保阪正康(ノンフィクション作家) ・私の昭和史を語る(2)
*NHKの平成29年度予算と事業計画について、参議院の審議の模様を伝える番組のため
中止にします。
2017年3月31日金曜日
2017年3月30日木曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・私の昭和史を語る(1)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・私の昭和史を語る(1)
400通近い便りが寄せられた。
8割以上が戦争に関する便り。
戦闘体験もあるが、飢餓体験、引き揚げ体験、被災被爆体験を語る内容が映っているように思います。
千葉県佐倉市伊藤昇?さん (90歳)
長野県の小作農家の長男として生まれた。
父は越後、母は東京へ出稼ぎにいって居た。
祖母と過ごしていた。
16歳のときに紙くず問屋をしていた伯父のところへ奉公に行くことになる。
仕事は紙くずを自転車についたリヤカーにのせ、集荷する作業で朝4時ごろから一人でする重労働だった。
昭和18年18歳で徴用令書が来て、行先は三菱重工業名古屋航空機大江工場、零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機(雷電)を製作。
B29を撃墜するというラジオ放送とは裏腹に本土が焦土化して行く現状を理解できなかった。
名古屋城も被爆し炎上、三菱重工業名古屋航空機大江工場も猛爆に消えた。
昭和20年3月、私にも令状が届いた。
静岡の浜名海兵団に入隊、行ってみると日本の飛行機、兵器もなく毎日塹壕堀だった。
8月15日の敗戦を迎える。
長野の田舎に帰るが母の嫁入りたんすが残っているが、金属供出で取っ手の穴だけが残っていた。
平和とはなにか、人間らしく生きることはどういうことかと問い続けていきたい。
埼玉県東松山市 東川ひとこ?さん (89歳)
3年生のころまでは授業がありましたが学徒動員で、海軍省管制本部に配属になりました。
毎日のように出征して行くのを見送りました。
霞が関の本省は攻撃目標となり危険とのことで各地に分散しました。
私の部は当時のNHKの隣のビルに移転し軍の極秘書類などを運びました。
特に印象に残ったのは昭和18年10月21日神宮球場で学徒出陣壮行会が行われたことです。
スタンドには多くの女子学生が見送りましたが私もその中の一人でした。
緊迫感は心に焼き付いています。
昭和20年4月13日の空襲でわが家も焼失しました。
防空頭巾をかぶって母と一緒に逃げました。
今も耳に残る焼夷弾の落下音、二度と聞きたくない音です。
戦後ワシントンで実物のB29(エノラゲイ)と焼夷弾の実物を見ました。
何ともやり切れぬ気持でした。
今なお生き続けるものとして、憲法9条を守り通さねば犠牲者たちに申し訳ないと強く思っています。
昭和の漢字一文字は「食」 東京都青梅市合田速志さん(84歳)
私の昭和史を漢字一文字で表せば「食」です。
小学校3年生から戦争が行われた10年間は空腹の日々でした。
戦時下では肉、米、卵牛乳、砂糖はまったく入手できませんでした。
すべて軍部に流れたのです。
唯一の楽しみは天皇誕生日の4月29日に登校して紅白のまんじゅうを貰うことでした。
なんとか食べ物が出回ってきたのは昭和30年ごろからです。
もう20年遅く生まれてくれば食べ物に苦労しなかったと思う反面、戦時下と余り変わらない食生活を続けているので成人病にかからずここの歳まで長生きしているのだと思っています。
私(保坂)も食はつらい思い出として残っています。
シベリア抑留のつらい思い出 広島県福山市 古木三郎さん(90歳)
元関東軍の一兵士としてシベリアのイエジベストコーガヤで4年間の抑留生活を余儀なくされました。
3年余りは電気、水道設備のあった収容所で過ごし、ほかの地区とは格段の好条件で死亡者も数人でした。
帰国後抑留記録を読むと、モスクワの南から、カスピ海のほとり、ウクライナ、中央アジアのタシュケントなどに送られ、多くの戦友が極寒、重労働、栄養失調に苦しめられていたと聞いています。
元関東軍兵士60万の1割以上が遠く異郷の凍土の下で無念の永遠の眠りに余儀なくされています。
この実態をあらためて日本の全国民に確認していただき不戦の思いを新たにしていただきたいのが私の願いです。
抑留60万人ではなく、実態はもっと多かったのではないかと思います。
引き揚げ 愛知県豊田市 鈴木玲子?さん(81歳)
父が軍人だったので旧満州で生まれ楽しい毎日を送っていました。
昭和20年8月9日、ソ連は突然ソ満国境から攻め込んできました。
女子供は避難することになりました。
8月12日、妊娠8カ月の母は3歳の弟をおぶって、私は食料などをリュックサックに入れて背負い弟を連れて、貨物列車に乗り込みました。
15日、北朝鮮の平城に到着、予定していたところはソ連軍に占領されていて行き場のなくなった避難民は平城在住の日本人宅でお世話になることになりました。
野宿をしながら歩いて38度線を突破して帰国船の出る南朝鮮に向かうことになりました。
ソ連兵に見つかり銃を突きつけられ、何が何でも日本に帰るのだと祈り続けました。
やっとのことで長崎県の佐世保港に入港、コレラが出たらしく2週間上陸できませんでした。
母は衰弱した弟を病院に連れて行ったが、息を引き取ってしまいました。
戦争のために弟、妹を亡くして、辛く悲しい思いをしました。
いつのまにか戦争体験を語れる最後の年代になってしまったようです。
私はお声がかかればどこへも出かけて行き、悲惨な戦争体験を話しています。
もう二度と戦争のない平和な日々が続くことを心から願っています。
戦前のラジオの思い出 宮城県仙台市 本郷勝夫さん (94歳)
第一の思い出、昭和11年ベルリンオリンピックの女子水泳の「前畑がんばれ」の放送です。
小学4年から6年の大相撲の放送も記憶に残っています。
武蔵山、男女ノ川 (みなのがわ) 清水川、羽黒山、双葉山などが挙げられます。
昭和16年の日米開戦の歴史的な放送、その後は嘘ばかりの放送報道に明け暮れました。
昭和18年の召集令で大陸に渡り、大作戦に参加させられました。
部隊長の一言で敗戦を知らされました。
いま94歳で元戦場体験兵の一人として生きています。
東京都板橋区 山下敏子?さん (84歳)
戦争が激しくなるとともに食料も不足、5年生ぐらいになると街角で千人針もしました。
国中が洗脳された時代で恐ろしい。
家の防空壕では危険と云うことで山の下の横穴の防空壕に避難しました。
近所の士官学校の生徒さん20歳前後の3兄弟は戦争に行きましたが一人も帰りませんでした。
昭和20年学童疎開で父の故郷に転校しましたが、片田舎にもB29がきました。
平凡な毎日がいつまで続くのでしょうか、最近戦前の匂がするのは私だけでしょうか。
子供孫の時代まで平和が続くことを祈ります。
大本営発表は846回あるが、前の話の中で嘘というふうになっているが戦況がいい時は事実を伝えるが、悪くなると言葉を誤魔化して行く、撤退を転進と云ったりして誤魔化す。
そのうち隠すようになる、どうしても発表しなくてはいけないときには嘘を云う。
戦中戦後の母親に感謝 広島県二十日市 利根栄子?さん(75歳)
12月12日生まれ 12月8日に大平洋戦争が勃発、母のの不安を察する昨今です。
心配でたまらなかったろうと想像もつきません。
父は戦地にいたそうです。
母は戦後を乗り越え物資のない時代を凌ぎ私たち4人をを育ててくれました。
母は親から貰った立派な着物を農家に持っていって食料と交換したそうです。
母は昨年96歳で長き人生を生き抜きました、凄いことです。
改めてお母さんありがとう、よくぞ育ててくれましたと感謝の思いにあふれて居ます。
もう二度と悲しい辛い思いを子や孫にさせてはならない、大切な命を守らなければならないと願わずにはおられません。
甲子園球場の空襲にまつわる便り 千葉市緑区 西村功?さん(78歳)
7歳の少年時代に経験した空襲と、引き続いた戦後混乱期の生活体験は今日に至るまで忘れることはないでしょうし、死ぬまで忘れません。
アメリカ軍B29爆撃機130機による阪神大空襲は鮮明な記憶で脳裏に焼き付いています。
昭和20年8月5日夜10時ごろから未明にかけてのことでした。
甲子園球場のすぐ近くに住んでいましたが、まさか空襲でわが家が焼失するなど夢にも思いませんでした。
突然父に起こされ、ラジオから何度も空襲警報発令の声が聞こえてきました。
父母のあとについて家を出て防空壕に避難しました。
夜が明けて空襲警報が解除され外を見ると、初めてあたりの状況が一変していることに気付きました。
すべてが焼け野原になって、みんな茫然としていました。
甲子園地域一帯が川西航空機鳴尾製作所、それに関連する軍需工場になっていたからです。
昭和20年1月の正月野球大会を最後に軍に接収され軍需工場に、内野は芋畑に、外野は軍のトラック駐車場になりました。
金属類は供出されてしまいました。
あれから70年経ちすっかり変わりましたが、しかし戦争による空襲被害は厳然たる事実なのです。
甲子園にも戦争の事実が刻まれていることを、後世に伝えつつ平和への誓いを新たにしないといけないと思っています。
400通近い便りが寄せられた。
8割以上が戦争に関する便り。
戦闘体験もあるが、飢餓体験、引き揚げ体験、被災被爆体験を語る内容が映っているように思います。
千葉県佐倉市伊藤昇?さん (90歳)
長野県の小作農家の長男として生まれた。
父は越後、母は東京へ出稼ぎにいって居た。
祖母と過ごしていた。
16歳のときに紙くず問屋をしていた伯父のところへ奉公に行くことになる。
仕事は紙くずを自転車についたリヤカーにのせ、集荷する作業で朝4時ごろから一人でする重労働だった。
昭和18年18歳で徴用令書が来て、行先は三菱重工業名古屋航空機大江工場、零式艦上戦闘機、一式陸上攻撃機(雷電)を製作。
B29を撃墜するというラジオ放送とは裏腹に本土が焦土化して行く現状を理解できなかった。
名古屋城も被爆し炎上、三菱重工業名古屋航空機大江工場も猛爆に消えた。
昭和20年3月、私にも令状が届いた。
静岡の浜名海兵団に入隊、行ってみると日本の飛行機、兵器もなく毎日塹壕堀だった。
8月15日の敗戦を迎える。
長野の田舎に帰るが母の嫁入りたんすが残っているが、金属供出で取っ手の穴だけが残っていた。
平和とはなにか、人間らしく生きることはどういうことかと問い続けていきたい。
埼玉県東松山市 東川ひとこ?さん (89歳)
3年生のころまでは授業がありましたが学徒動員で、海軍省管制本部に配属になりました。
毎日のように出征して行くのを見送りました。
霞が関の本省は攻撃目標となり危険とのことで各地に分散しました。
私の部は当時のNHKの隣のビルに移転し軍の極秘書類などを運びました。
特に印象に残ったのは昭和18年10月21日神宮球場で学徒出陣壮行会が行われたことです。
スタンドには多くの女子学生が見送りましたが私もその中の一人でした。
緊迫感は心に焼き付いています。
昭和20年4月13日の空襲でわが家も焼失しました。
防空頭巾をかぶって母と一緒に逃げました。
今も耳に残る焼夷弾の落下音、二度と聞きたくない音です。
戦後ワシントンで実物のB29(エノラゲイ)と焼夷弾の実物を見ました。
何ともやり切れぬ気持でした。
今なお生き続けるものとして、憲法9条を守り通さねば犠牲者たちに申し訳ないと強く思っています。
昭和の漢字一文字は「食」 東京都青梅市合田速志さん(84歳)
私の昭和史を漢字一文字で表せば「食」です。
小学校3年生から戦争が行われた10年間は空腹の日々でした。
戦時下では肉、米、卵牛乳、砂糖はまったく入手できませんでした。
すべて軍部に流れたのです。
唯一の楽しみは天皇誕生日の4月29日に登校して紅白のまんじゅうを貰うことでした。
なんとか食べ物が出回ってきたのは昭和30年ごろからです。
もう20年遅く生まれてくれば食べ物に苦労しなかったと思う反面、戦時下と余り変わらない食生活を続けているので成人病にかからずここの歳まで長生きしているのだと思っています。
私(保坂)も食はつらい思い出として残っています。
シベリア抑留のつらい思い出 広島県福山市 古木三郎さん(90歳)
元関東軍の一兵士としてシベリアのイエジベストコーガヤで4年間の抑留生活を余儀なくされました。
3年余りは電気、水道設備のあった収容所で過ごし、ほかの地区とは格段の好条件で死亡者も数人でした。
帰国後抑留記録を読むと、モスクワの南から、カスピ海のほとり、ウクライナ、中央アジアのタシュケントなどに送られ、多くの戦友が極寒、重労働、栄養失調に苦しめられていたと聞いています。
元関東軍兵士60万の1割以上が遠く異郷の凍土の下で無念の永遠の眠りに余儀なくされています。
この実態をあらためて日本の全国民に確認していただき不戦の思いを新たにしていただきたいのが私の願いです。
抑留60万人ではなく、実態はもっと多かったのではないかと思います。
引き揚げ 愛知県豊田市 鈴木玲子?さん(81歳)
父が軍人だったので旧満州で生まれ楽しい毎日を送っていました。
昭和20年8月9日、ソ連は突然ソ満国境から攻め込んできました。
女子供は避難することになりました。
8月12日、妊娠8カ月の母は3歳の弟をおぶって、私は食料などをリュックサックに入れて背負い弟を連れて、貨物列車に乗り込みました。
15日、北朝鮮の平城に到着、予定していたところはソ連軍に占領されていて行き場のなくなった避難民は平城在住の日本人宅でお世話になることになりました。
野宿をしながら歩いて38度線を突破して帰国船の出る南朝鮮に向かうことになりました。
ソ連兵に見つかり銃を突きつけられ、何が何でも日本に帰るのだと祈り続けました。
やっとのことで長崎県の佐世保港に入港、コレラが出たらしく2週間上陸できませんでした。
母は衰弱した弟を病院に連れて行ったが、息を引き取ってしまいました。
戦争のために弟、妹を亡くして、辛く悲しい思いをしました。
いつのまにか戦争体験を語れる最後の年代になってしまったようです。
私はお声がかかればどこへも出かけて行き、悲惨な戦争体験を話しています。
もう二度と戦争のない平和な日々が続くことを心から願っています。
戦前のラジオの思い出 宮城県仙台市 本郷勝夫さん (94歳)
第一の思い出、昭和11年ベルリンオリンピックの女子水泳の「前畑がんばれ」の放送です。
小学4年から6年の大相撲の放送も記憶に残っています。
武蔵山、男女ノ川 (みなのがわ) 清水川、羽黒山、双葉山などが挙げられます。
昭和16年の日米開戦の歴史的な放送、その後は嘘ばかりの放送報道に明け暮れました。
昭和18年の召集令で大陸に渡り、大作戦に参加させられました。
部隊長の一言で敗戦を知らされました。
いま94歳で元戦場体験兵の一人として生きています。
東京都板橋区 山下敏子?さん (84歳)
戦争が激しくなるとともに食料も不足、5年生ぐらいになると街角で千人針もしました。
国中が洗脳された時代で恐ろしい。
家の防空壕では危険と云うことで山の下の横穴の防空壕に避難しました。
近所の士官学校の生徒さん20歳前後の3兄弟は戦争に行きましたが一人も帰りませんでした。
昭和20年学童疎開で父の故郷に転校しましたが、片田舎にもB29がきました。
平凡な毎日がいつまで続くのでしょうか、最近戦前の匂がするのは私だけでしょうか。
子供孫の時代まで平和が続くことを祈ります。
大本営発表は846回あるが、前の話の中で嘘というふうになっているが戦況がいい時は事実を伝えるが、悪くなると言葉を誤魔化して行く、撤退を転進と云ったりして誤魔化す。
そのうち隠すようになる、どうしても発表しなくてはいけないときには嘘を云う。
戦中戦後の母親に感謝 広島県二十日市 利根栄子?さん(75歳)
12月12日生まれ 12月8日に大平洋戦争が勃発、母のの不安を察する昨今です。
心配でたまらなかったろうと想像もつきません。
父は戦地にいたそうです。
母は戦後を乗り越え物資のない時代を凌ぎ私たち4人をを育ててくれました。
母は親から貰った立派な着物を農家に持っていって食料と交換したそうです。
母は昨年96歳で長き人生を生き抜きました、凄いことです。
改めてお母さんありがとう、よくぞ育ててくれましたと感謝の思いにあふれて居ます。
もう二度と悲しい辛い思いを子や孫にさせてはならない、大切な命を守らなければならないと願わずにはおられません。
甲子園球場の空襲にまつわる便り 千葉市緑区 西村功?さん(78歳)
7歳の少年時代に経験した空襲と、引き続いた戦後混乱期の生活体験は今日に至るまで忘れることはないでしょうし、死ぬまで忘れません。
アメリカ軍B29爆撃機130機による阪神大空襲は鮮明な記憶で脳裏に焼き付いています。
昭和20年8月5日夜10時ごろから未明にかけてのことでした。
甲子園球場のすぐ近くに住んでいましたが、まさか空襲でわが家が焼失するなど夢にも思いませんでした。
突然父に起こされ、ラジオから何度も空襲警報発令の声が聞こえてきました。
父母のあとについて家を出て防空壕に避難しました。
夜が明けて空襲警報が解除され外を見ると、初めてあたりの状況が一変していることに気付きました。
すべてが焼け野原になって、みんな茫然としていました。
甲子園地域一帯が川西航空機鳴尾製作所、それに関連する軍需工場になっていたからです。
昭和20年1月の正月野球大会を最後に軍に接収され軍需工場に、内野は芋畑に、外野は軍のトラック駐車場になりました。
金属類は供出されてしまいました。
あれから70年経ちすっかり変わりましたが、しかし戦争による空襲被害は厳然たる事実なのです。
甲子園にも戦争の事実が刻まれていることを、後世に伝えつつ平和への誓いを新たにしないといけないと思っています。
2017年3月29日水曜日
大杉正明(清泉女子大学教授) ・英語が拓いた世界への扉
大杉正明(清泉女子大学教授) ・英語が拓いた世界への扉
長年ラジオ英会話の講師として、更にラジオ深夜便でも「名画、名曲、名セリフ」や現在は大人の教養講座でユーモラスなだじゃれを交えた軽妙な語り口で人気です。
今日は今年70歳を迎えた大杉さんの英語の原点、英語で人生を切り拓いて子供の頃の夢を叶えてきた話を伺います。
1947年生まれ 今年で70歳、静岡県伊東市の出身、明治学院大学大学院を卒業、現在は清泉女子大学英文科の教授。
NHKの語学講座にかかわったのは1982年、35歳。
1987年からNHKラジオ英会話を11年担当。
TV、ラジオで28年間NHKの語学講座を担当して、8年前「名画、名曲、名セリフ」
から始まってラジオ深夜便出演。
団塊の世代といわれて居る世代です。
当時みんな貧しいので気にならなかった。
ゆったりしている生活感でした。
英語との接点はほとんどない子供時代でした。
英語の唯一の接点は西部劇でジョン・ウエインがステーキを食べているのを見て、家に帰るとアジの干物が待っていて、アメリカは凄く豊かなんだなあとアメリカに対するあこがれはアメリカ映画を通して芽生えてきました。
これが英語の勉強に対する最初かなあと思います。
西部劇の遊びでまねるのにデタラメ英語を使って遊んでいました。
段々本物の英語を使いたいと思うようになりました。
小学校に上がるかどうかのころに家にはフォードの車がありました。
家を売ってフォードを父が買いましたが、借家暮らしとなりました。
車で遊び歩いた父親に対し母親はついに離婚して、父親の借金を背負って4人の子を育てました。
母親は難行苦行の連続でした。
姉たちも私も自分の机の持ったことがありませんで、家で勉強したことはありませんでした。
ラジオから流れてくるアメリカの音楽に心を動かされて、段々プレスリー、ニール・セダカとかのまねしようとして、流れてきたものを判らないながら一生懸命聞いて真似していました。
後で英語が判るようになりましたが、当時結構正確に覚えたと我ながらいい方法だったと思いました。
中学の時には英語を一生の仕事にしようとは思わなかったが、映画、音楽の英語は楽しいし好きだし、ただ英語を勉強することとは違っていました。
英語の時間にカッコよく発音すると廻りから、いじめられたりしました。
日本語的英語の発音をすることで和が保てました。
高校時代も自宅では勉強したことがなくて、卓球ばっかりしていました。
英語の授業の担任の露木先生と出会いまして、先生から厳しく教わって、先生のおかげである程度力もついて来ました。
全国模擬試験で英語の点数だけは200何十番で、廊下に貼り出されて吃驚しました。
3年生の頃に、先生が私の出た大学(明治学院大学)に入らないかといわれ、明治学院大学に進みました。
英語の教員になる以外に考えはほかになかった。
兄弟の中で私だけが大学に行きましたので、自主的に勉強するのが大学の4年間でした。
人間はどんな場所にいても与えられ場所で、自分の持てる力を最大限に発揮して最善を尽くすことが大事だと、教え子などにも言っています。
高校の教員になるつもりでいました。
教員免許を取るには道徳教育の研究は必修でしたが、退路を断つと云うか、後期のレポートを出すのを辞めてしまいました。(大学院に行く事に仕向けるようになってしまった)
大学院に入って、その後職を得たのが女子聖学院短期大学(ミッションスクール)の英文科に入り6年頑張ってその後清泉女子大学に移りました。
ESSの顧問をして指導していて、全国規模の英語のスピーチのコンテストがあり、審査員の先生を頼まれて行って、審査員の一人がアラン・ターニー先生、清泉の教授で漱石の研究家で世界的に有名な翻訳家の先生で、もう一人がジョン・ネイスンと云う先生でコーネル大学で日本文学を教えていた先生で、安部公房、大江健三郎の作品の翻訳で有名な先生で、3人目が無名の私でした。
1日お付き合いをしたことで、1週間後にうちの大学に来ませんかといわれて清泉女子大学
に行くことになりました。
中学~大学院の教員と学生を対象に、ある試験があり優秀な成績で合格すると全額支給でミシガン大学に行ってディスカッションをしたりすることに参加できて、その次の数名は半額支給でそれに合格して、アメリカに行くことになり、見るもの聞くもの食べるものみんな初めてなので吃驚することの連続でした。
こっそり夜中に出て行って食堂に行って、ハンバーグを頼んだり飲み物を頼んだりしてそれがアメリカでの最初の英会話でした。
ホームステーも経験し、思い出深い経験でした。
別れる時に奥さんがハグしてくれましたが、ドギマギしました。(当時はハグなど全然知らなかった)
ルート66の旅は面白い経験をした旅でした。(ところどころ寸断していて廃道になっていてしまってたが)
イギリスの大学の客員教授に1年間行きましたが50代になって、再びカルチャーショックを受けました。
いかにイギリスの国、イギリスの英語を知らなかったかと云うことに驚きました。
35歳のときに初めてNHKの語学講座をやらせていただきましたが、28年になります。
オーディションを受けさせられまして、はじめて英語表現入門というTV番組に出ました。
ラジオ英会話は伝統のある番組ですが、毎日放送する番組で大変で、講演の依頼などもあり、授業もあり、どっちが本物かと思ったときに教員だと思って、マイクの前の仕事も意義深い仕事だと思うが、生身の人間を相手にするのでいろんな指導も必要で、一介の教員として本来の教員として、引き際を考えました。
戻って行くのは教壇だと思いました。
ラジオ深夜便の「名画、名曲、名セリフ」は楽しかったです。(8年間担当)
続けて居ることに意味があるのでこれからも英語の勉強をしながら、頭の運動、身体の運動をして、「過去に学び、今日に生き、明日に希望を」そういう気持ちでこれからも生きていきたいと思っています。
長年ラジオ英会話の講師として、更にラジオ深夜便でも「名画、名曲、名セリフ」や現在は大人の教養講座でユーモラスなだじゃれを交えた軽妙な語り口で人気です。
今日は今年70歳を迎えた大杉さんの英語の原点、英語で人生を切り拓いて子供の頃の夢を叶えてきた話を伺います。
1947年生まれ 今年で70歳、静岡県伊東市の出身、明治学院大学大学院を卒業、現在は清泉女子大学英文科の教授。
NHKの語学講座にかかわったのは1982年、35歳。
1987年からNHKラジオ英会話を11年担当。
TV、ラジオで28年間NHKの語学講座を担当して、8年前「名画、名曲、名セリフ」
から始まってラジオ深夜便出演。
団塊の世代といわれて居る世代です。
当時みんな貧しいので気にならなかった。
ゆったりしている生活感でした。
英語との接点はほとんどない子供時代でした。
英語の唯一の接点は西部劇でジョン・ウエインがステーキを食べているのを見て、家に帰るとアジの干物が待っていて、アメリカは凄く豊かなんだなあとアメリカに対するあこがれはアメリカ映画を通して芽生えてきました。
これが英語の勉強に対する最初かなあと思います。
西部劇の遊びでまねるのにデタラメ英語を使って遊んでいました。
段々本物の英語を使いたいと思うようになりました。
小学校に上がるかどうかのころに家にはフォードの車がありました。
家を売ってフォードを父が買いましたが、借家暮らしとなりました。
車で遊び歩いた父親に対し母親はついに離婚して、父親の借金を背負って4人の子を育てました。
母親は難行苦行の連続でした。
姉たちも私も自分の机の持ったことがありませんで、家で勉強したことはありませんでした。
ラジオから流れてくるアメリカの音楽に心を動かされて、段々プレスリー、ニール・セダカとかのまねしようとして、流れてきたものを判らないながら一生懸命聞いて真似していました。
後で英語が判るようになりましたが、当時結構正確に覚えたと我ながらいい方法だったと思いました。
中学の時には英語を一生の仕事にしようとは思わなかったが、映画、音楽の英語は楽しいし好きだし、ただ英語を勉強することとは違っていました。
英語の時間にカッコよく発音すると廻りから、いじめられたりしました。
日本語的英語の発音をすることで和が保てました。
高校時代も自宅では勉強したことがなくて、卓球ばっかりしていました。
英語の授業の担任の露木先生と出会いまして、先生から厳しく教わって、先生のおかげである程度力もついて来ました。
全国模擬試験で英語の点数だけは200何十番で、廊下に貼り出されて吃驚しました。
3年生の頃に、先生が私の出た大学(明治学院大学)に入らないかといわれ、明治学院大学に進みました。
英語の教員になる以外に考えはほかになかった。
兄弟の中で私だけが大学に行きましたので、自主的に勉強するのが大学の4年間でした。
人間はどんな場所にいても与えられ場所で、自分の持てる力を最大限に発揮して最善を尽くすことが大事だと、教え子などにも言っています。
高校の教員になるつもりでいました。
教員免許を取るには道徳教育の研究は必修でしたが、退路を断つと云うか、後期のレポートを出すのを辞めてしまいました。(大学院に行く事に仕向けるようになってしまった)
大学院に入って、その後職を得たのが女子聖学院短期大学(ミッションスクール)の英文科に入り6年頑張ってその後清泉女子大学に移りました。
ESSの顧問をして指導していて、全国規模の英語のスピーチのコンテストがあり、審査員の先生を頼まれて行って、審査員の一人がアラン・ターニー先生、清泉の教授で漱石の研究家で世界的に有名な翻訳家の先生で、もう一人がジョン・ネイスンと云う先生でコーネル大学で日本文学を教えていた先生で、安部公房、大江健三郎の作品の翻訳で有名な先生で、3人目が無名の私でした。
1日お付き合いをしたことで、1週間後にうちの大学に来ませんかといわれて清泉女子大学
に行くことになりました。
中学~大学院の教員と学生を対象に、ある試験があり優秀な成績で合格すると全額支給でミシガン大学に行ってディスカッションをしたりすることに参加できて、その次の数名は半額支給でそれに合格して、アメリカに行くことになり、見るもの聞くもの食べるものみんな初めてなので吃驚することの連続でした。
こっそり夜中に出て行って食堂に行って、ハンバーグを頼んだり飲み物を頼んだりしてそれがアメリカでの最初の英会話でした。
ホームステーも経験し、思い出深い経験でした。
別れる時に奥さんがハグしてくれましたが、ドギマギしました。(当時はハグなど全然知らなかった)
ルート66の旅は面白い経験をした旅でした。(ところどころ寸断していて廃道になっていてしまってたが)
イギリスの大学の客員教授に1年間行きましたが50代になって、再びカルチャーショックを受けました。
いかにイギリスの国、イギリスの英語を知らなかったかと云うことに驚きました。
35歳のときに初めてNHKの語学講座をやらせていただきましたが、28年になります。
オーディションを受けさせられまして、はじめて英語表現入門というTV番組に出ました。
ラジオ英会話は伝統のある番組ですが、毎日放送する番組で大変で、講演の依頼などもあり、授業もあり、どっちが本物かと思ったときに教員だと思って、マイクの前の仕事も意義深い仕事だと思うが、生身の人間を相手にするのでいろんな指導も必要で、一介の教員として本来の教員として、引き際を考えました。
戻って行くのは教壇だと思いました。
ラジオ深夜便の「名画、名曲、名セリフ」は楽しかったです。(8年間担当)
続けて居ることに意味があるのでこれからも英語の勉強をしながら、頭の運動、身体の運動をして、「過去に学び、今日に生き、明日に希望を」そういう気持ちでこれからも生きていきたいと思っています。
2017年3月28日火曜日
桃月庵白酒(落語家) ・新たな挑戦、落語に深みを!(H28/12/31 OA)
桃月庵白酒(落語家)・新たな挑戦、落語に深みを!(H28/12/31 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_31.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/12/blog-post_31.htmlをご覧ください。
2017年3月27日月曜日
井村一洲(吟詠家) ・日本語の美しさを吟じる
井村一洲(吟詠家) ・日本語の美しさを吟じる
漢詩を日本語に変えて節をつけて発声する詩吟、この詩吟には多くの流派があってそれぞれ、吟じ方が違うとされていますが、美しい日本語の発声で間や抑揚、テンポに気を付けて、その詩が持つ情緒、詩情を聞く人に届ける、という事は共通して居ます。
井村さんが詩吟に興味もったのは二十歳の頃、大学を卒業して就職しますが、32歳のときに脱サラして、医療機器の会社を創業します。
仕事が忙しく詩吟から遠ざかっていた時期もありましたが、45歳の時に本格的に詩吟に取り組みました。
60歳で退職した後、レコード会社の全国大会で優勝するなどして、今は自分の会派で60人以上のお弟子さんをお持ちです。
今、井村さんはお弟子さんたちと小学生に詩吟を通して日本語の美しさを伝えようと活動しています。
吟と云う言葉はいろいろあり、呻吟(しんぎん)、苦吟、吟味とかある。
絞り出してゆく、自分の声として絞り出してゆくのが吟。
心の思いを絞り出すように出して行くのが吟だと思っています。
強吟、弱吟とかある。
自分の好きな漢詩を決められた読み下し文を使って、正しいアクセントと美しい母音で、言葉の明瞭さを保って詩情を聞く人に届けて共に感動しようとこんな目的で詩をうたうと云う風に思っていだだくといいと思います。
奈良から平安時代にかけて詩集が作られてそのほとんどは漢詩でした。
古今和歌集は900年に出来るがそれまでにできた詩集は全部漢字の詩集が出されていました。
和漢朗詠集は漢詩の一部と和歌、漢詩の持っている詩情を持っていた。
音読みのリズムの良さを感じて読み下し文にしていると思う。
音読みと訓読みの両方を加えた。
江戸時代になると、朱子学が主体の学問になるが漢学者が増えて、漢詩を勉強するようになり、一般庶民に広がって行った。
母音の美しい響きを損なわないように発声する。
「あ、い、う、え、お 」
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です、・・・」
ざわざわしたところでは、歯切れのいい言葉でないと伝わらないので、歯切れのいい言葉を使った。
歯切れのいいところは母音が残っている。
1日に15人ずつ毎日稽古をしています。
2時間で5~6人で、若い人が25歳、40代、50~60代若干名、70代が多いです。
作詞者の思いを自分の思いとして、言葉の一つ一つにしていこうと云う思いで作りました。
吟題を言って、作者を言って、作った人に敬意を持って吟ずる。
父親がある大学の詩吟の創設にかかわって、父が詩吟を始めて、その先生に会って聞いたら感動してしまいました。
中学、高校では弁論部にいて数分話すが、詩吟と似ていると思って始めました。
その後はあまりやらなかった。
32歳のときに医療機器会社を創業して、詩吟に目を向けるようになった。
アメリカに医療の見学ツアーに行ったときに、あるパーティーで詩吟を吟じたら、日本語の意味もわからないアメリカ人が凄く感動してくれました。
日本の伝統芸能を持っているとコミュニケーションもスムースに出来るようになりました。
弁論と詩吟はいろいろ共通点がありまして、マイクを使わないで声を出すので母音の響かせ方が必要、腹式呼吸、語る、弁論は生きました。
姿勢が良くなりました。
呼吸筋と姿勢を保つ筋肉類は同じだといわれています。
45歳のころに、70歳になった時に病気になって人が身のまわりに誰も見舞いに来ないのは淋しいと思って、なにかものごとを教えて居れば来るだろうと思って探してみたら、詩吟に思い当たり詩吟を始めました。
60歳で退職して今のような状況になりました。
吟にかかわると人にいかに話すか、話をすることを実感しました
自分をどの様に表現するか、表現力を磨く、心の内面を磨く、そういう面では言葉一つ一つが持っている重さを吟味して伝えていくことが一番大事だと思います。
弟子に教える訳ですが、上手は下手の手本、逆に下手は上手の手本と云うこともあり、教えることは教わることだと思っています。
2003年に指導者になりました。(師範になる)
2011年に自分の会派を立ち上げました。
世田谷区の小中学校に詩吟を通して日本語の美しさを伝えています。
10年ほど前に国語の教科書の中に有名な中国の漢詩が22題掲載されていて、日本語の響きやリズムを楽しみましょうとか、短歌、漢詩を音読しましょうとか、暗唱して朗読しましょうと呼びかけて居ました。
漢詩などを教える手伝いをするようになりました。
教えるとガラッと変わってしまって、感動しました。
赤ちゃんは親から言葉を覚えるときに、言葉と一緒に口の動きをみているそうです。
学校で百人一首を口の動きだけでやってみたら半数ぐらいが判るんです。
同じ事を自分の弟子の教室でやってみたら、なかなか伝わらなかった。
アメリカの学校でショー、アンド、トークがあり何か物を持って3分間喋る授業がありこれはいいなあと思いました。
自分を主張する練習をさせられているんだと感じました。
今後、日本の文化と云うものを文化資産として子供たちに伝えて行きたい。
詩吟を子供たちに伝えていきたい。(学びの連続 教えることによって教わる)
10年前から詩を吟じながら舞うと云う事をやっていて、世阿弥の言葉の中に「舞は声音で根をなす」があり、吟を一生懸命やって腹から出す声は舞につながるなと思いました。
良寛が作った漢詩 「余生」
雨晴れ雲晴れて気も復(また)晴(は)る
(雨晴雲晴気復晴)
心清ければ遍界(へんかい)物皆清し
漢詩を日本語に変えて節をつけて発声する詩吟、この詩吟には多くの流派があってそれぞれ、吟じ方が違うとされていますが、美しい日本語の発声で間や抑揚、テンポに気を付けて、その詩が持つ情緒、詩情を聞く人に届ける、という事は共通して居ます。
井村さんが詩吟に興味もったのは二十歳の頃、大学を卒業して就職しますが、32歳のときに脱サラして、医療機器の会社を創業します。
仕事が忙しく詩吟から遠ざかっていた時期もありましたが、45歳の時に本格的に詩吟に取り組みました。
60歳で退職した後、レコード会社の全国大会で優勝するなどして、今は自分の会派で60人以上のお弟子さんをお持ちです。
今、井村さんはお弟子さんたちと小学生に詩吟を通して日本語の美しさを伝えようと活動しています。
吟と云う言葉はいろいろあり、呻吟(しんぎん)、苦吟、吟味とかある。
絞り出してゆく、自分の声として絞り出してゆくのが吟。
心の思いを絞り出すように出して行くのが吟だと思っています。
強吟、弱吟とかある。
自分の好きな漢詩を決められた読み下し文を使って、正しいアクセントと美しい母音で、言葉の明瞭さを保って詩情を聞く人に届けて共に感動しようとこんな目的で詩をうたうと云う風に思っていだだくといいと思います。
奈良から平安時代にかけて詩集が作られてそのほとんどは漢詩でした。
古今和歌集は900年に出来るがそれまでにできた詩集は全部漢字の詩集が出されていました。
和漢朗詠集は漢詩の一部と和歌、漢詩の持っている詩情を持っていた。
音読みのリズムの良さを感じて読み下し文にしていると思う。
音読みと訓読みの両方を加えた。
江戸時代になると、朱子学が主体の学問になるが漢学者が増えて、漢詩を勉強するようになり、一般庶民に広がって行った。
母音の美しい響きを損なわないように発声する。
「あ、い、う、え、お 」
「私、生まれも育ちも葛飾柴又です、・・・」
ざわざわしたところでは、歯切れのいい言葉でないと伝わらないので、歯切れのいい言葉を使った。
歯切れのいいところは母音が残っている。
1日に15人ずつ毎日稽古をしています。
2時間で5~6人で、若い人が25歳、40代、50~60代若干名、70代が多いです。
作詞者の思いを自分の思いとして、言葉の一つ一つにしていこうと云う思いで作りました。
吟題を言って、作者を言って、作った人に敬意を持って吟ずる。
父親がある大学の詩吟の創設にかかわって、父が詩吟を始めて、その先生に会って聞いたら感動してしまいました。
中学、高校では弁論部にいて数分話すが、詩吟と似ていると思って始めました。
その後はあまりやらなかった。
32歳のときに医療機器会社を創業して、詩吟に目を向けるようになった。
アメリカに医療の見学ツアーに行ったときに、あるパーティーで詩吟を吟じたら、日本語の意味もわからないアメリカ人が凄く感動してくれました。
日本の伝統芸能を持っているとコミュニケーションもスムースに出来るようになりました。
弁論と詩吟はいろいろ共通点がありまして、マイクを使わないで声を出すので母音の響かせ方が必要、腹式呼吸、語る、弁論は生きました。
姿勢が良くなりました。
呼吸筋と姿勢を保つ筋肉類は同じだといわれています。
45歳のころに、70歳になった時に病気になって人が身のまわりに誰も見舞いに来ないのは淋しいと思って、なにかものごとを教えて居れば来るだろうと思って探してみたら、詩吟に思い当たり詩吟を始めました。
60歳で退職して今のような状況になりました。
吟にかかわると人にいかに話すか、話をすることを実感しました
自分をどの様に表現するか、表現力を磨く、心の内面を磨く、そういう面では言葉一つ一つが持っている重さを吟味して伝えていくことが一番大事だと思います。
弟子に教える訳ですが、上手は下手の手本、逆に下手は上手の手本と云うこともあり、教えることは教わることだと思っています。
2003年に指導者になりました。(師範になる)
2011年に自分の会派を立ち上げました。
世田谷区の小中学校に詩吟を通して日本語の美しさを伝えています。
10年ほど前に国語の教科書の中に有名な中国の漢詩が22題掲載されていて、日本語の響きやリズムを楽しみましょうとか、短歌、漢詩を音読しましょうとか、暗唱して朗読しましょうと呼びかけて居ました。
漢詩などを教える手伝いをするようになりました。
教えるとガラッと変わってしまって、感動しました。
赤ちゃんは親から言葉を覚えるときに、言葉と一緒に口の動きをみているそうです。
学校で百人一首を口の動きだけでやってみたら半数ぐらいが判るんです。
同じ事を自分の弟子の教室でやってみたら、なかなか伝わらなかった。
アメリカの学校でショー、アンド、トークがあり何か物を持って3分間喋る授業がありこれはいいなあと思いました。
自分を主張する練習をさせられているんだと感じました。
今後、日本の文化と云うものを文化資産として子供たちに伝えて行きたい。
詩吟を子供たちに伝えていきたい。(学びの連続 教えることによって教わる)
10年前から詩を吟じながら舞うと云う事をやっていて、世阿弥の言葉の中に「舞は声音で根をなす」があり、吟を一生懸命やって腹から出す声は舞につながるなと思いました。
良寛が作った漢詩 「余生」
雨晴れ雲晴れて気も復(また)晴(は)る
(雨晴雲晴気復晴)
心清ければ遍界(へんかい)物皆清し
(心清遍界物皆清)
身を捐(す)て世を棄(す)てて閑人(かんじん)と為(な)り
(捐身棄世爲閑人)
初めて月と花とに余生を送る
(初月與花送餘生)2017年3月26日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の“クラシックの遺伝子”
チャイコフスキーの遺伝子、2017年バージョン。
今年のウイーンフィルのニューイヤーイヤーコンサートを指揮したグスターボ・ドゥダメル。(36歳 ウイーフィルとは10年の付き合い)
*白鳥の湖のワルツ ワルツも素晴らしいが彩りを添える木管楽器の煌めきが素晴らしい。 指揮グスターボ・ドゥダメル。 ウイーフィル管弦楽団。
1972年モスクワ生まれ、ウラディーミル・ユロフスキ(45歳)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めている。
今年来日予定。
*チャイコフシキー交響曲第5番 第三楽章。 指揮ウラディーミル・ユロフスキ
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。
ラフマニノフ
学生のころからチャイコフスキーが大好きだった。
チャイコフスキーが亡くなった時には、ピアノ三重奏曲をチャイコフスキーにささげて居る。
*「ヴォカリーズ」
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
ラフマニノフ編曲 指揮 ヴァシリー・ペトレンコ ロイヤル・リヴァプール・フィル
ハーモニー管弦楽団。
ヨーロッパのジャズ界にもチャイコフスキーのメロディーが影響。
ジャンゴ・ラインハルト ステファン・グラッペの1949年の録音
*チャイコフスキー作曲 ラインハルト編曲 悲愴
いだかれたいテンポ
タンゴ風のチャイコフスキーの音楽。
ペーター・キーゼヴェッター ドイツの作曲家 1945年生まれ。
*タンゴ・パセティック キーゼヴェッター作曲 ヴァイオリン(ギドン・クレーメル) ピアノ(マルタ・アルゲリッチ) チャロ(ミッシャ・マイスキー) 演奏
チャイコフスキーの遺伝子、2017年バージョン。
今年のウイーンフィルのニューイヤーイヤーコンサートを指揮したグスターボ・ドゥダメル。(36歳 ウイーフィルとは10年の付き合い)
*白鳥の湖のワルツ ワルツも素晴らしいが彩りを添える木管楽器の煌めきが素晴らしい。 指揮グスターボ・ドゥダメル。 ウイーフィル管弦楽団。
1972年モスクワ生まれ、ウラディーミル・ユロフスキ(45歳)
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めている。
今年来日予定。
*チャイコフシキー交響曲第5番 第三楽章。 指揮ウラディーミル・ユロフスキ
ロンドンフィルハーモニー管弦楽団。
ラフマニノフ
学生のころからチャイコフスキーが大好きだった。
チャイコフスキーが亡くなった時には、ピアノ三重奏曲をチャイコフスキーにささげて居る。
*「ヴォカリーズ」
歌詞がなく、母音のみで歌われる歌曲のこと。様々な編成に編曲され親しまれている。
ラフマニノフ編曲 指揮 ヴァシリー・ペトレンコ ロイヤル・リヴァプール・フィル
ハーモニー管弦楽団。
ヨーロッパのジャズ界にもチャイコフスキーのメロディーが影響。
ジャンゴ・ラインハルト ステファン・グラッペの1949年の録音
*チャイコフスキー作曲 ラインハルト編曲 悲愴
いだかれたいテンポ
タンゴ風のチャイコフスキーの音楽。
ペーター・キーゼヴェッター ドイツの作曲家 1945年生まれ。
*タンゴ・パセティック キーゼヴェッター作曲 ヴァイオリン(ギドン・クレーメル) ピアノ(マルタ・アルゲリッチ) チャロ(ミッシャ・マイスキー) 演奏
2017年3月25日土曜日
清水国明(タレント) ・めざそう、多毛作人生
清水国明(タレント) ・めざそう、多毛作人生
1950年福井県大野市(旧和泉村)に生まれる。
1973年伝説のフォークデュオを「あのねのね」で芸能界デビューします。
2004年自然ぐらしを実践する山梨県富士河口湖町で、NPO法人河口湖自然学校を設立。2013年には山口県周防大島近傍の無人島を購入、そのほか阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本などの被災地に積極的にかかわっています。
現在はTV、ラジオでも司会やコメンテータ、ー雑誌への執筆など幅広く活躍しています。
そんな清水さんが今年1月福井県若狭町の文化と福祉の複合施設パレア若狭で講演されました。
「あのねのね」のグループをやっていました。
「赤とんぼの唄」などを歌っていましたが、終わってTVの仕事などをやるようになりました。
福井県大野市(旧和泉村)に生まれ、谷あいの村でした。
たった一回の人生だから、いくつも楽しみたいと私は思っています。
憧れはエネルギーとなって人間の成長にふさわしいと言われています。
今は何にも揃っているので、憧れる必要がない、これが欲しいと云うのも憧れだといえばそうであって、それに進んでゆく、そういく考え方もあります。
京都の方の大学に行って、いい仲間(笑福亭鶴瓶、原田伸郎ら)と出会って、京都で8年間過ごしました。
旅館でアルバイトをしていて、あるとき、ビアガーデンで歌を歌う話があり30分で2000円貰えると云って(本当は3000円貰えるが)二人には1000円渡して、私は2000円もらったというようなことをしていたりしました。(冗談半分に)
そのうちTVにださせてもらってあっという間に人気者になって、あっという間に落ちてしまいました。
東京に移動して、ローンを組んで家を建てて生活していました。
今は山梨県川口湖に引っ越して、自然の中での遊び方を熟知していたので、自然を楽しむ学校「森と湖の楽園」を始めて今日に至りました。
いろんなところに行っていろんな人との出会いがあり、いろんな仕事も変わって行って、沢山の人生が出来たなあと思っています。
瀬戸内海の無人島に行って、愛媛県と山口県の県境のところ、みんなで購入して、自給自足で稲を作ったり、海水から塩をつくったり、自主自立の生活を始めて居ます。
無人島で不便さをあえて楽しんでもらって、日ごろの便利さに感謝出来ると云うものです。
ありが島(ありがとう)という島を作りました。
そこでキャンプすると、何にもないんで早く帰りたいと思う。
家に帰ってくると、電気が点く、電気がつくんだと云うことになる。(当たり前のことに感動)
実はありがたい生活をさせて貰っているんだなあと気付いて感謝して生活をするように
成ります。
当たり前と云う事が実は有り難いものである。
「婚活」の島を今年は作ろうと思っていて、おめで島(おめでとう)と云う名前にしようと思っています。
オートバイの競争の世界にも入って、14箇所骨折をしました。
レースで人と競うのが好きなのかも知れません。
全国規模の魚の釣りのトーナメントにも参加して、場を変える、世界を変えることで一匹の魚に震えるような喜びを感じる事が出来るんだなあとも思いました。
いまは自然界で自然をベースにした事をやっています。
ビジネス界は苦手です。
お金に対して手紙を書いて私のところに来て下さいということで新聞にも載ったりしたが、大分来るようになりましたが、じっとしてくれません。
自然の中で鍛え直すという、企業研修をやっています。
3本マッチを渡して火をおこすことをやってもらうが、今の若い人は火をおこせない。
企業研修にはそこそこハマりました。
一番良いのは好きな事をやっていてそのことで皆さんに感謝されて、皆さんからお金を頂ける、そういう暮らしをしているのが一番だと思います。
二番目は好きな事をしているが貧乏、三番目にはいやな事をやらされながら金持ちになる、四番目は嫌な事をやらされながら貧乏、これが一番多いと思う。
最後は一番目を目指して頑張ろうと思っています。
世の中は発展しているが、人間力と云うか、生命力はどんどん落ちていっているような気がします。
自分で修理する時代ではなくなってきてしまっている。
自分持っている色んな事を伝承する役割があるのではないかと思います。
お金持ちの別荘地でお金を守りに入った人は意外といらいらしたりしてクレームがいろいろ来ていると、ある管理人から聞きましたが、子供たちに竹細工、英語などを教えて居るおじいさんおばあさんがいるがその人たちからはクレームがないそうです。
渡そうと思った人と守ろうと思った人の違いではないか。
何人もの人との出会いをしたいと思っている。
清水クーコと結婚したが、離別してその後再婚して3人女の子が生まれました。
これからは自然にと思ったが、家族は一緒には来ないと云うことで、離婚と云うことになり、河口湖に行ったら3回目の結婚をして男の子が生まれました。
子供は9歳になりました。
楽ではない事だが楽しいことはしてきたと思います。
楽な事がいいと錯覚してしまうと、楽な方に流れてしまう。
楽の究極は寝たきり状態だが、感動の為にはあえてわざわざ寒いところ、不便な所に行って一日一日をベストで生きていきたいと思う、そうすると何処で死んでもOKです。
一番いい死に方は100%で生きてきて寿命が来たらパクンと死ぬ、だらだらと死なないそれを直角死と云います。
1950年福井県大野市(旧和泉村)に生まれる。
1973年伝説のフォークデュオを「あのねのね」で芸能界デビューします。
2004年自然ぐらしを実践する山梨県富士河口湖町で、NPO法人河口湖自然学校を設立。2013年には山口県周防大島近傍の無人島を購入、そのほか阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本などの被災地に積極的にかかわっています。
現在はTV、ラジオでも司会やコメンテータ、ー雑誌への執筆など幅広く活躍しています。
そんな清水さんが今年1月福井県若狭町の文化と福祉の複合施設パレア若狭で講演されました。
「あのねのね」のグループをやっていました。
「赤とんぼの唄」などを歌っていましたが、終わってTVの仕事などをやるようになりました。
福井県大野市(旧和泉村)に生まれ、谷あいの村でした。
たった一回の人生だから、いくつも楽しみたいと私は思っています。
憧れはエネルギーとなって人間の成長にふさわしいと言われています。
今は何にも揃っているので、憧れる必要がない、これが欲しいと云うのも憧れだといえばそうであって、それに進んでゆく、そういく考え方もあります。
京都の方の大学に行って、いい仲間(笑福亭鶴瓶、原田伸郎ら)と出会って、京都で8年間過ごしました。
旅館でアルバイトをしていて、あるとき、ビアガーデンで歌を歌う話があり30分で2000円貰えると云って(本当は3000円貰えるが)二人には1000円渡して、私は2000円もらったというようなことをしていたりしました。(冗談半分に)
そのうちTVにださせてもらってあっという間に人気者になって、あっという間に落ちてしまいました。
東京に移動して、ローンを組んで家を建てて生活していました。
今は山梨県川口湖に引っ越して、自然の中での遊び方を熟知していたので、自然を楽しむ学校「森と湖の楽園」を始めて今日に至りました。
いろんなところに行っていろんな人との出会いがあり、いろんな仕事も変わって行って、沢山の人生が出来たなあと思っています。
瀬戸内海の無人島に行って、愛媛県と山口県の県境のところ、みんなで購入して、自給自足で稲を作ったり、海水から塩をつくったり、自主自立の生活を始めて居ます。
無人島で不便さをあえて楽しんでもらって、日ごろの便利さに感謝出来ると云うものです。
ありが島(ありがとう)という島を作りました。
そこでキャンプすると、何にもないんで早く帰りたいと思う。
家に帰ってくると、電気が点く、電気がつくんだと云うことになる。(当たり前のことに感動)
実はありがたい生活をさせて貰っているんだなあと気付いて感謝して生活をするように
成ります。
当たり前と云う事が実は有り難いものである。
「婚活」の島を今年は作ろうと思っていて、おめで島(おめでとう)と云う名前にしようと思っています。
オートバイの競争の世界にも入って、14箇所骨折をしました。
レースで人と競うのが好きなのかも知れません。
全国規模の魚の釣りのトーナメントにも参加して、場を変える、世界を変えることで一匹の魚に震えるような喜びを感じる事が出来るんだなあとも思いました。
いまは自然界で自然をベースにした事をやっています。
ビジネス界は苦手です。
お金に対して手紙を書いて私のところに来て下さいということで新聞にも載ったりしたが、大分来るようになりましたが、じっとしてくれません。
自然の中で鍛え直すという、企業研修をやっています。
3本マッチを渡して火をおこすことをやってもらうが、今の若い人は火をおこせない。
企業研修にはそこそこハマりました。
一番良いのは好きな事をやっていてそのことで皆さんに感謝されて、皆さんからお金を頂ける、そういう暮らしをしているのが一番だと思います。
二番目は好きな事をしているが貧乏、三番目にはいやな事をやらされながら金持ちになる、四番目は嫌な事をやらされながら貧乏、これが一番多いと思う。
最後は一番目を目指して頑張ろうと思っています。
世の中は発展しているが、人間力と云うか、生命力はどんどん落ちていっているような気がします。
自分で修理する時代ではなくなってきてしまっている。
自分持っている色んな事を伝承する役割があるのではないかと思います。
お金持ちの別荘地でお金を守りに入った人は意外といらいらしたりしてクレームがいろいろ来ていると、ある管理人から聞きましたが、子供たちに竹細工、英語などを教えて居るおじいさんおばあさんがいるがその人たちからはクレームがないそうです。
渡そうと思った人と守ろうと思った人の違いではないか。
何人もの人との出会いをしたいと思っている。
清水クーコと結婚したが、離別してその後再婚して3人女の子が生まれました。
これからは自然にと思ったが、家族は一緒には来ないと云うことで、離婚と云うことになり、河口湖に行ったら3回目の結婚をして男の子が生まれました。
子供は9歳になりました。
楽ではない事だが楽しいことはしてきたと思います。
楽な事がいいと錯覚してしまうと、楽な方に流れてしまう。
楽の究極は寝たきり状態だが、感動の為にはあえてわざわざ寒いところ、不便な所に行って一日一日をベストで生きていきたいと思う、そうすると何処で死んでもOKです。
一番いい死に方は100%で生きてきて寿命が来たらパクンと死ぬ、だらだらと死なないそれを直角死と云います。
2017年3月24日金曜日
頭木弘樹(文学紹介者) ・絶望名言 フランツ・カフカ
頭木弘樹(文学紹介者) ・絶望名言 フランツ・カフカ
「僕は人生に必要な能力を何一つ備えて居らす、ただ人間的な弱みしかもっていない。
無能、あらゆる点でしかも完璧に。」
作家フランツ・カフカの言葉
病気、事故、災害、あるいは失恋、挫折、孤独、人生受け入れがたい現実に直面した時に
人は絶望します。
頭木さんは大学生の時に難病を発症し、13年間療養生活を送りました。
その経験から悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を「絶望名言」と名付けて、名言集を出版しました。
「あきらめずにいれば夢はかなう」、「明るい気持ちでいれば幸せなことしか起きない」とか
素晴らしい言葉は眩しすぎることもある。
失恋した時には失恋ソングの方がぴったりする。
辛い時には、絶望的な言葉の方が心にしみて救いになる時があるのではないかと思い、そういう言葉を絶望名言と云っています。
20歳のときに突然難病になり、医師から進学、就職も出来ず親に面倒見てもらうしかないといわれました。
完璧に無能な状態になってしまいました。
その時に読んだフランツ・カフカの言葉が凄く感動しました。
プラハの生まれで、「変身」が出版されたのが1915年、ちょうど100年前ぐらい。
今読んでも衝撃を与える、と云うのが凄い。
ある朝目が覚めたらベッドの中で突然虫に変身してしまう、非現実的な話と云うもの。
病気したときに読むとまさにドキュメンタリーです。
「生きることは絶えずわき道にそれて行く事だ。
本当は何処へ向かうはずだったのか振り返って見る事さえ許されない。」
カフカの創作ノートに断片的に残っている。(37歳の頃のもの 40歳で亡くなる)
作家になりたかったが、サラリーマンだった。
3回婚約して3回婚約解消の頃のもの。
私(頭木)は本来生きるはずだった自分の人生の道からそれてしまって、わき道を走るようになってしまった。
潰瘍性大腸炎でした。
人によって症状の幅があり、私の場合は重い方でした。
それまではほとんど病気をしたことがありませんでした。
本来の人生を失ったという事が苦しかったです。
カフカの言葉に出会って、わき道にそれるのが人生ということで救いになりました。
*さだまさしさんの「第三病棟」
「僕の病室 君のそろえた 青い水差しと白いカーテン
子供の声に目覚めれば陽射し 坊やが窓越しに笑顔でおはよう
あの子の部屋は僕の真向い お見舞の苺が見える
やがて注射はいやだと泣き声 いずこも同じと君が笑う
遊び盛りの歳頃なのにね あんなに可愛い坊やなのにね
カルテ抱えた君は一寸ふくれて 不公平だわとつぶやいた
紙飛行機のメッセージ 坊やから届いたよ
夏が過ぎれば 元気になるから そしたら二人でキャッチボールしよう」
返事をのせた飛行機を折って とばそうと見たら からっぽの部屋
少し遅めの矢車草が 狭い花壇で揺れるばかり
受けとる人の誰もいない 手を離れた飛行機
君と見送る梅雨明けの空へ 坊やのもとへと舞いあがる
なんで自分だけが苦しむのか、夜中に眠れないでいると、子供の泣き声が聞こえてきて、平等でないことに悲しみ怒りを覚えて、平等だと思ってること自体が間違いで、人間それぞれ違っていて、元々平等ではない、違って当たり前だと、反省して「第三病棟」を聞くとその時のことを思い出します。
1970年代の後半の曲
レールから外れた途端はまだレールの続きの夢を見て居る。
カフカの「変身」も虫になった営業マンは会社に行く心配をしている。
「僕には誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。
不安と僕は互いにしがみついて、夜通し転げまわっているのです。」
(恋人へのカフカの手紙の中の言葉。)
手紙も作品と云ってもいいぐらいのもの。
絶望した人が一番よく言葉にするのは、自分の気持ちはほかは誰にもわからないと云うことだと思います。
同病あい憐れむと云うが、同じ病気でも症状、状況などが違うので共感しない。
災害にあっても状況がそれぞれ違っていて、同じように気持ちは一つにはなれない。
孤独が漏れなく付いてくる、それがすごくつらい。
絶望している人への接し方は難しい。
なかなか立ち直れない人に対しては、悲しい展開が起きやすい。
最初は励ましていた人がだんだんイライラしてきて、責め始めたりして、最後は見捨てるような展開に陥りやすい。
長い目で見てあげて立ちあがりをあせらない、当人も周りも。
深く沈んだらゆっくり上がる必要がある。
せかさずときどき連絡をとって、立ち直れそうになったらいつでも力を貸すようにそばにいてあげるのが一番いいと思います。
川野:「あわてず、あせらず、あきらめず」、これを肝に銘じて心掛けなさいと先生に言われました
焦るとさらに落ち込んでしまったりする。
医学の進歩のおかげで13年目で手術をして、外を出歩ける様にも成り普通に近い生活が送れるようになりました。
絶望名言を読むことで救いになりました。
カフカ、ドストエフスキーとか。
「将来に向かって歩くことは僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできる事は倒れたままでいることです。
将来に向かって歩く事は僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできるのは倒れたままでいることです。」
(婚約者へのカフカの手紙。29歳のころ 結婚しようと思っていた人への手紙)
カフカはこの頃不幸な出来事などなかった。
私自身倒れたままだったので共感しました。
日常生活自体が倒れるものでもある。
経験を踏まえてさらに成長される方もいますが、必ずしもそうはいかない。
苦労したせいで得るものも大きいが、失うものも大きい、苦労は成長させるものもあるが人を駄目にしたり歪んでしまったりもする。
倒れたままで生きていく、半分倒れたままで生きていくこともありだと思います。
カフカは平穏な人生を送っていて、はた目からみれば、サラリーマンとして順調に出世して、恋人もいたし友達もいたが、日記などを見てみると、大変な絶望なわけです。
普通の人生であっても倒れる人は倒れる、敏感な人は倒れてしまう。
絶望した時にカフカの言葉は、なにかあった人ではないからこそカフカの言葉は誰にでも共感できる。
「僕は人生に必要な能力を何一つ備えて居らす、ただ人間的な弱みしかもっていない。
無能、あらゆる点でしかも完璧に。」
作家フランツ・カフカの言葉
病気、事故、災害、あるいは失恋、挫折、孤独、人生受け入れがたい現実に直面した時に
人は絶望します。
頭木さんは大学生の時に難病を発症し、13年間療養生活を送りました。
その経験から悩み苦しんだ時期に救いとなった言葉を「絶望名言」と名付けて、名言集を出版しました。
「あきらめずにいれば夢はかなう」、「明るい気持ちでいれば幸せなことしか起きない」とか
素晴らしい言葉は眩しすぎることもある。
失恋した時には失恋ソングの方がぴったりする。
辛い時には、絶望的な言葉の方が心にしみて救いになる時があるのではないかと思い、そういう言葉を絶望名言と云っています。
20歳のときに突然難病になり、医師から進学、就職も出来ず親に面倒見てもらうしかないといわれました。
完璧に無能な状態になってしまいました。
その時に読んだフランツ・カフカの言葉が凄く感動しました。
プラハの生まれで、「変身」が出版されたのが1915年、ちょうど100年前ぐらい。
今読んでも衝撃を与える、と云うのが凄い。
ある朝目が覚めたらベッドの中で突然虫に変身してしまう、非現実的な話と云うもの。
病気したときに読むとまさにドキュメンタリーです。
「生きることは絶えずわき道にそれて行く事だ。
本当は何処へ向かうはずだったのか振り返って見る事さえ許されない。」
カフカの創作ノートに断片的に残っている。(37歳の頃のもの 40歳で亡くなる)
作家になりたかったが、サラリーマンだった。
3回婚約して3回婚約解消の頃のもの。
私(頭木)は本来生きるはずだった自分の人生の道からそれてしまって、わき道を走るようになってしまった。
潰瘍性大腸炎でした。
人によって症状の幅があり、私の場合は重い方でした。
それまではほとんど病気をしたことがありませんでした。
本来の人生を失ったという事が苦しかったです。
カフカの言葉に出会って、わき道にそれるのが人生ということで救いになりました。
*さだまさしさんの「第三病棟」
「僕の病室 君のそろえた 青い水差しと白いカーテン
子供の声に目覚めれば陽射し 坊やが窓越しに笑顔でおはよう
あの子の部屋は僕の真向い お見舞の苺が見える
やがて注射はいやだと泣き声 いずこも同じと君が笑う
遊び盛りの歳頃なのにね あんなに可愛い坊やなのにね
カルテ抱えた君は一寸ふくれて 不公平だわとつぶやいた
紙飛行機のメッセージ 坊やから届いたよ
夏が過ぎれば 元気になるから そしたら二人でキャッチボールしよう」
返事をのせた飛行機を折って とばそうと見たら からっぽの部屋
少し遅めの矢車草が 狭い花壇で揺れるばかり
受けとる人の誰もいない 手を離れた飛行機
君と見送る梅雨明けの空へ 坊やのもとへと舞いあがる
なんで自分だけが苦しむのか、夜中に眠れないでいると、子供の泣き声が聞こえてきて、平等でないことに悲しみ怒りを覚えて、平等だと思ってること自体が間違いで、人間それぞれ違っていて、元々平等ではない、違って当たり前だと、反省して「第三病棟」を聞くとその時のことを思い出します。
1970年代の後半の曲
レールから外れた途端はまだレールの続きの夢を見て居る。
カフカの「変身」も虫になった営業マンは会社に行く心配をしている。
「僕には誰もいません。ここには誰もいないのです、不安のほかには。
不安と僕は互いにしがみついて、夜通し転げまわっているのです。」
(恋人へのカフカの手紙の中の言葉。)
手紙も作品と云ってもいいぐらいのもの。
絶望した人が一番よく言葉にするのは、自分の気持ちはほかは誰にもわからないと云うことだと思います。
同病あい憐れむと云うが、同じ病気でも症状、状況などが違うので共感しない。
災害にあっても状況がそれぞれ違っていて、同じように気持ちは一つにはなれない。
孤独が漏れなく付いてくる、それがすごくつらい。
絶望している人への接し方は難しい。
なかなか立ち直れない人に対しては、悲しい展開が起きやすい。
最初は励ましていた人がだんだんイライラしてきて、責め始めたりして、最後は見捨てるような展開に陥りやすい。
長い目で見てあげて立ちあがりをあせらない、当人も周りも。
深く沈んだらゆっくり上がる必要がある。
せかさずときどき連絡をとって、立ち直れそうになったらいつでも力を貸すようにそばにいてあげるのが一番いいと思います。
川野:「あわてず、あせらず、あきらめず」、これを肝に銘じて心掛けなさいと先生に言われました
焦るとさらに落ち込んでしまったりする。
医学の進歩のおかげで13年目で手術をして、外を出歩ける様にも成り普通に近い生活が送れるようになりました。
絶望名言を読むことで救いになりました。
カフカ、ドストエフスキーとか。
「将来に向かって歩くことは僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできる事は倒れたままでいることです。
将来に向かって歩く事は僕にはできません。
将来に向かって躓く事、これは出来ます。
一番うまくできるのは倒れたままでいることです。」
(婚約者へのカフカの手紙。29歳のころ 結婚しようと思っていた人への手紙)
カフカはこの頃不幸な出来事などなかった。
私自身倒れたままだったので共感しました。
日常生活自体が倒れるものでもある。
経験を踏まえてさらに成長される方もいますが、必ずしもそうはいかない。
苦労したせいで得るものも大きいが、失うものも大きい、苦労は成長させるものもあるが人を駄目にしたり歪んでしまったりもする。
倒れたままで生きていく、半分倒れたままで生きていくこともありだと思います。
カフカは平穏な人生を送っていて、はた目からみれば、サラリーマンとして順調に出世して、恋人もいたし友達もいたが、日記などを見てみると、大変な絶望なわけです。
普通の人生であっても倒れる人は倒れる、敏感な人は倒れてしまう。
絶望した時にカフカの言葉は、なにかあった人ではないからこそカフカの言葉は誰にでも共感できる。
2017年3月23日木曜日
林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家) ・人形に込める古都の美
林 駒夫(人間国宝・桐塑人形作家) ・人形に込める古都の美
林さんが作る桐塑人形は芯となる木彫り人形に桐のおがくずと糊を練った桐塑と云うものを肉付けして作るもので、華麗でふくよかな柔らかな表情を見せて居ます。
林さんは江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子、子供のころから古典文学、狂言、文楽、能、歌舞伎など様々物を見て、幅広く伝統芸能に興味を持ってきました。
京都の高校を卒業後、京人形師、十三世面庄・岡本庄三に人形の製作方法を、能面師の北沢如意にも学びました。
昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞、そして平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定されました。
基本的には仕事は起きてから始めて、寝るまでやっています。
やりだしたら何時間でも出来ます、飽きません。
壊してもう一度納得するところから又始めたりして、時間はいくらあっても足りません。
平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定され、それから14年になります。
若い時の方が対応できるけれども、老い期には老い期の花の美しさがある。
何時も最高のコンディションで歳を重ねることはできないけれども、若いころに見えない事があると信じて日々過ごしています。
桐塑人形
粘土状の物を木にあらかた彫ったものにつけていって形を整える。
桐の木のおがくずを精製して糊で練って、それをモデリングしてゆく。
基本的にはつけるが、つけたものを削る方がシャープな力が出てきます。
江戸時代から続いている処方。
そこに紙を張ったり、布を張ったりしますが、その間に胡粉(ごふん)(蛤の殻、牡蠣の殻などを精製したもの)を塗る作業があります。
にかわをといで合わす。
人形一体作るのには3カ月はかかります。
何を作るかが大変で、2年、3年、10年もかかる時があります。
能の老女が月の光のなかで佇んでいる物を作りたいと思ったのが、40年前で作り上げたのは3、4年前です。
頭の中で浮遊していて段々形になり、自分に近づいたときに作品の基にする、そういうイメージです。
デッサンはしない、頭の中で立体的に動きます。
次にどう進むかは作品が言ってくれます。
原形ができる頃に次に行っていいよと云ってくれます。
時間がないから次に行こうとこっちが思って進めると、必ず後で失敗します。
美しい形はお能、能の構えの形が基本になってます。
10代の終わりごろから能楽堂で一日中スケッチしていました。
立ち姿で一番美しいのは、静止して形のなかで僅かな所作で深い意味が出ると云う能の動きにあこがれていたので、段々そういう方向に偏っていったのではないかと思います。
稲荷大社の奉納で中学生の頃初めて能を見て、不思議なおもしろいものだと思い虜になりました。
観世流の凄い役者さんだった。
日本舞踊、歌舞伎もそうですが、美しい形で決まる時は演じている人間は無理な姿勢になっていて、でも美しい形を出す。
それを形にしたいと思いました。
構えて強い形で見えない月の光とか、花が散っているとか、雪が積もっているとか、そういうことを、見えない世界を抽象的な形で作り上げられたらいいなと思っていたことは確かです。
江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子でした。
御所と京都府庁との間に家などがあり、戦争の時に国の命令で、取り壊して強制疎開となり、蔵があろうが何処かへ行ってくださいということで商売が続けられなくなりました。
料理、部屋、床の間などの季節感を表すが、人形も季節感を表わす、そういった環境の中にいました。
季節感の変化が子供心に面白かった。
本は当時高価なものだったが、蔵の中の古い本などを一杯読んでいました。
その本の中の物を頭に描いたりしていました。
京都の町中なので、ごっちゃな歴史の中で暮らしていました。
最初は市村羽左衛門_(15代目)、2月堂で見ました。
その時の精一杯の美しさの世界を見ることが出来て、そして私の場合は年中お祭りでした。
高校で能楽部を作ろうと云うことになり、ハマりました。
高校卒業後、就職をしないでいまして、母方が京都で友禅の家だったので手伝ってほしいと云う事で、(挿し友禅)そこで仕事をするようになりました。
自分でイメージして色を塗る作業をしていましたが、後から考えると結果的にいい仕事をしていたと思いました。
仕事をしていて楽しかったです、文様、色、着物に対する知識が蓄えられました。
頭の中にある形を家に帰って夜中に人形を作っていました。
着物のブームが下火になってきて、人形の方に吸い込まれるような感じで、自然の流れで人形製作のほうに入って行きました。
能面を描くことが好きで描いていましたが、北沢如意先生が教えてくれるところがあるので行かないかと人形の同門の人から言われて、行ったらのめり込んでいきました。
能面師になったらとも言われた。
さまざまな演技に耐えられる顔、それが物凄く勉強になりました。
いろいろやって回り道をしているような感じだったが、一つの道に行く事の一つ一つだったと思う。
必要なもの全部がコツコツ頭の中に積み立てていったような気がします。
昭和39年代11回日本伝統工芸展に初出品、初入選だった。
改めて出品しだして、3回目に昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞。
平成14年、66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定。
認めていただいたことが嬉しかった。
京友禅の森口華弘先生が、「あんたなあ指定をうけたということは喜ぶ事と違う、あんたの持っている考えて居ることを次の時代へつなぎなさい、それは本当に難しい大変な事を預けられのだし、嬉しいとか有り難いとかいうてる場合ではない」といわれました。
すべてが今よりも、もっともっといいものであってほしいし、もっともっと形ではなく精神的に高いもの、写実ではなくて抽象的なもので何かが正確に相手に伝わるものがいいと思います。
林さんが作る桐塑人形は芯となる木彫り人形に桐のおがくずと糊を練った桐塑と云うものを肉付けして作るもので、華麗でふくよかな柔らかな表情を見せて居ます。
林さんは江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子、子供のころから古典文学、狂言、文楽、能、歌舞伎など様々物を見て、幅広く伝統芸能に興味を持ってきました。
京都の高校を卒業後、京人形師、十三世面庄・岡本庄三に人形の製作方法を、能面師の北沢如意にも学びました。
昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞、そして平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定されました。
基本的には仕事は起きてから始めて、寝るまでやっています。
やりだしたら何時間でも出来ます、飽きません。
壊してもう一度納得するところから又始めたりして、時間はいくらあっても足りません。
平成14年66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定され、それから14年になります。
若い時の方が対応できるけれども、老い期には老い期の花の美しさがある。
何時も最高のコンディションで歳を重ねることはできないけれども、若いころに見えない事があると信じて日々過ごしています。
桐塑人形
粘土状の物を木にあらかた彫ったものにつけていって形を整える。
桐の木のおがくずを精製して糊で練って、それをモデリングしてゆく。
基本的にはつけるが、つけたものを削る方がシャープな力が出てきます。
江戸時代から続いている処方。
そこに紙を張ったり、布を張ったりしますが、その間に胡粉(ごふん)(蛤の殻、牡蠣の殻などを精製したもの)を塗る作業があります。
にかわをといで合わす。
人形一体作るのには3カ月はかかります。
何を作るかが大変で、2年、3年、10年もかかる時があります。
能の老女が月の光のなかで佇んでいる物を作りたいと思ったのが、40年前で作り上げたのは3、4年前です。
頭の中で浮遊していて段々形になり、自分に近づいたときに作品の基にする、そういうイメージです。
デッサンはしない、頭の中で立体的に動きます。
次にどう進むかは作品が言ってくれます。
原形ができる頃に次に行っていいよと云ってくれます。
時間がないから次に行こうとこっちが思って進めると、必ず後で失敗します。
美しい形はお能、能の構えの形が基本になってます。
10代の終わりごろから能楽堂で一日中スケッチしていました。
立ち姿で一番美しいのは、静止して形のなかで僅かな所作で深い意味が出ると云う能の動きにあこがれていたので、段々そういう方向に偏っていったのではないかと思います。
稲荷大社の奉納で中学生の頃初めて能を見て、不思議なおもしろいものだと思い虜になりました。
観世流の凄い役者さんだった。
日本舞踊、歌舞伎もそうですが、美しい形で決まる時は演じている人間は無理な姿勢になっていて、でも美しい形を出す。
それを形にしたいと思いました。
構えて強い形で見えない月の光とか、花が散っているとか、雪が積もっているとか、そういうことを、見えない世界を抽象的な形で作り上げられたらいいなと思っていたことは確かです。
江戸時代から続く料亭の8人兄弟の末っ子でした。
御所と京都府庁との間に家などがあり、戦争の時に国の命令で、取り壊して強制疎開となり、蔵があろうが何処かへ行ってくださいということで商売が続けられなくなりました。
料理、部屋、床の間などの季節感を表すが、人形も季節感を表わす、そういった環境の中にいました。
季節感の変化が子供心に面白かった。
本は当時高価なものだったが、蔵の中の古い本などを一杯読んでいました。
その本の中の物を頭に描いたりしていました。
京都の町中なので、ごっちゃな歴史の中で暮らしていました。
最初は市村羽左衛門_(15代目)、2月堂で見ました。
その時の精一杯の美しさの世界を見ることが出来て、そして私の場合は年中お祭りでした。
高校で能楽部を作ろうと云うことになり、ハマりました。
高校卒業後、就職をしないでいまして、母方が京都で友禅の家だったので手伝ってほしいと云う事で、(挿し友禅)そこで仕事をするようになりました。
自分でイメージして色を塗る作業をしていましたが、後から考えると結果的にいい仕事をしていたと思いました。
仕事をしていて楽しかったです、文様、色、着物に対する知識が蓄えられました。
頭の中にある形を家に帰って夜中に人形を作っていました。
着物のブームが下火になってきて、人形の方に吸い込まれるような感じで、自然の流れで人形製作のほうに入って行きました。
能面を描くことが好きで描いていましたが、北沢如意先生が教えてくれるところがあるので行かないかと人形の同門の人から言われて、行ったらのめり込んでいきました。
能面師になったらとも言われた。
さまざまな演技に耐えられる顔、それが物凄く勉強になりました。
いろいろやって回り道をしているような感じだったが、一つの道に行く事の一つ一つだったと思う。
必要なもの全部がコツコツ頭の中に積み立てていったような気がします。
昭和39年代11回日本伝統工芸展に初出品、初入選だった。
改めて出品しだして、3回目に昭和48年代20回日本伝統工芸展で日本工芸会総裁賞を受賞。
平成14年、66歳の時に重要無形文化財桐塑人形保持者に認定。
認めていただいたことが嬉しかった。
京友禅の森口華弘先生が、「あんたなあ指定をうけたということは喜ぶ事と違う、あんたの持っている考えて居ることを次の時代へつなぎなさい、それは本当に難しい大変な事を預けられのだし、嬉しいとか有り難いとかいうてる場合ではない」といわれました。
すべてが今よりも、もっともっといいものであってほしいし、もっともっと形ではなく精神的に高いもの、写実ではなくて抽象的なもので何かが正確に相手に伝わるものがいいと思います。
2017年3月22日水曜日
徳永 進(野の花診療所医師) ・柔らかに死を見つめる
徳永 進(野の花診療所医師)・柔らかに死を見つめる
*NHKの平成29年度予算と事業計画についての放送のため、中途からの放送となる。(話の流れが判らず、まとめがいまいちか)
人間の命は根本的に光を求めるし、最終的には地に落つ、と云う事の両方持っているのが種だなあと、そうやって廻っているうちに、一つの花をつけて新しい種になって、そんなものかも知れないなあと。
ホスピスケアになると亡くなることを、受け入れることを、大事に云うみたいですが、生きたいと云われたときに光りの方に自分が向かって生きた、それがすごくいいんですよ。
家族は患者さんの死が近づいてきたときに、お父ちゃんだとすると、「お父ちゃん死んだらいけん」と、死を受容しないように思えるが人間の声として新鮮であれもいいんです。
自分では動かせない節理の前に、人間である私たちが口にする言葉は自由なんです。
その言葉さえ私たちは受容しなさいとか共感しなさいとか云い過ぎて、真実性を描いた、現実を見据えなかったと云うか、型を持って来たと云う気がします。
もっと言葉を自由に、相反する言葉を死を前にして出せるのではないかと云う気がします。
不思議な生命力が隠されていて、どんなに老衰したおばあちゃんでも、点滴量が少なくなるので、その日が近いといっても意外と少ない量で生命が続く場合があるとか逆とか、いろいろあるので、判らないと云うのがあります。
死と云うのが何時かと云うのが多くの家族から言われるが、結論はそればっかりは判らない。
判らないと云う言葉は意外と大事です。
判らないから最後まで点滴注射するか、酸素マスクして会話できなくするか、判らないけど会話するか、その辺の見極めが大事だと思いますが。
死は来たなと云う感じはします。
若い人で46歳、腹水がたまったりして末期を迎えて、その人の場合は飲むのも食べるのも禁止になっていますが、のどをこっくんとするのはおいしいんですね。
今まで飲んでいた好きなジュースだとかを飲まれていたが、鼻から管を入れて胃へ入れてそれを出す、1日に1500cc出るんですが、それがお腹から出ると楽になって又お茶とかコーヒーが飲める様になります。
苦痛みたいですが、コックンと飲めるとうれしいと云って、それをやっていた人で、味噌汁を飲みたいと云って、味噌汁を作って、うまい味噌汁で彼も汁を飲んで、うれしい光景です。
なんかしたいと云う事の殆どはありふれた日常の一こまで、死をテーマにしていない時は
おいしいとかうれしいとか云っているんですが、そんなに大事には思わなかったが、ああ云う事が宝になって光るんですね。
どうせ死ぬんだったら味噌汁一口飲みたいと、死と対等の価値になるんですね。
足を拭いて欲しい、背中も拭いて欲しいとかもそうですが、死と対等の価値を持つんですね。
病院にいるとスタッフはパターンが病院パターンになって味噌汁を飲むとか、仕事をしていた店に戻るとか、息子に今後の人生にアドバイスするとかと云うチャンスを失いやすくて、治療を優先して死をなるべく長く伸ばそうとして、無残な形になることがあるかもしれないが、本人が選べば意外と自由な形は取りうる。
前は余りにもそれが無くて家族を放り出してマッサージして、呼ばれて入ったら亡くなっていてお別れですと云われて、そういうのが多すぎてそれを止めようと云って、ホスピスなどを作ったわけです。
いろんなものが整い過ぎた社会は、良くなった部分があるが、それが過ぎるといろんなものを失います。
ある程度整わないことが面白くて、これからの社会は整わない物をちょっと求めてと云うか、それをどうやって取り戻してゆくかですね。
確立化する傾向にある社会のなかで、死はまだバラエティーに富んでいる。
急死、救急車で運ばれて治療を受けて回復するとか、老いて老いてようやく死が来たり、死のバラエティーが今もあって確立化がしにくい。
がんの末期のホスピスケアで、確立化されているかと云うと一人一人異なっていて、一つの網に死を閉じ込める事は出来ない。
思い通りに行かないものが一人一人の中にあり、身体の事情、心の事情、経済の事情、今までの人生の形だったりいろんな要素があり同じものがない。
出来事がいろいろ起きて出来事をおたがいに工夫する、工夫すると云うことが大事です、
決めつけない。
死を迎えるにはどれでもいいが、最後に生命体が終わるが、俺はいやだと避け切った人はいなくて、死ぬことを受け入れて行く。
そしてみごとに死を遂げる。
無抵抗と云うか、身をなにかに任せた姿、無抵抗の姿を誰もが持っていて、凄いなあと思います。
死には啓意を持っています。
どの死がいいと云うことはないです。
色んな事を後悔するが、言葉を掛ける、返ってきた言葉も嬉しいし、背中をさすってあげたことなど、そういうことは心に残ります。
自分の心が不安や悔いの中にあるのか、心の和解と云うか、ほんわかとしたものが残るのか殺伐としたものが残るのか、出来たら死を前にしたときにほんわかとしたものを思いたい。
皮膚が触れ合うことがあった、それも一つの和解にも成りうる。
言葉を交わしあえたことも嬉しい。
94歳のおばあさん、息子を呼んでほしいと云う事で、息子さんに遺言の話をしたんですかと云ったら、「死ぬ前にお前と握手したかった」と云ったそうです。
わだかまりはもちやすいが解けて行くのは、言葉か、肌の触れ合いなどなんかがあった方がいい。
そこでつながるものがあったらいいなと思います。
命が素晴らしいのは死があるからで、死がない命は気持ちが悪い、命が命である唯一の根拠は死があると云うことです。
死は宝物で生きて居ることを照らし返してくれているのは死で、死をさげすんだり、嫌ったりするものではない。
そばにいて欲しいと云う気持ちはあるので、時間を割いてあげることは良いと思います。
近づきすぎると迷惑だなあと察知したら、ちょっと距離を置くと云うことも大事です。
遠くで思うことも大事だし、口に物を運んだり排泄の世話も大事ですが、誰にでもして欲しいと云う事でもないので、考えてどこまで人に近づくかは考えないといけないと思う。
専門職の人に任せることが多くなったので、自分たちの出来ることをしてあげると味わい深いものがあるので、接触すると云う事は嬉しい。
命はどこかに生きて行くのではないか、根拠のない当てずっぽうの云い方だが、野のスミレ、雲、星、魚などなんかで生きて行くんじゃないと否定できないことなので、共に又あると思えた時はほっとします。
父が亡くなる前にこう言ったんです、「今日は死なんけど誰ぞそばにいてくれ」と云って、翌日の夜に亡くなって、大学の先生で豪放に生きた父でしたが、「そば」と云う言葉がキーワードだったんですね。
言葉が支えになっているが確かかもしれませんね。
*NHKの平成29年度予算と事業計画についての放送のため、中途からの放送となる。(話の流れが判らず、まとめがいまいちか)
人間の命は根本的に光を求めるし、最終的には地に落つ、と云う事の両方持っているのが種だなあと、そうやって廻っているうちに、一つの花をつけて新しい種になって、そんなものかも知れないなあと。
ホスピスケアになると亡くなることを、受け入れることを、大事に云うみたいですが、生きたいと云われたときに光りの方に自分が向かって生きた、それがすごくいいんですよ。
家族は患者さんの死が近づいてきたときに、お父ちゃんだとすると、「お父ちゃん死んだらいけん」と、死を受容しないように思えるが人間の声として新鮮であれもいいんです。
自分では動かせない節理の前に、人間である私たちが口にする言葉は自由なんです。
その言葉さえ私たちは受容しなさいとか共感しなさいとか云い過ぎて、真実性を描いた、現実を見据えなかったと云うか、型を持って来たと云う気がします。
もっと言葉を自由に、相反する言葉を死を前にして出せるのではないかと云う気がします。
不思議な生命力が隠されていて、どんなに老衰したおばあちゃんでも、点滴量が少なくなるので、その日が近いといっても意外と少ない量で生命が続く場合があるとか逆とか、いろいろあるので、判らないと云うのがあります。
死と云うのが何時かと云うのが多くの家族から言われるが、結論はそればっかりは判らない。
判らないと云う言葉は意外と大事です。
判らないから最後まで点滴注射するか、酸素マスクして会話できなくするか、判らないけど会話するか、その辺の見極めが大事だと思いますが。
死は来たなと云う感じはします。
若い人で46歳、腹水がたまったりして末期を迎えて、その人の場合は飲むのも食べるのも禁止になっていますが、のどをこっくんとするのはおいしいんですね。
今まで飲んでいた好きなジュースだとかを飲まれていたが、鼻から管を入れて胃へ入れてそれを出す、1日に1500cc出るんですが、それがお腹から出ると楽になって又お茶とかコーヒーが飲める様になります。
苦痛みたいですが、コックンと飲めるとうれしいと云って、それをやっていた人で、味噌汁を飲みたいと云って、味噌汁を作って、うまい味噌汁で彼も汁を飲んで、うれしい光景です。
なんかしたいと云う事の殆どはありふれた日常の一こまで、死をテーマにしていない時は
おいしいとかうれしいとか云っているんですが、そんなに大事には思わなかったが、ああ云う事が宝になって光るんですね。
どうせ死ぬんだったら味噌汁一口飲みたいと、死と対等の価値になるんですね。
足を拭いて欲しい、背中も拭いて欲しいとかもそうですが、死と対等の価値を持つんですね。
病院にいるとスタッフはパターンが病院パターンになって味噌汁を飲むとか、仕事をしていた店に戻るとか、息子に今後の人生にアドバイスするとかと云うチャンスを失いやすくて、治療を優先して死をなるべく長く伸ばそうとして、無残な形になることがあるかもしれないが、本人が選べば意外と自由な形は取りうる。
前は余りにもそれが無くて家族を放り出してマッサージして、呼ばれて入ったら亡くなっていてお別れですと云われて、そういうのが多すぎてそれを止めようと云って、ホスピスなどを作ったわけです。
いろんなものが整い過ぎた社会は、良くなった部分があるが、それが過ぎるといろんなものを失います。
ある程度整わないことが面白くて、これからの社会は整わない物をちょっと求めてと云うか、それをどうやって取り戻してゆくかですね。
確立化する傾向にある社会のなかで、死はまだバラエティーに富んでいる。
急死、救急車で運ばれて治療を受けて回復するとか、老いて老いてようやく死が来たり、死のバラエティーが今もあって確立化がしにくい。
がんの末期のホスピスケアで、確立化されているかと云うと一人一人異なっていて、一つの網に死を閉じ込める事は出来ない。
思い通りに行かないものが一人一人の中にあり、身体の事情、心の事情、経済の事情、今までの人生の形だったりいろんな要素があり同じものがない。
出来事がいろいろ起きて出来事をおたがいに工夫する、工夫すると云うことが大事です、
決めつけない。
死を迎えるにはどれでもいいが、最後に生命体が終わるが、俺はいやだと避け切った人はいなくて、死ぬことを受け入れて行く。
そしてみごとに死を遂げる。
無抵抗と云うか、身をなにかに任せた姿、無抵抗の姿を誰もが持っていて、凄いなあと思います。
死には啓意を持っています。
どの死がいいと云うことはないです。
色んな事を後悔するが、言葉を掛ける、返ってきた言葉も嬉しいし、背中をさすってあげたことなど、そういうことは心に残ります。
自分の心が不安や悔いの中にあるのか、心の和解と云うか、ほんわかとしたものが残るのか殺伐としたものが残るのか、出来たら死を前にしたときにほんわかとしたものを思いたい。
皮膚が触れ合うことがあった、それも一つの和解にも成りうる。
言葉を交わしあえたことも嬉しい。
94歳のおばあさん、息子を呼んでほしいと云う事で、息子さんに遺言の話をしたんですかと云ったら、「死ぬ前にお前と握手したかった」と云ったそうです。
わだかまりはもちやすいが解けて行くのは、言葉か、肌の触れ合いなどなんかがあった方がいい。
そこでつながるものがあったらいいなと思います。
命が素晴らしいのは死があるからで、死がない命は気持ちが悪い、命が命である唯一の根拠は死があると云うことです。
死は宝物で生きて居ることを照らし返してくれているのは死で、死をさげすんだり、嫌ったりするものではない。
そばにいて欲しいと云う気持ちはあるので、時間を割いてあげることは良いと思います。
近づきすぎると迷惑だなあと察知したら、ちょっと距離を置くと云うことも大事です。
遠くで思うことも大事だし、口に物を運んだり排泄の世話も大事ですが、誰にでもして欲しいと云う事でもないので、考えてどこまで人に近づくかは考えないといけないと思う。
専門職の人に任せることが多くなったので、自分たちの出来ることをしてあげると味わい深いものがあるので、接触すると云う事は嬉しい。
命はどこかに生きて行くのではないか、根拠のない当てずっぽうの云い方だが、野のスミレ、雲、星、魚などなんかで生きて行くんじゃないと否定できないことなので、共に又あると思えた時はほっとします。
父が亡くなる前にこう言ったんです、「今日は死なんけど誰ぞそばにいてくれ」と云って、翌日の夜に亡くなって、大学の先生で豪放に生きた父でしたが、「そば」と云う言葉がキーワードだったんですね。
言葉が支えになっているが確かかもしれませんね。
2017年3月21日火曜日
中谷加代子(高専生殺害事件被害者遺族)・“責める”ではなく“寄りそう”
中谷加代子(山口女子高専生殺害事件被害者遺族)・“責める”ではなく“寄りそう”
2006年山口県高等専門学校で当時20歳の女子学生が同級生の男子学生に殺害される事件が起きました。
事件後男子学生は自殺、10日後に遺体で発見されました。
中谷さんは事件の犠牲となった女子学生 あゆみさんの母親です。
5年前に仕事を辞め被害者の声を直接届けることで、犯罪を犯した人々の心を変えたいと云う思いで刑務所や少年院などの矯正施設に出向き、受刑者たちに事件を伝える活動を続けて居ます。
12回 130人の受刑者一人ひとりと向き合って、話をしています。
どんな怖い人なのかと怖いイメージで伺って行ったが、ほんとうに町中でも出会えるような普通の方でした。
罪をつぐなうためにいる訳ですが、罪を償うことと、幸せを感じて生きると云う事が同じ方向にあると思っているのか、あるいは反対の方向にあると思っているのかと云う事を最初に質問します。
最初私自身真反対だと思っていましたが、今は反対ではない、同じ方向だと思っています。
2006年、当時20歳の娘のあゆみが学校で同級生に殺害される事件が起きました。
あゆみは生きていたら30歳になるんです。
ウエディングドレスを作りたいなあと云うのが私の夢でした。
そのあとの私の人生は抜け殻のような、生きる気力がなくなってしまいました。
それまでの生き方を変えないと生きていけないと云う、そういう事件、経験だったと思います。
あゆみは家族思いで友だちも一杯いて、家に行ったり来たりしていました。
2006年8月下旬、朝いつもと同じようにあゆみを駅まで送って行きました。
夫とは同じ職場で、夕方自分の席に帰ってきたら夫からのメモがあり、あゆみが学校で倒れたから迎えに行って来ると云う内容でした。
夫に電話したら保健室で待たされて、様子がまだ判らないとのことでした。
なかなか電話が通じなくて、何回目かに電話が通じたときには夫は何もいいませんでした。
問い詰めたらやっとあゆみが死んだんだと云う事でした。
あゆみの友だちから電話がかかってきて、TVを点けたら速報が出て居て、「中谷あゆみさん死亡」と云う文字が見えて、間違いだと思いました。
あゆみのはずは絶対ないとそれを早く確認したいと思いました。
遺体と対面した時、最初ビニール袋に入っていて、白い布を刑事さんが取ったが、その瞬間まで絶対に違うと思ったが、あゆみがそこに眠っていて、顔の色が少し紫色で眠っていて、起こそうと思って一生懸命声を掛けたが、何べん呼んでもあゆみは目を覚まさなくて、ただただほっぺたを触って起こそうと思ったが起きなくて、自分が死んだ方がどれだけ楽だったのかと思いました。
誰が犯人かはわからないが男の子だと云われたが、クラスメートだったが、彼も犯罪に巻き込まれたのではないかと最初思ったんですが、警察からそれは違うといわれました。
強姦致死、自分の欲望のままに殺害したことについてはどう受けとめたのか?
私はなにも見て居ないし彼とも会ったことがないので何にも判りません。
会ってなんでこんなことをしたのか、聞いてみたいと思います。
憎しみの感情はありました、絶対許さないと。
10日後、犯人は自殺で発見され連絡を貰ってから彼から何にも聞けないと云う事が判って、ほんとうに力が抜けました。
ほんとうのことを教えてほしかった、生きて償って欲しいと思いました、それがあゆみへの唯一の供養になると思っていましたが、その願いもかなわなくなりました。
彼は謝罪、反省、責任をとることから逃げたんだと思います。
なんで、なんでと云う事からずーっと10年以上、今も停まっているんです。
どうしたらこの事件が起きないですんだんだろうかと、考えるようになりました。
加害者の彼が自殺してしまって、この世の中にいなくなったことが一つあるかもしれないが、あゆみだったらどうするかとそれを考えたのが大きいですかね。
あゆみだったら憎しみ続けないだろうと、あゆみと相談しながら長い時間をかけてそうなったんだろうと思います。
たくさんの方、友達、先生、私の同僚、近所の方、ほかの事件の被害者の方、知らない方から励ましの言葉、電話、手紙をいただいて、思って下さる気持が凄く伝わってきて、そのお蔭で話ができる状態になれる迄になったのかなと思います。
1年半後に加害者の両親が謝罪に家に来ました。
あゆみのお参りに来たいと家に来ましたが、ひときわ小さく見えました。
かわいそうと云うか、情けない形に見えました。
加害者の両親も家族も被害者かもしれないとその時思いました。
加害者側が孤立してしまったら、それは悲しいと云うか、そこで又ふつふつと憎しみが募って行くようなことにも成りかねない。
事件から5年後、地元の市役所を早期退職、役に立つことがあればやってみようかなあと云うような気持でした。
仕事を辞めると言ったときに、誰かに体験を聞いていく中で伝えることが仕事の中にあるかと主人とも話したが、お前の話を誰が聞くのかと言われたが、刑務所の受刑者に話を聞いてもらう事があるかもしれないとぼんやり思いました。
加害者の彼がもっと自分の人生の事、廻りの人のことを真剣に大切に思っていてくれたら事件は起こらなかったんだろうと思います。
加害者が変わってくれればと言う思いで、受刑者に働き掛けることがあるのかもしれないなと思いました。
再犯率、受刑者の50%の再犯率があり、そこで犯罪が繰り返される。
再犯を少なくしたい、悲しい思いをする人たちを少なくしたいと思って、そこに糸口があるような気がしたんです。
刑務所のプログラムで犯罪被害者の視点を取り入れた教育と云う事で、更生プログラムがあり、その一コマに私が行かせてもらう事になりました。
目の前に被害者である私が居て、最初から泣いて待っている方もいまして、全然想像できませんでした。
自分は生きる権利がないんではないのかと云う思いを持っていました。
真剣に考えている人たちが前にいて驚きました。
90分の前半で自分のところに起きた事件の話をして、後半は10人ぐらいの人と一人づつやり取りしました。
受刑者のなかには、青い空を見ても青いと思って見てはいけないと思っていましたと言われた方がいました。
自分が幸せを感じても幸せに感じてはいけない、幸せに蓋をしている。
押し殺して下を向いて生きている、その人からはそう感じました。
そうしているとつぶれてしまうか、爆発してしまうのではないかと思いました。
葛藤の中で自己否定を続けないでほしい、喜びは認めてあげて欲しいと思いました。
幸せを感じる人生、犯してしまった罪を、経験を無駄にしない人生を歩んでほしいと思いました。
自分が幸せを感じて主体的な人生を歩んで、初めて被害者の事も考えてもらえるのではないかと、罪を償う事と幸せを感じる事は同じ方向にあると私は思っています。
自分の幸せを棚にあげておいて人の幸せだけを願うなんて、そんなに天使ではないです。
人間って、自分がある程度衣食住足りてようやく周りが見えて来るのではないかと思う。
加害者と受刑者とをみて、生きることを真剣に考えてほいしいと思ったのは重なる部分があると思います。
今まで幸せを感じてはいけないと思った受刑者が、前向いて生きていいんだと云うことに気づいて貰えたんじゃないかと、いう瞬間があります。
そうすると私の方がエネルギーを貰う様な、行かせてもらってよかったと思う瞬間があります。
加害者の彼がもし生きていたら事件に向き合って欲しいと思いますし、そのあとは自分の人生を主体的に生きて欲しいと思います。
生きることに前向きに生きて欲しい、生きて幸せを感じて最後まできっちり生きて欲しいと思います。
被害者からみると加害者が幸せを感じると云う事は、理不尽だと思いますが、本当の償いを求めるのであれば加害者が幸せを感じて主体的に生きて、初めてそういう人生の中でこそ本物の謝罪、反省に至れるのではないかと思います。
幸せと償いは同じ方向ではないですかねと、その被害者の人にも申し訳ないけど言いたいです。
被害者から加害者に声を届ける形が有効なんだと理解してもらって、活動が広がって行って、加害者との対話が成立して再犯が減ってゆく、悲しむ人が減るという形になればいいなと思います。
2006年山口県高等専門学校で当時20歳の女子学生が同級生の男子学生に殺害される事件が起きました。
事件後男子学生は自殺、10日後に遺体で発見されました。
中谷さんは事件の犠牲となった女子学生 あゆみさんの母親です。
5年前に仕事を辞め被害者の声を直接届けることで、犯罪を犯した人々の心を変えたいと云う思いで刑務所や少年院などの矯正施設に出向き、受刑者たちに事件を伝える活動を続けて居ます。
12回 130人の受刑者一人ひとりと向き合って、話をしています。
どんな怖い人なのかと怖いイメージで伺って行ったが、ほんとうに町中でも出会えるような普通の方でした。
罪をつぐなうためにいる訳ですが、罪を償うことと、幸せを感じて生きると云う事が同じ方向にあると思っているのか、あるいは反対の方向にあると思っているのかと云う事を最初に質問します。
最初私自身真反対だと思っていましたが、今は反対ではない、同じ方向だと思っています。
2006年、当時20歳の娘のあゆみが学校で同級生に殺害される事件が起きました。
あゆみは生きていたら30歳になるんです。
ウエディングドレスを作りたいなあと云うのが私の夢でした。
そのあとの私の人生は抜け殻のような、生きる気力がなくなってしまいました。
それまでの生き方を変えないと生きていけないと云う、そういう事件、経験だったと思います。
あゆみは家族思いで友だちも一杯いて、家に行ったり来たりしていました。
2006年8月下旬、朝いつもと同じようにあゆみを駅まで送って行きました。
夫とは同じ職場で、夕方自分の席に帰ってきたら夫からのメモがあり、あゆみが学校で倒れたから迎えに行って来ると云う内容でした。
夫に電話したら保健室で待たされて、様子がまだ判らないとのことでした。
なかなか電話が通じなくて、何回目かに電話が通じたときには夫は何もいいませんでした。
問い詰めたらやっとあゆみが死んだんだと云う事でした。
あゆみの友だちから電話がかかってきて、TVを点けたら速報が出て居て、「中谷あゆみさん死亡」と云う文字が見えて、間違いだと思いました。
あゆみのはずは絶対ないとそれを早く確認したいと思いました。
遺体と対面した時、最初ビニール袋に入っていて、白い布を刑事さんが取ったが、その瞬間まで絶対に違うと思ったが、あゆみがそこに眠っていて、顔の色が少し紫色で眠っていて、起こそうと思って一生懸命声を掛けたが、何べん呼んでもあゆみは目を覚まさなくて、ただただほっぺたを触って起こそうと思ったが起きなくて、自分が死んだ方がどれだけ楽だったのかと思いました。
誰が犯人かはわからないが男の子だと云われたが、クラスメートだったが、彼も犯罪に巻き込まれたのではないかと最初思ったんですが、警察からそれは違うといわれました。
強姦致死、自分の欲望のままに殺害したことについてはどう受けとめたのか?
私はなにも見て居ないし彼とも会ったことがないので何にも判りません。
会ってなんでこんなことをしたのか、聞いてみたいと思います。
憎しみの感情はありました、絶対許さないと。
10日後、犯人は自殺で発見され連絡を貰ってから彼から何にも聞けないと云う事が判って、ほんとうに力が抜けました。
ほんとうのことを教えてほしかった、生きて償って欲しいと思いました、それがあゆみへの唯一の供養になると思っていましたが、その願いもかなわなくなりました。
彼は謝罪、反省、責任をとることから逃げたんだと思います。
なんで、なんでと云う事からずーっと10年以上、今も停まっているんです。
どうしたらこの事件が起きないですんだんだろうかと、考えるようになりました。
加害者の彼が自殺してしまって、この世の中にいなくなったことが一つあるかもしれないが、あゆみだったらどうするかとそれを考えたのが大きいですかね。
あゆみだったら憎しみ続けないだろうと、あゆみと相談しながら長い時間をかけてそうなったんだろうと思います。
たくさんの方、友達、先生、私の同僚、近所の方、ほかの事件の被害者の方、知らない方から励ましの言葉、電話、手紙をいただいて、思って下さる気持が凄く伝わってきて、そのお蔭で話ができる状態になれる迄になったのかなと思います。
1年半後に加害者の両親が謝罪に家に来ました。
あゆみのお参りに来たいと家に来ましたが、ひときわ小さく見えました。
かわいそうと云うか、情けない形に見えました。
加害者の両親も家族も被害者かもしれないとその時思いました。
加害者側が孤立してしまったら、それは悲しいと云うか、そこで又ふつふつと憎しみが募って行くようなことにも成りかねない。
事件から5年後、地元の市役所を早期退職、役に立つことがあればやってみようかなあと云うような気持でした。
仕事を辞めると言ったときに、誰かに体験を聞いていく中で伝えることが仕事の中にあるかと主人とも話したが、お前の話を誰が聞くのかと言われたが、刑務所の受刑者に話を聞いてもらう事があるかもしれないとぼんやり思いました。
加害者の彼がもっと自分の人生の事、廻りの人のことを真剣に大切に思っていてくれたら事件は起こらなかったんだろうと思います。
加害者が変わってくれればと言う思いで、受刑者に働き掛けることがあるのかもしれないなと思いました。
再犯率、受刑者の50%の再犯率があり、そこで犯罪が繰り返される。
再犯を少なくしたい、悲しい思いをする人たちを少なくしたいと思って、そこに糸口があるような気がしたんです。
刑務所のプログラムで犯罪被害者の視点を取り入れた教育と云う事で、更生プログラムがあり、その一コマに私が行かせてもらう事になりました。
目の前に被害者である私が居て、最初から泣いて待っている方もいまして、全然想像できませんでした。
自分は生きる権利がないんではないのかと云う思いを持っていました。
真剣に考えている人たちが前にいて驚きました。
90分の前半で自分のところに起きた事件の話をして、後半は10人ぐらいの人と一人づつやり取りしました。
受刑者のなかには、青い空を見ても青いと思って見てはいけないと思っていましたと言われた方がいました。
自分が幸せを感じても幸せに感じてはいけない、幸せに蓋をしている。
押し殺して下を向いて生きている、その人からはそう感じました。
そうしているとつぶれてしまうか、爆発してしまうのではないかと思いました。
葛藤の中で自己否定を続けないでほしい、喜びは認めてあげて欲しいと思いました。
幸せを感じる人生、犯してしまった罪を、経験を無駄にしない人生を歩んでほしいと思いました。
自分が幸せを感じて主体的な人生を歩んで、初めて被害者の事も考えてもらえるのではないかと、罪を償う事と幸せを感じる事は同じ方向にあると私は思っています。
自分の幸せを棚にあげておいて人の幸せだけを願うなんて、そんなに天使ではないです。
人間って、自分がある程度衣食住足りてようやく周りが見えて来るのではないかと思う。
加害者と受刑者とをみて、生きることを真剣に考えてほいしいと思ったのは重なる部分があると思います。
今まで幸せを感じてはいけないと思った受刑者が、前向いて生きていいんだと云うことに気づいて貰えたんじゃないかと、いう瞬間があります。
そうすると私の方がエネルギーを貰う様な、行かせてもらってよかったと思う瞬間があります。
加害者の彼がもし生きていたら事件に向き合って欲しいと思いますし、そのあとは自分の人生を主体的に生きて欲しいと思います。
生きることに前向きに生きて欲しい、生きて幸せを感じて最後まできっちり生きて欲しいと思います。
被害者からみると加害者が幸せを感じると云う事は、理不尽だと思いますが、本当の償いを求めるのであれば加害者が幸せを感じて主体的に生きて、初めてそういう人生の中でこそ本物の謝罪、反省に至れるのではないかと思います。
幸せと償いは同じ方向ではないですかねと、その被害者の人にも申し訳ないけど言いたいです。
被害者から加害者に声を届ける形が有効なんだと理解してもらって、活動が広がって行って、加害者との対話が成立して再犯が減ってゆく、悲しむ人が減るという形になればいいなと思います。
2017年3月20日月曜日
河合雪之丞(俳優) ・新しい名前で舞台に臨む
河合雪之丞(俳優) ・新しい名前で舞台に臨む
1970年東京生まれ、1988年に国立劇場歌舞伎俳優研修を終了後、3代目市川猿之助さん(現在の市川猿翁さん)に入門し、2代目市川春猿を襲名します。
スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の弟橘媛などの人気女形として活躍しました。
ところが今年一月歌舞伎の世界を離れ劇団新派に入団し、河合雪之丞と改名しました。
新たな出発をした河合雪之丞さんに伺いました。
市川春猿を30年やってきたので、名前を呼ばれてもぱっと振り向けない様な感じです。
雪之丞と云う名前は、師匠の市川猿翁が市川團子から猿之助になる前に名乗ろうとしていた名前でした。
師匠からこの名前をあげますと、師匠から言われて頂きました。
河合武雄さんがいましたが、その方の名字を頂戴しました。
「華岡青洲の妻」の妻「加恵」の役を受ける。
大変でしたがやり甲斐のある役でした。
紀州弁で大変でした。(現代の和歌山弁とはまた違う昔の言葉で大変でした)
20代なかばから50代まで演じなくてはいけなくて、表現するのに苦労しました。
新しい麻酔薬を研究した華岡青洲の麻酔のために目が見えなくなってしまうと云う役。
目が見えない中の生活感みたいなものも出さなければいけないので難しい。
喜多村緑郎さん、大先輩の女優水谷八重子さん、 波乃久里子さんが居てくれていろいろ教えてもらったので心強かったです。
新派に移籍していただく時も八重子さんも久里子さんにも、ほんとうに心から迎えていただきましてありがたかったです。
2月が一転して喜劇「江戸みやげ狐狸狐狸話」を行います。
「加恵」役とはまったく違った役をやらせていただいて、笑っていただける芝居も大好きです。
3歳のころかTVの舞台中継があると、その前に座って動かない子だったらしいです。
何か琴線に触れる何かがあったのではないかと思います。
歌舞伎に興味を持って5歳のときに初めて、歌舞伎座に連れて行ってもらいました。
小学校のころに親戚のかたが踊りのお師匠をやっていたので踊りもちょっと習いました。
理数系は苦手でした。
師匠の三代目猿之助の芝居が好きで見て居たのですが、見るよりもやる側になりたいと思ったのが中学2年の時でした。
中学卒業後、国立劇場の歌舞伎俳優の9期生の募集時期だったので受けようと思ったが、
親から反対されて、高校に行く事にして都立高校に受かったが1カ月で退学して研修養成所を受けて、2年間研修をしました。
日本舞踊も2流派、鳴り物、お琴、立ち回りの稽古、お茶、お化粧の授業、体操、発音発生の授業もあり、豊富な授業内容でした。
10人で受けて居ました。
三代目市川猿之助のところに入りたいと思っていたので、入門しました。
名前は「春猿」でいいねと言われて、それを受けました。
師匠は言葉少ない方で、日常会話はほとんどしませんでした。
見て覚えろと云う事と、愛情のある方で人間的にも大きな方でした。
師匠は古典歌舞伎とスーパー歌舞伎は両輪のように歌舞伎を支えていくんだよとおっしゃっていました。
軽井沢に師匠の別荘があり、100畳の稽古場があり、そこで1カ月間合宿をします。
一緒に寝泊まりして、一門は家族的な感じでした。
背も小さかったし細かったので女形が向いていると廻りからも言われたし、女形を選ぶ事になりました。
故人のリサイタルに「明治一代女」をやったのをきっかけに、やりませんかと言われて新派の作品をやらせていただき、何年か新派もやらせていただき、徐々に新派の魅力を掘り下げたいと思っていました。
二足のわらじをはくのも難しいので決断をして移籍する事に決めました。
師匠に言いに行ったらあんた合っているよと言われました。
「雪之丞」と言う名前をあげるからと云って背中を押してもらいました。
女優さんと一緒に女形をやる事は違和感はないです。
歌舞伎の女形と新派の女形は演ずる事では変わらないと思います。
お客様の目線に立って、芝居を作って演じて行くことは大事な事だと思っていてこれからどんどんやっていかなければいけないと思います。
八重子さんとの男役もやりましたので、立ち役をやる機会もあると思います。
「黒蜥蜴」を6月にやる予定になっています。(江戸川乱歩先生の代表作)
脚本を新しく書き下ろします。
ビジュアル的にもお客さんがあっと驚くものに仕上がる気がしていて、試行錯誤していろいろ考えています。
1970年東京生まれ、1988年に国立劇場歌舞伎俳優研修を終了後、3代目市川猿之助さん(現在の市川猿翁さん)に入門し、2代目市川春猿を襲名します。
スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の弟橘媛などの人気女形として活躍しました。
ところが今年一月歌舞伎の世界を離れ劇団新派に入団し、河合雪之丞と改名しました。
新たな出発をした河合雪之丞さんに伺いました。
市川春猿を30年やってきたので、名前を呼ばれてもぱっと振り向けない様な感じです。
雪之丞と云う名前は、師匠の市川猿翁が市川團子から猿之助になる前に名乗ろうとしていた名前でした。
師匠からこの名前をあげますと、師匠から言われて頂きました。
河合武雄さんがいましたが、その方の名字を頂戴しました。
「華岡青洲の妻」の妻「加恵」の役を受ける。
大変でしたがやり甲斐のある役でした。
紀州弁で大変でした。(現代の和歌山弁とはまた違う昔の言葉で大変でした)
20代なかばから50代まで演じなくてはいけなくて、表現するのに苦労しました。
新しい麻酔薬を研究した華岡青洲の麻酔のために目が見えなくなってしまうと云う役。
目が見えない中の生活感みたいなものも出さなければいけないので難しい。
喜多村緑郎さん、大先輩の女優水谷八重子さん、
新派に移籍していただく時も八重子さんも久里子さんにも、ほんとうに心から迎えていただきましてありがたかったです。
2月が一転して喜劇「江戸みやげ狐狸狐狸話」を行います。
「加恵」役とはまったく違った役をやらせていただいて、笑っていただける芝居も大好きです。
3歳のころかTVの舞台中継があると、その前に座って動かない子だったらしいです。
何か琴線に触れる何かがあったのではないかと思います。
歌舞伎に興味を持って5歳のときに初めて、歌舞伎座に連れて行ってもらいました。
小学校のころに親戚のかたが踊りのお師匠をやっていたので踊りもちょっと習いました。
理数系は苦手でした。
師匠の三代目猿之助の芝居が好きで見て居たのですが、見るよりもやる側になりたいと思ったのが中学2年の時でした。
中学卒業後、国立劇場の歌舞伎俳優の9期生の募集時期だったので受けようと思ったが、
親から反対されて、高校に行く事にして都立高校に受かったが1カ月で退学して研修養成所を受けて、2年間研修をしました。
日本舞踊も2流派、鳴り物、お琴、立ち回りの稽古、お茶、お化粧の授業、体操、発音発生の授業もあり、豊富な授業内容でした。
10人で受けて居ました。
三代目市川猿之助のところに入りたいと思っていたので、入門しました。
名前は「春猿」でいいねと言われて、それを受けました。
師匠は言葉少ない方で、日常会話はほとんどしませんでした。
見て覚えろと云う事と、愛情のある方で人間的にも大きな方でした。
師匠は古典歌舞伎とスーパー歌舞伎は両輪のように歌舞伎を支えていくんだよとおっしゃっていました。
軽井沢に師匠の別荘があり、100畳の稽古場があり、そこで1カ月間合宿をします。
一緒に寝泊まりして、一門は家族的な感じでした。
背も小さかったし細かったので女形が向いていると廻りからも言われたし、女形を選ぶ事になりました。
故人のリサイタルに「明治一代女」をやったのをきっかけに、やりませんかと言われて新派の作品をやらせていただき、何年か新派もやらせていただき、徐々に新派の魅力を掘り下げたいと思っていました。
二足のわらじをはくのも難しいので決断をして移籍する事に決めました。
師匠に言いに行ったらあんた合っているよと言われました。
「雪之丞」と言う名前をあげるからと云って背中を押してもらいました。
女優さんと一緒に女形をやる事は違和感はないです。
歌舞伎の女形と新派の女形は演ずる事では変わらないと思います。
お客様の目線に立って、芝居を作って演じて行くことは大事な事だと思っていてこれからどんどんやっていかなければいけないと思います。
八重子さんとの男役もやりましたので、立ち役をやる機会もあると思います。
「黒蜥蜴」を6月にやる予定になっています。(江戸川乱歩先生の代表作)
脚本を新しく書き下ろします。
ビジュアル的にもお客さんがあっと驚くものに仕上がる気がしていて、試行錯誤していろいろ考えています。
2017年3月18日土曜日
奥田和子(甲南女子大学名誉教授) ・本当に役に立つ災害食
奥田和子(甲南女子大学名誉教授) ・本当に役に立つ災害食
日本災害食学会の顧問を務めてます。
元々は食品について別の研究をしていましたが、阪神淡路大震災で被災した事をきっかけに災害の際の食事、災害食をテーマに研究するようになりました。
東日本大震災や熊本地震でも現地で調査を行い、その結果と様々な実証実験に基づいて災害時の食はどうあるべきか、何をどう備えたらいいのか、提言をしています。
本当に役にたつ災害食とは何かうかがいました。
阪神淡路大震災の時、2階の書斎で寝ていて、突然くす玉が頭を直撃してその痛さで目が覚めました。
部屋中が散乱していて足の踏み場もありませんでした。
この町は埋め立て地で液状化現象が起き、家の工事では基礎はしっかり工事したんですが、家は傾いてしまいました。
電気、ガス、水道は直ぐ止まりました。
食パンが一切れ、やかんの水があったのでそれをいただきました。
余震が続いて居たので玄関に蒲団を敷いてボ-っと坐っているのが精一杯でした。
その後、お腹がすく、のどが渇く、トイレに行きたくなる。(しかし水が無い)
中学校のプールに水がある事を知って、自転車の荷台に段ボールの箱を付けて、その中にビニール袋をそわせて、そこに水を入れトイレのためとかの水をなんとか調達しました。
スーパーなどは閉まっていて、電気が来ないので店は全部閉まっていました。
3日間はほとんどなにも食べ物は無い状態でした。
その後、親戚が来て食べ物を持ってきてくれました。
災害時の食はこんなことでいいのかと思って、使命感がわいてきました。
料理をするときに肉をワインに漬けると柔らかくなると云う様な事を研究して居ました。
災害時の食へと方向転換しました。
避難所で聞き取り調査を始めました。
避難所へは周辺からの農家から善意のおにぎりが届き、菓子パンも届き、この二つで命をつないだと云う感じです。
食料が大幅に不足していました。
災害食と云う事は何も無かった。
救援の食料は乾パンが多くて乾パンを水にしめらせて食べて居ました。
行政は地震が来ることを想定していなかったと思います。(備蓄が無かった)
米はたくさん送られてきたが、水も、熱源も道具もなく米は使い物になりませんでしたし、炊く方法も知りませんでした。
おかずも無く、野菜が不足して体調を崩す人がいました。
調査で一番食べたかったのは野菜と云っています。
ライフラインが回復するまで2,3カ月続きました。
1カ月ぐらいしたら店舗が開き始めて、救援物資は不要になり乾パンがたくさん蓄えられていたが焼却場に運ばれ燃やされました。
あるお寺の倉庫には新品の紙おむつが山積みされ、新品のままで災害が終わった。
東日本大震災でも、熊本地震でも調査をしました。
岩手県陸前高田に行き聞き取り調査をして、救援の食料が水がないために役立たないと云う事を言っていました。
アルファ化米、カップメン、クラッカーなどもそうですが、こういう救援物資はどうにかしてくださいと懇願されました。
熊本にも行きましたが、どの家庭も備蓄はほとんどしていませんでした。
行政は米を備蓄していたが、使い物になりませんでしたが、大きな反省点だと思います。
阪神淡路大震災の時と同じようでした。
ほとんど備蓄はしていない、救援物資がすぐに届くと思っている向きがあるが十分に届かない、すぐ食べられるものがない、しばらくすると同じような救援物資が大量に送られてきて不要であると云うような事が出てきていると云う事です。
教訓としては
①各自が備蓄をすべきである、これは非常に大切なことです。
避難所に入る人は自分の飲み物食べ物を持って行くべきです。
自宅で過ごす人は救援物資は届きにくいと云う事を知っておいてほしい。
②電気は一週間程度で復旧するが、ガス、水道は2~3カ月かかります。
相当備蓄の量を多くしないといけない、家庭も行政も調理しないですぐ食べられる ものを備蓄してもらいたい。(缶詰、レトルト食品など)
ステップ2 1週間後程度の対応
日本災害食学会の顧問を務めてます。
元々は食品について別の研究をしていましたが、阪神淡路大震災で被災した事をきっかけに災害の際の食事、災害食をテーマに研究するようになりました。
東日本大震災や熊本地震でも現地で調査を行い、その結果と様々な実証実験に基づいて災害時の食はどうあるべきか、何をどう備えたらいいのか、提言をしています。
本当に役にたつ災害食とは何かうかがいました。
阪神淡路大震災の時、2階の書斎で寝ていて、突然くす玉が頭を直撃してその痛さで目が覚めました。
部屋中が散乱していて足の踏み場もありませんでした。
この町は埋め立て地で液状化現象が起き、家の工事では基礎はしっかり工事したんですが、家は傾いてしまいました。
電気、ガス、水道は直ぐ止まりました。
食パンが一切れ、やかんの水があったのでそれをいただきました。
余震が続いて居たので玄関に蒲団を敷いてボ-っと坐っているのが精一杯でした。
その後、お腹がすく、のどが渇く、トイレに行きたくなる。(しかし水が無い)
中学校のプールに水がある事を知って、自転車の荷台に段ボールの箱を付けて、その中にビニール袋をそわせて、そこに水を入れトイレのためとかの水をなんとか調達しました。
スーパーなどは閉まっていて、電気が来ないので店は全部閉まっていました。
3日間はほとんどなにも食べ物は無い状態でした。
その後、親戚が来て食べ物を持ってきてくれました。
災害時の食はこんなことでいいのかと思って、使命感がわいてきました。
料理をするときに肉をワインに漬けると柔らかくなると云う様な事を研究して居ました。
災害時の食へと方向転換しました。
避難所で聞き取り調査を始めました。
避難所へは周辺からの農家から善意のおにぎりが届き、菓子パンも届き、この二つで命をつないだと云う感じです。
食料が大幅に不足していました。
災害食と云う事は何も無かった。
救援の食料は乾パンが多くて乾パンを水にしめらせて食べて居ました。
行政は地震が来ることを想定していなかったと思います。(備蓄が無かった)
米はたくさん送られてきたが、水も、熱源も道具もなく米は使い物になりませんでしたし、炊く方法も知りませんでした。
おかずも無く、野菜が不足して体調を崩す人がいました。
調査で一番食べたかったのは野菜と云っています。
ライフラインが回復するまで2,3カ月続きました。
1カ月ぐらいしたら店舗が開き始めて、救援物資は不要になり乾パンがたくさん蓄えられていたが焼却場に運ばれ燃やされました。
あるお寺の倉庫には新品の紙おむつが山積みされ、新品のままで災害が終わった。
東日本大震災でも、熊本地震でも調査をしました。
岩手県陸前高田に行き聞き取り調査をして、救援の食料が水がないために役立たないと云う事を言っていました。
アルファ化米、カップメン、クラッカーなどもそうですが、こういう救援物資はどうにかしてくださいと懇願されました。
熊本にも行きましたが、どの家庭も備蓄はほとんどしていませんでした。
行政は米を備蓄していたが、使い物になりませんでしたが、大きな反省点だと思います。
阪神淡路大震災の時と同じようでした。
ほとんど備蓄はしていない、救援物資がすぐに届くと思っている向きがあるが十分に届かない、すぐ食べられるものがない、しばらくすると同じような救援物資が大量に送られてきて不要であると云うような事が出てきていると云う事です。
教訓としては
①各自が備蓄をすべきである、これは非常に大切なことです。
避難所に入る人は自分の飲み物食べ物を持って行くべきです。
自宅で過ごす人は救援物資は届きにくいと云う事を知っておいてほしい。
②電気は一週間程度で復旧するが、ガス、水道は2~3カ月かかります。
相当備蓄の量を多くしないといけない、家庭も行政も調理しないですぐ食べられる ものを備蓄してもらいたい。(缶詰、レトルト食品など)
③弱者(乳幼児、高齢者、アレルギーのある人、病気の人など)も救援を頼りにしないで自分自身が備蓄をする。
家庭では
①不安やストレスから食欲がなくなるので、自分の好きなものを備蓄する。
①不安やストレスから食欲がなくなるので、自分の好きなものを備蓄する。
②ローリングストック、大目に購入して普段食べをしながら減ってきたら補充する。
③賞味期間 6カ月以上室温で保存できるものにする。
④食べ物より飲み物をしっかり備蓄して欲しい。(3L/人 必要)
⑤使いきりサイズを選ぶ。(残っても冷蔵庫に保管できない)
⑥野菜や果物の加工品を重視して備蓄してもらいたい。(ビタミン、ミネラル、食物繊維が不足するので)
災害直後、1週間後、店が開く、電気が通じるなど、経時的に変化するので、状況により変わってくる。
ステップ1 災害直後
非常持ち出し袋を持って置く事が大事。
非常持ち出し袋のバックは不燃素材で中身は、
①腹の足しになるもの(水や熱が不要ですぐ食べられるもの、新製品の食べやすいレトルトパン、災害食用レロルトおかゆ、アレルギータイプのクッキー、カロリーが取れる物)②自分の好きなもの、自分を癒すもの(プリン、ミツマメの缶詰、チョコレートなど甘いもの等)
③水系飲み物(水、野菜ジュースなど自分の好きな飲み物、味噌汁など)
①腹の足しになるもの(水や熱が不要ですぐ食べられるもの、新製品の食べやすいレトルトパン、災害食用レロルトおかゆ、アレルギータイプのクッキー、カロリーが取れる物)②自分の好きなもの、自分を癒すもの(プリン、ミツマメの缶詰、チョコレートなど甘いもの等)
③水系飲み物(水、野菜ジュースなど自分の好きな飲み物、味噌汁など)
避難する時には割り箸ではなくて、マイ箸を入れておいてほしい。(ごみをつくらない)
各自家族が一人一つづつ持ってもらいたい。(同じところに避難するとは限らない)
ステップ2 1週間後程度の対応
段ボール5つに1週間分用意する。
①主食、②魚と肉のおかず、③野菜のおかず、④おやつ、⑤飲み物。
美味しいかどうか、必ず食べてみて好きなものを保存する。
①主食、②魚と肉のおかず、③野菜のおかず、④おやつ、⑤飲み物。
美味しいかどうか、必ず食べてみて好きなものを保存する。
電気の回復時
電気釜の使用が可能になるので、無洗米を買って置いておく。
おかずはレトルトカレーなどを買っておく。
野菜には各種の出汁に使えるもの、炊き込みご飯の元とか、親子丼の元とかを購入しておく。
飲み物はお茶の葉なども役に立つと思います。
飲み物はお茶の葉なども役に立つと思います。
ステップ3 1ヶ月後(店が開く)
野菜や新鮮な物を購入して体力の回復をする。
簡易コンロなどを使って鍋でご飯を炊く訓練も普段からやっておくことが大事です。
アルファ化米は水がなかったら何の役にもたたない。
野菜ジュース、ウーロン茶、麦茶等を中に混ぜて入れる。
野菜ジュースは栄養価が高い。
野菜ジュース、ウーロン茶、麦茶等を中に混ぜて入れる。
野菜ジュースは栄養価が高い。
お茶を入れて炊くご飯(水がない時の対処法の一つ)、コーヒーを入れたご飯等美味しいです。
トマトジュース+アルファ化米(1時間経過後の物) オムライスみたいでおいしい。
アルファ化米は一旦煮えて居るので、非常時には常温の水、ジュースなどを加える事で戻して食べられる。
過去に経験した事を謙虚に学んで受け止めて行く姿勢がなくてはいけない。
行政任せは通用しないと云う事も学んでいるはず、行政の人たちも被災者なので、人手不足に陥ってしまう。
自分のことは自分ですると言う事が責務です。
自分のことは自分ですると言う事が責務です。
避難訓練は見物客に過ぎないような気がする。
現実問題からかけ離れている、本気でやってほしい、それをやらないと何べんやっても難しいと思います。
2017年3月17日金曜日
吉田 都(バレリーナ) ・エレガントに生きる
吉田 都(バレリーナ) ・エレガントに生きる
東京国立生まれ、9歳からバレーを習い始めました。
17歳の時ローザンヌ国際バレエコンクールに出場して最高の賞を受賞してイギリスに留学します。
絶え間ぬ努力で才能を開花させて世界三大バレエ団の一つといわれる英国ロイヤルバレエ団などで、20年以上最高位であるプリンシパルとして活躍しました。
吉田さんは6年前に帰国し現在はフリーのバレリーナとして活躍しています。
去年初めてのエッセーを出版しました。
「バレリーナ踊り続ける理由」と云うエッセーを出版。
振り返ってみると人生のいろんな事を、すべてバレエを通して学んできたのでまとめてみたいと思いました。
身体も固くなってきてできなくなった事もあるが、ロイヤルバレエ団を退団する頃は、ジャンプとかも出来ないような状態になっていたが、日本に帰ってきて悪化してバレエを辞めるような状況でしたが、身体も良くなってジャンプも出来るようになりました。
本当に驚いています。
9歳でバレエを始め、レトリックもやっていて音楽と一緒に踊るようにしてきて楽しかったです。
身体、足も出来てきた頃なので、始める時期としてはちょうどよかったと思います。
17歳の時ローザンヌ国際バレエコンクールに出場。
これからのダンサーを見つけるためのコンクールみたいな感じで、賞を取ったダンサーは奨学金を貰えて、世界中のいろいろなバレエ学校に留学できる。
ローザンヌ賞を受賞、英国ロイヤルバレエ学校を選ぶ。
海外のバレエ学校は朝から稽古が出来るので本当に楽しみでしたが、行ってみると思ったよりも稽古の時間も短かったりクラスも区切られていたりして、物足りない感じはありました。
一日中踊っていたかった。
一人で生活するので食事の面からすべて大変でした。
野菜がにこみすぎるぐらいで苦手でした。
会話は話さざるを得ない環境だったので却ってよかったと思います。
1年間で帰る予定だったので、ロイヤルバレエ団と契約出来て予想もしていなかった。
先生、両親と相談してみんなに頑張ってみなさいと言われてバレエ団に入りました。
後から思うとあそこで帰らなくてよかったと思います。
プロのダンサーとして責任感を感じました。
舞台に立って行くのが日々の生活の中に入ってゆくので、特別な事ではなくなる。
群舞が最初にあって、順次あって主役を踊るプリンシパルがトップですが、白鳥の湖の主役をいただいた時が、群舞にいるときに突然貰ったので吃驚しました。
それが励みになって頑張れました。
ファーストアーティストと云う一つ上に翌年上げてもらって、その翌年ソリストにあげて貰って、5年目で25歳の時にプリンシパルにあげてもらいました。
英国ロイヤルバレエ団にプリンシパルとして移籍、ロンドンのロイヤルオペラハウスを本拠地としていて、海外公演も行きますがほとんどそこがベースで踊っています。
チャールズ皇太子が総裁を行っています。
踊り、表現にしても品良くと云うのが凄く注意されました。
振付とか細かいところまであって、厳しかったです。
「遊び」が無いといけないとも言われて、自分がどこにポイントを持っていくかなど、いろいろ難しかったです。
繰り返し本番を重ねて行く中でいろんな事を発見してゆくと云うような感じでした。
日々の生活の中で表情、ジェスチャーなどからヒントを貰っていたような気もします。
何時も理想を求めて居たのでモチベーションが下がると云うようなことはなかったです。
年齢を重ねて行く中で身体も変わってゆくので、何時でも自分のベストを尽くす、戦っているような感じでした。
30歳過ぎると体力の事も感じてくるが、不思議と持ち直したりしています。
バレエ団の中でもケアしてくれる人たちがいたので、アドバイスしてくれたりして助かりました。
自分の身体も判って来るので、もっとコントロールが効いてくるので、身体の使い方をいろいろ工夫します。
クラシックバレエの型が大好きで、稽古自体が素晴らしい。
研究して訓練して理想の処に近づいてくるとうれしい、そうすると又追求することが出てきて終わりが無いです。
バレエはどなたにも通じる言語だと思います。
生のオーケストラが入って、大衣装さんとか、裏方さんにしても、総合芸術だと思います。
ロイヤルバレエ団の衣装チュチュはしっかり作られて居るので、重いし固いし、本当に大変です。
体幹がしっかりしていないと駄目です、ダンサー泣かせです。
あの衣装だからあの美しさが出るのだと思います。
エレガントに生きるとい事はあこがれるが、そういう生き方をされている人は沢山いたのでそうありたいと云う感じにあこがれて居ます。
あちらでは物ではない何か与えてくれる、全てを教えてくれると云う生活でしたので、お返ししていかなくてはいけないと云う気持ちがあり、次の世代に伝えていきたいと云う気持ちはあります。
東京国立生まれ、9歳からバレーを習い始めました。
17歳の時ローザンヌ国際バレエコンクールに出場して最高の賞を受賞してイギリスに留学します。
絶え間ぬ努力で才能を開花させて世界三大バレエ団の一つといわれる英国ロイヤルバレエ団などで、20年以上最高位であるプリンシパルとして活躍しました。
吉田さんは6年前に帰国し現在はフリーのバレリーナとして活躍しています。
去年初めてのエッセーを出版しました。
「バレリーナ踊り続ける理由」と云うエッセーを出版。
振り返ってみると人生のいろんな事を、すべてバレエを通して学んできたのでまとめてみたいと思いました。
身体も固くなってきてできなくなった事もあるが、ロイヤルバレエ団を退団する頃は、ジャンプとかも出来ないような状態になっていたが、日本に帰ってきて悪化してバレエを辞めるような状況でしたが、身体も良くなってジャンプも出来るようになりました。
本当に驚いています。
9歳でバレエを始め、レトリックもやっていて音楽と一緒に踊るようにしてきて楽しかったです。
身体、足も出来てきた頃なので、始める時期としてはちょうどよかったと思います。
17歳の時ローザンヌ国際バレエコンクールに出場。
これからのダンサーを見つけるためのコンクールみたいな感じで、賞を取ったダンサーは奨学金を貰えて、世界中のいろいろなバレエ学校に留学できる。
ローザンヌ賞を受賞、英国ロイヤルバレエ学校を選ぶ。
海外のバレエ学校は朝から稽古が出来るので本当に楽しみでしたが、行ってみると思ったよりも稽古の時間も短かったりクラスも区切られていたりして、物足りない感じはありました。
一日中踊っていたかった。
一人で生活するので食事の面からすべて大変でした。
野菜がにこみすぎるぐらいで苦手でした。
会話は話さざるを得ない環境だったので却ってよかったと思います。
1年間で帰る予定だったので、ロイヤルバレエ団と契約出来て予想もしていなかった。
先生、両親と相談してみんなに頑張ってみなさいと言われてバレエ団に入りました。
後から思うとあそこで帰らなくてよかったと思います。
プロのダンサーとして責任感を感じました。
舞台に立って行くのが日々の生活の中に入ってゆくので、特別な事ではなくなる。
群舞が最初にあって、順次あって主役を踊るプリンシパルがトップですが、白鳥の湖の主役をいただいた時が、群舞にいるときに突然貰ったので吃驚しました。
それが励みになって頑張れました。
ファーストアーティストと云う一つ上に翌年上げてもらって、その翌年ソリストにあげて貰って、5年目で25歳の時にプリンシパルにあげてもらいました。
英国ロイヤルバレエ団にプリンシパルとして移籍、ロンドンのロイヤルオペラハウスを本拠地としていて、海外公演も行きますがほとんどそこがベースで踊っています。
チャールズ皇太子が総裁を行っています。
踊り、表現にしても品良くと云うのが凄く注意されました。
振付とか細かいところまであって、厳しかったです。
「遊び」が無いといけないとも言われて、自分がどこにポイントを持っていくかなど、いろいろ難しかったです。
繰り返し本番を重ねて行く中でいろんな事を発見してゆくと云うような感じでした。
日々の生活の中で表情、ジェスチャーなどからヒントを貰っていたような気もします。
何時も理想を求めて居たのでモチベーションが下がると云うようなことはなかったです。
年齢を重ねて行く中で身体も変わってゆくので、何時でも自分のベストを尽くす、戦っているような感じでした。
30歳過ぎると体力の事も感じてくるが、不思議と持ち直したりしています。
バレエ団の中でもケアしてくれる人たちがいたので、アドバイスしてくれたりして助かりました。
自分の身体も判って来るので、もっとコントロールが効いてくるので、身体の使い方をいろいろ工夫します。
クラシックバレエの型が大好きで、稽古自体が素晴らしい。
研究して訓練して理想の処に近づいてくるとうれしい、そうすると又追求することが出てきて終わりが無いです。
バレエはどなたにも通じる言語だと思います。
生のオーケストラが入って、大衣装さんとか、裏方さんにしても、総合芸術だと思います。
ロイヤルバレエ団の衣装チュチュはしっかり作られて居るので、重いし固いし、本当に大変です。
体幹がしっかりしていないと駄目です、ダンサー泣かせです。
あの衣装だからあの美しさが出るのだと思います。
エレガントに生きるとい事はあこがれるが、そういう生き方をされている人は沢山いたのでそうありたいと云う感じにあこがれて居ます。
あちらでは物ではない何か与えてくれる、全てを教えてくれると云う生活でしたので、お返ししていかなくてはいけないと云う気持ちがあり、次の世代に伝えていきたいと云う気持ちはあります。
2017年3月16日木曜日
田口道子(管理栄養士) ・視覚障害者と歩む料理教室
田口道子(管理栄養士) ・視覚障害者と歩む料理教室
富山県立山の麓で自然に親しみながら育った田口さんは自転車通学していた中学生のときに、誤って転倒し左目を負傷、左目は失明、高校卒業後上京、料理学校の門をたたき、料理の道に進みました。
料理一筋におよそ60年今も文京区、大田区、埼玉県の川口市などで料理を教えています。
春の七草、お正月に食べられるが、春は蕪、大根、小松菜、白菜などが食べられる。
ホウレンソウはそれらとは違っていて、あかざ、とか言われて新芽に赤い色がついていたりしてアクの出方が違うので食べる時に手間がかかります。
春の七草の食べ物はそのまま食べられます。
管理栄養士、役所で言うと課長クラス、栄養士の資格を取り、何年か経過するとその一段上のランクの資格を取る。
役所関係の仕事にはその資格が必要です。
東京都の学校給食の栄養士さんの講習会をやらせてもらっています。
昭和13年生まれ、79歳。
栄養士は昭和36年に取って40年ごろに管理栄養士を取りました。
富山県立山の麓で生まれ育ちました。
親はおまえは料理が上手だからやれと云われて、セリを取ってきたりあかざを取ってきたりして、小学生からやっていました。
スピード狂で、自転車でブレーキをかけるのが好きで、たまたまブレーキをかけたところで、ひっくり返って、サドルが目の処に埋め込んで、血が出てそれを見て失神して、頭の左半分が神経がないんです。
左目は失明しました。
中学3年間はソフトボールをやっていて、2年生の時に失明したが、片目でその後もソフトボールはやりました。
料理では包丁を使うのも、火を使うのも全く怖くなかった。
昭和32年に上京、昭和36年に東大の病院でMRIを3日間かけて撮ってもらって、目に入る視神経がつぶれて居るだけで目そのものは大丈夫といわれました。
目は何ともないが、手術をして見える方の目がどうなるか分からないといわれて、そして佐野先生に診てもらって、手術をせずにそのまんまでいます。
大学へ行こうと受験勉強もしましたが、高校3年の時に技をつけた方が早いかなと思って赤堀料理教室の門を叩き、内弟子として家事全般をやりました。
先生の家の方の手伝い、家事全般をやりました。
寝るのは11時から12時で朝は5時半から6時です。
内弟子を6年間やりました。
昭和38年からアパートを借りて、目白の職場に通うようになりましたが、月給1500円でした。
昭和38年から支所があり代行で行かせてもらって先生をやるようになりました。
馬鹿にしたような感じで(上から目線)教えるのはやらないと決めました。
赤堀先生から栄養専門学校に行かせてもらったが、先生から負担してもらっていたが、こういうものは全部返してもらいなさいとか、返して下さいと言われていました。
私は住み込みだったので上司からは、底辺の仕事などをさせられた事などがありました。
ふろふき大根の写真を見て、あるプロデューサーから人柄が出ていると云う事で声がかかりました。
25年前の事ですが、今でも続いている5分ぐらいの番組です。(4年間やりました)
栄養専門学校にいたときにも障害者の教室の講習会があり、その下働きをしていましたが、最初に聴覚障害者に教えました。
食材の味の本物を知ってほしいと云うのが私の信念で、それが自分の身体を作り命を作るのだから、シンプルな料理(カレーライス、シチューなど)をこれはこうやって作ると簡単でおいしいと云う事を知ってもらう。
視覚障害者の講習会では火が付くと音が出るので強火か中火か弱火かを説明します、玉葱を炒める時も玉葱の水分が違うと音が違ってくる、香りも違ってくるので、実況放送の様にして、音と香りで教えて行きます。
ハンバーグなども簡単です、手の感触は一番いい反応です。
塩コショウでよくもむと肉が粘ってくる、それにきざんだ玉葱などを入れて、手にまつわりついていれば形が出来る。
硬い場合の調整は水を入れて練る、そうするとハンバーグが出来る。
視覚障害者への講習会は月に一回教えて居ますが、ほかに年3回特別講座でやっています。
目の不自由の方が知りたい、作りたいと云う思いは強くあります。
卵焼きを作りたいという要望があり、フライパンは何回もひっくり返さなければいけないので使えないので、100円コーナーで四角いアルミ鍋を売っていて、これは使えるとトライしてうまくいきました。
今度の視覚障害者への講習会で卵焼きを教える事が出来ます。
料理は生きるための必須と思っています。
身体を作る、命を作ると云う事は自分の口から入った食べ物からしか作れない。
口から入った時に食べ物が合っているかどうかはちゃんと反応がでる。
身体に入れる食べ物は何億年前に出来た人たちと機能が変わらない。
口に入ったらまず咬む、香り、味、硬さなどを脳に教える。(のど越しを大事にする)
おいしいと云うのは脳の答え、自分が食べなければいけないもの、食べていいものの答えになる。
料理は体に合わせて料理しなければいけない、胃に合わなかったらゲップが出る。
腸では合わなければ、悪い時には下痢になり、合わなければ栄養にならない。
中高年にとって一番大事なもの、それは自分で料理して食べる、3日で一回、1週間に一回でいいから自分で作ってください。
富山県立山の麓で自然に親しみながら育った田口さんは自転車通学していた中学生のときに、誤って転倒し左目を負傷、左目は失明、高校卒業後上京、料理学校の門をたたき、料理の道に進みました。
料理一筋におよそ60年今も文京区、大田区、埼玉県の川口市などで料理を教えています。
春の七草、お正月に食べられるが、春は蕪、大根、小松菜、白菜などが食べられる。
ホウレンソウはそれらとは違っていて、あかざ、とか言われて新芽に赤い色がついていたりしてアクの出方が違うので食べる時に手間がかかります。
春の七草の食べ物はそのまま食べられます。
管理栄養士、役所で言うと課長クラス、栄養士の資格を取り、何年か経過するとその一段上のランクの資格を取る。
役所関係の仕事にはその資格が必要です。
東京都の学校給食の栄養士さんの講習会をやらせてもらっています。
昭和13年生まれ、79歳。
栄養士は昭和36年に取って40年ごろに管理栄養士を取りました。
富山県立山の麓で生まれ育ちました。
親はおまえは料理が上手だからやれと云われて、セリを取ってきたりあかざを取ってきたりして、小学生からやっていました。
スピード狂で、自転車でブレーキをかけるのが好きで、たまたまブレーキをかけたところで、ひっくり返って、サドルが目の処に埋め込んで、血が出てそれを見て失神して、頭の左半分が神経がないんです。
左目は失明しました。
中学3年間はソフトボールをやっていて、2年生の時に失明したが、片目でその後もソフトボールはやりました。
料理では包丁を使うのも、火を使うのも全く怖くなかった。
昭和32年に上京、昭和36年に東大の病院でMRIを3日間かけて撮ってもらって、目に入る視神経がつぶれて居るだけで目そのものは大丈夫といわれました。
目は何ともないが、手術をして見える方の目がどうなるか分からないといわれて、そして佐野先生に診てもらって、手術をせずにそのまんまでいます。
大学へ行こうと受験勉強もしましたが、高校3年の時に技をつけた方が早いかなと思って赤堀料理教室の門を叩き、内弟子として家事全般をやりました。
先生の家の方の手伝い、家事全般をやりました。
寝るのは11時から12時で朝は5時半から6時です。
内弟子を6年間やりました。
昭和38年からアパートを借りて、目白の職場に通うようになりましたが、月給1500円でした。
昭和38年から支所があり代行で行かせてもらって先生をやるようになりました。
馬鹿にしたような感じで(上から目線)教えるのはやらないと決めました。
赤堀先生から栄養専門学校に行かせてもらったが、先生から負担してもらっていたが、こういうものは全部返してもらいなさいとか、返して下さいと言われていました。
私は住み込みだったので上司からは、底辺の仕事などをさせられた事などがありました。
ふろふき大根の写真を見て、あるプロデューサーから人柄が出ていると云う事で声がかかりました。
25年前の事ですが、今でも続いている5分ぐらいの番組です。(4年間やりました)
栄養専門学校にいたときにも障害者の教室の講習会があり、その下働きをしていましたが、最初に聴覚障害者に教えました。
食材の味の本物を知ってほしいと云うのが私の信念で、それが自分の身体を作り命を作るのだから、シンプルな料理(カレーライス、シチューなど)をこれはこうやって作ると簡単でおいしいと云う事を知ってもらう。
視覚障害者の講習会では火が付くと音が出るので強火か中火か弱火かを説明します、玉葱を炒める時も玉葱の水分が違うと音が違ってくる、香りも違ってくるので、実況放送の様にして、音と香りで教えて行きます。
ハンバーグなども簡単です、手の感触は一番いい反応です。
塩コショウでよくもむと肉が粘ってくる、それにきざんだ玉葱などを入れて、手にまつわりついていれば形が出来る。
硬い場合の調整は水を入れて練る、そうするとハンバーグが出来る。
視覚障害者への講習会は月に一回教えて居ますが、ほかに年3回特別講座でやっています。
目の不自由の方が知りたい、作りたいと云う思いは強くあります。
卵焼きを作りたいという要望があり、フライパンは何回もひっくり返さなければいけないので使えないので、100円コーナーで四角いアルミ鍋を売っていて、これは使えるとトライしてうまくいきました。
今度の視覚障害者への講習会で卵焼きを教える事が出来ます。
料理は生きるための必須と思っています。
身体を作る、命を作ると云う事は自分の口から入った食べ物からしか作れない。
口から入った時に食べ物が合っているかどうかはちゃんと反応がでる。
身体に入れる食べ物は何億年前に出来た人たちと機能が変わらない。
口に入ったらまず咬む、香り、味、硬さなどを脳に教える。(のど越しを大事にする)
おいしいと云うのは脳の答え、自分が食べなければいけないもの、食べていいものの答えになる。
料理は体に合わせて料理しなければいけない、胃に合わなかったらゲップが出る。
腸では合わなければ、悪い時には下痢になり、合わなければ栄養にならない。
中高年にとって一番大事なもの、それは自分で料理して食べる、3日で一回、1週間に一回でいいから自分で作ってください。
2017年3月15日水曜日
梅林厚子(自死遺族の会「アルメリアの会」代表)・自殺は罪?
梅林厚子(自死遺族の会「アルメリアの会」代表) ・自殺は罪?
21764人、この数字は厚生労働省が出した平成28年度に自から命を絶った人の数です。
自ら命を絶つ行為を自死と云います。
福井県は平成27年度の調査で自殺死亡率が15.4人と全国でもっとも低くなっていますが、自殺率が低いためにかえって周りに相談できない人が多くいると云います。
福井県の梅林厚子さん60歳は20年前夫を自死で亡くしました。
娘二人を育てる一方で自分や周りを責める日々、何故夫は死んだのかを自問自答する毎日を続けたと言います。
やがて梅林さんは誰かにこの話をしたいと思い、遺族の人が語り合う場「アルメリアの会」を設立しました。
会を設立したからこそ気付いた自死との向き合い方について伺いました。
夫、梅林純一郎、当時40歳 ある日理由も告げず、家にも4日間戻って来ませんでした。
警察から電話だと云う事で、警察に来ていただけませんか、と一方的に言ってきました。
最初に「夫は生きていますか」と問い合わせたが、答えてくれませんでした。
警察に行ってすぐ報告を受けたわけではなくて、3時間以上は待たされました。
警察から夫が自死したと言うことを聞いた瞬間、心の中にあるものをどう思ったかなどはまったく覚えてないです。
崩れ落ちるように泣き叫んだ事は覚えています。
水が欲しくて水を飲んで一息したのを覚えています。
お通夜をしたり葬式をしたり、骨となって帰ってきたことなど何が起こったのか判らないまま時間だけが過ぎていって、涙だけは出るが、頭で考えるとか心で感じるとかと云うんではなくとにかく涙が止まらない。
なんで夫が死んだんだろうと云う事が堂々巡りでした。
職場関係、両親、などに夫が亡くなった原因を探すが、周りを責めれば楽なのかなと思っても楽ではなく、自分自身を責めても楽にはならなかった。
誰も攻めない方がかえって楽なのかなあとふっと思った。
平成9年の事で、自殺は世の中のタブーの事のように思っていて、自殺に対する偏見はあったと思います。
遺族と云う立場になって感じた事は、往々にして自殺する人は弱いとか、敗者というふうに取られがちです。
遺族は自分の体験を話したり文書にして社会に発信することで、自殺は弱い人がするわけではなく敗者でもないと云う事がわかっていただけるのではないかと思います。
今から7年前 平成20年に設立した自死遺族の会「アルメリアの会」。
会の中に支援の方が入っていると話ができないと云う意見をいただきました。
遺品の事を尋ねると、経験した方は答えが返ってくるが、支援して下さる方はかたづけてもかたづけなくても関係ないと云うような答えが返ってくる。
支援の方は元気になるようにといろいろアドバイスしてくれますが、はっきりいって私たちはアドバイスはいらないんです。
アドバイスがかえって重荷になってしまう事がある。
私が憔悴しきっているときに娘たちに「おかあさんを頼むね」と言われたらしいが、それを言われるのが嫌で仕方なかったと言っています。
私も大変なのにはっきり言って、お母さんの面倒を見れないと、はっきり私にいいました。
「頑張ってね」、といわれるが、必死に頑張っているのにまだ頑張れと云うのかと思う。
自分で解決するためには自分の前に起こった出来事をまず受け止める、受け止められたら、今度はどう生きて行くかと云う事です。
死にたいと思っている人たちはどこかで必ずサインを出しているが、それは結果論です。
問題が起こっていても彼はいつかは乗り越えるだろうと思っていて、サインだとは判らない。
何でもいいが声をかけて、切れない繋がりが出来ると、自殺の数は減るかもしれないし、私たち遺族もうれしいです。
当事者同士でも体験した事がそれぞれ違うので、理解し合うと云う事は難しいところがあります。
会を作ってぶつかった壁が亡くなった人との関係によってずいぶん違うと思いました。
遺族会を立ち上げて色んな方々が来るようになって、子供さんを亡くされたお母さんがお見えになった時に、子供を身ごもって、生まれて、おっぱい飲ませて四六時中一緒にいて、そんな子供を自死という形で亡くされた思いは、夫を亡くした私には想像できない世界で、私以上にもっと辛いだろうと思いました。
人間って比べたくなる、比べる事が納得させる手段であったりする。
違いを認めると言う事がとっても大きな課題になりました。
穏やかになれる時は想いが一緒になった時にハッピーになるが、考え方がちょっと違うと、角が出来たりする。
大事な人の命を亡くした遺族としては同じだという、その一点だろうと思っています。
「アルメリアの会」を立ち上げた1年後、自死遺族の声を集めた文集を作り、自身も寄稿しています。
「・・・生きている事自体が非常に苦しいことだけれど、いっそ自分も死んでしまいたいと云う程、過酷な時間は子供を残しては死ねないその一念に尽きる、子供が夫の穴を埋めてくれるものでもない、何かがむしばむように深くなってゆくばかりであった。・・・
或る日コンクリートの割れ目から見事に咲き誇っているタンポポの花に目がとまった。・・・
こんなに小さな花がこんなところで生きている。・・・
夫の死と云う事がなかったら、このタンポポの花に目がとまらなかった事だろう。・・・
短くとも大地から凛とした茎をのばし、太陽に向かい黄色い花弁を精一杯広げ、誰にも綺麗といわれる事を望んでいる訳でもなく、堂々と生きている。
そんな一輪のタンポポを見て居ると涙が出て仕方なかった。・・・
時には嗚咽とともに鼻水とともにそんな時間を出発に生きてきた、生かされてきた。・・・
今私は生きている、そしてこれからも生きる、生かされ続けるだろう。
ここまで来れたんだもの、これからも何とかなるだろう。
涙のもつ素晴らしい浄化力を頼りに、一杯泣き一杯笑って亡き夫初めありとあらゆるものに見守られ励まされている事を噛みしめながら、一日一日味わって生きたい。」
3冊の文集がつくられる。
夢のなかでは生きてるじゃないかと、とてもハッピーで目が覚めると、現実を受け止めざるを得ないが、事実を受け止める作業をしていかなくてはいけない。
息子さんを亡くされた父親の文章。
「体も心ももう駄目だ、・・・何時も淋しくて淋しくて、悲しい、いとおしい、どこにいる会いたい どうしても会いたい、なぜかさびしくて涙が止まらない。」
私も泣いてばっかりいて、子供達も声をかけられない状況を作ってしまいました。
大人になったら泣く事が出来なくなってしまうが、「アルメリアの会」はありのままの自分を出せる場所、涙を流してもいいし、怒ってもいいし、沈黙してもいい。
自分の心の中を浄化する、自分の現実を受け留めると云う作業もさせていただいている。
若者に向けての活動、一度しかない命を自分らしく生きてもらいたいと思って中学・高校生にリーフレットを配布をして広報活動をさせてもらいました。
教育現場で命の事をしっかり教えることは大事なことだと思うが、デリケートな部分なので大人たちはオブラートに包んだようにあいまいな形で命を伝えることで、かえって命を大切にしないと云う事になると思う。
「自殺」、「自死」とかこういう言葉をしっかり使って、背景とかきちんと事実を伝えることが大事だと思っています。
自分から死を選ぶことは絶対いけないと、大人が自信を持って言わなければいけないと思う。
人に助けてもらう事は全く恥ずかしい事では無い。
困った時は困ったと言っていいんだとか、助けて欲しい時は助けてと言えばいいんだとか、小さい時から子供たちに伝えて行くということは非常に大事だと思います。
自分で解決できる事は世の中にそんなにないので、一人で抱え込まない。
辛い時間を生きているので楽になりたい、楽になるためには現実から逃避するしかない、そうなると亡くなった人の所に行ってしまいたいと云う事になるが、時間はかかるが現実を認めて、自分が生きて行くと云う事を考えていただければいいと思います。
自分で自分が楽になる解決策を得られるまで考える、それぞれ悲しみを受け止めながら、辛さを止めながら素晴らしい人生を送って欲しいと云うのが想いです。
21764人、この数字は厚生労働省が出した平成28年度に自から命を絶った人の数です。
自ら命を絶つ行為を自死と云います。
福井県は平成27年度の調査で自殺死亡率が15.4人と全国でもっとも低くなっていますが、自殺率が低いためにかえって周りに相談できない人が多くいると云います。
福井県の梅林厚子さん60歳は20年前夫を自死で亡くしました。
娘二人を育てる一方で自分や周りを責める日々、何故夫は死んだのかを自問自答する毎日を続けたと言います。
やがて梅林さんは誰かにこの話をしたいと思い、遺族の人が語り合う場「アルメリアの会」を設立しました。
会を設立したからこそ気付いた自死との向き合い方について伺いました。
夫、梅林純一郎、当時40歳 ある日理由も告げず、家にも4日間戻って来ませんでした。
警察から電話だと云う事で、警察に来ていただけませんか、と一方的に言ってきました。
最初に「夫は生きていますか」と問い合わせたが、答えてくれませんでした。
警察に行ってすぐ報告を受けたわけではなくて、3時間以上は待たされました。
警察から夫が自死したと言うことを聞いた瞬間、心の中にあるものをどう思ったかなどはまったく覚えてないです。
崩れ落ちるように泣き叫んだ事は覚えています。
水が欲しくて水を飲んで一息したのを覚えています。
お通夜をしたり葬式をしたり、骨となって帰ってきたことなど何が起こったのか判らないまま時間だけが過ぎていって、涙だけは出るが、頭で考えるとか心で感じるとかと云うんではなくとにかく涙が止まらない。
なんで夫が死んだんだろうと云う事が堂々巡りでした。
職場関係、両親、などに夫が亡くなった原因を探すが、周りを責めれば楽なのかなと思っても楽ではなく、自分自身を責めても楽にはならなかった。
誰も攻めない方がかえって楽なのかなあとふっと思った。
平成9年の事で、自殺は世の中のタブーの事のように思っていて、自殺に対する偏見はあったと思います。
遺族と云う立場になって感じた事は、往々にして自殺する人は弱いとか、敗者というふうに取られがちです。
遺族は自分の体験を話したり文書にして社会に発信することで、自殺は弱い人がするわけではなく敗者でもないと云う事がわかっていただけるのではないかと思います。
今から7年前 平成20年に設立した自死遺族の会「アルメリアの会」。
会の中に支援の方が入っていると話ができないと云う意見をいただきました。
遺品の事を尋ねると、経験した方は答えが返ってくるが、支援して下さる方はかたづけてもかたづけなくても関係ないと云うような答えが返ってくる。
支援の方は元気になるようにといろいろアドバイスしてくれますが、はっきりいって私たちはアドバイスはいらないんです。
アドバイスがかえって重荷になってしまう事がある。
私が憔悴しきっているときに娘たちに「おかあさんを頼むね」と言われたらしいが、それを言われるのが嫌で仕方なかったと言っています。
私も大変なのにはっきり言って、お母さんの面倒を見れないと、はっきり私にいいました。
「頑張ってね」、といわれるが、必死に頑張っているのにまだ頑張れと云うのかと思う。
自分で解決するためには自分の前に起こった出来事をまず受け止める、受け止められたら、今度はどう生きて行くかと云う事です。
死にたいと思っている人たちはどこかで必ずサインを出しているが、それは結果論です。
問題が起こっていても彼はいつかは乗り越えるだろうと思っていて、サインだとは判らない。
何でもいいが声をかけて、切れない繋がりが出来ると、自殺の数は減るかもしれないし、私たち遺族もうれしいです。
当事者同士でも体験した事がそれぞれ違うので、理解し合うと云う事は難しいところがあります。
会を作ってぶつかった壁が亡くなった人との関係によってずいぶん違うと思いました。
遺族会を立ち上げて色んな方々が来るようになって、子供さんを亡くされたお母さんがお見えになった時に、子供を身ごもって、生まれて、おっぱい飲ませて四六時中一緒にいて、そんな子供を自死という形で亡くされた思いは、夫を亡くした私には想像できない世界で、私以上にもっと辛いだろうと思いました。
人間って比べたくなる、比べる事が納得させる手段であったりする。
違いを認めると言う事がとっても大きな課題になりました。
穏やかになれる時は想いが一緒になった時にハッピーになるが、考え方がちょっと違うと、角が出来たりする。
大事な人の命を亡くした遺族としては同じだという、その一点だろうと思っています。
「アルメリアの会」を立ち上げた1年後、自死遺族の声を集めた文集を作り、自身も寄稿しています。
「・・・生きている事自体が非常に苦しいことだけれど、いっそ自分も死んでしまいたいと云う程、過酷な時間は子供を残しては死ねないその一念に尽きる、子供が夫の穴を埋めてくれるものでもない、何かがむしばむように深くなってゆくばかりであった。・・・
或る日コンクリートの割れ目から見事に咲き誇っているタンポポの花に目がとまった。・・・
こんなに小さな花がこんなところで生きている。・・・
夫の死と云う事がなかったら、このタンポポの花に目がとまらなかった事だろう。・・・
短くとも大地から凛とした茎をのばし、太陽に向かい黄色い花弁を精一杯広げ、誰にも綺麗といわれる事を望んでいる訳でもなく、堂々と生きている。
そんな一輪のタンポポを見て居ると涙が出て仕方なかった。・・・
時には嗚咽とともに鼻水とともにそんな時間を出発に生きてきた、生かされてきた。・・・
今私は生きている、そしてこれからも生きる、生かされ続けるだろう。
ここまで来れたんだもの、これからも何とかなるだろう。
涙のもつ素晴らしい浄化力を頼りに、一杯泣き一杯笑って亡き夫初めありとあらゆるものに見守られ励まされている事を噛みしめながら、一日一日味わって生きたい。」
3冊の文集がつくられる。
夢のなかでは生きてるじゃないかと、とてもハッピーで目が覚めると、現実を受け止めざるを得ないが、事実を受け止める作業をしていかなくてはいけない。
息子さんを亡くされた父親の文章。
「体も心ももう駄目だ、・・・何時も淋しくて淋しくて、悲しい、いとおしい、どこにいる会いたい どうしても会いたい、なぜかさびしくて涙が止まらない。」
私も泣いてばっかりいて、子供達も声をかけられない状況を作ってしまいました。
大人になったら泣く事が出来なくなってしまうが、「アルメリアの会」はありのままの自分を出せる場所、涙を流してもいいし、怒ってもいいし、沈黙してもいい。
自分の心の中を浄化する、自分の現実を受け留めると云う作業もさせていただいている。
若者に向けての活動、一度しかない命を自分らしく生きてもらいたいと思って中学・高校生にリーフレットを配布をして広報活動をさせてもらいました。
教育現場で命の事をしっかり教えることは大事なことだと思うが、デリケートな部分なので大人たちはオブラートに包んだようにあいまいな形で命を伝えることで、かえって命を大切にしないと云う事になると思う。
「自殺」、「自死」とかこういう言葉をしっかり使って、背景とかきちんと事実を伝えることが大事だと思っています。
自分から死を選ぶことは絶対いけないと、大人が自信を持って言わなければいけないと思う。
人に助けてもらう事は全く恥ずかしい事では無い。
困った時は困ったと言っていいんだとか、助けて欲しい時は助けてと言えばいいんだとか、小さい時から子供たちに伝えて行くということは非常に大事だと思います。
自分で解決できる事は世の中にそんなにないので、一人で抱え込まない。
辛い時間を生きているので楽になりたい、楽になるためには現実から逃避するしかない、そうなると亡くなった人の所に行ってしまいたいと云う事になるが、時間はかかるが現実を認めて、自分が生きて行くと云う事を考えていただければいいと思います。
自分で自分が楽になる解決策を得られるまで考える、それぞれ悲しみを受け止めながら、辛さを止めながら素晴らしい人生を送って欲しいと云うのが想いです。
2017年3月14日火曜日
駒井 修(「語りつぐ会・いわて」副会長)・軍事ハガキに託した父の思い
駒井 修(「戦中戦後を語りつぐ会・いわて」副会長)・軍事ハガキに託した父の思い
駒井さんは1937年生まれ 79歳、幼いころは父の勤務地の大阪ですごしましたが、戦争が激しくなり昭和19年ごろ母親の出身地盛岡に疎開しました。
父親の光男さんは二度目の出征で南方派遣され タイのカンチャナブリの連合軍捕虜所の副所長になりました。
オウちゃん元気ですか、など片仮名の字が読めるように成長した修さんにあてた父、光男さんからの軍事はがきからは戦場にいてもいつも子を思う父の姿が見えてきます。
終戦後、海外から兵士が次々に帰国する中、待ちわびる駒井家に知らされたのは戦犯となり処刑の知らせでした。
死刑の執行は昭和21年3月14日でした。
修さんは意味も判らず名誉の戦死かと母に聞き、叱られて、号泣する母の姿は今も目に焼き付いています。
二度と戦争はしないで欲しい、戦後72年戦争体験を語る事がすくなくなる中で、自分が体験した辛い活動に取り組んでいます。
「戦中戦後を語りつぐ会」が10年になり、今年80歳になります。
結婚して子供もが出来父親になって、父親の気持ちがだんだんわかってきました。
母親に名誉の戦死かと聞いたのに、黙って聞いていた。
日本軍の捕虜になったスパイ行為ラジオ事件があって、それを摘発して自白をさせるために厳しい取り調べをして、イギリス人の2人が亡くなり。6人が重傷、その責任を認めたと云う事で死刑判決になった。
十分な調査もせずに日本人戦犯を絞首台に送るのは考えもので、最大の注意を喚起すると云う、マレーの新聞があった。
事実を伝えたいと云うのが私の気持ちです。
最初の頃のはがき、子供あての葉書 昭和17年10月24日 釜山から
みんな元気ですか・・・(運動会の事などをがんばりなさいとか、良い子になってくださいと云う文面)
後半になると場所も日付けも判らなくなってくる。
姉の書いた絵を褒めたり、タイの事なども書いている。
私は身体が弱かったので最後には必ず身体を気をつけるようにとの文面がある。
私へはすべてカタカナで書いてありました。
幼稚園に行くときには注意していくようにとか、元気で過ごして欲しい、私の夢を見たとかと云うよう事などの内容、昭和18年ごろのはがき。
母親から手紙を書くように言われて、この手紙さえなくなればと思って、手紙を焼いてしまった事がありました。(子供の頃で何も分からなくて)
手紙は毎週のように来ていました。
兄と姉が亡くなっているもので、父親は私の体が弱いのが心配でその事をよく書いてきました。
戦争が厳しい状況になって、内地だけは美しく穏やかであれと祈る心中である。
心も体も強くしておくように。
今年は憎い敵機がほうぼうに来るのでお花見もないでしょう、勝つまではみんなで働いて一生懸命頑張りましょう。・・・と云うような内容のはがきが来ていました。
軍の機密事項に関わってきていて、居場所が書いていないものになって行く、昭和20年3月27日最後の葉書。
「1月にもらったはがきでみんなが元気でやっている様子がしのばれてうれしい、僕は元気で働いている、こちらは心構えができて居るので何が来ても安心である。・・・子供らにもよくこの事を教えて強い子供とするように、・・・子供にも修にも僕の顔を忘れるなと云ってくれ、・・・くれぐれも体を大切に。」
母は48歳で亡くなりました。(私が高校生の時)
私のような体験は数おおくあるとおもうが、忘れないうちにいやな事も話した方がいいと思って、それを伝えておかないといけないと思いました。
裁判記録なども取り寄せました。
元英軍将校の故エリック・ロマックスさんにたどり着けたのが永瀬さんのおかげで、話してくれるようになりました。
映画「戦場にかける橋」の舞台となったカンチャナブリの捕虜収容所の父は副所長をしていました。
そこで通訳をしていたのが永瀬隆さんで、永瀬さんを主人公にした映画が出来ました。
エリック・ロマックスさんに謝罪したいと思いました。
私の様な人はイギリスにもいるなと思いました。
エリック・ロマックスさんは2012年12月に亡くなられましたが、その前に逢う事が出来ました。
父に代わって心から謝罪したいと云う事について理解できず、5年かかってやっと会う事が出来たが、それを押したのは奥さんだった。
戦争で戦後トラウマとなり50年ぐらい苦しんでいたようだ。
別れる時に「いくら振り返っても過去は変わらない、嘆き悲しむのは辞めて未来のために今をしっかりと生きていきましょう、それがあなたのすべきことだ」とロマックスさんから貰ったカードに書いてあり、いつも心の中に入れている。
戦争と云うものは勝っても負けてもみじめなものだと、判ってくれる人があるのではないかと思っています。
最初に逢う時には何も言えなくて、垣根越しにロマックスさんに向かって一歩一歩歩いていきましたらロマックスさんが手を出してくれました。
謝罪の言葉を言おうと思ったが、言葉が出なかった。
ロマックスさんから東日本大震災の後に大丈夫か、原発は大丈夫かとの電話がありました。
ロマックスさんに対し、不戦の誓い、恒久平和を願ってというのが私が送ったコメントの締めくくりです。
父に導かれてああいうところまで行ったんだなあと思いました。
遺族会があって、岩手県で当時戦犯関係の12人がいて、一般の戦死者の遺族と分けられました。
それから見かえすみんなの顔が違ってきました。
謝罪する事によってもやもやとしたものが無くなり、戦争と云う物をしないようにしないとだめだと思い、話したい叫びたいと思ってます。
駒井さんは1937年生まれ 79歳、幼いころは父の勤務地の大阪ですごしましたが、戦争が激しくなり昭和19年ごろ母親の出身地盛岡に疎開しました。
父親の光男さんは二度目の出征で南方派遣され タイのカンチャナブリの連合軍捕虜所の副所長になりました。
オウちゃん元気ですか、など片仮名の字が読めるように成長した修さんにあてた父、光男さんからの軍事はがきからは戦場にいてもいつも子を思う父の姿が見えてきます。
終戦後、海外から兵士が次々に帰国する中、待ちわびる駒井家に知らされたのは戦犯となり処刑の知らせでした。
死刑の執行は昭和21年3月14日でした。
修さんは意味も判らず名誉の戦死かと母に聞き、叱られて、号泣する母の姿は今も目に焼き付いています。
二度と戦争はしないで欲しい、戦後72年戦争体験を語る事がすくなくなる中で、自分が体験した辛い活動に取り組んでいます。
「戦中戦後を語りつぐ会」が10年になり、今年80歳になります。
結婚して子供もが出来父親になって、父親の気持ちがだんだんわかってきました。
母親に名誉の戦死かと聞いたのに、黙って聞いていた。
日本軍の捕虜になったスパイ行為ラジオ事件があって、それを摘発して自白をさせるために厳しい取り調べをして、イギリス人の2人が亡くなり。6人が重傷、その責任を認めたと云う事で死刑判決になった。
十分な調査もせずに日本人戦犯を絞首台に送るのは考えもので、最大の注意を喚起すると云う、マレーの新聞があった。
事実を伝えたいと云うのが私の気持ちです。
最初の頃のはがき、子供あての葉書 昭和17年10月24日 釜山から
みんな元気ですか・・・(運動会の事などをがんばりなさいとか、良い子になってくださいと云う文面)
後半になると場所も日付けも判らなくなってくる。
姉の書いた絵を褒めたり、タイの事なども書いている。
私は身体が弱かったので最後には必ず身体を気をつけるようにとの文面がある。
私へはすべてカタカナで書いてありました。
幼稚園に行くときには注意していくようにとか、元気で過ごして欲しい、私の夢を見たとかと云うよう事などの内容、昭和18年ごろのはがき。
母親から手紙を書くように言われて、この手紙さえなくなればと思って、手紙を焼いてしまった事がありました。(子供の頃で何も分からなくて)
手紙は毎週のように来ていました。
兄と姉が亡くなっているもので、父親は私の体が弱いのが心配でその事をよく書いてきました。
戦争が厳しい状況になって、内地だけは美しく穏やかであれと祈る心中である。
心も体も強くしておくように。
今年は憎い敵機がほうぼうに来るのでお花見もないでしょう、勝つまではみんなで働いて一生懸命頑張りましょう。・・・と云うような内容のはがきが来ていました。
軍の機密事項に関わってきていて、居場所が書いていないものになって行く、昭和20年3月27日最後の葉書。
「1月にもらったはがきでみんなが元気でやっている様子がしのばれてうれしい、僕は元気で働いている、こちらは心構えができて居るので何が来ても安心である。・・・子供らにもよくこの事を教えて強い子供とするように、・・・子供にも修にも僕の顔を忘れるなと云ってくれ、・・・くれぐれも体を大切に。」
母は48歳で亡くなりました。(私が高校生の時)
私のような体験は数おおくあるとおもうが、忘れないうちにいやな事も話した方がいいと思って、それを伝えておかないといけないと思いました。
裁判記録なども取り寄せました。
元英軍将校の故エリック・ロマックスさんにたどり着けたのが永瀬さんのおかげで、話してくれるようになりました。
映画「戦場にかける橋」の舞台となったカンチャナブリの捕虜収容所の父は副所長をしていました。
そこで通訳をしていたのが永瀬隆さんで、永瀬さんを主人公にした映画が出来ました。
エリック・ロマックスさんに謝罪したいと思いました。
私の様な人はイギリスにもいるなと思いました。
エリック・ロマックスさんは2012年12月に亡くなられましたが、その前に逢う事が出来ました。
父に代わって心から謝罪したいと云う事について理解できず、5年かかってやっと会う事が出来たが、それを押したのは奥さんだった。
戦争で戦後トラウマとなり50年ぐらい苦しんでいたようだ。
別れる時に「いくら振り返っても過去は変わらない、嘆き悲しむのは辞めて未来のために今をしっかりと生きていきましょう、それがあなたのすべきことだ」とロマックスさんから貰ったカードに書いてあり、いつも心の中に入れている。
戦争と云うものは勝っても負けてもみじめなものだと、判ってくれる人があるのではないかと思っています。
最初に逢う時には何も言えなくて、垣根越しにロマックスさんに向かって一歩一歩歩いていきましたらロマックスさんが手を出してくれました。
謝罪の言葉を言おうと思ったが、言葉が出なかった。
ロマックスさんから東日本大震災の後に大丈夫か、原発は大丈夫かとの電話がありました。
ロマックスさんに対し、不戦の誓い、恒久平和を願ってというのが私が送ったコメントの締めくくりです。
父に導かれてああいうところまで行ったんだなあと思いました。
遺族会があって、岩手県で当時戦犯関係の12人がいて、一般の戦死者の遺族と分けられました。
それから見かえすみんなの顔が違ってきました。
謝罪する事によってもやもやとしたものが無くなり、戦争と云う物をしないようにしないとだめだと思い、話したい叫びたいと思ってます。
2017年3月13日月曜日
相澤一成(名取リーディングクラブ代表)・故郷に捧げる朗読劇
相澤一成(名取リーディングクラブ代表) ・故郷に捧げる朗読劇
震災から6年となる東北で故郷を失った人々の心を慰めたいと、ある朗読劇が上演されました。
ファミリーツリー海辺の町の小さな家族の物語です。
この劇の脚本を書いたのが宮城県名取市出身の俳優相澤さん47歳です。
相澤さんは21歳で名取市から東京へ出ます。
オーディションを受けて『超光戦士シャンゼリオン』で準主役としてデビュー、その後TVや映画、舞台で活躍しています。
相澤さんが生まれ育った名取市は東日本大震災の津波で閖上(ゆりあげ)地区を中心に900人以上が犠牲になるなど、大きな被害を受けました。
震災から何年たっても癒されない思いを抱える両親や町の人たちのために、相澤さんは今自分が出来る事をしようと決心しました。
そして2カ月半掛けて書き上げたのが朗読劇ファミリーツリーでした。
地元の人達の朗読グループ名取リーディンググループを立ち上げ、この半年間名取と東京を往復しながら演出担当として15人のメンバーと朗読劇の稽古を続けてきました。
朗読劇あらすじ
お花見をするためにおじいさん、おばあさんが山の頂上の広場に集まるが、子供孫等も東京から帰ってきて、婚約者を連れて帰ってきたりして、そこでお花見をしながらいろんな話が繰り広げられる日常的なストーリーで全編宮城の方言です。
震災の後にいろんな町から思い出の場所、思い出のものが消えていって、大事な場所が無くなって行ってそれを見て居る時に、なんかそういうものを思い出す様な話が書けないかなと思ったのが今回の作品を書いた最初です。
最後まで書き上げて、もしかしたらこの話を聞いて町の事を思いだしたり、若い人たちはその面影を忘れずに次の世代に語り続けてくれる、そんなふうになればと思いました。
被災地がいかに大変な状況にあったかとか、いろいろ悲しい思いをした人がどんなにいたかという事を外に発信するものは多いが、そこに住んでいる人達に向けての気持ちを軽くするものだったり、気持ちをほぐしてくれるような作品を作りたいと思った。
日常的な事を書きました。
会話を聞いて家族の事を思い出しながら聞いてもらえたらいいと思っていました。
私は稽古中に地震が来て、姉の子供が閖上(ゆりあげ)に遊びに来ていて、町を出たときに地震が来て、閖上(ゆりあげ)に戻ったが家はめちゃめちゃで、私の両親が姉の子供を連れて姉のところの仙台に行ったので命は両親も助かりました。
町が無いと云うことが信じられなかった。
いろんな世代を登場させたいと思った。
戦争を経験した世代、高度成長期を経験した世代、バブル、バブル以後の低迷期を経験した世代、これから未来を背負ってゆく世代、いろんな世代の人が出てきていろんな世代が観ても共感を感じてもらえればいいかなと思って書きました。
若いころは自分の町が大嫌いでした。(中学高校時代)
田舎なので閉鎖された町で人間関係が濃くて、すぐうわさが出てきて、尾ひれがついてきてどんどん話が広がって行くような世界が、若い時はいやに見えました。
反面お祭りになると一致団結したり行事があると人が集まってやると云う、強さなどの良さが今になって判ってきました。
21歳のときに地元で就職はしていたが、ある日耐えきれずに家出をしました。
財布だけを持って東京に着いてから地元からきている先輩に連絡を入れて、2週間程度お世話になりました。
両親があちこち電話をしていて、たまたま電話をとったら私で居場所がばれてしまいした。
一旦帰ってから事態を収拾して、やりたい事をがあるならやるようにしなさいと言われました。
東京に戻ってめぐりあわせとしか言えないかもしれないが、たまたま事務所に所属出来て、ある人に紹介してもらってオーディションを受けることになり、役者の世界に入る事になりました。
先輩を見てきて人への接し方、生活態度などを勉強させてもらいました。
その間あまり故郷の事は思い出しませんでしたが、大震災にあって何時もあるものだと思っていたものが急に無くなって、心のよりどころにあったものが根底から崩れてしまったような感じで信じられなかった。
故郷の大事さ、人の繋がりの大切さを気付かされました。
命は永遠ではない、何時死が訪れて来るかもしれないと云う事を考える様になりました。
先に亡くなってしまった人たちと今生きている人たちが、ある特別な場所であるひとときの時間一緒に普通に会話出来ると云う芝居なので、楽しい時間には終わりがあるので、終わりを迎えると何故そこに来たのかをお互い語ると云う構成になっています。
家族と話をすることが多くなったような気がします。
周囲の人に対して深く考えるようになったと思います。
その人を思う事、いたわる、いとおしいと思う事、感謝の気持ちなどを意識するようになりました。
民謡のシーンがあるが、会場からも一緒に歌っていました。
みんなが知っていて、子供のころから親しんできた民謡です。
最後のセルフで生まれ変わりたいのなら何に生まれ変わるか、家族のそばに生まれ変わりたいというと、もう一人がもしかしたら自分も誰かの生まれ変わりなのかもというセリフがある。
家族を亡くして身内が抱えて居る悲しみを、実はそばにいて自分の子供だったり孫になって生まれ変わるかもしれないし、もしかして自分も先祖が生まれ変わって今ここにいるかもしれない、ちゃんと命と云うか思いはつながっているんだよ、そんなに悲しまないで次に生まれ変わってくるときにどこかで縁がある人のそばにいるということを持ってくれればいいと思って書きました。
これが民話みたいなものになって語り繋がれればいいなと思っています。
震災から6年となる東北で故郷を失った人々の心を慰めたいと、ある朗読劇が上演されました。
ファミリーツリー海辺の町の小さな家族の物語です。
この劇の脚本を書いたのが宮城県名取市出身の俳優相澤さん47歳です。
相澤さんは21歳で名取市から東京へ出ます。
オーディションを受けて『超光戦士シャンゼリオン』で準主役としてデビュー、その後TVや映画、舞台で活躍しています。
相澤さんが生まれ育った名取市は東日本大震災の津波で閖上(ゆりあげ)地区を中心に900人以上が犠牲になるなど、大きな被害を受けました。
震災から何年たっても癒されない思いを抱える両親や町の人たちのために、相澤さんは今自分が出来る事をしようと決心しました。
そして2カ月半掛けて書き上げたのが朗読劇ファミリーツリーでした。
地元の人達の朗読グループ名取リーディンググループを立ち上げ、この半年間名取と東京を往復しながら演出担当として15人のメンバーと朗読劇の稽古を続けてきました。
朗読劇あらすじ
お花見をするためにおじいさん、おばあさんが山の頂上の広場に集まるが、子供孫等も東京から帰ってきて、婚約者を連れて帰ってきたりして、そこでお花見をしながらいろんな話が繰り広げられる日常的なストーリーで全編宮城の方言です。
震災の後にいろんな町から思い出の場所、思い出のものが消えていって、大事な場所が無くなって行ってそれを見て居る時に、なんかそういうものを思い出す様な話が書けないかなと思ったのが今回の作品を書いた最初です。
最後まで書き上げて、もしかしたらこの話を聞いて町の事を思いだしたり、若い人たちはその面影を忘れずに次の世代に語り続けてくれる、そんなふうになればと思いました。
被災地がいかに大変な状況にあったかとか、いろいろ悲しい思いをした人がどんなにいたかという事を外に発信するものは多いが、そこに住んでいる人達に向けての気持ちを軽くするものだったり、気持ちをほぐしてくれるような作品を作りたいと思った。
日常的な事を書きました。
会話を聞いて家族の事を思い出しながら聞いてもらえたらいいと思っていました。
私は稽古中に地震が来て、姉の子供が閖上(ゆりあげ)に遊びに来ていて、町を出たときに地震が来て、閖上(ゆりあげ)に戻ったが家はめちゃめちゃで、私の両親が姉の子供を連れて姉のところの仙台に行ったので命は両親も助かりました。
町が無いと云うことが信じられなかった。
いろんな世代を登場させたいと思った。
戦争を経験した世代、高度成長期を経験した世代、バブル、バブル以後の低迷期を経験した世代、これから未来を背負ってゆく世代、いろんな世代の人が出てきていろんな世代が観ても共感を感じてもらえればいいかなと思って書きました。
若いころは自分の町が大嫌いでした。(中学高校時代)
田舎なので閉鎖された町で人間関係が濃くて、すぐうわさが出てきて、尾ひれがついてきてどんどん話が広がって行くような世界が、若い時はいやに見えました。
反面お祭りになると一致団結したり行事があると人が集まってやると云う、強さなどの良さが今になって判ってきました。
21歳のときに地元で就職はしていたが、ある日耐えきれずに家出をしました。
財布だけを持って東京に着いてから地元からきている先輩に連絡を入れて、2週間程度お世話になりました。
両親があちこち電話をしていて、たまたま電話をとったら私で居場所がばれてしまいした。
一旦帰ってから事態を収拾して、やりたい事をがあるならやるようにしなさいと言われました。
東京に戻ってめぐりあわせとしか言えないかもしれないが、たまたま事務所に所属出来て、ある人に紹介してもらってオーディションを受けることになり、役者の世界に入る事になりました。
先輩を見てきて人への接し方、生活態度などを勉強させてもらいました。
その間あまり故郷の事は思い出しませんでしたが、大震災にあって何時もあるものだと思っていたものが急に無くなって、心のよりどころにあったものが根底から崩れてしまったような感じで信じられなかった。
故郷の大事さ、人の繋がりの大切さを気付かされました。
命は永遠ではない、何時死が訪れて来るかもしれないと云う事を考える様になりました。
先に亡くなってしまった人たちと今生きている人たちが、ある特別な場所であるひとときの時間一緒に普通に会話出来ると云う芝居なので、楽しい時間には終わりがあるので、終わりを迎えると何故そこに来たのかをお互い語ると云う構成になっています。
家族と話をすることが多くなったような気がします。
周囲の人に対して深く考えるようになったと思います。
その人を思う事、いたわる、いとおしいと思う事、感謝の気持ちなどを意識するようになりました。
民謡のシーンがあるが、会場からも一緒に歌っていました。
みんなが知っていて、子供のころから親しんできた民謡です。
最後のセルフで生まれ変わりたいのなら何に生まれ変わるか、家族のそばに生まれ変わりたいというと、もう一人がもしかしたら自分も誰かの生まれ変わりなのかもというセリフがある。
家族を亡くして身内が抱えて居る悲しみを、実はそばにいて自分の子供だったり孫になって生まれ変わるかもしれないし、もしかして自分も先祖が生まれ変わって今ここにいるかもしれない、ちゃんと命と云うか思いはつながっているんだよ、そんなに悲しまないで次に生まれ変わってくるときにどこかで縁がある人のそばにいるということを持ってくれればいいと思って書きました。
これが民話みたいなものになって語り繋がれればいいなと思っています。
2017年3月11日土曜日
高橋博之(「東北開墾」代表理事) ・都市と地方をかきまぜる
高橋博之(NPO法人「東北開墾」代表理事)・都市と地方をかきまぜる
6年前の震災の後、岩手県花巻市を拠点に農業や漁業の現場をダイレクトにつなごうと始まった「東北食べる通信」と云う情報誌があります。
新聞半分の大きさの情報誌。
2016年8号 巨大なメカジキの目などの写真が写っていて、漁師さんたちの奮闘ぶりが書かれていて、食材が付いてくる。
1500部限定で発売されている。
最初の発行から4年になる。
東北だけでなく全国37か所で発行されている。
発行しているのが岩手県花巻市のNPO法人「東北開墾」。
写真が良いといわれます、16ページです。
巨大なメカジキの目に漁船が写ってるが、それで行きました。
大きく表現したいと思い、このように大きな紙面なりました。
紙にこだわったのは取っておいて貰いたかった。
東北は山から海まで食材が豊かなので食材の名前を表紙に持ってきました。
2013年7月が創刊です。
簡単に言うと食べ物付きの定期購読誌ですが、世界初、付録が食べ物。
文章は私が担当して書いています。
メカジキの時には5日間同行して、事細かに書いています。
そこで働く人たちも陸ではダジャレを言ったりする人が、船に上がると野武士のような感じで質問しても答えてくれない。(現場に入った途端にスイッチが入る)
ぼそぼそ独り言を言っているのを記載したりしています。
命をかけて魚をとってきているが、魚は届くが、獲っている瞬間は誰も知らないのでもったいないと思って、それが写真の価値だ思います。
スーパーにきれいに並んだ食材を見て、これが元々動植物の命だったんだと思って有り難いと感謝して手を合わせて居る人はいません。
それを伝えれば価値も上がるだろうと思って、だからそれを伝えたかった。
野菜も農家の人がどの程度手を入れるのか知らないので、そういったものも知ってもらいたかった。
月一回届くが、その時ぐらいはお父さんが台所に立って、お父さんが作ってくれた料理を囲んで、これはどういった食材なのかとか会話をしながら食べると云う事はうれしいと思っています。
創刊号は牡蠣漁師さんを取材しましたが、その前に親しくなっていました。
生産者の苦労や創意工夫を伝えるところがないと思っていたので、忸怩たる思いを伝えてくれると云う事で、取材に応じてくれなかった事はないです。
食べ物の値段が安すぎると思います。
間にはいってくれる人が、生産現場を知らずにいるのでは価値が伝わらないと思う。
生産と消費は昔は見えやすかったが、見えると感謝するが、今は見えない。
消費者が限度を超える要求を突き付けて生産現場が疲弊してゆくと云う事が、食べ物の現場だけはなくてあらゆるところに起きてきてしまっている。
食べ物は自然が相手なので予定通りにはいかないので、紙面を通じて事情が判ってくれているので理解はしてくれています。
相手が見えないと安易になりやすいし、攻撃したりする。
人間関係が希薄になってくると、ウエットな人間関係を求める、特に都会の人はそうだと思います。
故郷難民、帰る場所がない人が都会で増えている。
30年後には帰省ラッシュもなくなるのではないかと言われている。
田舎の農家と漁師、都会の故郷難民をつなげるのではないかと考えました。
血がつながっているから判りあえる事もありますが、繋がっていないからこそいい関係もあると思う。
食べ物を作る側と食べる側は判りやすい関係なので、その関係を都会の人と田舎で作ってもらってたまに故郷に帰って欲しい。
生き物の故郷は海と土だと思う。
海と土から離れると、生きる実感がわかないとか、精神的にも病んでくる。
都会の人間が1年の一定期間、海とか土に触れて都会に帰る、江戸時代の逆の参勤交代です。
移住よりも田舎と都会をある期間行き来できれば良いと思うし、現実的だと思います。
「都市と地方をかきまぜる」と云う事はまさにその事だと思っています。
過密の牛舎で育てる牛は高栄養価の餌だが病気にはなりやすい、自然放牧の牧場は栄養価の低い餌ではあるが病気に感染しにくいが、コストはかかる。
都会では人が密集して栄養価の高いものを食べていて、運動もあまりしなくて心身共に病みやすいので、移住は難しいが「都市と地方をかきまぜる」方がいいと思う。
一番の価値はお金ではないと云う事を考えていかないといけない思うし、東北では出来ると思っている。
食べ物も奪いあえば足りず分かち合えば足りる、奪い合って戦争になってゆくようにはしたくない。
自然災害は昔から日本はやられていて、くることを前提にして、来たときにどうやり過ごすか、どう折り合いをつけていくかと云う事が日本では出来ると云う事だったが、自然とどう折り合いをつけて生きてゆくのか、自然と対話している人たちから学んだほうがいいと思う。
6年前の震災の後、岩手県花巻市を拠点に農業や漁業の現場をダイレクトにつなごうと始まった「東北食べる通信」と云う情報誌があります。
新聞半分の大きさの情報誌。
2016年8号 巨大なメカジキの目などの写真が写っていて、漁師さんたちの奮闘ぶりが書かれていて、食材が付いてくる。
1500部限定で発売されている。
最初の発行から4年になる。
東北だけでなく全国37か所で発行されている。
発行しているのが岩手県花巻市のNPO法人「東北開墾」。
写真が良いといわれます、16ページです。
巨大なメカジキの目に漁船が写ってるが、それで行きました。
大きく表現したいと思い、このように大きな紙面なりました。
紙にこだわったのは取っておいて貰いたかった。
東北は山から海まで食材が豊かなので食材の名前を表紙に持ってきました。
2013年7月が創刊です。
簡単に言うと食べ物付きの定期購読誌ですが、世界初、付録が食べ物。
文章は私が担当して書いています。
メカジキの時には5日間同行して、事細かに書いています。
そこで働く人たちも陸ではダジャレを言ったりする人が、船に上がると野武士のような感じで質問しても答えてくれない。(現場に入った途端にスイッチが入る)
ぼそぼそ独り言を言っているのを記載したりしています。
命をかけて魚をとってきているが、魚は届くが、獲っている瞬間は誰も知らないのでもったいないと思って、それが写真の価値だ思います。
スーパーにきれいに並んだ食材を見て、これが元々動植物の命だったんだと思って有り難いと感謝して手を合わせて居る人はいません。
それを伝えれば価値も上がるだろうと思って、だからそれを伝えたかった。
野菜も農家の人がどの程度手を入れるのか知らないので、そういったものも知ってもらいたかった。
月一回届くが、その時ぐらいはお父さんが台所に立って、お父さんが作ってくれた料理を囲んで、これはどういった食材なのかとか会話をしながら食べると云う事はうれしいと思っています。
創刊号は牡蠣漁師さんを取材しましたが、その前に親しくなっていました。
生産者の苦労や創意工夫を伝えるところがないと思っていたので、忸怩たる思いを伝えてくれると云う事で、取材に応じてくれなかった事はないです。
食べ物の値段が安すぎると思います。
間にはいってくれる人が、生産現場を知らずにいるのでは価値が伝わらないと思う。
生産と消費は昔は見えやすかったが、見えると感謝するが、今は見えない。
消費者が限度を超える要求を突き付けて生産現場が疲弊してゆくと云う事が、食べ物の現場だけはなくてあらゆるところに起きてきてしまっている。
食べ物は自然が相手なので予定通りにはいかないので、紙面を通じて事情が判ってくれているので理解はしてくれています。
相手が見えないと安易になりやすいし、攻撃したりする。
人間関係が希薄になってくると、ウエットな人間関係を求める、特に都会の人はそうだと思います。
故郷難民、帰る場所がない人が都会で増えている。
30年後には帰省ラッシュもなくなるのではないかと言われている。
田舎の農家と漁師、都会の故郷難民をつなげるのではないかと考えました。
血がつながっているから判りあえる事もありますが、繋がっていないからこそいい関係もあると思う。
食べ物を作る側と食べる側は判りやすい関係なので、その関係を都会の人と田舎で作ってもらってたまに故郷に帰って欲しい。
生き物の故郷は海と土だと思う。
海と土から離れると、生きる実感がわかないとか、精神的にも病んでくる。
都会の人間が1年の一定期間、海とか土に触れて都会に帰る、江戸時代の逆の参勤交代です。
移住よりも田舎と都会をある期間行き来できれば良いと思うし、現実的だと思います。
「都市と地方をかきまぜる」と云う事はまさにその事だと思っています。
過密の牛舎で育てる牛は高栄養価の餌だが病気にはなりやすい、自然放牧の牧場は栄養価の低い餌ではあるが病気に感染しにくいが、コストはかかる。
都会では人が密集して栄養価の高いものを食べていて、運動もあまりしなくて心身共に病みやすいので、移住は難しいが「都市と地方をかきまぜる」方がいいと思う。
一番の価値はお金ではないと云う事を考えていかないといけない思うし、東北では出来ると思っている。
食べ物も奪いあえば足りず分かち合えば足りる、奪い合って戦争になってゆくようにはしたくない。
自然災害は昔から日本はやられていて、くることを前提にして、来たときにどうやり過ごすか、どう折り合いをつけていくかと云う事が日本では出来ると云う事だったが、自然とどう折り合いをつけて生きてゆくのか、自然と対話している人たちから学んだほうがいいと思う。
2017年3月10日金曜日
柳 美里(作家) ・福島・南相馬に生きる
柳 美里(作家) ・福島・南相馬に生きる
芥川賞川作家、柳さんは1968年生まれの在日韓国人2世です。
1997年 28歳の時に「家族シネマ」で芥川賞受賞、その後妻ある男性との恋愛、妊娠、出産と云う自身の体験をつづった「命」も多きな話題となりました。
そんな柳さんは、東日本大震災を機に津波と東京電力福島第一原子力発電所の事故の被災地である福島県南相馬市に通うようになりました。
そこでの人々との交流を経て一昨年、長年暮らした神奈川県鎌倉市から南相馬市に移住しました。
そして執筆活動を続けています。
南相馬市でどのように生きたいと考えているのか伺いました。
以前はとがったような印象がありましたが、福島に来て何回かお会いしましたが、穏やかになった様な印象を受けましたが?
自分という枠と云うのが強固にあったが、全部四方をシャッターを下ろしている感じでした。
ある意味拒絶していると云うようななかで、物を書いていました。
南相馬に通うようになって、転居するようになって、垣根自体を無くしたような感じがします。
小説の中の世界に入るためには現実の人間関係がない方がいいなと思っていました。
30代の頭で息子を産むまでは小説を書くと決めると、ワープロを持って書けるまでは帰ってこないと云うようなやり方をしていました、いわゆる生活をしてなかった。
母が福島県の南会津郡只見町の中学、高校時代を過ごしていて、その後南相馬の原町で暮らした時期がありました。
南相馬の臨時災害ひばりFMで担当している、「ふたりとひとり」30分のインタビュー番組。
大震災の翌年から5年間続いていて、480人以上の地元の方々と話をしています。
私は聞き役に徹しているので自分の考えは話しません。
二人で来ると親しい人を連れてくるので、緊張感がなくなるし、相馬弁が出てくるし、それも面白いと思いました。
大震災の時の様々な状況を皆さん経験していて、個人個人の時間をかけて居るので、抱えているものの場所をつくると云うか、置き場所のような番組にしたいと思って話を伺っています。
話さない方は無理に引き出さないようにしていますが、ちょっと聞くと終わった後も話し続ける方もいますし、話してよかったと云う方もいます。
2011年にラジオが始まる前も通っていましたが、暮さなければ苦楽に近づけないのではないのかと、その年の4月には南相馬で暮らしたいと思っていました。
「ふたりとひとり」を通して人との繋がりも出来てきて、友だちになり、繋がりが濃くなってきて転居は自然の流れでした。
子供を連れて原発の周辺地域に行くのは虐待ではないかとか、SNSでさまざまな言葉が投げつけられました。
住まいは原発から25kmの処です。
ここが汚染地だと決めつけることは、そこに暮らしている人たちに対して差別につながる。
それが他県に避難している方が差別、いじめられることに繋がると思う。
都会で育ったので、一番好きなのは空が広い、南相馬は上を見なくても空があります。
阿武隈山脈もなだらかで優しい。
その風土に培われた文化、人が良いですね。
歩いていていろいろな発見があって楽しいです。
原発事故で急激に高齢化してしまったが、暮らしてみると良いところばかりが気が付きます。
しかしそれは目には見えない文化とかで、それを大事にしてゆく方法で町が生き残れると云うか、それしかないのではないかと思っている。
だから福島の子供たちには期待しています。
小高工業高校、小高商業高校で今教えて居て、聞くことから話す事に進んでその後書く(作文)と云う事に進んでいければいいと思っています。
自分の事も話していて、挫折の事なども話しています。
挫折の中で進むべき道と云うのを見つけてきたと云う話をしています。
今年春、小高工業高校、小高商業高校が統合されて小高産業技術高校になり、校歌の作詞を依頼され作りました。
地元の人の思い入れのある村上海岸、浮船、紅梅、小高川などの地名は全部て入れて作りました。
作曲は長淵剛さんです。(依頼の手紙と一緒に詩も送りました)
2回長淵さんが来られて、詩の中に出てくる地名、旧校舎などを見て下さいました。
綺麗な曲だと思いました。
書店を開こうと思っています。
まだ帰還している住民の方が少なくて、今年学校が再開される。
息子が原町高校に通っていて、下校時間は暗くなっているので心配される保護者もいて、駅のそばに本屋さんが有れば生徒が部活帰りに立ち寄ったり、電車が来るまで立ち読みしたり、親が迎えに来るまでの待ち合わせ場所にもなると思って書店を開こうと思いました。
書店のイベント、友人の作家を東京から呼んで来てくれると思って、私も書店員として立ちます。
作家の話を聞くと、もしかして自分でも書いてみようと思う人がいるかもしれないと思っています。
駅前に図書館がありそこで小説を書いていることが多いです。
書店の一角にスペースを設ければ、そこで小説を書くことが出来るのではないかと思っています。
以前とは変わって、私の本質はむしろこちらだったかも知れないと思います。
人間って自分として確固としたものがあるわけではなくて、いろんな他人の影響が加わり流れ込んできて自分と云うものが出来てくるが、自分が会った480人と云う方は大きくて、共にある自分ですね。
一言で言ってしまうと南相馬の土地、人が好きなんですね、そこに惚れ込んで住んでいると思うしかないですね。
大震災で失ってしまったものはあまりに多いが、マッチ売りの少女のマッチのともしびのような思いで書店を開きたいですね。
店の名前は「フルハウス」 はじめての小説のタイトル。
意味は満員御礼と云う事でフルハウスと云う事です。
芥川賞川作家、柳さんは1968年生まれの在日韓国人2世です。
1997年 28歳の時に「家族シネマ」で芥川賞受賞、その後妻ある男性との恋愛、妊娠、出産と云う自身の体験をつづった「命」も多きな話題となりました。
そんな柳さんは、東日本大震災を機に津波と東京電力福島第一原子力発電所の事故の被災地である福島県南相馬市に通うようになりました。
そこでの人々との交流を経て一昨年、長年暮らした神奈川県鎌倉市から南相馬市に移住しました。
そして執筆活動を続けています。
南相馬市でどのように生きたいと考えているのか伺いました。
以前はとがったような印象がありましたが、福島に来て何回かお会いしましたが、穏やかになった様な印象を受けましたが?
自分という枠と云うのが強固にあったが、全部四方をシャッターを下ろしている感じでした。
ある意味拒絶していると云うようななかで、物を書いていました。
南相馬に通うようになって、転居するようになって、垣根自体を無くしたような感じがします。
小説の中の世界に入るためには現実の人間関係がない方がいいなと思っていました。
30代の頭で息子を産むまでは小説を書くと決めると、ワープロを持って書けるまでは帰ってこないと云うようなやり方をしていました、いわゆる生活をしてなかった。
母が福島県の南会津郡只見町の中学、高校時代を過ごしていて、その後南相馬の原町で暮らした時期がありました。
南相馬の臨時災害ひばりFMで担当している、「ふたりとひとり」30分のインタビュー番組。
大震災の翌年から5年間続いていて、480人以上の地元の方々と話をしています。
私は聞き役に徹しているので自分の考えは話しません。
二人で来ると親しい人を連れてくるので、緊張感がなくなるし、相馬弁が出てくるし、それも面白いと思いました。
大震災の時の様々な状況を皆さん経験していて、個人個人の時間をかけて居るので、抱えているものの場所をつくると云うか、置き場所のような番組にしたいと思って話を伺っています。
話さない方は無理に引き出さないようにしていますが、ちょっと聞くと終わった後も話し続ける方もいますし、話してよかったと云う方もいます。
2011年にラジオが始まる前も通っていましたが、暮さなければ苦楽に近づけないのではないのかと、その年の4月には南相馬で暮らしたいと思っていました。
「ふたりとひとり」を通して人との繋がりも出来てきて、友だちになり、繋がりが濃くなってきて転居は自然の流れでした。
子供を連れて原発の周辺地域に行くのは虐待ではないかとか、SNSでさまざまな言葉が投げつけられました。
住まいは原発から25kmの処です。
ここが汚染地だと決めつけることは、そこに暮らしている人たちに対して差別につながる。
それが他県に避難している方が差別、いじめられることに繋がると思う。
都会で育ったので、一番好きなのは空が広い、南相馬は上を見なくても空があります。
阿武隈山脈もなだらかで優しい。
その風土に培われた文化、人が良いですね。
歩いていていろいろな発見があって楽しいです。
原発事故で急激に高齢化してしまったが、暮らしてみると良いところばかりが気が付きます。
しかしそれは目には見えない文化とかで、それを大事にしてゆく方法で町が生き残れると云うか、それしかないのではないかと思っている。
だから福島の子供たちには期待しています。
小高工業高校、小高商業高校で今教えて居て、聞くことから話す事に進んでその後書く(作文)と云う事に進んでいければいいと思っています。
自分の事も話していて、挫折の事なども話しています。
挫折の中で進むべき道と云うのを見つけてきたと云う話をしています。
今年春、小高工業高校、小高商業高校が統合されて小高産業技術高校になり、校歌の作詞を依頼され作りました。
地元の人の思い入れのある村上海岸、浮船、紅梅、小高川などの地名は全部て入れて作りました。
作曲は長淵剛さんです。(依頼の手紙と一緒に詩も送りました)
2回長淵さんが来られて、詩の中に出てくる地名、旧校舎などを見て下さいました。
綺麗な曲だと思いました。
書店を開こうと思っています。
まだ帰還している住民の方が少なくて、今年学校が再開される。
息子が原町高校に通っていて、下校時間は暗くなっているので心配される保護者もいて、駅のそばに本屋さんが有れば生徒が部活帰りに立ち寄ったり、電車が来るまで立ち読みしたり、親が迎えに来るまでの待ち合わせ場所にもなると思って書店を開こうと思いました。
書店のイベント、友人の作家を東京から呼んで来てくれると思って、私も書店員として立ちます。
作家の話を聞くと、もしかして自分でも書いてみようと思う人がいるかもしれないと思っています。
駅前に図書館がありそこで小説を書いていることが多いです。
書店の一角にスペースを設ければ、そこで小説を書くことが出来るのではないかと思っています。
以前とは変わって、私の本質はむしろこちらだったかも知れないと思います。
人間って自分として確固としたものがあるわけではなくて、いろんな他人の影響が加わり流れ込んできて自分と云うものが出来てくるが、自分が会った480人と云う方は大きくて、共にある自分ですね。
一言で言ってしまうと南相馬の土地、人が好きなんですね、そこに惚れ込んで住んでいると思うしかないですね。
大震災で失ってしまったものはあまりに多いが、マッチ売りの少女のマッチのともしびのような思いで書店を開きたいですね。
店の名前は「フルハウス」 はじめての小説のタイトル。
意味は満員御礼と云う事でフルハウスと云う事です。
2017年3月9日木曜日
菊池敏夫(震災語り部の会ワッタリ 会長) ・津波の記憶を次の世代へ
菊池敏夫(震災語り部の会ワッタリ 会長) ・津波の記憶を次の世代へ
宮城県亘理町では震災の津波で306人が犠牲になりました。
町で被災体験を多くの人に伝えようと活動しているのが、「震災語り部の会ワッタリ」の人たちです。
会長の菊池さんは67歳、流されてきた、いけすを船代わりに避難しました。
菊池さん自身亘理町に津波は来ないと信じていたと言います。
ワッタリの人たちは津波の体験を次の世代に、どう伝えようとしているのか伺いました。
町は復興途中ですがだいぶ進んできました。
海岸の防潮堤の修復がほとんど終わり、阿武隈川の堤防もかさ上げされて、そちらもほとんど終わりに近づいています。
避難道路は幅も広く直線的に建設中で完成に近づいています。
復興住宅、個人住宅も修復が終わって、生活が始まっています。
6年過ぎましたが、悲しさ苦しさは表立って表現する事は少なくなったが、気持ちのなかではそういう場面を思い出すとなると、沈み込むと云う事も見られるので、心の方は復旧していないんだと思います。
亘理町全体でも306人が亡くなり傷はなかなか癒されないと思います。
38年間、中学の教師をしていました。
町作り協義会が出来て、そこで事務局を任されました。
4月になったら本格的な動きにと云うような時に震災に遭ってしまいました。
家の建物全体が大きなブランコに乗っているように、体験した事のない物凄く大きな揺れでした。(5分ぐらいか)
避難誘導の手伝いを要請されて、道は渋滞していると云う事で徒歩で行きました。
液状化現象、道にはヒビがはいっていたりしました。
非難を呼びかけたが、店の品物の片づけがあると云う事で非難しなかった友人も居ましたが、その後会っていません。
巡回の消防車に乗せられて交流センターに戻って、屋上に上がりました。
水平線が二本あるような感じで、白い水しぶきを巻き上げながら近づいてきました。
水しぶきが茶色になり松林が水没して、どんどん押し寄せてきて、ほとんどの家が水没して何も見えなくなって、、その後家が動いていきました。(理解するまで時間がかかった)
交流センターは海岸から2km以上ありましたが、時速20~30kmの早さだったと思います。
自宅が流されたのは遠目から判りショックでした。
家族は母親が入院していて、妻は内陸の方に買い出しに行っていて無事でした。
着の身着のままでほっぽり出された状況でした。
交流センターには72人が避難してきました。
電気は点かない、暖房もなく、暗幕をはずして毛布代わりにしてよりかたまって寒さを防いで居ました。
夜なかに泥だらけになってけがをしている女性が運び込まれてきて、女性の方々が泥を払ったりお世話をしていました。(命には別条なかった)
翌朝は綺麗な青空でしたが、廻り一面は海と同じでした。
水浸しで歩いて避難が出来なくて、翌日も交流センターに泊りましたが、食べ物がなくて、自動販売機が壊れて中のものがむき出しになっていたので、高齢者、子供などに分け与えていました。
町の運動会の景品のビスケットが倉庫に有ったので、それを子供に分け与えたが、食べる子は居なくて大事そうに持っていました。
2日目は病気の方、高齢者などがヘリで搬送されて、30数名は残されました。
魚市場の魚槽(3m×3m)があったので、それを引っ張ってきて船代わりにして、4人ぐらいづつ分乗して、竹竿を使って小学校の方に避難しました。
850名ほど地域の方々が避難しました。
別のところに避難して、3日目には小学校には誰もいませんでした。
避難先の大熊小学校には、この人は知らないかという張り紙が多くありました。
私も、町の人も津波は来ないと思っていました。
伊達政宗の時代にもおおきな津波があり、明治、昭和のはじめ、チリ津波でも荒浜だけは犠牲者が出なかっという記録が残っていて、荒浜には津波が来ないと誤って伝わってしまったのではないか。
大津波警報があったが、たいした事はないだろうと思っていました。
平成25年から語り部の活動を立ち上げていきたいと云う事で、勧められたが、こんな被害の状況を人前でしゃべれないとお断りしたが、正しく地震津波の事を伝えなければいけないのではないかと再三言われて、スタッフのお世話役のお手伝いをすると云う事で引き受けました。
語り部は12名が現在います。(体験した人は1/3です)
「ワッタリ」 アイヌ語らしい。
入り江になったところをワッタラと表現していて、亘理町(わたりちょう)なので、カタカナで「ワッタリ」としました。
震災の遺構が無くなってしまっているので、DVDを見ていただいて、地域を案内して、慰霊碑の前に行って黙とうしていただき、学校、避難の丘、海岸近くの天然の温泉近辺まで行って震災の話をさせてもらっています。
仲間同士で話し方のチェック等もしています。
体験を話すと云うことは難しいなあと思いますし、語るのはつらいです。
どうしても思い浮かんできて言葉に詰まってしまう事があります。
震災前と震災後の町並みを比較する画像があるのですが、皆さん吃驚しています。
語り部の会を聴いた人は1万5500人を突破しています。
命の重さ、命を大切にすると云う事は、出来るだけ伝えているつもりです。
又全国からの支援の事はしっかり伝えたいと思っています。
災害は必ず来るので、避難して犠牲者を出さないようにする事は出来るので、考えを避難行動に移せるような話をして、皆さんに大切な命を災害で失わないように話を伝えたいと思っています。
語り部の会も高齢の人が多いので年齢の若い方を増やして、活動がスムースに出来るように出来ればいいと思っています。
宮城県亘理町では震災の津波で306人が犠牲になりました。
町で被災体験を多くの人に伝えようと活動しているのが、「震災語り部の会ワッタリ」の人たちです。
会長の菊池さんは67歳、流されてきた、いけすを船代わりに避難しました。
菊池さん自身亘理町に津波は来ないと信じていたと言います。
ワッタリの人たちは津波の体験を次の世代に、どう伝えようとしているのか伺いました。
町は復興途中ですがだいぶ進んできました。
海岸の防潮堤の修復がほとんど終わり、阿武隈川の堤防もかさ上げされて、そちらもほとんど終わりに近づいています。
避難道路は幅も広く直線的に建設中で完成に近づいています。
復興住宅、個人住宅も修復が終わって、生活が始まっています。
6年過ぎましたが、悲しさ苦しさは表立って表現する事は少なくなったが、気持ちのなかではそういう場面を思い出すとなると、沈み込むと云う事も見られるので、心の方は復旧していないんだと思います。
亘理町全体でも306人が亡くなり傷はなかなか癒されないと思います。
38年間、中学の教師をしていました。
町作り協義会が出来て、そこで事務局を任されました。
4月になったら本格的な動きにと云うような時に震災に遭ってしまいました。
家の建物全体が大きなブランコに乗っているように、体験した事のない物凄く大きな揺れでした。(5分ぐらいか)
避難誘導の手伝いを要請されて、道は渋滞していると云う事で徒歩で行きました。
液状化現象、道にはヒビがはいっていたりしました。
非難を呼びかけたが、店の品物の片づけがあると云う事で非難しなかった友人も居ましたが、その後会っていません。
巡回の消防車に乗せられて交流センターに戻って、屋上に上がりました。
水平線が二本あるような感じで、白い水しぶきを巻き上げながら近づいてきました。
水しぶきが茶色になり松林が水没して、どんどん押し寄せてきて、ほとんどの家が水没して何も見えなくなって、、その後家が動いていきました。(理解するまで時間がかかった)
交流センターは海岸から2km以上ありましたが、時速20~30kmの早さだったと思います。
自宅が流されたのは遠目から判りショックでした。
家族は母親が入院していて、妻は内陸の方に買い出しに行っていて無事でした。
着の身着のままでほっぽり出された状況でした。
交流センターには72人が避難してきました。
電気は点かない、暖房もなく、暗幕をはずして毛布代わりにしてよりかたまって寒さを防いで居ました。
夜なかに泥だらけになってけがをしている女性が運び込まれてきて、女性の方々が泥を払ったりお世話をしていました。(命には別条なかった)
翌朝は綺麗な青空でしたが、廻り一面は海と同じでした。
水浸しで歩いて避難が出来なくて、翌日も交流センターに泊りましたが、食べ物がなくて、自動販売機が壊れて中のものがむき出しになっていたので、高齢者、子供などに分け与えていました。
町の運動会の景品のビスケットが倉庫に有ったので、それを子供に分け与えたが、食べる子は居なくて大事そうに持っていました。
2日目は病気の方、高齢者などがヘリで搬送されて、30数名は残されました。
魚市場の魚槽(3m×3m)があったので、それを引っ張ってきて船代わりにして、4人ぐらいづつ分乗して、竹竿を使って小学校の方に避難しました。
850名ほど地域の方々が避難しました。
別のところに避難して、3日目には小学校には誰もいませんでした。
避難先の大熊小学校には、この人は知らないかという張り紙が多くありました。
私も、町の人も津波は来ないと思っていました。
伊達政宗の時代にもおおきな津波があり、明治、昭和のはじめ、チリ津波でも荒浜だけは犠牲者が出なかっという記録が残っていて、荒浜には津波が来ないと誤って伝わってしまったのではないか。
大津波警報があったが、たいした事はないだろうと思っていました。
平成25年から語り部の活動を立ち上げていきたいと云う事で、勧められたが、こんな被害の状況を人前でしゃべれないとお断りしたが、正しく地震津波の事を伝えなければいけないのではないかと再三言われて、スタッフのお世話役のお手伝いをすると云う事で引き受けました。
語り部は12名が現在います。(体験した人は1/3です)
「ワッタリ」 アイヌ語らしい。
入り江になったところをワッタラと表現していて、亘理町(わたりちょう)なので、カタカナで「ワッタリ」としました。
震災の遺構が無くなってしまっているので、DVDを見ていただいて、地域を案内して、慰霊碑の前に行って黙とうしていただき、学校、避難の丘、海岸近くの天然の温泉近辺まで行って震災の話をさせてもらっています。
仲間同士で話し方のチェック等もしています。
体験を話すと云うことは難しいなあと思いますし、語るのはつらいです。
どうしても思い浮かんできて言葉に詰まってしまう事があります。
震災前と震災後の町並みを比較する画像があるのですが、皆さん吃驚しています。
語り部の会を聴いた人は1万5500人を突破しています。
命の重さ、命を大切にすると云う事は、出来るだけ伝えているつもりです。
又全国からの支援の事はしっかり伝えたいと思っています。
災害は必ず来るので、避難して犠牲者を出さないようにする事は出来るので、考えを避難行動に移せるような話をして、皆さんに大切な命を災害で失わないように話を伝えたいと思っています。
語り部の会も高齢の人が多いので年齢の若い方を増やして、活動がスムースに出来るように出来ればいいと思っています。
2017年3月8日水曜日
今野由喜(「つながっぺ南相馬」理事長)・つながっぺ!故郷の仲間たち
今野由喜(NPO法人「つながっぺ南相馬」理事長)・つながっぺ!故郷の仲間たち
2011年3月、東日本大震災から間もなく6年が経ちます。
福島県南相馬市にお住まいの今野さんは「つながっぺ南相馬」という団体を立ち上げて、震災で離ればなれになりがちな人々に対し少しでも地元の人たち同士の繋がりや交流を続けていこうと、5年間にわたって支援活動を行っています。
今野さんは南相馬市の小高区の出身で震災前は3世代 9人の大家族で稲作を営む兼業農家でした。
震災の時自宅は大津波で流され、自分自身も車の運転中に津波に巻き込まれましたが九死に一生を得たと言います。
震災後は一時山形市に避難していましたが、その後地元に戻りこの団体を作りました。
「つながっぺ」という言葉は「一緒につながろう」と言う意味の地元の方言で、離ればなれになりがちな心や生活をつなげていこうと、サロン活動などを通じて地域社会の再建を図っています。
震災前が12800人でしたが、6か月たって1300人ぐらいまで戻ってきて、この4月になる頃は若い小学生から高校生が来て、町にも活況を与えてくれるのかなあとあと期待はしています。
南相馬小高区は福島第一原発から18kmぐらいのところです。
500日経って、一時立ち入りが自由になりました。
昨年7月に避難指示が解除されて、住民、外部から訪問される方が自由に往来が出来るようになっています。
「つながっぺ南相馬」を立ち上げる。
震災直後は20km圏内の人が鹿島区に仮設住宅が出来て避難していました。
その人たちを対象にサロンを作って、癒すとか、支援物資等も配ったりして活動していました。
避難してきた人々とは知らない人同士だったので、会っても挨拶程度だったし、情報も届かなかったという状況で、コミュニティーサロンを立ち上げました。
小高地区などは若い人たちは工場に働きに行って、サラリーマンを終えた方が農業をしたり孫の面倒をみると云うようなことが生活スタイルでした。
私は兼業農家で区長をしていました。
今でも鮮明に覚えているのは、書斎でパソコンに向かっていて、家が倒れるのではないかという恐怖を抱きました。
津波が来るなと瞬間的に思いました。
建物の基礎は残ったが上は全てもっていかれ、何トンもある庭石もどこかに行ってしまいました。
私自身は地震が収まった後、自転車に乗って避難しなさいと声かけをして、自分の自動車に乗って地区の公会堂に向かったが、ちょっと寄って自動車に乗ろうとした瞬間に津波が見えて、あっという間に車が浮いて流され始めまして、車もろとも流されたが、水が止まって九死に一生を得て、消防の方々に助けられました。
朦朧とした状態だったが認識できるまで数十秒かかったと思います。
妻は地震直後に学校に向かったので、津波の被害には会わなかった。
2日目の夕方には家族と再会できました。
息子から原発が危ないので遠くに逃げるようにとの話があったが、自分自身は原発は安全だと信じていた。
叔母の家に一旦に逃げたが、息子からとにかく遠くに逃げるようにとしかられました。
娘が山形に嫁いでいたので、避難のため車で向かいました。
放射能の脅威は実感していなくて避難したが、日が経ってくると放射能の情報がいろいろ入ってきて、段々実感する様になりました。
5月1日に単身で戻ってきて、災害FM局でメンテナンスの募集をしていたので、電子系の技術屋でもあり、若い当時はアマチュア無線もやっていたので、お手伝いをさせていただくことになりました。(南相馬ひばりFM )
家庭用のラジオでは4~5kmぐらいしか通じなくて、避難した人は鹿島区でそこまでFM局の電波が届かなくて、忸怩たる思いがあった。
鹿島区の仮設住宅に屋外のアンテナを立てて、そこの集会所では聞けるようになった。
でもそこではいろいろ問題点を抱えており、ボランティアの人たちと「つながっぺ南相馬」を立ち上げました。
2012年1月から仮設住宅でのサロン活動を始めました。
コミュニティーとしてはうまく機能してはいなかったり、ベニヤ板一枚隔てた住宅なので話し声、子供の声など音の問題とかで隣の方とうまくいかないとか、自死した方もいました。
最初の1年は無我夢中で、出来る事は何でもやりました。
コミュニティーを作らなくてはいけないという思いがあり、自治会も出来る中で半年すると自治体のコミュニティーは機能するようになったと思います。
心の問題を抱えたまま仮設住宅に入って、心の問題の緩和、取り除くことが重点課題でした。
国際ボランティアセンターとの支援で3か所やりました。
4か所目は赤十字の助成金の申請を行い2012年12月には4か所目を運営することになりました。
ひまわりサロン (小高区) お茶を飲みながら、何が足りないとか話をしたり、料理教室、カルチャー教室を開いたりもしています。
現在は被災前の1割ぐらいの人口(1200人ぐらい)で、4000~5000人ぐらいになればいいと思い
ます。
最優先事項は若い人たちが住んでいただくこと、そのためにはどうして行くかを考えています。
現在60歳以上が7~8割です。
若い世代は避難先で家を建てたりして生活基盤を築いている状況です。
外部の土地の方々と交流を深めていって、田舎に住んでみたいと云う方が出られればいいと思ってます。
働く場、人生を俯瞰できるような安定した職場が不可欠だと思います。
教育の場、保育所等を最優先でやることが必要だと思います。
外部の人に対しては何らかの住宅の供給方法の検討も必要だと思います。
長期化するのかなあとは思っています。
NPOとして何が出来るのか、行政との関係の両面作戦でやって行きたいと思います。
NPOとかかわっていただいた方々から感謝の声を聞くと、頑張ろうと云う気になります。
2011年3月、東日本大震災から間もなく6年が経ちます。
福島県南相馬市にお住まいの今野さんは「つながっぺ南相馬」という団体を立ち上げて、震災で離ればなれになりがちな人々に対し少しでも地元の人たち同士の繋がりや交流を続けていこうと、5年間にわたって支援活動を行っています。
今野さんは南相馬市の小高区の出身で震災前は3世代 9人の大家族で稲作を営む兼業農家でした。
震災の時自宅は大津波で流され、自分自身も車の運転中に津波に巻き込まれましたが九死に一生を得たと言います。
震災後は一時山形市に避難していましたが、その後地元に戻りこの団体を作りました。
「つながっぺ」という言葉は「一緒につながろう」と言う意味の地元の方言で、離ればなれになりがちな心や生活をつなげていこうと、サロン活動などを通じて地域社会の再建を図っています。
震災前が12800人でしたが、6か月たって1300人ぐらいまで戻ってきて、この4月になる頃は若い小学生から高校生が来て、町にも活況を与えてくれるのかなあとあと期待はしています。
南相馬小高区は福島第一原発から18kmぐらいのところです。
500日経って、一時立ち入りが自由になりました。
昨年7月に避難指示が解除されて、住民、外部から訪問される方が自由に往来が出来るようになっています。
「つながっぺ南相馬」を立ち上げる。
震災直後は20km圏内の人が鹿島区に仮設住宅が出来て避難していました。
その人たちを対象にサロンを作って、癒すとか、支援物資等も配ったりして活動していました。
避難してきた人々とは知らない人同士だったので、会っても挨拶程度だったし、情報も届かなかったという状況で、コミュニティーサロンを立ち上げました。
小高地区などは若い人たちは工場に働きに行って、サラリーマンを終えた方が農業をしたり孫の面倒をみると云うようなことが生活スタイルでした。
私は兼業農家で区長をしていました。
今でも鮮明に覚えているのは、書斎でパソコンに向かっていて、家が倒れるのではないかという恐怖を抱きました。
津波が来るなと瞬間的に思いました。
建物の基礎は残ったが上は全てもっていかれ、何トンもある庭石もどこかに行ってしまいました。
私自身は地震が収まった後、自転車に乗って避難しなさいと声かけをして、自分の自動車に乗って地区の公会堂に向かったが、ちょっと寄って自動車に乗ろうとした瞬間に津波が見えて、あっという間に車が浮いて流され始めまして、車もろとも流されたが、水が止まって九死に一生を得て、消防の方々に助けられました。
朦朧とした状態だったが認識できるまで数十秒かかったと思います。
妻は地震直後に学校に向かったので、津波の被害には会わなかった。
2日目の夕方には家族と再会できました。
息子から原発が危ないので遠くに逃げるようにとの話があったが、自分自身は原発は安全だと信じていた。
叔母の家に一旦に逃げたが、息子からとにかく遠くに逃げるようにとしかられました。
娘が山形に嫁いでいたので、避難のため車で向かいました。
放射能の脅威は実感していなくて避難したが、日が経ってくると放射能の情報がいろいろ入ってきて、段々実感する様になりました。
5月1日に単身で戻ってきて、災害FM局でメンテナンスの募集をしていたので、電子系の技術屋でもあり、若い当時はアマチュア無線もやっていたので、お手伝いをさせていただくことになりました。(南相馬ひばりFM )
家庭用のラジオでは4~5kmぐらいしか通じなくて、避難した人は鹿島区でそこまでFM局の電波が届かなくて、忸怩たる思いがあった。
鹿島区の仮設住宅に屋外のアンテナを立てて、そこの集会所では聞けるようになった。
でもそこではいろいろ問題点を抱えており、ボランティアの人たちと「つながっぺ南相馬」を立ち上げました。
2012年1月から仮設住宅でのサロン活動を始めました。
コミュニティーとしてはうまく機能してはいなかったり、ベニヤ板一枚隔てた住宅なので話し声、子供の声など音の問題とかで隣の方とうまくいかないとか、自死した方もいました。
最初の1年は無我夢中で、出来る事は何でもやりました。
コミュニティーを作らなくてはいけないという思いがあり、自治会も出来る中で半年すると自治体のコミュニティーは機能するようになったと思います。
心の問題を抱えたまま仮設住宅に入って、心の問題の緩和、取り除くことが重点課題でした。
国際ボランティアセンターとの支援で3か所やりました。
4か所目は赤十字の助成金の申請を行い2012年12月には4か所目を運営することになりました。
ひまわりサロン (小高区) お茶を飲みながら、何が足りないとか話をしたり、料理教室、カルチャー教室を開いたりもしています。
現在は被災前の1割ぐらいの人口(1200人ぐらい)で、4000~5000人ぐらいになればいいと思い
ます。
最優先事項は若い人たちが住んでいただくこと、そのためにはどうして行くかを考えています。
現在60歳以上が7~8割です。
若い世代は避難先で家を建てたりして生活基盤を築いている状況です。
外部の土地の方々と交流を深めていって、田舎に住んでみたいと云う方が出られればいいと思ってます。
働く場、人生を俯瞰できるような安定した職場が不可欠だと思います。
教育の場、保育所等を最優先でやることが必要だと思います。
外部の人に対しては何らかの住宅の供給方法の検討も必要だと思います。
長期化するのかなあとは思っています。
NPOとして何が出来るのか、行政との関係の両面作戦でやって行きたいと思います。
NPOとかかわっていただいた方々から感謝の声を聞くと、頑張ろうと云う気になります。
2017年3月7日火曜日
橋本惠司(石巻市立稲井小学校校長) ・子どもの元気で復興を
橋本惠司(石巻市立稲井小学校校長) ・子どもの元気で復興を
東日本大震災から間もなく6年、橋本さんは6年前津波に襲われ3階建ての校舎は全壊、児童一人が今も行方不明の石巻市立相川小学校へ校長として赴任しました。
石巻市立相川小学校は7人の児童が亡くなった吉浜小学校とともに校舎は残ったものの児童3人が亡くなった橋浦小学校に同居して一つの教室を3校の同じ学年が使い授業を始めました。
橋本さんは2013年、この3校が統合して新たに誕生した北上小学校の初代校長となり、現在は稲井小学校の校長をしています。
故郷無くして復興はありえない、その故郷を守るのには子供の元気が必要だと言います。
合同庁舎にいて、市内の小学校の状況は判りませんでした。
5日後、自衛隊のボムボートに乗って、住民を避難させて我々も避難したのですが、合同庁舎の5階から学校が見えるところもあって、微かに感じました。
被害の状況については知る事も出来ないような状態でした。
石巻市立相川小学校は屋上まで津波に襲われた学校だったので、新任の校長としてゆくのは不安でした。
最初行ったときに、たまたまイチゴを売っていて先生方の手土産としてそれを持って行きました。
この出会いを大切にしましょうと挨拶して、一期一会という事でこのいちごを買ってきましたと言いました。
職員も疲れた中、笑みがこぼれました。
相川小学校は桜の木も根こそぎ無くなり、白い校舎だけが残されていました。
ある母親が子供が行方不明なってしまって、何か学校の中で使っていたものがあるのではないかとノートとかを入れているのを見て、その母親のような気持ちと寄り添いながら石巻市立相川小学校として何かできないかと、考えていかなければいけないと思いました。
子どもたちは4月2日の学校再開までは避難所で暮らして、3つの学校のうち2校は津波で破壊されてるので唯一残された橋浦小学校に同居して、学校を再開することになりました。
一つの教室に3つの学校の生徒が入って、先生も一緒に3つの学校の先生が担当しました。
相川小学校でも68名のうち20名が4月21日には学校にこられませんでした。
学校に来られない子供に対して、2つの避難所での学習も職員が分担して行いました。
私の家も土台だけ残されて流されてしまいました。
家には母親がひとりでいましたが、チリ地震を経験している母親だったので、薬と財布だけ持って山に逃げてゆきました。
その後3時間半かかって体育館の方に逃げて行き、助かりました。
私は学校まで職員宿舎を借りてそこから通いました。
とにかく学校の教育が出来ればと思っていまして、運動会をやめた方がいいとか、やって子供たちの姿を見た方がいいとか議論がありましたが、あえて運動会を行いました。
練習が始まると、嵐が襲ってきてしまって、道路が寸断されてしまって4日間来られない状態もありましたが、2日前に開通して、1日だけ練習をして当日を迎えました。
大人も子供に負けないように復興に向かって進まなくてはいけない、そういう挨拶も伺い、やってよかったなあと改めて思いました。
運動会を一緒にやる事によって3つの学校の子供たちがひとつになれた気が凄くしました。
以前は3校独自の教育活動をしてきましたが、被害で一つの学校でやらざるを得なくなって独自の教育が出来ない寂しさが、教師、子供も感じていたが、たまたま支援に入ってきてくれた方々が居て、和太鼓を一緒にコラボしてみませんかと言われて、取り組みはじめていました。
それを見た他の2校の子供たちから大きな拍手を貰って、自分たちも認められていると感じて、自信が子供たちからも窺えました。
和太鼓、鼓笛隊を復活しようという事でインターネットでよびかけて楽器を提供してもらうことになって、復活させる事が出来ました。
学習面での自信にも繋がっていったと思います。
相川の地域の方にも見せようと云う事になって、11月に地域を廻りました。
凄く喜んでもらって地域の中に学校があると云う事が、その活動を通して知ることができました。
職員の方も被災したのですが、子供の教育にも向き合わなくてはいけなくて大変さはあったと思います。
3校の統廃合、それぞれ思いはあったと思いますが、相川小学校、吉浜小学校は自分たちの学校が無くなって取り壊しされる状態で建物が無くなってしまったので、辛さはあったと思います
橋浦小学校は学校はあるが学校の名前が無くなってしまうと云うと、やはり複雑な思いはあったと思います。
学校の名前は北上小学校に公募で決まりました。
北上川の恩恵を受けてきた地域であったと思います。
新しい学校らしくしようと云う事で、ドアをペンキで塗り替えたりする作業をしました。
2年目までは間借りをしていた校長、3年目から北上小学校の校長をしました。
どういう学校にしていったらいいか繰り返し議論したが、それぞれの学校の良さを生かしていったらいいなあと云う事で、3つの地域、学校の良さを取り入れた物にしてゆきました。
子供たちも2年間生活を共にしたのがよかった様で、良い形で引き継いでくれたと思います。
子供の成長を見るとその子にとっていい方向で6年間過ごしてくる事が出来たのかなあと思います。
ある面被災したから、被災した学校で生活したから、子供たちが感じられた部分はあったと思うので、辛かったと思うが是非残しておいてほしいと思います。
故郷を愛する子供たちを育てたいと云う取り組みをしてきて、それぞれに地域にこんな良さがあるんだと云う事をもう一回原点に立ち返って成長してゆく子供になって欲しいと思います。
復興にはどうしても故郷は必要だと思います。
子供たちが親の姿なり、地域の復興する姿、自然を見つめていく中で自分の故郷はこういうことなんだなあと、支えてきた人たちはこういう人たちがいるんだなあと云う事を感じてきた6年間だったと思うので、子供の成長にとって大きなものになるのではないかと思います。
谷川俊太郎さんに来ていただいて授業をしていただきました。
あ・い・か・わの言葉を使って
「新しい 命の可能性を私たちは作る」
凄く力強い言葉だと思っています。
「相変わらず、美しい自然を信じよう」
痛めつけられた海のなかで生活していかなければいけないが、認めて行く。
震災は子供たちにとって大きすぎる事だったと思うが、様々な体験をして卒業して行くが、一つ一つが見えない部分はあると思うが、力になっていく部分は凄く大きかったと思います。
東日本大震災から間もなく6年、橋本さんは6年前津波に襲われ3階建ての校舎は全壊、児童一人が今も行方不明の石巻市立相川小学校へ校長として赴任しました。
石巻市立相川小学校は7人の児童が亡くなった吉浜小学校とともに校舎は残ったものの児童3人が亡くなった橋浦小学校に同居して一つの教室を3校の同じ学年が使い授業を始めました。
橋本さんは2013年、この3校が統合して新たに誕生した北上小学校の初代校長となり、現在は稲井小学校の校長をしています。
故郷無くして復興はありえない、その故郷を守るのには子供の元気が必要だと言います。
合同庁舎にいて、市内の小学校の状況は判りませんでした。
5日後、自衛隊のボムボートに乗って、住民を避難させて我々も避難したのですが、合同庁舎の5階から学校が見えるところもあって、微かに感じました。
被害の状況については知る事も出来ないような状態でした。
石巻市立相川小学校は屋上まで津波に襲われた学校だったので、新任の校長としてゆくのは不安でした。
最初行ったときに、たまたまイチゴを売っていて先生方の手土産としてそれを持って行きました。
この出会いを大切にしましょうと挨拶して、一期一会という事でこのいちごを買ってきましたと言いました。
職員も疲れた中、笑みがこぼれました。
相川小学校は桜の木も根こそぎ無くなり、白い校舎だけが残されていました。
ある母親が子供が行方不明なってしまって、何か学校の中で使っていたものがあるのではないかとノートとかを入れているのを見て、その母親のような気持ちと寄り添いながら石巻市立相川小学校として何かできないかと、考えていかなければいけないと思いました。
子どもたちは4月2日の学校再開までは避難所で暮らして、3つの学校のうち2校は津波で破壊されてるので唯一残された橋浦小学校に同居して、学校を再開することになりました。
一つの教室に3つの学校の生徒が入って、先生も一緒に3つの学校の先生が担当しました。
相川小学校でも68名のうち20名が4月21日には学校にこられませんでした。
学校に来られない子供に対して、2つの避難所での学習も職員が分担して行いました。
私の家も土台だけ残されて流されてしまいました。
家には母親がひとりでいましたが、チリ地震を経験している母親だったので、薬と財布だけ持って山に逃げてゆきました。
その後3時間半かかって体育館の方に逃げて行き、助かりました。
私は学校まで職員宿舎を借りてそこから通いました。
とにかく学校の教育が出来ればと思っていまして、運動会をやめた方がいいとか、やって子供たちの姿を見た方がいいとか議論がありましたが、あえて運動会を行いました。
練習が始まると、嵐が襲ってきてしまって、道路が寸断されてしまって4日間来られない状態もありましたが、2日前に開通して、1日だけ練習をして当日を迎えました。
大人も子供に負けないように復興に向かって進まなくてはいけない、そういう挨拶も伺い、やってよかったなあと改めて思いました。
運動会を一緒にやる事によって3つの学校の子供たちがひとつになれた気が凄くしました。
以前は3校独自の教育活動をしてきましたが、被害で一つの学校でやらざるを得なくなって独自の教育が出来ない寂しさが、教師、子供も感じていたが、たまたま支援に入ってきてくれた方々が居て、和太鼓を一緒にコラボしてみませんかと言われて、取り組みはじめていました。
それを見た他の2校の子供たちから大きな拍手を貰って、自分たちも認められていると感じて、自信が子供たちからも窺えました。
和太鼓、鼓笛隊を復活しようという事でインターネットでよびかけて楽器を提供してもらうことになって、復活させる事が出来ました。
学習面での自信にも繋がっていったと思います。
相川の地域の方にも見せようと云う事になって、11月に地域を廻りました。
凄く喜んでもらって地域の中に学校があると云う事が、その活動を通して知ることができました。
職員の方も被災したのですが、子供の教育にも向き合わなくてはいけなくて大変さはあったと思います。
3校の統廃合、それぞれ思いはあったと思いますが、相川小学校、吉浜小学校は自分たちの学校が無くなって取り壊しされる状態で建物が無くなってしまったので、辛さはあったと思います
橋浦小学校は学校はあるが学校の名前が無くなってしまうと云うと、やはり複雑な思いはあったと思います。
学校の名前は北上小学校に公募で決まりました。
北上川の恩恵を受けてきた地域であったと思います。
新しい学校らしくしようと云う事で、ドアをペンキで塗り替えたりする作業をしました。
2年目までは間借りをしていた校長、3年目から北上小学校の校長をしました。
どういう学校にしていったらいいか繰り返し議論したが、それぞれの学校の良さを生かしていったらいいなあと云う事で、3つの地域、学校の良さを取り入れた物にしてゆきました。
子供たちも2年間生活を共にしたのがよかった様で、良い形で引き継いでくれたと思います。
子供の成長を見るとその子にとっていい方向で6年間過ごしてくる事が出来たのかなあと思います。
ある面被災したから、被災した学校で生活したから、子供たちが感じられた部分はあったと思うので、辛かったと思うが是非残しておいてほしいと思います。
故郷を愛する子供たちを育てたいと云う取り組みをしてきて、それぞれに地域にこんな良さがあるんだと云う事をもう一回原点に立ち返って成長してゆく子供になって欲しいと思います。
復興にはどうしても故郷は必要だと思います。
子供たちが親の姿なり、地域の復興する姿、自然を見つめていく中で自分の故郷はこういうことなんだなあと、支えてきた人たちはこういう人たちがいるんだなあと云う事を感じてきた6年間だったと思うので、子供の成長にとって大きなものになるのではないかと思います。
谷川俊太郎さんに来ていただいて授業をしていただきました。
あ・い・か・わの言葉を使って
「新しい 命の可能性を私たちは作る」
凄く力強い言葉だと思っています。
「相変わらず、美しい自然を信じよう」
痛めつけられた海のなかで生活していかなければいけないが、認めて行く。
震災は子供たちにとって大きすぎる事だったと思うが、様々な体験をして卒業して行くが、一つ一つが見えない部分はあると思うが、力になっていく部分は凄く大きかったと思います。
2017年3月6日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和から平成へ(第38回)(H29/2/6 OA)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和から平成へ(第38回)(H29/2/6 OA)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/02/38.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2017/02/38.htmlをご覧ください。
2017年3月5日日曜日
富田耕生(声優) ・【時代を創った声】(第13回)
富田耕生(声優) ・【時代を創った声】(第13回)
平成天才バカボンのパパ、手塚治虫のヒゲオヤジ役、オスカー俳優 アーネスト・ボーグナインの吹き替えなど様々な番組のナレーション等、1万本以上出演。
最初は生で、よくやったもんです、ぶっつけ本番でした。
25,6歳で劇団に入ってラジオでずーっと出ていました。
台本なんてほとんどなくて、ディレクターから説明を聞いて、手をあげたら、こうやるとかやっていました。
「超音速攻撃ヘリ エアーウルフ」エアウルフをめぐるアクションドラマ、日本では1986年から87年にかけて放送されて、主人公を支える親代わりでもあるアーネスト・ボーグナインが演じている。
そのアーネスト・ボーグナインの吹き替えを担当する。
地声とそっくりだったので、そのまんまという感じだった。
磯部勉が主人公役をやりました。
アーネスト・ボーグナインは頑固おやじだったと思う。
30年ぶりに追加収録が行われたが、僕はあまり変わらず自然に出来ました。
二枚目役の担当は一息でやらなくてはいけないので、大変だったと思います。
高校出てすぐ劇団に入ろうとして、グループを作って3年ぐらいやっていました。
電車に乗って3時間ぐらい自分で観察して、人間の観察をしました。
そして後で集まって発表するなどをしていました。
発声訓練もしました。
人間観察をいろいろやってきてどんな役をしてもこわくはなかったです。
収入はあまりなかったので、兄弟が多かったので兄弟にたかったり、新聞配達をしたりしました。
不安はなかったけれどずーっと続けていていいのかなあとは思いました。
姉からはやりたい事をやれ、私は生活費ぐらいはずーっと面倒みてやる、と言ってくれました、その姉も90いくつで亡くなってしまったが。
姉は人を派遣するような会社をやっていたので、手伝いをしたりしました。
ラジオ、洋画の吹き替えなどたくさんやって、徐々に食べられるようになりました。
段々アニメも出てきました。
舞台の方が難しいけど楽です、相手がそこにいて声を掛けたりするけれども、ラジオではそうはいかないので、距離感とかもあり想像力も使うし難しいと思う。
アニメブームになってきて、絵が間に合わなくなってきて、線画で顔の表情なども判らず感情を出すのでたいへんでした。
役作りはドラマを知っているから自分の役はこんなものだと判る。
生の時にはいろいろ大変な事がありましたが、意気込んでやりました。
アニメのシリーズでは「鉄腕アトム」が最初で、その半年後ぐらい後に「鉄人28号」で警察の大塚所長をやりました。(約50本 1年間ぐらい)
「鉄腕アトム」のヒゲオヤジ役は楽しくやらせてもらいました。
ヒゲオヤジ役もアーネスト・ボーグナイン役もあまり芝居をしないで済んだので楽でした。
天才バカボン 普通のレベルでは出来ないので、バカボンのパパをやるときには殻を破けないといけない。
2~3倍の声で最初声を出してそれから、本題にはいらないとなかなかできない。
バカボンのパパ役の雨森 雅司氏の後を継いだ時には、彼とは声の出し方など大きな違いがあるので、僕でいいのかなあと思ったが、富田のやり方で良いんだといわれて、雨森も亡くなってしまったし、ごめんよと言ってやったのを覚えています。
声を出し過ぎてポリープの手術を2回やりましたが、怖いです。
これで3度目になりました。
だめかなあとは思ったが、何とか喋れる様にはなりました。
うがいをして、喉を休めるようにしていましたが、最近はどうでもいいと思ってやらなくなってしまいました。
自分としては個性を作ってやったのでよかったのかもしれない。
声優は相手が見えないが、形が膨らんでいられるような芝居をすればいいんじゃないかと思う。
雰囲気が眼に浮かぶような喋り方をすればいいんじゃないかと思う。
健康には気をつけて、今後、後は楽にしたいと思っている。
平成天才バカボンのパパ、手塚治虫のヒゲオヤジ役、オスカー俳優 アーネスト・ボーグナインの吹き替えなど様々な番組のナレーション等、1万本以上出演。
最初は生で、よくやったもんです、ぶっつけ本番でした。
25,6歳で劇団に入ってラジオでずーっと出ていました。
台本なんてほとんどなくて、ディレクターから説明を聞いて、手をあげたら、こうやるとかやっていました。
「超音速攻撃ヘリ エアーウルフ」エアウルフをめぐるアクションドラマ、日本では1986年から87年にかけて放送されて、主人公を支える親代わりでもあるアーネスト・ボーグナインが演じている。
そのアーネスト・ボーグナインの吹き替えを担当する。
地声とそっくりだったので、そのまんまという感じだった。
磯部勉が主人公役をやりました。
アーネスト・ボーグナインは頑固おやじだったと思う。
30年ぶりに追加収録が行われたが、僕はあまり変わらず自然に出来ました。
二枚目役の担当は一息でやらなくてはいけないので、大変だったと思います。
高校出てすぐ劇団に入ろうとして、グループを作って3年ぐらいやっていました。
電車に乗って3時間ぐらい自分で観察して、人間の観察をしました。
そして後で集まって発表するなどをしていました。
発声訓練もしました。
人間観察をいろいろやってきてどんな役をしてもこわくはなかったです。
収入はあまりなかったので、兄弟が多かったので兄弟にたかったり、新聞配達をしたりしました。
不安はなかったけれどずーっと続けていていいのかなあとは思いました。
姉からはやりたい事をやれ、私は生活費ぐらいはずーっと面倒みてやる、と言ってくれました、その姉も90いくつで亡くなってしまったが。
姉は人を派遣するような会社をやっていたので、手伝いをしたりしました。
ラジオ、洋画の吹き替えなどたくさんやって、徐々に食べられるようになりました。
段々アニメも出てきました。
舞台の方が難しいけど楽です、相手がそこにいて声を掛けたりするけれども、ラジオではそうはいかないので、距離感とかもあり想像力も使うし難しいと思う。
アニメブームになってきて、絵が間に合わなくなってきて、線画で顔の表情なども判らず感情を出すのでたいへんでした。
役作りはドラマを知っているから自分の役はこんなものだと判る。
生の時にはいろいろ大変な事がありましたが、意気込んでやりました。
アニメのシリーズでは「鉄腕アトム」が最初で、その半年後ぐらい後に「鉄人28号」で警察の大塚所長をやりました。(約50本 1年間ぐらい)
「鉄腕アトム」のヒゲオヤジ役は楽しくやらせてもらいました。
ヒゲオヤジ役もアーネスト・ボーグナイン役もあまり芝居をしないで済んだので楽でした。
天才バカボン 普通のレベルでは出来ないので、バカボンのパパをやるときには殻を破けないといけない。
2~3倍の声で最初声を出してそれから、本題にはいらないとなかなかできない。
バカボンのパパ役の雨森 雅司氏の後を継いだ時には、彼とは声の出し方など大きな違いがあるので、僕でいいのかなあと思ったが、富田のやり方で良いんだといわれて、雨森も亡くなってしまったし、ごめんよと言ってやったのを覚えています。
声を出し過ぎてポリープの手術を2回やりましたが、怖いです。
これで3度目になりました。
だめかなあとは思ったが、何とか喋れる様にはなりました。
うがいをして、喉を休めるようにしていましたが、最近はどうでもいいと思ってやらなくなってしまいました。
自分としては個性を作ってやったのでよかったのかもしれない。
声優は相手が見えないが、形が膨らんでいられるような芝居をすればいいんじゃないかと思う。
雰囲気が眼に浮かぶような喋り方をすればいいんじゃないかと思う。
健康には気をつけて、今後、後は楽にしたいと思っている。
2017年3月4日土曜日
藤井理恵(淀川キリスト教病院) ・人生の最期に寄り添って
藤井理恵(淀川キリスト教病院 チャプレン ) ・人生の最期に寄り添って
淀川キリスト教病院は末期がん患者等の終末期医療を行うホスピスの草分けとして知られています。
ここでは医師や看護婦のほかに牧師も医療チームに加わり患者のケアーにあたっています。
藤井さんはその病院付きの牧師チャプレンを務めて26年になります。
患者さんが限りある時間を自分らしく過ごせるよう、そばに寄り添い話を聞き続けてきました。
多くの人びとと最期の時を過ごしてきた藤井さんに、与えられた命をどう生きたらいいか伺います。
チャプレンとは施設付きの牧師と言う意味です。
私の場合は病院で働いているものです。
各病棟の看護士、医師の方からこの患者さんの所に行ってもらったらいいのではないかと連絡が入ります。
いろんな苦しみを背負って暮らしていて、末期の患者さんも多くいらっしゃいます。
身体的な痛み、家族の関係、経済的な問題等、又魂の痛みも持っています。
どうしてこんな病気に自分がなってしまったのか、この苦しみには意味があるのか、自分の事が自分でできなくなって、人のお世話にならないといけない自分に生きて行く意味があるのか等、そういったものを魂の痛みととらえています。
関わる時に、まずはその人の話を聞くことから始まります。
69歳の男性の方、重たい病気で片足を切断している男性、病気の経緯を話してぽろぽろ涙を流して、だんだん悪くなって死を迎えてしまうんだ、とグルグル頭が回って病気の苦しみを訴えてこられた。
ある時、一緒に聖書の詩篇23篇という有名な個所を読みました。
「死の影の谷を行く時も私は災いを恐れない。あなたが私とともにいて下さる」
人生のどうにもならない苦しみに行かない事を願うのではなくて、たとえ行ったとしてもそこで必ず一緒にいて下さる神様が守ってくださるという事で、その安心感だと思います。
その方が、もう治りたいと思わなくなりました、心が安らかなのが何より幸いですといいました。
人間では支えきれない苦しみ、人間を越えた存在とのかかわりは、違ったものがそこで出てくると思いますね。
死の恐怖の苦しみで辛い思いをしていて45歳の女性の方、余命一月と宣告されてきました。
夫、娘3人を持つ母親ですが、宗教は支えにならないと言いチャプレンとは会いませんでしたが、死と子供に対する不安から自分の気持ちを抑えきれなくなります。
極限まで追い詰められて、接することになりました。
人とのつながりではどうにもならない限界にきていて、そんな時にその人の部屋に行く事になりました。
私は死刑囚のようだと叫んで、死にまつわる不安がいろいろ出てきました。
その時、ヨハネによる福音書を読みました。
「私を信じる者は死んでも生きる」
存在はなくならないということですね。
肉体は死んでゆくが、その人の存在自体は無になるわけではない。
神様のところで新しい命が生きるという事を伝えました。
絶望から希望に変わったと思います。
死を恐れていたのに葬式の相談をしました。
人間は生きている時に横の関係で生きていると思う。
家族、周りの人との関係の中で、答えを見つけていく方がいると思うが、横の関係だけではどうしても癒されない苦しみもあるわけですが、そういった苦しみについては縦の繋がりで答えを見つけていく事が出来る、そういう事がいえると思います。
死の恐怖を持っている方は、死を超えた希望があるという事を見つけたいと思うが、人間を超えた存在、自分の全部をゆだねる、つながりを求めるが、人との関係では見いだせないと思う。
自分は神様を指し示す役割と思っています。
昭和34年双子の妹として生まれ、敬虔なクリスチャンの両親に育てられる。
大学時代は世の中の役に立ちたいと思って、卒業後製薬会社で働く。
入社後間もないころ、信仰を揺るがす出来事がありました。
40代の男性がいて、心の病で仕事ができなくて、周りが無視する形でかかわりがなかった。
会議中にサイレンが鳴ってそして止まって、会議終了後その方が屋上から飛び降りで亡くなって、家族が来て肩を震わせて泣いている姿が見えた。
亡くなられた方は自転車で通っていたが、自転車がぽつんと置いてあって、友達が触るとたたりがあると言って吃驚してしまって、みんながその人を死に追いやったんだと思って、私も一緒だと思って、出来る事はあったと思ったが、逃げていたんだと思って、自分の信仰も問われたが自分のあり方も問われました。
信仰が生きていなかった事を凄く突きつけられた体験でした。
神学部に進んで見ようかと思いました。
会社を辞めて大学の神学部に入り、聖書やキリストについて学びなおします。
大学院卒業後(28歳)伝道師の職についてその一カ月後に、姉が急に発病して3日間で全身が動かなくる病気になりました。(ギラン・バレー症候群)
小さいころから姉が守ってくれるような存在でした。
何故こんなふうになってしまったんだろうと思いました。
姉の病院にいった時に沢山の方が苦しんでいる事を体験として知りました。
病気だけが苦しいんじゃない事をしらされました。
31歳でチャプレンとして淀川キリスト病院で働きました。
最初は60代の女性で乳がんで骨に転移していて、歩く事が難しい患者さんだった。
あなたは私の支えですとか言って下さって嬉しかったです。
亡くなられて喪失感があり、ちょっと仕事ができなくなるぐらい辛かったです。
私がこの方に支えられていたんだと、気づかされました。
26年に渡って寄り添ってきた患者さんの言葉を書き留めてきました。
「私はここの病院で生きて神様に会えてよかった。
全く暗闇から光の世界に移されました。
病気になった事も感謝している、ほんとそう思ったら全ての事に感謝やね。」
その言葉が又誰かを助ける言葉にもなって行きますし、私自身もその言葉によって育てられている、替えがたい尊い言葉だと思っている。
70代の女性。
「人間て、一度持ったら手放せないものですね。」という言葉を残した。
クリスチャンの方で脳腫瘍、大腸癌3回の手術をした方で、元気な時は大学で人を育てる仕事をしていて、慕われていたという事で自分の存在価値があって、動けなくなっていって、自分の価値をなかなか見つけられない。
頭では分かっていたが心では受けとめられなかった。
リハリビで左手が動くようになって、ティッシュを掴んだが、掴んでも今度は離せないという。
平行棒を持って歩く時にも一回持ってしまうと離せないので、持ったら危ないからいけないといわれていた。
「人間て、一度持ったら手放せないものですね。」という、手放せなかったら前に進めないということです。
その方とは毎日聖書を読みました。
「いったいあなたの持っている中で、いただかなかったものがあるでしょうか。
もしいただいたのなら、何故いただかなかった様な顔をして高ぶるのですか」
あなたの持っているものは全部いただいたものじゃないですか、なのになんで自分のもののように高ぶっているんのですか。
自分のものだと思っていると、自分の思いどうりにならないことに対して辛くなるが、価値観も崩れていって支えてくれない。
神様のものだったんだと思って手放す、あるいは手放してもう一回神様のものとして受け止め直す、心の作業みたいな事が大事だと思っている。
かつての自分が手放せなかったがいただいたものだと思って、感謝を伝えていかれました。
患者さんには来てもらっていいという了解のもとに行くので、関係が難しいという事は多くはない。
59歳の方で、定年直前で胃がんになってホスピスに来ました。
自分を信じて生きてきたので、これからも自分を信じていきます、と言っていました。
来てくれと言うので行ってみました。
聖書に対しても批判的に言う事が多かったです。
病状が悪くなった時に両手を広げて沈んでゆく、沈んでゆく、誰か引き上げてくれと言っていたと家族の方が言っていました。
聖書の言葉は言いませんでしたが、その方が自分の哲学を話している時に、私は辛かった時にこれで支えられているという形で私の事として聖書の言葉は伝えていました。
口に筆をくわえて絵、詩を描いた星野富広さんの詩画集を一緒に眺めたりはしていました。
しかし、距離は感じていました。
亡くなられてから家族の方が話していましたが、手帳が出てきて聖書の言葉とか星野さんの詩などが一杯書き写してあったと言っていました。
限界を超えた時に神様の言葉とか詩に思いが向いたんだなあと思いました。
330人の患者をみとってきたが、自分に繰り返し問いかけてきた事があります。
患者一人ひとりに本当に寄り添える事が出来たのかということです。
自分にこだわっている私自身がいるわけで、のびやかにかかわる事が出来ないというところが、そういうところから来るのかとも思っています。
御手本にしている人物、マザー・テレサ。
「自己からの解放」
「主よ、私は思いこんでいました。 私の心が愛に満ちていると。
でも心に手を当ててみて気付かされました。
私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました。
私は何でも与えていたと、でも胸にてを当てて見てわかったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。」
人と寄り添おうと思っても、人間って自分中心になってしまって、自分がいい事をしていると、自分自身で思っていたりとか、自分からなかなか解放されない部分があると思う。
淀川キリスト教病院は末期がん患者等の終末期医療を行うホスピスの草分けとして知られています。
ここでは医師や看護婦のほかに牧師も医療チームに加わり患者のケアーにあたっています。
藤井さんはその病院付きの牧師チャプレンを務めて26年になります。
患者さんが限りある時間を自分らしく過ごせるよう、そばに寄り添い話を聞き続けてきました。
多くの人びとと最期の時を過ごしてきた藤井さんに、与えられた命をどう生きたらいいか伺います。
チャプレンとは施設付きの牧師と言う意味です。
私の場合は病院で働いているものです。
各病棟の看護士、医師の方からこの患者さんの所に行ってもらったらいいのではないかと連絡が入ります。
いろんな苦しみを背負って暮らしていて、末期の患者さんも多くいらっしゃいます。
身体的な痛み、家族の関係、経済的な問題等、又魂の痛みも持っています。
どうしてこんな病気に自分がなってしまったのか、この苦しみには意味があるのか、自分の事が自分でできなくなって、人のお世話にならないといけない自分に生きて行く意味があるのか等、そういったものを魂の痛みととらえています。
関わる時に、まずはその人の話を聞くことから始まります。
69歳の男性の方、重たい病気で片足を切断している男性、病気の経緯を話してぽろぽろ涙を流して、だんだん悪くなって死を迎えてしまうんだ、とグルグル頭が回って病気の苦しみを訴えてこられた。
ある時、一緒に聖書の詩篇23篇という有名な個所を読みました。
「死の影の谷を行く時も私は災いを恐れない。あなたが私とともにいて下さる」
人生のどうにもならない苦しみに行かない事を願うのではなくて、たとえ行ったとしてもそこで必ず一緒にいて下さる神様が守ってくださるという事で、その安心感だと思います。
その方が、もう治りたいと思わなくなりました、心が安らかなのが何より幸いですといいました。
人間では支えきれない苦しみ、人間を越えた存在とのかかわりは、違ったものがそこで出てくると思いますね。
死の恐怖の苦しみで辛い思いをしていて45歳の女性の方、余命一月と宣告されてきました。
夫、娘3人を持つ母親ですが、宗教は支えにならないと言いチャプレンとは会いませんでしたが、死と子供に対する不安から自分の気持ちを抑えきれなくなります。
極限まで追い詰められて、接することになりました。
人とのつながりではどうにもならない限界にきていて、そんな時にその人の部屋に行く事になりました。
私は死刑囚のようだと叫んで、死にまつわる不安がいろいろ出てきました。
その時、ヨハネによる福音書を読みました。
「私を信じる者は死んでも生きる」
存在はなくならないということですね。
肉体は死んでゆくが、その人の存在自体は無になるわけではない。
神様のところで新しい命が生きるという事を伝えました。
絶望から希望に変わったと思います。
死を恐れていたのに葬式の相談をしました。
人間は生きている時に横の関係で生きていると思う。
家族、周りの人との関係の中で、答えを見つけていく方がいると思うが、横の関係だけではどうしても癒されない苦しみもあるわけですが、そういった苦しみについては縦の繋がりで答えを見つけていく事が出来る、そういう事がいえると思います。
死の恐怖を持っている方は、死を超えた希望があるという事を見つけたいと思うが、人間を超えた存在、自分の全部をゆだねる、つながりを求めるが、人との関係では見いだせないと思う。
自分は神様を指し示す役割と思っています。
昭和34年双子の妹として生まれ、敬虔なクリスチャンの両親に育てられる。
大学時代は世の中の役に立ちたいと思って、卒業後製薬会社で働く。
入社後間もないころ、信仰を揺るがす出来事がありました。
40代の男性がいて、心の病で仕事ができなくて、周りが無視する形でかかわりがなかった。
会議中にサイレンが鳴ってそして止まって、会議終了後その方が屋上から飛び降りで亡くなって、家族が来て肩を震わせて泣いている姿が見えた。
亡くなられた方は自転車で通っていたが、自転車がぽつんと置いてあって、友達が触るとたたりがあると言って吃驚してしまって、みんながその人を死に追いやったんだと思って、私も一緒だと思って、出来る事はあったと思ったが、逃げていたんだと思って、自分の信仰も問われたが自分のあり方も問われました。
信仰が生きていなかった事を凄く突きつけられた体験でした。
神学部に進んで見ようかと思いました。
会社を辞めて大学の神学部に入り、聖書やキリストについて学びなおします。
大学院卒業後(28歳)伝道師の職についてその一カ月後に、姉が急に発病して3日間で全身が動かなくる病気になりました。(ギラン・バレー症候群)
小さいころから姉が守ってくれるような存在でした。
何故こんなふうになってしまったんだろうと思いました。
姉の病院にいった時に沢山の方が苦しんでいる事を体験として知りました。
病気だけが苦しいんじゃない事をしらされました。
31歳でチャプレンとして淀川キリスト病院で働きました。
最初は60代の女性で乳がんで骨に転移していて、歩く事が難しい患者さんだった。
あなたは私の支えですとか言って下さって嬉しかったです。
亡くなられて喪失感があり、ちょっと仕事ができなくなるぐらい辛かったです。
私がこの方に支えられていたんだと、気づかされました。
26年に渡って寄り添ってきた患者さんの言葉を書き留めてきました。
「私はここの病院で生きて神様に会えてよかった。
全く暗闇から光の世界に移されました。
病気になった事も感謝している、ほんとそう思ったら全ての事に感謝やね。」
その言葉が又誰かを助ける言葉にもなって行きますし、私自身もその言葉によって育てられている、替えがたい尊い言葉だと思っている。
70代の女性。
「人間て、一度持ったら手放せないものですね。」という言葉を残した。
クリスチャンの方で脳腫瘍、大腸癌3回の手術をした方で、元気な時は大学で人を育てる仕事をしていて、慕われていたという事で自分の存在価値があって、動けなくなっていって、自分の価値をなかなか見つけられない。
頭では分かっていたが心では受けとめられなかった。
リハリビで左手が動くようになって、ティッシュを掴んだが、掴んでも今度は離せないという。
平行棒を持って歩く時にも一回持ってしまうと離せないので、持ったら危ないからいけないといわれていた。
「人間て、一度持ったら手放せないものですね。」という、手放せなかったら前に進めないということです。
その方とは毎日聖書を読みました。
「いったいあなたの持っている中で、いただかなかったものがあるでしょうか。
もしいただいたのなら、何故いただかなかった様な顔をして高ぶるのですか」
あなたの持っているものは全部いただいたものじゃないですか、なのになんで自分のもののように高ぶっているんのですか。
自分のものだと思っていると、自分の思いどうりにならないことに対して辛くなるが、価値観も崩れていって支えてくれない。
神様のものだったんだと思って手放す、あるいは手放してもう一回神様のものとして受け止め直す、心の作業みたいな事が大事だと思っている。
かつての自分が手放せなかったがいただいたものだと思って、感謝を伝えていかれました。
患者さんには来てもらっていいという了解のもとに行くので、関係が難しいという事は多くはない。
59歳の方で、定年直前で胃がんになってホスピスに来ました。
自分を信じて生きてきたので、これからも自分を信じていきます、と言っていました。
来てくれと言うので行ってみました。
聖書に対しても批判的に言う事が多かったです。
病状が悪くなった時に両手を広げて沈んでゆく、沈んでゆく、誰か引き上げてくれと言っていたと家族の方が言っていました。
聖書の言葉は言いませんでしたが、その方が自分の哲学を話している時に、私は辛かった時にこれで支えられているという形で私の事として聖書の言葉は伝えていました。
口に筆をくわえて絵、詩を描いた星野富広さんの詩画集を一緒に眺めたりはしていました。
しかし、距離は感じていました。
亡くなられてから家族の方が話していましたが、手帳が出てきて聖書の言葉とか星野さんの詩などが一杯書き写してあったと言っていました。
限界を超えた時に神様の言葉とか詩に思いが向いたんだなあと思いました。
330人の患者をみとってきたが、自分に繰り返し問いかけてきた事があります。
患者一人ひとりに本当に寄り添える事が出来たのかということです。
自分にこだわっている私自身がいるわけで、のびやかにかかわる事が出来ないというところが、そういうところから来るのかとも思っています。
御手本にしている人物、マザー・テレサ。
「自己からの解放」
「主よ、私は思いこんでいました。 私の心が愛に満ちていると。
でも心に手を当ててみて気付かされました。
私が愛していたのは他人ではなく、他人の中の自分を愛していた事実に。
主よ、私が自分自身から解放されますように。
主よ、私は思いこんでいました。
私は何でも与えていたと、でも胸にてを当てて見てわかったのです。
私の方こそ与えられていたのだと。
主よ、私が自分自身から解放されますように。」
人と寄り添おうと思っても、人間って自分中心になってしまって、自分がいい事をしていると、自分自身で思っていたりとか、自分からなかなか解放されない部分があると思う。
2017年3月3日金曜日
中島邦雄(アマチュア落語家) ・高座から伝える“東京大空襲”
中島邦雄(アマチュア落語家) ・高座から伝える“東京大空襲”
昭和10年浅草生まれ、今年82歳になります。
趣味で始めた落語は60年以上になります。
今も稽古を欠かさず週に一度は高座に上がっています。
芸名は「寝床家道楽」といい、出し物は60程あります。
中島さんは体験した戦争や空襲の悲惨さを次の世代に伝えることが役目だと、60歳のときに「ああ、東京大空襲」と言う落語を創作しました。
この創作落語で中島さんは小学校に入学した当時の教科書や、当時の学童疎開の体験、3月10日の東京大空襲で親兄弟5人を失い、父親の遺骨に出会うのは戦後40年もたった事などを語りかけています。
「ああ、東京大空襲」は毎年3月に浅草で開かれる平和寄席で定番の出し物となっています。
現在住んでいる川崎市でも空襲を調べる会の会長を務めながら平和の尊さを伝えています。
3月10日の大空襲の時には宮城県の遠刈田温泉(南蔵王)に学童疎開していました。
勉強するのにも、自分が泊っているところで勉強をしていましたが、ほとんど自習が多かった。(4年生)
食糧難だったのでいもなど食料を作る作業もしていました。
食べ物には苦労しました。
ラジオで当時の戦況が放送されるが、それで戦況を知ったり、B29が高く飛来したりするのを感じました。
両親からは私を気遣ってくれる手紙が何通も届いてきました。
最後に届いたのが3月6日付けで、ぷっつり来なくなりました。
浅草が空襲に遭ったということを3月末か4月ごろにあったということを知りました。
8月15日には終戦の放送を聞きましたが、何を言っているのか判らず、先生から戦争に負けて終わったと聞きました。
疎開先に迎えにくる人がいなくて、私と同じような境遇の人が残って行きました。
私は親が死んだとは思えませんでした。
秋が過ぎて冬間近になって遠い親戚の人が迎えに来ました。
引き取ってくれて、娘さんが居るのに娘さんは進学せずに、私だけ高校まで行かせてくれました。
親のいない就職先は難しかったが、裁判所に努めることになりました。
一般の企業に入るのは難しいので、先生が公務員になった方がいいということで、公務員の試験を受けて受かる事が出来ました。
速記官になりました。
自己紹介の時に古今亭志ん生が好きだという女性がいて、吃驚して自分は落語が出来ますと宣言したのが始まりでした。(それから64年間になります)
一家5人を亡くして、遺骨を探すが見つからなかった。
7歳の時の三社祭の写真がありますが、全員を失ってしまいました。
あるとき、たまたま新聞を見ていたら、個別に遺骨を納めているところがあり、名簿があるということを知りました。
震災記念堂の脇に置いてあった名簿があり、父親の名前を見つけました。(昭和63年)
父は服に名札を付けてきたので確認は出来ましたが、名札のない人は判らないままになってしまいました。(母親と兄弟は見つからない)
長い間平和が続いてきたと思っているが、いまだに世の中では戦争が行われており、子供だけが取り残されてしまうということは本当に辛いことでこれからは有ってほしくないと思っている。
B29の事も知らない若い人がいて、自分の体験を含めて、自分なりの言葉で、伝えてみようと思って、「ああ、東京大空襲」を作りました。
実際に有ったことはきちんと伝えていかないといけないと思いました。
「ああ、東京大空襲」のさわりの部分のところを紹介。
「・・・昭和19年東京も空襲がはげしくなったころに子供たちは学童疎開と言うことで疎開をさせられたわけです。
子供を安全なところに住まわせるということですが、次世代の兵隊の確保と言うような思惑もあったように聞いています。・・・私も宮城県の田舎に疎開しました。
・・・あの頃はひもじい思いをしていたからね。 頭のいい母親がいてお手玉のなかに大豆とかが炒ってあって、空腹の時にはそれを食べたりしたそうだ。
頭のいいお母さんがいたもんだね。・・・」
下げは特にないが二度とこういう戦争があってはならないということを伝えています。
若い人、子供に話をする時などは多少考えて話したりします。
子供には、動物園の動物を毒殺したと言う事があるが、そういう話も入れながら話をしています。
「憲法9条を世界遺産に」と言う落語も作りましたが、意外といいと評判を呼んでいます。
八っつあん、熊さん、御隠居さん(生き字引)の掛け合いがあるが、最後に「それなら憲法9条を世界遺産にすればいいじゃないか」と子供が言って、「あーっ お前が生き字引だね」と言うことで終わる。
落語は年間50回ぐらいやっていて結構忙しいです。
長男も落語をやっていまして、今では一緒にやる企画が増えました。
孫が4人がいますがお手伝いをさせています。(高座返しとか小話とか)
「平和寄席」 今度で10回目になります。(3月12日)
人間は絵を描くとか音楽をするとかいろんな能力で自分を表しているが、自分で伝えられるのもは、落語の中で少しでも伝わればいいなあという思いがあってやる訳ですが、
命は一人で守っていくことは難しい、たくさんの人の力があって守られている。
10歳そこそこで社会に放り出されるということはつらいことです。
戦争は二度とあってほしくないということで、生き甲斐として取り組んでいます。
昭和10年浅草生まれ、今年82歳になります。
趣味で始めた落語は60年以上になります。
今も稽古を欠かさず週に一度は高座に上がっています。
芸名は「寝床家道楽」といい、出し物は60程あります。
中島さんは体験した戦争や空襲の悲惨さを次の世代に伝えることが役目だと、60歳のときに「ああ、東京大空襲」と言う落語を創作しました。
この創作落語で中島さんは小学校に入学した当時の教科書や、当時の学童疎開の体験、3月10日の東京大空襲で親兄弟5人を失い、父親の遺骨に出会うのは戦後40年もたった事などを語りかけています。
「ああ、東京大空襲」は毎年3月に浅草で開かれる平和寄席で定番の出し物となっています。
現在住んでいる川崎市でも空襲を調べる会の会長を務めながら平和の尊さを伝えています。
3月10日の大空襲の時には宮城県の遠刈田温泉(南蔵王)に学童疎開していました。
勉強するのにも、自分が泊っているところで勉強をしていましたが、ほとんど自習が多かった。(4年生)
食糧難だったのでいもなど食料を作る作業もしていました。
食べ物には苦労しました。
ラジオで当時の戦況が放送されるが、それで戦況を知ったり、B29が高く飛来したりするのを感じました。
両親からは私を気遣ってくれる手紙が何通も届いてきました。
最後に届いたのが3月6日付けで、ぷっつり来なくなりました。
浅草が空襲に遭ったということを3月末か4月ごろにあったということを知りました。
8月15日には終戦の放送を聞きましたが、何を言っているのか判らず、先生から戦争に負けて終わったと聞きました。
疎開先に迎えにくる人がいなくて、私と同じような境遇の人が残って行きました。
私は親が死んだとは思えませんでした。
秋が過ぎて冬間近になって遠い親戚の人が迎えに来ました。
引き取ってくれて、娘さんが居るのに娘さんは進学せずに、私だけ高校まで行かせてくれました。
親のいない就職先は難しかったが、裁判所に努めることになりました。
一般の企業に入るのは難しいので、先生が公務員になった方がいいということで、公務員の試験を受けて受かる事が出来ました。
速記官になりました。
自己紹介の時に古今亭志ん生が好きだという女性がいて、吃驚して自分は落語が出来ますと宣言したのが始まりでした。(それから64年間になります)
一家5人を亡くして、遺骨を探すが見つからなかった。
7歳の時の三社祭の写真がありますが、全員を失ってしまいました。
あるとき、たまたま新聞を見ていたら、個別に遺骨を納めているところがあり、名簿があるということを知りました。
震災記念堂の脇に置いてあった名簿があり、父親の名前を見つけました。(昭和63年)
父は服に名札を付けてきたので確認は出来ましたが、名札のない人は判らないままになってしまいました。(母親と兄弟は見つからない)
長い間平和が続いてきたと思っているが、いまだに世の中では戦争が行われており、子供だけが取り残されてしまうということは本当に辛いことでこれからは有ってほしくないと思っている。
B29の事も知らない若い人がいて、自分の体験を含めて、自分なりの言葉で、伝えてみようと思って、「ああ、東京大空襲」を作りました。
実際に有ったことはきちんと伝えていかないといけないと思いました。
「ああ、東京大空襲」のさわりの部分のところを紹介。
「・・・昭和19年東京も空襲がはげしくなったころに子供たちは学童疎開と言うことで疎開をさせられたわけです。
子供を安全なところに住まわせるということですが、次世代の兵隊の確保と言うような思惑もあったように聞いています。・・・私も宮城県の田舎に疎開しました。
・・・あの頃はひもじい思いをしていたからね。 頭のいい母親がいてお手玉のなかに大豆とかが炒ってあって、空腹の時にはそれを食べたりしたそうだ。
頭のいいお母さんがいたもんだね。・・・」
下げは特にないが二度とこういう戦争があってはならないということを伝えています。
若い人、子供に話をする時などは多少考えて話したりします。
子供には、動物園の動物を毒殺したと言う事があるが、そういう話も入れながら話をしています。
「憲法9条を世界遺産に」と言う落語も作りましたが、意外といいと評判を呼んでいます。
八っつあん、熊さん、御隠居さん(生き字引)の掛け合いがあるが、最後に「それなら憲法9条を世界遺産にすればいいじゃないか」と子供が言って、「あーっ お前が生き字引だね」と言うことで終わる。
落語は年間50回ぐらいやっていて結構忙しいです。
長男も落語をやっていまして、今では一緒にやる企画が増えました。
孫が4人がいますがお手伝いをさせています。(高座返しとか小話とか)
「平和寄席」 今度で10回目になります。(3月12日)
人間は絵を描くとか音楽をするとかいろんな能力で自分を表しているが、自分で伝えられるのもは、落語の中で少しでも伝わればいいなあという思いがあってやる訳ですが、
命は一人で守っていくことは難しい、たくさんの人の力があって守られている。
10歳そこそこで社会に放り出されるということはつらいことです。
戦争は二度とあってほしくないということで、生き甲斐として取り組んでいます。
2017年3月2日木曜日
加藤寛幸(国境なき医師団日本会長) ・僕が国境を越える理由
加藤寛幸(国境なき医師団日本会長) ・僕が国境を越える理由
国境なき医師団は1971年にフランスで設立され日本事務局は1992年に開設されました。
世界28カ国に事務局があり活動資金の90%以上を民間からの寄付で賄う非営利団体です。
紛争地域、災害現場、エボラ出血熱など感染症が広がる地域といった過酷な状況下で、医療、人道援助を続けています。
国境なき医師団の活動と自らを駆り立てるものは何かを伺います。
父親が航空関係の仕事をしていたこともあって、パイロットを目指して高校3年生まではその気でいまして、視力に問題があり諦めざるを得ない状況になり、そのあと途方にくれて、大学に入ってからも目標が見つからず過ごしていました。
体調を壊して入院することになり、そこで改めて医学部を目指すきっかけになりました。
理系に決めたが大学を辞めて、医学部を目指して受験勉強を始めました。
島根医科大学を受けて合格し、小児科を目指す事にしました。
小児科の中もいろいろあるのですが、あるときに国境なき医師団の映像を見ることになり、これだと感じました。
やせ細った子供とそれに寄り添っている国境なき医師団の人で、その映像が本当に僕とそういう子供たちをつなぎまして、自分で出来る事があればそれをやらなければならないと、そういう気持ちになりました。
東京の病院に就職して、国境なき医師団に医師として参加するためには4年間の実務経験が必要なのでトレーニングを重ねたが、面接を受けて当時の英語の力では無理だと言われてしまった。
大学病院の先生がオーストラリアに留学するチャンスを下さって飛びつく様な形でオーストラリアに留学を決めました。
そんなに英語がしゃべれないのによく来たなと言われてしまいましたが、生活の中での会話、英会話の学校に通ったりしながら、何とか喋れるようになりました。
戻って来てから、英語も多少自信も付いていたので、合格出来るのではないかと思ったが、医療の範囲をもっと広げる様にということで結果的には不合格だった。
タイの学校に留学して半年間熱帯病の勉強をして帰国したのが2001年でした。
3回目だとは相手もわかっていて、何とか合格することができました。(10年かかりました)
諦めなければいつか夢は叶うと信じていて、長かったような気がするが今思うと必要な時間だったのかもしれません。
2003年スーダンへ 今世紀最大の人道的危機とまで言われたダルフール危機を抱えていたスーダンへの派遣でしたが、ダルフールではなく首都の孤児院でした。
捨てられた赤ちゃんが命を引き取るまでそこで収容されていて、ほとんどは孤児院で命を落としていた。
赤ちゃんをただ看取るような場所だったので、考え方にギャップがあり理解してもらえないところもあって孤立しているような状況でした。
10年準備をして臨んだ活動と言うこともあって張り切り過ぎていたこともあり(休みも返上して仕事をしていた)、ほかのスタッフとの関係についても厳しく当たっていたようで、現地のスタッフから日本に帰るかというようなこともいわれて、子供たちを助けるのには何をすればいいのかを考え直すなかで、現地の人たちとお互いの理解を深めていくことが必要だと思いました。
一緒に子供たちを診ていこうという姿勢を示したことが分岐点だったと思います。
徐々に子供たちが助かっていって現地の人達も少しずつ変わって行きました。
6か月いましたが、短いようで長かったです。
帰国するときは自分では精一杯やったと思います。
次にインドネシア、パキスタンに行きました。
インドネシアはハシカが大流行して子供たちがバタバタ亡くなっている島があり、そこに行って診療すると同時にハシカの予防接種をする活動で2カ月強の活動で、パキスタンは地震への救援活動でカシミール地方での診療を行いました。
日本で必要とされる小児科医でもありたかったので、腰を落ち着けるという思いもありました。(6年間)
その間、国境なき医師団として日本の中で出来ることも探してやっていました。
2011年3月、東日本大震災で参加しました。
外国で活動してきたことを誰かの役に立つのではないかと思っていまして、参加をしてとてもうれしかったです。
宮城県から岩手県の沿岸沿いを北上しながら避難所をまわってニーズを調査、赤十字などのチームも入っていたので、ニーズをしっかり見つけ出してニーズにこたえていこうと活動をしました。
海外での活動が生きたと思います。
2014年南スーダン リーダーとして行って見ると非常に過酷な厳しい現実が待っていました。
マラリヤ、戦闘による負傷者、コレラ、毎日赤ちゃんが生まれ、圧倒されてしまいました。
満足できるような治療のめどすら立たないまま、帰国する事になってしまった。
7歳の女の子が診察室に入ってきて、顔から首にかけて黒く焼けただれている状況で、喘ぐような呼吸をしていた。
3日間炎天下を歩いてやってきた、とのことだった。
こんな現実があるのにもかかわらず、自分自身は日本での仕事と 国境なき医師団での仕事をバランスよくやっていこうとしていたことが恥ずかしく思って、日本で働いていた病院を辞めることにしました。
アルバイトをしながら活動をしていこうと決めました。
将来のことを考えると眠れなくなるようなこともありますが、国境なき医師団のために生きていると思っています。
エボラが大流行したシエラレオネにすぐに飛びつきました。
現地に入るまではかなり怖かったです。
防護服を着てはいるのですが、その時も怖かったです。
体を綺麗にしてほしいということで体を洗うのですが、手袋を二枚付けてやるのですが、高い熱が手袋越しに伝わってきて、その時にストンと恐怖心が無くなって、相手にするのはエボラではなくて眼の前の患者なんだと切りかえることができて、恐怖心を覚えることなくなることができました。
2014年11月に入ったのですが、8,9,10月は関心が高い時期ですが、11月は関心が薄れて来ていて、スタッフが足りない中で、2組の兄弟が来て自分がよくなると兄弟の面倒をみると言い出して、治療センターにとどまって、兄弟の面倒を見ていました。
そんな状況には納得いかない思いがあり、世界にエボラが広がって自分たちに危害が及ぶ事を恐れての活動であって、そんなふうに考えると絶望的な気持ちになったのを今でも覚えています。
日本にも多くの患者がいるのに、なぜ外国に行くのかと言われることもあるが、何とかしたい、何とかしなければいけないと思っていて、現地に待ってくれている人がいるということが、僕を駆り立てている、活動に参加しなければならないと思わせる要因だと思います。
元気になって帰って行く子供たち、両親などの笑顔を見ることが一番の幸せだと思います。
国境なき医師団に参加したいと思ってからもう20年以上経って、あまり世界の状況はいい方向に向かっていないが、自分たちに何ができるのか、精一杯活動して行くのは勿論ですが、日本の皆さんに現地の状況を知っていただきたいという思いは強く持っていて、子供たちに僕が観てきたこと、感じてきたことを伝えて行きたいと思っています。
地図には国境線が引かれているが、現地には引かれていなくて、国境線で支援を分けていたり厳しい状況を作りだしていたりして、そんな中で国境線を越えて、支援を必要としている人達のそばに行ってどう活動していけるか、自分自身への挑戦でもあり、状況を皆さんに伝えていかなければいけないとも考えています。
国境なき医師団は1971年にフランスで設立され日本事務局は1992年に開設されました。
世界28カ国に事務局があり活動資金の90%以上を民間からの寄付で賄う非営利団体です。
紛争地域、災害現場、エボラ出血熱など感染症が広がる地域といった過酷な状況下で、医療、人道援助を続けています。
国境なき医師団の活動と自らを駆り立てるものは何かを伺います。
父親が航空関係の仕事をしていたこともあって、パイロットを目指して高校3年生まではその気でいまして、視力に問題があり諦めざるを得ない状況になり、そのあと途方にくれて、大学に入ってからも目標が見つからず過ごしていました。
体調を壊して入院することになり、そこで改めて医学部を目指すきっかけになりました。
理系に決めたが大学を辞めて、医学部を目指して受験勉強を始めました。
島根医科大学を受けて合格し、小児科を目指す事にしました。
小児科の中もいろいろあるのですが、あるときに国境なき医師団の映像を見ることになり、これだと感じました。
やせ細った子供とそれに寄り添っている国境なき医師団の人で、その映像が本当に僕とそういう子供たちをつなぎまして、自分で出来る事があればそれをやらなければならないと、そういう気持ちになりました。
東京の病院に就職して、国境なき医師団に医師として参加するためには4年間の実務経験が必要なのでトレーニングを重ねたが、面接を受けて当時の英語の力では無理だと言われてしまった。
大学病院の先生がオーストラリアに留学するチャンスを下さって飛びつく様な形でオーストラリアに留学を決めました。
そんなに英語がしゃべれないのによく来たなと言われてしまいましたが、生活の中での会話、英会話の学校に通ったりしながら、何とか喋れるようになりました。
戻って来てから、英語も多少自信も付いていたので、合格出来るのではないかと思ったが、医療の範囲をもっと広げる様にということで結果的には不合格だった。
タイの学校に留学して半年間熱帯病の勉強をして帰国したのが2001年でした。
3回目だとは相手もわかっていて、何とか合格することができました。(10年かかりました)
諦めなければいつか夢は叶うと信じていて、長かったような気がするが今思うと必要な時間だったのかもしれません。
2003年スーダンへ 今世紀最大の人道的危機とまで言われたダルフール危機を抱えていたスーダンへの派遣でしたが、ダルフールではなく首都の孤児院でした。
捨てられた赤ちゃんが命を引き取るまでそこで収容されていて、ほとんどは孤児院で命を落としていた。
赤ちゃんをただ看取るような場所だったので、考え方にギャップがあり理解してもらえないところもあって孤立しているような状況でした。
10年準備をして臨んだ活動と言うこともあって張り切り過ぎていたこともあり(休みも返上して仕事をしていた)、ほかのスタッフとの関係についても厳しく当たっていたようで、現地のスタッフから日本に帰るかというようなこともいわれて、子供たちを助けるのには何をすればいいのかを考え直すなかで、現地の人たちとお互いの理解を深めていくことが必要だと思いました。
一緒に子供たちを診ていこうという姿勢を示したことが分岐点だったと思います。
徐々に子供たちが助かっていって現地の人達も少しずつ変わって行きました。
6か月いましたが、短いようで長かったです。
帰国するときは自分では精一杯やったと思います。
次にインドネシア、パキスタンに行きました。
インドネシアはハシカが大流行して子供たちがバタバタ亡くなっている島があり、そこに行って診療すると同時にハシカの予防接種をする活動で2カ月強の活動で、パキスタンは地震への救援活動でカシミール地方での診療を行いました。
日本で必要とされる小児科医でもありたかったので、腰を落ち着けるという思いもありました。(6年間)
その間、国境なき医師団として日本の中で出来ることも探してやっていました。
2011年3月、東日本大震災で参加しました。
外国で活動してきたことを誰かの役に立つのではないかと思っていまして、参加をしてとてもうれしかったです。
宮城県から岩手県の沿岸沿いを北上しながら避難所をまわってニーズを調査、赤十字などのチームも入っていたので、ニーズをしっかり見つけ出してニーズにこたえていこうと活動をしました。
海外での活動が生きたと思います。
2014年南スーダン リーダーとして行って見ると非常に過酷な厳しい現実が待っていました。
マラリヤ、戦闘による負傷者、コレラ、毎日赤ちゃんが生まれ、圧倒されてしまいました。
満足できるような治療のめどすら立たないまま、帰国する事になってしまった。
7歳の女の子が診察室に入ってきて、顔から首にかけて黒く焼けただれている状況で、喘ぐような呼吸をしていた。
3日間炎天下を歩いてやってきた、とのことだった。
こんな現実があるのにもかかわらず、自分自身は日本での仕事と 国境なき医師団での仕事をバランスよくやっていこうとしていたことが恥ずかしく思って、日本で働いていた病院を辞めることにしました。
アルバイトをしながら活動をしていこうと決めました。
将来のことを考えると眠れなくなるようなこともありますが、国境なき医師団のために生きていると思っています。
エボラが大流行したシエラレオネにすぐに飛びつきました。
現地に入るまではかなり怖かったです。
防護服を着てはいるのですが、その時も怖かったです。
体を綺麗にしてほしいということで体を洗うのですが、手袋を二枚付けてやるのですが、高い熱が手袋越しに伝わってきて、その時にストンと恐怖心が無くなって、相手にするのはエボラではなくて眼の前の患者なんだと切りかえることができて、恐怖心を覚えることなくなることができました。
2014年11月に入ったのですが、8,9,10月は関心が高い時期ですが、11月は関心が薄れて来ていて、スタッフが足りない中で、2組の兄弟が来て自分がよくなると兄弟の面倒をみると言い出して、治療センターにとどまって、兄弟の面倒を見ていました。
そんな状況には納得いかない思いがあり、世界にエボラが広がって自分たちに危害が及ぶ事を恐れての活動であって、そんなふうに考えると絶望的な気持ちになったのを今でも覚えています。
日本にも多くの患者がいるのに、なぜ外国に行くのかと言われることもあるが、何とかしたい、何とかしなければいけないと思っていて、現地に待ってくれている人がいるということが、僕を駆り立てている、活動に参加しなければならないと思わせる要因だと思います。
元気になって帰って行く子供たち、両親などの笑顔を見ることが一番の幸せだと思います。
国境なき医師団に参加したいと思ってからもう20年以上経って、あまり世界の状況はいい方向に向かっていないが、自分たちに何ができるのか、精一杯活動して行くのは勿論ですが、日本の皆さんに現地の状況を知っていただきたいという思いは強く持っていて、子供たちに僕が観てきたこと、感じてきたことを伝えて行きたいと思っています。
地図には国境線が引かれているが、現地には引かれていなくて、国境線で支援を分けていたり厳しい状況を作りだしていたりして、そんな中で国境線を越えて、支援を必要としている人達のそばに行ってどう活動していけるか、自分自身への挑戦でもあり、状況を皆さんに伝えていかなければいけないとも考えています。
2017年3月1日水曜日
林 完次(天体写真家・天文作家) ・“星の声”を届ける
林 完次(天体写真家・天文作家) ・“星の声”を届ける
1945年東京生まれ、子供のころある事がきっかけで星の虜になり、今では星と風景が一体となった詩情豊かな写真と文章で独自の世界を作り、多くの人を魅了し続けています。
東京品川のプラネタリウムの講師を務めたり、各地で講演を行うなどして星の魅力を伝えています。
今でこそご自分の世界を築かれた林さんですが、今に至るまでには様々な人生の選択や、時には失敗がありました。
カメラは数十台あります。
いろんな範囲の写真を撮るので、魚眼レンズから超望遠レンズ迄たくさん使います。
天体望遠鏡にカメラを取り付けて撮影する時もままあります。
八ヶ岳の山麓が大好きで夢中になって出かけていて、南麓によく出かけました。
とにかく星が大きく感じました。
3等星が1等星に感じ、天の川がワーッと滝のように流れていました。(1970年代)
今は明るくなってきて、どんどん星が消えてきました。
カシオペア座が唐松林の上にあり、良い写真になるなあと思って撮って、もう一度撮りたいと思って20~30年経って行ってみると、もう唐松林が無くなっていてホテルが出来てしまっていた。
凛とした空気が流れていて、季節の匂いも感じます。
そこに身を置くと星のまたたきが話し声のように聞こえてきます。
ギリシャ神話が伝わっているので劇場のような感じがして、せりふが聞こえてくるような感じがします。
冬の空が大好きです。
夕方でも西の方に夏の大三角が見えて、こと座のベガ(織姫)、わし座のアルタイル(ひこ星)、はくちょう座のデネブ、それぞれの1等星が見える。
白鳥がくちばしの方向から沈もうとしている。
十字形をしていて相合傘の恰好で織姫と彦星が両側にいると言う状態で沈んでゆく。
冬は一晩中かかって四季の星座を見ることが可能です。
3月の夜8時頃にはオリオン座、おおいぬ座、ふたご座の一等星でつくる冬の大三角が真南に見えていて、その後から、かに座、しし座、うみへび座 春の星座が昇ってくるので春を感じる事が出来る。
昔は朝迄撮影していました、夜明け、朝がいいんです。
子供のころキャラメルを買ったときに、望遠鏡が貰えると書いてあって、たくさん買って望遠鏡を貰ったことがある。
苦労して望遠鏡を月の方角にセットして見たら満月を見ることができ感動したが、再度見ようと思ったら見ることができず、誰かが動かしたと大騒ぎした。
後に天文の本を読んで、月が動くことが判ってさらに天文に興味を持ちました。
火星も見たいと思うようになり、小遣いをためていたら、父に望遠鏡を買ってもらって火星を見たり、月、木星、土星等を見ることができました。
天文図鑑を見て、宇宙の想像図などもいろいろあり、特にギリシャの物に興味を持った。
学校が西にあり、夕暮れ時の風景が綺麗で写真に撮りたいと思うようになり、写真に撮ったがほとんど真っ黒で、露出不足だといわれて、条件を変えて記録しながら撮影をしたら、上手く撮れたものもあった。
高校時代は射撃部があり射撃をやっていました。
東京オリンピックの候補選手になってしまって、強化合宿などにも参加しましたが、最終的には選ばれませんでした。
大学では法学部に入って、保険会社に入りましたが、その後天文雑誌をやっている出版会社に行きました。
家は化粧品の瓶の製造販売をする会社をやっていましたが、プラスチックがはやってきて、段々売れなくなってきて、経営がうまくいかなくなってきて、不渡りを受けて、下請けにまで支払いをして、全部家屋敷を売り払って対応したので、星の事はやっていられないと思って、法学部に入ったが星の本ばっかり見ていました。
編集部員の募集があり、迷わず応募しました。(25歳)
読者に喜んでもらう原稿を希望すると、ときどきミスッて書いてくることもあり、私が手直しをするということを繰り返すうちに、自分で書いてみたらというようなことも云われて、そのうちに執筆の依頼もあり自分でも書く方に進もうと思ってフリーになりました。
同じ星座などもギリシャ語、アラビア語、ラテン語、中国語、日本語など星の名前に興味を持って、そういうのを調べる様になりました。
こと座のベガ、両脇に星を従えていて、裏返しのくの字型をしていて、急降下する鷲のような翼をたたんだような格好になり、意味は急降下する鷲、アルタイル(ひこ星)、飛ぶ鷲、両脇に星が一直線に並んでいて、翼を広げているような格好に見える。
同じ星でも土地土地によっていろんな呼び方があり、興味をもって掘り下げて行くと文学の本を読むようになりました。
星の名前は土のにおいがする、農耕を営んでいた人達は星を目当てに勤勉に働いてきた。
「三ツ星まっぴる粉八合」 オリオン座の三ツ星、まっぴる=真南にやってくること、9月の半ば過ぎに当たる、その時期にそばの種を蒔き、その実を粉にひくと一升のそばから八合のそば粉がとれる(普通は6合ぐらいのようだが、実りがいい)
10年余りは夢中で判りやすい天体観測の入門書を書いていたが、望遠鏡にカメラを取り付けて星座の間に潜んでいる星雲などを撮影することに、段々疑問を感じるようになってきた。
大型、高性能に対して個人で出来ることには限界があり、疑問にぶつかってしまった。
1985、6年ハレー彗星が接近、重い機材を持って八ヶ岳に行ったが、ピラー(支柱)を取り付け、星を追求する装置、望遠鏡を取り付けようとするが最後のボルトが見つからなくて、撮影ができなくて、初歩的な三脚機材で撮影をした。(子供のころの撮影方法と同じ)
ハレー彗星は小さく尾がとれていたが、臨場感のある写真が撮れて、これだと思いました。
その失敗があって、その良さに気が付きました。
それ以来旅をすることが多くなりました。
里山で見た星空とか、親しみやすい星空を親しんでいただけるようなことが一つの目標になりました。
都会でも1等星、2等星が見えます。
プラネタリウムの楽しみ方はいろいろです。
講演会は中高年の方が熱心です。
「宙(そら)の名前」という本(吃驚するほど反響があった本)、の第二弾を書いてみたいと思っています。
1945年東京生まれ、子供のころある事がきっかけで星の虜になり、今では星と風景が一体となった詩情豊かな写真と文章で独自の世界を作り、多くの人を魅了し続けています。
東京品川のプラネタリウムの講師を務めたり、各地で講演を行うなどして星の魅力を伝えています。
今でこそご自分の世界を築かれた林さんですが、今に至るまでには様々な人生の選択や、時には失敗がありました。
カメラは数十台あります。
いろんな範囲の写真を撮るので、魚眼レンズから超望遠レンズ迄たくさん使います。
天体望遠鏡にカメラを取り付けて撮影する時もままあります。
八ヶ岳の山麓が大好きで夢中になって出かけていて、南麓によく出かけました。
とにかく星が大きく感じました。
3等星が1等星に感じ、天の川がワーッと滝のように流れていました。(1970年代)
今は明るくなってきて、どんどん星が消えてきました。
カシオペア座が唐松林の上にあり、良い写真になるなあと思って撮って、もう一度撮りたいと思って20~30年経って行ってみると、もう唐松林が無くなっていてホテルが出来てしまっていた。
凛とした空気が流れていて、季節の匂いも感じます。
そこに身を置くと星のまたたきが話し声のように聞こえてきます。
ギリシャ神話が伝わっているので劇場のような感じがして、せりふが聞こえてくるような感じがします。
冬の空が大好きです。
夕方でも西の方に夏の大三角が見えて、こと座のベガ(織姫)、わし座のアルタイル(ひこ星)、はくちょう座のデネブ、それぞれの1等星が見える。
白鳥がくちばしの方向から沈もうとしている。
十字形をしていて相合傘の恰好で織姫と彦星が両側にいると言う状態で沈んでゆく。
冬は一晩中かかって四季の星座を見ることが可能です。
3月の夜8時頃にはオリオン座、おおいぬ座、ふたご座の一等星でつくる冬の大三角が真南に見えていて、その後から、かに座、しし座、うみへび座 春の星座が昇ってくるので春を感じる事が出来る。
昔は朝迄撮影していました、夜明け、朝がいいんです。
子供のころキャラメルを買ったときに、望遠鏡が貰えると書いてあって、たくさん買って望遠鏡を貰ったことがある。
苦労して望遠鏡を月の方角にセットして見たら満月を見ることができ感動したが、再度見ようと思ったら見ることができず、誰かが動かしたと大騒ぎした。
後に天文の本を読んで、月が動くことが判ってさらに天文に興味を持ちました。
火星も見たいと思うようになり、小遣いをためていたら、父に望遠鏡を買ってもらって火星を見たり、月、木星、土星等を見ることができました。
天文図鑑を見て、宇宙の想像図などもいろいろあり、特にギリシャの物に興味を持った。
学校が西にあり、夕暮れ時の風景が綺麗で写真に撮りたいと思うようになり、写真に撮ったがほとんど真っ黒で、露出不足だといわれて、条件を変えて記録しながら撮影をしたら、上手く撮れたものもあった。
高校時代は射撃部があり射撃をやっていました。
東京オリンピックの候補選手になってしまって、強化合宿などにも参加しましたが、最終的には選ばれませんでした。
大学では法学部に入って、保険会社に入りましたが、その後天文雑誌をやっている出版会社に行きました。
家は化粧品の瓶の製造販売をする会社をやっていましたが、プラスチックがはやってきて、段々売れなくなってきて、経営がうまくいかなくなってきて、不渡りを受けて、下請けにまで支払いをして、全部家屋敷を売り払って対応したので、星の事はやっていられないと思って、法学部に入ったが星の本ばっかり見ていました。
編集部員の募集があり、迷わず応募しました。(25歳)
読者に喜んでもらう原稿を希望すると、ときどきミスッて書いてくることもあり、私が手直しをするということを繰り返すうちに、自分で書いてみたらというようなことも云われて、そのうちに執筆の依頼もあり自分でも書く方に進もうと思ってフリーになりました。
同じ星座などもギリシャ語、アラビア語、ラテン語、中国語、日本語など星の名前に興味を持って、そういうのを調べる様になりました。
こと座のベガ、両脇に星を従えていて、裏返しのくの字型をしていて、急降下する鷲のような翼をたたんだような格好になり、意味は急降下する鷲、アルタイル(ひこ星)、飛ぶ鷲、両脇に星が一直線に並んでいて、翼を広げているような格好に見える。
同じ星でも土地土地によっていろんな呼び方があり、興味をもって掘り下げて行くと文学の本を読むようになりました。
星の名前は土のにおいがする、農耕を営んでいた人達は星を目当てに勤勉に働いてきた。
「三ツ星まっぴる粉八合」 オリオン座の三ツ星、まっぴる=真南にやってくること、9月の半ば過ぎに当たる、その時期にそばの種を蒔き、その実を粉にひくと一升のそばから八合のそば粉がとれる(普通は6合ぐらいのようだが、実りがいい)
10年余りは夢中で判りやすい天体観測の入門書を書いていたが、望遠鏡にカメラを取り付けて星座の間に潜んでいる星雲などを撮影することに、段々疑問を感じるようになってきた。
大型、高性能に対して個人で出来ることには限界があり、疑問にぶつかってしまった。
1985、6年ハレー彗星が接近、重い機材を持って八ヶ岳に行ったが、ピラー(支柱)を取り付け、星を追求する装置、望遠鏡を取り付けようとするが最後のボルトが見つからなくて、撮影ができなくて、初歩的な三脚機材で撮影をした。(子供のころの撮影方法と同じ)
ハレー彗星は小さく尾がとれていたが、臨場感のある写真が撮れて、これだと思いました。
その失敗があって、その良さに気が付きました。
それ以来旅をすることが多くなりました。
里山で見た星空とか、親しみやすい星空を親しんでいただけるようなことが一つの目標になりました。
都会でも1等星、2等星が見えます。
プラネタリウムの楽しみ方はいろいろです。
講演会は中高年の方が熱心です。
「宙(そら)の名前」という本(吃驚するほど反響があった本)、の第二弾を書いてみたいと思っています。