渡辺さんはヤギさん除草隊と云うものを組織して、ヤギを利用して緑地などの除草にあたり里山の保全や景観の保持に努めています。
これらのユニークな活動が認められて、今年の2月には第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞しました。
家畜ではなく益畜、昔からある言葉ですがもう一回復活させようとするのが今のとりくみです。(除草管理)
第46回日本農業賞の食の架け橋の部の特別賞を受賞。
農業に挑戦し始めた頃は冷ややかに見られていたが、10年余り継続して大きな賞を取れるまでになりましたが、評価が一転するのは明らかに時代の流れが変わったと云う印象の方が強いです。
高校大学でも農業は学んだことは無く、何をするんだろうなと云う目で見られていたのではないかと思います。
建設業の仕事を10年ちょっとやっていました。
当時公共工事の減少の時代で、不安を漠然と抱えていました。
農業用水、ため池、インフラ整備など農業の方々との接点はありました。
年何回も収穫できるもの、熱帯果樹に着目して、経験も一年のうちに何回かはできるので、アセロラ(フロリダスイーツ)にこだわってスタートしました。
アセロラの苗を買い付けに行ったときにドラゴンフルーツを知って、そこからドラゴンフルーツにはまって行きました。
今はドラゴンフルーツは3次ブームに成っています。
元々はサボテンの実です。
ドラゴンフルーツにも色々あり30品種があって、果肉の色、味も違うので、本来持っているポテンシャルをどう引き出すか、答えがないのでそういったところに魅かれました。
海外と日本では栽培環境が違うので、最初温度を上げないといけないのかなと思っていましたが、一番重要なのは5月6月太陽の光がどれだけ浴びれるかによって、蕾を出すタイミングとかがあると思っていて、冬場、収穫時期を考えて行くことによって案外いいものが出来るのではないかと思いました。
一番ネックになるのは冬場の温度ですが、重油を炊いていたが、温泉を使えばいいと地元の方からの助言もあって、是非やってみようと思いました。
ドラゴンフルーツは夜に花が咲くので、花を見に来る温泉観光客もいて、観光業とリンクする形になっていて、出荷先もなかったので観光客に食べてもらう仕組みをどう作っていくか、地域に循環できるような仕組み作りに心掛けました。
始めた当初、人脈もなかったし、資金もなかったし、その中でどうやるか、苦肉の策でした。
ハウス栽培なので梅雨の時期も問題ないです。
月下美人よりも1周り2周り大きくて、直径30cmある様な大輪を夜咲かせます。
花も営業ツールの一つでもあります。
ヤギを使った除草。
建設業時代公園なども作って森林の開発をやったりしていて、測量で入ってゆくと開発行為自体に対してあまりいい思いは無くて、その後の維持管理をしっかりしなくてはいけないと思っていた。
ベトナムに行った時に道路の土手に牛と牛飼いさんを見て、なんとなくいいなあとおもいました。
九州でヤギをレンタルすると云う話題を耳にしました。
ハウス脇の銀杏畑で高齢で面倒見れないと云うことで、ヤギが草を食べて除草管理ができるし、動物がいることで従業員が毎日元気かなと思って、仕事に来るのが楽しみになると言われて、それに魅かれて銀杏畑の管理を始めました。
2頭から7頭へと増えて行って、市の職員が草刈りをやっている光景を見て、ヤギでやってみようと実験が始まりました。
業務としてスタートしました。
ヤギさん除草隊として業務を遂行するためには、コストの管理もしっかりして行かないといけないと思いました。
人との比較計算が必要になり、岐阜大学の先生達と実証実験を始めて、一緒にやらせてもらっています。
大学、自治体と私達とで始めて、5年目になります。
食性が保たれるか、健康管理も見ていかないといけない。
現状人力よりも1/3削減できているが、安くなった分をコストをあげて農業
者の収入を増やすか、あるいはどこに投資するのか、地域全体を見た仕組みを作れないかやっています。
次の世代のためにも3/3でもいいのではないかと思っていて、焦点を当て直して、昔あったいい循環を今の形にどう展開するかが、次の世代を育てることに良いヒントになるのではないかと思います。
ヤギさんと学生のふれあい授業などもやったり、ヤギの堆肥を使ってヤギとともに耕作放棄地などの開墾してスイーツをと云うような活動もしています。
日本は学生がやる研究費をサポートする仕組みがないので、やれる範囲で研究費を出したり一緒にやったりしています。
地元の若い優秀な人たちが残る仕組みを作れるようにして行かないといけないし、現実に岐阜大学の学生が入ってくれています。
地域の子供は地域で育てると云う仕組みのことに対してヤギさん達はヒントを与えてくれていると思います
農業は夢があります、政府の云うような儲かる農業もありますが、お金ではなくて夢を
実現できる、夢に向かって突き進む様な人がいないといけない、そういった選択肢を提供する必要があると思います。
コミュニケーションさえ生まれれば、何とかなるような気がします。
2017年7月19日水曜日
池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)
池田澄江(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(2)
今村明子の名前は1982年に国籍取得のために付けました。
日本に永住が出来て、中国から主人も来てもらいました。
正式な仕事を探さなければいけないと河合弁護士に相談しました。
河合弁護士は残留孤児の戸籍を取るための仕事を進めていました。
河合弁護士に仕事の手伝いをすることになり、使用期間が2年間在り、そののちに正社員になる様に先生に相談しました処、承諾してもらいました。
厚労省の残留孤児の肉親捜しが代々木のオリンピックセンターで行われていた。
1994年12月14日の肉親探し説明会での通訳をした後に、喫茶店で60歳台の女性と出会いました。
姉も中国もに残されていて、話す中で同じ土地にいたことが判りました。
段々話すうちにどこの家に住んでいたのかを絵に書きました。
まさか姉ではあるまいかと思ったが、連絡先を確認して河合弁護士と相談して、DNA鑑定することになりました。
1995年2月にDNA鑑定してもらい、結果が1996年7月31日でした。
姉妹であることが間違いないといわれました。
51歳の時でした。
戸籍には死亡と書かれていました。
本当の名前は「池田澄江」と云う事が判り、心から安心しました。
親に逢いたかったが、母親は半年まえに亡くなっていました。
養母は立派な人で養母の思想、想うことが私に伝わってきたので養母には本当に感謝しています。
戦争がなかったらみんな親がいる、兄弟がいる、自分の幸せな家庭がある。
残留孤児に対する政府の政策を作ってほしいと思って、113万人の署名をして貰って、政府にも対応を持ちかけました。
2002年から帰国者の待遇改善の裁判を日本各地で行って、全国の代表として活動しました。
原告側に参加たのは2212人でした。
生活保護の人がほとんどでした。(国民の税)
言葉が出来ないと働く場がない、全国で同じような思いをしていた。
2007年に裁判が終わりました。
15か所で控訴した結果、7か所は敗訴、1か所は勝訴、7か所は和解となりました。
残留孤児20歳~60歳までの国民年金全額6万6000円が日本にいなかった期間があっても65歳になったら貰えるようになりました。(2008年4月~)
帰国した配偶者も4万4000円貰えるようになりました。
生活をするために他に支援金もあります。(二人で17万円位になり生活は安定する)
2009年に日中友好の会をスタートさせる。
裁判の時は団結したが、その後はバラバラになってしまって、組織があった方がいいと思いもあり、日中友好の会を作りました。
5回訪問しましたが、会の最高齢は83歳です。
2世、3世も訪問団に参加しましたが、今後は若い世代に続けてほしいと思います。
日本に帰って来て、言葉が通じないとか、生活習慣の違いがあり、高齢化してきて、政府として残留孤児の介護、老人ホームの事を考えてほしい。
日中の関係がぎくしゃくしていることに対して心が痛みます。
仲良くするとみんな温かい心になる、行き来して友達に成り、戦争は絶対にしないでほしい。
今村明子の名前は1982年に国籍取得のために付けました。
日本に永住が出来て、中国から主人も来てもらいました。
正式な仕事を探さなければいけないと河合弁護士に相談しました。
河合弁護士は残留孤児の戸籍を取るための仕事を進めていました。
河合弁護士に仕事の手伝いをすることになり、使用期間が2年間在り、そののちに正社員になる様に先生に相談しました処、承諾してもらいました。
厚労省の残留孤児の肉親捜しが代々木のオリンピックセンターで行われていた。
1994年12月14日の肉親探し説明会での通訳をした後に、喫茶店で60歳台の女性と出会いました。
姉も中国もに残されていて、話す中で同じ土地にいたことが判りました。
段々話すうちにどこの家に住んでいたのかを絵に書きました。
まさか姉ではあるまいかと思ったが、連絡先を確認して河合弁護士と相談して、DNA鑑定することになりました。
1995年2月にDNA鑑定してもらい、結果が1996年7月31日でした。
姉妹であることが間違いないといわれました。
51歳の時でした。
戸籍には死亡と書かれていました。
本当の名前は「池田澄江」と云う事が判り、心から安心しました。
親に逢いたかったが、母親は半年まえに亡くなっていました。
養母は立派な人で養母の思想、想うことが私に伝わってきたので養母には本当に感謝しています。
戦争がなかったらみんな親がいる、兄弟がいる、自分の幸せな家庭がある。
残留孤児に対する政府の政策を作ってほしいと思って、113万人の署名をして貰って、政府にも対応を持ちかけました。
2002年から帰国者の待遇改善の裁判を日本各地で行って、全国の代表として活動しました。
原告側に参加たのは2212人でした。
生活保護の人がほとんどでした。(国民の税)
言葉が出来ないと働く場がない、全国で同じような思いをしていた。
2007年に裁判が終わりました。
15か所で控訴した結果、7か所は敗訴、1か所は勝訴、7か所は和解となりました。
残留孤児20歳~60歳までの国民年金全額6万6000円が日本にいなかった期間があっても65歳になったら貰えるようになりました。(2008年4月~)
帰国した配偶者も4万4000円貰えるようになりました。
生活をするために他に支援金もあります。(二人で17万円位になり生活は安定する)
2009年に日中友好の会をスタートさせる。
裁判の時は団結したが、その後はバラバラになってしまって、組織があった方がいいと思いもあり、日中友好の会を作りました。
5回訪問しましたが、会の最高齢は83歳です。
2世、3世も訪問団に参加しましたが、今後は若い世代に続けてほしいと思います。
日本に帰って来て、言葉が通じないとか、生活習慣の違いがあり、高齢化してきて、政府として残留孤児の介護、老人ホームの事を考えてほしい。
日中の関係がぎくしゃくしていることに対して心が痛みます。
仲良くするとみんな温かい心になる、行き来して友達に成り、戦争は絶対にしないでほしい。
2017年7月18日火曜日
池田澄江(中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)
池田澄江(NPO法人中国帰国者・日中友好の会 理事長)・三つの名前で生きて(1)
1944年旧満州黒竜江省生まれ。
終戦の混乱の中、中国人に預けられ、養父母の元で育ちます。
36年前肉親を探し求めて来日した池田さん、長い時間を掛けやっと実の姉達との出会いを果たし、日本で生活しています。
日中国交正常化45周年の今年、NPOの会員102人で中国を訪ね養父母の墓参りや、現地の人たちとの交流を深めて帰国しました。
6月の末、1週間日中友好の会102人とともに中国に行ってきました。
黒竜江省に行ってその後北京に行きました。
黒竜江省は残留孤児の70%が生まれ育ちました。
中国は第二の祖国です。
ほとんどの養父母は亡くなっています。
お墓参りをしてきました。
戦争がなかったら外国に残されることはなかった。
その後北京大学で交流会が行われました。
わたしたちの命は中国の養父母、みなさんによって支えられました。
今回で4回目になりますが、北京大学で若い人たちと交流を持ったのは初めてです。
去年の12月3日に北京大学のいん?教授が日中友好会の事務所にきて、残留孤児の歴史を研究する仕事で、先生の大学に行って若い人と交流が出来たらいいなあと話したら、最初快い返事ではなかったが、大使館にお願いして日中友好協会から向こうにお願いして、OKに成りました。
1944年(昭和19年)10月14日生まれで、戦争が終わった時には10カ月だった。
実の親は母乳が出なくて、泣く泣くB?さんという中国人に渡しました。
子供がいなかった除さん夫妻がお金を出して引き取ってくれて、「徐明」という名前になりました。
明るく優しい人でした。
8歳のときに(1953年)養母と日本の公安局2人と話をして日本人の児だと云うことでしたが、養母は反対して違いますと云ったそうです。
しかしその時に初めて日本人の子だと云う事が判りました。
当時同級生達は日本人は鬼と呼ばれていて子供は小鬼といわれていました。
先生はいじめはだめですと、当時は助けてくれました。
養母に私は悪い人の子供ですかと云ったら、(人を殺す、家は焼く)みんな悪いのではなく兵隊ですと。
子供でも日本人は挨拶をするし、女性は優しくて、当時はその事を教えてくれました。
小学2年生、3年生の前半までは徐さんの家では人を雇ったりしていて裕福でした。
私は一人でいた時は衣服も綺麗にしていましたが、3から4歳のときに突然子供が来て、食べ物などいいものはその子にあげて残ったものを私にくれて、凄くやきもちを持ちました。
男の子は母親が亡くなりお父さんも仕事で面倒を見る人がいない、それに比べてあなたにはお母さんがいる、この子はかわいそうだと教えてくれてくれました。
9歳の時にお父さんが商売に失敗して、借金の取り立てに来て、お母さんは朝マイナス40度の寒いところで商売をしました。
夜中にそばにお母さんがいなくて台所に行ったら、お母さんが自殺しようとしていて、今の生活はどうにもならないが、子供を育てるのは自分の責任だと云うことで自殺は止めました。
服は買えませんでいたが、正月だけは嫁入りの時に持ってきた服のサイズを変えて、作ってくれた服を着ました。(血のつながりはないけど凄いお母さんでした)
教師になるため師範学校を卒業して、目標だった先生になって、結婚もして3人の子にも恵まれました。
1972年 日中国交正常化、1978年日中平和友好条約が結ばれる。
文化大革命の時には、初めて日本人、やばいなあと思いました。
中国にいるといくら頑張っても優秀な人間に成れない、公安局の人が来てあなたは日本人だから登録しなさいと言われました。
近くに日本人の女性が居てその女性と付き合うようになって、日本は悪いところではなくて、肉親を探すことはできると言われました。
養母にも話をして承諾して貰って申請をしました。
自分の親兄弟など本当のことを知りたかった。
1981年(36歳) 子供3人とともに帰国しました。
1980年の時に肉親捜しの件を朝日新聞の菅原さんに書面で渡して、そのことが朝日新聞にでて、北海道から直ぐに手紙が来ました。
中国では血液型は調べて無かったので病院で調べて、その人に送りました。
あなたは私の娘だと言われました。
戸籍取得にはまだ不足なのでDNA鑑定をすることになったが結果は違っていました。
中国に帰るだけのお金もなくて、法務局に行って日本での親捜しをしたいと云うことで
交渉したが、期間が切れたら強制送還するといわれてしまいました。
7つの遺書を書いて、自殺しようと思いましたが、3人の子供を見て、子供への責任を感じて生きる力を得ました。
東京では助けてくれる人がいるかもしれないと思って、菅原さんを介して東京に来ました。(1981年12月17日着)
12月24日、朝日新聞に大きな記事で全国から凄く応援してもらって、桜共同法律事務所の河合弁護士が電話をかけてきてくれて、助けてくれました。
1982年5月31日、日本の戸籍が取れました。
親の欄は親不詳、名前は通訳の方が今村と云う人で今村という姓を使ってもいいと云うことで、「今村明子」と云う名前になり、日本国籍を取得しました。(身元未判明孤児として初めて取れました)
1944年旧満州黒竜江省生まれ。
終戦の混乱の中、中国人に預けられ、養父母の元で育ちます。
36年前肉親を探し求めて来日した池田さん、長い時間を掛けやっと実の姉達との出会いを果たし、日本で生活しています。
日中国交正常化45周年の今年、NPOの会員102人で中国を訪ね養父母の墓参りや、現地の人たちとの交流を深めて帰国しました。
6月の末、1週間日中友好の会102人とともに中国に行ってきました。
黒竜江省に行ってその後北京に行きました。
黒竜江省は残留孤児の70%が生まれ育ちました。
中国は第二の祖国です。
ほとんどの養父母は亡くなっています。
お墓参りをしてきました。
戦争がなかったら外国に残されることはなかった。
その後北京大学で交流会が行われました。
わたしたちの命は中国の養父母、みなさんによって支えられました。
今回で4回目になりますが、北京大学で若い人たちと交流を持ったのは初めてです。
去年の12月3日に北京大学のいん?教授が日中友好会の事務所にきて、残留孤児の歴史を研究する仕事で、先生の大学に行って若い人と交流が出来たらいいなあと話したら、最初快い返事ではなかったが、大使館にお願いして日中友好協会から向こうにお願いして、OKに成りました。
1944年(昭和19年)10月14日生まれで、戦争が終わった時には10カ月だった。
実の親は母乳が出なくて、泣く泣くB?さんという中国人に渡しました。
子供がいなかった除さん夫妻がお金を出して引き取ってくれて、「徐明」という名前になりました。
明るく優しい人でした。
8歳のときに(1953年)養母と日本の公安局2人と話をして日本人の児だと云うことでしたが、養母は反対して違いますと云ったそうです。
しかしその時に初めて日本人の子だと云う事が判りました。
当時同級生達は日本人は鬼と呼ばれていて子供は小鬼といわれていました。
先生はいじめはだめですと、当時は助けてくれました。
養母に私は悪い人の子供ですかと云ったら、(人を殺す、家は焼く)みんな悪いのではなく兵隊ですと。
子供でも日本人は挨拶をするし、女性は優しくて、当時はその事を教えてくれました。
小学2年生、3年生の前半までは徐さんの家では人を雇ったりしていて裕福でした。
私は一人でいた時は衣服も綺麗にしていましたが、3から4歳のときに突然子供が来て、食べ物などいいものはその子にあげて残ったものを私にくれて、凄くやきもちを持ちました。
男の子は母親が亡くなりお父さんも仕事で面倒を見る人がいない、それに比べてあなたにはお母さんがいる、この子はかわいそうだと教えてくれてくれました。
9歳の時にお父さんが商売に失敗して、借金の取り立てに来て、お母さんは朝マイナス40度の寒いところで商売をしました。
夜中にそばにお母さんがいなくて台所に行ったら、お母さんが自殺しようとしていて、今の生活はどうにもならないが、子供を育てるのは自分の責任だと云うことで自殺は止めました。
服は買えませんでいたが、正月だけは嫁入りの時に持ってきた服のサイズを変えて、作ってくれた服を着ました。(血のつながりはないけど凄いお母さんでした)
教師になるため師範学校を卒業して、目標だった先生になって、結婚もして3人の子にも恵まれました。
1972年 日中国交正常化、1978年日中平和友好条約が結ばれる。
文化大革命の時には、初めて日本人、やばいなあと思いました。
中国にいるといくら頑張っても優秀な人間に成れない、公安局の人が来てあなたは日本人だから登録しなさいと言われました。
近くに日本人の女性が居てその女性と付き合うようになって、日本は悪いところではなくて、肉親を探すことはできると言われました。
養母にも話をして承諾して貰って申請をしました。
自分の親兄弟など本当のことを知りたかった。
1981年(36歳) 子供3人とともに帰国しました。
1980年の時に肉親捜しの件を朝日新聞の菅原さんに書面で渡して、そのことが朝日新聞にでて、北海道から直ぐに手紙が来ました。
中国では血液型は調べて無かったので病院で調べて、その人に送りました。
あなたは私の娘だと言われました。
戸籍取得にはまだ不足なのでDNA鑑定をすることになったが結果は違っていました。
中国に帰るだけのお金もなくて、法務局に行って日本での親捜しをしたいと云うことで
交渉したが、期間が切れたら強制送還するといわれてしまいました。
7つの遺書を書いて、自殺しようと思いましたが、3人の子供を見て、子供への責任を感じて生きる力を得ました。
東京では助けてくれる人がいるかもしれないと思って、菅原さんを介して東京に来ました。(1981年12月17日着)
12月24日、朝日新聞に大きな記事で全国から凄く応援してもらって、桜共同法律事務所の河合弁護士が電話をかけてきてくれて、助けてくれました。
1982年5月31日、日本の戸籍が取れました。
親の欄は親不詳、名前は通訳の方が今村と云う人で今村という姓を使ってもいいと云うことで、「今村明子」と云う名前になり、日本国籍を取得しました。(身元未判明孤児として初めて取れました)
2017年7月17日月曜日
豊竹呂太夫(文楽太夫) ・【にっぽんの音】
豊竹呂太夫(文楽太夫) ・【にっぽんの音】
5月29日に6代目豊竹呂太夫襲名披露公演を行ったばかり。
文楽とは、人形浄瑠璃、人形使いが居て、太夫、三味線の3つの仕事から成り立っている。
私は太夫として、メーンステージの右手に小さなステージがあるが、そこに三味線師さんとともに、舞台の進行を義太夫節と云うものでナレーション役、登場人物のせりふをみんな一人で語るという役です。(基本は一人)
どこに合わせると云うこてゃなくて、阿吽の呼吸で同時に演技すると云うことです。
文楽、淡路国出身の初世植村文楽軒と云う方が座主だったと云う時代が結構有名で、文楽というふうになった。(文楽=人形浄瑠璃)
豊竹英大夫(とよたけ はなふさだゆう)と言われていたが、段々呂太夫と云う名前に慣れて来ました。
人間国宝のおじいさんも呂太夫を名乗っていました。
文楽人生は今年で50年、20歳でこの道に入りました。
祖父が太夫でもあったし、5代目から声も大きいし、大夫にならないかといわれた。
当時ははやらない芸で、やる気はなかった。
小石川高校に通っていて東大に行きたかったが、2回落ちてしまって、小説家になりたいと小説ばっかり読んでいた。
環境も変えたいと思って大阪に行って、祖父の弟子の竹本春子太夫の内弟子として入りました。
その時期があったから今があると思います。
日本の音、三味線の音ですかね。
文楽、江戸時代の庶民が聞いた言葉をそのままやっていて、何を言っているのか判らなかった。
目指していたシュルレアリスムだと思って、小説と同じ世界だと思ってしばらくいようと思いました。
古典芸能と云うけれども、初めての体験ですのですごく新鮮でした。
古典芸能は観に行く機会がなかなか、ないのではないかと思います。
最近はお客さんが入って来るようになりました。
橋下市長が文楽の予算をカットすると言ったので、逆に良い波としてきました。
これからが大事だと思います。
*侍の「笑い」実演
狂言の笑いは 小笑い、中笑い、大笑いの3つしかない。
文楽ではいろいろある。(写実的)
男、女、侍、おじいさん、おばあさん等全部一人でやります。
口伝で勉強していきます。(体で覚える)
いくらテープで聞いて居ても、眼の前で言われると勘違いしていたことが判ります。
ソウルミュージックは大好きです。(魂が語っている)
舞台前では音楽は聞かないです。
今まで無我夢中でやっていたが、この2,3年、大きな役を与えられると1日6時間7時間勉強しなくてはいけなくて、薄氷を踏む思いでやっている訳で、そうすると見えてきたものがある。
今までばらばらであった骨が、むすばれてきて、骸骨の形になってきた様な感じです。
先に明かりが点ったような感じです。
思いっきり軽くやると云うような、そういうイメージがわいてきました。
狂言は仏様の教えだったり神様の教えだったりと云うものが根付いている演目だとおもっていて、狂言を見てもらいたいと云う先に、狂言は人をあやめていいと云うことではなくて、最後は許す気持を持ちなさいと云うメッセージ性でもあるので、狂言を見てもらいたい先に、人間もっとゆっくり行こうよ、穏やかに行こうよと云うメッセージをみんなに伝えたいと思ってやっているんですが、文楽はどうでしょうか?(能楽師狂言方 大藏基誠)
本当に人に仕える、本当に人を愛するのは命がけ、命をも辞さないのが、ほんとうに人に仕えるのではないかと思います。
人を愛すると云うことは本当に命を掛けると云うテーマが文楽の中に流れていると思います。
究極の愛はいのちを捧げる。
夫の全てを愛する、夫がもし愛人が居ても愛人ごと夫を愛している。
夫もきっちり仕事もできるし、不条理の中にあって本当の愛はこうだよと、人を許す。
人を許す事は一番大事だと云うこと。(狂言と同じですね)
一番得をするのは許してあげること、そうすれば自分が楽になる。
日本の芸能にはなんかそういうものがあるのかもしれない、だから名作として残っている。
祖父は物凄く情熱で語り続けていて、祖父の語りの1%でも目標にしていきたいと思っています。
5月29日に6代目豊竹呂太夫襲名披露公演を行ったばかり。
文楽とは、人形浄瑠璃、人形使いが居て、太夫、三味線の3つの仕事から成り立っている。
私は太夫として、メーンステージの右手に小さなステージがあるが、そこに三味線師さんとともに、舞台の進行を義太夫節と云うものでナレーション役、登場人物のせりふをみんな一人で語るという役です。(基本は一人)
どこに合わせると云うこてゃなくて、阿吽の呼吸で同時に演技すると云うことです。
文楽、淡路国出身の初世植村文楽軒と云う方が座主だったと云う時代が結構有名で、文楽というふうになった。(文楽=人形浄瑠璃)
豊竹英大夫(とよたけ はなふさだゆう)と言われていたが、段々呂太夫と云う名前に慣れて来ました。
人間国宝のおじいさんも呂太夫を名乗っていました。
文楽人生は今年で50年、20歳でこの道に入りました。
祖父が太夫でもあったし、5代目から声も大きいし、大夫にならないかといわれた。
当時ははやらない芸で、やる気はなかった。
小石川高校に通っていて東大に行きたかったが、2回落ちてしまって、小説家になりたいと小説ばっかり読んでいた。
環境も変えたいと思って大阪に行って、祖父の弟子の竹本春子太夫の内弟子として入りました。
その時期があったから今があると思います。
日本の音、三味線の音ですかね。
文楽、江戸時代の庶民が聞いた言葉をそのままやっていて、何を言っているのか判らなかった。
目指していたシュルレアリスムだと思って、小説と同じ世界だと思ってしばらくいようと思いました。
古典芸能と云うけれども、初めての体験ですのですごく新鮮でした。
古典芸能は観に行く機会がなかなか、ないのではないかと思います。
最近はお客さんが入って来るようになりました。
橋下市長が文楽の予算をカットすると言ったので、逆に良い波としてきました。
これからが大事だと思います。
*侍の「笑い」実演
狂言の笑いは 小笑い、中笑い、大笑いの3つしかない。
文楽ではいろいろある。(写実的)
男、女、侍、おじいさん、おばあさん等全部一人でやります。
口伝で勉強していきます。(体で覚える)
いくらテープで聞いて居ても、眼の前で言われると勘違いしていたことが判ります。
ソウルミュージックは大好きです。(魂が語っている)
舞台前では音楽は聞かないです。
今まで無我夢中でやっていたが、この2,3年、大きな役を与えられると1日6時間7時間勉強しなくてはいけなくて、薄氷を踏む思いでやっている訳で、そうすると見えてきたものがある。
今までばらばらであった骨が、むすばれてきて、骸骨の形になってきた様な感じです。
先に明かりが点ったような感じです。
思いっきり軽くやると云うような、そういうイメージがわいてきました。
狂言は仏様の教えだったり神様の教えだったりと云うものが根付いている演目だとおもっていて、狂言を見てもらいたいと云う先に、狂言は人をあやめていいと云うことではなくて、最後は許す気持を持ちなさいと云うメッセージ性でもあるので、狂言を見てもらいたい先に、人間もっとゆっくり行こうよ、穏やかに行こうよと云うメッセージをみんなに伝えたいと思ってやっているんですが、文楽はどうでしょうか?(能楽師狂言方 大藏基誠)
本当に人に仕える、本当に人を愛するのは命がけ、命をも辞さないのが、ほんとうに人に仕えるのではないかと思います。
人を愛すると云うことは本当に命を掛けると云うテーマが文楽の中に流れていると思います。
究極の愛はいのちを捧げる。
夫の全てを愛する、夫がもし愛人が居ても愛人ごと夫を愛している。
夫もきっちり仕事もできるし、不条理の中にあって本当の愛はこうだよと、人を許す。
人を許す事は一番大事だと云うこと。(狂言と同じですね)
一番得をするのは許してあげること、そうすれば自分が楽になる。
日本の芸能にはなんかそういうものがあるのかもしれない、だから名作として残っている。
祖父は物凄く情熱で語り続けていて、祖父の語りの1%でも目標にしていきたいと思っています。
2017年7月15日土曜日
おーなり由子(絵本作家) ・目にみえるもの、みえないもの
おーなり由子(絵本作家) ・目にみえるもの、みえないもの
52歳、「幸福な質問」、「あかちゃんが笑うから」等、だれもがいやされ微笑んでしまう、おーなりさんの絵本はどのようにして生まれたのでしょうか。
今回のステージでは作品を朗読で紹介しながら、おーなりさんに大きな影響を与えた故郷大阪茨木市での出会いや作品に込めた思いなどを伺いました。
「モーラと私」 モーラはソーセージのような形をしたピンク色の生き物で目と口、細い4本脚としっぽを持っています。
「モーラと一緒にいるとうれしい。私とモーラは友達だもの。
モーラは或る日忘れたキャラメルみたいに私のポケットに入っていた。・・・・
家に帰ってミルクをあげた。・・・バナナは大好きみたい。・・・
モーラはお父さんとお母さんからは見えない。だからご飯の時モーラが隣りに座っても気が付かないの。・・・・
モーラはいつも面白いことを思いついて私を笑わしてくれる。・・・
モーラは言葉が喋れない、嬉しいと泣く、悲しいと泣く。・・・
モーラは時々眠れない夜などに夜を飛び越えて空を飛び越えて私をそこに連れて行ってくれる。・・・
私は温かい草の上をモーラところころ転がる、光みたいに。
私はモーラのお腹に足を載せていつの間にか眠ってしまう。・・・
モーラ、モーラずっと友達。・・・
或る時夏のキャンプから帰ったら、モーラがいなくなっていた。・・・
あの緑の野原に遊びに行ってたんだって。・・・
もうモーラは時々しかやってこない。・・・
私の小さな現実に綺麗な野原を見付ける。
そして嬉しいこと悲しいこと、同じように抱きしめながら尊敬する大人や恋人、沢山の人とめぐり合う。・・・
大人になっても私はモーラのことを忘れない。
多分もっとたくさん歳をとっても。」
茨木市は大事な人もたくさんいるし、懐かしい思い出も沢山あるし、自分の根っこを育ててくれたような場所です。
人前で話すのが得意ではなく、余り出たくないと思っていました。
モーラはどの人の心の中にもある自由な場所に連れて行ってくれる、小さな生き物と云う感じです。
自由な場所は絵本の中では野原になっています。
1965年大阪市に生まれて、8歳の時に茨木に引っ越してきました。
絵と詩を書くのが好きでした。
本にして自分の絵の世界を作っていました。
小学校5年生から3年間子供の漫画教室に通いました。
近所に浮田要三さん(抽象画家)が住んでいて、絵のことを見てくれたりしました。
道に長く絵を描いて母親に怒られて、浮田さんの家に謝りに行ったら気に入っていると言ってくれて、気持を見抜かれたような感じがしました、判る大人の人がいると云うことの体験が大きかったです。
井上直久先生 高校の美術部の顧問の先生。
宮沢賢治が好きな先生でした。
茨木市をイバラーロというふうに絵を描いていた先生です。
眼の前にあるものを面白く見る、日常の見えるものに魔法を掛けるようなことで、物の見方が豊かに広がって行くような感じを学びました。
高校2年生の時に少女漫画誌に応募して入選する。
翌年 入選作 「路地裏の風景」で漫画家デビュー。
京都の大学に進学、美術学部で学びながら、漫画家として書き続ける。
1990年25歳で結婚、茨木から東京に引っ越しをする。
「言葉の形」
「もしも話す言葉が目に見えたらどんな形をしているだろう。
例えば美しい言葉は花の形、・・・・恋によって色は変わるのかなあ。
きっぱりとした声ならオレンジの花、静かな声なら青い花、優しい声は桜色・・・
誰かを傷付ける言葉が針の形をしているとしたらどうだろう。
話すたびにとがった針が口から発射されて相手にささるのがみえたとしたら。・・・
刺さった場所や血の滲んだ傷口まで見えるとしたら、言葉の使い方は変わるだろうか。
だけど厳しく傷つけるような言葉でも、それが大事な忠告だった時には見分けがつくとしたらどうだろう。
例えばそんな言葉は木の実の形をしていたら、投げつけられた時は痛いけど、拾って育てたら実ることもある木の実。
観て直ぐ分ったら素直に受け取ることができるだろか。
恋人がささやく愛の言葉はどんな色や形をしているだろう。・・・・
虹色に光ってパチンと消えるシャボン玉?・・・
もしも言葉が目に見えたら、楽しい言葉はタンバリン、悲しい言葉は冷たい水滴。
自分を立派に見せるための言葉が、すぐに光をうしなって砂のように枯れて行くのを見るかもしれない。・・・
黙っているという言葉の裏側に豊かな森が広がっているかもしれない。・・・
私の話す言葉はどんな形や色をしているだろう。
誰かを守るためについた嘘なら、それはきっと静かで柔らかな毛布になり、涙を笑い飛ばす言葉は光る入道雲のように明るく湧いて雨のあとの虹を作る。
短い正直な言葉が心の湖の深い場所にすーっと差し込む透明な光のように。・・・
毎日消えて行く話し言葉のむこうの心の形を探す。
大切な人に花のような言葉を届けることができるように。
届いた言葉が木漏れ日の様に笑いますように。」
誰かと話した時に心の中にとどまっている言葉は忘れられない言葉はあります。
「なにがどうっちゅうことはない」と父がよく言っていました。
無事に生きて居るんだから、他の小さな事はどうでもいい、と云うような感じ。
「言葉の形」は絵よりも先に文章が出来ました。
夫は、絵本作家のはたこうしろうさん。
2005年長男誕生、中学1年になります。
「抱っこ」
「抱っこ 抱っこ 一杯触っているといっぱいかわいくなってくる
抱っこ 抱っこ 抱っこしていると思っていたら抱っこされていた
小さい指が私の背中をギュッと掴んで、子供の腕の中は私で一杯」
「くっつく」
「昨日は頭のてっぺん、おとといはお尻、このあいだはおでこだったっけ
寝て居る時、身体のどこかが私にくっつていると安心している赤ん坊
今朝は足の裏 小さい足の裏がパスっと私の頭を蹴っ飛ばして私のあごのすぐ下に
そうしてでんくるりんとさかさま 今はお尻突き出してスースー眠っているよ」
「お母さん お母さん お母さん 声がする・・・・」 (涙ぐんで言葉がつまる)
台所にいてもお風呂場にいてもトイレに入っていても服を着替えて居ても
お母さん その声が何度も何度も夕方に溶けて行く
お母さん 怒った声で言う
お母さん 泣きながら言う
お母さん 跳ねるように言う
お母さん お母さん お母さん 呼ばれながら私はお母さんになって行く」
「赤ちゃんが笑うから」
「私が嬉しい時、赤ちゃんが笑う 私が悲しい時 赤ちゃんが笑う
私が心を心配事でいっぱいにしている時、赤ちゃんが笑う
母さんは弱い、時々凄く弱くなる
お乳をあげながら不安はあちこちからこぼれおちてくる。
悲しいニュースを見るたびに世界は土砂降りのように感じられ、未来は何処までも灰色の雲で一杯で、何処までも何処までも 何処までも何処までも
そんな時バアーキション 大きなヘンテコなくしゃみ
赤ちゃんから大人見たいなくしゃみが出て私は正気にかえる
そうだった、世界は何時だって始まったばかり
生まれてきた子供達は言う、これから生きて行く世界をひどいと決めつけないでよ
僕らを弱いと決めつけないでよ
僕らは生きたい、僕らは愛したい、僕らは触りたい、僕らは感じたい
登り坂でも下り坂でも僕らはいっぱい遊びたい。
土砂降りの中で歌おう、がれきを蹴飛ばし歌おう
そうしてトランペットのようなおならがぱんぱんぱんと鳴り響いて、雲を吹き飛ばすと新しい空の幕が上がる。
噴水みたいな光を撒き散らして、子供達が笑う声 赤やんが笑う声
ねえねえ 何もないのにどうして笑ってるの
嬉しいことあるよ ここに全部あるよ ここに全部
うれしいことは抱っこ 嬉しいことは胸の中 嬉しいことは朝の匂い
嬉しいことは暖かな日だまり 嬉しい事は優しい声
手 柔らかい小さい手 その手が触れるとどこからか光る泉が不思議な強さであふれてくる
弱いかあさんの胸にもあふれてくる
ほら ほら ほら ほら ほらここに私を抱きしめてくれる小さな手
嬉しいことあるよ 全部ここにあるよ」
52歳、「幸福な質問」、「あかちゃんが笑うから」等、だれもがいやされ微笑んでしまう、おーなりさんの絵本はどのようにして生まれたのでしょうか。
今回のステージでは作品を朗読で紹介しながら、おーなりさんに大きな影響を与えた故郷大阪茨木市での出会いや作品に込めた思いなどを伺いました。
「モーラと私」 モーラはソーセージのような形をしたピンク色の生き物で目と口、細い4本脚としっぽを持っています。
「モーラと一緒にいるとうれしい。私とモーラは友達だもの。
モーラは或る日忘れたキャラメルみたいに私のポケットに入っていた。・・・・
家に帰ってミルクをあげた。・・・バナナは大好きみたい。・・・
モーラはお父さんとお母さんからは見えない。だからご飯の時モーラが隣りに座っても気が付かないの。・・・・
モーラはいつも面白いことを思いついて私を笑わしてくれる。・・・
モーラは言葉が喋れない、嬉しいと泣く、悲しいと泣く。・・・
モーラは時々眠れない夜などに夜を飛び越えて空を飛び越えて私をそこに連れて行ってくれる。・・・
私は温かい草の上をモーラところころ転がる、光みたいに。
私はモーラのお腹に足を載せていつの間にか眠ってしまう。・・・
モーラ、モーラずっと友達。・・・
或る時夏のキャンプから帰ったら、モーラがいなくなっていた。・・・
あの緑の野原に遊びに行ってたんだって。・・・
もうモーラは時々しかやってこない。・・・
私の小さな現実に綺麗な野原を見付ける。
そして嬉しいこと悲しいこと、同じように抱きしめながら尊敬する大人や恋人、沢山の人とめぐり合う。・・・
大人になっても私はモーラのことを忘れない。
多分もっとたくさん歳をとっても。」
茨木市は大事な人もたくさんいるし、懐かしい思い出も沢山あるし、自分の根っこを育ててくれたような場所です。
人前で話すのが得意ではなく、余り出たくないと思っていました。
モーラはどの人の心の中にもある自由な場所に連れて行ってくれる、小さな生き物と云う感じです。
自由な場所は絵本の中では野原になっています。
1965年大阪市に生まれて、8歳の時に茨木に引っ越してきました。
絵と詩を書くのが好きでした。
本にして自分の絵の世界を作っていました。
小学校5年生から3年間子供の漫画教室に通いました。
近所に浮田要三さん(抽象画家)が住んでいて、絵のことを見てくれたりしました。
道に長く絵を描いて母親に怒られて、浮田さんの家に謝りに行ったら気に入っていると言ってくれて、気持を見抜かれたような感じがしました、判る大人の人がいると云うことの体験が大きかったです。
井上直久先生 高校の美術部の顧問の先生。
宮沢賢治が好きな先生でした。
茨木市をイバラーロというふうに絵を描いていた先生です。
眼の前にあるものを面白く見る、日常の見えるものに魔法を掛けるようなことで、物の見方が豊かに広がって行くような感じを学びました。
高校2年生の時に少女漫画誌に応募して入選する。
翌年 入選作 「路地裏の風景」で漫画家デビュー。
京都の大学に進学、美術学部で学びながら、漫画家として書き続ける。
1990年25歳で結婚、茨木から東京に引っ越しをする。
「言葉の形」
「もしも話す言葉が目に見えたらどんな形をしているだろう。
例えば美しい言葉は花の形、・・・・恋によって色は変わるのかなあ。
きっぱりとした声ならオレンジの花、静かな声なら青い花、優しい声は桜色・・・
誰かを傷付ける言葉が針の形をしているとしたらどうだろう。
話すたびにとがった針が口から発射されて相手にささるのがみえたとしたら。・・・
刺さった場所や血の滲んだ傷口まで見えるとしたら、言葉の使い方は変わるだろうか。
だけど厳しく傷つけるような言葉でも、それが大事な忠告だった時には見分けがつくとしたらどうだろう。
例えばそんな言葉は木の実の形をしていたら、投げつけられた時は痛いけど、拾って育てたら実ることもある木の実。
観て直ぐ分ったら素直に受け取ることができるだろか。
恋人がささやく愛の言葉はどんな色や形をしているだろう。・・・・
虹色に光ってパチンと消えるシャボン玉?・・・
もしも言葉が目に見えたら、楽しい言葉はタンバリン、悲しい言葉は冷たい水滴。
自分を立派に見せるための言葉が、すぐに光をうしなって砂のように枯れて行くのを見るかもしれない。・・・
黙っているという言葉の裏側に豊かな森が広がっているかもしれない。・・・
私の話す言葉はどんな形や色をしているだろう。
誰かを守るためについた嘘なら、それはきっと静かで柔らかな毛布になり、涙を笑い飛ばす言葉は光る入道雲のように明るく湧いて雨のあとの虹を作る。
短い正直な言葉が心の湖の深い場所にすーっと差し込む透明な光のように。・・・
毎日消えて行く話し言葉のむこうの心の形を探す。
大切な人に花のような言葉を届けることができるように。
届いた言葉が木漏れ日の様に笑いますように。」
誰かと話した時に心の中にとどまっている言葉は忘れられない言葉はあります。
「なにがどうっちゅうことはない」と父がよく言っていました。
無事に生きて居るんだから、他の小さな事はどうでもいい、と云うような感じ。
「言葉の形」は絵よりも先に文章が出来ました。
夫は、絵本作家のはたこうしろうさん。
2005年長男誕生、中学1年になります。
「抱っこ」
「抱っこ 抱っこ 一杯触っているといっぱいかわいくなってくる
抱っこ 抱っこ 抱っこしていると思っていたら抱っこされていた
小さい指が私の背中をギュッと掴んで、子供の腕の中は私で一杯」
「くっつく」
「昨日は頭のてっぺん、おとといはお尻、このあいだはおでこだったっけ
寝て居る時、身体のどこかが私にくっつていると安心している赤ん坊
今朝は足の裏 小さい足の裏がパスっと私の頭を蹴っ飛ばして私のあごのすぐ下に
そうしてでんくるりんとさかさま 今はお尻突き出してスースー眠っているよ」
「お母さん お母さん お母さん 声がする・・・・」 (涙ぐんで言葉がつまる)
台所にいてもお風呂場にいてもトイレに入っていても服を着替えて居ても
お母さん その声が何度も何度も夕方に溶けて行く
お母さん 怒った声で言う
お母さん 泣きながら言う
お母さん 跳ねるように言う
お母さん お母さん お母さん 呼ばれながら私はお母さんになって行く」
「赤ちゃんが笑うから」
「私が嬉しい時、赤ちゃんが笑う 私が悲しい時 赤ちゃんが笑う
私が心を心配事でいっぱいにしている時、赤ちゃんが笑う
母さんは弱い、時々凄く弱くなる
お乳をあげながら不安はあちこちからこぼれおちてくる。
悲しいニュースを見るたびに世界は土砂降りのように感じられ、未来は何処までも灰色の雲で一杯で、何処までも何処までも 何処までも何処までも
そんな時バアーキション 大きなヘンテコなくしゃみ
赤ちゃんから大人見たいなくしゃみが出て私は正気にかえる
そうだった、世界は何時だって始まったばかり
生まれてきた子供達は言う、これから生きて行く世界をひどいと決めつけないでよ
僕らを弱いと決めつけないでよ
僕らは生きたい、僕らは愛したい、僕らは触りたい、僕らは感じたい
登り坂でも下り坂でも僕らはいっぱい遊びたい。
土砂降りの中で歌おう、がれきを蹴飛ばし歌おう
そうしてトランペットのようなおならがぱんぱんぱんと鳴り響いて、雲を吹き飛ばすと新しい空の幕が上がる。
噴水みたいな光を撒き散らして、子供達が笑う声 赤やんが笑う声
ねえねえ 何もないのにどうして笑ってるの
嬉しいことあるよ ここに全部あるよ ここに全部
うれしいことは抱っこ 嬉しいことは胸の中 嬉しいことは朝の匂い
嬉しいことは暖かな日だまり 嬉しい事は優しい声
手 柔らかい小さい手 その手が触れるとどこからか光る泉が不思議な強さであふれてくる
弱いかあさんの胸にもあふれてくる
ほら ほら ほら ほら ほらここに私を抱きしめてくれる小さな手
嬉しいことあるよ 全部ここにあるよ」
2017年7月14日金曜日
山下惣一(農民作家) ・“小さな農業”が日本を支える
山下惣一(農民作家) ・“小さな農業”が日本を支える
今年の4月に福岡市で開かれた小農学会のシンポジウムで、佐賀県唐津市の農民作家山下さんが日本の農業は儲かったから続いてきたからではなく、農業が必要だったから続いてきたと指摘しました。
生産者の得ている対価があまりにも低いので、仕方なく出稼ぎに出て居るのだとおっしゃいます。
一昨年小農学会をたちあげる。
日本の農業は戦後の農地解放でみんな小さな農家に成ってしまって全部小農じゃないですか。
面積で区切るのではなくて、目的で区別した。
家族で働いて暮らしてゆくことを目的にしている、それが小農です。
守田志郎と云う人が最初に「小農」と使っている。
生活の糧を稼ぐためにやるのが労働であって、暮らしのためにやる。
小農だということは、家族が、これは私たちのやっている農業だ、ということのできる農業生活と生産となので、他人の働きに頼ったり、他人の働きでもうけたりしようとしない農業をいうのである。
松田喜一先生は仕事を労働にしてはいけないと、仕事を楽しむ、道楽にしなさいと言っている。
35歳の頃、規模拡大路線で蜜柑などを植えたりしていたが、中山間地の棚田が多かったので3段か4段で31枚という棚田があった。
それを1枚にしたいと思って、そばに兼業農家の帯のような棚田がありそれがないと形が取れないので交渉して譲り受けました。
そこには藁人形を燃やした跡があり、田んぼは先祖からあずかってるものなので、先祖別れの儀式をしたと云うことで、衝撃的でした。
自分が大きくなることだけを考えて居て、相手のことを考えていなかったということに気がつきました。
それからは規模拡大は目指しませんでした。
単作にしないで色々作り、一年中収入が絶えないようにやっています。
身の丈サイズが一番いいと思います。
2014年に国連が国際家族農業年と定めて報告書を出した。
「家族農業が世界の未来を開く」といって、本を読んだら自分が言っていることが全部書いてあるような気がした。
世界の農家の70%が1ヘクタール以下、世界の農業の90%は家族農業だと言っています。
①世界の農業の90%は家族農業、家族農業は世界の農業の土台である。
②飢えている人たちは8憶いると言われて居て、その半分は農民。(土地なし、零細農民)
農業をやる人を手助けする。
③大規模農業に比べて小規模農業は土地生産性が高い、面積当たりの収量は多い、環境保全的である。
④多くの人にとって故郷であり、文化、芸能の伝承者でもある。
民俗芸能はそこでしか残っていない。
⑤農業の専門特化でやるのは非常にリスクは高い。
リーマンショック後の不況時にヨーロッパの企業農業はバタバタ倒産した。
兼業農家がリスク回避の有効な手段だと書いてある。
オランダの農家の90%は兼業農家、大面積でやっているフランスでは60%は農業以外で収入を得て居る
日本の兼業農家は75%、アメリカでは70%近くが兼業(日本とは兼業の形態が違うが)
農産物輸出国は悲惨です、余っている物を作っているから。
ブラジルなどは悲惨です。
九州で智慧を出し合って展開を始めて居ます。
将来的にはオーガニックに成って行くのではないか、地産地消。
富裕層を目指して米を作ろうとは思っていない、日本人の為の農業をやりたい。
人間は向学心があると思う。
父親は養子で家をつぶすのが怖かった。
教育のため子供を都会に出すが帰ってこない、そうするうちに家は潰れる、教育は家をつぶし、村を滅ぼすと云う事で高校に行かせてくれなかった。
通信教育で2年間勉強して、試験だけ受けてみたいと言ったら、田んぼから突き落されてドロンコに成り泣きました。
2回家出をしました、自分が逃げても農業も家も辛い労働も残るわけで、逃げることはまずいと思って逃げなくてもいいような村を作るべきだと思った。
小説を読み始めました、主に太宰治でした。
自分でも書けるのではないかと思って、文芸雑誌に投稿したりしました。
32歳のころに草刈り機で足を切ってしまって、田んぼに入れなくなり、佐賀県での文学賞があると云うことを新聞で知って、改めて書きました。
地元の同人雑誌に入って、書いた小説で農民文学賞を貰いました(「海鳴り」)
NHKのTV 『ひこばえの歌』
ひこばえ:樹木の切り株や根元から生えてくる若芽。
枯れても枯れても芽が出てくる、農家の永遠みたいなものを象徴させたかった。
今は雑誌と新聞のコラムを書いているぐらいで書く気はしません。
書くと云うことは書くことに責任を取ることなので、勉強はします、ずーっと人生勉強でした。
悔いはないです、81歳でも現役でやっていますので。
食べるのは他の命を頂くことだと云うことは、今の日本には全く無くなってしまっている。
農家に嫁いだ女性たちは農業は好きだと云う人は居なくて、仕方なくやっているうちに好きになってくる、植物、農作物、家畜も決して裏切らない、これが一番いいですね。
娯楽の楽しみは生産の喜びには及ばない。
棒の一方の端が苦、他方が楽だとすると、人間は真ん中にいて、苦を克服していくと苦が減って楽が増える、これは農業では良く判る。
今年の4月に福岡市で開かれた小農学会のシンポジウムで、佐賀県唐津市の農民作家山下さんが日本の農業は儲かったから続いてきたからではなく、農業が必要だったから続いてきたと指摘しました。
生産者の得ている対価があまりにも低いので、仕方なく出稼ぎに出て居るのだとおっしゃいます。
一昨年小農学会をたちあげる。
日本の農業は戦後の農地解放でみんな小さな農家に成ってしまって全部小農じゃないですか。
面積で区切るのではなくて、目的で区別した。
家族で働いて暮らしてゆくことを目的にしている、それが小農です。
守田志郎と云う人が最初に「小農」と使っている。
生活の糧を稼ぐためにやるのが労働であって、暮らしのためにやる。
小農だということは、家族が、これは私たちのやっている農業だ、ということのできる農業生活と生産となので、他人の働きに頼ったり、他人の働きでもうけたりしようとしない農業をいうのである。
松田喜一先生は仕事を労働にしてはいけないと、仕事を楽しむ、道楽にしなさいと言っている。
35歳の頃、規模拡大路線で蜜柑などを植えたりしていたが、中山間地の棚田が多かったので3段か4段で31枚という棚田があった。
それを1枚にしたいと思って、そばに兼業農家の帯のような棚田がありそれがないと形が取れないので交渉して譲り受けました。
そこには藁人形を燃やした跡があり、田んぼは先祖からあずかってるものなので、先祖別れの儀式をしたと云うことで、衝撃的でした。
自分が大きくなることだけを考えて居て、相手のことを考えていなかったということに気がつきました。
それからは規模拡大は目指しませんでした。
単作にしないで色々作り、一年中収入が絶えないようにやっています。
身の丈サイズが一番いいと思います。
2014年に国連が国際家族農業年と定めて報告書を出した。
「家族農業が世界の未来を開く」といって、本を読んだら自分が言っていることが全部書いてあるような気がした。
世界の農家の70%が1ヘクタール以下、世界の農業の90%は家族農業だと言っています。
①世界の農業の90%は家族農業、家族農業は世界の農業の土台である。
②飢えている人たちは8憶いると言われて居て、その半分は農民。(土地なし、零細農民)
農業をやる人を手助けする。
③大規模農業に比べて小規模農業は土地生産性が高い、面積当たりの収量は多い、環境保全的である。
④多くの人にとって故郷であり、文化、芸能の伝承者でもある。
民俗芸能はそこでしか残っていない。
⑤農業の専門特化でやるのは非常にリスクは高い。
リーマンショック後の不況時にヨーロッパの企業農業はバタバタ倒産した。
兼業農家がリスク回避の有効な手段だと書いてある。
オランダの農家の90%は兼業農家、大面積でやっているフランスでは60%は農業以外で収入を得て居る
日本の兼業農家は75%、アメリカでは70%近くが兼業(日本とは兼業の形態が違うが)
農産物輸出国は悲惨です、余っている物を作っているから。
ブラジルなどは悲惨です。
九州で智慧を出し合って展開を始めて居ます。
将来的にはオーガニックに成って行くのではないか、地産地消。
富裕層を目指して米を作ろうとは思っていない、日本人の為の農業をやりたい。
人間は向学心があると思う。
父親は養子で家をつぶすのが怖かった。
教育のため子供を都会に出すが帰ってこない、そうするうちに家は潰れる、教育は家をつぶし、村を滅ぼすと云う事で高校に行かせてくれなかった。
通信教育で2年間勉強して、試験だけ受けてみたいと言ったら、田んぼから突き落されてドロンコに成り泣きました。
2回家出をしました、自分が逃げても農業も家も辛い労働も残るわけで、逃げることはまずいと思って逃げなくてもいいような村を作るべきだと思った。
小説を読み始めました、主に太宰治でした。
自分でも書けるのではないかと思って、文芸雑誌に投稿したりしました。
32歳のころに草刈り機で足を切ってしまって、田んぼに入れなくなり、佐賀県での文学賞があると云うことを新聞で知って、改めて書きました。
地元の同人雑誌に入って、書いた小説で農民文学賞を貰いました(「海鳴り」)
NHKのTV 『ひこばえの歌』
ひこばえ:樹木の切り株や根元から生えてくる若芽。
枯れても枯れても芽が出てくる、農家の永遠みたいなものを象徴させたかった。
今は雑誌と新聞のコラムを書いているぐらいで書く気はしません。
書くと云うことは書くことに責任を取ることなので、勉強はします、ずーっと人生勉強でした。
悔いはないです、81歳でも現役でやっていますので。
食べるのは他の命を頂くことだと云うことは、今の日本には全く無くなってしまっている。
農家に嫁いだ女性たちは農業は好きだと云う人は居なくて、仕方なくやっているうちに好きになってくる、植物、農作物、家畜も決して裏切らない、これが一番いいですね。
娯楽の楽しみは生産の喜びには及ばない。
棒の一方の端が苦、他方が楽だとすると、人間は真ん中にいて、苦を克服していくと苦が減って楽が増える、これは農業では良く判る。
2017年7月13日木曜日
吉沢久子(家事評論家・エッセイスト) ・今が一番幸せ
吉沢久子(家事評論家・エッセイスト)・今が一番幸せ
今年白寿を迎えた日本の家事評論家の草分け的存在、吉沢さんはお姑さんと御主人を看取った後、33年間一人暮らしを続けています。
ニュースキャスターだった古谷綱正さんのお兄さんで、文芸評論家だった御主人の古谷綱武さんと元外交官夫人だったお姑さんからは、目に見えない素敵なプレゼントを沢山いただいたと言います。
その最も大きなプレゼントが自由気ままな時間を一人占めできる、一人暮らしだと云います。
閑静なところで向かいの隣の家が谷川俊太郎さんの家で、 曾孫が出来たそうです。
主人が亡くなってから、33年間一人暮らしを続けています。
一人暮らしは素敵で、自分が思った通りに暮らせてこんなに快適なのかと思います。
夫からものを買ってもらったことは一度もないですが、言葉ではいろいろ残してもらいました。
自分の生き方を考えることになり、言葉のプレゼントだと思います。
「人は一人では生きられない、みんなと一緒に生きていくものなので、それを考えて生きなさい」といわれました。(一人誇らしげに生きるなと云うような事)
友達関係を残してくれたりもしました。
昨日も数人集まって一緒にご飯を食べて、勉強会をやっていました。
人との繋がりは本当に大事だと思います。
「美しいもの綺麗なものはどんな小さいものでも見逃すな」とも云われました。
花だけではなくて、人の動作、言葉なども暖かかったりするとハッと感じます。
自宅で咲いた小さな花を飾っています。
「人が死んだらだれも言ってくれないぞ」といわれました。(言ってくれるうちが花)
「人の言葉をちゃんと聞け」といわれました。
「言葉を大事にしろ」といわれました。
お姑さんからは「この年にならないと判らないないことがたくさんある」といわれました。(身体の事とか、昨日できたことが今日はできなくなったとか)
「今日を大事にしなさい」と云うことなんですが。
最後まで毎日お化粧をするし、朝晩違う着物を着てきたりとか、外交官の奥さんの生活をしていました。
朝ご飯が出来ましたと云うと、「今行きます、有難う」と自然に出てきて良いなと思いました。(有難うと云う感謝の言葉の素晴らしさが自然と出てきていた)
言葉に出すと云う事が大事だと思います。(日本人は言葉に出すと云う事が下手)
人間は自立しなければいけない。
自分の生活を自分で律してゆくことが自立だと思っていまして、食事でも一人になるとめんどくさくなってコンビニに行って買ってきたりするが、自分が大事だと思ったら身体を大事にしなければならないので、きちんと作って食べる、それも自立の一つではないかと思います。
小さな事の積み重ねだと思います。
自分の足で立って、自分の頭で考える、そういうものを生涯持って生きたいと思います。
自分で決めたことは自分でやります。
畑をやっていて今は菜っ葉が沢山あり、青汁にして飲んでいます。
紫陽花が咲いて、その時に何をしないといけないか、虫干ししておこうとか、衣料を風に当てておこうとか、花に教えてもらい家事をやります。(家事暦)
萩が咲けば冬仕度とか。
犬は大好きですが、散歩に連れて行ってやれないので、今は飼えません。
メダカを飼っていましたが、白鷺が来て嬉しいと思っていたら、メダカも金魚も居無くなってしまいました、食べちゃいました、それが自然界ですね。
白鷺町という地名がありますが、昔は沢山いたんでしょうね。
歳をとると変な事にこだわって頑張っている人がいますが、ちょっと良くないと思いますね。(外が見え無くなって来る)
年寄りの冷や水と言いますが、若かぶることをすると失敗が多いんじゃないでしょうか。
97歳まで病院に行ったことがなかったですが、変だと思って病院にいきましたが、貧血と云うことで時々輸血をして貰ったりします。
人生の下り坂での喪失感と云うものはないです、その時その時で楽しみ方を知っているので、下り坂の風景もなかなかいいものだと思っています。
昔は落ち着いて見る暇がなかったが、暇が出来てゆっくり見られるようになったのも歳を取ったお陰だと思います。
下り坂の風景は落ち着いて見られるし、しっかり見られます。
失ってゆく機能を嘆いていてはいけない、生きていけるし、文明の利器(メガネ、補聴器など)も一杯あるし、その中で感謝して生きていけば面白いです。
断捨離、いらないものを持つ必要がないので普段からそうしていればいいと思います。
大事だと思ったら取っておいてもいいと思います、自分を大事にしているものは何かと思ったら、必要だと云うものはあると思います。
昔、新聞に連載を書くことになったが、肩書きが必要と云うことで家事評論家ではどうかと言われて、それでも良いかと思いました。(家事評論家第一号と云うことだそうです)
文章を書くことは昔から好きでした、速記もやりました。
台所の戦後史を書きたくて、戦後変わったのは台所でした。(場所、道具など)
台所の歴史と女性が繋がっています、それを書きたかった。
自分で何かあった時に連絡先とか書き残しておくとか、普段から誰かに言っておくとかは必要だと思います。
献体はしている(40年前)ので、処置は考えてあるので、なんかの連絡がつけばいいと思います。
遺言も書いてあります。
生き方は死に方でもあるし、どういうふうに死にたいか、その後の自分のことを多少は考えておかないと他人に迷惑をかけるので。
葬式はしないと云う風にしています。(夫もそうだった)
だれにでもそういう日は来るので、その時人には迷惑をかけないようにしたいと思います。
今のところ本当に幸せです。
歳を取ったら幸せになりたいですね、それはその人の思い方で成るんでしょうね。
著書「ほんとうの贅沢」、「人間、最後はひとり。」、「ひとりの老後は大丈夫?」・・・
今年白寿を迎えた日本の家事評論家の草分け的存在、吉沢さんはお姑さんと御主人を看取った後、33年間一人暮らしを続けています。
ニュースキャスターだった古谷綱正さんのお兄さんで、文芸評論家だった御主人の古谷綱武さんと元外交官夫人だったお姑さんからは、目に見えない素敵なプレゼントを沢山いただいたと言います。
その最も大きなプレゼントが自由気ままな時間を一人占めできる、一人暮らしだと云います。
閑静なところで向かいの隣の家が谷川俊太郎さんの家で、 曾孫が出来たそうです。
主人が亡くなってから、33年間一人暮らしを続けています。
一人暮らしは素敵で、自分が思った通りに暮らせてこんなに快適なのかと思います。
夫からものを買ってもらったことは一度もないですが、言葉ではいろいろ残してもらいました。
自分の生き方を考えることになり、言葉のプレゼントだと思います。
「人は一人では生きられない、みんなと一緒に生きていくものなので、それを考えて生きなさい」といわれました。(一人誇らしげに生きるなと云うような事)
友達関係を残してくれたりもしました。
昨日も数人集まって一緒にご飯を食べて、勉強会をやっていました。
人との繋がりは本当に大事だと思います。
「美しいもの綺麗なものはどんな小さいものでも見逃すな」とも云われました。
花だけではなくて、人の動作、言葉なども暖かかったりするとハッと感じます。
自宅で咲いた小さな花を飾っています。
「人が死んだらだれも言ってくれないぞ」といわれました。(言ってくれるうちが花)
「人の言葉をちゃんと聞け」といわれました。
「言葉を大事にしろ」といわれました。
お姑さんからは「この年にならないと判らないないことがたくさんある」といわれました。(身体の事とか、昨日できたことが今日はできなくなったとか)
「今日を大事にしなさい」と云うことなんですが。
最後まで毎日お化粧をするし、朝晩違う着物を着てきたりとか、外交官の奥さんの生活をしていました。
朝ご飯が出来ましたと云うと、「今行きます、有難う」と自然に出てきて良いなと思いました。(有難うと云う感謝の言葉の素晴らしさが自然と出てきていた)
言葉に出すと云う事が大事だと思います。(日本人は言葉に出すと云う事が下手)
人間は自立しなければいけない。
自分の生活を自分で律してゆくことが自立だと思っていまして、食事でも一人になるとめんどくさくなってコンビニに行って買ってきたりするが、自分が大事だと思ったら身体を大事にしなければならないので、きちんと作って食べる、それも自立の一つではないかと思います。
小さな事の積み重ねだと思います。
自分の足で立って、自分の頭で考える、そういうものを生涯持って生きたいと思います。
自分で決めたことは自分でやります。
畑をやっていて今は菜っ葉が沢山あり、青汁にして飲んでいます。
紫陽花が咲いて、その時に何をしないといけないか、虫干ししておこうとか、衣料を風に当てておこうとか、花に教えてもらい家事をやります。(家事暦)
萩が咲けば冬仕度とか。
犬は大好きですが、散歩に連れて行ってやれないので、今は飼えません。
メダカを飼っていましたが、白鷺が来て嬉しいと思っていたら、メダカも金魚も居無くなってしまいました、食べちゃいました、それが自然界ですね。
白鷺町という地名がありますが、昔は沢山いたんでしょうね。
歳をとると変な事にこだわって頑張っている人がいますが、ちょっと良くないと思いますね。(外が見え無くなって来る)
年寄りの冷や水と言いますが、若かぶることをすると失敗が多いんじゃないでしょうか。
97歳まで病院に行ったことがなかったですが、変だと思って病院にいきましたが、貧血と云うことで時々輸血をして貰ったりします。
人生の下り坂での喪失感と云うものはないです、その時その時で楽しみ方を知っているので、下り坂の風景もなかなかいいものだと思っています。
昔は落ち着いて見る暇がなかったが、暇が出来てゆっくり見られるようになったのも歳を取ったお陰だと思います。
下り坂の風景は落ち着いて見られるし、しっかり見られます。
失ってゆく機能を嘆いていてはいけない、生きていけるし、文明の利器(メガネ、補聴器など)も一杯あるし、その中で感謝して生きていけば面白いです。
断捨離、いらないものを持つ必要がないので普段からそうしていればいいと思います。
大事だと思ったら取っておいてもいいと思います、自分を大事にしているものは何かと思ったら、必要だと云うものはあると思います。
昔、新聞に連載を書くことになったが、肩書きが必要と云うことで家事評論家ではどうかと言われて、それでも良いかと思いました。(家事評論家第一号と云うことだそうです)
文章を書くことは昔から好きでした、速記もやりました。
台所の戦後史を書きたくて、戦後変わったのは台所でした。(場所、道具など)
台所の歴史と女性が繋がっています、それを書きたかった。
自分で何かあった時に連絡先とか書き残しておくとか、普段から誰かに言っておくとかは必要だと思います。
献体はしている(40年前)ので、処置は考えてあるので、なんかの連絡がつけばいいと思います。
遺言も書いてあります。
生き方は死に方でもあるし、どういうふうに死にたいか、その後の自分のことを多少は考えておかないと他人に迷惑をかけるので。
葬式はしないと云う風にしています。(夫もそうだった)
だれにでもそういう日は来るので、その時人には迷惑をかけないようにしたいと思います。
今のところ本当に幸せです。
歳を取ったら幸せになりたいですね、それはその人の思い方で成るんでしょうね。
著書「ほんとうの贅沢」、「人間、最後はひとり。」、「ひとりの老後は大丈夫?」・・・
2017年7月12日水曜日
浜口真弓(浜口庫之助夫人) ・夫からの贈り物
浜口真弓(浜口庫之助夫人) ・夫からの贈り物
浜口庫之助さんは大正6年、神戸市生まれ、生誕100年にあたります。
昭和34年黄色いサクランボで作曲家デビュー、作詞にもさいのうを発揮し、「僕は泣いちっち」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」など数多くのヒット曲を手掛け、ソングライターとして活躍しました。
浜口真弓さんは渚まゆみの芸名で活動していた29歳の時、浜口庫之助さんと結婚しました。
長女にも恵まれ仲睦まじい日々を送りましたが、平成2年浜口庫之助さんは73歳で亡くなってしまいます。
自宅には未発表の作品が数多く見つかりました。
残された楽譜や草稿を大切な贈り物として浜口庫之助さんの音楽世界を少しでも多くの人に知って貰いたいと活動しています。
生誕100年で主人の残した作品をみなさんに忘れてほしくないので、頑張っています。
7月22日が誕生日です。 73歳で亡くなる。
私は16歳で大映のニューフェイスで受かって、主役で『夕やけ小やけの赤とんぼ』デビュー、「渚まゆみ」は作曲家の山田耕作さんが命名しました。
紹介してもらって、歌わせてもらえず発声練習など受けました。
そのうち演歌っぽい歌を練習して、歌ったら、肩を触ってごらんと言われて、泣くような感じで震えていて、こういうふうに歌わなければね、といわれました。
でもその時はどんなことかわからなかった。(感情で歌いなさい、と云うことでしょうか)
浜口庫之助さんはリズムが凄いですね。
歌のことで怒られたことはないです、人間的な面での基本は厳しいです。
地方へ行った時に電話をやり取りしていましたが、必ず「愛してる?」って聞くんです電話の度にそうでした、そうすると私は「愛してるわよ」と云っていました。
会話の内容が「空に太陽がある限り」と云う歌に成ってでたんです。
見合いの話があったが、結婚するんだったら先生みたいな人が良いと言ったら、その後先生のほうから結婚を云われました。(主人が妻を亡くして10年後)
結婚生活では1年後に娘(あんず)が生まれましたが、私に対する生活態度には厳しかったです。
今思うとありがたいと思いました。
育児についての歌もいろいろな歌を作りました。
娘が15歳の時に主人は亡くなりました。
私は娘を留学をさせたいと思っていましたが、主人はミュージカルなどを書くために英語を勉強するというようならば賛成するが、英語をしゃべりさせたいだけで行くのであれば賛成しないと言われました、それよりも日本の事をしっかり勉強させなさいと云っていました。
娘は結局留学しませんでした。
その後、ロンドンに行って博士を取ったんで、主人も喜んでいると思います。
娘も母親になりました。
孫アナベルちゃんが英語で歌う「バラが咲いた」浜口庫之助さんが歌う「バラが咲いた」のディユエットCD作成。(2年前 6歳)
実感したことをだいたい歌にしていました。 「主婦とロマン」
喧嘩したことなども歌にしていますが、そうすると仲良くなってしまいます。
点滴していてもリズムをとったりしていました。
「バラが咲いた」薔薇が散っても心の中に薔薇が咲いていると云うのが凄いと思っています。
結婚期間は17年間で、主人は7年間は元気で10年間は病気でした。
亡くなる時も「君が明るくて助かった、有難う」だけでしたが、今思うとよく主人はわかってくれたなあと思います。
主人であり、先生であり、父親のような存在でした。
厳しいことをいろいろ云われましたが、今思うと何もかも有難たいと思います。
浜口庫之助さんは大正6年、神戸市生まれ、生誕100年にあたります。
昭和34年黄色いサクランボで作曲家デビュー、作詞にもさいのうを発揮し、「僕は泣いちっち」「星のフラメンコ」「バラが咲いた」「夜霧よ今夜も有難う」など数多くのヒット曲を手掛け、ソングライターとして活躍しました。
浜口真弓さんは渚まゆみの芸名で活動していた29歳の時、浜口庫之助さんと結婚しました。
長女にも恵まれ仲睦まじい日々を送りましたが、平成2年浜口庫之助さんは73歳で亡くなってしまいます。
自宅には未発表の作品が数多く見つかりました。
残された楽譜や草稿を大切な贈り物として浜口庫之助さんの音楽世界を少しでも多くの人に知って貰いたいと活動しています。
生誕100年で主人の残した作品をみなさんに忘れてほしくないので、頑張っています。
7月22日が誕生日です。 73歳で亡くなる。
私は16歳で大映のニューフェイスで受かって、主役で『夕やけ小やけの赤とんぼ』デビュー、「渚まゆみ」は作曲家の山田耕作さんが命名しました。
紹介してもらって、歌わせてもらえず発声練習など受けました。
そのうち演歌っぽい歌を練習して、歌ったら、肩を触ってごらんと言われて、泣くような感じで震えていて、こういうふうに歌わなければね、といわれました。
でもその時はどんなことかわからなかった。(感情で歌いなさい、と云うことでしょうか)
浜口庫之助さんはリズムが凄いですね。
歌のことで怒られたことはないです、人間的な面での基本は厳しいです。
地方へ行った時に電話をやり取りしていましたが、必ず「愛してる?」って聞くんです電話の度にそうでした、そうすると私は「愛してるわよ」と云っていました。
会話の内容が「空に太陽がある限り」と云う歌に成ってでたんです。
見合いの話があったが、結婚するんだったら先生みたいな人が良いと言ったら、その後先生のほうから結婚を云われました。(主人が妻を亡くして10年後)
結婚生活では1年後に娘(あんず)が生まれましたが、私に対する生活態度には厳しかったです。
今思うとありがたいと思いました。
育児についての歌もいろいろな歌を作りました。
娘が15歳の時に主人は亡くなりました。
私は娘を留学をさせたいと思っていましたが、主人はミュージカルなどを書くために英語を勉強するというようならば賛成するが、英語をしゃべりさせたいだけで行くのであれば賛成しないと言われました、それよりも日本の事をしっかり勉強させなさいと云っていました。
娘は結局留学しませんでした。
その後、ロンドンに行って博士を取ったんで、主人も喜んでいると思います。
娘も母親になりました。
孫アナベルちゃんが英語で歌う「バラが咲いた」浜口庫之助さんが歌う「バラが咲いた」のディユエットCD作成。(2年前 6歳)
実感したことをだいたい歌にしていました。 「主婦とロマン」
喧嘩したことなども歌にしていますが、そうすると仲良くなってしまいます。
点滴していてもリズムをとったりしていました。
「バラが咲いた」薔薇が散っても心の中に薔薇が咲いていると云うのが凄いと思っています。
結婚期間は17年間で、主人は7年間は元気で10年間は病気でした。
亡くなる時も「君が明るくて助かった、有難う」だけでしたが、今思うとよく主人はわかってくれたなあと思います。
主人であり、先生であり、父親のような存在でした。
厳しいことをいろいろ云われましたが、今思うと何もかも有難たいと思います。
2017年7月11日火曜日
保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男
保坂紀夫(竹造形作家・工業デザイナー)・竹に魅了された男
1940年山梨県生まれ、77歳。(9月17日に亡くなられた)
子供のころから竹林など自然に囲まれて暮らしてきました。
武蔵野美術大学を卒業し、企業デザイナーとして15年間働いた後、会社を辞めて山梨県に戻り甲府にデザイン会社を設立しました。
学生時代から考えていた念願の竹を素材にした創作活動に入りました。
少しづつ学んでいた竹の編み方の技術を本格的に習得するため、全国各地に修行にでかけ、竹アートの世界に入りました。
カゴ、ザル、花器、オブジェなど、さまざまな作品を作って展覧会に出品し、多くの賞を受賞されています。
2006年には山梨県北杜市大泉町に創作活動の場と作品を展示する場として、竹の造形美術館を作り今年で11年目を迎えました。
100点以上が展示、1階、2階合わせて面積はおよそ100坪あまり。
地元の杉とヒノキで作っていて塗装は柿渋、壁も全部和紙で貼ってあります。
標高は1100mぐらいのところなので、冬場は閉館に成っています。
作品は3つのパターンに別れている。
①伝統的な技法を用いた実用のもの。
②伝統的な技法+独自技術を用いたデザイン性と実用性を兼ねたもの。
③素材としての竹を実用性をともなわない自由な作品。
大学では工業デザインをやっていましたが、細かな立体設計などを15年間やって、その間に修行して竹の作家に移行していきました。
竹の持っている特性は素晴らしいと思いました。
竹は1200種類ぐらいありますが、こういうものに向いているのは真竹だと思います。
精密なものから何mと云う大きなものまで作ります。
作品に応じて竹を選んで作ります。
最初アトリエだけつくりました(2003年)、倉庫も2つあり大きなものまで作れます。
色んな素材を扱ってきたが、精密なものは作れる、反発するし、光も通すし、その人の技術によって生きてくれるところに魅力を感じます。
造形力を掻き立てられる素材です。
できるだけ長く持たしたいものは、さらし竹といって、竹を煮沸してアクを抜いて干して、編み取る?と狂わない。
節があるので、作品によって節を考えて作ります。
始めようと思った時には竹林は全国に何十か所もあったが、減ってきてしまいました。
農業用とか漁業用とか使い方、入れるものによって編み方が120種類以上ありました。
編み方について修行して歩きました。
竹の種類は日本には600~700種類あります。
竹の産地により編み方がちがうという事もあります。
真竹系は繊維が緻密で正確なものを作れるし細いものから太いものまであり、節間が長い、それは強いと云うことでもあります。(弱い竹は節間が沢山ないと折れてしまう)
子供のころは農村で北に風よけの竹やぶがあり、竹やぶで遊んだりしていました。
絵は好きでした。
父親は教員で色々な情報が入りました。
中学の時に甲府に転校して美術部に入り、高校でも美術部に入りました。
工業デザイナーを目指して武蔵野美術大学に入りました。
3年から工業デザイナーの方の勉強をしました。
就職はプラスチックのメーカーに入って、プラスチックの製品をデザインしました。
ビールの箱、パッケージ、家庭用品、などのデザインをやっていました。
15年ぐらいやっているうちにプラスチックのゴミの問題が出てきて、もう工業デザインをやらなくて良いかなあと思いまして、竹に興味を持つようにもなりました。
デザインは注文でやるので、自分で作りたいものをやるわけではないので、どこかで転換したいとの思いがありました。
オイルショックがあり、会社の人も減らされ宣伝もやらされるようになり、長男であったので両親の面倒を見なければいけなくなって山梨に戻りました。
デザイン会社を立ちあげデザイン会社をやりながら、竹の作品を展覧会に出品して行きました。
工芸品のショップもやりながら、全国を回って竹の技術を磨いていきました。(40歳台)
段々個展もできるようになり、竹の個展は珍しいと云うことで色々開きました。
そのうちに海外の展覧会にも出品するようになりました。
フィンランドが最初でしたが、竹が好評で海外での個展の話も持ち上がりました。
竹は職人の仕事と云うことだったが、ファインアートとして美術大学では扱っていなかったが、東京芸術大学から特別授業をやってほしいと云うことで、そこから色々な大学で授業をやる様になりました。
60種類の編み方がありますが、編み方を色々応用して無限と云っていいほどの沢山の編み方に広がっていきました。(「時代編み」という編み方も生み出しました)
一つの作品で十何種類も組み合わせて作っている作品もあります。
「矢鱈かご」 衝撃的な編み方でした。
綺麗に編んであると云うよりも、繊細なものと実用的で荒々しくて強さを持ったかごを作ってみたかった。
作っているうちに、ああやってみようこうやってみようという事が浮かんできます。
3~4年の真竹を使っています、年がとってしまうと硬くなってしまいます。
新作を考えて居て試作を作っていますが、新作を作るまでに5~6個の試作品を作ります。
1940年山梨県生まれ、77歳。(9月17日に亡くなられた)
子供のころから竹林など自然に囲まれて暮らしてきました。
武蔵野美術大学を卒業し、企業デザイナーとして15年間働いた後、会社を辞めて山梨県に戻り甲府にデザイン会社を設立しました。
学生時代から考えていた念願の竹を素材にした創作活動に入りました。
少しづつ学んでいた竹の編み方の技術を本格的に習得するため、全国各地に修行にでかけ、竹アートの世界に入りました。
カゴ、ザル、花器、オブジェなど、さまざまな作品を作って展覧会に出品し、多くの賞を受賞されています。
2006年には山梨県北杜市大泉町に創作活動の場と作品を展示する場として、竹の造形美術館を作り今年で11年目を迎えました。
100点以上が展示、1階、2階合わせて面積はおよそ100坪あまり。
地元の杉とヒノキで作っていて塗装は柿渋、壁も全部和紙で貼ってあります。
標高は1100mぐらいのところなので、冬場は閉館に成っています。
作品は3つのパターンに別れている。
①伝統的な技法を用いた実用のもの。
②伝統的な技法+独自技術を用いたデザイン性と実用性を兼ねたもの。
③素材としての竹を実用性をともなわない自由な作品。
大学では工業デザインをやっていましたが、細かな立体設計などを15年間やって、その間に修行して竹の作家に移行していきました。
竹の持っている特性は素晴らしいと思いました。
竹は1200種類ぐらいありますが、こういうものに向いているのは真竹だと思います。
精密なものから何mと云う大きなものまで作ります。
作品に応じて竹を選んで作ります。
最初アトリエだけつくりました(2003年)、倉庫も2つあり大きなものまで作れます。
色んな素材を扱ってきたが、精密なものは作れる、反発するし、光も通すし、その人の技術によって生きてくれるところに魅力を感じます。
造形力を掻き立てられる素材です。
できるだけ長く持たしたいものは、さらし竹といって、竹を煮沸してアクを抜いて干して、編み取る?と狂わない。
節があるので、作品によって節を考えて作ります。
始めようと思った時には竹林は全国に何十か所もあったが、減ってきてしまいました。
農業用とか漁業用とか使い方、入れるものによって編み方が120種類以上ありました。
編み方について修行して歩きました。
竹の種類は日本には600~700種類あります。
竹の産地により編み方がちがうという事もあります。
真竹系は繊維が緻密で正確なものを作れるし細いものから太いものまであり、節間が長い、それは強いと云うことでもあります。(弱い竹は節間が沢山ないと折れてしまう)
子供のころは農村で北に風よけの竹やぶがあり、竹やぶで遊んだりしていました。
絵は好きでした。
父親は教員で色々な情報が入りました。
中学の時に甲府に転校して美術部に入り、高校でも美術部に入りました。
工業デザイナーを目指して武蔵野美術大学に入りました。
3年から工業デザイナーの方の勉強をしました。
就職はプラスチックのメーカーに入って、プラスチックの製品をデザインしました。
ビールの箱、パッケージ、家庭用品、などのデザインをやっていました。
15年ぐらいやっているうちにプラスチックのゴミの問題が出てきて、もう工業デザインをやらなくて良いかなあと思いまして、竹に興味を持つようにもなりました。
デザインは注文でやるので、自分で作りたいものをやるわけではないので、どこかで転換したいとの思いがありました。
オイルショックがあり、会社の人も減らされ宣伝もやらされるようになり、長男であったので両親の面倒を見なければいけなくなって山梨に戻りました。
デザイン会社を立ちあげデザイン会社をやりながら、竹の作品を展覧会に出品して行きました。
工芸品のショップもやりながら、全国を回って竹の技術を磨いていきました。(40歳台)
段々個展もできるようになり、竹の個展は珍しいと云うことで色々開きました。
そのうちに海外の展覧会にも出品するようになりました。
フィンランドが最初でしたが、竹が好評で海外での個展の話も持ち上がりました。
竹は職人の仕事と云うことだったが、ファインアートとして美術大学では扱っていなかったが、東京芸術大学から特別授業をやってほしいと云うことで、そこから色々な大学で授業をやる様になりました。
60種類の編み方がありますが、編み方を色々応用して無限と云っていいほどの沢山の編み方に広がっていきました。(「時代編み」という編み方も生み出しました)
一つの作品で十何種類も組み合わせて作っている作品もあります。
「矢鱈かご」 衝撃的な編み方でした。
綺麗に編んであると云うよりも、繊細なものと実用的で荒々しくて強さを持ったかごを作ってみたかった。
作っているうちに、ああやってみようこうやってみようという事が浮かんできます。
3~4年の真竹を使っています、年がとってしまうと硬くなってしまいます。
新作を考えて居て試作を作っていますが、新作を作るまでに5~6個の試作品を作ります。
2017年7月9日日曜日
浅川伸(日本アンチ・ドーピング機構 専務理事)・【“2020”に託すもの】クリーンオリンピック実現のために
浅川伸(日本アンチ・ドーピング機構 専務理事)
・【“2020”に託すもの】クリーンオリンピック実現のために
今スポーツ界が抱えている課題の一つが、禁止されている薬物を投与するドーピングの問題です。
ドーピングのないクルーンなオリンピックをどう実現していくのか、日本アンチ・ドーピング機構 専務理事浅川さんに伺います。
ドーピングに対してそれは良くないとルールを設定したり、コンセプト、概念を発信してゆく活動だと思っています。
ドーピング検査を通して確認をして、使っていたら制裁措置を課して競技の公正性を担保して行く。
競技自体が本当の勝負であると云う事が興奮の源泉、応援していてわくわくすると云うのはそこになって来る。
相手を欺くと云う事がわかっていながら競技に臨んで、表彰台に立って国歌を聞く一番の栄誉を持って行ってしまうと云う事が実際に起こってる。
選手の人権問題を取り扱っているとまで言っていいのではないかと思っています。
スポーツの商業的な価値が経済的なリターンが得られるスポーツと云うことになってきた。
それは一義的には悪いことではないと思うが、不正をしてその地位を手に入れると云うアプローチが起こってきている。
世界アンチ・ドーピング機構、日本アンチ・ドーピング機構がある。
日本アンチ・ドーピング機構は国内で検査をする。
IOCは大規模な競技大会の主催団体と云う概念の中に入って来ます。
世界アンチ・ドーピング機構はどこの組織からも独立したオペレーションが出来ると云う事が理念の中心に置かれています。
世界アンチ・ドーピング機構の理事会の半分は各国政府と、半分はIOCを中心とするスポーツ界が理事会を構成している。
世界アンチ・ドーピング機構の意思決定の構造自体を今のままでいいのか、組織のありようを議論しようとちょうど起こっているところです。
禁止されている薬の多くは治療目的で医療のために開発されているものがほとんどだと思っています。
健常者に対して適切な使用量を越えて投与すると云うことで、ハイパーな状態をねらってやってゆくのがドーピングとおもっています。
筋肉の強度を高める(ステロイド)、持久力を高める(赤血球を多くすると酸素の運搬能力が高まる)、体重制限の種目の時に水を抜く利尿作用(一階級下げる作用)
物などがある。
競技会外検査を何時やるのかと云うことも重要、摘発できるタイミングもある。
性悪説、陰性の履歴がない選手はその国に到着次第検査の対象になる時代です。
普段からの検査履歴は重要な部分に成って来る。
新薬の開発の中で副作用が大きいため中途で取りやめたものでも、競技力の向上に繋がることになった場合に、使用すると危険だと云うことを発信したこともあります。
リオオリンピックの前にロシアの組織的なドーピングがあったが、ロシアアンチ・ドーピング機構とラボラトリーの組合わせが、選手の嘘をかくす機能として活用されていたと言いう事に成っていた。
想定を超える事情に成っていた。
パラリンピックは出場停止になったが、以外は通常の参加となった。
ピョンヤンのオリンピックにロシアの選手が参加できるのかが、一つの大きな関心ごとに成って来る。
主催者の役割についても議論することが必要になって来ると思います。
東京オリンピックについても取り組みが必要で、未曾有の規模のドーピング検査を実施すると云うのが数字の上であり、立ち向かって行かなければいけない実態です。
実施するための検査員、海外の検査員、では足りないので検査員の育成をしていかなければいけない。
尿の採取にも立ち会わなければいけない。
検査の待合室では話が出来る色んな言語の検査員が必要で、選手の快適さを考えながらドーピング検査を実施していくことを考えています。
採取、分析を併せてドーピング検査と云われますが、採取でも日本の検査員の評価は高いです。
分析は日本ではLSIメディエンスがやっていますが、トップクラスの評価を得て居ます。
東京オリンピックに対しての検査員の規模は3合目あたりだと思います。
1988年ソウルオリンピックのベン・ジョンソン、はキーワードの様に語られている。
アスリ-トと私達組織と向き合う時に①知識として持たなければいけない、ドーピング検査を恒常的にうける立場に立った時は必須になって来ると思います、②何故アンチドーピング活動が必要なのかということが、きちんと理解することが必要と思います。
人間としてのしっかりした基盤を作っていく、トップアスリートは若い人たちに範を示すと云うことになるので、知識と自覚、理解との部分があるかと思っています。
最近はトップアスリート、コーチはアンチ・ドーピング活動に対して、ネガティブにはなってきてはいません。
・【“2020”に託すもの】クリーンオリンピック実現のために
今スポーツ界が抱えている課題の一つが、禁止されている薬物を投与するドーピングの問題です。
ドーピングのないクルーンなオリンピックをどう実現していくのか、日本アンチ・ドーピング機構 専務理事浅川さんに伺います。
ドーピングに対してそれは良くないとルールを設定したり、コンセプト、概念を発信してゆく活動だと思っています。
ドーピング検査を通して確認をして、使っていたら制裁措置を課して競技の公正性を担保して行く。
競技自体が本当の勝負であると云う事が興奮の源泉、応援していてわくわくすると云うのはそこになって来る。
相手を欺くと云う事がわかっていながら競技に臨んで、表彰台に立って国歌を聞く一番の栄誉を持って行ってしまうと云う事が実際に起こってる。
選手の人権問題を取り扱っているとまで言っていいのではないかと思っています。
スポーツの商業的な価値が経済的なリターンが得られるスポーツと云うことになってきた。
それは一義的には悪いことではないと思うが、不正をしてその地位を手に入れると云うアプローチが起こってきている。
世界アンチ・ドーピング機構、日本アンチ・ドーピング機構がある。
日本アンチ・ドーピング機構は国内で検査をする。
IOCは大規模な競技大会の主催団体と云う概念の中に入って来ます。
世界アンチ・ドーピング機構はどこの組織からも独立したオペレーションが出来ると云う事が理念の中心に置かれています。
世界アンチ・ドーピング機構の理事会の半分は各国政府と、半分はIOCを中心とするスポーツ界が理事会を構成している。
世界アンチ・ドーピング機構の意思決定の構造自体を今のままでいいのか、組織のありようを議論しようとちょうど起こっているところです。
禁止されている薬の多くは治療目的で医療のために開発されているものがほとんどだと思っています。
健常者に対して適切な使用量を越えて投与すると云うことで、ハイパーな状態をねらってやってゆくのがドーピングとおもっています。
筋肉の強度を高める(ステロイド)、持久力を高める(赤血球を多くすると酸素の運搬能力が高まる)、体重制限の種目の時に水を抜く利尿作用(一階級下げる作用)
物などがある。
競技会外検査を何時やるのかと云うことも重要、摘発できるタイミングもある。
性悪説、陰性の履歴がない選手はその国に到着次第検査の対象になる時代です。
普段からの検査履歴は重要な部分に成って来る。
新薬の開発の中で副作用が大きいため中途で取りやめたものでも、競技力の向上に繋がることになった場合に、使用すると危険だと云うことを発信したこともあります。
リオオリンピックの前にロシアの組織的なドーピングがあったが、ロシアアンチ・ドーピング機構とラボラトリーの組合わせが、選手の嘘をかくす機能として活用されていたと言いう事に成っていた。
想定を超える事情に成っていた。
パラリンピックは出場停止になったが、以外は通常の参加となった。
ピョンヤンのオリンピックにロシアの選手が参加できるのかが、一つの大きな関心ごとに成って来る。
主催者の役割についても議論することが必要になって来ると思います。
東京オリンピックについても取り組みが必要で、未曾有の規模のドーピング検査を実施すると云うのが数字の上であり、立ち向かって行かなければいけない実態です。
実施するための検査員、海外の検査員、では足りないので検査員の育成をしていかなければいけない。
尿の採取にも立ち会わなければいけない。
検査の待合室では話が出来る色んな言語の検査員が必要で、選手の快適さを考えながらドーピング検査を実施していくことを考えています。
採取、分析を併せてドーピング検査と云われますが、採取でも日本の検査員の評価は高いです。
分析は日本ではLSIメディエンスがやっていますが、トップクラスの評価を得て居ます。
東京オリンピックに対しての検査員の規模は3合目あたりだと思います。
1988年ソウルオリンピックのベン・ジョンソン、はキーワードの様に語られている。
アスリ-トと私達組織と向き合う時に①知識として持たなければいけない、ドーピング検査を恒常的にうける立場に立った時は必須になって来ると思います、②何故アンチドーピング活動が必要なのかということが、きちんと理解することが必要と思います。
人間としてのしっかりした基盤を作っていく、トップアスリートは若い人たちに範を示すと云うことになるので、知識と自覚、理解との部分があるかと思っています。
最近はトップアスリート、コーチはアンチ・ドーピング活動に対して、ネガティブにはなってきてはいません。
2017年7月8日土曜日
澤木万理子(宇治川の鵜飼・鵜匠) ・鵜飼に恋して(H28/7/16 OA)
澤木万理子(宇治川の鵜飼・鵜匠) ・鵜飼に恋して(H28/7/16 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/blog-post_16.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/07/blog-post_16.htmlをご覧ください。
2017年7月7日金曜日
高橋武市(観光庭園園主) ・大地に描く夢の花園(2)
高橋武市(観光庭園園主) ・大地に描く夢の花園(2)
この土地で心底好きな花作りで生きていこうと決めたのは、中学生の時でした。
それから62年、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。
高橋さんは毎週日曜日の午前中、自ら庭を案内するガイドツアーをやっています。
8月はフロックスが一番賑やかになり、9月になるとハギがどんどん咲いてきます。
9月の最後には庭園はクローズになります。
私のおじいさん、おばあさんがが岩手県出身です、最終的に滝上に昭和5年に入ったそうです。
開拓して畑にして、山仕事もして、父は冬はマタギをやって収入を得ていました。
開拓としては遅かったので不便な場所の痩せた土地にしか入れなかった。
父は私が生まれてすぐに戦争に行って、4つのころに帰って来ました。(昭和20年)
帰ってきて嬉しかった記憶はあります。(軍隊服装を覚えています)
親が喧嘩をしている姿を見たことはなかったです。
当時は周りも含めて貧乏でした。
馬の背のような土地だったので、雨が降るたびに畑は痩せて行きました。
母は私が小学校の4年生の時に妹を産んだので、小学校の4年生の時からてんびんで水汲みをしました。
小学校6年生の時には一斗缶二つをほぼ満杯にして運べるようになりました。
貧乏でしたがあるものを親と兄弟5人の家族みんなで分け合うようにしていました。
一番最初に生きるために野菜売りして、中学2年の時に蓮華つつじが軽くて高く売れたので、半年水に浸けなくてもサボテンは生きるとの情報を得て、愛知県でサボテンを栽培していることを突き止めて、手紙を出して分けてもらう事が出来て、サボテンは珍しくて、売りに出すと瞬く間に売れてしまった。
サボテンは水が要らないことは魅力的で、それを拡大していきましたが、卒業後本格的にやろうとしたが、温室も作らなければならなくて、資金も必要で資金がなくて、ひと冬木工所にも通って、花をやっていこうと決意しました。
親は反対しましたが叶わなければ家を出ると言いましたら、しぶしぶ納得してくれました。
雨が降ったりすると売れない時もあり、売れ残りを担いで登ってこなければいけなくて、ぽろぽろと涙を流したことも何回かありましたが、空元気で続けてきました。
或る時台風で山に倒木がたくさんできて、木工所では規格外を自分の身体だけで持てるものは自由に持ち帰ることが出来て、1回50~60kgのものを持ち帰り、毎日やってそれをつかって温室を作りました。(昭和32年の頃 面積は小さいが花園もやっていました)
やりたいことが山ほどあり、2.5時間~3時間寝て暮らすことを35歳ぐらいまでやっていました。
昭和42~3年の頃サボテンはかなり順調に行って、室蘭まで売りに行ったりしていました。
10月上旬に大雪が降って、列車が不通になり帰れなくなって、ようやく帰ってきてみたらサボテンは全滅でした。(厳しい状況に追い込まれた)
3月に新たにサボテンを購入して、売り歩きながら増やしていきました。
支えになったのは花が好きだと云うことでした。
昭和49年には来年からはお客さんを呼べるなと思い、替わり替わり山に花が咲きだしてお客さんを呼べるようになりました。
これで外だけで人を呼べると思い、昭和50年9月に温室を整理しました。
どんなに苦しくても、昨日は昨日、今日出来ることは今日から明日に向かって進んでいこうと、そういう生き方でずーっと来たので、辛いことはずーっと封印してきました。
苦しい事を思い出してもプラスにはならない。
今日どうやったら明日以後の夢を広げていけるか、常に心掛けながらやってきた、自分の力でしか生きていけないと云う事が子供のころからの境遇だったので、自分の人生は自分で切り開くしかない。
お陰さまで全国各地から色んな人が来てくれて、今までやってきたことが報われかかってきたと思います。
子供のころは真っ暗だったが、今は幸せな人間の方なのかなと自分では思っています。
今日と云う日を起点にして考えてきたので、その時何が出来るかと云うことをずーっと続けてきたので、これからますます自分で望んだ方向に来たので、生きてる限り夢が広がっていく方向に若い時から仕込んできたことが、今になって幸せ感となっているのではないかと思います。
来た人が自分で見て自分で感じて貰うしかないね。
ここは生きた芸術作品だと思っている。
生態系の全部が見れるし、春から秋までずーっと花が見られる。
この土地で心底好きな花作りで生きていこうと決めたのは、中学生の時でした。
それから62年、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。
高橋さんは毎週日曜日の午前中、自ら庭を案内するガイドツアーをやっています。
8月はフロックスが一番賑やかになり、9月になるとハギがどんどん咲いてきます。
9月の最後には庭園はクローズになります。
私のおじいさん、おばあさんがが岩手県出身です、最終的に滝上に昭和5年に入ったそうです。
開拓して畑にして、山仕事もして、父は冬はマタギをやって収入を得ていました。
開拓としては遅かったので不便な場所の痩せた土地にしか入れなかった。
父は私が生まれてすぐに戦争に行って、4つのころに帰って来ました。(昭和20年)
帰ってきて嬉しかった記憶はあります。(軍隊服装を覚えています)
親が喧嘩をしている姿を見たことはなかったです。
当時は周りも含めて貧乏でした。
馬の背のような土地だったので、雨が降るたびに畑は痩せて行きました。
母は私が小学校の4年生の時に妹を産んだので、小学校の4年生の時からてんびんで水汲みをしました。
小学校6年生の時には一斗缶二つをほぼ満杯にして運べるようになりました。
貧乏でしたがあるものを親と兄弟5人の家族みんなで分け合うようにしていました。
一番最初に生きるために野菜売りして、中学2年の時に蓮華つつじが軽くて高く売れたので、半年水に浸けなくてもサボテンは生きるとの情報を得て、愛知県でサボテンを栽培していることを突き止めて、手紙を出して分けてもらう事が出来て、サボテンは珍しくて、売りに出すと瞬く間に売れてしまった。
サボテンは水が要らないことは魅力的で、それを拡大していきましたが、卒業後本格的にやろうとしたが、温室も作らなければならなくて、資金も必要で資金がなくて、ひと冬木工所にも通って、花をやっていこうと決意しました。
親は反対しましたが叶わなければ家を出ると言いましたら、しぶしぶ納得してくれました。
雨が降ったりすると売れない時もあり、売れ残りを担いで登ってこなければいけなくて、ぽろぽろと涙を流したことも何回かありましたが、空元気で続けてきました。
或る時台風で山に倒木がたくさんできて、木工所では規格外を自分の身体だけで持てるものは自由に持ち帰ることが出来て、1回50~60kgのものを持ち帰り、毎日やってそれをつかって温室を作りました。(昭和32年の頃 面積は小さいが花園もやっていました)
やりたいことが山ほどあり、2.5時間~3時間寝て暮らすことを35歳ぐらいまでやっていました。
昭和42~3年の頃サボテンはかなり順調に行って、室蘭まで売りに行ったりしていました。
10月上旬に大雪が降って、列車が不通になり帰れなくなって、ようやく帰ってきてみたらサボテンは全滅でした。(厳しい状況に追い込まれた)
3月に新たにサボテンを購入して、売り歩きながら増やしていきました。
支えになったのは花が好きだと云うことでした。
昭和49年には来年からはお客さんを呼べるなと思い、替わり替わり山に花が咲きだしてお客さんを呼べるようになりました。
これで外だけで人を呼べると思い、昭和50年9月に温室を整理しました。
どんなに苦しくても、昨日は昨日、今日出来ることは今日から明日に向かって進んでいこうと、そういう生き方でずーっと来たので、辛いことはずーっと封印してきました。
苦しい事を思い出してもプラスにはならない。
今日どうやったら明日以後の夢を広げていけるか、常に心掛けながらやってきた、自分の力でしか生きていけないと云う事が子供のころからの境遇だったので、自分の人生は自分で切り開くしかない。
お陰さまで全国各地から色んな人が来てくれて、今までやってきたことが報われかかってきたと思います。
子供のころは真っ暗だったが、今は幸せな人間の方なのかなと自分では思っています。
今日と云う日を起点にして考えてきたので、その時何が出来るかと云うことをずーっと続けてきたので、これからますます自分で望んだ方向に来たので、生きてる限り夢が広がっていく方向に若い時から仕込んできたことが、今になって幸せ感となっているのではないかと思います。
来た人が自分で見て自分で感じて貰うしかないね。
ここは生きた芸術作品だと思っている。
生態系の全部が見れるし、春から秋までずーっと花が見られる。
2017年7月6日木曜日
高橋武市(観光庭園園主) ・大地に描く夢の花園(1)
高橋武市(観光庭園園主) ・大地に描く夢の花園(1)
昭和16年北海道滝上町で開拓農家の長男として生まれました、現在76歳。
この土地で好きな花作りで生きていこうと決めたのは中学生の時でした。
それから60年余り、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。
冬は氷点下30度まで下がり、雪も1mを越えるところで、「夢の花園」と云う陽殖園があります。
5月には温度が上がるが、6月は下がってに霜が来ることがあります。(現在5度)
今の時期の花は低温だからこそ色彩が締まると云う事があります。
農薬、化学肥料は一切使わないと云うやり方をやっています。
通路は5kmあるが、草刈り機など使って草を刈っています。
植物にはまず太陽が必要。「陽」
殖は繁殖の殖を使おうと思いました。「殖」
中学を卒業して、屋号を付けようとして「陽殖園」と云う名前を付けました。
昔からこういう風景が有ったんだと、錯覚してもらえれば俺の勝ち、景色が自然に見えるためにはいろんな種類が入り混じって居ないとそう見えない。
今はちょうど新緑の時期なので緑が鮮やかです。
空気がおいしいのは寒さだけではなく、農薬と化学肥料を昭和40年から一切使っていないからです。
虫も色々な種類がたくさんいて、生態系を作り上げて居ます。
この花は紫色で、原種は海老茶色のくすんだ色だったが、長年掛けて自分で品種改良して白からブルー、紫まで色合いを色々作りだしました。
つつじは蓮華つつじの仲間で本来はだいだい色で、色彩の綺麗なものを選別して、色彩の一番いいものをまとめて植えてあります。(だいだい系の赤)
観光にするためには風景が大事です。
前を向いて進んでいき、振り返るとなだらかな下り坂になっていて、風景がまた違って見えます。
地形、植物の植え込みを色々変えるとこうなります。
山あり谷あり池が5つあり迷路のように道が5km続いています。
自然を凝縮したようなもの、自然だと錯覚したら勝ったと云う感じです、自分でデザインしています。
地形を変えることは大変でした、花をやっているのか土木作業をやっているのか判らないような感じでした。
自分が命尽きるまでこの花をやろうと思っていましたので、自分の信じたことをやることがいずれ差別化になると思いました。
花の作り方も、売り方、商売の仕方も全部独学です。
だから自由に物事を考えられる、それがよかったなあと思います。
木が多いが寒さよけにもなります。(周りはマイナス1度ぐらいでも木のところはプラスになっています)
ストローブ松の木にカラスが止まっていますが、そのうちの一匹は私に馴れて居て、近くに来てむこうから何か話しかけます、そうするとこちらも日本語で色々話をします。(特に夏場)
毎日のように逢えます。
黄色い花、オホーツクの海岸地帯で野生の植物でセンダイハギと云います。
ピンクもあります。(タニウツギ)
白い花、エビネチドリ(野生の植物)と云う花です。
花が終わってもその姿でいて、取り除きません、枯れたままにしておき、そうしないと自然にはなりません。(そこがガーデニングと違うところです)
新鮮な花と対照的になり、枯れたものがあることによって、今咲いている花が更にみずみずしくなります。
ここは馬の背中みたいな場所でそこを畑にしたので、雨が降るたびに良い土が流されて痩せこけてきてしまいます。
家は貧乏で私は5人兄弟の長男でしたが、小学校の4年生の時から家まで天びんで水汲みしていました。
小学校の4年生は成長してゆく時期なので、その時期に身体を鍛えることになりました。
花売りをするときに天びんで売り歩いたが、これが原点になりました。
小学校5年生から中学を卒業するまで野菜を町に売りに行きました。
中学2年に野菜と一緒に蓮華つつじを3本だけ売りに行きました。
先祖が岩手で岩手は蓮華つつじが原産地でした、そこに従兄がいて、父が苗を貰った。
両親とも花は好きで蓮華つつじを植えて居ました。
売れないかなあ思っていたが、或る人からいくらだといわれたが、いくらで買ってくれるのと言ったら、結局野菜一カゴ分よりも高く買ってくれました。
花は軽くて高く売れると言うことで、それからこれをやろうと、決めました。
中学2年の時に将来を決めなければいけなくて、花の商売をやろうと決めました。
よそにないものを作ろうと思いました。
行き詰まって困窮して餓死してしまうのでは無いかなあと思ったことは何回かありました。
しかし、それを支えたのは花が好きだったからだと思います。
この6月に62年になりますが、続けられたのは水汲みで足腰を鍛えたこと、根性を鍛えたことだと思います。
吹雪の日でも水汲みをして、続けてきて、どんなことをやっても生きているうちはやり続けるという信念、根性が育ったと思う。
だからこの場所も大事にしています。(昔を思いだして嗚咽が漏れる)
ブルーの忘れな草、こういうかわいい花は心を引きよせられます。
母親の背中におぶさって病院に連れて行かれる時に、ピンクの植物が咲いていて、片言で花、花と言ったそうです。
コサケシモツケを持たせてくれて、病院で注射をしても泣きながらそれを離さなかった。
家に帰って来ても寝るまでそれを離さないでいたと、時々母親から言われました。
ここが一番最初に観光公園として作りだした場所です。
蓮華つつじが一面に咲いているが、秋までずーっと花が咲き続けます。
蓮華つつじだけで6500本有ります。
昭和16年北海道滝上町で開拓農家の長男として生まれました、現在76歳。
この土地で好きな花作りで生きていこうと決めたのは中学生の時でした。
それから60年余り、自分が理想とする花園をたった一人で大地に絵を描くように黙々と作り続けて来ました。
冬は氷点下30度まで下がり、雪も1mを越えるところで、「夢の花園」と云う陽殖園があります。
5月には温度が上がるが、6月は下がってに霜が来ることがあります。(現在5度)
今の時期の花は低温だからこそ色彩が締まると云う事があります。
農薬、化学肥料は一切使わないと云うやり方をやっています。
通路は5kmあるが、草刈り機など使って草を刈っています。
植物にはまず太陽が必要。「陽」
殖は繁殖の殖を使おうと思いました。「殖」
中学を卒業して、屋号を付けようとして「陽殖園」と云う名前を付けました。
昔からこういう風景が有ったんだと、錯覚してもらえれば俺の勝ち、景色が自然に見えるためにはいろんな種類が入り混じって居ないとそう見えない。
今はちょうど新緑の時期なので緑が鮮やかです。
空気がおいしいのは寒さだけではなく、農薬と化学肥料を昭和40年から一切使っていないからです。
虫も色々な種類がたくさんいて、生態系を作り上げて居ます。
この花は紫色で、原種は海老茶色のくすんだ色だったが、長年掛けて自分で品種改良して白からブルー、紫まで色合いを色々作りだしました。
つつじは蓮華つつじの仲間で本来はだいだい色で、色彩の綺麗なものを選別して、色彩の一番いいものをまとめて植えてあります。(だいだい系の赤)
観光にするためには風景が大事です。
前を向いて進んでいき、振り返るとなだらかな下り坂になっていて、風景がまた違って見えます。
地形、植物の植え込みを色々変えるとこうなります。
山あり谷あり池が5つあり迷路のように道が5km続いています。
自然を凝縮したようなもの、自然だと錯覚したら勝ったと云う感じです、自分でデザインしています。
地形を変えることは大変でした、花をやっているのか土木作業をやっているのか判らないような感じでした。
自分が命尽きるまでこの花をやろうと思っていましたので、自分の信じたことをやることがいずれ差別化になると思いました。
花の作り方も、売り方、商売の仕方も全部独学です。
だから自由に物事を考えられる、それがよかったなあと思います。
木が多いが寒さよけにもなります。(周りはマイナス1度ぐらいでも木のところはプラスになっています)
ストローブ松の木にカラスが止まっていますが、そのうちの一匹は私に馴れて居て、近くに来てむこうから何か話しかけます、そうするとこちらも日本語で色々話をします。(特に夏場)
毎日のように逢えます。
黄色い花、オホーツクの海岸地帯で野生の植物でセンダイハギと云います。
ピンクもあります。(タニウツギ)
白い花、エビネチドリ(野生の植物)と云う花です。
花が終わってもその姿でいて、取り除きません、枯れたままにしておき、そうしないと自然にはなりません。(そこがガーデニングと違うところです)
新鮮な花と対照的になり、枯れたものがあることによって、今咲いている花が更にみずみずしくなります。
ここは馬の背中みたいな場所でそこを畑にしたので、雨が降るたびに良い土が流されて痩せこけてきてしまいます。
家は貧乏で私は5人兄弟の長男でしたが、小学校の4年生の時から家まで天びんで水汲みしていました。
小学校の4年生は成長してゆく時期なので、その時期に身体を鍛えることになりました。
花売りをするときに天びんで売り歩いたが、これが原点になりました。
小学校5年生から中学を卒業するまで野菜を町に売りに行きました。
中学2年に野菜と一緒に蓮華つつじを3本だけ売りに行きました。
先祖が岩手で岩手は蓮華つつじが原産地でした、そこに従兄がいて、父が苗を貰った。
両親とも花は好きで蓮華つつじを植えて居ました。
売れないかなあ思っていたが、或る人からいくらだといわれたが、いくらで買ってくれるのと言ったら、結局野菜一カゴ分よりも高く買ってくれました。
花は軽くて高く売れると言うことで、それからこれをやろうと、決めました。
中学2年の時に将来を決めなければいけなくて、花の商売をやろうと決めました。
よそにないものを作ろうと思いました。
行き詰まって困窮して餓死してしまうのでは無いかなあと思ったことは何回かありました。
しかし、それを支えたのは花が好きだったからだと思います。
この6月に62年になりますが、続けられたのは水汲みで足腰を鍛えたこと、根性を鍛えたことだと思います。
吹雪の日でも水汲みをして、続けてきて、どんなことをやっても生きているうちはやり続けるという信念、根性が育ったと思う。
だからこの場所も大事にしています。(昔を思いだして嗚咽が漏れる)
ブルーの忘れな草、こういうかわいい花は心を引きよせられます。
母親の背中におぶさって病院に連れて行かれる時に、ピンクの植物が咲いていて、片言で花、花と言ったそうです。
コサケシモツケを持たせてくれて、病院で注射をしても泣きながらそれを離さなかった。
家に帰って来ても寝るまでそれを離さないでいたと、時々母親から言われました。
ここが一番最初に観光公園として作りだした場所です。
蓮華つつじが一面に咲いているが、秋までずーっと花が咲き続けます。
蓮華つつじだけで6500本有ります。
2017年7月5日水曜日
竹村公太郎(日本水フォーラム 代表理事) ・水力ダムに夢のせて
竹村公太郎(NPO法人 日本水フォーラム 代表理事) ・水力ダムに夢のせて
1945年昭和20年生まれ、神奈川県出身。
1970年東北大学工学部修士課程を修了後、建設省に入り巨大ダムの建設に携わりました。
竹村さんは巨大な水力ダム3ヵ所の建設に手がけたダムの専門家です。
現地調査から用地交渉、設計、建設と、ダム建設の着手から完成までかかわって来ました。
水に恵まれ降水量の豊かな日本は山が多く地形が急なために、川の上流に降った雨があっという間に海に流れ出てしまうと言います。
長年ダムの建設や河川の管理にかかわってきた竹村さんはダムは太陽エネルギーの貯蔵庫だと、今あるダムを見直して日本の水資源を上手く活用することを呼びかけて居ます。
水資源の活用は電力エネルギーに換算するだけでも、その効果は年間2兆円もの電力の増加が見込まれるという試算もされています。
日本水フォーラムは、世界で水で苦しんでいる方々を日本の技術と経験で、どう救っていけるかというような、水に関しての社会貢献をしようと言うことで、世界の情報を集めてきて日本の人たちに知ってもらおうと云うようなことを行っています。
寒村、過疎化の集落について、自分達で水を探し当てて自らで管理する、それには昭和30年代にやったような技術が今一番求められています。
水に関する漢字が一番多い。
食糧も大事だが、それを生み出す水が大事です。
エネルギーは色々なエネルギーが採用できるが水は代替えはない。
水が汚染されたり、人口増加で水が無くなってきたりしている。
21世紀は水の世紀だとも言われている。
太陽が海を照らし、水蒸気になって、雲になって冷やされて雨が落ちてくる。
雨が山岳地帯で降ると、沢となって流れてくるがそれはエネルギーで、日本の山は急峻で
多摩川では降った雨がその日のうちに海に行ってしまいます。
日本は雨が多いがあっという間に海に流れてしまうので、ダムで溜めて水を有効に使っていこうと云うことです。
ダムは太陽エネルギーを溜めていると云うことです。
グラハム・ベルは日本は豊かなエネルギーを保有していると、100年以上前に日本に来て言っている。(地形学者でもあった)
日本列島は水が循環している。
日本列島の70%の山々が水を集めてくれる装置なんです。
太平洋側も日本海側も均等に雨が流れるので、日本列島全体が恵みを受ける。
中学高校時代花形がダム建設でした。
さまざまなおおきなダムが建設された。
飲み水の問題、又洪水のため多くの方が亡くなってのでダムが建設され、「黒部の太陽」の映画があり、土木屋になりダムを作っていきたいと思っていました。
映画の冒頭でダムを作ることが環境破壊にもなると、主人公に言わせていることには吃驚しました。(環境問題などが叫ばれるような時代ではなかったが)
建設省に入って、川治ダム、大川ダム、宮が瀬ダムの3つのダム建設に関係しました。
当時ダムを建設するためには時には何百人と云う方に移動してもらわざるを得なかった。
保証も終わって険悪ではなかったが、当時幹部の人たちは水没者との会合から帰ってくると悪酔いして帰って来ました。
物、家は保証はできるがあの人たちの思い出は保証できないと言っていました。
公共事業の先端の難しい現場だったのがダムだったと思います。
川治ダムはアーチ式、大川ダムはロックフィル複合式、宮が瀬ダムは300戸が水没したが重力式コンクリートダムでした。
地域の要望によってダムの形式が違います。
飲み水、エネルギー、農業用水、洪水防止などにより違ってくる。
地形、地質に依ってもどれが適しているのかで、ダムの形式を選んでゆく。
人生の半分がダム造りで後半の半分が行政をやりました。
出来たダムをどう有効に使うかが、これから進めることだと思っています。
多目的ダムは目的は二つあり①治水と②利水、治水は台風などへの対応なのでダムを空にしておきたい、、利水は渇水対策で水を溜めておきたいので矛盾する内容となる。
昭和30年代は台風のことが判らないない前提で作られていたので、安全を最優先してダムの治水容量を十分に安全に取ったダムにしていた。
今は台風の1週間前から判るので、もう少し水を溜めて水力発電に使っていければ良いのではないかと思っています。
100mのダムを10mあげると面積も大きくて、新しいダムの100m分と同じ価値がある。
次の世代に対してはかさ上げして、水を溜めて日本のエネルギーを作っていってほしいと、私の遺言みたいな思いです。
100年前に作った布引ダム(日本最初の重力式コンクリートダム)は阪神淡路大震災の時にもびくともしなかった。
ダムを作るときに柔らかい土砂は全部はいでしまい、岩盤を出してそこにダムを作るので、地震があっても揺れが少ない。
ダムの中には鉄筋がない、鉄は錆びて膨らんでひび割れしたりするが、ひび割れしない。
岩と砂と石灰岩(セメント)で自然のもので作っているので、時間が経てば経つほど固まって来る。
これからのダムのエンジニアは溜まった砂をどう下流に流すか、と云うことが一番のテーマです。
ダムの底部に穴を開け必要な時に開ける方法(砂が水と一緒に流れて行く)
ダムの下の方の下流面から掘って行き、上流面にはお椀みたいなものを作っておくと水圧でピタッとする方法で現実にこの工法で行っています。
アメリカのフーバーダムを観にいたことがあり、ダムの中に観光客を入れて居たのには吃驚し、日本でもやらなければと思った。(戦前からやっていた)
宮が瀬ダムの所長になった時に、首都圏の楽しみの場所にしようと思って、将来宮が瀬ダムが出来たときに観光できるように仕掛けをしようと思ってひそかに仕掛けをしました。
一般のお客さんがダムの中に入れる様に下からエレベーターで登れたり、ダムの近くから遊覧船に乗って湖面から上流までいけるようにとか、35年前にやりました。
今はたくさんの見学者が来ています。
日本で初めての試みでした。
島 陶也と云うペンネームで本を出版しています。
私は地形と気象には強いので、その観点から日本社会を見ると、ちょっと違うなと云うことに気が付いて、見直してみようと云う思いで文章を書いてきました。
ビルとか建築と土木とは違って、ダムはみんなが作ったもので、社会を支える構造物はなかなか人の眼には見えにくいと云うことは宿命で、人々に見えないインフラを大事なものなんだと思ってもらう為の翻訳者、通訳者になるミッションがあると思っています。
友人が大学で講義をしたときに、川を汚してはいけない、大事にしようと講義をしたときに、生徒が「先生の云っている意味が判りません、川は必要ないと思います、水道があるから」と云うことでした。
社会を支えているインフラが無くなったら大変だと云うことをわかってもらうことは至難の技ですが、誰かが云っていないと大事なことを忘れてしまう。
世界の人々は本当に水で苦しんでいます。
どうにかして水の分野で彼らを支えていきたいと思って、現地の人でも開発できメンテナンス出来る昭和30年代のダム建設技術を教えてあげたいと云うのが私の考え方です。
1945年昭和20年生まれ、神奈川県出身。
1970年東北大学工学部修士課程を修了後、建設省に入り巨大ダムの建設に携わりました。
竹村さんは巨大な水力ダム3ヵ所の建設に手がけたダムの専門家です。
現地調査から用地交渉、設計、建設と、ダム建設の着手から完成までかかわって来ました。
水に恵まれ降水量の豊かな日本は山が多く地形が急なために、川の上流に降った雨があっという間に海に流れ出てしまうと言います。
長年ダムの建設や河川の管理にかかわってきた竹村さんはダムは太陽エネルギーの貯蔵庫だと、今あるダムを見直して日本の水資源を上手く活用することを呼びかけて居ます。
水資源の活用は電力エネルギーに換算するだけでも、その効果は年間2兆円もの電力の増加が見込まれるという試算もされています。
日本水フォーラムは、世界で水で苦しんでいる方々を日本の技術と経験で、どう救っていけるかというような、水に関しての社会貢献をしようと言うことで、世界の情報を集めてきて日本の人たちに知ってもらおうと云うようなことを行っています。
寒村、過疎化の集落について、自分達で水を探し当てて自らで管理する、それには昭和30年代にやったような技術が今一番求められています。
水に関する漢字が一番多い。
食糧も大事だが、それを生み出す水が大事です。
エネルギーは色々なエネルギーが採用できるが水は代替えはない。
水が汚染されたり、人口増加で水が無くなってきたりしている。
21世紀は水の世紀だとも言われている。
太陽が海を照らし、水蒸気になって、雲になって冷やされて雨が落ちてくる。
雨が山岳地帯で降ると、沢となって流れてくるがそれはエネルギーで、日本の山は急峻で
多摩川では降った雨がその日のうちに海に行ってしまいます。
日本は雨が多いがあっという間に海に流れてしまうので、ダムで溜めて水を有効に使っていこうと云うことです。
ダムは太陽エネルギーを溜めていると云うことです。
グラハム・ベルは日本は豊かなエネルギーを保有していると、100年以上前に日本に来て言っている。(地形学者でもあった)
日本列島は水が循環している。
日本列島の70%の山々が水を集めてくれる装置なんです。
太平洋側も日本海側も均等に雨が流れるので、日本列島全体が恵みを受ける。
中学高校時代花形がダム建設でした。
さまざまなおおきなダムが建設された。
飲み水の問題、又洪水のため多くの方が亡くなってのでダムが建設され、「黒部の太陽」の映画があり、土木屋になりダムを作っていきたいと思っていました。
映画の冒頭でダムを作ることが環境破壊にもなると、主人公に言わせていることには吃驚しました。(環境問題などが叫ばれるような時代ではなかったが)
建設省に入って、川治ダム、大川ダム、宮が瀬ダムの3つのダム建設に関係しました。
当時ダムを建設するためには時には何百人と云う方に移動してもらわざるを得なかった。
保証も終わって険悪ではなかったが、当時幹部の人たちは水没者との会合から帰ってくると悪酔いして帰って来ました。
物、家は保証はできるがあの人たちの思い出は保証できないと言っていました。
公共事業の先端の難しい現場だったのがダムだったと思います。
川治ダムはアーチ式、大川ダムはロックフィル複合式、宮が瀬ダムは300戸が水没したが重力式コンクリートダムでした。
地域の要望によってダムの形式が違います。
飲み水、エネルギー、農業用水、洪水防止などにより違ってくる。
地形、地質に依ってもどれが適しているのかで、ダムの形式を選んでゆく。
人生の半分がダム造りで後半の半分が行政をやりました。
出来たダムをどう有効に使うかが、これから進めることだと思っています。
多目的ダムは目的は二つあり①治水と②利水、治水は台風などへの対応なのでダムを空にしておきたい、、利水は渇水対策で水を溜めておきたいので矛盾する内容となる。
昭和30年代は台風のことが判らないない前提で作られていたので、安全を最優先してダムの治水容量を十分に安全に取ったダムにしていた。
今は台風の1週間前から判るので、もう少し水を溜めて水力発電に使っていければ良いのではないかと思っています。
100mのダムを10mあげると面積も大きくて、新しいダムの100m分と同じ価値がある。
次の世代に対してはかさ上げして、水を溜めて日本のエネルギーを作っていってほしいと、私の遺言みたいな思いです。
100年前に作った布引ダム(日本最初の重力式コンクリートダム)は阪神淡路大震災の時にもびくともしなかった。
ダムを作るときに柔らかい土砂は全部はいでしまい、岩盤を出してそこにダムを作るので、地震があっても揺れが少ない。
ダムの中には鉄筋がない、鉄は錆びて膨らんでひび割れしたりするが、ひび割れしない。
岩と砂と石灰岩(セメント)で自然のもので作っているので、時間が経てば経つほど固まって来る。
これからのダムのエンジニアは溜まった砂をどう下流に流すか、と云うことが一番のテーマです。
ダムの底部に穴を開け必要な時に開ける方法(砂が水と一緒に流れて行く)
ダムの下の方の下流面から掘って行き、上流面にはお椀みたいなものを作っておくと水圧でピタッとする方法で現実にこの工法で行っています。
アメリカのフーバーダムを観にいたことがあり、ダムの中に観光客を入れて居たのには吃驚し、日本でもやらなければと思った。(戦前からやっていた)
宮が瀬ダムの所長になった時に、首都圏の楽しみの場所にしようと思って、将来宮が瀬ダムが出来たときに観光できるように仕掛けをしようと思ってひそかに仕掛けをしました。
一般のお客さんがダムの中に入れる様に下からエレベーターで登れたり、ダムの近くから遊覧船に乗って湖面から上流までいけるようにとか、35年前にやりました。
今はたくさんの見学者が来ています。
日本で初めての試みでした。
島 陶也と云うペンネームで本を出版しています。
私は地形と気象には強いので、その観点から日本社会を見ると、ちょっと違うなと云うことに気が付いて、見直してみようと云う思いで文章を書いてきました。
ビルとか建築と土木とは違って、ダムはみんなが作ったもので、社会を支える構造物はなかなか人の眼には見えにくいと云うことは宿命で、人々に見えないインフラを大事なものなんだと思ってもらう為の翻訳者、通訳者になるミッションがあると思っています。
友人が大学で講義をしたときに、川を汚してはいけない、大事にしようと講義をしたときに、生徒が「先生の云っている意味が判りません、川は必要ないと思います、水道があるから」と云うことでした。
社会を支えているインフラが無くなったら大変だと云うことをわかってもらうことは至難の技ですが、誰かが云っていないと大事なことを忘れてしまう。
世界の人々は本当に水で苦しんでいます。
どうにかして水の分野で彼らを支えていきたいと思って、現地の人でも開発できメンテナンス出来る昭和30年代のダム建設技術を教えてあげたいと云うのが私の考え方です。
2017年7月4日火曜日
前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長) ・憎む心を捨て、祈る心の再生を
前田耕作(アフガニスタン文化研究所所長)・憎む心を捨て、祈る心の再生を
1964年名古屋大学のアフガニスタン学術調査団の一員として初めてバーミアンを訪れました。
そのあとこれまでにアフガニスタンのほかに、西アジア、中央アジア、南アジアの古代遺跡の実地調査を行ってきました。
現在は主にアフガニスタンに関する文化研究を進めるとともに、バーミアン遺跡の保存、修復の事業に参加してきました。
失われた文化財の復元や返還運動など文化外交に取り組んできたお話を伺います。
21世紀はきっと平和な世紀になるだろうと大きな期待をしていただけに、爆破、テロが絶えないと云うことは非常に痛ましい現状を嘆いています。
断食月にはよい行いをすれば天国にいけるということでしたが、そういう時期に爆破、テロが行われたりして、かつてはありえなかったことが事件として起きており、イスラムの人ですら意外感を抱いています。
世界の人の心の荒廃がかなり進んでいるなあと実感する事件です。
寛容さのない世界に進んでいるような気がします。
20世紀は大きな大戦を二つやって、ようやく人類は戦争を克服できる機会も得たが21世紀は全く異なった方向に進んでいる。
和解、許しが必ずしも人類共通の課題として認識され、深める方向に行っていなかったということを裏付けるものであると思います。
2001年バーミヤン大仏の爆破事件、ショッキングでした。
タリバン政府によって二つの大仏を爆破した映像が送られて強烈な衝撃をうけました。
爆破の後にユネスコの召集を受けて現場に行きましたが、他の大仏も破壊されていました。
壁画の7割がはぎとられて破壊されたりしていました。
日本の税金で拠出されているユネスコの日本信託基金があり、平山郁夫先生がこれを使ってアフガニスタンの戦後復興に役立ててほしいと云う強い提言があり、2003年から進めました。
民族紛争は止んだわけではなくて、公式的には現場には立ち入れられなくなって、ここ3年ほどは情報だけは得て居ると云う状況です。
再生はほとんど難しいと直感しました。
戻しうる技術は持っていると思って、戻すことを決意しました。
2003年にパリでバーミヤンの復旧作業について国際的な合意を取り付ける会議があり、ユネスコの事務局長が松浦晃一郎さんで松浦さんが主導して、平山先生がユネスコの親善大使でしたので、イニシアティブをとって、復興に取り組むことに決めました。
文化財が海外に流出してしまいました。
カーブル博物館が破壊されて多くの物が国外に流出しました。
アメリカの考古学者ナンシー・デュプリー(Nancy Hatch Dupree)がパキスタンで流出を止めるという運動をして、日本に流れ着いたものは日本で止めて、平和になった時に返還して、文化復興の活力のもとにしたいと言う思いがあり、日本でもおこなわれました。
102点、東京芸大に保管されて、昨年アフガニスタンの黄金展で、東京芸大の天井画の再生と、保管品の日本での姿を見ていただきました。
平山郁夫先生のように深く文化財を愛する情熱がないと、できないことだと共に働いてきて感じました。
2016年に東京芸大で開かれて展覧会で、破壊された天井画、太陽神が復元された。
バーミヤンで破壊された東大仏、西大仏の天井画は世界的に傑作だと言われた大壁画が、これは法隆寺の壁画と或る意味文化の流れで繋がっていた壁画が存在していたが、完全に消えてしまった。
日本ではその間にたくさんの写真、スケッチをしてきたので、そのデータを持っていたのは日本だけだった。
東京芸大の宮迫先生と話し合って、復元が出来ると決断されて、印刷技術、デジタル化するデータ、写しの技法などを組み合わせれば、かなり実物に近づいた壁画の再生は可能だとやりながら結論を出しました。
それを展示したところ大変な反響がありました。(新し生命を吹きこんだ再生だった)
日本だからこそできた貢献だった。
平山先生はシルクロードに大きな思いを載せられたのは、小学生時代の広島の被爆体験の外の傷と同時に内面に傷があって、それをどういうふうに生涯を掛けて越えていくのかというのが先生にとって大きな課題だったと思う。
晩年になって初めて生き地獄の火炎に包まれた広島の絵を描きましたが、題は「広島生変」新しく生き返すという想いがあった。
日本文化を育てたものは何かというものに眼差しを投ぜられて、それが先生のシルクロードに向かわせて、スケッチの山を築いた。
シルクロードの文化が日本の文化の分母にあたり、日本文化はさまざまなものを学んだ一つの分子として素晴らしい達成をしたという考えで、いつか恩返しをしないといけないと云うのが平山先生の考えだった。
2002年西安のユネスコの会議でシルクロードを世界遺産に登録しようと云うことになる。
国境を越えて文化遺産を包括的登録する、このことこそ平和を根付かせてゆく第一歩ではないかというのが平山先生の考え方だった。
中国、キリギス、カザフスタンが遺産を同時に登録すると云うことになった。
シルクロードへの関心が薄らぐなか、平和構築という点においても重要な事柄ではないかと思うようになり、その対策として検定、それを通して世界と日本の関わり、古代における特別の意義を再びよみがえらせることが出来るのではないかと思いました。
検定は9月に実施しようと思っていて、中学生から高年齢の人までを対象にしています。
平山先生が亡くなって8年になりますが、作品が残っていてそれが生き続けて居ています。(平山郁夫シルクロード美術館は山梨に有ります。)
文化に対する情熱、温かい広い心が先生が残された遺産だと思っているのでそれをつないでいくことが、先生の理想であった世界に平和を根付かせることに繋がるんだろうと思います。
心の養生がとても大事だと思っていて、長く内戦が続いて、荒れたものが癒されてゆくきっかけがない。
経済支援に依る生活の向上だけでは達せられない。
文化を通して心の養生を行い、寛容な心に転換させてゆく重要な心の糧、それが文化で、文化でしか果たせないと思っていて私たちは実行したい。
壁画を元の位置に戻したい、できない物を保存して、博物館のようなものがあると見に来る機会があり、文化に深く接することが出来るので、平山先生は博物館の建立を望んでいました。
経済支援、文化支援がよりあわされた支援として提出されてこないと、特に戦火の止まないところでは有効性は発揮できないと思います。
アフガニスタン文化研究所は一つの文化を中心として、アフガニスタン支援をどのようにして実現して行くのかをテーマとして作った研究所なので、その人たちが支えてきています。
バーミヤンも見学者が増えてきて、入場券の製作にアフガニスタン文化研究所が関わって渡しました。
一歩一歩無くしては再生行為はないです。
平和は心の養生によってこそ実現できると云うことに関して決してぶれない。(平山先生の心の願い)
教育、人材育成は大事で、日本に連れてきてと言うことではなく現場で共に働く事、それを大切に守りたい。
1964年名古屋大学のアフガニスタン学術調査団の一員として初めてバーミアンを訪れました。
そのあとこれまでにアフガニスタンのほかに、西アジア、中央アジア、南アジアの古代遺跡の実地調査を行ってきました。
現在は主にアフガニスタンに関する文化研究を進めるとともに、バーミアン遺跡の保存、修復の事業に参加してきました。
失われた文化財の復元や返還運動など文化外交に取り組んできたお話を伺います。
21世紀はきっと平和な世紀になるだろうと大きな期待をしていただけに、爆破、テロが絶えないと云うことは非常に痛ましい現状を嘆いています。
断食月にはよい行いをすれば天国にいけるということでしたが、そういう時期に爆破、テロが行われたりして、かつてはありえなかったことが事件として起きており、イスラムの人ですら意外感を抱いています。
世界の人の心の荒廃がかなり進んでいるなあと実感する事件です。
寛容さのない世界に進んでいるような気がします。
20世紀は大きな大戦を二つやって、ようやく人類は戦争を克服できる機会も得たが21世紀は全く異なった方向に進んでいる。
和解、許しが必ずしも人類共通の課題として認識され、深める方向に行っていなかったということを裏付けるものであると思います。
2001年バーミヤン大仏の爆破事件、ショッキングでした。
タリバン政府によって二つの大仏を爆破した映像が送られて強烈な衝撃をうけました。
爆破の後にユネスコの召集を受けて現場に行きましたが、他の大仏も破壊されていました。
壁画の7割がはぎとられて破壊されたりしていました。
日本の税金で拠出されているユネスコの日本信託基金があり、平山郁夫先生がこれを使ってアフガニスタンの戦後復興に役立ててほしいと云う強い提言があり、2003年から進めました。
民族紛争は止んだわけではなくて、公式的には現場には立ち入れられなくなって、ここ3年ほどは情報だけは得て居ると云う状況です。
再生はほとんど難しいと直感しました。
戻しうる技術は持っていると思って、戻すことを決意しました。
2003年にパリでバーミヤンの復旧作業について国際的な合意を取り付ける会議があり、ユネスコの事務局長が松浦晃一郎さんで松浦さんが主導して、平山先生がユネスコの親善大使でしたので、イニシアティブをとって、復興に取り組むことに決めました。
文化財が海外に流出してしまいました。
カーブル博物館が破壊されて多くの物が国外に流出しました。
アメリカの考古学者ナンシー・デュプリー(Nancy Hatch Dupree)がパキスタンで流出を止めるという運動をして、日本に流れ着いたものは日本で止めて、平和になった時に返還して、文化復興の活力のもとにしたいと言う思いがあり、日本でもおこなわれました。
102点、東京芸大に保管されて、昨年アフガニスタンの黄金展で、東京芸大の天井画の再生と、保管品の日本での姿を見ていただきました。
平山郁夫先生のように深く文化財を愛する情熱がないと、できないことだと共に働いてきて感じました。
2016年に東京芸大で開かれて展覧会で、破壊された天井画、太陽神が復元された。
バーミヤンで破壊された東大仏、西大仏の天井画は世界的に傑作だと言われた大壁画が、これは法隆寺の壁画と或る意味文化の流れで繋がっていた壁画が存在していたが、完全に消えてしまった。
日本ではその間にたくさんの写真、スケッチをしてきたので、そのデータを持っていたのは日本だけだった。
東京芸大の宮迫先生と話し合って、復元が出来ると決断されて、印刷技術、デジタル化するデータ、写しの技法などを組み合わせれば、かなり実物に近づいた壁画の再生は可能だとやりながら結論を出しました。
それを展示したところ大変な反響がありました。(新し生命を吹きこんだ再生だった)
日本だからこそできた貢献だった。
平山先生はシルクロードに大きな思いを載せられたのは、小学生時代の広島の被爆体験の外の傷と同時に内面に傷があって、それをどういうふうに生涯を掛けて越えていくのかというのが先生にとって大きな課題だったと思う。
晩年になって初めて生き地獄の火炎に包まれた広島の絵を描きましたが、題は「広島生変」新しく生き返すという想いがあった。
日本文化を育てたものは何かというものに眼差しを投ぜられて、それが先生のシルクロードに向かわせて、スケッチの山を築いた。
シルクロードの文化が日本の文化の分母にあたり、日本文化はさまざまなものを学んだ一つの分子として素晴らしい達成をしたという考えで、いつか恩返しをしないといけないと云うのが平山先生の考えだった。
2002年西安のユネスコの会議でシルクロードを世界遺産に登録しようと云うことになる。
国境を越えて文化遺産を包括的登録する、このことこそ平和を根付かせてゆく第一歩ではないかというのが平山先生の考え方だった。
中国、キリギス、カザフスタンが遺産を同時に登録すると云うことになった。
シルクロードへの関心が薄らぐなか、平和構築という点においても重要な事柄ではないかと思うようになり、その対策として検定、それを通して世界と日本の関わり、古代における特別の意義を再びよみがえらせることが出来るのではないかと思いました。
検定は9月に実施しようと思っていて、中学生から高年齢の人までを対象にしています。
平山先生が亡くなって8年になりますが、作品が残っていてそれが生き続けて居ています。(平山郁夫シルクロード美術館は山梨に有ります。)
文化に対する情熱、温かい広い心が先生が残された遺産だと思っているのでそれをつないでいくことが、先生の理想であった世界に平和を根付かせることに繋がるんだろうと思います。
心の養生がとても大事だと思っていて、長く内戦が続いて、荒れたものが癒されてゆくきっかけがない。
経済支援に依る生活の向上だけでは達せられない。
文化を通して心の養生を行い、寛容な心に転換させてゆく重要な心の糧、それが文化で、文化でしか果たせないと思っていて私たちは実行したい。
壁画を元の位置に戻したい、できない物を保存して、博物館のようなものがあると見に来る機会があり、文化に深く接することが出来るので、平山先生は博物館の建立を望んでいました。
経済支援、文化支援がよりあわされた支援として提出されてこないと、特に戦火の止まないところでは有効性は発揮できないと思います。
アフガニスタン文化研究所は一つの文化を中心として、アフガニスタン支援をどのようにして実現して行くのかをテーマとして作った研究所なので、その人たちが支えてきています。
バーミヤンも見学者が増えてきて、入場券の製作にアフガニスタン文化研究所が関わって渡しました。
一歩一歩無くしては再生行為はないです。
平和は心の養生によってこそ実現できると云うことに関して決してぶれない。(平山先生の心の願い)
教育、人材育成は大事で、日本に連れてきてと言うことではなく現場で共に働く事、それを大切に守りたい。
2017年7月3日月曜日
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・川上貞奴【近代日本150年 明治の群像】
本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・川上貞奴【近代日本150年 明治の群像】
神田 蘭(講談師)
日本の女優第一号の川上貞奴。
明治時代の芸者上りの美人女優、フランスの文化人にも称賛された国際女優との評価もあり。
本郷:調べるまでは浮ついた人かと思っていたら凄い人ですね。 女傑です。
神田:私の好きな女性の顔です。 凄い星のしたに生まれた人って、こういうことかなあと思います。
明治4年生まれ、昭和21年に亡くなる。
神田による講談による川上貞奴の紹介
「1900年開催、パリ万国博覧会で一躍脚光を浴びた川上貞奴。
本名小山貞 明治4年、日本橋の両替商の家に生まれる。
新政府による銀行が出来て、両替商が没落して行く。
7歳のときに、浜田屋という芸者置き屋に預けられるが、女将亀吉が自分の養女として芸者として育てて行く。
気の強さ頭の良さ、才能でもって日舞、歌、三味線などさまざまな芸を身につけて、評判の芸者に成って行く。
芳町で一番の芸者が継ぐやっこを襲名する。
初代内閣総理大臣伊藤博文がやっこを水揚げをする。
馬術、水泳、ビリヤードなども行う。
或る時野犬に襲われ、乗っていた馬が暴れだすが、野犬を追い払い馬をなだめた一人の男がいた。
それが岩崎桃介(後の福沢桃介)で恋に落ちる。(当時慶応大学の貧乏学生)
岩崎桃介は福沢諭吉の娘との縁談ができて、アメリカ留学することになる。
その為やっこは荒れていろいろ浮名を流したが、周りが心配して壮士芝居にやっこを誘った。」
「壮士芝居、浅草の中村座へゆく。 そこでは川上音二郎がオッペケペー節を歌う。
川上音二郎は1864年(文久元年) 九州博多の商家の二男として生まれる。
14歳で増上寺の小僧として働くが福沢諭吉に見出されて慶応大学の学僕となり、後の京都に行って巡査になるが、自由民権運動にのめり込む。
逮捕180回以上、投獄20回、その間講釈師などいろいろな職業につく。
川上音二郎がオッペケペー節を創案する。
やっこは川上音二郎(28歳)に心を奪われ、楽屋に挨拶に行くことになる。
やがて結婚することになる。(明治27年 貞奴23歳)
川上座と言う劇場を建てるが、多額の借金を抱え込む。
小さな船で海外に行こうとするが、3ヶ月半漂流して神戸に着くが、これが評判となりアメリカ行きの話が舞い込む。」
川上音二郎がやっこを女優にする。
川上音二郎はペテン師的な要素があるが、生命力を感じたんではないのでしょうか。
川上音二郎の芸は素人芸みたいな様な気がする。(現代に伝わっていない)
オッペケペー節だけは残っている。
明治28年の川上貞奴の生の歌が残っていた。
*「槍と錆」(日清戦争の士気を高めるための歌だったようである)
「1899年4月神戸港をあとにアメリカに行くことになる。
アメリカでは芸者の存在が注目されていた。
やっこを女優としてデビューすることになり川上貞奴が誕生することに成る。
シカゴ公演でアメリカ人を魅了してイギリスへ行くことになり成功を収め、パリ万国博覧会に出演して貞奴の美しさ華麗な演技はヨーロッパ中を虜にする。
彫刻家ロダンがモデルに申し込んだり、、ピカソが貞奴のポスターを描いたり、アンドレジッド、プッチーニなども注目する。
帰国するが、貞奴は外国と日本の芸風の違いに芸に自信が持てなかった。
アメリカの舞台は生きた女性として自分を見せるのですと言う思いを持った。
音二郎は大阪に帝国座を建てるが、このころは音二郎は病に倒れてしまう。
音二郎は47歳で亡くなる。
46歳で女優を引退し、初恋の人、福沢桃介と暮らすようになり、福沢桃介を助けて色々な事業を手掛けて行く。
川上貞奴は昭和21年に亡くなる。(75歳)」
音二郎は公演で他にも切腹シーンを入れたが、それが受けたようだ。(異質な感じだが)
貞奴は何か持っている人だった。
明治33年パリ万博での川上音二郎一座の音声が残っている。(オッペケペー節を歌う)
後に「電力王」の異名をとった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は水力ダムを作る、現在も残っている。
貞奴は何でもできた人なので、今生きていたら、実業家、学者、政治家何になったんだろうかと色々想像してしまいます。
神田 蘭(講談師)
日本の女優第一号の川上貞奴。
明治時代の芸者上りの美人女優、フランスの文化人にも称賛された国際女優との評価もあり。
本郷:調べるまでは浮ついた人かと思っていたら凄い人ですね。 女傑です。
神田:私の好きな女性の顔です。 凄い星のしたに生まれた人って、こういうことかなあと思います。
明治4年生まれ、昭和21年に亡くなる。
神田による講談による川上貞奴の紹介
「1900年開催、パリ万国博覧会で一躍脚光を浴びた川上貞奴。
本名小山貞 明治4年、日本橋の両替商の家に生まれる。
新政府による銀行が出来て、両替商が没落して行く。
7歳のときに、浜田屋という芸者置き屋に預けられるが、女将亀吉が自分の養女として芸者として育てて行く。
気の強さ頭の良さ、才能でもって日舞、歌、三味線などさまざまな芸を身につけて、評判の芸者に成って行く。
芳町で一番の芸者が継ぐやっこを襲名する。
初代内閣総理大臣伊藤博文がやっこを水揚げをする。
馬術、水泳、ビリヤードなども行う。
或る時野犬に襲われ、乗っていた馬が暴れだすが、野犬を追い払い馬をなだめた一人の男がいた。
それが岩崎桃介(後の福沢桃介)で恋に落ちる。(当時慶応大学の貧乏学生)
岩崎桃介は福沢諭吉の娘との縁談ができて、アメリカ留学することになる。
その為やっこは荒れていろいろ浮名を流したが、周りが心配して壮士芝居にやっこを誘った。」
「壮士芝居、浅草の中村座へゆく。 そこでは川上音二郎がオッペケペー節を歌う。
川上音二郎は1864年(文久元年) 九州博多の商家の二男として生まれる。
14歳で増上寺の小僧として働くが福沢諭吉に見出されて慶応大学の学僕となり、後の京都に行って巡査になるが、自由民権運動にのめり込む。
逮捕180回以上、投獄20回、その間講釈師などいろいろな職業につく。
川上音二郎がオッペケペー節を創案する。
やっこは川上音二郎(28歳)に心を奪われ、楽屋に挨拶に行くことになる。
やがて結婚することになる。(明治27年 貞奴23歳)
川上座と言う劇場を建てるが、多額の借金を抱え込む。
小さな船で海外に行こうとするが、3ヶ月半漂流して神戸に着くが、これが評判となりアメリカ行きの話が舞い込む。」
川上音二郎がやっこを女優にする。
川上音二郎はペテン師的な要素があるが、生命力を感じたんではないのでしょうか。
川上音二郎の芸は素人芸みたいな様な気がする。(現代に伝わっていない)
オッペケペー節だけは残っている。
明治28年の川上貞奴の生の歌が残っていた。
*「槍と錆」(日清戦争の士気を高めるための歌だったようである)
「1899年4月神戸港をあとにアメリカに行くことになる。
アメリカでは芸者の存在が注目されていた。
やっこを女優としてデビューすることになり川上貞奴が誕生することに成る。
シカゴ公演でアメリカ人を魅了してイギリスへ行くことになり成功を収め、パリ万国博覧会に出演して貞奴の美しさ華麗な演技はヨーロッパ中を虜にする。
彫刻家ロダンがモデルに申し込んだり、、ピカソが貞奴のポスターを描いたり、アンドレジッド、プッチーニなども注目する。
帰国するが、貞奴は外国と日本の芸風の違いに芸に自信が持てなかった。
アメリカの舞台は生きた女性として自分を見せるのですと言う思いを持った。
音二郎は大阪に帝国座を建てるが、このころは音二郎は病に倒れてしまう。
音二郎は47歳で亡くなる。
46歳で女優を引退し、初恋の人、福沢桃介と暮らすようになり、福沢桃介を助けて色々な事業を手掛けて行く。
川上貞奴は昭和21年に亡くなる。(75歳)」
音二郎は公演で他にも切腹シーンを入れたが、それが受けたようだ。(異質な感じだが)
貞奴は何か持っている人だった。
明治33年パリ万博での川上音二郎一座の音声が残っている。(オッペケペー節を歌う)
後に「電力王」の異名をとった福沢桃介(福沢諭吉の娘婿)は水力ダムを作る、現在も残っている。
貞奴は何でもできた人なので、今生きていたら、実業家、学者、政治家何になったんだろうかと色々想像してしまいます。
2017年7月2日日曜日
山寺宏一(声優) ・【時代を創った声】
山寺宏一(声優) ・【時代を創った声】
56歳、声優だけにとどまらず、俳優、ナレーション、司会、物まね番組にも出演するなど本当に幅広く活躍さています。
携帯のバイブレーション、トランペットの音などを自分の声で出す。
小さい頃から物まねが大好きでした。
携帯のバイブレーションは低い裏声を出したときに偶然出てきました。
動物のものまねは子供のころから好きでした。
自分の声をカセットには中学高校時代にとりそれを重ねたりました。
歌はなるべくその人に近づけるようにしました。
TVで物まねしているのを物まねするのをよくやっていました。
「ウィ・アー・ザ・ワールド。」
チャレンジ精神でどこまでできるのか頑張りました。
ブラジル楽器で、サンバなどのブラジル音楽に多く使われる、クイーカ
太鼓の小さい物の裏に竹ひごみたいなものが付いていて、それを濡れた布でこすって音を出すもの。
これをサンバのリズムで音を出す。(物まねで出す)
声を震わすのに唇、舌、のどちんこを震わす(出来る人とできない人がいる)、3つあります。
のどに負担がかかるものとかからないものがあります。
怪物の声などは大変です。
負担がかかり過ぎた時には薬を飲んだり、のどを休ませたりしています。
バナナフリッターズ(声優の日高のり子・山寺宏一・関俊彦で結成した声優ユニット。) 25年ぶりの復活ライブ。
ニール・サイモンの舞台をもう一回やりたいと云うことで、3人でやろうと云うことになり、舞台をやりました。
演出は中尾隆聖さんにお願いしました。
CD出したり、ライブなどをやりました。
3曲新しい曲を作って、振付DVDも入っていてバナナの着ぐるみをして、パパイヤ鈴木さんに振付をお願いしました。
話もつくろうと言うことで3人で作って、自分達でかきおろしました。
家族のきずな、大好きな人との絆を表した曲
作詞作曲 安部純 編曲 武藤星児 バナナフリッターズ 「あのね」
この歌にパパイヤ鈴木さんの振付が入っています。
色んな活動をするのは相乗効果があっていいと思います。
朝の子供番組をやらせてもらってから、色んな話を頂くことになり、とりあえずいろんなことをやってそのうち絞れるだろうと思っていましたが、絞れてないです。
民放の子供向け情報番組、18年半で終わりました。
生放送で初めてのことづくしでしたが、楽しかったです。
収録だったらこれだけ続かなかったと思います。
こだわったのは「お友達」と言う言葉は使わなかったです。
「お友達」と言う言葉は大人が無理やり目線を下げて、上から見て居る感じがしましたので、それだけはこだわりました。
子供が朝起きを自分からするような番組にしたかった。
子供はすぐ飽きるので、飽きさせないための工夫を意識していないといけないと思いました。
事前の準備は必要ですが、計算しすぎてこうやってやろうと云うことも駄目なので、その時を一生懸命やると云うこと、真心を込める、遊びごころを持つ、自分が楽しむ、しかしこのなかにも矛盾はありますが。
モットーとしては求められたものをちょっとでも越えようとするふうには、思っています。
56歳、声優だけにとどまらず、俳優、ナレーション、司会、物まね番組にも出演するなど本当に幅広く活躍さています。
携帯のバイブレーション、トランペットの音などを自分の声で出す。
小さい頃から物まねが大好きでした。
携帯のバイブレーションは低い裏声を出したときに偶然出てきました。
動物のものまねは子供のころから好きでした。
自分の声をカセットには中学高校時代にとりそれを重ねたりました。
歌はなるべくその人に近づけるようにしました。
TVで物まねしているのを物まねするのをよくやっていました。
「ウィ・アー・ザ・ワールド。」
チャレンジ精神でどこまでできるのか頑張りました。
ブラジル楽器で、サンバなどのブラジル音楽に多く使われる、クイーカ
太鼓の小さい物の裏に竹ひごみたいなものが付いていて、それを濡れた布でこすって音を出すもの。
これをサンバのリズムで音を出す。(物まねで出す)
声を震わすのに唇、舌、のどちんこを震わす(出来る人とできない人がいる)、3つあります。
のどに負担がかかるものとかからないものがあります。
怪物の声などは大変です。
負担がかかり過ぎた時には薬を飲んだり、のどを休ませたりしています。
バナナフリッターズ(声優の日高のり子・山寺宏一・関俊彦で結成した声優ユニット。) 25年ぶりの復活ライブ。
ニール・サイモンの舞台をもう一回やりたいと云うことで、3人でやろうと云うことになり、舞台をやりました。
演出は中尾隆聖さんにお願いしました。
CD出したり、ライブなどをやりました。
3曲新しい曲を作って、振付DVDも入っていてバナナの着ぐるみをして、パパイヤ鈴木さんに振付をお願いしました。
話もつくろうと言うことで3人で作って、自分達でかきおろしました。
家族のきずな、大好きな人との絆を表した曲
作詞作曲 安部純 編曲 武藤星児 バナナフリッターズ 「あのね」
この歌にパパイヤ鈴木さんの振付が入っています。
色んな活動をするのは相乗効果があっていいと思います。
朝の子供番組をやらせてもらってから、色んな話を頂くことになり、とりあえずいろんなことをやってそのうち絞れるだろうと思っていましたが、絞れてないです。
民放の子供向け情報番組、18年半で終わりました。
生放送で初めてのことづくしでしたが、楽しかったです。
収録だったらこれだけ続かなかったと思います。
こだわったのは「お友達」と言う言葉は使わなかったです。
「お友達」と言う言葉は大人が無理やり目線を下げて、上から見て居る感じがしましたので、それだけはこだわりました。
子供が朝起きを自分からするような番組にしたかった。
子供はすぐ飽きるので、飽きさせないための工夫を意識していないといけないと思いました。
事前の準備は必要ですが、計算しすぎてこうやってやろうと云うことも駄目なので、その時を一生懸命やると云うこと、真心を込める、遊びごころを持つ、自分が楽しむ、しかしこのなかにも矛盾はありますが。
モットーとしては求められたものをちょっとでも越えようとするふうには、思っています。
2017年7月1日土曜日
堀木エリ子(和紙作家) ・手漉(す)きの伝統を現代に生かす(H28/11/19 OA)
堀木エリ子(和紙作家) ・手漉(す)きの伝統を現代に生かす(H28/11/19 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/11/blog-post_19.htmlをご覧ください。
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