髙瀨聖子(国連平和の鐘を守る会 代表)・世界に響け、平和の音
ニューヨークの国連本部には日本のお寺にある様な平和を祈る鐘が有ります。
この鐘は今から62年前、昭和29年に一人の日本人が私財をなげうって国連に寄贈しました。
愛媛県宇和島市出身の、中川千代治さんです。
この鐘に込められた思いを伝えようと、中川さんの娘の高瀬聖子さんが世界を回り始めています。
高瀬さんは鐘の周知や保全など目指す団体、国連平和の鐘を守る会を作り、東南アジアのミャンマーを手始めに自分自身も世界に鐘を贈ろうと活動しています。
鐘を通した平和の願いはどのようなものなのか、それが今の世の中にどの様に必要とされるのか、伺いました。
1954年、父、中川千代治さんが戦後間もなく平和を願って国連に寄贈させていただいたものです。
毎年、国際平和デーに事務総長によって突かれています。
日本国連協会という民間の外郭団体が有って、宇和島に国連協会の支部ができて、支部長になって、国連総会の場で、昭和26年にパリで有るんですが、平和を祈る人達から集めたコインを溶かした鐘を、日本人が平和を望む国民であることの証として国連に置かしてほしいという事でした。
費用は自分で工面しました。
二度と戦争はあってはいけないと、それをみんなに訴えたいと言う一心だったと思います。
戦争に参加したことの後悔が原動力にあったと思います。
父は日中戦争に参加して、小さな部隊を持っていましたが、3つの約束をさせて、①村人たちを殺してはいけない。②物を取ってはいけない。③女を犯してはいけない。 約束をさせて実際にそういうことをやったんですね。
敵味方であっても心の交流が持てた。
その2年後に太平洋戦争で、ビルマに行きました。
大変な激戦で、人々のうめきを聞いてなんで自分がこれに参加しただろうと、凄く苦しかったと思います。
足を撃たれて倒れるが、仲間が死んで自分が生き残ることがどんなに苦しかったことか、どんなに地獄だったか、私達は想像ができない、想像を絶することだと思います。
戦争の悲惨さを伝えなければいけないと、言う使命を感じて帰ってみたら、菩提寺の鐘が武器になっていたと言う事を知って、これはいけないと思って、世界から汗の沁み込んだコインをもらって、溶かし込んで思いを融合させたかった。
自分の軍刀、砲弾などもいれました、戦わないぞという思いを込めてでした。
国連に鐘を送った後、世界各国に鐘を送る活動を始めた。
亡くなるまで22年間、141カ国の大使館に行って自分が持って行って平和を訴えて、大、中、小288個の鐘を送り続けている。
ラオスの国立博物館にも宝物のようにしてありました。
「世界絶対平和 万歳」と鐘に刻まれています、万歳は永遠にという思いです。
昭和36年、キューバ危機が有りましたが、父は平和の鐘を突きました。
国連に贈ったものと同じレプリカを二つ作って、アメリカとソ連の大使館に持って行って元首に渡してほしいと平和の為に努力してほしいと手紙を添えて、送りましたが、ケネディーさん、フルシチョフさんから返事を頂いています。
平和の鐘がどういう意味を持っているかということを伝えていかなければいけない、それが無かったらただのものでしかない。
そこから私の活動が始まりました。
2年前から(66歳)から鐘の周知や保全など目指す団体、国連平和の鐘を守る会を作りました。
残っている書き物などを読んでみると、ここまで一途な思いなのかと感じて、父の思いは全部は伝えられないがせめて自分の思いを伝えようと思いました。
活動をする中で、素晴らしい人たちと巡り合ってきました。
人は忘れてゆく、消えてゆくが、自分が知った以上はそれをやらなければいけないと思っています。
若い世代に知ってもらいたいと思って、先ずは宇和島の学校に行って話をしまして、その後、今年ニューヨークの日本人学校(国連の近くの学校)で話をしました。
鐘を突くところには、月と日と周りが月桂樹で囲まれていて、月桂樹は平和をあらわし、日は男性、月は女性、男女の愛、家庭の愛、夫婦親子の愛、これが平和の基なんだと父は訴えたかったので、そのことも話しました。
相手を思いやる、認める、そういう輪を広めてゆく事の父の思いを、出していけるのかなというのが自分の思いです。
若いころ、戦争で、ベトナムで苦しんでいる人がいると言う様なことは、よその国のことの様な感覚でした。
当時、父がそういう事(鐘の運動)をしているとは思わなかったが、やっと判ってきました。
情けない話ですが、判ったのが2年8カ月前でした。
鐘を贈る活動をはじめましたが、先ずはミャンマーに贈りたい。
ミャンマーで父が使命を与えられたこと、鐘の原点はミャンマーにあると思っています。
頑張って、理想国家作りをしてほしいという思いです。
軍部と政権側に贈ろうと思ったが、もう一つ欲しいと言われて、ミャンマーは多くの少数民族がいて、無視することができないので、という事で3つの鐘にしました。(コインは60ケ国位から集まってます)
鐘は9月にはでき、今年度中には大丈夫だろうと思っています。
父が戦後やった様に人づてに話しをしながら、純粋に加わってくれる人達でやるからこそエネルギーがでると思っている。
もっと鐘をついてもらえれば、あれはなんだろうと耳を傾けてくれて、世界を平和にするんだと言う思いが有ることに理解してもらえるが、置きものとしてあるのでは、ただの置きものになってしまう。
残すと言うことは、後の人が残してゆく事で、バックも何にもない一人の男性が世界に向かって訴えていったということは、みんなやれるよ、という応援でもあると思うので、そういうことは伝えなければいけないことだと思います。
2016年9月30日金曜日
2016年9月29日木曜日
河田弘登志(千島歯舞、副理事長) ・島が返るその日まで
河田弘登志(千島歯舞諸島居住者連盟 副理事長)・島が返るその日まで
82歳 かつて1万7000人あまりが暮らした北方領土は択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる日本固有の領土です。
河田さんは歯舞群島にある多楽島の出身で11歳まで島で暮らしました。
1945年9月4日ソ連軍が多楽島に上陸し、島の生活は一変します。
動揺が広がり夜にまぎれて島を船で脱出する島民が相次ぎました。
河田さんも学校に行くために、島を出ましたが、その後故郷を取り戻すため、返還運動に身を投じ、島民やその家族で作る千島歯舞諸島居住者連盟の副理事長として、後継者の育成にも力を入れてきました。
島を目の前に臨む根室に住み、近くて遠い故郷に何を思うのか、伺いました。
多楽島は一日で一周りぐらいの小さな島です。
仕事は漁業ですが、主に昆布漁で生活をしていました。
子供時代は、やす(もり)を作ってカレイなどの魚を突いたり、ざるに海老を掬ってくるとかしました。
大人の人達は、12月にコンブ漁が終わると、4つに別れた青年団が学校に舞台を作って、色々得意なことを競っていました。
多楽音頭は当時水産検査員をやっていた人が市を作って、曲は当時はやっていた瑞穂踊りに詩を付けて歌っていました。
四季の歌になっていて、多楽の自然を歌っています。
9月4日に、終戦になったので武器の返納式をやっていたが、情報が入り偵察にいったが、ソ連兵と出っ食わして、馬でソ連軍の隊長を日本軍がいる島の中心部に案内していった。
そのあと2人が新築して1週間位の私の家に来て、土足で上がってきた。(祖父、父親はいなかった)
銃で天井を突っついていた。(武器、日本兵、アメリカ兵が隠れていないか)
「トッキー」「トッキー」と言って仕草をして腕時計を欲しがっていた。
引き出しから光っているバリカンと剃刀を持って行って、そのあと「サッキー」「サッキー」と酒が無いかと言って、酒を見つけられてしまったが、持って行かれなかった。
隣近所でも同様だったとの事。
そのうちに家に来て、酒を飲むようになって、なかなか帰らないことがたびたびあった。
いか漁が終わって帰ってくると、焼玉エンジンで大きな音がするので、威嚇でソ連兵に撃たれた。
その頃から島を離れることが多くなって、学校も先生がいなくなって、ソ連兵の兵舎になった。
私の家の船は日本軍が残していった弾薬の海中投棄の為にソ連から強要されていた。
友達もいなくなって、NO.2で「アレキセイ」という兵隊がいたが、彼と遊んだりしたが、或るとき学校に行きたいと話したが、俺は11年学校にいったが、頭がキャべツになる(馬鹿になってしまう)といわれてしまったが、明るい時に船に乗って出ようとしたら、「アレキセイ」が机を担いで来て、これを持って行きなさいと言われた。
学校が終わったら戻ってきなさいともいわれた。
それからは、残った家族が2年後に強制送還されてくるまで音信不通だった。
何時帰っても住めるような思いでいて、一時避難的な気持ちだった。
子供心に何か帰る方法はないものかと考えた。
こちらでは、思う様に漁など出来る状況ではなかった。
返還運動のきっかけは、42年に青年会議所の人が中心になって、キャラバン隊を組織し署名運動をしたが、その頃は北方領土問題は知られていない時期だった。
組織を作ることにして、元島民の多楽の人に200通ぐらい案内をだしたが、さっぱり来なかった。
先ず私の血縁の人を対象に組織を立ち上げました。
我々の先代が血の滲むような苦労して、北方領土を開拓したが、理不尽な形で不法占領されてしまったことは、忍びがたいし、先祖に対しても申し訳ない。
もう亡くなった人も多いが、亡くなってからも島への想いは無くならないだろうと思います。
残された時間は少ない。
今交流を続けている人に対しては罪はないと思っているが、私達のことも理解してもらいたい。
ロシア島民も代替りしていて、ロシアの人も帰りたくても帰れない人もいるだろうと思います。
返還されたら、日本の法の下ですが、一緒に住みたいと思うのであれば、私は一緒に住んでもいいのではないかと思っています。
年が経過してゆくに従って、返還されないのではないかという人が多くなってゆくのではないかと思うが、反面、そういうことのない様に、日本の固有の領土なんだと言う事を勉強する機会を与えて、認識して貰わないといけないと思います。
絶えず期待するが、期待が大きいほど落胆も大きい。
返還が実現するまで返還の手を緩めない体制をしっかり見せていかないと、相手がいるので。
色んなところに色んな事を話す様にしていますが、百聞は一見に如かず、一回自分の目でもって見て頂きたい、若いうちに来て見てほしいと思います、そして知ってもらいたい。
戦争によってこういうことが起きたわけですから、地球上から戦争を無くしたい。
82歳 かつて1万7000人あまりが暮らした北方領土は択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる日本固有の領土です。
河田さんは歯舞群島にある多楽島の出身で11歳まで島で暮らしました。
1945年9月4日ソ連軍が多楽島に上陸し、島の生活は一変します。
動揺が広がり夜にまぎれて島を船で脱出する島民が相次ぎました。
河田さんも学校に行くために、島を出ましたが、その後故郷を取り戻すため、返還運動に身を投じ、島民やその家族で作る千島歯舞諸島居住者連盟の副理事長として、後継者の育成にも力を入れてきました。
島を目の前に臨む根室に住み、近くて遠い故郷に何を思うのか、伺いました。
多楽島は一日で一周りぐらいの小さな島です。
仕事は漁業ですが、主に昆布漁で生活をしていました。
子供時代は、やす(もり)を作ってカレイなどの魚を突いたり、ざるに海老を掬ってくるとかしました。
大人の人達は、12月にコンブ漁が終わると、4つに別れた青年団が学校に舞台を作って、色々得意なことを競っていました。
多楽音頭は当時水産検査員をやっていた人が市を作って、曲は当時はやっていた瑞穂踊りに詩を付けて歌っていました。
四季の歌になっていて、多楽の自然を歌っています。
9月4日に、終戦になったので武器の返納式をやっていたが、情報が入り偵察にいったが、ソ連兵と出っ食わして、馬でソ連軍の隊長を日本軍がいる島の中心部に案内していった。
そのあと2人が新築して1週間位の私の家に来て、土足で上がってきた。(祖父、父親はいなかった)
銃で天井を突っついていた。(武器、日本兵、アメリカ兵が隠れていないか)
「トッキー」「トッキー」と言って仕草をして腕時計を欲しがっていた。
引き出しから光っているバリカンと剃刀を持って行って、そのあと「サッキー」「サッキー」と酒が無いかと言って、酒を見つけられてしまったが、持って行かれなかった。
隣近所でも同様だったとの事。
そのうちに家に来て、酒を飲むようになって、なかなか帰らないことがたびたびあった。
いか漁が終わって帰ってくると、焼玉エンジンで大きな音がするので、威嚇でソ連兵に撃たれた。
その頃から島を離れることが多くなって、学校も先生がいなくなって、ソ連兵の兵舎になった。
私の家の船は日本軍が残していった弾薬の海中投棄の為にソ連から強要されていた。
友達もいなくなって、NO.2で「アレキセイ」という兵隊がいたが、彼と遊んだりしたが、或るとき学校に行きたいと話したが、俺は11年学校にいったが、頭がキャべツになる(馬鹿になってしまう)といわれてしまったが、明るい時に船に乗って出ようとしたら、「アレキセイ」が机を担いで来て、これを持って行きなさいと言われた。
学校が終わったら戻ってきなさいともいわれた。
それからは、残った家族が2年後に強制送還されてくるまで音信不通だった。
何時帰っても住めるような思いでいて、一時避難的な気持ちだった。
子供心に何か帰る方法はないものかと考えた。
こちらでは、思う様に漁など出来る状況ではなかった。
返還運動のきっかけは、42年に青年会議所の人が中心になって、キャラバン隊を組織し署名運動をしたが、その頃は北方領土問題は知られていない時期だった。
組織を作ることにして、元島民の多楽の人に200通ぐらい案内をだしたが、さっぱり来なかった。
先ず私の血縁の人を対象に組織を立ち上げました。
我々の先代が血の滲むような苦労して、北方領土を開拓したが、理不尽な形で不法占領されてしまったことは、忍びがたいし、先祖に対しても申し訳ない。
もう亡くなった人も多いが、亡くなってからも島への想いは無くならないだろうと思います。
残された時間は少ない。
今交流を続けている人に対しては罪はないと思っているが、私達のことも理解してもらいたい。
ロシア島民も代替りしていて、ロシアの人も帰りたくても帰れない人もいるだろうと思います。
返還されたら、日本の法の下ですが、一緒に住みたいと思うのであれば、私は一緒に住んでもいいのではないかと思っています。
年が経過してゆくに従って、返還されないのではないかという人が多くなってゆくのではないかと思うが、反面、そういうことのない様に、日本の固有の領土なんだと言う事を勉強する機会を与えて、認識して貰わないといけないと思います。
絶えず期待するが、期待が大きいほど落胆も大きい。
返還が実現するまで返還の手を緩めない体制をしっかり見せていかないと、相手がいるので。
色んなところに色んな事を話す様にしていますが、百聞は一見に如かず、一回自分の目でもって見て頂きたい、若いうちに来て見てほしいと思います、そして知ってもらいたい。
戦争によってこういうことが起きたわけですから、地球上から戦争を無くしたい。
2016年9月28日水曜日
渡辺喜久代 ・戦地へ宛てた115通の“恋文”
渡辺喜久代 ・戦地へ宛てた115通の“恋文”
去年戦地で生きる支えとなった「115通の恋文」という本が出版されました。
福井県出身の軍人山田藤栄さんに故郷に居る妻しづゑさんが書いた物です。
手紙の中には愛しい私の貴方へ、出来ることなら今すぐ飛んで行って、私の気持ち、心をお知らせするものを、ひとときも忘れることはありませんなどと、離れて暮らす妻の寂しさや夫への恋しい思いがつづられています。
山田藤栄さんは戦地で肌身離さず手紙を持ち続け、戦後1年間の抑留生活を経て、手紙とともに帰国しました。
夫の藤栄さんは平成9年に90歳で、妻のしづゑさんは平成11年に86歳で亡くなっていますが、二人でかわされた恋文は長女の渡辺喜久代さんが受け継いでいます。
115通が紐で結われていて、表紙には「故郷の思い出」と書かれている。
良くこれだけのものが残っていて読めますし、母の字が自分に対して語りかけて来ているような感覚で読ましてもらっています。
母が毎日父のことを案じながら、会話をしていた様に感じます。
当時新婚で、身ごもったことが判って、夫は戦地に出かけ、しづゑさんは福井県で過ごす。
ひたすら恋しい、子供が身ごもった時は色々かわいがってもらった甘い生活の記憶しかなく、こういう事を文章にしていいのかなという言葉も文章に出てくる。
つのる思いが凄かったと思う、だからだれが読んでも心に響いて来るんでしょうかね。
「おなつかしい私の大好きなお父様、重ね重ねお手紙どんなにうれしかったでしょう。
そのあとはますますお元気で御精勤あそばされる由、しづゑ始め母や弟も大変喜んでいます。
遠く離れていては思うばかりでいた仕方ありませんが、お父様がお帰りになる頃は子供と二人して元気いっぱいでびっくりされる様お待ちしています。
それまでお金をためて、ドライブなんて随分と素晴らしいのね。
待っているは二人ではなく3人よ、そのときはいいお髭のお父様で、私は落ちついたいいお母さんになり済ましてゆくのよ。
なんだか嬉しい、これからはうんと節約していきますわ。
それとね、お父様も夢を見ているのね、二人が同じことを書いておりますわ、きっとお父様が先に私に会って、私が又お父様に会っているのね。
本当に夜が楽しいです、ああいくら書いてもきりが有りません、忘れられぬ夫さまへ、一人ぼっちのしづゑより。」
普段は寡黙で針仕事をする姿を見ると、こんな若い時が有ったんだと思うと、凄いなと、烈しいものを持っていたんだと思います。
今考えると、明日もしかして戦死してしまったらどうしようという不安と、お腹の中の子供のことを思うと、毎日毎日考えていたと思う。
父にとってはそばにいてくれる唯一の母だったんですね。
フィリピンのミンダナオ島にいって、食糧の供給が断たれて飢えに苦しんだ。
父が指揮した山田部隊、1000人を越える部隊でしたが、9割、殆どの人が餓死だった。
農家出身だったので、畑を借りて飢えをしのいだようです。
夫への想い、子供を身ごもって待っている気持、同じ手紙なんだけれども、何度読み返しても父としては新鮮な思いで読み返していたと思います。
じゃあなかったらとっくに自決していたと思います。
心を支えたものは、家族が有ったからでしょうね、母が手紙を送り続けていて、綴ってきたものの足跡みたいなもの、本音、心の奥底の叫びみたいなもの、父に元気で帰って来てもらいたい、3人で暮らしたいという願望が父に伝わっているので、どうしても生きて帰りたいと思った、と思う。
抑留生活にも耐えてきたのは、どこかの隅に母の声があったと思います。
父は見るからに目がくぼんでいてげそっと痩せていて、骸骨の様な感じでした。
手を繋いだら、手はぼそぼそでした。
リュックサックの中を開けたら、紙の袋に干しブドウと手紙が入っていた。(8歳の時)
父は過酷な戦地の出来事は話せなかったと思います。
父は剣道をやっていたが竹刀を持っていると、人をあやめた感覚が戻ってきてしまったので、もう竹刀を持つ事は止めたと言って、その後は持ちませんでした。
戦争、人をあやめる、それほどむごいものはないと思います。
今の若い人に戦争は大変だと言っても、細かいところ、些細なことなんだけれども、それが些細なことではなくて、凄く重要なことだと思っています。
体験した人はもっと心の痛手になってずーっと持ち続けて死んでいったと思います。
フィリピンの慰霊の旅に父は出掛ける。
厚生省はもう終わったと言ったが、自費で出かけて行って、遺骨収集をして、御経をあげながら燃やして箱に入れて持って帰ることを何年もやりました。
父が、現地の人が喜ぶと言う事で、現地の人に衣類などを持って行った記憶が有ります。
慰霊碑も献金を募って建てました。
父は晩年認知症になり近所を徘徊したりしました。
神社巡りをしていました、遺骨収集を心の中でしていたんだと思います。
ゴミ置き場から汚物を持ってきていました。(最後まで思いが抜けなかった思います。)
私は高校卒業後、手紙を持って東京に就職に行きました。
どうして手紙を持って行ったのか判らない。
私を母が守っていてくれる、辛抱しなさいと、だからここにあるんだと思えるようになってきました。
父と母の対話みたいにしたこの手紙は貴重なものだと思っているので、凄いものを残してくれたと思う、それだけです。
父は喜んでいてくれると思いますが、母は本人なので恥ずかしいと思っていると思います。
戦争はむごいと言うしかありません、思いやりが欠けるとそういうことになるので、人を思いやる心を忘れてはいけない。
それを教えてくれたのが母の手紙です。
去年戦地で生きる支えとなった「115通の恋文」という本が出版されました。
福井県出身の軍人山田藤栄さんに故郷に居る妻しづゑさんが書いた物です。
手紙の中には愛しい私の貴方へ、出来ることなら今すぐ飛んで行って、私の気持ち、心をお知らせするものを、ひとときも忘れることはありませんなどと、離れて暮らす妻の寂しさや夫への恋しい思いがつづられています。
山田藤栄さんは戦地で肌身離さず手紙を持ち続け、戦後1年間の抑留生活を経て、手紙とともに帰国しました。
夫の藤栄さんは平成9年に90歳で、妻のしづゑさんは平成11年に86歳で亡くなっていますが、二人でかわされた恋文は長女の渡辺喜久代さんが受け継いでいます。
115通が紐で結われていて、表紙には「故郷の思い出」と書かれている。
良くこれだけのものが残っていて読めますし、母の字が自分に対して語りかけて来ているような感覚で読ましてもらっています。
母が毎日父のことを案じながら、会話をしていた様に感じます。
当時新婚で、身ごもったことが判って、夫は戦地に出かけ、しづゑさんは福井県で過ごす。
ひたすら恋しい、子供が身ごもった時は色々かわいがってもらった甘い生活の記憶しかなく、こういう事を文章にしていいのかなという言葉も文章に出てくる。
つのる思いが凄かったと思う、だからだれが読んでも心に響いて来るんでしょうかね。
「おなつかしい私の大好きなお父様、重ね重ねお手紙どんなにうれしかったでしょう。
そのあとはますますお元気で御精勤あそばされる由、しづゑ始め母や弟も大変喜んでいます。
遠く離れていては思うばかりでいた仕方ありませんが、お父様がお帰りになる頃は子供と二人して元気いっぱいでびっくりされる様お待ちしています。
それまでお金をためて、ドライブなんて随分と素晴らしいのね。
待っているは二人ではなく3人よ、そのときはいいお髭のお父様で、私は落ちついたいいお母さんになり済ましてゆくのよ。
なんだか嬉しい、これからはうんと節約していきますわ。
それとね、お父様も夢を見ているのね、二人が同じことを書いておりますわ、きっとお父様が先に私に会って、私が又お父様に会っているのね。
本当に夜が楽しいです、ああいくら書いてもきりが有りません、忘れられぬ夫さまへ、一人ぼっちのしづゑより。」
普段は寡黙で針仕事をする姿を見ると、こんな若い時が有ったんだと思うと、凄いなと、烈しいものを持っていたんだと思います。
今考えると、明日もしかして戦死してしまったらどうしようという不安と、お腹の中の子供のことを思うと、毎日毎日考えていたと思う。
父にとってはそばにいてくれる唯一の母だったんですね。
フィリピンのミンダナオ島にいって、食糧の供給が断たれて飢えに苦しんだ。
父が指揮した山田部隊、1000人を越える部隊でしたが、9割、殆どの人が餓死だった。
農家出身だったので、畑を借りて飢えをしのいだようです。
夫への想い、子供を身ごもって待っている気持、同じ手紙なんだけれども、何度読み返しても父としては新鮮な思いで読み返していたと思います。
じゃあなかったらとっくに自決していたと思います。
心を支えたものは、家族が有ったからでしょうね、母が手紙を送り続けていて、綴ってきたものの足跡みたいなもの、本音、心の奥底の叫びみたいなもの、父に元気で帰って来てもらいたい、3人で暮らしたいという願望が父に伝わっているので、どうしても生きて帰りたいと思った、と思う。
抑留生活にも耐えてきたのは、どこかの隅に母の声があったと思います。
父は見るからに目がくぼんでいてげそっと痩せていて、骸骨の様な感じでした。
手を繋いだら、手はぼそぼそでした。
リュックサックの中を開けたら、紙の袋に干しブドウと手紙が入っていた。(8歳の時)
父は過酷な戦地の出来事は話せなかったと思います。
父は剣道をやっていたが竹刀を持っていると、人をあやめた感覚が戻ってきてしまったので、もう竹刀を持つ事は止めたと言って、その後は持ちませんでした。
戦争、人をあやめる、それほどむごいものはないと思います。
今の若い人に戦争は大変だと言っても、細かいところ、些細なことなんだけれども、それが些細なことではなくて、凄く重要なことだと思っています。
体験した人はもっと心の痛手になってずーっと持ち続けて死んでいったと思います。
フィリピンの慰霊の旅に父は出掛ける。
厚生省はもう終わったと言ったが、自費で出かけて行って、遺骨収集をして、御経をあげながら燃やして箱に入れて持って帰ることを何年もやりました。
父が、現地の人が喜ぶと言う事で、現地の人に衣類などを持って行った記憶が有ります。
慰霊碑も献金を募って建てました。
父は晩年認知症になり近所を徘徊したりしました。
神社巡りをしていました、遺骨収集を心の中でしていたんだと思います。
ゴミ置き場から汚物を持ってきていました。(最後まで思いが抜けなかった思います。)
私は高校卒業後、手紙を持って東京に就職に行きました。
どうして手紙を持って行ったのか判らない。
私を母が守っていてくれる、辛抱しなさいと、だからここにあるんだと思えるようになってきました。
父と母の対話みたいにしたこの手紙は貴重なものだと思っているので、凄いものを残してくれたと思う、それだけです。
父は喜んでいてくれると思いますが、母は本人なので恥ずかしいと思っていると思います。
戦争はむごいと言うしかありません、思いやりが欠けるとそういうことになるので、人を思いやる心を忘れてはいけない。
それを教えてくれたのが母の手紙です。
2016年9月27日火曜日
與古田光順(元基地通訳) ・沖縄とアメリカの“かけ橋”に
與古田光順(元基地通訳) ・沖縄とアメリカの“かけ橋”に
71年前、烈しい地上戦が繰り広げられた沖縄、與古田さん82歳も沖縄戦で 4人の兄弟を奪われました。
戦後は敵国であったアメリカ軍の基地や普天間基地の有る宜野湾市で通訳を務めました。
與古田さんに沖縄とアメリカのかけ橋になろと葛藤し続けた人生について伺います。
以前のように機会は少なくなりますが、自然に英語がでてきます。
通訳をして双方の考えを理解させる、その使命が有っておのずから自分自身は米国と琉球のかけ橋なんだなということは意識するものでした。
日本で一番基地の集まっている沖縄で基地を直ぐ撤去することは不可能だけれども、かけ橋となる人が増えて双方から真剣に誠実な協議をすれば解決できない問題はないと思います。
1944年10月10日、当時10歳だったが、アメリカ軍の空襲に遭う。
1400人以上の死傷者が出る、十十空襲。
夜が明けきらないうちに、大砲の音が聞こえて目を覚ます。
那覇市は灰燼に帰してしまった。
家族と墓(墓の中に空間が有る)の方に逃げ込んだ。
ちょっとゆとりあると12~13名入れる所に3倍ぐらい入り込んでひしめき合っていました。
朝7時過ぎから夜の9時ぐらいまで居ました。
窒息して今にも死ぬんじゃないかと思う様な時間が長く感じられました。
那覇から北へ徒歩で14時間かかって逃げてゆきました。
祖母の生家に辿りついて、やはり墓の中で暮らしました。
大小便に苦労して、外に出たら敵機に見つかって全員やられるという事で我慢して針で突き刺されるような痛みを覚えました。
アメリカが上陸して攻めて攻めて、南部の方に追いやられて、爆撃にやられて兄弟が亡くなりました。
母に聞いたが顔面蒼白で物が言えない様な、鬱病みたいになって、聞かないでいようと思いました。
6月23日には沖縄線が終わる。
兄弟も亡くして戦争の悲惨さは身に沁みている。
20代で通訳を務め始める。
叔父、叔母がハワイに長いこと住んで、タクシードライバー、メイドして、英語社会で鍛えられて沖縄に帰ってきて、米軍基地で通訳をしました。
傍で聞いていて羨ましくて、英語をしゃべりたいと思いました。
叔父、叔母から英語を勉強しました。
単語カードを作って、単語力が身についてヒアリングも身について、会話力も身についてきました。
通訳の仕事をするようになりました。
26歳でアメリカ軍普天間基地の司令官付きの通訳となる。
司令官と市長との間にかわされる公文書の翻訳、電話連絡等の翻訳、職員又は市長に伝えると言う事が主な仕事でした。
兄弟たちを失った事は悲しいし、悔しいが、2度とああいう痛ましい戦争が起こらないためにも、通訳という仕事を忠実にやってゆく以外にはないと思いました。
当時アメリカ軍は余り良くは見られていませんでした。
基地が有る故に色んな事故、事件が起こっていました。
お互いが理解してゆくためには懸け橋となる通訳が必要だと思いました。
憲兵隊の通訳もする。
基地でメイドで働いていた人妻の女性が後ろから抱きつかれたりして、イエスと言わないとパスを奪うと言われると言う事だった。
女性の事を司令官に報告して、軍曹を連れてくるように指示して、取り上げたパスをここに反しなさいと言って、今日限り貴方のメイドではないと言って、今後悪いことをしたら軍法会議に掛けますと言って、それは解決しました。
司令官が言ういい人という所に、新しい職場を紹介してもらった。
泣き寝入りをしている人が多いことが判った。
憲兵隊の通訳は2年で辞める。
銃剣を敵に使うべき物を、ベトナム戦争で罪もない妊婦女性を刺殺して、それを喜んで毎日写真を撮って持ってくる。
当時軍人にはそういう人が多かった。
8つか9つになる少女が真っ裸にされて、裸のまま歩いている写真を持っていて、それらを見せられて厭になって辞めた。
自分の妹たちがどういう殺され方をしたのか、ということが写真と重なるわけです。
通訳を辞めて本土に渡り、アルバイトをしながら、生活しました。
通訳時代に結婚して子供もいましたが、本土に渡って連絡も取らなかった。
行くときはそれほど悪い症状ではなかったが、早く沖縄に帰りたいと思ったが、鬱になるとまともな仕事につけなくて、プライド(通訳)もあってやけ酒を飲んだりした。
そのうち元気になってきて、沖縄に戻ろうと思った。
53歳で普天間基地の有る宜野湾市の基地対策室渉外官になる。
普天間基地の指令官と宜野湾市長の間にかわされる公文書の翻訳、基地への許可証の英文和文の作成、市民からの苦情の対応(主に騒音など)などをやりました。
人命救助、アメリカ軍の海兵隊委員が、雨が降っている中、ビールを飲みながらふざけて水に落ちて、激流に流されて、捜索するが2人が発見、1人は行方不明、人命救助の要請がある。
職員を集めてグループを作って協力しようとアメリカ軍と合流し、捜索する事になる。
それをやってよかったと思う。
普天間第二小学校に新しい校舎を建てるためには、敷地が足りなかったが許可が下り、天にも昇る気持だった。
誠実な協議、これが大事です。
問題が起きることは難しい事ではあるが、このまま放置するわけにはいかない。
だからこそ双方のかけ橋が出現することを祈らざるを得ない。
放送が全国に流れて少しでもいいから戦後の沖縄の事を理解してくれれば本当に嬉しいです。
あんなに愛した兄弟たちを奪った戦争を直ぐには許せないが、戦争を二度と沖縄に起こしたくないから、こうして英語を使う人間として、沖縄で戦争をさせないぞ、という強い気持ちが支えになって通訳をしている。
71年前、烈しい地上戦が繰り広げられた沖縄、與古田さん82歳も沖縄戦で 4人の兄弟を奪われました。
戦後は敵国であったアメリカ軍の基地や普天間基地の有る宜野湾市で通訳を務めました。
與古田さんに沖縄とアメリカのかけ橋になろと葛藤し続けた人生について伺います。
以前のように機会は少なくなりますが、自然に英語がでてきます。
通訳をして双方の考えを理解させる、その使命が有っておのずから自分自身は米国と琉球のかけ橋なんだなということは意識するものでした。
日本で一番基地の集まっている沖縄で基地を直ぐ撤去することは不可能だけれども、かけ橋となる人が増えて双方から真剣に誠実な協議をすれば解決できない問題はないと思います。
1944年10月10日、当時10歳だったが、アメリカ軍の空襲に遭う。
1400人以上の死傷者が出る、十十空襲。
夜が明けきらないうちに、大砲の音が聞こえて目を覚ます。
那覇市は灰燼に帰してしまった。
家族と墓(墓の中に空間が有る)の方に逃げ込んだ。
ちょっとゆとりあると12~13名入れる所に3倍ぐらい入り込んでひしめき合っていました。
朝7時過ぎから夜の9時ぐらいまで居ました。
窒息して今にも死ぬんじゃないかと思う様な時間が長く感じられました。
那覇から北へ徒歩で14時間かかって逃げてゆきました。
祖母の生家に辿りついて、やはり墓の中で暮らしました。
大小便に苦労して、外に出たら敵機に見つかって全員やられるという事で我慢して針で突き刺されるような痛みを覚えました。
アメリカが上陸して攻めて攻めて、南部の方に追いやられて、爆撃にやられて兄弟が亡くなりました。
母に聞いたが顔面蒼白で物が言えない様な、鬱病みたいになって、聞かないでいようと思いました。
6月23日には沖縄線が終わる。
兄弟も亡くして戦争の悲惨さは身に沁みている。
20代で通訳を務め始める。
叔父、叔母がハワイに長いこと住んで、タクシードライバー、メイドして、英語社会で鍛えられて沖縄に帰ってきて、米軍基地で通訳をしました。
傍で聞いていて羨ましくて、英語をしゃべりたいと思いました。
叔父、叔母から英語を勉強しました。
単語カードを作って、単語力が身についてヒアリングも身について、会話力も身についてきました。
通訳の仕事をするようになりました。
26歳でアメリカ軍普天間基地の司令官付きの通訳となる。
司令官と市長との間にかわされる公文書の翻訳、電話連絡等の翻訳、職員又は市長に伝えると言う事が主な仕事でした。
兄弟たちを失った事は悲しいし、悔しいが、2度とああいう痛ましい戦争が起こらないためにも、通訳という仕事を忠実にやってゆく以外にはないと思いました。
当時アメリカ軍は余り良くは見られていませんでした。
基地が有る故に色んな事故、事件が起こっていました。
お互いが理解してゆくためには懸け橋となる通訳が必要だと思いました。
憲兵隊の通訳もする。
基地でメイドで働いていた人妻の女性が後ろから抱きつかれたりして、イエスと言わないとパスを奪うと言われると言う事だった。
女性の事を司令官に報告して、軍曹を連れてくるように指示して、取り上げたパスをここに反しなさいと言って、今日限り貴方のメイドではないと言って、今後悪いことをしたら軍法会議に掛けますと言って、それは解決しました。
司令官が言ういい人という所に、新しい職場を紹介してもらった。
泣き寝入りをしている人が多いことが判った。
憲兵隊の通訳は2年で辞める。
銃剣を敵に使うべき物を、ベトナム戦争で罪もない妊婦女性を刺殺して、それを喜んで毎日写真を撮って持ってくる。
当時軍人にはそういう人が多かった。
8つか9つになる少女が真っ裸にされて、裸のまま歩いている写真を持っていて、それらを見せられて厭になって辞めた。
自分の妹たちがどういう殺され方をしたのか、ということが写真と重なるわけです。
通訳を辞めて本土に渡り、アルバイトをしながら、生活しました。
通訳時代に結婚して子供もいましたが、本土に渡って連絡も取らなかった。
行くときはそれほど悪い症状ではなかったが、早く沖縄に帰りたいと思ったが、鬱になるとまともな仕事につけなくて、プライド(通訳)もあってやけ酒を飲んだりした。
そのうち元気になってきて、沖縄に戻ろうと思った。
53歳で普天間基地の有る宜野湾市の基地対策室渉外官になる。
普天間基地の指令官と宜野湾市長の間にかわされる公文書の翻訳、基地への許可証の英文和文の作成、市民からの苦情の対応(主に騒音など)などをやりました。
人命救助、アメリカ軍の海兵隊委員が、雨が降っている中、ビールを飲みながらふざけて水に落ちて、激流に流されて、捜索するが2人が発見、1人は行方不明、人命救助の要請がある。
職員を集めてグループを作って協力しようとアメリカ軍と合流し、捜索する事になる。
それをやってよかったと思う。
普天間第二小学校に新しい校舎を建てるためには、敷地が足りなかったが許可が下り、天にも昇る気持だった。
誠実な協議、これが大事です。
問題が起きることは難しい事ではあるが、このまま放置するわけにはいかない。
だからこそ双方のかけ橋が出現することを祈らざるを得ない。
放送が全国に流れて少しでもいいから戦後の沖縄の事を理解してくれれば本当に嬉しいです。
あんなに愛した兄弟たちを奪った戦争を直ぐには許せないが、戦争を二度と沖縄に起こしたくないから、こうして英語を使う人間として、沖縄で戦争をさせないぞ、という強い気持ちが支えになって通訳をしている。
2016年9月26日月曜日
坪井 直(原水爆被害 代表委員)・オバマ大統領広島訪問から核廃絶へ
坪井 直(日本原水爆被害者団体協議会 代表委員)・オバマ大統領広島訪問から核廃絶へ
今年5月オバマ大統領が現職の大統領として初めて被爆地広島を訪問しました。
その歴史的な瞬間に立ち会った被爆者が、日本原水爆被害者団体協議会の代表委員坪井さんです。
坪井さんは91歳、学生だった二十歳の時に爆心から1km余りで被爆し、瀕死の重傷を負いながらも奇跡的に助かりました。
その壮絶な被爆体験を国内だけでなく、海外でも核兵器の恐ろしさ、核無き世界の実現を訴え続けています。
坪井さんがどのような気持ちを込めてオバマ大統領と言葉をかわしたのか、核兵器廃絶に向けてどの様な思いを持っているのか、伺いました。
「何故私達はこの地を訪れるのでしょう。広島と言う地に何故来るのでしょうか。
私達はそれほど遠くない過去に、ときはなたれた恐ろしい力に思いを巡らすために来ました。・・・」
オバマ大統領の演説。
サミットを終わって広島にオバマ大統領が来られるかどうかは、なかなか決まらなかった。
一週間前にようやっと決まった。
三日前に来賓として貴方を招待しますと言われて、行く事になりました。
スケジュールには被爆者との対面は無かった。
外務省の方が来て、オバマ大統領を迎えるがと、歩きながら2から3分で話した。
献花後にオバマ大統領と一言二言話してほしいとその場で言われて、心臓がドキドキしてしまった。
先ず、感謝、御礼を言うんだと、思ったが、私は杖をついていたので、転げてしまうのかもしれないと思って、最後までオバマ大統領は手を離さなかった。
感謝と大歓迎する事を話して、そのあと、原爆の全体像は実物を見たり、被害状況を見たり、実際の被爆者の話を聞いたりしたら全体像が分かると思います、と言った。
そのためには今日は時間が足りないので、1月になったら大統領が変わった後に、広島に来てくださいと言いました。
7年前にプラハで核兵器のない世界を作ろうと声明されたが、この人について行こうと言う気持ちが有り、ともに頑張りましょうと言う事を言いました。
大きな声で「サンキュウ」と言ってくれました。
歴代の大統領にも大使館を通して広島に来てくださいといっていた。
オバマ大統領のプラハでの声明で核兵器廃絶を言っているので、この人なら判ってくれると思った。
憎しみが無いと言われればあるが、オバマ大統領は人類が基礎になっていると言っていて、憎しみは2から3割あるがそういっていたら、未来への思考にはならない。
人間は理性を持っている、情ですよ、幸福の為にはそういったことを乗り越えていかなければならない。
核廃絶の原点は私の被爆の問題です。
8月6日 8時前に食堂で食べて大学に行くが、そこで食べて学校に行こうとしたら、下級生が3人来て一緒に食べないかと言われたが、もう食べてしまったので昼に一緒に食堂で会おうと言って大学に行ったが、3人は食堂に行って、即死だった。(私も一緒だったら共に即死だった)
10mぐらい飛ばされて、気が付いたら、きのこ雲、日本は土壁が多いので100m先が見えなった。
衣類がぐしゃぐしゃになって、真っ赤な血がバーっと出て、腰の方からどす黒い血で、血管がみみずの様に見えた。(?)
這う様にして潰れた家の影に行って休み休み、橋に来て、「坪井はここに死す」と書いた。
軽トラックが来て、軍人が来て「若い男性だけ乗れ」ということで、私は乗ることができた。
子供、女性、壮年老年男子は対象外で、人権無視、これが戦争です。
辿りついて死んだ者も多くいた。
臨時野戦病院に、2~3日居たが、「直や」と叫んで、母親が11番目の部屋に来た時に気が付いて、手を挙げて「ここにおるよ」と言って連れて帰ってもらったが、母親の呼ぶ声が無かったら、私は今ここにはいません。
原爆を受けてから市民病院で、「もう駄目だから親戚を集めなさい」言われて、脊髄をやられたので白血球がすくなってゆき、輸血で生きて、18年目に大学病院で同じようなことになって危篤状態、それから23年目に、3回危篤状態、私は放射線で5か所破壊されていて、血液を作るのが駄目で、入院を12回やっています。
12年前、大腸がん、心臓病、貧血症など、どうにもならない状況で今まで来ました。
5種類の薬を飲み、2週間たったら点滴を20年間やってきました。
核兵器廃絶について、自分の為、皆の為になるので、やっています。
核軍縮、一つ一つが小さくても凄い力を持ってくる。
虚しさの方が多いが、自分の方を反省する、自分の無力のせいだと思って、淋しさはあるが、核兵器廃絶の希望は捨てていない。
核兵器の恐ろしさが増えていることは間違いない。
私が生きている以上、今まで言っている様なことをやっぱりやります。
簡単に言ったら皆が仲良くすると言う事。
被爆者の高齢化という事もあるが、言いたいのは皆が国の枠組みを止めて、人類が生きて行け、というのがもとにある。
国、人種で差別したり、経済の強い弱いでは関係ない、全部平等の様になって行って地球の幸せ
を持っていったら、問題じゃない様な世の中になるんだと思っています。
喧嘩もなく静かになっても平和ではない、動く平和、合わないところが有っても合わそうとする動きが有るが、それが有る平和でなければ駄目だと思っている。
そのためには外国に言って話したり、どんなことが有っても諦めずにやります。
平和な世界、核兵器のない世界が作りたいから、何としても頑張らなければいけないと思っています。
今年5月オバマ大統領が現職の大統領として初めて被爆地広島を訪問しました。
その歴史的な瞬間に立ち会った被爆者が、日本原水爆被害者団体協議会の代表委員坪井さんです。
坪井さんは91歳、学生だった二十歳の時に爆心から1km余りで被爆し、瀕死の重傷を負いながらも奇跡的に助かりました。
その壮絶な被爆体験を国内だけでなく、海外でも核兵器の恐ろしさ、核無き世界の実現を訴え続けています。
坪井さんがどのような気持ちを込めてオバマ大統領と言葉をかわしたのか、核兵器廃絶に向けてどの様な思いを持っているのか、伺いました。
「何故私達はこの地を訪れるのでしょう。広島と言う地に何故来るのでしょうか。
私達はそれほど遠くない過去に、ときはなたれた恐ろしい力に思いを巡らすために来ました。・・・」
オバマ大統領の演説。
サミットを終わって広島にオバマ大統領が来られるかどうかは、なかなか決まらなかった。
一週間前にようやっと決まった。
三日前に来賓として貴方を招待しますと言われて、行く事になりました。
スケジュールには被爆者との対面は無かった。
外務省の方が来て、オバマ大統領を迎えるがと、歩きながら2から3分で話した。
献花後にオバマ大統領と一言二言話してほしいとその場で言われて、心臓がドキドキしてしまった。
先ず、感謝、御礼を言うんだと、思ったが、私は杖をついていたので、転げてしまうのかもしれないと思って、最後までオバマ大統領は手を離さなかった。
感謝と大歓迎する事を話して、そのあと、原爆の全体像は実物を見たり、被害状況を見たり、実際の被爆者の話を聞いたりしたら全体像が分かると思います、と言った。
そのためには今日は時間が足りないので、1月になったら大統領が変わった後に、広島に来てくださいと言いました。
7年前にプラハで核兵器のない世界を作ろうと声明されたが、この人について行こうと言う気持ちが有り、ともに頑張りましょうと言う事を言いました。
大きな声で「サンキュウ」と言ってくれました。
歴代の大統領にも大使館を通して広島に来てくださいといっていた。
オバマ大統領のプラハでの声明で核兵器廃絶を言っているので、この人なら判ってくれると思った。
憎しみが無いと言われればあるが、オバマ大統領は人類が基礎になっていると言っていて、憎しみは2から3割あるがそういっていたら、未来への思考にはならない。
人間は理性を持っている、情ですよ、幸福の為にはそういったことを乗り越えていかなければならない。
核廃絶の原点は私の被爆の問題です。
8月6日 8時前に食堂で食べて大学に行くが、そこで食べて学校に行こうとしたら、下級生が3人来て一緒に食べないかと言われたが、もう食べてしまったので昼に一緒に食堂で会おうと言って大学に行ったが、3人は食堂に行って、即死だった。(私も一緒だったら共に即死だった)
10mぐらい飛ばされて、気が付いたら、きのこ雲、日本は土壁が多いので100m先が見えなった。
衣類がぐしゃぐしゃになって、真っ赤な血がバーっと出て、腰の方からどす黒い血で、血管がみみずの様に見えた。(?)
這う様にして潰れた家の影に行って休み休み、橋に来て、「坪井はここに死す」と書いた。
軽トラックが来て、軍人が来て「若い男性だけ乗れ」ということで、私は乗ることができた。
子供、女性、壮年老年男子は対象外で、人権無視、これが戦争です。
辿りついて死んだ者も多くいた。
臨時野戦病院に、2~3日居たが、「直や」と叫んで、母親が11番目の部屋に来た時に気が付いて、手を挙げて「ここにおるよ」と言って連れて帰ってもらったが、母親の呼ぶ声が無かったら、私は今ここにはいません。
原爆を受けてから市民病院で、「もう駄目だから親戚を集めなさい」言われて、脊髄をやられたので白血球がすくなってゆき、輸血で生きて、18年目に大学病院で同じようなことになって危篤状態、それから23年目に、3回危篤状態、私は放射線で5か所破壊されていて、血液を作るのが駄目で、入院を12回やっています。
12年前、大腸がん、心臓病、貧血症など、どうにもならない状況で今まで来ました。
5種類の薬を飲み、2週間たったら点滴を20年間やってきました。
核兵器廃絶について、自分の為、皆の為になるので、やっています。
核軍縮、一つ一つが小さくても凄い力を持ってくる。
虚しさの方が多いが、自分の方を反省する、自分の無力のせいだと思って、淋しさはあるが、核兵器廃絶の希望は捨てていない。
核兵器の恐ろしさが増えていることは間違いない。
私が生きている以上、今まで言っている様なことをやっぱりやります。
簡単に言ったら皆が仲良くすると言う事。
被爆者の高齢化という事もあるが、言いたいのは皆が国の枠組みを止めて、人類が生きて行け、というのがもとにある。
国、人種で差別したり、経済の強い弱いでは関係ない、全部平等の様になって行って地球の幸せ
を持っていったら、問題じゃない様な世の中になるんだと思っています。
喧嘩もなく静かになっても平和ではない、動く平和、合わないところが有っても合わそうとする動きが有るが、それが有る平和でなければ駄目だと思っている。
そのためには外国に言って話したり、どんなことが有っても諦めずにやります。
平和な世界、核兵器のない世界が作りたいから、何としても頑張らなければいけないと思っています。
2016年9月25日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子"
今日はチャイコフスキーの遺伝子 2016年バージョン。
*白鳥の湖のドラマティックな音楽、フィナーレ アレグロアジタートの部分。音楽演奏
ゲルギエフの指揮 マリインスキー劇場管弦楽団
一番良く知られている旋律が、ドラマティックに最後に演奏される。
3大バレエ 白鳥の湖、くるみ割り人形、眠れる森の美女。
グラズノフ 1865年生まれ。 チャイコフスキーの20年以上後の人。
グラズノフのバレイ音楽 美しいメロディーがあふれている。
グラズノフは音楽院の院長、学長としてプロコフィエフ、ショスタコービッチを教えたロシア音楽界の偉人なんです。
*グラズノフのバレエ音楽 四季の中の秋 小アダージョ 音楽演奏
ロシアにとっては秋が四季の最後(冬、春、夏、秋)
アンダンテカンタービレ 弦楽四重奏曲の第二楽章
*アンダンテカンタービレを中低音のチェロ4台で演奏したCDが最近出た。 音楽演奏
心地いい曲。
チェロは高音も出て音域が広い楽器。
「悲愴」 サムイル・フェイインベルク ピアニスト、作曲家 が「悲愴」の第三楽章の一番激しいドラマティックな部分をピアノ一台に編曲した音楽が有ります。
*「悲愴」の第三楽章 編曲 アルカーディ・ヴォロドス(ピアニスト)が演奏。
忙しい軽妙な曲になっている。
ジャンゴ・ラインハルト ベルギー出身のギターリスト ジャズの音楽と東ヨーロッパのロマの音楽をミックスさせたスタイルで世界のファンを魅了。
ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリ が「悲愴」の音楽を最高のジャズにしました。
*「悲愴」のインプロビゼーション(ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの即興演奏)
今日はチャイコフスキーの遺伝子 2016年バージョン。
*白鳥の湖のドラマティックな音楽、フィナーレ アレグロアジタートの部分。音楽演奏
ゲルギエフの指揮 マリインスキー劇場管弦楽団
一番良く知られている旋律が、ドラマティックに最後に演奏される。
3大バレエ 白鳥の湖、くるみ割り人形、眠れる森の美女。
グラズノフ 1865年生まれ。 チャイコフスキーの20年以上後の人。
グラズノフのバレイ音楽 美しいメロディーがあふれている。
グラズノフは音楽院の院長、学長としてプロコフィエフ、ショスタコービッチを教えたロシア音楽界の偉人なんです。
*グラズノフのバレエ音楽 四季の中の秋 小アダージョ 音楽演奏
ロシアにとっては秋が四季の最後(冬、春、夏、秋)
アンダンテカンタービレ 弦楽四重奏曲の第二楽章
*アンダンテカンタービレを中低音のチェロ4台で演奏したCDが最近出た。 音楽演奏
心地いい曲。
チェロは高音も出て音域が広い楽器。
「悲愴」 サムイル・フェイインベルク ピアニスト、作曲家 が「悲愴」の第三楽章の一番激しいドラマティックな部分をピアノ一台に編曲した音楽が有ります。
*「悲愴」の第三楽章 編曲 アルカーディ・ヴォロドス(ピアニスト)が演奏。
忙しい軽妙な曲になっている。
ジャンゴ・ラインハルト ベルギー出身のギターリスト ジャズの音楽と東ヨーロッパのロマの音楽をミックスさせたスタイルで世界のファンを魅了。
ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリ が「悲愴」の音楽を最高のジャズにしました。
*「悲愴」のインプロビゼーション(ジャンゴ・ラインハルトとステファン・グラッペリの即興演奏)
2016年9月24日土曜日
茂山千五郎(大蔵流狂言師) ・お豆腐狂言を継ぐこと
茂山千五郎(大蔵流狂言師) ・お豆腐狂言を継ぐこと
(H28/9/3 京都府南丹市の「ラジオ深夜便のつどい」で収録)
お豆腐狂言とは、京都に400年続く狂言師の家、茂山千五郎の家訓です。
豆腐の様に味付けしないで高級料理にも、庶民の味にもなる親しみやすいお豆腐公演を目指すという意味です。
茂山千五郎さんは狂言師20人を有する茂山家の当主茂山千五郎を今月18日に襲名されました。
茂山家の特徴は30代~40代の気鋭の狂言師たちが能狂言はもちろん、映画、ドラマ、ミュージカルなど他の舞台に積極的に挑戦して芸の幅を広げている事です。
自由奔放、多士済々の面々を率いる当主千五郎の襲名を半月後に控え、狂言という芸能について、襲名する心のうちについて伺いました。
狂言は約650年前、室町時代にでき上った古い芝居、古典芸能、伝統芸能。
代表的な古典芸能、①歌舞伎、②文楽(人形浄瑠璃)、③能、④狂言
①,②は江戸時代、③,④は室町時代。
③,④は元々同じところから発生している、二つあわせて能楽と呼んでいる。
古典芸能とは、①古い、②着物を着てお芝居をする、③出来上った当時(室町時代)、その頃の人が考え出した演技の仕方、演出方法などを今なおずーっと守って上演している。
日常の仕草と狂言の芝居の演技の違いを披露する。
軽く笑う仕草だが大げさに大きな声で笑う。(誇張した大げさな演技をするのが特徴)
室町時代は殆ど野外で演技したので、(神社仏閣の境内、河原など)今何をしゃべっているのか、どんな演技をしているのか判ってもらわないといけないので、演技が全て大げさで誇張した演技をしていた、それが特徴です。
泣く仕草、これも大げさ、豪快に泣く。
狂言は笑う演技が代表的な演技、歌舞伎、文楽(人形浄瑠璃)は悲しい芝居が多いが、狂言は喜劇に特化している。
野外で舞台装置がおけないので、何にもない舞台の上で芝居をしてゆくのも特徴となっている。
セリフ、身体の動き。
大蔵流は200曲ぐらいあるが、95%ぐらいの狂言が最初に名乗りという、自己紹介から始まる。
私はどこに住んでいて、どういうもので、これからなにをしようとしている、どこどこへ行こうと思っている等の自己紹介をする。
言葉で「竹藪にきた」と言うと、竹藪が有るごとくに芝居をしてゆく。
お客さんが状況をイメージしながら役者と一緒になって狂言を作り上げてゆく。
茂山千五郎家に生まれ育ちましたが、茂山家は江戸中期ぐらいから始まっています。
能楽師は下級武士だった。
明治維新で全ての能楽師がリストラになってしまった。(正重の時代)
能舞台以外ではやってはやってはいけない、他の分野の人との交流してはいけないという暗黙の了解が有ったが、正重はそんなことは言わずに、楽しんでもらえれば、依頼が有ればどこまでも出掛けて行って上演していましたら、仲間内から「茂山の狂言はお豆腐見たいやな」と言われた。
正重は豆腐でいいやないかという事で、茂山の狂言は豆腐の様な狂言を目指しなさいと言う事で、お豆腐狂言というものがその頃から、茂山家の家訓として伝わってきたわけです。
正重のつぎに11世真一(私のひい爺さん)、中学2年まで生きていましたので、ほぼ毎日のように稽古を受けました。
七五三(しめ)、政次が生まれてきて、数年前に亡くなった千作(七五三)と千之丞(政次)です。
この二人は戦後の動乱期を生きてきたので色んな事をしてきました。
歌舞伎舞台に出たりしました。
日本能楽協会から除名されるかどうか、というところまで行って、祖父は千作は辞めますと言って辞めて、千之丞は辞める必要はないと言って、喧嘩になって、真一(私のひい爺さん)が生んだ私に責任があるといって、3人纏めてやめるといいだしたが、まあまあという感じでうやむやのうちに収まったようです。
その頃から色んな事をやり始めました。
父は新作狂言というものに力を入れました。
江戸時代までの上演が古典狂言、それ以降が新作狂言。
500から600ぐらいは作ったのではないかなあ思いますが、その後も続けたのは10本ぐらいだと思います。
4歳が初舞台でしたが、記憶はありません。
小学校のころからは曾祖父に稽古を付けられましたが、当たり前ととらえていました。
小学校高学年になると、ちょっと違うぞと思ったが、親、親戚など周りは全部狂言師でどっぷりと浸かっていました。
中学になると稽古の仕方が違ってきて、本格的な狂言を習い始めて、先ず褒められることが無い。
基礎的な稽古を始めると、褒められることもなく稽古を続けた。
「釣狐」をやって初めて一人前の狂言師として認められる。
やるにあったっては追い込まれて、逃げ出したい思いだった。
高校時代には後を継ぐようにとも言われて、20歳には覚悟を決めてこの家を継いでいくんだなあと思いました。
20数年間活動してきて、祖父の凄さを感じていました。
私が今44歳で、家には役者が全員で22人居て、上に9人居ます、トップと言っても中間管理職です。
纏めてゆくためには、上を納得させるだけの実力が無いと駄目。
信頼関係も必要で、代が変わるときにみんなが納得するだけの信頼関係をつくってゆくことも必要です。
うちの役者は個性がばらばらで考え方も、やりたいこともばらばらで、どう纏めてゆくか、と思っているが、花形狂言会をつくっていて、色んな事をやっています。
今まで5人で一緒にやって居ましたが、それぞれ色んな方向を向いて活動しはじめました。
要の部分も必要でこれが茂山千五郎家であったり、茂山千五郎という人物であればいいかなあと思います。
要になるためには信頼が絶対条件だなあと思っています。
今の人間に合う感性、空気感が有ると思うので、子供に判り易くとか楽しんでもらいたいと思っています。
会場の雰囲気、レベルなどお客さんに合わせた公演を続けていきたいと思います。
息子たちに何を教えてゆくかというと、先ずは基本、「釣狐」、次に各々工夫。
息子たちが継いで孫たちがやるよ、と言って死にたいと思っています。
この狂言を川に流れの様に、点を少しでも線に繋げていきたいと思っています
(H28/9/3 京都府南丹市の「ラジオ深夜便のつどい」で収録)
お豆腐狂言とは、京都に400年続く狂言師の家、茂山千五郎の家訓です。
豆腐の様に味付けしないで高級料理にも、庶民の味にもなる親しみやすいお豆腐公演を目指すという意味です。
茂山千五郎さんは狂言師20人を有する茂山家の当主茂山千五郎を今月18日に襲名されました。
茂山家の特徴は30代~40代の気鋭の狂言師たちが能狂言はもちろん、映画、ドラマ、ミュージカルなど他の舞台に積極的に挑戦して芸の幅を広げている事です。
自由奔放、多士済々の面々を率いる当主千五郎の襲名を半月後に控え、狂言という芸能について、襲名する心のうちについて伺いました。
狂言は約650年前、室町時代にでき上った古い芝居、古典芸能、伝統芸能。
代表的な古典芸能、①歌舞伎、②文楽(人形浄瑠璃)、③能、④狂言
①,②は江戸時代、③,④は室町時代。
③,④は元々同じところから発生している、二つあわせて能楽と呼んでいる。
古典芸能とは、①古い、②着物を着てお芝居をする、③出来上った当時(室町時代)、その頃の人が考え出した演技の仕方、演出方法などを今なおずーっと守って上演している。
日常の仕草と狂言の芝居の演技の違いを披露する。
軽く笑う仕草だが大げさに大きな声で笑う。(誇張した大げさな演技をするのが特徴)
室町時代は殆ど野外で演技したので、(神社仏閣の境内、河原など)今何をしゃべっているのか、どんな演技をしているのか判ってもらわないといけないので、演技が全て大げさで誇張した演技をしていた、それが特徴です。
泣く仕草、これも大げさ、豪快に泣く。
狂言は笑う演技が代表的な演技、歌舞伎、文楽(人形浄瑠璃)は悲しい芝居が多いが、狂言は喜劇に特化している。
野外で舞台装置がおけないので、何にもない舞台の上で芝居をしてゆくのも特徴となっている。
セリフ、身体の動き。
大蔵流は200曲ぐらいあるが、95%ぐらいの狂言が最初に名乗りという、自己紹介から始まる。
私はどこに住んでいて、どういうもので、これからなにをしようとしている、どこどこへ行こうと思っている等の自己紹介をする。
言葉で「竹藪にきた」と言うと、竹藪が有るごとくに芝居をしてゆく。
お客さんが状況をイメージしながら役者と一緒になって狂言を作り上げてゆく。
茂山千五郎家に生まれ育ちましたが、茂山家は江戸中期ぐらいから始まっています。
能楽師は下級武士だった。
明治維新で全ての能楽師がリストラになってしまった。(正重の時代)
能舞台以外ではやってはやってはいけない、他の分野の人との交流してはいけないという暗黙の了解が有ったが、正重はそんなことは言わずに、楽しんでもらえれば、依頼が有ればどこまでも出掛けて行って上演していましたら、仲間内から「茂山の狂言はお豆腐見たいやな」と言われた。
正重は豆腐でいいやないかという事で、茂山の狂言は豆腐の様な狂言を目指しなさいと言う事で、お豆腐狂言というものがその頃から、茂山家の家訓として伝わってきたわけです。
正重のつぎに11世真一(私のひい爺さん)、中学2年まで生きていましたので、ほぼ毎日のように稽古を受けました。
七五三(しめ)、政次が生まれてきて、数年前に亡くなった千作(七五三)と千之丞(政次)です。
この二人は戦後の動乱期を生きてきたので色んな事をしてきました。
歌舞伎舞台に出たりしました。
日本能楽協会から除名されるかどうか、というところまで行って、祖父は千作は辞めますと言って辞めて、千之丞は辞める必要はないと言って、喧嘩になって、真一(私のひい爺さん)が生んだ私に責任があるといって、3人纏めてやめるといいだしたが、まあまあという感じでうやむやのうちに収まったようです。
その頃から色んな事をやり始めました。
父は新作狂言というものに力を入れました。
江戸時代までの上演が古典狂言、それ以降が新作狂言。
500から600ぐらいは作ったのではないかなあ思いますが、その後も続けたのは10本ぐらいだと思います。
4歳が初舞台でしたが、記憶はありません。
小学校のころからは曾祖父に稽古を付けられましたが、当たり前ととらえていました。
小学校高学年になると、ちょっと違うぞと思ったが、親、親戚など周りは全部狂言師でどっぷりと浸かっていました。
中学になると稽古の仕方が違ってきて、本格的な狂言を習い始めて、先ず褒められることが無い。
基礎的な稽古を始めると、褒められることもなく稽古を続けた。
「釣狐」をやって初めて一人前の狂言師として認められる。
やるにあったっては追い込まれて、逃げ出したい思いだった。
高校時代には後を継ぐようにとも言われて、20歳には覚悟を決めてこの家を継いでいくんだなあと思いました。
20数年間活動してきて、祖父の凄さを感じていました。
私が今44歳で、家には役者が全員で22人居て、上に9人居ます、トップと言っても中間管理職です。
纏めてゆくためには、上を納得させるだけの実力が無いと駄目。
信頼関係も必要で、代が変わるときにみんなが納得するだけの信頼関係をつくってゆくことも必要です。
うちの役者は個性がばらばらで考え方も、やりたいこともばらばらで、どう纏めてゆくか、と思っているが、花形狂言会をつくっていて、色んな事をやっています。
今まで5人で一緒にやって居ましたが、それぞれ色んな方向を向いて活動しはじめました。
要の部分も必要でこれが茂山千五郎家であったり、茂山千五郎という人物であればいいかなあと思います。
要になるためには信頼が絶対条件だなあと思っています。
今の人間に合う感性、空気感が有ると思うので、子供に判り易くとか楽しんでもらいたいと思っています。
会場の雰囲気、レベルなどお客さんに合わせた公演を続けていきたいと思います。
息子たちに何を教えてゆくかというと、先ずは基本、「釣狐」、次に各々工夫。
息子たちが継いで孫たちがやるよ、と言って死にたいと思っています。
この狂言を川に流れの様に、点を少しでも線に繋げていきたいと思っています
2016年9月23日金曜日
望月暁云(書家) ・ドラマでも書家を育てた!
望月暁云(書家) ・ドラマでも書家を育てた!
昭和30年にNHKの総務部の職員として入局、昭和56年ドラマ部から声を掛けられ、ドラマの書道指導を34年間続け、去年80歳を前にその仕事を勇退しました。
書道指導というのは俳優に書の書き方を教えたり、俳優の代わりに書いて手元を撮影したりするものです。
34年間で書道指導したのは大河ドラマや、朝の連続TV小説、金曜時代劇など121本に上っています。
最後のドラマは去年の大河ドラマ「花燃ゆ」でした。
今年4月には80歳、個展を開き元気に活躍しています。
元気なのは食事を3食しっかり食べると言う事ですかね。
10年前はドラマの指導をやって、家に帰ると午前1~2時、風呂に入って一杯やって最後に麺類をいつも食べていました。
肥っていて、麺類を一切やめたら3カ月で5kg痩せました。
傘寿記念書作展、80点の作品を並べました。(全部新作)
3年前から準備を始めました。
書道指導、時代劇などで書状を書いたり、名前、花押とか筆で文字を書くときに、俳優さんに対して、書くときの所作指導をやったり、書状を書いて、手元吹き替えで俳優さんの代わりに書くと言う事をやっていました。
書家としての書を書いては駄目で、その時代時代、その人に沿った書風に似せて、原稿を書くのが大変です。
下手に書く場合もあり、下手に書くほど難しいことはない。
臨書が基本なので、中国古典の色んな法帖を元に臨書を毎日しています。
古文書の様に判らない様に書いてしまうと、書を撮る場合があるので判り易く書いてほしいとの監督さんからの要望もあり、判り易い様に行書体ぐらいに直して、とびはねは家康なら家康の特徴の上で書きます。
昭和56年~去年までやって居ました。(34年間 121本)
ドラマでは書道のほかに大変な勉強をさせていただきました、大きな財産になっています。
北条時宗の時は文机で書状を書かない、手に持って書く、紙はA3版ぐらいで、筆圧で折れてしまうので折れないように書くのに苦労しました。
女性の時にはメイクさんがどうらんを塗って上手く仕上げてくれます。
ハイビジョンになってくると上手くいかなくなってしまう。
仕事を辞めて、今は細かい仕事があるので忙しくやっています。
昭和30年に入局、昭和33年に書道部に入って書を習い始めました。
総務部で仕事をしていました。
昭和56年(45歳)、「人間模様」という現代劇で、身体障害者のご夫妻が書道教室を開いていると言う事で、お手本を書くシーンが有って楷書で「秋の空」というのを書いたのが初めてです。
手元吹き替えでやったが、首は曲げるな、背中は伸ばしたまま書くと指示が有り、大変な作業でした。(その場の人の状況に合わせて書かなければいけない)
画面上はその半紙の上しか撮っていないが、演出上のこだわりですね。
34年間NHKが、私を書家として仕事をさせていただいた事は、私としては最高の財産になりました。
本木雅弘さんが徳川慶喜をやりましたが、書が上手かったので、手元吹き替えでない方がいいと、監督さんに言ったら、そうだねいけると言ってくれて、本木さんは全て自分で書きました。
「花燃ゆ」では井上真央 さんも書がやはりうまくて、全て自分で書きました。
俳優さんは書のたしなみは持っていますね、雰囲気も出しますね。
書く文字の大きさ、草書体なのか、楷書体なのかに依っても筆の動きは違うので指示しないと判らない部分もあります。
朝早く行くときもあるし、明け方3時、4時に帰ることもありましたので家族の協力が無かったらできなかったので、家族、或いはスタッフの方などにも感謝、感謝です。
昭和11年2月6日 山梨県で生まれました。
3歳までいて、東京都の中野に移りましたが、その後千葉県に疎開しました。
おもちゃは自分で作りました、駒、竹トンボ、杉鉄砲、凧はよく作りました。
野球もよくやりました。
終戦が小学校3年生でしたが、空襲警報が無くなって夜も灯りが点けられると、そういうことが良かったなあと思いました。
8月15日の放送では意味が判らなかったが、大変なことが起きたんだと、中には涙を流している人が居て、不思議な光景だと思いました。
小学校へ上がって字を書く事が好きだった。
父は書が好きで、実印、ハンコも彫るし、日本卓球連盟の主事もやっていたので賞状、横断幕も自分で一人で書いていました。
書に関してはNHKに入って書道部に入ってからです。
書道部の先生は田村稲軒先生でした。
書が上手くなってくると面白くなり、張り合いが出てきました。
書は私の身を助けています。
NHKに入ってからも周りから書いてほしいと言うこともあり、書いてほしいと言われて書いている、これが非常に身になっている。
ずーっと続けられたのは、好きだったからでしょうね。
父は卓球連盟を辞めて書を書こうと思って、家で作品を書いている時に脳溢血で倒れてしまいました。
私も書を書いてぽっくり行きたいと思って、一生書から離れられないでしょうね。
書の勉強の真髄は古典の臨書をベースとしなさいといつも言っています。
書の勉強は終点が無い。
今は地元に対する恩返しというか、町内会長、社会福祉協議会の評議委員、学校関係の役員、
もちろん書道もやっています。
全国レベルの展覧会が5つ、ローカルが3つあり、それぞれ作品を作るので、毎週必ず作品製作をやっています。
何を書くか、どう収めるか、決まったら書き出すわけです、だから準備段階が7割、いざ書くには3割です。
昭和30年にNHKの総務部の職員として入局、昭和56年ドラマ部から声を掛けられ、ドラマの書道指導を34年間続け、去年80歳を前にその仕事を勇退しました。
書道指導というのは俳優に書の書き方を教えたり、俳優の代わりに書いて手元を撮影したりするものです。
34年間で書道指導したのは大河ドラマや、朝の連続TV小説、金曜時代劇など121本に上っています。
最後のドラマは去年の大河ドラマ「花燃ゆ」でした。
今年4月には80歳、個展を開き元気に活躍しています。
元気なのは食事を3食しっかり食べると言う事ですかね。
10年前はドラマの指導をやって、家に帰ると午前1~2時、風呂に入って一杯やって最後に麺類をいつも食べていました。
肥っていて、麺類を一切やめたら3カ月で5kg痩せました。
傘寿記念書作展、80点の作品を並べました。(全部新作)
3年前から準備を始めました。
書道指導、時代劇などで書状を書いたり、名前、花押とか筆で文字を書くときに、俳優さんに対して、書くときの所作指導をやったり、書状を書いて、手元吹き替えで俳優さんの代わりに書くと言う事をやっていました。
書家としての書を書いては駄目で、その時代時代、その人に沿った書風に似せて、原稿を書くのが大変です。
下手に書く場合もあり、下手に書くほど難しいことはない。
臨書が基本なので、中国古典の色んな法帖を元に臨書を毎日しています。
古文書の様に判らない様に書いてしまうと、書を撮る場合があるので判り易く書いてほしいとの監督さんからの要望もあり、判り易い様に行書体ぐらいに直して、とびはねは家康なら家康の特徴の上で書きます。
昭和56年~去年までやって居ました。(34年間 121本)
ドラマでは書道のほかに大変な勉強をさせていただきました、大きな財産になっています。
北条時宗の時は文机で書状を書かない、手に持って書く、紙はA3版ぐらいで、筆圧で折れてしまうので折れないように書くのに苦労しました。
女性の時にはメイクさんがどうらんを塗って上手く仕上げてくれます。
ハイビジョンになってくると上手くいかなくなってしまう。
仕事を辞めて、今は細かい仕事があるので忙しくやっています。
昭和30年に入局、昭和33年に書道部に入って書を習い始めました。
総務部で仕事をしていました。
昭和56年(45歳)、「人間模様」という現代劇で、身体障害者のご夫妻が書道教室を開いていると言う事で、お手本を書くシーンが有って楷書で「秋の空」というのを書いたのが初めてです。
手元吹き替えでやったが、首は曲げるな、背中は伸ばしたまま書くと指示が有り、大変な作業でした。(その場の人の状況に合わせて書かなければいけない)
画面上はその半紙の上しか撮っていないが、演出上のこだわりですね。
34年間NHKが、私を書家として仕事をさせていただいた事は、私としては最高の財産になりました。
本木雅弘さんが徳川慶喜をやりましたが、書が上手かったので、手元吹き替えでない方がいいと、監督さんに言ったら、そうだねいけると言ってくれて、本木さんは全て自分で書きました。
「花燃ゆ」では井上真央 さんも書がやはりうまくて、全て自分で書きました。
俳優さんは書のたしなみは持っていますね、雰囲気も出しますね。
書く文字の大きさ、草書体なのか、楷書体なのかに依っても筆の動きは違うので指示しないと判らない部分もあります。
朝早く行くときもあるし、明け方3時、4時に帰ることもありましたので家族の協力が無かったらできなかったので、家族、或いはスタッフの方などにも感謝、感謝です。
昭和11年2月6日 山梨県で生まれました。
3歳までいて、東京都の中野に移りましたが、その後千葉県に疎開しました。
おもちゃは自分で作りました、駒、竹トンボ、杉鉄砲、凧はよく作りました。
野球もよくやりました。
終戦が小学校3年生でしたが、空襲警報が無くなって夜も灯りが点けられると、そういうことが良かったなあと思いました。
8月15日の放送では意味が判らなかったが、大変なことが起きたんだと、中には涙を流している人が居て、不思議な光景だと思いました。
小学校へ上がって字を書く事が好きだった。
父は書が好きで、実印、ハンコも彫るし、日本卓球連盟の主事もやっていたので賞状、横断幕も自分で一人で書いていました。
書に関してはNHKに入って書道部に入ってからです。
書道部の先生は田村稲軒先生でした。
書が上手くなってくると面白くなり、張り合いが出てきました。
書は私の身を助けています。
NHKに入ってからも周りから書いてほしいと言うこともあり、書いてほしいと言われて書いている、これが非常に身になっている。
ずーっと続けられたのは、好きだったからでしょうね。
父は卓球連盟を辞めて書を書こうと思って、家で作品を書いている時に脳溢血で倒れてしまいました。
私も書を書いてぽっくり行きたいと思って、一生書から離れられないでしょうね。
書の勉強の真髄は古典の臨書をベースとしなさいといつも言っています。
書の勉強は終点が無い。
今は地元に対する恩返しというか、町内会長、社会福祉協議会の評議委員、学校関係の役員、
もちろん書道もやっています。
全国レベルの展覧会が5つ、ローカルが3つあり、それぞれ作品を作るので、毎週必ず作品製作をやっています。
何を書くか、どう収めるか、決まったら書き出すわけです、だから準備段階が7割、いざ書くには3割です。
2016年9月22日木曜日
大屋 進(鎌倉広町の森市民の会) ・鎌倉の里山を守る
大屋 進(NPO鎌倉広町の森市民の会)・鎌倉の里山を守る
80歳 首都圏では他に類を見ない豊かな生態系をはぐくむ鎌倉西南部にひろがる広大な丘陵地、鎌倉広町の森に、40数年前宅地開発計画が浮上しました。
開発反対の先頭に立ったのはその数年前に広町近くに移り住んだ大屋さんです。
山桜の花や蛍の光、鳥や蛙の声を季節ごとに故郷の富山と同じように楽しんでいた大屋さんは
一度破壊されたら、自然は元に戻らないと、市や業者に宅地開発を止めるよう申し入れ開発反対の署名運動を始めました。
その後長い話し合いが続けられ、2003年大屋さんたちは広町の森市民協議会を正式に設立して、市と交渉した結果、鎌倉市の土地開発公社が代行取得し、それを住民が整備し、里山として田んぼ、畑、森、水路、散策路などを復元し、維持してゆく事とになりました。
新聞広告で宅地分譲しているのを見て、見に行ったら駅に近ければ東京への通勤は可能かなと思った。(モノレールが開通していて、自然が豊かだった)
江ノ電はここから20分掛かります、藤沢市の境です。
鎌倉では谷の事を谷戸と言いますが、山、湧き水もあるし谷戸もあって自然の豊かなところで、色々な生物が住みやすい。
1973年、移り住んで2年後に宅地開発の話が持ち上がった。
自然を壊されることは嫌だと言うことで、鎌倉らしさを維持したいと、周辺の住民たちの運動が起きて大きな流れになってゆきました。
60ヘクタール在り、東京ドーム10個以上になります。
開発業者が個人の地主から買い取って、宅地業者の土地だったんです。
市としては住宅にする事について止める手段はなかった。
市に買い取ってほしいと言ったら400億円かかると言われてしまった。
住民運動にして行こうと言う事だったが、男性は仕事で家にいないので、女性軍が最初にスタートして、男性軍が追いかけるスタイルになった。
先ず、市民集会をやり話し合いをしました。
署名運動もしました、10万人署名を何回かやりました。
市民集会が4回、署名運動が3回、国、県、市とか行政機関に対して陳情、環境省、業者にお金を貸す銀行にも行きました。
平日なので女性が主体で男性は何人か会社を休んでいきました。
鎌倉の自然を守ることに賛同していただこうと、運動協議会を作ろうと、設立の働きかけをしました。
130人が賛同してアクションをして開発反対ののろしを上げました。
協議会の会員が1000名を越しました。
正会員は3000円、普通会員は1000円で120~130万円(寄付金を含め)集まりました。
新聞、ちらしをだすとか、何回となく市との交渉などに費やしました。
買い取って居ないエリアについて、田畑の復元、山の散策コース、谷戸の小道の手入れをしてゆく事を市に話をして実行してゆく。(道具、部材、倉庫などの購入にも会費を投入)
バブル崩壊で買い取れないのかとの運動もして、県、国に対してお金をだしてもらえないかと陳情し、金融庁には不動産業者に金を貸すのを止めてほしいと、銀行には融資を止めてほしいと働きかけを行いましたが、ハイ判りましたとは行かないで長い間かかりました。
協議会の役員を20名にして、いつも集まって喧々諤々議論をしながら運動の方向付けをしました。
土地の値段が下がってきて、緑地を残そうという動きも重なり、国、県の補助を得て鎌倉市が買い取ることになり、113億円で買い取りました。
市は借金をしてたので土地に手がつけられないので、山、田畑、散策路の手入れなどに市民から話しかけてボランティアで出来る範囲でやることになる。(完全返済期間が8~10年間)
手入れの分科会をつくって広報で呼びかけてもらって、ボランティア活動をしています。
田、300坪、 畑500坪ぐらいしか出来ていません。
桜の植樹などのボランティア活動もやっています。
地元の中学生、高校生などのボランティアも行われています。
子供たちは遊ぶと同時に自然と触れ合う事を全身で感じています。
昨年鎌倉市が都市林公園として認知して、予算を取ってくれて、管理棟を作ってくれました。
今年4月から具体的に公園を維持管理するための予算を投じて、森の維持管理に関するアクションを取ってくれました。(きつい階段など、ボランティアと棲み分け)
市とボランティアメンバーとの話し合いが常時行われて一体感が出来ました。
理事長は任期4年、エネルギーが落ちてくる、マンネリ化する、など弊害が有るので常に新しい血が入る様に、常に活性化するようにしている。
ボランティア活動を継続する為には、いつもメンバーの新陳代謝と、若い人が率先してやる雰囲気を作り上げてゆく事が大事です。
青空保育園が有りますが、建物は無くて、この広町緑地が保育園なんです。
ここで自然を学び、本を読んだり、山を歩いたりして、子供の保育をしています。
子供達へのバックアップもしています
80歳 首都圏では他に類を見ない豊かな生態系をはぐくむ鎌倉西南部にひろがる広大な丘陵地、鎌倉広町の森に、40数年前宅地開発計画が浮上しました。
開発反対の先頭に立ったのはその数年前に広町近くに移り住んだ大屋さんです。
山桜の花や蛍の光、鳥や蛙の声を季節ごとに故郷の富山と同じように楽しんでいた大屋さんは
一度破壊されたら、自然は元に戻らないと、市や業者に宅地開発を止めるよう申し入れ開発反対の署名運動を始めました。
その後長い話し合いが続けられ、2003年大屋さんたちは広町の森市民協議会を正式に設立して、市と交渉した結果、鎌倉市の土地開発公社が代行取得し、それを住民が整備し、里山として田んぼ、畑、森、水路、散策路などを復元し、維持してゆく事とになりました。
新聞広告で宅地分譲しているのを見て、見に行ったら駅に近ければ東京への通勤は可能かなと思った。(モノレールが開通していて、自然が豊かだった)
江ノ電はここから20分掛かります、藤沢市の境です。
鎌倉では谷の事を谷戸と言いますが、山、湧き水もあるし谷戸もあって自然の豊かなところで、色々な生物が住みやすい。
1973年、移り住んで2年後に宅地開発の話が持ち上がった。
自然を壊されることは嫌だと言うことで、鎌倉らしさを維持したいと、周辺の住民たちの運動が起きて大きな流れになってゆきました。
60ヘクタール在り、東京ドーム10個以上になります。
開発業者が個人の地主から買い取って、宅地業者の土地だったんです。
市としては住宅にする事について止める手段はなかった。
市に買い取ってほしいと言ったら400億円かかると言われてしまった。
住民運動にして行こうと言う事だったが、男性は仕事で家にいないので、女性軍が最初にスタートして、男性軍が追いかけるスタイルになった。
先ず、市民集会をやり話し合いをしました。
署名運動もしました、10万人署名を何回かやりました。
市民集会が4回、署名運動が3回、国、県、市とか行政機関に対して陳情、環境省、業者にお金を貸す銀行にも行きました。
平日なので女性が主体で男性は何人か会社を休んでいきました。
鎌倉の自然を守ることに賛同していただこうと、運動協議会を作ろうと、設立の働きかけをしました。
130人が賛同してアクションをして開発反対ののろしを上げました。
協議会の会員が1000名を越しました。
正会員は3000円、普通会員は1000円で120~130万円(寄付金を含め)集まりました。
新聞、ちらしをだすとか、何回となく市との交渉などに費やしました。
買い取って居ないエリアについて、田畑の復元、山の散策コース、谷戸の小道の手入れをしてゆく事を市に話をして実行してゆく。(道具、部材、倉庫などの購入にも会費を投入)
バブル崩壊で買い取れないのかとの運動もして、県、国に対してお金をだしてもらえないかと陳情し、金融庁には不動産業者に金を貸すのを止めてほしいと、銀行には融資を止めてほしいと働きかけを行いましたが、ハイ判りましたとは行かないで長い間かかりました。
協議会の役員を20名にして、いつも集まって喧々諤々議論をしながら運動の方向付けをしました。
土地の値段が下がってきて、緑地を残そうという動きも重なり、国、県の補助を得て鎌倉市が買い取ることになり、113億円で買い取りました。
市は借金をしてたので土地に手がつけられないので、山、田畑、散策路の手入れなどに市民から話しかけてボランティアで出来る範囲でやることになる。(完全返済期間が8~10年間)
手入れの分科会をつくって広報で呼びかけてもらって、ボランティア活動をしています。
田、300坪、 畑500坪ぐらいしか出来ていません。
桜の植樹などのボランティア活動もやっています。
地元の中学生、高校生などのボランティアも行われています。
子供たちは遊ぶと同時に自然と触れ合う事を全身で感じています。
昨年鎌倉市が都市林公園として認知して、予算を取ってくれて、管理棟を作ってくれました。
今年4月から具体的に公園を維持管理するための予算を投じて、森の維持管理に関するアクションを取ってくれました。(きつい階段など、ボランティアと棲み分け)
市とボランティアメンバーとの話し合いが常時行われて一体感が出来ました。
理事長は任期4年、エネルギーが落ちてくる、マンネリ化する、など弊害が有るので常に新しい血が入る様に、常に活性化するようにしている。
ボランティア活動を継続する為には、いつもメンバーの新陳代謝と、若い人が率先してやる雰囲気を作り上げてゆく事が大事です。
青空保育園が有りますが、建物は無くて、この広町緑地が保育園なんです。
ここで自然を学び、本を読んだり、山を歩いたりして、子供の保育をしています。
子供達へのバックアップもしています
2016年9月21日水曜日
なかにし 礼(作家・作詩家) ・この歌をあなたに
なかにし 礼(作家・作詩家) ・この歌をあなたに
天使の誘惑、今日でお別れ、北酒場・・・などたくさんのヒット曲を持つ作詞家で、平成に入ってからは軸足を執筆活動に移し、「兄弟」を始め、直木賞を受賞した「長崎ぶらぶら節」など多数の著作を発表しています。
そのなかにしさんに癌が発見されたのが平成24年3月、手術に耐える体力が無いからと、必死で調べた治療法、陽子線治療が功を奏して健康を回復されました。
しかし昨年には癌が再発して、一時は覚悟もしたと聞きましたが、見事病気を乗り越えて復活、そのなかにしさんが病気を乗り越えた後作ったのが、ラジオ深夜便の歌、「歌百花繚乱あっぱれジパング」です。
この歌にどんな思いを込めて何を発信したかったのでしょうか、伺いました。
去年の9月13日に退院、それからほぼ1年になります。
常に早期発見で対処できるようにしています。
「歌百花繚乱あっぱれジパング」 僕の病気とは直接関係ないが、日本が内向きになってきて、外に向かって持ってほしいと思って、様々な人種、様々な民族がそれぞれ、百花繚乱咲いているのが地球であると言う事を判った上で、日本という国は美しいとか、故郷は美しいと言うのは一向に構わないが、その気持ちが排他的になったり、愛国心が強すぎたりして愛国主義になったりしないでほしいなと、そういう思いを込めて書きました。
心、精神、魂と言ってもいいが肉体と違う大事なものが有り、そっちを忘れるとただの病人になってしまう。
精神を生かす努力をする事によって、きっと肉体も元気づくのではないかと思っている。
肉体だけでは復活できない。
あえて精神活動を活発化することをやっていました。
病院に居ながら小説をずーっと書いていましたし、来月出ます。
「夜の歌」というタイトル、僕自身はいったい何者なのか、いったい何が僕に歌を書かせ、小説を書かせたのかという、そういうことを探り続けている、1000枚以上になりました。
僕の一番凄い経験は戦争体験、死なずに帰ってきた戦争体験はこれ以上濃厚な体験は無かった。
幼年期から少年期に体験したので僕の人生を作り上げているのが戦争体験です。
戦争体験をもっと自分の身近に引き寄せて、歌を書く様にし始めてから僕らしい匂い、個性を持ち始めてきたのではないかと思う。
シャンソンで1000曲、歌謡曲で3000曲なんです。
オペラ、舞台もやり、小説も書いていると言う事で、仕事の量も多かった。
一時トップ100のうち28曲が僕の作品でした。
昭和48年は「今日でお別れ」・・・
自分は本来ナンパで、不良で、異端で、前衛で、自由だと、若いころからモットーとしていた。
裏返すと、硬派 。
ナンパ、直線的でないということ、角ばっていない、常に曲線である。
異端、ある主義のど真ん中に居ないと言う事、常に異端ということはそれは常に自由という事。
愛国心はいいが、愛国主義となると排他的になる。
・・・主義ということは一生使いたくない。
言葉は大事だと思っている。
どうやって自分を見失わずにいるか、物を書くと言うことはそういう事を日夜自分に問いかけてそれに答えながら、物を書くので非常に精神衛生上いいんです。
物を書くのは苦しいですが。
それは戦争体験から始まっていると思います。
自分の身は自分で考えて、流されずに自分自身で行動すると言う事をその頃から学んだと思います。
戦争を経験したことによって生きることは素晴らしいと思ったが、どう生きるかがあるわけです。
自分の場合はナンパで、不良で、異端で、前衛で、自由だと、言う事です。
どこにも属さない、だれにともつるまない。
しかし、微妙な違いを大事にしないといけない違いを認め合う。
歌を書きはじめたのが昭和41年、第一曲目「涙と雨に濡れて」だが、なんて下手なんだろうと思いました。(それまでは1000曲のシャンソンを訳詩をやっている)
当時25歳で大した恋愛をしたわけではなく、そうすると何にも言葉がでてこない。
そこで思いついたのが戦争体験で、その感情を恋愛、人間生活、人間環境の中に置きかえて行ったら、人生体験としてもっと別な表現ができるのではないかと思った。
戦争体験と向き合いながら、歌謡曲という作業をし始めて、歌謡曲が書けるようになった。
「恋のハレルヤ」は第二作目だが、なんであんなにうまくなったのか、戦争体験を前面に持ってきた。
逃げ惑って大変だったけど、たった一つ素晴らしいことが有った、引き上げが決まって、ふっと見た光景が真っ青な海、空も真っ青、ぽつんと見える帰れる船、この瞬間は、故郷に帰ることを思ったユダヤ人、紀元前586年のバビロンの捕囚の解放の時の喜びに近いものを、僕は味わったんだなと思ったわけです、つまり晴れるや、だから「恋のハレルヤ」になったんです。
「愛されたくて愛したんじゃない、燃える思いを貴方にぶつけただけなの、貴方の名前を呼ぶの」、これは愛国心です。
ハレルヤは喜びを表現するのにぴったりだった、「貴方」は日本です。
戦争で日本が負けて、満州国に住んでいる居留民は日本国に捨てられるが、周りは中国人だらけで生きてはいけない。
非難民収容所で1日2食を食べて生きている、じゃあそれを恋に変えてみようじゃないかとなると、人間がメインになるわけです。
今だから言えるが、ヒットした時にそういう事を言ったったら厭な作詞家だなと思われる。
「人形の家」はなんであんなに重い恋の歌なのかと言われたが、僕としては極めて自然だった。
大失恋をしたんです、国に大失恋したんです。
「時には娼婦の様に」
大正リベラリズム、はやったのはワルツ、抒情歌が一番出来た時代。
ワルツは1917年にロシア革命が起きたが、自由、平等、友愛、のフランス革命から続いている、革命思想の或る流れが日本にも伝わってきて、左翼も誕生して色んなことが始まるが、日本の左翼が一番元気だったころで、ワルツがはやって、昭和になって、不穏な空気になって、軍歌、マーチ
がはやって、昭和になって古賀政男「影を慕いて」ワルツです。
大正時代に生きた古賀が昭和になって泣きながら失恋の歌を書いたが、それ以後は軍歌。
歌は自然に規制する。
人間の本性、歌って見せるべき時もそろそろ来ているのではないかと思って、「時には娼婦の様に」を作ったんです。
歌は限りなく進化しているわけですが、復古調で後退するということは僕としては望ましくなかった。
だから「時には娼婦の様に」を書いたが、一部NHKとかが放送禁止になった。
歌は規制したからと言ってそれで終わるものではないと言う事で、あれはやってよかったと思います、代表作の一つだと思っています。
昭和という時代に対する恋歌であり、恨みの歌であり、昭和という時代によって僕は育てられたので感謝の思いも込めている。
昭和が終わった瞬間に、歌を書く相手を失ってしまった。
平成1年に「風の盆恋歌」を書いて、作詞家休養宣言をしました。
喜怒哀楽、色々味わいました。
これからは小説を書く事だと思いましたが、作詩とは全く違う。(マラソンと短距離の第一走者)
脳の改造に7~8年掛かりました。(猛烈に名作の小説を読んで色々勉強する)
自分のことを書きたかった、自分とは何なのかを、知ることしかない。
始めて書いたのは「兄弟」
「歌百花繚乱あっぱれジパング」は僕の日本の国、日本人にたいする10年に一度の愛情表現。
「祭り」は1984年 2008年には「三拍子の魔力」」
人生讃歌の歌です。
本当に日本て、いい国だねと、日本が愛されてゆくためには、世界の中に在って日本はこんな精神の国だと言う事をもっと発信すべきだと思って、だからこの歌(「歌百花繚乱あっぱれジパング」)を書いているんです。
「魚は水に飽きない」(賢者の石の小説の中の言葉) 僕らは「書く事に飽きない」
天使の誘惑、今日でお別れ、北酒場・・・などたくさんのヒット曲を持つ作詞家で、平成に入ってからは軸足を執筆活動に移し、「兄弟」を始め、直木賞を受賞した「長崎ぶらぶら節」など多数の著作を発表しています。
そのなかにしさんに癌が発見されたのが平成24年3月、手術に耐える体力が無いからと、必死で調べた治療法、陽子線治療が功を奏して健康を回復されました。
しかし昨年には癌が再発して、一時は覚悟もしたと聞きましたが、見事病気を乗り越えて復活、そのなかにしさんが病気を乗り越えた後作ったのが、ラジオ深夜便の歌、「歌百花繚乱あっぱれジパング」です。
この歌にどんな思いを込めて何を発信したかったのでしょうか、伺いました。
去年の9月13日に退院、それからほぼ1年になります。
常に早期発見で対処できるようにしています。
「歌百花繚乱あっぱれジパング」 僕の病気とは直接関係ないが、日本が内向きになってきて、外に向かって持ってほしいと思って、様々な人種、様々な民族がそれぞれ、百花繚乱咲いているのが地球であると言う事を判った上で、日本という国は美しいとか、故郷は美しいと言うのは一向に構わないが、その気持ちが排他的になったり、愛国心が強すぎたりして愛国主義になったりしないでほしいなと、そういう思いを込めて書きました。
心、精神、魂と言ってもいいが肉体と違う大事なものが有り、そっちを忘れるとただの病人になってしまう。
精神を生かす努力をする事によって、きっと肉体も元気づくのではないかと思っている。
肉体だけでは復活できない。
あえて精神活動を活発化することをやっていました。
病院に居ながら小説をずーっと書いていましたし、来月出ます。
「夜の歌」というタイトル、僕自身はいったい何者なのか、いったい何が僕に歌を書かせ、小説を書かせたのかという、そういうことを探り続けている、1000枚以上になりました。
僕の一番凄い経験は戦争体験、死なずに帰ってきた戦争体験はこれ以上濃厚な体験は無かった。
幼年期から少年期に体験したので僕の人生を作り上げているのが戦争体験です。
戦争体験をもっと自分の身近に引き寄せて、歌を書く様にし始めてから僕らしい匂い、個性を持ち始めてきたのではないかと思う。
シャンソンで1000曲、歌謡曲で3000曲なんです。
オペラ、舞台もやり、小説も書いていると言う事で、仕事の量も多かった。
一時トップ100のうち28曲が僕の作品でした。
昭和48年は「今日でお別れ」・・・
自分は本来ナンパで、不良で、異端で、前衛で、自由だと、若いころからモットーとしていた。
裏返すと、硬派 。
ナンパ、直線的でないということ、角ばっていない、常に曲線である。
異端、ある主義のど真ん中に居ないと言う事、常に異端ということはそれは常に自由という事。
愛国心はいいが、愛国主義となると排他的になる。
・・・主義ということは一生使いたくない。
言葉は大事だと思っている。
どうやって自分を見失わずにいるか、物を書くと言うことはそういう事を日夜自分に問いかけてそれに答えながら、物を書くので非常に精神衛生上いいんです。
物を書くのは苦しいですが。
それは戦争体験から始まっていると思います。
自分の身は自分で考えて、流されずに自分自身で行動すると言う事をその頃から学んだと思います。
戦争を経験したことによって生きることは素晴らしいと思ったが、どう生きるかがあるわけです。
自分の場合はナンパで、不良で、異端で、前衛で、自由だと、言う事です。
どこにも属さない、だれにともつるまない。
しかし、微妙な違いを大事にしないといけない違いを認め合う。
歌を書きはじめたのが昭和41年、第一曲目「涙と雨に濡れて」だが、なんて下手なんだろうと思いました。(それまでは1000曲のシャンソンを訳詩をやっている)
当時25歳で大した恋愛をしたわけではなく、そうすると何にも言葉がでてこない。
そこで思いついたのが戦争体験で、その感情を恋愛、人間生活、人間環境の中に置きかえて行ったら、人生体験としてもっと別な表現ができるのではないかと思った。
戦争体験と向き合いながら、歌謡曲という作業をし始めて、歌謡曲が書けるようになった。
「恋のハレルヤ」は第二作目だが、なんであんなにうまくなったのか、戦争体験を前面に持ってきた。
逃げ惑って大変だったけど、たった一つ素晴らしいことが有った、引き上げが決まって、ふっと見た光景が真っ青な海、空も真っ青、ぽつんと見える帰れる船、この瞬間は、故郷に帰ることを思ったユダヤ人、紀元前586年のバビロンの捕囚の解放の時の喜びに近いものを、僕は味わったんだなと思ったわけです、つまり晴れるや、だから「恋のハレルヤ」になったんです。
「愛されたくて愛したんじゃない、燃える思いを貴方にぶつけただけなの、貴方の名前を呼ぶの」、これは愛国心です。
ハレルヤは喜びを表現するのにぴったりだった、「貴方」は日本です。
戦争で日本が負けて、満州国に住んでいる居留民は日本国に捨てられるが、周りは中国人だらけで生きてはいけない。
非難民収容所で1日2食を食べて生きている、じゃあそれを恋に変えてみようじゃないかとなると、人間がメインになるわけです。
今だから言えるが、ヒットした時にそういう事を言ったったら厭な作詞家だなと思われる。
「人形の家」はなんであんなに重い恋の歌なのかと言われたが、僕としては極めて自然だった。
大失恋をしたんです、国に大失恋したんです。
「時には娼婦の様に」
大正リベラリズム、はやったのはワルツ、抒情歌が一番出来た時代。
ワルツは1917年にロシア革命が起きたが、自由、平等、友愛、のフランス革命から続いている、革命思想の或る流れが日本にも伝わってきて、左翼も誕生して色んなことが始まるが、日本の左翼が一番元気だったころで、ワルツがはやって、昭和になって、不穏な空気になって、軍歌、マーチ
がはやって、昭和になって古賀政男「影を慕いて」ワルツです。
大正時代に生きた古賀が昭和になって泣きながら失恋の歌を書いたが、それ以後は軍歌。
歌は自然に規制する。
人間の本性、歌って見せるべき時もそろそろ来ているのではないかと思って、「時には娼婦の様に」を作ったんです。
歌は限りなく進化しているわけですが、復古調で後退するということは僕としては望ましくなかった。
だから「時には娼婦の様に」を書いたが、一部NHKとかが放送禁止になった。
歌は規制したからと言ってそれで終わるものではないと言う事で、あれはやってよかったと思います、代表作の一つだと思っています。
昭和という時代に対する恋歌であり、恨みの歌であり、昭和という時代によって僕は育てられたので感謝の思いも込めている。
昭和が終わった瞬間に、歌を書く相手を失ってしまった。
平成1年に「風の盆恋歌」を書いて、作詞家休養宣言をしました。
喜怒哀楽、色々味わいました。
これからは小説を書く事だと思いましたが、作詩とは全く違う。(マラソンと短距離の第一走者)
脳の改造に7~8年掛かりました。(猛烈に名作の小説を読んで色々勉強する)
自分のことを書きたかった、自分とは何なのかを、知ることしかない。
始めて書いたのは「兄弟」
「歌百花繚乱あっぱれジパング」は僕の日本の国、日本人にたいする10年に一度の愛情表現。
「祭り」は1984年 2008年には「三拍子の魔力」」
人生讃歌の歌です。
本当に日本て、いい国だねと、日本が愛されてゆくためには、世界の中に在って日本はこんな精神の国だと言う事をもっと発信すべきだと思って、だからこの歌(「歌百花繚乱あっぱれジパング」)を書いているんです。
「魚は水に飽きない」(賢者の石の小説の中の言葉) 僕らは「書く事に飽きない」
2016年9月20日火曜日
古木謙三(旅行会社社長) ・旅は人生の財産
古木謙三(旅行会社社長) ・旅は人生の財産
昭和22年生まれ、大学卒業後、兄が立ち上げた若者向けのチャーター便のヨーロッパツアーを手伝い世界中を回りました。
その間ハイジャック事件に遭遇するなど様々な危機も体験します。
人が旅に求めるのは何かを追及し続けて50年、「旅は人生の財産」をモットーに、社会の変化や高齢化時代に合わせたきめの細かい、夢の旅の実現に取り組んでいます。
高校まで鹿児島で育ち、大学が東京で、一旦戻って家業を手伝い、27歳になった時に、東京に出てきました。
8人兄弟で(男4人)父は明治生まれで厳しかったです。
父はユースホステルを自分で家を提供して始めました。
小学校5~6年頃、ユースホステル協会が日本に入ってきて、若者が旅行する宿が無いと駄目という事で、鹿児島で父に県のユースホステルの会長になってくれないかとの話が有った。
家が広かったので、家を解放して、若者に提供することになった。
戦後間もないころ父に汽車に乗せられてこの線路は東京までずーっと続いているんだと言われて行って見たいと思いました。
父はヨーロッパに行ったりして色々話をしてくれました。(放浪癖が有りました)
兄もアルバイトをしながら旅に出かけたりしていました。(兄弟皆旅行が好きでした)
私も大学4年の時にマレー半島を縦断して東南アジアを廻ったりしました。
持っている家財道具を全部売って、卒業までの4カ月はふとんもなくて苦労しました。
中学の頃、鹿児島から桜島まで泳ぐごとは戦前はやっていたようですが、父から言われて泳いだりしました。
高校は柔道部に入りました。
私が勉強していると、父から勉強ばっかりするなと言われたりしました。
小学校の時は、繁華街に4階建てのビルを父が持っていて、1階が衣料品、2階がレストアン、3階が事務所、4階が倉庫になっていました。
私が小学校の2年の頃ですが、正月から店を開けておく。(神社が近くにある)
皆さん神社の初もうでに行くが、店の前に大きなかごをだして、私ら兄弟がスカーフとかを売ることをやらされた。
中学のころはレストランで正月三が日は厨房で皿洗いなどやらされました。
中学の終り頃は週に1~2回、ビルのトイレ掃除をやらされ、高校の時にはビルの宿直を週に一回やらされました。
一番多い時は従業員が100人ぐらいいましたが、4階が倉庫ですが、そこで荒縄で荷物を包みますが、夏休みは手伝わされました。
春休み、夏休み、冬休みは忙しかった。
ユースホステルの自宅にはピーク時には100人ぐらい泊りました。
その間食事、布団の用意を手伝わされる。
その間に、応接間に学生を集めて姉たちが1時間ぐらいミーティングをやったりします。
消灯が10時~10時30分ぐらいでそのあとに、食事をするわけです。
朝は7時から食事なので味噌汁を注いだりして、時間になったら大慌てで学校に駆けてゆくので、勉強する間は無かったです。
でも難しい中高一貫校に受かりました。(兄たちも同様でした)
中学2年の終りに、その高校の受験が難しいが受けなくては高校に行けなくてそれを受けて、通らなかったら落第か退学で、私は退学して普通の中学に行って、公立の高校に3年間行きました。
上の兄も留年でした。
父は学園のPTAの会長をやっていました。
3月に総会が有り全国から父兄が集まり、父が会長で舞台に上がって挨拶するときに、母から聞いた話ですが、机をドーンと叩いて「この学校はけしからん」と怒鳴ったそうです。
校長などは真っ青になったそうです。
「PTAの会長は地元のボスがやります、私はこの街のボス的存在、息子の一人は退学、一人は留年」、と言ったらみんながびっくりするが、父はなかな役者で、一瞬間をおいて、優しい声で、「皆さんこんなフェアーな学園に御子息を入れて幸せだと思えませんか」、と言ったら大拍手。
「この学校は校舎、教材などにお金が足りません、今拍手した方去年の倍以上寄付して下さい、ただし母子家庭は結構です。」
という事で一夜にして私が退学したことが、全校に広がった。
父が「よかってね、これで同級生が倍になるよ」と言ったが、意味が判らなかったが、後から考えると、確かに今でも両方の学友と付き合っています。
自宅だけでは足りなくなって、霧島国立公園に父が何千坪か土地を買って、200人収容のユースホステルをつくって、私達はもっと忙しくなりました。
一番上の兄は大学卒業後、父の家業を手伝っていたが、昭和39年から海外に自由に行けるようになって、ヨーロッパに行ってくるように父から言われて、ヨーロッパに1か月間行きました。
ヨーロッパ文化勉強会を始めて、昭和41年皆でヨーロッパに行こうと言う事で、オランダ航空をチャーターして、羽田から一カ月旅行を出発した。
一機チャーター (137名乗客) 500~600万円(現在の7000~8000万円)
いざとなればあのビルを売ればいいんだと父が言ってくれて、実現した。
その後正式な旅行会社になりました。
私は小学校の先生になりたかった。
大学4年の12月、教職を取っていたのか聞かれたが取っていなくて、父から言われて帰ってきてユースホステルの仕事をするようになりました。
父は語学が堪能だったので、ヨーロッパの旅行者を結構泊めたりしていました。
父からは国際性、礼儀、体を鍛えることなどを教えられました。
1973年ヨーロッパを旅行していて、大きな3つの事件に遭遇した。
①第一次オイルショック オランダでは日曜日は車は一切走ってはいけない。
②ギリシャでの軍事クーデター(一切外出禁止)
何とか旅行会社から空港までの許可証をもらって空港にいった。
オランダ航空だけ日本に帰る便が着陸すると言うんで、滑走路を走って23名乗り込むとができた。
最初の寄港地がベイルートで、ベイルートを離陸したらハイジャック遭い、手榴弾と銃を持っており、映画を見ている様な感じだった。
バクダッド、リビアのトリポリなどを回って、最後マルタ島で釈放された。
(放送前にニュースが長く中途で録音終了)
昭和22年生まれ、大学卒業後、兄が立ち上げた若者向けのチャーター便のヨーロッパツアーを手伝い世界中を回りました。
その間ハイジャック事件に遭遇するなど様々な危機も体験します。
人が旅に求めるのは何かを追及し続けて50年、「旅は人生の財産」をモットーに、社会の変化や高齢化時代に合わせたきめの細かい、夢の旅の実現に取り組んでいます。
高校まで鹿児島で育ち、大学が東京で、一旦戻って家業を手伝い、27歳になった時に、東京に出てきました。
8人兄弟で(男4人)父は明治生まれで厳しかったです。
父はユースホステルを自分で家を提供して始めました。
小学校5~6年頃、ユースホステル協会が日本に入ってきて、若者が旅行する宿が無いと駄目という事で、鹿児島で父に県のユースホステルの会長になってくれないかとの話が有った。
家が広かったので、家を解放して、若者に提供することになった。
戦後間もないころ父に汽車に乗せられてこの線路は東京までずーっと続いているんだと言われて行って見たいと思いました。
父はヨーロッパに行ったりして色々話をしてくれました。(放浪癖が有りました)
兄もアルバイトをしながら旅に出かけたりしていました。(兄弟皆旅行が好きでした)
私も大学4年の時にマレー半島を縦断して東南アジアを廻ったりしました。
持っている家財道具を全部売って、卒業までの4カ月はふとんもなくて苦労しました。
中学の頃、鹿児島から桜島まで泳ぐごとは戦前はやっていたようですが、父から言われて泳いだりしました。
高校は柔道部に入りました。
私が勉強していると、父から勉強ばっかりするなと言われたりしました。
小学校の時は、繁華街に4階建てのビルを父が持っていて、1階が衣料品、2階がレストアン、3階が事務所、4階が倉庫になっていました。
私が小学校の2年の頃ですが、正月から店を開けておく。(神社が近くにある)
皆さん神社の初もうでに行くが、店の前に大きなかごをだして、私ら兄弟がスカーフとかを売ることをやらされた。
中学のころはレストランで正月三が日は厨房で皿洗いなどやらされました。
中学の終り頃は週に1~2回、ビルのトイレ掃除をやらされ、高校の時にはビルの宿直を週に一回やらされました。
一番多い時は従業員が100人ぐらいいましたが、4階が倉庫ですが、そこで荒縄で荷物を包みますが、夏休みは手伝わされました。
春休み、夏休み、冬休みは忙しかった。
ユースホステルの自宅にはピーク時には100人ぐらい泊りました。
その間食事、布団の用意を手伝わされる。
その間に、応接間に学生を集めて姉たちが1時間ぐらいミーティングをやったりします。
消灯が10時~10時30分ぐらいでそのあとに、食事をするわけです。
朝は7時から食事なので味噌汁を注いだりして、時間になったら大慌てで学校に駆けてゆくので、勉強する間は無かったです。
でも難しい中高一貫校に受かりました。(兄たちも同様でした)
中学2年の終りに、その高校の受験が難しいが受けなくては高校に行けなくてそれを受けて、通らなかったら落第か退学で、私は退学して普通の中学に行って、公立の高校に3年間行きました。
上の兄も留年でした。
父は学園のPTAの会長をやっていました。
3月に総会が有り全国から父兄が集まり、父が会長で舞台に上がって挨拶するときに、母から聞いた話ですが、机をドーンと叩いて「この学校はけしからん」と怒鳴ったそうです。
校長などは真っ青になったそうです。
「PTAの会長は地元のボスがやります、私はこの街のボス的存在、息子の一人は退学、一人は留年」、と言ったらみんながびっくりするが、父はなかな役者で、一瞬間をおいて、優しい声で、「皆さんこんなフェアーな学園に御子息を入れて幸せだと思えませんか」、と言ったら大拍手。
「この学校は校舎、教材などにお金が足りません、今拍手した方去年の倍以上寄付して下さい、ただし母子家庭は結構です。」
という事で一夜にして私が退学したことが、全校に広がった。
父が「よかってね、これで同級生が倍になるよ」と言ったが、意味が判らなかったが、後から考えると、確かに今でも両方の学友と付き合っています。
自宅だけでは足りなくなって、霧島国立公園に父が何千坪か土地を買って、200人収容のユースホステルをつくって、私達はもっと忙しくなりました。
一番上の兄は大学卒業後、父の家業を手伝っていたが、昭和39年から海外に自由に行けるようになって、ヨーロッパに行ってくるように父から言われて、ヨーロッパに1か月間行きました。
ヨーロッパ文化勉強会を始めて、昭和41年皆でヨーロッパに行こうと言う事で、オランダ航空をチャーターして、羽田から一カ月旅行を出発した。
一機チャーター (137名乗客) 500~600万円(現在の7000~8000万円)
いざとなればあのビルを売ればいいんだと父が言ってくれて、実現した。
その後正式な旅行会社になりました。
私は小学校の先生になりたかった。
大学4年の12月、教職を取っていたのか聞かれたが取っていなくて、父から言われて帰ってきてユースホステルの仕事をするようになりました。
父は語学が堪能だったので、ヨーロッパの旅行者を結構泊めたりしていました。
父からは国際性、礼儀、体を鍛えることなどを教えられました。
1973年ヨーロッパを旅行していて、大きな3つの事件に遭遇した。
①第一次オイルショック オランダでは日曜日は車は一切走ってはいけない。
②ギリシャでの軍事クーデター(一切外出禁止)
何とか旅行会社から空港までの許可証をもらって空港にいった。
オランダ航空だけ日本に帰る便が着陸すると言うんで、滑走路を走って23名乗り込むとができた。
最初の寄港地がベイルートで、ベイルートを離陸したらハイジャック遭い、手榴弾と銃を持っており、映画を見ている様な感じだった。
バクダッド、リビアのトリポリなどを回って、最後マルタ島で釈放された。
(放送前にニュースが長く中途で録音終了)
2016年9月19日月曜日
糸川昌成(東京都医学総合研究所) ・統合失調症の母からの贈り物
糸川昌成(東京都医学総合研究所、病院等連携研究センター長) ・統合失調症の母からの贈り物
分子生物学者で精神科医の糸川さんは統合失調症の新しい治療法となる薬を開発し、現在効果や安全性などをたしかめる治験を行っています。
統合失調症研究の第一人者と言われる糸川さん、糸川さんのお母さんも同じ病をかかえていました。
15~25歳の時に不調を発する人は大変多いが、今まで出来たことが段々できなくなって、現実の判断が上手くいかない。
自分に悪意を持って攻めたてているとか、根拠が妥当だと思えないことを信じる、妄想がでてくる、幻覚がでているなど、これまで出来たことができなくなってくるような行動上の変化に、そういったさまざまな現実とは折り合わない様な知覚が伴う様な一連のものを統合失調症と呼ぼうという事です。
原因について、単純なことでは説明できません。
代謝障害が統合失調症の2~3割あることを見つけて、代謝障害が有るときにビタミンが欠乏しやすくなることが分かっていて、ビタミンを補充しただけでは代謝障害は改善はしない。
代謝障害を改善できるようなビタミン類似物質が有って試験管内での実験では代謝障害をビタミン類似物質で分解する事は成功して、特許は得られていて臨床試験をしている最中です。
病院でも処方してもらえるまでには5~6年だと思います。
1989年に医師免許をもらいまいた。
祖母がリュウマチで寝たきりだった、祖父も父も銀行員だったので、文系の家だった。
医師が往診に来てくれて、祖母を診察している姿を見て、良いなあ、こういう仕事に就きたいなあと小学生のころから思っていました。
外科医を目指していて、母が統合失調症を発症したらしいが、5歳の時に祖母の所に育ててもらいに行って、母は病院で亡くなるまで数十年入院していた。
母のことを聞いたりするときに、祖母なども困った顔をするので、病気で亡くなったのか、離婚したものかと思ったが、戸籍謄本には亡くなってもいないし、離婚していないことも判った。
医学部の授業で統合失調症を知って吃驚して、30年前なので、統合失調症に対する予後は今よりかなり悪く悲観的な教え方をされたので、私も何れ母と同じ病気になってかなり悪い予後で社会復帰できないのではないかと不安を抱えました。
精神科医になろうと思いました。
若かったし、自分も発症するのではないかと思ったり、色々な思いも有り、母と会う勇気はありませんでした。
32歳の時に同級生の妻と結婚して、長男が生まれて、孫を見せたいと思ったが、迷っているうちに39歳の時に母が病院で亡くなり、遂に生きている間には会うことができませんでした。
亡くなって14年してから病院行ってカルテを見せてもらって、親戚の書いた母の外泊の記録用紙がでてきて、
昭和54年に親戚の家に泊まる前に旦那さんの家に入ったと書かれていた。
家では母のことを話題にすることはタブーだったが、成人して大分大人になってから叔母との間だけは母の事を聞かせてもらっていた。
一度だけお前のお母さんが会いに来たことが有ると言う事だった。
私がクラブ活動で疲れて寝ていた様で起こさずに母が寝顔だけ見て帰って行ったようでした。
49歳までは母のことは語れなかったが、漫画家中村ユキさんが「我が家の母は病気です」という本を書いていて、ユキさんの本を買って読んで、それから1年もしない頃、夏刈郁子さん(精神科医)が一緒に暮らしていたことによって色々苦労をされて、それを精神神経学雑誌(国内でも一番権威ある雑誌)にご自身の事を症例報告として書かれていて、それに私は衝撃を受けて、直ぐ手紙にを書きました。
*http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/11/39.html (中村ユキさん)
*http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/59.html (夏刈郁子さん) 参照下さい。
だれにも言えないでいて、「生きているうちに会えなかった後悔」と書いた長文の返事が来て、その中に生きているうちに会っても後悔をすることがあると書いてあって、ハッとしました。
それから1~2年して或る出版社の企画で夏刈先生、中村ユキさんと私と3人での座談会を企画していただいて、その5月2日の朝に、引き取って私を育ててくれた叔母(93歳)が亡くなった。
母をこの日に話すべきだと言う事で7時間3人で或るときは涙を流しながら、或いは笑いながらしゃべりっぱなしでした。
50歳ぐらいから母のことを話す様になって、今では研究室の若い人としゃべったり、普通に母のことを誰とでも話せるような状態になりました。
それまでには50年掛かりました。
それぞれの人にそれぞれの回復に仕方が有るので、比較する必要はないと思う。
私の場合は同じ境遇の方(中村ユキさん、夏刈郁子さん)との出会いが有って、今の様な、50歳までとは比べ物にならないぐらい、自由に考えたり取り組んだりするようになりました。
研究も母へのお詫びをしている様な感じが有り、精神科領域で未承認薬を用いた医師主導治験をするのが、私が日本で第一号だったんですが、睡眠時間は4時間ぐらいでボロボロになって研究していましたが、母に許しを乞う様なそういう研究生活でした。
楽しんだりくつろいだりすることにどうしても罪の様な意識を感じてしまっていましたが、母のことが自分の中で
決着してからは、普通に色々楽しんだりできるようになりました。
分子生物学でたんぱく質を研究しています。
30年近くたんぱく質を研究していると、たんぱく質の中で起きている化学反応、酵素反応が人間のすべてであると言う唯物論的な考え方に疑問を感じるようになります。
脳の中の化学物質が増えたり減ったりすることで、人の心は治ったり治らなかったりするように言われるが、僕自身そういう仮説のもとに研究してきたが、人が本当に回復するのは化学物質だけではない。
鬱病、統合失調症と言う病気の経験を本人がふに落ちる形で物語として描けた時に、初めて回復してゆきます。
鬱病になったのは上司のせいだとか、統合失調症になったのはここに入学したのが原因だとか、そういう直線で結べるような因と果の関係が分かるのがふに落ちる物語ではなくて、死の淵を見る様な病気を体験した人は前と後では、まるで別の人生になったかのように、新しい人生を歩み始めたんだと、理詰めではなくて、ふに落ちる形で、この病気はそういう事かと思える。
病気の前の状態に戻ろうと多くの人は考えるが、病気の為に元に戻れない、戻してほしいと言うのが理詰めの考え方です。
外科的治癒、胃がんで胃を取ってしまうとかは、がん細胞を取り除いても根治はするが前の状態とは違う。
精神科的な治癒、発症前とは違うところへ戻ってゆく。
池淵恵美子先生(精神科医)からの話、優秀な高校の先生が脳梗塞で半身が麻痺してしまう。
右手が麻痺して字が書けなくて、リハビリを進められても行く気がしなかった。
或る日、教え子が大勢で見舞いに来て、先生が戻ってくるのを待っていると言ったら、突然リハビリに通って左手で字を書くようになって教壇に戻っていった、という事です。
右手を元に直してくれというのが内科的治癒、手術する事に依って右手を回復してほしいというのが外科的治癒、左手で書けるように、これが精神科的治癒だと思っています。
私の場合はお二人に会ったことと、時間だ思います、機が熟した時期だったと思います。
急いではいけないし、無理をしてもいけない、機が熟した時に何かかちっと、うまくはまる様な形でふに落ちる。
亡くなって14年経って古いカルテを見せてもらって、統合失調症の中でも特殊な短期精神病性障害であった事が判りました。
母の症状の中に母にシャーマンとしての要素の様なものを感じることがとてもあって、自分の中にも受けるつがれている、ということが有ります。
勘の鋭さみたいなものは明らかに母から来ていて、自分の中には父に似た部分はいっぱい見つかるが父に似ていない部分の中に、母のカルテの外泊記録から親戚がわかって、生前の母のことを一杯教えてもらいましたが、お母さんにそっくりねと言われました。
母は勘の鋭さ、純粋さ、行動力が有りました。
全国に貴重な症状の人がいると、日本全国をどこまでも出かけて採血してあるいたりしたが、全国を回ってしまうとか、家中探しまわってしまう事などは、まさに母の性質が僕に受け継がれていて、決して厭なことではないです。
尊厳というたんぱく質はない、自尊心という化学反応はない。
尊厳は目の前の人にかけがえのない存在として丁寧に大切に遇した時に、遇された相手と遇した自分のと間に発生する共鳴現象のようものです。
母が亡くなって14年経って、母の親戚から母の若い時の写真を一杯もらってきて、妻や子供達に話したら、ずーっと50年自分の中にあった母の悲しみみたいなものがスーッと癒えてくるんです。
たまたま一枚の写真が僕の膝の上に落ちたが母がにこやかに笑っている写真で、母がようやく笑えた、母の尊厳が回復したと、心を込めて母を大切にするという話題で持ちきりだった時に、14年の時間を経て、母との間に共鳴現象が再現して母の尊厳が回復した。
尊厳、自尊心といったものは、薬だけでは何ともならない。
薬の開発はたくさんの人がやっているが、僕が結局一つの薬を作るのには30年掛かったが、今日から出来ることもある。
症状はよくなったり、悪くなったりする人がいるが、当事者も家族の方も悪い所に目が行きそうになる。
反省と後悔ぐらい脳に悪いことはない。
効いていた薬が効かなくなり、どんどん量が増えてくる。
いい時と悪い時があったらいい時に注目した方がいい。
殆どの病気には自然治癒の力が有ります。
具合のいい時に何かヒントが有ると思うので、それを探してみる、具合が良かった時を皆で話あうだけでもその行動自体が脳にいい。
脳にいいことを一杯すると効かなかった薬が効く様になって、たくさん飲まなくてもいい様になる。
母のタイプの精神疾患は再発しやすいが、今の私が治療するとしたら、父に貴方の奥さんは統合失調症の中では比較的予後のいい方で、短期間で元の状態に戻りますが再発はし易いですよと言って、再発したらいつでも入院させてあげます、といいます。
父は安心したと思います、父は早朝から深夜まで働き、土日も働いていましたから。
父は反省、後悔をしたりしたと思います、むしろいい時にしていたことを皆で話し合いましょうと言います。
脳にいいことを見分ける方法は、何かをする前と後を比べて、する前よりも後の方が気持ち良ければ脳にいいだろうと言っています。
母の症状に父の背広を鋏で切ってしまうとか、父が会社に行こうとすると、父の傘が大きいく危険だからといって、母の赤い傘を持ってゆくようにいった、ということが有ったようです。
産後の不安定な時期に、父がほとんどいなくて、異常行動ではないと言う事が言えるのではないかもしれない。
母の子として生まれた意味がちゃんとあって、母の病気を研究して、母の病気を治せるような薬をつくっている、僕がこの世の中に生まれてきた意味がちゃんとあったし、その意味ある僕を生んでくれた母は凄く尊厳ある存在として、僕のなかにふにおちたわけです。
治療薬を開発するテーマに取り組んでいる、これがちょうどふに落ちる物語となったのが50歳で中村ユキさん、夏刈郁子さんとの出会いであり、母の親戚との出会いでした。
分子生物学者で精神科医の糸川さんは統合失調症の新しい治療法となる薬を開発し、現在効果や安全性などをたしかめる治験を行っています。
統合失調症研究の第一人者と言われる糸川さん、糸川さんのお母さんも同じ病をかかえていました。
15~25歳の時に不調を発する人は大変多いが、今まで出来たことが段々できなくなって、現実の判断が上手くいかない。
自分に悪意を持って攻めたてているとか、根拠が妥当だと思えないことを信じる、妄想がでてくる、幻覚がでているなど、これまで出来たことができなくなってくるような行動上の変化に、そういったさまざまな現実とは折り合わない様な知覚が伴う様な一連のものを統合失調症と呼ぼうという事です。
原因について、単純なことでは説明できません。
代謝障害が統合失調症の2~3割あることを見つけて、代謝障害が有るときにビタミンが欠乏しやすくなることが分かっていて、ビタミンを補充しただけでは代謝障害は改善はしない。
代謝障害を改善できるようなビタミン類似物質が有って試験管内での実験では代謝障害をビタミン類似物質で分解する事は成功して、特許は得られていて臨床試験をしている最中です。
病院でも処方してもらえるまでには5~6年だと思います。
1989年に医師免許をもらいまいた。
祖母がリュウマチで寝たきりだった、祖父も父も銀行員だったので、文系の家だった。
医師が往診に来てくれて、祖母を診察している姿を見て、良いなあ、こういう仕事に就きたいなあと小学生のころから思っていました。
外科医を目指していて、母が統合失調症を発症したらしいが、5歳の時に祖母の所に育ててもらいに行って、母は病院で亡くなるまで数十年入院していた。
母のことを聞いたりするときに、祖母なども困った顔をするので、病気で亡くなったのか、離婚したものかと思ったが、戸籍謄本には亡くなってもいないし、離婚していないことも判った。
医学部の授業で統合失調症を知って吃驚して、30年前なので、統合失調症に対する予後は今よりかなり悪く悲観的な教え方をされたので、私も何れ母と同じ病気になってかなり悪い予後で社会復帰できないのではないかと不安を抱えました。
精神科医になろうと思いました。
若かったし、自分も発症するのではないかと思ったり、色々な思いも有り、母と会う勇気はありませんでした。
32歳の時に同級生の妻と結婚して、長男が生まれて、孫を見せたいと思ったが、迷っているうちに39歳の時に母が病院で亡くなり、遂に生きている間には会うことができませんでした。
亡くなって14年してから病院行ってカルテを見せてもらって、親戚の書いた母の外泊の記録用紙がでてきて、
昭和54年に親戚の家に泊まる前に旦那さんの家に入ったと書かれていた。
家では母のことを話題にすることはタブーだったが、成人して大分大人になってから叔母との間だけは母の事を聞かせてもらっていた。
一度だけお前のお母さんが会いに来たことが有ると言う事だった。
私がクラブ活動で疲れて寝ていた様で起こさずに母が寝顔だけ見て帰って行ったようでした。
49歳までは母のことは語れなかったが、漫画家中村ユキさんが「我が家の母は病気です」という本を書いていて、ユキさんの本を買って読んで、それから1年もしない頃、夏刈郁子さん(精神科医)が一緒に暮らしていたことによって色々苦労をされて、それを精神神経学雑誌(国内でも一番権威ある雑誌)にご自身の事を症例報告として書かれていて、それに私は衝撃を受けて、直ぐ手紙にを書きました。
*http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2012/11/39.html (中村ユキさん)
*http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/02/59.html (夏刈郁子さん) 参照下さい。
だれにも言えないでいて、「生きているうちに会えなかった後悔」と書いた長文の返事が来て、その中に生きているうちに会っても後悔をすることがあると書いてあって、ハッとしました。
それから1~2年して或る出版社の企画で夏刈先生、中村ユキさんと私と3人での座談会を企画していただいて、その5月2日の朝に、引き取って私を育ててくれた叔母(93歳)が亡くなった。
母をこの日に話すべきだと言う事で7時間3人で或るときは涙を流しながら、或いは笑いながらしゃべりっぱなしでした。
50歳ぐらいから母のことを話す様になって、今では研究室の若い人としゃべったり、普通に母のことを誰とでも話せるような状態になりました。
それまでには50年掛かりました。
それぞれの人にそれぞれの回復に仕方が有るので、比較する必要はないと思う。
私の場合は同じ境遇の方(中村ユキさん、夏刈郁子さん)との出会いが有って、今の様な、50歳までとは比べ物にならないぐらい、自由に考えたり取り組んだりするようになりました。
研究も母へのお詫びをしている様な感じが有り、精神科領域で未承認薬を用いた医師主導治験をするのが、私が日本で第一号だったんですが、睡眠時間は4時間ぐらいでボロボロになって研究していましたが、母に許しを乞う様なそういう研究生活でした。
楽しんだりくつろいだりすることにどうしても罪の様な意識を感じてしまっていましたが、母のことが自分の中で
決着してからは、普通に色々楽しんだりできるようになりました。
分子生物学でたんぱく質を研究しています。
30年近くたんぱく質を研究していると、たんぱく質の中で起きている化学反応、酵素反応が人間のすべてであると言う唯物論的な考え方に疑問を感じるようになります。
脳の中の化学物質が増えたり減ったりすることで、人の心は治ったり治らなかったりするように言われるが、僕自身そういう仮説のもとに研究してきたが、人が本当に回復するのは化学物質だけではない。
鬱病、統合失調症と言う病気の経験を本人がふに落ちる形で物語として描けた時に、初めて回復してゆきます。
鬱病になったのは上司のせいだとか、統合失調症になったのはここに入学したのが原因だとか、そういう直線で結べるような因と果の関係が分かるのがふに落ちる物語ではなくて、死の淵を見る様な病気を体験した人は前と後では、まるで別の人生になったかのように、新しい人生を歩み始めたんだと、理詰めではなくて、ふに落ちる形で、この病気はそういう事かと思える。
病気の前の状態に戻ろうと多くの人は考えるが、病気の為に元に戻れない、戻してほしいと言うのが理詰めの考え方です。
外科的治癒、胃がんで胃を取ってしまうとかは、がん細胞を取り除いても根治はするが前の状態とは違う。
精神科的な治癒、発症前とは違うところへ戻ってゆく。
池淵恵美子先生(精神科医)からの話、優秀な高校の先生が脳梗塞で半身が麻痺してしまう。
右手が麻痺して字が書けなくて、リハビリを進められても行く気がしなかった。
或る日、教え子が大勢で見舞いに来て、先生が戻ってくるのを待っていると言ったら、突然リハビリに通って左手で字を書くようになって教壇に戻っていった、という事です。
右手を元に直してくれというのが内科的治癒、手術する事に依って右手を回復してほしいというのが外科的治癒、左手で書けるように、これが精神科的治癒だと思っています。
私の場合はお二人に会ったことと、時間だ思います、機が熟した時期だったと思います。
急いではいけないし、無理をしてもいけない、機が熟した時に何かかちっと、うまくはまる様な形でふに落ちる。
亡くなって14年経って古いカルテを見せてもらって、統合失調症の中でも特殊な短期精神病性障害であった事が判りました。
母の症状の中に母にシャーマンとしての要素の様なものを感じることがとてもあって、自分の中にも受けるつがれている、ということが有ります。
勘の鋭さみたいなものは明らかに母から来ていて、自分の中には父に似た部分はいっぱい見つかるが父に似ていない部分の中に、母のカルテの外泊記録から親戚がわかって、生前の母のことを一杯教えてもらいましたが、お母さんにそっくりねと言われました。
母は勘の鋭さ、純粋さ、行動力が有りました。
全国に貴重な症状の人がいると、日本全国をどこまでも出かけて採血してあるいたりしたが、全国を回ってしまうとか、家中探しまわってしまう事などは、まさに母の性質が僕に受け継がれていて、決して厭なことではないです。
尊厳というたんぱく質はない、自尊心という化学反応はない。
尊厳は目の前の人にかけがえのない存在として丁寧に大切に遇した時に、遇された相手と遇した自分のと間に発生する共鳴現象のようものです。
母が亡くなって14年経って、母の親戚から母の若い時の写真を一杯もらってきて、妻や子供達に話したら、ずーっと50年自分の中にあった母の悲しみみたいなものがスーッと癒えてくるんです。
たまたま一枚の写真が僕の膝の上に落ちたが母がにこやかに笑っている写真で、母がようやく笑えた、母の尊厳が回復したと、心を込めて母を大切にするという話題で持ちきりだった時に、14年の時間を経て、母との間に共鳴現象が再現して母の尊厳が回復した。
尊厳、自尊心といったものは、薬だけでは何ともならない。
薬の開発はたくさんの人がやっているが、僕が結局一つの薬を作るのには30年掛かったが、今日から出来ることもある。
症状はよくなったり、悪くなったりする人がいるが、当事者も家族の方も悪い所に目が行きそうになる。
反省と後悔ぐらい脳に悪いことはない。
効いていた薬が効かなくなり、どんどん量が増えてくる。
いい時と悪い時があったらいい時に注目した方がいい。
殆どの病気には自然治癒の力が有ります。
具合のいい時に何かヒントが有ると思うので、それを探してみる、具合が良かった時を皆で話あうだけでもその行動自体が脳にいい。
脳にいいことを一杯すると効かなかった薬が効く様になって、たくさん飲まなくてもいい様になる。
母のタイプの精神疾患は再発しやすいが、今の私が治療するとしたら、父に貴方の奥さんは統合失調症の中では比較的予後のいい方で、短期間で元の状態に戻りますが再発はし易いですよと言って、再発したらいつでも入院させてあげます、といいます。
父は安心したと思います、父は早朝から深夜まで働き、土日も働いていましたから。
父は反省、後悔をしたりしたと思います、むしろいい時にしていたことを皆で話し合いましょうと言います。
脳にいいことを見分ける方法は、何かをする前と後を比べて、する前よりも後の方が気持ち良ければ脳にいいだろうと言っています。
母の症状に父の背広を鋏で切ってしまうとか、父が会社に行こうとすると、父の傘が大きいく危険だからといって、母の赤い傘を持ってゆくようにいった、ということが有ったようです。
産後の不安定な時期に、父がほとんどいなくて、異常行動ではないと言う事が言えるのではないかもしれない。
母の子として生まれた意味がちゃんとあって、母の病気を研究して、母の病気を治せるような薬をつくっている、僕がこの世の中に生まれてきた意味がちゃんとあったし、その意味ある僕を生んでくれた母は凄く尊厳ある存在として、僕のなかにふにおちたわけです。
治療薬を開発するテーマに取り組んでいる、これがちょうどふに落ちる物語となったのが50歳で中村ユキさん、夏刈郁子さんとの出会いであり、母の親戚との出会いでした。
2016年9月16日金曜日
梅木信子(医師) ・96歳・現役女医(H28・6・15放送)
梅木信子(医師) ・96歳・現役女医(H28・6・15放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_15.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_15.htmlをご覧ください。
2016年9月14日水曜日
佐々木雅弘(禎子さんの兄) ・“禎子の折り鶴”を世界に
佐々木雅弘(「原爆の子の像」禎子さんの兄) ・“禎子の折り鶴”を世界に
今年5月オバマ大統領がアメリカの現職大統領として、被爆地広島を訪れました。
その時大統領が自ら折った鶴を寄贈したことが大きな話題となりました。
それを特別な思いで見つめた一人が折り鶴を世界に広めるきっかけとなった、原爆の子の像のモデル、佐々木禎子さんの兄、雅弘さん、75歳。
雅弘さんは妹と共に4歳の時に広島市で被爆、現在福岡県に住み美容室を経営しながら、白血病でなくなった妹の生涯を、国内や海外でも伝え続けています。
佐々木さんはオバマ大統領の訪問をどの様な思いで見つめたのか、妹禎子さんについて語ることで何を伝えているのか、伺いました。
鶴をもって来るとは想像だにしなかった、サプライズだった。
「ごめんなさい、原爆を落としてこんな結果になってお詫び申します」、と言いたかったと思う。
でも大統領として言ってはいけないこともあるので、そこのところを私達は汲み取らなくてはいけないと思う。
最大のツールを使われた、それが禎子が残した折り鶴なんです。
そこから心が読み取れた。
僕はアメリカを憎んだことは一回もないです。
憎しみからは憎しみしか生まれない、という一つの心の大きな柱になっていると思う。
究極の思いやりは、先ず私より貴方という心掛け、これによって違いを認め合うと言う事から始まる、その根本が禎子が命をかけて教えて呉れた相手への心掛けという事なんです。
昭和20年原爆がおとされて、私が4歳、禎子が2歳でした。
二つ鮮明に覚えています。
真夏のもの凄く熱い青天の中、2機の飛行機が広島の上空を飛んでいたのをはっきり覚えています。
家族4人(父は出征)で食事していたとき、となりの叔母さんが綺麗なものが空を飛びよるよ、と言ったので空を見上げたら、きらきらと綺麗だった。
家の中に戻った途端に家が破壊されました。
ちゃぶ台の下に居て助かった。(もうちょっと長く飛行機を見ていたら命は無かった)
黒い雨が降って禎子の顔から身体も真黒になってるのをしっかり覚えています。
禎子は12歳で入院したが、禎子は死ぬなんて思いませんでした。
父が重病だとは私には伝えなかった。
一枚のメモが亡くなった後、ベッドの下から見つかった。
禎子が白血球、赤血球、血小板の数値をカルテから盗み取って書いていたんだと思う。
禎子は私って白血病なんだと確信する。
白血球は10万を越えると人は死ぬのかと、父に尋ねたそうです。
父もあいまいに答えたようです。
命が真直に亡くなると言う事を知っていたようです。
誰にも知られてはいけないと思って、一枚のメモを隠していたようです。
亡くなってベッドを整理していると二枚のマットレスの間から見つかった。
家では大きな借財があって、禎子が入院の時には極貧の状態でした。
白血病は輸血か痛み止めぐらいしか無くて、輸血は一パック100cc、800円した。
父が苦しむことは禎子は一番良く知っていた。
父がやってくれるギリギリの所まで禎子は我慢した。
禎子は母親にたった一度涙を流して、抱きついた事はあるが、母を思いそれ以後は決して涙を流さなかった。
8月2日、名古屋の淑徳高校から、少年赤十字青年団が原爆病に贈られたもの、その一部を看護士さんが持ってきて禎子に渡った。
それから鶴を折り始める、1000羽折れば自分の願いが叶う、病気を治してください、家に帰りたい、父の借金を無くしてください、という願いでした。
8月中に1000羽を折り、又次に1000羽の鶴を折り始めて、資料館に残っている小さな鶴の折り始めなんです。(1円玉よりも小さい鶴)
寝て空中で針を使いながら必死で折っていました。
鶴を折ることは禎子に残された唯一残された苦を越える手段でしょうね。
あまり根を詰めて鶴を折るので諌めたことが有るが、「いいからいいから、お父ちゃんうちにも考えがあるんじゃけん」と言ったそうで、父は禎子は何を言いたかったんだろうとずーっと言っていました。
亡くなってから、父と話している中で、一番の願いは、父の借金が無くなることだった、という事です。
父母の為に絶対折るんだという事が出来た、親子のつながりでの行為だと思う。
命の限界を知っていたから、自分の命の限り、折ろうとしたんだと思う。
10月に亡くなり、そのあとにクラスメートとかの働きに依り像ができる。
像ができて、単純に禎子の墓が出来たなあと思いました、嬉しかったです。
1958年5月5日が除幕式で、その頃から映画が出来、ドラマが出来、本が出来、父の耳に禎子を自慢しているのではないかと言う風評が耳に入った。
しゃべりたくない、という事になり、九州に逃れてきた。(20歳ぐらいの時)
40年間黙っていて、父が禎子の父だと言う事が段々周りに判ってきて、父も高齢だし自分が話をしなければいけない時期が来ると予感して心が少しほどけてきた。
2001年7月から10月まで広島で禎子展が有り、話をしてほしいとのオファーが有って、資料館ホールで発表して、心が吹っ切れ、それからしっかり話さなければいけないと言う覚悟が出来た。
学校に行って話す機会が多くなり、禎子と同じ年ごろなので、感想を頂きわたし自身が良かったと思う事がたくさんあり、もっと感じてもらうにはどうしたらいいか、自分の心を正してゆく、自分の心を正さない限りは人の心は正せないと言う事も判って来ました。
自分を変えるために禎子のことを話させてもらっている状態です。
自分が変わらずして相手を変えようとしても、それは変わらない。
相手に受け入れられるような自分に変わってゆく。
話が飛躍するが、ノーモアヒロシマと言った時にリメンバーパールハーバー、公の場では当然そうなる。
相手の考え方を先ず、受け入れて、そうすると心を開いてくれる。
トルーマン大統領の孫のダニエルさん、おじいさんは否定はしないと言うのを私が認めた時に、彼も私の考え方を認めてくれて被爆者の証言をしっかり聞いてくれる。
トルーマンライブラリーメインホールにどんと折り鶴の遺品が展示してある。
ダニエルさんに「広島に来て謝罪してくださいよ」、と言ったらこうはならなかったと思います。
禎子の心掛けを如何に私の命の限り、世界の方々と繋がってゆくきっかけを私達が作らせていただく。
同時多発テロで消防士を亡くした母親がテロに対して憎くてしょうがなかったが、私の話を聞いて、今から憎しみの心を取り外します、グランドゼロに行って息子に会いに行きます、と言ってくれました。
それまで彼女はグランドゼロに行くと憎しみが沸いて来るので行かないと言っていましたが。
社会歴史学会に参加して関心を持っている学校の先生方の教育現場、退役軍人の方の集会に行って話し合いたい。
そうすると心の終戦の第一歩が始まると思う。
トルーマン大統領の孫、ダニエル氏と共に教育や平和活動を行うNPO法人をアメリカに設立する準備を進めています。
今年5月オバマ大統領がアメリカの現職大統領として、被爆地広島を訪れました。
その時大統領が自ら折った鶴を寄贈したことが大きな話題となりました。
それを特別な思いで見つめた一人が折り鶴を世界に広めるきっかけとなった、原爆の子の像のモデル、佐々木禎子さんの兄、雅弘さん、75歳。
雅弘さんは妹と共に4歳の時に広島市で被爆、現在福岡県に住み美容室を経営しながら、白血病でなくなった妹の生涯を、国内や海外でも伝え続けています。
佐々木さんはオバマ大統領の訪問をどの様な思いで見つめたのか、妹禎子さんについて語ることで何を伝えているのか、伺いました。
鶴をもって来るとは想像だにしなかった、サプライズだった。
「ごめんなさい、原爆を落としてこんな結果になってお詫び申します」、と言いたかったと思う。
でも大統領として言ってはいけないこともあるので、そこのところを私達は汲み取らなくてはいけないと思う。
最大のツールを使われた、それが禎子が残した折り鶴なんです。
そこから心が読み取れた。
僕はアメリカを憎んだことは一回もないです。
憎しみからは憎しみしか生まれない、という一つの心の大きな柱になっていると思う。
究極の思いやりは、先ず私より貴方という心掛け、これによって違いを認め合うと言う事から始まる、その根本が禎子が命をかけて教えて呉れた相手への心掛けという事なんです。
昭和20年原爆がおとされて、私が4歳、禎子が2歳でした。
二つ鮮明に覚えています。
真夏のもの凄く熱い青天の中、2機の飛行機が広島の上空を飛んでいたのをはっきり覚えています。
家族4人(父は出征)で食事していたとき、となりの叔母さんが綺麗なものが空を飛びよるよ、と言ったので空を見上げたら、きらきらと綺麗だった。
家の中に戻った途端に家が破壊されました。
ちゃぶ台の下に居て助かった。(もうちょっと長く飛行機を見ていたら命は無かった)
黒い雨が降って禎子の顔から身体も真黒になってるのをしっかり覚えています。
禎子は12歳で入院したが、禎子は死ぬなんて思いませんでした。
父が重病だとは私には伝えなかった。
一枚のメモが亡くなった後、ベッドの下から見つかった。
禎子が白血球、赤血球、血小板の数値をカルテから盗み取って書いていたんだと思う。
禎子は私って白血病なんだと確信する。
白血球は10万を越えると人は死ぬのかと、父に尋ねたそうです。
父もあいまいに答えたようです。
命が真直に亡くなると言う事を知っていたようです。
誰にも知られてはいけないと思って、一枚のメモを隠していたようです。
亡くなってベッドを整理していると二枚のマットレスの間から見つかった。
家では大きな借財があって、禎子が入院の時には極貧の状態でした。
白血病は輸血か痛み止めぐらいしか無くて、輸血は一パック100cc、800円した。
父が苦しむことは禎子は一番良く知っていた。
父がやってくれるギリギリの所まで禎子は我慢した。
禎子は母親にたった一度涙を流して、抱きついた事はあるが、母を思いそれ以後は決して涙を流さなかった。
8月2日、名古屋の淑徳高校から、少年赤十字青年団が原爆病に贈られたもの、その一部を看護士さんが持ってきて禎子に渡った。
それから鶴を折り始める、1000羽折れば自分の願いが叶う、病気を治してください、家に帰りたい、父の借金を無くしてください、という願いでした。
8月中に1000羽を折り、又次に1000羽の鶴を折り始めて、資料館に残っている小さな鶴の折り始めなんです。(1円玉よりも小さい鶴)
寝て空中で針を使いながら必死で折っていました。
鶴を折ることは禎子に残された唯一残された苦を越える手段でしょうね。
あまり根を詰めて鶴を折るので諌めたことが有るが、「いいからいいから、お父ちゃんうちにも考えがあるんじゃけん」と言ったそうで、父は禎子は何を言いたかったんだろうとずーっと言っていました。
亡くなってから、父と話している中で、一番の願いは、父の借金が無くなることだった、という事です。
父母の為に絶対折るんだという事が出来た、親子のつながりでの行為だと思う。
命の限界を知っていたから、自分の命の限り、折ろうとしたんだと思う。
10月に亡くなり、そのあとにクラスメートとかの働きに依り像ができる。
像ができて、単純に禎子の墓が出来たなあと思いました、嬉しかったです。
1958年5月5日が除幕式で、その頃から映画が出来、ドラマが出来、本が出来、父の耳に禎子を自慢しているのではないかと言う風評が耳に入った。
しゃべりたくない、という事になり、九州に逃れてきた。(20歳ぐらいの時)
40年間黙っていて、父が禎子の父だと言う事が段々周りに判ってきて、父も高齢だし自分が話をしなければいけない時期が来ると予感して心が少しほどけてきた。
2001年7月から10月まで広島で禎子展が有り、話をしてほしいとのオファーが有って、資料館ホールで発表して、心が吹っ切れ、それからしっかり話さなければいけないと言う覚悟が出来た。
学校に行って話す機会が多くなり、禎子と同じ年ごろなので、感想を頂きわたし自身が良かったと思う事がたくさんあり、もっと感じてもらうにはどうしたらいいか、自分の心を正してゆく、自分の心を正さない限りは人の心は正せないと言う事も判って来ました。
自分を変えるために禎子のことを話させてもらっている状態です。
自分が変わらずして相手を変えようとしても、それは変わらない。
相手に受け入れられるような自分に変わってゆく。
話が飛躍するが、ノーモアヒロシマと言った時にリメンバーパールハーバー、公の場では当然そうなる。
相手の考え方を先ず、受け入れて、そうすると心を開いてくれる。
トルーマン大統領の孫のダニエルさん、おじいさんは否定はしないと言うのを私が認めた時に、彼も私の考え方を認めてくれて被爆者の証言をしっかり聞いてくれる。
トルーマンライブラリーメインホールにどんと折り鶴の遺品が展示してある。
ダニエルさんに「広島に来て謝罪してくださいよ」、と言ったらこうはならなかったと思います。
禎子の心掛けを如何に私の命の限り、世界の方々と繋がってゆくきっかけを私達が作らせていただく。
同時多発テロで消防士を亡くした母親がテロに対して憎くてしょうがなかったが、私の話を聞いて、今から憎しみの心を取り外します、グランドゼロに行って息子に会いに行きます、と言ってくれました。
それまで彼女はグランドゼロに行くと憎しみが沸いて来るので行かないと言っていましたが。
社会歴史学会に参加して関心を持っている学校の先生方の教育現場、退役軍人の方の集会に行って話し合いたい。
そうすると心の終戦の第一歩が始まると思う。
トルーマン大統領の孫、ダニエル氏と共に教育や平和活動を行うNPO法人をアメリカに設立する準備を進めています。
2016年9月13日火曜日
白石加代子(女優) ・変幻自在に演じ、語る(2)
白石加代子(女優) ・変幻自在に演じ、語る(2)
1989年、結婚して色々なことが大きく変わりました。
完成度の高い舞台をやっていたので、もう一度真っさらにして、どんなことが女優として出来るか考えて、第一歩を進めてみたい年でした。
主人は早稲田小劇団の先輩でもあり常に支えてもらってました。
この年にフリーにもなりました。
日常はゆったりくつろいで過ごすのが得意ではなく、家では忙しくしてしまいます。
沢山の演出家にまみえることができて、女優として幸せだなあと思います。
蜷川幸雄さんとの舞台、亡くなってしまったが、酸素吸入をして稽古場にいたときには物凄い元気で怒鳴ったりしていましたが、まだ大丈夫だろうと言う感覚が有ったが、突然の訃報に会いました。
雑談をしている時が凄く楽しい方でした、物凄く悪口が上手で、楽しい悪口を言って下さる方でした。
7~8本演出していただきました。
1997年、藤原竜也さんとの共演も有りました。(藤原さんが10代なかば)
役の上では私の義理の息子の役、身毒丸という名前の役でした。
ロンドンでの舞台で大成功をしました。
天才的と私は言ってしまうのですが、寺山さんの短歌をセリフとして、しゃべりながらリアリティーが出せると言うのは、何十年とやった役者でも大変ですが、そういうことをさらっと出来た人でした。
最近竜也さんは結婚もして子供も出来ました。
オーディションで蜷川さんが一言暗示を与えると、もっと良くなると思った様で、竜也さんを選んだんだろうと思います。
蜷川さんは私達同世代の人には優しいです。
大竹しのぶさんとは長塚圭史さんが演出した「ビューティ・クイーン・オブ・リナーン」でご一緒しています。
甥や姪が「おばさん」と呼ばせないように「加代ちゃん」というようにして、白石さんという舞台監督がついて、「加代ちゃん」と呼んで下さいと言うのが発端で、それ以来「加代ちゃん」と呼ばれるようになりました。
お客さんが楽しむ前に、自分が先に楽しんでいると言う女優ではあります。
長塚圭史さんは山田風太郎原作のものを「赤い暗闇」という作品をつくって、小栗旬さん、小日向文世さん主演のものに私も参加させていただきましたが(2013年)とっても楽しくて、長塚圭史さんも俳優としても出ました。
忘れられないシーンは私が彼の背中にしがみついて、舞台全面を下手から上手に二人でセリフを言いながら、歩いてゆくシーンが有りますが私は大好きでした。
野村萬斎さん演出、演者の「国盗びと」の作品、4役をやらせてもらって(リチャード三世に出てくる女全部なので大変でしたが)忘れ得ぬ懐かしい舞台でした。
野村萬斎さんは包み込んでくれる様な優しさが有りました。
野村萬斎さんの「ボレロ」だったと思いますが、凄い踊りを見ました。
私は劇団にいたころは、相当な声をだしたし、訓練をしていまして、若いころに鍛えられたという思いはあります。
舞台は体力が無いと駄目ですね。
劇団にいたころは、凄い集中力で、物凄い力で空間を切りながらやっていたのでへとへとだったが、フリーになってからは、特に100物語はお客さんと交流が持てる様なしつらえにしてもらったりするので、お客さんにふっと疲れを渡してしまったり、笑ったりしてもらえると場が和んだりして幸せな気分になります。
お客さんとよりいい迎合をして、その中でお互いが楽しく幸せになるという様なことを身につけたのは凄く収穫だったと思います。
三遊亭円朝、怪談「牡丹灯籠」の朗読
「やがて幽霊だと言う事が判り、和尚様どうか来ないようになりますまいか。
和尚は当年51歳の名僧。・・・何しろくやしくて祟る幽霊ではなく、ただ恋しい恋しいと思う幽霊で、三世も四世もまえから、或る女がお前を思うて生きかわり死ににかわり、形はいろいろに変えて付きまとうている故、のがれがたい悪因縁が有りどうしても逃れられないが、死霊よけの為に如来を貸してやる、御札をやるからほうぼうに張っておいて、このお経を読みなさい。・・・そら来たといって蚊帳をつってその中で小さく固まり、額から顎にかけて脂汗を流し・・・念仏を唱えながら蚊帳を出てそっと戸の節穴から覗いてみると、・・・これが幽霊かと・・・あれほどまでにお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは男心と秋の空、萩原さまのお心が情けない、どうか萩原さまに合わせておくれ・・・裏口へ回ったがやっぱり入られません。」
1989年、結婚して色々なことが大きく変わりました。
完成度の高い舞台をやっていたので、もう一度真っさらにして、どんなことが女優として出来るか考えて、第一歩を進めてみたい年でした。
主人は早稲田小劇団の先輩でもあり常に支えてもらってました。
この年にフリーにもなりました。
日常はゆったりくつろいで過ごすのが得意ではなく、家では忙しくしてしまいます。
沢山の演出家にまみえることができて、女優として幸せだなあと思います。
蜷川幸雄さんとの舞台、亡くなってしまったが、酸素吸入をして稽古場にいたときには物凄い元気で怒鳴ったりしていましたが、まだ大丈夫だろうと言う感覚が有ったが、突然の訃報に会いました。
雑談をしている時が凄く楽しい方でした、物凄く悪口が上手で、楽しい悪口を言って下さる方でした。
7~8本演出していただきました。
1997年、藤原竜也さんとの共演も有りました。(藤原さんが10代なかば)
役の上では私の義理の息子の役、身毒丸という名前の役でした。
ロンドンでの舞台で大成功をしました。
天才的と私は言ってしまうのですが、寺山さんの短歌をセリフとして、しゃべりながらリアリティーが出せると言うのは、何十年とやった役者でも大変ですが、そういうことをさらっと出来た人でした。
最近竜也さんは結婚もして子供も出来ました。
オーディションで蜷川さんが一言暗示を与えると、もっと良くなると思った様で、竜也さんを選んだんだろうと思います。
蜷川さんは私達同世代の人には優しいです。
大竹しのぶさんとは長塚圭史さんが演出した「ビューティ・クイーン・オブ・リナーン」でご一緒しています。
甥や姪が「おばさん」と呼ばせないように「加代ちゃん」というようにして、白石さんという舞台監督がついて、「加代ちゃん」と呼んで下さいと言うのが発端で、それ以来「加代ちゃん」と呼ばれるようになりました。
お客さんが楽しむ前に、自分が先に楽しんでいると言う女優ではあります。
長塚圭史さんは山田風太郎原作のものを「赤い暗闇」という作品をつくって、小栗旬さん、小日向文世さん主演のものに私も参加させていただきましたが(2013年)とっても楽しくて、長塚圭史さんも俳優としても出ました。
忘れられないシーンは私が彼の背中にしがみついて、舞台全面を下手から上手に二人でセリフを言いながら、歩いてゆくシーンが有りますが私は大好きでした。
野村萬斎さん演出、演者の「国盗びと」の作品、4役をやらせてもらって(リチャード三世に出てくる女全部なので大変でしたが)忘れ得ぬ懐かしい舞台でした。
野村萬斎さんは包み込んでくれる様な優しさが有りました。
野村萬斎さんの「ボレロ」だったと思いますが、凄い踊りを見ました。
私は劇団にいたころは、相当な声をだしたし、訓練をしていまして、若いころに鍛えられたという思いはあります。
舞台は体力が無いと駄目ですね。
劇団にいたころは、凄い集中力で、物凄い力で空間を切りながらやっていたのでへとへとだったが、フリーになってからは、特に100物語はお客さんと交流が持てる様なしつらえにしてもらったりするので、お客さんにふっと疲れを渡してしまったり、笑ったりしてもらえると場が和んだりして幸せな気分になります。
お客さんとよりいい迎合をして、その中でお互いが楽しく幸せになるという様なことを身につけたのは凄く収穫だったと思います。
三遊亭円朝、怪談「牡丹灯籠」の朗読
「やがて幽霊だと言う事が判り、和尚様どうか来ないようになりますまいか。
和尚は当年51歳の名僧。・・・何しろくやしくて祟る幽霊ではなく、ただ恋しい恋しいと思う幽霊で、三世も四世もまえから、或る女がお前を思うて生きかわり死ににかわり、形はいろいろに変えて付きまとうている故、のがれがたい悪因縁が有りどうしても逃れられないが、死霊よけの為に如来を貸してやる、御札をやるからほうぼうに張っておいて、このお経を読みなさい。・・・そら来たといって蚊帳をつってその中で小さく固まり、額から顎にかけて脂汗を流し・・・念仏を唱えながら蚊帳を出てそっと戸の節穴から覗いてみると、・・・これが幽霊かと・・・あれほどまでにお約束をしたのに、今夜に限り戸締りをするのは男心と秋の空、萩原さまのお心が情けない、どうか萩原さまに合わせておくれ・・・裏口へ回ったがやっぱり入られません。」
2016年9月12日月曜日
白石加代子(女優) ・変幻自在に演じ、語る(1)
白石加代子(女優) ・変幻自在に演じ、語る(1)
東京出身、昭和42年劇団早稲田小劇場(現在のスコット)に入団、演出家の鈴木忠志さんとのコンビで劇団の看板女優として数々の伝説的舞台を踏み、日本だけではなく、世界で活躍されました。
その後、フリーとなって蜷川幸雄さん、野田秀樹さん、長塚圭史さんといった現代を代表する演出家の作品に出演されて益々存在感を見せています。
一人舞台00物語は22年かけて完結しましたが、ファンの期待にこたえて、新たにアンコール上演にも取り組んでいます。
一人舞台100物語はアンコール上演が8月の終りから始まっています。
怖い話と笑いの組み合わせ。
南條範夫、「燈台鬼」、恐ろしい話ですが、ロマンティックな、遣唐使として父が行くが、帰ってこないので息子が父を追い求める、色々恐ろしいことが起こる。
筒井康隆さんの「五郎八航空」は抱腹絶倒な話です。
100物語は古典もあれば若い方の作品もあれば、ありとあらゆる作品が盛り込まれている。
1992年に100物語を始める。
舞台が入ってきたりして、時間が取れなくて、22年もかかって大変でした。
100物語は99話で終わるのが昔からのならわしで、100までやると本物のもののけがでてくるという言い伝えが有り、99話を目指し、2年前に終了。
終わってみて、懐かしくて恋しくて、周りから是非もう一度という声がかかり、2つの作品を選び出しました。
昔やったDVDを見たらテンポが速かったが、感動して、100物語でこの2つを合わせると言うのは、この年齢になってとても大変だけれども、わたし自身が乗ってしまいました。
夏目漱石の夢十夜より、第一話のさわりの朗読。
「こんな夢を見た。
腕組みをして枕元に座っていると、仰向けに寝た女が静かな声で、もう死にます、という。
女は長い髪を枕に敷いて輪郭の柔らかなうりざね顔をその中に横たえている。
真っ白なほほの底に温かい血の色が程良く射して、唇の色はむろん赤い。
到底死にそうには見えない、しかし女は静かな声で、もう死にます、とはっきり言った。
・・・・・。
しばらくしたら女が又こういった。
死んだら埋めてください。・・・
墓のそばに待っていてください、又会いに来ますから。・・・
あなた待っていられますか、100年待っていてくださいと思いきった声で言った。
100年私の墓のそばに座って待っていて下さい。
きっと会いに来ますから。
・・・女の目がぱちりと閉じた。
長い睫毛の間から涙が頬に垂れた。
もう死んでいた。」
NHK大河ドラマ、2005年の義経ではお徳さん、花燃ゆ(ほんの少し出演)
ナレーションも担当。
義経は懐かしい作品です。
昭和42年早稲田小劇場に入団。
区役所に7年勤めて、早稲田小劇場の稽古を見て、鈴木さんが演出をしているのを見て、こういう演出のもとに舞台をやりたいと思って、直ぐ区役所を辞めて行きました。
変わった女優だなと、見てくださって割と早く役につきました。
当時は大劇団しか、劇団ではないと言う様な時代でしたので、小劇場の芝居なんて箸にも棒にもかからない様な時代でしたが、鈴木さんも力が有る方でどんどんお客様が並んでいい時期でした。
ギリシャ悲劇を選ぶようになって、外国に持って行ってもストーリーを知っていたので、フランス、イタリア、ベルギー、ドイツとかで評判が高くて、鈴木さんもとっても楽しかったのではないかと思います。
その後アメリカでも随分鈴木さんの名前は有名になりました。
外国公演で良かったのは、いつも違う劇場で公演させていただいて、自分の身体で空間を計ると言う事が物凄く身につきました。
この広さでこれだけの声をだせば、収まるとか、空間の中の距離を身体で計ると言う事をいつも身につけないと、劇場のいろいろな大きさに対応ができない。
海外公演ではギリシャ悲劇はストーリーは知っているので、肉体でどんなふうにストーリーを見せてゆくか、ビジュアルでお客さんをどう引き付けるか、という事を常に考えているので、外国では日本語でやりました。
呼吸が上がってしまって、肩が上下するようになったらセリフは思うようには出てこないのでまずはトレーニングをして、しゃべりながら歩くとか、歌を歌いながら何かをするとか、やりました。
鈴木さんは厳しいです、演出家は存在自体を否定する様なことを言います。
怖い役が多いですし、自分でも嫌いではないです。
マクベス婦人、メディア、クリテムネストラ、怖い女、この3つの役は舞台女優なら結構みんなやりたいのでは。
メディアはやっていないです。
日常は全然のう天気おばさんです。
若いころは袖で震えている人でしたが、100物語でお客様と舞台と交流するような場面を作ってもらったら、随分人格が変わる様になりました。
東京出身、昭和42年劇団早稲田小劇場(現在のスコット)に入団、演出家の鈴木忠志さんとのコンビで劇団の看板女優として数々の伝説的舞台を踏み、日本だけではなく、世界で活躍されました。
その後、フリーとなって蜷川幸雄さん、野田秀樹さん、長塚圭史さんといった現代を代表する演出家の作品に出演されて益々存在感を見せています。
一人舞台00物語は22年かけて完結しましたが、ファンの期待にこたえて、新たにアンコール上演にも取り組んでいます。
一人舞台100物語はアンコール上演が8月の終りから始まっています。
怖い話と笑いの組み合わせ。
南條範夫、「燈台鬼」、恐ろしい話ですが、ロマンティックな、遣唐使として父が行くが、帰ってこないので息子が父を追い求める、色々恐ろしいことが起こる。
筒井康隆さんの「五郎八航空」は抱腹絶倒な話です。
100物語は古典もあれば若い方の作品もあれば、ありとあらゆる作品が盛り込まれている。
1992年に100物語を始める。
舞台が入ってきたりして、時間が取れなくて、22年もかかって大変でした。
100物語は99話で終わるのが昔からのならわしで、100までやると本物のもののけがでてくるという言い伝えが有り、99話を目指し、2年前に終了。
終わってみて、懐かしくて恋しくて、周りから是非もう一度という声がかかり、2つの作品を選び出しました。
昔やったDVDを見たらテンポが速かったが、感動して、100物語でこの2つを合わせると言うのは、この年齢になってとても大変だけれども、わたし自身が乗ってしまいました。
夏目漱石の夢十夜より、第一話のさわりの朗読。
「こんな夢を見た。
腕組みをして枕元に座っていると、仰向けに寝た女が静かな声で、もう死にます、という。
女は長い髪を枕に敷いて輪郭の柔らかなうりざね顔をその中に横たえている。
真っ白なほほの底に温かい血の色が程良く射して、唇の色はむろん赤い。
到底死にそうには見えない、しかし女は静かな声で、もう死にます、とはっきり言った。
・・・・・。
しばらくしたら女が又こういった。
死んだら埋めてください。・・・
墓のそばに待っていてください、又会いに来ますから。・・・
あなた待っていられますか、100年待っていてくださいと思いきった声で言った。
100年私の墓のそばに座って待っていて下さい。
きっと会いに来ますから。
・・・女の目がぱちりと閉じた。
長い睫毛の間から涙が頬に垂れた。
もう死んでいた。」
NHK大河ドラマ、2005年の義経ではお徳さん、花燃ゆ(ほんの少し出演)
ナレーションも担当。
義経は懐かしい作品です。
昭和42年早稲田小劇場に入団。
区役所に7年勤めて、早稲田小劇場の稽古を見て、鈴木さんが演出をしているのを見て、こういう演出のもとに舞台をやりたいと思って、直ぐ区役所を辞めて行きました。
変わった女優だなと、見てくださって割と早く役につきました。
当時は大劇団しか、劇団ではないと言う様な時代でしたので、小劇場の芝居なんて箸にも棒にもかからない様な時代でしたが、鈴木さんも力が有る方でどんどんお客様が並んでいい時期でした。
ギリシャ悲劇を選ぶようになって、外国に持って行ってもストーリーを知っていたので、フランス、イタリア、ベルギー、ドイツとかで評判が高くて、鈴木さんもとっても楽しかったのではないかと思います。
その後アメリカでも随分鈴木さんの名前は有名になりました。
外国公演で良かったのは、いつも違う劇場で公演させていただいて、自分の身体で空間を計ると言う事が物凄く身につきました。
この広さでこれだけの声をだせば、収まるとか、空間の中の距離を身体で計ると言う事をいつも身につけないと、劇場のいろいろな大きさに対応ができない。
海外公演ではギリシャ悲劇はストーリーは知っているので、肉体でどんなふうにストーリーを見せてゆくか、ビジュアルでお客さんをどう引き付けるか、という事を常に考えているので、外国では日本語でやりました。
呼吸が上がってしまって、肩が上下するようになったらセリフは思うようには出てこないのでまずはトレーニングをして、しゃべりながら歩くとか、歌を歌いながら何かをするとか、やりました。
鈴木さんは厳しいです、演出家は存在自体を否定する様なことを言います。
怖い役が多いですし、自分でも嫌いではないです。
マクベス婦人、メディア、クリテムネストラ、怖い女、この3つの役は舞台女優なら結構みんなやりたいのでは。
メディアはやっていないです。
日常は全然のう天気おばさんです。
若いころは袖で震えている人でしたが、100物語でお客様と舞台と交流するような場面を作ってもらったら、随分人格が変わる様になりました。
2016年9月9日金曜日
2016年9月8日木曜日
高橋 靖(ペースメーカー友の会) ・生かされた命で社会貢献を
高橋 靖(日本心臓ペースメーカー友の会副会長) ・生かされた命で社会貢献を
心臓の具合が悪くペースメーカーを体内に埋め込んでいる患者は全国に 35万から40万人いると言われています。
ペースメーカーは電気の刺激で心臓を動かす医療機器です。
ペースメーカーを装着し同じ不安や問題を抱える患者の会、日本心臓ペースメーカー友の会は昭和45年に発足し、今全国に3100人の会員がいます。
副会長で東京八王子市に住む高橋さん(71歳)は、33歳の時、ペースメーカーを入れ58歳の定年までサラリーマン生活を続けました。
10年ほど前から自力で心臓が動かなくなって、100%ペースメーカーに頼って生活しています。
その生かされている命を感謝し、社会に役立つ事が出来ないかと考え、八王子市から委嘱をうけて、障害者の相談に当たる社会福祉員を務めています。
日本に28支部ありその内、東京には二つの支部が有って、西東京支部の支部長でもあります。
毎年ペースメーカー装着者30数名で1泊のバスツアーを行っています。
役員が下見をして、危険があるかどうか事前にチェックして行動するようにしています。
西東京支部には180人の会員がいます。
年1回総会が1回、年3回茶話会を行って好きなことを話していただき桜の花見もやっています。
長野県出身 33歳の時に心臓の具合が悪くなりペースメーカーを埋め込む。
会社で58歳の定年まで働き、二人の息子は家庭をもち、7歳の孫がいます。
ペースメーカーは電気の刺激で心臓を動かす医療機器です。
大きさは500円玉をちょっと大きくした程度の大きさ、重さは20gぐらい、厚さは5~6mmです。
心臓の上の鎖骨の下3cmあたりに埋め込みます。
鎖骨の下の静脈からリード線を心臓に入れて、心臓の適切な場所に先端をくっつけて本体とリード線をくっつけると電気が送られて心臓が動くと言う事です。
自脈が有れば、ペースメーカーをは停止していて自脈が止まれば自動的に作動する仕組みになっている。
1分間にだいたい60、70~120が通常のペースメーカーです。
階段を上ったりするときには自動的に120になったりします。
電池の寿命は5~10年で交換します。(ペースメーカーの使用時間に左右される)
日本で初めてペースメーカーの埋め込み手術が行われたのが、昭和38年、53年前。
ペースメーカーは全て外国製、車一台が買えるほどの価格。
寝床についたが毛布が重く感じて、医者に行ったら時々脈が無い時が有って、大学病院に行ったらペースメーカーを入れないと命の保証が無いと言われた。
結婚後、7~8年後の時だった。(子供は二人いた)
子供達をどう養って行ったらいいかという事だったが、昭和54年に手術を受けました。
生きて病室に戻ってこられるのかという、恐怖が有りました。
8時間手術に時間がかかりましたが、1カ月後にどうもうまくないと言う事で手術のやり直しをしました。(リード線の取り付け位置が適正でなく、ペースメーカーがうまく作動しなかった)
周りはペースメーカーにたいする認識が無くて、一番こたえたのがロボットだということで心にこたえました。
一緒に何かスポーツをやった時などに、もし何かあったら大変だと言う事で周りは避けていた。
金属加工の仕事だったが電子機器の仕事を机上でやった方がいいと言う事で配置転換してもらって幸運だったと思います。
年6回機関紙をつくっているが、辞めてほしいという様な人も以前いました。
最近はそういう方は非常に少なくなりました。
ペースメーカーを入れたことによって安心しました。
朝目が覚めると今日生きていたと言うような思いが、ペースメーカーを入れたことによってそういった心配は無くなってよかった。
ペースメーカーを入れた事で周りの人に支えられているんだなという事を感じました。
71歳まで生きてこられたのは、ペースメーカーが有ればこそ生きてこられたんだなと思います。
10年前から自脈が無くなり100%ペースメーカーに頼ることになりました。
八王子市から委嘱をうけて、障害者の相談に当たる社会福祉員を務めています。
日本心臓ペースメーカー友の会は昭和45年創立、日本に28支部あります。
6月に年一回の全国総会が有りました。
150から160名参加、専門の医者が15名、ペースメーカーの会社の方含め200名程度参加。
再会の喜びを肩を抱き合って表現していました。
電磁波、携帯電話の障害など、ノイズが入ってこられない様な工夫がなされてきています。
MRIの検査時にも対応型のものについては、大丈夫になりました。
烈しい運動以外は健常者とほとんど変わらない日常生活を送っています。
携帯電話にたいして不安に思う人もいるので、バス電車では出来れば控えてもらいたいと思う。
障害者への赤いプレートの装着は東京都だけだが、全国に広がってほしいと思っています。
心臓の具合が悪くペースメーカーを体内に埋め込んでいる患者は全国に 35万から40万人いると言われています。
ペースメーカーは電気の刺激で心臓を動かす医療機器です。
ペースメーカーを装着し同じ不安や問題を抱える患者の会、日本心臓ペースメーカー友の会は昭和45年に発足し、今全国に3100人の会員がいます。
副会長で東京八王子市に住む高橋さん(71歳)は、33歳の時、ペースメーカーを入れ58歳の定年までサラリーマン生活を続けました。
10年ほど前から自力で心臓が動かなくなって、100%ペースメーカーに頼って生活しています。
その生かされている命を感謝し、社会に役立つ事が出来ないかと考え、八王子市から委嘱をうけて、障害者の相談に当たる社会福祉員を務めています。
日本に28支部ありその内、東京には二つの支部が有って、西東京支部の支部長でもあります。
毎年ペースメーカー装着者30数名で1泊のバスツアーを行っています。
役員が下見をして、危険があるかどうか事前にチェックして行動するようにしています。
西東京支部には180人の会員がいます。
年1回総会が1回、年3回茶話会を行って好きなことを話していただき桜の花見もやっています。
長野県出身 33歳の時に心臓の具合が悪くなりペースメーカーを埋め込む。
会社で58歳の定年まで働き、二人の息子は家庭をもち、7歳の孫がいます。
ペースメーカーは電気の刺激で心臓を動かす医療機器です。
大きさは500円玉をちょっと大きくした程度の大きさ、重さは20gぐらい、厚さは5~6mmです。
心臓の上の鎖骨の下3cmあたりに埋め込みます。
鎖骨の下の静脈からリード線を心臓に入れて、心臓の適切な場所に先端をくっつけて本体とリード線をくっつけると電気が送られて心臓が動くと言う事です。
自脈が有れば、ペースメーカーをは停止していて自脈が止まれば自動的に作動する仕組みになっている。
1分間にだいたい60、70~120が通常のペースメーカーです。
階段を上ったりするときには自動的に120になったりします。
電池の寿命は5~10年で交換します。(ペースメーカーの使用時間に左右される)
日本で初めてペースメーカーの埋め込み手術が行われたのが、昭和38年、53年前。
ペースメーカーは全て外国製、車一台が買えるほどの価格。
寝床についたが毛布が重く感じて、医者に行ったら時々脈が無い時が有って、大学病院に行ったらペースメーカーを入れないと命の保証が無いと言われた。
結婚後、7~8年後の時だった。(子供は二人いた)
子供達をどう養って行ったらいいかという事だったが、昭和54年に手術を受けました。
生きて病室に戻ってこられるのかという、恐怖が有りました。
8時間手術に時間がかかりましたが、1カ月後にどうもうまくないと言う事で手術のやり直しをしました。(リード線の取り付け位置が適正でなく、ペースメーカーがうまく作動しなかった)
周りはペースメーカーにたいする認識が無くて、一番こたえたのがロボットだということで心にこたえました。
一緒に何かスポーツをやった時などに、もし何かあったら大変だと言う事で周りは避けていた。
金属加工の仕事だったが電子機器の仕事を机上でやった方がいいと言う事で配置転換してもらって幸運だったと思います。
年6回機関紙をつくっているが、辞めてほしいという様な人も以前いました。
最近はそういう方は非常に少なくなりました。
ペースメーカーを入れたことによって安心しました。
朝目が覚めると今日生きていたと言うような思いが、ペースメーカーを入れたことによってそういった心配は無くなってよかった。
ペースメーカーを入れた事で周りの人に支えられているんだなという事を感じました。
71歳まで生きてこられたのは、ペースメーカーが有ればこそ生きてこられたんだなと思います。
10年前から自脈が無くなり100%ペースメーカーに頼ることになりました。
八王子市から委嘱をうけて、障害者の相談に当たる社会福祉員を務めています。
ペースメーカーを入れた人からの相談が多いです。
一人暮らしも多くて自分にたいする恐怖があり、山間部に住み、夜などはなおさらです。
そういった方が寂しさを紛らすため、不安などで電話をしてきて、相談してきます。
40年ペースメーカーを付けていますよと、言っただけで安心される方もいます。日本心臓ペースメーカー友の会は昭和45年創立、日本に28支部あります。
6月に年一回の全国総会が有りました。
150から160名参加、専門の医者が15名、ペースメーカーの会社の方含め200名程度参加。
再会の喜びを肩を抱き合って表現していました。
電磁波、携帯電話の障害など、ノイズが入ってこられない様な工夫がなされてきています。
MRIの検査時にも対応型のものについては、大丈夫になりました。
烈しい運動以外は健常者とほとんど変わらない日常生活を送っています。
携帯電話にたいして不安に思う人もいるので、バス電車では出来れば控えてもらいたいと思う。
障害者への赤いプレートの装着は東京都だけだが、全国に広がってほしいと思っています。
2016年9月7日水曜日
長井鞠子(会議通訳者) ・オリンピックが原点 通訳人生
長井鞠子(会議通訳者) ・オリンピックが原点 通訳人生
宮城県生まれ 73歳 東京オリンピックで通訳を経験し、その仕事を一生の仕事に選びました。
その後会議通訳者の草分け的存在としてサミットや国際会議で50年活躍を続けています。
8月に開催されたリオデジャネイロオリンピックでも通訳を務めた、長井さんに伺いました。
主に日本の2020年にあります東京大会の組織委員会から通訳として来てほしいと言う事で、森会長、武藤事務総長が出席される会議等の通訳を担当するという事で行きました。
追加種目に関してのIOC委員会でプレゼンテーションがあり、そこで会議の同時通訳をしました。
ほかにいろんな場面で同時通訳などをしました。
同時通訳、逐次通訳が有りますが、集中力が無いといけません。
発言内容をイヤホーンで聞きながら、理解しながら、訳しながら、発語する事を同時にやっています。
逐次通訳は一区切り話し終えたところで訳して、通訳する。
楽しく続けてこられたのは、好きな仕事だからと思います、通訳は私の天職だと思います。
母親が通訳をした場面が有ったので、人の世話役が好きな人間だったことと、通じてほしいと言う事をいいがちな性格だった。
私の関心項目は移り変わるんで、通訳も内容が毎日違うので面白いと思った。
短期執着型、性格に有っていたと思う。
メモ、1997年長野オリンピック冬季大会のオリンピック関連のページが有り、手書きで書かれている。
仕事を始めた時から単語帳ずーっと作っている。
書く作業を通すことで脳にインプットされているような気がする。
キーボードでは私はインプットされない様な気がする。
「ガッツポーズ」 英語で言っていいかどうか分からないので調べて、
「握りこぶしを空中にあげるように、勝利の中に彼はこぶしを突き上げた」という風にしたい。
思いついた時に何でも書く。
こんな言葉がでるのではないかとか、段々コツが判るようになってきた。
当時大学生でオリンピックが好きで、東京でオリンピックが有ると言う事で英語の通訳要員をどうするかという事で、大学生なら英語ができるだろうと言う事で、大学ごとに競技を割り振った。
私の大学が振り分けられたのは水泳と馬術でした。
女子水泳選手のコース紹介、結果などを発表する事を行いました。
三鷹から代々木までうきうきして通いました。
バイト料がとても高かったのを覚えています。
通訳になったら楽かもしれないと思って、この道に入りました。
30代ぐらいからサミットに抜擢されて歴代首相を担当する。
子育ても、仕事がしたいから子供はどうするかという風に考えます。(母も同様でした)
基本のところだけ抑えれば、多分子供は育つなと思って自分中心にやってきました。
夫は文句を言わなかったことが最大のサポートだったと思います。
順調に来た方ですが、通訳の仕事で出入り禁止が一回ありました。
言い訳もありますが、絶対私の準備不足だったことはありました。
貰った原稿が40ページあって、読み原稿ではないと思って、ザーッと斜め読みをした。
その人は時間にお構いなく40分ぐらいしゃべって、原稿も部分読み ちゃんと準備していなければ追いついて行かなくて、しどろもどろだった。(出入り禁止になりショックだった)
その時誓ったのは手抜きをしない、どんな仕事でも手抜きをしないで準備をするという事を学んだ。
ベタヤク→全部訳すこと。(実力がついてきたらやらないが)
サイトラ(サイト トランスレーション(英文を前からどんどん訳してゆく)の略で英文原稿に意味のかたまり毎にスラッシュなどを入れておき前から訳出していくこと また、通訳者や通訳を目指す人がするトレーニング方法)ざーっと原稿を読んでゆくと眼から入ってきてもなかなかっきちっと訳せない所は全部ベタヤクをすることを今でもやっています。
準備はするが、ベストを尽くすことしかない。
日本語を学ぶため、月に1回京都に和歌を習いに行く。
「ふれあい」という言葉は難しい。
コミュニケーション コミュニケーションがとれるセンターとかと言うしかない。
冷泉家 和歌の総本家の門人のはしくれとして、月に一回和歌のお稽古にいっている。
訳せない言葉は所謂大和言葉、自分としては圧倒的な和歌の語彙不足です。
言葉は符号ではなくてメッセージなので、言葉の引き出しを沢山持たないといけない。
そのために和歌の勉強したり、本を読んだりしています。
人工知能で自動翻訳がすすんでいるのは、マニュアル 物の説明。
人工知能で自動翻訳がニュアンス、声の調子からその人の気持ちが判るのは難しいと思う。
言葉にたいする感性を失ったら駄目だと思います。
日本語も英語も読む事が大事だと思います。
生の言葉が持つ力って大きいと思います。
面と向かってちゃんと会話をする(face to face)
通訳をしたい、私が介在することによって人と人の意思疎通が出来るならば、その場に立ちたい、役に立ちたいと思っている。
自分がやりたいことを中心に置く。
オリンピック招致の時は前向きに表現しなくてはいけないという事に釘刺された。
人間が身体能力の限りを尽くして、とにかく自己ベストを狙っている、自己ベストを尽くす姿が美しくて感動することだと思う。
人間賛歌だと思う、そう感じたら世の中もう少し良くなるのではないかと思う。
宮城県生まれ 73歳 東京オリンピックで通訳を経験し、その仕事を一生の仕事に選びました。
その後会議通訳者の草分け的存在としてサミットや国際会議で50年活躍を続けています。
8月に開催されたリオデジャネイロオリンピックでも通訳を務めた、長井さんに伺いました。
主に日本の2020年にあります東京大会の組織委員会から通訳として来てほしいと言う事で、森会長、武藤事務総長が出席される会議等の通訳を担当するという事で行きました。
追加種目に関してのIOC委員会でプレゼンテーションがあり、そこで会議の同時通訳をしました。
ほかにいろんな場面で同時通訳などをしました。
同時通訳、逐次通訳が有りますが、集中力が無いといけません。
発言内容をイヤホーンで聞きながら、理解しながら、訳しながら、発語する事を同時にやっています。
逐次通訳は一区切り話し終えたところで訳して、通訳する。
楽しく続けてこられたのは、好きな仕事だからと思います、通訳は私の天職だと思います。
母親が通訳をした場面が有ったので、人の世話役が好きな人間だったことと、通じてほしいと言う事をいいがちな性格だった。
私の関心項目は移り変わるんで、通訳も内容が毎日違うので面白いと思った。
短期執着型、性格に有っていたと思う。
メモ、1997年長野オリンピック冬季大会のオリンピック関連のページが有り、手書きで書かれている。
仕事を始めた時から単語帳ずーっと作っている。
書く作業を通すことで脳にインプットされているような気がする。
キーボードでは私はインプットされない様な気がする。
「ガッツポーズ」 英語で言っていいかどうか分からないので調べて、
「握りこぶしを空中にあげるように、勝利の中に彼はこぶしを突き上げた」という風にしたい。
思いついた時に何でも書く。
こんな言葉がでるのではないかとか、段々コツが判るようになってきた。
当時大学生でオリンピックが好きで、東京でオリンピックが有ると言う事で英語の通訳要員をどうするかという事で、大学生なら英語ができるだろうと言う事で、大学ごとに競技を割り振った。
私の大学が振り分けられたのは水泳と馬術でした。
女子水泳選手のコース紹介、結果などを発表する事を行いました。
三鷹から代々木までうきうきして通いました。
バイト料がとても高かったのを覚えています。
通訳になったら楽かもしれないと思って、この道に入りました。
30代ぐらいからサミットに抜擢されて歴代首相を担当する。
子育ても、仕事がしたいから子供はどうするかという風に考えます。(母も同様でした)
基本のところだけ抑えれば、多分子供は育つなと思って自分中心にやってきました。
夫は文句を言わなかったことが最大のサポートだったと思います。
順調に来た方ですが、通訳の仕事で出入り禁止が一回ありました。
言い訳もありますが、絶対私の準備不足だったことはありました。
貰った原稿が40ページあって、読み原稿ではないと思って、ザーッと斜め読みをした。
その人は時間にお構いなく40分ぐらいしゃべって、原稿も部分読み ちゃんと準備していなければ追いついて行かなくて、しどろもどろだった。(出入り禁止になりショックだった)
その時誓ったのは手抜きをしない、どんな仕事でも手抜きをしないで準備をするという事を学んだ。
ベタヤク→全部訳すこと。(実力がついてきたらやらないが)
サイトラ(サイト トランスレーション(英文を前からどんどん訳してゆく)の略で英文原稿に意味のかたまり毎にスラッシュなどを入れておき前から訳出していくこと また、通訳者や通訳を目指す人がするトレーニング方法)ざーっと原稿を読んでゆくと眼から入ってきてもなかなかっきちっと訳せない所は全部ベタヤクをすることを今でもやっています。
準備はするが、ベストを尽くすことしかない。
日本語を学ぶため、月に1回京都に和歌を習いに行く。
「ふれあい」という言葉は難しい。
コミュニケーション コミュニケーションがとれるセンターとかと言うしかない。
冷泉家 和歌の総本家の門人のはしくれとして、月に一回和歌のお稽古にいっている。
訳せない言葉は所謂大和言葉、自分としては圧倒的な和歌の語彙不足です。
言葉は符号ではなくてメッセージなので、言葉の引き出しを沢山持たないといけない。
そのために和歌の勉強したり、本を読んだりしています。
人工知能で自動翻訳がすすんでいるのは、マニュアル 物の説明。
人工知能で自動翻訳がニュアンス、声の調子からその人の気持ちが判るのは難しいと思う。
言葉にたいする感性を失ったら駄目だと思います。
日本語も英語も読む事が大事だと思います。
生の言葉が持つ力って大きいと思います。
面と向かってちゃんと会話をする(face to face)
通訳をしたい、私が介在することによって人と人の意思疎通が出来るならば、その場に立ちたい、役に立ちたいと思っている。
自分がやりたいことを中心に置く。
オリンピック招致の時は前向きに表現しなくてはいけないという事に釘刺された。
人間が身体能力の限りを尽くして、とにかく自己ベストを狙っている、自己ベストを尽くす姿が美しくて感動することだと思う。
人間賛歌だと思う、そう感じたら世の中もう少し良くなるのではないかと思う。
2016年9月6日火曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・高度経済成長の始まり(第32回)(H28/8/1放送)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・高度経済成長の始まり(第32回)(H28/8/1放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/08/32.htmlをご覧下さい。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/08/32.htmlをご覧下さい。
2016年9月5日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・生活環境の変化~都会と農村(第33回)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・生活環境の変化~都会と農村(第33回)
高度経済成長は昭和35年~49年迄14年間つづいた。
3つの段階が有る。
第1期 35年~39年 (東京オリンピック) 池田内閣
第2期 39年~45年 (大阪万博) 佐藤内閣
第3期 45年~49年 (48年11月 第4次中東戦争)
石油を戦略物質として、アラブに協力的でない国にたいして、石油を輸出しないという政策を取る。
オイルショックによって高度経済成長が終わる。
低成長に変わる。
池田内閣は所得倍増計画を発表。
昭和33年ごろの給与生活者の平均月給は16600円だった。
昭和45年ごろの給与生活者の平均月給は58400円だった。(3倍近い)
農村は労働力として都市に吸収されてゆく宿命を持つ。
農業構造が大きく変わっていってしまう。
三ちゃん農業、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん 農業規模が小さくなってゆく。
洗濯機、冷蔵庫、自動炊飯器など主婦の労働時間が大きく減ってゆく。
TVなどで、娯楽時間が随分楽しみが増える。
自動車をもつ人が増えてゆく。
3台/1000人だったのが、22台/1000人という時代になってくる。(第2期頃)
大量生産大量消費の時代、全ての事象が大型化してゆく。
昭和39年10月1日に東海道新幹線の開業で東京、大阪が4時間になる。(7~8時間が当たり前だった) 3800億円と5年の歳月で完成。
物資、人の動きが烈しくなる。
高速道路 昭和38年名神高速道路が一部完成、39年には全線開通
その後沢山の高速道路が開通する。
農村では出稼ぎの問題がでてくる。
昭和22年は50%ぐらい農業に従事しているが、昭和39年ごろには28%、その後もっともっと減ってゆく。
農業基本法など、農業構造を変えてゆく施策をするが、基本的には働き手が都市に引っ張られていってしまった。(農業が犠牲になる)
農家の中心にいる働き手、とうちゃんが都市に働きに来る。
九州、四国、西日本は農業構造が2期作だが、東北は年一回の収穫となり、東北の農業は天候、地域的特性に支配されている。
昭和47年、出稼ぎと離農を告発した、福島県の農民詩人 草野比差男さんの詩
「村の女は眠れない」
「女は腰を夫に預けて眠る。 女は乳房を夫に預けて眠る。 女は腰を夫に抱かせて眠る。
女は夫がそばにいることで安心して眠る。 夫に腰を取られないと女は眠れない。
夫に乳房をゆだねないと女は眠れない。 夫に腰をもまれないと女は眠れない。
夫の温もりに包まれないと女は眠れない。 村の女は眠れない。・・・・・
・・・・・・・・・男に大切なのは稼いで金を送る事ではない。
女の夫たちよ帰ってこい。 一人残らず帰ってこい。 女が眠れない理由の源を考えるために帰ってこい。 女が眠れない高度経済成長の構造を知るために帰ってこい。
帰ってこい。 帰ってこい。 村の女は眠れない。 夫が遠い飯場にいる女は眠れない。
女が眠れない時代は許せない。 許せない時代を許す心情の退廃は一層許せない」
姑との問題も有って、当時の身の上相談には多かったようだ、それに夫がいなくなって、子供の世話、教育の問題もあり、二重、三重の苦しみが有ったのではないかと思う。
GNP 50兆円を越えて、昭和43年の時にアメリカに次いで第2位、51兆920億円になる。
戦争に負けて20年ちょっとで世界第2位になってしまう。
新製品の開発とそれを大量生産するシステムをたちまちのうちに作ってゆく。
マイナス面 農村の問題、公害などを見ない様にして走ってきた。
水俣病、新潟水俣病、いたいいたい病、四日市ぜんそくなど。
昭和36年4月12日 ソ連 ガガーリン少佐 地球一周有人飛行成功。
ボストーク1号は重量4.7トン
アメリカも計画を立てて追いつく様に動く。
昭和38年11月22日 ケネディー大統領がテキサス州ダラスで暗殺される。
「巨人・大鵬・卵焼き」 流行語
高度経済成長は昭和35年~49年迄14年間つづいた。
3つの段階が有る。
第1期 35年~39年 (東京オリンピック) 池田内閣
第2期 39年~45年 (大阪万博) 佐藤内閣
第3期 45年~49年 (48年11月 第4次中東戦争)
石油を戦略物質として、アラブに協力的でない国にたいして、石油を輸出しないという政策を取る。
オイルショックによって高度経済成長が終わる。
低成長に変わる。
池田内閣は所得倍増計画を発表。
昭和33年ごろの給与生活者の平均月給は16600円だった。
昭和45年ごろの給与生活者の平均月給は58400円だった。(3倍近い)
農村は労働力として都市に吸収されてゆく宿命を持つ。
農業構造が大きく変わっていってしまう。
三ちゃん農業、じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん 農業規模が小さくなってゆく。
洗濯機、冷蔵庫、自動炊飯器など主婦の労働時間が大きく減ってゆく。
TVなどで、娯楽時間が随分楽しみが増える。
自動車をもつ人が増えてゆく。
3台/1000人だったのが、22台/1000人という時代になってくる。(第2期頃)
大量生産大量消費の時代、全ての事象が大型化してゆく。
昭和39年10月1日に東海道新幹線の開業で東京、大阪が4時間になる。(7~8時間が当たり前だった) 3800億円と5年の歳月で完成。
物資、人の動きが烈しくなる。
高速道路 昭和38年名神高速道路が一部完成、39年には全線開通
その後沢山の高速道路が開通する。
農村では出稼ぎの問題がでてくる。
昭和22年は50%ぐらい農業に従事しているが、昭和39年ごろには28%、その後もっともっと減ってゆく。
農業基本法など、農業構造を変えてゆく施策をするが、基本的には働き手が都市に引っ張られていってしまった。(農業が犠牲になる)
農家の中心にいる働き手、とうちゃんが都市に働きに来る。
九州、四国、西日本は農業構造が2期作だが、東北は年一回の収穫となり、東北の農業は天候、地域的特性に支配されている。
昭和47年、出稼ぎと離農を告発した、福島県の農民詩人 草野比差男さんの詩
「村の女は眠れない」
「女は腰を夫に預けて眠る。 女は乳房を夫に預けて眠る。 女は腰を夫に抱かせて眠る。
女は夫がそばにいることで安心して眠る。 夫に腰を取られないと女は眠れない。
夫に乳房をゆだねないと女は眠れない。 夫に腰をもまれないと女は眠れない。
夫の温もりに包まれないと女は眠れない。 村の女は眠れない。・・・・・
・・・・・・・・・男に大切なのは稼いで金を送る事ではない。
女の夫たちよ帰ってこい。 一人残らず帰ってこい。 女が眠れない理由の源を考えるために帰ってこい。 女が眠れない高度経済成長の構造を知るために帰ってこい。
帰ってこい。 帰ってこい。 村の女は眠れない。 夫が遠い飯場にいる女は眠れない。
女が眠れない時代は許せない。 許せない時代を許す心情の退廃は一層許せない」
姑との問題も有って、当時の身の上相談には多かったようだ、それに夫がいなくなって、子供の世話、教育の問題もあり、二重、三重の苦しみが有ったのではないかと思う。
GNP 50兆円を越えて、昭和43年の時にアメリカに次いで第2位、51兆920億円になる。
戦争に負けて20年ちょっとで世界第2位になってしまう。
新製品の開発とそれを大量生産するシステムをたちまちのうちに作ってゆく。
マイナス面 農村の問題、公害などを見ない様にして走ってきた。
水俣病、新潟水俣病、いたいいたい病、四日市ぜんそくなど。
昭和36年4月12日 ソ連 ガガーリン少佐 地球一周有人飛行成功。
ボストーク1号は重量4.7トン
アメリカも計画を立てて追いつく様に動く。
昭和38年11月22日 ケネディー大統領がテキサス州ダラスで暗殺される。
「巨人・大鵬・卵焼き」 流行語
2016年9月4日日曜日
中尾隆聖(声優) ・時代を創った声(第7回)
中尾隆聖(声優) ・時代を創った声(第7回)
NHK「お母さんと一緒」のにこにこぷんでおなじみのねずみのぽろり、ドレミファ・どーなっつ!のれおなるど・とびっしー、それ行けアンパンマンのばいきんまんなど様々な作品で活躍しています。
それ行けアンパンマンの番組は今年で29年目になります。
だみ声はぽろり(1982~92年)が有ってあのばいきんまん(1988年~)の声ができ上ったんです。
ターゲットは3歳から幼稚園という事で、ぽろりはいい子で、ばいきんまんは悪者で同じ声は無理だと思って、潰した声でやってみようとオーディションを受けたら受かることが出来ました。
この声は喉に負担がかかりました、半年ぐらいは辛くて苦労しました。
私達の時代は声優さんというちゃんとしたジャンルは無くて、アルバイトみたいな形でした。
最近は3カ月ぐらいで番組が新しくなって行ってしまうが、10年、20年させていただけるキャラクターに出会えたことはとっても大事で、私にとってもいいチャンスでした。
3歳のころから児童劇団に入って、4歳、5歳の時にラジオドラマ「フクちゃん」の相棒のキヨちゃん役をやりました。
セリフは祖父から言葉を教えてもらいました。
番組が終わった時は小学5年生でした。
その後、TVの子供番組にもださせてもらいました。
そのうちの昭和30年ぐらいから、外国映画の吹き替えが来るようになり、アニメがあり、声のほうをさせてもらうようになりました。
失敗すると最初からやり直しで、よく先輩から怒られ、怖くて震えてしまいました。(中学1年の頃)
洋画は「我が家はいっぱい」というアメリカのホームドラマが最初でした。
中学から祖父母の持っているアパートに一人で暮らしていました。
高校に上がるときに祖父が貯金通帳をだして、好きなように使いなさいと言う事で、大学には行きたくなかったし、芝居もどうかと思って、店でもやって生活しようと思いました。(高校1年)
高校1年から水商売(バーテン)をアルバイトでやって、弾き語りをやりました。
朝までバイトやって、学校にいって寝てました。
卒業後、新宿の2丁目でスナックの店をやりました。
お金が不足していたが、バイト先の常連から無担保でお金を貸してくれました。
借金を返す間の3年ぐらいそのゲイバーをやっていましたが、凄いいい経験、勉強をしました。
借金も返せたので役者が集まる様な店にしたが、1年で店が潰れてしまいました。(22~23歳)
その頃今の社長と知り合って、声の仕事を重点的にするようになりましたが、声の仕事は嫌いだった。(声はアルバイトという様な思いが有った)
役者として生きたいと言う思いはあった。
結婚を24歳の時にしましたが一番お金が無い時でしたが、弾き語りのアルバイトでなんとか食っていくだけのことは出来ました。
弾き語りを辞めて仕事をしようとしているうちに、仕事が舞い込むようになってきた。
仲間は沢山いたが、相談する様な相手がいないことに気付いた、それがショックだった。
社長(兼マネージャー)が一緒にやろうよと、拾ってもらいました。
ぽろりをやる様になり、歌も好きだったので10年間で2000曲近く歌わしてもらいました。
作曲した方がピアノを弾いて、歌を覚えてレコーディングをしたり、凄くいい勉強になりました。
お母さんと一緒は録音だったが、子供のリアクションができなくて、週に2回は生でやって、生だと臨場感があって面白いです。
全部現場 人に依って色々教えてもらいました。
ものを作るのに、物凄い人数のスタッフがいて、物凄い手間をかけて番組ができ上るわけですが、そのプロセスが面白いと思う。
番組芝居などはジグソーパズルの様にピース1個、1個が一つ一つ積み上げて出来てくるが、最後に出来ないピースが有り、お客さんが持ってくるピースがあって、これが最後にお客さんの拍手をもらってパチーンとピースが入る瞬間が有るが、一回かそこらしかないと思うが、又作ってみたいと思う、それは色んなものに共通していると思う。
全部に認めてもらおうとか、自分の事を判ってもらおうとか、と言うのは不可能だと思う。
オーディションで10人判ってくれないかもしれないが、ドアの裏にいる11人目がいいと思ってくれるかもしれない、それを信じることだと思います。
それが何かをつくって行ったり、何かをするうえでは力になる。
必ず誰かが、どこかで見ている、という事だと思います。
NHK「お母さんと一緒」のにこにこぷんでおなじみのねずみのぽろり、ドレミファ・どーなっつ!のれおなるど・とびっしー、それ行けアンパンマンのばいきんまんなど様々な作品で活躍しています。
それ行けアンパンマンの番組は今年で29年目になります。
だみ声はぽろり(1982~92年)が有ってあのばいきんまん(1988年~)の声ができ上ったんです。
ターゲットは3歳から幼稚園という事で、ぽろりはいい子で、ばいきんまんは悪者で同じ声は無理だと思って、潰した声でやってみようとオーディションを受けたら受かることが出来ました。
この声は喉に負担がかかりました、半年ぐらいは辛くて苦労しました。
私達の時代は声優さんというちゃんとしたジャンルは無くて、アルバイトみたいな形でした。
最近は3カ月ぐらいで番組が新しくなって行ってしまうが、10年、20年させていただけるキャラクターに出会えたことはとっても大事で、私にとってもいいチャンスでした。
3歳のころから児童劇団に入って、4歳、5歳の時にラジオドラマ「フクちゃん」の相棒のキヨちゃん役をやりました。
セリフは祖父から言葉を教えてもらいました。
番組が終わった時は小学5年生でした。
その後、TVの子供番組にもださせてもらいました。
そのうちの昭和30年ぐらいから、外国映画の吹き替えが来るようになり、アニメがあり、声のほうをさせてもらうようになりました。
失敗すると最初からやり直しで、よく先輩から怒られ、怖くて震えてしまいました。(中学1年の頃)
洋画は「我が家はいっぱい」というアメリカのホームドラマが最初でした。
中学から祖父母の持っているアパートに一人で暮らしていました。
高校に上がるときに祖父が貯金通帳をだして、好きなように使いなさいと言う事で、大学には行きたくなかったし、芝居もどうかと思って、店でもやって生活しようと思いました。(高校1年)
高校1年から水商売(バーテン)をアルバイトでやって、弾き語りをやりました。
朝までバイトやって、学校にいって寝てました。
卒業後、新宿の2丁目でスナックの店をやりました。
お金が不足していたが、バイト先の常連から無担保でお金を貸してくれました。
借金を返す間の3年ぐらいそのゲイバーをやっていましたが、凄いいい経験、勉強をしました。
借金も返せたので役者が集まる様な店にしたが、1年で店が潰れてしまいました。(22~23歳)
その頃今の社長と知り合って、声の仕事を重点的にするようになりましたが、声の仕事は嫌いだった。(声はアルバイトという様な思いが有った)
役者として生きたいと言う思いはあった。
結婚を24歳の時にしましたが一番お金が無い時でしたが、弾き語りのアルバイトでなんとか食っていくだけのことは出来ました。
弾き語りを辞めて仕事をしようとしているうちに、仕事が舞い込むようになってきた。
仲間は沢山いたが、相談する様な相手がいないことに気付いた、それがショックだった。
社長(兼マネージャー)が一緒にやろうよと、拾ってもらいました。
ぽろりをやる様になり、歌も好きだったので10年間で2000曲近く歌わしてもらいました。
作曲した方がピアノを弾いて、歌を覚えてレコーディングをしたり、凄くいい勉強になりました。
お母さんと一緒は録音だったが、子供のリアクションができなくて、週に2回は生でやって、生だと臨場感があって面白いです。
全部現場 人に依って色々教えてもらいました。
ものを作るのに、物凄い人数のスタッフがいて、物凄い手間をかけて番組ができ上るわけですが、そのプロセスが面白いと思う。
番組芝居などはジグソーパズルの様にピース1個、1個が一つ一つ積み上げて出来てくるが、最後に出来ないピースが有り、お客さんが持ってくるピースがあって、これが最後にお客さんの拍手をもらってパチーンとピースが入る瞬間が有るが、一回かそこらしかないと思うが、又作ってみたいと思う、それは色んなものに共通していると思う。
全部に認めてもらおうとか、自分の事を判ってもらおうとか、と言うのは不可能だと思う。
オーディションで10人判ってくれないかもしれないが、ドアの裏にいる11人目がいいと思ってくれるかもしれない、それを信じることだと思います。
それが何かをつくって行ったり、何かをするうえでは力になる。
必ず誰かが、どこかで見ている、という事だと思います。
2016年9月3日土曜日
松下宗柏(長興寺住職) ・迷いの人生 白隠に出会う
松下宗柏(長興寺住職) ・迷いの人生 白隠に出会う
68歳、大学生の時、人生に迷った末に座禅に出会い、会社勤めを2年ほどした後、仏の道に入りました。
長興寺の住職になったのは 35歳の時、それは江戸時代の中ごろ沼津で生まれた高僧白隠慧鶴の導きだったと言います。
白隠はだるま大師の肖像をはじめ、おびただしい数の絵や墨蹟を残しています。
それは市井の人々に仏の道を判り易く説こうとした白隠の努力の証です。
人生迷った末に偉大な禅僧と出会ったと語る松下さんに伺います。
旧東海道の13番目の宿場町で原という宿場町でした、ここで白隠禅師が生まれて育った。
11歳の時に母親に連れられて地獄絵を見せられて、因果の道理を諭された。
自分の蒔いた種の通りに花が咲き、自分の行いによってその後結果がでると言う話でした。
感受性の強い子だったので、因果の道理における地獄からの脱出が発心、テーマだった。
白隠は自ら地獄に身を置いて衆生を救う菩薩道こそが、天の道だと説いたのです。
仏の教えを説くためにしたためた墨蹟や禅画は合わせて1万点を越えるとも言われています。
庶民向けにはユーモラスな絵が沢山あります。(「すたすた坊主」 など)
街中を走って人の為世のために働きなさいと言うメッセージを込めていると思います。
菩薩道の実践をするんだと言う事を強く学びました。
お金、地位、名声とかではなくて、先ず根本を抑えなさい、そうして逆にそういうものを活かしなさい、そういうものが白隠禅師です。
昭和23年鹿児島県で産まれ、父方の祖母は熱心にお経を唱えましたが、自分自身は仏教に無関心なまま育ちました。
1961年、12歳の時キリスト教系の中高一貫校ラ・サール学園に入学。
開拓者精神、家族精神 才能を与えられた子供たちなんだから才能を磨いて社会の為に奉仕しなさいと言う事が印象に残っています。
高校2年の時に、点数を取るための勉強しかしていないと、本当の勉強とはこれでいいのかと、ふっと立ち止まって考えてしまって、心のバランスがおかしくなって夜も眠れなくなってしまいました。
霧島にいった時に、同校中学1年生を迎えた時に色々準備をして、済んで終わってみると心と体のバランスが取れてしまって、抜けてしまった。
1967年東京外国語大学の英米語学科に入学するが、2年の時には学生運動が激しさを増し、時代の流れに翻弄されることになりました。
ベトナム戦争反対のデモなどにも参加しました。
学生が内ゲバで内部抗争が始まってしまって、終息してゆく。
友達もばらばらになってしまって、寂しさ、虚しさを切実に感じました(無常観)
上野あたりを散歩していると、茶道の教授などの看板が有り、茶の湯の世界に飛び込み、作法の稽古を重ねることが自分自身を見つめ直す良い機会になりました。
或るお茶会で禅の専門道場龍沢寺の中川宋淵さんに出会いました。
どっしりとしていて深い静けさの有る今までに日本人に無い人でした。
1973年大学を卒業したあと、日本貿易振興会に就職し、茶道、座禅会に通い続ける。
海外PR課の同期生が、私は駄目なのでフランスから来た記者への対応を松下してほしいと言われた。
お茶の話、禅の話をしたがそんな話は退屈で、貴方自身の話はない、と言われてしまった。
急所を突かれた思いで愕然としてしまった。
中川老師と鍋をいっしょに突っつく事になり、「悟りは誰でも出来るものなのでしょうか?」と聞きました。
「もちろんだが心掛け次第で誰にでも悟れます」、と言われた。
本当に悟りがほしかったら死ぬ気で来なさいと言われた。
1974年6月 初めて龍沢寺に行く。
鈴木宗忠さん 龍沢寺の住職で後に師匠になる人に出会う。
厳しくてもう二度と来ないと思ったが、東京駅に来た時に、皇居の緑が輝いて見えて、同じ景色なのに感じて、縁切りができなくなってしまった。
本格的に禅の修行をしようと思って、仕事を辞め、両親の反対を押し切って修行するが(27歳)容易ではなかった。
「無字の公案」が老師から与えられたがさっぱり手がつかなかった、2年ぐらい駄目だった。
犬にも仏性がありますか?と言う質問に対して、趙州和尚は「無」と一言答えたと言う話ですが。(本来は有だと思ったが)
判らず荷物を纏めて帰ろうかなと3~4回は思いました。
白隠は中国から伝わってきた数多くの公案を日本人にも判り易い様に整理して体系立てました。
公案を通して白隠と向き合う様になりました。
山田無文という老師に参禅した。(助けてほしいという思い)
「無字を判らんやつは一生迷い続けるであろう」と言われた。
自分が無くなるという事 自分が無くなると言う事に気がつく事。(今まで体験しなかったこと)
最初の公案が解けてからは迷いが取れ、ひたすら精進する日々が続いた。
龍沢寺住職の鈴木宗忠さんが白隠の地元 白隠のゆかりの寺長興寺の住職になることを打診し、住職になることになることをひきうけます。(35歳)
英語が武器なので地元の子供に英語を教えれば、地元の人も信頼してくれるようになると言われました。
友達になればいいと思って、子供たちと仲良くなりました。
子供たちに座禅会はどうというと、やりたいと言うわけです。
毎週やるようになって、面白いことだと友達を誘ってくる。
そうすると子供を通じて、親、祖父母なども関心を抱いて伝搬してゆく。
いまはその子供達は40歳台になっている。
「泣き相撲大会」は25年になります。
心の支えになって道が開けることは人生の大切なポイントだと思います。
徳を積む、人の為に尽くす、人の為のお世話をする、陰徳が無いと道が開けないと言う事が、白隠禅師の教えです。
人間社会が平和になること、活発に生きていく事が出来ればな、という思いはあります。
精進を続けなさい、歩み続けなさい、菩提心、すなわち社会に還元しなさいという言う事を白隠は言っています。
68歳、大学生の時、人生に迷った末に座禅に出会い、会社勤めを2年ほどした後、仏の道に入りました。
長興寺の住職になったのは 35歳の時、それは江戸時代の中ごろ沼津で生まれた高僧白隠慧鶴の導きだったと言います。
白隠はだるま大師の肖像をはじめ、おびただしい数の絵や墨蹟を残しています。
それは市井の人々に仏の道を判り易く説こうとした白隠の努力の証です。
人生迷った末に偉大な禅僧と出会ったと語る松下さんに伺います。
旧東海道の13番目の宿場町で原という宿場町でした、ここで白隠禅師が生まれて育った。
11歳の時に母親に連れられて地獄絵を見せられて、因果の道理を諭された。
自分の蒔いた種の通りに花が咲き、自分の行いによってその後結果がでると言う話でした。
感受性の強い子だったので、因果の道理における地獄からの脱出が発心、テーマだった。
白隠は自ら地獄に身を置いて衆生を救う菩薩道こそが、天の道だと説いたのです。
仏の教えを説くためにしたためた墨蹟や禅画は合わせて1万点を越えるとも言われています。
庶民向けにはユーモラスな絵が沢山あります。(「すたすた坊主」 など)
街中を走って人の為世のために働きなさいと言うメッセージを込めていると思います。
菩薩道の実践をするんだと言う事を強く学びました。
お金、地位、名声とかではなくて、先ず根本を抑えなさい、そうして逆にそういうものを活かしなさい、そういうものが白隠禅師です。
昭和23年鹿児島県で産まれ、父方の祖母は熱心にお経を唱えましたが、自分自身は仏教に無関心なまま育ちました。
1961年、12歳の時キリスト教系の中高一貫校ラ・サール学園に入学。
開拓者精神、家族精神 才能を与えられた子供たちなんだから才能を磨いて社会の為に奉仕しなさいと言う事が印象に残っています。
高校2年の時に、点数を取るための勉強しかしていないと、本当の勉強とはこれでいいのかと、ふっと立ち止まって考えてしまって、心のバランスがおかしくなって夜も眠れなくなってしまいました。
霧島にいった時に、同校中学1年生を迎えた時に色々準備をして、済んで終わってみると心と体のバランスが取れてしまって、抜けてしまった。
1967年東京外国語大学の英米語学科に入学するが、2年の時には学生運動が激しさを増し、時代の流れに翻弄されることになりました。
ベトナム戦争反対のデモなどにも参加しました。
学生が内ゲバで内部抗争が始まってしまって、終息してゆく。
友達もばらばらになってしまって、寂しさ、虚しさを切実に感じました(無常観)
上野あたりを散歩していると、茶道の教授などの看板が有り、茶の湯の世界に飛び込み、作法の稽古を重ねることが自分自身を見つめ直す良い機会になりました。
或るお茶会で禅の専門道場龍沢寺の中川宋淵さんに出会いました。
どっしりとしていて深い静けさの有る今までに日本人に無い人でした。
1973年大学を卒業したあと、日本貿易振興会に就職し、茶道、座禅会に通い続ける。
海外PR課の同期生が、私は駄目なのでフランスから来た記者への対応を松下してほしいと言われた。
お茶の話、禅の話をしたがそんな話は退屈で、貴方自身の話はない、と言われてしまった。
急所を突かれた思いで愕然としてしまった。
中川老師と鍋をいっしょに突っつく事になり、「悟りは誰でも出来るものなのでしょうか?」と聞きました。
「もちろんだが心掛け次第で誰にでも悟れます」、と言われた。
本当に悟りがほしかったら死ぬ気で来なさいと言われた。
1974年6月 初めて龍沢寺に行く。
鈴木宗忠さん 龍沢寺の住職で後に師匠になる人に出会う。
厳しくてもう二度と来ないと思ったが、東京駅に来た時に、皇居の緑が輝いて見えて、同じ景色なのに感じて、縁切りができなくなってしまった。
本格的に禅の修行をしようと思って、仕事を辞め、両親の反対を押し切って修行するが(27歳)容易ではなかった。
「無字の公案」が老師から与えられたがさっぱり手がつかなかった、2年ぐらい駄目だった。
犬にも仏性がありますか?と言う質問に対して、趙州和尚は「無」と一言答えたと言う話ですが。(本来は有だと思ったが)
判らず荷物を纏めて帰ろうかなと3~4回は思いました。
白隠は中国から伝わってきた数多くの公案を日本人にも判り易い様に整理して体系立てました。
公案を通して白隠と向き合う様になりました。
山田無文という老師に参禅した。(助けてほしいという思い)
「無字を判らんやつは一生迷い続けるであろう」と言われた。
自分が無くなるという事 自分が無くなると言う事に気がつく事。(今まで体験しなかったこと)
最初の公案が解けてからは迷いが取れ、ひたすら精進する日々が続いた。
龍沢寺住職の鈴木宗忠さんが白隠の地元 白隠のゆかりの寺長興寺の住職になることを打診し、住職になることになることをひきうけます。(35歳)
英語が武器なので地元の子供に英語を教えれば、地元の人も信頼してくれるようになると言われました。
友達になればいいと思って、子供たちと仲良くなりました。
子供たちに座禅会はどうというと、やりたいと言うわけです。
毎週やるようになって、面白いことだと友達を誘ってくる。
そうすると子供を通じて、親、祖父母なども関心を抱いて伝搬してゆく。
いまはその子供達は40歳台になっている。
「泣き相撲大会」は25年になります。
心の支えになって道が開けることは人生の大切なポイントだと思います。
徳を積む、人の為に尽くす、人の為のお世話をする、陰徳が無いと道が開けないと言う事が、白隠禅師の教えです。
人間社会が平和になること、活発に生きていく事が出来ればな、という思いはあります。
精進を続けなさい、歩み続けなさい、菩提心、すなわち社会に還元しなさいという言う事を白隠は言っています。
2016年9月2日金曜日
筒井宣政(医療機器メーカー会長) ・娘が遺したものづくりの心
筒井宣政(医療機器メーカー会長) ・娘が遺したものづくりの心
愛知県 名古屋市生まれ 75歳 もともと樹脂加工の会社を経営していました。
生まれた次女が重い心臓病が有り、娘を救いたいと言う思いから、医療機器メーカーを自ら興し、心臓病の治療で使われるバルーンカテーテルの開発に取り組みました。
苦労の末開発は成功しましたが、次女は亡くなりました。
筒井さんが娘と共に開花させたもの作りの心とは何か、伺いました。
優れた企業家が集う世界大会に出場、一部には企業のノーベル賞と言われている。
日本とは全然雰囲気が違う、ヨーロッパの雰囲気の中で頂けました。
どう製品が社会に貢献しているのか、利益追求、売上だけではなくて皆立派な方ばかりがでてこられています。
何としても娘を治したいと言う事と、かならず安全なもの、いいものを作る、利益を度外視してやったのが基本になりました。
バルーンカテーテル、物凄く簡易的に、心筋梗塞、心不全でたおれられた患者さんを物凄く簡易に助けられて、一時的に助けることができる、救命救急部というカテーテルです。
幹動脈が詰まった患者さんを心筋梗塞と言いますが、心筋梗塞になると段々と動かなくなるので、足から入れて、心臓の鼓動に合わせて、心臓を次の動きをする役目を楽にできるようにする二大効果によって心臓を助けるカテーテルです。
大学卒業後、父の経営する樹脂加工の会社に入りました。
ホース、テープ、ロープ、パイプとかを作る会社でした。
入社後1年半で結婚して新婚旅行から帰ってから、大きな負債が有ることを父から知らされた。
秋頃にはその7倍の大きな負債が発生して、その当時の利益で返済すると72年と5カ月かかると言う計算で膨大な借金でした。
商社などに儲かる仕事はないかと聞いた中に、アフリカの女性の頭の毛を縛る紐を作ると物凄く売れると聞いて、研究開発の末、良い頭の毛を縛る紐を開発したが、昭和41~42年上場会社がつぶれて景気が良くなく、私自身が行ければ応援すると言う話だったが、英語が殆どしゃべれなかったが、半年過ぎると何とか話せるようになって単身アフリカに飛んで行きました。
一緒になって踊ったり食べたりして、いい仲間になってそれがきっかけで仕事の事に話が及び、マーケットを一緒に回って、凄く好評で5年分の生産能力の注文を抱えて日本に戻りました。
広い土地に新たに工場をつくって、売って売って売りまくって、7年で負債を全て完済しました。
次女のよしみが生まれたのは借金が発生し始めた頃でした。
当時はおそらく3日で亡くなるのではと言われ、3日もったら1週間もたない、1週間もったら1カ月もたない、という事で最初から死の宣告を受けた様な感じで、心臓が7か所悪くて、あてはまる病名が無く、合併症の多い病気でした。
何としても手術をして治したいと思ったが、自費でなければ行けなくて、1000万円どうしても必要で、日本では治せなくてアメリカ、ミネソタの大学にということになり、2000数百万円迄貯めましたが、7か所ある心臓の悪い所を一遍に治さないと駄目だと言う事で不可能だと言われた。
手術は思いとどまり、温存する事にしました。
妻が貯めたお金をそういう病気にならない様に研究する施設、なってもそれを治していただく研究施設に寄付するように言われた。
必死に貯めてきたお金を寄付することは考えていなかった。
数か月、やっぱり妻の言う事にしようと思って、妻に主治医に聞いて見るように言ったが、国立大学だったら大蔵省に寄付金が入ってしまって、後で大学に戻るがどこの部門に戻るか判らず、私立大学だったらという事で私立大学に相談したら、すぐ返答できないと言う事だった。
先生から夫婦で来てくださいと言う事で、これだけのお金だったら人工心臓の研究をしたら、10年分ぐらいの研究費に充てられ、素晴らしい理想的な人工心臓ができるかもしれない、出来なくても業界の発展に物凄く寄与できる、寄与できなくても御両親はそのことに使いきれば御満足いくのではないかと凄くいいアドバイスを得まして、やってみようと思いました。
医局も心臓外科医も協力しますとのことだった。
いざ始めると凄く大変だった。
医学の知識、実験をするので獣医の医学の知識、発がん性とか毒性とかの知識、流体力学、高分子学、機械ともマッチさせるのに電気、物理から全く判らないので、全くの素人が専門の学会に行ったり10年掛かって勉強して、沢山恥も掻きました。
聞いたら教えてくれて、もっと専門用語で言われたりした。
趣旨を説明して、熱意が伝わって皆さんと物凄く親しくなれました。
そんな中で人工心臓の開発をして行った。
東大、阪大などは国家プロジェクトでどんどんお金は出るが、物凄くお金が掛かる事は知らなかった。
作り方は東大型、阪大型とは違った凄いいいものを作って動物実験をやったが良かった。
しかしそこまでに8億円使ってしまった。(補助金、借入、自分お金など)
動物実験を終わるまでに100億円、人間の治験を終わって人間に使えるようにするのにはざっと1000億円掛かってしまう。
例え出来たとしても、それを返す原資になる市場が無いので、私には不可能だった。
人工心臓の為に読んでいた論文の中に、心臓を助けるカテーテル (IASP)アメリカでしかない。
日本人のサイズにもあっていないし、事故が多くて多い時には5%位が亡くなり、平均でも3.2%。
これを何とかしないといけないと思って、カテーテルは会社でホース、パイプの技術を利用できると思った。
市場がアメリカからの輸入が4000~5000本あり、1本で40万円で売れていた。
そのうちの1割としても、2億位円の売り上げが有り、これをやればいいと思った。
大学としては大反対だった。(人工心臓、お金の問題など)
当時超一流大学(2校)と日本の大企業が5億位円使ってとうとうカテーテルが出来なかったので、私には絶対できないと先生から言われて、何が何でもやってみようと思った。
日本人の体格に合ったカテーテルが1年半で完成しました。
使ってもらう様に教授に言ったら拒否されてしまって、1年通い続けたが出入り禁止になってしまった。
肝臓、腎臓の間にバルーンを置くのが一番いいので、アメリカのものだと長さが大きくて下に行きすぎてしまう。
その長さの計測、血管の太さ、身長体重を測れば相関関係がでるのではないかと思った。
出入り禁止になってから半年後に行ったが怒られてしまって、今回は別の話で来ましたと、こういう事で研究をしませんかと言ったら、教授がハッと気付いた様で若手の医者と一緒にやる様に言われて、その先生もピンと来たようで、合併症の起こらないカテーテルをつくって、14施設で安全性を確かめて、学会でバーンと発表して厚生省の許可も取り、一遍に評判がでて日本に我が社ありという事で評判になり急速に名前が売れて使っていただく様になりました。
佳美(よしみ)は高等学校までは非常に元気でしたが、大学が郊外の山にあるので、彼女には負担がかかるので、大学には行かないでうちの会社の事務の手伝いをしてもらう事にしました。
10億円近いお金を返さなくては行けなくて、また売れたよと言うと「お父さん又一人命を救う事が出来たのね」と娘からいわれました。
これは救命救急具であって、そのことは娘には言いづらかった。
言ったら、「お父さんとお母さんが私の病気の事をきっかけに、そいういう人の命を救う物をつくって呉れて佳美は満足しているし、誇りに思っている」と言ってくれて物凄くそれがうれしかった。
私は借金返済のお金の亡者みたいだったのが、それが娘の気持ちが私の方に移ってきて、いいものさえ作れば信用を得て売れてゆく。
兎に角いいものを相手の身になって作ると言う事を学びました。
1500本売れるようになって、1500人の命を救って、それを見届けるように娘は平成3年になくなりました。
よしみが残したもの作りの心、一人でも多くの命を救う、それが一番大きなことだと思います。
そのためには限りない好奇心、努力、情熱、ネットワークなどを作らないといけない。
一人でも多くの命を救う、を会社の理念にしている。
愛知県 名古屋市生まれ 75歳 もともと樹脂加工の会社を経営していました。
生まれた次女が重い心臓病が有り、娘を救いたいと言う思いから、医療機器メーカーを自ら興し、心臓病の治療で使われるバルーンカテーテルの開発に取り組みました。
苦労の末開発は成功しましたが、次女は亡くなりました。
筒井さんが娘と共に開花させたもの作りの心とは何か、伺いました。
優れた企業家が集う世界大会に出場、一部には企業のノーベル賞と言われている。
日本とは全然雰囲気が違う、ヨーロッパの雰囲気の中で頂けました。
どう製品が社会に貢献しているのか、利益追求、売上だけではなくて皆立派な方ばかりがでてこられています。
何としても娘を治したいと言う事と、かならず安全なもの、いいものを作る、利益を度外視してやったのが基本になりました。
バルーンカテーテル、物凄く簡易的に、心筋梗塞、心不全でたおれられた患者さんを物凄く簡易に助けられて、一時的に助けることができる、救命救急部というカテーテルです。
幹動脈が詰まった患者さんを心筋梗塞と言いますが、心筋梗塞になると段々と動かなくなるので、足から入れて、心臓の鼓動に合わせて、心臓を次の動きをする役目を楽にできるようにする二大効果によって心臓を助けるカテーテルです。
大学卒業後、父の経営する樹脂加工の会社に入りました。
ホース、テープ、ロープ、パイプとかを作る会社でした。
入社後1年半で結婚して新婚旅行から帰ってから、大きな負債が有ることを父から知らされた。
秋頃にはその7倍の大きな負債が発生して、その当時の利益で返済すると72年と5カ月かかると言う計算で膨大な借金でした。
商社などに儲かる仕事はないかと聞いた中に、アフリカの女性の頭の毛を縛る紐を作ると物凄く売れると聞いて、研究開発の末、良い頭の毛を縛る紐を開発したが、昭和41~42年上場会社がつぶれて景気が良くなく、私自身が行ければ応援すると言う話だったが、英語が殆どしゃべれなかったが、半年過ぎると何とか話せるようになって単身アフリカに飛んで行きました。
一緒になって踊ったり食べたりして、いい仲間になってそれがきっかけで仕事の事に話が及び、マーケットを一緒に回って、凄く好評で5年分の生産能力の注文を抱えて日本に戻りました。
広い土地に新たに工場をつくって、売って売って売りまくって、7年で負債を全て完済しました。
次女のよしみが生まれたのは借金が発生し始めた頃でした。
当時はおそらく3日で亡くなるのではと言われ、3日もったら1週間もたない、1週間もったら1カ月もたない、という事で最初から死の宣告を受けた様な感じで、心臓が7か所悪くて、あてはまる病名が無く、合併症の多い病気でした。
何としても手術をして治したいと思ったが、自費でなければ行けなくて、1000万円どうしても必要で、日本では治せなくてアメリカ、ミネソタの大学にということになり、2000数百万円迄貯めましたが、7か所ある心臓の悪い所を一遍に治さないと駄目だと言う事で不可能だと言われた。
手術は思いとどまり、温存する事にしました。
妻が貯めたお金をそういう病気にならない様に研究する施設、なってもそれを治していただく研究施設に寄付するように言われた。
必死に貯めてきたお金を寄付することは考えていなかった。
数か月、やっぱり妻の言う事にしようと思って、妻に主治医に聞いて見るように言ったが、国立大学だったら大蔵省に寄付金が入ってしまって、後で大学に戻るがどこの部門に戻るか判らず、私立大学だったらという事で私立大学に相談したら、すぐ返答できないと言う事だった。
先生から夫婦で来てくださいと言う事で、これだけのお金だったら人工心臓の研究をしたら、10年分ぐらいの研究費に充てられ、素晴らしい理想的な人工心臓ができるかもしれない、出来なくても業界の発展に物凄く寄与できる、寄与できなくても御両親はそのことに使いきれば御満足いくのではないかと凄くいいアドバイスを得まして、やってみようと思いました。
医局も心臓外科医も協力しますとのことだった。
いざ始めると凄く大変だった。
医学の知識、実験をするので獣医の医学の知識、発がん性とか毒性とかの知識、流体力学、高分子学、機械ともマッチさせるのに電気、物理から全く判らないので、全くの素人が専門の学会に行ったり10年掛かって勉強して、沢山恥も掻きました。
聞いたら教えてくれて、もっと専門用語で言われたりした。
趣旨を説明して、熱意が伝わって皆さんと物凄く親しくなれました。
そんな中で人工心臓の開発をして行った。
東大、阪大などは国家プロジェクトでどんどんお金は出るが、物凄くお金が掛かる事は知らなかった。
作り方は東大型、阪大型とは違った凄いいいものを作って動物実験をやったが良かった。
しかしそこまでに8億円使ってしまった。(補助金、借入、自分お金など)
動物実験を終わるまでに100億円、人間の治験を終わって人間に使えるようにするのにはざっと1000億円掛かってしまう。
例え出来たとしても、それを返す原資になる市場が無いので、私には不可能だった。
人工心臓の為に読んでいた論文の中に、心臓を助けるカテーテル (IASP)アメリカでしかない。
日本人のサイズにもあっていないし、事故が多くて多い時には5%位が亡くなり、平均でも3.2%。
これを何とかしないといけないと思って、カテーテルは会社でホース、パイプの技術を利用できると思った。
市場がアメリカからの輸入が4000~5000本あり、1本で40万円で売れていた。
そのうちの1割としても、2億位円の売り上げが有り、これをやればいいと思った。
大学としては大反対だった。(人工心臓、お金の問題など)
当時超一流大学(2校)と日本の大企業が5億位円使ってとうとうカテーテルが出来なかったので、私には絶対できないと先生から言われて、何が何でもやってみようと思った。
日本人の体格に合ったカテーテルが1年半で完成しました。
使ってもらう様に教授に言ったら拒否されてしまって、1年通い続けたが出入り禁止になってしまった。
肝臓、腎臓の間にバルーンを置くのが一番いいので、アメリカのものだと長さが大きくて下に行きすぎてしまう。
その長さの計測、血管の太さ、身長体重を測れば相関関係がでるのではないかと思った。
出入り禁止になってから半年後に行ったが怒られてしまって、今回は別の話で来ましたと、こういう事で研究をしませんかと言ったら、教授がハッと気付いた様で若手の医者と一緒にやる様に言われて、その先生もピンと来たようで、合併症の起こらないカテーテルをつくって、14施設で安全性を確かめて、学会でバーンと発表して厚生省の許可も取り、一遍に評判がでて日本に我が社ありという事で評判になり急速に名前が売れて使っていただく様になりました。
佳美(よしみ)は高等学校までは非常に元気でしたが、大学が郊外の山にあるので、彼女には負担がかかるので、大学には行かないでうちの会社の事務の手伝いをしてもらう事にしました。
10億円近いお金を返さなくては行けなくて、また売れたよと言うと「お父さん又一人命を救う事が出来たのね」と娘からいわれました。
これは救命救急具であって、そのことは娘には言いづらかった。
言ったら、「お父さんとお母さんが私の病気の事をきっかけに、そいういう人の命を救う物をつくって呉れて佳美は満足しているし、誇りに思っている」と言ってくれて物凄くそれがうれしかった。
私は借金返済のお金の亡者みたいだったのが、それが娘の気持ちが私の方に移ってきて、いいものさえ作れば信用を得て売れてゆく。
兎に角いいものを相手の身になって作ると言う事を学びました。
1500本売れるようになって、1500人の命を救って、それを見届けるように娘は平成3年になくなりました。
よしみが残したもの作りの心、一人でも多くの命を救う、それが一番大きなことだと思います。
そのためには限りない好奇心、努力、情熱、ネットワークなどを作らないといけない。
一人でも多くの命を救う、を会社の理念にしている。
2016年9月1日木曜日
玄侑宗久、柳美里、和合亮一(作家、詩人)・ふくしまにまなぶ ふくしまでまなぶ
玄侑宗久、柳美里、和合亮一(作家、詩人) ・ふくしまにまなぶ ふくしまでまなぶ
トークイベント
震災と東京電力福島第一原発の事故から間もなく5年半、福島県に住まいを構える3人は今何を語るのでしょうか?
発起人 和合亮一さん
和合:文学の立場で先ず皆で語り合って、それをこれから広げて行きたいと願っています。
玄侑:一旦思ったことを、改めてもう一回ちゃんと情報を得て思い直すことが、今帰還困難区域とか戻れるようにあちこちなってくるにあたって、新たな情報と新たな思いが必要じゃないのかなあと思います。
柳:あえて南相馬に来た理由、震災から一か月後から通い始めて、地元の臨時災害放送局のFM番組で地元の方と話をする内容ですが、いろんな人間関係ができてきて、友情をはぐくんで来るうちに、地元の方の苦楽が、暮らしてみなければ判らないのかなあと思って家族で移住する事にしました。
柳:2011年4月21日に警戒区域に設定する前に歩きました。
三春に向かって滝桜を見に行って、そのあとに玄侑さんのお寺に樹齢450年ぐらいの紅枝垂れ桜が有ると聞いたので見に行きたいと思ったが迷ってしまった。
中学生の女の子に聞いたら黙って彼女が歩きだして付いて行ったら、初めて口を聞いて玄侑さんのお寺ですと言って、帰ってゆきました。
南相馬に住み始めて1年半になります。
それまでは鎌倉に住んでいましたが、漁港がそばにあるんですが、南相馬では魚屋さんに皆皿をもって並んでいて、眼の前で切ってくれる
手間がかかるだろうにと思うが、この街は舌が肥えているから手が抜けないと言っていました。
洋服屋さんでも手間をかけることをするし、経済原則ではない繋がりの中で街が形成されている。
残っている店は志が高い、いいものをつくっています。
7月12日に避難指示が解除されたがなかなか 1割ぐらいではないでしょうか。
玄侑:一番最初に詳しいことを学ぶ前に、出るのか出ないのかという決断を迫られて、出る結論をだした人と、残ることに決めた人がいて、自分が出した結論は尊重したいと言う事で、確認バイアスというらしいが、出した結論を肯定する様な情報をそれぞれ集めてゆく。
どんどん分断してしまったというものを、もう一度思い直す、一旦こうだと思ったことをほどいてかんがえなおすということが今求められているのではないかと言う気がする。
放射線の専門家たちにもう一回登場してもらいたいと思う。
震災直後の状況と、5年がたってその思い。
当初は本当に判らないと言う事が有って第一原発は爆発するのではないのか、というようなおびえの中でどうしたらいいのという結論をだしたが、今は落ち着いて放射線というものとちゃんと向き合えるんじゃないかと思います。(はっきりいって忘れて暮らしているが)
和合:震災後から福島の話、ツイッターで書いているものを朗読させて頂いたが、最近は震災の話をするにしても希望を語る様な、そんな話をしてほしいと最近言われるようなことも多くなりました。
柳さんの「ねこのおうち」 どんなきっかけで纏めようとしたのでしょうか。
柳:書くまでに時間がかかっていて、最初の2編は8年前 震災前、震災をはさんで後の2編を書きました。
地元で臨時災害放送局の南相馬ひばりエフエムの「柳美里のふたりとひとり」という番組のパーソナリティーを担当していて、220回に近づいているので、毎回二人に出て頂くので440人の人に話を伺っている。
津波に遭われて家族を失ったり、家財を失ったり、原発事故で仮設住宅に今もお住まいであるとか、そういう方に私の以前書いたもの、なかなか読んでくださいとは言い難かった。
今苦しんでいる人悲しんでいる人に渡せる物語を書きたいと思って書いたのが「ねこのおうち」なんです。
玄侑:「ねこのおうち」読みましたが、人間を扱うと誰の物語ということになるが、猫になるとどんな名前の猫がでてきても読み終わってしばらく経つと、命の話だなあという感じがする。
うちの山のところにも、虫たちがやけに出てきて、人間というよりもその頃、虫とかに目が行った。
小さな生き物に焦点が有る様になったのは震災以降です。
草はらに塩水がかかって虫は全部死んだのではないかと言っておる人達がいたが、蝉は減った気配はないし、コウロギが同期して鳴くのを聞いて全然死んでないと思って、強いなあと思ったことが大きかったと思います。
柳:私も小さなものに、目がぱっと合うんですね。
冷蔵庫の扉を開けた所に蚊が落ちていて、間違えて冷蔵庫に飛びこんだのかと思って、掌に乗せていたらもぞもぞしてきた。
蚊がいきを吹き返して、そとに飛びたたせた。
私は在日韓国人で父母も国を捨てて日本に来て各地を転々としたが、何故この場所に住んだんだろうと、すごく考えますし、逆に執着します。
玄侑:東日本大震災というのは阪神でも熊本でも起こっていない重大なことは、遺体が無いのに亡くなったものと思わなければいけないと言う、死亡届は遺体が無くても今回出せたわけですが、出さないと言う人がいまだに2500人以上いるんです。
これは異常な事態です、行方不明と変わらないわけです。
遺体を見ていない、触れていない、抱きしめていないと言うことなんだと思うんです。
柳:女川の方 お母さんがまだ見つからない、今見つかったら私の心が持たないから母は出てこないのではないかと、思っている、とおっしゃった言葉が残っています。
それを聞いた時にその前で泣きだしました。
その姿を見て彼女は泣いただけにしないでください、知ったと言う事には責任が伴いますよねとおっしゃった、その言葉は重く残っています。
除染、原発の終息作業にしても先の長い話なので、自分としてはなにができるだろうと言う風に考えるしかないが、書店ができないかなあと思っています。
土地の問題が有るが探しています。
買わなくても、ふらっと立ち読みでも出来る。(商売として成立させようとは思っていない)
私がいいと思う本をずーっと置くとかすると他県からも来るのではないかと思う。
2011年以前には無かったものが、出来たと言う風になればちょっと象徴ということになるのでは。
玄侑:荘子が好きで、これが自分だと思った自分をいかに壊してゆくか、いかにもう一回チャラにして組み立て直すのか、自分から自分を解脱する為の本だと思う。
何年も、前に思いこんだまま過ごすことって、物凄くもったいない。
もう一回チャラになる、改めて向き合う、そのことが大事だと思う。
行政、政府がやることは、避難計画を細かくすると言う事で、私達が震災を経て思ったことは結局直感だよなというか、二度と同じことは起こらないし、何のマニュアルも役に立たないし、そういう意味で一人、一人が持っている力をもっと信じたい。
現在あるほのかな気配、それを動物たちは感じて一早く非難したりするのを見て、人間もようやく気がつくが、どんどん直感を使わなくていい世界に行っている。
猫、虫とかが気になるのは、何のマニュアルも、計画もなく直感で生きていて、それがうらやましい。
直感を磨くと言う方向に行ってほしいと思っている。
和合:一番直感をあらためて感じたのは、20年詩を書いてきて震災を経験して、6日後に詩を書き始めて皆さんに読んでいただいたが、直感しかなかった。
沢山の方が涙を流している状況の中で直感だけが自分として立っているような印象が有りました。
柳:故郷という言葉は自分にとって重い言葉で、国の問題もありますし、私は南相馬に居を構えていて、生活の中で見る風景を愛しているし思い入れています。
原発事故以前の姿は知らないが、暮らしてみて、以前の美しさが良く見えるようになった。
それを作品にしてゆきたいし、街の一員として出来ることをしたいと思っていて本屋を思いつきました。
玄侑:私にとって故郷はやがて帰る場所なので、こういう私になる前の、命の本体、そこにいずれ帰るということはいつも意識します。
命が活発に働く事を邪魔しているのが、私、だから我々は私を無くすためにお経を唱えたり座禅したりしますが、命がうまく発揮できるように、私がいなくなるという時間を大事にしたいと思っている。
夢中になって何かをしているときには私は居なくなる。
それが故郷だと思っています。
孤独はつきものです、感じなさい、考えなさい、新しいことを思いきってやりなさい、新しいことしかこの震災は残らない、残せない、新しいことを思いきってやりなさい、新しいことを福島の皆で分かち合いながら発信してゆきましょう。
トークイベント
震災と東京電力福島第一原発の事故から間もなく5年半、福島県に住まいを構える3人は今何を語るのでしょうか?
発起人 和合亮一さん
和合:文学の立場で先ず皆で語り合って、それをこれから広げて行きたいと願っています。
玄侑:一旦思ったことを、改めてもう一回ちゃんと情報を得て思い直すことが、今帰還困難区域とか戻れるようにあちこちなってくるにあたって、新たな情報と新たな思いが必要じゃないのかなあと思います。
柳:あえて南相馬に来た理由、震災から一か月後から通い始めて、地元の臨時災害放送局のFM番組で地元の方と話をする内容ですが、いろんな人間関係ができてきて、友情をはぐくんで来るうちに、地元の方の苦楽が、暮らしてみなければ判らないのかなあと思って家族で移住する事にしました。
柳:2011年4月21日に警戒区域に設定する前に歩きました。
三春に向かって滝桜を見に行って、そのあとに玄侑さんのお寺に樹齢450年ぐらいの紅枝垂れ桜が有ると聞いたので見に行きたいと思ったが迷ってしまった。
中学生の女の子に聞いたら黙って彼女が歩きだして付いて行ったら、初めて口を聞いて玄侑さんのお寺ですと言って、帰ってゆきました。
南相馬に住み始めて1年半になります。
それまでは鎌倉に住んでいましたが、漁港がそばにあるんですが、南相馬では魚屋さんに皆皿をもって並んでいて、眼の前で切ってくれる
手間がかかるだろうにと思うが、この街は舌が肥えているから手が抜けないと言っていました。
洋服屋さんでも手間をかけることをするし、経済原則ではない繋がりの中で街が形成されている。
残っている店は志が高い、いいものをつくっています。
7月12日に避難指示が解除されたがなかなか 1割ぐらいではないでしょうか。
玄侑:一番最初に詳しいことを学ぶ前に、出るのか出ないのかという決断を迫られて、出る結論をだした人と、残ることに決めた人がいて、自分が出した結論は尊重したいと言う事で、確認バイアスというらしいが、出した結論を肯定する様な情報をそれぞれ集めてゆく。
どんどん分断してしまったというものを、もう一度思い直す、一旦こうだと思ったことをほどいてかんがえなおすということが今求められているのではないかと言う気がする。
放射線の専門家たちにもう一回登場してもらいたいと思う。
震災直後の状況と、5年がたってその思い。
当初は本当に判らないと言う事が有って第一原発は爆発するのではないのか、というようなおびえの中でどうしたらいいのという結論をだしたが、今は落ち着いて放射線というものとちゃんと向き合えるんじゃないかと思います。(はっきりいって忘れて暮らしているが)
和合:震災後から福島の話、ツイッターで書いているものを朗読させて頂いたが、最近は震災の話をするにしても希望を語る様な、そんな話をしてほしいと最近言われるようなことも多くなりました。
柳さんの「ねこのおうち」 どんなきっかけで纏めようとしたのでしょうか。
柳:書くまでに時間がかかっていて、最初の2編は8年前 震災前、震災をはさんで後の2編を書きました。
地元で臨時災害放送局の南相馬ひばりエフエムの「柳美里のふたりとひとり」という番組のパーソナリティーを担当していて、220回に近づいているので、毎回二人に出て頂くので440人の人に話を伺っている。
津波に遭われて家族を失ったり、家財を失ったり、原発事故で仮設住宅に今もお住まいであるとか、そういう方に私の以前書いたもの、なかなか読んでくださいとは言い難かった。
今苦しんでいる人悲しんでいる人に渡せる物語を書きたいと思って書いたのが「ねこのおうち」なんです。
玄侑:「ねこのおうち」読みましたが、人間を扱うと誰の物語ということになるが、猫になるとどんな名前の猫がでてきても読み終わってしばらく経つと、命の話だなあという感じがする。
うちの山のところにも、虫たちがやけに出てきて、人間というよりもその頃、虫とかに目が行った。
小さな生き物に焦点が有る様になったのは震災以降です。
草はらに塩水がかかって虫は全部死んだのではないかと言っておる人達がいたが、蝉は減った気配はないし、コウロギが同期して鳴くのを聞いて全然死んでないと思って、強いなあと思ったことが大きかったと思います。
柳:私も小さなものに、目がぱっと合うんですね。
冷蔵庫の扉を開けた所に蚊が落ちていて、間違えて冷蔵庫に飛びこんだのかと思って、掌に乗せていたらもぞもぞしてきた。
蚊がいきを吹き返して、そとに飛びたたせた。
私は在日韓国人で父母も国を捨てて日本に来て各地を転々としたが、何故この場所に住んだんだろうと、すごく考えますし、逆に執着します。
玄侑:東日本大震災というのは阪神でも熊本でも起こっていない重大なことは、遺体が無いのに亡くなったものと思わなければいけないと言う、死亡届は遺体が無くても今回出せたわけですが、出さないと言う人がいまだに2500人以上いるんです。
これは異常な事態です、行方不明と変わらないわけです。
遺体を見ていない、触れていない、抱きしめていないと言うことなんだと思うんです。
柳:女川の方 お母さんがまだ見つからない、今見つかったら私の心が持たないから母は出てこないのではないかと、思っている、とおっしゃった言葉が残っています。
それを聞いた時にその前で泣きだしました。
その姿を見て彼女は泣いただけにしないでください、知ったと言う事には責任が伴いますよねとおっしゃった、その言葉は重く残っています。
除染、原発の終息作業にしても先の長い話なので、自分としてはなにができるだろうと言う風に考えるしかないが、書店ができないかなあと思っています。
土地の問題が有るが探しています。
買わなくても、ふらっと立ち読みでも出来る。(商売として成立させようとは思っていない)
私がいいと思う本をずーっと置くとかすると他県からも来るのではないかと思う。
2011年以前には無かったものが、出来たと言う風になればちょっと象徴ということになるのでは。
玄侑:荘子が好きで、これが自分だと思った自分をいかに壊してゆくか、いかにもう一回チャラにして組み立て直すのか、自分から自分を解脱する為の本だと思う。
何年も、前に思いこんだまま過ごすことって、物凄くもったいない。
もう一回チャラになる、改めて向き合う、そのことが大事だと思う。
行政、政府がやることは、避難計画を細かくすると言う事で、私達が震災を経て思ったことは結局直感だよなというか、二度と同じことは起こらないし、何のマニュアルも役に立たないし、そういう意味で一人、一人が持っている力をもっと信じたい。
現在あるほのかな気配、それを動物たちは感じて一早く非難したりするのを見て、人間もようやく気がつくが、どんどん直感を使わなくていい世界に行っている。
猫、虫とかが気になるのは、何のマニュアルも、計画もなく直感で生きていて、それがうらやましい。
直感を磨くと言う方向に行ってほしいと思っている。
和合:一番直感をあらためて感じたのは、20年詩を書いてきて震災を経験して、6日後に詩を書き始めて皆さんに読んでいただいたが、直感しかなかった。
沢山の方が涙を流している状況の中で直感だけが自分として立っているような印象が有りました。
柳:故郷という言葉は自分にとって重い言葉で、国の問題もありますし、私は南相馬に居を構えていて、生活の中で見る風景を愛しているし思い入れています。
原発事故以前の姿は知らないが、暮らしてみて、以前の美しさが良く見えるようになった。
それを作品にしてゆきたいし、街の一員として出来ることをしたいと思っていて本屋を思いつきました。
玄侑:私にとって故郷はやがて帰る場所なので、こういう私になる前の、命の本体、そこにいずれ帰るということはいつも意識します。
命が活発に働く事を邪魔しているのが、私、だから我々は私を無くすためにお経を唱えたり座禅したりしますが、命がうまく発揮できるように、私がいなくなるという時間を大事にしたいと思っている。
夢中になって何かをしているときには私は居なくなる。
それが故郷だと思っています。
孤独はつきものです、感じなさい、考えなさい、新しいことを思いきってやりなさい、新しいことしかこの震災は残らない、残せない、新しいことを思いきってやりなさい、新しいことを福島の皆で分かち合いながら発信してゆきましょう。