玉村豊男(エッセイスト・ワイナリーオーナー)・ブドウ畑で、寝そべって(H28/4/7 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/04/blog-post_7.htmlをご覧ください。
2016年7月30日土曜日
2016年7月29日金曜日
岡 真理(京都大学大学院教授) ・人間の尊厳を問うパレスチナ文学(H28/2/9放送)
岡 真理(京都大学大学院教授) ・人間の尊厳を問うパレスチナ文学(H28/2/9放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/02/blog-post_9.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/02/blog-post_9.htmlをご覧ください。
2016年7月28日木曜日
絲山秋子(小説家) ・芥川賞作家、執筆姿を公開
絲山秋子(小説家) ・芥川賞作家、執筆姿を公開
群馬県高崎市在住 4月から前橋市内の書店で書斎のスペースをつくってもらい、絲山房と名付けて、仕事風景を公開しています。
人気作家の仕事の様子を見たり、直接あえて会話もできたりするという事で、遠くから駆け付ける人もいると言います。
絲山さんは大学卒業後、就職、営業畑で働いていましたが、躁鬱病を発症して休職、会社を休んで入院中にものを書く事に目覚めました。
退職後、2003年に「イッツオンリートーク」でデビューし文学界新人賞を受賞しました。
その後、順調に本を出版し、2006年「沖で待つ」で芥川賞を受賞しました。
最近、「小松とうさちゃん」、「薄情」など、立てつづけに長編を出版、精力的に仕事をしています。
公開書斎のこと、子供のころのことなどを伺いました。
朝の5時には起きます、忙しい時は夜中1時、2時には起きます。(夜は8時頃に寝ます)
書く時間は一番忙しい時は、6時間書いて、1時間休んで、6時間書いて、1時間半仮眠を取って、2日間ぐらいそうすると、大体のものは書けます。
集中力が途切れるのが嫌です。
ラジオ高崎、FM局で週に一遍、朝の5時45分から1時間の生放送を担当しています。
群馬県に住んで10年になります。
三方山に囲まれていて、綺麗な景色が見えることはリセットするので凄く気に入っています。
絲山房、手書きの仕事はたくさんあるので、喫茶店に持って行って作業する様な感じで、本屋さんの中で机をもらってやっています。
来て下さる方が、話がフリートークなので、その方の好きな色々な話が出来ます。
集中している時は、遠くから見守ってくれます。
本に囲まれると落ちつきます。
2016年1月に「小松とうさちゃん」 去年に12月に「薄情」、去年の10月に「街道(けいどう)を行ぐ」、1014年9月に「離陸」、1013年3月に「忘れられたワルツ」を出版。
「小松とうさちゃん」
小松さん、中年の非常勤講師が偶々知り合った女性に恋をするが、なかなか動きが良くない。
小松さんの飲み友達(宇佐美)さんが、小松さんの恋の御手伝いをするおじさん。
「薄情」
群馬県が舞台、色んな人が同じ街に住んでいて、地方都市に住む人の想いみたいなものが重なってゆく話。
「街道(けいどう)を行ぐ」(群馬弁) 写真集みたいなもの。
カメラマン、記者の人と一緒に回ってゆく、道、群馬の自然が好きで、ドライブプランになる様な本。
企画から自分でやり、計画をするのが楽しかった。
短編も多い。(30枚位で、書きやすい)
小編も(15枚位)あり、纏めるのが難しいが面白い。
作品の為に一番いい内容にするためには、100枚にした方がいい内容が有れば、一番良さをだすためには18枚になったりするが、妥協してはいけないと思う。
生まれは東京、あまりいい子ではなかったような気がする。
3人兄弟の末っ子、幼稚園の時に、「人間は何のために生きるか知っている?」と友達に聞いた事を覚えいる。(TVとかの受け売りだったと思うが)
「人間は真理の為に生きるんだよ」と、4歳の時に友達に言って、判りもしないのに、そういうことを言って後で恥ずかしいやら。
動物、馬が好きで馬事公苑に良く行っていましたし、動物の本も好きでした。
そのうち、ダーウィン、猿学の本だとか、小学生の頃読んで難しすぎるとは思いました。
年に500冊ぐらい読みました。
そのうち外国のものを読むようになって、文学を読むようになったのは中学になってからです。
作家になろうとは思わなかった。
高校時代からは手当たり次第に読むという事はしなくなり、一冊を100回読むとか、あまり読まなくなりました。
早稲田大学政経学部に入って、ゼミが農業経済で、3~4年になってやっと勉強し始めました。
住宅設備メーカに入社。
自分仕事が可視化出来る仕事がしたかったので、メーカーの営業にしました。
やりがいのある仕事でした。
人付き合いが不器用だったので、仕事を通して教えて頂く事が多かったです。
会社の都合で、転勤は多かったです。
全てが上手くいっている時に、鬱状態から、休職しているうちに躁鬱病になりました。(勤めて8年後 二回休職している)
35歳で退職。
入院している時に初めて暇つぶしに文章を書きました。
続けているうちに、フィクションを書く様になって、次が書きたくて、書きたくてしょうがなかった。
2003年 、「イッツ・オンリー・トーク」で第96回文學界新人賞を受賞、第129回芥川賞候補となる。
2004年「袋小路の男」で川端康成文学賞受賞。(歴代最短)
2005年「海の仙人」で芸術選奨文部科学大臣賞 「逃亡くそたわけ」で直木賞候補になる。
2006年「沖で待つ」 芥川賞候補になって3年後に受賞。
職人の様な感じで、腕を磨いて良いものをつくって出し続ける。
FM局での仕事は生き甲斐です、リアルタイムに一緒にいるということが凄く大事なことだと思っています。
メールを物凄く頂きます、家族のことを話して下さったり、職場のことを話してくだったり、そういうことが嬉しいです。
ウェブで「いとろく」というのを始めました。
六次産業から来ていて、生産者が流通から、販売まで行うが、小説家がやったらどうなるかという事で、ネットショップで新しい原稿をつくって、販売までするという事を始めています。
自由な意見の交換と、緊張感があります。
群馬県高崎市在住 4月から前橋市内の書店で書斎のスペースをつくってもらい、絲山房と名付けて、仕事風景を公開しています。
人気作家の仕事の様子を見たり、直接あえて会話もできたりするという事で、遠くから駆け付ける人もいると言います。
絲山さんは大学卒業後、就職、営業畑で働いていましたが、躁鬱病を発症して休職、会社を休んで入院中にものを書く事に目覚めました。
退職後、2003年に「イッツオンリートーク」でデビューし文学界新人賞を受賞しました。
その後、順調に本を出版し、2006年「沖で待つ」で芥川賞を受賞しました。
最近、「小松とうさちゃん」、「薄情」など、立てつづけに長編を出版、精力的に仕事をしています。
公開書斎のこと、子供のころのことなどを伺いました。
朝の5時には起きます、忙しい時は夜中1時、2時には起きます。(夜は8時頃に寝ます)
書く時間は一番忙しい時は、6時間書いて、1時間休んで、6時間書いて、1時間半仮眠を取って、2日間ぐらいそうすると、大体のものは書けます。
集中力が途切れるのが嫌です。
ラジオ高崎、FM局で週に一遍、朝の5時45分から1時間の生放送を担当しています。
群馬県に住んで10年になります。
三方山に囲まれていて、綺麗な景色が見えることはリセットするので凄く気に入っています。
絲山房、手書きの仕事はたくさんあるので、喫茶店に持って行って作業する様な感じで、本屋さんの中で机をもらってやっています。
来て下さる方が、話がフリートークなので、その方の好きな色々な話が出来ます。
集中している時は、遠くから見守ってくれます。
本に囲まれると落ちつきます。
2016年1月に「小松とうさちゃん」 去年に12月に「薄情」、去年の10月に「街道(けいどう)を行ぐ」、1014年9月に「離陸」、1013年3月に「忘れられたワルツ」を出版。
「小松とうさちゃん」
小松さん、中年の非常勤講師が偶々知り合った女性に恋をするが、なかなか動きが良くない。
小松さんの飲み友達(宇佐美)さんが、小松さんの恋の御手伝いをするおじさん。
「薄情」
群馬県が舞台、色んな人が同じ街に住んでいて、地方都市に住む人の想いみたいなものが重なってゆく話。
「街道(けいどう)を行ぐ」(群馬弁) 写真集みたいなもの。
カメラマン、記者の人と一緒に回ってゆく、道、群馬の自然が好きで、ドライブプランになる様な本。
企画から自分でやり、計画をするのが楽しかった。
短編も多い。(30枚位で、書きやすい)
小編も(15枚位)あり、纏めるのが難しいが面白い。
作品の為に一番いい内容にするためには、100枚にした方がいい内容が有れば、一番良さをだすためには18枚になったりするが、妥協してはいけないと思う。
生まれは東京、あまりいい子ではなかったような気がする。
3人兄弟の末っ子、幼稚園の時に、「人間は何のために生きるか知っている?」と友達に聞いた事を覚えいる。(TVとかの受け売りだったと思うが)
「人間は真理の為に生きるんだよ」と、4歳の時に友達に言って、判りもしないのに、そういうことを言って後で恥ずかしいやら。
動物、馬が好きで馬事公苑に良く行っていましたし、動物の本も好きでした。
そのうち、ダーウィン、猿学の本だとか、小学生の頃読んで難しすぎるとは思いました。
年に500冊ぐらい読みました。
そのうち外国のものを読むようになって、文学を読むようになったのは中学になってからです。
作家になろうとは思わなかった。
高校時代からは手当たり次第に読むという事はしなくなり、一冊を100回読むとか、あまり読まなくなりました。
早稲田大学政経学部に入って、ゼミが農業経済で、3~4年になってやっと勉強し始めました。
住宅設備メーカに入社。
自分仕事が可視化出来る仕事がしたかったので、メーカーの営業にしました。
やりがいのある仕事でした。
人付き合いが不器用だったので、仕事を通して教えて頂く事が多かったです。
会社の都合で、転勤は多かったです。
全てが上手くいっている時に、鬱状態から、休職しているうちに躁鬱病になりました。(勤めて8年後 二回休職している)
35歳で退職。
入院している時に初めて暇つぶしに文章を書きました。
続けているうちに、フィクションを書く様になって、次が書きたくて、書きたくてしょうがなかった。
2003年 、「イッツ・オンリー・トーク」で第96回文學界新人賞を受賞、第129回芥川賞候補となる。
2004年「袋小路の男」で川端康成文学賞受賞。(歴代最短)
2005年「海の仙人」で芸術選奨文部科学大臣賞 「逃亡くそたわけ」で直木賞候補になる。
2006年「沖で待つ」 芥川賞候補になって3年後に受賞。
職人の様な感じで、腕を磨いて良いものをつくって出し続ける。
FM局での仕事は生き甲斐です、リアルタイムに一緒にいるということが凄く大事なことだと思っています。
メールを物凄く頂きます、家族のことを話して下さったり、職場のことを話してくだったり、そういうことが嬉しいです。
ウェブで「いとろく」というのを始めました。
六次産業から来ていて、生産者が流通から、販売まで行うが、小説家がやったらどうなるかという事で、ネットショップで新しい原稿をつくって、販売までするという事を始めています。
自由な意見の交換と、緊張感があります。
2016年7月27日水曜日
栗山民也(演出家) ・時代を映す演出を目指して
栗山民也(演出家) ・時代を映す演出を目指して
演劇やオペラの演出をする方わら今年の3月まで新国立劇場の演劇研修所の所長を務めるなど、現在最も忙しい演出家の一人です。
最近では17世紀エリザベス朝時代のイギリス人作家の演出をしたり、この8月には井上ひさしの作品を手掛けるなど幅広い活動を展開をしています。
栗山さんは早稲田大学の演劇学科を卒業した後、俳優の小沢昭一さんに師事して演劇の道に進みました。
1995年「ゲットー」という作品の演出で芸術選奨新人賞を受賞した後、その後も様々な芸術賞を受賞しています。
井上さんの作品は何年たっても新作という感じがする。
3年前にやったはずが凄く新鮮な言葉が生き返ってきます。
演出家の仕事の発注は4~5年前に来ますので、急にあわてて作品に取りかかるという事はないが、一度に10本位の作品が頭の中で並行移動してゆく。
多い時は年に12~13本をやっています。
ヨーロッパでは1年間をずーっとやっているとか、日本は兎に角旬のものという事で、やってしまったらそれでおしまいとか。
「哀れ彼女は娼婦」 17世紀エリザベス朝時代の作品 シェイクスピアの22年後に生まれたジョン・フォードの作品。
内容は禁じられた兄と妹の愛と破局の物語。
古典の作品に対しては、歴史と現在がひとつの劇場で出会う、それが演劇の方法だと思っていて、そこに何かが必ずそこに生まれるので、そこが面白い。
近親相姦、物語の中核ではあるが、丁度そのころ、イギリスのエリザベス女王が死んで、暗国の時代になってゆき、混沌としてきて、秩序も何もない、不条理だけが先行してゆく。
複雑な要素が絡み合ってくる。
新国立劇場の芸術監督が7年間、演劇研修所の所長を11年間勤める。
国際交流を含めて、誰でも入れる劇場、人材育成が物凄く遅れている。
研修所を熱望してなんとか開所しました。
スターと呼ばれる人と稽古をすると、見事にスターだが、スターとは何なのかというと、日本の場合は賞味期限がある。
歩いてみる、台本を読んで声をだしてみる、これができない。
ヨーロッパの発声訓練は悲しみをセリフでしゃべるとどういう声になる、その訓練をする。
感情が言葉にどう反映された時に、どういう声を使って、どういう強度で、どういう方向性で誰に向かってぶつけているのか、ということの訓練です。
自分には無数の声があるという事を自分の身体で知ること、声をだして教師が選択してもらい、それを自分で知るということが先ず俳優への道だと思います。
それが基礎教育だと思います。
日本では或るときスターと思われるが、何時の間にかいなくなってしまう。
鶴見俊輔さんの教育に関しての本で、セーターを編む、ほどくという章があり、セーターを編むことを教えて、既製品のセーターを編む、編み上がったら全部毛糸をほぐす、自分の為のセーターを編む(自分の体形にあったものを編む)、これで教育は完了するという、自分を知るという事がいかに教育の中で中心であるかという事です。
俳優は先ず自分を知った上で、この役にどう向かうのか、を考えてもらいたい。
歌舞伎役者は基礎が全部できているので、あーっこういう解釈でやるのかという面白さがでます。
父は戦争で捕虜になって2年間イギリス軍の管理下で、捕虜生活の中で、芝居を書いて舞台装置をやって、その資料が残っている。
本がいっぱいあって他にファイルがあって、小さい頃から、何だろうと思って見ていました。
音楽と美術は好きで、先生から芸大に生きなさいと言われたりした。
高校時代、ドストエフスキーの文学に出会ってのめり込んでしまいました。
早稲田大学が受かって、ロシア語を取って、学生運動の末期で学校にも入れなくて、同級生がインドから帰ってきて、インドの話を聞いているうちに3カ月後にはインドに行き、3カ月いました。
そして人間が、がらっと塗り替えらて、専攻科に行こうとするが、演劇科しかなかった。
日本演劇史のゼミで、先生から能が好きかと言われて1枚の切符を呉れた。(6000円だった)
櫻間道雄さんという明治の名人(人間国宝)、で喜寿の祝いの能だった。
ものすごい良い席で、席を立てなかった。 30分ぐらい観終わってボーっとしていますた。
「姨捨」 人間国宝クラスの人が一生に一度しか舞えない能だった。
その次の日から毎日能楽堂に2年間通いました。(最初に見た能に勝るものは無かった)
卒論の先生が郡司正勝さん、歌舞伎の優れた学者で、進路について問われて、とっさに能面を彫りたいと言ってしまった。
その後、先生から小沢昭一さんを紹介された。
小沢さんは日本の放浪芸にも興味を持っていた。
1980年 初演出、 「ゲットー」で芸術選奨新人賞を受賞。
小沢さんの劇団、5年で打ち切るという事を決めていて、最後にやる作品は井上ひさしの新作品で、木村光一さんを文学座から呼んで、小沢さんが主演で、演出助手をやることになる。「しみじみ日本・乃木大将」。
井上さんは日本の上空3000mから日本を俯瞰して、日本の状況をみて、その中から一つの芝居を選択してゆく、演劇の枠を自由に遊んだ作品。
重層的な構造が生まれてくる、言葉の精度がより磨きがかかってくる。
東京裁判の3部作を企画して、井上さんに書いてもらって、井上さんが求めているものは、一人ひとりの人間はかけがえのない存在、かけがえのない存在を或る権力が断ち切ってしまう、断ち切った命に対してもう一度再生の力を与える、これが劇作家の使命だ、と思っている。
戦争で死んで、その青年はこれからもっとこういう事をやりたかった、こういう事を言いたかった、こういう恋をしたかったという事をもう一度青年に生命を与えて、演劇はそういう事なんだと思う。
井上さんは答えをだす作家ではなかったが、力強い。
人間の業、欲望、など、不条理さの面白さ、悲しい時に人間は逆に笑おうとするのか、それは人間の生命力ですよね。
人間の謎の部分を色々追及してきた、常に問い続ける。
「頭痛肩こり樋口一葉」
「木の上の軍隊」
いまの沖縄を見つめているラストシーンにしたかった、何も変わっていないじゃないかという、70年経った今もそのままの風景が沖縄にそのまま居続ける。
井上さんは、最後にその作品にポロっと一言「二人とも木になっちゃえばいいなあ」といったが、
その言葉は鮮明に覚えていて、どういう事なのかなあと問い続けながら作品の稽古をしました。
私としては答えは、兵隊がじーっと沖縄を見つづけることなのかなあと、魂はガジュマルの木の上にいるんだと、思っています。
演劇やオペラの演出をする方わら今年の3月まで新国立劇場の演劇研修所の所長を務めるなど、現在最も忙しい演出家の一人です。
最近では17世紀エリザベス朝時代のイギリス人作家の演出をしたり、この8月には井上ひさしの作品を手掛けるなど幅広い活動を展開をしています。
栗山さんは早稲田大学の演劇学科を卒業した後、俳優の小沢昭一さんに師事して演劇の道に進みました。
1995年「ゲットー」という作品の演出で芸術選奨新人賞を受賞した後、その後も様々な芸術賞を受賞しています。
井上さんの作品は何年たっても新作という感じがする。
3年前にやったはずが凄く新鮮な言葉が生き返ってきます。
演出家の仕事の発注は4~5年前に来ますので、急にあわてて作品に取りかかるという事はないが、一度に10本位の作品が頭の中で並行移動してゆく。
多い時は年に12~13本をやっています。
ヨーロッパでは1年間をずーっとやっているとか、日本は兎に角旬のものという事で、やってしまったらそれでおしまいとか。
「哀れ彼女は娼婦」 17世紀エリザベス朝時代の作品 シェイクスピアの22年後に生まれたジョン・フォードの作品。
内容は禁じられた兄と妹の愛と破局の物語。
古典の作品に対しては、歴史と現在がひとつの劇場で出会う、それが演劇の方法だと思っていて、そこに何かが必ずそこに生まれるので、そこが面白い。
近親相姦、物語の中核ではあるが、丁度そのころ、イギリスのエリザベス女王が死んで、暗国の時代になってゆき、混沌としてきて、秩序も何もない、不条理だけが先行してゆく。
複雑な要素が絡み合ってくる。
新国立劇場の芸術監督が7年間、演劇研修所の所長を11年間勤める。
国際交流を含めて、誰でも入れる劇場、人材育成が物凄く遅れている。
研修所を熱望してなんとか開所しました。
スターと呼ばれる人と稽古をすると、見事にスターだが、スターとは何なのかというと、日本の場合は賞味期限がある。
歩いてみる、台本を読んで声をだしてみる、これができない。
ヨーロッパの発声訓練は悲しみをセリフでしゃべるとどういう声になる、その訓練をする。
感情が言葉にどう反映された時に、どういう声を使って、どういう強度で、どういう方向性で誰に向かってぶつけているのか、ということの訓練です。
自分には無数の声があるという事を自分の身体で知ること、声をだして教師が選択してもらい、それを自分で知るということが先ず俳優への道だと思います。
それが基礎教育だと思います。
日本では或るときスターと思われるが、何時の間にかいなくなってしまう。
鶴見俊輔さんの教育に関しての本で、セーターを編む、ほどくという章があり、セーターを編むことを教えて、既製品のセーターを編む、編み上がったら全部毛糸をほぐす、自分の為のセーターを編む(自分の体形にあったものを編む)、これで教育は完了するという、自分を知るという事がいかに教育の中で中心であるかという事です。
俳優は先ず自分を知った上で、この役にどう向かうのか、を考えてもらいたい。
歌舞伎役者は基礎が全部できているので、あーっこういう解釈でやるのかという面白さがでます。
父は戦争で捕虜になって2年間イギリス軍の管理下で、捕虜生活の中で、芝居を書いて舞台装置をやって、その資料が残っている。
本がいっぱいあって他にファイルがあって、小さい頃から、何だろうと思って見ていました。
音楽と美術は好きで、先生から芸大に生きなさいと言われたりした。
高校時代、ドストエフスキーの文学に出会ってのめり込んでしまいました。
早稲田大学が受かって、ロシア語を取って、学生運動の末期で学校にも入れなくて、同級生がインドから帰ってきて、インドの話を聞いているうちに3カ月後にはインドに行き、3カ月いました。
そして人間が、がらっと塗り替えらて、専攻科に行こうとするが、演劇科しかなかった。
日本演劇史のゼミで、先生から能が好きかと言われて1枚の切符を呉れた。(6000円だった)
櫻間道雄さんという明治の名人(人間国宝)、で喜寿の祝いの能だった。
ものすごい良い席で、席を立てなかった。 30分ぐらい観終わってボーっとしていますた。
「姨捨」 人間国宝クラスの人が一生に一度しか舞えない能だった。
その次の日から毎日能楽堂に2年間通いました。(最初に見た能に勝るものは無かった)
卒論の先生が郡司正勝さん、歌舞伎の優れた学者で、進路について問われて、とっさに能面を彫りたいと言ってしまった。
その後、先生から小沢昭一さんを紹介された。
小沢さんは日本の放浪芸にも興味を持っていた。
1980年 初演出、 「ゲットー」で芸術選奨新人賞を受賞。
小沢さんの劇団、5年で打ち切るという事を決めていて、最後にやる作品は井上ひさしの新作品で、木村光一さんを文学座から呼んで、小沢さんが主演で、演出助手をやることになる。「しみじみ日本・乃木大将」。
井上さんは日本の上空3000mから日本を俯瞰して、日本の状況をみて、その中から一つの芝居を選択してゆく、演劇の枠を自由に遊んだ作品。
重層的な構造が生まれてくる、言葉の精度がより磨きがかかってくる。
東京裁判の3部作を企画して、井上さんに書いてもらって、井上さんが求めているものは、一人ひとりの人間はかけがえのない存在、かけがえのない存在を或る権力が断ち切ってしまう、断ち切った命に対してもう一度再生の力を与える、これが劇作家の使命だ、と思っている。
戦争で死んで、その青年はこれからもっとこういう事をやりたかった、こういう事を言いたかった、こういう恋をしたかったという事をもう一度青年に生命を与えて、演劇はそういう事なんだと思う。
井上さんは答えをだす作家ではなかったが、力強い。
人間の業、欲望、など、不条理さの面白さ、悲しい時に人間は逆に笑おうとするのか、それは人間の生命力ですよね。
人間の謎の部分を色々追及してきた、常に問い続ける。
「頭痛肩こり樋口一葉」
「木の上の軍隊」
いまの沖縄を見つめているラストシーンにしたかった、何も変わっていないじゃないかという、70年経った今もそのままの風景が沖縄にそのまま居続ける。
井上さんは、最後にその作品にポロっと一言「二人とも木になっちゃえばいいなあ」といったが、
その言葉は鮮明に覚えていて、どういう事なのかなあと問い続けながら作品の稽古をしました。
私としては答えは、兵隊がじーっと沖縄を見つづけることなのかなあと、魂はガジュマルの木の上にいるんだと、思っています。
2016年7月26日火曜日
柴田久美子(看取りの家) ・大切な人が旅立つ時に
柴田久美子(看取りの家・なごみの里代表理事)・大切な人が旅立つ時に
日々の暮らしのなかで私達は親兄弟や親しかった人達といつかお別れする時が来ます。
余命何カ月ですと、担当医師から告げられた時、旅ゆく人が残された時間を幸せな最期を過ごす様にと、私たちは考えます。
しかし、その気持ちはあっても仕事があったり、様々な事情からそれがかなわない人達があると思います。
旅立つ人が幸せな人生だったと思えるように、御手伝いをするお仕事、看取り師の柴田さんに伺います。
家族の方々が凄い緊張感でピーンと張った空気感があるが、そこに同じような緊張感をもって、はいると家族の心を和らげる事ができないので、目標としてはモナリザの微笑みをもって、春風のようにそこに行く、それが私達の役割だと思っています。
5年前に離島を離れて本土に来た時に、看取り師と名乗って、看取りという瞬間を皆さんに大事にしてほしいということで、名乗ったんです。
今全国に152名います。
看取り師になるための研修があります。
話すことができないとか、歩く事が出来ないとか、そういう体験を4泊5日でして、当事者意識を身につけてもらって、看取り学を学んでいただきます。
介護をするのではなく、その人の最後、余命告知をされた時などに、病院に帰りたいと言うと、そこのプロデュースをする、訪問の先生、看護士、ヘルパー、ボランティアの人など、メンバーを組織して、その方がきちんと最後まで、最期を迎えられるようなプロデュースする。
最後は腕の中で呼吸をするのが、私達の思いで、ご家族にしてもらう。
穏やかな御顔で旅立って行かれます。
仲好し時間と呼んでいるが、和解をするところまで沿わせていただく。
いきなり抱かれると言う文化は無いので、手を握る、ほほに触れる、身体を抱くという段階を私達と一緒にしてゆきます。
小さなお子さんを亡くされると自然に抱きますが、年齢が上がってくると、暮らしの中でいろんな衝突があったりして抱く事が出来なくなってしまう。
亡くなる方はみんな笑顔です、柔和な顔で亡くなって行きます。(こちらも深い笑顔で対応します)
私がこの活動に入ったのは25年前ですが、マザーテレサの言葉「人生の99%が不幸でも最後の1%が幸せならばその人の人生は幸せなものに変わる」とおっしゃったが、この言葉に突き動かされて、看取りの世界に入りました。
小学校6年の時に、父が胃がんで余命3カ月と宣告されて亡くなってゆきました。
父は自宅で沢山の人に囲まれて、最後の時に私の手を握って「有難う 久美ちゃん」と言いながら目をつぶるんです。
初めて人の死を見たので、長い時間手を握っていたら、冷たくなって硬くなってゆく、母が指を一本ずつ離してくれた。
泣き続けて、それが私の初めての看取りでした。
その時に父の部屋の空気が凄く輝いていて、障子の桟がくっきり見えて、その空気感を再体験したいという思いでした。
高校卒業して大阪に行き、「ユダヤの商法」(藤田 田著)に魅せられて、YMCAを卒業するとファーストフード店で働きました。
子育て、妻、主婦などに完璧主義でありたくて、追い詰められてゆく。
眠れず持っていた睡眠剤を多量に飲んでしまい、店の人が発見して、緊急入院しました。
会社をやめる決心をして、離婚をしてでてゆくか、というところまで追いつめられました。
何故人間って生きているんだろうと思って、マザー・テレサに導かれて、「愛こそが生きる意味だ」という彼女の声を聞きました。
そして看取りの世界に入りました。
最初、隠岐島の老人の介護。
誰もが決まった様に病院に運ばれてくることへの疑問、自分もそうなると思って、最後は自分らしく
亡くなって行きたいと思いました。
自分の好きなところで、好きな音楽を聞きながら、自分の好きな香りの中で、亡くなってゆく、それが私の人生そのものを完成させると思っていました。
入ったが出来ていないことが判った。
600人の人口の一番少ない島です。
豊かな自然と温かい人情がありました。
「人間は治る時が来たら治るから、柴田さんそんなにあわてなくて良いよ」と、言われました。
自然治癒力、その考え方に驚きました、手を合わせる思いでした。
身寄りがない、介護力が無いと島を出て行かなくてはいけない人達がいて、一人でも良いからその人達を抱いて送りたいと思いました。
4年間ヘルパーとして、働きましたが(抱くというまでには行きませんでしたが)、その間にも島を出てゆきました。
ガンになり、治ったら看取りの家をしますと、マザー・テレサに誓って手術を受けました。
手術が成功したので、看取りの家でこの世界に入りました。
今は岡山市で在宅で、エンジェルチームと共にやっています。
一番つらかったのはパーキンソン病を持った74歳の女性、最後は看取りの家でという覚悟をして医療にはかかりませんという事で、身体の機能が低下、家族と本人と私で毎朝、どうしたい、どこで誰に抱かれてどんなふうにと、毎日質問していました。
娘さんが帰った後に、呼吸困難になり、「ここでいいですね」と聞いたら、「病院ね」とはっきり言った。
その後救急車がきて、娘さんに替ってもらった。
その後亡くなられるが、「病院ね」という言葉が最後の言葉となり、娘さんは聞いていない。
葬儀に参加したが、娘さんから香典を私にぶつけられたがお悔やみを言って帰って行った。
毎日確認しながら来たが、それを覆した、どんな形が良かったのか判らなかったが、娘さんの気持ちを考えると辛かったと思います。
60歳の女性のガン患者、幸せに最後を送りたいとの娘さんの要望。
余命1カ月で、離婚していて父方に息子さん、娘さんが一緒に暮らしていた。
自分の墓が無くて、当人は心配していた。
亡くなる前日、息子さん、娘さんに二人で替り番こに手を握ってさすってくださいと言って、翌朝抱かれて旅立っていきました。
息子さんは警察官で、非番の時も交番に行っていて、母の死を受け入れたくないという思いだったが、きちっと立ち会って御別れをした。
彼は素晴らしい警察官になるであろうという弔辞を読まれた。
手を握る、抱いてあげる、家族と一緒にそれをすることによって命そのものを次の世代に渡してゆく、という事をさせて頂いている。(丁寧に御見送りする)
家族にきちんとした死生観をつたえる、死を家族がどうとらえるかで、大きな差がつく様に思う。
臨終がすべてではなくて、臨命終時、そこから命の引き渡しが始まります、といって、冷たくなるまでずっとそこにいて触れて頂く、それが命そのものを受けとる、命そのものを受けとることによって生きる元気や勇気が湧いて来る。
老いて動けなくなって、抱いてあげた人に抱かれる。
母が抱いた皆が、今度は皆が母を抱いてあげる、それが命を繋いでゆくということ。
今、5か所の研修所(北海道、関東、岡山、長崎、石川)があり、殆ど毎月行っています。
179支部があります。
家族はどうしたいという事を聞けないので、先ず最初はその御手伝いをします。
日々の暮らしのなかで私達は親兄弟や親しかった人達といつかお別れする時が来ます。
余命何カ月ですと、担当医師から告げられた時、旅ゆく人が残された時間を幸せな最期を過ごす様にと、私たちは考えます。
しかし、その気持ちはあっても仕事があったり、様々な事情からそれがかなわない人達があると思います。
旅立つ人が幸せな人生だったと思えるように、御手伝いをするお仕事、看取り師の柴田さんに伺います。
家族の方々が凄い緊張感でピーンと張った空気感があるが、そこに同じような緊張感をもって、はいると家族の心を和らげる事ができないので、目標としてはモナリザの微笑みをもって、春風のようにそこに行く、それが私達の役割だと思っています。
5年前に離島を離れて本土に来た時に、看取り師と名乗って、看取りという瞬間を皆さんに大事にしてほしいということで、名乗ったんです。
今全国に152名います。
看取り師になるための研修があります。
話すことができないとか、歩く事が出来ないとか、そういう体験を4泊5日でして、当事者意識を身につけてもらって、看取り学を学んでいただきます。
介護をするのではなく、その人の最後、余命告知をされた時などに、病院に帰りたいと言うと、そこのプロデュースをする、訪問の先生、看護士、ヘルパー、ボランティアの人など、メンバーを組織して、その方がきちんと最後まで、最期を迎えられるようなプロデュースする。
最後は腕の中で呼吸をするのが、私達の思いで、ご家族にしてもらう。
穏やかな御顔で旅立って行かれます。
仲好し時間と呼んでいるが、和解をするところまで沿わせていただく。
いきなり抱かれると言う文化は無いので、手を握る、ほほに触れる、身体を抱くという段階を私達と一緒にしてゆきます。
小さなお子さんを亡くされると自然に抱きますが、年齢が上がってくると、暮らしの中でいろんな衝突があったりして抱く事が出来なくなってしまう。
亡くなる方はみんな笑顔です、柔和な顔で亡くなって行きます。(こちらも深い笑顔で対応します)
私がこの活動に入ったのは25年前ですが、マザーテレサの言葉「人生の99%が不幸でも最後の1%が幸せならばその人の人生は幸せなものに変わる」とおっしゃったが、この言葉に突き動かされて、看取りの世界に入りました。
小学校6年の時に、父が胃がんで余命3カ月と宣告されて亡くなってゆきました。
父は自宅で沢山の人に囲まれて、最後の時に私の手を握って「有難う 久美ちゃん」と言いながら目をつぶるんです。
初めて人の死を見たので、長い時間手を握っていたら、冷たくなって硬くなってゆく、母が指を一本ずつ離してくれた。
泣き続けて、それが私の初めての看取りでした。
その時に父の部屋の空気が凄く輝いていて、障子の桟がくっきり見えて、その空気感を再体験したいという思いでした。
高校卒業して大阪に行き、「ユダヤの商法」(藤田 田著)に魅せられて、YMCAを卒業するとファーストフード店で働きました。
子育て、妻、主婦などに完璧主義でありたくて、追い詰められてゆく。
眠れず持っていた睡眠剤を多量に飲んでしまい、店の人が発見して、緊急入院しました。
会社をやめる決心をして、離婚をしてでてゆくか、というところまで追いつめられました。
何故人間って生きているんだろうと思って、マザー・テレサに導かれて、「愛こそが生きる意味だ」という彼女の声を聞きました。
そして看取りの世界に入りました。
最初、隠岐島の老人の介護。
誰もが決まった様に病院に運ばれてくることへの疑問、自分もそうなると思って、最後は自分らしく
亡くなって行きたいと思いました。
自分の好きなところで、好きな音楽を聞きながら、自分の好きな香りの中で、亡くなってゆく、それが私の人生そのものを完成させると思っていました。
入ったが出来ていないことが判った。
600人の人口の一番少ない島です。
豊かな自然と温かい人情がありました。
「人間は治る時が来たら治るから、柴田さんそんなにあわてなくて良いよ」と、言われました。
自然治癒力、その考え方に驚きました、手を合わせる思いでした。
身寄りがない、介護力が無いと島を出て行かなくてはいけない人達がいて、一人でも良いからその人達を抱いて送りたいと思いました。
4年間ヘルパーとして、働きましたが(抱くというまでには行きませんでしたが)、その間にも島を出てゆきました。
ガンになり、治ったら看取りの家をしますと、マザー・テレサに誓って手術を受けました。
手術が成功したので、看取りの家でこの世界に入りました。
今は岡山市で在宅で、エンジェルチームと共にやっています。
一番つらかったのはパーキンソン病を持った74歳の女性、最後は看取りの家でという覚悟をして医療にはかかりませんという事で、身体の機能が低下、家族と本人と私で毎朝、どうしたい、どこで誰に抱かれてどんなふうにと、毎日質問していました。
娘さんが帰った後に、呼吸困難になり、「ここでいいですね」と聞いたら、「病院ね」とはっきり言った。
その後救急車がきて、娘さんに替ってもらった。
その後亡くなられるが、「病院ね」という言葉が最後の言葉となり、娘さんは聞いていない。
葬儀に参加したが、娘さんから香典を私にぶつけられたがお悔やみを言って帰って行った。
毎日確認しながら来たが、それを覆した、どんな形が良かったのか判らなかったが、娘さんの気持ちを考えると辛かったと思います。
60歳の女性のガン患者、幸せに最後を送りたいとの娘さんの要望。
余命1カ月で、離婚していて父方に息子さん、娘さんが一緒に暮らしていた。
自分の墓が無くて、当人は心配していた。
亡くなる前日、息子さん、娘さんに二人で替り番こに手を握ってさすってくださいと言って、翌朝抱かれて旅立っていきました。
息子さんは警察官で、非番の時も交番に行っていて、母の死を受け入れたくないという思いだったが、きちっと立ち会って御別れをした。
彼は素晴らしい警察官になるであろうという弔辞を読まれた。
手を握る、抱いてあげる、家族と一緒にそれをすることによって命そのものを次の世代に渡してゆく、という事をさせて頂いている。(丁寧に御見送りする)
家族にきちんとした死生観をつたえる、死を家族がどうとらえるかで、大きな差がつく様に思う。
臨終がすべてではなくて、臨命終時、そこから命の引き渡しが始まります、といって、冷たくなるまでずっとそこにいて触れて頂く、それが命そのものを受けとる、命そのものを受けとることによって生きる元気や勇気が湧いて来る。
老いて動けなくなって、抱いてあげた人に抱かれる。
母が抱いた皆が、今度は皆が母を抱いてあげる、それが命を繋いでゆくということ。
今、5か所の研修所(北海道、関東、岡山、長崎、石川)があり、殆ど毎月行っています。
179支部があります。
家族はどうしたいという事を聞けないので、先ず最初はその御手伝いをします。
2016年7月25日月曜日
高橋靖昌(世界らん展受賞者) ・家族でつかんだ26年目の夢
高橋靖昌(2016世界らん展日本大賞受賞者)・家族でつかんだ26年目の夢
高橋さんは世界らん展が始まった平成3年から連続して出品し続けて、26年目の今年悲願の大賞を受賞しました。
おととしは.3位、昨年は2位、今年は1位、受賞した花はパピオペディラム属エメラルドフューチャー、直径およそ16cmの黄緑色の花が上、左右に広がっていて、ギャラクシーと名付けられました。
高橋さんは代々続く花器販売業を世田谷で引き継いできましたが、14年前に山梨に農場を移しました。
現在はお子さんの昌美さん夫妻が農場で栽培をしています。
今回の賞は家族あってのものだと、高橋さんはお話になっています。
突然電話が掛かってきて、賞に入ったのですぐ来てくださいとのことだった。
東京ドームに行って、一番欲しかった賞なので、本当にうれしかったです。(1位になっていることは知らなかった)
10~20の中から息子はこれがいいと言ったが、私は勘でこちらの方がいいという事で決めました。
全体の審査員が150人ぐらいいて、その人たちが見てこれがいいなと思ってくれる花でないと出せない、選ぶのは苦しいです。
妻、子供達夫婦、ここで働いている従業員の人達全員のおかげです。
父親が色んなところに出掛けるのに私を連れてゆき、その間に目を養って、後を継げという事でした。
先輩も良い人たちがいてそのおかげだと思っています。
小さいころから花は好きでした。
色々な花を育てたりグラジオラスは年間100万本を一人で切りました。
朝、4時頃から切り始めて、切り終わるのが3時ごろです。
切り終わる頃には、最初に切ったところが咲き始めて、又切り始めて夜8~9時ごろまで切りました。
祖父母がそれを束ねて用意するが、量が多くて大変でした。
らんみたいにはゆっくり咲いてくれない。
世田谷に園芸組合があり、知り合いがらんを見に来ないかと言われて、一目見てこれは凄い花だと思って、カトレアを始めた。
普通の花にはない色がたくさん咲いていた。
白い花と淡い、濃いピンクを買ってきた。(黄色もあったが売れない)
進駐軍の奥さんがパーティーで淡い、濃いピンクを選ぶ。
胡蝶らんでは白だけだったが、ピンクがでてきて、その後黄色がでてきた。
切り花では黄色が売れないが、なんでだろうなあと思いました。
一番難しいなあと思ったのは兎に角うまくいかない。
葉っぱが大きいから太陽光線で火傷してしまうので、ネットを張ったが、濃いのを張ったため、日照不足になって花がでなくなってしまった。
濃いネットをはずして、陽の通るネットにしたら咲く様になった。
胡蝶らんは濃いネット位で丁度良かった。
種類によって違うものだということが判った。
日本中を駆け回って買い集めて、2日で500株位盗まれたことがある。
2度目に入られて、車を見つけたが、どこかの農家か園芸屋さんに預けたのではないか。
一株5000円だったので大変だったし、大変怒りを覚えました。
当時の5000円は今の1万円以上すると思うし、一回に仕入れにるのが最大10株です。
らん料+交通費です。(関西が多かった)
アメリカ、ハワイ、ロス、サンフランシスコに行って沢山買って、その株を増やして、部屋いっぱいにするのに3~4年掛かりました。
通訳をする人と共にマイアミに行って、そこで買って、ロスに戻ってほしい花を買って、いいものがあったが買えなかった、2000ドル(1ドル=360円の時代)だった。
2年後に行ったら20cm弱のものがあり、一株500ドルだった。
一人一株なので権利をもらって、親株を5株購入した。
らんの水やりは最低5年掛かります。
世田谷では光線不足で上手くいかなくて、光線が弱いと花がでなくて株ばっかり出来てしまう。
14年前山梨に移りました。
東京が暑くなってから、クーラーを使うか寒いところでボイラーを焚くかどうかだったが、電気代のことを考えると山梨にした。
周りからは反対意見がありましたが、自分で選んだ道の方があっていました。
山梨は日照時間が長い、光線が良く当たるところでないと良いものができない。
山梨は水の質がいい、従業員は買った水よりもこちらの水の方がおいしいと言います。
全部屑が咲いてもいいことはないが、たまに良いものが咲くと、やはりこの種類を作っていて良かったと思います。
だいたい何が咲くか判らないのが魅力です。
賞を取れる様な苗を1100あるかなと思うが、良い交配ばっかりだからそういうのを作っています。
花が咲くまで7年ぐらいかかります。
昌美さんも目が肥えてきたのでいいと思います、アメリカ、シンガポール、ドイツにいって株の購入をしています。
賞は入らなくても皆がこれは凄という様な花を、ずーっと展示してあげたいと思っています。
それには自分の目を信じないといけないと思います。
昌美はニューヨークで金賞、サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ハワイで取って、もう賞荒らしは出来ないといって、アメリカにはお世話になってきたし、今後もお世話になるし、自分たちもいいものをつくってアメリカに置いて来るのも良いかなあと思っています。
高橋さんは世界らん展が始まった平成3年から連続して出品し続けて、26年目の今年悲願の大賞を受賞しました。
おととしは.3位、昨年は2位、今年は1位、受賞した花はパピオペディラム属エメラルドフューチャー、直径およそ16cmの黄緑色の花が上、左右に広がっていて、ギャラクシーと名付けられました。
高橋さんは代々続く花器販売業を世田谷で引き継いできましたが、14年前に山梨に農場を移しました。
現在はお子さんの昌美さん夫妻が農場で栽培をしています。
今回の賞は家族あってのものだと、高橋さんはお話になっています。
突然電話が掛かってきて、賞に入ったのですぐ来てくださいとのことだった。
東京ドームに行って、一番欲しかった賞なので、本当にうれしかったです。(1位になっていることは知らなかった)
10~20の中から息子はこれがいいと言ったが、私は勘でこちらの方がいいという事で決めました。
全体の審査員が150人ぐらいいて、その人たちが見てこれがいいなと思ってくれる花でないと出せない、選ぶのは苦しいです。
妻、子供達夫婦、ここで働いている従業員の人達全員のおかげです。
父親が色んなところに出掛けるのに私を連れてゆき、その間に目を養って、後を継げという事でした。
先輩も良い人たちがいてそのおかげだと思っています。
小さいころから花は好きでした。
色々な花を育てたりグラジオラスは年間100万本を一人で切りました。
朝、4時頃から切り始めて、切り終わるのが3時ごろです。
切り終わる頃には、最初に切ったところが咲き始めて、又切り始めて夜8~9時ごろまで切りました。
祖父母がそれを束ねて用意するが、量が多くて大変でした。
らんみたいにはゆっくり咲いてくれない。
世田谷に園芸組合があり、知り合いがらんを見に来ないかと言われて、一目見てこれは凄い花だと思って、カトレアを始めた。
普通の花にはない色がたくさん咲いていた。
白い花と淡い、濃いピンクを買ってきた。(黄色もあったが売れない)
進駐軍の奥さんがパーティーで淡い、濃いピンクを選ぶ。
胡蝶らんでは白だけだったが、ピンクがでてきて、その後黄色がでてきた。
切り花では黄色が売れないが、なんでだろうなあと思いました。
一番難しいなあと思ったのは兎に角うまくいかない。
葉っぱが大きいから太陽光線で火傷してしまうので、ネットを張ったが、濃いのを張ったため、日照不足になって花がでなくなってしまった。
濃いネットをはずして、陽の通るネットにしたら咲く様になった。
胡蝶らんは濃いネット位で丁度良かった。
種類によって違うものだということが判った。
日本中を駆け回って買い集めて、2日で500株位盗まれたことがある。
2度目に入られて、車を見つけたが、どこかの農家か園芸屋さんに預けたのではないか。
一株5000円だったので大変だったし、大変怒りを覚えました。
当時の5000円は今の1万円以上すると思うし、一回に仕入れにるのが最大10株です。
らん料+交通費です。(関西が多かった)
アメリカ、ハワイ、ロス、サンフランシスコに行って沢山買って、その株を増やして、部屋いっぱいにするのに3~4年掛かりました。
通訳をする人と共にマイアミに行って、そこで買って、ロスに戻ってほしい花を買って、いいものがあったが買えなかった、2000ドル(1ドル=360円の時代)だった。
2年後に行ったら20cm弱のものがあり、一株500ドルだった。
一人一株なので権利をもらって、親株を5株購入した。
らんの水やりは最低5年掛かります。
世田谷では光線不足で上手くいかなくて、光線が弱いと花がでなくて株ばっかり出来てしまう。
14年前山梨に移りました。
東京が暑くなってから、クーラーを使うか寒いところでボイラーを焚くかどうかだったが、電気代のことを考えると山梨にした。
周りからは反対意見がありましたが、自分で選んだ道の方があっていました。
山梨は日照時間が長い、光線が良く当たるところでないと良いものができない。
山梨は水の質がいい、従業員は買った水よりもこちらの水の方がおいしいと言います。
全部屑が咲いてもいいことはないが、たまに良いものが咲くと、やはりこの種類を作っていて良かったと思います。
だいたい何が咲くか判らないのが魅力です。
賞を取れる様な苗を1100あるかなと思うが、良い交配ばっかりだからそういうのを作っています。
花が咲くまで7年ぐらいかかります。
昌美さんも目が肥えてきたのでいいと思います、アメリカ、シンガポール、ドイツにいって株の購入をしています。
賞は入らなくても皆がこれは凄という様な花を、ずーっと展示してあげたいと思っています。
それには自分の目を信じないといけないと思います。
昌美はニューヨークで金賞、サンフランシスコ、ロサンゼルス、マイアミ、ハワイで取って、もう賞荒らしは出来ないといって、アメリカにはお世話になってきたし、今後もお世話になるし、自分たちもいいものをつくってアメリカに置いて来るのも良いかなあと思っています。
2016年7月24日日曜日
奥田佳道(音楽評論家) ・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”(H28/6/13 放送)
奥田佳道(音楽評論家)・奥田佳道の”クラシックの遺伝子”(H28/6/13 放送)
マーチ
モーツアルトの「トルコ行進曲」、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」、ベルディーのオペラ・アイーダより「凱旋行進曲」、ヨハンシュトランスのお父さんの「ラデツキー行進曲」、などなど。
今日はイギリスのマーチ。
*エルガーの「威風堂々」
ロンドンの風物詩の様なイベント 今年も7/15~9/10まで、ロイヤルアルバートホールで開催される最終日の一番盛りあがている時間帯に演奏される曲。
イギリスのマーチはにぎやかなだけでなく、独特の気品、気高さ、格調、これが古き良き大英帝国の響きか、という様な響きが聞こえてくる。
エルガーはノビルメンテというイタリア語が好きだった。 「高貴」、「気高い」
日本の異色のアンサンブル 「古武道」 尺八 (藤原道山)、チェロ(古川展生)、ピアノ(妹尾武)
ブリティッシュノビルメンテという曲を作った。
オルトンが作曲した戴冠行進曲(1953年エリザベス女王の戴冠式に書かれたもの)と「威風堂々」をメロディーにしたもの。
*「古武道」の 「ブリティッシュノビルメンテ」
「ボギー大佐」の音楽 ケネス・ジョゼフ・アルフォード作曲
1957年の映画「戦場にかける橋」で使われたが、「ボギー大佐」をマルコム・アーノルドが編曲したのが「クワイ河マーチ」
*「クワイ河マーチ」
クールなマーチ 国際救助隊 「サンダーバード」 1964~1965年にストーリーが作られた。
作曲家バリー・グレー 1908年生まれ 1984年に亡くなる。
*「サンダーバードマーチ」 広上淳一さんと若手オーケストラ (東京ガーデンオーケストラ)
ベルリン ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 「ベルリンの風」行進曲 パウル・リンケ作曲
*「ベルリンの風」
マーチ
モーツアルトの「トルコ行進曲」、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」、ベルディーのオペラ・アイーダより「凱旋行進曲」、ヨハンシュトランスのお父さんの「ラデツキー行進曲」、などなど。
今日はイギリスのマーチ。
*エルガーの「威風堂々」
ロンドンの風物詩の様なイベント 今年も7/15~9/10まで、ロイヤルアルバートホールで開催される最終日の一番盛りあがている時間帯に演奏される曲。
イギリスのマーチはにぎやかなだけでなく、独特の気品、気高さ、格調、これが古き良き大英帝国の響きか、という様な響きが聞こえてくる。
エルガーはノビルメンテというイタリア語が好きだった。 「高貴」、「気高い」
日本の異色のアンサンブル 「古武道」 尺八 (藤原道山)、チェロ(古川展生)、ピアノ(妹尾武)
ブリティッシュノビルメンテという曲を作った。
オルトンが作曲した戴冠行進曲(1953年エリザベス女王の戴冠式に書かれたもの)と「威風堂々」をメロディーにしたもの。
*「古武道」の 「ブリティッシュノビルメンテ」
「ボギー大佐」の音楽 ケネス・ジョゼフ・アルフォード作曲
1957年の映画「戦場にかける橋」で使われたが、「ボギー大佐」をマルコム・アーノルドが編曲したのが「クワイ河マーチ」
*「クワイ河マーチ」
クールなマーチ 国際救助隊 「サンダーバード」 1964~1965年にストーリーが作られた。
作曲家バリー・グレー 1908年生まれ 1984年に亡くなる。
*「サンダーバードマーチ」 広上淳一さんと若手オーケストラ (東京ガーデンオーケストラ)
ベルリン ベルリンフィルハーモニー管弦楽団 「ベルリンの風」行進曲 パウル・リンケ作曲
*「ベルリンの風」
2016年7月23日土曜日
村中義雄(高島平新聞取締役会長)・マンモス団地の40年
村中義雄(高島平新聞取締役会長)・マンモス団地の40年
昭和47年、埼玉県に近い板橋区に全国有数のマンモス団地、高島平団地が誕生しました。
村中さん74歳は団地が出来た時からの住人で、団地内でタウン誌を発行し、日本の高度成長期から、現在の少子高齢化を団地内で見つづけてきた方です。
日本の縮図ともいえる40年を振り返って高島平新聞取締役会長村中さんに伺います。
高島平団地は44年前に出来た。
64棟出来て、日本にとって新鮮だった。
同じような作りになっているので、色違いにしてある。
家の数は10170戸で、1~2年経ったら子供が生まれ3万人を超してしまった。
スーパー2軒、病院は1年後に出来る、保育所も当初から4軒ありました。
幼稚園は団地内には無くて、近隣に区立の幼稚園がありました。
100万坪の田んぼを開発して、土盛りをしました。
ここに来る前は千葉の団地に入居して、3年間過ごしました。
住居、道路は行政がちゃんと作ってくれたが、中にはいる人間、街のソフトについては全然手当て
して無くて、判らない事だらけだった。
ソフトは新聞が一番手っ取り早いと思った。
サークルを作るのにも呼びかけをするのにも困って、タウン誌を利用しながら作って行った。
住民運動、自治会作りまで発展した。
最初は8000部から始まって、1年後には1万部になる。
10万の都市を予定していたが6万6000で止まってしまった。
15年間は右肩上がり、15~20年は横ばい、平成4年がピーク、そこからは徐々に減り始める。
.子供が徐々に減ってきて、団地の周りはそうでもなかった。
日本の人口構成の10年先を行っているパターンだった。
現在は団地だけで人口は1万5000人、1万人いた子供は600人ぐらい。
高齢者は1~2%だったが、今は50%越しています。
子供に関わる施設(塾、プール、産婦人科、小児科など)などは減ってきて、高齢者の施設(整形外科、葬儀屋など)が増えてきている。
タウン誌は広告料で経営が成り立っていて、自分達で発行部数を決めている。
今は世帯数の75%の読者率で2万2500部だしています。
街の情報、経済、サークル、学校など街のあらゆる情報を扱っている。
記者が5人(女性が多い)いて、情報収集しています。
団地内の変わってゆく様子が判ります。
商店の撤退、新しい保育園、工事のことなど色々あります。
子供が減っている街は消費の将来性が無いので、発展性が無い。
スポンサーをどこにするかなど、時代にあったスポンサーを探さなくてはいけない。
読者自身がスポンサーということもある。
高島平便利帳を毎年 本をだしているが、800~900軒の商店、塾などを一軒一軒調べて、本にして便利に使われている。
10年間で100軒減ってきて、飲食店、物販店が減りサービス業が増えている。
店舗、住宅でも空き家が増えてきている、今は400戸位空いていると思う。
全国で820万戸空き家があると言われるが、実際にどうしたらいいのか、上手くいかない。
40年経っても家賃が上がってきているが、これはおかしいと思う。
高齢者の単身住まいがどんどん増えているし、若い世代でも結婚しない単身者が多い。
この団地の半分が単身者です。
国を挙げての住宅対策、空き家対策、単身者の問題も考えていかないといけない。
学校は最初7校で8校になり、今は2校が廃校になりました。
7年前に1年1組一人という、田舎の過疎よりも酷い衝撃的なことでした。
若い世代が入る様な企画を行政も考えてはいるが。
街に人が来る仕掛けを考えるが、大胆な発想が無い限り、難しい面もある。
街の元気を作りだす支援をする。
駅前に廃校になった学校の後地があるが、それを上手く利用すればという話もあるが、板橋区がお金が無いからという事になってしまう。(いろいろ提案はしていますが)
国も街の再生のために、モデルとして取り組めば出来ると思う。
若者が入ってくるような仕掛け、戸数を減らしてしていい場所を作るとか、若い世代が住みたくなるような街を作る、そうしないと日本の元気は始まらない、出来たら日本の元気のサンプルになりたい。
昭和47年、埼玉県に近い板橋区に全国有数のマンモス団地、高島平団地が誕生しました。
村中さん74歳は団地が出来た時からの住人で、団地内でタウン誌を発行し、日本の高度成長期から、現在の少子高齢化を団地内で見つづけてきた方です。
日本の縮図ともいえる40年を振り返って高島平新聞取締役会長村中さんに伺います。
高島平団地は44年前に出来た。
64棟出来て、日本にとって新鮮だった。
同じような作りになっているので、色違いにしてある。
家の数は10170戸で、1~2年経ったら子供が生まれ3万人を超してしまった。
スーパー2軒、病院は1年後に出来る、保育所も当初から4軒ありました。
幼稚園は団地内には無くて、近隣に区立の幼稚園がありました。
100万坪の田んぼを開発して、土盛りをしました。
ここに来る前は千葉の団地に入居して、3年間過ごしました。
住居、道路は行政がちゃんと作ってくれたが、中にはいる人間、街のソフトについては全然手当て
して無くて、判らない事だらけだった。
ソフトは新聞が一番手っ取り早いと思った。
サークルを作るのにも呼びかけをするのにも困って、タウン誌を利用しながら作って行った。
住民運動、自治会作りまで発展した。
最初は8000部から始まって、1年後には1万部になる。
10万の都市を予定していたが6万6000で止まってしまった。
15年間は右肩上がり、15~20年は横ばい、平成4年がピーク、そこからは徐々に減り始める。
.子供が徐々に減ってきて、団地の周りはそうでもなかった。
日本の人口構成の10年先を行っているパターンだった。
現在は団地だけで人口は1万5000人、1万人いた子供は600人ぐらい。
高齢者は1~2%だったが、今は50%越しています。
子供に関わる施設(塾、プール、産婦人科、小児科など)などは減ってきて、高齢者の施設(整形外科、葬儀屋など)が増えてきている。
タウン誌は広告料で経営が成り立っていて、自分達で発行部数を決めている。
今は世帯数の75%の読者率で2万2500部だしています。
街の情報、経済、サークル、学校など街のあらゆる情報を扱っている。
記者が5人(女性が多い)いて、情報収集しています。
団地内の変わってゆく様子が判ります。
商店の撤退、新しい保育園、工事のことなど色々あります。
子供が減っている街は消費の将来性が無いので、発展性が無い。
スポンサーをどこにするかなど、時代にあったスポンサーを探さなくてはいけない。
読者自身がスポンサーということもある。
高島平便利帳を毎年 本をだしているが、800~900軒の商店、塾などを一軒一軒調べて、本にして便利に使われている。
10年間で100軒減ってきて、飲食店、物販店が減りサービス業が増えている。
店舗、住宅でも空き家が増えてきている、今は400戸位空いていると思う。
全国で820万戸空き家があると言われるが、実際にどうしたらいいのか、上手くいかない。
40年経っても家賃が上がってきているが、これはおかしいと思う。
高齢者の単身住まいがどんどん増えているし、若い世代でも結婚しない単身者が多い。
この団地の半分が単身者です。
国を挙げての住宅対策、空き家対策、単身者の問題も考えていかないといけない。
学校は最初7校で8校になり、今は2校が廃校になりました。
7年前に1年1組一人という、田舎の過疎よりも酷い衝撃的なことでした。
若い世代が入る様な企画を行政も考えてはいるが。
街に人が来る仕掛けを考えるが、大胆な発想が無い限り、難しい面もある。
街の元気を作りだす支援をする。
駅前に廃校になった学校の後地があるが、それを上手く利用すればという話もあるが、板橋区がお金が無いからという事になってしまう。(いろいろ提案はしていますが)
国も街の再生のために、モデルとして取り組めば出来ると思う。
若者が入ってくるような仕掛け、戸数を減らしてしていい場所を作るとか、若い世代が住みたくなるような街を作る、そうしないと日本の元気は始まらない、出来たら日本の元気のサンプルになりたい。
2016年7月22日金曜日
桜井泰憲(北海道大学名誉教授) ・イカの不思議を追いかけて
桜井泰憲(北海道大学名誉教授・函館頭足類科学研究所所長) ・イカの不思議を追いかけて
岐阜県高山市生まれ 学生時代北海道を旅行し、初めて生きたイカを見て吃驚したそうです。
魚に魅せられ北海道大学水産学部に入り、サケ、タラの研究に没頭しますが、30年前あるきっかけからスルメイカの研究を始め、今ではイカ博士として世界を飛び回って活躍しています。
桜井さんは今年北海道大学を退職され、函館国際水産海洋都市推進機構の頭足類科学研究所所長としてイカの研究をしています。
海洋センターに来て3カ月です。
ここがオープンしたのが、2年前の 6月でその時に幅10m、奥行き5m、水深6m、魚がぶつかったりしないように上手く水を流して横から監察できる初めての飼育実験用の水槽です。
タラの研究をしていて、学位を取ったのが30歳過ぎで、青森県の水族館に勤めて30年位いました。
イカは餌を食べない、飼えないという事で、鴨川シーワールドで1週間飼ったという時代があって難しかった。
失敗の繰り返しを散々やって、水槽の形、餌などを調べてきました。
四角い水槽の10トンの水を入れ、円形のシートを張って、縦縞模様を付けて、イカがぶつからない様にして、水温、灯りなどを調べて、冷凍のアジを切り身にしてつりざおの先に餌を付けて餌を与えたが、ようやく食べた。
ヤリイカ、コウイカなどは泳ぎがゆっくりなので楽だが、スルメイカは九州で生まれて北海道迄やってきて帰るので1年で一周するので、スピードが速い。(寿命は1年)
10月~12月 秋に生まれたものは6月~7月に津軽海峡にやってきて、太平洋に抜けて20~25cmの大きさになったら再び戻ってゆき産卵して死にます。
津軽海峡は魚たちの交差点になっています、(マグロ、ブリ、サバ、イワシなど)
岐阜県高山市生まれで海は全く見たことが無くて、初めて見たのが小学校の2年生の時に母に連れられて海水浴場に行った時で、別世界でした。
季節の旅人 スルメイカ
今、函館で鮮度のいいイカは一杯500円、生きていれば1000円以上します。
昔は朝殆どの家で大根おろしでイカを食べていました。
私は6月の頃の15~18cmのものが好きです。
ケンサキイカ、アオリイカ、コウイカ、アカイカ、アメリカオオアカイカ(20~40kgでペルー沖で取れて100万トン 深海系 身が厚くイカ天などに)、ホタルイカなど。(開眼類、閉眼類、その他いろいろ)
ホタルイカ、富山湾は急に深くなっており、天然の定置網と言われる。(ぶり、ホタルイカなど)
青森県浅虫水族館にいた時に1985年に、天皇陛下が植樹祭に来た時に、目玉を展示しようという事で、津軽海峡がありそこにイカがあるだろうという事で引き受けたのが始まりです。
最初は全滅でした。
次に運ぶ時にトンネルを通った時に真っ暗になり、その時イカがお互い抱き付いてしまって全滅になりました。
水槽の中にビニールのフェンスを張って、縞模様を付けて100匹の群れを再現しました。
浜部基次先生(日本海区水産研究所の所長をしていた人)が若いころに、隠岐島にイカ寄せの浜があり、イカが夜に浜に上がる場所があり、イカを取って潮だまりで産卵させたりする論文がある。(1960年代)
博士は昭和三十三年~三十四年頃、隠岐島で良く成熟したスルメイカの雌を海底に沈めた樽の中に入れて飼育したところ、数千粒の卵の入ったゆるい寒天質の塊を得た。
卵塊は外側を抱卵線から出る卵の白身のような寒天質の粘膜でくるまれ、内には卵巣線から出る、やはり粘液の中に卵の散布した塊があるという二重構造をしていた。
そればかりでなく、あらかじめ雌がその唇に雄から受け取っておいた精子塊は、口のまわりからのびてきた膜 (周口膜)の上に移って、漏斗を経て出てくる卵は第四腕の隙間を通って、活性を帯びた精子と結合するのであろうと推論された。
カナダのO’Dor博士らが巨大なアクアトロン水槽でカナダマツイカを産卵させた、この2例が教科書だった。
それを再現しようとした。
30年間でうまく卵の塊が出来たのは3回しかなかったです。
50cm~12cmの巨大な風船状になり、中に1mmの卵が綺麗に分散していて80cmでは20万個位あります。
生んだ後透明で見えないので、どろ水をかけてうわずみを取って、すこし汚れが付くのでようやく形が見えました。
孵化するまでの過程を見て、だんだん人工授精の方法を見つけてゆきました。
イカの研究だけで20人ぐらいの博士、修士が育ちました。
オキナワアカイカについてハワイ大学の先生と共に研究をしました。
水槽の温度を1度刻みにして、船上で取ったイカを人工授精をして、発生適水温を調べて、スルメイカは19.5~23℃というのが判っていて、アカイカは18~24℃ということが判りました。
産卵場は大陸棚か、大陸斜面のうえ、太平洋のど真ん中ではない、100~500mの水深で、浮いてきた子供は19,5~23℃、海底地図、表面水温を合わせて塗り絵をすると、今日の産卵場はどこかが推測される。
10月の水温が高い時24度以上で、産卵場は能登半島から対馬海峡だが、そこだと産卵しても死んでしまうので、津軽海峡、シャコタン半島の沖、三陸沖とか全然違うところで産卵する。
生まれた時は1mmで釣鐘型幼生と言うが、何を食べているか判っていない、胃にはドロドロした液体しかでてこない、マリンスノー(海の中の有機物の塊、動物の死がいなどにバクテリアがついてそれを取りこんでいる)をどうも食べているんではないかと思っている。
有機物と海洋細菌が入っていて、海洋細菌の助けを借りて消化して取り込んでいる、という可能性がでてきた。
去年孵化してようやく2週間生きて、2.5mm位までなって、食べるという謎があり、それを解き明かしたい。
夢を現実にしたい、謎を解くと又謎がでてきて、最後の謎を解けば、若い人が又新しい研究が出来るので、自分の一生の中ではやりがいがあったと思います。
辿りつくまでの無駄は物凄いたくさんの無駄をしています。
函館はイカがおいしいので、鮮度のいいイカを届けたいという思いがあり、星状神経を切ると、胴体が鮮度を保つので、イカ活チャ器をつくりあげた。(かっちゃく=ひっかく)
イカの神経をひっかく、ことからイカ活チャ器という名前になった。
岐阜県高山市生まれ 学生時代北海道を旅行し、初めて生きたイカを見て吃驚したそうです。
魚に魅せられ北海道大学水産学部に入り、サケ、タラの研究に没頭しますが、30年前あるきっかけからスルメイカの研究を始め、今ではイカ博士として世界を飛び回って活躍しています。
桜井さんは今年北海道大学を退職され、函館国際水産海洋都市推進機構の頭足類科学研究所所長としてイカの研究をしています。
海洋センターに来て3カ月です。
ここがオープンしたのが、2年前の 6月でその時に幅10m、奥行き5m、水深6m、魚がぶつかったりしないように上手く水を流して横から監察できる初めての飼育実験用の水槽です。
タラの研究をしていて、学位を取ったのが30歳過ぎで、青森県の水族館に勤めて30年位いました。
イカは餌を食べない、飼えないという事で、鴨川シーワールドで1週間飼ったという時代があって難しかった。
失敗の繰り返しを散々やって、水槽の形、餌などを調べてきました。
四角い水槽の10トンの水を入れ、円形のシートを張って、縦縞模様を付けて、イカがぶつからない様にして、水温、灯りなどを調べて、冷凍のアジを切り身にしてつりざおの先に餌を付けて餌を与えたが、ようやく食べた。
ヤリイカ、コウイカなどは泳ぎがゆっくりなので楽だが、スルメイカは九州で生まれて北海道迄やってきて帰るので1年で一周するので、スピードが速い。(寿命は1年)
10月~12月 秋に生まれたものは6月~7月に津軽海峡にやってきて、太平洋に抜けて20~25cmの大きさになったら再び戻ってゆき産卵して死にます。
津軽海峡は魚たちの交差点になっています、(マグロ、ブリ、サバ、イワシなど)
岐阜県高山市生まれで海は全く見たことが無くて、初めて見たのが小学校の2年生の時に母に連れられて海水浴場に行った時で、別世界でした。
季節の旅人 スルメイカ
今、函館で鮮度のいいイカは一杯500円、生きていれば1000円以上します。
昔は朝殆どの家で大根おろしでイカを食べていました。
私は6月の頃の15~18cmのものが好きです。
ケンサキイカ、アオリイカ、コウイカ、アカイカ、アメリカオオアカイカ(20~40kgでペルー沖で取れて100万トン 深海系 身が厚くイカ天などに)、ホタルイカなど。(開眼類、閉眼類、その他いろいろ)
ホタルイカ、富山湾は急に深くなっており、天然の定置網と言われる。(ぶり、ホタルイカなど)
青森県浅虫水族館にいた時に1985年に、天皇陛下が植樹祭に来た時に、目玉を展示しようという事で、津軽海峡がありそこにイカがあるだろうという事で引き受けたのが始まりです。
最初は全滅でした。
次に運ぶ時にトンネルを通った時に真っ暗になり、その時イカがお互い抱き付いてしまって全滅になりました。
水槽の中にビニールのフェンスを張って、縞模様を付けて100匹の群れを再現しました。
浜部基次先生(日本海区水産研究所の所長をしていた人)が若いころに、隠岐島にイカ寄せの浜があり、イカが夜に浜に上がる場所があり、イカを取って潮だまりで産卵させたりする論文がある。(1960年代)
博士は昭和三十三年~三十四年頃、隠岐島で良く成熟したスルメイカの雌を海底に沈めた樽の中に入れて飼育したところ、数千粒の卵の入ったゆるい寒天質の塊を得た。
卵塊は外側を抱卵線から出る卵の白身のような寒天質の粘膜でくるまれ、内には卵巣線から出る、やはり粘液の中に卵の散布した塊があるという二重構造をしていた。
そればかりでなく、あらかじめ雌がその唇に雄から受け取っておいた精子塊は、口のまわりからのびてきた膜 (周口膜)の上に移って、漏斗を経て出てくる卵は第四腕の隙間を通って、活性を帯びた精子と結合するのであろうと推論された。
それを再現しようとした。
30年間でうまく卵の塊が出来たのは3回しかなかったです。
50cm~12cmの巨大な風船状になり、中に1mmの卵が綺麗に分散していて80cmでは20万個位あります。
生んだ後透明で見えないので、どろ水をかけてうわずみを取って、すこし汚れが付くのでようやく形が見えました。
孵化するまでの過程を見て、だんだん人工授精の方法を見つけてゆきました。
イカの研究だけで20人ぐらいの博士、修士が育ちました。
オキナワアカイカについてハワイ大学の先生と共に研究をしました。
水槽の温度を1度刻みにして、船上で取ったイカを人工授精をして、発生適水温を調べて、スルメイカは19.5~23℃というのが判っていて、アカイカは18~24℃ということが判りました。
産卵場は大陸棚か、大陸斜面のうえ、太平洋のど真ん中ではない、100~500mの水深で、浮いてきた子供は19,5~23℃、海底地図、表面水温を合わせて塗り絵をすると、今日の産卵場はどこかが推測される。
10月の水温が高い時24度以上で、産卵場は能登半島から対馬海峡だが、そこだと産卵しても死んでしまうので、津軽海峡、シャコタン半島の沖、三陸沖とか全然違うところで産卵する。
生まれた時は1mmで釣鐘型幼生と言うが、何を食べているか判っていない、胃にはドロドロした液体しかでてこない、マリンスノー(海の中の有機物の塊、動物の死がいなどにバクテリアがついてそれを取りこんでいる)をどうも食べているんではないかと思っている。
有機物と海洋細菌が入っていて、海洋細菌の助けを借りて消化して取り込んでいる、という可能性がでてきた。
去年孵化してようやく2週間生きて、2.5mm位までなって、食べるという謎があり、それを解き明かしたい。
夢を現実にしたい、謎を解くと又謎がでてきて、最後の謎を解けば、若い人が又新しい研究が出来るので、自分の一生の中ではやりがいがあったと思います。
辿りつくまでの無駄は物凄いたくさんの無駄をしています。
函館はイカがおいしいので、鮮度のいいイカを届けたいという思いがあり、星状神経を切ると、胴体が鮮度を保つので、イカ活チャ器をつくりあげた。(かっちゃく=ひっかく)
イカの神経をひっかく、ことからイカ活チャ器という名前になった。
2016年7月21日木曜日
アラン・ウエスト(日本画家) ・“心の肖像画”を描く
アラン・ウエスト(日本画家) ・“心の肖像画”を描く
アメリカ、ワシントン出身 53歳 画家を目指してアメリカの大学で勉強していたウエストさんは、1982年来日しました。
その時日本画の画材と出会い、日本画を勉強しようようと決意、本格的な受験準備を始め、1990年東京芸術大学大学院に入学、加山又造教授のもとで日本画を勉強しました。
1992年に東京芸術大学の修士課程を終え、その後狩野派の技法を取り入れながら、日本画の世界を深めていきました。
描くのは自身の心の肖像画だというウエストさん、西洋画から日本画に辿りつき、独自の世界を切り開いてきた画家としての人生、そこから描き出される世界とはどんなものか、伺いました。
毎日和装です。
絵を床に寝かして描きますので足を広げて描かなければいけないので、ももひきが理にかなっています。
アトリエは午後は解放しています。
展示場所と作業場所はすだれで隔てています。
仕事の8割は注文制作です。
「浅田の松」 2.4m×2.4m 料亭の大広間に飾られています。
金澤の本家の浅田松太さんの御父さんが働いていて、料亭の1階で火事が発生して、2階の表側の窓に、迎え松があって、御父さんはその松を伝わって降りていけて、松のおかげで命が救われた。
子供が生まれて松太という名前を付けたが、迎え松を描いてほしいとの依頼があり、父を救ったのと、本人の名前の由来、お客さんを迎える迎え松の役割も果たしてほしいという事でいくつかの意味合いがあります。
1962年 ワシントンDCの出身。
ワシントンDCは政治だけを置くことになり、街作りが綺麗、原生林をそのまま残す様にしたので、ヨーロッパ的に思われる。
4~5歳のころの植物デッサン帖があります。
8歳のころの先生が、これからの人生を決めるのには8歳のタイミングはいいと言われて、画家を目指しました。
カーネギーメロン大学の芸術学部絵画科を目指す。
50倍の競争でした。
作品を50点提出するように言われて、作品がいっぱいあったので、その中からいい作品を持っていったら先生が吃驚して、今まで50点持ってきたのは始めてかもしれないと言われました。
入学したら、画家として提供したいのは純粋な美なので、大学に入るとモダニズムでないとアートじゃないという発想で相当先生方から批判されました。
斬新さを大学からは求められた。
そんな中で疑問を感じるようになりました。
高校の時は油絵をやっていたが、植物を描くのにはもっと液体的な絵具がほしいと思っていた。
思考錯誤して新しい絵具画材を発明したつもりでしたが、展覧会で或る人からこういう技法だと確か昔から日本でも使っていた気がするんだけれどと言われて、それが頭の片隅にあった。
日本に行けば手がかりになると思って、1982年日本に来る。
動物系のタンパク質はうさぎの方を使っていたが、日本に来たら、三千本膠(さんぜんぼんにかわ)があり、鹿のたんぱく質で、うさぎは匂いが臭いが、鹿は匂いが臭くなかった。
鹿にかわは透明度が高く、絵具が光って見え、素晴らしい材料った。
帰るつもりでいたが、画材の出会いの為に住みつくしかないと思った。
岩絵の具は色褪せしない、色の深み、きらめき、透明感の美しさも魅かれました。
これらを使う事によって、ようやく自分の表現が自由にできるということが大きかったです。
東京芸術大学を受験することにする。
加山又造先生の作品にあこがれていました。(いろんな表現を取り入れていました)
東京芸術大学では実技試験で先生の前で実際に描く様になっている、人物デッサン。
カーネギーメロン大学では嫌というほどデッサンの勉強をしたので、非常に役に立ちました。
20分ギリギリで作品が出来、10分の休憩後戻ってくると、新しい紙に入れ変えてもらっていなかった。
この一つのポーズで一枚の紙で4時間かけて描くという事になっていて、非常にびっくりしました。
一回目は落ちまして、二回目は聴講でもどうですかと言われて入りました。
先生から、聴講生を勧めたのは何故かというと、君はどういう絵描きか見たかったと言われました。
1年後に正式に合格しました。
付き合っていた女性の父親から芸大に入ることが前提だと言われていて、に同時にプロポーズしました。
加山先生は戦争中ににかわまで配給がありました。
藤田嗣治先生はにかわの配給の採配をする先生だったので、芸大にちゃんと行きとどく様に見てくださった。
ドーサ液を作る時ににかわを溶かしてミョウバンを入れるが、ミョウバンの分量が判る様になるには、ちょっとだけ舐めると旨味がでてくるというので判るんです。
肉の配給の時代でタンパク質はなかなか手に入らない。
加山先生はその場で、にかわこのうまみ にかわが食べたい、でも食べれば絵が描けない、ハングリー精神の空腹感をもってにかわを使って絵を描いていたという、一つの場面を教えていただいた時、熱意と感謝の気持ちを持って、絵を描く大切さを学びました。
写実的に書けば書くほど虚しくなる、心で感じるものを絵を通して感じてもらえればと思っていましたので、豊かな線が引っ掛かりではないかと考え、細い線が急に太くなったり細くなったリすると、炎のように動いてみえてて、生命感が表現できたらなと思っていて、線を表現するのには狩野派の筆法を取り入れる大切さがあると思って、昔の書類をもって色々勉強しました。
筆は穂先を軽く触れるか、強く押すかによって、線が太いか細いか決まるが、当たりが無いのでふわーっとした感覚で細い線か太い線か昔の人は判っていた。
デッサンをする時に被写体を見ているので、筆の穂先を見ていられないので、20年前から鉛筆、ボールペンを使わないようにして、必ず筆を使ってやっています。(矢立てを常に持っている)
普通に肖像画を描くと、表面的なことしか目立たない、人の優しさ、身ぶり手ぶり、接し方とかそういうのは、きそ?(基礎)(聞き取れず)であると思うので、植物を使う事によってその人のらしさがでてくるのでは無いかと思っている。
作品を渡す時の御客様を見るのが何より幸せなので、お客様が持ってくる課題、楽しみ、面白みを受け続けることがなによりです。
アメリカ、ワシントン出身 53歳 画家を目指してアメリカの大学で勉強していたウエストさんは、1982年来日しました。
その時日本画の画材と出会い、日本画を勉強しようようと決意、本格的な受験準備を始め、1990年東京芸術大学大学院に入学、加山又造教授のもとで日本画を勉強しました。
1992年に東京芸術大学の修士課程を終え、その後狩野派の技法を取り入れながら、日本画の世界を深めていきました。
描くのは自身の心の肖像画だというウエストさん、西洋画から日本画に辿りつき、独自の世界を切り開いてきた画家としての人生、そこから描き出される世界とはどんなものか、伺いました。
毎日和装です。
絵を床に寝かして描きますので足を広げて描かなければいけないので、ももひきが理にかなっています。
アトリエは午後は解放しています。
展示場所と作業場所はすだれで隔てています。
仕事の8割は注文制作です。
「浅田の松」 2.4m×2.4m 料亭の大広間に飾られています。
金澤の本家の浅田松太さんの御父さんが働いていて、料亭の1階で火事が発生して、2階の表側の窓に、迎え松があって、御父さんはその松を伝わって降りていけて、松のおかげで命が救われた。
子供が生まれて松太という名前を付けたが、迎え松を描いてほしいとの依頼があり、父を救ったのと、本人の名前の由来、お客さんを迎える迎え松の役割も果たしてほしいという事でいくつかの意味合いがあります。
1962年 ワシントンDCの出身。
ワシントンDCは政治だけを置くことになり、街作りが綺麗、原生林をそのまま残す様にしたので、ヨーロッパ的に思われる。
4~5歳のころの植物デッサン帖があります。
8歳のころの先生が、これからの人生を決めるのには8歳のタイミングはいいと言われて、画家を目指しました。
カーネギーメロン大学の芸術学部絵画科を目指す。
50倍の競争でした。
作品を50点提出するように言われて、作品がいっぱいあったので、その中からいい作品を持っていったら先生が吃驚して、今まで50点持ってきたのは始めてかもしれないと言われました。
入学したら、画家として提供したいのは純粋な美なので、大学に入るとモダニズムでないとアートじゃないという発想で相当先生方から批判されました。
斬新さを大学からは求められた。
そんな中で疑問を感じるようになりました。
高校の時は油絵をやっていたが、植物を描くのにはもっと液体的な絵具がほしいと思っていた。
思考錯誤して新しい絵具画材を発明したつもりでしたが、展覧会で或る人からこういう技法だと確か昔から日本でも使っていた気がするんだけれどと言われて、それが頭の片隅にあった。
日本に行けば手がかりになると思って、1982年日本に来る。
動物系のタンパク質はうさぎの方を使っていたが、日本に来たら、三千本膠(さんぜんぼんにかわ)があり、鹿のたんぱく質で、うさぎは匂いが臭いが、鹿は匂いが臭くなかった。
鹿にかわは透明度が高く、絵具が光って見え、素晴らしい材料った。
帰るつもりでいたが、画材の出会いの為に住みつくしかないと思った。
岩絵の具は色褪せしない、色の深み、きらめき、透明感の美しさも魅かれました。
これらを使う事によって、ようやく自分の表現が自由にできるということが大きかったです。
東京芸術大学を受験することにする。
加山又造先生の作品にあこがれていました。(いろんな表現を取り入れていました)
東京芸術大学では実技試験で先生の前で実際に描く様になっている、人物デッサン。
カーネギーメロン大学では嫌というほどデッサンの勉強をしたので、非常に役に立ちました。
20分ギリギリで作品が出来、10分の休憩後戻ってくると、新しい紙に入れ変えてもらっていなかった。
この一つのポーズで一枚の紙で4時間かけて描くという事になっていて、非常にびっくりしました。
一回目は落ちまして、二回目は聴講でもどうですかと言われて入りました。
先生から、聴講生を勧めたのは何故かというと、君はどういう絵描きか見たかったと言われました。
1年後に正式に合格しました。
付き合っていた女性の父親から芸大に入ることが前提だと言われていて、に同時にプロポーズしました。
加山先生は戦争中ににかわまで配給がありました。
藤田嗣治先生はにかわの配給の採配をする先生だったので、芸大にちゃんと行きとどく様に見てくださった。
ドーサ液を作る時ににかわを溶かしてミョウバンを入れるが、ミョウバンの分量が判る様になるには、ちょっとだけ舐めると旨味がでてくるというので判るんです。
肉の配給の時代でタンパク質はなかなか手に入らない。
加山先生はその場で、にかわこのうまみ にかわが食べたい、でも食べれば絵が描けない、ハングリー精神の空腹感をもってにかわを使って絵を描いていたという、一つの場面を教えていただいた時、熱意と感謝の気持ちを持って、絵を描く大切さを学びました。
写実的に書けば書くほど虚しくなる、心で感じるものを絵を通して感じてもらえればと思っていましたので、豊かな線が引っ掛かりではないかと考え、細い線が急に太くなったり細くなったリすると、炎のように動いてみえてて、生命感が表現できたらなと思っていて、線を表現するのには狩野派の筆法を取り入れる大切さがあると思って、昔の書類をもって色々勉強しました。
筆は穂先を軽く触れるか、強く押すかによって、線が太いか細いか決まるが、当たりが無いのでふわーっとした感覚で細い線か太い線か昔の人は判っていた。
デッサンをする時に被写体を見ているので、筆の穂先を見ていられないので、20年前から鉛筆、ボールペンを使わないようにして、必ず筆を使ってやっています。(矢立てを常に持っている)
普通に肖像画を描くと、表面的なことしか目立たない、人の優しさ、身ぶり手ぶり、接し方とかそういうのは、きそ?(基礎)(聞き取れず)であると思うので、植物を使う事によってその人のらしさがでてくるのでは無いかと思っている。
作品を渡す時の御客様を見るのが何より幸せなので、お客様が持ってくる課題、楽しみ、面白みを受け続けることがなによりです。
2016年7月20日水曜日
中村正人(プロジェクトマネージャ) ・パートナーは“あかつき”
中村正人(JAXA金星探査機「あかつき」プロジェクトマネージャ) ・パートナーは“あかつき”
日本初の惑星探査機、あかつきが金星の本格的な観測を始めています。
あかつきはプラネットCという名称で、開発がすすめられ2010年に打ち上げられました。
エンジントラブルを乗り越えて、去年の暮、金星を廻る軌道への投入に成功しました。
中村さんは1959年生まれ、専門は惑星大気プラズマ物理学で、金星探査機あかつきプロジェクトマネージャーとして計画の立案から軌道への投入まで、15年に渡る長いプロジェクトを率いてこられました。
あかつきとの15年について伺いました。
金星は太陽をはさんで地球の反対側にいて、光の速度で14分ちょっと、2億6000万kmです。
その周りを楕円軌道していて、金星の近くを11日位で1周しています。
3台の赤外線カメラと1代の紫外線カメラが動いていて、1時間ごとに動かして各カメラが数枚の画像を送ってきています。
5年間の間に太陽に近づいてしまうということが9回あり、太陽の熱で衛星が劣化してしまうということがあって、燃料も1回の挑戦しか無くて、背水の陣を敷いてやりました。
色々トラブルを想定してどう切り抜けるのかの練習もしました。
あかつきは自分だけで金星の廻りを回るという風にセットして、離しました。
20分間エンジンを吹いてやっと金星の周りを廻りました。
15年前に設計を最初にして凄くいろいろ検討して、それが巧く当たって綺麗な映像が撮れていてうれしかったです。
思わぬ映像もあって、雲のてっぺんの温度を測るカメラがあるが、そこに南北に大きく伸びる波の構造があるように見えたが、世界で初めて見えた構造で、どうしてそれができるのかを考えているが、決定には至っていない。
金星は太陽を廻る周期は225日、自転の周期は243日、一日の長さが243日となっています。
太陽系の殆どの惑星は東向きに廻っているが金星だけは西向きに廻っていて、原因が判っていません。
惑星が当たったとか、外乱でそうなったともいえません。
大気は熱い硫酸の雲で覆われていて、表面は地球からは見えない。
表面では465℃で熱い温度になっていて、大気の成分は二酸化炭素で地表での圧力は90気圧で、深さ1kmの海の中と同じ圧力で、とても生物が住める環境ではない。
1秒間に100mのスピードで回っていて、スーパーローテーションとよんでいるが、どうしてそういったことが起きるのか、調べるべき一つになっている。
6台のうち4台は観測する光の波長が異なる感度があるカメラで金星全体を一気に撮影することができる。
違う波長で見ると、違う高度の雲、大気に含まれている水蒸気、一酸化炭素などの分布が映像として映し出され高さ方向にも分解できる。
これらの観測を通じて金星の気象学を始めたいと思っている。
金星の大気はどんな法則に従って動くかを知って、地球の気象学の拡張として気象学を構築する、翻ってこれを地球に適用すれば地球気象の深い理解に至ることができるのではないかと思っています。
トラブルがあり、当初の計画から変更して、遠い所から定点観測に切り替えました、
平成22年5月21日鹿児島の種子島宇宙センターから打ち上げ、当初その年の12月に金星の周回軌道に到達して2年間金星の大気を観測する予定だったが、12月に予定とずれていることが判った。
原因はエンジンの燃料とそれを送り出す高圧ガスタンクの間に逆流防止弁があるが、それが詰まってしまって、燃料の送定量がエンジンに届かず、異常燃焼をしてしまって、高温度になって壊れてしまった。
探査機が行方不明になり、見つかって、情報収集に全力をあげました。
2015年 あかつきが再び金星に近づく平成27年11月を目標に、軌道を制御する主エンジンを噴射させて軌道を再投入することを目指していたが、エンジンが全損していることが判明、2011年9月に主エンジンに依る再投入が不可能という事になる。
多くの応援メセージをいただきました。
平成27年12月に周回軌道に成功する。
のぞみ、はやぶさの不具合を回収して作り上げた衛星だった。
ステップを踏んでいかなければ判らないことがどうしてもあります。
プロジェクトサイエンティストは今村准教授、ハードウエアープロジェクトエンジニアは石井教授、財政部分は阿部先生、チームとして動いていました。
ひとみについては大変残念なことでしたが、どうしてそうなったかを追及して、そこを是正する努力をしているところです。
小学生のころに偉人の伝記を読み、アインシュタインが「物理学は学問の王者である」とあり、理科が好きもあり、先生から物事を突き詰めて考えるという事を教わり、物理学に進みました。
地球の磁場があり、磁場が変動するが、地球の周りを取り巻いている電離層があり、電流が流れると電場が変動するが、その様子を調べることによって地球の磁場のメカニズム、電離層の場乱の様子が判ってくる。
反応から最終的には地球の構造そのものを調べてゆくという事になります。
海底磁力計と海底電波計を引き上げるアルバイトをする中で、宇宙に未来はない、海底にこそ未来があると言われるが、最終的には宇宙方面に行く事になりました。
宇宙研の大林辰蔵先生が定年を迎えられ、助手をという話があり、1992年に打ち上げた衛星の組み上げ運用、観測装置を作って乗せるという仕事にどっぷりつかっていた。
東大に来ないかという話があり、宇宙研では役に立たないから引き取ってくれという話を5年経ってから打ち明けられたが、真相は不明です。
山本先生がのぞみのプロジェクトサイエンティストをされていて、嘱望されていたが、のぞみ打ち上げの半年前に病気で急に亡くなられ、私がバトンタッチすることになりました。
赤外線カメラを担当するが、探査機が良くないとカメラがいかに良くても写真が良く撮れないことが判ってきて、ミッション全体を考える様になりました。
3人でミッションの設計図を描いて、2年間は考えたことを説得してゆくが理解されなくてその間歯を食いしばって、今も奥歯はボロボロです。
比較的楽天的な性格ではないかと思っています。
この仕事はだれが適任かを探すのは何故か得意です。
「明日出来ることは今日するな」 なるべくそうするようにやっています。
明日はもっと良くなるかもしれない。(出来るだけ先延ばししています)
若い人たちは行動原理をどこに求めたらいいのか、と言うのがしばしば迷うみたいで、自分の価値観を持ってその自分の価値観でするべきことは決める、人の価値観で動いてはいけないと言っています。
チャンスを最大限にいかせるならば、下積みをやってでも15年かけてでもやってみたいと思って、今回のミッションをやったわけです。
2007年に打ち上げる予定だったが倍かかってしまいました。
手を動かして実行してみて、失敗をしてみて、その中から本当に大事なものはなにか、というものを掴み取ってゆくしかないんじゃないでしょうか。
失敗をしてみるという事は後の人生で大事なことになってゆくんじゃないでしょうか。
その中から本当に大事なものは何かを自分で掴み取ってゆくんじゃないでしょうか。
趣味がピアノとカメラです。
小さい頃から始めて、大人になって辞めてしまって、その後東大の研究室にキーボードを置いたが、或る名誉教授がセミナーに来て、キーボードを弾き始めて、教室には中年でピアノを弾くのは僕しかいないので一緒に燃えようと言って、それから15年以上習っています。
年2回発表会があります。(合計30回)
カメラはおじがNHKのカメラマンをしていて教わりました。
撮るのは主に、花、風景、うちの猫を撮ります。
あかつきは設計時から長い付き合いしているし、通信をしていて命令をこちらから与えるが、出来ない様な命令を与えるが、探査機はそんな無茶な命令をしてはいけませんとか、上手い具合に行っていますとか言ってくるわけです。
そういうのを見ていると人間みたいな感じがしてきます。
あかつきの寿命は燃料で決まっていて、あと2000日は持つと思っています。
日本が毎日の金星のデータを世界の研究者に発信できる時代がやってきて、日本の探査機の成熟期を迎えたんじゃないかと思います。
日本初の惑星探査機、あかつきが金星の本格的な観測を始めています。
あかつきはプラネットCという名称で、開発がすすめられ2010年に打ち上げられました。
エンジントラブルを乗り越えて、去年の暮、金星を廻る軌道への投入に成功しました。
中村さんは1959年生まれ、専門は惑星大気プラズマ物理学で、金星探査機あかつきプロジェクトマネージャーとして計画の立案から軌道への投入まで、15年に渡る長いプロジェクトを率いてこられました。
あかつきとの15年について伺いました。
金星は太陽をはさんで地球の反対側にいて、光の速度で14分ちょっと、2億6000万kmです。
その周りを楕円軌道していて、金星の近くを11日位で1周しています。
3台の赤外線カメラと1代の紫外線カメラが動いていて、1時間ごとに動かして各カメラが数枚の画像を送ってきています。
5年間の間に太陽に近づいてしまうということが9回あり、太陽の熱で衛星が劣化してしまうということがあって、燃料も1回の挑戦しか無くて、背水の陣を敷いてやりました。
色々トラブルを想定してどう切り抜けるのかの練習もしました。
あかつきは自分だけで金星の廻りを回るという風にセットして、離しました。
20分間エンジンを吹いてやっと金星の周りを廻りました。
15年前に設計を最初にして凄くいろいろ検討して、それが巧く当たって綺麗な映像が撮れていてうれしかったです。
思わぬ映像もあって、雲のてっぺんの温度を測るカメラがあるが、そこに南北に大きく伸びる波の構造があるように見えたが、世界で初めて見えた構造で、どうしてそれができるのかを考えているが、決定には至っていない。
金星は太陽を廻る周期は225日、自転の周期は243日、一日の長さが243日となっています。
太陽系の殆どの惑星は東向きに廻っているが金星だけは西向きに廻っていて、原因が判っていません。
惑星が当たったとか、外乱でそうなったともいえません。
大気は熱い硫酸の雲で覆われていて、表面は地球からは見えない。
表面では465℃で熱い温度になっていて、大気の成分は二酸化炭素で地表での圧力は90気圧で、深さ1kmの海の中と同じ圧力で、とても生物が住める環境ではない。
1秒間に100mのスピードで回っていて、スーパーローテーションとよんでいるが、どうしてそういったことが起きるのか、調べるべき一つになっている。
6台のうち4台は観測する光の波長が異なる感度があるカメラで金星全体を一気に撮影することができる。
違う波長で見ると、違う高度の雲、大気に含まれている水蒸気、一酸化炭素などの分布が映像として映し出され高さ方向にも分解できる。
これらの観測を通じて金星の気象学を始めたいと思っている。
金星の大気はどんな法則に従って動くかを知って、地球の気象学の拡張として気象学を構築する、翻ってこれを地球に適用すれば地球気象の深い理解に至ることができるのではないかと思っています。
トラブルがあり、当初の計画から変更して、遠い所から定点観測に切り替えました、
平成22年5月21日鹿児島の種子島宇宙センターから打ち上げ、当初その年の12月に金星の周回軌道に到達して2年間金星の大気を観測する予定だったが、12月に予定とずれていることが判った。
原因はエンジンの燃料とそれを送り出す高圧ガスタンクの間に逆流防止弁があるが、それが詰まってしまって、燃料の送定量がエンジンに届かず、異常燃焼をしてしまって、高温度になって壊れてしまった。
探査機が行方不明になり、見つかって、情報収集に全力をあげました。
2015年 あかつきが再び金星に近づく平成27年11月を目標に、軌道を制御する主エンジンを噴射させて軌道を再投入することを目指していたが、エンジンが全損していることが判明、2011年9月に主エンジンに依る再投入が不可能という事になる。
多くの応援メセージをいただきました。
平成27年12月に周回軌道に成功する。
のぞみ、はやぶさの不具合を回収して作り上げた衛星だった。
ステップを踏んでいかなければ判らないことがどうしてもあります。
プロジェクトサイエンティストは今村准教授、ハードウエアープロジェクトエンジニアは石井教授、財政部分は阿部先生、チームとして動いていました。
ひとみについては大変残念なことでしたが、どうしてそうなったかを追及して、そこを是正する努力をしているところです。
小学生のころに偉人の伝記を読み、アインシュタインが「物理学は学問の王者である」とあり、理科が好きもあり、先生から物事を突き詰めて考えるという事を教わり、物理学に進みました。
地球の磁場があり、磁場が変動するが、地球の周りを取り巻いている電離層があり、電流が流れると電場が変動するが、その様子を調べることによって地球の磁場のメカニズム、電離層の場乱の様子が判ってくる。
反応から最終的には地球の構造そのものを調べてゆくという事になります。
海底磁力計と海底電波計を引き上げるアルバイトをする中で、宇宙に未来はない、海底にこそ未来があると言われるが、最終的には宇宙方面に行く事になりました。
宇宙研の大林辰蔵先生が定年を迎えられ、助手をという話があり、1992年に打ち上げた衛星の組み上げ運用、観測装置を作って乗せるという仕事にどっぷりつかっていた。
東大に来ないかという話があり、宇宙研では役に立たないから引き取ってくれという話を5年経ってから打ち明けられたが、真相は不明です。
山本先生がのぞみのプロジェクトサイエンティストをされていて、嘱望されていたが、のぞみ打ち上げの半年前に病気で急に亡くなられ、私がバトンタッチすることになりました。
赤外線カメラを担当するが、探査機が良くないとカメラがいかに良くても写真が良く撮れないことが判ってきて、ミッション全体を考える様になりました。
3人でミッションの設計図を描いて、2年間は考えたことを説得してゆくが理解されなくてその間歯を食いしばって、今も奥歯はボロボロです。
比較的楽天的な性格ではないかと思っています。
この仕事はだれが適任かを探すのは何故か得意です。
「明日出来ることは今日するな」 なるべくそうするようにやっています。
明日はもっと良くなるかもしれない。(出来るだけ先延ばししています)
若い人たちは行動原理をどこに求めたらいいのか、と言うのがしばしば迷うみたいで、自分の価値観を持ってその自分の価値観でするべきことは決める、人の価値観で動いてはいけないと言っています。
チャンスを最大限にいかせるならば、下積みをやってでも15年かけてでもやってみたいと思って、今回のミッションをやったわけです。
2007年に打ち上げる予定だったが倍かかってしまいました。
手を動かして実行してみて、失敗をしてみて、その中から本当に大事なものはなにか、というものを掴み取ってゆくしかないんじゃないでしょうか。
失敗をしてみるという事は後の人生で大事なことになってゆくんじゃないでしょうか。
その中から本当に大事なものは何かを自分で掴み取ってゆくんじゃないでしょうか。
趣味がピアノとカメラです。
小さい頃から始めて、大人になって辞めてしまって、その後東大の研究室にキーボードを置いたが、或る名誉教授がセミナーに来て、キーボードを弾き始めて、教室には中年でピアノを弾くのは僕しかいないので一緒に燃えようと言って、それから15年以上習っています。
年2回発表会があります。(合計30回)
カメラはおじがNHKのカメラマンをしていて教わりました。
撮るのは主に、花、風景、うちの猫を撮ります。
あかつきは設計時から長い付き合いしているし、通信をしていて命令をこちらから与えるが、出来ない様な命令を与えるが、探査機はそんな無茶な命令をしてはいけませんとか、上手い具合に行っていますとか言ってくるわけです。
そういうのを見ていると人間みたいな感じがしてきます。
あかつきの寿命は燃料で決まっていて、あと2000日は持つと思っています。
日本が毎日の金星のデータを世界の研究者に発信できる時代がやってきて、日本の探査機の成熟期を迎えたんじゃないかと思います。
2016年7月19日火曜日
坂田有三(白線ムジカ代表・指揮者) ・嗚呼(ああ)!青春の寮歌
坂田有三(白線ムジカ代表・指揮者) ・嗚呼(ああ)!青春の寮歌
寮歌は旧制高校の寮生を中心に生徒自らが作り、みんなで歌った歌で若者たちの青春の思いが込められています。
全寮制が建前だった旧制高校は明治19年から昭和25年まで、およそ70年間続き、卒業生はおよそ22万人と言われています。
昭和25年旧制山口高校最後の卒業生だった坂田さんは高校時代は山口高校合唱団や市民合唱団に熱中していましたが、合唱や音楽に詳しいことから高校の先輩から寮歌祭に駆り出されるようになりました。
坂田さんは寮歌祭に参加して他の学校の寮歌を知るにつれて、多くの素晴らしい寮歌があることに驚きます。
寮歌祭を重ねるにつれて、世界的にも珍しい寮歌を伝えていこうと云う機運が盛り上がり、歌唱リーダーとして白羽の矢が立ったのが坂田さんでした。
会の名前は旧制高校のOBの白線クラブから取り、「白線ムジカ」、3000曲あると言われる寮歌を探し録音しています。
93歳を最高齢に選抜メンバー7~8人が高齢者施設を訪れ、寮歌、童謡、唱歌、演歌までみんなで楽しく歌っています。
寮歌の保存に取り組み20年、坂田さんに伺いました。
声をだす前に軽いストレッチを行います。
筋肉をほぐして血液を循環させないと良い声は出ない。
現在85歳。
旧制高等学校、明治時代に第8高等学校ができて、大正時代に4つできてその後、順次に出来て38校が旧制高校として存在してきた、全寮制です。
最初の寮歌は明治34年の「春爛漫の花の色」(第一高等学校)
寮歌は約3000曲作られたがその半分は記念祭(寮の文化祭)の為の歌。
歌詞(文系の生徒)を募集して、作曲(理系の生徒)を募集して、毎年寮歌が作られてゆく。(1年にいくつも作られる)
琵琶湖周航の歌、北帰行、豪気節・・・など、著名な歌が残っている。
当時は合唱などにのめり込んでいて、寮歌はあまり歌っていなかった。
父は本来は家業を継いで長唄の家元をやるべき立場だったが学者の道に入って、福島高校から山口高校と、後に山口大学の学校に行き、山口との縁が出来ました。
邦楽系のリズムも身について行きました。
合唱活動に長らく首を突っ込んでいて、寮歌について自分で関心を持ったのは、平成5年ぐらいからです。
平成6年に山口高等学校の開校75周年の行事があり、山口高校の寮歌50曲、全曲を録音してカセットテープにして皆に配布するという事を実行委員会が企画して、録音の為の練習、録音作業を先輩から頼まれました。
その時から本当のかかわりが始まりました。
当時の寮歌の録音としては質の高い録音ができたと思っています。
「鴻南に寄する歌」 大正8年に山口高校ができて、第一回生が東大に進んだ。
彼らが第一回東大文甲会で本郷に集まって即席で作詞、作曲したといわれる。
それを母校に寄贈した寄贈歌です。(大正13年)
映画監督の山田洋次さんが私の一年後輩で、昨年制作した「母と暮らせば」の中で「鴻南に寄する歌」 の一番を歌う場面がでてきますが、その時に歌の指導しました。
全寮制が背景にあって、記念祭という行事をやって、それにリンクした形で生徒が作詩、作曲した曲が毎年毎年作られたという事は世界的にも類例がない。
きちんとした音楽として良い曲は、残してゆく事が意味の有る事ではないか、と考えてそういう活動をやってきました。
おととし、旧制高校寮歌名曲選 140曲を網羅して楽譜、歌詞、解説まで含めた本を出版しました。
昨年、3月から8月にかけて140曲を録音してCDとして完成して、届ける状態になりました。
寮歌を音楽としてきちんと残すには、プロの活動と繋がりをもちたいと思っていましたので長野先生に協力していただいて、出来ました。
寮歌の伝承をどうやって行ったらいいか、寮歌伝承の集いを企画して、今年で5回目になります。
大学の合唱団とのつながりを持って、寮歌コンサートができないものかと考えています。
年に数回、施設に行って歌っています、少しでも元気になって頂きたいと思っています。
寮歌は旧制高校の寮生を中心に生徒自らが作り、みんなで歌った歌で若者たちの青春の思いが込められています。
全寮制が建前だった旧制高校は明治19年から昭和25年まで、およそ70年間続き、卒業生はおよそ22万人と言われています。
昭和25年旧制山口高校最後の卒業生だった坂田さんは高校時代は山口高校合唱団や市民合唱団に熱中していましたが、合唱や音楽に詳しいことから高校の先輩から寮歌祭に駆り出されるようになりました。
坂田さんは寮歌祭に参加して他の学校の寮歌を知るにつれて、多くの素晴らしい寮歌があることに驚きます。
寮歌祭を重ねるにつれて、世界的にも珍しい寮歌を伝えていこうと云う機運が盛り上がり、歌唱リーダーとして白羽の矢が立ったのが坂田さんでした。
会の名前は旧制高校のOBの白線クラブから取り、「白線ムジカ」、3000曲あると言われる寮歌を探し録音しています。
93歳を最高齢に選抜メンバー7~8人が高齢者施設を訪れ、寮歌、童謡、唱歌、演歌までみんなで楽しく歌っています。
寮歌の保存に取り組み20年、坂田さんに伺いました。
声をだす前に軽いストレッチを行います。
筋肉をほぐして血液を循環させないと良い声は出ない。
現在85歳。
旧制高等学校、明治時代に第8高等学校ができて、大正時代に4つできてその後、順次に出来て38校が旧制高校として存在してきた、全寮制です。
最初の寮歌は明治34年の「春爛漫の花の色」(第一高等学校)
寮歌は約3000曲作られたがその半分は記念祭(寮の文化祭)の為の歌。
歌詞(文系の生徒)を募集して、作曲(理系の生徒)を募集して、毎年寮歌が作られてゆく。(1年にいくつも作られる)
琵琶湖周航の歌、北帰行、豪気節・・・など、著名な歌が残っている。
当時は合唱などにのめり込んでいて、寮歌はあまり歌っていなかった。
父は本来は家業を継いで長唄の家元をやるべき立場だったが学者の道に入って、福島高校から山口高校と、後に山口大学の学校に行き、山口との縁が出来ました。
邦楽系のリズムも身について行きました。
合唱活動に長らく首を突っ込んでいて、寮歌について自分で関心を持ったのは、平成5年ぐらいからです。
平成6年に山口高等学校の開校75周年の行事があり、山口高校の寮歌50曲、全曲を録音してカセットテープにして皆に配布するという事を実行委員会が企画して、録音の為の練習、録音作業を先輩から頼まれました。
その時から本当のかかわりが始まりました。
当時の寮歌の録音としては質の高い録音ができたと思っています。
「鴻南に寄する歌」 大正8年に山口高校ができて、第一回生が東大に進んだ。
彼らが第一回東大文甲会で本郷に集まって即席で作詞、作曲したといわれる。
それを母校に寄贈した寄贈歌です。(大正13年)
映画監督の山田洋次さんが私の一年後輩で、昨年制作した「母と暮らせば」の中で「鴻南に寄する歌」 の一番を歌う場面がでてきますが、その時に歌の指導しました。
全寮制が背景にあって、記念祭という行事をやって、それにリンクした形で生徒が作詩、作曲した曲が毎年毎年作られたという事は世界的にも類例がない。
きちんとした音楽として良い曲は、残してゆく事が意味の有る事ではないか、と考えてそういう活動をやってきました。
おととし、旧制高校寮歌名曲選 140曲を網羅して楽譜、歌詞、解説まで含めた本を出版しました。
昨年、3月から8月にかけて140曲を録音してCDとして完成して、届ける状態になりました。
寮歌を音楽としてきちんと残すには、プロの活動と繋がりをもちたいと思っていましたので長野先生に協力していただいて、出来ました。
寮歌の伝承をどうやって行ったらいいか、寮歌伝承の集いを企画して、今年で5回目になります。
大学の合唱団とのつながりを持って、寮歌コンサートができないものかと考えています。
年に数回、施設に行って歌っています、少しでも元気になって頂きたいと思っています。
2016年7月18日月曜日
小笠原清忠(小笠原流・宗家) ・品格は美しい姿勢から
小笠原清忠(小笠原流礼法三十一世宗家・品格は美しい姿勢から
鎌倉時代から850年近くにわたって、代々受け継がれてきた小笠原流礼法、流鏑馬や弓道の武士の世界の礼法と思われがちですが、その神髄の常に正しい心を持ち、常に正しい姿勢を心掛けるという教えは和の心を持つ、無駄なく美しい動きを生みだし、国際化時代の現代人の日常行動にも大いに役立つと言います。
外国人から日本の素晴らしい文化と賞賛され、最近見なおされつつある日本の伝統に根差した礼法を31世小笠原流宗家清忠さんに伺います。
小笠原初代は1162年に甲州、小笠原の庄がありそこで生まれて、当時の関東武士は京都に行って学ぶと言うのが全国的にあって、小笠原長清も京都にでて礼法、教養を身に付けていた。
1185年に頼朝が、鎌倉幕府を作って、京都の文化を取り入れて指導するようにと言う事で、帰って来いと言うことだったが、なかなか返してもらえなかった。
文治3年にやっと帰ってきたということが東鏡にあります。
私で31代目になります。
息子に継がせてゆくと言う事で、女性に継がせることはなかったです。
何人かに競わせて一番優秀なものに継がせる。
「弓は唯射て見せたとも無益なり、何ともなくて気高きぞ良き」 歌
弓は射て見せる、引いてみせるものであってよくない、何にもしなくても気高き、それがいいんだ。
「なり姿流れ流れに変わるとも奥意は同じ谷川の水」
川の流れは、流れに従っていろんな形を作ってゆくけれども、基は一つ、谷川の水。
礼法もそうで、武道、お茶、笛の礼法などといっているが基は一つ。
「究めれば無色無形なり」
色があるのはよくない、形があっても見せているだけ。
息子、男の孫もいます。
古いものをきちんと伝えてゆくのがうちの使命だと思っています。
礼法、弓道、馬術ができないと小笠原流ではない。
明治以降、礼儀作法を言われるが、もっと前は礼法があり、心と体を養うと言うのが主目的です。
常に正しい心を持ち、常に正しい姿勢を心掛ける。(昔はあった)
立つ、座る、歩くで以って足腰を鍛える。
歩く、常に真ん中に重心があり、後ろ脚を前に異動する、そうすると腿の筋肉を非常に使う。
明治期に崩れてきてしまった。
江戸幕府が崩壊して上級武士が無くなり、教養のない人も取り入れられて重い役に就くが、「野人礼になれず」という言葉を使って、逃げてしまう。
楽な方に行ってしまって、今の日本全てです。
歩きながら食べるなと言っていたが今はそうなってはいない。
立つ時は、風のない日に煙が空に立ち上るがごとく立て。
座る時は、水の中に石を落とすとスーッと沈んでゆくが、沈むがごとく座る。
真っ直ぐにということと、スピードが変わらないこと。
立つときは、立つ瞬間に気を付ける。(前傾をしないで立つ ももの筋肉を使う)
座るときは最後ゆっくりしなさい。
例えば、TV見るときにリモコンを取りたいと言った時に真っ直ぐ立てるかという事をやってみなさいと言っています。(腿の筋肉は鍛えられる)
膝行、膝退が出来るのは相当稽古しないと出来ない。
黒沢監督が映画のシーンで膝行、膝退を撮ろうとしたが、役者ができなくて、そのシーンを外したと言う事も聞いています。
NHKの大河ドラマでのシーンでも、うちの門人が吹き替えました。
昔、弓を射るシーンでも私が殆どやりました。
お辞儀をする時に吸う息で身体を曲げてゆき、吐く息だけ止まる、吸う息で起きあがると言う事をやった時に、吸う息で曲げてゆくのはゆっくりで、吐く息が早くて、起きあがる時の吸う息は早くなる。(動作に呼吸を合わせている)
呼吸に動作を合わせる。(自分の呼吸が判らないと呼吸に動作が合わせられない)
人によって呼吸はそんなに変わるものではなく、だから息が合う。(気持ちの交流ができる)
お辞儀は非常に大切なことだと思います。
手を前で組んで御辞義をするのは(リラックスした状態)、緊張した姿勢ではなく、それでお辞儀をするのはもう相手にたいして失礼に当たる。
手を前で組むと言う事は肩が前に行き、正しい姿勢ではない。
新日鉄の武田さん(昔は富士製鉄の人事部長だった)は、私が学生の時に尋ねた時の応対が素晴らしいかった。
厚生省の労働衛生局長をされてた、山口正義先生(後の結核予防理事長)の応対も素晴らしいかった。
伊達正宗が家臣に言った言葉、「この世に客に来たと思え」 御客さんでこの世に来たと思えば、そんなだらしない恰好はどこでもしないだろうと。
立ち居振る舞いが雑な人は会った人からの信用度が低くなると思う。
江戸時代までは将軍家に仕えていたが、明治になって一般を相手にして生計を立てると、どうしても妥協しなければいけないことがあるので、技が嫌しくなると言う事で、曾祖父が礼法で生計を立てるなと遺言を書いてそれ以後、必ず仕事に就く事になっています。
医療金融公庫に勤めながら小笠原流宗家を継いできました。
西洋の騎士道 正しい姿勢は求められる、乗馬とダンスをして正しい姿勢を学ぶ。
靴をはく生活と靴を脱いでの日常生活で大分違う事はあると思います。
体幹を鍛えることがはやっているが、立つ、座る、歩くの礼法をやれば体幹は鍛えられると思う。
4年前、国際柔道大会があり、体幹を鍛えるのを見せたいと言うので特別演舞してほしいとの要望がありお見せしたが、見ているかたは外国人の選手とコーチで日本人はまるっきり見ていなかった。
礼法のビデオを見せるが、誰がこういう事をやるのと聞くのは日本人、外国人の記者たちはこういういい文化があるのに、何故日本人はやらないのか、という声を聞きます。
歩く動作も直すには、大分時間がかかると思います。
鎌倉時代から850年近くにわたって、代々受け継がれてきた小笠原流礼法、流鏑馬や弓道の武士の世界の礼法と思われがちですが、その神髄の常に正しい心を持ち、常に正しい姿勢を心掛けるという教えは和の心を持つ、無駄なく美しい動きを生みだし、国際化時代の現代人の日常行動にも大いに役立つと言います。
外国人から日本の素晴らしい文化と賞賛され、最近見なおされつつある日本の伝統に根差した礼法を31世小笠原流宗家清忠さんに伺います。
小笠原初代は1162年に甲州、小笠原の庄がありそこで生まれて、当時の関東武士は京都に行って学ぶと言うのが全国的にあって、小笠原長清も京都にでて礼法、教養を身に付けていた。
1185年に頼朝が、鎌倉幕府を作って、京都の文化を取り入れて指導するようにと言う事で、帰って来いと言うことだったが、なかなか返してもらえなかった。
文治3年にやっと帰ってきたということが東鏡にあります。
私で31代目になります。
息子に継がせてゆくと言う事で、女性に継がせることはなかったです。
何人かに競わせて一番優秀なものに継がせる。
「弓は唯射て見せたとも無益なり、何ともなくて気高きぞ良き」 歌
弓は射て見せる、引いてみせるものであってよくない、何にもしなくても気高き、それがいいんだ。
「なり姿流れ流れに変わるとも奥意は同じ谷川の水」
川の流れは、流れに従っていろんな形を作ってゆくけれども、基は一つ、谷川の水。
礼法もそうで、武道、お茶、笛の礼法などといっているが基は一つ。
「究めれば無色無形なり」
色があるのはよくない、形があっても見せているだけ。
息子、男の孫もいます。
古いものをきちんと伝えてゆくのがうちの使命だと思っています。
礼法、弓道、馬術ができないと小笠原流ではない。
明治以降、礼儀作法を言われるが、もっと前は礼法があり、心と体を養うと言うのが主目的です。
常に正しい心を持ち、常に正しい姿勢を心掛ける。(昔はあった)
立つ、座る、歩くで以って足腰を鍛える。
歩く、常に真ん中に重心があり、後ろ脚を前に異動する、そうすると腿の筋肉を非常に使う。
明治期に崩れてきてしまった。
江戸幕府が崩壊して上級武士が無くなり、教養のない人も取り入れられて重い役に就くが、「野人礼になれず」という言葉を使って、逃げてしまう。
楽な方に行ってしまって、今の日本全てです。
歩きながら食べるなと言っていたが今はそうなってはいない。
立つ時は、風のない日に煙が空に立ち上るがごとく立て。
座る時は、水の中に石を落とすとスーッと沈んでゆくが、沈むがごとく座る。
真っ直ぐにということと、スピードが変わらないこと。
立つときは、立つ瞬間に気を付ける。(前傾をしないで立つ ももの筋肉を使う)
座るときは最後ゆっくりしなさい。
例えば、TV見るときにリモコンを取りたいと言った時に真っ直ぐ立てるかという事をやってみなさいと言っています。(腿の筋肉は鍛えられる)
膝行、膝退が出来るのは相当稽古しないと出来ない。
黒沢監督が映画のシーンで膝行、膝退を撮ろうとしたが、役者ができなくて、そのシーンを外したと言う事も聞いています。
NHKの大河ドラマでのシーンでも、うちの門人が吹き替えました。
昔、弓を射るシーンでも私が殆どやりました。
お辞儀をする時に吸う息で身体を曲げてゆき、吐く息だけ止まる、吸う息で起きあがると言う事をやった時に、吸う息で曲げてゆくのはゆっくりで、吐く息が早くて、起きあがる時の吸う息は早くなる。(動作に呼吸を合わせている)
呼吸に動作を合わせる。(自分の呼吸が判らないと呼吸に動作が合わせられない)
人によって呼吸はそんなに変わるものではなく、だから息が合う。(気持ちの交流ができる)
お辞儀は非常に大切なことだと思います。
手を前で組んで御辞義をするのは(リラックスした状態)、緊張した姿勢ではなく、それでお辞儀をするのはもう相手にたいして失礼に当たる。
手を前で組むと言う事は肩が前に行き、正しい姿勢ではない。
新日鉄の武田さん(昔は富士製鉄の人事部長だった)は、私が学生の時に尋ねた時の応対が素晴らしいかった。
厚生省の労働衛生局長をされてた、山口正義先生(後の結核予防理事長)の応対も素晴らしいかった。
伊達正宗が家臣に言った言葉、「この世に客に来たと思え」 御客さんでこの世に来たと思えば、そんなだらしない恰好はどこでもしないだろうと。
立ち居振る舞いが雑な人は会った人からの信用度が低くなると思う。
江戸時代までは将軍家に仕えていたが、明治になって一般を相手にして生計を立てると、どうしても妥協しなければいけないことがあるので、技が嫌しくなると言う事で、曾祖父が礼法で生計を立てるなと遺言を書いてそれ以後、必ず仕事に就く事になっています。
医療金融公庫に勤めながら小笠原流宗家を継いできました。
西洋の騎士道 正しい姿勢は求められる、乗馬とダンスをして正しい姿勢を学ぶ。
靴をはく生活と靴を脱いでの日常生活で大分違う事はあると思います。
体幹を鍛えることがはやっているが、立つ、座る、歩くの礼法をやれば体幹は鍛えられると思う。
4年前、国際柔道大会があり、体幹を鍛えるのを見せたいと言うので特別演舞してほしいとの要望がありお見せしたが、見ているかたは外国人の選手とコーチで日本人はまるっきり見ていなかった。
礼法のビデオを見せるが、誰がこういう事をやるのと聞くのは日本人、外国人の記者たちはこういういい文化があるのに、何故日本人はやらないのか、という声を聞きます。
歩く動作も直すには、大分時間がかかると思います。
2016年7月16日土曜日
澤木万理子(宇治川の鵜飼・鵜匠) ・鵜飼に恋して
澤木万理子(宇治川の鵜飼・鵜匠) ・鵜飼に恋して
42歳 、京都市に生まれ滋賀県で育った澤木さんは主婦で派遣社員として働いていた、2001年鵜匠の門を叩き、翌年に鵜匠デビュー、2004年は鵜匠として一人立ちし日本で3人目の女性鵜匠として注目されました。
澤木さんは宇治市観光協会としても採用され鵜飼シーズンの7月から9月までの3カ月間は二足のわらじをはいて活躍しています。
宇治川の鵜飼に新しいアイドルが登場しました。
宇治で産まれ澤木さん達がそだてた海鵜、愛称ウッディー 去年鵜飼にデビューし人気者なっています。
何故鵜匠になったのか、どんな鵜飼にしたいのか伺いました。
雛の餌はアジの磨り身です。
雛は一昨年から、初めてなので専門家に聞きながら育てています。
成長が早いです、これは6日目で、目が少しだけ見えてきた様な状態で、毛はまだ生えていません、90gです。
56日目の若鳥もいます。
今夜活躍する鵜は宇治川の中州に鵜の小屋があり14羽います。
去年デビューのウッディー 他の鵜よりちょっと小柄。
鵜はくちばしが長くて、先が鍵形に曲がっている。
今夜の鵜飼につれてゆくのは若い鳥だとか、動きの状態を見ながら、毛艶とか、目の色とかで決めてゆきます。
気性は荒いです。
2羽で一緒に行動するので、2羽同士でけんかをしたりします。
鵜飼は全て海鵜で、川鵜よりも体が一回り大きいので、深く川の中に潜ることができるので適していると言われます。
昨年8月 ウッディーは別行動で参加していなかった。
かがり火を怖がったりしていました。
宇治川の鵜飼は平安時代にはすでに行われていたと言われる。
藤原道綱の母が書いた蜻蛉日記の中に宇治川の鵜飼は登場する。(1000年以上前)
今の宇治川の鵜飼は観光の鵜飼として大正15年ごろに再興された。
平安後期~鎌倉時代に宇治川の鵜飼は途絶えていた。(仏教で殺生を戒めた)
今の鵜飼は夏の夜に行われます。
夜の方が魚の動きが鈍くなるので鵜が魚を取りやすい。
夏のアユの解禁に合わせる。
かがり火をたく事で魚が集まってくる。
風折烏帽子(頭にかかるかがり火の火の粉を防ぐ)に腰みの(水を防ぐ)といういで立ち。
一人が6羽の鵜を操ります。
綱が絡まったりするのでそれをほどいてやりながら鵜飼をします。
鳥が好きだったので鳥を扱う仕事がしたかった。
学生の時に鵜飼をはじめて見ました。
結婚後派遣社員で働いていたが、30歳を前にして自分のやりたい仕事は何だろうとふっと思って、鵜飼に辿りつきました。
宇治川でも鵜飼をやっている事が判って、お願いに行きました。
鵜飼の川開きの初日に一緒に船に乗って、見よう見まねでやりました。(上手くは行かなかった)
毎日段々と2羽から3羽と増やしていきました。
ここは世襲と決まっていなかったのでよかったです。(後継者不足は今も抱えている)
悪天候以外は、3カ月間は毎日やります。
最初は自分のことで精一杯でした。
3~4年目でようやく周りが見えるようになりました。
鵜飼、美しさが先ずあります、情緒のある美しさが魅力です。
魚を取る、吐かせることが身近で見られるダイナミックさも魅力です。
4歳違いの女性が入ってきてくれました。
長良川の鵜飼をやっている近所の人で長良川の鵜飼を親しんできた人です。
長良川の鵜飼は世襲制なので宇治川の鵜飼を聞きつけてきました。
皆さんに楽しんで頂けるように説明などもしながら行っています。
海鵜は神経質な鳥で人間が飼育している環境では卵を産まないと言われていた。
一昨年どういう訳か5つの卵を産んで、2つは小屋の中で割れてしまったが、3つ温めた処、1つだけひながかえって、これは日本で初めてのことだったんです。
昨年鵜飼にデビューして名前も公募してウッディーという名前になりました。
去年2羽、今年3羽のひなが順調に育っています。(人工ふ化)
鳥は目が見えてから初めて動くものを親だと思う習性があるので、私たちのことを親だと認識していると思います。
ウッディーは過保護に育ててしまった様で、他の鵜となかなかなじめなかったり、へたくそでしたが、今は他の鵜と一緒に生活ができるようになりました。
昨年はウッディーがデビューして観光客も増えて、7060人の方が来ていただきました。
6羽の人工ふ化で育った鵜は人に慣れて呉れると思うので、綱を使わずに放ち鵜飼をやってみたいと思います。(今の日本では無い)
42歳 、京都市に生まれ滋賀県で育った澤木さんは主婦で派遣社員として働いていた、2001年鵜匠の門を叩き、翌年に鵜匠デビュー、2004年は鵜匠として一人立ちし日本で3人目の女性鵜匠として注目されました。
澤木さんは宇治市観光協会としても採用され鵜飼シーズンの7月から9月までの3カ月間は二足のわらじをはいて活躍しています。
宇治川の鵜飼に新しいアイドルが登場しました。
宇治で産まれ澤木さん達がそだてた海鵜、愛称ウッディー 去年鵜飼にデビューし人気者なっています。
何故鵜匠になったのか、どんな鵜飼にしたいのか伺いました。
雛の餌はアジの磨り身です。
雛は一昨年から、初めてなので専門家に聞きながら育てています。
成長が早いです、これは6日目で、目が少しだけ見えてきた様な状態で、毛はまだ生えていません、90gです。
56日目の若鳥もいます。
今夜活躍する鵜は宇治川の中州に鵜の小屋があり14羽います。
去年デビューのウッディー 他の鵜よりちょっと小柄。
鵜はくちばしが長くて、先が鍵形に曲がっている。
今夜の鵜飼につれてゆくのは若い鳥だとか、動きの状態を見ながら、毛艶とか、目の色とかで決めてゆきます。
気性は荒いです。
2羽で一緒に行動するので、2羽同士でけんかをしたりします。
鵜飼は全て海鵜で、川鵜よりも体が一回り大きいので、深く川の中に潜ることができるので適していると言われます。
昨年8月 ウッディーは別行動で参加していなかった。
かがり火を怖がったりしていました。
宇治川の鵜飼は平安時代にはすでに行われていたと言われる。
藤原道綱の母が書いた蜻蛉日記の中に宇治川の鵜飼は登場する。(1000年以上前)
今の宇治川の鵜飼は観光の鵜飼として大正15年ごろに再興された。
平安後期~鎌倉時代に宇治川の鵜飼は途絶えていた。(仏教で殺生を戒めた)
今の鵜飼は夏の夜に行われます。
夜の方が魚の動きが鈍くなるので鵜が魚を取りやすい。
夏のアユの解禁に合わせる。
かがり火をたく事で魚が集まってくる。
風折烏帽子(頭にかかるかがり火の火の粉を防ぐ)に腰みの(水を防ぐ)といういで立ち。
一人が6羽の鵜を操ります。
綱が絡まったりするのでそれをほどいてやりながら鵜飼をします。
鳥が好きだったので鳥を扱う仕事がしたかった。
学生の時に鵜飼をはじめて見ました。
結婚後派遣社員で働いていたが、30歳を前にして自分のやりたい仕事は何だろうとふっと思って、鵜飼に辿りつきました。
宇治川でも鵜飼をやっている事が判って、お願いに行きました。
鵜飼の川開きの初日に一緒に船に乗って、見よう見まねでやりました。(上手くは行かなかった)
毎日段々と2羽から3羽と増やしていきました。
ここは世襲と決まっていなかったのでよかったです。(後継者不足は今も抱えている)
悪天候以外は、3カ月間は毎日やります。
最初は自分のことで精一杯でした。
3~4年目でようやく周りが見えるようになりました。
鵜飼、美しさが先ずあります、情緒のある美しさが魅力です。
魚を取る、吐かせることが身近で見られるダイナミックさも魅力です。
4歳違いの女性が入ってきてくれました。
長良川の鵜飼をやっている近所の人で長良川の鵜飼を親しんできた人です。
長良川の鵜飼は世襲制なので宇治川の鵜飼を聞きつけてきました。
皆さんに楽しんで頂けるように説明などもしながら行っています。
海鵜は神経質な鳥で人間が飼育している環境では卵を産まないと言われていた。
一昨年どういう訳か5つの卵を産んで、2つは小屋の中で割れてしまったが、3つ温めた処、1つだけひながかえって、これは日本で初めてのことだったんです。
昨年鵜飼にデビューして名前も公募してウッディーという名前になりました。
去年2羽、今年3羽のひなが順調に育っています。(人工ふ化)
鳥は目が見えてから初めて動くものを親だと思う習性があるので、私たちのことを親だと認識していると思います。
ウッディーは過保護に育ててしまった様で、他の鵜となかなかなじめなかったり、へたくそでしたが、今は他の鵜と一緒に生活ができるようになりました。
昨年はウッディーがデビューして観光客も増えて、7060人の方が来ていただきました。
6羽の人工ふ化で育った鵜は人に慣れて呉れると思うので、綱を使わずに放ち鵜飼をやってみたいと思います。(今の日本では無い)
2016年7月15日金曜日
樋野興夫(がん哲学外来理事長) ・がんの哲学
樋野興夫(がん哲学外来理事長) ・がんの哲学
ガンはこれまで30年以上にわたって日本人の死因のトップを占め、昨年もおよそ37万人がガンで亡くなりました。
ガンを告知された患者や家族が陥る混乱、不安や苦悩、そうした思いを語るガン哲学外来は2008年に順天堂大学病院に開設されました。
以来多くのガン患者のよりどころとして、全国各地に開設されています。
樋野さんは島根県の出身、愛媛大学医学部を卒業し、病理学を目指し、卒業後は当時大塚にあった、日本初のガン専門研究所、癌研究所に勤めます。
病理学医として30年以上ガン細胞と向き合ってきた、樋野さんが捉えたガンとは何か、私たちはガンとどう向き合えばいいのか伺いました。
ガン哲学というのは、人間学+生物学の法則を合体したのがガン哲学です。
患者との個人面談。
診断、治療とかではなくて、患者との一対一で医療の隙間を埋めるものとして重要であると始めました。
ガン相談とも違います。
傾聴が中心です、双方の対話です。
ガンの治療、死にたいする悩みが1/3、人間関係が1/3(家族の人間関係が半分、職場の人間関係が半分)
職場だったら今まで出世街道にいた人がガンになって窓際に置かれるとか、そういう事にたいする悩み。
家族の悩みは旦那さんがガンになった時には奥さんの余計なおせっかい。
奥さんがガンになったときには、旦那の心の冷たさ、こういう悩みは日本中おおいです。
切り口がガンで相談しやすいです。
ガンになる前から、訓練しておかないといけない。
最初は苦悩の顔をしてこられます。
言葉の処方箋をすると、帰るときには変わってきます。
島根県の過疎の村で生まれて、中学校はだいぶ前に廃校、小学校は昨年3月に廃校しました。
隣の村に診療所があって母につれられて峠を越えて、トンネルの中でおんぶされている姿を今でも覚えていて、3歳の時に医者になろうと思いました。
小学校の卒業式の時に「ボーイズビーアンビシャス」という言葉を来賓の方から言われました。
札幌農学校で内村鑑三、新渡戸稲造がいたことを勉強したのが、流れですかね。
19歳、浪人時代にそういったことを学びました。
病理学に入って、顕微鏡見てガン細胞を診断したり、病理解剖したり、生きた人間よりもそういう世界です。
人生虚しさから出発しているので、人と比較するのが少なくなり、どうせみんな死ぬんだと思うと、自分の悩みなどどうでもよくなっちゃいます。
人生不条理、虚しさ、この人の人生の目的はなんであったのかとか、頭の中で考えるようになります。
病理学、ガン細胞と、正常細胞の比較をするので、形態学だから風貌を見て診断するので、風貌を見て心まで読むと言うか、そういう考え方も出来ました。
ガン患者が部屋に入った時に何も話さなくてもその人の表情を見れば或る程度どんな悩みか推測できます。
偶然、ガン研に入りました。
人生邂逅の3大法則、①よい先生にであう、②良き友にであう、③良き本に出会う。
人生、出会いです。
南原繁、病理学者との出会い(菅野晴夫先生、アメリカ時代の先生など)、医学の勉強。
20代~30代は言われたことをがむしゃらにやりました。
40代は自分の好きなことに専念できるようになりました。
50代になって人の面倒を見るようになりました。
純度の深い専門性を究め尽すと、優先順位が出来ます。
正常細胞は使命を自覚して、任務を確実に果たす、自己制御と規制の上になり立っている。
ガン細胞は自分の使命を失って、増殖することがガン細胞の特徴。
元の形を残しているけれども増殖する事に向いてくる。
ガン遺伝子が活性化し、ガン抑制遺伝子が不活性化されという、突然変異が起こってくる。
ガンは今は半分は治る。(抗がん剤治療、放射線治療、癌細胞を取るなど)
50%のガンは共存しかない。(天寿ガン)
ガンは地上からは無くならないが、ガンで死なない時代が来ると思う。(共存)
人間はどんな境遇にもかかわらず、役割があって自分の人生は人にプレゼントを残して去ってゆく、というのが人間としての大切なものだと思います。
明日死んでしまうが、今日花に水をやるとか、自分の事をちょっと空の上から見るとか、そういうものになります。
そうすると自分のことが少しは解消されます。(がんは治らなくても悩み事が無くなる、解消)
患者さん当事者が自らガン哲学外来を主催する人が増えています。
同じ目線で語ると言う事はいいものです。
一般論を特殊なケースにおっしゃるから傷つきます、良かれと思ってアドバイスする人もいるが、
傷つく事があります。
私は1時間ぐらい話しますが、頭に入っている言葉を5つ位用意して、その人の反応を感じて、背筋が伸びたなと思う言葉が有ればそれでいい、それでやめます。
人間の尊厳に触れるのはどういう事か、太陽の光が射しこむとはどういうことか、人間の尊厳に触れた時の、境遇にかかわらず顔に笑顔が出ると言うのは、どうして人間は出来るようになっているかと言うのは学びです。
3000位の人と接して、学びが、人間はどういう境遇にもかかわらず、人との接し方に対話によって慰められると言う事が判りました。
アスベストの問題がでたのは2005年、研究から中皮腫の早期発見、血液診断の開発をしていた。
患者と30分位話す機会がありました。
ガン相談を持つようになり、ガン哲学外来ならやってもいいと言ったのが始まりです。
2008年にやってみたらたくさんの人が来ました。
医師の使命
①最前線の最先端の治療を直接施す。
②人間的な責任で手を差し伸べる。(失われつつある)
病気であっても病人にならない、病気は単なる個性だから。
ハウ いかにしてこういうことが起こった時に如何にして生きるかは、ハウは我々の自由意思です。
ガンは不条理だから、ガンは判らない、それになってどう生きるかは自由意思の選択です。
昔は医者がこうしなさいと言っていたが、今は選択するのは患者の自由だから、或る程度の覚悟が無いといけない、心構えをどうやって身につけられるのか、これがガン哲学外来の役割と感じ始めています。
ガン哲学外来は今90か所以上あります。
何かを用意してやると来辛くなるので、空っぽの器を用意して来た人が自分で水を入れるような場を作ると継続的にこれるようになります。
ガンは防げないが、ガンで死なない様な時代が来ます。
余り先のことは考えない、今日のことで精一杯生きる。
今日のことでみんな悩んでいますから。
心の状態を訓練をすること、それがガン哲学外来の対話学です。
日本はクオリティーオブライフはたくさん言っているが、クオリティーオブデスが無い、クオリティーオブデスの学びが無い。
人間は必ず死ぬので、明日死ぬとは思わないから、今日いかに生きるかというのが人間の学びになるので、そのためにどういう風にクオリティーオブデスを考えるか。
自分を無頓着にする、自分でコントロールできないことには一喜一憂しない、来た時に考える、そういうのが学びです。
自己放棄です、ほっとけです。
自分で変えられることは、勇気を持って変える勇気が必要です。
ガン患者との8年間の対話で学んだことは、人間は変えられるか変えられないかの識別する智慧の有無ですね。
「あなたは、そこにいるだけで価値の有る存在、 なにかをする前よりも、存在自体が重要である」
ガンはこれまで30年以上にわたって日本人の死因のトップを占め、昨年もおよそ37万人がガンで亡くなりました。
ガンを告知された患者や家族が陥る混乱、不安や苦悩、そうした思いを語るガン哲学外来は2008年に順天堂大学病院に開設されました。
以来多くのガン患者のよりどころとして、全国各地に開設されています。
樋野さんは島根県の出身、愛媛大学医学部を卒業し、病理学を目指し、卒業後は当時大塚にあった、日本初のガン専門研究所、癌研究所に勤めます。
病理学医として30年以上ガン細胞と向き合ってきた、樋野さんが捉えたガンとは何か、私たちはガンとどう向き合えばいいのか伺いました。
ガン哲学というのは、人間学+生物学の法則を合体したのがガン哲学です。
患者との個人面談。
診断、治療とかではなくて、患者との一対一で医療の隙間を埋めるものとして重要であると始めました。
ガン相談とも違います。
傾聴が中心です、双方の対話です。
ガンの治療、死にたいする悩みが1/3、人間関係が1/3(家族の人間関係が半分、職場の人間関係が半分)
職場だったら今まで出世街道にいた人がガンになって窓際に置かれるとか、そういう事にたいする悩み。
家族の悩みは旦那さんがガンになった時には奥さんの余計なおせっかい。
奥さんがガンになったときには、旦那の心の冷たさ、こういう悩みは日本中おおいです。
切り口がガンで相談しやすいです。
ガンになる前から、訓練しておかないといけない。
最初は苦悩の顔をしてこられます。
言葉の処方箋をすると、帰るときには変わってきます。
島根県の過疎の村で生まれて、中学校はだいぶ前に廃校、小学校は昨年3月に廃校しました。
隣の村に診療所があって母につれられて峠を越えて、トンネルの中でおんぶされている姿を今でも覚えていて、3歳の時に医者になろうと思いました。
小学校の卒業式の時に「ボーイズビーアンビシャス」という言葉を来賓の方から言われました。
札幌農学校で内村鑑三、新渡戸稲造がいたことを勉強したのが、流れですかね。
19歳、浪人時代にそういったことを学びました。
病理学に入って、顕微鏡見てガン細胞を診断したり、病理解剖したり、生きた人間よりもそういう世界です。
人生虚しさから出発しているので、人と比較するのが少なくなり、どうせみんな死ぬんだと思うと、自分の悩みなどどうでもよくなっちゃいます。
人生不条理、虚しさ、この人の人生の目的はなんであったのかとか、頭の中で考えるようになります。
病理学、ガン細胞と、正常細胞の比較をするので、形態学だから風貌を見て診断するので、風貌を見て心まで読むと言うか、そういう考え方も出来ました。
ガン患者が部屋に入った時に何も話さなくてもその人の表情を見れば或る程度どんな悩みか推測できます。
偶然、ガン研に入りました。
人生邂逅の3大法則、①よい先生にであう、②良き友にであう、③良き本に出会う。
人生、出会いです。
南原繁、病理学者との出会い(菅野晴夫先生、アメリカ時代の先生など)、医学の勉強。
20代~30代は言われたことをがむしゃらにやりました。
40代は自分の好きなことに専念できるようになりました。
50代になって人の面倒を見るようになりました。
純度の深い専門性を究め尽すと、優先順位が出来ます。
正常細胞は使命を自覚して、任務を確実に果たす、自己制御と規制の上になり立っている。
ガン細胞は自分の使命を失って、増殖することがガン細胞の特徴。
元の形を残しているけれども増殖する事に向いてくる。
ガン遺伝子が活性化し、ガン抑制遺伝子が不活性化されという、突然変異が起こってくる。
ガンは今は半分は治る。(抗がん剤治療、放射線治療、癌細胞を取るなど)
50%のガンは共存しかない。(天寿ガン)
ガンは地上からは無くならないが、ガンで死なない時代が来ると思う。(共存)
人間はどんな境遇にもかかわらず、役割があって自分の人生は人にプレゼントを残して去ってゆく、というのが人間としての大切なものだと思います。
明日死んでしまうが、今日花に水をやるとか、自分の事をちょっと空の上から見るとか、そういうものになります。
そうすると自分のことが少しは解消されます。(がんは治らなくても悩み事が無くなる、解消)
患者さん当事者が自らガン哲学外来を主催する人が増えています。
同じ目線で語ると言う事はいいものです。
一般論を特殊なケースにおっしゃるから傷つきます、良かれと思ってアドバイスする人もいるが、
傷つく事があります。
私は1時間ぐらい話しますが、頭に入っている言葉を5つ位用意して、その人の反応を感じて、背筋が伸びたなと思う言葉が有ればそれでいい、それでやめます。
人間の尊厳に触れるのはどういう事か、太陽の光が射しこむとはどういうことか、人間の尊厳に触れた時の、境遇にかかわらず顔に笑顔が出ると言うのは、どうして人間は出来るようになっているかと言うのは学びです。
3000位の人と接して、学びが、人間はどういう境遇にもかかわらず、人との接し方に対話によって慰められると言う事が判りました。
アスベストの問題がでたのは2005年、研究から中皮腫の早期発見、血液診断の開発をしていた。
患者と30分位話す機会がありました。
ガン相談を持つようになり、ガン哲学外来ならやってもいいと言ったのが始まりです。
2008年にやってみたらたくさんの人が来ました。
医師の使命
①最前線の最先端の治療を直接施す。
②人間的な責任で手を差し伸べる。(失われつつある)
病気であっても病人にならない、病気は単なる個性だから。
ハウ いかにしてこういうことが起こった時に如何にして生きるかは、ハウは我々の自由意思です。
ガンは不条理だから、ガンは判らない、それになってどう生きるかは自由意思の選択です。
昔は医者がこうしなさいと言っていたが、今は選択するのは患者の自由だから、或る程度の覚悟が無いといけない、心構えをどうやって身につけられるのか、これがガン哲学外来の役割と感じ始めています。
ガン哲学外来は今90か所以上あります。
何かを用意してやると来辛くなるので、空っぽの器を用意して来た人が自分で水を入れるような場を作ると継続的にこれるようになります。
ガンは防げないが、ガンで死なない様な時代が来ます。
余り先のことは考えない、今日のことで精一杯生きる。
今日のことでみんな悩んでいますから。
心の状態を訓練をすること、それがガン哲学外来の対話学です。
日本はクオリティーオブライフはたくさん言っているが、クオリティーオブデスが無い、クオリティーオブデスの学びが無い。
人間は必ず死ぬので、明日死ぬとは思わないから、今日いかに生きるかというのが人間の学びになるので、そのためにどういう風にクオリティーオブデスを考えるか。
自分を無頓着にする、自分でコントロールできないことには一喜一憂しない、来た時に考える、そういうのが学びです。
自己放棄です、ほっとけです。
自分で変えられることは、勇気を持って変える勇気が必要です。
ガン患者との8年間の対話で学んだことは、人間は変えられるか変えられないかの識別する智慧の有無ですね。
「あなたは、そこにいるだけで価値の有る存在、 なにかをする前よりも、存在自体が重要である」
2016年7月14日木曜日
蜷川幸雄(演出家) ・演出家 蜷川幸雄さんを偲んで(2)
蜷川幸雄(演出家) ・演出家 蜷川幸雄さんを偲んで(2)
本を直したいと清水邦夫と二人でホテルにこもったことがあるが、駄目だ駄目だと言って部屋の中を走っていて、あーっ言葉を生みだすためには作家はこんなに苦労しているんだと思って、文字を変えたり人のセリフをいじることは止めようと、それを見て思いました。
兄弟は同じ条件で生まれたのに、違うのだから人間には色んな可能性があるはずだと思って、自分の環境、性格を絶対視したら、理解できないけれども、自分が違和感を持つセリフがあり得たかもしれない私だと思えば、解決出来るなと思ったわけです。
セリフを変えるのではなくて、僕の想像力で、このセリフをこっちが埋めればいいんだと、思った訳です。
地元の学校にいった友人たちはわいわいしながら帰ってくるが、開成の制服を着て帰ってくる自分にある種の後ろめたさが強く有って、それと似てるのですが、演出する自分は傲慢と言えば言えるんだという恥ずかしさがあって、恥ずかしくない様にするためには演劇がエリート臭くなりたくない。
普通の目線で、俳優を見たり、思想を検証したいと思ったり、豊かな舞台を作るために、僕はエリートぶるこっち側にいる自分を消したいと思った。
一人こっち側で見ている私、人に指示出す私は恥ずかしいと、今も普段もあります。
普段はなるべく普通にしていたい。
日常生活に抱いている感情や関心をお金を払ったんだから劇場に来て、劇を一緒して忘れさせてほしいと思っている。
日常から非日常にお客さんの気持ちをかっさらうんだ、その場を用意するんだ、といっている。
自分の意志と労力と手間をかけてくるお客さんに、満足していただけるようにできないかなあというのが最低のルールだと思っている。
歳を取っていろんな人生にであって、ある認識していって、深い喜び、悲しみを知った人間が経験を演技や技力に反映されない様な演劇は、やりたくない。
認識してきたことが生きてくる軌跡というものが演技に現れる事を組織する演出家になりたいと思った。
他人の想像力と混じった時にふっくらと豊かになってくる。
皆が持ち寄る方が多分いいだろうと思って、それをやれやれと言っています。
ギリシャ悲劇が本場ギリシャで満場の拍手。
成功したからと言って嬉しくはなく、なんとなく肌寒い。
楽しくなくて、ぼんやりしていて、達成感を感じなかった。
ギリシャから帰ってきた翌日に、国立劇場でピナ・バウシュが来てダンスの公演をして、それを見に行ったが、平幹二朗さんと、僕とプロデューサーが偶然会った。
如何に自分達のやった仕事が世界のトップレベルの人達と同列に並ぶような優れた物かどうかが気になっていたんだと思う。
自分達が世界のどこにいるのか、位置を知りたがっていたんだと思うんです。
軽い鬱症状のような感じで、胃薬をぽりぽりかじっていました。
良い気になっている様な自分に見えることが恥ずかしいんだと思うんです。
外国で評判良かったり、その作品が受け入れられると、嬉しいけれどそんなに浮かれている自分がいなくて、そういう風に思われることが恥ずかしいという事は何かあるんじゃないかと思うんです。
光が当たることにたいする恥ずかしさ、そういうものに対して警戒心というか、それが嫌だと言う。
眠らなかったりして妄想の世界で、真夜中にイメージがでてきて、慣れてくると何日後にでてくると言う事が判る様になる。
身体を追い詰めてゆくと、自然に頭にイメージが動き出す。
体を痛めつけてるから、ピークに吐血したりして2週間物が食べられない様な状況で仕事をしている。
そうして生まれてきたものは、いいものもあるが今考えるとふくよかさに欠けると思う。
嫌なことを言ったりするので、嫌なことが帰ってきたりするが、人間関係が一番大変で、人とどういう風にコミュニケーション出来るのかとか、自分の思いが人に伝わらなくてギスギスしたり、稽古の前から気になっていて、それも段々自然にできるようになった。
無理しないと人とコミュニケーションはできない。(演出家としての自分の時は自由だが)
芝居って、人と人がどういう風に出会って行くか、それに尽きる様な気がする。
やり直したい人生っていっぱいあると思う。
芝居って、自分で思っていない自分に出会ったり、世界はこういう風に見えるんだと、気付かなかったことを発見するのが面白い。
24時間点滴で寝ていても、あの作品はどうしてもやりたいなあと思ったりする。
演劇は或る日或るとき或る場所に、自分が選んで行かなければ生ものに出会う事が出来ない唯一の媒体だと思う。
実演の魅力に出会ってゆくと、パネル、ガラス面からくる情報と違って、生身の人間が生身のリアクションを見ながらはじめて成立するメディアだと思う。
一番人間的なメディアが演劇だと思う。
演劇的な想像力を生々しい手作業に依って行われるという、限定つきなものでやりたいと思っている。
中心的なテーマを語ることすら無意味、恥ずかしい、もう大きな中心的な課題が消失しているのが現代というふうになってゆくわけですから、どんどん集団も思いも細分化されてゆくわけです。
新しい理念を皆が作らなくては行けなくて、優れた人達、そうでない人もそれを事実感じて、切望していると思う。
世界中がどこにも新しいモデル、理念を発見できていないが、それは十分承知の上で、新しい思い、新しい希望について語らざるを得ないが、個人の思いの中では果たせない。
討議し実験できる場を用意してゆく、我々が作りだし得なかった理念を後の世代は作っていけばいいと思う。
考える場所として劇場のスペースの確保、劇場の時間、空間を確保してゆく。
新しい理念を探ってゆくというのが、まだかすかな希望として残しておくということ位しか考えられないかな。
新しい理念を探し続けると言うのが、唯一の希望、放棄しない。
僕は自分自身、羞恥心が核の様な気がするんです。
他者って遠いよなといつも思って、近づきたい知りたいと思って生きているから、そういう感じは消えていない。
100年後の未来について烈しい希望と不安を感じているチェホフの戯曲があって、チェホフが願った様な現在じゃないなあと思ったが、僕自身の100年後、美しい未来で、豊かな日々で優しさに包まれた人間的な世界で有ればいいなあと思っています。
そのために僕らの苦闘もあって、日々がどういう思いの上に成り立っているのか、歳を取るとそのことを痛切に知らされるわけです。
穏やかな優しい日々が100年後に実現されたらいいなあと、これは僕の願望です。
本を直したいと清水邦夫と二人でホテルにこもったことがあるが、駄目だ駄目だと言って部屋の中を走っていて、あーっ言葉を生みだすためには作家はこんなに苦労しているんだと思って、文字を変えたり人のセリフをいじることは止めようと、それを見て思いました。
兄弟は同じ条件で生まれたのに、違うのだから人間には色んな可能性があるはずだと思って、自分の環境、性格を絶対視したら、理解できないけれども、自分が違和感を持つセリフがあり得たかもしれない私だと思えば、解決出来るなと思ったわけです。
セリフを変えるのではなくて、僕の想像力で、このセリフをこっちが埋めればいいんだと、思った訳です。
地元の学校にいった友人たちはわいわいしながら帰ってくるが、開成の制服を着て帰ってくる自分にある種の後ろめたさが強く有って、それと似てるのですが、演出する自分は傲慢と言えば言えるんだという恥ずかしさがあって、恥ずかしくない様にするためには演劇がエリート臭くなりたくない。
普通の目線で、俳優を見たり、思想を検証したいと思ったり、豊かな舞台を作るために、僕はエリートぶるこっち側にいる自分を消したいと思った。
一人こっち側で見ている私、人に指示出す私は恥ずかしいと、今も普段もあります。
普段はなるべく普通にしていたい。
日常生活に抱いている感情や関心をお金を払ったんだから劇場に来て、劇を一緒して忘れさせてほしいと思っている。
日常から非日常にお客さんの気持ちをかっさらうんだ、その場を用意するんだ、といっている。
自分の意志と労力と手間をかけてくるお客さんに、満足していただけるようにできないかなあというのが最低のルールだと思っている。
歳を取っていろんな人生にであって、ある認識していって、深い喜び、悲しみを知った人間が経験を演技や技力に反映されない様な演劇は、やりたくない。
認識してきたことが生きてくる軌跡というものが演技に現れる事を組織する演出家になりたいと思った。
他人の想像力と混じった時にふっくらと豊かになってくる。
皆が持ち寄る方が多分いいだろうと思って、それをやれやれと言っています。
ギリシャ悲劇が本場ギリシャで満場の拍手。
成功したからと言って嬉しくはなく、なんとなく肌寒い。
楽しくなくて、ぼんやりしていて、達成感を感じなかった。
ギリシャから帰ってきた翌日に、国立劇場でピナ・バウシュが来てダンスの公演をして、それを見に行ったが、平幹二朗さんと、僕とプロデューサーが偶然会った。
如何に自分達のやった仕事が世界のトップレベルの人達と同列に並ぶような優れた物かどうかが気になっていたんだと思う。
自分達が世界のどこにいるのか、位置を知りたがっていたんだと思うんです。
軽い鬱症状のような感じで、胃薬をぽりぽりかじっていました。
良い気になっている様な自分に見えることが恥ずかしいんだと思うんです。
外国で評判良かったり、その作品が受け入れられると、嬉しいけれどそんなに浮かれている自分がいなくて、そういう風に思われることが恥ずかしいという事は何かあるんじゃないかと思うんです。
光が当たることにたいする恥ずかしさ、そういうものに対して警戒心というか、それが嫌だと言う。
眠らなかったりして妄想の世界で、真夜中にイメージがでてきて、慣れてくると何日後にでてくると言う事が判る様になる。
身体を追い詰めてゆくと、自然に頭にイメージが動き出す。
体を痛めつけてるから、ピークに吐血したりして2週間物が食べられない様な状況で仕事をしている。
そうして生まれてきたものは、いいものもあるが今考えるとふくよかさに欠けると思う。
嫌なことを言ったりするので、嫌なことが帰ってきたりするが、人間関係が一番大変で、人とどういう風にコミュニケーション出来るのかとか、自分の思いが人に伝わらなくてギスギスしたり、稽古の前から気になっていて、それも段々自然にできるようになった。
無理しないと人とコミュニケーションはできない。(演出家としての自分の時は自由だが)
芝居って、人と人がどういう風に出会って行くか、それに尽きる様な気がする。
やり直したい人生っていっぱいあると思う。
芝居って、自分で思っていない自分に出会ったり、世界はこういう風に見えるんだと、気付かなかったことを発見するのが面白い。
24時間点滴で寝ていても、あの作品はどうしてもやりたいなあと思ったりする。
演劇は或る日或るとき或る場所に、自分が選んで行かなければ生ものに出会う事が出来ない唯一の媒体だと思う。
実演の魅力に出会ってゆくと、パネル、ガラス面からくる情報と違って、生身の人間が生身のリアクションを見ながらはじめて成立するメディアだと思う。
一番人間的なメディアが演劇だと思う。
演劇的な想像力を生々しい手作業に依って行われるという、限定つきなものでやりたいと思っている。
中心的なテーマを語ることすら無意味、恥ずかしい、もう大きな中心的な課題が消失しているのが現代というふうになってゆくわけですから、どんどん集団も思いも細分化されてゆくわけです。
新しい理念を皆が作らなくては行けなくて、優れた人達、そうでない人もそれを事実感じて、切望していると思う。
世界中がどこにも新しいモデル、理念を発見できていないが、それは十分承知の上で、新しい思い、新しい希望について語らざるを得ないが、個人の思いの中では果たせない。
討議し実験できる場を用意してゆく、我々が作りだし得なかった理念を後の世代は作っていけばいいと思う。
考える場所として劇場のスペースの確保、劇場の時間、空間を確保してゆく。
新しい理念を探ってゆくというのが、まだかすかな希望として残しておくということ位しか考えられないかな。
新しい理念を探し続けると言うのが、唯一の希望、放棄しない。
僕は自分自身、羞恥心が核の様な気がするんです。
他者って遠いよなといつも思って、近づきたい知りたいと思って生きているから、そういう感じは消えていない。
100年後の未来について烈しい希望と不安を感じているチェホフの戯曲があって、チェホフが願った様な現在じゃないなあと思ったが、僕自身の100年後、美しい未来で、豊かな日々で優しさに包まれた人間的な世界で有ればいいなあと思っています。
そのために僕らの苦闘もあって、日々がどういう思いの上に成り立っているのか、歳を取るとそのことを痛切に知らされるわけです。
穏やかな優しい日々が100年後に実現されたらいいなあと、これは僕の願望です。
2016年7月13日水曜日
蜷川幸雄(演出家) ・演出家 蜷川幸雄さんを偲んで(1)
蜷川幸雄(演出家) ・演出家 蜷川幸雄さんを偲んで(1)
今年5月12日に肺炎による多臓器不全のため80歳で亡くなった、蜷川さん。
古典から現代劇まで幅広いジャンルを独自の解釈で斬新に演出し、世界の蜷川と言われました。
7年前NHKBSハイビジョンの100年インタビューという番組で収録した蜷川さんの話を振り返ります。
1955年に劇団青俳に俳優として入団、68年に現代人劇場、72年に演劇集団櫻社を創設し、小劇場で先鋭的な舞台の演出を手掛け、そのご商業演劇に転向することになります。
余り人には会いたくないです。
普段は人中に出たくないですが、演出家となると突然羞恥心が無くなります。
台本が3冊、9時間。
文学を演劇にする様なものだと思います。
現在73歳、全ての老いという条件をクリアしながら、共存しながら9時間やると僕の脳はどの位活性化してそれに耐えられるのか、演劇的に新しいことができるか、スタッフ、俳優などにたいして説得力ある蜷川でいられるか、極限までやっておかないと、チェックしておいた方がいいと思っている。
4~5年前から演出ノートを一切付けてなくて台本の書き込みも殆どなくて、即興で思い浮かんだことを指示して、俳優の演技を見ながら直してゆく。
映像の監督たちが瞬間に決定してゆくのと同じようなことをやってます。
昔の演出よりもいいかなと思っていて、瞬間でやっていて、詰まってにっちもさっちもいかないということはないです。
年間10本近くやっています。
満身創痍、開腹手術をしたり、今年6月は脳梗塞で入院しました。
年老いて行って目が悪くなり、身体も衰えるが、それは普通の人間として体験したい、演出家としてプラスになる。
放っておくと、老いがどうやってくるか、自分で判る。
病気になってしまう事は困るが、それはしょうがないかなあと思っている。
十二指腸潰瘍、胃潰瘍、腹部大動脈瘤、脳梗塞、心筋梗塞などをやっています。
脳梗塞の時に、24時間点滴を5日間やっていて、どうしてもやりたい仕事があるのであれをやるまで死にたくないと思う。
自分にしか作れない何かがある様な気がする。
それがやりたくてしょうがない。
開成高校へ、良い大学に入ってサラリーマンになって、それが自分の行きたい道とは違うと言う事はぼんやりあった。
成績が全部発表されて、教室も成績順に並ぶ。
そういうのが我慢できなかった。
ぐれるのは当たり前だと今は思います。
掛け軸、色紙などを入札して、無名の画家たちを援助する様な家だった。
親に連れられて、歌舞伎、オペラ、映画を観たりすることをしていました。
芸大の油絵を受験する。
安井曾太郎さんの絵が好きで、後は外国の抽象画が好きでした。
受験体制が嫌だったので予備校に行かなかったが、夏期講習があって余りにも受験生が上手いのに愕然として、井の中の蛙だと、うぬぼれてはいけないとつくづく思いました。
絵の才能はないと思いました。
芝居は見ていたので、山本安英さんがでていた、「蛙昇天」、木下順二さんの作品を見て、演劇って生々しく強いんだろうと思って、それに衝撃を受けました。
芸大も落ちたし、俳優になろうかなあと思いました。
制服の役が嫌でやりませんと言ったり、貴族俳優と言われました。
俳優としては酷かったが、面白がられて、周りからはかわいがってもらいました。
名優は演出家になれるが、実績のない俳優は、他人を説得する材料が無いので演出家に成れないと言われた。
自分で劇団をやればいいんだと思って、演出家になってみたら何故か羞恥心が無くなる。
演出家だけは楽、自分が思ってることがビジュアル化されたり、中身とくっつきはじめるときに解放されて緊張しない。
イメージは自由に飛躍するから、それが浮かび始めると連鎖して浮かぶようになってくる。
そのために努力するから胃が駄目になり、胃腸薬をポリポリ噛んでる。
身体はズタズタになるがイメージがいいと言う事になれば、子供がおもちゃをもったりするように、おたくになる。
櫻社では毎回満席になるが、ここでも解散することになる。
73年に新宿を撤退しますと宣言をする。
新しい創造力を自分にくっつてけてゆくというのは、自分の力だけではどうしようもなくて、他人の想像力と烈しくぶつかったり、自分の得手じゃ無いものとぶつからない限り、隙間を埋め様としたり、絞り出すように何かを発見しようとするのは、それほど人間は強くはないんだと思うんです。
過酷な条件が自分に課す、課せられる、そうならない限り新しい展開はやってこないと感じます。
新しい視点が無い自分の舞台は嫌です。
得手じゃないものもやっておくと、知らぬ間に感性の幅が広がってやがて、自分の好きなものに戻るときに、その経験が幅を広げているんじゃないかと思います。
自己変革は難しいものだと思います。
商業演劇の演出をやると言う事は、自分自身の新しい変革の契機になると思っていました。
廻りは反対しました。
一緒にやろうよと言ったが周りからは断られ、妻から貴方と一緒に仕事をしたくないのよ、と言われてそれは衝撃的でした。
自分自身が演出して変わって行っていないことの、存在証明をしなければいけないという側面が、僕の仕事の中についてきたんだと思って、一切妥協しなくなる。
そのために仕事を選んできた。
四面楚歌になりました。
映画を見ていたときに休憩のときに煙草を吸っていたら、青年が来て、表に出てくれと言ってきて、外に出て喫茶店に入る。
椅子に座ったら、テーブルの下でジャックナイフをだして、「希望を語りますか」と言ってきた。
「希望なんて無いだろう」と言ったら、「貴方が希望を語ったら僕はあなたを刺すつもりでした」と言って出て行った。
僕の芝居の客席にはそういう思いでみている観客がたくさんいたんだと思いました。
状況が破れ破れて、ここで希望を語ったら嘘だと思っているわけです。
希望を語れるような状況ではなくて、リンチ殺人だとか、問題が一気に噴き出してきている状況で、そういう状況の中で希望を語ったら明らかに嘘だというと、状況が破れていく中での問題点を全て我々は背負って行かなきゃいけないときに、お前は希望を語るかと、語ったら、かばったらそれは偽物だと、だったら刺すぞと言ったんだと思います。
それほどの思いで感情を同化して、演劇を熱い思いで見ている人たちがいることが判りました。
お客さんに与える演劇の影響がこれほどまでに強いものかと思いました。
ジャックナイフを持っている青年たちが僕の舞台を見ていて、お前の変質をしたら許さないぞと言う思いで見ている観客がいるのではないかと(観念の観客)、何かを語る責任があるんだと思います。
イージーな芝居は作れないと言う思いは十分ありますね。
今年5月12日に肺炎による多臓器不全のため80歳で亡くなった、蜷川さん。
古典から現代劇まで幅広いジャンルを独自の解釈で斬新に演出し、世界の蜷川と言われました。
7年前NHKBSハイビジョンの100年インタビューという番組で収録した蜷川さんの話を振り返ります。
1955年に劇団青俳に俳優として入団、68年に現代人劇場、72年に演劇集団櫻社を創設し、小劇場で先鋭的な舞台の演出を手掛け、そのご商業演劇に転向することになります。
余り人には会いたくないです。
普段は人中に出たくないですが、演出家となると突然羞恥心が無くなります。
台本が3冊、9時間。
文学を演劇にする様なものだと思います。
現在73歳、全ての老いという条件をクリアしながら、共存しながら9時間やると僕の脳はどの位活性化してそれに耐えられるのか、演劇的に新しいことができるか、スタッフ、俳優などにたいして説得力ある蜷川でいられるか、極限までやっておかないと、チェックしておいた方がいいと思っている。
4~5年前から演出ノートを一切付けてなくて台本の書き込みも殆どなくて、即興で思い浮かんだことを指示して、俳優の演技を見ながら直してゆく。
映像の監督たちが瞬間に決定してゆくのと同じようなことをやってます。
昔の演出よりもいいかなと思っていて、瞬間でやっていて、詰まってにっちもさっちもいかないということはないです。
年間10本近くやっています。
満身創痍、開腹手術をしたり、今年6月は脳梗塞で入院しました。
年老いて行って目が悪くなり、身体も衰えるが、それは普通の人間として体験したい、演出家としてプラスになる。
放っておくと、老いがどうやってくるか、自分で判る。
病気になってしまう事は困るが、それはしょうがないかなあと思っている。
十二指腸潰瘍、胃潰瘍、腹部大動脈瘤、脳梗塞、心筋梗塞などをやっています。
脳梗塞の時に、24時間点滴を5日間やっていて、どうしてもやりたい仕事があるのであれをやるまで死にたくないと思う。
自分にしか作れない何かがある様な気がする。
それがやりたくてしょうがない。
開成高校へ、良い大学に入ってサラリーマンになって、それが自分の行きたい道とは違うと言う事はぼんやりあった。
成績が全部発表されて、教室も成績順に並ぶ。
そういうのが我慢できなかった。
ぐれるのは当たり前だと今は思います。
掛け軸、色紙などを入札して、無名の画家たちを援助する様な家だった。
親に連れられて、歌舞伎、オペラ、映画を観たりすることをしていました。
芸大の油絵を受験する。
安井曾太郎さんの絵が好きで、後は外国の抽象画が好きでした。
受験体制が嫌だったので予備校に行かなかったが、夏期講習があって余りにも受験生が上手いのに愕然として、井の中の蛙だと、うぬぼれてはいけないとつくづく思いました。
絵の才能はないと思いました。
芝居は見ていたので、山本安英さんがでていた、「蛙昇天」、木下順二さんの作品を見て、演劇って生々しく強いんだろうと思って、それに衝撃を受けました。
芸大も落ちたし、俳優になろうかなあと思いました。
制服の役が嫌でやりませんと言ったり、貴族俳優と言われました。
俳優としては酷かったが、面白がられて、周りからはかわいがってもらいました。
名優は演出家になれるが、実績のない俳優は、他人を説得する材料が無いので演出家に成れないと言われた。
自分で劇団をやればいいんだと思って、演出家になってみたら何故か羞恥心が無くなる。
演出家だけは楽、自分が思ってることがビジュアル化されたり、中身とくっつきはじめるときに解放されて緊張しない。
イメージは自由に飛躍するから、それが浮かび始めると連鎖して浮かぶようになってくる。
そのために努力するから胃が駄目になり、胃腸薬をポリポリ噛んでる。
身体はズタズタになるがイメージがいいと言う事になれば、子供がおもちゃをもったりするように、おたくになる。
櫻社では毎回満席になるが、ここでも解散することになる。
73年に新宿を撤退しますと宣言をする。
新しい創造力を自分にくっつてけてゆくというのは、自分の力だけではどうしようもなくて、他人の想像力と烈しくぶつかったり、自分の得手じゃ無いものとぶつからない限り、隙間を埋め様としたり、絞り出すように何かを発見しようとするのは、それほど人間は強くはないんだと思うんです。
過酷な条件が自分に課す、課せられる、そうならない限り新しい展開はやってこないと感じます。
新しい視点が無い自分の舞台は嫌です。
得手じゃないものもやっておくと、知らぬ間に感性の幅が広がってやがて、自分の好きなものに戻るときに、その経験が幅を広げているんじゃないかと思います。
自己変革は難しいものだと思います。
商業演劇の演出をやると言う事は、自分自身の新しい変革の契機になると思っていました。
廻りは反対しました。
一緒にやろうよと言ったが周りからは断られ、妻から貴方と一緒に仕事をしたくないのよ、と言われてそれは衝撃的でした。
自分自身が演出して変わって行っていないことの、存在証明をしなければいけないという側面が、僕の仕事の中についてきたんだと思って、一切妥協しなくなる。
そのために仕事を選んできた。
四面楚歌になりました。
映画を見ていたときに休憩のときに煙草を吸っていたら、青年が来て、表に出てくれと言ってきて、外に出て喫茶店に入る。
椅子に座ったら、テーブルの下でジャックナイフをだして、「希望を語りますか」と言ってきた。
「希望なんて無いだろう」と言ったら、「貴方が希望を語ったら僕はあなたを刺すつもりでした」と言って出て行った。
僕の芝居の客席にはそういう思いでみている観客がたくさんいたんだと思いました。
状況が破れ破れて、ここで希望を語ったら嘘だと思っているわけです。
希望を語れるような状況ではなくて、リンチ殺人だとか、問題が一気に噴き出してきている状況で、そういう状況の中で希望を語ったら明らかに嘘だというと、状況が破れていく中での問題点を全て我々は背負って行かなきゃいけないときに、お前は希望を語るかと、語ったら、かばったらそれは偽物だと、だったら刺すぞと言ったんだと思います。
それほどの思いで感情を同化して、演劇を熱い思いで見ている人たちがいることが判りました。
お客さんに与える演劇の影響がこれほどまでに強いものかと思いました。
ジャックナイフを持っている青年たちが僕の舞台を見ていて、お前の変質をしたら許さないぞと言う思いで見ている観客がいるのではないかと(観念の観客)、何かを語る責任があるんだと思います。
イージーな芝居は作れないと言う思いは十分ありますね。
2016年7月12日火曜日
三遊亭究斗(落語家) ・歌って踊れる遅咲き真打ち
三遊亭究斗(落語家) ・歌って踊れる遅咲き真打ち
劇団四季にミュージカル俳優として10年間在籍した三遊亭究斗さんはすべてを一人で表現できる落語に魅
力を感じ、34歳で落語家に転身しました。
落語家としての修業を積み、遅咲きの51歳で真打ちに昇進、この間に他の落語家にはない歌や踊り、時にはオーケストラの演奏を交えたミュージカル落語を創作しました。
最近は教育、娯楽を合わせた、エデュテインメント(英: edutainment)」の落語にも力を入れています。
真打ちに昇進したのが、2014年3月、その前の名前が「亜郎」でしたが、三遊亭圓丈師匠が変えようという、師匠から「弓斗」と言われた。
最初は弓斗ではと言われたが、占いではよくないと言う事で「究斗」という事になりました。
一般的に13~15年で真打ちになるが、16年掛かりました。
34歳で落語家になりましたが、こんな遅く落語家に転身することはほかにありませんでした。
ミュージカル俳優は10年ぐらいやっていました。
なんかもっと違う世界があるのではないかと、考え始めた。
しゃべりと笑いの世界があるのではないかと思っていたが、落語にはまってしまった。
一人で何役もやるので上手い人ほど見事だと思って、やりたいことをやらないと損だと思って、思い切って転身しました。
厳しい前座時代があるが、それを知らなかった。
最初春風亭小朝師匠で、ばかばかしい世界だからそれが嫌になるよと言われた。
縦社会が凄い世界で、一日でも早い方が兄弟子となる、一つ上の兄弟子が17歳だった。
深くは考えなかった、覚悟と実際の体験とは大違いだった。
落語というのは前座でも、役者の世界とは違って、一人で15分間しゃべれる事に凄いと思った。
古典落語、と落語家の修行をしました。
二つ目に昇進するときに、ミュージカル レ・ミゼラブルという作品があり、オーディションに受かってしまって、帝国劇場で2年間やらせてもらった。ミュージカルと落語の世界を合わせたら面白いものができるのではないかと思って、あるカナダ人と一緒に、ある人物像を描いて、どういう人生を辿ったらこの人物は悪人になるのだろうと、創作した。
ミュージカル落語というのはだれもやっていないし、作って行こうかと思ったのがきっかけです。
持ちネタは全部自分で作って、35ぐらいあります。
話の中でミュージカルと落語を合わせた様なもので、最初は落ちを作っていませんでした。
歌に始まって、歌に終わる様な状況でしたが、最近は意識して落ちを付けるようにしています。
古典落語をやっていても、演ずることによって躍動感がでてミュージカル落語だと言われました。
今の師匠は新作落語なので茨の道だったようです。
「一口弁当」という創作落語を作ってから変わりました。
2009年、50代のご婦人2人が話をしていて、「一口弁当」と言う言葉と、「彼はやり遂げた」という言葉が飛びこんできて、その瞬間にストーリーがダダダっと浮かんで作ってしまった。
これが凄く受けて、広がって行って、ミュージカル落語を変えました。
エデュテインメントの作品(教育と娯楽)となり、これを契機にどんどん作る様になりました。
いじめ、格差社会、貧しさで苦しんでいる青年などをチェンジする様な話、空海の話(格差社会で苦しんでいる貧しい青年に話をしながらチェンジさせてゆく様な話)、地域の絆が無くなっているので、皆でいい世の中にしようよという様な話など、心が豊かになる様な話を作っています。
僕の名前は雉鳥と言いますが、或る先生が読めずに、カラス君と言ってしまって、爆笑となりそれ以後カラスというあだ名になってしまって、それが嫌で言う人にしかとし続けたら、いじめがエスカレートしてしまった。
「一口弁当」 では子供がいじめを克服する話。
話を聞いた子が感想文を書いてくれて、時間がかかるかもしれないが少しでも変わりたいと言う様な感想文を頂き、届いたと思います。
「孔子」も作りたいと思っています。
弟子に人としてやってはいけない事はなんですかと聞かれて、それは「如」だなと言ったそうです。
自分がしたり言われたりしたことが嫌だと思うことは、人にはやらない。
虐めっ子側の気持ちを変えるために、心で感じないといけないと思って感動のある作品を作って行っています。
オーケストラでやったこともあります。
ミュージカル落語は短くて30分、長いと2時間かかります。
ラインが良くなくて、小学生もやっていて、いじめの場にもなっている。
新作落語でこのテーマに作ります。 タイトルが「凍らすline」
経済も大事だが教育が一番だと思っていて講演活動もやっています。
エデュテインメントの作品(教育と娯楽)をどんどん作って行きたい。
劇団四季にミュージカル俳優として10年間在籍した三遊亭究斗さんはすべてを一人で表現できる落語に魅
力を感じ、34歳で落語家に転身しました。
落語家としての修業を積み、遅咲きの51歳で真打ちに昇進、この間に他の落語家にはない歌や踊り、時にはオーケストラの演奏を交えたミュージカル落語を創作しました。
最近は教育、娯楽を合わせた、エデュテインメント(英: edutainment)」の落語にも力を入れています。
真打ちに昇進したのが、2014年3月、その前の名前が「亜郎」でしたが、三遊亭圓丈師匠が変えようという、師匠から「弓斗」と言われた。
最初は弓斗ではと言われたが、占いではよくないと言う事で「究斗」という事になりました。
一般的に13~15年で真打ちになるが、16年掛かりました。
34歳で落語家になりましたが、こんな遅く落語家に転身することはほかにありませんでした。
ミュージカル俳優は10年ぐらいやっていました。
なんかもっと違う世界があるのではないかと、考え始めた。
しゃべりと笑いの世界があるのではないかと思っていたが、落語にはまってしまった。
一人で何役もやるので上手い人ほど見事だと思って、やりたいことをやらないと損だと思って、思い切って転身しました。
厳しい前座時代があるが、それを知らなかった。
最初春風亭小朝師匠で、ばかばかしい世界だからそれが嫌になるよと言われた。
縦社会が凄い世界で、一日でも早い方が兄弟子となる、一つ上の兄弟子が17歳だった。
深くは考えなかった、覚悟と実際の体験とは大違いだった。
落語というのは前座でも、役者の世界とは違って、一人で15分間しゃべれる事に凄いと思った。
古典落語、と落語家の修行をしました。
二つ目に昇進するときに、ミュージカル レ・ミゼラブルという作品があり、オーディションに受かってしまって、帝国劇場で2年間やらせてもらった。ミュージカルと落語の世界を合わせたら面白いものができるのではないかと思って、あるカナダ人と一緒に、ある人物像を描いて、どういう人生を辿ったらこの人物は悪人になるのだろうと、創作した。
ミュージカル落語というのはだれもやっていないし、作って行こうかと思ったのがきっかけです。
持ちネタは全部自分で作って、35ぐらいあります。
話の中でミュージカルと落語を合わせた様なもので、最初は落ちを作っていませんでした。
歌に始まって、歌に終わる様な状況でしたが、最近は意識して落ちを付けるようにしています。
古典落語をやっていても、演ずることによって躍動感がでてミュージカル落語だと言われました。
今の師匠は新作落語なので茨の道だったようです。
「一口弁当」という創作落語を作ってから変わりました。
2009年、50代のご婦人2人が話をしていて、「一口弁当」と言う言葉と、「彼はやり遂げた」という言葉が飛びこんできて、その瞬間にストーリーがダダダっと浮かんで作ってしまった。
これが凄く受けて、広がって行って、ミュージカル落語を変えました。
エデュテインメントの作品(教育と娯楽)となり、これを契機にどんどん作る様になりました。
いじめ、格差社会、貧しさで苦しんでいる青年などをチェンジする様な話、空海の話(格差社会で苦しんでいる貧しい青年に話をしながらチェンジさせてゆく様な話)、地域の絆が無くなっているので、皆でいい世の中にしようよという様な話など、心が豊かになる様な話を作っています。
僕の名前は雉鳥と言いますが、或る先生が読めずに、カラス君と言ってしまって、爆笑となりそれ以後カラスというあだ名になってしまって、それが嫌で言う人にしかとし続けたら、いじめがエスカレートしてしまった。
「一口弁当」 では子供がいじめを克服する話。
話を聞いた子が感想文を書いてくれて、時間がかかるかもしれないが少しでも変わりたいと言う様な感想文を頂き、届いたと思います。
「孔子」も作りたいと思っています。
弟子に人としてやってはいけない事はなんですかと聞かれて、それは「如」だなと言ったそうです。
自分がしたり言われたりしたことが嫌だと思うことは、人にはやらない。
虐めっ子側の気持ちを変えるために、心で感じないといけないと思って感動のある作品を作って行っています。
オーケストラでやったこともあります。
ミュージカル落語は短くて30分、長いと2時間かかります。
ラインが良くなくて、小学生もやっていて、いじめの場にもなっている。
新作落語でこのテーマに作ります。 タイトルが「凍らすline」
経済も大事だが教育が一番だと思っていて講演活動もやっています。
エデュテインメントの作品(教育と娯楽)をどんどん作って行きたい。
2016年7月9日土曜日
広上淳一(京都市交響楽団) ・最高の音楽を 我が街で
広上淳一(京都市交響楽団 常任指揮者)・最高の音楽を 我が街で
58歳 観客を熱狂の渦に巻き込むスタオルで知られています。
8年前に、京都市交響楽団 常任指揮者に就任して以来、広上さんと京都市交響楽団のコンビは急成長を続けファンを増やし、昨年日本のクラシック音楽界では最高峰とされるサントリー音楽賞を両者の連名で受賞しました。
しかし、京都市交響楽団と出会う前の広上さんの指揮者人生は、波乱万丈、多くの挫折や苦しみを乗り越えてきたからこそ見えてきたものがあると広上さんは語ります。
最高の音楽を身近なところで楽しんでもらいたいという広上さんに、どんな音楽を目指すのか、遠回りしたからこそ辿りついた思いを伺います。
京都市交響楽団の第12代常任指揮者に就任したのが8年前、定期会員の数は2.5倍以上増え、定期公演のチケットは15か月以上完売が続いた事もありました。
多くのお客さまに受け入れて頂きたいという気持ちは強かったと思います。
素晴らしい音楽を伝えたい、分かち合いたいと言う気持ちで演奏しようと言う気持ちの積み重ねがこうなったのかと思います。
2014年3月 マーラーの交響曲第一番の「巨人」、京都で行ったものとプログラムと全く同じものを東京のサントリーホールで行って評判になった。
2015年 最高峰とされるサントリー音楽賞を両者の連名で受賞しました。
こういう風にしようと思わなかったから、力まなかったから、よかったのかもしれない。
心の中で大事にしていたのは、100人近くあるそれぞれの団員の特殊な人たちだけを見るのではない、皆平等に、全員に愛情を注ぎたかった。
裏切らない、絶対に恰好を付けない、自分が間違ったときには直ぐ言う様にしている、貴方たちのことを信頼していますよという事を、時間をかけて裏切らないで生活していれば、自然と相手も信じてくれるようになる。
貴方たちの潜在能力はあると言う事は就任数カ月後に一言、言ったことがある。(リップサービスではなくて)
それまでは誉められたことはなかったようだ。
駄目な時には一切コメントしない、旨く行った時は誉める、それを続けてきました。
それが楽しいと思える仕事場になってきたのではないかと思う。
彼等の中に自信が芽生え始めたのかなあと言うのがあり、ある時期にポーンと上がった。
成果がでたのは4年目、地力がついて、音のクオリティーが変わって、ポカミスが無くなり、音楽が高いクオリティーでうねる様になった。
毎回来てくれるお客さんの反応が違ってきて、拍手が違ってきて、お客さんの数が増えてくる。
ステージ上からも反応が判る様になる。
大学4年の時に、コンクールに駄目もとで受けて、ファイナリストの メンバーが大野和士
十束尚宏 山下一史、小田野宏之であったり、全員が学生で集まって、5人でろくでなしの会を作った。
プロの道を目指そうと思った時に、名古屋フィルハーモニー交響楽団で若い副指揮者の公募があった。
全国から応募があり、佐渡裕さんもいて、2人残って、私が受かった。
しかし、車の運転をしたことのない様な人がF1レースに出る様なもので練習にならなかった。
1年間で首になり、先生から電話があり、コンクールに参加してみないかと言われて、第一回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールがオランダのアムステルダムであり、優勝してしまった。
最初で最後のチャンスだと思っていた。
賞金は無かったが、ヨーロッパ各地の名だたるオーケストラとの共演が約束されていた。
必死、孤独、評価との戦いだった。(上手くいかないと外国では一回で終わり)
1991~95年まで主席指揮者をつとめたスウェーデンのノールショピング交響楽団、やる気がある、一緒に勉強しないかと言われる。(熱血教師)
3~4年目にはワースト2と言われていたオーケストラが注目されるようになった。
この時の体験が後のオーケストラの失敗の要因にもなってしまう。
その後リンブルフ交響楽団で主席指揮者を担当するが、ここは熱血教師は通用しなかった、伸びたくないというメンタルだった。
一番勉強になったのは国によって全然メンタルが違う、サウンドの揺れ方が違う、同じやり方が通用しない、引き出しをいっぱい持っていないと通用しないことが判った。
2001年 43歳の時に休業宣言。
マネージャーとの金銭トラブル、自分の能力の限界と無理をしている、キャリアーに対する執着が強すぎた。(有名になりたい、輝きたい、成功したい、キャリアーを積みたい)
自分自身に自信が無くなって、結婚して子供ができて、随分夫婦喧嘩もした。
原因は家庭を顧みず、出世しか考えなかった。
自分の中でいろいろ考えた末に、休業宣言した。
何もしないと役に立たない、皿洗いしながら生活をすると貯金通帳からお金減ってゆき、半年休んで少しづつ再開しました。
真面目にちゃんと指揮をすることができればいいんじゃないあと思って、国際音楽コンクールの事を思いだして、純粋に音楽がしたいという思い、やりなおしたいと思った。
出てきた言葉が感謝、家族へ、指揮をさせてもらうことへ、呼んでくれると言うことへの 感謝です。
2006年アメリカ コロンバス交響楽団音楽監督に就任。
始まったとたんに凄いオーケストラだと思った。
むこうもこれは音楽家だと思ったそうだ、ものの2分とかからなかった。
2年で辞任、労使交渉の対立があって、私の首を条件に、オーケストラを残してもらう事になる。
2008年 京都市交響楽団の常任指揮者に就任。
欲の無さが幸いした。
最高の音楽はブランドでは決まらない、心が伴っていればどこの場所で、どの様な形であってもあるんではないかと思います。
最高の音楽は、どんなオーケストラでも、名もない学生オーケストラでも、いいものは良いし、やわらかな心で音楽を作り、聴衆はやわらかな心で受けとめる、一緒の空間のことを言うんではないでしょうか。
聞いて下さる方が大事です。
お伝えしたいことは、人間万事塞翁が馬という事と、何が起こるか判らないから最後まで挑み続けてほしいということと、転んでもただでは起きない、そういう気持で頑張って行きたい。
58歳 観客を熱狂の渦に巻き込むスタオルで知られています。
8年前に、京都市交響楽団 常任指揮者に就任して以来、広上さんと京都市交響楽団のコンビは急成長を続けファンを増やし、昨年日本のクラシック音楽界では最高峰とされるサントリー音楽賞を両者の連名で受賞しました。
しかし、京都市交響楽団と出会う前の広上さんの指揮者人生は、波乱万丈、多くの挫折や苦しみを乗り越えてきたからこそ見えてきたものがあると広上さんは語ります。
最高の音楽を身近なところで楽しんでもらいたいという広上さんに、どんな音楽を目指すのか、遠回りしたからこそ辿りついた思いを伺います。
京都市交響楽団の第12代常任指揮者に就任したのが8年前、定期会員の数は2.5倍以上増え、定期公演のチケットは15か月以上完売が続いた事もありました。
多くのお客さまに受け入れて頂きたいという気持ちは強かったと思います。
素晴らしい音楽を伝えたい、分かち合いたいと言う気持ちで演奏しようと言う気持ちの積み重ねがこうなったのかと思います。
2014年3月 マーラーの交響曲第一番の「巨人」、京都で行ったものとプログラムと全く同じものを東京のサントリーホールで行って評判になった。
2015年 最高峰とされるサントリー音楽賞を両者の連名で受賞しました。
こういう風にしようと思わなかったから、力まなかったから、よかったのかもしれない。
心の中で大事にしていたのは、100人近くあるそれぞれの団員の特殊な人たちだけを見るのではない、皆平等に、全員に愛情を注ぎたかった。
裏切らない、絶対に恰好を付けない、自分が間違ったときには直ぐ言う様にしている、貴方たちのことを信頼していますよという事を、時間をかけて裏切らないで生活していれば、自然と相手も信じてくれるようになる。
貴方たちの潜在能力はあると言う事は就任数カ月後に一言、言ったことがある。(リップサービスではなくて)
それまでは誉められたことはなかったようだ。
駄目な時には一切コメントしない、旨く行った時は誉める、それを続けてきました。
それが楽しいと思える仕事場になってきたのではないかと思う。
彼等の中に自信が芽生え始めたのかなあと言うのがあり、ある時期にポーンと上がった。
成果がでたのは4年目、地力がついて、音のクオリティーが変わって、ポカミスが無くなり、音楽が高いクオリティーでうねる様になった。
毎回来てくれるお客さんの反応が違ってきて、拍手が違ってきて、お客さんの数が増えてくる。
ステージ上からも反応が判る様になる。
大学4年の時に、コンクールに駄目もとで受けて、ファイナリストの メンバーが大野和士
十束尚宏 山下一史、小田野宏之であったり、全員が学生で集まって、5人でろくでなしの会を作った。
プロの道を目指そうと思った時に、名古屋フィルハーモニー交響楽団で若い副指揮者の公募があった。
全国から応募があり、佐渡裕さんもいて、2人残って、私が受かった。
しかし、車の運転をしたことのない様な人がF1レースに出る様なもので練習にならなかった。
1年間で首になり、先生から電話があり、コンクールに参加してみないかと言われて、第一回キリル・コンドラシン国際青年指揮者コンクールがオランダのアムステルダムであり、優勝してしまった。
最初で最後のチャンスだと思っていた。
賞金は無かったが、ヨーロッパ各地の名だたるオーケストラとの共演が約束されていた。
必死、孤独、評価との戦いだった。(上手くいかないと外国では一回で終わり)
1991~95年まで主席指揮者をつとめたスウェーデンのノールショピング交響楽団、やる気がある、一緒に勉強しないかと言われる。(熱血教師)
3~4年目にはワースト2と言われていたオーケストラが注目されるようになった。
この時の体験が後のオーケストラの失敗の要因にもなってしまう。
その後リンブルフ交響楽団で主席指揮者を担当するが、ここは熱血教師は通用しなかった、伸びたくないというメンタルだった。
一番勉強になったのは国によって全然メンタルが違う、サウンドの揺れ方が違う、同じやり方が通用しない、引き出しをいっぱい持っていないと通用しないことが判った。
2001年 43歳の時に休業宣言。
マネージャーとの金銭トラブル、自分の能力の限界と無理をしている、キャリアーに対する執着が強すぎた。(有名になりたい、輝きたい、成功したい、キャリアーを積みたい)
自分自身に自信が無くなって、結婚して子供ができて、随分夫婦喧嘩もした。
原因は家庭を顧みず、出世しか考えなかった。
自分の中でいろいろ考えた末に、休業宣言した。
何もしないと役に立たない、皿洗いしながら生活をすると貯金通帳からお金減ってゆき、半年休んで少しづつ再開しました。
真面目にちゃんと指揮をすることができればいいんじゃないあと思って、国際音楽コンクールの事を思いだして、純粋に音楽がしたいという思い、やりなおしたいと思った。
出てきた言葉が感謝、家族へ、指揮をさせてもらうことへ、呼んでくれると言うことへの 感謝です。
2006年アメリカ コロンバス交響楽団音楽監督に就任。
始まったとたんに凄いオーケストラだと思った。
むこうもこれは音楽家だと思ったそうだ、ものの2分とかからなかった。
2年で辞任、労使交渉の対立があって、私の首を条件に、オーケストラを残してもらう事になる。
2008年 京都市交響楽団の常任指揮者に就任。
欲の無さが幸いした。
最高の音楽はブランドでは決まらない、心が伴っていればどこの場所で、どの様な形であってもあるんではないかと思います。
最高の音楽は、どんなオーケストラでも、名もない学生オーケストラでも、いいものは良いし、やわらかな心で音楽を作り、聴衆はやわらかな心で受けとめる、一緒の空間のことを言うんではないでしょうか。
聞いて下さる方が大事です。
お伝えしたいことは、人間万事塞翁が馬という事と、何が起こるか判らないから最後まで挑み続けてほしいということと、転んでもただでは起きない、そういう気持で頑張って行きたい。
2016年7月8日金曜日
カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(2)
カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(2)
映画TV業界の最高峰 ハリウッドで成功する道のり,波乱万丈の人生について伺いました。
もともとはダンサーだった。
女は結婚して子供を産んで家庭を守ると言う様な時代でした。
昭和8年生まれ。
子供時代はおてんばでしたので、6歳6月6日には習いごとをさせると言う事で、日本舞踊をやって、そのうちタップダンスを最初に広めたジョージ・堀が姉を見染めて結婚して、タップダンスをするようになり、学童疎開をするようになりました。
富山県のお寺に行きました。
お寺で1週間に一遍ショーをやると豆をもらえるので、タップダンスをやりました。
終戦後、進駐軍慰問をして、ベビーチームのAクラスで10円もらえた。
東京駅に20台位ならんでいて、服が無いので兵隊さんの恰好をしたバンドが集まったり、私もベビーチームでバイオリン1丁でタップダンスを踊りました。
行くところ行くところ楽屋が無くて、男は倉庫に、女の人は床屋に入れられたりしました。
面白い場面がいっぱいありました。
14歳から16歳頃にはプロのダンサーになっていました。
16歳の時に映画を見てショックでした、踊れないといけないということが判り、そしてバレエ、アクロバット迄習いました。
日本文化施設で世界を回った時は日本舞踊ができてアクロバットができるのは私一人でしたのでイギリス、スイスから廻ってその帰りにアメリカで、15分持たないとアメリカでは認められなかったので、日本舞踊とジャズを歌って、アクロバットをやって、必ず雇ってくれました。
最終的にはアメリカのラスベガスのソロダンサーになりました。
主人とは香港で出会いました。
戦艦サンパブロで撮影があり、メイクアップ・アーティストとして主人が来ていました。
クラブで出るたびに同じお客さんたちで、どうしても会いたいと言うお客がいて、一緒に食事をして、2週間目に「こんにちは赤ちゃん」の歌があり、歌の内容を説明したら、僕の子供を生んでくれと言われてしまい、有難いけど結構ですと2週間断り続けていたら、スティーブ・マックイーンが来て、彼は本当にいい人だから、頼むから結婚してほしいと言われました。
そのうち香港で暴動が起きて、戒厳令がでていたことを知らないで、出て行ったら銃で囲まれて、イギリスの兵隊が来て、日本人として証明する人がいないかと言われて、外国人が来ると言う事は危険な行為であったが、ビルが駆けだして来てくれて、私の婚約者だと言ってくれて、命を賭けて来てくれたんだと言う事を感じて、その1週間後に母親にも内緒で、戦艦サンパブロの艦上で結婚しました。
仲人がスティーブ・マックイーン、ロバート・ワイズ(サウンドオブミュジックの監督)が父親代わり、赤い絨毯を敷いてくれて、音楽があり、三三九度の盃もやりました。
ロスにきてみると詰まらないので、ラスベガスに戻って、彼が金曜日に来て、日曜日の晩に帰ってくることを毎週やってくれました。
そのうちに舞台上で足の靱帯を切ってしまいました。
1年間車椅子でした。
主人がロケーションに連れて行ってくれて、「スター」という映画の時に、ボディーメイクができるかと言われて、出来ると言って、組合に入って、主人が死んでからメイクアップが本気になりました。
映画でもTVでも休みなしでやっていました。
TVをやったお陰でエミー賞をもらいました。
その頃おにぎりを持って行くと、皆が欲しがり(俳優、メイクアップの人たちなど)、教えてくれればやると言う人がいて、運転手まで欲しがるので大きな釜を3つを使って、玄米、白米、ゴマ、ゴマ塩だとかでつくって、その叔父さんが日本のご飯を作ると言う事で売れっ子になってしまった。
そのうち周りも作るになってしまった。
アメリカでは自分の分野ではユニオンで決められているので、威張れる。
私は臨機応変に合わせてやり好感をもたれた。
「フラッシュダンス」 4人のダンサー(男のダンサーもいた)を一人に見せる。
1983年 主役はジェニファー・ビールス 監督が飛んだり跳ねたりさせた。
プロのダンサーになるという夢を抱きながら、昼は製鉄所で溶接工、夜はキャバレーとなる近所のバー、マウビーズでセクシーなダンサーをしながらダンスの練習に励む18歳の女性のサクセスストーリー。
あんなに疲れた仕事は無かったが面白かったし、やり甲斐もありました。
母が来てくれたが、病気になり、1週間病院で、今日退院という時に肺炎になり亡くなりました。
凄くつらかったが世界中の人が親を亡くしているんだと、みんなも悲しいんだと思った時に、ぱちっと切り替えられました。
トラブルのない人はいません、みんなも苦労しているんです、みんな笑っている、負けていられないと思ったら笑顔しかないです。
兄が亡くなり、母が亡くなり、主人が亡くなり、お葬式を3つもやりました。(58歳の時)
凄くつらい時期に仕事、友達に救われました。(アメリカ人は本当に優しい)
アメリカではあらゆる国から苦労して来ている人が多いので、すごく心配する、友達を大事にします。
アメリカでは悪口を言わないことを覚えました。(良い人だろうが悪い人だろうが人のことは関係ない)
私は新1世で、ロスで青森県人会の会長を8年やっています。
沖縄が一番多くて、3000人ぐらいいます。(温かい方の県が多い)
7年前、青森からねぶたを呼びました。
アメリカ人が大騒ぎして、あらゆるTV局が映しに来ました。
去年は3月に作る人を呼んで、アメリカで作って、アメリカ一世、ねぶた一世で大騒ぎで、ハリウッドパレードがあり全米に放送される。
はねと(跳ねる人)、叩く人を3台のバスに乗せて、連れてって、順番が来るまで待たしたり大変なんです。
アメリカ人の子供が一緒になって「ラッセラー、ラッセラー」と言って騒ぎます。
本物のねぶたを見たいと言う事でアメリカ人が青森に来るようになりました。
「2世ウィーク リトル東京」(カリフォルニア州ロサンゼルスにある日本人街「リトルトーキョー」で毎年8月に催される祭)
日本人は真面目、頑張るというのは逸話にあるぐらい。
戦前の人達が頑張ったお陰です。(戦争で虐げられましたが)
あなたみたいな人が勲章をもらってほしいと言って来たが、勲章というものに反感をもっていたが、領事さんが今までやってきた仕事を作成してくれて、日本の政府に申し込んでくれて、領事館推薦は私一人です。
感謝しています。
親は根っこ、貴方は木の芽、根っこに水をやらないと貴方は花咲かないの、それはお金ではなくて、親を思って電話一本で親は喜ぶ。
有名になった人は大概親孝行ですよ、親を大事にする、女性を大事にする、男だったら女を大事にしてください。
「ありがとう」と口だけでなく思えて言える人、「ごめんなさい」と自分の非を認めて素直に謝れる人
これはうちの母が言いました。
「ありがとう」、「ごめんなさい」を言う人はいちばん最高です。(今からでも遅くはないです。)
映画TV業界の最高峰 ハリウッドで成功する道のり,波乱万丈の人生について伺いました。
もともとはダンサーだった。
女は結婚して子供を産んで家庭を守ると言う様な時代でした。
昭和8年生まれ。
子供時代はおてんばでしたので、6歳6月6日には習いごとをさせると言う事で、日本舞踊をやって、そのうちタップダンスを最初に広めたジョージ・堀が姉を見染めて結婚して、タップダンスをするようになり、学童疎開をするようになりました。
富山県のお寺に行きました。
お寺で1週間に一遍ショーをやると豆をもらえるので、タップダンスをやりました。
終戦後、進駐軍慰問をして、ベビーチームのAクラスで10円もらえた。
東京駅に20台位ならんでいて、服が無いので兵隊さんの恰好をしたバンドが集まったり、私もベビーチームでバイオリン1丁でタップダンスを踊りました。
行くところ行くところ楽屋が無くて、男は倉庫に、女の人は床屋に入れられたりしました。
面白い場面がいっぱいありました。
14歳から16歳頃にはプロのダンサーになっていました。
16歳の時に映画を見てショックでした、踊れないといけないということが判り、そしてバレエ、アクロバット迄習いました。
日本文化施設で世界を回った時は日本舞踊ができてアクロバットができるのは私一人でしたのでイギリス、スイスから廻ってその帰りにアメリカで、15分持たないとアメリカでは認められなかったので、日本舞踊とジャズを歌って、アクロバットをやって、必ず雇ってくれました。
最終的にはアメリカのラスベガスのソロダンサーになりました。
主人とは香港で出会いました。
戦艦サンパブロで撮影があり、メイクアップ・アーティストとして主人が来ていました。
クラブで出るたびに同じお客さんたちで、どうしても会いたいと言うお客がいて、一緒に食事をして、2週間目に「こんにちは赤ちゃん」の歌があり、歌の内容を説明したら、僕の子供を生んでくれと言われてしまい、有難いけど結構ですと2週間断り続けていたら、スティーブ・マックイーンが来て、彼は本当にいい人だから、頼むから結婚してほしいと言われました。
そのうち香港で暴動が起きて、戒厳令がでていたことを知らないで、出て行ったら銃で囲まれて、イギリスの兵隊が来て、日本人として証明する人がいないかと言われて、外国人が来ると言う事は危険な行為であったが、ビルが駆けだして来てくれて、私の婚約者だと言ってくれて、命を賭けて来てくれたんだと言う事を感じて、その1週間後に母親にも内緒で、戦艦サンパブロの艦上で結婚しました。
仲人がスティーブ・マックイーン、ロバート・ワイズ(サウンドオブミュジックの監督)が父親代わり、赤い絨毯を敷いてくれて、音楽があり、三三九度の盃もやりました。
ロスにきてみると詰まらないので、ラスベガスに戻って、彼が金曜日に来て、日曜日の晩に帰ってくることを毎週やってくれました。
そのうちに舞台上で足の靱帯を切ってしまいました。
1年間車椅子でした。
主人がロケーションに連れて行ってくれて、「スター」という映画の時に、ボディーメイクができるかと言われて、出来ると言って、組合に入って、主人が死んでからメイクアップが本気になりました。
映画でもTVでも休みなしでやっていました。
TVをやったお陰でエミー賞をもらいました。
その頃おにぎりを持って行くと、皆が欲しがり(俳優、メイクアップの人たちなど)、教えてくれればやると言う人がいて、運転手まで欲しがるので大きな釜を3つを使って、玄米、白米、ゴマ、ゴマ塩だとかでつくって、その叔父さんが日本のご飯を作ると言う事で売れっ子になってしまった。
そのうち周りも作るになってしまった。
アメリカでは自分の分野ではユニオンで決められているので、威張れる。
私は臨機応変に合わせてやり好感をもたれた。
「フラッシュダンス」 4人のダンサー(男のダンサーもいた)を一人に見せる。
1983年 主役はジェニファー・ビールス 監督が飛んだり跳ねたりさせた。
プロのダンサーになるという夢を抱きながら、昼は製鉄所で溶接工、夜はキャバレーとなる近所のバー、マウビーズでセクシーなダンサーをしながらダンスの練習に励む18歳の女性のサクセスストーリー。
あんなに疲れた仕事は無かったが面白かったし、やり甲斐もありました。
母が来てくれたが、病気になり、1週間病院で、今日退院という時に肺炎になり亡くなりました。
凄くつらかったが世界中の人が親を亡くしているんだと、みんなも悲しいんだと思った時に、ぱちっと切り替えられました。
トラブルのない人はいません、みんなも苦労しているんです、みんな笑っている、負けていられないと思ったら笑顔しかないです。
兄が亡くなり、母が亡くなり、主人が亡くなり、お葬式を3つもやりました。(58歳の時)
凄くつらい時期に仕事、友達に救われました。(アメリカ人は本当に優しい)
アメリカではあらゆる国から苦労して来ている人が多いので、すごく心配する、友達を大事にします。
アメリカでは悪口を言わないことを覚えました。(良い人だろうが悪い人だろうが人のことは関係ない)
私は新1世で、ロスで青森県人会の会長を8年やっています。
沖縄が一番多くて、3000人ぐらいいます。(温かい方の県が多い)
7年前、青森からねぶたを呼びました。
アメリカ人が大騒ぎして、あらゆるTV局が映しに来ました。
去年は3月に作る人を呼んで、アメリカで作って、アメリカ一世、ねぶた一世で大騒ぎで、ハリウッドパレードがあり全米に放送される。
はねと(跳ねる人)、叩く人を3台のバスに乗せて、連れてって、順番が来るまで待たしたり大変なんです。
アメリカ人の子供が一緒になって「ラッセラー、ラッセラー」と言って騒ぎます。
本物のねぶたを見たいと言う事でアメリカ人が青森に来るようになりました。
「2世ウィーク リトル東京」(カリフォルニア州ロサンゼルスにある日本人街「リトルトーキョー」で毎年8月に催される祭)
日本人は真面目、頑張るというのは逸話にあるぐらい。
戦前の人達が頑張ったお陰です。(戦争で虐げられましたが)
あなたみたいな人が勲章をもらってほしいと言って来たが、勲章というものに反感をもっていたが、領事さんが今までやってきた仕事を作成してくれて、日本の政府に申し込んでくれて、領事館推薦は私一人です。
感謝しています。
親は根っこ、貴方は木の芽、根っこに水をやらないと貴方は花咲かないの、それはお金ではなくて、親を思って電話一本で親は喜ぶ。
有名になった人は大概親孝行ですよ、親を大事にする、女性を大事にする、男だったら女を大事にしてください。
「ありがとう」と口だけでなく思えて言える人、「ごめんなさい」と自分の非を認めて素直に謝れる人
これはうちの母が言いました。
「ありがとう」、「ごめんなさい」を言う人はいちばん最高です。(今からでも遅くはないです。)
2016年7月7日木曜日
カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(1)
カオリ・ナラ・ターナー(メイクアップ・アーティスト) ・「笑顔で夢をかなえてきた」(1)
82歳 アメリカ ハリウッドで40年以上トップレベルのメイクアップ・アーティストとして活躍を続け、TV界のアカデミー賞と言われるエミー賞を日本人で初めて受賞しました。
先月日本に一時帰国したカオリさんのインタビューを2回に分けて放送します。
日本では美容学校、ご婦人たちのものの考え方、日米の女性のどっちが幸福なのかという様なものの考え方、色んなところに呼ばれています。
映画、TVの場合、映画にそった役柄に合わした顔を作らなければいけない。
「For the Boys」という映画の場合17~80歳までの女の一生の様な顔を段々つくって行かなければいけない。
*「For the Boys」:軍隊慰問歌手ディクシー・レオナルドの半生を描く人間ドラマ。
俳優の都合、撮る時系列などで若かったり、歳取ったりした顔をその都度対応していかないといけないし、17歳から80歳での撮った時の顔が違っていてはいけない。
例えば、顔の傷の状態、色なども、日によって傷が変わっていかなければ行けないので写真を撮っておかなくてはいけない。
メイクアップ・アーティストとして砂嵐、寒さなど過酷な現場でもあります。
交通事故の場面だと、どういう転がり方をしたのかとか、それによってどういうふうに泥を付けたり、紫色にするのにも、各所各所に付けたり、面白さでもあります。
やけどの場面も、噴火して煙が静まったら、全身に見えるところにやけどを作らなければいけない。
上手く出来た時は本当にうれしいです。
一人一人がそれぞれ担当を一秒一秒に命をかけてやっています。
色々な要望にたいして対応していかなくてはいけないので、あらゆる場合のものの化粧道具を持っています。
手術の場面でも、その人の肌の色(白人~黒人)をカバーしなくてはいけないし、(同じ白人でも10種類あります)、ゴムで作ったお腹の内臓の上に、薄い血のりを載せて、カバーの嘘のものをお腹に置いて肌色に塗ってそれを切って血がでるとか、一つの場面でも一日がかりになる。
今は撮影機材が良くなって撮った場面を良いか悪いか直ぐに確認することができるが、昔はそうはいかなかった。
昔は傷を作るのに手作りだったが、今は傷が出来上がってるものがいっぱいあって、それを貼ってメイクすればいいだけになってきている。
手で作ったものとはったものとでは違います。
ユニオンで決まっていて、8時間はもらえるが、オーバーになるとパーセンテージがついている。
映画では10時間~12時間は普通で、TVの場合は時間が決まっているのでオーバータイムが増える、20時間ぐらいに増えることもあって過酷です。(お金は増えるが本当に過酷です)
TVは私は嫌いで、映画のほうが私は好きです。
「For the Boys」という映画の中で、戦場に慰問に行く場面があるが、1000人ぐらいの兵隊がいたが、それは本物の兵隊さんだった。(兵隊さんがエキストラをやる)
ある場面が終わって、湾岸戦争が始まって、そこにいる兵隊が全部行くように命令があって、この兵隊さんたちを慰問しようという事になりました、明日は戦場に行くのかと兵隊さんのことを思うと胸がいっぱいになりました。
私は両親が自分がしてほしいことを人にしてあげなさいと、育て上げられたので、寒い時はジャケットをかけてあげたり、疲れた体の肩をもんであげたりしましたら、本当に喜ばれました。
こういった気使いは日本に生まれてよかったと思っています。
最近はそうではないようですが。
肩がぶつかると向うでは笑顔を交わすが、日本ではぶつかると睨まれてしまう。
一番いい顔で電車に乗ったりしてほしいと思います。(電車の中では寝ているか、携帯をいじっている)
日米で違うのは風邪をひいた時に日本では無理してゆくとよく来たねと言われるが、米国ではうつされるとまずいので、今日分のお金は払うから直ぐ帰る様に言われる。
明るい人は、にこにこしている人は、ユニオンから仕事の声がかかって呼ばれる。(ある程度テクニックは同じで結論的には人間性)
日本では俳優さんを大事にし過ぎる、むこうでは5分5分の付き合いですから。
日本では頬がふっくらしている方が喜ばれるが、アメリカでは頬骨がはっきりする様なのが好まれ、その人の骨格に合わして化粧をするのでアメリカ人の方が楽です、シャープに仕上げます。
むこうの人は一重の目の人が羨ましくて好きだと言います、セクシーだと言います。
向こうでは鼻を削ったり、胸を小さくしたりします、ブラジャーの紐で肩が凝ってしまうということで文化の違いを感じます。
装うと言う事は女に取って、或る楽しみであり、宝ものであり大切にしないといけない。
むこうは皮膚が薄くて弱いので直ぐにしわがよってくるし、一遍延びたら縮まない、たるんできたり、垂れてくる。
メイキャップで大変なのは、首の垂れをガムテープようなもので後ろに引っ張って隠すのが大変です。
風呂は毎日入る、疲れた顔をアイロンかける様なもの。
洗った後に顔に卵の白身を塗って、そしてお湯で白身を落とすとぴかぴかに光る、そのあと自分に合った乳液を付けて、ティッシュペーパーで覆ってやって、乾いたら取れば完全に乳液は中に入っている。
化粧も大事だが、自分が美しい心にならないといけない。
物事を良い方に考えると目の輝き方が違う、いくら化粧をしても目が輝いていないと駄目です。
楽しく生きなきゃ、みんな苦労はあります、無い人はいません。
日本人はもっともっと外国に出てほしい、日本人は器用で優しい。
箸を持つと言う事は凄く頭にいい、それだけで日本人は得をしています。
日本文化を最低一つ(茶道、花道、柔道などなど)身につけて来てほしい、プライドが持てます。
外国に出て始めて日本の良さが判ります、いかに皆さん雑な人が多いか。
いつも教え子にいいますが、二ついいものを持っていて、欲しいと言われた時にあげるのに、辛いけど良い方のものをあげてみなさいと言います、そうすると後で気持ちい、悪い方をあげると後で後悔する。
いい絵を見たりいい話を聞いたりいい本を読んだりして、自分を磨いて、自分の意見を持つ女性になり、所作を身につけて欲しい。
メークをすることによって、自分の心が楽しくなる、そうすると人に優しくなれる。
笑顔を持つ、笑うと笑顔も優しくなる、赤ん坊はあやしてくれる、大人になったら自分で人をあやしたり、自分をあやしてほしい、癒しの時間を作りましょう。
良い種をまけば良い花が咲き、悪い種をまけば悪い花が咲く、人に優しくしましょう。
82歳 アメリカ ハリウッドで40年以上トップレベルのメイクアップ・アーティストとして活躍を続け、TV界のアカデミー賞と言われるエミー賞を日本人で初めて受賞しました。
先月日本に一時帰国したカオリさんのインタビューを2回に分けて放送します。
日本では美容学校、ご婦人たちのものの考え方、日米の女性のどっちが幸福なのかという様なものの考え方、色んなところに呼ばれています。
映画、TVの場合、映画にそった役柄に合わした顔を作らなければいけない。
「For the Boys」という映画の場合17~80歳までの女の一生の様な顔を段々つくって行かなければいけない。
*「For the Boys」:軍隊慰問歌手ディクシー・レオナルドの半生を描く人間ドラマ。
俳優の都合、撮る時系列などで若かったり、歳取ったりした顔をその都度対応していかないといけないし、17歳から80歳での撮った時の顔が違っていてはいけない。
例えば、顔の傷の状態、色なども、日によって傷が変わっていかなければ行けないので写真を撮っておかなくてはいけない。
メイクアップ・アーティストとして砂嵐、寒さなど過酷な現場でもあります。
交通事故の場面だと、どういう転がり方をしたのかとか、それによってどういうふうに泥を付けたり、紫色にするのにも、各所各所に付けたり、面白さでもあります。
やけどの場面も、噴火して煙が静まったら、全身に見えるところにやけどを作らなければいけない。
上手く出来た時は本当にうれしいです。
一人一人がそれぞれ担当を一秒一秒に命をかけてやっています。
色々な要望にたいして対応していかなくてはいけないので、あらゆる場合のものの化粧道具を持っています。
手術の場面でも、その人の肌の色(白人~黒人)をカバーしなくてはいけないし、(同じ白人でも10種類あります)、ゴムで作ったお腹の内臓の上に、薄い血のりを載せて、カバーの嘘のものをお腹に置いて肌色に塗ってそれを切って血がでるとか、一つの場面でも一日がかりになる。
今は撮影機材が良くなって撮った場面を良いか悪いか直ぐに確認することができるが、昔はそうはいかなかった。
昔は傷を作るのに手作りだったが、今は傷が出来上がってるものがいっぱいあって、それを貼ってメイクすればいいだけになってきている。
手で作ったものとはったものとでは違います。
ユニオンで決まっていて、8時間はもらえるが、オーバーになるとパーセンテージがついている。
映画では10時間~12時間は普通で、TVの場合は時間が決まっているのでオーバータイムが増える、20時間ぐらいに増えることもあって過酷です。(お金は増えるが本当に過酷です)
TVは私は嫌いで、映画のほうが私は好きです。
「For the Boys」という映画の中で、戦場に慰問に行く場面があるが、1000人ぐらいの兵隊がいたが、それは本物の兵隊さんだった。(兵隊さんがエキストラをやる)
ある場面が終わって、湾岸戦争が始まって、そこにいる兵隊が全部行くように命令があって、この兵隊さんたちを慰問しようという事になりました、明日は戦場に行くのかと兵隊さんのことを思うと胸がいっぱいになりました。
私は両親が自分がしてほしいことを人にしてあげなさいと、育て上げられたので、寒い時はジャケットをかけてあげたり、疲れた体の肩をもんであげたりしましたら、本当に喜ばれました。
こういった気使いは日本に生まれてよかったと思っています。
最近はそうではないようですが。
肩がぶつかると向うでは笑顔を交わすが、日本ではぶつかると睨まれてしまう。
一番いい顔で電車に乗ったりしてほしいと思います。(電車の中では寝ているか、携帯をいじっている)
日米で違うのは風邪をひいた時に日本では無理してゆくとよく来たねと言われるが、米国ではうつされるとまずいので、今日分のお金は払うから直ぐ帰る様に言われる。
明るい人は、にこにこしている人は、ユニオンから仕事の声がかかって呼ばれる。(ある程度テクニックは同じで結論的には人間性)
日本では俳優さんを大事にし過ぎる、むこうでは5分5分の付き合いですから。
日本では頬がふっくらしている方が喜ばれるが、アメリカでは頬骨がはっきりする様なのが好まれ、その人の骨格に合わして化粧をするのでアメリカ人の方が楽です、シャープに仕上げます。
むこうの人は一重の目の人が羨ましくて好きだと言います、セクシーだと言います。
向こうでは鼻を削ったり、胸を小さくしたりします、ブラジャーの紐で肩が凝ってしまうということで文化の違いを感じます。
装うと言う事は女に取って、或る楽しみであり、宝ものであり大切にしないといけない。
むこうは皮膚が薄くて弱いので直ぐにしわがよってくるし、一遍延びたら縮まない、たるんできたり、垂れてくる。
メイキャップで大変なのは、首の垂れをガムテープようなもので後ろに引っ張って隠すのが大変です。
風呂は毎日入る、疲れた顔をアイロンかける様なもの。
洗った後に顔に卵の白身を塗って、そしてお湯で白身を落とすとぴかぴかに光る、そのあと自分に合った乳液を付けて、ティッシュペーパーで覆ってやって、乾いたら取れば完全に乳液は中に入っている。
化粧も大事だが、自分が美しい心にならないといけない。
物事を良い方に考えると目の輝き方が違う、いくら化粧をしても目が輝いていないと駄目です。
楽しく生きなきゃ、みんな苦労はあります、無い人はいません。
日本人はもっともっと外国に出てほしい、日本人は器用で優しい。
箸を持つと言う事は凄く頭にいい、それだけで日本人は得をしています。
日本文化を最低一つ(茶道、花道、柔道などなど)身につけて来てほしい、プライドが持てます。
外国に出て始めて日本の良さが判ります、いかに皆さん雑な人が多いか。
いつも教え子にいいますが、二ついいものを持っていて、欲しいと言われた時にあげるのに、辛いけど良い方のものをあげてみなさいと言います、そうすると後で気持ちい、悪い方をあげると後で後悔する。
いい絵を見たりいい話を聞いたりいい本を読んだりして、自分を磨いて、自分の意見を持つ女性になり、所作を身につけて欲しい。
メークをすることによって、自分の心が楽しくなる、そうすると人に優しくなれる。
笑顔を持つ、笑うと笑顔も優しくなる、赤ん坊はあやしてくれる、大人になったら自分で人をあやしたり、自分をあやしてほしい、癒しの時間を作りましょう。
良い種をまけば良い花が咲き、悪い種をまけば悪い花が咲く、人に優しくしましょう。
2016年7月6日水曜日
近藤博子(有機野菜の八百屋店主) ・「八百屋さん発“地域”の輪」
近藤博子(有機野菜の八百屋店主) ・「八百屋さん発“地域”の輪」
56歳 東京大田区の住宅街で小さな八百屋店を営んでいます。
お店には有機野菜、果物、自然食の品々が所狭しと並び、こうした野菜、果物,調味料、レトルト食品などを全国の生産者から直接取り寄せたり、野菜などを配達したり、近藤さんは店を一人で切り盛りしています。
店のスペースを利用して様々な活動をしています。
店を地域の人たちに開放して役立つ場所にしたいと考えたからなんだそうです。
どんな活動に取り組んでいるのか伺います。
月は休み、火曜日から日曜日営業。
「だんだん」 店の名前 有難うという意味
50歳ちょっとて前から始まる。
以前は歯科衛生士を務めていて、ほぼ30年近くやっていました。
健康は全てがつながっているという事、健康、食、歯をつなげたいと思った。
保健所のお手伝いをしていたり、自然食の店の手伝いをしたりして、たまたま週末だけの野菜の配達ができないか相談されたが、断っていたが、やれるかなあと思って始めました。
それが八百屋開店のきっかけになりました。
居酒屋だった所を借りて、細長いスペースでやっています。
八百屋を開いたのが2008年、翌年に娘が学校の勉強に躓き、先生を頼んだのがきっかけとなり、学習支援の方への取り組みとなり、新聞にも載って、ボランティアさんとのつながりができて、子供だけでなく、大人の学び直しもあってもいいのではないかという事で、英会話、絵画、などいろいろな講座が始まりました。
講座には子供から高齢者まで様々です。
読み聞かせでは幼稚園の子等がきます。
「ワンコイン寺子屋」 1時間500円から1000円程度でやっています。
自分の実家は農家で、肉牛を育てる農家で100頭位飼っていた時もありました。
3人兄弟で弟が二人います。
田植え、稲刈りなども近所同士でやって支えあってやっていました。
高校生の時に、東京で歯科衛生士を探していると言う事で、仕事を見に行きおもしろそうだと思い、結局この道に進むことになりました。(23歳で国家試験をうける)
島根で先ず働いて、東京に戻って25歳で結婚して、東京のある企業の診療室に勤めて25年ぐらいお世話になりました。
3人子供がいますが、子育てには周りから助けられ、大変苦労しながらやってきました。
子供食堂、小学校の校長先生からお母さんが精神的なトラブルがあり、1年生の子がいて、晩ご飯、朝ご飯がバナナ一本と言う話を聞いて(2010年)、地域で出来ることがあるのではないかという事でそれがスタートでした。
私が先ずカレーをつくって、友人たちも後から助けてくれるというスタイルでやり始めました。
子供同士誘いあって、最初18人きました。(子供300円、大人500円 払えなければ臨機応変に)
隔週第一、第三水曜日でスタート、今は毎週木曜日にしました。
ボランティアの人も来てくれて一緒に来てくれて、やっています。(10人前後で男性の方もいます)
今は材料、お金などの寄付もあり、今年の3月から子供は100円にしました。
今は子供は20人ぐらい、大人は10人ぐらい来ています。(赤字になるとか、考えないでやっています)
絵本の読み聞かせをしてくれる人も来てくれて、毎回ではないが読み聞かせをしたりもしています。
子供食堂は地域のよりどころの役割を果たしているのではないかと思います。
大人でも、子供でも、お互いが学びあう場にもなっています。
食事の負荷が大変な独り暮らしの老人も来ます。
今は一緒に住んでいてもお爺さんお婆さんも習いごとなどいろいろ忙しいので、お爺さんお婆さんを頼ることができないことが見えてきた。
子供食堂の中では、お年寄りと、若いサラリーマン、たくさんの大人と接することができる。
通ってきた道、これから行く道を考えると、お互いのことを思いやると言うことは大事だと思います。
地域で頑張っている人はたくさんいるが、どうしても縦割りになってしまうという傾向があるので、横のつながりで支えてゆく事は物凄く大事だと思うので、横のつながりを作る為の動きをしようという事で、児童養護施設で関わっている方などの現場の話を聞いて、子供達の現状を理解をする大人を増やそうと言う事で、「子供笑顔ミーティング」が始まりました。
点を線にして、面にしてゆこうとしています。
自分のことが精一杯で人のことを考えることがなかなかできない時代になってしまって、ジレンマがあるかもしれないが、決して人間はそんなに冷たくはなっていない。
人と人は寄り添っていないと生きてはいけないと思うので、きっかけになればいいと思います。
人のことを思える社会作りが大事だと思います。
56歳 東京大田区の住宅街で小さな八百屋店を営んでいます。
お店には有機野菜、果物、自然食の品々が所狭しと並び、こうした野菜、果物,調味料、レトルト食品などを全国の生産者から直接取り寄せたり、野菜などを配達したり、近藤さんは店を一人で切り盛りしています。
店のスペースを利用して様々な活動をしています。
店を地域の人たちに開放して役立つ場所にしたいと考えたからなんだそうです。
どんな活動に取り組んでいるのか伺います。
月は休み、火曜日から日曜日営業。
「だんだん」 店の名前 有難うという意味
50歳ちょっとて前から始まる。
以前は歯科衛生士を務めていて、ほぼ30年近くやっていました。
健康は全てがつながっているという事、健康、食、歯をつなげたいと思った。
保健所のお手伝いをしていたり、自然食の店の手伝いをしたりして、たまたま週末だけの野菜の配達ができないか相談されたが、断っていたが、やれるかなあと思って始めました。
それが八百屋開店のきっかけになりました。
居酒屋だった所を借りて、細長いスペースでやっています。
八百屋を開いたのが2008年、翌年に娘が学校の勉強に躓き、先生を頼んだのがきっかけとなり、学習支援の方への取り組みとなり、新聞にも載って、ボランティアさんとのつながりができて、子供だけでなく、大人の学び直しもあってもいいのではないかという事で、英会話、絵画、などいろいろな講座が始まりました。
講座には子供から高齢者まで様々です。
読み聞かせでは幼稚園の子等がきます。
「ワンコイン寺子屋」 1時間500円から1000円程度でやっています。
自分の実家は農家で、肉牛を育てる農家で100頭位飼っていた時もありました。
3人兄弟で弟が二人います。
田植え、稲刈りなども近所同士でやって支えあってやっていました。
高校生の時に、東京で歯科衛生士を探していると言う事で、仕事を見に行きおもしろそうだと思い、結局この道に進むことになりました。(23歳で国家試験をうける)
島根で先ず働いて、東京に戻って25歳で結婚して、東京のある企業の診療室に勤めて25年ぐらいお世話になりました。
3人子供がいますが、子育てには周りから助けられ、大変苦労しながらやってきました。
子供食堂、小学校の校長先生からお母さんが精神的なトラブルがあり、1年生の子がいて、晩ご飯、朝ご飯がバナナ一本と言う話を聞いて(2010年)、地域で出来ることがあるのではないかという事でそれがスタートでした。
私が先ずカレーをつくって、友人たちも後から助けてくれるというスタイルでやり始めました。
子供同士誘いあって、最初18人きました。(子供300円、大人500円 払えなければ臨機応変に)
隔週第一、第三水曜日でスタート、今は毎週木曜日にしました。
ボランティアの人も来てくれて一緒に来てくれて、やっています。(10人前後で男性の方もいます)
今は材料、お金などの寄付もあり、今年の3月から子供は100円にしました。
今は子供は20人ぐらい、大人は10人ぐらい来ています。(赤字になるとか、考えないでやっています)
絵本の読み聞かせをしてくれる人も来てくれて、毎回ではないが読み聞かせをしたりもしています。
子供食堂は地域のよりどころの役割を果たしているのではないかと思います。
大人でも、子供でも、お互いが学びあう場にもなっています。
食事の負荷が大変な独り暮らしの老人も来ます。
今は一緒に住んでいてもお爺さんお婆さんも習いごとなどいろいろ忙しいので、お爺さんお婆さんを頼ることができないことが見えてきた。
子供食堂の中では、お年寄りと、若いサラリーマン、たくさんの大人と接することができる。
通ってきた道、これから行く道を考えると、お互いのことを思いやると言うことは大事だと思います。
地域で頑張っている人はたくさんいるが、どうしても縦割りになってしまうという傾向があるので、横のつながりで支えてゆく事は物凄く大事だと思うので、横のつながりを作る為の動きをしようという事で、児童養護施設で関わっている方などの現場の話を聞いて、子供達の現状を理解をする大人を増やそうと言う事で、「子供笑顔ミーティング」が始まりました。
点を線にして、面にしてゆこうとしています。
自分のことが精一杯で人のことを考えることがなかなかできない時代になってしまって、ジレンマがあるかもしれないが、決して人間はそんなに冷たくはなっていない。
人と人は寄り添っていないと生きてはいけないと思うので、きっかけになればいいと思います。
人のことを思える社会作りが大事だと思います。
2016年7月5日火曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・もはや戦後ではない(第30回)((H28/6/6放送)
保阪正康(ノンフィクション作家) ・もはや戦後ではない(第30回)((H28/6/6放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_6.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2016/06/blog-post_6.htmlをご覧ください。
2016年7月4日月曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・60年安保の時代 第31回
保阪正康(ノンフィクション作家) ・60年安保の時代 第31回
昭和35年 5月から6月にかけて新安保条約
昭和27年までは占領されていて、昭和27年4月28日に独立、昭和35年60年安保反対運動迄が政治の季節だったと言える。
そのあと経済の季節にはいる。
安保改定、岸内閣
岸信介氏 東条内閣の時に商工大臣を務める。
戦後、東京裁判の時にA級戦犯容疑者に擬せられるが訴追されなくて、釈放された後、占領時には政治活動ができなかったが、その後政治活動に入る、官僚として有能で有ったために、自由民主党の一大派閥を形成してゆく人物。
昭和32年2月に石橋湛山内閣を次いで組閣される。
政治スローガンは自主憲法の制定、自主外交など、独立国を目指す色彩が強かった。
藤山愛一郎さんは外務大臣、藤山コンツエルンの指導者で経済界の大物でした。
東条内閣には批判的な人だった。
藤山さんが日米安保条約の改定の前面に立つ事になる。
「ダレス長官と会見、安保条約の日本の自主性について話をしてきて、再検討しようと言う事になる。
岸総理に出席してもらい、討議する話し合いを始めた。」(藤山外務大臣の記者会見)
国内治安の重視も検討、デモなどに力で対応・・・警察か職務執行法改正案
文化人が判りやすい言葉で反対し、成立しなかった。
これが安保反対運動と連動してゆく。
新安保条約の交渉
昭和26年9月にサンフランシスコ講和会議の最終日に吉田茂が、司令部で密かに日米安保条約を結び、余りにも日本がアメリカにおぶさっているので、相互的な関係(5分ー5分)になろうと言うことが狙いだった。
実質的にはアメリカ主導の安保条約は変わらない。
極東の範囲、日本の防衛の細かいことは問題にしなかったのが、新安保条約だった。
調印が昭和35年1月19日 ホワイトハウスで岸総理、アイゼンハワー大統領が調印する。
安保条約特別委員会で新安保条約の法的な不備を細かく野党が突く。
政府の答弁が一貫していなかった。(極東の範囲など)
国民の間に不安感が起きてくるが、岸内閣が強硬採決をする。
国民の間に不信感があっと言う間に広がってくる。
昭和35年5月19日~6月23日
5月19日、20日 衆議院本会議で自民党の単独採決をするが、野党が採決させまいと、議長を軟禁状態にしたり、議長の道をふさいだり物理的な行動をして議場が混乱する。
議会政治を無視して新安保条約を通そうとすること、おかしいのではないかと、国会運営の形の場で批判が強まった。
新安保条約が承認される。 参議院で審議が終わらなくても6月18日に自然成立することになる。
反対運動が加速度的に広がる。
6月4日 国民会議統一行動で560万人参加。
6月10日 ハガチー事件 ハガチー秘書がアイゼンハワー大統領の訪問の調整をしようという事だったが、羽田でデモ隊に囲まれて、ヘリコプターで脱出、大統領の訪日は無理だと言う事になってゆく。
6月15日に全国でデモが行われ580万人が参加することになる。
樺美智子さんが亡くなる。
尖鋭化した学生デモ隊が国会に入ろうとして警官隊と衝突する。
6月18日、19日 新安保条約が自然承認される。
学生のデモは行き過ぎではないかと新聞社7社が報道する、15日を境に運動は鎮静化してゆく。
後藤田さんは、あのデモを放って置いたら大変なことになると言っていた。
6月23日 新安保条約が発効されて、その日に岸首相が退陣、池田勇人首相が誕生することになる。
経済優先策を取る。
昭和35年 5月から6月にかけて新安保条約
昭和27年までは占領されていて、昭和27年4月28日に独立、昭和35年60年安保反対運動迄が政治の季節だったと言える。
そのあと経済の季節にはいる。
安保改定、岸内閣
岸信介氏 東条内閣の時に商工大臣を務める。
戦後、東京裁判の時にA級戦犯容疑者に擬せられるが訴追されなくて、釈放された後、占領時には政治活動ができなかったが、その後政治活動に入る、官僚として有能で有ったために、自由民主党の一大派閥を形成してゆく人物。
昭和32年2月に石橋湛山内閣を次いで組閣される。
政治スローガンは自主憲法の制定、自主外交など、独立国を目指す色彩が強かった。
藤山愛一郎さんは外務大臣、藤山コンツエルンの指導者で経済界の大物でした。
東条内閣には批判的な人だった。
藤山さんが日米安保条約の改定の前面に立つ事になる。
「ダレス長官と会見、安保条約の日本の自主性について話をしてきて、再検討しようと言う事になる。
岸総理に出席してもらい、討議する話し合いを始めた。」(藤山外務大臣の記者会見)
国内治安の重視も検討、デモなどに力で対応・・・警察か職務執行法改正案
文化人が判りやすい言葉で反対し、成立しなかった。
これが安保反対運動と連動してゆく。
新安保条約の交渉
昭和26年9月にサンフランシスコ講和会議の最終日に吉田茂が、司令部で密かに日米安保条約を結び、余りにも日本がアメリカにおぶさっているので、相互的な関係(5分ー5分)になろうと言うことが狙いだった。
実質的にはアメリカ主導の安保条約は変わらない。
極東の範囲、日本の防衛の細かいことは問題にしなかったのが、新安保条約だった。
調印が昭和35年1月19日 ホワイトハウスで岸総理、アイゼンハワー大統領が調印する。
安保条約特別委員会で新安保条約の法的な不備を細かく野党が突く。
政府の答弁が一貫していなかった。(極東の範囲など)
国民の間に不安感が起きてくるが、岸内閣が強硬採決をする。
国民の間に不信感があっと言う間に広がってくる。
昭和35年5月19日~6月23日
5月19日、20日 衆議院本会議で自民党の単独採決をするが、野党が採決させまいと、議長を軟禁状態にしたり、議長の道をふさいだり物理的な行動をして議場が混乱する。
議会政治を無視して新安保条約を通そうとすること、おかしいのではないかと、国会運営の形の場で批判が強まった。
新安保条約が承認される。 参議院で審議が終わらなくても6月18日に自然成立することになる。
反対運動が加速度的に広がる。
6月4日 国民会議統一行動で560万人参加。
6月10日 ハガチー事件 ハガチー秘書がアイゼンハワー大統領の訪問の調整をしようという事だったが、羽田でデモ隊に囲まれて、ヘリコプターで脱出、大統領の訪日は無理だと言う事になってゆく。
6月15日に全国でデモが行われ580万人が参加することになる。
樺美智子さんが亡くなる。
尖鋭化した学生デモ隊が国会に入ろうとして警官隊と衝突する。
6月18日、19日 新安保条約が自然承認される。
学生のデモは行き過ぎではないかと新聞社7社が報道する、15日を境に運動は鎮静化してゆく。
後藤田さんは、あのデモを放って置いたら大変なことになると言っていた。
6月23日 新安保条約が発効されて、その日に岸首相が退陣、池田勇人首相が誕生することになる。
経済優先策を取る。
2016年7月3日日曜日
千々松幸子(声優) ・時代を創った声(6)
千々松幸子(声優) ・時代を創った声(6)
1979年~2005年まで放送されたドラえもんののび太のママや、シャツの中の蛙が活躍する、ぴょん吉などで知られています。
実はアナウンサー志望でアナウンススクールにも通ったそうです。
26年間、毎週一回スタジオに集まりますが、体調がどうかなあとか細かなことまで感じられるし、又口には出さなくても、スタジオに入るとホッとします。
私は子供の声が多かったが、ドラえもんののび太のママの役は、私でいいのかなあと思いました。
始めた当時は二番目の子供が1歳位の時でした。
のび太を叱る役だったので、どういう風に言ったら親が子供を叱るのに、どういう風に叱ったら判ってもらえるか色々考えました。
ピョン吉の場合は下町っ子なので、逞しいひろし君のシャツに入り込んだので一緒になってべらんめい調で行かなくてはいけないと思った。
蛙がしゃべるという、転んだ拍子にシャツに張り付くと言うこと、台本を見たときには仰天しました。
蛙らしい声でないといけないのかなと思って悩みましたが、結局できるのは私の声しかないと折り合いを付けました。
一生懸命やっているうちに過呼吸になってしまって貧血を起こしてしまい、皆さんにご迷惑をかけたこともありました。
声自体が好きでした。
児童劇団にも入っていましたが、声に魅かれていました。
声の仕事がしたくて、アナウンサースクールに通いました。
通い始めて4~5カ月したころに、CMを番組の途中に入れて、アニメーションでの男の子の声を探していると言う事で、それに出演することが決まりました。
その後TVの色々なCMに出演するようになりました。
ラジオドラマなどもやったりしました。
子供の声がほとんどでした。
子供の声ではアナウンサーとかナレーションにはなれないよと、言われてしまいました。
声で自分のやりたいことなどを表現したいと思いました。
アニメの一番初めは、魔法使いサリーの役を探しているので受けてみたらと先生から電話で言われて、結局弟役をさせて頂きました。
地のままで割合出来た気がします。
子供を観察してどういう風なしゃべり方をするのか等勉強しながら、やってみるしかなかった。
どんな声をだすかは、すじの中で感じながら体当たり的にやるしかなかったです。
周りの役者は舞台をされている方たちが多くて本当に辛かったのではないかと思います。
野球の実況中継でのCMでは時間を伸ばす様にとか、急ぐようにとかの指示があり生放送のCMなので対応に苦慮しました。
両親が別棟でいましたので、子供を預けることができたので助かりました。
出産後2週間余りしか休まなかったのですが、休んでも結果的には消耗していた様で、声が丸っきりでなくなってしまって、スタジオに行ったが、それで何ができる休め、と言われてしまいました。
下の子は帰ると絵本が積んであって、それを全部読まないと寝てくれなくて、それが帰ってからの私の仕事でした。
私の時代には本当に色んなことがありました。
今は需要も物凄くあるし、色んなものが決められていて規制ができていて、それはとっても大変なんだなあと思います。
自分の感性を磨いてゆく事は大事だと思いますし、何にでもいつも興味を持って欲しいと思います。
沢山希望があると思いますが、希望を一つでも、二つでも大事に持って、行かれると凄くいいのではないかなあと思います。
短歌も趣味でやっています。
「我が声に心たくせりよわの夏」
「みじか夜や声をつむげり深夜便」
「みじか夜や共に心の糸つむらん」
1979年~2005年まで放送されたドラえもんののび太のママや、シャツの中の蛙が活躍する、ぴょん吉などで知られています。
実はアナウンサー志望でアナウンススクールにも通ったそうです。
26年間、毎週一回スタジオに集まりますが、体調がどうかなあとか細かなことまで感じられるし、又口には出さなくても、スタジオに入るとホッとします。
私は子供の声が多かったが、ドラえもんののび太のママの役は、私でいいのかなあと思いました。
始めた当時は二番目の子供が1歳位の時でした。
のび太を叱る役だったので、どういう風に言ったら親が子供を叱るのに、どういう風に叱ったら判ってもらえるか色々考えました。
ピョン吉の場合は下町っ子なので、逞しいひろし君のシャツに入り込んだので一緒になってべらんめい調で行かなくてはいけないと思った。
蛙がしゃべるという、転んだ拍子にシャツに張り付くと言うこと、台本を見たときには仰天しました。
蛙らしい声でないといけないのかなと思って悩みましたが、結局できるのは私の声しかないと折り合いを付けました。
一生懸命やっているうちに過呼吸になってしまって貧血を起こしてしまい、皆さんにご迷惑をかけたこともありました。
声自体が好きでした。
児童劇団にも入っていましたが、声に魅かれていました。
声の仕事がしたくて、アナウンサースクールに通いました。
通い始めて4~5カ月したころに、CMを番組の途中に入れて、アニメーションでの男の子の声を探していると言う事で、それに出演することが決まりました。
その後TVの色々なCMに出演するようになりました。
ラジオドラマなどもやったりしました。
子供の声がほとんどでした。
子供の声ではアナウンサーとかナレーションにはなれないよと、言われてしまいました。
声で自分のやりたいことなどを表現したいと思いました。
アニメの一番初めは、魔法使いサリーの役を探しているので受けてみたらと先生から電話で言われて、結局弟役をさせて頂きました。
地のままで割合出来た気がします。
子供を観察してどういう風なしゃべり方をするのか等勉強しながら、やってみるしかなかった。
どんな声をだすかは、すじの中で感じながら体当たり的にやるしかなかったです。
周りの役者は舞台をされている方たちが多くて本当に辛かったのではないかと思います。
野球の実況中継でのCMでは時間を伸ばす様にとか、急ぐようにとかの指示があり生放送のCMなので対応に苦慮しました。
両親が別棟でいましたので、子供を預けることができたので助かりました。
出産後2週間余りしか休まなかったのですが、休んでも結果的には消耗していた様で、声が丸っきりでなくなってしまって、スタジオに行ったが、それで何ができる休め、と言われてしまいました。
下の子は帰ると絵本が積んであって、それを全部読まないと寝てくれなくて、それが帰ってからの私の仕事でした。
私の時代には本当に色んなことがありました。
今は需要も物凄くあるし、色んなものが決められていて規制ができていて、それはとっても大変なんだなあと思います。
自分の感性を磨いてゆく事は大事だと思いますし、何にでもいつも興味を持って欲しいと思います。
沢山希望があると思いますが、希望を一つでも、二つでも大事に持って、行かれると凄くいいのではないかなあと思います。
短歌も趣味でやっています。
「我が声に心たくせりよわの夏」
「みじか夜や声をつむげり深夜便」
「みじか夜や共に心の糸つむらん」
2016年7月2日土曜日
佐々木 閑(花園大学教授) ・私の“出家的人生”
佐々木 閑(花園大学教授) ・私の“出家的人生”
59歳 2500年前に釈迦が開いた仏教の原点を究めようと研究を続けています。
佐々木さんは釈迦のことを良く生きるとはどういうことなのかを問い続けた人だと言います。
釈迦が悟りを開くために入った出家と言う世界は僧侶だけのものだけではなく、現代社会においてもにあちこちに存在していると考えました。
出家的人生とはどういうものか伺いました。
釈迦は国王の息子、王子として生まれた。
幸せな人生を送れるはずだったが、名誉、お金だとかそういうものに人生の本当の喜びがあるとは考えなかった。
普通の生き方では満足できない、自分の心に決めた生き方を目指して、もう一度人生をリセットする、それが出家。
仲間に呼びかけて、一つの集団をつくって、それが仏教になってゆく。
釈迦の人生を考えて調べてゆくうちに、お釈迦さまと同じような生き方をしている人が宗教以外でもたくさんある事に気が付きました 。
生まれついての世俗の生活の中で満足できない、価値観が違う価値観を持っている人が自分独自の価値観を追及するために、世俗の様々な喜びや利益を捨てて自分の新しい人生をもう一度リセットする事、これが出家です。
何を捨てて何を取るかというのがそれぞれの出家に生き方の違いになってくる。
私はたまたま色んな御縁があってうまくいかない人生を積み重ねて行ったら、気がついたら出家した様な状態になっていた。
出家というのは日常的な活動を捨てるので、稼がずに生きてゆく事になる。
食べられないので、出家した人をサポートする周りの人達がいなければならない、品物、ご飯、着物などあらゆるサポートの為の物資の事をお布施といいます。
出家者は朝から晩まで修行をする訳です。
野球は玉遊びで、遊びが段々と熱中する(出家者)と、素晴らしい技術を持った人が現れ、見ると言う楽しみができてくる。
そうすると応援する、入場料、応援団、これはお布施になります。
喜んでやっている姿にたいして、皆さんがお布施をあげるので、誰もつらい思いをしている世界ではない。
違う生き方を願う人達が世俗的な生き方を捨てて、自分のやりたいことだけを追及する様な道を自分で構築していこうとすれば、それは出家です、代表的なものは科学者です、純粋な科学を念頭に置いていただきたい、ビックバンの研究とか、研究したいと言う人がいるわけです。
私たちは税金で応援している、税金が科学者にたいするお布施です。
私の様に仏教学もそのままでは世の中の役には立たないが、探究している姿はそれなりに意味があると思っている人達から給料をもらって、暮らしているわけです。
政治家も、出家者です、この社会がよりよく平和に皆が楽しく幸せに生きてゆく事を実現するのが私の人生の目的だというのが、本来政治家が考えねばならない立場なんです。
それぞれの立場の人がしなければいけないことと、してはいけないことが非常に明確に見えてくる。
出家的な生き方は、日常な暮らしをしていても、いくらでも探せる。
今の私の人生は100%幸せかを自問してゆき、このままで幸せなら出家する必要はない。
お金が無いのが不満という場合はお金を稼げばそのことは解決するので、出家的な人生を目指すわけではない。
お金が無いことが不満だと思っている自分のあり方が不満だと、お金が無くても幸せだと感じられるような自分になりたいと思うとここから出家になってゆく。
何を手に入れたら私なら幸せなのか、幸せの条件が見えてくる。
例えば一番幸せなのは、周りの人達に喜んでもらえること、私がいることによって周りの人たちが幸せだと思う様な存在になりたいと感じたとすると、その人はそういう事が出来る様な道を探し始める。
ボランティアかも知れないし、社会活動で人の役に立つ事かも知れない。
何を修練して何を勉強して行ったらいいのか、今の生活のなにを犠牲にして、その分をその生活に入って行ったらいいのか、具体的に見えてくる。
今の自分の有り方にたいして自問自答してみることから始まる。
仏教は出家度は100%、全ての生活をお布施に頼って全エネルギーを修行につぎ込む。
10%、20%とかの出家はあるはずです。
家庭を離れた自分の時間(2時間とか3時間とか)を作る。
自分の好きなことに、求めている事に時間をかける、その時のお布施はその周りの家族の情愛、それがお布施になっている。
自分の生きがいを感じることができる充足した人生を送ることができる。
1956年昭和31年に寺の長男として生まれる。
小学2年生の時、詩で日記を書く様に先生が指導、全国作詩コンクールがあり学校を通してだして、2年生の時にちょっとした賞をもらって、3年生で福井県で優秀賞、4年生で全国大会の優秀賞、5年生の時に全国大会の最優秀賞をもらって他に沢山のものを頂き、その途端に詩が書けなくなってしまった。
心の中が物欲で一杯になり書けなくなってしまった。
貰った商品の中に科学図鑑が入っていた。(湯川秀樹先生監修の全30卷)
それを読んで、中学、高校と科学を勉強して、大学を選ぶときに、寺を継ぐように言われて、継ぎたく無くて、父と相談の結果、両方やれるような道に向かえばいいと言う事になった。
火力発電所の建設が近くで有り、公害がでるので、公害を防ぐための研究の方に進めば、将来発電所に勤めながら住職も出来るという事で、京都大学の工業化学科に入ることになる。(1975年)
講座は野崎先生がトップで、直属の先生が檜山為次郎さんという人で二人ともノーベル賞級の先生です。
能力が付いて行かず、挫折してしまって、卒業はしたが、科学で生きていく事が出来なくなってしまって、その時初めて仏教の方に目が向かった。
工学部を卒業後、文学部に移って仏教学の道に入りました。
古代インド仏教、3年学ぶ、特に語学(サンスクリット語など)が大変だった。
博士課程も終わったが、家に帰ろうという気持がなくなってしまった。
釈迦の人物に魅力を感じて、仏教の運営システムが気にいって、それの研究をすることばっかりして、仏教の法律論みたいなものを勉強して、一生やりたいと思った。(出家への道)
釈迦の研究を成就したいと思ってアメリカに行きました。
仏教学の本筋はヨーロッパとアメリカが中心なんです。(植民地時代に仏教学、インド学が盛ん)
一緒に勉強している学生が、自分のやりたい道を追求するために来ている人がいっぱいいました。
大学で仏教を教えるようになって、釈迦という人物にさらに強く魅かれるようになる。
世の中の動きは全て原因と結果の間の因果関係で動いている、という世界観を釈迦は持っていた。
生き物は皆死ぬので苦しみを持っている。
死ぬと言う事を死ぬ前にあらかじめ想定しながら生きているのが人間です。(苦しみの一番の大元)
自分自身を助けるのは、自分自身が変わることによって、自分を助ける、この理念を釈迦は打ち立てる。
仏教は心の病院だと思っています。
釈迦は処方箋を残してくれた。
システムを維持してゆくためには処方箋が正しくないといけないが、2500年間機能しているので、それは正しい。
病院という組織が続いていかなければならないが、釈迦の組織運営としての働きです。
両面がそろっているので、心の病院である仏教は2500年間釈迦以来、今もあります。
色々なところに行って講演をしています。
釈迦が歩んだ出家の道の真髄を理解して、少しでも実践する事で人々は自らの人生、住む社会を豊かにできると考えています。
出家的人生を送っている人は自分の好きなことを追及している人で、人生の全エネルギーを好きなことに追及するので、その人が生み出す成果は、その人ほどエネルギーを使っていない人にくらべればはるかに大きなものを生みだしている。
今まで社会に無かったものを生み出すので、出家的人生を送っている人たちが社会を動かす原動力になっているが、時間はかかります。
100年、200年経って、振り返ってみると、とてつもない社会にたいする貢献になると言うことはいくらでもあります。(レントゲンとか、いくらでもあります)
出家的人生を目指す人を応援しなければならない。
多様性を容認する世界、多様なことをしようとしている人達を皆が支える世界。
出家社会を守っていればやがて、出家社会にいずれ自分が入ることができるかもしれないし、子供が、孫が入るかもしれない。
59歳 2500年前に釈迦が開いた仏教の原点を究めようと研究を続けています。
佐々木さんは釈迦のことを良く生きるとはどういうことなのかを問い続けた人だと言います。
釈迦が悟りを開くために入った出家と言う世界は僧侶だけのものだけではなく、現代社会においてもにあちこちに存在していると考えました。
出家的人生とはどういうものか伺いました。
釈迦は国王の息子、王子として生まれた。
幸せな人生を送れるはずだったが、名誉、お金だとかそういうものに人生の本当の喜びがあるとは考えなかった。
普通の生き方では満足できない、自分の心に決めた生き方を目指して、もう一度人生をリセットする、それが出家。
仲間に呼びかけて、一つの集団をつくって、それが仏教になってゆく。
釈迦の人生を考えて調べてゆくうちに、お釈迦さまと同じような生き方をしている人が宗教以外でもたくさんある事に気が付きました 。
生まれついての世俗の生活の中で満足できない、価値観が違う価値観を持っている人が自分独自の価値観を追及するために、世俗の様々な喜びや利益を捨てて自分の新しい人生をもう一度リセットする事、これが出家です。
何を捨てて何を取るかというのがそれぞれの出家に生き方の違いになってくる。
私はたまたま色んな御縁があってうまくいかない人生を積み重ねて行ったら、気がついたら出家した様な状態になっていた。
出家というのは日常的な活動を捨てるので、稼がずに生きてゆく事になる。
食べられないので、出家した人をサポートする周りの人達がいなければならない、品物、ご飯、着物などあらゆるサポートの為の物資の事をお布施といいます。
出家者は朝から晩まで修行をする訳です。
野球は玉遊びで、遊びが段々と熱中する(出家者)と、素晴らしい技術を持った人が現れ、見ると言う楽しみができてくる。
そうすると応援する、入場料、応援団、これはお布施になります。
喜んでやっている姿にたいして、皆さんがお布施をあげるので、誰もつらい思いをしている世界ではない。
違う生き方を願う人達が世俗的な生き方を捨てて、自分のやりたいことだけを追及する様な道を自分で構築していこうとすれば、それは出家です、代表的なものは科学者です、純粋な科学を念頭に置いていただきたい、ビックバンの研究とか、研究したいと言う人がいるわけです。
私たちは税金で応援している、税金が科学者にたいするお布施です。
私の様に仏教学もそのままでは世の中の役には立たないが、探究している姿はそれなりに意味があると思っている人達から給料をもらって、暮らしているわけです。
政治家も、出家者です、この社会がよりよく平和に皆が楽しく幸せに生きてゆく事を実現するのが私の人生の目的だというのが、本来政治家が考えねばならない立場なんです。
それぞれの立場の人がしなければいけないことと、してはいけないことが非常に明確に見えてくる。
出家的な生き方は、日常な暮らしをしていても、いくらでも探せる。
今の私の人生は100%幸せかを自問してゆき、このままで幸せなら出家する必要はない。
お金が無いのが不満という場合はお金を稼げばそのことは解決するので、出家的な人生を目指すわけではない。
お金が無いことが不満だと思っている自分のあり方が不満だと、お金が無くても幸せだと感じられるような自分になりたいと思うとここから出家になってゆく。
何を手に入れたら私なら幸せなのか、幸せの条件が見えてくる。
例えば一番幸せなのは、周りの人達に喜んでもらえること、私がいることによって周りの人たちが幸せだと思う様な存在になりたいと感じたとすると、その人はそういう事が出来る様な道を探し始める。
ボランティアかも知れないし、社会活動で人の役に立つ事かも知れない。
何を修練して何を勉強して行ったらいいのか、今の生活のなにを犠牲にして、その分をその生活に入って行ったらいいのか、具体的に見えてくる。
今の自分の有り方にたいして自問自答してみることから始まる。
仏教は出家度は100%、全ての生活をお布施に頼って全エネルギーを修行につぎ込む。
10%、20%とかの出家はあるはずです。
家庭を離れた自分の時間(2時間とか3時間とか)を作る。
自分の好きなことに、求めている事に時間をかける、その時のお布施はその周りの家族の情愛、それがお布施になっている。
自分の生きがいを感じることができる充足した人生を送ることができる。
1956年昭和31年に寺の長男として生まれる。
小学2年生の時、詩で日記を書く様に先生が指導、全国作詩コンクールがあり学校を通してだして、2年生の時にちょっとした賞をもらって、3年生で福井県で優秀賞、4年生で全国大会の優秀賞、5年生の時に全国大会の最優秀賞をもらって他に沢山のものを頂き、その途端に詩が書けなくなってしまった。
心の中が物欲で一杯になり書けなくなってしまった。
貰った商品の中に科学図鑑が入っていた。(湯川秀樹先生監修の全30卷)
それを読んで、中学、高校と科学を勉強して、大学を選ぶときに、寺を継ぐように言われて、継ぎたく無くて、父と相談の結果、両方やれるような道に向かえばいいと言う事になった。
火力発電所の建設が近くで有り、公害がでるので、公害を防ぐための研究の方に進めば、将来発電所に勤めながら住職も出来るという事で、京都大学の工業化学科に入ることになる。(1975年)
講座は野崎先生がトップで、直属の先生が檜山為次郎さんという人で二人ともノーベル賞級の先生です。
能力が付いて行かず、挫折してしまって、卒業はしたが、科学で生きていく事が出来なくなってしまって、その時初めて仏教の方に目が向かった。
工学部を卒業後、文学部に移って仏教学の道に入りました。
古代インド仏教、3年学ぶ、特に語学(サンスクリット語など)が大変だった。
博士課程も終わったが、家に帰ろうという気持がなくなってしまった。
釈迦の人物に魅力を感じて、仏教の運営システムが気にいって、それの研究をすることばっかりして、仏教の法律論みたいなものを勉強して、一生やりたいと思った。(出家への道)
釈迦の研究を成就したいと思ってアメリカに行きました。
仏教学の本筋はヨーロッパとアメリカが中心なんです。(植民地時代に仏教学、インド学が盛ん)
一緒に勉強している学生が、自分のやりたい道を追求するために来ている人がいっぱいいました。
大学で仏教を教えるようになって、釈迦という人物にさらに強く魅かれるようになる。
世の中の動きは全て原因と結果の間の因果関係で動いている、という世界観を釈迦は持っていた。
生き物は皆死ぬので苦しみを持っている。
死ぬと言う事を死ぬ前にあらかじめ想定しながら生きているのが人間です。(苦しみの一番の大元)
自分自身を助けるのは、自分自身が変わることによって、自分を助ける、この理念を釈迦は打ち立てる。
仏教は心の病院だと思っています。
釈迦は処方箋を残してくれた。
システムを維持してゆくためには処方箋が正しくないといけないが、2500年間機能しているので、それは正しい。
病院という組織が続いていかなければならないが、釈迦の組織運営としての働きです。
両面がそろっているので、心の病院である仏教は2500年間釈迦以来、今もあります。
色々なところに行って講演をしています。
釈迦が歩んだ出家の道の真髄を理解して、少しでも実践する事で人々は自らの人生、住む社会を豊かにできると考えています。
出家的人生を送っている人は自分の好きなことを追及している人で、人生の全エネルギーを好きなことに追及するので、その人が生み出す成果は、その人ほどエネルギーを使っていない人にくらべればはるかに大きなものを生みだしている。
今まで社会に無かったものを生み出すので、出家的人生を送っている人たちが社会を動かす原動力になっているが、時間はかかります。
100年、200年経って、振り返ってみると、とてつもない社会にたいする貢献になると言うことはいくらでもあります。(レントゲンとか、いくらでもあります)
出家的人生を目指す人を応援しなければならない。
多様性を容認する世界、多様なことをしようとしている人達を皆が支える世界。
出家社会を守っていればやがて、出家社会にいずれ自分が入ることができるかもしれないし、子供が、孫が入るかもしれない。
2016年7月1日金曜日
佐藤勝利(「毘沙門屋」18代当主) ・祈りの山・富士
佐藤勝利(御師「毘沙門屋」18代当主) ・祈りの山・富士
吉田口登山道は7月1日に山開きを迎え本格的な夏山シーズンを迎えます。
多い年には 30万人を超える登山者が富士山を訪れますが、最初に大きな登山ブームが起きたのは江戸時代でした。
富士山を神聖な場所と考える人々が修行や巡礼の為に訪れたのです。
そうした富士山信仰の人々を支えてきたのが御師です。
訪れる人々の道中の無事を祈り、食事や、宿泊の世話をするのが役割でした。
2013年に世界文化遺産に登録され、街も活気づいています。
一番最初は富士浅間神社がスタート地点になっている。
富士浅間神社の本殿のわきに登山道の入口がある。
初めて登ったのが中学3年位の時でした。
8合目で野宿して、楽しかったです。
子供の時からずーっと見てきて富士山というのはいつ見ても素晴らしいです、美しいし魅かれます。
平安時代になると、富士山は修行する山という事で、登って神様に会いに行くと言う様なことが盛んになってきた。
江戸時代には本当に沢山の修行者が増えてきて、山岳信仰「講」という事で自分達でお金をためて、今年はだれそれらが何人で行くと言う事で関東一円からグループで大勢、山岳信仰という事で訪れた。
御祈祷師と言う事で講者を泊めるのが、御師の家という事です。
家は400年くらい経つ大きな家で100人ぐらい泊めていまして、先代は神職で家にも神社があります。
道中の安全祈願の御祓いをしてから登山することになる。
400年くらい前は86軒の御師の家がありましたが、今は14軒位しかないです。
大きな家なので住みにくい、冬は寒いし、最近は隣に近代的な家が建ってそこで生活をして、家は構えているだけという様な形です。
表通りから奥まったところにあり、細いたつ道があり、神社から流れてくる間川(やあながわ?聞き取れず)と言います。
そこの水でみそぎをして家に入る。
玄関が3つあって、講者のリーダーは正面から入る式台玄関、他は中口、弁当を作ったりする人手伝う人達は勝手口から入る。(身分によってはいるところが違う)
式台玄関は天井が低くなっていて、頭を下げないとはいれないようになっていて、武家屋敷的な作りになっている。
奥には神様が祀られ、御祈祷したり、お札を持ち帰ってもらったりする。
世界遺産になった時には200人位来ました。
うどんは色が白くて、身を清めると言う意味での御師の料理の一品になっています。
牛、馬、豚は禁止になっています。
鳥肉、鯉、野菜、海藻、豆腐、小麦、大豆、は食べます。(精進料理)
若い世代の人たちがやってくれないかと、という事でいろいろ話をしています。
場所が判る様に「毘沙門屋」 「・・・屋」があると言う事が判る様に提灯をだしたりしています。
「吉田の火祭り」(日本三大奇祭) 素晴らしい祭りだと思う。
胎内祭(狭い洞窟) 少人数でやっていたが、世界遺産になってからは全国から神社の祭りに集まってきました。
胎内に入って生まれ変わって山に登る。
日本橋からスタートして富士山に登る行事もあります。
若い人達がぼつぼつと色々な行事に出てきていて、今後次の世代へバトンタッチ出来るものと思っています。
富士山の形、上が細くて裾野が長くて、形が素晴らしい。
やはり雪の富士山が素晴らしいと思います。
白装束で「六根清浄」と言いながら登る、富士講の方がいなくなってしまうと、祈りとか信仰とか何の山になってしまうのかなあ思います。
苦労して登ってきて、富士山で登ってくる太陽を見て、手を合わせたり、感動している若者がたくさんいます。
心に何かがひきつけられていると思う。
現代富士講といってもいいのかもしれません。
吉田口登山道は7月1日に山開きを迎え本格的な夏山シーズンを迎えます。
多い年には 30万人を超える登山者が富士山を訪れますが、最初に大きな登山ブームが起きたのは江戸時代でした。
富士山を神聖な場所と考える人々が修行や巡礼の為に訪れたのです。
そうした富士山信仰の人々を支えてきたのが御師です。
訪れる人々の道中の無事を祈り、食事や、宿泊の世話をするのが役割でした。
2013年に世界文化遺産に登録され、街も活気づいています。
一番最初は富士浅間神社がスタート地点になっている。
富士浅間神社の本殿のわきに登山道の入口がある。
初めて登ったのが中学3年位の時でした。
8合目で野宿して、楽しかったです。
子供の時からずーっと見てきて富士山というのはいつ見ても素晴らしいです、美しいし魅かれます。
平安時代になると、富士山は修行する山という事で、登って神様に会いに行くと言う様なことが盛んになってきた。
江戸時代には本当に沢山の修行者が増えてきて、山岳信仰「講」という事で自分達でお金をためて、今年はだれそれらが何人で行くと言う事で関東一円からグループで大勢、山岳信仰という事で訪れた。
御祈祷師と言う事で講者を泊めるのが、御師の家という事です。
家は400年くらい経つ大きな家で100人ぐらい泊めていまして、先代は神職で家にも神社があります。
道中の安全祈願の御祓いをしてから登山することになる。
400年くらい前は86軒の御師の家がありましたが、今は14軒位しかないです。
大きな家なので住みにくい、冬は寒いし、最近は隣に近代的な家が建ってそこで生活をして、家は構えているだけという様な形です。
表通りから奥まったところにあり、細いたつ道があり、神社から流れてくる間川(やあながわ?聞き取れず)と言います。
そこの水でみそぎをして家に入る。
玄関が3つあって、講者のリーダーは正面から入る式台玄関、他は中口、弁当を作ったりする人手伝う人達は勝手口から入る。(身分によってはいるところが違う)
式台玄関は天井が低くなっていて、頭を下げないとはいれないようになっていて、武家屋敷的な作りになっている。
奥には神様が祀られ、御祈祷したり、お札を持ち帰ってもらったりする。
世界遺産になった時には200人位来ました。
うどんは色が白くて、身を清めると言う意味での御師の料理の一品になっています。
牛、馬、豚は禁止になっています。
鳥肉、鯉、野菜、海藻、豆腐、小麦、大豆、は食べます。(精進料理)
若い世代の人たちがやってくれないかと、という事でいろいろ話をしています。
場所が判る様に「毘沙門屋」 「・・・屋」があると言う事が判る様に提灯をだしたりしています。
「吉田の火祭り」(日本三大奇祭) 素晴らしい祭りだと思う。
胎内祭(狭い洞窟) 少人数でやっていたが、世界遺産になってからは全国から神社の祭りに集まってきました。
胎内に入って生まれ変わって山に登る。
日本橋からスタートして富士山に登る行事もあります。
若い人達がぼつぼつと色々な行事に出てきていて、今後次の世代へバトンタッチ出来るものと思っています。
富士山の形、上が細くて裾野が長くて、形が素晴らしい。
やはり雪の富士山が素晴らしいと思います。
白装束で「六根清浄」と言いながら登る、富士講の方がいなくなってしまうと、祈りとか信仰とか何の山になってしまうのかなあ思います。
苦労して登ってきて、富士山で登ってくる太陽を見て、手を合わせたり、感動している若者がたくさんいます。
心に何かがひきつけられていると思う。
現代富士講といってもいいのかもしれません。