寺井一通(合唱団「ひまわり」主宰)・ 平和を歌う 語り部合唱団“ひまわり”
長崎に世界でただ一つの被爆者合唱団ひまわりが有ります。
12年前に結成して指導している音楽家の寺井さんのお話です。
67歳の寺井さんは合唱団が歌う曲全てを作詩作曲してコーラス指導も続けています。
現在ひまわりは平均年齢77歳、43名の団員がいます。
平和への想い、原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさを伝える歌う語り部ひまわり、彼らが歩んできた12年間を伺います。
長崎の記念式典で歌う様になって、今年で8年になります。
毎回おなじ歌を歌っています。
1979年あたりから、NHK長崎の依頼で原爆をテーマにした詩の募集が有り、それをピックアップした詩に曲を付けてほしいとの依頼が有りました。
インタビュアーとしても動いてほしいとの要望が有り、初めて恵の丘長崎原爆ホームにお邪魔して生の被爆の人達から声を聞かせていただいた時から、音楽家と言ってもいいのかなあとの意識が生まれました。
それがきっかけとなり被爆者との付き合いが始まりました。
被爆者の代弁者としての歌い手という事で、30数年歌い込んできた歌をひまわりに今託して歌っていただいています。
あるきっかけで、「明日こそきっと」という曲、他6曲のアルバの製作をしました。
ある被爆者の方から次のレコードは?と問われて、被爆者自体が歌うことによってもっともっと違ったものが伝えられるのではないかという事と、あんな楽しいレッスンだったらもっとやりたいとの事もあり、2004年の11月に合唱団が出来ました。
19歳から歌う様になりました。
大学でフランス語を専攻してたので必死になって訳して、気持ちはシャンソン歌手になっていました。
大学3年の秋に、中退をして親に伝えたら勘当されてしまって、仕送りもストップされ、それでも歌っている喜びの方が大きかったです。(歌は独学でした)
譜面を書こうと思ったら書けました。
赤坂にある玄人向けのちっちゃなバーで、仕事をしながら、歌う歌を聞いて、レッスンは受けなかったが、そういったことが続いて、又歌声喫茶で司会をする仕事をして、オールラウンドの曲をそこで歌いました。
2004年の11月に合唱団が出来ましたが、12~3人でした。
「ひまわり」という名前にしました。
皆さんの話を丁寧に聞いて創作に入って行きました。
松谷英子さん 原爆認定訴訟を一人で戦った彼女もいました。
皆さん、音楽的素養は一口で言うと皆無でした。
歌声喫茶で司会をする仕事とは責任の重さが違っていました。
発声を一から、ということはしませんでした。
どういう風に表現してもらえるのかという事と、自ら体験したことを自分の身体を通して歌うので辛いので、涙を流し声を出せない人もいたので、このふたつの壁にぶつかりましたが、1~2年経つと精神的な強さも出てきました。
私の作詞作曲なので、こんな曲が有ったのかという声を聞きました。
よく頑張って歌ってきてくれたと思います。
よく私達の気持ちをよくぞ判りますね、という様なことに激励されながら頑張ってきました。
被爆65年の時に平和祈念式典で2曲歌わせてもらいました。
昨年は50名を越える様な会員数になりました。
昨年、5月にニューヨーク 10月にドイツのミュンヘンに行く事が出来ました。
その前年、通訳をしていた女性がひまわりの存在も知らなかったが、「もう二度と」という曲を聞いて、痛く感動したと言って、来年秋にドイツに言って歌ってくれないとの事だった。
ニューヨークからも誘いが有り、とにかく行こうと言う事になり、渡航費を含めて自己負担だったが、何とかそれぞれ工面して、ニューヨークには17名、ドイツには34名が行く事が出来ました。
カンパ、街頭募金などでも渡航費の一部に充てました。
ニューヨーク では高校でやったり、核兵器削減コンサートでトリを取って歌わせてもらいました。
音楽を中心にしてやるのが主なコンサートですが、そこでは被爆者の方に5~10分体験談を語って頂く、集いの中に音楽がちりばめられているような感じでした。
高校では5曲、核兵器削減コンサートではラストで3曲を歌わせてもらいました。
「もう二度と」、「浦上」、ウイー ネバー フォゲット」 鳥肌が立って、拍手がなりやまなかった。
ドイツでは声を出さず、ずーっと拍手が続いていて、これこそ音楽だと思いました。
自分の音楽生活の中で、まずめったにあるものでは無かったです。
あらかじめパンフレットには曲の内容は記載していましたが、みんなは凄く感じながら歌ったと思います。
私達でなければ伝えられないなにかが有ると言うことは、ひまわりのみんなは判っで来たのではないかと思っています。
12年の間には、色んな誤解があったりしましたが、自分が体験したことを声にするということは精神的に強くなければいけないし、皆さん苦労したんだと思いますし、いまだに苦労していると思います。
高齢化して歌詞をなかなか覚えられないと言う様な人も出てきたりしていますが、8月9日は見ないで歌う様に厳しく言っています。
今一番大きなテーマはあと何年歌えるのだろうかと思います。
最高齢者は90歳、若い人は70歳(胎内被爆)
自分の有る限り、声を出せる限り歌いたいと言う思いは皆さん持っています。
2016年10月31日月曜日
2016年10月29日土曜日
渡辺博栄(気象予報士) ・いつも心はいい天気
渡辺博栄(気象予報士) ・いつも心はいい天気
NHKの放送に気象情報として24年にわたって携わってきました。
モーニングワイド、週刊こどもニュースなどにも出演されました。
最近は天気が変わってきています。
「おはよう日本」の番組
朝は3時半ぐらいに起きて4時半に気象庁の有る大手町によって、局に5時ごろについて、7時前の気象情報、天気予報を担当していました。
大雨、台風が来た時には終夜を通して気象情報を流しています。
天気予報は昔はそれほど当たらなかった。
測候所」と3回唱えて時間が経った食べ物でも食べても当たらないと言われていたが、戦争中になると、このおまじないは厳禁になりました。
たまにあたる、からだそうです。
今は85点当たる様になりました。
合計で一日1時間以上、気象情報を流しています。
北海道も統計を取って初めて、3個台風がきました。
九州、西日本を通過して、弱くなって東北の方にきていましたが、急に発達して日本に来るようになりました。
海の温度も上がって来て、水蒸気が大量に流れ込んでくるようになってきました。
降る雨も今までに経験したことのない様な量の雨が降る様になりました。
天気に関しては臆病な方がいいと思います、早めに準備した方がいいと思います。
準備はどうかというと、街も川も昔の気候に合わせて過ぎてきました。
大洪水になったり崖が崩れたりするようになってきました。
自分の住んでいる地域も一回見直してほしいと思います。(臆病なぐらい)
平成11年から4年間、週刊こどもニュースのお天気おじさんで出演しました。
持ち時間が2分、番組終了後3分前で渡されて、1分前に池上さんに返すと云う約束で、生放送です。
当初は天気の知識など、週末の天気をつたえようとしていましたが時間が毎回足りなくなって、見た眼で今日はこんな話をするんだなと、今日は雪だるまだから雪の話かなという事で被りものをする様になりました。
私は秋田出身で、秋田空港で仕事をして、その後仙台でTVの仕事をしながら、25年前に東京に転勤になりました。
秋田美人、庄内、新潟美人とか日本海側に多い。
太平洋側と違うのは湿度です。(冬は特に太平洋側はカラカラです)
肌を考えると日本海側の方がダメージが少なく、気候にも関係しているのではないかと思っています。
青森、岩手、宮城県、コメどころであるのですが、太平洋側は冷害の風、やませ(東の風)が吹きますがその風が奥羽山脈を越えて秋田県にくる、1週間もつづくと稲が実ると民謡にあります。
山を越えることによってカラカラの乾いた風で、晴れますし気温も上がり、1週間もつづくと稲は実るし豊作になります。
同じ風でも性質が変わってきます。
日本海側 「だし風」 船をだす風 が吹きます。
秋田は気候的に見ると太平洋側にくらべると恵まれていると思います。
台風の被害もそんなにはありません。
男鹿半島にサンゴが発見されている。
藪椿が群生している。(北限)
天然のトラフグも取れる(北限)
商業的にはお茶は日本海側では新潟県の村上市(村上茶)、太平洋側では茨城県の大子町(奥久慈茶)が北限とされているが、茶畑とすれば石巻、気仙沼当たりには自家製として栽培している。
日本海側では茶畑としては能代(檜山茶)が一番北だと思います。
雪に耐える様なお茶の葉なので厚さが厚いようです。
対馬暖流の影響だと思います。
水害、地震等 準備、予行演習をしていると被害が最低限にとどめることができると思います。
私の生まれた処は、昔は行事とか畑仕事など村の人たちが協力してやっていましたが、今では人口も減って、活気が無くなってきましたが、僕は大好きでお世話にもなりました。
来年は帰って来ようと思っています。
故郷を思う心、恩返しをしたいと思っています。
荒れる天気もありますが、天気と上手に付き合いながら、雨が降っても風が吹いてもいい天気だなあと思う様なそんな心でいけたらいいのではないかと思います。
自然に感謝しながら、ちょっと自然に憶病になりながら、心穏やかに天気と接しながら、皆さんと共に生きていきたいと思っています。
NHKの放送に気象情報として24年にわたって携わってきました。
モーニングワイド、週刊こどもニュースなどにも出演されました。
最近は天気が変わってきています。
「おはよう日本」の番組
朝は3時半ぐらいに起きて4時半に気象庁の有る大手町によって、局に5時ごろについて、7時前の気象情報、天気予報を担当していました。
大雨、台風が来た時には終夜を通して気象情報を流しています。
天気予報は昔はそれほど当たらなかった。
測候所」と3回唱えて時間が経った食べ物でも食べても当たらないと言われていたが、戦争中になると、このおまじないは厳禁になりました。
たまにあたる、からだそうです。
今は85点当たる様になりました。
合計で一日1時間以上、気象情報を流しています。
北海道も統計を取って初めて、3個台風がきました。
九州、西日本を通過して、弱くなって東北の方にきていましたが、急に発達して日本に来るようになりました。
海の温度も上がって来て、水蒸気が大量に流れ込んでくるようになってきました。
降る雨も今までに経験したことのない様な量の雨が降る様になりました。
天気に関しては臆病な方がいいと思います、早めに準備した方がいいと思います。
準備はどうかというと、街も川も昔の気候に合わせて過ぎてきました。
大洪水になったり崖が崩れたりするようになってきました。
自分の住んでいる地域も一回見直してほしいと思います。(臆病なぐらい)
平成11年から4年間、週刊こどもニュースのお天気おじさんで出演しました。
持ち時間が2分、番組終了後3分前で渡されて、1分前に池上さんに返すと云う約束で、生放送です。
当初は天気の知識など、週末の天気をつたえようとしていましたが時間が毎回足りなくなって、見た眼で今日はこんな話をするんだなと、今日は雪だるまだから雪の話かなという事で被りものをする様になりました。
私は秋田出身で、秋田空港で仕事をして、その後仙台でTVの仕事をしながら、25年前に東京に転勤になりました。
秋田美人、庄内、新潟美人とか日本海側に多い。
太平洋側と違うのは湿度です。(冬は特に太平洋側はカラカラです)
肌を考えると日本海側の方がダメージが少なく、気候にも関係しているのではないかと思っています。
青森、岩手、宮城県、コメどころであるのですが、太平洋側は冷害の風、やませ(東の風)が吹きますがその風が奥羽山脈を越えて秋田県にくる、1週間もつづくと稲が実ると民謡にあります。
山を越えることによってカラカラの乾いた風で、晴れますし気温も上がり、1週間もつづくと稲は実るし豊作になります。
同じ風でも性質が変わってきます。
日本海側 「だし風」 船をだす風 が吹きます。
秋田は気候的に見ると太平洋側にくらべると恵まれていると思います。
台風の被害もそんなにはありません。
男鹿半島にサンゴが発見されている。
藪椿が群生している。(北限)
天然のトラフグも取れる(北限)
商業的にはお茶は日本海側では新潟県の村上市(村上茶)、太平洋側では茨城県の大子町(奥久慈茶)が北限とされているが、茶畑とすれば石巻、気仙沼当たりには自家製として栽培している。
日本海側では茶畑としては能代(檜山茶)が一番北だと思います。
雪に耐える様なお茶の葉なので厚さが厚いようです。
対馬暖流の影響だと思います。
水害、地震等 準備、予行演習をしていると被害が最低限にとどめることができると思います。
私の生まれた処は、昔は行事とか畑仕事など村の人たちが協力してやっていましたが、今では人口も減って、活気が無くなってきましたが、僕は大好きでお世話にもなりました。
来年は帰って来ようと思っています。
故郷を思う心、恩返しをしたいと思っています。
荒れる天気もありますが、天気と上手に付き合いながら、雨が降っても風が吹いてもいい天気だなあと思う様なそんな心でいけたらいいのではないかと思います。
自然に感謝しながら、ちょっと自然に憶病になりながら、心穏やかに天気と接しながら、皆さんと共に生きていきたいと思っています。
2016年10月28日金曜日
松島啓昇(ナザレ園協力会代表) ・韓国の同胞に寄り添って(H28/6/14 放送)
松島啓昇(ナザレ園協力会代表) ・韓国の同胞に寄り添って(H28/6/14 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_14.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_14.htmlをご覧ください。
2016年10月27日木曜日
間室道子(ブック・コンシェルジュ) ・お気に入りの一冊をあなたに!
間室道子(ブック・コンシェルジュ) ・お気に入りの一冊をあなたに!
本屋さんが好きな読書ファンばかりでなく、作家や編集者からも熱い信頼を寄せられているカリスマ書店員です。
年間700冊を越える読書量、間室さんの書くお勧めコメントの手書きポップは、本の売り上げを左右するとまで言われています。
手間暇を惜しまず作家と読者と書店員を結び付ける仕事に、日々奮闘する間室さんに本の魅力、読書の素晴らしさを伺いました。
一日一冊、休みの日は5冊、月に60冊、年間720冊が目標ですが、最近は書く仕事、出る仕事が増えてきたので、なかなかこのペースが守れないが、文庫本だと30分ぐらいで一冊読んでしまいます。
ハードカバーでも30分ぐらいで読んでしまうことが有ります。
構想10年でお前は30分で読んでしまうのかと、或る作家から怒られたことが有りますが、笑って許してくれました。
朝型人間なので、朝3時半から4時には起きます、店に着くのが朝6時で、自宅から徒歩5分です。
出勤までの2時間、書くか読むかしています。
3泊4日の旅行にも20~30冊持っていきます。(ショルダーバックで持ってゆくが怪しまれたことが有る)
岩手県の本屋の娘で、大学に入るために上京したが、就職はできなかった。
或る時六本木にアルバイトの募集が有り、アルバイトをしたが、本屋さんの居心地の良さに気が付いた。(家の時との違い)
自分の意志でこれを読むんだと意識した本、マイファーストブックはドイツの作家、ケストナーの「点子ちゃんとアントン」という名作だった。
児童文学として優れているだけでなく、ミステリーとして物凄く面白い作品だった。
わくわくする読書体験をしました、小学校1年生の時でした。
何を読むかも大切ですが、いつ読むかも大切です。
6年前書店を辞めて、或る大きな書店の店員募集の広告を見て、応募したら受かりました。
書店で買わないでネットで本を買う人は、本て、重いんだものと言われるが、ぐうの音も出ないが、街に出てアイディアを求めて本屋に身を置く事でひらめきが浮かぶ人は案外多い。
プレミヤエイジ 団塊以上の人々、お金と時間はあるが何をしていいか判らない人がたくさんいるが、一日居て楽しめるところとしたコンセプトで始めました。
アイドルの写真集とか、コミックなども置いていない。
理由なくある本もありません、理由なくない本もありません、そういう書店を作ってくださいと、採用された時に初代店長から言われた。
コンシェルジュ お客さんの為に本を選んで差し上げるが、街の書店員がやっている様な仕事もやっています。
コンシェルジュはフランス語で「門番」という意味です。
本と店の門番ですが、思ってもみなかったことを進めてもOKだと思っていて、心地よい裏切りと思っています。
いろいろなプレゼント用の本の相談等が多いです。
コンシェルジュは、質問する、相手がどんな人か聞きながら一緒に見つけましょうと言うのが私のスタイルです。
私の仕事時間は7時~午後3時までです。
手書きポップ、はがきサイズの紙にお勧めのコメントをします。(私は14年前から始めました)
一枚の手書きポップから10万部とか、映画化とかが珍しくなくなった。
ポップは読書感想文、書評とは違う、お客さまの目を引き、手に取らせ、本を持ってレジに向かわせて足を運んでもらう、その動作をいかにスムーズに起こさせるか、それが役割です。
本の肝 それが本に中にある、それを表現する。
ポップでは手書きの文字に拘っています。(心がこもっている)
ポップが新聞の広告、帯として使われるとか、ミニポスターとかになっていたりします。
書評、本の解説もやっています、文庫の解説とか。(桜木紫乃さん)
次につながる仕事をしたいと思っています。
本はコミュニケーションツールだと思っていて、村上春樹の新刊が出ると、一般のニュースで報道されたりする、文化というものが国民の隅々まで浸透していておかしなことと思わない。
「村上春樹の本を読んだ?」という事が挨拶になったりする。
人と人を繋ぐツール。
書店のイベントは作家と読者、読者とスタッフとがつながるが、ネット書店ではできない。
本屋大賞 は芥川賞、直木賞よりも売れ行きがいいかも知れない、読者の目線と一番近い所にある賞だと思っている。(どっちがいいと言う事ではない)
本の魅力とは、魂の避難場所、文字は読めないけれど海外の本屋にも行くが、フラッと本屋に行くと紙の匂いは共通、自分が一番慣れた場所に行くと何か回復してゆく。
映画、音楽、ゲームなどある一定の時間がかかるが、読書は自分のペースで時間を自由にこなせる。
電子書籍、本というよりもアニメに近いのではないかと思う。
物体としての本が好きです。
未だに携帯電話のない生活をしていますが、何の不便も感じません。
電子書籍と違って、本を積んでおきそれを読破して、よしやったと言う事で、紙の本は励みになる、とある学生から言われたことが有ります。
読む、書く、でる、売る、この4つがかみ合って、本の神様有難うで終われる、そういう繰り返しです。
15分でもいいから読んで、そこから自分が生きて行ったり仕事をしていったりすることの中で、意味を見い出してゆく、そこに読書の素晴らしさが有ると思う。
本屋さんが好きな読書ファンばかりでなく、作家や編集者からも熱い信頼を寄せられているカリスマ書店員です。
年間700冊を越える読書量、間室さんの書くお勧めコメントの手書きポップは、本の売り上げを左右するとまで言われています。
手間暇を惜しまず作家と読者と書店員を結び付ける仕事に、日々奮闘する間室さんに本の魅力、読書の素晴らしさを伺いました。
一日一冊、休みの日は5冊、月に60冊、年間720冊が目標ですが、最近は書く仕事、出る仕事が増えてきたので、なかなかこのペースが守れないが、文庫本だと30分ぐらいで一冊読んでしまいます。
ハードカバーでも30分ぐらいで読んでしまうことが有ります。
構想10年でお前は30分で読んでしまうのかと、或る作家から怒られたことが有りますが、笑って許してくれました。
朝型人間なので、朝3時半から4時には起きます、店に着くのが朝6時で、自宅から徒歩5分です。
出勤までの2時間、書くか読むかしています。
3泊4日の旅行にも20~30冊持っていきます。(ショルダーバックで持ってゆくが怪しまれたことが有る)
岩手県の本屋の娘で、大学に入るために上京したが、就職はできなかった。
或る時六本木にアルバイトの募集が有り、アルバイトをしたが、本屋さんの居心地の良さに気が付いた。(家の時との違い)
自分の意志でこれを読むんだと意識した本、マイファーストブックはドイツの作家、ケストナーの「点子ちゃんとアントン」という名作だった。
児童文学として優れているだけでなく、ミステリーとして物凄く面白い作品だった。
わくわくする読書体験をしました、小学校1年生の時でした。
何を読むかも大切ですが、いつ読むかも大切です。
6年前書店を辞めて、或る大きな書店の店員募集の広告を見て、応募したら受かりました。
書店で買わないでネットで本を買う人は、本て、重いんだものと言われるが、ぐうの音も出ないが、街に出てアイディアを求めて本屋に身を置く事でひらめきが浮かぶ人は案外多い。
プレミヤエイジ 団塊以上の人々、お金と時間はあるが何をしていいか判らない人がたくさんいるが、一日居て楽しめるところとしたコンセプトで始めました。
アイドルの写真集とか、コミックなども置いていない。
理由なくある本もありません、理由なくない本もありません、そういう書店を作ってくださいと、採用された時に初代店長から言われた。
コンシェルジュ お客さんの為に本を選んで差し上げるが、街の書店員がやっている様な仕事もやっています。
コンシェルジュはフランス語で「門番」という意味です。
本と店の門番ですが、思ってもみなかったことを進めてもOKだと思っていて、心地よい裏切りと思っています。
いろいろなプレゼント用の本の相談等が多いです。
コンシェルジュは、質問する、相手がどんな人か聞きながら一緒に見つけましょうと言うのが私のスタイルです。
私の仕事時間は7時~午後3時までです。
手書きポップ、はがきサイズの紙にお勧めのコメントをします。(私は14年前から始めました)
一枚の手書きポップから10万部とか、映画化とかが珍しくなくなった。
ポップは読書感想文、書評とは違う、お客さまの目を引き、手に取らせ、本を持ってレジに向かわせて足を運んでもらう、その動作をいかにスムーズに起こさせるか、それが役割です。
本の肝 それが本に中にある、それを表現する。
ポップでは手書きの文字に拘っています。(心がこもっている)
ポップが新聞の広告、帯として使われるとか、ミニポスターとかになっていたりします。
書評、本の解説もやっています、文庫の解説とか。(桜木紫乃さん)
次につながる仕事をしたいと思っています。
本はコミュニケーションツールだと思っていて、村上春樹の新刊が出ると、一般のニュースで報道されたりする、文化というものが国民の隅々まで浸透していておかしなことと思わない。
「村上春樹の本を読んだ?」という事が挨拶になったりする。
人と人を繋ぐツール。
書店のイベントは作家と読者、読者とスタッフとがつながるが、ネット書店ではできない。
本屋大賞 は芥川賞、直木賞よりも売れ行きがいいかも知れない、読者の目線と一番近い所にある賞だと思っている。(どっちがいいと言う事ではない)
本の魅力とは、魂の避難場所、文字は読めないけれど海外の本屋にも行くが、フラッと本屋に行くと紙の匂いは共通、自分が一番慣れた場所に行くと何か回復してゆく。
映画、音楽、ゲームなどある一定の時間がかかるが、読書は自分のペースで時間を自由にこなせる。
電子書籍、本というよりもアニメに近いのではないかと思う。
物体としての本が好きです。
未だに携帯電話のない生活をしていますが、何の不便も感じません。
電子書籍と違って、本を積んでおきそれを読破して、よしやったと言う事で、紙の本は励みになる、とある学生から言われたことが有ります。
読む、書く、でる、売る、この4つがかみ合って、本の神様有難うで終われる、そういう繰り返しです。
15分でもいいから読んで、そこから自分が生きて行ったり仕事をしていったりすることの中で、意味を見い出してゆく、そこに読書の素晴らしさが有ると思う。
2016年10月26日水曜日
今井敬潤(大阪府立大学大学院客員研究員) ・“柿の力”を再発見(2)
今井敬潤(大阪府立大学大学院客員研究員) ・“柿の力”を再発見(2)
柿渋というのは青いうちの柿を潰して、しばらく置いておいて(1週間)、タンニンがじわっと出て絞って発酵させて、熟成させて出来上ったものが柿渋です。
潰して1週間位でブクブク泡がでてきて、アルコール発酵、次に嫌なにおいがしてきて酢酸発酵、次に酪酸発酵、プロピオン酸発酵など 主だった発酵が終わるのが1カ月。
ひとまず終わるのが3カ月~半年ぐらい。
初めは緑色、灰色をしていたのが褐色になって、独特の臭いがします。
柿渋を身の回りのものに使った。
防水防腐効果があるので、主に魚網に使ったり、繊維の上に被膜を張らせた。
柿渋はお盆過ぎから作り始める。
紙に塗って、江戸時代ならば紙衣(かみこ) 軽いので防寒にもなった。(布の様に使った)
渋団扇、非常に強度が有った。
渋紙はどこでも利用できた。(敷物、かいこを飼う時に防寒のためにカーテンの様に垂らす、物を包む、防湿の役割を果たす)
酒屋では酒を造る時は、もろみの絞り袋に使った。(量が多かった) 醤油でも同様。
黒板塀は柿渋が塗られていた。
城を作る時にも防腐として使われた。
ベンガル柿(インド)は漁網に使われいて、柿渋は日本で作られたとはいえないが、タンニンを使うのは各地で使われ、他にはこれほど細かく使われたのは無いです。
小紋染めには型紙が必要でそれを作るのに、和紙を3~4枚重ねるときにも柿渋を使うが、粘着力が有り硬い、それを彫刻刀で彫って作る。
戦後になるといい塗料が出来て、合成繊維ができてきて、防腐をする必要が無くなり、一気にそう言う用途は減ってしまった。
渋塗り職人は一気にペンキ屋さんに変わった。
昭和40年ぐらいから清酒を作る時に、「さえ」、とか「てリ」とかを強調する時代になり、柿渋がおり下げ材(澄ませる)として重宝されるようになってきた。
今も使われています、清澄剤が新たに開発されるが。やはり柿渋がメインになっています。
昭和50年代に半ばに柿渋は凄いと調べ始めました。
仕事として柿渋を作っていた人に聞けたのは、当時で80歳ぐらいの人達でした。
先ずはどんなふうにして作られてきたのかとか、材料は何なんなのか、どういう点が難しい問題なのか、どんな利用法があるのか 聞いて、資料を纏めて、「柿渋」という本にして出しました。
当時酒蔵に行くと、木綿の使い古しの袋が積んであって欲しい人は持って行っていいよといった状態だったが、そのうち一袋8000円もしたが、それも今は無いです。
柿渋染めが話題になって来て、一過性なものと思っていたが静かなブームが続いています。
外国人も興味を持って、ルーブル美術館の関係の方が家に尋ねてこられましたが、外国人にも何か魅かれる色の様です。
天然塗料として、建築関係の利用があちこちで行われてきています。
タンニンはホルムアルデヒドと旨く結合する性質が有ります。
プレハブ住宅の中に渋紙を貼って、ホルムアルデヒドを規定量入れて、吸着の実験をすることになり、吸着能力が実証された。
天然塗料として注目されるようになった。
丸森町、町おこしとして小規模ですが、柿渋の商品化、柿渋石鹸も作っています。
自分の地域の歴史を調べて、そんな力が有ったのかと驚いて、動きがでてくる。
2005年から始めて15年近く経って安定して作っています。
柿渋の新しい使い方、重金属と結び付くと言う特性もある、ノロウイルスに対する抗菌性とかもあるので、柿渋の文化があるという上に立って色んな利用が進めばいいかなあと思っています。
柿渋というのは青いうちの柿を潰して、しばらく置いておいて(1週間)、タンニンがじわっと出て絞って発酵させて、熟成させて出来上ったものが柿渋です。
潰して1週間位でブクブク泡がでてきて、アルコール発酵、次に嫌なにおいがしてきて酢酸発酵、次に酪酸発酵、プロピオン酸発酵など 主だった発酵が終わるのが1カ月。
ひとまず終わるのが3カ月~半年ぐらい。
初めは緑色、灰色をしていたのが褐色になって、独特の臭いがします。
柿渋を身の回りのものに使った。
防水防腐効果があるので、主に魚網に使ったり、繊維の上に被膜を張らせた。
柿渋はお盆過ぎから作り始める。
紙に塗って、江戸時代ならば紙衣(かみこ) 軽いので防寒にもなった。(布の様に使った)
渋団扇、非常に強度が有った。
渋紙はどこでも利用できた。(敷物、かいこを飼う時に防寒のためにカーテンの様に垂らす、物を包む、防湿の役割を果たす)
酒屋では酒を造る時は、もろみの絞り袋に使った。(量が多かった) 醤油でも同様。
黒板塀は柿渋が塗られていた。
城を作る時にも防腐として使われた。
ベンガル柿(インド)は漁網に使われいて、柿渋は日本で作られたとはいえないが、タンニンを使うのは各地で使われ、他にはこれほど細かく使われたのは無いです。
小紋染めには型紙が必要でそれを作るのに、和紙を3~4枚重ねるときにも柿渋を使うが、粘着力が有り硬い、それを彫刻刀で彫って作る。
戦後になるといい塗料が出来て、合成繊維ができてきて、防腐をする必要が無くなり、一気にそう言う用途は減ってしまった。
渋塗り職人は一気にペンキ屋さんに変わった。
昭和40年ぐらいから清酒を作る時に、「さえ」、とか「てリ」とかを強調する時代になり、柿渋がおり下げ材(澄ませる)として重宝されるようになってきた。
今も使われています、清澄剤が新たに開発されるが。やはり柿渋がメインになっています。
昭和50年代に半ばに柿渋は凄いと調べ始めました。
仕事として柿渋を作っていた人に聞けたのは、当時で80歳ぐらいの人達でした。
先ずはどんなふうにして作られてきたのかとか、材料は何なんなのか、どういう点が難しい問題なのか、どんな利用法があるのか 聞いて、資料を纏めて、「柿渋」という本にして出しました。
当時酒蔵に行くと、木綿の使い古しの袋が積んであって欲しい人は持って行っていいよといった状態だったが、そのうち一袋8000円もしたが、それも今は無いです。
柿渋染めが話題になって来て、一過性なものと思っていたが静かなブームが続いています。
外国人も興味を持って、ルーブル美術館の関係の方が家に尋ねてこられましたが、外国人にも何か魅かれる色の様です。
天然塗料として、建築関係の利用があちこちで行われてきています。
タンニンはホルムアルデヒドと旨く結合する性質が有ります。
プレハブ住宅の中に渋紙を貼って、ホルムアルデヒドを規定量入れて、吸着の実験をすることになり、吸着能力が実証された。
天然塗料として注目されるようになった。
丸森町、町おこしとして小規模ですが、柿渋の商品化、柿渋石鹸も作っています。
自分の地域の歴史を調べて、そんな力が有ったのかと驚いて、動きがでてくる。
2005年から始めて15年近く経って安定して作っています。
柿渋の新しい使い方、重金属と結び付くと言う特性もある、ノロウイルスに対する抗菌性とかもあるので、柿渋の文化があるという上に立って色んな利用が進めばいいかなあと思っています。
2016年10月25日火曜日
今井敬潤(大阪府立大学大学院客員研究員) ・“柿の力”を再発見(1)
今井敬潤(大阪府立大学大学院客員研究員) ・“柿の力”を再発見(1)
昭和24年岐阜県瑞穂市生まれ、京都府立大学農学部を卒業後、大阪府立大学農学部大学院の修士課程を終了されました。
専門は果樹園芸学で特に渋柿の柿渋の研究に力を入れています。
現在は大阪府立大学大学院客員研究員の他に、岐阜女子大学の非常勤講師も務めています。
岐阜県瑞穂市は冬柿の故郷 冬柿の発症の地。
瑞穂市の居倉というところに母木が有り、発症の地の碑が建てられている。
明治30年代に福島さんと言う人がその地域にあった甘い柿、「居倉御所(いくらごしょ)」から冬柿を見出したのが始まり。
正月には必ず碑の前に行って碑に書いてある文章を見て1年を振り返り、これからの1年をどう進むのかと思ったりしています。
大学のテーマが梨だった。
農業高校に勤めて、出会ったのが柿で、大きな力を持っていると思った。
私の家は寺院でかつては境内の中に20本ほどありましたが、今は無いです。
文学では、猿蟹合戦、正岡子規の俳句、小林一茶の俳句等が有る。
「渋いとこ母が食いけり山の柿」 (小林一茶)の句が好きです。
柿は中国中南部が原産と言われて、奈良時代に日本にきたと言われています。
平城京に柿が流通していた事が正倉院文書、平城京跡から出てくる木簡から柿のことが書かれていた。
色んな形の柿が有ると言うことはそれだけそれぞれの人がおいしいと思った人が、種を蒔いてもっと旨いものを作ろうと営みが絶えずあちこちで行われた。
岡山県で権次柿というものがあるが、ならず者だったようです。
それぞれの土地で色んな柿が有ったようです。
甘柿と渋柿が有るが、今は判らなくなってきている。
学生に聞くが1人位が渋柿を食べた経験があると言うぐらいで渋柿を口にすることが無くなってきた。
経験が無いためか、渋く感じない学生もいます。
日本の文化を語る上では、この渋さという言葉抜きでは語れないと思うほど渋いという言葉は大事だと思います。
幼稚園の先生が幼稚園の子らに体験させたら、砂みたい、ざらざらしているとか、という表現をしたそうです。
伝わった段階では渋柿で、鎌倉時代に甘柿が登場する。
種ができないと渋が抜けた様な感じになり、ゴマの様な点々ができるが、江戸時代になるとゴマの様な点々が無くなった甘い柿が登場する。
明治までぐらいは渋柿の方が圧倒的に品種が多かった。
当時は干し柿と柿渋が必要だった。
渋を抜く方法として、干し柿にする方法、塾柿、さわし柿(焼酎、ドライアイスで渋を抜く)
江戸時代にはお湯に一晩浸け周りをこもで巻いて渋を抜く方法があったが、温度管理が難しい。(又品種に依っても温度が違う)
市田柿、(長野県下伊那) あんぽ柿 (半乾燥の柿 福島県)が有名。
干すと被膜ができて中に渋が抜ける物質が出来て渋さが取れる。
ペクチンが多く関係していると言われる。
干し柿の産地では干す時期の気温が上がって来て、カビが生えて困っていると言われている。
古来、柿は主食にちかい食べものだったと言われる、飢饉のときの飢えをしのぐ為とか。
保存食料として大事だった。
甘柿は長持ちはしないので渋柿が一般農家では大切だった。
柿の葉寿司、柿の葉茶、あちこちで利用されている。
20年前 葉の彩り品種として選ばれて、専用の品種が作られている。
黒柿 年数が経つとタンニンを含んでいるので黒い模様が出来て、それを板にして調度品などに用いられた貴重なものです。
娘を嫁がせるときには柿の苗を持たせて嫁がせたと言う話もあります。
自分の最期まで柿に見守られて、火葬にする時に柿の材が使われた。(一生を柿に託す)
私は村のお寺を預かっているが、月まいりがあって、或る古老のお宅に行くと古い柿の木が有って若し何らかの都合で木を切る時にはお経をあげるようにと家族には言っているそうです。
外国でもカキで通用する。
1600年代 ポルトガルの宣教師が布教する時に役立つ様に辞書を作ったが、柿がでてきて説明書きをしている。(日本のいちじくと表現しているが、トルコ産の干しイチジクを見たが紐で結んでいてまさに干し柿だった)
外国人から見た柿、オランダ商館員のツンベルク(シーベルトの前) 学名をつけたがカキと付けている。
神の食べものという意味があるので、柿に対するイメージをそう捉えていたようです。
明治以降に日本の柿が海外にも入っているが、食べ方がいまいち判らない。
柿は熟した柿、硬い柿のおいしさはわからなくて、最近は判り始めて、冬柿が外国でたくさん作られるようになりました。
ブラジル、韓国などで多く作られるようになり他にニュージーランド、オーストラリア等でも作られるようになりました。
若い人にとっては縁の遠いものになってきてしまいましたが、生産地では若い人にも食べてもらえるように取り組み始めています。
サラダでも食べられるようにと、品種改良もされています。
昭和24年岐阜県瑞穂市生まれ、京都府立大学農学部を卒業後、大阪府立大学農学部大学院の修士課程を終了されました。
専門は果樹園芸学で特に渋柿の柿渋の研究に力を入れています。
現在は大阪府立大学大学院客員研究員の他に、岐阜女子大学の非常勤講師も務めています。
岐阜県瑞穂市は冬柿の故郷 冬柿の発症の地。
瑞穂市の居倉というところに母木が有り、発症の地の碑が建てられている。
明治30年代に福島さんと言う人がその地域にあった甘い柿、「居倉御所(いくらごしょ)」から冬柿を見出したのが始まり。
正月には必ず碑の前に行って碑に書いてある文章を見て1年を振り返り、これからの1年をどう進むのかと思ったりしています。
大学のテーマが梨だった。
農業高校に勤めて、出会ったのが柿で、大きな力を持っていると思った。
私の家は寺院でかつては境内の中に20本ほどありましたが、今は無いです。
文学では、猿蟹合戦、正岡子規の俳句、小林一茶の俳句等が有る。
「渋いとこ母が食いけり山の柿」 (小林一茶)の句が好きです。
柿は中国中南部が原産と言われて、奈良時代に日本にきたと言われています。
平城京に柿が流通していた事が正倉院文書、平城京跡から出てくる木簡から柿のことが書かれていた。
色んな形の柿が有ると言うことはそれだけそれぞれの人がおいしいと思った人が、種を蒔いてもっと旨いものを作ろうと営みが絶えずあちこちで行われた。
岡山県で権次柿というものがあるが、ならず者だったようです。
それぞれの土地で色んな柿が有ったようです。
甘柿と渋柿が有るが、今は判らなくなってきている。
学生に聞くが1人位が渋柿を食べた経験があると言うぐらいで渋柿を口にすることが無くなってきた。
経験が無いためか、渋く感じない学生もいます。
日本の文化を語る上では、この渋さという言葉抜きでは語れないと思うほど渋いという言葉は大事だと思います。
幼稚園の先生が幼稚園の子らに体験させたら、砂みたい、ざらざらしているとか、という表現をしたそうです。
伝わった段階では渋柿で、鎌倉時代に甘柿が登場する。
種ができないと渋が抜けた様な感じになり、ゴマの様な点々ができるが、江戸時代になるとゴマの様な点々が無くなった甘い柿が登場する。
明治までぐらいは渋柿の方が圧倒的に品種が多かった。
当時は干し柿と柿渋が必要だった。
渋を抜く方法として、干し柿にする方法、塾柿、さわし柿(焼酎、ドライアイスで渋を抜く)
江戸時代にはお湯に一晩浸け周りをこもで巻いて渋を抜く方法があったが、温度管理が難しい。(又品種に依っても温度が違う)
市田柿、(長野県下伊那) あんぽ柿 (半乾燥の柿 福島県)が有名。
干すと被膜ができて中に渋が抜ける物質が出来て渋さが取れる。
ペクチンが多く関係していると言われる。
干し柿の産地では干す時期の気温が上がって来て、カビが生えて困っていると言われている。
古来、柿は主食にちかい食べものだったと言われる、飢饉のときの飢えをしのぐ為とか。
保存食料として大事だった。
甘柿は長持ちはしないので渋柿が一般農家では大切だった。
柿の葉寿司、柿の葉茶、あちこちで利用されている。
20年前 葉の彩り品種として選ばれて、専用の品種が作られている。
黒柿 年数が経つとタンニンを含んでいるので黒い模様が出来て、それを板にして調度品などに用いられた貴重なものです。
娘を嫁がせるときには柿の苗を持たせて嫁がせたと言う話もあります。
自分の最期まで柿に見守られて、火葬にする時に柿の材が使われた。(一生を柿に託す)
私は村のお寺を預かっているが、月まいりがあって、或る古老のお宅に行くと古い柿の木が有って若し何らかの都合で木を切る時にはお経をあげるようにと家族には言っているそうです。
外国でもカキで通用する。
1600年代 ポルトガルの宣教師が布教する時に役立つ様に辞書を作ったが、柿がでてきて説明書きをしている。(日本のいちじくと表現しているが、トルコ産の干しイチジクを見たが紐で結んでいてまさに干し柿だった)
外国人から見た柿、オランダ商館員のツンベルク(シーベルトの前) 学名をつけたがカキと付けている。
神の食べものという意味があるので、柿に対するイメージをそう捉えていたようです。
明治以降に日本の柿が海外にも入っているが、食べ方がいまいち判らない。
柿は熟した柿、硬い柿のおいしさはわからなくて、最近は判り始めて、冬柿が外国でたくさん作られるようになりました。
ブラジル、韓国などで多く作られるようになり他にニュージーランド、オーストラリア等でも作られるようになりました。
若い人にとっては縁の遠いものになってきてしまいましたが、生産地では若い人にも食べてもらえるように取り組み始めています。
サラダでも食べられるようにと、品種改良もされています。
2016年10月24日月曜日
岩崎 淑(ピアニスト) ・音楽さえあれば生きていける
岩崎 淑(ピアニスト) ・音楽さえあれば生きていける
岡山県出身ピアニスト 79歳の今もピアニストとして世界で活躍する岩崎さん、幼いころから音楽教師の父仙蔵さんと共に、戦争中空襲のさなかでもピアノの練習が第一という生活を崩しませんでした。
20代で当時珍しかったアメリカやイタリアへの海外留学を経験したのち、チャイコフスキー国際音楽コンクールなど様々なコンクールで業績を上げ、現在は音楽でお世話になった人達の恩返しをしたいとコンサート活動を続けています。
父は兎に角音楽の好きな人でした。
台湾の女学校、中学校の音楽の先生をずーっとしていました。(5年間)
父は疫痢になって、何とか命を取り留めて日本に帰ってきて、その後ピアノを父から勉強しました。
台湾からの引き上げ船は、船と空から守られていたが、前と後ろの船は魚雷にやられて沈没してしまいました。
昭和20年6月29日の空襲の時には岡山に住んでいました。
逃げる訓練は学校でしていたので凄く早く対応でき一番最初に家からでたが、それを見た父が慌ててしまって父が大切にしていたバイオリンは焼けてしまった。
母は1歳の弟と重要書類を抱えて、4人は旭川の河原に逃げた。
岡山城が焼け落ちるのを見ました。
歩いて行く間に木のそばに沢山死体が転がっているのを見ました。
家が有った方に戻ったら、あたり一面焼け野原だった。
父が好きだったレコードも丸い形があっただけ、掘り起こしたらピアノは弦だけが残っていた。
これが戦争だなあと言ったが、音楽が有るから大丈夫と父は叫んでいました。
父の友人、教え子とかが楽譜を送ってくれたりしました。
戦後、父のお弟子さんの離れを提供してもらって、ピアノは友人から借りて私に教えていました。
敵国のものをやっていると言われるからと言うんで、カーテンをして音が漏れないようにして暗いなかでピアノの練習をしていました。
毎日どの音楽家の曲をどのくらい練習したのかと棒グラフをつけたりしていました。
6時半に起きてピアノを練習して、父が出かけてから食事をして学校にいったりしていました。
小学校3年生だったが、中国、四国音楽コンクールが有って一般の人がでていたが、それに出ました。
新聞にも出て話題にもなりました。
中学、高校は東京に行きました。
アルバイトでピアノを弾きましたが、左幸子さんとか有馬稲子さんとかにリクエストしてくれました。
その時にクラークさんという人に留学する気はありませんかと聞かれたが、お金が無いからいけませんといったら、名刺をくれました。
23歳の時に一般の毎日新聞のコンクールに出ました。
本選が弟と一緒で弟は一等特賞だった。
予選第一、第二は第一位だったが、左手にミスが有って5位だった。
日本ではこのままでは勉強できないと思った時に、クラークさんの名刺を思い出し探したら出てきて、手紙を書いて送ったら、テープを送ってほしいと言う事で送ったら、大学で奨学金を出してくれることになりました。
飛行機ではいけないので貨客船に乗って12日ぐらいかかってシアトルに行って、そこから飛行機でニューヨークまで一人でいって、ハートフォードまで行きました。
クラークさんのところは2台のピアノが有りました。
朝5時に起きて家からバス、汽車に乗って1時間半位かかってハートフォード大学に行きました。
このままでは身体を壊すことが心配で、広告を出したら、或る人が部屋を提供してくれて、食事は2年間一切払わなくて済んだ、ラッキーとしか言いようが無かった。
日本は戦争をして大変な思いをしたが、アメリカ人って本当に寛容で親切で温かい国民だとつくづく感じました。(敵の国の人という様なことはまったく感じなかった)
大学では日本人は私一人だったが、みんなに親切にしてもらいました。
大学では一日7時間練習をしました、2年間のラタイナ先生のレッスンが無かったら、今の私はなかったと思う。
桐朋学院ではトップで卒業して貴方は何もかもできていると言う事でアメリカにいったが覆されて、座り方、基礎からやり直しました。
野球もフォームがあるが音楽にもフォームが有る。
肺の一部を手術して、ソリストは断念した。
薬を飲んでいたが、喀血を起こしてしまったが、30歳で最後のチャンスなのでミュンヘンの国際コンクールで弟と共に参加して、ここでもう死んでもいいと思った。
8週間練習をしても血は出なかった、29組で3位を取って喜んでニューヨークに帰ってきたら、がーっと血を吐いてしまって、救急車でたらい回しをされて、死ぬかと思った。
3軒目でたまたま日本人の先生がいて、米国の一番いい先生を紹介してくれて、石灰化した肺の部分を取れば大丈夫という事で、1週間後に5時間掛かって手術したが、失敗したら死んでしまうのかなと思った。
手術後1週間で車椅子に座ってピアノを弾いてみたら、弾く事が出来、本当にうれしかった。
外国人が一人入ると練習の時から違う、音楽を本当に楽しくする、日本人は真面目だから物凄く
硬い感じになる。
兎に角音楽さえあれば私は幸せだったので、父の言葉通りに一生懸命やってきたが、それには色んな人の援助、教えてもらったことが多くて、音楽に対する愛、そういったものがいつもあります。
若い人には、父が言っていましたが、前進あるのみ、情熱と音楽に対する愛情が有れば皆さん続けられるし、続けてほしい。
岡山県出身ピアニスト 79歳の今もピアニストとして世界で活躍する岩崎さん、幼いころから音楽教師の父仙蔵さんと共に、戦争中空襲のさなかでもピアノの練習が第一という生活を崩しませんでした。
20代で当時珍しかったアメリカやイタリアへの海外留学を経験したのち、チャイコフスキー国際音楽コンクールなど様々なコンクールで業績を上げ、現在は音楽でお世話になった人達の恩返しをしたいとコンサート活動を続けています。
父は兎に角音楽の好きな人でした。
台湾の女学校、中学校の音楽の先生をずーっとしていました。(5年間)
父は疫痢になって、何とか命を取り留めて日本に帰ってきて、その後ピアノを父から勉強しました。
台湾からの引き上げ船は、船と空から守られていたが、前と後ろの船は魚雷にやられて沈没してしまいました。
昭和20年6月29日の空襲の時には岡山に住んでいました。
逃げる訓練は学校でしていたので凄く早く対応でき一番最初に家からでたが、それを見た父が慌ててしまって父が大切にしていたバイオリンは焼けてしまった。
母は1歳の弟と重要書類を抱えて、4人は旭川の河原に逃げた。
岡山城が焼け落ちるのを見ました。
歩いて行く間に木のそばに沢山死体が転がっているのを見ました。
家が有った方に戻ったら、あたり一面焼け野原だった。
父が好きだったレコードも丸い形があっただけ、掘り起こしたらピアノは弦だけが残っていた。
これが戦争だなあと言ったが、音楽が有るから大丈夫と父は叫んでいました。
父の友人、教え子とかが楽譜を送ってくれたりしました。
戦後、父のお弟子さんの離れを提供してもらって、ピアノは友人から借りて私に教えていました。
敵国のものをやっていると言われるからと言うんで、カーテンをして音が漏れないようにして暗いなかでピアノの練習をしていました。
毎日どの音楽家の曲をどのくらい練習したのかと棒グラフをつけたりしていました。
6時半に起きてピアノを練習して、父が出かけてから食事をして学校にいったりしていました。
小学校3年生だったが、中国、四国音楽コンクールが有って一般の人がでていたが、それに出ました。
新聞にも出て話題にもなりました。
中学、高校は東京に行きました。
アルバイトでピアノを弾きましたが、左幸子さんとか有馬稲子さんとかにリクエストしてくれました。
その時にクラークさんという人に留学する気はありませんかと聞かれたが、お金が無いからいけませんといったら、名刺をくれました。
23歳の時に一般の毎日新聞のコンクールに出ました。
本選が弟と一緒で弟は一等特賞だった。
予選第一、第二は第一位だったが、左手にミスが有って5位だった。
日本ではこのままでは勉強できないと思った時に、クラークさんの名刺を思い出し探したら出てきて、手紙を書いて送ったら、テープを送ってほしいと言う事で送ったら、大学で奨学金を出してくれることになりました。
飛行機ではいけないので貨客船に乗って12日ぐらいかかってシアトルに行って、そこから飛行機でニューヨークまで一人でいって、ハートフォードまで行きました。
クラークさんのところは2台のピアノが有りました。
朝5時に起きて家からバス、汽車に乗って1時間半位かかってハートフォード大学に行きました。
このままでは身体を壊すことが心配で、広告を出したら、或る人が部屋を提供してくれて、食事は2年間一切払わなくて済んだ、ラッキーとしか言いようが無かった。
日本は戦争をして大変な思いをしたが、アメリカ人って本当に寛容で親切で温かい国民だとつくづく感じました。(敵の国の人という様なことはまったく感じなかった)
大学では日本人は私一人だったが、みんなに親切にしてもらいました。
大学では一日7時間練習をしました、2年間のラタイナ先生のレッスンが無かったら、今の私はなかったと思う。
桐朋学院ではトップで卒業して貴方は何もかもできていると言う事でアメリカにいったが覆されて、座り方、基礎からやり直しました。
野球もフォームがあるが音楽にもフォームが有る。
肺の一部を手術して、ソリストは断念した。
薬を飲んでいたが、喀血を起こしてしまったが、30歳で最後のチャンスなのでミュンヘンの国際コンクールで弟と共に参加して、ここでもう死んでもいいと思った。
8週間練習をしても血は出なかった、29組で3位を取って喜んでニューヨークに帰ってきたら、がーっと血を吐いてしまって、救急車でたらい回しをされて、死ぬかと思った。
3軒目でたまたま日本人の先生がいて、米国の一番いい先生を紹介してくれて、石灰化した肺の部分を取れば大丈夫という事で、1週間後に5時間掛かって手術したが、失敗したら死んでしまうのかなと思った。
手術後1週間で車椅子に座ってピアノを弾いてみたら、弾く事が出来、本当にうれしかった。
外国人が一人入ると練習の時から違う、音楽を本当に楽しくする、日本人は真面目だから物凄く
硬い感じになる。
兎に角音楽さえあれば私は幸せだったので、父の言葉通りに一生懸命やってきたが、それには色んな人の援助、教えてもらったことが多くて、音楽に対する愛、そういったものがいつもあります。
若い人には、父が言っていましたが、前進あるのみ、情熱と音楽に対する愛情が有れば皆さん続けられるし、続けてほしい。
2016年10月23日日曜日
奥田佳道(音楽評論) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
奥田佳道(音楽評論) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
*メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲 ホ短調 第一楽章
曲の最初から美しいメロディーがあふれ出てくる。
ドイツロマン派のメンデルスゾーン は1809年 ハンブルクに生まれ1847年 30代で亡くなる。
バロック時代の バッハのマタイ受難曲、しばらく演奏されていなかった、あまりメジャーではなかったバロックのバッハの名曲を19世紀に蘇らせたのがメンデルスゾーンです。
ベートーベンのバイオリン奏曲をあまり弾いていなかったものを取り上げて、ベートーベンを今は普通に聞く様になったのはメンデルスゾーンのおかげとも言っていい。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者、音楽監督もやって、音楽院も作ってそこの院長にもなりました。
19世紀のモーツアルトといってもいい、天才です。
歴史に、政治に翻弄されたユダヤ人作曲家 メンデルスゾーンという言い方をしてもいいかと思う。
*結婚行進曲(劇音楽「夏の夜の夢」から)
途中で弦楽器、管楽器がこれぞメンデルスゾーンという美しいメロディーを奏でている。
ドイツのワーグナー 歌劇「ローエングリン」(Lohengrin) 新郎新婦の入場の時よく演奏される。
*歌劇「ローエングリン」から「婚礼の合唱」
セルゲイ・ラフマニノフ アレンジの達人 ピアノ一台でやったらどうかと 編曲
*劇音楽「夏の夜の夢」からスケルツォ
メンデルスゾーンが自分でピアノを弾きながら作曲しているので、最初はこうだったんじゃないかと言う思いで、メンデルスゾーンが好きでこんなアレンジを残したのではないかと思います。
19世紀から20世紀にかけて、ウイーンフィルのコンサートマスター、音楽院のバイオリンの先生として大活躍した、作曲家ヨーゼフ・ヘルメスベルガー
*妖精の踊り(メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の軽やかな音楽をもとにして軽やかな音楽を書いたという)
ジャズのミュージシャンも影響を受けて、「春の歌」を神山純一さんが編曲 トーマス・ハーデン・トリオ
*メンデルスゾーンの「春の歌」(トーマス・ハーデン・トリオ演奏)
*メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲 ホ短調 第一楽章
曲の最初から美しいメロディーがあふれ出てくる。
ドイツロマン派のメンデルスゾーン は1809年 ハンブルクに生まれ1847年 30代で亡くなる。
バロック時代の バッハのマタイ受難曲、しばらく演奏されていなかった、あまりメジャーではなかったバロックのバッハの名曲を19世紀に蘇らせたのがメンデルスゾーンです。
ベートーベンのバイオリン奏曲をあまり弾いていなかったものを取り上げて、ベートーベンを今は普通に聞く様になったのはメンデルスゾーンのおかげとも言っていい。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の首席指揮者、音楽監督もやって、音楽院も作ってそこの院長にもなりました。
19世紀のモーツアルトといってもいい、天才です。
歴史に、政治に翻弄されたユダヤ人作曲家 メンデルスゾーンという言い方をしてもいいかと思う。
*結婚行進曲(劇音楽「夏の夜の夢」から)
途中で弦楽器、管楽器がこれぞメンデルスゾーンという美しいメロディーを奏でている。
ドイツのワーグナー 歌劇「ローエングリン」(Lohengrin) 新郎新婦の入場の時よく演奏される。
*歌劇「ローエングリン」から「婚礼の合唱」
セルゲイ・ラフマニノフ アレンジの達人 ピアノ一台でやったらどうかと 編曲
*劇音楽「夏の夜の夢」からスケルツォ
メンデルスゾーンが自分でピアノを弾きながら作曲しているので、最初はこうだったんじゃないかと言う思いで、メンデルスゾーンが好きでこんなアレンジを残したのではないかと思います。
19世紀から20世紀にかけて、ウイーンフィルのコンサートマスター、音楽院のバイオリンの先生として大活躍した、作曲家ヨーゼフ・ヘルメスベルガー
*妖精の踊り(メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」の軽やかな音楽をもとにして軽やかな音楽を書いたという)
ジャズのミュージシャンも影響を受けて、「春の歌」を神山純一さんが編曲 トーマス・ハーデン・トリオ
*メンデルスゾーンの「春の歌」(トーマス・ハーデン・トリオ演奏)
2016年10月22日土曜日
はた よしこ(ボーダレス・アートミュージアム、ディレクター)・障害者のアートの魅力
はた よしこ(ボーダレス・アートミュージアムNO-MAアートディレクター) ・障害者のアートの魅力
66歳 滋賀県近江八幡市 ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターを務めています。
NOMAは障害者の作品アールブリュットと一般の作家の作品を並列に展示する全国でも珍しいミュージアムで、社会福祉法人グローが運営しています。
はたさんはこのミュージアムに平成16年の設立前から関わっています。
これまでに滋賀県内だけでなく全国のアールブリュットの作家と作品を発掘して世界にも紹介して、その魅力を伝えています。
ここは野間さんという方が住んでいた家です。
ノーマライゼーション(normalization 障害者や高齢者がほかの人々と等しく生きる社会・福祉環境の整備,実現を目指す考え方。)とかけ合わせた名前です。
ブリュットはフランス語でワインとかがまだ完全に熟成していない、それがブリュットといって、まだ完成していない生のままの芸術という意味です。
ジャン・デュビュッフェという作家がいてその方が専門的な教育を受けなくても自由に自分の心の中に沸いて来る、そういうのが生の芸術ということだと思います。
障害が有る人も無い人も自分の中にイメージを形にしたいと言うことは一緒で、両方並べてみると、障害が特殊ではないんだと言う事を伝えたいと思ってこういうミュージアムを作る元になりました。(ボーダレス)
精神障害、知的障害が有る人も一般の人も並列に展示して居ます。
「楽園の夢」と題した企画展を開催中。
桜水孝一さん(精神障害の方)
大きくキリストが描かれていて下に人々がお互いに手を差し伸べあっている絵
彼自身がクリスチャンなのでクリスチャンの場面を一杯描いています。
岩瀬俊一さん(知的障害者の方)
黒地に銀色の細いペンでびっしりと人、髪の毛(螺髪のよう)、服が描かれている。
会話はほとんで出来ない方です。
画材は施設の担当者が用意し選んでもらいます。
山崎利幸さん(サラリーマンの方)
長く鉛筆の芯にアルファベット文字が彫ってある。
東健次さん(故人)
20~30cmぐらいの高さの円筒形の椅子の様な形をした陶芸の作品 9こある。くもを表現
三重県松坂市にオブジェぎっしりと並んでいる陶芸作品、35年ぐらいずーっと作ってきました。
松浦 萌 さん(20代前半の知的障害の方)
色とりどりのビニールテープを使っていろんな形を作っている、人、動物などが、数cmの大きさで作られていて、透明なアクリル板にその作品が貼り付けられている。
家でずーっと作っていたようで、直ぐ作ってしまうようです。
美術大学にいっていた人と障害者の人とは普通は全然違う世界だと思うが、自分自身美術を学んでいたが、近くにいた障害者の子が面白い絵を描いていて、凄いなあとその頃から注目した記憶が有ります。
頭の中にあるイメージを形にするということは共通しています、表現はボーダレスだと思います。
画用紙の下に小さい点が20個ほどあって、それがものすごい衝撃でした、知的障害の展覧会でした。(30年前)
一緒に描きたいと押し掛けて行ったが、役に立たないボランティアはいりませんと言われてしまった。
或るときすずかけ作業所と言いう知的障害の現場でした、兵庫県西宮市です。
そこに絵画クラブを作りました。
富塚純光さん(絵を描いてお話まで描きました)
舛次崇(しゅうじたかし)さん(ダウン症の方 何かものを置かないと描かない、あると描きやすいようです)
私は絵本、絵をなどを描いていましたが、バランスを考えたりして詰らなくなり、自分では絵を描かなくなりましたが、アールブリュットの世界にのめり込んでいって、絵を描かなくなっても十分幸せです。
欧米ではアールブリュットは作品の価値が認められています。
日本でも今は買いたいと言う人が増えていますが、散逸しないようにという事で売買はしていません。
日本でもアールブリュットの代表的な作家
澤田真一さん 陶芸作家 顔、埴輪の様な形に小さな突起がいっぱいついている作品
美術という概念が無く自分の心を落ち着ける、呼吸をするのと一緒です。(海外でも知られている)
本岡秀則さん 電車の顔 18段ある。
水谷伸郎さん 電車が紙折って立体的に作っている。7~9両
蒲生卓也さん 猫の作品 振り返る様にしてこちらを見ていて、等高線で描かれ立体感が有る。
2008年 スイスのアールブリュット専門の美術館と連携して現地で日本の作品を展示していただきました。
2010年、パリの市立美術館が主催してアールブリュットジャポネが開かれました。
沢山のお客さんが熱心に観ていました。
ダウン症の人は大胆な絵を描くが日本でも欧米でも一緒だった。
自閉症の方は細かいことに拘る、これも共通している、殆ど共通する事が多いです。
言葉で話さない、話せない、物を作ったり描くことは言葉の代わりなんですね。
殆どの人が消したりすることは一切せずに、一発で描きます、それは凄いです。
66歳 滋賀県近江八幡市 ボーダレス・アートミュージアムNO-MAのアートディレクターを務めています。
NOMAは障害者の作品アールブリュットと一般の作家の作品を並列に展示する全国でも珍しいミュージアムで、社会福祉法人グローが運営しています。
はたさんはこのミュージアムに平成16年の設立前から関わっています。
これまでに滋賀県内だけでなく全国のアールブリュットの作家と作品を発掘して世界にも紹介して、その魅力を伝えています。
ここは野間さんという方が住んでいた家です。
ノーマライゼーション(normalization 障害者や高齢者がほかの人々と等しく生きる社会・福祉環境の整備,実現を目指す考え方。)とかけ合わせた名前です。
ブリュットはフランス語でワインとかがまだ完全に熟成していない、それがブリュットといって、まだ完成していない生のままの芸術という意味です。
ジャン・デュビュッフェという作家がいてその方が専門的な教育を受けなくても自由に自分の心の中に沸いて来る、そういうのが生の芸術ということだと思います。
障害が有る人も無い人も自分の中にイメージを形にしたいと言うことは一緒で、両方並べてみると、障害が特殊ではないんだと言う事を伝えたいと思ってこういうミュージアムを作る元になりました。(ボーダレス)
精神障害、知的障害が有る人も一般の人も並列に展示して居ます。
「楽園の夢」と題した企画展を開催中。
桜水孝一さん(精神障害の方)
大きくキリストが描かれていて下に人々がお互いに手を差し伸べあっている絵
彼自身がクリスチャンなのでクリスチャンの場面を一杯描いています。
岩瀬俊一さん(知的障害者の方)
黒地に銀色の細いペンでびっしりと人、髪の毛(螺髪のよう)、服が描かれている。
会話はほとんで出来ない方です。
画材は施設の担当者が用意し選んでもらいます。
山崎利幸さん(サラリーマンの方)
長く鉛筆の芯にアルファベット文字が彫ってある。
東健次さん(故人)
20~30cmぐらいの高さの円筒形の椅子の様な形をした陶芸の作品 9こある。くもを表現
三重県松坂市にオブジェぎっしりと並んでいる陶芸作品、35年ぐらいずーっと作ってきました。
松浦 萌 さん(20代前半の知的障害の方)
色とりどりのビニールテープを使っていろんな形を作っている、人、動物などが、数cmの大きさで作られていて、透明なアクリル板にその作品が貼り付けられている。
家でずーっと作っていたようで、直ぐ作ってしまうようです。
美術大学にいっていた人と障害者の人とは普通は全然違う世界だと思うが、自分自身美術を学んでいたが、近くにいた障害者の子が面白い絵を描いていて、凄いなあとその頃から注目した記憶が有ります。
頭の中にあるイメージを形にするということは共通しています、表現はボーダレスだと思います。
画用紙の下に小さい点が20個ほどあって、それがものすごい衝撃でした、知的障害の展覧会でした。(30年前)
一緒に描きたいと押し掛けて行ったが、役に立たないボランティアはいりませんと言われてしまった。
或るときすずかけ作業所と言いう知的障害の現場でした、兵庫県西宮市です。
そこに絵画クラブを作りました。
富塚純光さん(絵を描いてお話まで描きました)
舛次崇(しゅうじたかし)さん(ダウン症の方 何かものを置かないと描かない、あると描きやすいようです)
私は絵本、絵をなどを描いていましたが、バランスを考えたりして詰らなくなり、自分では絵を描かなくなりましたが、アールブリュットの世界にのめり込んでいって、絵を描かなくなっても十分幸せです。
欧米ではアールブリュットは作品の価値が認められています。
日本でも今は買いたいと言う人が増えていますが、散逸しないようにという事で売買はしていません。
日本でもアールブリュットの代表的な作家
澤田真一さん 陶芸作家 顔、埴輪の様な形に小さな突起がいっぱいついている作品
美術という概念が無く自分の心を落ち着ける、呼吸をするのと一緒です。(海外でも知られている)
本岡秀則さん 電車の顔 18段ある。
水谷伸郎さん 電車が紙折って立体的に作っている。7~9両
蒲生卓也さん 猫の作品 振り返る様にしてこちらを見ていて、等高線で描かれ立体感が有る。
2008年 スイスのアールブリュット専門の美術館と連携して現地で日本の作品を展示していただきました。
2010年、パリの市立美術館が主催してアールブリュットジャポネが開かれました。
沢山のお客さんが熱心に観ていました。
ダウン症の人は大胆な絵を描くが日本でも欧米でも一緒だった。
自閉症の方は細かいことに拘る、これも共通している、殆ど共通する事が多いです。
言葉で話さない、話せない、物を作ったり描くことは言葉の代わりなんですね。
殆どの人が消したりすることは一切せずに、一発で描きます、それは凄いです。
2016年10月21日金曜日
むの たけじ(反戦ジャーナリス) ・今こそ叫ぶ“戦争は人類の大犯罪”
むの たけじ(反戦ジャーナリス) ・今こそ叫ぶ“戦争は人類の大犯罪”
1915年大正4年、秋田県生まれのむのさんは大学卒業後新聞記者として、中国やインドネシアの戦場を取材しました。
しかし、終戦を迎えた8月15日、戦争に負けると知りながらその事実を伝えられなかった。
社会情勢に流された自分をゆるせないと、新聞社を辞めます。
故郷秋田に戻り、地方から日本を変えようと、週刊新聞「たいまつ」を創刊。
昭和21年から30年間発行しました。
その後むのさんは戦争や平和をテーマにした本の執筆や講演を続け、100歳を越えても命が続く限り、反戦を訴えると精力的に活動してきましたが、今年 8月21日未明老衰のため亡くなりました、101歳でした。
昨年8月13日戦争インタビューシリーズとして放送したもの。
過去70年間の中、戦争が無かったので戦死者を出さなかった。
その中で育ったのが今の若者、戦争のない世の中、こういう人類の状態を作らなければいけない。
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃をしてから、ベトナム、シンガポール、インドネシアに行きましたが、戦場に行けば殺すか、殺されるかだけ、それが戦場なんです。
異常な恐怖感もあるし、妙な緊張状態で4日もつづかない、そうすると普通の道徳感情がなくなって後は本能のまにまに、何とかなれやと、普通の人が持っているいる道徳感情が無くなる。
女性を襲う、物を取る、証拠隠滅するために火を付ける、そういう悪態をずーっとやってきた。
日本の場合は太平洋戦争に移った時はこれをやると相手の国から憎まれ大変なことになると判ったから、占領地の女性を襲うと銃殺、厳しくやった。
その前は戦場ではあらゆる悪態をずーっと続けてきた。
こういう野蛮なことをやって、戦争をやって作られる世の中はどうして人間を幸福にできますか。
1943年1月に日本に戻ってくる。
戦争の内容が伝わってきていなかった。
個人は無く、国家と軍隊しかなかった。
国内ではみんな協力してやらなければいけないというムードが有り、それに背くのは非国民、国賊だと言われて、国民同士でお互いを監視するようになる。
昭和19年後半からアメリカは日本国内を狙う様になる。
県庁所在地を野獣の様な攻撃の仕方で潰してきた。
新聞は発表しなかった。
新聞社内でも話題をしなくなった、国家警察、憲兵隊に判ると問題にされる様な思想や行動を持っていることが知られると一番恐ろしいので秘密にしようとする。
そうすると見ざる言わざる聞かざるになってしまった。
大空襲にあっても陸軍は被害軽微なりと発表をする。
積極的な行動力はどんどんしぼんでゆき、自分を自分でコントロールして、出来るだけ目立たない様にする、それが戦争。
大空襲の前に子供の様子がおかしくなり、病院に行っても医者も軍に持って行かれていなくて、待つように言われたが、時々吐いたが、童謡を歌って、そうこうするうちに息を引き取った。
親が全然守ってやれなかった無念さ、だから戦争は絶対に無くさないといけない。
子供が亡くなって働く意欲が無くなって、3~4日たってから会社のデスクなど4人が来て元気付けようとした。
戦争は人類が作った最大の犯罪だと思います。
秋田県の小さな工場でも200人も殺されている。(8月14日)
私はアメリカが爆弾を国に持って帰るのが面倒だから撒き散らしたと思っている。
自分達で運命を切り開いていくという事が全然できなかった、今も続いている、はっきり言って。
1945年8月14日の朝日新聞、頑張ってますと言う様な記事があったりする。
軍人の頭をぶんなぐるつもりで号外でも出せば、世界紙を作る新聞になったと思う。
やりたかった、何でやれなかったのか。
社会、情勢の中をただ引きずられて流れてきた自分を自分で許せないから、会社を辞めた。
辞めて自分を見なければいけないと思った。
戦争をやめさせるには、戦争を始めてしまってからでは駄目だ、国民は抵抗のしようがない。
一方が服従させるか、共倒れする、そこまで行くものが戦争だとはっきりしている。
戦争が終わって電灯がともっただけで、こんなに幸せなのかと、人々の会話はそれだけだった、それほどみじめな状態、戦争は自分達が計画してやったと言う事を全部忘れてしまっていた。
戦争の締めくくりとして国民はどんな責任を負わなければいけないか、何も考えていなかった。
朝日新聞を辞めてから、勉強したり、政治団体を見に行ったり、文章を書いたりしていたが、新聞を出そうと思った。
大事なことは教育、農業が大事だと思って、秋田に帰って、新聞を発行する事になる。
「たいまつ」 自分の身体を燃やしてやるしかないと思ってこのような名前にした。
自分の問題として、みんなで考える様な記事、問題提起した。
一緒に考えて、一緒に判断して、一緒に手を握り合って、あるだけの力で頑張るこれをやればいい、そうすれば戦争も辞めうるわけ。
みんながそうなれば半年で世の中は変わる。
戦争を始めるときは、国民は全然わからない、戦争をやろうとする政府軍隊は先ず敵に秘密を知られないために色んな事をするが、それ以上に自分の国の国民をだます。
そうしないと戦争は出来ないから、戦争は突然どこかを襲う。
今の世の中どうなっているか、先ず事実を見ること、そうするといろんな矛盾が有る。
第三次世界大戦をどうしても喰い留めないといけない。
新聞、TVの報道、ジャーナリズムとはジャーナル(日記 個人) ジャーナリズムは社会の日記、ジャーナリズムは社会の日記なので例えば火事は原因はどうなのか、昨日危険が判らなかったのか前後左右を調べるのがジャーナリズム、社会の日記、新聞やTVなどのニュースは前後左右、昨日、今日、明日とかかわりをやる、そうすればなんで戦争が起きたのか国民に訴え得る。
今の若い人には喜怒哀楽、自分を存分に表現してほしい、我々の時代は喜怒哀楽を抑えることが立派な人間だと言われてきた。(騙されてきた)
自分の人生やるだけやったと、そうすれば戦争は無くなるし、人間と人間が喜びあえる、力を合わせる世の中に移っていくぞと思えば、にこにこ笑ってあの世にいくと思う。
1915年大正4年、秋田県生まれのむのさんは大学卒業後新聞記者として、中国やインドネシアの戦場を取材しました。
しかし、終戦を迎えた8月15日、戦争に負けると知りながらその事実を伝えられなかった。
社会情勢に流された自分をゆるせないと、新聞社を辞めます。
故郷秋田に戻り、地方から日本を変えようと、週刊新聞「たいまつ」を創刊。
昭和21年から30年間発行しました。
その後むのさんは戦争や平和をテーマにした本の執筆や講演を続け、100歳を越えても命が続く限り、反戦を訴えると精力的に活動してきましたが、今年 8月21日未明老衰のため亡くなりました、101歳でした。
昨年8月13日戦争インタビューシリーズとして放送したもの。
過去70年間の中、戦争が無かったので戦死者を出さなかった。
その中で育ったのが今の若者、戦争のない世の中、こういう人類の状態を作らなければいけない。
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃をしてから、ベトナム、シンガポール、インドネシアに行きましたが、戦場に行けば殺すか、殺されるかだけ、それが戦場なんです。
異常な恐怖感もあるし、妙な緊張状態で4日もつづかない、そうすると普通の道徳感情がなくなって後は本能のまにまに、何とかなれやと、普通の人が持っているいる道徳感情が無くなる。
女性を襲う、物を取る、証拠隠滅するために火を付ける、そういう悪態をずーっとやってきた。
日本の場合は太平洋戦争に移った時はこれをやると相手の国から憎まれ大変なことになると判ったから、占領地の女性を襲うと銃殺、厳しくやった。
その前は戦場ではあらゆる悪態をずーっと続けてきた。
こういう野蛮なことをやって、戦争をやって作られる世の中はどうして人間を幸福にできますか。
1943年1月に日本に戻ってくる。
戦争の内容が伝わってきていなかった。
個人は無く、国家と軍隊しかなかった。
国内ではみんな協力してやらなければいけないというムードが有り、それに背くのは非国民、国賊だと言われて、国民同士でお互いを監視するようになる。
昭和19年後半からアメリカは日本国内を狙う様になる。
県庁所在地を野獣の様な攻撃の仕方で潰してきた。
新聞は発表しなかった。
新聞社内でも話題をしなくなった、国家警察、憲兵隊に判ると問題にされる様な思想や行動を持っていることが知られると一番恐ろしいので秘密にしようとする。
そうすると見ざる言わざる聞かざるになってしまった。
大空襲にあっても陸軍は被害軽微なりと発表をする。
積極的な行動力はどんどんしぼんでゆき、自分を自分でコントロールして、出来るだけ目立たない様にする、それが戦争。
大空襲の前に子供の様子がおかしくなり、病院に行っても医者も軍に持って行かれていなくて、待つように言われたが、時々吐いたが、童謡を歌って、そうこうするうちに息を引き取った。
親が全然守ってやれなかった無念さ、だから戦争は絶対に無くさないといけない。
子供が亡くなって働く意欲が無くなって、3~4日たってから会社のデスクなど4人が来て元気付けようとした。
戦争は人類が作った最大の犯罪だと思います。
秋田県の小さな工場でも200人も殺されている。(8月14日)
私はアメリカが爆弾を国に持って帰るのが面倒だから撒き散らしたと思っている。
自分達で運命を切り開いていくという事が全然できなかった、今も続いている、はっきり言って。
1945年8月14日の朝日新聞、頑張ってますと言う様な記事があったりする。
軍人の頭をぶんなぐるつもりで号外でも出せば、世界紙を作る新聞になったと思う。
やりたかった、何でやれなかったのか。
社会、情勢の中をただ引きずられて流れてきた自分を自分で許せないから、会社を辞めた。
辞めて自分を見なければいけないと思った。
戦争をやめさせるには、戦争を始めてしまってからでは駄目だ、国民は抵抗のしようがない。
一方が服従させるか、共倒れする、そこまで行くものが戦争だとはっきりしている。
戦争が終わって電灯がともっただけで、こんなに幸せなのかと、人々の会話はそれだけだった、それほどみじめな状態、戦争は自分達が計画してやったと言う事を全部忘れてしまっていた。
戦争の締めくくりとして国民はどんな責任を負わなければいけないか、何も考えていなかった。
朝日新聞を辞めてから、勉強したり、政治団体を見に行ったり、文章を書いたりしていたが、新聞を出そうと思った。
大事なことは教育、農業が大事だと思って、秋田に帰って、新聞を発行する事になる。
「たいまつ」 自分の身体を燃やしてやるしかないと思ってこのような名前にした。
自分の問題として、みんなで考える様な記事、問題提起した。
一緒に考えて、一緒に判断して、一緒に手を握り合って、あるだけの力で頑張るこれをやればいい、そうすれば戦争も辞めうるわけ。
みんながそうなれば半年で世の中は変わる。
戦争を始めるときは、国民は全然わからない、戦争をやろうとする政府軍隊は先ず敵に秘密を知られないために色んな事をするが、それ以上に自分の国の国民をだます。
そうしないと戦争は出来ないから、戦争は突然どこかを襲う。
今の世の中どうなっているか、先ず事実を見ること、そうするといろんな矛盾が有る。
第三次世界大戦をどうしても喰い留めないといけない。
新聞、TVの報道、ジャーナリズムとはジャーナル(日記 個人) ジャーナリズムは社会の日記、ジャーナリズムは社会の日記なので例えば火事は原因はどうなのか、昨日危険が判らなかったのか前後左右を調べるのがジャーナリズム、社会の日記、新聞やTVなどのニュースは前後左右、昨日、今日、明日とかかわりをやる、そうすればなんで戦争が起きたのか国民に訴え得る。
今の若い人には喜怒哀楽、自分を存分に表現してほしい、我々の時代は喜怒哀楽を抑えることが立派な人間だと言われてきた。(騙されてきた)
自分の人生やるだけやったと、そうすれば戦争は無くなるし、人間と人間が喜びあえる、力を合わせる世の中に移っていくぞと思えば、にこにこ笑ってあの世にいくと思う。
2016年10月20日木曜日
矢島純一(プロボウラー) ・70歳、シニア世界一
矢島純一(プロボウラー) ・70歳、シニア世界一
来年でプロ生活50年になる矢島さん、41回の優勝と公認パーフェクト28回を誇ります。
今年6月にアメリカで行われたシニア世界大会で日本のプロボウラ―として初めて優勝しました。
選手層が厚くパワーを持つアメリカの大会で優勝するのは大変難しいと言います。
ボウリングは1970年ごろから年齢や男女をとわず手軽であまり経験のない人でも出来るスポーツとして大変盛んでした。
矢島さんは1967年、昭和42年に日本プロボウリング協会設立と同時にプロ一期生として活躍しました。
矢島さんの安定した綺麗なフォームからのボールはとても破壊力が有ります。
当時と比べると競技人口は減りましたが、シニアの皆さんにはなじみやすいスポーツとしてまだまだ人気が有ります。
173cm、75kg 10年以上前に比べると今の方が体調がいいかもしれません。
トレーニングで84kgから75kgに落としていい状態です。
昭和42年に日本プロボウリング協会設立し、一期生が19名でした。(私は21歳でした)
一期生で現役は私一人です。
発足時から右手首の腱症炎を起こしていました。
発足記念大会に参加したくて、医者と相談して、当日注射を打って参加しました。
全く痛くなくて、予選6ゲーム、決勝で2ピン差で優勝しました。
その年の6月以降は投げられず、治療をしました。
その後よくなったり悪くなったり繰り返しをしました。(8カ月ぐらいボールを握れない時もありました)
綺麗なフォームは無駄な力が無い、ピークで力を入れる。
今年6月にアメリカで行われたシニア世界大会で日本のプロボウラーとして初めて優勝しました。
ラスベガスで行われ、参加資格は60歳以上で、127名参加しました。
70歳代の選手は10名ぐらいで後は殆ど60歳をちょっと超えたぐらいの人が多かったです。
2日間で16ゲームが予選、準決勝4ゲーム、20ゲームで上位5名が勝ちあがりする。
私は3位で通過、下からの人とやって勝って、2位の人とやって勝ちました。合計23ゲーム
アメリカは乾燥して居るので手首には良かったようです。
成田に着いた途端に汗が凄く出て体調が急に悪くなりました。
アメリカでは指が滑るのでその対策をしたのが良かったと思います。
中野ボウリング場で働いていて、普段は第二、四の金曜日スクールをやっていて、第二、第
四土曜日は26名でリーグ戦をやっています。
個人レッスンなどをやっています。
1970年代ボウリングが大盛況でした。
昭和44年に女子プロの一期生が誕生してその頃から爆発的に増えました。
昭和20年8月14日に新宿で生まれました。
物心ついたころの記憶ですが、10人ぐらい従業員がいた割烹屋をやっていたので食べ物に困ったという記憶はなかったです。
中学、高校ではバスケットをやっていました。
大学に行ってバスケットをやろうと思っていました。
ボウリングは高校1年生の時から始めました。
点数の付け方も判らなくて、計算してもらって、初めての時に186点出てしまいましたが、良い点数かどうかも判らなかった。
渋谷区に引っ越して父が酒屋をやって、大学に行かなくていいから後を継いでほしいと言われて、近くのボウリング場で練習をしたりしていた。
練習していたら、インストラクター(石川さん 後に一期生となる)が来て良い素質が有ると言われて、近々プロの協会ができるので、一緒にやらないかと誘われた。
父に説得してくれたが父親は駄目だと断っていたが、母が昔アメリカに行ったこともありボウリングをして投げたこともあると言う事で、1年間だけやってみてはという事で、翌年高校卒業後、或るボウリング場に就職しました。
インストラクター、プロを目指す人達が10人ぐらいでの合同練習が有り、入って10日目だったがパーフェクトを出してしまう。
日本でもなかなか出せない頃で、公認、非公認含めて7番目だった。
お金を出してゲームをしていたのが、お金をもらってやる様になり、下手なことはできないと1日40ゲームぐらいやっていました。
本当にプロとしてやっていけるのかなあとの不安はありました。
1972年、4000近くボウリング場が有った。(13~14万レーンぐらい)
朝5時には30人ぐらいいました。(その前に整備したり練習をしていた)
昨年は800強ぐらいになってしまいました。
本格的にトレーニングをしなければいけないと思ったのが15年前ぐらいからです。
食べること、トレーニング(筋肉を柔らかくするトレーニング)
バーベルを下げるときにも力を抜かない。(特殊な方法)
60歳から始めても筋力は付くが時間がかかる。(1~2年ではつかない)
出来る限り現役続行したい、そのためにはやるべきころはたくさんあるが。
50年間一つのことに集中して生きてこられたと言う事を思うと、ボウリングは自分の命だと思います。
来年でプロ生活50年になる矢島さん、41回の優勝と公認パーフェクト28回を誇ります。
今年6月にアメリカで行われたシニア世界大会で日本のプロボウラ―として初めて優勝しました。
選手層が厚くパワーを持つアメリカの大会で優勝するのは大変難しいと言います。
ボウリングは1970年ごろから年齢や男女をとわず手軽であまり経験のない人でも出来るスポーツとして大変盛んでした。
矢島さんは1967年、昭和42年に日本プロボウリング協会設立と同時にプロ一期生として活躍しました。
矢島さんの安定した綺麗なフォームからのボールはとても破壊力が有ります。
当時と比べると競技人口は減りましたが、シニアの皆さんにはなじみやすいスポーツとしてまだまだ人気が有ります。
173cm、75kg 10年以上前に比べると今の方が体調がいいかもしれません。
トレーニングで84kgから75kgに落としていい状態です。
昭和42年に日本プロボウリング協会設立し、一期生が19名でした。(私は21歳でした)
一期生で現役は私一人です。
発足時から右手首の腱症炎を起こしていました。
発足記念大会に参加したくて、医者と相談して、当日注射を打って参加しました。
全く痛くなくて、予選6ゲーム、決勝で2ピン差で優勝しました。
その年の6月以降は投げられず、治療をしました。
その後よくなったり悪くなったり繰り返しをしました。(8カ月ぐらいボールを握れない時もありました)
綺麗なフォームは無駄な力が無い、ピークで力を入れる。
今年6月にアメリカで行われたシニア世界大会で日本のプロボウラーとして初めて優勝しました。
ラスベガスで行われ、参加資格は60歳以上で、127名参加しました。
70歳代の選手は10名ぐらいで後は殆ど60歳をちょっと超えたぐらいの人が多かったです。
2日間で16ゲームが予選、準決勝4ゲーム、20ゲームで上位5名が勝ちあがりする。
私は3位で通過、下からの人とやって勝って、2位の人とやって勝ちました。合計23ゲーム
アメリカは乾燥して居るので手首には良かったようです。
成田に着いた途端に汗が凄く出て体調が急に悪くなりました。
アメリカでは指が滑るのでその対策をしたのが良かったと思います。
中野ボウリング場で働いていて、普段は第二、四の金曜日スクールをやっていて、第二、第
四土曜日は26名でリーグ戦をやっています。
個人レッスンなどをやっています。
1970年代ボウリングが大盛況でした。
昭和44年に女子プロの一期生が誕生してその頃から爆発的に増えました。
昭和20年8月14日に新宿で生まれました。
物心ついたころの記憶ですが、10人ぐらい従業員がいた割烹屋をやっていたので食べ物に困ったという記憶はなかったです。
中学、高校ではバスケットをやっていました。
大学に行ってバスケットをやろうと思っていました。
ボウリングは高校1年生の時から始めました。
点数の付け方も判らなくて、計算してもらって、初めての時に186点出てしまいましたが、良い点数かどうかも判らなかった。
渋谷区に引っ越して父が酒屋をやって、大学に行かなくていいから後を継いでほしいと言われて、近くのボウリング場で練習をしたりしていた。
練習していたら、インストラクター(石川さん 後に一期生となる)が来て良い素質が有ると言われて、近々プロの協会ができるので、一緒にやらないかと誘われた。
父に説得してくれたが父親は駄目だと断っていたが、母が昔アメリカに行ったこともありボウリングをして投げたこともあると言う事で、1年間だけやってみてはという事で、翌年高校卒業後、或るボウリング場に就職しました。
インストラクター、プロを目指す人達が10人ぐらいでの合同練習が有り、入って10日目だったがパーフェクトを出してしまう。
日本でもなかなか出せない頃で、公認、非公認含めて7番目だった。
お金を出してゲームをしていたのが、お金をもらってやる様になり、下手なことはできないと1日40ゲームぐらいやっていました。
本当にプロとしてやっていけるのかなあとの不安はありました。
1972年、4000近くボウリング場が有った。(13~14万レーンぐらい)
朝5時には30人ぐらいいました。(その前に整備したり練習をしていた)
昨年は800強ぐらいになってしまいました。
本格的にトレーニングをしなければいけないと思ったのが15年前ぐらいからです。
食べること、トレーニング(筋肉を柔らかくするトレーニング)
バーベルを下げるときにも力を抜かない。(特殊な方法)
60歳から始めても筋力は付くが時間がかかる。(1~2年ではつかない)
出来る限り現役続行したい、そのためにはやるべきころはたくさんあるが。
50年間一つのことに集中して生きてこられたと言う事を思うと、ボウリングは自分の命だと思います。
2016年10月19日水曜日
花千代(フラワーアーティスト) ・大胆、華麗に 転身人生(2)
花千代(フラワーアーティスト) ・大胆、華麗に 転身人生(2)
フランスで和風なブーケだったら売れるかなあと思ったが、すでにやっている人がいて無理だと思って、日本に帰って、果物と花の組みあわせたスタイルならまだ誰もやっていなかったのでこれなら大丈夫かと思って、4年で切り上げて、日本に帰ってきて、300万円何とかかき集めて有限会社を立ち上げました。
最初は注文が無かったが、お花の家元、歌舞伎役者、宝塚のスターなどを知っていたので、挨拶に行って、営業を開始しました。
薔薇とキャベツとか、りんご、オレンジに蘭とか、今までにないと言って、喜んでもらい、口コミで広がって行きました。
料理のサークルの友達から、お花の教室が有るのかとの問い合わせなどもあり、教室も開始しました。
コスト管理、仕入れた花を生けるにあたっては、下ごしらえが必要だが、甘くて届けたら枯れていたとか、間違ったところに間違ったものを届けたとか、メッセージカードを名前を一字間違えたとか、大クレームがあったりしました。
マニュアルを作ってミスのない様になるまでには少し時間がかかりました。
フランスの花は珍しいので、求められているものがカラフルというスタイルを追求してゆく事、バリエーションを増やさないといけないとかは考えていたことで、デコレーションとしての一部、空間規模のものをやりたかったが、1年ぐらいジレンマが有りました。
ホテルの仕事をしてから、空間全体を出来る様な大きな仕事が舞い込んできました。
北海道にウインザーホテルがありクローズされていたが、窪山哲雄さんがもったいないと思って、ラグジュアリーリゾートホテルを作りたいと言う事で、食のほかに空間を構成する物に、花が無くてはならないと言う事で、全く違う感覚で花を生ける人を探していると言う事で、プレゼンテーションをしようと言うことで、面白いと言う事になりました。
パリでどの花が一番心に刺さったのかを問われて、1年前にリニューアルオープンしたフォーシーズンパリの花は本当に夢の様な花で、この花を作るジェフ・リーサムさんには凄く影響を受けましたと言いました。
窪山さんも同様に吃驚したと言ってくれ、方向性が一致したと思い、一週間後に採用の通知が来ました。
ホテル全館のフラワーアートディレクターとしてやってもらいたいと言う事になりました。
10何mの空間を飾るために、2週間に一回、11年半北海道に通い続けました。
空間を表現するためにと思っていたが、ようやく来たかといった感じです。
花器もなかったのでパリのメゾンデオブジェという1年に一回パリで行われるヨーロッパ1のインテリアの祭典が有るが、そこで買い付けからまかされました。
色んな事に関わって一からやらさせてもらいました。
ホテルの仕事を始めてから半年後ぐらいから大きな仕事の話が入ってきました。
コンセプトとしては、色々な引き出しが有るので、過去の色んなアーカイブの中から、旅をした時の美しいもの、読んだものなどの引き出しが有るので、その中から組み合わせをしたりして2週間に一回の対応、そのほかの仕事などに対応をしてきました。
サミットもありましたが、ご夫妻そろってのオフィシャル晩さん会は一回しか無くて、畳の部屋で行われたので、そこの卓上場を担当しましたが、和を表現してもらいたいと言う事で青竹を割ったものに季節の花を長く活けて、ウエーティングルームでは七夕が近かったので、小さな試験管を100本以上用意して上からつるして、撫子など和の花を生けてクーラーの風で揺らぐようにしました。
花や植物を使っている以上生き物なので、そこから発せられる生命の躍動感みたいなものは表したいと思っています。
ホテルの仕事を始めて3~4年経ってから、家具デザイナーとのコラボ、その後アクセサリー、シューズ、舞台など、映像とのコラボはズーッと定期的にやってきました。
花を使わなくても面白い空間構成やデコレーション出来るので、テーブルコーディネートに繋がってくる。
仕事というのは人が人を呼ぶようなところもあるので、常に面白いものを発信しているなという空気やムードは大事だと思います。
作品プラス人なので、表に出ていた方が仕事を呼び込み易いと思います。
行動しないと、家から出ないと何も生まれないので、一人で行動することを恐れないと言うのが第一歩だと思います。
北方謙三さんの人生相談があってそういったものを一回やってみたいと思った。
恋愛、職場での人間関係、転職留学、いい人との出会いがない、結婚などに集約され、一年程度で終わってしまったが、楽しかったです。
女性にとっていい人とは、条件にあったいい人、女性の方で条件を決めてしまう人が多い、年収、肩書き、長男、次男とか、そういったものを取っ払ってしまえばいいと思う。
無条件に好きだと言う事で有れば、経済的なものがどうであろうと幸せに暮らせると思う。
先ずは自分が好きな世界を追及すると、貴方は多分輝いているんで、そこに魅かれる男性も出てくる。
自分自身を確立することがまず大事です。
夫は以前2回結婚していて、子供も前妻の子も6人いてみんなハーフだし、年齢も彼とは10何歳離れているし、周りからは反対の意見もありましたが、彼とは笑顔で生活できる感覚があって、そこがポイントでした。
夫婦けんかもしますが、基本的には笑顔で過ごしています。
出会って11年目、入籍してから7年になりますが、外に出るときはいつも手をつないでいます。
私も結婚した時が40歳を越えていました。
彼は外人でありながら日本に何十年も住んでいて、寿司や和食が大好きで、主人の香港の友達がホテルのオーナーで和食が大好きで、手つかずのロビースペースが有り、素敵なお寿司屋さんを連れてこられないかという事で主人がそれを受けて、それが海外向けのレストランフードコンサルティングが始まった訳です。
マカオのホテルでも寿司だけではなく、鉄板焼とかてんぷら、ラーメンもあり、シェフの方にトレーニングしてもらった板前さんをマカオの方にマッチングさせて、という様なことをトータルでやり始めました。
築地から空輸の流通の手配とかまでやり始めました。
世界のワインの動向を決めると言うロバート・パーカーと言う人がいて、パーカーポイントで今年初めてワイン以外に日本酒を評価しました。
日本食と共に日本酒を世界に広げていこうと言うので、10月にニューヨークのワインオークションとしては最もおおきいニューヨークのオークションハウスが有るが、オークションに参加する人に向けて、前夜祭にプロモーションも兼ねていこうと言う事で日本酒をテイスティングしてもらおうとしています。
今まで積み重ねてきた過去の蓄積があるので、次に何か新しい仕事にポンと行っても繋がる様な気がします。
フランスで和風なブーケだったら売れるかなあと思ったが、すでにやっている人がいて無理だと思って、日本に帰って、果物と花の組みあわせたスタイルならまだ誰もやっていなかったのでこれなら大丈夫かと思って、4年で切り上げて、日本に帰ってきて、300万円何とかかき集めて有限会社を立ち上げました。
最初は注文が無かったが、お花の家元、歌舞伎役者、宝塚のスターなどを知っていたので、挨拶に行って、営業を開始しました。
薔薇とキャベツとか、りんご、オレンジに蘭とか、今までにないと言って、喜んでもらい、口コミで広がって行きました。
料理のサークルの友達から、お花の教室が有るのかとの問い合わせなどもあり、教室も開始しました。
コスト管理、仕入れた花を生けるにあたっては、下ごしらえが必要だが、甘くて届けたら枯れていたとか、間違ったところに間違ったものを届けたとか、メッセージカードを名前を一字間違えたとか、大クレームがあったりしました。
マニュアルを作ってミスのない様になるまでには少し時間がかかりました。
フランスの花は珍しいので、求められているものがカラフルというスタイルを追求してゆく事、バリエーションを増やさないといけないとかは考えていたことで、デコレーションとしての一部、空間規模のものをやりたかったが、1年ぐらいジレンマが有りました。
ホテルの仕事をしてから、空間全体を出来る様な大きな仕事が舞い込んできました。
北海道にウインザーホテルがありクローズされていたが、窪山哲雄さんがもったいないと思って、ラグジュアリーリゾートホテルを作りたいと言う事で、食のほかに空間を構成する物に、花が無くてはならないと言う事で、全く違う感覚で花を生ける人を探していると言う事で、プレゼンテーションをしようと言うことで、面白いと言う事になりました。
パリでどの花が一番心に刺さったのかを問われて、1年前にリニューアルオープンしたフォーシーズンパリの花は本当に夢の様な花で、この花を作るジェフ・リーサムさんには凄く影響を受けましたと言いました。
窪山さんも同様に吃驚したと言ってくれ、方向性が一致したと思い、一週間後に採用の通知が来ました。
ホテル全館のフラワーアートディレクターとしてやってもらいたいと言う事になりました。
10何mの空間を飾るために、2週間に一回、11年半北海道に通い続けました。
空間を表現するためにと思っていたが、ようやく来たかといった感じです。
花器もなかったのでパリのメゾンデオブジェという1年に一回パリで行われるヨーロッパ1のインテリアの祭典が有るが、そこで買い付けからまかされました。
色んな事に関わって一からやらさせてもらいました。
ホテルの仕事を始めてから半年後ぐらいから大きな仕事の話が入ってきました。
コンセプトとしては、色々な引き出しが有るので、過去の色んなアーカイブの中から、旅をした時の美しいもの、読んだものなどの引き出しが有るので、その中から組み合わせをしたりして2週間に一回の対応、そのほかの仕事などに対応をしてきました。
サミットもありましたが、ご夫妻そろってのオフィシャル晩さん会は一回しか無くて、畳の部屋で行われたので、そこの卓上場を担当しましたが、和を表現してもらいたいと言う事で青竹を割ったものに季節の花を長く活けて、ウエーティングルームでは七夕が近かったので、小さな試験管を100本以上用意して上からつるして、撫子など和の花を生けてクーラーの風で揺らぐようにしました。
花や植物を使っている以上生き物なので、そこから発せられる生命の躍動感みたいなものは表したいと思っています。
ホテルの仕事を始めて3~4年経ってから、家具デザイナーとのコラボ、その後アクセサリー、シューズ、舞台など、映像とのコラボはズーッと定期的にやってきました。
花を使わなくても面白い空間構成やデコレーション出来るので、テーブルコーディネートに繋がってくる。
仕事というのは人が人を呼ぶようなところもあるので、常に面白いものを発信しているなという空気やムードは大事だと思います。
作品プラス人なので、表に出ていた方が仕事を呼び込み易いと思います。
行動しないと、家から出ないと何も生まれないので、一人で行動することを恐れないと言うのが第一歩だと思います。
北方謙三さんの人生相談があってそういったものを一回やってみたいと思った。
恋愛、職場での人間関係、転職留学、いい人との出会いがない、結婚などに集約され、一年程度で終わってしまったが、楽しかったです。
女性にとっていい人とは、条件にあったいい人、女性の方で条件を決めてしまう人が多い、年収、肩書き、長男、次男とか、そういったものを取っ払ってしまえばいいと思う。
無条件に好きだと言う事で有れば、経済的なものがどうであろうと幸せに暮らせると思う。
先ずは自分が好きな世界を追及すると、貴方は多分輝いているんで、そこに魅かれる男性も出てくる。
自分自身を確立することがまず大事です。
夫は以前2回結婚していて、子供も前妻の子も6人いてみんなハーフだし、年齢も彼とは10何歳離れているし、周りからは反対の意見もありましたが、彼とは笑顔で生活できる感覚があって、そこがポイントでした。
夫婦けんかもしますが、基本的には笑顔で過ごしています。
出会って11年目、入籍してから7年になりますが、外に出るときはいつも手をつないでいます。
私も結婚した時が40歳を越えていました。
彼は外人でありながら日本に何十年も住んでいて、寿司や和食が大好きで、主人の香港の友達がホテルのオーナーで和食が大好きで、手つかずのロビースペースが有り、素敵なお寿司屋さんを連れてこられないかという事で主人がそれを受けて、それが海外向けのレストランフードコンサルティングが始まった訳です。
マカオのホテルでも寿司だけではなく、鉄板焼とかてんぷら、ラーメンもあり、シェフの方にトレーニングしてもらった板前さんをマカオの方にマッチングさせて、という様なことをトータルでやり始めました。
築地から空輸の流通の手配とかまでやり始めました。
世界のワインの動向を決めると言うロバート・パーカーと言う人がいて、パーカーポイントで今年初めてワイン以外に日本酒を評価しました。
日本食と共に日本酒を世界に広げていこうと言うので、10月にニューヨークのワインオークションとしては最もおおきいニューヨークのオークションハウスが有るが、オークションに参加する人に向けて、前夜祭にプロモーションも兼ねていこうと言う事で日本酒をテイスティングしてもらおうとしています。
今まで積み重ねてきた過去の蓄積があるので、次に何か新しい仕事にポンと行っても繋がる様な気がします。
2016年10月18日火曜日
花千代(フラワーアーティスト) ・大胆、華麗に 転身人生(1)
花千代(フラワーアーティスト) ・大胆、華麗に 転身人生(1)
花千代さんは今年12月に公開予定の映画モグラの歌などの映画や雑誌、サミット、APECなどの国際会議の装飾など、様々な場で活躍するフラワーデザイナーです。
会社勤めを経て、新橋の芸者を経てフラワーデザイナーになったという、異色の経歴の持ち主であることが注目されエッセーや雑誌連載など多数手掛けています。
フランスに留学する前は新橋で芸者をやっていて、千代菊という名前でした。
フランスで4年花の勉強をしましたが、判り易く花千代という名前にしました。
私が小さいころに離婚して、12歳から1年間母方の祖母の所で暮らして14歳から一人暮らしを始めました。(それにより精神的に自立しました)
経済的には父親が負担しました。
家に帰ると食事を作り、何から何まで自分でやりました。
家族の温もりからは断絶していました。
世界文学全集、日本文学全集から始まって、トルストイ、森鴎外、夏目漱石などを読んで、自分とは、人生とは、人間関係とは、生きるとは何だろうとぼんやり思っていたことが、愛、死、哲学、宗教、生き方などが本を開けさえすれば一緒に考えることができた、そういう世界が有ったと言う事で世の中は広い、色んな考え方、様々な人間がいると言う事が、心の慰めにもなったし、作者との対話を感じていた。
本に没頭できたことは、その後の影響に大きかったと思う。
考える癖、一人でも孤独に対しタフにいられる癖が出来ました。
父の再婚相手が母の妹で複雑な思いでした。
20歳を経て芸者の世界に入り、裏から見ることができると、人を先入観で決めつけない、一般的モラルで言うと世間的には×と言われる人でも、それなりに理由があるだろうと言う事であまり人をジャッジしなくなった。(多面的にみる)
人間ですから正しいことをやったり間違ったことをやる訳ですから。
谷崎潤一郎 行燈の陰影の中で美しく見えるものにスポットをあびらせることが日本のいい面なのではではなかったんだろうかと、耽美的な美の魅力にとりこになった時期が有ります。
永井荷風 「新橋夜話」芸者の世界を描いていて、それがのちに芸者になる時の素地になりました。
高校時代、遠縁の叔母が新橋演舞場の切符をくれて、本物の芸者が舞台で踊っている場面を見ていいなあと思っていたが、調べたら芸者になる人がいなくて、彼女らは危惧していていた。
高校卒業後、事務の仕事をしていたが、半年で会社の仕組みを感じて、ここは一生いるところではないと感じました。
日本の名料亭の本を読んでいたら、いい料亭が目にとまり、その日にそこに電話をした。
大きな会社の奥さんかお嬢さんと勘違いされたが、女将さんに繋がり芸者になりたいと話したら一回会って見ようと言う事になり、10数年芸者として仕事をして売れっ子芸者になりました。
芸者さんは10代で日本舞踊、三味線など何らかの伝統芸能をやっている人が多いが、私は何もできないのでかなり後れを取っていました。
旨いレベルに行く事は無理だと思って、御座敷をもりあげてゆく才覚、この人は一体何を言いたいとか、芸者は社交能力が大事なので、社交能力を頑張れば磨けるのではないかと思って、更に本を読んだり新聞を隅々まで読んだり、歌舞伎座、オペラ、新しいアート、コンサートなどに全部費やして、どんな方が来ても知っていた方がいいと思って、勉強して座が白けた時にキーワードが投げかけられるようなことが上手だと言われました。
もともと持っていた本能と、14歳から一人で暮らしてきたことに依る考え方の癖も幸いしたと思います。
自分に大きく影響を及ぼしたのは人との出会いです、会社にいたら会えない様な色んな業界で、政治家、企業の社長さん、絵描き、作家、歌舞伎役者など、血の滲むような努力をしてその業界のトップ、1%に入るということは大変な努力をしているので、そういった人は人間的な厚みと魅力があるので、そういった方に囲まれて12年間育ったということは、凄い勉強、影響を受けました。
その後パリに行っても、起業しても、色んな国で仕事をしていますが、全てベースになっています。
32歳で芸者をリタイアが、1回でも勝負したことが有るのかということがむくむくとしてきて、はやってきたお座敷カラオケが嫌いで、自分のやりたいこともできないし、お客さんの質も変わってきたのかなあと思い、7~8ケ月根回しして32歳の時に芸者を辞めました。
フランスに住んでみたいと思いました。
フランスは異邦人に対しても文化を尊敬する国民なので、和の文化の伝道者的(日本舞踊は名取り、三味線が弾けたし、目をつぶって10分で和服を着れた)にはなっていたと思って、フランスに渡り、1年目で日常会話ができるようになって、花と出会って2年目からはフラワースクールに入って国家試験に通って、研修して4年間フランスにいて、日本に帰ってきて「花千代」という会社を立ち上げました。
日本家屋では花の飾るところは床の間が主で決まっていて、フランスに行って吃驚したのは、或る人に出会って友達となり、ご主人の誕生日のパーティーに来てほしいと言われた。
サプライズをしたいとパリからフラワーアーティストを呼んで、屋敷中花で飾り付けをしていて、何百本のバラとか、室内全部が花で装飾されていて吃驚した。
感動して2週間後にはパリに行って入学手続きをしていました。
学校に2年通っている間に国家試験を受けてすんなり受かって、花屋さんに研修生として行きました。
高級住宅街で花屋さんのプロの手で自宅を花で飾る年間契約をすることが有って、パリのブルジョアの自宅拝見することが出来ました。(美しい花が常にある)
凄かったのがサウジアラビアの方がいて世界に色んなところに家を持っていて、パリにも家を持っていて年に4回来るが、プチホテルの様な一軒家で、ゲストルームだけでも12部屋あって、入口から、全ての部屋に飾っていて、一回の滞在だけでも花が何百万円になる。
娘の誕生日ということで、娘が可愛がっているハムスターの飾り付けしたいといって来る人もいます。
命の長さをどう考えるか、生きているのは限りがあるので、今何かを恐れて居るためにためらって制限をしてしまうと、違う世界に行けたかもしれない可能性を全部潰していることの恐ろしさの方が、大変だと思う。
転身して失敗しても人生は一回きりですからね。
やる前から駄目だと思う事が全て駄目にしていると思う。
好きなことに対する情熱は光ってくるので、光はだれか見ていて引き寄せる。
明るくて、温かくてパワーを発してるものには自然と人は引き寄せられる。
花千代さんは今年12月に公開予定の映画モグラの歌などの映画や雑誌、サミット、APECなどの国際会議の装飾など、様々な場で活躍するフラワーデザイナーです。
会社勤めを経て、新橋の芸者を経てフラワーデザイナーになったという、異色の経歴の持ち主であることが注目されエッセーや雑誌連載など多数手掛けています。
フランスに留学する前は新橋で芸者をやっていて、千代菊という名前でした。
フランスで4年花の勉強をしましたが、判り易く花千代という名前にしました。
私が小さいころに離婚して、12歳から1年間母方の祖母の所で暮らして14歳から一人暮らしを始めました。(それにより精神的に自立しました)
経済的には父親が負担しました。
家に帰ると食事を作り、何から何まで自分でやりました。
家族の温もりからは断絶していました。
世界文学全集、日本文学全集から始まって、トルストイ、森鴎外、夏目漱石などを読んで、自分とは、人生とは、人間関係とは、生きるとは何だろうとぼんやり思っていたことが、愛、死、哲学、宗教、生き方などが本を開けさえすれば一緒に考えることができた、そういう世界が有ったと言う事で世の中は広い、色んな考え方、様々な人間がいると言う事が、心の慰めにもなったし、作者との対話を感じていた。
本に没頭できたことは、その後の影響に大きかったと思う。
考える癖、一人でも孤独に対しタフにいられる癖が出来ました。
父の再婚相手が母の妹で複雑な思いでした。
20歳を経て芸者の世界に入り、裏から見ることができると、人を先入観で決めつけない、一般的モラルで言うと世間的には×と言われる人でも、それなりに理由があるだろうと言う事であまり人をジャッジしなくなった。(多面的にみる)
人間ですから正しいことをやったり間違ったことをやる訳ですから。
谷崎潤一郎 行燈の陰影の中で美しく見えるものにスポットをあびらせることが日本のいい面なのではではなかったんだろうかと、耽美的な美の魅力にとりこになった時期が有ります。
永井荷風 「新橋夜話」芸者の世界を描いていて、それがのちに芸者になる時の素地になりました。
高校時代、遠縁の叔母が新橋演舞場の切符をくれて、本物の芸者が舞台で踊っている場面を見ていいなあと思っていたが、調べたら芸者になる人がいなくて、彼女らは危惧していていた。
高校卒業後、事務の仕事をしていたが、半年で会社の仕組みを感じて、ここは一生いるところではないと感じました。
日本の名料亭の本を読んでいたら、いい料亭が目にとまり、その日にそこに電話をした。
大きな会社の奥さんかお嬢さんと勘違いされたが、女将さんに繋がり芸者になりたいと話したら一回会って見ようと言う事になり、10数年芸者として仕事をして売れっ子芸者になりました。
芸者さんは10代で日本舞踊、三味線など何らかの伝統芸能をやっている人が多いが、私は何もできないのでかなり後れを取っていました。
旨いレベルに行く事は無理だと思って、御座敷をもりあげてゆく才覚、この人は一体何を言いたいとか、芸者は社交能力が大事なので、社交能力を頑張れば磨けるのではないかと思って、更に本を読んだり新聞を隅々まで読んだり、歌舞伎座、オペラ、新しいアート、コンサートなどに全部費やして、どんな方が来ても知っていた方がいいと思って、勉強して座が白けた時にキーワードが投げかけられるようなことが上手だと言われました。
もともと持っていた本能と、14歳から一人で暮らしてきたことに依る考え方の癖も幸いしたと思います。
自分に大きく影響を及ぼしたのは人との出会いです、会社にいたら会えない様な色んな業界で、政治家、企業の社長さん、絵描き、作家、歌舞伎役者など、血の滲むような努力をしてその業界のトップ、1%に入るということは大変な努力をしているので、そういった人は人間的な厚みと魅力があるので、そういった方に囲まれて12年間育ったということは、凄い勉強、影響を受けました。
その後パリに行っても、起業しても、色んな国で仕事をしていますが、全てベースになっています。
32歳で芸者をリタイアが、1回でも勝負したことが有るのかということがむくむくとしてきて、はやってきたお座敷カラオケが嫌いで、自分のやりたいこともできないし、お客さんの質も変わってきたのかなあと思い、7~8ケ月根回しして32歳の時に芸者を辞めました。
フランスに住んでみたいと思いました。
フランスは異邦人に対しても文化を尊敬する国民なので、和の文化の伝道者的(日本舞踊は名取り、三味線が弾けたし、目をつぶって10分で和服を着れた)にはなっていたと思って、フランスに渡り、1年目で日常会話ができるようになって、花と出会って2年目からはフラワースクールに入って国家試験に通って、研修して4年間フランスにいて、日本に帰ってきて「花千代」という会社を立ち上げました。
日本家屋では花の飾るところは床の間が主で決まっていて、フランスに行って吃驚したのは、或る人に出会って友達となり、ご主人の誕生日のパーティーに来てほしいと言われた。
サプライズをしたいとパリからフラワーアーティストを呼んで、屋敷中花で飾り付けをしていて、何百本のバラとか、室内全部が花で装飾されていて吃驚した。
感動して2週間後にはパリに行って入学手続きをしていました。
学校に2年通っている間に国家試験を受けてすんなり受かって、花屋さんに研修生として行きました。
高級住宅街で花屋さんのプロの手で自宅を花で飾る年間契約をすることが有って、パリのブルジョアの自宅拝見することが出来ました。(美しい花が常にある)
凄かったのがサウジアラビアの方がいて世界に色んなところに家を持っていて、パリにも家を持っていて年に4回来るが、プチホテルの様な一軒家で、ゲストルームだけでも12部屋あって、入口から、全ての部屋に飾っていて、一回の滞在だけでも花が何百万円になる。
娘の誕生日ということで、娘が可愛がっているハムスターの飾り付けしたいといって来る人もいます。
命の長さをどう考えるか、生きているのは限りがあるので、今何かを恐れて居るためにためらって制限をしてしまうと、違う世界に行けたかもしれない可能性を全部潰していることの恐ろしさの方が、大変だと思う。
転身して失敗しても人生は一回きりですからね。
やる前から駄目だと思う事が全て駄目にしていると思う。
好きなことに対する情熱は光ってくるので、光はだれか見ていて引き寄せる。
明るくて、温かくてパワーを発してるものには自然と人は引き寄せられる。
2016年10月17日月曜日
井上道義(指揮者) ・地方オーケストラを育てる
井上道義(指揮者)・地方オーケストラを育てる
井上さんは1971年イタリアの指揮者コンクールで優勝して以来45年間に渡って第一線で活躍されています。
井上さんは国内の主なオーケストラのほか、ニュージーランド、アメリカ、ヨーロッパの有名オーケストラも指揮して来ました。
9年前の2007年からは石川県のオーケストラアンサンブル金沢の音楽監督に、おととしからは大阪フィルハーモニーの首席指揮者に就任、あまり取り上げられることのない、近現代の音楽を積極的に取り上げるなど、地方の楽団の演奏活動に力を注いでいます。
この秋、これらの活動が評価され民間企業メセナの音楽賞を受賞しました。
7月に大阪フィルの500回目の定期演奏会。
バカロフという作曲家のミサ・タンゴをやって、踊る様にお祈りする、をやってからベートーベンの「英雄」をやりました。
オーケストラは今のその街の誇りになる様な物になるべきであって、その街を表現できればいいと思っている。
日本で一番ラテン系なところが大阪だと思っています。
言葉というものは全ての文化の元だと思います。
石川県のオーケストラアンサンブル金沢は9月に石川県立音楽堂開館15周年スペシャルコンサートをする。
駅前なので人がたくさん集まる。
音はホールが作ると思っていて、ホールで練習しないと本当の個性は出てこないと思う。
ヨーロッパ、アメリカなどは皆自分のホールで練習しているが、日本だけはなかなかそうは行かなくて、アンサンブル金沢は本当にそこでやっている。
岩城さんが亡くなってから2007年からやってきて本当に一つの音色が出来たと思います。
金沢だけでなく、非常に旅の多いオーケストラで海外旅行も今まで18年間行っています。
或る日中学2年の時に、父が義務教育は中学でおしまいなので、高校からは自分で行くようにという様な事を言われた。
父はアメリカで育って苦労していたし、差別を受けてきたようだった。
シカゴで苦労して大学まで行ったので子供に対しても厳しくした。
18歳まで指揮者の道でやってみて駄目だったら辞めようと思った。
当時ピアノ、バレエ(殆ど男性はやっていなかった)をやっていた。
バレエでは身体が硬くて駄目で、舞台をやりたかったが、外国にもいきたかったし、指揮者を選んだ。
桐朋学園大学に入って、伝説的な指揮者斎藤秀雄さんについた。
厳しいなかでピアノも勉強した。
指揮者はちゃんと楽器ができないと駄目だと思います。
斎藤秀雄先生は言っていることは全部正しいが、世の中答えは一つしかない先生で、答えは一つしか無いのかと、何時も反発していた。
先生をやると言うことは壁になることだと、途中から判って尊敬した。
日本の良い指揮者を皆教えたが、指揮者としてはよくなかったと思う。
1971年にイタリアのミラノスカラ座主催のグィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝する。
小手調べぐらいの気持ちで参加してみて優勝してまずかった、天狗になってしまった。
エリアフ・インバル、リッカルド・ムーティも優勝してる。
仕事をバリバリやったが、ネタが尽きて、英語ができないし、レパートリーを増やすためにもニュージーランドに行きました。
ニュージ-ランド放送協会のオーケストラで、最初のコンサートで第九をやって、彼らも初めてだった。
勉強ばっかりしていました。
日本に戻ってきて、新日本フィルの音楽監督になる。
音楽監督を辞めたくなって、オペラをやりたくて、ヨーロッパに行った。(35歳)
友達から連絡がきて京都市交響楽団に来てほしいとの事だった。
クラシックをふに落ちるところまでやりたくて、ヨーロッパの仕事をしながら、京都市交響楽団で8年間やりました。
2007年からは石川県のオーケストラアンサンブル金沢の音楽監督をやりました。
岩城さんが初代でした。
彼は色んな病気を抱えていたが、アンサンブル金沢の文句を言ったら2年で凄くなった。
良いところに良い人材を入れて、個性的になってきた。
自分達の世界は地方とか関係なくどこでも持つべきだと思っている。
東京なんてブラジルから見たら地球の果ての小さな島です、そういう意識は大事だと思う。
歴史の有るところで音楽の土壌を掘ってゆく、金沢は成功していると思う。
オーケストラアンサンブル金沢は35~40人の小さなオーケストラで、若い人が入りたがっています。
とんがっていて素晴らしいものをどこにも負けないものを作るべきです。
大阪でも金沢でもそうあるべきだと思っている。
東燃音楽ゼネラル賞を受賞、地味だけれどずーっと一つ一つ積み重ねた人に与えられたというもの
らしいです。
ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、これをちゃんとできる指揮者になりたかった。
マーラーをやったり、色々やってきて良い録音ができていると思う。
古典、ロマン派はちゃんとやってきたつもりだし、現代ものも随分取り組んできました。
N交響楽団とも11月に予定されています。(32年ぶり)
練習していても楽しくて面白い、物凄く通じやすい。
井上さんは1971年イタリアの指揮者コンクールで優勝して以来45年間に渡って第一線で活躍されています。
井上さんは国内の主なオーケストラのほか、ニュージーランド、アメリカ、ヨーロッパの有名オーケストラも指揮して来ました。
9年前の2007年からは石川県のオーケストラアンサンブル金沢の音楽監督に、おととしからは大阪フィルハーモニーの首席指揮者に就任、あまり取り上げられることのない、近現代の音楽を積極的に取り上げるなど、地方の楽団の演奏活動に力を注いでいます。
この秋、これらの活動が評価され民間企業メセナの音楽賞を受賞しました。
7月に大阪フィルの500回目の定期演奏会。
バカロフという作曲家のミサ・タンゴをやって、踊る様にお祈りする、をやってからベートーベンの「英雄」をやりました。
オーケストラは今のその街の誇りになる様な物になるべきであって、その街を表現できればいいと思っている。
日本で一番ラテン系なところが大阪だと思っています。
言葉というものは全ての文化の元だと思います。
石川県のオーケストラアンサンブル金沢は9月に石川県立音楽堂開館15周年スペシャルコンサートをする。
駅前なので人がたくさん集まる。
音はホールが作ると思っていて、ホールで練習しないと本当の個性は出てこないと思う。
ヨーロッパ、アメリカなどは皆自分のホールで練習しているが、日本だけはなかなかそうは行かなくて、アンサンブル金沢は本当にそこでやっている。
岩城さんが亡くなってから2007年からやってきて本当に一つの音色が出来たと思います。
金沢だけでなく、非常に旅の多いオーケストラで海外旅行も今まで18年間行っています。
或る日中学2年の時に、父が義務教育は中学でおしまいなので、高校からは自分で行くようにという様な事を言われた。
父はアメリカで育って苦労していたし、差別を受けてきたようだった。
シカゴで苦労して大学まで行ったので子供に対しても厳しくした。
18歳まで指揮者の道でやってみて駄目だったら辞めようと思った。
当時ピアノ、バレエ(殆ど男性はやっていなかった)をやっていた。
バレエでは身体が硬くて駄目で、舞台をやりたかったが、外国にもいきたかったし、指揮者を選んだ。
桐朋学園大学に入って、伝説的な指揮者斎藤秀雄さんについた。
厳しいなかでピアノも勉強した。
指揮者はちゃんと楽器ができないと駄目だと思います。
斎藤秀雄先生は言っていることは全部正しいが、世の中答えは一つしかない先生で、答えは一つしか無いのかと、何時も反発していた。
先生をやると言うことは壁になることだと、途中から判って尊敬した。
日本の良い指揮者を皆教えたが、指揮者としてはよくなかったと思う。
1971年にイタリアのミラノスカラ座主催のグィード・カンテッリ指揮者コンクールで優勝する。
小手調べぐらいの気持ちで参加してみて優勝してまずかった、天狗になってしまった。
エリアフ・インバル、リッカルド・ムーティも優勝してる。
仕事をバリバリやったが、ネタが尽きて、英語ができないし、レパートリーを増やすためにもニュージーランドに行きました。
ニュージ-ランド放送協会のオーケストラで、最初のコンサートで第九をやって、彼らも初めてだった。
勉強ばっかりしていました。
日本に戻ってきて、新日本フィルの音楽監督になる。
音楽監督を辞めたくなって、オペラをやりたくて、ヨーロッパに行った。(35歳)
友達から連絡がきて京都市交響楽団に来てほしいとの事だった。
クラシックをふに落ちるところまでやりたくて、ヨーロッパの仕事をしながら、京都市交響楽団で8年間やりました。
2007年からは石川県のオーケストラアンサンブル金沢の音楽監督をやりました。
岩城さんが初代でした。
彼は色んな病気を抱えていたが、アンサンブル金沢の文句を言ったら2年で凄くなった。
良いところに良い人材を入れて、個性的になってきた。
自分達の世界は地方とか関係なくどこでも持つべきだと思っている。
東京なんてブラジルから見たら地球の果ての小さな島です、そういう意識は大事だと思う。
歴史の有るところで音楽の土壌を掘ってゆく、金沢は成功していると思う。
オーケストラアンサンブル金沢は35~40人の小さなオーケストラで、若い人が入りたがっています。
とんがっていて素晴らしいものをどこにも負けないものを作るべきです。
大阪でも金沢でもそうあるべきだと思っている。
東燃音楽ゼネラル賞を受賞、地味だけれどずーっと一つ一つ積み重ねた人に与えられたというもの
らしいです。
ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、これをちゃんとできる指揮者になりたかった。
マーラーをやったり、色々やってきて良い録音ができていると思う。
古典、ロマン派はちゃんとやってきたつもりだし、現代ものも随分取り組んできました。
N交響楽団とも11月に予定されています。(32年ぶり)
練習していても楽しくて面白い、物凄く通じやすい。
2016年10月15日土曜日
宮本 匠(兵庫県立大学講師) ・被災者がいきいきと暮らす「復興曲線」めざして
宮本 匠(兵庫県立大学講師) ・被災者がいきいきと暮らす「復興曲線」めざして
2004年10月に起きた新潟中越地震のフィールドワーク調査から復興曲線というユニークな手法を考案されます。
被災地の人々がどんな時に前進したと感じたかをグラフに書きだし自らを見つめると言う方法です。
宮本さんはそこに暮らす人たちが地域の持つ力を再発見することで町や集落のみずみずしい回復に繋げていくと言う内発的な、内側から力を発する復興を考え支援してきました。
宮本さんが学生時代からフィールドワークで通ってきたという場所、新潟県長岡市木沢地区で伺いました。
冬は雪が3mぐらい積もりますので、雪をおろさないと家がつぶれてしまいます。
地震で木沢地区は孤立してしまったが、自分達で道を復旧させたことで有名になった村で自分達で出来る事は自分達でやると言う逞しい精神が根付いている地域です。
住み慣れた土地でよく知っている仲間たちと一緒に再建すると言う、気持ちの面では大きかったと思います。
旧木沢小学校 地震の年の春に廃校になるが 2010年に宿泊施設としてリニューアルして、外から来る人が木沢の暮らしを楽しめる拠点になっています。
木沢は人が中心です。
農業が中心になっていて、自分でやれることは自分でやる、うまく自然と付き合いながら豊かに生活する自分達で作った文化があると思います。
米、野菜も美味しく、食べものが恵まれたところです。
地域の人が自分達で考えて、自分達の地域をどういう風によくして行くかという事を考えて活動に取り組むのが大事だと思っています。
外からの考えも大切です。(自分達がどんな宝を持っているかが、自分達では気付かない)
木沢は地震で水がでなくなって、区長の星野幸一さんの所に行って話したら、やりとりを通しながら、自分にできることは水を出すのも大事だが、木沢は凄いところだと言う事をやりとりをしながら教えてもらった。
宝を再発見して、どう行かせるか、おいしい食べもの、木沢の人柄を楽しんでもらうための拠点として、廃校になった小学校を宿泊施設として拠点にして、外からの人を受け入れる。
外の人たちと交流することによって元気になることに気付いた。
昭和59年生まれ、出身は東大阪市。
ラグビー、お笑い(友達との万歳)、読書(有名な作家を片っ端から読みました)、高校時代は小説家になりたかった。
大阪大学人間科学部に入る。
2004年 新潟中越地震が有り、友達がボランティアをやっていた。
声を掛けられて初めて新潟中越地震のボランティアを大学3年の5月に行った。
帰る日の夜に、神戸から派遣されてきた鈴木隆太さんに出会って、話を聞いてみると、村人と道を直していると言う事だった。
滞在を延ばして手助けすることになったが、自分が一番頼りにならないことが分かった。
周りのお年寄りの人達は凄いなあと思って、そこからのめり込みました。
災害ボランティアの研究をしている渥美公秀先生のゼミに入りました。
人とのやり取りをする手段として、木沢で畑を借りることにした。
地元の人はここは何にもないと言うが、兎に角話しを聞いた。
村人たちは段々何がある、という事に気づいて行った。
復興曲線、地域の雰囲気が良くなったら上、悪くなったら下。
人によってカスタマイズする。
縦軸は復興の指標。
インタビューをして、どういうきっかけで心の落ち着きを取り戻したり、きっかけを知ることができたら支援するのにいいのかなあと思いました。
神戸の場合、被災地を離れると自分が前向きになれたきっかけになったとか。(海外旅行に行ったときとか)
木沢の場合、人との交流が有るとあがる、目標は変動するので上がったり下がったりする。
人々が集まるきっかけを作ろうと、よそから絶えず人がやってくるようにしようとした。
色んなサークルや会が盛んになってきた。
2012年学位を取得、京都大学防災研究所の特別研究員になる。
東日本大震災の復興、これからが物凄く大切な時期だと思う。
外の人が賑やか過ぎるのかなあと見えるところが有って、地域の人が見えてこない。
生活再建が見えてくるときに、どういうものが自分達にとって豊だと思える生活なのかというところを見つめ直して行ったり、そのための活動が地域の人たちが主役になって進んでいくのではないかと思うのでこれからが大切だと思う。
2012年3月31日に南海トラフの新想定が出されて、却って地域の人たちがこんな大きな津波では自分達ではどうする事も出来ないと、諦めた方がいると言う話も聞いたが、どうしてその地域に住みついてきたのか、自分達の価値観をしっかり気付いたり見つめてゆく事が防災を積極的に進めるのにとても大事だと思います。
生きいきと生きている人ではないと災害に備えたいと思わない。(復興の話と同じだと思う)
天神囃子 おめでたい席で皆で歌うが、地震後初めてこの木沢で聞いて感動しました。
2004年10月に起きた新潟中越地震のフィールドワーク調査から復興曲線というユニークな手法を考案されます。
被災地の人々がどんな時に前進したと感じたかをグラフに書きだし自らを見つめると言う方法です。
宮本さんはそこに暮らす人たちが地域の持つ力を再発見することで町や集落のみずみずしい回復に繋げていくと言う内発的な、内側から力を発する復興を考え支援してきました。
宮本さんが学生時代からフィールドワークで通ってきたという場所、新潟県長岡市木沢地区で伺いました。
冬は雪が3mぐらい積もりますので、雪をおろさないと家がつぶれてしまいます。
地震で木沢地区は孤立してしまったが、自分達で道を復旧させたことで有名になった村で自分達で出来る事は自分達でやると言う逞しい精神が根付いている地域です。
住み慣れた土地でよく知っている仲間たちと一緒に再建すると言う、気持ちの面では大きかったと思います。
旧木沢小学校 地震の年の春に廃校になるが 2010年に宿泊施設としてリニューアルして、外から来る人が木沢の暮らしを楽しめる拠点になっています。
木沢は人が中心です。
農業が中心になっていて、自分でやれることは自分でやる、うまく自然と付き合いながら豊かに生活する自分達で作った文化があると思います。
米、野菜も美味しく、食べものが恵まれたところです。
地域の人が自分達で考えて、自分達の地域をどういう風によくして行くかという事を考えて活動に取り組むのが大事だと思っています。
外からの考えも大切です。(自分達がどんな宝を持っているかが、自分達では気付かない)
木沢は地震で水がでなくなって、区長の星野幸一さんの所に行って話したら、やりとりを通しながら、自分にできることは水を出すのも大事だが、木沢は凄いところだと言う事をやりとりをしながら教えてもらった。
宝を再発見して、どう行かせるか、おいしい食べもの、木沢の人柄を楽しんでもらうための拠点として、廃校になった小学校を宿泊施設として拠点にして、外からの人を受け入れる。
外の人たちと交流することによって元気になることに気付いた。
昭和59年生まれ、出身は東大阪市。
ラグビー、お笑い(友達との万歳)、読書(有名な作家を片っ端から読みました)、高校時代は小説家になりたかった。
大阪大学人間科学部に入る。
2004年 新潟中越地震が有り、友達がボランティアをやっていた。
声を掛けられて初めて新潟中越地震のボランティアを大学3年の5月に行った。
帰る日の夜に、神戸から派遣されてきた鈴木隆太さんに出会って、話を聞いてみると、村人と道を直していると言う事だった。
滞在を延ばして手助けすることになったが、自分が一番頼りにならないことが分かった。
周りのお年寄りの人達は凄いなあと思って、そこからのめり込みました。
災害ボランティアの研究をしている渥美公秀先生のゼミに入りました。
人とのやり取りをする手段として、木沢で畑を借りることにした。
地元の人はここは何にもないと言うが、兎に角話しを聞いた。
村人たちは段々何がある、という事に気づいて行った。
復興曲線、地域の雰囲気が良くなったら上、悪くなったら下。
人によってカスタマイズする。
縦軸は復興の指標。
インタビューをして、どういうきっかけで心の落ち着きを取り戻したり、きっかけを知ることができたら支援するのにいいのかなあと思いました。
神戸の場合、被災地を離れると自分が前向きになれたきっかけになったとか。(海外旅行に行ったときとか)
木沢の場合、人との交流が有るとあがる、目標は変動するので上がったり下がったりする。
人々が集まるきっかけを作ろうと、よそから絶えず人がやってくるようにしようとした。
色んなサークルや会が盛んになってきた。
2012年学位を取得、京都大学防災研究所の特別研究員になる。
東日本大震災の復興、これからが物凄く大切な時期だと思う。
外の人が賑やか過ぎるのかなあと見えるところが有って、地域の人が見えてこない。
生活再建が見えてくるときに、どういうものが自分達にとって豊だと思える生活なのかというところを見つめ直して行ったり、そのための活動が地域の人たちが主役になって進んでいくのではないかと思うのでこれからが大切だと思う。
2012年3月31日に南海トラフの新想定が出されて、却って地域の人たちがこんな大きな津波では自分達ではどうする事も出来ないと、諦めた方がいると言う話も聞いたが、どうしてその地域に住みついてきたのか、自分達の価値観をしっかり気付いたり見つめてゆく事が防災を積極的に進めるのにとても大事だと思います。
生きいきと生きている人ではないと災害に備えたいと思わない。(復興の話と同じだと思う)
天神囃子 おめでたい席で皆で歌うが、地震後初めてこの木沢で聞いて感動しました。
2016年10月14日金曜日
岩井光祐(国際音楽交流協会事務局長) ・楽器がとりもつ交流の輪
岩井光祐(子供のための国際音楽交流協会事務局長) ・楽器がとりもつ交流の輪
10年前会社を定年前に辞め、サックスの勉強を始めその3年後にボランティア団体子供の為の国際音楽交流協会を立ち上げました。
仕事で世界を駆けまわっていた時に岩井さんは平和を輸出する民間外交の必要性を強く感じて楽器を海外に贈り始めたと言う事です。
神奈川県南足柄市の自宅を事務所にして自治体やボランティアの力を借り、日本の小学校などに働きかけて使わなくなった楽器を寄付してもらい、フィリピン、アフリカのタンザニア、ウガンダなどにこれまでに500個以上の楽器を30校以上の学校に贈ってきました。
仕事を長い間、外国との仕事をしてきて、言葉で通じないことが有る。
音楽というものは世界のコミュニケーションができるものと思っていました。
鉱物資源の仕事の商品を扱っていましたので、音楽とは全く関係なかった。
ペルーに行き、ボランティアとしてハーモニカなどを20台届けたりしていました。(仕事をやっていて小学校のPTAの会長をしていた頃)
会社を早期退職して活動のためには音楽を勉強しなくてはいけないと思って、アルトサックスを習い始めました。
東南アジアのホテルに泊ると、バンドが演奏をしていて、フィリピンでは学校の教室でサックスを習ったりして、子供との交流をしたりしていました。
そこの校長先生から楽器が無いとの話を受けました。
日本に戻って、校長先生、PTA、行政などに協力してもらって楽器を集め始めました。(7年前)
フィリピンのほかにはアフリカのタンザニアに知り合いがいてやはり楽器が足りないとの話を受けました。
楽器は鍵盤ハーモニカをまず10台サンプルとして持って行きました。(4年前)
地元の音楽の先生に指導してもらいました。
どの様に活用されているか、隔年ぐらいに行くようにしています。
海外の在日本大使館のレセプションで12月に行ったときには、300~400名の来賓、政府要人の前で、子供達が日本の国歌、タンザニアの国歌、上を向いて歩こう、などを吹いてもらいました。
2回目には35台の鍵盤ハーモニカを持って行きました。
これで一つのパターンが出来たと思いました。
一昨年ウガンダに行って、ウガンダの日本大使館の協力を得て、最初から35台の鍵盤ハーモニカ、レコーダーを小学校に寄贈しました。
タンザニアは政府もしっかりしていて、安全で内戦はありません。
去年の5月にはモンゴルに行ってウランバートルの小学校に見本として取り合えず10台持って行きました。
仕事で世界を駆けまわっていた時に、言葉ではいくら話しあっても仲良くなってゆくのは難しいと思いました。
日本人として何ができるのかなあと思いました。
出来る限り多くの国に届けて、日本人の平和への願いを届けることは大事だと思いました。
平和は当たり前ではない、民間人として、ボランティアで平和外交している方たちはいっぱいいます。
楽器を色んな国に届けていこうと思いました。
オリンピックも大事だが、国と国との競争もあるし、音楽を聴けば理解しあえると思う。
子供にマシンガンを持たせるのではなく、鍵盤ハーモニカを持ってもらって音楽を奏でる子供達が育ってほしい。
モンゴルでは一般の小学校に5台、特殊学校に5台を届けて、吹き始めて聞いていて涙を流していた人がいました。
今年はロシアにも行きました。
ロシア人はどういう人達なのかと、語学の勉強もしながら、ハバロフスクから列車で38時間掛かってチタに行きました。
チタに1918~20年日本軍が駐屯していたが、モニュメントが10か所あり公園の様に綺麗にしていて、吃驚しました。
日本のものを大事にしてくれていて、皆さん優しい方で、勉強するにはいいところだとも思いました。(今年の3月から7月まで行って、大学生と一緒に勉強しました。)
そこの大学寮には外国人がいて、その人たちと知り合って、現地で応援してくれる人を探して、彼等に1台づつ渡して、活動する様に契約してきました。
国内でも参加してくれる市町村が増えてきました。
学校などは鍵盤ハーモニカを、市町村には市民の広報に載せていただいて、皆さんが持っている色々な楽器を寄贈していただきます。。
必ず現地を見て、そこにあった楽器を贈ろうと思っています。
そのあとのフォローアップをしっかりやっています。
在庫数の確認、どの様に使われているか。
行った時の費用、贈る費用などは全部自分で賄っています。
重量オーバーになっても無料で取り扱ってもらう様に交渉したりしています。
今アフリカには55カ国あります、国連に198カ国、先進国をのぞいて140ぐらいの国が有るが、そこに楽器を持って行ってそこで交流しましょうとの思いが有ります。
平和のために民間の外交官になったつもりで行きましょうと言うのが私の夢です。
10年前会社を定年前に辞め、サックスの勉強を始めその3年後にボランティア団体子供の為の国際音楽交流協会を立ち上げました。
仕事で世界を駆けまわっていた時に岩井さんは平和を輸出する民間外交の必要性を強く感じて楽器を海外に贈り始めたと言う事です。
神奈川県南足柄市の自宅を事務所にして自治体やボランティアの力を借り、日本の小学校などに働きかけて使わなくなった楽器を寄付してもらい、フィリピン、アフリカのタンザニア、ウガンダなどにこれまでに500個以上の楽器を30校以上の学校に贈ってきました。
仕事を長い間、外国との仕事をしてきて、言葉で通じないことが有る。
音楽というものは世界のコミュニケーションができるものと思っていました。
鉱物資源の仕事の商品を扱っていましたので、音楽とは全く関係なかった。
ペルーに行き、ボランティアとしてハーモニカなどを20台届けたりしていました。(仕事をやっていて小学校のPTAの会長をしていた頃)
会社を早期退職して活動のためには音楽を勉強しなくてはいけないと思って、アルトサックスを習い始めました。
東南アジアのホテルに泊ると、バンドが演奏をしていて、フィリピンでは学校の教室でサックスを習ったりして、子供との交流をしたりしていました。
そこの校長先生から楽器が無いとの話を受けました。
日本に戻って、校長先生、PTA、行政などに協力してもらって楽器を集め始めました。(7年前)
フィリピンのほかにはアフリカのタンザニアに知り合いがいてやはり楽器が足りないとの話を受けました。
楽器は鍵盤ハーモニカをまず10台サンプルとして持って行きました。(4年前)
地元の音楽の先生に指導してもらいました。
どの様に活用されているか、隔年ぐらいに行くようにしています。
海外の在日本大使館のレセプションで12月に行ったときには、300~400名の来賓、政府要人の前で、子供達が日本の国歌、タンザニアの国歌、上を向いて歩こう、などを吹いてもらいました。
2回目には35台の鍵盤ハーモニカを持って行きました。
これで一つのパターンが出来たと思いました。
一昨年ウガンダに行って、ウガンダの日本大使館の協力を得て、最初から35台の鍵盤ハーモニカ、レコーダーを小学校に寄贈しました。
タンザニアは政府もしっかりしていて、安全で内戦はありません。
去年の5月にはモンゴルに行ってウランバートルの小学校に見本として取り合えず10台持って行きました。
仕事で世界を駆けまわっていた時に、言葉ではいくら話しあっても仲良くなってゆくのは難しいと思いました。
日本人として何ができるのかなあと思いました。
出来る限り多くの国に届けて、日本人の平和への願いを届けることは大事だと思いました。
平和は当たり前ではない、民間人として、ボランティアで平和外交している方たちはいっぱいいます。
楽器を色んな国に届けていこうと思いました。
オリンピックも大事だが、国と国との競争もあるし、音楽を聴けば理解しあえると思う。
子供にマシンガンを持たせるのではなく、鍵盤ハーモニカを持ってもらって音楽を奏でる子供達が育ってほしい。
モンゴルでは一般の小学校に5台、特殊学校に5台を届けて、吹き始めて聞いていて涙を流していた人がいました。
今年はロシアにも行きました。
ロシア人はどういう人達なのかと、語学の勉強もしながら、ハバロフスクから列車で38時間掛かってチタに行きました。
チタに1918~20年日本軍が駐屯していたが、モニュメントが10か所あり公園の様に綺麗にしていて、吃驚しました。
日本のものを大事にしてくれていて、皆さん優しい方で、勉強するにはいいところだとも思いました。(今年の3月から7月まで行って、大学生と一緒に勉強しました。)
そこの大学寮には外国人がいて、その人たちと知り合って、現地で応援してくれる人を探して、彼等に1台づつ渡して、活動する様に契約してきました。
国内でも参加してくれる市町村が増えてきました。
学校などは鍵盤ハーモニカを、市町村には市民の広報に載せていただいて、皆さんが持っている色々な楽器を寄贈していただきます。。
必ず現地を見て、そこにあった楽器を贈ろうと思っています。
そのあとのフォローアップをしっかりやっています。
在庫数の確認、どの様に使われているか。
行った時の費用、贈る費用などは全部自分で賄っています。
重量オーバーになっても無料で取り扱ってもらう様に交渉したりしています。
今アフリカには55カ国あります、国連に198カ国、先進国をのぞいて140ぐらいの国が有るが、そこに楽器を持って行ってそこで交流しましょうとの思いが有ります。
平和のために民間の外交官になったつもりで行きましょうと言うのが私の夢です。
2016年10月13日木曜日
井上澄子(八戸南部裂織工房代表) ・“南部裂織”の美
井上澄子(八戸南部裂織工房代表) ・“南部裂織”の美
昭和10年北海道斜里町生まれ、81歳を迎えた今も南部裂織の製作を続け技術の継承や後進の指導に取り組んでいます。
井上さんは服飾デザイナーを目指し釧路市の和洋裁学校に学びました。
そこで知り合った今は亡き井上修司?さんと結婚し、八戸市で洋品店を開業しました。
商売と子育ての忙しい日々を送っていた井上さんが南部裂織に出会ったのは41歳の時でした。
井上さんは古い布を活かし美しい布に再生する技法に感動し、以来南部裂織の研究に没頭しました。
そして20年後に製作した故郷の山北海道の斜里岳の夕焼けを織り込んだタペストリーで現代工芸作家協会の新人賞を受賞されました。
この受賞に依って江戸時代の南部地方の農村に生まれた南部裂織が日本の伝統工芸品として認められるきっかけになったのではないかと、云います。
井上さんは南部裂織を次の世代に残したいと、八戸市の文化を発信する拠点に裂織教室を開き地元の主婦とはたを織り続けています。
南部裂織に出会って約40年過ぎました。
まだまだ織りたいものがあるのでこれからです。
古い機織り機で自分の身体と織り機と一体になって反物を織る機械で地機(じばた)と言います。
長さ1.3m、幅1m弱、高さが1mぐらい、全国でよく見る機織り機。
縦糸(新しい糸)が3本(ピンク、ブルー、グリーン)そこに古い布(横糸になる)を入れてゆく。
古い布に1cm幅の鋏をちょっと入れて裂きます、一本の糸になります。
化繊などが有ると裂けないので、鋏で切りますが、裂いたものが本物です。
自分の身体を操作して編みます、織り機と一体でないと良い作品はできない。
横布を入れて、順次織って行きますが、凄く時間がかかります。
江戸時代の作品が有ります。(こたつ掛け)
知り合いの方のところにありましたが、研究しようと貰い受けて、真黒になっていましたが3日洗ったら段々と色がでてきて、藍染で、縦糸が麻糸で織っていて、赤い色も入っていました。
農閑期に織った様です。
絶対これは教科書になると思いました。
他に、袋物など皆さんが公民館で織ったものがここに有ります。
手のかからないもので、家庭に密着したものの見本を作りましたが10年掛かりました。
八戸は港なので、大漁旗をなびかせて漁にいったが、30年、40年して使わなくなったものを頂いて、皆さんに織っていただいています。
織っているうちに、布が表現してくれます、布との出会いなんです。
織りは10人10色、女性の個性がそのまま出てくる、プラス布の個性が発揮できる。
苦しい時もあるけど楽しいです。
頼まれて期限に間に合わないときには厳しいです、必死になりますが、それがあるからいいのかなとも思います。
追い込まれた方がいい作品ができるのかもしれません。(展示会などもそうかも)
そろそろ雪が来るころかなあという頃が夕焼けが一番綺麗です。
62歳の時に斜里岳の夕焼けの景色を南部裂織に織りこむ。
150種類の色が入っています。
現代工芸作家協会の新人賞を受賞して、ウイーンでも展示された。
写真はウイーンの展示会で受賞したもの 横1.5m 縦1.4m 中央に斜里岳のシルエット、上空が赤く染まっている。
故郷に帰りたくても帰れないので想いを込めました。
デザイナーになりたくて、釧路市の和洋裁専門学校に行って、布を買う必要が有り井上洋裁店にバイトに行って、そのうちに自分でもお嫁に行こうかと思って、結婚して主人の兄が八戸にいたので開業しようと八戸に来ました。
盛岡で編み物業界では講習が有り、行った時に変わった織り方のものが有り、聞いたら裂いて織ったと言う事でした。
財布を買ってきたが丈夫だし肌触りはいいし、こんなものを織りたいと思った。
裂織教室をやっていると言う事を聞いてすぐに電話しました。
毎日行かれないので1週間に2~3回通って5年掛かりました。
公民館で手芸教室の講座を頼まれてやっていたが、南部裂織は趣味のつもりでした。
南部裂織を講座で取り上げてもらいたいと言う事になって、公民館で南部裂織の講座を開いて22年になります。
62歳で現代工芸作家協会の新人賞を受賞。
大会が有ると色々なところに行って南部裂織の良さを宣伝しました。
八戸市の中心部にある「はっち」(「八戸ポータルミュージアム」)でこういう伝統が有ると言う事で、製作してもらったり、紹介しています。
残して行かなくてはいけない伝統文化だと思っています。
八戸工業大学の人が南部裂織を研究したいと言う事で、織り機を使って研究しています。
その発表会も11月にあります。
昭和10年北海道斜里町生まれ、81歳を迎えた今も南部裂織の製作を続け技術の継承や後進の指導に取り組んでいます。
井上さんは服飾デザイナーを目指し釧路市の和洋裁学校に学びました。
そこで知り合った今は亡き井上修司?さんと結婚し、八戸市で洋品店を開業しました。
商売と子育ての忙しい日々を送っていた井上さんが南部裂織に出会ったのは41歳の時でした。
井上さんは古い布を活かし美しい布に再生する技法に感動し、以来南部裂織の研究に没頭しました。
そして20年後に製作した故郷の山北海道の斜里岳の夕焼けを織り込んだタペストリーで現代工芸作家協会の新人賞を受賞されました。
この受賞に依って江戸時代の南部地方の農村に生まれた南部裂織が日本の伝統工芸品として認められるきっかけになったのではないかと、云います。
井上さんは南部裂織を次の世代に残したいと、八戸市の文化を発信する拠点に裂織教室を開き地元の主婦とはたを織り続けています。
南部裂織に出会って約40年過ぎました。
まだまだ織りたいものがあるのでこれからです。
古い機織り機で自分の身体と織り機と一体になって反物を織る機械で地機(じばた)と言います。
長さ1.3m、幅1m弱、高さが1mぐらい、全国でよく見る機織り機。
縦糸(新しい糸)が3本(ピンク、ブルー、グリーン)そこに古い布(横糸になる)を入れてゆく。
古い布に1cm幅の鋏をちょっと入れて裂きます、一本の糸になります。
化繊などが有ると裂けないので、鋏で切りますが、裂いたものが本物です。
自分の身体を操作して編みます、織り機と一体でないと良い作品はできない。
横布を入れて、順次織って行きますが、凄く時間がかかります。
江戸時代の作品が有ります。(こたつ掛け)
知り合いの方のところにありましたが、研究しようと貰い受けて、真黒になっていましたが3日洗ったら段々と色がでてきて、藍染で、縦糸が麻糸で織っていて、赤い色も入っていました。
農閑期に織った様です。
絶対これは教科書になると思いました。
他に、袋物など皆さんが公民館で織ったものがここに有ります。
手のかからないもので、家庭に密着したものの見本を作りましたが10年掛かりました。
八戸は港なので、大漁旗をなびかせて漁にいったが、30年、40年して使わなくなったものを頂いて、皆さんに織っていただいています。
織っているうちに、布が表現してくれます、布との出会いなんです。
織りは10人10色、女性の個性がそのまま出てくる、プラス布の個性が発揮できる。
苦しい時もあるけど楽しいです。
頼まれて期限に間に合わないときには厳しいです、必死になりますが、それがあるからいいのかなとも思います。
追い込まれた方がいい作品ができるのかもしれません。(展示会などもそうかも)
そろそろ雪が来るころかなあという頃が夕焼けが一番綺麗です。
62歳の時に斜里岳の夕焼けの景色を南部裂織に織りこむ。
150種類の色が入っています。
現代工芸作家協会の新人賞を受賞して、ウイーンでも展示された。
写真はウイーンの展示会で受賞したもの 横1.5m 縦1.4m 中央に斜里岳のシルエット、上空が赤く染まっている。
故郷に帰りたくても帰れないので想いを込めました。
デザイナーになりたくて、釧路市の和洋裁専門学校に行って、布を買う必要が有り井上洋裁店にバイトに行って、そのうちに自分でもお嫁に行こうかと思って、結婚して主人の兄が八戸にいたので開業しようと八戸に来ました。
盛岡で編み物業界では講習が有り、行った時に変わった織り方のものが有り、聞いたら裂いて織ったと言う事でした。
財布を買ってきたが丈夫だし肌触りはいいし、こんなものを織りたいと思った。
裂織教室をやっていると言う事を聞いてすぐに電話しました。
毎日行かれないので1週間に2~3回通って5年掛かりました。
公民館で手芸教室の講座を頼まれてやっていたが、南部裂織は趣味のつもりでした。
南部裂織を講座で取り上げてもらいたいと言う事になって、公民館で南部裂織の講座を開いて22年になります。
62歳で現代工芸作家協会の新人賞を受賞。
大会が有ると色々なところに行って南部裂織の良さを宣伝しました。
八戸市の中心部にある「はっち」(「八戸ポータルミュージアム」)でこういう伝統が有ると言う事で、製作してもらったり、紹介しています。
残して行かなくてはいけない伝統文化だと思っています。
八戸工業大学の人が南部裂織を研究したいと言う事で、織り機を使って研究しています。
その発表会も11月にあります。
2016年10月12日水曜日
荒澤光利(保育士) ・第二の人生はおじいちゃん保育士
荒澤光利(保育士) ・第二の人生はおじいちゃん保育士
68歳、静岡県の職員を定年退職した荒澤さんは孫の育児を手伝ったことがきっかけとなり、保育士を目指すことを決意しました。
2年がかりで保育士の国家試験に挑戦し合格、去年4月から静岡市内の保育園でおじいちゃん先生として1歳児の保育を担当しています。
第二の人生として保育士を選択したのは何故か、今の生きがいは何か伺いました。
1歳児の特徴は、言葉がでてきて、おむつが外れないが心身共にグーッと成長する年頃です。
大学卒業後、静岡県庁に就職、米の減反のセクションに入って、その後難病の事、非行防止、訴訟生活相談等をやってきました。
昭和48年職場結婚、子育てもタッチしなかった。
10年ちょっとで妻が脳腫瘍になり、子供二人を残して死んでしまった。
数年後、再婚して現在に至っています。
子供のことはまかせっきりだった。
60歳で定年退職、平成21年3月31日。
長女が初孫を身ごもっていたが、出血して、病院に入院して、その後3ケ月で元気な子を産んでくれました。
再雇用で広報課に再就職しました。
孫が1歳3カ月の時に長女が看護士として職場復帰したが、孫の具合が悪かったりすると、手伝いなどをしていた。
ボランティアとして出来ればと思ったが、勉強して保育士をとれば預ける方も安心すると思った。
保育士の過去問題を見て、取れるかなあと思った。
保育士を目指す学校に毎週一回行って勉強を開始しました。
なかなか頭に入ってこないので、過去問題の練習問題をやったりして成績もよくなってきました。
学科試験は10科目あり、1科目20問、社会福祉理論、養護理論、発達心理学など10科目。
11月から始めて8月が受験日で、1年目で受かろうと思っていたが、6科目は良かったが、4科目は足りなくて合格できなかった。
実技の勉強も始めました、音楽、言語、絵画の内、2つを選んでやるわけですが、言語と音楽を選びました。
「大きなかぶ」という話を選んで、話す練習をしました。
音楽は課題曲が2曲出るが、使う楽器がピアノ、アコーディオン、アコースティックギターのいずれかで弾きがたって歌う。
ギターを少しやってた経験があるので、ギター教室に行きました。
2年目学科が受かって、実技試県には150名がいてほとんど若い女性、男性も若い男性で高齢者は私一人でした。
ピアノが圧倒的に多くて、ギターはほとんどいませんでした、これが幸いしたのか、受かることが出来ました。(64歳)
県庁の先輩だった人から声がかかって、保育園に行くようになりました。
去年の4月から仕事を始めました。
働いているお母さん方の希望を聞いて、保育所として受け入れるが、途中で送りをして、二時頃に再び受け入れる、国の認定子供園の走りみたいなことをやっていた。
2年目に1歳児を朝から6時間までをやるようになりました。
最初は身体が動かなくなる様になるまで疲れました。
辞めようかなとも思っていたが、我慢して3カ月やっているうちに、ボーナスがでて、もう半年やろうと思った。
身体も慣れてきて、大変さは無くなりました。
周りは若い女性だらけですが、あまり気にしないでやっています。
子供たちともフレンドリーに家のおじいちゃんの様に接しています。
こちらがその子に愛情を注げば判ってくれる、怒る時も貴方が大事で、覚えてほしいから怒るんだと、気持ちを込めてそうします。
優しい気持ちを持てる子になってほしいと思っています。
愛情を注がれてきた子は大人になると優しくて力強くて親離れが早くて自立すると信じているのでそういう風に接しています。
待機児童、保育士の不足の問題。
潜在保育士の掘り起こし、高齢者を活用できないか。
全科目対応できるようにでは無くて、音楽とかを省いても対応できるようにするとか、もっとハードルを下げることも必要ではないか。
68歳、静岡県の職員を定年退職した荒澤さんは孫の育児を手伝ったことがきっかけとなり、保育士を目指すことを決意しました。
2年がかりで保育士の国家試験に挑戦し合格、去年4月から静岡市内の保育園でおじいちゃん先生として1歳児の保育を担当しています。
第二の人生として保育士を選択したのは何故か、今の生きがいは何か伺いました。
1歳児の特徴は、言葉がでてきて、おむつが外れないが心身共にグーッと成長する年頃です。
大学卒業後、静岡県庁に就職、米の減反のセクションに入って、その後難病の事、非行防止、訴訟生活相談等をやってきました。
昭和48年職場結婚、子育てもタッチしなかった。
10年ちょっとで妻が脳腫瘍になり、子供二人を残して死んでしまった。
数年後、再婚して現在に至っています。
子供のことはまかせっきりだった。
60歳で定年退職、平成21年3月31日。
長女が初孫を身ごもっていたが、出血して、病院に入院して、その後3ケ月で元気な子を産んでくれました。
再雇用で広報課に再就職しました。
孫が1歳3カ月の時に長女が看護士として職場復帰したが、孫の具合が悪かったりすると、手伝いなどをしていた。
ボランティアとして出来ればと思ったが、勉強して保育士をとれば預ける方も安心すると思った。
保育士の過去問題を見て、取れるかなあと思った。
保育士を目指す学校に毎週一回行って勉強を開始しました。
なかなか頭に入ってこないので、過去問題の練習問題をやったりして成績もよくなってきました。
学科試験は10科目あり、1科目20問、社会福祉理論、養護理論、発達心理学など10科目。
11月から始めて8月が受験日で、1年目で受かろうと思っていたが、6科目は良かったが、4科目は足りなくて合格できなかった。
実技の勉強も始めました、音楽、言語、絵画の内、2つを選んでやるわけですが、言語と音楽を選びました。
「大きなかぶ」という話を選んで、話す練習をしました。
音楽は課題曲が2曲出るが、使う楽器がピアノ、アコーディオン、アコースティックギターのいずれかで弾きがたって歌う。
ギターを少しやってた経験があるので、ギター教室に行きました。
2年目学科が受かって、実技試県には150名がいてほとんど若い女性、男性も若い男性で高齢者は私一人でした。
ピアノが圧倒的に多くて、ギターはほとんどいませんでした、これが幸いしたのか、受かることが出来ました。(64歳)
県庁の先輩だった人から声がかかって、保育園に行くようになりました。
去年の4月から仕事を始めました。
働いているお母さん方の希望を聞いて、保育所として受け入れるが、途中で送りをして、二時頃に再び受け入れる、国の認定子供園の走りみたいなことをやっていた。
2年目に1歳児を朝から6時間までをやるようになりました。
最初は身体が動かなくなる様になるまで疲れました。
辞めようかなとも思っていたが、我慢して3カ月やっているうちに、ボーナスがでて、もう半年やろうと思った。
身体も慣れてきて、大変さは無くなりました。
周りは若い女性だらけですが、あまり気にしないでやっています。
子供たちともフレンドリーに家のおじいちゃんの様に接しています。
こちらがその子に愛情を注げば判ってくれる、怒る時も貴方が大事で、覚えてほしいから怒るんだと、気持ちを込めてそうします。
優しい気持ちを持てる子になってほしいと思っています。
愛情を注がれてきた子は大人になると優しくて力強くて親離れが早くて自立すると信じているのでそういう風に接しています。
待機児童、保育士の不足の問題。
潜在保育士の掘り起こし、高齢者を活用できないか。
全科目対応できるようにでは無くて、音楽とかを省いても対応できるようにするとか、もっとハードルを下げることも必要ではないか。
2016年10月11日火曜日
春川ひろし(ジャズ演奏家) ・童謡ライブ800回
春川ひろし(ジャズ演奏家) ・童謡ライブ800回
東京浅草のライブハウスで普段はドラムを叩いてジャズを演奏している春川さん75歳です。
このジャズグループは結成から25年7人のメンバーが変わることなく300回以上のライブを開いて来ましたが、春川さんほかに真似のできない記録を持っています、800回続いている童謡ライブです。
今から11年前身体の空いている何人かと台東区、足立区、墨田区、文京区などの老人ホームや、施設等廻って童謡や唱歌を皆んで歌って楽しむコンサートを開きました。
それが大好評で毎月6回~7回開いてこの暮には800回の大台に乗ります。
童謡ライブ800回 春川さんに伺います。
歌手2人、トランペッター(ジャズ界のNO1のトランペッター)1人、私がキーボードを弾いたり雑用などして司会をして歌を歌ったりします。
喜びを知ってもらう為にやっていたら自然とそうなった。
ギブアンドテーク(お客さんからオーラをもらう)でやってきました。
1回70~80人集まってくれて、800回を迎える事になりました。
10年前一つの流れが変わった、ジャズ離れというか一つの世代が変わった。
800あったのがどんどんなくなって、キャバレーも無くなってきて、バンドマンの生きていく場所が枯渇してきて、リスナーがいなくなってきて、もう一回日本人の心に響く音楽はなんだろうと探してきたのが10年前で、童謡が素晴らしい力を持っていることを再認識しました。
100回、200回やっているうちに段々わかってきて、300回ぐらいにはっきりと童謡という物が浮かんでき400回、500回の目標はこの童謡が消えてしまったら、どんな世の中になってしまうのかという不安感、恐怖感が見えてきて、何とかして存続できる仕事もわるくないんじゃないかというのが800回続いている理由です。
標準編成の時は6人でやってるが、本来数千万円になります。
ボランティアでやっています。
私のあだ名は白いファッションをしているんで、「白い浅草の妖怪」というあだ名が付いています。
ジャズマンなのに童謡に打ち込んだり、800回をこなす力、持ちだし、時間から何からあり得ないことを平気でやっているからそういうあだ名をもらった。
終わったら楽しくてきらきらしています、又来てくださいと言われます。
月に6~7回のペースでやっています。
選曲の答えはお客さんの方にあります、お客さんから教わっています。
童謡は今の日本の社会を作っている貴重なところに存在していると言うのを見つけて何とか存続して綺麗に整理整頓してみたいと言う気持ちがこの活動続けている理由です。
「近代日本の音楽の原点は童謡にあり」 著書
チャンスを与えてくれたのは皆さんからです。
江戸時代の庶民の歌から始まって軍歌、戦後もしばらく軍歌が続いた。
江戸時代の歌を調べてゆくと世界に広がってゆく。
フランスのブルボン王朝 平和になると社会がおかしくなりボケてしまって、短命にもなる。
スイスの学者、ルソーに相談したら、手を動かせばいいと言う事になり、ルソーは作曲家でもあり「むすんでひらいて」が生まれて、ミュージックセラピーとなる最初のもの。
アメリカの教会でも音楽を使ってミュージックセラピーをやっているが、日本を調べて行ったら、日本は江戸時代にやっていた。
「わらべ歌」 あんたがたどっこさ、花いちもんめ、かごめかごめ、ずいずいずっころばし、とか20曲ぐらいあり手を動かしていた。(お手玉とか、毬つき歌、羽根つき歌、お手合わせとか、健康維持でやっていたことがだんだん見えてきた)
明治時代、唱歌、大正時代になって新しい童謡がでてくる。
「夏も近づく八十八夜」、とか日本人は音楽を使ってやっている。
童謡は何でしょうか。
見えてきているのは時代、徳川政権は260年間ぐらい戦のない国を維持したが、明治の文明開化に入って戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二世界大戦と来た中で80数年
軍国主義、俺が俺がを続けたために、食べものもなく、庶民の生活もないがしろにされた。
そこからにじみ出ているのが童謡。
私の言っている童謡は、大正6年の童謡、中山晋平、野口雨情、海沼 實が最後の童謡作曲家
今私が用意しているのが260曲ぐらいと演歌が100曲ぐらい、軍歌が50曲ぐらい、他にジャズもやりますが。
芸術性、文化、心の癒し、これと同じ現象が起きているのは8代将軍の吉宗の時代に起きている。
飢饉、改革が有りそれを乗り切って、元禄時代になる。(葛飾北斎、松尾芭蕉・・・世界に誇れる)
同じことが大正から起きていて、それが童謡だったんです。
成田 為三、山田耕筰・・・北原白秋、野口雨情、西条八十・・・。
一言で言うとお上がおかしいから出来たんです。
お上に対して言えないから、それが音楽になって表れているのが童謡なんです。
アメリカでも黒人の農園での虐げがあのジャズを生み出すんです。
黒人の苦しみなどが叫びになって出てくる。
童謡も近いものが有る、訴えを起こしていて、それを一つ一つの曲に置き換えて解説しているのが今やっている私たちの会です。(この曲はこういう意味が有ると説明もする)
今の世代の若い人は童謡を2割ぐらいしか歌えない。
「夕焼け小焼け」も知らない、その親の時代もあやふや。
海沼 實が最後の童謡作曲家だと思っていて、昭和26年ぐらいまでだろうと、それが一つのジャンルだろうと思っている。
軍歌は3500曲あった。
日本人には大昔から面白いリズムが身体の中に入っている。
それがぴょんこ節、(東京音頭など) これを引き継いでいるのが軍歌。
いきなり敗戦国になったらテネシーワルツ、センチメンタルジャニーなどが入ってきてしまった。
カルチャーショック、戦後の「赤いリンゴに・・・」はぴょんこ節 演歌の「泣くな小鳩とよ・・・」これもぴょんこ節、 「緑の丘の赤い屋根・・・」ぴょんこ節 軍歌です。
これを変えたのが服部良一 の昭和21年
「銀座カンカン娘」が最初のジャズ演歌なんです。
「あの娘かわいや カンカン娘」 これはジャズです。
23年春に「東京ブギウギ」 これで日本人は度肝を抜かれた。
この後ジャズが沢山出てくる。
「ちょうちょ」(ちょうちょ ちょうちょ 菜の葉にとまれ・・・)1874年(明治7年)伊沢修二さんがハーバード大学に行って6年かけて1曲を覚えてきた。
日本は外国とはリズム感、ハーモニー、メロディーから全て違っていた。
第一次世界大戦が終わって、勝って、よその国はいらない、自分達の曲を作ろうとした時代が始まったのが童謡。
2ビートの軍歌調だったのを子供達をもっと和まそうと言うのが童謡。
童謡っていいなと言われたらやる方としても生き甲斐がある。
わらべ歌とおなじようにシンプル。
押しつけても駄目で、皆さんが童謡っていいんだと開いて来る、喜んでいるのは皆さんです。
大学卒業後、世界を回って、眼鏡、光工学のサラリーマンをして41歳で辞めて、好きな道に入ってくる。
一番誰もが泣いていたのは「ふるさと」
3番に「志を果たしていつの日にか帰らん」
本当は帰りたいんだけれど家族に会いたいんだけれども、志をはたしてこの国に来たんだけれど、まだ何もできていないから帰らないという事を詩がいっているので、みんな泣いてしまう。
この詩とメロディーは凄いので世界遺産にできないかと思って始めたのは、この童謡の会です。
春川さん「童謡の日」を作りなさいよと言われて、相談しているところです。
東京浅草のライブハウスで普段はドラムを叩いてジャズを演奏している春川さん75歳です。
このジャズグループは結成から25年7人のメンバーが変わることなく300回以上のライブを開いて来ましたが、春川さんほかに真似のできない記録を持っています、800回続いている童謡ライブです。
今から11年前身体の空いている何人かと台東区、足立区、墨田区、文京区などの老人ホームや、施設等廻って童謡や唱歌を皆んで歌って楽しむコンサートを開きました。
それが大好評で毎月6回~7回開いてこの暮には800回の大台に乗ります。
童謡ライブ800回 春川さんに伺います。
歌手2人、トランペッター(ジャズ界のNO1のトランペッター)1人、私がキーボードを弾いたり雑用などして司会をして歌を歌ったりします。
喜びを知ってもらう為にやっていたら自然とそうなった。
ギブアンドテーク(お客さんからオーラをもらう)でやってきました。
1回70~80人集まってくれて、800回を迎える事になりました。
10年前一つの流れが変わった、ジャズ離れというか一つの世代が変わった。
800あったのがどんどんなくなって、キャバレーも無くなってきて、バンドマンの生きていく場所が枯渇してきて、リスナーがいなくなってきて、もう一回日本人の心に響く音楽はなんだろうと探してきたのが10年前で、童謡が素晴らしい力を持っていることを再認識しました。
100回、200回やっているうちに段々わかってきて、300回ぐらいにはっきりと童謡という物が浮かんでき400回、500回の目標はこの童謡が消えてしまったら、どんな世の中になってしまうのかという不安感、恐怖感が見えてきて、何とかして存続できる仕事もわるくないんじゃないかというのが800回続いている理由です。
標準編成の時は6人でやってるが、本来数千万円になります。
ボランティアでやっています。
私のあだ名は白いファッションをしているんで、「白い浅草の妖怪」というあだ名が付いています。
ジャズマンなのに童謡に打ち込んだり、800回をこなす力、持ちだし、時間から何からあり得ないことを平気でやっているからそういうあだ名をもらった。
終わったら楽しくてきらきらしています、又来てくださいと言われます。
月に6~7回のペースでやっています。
選曲の答えはお客さんの方にあります、お客さんから教わっています。
童謡は今の日本の社会を作っている貴重なところに存在していると言うのを見つけて何とか存続して綺麗に整理整頓してみたいと言う気持ちがこの活動続けている理由です。
「近代日本の音楽の原点は童謡にあり」 著書
チャンスを与えてくれたのは皆さんからです。
江戸時代の庶民の歌から始まって軍歌、戦後もしばらく軍歌が続いた。
江戸時代の歌を調べてゆくと世界に広がってゆく。
フランスのブルボン王朝 平和になると社会がおかしくなりボケてしまって、短命にもなる。
スイスの学者、ルソーに相談したら、手を動かせばいいと言う事になり、ルソーは作曲家でもあり「むすんでひらいて」が生まれて、ミュージックセラピーとなる最初のもの。
アメリカの教会でも音楽を使ってミュージックセラピーをやっているが、日本を調べて行ったら、日本は江戸時代にやっていた。
「わらべ歌」 あんたがたどっこさ、花いちもんめ、かごめかごめ、ずいずいずっころばし、とか20曲ぐらいあり手を動かしていた。(お手玉とか、毬つき歌、羽根つき歌、お手合わせとか、健康維持でやっていたことがだんだん見えてきた)
明治時代、唱歌、大正時代になって新しい童謡がでてくる。
「夏も近づく八十八夜」、とか日本人は音楽を使ってやっている。
童謡は何でしょうか。
見えてきているのは時代、徳川政権は260年間ぐらい戦のない国を維持したが、明治の文明開化に入って戊辰戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二世界大戦と来た中で80数年
軍国主義、俺が俺がを続けたために、食べものもなく、庶民の生活もないがしろにされた。
そこからにじみ出ているのが童謡。
私の言っている童謡は、大正6年の童謡、中山晋平、野口雨情、海沼 實が最後の童謡作曲家
今私が用意しているのが260曲ぐらいと演歌が100曲ぐらい、軍歌が50曲ぐらい、他にジャズもやりますが。
芸術性、文化、心の癒し、これと同じ現象が起きているのは8代将軍の吉宗の時代に起きている。
飢饉、改革が有りそれを乗り切って、元禄時代になる。(葛飾北斎、松尾芭蕉・・・世界に誇れる)
同じことが大正から起きていて、それが童謡だったんです。
成田 為三、山田耕筰・・・北原白秋、野口雨情、西条八十・・・。
一言で言うとお上がおかしいから出来たんです。
お上に対して言えないから、それが音楽になって表れているのが童謡なんです。
アメリカでも黒人の農園での虐げがあのジャズを生み出すんです。
黒人の苦しみなどが叫びになって出てくる。
童謡も近いものが有る、訴えを起こしていて、それを一つ一つの曲に置き換えて解説しているのが今やっている私たちの会です。(この曲はこういう意味が有ると説明もする)
今の世代の若い人は童謡を2割ぐらいしか歌えない。
「夕焼け小焼け」も知らない、その親の時代もあやふや。
海沼 實が最後の童謡作曲家だと思っていて、昭和26年ぐらいまでだろうと、それが一つのジャンルだろうと思っている。
軍歌は3500曲あった。
日本人には大昔から面白いリズムが身体の中に入っている。
それがぴょんこ節、(東京音頭など) これを引き継いでいるのが軍歌。
いきなり敗戦国になったらテネシーワルツ、センチメンタルジャニーなどが入ってきてしまった。
カルチャーショック、戦後の「赤いリンゴに・・・」はぴょんこ節 演歌の「泣くな小鳩とよ・・・」これもぴょんこ節、 「緑の丘の赤い屋根・・・」ぴょんこ節 軍歌です。
これを変えたのが服部良一 の昭和21年
「銀座カンカン娘」が最初のジャズ演歌なんです。
「あの娘かわいや カンカン娘」 これはジャズです。
23年春に「東京ブギウギ」 これで日本人は度肝を抜かれた。
この後ジャズが沢山出てくる。
「ちょうちょ」(ちょうちょ ちょうちょ 菜の葉にとまれ・・・)1874年(明治7年)伊沢修二さんがハーバード大学に行って6年かけて1曲を覚えてきた。
日本は外国とはリズム感、ハーモニー、メロディーから全て違っていた。
第一次世界大戦が終わって、勝って、よその国はいらない、自分達の曲を作ろうとした時代が始まったのが童謡。
2ビートの軍歌調だったのを子供達をもっと和まそうと言うのが童謡。
童謡っていいなと言われたらやる方としても生き甲斐がある。
わらべ歌とおなじようにシンプル。
押しつけても駄目で、皆さんが童謡っていいんだと開いて来る、喜んでいるのは皆さんです。
大学卒業後、世界を回って、眼鏡、光工学のサラリーマンをして41歳で辞めて、好きな道に入ってくる。
一番誰もが泣いていたのは「ふるさと」
3番に「志を果たしていつの日にか帰らん」
本当は帰りたいんだけれど家族に会いたいんだけれども、志をはたしてこの国に来たんだけれど、まだ何もできていないから帰らないという事を詩がいっているので、みんな泣いてしまう。
この詩とメロディーは凄いので世界遺産にできないかと思って始めたのは、この童謡の会です。
春川さん「童謡の日」を作りなさいよと言われて、相談しているところです。
2016年10月10日月曜日
本池秀夫(革工芸作家) ・革に命を吹き込む
本池秀夫(革工芸作家) ・革に命を吹き込む
鳥取県1951年生まれ 革を利用した工芸品を作って45年になります。
その優れた技術が認められ今年鳥取県の無形文化財保持者に認定されました。
革を扱う工芸技術が文化財になるのは国や都道府県で初めてのことです。
本池さんは大学時代から独学で革工芸に取り組んで、その仕事はカバンなど実用品にとどまらず、レザーアート言われる美術の世界に展開しています。
老人や子供の何気ない日常の一こまを題材にした革の人形や、動物を等身大で表現した革の動物などの作品は髪の毛一本一本迄見分けられるほどリアルに作られて、衣類や家具、壁なども革とは思えない質感を持って表現されています。
無形文化財は伝統工芸の世界のものであるみたいな流れで、師匠がいてかたくなに守っていきながら、自分のカラーをどう出すか、それに対し認定を受けるという様な現状ですが、縁がないと思っていました。
人形とかが好きだった訳ではなく、革が小さい時から好きだった。
祖父から母から公務員だったが、自分は革の素材が好きで、革で何か作ったりしました。
中学から大学まで器械体操をやっていましたが、殆どの人が体育の先生になる世界でした。
ヒッピー見たいに旅をして何カ月もヨーロッパを旅しようとして、二ケ月あまりしてイタリアに入ってローマで焼き物の人形を見ました。
磁器の中に血が流れている様な温かみを感じた。
作った人は人間国宝みたいな人でした。
若い職人の手本になっていた人でした。
焼き物でこれだけリアルなものができるのなら、牛の革で作ってみようと思ったし、一生の仕事にしようとも思ってしまった。
もっと旅をする予定だったが二ヶ月で取り辞め、見た後直ぐ日本に帰ってきました。
生活をしなくてはいけないので、バック、靴、小物などの革製品を作りながら人形の研究をして或る程度完成してきました。
縮尺1/27 25cmぐらいの人形で、額の皺、髪の毛一本一本まで判るリアルな人形。
下着、Yシャツ、ベスト、スーツなどまで実際に着ています。
見えないところの物がリアルさを出して行ってるんじゃないかと思います。
靴も木型を作って靴を作って人形に履かせています。
一体を作るのに一週間位掛かりますが、木型を彫ったり見えないところに手間がかかっています。
2cm程度の顔を作るのに、革は20cm以上の革をカットして、乗せて残しておいてそれを長く切って髪の毛にして結っていきます。
65歳になりますが、40年ぐらいリアルにやって来ましたが、皺も3~4本の皺を0~1本で80歳の老人の顔が出来るようにならないかと思って今は取り組んでいます。
日常生活の中の或る場面を捉えた様な作品が多いです。
老人と子供がメインのテーマになってやっています。
革は本来捨てられる部分だが、再び生まれ変わる。
人形がしゃべってる様な気がするから、可愛いねとかお客さんが喋ってくれるような気がする。
もう一度生かされるような思いで、好きでいいなあと思っています。
動物もいろいろ作っているが、インドサイは数百頭しかいなくなって、絶滅の危機にあり、作って見せてこんな動物がいるという事、絶やしては駄目という様な問いかけをしたい。
キリンは6mぐらいあり、足場を組んで作っていきます。
足が細く不安定なので、彫刻用の発砲スチロールで型を作って、樹脂でもう一度復元して、その上に革を張るが、中に鉄で溶接して安定させます、牛を20頭分ぐらい使って一頭のキリンを作ります。
1から私が勝手に考えだしたので、毎日毎日が何ができるのか判らない、ものができ上ってからこんなものが出来たんだと、いつもわくわくします。
東京に10年いましたが音がすると言う事で9回位引っ越しました。
広い場所も必要なので鳥取の米子に帰ってきました。
欧米からも人形を見せてほしいと、きてくれますので、どこでやっていても同じだなあと思います。
美術館なので個展をやったりしているが、革の人形が一つのジャンルとして認められるのは大変なことだと思います。
木竹、染色、陶芸なども全て何百年掛かって工芸と言われたりするが、私が一代で、という様なことがとてもじゃないと思っていたが、鳥取県の無形文化財として認めてもらえたのは、ちょっとは認めてもらえたのかなあと思って、若い人に伝承していけたらいいなあと思っています。
常時見られるちっちゃな美術館が出来たらいいなあと思っています。
革の仕事は古いと思う、マンモスの時代から寒さを防ぐために作ったりしているので、面白いなあとは思う。
革の素材でアートの世界に入っていったのは今までにはなかった。
海外から注文が来たりしますが、農耕民族と狩猟民族との違いがある様な気がします。
何故日本人の顔を作らないのかと言われるが、日本人は畑で取れる植物、綿だとかが合っていて、革ではないと思う。
欧米の人の顔つきは皮の服、靴が良く合うわけですね。
日本人の顔を作ったことはいくつかあるが、何か異和感が有る様に感じます。
鳥取県1951年生まれ 革を利用した工芸品を作って45年になります。
その優れた技術が認められ今年鳥取県の無形文化財保持者に認定されました。
革を扱う工芸技術が文化財になるのは国や都道府県で初めてのことです。
本池さんは大学時代から独学で革工芸に取り組んで、その仕事はカバンなど実用品にとどまらず、レザーアート言われる美術の世界に展開しています。
老人や子供の何気ない日常の一こまを題材にした革の人形や、動物を等身大で表現した革の動物などの作品は髪の毛一本一本迄見分けられるほどリアルに作られて、衣類や家具、壁なども革とは思えない質感を持って表現されています。
無形文化財は伝統工芸の世界のものであるみたいな流れで、師匠がいてかたくなに守っていきながら、自分のカラーをどう出すか、それに対し認定を受けるという様な現状ですが、縁がないと思っていました。
人形とかが好きだった訳ではなく、革が小さい時から好きだった。
祖父から母から公務員だったが、自分は革の素材が好きで、革で何か作ったりしました。
中学から大学まで器械体操をやっていましたが、殆どの人が体育の先生になる世界でした。
ヒッピー見たいに旅をして何カ月もヨーロッパを旅しようとして、二ケ月あまりしてイタリアに入ってローマで焼き物の人形を見ました。
磁器の中に血が流れている様な温かみを感じた。
作った人は人間国宝みたいな人でした。
若い職人の手本になっていた人でした。
焼き物でこれだけリアルなものができるのなら、牛の革で作ってみようと思ったし、一生の仕事にしようとも思ってしまった。
もっと旅をする予定だったが二ヶ月で取り辞め、見た後直ぐ日本に帰ってきました。
生活をしなくてはいけないので、バック、靴、小物などの革製品を作りながら人形の研究をして或る程度完成してきました。
縮尺1/27 25cmぐらいの人形で、額の皺、髪の毛一本一本まで判るリアルな人形。
下着、Yシャツ、ベスト、スーツなどまで実際に着ています。
見えないところの物がリアルさを出して行ってるんじゃないかと思います。
靴も木型を作って靴を作って人形に履かせています。
一体を作るのに一週間位掛かりますが、木型を彫ったり見えないところに手間がかかっています。
2cm程度の顔を作るのに、革は20cm以上の革をカットして、乗せて残しておいてそれを長く切って髪の毛にして結っていきます。
65歳になりますが、40年ぐらいリアルにやって来ましたが、皺も3~4本の皺を0~1本で80歳の老人の顔が出来るようにならないかと思って今は取り組んでいます。
日常生活の中の或る場面を捉えた様な作品が多いです。
老人と子供がメインのテーマになってやっています。
革は本来捨てられる部分だが、再び生まれ変わる。
人形がしゃべってる様な気がするから、可愛いねとかお客さんが喋ってくれるような気がする。
もう一度生かされるような思いで、好きでいいなあと思っています。
動物もいろいろ作っているが、インドサイは数百頭しかいなくなって、絶滅の危機にあり、作って見せてこんな動物がいるという事、絶やしては駄目という様な問いかけをしたい。
キリンは6mぐらいあり、足場を組んで作っていきます。
足が細く不安定なので、彫刻用の発砲スチロールで型を作って、樹脂でもう一度復元して、その上に革を張るが、中に鉄で溶接して安定させます、牛を20頭分ぐらい使って一頭のキリンを作ります。
1から私が勝手に考えだしたので、毎日毎日が何ができるのか判らない、ものができ上ってからこんなものが出来たんだと、いつもわくわくします。
東京に10年いましたが音がすると言う事で9回位引っ越しました。
広い場所も必要なので鳥取の米子に帰ってきました。
欧米からも人形を見せてほしいと、きてくれますので、どこでやっていても同じだなあと思います。
美術館なので個展をやったりしているが、革の人形が一つのジャンルとして認められるのは大変なことだと思います。
木竹、染色、陶芸なども全て何百年掛かって工芸と言われたりするが、私が一代で、という様なことがとてもじゃないと思っていたが、鳥取県の無形文化財として認めてもらえたのは、ちょっとは認めてもらえたのかなあと思って、若い人に伝承していけたらいいなあと思っています。
常時見られるちっちゃな美術館が出来たらいいなあと思っています。
革の仕事は古いと思う、マンモスの時代から寒さを防ぐために作ったりしているので、面白いなあとは思う。
革の素材でアートの世界に入っていったのは今までにはなかった。
海外から注文が来たりしますが、農耕民族と狩猟民族との違いがある様な気がします。
何故日本人の顔を作らないのかと言われるが、日本人は畑で取れる植物、綿だとかが合っていて、革ではないと思う。
欧米の人の顔つきは皮の服、靴が良く合うわけですね。
日本人の顔を作ったことはいくつかあるが、何か異和感が有る様に感じます。
2016年10月8日土曜日
多川俊映(興福寺貫首) ・「菜根譚(さいこんたん)」を心の道しるべに
多川俊映(興福寺貫首) ・「菜根譚(さいこんたん)」を心の道しるべに
興福寺は1300年余りの歴史を誇る古刹です。
平成元年42歳の時貫首に就任し、現在62歳です。
菜根譚が世に出たのは今から400年余り前、中国で明の時代に官僚を務めたとされる、洪 自誠が表したと言われています。
日本でも江戸時代の後期に刊行され貴重な人生訓の語録として今日まで読み継がれています。
若いころから手近に置いて読んでいると言う多川さんに菜根譚の魅力を聞きます。
洪 自誠と言う人が著者ですが官僚だったと言われ官僚は経がベースになっているが、中年以降になると儒経だけでは飽き足らなくて、道教、仏教の3つを融合させ自分なりに切れのいい短文で書き改めて、それが357集まっている。
大人の人生作法、がいっぱい詰まっている、これが菜根譚の魅力だと思います。
時代は変化するが人間はそう変わるものではない。
君子としての心のあり方、身の処し方、実行すれば実利が有る。
儒教は私達が社会で生きて行く上で、人様と付き合わなくてはいけないが、人様との付き合いの仕方、社会の中の人間はどうあるべきかというような事を語っている。
道教は、大宇宙の中大自然の中の人間はどうあるべきかという立場だと思います。
仏教は、大宇宙の中大自然の中の社会の中で私達が生きるが、人間の心は一体どういうものかを、端的に教えている。
「悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るは、悪中(あくちゅう)にも尚(なお)善路(ぜんろ)有り。
善を為(な)して人の知らんことを急(いそ)ぐは、善処(ぜんしょ)即(すなわ)ち是(これ)悪根(あっこん)なり。」
いけないことを私達はするが、人に知られると困るが、その人の心の中に善の方向性、よくなってゆく芽がその中にあると言っている。 隠す気持ちの中にいい方向性が芽生えている。
良い事をするが、人に早く自分のいいことを知ってもらいたい。
しかし、社会はそう簡単にはそうですとは言わない、無視したり、評価されない。
そうすると、なんだと一瞬思うその中に、悪根が芽生えてくる。
良い悪いは線引きがしっかりしているわけではない、しきりがあいまい。
「無記」、善と悪の間の領域が有る。(仏教)
東洋の人間観。
「人の小過を責めず、人の陰私をあば発かず、人の旧悪を念(おも)わず、三者をもって徳を養うべし。 またもって害に遠かるべし。」
他人のちょっとした間違いを咎めない、人の隠しておきたいことを暴かない、人の古い間違いをいつまでも記憶しておかない。 この3つを日常生活で行えば徳が養われてゆく。
又そうすると人に恨まれることはない、実利になる。
繰り返し読んで日常生活に反映していきたい。
昭和22年興福寺の僧侶の子息として生まれる。
菜根譚と出会ったのは20代の後半、仏道の修行に励んでいたころ。
大学を出て或るお寺にお世話になる。
母が入退院して、家事のこと、修行のことが有り数年は記憶にないほど忙しかった。
エッセ-などをスクラップにして、人生の参考になるものはないかと探していたが、そういった時期に菜根譚に出会った。
読んで行くとぽつぽつ自分にフィットした内容が有り、今も読み続けている。
興福寺は唯識仏教で、唯識的な読み方をやっているんだと思います。
唯識仏教と菜根譚は矛盾はしません。
何かをベースに持っていないと読んだことにはならないと思う。
唯識は人の心の仕組みを自分では意識できない奥底にまで踏み込んで解析し、人の有りようを洞察しています。
すべては人の心が作りだしているという考え方。
識は或る意味心と置き換えてもそんなに間違っていなくて、唯心(唯心だけが有る)
肉体も物質だが心の要素に還元して自分の問題として考える、自然もそういう事にする。
心も自分で自覚できる領域と自覚できない無意識な領域(深層心理)に分かれる。
4~5世紀の段階から無意識の世界が有ることを捉えている。(唯識仏教)
一人ひとりの世界、見ている世界が違う、自分の心が作り上げた世界を見て、この世界はこうだと見ている。
私が見る掛け軸と、貴方が見る掛け軸の考え方、認識が違う。
愛犬家が犬を連れて散歩するが、犬の描き出している世界、飼い主が描き出している世界は全然違う。
嗅覚は人と犬では全然違う、犬は嗅覚は頼りに、人は目を頼りに散歩している。
人間同士も同じことで 一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している、(人人唯識)
日本人はほぼ単一民族で皆同じだと言う様なところから出発しているが、唯識の立場からすると、皆それぞれの世界を持って生きているので違うわけです。
同じだと思っている人が、よくよく話を聞くと違う、違いについてナーバスになり、場合によっては争いになる。
違うと言うところから出発すると、こういうところが同じだと言う事になると親密になる。
唯識はそれぞれの人が描いた世界を見ている、持っている。
手がかりになる一つが菜根譚です。
何度も読んで自己改革する。
「小処(しょうしょ)に滲漏(しんろう)せず、暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)せず、末路(まつろ)に怠荒(たいこう)せず。 纔(わず)かに是れ個の真正の英雄なり。」
ちょっとしたところだからといって手を抜かない、人の見ていないところでは知らんぷりせず、欺かない、(暗中の一番典型的なのは心の中 自分自身が見ている 神仏が見ている)
思う事こそが行為、(憎いから殺してやると思うことは、社会的には問題ないが、心の問題としては大変大きな問題をその人は抱えたことになる 難しいが心のコントロールをする)
暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)しないんだと言う事をやると言う事です。
難しいが、自分なりに少しでもなってゆく、その中に豊かな心が育まれてゆく。
自分が他人よりも劣ってると思うとはなはだよろしくないということは誰でも経験するものだが、端的に言うと人と比較しないと言う事だが、むずかしい、自分を変えてゆく事は言葉では簡単だが、本当に変えるのだと思った時に、ある種の覚悟が必要、誰もが持てるものです、仏教の経典、菜根譚などを読んで心に蓄積して、そういった道具を使いながら変えてゆく。
明日からではなくて今からこうするんだと言う生活態度を変えてゆく。
視点をずらせば捨てたものではないと言う様な事も沢山ある。
「空」 時々刻々変化するが、我々も変化するものであり、苦労はたえないが承知の上で生きているので、どうせ生きるなら実りあるものにしたい。
どうするかというとそこで宗教、哲学という問題がでてきたり、具体的にいえば菜根譚という様なものが登場してくる。
300年前火災で失われた中金堂の再建が平成30年の落成を目指して進んでいます。
8割5分から9割り近く出来上っています。
興福寺は1300年余りの歴史を誇る古刹です。
平成元年42歳の時貫首に就任し、現在62歳です。
菜根譚が世に出たのは今から400年余り前、中国で明の時代に官僚を務めたとされる、洪 自誠が表したと言われています。
日本でも江戸時代の後期に刊行され貴重な人生訓の語録として今日まで読み継がれています。
若いころから手近に置いて読んでいると言う多川さんに菜根譚の魅力を聞きます。
洪 自誠と言う人が著者ですが官僚だったと言われ官僚は経がベースになっているが、中年以降になると儒経だけでは飽き足らなくて、道教、仏教の3つを融合させ自分なりに切れのいい短文で書き改めて、それが357集まっている。
大人の人生作法、がいっぱい詰まっている、これが菜根譚の魅力だと思います。
時代は変化するが人間はそう変わるものではない。
君子としての心のあり方、身の処し方、実行すれば実利が有る。
儒教は私達が社会で生きて行く上で、人様と付き合わなくてはいけないが、人様との付き合いの仕方、社会の中の人間はどうあるべきかというような事を語っている。
道教は、大宇宙の中大自然の中の人間はどうあるべきかという立場だと思います。
仏教は、大宇宙の中大自然の中の社会の中で私達が生きるが、人間の心は一体どういうものかを、端的に教えている。
「悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るは、悪中(あくちゅう)にも尚(なお)善路(ぜんろ)有り。
善を為(な)して人の知らんことを急(いそ)ぐは、善処(ぜんしょ)即(すなわ)ち是(これ)悪根(あっこん)なり。」
いけないことを私達はするが、人に知られると困るが、その人の心の中に善の方向性、よくなってゆく芽がその中にあると言っている。 隠す気持ちの中にいい方向性が芽生えている。
良い事をするが、人に早く自分のいいことを知ってもらいたい。
しかし、社会はそう簡単にはそうですとは言わない、無視したり、評価されない。
そうすると、なんだと一瞬思うその中に、悪根が芽生えてくる。
良い悪いは線引きがしっかりしているわけではない、しきりがあいまい。
「無記」、善と悪の間の領域が有る。(仏教)
東洋の人間観。
「人の小過を責めず、人の陰私をあば発かず、人の旧悪を念(おも)わず、三者をもって徳を養うべし。 またもって害に遠かるべし。」
他人のちょっとした間違いを咎めない、人の隠しておきたいことを暴かない、人の古い間違いをいつまでも記憶しておかない。 この3つを日常生活で行えば徳が養われてゆく。
又そうすると人に恨まれることはない、実利になる。
繰り返し読んで日常生活に反映していきたい。
昭和22年興福寺の僧侶の子息として生まれる。
菜根譚と出会ったのは20代の後半、仏道の修行に励んでいたころ。
大学を出て或るお寺にお世話になる。
母が入退院して、家事のこと、修行のことが有り数年は記憶にないほど忙しかった。
エッセ-などをスクラップにして、人生の参考になるものはないかと探していたが、そういった時期に菜根譚に出会った。
読んで行くとぽつぽつ自分にフィットした内容が有り、今も読み続けている。
興福寺は唯識仏教で、唯識的な読み方をやっているんだと思います。
唯識仏教と菜根譚は矛盾はしません。
何かをベースに持っていないと読んだことにはならないと思う。
唯識は人の心の仕組みを自分では意識できない奥底にまで踏み込んで解析し、人の有りようを洞察しています。
すべては人の心が作りだしているという考え方。
識は或る意味心と置き換えてもそんなに間違っていなくて、唯心(唯心だけが有る)
肉体も物質だが心の要素に還元して自分の問題として考える、自然もそういう事にする。
心も自分で自覚できる領域と自覚できない無意識な領域(深層心理)に分かれる。
4~5世紀の段階から無意識の世界が有ることを捉えている。(唯識仏教)
一人ひとりの世界、見ている世界が違う、自分の心が作り上げた世界を見て、この世界はこうだと見ている。
私が見る掛け軸と、貴方が見る掛け軸の考え方、認識が違う。
愛犬家が犬を連れて散歩するが、犬の描き出している世界、飼い主が描き出している世界は全然違う。
嗅覚は人と犬では全然違う、犬は嗅覚は頼りに、人は目を頼りに散歩している。
人間同士も同じことで 一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している、(人人唯識)
日本人はほぼ単一民族で皆同じだと言う様なところから出発しているが、唯識の立場からすると、皆それぞれの世界を持って生きているので違うわけです。
同じだと思っている人が、よくよく話を聞くと違う、違いについてナーバスになり、場合によっては争いになる。
違うと言うところから出発すると、こういうところが同じだと言う事になると親密になる。
唯識はそれぞれの人が描いた世界を見ている、持っている。
手がかりになる一つが菜根譚です。
何度も読んで自己改革する。
「小処(しょうしょ)に滲漏(しんろう)せず、暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)せず、末路(まつろ)に怠荒(たいこう)せず。 纔(わず)かに是れ個の真正の英雄なり。」
ちょっとしたところだからといって手を抜かない、人の見ていないところでは知らんぷりせず、欺かない、(暗中の一番典型的なのは心の中 自分自身が見ている 神仏が見ている)
思う事こそが行為、(憎いから殺してやると思うことは、社会的には問題ないが、心の問題としては大変大きな問題をその人は抱えたことになる 難しいが心のコントロールをする)
暗中(あんちゅう)に欺隠(ぎいん)しないんだと言う事をやると言う事です。
難しいが、自分なりに少しでもなってゆく、その中に豊かな心が育まれてゆく。
自分が他人よりも劣ってると思うとはなはだよろしくないということは誰でも経験するものだが、端的に言うと人と比較しないと言う事だが、むずかしい、自分を変えてゆく事は言葉では簡単だが、本当に変えるのだと思った時に、ある種の覚悟が必要、誰もが持てるものです、仏教の経典、菜根譚などを読んで心に蓄積して、そういった道具を使いながら変えてゆく。
明日からではなくて今からこうするんだと言う生活態度を変えてゆく。
視点をずらせば捨てたものではないと言う様な事も沢山ある。
「空」 時々刻々変化するが、我々も変化するものであり、苦労はたえないが承知の上で生きているので、どうせ生きるなら実りあるものにしたい。
どうするかというとそこで宗教、哲学という問題がでてきたり、具体的にいえば菜根譚という様なものが登場してくる。
300年前火災で失われた中金堂の再建が平成30年の落成を目指して進んでいます。
8割5分から9割り近く出来上っています。
2016年10月7日金曜日
内山春雄(野鳥彫刻家・木象嵌師) ・“タッチカービング”の世界
内山春雄(野鳥彫刻家・木象嵌師) ・“タッチカービング”の世界
1950年岐阜市生まれ、日本の伝統工芸の一つ 木像嵌の仕事をされていた1970年代末にバードカービング 野鳥彫刻と言う工芸品に出会いました。
バードカービングはアメリカで鴨猟のおとりとして使うデコイから別れて生まれました。
木片を緻密に彫った鳥の彫刻に彩色し本物そっくりに仕上げる美術工芸品です。
内山さんはバードカービングに魅かれ腕を磨き、本場アメリカでの世界大会やコンテストで優勝をはじめ数々の上位入賞を果たしています。
そして日本の各地の博物館に作品を収めたり、鳥島やアメリカ、ミッドウエー等のアホウドリの保護、繁殖活動に協力したり、教育にバードカービングを生かした取り組みをされています。
今はタッチカービングに力を入れています。
目の不自由な方たちにバードカービングに指で触れてもらい鳥の姿形を知り鳥に関する知識を増やしてもらおうと言うものです。
アメリカに日本鳥類保護連盟が会議にでたが、会議場の隅に鳥の彫刻が並んでいた。
木を削って採色してあると言った。
日本鳥類保護連盟の人が愛鳥教育、学校教育に使えると思って写真を撮ってきた。
私のところに声がかかって彫ってほしいとの事だった。(36年前ぐらい)
今は5~6万人の愛好者がいると言う事です。
アメリカではクリスマスのプレゼントを自分で作ったデコイを相手にプレゼントすることは最高のもてなしです。
コンクールも沢山あり、売買の場でもある。
一体作るのに2~3ケ月掛かります。
バードカービング協会を立上げ、技術を広める、底辺を広める、作る人を育てる。
アメリカの技術に匹敵する様な人も20~30人出てきています。
子供時代、肋膜に結核菌が入って、医者もこの子は中学校まではいけませんといわれた。
小学校に通えるようになったのが5年生ぐらいで、体操などは付いていけなかった。
中学のころになると、どうやって生きるかを考えていました。
中学2~3年生のころに、だれもがやらないことをやれる様になれば生きていけるのではないかと思った。
父が木象嵌をやっていて、木造嵌師を選んだ。
父は木象嵌をやりたかったが、生活のために岐阜提灯などみんなで手分けをする仕事に切り替えたが、そのことに私は悔しさを感じた。
家の仕事を手伝いながら、木工のイロハを教えてもらいながら、夜間高校に通った。
その後特許事務所で図面を書く仕事を5年ぐらいやった。
23歳になる頃、木像嵌の夢が消えていくと思って、風呂場で頭の毛を全部剃ってしまって、無言の圧力をかけてみたら、母が父を説得して、父が習った富山に行かせてもらいました。
初代が中島杢堂と言う先生で(父が学ぶ)、私は息子の杢石先生に習いました。
見て習う、全てが見て覚える世界です。
富山には一年でしたが、楽堂という名前をもらいました。
小田原の木象嵌の店にいって自分で作った作品を持って行ったが、そこに居付いてしまった。
幻の象嵌という言葉が有ったが、自分で開発しようと持って、自分で編み出して箱根の象嵌師として認めてもらった最初の仕事でした。
30歳になって、浅草で工房を開いた。
物は作っても売ることを知らなくて、さばけなかった。
バードカービングを広げようと、日本木材開発に友達がいて、鳥を彫ってくれないかと言われた。
バードカービングを広げようとしたのが日本鳥類保護連盟で、山科鳥類研究所が有って、そこに鳥類保護連盟が間借りしていた。
30人ぐらいが座れるようなスペースが有って、そこで図面を描いたり鳥を彫ったりしました。
周りは全て鳥類の専門家だらけだった。(鳥類を勉強する最適な場所だと思った)
大学の講義をただで聞いている様な所だった。
ヤンバルクイナのことも毎日議論していた。
沖縄の高校の先生が死体を見つけて、自分ではく製にして、小さく曲げて送ってきた。
鳥の恰好をしていないので、生きている様なヤンバルクイナを復元できないかと相談された。
デッサンをして木を彫り始めるが、給料貰えず材料も自分で調達するしかなかった。
お風呂屋の叔母さんから家を解体した青森ヒバの木をもらう事が出来た。
報道関係が沖縄に行って、1カ月後に新聞で写真が発表されたが、自分で彫ったものが殆ど、瓜二つだった。
これは将来性が有ると周りから言われた。
鳥類保護連盟が学校教育を目標にしていたが、子供たちは笑顔ではなくて、原因を突き止めたかった。
刃物が子供達の手に合っていない、子供の力で出来る物ではない、という事だった。
子供用の刃物を200本用意して、どの学校にも貸し出したらスムーズにものができるようになった。
刃物の正しい持ち方、削り方、これを始めるきっかけになったのが中学生がバタフライナイフを使って先生を刺してしまったという事件が有り、ぷっつりとだえてしまったことが有った。
刃物の正しい持ち方、削り方をきちっと身につけてもらえれば怪我をしないし、若し自分で怪我をしてもどう辛い思いをするか、という事で授業をさせてもらった。
小学6年生は自分で作ったものは凄く4,5年生にみんな自慢する。
目の見えない人に彫ったものを触らせてあげると、スズメ、メジロとかを説明するが、目に見えない人は鳥の形がほとんど分かっていないことが初めて知ったんです。
一番触りにくいのが野鳥だと言うことが分かった。
工房に目の見えない人を招待して、話を聞きながら、どうすれば鳥の世界が貴方たちに伝わるかという事で、タッチーカービングで理解してもらう。
目が見えない人でも利用できる博物館ができないか、触れる博物館が可能か考えたが、特許も取りました。
ダーウインの進化論というのが博物館にないと言うことが分かった。
エクアドル政府が羽根一枚でも海外に出さない政策を取っているので、ダーウインの進化論を展示ができないので、それでは自分で彫ってしまえばいいと思いました。
剥製が無く、アメリカの博物館が内山のためにだけに貸しますということで15種類のはく製を送ってくれて、2年間かけて雄雌30体を作った。
盲学校で、くちばしの形でそれぞれの進化が有ったことが、理解してもらえた。
聴覚は凄くてパソコンのメールの音声を三倍速で彼等は聞く事が出来る。
母親は私のことをいびつなスイカだという、本来丸くてどこを切っても甘いのだが、いびつなスイカだが切ってみると委縮しているところとか種もないし、甘くもないが、甘いところもあるので甘いところを前面に出して生きるしかないんじゃない、こうして生まれた事はだれの責任でもないので、貴方はまるい部分、甘い部分を前面に出して、そこをより広くしてそこで生きるしかないんじゃないと、私のことを理解していてくれて、それが木象嵌でありバードカービングであり、盲学校にいくようになって、目が見えないがそれに見合う以上のものがちゃんとあることが理解できる。
私と同じ様な環境だと理解しているので、私の技術を役立てたいと思っています。
1950年岐阜市生まれ、日本の伝統工芸の一つ 木像嵌の仕事をされていた1970年代末にバードカービング 野鳥彫刻と言う工芸品に出会いました。
バードカービングはアメリカで鴨猟のおとりとして使うデコイから別れて生まれました。
木片を緻密に彫った鳥の彫刻に彩色し本物そっくりに仕上げる美術工芸品です。
内山さんはバードカービングに魅かれ腕を磨き、本場アメリカでの世界大会やコンテストで優勝をはじめ数々の上位入賞を果たしています。
そして日本の各地の博物館に作品を収めたり、鳥島やアメリカ、ミッドウエー等のアホウドリの保護、繁殖活動に協力したり、教育にバードカービングを生かした取り組みをされています。
今はタッチカービングに力を入れています。
目の不自由な方たちにバードカービングに指で触れてもらい鳥の姿形を知り鳥に関する知識を増やしてもらおうと言うものです。
アメリカに日本鳥類保護連盟が会議にでたが、会議場の隅に鳥の彫刻が並んでいた。
木を削って採色してあると言った。
日本鳥類保護連盟の人が愛鳥教育、学校教育に使えると思って写真を撮ってきた。
私のところに声がかかって彫ってほしいとの事だった。(36年前ぐらい)
今は5~6万人の愛好者がいると言う事です。
アメリカではクリスマスのプレゼントを自分で作ったデコイを相手にプレゼントすることは最高のもてなしです。
コンクールも沢山あり、売買の場でもある。
一体作るのに2~3ケ月掛かります。
バードカービング協会を立上げ、技術を広める、底辺を広める、作る人を育てる。
アメリカの技術に匹敵する様な人も20~30人出てきています。
子供時代、肋膜に結核菌が入って、医者もこの子は中学校まではいけませんといわれた。
小学校に通えるようになったのが5年生ぐらいで、体操などは付いていけなかった。
中学のころになると、どうやって生きるかを考えていました。
中学2~3年生のころに、だれもがやらないことをやれる様になれば生きていけるのではないかと思った。
父が木象嵌をやっていて、木造嵌師を選んだ。
父は木象嵌をやりたかったが、生活のために岐阜提灯などみんなで手分けをする仕事に切り替えたが、そのことに私は悔しさを感じた。
家の仕事を手伝いながら、木工のイロハを教えてもらいながら、夜間高校に通った。
その後特許事務所で図面を書く仕事を5年ぐらいやった。
23歳になる頃、木像嵌の夢が消えていくと思って、風呂場で頭の毛を全部剃ってしまって、無言の圧力をかけてみたら、母が父を説得して、父が習った富山に行かせてもらいました。
初代が中島杢堂と言う先生で(父が学ぶ)、私は息子の杢石先生に習いました。
見て習う、全てが見て覚える世界です。
富山には一年でしたが、楽堂という名前をもらいました。
小田原の木象嵌の店にいって自分で作った作品を持って行ったが、そこに居付いてしまった。
幻の象嵌という言葉が有ったが、自分で開発しようと持って、自分で編み出して箱根の象嵌師として認めてもらった最初の仕事でした。
30歳になって、浅草で工房を開いた。
物は作っても売ることを知らなくて、さばけなかった。
バードカービングを広げようと、日本木材開発に友達がいて、鳥を彫ってくれないかと言われた。
バードカービングを広げようとしたのが日本鳥類保護連盟で、山科鳥類研究所が有って、そこに鳥類保護連盟が間借りしていた。
30人ぐらいが座れるようなスペースが有って、そこで図面を描いたり鳥を彫ったりしました。
周りは全て鳥類の専門家だらけだった。(鳥類を勉強する最適な場所だと思った)
大学の講義をただで聞いている様な所だった。
ヤンバルクイナのことも毎日議論していた。
沖縄の高校の先生が死体を見つけて、自分ではく製にして、小さく曲げて送ってきた。
鳥の恰好をしていないので、生きている様なヤンバルクイナを復元できないかと相談された。
デッサンをして木を彫り始めるが、給料貰えず材料も自分で調達するしかなかった。
お風呂屋の叔母さんから家を解体した青森ヒバの木をもらう事が出来た。
報道関係が沖縄に行って、1カ月後に新聞で写真が発表されたが、自分で彫ったものが殆ど、瓜二つだった。
これは将来性が有ると周りから言われた。
鳥類保護連盟が学校教育を目標にしていたが、子供たちは笑顔ではなくて、原因を突き止めたかった。
刃物が子供達の手に合っていない、子供の力で出来る物ではない、という事だった。
子供用の刃物を200本用意して、どの学校にも貸し出したらスムーズにものができるようになった。
刃物の正しい持ち方、削り方、これを始めるきっかけになったのが中学生がバタフライナイフを使って先生を刺してしまったという事件が有り、ぷっつりとだえてしまったことが有った。
刃物の正しい持ち方、削り方をきちっと身につけてもらえれば怪我をしないし、若し自分で怪我をしてもどう辛い思いをするか、という事で授業をさせてもらった。
小学6年生は自分で作ったものは凄く4,5年生にみんな自慢する。
目の見えない人に彫ったものを触らせてあげると、スズメ、メジロとかを説明するが、目に見えない人は鳥の形がほとんど分かっていないことが初めて知ったんです。
一番触りにくいのが野鳥だと言うことが分かった。
工房に目の見えない人を招待して、話を聞きながら、どうすれば鳥の世界が貴方たちに伝わるかという事で、タッチーカービングで理解してもらう。
目が見えない人でも利用できる博物館ができないか、触れる博物館が可能か考えたが、特許も取りました。
ダーウインの進化論というのが博物館にないと言うことが分かった。
エクアドル政府が羽根一枚でも海外に出さない政策を取っているので、ダーウインの進化論を展示ができないので、それでは自分で彫ってしまえばいいと思いました。
剥製が無く、アメリカの博物館が内山のためにだけに貸しますということで15種類のはく製を送ってくれて、2年間かけて雄雌30体を作った。
盲学校で、くちばしの形でそれぞれの進化が有ったことが、理解してもらえた。
聴覚は凄くてパソコンのメールの音声を三倍速で彼等は聞く事が出来る。
母親は私のことをいびつなスイカだという、本来丸くてどこを切っても甘いのだが、いびつなスイカだが切ってみると委縮しているところとか種もないし、甘くもないが、甘いところもあるので甘いところを前面に出して生きるしかないんじゃない、こうして生まれた事はだれの責任でもないので、貴方はまるい部分、甘い部分を前面に出して、そこをより広くしてそこで生きるしかないんじゃないと、私のことを理解していてくれて、それが木象嵌でありバードカービングであり、盲学校にいくようになって、目が見えないがそれに見合う以上のものがちゃんとあることが理解できる。
私と同じ様な環境だと理解しているので、私の技術を役立てたいと思っています。
2016年10月6日木曜日
坂本スミ子(歌手・女優・幼稚園園長)・ラテンのリズムは私の宝
坂本スミ子(歌手・女優・幼稚園園長) ・ラテンのリズムは私の宝
1936年大阪市の生まれ 79歳 NHK大阪放送局放送合唱団を経て、昭和33年、22歳の時にラテン歌手としてデビューしました。
その後トリオロスパンチョスの日本公演で共演して、ラテン歌手として名が知られるようになりました。
昭和36年NHKの人気番組、「夢で逢いましょう」のレギュラー出演、紅白歌合戦で連続出場するなど、女優としても活躍しました。
昭和58年今村昌平監督の楢山節考では主演女優を演じ、カンヌ映画祭グランプリを受賞に輝きました。
坂本さんは20年前から熊本市で聖母幼稚園・幼愛園の園長として、幼児教育にも携わっています。
結婚した主人の後を継いで、幼稚園の園長を引き受け、経営にも入っていきました。
60年間好きな歌を歌い続けてきて、歌うことに対して、子供達と一緒にいられると言う事が、こんな素晴らしいプレゼントはないと思っている。
子供と言うのは大人よりすごい、感覚、物事を覚える、学ぼうと言う事に敏感な子たちです。
子供達は600人います。
子供は素晴らしい、大人はあほや。
大人は嘘を付いたりどんどん良いことを忘れていって、良い自分だった、子供の頃を忘れて失敗をする。
今、熊本は大変です、立ち直ろうと、一生懸命力を振り絞って、取り戻すために頑張っています。
保育園も傾いて、立てなおすために大変です。
昭和11年生まれ、ミッションスクール プール学院高等学校を卒業、昭和30年NHK大阪放送局放送合唱団に入団、昭和33年、22歳の時にラテン歌手としてプロデビューしました。
歌手になろうとは思っていなかったが、コーラス、演劇が好きだった。
気がついたら自然にラテン歌手になりました。
トリオロスパンチョスが日本に来て、前座をして歌ったら惚れこんでしまって、ラテンしかないと思いました。
大阪弁はラテン系、リズムが有ります。
昭和36年NHKの人気番組、「夢で逢いましょう」のレギュラー出演する。
北島三郎さんは「夢で逢いましょう」で歌ってます。 多くの人が有名になる。
紅白歌合戦で連続出場する。
昔はシャンソン、演歌、民謡、童謡の部という様にはっきり分かれていた。
熊本城が壊れてしまって、無残な姿になってしまいましたが、早く元に戻れるようにと願いながら、夢で逢いましょうという歌を紅白で歌いたいと思っています。
自分がお世話になった熊本のことを思って、夢で逢いましょうを歌って、皆の心を実現できるように頑張ろうと、その一つの力になればいいと思っています。
映画で今村昌平監督の楢山節考では主演女優を演じ、カンヌ映画祭グランプリを受賞。
賞を貰おうと思ってやったわけではないが、沢山の賞を頂いた事は誇りに思うし、感謝しています。
せっかくでき上った素晴らしい映画だったので、カンヌでりんご箱の上に乗って歌ってキャンペーンをして、皆さんに振り向いてもらいたかった。
この時代はもう目の前にいるよ、病気の親を見ることができず、施設に入れて、箱の中に閉じ込めて、死んだらお骨も取りに来ない、そういう世が目の前に迫っている、世界中がそうで有るんだと僕は思っていると、監督はしっかり言いました。
親を捨てに行くと言う、ざっくばらんな物のいい方ですが、そういった苦労をして木下監督も撮られたけど、今村監督は、違う、僕は世界中がこうして動いて行って、親を親と思わず捨てに行くと言う事が平然と行われてゆくのが、これからの人間の生き方みたいな気がする、と言われた監督の考えも凄いなと思いました。
それから5~6年経って、そういう世の中に日本国中、ドイツも、どこそこもそう、結果的にはそういうことが行われてしまってきている、そういう現実が私達の目の前にぶら下がっています。
あの映画に出て物凄い女性に出会いました、おりんさんはつましく正直に生きて、子供達を守って愛を授けましたが、おりんさんも70歳になり、人生を十分に終えたので、親を神様のところにつれていきなさい、それで初めて子供への教育が終わると言う、自分の命に替えてやられたおりんという凄い女性を演じることによって、私は完全におりんさんと出会いました。
この映画に出会い、おりんさんに出会ったことは素晴らしい喜びで、感謝です。
頑張っていきたい、仲良くなっていきたい、喧嘩はあかん、戦争もあかん、楽しいこともあるので頑張っていきたいと思う。
子供にどんな愛をどう沢山かけるか。
優しい愛情のあげ方をちょっと考えたらいいと思う。
楢山節考は山の神さまに、もう十分に生きたから会わしてもらって御礼に行こうなあお前、と言って息子に話をしながら神様に会いに行くというおっかあの優しさ、これが大事ですよ、と私はこの映画を通して、もっともっと大事なことは優しくて一杯あると思います。
1936年大阪市の生まれ 79歳 NHK大阪放送局放送合唱団を経て、昭和33年、22歳の時にラテン歌手としてデビューしました。
その後トリオロスパンチョスの日本公演で共演して、ラテン歌手として名が知られるようになりました。
昭和36年NHKの人気番組、「夢で逢いましょう」のレギュラー出演、紅白歌合戦で連続出場するなど、女優としても活躍しました。
昭和58年今村昌平監督の楢山節考では主演女優を演じ、カンヌ映画祭グランプリを受賞に輝きました。
坂本さんは20年前から熊本市で聖母幼稚園・幼愛園の園長として、幼児教育にも携わっています。
結婚した主人の後を継いで、幼稚園の園長を引き受け、経営にも入っていきました。
60年間好きな歌を歌い続けてきて、歌うことに対して、子供達と一緒にいられると言う事が、こんな素晴らしいプレゼントはないと思っている。
子供と言うのは大人よりすごい、感覚、物事を覚える、学ぼうと言う事に敏感な子たちです。
子供達は600人います。
子供は素晴らしい、大人はあほや。
大人は嘘を付いたりどんどん良いことを忘れていって、良い自分だった、子供の頃を忘れて失敗をする。
今、熊本は大変です、立ち直ろうと、一生懸命力を振り絞って、取り戻すために頑張っています。
保育園も傾いて、立てなおすために大変です。
昭和11年生まれ、ミッションスクール プール学院高等学校を卒業、昭和30年NHK大阪放送局放送合唱団に入団、昭和33年、22歳の時にラテン歌手としてプロデビューしました。
歌手になろうとは思っていなかったが、コーラス、演劇が好きだった。
気がついたら自然にラテン歌手になりました。
トリオロスパンチョスが日本に来て、前座をして歌ったら惚れこんでしまって、ラテンしかないと思いました。
大阪弁はラテン系、リズムが有ります。
昭和36年NHKの人気番組、「夢で逢いましょう」のレギュラー出演する。
北島三郎さんは「夢で逢いましょう」で歌ってます。 多くの人が有名になる。
紅白歌合戦で連続出場する。
昔はシャンソン、演歌、民謡、童謡の部という様にはっきり分かれていた。
熊本城が壊れてしまって、無残な姿になってしまいましたが、早く元に戻れるようにと願いながら、夢で逢いましょうという歌を紅白で歌いたいと思っています。
自分がお世話になった熊本のことを思って、夢で逢いましょうを歌って、皆の心を実現できるように頑張ろうと、その一つの力になればいいと思っています。
映画で今村昌平監督の楢山節考では主演女優を演じ、カンヌ映画祭グランプリを受賞。
賞を貰おうと思ってやったわけではないが、沢山の賞を頂いた事は誇りに思うし、感謝しています。
せっかくでき上った素晴らしい映画だったので、カンヌでりんご箱の上に乗って歌ってキャンペーンをして、皆さんに振り向いてもらいたかった。
この時代はもう目の前にいるよ、病気の親を見ることができず、施設に入れて、箱の中に閉じ込めて、死んだらお骨も取りに来ない、そういう世が目の前に迫っている、世界中がそうで有るんだと僕は思っていると、監督はしっかり言いました。
親を捨てに行くと言う、ざっくばらんな物のいい方ですが、そういった苦労をして木下監督も撮られたけど、今村監督は、違う、僕は世界中がこうして動いて行って、親を親と思わず捨てに行くと言う事が平然と行われてゆくのが、これからの人間の生き方みたいな気がする、と言われた監督の考えも凄いなと思いました。
それから5~6年経って、そういう世の中に日本国中、ドイツも、どこそこもそう、結果的にはそういうことが行われてしまってきている、そういう現実が私達の目の前にぶら下がっています。
あの映画に出て物凄い女性に出会いました、おりんさんはつましく正直に生きて、子供達を守って愛を授けましたが、おりんさんも70歳になり、人生を十分に終えたので、親を神様のところにつれていきなさい、それで初めて子供への教育が終わると言う、自分の命に替えてやられたおりんという凄い女性を演じることによって、私は完全におりんさんと出会いました。
この映画に出会い、おりんさんに出会ったことは素晴らしい喜びで、感謝です。
頑張っていきたい、仲良くなっていきたい、喧嘩はあかん、戦争もあかん、楽しいこともあるので頑張っていきたいと思う。
子供にどんな愛をどう沢山かけるか。
優しい愛情のあげ方をちょっと考えたらいいと思う。
楢山節考は山の神さまに、もう十分に生きたから会わしてもらって御礼に行こうなあお前、と言って息子に話をしながら神様に会いに行くというおっかあの優しさ、これが大事ですよ、と私はこの映画を通して、もっともっと大事なことは優しくて一杯あると思います。
2016年10月5日水曜日
木村迪夫(農民詩人) ・詩にこめた銃後の叫び声を聞け
木村迪夫(農民詩人) ・詩にこめた銃後の叫び声を聞け
80歳 稲作やサクランボ栽培をしながら農民詩人として長い間詩を作り続けてきました。
作品は1000を越え、これまでに農民文学賞や現代詩人賞なども受賞しています。
作品の多くは戦争に反対する反戦がテーマです。
10歳の頃、太平洋戦争で父と叔父を亡くした木村さんは、残された家族の毎日の苦しみと悲しみに向き合いながら、詩を作ってきました。
終戦から70年が過ぎ、その苦しみや悲しみはどのようになったのか、作品を交えながら木村さんの戦後の思いを伺いました。
ずーっと戦争に固執してきました。
ふっと振り返ってみると、すでに80歳になっている自分に初めて気が付きました。
戦争は言葉で言えない様な負の財産を一杯残しました。
私はそれを蓄積しながら生きてきました、家族もそうでした。
親父が死んだという知らせを聞いて祖母も3日3晩泣き通しました。
「祖母の歌」
「にほんのひのまる なだてあかい かえらぬ おらがむすこの ちであかい
ふたりのこどもをくににあげ のこりしかぞくはなきぐらし よそのわかしゅうみるにつけ
重機関銃の兵隊でした。
遺品の中から早稲田大学の講義録なども出てきたり、新古今和歌集、啄木の本がでてきたり、勉強したかったんだなあと思いました。
3回目の招集の時には非常に落胆していた。
令状がきてから3日後に行きました。
表情は悲しいのか、苦しいのか思いだせない。
「出征の日」
「わたしは知っている あめ色に光ったおこさまが 上になり下になり 濁った糸を一面になすり合っていた雨の日 冷たいおせぢ言葉をなげかけにやってくる村人達、 一人一人に祖母はしわだらけだらけの笑みをつくろい 母は暗いじめじめした庭すみに立ち、赤飯の煙にそっと泣いていたのを
わたしの幼い目は忘れない。 翌日真っ暗な巨体がゴトゴト近づきはじめると、バンザイという哀しみの合図をいっせいにたたきつけられ 父は静かに広場を離れてゆく。
ふるさとの乾いた土もゴロゴロした石ころも、コケの生えたかやぶき屋根も、みなうすっぺらな小旗の波にかくれてみえない。 バンザイという言葉をやめてください、日の丸の旗をふるうのをやめてください。
そしてもう一度わたしにふるさとのにおいをかがせてください。 なさけのしらない群衆をあとにゴトゴト 重苦しいひびきを残して去ってゆく。 その晩あかしの灯された たなの下でおこさまは濁った糸を吐きつくして死んでいった。」 (良く聞き取れない部分あり)
遺言状も書いてある。
誠実な一兵士であったと思う。
今度は生きて帰ってこられないのではないかと思ったようだ。
子供達一人ひとりに対しても書いている。
迪夫は百姓を継いでやるようにと、私に託したんだと思う。
しかし、本当は自由に暮らす様にとの思いが有ったと思う。(自分は自由には生きれなかったから)
詩を作る様になったのは二つ原因が有り
①祖母が女の歌を歌っていた。
戦争で犠牲になった苦しみ、悲しみを書きつづって死にたいものだと言っていた。
②百姓で何も思いを言わない、文章も書かない百姓には成りたくなかった。
何としても表現力を持つ百姓にならなければならないと思っていた。
本当は長いものを書きたかったが、時間が無いので紙と鉛筆を枕元に置いて、その日の一日を振り返りながら、一行二行書きながら寝て、それが結果として自由詩になった。
「百姓」
「お前は百姓だ 何も知らない百姓だ 何も見えない百姓だ それならお前と百姓は馬鹿という百姓に過ぎない だからおれもやっぱり人間だったよ しゃべればしゃべれる人間だったと判ったよ 見ようとさえすれば何でも見える人間だと判ったよ なんでも知っていればしゃべることを知らなかったからだよ だがこれからはなんでも知っている百姓、何でもしゃべれるれる百姓 何でも見える百姓に俺はなるよ」
自分自身の心のよりどころとして百姓としての出発の歌と思ったが、割り切れることはできなかった。
村の色々な厭な状況を見てきたので。
日本が負けたときには歓喜した、父親が帰ってくるのではと言う思いが有った。
21年5月に父親を知っている兵隊が帰ってきて、聞いたがうつむいて答えられなかった。
それで父が亡くなったことを悟って、号泣した。
泣きくれていたが、泣くのを止めて働かなければならないと言う強い意志が働いたと思う。
苦しい生活を10年ほど積み重ね、詩も書くようになる。
祖母が死んで、その後結婚して、楽観的な女性だったのでそれに救われました。
8月15日になると自分の部屋にこもって、ずーっと詩を書いたり、わざと部屋を暗くして一日を過ごしました。
戦争に対する怨念というものを蓄えておかないとならない、戦争を起こした国家権力に対する自分の抵抗です。
「建国記念日」 詩の朗読
父には今でも会いたい。
「まぎの村に帰ろう」 詩の朗読
反戦の詩を書いたことによって自分としての生き方、歩みをなるべくゆるぎないものにしようとして来たが、これから残された人生をもう一度自分を奮い立たせて、小さいながらも日常生活を確かなものに見つめながら足を一歩前進していきたい。
まだ生きられると自分に言い聞かせながら突き進んでいきたいと思います。
将来共に日本が平和であるような社会を持ってほしいと若い人に託したい、託していきたいと思っています。
80歳 稲作やサクランボ栽培をしながら農民詩人として長い間詩を作り続けてきました。
作品は1000を越え、これまでに農民文学賞や現代詩人賞なども受賞しています。
作品の多くは戦争に反対する反戦がテーマです。
10歳の頃、太平洋戦争で父と叔父を亡くした木村さんは、残された家族の毎日の苦しみと悲しみに向き合いながら、詩を作ってきました。
終戦から70年が過ぎ、その苦しみや悲しみはどのようになったのか、作品を交えながら木村さんの戦後の思いを伺いました。
ずーっと戦争に固執してきました。
ふっと振り返ってみると、すでに80歳になっている自分に初めて気が付きました。
戦争は言葉で言えない様な負の財産を一杯残しました。
私はそれを蓄積しながら生きてきました、家族もそうでした。
親父が死んだという知らせを聞いて祖母も3日3晩泣き通しました。
「祖母の歌」
「にほんのひのまる なだてあかい かえらぬ おらがむすこの ちであかい
ふたりのこどもをくににあげ のこりしかぞくはなきぐらし よそのわかしゅうみるにつけ
うづのわかしゅういまごろは さいのかわらでこいしつみ」
父は3度徴兵されて、最後に別れたのが9歳の時だった。重機関銃の兵隊でした。
遺品の中から早稲田大学の講義録なども出てきたり、新古今和歌集、啄木の本がでてきたり、勉強したかったんだなあと思いました。
3回目の招集の時には非常に落胆していた。
令状がきてから3日後に行きました。
表情は悲しいのか、苦しいのか思いだせない。
「出征の日」
「わたしは知っている あめ色に光ったおこさまが 上になり下になり 濁った糸を一面になすり合っていた雨の日 冷たいおせぢ言葉をなげかけにやってくる村人達、 一人一人に祖母はしわだらけだらけの笑みをつくろい 母は暗いじめじめした庭すみに立ち、赤飯の煙にそっと泣いていたのを
わたしの幼い目は忘れない。 翌日真っ暗な巨体がゴトゴト近づきはじめると、バンザイという哀しみの合図をいっせいにたたきつけられ 父は静かに広場を離れてゆく。
ふるさとの乾いた土もゴロゴロした石ころも、コケの生えたかやぶき屋根も、みなうすっぺらな小旗の波にかくれてみえない。 バンザイという言葉をやめてください、日の丸の旗をふるうのをやめてください。
そしてもう一度わたしにふるさとのにおいをかがせてください。 なさけのしらない群衆をあとにゴトゴト 重苦しいひびきを残して去ってゆく。 その晩あかしの灯された たなの下でおこさまは濁った糸を吐きつくして死んでいった。」 (良く聞き取れない部分あり)
遺言状も書いてある。
誠実な一兵士であったと思う。
今度は生きて帰ってこられないのではないかと思ったようだ。
子供達一人ひとりに対しても書いている。
迪夫は百姓を継いでやるようにと、私に託したんだと思う。
しかし、本当は自由に暮らす様にとの思いが有ったと思う。(自分は自由には生きれなかったから)
詩を作る様になったのは二つ原因が有り
①祖母が女の歌を歌っていた。
戦争で犠牲になった苦しみ、悲しみを書きつづって死にたいものだと言っていた。
②百姓で何も思いを言わない、文章も書かない百姓には成りたくなかった。
何としても表現力を持つ百姓にならなければならないと思っていた。
本当は長いものを書きたかったが、時間が無いので紙と鉛筆を枕元に置いて、その日の一日を振り返りながら、一行二行書きながら寝て、それが結果として自由詩になった。
「百姓」
「お前は百姓だ 何も知らない百姓だ 何も見えない百姓だ それならお前と百姓は馬鹿という百姓に過ぎない だからおれもやっぱり人間だったよ しゃべればしゃべれる人間だったと判ったよ 見ようとさえすれば何でも見える人間だと判ったよ なんでも知っていればしゃべることを知らなかったからだよ だがこれからはなんでも知っている百姓、何でもしゃべれるれる百姓 何でも見える百姓に俺はなるよ」
自分自身の心のよりどころとして百姓としての出発の歌と思ったが、割り切れることはできなかった。
村の色々な厭な状況を見てきたので。
日本が負けたときには歓喜した、父親が帰ってくるのではと言う思いが有った。
21年5月に父親を知っている兵隊が帰ってきて、聞いたがうつむいて答えられなかった。
それで父が亡くなったことを悟って、号泣した。
泣きくれていたが、泣くのを止めて働かなければならないと言う強い意志が働いたと思う。
苦しい生活を10年ほど積み重ね、詩も書くようになる。
祖母が死んで、その後結婚して、楽観的な女性だったのでそれに救われました。
8月15日になると自分の部屋にこもって、ずーっと詩を書いたり、わざと部屋を暗くして一日を過ごしました。
戦争に対する怨念というものを蓄えておかないとならない、戦争を起こした国家権力に対する自分の抵抗です。
「建国記念日」 詩の朗読
父には今でも会いたい。
「まぎの村に帰ろう」 詩の朗読
反戦の詩を書いたことによって自分としての生き方、歩みをなるべくゆるぎないものにしようとして来たが、これから残された人生をもう一度自分を奮い立たせて、小さいながらも日常生活を確かなものに見つめながら足を一歩前進していきたい。
まだ生きられると自分に言い聞かせながら突き進んでいきたいと思います。
将来共に日本が平和であるような社会を持ってほしいと若い人に託したい、託していきたいと思っています。
2016年10月4日火曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・生活環境の変化~都会と農村(H28/9/5放送)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・生活環境の変化~都会と農村(H28/9/5放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/09/33.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/09/33.htmlをご覧ください。
2016年10月3日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう、第34回(東京オリンピック)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう、第34回(東京オリンピック)
昭和39年東京オリンピック 10月10日開催。
オリンピックには二つの大きな要因がある。
①平和の祭典である。
昭和15年に東京オリンピックを開催する予定だったが戦争のため中止になる。
②欧米主導だったが、はじめてアジアで開かれた。
94の国と地域が参加する一番大きな規模だった。
5500人ぐらいの選手が参加。
国立競技場の開会式には約74000人の観客が集まった。
*TVとラジオの実況放送を再放送。
光景は自分達が初めて何か大きな世界と出会っているという感動を感じます。
アメリカ、ソ連に次いで3番目の金メダル16個を取る。
体操、レスリング、バレーとかいくつかの競技ではかなり強い実力を示したが、水泳、陸上は淋しかったのは残念だった。
チャスラフスカ選手(当時22歳)、愛らしい表情が日本人の心に訴えていた。(今年8/30に亡くなる)
チェコの民主化に姿勢が一貫していて、政府に弾圧されたりした。
彼女も日本が好きになったようだ。
女子バレーボール、(東洋の魔女) 視聴率が80%を越えた。
社会がストップ状態になったと言われる。
ソ連に3-0のストレート勝ちする。
大松監督の厳しい練習が後に明らかになったが、選手達もよく付いて行った。
日本人が一所懸命働いたという社会背景とも関係あるのかなあという気もします。
陸上マラソン、今でも忘れられないことが二つあって、
①エチオピアのアべべ選手の走り方、宗教家が何かを求めている様な走る姿、
②2位が円谷選手、 3位のイギリスのベイジル・ヒートリー選手が、国立競技場に入ってきたが、
競技場内で抜かれてしまう光景。
期待にこたえられなかったという事で心理的に追い詰められてか自殺してしまうが、遺書にはここまでこの選手は追いつめられたのかと思って気の毒になりました。
柔道、決勝で神永選手が無差別級でオランダのヘーシンクに負けてしまった。
閉会式
国別が壊れて個人個人が自由に行進する、国の枠が取れてオリンピックの本当の姿というのはここにあるのかという感じがしました。
パラリンピックが第二回目として行われる。
東京五輪音頭
NHKが公募、島根県庁勤務の宮田隆さんの詩が入選、古賀政男さんが曲を付ける。
宮田隆さんは戦時中フィリピンで捕虜生活を送って餓死寸前の厳しい体験をした。
三波春夫さんもシベリヤ抑留者で過酷な生活をしていた。
そういった背景を考えると、オリンピックの本当の意味は、平和の祭典という意味はそこにあったんだなあと、改めて感じます。
当時の世相
昭和39年4月1日から海外旅行の自由化が始まる。
日本人が誰でも国際社会に入っていける、外国の人と接する、外国の現実を見てくる事と言うことが可能になったということは、第二の開国と言う人がいるぐらい。(高根の花ではあったが)
昭和39年4月28日 OECDの21番目の加盟国になる。(先進国への仲間入り)
10月15日 フルシチョフ首相が解任される。
10月16日、中国で初の原爆実験が行われる。(オリンピックをにらんだ行為と思われる)
NHK大河ドラマは「赤穂浪士」 主演 長谷川一夫、テーマ音楽 芥川也寸志。
GHQの占領下では一番やってはいけないテーマだった。(仇討、武士道)
精神的自由がでてくるようになる。
昭和39年東京オリンピック 10月10日開催。
オリンピックには二つの大きな要因がある。
①平和の祭典である。
昭和15年に東京オリンピックを開催する予定だったが戦争のため中止になる。
②欧米主導だったが、はじめてアジアで開かれた。
94の国と地域が参加する一番大きな規模だった。
5500人ぐらいの選手が参加。
国立競技場の開会式には約74000人の観客が集まった。
*TVとラジオの実況放送を再放送。
光景は自分達が初めて何か大きな世界と出会っているという感動を感じます。
アメリカ、ソ連に次いで3番目の金メダル16個を取る。
体操、レスリング、バレーとかいくつかの競技ではかなり強い実力を示したが、水泳、陸上は淋しかったのは残念だった。
チャスラフスカ選手(当時22歳)、愛らしい表情が日本人の心に訴えていた。(今年8/30に亡くなる)
チェコの民主化に姿勢が一貫していて、政府に弾圧されたりした。
彼女も日本が好きになったようだ。
女子バレーボール、(東洋の魔女) 視聴率が80%を越えた。
社会がストップ状態になったと言われる。
ソ連に3-0のストレート勝ちする。
大松監督の厳しい練習が後に明らかになったが、選手達もよく付いて行った。
日本人が一所懸命働いたという社会背景とも関係あるのかなあという気もします。
陸上マラソン、今でも忘れられないことが二つあって、
①エチオピアのアべべ選手の走り方、宗教家が何かを求めている様な走る姿、
②2位が円谷選手、 3位のイギリスのベイジル・ヒートリー選手が、国立競技場に入ってきたが、
競技場内で抜かれてしまう光景。
期待にこたえられなかったという事で心理的に追い詰められてか自殺してしまうが、遺書にはここまでこの選手は追いつめられたのかと思って気の毒になりました。
柔道、決勝で神永選手が無差別級でオランダのヘーシンクに負けてしまった。
閉会式
国別が壊れて個人個人が自由に行進する、国の枠が取れてオリンピックの本当の姿というのはここにあるのかという感じがしました。
パラリンピックが第二回目として行われる。
東京五輪音頭
NHKが公募、島根県庁勤務の宮田隆さんの詩が入選、古賀政男さんが曲を付ける。
宮田隆さんは戦時中フィリピンで捕虜生活を送って餓死寸前の厳しい体験をした。
三波春夫さんもシベリヤ抑留者で過酷な生活をしていた。
そういった背景を考えると、オリンピックの本当の意味は、平和の祭典という意味はそこにあったんだなあと、改めて感じます。
当時の世相
昭和39年4月1日から海外旅行の自由化が始まる。
日本人が誰でも国際社会に入っていける、外国の人と接する、外国の現実を見てくる事と言うことが可能になったということは、第二の開国と言う人がいるぐらい。(高根の花ではあったが)
昭和39年4月28日 OECDの21番目の加盟国になる。(先進国への仲間入り)
10月15日 フルシチョフ首相が解任される。
10月16日、中国で初の原爆実験が行われる。(オリンピックをにらんだ行為と思われる)
NHK大河ドラマは「赤穂浪士」 主演 長谷川一夫、テーマ音楽 芥川也寸志。
GHQの占領下では一番やってはいけないテーマだった。(仇討、武士道)
精神的自由がでてくるようになる。
2016年10月2日日曜日
野村道子(声優) ・時代を創った声(8回目)
野村道子(声優) ・時代を創った声(8回目)
ドラえもんのしずかちゃんやサザエさんのワカメちゃんなどを長年演じてこられました。
ドラえもんのしずかちゃんを26年間、サザエさんのワカメちゃんを29年間演じるなど様々な作品に出演してきました。
最初は何年も続くとは聞いてなくて、6カ月ぐらいは、1年になりましてという事で嬉しいという感じが、3,4年経ってくると誰も何も言わなくなり、大きな存在になってきます。
難しさと楽しさを両方味わい、体調が悪い時もありますが、終わってみて、緊張感のある生活をずーっとして来たんだなということが判りました。
しずかちゃんはお嬢さんだし、ワカメちゃんは庶民的で、キャラクターの作り方はして来たので、二つやってきて、私が二つやってきたことを知らなかったりして、これはしめたもんだなと思いました。
しずかちゃんの方が私に近いなあというのはありましたので、しずかちゃんの方がやり易かったです。
ササエさん役の加藤さんはそのまんまで、パワフルです。
「のびたさん」という様に呼び方を定着したのは、知らぬ間に自然とやりました。
中学、高校は演劇部にいました。
高校生でTV局に見学に行ったりして、何となく入れたのかなという気がします。
杉浦直樹さんが放送部のコーチで来てましたので、そこにも出演して、お話しをさせていただいたりしました。
高校卒業後、自然に劇団に入りました。
20歳ぐらいで、女学生の役とか時代劇だと茶屋の娘としてTVに出ていました。
朝、7時50分から天気予報で3年間毎日やりました。
お天気おねえさんを、30人ぐらいのオーディションを受けて、担当することになりました。
その頃は劇団を辞めてプロダクションに入りました。
生なので台風が来る時が大変でした、毎日顔をだしてやるということは、凄い大変なことです、他にも仕事をしているので、寝不足だったり、覚える事もあったし、若いから出来たと思います。
朝、8時に終わるので他のドラマなどが段々できなくなりました。
段々声の仕事にシフトしていきました。
身体がでる仕事は容姿が問題になり、役が決まってきている傾向が有ったので、これはいいチャンスだと思いました。
一つの作品を皆で作るということが有り、トチらない様にという緊張感もあり、本当に楽しかったです。
今はDVDを渡され家で勉強して、来た時には一回合わせて、次は本番という様にスピーディーなので、あれだと自分の良さも出ないし、人のセリフを聞いている余裕が無い。
昔の作品が良かったねと言われるのは、先輩のアドバイスをしてくれたりするのを聞きながら出来た時代だったので、そういったことが懐かしいと思います。
サザエさんなどの最初のころは、それぞれ皆さんが主演作品を持っていたので、集まった時にあっこう来るのかとか、緊張感が有り、そのなかで自分を確立してゆく心地よさが有りました。
主人(内海賢仁)が亡くなって3年になります。
出会いはレギュラーが一緒だったのが、「マッハGOGOGO」と言う番組で、私がヒロインで毎週会っていたので、段々付き合う様になりました。
友達としては最高の友達だと思いました。(9年間の付き合い)
兎に角暖かい人でしたので、居心地のいい結婚生活でした。
凄い人見知りなので、それを隠そうとして仕草が大げさになってしまうようでした。
40代で子育てしながら、夫がプロダクションを始めて、家庭のこと、プロダクションのかじ取りもやらなくてはいけなくて、とにかく忙しくてその頃のことは覚えていないです。(約10年間ぐらい)
現場にも子供を連れていったりもしました。(周りからの協力もありました)
その時は大変だったと思うけれど、今考えてみるとそんなことは考えないので。
一日が密だったと思います。
母が死んだときもサザエさんなどにでていたので、私がおりる2~3年前からおりたいといっていたが、ドラえもんが終わると言う時点でサザエさんもおりるという事で、サザエさんも辞める事にしました。
淋しさはどっかにありましたが、新しい生活が始まるぞ、という様な思いが結構強かったです。
66歳になり、こういった声も辛いなと思う様になった時期でもあり、潮時だなあと思いました。
洋画でも自分らしさを出すことは、大事だと思います。
若い人に対しては、色んな経験、色んな人に接しないと、味は出てこないと思います。
若い人は早く仕事をしたいと言う焦りが有るが、もっと他にやることが有るでしょうと、言っても駄目ですね。
焦らないでじっくり出来たらいいなあと思いますが、時代がそうじゃないですね、難しいです。
感性が有り、魅力的な声の有る人はなかなかいない、そういった声はその人の生活、性格から出てくると思うので、先ず人間を磨きなさいと言うことしか、言えないと思います。
ドラえもんのしずかちゃんやサザエさんのワカメちゃんなどを長年演じてこられました。
ドラえもんのしずかちゃんを26年間、サザエさんのワカメちゃんを29年間演じるなど様々な作品に出演してきました。
最初は何年も続くとは聞いてなくて、6カ月ぐらいは、1年になりましてという事で嬉しいという感じが、3,4年経ってくると誰も何も言わなくなり、大きな存在になってきます。
難しさと楽しさを両方味わい、体調が悪い時もありますが、終わってみて、緊張感のある生活をずーっとして来たんだなということが判りました。
しずかちゃんはお嬢さんだし、ワカメちゃんは庶民的で、キャラクターの作り方はして来たので、二つやってきて、私が二つやってきたことを知らなかったりして、これはしめたもんだなと思いました。
しずかちゃんの方が私に近いなあというのはありましたので、しずかちゃんの方がやり易かったです。
ササエさん役の加藤さんはそのまんまで、パワフルです。
「のびたさん」という様に呼び方を定着したのは、知らぬ間に自然とやりました。
中学、高校は演劇部にいました。
高校生でTV局に見学に行ったりして、何となく入れたのかなという気がします。
杉浦直樹さんが放送部のコーチで来てましたので、そこにも出演して、お話しをさせていただいたりしました。
高校卒業後、自然に劇団に入りました。
20歳ぐらいで、女学生の役とか時代劇だと茶屋の娘としてTVに出ていました。
朝、7時50分から天気予報で3年間毎日やりました。
お天気おねえさんを、30人ぐらいのオーディションを受けて、担当することになりました。
その頃は劇団を辞めてプロダクションに入りました。
生なので台風が来る時が大変でした、毎日顔をだしてやるということは、凄い大変なことです、他にも仕事をしているので、寝不足だったり、覚える事もあったし、若いから出来たと思います。
朝、8時に終わるので他のドラマなどが段々できなくなりました。
段々声の仕事にシフトしていきました。
身体がでる仕事は容姿が問題になり、役が決まってきている傾向が有ったので、これはいいチャンスだと思いました。
一つの作品を皆で作るということが有り、トチらない様にという緊張感もあり、本当に楽しかったです。
今はDVDを渡され家で勉強して、来た時には一回合わせて、次は本番という様にスピーディーなので、あれだと自分の良さも出ないし、人のセリフを聞いている余裕が無い。
昔の作品が良かったねと言われるのは、先輩のアドバイスをしてくれたりするのを聞きながら出来た時代だったので、そういったことが懐かしいと思います。
サザエさんなどの最初のころは、それぞれ皆さんが主演作品を持っていたので、集まった時にあっこう来るのかとか、緊張感が有り、そのなかで自分を確立してゆく心地よさが有りました。
主人(内海賢仁)が亡くなって3年になります。
出会いはレギュラーが一緒だったのが、「マッハGOGOGO」と言う番組で、私がヒロインで毎週会っていたので、段々付き合う様になりました。
友達としては最高の友達だと思いました。(9年間の付き合い)
兎に角暖かい人でしたので、居心地のいい結婚生活でした。
凄い人見知りなので、それを隠そうとして仕草が大げさになってしまうようでした。
40代で子育てしながら、夫がプロダクションを始めて、家庭のこと、プロダクションのかじ取りもやらなくてはいけなくて、とにかく忙しくてその頃のことは覚えていないです。(約10年間ぐらい)
現場にも子供を連れていったりもしました。(周りからの協力もありました)
その時は大変だったと思うけれど、今考えてみるとそんなことは考えないので。
一日が密だったと思います。
母が死んだときもサザエさんなどにでていたので、私がおりる2~3年前からおりたいといっていたが、ドラえもんが終わると言う時点でサザエさんもおりるという事で、サザエさんも辞める事にしました。
淋しさはどっかにありましたが、新しい生活が始まるぞ、という様な思いが結構強かったです。
66歳になり、こういった声も辛いなと思う様になった時期でもあり、潮時だなあと思いました。
洋画でも自分らしさを出すことは、大事だと思います。
若い人に対しては、色んな経験、色んな人に接しないと、味は出てこないと思います。
若い人は早く仕事をしたいと言う焦りが有るが、もっと他にやることが有るでしょうと、言っても駄目ですね。
焦らないでじっくり出来たらいいなあと思いますが、時代がそうじゃないですね、難しいです。
感性が有り、魅力的な声の有る人はなかなかいない、そういった声はその人の生活、性格から出てくると思うので、先ず人間を磨きなさいと言うことしか、言えないと思います。
2016年10月1日土曜日
北原糸子(歴史都市防災研究所) ・災害の歴史をたどり、今を生きる
北原糸子(立命館大学歴史都市防災研究所研究員) ・災害の歴史をたどり、今を生きる
地震、津波、水害、噴火、災害が繰り返し起こる日本、そのたびに行政はどう対応し、市民社会はどう立ち向かうのかが、クローズアップされます。
災害の社会史を研究してきた立命館大学歴史都市防災研究所研究員 北原糸子さん(76歳)に江戸時代から明治、大正、昭和と、私達の社会はどういう仕組みで災害から復旧復興してきたのかを伺います。
前回 出演 2010年9月、関東大震災の纏め、翌年東日本大震災が起きた。
869年 貞観地震が東北地方を襲った。
貞観地震の津波による浸水域が東日本大震災の時と非常に似ている。
市民に広く伝わっていない事、、具体的に貞観のイメージから時を越すということはしていなかったのではないかと思う。
自然災害に対するハザードマップが各地で作られているが、見ないという話もある。
生活の中に位置づけられるようなきっかけが有ると違うかもしれない。
「日本震災史 復旧から復興への歩み」 北原糸子 著書
江戸時代 津波、地震、噴火が一緒になったのが元禄期、1703年元禄地震。(相模湾)
その後4年後宝永地震(南海トラフが動いた歴史的に大きな災害)、その49日後に富士山が噴火する。(全体で死者5000人と言われるが、もっと多いと思う。)
復旧、復興、城を作るための普請、(公議普請、天下普請)、全国各地の大名にお金と人を出させて都市、城を作ったが、その方法を災害の復旧にも利用した。(河川の復旧など)
幕領だけ幕府がお金を投じて、それを大名手伝いでやらせた。(藩は疲弊する)
藩の災害の復旧のことは独自で行っていた。
幕末は大名手伝いが出来なくなって、民間からお金を集めた。(豪商など)
明治になると、税金に依り、飢饉対策の構造が有るが、明治20年代以降、濃尾地震、明治三陸地震とか大きな地震が起きる。(近代化途上での大きな災害)
飢饉対策を災害対策に置き換えたが足りなくて、インフラは土木費で天皇の直接の行政命令で全部で500万円を拠出した。
堤防を再生しないと田んぼからの収穫が出来なくなり、国家財政に影響する。
関東大震災、別の法律ができて、災害専用の基金を国が作るようになって、戦後まで続く。
9月3日には政務次官が全国の知事に、家を無くして帰る人がいるが面倒を見ろという指令をだす。
国は金を出さないで、地方で面倒を見る。
義援金を求める為に9月4日には新聞に記事を出して、集める。(各県)
新聞に金額と名前が判るので、メンツもあったり、又色んな層から義援金が得られた。
避難の人は空き地、豪邸などに逃げ込むので、旧大名屋敷、豪邸では緊急避難先としての機能をした。
9月3日に鉄道を無賃にする、船も無賃にする。
首都圏に働きに来ていた多くの人が郷里に帰るという、広域避難になった。
「陰徳」、大げさに騒がないで黙って人を助けると言う事がいずれは自分に還ってくるという発想。(お互いさま)
阪神淡路大震災ではボランティアが生まれて、そこと通じる部分が有る。
三陸海岸に300を越える記念碑が有るが、災害体験をつたえる媒体です。
明治29年、昭和8年の三陸津波。
明治29年の記念碑には供養碑が多い、1万8500人ぐらい亡くなった内、8000人が行方不明のままで、村ごとの供養碑が多い。
昭和8年は圧倒的に津波に気を付けるようにとの警告碑が多い。
新聞社の義援金で行政が配って村に碑を建てるようにとの指令をだす。
指示して方言でカタカナで書かれているものもある。
今村明恒が警告碑を作る様に政府に提言した。
警告碑は大きさ、形などが規格化された。
昭和35年 チリ地震津波。(揺れがなくても津波が来る。)
日本では死者が100人以上、湾の形と向きで被害が違っていて、大船渡では50人以上が亡くなる。
災害にかかわる研究者は、ひろく社会に還元していかないと、研究の意味が半減する。
記録を保管して、どう引き出しやすい様にするか。
行政を含めて、情報を集めて、分析して社会に還元する動きを、アーカイブス、新しい意味を付与したい。
多賀城市、「1000年先まで伝えよう」というキャッチフレーズで、志がいいと思う。
東日本大震災の時の映像等、地図に落として見られる。(市民からの提供)
過去の地震、津波、噴火、洪水などの資料、言い伝えなどを加えてゆけば、昔から今までここで何が起きたかを追体験ができる。
資料を発掘して情報を更新してゆく事も大事です。
地震、津波、水害、噴火、災害が繰り返し起こる日本、そのたびに行政はどう対応し、市民社会はどう立ち向かうのかが、クローズアップされます。
災害の社会史を研究してきた立命館大学歴史都市防災研究所研究員 北原糸子さん(76歳)に江戸時代から明治、大正、昭和と、私達の社会はどういう仕組みで災害から復旧復興してきたのかを伺います。
前回 出演 2010年9月、関東大震災の纏め、翌年東日本大震災が起きた。
869年 貞観地震が東北地方を襲った。
貞観地震の津波による浸水域が東日本大震災の時と非常に似ている。
市民に広く伝わっていない事、、具体的に貞観のイメージから時を越すということはしていなかったのではないかと思う。
自然災害に対するハザードマップが各地で作られているが、見ないという話もある。
生活の中に位置づけられるようなきっかけが有ると違うかもしれない。
「日本震災史 復旧から復興への歩み」 北原糸子 著書
江戸時代 津波、地震、噴火が一緒になったのが元禄期、1703年元禄地震。(相模湾)
その後4年後宝永地震(南海トラフが動いた歴史的に大きな災害)、その49日後に富士山が噴火する。(全体で死者5000人と言われるが、もっと多いと思う。)
復旧、復興、城を作るための普請、(公議普請、天下普請)、全国各地の大名にお金と人を出させて都市、城を作ったが、その方法を災害の復旧にも利用した。(河川の復旧など)
幕領だけ幕府がお金を投じて、それを大名手伝いでやらせた。(藩は疲弊する)
藩の災害の復旧のことは独自で行っていた。
幕末は大名手伝いが出来なくなって、民間からお金を集めた。(豪商など)
明治になると、税金に依り、飢饉対策の構造が有るが、明治20年代以降、濃尾地震、明治三陸地震とか大きな地震が起きる。(近代化途上での大きな災害)
飢饉対策を災害対策に置き換えたが足りなくて、インフラは土木費で天皇の直接の行政命令で全部で500万円を拠出した。
堤防を再生しないと田んぼからの収穫が出来なくなり、国家財政に影響する。
関東大震災、別の法律ができて、災害専用の基金を国が作るようになって、戦後まで続く。
9月3日には政務次官が全国の知事に、家を無くして帰る人がいるが面倒を見ろという指令をだす。
国は金を出さないで、地方で面倒を見る。
義援金を求める為に9月4日には新聞に記事を出して、集める。(各県)
新聞に金額と名前が判るので、メンツもあったり、又色んな層から義援金が得られた。
避難の人は空き地、豪邸などに逃げ込むので、旧大名屋敷、豪邸では緊急避難先としての機能をした。
9月3日に鉄道を無賃にする、船も無賃にする。
首都圏に働きに来ていた多くの人が郷里に帰るという、広域避難になった。
「陰徳」、大げさに騒がないで黙って人を助けると言う事がいずれは自分に還ってくるという発想。(お互いさま)
阪神淡路大震災ではボランティアが生まれて、そこと通じる部分が有る。
三陸海岸に300を越える記念碑が有るが、災害体験をつたえる媒体です。
明治29年、昭和8年の三陸津波。
明治29年の記念碑には供養碑が多い、1万8500人ぐらい亡くなった内、8000人が行方不明のままで、村ごとの供養碑が多い。
昭和8年は圧倒的に津波に気を付けるようにとの警告碑が多い。
新聞社の義援金で行政が配って村に碑を建てるようにとの指令をだす。
指示して方言でカタカナで書かれているものもある。
今村明恒が警告碑を作る様に政府に提言した。
警告碑は大きさ、形などが規格化された。
昭和35年 チリ地震津波。(揺れがなくても津波が来る。)
日本では死者が100人以上、湾の形と向きで被害が違っていて、大船渡では50人以上が亡くなる。
災害にかかわる研究者は、ひろく社会に還元していかないと、研究の意味が半減する。
記録を保管して、どう引き出しやすい様にするか。
行政を含めて、情報を集めて、分析して社会に還元する動きを、アーカイブス、新しい意味を付与したい。
多賀城市、「1000年先まで伝えよう」というキャッチフレーズで、志がいいと思う。
東日本大震災の時の映像等、地図に落として見られる。(市民からの提供)
過去の地震、津波、噴火、洪水などの資料、言い伝えなどを加えてゆけば、昔から今までここで何が起きたかを追体験ができる。
資料を発掘して情報を更新してゆく事も大事です。