小林綾子(女優) ・おしんと山形が私の原点
当時10歳でオーディションに合格し、おしんの少女時代を演じました。
ドラマが始まるとたちまち人気となり、日本中がおしんブームに沸きました。
このドラマは後に世界82の国と地域で放送され、大きな反響を呼びました。
10歳でおしんを演じてから32年が経ちました。
1972年 昭和47年8月11日生まれ 東京都出身 5歳の頃から児童劇団に所属して、10歳の時に朝の連続TV小説おしんでヒロインに抜擢され、少女時代を演じておしんブームを巻き起こしました。
以来今日までTVドラマ、映画、舞台など幅広く活躍中です。
バレエがやりたいと思って劇団に入ったが、演劇、歌、体操とかのレッスンがあった。
女優になりたくてなったのではなくて、習いごとの一つとして習いはじめたのがバレエだったんです。
最初は仮面ライダーのさらわれる役でした。
NHKのオーディションの話があり、一切知らずに行きましたが、自己紹介、台本の抜粋の読み合わせなどをしたりしました。
一回目で駄目だと思ったが、一次が受かり、二次も受かって、三次審査に行くが、課題があった。
台本の抜粋したものを渡されて覚えてきて、実際に役者さんと一緒にお芝居をしてくださいという課題だった。
長いセリフで覚えられないと母親に言ったら、せっかくここまできたので頑張ろうという事で、一生懸命覚えて三次審査に臨みました。
三次審査も通りましたという報告がありました。
四次審査があり、その時に5人だったが、扮装してメイクをしてカメラの前でお芝居をしてどんなふうに映るかという事だった、何故か私だけが汚い扮装のおしん役だった。
後で聞いたが、3人は都会的な子供、2人はおしんのイメージに合うかなあという事だった。
もう一人の方がおしんにあってるという事だったが、その方は次のドラマが決まっていたそうで2番手候補の私におしんの役が巡ってきたようです。
貧しいの農家に生まれたおしんは、7歳で家族の生計をたてるために、材木問屋に子守奉公に行かされる。
奉公先ではしごきに耐えながら、辛い日々を送るが、或る日勉強をしたくて、学校を覗いたら先生が配慮してくれて、子守をしながら勉強したが、子供達の反感を買って断念、お金を盗んだという疑いも掛けられ、祖母がお守りとしてくれた50銭銀貨を取られて辛抱の糸が切れて逃げたかたちで、吹雪の中をさまよっていたところを脱走兵に助けられ半年山の中で暮らして、脱走兵は射殺され、家におしんは帰って、酒田の米問屋に行き、加賀屋の女主人にいろいろ教えてもらい、おしんは将来を強く決意するところで少女時代が終わる。
一番寒い時に撮影が行われ、最初の撮影がクライマックスの別れのいかだのシーンだった。
地元の人達がいかだを作ってくれた。
川の流れが速いのでいかだが流されない様にクレーンが上流から綱で引っ張っていて、他にも綱が張られていて、スタッフが引っ張っていた。
「かあちゃん」と叫びながら別れるシーンがあるが、父ちゃん(伊東四朗さん)との別れは都合で来られなかったが、ぶどう棚に向かって叫べと言われた。
(伊東四朗さんの演じるシーンは別の日に行われた。今だから言えるが)
山形弁を覚えるのは大変だった。
山形出身の女優さんが全部おしんのセリフを吹き込んだカセットテープを台本と一緒に渡されて、自分でもマークを考えて記入して、母と一緒に繰り返し繰り返し練習して覚えてゆく。
「ごしゃがれる」=怒られる。
教科書を読むと、なまってしまっていると言われた。
大根飯(大根8割、米が2割)は撮影の時は沢山頂きました。
スタッフが気を使ってくれて、味付けが良くて本当においしかった。(実際はまずいとの事)
日本中がおしんブームに沸き、平均視聴率が52.6%、最高視聴率が62.9% 第一位
注目されすぎて、生活しにくいことがありました。
世界82カ国で放送される。
タイのバンコクに伺った時に、知らない人から「おちん」 「おちん」 と言われ 中国では
「あしん」 「あしん」 エジプトでは「おしーん」と鼻に抜ける様な呼び方だった。
ベトナムでは視聴率は90何%だったそうです。
一つのドラマを通して知らない人と親しく交流させてもらう事は有難いと思いましたし、ドラマのもつ力は凄いと改めて思いました。
インドネシアの目の不自由なところに行った時に、彼女が「見えなくても判る、貴方の声が同じだから判る」と言ってくれて、このドラマを楽しんでいただけたんだなあと、とっても嬉しかった。
おしんに対するプレッシャーというより感謝しています。
撮影は本当に大変だったが、これができたのだから、何でもできると自信が付きました。
このドラマは普遍的な愛とか、人を大切にする、思いやって接する、優しい気持ちになって見るとか、万国共通であったのだと思います。
頑張れば日本の様になれると励みになったという事も聞きました。
おしんを見るまでは日本の場所、歴史を知らなかったが、今は経済大国になっているが、何十年か前はこんなに貧しくて大変な時代があったという、じゃあ私たちも頑張ればそういう風になれるのではないかと、励みになったと言われました。
ドラマで学んだことは本当の豊かさとは何なのか、という事、経済的に豊かになって、便利な世の中になったけれども、大切なものをどこかに置き忘れてしまったのではないかと、それは豊かな心ではと思います。
小さな事に喜びを感じられる人はとても幸せだと思います、なにげないそんな事に喜びを感じられるそんな生活ができたら、心豊かに生活ができるのかなあと思います。
苦しいことをたくさん経験している人は人にも優しくなれるのかなあと思います。
ただ役を演じるというだけでなく、年相応に演じている中で人の心に残る様なお芝居を出来るように努力して行きたいと思っています。
2015年10月31日土曜日
2015年10月30日金曜日
桂 由美(服飾デザイナー) ・ブライダル衣装と私の50年
桂 由美(服飾デザイナー) ・ブライダル衣装と私の50年
この50年間、日本の結婚式は形が大きく変わりました。
ブライダル業界の草分け的存在の桂さんに、この50年我が国の結婚式の変化と世相、創作活動の人生をお聞きします。
私の母が洋裁学校を経営していて心筋梗塞で急死してしまった。
美容院に通う暇もなくターバンをしたら、ぼろ隠しになり便利だった。(どんな場所にも出られる)
ブライド=花嫁 ブライダル=花嫁の
50年前は和装結婚式はほとんどだったので、ブライダルという言葉さえもなかった。
ブライダルショーをマスコミに出したら、翌日から電話が鳴りっぱなしになった。
林邦雄さんに電話して聞いてみたら、ブライダルを知らないということは返って宣伝になると言われて、この名称は変えなかった。
当時3%が洋装だった。(専門店が無いのでオーダーショップで頼むしかなかった)
木綿の安い生地で作ってから問題ないことが判ってから、本物の絹等の生地で3カ月程度で仕上がるが、OLのサラリーの6か月分位になっていた。
OLのサラリーの1カ月分で買っている事が、世界を調べてわかった。
40年前にブライダルハウスを建てたが、その時に既製服の話があり、ウエディングドレスを売りましょうという事で実現しました。
韓国、中国等はレンタルが多い、3着を着るので借りることになる。
父親は郵政省の役人で、母が小岩で洋裁学園を経営、不況の時代で、子供のそばで出来る仕事を選んで、洋裁と編み物を勉強して、今は大きな学校には成っている。
母と私は体格体形、物の考え方も似ていて、あまりいさかいをしたことはないです。
演劇をやりたいと言った時だけは反対された。
ブライダルの仕事を始める時も、学校はつぶさない様にするならばという事で賛成してくれた。
当時適齢期の男性が少なかった、女性は25歳になると売れ残りと言われた。
一番発言権を持っていたのは、男性の母親だった。
ウエディングドレスを着たいという時に親は賛成するが先方の母親は安っぽいことをやらないでほしいといわれるとひっくり返るので、最初の年は1年間で30人しかいなかった。
10年間は洋裁学校の先生として働き学校から給与をもらって、4人の給与、生地代を払うと店の収入は無くなってしまって店での私の給与は10年間なかった。
女子大でアンケートを取ってみたら40%が着てみたいとの事だったが、当時親が反対していた。
適齢期のOLの1カ月分のサラリーで他の国々は行っていたが、日本ではそうなるまで10年掛かった。
その時には13%ぐらいになった。(式服は着物、お色直しに着る)
1980年台後半はチャペル建設ブームになる。
式服が洋装に逆転したのが1993年です。
安っぽいとバッシングされたが、和装に匹敵するドレスを作ることを最初にやったわけです。
アメリカでは日本のドレスは安かろう悪かろうと言われていたが、日本の54社が、アメリカの1流ホテルを3日間借り切ってイベントをやったわけです。
シルクを褒められて、デザインも細やかであると褒められた。
アメリカの結婚人口は日本の3倍あり、年齢層も幅があり、ターゲットも考える必要がある。
1981年ダイアナ妃の結婚での流行でだめだったがユミラインがその後注目された。
私は結婚したが、届を出しただけで式はなかった。
私は人を綺麗にすることが仕事です。(自分自身を綺麗にすることは?です。)
或るとき、ピエール・バルマンが店に来てくれて、貴方が羨ましい、自分はこの世で一番美しいのは花嫁姿だと思っているが、自分はオートクチュールで仕事をしているが年に3,4回しかウエディングドレスを手掛けることはない、貴方は毎日やっていてウエディングドレスに囲まれて仕事をしていて、羨ましいと言われて、体が震えました。
一時期結婚式が商売になるみたいなイメージがあったが、逆だと思う。
結婚式の時ぐらい、赤字でとは言わないが、利益を上げるとか私にはそういう気持ちはないです。
周りで祝ってくれるような市民参加型の結婚式は無くなってしまった。
家から出発する様な市民の眼にさらして、特に子供に花嫁姿を見せる、それから式場に行くふるさとウエディング運動をやっている。
2007年からは「恋人の聖地」(現在日本全国に125ヶ所、海外に4ヶ所誕生)を認定・育成する運動を開始。
芸能人のステージ衣装、水森かおりさんの衣装を20年ぐらい行っている。
紅白で片方は越前和紙を使って行う。
製作期間は2週間だった。
当時日本の遅れている面、特にブライダルの面、欧米に遜色ないものに日本の婚礼をしたいと思ってやってきたが、日本の着物は他の国にはない芸術性を持っているので、日本の誇りなので和洋の両立を勧めていて、和装も着た方がいいと言っています。
皆で祝福できる結婚式を広めていきたいと思っています。
この50年間、日本の結婚式は形が大きく変わりました。
ブライダル業界の草分け的存在の桂さんに、この50年我が国の結婚式の変化と世相、創作活動の人生をお聞きします。
私の母が洋裁学校を経営していて心筋梗塞で急死してしまった。
美容院に通う暇もなくターバンをしたら、ぼろ隠しになり便利だった。(どんな場所にも出られる)
ブライド=花嫁 ブライダル=花嫁の
50年前は和装結婚式はほとんどだったので、ブライダルという言葉さえもなかった。
ブライダルショーをマスコミに出したら、翌日から電話が鳴りっぱなしになった。
林邦雄さんに電話して聞いてみたら、ブライダルを知らないということは返って宣伝になると言われて、この名称は変えなかった。
当時3%が洋装だった。(専門店が無いのでオーダーショップで頼むしかなかった)
木綿の安い生地で作ってから問題ないことが判ってから、本物の絹等の生地で3カ月程度で仕上がるが、OLのサラリーの6か月分位になっていた。
OLのサラリーの1カ月分で買っている事が、世界を調べてわかった。
40年前にブライダルハウスを建てたが、その時に既製服の話があり、ウエディングドレスを売りましょうという事で実現しました。
韓国、中国等はレンタルが多い、3着を着るので借りることになる。
父親は郵政省の役人で、母が小岩で洋裁学園を経営、不況の時代で、子供のそばで出来る仕事を選んで、洋裁と編み物を勉強して、今は大きな学校には成っている。
母と私は体格体形、物の考え方も似ていて、あまりいさかいをしたことはないです。
演劇をやりたいと言った時だけは反対された。
ブライダルの仕事を始める時も、学校はつぶさない様にするならばという事で賛成してくれた。
当時適齢期の男性が少なかった、女性は25歳になると売れ残りと言われた。
一番発言権を持っていたのは、男性の母親だった。
ウエディングドレスを着たいという時に親は賛成するが先方の母親は安っぽいことをやらないでほしいといわれるとひっくり返るので、最初の年は1年間で30人しかいなかった。
10年間は洋裁学校の先生として働き学校から給与をもらって、4人の給与、生地代を払うと店の収入は無くなってしまって店での私の給与は10年間なかった。
女子大でアンケートを取ってみたら40%が着てみたいとの事だったが、当時親が反対していた。
適齢期のOLの1カ月分のサラリーで他の国々は行っていたが、日本ではそうなるまで10年掛かった。
その時には13%ぐらいになった。(式服は着物、お色直しに着る)
1980年台後半はチャペル建設ブームになる。
式服が洋装に逆転したのが1993年です。
安っぽいとバッシングされたが、和装に匹敵するドレスを作ることを最初にやったわけです。
アメリカでは日本のドレスは安かろう悪かろうと言われていたが、日本の54社が、アメリカの1流ホテルを3日間借り切ってイベントをやったわけです。
シルクを褒められて、デザインも細やかであると褒められた。
アメリカの結婚人口は日本の3倍あり、年齢層も幅があり、ターゲットも考える必要がある。
1981年ダイアナ妃の結婚での流行でだめだったがユミラインがその後注目された。
私は結婚したが、届を出しただけで式はなかった。
私は人を綺麗にすることが仕事です。(自分自身を綺麗にすることは?です。)
或るとき、ピエール・バルマンが店に来てくれて、貴方が羨ましい、自分はこの世で一番美しいのは花嫁姿だと思っているが、自分はオートクチュールで仕事をしているが年に3,4回しかウエディングドレスを手掛けることはない、貴方は毎日やっていてウエディングドレスに囲まれて仕事をしていて、羨ましいと言われて、体が震えました。
一時期結婚式が商売になるみたいなイメージがあったが、逆だと思う。
結婚式の時ぐらい、赤字でとは言わないが、利益を上げるとか私にはそういう気持ちはないです。
周りで祝ってくれるような市民参加型の結婚式は無くなってしまった。
家から出発する様な市民の眼にさらして、特に子供に花嫁姿を見せる、それから式場に行くふるさとウエディング運動をやっている。
2007年からは「恋人の聖地」(現在日本全国に125ヶ所、海外に4ヶ所誕生)を認定・育成する運動を開始。
芸能人のステージ衣装、水森かおりさんの衣装を20年ぐらい行っている。
紅白で片方は越前和紙を使って行う。
製作期間は2週間だった。
当時日本の遅れている面、特にブライダルの面、欧米に遜色ないものに日本の婚礼をしたいと思ってやってきたが、日本の着物は他の国にはない芸術性を持っているので、日本の誇りなので和洋の両立を勧めていて、和装も着た方がいいと言っています。
皆で祝福できる結婚式を広めていきたいと思っています。
2015年10月29日木曜日
マキノノゾミ(劇作家・演出家) ・舞台で描く 野口英世の虚実
マキノノゾミ(劇作家・演出家) ・舞台で描く 野口英世の虚実
誰でもがおなじみの1000円札の肖像画になっている野口英世、何度もノーベル賞候補に挙がった世界的な科学者でありながら本当の素顔はあまり知られていません。
そんな野口英世の実像と虚像にマキノさんが挑みます。
マキノさんは1959年昭和34年静岡県浜松市出身 56歳
京都同志社大学で演劇に出会い、卒業後仲間と共に劇団を立ち上げます。
関西を中心に活躍しますが、1994年に書き下ろした戯曲「MOTHER~君わらひたまふことなかれ~」が芸術選奨文部大臣新人賞に選ばれ一躍注目を浴びます。
2002年にはNHK連続TV小説「まんてん」を執筆、いまや演劇界で最も期待される作家の一人になりました。
今回文学座の公演のために書かれた、「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」ではその怒涛の後半生に光を当てます。
これまでの演劇人生を振り返っていただきながら、人間野口英世にどう迫ったのか伺います。
戯曲「MOTHER~君わらひたまふことなかれ~」
関西中心だったので東京では初登場の作品です。
与謝野晶子、与謝野鉄幹を中心に北原白秋、石川啄木、佐藤春夫などが登場してくる群像劇、ユーモアとペーソスにあふれる作品。
演出家の宮田慶子さんと知り合う機会があり、青年座で40周年の時に、若手演出家として新しい劇作家と組んで一本立ち上げるという話になって、私と一緒にと誘ってもらって書かせてもらった。
膨大な量の仕事をしたにもかかわらず10人以上の子を育てたことは意外だったので、生活人としての与謝野晶子に焦点をあてて、グレートマザーみたいな芝居にならないかという事で、引き受けました。
サザエさんの様に描写した。
「東京原子核クラブ」 朝永振一郎博士が働いていた、理化学研究所 青春群像劇。
若いころの下宿生活(平和館)のお芝居をと思って、書いたものです。(読売文学賞受賞)
「フユヒコ」(寺田寅彦主人公) 「KANOKO」(岡本かの子 岡本一平 岡本太郎家族)
「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」 (来月文学座で公演)
今までの作品は評伝劇とは思っていなくて比較的自由に書いてきたが、今回は評伝劇をきちっと書いてみようと思った。
その人の人生、偉人、歴史上の人物は一生の物語がどうであったか、過去の物語をある距離をもって眺められるが、その人物を見る目が優しくなれるという事が最大のメリットと思っていて、一人の人間として批判するというよりも、こんないいところ、こんな駄目なところがあった、人生の中でこんないい瞬間もあっただろうと考えることが好きなんでしょうね。
大学のクラスで一緒になった友人が、演劇をやっていて、見に行っていたが、手伝いをするようになって、サークル劇団の人と顔見知りになり、入ったらどうだと言われて、成り行きで入ってしまった。
つかこうへい、唐十郎さんとかを皆で見に行って、つかこうへいをいっきに好きになってしまった。
卒業する時に自分たち有志で劇団をやろうかという事で3人位で始めた。(劇団MOP)
1984年から2010年まで26年間やりました。
20数品 脚本演出を行った。
最初のころはつかこうへいの作品をやっていたが、オリジナル脚本を書いてみようと思って29歳ごろに書き始めた。
「青猫物語」 劇団員全人に役を与えなくてはいけなくて、その脚本を書くのが大変だったが、いい訓練にはなった。
まず最初に周辺人物を考えて、出番をどうするかなどを考えてきた。
うまく適材適所に使っているなと自画自賛しています。
NHK連続TV小説「まんてん」を執筆。
屋久島に生まれた女の子が宇宙飛行士を目指すが、色々のものにぶつかりながら紆余曲折をへて最後には宇宙飛行士になる物語。
大河ドラマと同じ量の尺があるので、執筆にまるまる1年掛かり大変だった。
皆が不眠不休でやる様な必死にやる事に感動した。
登場人物 人物の欠点を愛する、その人に欠点のない人間はいないので、欠点が愛らしく見えるようにするにはどうしたらいいかとか、考える。
セリフを書くのは大変ですね。
過去とか、違う場所とかの設定が多いのでそのたびごとに、その時代の人達、その地域の人達、その国の国の人達はどんなしゃべり方をするのだろうと、こんな感じというものが見つかるまでは、簡単な一行も書けないです。
書くより演出をする方が好きです、周りに迷惑をかけるのではないかとか、書くというのは怖いです。
演出家は書かれたとおりにやろうという事で、劇作家になって演出をする時に、作家の真意、狙いとかを考えるようになって、劇作家の眼として一緒に考えるようになります。
私は作品の世界の中に出掛けて行こうという演出家のタイプです。
「殿様と私」 お陰様で評判は良かったです。
加藤武さんが出られていて、風格があって素晴らしかったです。
「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」
野口英世を対象にやってみたかった。
以外にお金にだらしなかったり、大変な借金魔だったり、それを踏み倒したり、欠点のある人は楽しかろうと思っていて、結局は日本には受け入れてもらえなくて、アメリカで活動せざるを得なかったというところがあって、悲壮な運命も背負っていて欠点も多いという事でやりがいがあると思った。
人格は破たんしている様でスケールも大きい。
アメリカに行く時のお金を、壮行してくれる友人達と一緒に一晩で飲んでしまうという様な事をした。
欠点と美点みたいなものが大きなスケールで混在している。
不器用でも不格好でも生き方の美しい人は好きだ。
野口英世はかろうじてギリギリで美しいと言える人だと思います。
熱い火の玉の一生だったと思います。
メリー アメリカ人の奥さん 結婚生活は、どんな人だったのかはブラックボックスになっていて、劇作家としては嘘の吹ける部分だと思って、メリーにあてた電報、手紙を見る限り円満だったと想像されるので、野口英世にとっては後半生では大変大きな意味のある存在の女性だったと思うので、知られていないことに魅かれた。
母親との感動的な話はあるが、この芝居には母親は出てこなくて、妻のメリーが結構出てくる、それが異説という所以です。
誰でもがおなじみの1000円札の肖像画になっている野口英世、何度もノーベル賞候補に挙がった世界的な科学者でありながら本当の素顔はあまり知られていません。
そんな野口英世の実像と虚像にマキノさんが挑みます。
マキノさんは1959年昭和34年静岡県浜松市出身 56歳
京都同志社大学で演劇に出会い、卒業後仲間と共に劇団を立ち上げます。
関西を中心に活躍しますが、1994年に書き下ろした戯曲「MOTHER~君わらひたまふことなかれ~」が芸術選奨文部大臣新人賞に選ばれ一躍注目を浴びます。
2002年にはNHK連続TV小説「まんてん」を執筆、いまや演劇界で最も期待される作家の一人になりました。
今回文学座の公演のために書かれた、「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」ではその怒涛の後半生に光を当てます。
これまでの演劇人生を振り返っていただきながら、人間野口英世にどう迫ったのか伺います。
戯曲「MOTHER~君わらひたまふことなかれ~」
関西中心だったので東京では初登場の作品です。
与謝野晶子、与謝野鉄幹を中心に北原白秋、石川啄木、佐藤春夫などが登場してくる群像劇、ユーモアとペーソスにあふれる作品。
演出家の宮田慶子さんと知り合う機会があり、青年座で40周年の時に、若手演出家として新しい劇作家と組んで一本立ち上げるという話になって、私と一緒にと誘ってもらって書かせてもらった。
膨大な量の仕事をしたにもかかわらず10人以上の子を育てたことは意外だったので、生活人としての与謝野晶子に焦点をあてて、グレートマザーみたいな芝居にならないかという事で、引き受けました。
サザエさんの様に描写した。
「東京原子核クラブ」 朝永振一郎博士が働いていた、理化学研究所 青春群像劇。
若いころの下宿生活(平和館)のお芝居をと思って、書いたものです。(読売文学賞受賞)
「フユヒコ」(寺田寅彦主人公) 「KANOKO」(岡本かの子 岡本一平 岡本太郎家族)
「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」 (来月文学座で公演)
今までの作品は評伝劇とは思っていなくて比較的自由に書いてきたが、今回は評伝劇をきちっと書いてみようと思った。
その人の人生、偉人、歴史上の人物は一生の物語がどうであったか、過去の物語をある距離をもって眺められるが、その人物を見る目が優しくなれるという事が最大のメリットと思っていて、一人の人間として批判するというよりも、こんないいところ、こんな駄目なところがあった、人生の中でこんないい瞬間もあっただろうと考えることが好きなんでしょうね。
大学のクラスで一緒になった友人が、演劇をやっていて、見に行っていたが、手伝いをするようになって、サークル劇団の人と顔見知りになり、入ったらどうだと言われて、成り行きで入ってしまった。
つかこうへい、唐十郎さんとかを皆で見に行って、つかこうへいをいっきに好きになってしまった。
卒業する時に自分たち有志で劇団をやろうかという事で3人位で始めた。(劇団MOP)
1984年から2010年まで26年間やりました。
20数品 脚本演出を行った。
最初のころはつかこうへいの作品をやっていたが、オリジナル脚本を書いてみようと思って29歳ごろに書き始めた。
「青猫物語」 劇団員全人に役を与えなくてはいけなくて、その脚本を書くのが大変だったが、いい訓練にはなった。
まず最初に周辺人物を考えて、出番をどうするかなどを考えてきた。
うまく適材適所に使っているなと自画自賛しています。
NHK連続TV小説「まんてん」を執筆。
屋久島に生まれた女の子が宇宙飛行士を目指すが、色々のものにぶつかりながら紆余曲折をへて最後には宇宙飛行士になる物語。
大河ドラマと同じ量の尺があるので、執筆にまるまる1年掛かり大変だった。
皆が不眠不休でやる様な必死にやる事に感動した。
登場人物 人物の欠点を愛する、その人に欠点のない人間はいないので、欠点が愛らしく見えるようにするにはどうしたらいいかとか、考える。
セリフを書くのは大変ですね。
過去とか、違う場所とかの設定が多いのでそのたびごとに、その時代の人達、その地域の人達、その国の国の人達はどんなしゃべり方をするのだろうと、こんな感じというものが見つかるまでは、簡単な一行も書けないです。
書くより演出をする方が好きです、周りに迷惑をかけるのではないかとか、書くというのは怖いです。
演出家は書かれたとおりにやろうという事で、劇作家になって演出をする時に、作家の真意、狙いとかを考えるようになって、劇作家の眼として一緒に考えるようになります。
私は作品の世界の中に出掛けて行こうという演出家のタイプです。
「殿様と私」 お陰様で評判は良かったです。
加藤武さんが出られていて、風格があって素晴らしかったです。
「再びこの地を踏まず 異説野口英世物語」
野口英世を対象にやってみたかった。
以外にお金にだらしなかったり、大変な借金魔だったり、それを踏み倒したり、欠点のある人は楽しかろうと思っていて、結局は日本には受け入れてもらえなくて、アメリカで活動せざるを得なかったというところがあって、悲壮な運命も背負っていて欠点も多いという事でやりがいがあると思った。
人格は破たんしている様でスケールも大きい。
アメリカに行く時のお金を、壮行してくれる友人達と一緒に一晩で飲んでしまうという様な事をした。
欠点と美点みたいなものが大きなスケールで混在している。
不器用でも不格好でも生き方の美しい人は好きだ。
野口英世はかろうじてギリギリで美しいと言える人だと思います。
熱い火の玉の一生だったと思います。
メリー アメリカ人の奥さん 結婚生活は、どんな人だったのかはブラックボックスになっていて、劇作家としては嘘の吹ける部分だと思って、メリーにあてた電報、手紙を見る限り円満だったと想像されるので、野口英世にとっては後半生では大変大きな意味のある存在の女性だったと思うので、知られていないことに魅かれた。
母親との感動的な話はあるが、この芝居には母親は出てこなくて、妻のメリーが結構出てくる、それが異説という所以です。
2015年10月28日水曜日
大原永子(舞踊芸術監督) ・「大人向けバレエ」を根づかせたい
大原永子(新国立劇場 舞踊芸術監督) ・「大人向けバレエ」を根づかせたい
71歳 東京生まれ 母親の勧めで4歳からバレイを習い始め、11歳の時に大きな転機が訪れました。
バレエの先生の養女となります。
厳しい訓練に耐え天才少女バレリーナとして注目されるようになりました。
ただ舞台で拍手喝浴びる一方でテクニックが重視されるバレイに疑問を抱いていたと言います。
31歳の時にイギリスに渡り、感情表現を重視するバレエと出会った大原さんは、スコティッシュバレイ団に入り、欧米の各地で活躍しました。
その後スコットランドと日本を行き来しながら、新国立劇場バレエ団の指導をはじめ、去年9月舞踊芸術監督に就任しました。
長く海外で踊った経験からダンサーの精神的な強さとより豊かな感情の表現が必要だと感じる大原さんは、そのために現在はドラマティックな人生をつたえる作品を選び観客を魅了する大人のバレエを見せたいと取り組んでいます。
私は現場が長くて、能力は現場で初めて発揮されるものと思っているので、いろんなこと全て眼を通したりはしようと思っています。
「ホフマン物語」の場合は古い私の過去からの作品なので、装置、衣装等新製作なんでも責任を持って対応しています。(「ホフマン物語」は新国立劇場で今後上演)
一人一人パートによってリハーサルの仕方は違うが、ドラマのあるものは個性を生かさなくてはいけないので、彼らの才能を引き出すだけでなく、自信を持たせることを心掛けて教えているつもりです。
新国立劇場に入団して(1999年の夏から)、10年前から ダンサーが自分で表現したいとか、もっと自立してきたと思う。
日本人は先生に従う事がずーっと血の中に入っているようで、よく聞きますし、自習もよくするので
真面目です。
自分の訓練してきたもの、自分の考えているもの、観客にどれだけのものを与えられるのかという事が大切だと思います。
4歳になるまで疎開していてバレエなどは知らなかった。
母親の勧めで4歳からバレエを習い始めたが、1年間毎回泣きに泣き通した。
私は覚えが無いのですが、写真を撮ることがきっかけで、お稽古をはじめたようです。
11歳の時に先生だった橘秋子さんの養女になる。(母が私のも父にも相談なく決める)
理解できずにいた。
実のお嬢さんが牧阿佐美さん バレエ学校で寝起きを共にする。
レッスン、日常生活の厳しさにはあさみさんがいたので耐えられた面もある。
2月に小仏峠での滝行もしたが、恐ろしいとか感じなかったし、苦労ではなかった。
料理、栽縫、お茶、お花等やっておいてよかったと思う。
13歳で牧阿佐美バレエ団に入団、主役を舞台で踊って、少女雑誌のグラビアを飾り同じバレエ団にいた森下洋子さんと共に天才少女バレリーナとして子供達の間で憧れの存在だったが、自分ではあんまり思わなかった。
その頃バレエのテクニックが主になっていて、疑問を感じていた。
イギリスの振付師ジャック・カーター氏が日本に来ていて、勧めでイギリスに渡ることになる。
スコティッシュバレエのオーディションがあり、ベリル・グレイに(声を掛けられて、くるみ割り人形のこんぺいとうの精を踊りませんかと言われて、ゲスト出演させてもらって、よかったら入団してくださいというのが縁だった。
ピーター・ダレルの作品と出会えて、人柄にも触れて、これが私が望んでいたものが形になった様な感じです。
彼自身がドラマティックな人で、感情の起伏が激しかった。
彼は身体の動きで感情の表現を出す訳です、それは可能で私に示してくださった。
悲劇でも喜劇でも自分の実際の人生ではないが、演じるという事に感情を同じ様にその中に入れて吐き出すという事で、快感を覚えました。(日本ではそれができなかった)
演劇バレエが好きです、感情が強く出せる様な物が好きです。
役作りで日本では型にはまってしまう傾向があるが、自分が考えて私はこうやってみたいと役作りを考える。
バレエ団のダンサーはあちこちから来ているので、ピーターは細かい気使いがある。
52歳まで舞台で踊っていたが、50歳のちょっと前にバレエを踊るのは辞めると言ったが、自分が自信を持って踊れるものだけでもいいからと言われて、その後も踊ることになった。
怪我とかで辞める人でも人権の問題とかで2年間は辞めさせない様になっている。
10回手術をしている。 半月板損傷とかで手術をして失敗したりして膝が動かなくなって、大きな手術をすることになって、6から9カ月訓練出来ないと医者から言われたが、5ヶ月で戻りました。
バレエは生きることの道だったので。
欧米では劇場に行く事は楽しみであり、誇りでもあり、家族で楽しいものを見に行くという様な、生活の一部に入り込んでいるというのが深い様な気がする。
日本では襟を正して見に来るような気がして私が日本で踊っていた時には緊張します。
「ホフマン物語」 詩人ホフマンが3人の女性に恋をするが、どの恋も成就しないという悲劇。
ファンタジーの世界でもある。
各々3幕で違うストーリーなので、バレエのスタイルも違う、ドラマがある。
主役は同じ人だが各世代の年齢の違いを出さなければいけないので、主役の難しさがある。
年齢を出すことはなかなか難しいと思います。
.日本人は人に従う事を教えられるが、自分がしたいことをしっかり持っていないと、人間としての強さを持っていないと、自分の責任を果たすという事が大事で、演じている人が大人になって大人のバレエだと思うので、喜劇、悲劇で観客を満足させる、それが大人のバレエだと思います。
続けてこられたのはいい人との出会いがあったからだと思います。
71歳 東京生まれ 母親の勧めで4歳からバレイを習い始め、11歳の時に大きな転機が訪れました。
バレエの先生の養女となります。
厳しい訓練に耐え天才少女バレリーナとして注目されるようになりました。
ただ舞台で拍手喝浴びる一方でテクニックが重視されるバレイに疑問を抱いていたと言います。
31歳の時にイギリスに渡り、感情表現を重視するバレエと出会った大原さんは、スコティッシュバレイ団に入り、欧米の各地で活躍しました。
その後スコットランドと日本を行き来しながら、新国立劇場バレエ団の指導をはじめ、去年9月舞踊芸術監督に就任しました。
長く海外で踊った経験からダンサーの精神的な強さとより豊かな感情の表現が必要だと感じる大原さんは、そのために現在はドラマティックな人生をつたえる作品を選び観客を魅了する大人のバレエを見せたいと取り組んでいます。
私は現場が長くて、能力は現場で初めて発揮されるものと思っているので、いろんなこと全て眼を通したりはしようと思っています。
「ホフマン物語」の場合は古い私の過去からの作品なので、装置、衣装等新製作なんでも責任を持って対応しています。(「ホフマン物語」は新国立劇場で今後上演)
一人一人パートによってリハーサルの仕方は違うが、ドラマのあるものは個性を生かさなくてはいけないので、彼らの才能を引き出すだけでなく、自信を持たせることを心掛けて教えているつもりです。
新国立劇場に入団して(1999年の夏から)、10年前から ダンサーが自分で表現したいとか、もっと自立してきたと思う。
日本人は先生に従う事がずーっと血の中に入っているようで、よく聞きますし、自習もよくするので
真面目です。
自分の訓練してきたもの、自分の考えているもの、観客にどれだけのものを与えられるのかという事が大切だと思います。
4歳になるまで疎開していてバレエなどは知らなかった。
母親の勧めで4歳からバレエを習い始めたが、1年間毎回泣きに泣き通した。
私は覚えが無いのですが、写真を撮ることがきっかけで、お稽古をはじめたようです。
11歳の時に先生だった橘秋子さんの養女になる。(母が私のも父にも相談なく決める)
理解できずにいた。
実のお嬢さんが牧阿佐美さん バレエ学校で寝起きを共にする。
レッスン、日常生活の厳しさにはあさみさんがいたので耐えられた面もある。
2月に小仏峠での滝行もしたが、恐ろしいとか感じなかったし、苦労ではなかった。
料理、栽縫、お茶、お花等やっておいてよかったと思う。
13歳で牧阿佐美バレエ団に入団、主役を舞台で踊って、少女雑誌のグラビアを飾り同じバレエ団にいた森下洋子さんと共に天才少女バレリーナとして子供達の間で憧れの存在だったが、自分ではあんまり思わなかった。
その頃バレエのテクニックが主になっていて、疑問を感じていた。
イギリスの振付師ジャック・カーター氏が日本に来ていて、勧めでイギリスに渡ることになる。
スコティッシュバレエのオーディションがあり、ベリル・グレイに(声を掛けられて、くるみ割り人形のこんぺいとうの精を踊りませんかと言われて、ゲスト出演させてもらって、よかったら入団してくださいというのが縁だった。
ピーター・ダレルの作品と出会えて、人柄にも触れて、これが私が望んでいたものが形になった様な感じです。
彼自身がドラマティックな人で、感情の起伏が激しかった。
彼は身体の動きで感情の表現を出す訳です、それは可能で私に示してくださった。
悲劇でも喜劇でも自分の実際の人生ではないが、演じるという事に感情を同じ様にその中に入れて吐き出すという事で、快感を覚えました。(日本ではそれができなかった)
演劇バレエが好きです、感情が強く出せる様な物が好きです。
役作りで日本では型にはまってしまう傾向があるが、自分が考えて私はこうやってみたいと役作りを考える。
バレエ団のダンサーはあちこちから来ているので、ピーターは細かい気使いがある。
52歳まで舞台で踊っていたが、50歳のちょっと前にバレエを踊るのは辞めると言ったが、自分が自信を持って踊れるものだけでもいいからと言われて、その後も踊ることになった。
怪我とかで辞める人でも人権の問題とかで2年間は辞めさせない様になっている。
10回手術をしている。 半月板損傷とかで手術をして失敗したりして膝が動かなくなって、大きな手術をすることになって、6から9カ月訓練出来ないと医者から言われたが、5ヶ月で戻りました。
バレエは生きることの道だったので。
欧米では劇場に行く事は楽しみであり、誇りでもあり、家族で楽しいものを見に行くという様な、生活の一部に入り込んでいるというのが深い様な気がする。
日本では襟を正して見に来るような気がして私が日本で踊っていた時には緊張します。
「ホフマン物語」 詩人ホフマンが3人の女性に恋をするが、どの恋も成就しないという悲劇。
ファンタジーの世界でもある。
各々3幕で違うストーリーなので、バレエのスタイルも違う、ドラマがある。
主役は同じ人だが各世代の年齢の違いを出さなければいけないので、主役の難しさがある。
年齢を出すことはなかなか難しいと思います。
.日本人は人に従う事を教えられるが、自分がしたいことをしっかり持っていないと、人間としての強さを持っていないと、自分の責任を果たすという事が大事で、演じている人が大人になって大人のバレエだと思うので、喜劇、悲劇で観客を満足させる、それが大人のバレエだと思います。
続けてこられたのはいい人との出会いがあったからだと思います。
2015年10月27日火曜日
杉浦銀治(国際炭やき協力会会長) ・炭やきで里山を守る
杉浦銀治(国際炭やき協力会会長) ・炭やきで里山を守る
炭の研究を70間続けてこられた。
大正14年生まれ 昭和15年に当時の宮内省帝室林野局東京林業試験場に入省し、エネルギー資源の炭の研究に力を注いできました。
当時の炭の生産量は220万トン、それが昭和40年には60万トンに減り、平成3年には3万
トンに減少し、炭焼き釜も激減しました。
杉浦さんの研究等で炭を土壌にまくと、米や野菜などの農作物の取れ高が増し、しかも、美味しくなる事も判りました。
その上、里山や川や海にも良い影響を及ぼすようです。
杉浦は木からガソリンを取る研究をしろという事で研究するが、杉、ヒノキ、松は油を持っているのは当たり前だが、広葉樹を触媒を使って軽い油を取ろうという事で、昭和17年からガソリン代用油の研究をしました。
木の灰をタブレットにしてそれを350度に温めておいたところに、炭焼きのガスを通すと軽い油になるのです。
研究途中に召集令状が来て、名古屋の中部の部隊に入って、下関から釜山から天津、南京まで来て、南京から船で安慶で初年兵の教育を受ける。
予備士官学校に入って終戦になってくれて、無事博多に上陸する事が出来た。
元の職場に帰って炭の研究をすることになりました。
今は炭焼き釜はほとんど跡だけになってしまっている。
漆、金属、日本刀でも炭で磨くです。
研磨炭の研究をやる。
最近は畑に入れることで野菜などの味が良くなるなどいろんな分野で、特に一番簡単なのは大豆などは豆類に炭を入れて栽培すると根粒バクテリアは炭があると付きやすいので、凄く美味しく、米まで効果があり、岩手県で5年間冷害が続いた時に、炭を使った田んぼは豊作になってしまった。
味もまた良かった。
果物等にも効果がある。(いちじく、りんご、なしなど、 土壌消毒も兼ねる)
炭を床下、天井に置くと臭いが無くなる。(消臭効果 湿気防止等)
北海道を舞台に色々な研究をしました。
カラマツ 成長が良いので炭にして土壌改良、雪を溶かす、そのあと地の成長が良い。
松露の研究 松露菌を炭が培養する。
まつたけも炭を入れると収穫量も増える。
60歳で定年になり、JICAでケニア等、アフリカに行き炭の事を教えて、そのあとにも民間NPO団体で東南アジアに行って、炭焼きの事を教える。
日本の技術はレベルが高いので、釜の作り方、焼き方等を教える。
白炭は真っ赤にしたものを外に掻きだして、灰で消したもの。(高い温度で焼くので固く締まっている ウナギのかば焼き等)
黒炭は窯の中で消してしまう。(柔らかい、茶道はクヌギでないといけない)
東南アジアにもクヌギなどの植林を勧めました。
炭にでんぷん3%で団子にして乾かして、タドン作りも教えて、一番喜ばれました。
通訳はじめ仲間ができて人生の最高の喜びでもあり感謝しています。
岸本定吉先生が国際炭やき協力会を作ろうという事で、作って現在12名位です。
教えてもらったことも色々あり、韓国では竹の塩を教えて貰いましたが、とても美味しい。
塩を竹筒に入れて、炭釜の中で焼いて、焼くと塩だけが残って外の成分が全部塩の中に移行して、それを9回行い、最後に温度が1000度ぐらいに上げると、紫水晶の様な綺麗な結晶した塩ができるんです。
里山はクヌギを植えて、もう一度自分の山を見直したらいいのではないかと思っている。
林業も考えないといけないと思う。
奥多摩の日の出町で炭焼きをやっている。
移動式の釜を使用して、間伐材は1日で焼いてしまって移動できる。
煙も木作液を取って臭い消し、土壌改良等いろいろな用途があります。
竹藪を炭に作ろうというのが流行っていて、その炭を土壌改良に使うが、うまくいっている。
故郷は愛知県安城市で、段戸山という山があって、そこに三河炭焼き塾を作って200人ぐらいいます。
鍛冶屋 たたらを子供達に教えている、海岸にいって磁石で砂鉄を集めて、炭と混ぜて最後は刀になるが、その研究をしています。
炭に関する博物館を作れたらいいなあと思っています。
炭はこんなに素晴らしいものだという事を実証してきたので、楽しくて嫌ということはなかった。
ウナギの養殖も炭を使って泥臭さを無くしてしまうとか、色々あります。
漆を磨く研磨炭の研究とか、まだ残っている分野がたくさんあり、特に水処理、水田にもっと炭を入れると水が浄化されてご飯がおいしく炊ける。
木を大事にするということは食物を大事にすることにつながる。
炭でご飯がおいしく炊けたり、海苔、ウナギのかば焼きなど、石油と違って炭自体が水を持っていないので、炭の良さを熟知しながら次の発展に向けてもらいたいというのが願いです。
炭の研究を70間続けてこられた。
大正14年生まれ 昭和15年に当時の宮内省帝室林野局東京林業試験場に入省し、エネルギー資源の炭の研究に力を注いできました。
当時の炭の生産量は220万トン、それが昭和40年には60万トンに減り、平成3年には3万
トンに減少し、炭焼き釜も激減しました。
杉浦さんの研究等で炭を土壌にまくと、米や野菜などの農作物の取れ高が増し、しかも、美味しくなる事も判りました。
その上、里山や川や海にも良い影響を及ぼすようです。
杉浦は木からガソリンを取る研究をしろという事で研究するが、杉、ヒノキ、松は油を持っているのは当たり前だが、広葉樹を触媒を使って軽い油を取ろうという事で、昭和17年からガソリン代用油の研究をしました。
木の灰をタブレットにしてそれを350度に温めておいたところに、炭焼きのガスを通すと軽い油になるのです。
研究途中に召集令状が来て、名古屋の中部の部隊に入って、下関から釜山から天津、南京まで来て、南京から船で安慶で初年兵の教育を受ける。
予備士官学校に入って終戦になってくれて、無事博多に上陸する事が出来た。
元の職場に帰って炭の研究をすることになりました。
今は炭焼き釜はほとんど跡だけになってしまっている。
漆、金属、日本刀でも炭で磨くです。
研磨炭の研究をやる。
最近は畑に入れることで野菜などの味が良くなるなどいろんな分野で、特に一番簡単なのは大豆などは豆類に炭を入れて栽培すると根粒バクテリアは炭があると付きやすいので、凄く美味しく、米まで効果があり、岩手県で5年間冷害が続いた時に、炭を使った田んぼは豊作になってしまった。
味もまた良かった。
果物等にも効果がある。(いちじく、りんご、なしなど、 土壌消毒も兼ねる)
炭を床下、天井に置くと臭いが無くなる。(消臭効果 湿気防止等)
北海道を舞台に色々な研究をしました。
カラマツ 成長が良いので炭にして土壌改良、雪を溶かす、そのあと地の成長が良い。
松露の研究 松露菌を炭が培養する。
まつたけも炭を入れると収穫量も増える。
60歳で定年になり、JICAでケニア等、アフリカに行き炭の事を教えて、そのあとにも民間NPO団体で東南アジアに行って、炭焼きの事を教える。
日本の技術はレベルが高いので、釜の作り方、焼き方等を教える。
白炭は真っ赤にしたものを外に掻きだして、灰で消したもの。(高い温度で焼くので固く締まっている ウナギのかば焼き等)
黒炭は窯の中で消してしまう。(柔らかい、茶道はクヌギでないといけない)
東南アジアにもクヌギなどの植林を勧めました。
炭にでんぷん3%で団子にして乾かして、タドン作りも教えて、一番喜ばれました。
通訳はじめ仲間ができて人生の最高の喜びでもあり感謝しています。
岸本定吉先生が国際炭やき協力会を作ろうという事で、作って現在12名位です。
教えてもらったことも色々あり、韓国では竹の塩を教えて貰いましたが、とても美味しい。
塩を竹筒に入れて、炭釜の中で焼いて、焼くと塩だけが残って外の成分が全部塩の中に移行して、それを9回行い、最後に温度が1000度ぐらいに上げると、紫水晶の様な綺麗な結晶した塩ができるんです。
里山はクヌギを植えて、もう一度自分の山を見直したらいいのではないかと思っている。
林業も考えないといけないと思う。
奥多摩の日の出町で炭焼きをやっている。
移動式の釜を使用して、間伐材は1日で焼いてしまって移動できる。
煙も木作液を取って臭い消し、土壌改良等いろいろな用途があります。
竹藪を炭に作ろうというのが流行っていて、その炭を土壌改良に使うが、うまくいっている。
故郷は愛知県安城市で、段戸山という山があって、そこに三河炭焼き塾を作って200人ぐらいいます。
鍛冶屋 たたらを子供達に教えている、海岸にいって磁石で砂鉄を集めて、炭と混ぜて最後は刀になるが、その研究をしています。
炭に関する博物館を作れたらいいなあと思っています。
炭はこんなに素晴らしいものだという事を実証してきたので、楽しくて嫌ということはなかった。
ウナギの養殖も炭を使って泥臭さを無くしてしまうとか、色々あります。
漆を磨く研磨炭の研究とか、まだ残っている分野がたくさんあり、特に水処理、水田にもっと炭を入れると水が浄化されてご飯がおいしく炊ける。
木を大事にするということは食物を大事にすることにつながる。
炭でご飯がおいしく炊けたり、海苔、ウナギのかば焼きなど、石油と違って炭自体が水を持っていないので、炭の良さを熟知しながら次の発展に向けてもらいたいというのが願いです。
2015年10月25日日曜日
三浦康夫(日本おもちゃ病院) ・生きがいは おもちゃドクター
三浦康夫(日本おもちゃ病院 協会長) ・生きがいは おもちゃドクター
千葉県出身 69歳 かつて自動車メーカーのエンジニアとして働いていた経験を生かし、おもちゃの修理をボランティアで引き受けるおもちゃドクターとして、活動しています。
会長を務める日本おもちゃ病院協会には現在およそ1200人の人が登録しており、その活動は全国560か所で展開しています。
日本おもちゃ病院協会はおもちゃの修理をボランティアでやっている全国組織です。
修理の部品実費だけ頂き作業料は無料になっています。
修理の技術的な差が無いように連絡を取り持とうというのが全国組織の始まりです。
高校生から80歳ぐらいの人がいて3%が女性の方です、60歳前半が主になっています。
技術系の出身の方が多いですが、細かい作業が抵抗なくできる人であればよく、資格はないです。
私は東京おもちゃ美術館のおもちゃ病院(かつては小学校だったところ)で活動しています。
おもちゃを直したという達成感、お客さんが有難うと喜んでくれることが嬉しいです。
電気的な不具合、特に電池関係(腐食などを含め)のトラブルが一番多いです。
部品の機能を理解して即席で部品を作ってしまう事もあります。
ベテランのドクターから見習いのドクターへの情報提供とか、情報交換等もやっています。
ホームページを持っているので、会員のページがあり修理の相談、修理方法を解説する様な資料を取り揃えたサイトを持っています。
東京おもちゃ美術館のおもちゃ病院のパンフレットにおもちゃドクター養成講座を見つけて、面白い活動をしている人がいるんだと思い、参加してみたら、直ぐできそうだったので、病院に参加してはまってしまいました。
子供のころからおもちゃの構造に興味があり、分解してしまって父親に怒られたことがよくありました。
自動車メーカーでは部品の設計、作った部品がしっかり持つかどうかの実験もしていました。
おもちゃドクターになってから18年になりますが、修理は1万件近くなるかもしれません。
小さいものはアクセサリーの様なおもちゃ、大きなものは乗用おもちゃ、演奏する大きなおもちゃがあります。
プラスチックが割れた大きめのもの等は接着剤での修理は信頼性が無いので、ステンレスの直径0.3mmぐらいの線を使用して、縫い合わせる様にして使う事によって強度が得られます。
おもちゃの部品を供給する様な会社は無くて、似たような部品を使って修理するようにする時もあります。
思い出のあるオルゴール関係 音がでない、人形などが動かない時に、直してあげることによって、すごく喜んでもらえる、それがまた嬉しい。
最近はおもちゃもハイテク化してきて、我々には手を出せない様な物がありますが、小学校低学年が遊ぶようなおもちゃは基本的にはほとんど変わっていません、
物を大切にしましょう、もったいないが日本人の原点だと思うので、歴史がおもちゃに刻まれるということはいいことではないかと思います。
難しい修理はしっかり考える、考えることが面白い、いいアイディアができて、修理できた時の達成感
は格別です。
ドクター同士の交流も楽しい。
トランジスターをチェックする、スピーカー、マイクロフォンをテストする物はほとんど自作で持っています。
ピニオンギアは抜く事は出来ないので、専用の物をメーカーに作ってもらって会員の方に配布付して修理をしています。
おもちゃドクターは私の全てです、考えて行動し実証する、これが常にできるということは幸せ者だと思います。
千葉県出身 69歳 かつて自動車メーカーのエンジニアとして働いていた経験を生かし、おもちゃの修理をボランティアで引き受けるおもちゃドクターとして、活動しています。
会長を務める日本おもちゃ病院協会には現在およそ1200人の人が登録しており、その活動は全国560か所で展開しています。
日本おもちゃ病院協会はおもちゃの修理をボランティアでやっている全国組織です。
修理の部品実費だけ頂き作業料は無料になっています。
修理の技術的な差が無いように連絡を取り持とうというのが全国組織の始まりです。
高校生から80歳ぐらいの人がいて3%が女性の方です、60歳前半が主になっています。
技術系の出身の方が多いですが、細かい作業が抵抗なくできる人であればよく、資格はないです。
私は東京おもちゃ美術館のおもちゃ病院(かつては小学校だったところ)で活動しています。
おもちゃを直したという達成感、お客さんが有難うと喜んでくれることが嬉しいです。
電気的な不具合、特に電池関係(腐食などを含め)のトラブルが一番多いです。
部品の機能を理解して即席で部品を作ってしまう事もあります。
ベテランのドクターから見習いのドクターへの情報提供とか、情報交換等もやっています。
ホームページを持っているので、会員のページがあり修理の相談、修理方法を解説する様な資料を取り揃えたサイトを持っています。
東京おもちゃ美術館のおもちゃ病院のパンフレットにおもちゃドクター養成講座を見つけて、面白い活動をしている人がいるんだと思い、参加してみたら、直ぐできそうだったので、病院に参加してはまってしまいました。
子供のころからおもちゃの構造に興味があり、分解してしまって父親に怒られたことがよくありました。
自動車メーカーでは部品の設計、作った部品がしっかり持つかどうかの実験もしていました。
おもちゃドクターになってから18年になりますが、修理は1万件近くなるかもしれません。
小さいものはアクセサリーの様なおもちゃ、大きなものは乗用おもちゃ、演奏する大きなおもちゃがあります。
プラスチックが割れた大きめのもの等は接着剤での修理は信頼性が無いので、ステンレスの直径0.3mmぐらいの線を使用して、縫い合わせる様にして使う事によって強度が得られます。
おもちゃの部品を供給する様な会社は無くて、似たような部品を使って修理するようにする時もあります。
思い出のあるオルゴール関係 音がでない、人形などが動かない時に、直してあげることによって、すごく喜んでもらえる、それがまた嬉しい。
最近はおもちゃもハイテク化してきて、我々には手を出せない様な物がありますが、小学校低学年が遊ぶようなおもちゃは基本的にはほとんど変わっていません、
物を大切にしましょう、もったいないが日本人の原点だと思うので、歴史がおもちゃに刻まれるということはいいことではないかと思います。
難しい修理はしっかり考える、考えることが面白い、いいアイディアができて、修理できた時の達成感
は格別です。
ドクター同士の交流も楽しい。
トランジスターをチェックする、スピーカー、マイクロフォンをテストする物はほとんど自作で持っています。
ピニオンギアは抜く事は出来ないので、専用の物をメーカーに作ってもらって会員の方に配布付して修理をしています。
おもちゃドクターは私の全てです、考えて行動し実証する、これが常にできるということは幸せ者だと思います。
2015年10月24日土曜日
石浦外喜義(高等学校校長) ・地方で育む強さ
石浦外喜義(鳥取城北高等学校校長 兼 相撲部総監督) ・地方で育む強さ
1961年石川県生まれ 高校で相撲部に入部してから相撲人生は始まりました。
大学卒業後 1986年に鳥取城北高等学校に体育教師として着任、現在は校長、相撲部総監督として、嘘のない稽古をモットーに一人一人の生徒に真正面から向き合い、指導してきました。
これまで高校総体、国体など全国大会で優勝者を多数輩出し、教え子の中には今角界をもりあげている照ノ富士、逸ノ城等がいます。
昨日10月23日は鳥取県にとって45年ぶりの大相撲地方巡業、倉吉場所も開催され教え子たちは故郷に錦を飾りました。
優勝争いをしていた照の富士がひざを痛め、全治一カ月と診断されても出場を決めた日です。
琴光喜はうちの卒業生です。
両親は気が弱いので何とか育ててほしいとの願いがあったようです。
私が厳しいことを知っていて、当人は来たくなかったようで、来ても私と話をしませんでした。
全国大会でいきなり3位になったりしました。
国体ではことごとく負け、先輩たちが勝ってベスト4に入りました。
その時初めて先生私を強くしてくださいといいました。
そこから練習が全然変わりました。
2年生になって全国大会で1位になります。
琴光喜は純粋ですなおな子です。
琴光喜は股割は身体が固くてできなかったが、これをやらないと強くならないと言われると、人一倍頑張ってやるようにしてきました。
逸ノ城は遊牧民で育った人です。
気が優しい、照ノ富士とは性格が全然違う。
照ノ富士は日本語を話すのが早かった、日本語を覚えないと先生はプロに入れることをしないと言ったら、頑張った。
性格に応じてこの子らをどうやって行こうか、かんがえる。
真面目は駄目、それ以上にやらない、結果が出ない、判るまでやる様にする。
16名の生徒がいるが、それぞれ全部違う。
自分の殻をパカンと割ってやりたい、そうすると変化が出てくる。
不登校、引きこもり 3年間しか私たちは見ることができないので、来たら厳しいと親には云います。
3年間で立ち直って、頑張れるようなシステムを作ってやろうと、言う事で今年は引きこもりだろうがこいと言って、やろうとしています。
下手でも、失敗してもいい、一生懸命生徒と向き合ってやる、その子供の気持ちを考えてやる、そうするとかならず子供に通じます。
やればできる、本当に自分が一生懸命やった時に、感じた時は勝ちなんです、でもそこに行くまでが大変なんです。
逸ノ城 肥ってしまったのでダイエットをしなさいと周りから言われたと言ったが、報道陣にはご飯一杯、ダイエットですからというが、お腹がすくのであれ買ってこい、これ買ってこいと言って食べて肥ってしまっていた。
ちゃんことご飯は何杯食べてもいい、稽古をすればお腹がすくはず、弟子に買ってこいと言って食べたりせず、夜食も止めろと言ったら、約束します、と言っていた。
しこもなかなか踏めない、気力が無い。
50回やれと言うと25回で辞めてしまうが照ノ富士は違う、100回やれというと200回やる。
家庭でもそうですが、食事を皆で一緒にやることは大事なことです、稽古以外の事も大事です。
コミュニケーションは家族でも、大事です、相撲部は携帯を持っていません。
社会の管理職の人からの悩み、欲が無い人が多いという。
競争してゆく中でいろんな意味で成長してゆくわけなので、そこで頑張ったり、いろんな人との出会いがあったり、縁があるので、素晴らしい。
諦めたりすることは一番さびしい事です。
本気になってしまえば子供は凄い。
1961年石川県生まれ 高校で相撲部に入部してから相撲人生は始まりました。
大学卒業後 1986年に鳥取城北高等学校に体育教師として着任、現在は校長、相撲部総監督として、嘘のない稽古をモットーに一人一人の生徒に真正面から向き合い、指導してきました。
これまで高校総体、国体など全国大会で優勝者を多数輩出し、教え子の中には今角界をもりあげている照ノ富士、逸ノ城等がいます。
昨日10月23日は鳥取県にとって45年ぶりの大相撲地方巡業、倉吉場所も開催され教え子たちは故郷に錦を飾りました。
優勝争いをしていた照の富士がひざを痛め、全治一カ月と診断されても出場を決めた日です。
琴光喜はうちの卒業生です。
両親は気が弱いので何とか育ててほしいとの願いがあったようです。
私が厳しいことを知っていて、当人は来たくなかったようで、来ても私と話をしませんでした。
全国大会でいきなり3位になったりしました。
国体ではことごとく負け、先輩たちが勝ってベスト4に入りました。
その時初めて先生私を強くしてくださいといいました。
そこから練習が全然変わりました。
2年生になって全国大会で1位になります。
琴光喜は純粋ですなおな子です。
琴光喜は股割は身体が固くてできなかったが、これをやらないと強くならないと言われると、人一倍頑張ってやるようにしてきました。
逸ノ城は遊牧民で育った人です。
気が優しい、照ノ富士とは性格が全然違う。
照ノ富士は日本語を話すのが早かった、日本語を覚えないと先生はプロに入れることをしないと言ったら、頑張った。
性格に応じてこの子らをどうやって行こうか、かんがえる。
真面目は駄目、それ以上にやらない、結果が出ない、判るまでやる様にする。
16名の生徒がいるが、それぞれ全部違う。
自分の殻をパカンと割ってやりたい、そうすると変化が出てくる。
不登校、引きこもり 3年間しか私たちは見ることができないので、来たら厳しいと親には云います。
3年間で立ち直って、頑張れるようなシステムを作ってやろうと、言う事で今年は引きこもりだろうがこいと言って、やろうとしています。
下手でも、失敗してもいい、一生懸命生徒と向き合ってやる、その子供の気持ちを考えてやる、そうするとかならず子供に通じます。
やればできる、本当に自分が一生懸命やった時に、感じた時は勝ちなんです、でもそこに行くまでが大変なんです。
逸ノ城 肥ってしまったのでダイエットをしなさいと周りから言われたと言ったが、報道陣にはご飯一杯、ダイエットですからというが、お腹がすくのであれ買ってこい、これ買ってこいと言って食べて肥ってしまっていた。
ちゃんことご飯は何杯食べてもいい、稽古をすればお腹がすくはず、弟子に買ってこいと言って食べたりせず、夜食も止めろと言ったら、約束します、と言っていた。
しこもなかなか踏めない、気力が無い。
50回やれと言うと25回で辞めてしまうが照ノ富士は違う、100回やれというと200回やる。
家庭でもそうですが、食事を皆で一緒にやることは大事なことです、稽古以外の事も大事です。
コミュニケーションは家族でも、大事です、相撲部は携帯を持っていません。
社会の管理職の人からの悩み、欲が無い人が多いという。
競争してゆく中でいろんな意味で成長してゆくわけなので、そこで頑張ったり、いろんな人との出会いがあったり、縁があるので、素晴らしい。
諦めたりすることは一番さびしい事です。
本気になってしまえば子供は凄い。
2015年10月23日金曜日
沢井一恵(箏曲家) ・伝統の箏曲で世界の音楽と共演
沢井一恵(箏曲家) ・伝統の箏曲で世界の音楽と共演
日本の伝統楽器琴の第一人者である沢井さんはこの度永年の活動が認められて、民間の邦楽の音楽賞を受賞されました。
沢井さんは8歳の時に宮城 道雄に師事し、その後東京芸術大学の音楽部を卒業されました。
1979年には新進の筝曲家沢井忠雄さんと結婚、沢井箏曲員院を設立して国の内外出多くの後進を育てています。
ご自身も琴の研さんに励み、伝統の演奏分野だけでなく、クラシック音楽、現代音楽とも共演して活動の幅を広げて来ました。
アメリカ、ロシアの作曲家にも作曲を依頼し、日本伝統の琴の音楽を世界的に広げる役割も果たしています。
いろんな楽器との共演をやっています。
日本の琴は350年前から始まったと言われている。
古典だけを深めてゆく人達は沢山いますが、自分としてはもっと表現できる物があるのではないかと思い始めました。
民間の東燃ゼネラル音楽賞を受賞する。
明治時代女の人は琴を弾いて、女子のたしなみをする習慣がありまして、母がちょうどそういう時代で母が琴を弾いていまして、琴が一面有りまして、琴を始める事にしました。
家から1分のところに宮城先生が出張稽古に来ていまして、8歳の時に宮城先生に習う事になりました。
大人には厳しかったが、子供には優しかった。
最初直接は若先生に教わって、そのあと宮城先生に習いましたが、高校1年の時に宮城先生は亡くなりました。
琴はあまり好きではなかったが、父から辞めることはならぬと言われて、母が宮城先生に相談行ったら、この子は何かがあるから続けさせなさいという事になったんですが、、青山学院の中学高校と行っていたが、国立大学に行きたくて、東京芸術大学に進学する。
学生の90%は洋楽を専攻する人達でした。
同じ土壌でやれたらいいなあと思っていました。
琴の可能性、音楽の幅が広がらないとそうはなれないだろうなあと、卒業するころはそう思っていました。
3年先輩の沢井忠雄さんとの出会いがありました。
当時学年の壁は凄くきつくて、4年生に口を聞くということはほとんどあり得ないことでした。
各流派に家元があり、演奏してそういう社会で立派に生きていけるわけですが、沢井は一般家庭の出なので、琴で生きていけるかわからない状態でした。
卒業後、沢井箏曲院を設立、若い人たちが集まってきて、組織を作るしか仕方なかったという様な感じでした。(家元制度ががっちり有った)
家庭をもってから夫は古典から新しいものを始める時期にもなって、夫もハンサムでしたので結婚していることも隠した方がいいとも言われて、私は琴は止めました。
1回でいいからリサイタルをさせてほしいと言って、一回やってみたら次々にやりたいことが出てきた。(初リサイタルは昭和54年 39歳の時)
文化庁芸術祭優秀賞を初リサイタルでいきなり受賞。
これがきっかけでこういう事をしたら琴の可能性が有るのではないかと思って、自分のリサイタルで始めました。
作曲家の武満徹さんが組織してパリでフェスティバルが毎年あって、そこに連れて行ってもらったりして、石井眞木さんに曲を書いてもらう様に依頼し吉原すみれさん(打楽器)と共にやろうと言う事になり、それからいろんな楽器の人とやったり作曲してもらったりしました。
これ以上開拓してゆくには外国の音楽家の力を貰わないといけないと思って、出会った外国の作曲家に曲を書いてもらったりしました。
琴の楽器を知らないほうが可能性が出るのではないかと思いました。
琴を見たことも聞いた事もない作曲家から楽譜が来たが、素晴らしい曲だった。
ジョン・ケージ アメリカの有名な現代音楽作曲家
1930年に書かれたピアノ2台のための、ピアノの弦に物を挟んだ(ピアノの音ではない様にする)プリペアド・ピアノの未来のための曲というのを聞いて物凄い衝撃を受けました。
これは琴にも応用できるのではないかと思って、楽譜を下さいと楽譜を貰って四苦八苦してやりました。
ジョン・ケージは琴は嫌いだと言っていたが、プロデューサーがなんとか取り持ってくれて、一番前に座って私のリサイタルを聞いてくれて、それで楽譜をくれました。
ジョン・ケージは私の名前を入れて詩を書いてくれて、「今まで西と東別々だったものが、今日ジッパーで一つにつながった。 今日私たちは零の地点二人は立って、これから色々新しくやっていこう」みたい詩を書いてくださった。
ソフィア・グバイドゥーリナ ジョン・ケージの後世界一だそうですが、日本に来た時に彼女の休日に、沢井さんのところにでも行って琴でも聞いてもらう様にという事で来まして琴を聞いてもらったら、演奏が終わるなり、楽器に近寄ってきて、反対側から弾きはじめるわけですが、素晴らしい音だった。
こんな楽器は私知らなかった、なんでこんないい楽器があったのと、楽器から離れなかった。
一面上げますと言ったら、持って帰った。
曲を書いてくださいと言ったら書きますと言って帰って行って、楽譜が突然送られてきた。
7重奏の曲で赤坂草月ホールのロビーで(イサム・ノグチ設計)やりたいと思ってそこで発表コンサートをしました。
パリでソフィア・グバイドゥーリナと即興をレコーディングする話があり、そのときに曲を書いたら弾いてくれるかと言われていたが、5年後、N響が依頼したら琴のコンチェルトが出来てきて「樹影にて」ができてきた。
コップで擦れ、弓で弦を弾く、そういう音楽を書いていただいて、それが私には凄く面白かった。
ソフィア・グバイドゥーリナが4日私の家に泊って、歯磨き用のコップを渡したら、或る朝そのコップを使って弾いた事から始まってコンチェルトになった。
私がやってきたことは進化したとは思っていなくて、伝統を壊しているということは自覚しています。
ソフィア・グバイドゥーリナによって地の果てまで連れて行ってもらえたような感覚があります。
日本の伝統楽器琴の第一人者である沢井さんはこの度永年の活動が認められて、民間の邦楽の音楽賞を受賞されました。
沢井さんは8歳の時に宮城 道雄に師事し、その後東京芸術大学の音楽部を卒業されました。
1979年には新進の筝曲家沢井忠雄さんと結婚、沢井箏曲員院を設立して国の内外出多くの後進を育てています。
ご自身も琴の研さんに励み、伝統の演奏分野だけでなく、クラシック音楽、現代音楽とも共演して活動の幅を広げて来ました。
アメリカ、ロシアの作曲家にも作曲を依頼し、日本伝統の琴の音楽を世界的に広げる役割も果たしています。
いろんな楽器との共演をやっています。
日本の琴は350年前から始まったと言われている。
古典だけを深めてゆく人達は沢山いますが、自分としてはもっと表現できる物があるのではないかと思い始めました。
民間の東燃ゼネラル音楽賞を受賞する。
明治時代女の人は琴を弾いて、女子のたしなみをする習慣がありまして、母がちょうどそういう時代で母が琴を弾いていまして、琴が一面有りまして、琴を始める事にしました。
家から1分のところに宮城先生が出張稽古に来ていまして、8歳の時に宮城先生に習う事になりました。
大人には厳しかったが、子供には優しかった。
最初直接は若先生に教わって、そのあと宮城先生に習いましたが、高校1年の時に宮城先生は亡くなりました。
琴はあまり好きではなかったが、父から辞めることはならぬと言われて、母が宮城先生に相談行ったら、この子は何かがあるから続けさせなさいという事になったんですが、、青山学院の中学高校と行っていたが、国立大学に行きたくて、東京芸術大学に進学する。
学生の90%は洋楽を専攻する人達でした。
同じ土壌でやれたらいいなあと思っていました。
琴の可能性、音楽の幅が広がらないとそうはなれないだろうなあと、卒業するころはそう思っていました。
3年先輩の沢井忠雄さんとの出会いがありました。
当時学年の壁は凄くきつくて、4年生に口を聞くということはほとんどあり得ないことでした。
各流派に家元があり、演奏してそういう社会で立派に生きていけるわけですが、沢井は一般家庭の出なので、琴で生きていけるかわからない状態でした。
卒業後、沢井箏曲院を設立、若い人たちが集まってきて、組織を作るしか仕方なかったという様な感じでした。(家元制度ががっちり有った)
家庭をもってから夫は古典から新しいものを始める時期にもなって、夫もハンサムでしたので結婚していることも隠した方がいいとも言われて、私は琴は止めました。
1回でいいからリサイタルをさせてほしいと言って、一回やってみたら次々にやりたいことが出てきた。(初リサイタルは昭和54年 39歳の時)
文化庁芸術祭優秀賞を初リサイタルでいきなり受賞。
これがきっかけでこういう事をしたら琴の可能性が有るのではないかと思って、自分のリサイタルで始めました。
作曲家の武満徹さんが組織してパリでフェスティバルが毎年あって、そこに連れて行ってもらったりして、石井眞木さんに曲を書いてもらう様に依頼し吉原すみれさん(打楽器)と共にやろうと言う事になり、それからいろんな楽器の人とやったり作曲してもらったりしました。
これ以上開拓してゆくには外国の音楽家の力を貰わないといけないと思って、出会った外国の作曲家に曲を書いてもらったりしました。
琴の楽器を知らないほうが可能性が出るのではないかと思いました。
琴を見たことも聞いた事もない作曲家から楽譜が来たが、素晴らしい曲だった。
ジョン・ケージ アメリカの有名な現代音楽作曲家
1930年に書かれたピアノ2台のための、ピアノの弦に物を挟んだ(ピアノの音ではない様にする)プリペアド・ピアノの未来のための曲というのを聞いて物凄い衝撃を受けました。
これは琴にも応用できるのではないかと思って、楽譜を下さいと楽譜を貰って四苦八苦してやりました。
ジョン・ケージは琴は嫌いだと言っていたが、プロデューサーがなんとか取り持ってくれて、一番前に座って私のリサイタルを聞いてくれて、それで楽譜をくれました。
ジョン・ケージは私の名前を入れて詩を書いてくれて、「今まで西と東別々だったものが、今日ジッパーで一つにつながった。 今日私たちは零の地点二人は立って、これから色々新しくやっていこう」みたい詩を書いてくださった。
ソフィア・グバイドゥーリナ ジョン・ケージの後世界一だそうですが、日本に来た時に彼女の休日に、沢井さんのところにでも行って琴でも聞いてもらう様にという事で来まして琴を聞いてもらったら、演奏が終わるなり、楽器に近寄ってきて、反対側から弾きはじめるわけですが、素晴らしい音だった。
こんな楽器は私知らなかった、なんでこんないい楽器があったのと、楽器から離れなかった。
一面上げますと言ったら、持って帰った。
曲を書いてくださいと言ったら書きますと言って帰って行って、楽譜が突然送られてきた。
7重奏の曲で赤坂草月ホールのロビーで(イサム・ノグチ設計)やりたいと思ってそこで発表コンサートをしました。
パリでソフィア・グバイドゥーリナと即興をレコーディングする話があり、そのときに曲を書いたら弾いてくれるかと言われていたが、5年後、N響が依頼したら琴のコンチェルトが出来てきて「樹影にて」ができてきた。
コップで擦れ、弓で弦を弾く、そういう音楽を書いていただいて、それが私には凄く面白かった。
ソフィア・グバイドゥーリナが4日私の家に泊って、歯磨き用のコップを渡したら、或る朝そのコップを使って弾いた事から始まってコンチェルトになった。
私がやってきたことは進化したとは思っていなくて、伝統を壊しているということは自覚しています。
ソフィア・グバイドゥーリナによって地の果てまで連れて行ってもらえたような感覚があります。
2015年10月22日木曜日
上山良子(長岡造形大学 前学長) ・美しき庭園の島・日本
上山良子(長岡造形大学 前学長) ・美しき庭園の島・日本
75歳 ランドスケープアーキテクチャー 、ランドスケープデザインという言葉 共に公園や建物、街づくりの際には風景や土地であるランドスケープを人のために最適にデザインする事が必要だと言う考え方です。
アメリカのカリフォルニア大学で建築と街作りとの関係、ランドスケープデザインを学ばれた上山さんはかつての美しい日本を取り戻したいと、昭和57年に帰国され、新潟の長岡平和の森公園、東京三田の芝薩摩の道、長崎水辺の森公園等を手掛けられ、世界的に評価されているランドスケープデザイナーです。
インテリアデザイナーになりたかったが親が反対して、上智大学に英語を勉強に行き、3年の時にル・コルビュジエの展覧会があって、見て全てで素晴らしく、それから急に猛勉強を始めました。
ドイツのウルグ造形大学があり、ドイツに行こうと決めました。
工業デザイナーの清水千之助先生のところに行き個人教授をお願いした。
大都市の中にハイウエイとハイウエイと道がぶつかるときに、どういう形に道をつないでいったらいいかという様な大きなスケールから小さなスケールまで、デザインの眼を広げてくださった。(50年以上前)
ドイツに行こうとした時に父が末期がんで、父がいる間には日本を離れるなという事で、千葉大の研究室に入ったがちょっと違っていて、ジャパンタイムスを買ったら、スカンジナビア航空が5年ぶりにスチュワーデスの募集があり、ストックホルムで研修が2カ月あるという所に眼が止まり、そのことだけで応募する事にし、受かってしまった。
世界をみてからデザイナーになるのもいいと、言われた。
飛行機に乗って感じたことは、大自然の素晴らしさもあるが、人の作った町や村を見て、どういう職業がこういうものを作っているのだろうと思っていたが、ランドスケープアーキテクチャー の職域があることがずーっと後に判る。
ローマなどを見て、東京の羽田に戻るとなんでこんなに汚くなってしまったんだろうと、150年前はイギリスの人から素晴らしい庭園島と言われていたのに、と思いました。
ここにデザインの分野があってしかるべきだと漠然と思っていました。
スペインのロンダという小さな町に一人で旅に出掛けたが、或る宣教師から絵が好きなら、絵筆、パン、ギターをあげますから私の助手になってほしいと言われたが、まずは日本に帰ってから出直そうと思った。
日本に帰った途端に、インテリアデザイナーの話があった(大阪万博 昭和45年)
NTTの建築局に雇われる。
インテリアデザイナーをやってゆくが、小さなスケールでもっと大きなスケールの物をやりたいと思っていたら、京都の庭園を勉強しに来ている人がランドスケープアーキテクチャーだという事で、土地の資源をきちっと捉えてそこに必要な場所を作ってゆく、人のため、社会のために作ってゆくという事で、これは私がずーっと思っていた職域ではないかと思った。
バークレーがいいからとにかく行きなさいと言われて、全部なげうって勉強しなおそうと思いました。(30代中盤だった)
これは素晴らしい学問だと思った。(森林学、植物、地質等の学問が必要)
1年分のお金しかなかったので、1年目でAが取れないと駄目なので、本当に一生懸命勉強しまして、Aが取れました。
2年目にローレンス・ハルプリンというランドスケープアーキテクチャー業界では世界で1、2の方の1週間の特別講義があり、ワークショップと言う言葉を世の中に出した方で、彼は場を造る時にそこに住んでいる意見とかをきちっと捉えて、いい場所を作っていくんだという考え方で、特別講義に参加しました。
自然の中で自分はどう反応してゆくか、大地を読み解く感覚を訓練してゆく、それが素晴らしかった。
貴方の死の場所を探しなさい、貴方の生の場所を探しなさいと二つのテーマを言われて、これって本当にランドスケープアーキテクチャーの真髄ではないかとふっと思った。
これは私が求めていた分野なんだと思って、先生にお会いしたことが私にとって目指すことが明確になりました。
宇宙との関係性でその場所を解いてゆく、或る一点は世界の中でここしかない、そういう事を頭において、誰かがそこに座った時に宇宙の中で自分自身がこんなちっぽけな存在なんだという事を思わせるような場作りをしたいと、そこからスタートしています。
公園を造るのにも重要な基軸が必要、宇宙との関係性、一つのコンセプトとして場作りに生かしていかなければいけないなあと思う様になりました。
土地の記憶(歴史)、人の営みを含めて持っている記憶を捉えてデザイナーとして次のページ(層)を作っていかなければいけない。
上から眺めた時に、ランドアート 大地の芸術でなくてはいけない。
生命に学ぶ持続的な場所作りでなくてはいけない。
それは日本ではそういう思想があって、だから綺麗な素晴らしい風景が継承されてきたが、どこかの部分で忘れられてきた様に思う。
風景、建物、場所が融合していた、素材、色を一緒にするとか統一感とか、文脈的に場を造るDNAがきちっとあった。
高度成長期が悪かったと思います。
1980年 アメリカから帰った時に郊外の風景があまりに酷かった。
ランドスケープアーキテクチャーのやるべきことはいっぱいあると思ったが、それは大きな間違いだった。
個人の実力で何でも仕事が与えられる様な社会ではない。
日本でスタートし、建設省に手紙を書いたが、駄目で仕事が与えられず、講義をしたりしてランドスケープアーキテクチャーは何かという様な事から始めました。
フィンランドで公園のコンペティションがあり、私が選ばれ日本から1チーム、アメリカ、ヨーロッパから各1チーム参加して特別賞をいただいた。
フィンランドの環境教育の教科書を頂いたが、風景と自分の家との関係性を小学校から教える。
こんな山をカットしてはいけないとか、基礎的なことを教える。
おかしいと思った時に吸いあげるシステムが無いといけない。
サンフランシスコで小さな野外劇場を作るにも、専門家、市民があつまる委員会があって、議論して市民の声が行政につたわってゆく。
スイスでは小屋一つ建てるのにも、周りの人に聞いて行う。
100年、200年先を目指しながら、一つ一つの場所に対してそこにしかない、文脈的に解いてゆく、新しい21世紀の庭園島 作法をとらえて作っていかなくてはいけないと思う。
ポイント、ポイントとしては有っても、総合的に自然でないと庭園島とは言えないと思う。
先人たちが知恵を絞って残してきたものは、きちっと残していかなければいけないと思います。
長岡造形大学で、これは面白いとその子に思わせると、とことん勉強しますし、面白い伸び代がある。
①自分のやりたいことはとことんにやれ、②自分は人のために何ができるか常に考えなさい、とこの二つを常に言って来ました。
75歳 ランドスケープアーキテクチャー 、ランドスケープデザインという言葉 共に公園や建物、街づくりの際には風景や土地であるランドスケープを人のために最適にデザインする事が必要だと言う考え方です。
アメリカのカリフォルニア大学で建築と街作りとの関係、ランドスケープデザインを学ばれた上山さんはかつての美しい日本を取り戻したいと、昭和57年に帰国され、新潟の長岡平和の森公園、東京三田の芝薩摩の道、長崎水辺の森公園等を手掛けられ、世界的に評価されているランドスケープデザイナーです。
インテリアデザイナーになりたかったが親が反対して、上智大学に英語を勉強に行き、3年の時にル・コルビュジエの展覧会があって、見て全てで素晴らしく、それから急に猛勉強を始めました。
ドイツのウルグ造形大学があり、ドイツに行こうと決めました。
工業デザイナーの清水千之助先生のところに行き個人教授をお願いした。
大都市の中にハイウエイとハイウエイと道がぶつかるときに、どういう形に道をつないでいったらいいかという様な大きなスケールから小さなスケールまで、デザインの眼を広げてくださった。(50年以上前)
ドイツに行こうとした時に父が末期がんで、父がいる間には日本を離れるなという事で、千葉大の研究室に入ったがちょっと違っていて、ジャパンタイムスを買ったら、スカンジナビア航空が5年ぶりにスチュワーデスの募集があり、ストックホルムで研修が2カ月あるという所に眼が止まり、そのことだけで応募する事にし、受かってしまった。
世界をみてからデザイナーになるのもいいと、言われた。
飛行機に乗って感じたことは、大自然の素晴らしさもあるが、人の作った町や村を見て、どういう職業がこういうものを作っているのだろうと思っていたが、ランドスケープアーキテクチャー の職域があることがずーっと後に判る。
ローマなどを見て、東京の羽田に戻るとなんでこんなに汚くなってしまったんだろうと、150年前はイギリスの人から素晴らしい庭園島と言われていたのに、と思いました。
ここにデザインの分野があってしかるべきだと漠然と思っていました。
スペインのロンダという小さな町に一人で旅に出掛けたが、或る宣教師から絵が好きなら、絵筆、パン、ギターをあげますから私の助手になってほしいと言われたが、まずは日本に帰ってから出直そうと思った。
日本に帰った途端に、インテリアデザイナーの話があった(大阪万博 昭和45年)
NTTの建築局に雇われる。
インテリアデザイナーをやってゆくが、小さなスケールでもっと大きなスケールの物をやりたいと思っていたら、京都の庭園を勉強しに来ている人がランドスケープアーキテクチャーだという事で、土地の資源をきちっと捉えてそこに必要な場所を作ってゆく、人のため、社会のために作ってゆくという事で、これは私がずーっと思っていた職域ではないかと思った。
バークレーがいいからとにかく行きなさいと言われて、全部なげうって勉強しなおそうと思いました。(30代中盤だった)
これは素晴らしい学問だと思った。(森林学、植物、地質等の学問が必要)
1年分のお金しかなかったので、1年目でAが取れないと駄目なので、本当に一生懸命勉強しまして、Aが取れました。
2年目にローレンス・ハルプリンというランドスケープアーキテクチャー業界では世界で1、2の方の1週間の特別講義があり、ワークショップと言う言葉を世の中に出した方で、彼は場を造る時にそこに住んでいる意見とかをきちっと捉えて、いい場所を作っていくんだという考え方で、特別講義に参加しました。
自然の中で自分はどう反応してゆくか、大地を読み解く感覚を訓練してゆく、それが素晴らしかった。
貴方の死の場所を探しなさい、貴方の生の場所を探しなさいと二つのテーマを言われて、これって本当にランドスケープアーキテクチャーの真髄ではないかとふっと思った。
これは私が求めていた分野なんだと思って、先生にお会いしたことが私にとって目指すことが明確になりました。
宇宙との関係性でその場所を解いてゆく、或る一点は世界の中でここしかない、そういう事を頭において、誰かがそこに座った時に宇宙の中で自分自身がこんなちっぽけな存在なんだという事を思わせるような場作りをしたいと、そこからスタートしています。
公園を造るのにも重要な基軸が必要、宇宙との関係性、一つのコンセプトとして場作りに生かしていかなければいけないなあと思う様になりました。
土地の記憶(歴史)、人の営みを含めて持っている記憶を捉えてデザイナーとして次のページ(層)を作っていかなければいけない。
上から眺めた時に、ランドアート 大地の芸術でなくてはいけない。
生命に学ぶ持続的な場所作りでなくてはいけない。
それは日本ではそういう思想があって、だから綺麗な素晴らしい風景が継承されてきたが、どこかの部分で忘れられてきた様に思う。
風景、建物、場所が融合していた、素材、色を一緒にするとか統一感とか、文脈的に場を造るDNAがきちっとあった。
高度成長期が悪かったと思います。
1980年 アメリカから帰った時に郊外の風景があまりに酷かった。
ランドスケープアーキテクチャーのやるべきことはいっぱいあると思ったが、それは大きな間違いだった。
個人の実力で何でも仕事が与えられる様な社会ではない。
日本でスタートし、建設省に手紙を書いたが、駄目で仕事が与えられず、講義をしたりしてランドスケープアーキテクチャーは何かという様な事から始めました。
フィンランドで公園のコンペティションがあり、私が選ばれ日本から1チーム、アメリカ、ヨーロッパから各1チーム参加して特別賞をいただいた。
フィンランドの環境教育の教科書を頂いたが、風景と自分の家との関係性を小学校から教える。
こんな山をカットしてはいけないとか、基礎的なことを教える。
おかしいと思った時に吸いあげるシステムが無いといけない。
サンフランシスコで小さな野外劇場を作るにも、専門家、市民があつまる委員会があって、議論して市民の声が行政につたわってゆく。
スイスでは小屋一つ建てるのにも、周りの人に聞いて行う。
100年、200年先を目指しながら、一つ一つの場所に対してそこにしかない、文脈的に解いてゆく、新しい21世紀の庭園島 作法をとらえて作っていかなくてはいけないと思う。
ポイント、ポイントとしては有っても、総合的に自然でないと庭園島とは言えないと思う。
先人たちが知恵を絞って残してきたものは、きちっと残していかなければいけないと思います。
長岡造形大学で、これは面白いとその子に思わせると、とことん勉強しますし、面白い伸び代がある。
①自分のやりたいことはとことんにやれ、②自分は人のために何ができるか常に考えなさい、とこの二つを常に言って来ました。
2015年10月21日水曜日
柴山抱海(書家) ・ふるさとに書をのこす
柴山抱海(書家) ・ふるさとに書をのこす
74歳 大きな紙に一文字や少数の文字で作品を作り上げる書のグループ独立書人グループで活躍しています。
30代の頃日本ばかりでなく、ホノルル、パリ、デュッセルドルフ等世界を回って展覧会を開き、1986年には中国の北京でも展覧会を開くなど、世界に書を発表してきました。
今柴山さんは、「咳をしても一人」、「こんな良い月を一人で見て寝る」、などで知られる鳥取県出身の俳人尾崎放哉の生誕130年を記念して尾崎放哉の句 100を選んで全国のトップクラスの書家に書いてもらいそれを石碑にするという催しを行っています。
すでに先行して10月3日に4基の石碑の除幕式をしました。
これから順次石碑を作り披露してゆく予定だそうです。
昭和16年鳥取県とまり村に生まれ、東洋大学文学部国文科に入学、大学時代に現代書の巨匠、手島右卿に師事、卒業後鳥取に戻り、県立鳥取東高校の教諭として国語と書道を指導、現在は退職し、鳥取市青谷の弥勒寺の住職をしています。
朝は6時ぐらいに朝のお勤めをしています、そのあとに書道をします。
師匠が一字を書く事の中で作品的効果を表そうと言う考え方がありまして、凝縮する要素があり、近代的な表現の一つだと思います。
外国の場合は何らかの縁があって展覧会をしようという事になり、書というものが美術の位置付けとして、美術として成りたたせたいと師匠も思っていて、私たちもそのような方向で進んできました。
外国でも気持ちの流れ、運動性等は受けとめてくれ、文字が判らないからアートにならないとはないと思います。
現代の日本人が何を考えているかという事を、受けとめていると思います、そうでなかったら我々が外に出ていく意味はないと思います。
尾崎放哉の生誕130年 イベントの中で形に残るものを作ろうと言う事で、全国のトップクラスの書家に書いてもらいそれを石碑にするという事をやろうと言う事になりました。
「咳をしても一人」
最初きたない詩と思ったが、段々なれてくると深いことを思う様になりました。
10月3日に4基の石碑の除幕式をしました。
今年、50基建てます、来年69基 合計119基建つ事になっています。
尾崎放哉は鳥取でもあまり知られていないので宣伝効果はあると思います。
全国の書家にお願いしたら、快く受けてくれて書いてくださり有難いと思っています。
中野北溟さん、石飛博弘さんとかトップレベルの人ばかりでとても意味が深いと思います。
尾崎放哉を知ってもらうのには、書いてもらうのが一番だと思って、8年前から尾崎放哉を書くと言う全国コンクールをやっています。
尾崎放哉の句は現代語を表現する書作品にしてゆく材料としては好材料になると思います。
昭和16年鳥取県泊村に生まれ、子供のころは遊び呆けていました。
直ぐに海でしたので泳ぎは達者でした。
小学校2年生の頃から書道をやりました。
書道が国粋的だと言う様なことで禁止されたことがあった。
普通の子より1年早くやり始めたのでうまいと言われて、自分の得意技になってゆく事になる。
大学までずーっと続けてきましたが、本格的にやったのは大学に入って師匠に付いてからです。
高校の時に全国書道展の文部大臣賞受賞、だが勝手に自分でやっていた。
手島右卿(昭和の三傑)に師事しましたが、土佐の安芸出身なので言葉が判らなかった。
結局は盗みとる。
大学の先生クラス、朝日20人展に入るぐらいの人たちが結構来ていた。
4年間みっちり勉強させてもらったが、帰ってきて練習をやろうと思うができない、全然先生の様には成らなかった。
大学は結局は自分がやらなければいけない場所だと思った。
卒業後、県立鳥取東高校の教諭として国語と書道を指導すると同時にお寺にも就かなければいけなくて、結構忙しかった。
仏教の勉強は大学時代に住職になるぐらいの資格だけは取っていたが、明日から葬式をするという様なことは無茶苦茶な話でした。(22歳の時)
日本一の先生に教わってきたという自負はあった。
一人でも世の中を動かす子が出てほしいという思いはあった。
日常の中で起こったことを基にして、いま自分が考えているものを書の方に持ってゆく事ができるので、そういう生活は大事なことだと思います。
書いている意味と自分のやろうとしていることと、全く関係ないことをやったりすることは、あんまり意味が無いんじゃないかと思います。
山陰書道関係者が集まっていろんな活動をしているが、40年以上になる。
中心は私の教え子、門人で出発しましたが、現在もそうです。
書を語りあえる仲間作りをしたいと思った、地方文化の底上げにもなる。
書をかく事は私の人生そのものですが、作品として見た時には、観賞する要素があるので、昔の型のままで終わらないようにしたいと思っている。
書が美術の仲間に入れるのかどうか、今でも微妙なところです。
美術の中の範疇に書が入らないといけないと思っている。
小学校低学年の時に鉛筆の持ち方を一生の問題なので教えてやってくださいと言っているが、段々気を付けるようになりました。
保育園、幼稚園の時に癖がついてしまう様なので、低学年の時に直させるように言っている。
現代の美術になるような作品を一作でもいいから残したいと思っています。
尾崎放哉の句碑ができて、それに触れて、自分の考えを深めて頂きたいと思います。
書の場合はかなりの時間を要して熟成されたものから本当にいいものをポット生んでいくと言う様なことをやらないと駄目なんじゃないかと思います。
熟して清新なものでないといいものにはならないと思います。
74歳 大きな紙に一文字や少数の文字で作品を作り上げる書のグループ独立書人グループで活躍しています。
30代の頃日本ばかりでなく、ホノルル、パリ、デュッセルドルフ等世界を回って展覧会を開き、1986年には中国の北京でも展覧会を開くなど、世界に書を発表してきました。
今柴山さんは、「咳をしても一人」、「こんな良い月を一人で見て寝る」、などで知られる鳥取県出身の俳人尾崎放哉の生誕130年を記念して尾崎放哉の句 100を選んで全国のトップクラスの書家に書いてもらいそれを石碑にするという催しを行っています。
すでに先行して10月3日に4基の石碑の除幕式をしました。
これから順次石碑を作り披露してゆく予定だそうです。
昭和16年鳥取県とまり村に生まれ、東洋大学文学部国文科に入学、大学時代に現代書の巨匠、手島右卿に師事、卒業後鳥取に戻り、県立鳥取東高校の教諭として国語と書道を指導、現在は退職し、鳥取市青谷の弥勒寺の住職をしています。
朝は6時ぐらいに朝のお勤めをしています、そのあとに書道をします。
師匠が一字を書く事の中で作品的効果を表そうと言う考え方がありまして、凝縮する要素があり、近代的な表現の一つだと思います。
外国の場合は何らかの縁があって展覧会をしようという事になり、書というものが美術の位置付けとして、美術として成りたたせたいと師匠も思っていて、私たちもそのような方向で進んできました。
外国でも気持ちの流れ、運動性等は受けとめてくれ、文字が判らないからアートにならないとはないと思います。
現代の日本人が何を考えているかという事を、受けとめていると思います、そうでなかったら我々が外に出ていく意味はないと思います。
尾崎放哉の生誕130年 イベントの中で形に残るものを作ろうと言う事で、全国のトップクラスの書家に書いてもらいそれを石碑にするという事をやろうと言う事になりました。
「咳をしても一人」
最初きたない詩と思ったが、段々なれてくると深いことを思う様になりました。
10月3日に4基の石碑の除幕式をしました。
今年、50基建てます、来年69基 合計119基建つ事になっています。
尾崎放哉は鳥取でもあまり知られていないので宣伝効果はあると思います。
全国の書家にお願いしたら、快く受けてくれて書いてくださり有難いと思っています。
中野北溟さん、石飛博弘さんとかトップレベルの人ばかりでとても意味が深いと思います。
尾崎放哉を知ってもらうのには、書いてもらうのが一番だと思って、8年前から尾崎放哉を書くと言う全国コンクールをやっています。
尾崎放哉の句は現代語を表現する書作品にしてゆく材料としては好材料になると思います。
昭和16年鳥取県泊村に生まれ、子供のころは遊び呆けていました。
直ぐに海でしたので泳ぎは達者でした。
小学校2年生の頃から書道をやりました。
書道が国粋的だと言う様なことで禁止されたことがあった。
普通の子より1年早くやり始めたのでうまいと言われて、自分の得意技になってゆく事になる。
大学までずーっと続けてきましたが、本格的にやったのは大学に入って師匠に付いてからです。
高校の時に全国書道展の文部大臣賞受賞、だが勝手に自分でやっていた。
手島右卿(昭和の三傑)に師事しましたが、土佐の安芸出身なので言葉が判らなかった。
結局は盗みとる。
大学の先生クラス、朝日20人展に入るぐらいの人たちが結構来ていた。
4年間みっちり勉強させてもらったが、帰ってきて練習をやろうと思うができない、全然先生の様には成らなかった。
大学は結局は自分がやらなければいけない場所だと思った。
卒業後、県立鳥取東高校の教諭として国語と書道を指導すると同時にお寺にも就かなければいけなくて、結構忙しかった。
仏教の勉強は大学時代に住職になるぐらいの資格だけは取っていたが、明日から葬式をするという様なことは無茶苦茶な話でした。(22歳の時)
日本一の先生に教わってきたという自負はあった。
一人でも世の中を動かす子が出てほしいという思いはあった。
日常の中で起こったことを基にして、いま自分が考えているものを書の方に持ってゆく事ができるので、そういう生活は大事なことだと思います。
書いている意味と自分のやろうとしていることと、全く関係ないことをやったりすることは、あんまり意味が無いんじゃないかと思います。
山陰書道関係者が集まっていろんな活動をしているが、40年以上になる。
中心は私の教え子、門人で出発しましたが、現在もそうです。
書を語りあえる仲間作りをしたいと思った、地方文化の底上げにもなる。
書をかく事は私の人生そのものですが、作品として見た時には、観賞する要素があるので、昔の型のままで終わらないようにしたいと思っている。
書が美術の仲間に入れるのかどうか、今でも微妙なところです。
美術の中の範疇に書が入らないといけないと思っている。
小学校低学年の時に鉛筆の持ち方を一生の問題なので教えてやってくださいと言っているが、段々気を付けるようになりました。
保育園、幼稚園の時に癖がついてしまう様なので、低学年の時に直させるように言っている。
現代の美術になるような作品を一作でもいいから残したいと思っています。
尾崎放哉の句碑ができて、それに触れて、自分の考えを深めて頂きたいと思います。
書の場合はかなりの時間を要して熟成されたものから本当にいいものをポット生んでいくと言う様なことをやらないと駄目なんじゃないかと思います。
熟して清新なものでないといいものにはならないと思います。
2015年10月20日火曜日
福島泰樹(歌人・僧侶) ・短歌絶叫、これ供養なり
福島泰樹(歌人・僧侶) ・短歌絶叫、これ供養なり
72歳 昭和18年台東区生まれ 早稲田大学に通っていたころに短歌に出会いました 。
大学卒業後 仏門に入り住職として修業を積みながら、歌を詠み続けてきました。
30歳を過ぎたころから、音楽に乗せて短歌を絶叫するコンサートを始め、そのステージはこの40年で1500回を越えました。
僧侶として死者をともらう一方、歌人として黒いサングラスに帽子、黒いシャツといういでたちでステージに登り、自ら詠んだ挽歌や亡くなった歌人達の作品を叫んでいます。
心の中で歌人であったり僧侶であったりします。
物を考えるときは両者が混じり合ってせめぎ合います。
大学に入って詩人会の部室に行き、その時たまたま短歌の集まりがありそこから短歌は始まりました。
彼らが社会的な事、歴史的なことを歌おうとしている事に気付きました。
自分自身の意識が少しづつ変わっていきました。
学園闘争の中から、討論し、スクラムを組み戦っていく中で連帯意識を体験しました。
人と人との結び付きを考える契機となり、呼びかけのしゅけい?(聞き取れず)としての短歌に気が付きました。
1965年からの学生闘争 「後の思いに」 今年CD
歌人は語り部だと思っていて、繰り返し繰り返し伝達していきたいと思っている。
自分の心に中では何も変わっていないので、自分の意識の中で、記憶を引きずってずっと闘い続けています。
今回の安保法案が採決された時に国会に行きましたが、日韓闘争の事をまざまざと思い起こされて、まだ何も終わっていないと思いました。
一番いけないことは人は戦争を忘れてしまっている、戦争の体験の事を語ろうとしなかった。
全共闘世代がちゃんと自分たちの戦いを伝達していればこういう時代は来なかったと思います。
私は短歌を作っているので忘れることはありません、現在に呼び寄せる作業になっている。
父は関東大震災、空襲に遭い、2回に渡って持物を全部なくしたり、兄弟を失ったりして生きてきたが、我々は60年安保闘争があるが、何も失ってこなかった。
何もなく一生を終えるのではないかとたかをくくっていたが、2011年大地震、原発事故が発生し、すべてがゆすぶられてた、私の心がゆすぶられた。
320万人の日本人が戦争で亡くなった事実を忘れてしまっている、大震災を通して改めて思いを強くしています。
戦争体験した短歌
「一片の骨 を砕いてセメントに 絵を描いている小さな指が ろうせきと思えて拾う焼け跡の 白くとがっていたっけ骨は」
ろうせきだと思って手に持って書いていた物は骨だった、母から怒鳴られた思いがある。
短歌は記憶の再生装置だと思っています、詠むとその場面が再現されてきて、その時の切なさ、悲しさがよみがえってくる。
心の身もだえを身体中で、声を出して表現しています。
教師になりたかったが、兄が後を継がなくて、又早大闘争の中でコミューンと言うものを知って、新し社会を作っていけるのではないか、そんな思いで坊主になりました。
人間の連帯は社会的な連帯と同時に、生まれ、愛し、死んでゆく悲しみの連帯、とりもなおさず業の世界であり、坊主の世界ではなかったかと理屈を付け自分を納得させました。
嫌でたまらなかった坊主がこんなに必要とされるのかと、初めて体験して心の中で感動しました。
当時1970年代ですが、ともらうという事の大切さ、を知りました。
臨終の時に呼ばれて、お経に合わせて口をもぐもぐして、やがて息を引き取って逝きました。
命の終わりはあるわけで、終わりをしっかりと告げてやる、納得させてあげる、そして次のステップが仏教ではあるので、次のステップへみちびいてやる、それが坊主の仕事だと思います。
妙蓮寺に骨を埋めるつもりでしたが、檀家の人たちを全部おくるつもりでしたが、本堂を建てることになり、建ちあがったとたんに、岩に腰をおろして本堂を見ていたら、急に東京に帰りたくなって、
東京に帰ることになる。
小さなかなり朽ちた寺があり、住職が亡くなり、そこを復興するようにとの命があり、せめぎ合いの中でそこに行こうと決めました。
東京では文学活動をしたかった。
「村人を あざむき おやを裏切って 月光の中 溺れるごとく」
生涯であんなに泣いたのは初めてでした。
懺悔 歌を求めました、それによって弱い心を書きとめておこうとしました。
自分が歳を取ってくると別れる人たちが多くなって、1978年にクラスメートが内ゲバで4人殺され、周りには自殺した人がいたり、東京に来てから私の寺で友人の詩人、作家、を亡くしてきて、40歳近くでともらうと同時に、短歌に詠み、短歌の中に死者が出てくる。
黒田和美) 早稲田短歌会の同期の友人が死んで、直ぐには歌はできなかったが段々歌ができてきて、100首ぐらい作ってきました。
歌う事によって、共に闘う事が出来、共に生きることができます、だから誰も死んでない。
無念を濃くしていかないと思います、無念に迫っていかなくてはいけないと思います。
1960年12月に学生歌人岸上大作が亡くなった、死者を背負い続け、歌い続けてきました。(21歳亡くなる)
「僕のためのノート」 自殺する直前に書いたもの。
「学生服だけはちゃんと着ておこう ・・・敗北した僕に花を飾るのは無駄だ 生き残ったものこそ花でうずめよう 生き残った者は強く生きろ 「お母さん」というのは嘘だ 僕は僕のことしか考えていない ・・・ 純潔でなければ もしやかくまでも ましろき蕾 震えるおやべを・・・いちじくの
葉よりこぼれる したたりの 女体というを 知らずに死にき・・・」
女を知らないで亡くなったそのせつなさを判らなかった、今になって判る、それまで判らなかった。
悔しさを深めてゆくと言う事はドンドンその人への理解を深めてゆく事でもある。
思いを越えて行かないと、供養にはならない。
岸上がやりたかったこと、できなかった事をちゃんと歌ってあげてやっている、歌う事によってこんな供養はないと思う。
72歳 昭和18年台東区生まれ 早稲田大学に通っていたころに短歌に出会いました 。
大学卒業後 仏門に入り住職として修業を積みながら、歌を詠み続けてきました。
30歳を過ぎたころから、音楽に乗せて短歌を絶叫するコンサートを始め、そのステージはこの40年で1500回を越えました。
僧侶として死者をともらう一方、歌人として黒いサングラスに帽子、黒いシャツといういでたちでステージに登り、自ら詠んだ挽歌や亡くなった歌人達の作品を叫んでいます。
心の中で歌人であったり僧侶であったりします。
物を考えるときは両者が混じり合ってせめぎ合います。
大学に入って詩人会の部室に行き、その時たまたま短歌の集まりがありそこから短歌は始まりました。
彼らが社会的な事、歴史的なことを歌おうとしている事に気付きました。
自分自身の意識が少しづつ変わっていきました。
学園闘争の中から、討論し、スクラムを組み戦っていく中で連帯意識を体験しました。
人と人との結び付きを考える契機となり、呼びかけのしゅけい?(聞き取れず)としての短歌に気が付きました。
1965年からの学生闘争 「後の思いに」 今年CD
歌人は語り部だと思っていて、繰り返し繰り返し伝達していきたいと思っている。
自分の心に中では何も変わっていないので、自分の意識の中で、記憶を引きずってずっと闘い続けています。
今回の安保法案が採決された時に国会に行きましたが、日韓闘争の事をまざまざと思い起こされて、まだ何も終わっていないと思いました。
一番いけないことは人は戦争を忘れてしまっている、戦争の体験の事を語ろうとしなかった。
全共闘世代がちゃんと自分たちの戦いを伝達していればこういう時代は来なかったと思います。
私は短歌を作っているので忘れることはありません、現在に呼び寄せる作業になっている。
父は関東大震災、空襲に遭い、2回に渡って持物を全部なくしたり、兄弟を失ったりして生きてきたが、我々は60年安保闘争があるが、何も失ってこなかった。
何もなく一生を終えるのではないかとたかをくくっていたが、2011年大地震、原発事故が発生し、すべてがゆすぶられてた、私の心がゆすぶられた。
320万人の日本人が戦争で亡くなった事実を忘れてしまっている、大震災を通して改めて思いを強くしています。
戦争体験した短歌
「一片の骨 を砕いてセメントに 絵を描いている小さな指が ろうせきと思えて拾う焼け跡の 白くとがっていたっけ骨は」
ろうせきだと思って手に持って書いていた物は骨だった、母から怒鳴られた思いがある。
短歌は記憶の再生装置だと思っています、詠むとその場面が再現されてきて、その時の切なさ、悲しさがよみがえってくる。
心の身もだえを身体中で、声を出して表現しています。
教師になりたかったが、兄が後を継がなくて、又早大闘争の中でコミューンと言うものを知って、新し社会を作っていけるのではないか、そんな思いで坊主になりました。
人間の連帯は社会的な連帯と同時に、生まれ、愛し、死んでゆく悲しみの連帯、とりもなおさず業の世界であり、坊主の世界ではなかったかと理屈を付け自分を納得させました。
嫌でたまらなかった坊主がこんなに必要とされるのかと、初めて体験して心の中で感動しました。
当時1970年代ですが、ともらうという事の大切さ、を知りました。
臨終の時に呼ばれて、お経に合わせて口をもぐもぐして、やがて息を引き取って逝きました。
命の終わりはあるわけで、終わりをしっかりと告げてやる、納得させてあげる、そして次のステップが仏教ではあるので、次のステップへみちびいてやる、それが坊主の仕事だと思います。
妙蓮寺に骨を埋めるつもりでしたが、檀家の人たちを全部おくるつもりでしたが、本堂を建てることになり、建ちあがったとたんに、岩に腰をおろして本堂を見ていたら、急に東京に帰りたくなって、
東京に帰ることになる。
小さなかなり朽ちた寺があり、住職が亡くなり、そこを復興するようにとの命があり、せめぎ合いの中でそこに行こうと決めました。
東京では文学活動をしたかった。
「村人を あざむき おやを裏切って 月光の中 溺れるごとく」
生涯であんなに泣いたのは初めてでした。
懺悔 歌を求めました、それによって弱い心を書きとめておこうとしました。
自分が歳を取ってくると別れる人たちが多くなって、1978年にクラスメートが内ゲバで4人殺され、周りには自殺した人がいたり、東京に来てから私の寺で友人の詩人、作家、を亡くしてきて、40歳近くでともらうと同時に、短歌に詠み、短歌の中に死者が出てくる。
黒田和美) 早稲田短歌会の同期の友人が死んで、直ぐには歌はできなかったが段々歌ができてきて、100首ぐらい作ってきました。
歌う事によって、共に闘う事が出来、共に生きることができます、だから誰も死んでない。
無念を濃くしていかないと思います、無念に迫っていかなくてはいけないと思います。
1960年12月に学生歌人岸上大作が亡くなった、死者を背負い続け、歌い続けてきました。(21歳亡くなる)
「美しき誤算のひとつ われのみが 昴ぶりて 逢い重ねしことも」
「血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする」「僕のためのノート」 自殺する直前に書いたもの。
「学生服だけはちゃんと着ておこう ・・・敗北した僕に花を飾るのは無駄だ 生き残ったものこそ花でうずめよう 生き残った者は強く生きろ 「お母さん」というのは嘘だ 僕は僕のことしか考えていない ・・・ 純潔でなければ もしやかくまでも ましろき蕾 震えるおやべを・・・いちじくの
葉よりこぼれる したたりの 女体というを 知らずに死にき・・・」
女を知らないで亡くなったそのせつなさを判らなかった、今になって判る、それまで判らなかった。
悔しさを深めてゆくと言う事はドンドンその人への理解を深めてゆく事でもある。
思いを越えて行かないと、供養にはならない。
岸上がやりたかったこと、できなかった事をちゃんと歌ってあげてやっている、歌う事によってこんな供養はないと思う。
2015年10月19日月曜日
石井直方(東京大学教授) ・筋肉の謎をひもとく
石井直方(東京大学教授) ・筋肉の謎をひもとく
1981年ボディービル世界選手権第3位等ボディービルダーとしても実績を持つ東京大学教授石井さんに伺います。
石井さんは今年60歳、大学入学と共にボディービルを始めトレーニングに打ち込む中で 、何故柔らかい筋肉が重い物を持ちあげることができるのだろうと関心を持ち、筋肉研究の道に進むことになりました。
石井さんが筋肉研究のなかから生みだしたスロートレーニングはゆっくりとした動きで筋肉が鍛えられます。
高齢者でも安全に出来るトレーニングとして全国に広がっています。
朝早くとか、昼休みに40分ぐらい時間を取って週2回こなしてゆく様な感じでやっています。
ベンチプレスだと80kg~100kgでやっています。
若いころは倍ぐらいをやっていました。
身長は173cm 体重は76kgぐらいで、体脂肪率は14~5%ぐらいだと思います。
日本ボディービルの日本一を決めるミスター日本では1981年1983年には優勝、1981年ボディービル世界選手権第3位、1982年ではミスターアジア優勝。
1964年東京オリンピックをTVで見て三宅義信選手の重量挙げを見て、その印象が凄く強烈でバーベルを持ちあげる事に対して潜在的な憧れみたいなものを植えつけられた。
高校1年の時に腕立て伏せ、懸垂等をして一夏過ごしたら、身体が変わってしまった。
本格的に身体を鍛えたらどれぐらい強くなるのだろうと思って、東大に行った時にボディービルアンドウエートリフティング部に入った。
初めてバーベルを持ち上げた時に80kgぐらい持ちあげられた。(新入生だと通常40~45kg程度)
なんで筋肉が力を出すのか、筋トレすると筋肉が太くなるのだろうと言う風に疑問を持つ様になったのが筋肉の研究のきっかけだった。
最初研究対象にしたのが貝だった、貝柱が代表的で閉殻筋と言います。
むらさき貝(ムール貝)を材料にいろいろ研究しました。
貝柱の筋肉は物凄くスタミナがあり、長い間殻をしっかり閉じていながらエネルギーをあまり使わない。
貝の筋肉はラチェットの様な仕組みがあるのではないかという事が、言われ始めていたが判らなかった。
酵素で細胞をばらばらにして、小さな細胞の両端を掴まえて電気で刺激をして、細胞一個が出す力を測ることをやったわけです。
ナノグラム 10×-9乗グラムぐらいの桁。
細胞の中のカルシウムとか、収縮とか、調節する仕組み等を細かく調べたのがドクターから助手時代の主要テーマでした。
その後人の筋肉の研究に変わりました。
駒場の教養学部で体育の先生のグループが大学院にしたいと言う事で、研究ができるスタッフが必要で、体育が教えられることも必要で、毛利秀雄先生(日本動物学会の学会長)から声がかかって、行く事になる。
なんで筋トレしたら強くなるのだろうと言う事が判らなかったので、マウス、人等の筋肉を使った研究をするようになった。
高齢のかたの介護予防につながったり、転倒予防につながったり、社会のためになってくることが眼に見えてきたので、やり甲斐のある研究ができてきたという気がします。
バーベルは一旦上げると降ろすわけですが、筋肉はブレーキとして働きながら負荷を降ろすわけで、降ろす時も力を出しています。
降ろす事をしたから強くなったのではないかという思いを抱いて、あるチームはバーベルを上げたら人に渡す、他のチームは受け取ったら降ろすというトレーニングを3カ月行い、調べたら、降ろす方のグループの方が筋肉も太くなったし、筋力も付いた事が判った。
ネズミの実験ではネズミは走るが、筋トレはしてくれないので、眠らせた状態で、足の筋肉をモーターで足の関節が回れるようにして、電気刺激で筋肉を収縮させて(筋トレ)、筋肉の中で何が起きているかなどを調べた。
筋肉を伸ばしたり、縮めたりする速度を速めると筋肉の中のたんぱく質の合成が落ちてしまう。
ゆっくりするとたんぱく質の合成は凄く上がったりする。
動作をゆっくり行う方がタンパク質の合成を刺激する上ではいい。
ゆっくり動作をすることはおかしな動作をしないことにもなるので、身体に優しくてしっかり筋肉が太く強くなる。
足腰鍛えるのはやっぱりスクワットです。
無理をしないで椅子に座った状態からゆっくり4秒間中腰に立ちあがる動作、中腰状態から4秒間掛けて座る。(太ももに何か感じることが大事 重い様な熱い様な少し痛い様な感覚が大事)
大腰筋 歳を取ると細く弱く成り、太ももが上がりにくくなり、つま先が地面から離れなくなり、つまずく事になる。
膝を胸に引き付ける種目で、椅子に浅く座って、片足の裏を地面から浮かす、膝を伸ばして前に出す、これがスタート、息を吐きながら膝をゆっくり胸に近づける、息を吸いながら元の状態に戻すが、4秒ぐらいで行う。(左右行う 時間を長くすることが大事)
バランス能力は加齢の影響を凄く受ける。
中臀筋(おしりの筋肉) 大、中、小の三層あるが中臀筋が片足を上げた時のバランス能力に関連していて、その筋肉を鍛える運動が足を開く運動。
椅子に浅く腰かけて足の裏を地面から浮かして真横の方にできるだけ開いてゆく、4秒掛けてゆっくり行い、元に4秒かけてゆっくり戻す。(左右行う 時間を長くすることが大事)
私は42年間筋トレをやっていて、楽しいと思った時は数えるほどしかなかったが、続いてきたのは自分自身に効果が跳ね返ってくるので、手に取る様に判るので、やることによって得られるものがあると言う事が楽しみで続けられたように思います。
記録を付けることもいいかもしれない。
筋肉の面白さ、自分の身体の中にある種の別の生き物がいる様な感覚があります。
研究対象としては眼の前で動く事がまだまだいろいろわからないことがある。
筋肉が活動すると筋肉から身体の中に向けていろんな情報が発生するらしいという事が判りつつあります。
筋肉が縮むと物質を出して、それが血液の中をめぐって身体の中の脂肪だとか、脳に影響を及ぼすとか。
脳の指令が無いと筋肉は動かないが、動いた事で別の情報を脳とか他の組織に送っているらしい。
筋肉は脳にもの申すし、脂肪にものもうす情報のネットワークがあるらしい。
筋トレネズミの脳を調べてみると、脳の神経細胞を増やしたり、脳の細胞が段々減ってゆく過程を抑制して脳を元気に保つような物質が脳の中で増えることが判ってきた。
運動をすると認知症の予防に繋がるとか、ネズミを走らせたら迷路テストの成績が良くなるというのはありますが、脳が運動する事によって働くという事が脳にとってプラスになるのではないかと考えられていたが、筋トレネズミは眠った状態で運動をするわけで、脳が働いていない中で、運動している筋肉が脳を元気にする、情報を筋肉の方から脳に送っているらしいという事で、それを今調べているところです。
認知症を予防したり、子供の頭を良くするために眠っている時に、電気信号で筋肉をぴくぴくさせればと言う様な夢物語ですが、そういう事に発展する様な可能性のあるテーマです。
1981年ボディービル世界選手権第3位等ボディービルダーとしても実績を持つ東京大学教授石井さんに伺います。
石井さんは今年60歳、大学入学と共にボディービルを始めトレーニングに打ち込む中で 、何故柔らかい筋肉が重い物を持ちあげることができるのだろうと関心を持ち、筋肉研究の道に進むことになりました。
石井さんが筋肉研究のなかから生みだしたスロートレーニングはゆっくりとした動きで筋肉が鍛えられます。
高齢者でも安全に出来るトレーニングとして全国に広がっています。
朝早くとか、昼休みに40分ぐらい時間を取って週2回こなしてゆく様な感じでやっています。
ベンチプレスだと80kg~100kgでやっています。
若いころは倍ぐらいをやっていました。
身長は173cm 体重は76kgぐらいで、体脂肪率は14~5%ぐらいだと思います。
日本ボディービルの日本一を決めるミスター日本では1981年1983年には優勝、1981年ボディービル世界選手権第3位、1982年ではミスターアジア優勝。
1964年東京オリンピックをTVで見て三宅義信選手の重量挙げを見て、その印象が凄く強烈でバーベルを持ちあげる事に対して潜在的な憧れみたいなものを植えつけられた。
高校1年の時に腕立て伏せ、懸垂等をして一夏過ごしたら、身体が変わってしまった。
本格的に身体を鍛えたらどれぐらい強くなるのだろうと思って、東大に行った時にボディービルアンドウエートリフティング部に入った。
初めてバーベルを持ち上げた時に80kgぐらい持ちあげられた。(新入生だと通常40~45kg程度)
なんで筋肉が力を出すのか、筋トレすると筋肉が太くなるのだろうと言う風に疑問を持つ様になったのが筋肉の研究のきっかけだった。
最初研究対象にしたのが貝だった、貝柱が代表的で閉殻筋と言います。
むらさき貝(ムール貝)を材料にいろいろ研究しました。
貝柱の筋肉は物凄くスタミナがあり、長い間殻をしっかり閉じていながらエネルギーをあまり使わない。
貝の筋肉はラチェットの様な仕組みがあるのではないかという事が、言われ始めていたが判らなかった。
酵素で細胞をばらばらにして、小さな細胞の両端を掴まえて電気で刺激をして、細胞一個が出す力を測ることをやったわけです。
ナノグラム 10×-9乗グラムぐらいの桁。
細胞の中のカルシウムとか、収縮とか、調節する仕組み等を細かく調べたのがドクターから助手時代の主要テーマでした。
その後人の筋肉の研究に変わりました。
駒場の教養学部で体育の先生のグループが大学院にしたいと言う事で、研究ができるスタッフが必要で、体育が教えられることも必要で、毛利秀雄先生(日本動物学会の学会長)から声がかかって、行く事になる。
なんで筋トレしたら強くなるのだろうと言う事が判らなかったので、マウス、人等の筋肉を使った研究をするようになった。
高齢のかたの介護予防につながったり、転倒予防につながったり、社会のためになってくることが眼に見えてきたので、やり甲斐のある研究ができてきたという気がします。
バーベルは一旦上げると降ろすわけですが、筋肉はブレーキとして働きながら負荷を降ろすわけで、降ろす時も力を出しています。
降ろす事をしたから強くなったのではないかという思いを抱いて、あるチームはバーベルを上げたら人に渡す、他のチームは受け取ったら降ろすというトレーニングを3カ月行い、調べたら、降ろす方のグループの方が筋肉も太くなったし、筋力も付いた事が判った。
ネズミの実験ではネズミは走るが、筋トレはしてくれないので、眠らせた状態で、足の筋肉をモーターで足の関節が回れるようにして、電気刺激で筋肉を収縮させて(筋トレ)、筋肉の中で何が起きているかなどを調べた。
筋肉を伸ばしたり、縮めたりする速度を速めると筋肉の中のたんぱく質の合成が落ちてしまう。
ゆっくりするとたんぱく質の合成は凄く上がったりする。
動作をゆっくり行う方がタンパク質の合成を刺激する上ではいい。
ゆっくり動作をすることはおかしな動作をしないことにもなるので、身体に優しくてしっかり筋肉が太く強くなる。
足腰鍛えるのはやっぱりスクワットです。
無理をしないで椅子に座った状態からゆっくり4秒間中腰に立ちあがる動作、中腰状態から4秒間掛けて座る。(太ももに何か感じることが大事 重い様な熱い様な少し痛い様な感覚が大事)
大腰筋 歳を取ると細く弱く成り、太ももが上がりにくくなり、つま先が地面から離れなくなり、つまずく事になる。
膝を胸に引き付ける種目で、椅子に浅く座って、片足の裏を地面から浮かす、膝を伸ばして前に出す、これがスタート、息を吐きながら膝をゆっくり胸に近づける、息を吸いながら元の状態に戻すが、4秒ぐらいで行う。(左右行う 時間を長くすることが大事)
バランス能力は加齢の影響を凄く受ける。
中臀筋(おしりの筋肉) 大、中、小の三層あるが中臀筋が片足を上げた時のバランス能力に関連していて、その筋肉を鍛える運動が足を開く運動。
椅子に浅く腰かけて足の裏を地面から浮かして真横の方にできるだけ開いてゆく、4秒掛けてゆっくり行い、元に4秒かけてゆっくり戻す。(左右行う 時間を長くすることが大事)
私は42年間筋トレをやっていて、楽しいと思った時は数えるほどしかなかったが、続いてきたのは自分自身に効果が跳ね返ってくるので、手に取る様に判るので、やることによって得られるものがあると言う事が楽しみで続けられたように思います。
記録を付けることもいいかもしれない。
筋肉の面白さ、自分の身体の中にある種の別の生き物がいる様な感覚があります。
研究対象としては眼の前で動く事がまだまだいろいろわからないことがある。
筋肉が活動すると筋肉から身体の中に向けていろんな情報が発生するらしいという事が判りつつあります。
筋肉が縮むと物質を出して、それが血液の中をめぐって身体の中の脂肪だとか、脳に影響を及ぼすとか。
脳の指令が無いと筋肉は動かないが、動いた事で別の情報を脳とか他の組織に送っているらしい。
筋肉は脳にもの申すし、脂肪にものもうす情報のネットワークがあるらしい。
筋トレネズミの脳を調べてみると、脳の神経細胞を増やしたり、脳の細胞が段々減ってゆく過程を抑制して脳を元気に保つような物質が脳の中で増えることが判ってきた。
運動をすると認知症の予防に繋がるとか、ネズミを走らせたら迷路テストの成績が良くなるというのはありますが、脳が運動する事によって働くという事が脳にとってプラスになるのではないかと考えられていたが、筋トレネズミは眠った状態で運動をするわけで、脳が働いていない中で、運動している筋肉が脳を元気にする、情報を筋肉の方から脳に送っているらしいという事で、それを今調べているところです。
認知症を予防したり、子供の頭を良くするために眠っている時に、電気信号で筋肉をぴくぴくさせればと言う様な夢物語ですが、そういう事に発展する様な可能性のあるテーマです。
2015年10月18日日曜日
花森良郎(家具店経営) ・家具は家族の文化財
花森良郎(家具店経営) ・家具は家族の文化財
静岡市生まれ 72歳 20代の時に長野県松本市で実用的でシンプルな家具に出会いました。
18世紀のイギリスや、開拓時代のアメリカの椅子やテーブルを手本に作られた松本の民芸家具です。
木工職人の技術を生かして作る洋風の家具に魅かれた花森さんは、半世紀近く職人が作った家具をお客さんに届ける橋渡しを行っています。
花森さんが特にこだわっているのが、お客さんの体に合った椅子を選ぶことです。
長い時間座っても疲れない椅子は座る人に豊かな時間を与えてくれると考えているからです。
東京と静岡で家具店を営む花森さんに伺います。
苗字が無い時代から火鉢、ちゃぶ台、茶ダンス、張り板とかを作っていました。
祖父が独立、静岡に来たのが明治33年でした。
間口は2間半、奥行きが20間(間口が狭いのは当時間口の幅で税金を取っていた)
職人は8から9人はいました。
私の兄弟は姉が3人、妹が1人の5人兄弟です。
高校2年の時に父親が亡くなり、親戚中が集まりお前がやった方がいいと言う事でそういう事になりました。
卒業だけはした方がいいと言う事で出席はしっかりやりました。
職人さんは独立してもらって、作ったものを仕入れをして店に並べて売るようになりました。
静岡の喫茶店のマスターから松本に良い家具があるという話を聞いて行ってみたら、うちの作り方と同じようなやり方で松本でやっていた。
継ぎ木部分にくさび、にかわ等を使っていてそういうやり方で作った家具は80~100年はもちますが、昭和41年ぐらいからドイツから大きな機械が入って組み立て式になってしまった。
松本には古いやり方が残っていた。
松本の民芸家具の創始者の池田三四郎さん(1948年、柳宗悦に師事)が中心になって、日本にも洋家具の時代が来ると言う事でイギリスのウインザーの椅子を信州の木を使ってやりました。
日本の伝統工芸の手法を使って作っていた。
池田三四郎さんは京都での柳宗悦さんの講演会を聞いて、柳宗悦さんの影響を受けました。
日本の気候に合わせた作り方をするというのが一番大切にした事です。
交渉したが数ができないから販売店を増やしたくないと言われてしまった。
浜松の人と一緒に行って最終的には交渉が巧く行きました。
ウインザーチェアー ウインザーは田舎で作っていた椅子で、ウインザー城の王様が持ってきてほしいと言う事でウインザーチェアーと言われるようになったという一説もある、細い棒を如何に丈夫に作るかという事が大変です。
バーナードリ―チと池田三四郎が日本人に合わせた寸法に作りなおせと言う事で寸法を合わせることになる。
お尻もすっぽり入って、足も床に着く。(日本人の生活スタイルでの靴を履かなくてもしっくり合う)
今ここにある椅子が45年ですが、一回も直したりしていません。
かんなで削っているので、手入れは固く絞った雑巾で水拭きをする。(艶が出てくる)
お尻の沈んだ部分を削るのに、6種類のかんなで削ります。
椅子、テーブルを探す時には五感を使ってくださいと言っている、手で触る、臭いをかぐ、叩いてみて音を聞き分ける、そうするといい物が選べる。
眼だけで見ただけでは自分にあっているかどうかはわからない。
テーブルが一枚板でいいですよと言われても、一枚板は重いので足がしっかりしているかどうかをしっかり見ないといけない。
椅子は種類が沢山あるが、友達と30分ぐらいそこでワイワイ話したりしていると、合うか合わないかが判る。
裸足になってみて踵が付いているかどうか、膝が90度で踵が付いている高さが楽です。
家族だんらんの言葉が出る、そういう場所、椅子があってもいいと思う。
食卓がリビングだと思っています(食事、本も読む、酒も飲む、勉強もするとか)
会話が少なくなってきているので。
うちのお客さんでも親子3代使っていただいています。
人にも人柄があるように、物にも物がらが出てくるのでそういうことを考えて大事に使って、大事に使える様なものを選ぶ、そういう事が一番大事だと思います。
椅子に座る感触は忘れない、釜石の大震災のお客さんが津波で家具を流されてしまったが、仮設住宅に住むようになったが、あの椅子と同じものがを欲しいと言われました。
感触は忘れないです。
家具は家庭の文化財になり得る。
あの時代にはこんなものが売れるのか、という思いはありましたが、今は世界的に見てもここまで作っている家具は本当に少ない、形は似ているものはあるが、だからもっと残していかないといけないと思っています。
静岡の喫茶店のマスターから、おまえこれからはこういう様な家具をやらなければいけないと言われたのが発端ですから、その人がいたから松本民芸家具をやってこれました。
使うお客さんもよかれ、作ってくれる職人さんもよかれ、橋渡しをする私たちもよかれ、三方よかれの気持ちを持っていけば続いていくと思います。
静岡市生まれ 72歳 20代の時に長野県松本市で実用的でシンプルな家具に出会いました。
18世紀のイギリスや、開拓時代のアメリカの椅子やテーブルを手本に作られた松本の民芸家具です。
木工職人の技術を生かして作る洋風の家具に魅かれた花森さんは、半世紀近く職人が作った家具をお客さんに届ける橋渡しを行っています。
花森さんが特にこだわっているのが、お客さんの体に合った椅子を選ぶことです。
長い時間座っても疲れない椅子は座る人に豊かな時間を与えてくれると考えているからです。
東京と静岡で家具店を営む花森さんに伺います。
苗字が無い時代から火鉢、ちゃぶ台、茶ダンス、張り板とかを作っていました。
祖父が独立、静岡に来たのが明治33年でした。
間口は2間半、奥行きが20間(間口が狭いのは当時間口の幅で税金を取っていた)
職人は8から9人はいました。
私の兄弟は姉が3人、妹が1人の5人兄弟です。
高校2年の時に父親が亡くなり、親戚中が集まりお前がやった方がいいと言う事でそういう事になりました。
卒業だけはした方がいいと言う事で出席はしっかりやりました。
職人さんは独立してもらって、作ったものを仕入れをして店に並べて売るようになりました。
静岡の喫茶店のマスターから松本に良い家具があるという話を聞いて行ってみたら、うちの作り方と同じようなやり方で松本でやっていた。
継ぎ木部分にくさび、にかわ等を使っていてそういうやり方で作った家具は80~100年はもちますが、昭和41年ぐらいからドイツから大きな機械が入って組み立て式になってしまった。
松本には古いやり方が残っていた。
松本の民芸家具の創始者の池田三四郎さん(1948年、柳宗悦に師事)が中心になって、日本にも洋家具の時代が来ると言う事でイギリスのウインザーの椅子を信州の木を使ってやりました。
日本の伝統工芸の手法を使って作っていた。
池田三四郎さんは京都での柳宗悦さんの講演会を聞いて、柳宗悦さんの影響を受けました。
日本の気候に合わせた作り方をするというのが一番大切にした事です。
交渉したが数ができないから販売店を増やしたくないと言われてしまった。
浜松の人と一緒に行って最終的には交渉が巧く行きました。
ウインザーチェアー ウインザーは田舎で作っていた椅子で、ウインザー城の王様が持ってきてほしいと言う事でウインザーチェアーと言われるようになったという一説もある、細い棒を如何に丈夫に作るかという事が大変です。
バーナードリ―チと池田三四郎が日本人に合わせた寸法に作りなおせと言う事で寸法を合わせることになる。
お尻もすっぽり入って、足も床に着く。(日本人の生活スタイルでの靴を履かなくてもしっくり合う)
今ここにある椅子が45年ですが、一回も直したりしていません。
かんなで削っているので、手入れは固く絞った雑巾で水拭きをする。(艶が出てくる)
お尻の沈んだ部分を削るのに、6種類のかんなで削ります。
椅子、テーブルを探す時には五感を使ってくださいと言っている、手で触る、臭いをかぐ、叩いてみて音を聞き分ける、そうするといい物が選べる。
眼だけで見ただけでは自分にあっているかどうかはわからない。
テーブルが一枚板でいいですよと言われても、一枚板は重いので足がしっかりしているかどうかをしっかり見ないといけない。
椅子は種類が沢山あるが、友達と30分ぐらいそこでワイワイ話したりしていると、合うか合わないかが判る。
裸足になってみて踵が付いているかどうか、膝が90度で踵が付いている高さが楽です。
家族だんらんの言葉が出る、そういう場所、椅子があってもいいと思う。
食卓がリビングだと思っています(食事、本も読む、酒も飲む、勉強もするとか)
会話が少なくなってきているので。
うちのお客さんでも親子3代使っていただいています。
人にも人柄があるように、物にも物がらが出てくるのでそういうことを考えて大事に使って、大事に使える様なものを選ぶ、そういう事が一番大事だと思います。
椅子に座る感触は忘れない、釜石の大震災のお客さんが津波で家具を流されてしまったが、仮設住宅に住むようになったが、あの椅子と同じものがを欲しいと言われました。
感触は忘れないです。
家具は家庭の文化財になり得る。
あの時代にはこんなものが売れるのか、という思いはありましたが、今は世界的に見てもここまで作っている家具は本当に少ない、形は似ているものはあるが、だからもっと残していかないといけないと思っています。
静岡の喫茶店のマスターから、おまえこれからはこういう様な家具をやらなければいけないと言われたのが発端ですから、その人がいたから松本民芸家具をやってこれました。
使うお客さんもよかれ、作ってくれる職人さんもよかれ、橋渡しをする私たちもよかれ、三方よかれの気持ちを持っていけば続いていくと思います。
2015年10月17日土曜日
吉村文彦(まつたけ山復活させ隊) ・秋の香りをもう一度
吉村文彦(まつたけ山復活させ隊 代表) ・秋の香りをもう一度
74歳 京都の市民運動「まつたけ山復活させ隊」の代表です。
京都大学農学部を卒業、その後京大で教員を務め松茸の研究を行いました。
そして平成2年岩手県岩泉町が設立した、岩泉松茸研究所の所長として招かれ、松茸の増産に貢献しました。
2005年京都に戻り、市民運動「まつたけ山復活させ隊」を結成、仲間たちと共に里山の再生に取り組んできました。
活動を始めて今年で10年になります。
里山の再生が何故松茸の復活につながるのか、その活動にはどんな意味があるのかを伺いました。
赤松、ひのき等の林があります。
堆肥で、無農薬野菜を栽培し、朝食の材料にしています。
1960年代から木を使う事から石油製品を使う方向に転換して山を使わなくなった。
落ち葉は、昔は集めて堆肥などに使っていたが、今はしないので溜まる。
これが非常に上質なカーペットを敷いた様な林になっている。
これが赤松、松茸のためにもよくないと言う事が科学的に判っています。
それを取り去る必要があるが、どう利用できるか困っていた。
会員の人数は把握していなくて、毎回 週に1回 30人前後が参加する。
赤松の林があればどこでも松茸ができると言う訳ではなく、松茸が生活しやすい林作り、土壌が適正に痩せている(貧栄養状態)、事が良いので木葉の堆積物を取ってやる。
乾燥気味の方を両方とも好むので、木の密度が比較的少ない方がいいので木を切る。
木を持ちだす必要がある。
作業は木を切る、落葉を取ると言う様なことがメインになる。
最初はただ燃やしていたが、もったいないと言う事で薪を作り売るとか、料理の燃料にする。
山の持ち主は、京都大学の生物物理の京大の先生をやっていた香川晴男さんが買い求めて、きのこ工場を作ろうとしたが体調を崩して断念、私が定年退職して貸してもらえることになった。
1905年から1930年代 7580トン取れていたが、2005年から2014年の生産量が52トン、0.68%になってしまった。
原因は①生息地の状態、②気候変動に依る気候の厳しさ、この事が松茸の成長に悪影響して来る。
生息地が冨栄養化、暑い時は雨が少ない、水が無いと大きくなれない。
松の材線虫に依るアメリカからやってきた外来種の病気です。
なら枯れ 里山の主要構成樹種は赤松とこならで半分になり、人が林を利用しないことによって生じた流行病です。
追い打ちをかけるように赤松林が無くなっていった。
木喰い虫がならの木にはびこり、いろんなところに穴をあけて枯らしてしまう。(なら枯れ)
松茸と赤松は 相利共生 赤松は光合成で糖類を作るが、その糖類を松茸は頂いている訳です。
松茸は土の中で細い根に感染して養分を集める助けをしています。
赤松に必要な窒素、リン等を松茸が集めるのが得意で、集めて感染ポイントである根の一部で交換し合っている。
共生しないと生きていけない。(絶対的共生関係)
赤松は人間が手を入れた里山でないと育たない。
赤松は西暦500年ぐらいに人が生活する場所に登場する。
人口が増えて原生林を駆逐する様な利用の仕方をすることによって、地面が赤松向きになってきて松が増えてきて、松茸狩りをしたと読める歌がある。
昭和30年ぐらいまでは松茸は豊富にあり、給食にも出されたりした。
高度経済成長下に林は使われなくなって、開発も伴い、又松林が冨栄養化され、松茸が追い出されて、松枯れも発生する。
「まつたけ山復活させ隊」を結成して、10年になる。
京都大学で応用植物学研究室で、朝顔を材料に何故花は咲くのか、松茸はどんな生き物なのか、の研究をやっていて、微生物の生態学に興味を持って、松茸の生態、微生物の生態を研究するようになる。
マツタケの子実体は典型的には直径数メートルの環状のコロニーを作って発生し、その領域を「シロ」と呼ぶ。
地下にドーナツ状の輪(シロ)があり、ドーナツ部分にしか松茸は出ない、真中の微生物の種類の部分、ドーナツ部分、未感染部分 3領域がある。
松茸のシロにおけるバクテリアとシロの相互関係を中心に研究してきました。
気がついたら松茸の虜になっていた。
松茸は江戸時代から研究されてきたが、判らない部分がいまだに多い。
岩泉松茸研究所 岩泉町が林業が不振で、林業を興すと言う事で松茸研究所を作ることになり、所長として行く事になる。
松茸の生理生態を勉強する事と、林を手入れする事(里山再生)で松茸の生産量を増やせないかという事をやってきた。
手入れを奨励して、段々多く松茸が取れるようになった。
京都のまつたけ山はこれまで1本です。(獲れるになるまでは30年ぐらいか)
松茸の胞子の受け入れ態勢を整えているような状態で、松茸の胞子は今は飛んでこない。
よそから胞子を持ってくると言う案もあるが、遺伝子の問題とか、十分に吟味したうえで行けると言う風に科学的に判断できれば胞子の人為的な感染をさせたいとは思います。
5年後に松茸を獲れるように頑張って行きたい。
74歳 京都の市民運動「まつたけ山復活させ隊」の代表です。
京都大学農学部を卒業、その後京大で教員を務め松茸の研究を行いました。
そして平成2年岩手県岩泉町が設立した、岩泉松茸研究所の所長として招かれ、松茸の増産に貢献しました。
2005年京都に戻り、市民運動「まつたけ山復活させ隊」を結成、仲間たちと共に里山の再生に取り組んできました。
活動を始めて今年で10年になります。
里山の再生が何故松茸の復活につながるのか、その活動にはどんな意味があるのかを伺いました。
赤松、ひのき等の林があります。
堆肥で、無農薬野菜を栽培し、朝食の材料にしています。
1960年代から木を使う事から石油製品を使う方向に転換して山を使わなくなった。
落ち葉は、昔は集めて堆肥などに使っていたが、今はしないので溜まる。
これが非常に上質なカーペットを敷いた様な林になっている。
これが赤松、松茸のためにもよくないと言う事が科学的に判っています。
それを取り去る必要があるが、どう利用できるか困っていた。
会員の人数は把握していなくて、毎回 週に1回 30人前後が参加する。
赤松の林があればどこでも松茸ができると言う訳ではなく、松茸が生活しやすい林作り、土壌が適正に痩せている(貧栄養状態)、事が良いので木葉の堆積物を取ってやる。
乾燥気味の方を両方とも好むので、木の密度が比較的少ない方がいいので木を切る。
木を持ちだす必要がある。
作業は木を切る、落葉を取ると言う様なことがメインになる。
最初はただ燃やしていたが、もったいないと言う事で薪を作り売るとか、料理の燃料にする。
山の持ち主は、京都大学の生物物理の京大の先生をやっていた香川晴男さんが買い求めて、きのこ工場を作ろうとしたが体調を崩して断念、私が定年退職して貸してもらえることになった。
1905年から1930年代 7580トン取れていたが、2005年から2014年の生産量が52トン、0.68%になってしまった。
原因は①生息地の状態、②気候変動に依る気候の厳しさ、この事が松茸の成長に悪影響して来る。
生息地が冨栄養化、暑い時は雨が少ない、水が無いと大きくなれない。
松の材線虫に依るアメリカからやってきた外来種の病気です。
なら枯れ 里山の主要構成樹種は赤松とこならで半分になり、人が林を利用しないことによって生じた流行病です。
追い打ちをかけるように赤松林が無くなっていった。
木喰い虫がならの木にはびこり、いろんなところに穴をあけて枯らしてしまう。(なら枯れ)
松茸と赤松は 相利共生 赤松は光合成で糖類を作るが、その糖類を松茸は頂いている訳です。
松茸は土の中で細い根に感染して養分を集める助けをしています。
赤松に必要な窒素、リン等を松茸が集めるのが得意で、集めて感染ポイントである根の一部で交換し合っている。
共生しないと生きていけない。(絶対的共生関係)
赤松は人間が手を入れた里山でないと育たない。
赤松は西暦500年ぐらいに人が生活する場所に登場する。
人口が増えて原生林を駆逐する様な利用の仕方をすることによって、地面が赤松向きになってきて松が増えてきて、松茸狩りをしたと読める歌がある。
昭和30年ぐらいまでは松茸は豊富にあり、給食にも出されたりした。
高度経済成長下に林は使われなくなって、開発も伴い、又松林が冨栄養化され、松茸が追い出されて、松枯れも発生する。
「まつたけ山復活させ隊」を結成して、10年になる。
京都大学で応用植物学研究室で、朝顔を材料に何故花は咲くのか、松茸はどんな生き物なのか、の研究をやっていて、微生物の生態学に興味を持って、松茸の生態、微生物の生態を研究するようになる。
マツタケの子実体は典型的には直径数メートルの環状のコロニーを作って発生し、その領域を「シロ」と呼ぶ。
地下にドーナツ状の輪(シロ)があり、ドーナツ部分にしか松茸は出ない、真中の微生物の種類の部分、ドーナツ部分、未感染部分 3領域がある。
松茸のシロにおけるバクテリアとシロの相互関係を中心に研究してきました。
気がついたら松茸の虜になっていた。
松茸は江戸時代から研究されてきたが、判らない部分がいまだに多い。
岩泉松茸研究所 岩泉町が林業が不振で、林業を興すと言う事で松茸研究所を作ることになり、所長として行く事になる。
松茸の生理生態を勉強する事と、林を手入れする事(里山再生)で松茸の生産量を増やせないかという事をやってきた。
手入れを奨励して、段々多く松茸が取れるようになった。
京都のまつたけ山はこれまで1本です。(獲れるになるまでは30年ぐらいか)
松茸の胞子の受け入れ態勢を整えているような状態で、松茸の胞子は今は飛んでこない。
よそから胞子を持ってくると言う案もあるが、遺伝子の問題とか、十分に吟味したうえで行けると言う風に科学的に判断できれば胞子の人為的な感染をさせたいとは思います。
5年後に松茸を獲れるように頑張って行きたい。
2015年10月16日金曜日
碧川るり子(歌手・女優・脚本家) ・「シャンソン・ミュージカル」で女性を描く
碧川るり子(歌手・女優・脚本家) ・「シャンソン・ミュージカル」で女性を描く
東京出身 将来は舞台女優になることを夢見て桐朋学園大学演劇科に入学しました。
この大学には演劇、バレー等様々な芸術を目指す人が集まっていました。
その才能ある集団に接し、刺激されながら碧川さんは得意の歌を生かしたミュージカルへの道を歩み始めます。
劇団四季の付属研究所いずみたくミュージカル劇団を経て立川清登さんと出会います。
立川さんからシャンソンの魅力を教えられたことから、オリジナルなる創作劇シャンソンミュ-ジカルが誕生しました。
シャンソンミュージカルは一人芝居ですが、碧川さんは女性の生き方をテーマに毎年一回自ら脚本を書き、シャンソンを歌い演じ続けこれまで30作余りを上演してきました。
近年はほかの分野のアーティストと一緒に新しいシャンソンミュージカルに取り組んでいます。
シャンソンは数が多いがその中に一曲で物語になっている歌、曲の最初から最後まで歌われていくうちに、主人公の感情が変化してゆく、感情のドラマがとても多い様に感じます。
私は演劇からミュージカルに行くという経歴だったので、シャンソンの持つドラマ性、演劇性を新しく作ったお芝居の中にミュージカルナンバーとして取り込んで行ったら、新しいステージのスタイルができるのではないかと思い、脚本を書いて、歌って演じると言う形を作りまして、シャンソンミュージカルと私が名付けました。
1983年が第一回 一人で演じたのが30本強演じました。
一番印象に残っているのは、再演をした作品 「女優」 サブタイトルが「岡田嘉子へのオマージュ」
岡田嘉子さんを尊敬しています。
こうしたいとか、この人と生きて生きていきたいとか、こういう事をしたいとか思った時に、周りの状況がどうであろうがやり遂げてゆく強さ、時代が変わり自分の思う様にならないことの方が多かったり、恋した相手がとても無残な亡くなり方をしたり、そういう事を全部経て引き受けてそれでも、最初の思った形とは変わっていたかもしれないが、魂の部分は変わらない生き方を貫かれた強さに尊敬しています、憧れです。
最初こんなに続くとは思わなかった。
10年ぐらいたったころからライフワークですねと言われるようになり、続けてゆこうと言う意志が出てきた。
作品は 高村智恵子、与謝野晶子、岡田嘉子、竹下夢二の妻たまき、日本人のほかにエディット・ピアフ、マリーアントワネットなどが主人公。
高校に入った時から声学の先生についてレッスンを受けていました。
大学では演劇を専攻、舞台女優になりたかった。
周りがそれぞれ個性があり、実力が凄い人たちがいっぱいいまして、何で私が入れてもらったのかと思った。
別の道を選ぶか、磨けば何とかなるのではないか、磨いて行かないと生き残っていけないという気持ちになった。
芝居の勉強と歌の勉強と並行してやっていこうとしました。
両方活かせるのが劇団四季だったので、試験を受けてミュージカルの研究生になりました。
ダンス、クラシックバレエ、ジャズダンス、日本舞踊 芝居などのレッスン。
ダンスもどんなに努力しても周りにはかなわない。
その後いずみたく主催のミュージカル劇団に行きました。
ミュージカルの舞台に立たせて頂いて、経験を積ませていただいた。
立川清登さんが自分の事務所をたち上げ、若い人材を育てたいという事で、オーディションがありそれを受けて、入れてもらいました。
一人でやれる専門を持った方がいいと言われて、シャンソン歌手になったらどうかと言われて、それが向いているのではないかと言われ、立川さんの勧めでシャンソンの道に入りました。
やりたいことに辿り着いたので、いろんなことを知ることが楽しかったです。
フランスの歌い手の歌を何でもいからいっぱい聞きなさいと言われました。(当時はレコードだった)
一曲でドラマになっている歌が本当に多いなあと思って歌いたいなあと思いました。
一作目は1983年 「桜んぼの実る頃」 グランドピアノ一つあればいいほどの音楽サロンを借りて、シャンソンを織り込んだシャンソンミュージカルを作って、お客様に観て頂こうと言う様なつもりでした。
恋物語の話です。「ミラボー橋」というシャンソンがメインになりました。
杉村春子さんの女の一生の芝居で 「だれが選んでくれたんでもない、自分が選んだ道ですもの」というのは本当だと思いました。
数年前からコラボレーションシャンソンミュージカルという風に変えてきました。
白蓮が主人公、一人でやることがやりきったような思いになり、今度は思い切り広い分野のアーティストとその専門性をそれぞれ生かして頂きながら一つのミュージカル作品を作れないかという発想に至って、コラボレーションシャンソンミュージカルというステージを始めました。
音楽は中国の楽器 二胡を弾く方 紙芝居をする方(全体の舞台回しとか)等の方が参加。
全然違う分野の人達が集まって稽古をして一つの舞台作るわけですから、出演者間は物凄くプレッシャーがあります。
来てくださるお客さんが一つのミュージカルの流れの中で、自然にそういうものが耳に、眼に入ってくるわけで、紙芝居の面白さ、二胡の音色の生な魅力 等の事に気軽に触れられればいいと思っています。
白蓮がコラボレーションシャンソンミュージカルの4作目で実在の人物では初めてです。
来年には「岡田嘉子へのオマージュ」を今度はコラボレーションシャンソンミュージカルの形で公演が決まっています。
一人芝居は演じたかったテーマがストレートに伝わる形だったと思いますが、今度は複眼的というか、批判的に見る役なども出てくるので、当時の政治状況など、色々な眼から見て頂ければと思います。
日本語で歌う事に拘っています。
活動範囲が日本の中ですし、伝えられるのが歌詞の内容の豊かさだと思うので、日本語で歌う事をメインにしてきましたし、今後もそうしていきます。
好きな曲 「私の孤独」
自分はずーっと一人ぼっちで寂しいと思って来たけれど、孤独という友と一緒に暮らしているので私はもう孤独ではないという様な作品で、孤独=自立という様にも聞こえてくる。
孤独を友にしているだけでなく、自立してして生きているいいお友達は周りに絶対いるよね、と思えるような曲です。
東京出身 将来は舞台女優になることを夢見て桐朋学園大学演劇科に入学しました。
この大学には演劇、バレー等様々な芸術を目指す人が集まっていました。
その才能ある集団に接し、刺激されながら碧川さんは得意の歌を生かしたミュージカルへの道を歩み始めます。
劇団四季の付属研究所いずみたくミュージカル劇団を経て立川清登さんと出会います。
立川さんからシャンソンの魅力を教えられたことから、オリジナルなる創作劇シャンソンミュ-ジカルが誕生しました。
シャンソンミュージカルは一人芝居ですが、碧川さんは女性の生き方をテーマに毎年一回自ら脚本を書き、シャンソンを歌い演じ続けこれまで30作余りを上演してきました。
近年はほかの分野のアーティストと一緒に新しいシャンソンミュージカルに取り組んでいます。
シャンソンは数が多いがその中に一曲で物語になっている歌、曲の最初から最後まで歌われていくうちに、主人公の感情が変化してゆく、感情のドラマがとても多い様に感じます。
私は演劇からミュージカルに行くという経歴だったので、シャンソンの持つドラマ性、演劇性を新しく作ったお芝居の中にミュージカルナンバーとして取り込んで行ったら、新しいステージのスタイルができるのではないかと思い、脚本を書いて、歌って演じると言う形を作りまして、シャンソンミュージカルと私が名付けました。
1983年が第一回 一人で演じたのが30本強演じました。
一番印象に残っているのは、再演をした作品 「女優」 サブタイトルが「岡田嘉子へのオマージュ」
岡田嘉子さんを尊敬しています。
こうしたいとか、この人と生きて生きていきたいとか、こういう事をしたいとか思った時に、周りの状況がどうであろうがやり遂げてゆく強さ、時代が変わり自分の思う様にならないことの方が多かったり、恋した相手がとても無残な亡くなり方をしたり、そういう事を全部経て引き受けてそれでも、最初の思った形とは変わっていたかもしれないが、魂の部分は変わらない生き方を貫かれた強さに尊敬しています、憧れです。
最初こんなに続くとは思わなかった。
10年ぐらいたったころからライフワークですねと言われるようになり、続けてゆこうと言う意志が出てきた。
作品は 高村智恵子、与謝野晶子、岡田嘉子、竹下夢二の妻たまき、日本人のほかにエディット・ピアフ、マリーアントワネットなどが主人公。
高校に入った時から声学の先生についてレッスンを受けていました。
大学では演劇を専攻、舞台女優になりたかった。
周りがそれぞれ個性があり、実力が凄い人たちがいっぱいいまして、何で私が入れてもらったのかと思った。
別の道を選ぶか、磨けば何とかなるのではないか、磨いて行かないと生き残っていけないという気持ちになった。
芝居の勉強と歌の勉強と並行してやっていこうとしました。
両方活かせるのが劇団四季だったので、試験を受けてミュージカルの研究生になりました。
ダンス、クラシックバレエ、ジャズダンス、日本舞踊 芝居などのレッスン。
ダンスもどんなに努力しても周りにはかなわない。
その後いずみたく主催のミュージカル劇団に行きました。
ミュージカルの舞台に立たせて頂いて、経験を積ませていただいた。
立川清登さんが自分の事務所をたち上げ、若い人材を育てたいという事で、オーディションがありそれを受けて、入れてもらいました。
一人でやれる専門を持った方がいいと言われて、シャンソン歌手になったらどうかと言われて、それが向いているのではないかと言われ、立川さんの勧めでシャンソンの道に入りました。
やりたいことに辿り着いたので、いろんなことを知ることが楽しかったです。
フランスの歌い手の歌を何でもいからいっぱい聞きなさいと言われました。(当時はレコードだった)
一曲でドラマになっている歌が本当に多いなあと思って歌いたいなあと思いました。
一作目は1983年 「桜んぼの実る頃」 グランドピアノ一つあればいいほどの音楽サロンを借りて、シャンソンを織り込んだシャンソンミュージカルを作って、お客様に観て頂こうと言う様なつもりでした。
恋物語の話です。「ミラボー橋」というシャンソンがメインになりました。
杉村春子さんの女の一生の芝居で 「だれが選んでくれたんでもない、自分が選んだ道ですもの」というのは本当だと思いました。
数年前からコラボレーションシャンソンミュージカルという風に変えてきました。
白蓮が主人公、一人でやることがやりきったような思いになり、今度は思い切り広い分野のアーティストとその専門性をそれぞれ生かして頂きながら一つのミュージカル作品を作れないかという発想に至って、コラボレーションシャンソンミュージカルというステージを始めました。
音楽は中国の楽器 二胡を弾く方 紙芝居をする方(全体の舞台回しとか)等の方が参加。
全然違う分野の人達が集まって稽古をして一つの舞台作るわけですから、出演者間は物凄くプレッシャーがあります。
来てくださるお客さんが一つのミュージカルの流れの中で、自然にそういうものが耳に、眼に入ってくるわけで、紙芝居の面白さ、二胡の音色の生な魅力 等の事に気軽に触れられればいいと思っています。
白蓮がコラボレーションシャンソンミュージカルの4作目で実在の人物では初めてです。
来年には「岡田嘉子へのオマージュ」を今度はコラボレーションシャンソンミュージカルの形で公演が決まっています。
一人芝居は演じたかったテーマがストレートに伝わる形だったと思いますが、今度は複眼的というか、批判的に見る役なども出てくるので、当時の政治状況など、色々な眼から見て頂ければと思います。
日本語で歌う事に拘っています。
活動範囲が日本の中ですし、伝えられるのが歌詞の内容の豊かさだと思うので、日本語で歌う事をメインにしてきましたし、今後もそうしていきます。
好きな曲 「私の孤独」
自分はずーっと一人ぼっちで寂しいと思って来たけれど、孤独という友と一緒に暮らしているので私はもう孤独ではないという様な作品で、孤独=自立という様にも聞こえてくる。
孤独を友にしているだけでなく、自立してして生きているいいお友達は周りに絶対いるよね、と思えるような曲です。
2015年10月15日木曜日
吉田晴乃(経団連審議員会) ・キャリアアップは私流
吉田晴乃(経団連審議員会 副議長) ・キャリアアップは私流
1964年生まれ 慶応義塾大学を卒業後、カナダ、アメリカ、日本の通信会社で働き、今年6月から女性で初めての経団連役員、審議委員会副議長に就任しました。
土、日には20km走って、ゴルフ、水泳をやったりしています。
家は体育系の家族でした、姉も父も体育会で私も大学は体育会テニスでした。
運動して一旦頭をからっぽにして(脳をスイッチオフ)、又新しい生活に入ります。
高度成長期、バブル時代を経て、疑う暇もなく怒涛の様に流れて生きてきて、その中で一回全てハードストップにされる様な事態があって、大学卒業寸前で病気で倒れて、自分だけ地の果てに落ちてゆく様な経験をした。
3年間闘病生活をすることになりました。
所謂路線から外れたなと思いました。
娘と生きていく事を決めた頃から、全て自分なんだと、自分があって世の中があると言う様ないい意味での自己中心になって、自分の声を聞きながら、自分に合った人生をデザインして自分のために生きていきましょうと思いました。
一番世の中のため、娘の為にもなるし、周りのためにもなる生き方なんだと思う様になるには時間もかかりました。
病気が治ってから外資系の会社に就職して、親の大反対を押し切って国際結婚して、カナダに移住して、カナダの国営通信会社に務めて、アメリカに移ろうと思ったが、その時にシングルマザーになりました。
移住した年に業界の自由化がきた年だった。
電話代が1分1ドル50セントが25セントまで下がった。
その時に消費者は日本だけではなく、国内の電話もあるので、そっちの方で採算が取れるビジネスプランを作って、これでやらせて下さいと、カナダの電話会社に言った。
新聞に広告が出たとたんに朝から申し込みの電話が止まらなくなってしまって、あっという間に広がって、カナダ全土に広がった。
消費者視点でふっと思いついたもの、これをやったらみんな喜ぶのではないかという、シンプルのアイデアの大切さが必要だと思う。
カナダの会社もやらせてみたらというカルチャーがあった。
カナダは非常にリラックスしていて大らかです、女性も要職に付いていました。
日本は女性の取り組みという意味では欧米の30年遅れていると思う。
カナダの会社を辞めてからアメリカの通信会社に移りました。
ITバブルがシリコンバレーから起こり、魅力ある市場だなあと思って、自分でも挑戦してみたいと思い、アメリカに行きました。(子供が5歳の時)
娘には大きな負担となり、ずーっと娘の大きな心の傷となり、私の言えない大きな心の傷でもあります。(今は娘も20歳)
癒える方法は私は私で頑張り、娘たち若い世代がワークもライフも両方選べるような社会にしてゆく事、未来志向でこういう貢献をすることで、やっぱり苦労の意味があったよねと二人で手を取り合って、そういう事が大事だと、娘と話をしています。
どんな事実も、苦労だった、大変だったと沢山これを正直に見つめることによってこれを裏返しただけのいい事にして行こうと思っていて、良いことも悪いこともどっちも否定はしない。
お母さんが仕事なのか家庭なのかとか、仕事、家庭しか選べないとか、選択しなければいけないと言う様な社会が繰り返される必要はない、と固く信じていて、そんな事をやっているのでは女性の社会進出は長続きしないと思う。
託児所が少ないとか、インフラが無いわけですから皆でいろんなものを変えて行きましょうと言うのが今の取り組みです。
娘とビジネスウーマン同士の話しができるとは思わなかった。
今はイギリス系の通信会社の日本法人の代表取締役、20年ぐらい通信市場でやっていると、自分なりの戦略みたいなものが明確に出てきて、この業界の中でビジョンができてきて、実現するにはスポンサーとポジションが必要だと思っていて、日本法人の社長のポジションがあることがわかり、170年の歴史があるイギリスの通信会社で、自分の夢を実現してみたいと思った。
2012年に就任する。
その前の面接の時に、イギリスの人事のトップの人に会い、「私は女性で日本の市場で本気ですか」と冗談半分に言いましたが、
「我々には次のリーダー―シップの明確なイメージというものがあります。
その人が持っていなければいけない資質というのが明確にここにあります。
たまたま貴方がそのすべてを持っていて、たまたま貴方が女性だったと言う事だけです。
我々は問題ありません」と言われた。
凄く印象的で、鳥肌が立っ多様な経験でとてもうれしかったです。
日本もここにいかなければいけないと思います。
日本の市場のグロバライゼーションが語られてるが、サービス、日本の企業の皆さんが海外に出ていく時のお手伝い、我々が入ることで日本の企業がもうかり、成功する様なお手伝いをする。
日本にないテクノロジーがイギリス、アメリカ等にはある、日本が零からやろうとすると長い時間がかかるので、こんなものがありますと紹介して、日本のブランドで売って差し上げる、持続的成長の繁栄の仕方だと思う。
技術は持ってきてあげるけれど、皆さんの顔で出してくださいという、こういう事をして行きたいし、やっています。
私のゼッケンはなでしこジャパンですと言っています。
日本のためにいいものを取り入れ、彼らにも喜んでもらえる、豊かなマーケットにしてゆきたいと思っている時に、中間地点に立っている者の発想は有りますが、いつも日本に良かれと思っています、日本人ですもの。
経団連審議員会
経団連の会長へのアドバイザーボードみたいな感じで、恐縮してしまう様な日本のトップ企業の会長さんと一緒に副議長の地位を頂き、会長に向けての提言をします。
少子高齢化、女性の活躍の問題、TPPとかいろんな問題にたいして話して、提言を会長にインプットします。
女性活躍推進委員会というものを旭化成伊藤会長と一緒にさせてもらっています。
USミッション 経済外交 女性がいると言う事の意味合い。
US側の主催側に女性が20から30%います。
日本側に今年は女性が入っている、という事で、カジュアルな会話は非常に重要だと思います。
ビジネス、政治全て人間がやる事で、私が描いている事は国を越えての女性たちの経済外交、これはきっと起こってくると思います、こんな風になった時にウーマノミクスではないですか。
経団連女性エグゼクティブネットワークをたちあげる。
先輩がいなくて先例、事例が無くどうやってやってゆくか、不安感があるが、成功事例を作っていかないといけないと思って、皆で情報交換をして乗り越えていこうと、このパイオニアたちが成功すると言う事が持続的なウーマノミクスに繋がります、サポートしてゆく体制をつくりませんかと、言う事で経団連女性エグゼクティブネットワークをたちあげてやっています。
1964年生まれ 慶応義塾大学を卒業後、カナダ、アメリカ、日本の通信会社で働き、今年6月から女性で初めての経団連役員、審議委員会副議長に就任しました。
土、日には20km走って、ゴルフ、水泳をやったりしています。
家は体育系の家族でした、姉も父も体育会で私も大学は体育会テニスでした。
運動して一旦頭をからっぽにして(脳をスイッチオフ)、又新しい生活に入ります。
高度成長期、バブル時代を経て、疑う暇もなく怒涛の様に流れて生きてきて、その中で一回全てハードストップにされる様な事態があって、大学卒業寸前で病気で倒れて、自分だけ地の果てに落ちてゆく様な経験をした。
3年間闘病生活をすることになりました。
所謂路線から外れたなと思いました。
娘と生きていく事を決めた頃から、全て自分なんだと、自分があって世の中があると言う様ないい意味での自己中心になって、自分の声を聞きながら、自分に合った人生をデザインして自分のために生きていきましょうと思いました。
一番世の中のため、娘の為にもなるし、周りのためにもなる生き方なんだと思う様になるには時間もかかりました。
病気が治ってから外資系の会社に就職して、親の大反対を押し切って国際結婚して、カナダに移住して、カナダの国営通信会社に務めて、アメリカに移ろうと思ったが、その時にシングルマザーになりました。
移住した年に業界の自由化がきた年だった。
電話代が1分1ドル50セントが25セントまで下がった。
その時に消費者は日本だけではなく、国内の電話もあるので、そっちの方で採算が取れるビジネスプランを作って、これでやらせて下さいと、カナダの電話会社に言った。
新聞に広告が出たとたんに朝から申し込みの電話が止まらなくなってしまって、あっという間に広がって、カナダ全土に広がった。
消費者視点でふっと思いついたもの、これをやったらみんな喜ぶのではないかという、シンプルのアイデアの大切さが必要だと思う。
カナダの会社もやらせてみたらというカルチャーがあった。
カナダは非常にリラックスしていて大らかです、女性も要職に付いていました。
日本は女性の取り組みという意味では欧米の30年遅れていると思う。
カナダの会社を辞めてからアメリカの通信会社に移りました。
ITバブルがシリコンバレーから起こり、魅力ある市場だなあと思って、自分でも挑戦してみたいと思い、アメリカに行きました。(子供が5歳の時)
娘には大きな負担となり、ずーっと娘の大きな心の傷となり、私の言えない大きな心の傷でもあります。(今は娘も20歳)
癒える方法は私は私で頑張り、娘たち若い世代がワークもライフも両方選べるような社会にしてゆく事、未来志向でこういう貢献をすることで、やっぱり苦労の意味があったよねと二人で手を取り合って、そういう事が大事だと、娘と話をしています。
どんな事実も、苦労だった、大変だったと沢山これを正直に見つめることによってこれを裏返しただけのいい事にして行こうと思っていて、良いことも悪いこともどっちも否定はしない。
お母さんが仕事なのか家庭なのかとか、仕事、家庭しか選べないとか、選択しなければいけないと言う様な社会が繰り返される必要はない、と固く信じていて、そんな事をやっているのでは女性の社会進出は長続きしないと思う。
託児所が少ないとか、インフラが無いわけですから皆でいろんなものを変えて行きましょうと言うのが今の取り組みです。
娘とビジネスウーマン同士の話しができるとは思わなかった。
今はイギリス系の通信会社の日本法人の代表取締役、20年ぐらい通信市場でやっていると、自分なりの戦略みたいなものが明確に出てきて、この業界の中でビジョンができてきて、実現するにはスポンサーとポジションが必要だと思っていて、日本法人の社長のポジションがあることがわかり、170年の歴史があるイギリスの通信会社で、自分の夢を実現してみたいと思った。
2012年に就任する。
その前の面接の時に、イギリスの人事のトップの人に会い、「私は女性で日本の市場で本気ですか」と冗談半分に言いましたが、
「我々には次のリーダー―シップの明確なイメージというものがあります。
その人が持っていなければいけない資質というのが明確にここにあります。
たまたま貴方がそのすべてを持っていて、たまたま貴方が女性だったと言う事だけです。
我々は問題ありません」と言われた。
凄く印象的で、鳥肌が立っ多様な経験でとてもうれしかったです。
日本もここにいかなければいけないと思います。
日本の市場のグロバライゼーションが語られてるが、サービス、日本の企業の皆さんが海外に出ていく時のお手伝い、我々が入ることで日本の企業がもうかり、成功する様なお手伝いをする。
日本にないテクノロジーがイギリス、アメリカ等にはある、日本が零からやろうとすると長い時間がかかるので、こんなものがありますと紹介して、日本のブランドで売って差し上げる、持続的成長の繁栄の仕方だと思う。
技術は持ってきてあげるけれど、皆さんの顔で出してくださいという、こういう事をして行きたいし、やっています。
私のゼッケンはなでしこジャパンですと言っています。
日本のためにいいものを取り入れ、彼らにも喜んでもらえる、豊かなマーケットにしてゆきたいと思っている時に、中間地点に立っている者の発想は有りますが、いつも日本に良かれと思っています、日本人ですもの。
経団連審議員会
経団連の会長へのアドバイザーボードみたいな感じで、恐縮してしまう様な日本のトップ企業の会長さんと一緒に副議長の地位を頂き、会長に向けての提言をします。
少子高齢化、女性の活躍の問題、TPPとかいろんな問題にたいして話して、提言を会長にインプットします。
女性活躍推進委員会というものを旭化成伊藤会長と一緒にさせてもらっています。
USミッション 経済外交 女性がいると言う事の意味合い。
US側の主催側に女性が20から30%います。
日本側に今年は女性が入っている、という事で、カジュアルな会話は非常に重要だと思います。
ビジネス、政治全て人間がやる事で、私が描いている事は国を越えての女性たちの経済外交、これはきっと起こってくると思います、こんな風になった時にウーマノミクスではないですか。
経団連女性エグゼクティブネットワークをたちあげる。
先輩がいなくて先例、事例が無くどうやってやってゆくか、不安感があるが、成功事例を作っていかないといけないと思って、皆で情報交換をして乗り越えていこうと、このパイオニアたちが成功すると言う事が持続的なウーマノミクスに繋がります、サポートしてゆく体制をつくりませんかと、言う事で経団連女性エグゼクティブネットワークをたちあげてやっています。
2015年10月14日水曜日
鳥塚 亮(いすみ鉄道 社長) ・「鉄っちゃん社長」赤字ローカル線を再生
鳥塚 亮(いすみ鉄道 社長) ・「鉄っちゃん社長」赤字ローカル線を再生
いすみ鉄道は千葉県いすみ市と大多喜町27kmを結ぶ第3セクターの鉄道です。
社長の鳥塚さんは55歳です。
航空会社で運航管理をしていた2009年いすみ鉄道が行った社長の公募に応募、社長として採用されました。
当時いすみ鉄道は赤字経営が続いていましたが、リストラはしないと宣言したうえで会社再建に乗り出し、少ないコストでできるムーミン列車の導入を手始めに次々に新しい仕掛けを打ちだし、社長就任からおよそ1年で会社存続のめどを付けました。
大の鉄道ファン鉄っちゃんを自称する鳥塚さんが赤字ローカル線をどの様に 再生させたのか、その道のりや魅力あるローカル線をどう築いてゆくかなどを伺いました。
いすみ鉄道は旧国鉄きはら線を第3セクターに転換した会社です。
懐かしいと言う様な演出をしてくれている車両、キハ形は旧国鉄の車両。
かつて国鉄のものを走らせればこれは全国区ではないかと思う。
房総半島でも海岸線を走るわけではないので、景色にアクセントを付ける意味で、焼き鳥屋、某有名タレントの実家などポイントとして案内放送をやっている。
昭和35年生まれですが、昭和39年に東海道新幹線が開業して、物ごころついた時から新幹線ブームで、親戚がおもちゃを買ってきてくれ、国鉄に入って運転するんだと思いました。
小学生時代はSLブームがはやって、映像を見ると、機関士の姿が一つの美学の様に感じた。
高校2年の時に国鉄に行きたいと先生に話したが、国鉄は潰れちゃうと反対されて、どうしても国鉄に入りたいのなら一旦大学に入ってどうしても国鉄に入りたいのならもう一度そこで受けるように諭されたが、大学卒業の時に国鉄の募集が無かった。(新卒は4,5年取らないとの方針だった)
鉄道が駄目だったら飛行機にしようと思った。(27歳で採用される)
輸送業務にかかわり、その後運航管理、計画の仕事をする。
最後は運航管理等を統括する管理職になる。
物事をトータルに見る、全体を把握する事、等が役に立った。
48歳の時にいすみ鉄道の公募があり、受けてみようと思った。
社長の公募の条件が700万円、潰れそうな会社から700万円も貰うというのはおかしいと思った。
面接の時にその思いを言ったら、面接官がむっとしたような表情で、落ちると思ったら、受かってしまった。
入ってすぐに3割カットしていまはやっています。
運賃収入が伸び悩んでいた状況で赤字だった。
社長就任の時に 二つのことを言いました。
①人員整理をやる事はない。
②モチベーションを付ける意味で会社に対して自信を持ってもらいたいと言う事でこの会社をいい会社に勤めてるねと皆から言われるような会社にします、そのためにはブランド化が必要です。
いすみ鉄道をブランド化します。
地域の良さを生かしたいと思いました。 里山の景色、お花畑を走る、地域の人たちと仲良く暮らす、これはムーミンの世界だと思って、ムーミン列車を走らせようとした。
就任してから2~3カ月でスタートさせました。
有難いことに直ぐにTVが取材に来てくれて、大々的に取り上げてくれて、女性をターゲットにしたかったので、女性がすぐに来てくれて女の人がいっぱいになり、間違っていなかったと思った。
我々は素材を提供するだけで、理解できるかどうかはお客さんが判断してくださいと言う、そういうスタイルのムーミン列車です。
次に昭和のジーゼルカーのキハ形を走らせて、キハの中にレストラン、居酒屋、などの列車を走らせ、特製の駅弁を販売したり、都会人が求めているものがローカル線には有るわけです。
いすみ鉄道を残していてよかったと地域の人が思っていただけるそういうビジネス展開を主に考えてやっています。
枕木オーナー制度 枕木に自分の名前を書いて、書いたプレートを枕木に張り付ける。
インターネットで応募できる。 気になって必ず来るようになる。
車両のサポーター制度 来ても来なくても乗らなくても思いが膨らんでくる。
1~2両の列車が1時間に一本の世界なので、会社の器を考えて共感できる様なお客さんに来ていただきたいと言うのがこの商品のコンセプトになります。
2009年6月に就任、10月からムーミン列車を走らせたが、冬には来なかったが、春になって菜の花が咲きだしたらワーッとお客さんが来始めて、これはいけると思いました。
ローカル線は男性が従来お客さんだったが、女性をターゲットにして展開をしたら、たくさん来てくれてうれしかったです、手ごたえを感じました。
運転手の養成費700万円を自分が負担して運転手になる制度を立ち上げた。
当時、いすみ鉄道は国鉄、JRに行ったOBがいすみ鉄道で運転手をやった人がほとんどで、5年ぐらいで退職してゆくので、JRが全部電車になって、ジーゼル車の運転手の養成が急務だったが、八方塞がりだった。
自分と同じような鉄道が好きな人がこの日本に絶対いるはずだと思って声をかけてみた。
賛否両論が色々あったが、資格を取って仕事をする人たち、医者、弁護士、飛行機の操縦士等は皆最初は自分のお金と自分の時間と自分の能力を使って資格を取り、就職をするというのがこの国の資格制度です。
鉄道の運転手だけが違う。(大手鉄道はできるが、ローカル鉄道は難しい)
入ってきた人たちは高い志を持った人たちなので、チャレンジ精神は旺盛で勉強もしますし、職業に対するモラルは物凄く高いです。
訓練中の運転手を含めて14人います。
補助金は 上下分離 列車が走る路盤、信号機、踏切を含め設備関係を行政が維持管理(補助金)、鉄道会社は列車を走らせる部分で経営をしてゆく事が基本的な考え方。
定期券利用者は減り続けている。
今乗っている方は車に移向できなかった人で、列車が必要な方達で、観光客に乗っていただく事によって何とか運賃収入を補っている状況です。
関連事業でも補う事が出来るのではないかと頑張っています。
修繕費がかさんだりして、ここ2年間は赤字経営です。
純粋な意味の営業は赤字だったり黒字だったりトントンですね。
貢献にいろんな尺度があると思いますが、地域に貢献できているのではないかと思っています。
いすみ鉄道は千葉県いすみ市と大多喜町27kmを結ぶ第3セクターの鉄道です。
社長の鳥塚さんは55歳です。
航空会社で運航管理をしていた2009年いすみ鉄道が行った社長の公募に応募、社長として採用されました。
当時いすみ鉄道は赤字経営が続いていましたが、リストラはしないと宣言したうえで会社再建に乗り出し、少ないコストでできるムーミン列車の導入を手始めに次々に新しい仕掛けを打ちだし、社長就任からおよそ1年で会社存続のめどを付けました。
大の鉄道ファン鉄っちゃんを自称する鳥塚さんが赤字ローカル線をどの様に 再生させたのか、その道のりや魅力あるローカル線をどう築いてゆくかなどを伺いました。
いすみ鉄道は旧国鉄きはら線を第3セクターに転換した会社です。
懐かしいと言う様な演出をしてくれている車両、キハ形は旧国鉄の車両。
かつて国鉄のものを走らせればこれは全国区ではないかと思う。
房総半島でも海岸線を走るわけではないので、景色にアクセントを付ける意味で、焼き鳥屋、某有名タレントの実家などポイントとして案内放送をやっている。
昭和35年生まれですが、昭和39年に東海道新幹線が開業して、物ごころついた時から新幹線ブームで、親戚がおもちゃを買ってきてくれ、国鉄に入って運転するんだと思いました。
小学生時代はSLブームがはやって、映像を見ると、機関士の姿が一つの美学の様に感じた。
高校2年の時に国鉄に行きたいと先生に話したが、国鉄は潰れちゃうと反対されて、どうしても国鉄に入りたいのなら一旦大学に入ってどうしても国鉄に入りたいのならもう一度そこで受けるように諭されたが、大学卒業の時に国鉄の募集が無かった。(新卒は4,5年取らないとの方針だった)
鉄道が駄目だったら飛行機にしようと思った。(27歳で採用される)
輸送業務にかかわり、その後運航管理、計画の仕事をする。
最後は運航管理等を統括する管理職になる。
物事をトータルに見る、全体を把握する事、等が役に立った。
48歳の時にいすみ鉄道の公募があり、受けてみようと思った。
社長の公募の条件が700万円、潰れそうな会社から700万円も貰うというのはおかしいと思った。
面接の時にその思いを言ったら、面接官がむっとしたような表情で、落ちると思ったら、受かってしまった。
入ってすぐに3割カットしていまはやっています。
運賃収入が伸び悩んでいた状況で赤字だった。
社長就任の時に 二つのことを言いました。
①人員整理をやる事はない。
②モチベーションを付ける意味で会社に対して自信を持ってもらいたいと言う事でこの会社をいい会社に勤めてるねと皆から言われるような会社にします、そのためにはブランド化が必要です。
いすみ鉄道をブランド化します。
地域の良さを生かしたいと思いました。 里山の景色、お花畑を走る、地域の人たちと仲良く暮らす、これはムーミンの世界だと思って、ムーミン列車を走らせようとした。
就任してから2~3カ月でスタートさせました。
有難いことに直ぐにTVが取材に来てくれて、大々的に取り上げてくれて、女性をターゲットにしたかったので、女性がすぐに来てくれて女の人がいっぱいになり、間違っていなかったと思った。
我々は素材を提供するだけで、理解できるかどうかはお客さんが判断してくださいと言う、そういうスタイルのムーミン列車です。
次に昭和のジーゼルカーのキハ形を走らせて、キハの中にレストラン、居酒屋、などの列車を走らせ、特製の駅弁を販売したり、都会人が求めているものがローカル線には有るわけです。
いすみ鉄道を残していてよかったと地域の人が思っていただけるそういうビジネス展開を主に考えてやっています。
枕木オーナー制度 枕木に自分の名前を書いて、書いたプレートを枕木に張り付ける。
インターネットで応募できる。 気になって必ず来るようになる。
車両のサポーター制度 来ても来なくても乗らなくても思いが膨らんでくる。
1~2両の列車が1時間に一本の世界なので、会社の器を考えて共感できる様なお客さんに来ていただきたいと言うのがこの商品のコンセプトになります。
2009年6月に就任、10月からムーミン列車を走らせたが、冬には来なかったが、春になって菜の花が咲きだしたらワーッとお客さんが来始めて、これはいけると思いました。
ローカル線は男性が従来お客さんだったが、女性をターゲットにして展開をしたら、たくさん来てくれてうれしかったです、手ごたえを感じました。
運転手の養成費700万円を自分が負担して運転手になる制度を立ち上げた。
当時、いすみ鉄道は国鉄、JRに行ったOBがいすみ鉄道で運転手をやった人がほとんどで、5年ぐらいで退職してゆくので、JRが全部電車になって、ジーゼル車の運転手の養成が急務だったが、八方塞がりだった。
自分と同じような鉄道が好きな人がこの日本に絶対いるはずだと思って声をかけてみた。
賛否両論が色々あったが、資格を取って仕事をする人たち、医者、弁護士、飛行機の操縦士等は皆最初は自分のお金と自分の時間と自分の能力を使って資格を取り、就職をするというのがこの国の資格制度です。
鉄道の運転手だけが違う。(大手鉄道はできるが、ローカル鉄道は難しい)
入ってきた人たちは高い志を持った人たちなので、チャレンジ精神は旺盛で勉強もしますし、職業に対するモラルは物凄く高いです。
訓練中の運転手を含めて14人います。
補助金は 上下分離 列車が走る路盤、信号機、踏切を含め設備関係を行政が維持管理(補助金)、鉄道会社は列車を走らせる部分で経営をしてゆく事が基本的な考え方。
定期券利用者は減り続けている。
今乗っている方は車に移向できなかった人で、列車が必要な方達で、観光客に乗っていただく事によって何とか運賃収入を補っている状況です。
関連事業でも補う事が出来るのではないかと頑張っています。
修繕費がかさんだりして、ここ2年間は赤字経営です。
純粋な意味の営業は赤字だったり黒字だったりトントンですね。
貢献にいろんな尺度があると思いますが、地域に貢献できているのではないかと思っています。
2015年10月13日火曜日
久米小百合(音楽伝道者) ・ニューミュージック歌手から音楽伝道者へ
久米小百合(音楽伝道者) ・ニューミュージック歌手から音楽伝道者へ
東京 国立生まれ 4歳のころからピアノを習い、中学高校時代は当時人気のあったフォークソング歌手たちのコピーをしたり、自作の曲を書きとめたりしていました。
1979年久保田早紀の名前で短大在学中に作詞作曲した「異邦人」でレコードデビューしました。
「異邦人」は民放の歌番組で3週間連続で1位の座を獲得するなど大ヒットし、久米さん当時の久保田早紀は一躍話題のニューミュージック歌手になりました。
その後も得意のオリエンタルな雰囲気の曲や曲調をがらりと変えた曲を発表しましたが、デビュー時のインパクトを越えることはありませんでした。
久米さんは1981年に東京都内のキリスト教会で洗礼を受けて、1984年の結婚を機にニューミュージック歌手としての活動を中止しました。
その後はクリスチャンの音楽伝道者として活動を続けています。
各地の教会等で伝道コンサートを開いたり被災地の支援を行っています。
東日本大震災の被災地の応援活動、先月下旬にも尋ねる。 石巻の教会でのコンサート
讃美歌、昔のニューミュージック等を歌う。
大震災の津波で親を亡くした子供達の面倒を見ている人に出会って、何かできるころがあるのではないかと思い立ち上げました。
音楽の種まき 楽器を届けるとか、教えるとか、音楽の種をまく活動もやっています。
復興と言うにはまだ一歩一歩歩んでいかないと、なかなか復興にはたどり着けないとの思いはあります。
4歳のころからピアノを習い始めた。
母がピアノを習う様にとの思いがあり、母はピアノを職業とすることを希望していたが、小学校時代は嫌いでも続けていたが、中学校には歌謡曲フォークソング等を弾く様になり、フォークソングを主に弾く様になりました。
男子中学生と一緒にバンドを結成する。(ガロをまねる)
私が高校時代、父は通訳の出身で、イランのテヘランに単身赴任をしていました。
イランのヒット歌手のカセットをお土産に買ってきてくれ、不思議な旋律で聞いていました。
1979年10月 「異邦人」(作詩、作曲、歌 久保田早紀)
「白い朝」というタイトルだったが、八王子から学校に通う中央線の電車の中でできた曲でした。
短大の2年間はソニーに通って作った曲を持って行っていましたが、その中の一曲でしたが、気にいってくださる人がいまして、もしかしたらコマーシャルに使えるかもしれないと言う事で、大手電機メーカーのTVコマーシャルとして採用してもらったが、映像がアフガニスタンの国境ぐらいまで行って撮ってきたもので、エキゾチックな詩に手直ししようと言う事になり、いくつかタイトル候補があり、その中の一つが異邦人でした。
サブタイトルがシルクロードのテーマ
歌手デビューのイメージは苦節10年という様な思いがあったので、自分にスポットライトが当たるとは思わなかった。
自分がプロとしての意識等なかった。
心配、不安はいつもあったと思います。
ほとんどのニューミュージックの大御所はバックボーンがしっかりした音楽家が多かったが、自分の音楽のルーツ、ポリシーはふわふわしていて、キャリアもないし情けないなあといつも思っていました。
異邦人の後につくるもの、本来の自分らしい世界を聞いてほしいという思いが強かったが、シルクロードとか、中近東等をイメージする物を作ってほしいという要望があり、そんな中で試行錯誤していた。
芸能界引退は1984年 5年間ぐらいでした。
その前にクリスチャンになったことが大きな出来事だった。
1981年に洗礼を受ける。(現役時代)
リスボンでレコーディングをして帰って来てから、もう一度教会に行きたいなあと思って、自分の音楽のルーツを知りたいと思って、教会にもどりたいとおもった。
子供のころは教会に行って、讃美歌、等が好きだったのでルーツは教会にあるのかなあとふっと思いました。
その時点では洗礼を受けるとか、宗教心を持って生きようとはさらさら思わなかった。
或る時に大平透さんの番組にまねかれて、大平さんから行きたいところとかやりたいことはあると問われて、私キリスト教の教会に行きたいと思いますとふっと言ってしまった。
それでは僕の親父のところへ行ったらいいと言われて、地図まで書いてもらった。
母と一緒に夜に行ったが迷ってしまって、別のプロテスタントの教会に灯りがついていて、音楽が聞こえてきて、ずーと最後まで聞いていた。
中に入って聞いてもいいですよと言われたが、信者ではないと行ってその時は帰って、最終的にはその教会で洗礼を受けました。
オハイオシンガーズという神学生の人たちのコーラス隊だったようで、3年、4年に一回来る人達で、たまたま私が訪ねた晩にコンサートをやっていたようです、不思議な縁でした。
音楽としての伝道
讃美歌、聖歌は別のラブソングだと思っている。
神様へのラブソングだと思っている。
「いつくしみ深き」 讃美歌312番
いつくしみふかき ともなるイエスは つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて などかは おろさぬ おえる おもにを
変えてはいけないと思っていたが、讃美歌も自分のキーで下げたり上げたり,アレンジしています。
日本の叙情歌、「異邦人」も歌ったりしています。
私は音楽を通して、その中(聖書)にある喜び、楽しさ、自分を元気にしてくれる言葉とかというものをお届けできればいいなと思っています。
光とのコラボレーション
光は本物と偽物をあぶり出してくれるものだと思っていて、神様の照明、本当にいいものを照らしてくれるのが私にとってフォートス(ギリシャ語で光)だと思っています。(音楽を主にコラボレーション)
日本ではクリスチャンは1%いるかどうかぐらいです。
現代的なキリスト教音楽もグラミー賞のジャンルの中にあるので、日本はもっと皆さんに知っていただければいいなと思います。
物凄く大きな気付きとかきっかけを与えてくれたのが音楽界、芸能界、視聴者の方々だと思うが、久保田早紀時代は音楽は自分の人生のすべてだったが、今は音楽は大切で大好きだが自分人生の一部だとは思っているがすべてではないと思っている。
東京 国立生まれ 4歳のころからピアノを習い、中学高校時代は当時人気のあったフォークソング歌手たちのコピーをしたり、自作の曲を書きとめたりしていました。
1979年久保田早紀の名前で短大在学中に作詞作曲した「異邦人」でレコードデビューしました。
「異邦人」は民放の歌番組で3週間連続で1位の座を獲得するなど大ヒットし、久米さん当時の久保田早紀は一躍話題のニューミュージック歌手になりました。
その後も得意のオリエンタルな雰囲気の曲や曲調をがらりと変えた曲を発表しましたが、デビュー時のインパクトを越えることはありませんでした。
久米さんは1981年に東京都内のキリスト教会で洗礼を受けて、1984年の結婚を機にニューミュージック歌手としての活動を中止しました。
その後はクリスチャンの音楽伝道者として活動を続けています。
各地の教会等で伝道コンサートを開いたり被災地の支援を行っています。
東日本大震災の被災地の応援活動、先月下旬にも尋ねる。 石巻の教会でのコンサート
讃美歌、昔のニューミュージック等を歌う。
大震災の津波で親を亡くした子供達の面倒を見ている人に出会って、何かできるころがあるのではないかと思い立ち上げました。
音楽の種まき 楽器を届けるとか、教えるとか、音楽の種をまく活動もやっています。
復興と言うにはまだ一歩一歩歩んでいかないと、なかなか復興にはたどり着けないとの思いはあります。
4歳のころからピアノを習い始めた。
母がピアノを習う様にとの思いがあり、母はピアノを職業とすることを希望していたが、小学校時代は嫌いでも続けていたが、中学校には歌謡曲フォークソング等を弾く様になり、フォークソングを主に弾く様になりました。
男子中学生と一緒にバンドを結成する。(ガロをまねる)
私が高校時代、父は通訳の出身で、イランのテヘランに単身赴任をしていました。
イランのヒット歌手のカセットをお土産に買ってきてくれ、不思議な旋律で聞いていました。
1979年10月 「異邦人」(作詩、作曲、歌 久保田早紀)
「白い朝」というタイトルだったが、八王子から学校に通う中央線の電車の中でできた曲でした。
短大の2年間はソニーに通って作った曲を持って行っていましたが、その中の一曲でしたが、気にいってくださる人がいまして、もしかしたらコマーシャルに使えるかもしれないと言う事で、大手電機メーカーのTVコマーシャルとして採用してもらったが、映像がアフガニスタンの国境ぐらいまで行って撮ってきたもので、エキゾチックな詩に手直ししようと言う事になり、いくつかタイトル候補があり、その中の一つが異邦人でした。
サブタイトルがシルクロードのテーマ
歌手デビューのイメージは苦節10年という様な思いがあったので、自分にスポットライトが当たるとは思わなかった。
自分がプロとしての意識等なかった。
心配、不安はいつもあったと思います。
ほとんどのニューミュージックの大御所はバックボーンがしっかりした音楽家が多かったが、自分の音楽のルーツ、ポリシーはふわふわしていて、キャリアもないし情けないなあといつも思っていました。
異邦人の後につくるもの、本来の自分らしい世界を聞いてほしいという思いが強かったが、シルクロードとか、中近東等をイメージする物を作ってほしいという要望があり、そんな中で試行錯誤していた。
芸能界引退は1984年 5年間ぐらいでした。
その前にクリスチャンになったことが大きな出来事だった。
1981年に洗礼を受ける。(現役時代)
リスボンでレコーディングをして帰って来てから、もう一度教会に行きたいなあと思って、自分の音楽のルーツを知りたいと思って、教会にもどりたいとおもった。
子供のころは教会に行って、讃美歌、等が好きだったのでルーツは教会にあるのかなあとふっと思いました。
その時点では洗礼を受けるとか、宗教心を持って生きようとはさらさら思わなかった。
或る時に大平透さんの番組にまねかれて、大平さんから行きたいところとかやりたいことはあると問われて、私キリスト教の教会に行きたいと思いますとふっと言ってしまった。
それでは僕の親父のところへ行ったらいいと言われて、地図まで書いてもらった。
母と一緒に夜に行ったが迷ってしまって、別のプロテスタントの教会に灯りがついていて、音楽が聞こえてきて、ずーと最後まで聞いていた。
中に入って聞いてもいいですよと言われたが、信者ではないと行ってその時は帰って、最終的にはその教会で洗礼を受けました。
オハイオシンガーズという神学生の人たちのコーラス隊だったようで、3年、4年に一回来る人達で、たまたま私が訪ねた晩にコンサートをやっていたようです、不思議な縁でした。
音楽としての伝道
讃美歌、聖歌は別のラブソングだと思っている。
神様へのラブソングだと思っている。
「いつくしみ深き」 讃美歌312番
いつくしみふかき ともなるイエスは つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて などかは おろさぬ おえる おもにを
変えてはいけないと思っていたが、讃美歌も自分のキーで下げたり上げたり,アレンジしています。
日本の叙情歌、「異邦人」も歌ったりしています。
私は音楽を通して、その中(聖書)にある喜び、楽しさ、自分を元気にしてくれる言葉とかというものをお届けできればいいなと思っています。
光とのコラボレーション
光は本物と偽物をあぶり出してくれるものだと思っていて、神様の照明、本当にいいものを照らしてくれるのが私にとってフォートス(ギリシャ語で光)だと思っています。(音楽を主にコラボレーション)
日本ではクリスチャンは1%いるかどうかぐらいです。
現代的なキリスト教音楽もグラミー賞のジャンルの中にあるので、日本はもっと皆さんに知っていただければいいなと思います。
物凄く大きな気付きとかきっかけを与えてくれたのが音楽界、芸能界、視聴者の方々だと思うが、久保田早紀時代は音楽は自分の人生のすべてだったが、今は音楽は大切で大好きだが自分人生の一部だとは思っているがすべてではないと思っている。
2015年10月12日月曜日
南沢道義(国際声優育成協会) ・声優支えて35年
南沢道義(国際声優育成協会 理事長) ・声優支えて35年
63歳 大手声優プロダクションの社長でもあります。
マネージャー業務からスタートし、プロダクションを立ち上げてから来年で35年、今でこそ声優さんというのは若い人たちの人気の的となっていますが、南沢さんが始めたころは世間ではまだ知られていない職業した。
そんな声優たちを支えてきた南沢さんは声優ミュージアムを渋谷区笹塚にオープンさせました。
声優業界の移り変わりなどを南沢さんに伺いました。
声優が生まれて50年を越えてきました。
声優ミュージム 展示品、展示方法、場所の確保(特に大変だった)
声優神社が奥の方にある。
どこかに芸能の神社があるそうで、俳優、タレント、声優さんたちが祈願して帰ってくると言う話を聞いて、スタッフが声優神社はどうかとの話があり、数千名の声優さんたちが収録したマイクを御神体として本物の神社を作ろうと思って造りました。
自動車メーカに入って2年半過ごして、20歳で専門学校に入って、紆余曲折がありましたが、この道に入りました。
子供の頃「鉄腕アトム」「鉄人28号」等見ていたが、それを職業にしていたのが判らなかったが、自分なりに情報収集したり、勉強して、こういう勉強ができるんだと思ったが、親などからは反対された。
専門学校卒業後、出版社に入社、ポスターを描いているうちに限界を感じて、或る人から君はマネージメントをするといいよと言われた。
或るプロダクションを紹介されて、面接を受けて受かりました。
仕事が面白くて、ラジオドラマ、人形劇、技術の人達作家、ディレクターの人達、本当に楽しくてあっという間に10年、20年、30年経ってしまいました。
子供のころに見て、育った番組それがここだったんだと言うのに触れられたこと、清水マリさんに初めてお会いした時、鉄腕アトムの人だと嬉しかったです。
とにかく楽しくてしょうがなかった。
先輩方の人間臭さ、挫折感、この人達は悩みながらもやっているんだと言うのが判り、そんな中でやってきました。
皆が顔を合わせながら一つの事を作っていった、温かい時代でした。
当時は40人ぐらい担当していまして、365日 24時間働いていました。
スタジオのロビーで仮眠したり、車の中で少し休んだり、地方に土日は行ったりして過ごしました。
若いころにはいろんな才能の有る人に出会いました。
宮川彬良 宮本亜門 越部信義、 坂上道之助 野沢那智さん等に出会いました。
青井陽治さん(劇作家)に色々な本を書いていただき、其れを声優さんたちが舞台で演じて、出会った人達が音楽、振付をしてくれて、楽しくてしょうがなかった。
28歳 1981年 今のプロダクションを立ち上げる。
当時宇宙戦艦ヤマトが大ヒットして、アニメーションで本格的なブームを迎えた。
ヤマトの主な出演者を私が担当していて、とんでもない忙しさに巻き込まれてゆく。
ブームが去って、声優は終わって行ってしまうのかなあと思ったが、声優は芝居をする人なんだと気付かされた。
独立して作っていきたいと思った。
勇気がいりました、仕事ができない様にしてやる、という様なこともいわれた。
若い声優の人たちは閉そく感に悩んでいました。
役者なのに歌を歌うとは何事かという様な事を言われた。
自分たちでやるしかないという結論に達したが、当時はスタッフが3人、キャストは最初いませんでしたが、若いキャストを中心に集まりだした。
やっていることの評価をきちんとしてもらう様に、先輩たちに言いました。
段々雑誌、新聞等で評価されるようになってきた。
根っこは声優=芝居なんだと、芝居をきちんとやること。
役者だから、表現者なんだからいろんなものをやらなければいけないと言う風に辿りついて行った。
舞台をやると声優ファンの人たちが来てくれた。
アナログからデジタルに移行する中で、すごく心配しました。
皆一緒になって番組が作られていたが、人の顔が見えない中で仕事が成立して終わってゆくのがとても違和感を覚えました。
ものを作っていく上ではコミュニケーションが凄く大事だと思っていたが、それが変わってゆく不安感がありました。
マネージメントは2割で、経済的にも苦しかった。(源泉徴収等 実質1割ぐらい)
このキャストはこの声というものはあると思うが、そういう方たちが亡くなられてしまうと言う事は、或る意味では親兄弟以上の喪失感がありました。
悩んで苦しんで、狂喜乱舞して、その生きざまに何があったんだろうと思うと、絶えず睡眠不足、お酒の力を借りたりとか随分いろいろあったんだろうと思います。
取り除く事は出来なかったのかなあとか、悔やまれることです。
どっかで次の人たちにバトンタッチしていかなければならない。
人間だから終わりは来る、きちんとバトンタッチしていって、声優は2代、3代、4代にわたってキャラクターを支えてゆく事はあってもいいんだと思います。
亡くなったら変えますと言う事ではなく、或る時期に綺麗に卒業させてあげたいと思います。
若い人を育てるには、まず好きだと言う事が大事だと思います。
ジャンルを越えて声優さんたちが活躍できる様に声優ミュージアムから発信してゆきたいと思います。
63歳 大手声優プロダクションの社長でもあります。
マネージャー業務からスタートし、プロダクションを立ち上げてから来年で35年、今でこそ声優さんというのは若い人たちの人気の的となっていますが、南沢さんが始めたころは世間ではまだ知られていない職業した。
そんな声優たちを支えてきた南沢さんは声優ミュージアムを渋谷区笹塚にオープンさせました。
声優業界の移り変わりなどを南沢さんに伺いました。
声優が生まれて50年を越えてきました。
声優ミュージム 展示品、展示方法、場所の確保(特に大変だった)
声優神社が奥の方にある。
どこかに芸能の神社があるそうで、俳優、タレント、声優さんたちが祈願して帰ってくると言う話を聞いて、スタッフが声優神社はどうかとの話があり、数千名の声優さんたちが収録したマイクを御神体として本物の神社を作ろうと思って造りました。
自動車メーカに入って2年半過ごして、20歳で専門学校に入って、紆余曲折がありましたが、この道に入りました。
子供の頃「鉄腕アトム」「鉄人28号」等見ていたが、それを職業にしていたのが判らなかったが、自分なりに情報収集したり、勉強して、こういう勉強ができるんだと思ったが、親などからは反対された。
専門学校卒業後、出版社に入社、ポスターを描いているうちに限界を感じて、或る人から君はマネージメントをするといいよと言われた。
或るプロダクションを紹介されて、面接を受けて受かりました。
仕事が面白くて、ラジオドラマ、人形劇、技術の人達作家、ディレクターの人達、本当に楽しくてあっという間に10年、20年、30年経ってしまいました。
子供のころに見て、育った番組それがここだったんだと言うのに触れられたこと、清水マリさんに初めてお会いした時、鉄腕アトムの人だと嬉しかったです。
とにかく楽しくてしょうがなかった。
先輩方の人間臭さ、挫折感、この人達は悩みながらもやっているんだと言うのが判り、そんな中でやってきました。
皆が顔を合わせながら一つの事を作っていった、温かい時代でした。
当時は40人ぐらい担当していまして、365日 24時間働いていました。
スタジオのロビーで仮眠したり、車の中で少し休んだり、地方に土日は行ったりして過ごしました。
若いころにはいろんな才能の有る人に出会いました。
宮川彬良 宮本亜門 越部信義、 坂上道之助 野沢那智さん等に出会いました。
青井陽治さん(劇作家)に色々な本を書いていただき、其れを声優さんたちが舞台で演じて、出会った人達が音楽、振付をしてくれて、楽しくてしょうがなかった。
28歳 1981年 今のプロダクションを立ち上げる。
当時宇宙戦艦ヤマトが大ヒットして、アニメーションで本格的なブームを迎えた。
ヤマトの主な出演者を私が担当していて、とんでもない忙しさに巻き込まれてゆく。
ブームが去って、声優は終わって行ってしまうのかなあと思ったが、声優は芝居をする人なんだと気付かされた。
独立して作っていきたいと思った。
勇気がいりました、仕事ができない様にしてやる、という様なこともいわれた。
若い声優の人たちは閉そく感に悩んでいました。
役者なのに歌を歌うとは何事かという様な事を言われた。
自分たちでやるしかないという結論に達したが、当時はスタッフが3人、キャストは最初いませんでしたが、若いキャストを中心に集まりだした。
やっていることの評価をきちんとしてもらう様に、先輩たちに言いました。
段々雑誌、新聞等で評価されるようになってきた。
根っこは声優=芝居なんだと、芝居をきちんとやること。
役者だから、表現者なんだからいろんなものをやらなければいけないと言う風に辿りついて行った。
舞台をやると声優ファンの人たちが来てくれた。
アナログからデジタルに移行する中で、すごく心配しました。
皆一緒になって番組が作られていたが、人の顔が見えない中で仕事が成立して終わってゆくのがとても違和感を覚えました。
ものを作っていく上ではコミュニケーションが凄く大事だと思っていたが、それが変わってゆく不安感がありました。
マネージメントは2割で、経済的にも苦しかった。(源泉徴収等 実質1割ぐらい)
このキャストはこの声というものはあると思うが、そういう方たちが亡くなられてしまうと言う事は、或る意味では親兄弟以上の喪失感がありました。
悩んで苦しんで、狂喜乱舞して、その生きざまに何があったんだろうと思うと、絶えず睡眠不足、お酒の力を借りたりとか随分いろいろあったんだろうと思います。
取り除く事は出来なかったのかなあとか、悔やまれることです。
どっかで次の人たちにバトンタッチしていかなければならない。
人間だから終わりは来る、きちんとバトンタッチしていって、声優は2代、3代、4代にわたってキャラクターを支えてゆく事はあってもいいんだと思います。
亡くなったら変えますと言う事ではなく、或る時期に綺麗に卒業させてあげたいと思います。
若い人を育てるには、まず好きだと言う事が大事だと思います。
ジャンルを越えて声優さんたちが活躍できる様に声優ミュージアムから発信してゆきたいと思います。
2015年10月11日日曜日
浜田知明(版画家・彫刻家) ・反戦の思いを作品に込める
浜田知明(版画家・彫刻家) ・反戦の思いを作品に込める
97歳 大正6年 1917年熊本県御船町に生まれた浜田さんは東京美術学校(東京芸術大学)に16歳で入学しましたが、昭和14年熊本歩兵連隊に入隊し、中国大陸で戦争を体験しました。
二度の戦争体験をもとに終戦後1950年代に初年兵哀歌の銅版画シリーズを発表します。
世界が注目し、日本美術界に大きな感動と衝撃を与えました。
今も熊本市内の自宅で新聞に隅々まで目を通し、モチーフとなる題材を見つけて作品を作っています。
モチーフが浮かんできましたら、自分が考えている事をどういう風にやったら見てくださる人に伝わるだろうかと一番に考えます。
特に彫刻の場合は頭にでき上っています。
頭の中にでき上っている作品をただ手で作ってるだけです。
自分が考えている事がよく伝わるだろうかという事は気になりますが、あんまり張り切ってやるのではなく、子供が粘土細工をやっている様なことの延長だと思っています。
初年兵哀歌のシリーズの作品
兵隊は皆生活をしてゆく上で軍事演習から日常生活等を全部覚えてゆくわけですが、二等兵を一番の底辺として、その上にピラミッド型に階級ができていて、上官の命令は朕が命令と心得よと言う事で、全部天皇の言葉として受け取らなければいけない。
一日でも早く入ったものの言う事はいくら無理でも初年兵は受けなければいけない。
初年兵の時に随分虐められて、軍隊から帰ったらどうしても作品にしたいとずーっと考えていました。
戦場に行けばそんなことはないだろうと思っていたが、そうではなくって、軍隊のいやらしさ等戦場に行っていろんな場面を見たりして作品を作ろうと思うようになってきた。
人から押さえ付けられると言う事は非常に不愉快で我慢できなくて、この社会は自分のいるところでないと思いまして、よく自殺する事を考えまして、銃で自殺している作品があります。
初年兵は時間が無いのでスケッチする間もないので、頭の中で考えなければしょうがなくて、それで作品によっては頭の中で構図はできていて、それを帰って来てから作品にしたのが初年兵哀歌です。
他に絵描きも戦地に行っていると思いますが、他に描く人がいないと言う事は不思議に思います。
風景画、裸婦を描いたりして不思議に思います。
22歳で戦争に行きました。
学生時代に戦争がはじまり、一番親しかった友人が学校に入る前に、軍隊をすましてきて戦争が始まったらすぐに招集をかけられて、翌年には戦死してしまいました。
一年先輩はほとんど招集されたが、一人だけ行かなかった人がいて、戦争に行かない方法があるとささやいてくれたが、日本軍がどういう事をやっているか見てみたい気があり、戦場には面白いモチーフがあるかもしれないと、けしからぬ考えですが、戦場を見たいと言う気持ちはあった。
うまい方法をつかって逃げたと言う事は一生の負い目になると思い、人並に戦地に行きました。
動作がのろい、声が小さいとかなんとでも理由を付けて、殴りましたが、なぐりかたも普通ではなくて、両足を踏ん張らせ、歯を食いしばらせ、殴った時に倒れたり舌をかんだりしない様に準備させておいて拳骨で力いっぱい殴る。
青竹で尻を殴る時でも怪我をしない様に前に手をついて尻だけ出して準備させて殴る。
毎日殴られていると、ボクサーの顔の様になって慣れてくるが、いくら殴られたり蹴られたりしても何も感じない様になった時が一人前の兵隊になっている。
点呼の時に軍人勅瑜を覚えなくてはいけなくて、私は言うのが嫌で忘れましたと言うと班長がぶん殴るが、抵抗の方法は無く自分流の最後の抵抗だった。
反抗している事は判っていたので倍叩かれた。
歩兵砲部隊に入って、山岳地帯では大砲、戦車は登れないので、分解して積んで行った。
人一人しか通れない様な道を馬も行きますので、休む時は馬の前に立って休みました。
いつどこの隊に入るかで命に関係してくる。
帰ってから再度新島に招集された。
サイパン、硫黄島に配属されていたら日本に帰ることはなかった。
兵隊は戦争をしなければいけないからやりますが、やっぱり無事に帰りたいと言うのが一番です。
新島に行った時は1/3が招集兵で、家庭持ちの年寄りが多くて、家庭のことばっかり話していて、この人たちと一緒に戦争できるのかと思っていました。
重大放送があるという事で聞きに行って、戦争に負けたことが判った。
最初に考えたのは命が助かったこと。
生き残って絵が描けると考えたが、軍隊が無くなる、軍人がいなくなる、もしかしたらわれわれ日本の文化の再建に参加する事ができるかもしれないと考えた。
日本の軍隊が中国でやっている事はだいとうあけん?(聞き取れず、大東亜圏?大東亜共栄圏?)等が言っているのは嘘っぱちだと考えている。
自分が日本の軍人であることが嫌でして、自分が中国人であったら志願して日本軍と戦いたいなあという気持ちがありました。
日本軍の中に入っている事が嫌だった。
戦後70年という事で新聞等で語っているが、満州の引き上げ、空襲で焼け出されたとか苦労したことは話すわけですが、自分たちの軍隊が中国でどういう事をやったかを全く話さない。
日本が重慶を爆撃しているがそういうことについては何も言わない。
最近日本軍の兵士が描いた本をいくつか読んでいるが、如何に日本軍が勇ましく戦ったかと言う様なことは書いているが、どういう悪いことをしたかは書かない。
終戦後ロシアの兵隊が満州、北朝鮮に入ってきて随分無茶苦茶なことをやって、日本の兵隊の文を読みますと全く同じことをやっていて、男を殺す、女を犯す、物は奪う、家は叩き潰す等、そういう事を皆知らないと思います。
今の政治家も全然戦争の時の事を知らないので自分の国がやったことを認めたくない。
日本はよその国と付き合って行くと言う事はまず自分の国のやったことを謝ることから始まると思うわけです。
村山さん、河野さんがやったことは人間としては本当の道だと思います。
自分たちの受けた被害の事は知っているが相手の国に与えたことは知らない。
戦争裁判で負けたから勝った国によって裁かれたという風に皆思っているが、そうかなあと思う、日本人によって裁かれなければいけなかった事ではないかと思う。
あの戦争には全国民が賛成してやったと言う風になっているが決してそうではないと思う。
戦争に反対と少しでもいうと、非国民という事になってしまう。
友達も当時左がかった思想で、進歩的な思想だったが、卒業前につかまってしまって、昭和14年から昭和20年まで刑務所に入っていました。
一億総懺悔などと言われるが、私は懺悔しなかった。
学生等に教えるのは愛国心ではなくて、いい人間としての良心だと思う。
国があって国民があるのではなく、国民があって国があるという考え方です。
今の時代は、非常に戦争前の風潮に似てきている。
日本の国民は付和雷同性が強いのかなあと思います。
今更裸婦、風景画を描く気は全然ないので、今までやってきた延長だろうと思います。
一番上に猿がいて人間が支えたり、椅子が支えたりしている作品があるが、あれは田中角栄の構図です。
おべっかを使って自分の立身出世を考えている様な、ちょっと皮肉ってみたい。
一番面白いのは人間だと思っていて、人間観察しているのが一番モチーフが多い。
最初は漠然としているが頭の中で考えているうちに段々形ができて行く。
もう歳なのでいつ逝くかわからないないが、寝ているうちに逝くのが理想だと思っています。
ピカソがそうだった、その晩まで元気でいてベッドの中にスケッチブック等を持っていてそのまま死んでました。
死ぬっと言う事は結局は眠りが長い、それだけのことだと思っている。
97歳 大正6年 1917年熊本県御船町に生まれた浜田さんは東京美術学校(東京芸術大学)に16歳で入学しましたが、昭和14年熊本歩兵連隊に入隊し、中国大陸で戦争を体験しました。
二度の戦争体験をもとに終戦後1950年代に初年兵哀歌の銅版画シリーズを発表します。
世界が注目し、日本美術界に大きな感動と衝撃を与えました。
今も熊本市内の自宅で新聞に隅々まで目を通し、モチーフとなる題材を見つけて作品を作っています。
モチーフが浮かんできましたら、自分が考えている事をどういう風にやったら見てくださる人に伝わるだろうかと一番に考えます。
特に彫刻の場合は頭にでき上っています。
頭の中にでき上っている作品をただ手で作ってるだけです。
自分が考えている事がよく伝わるだろうかという事は気になりますが、あんまり張り切ってやるのではなく、子供が粘土細工をやっている様なことの延長だと思っています。
初年兵哀歌のシリーズの作品
兵隊は皆生活をしてゆく上で軍事演習から日常生活等を全部覚えてゆくわけですが、二等兵を一番の底辺として、その上にピラミッド型に階級ができていて、上官の命令は朕が命令と心得よと言う事で、全部天皇の言葉として受け取らなければいけない。
一日でも早く入ったものの言う事はいくら無理でも初年兵は受けなければいけない。
初年兵の時に随分虐められて、軍隊から帰ったらどうしても作品にしたいとずーっと考えていました。
戦場に行けばそんなことはないだろうと思っていたが、そうではなくって、軍隊のいやらしさ等戦場に行っていろんな場面を見たりして作品を作ろうと思うようになってきた。
人から押さえ付けられると言う事は非常に不愉快で我慢できなくて、この社会は自分のいるところでないと思いまして、よく自殺する事を考えまして、銃で自殺している作品があります。
初年兵は時間が無いのでスケッチする間もないので、頭の中で考えなければしょうがなくて、それで作品によっては頭の中で構図はできていて、それを帰って来てから作品にしたのが初年兵哀歌です。
他に絵描きも戦地に行っていると思いますが、他に描く人がいないと言う事は不思議に思います。
風景画、裸婦を描いたりして不思議に思います。
22歳で戦争に行きました。
学生時代に戦争がはじまり、一番親しかった友人が学校に入る前に、軍隊をすましてきて戦争が始まったらすぐに招集をかけられて、翌年には戦死してしまいました。
一年先輩はほとんど招集されたが、一人だけ行かなかった人がいて、戦争に行かない方法があるとささやいてくれたが、日本軍がどういう事をやっているか見てみたい気があり、戦場には面白いモチーフがあるかもしれないと、けしからぬ考えですが、戦場を見たいと言う気持ちはあった。
うまい方法をつかって逃げたと言う事は一生の負い目になると思い、人並に戦地に行きました。
動作がのろい、声が小さいとかなんとでも理由を付けて、殴りましたが、なぐりかたも普通ではなくて、両足を踏ん張らせ、歯を食いしばらせ、殴った時に倒れたり舌をかんだりしない様に準備させておいて拳骨で力いっぱい殴る。
青竹で尻を殴る時でも怪我をしない様に前に手をついて尻だけ出して準備させて殴る。
毎日殴られていると、ボクサーの顔の様になって慣れてくるが、いくら殴られたり蹴られたりしても何も感じない様になった時が一人前の兵隊になっている。
点呼の時に軍人勅瑜を覚えなくてはいけなくて、私は言うのが嫌で忘れましたと言うと班長がぶん殴るが、抵抗の方法は無く自分流の最後の抵抗だった。
反抗している事は判っていたので倍叩かれた。
歩兵砲部隊に入って、山岳地帯では大砲、戦車は登れないので、分解して積んで行った。
人一人しか通れない様な道を馬も行きますので、休む時は馬の前に立って休みました。
いつどこの隊に入るかで命に関係してくる。
帰ってから再度新島に招集された。
サイパン、硫黄島に配属されていたら日本に帰ることはなかった。
兵隊は戦争をしなければいけないからやりますが、やっぱり無事に帰りたいと言うのが一番です。
新島に行った時は1/3が招集兵で、家庭持ちの年寄りが多くて、家庭のことばっかり話していて、この人たちと一緒に戦争できるのかと思っていました。
重大放送があるという事で聞きに行って、戦争に負けたことが判った。
最初に考えたのは命が助かったこと。
生き残って絵が描けると考えたが、軍隊が無くなる、軍人がいなくなる、もしかしたらわれわれ日本の文化の再建に参加する事ができるかもしれないと考えた。
日本の軍隊が中国でやっている事はだいとうあけん?(聞き取れず、大東亜圏?大東亜共栄圏?)等が言っているのは嘘っぱちだと考えている。
自分が日本の軍人であることが嫌でして、自分が中国人であったら志願して日本軍と戦いたいなあという気持ちがありました。
日本軍の中に入っている事が嫌だった。
戦後70年という事で新聞等で語っているが、満州の引き上げ、空襲で焼け出されたとか苦労したことは話すわけですが、自分たちの軍隊が中国でどういう事をやったかを全く話さない。
日本が重慶を爆撃しているがそういうことについては何も言わない。
最近日本軍の兵士が描いた本をいくつか読んでいるが、如何に日本軍が勇ましく戦ったかと言う様なことは書いているが、どういう悪いことをしたかは書かない。
終戦後ロシアの兵隊が満州、北朝鮮に入ってきて随分無茶苦茶なことをやって、日本の兵隊の文を読みますと全く同じことをやっていて、男を殺す、女を犯す、物は奪う、家は叩き潰す等、そういう事を皆知らないと思います。
今の政治家も全然戦争の時の事を知らないので自分の国がやったことを認めたくない。
日本はよその国と付き合って行くと言う事はまず自分の国のやったことを謝ることから始まると思うわけです。
村山さん、河野さんがやったことは人間としては本当の道だと思います。
自分たちの受けた被害の事は知っているが相手の国に与えたことは知らない。
戦争裁判で負けたから勝った国によって裁かれたという風に皆思っているが、そうかなあと思う、日本人によって裁かれなければいけなかった事ではないかと思う。
あの戦争には全国民が賛成してやったと言う風になっているが決してそうではないと思う。
戦争に反対と少しでもいうと、非国民という事になってしまう。
友達も当時左がかった思想で、進歩的な思想だったが、卒業前につかまってしまって、昭和14年から昭和20年まで刑務所に入っていました。
一億総懺悔などと言われるが、私は懺悔しなかった。
学生等に教えるのは愛国心ではなくて、いい人間としての良心だと思う。
国があって国民があるのではなく、国民があって国があるという考え方です。
今の時代は、非常に戦争前の風潮に似てきている。
日本の国民は付和雷同性が強いのかなあと思います。
今更裸婦、風景画を描く気は全然ないので、今までやってきた延長だろうと思います。
一番上に猿がいて人間が支えたり、椅子が支えたりしている作品があるが、あれは田中角栄の構図です。
おべっかを使って自分の立身出世を考えている様な、ちょっと皮肉ってみたい。
一番面白いのは人間だと思っていて、人間観察しているのが一番モチーフが多い。
最初は漠然としているが頭の中で考えているうちに段々形ができて行く。
もう歳なのでいつ逝くかわからないないが、寝ているうちに逝くのが理想だと思っています。
ピカソがそうだった、その晩まで元気でいてベッドの中にスケッチブック等を持っていてそのまま死んでました。
死ぬっと言う事は結局は眠りが長い、それだけのことだと思っている。
2015年10月10日土曜日
西山 厚(帝塚山大学教授) ・仏に学ぶ 悲しみの力
西山 厚(帝塚山大学教授) ・仏に学ぶ 悲しみの力
62歳 昭和28年徳島県生まれ、 京都大学に進む。
去年の春まで 30年余り、奈良国立博物館で仏教の文化財を中心に、調査、研究、展示の企画に取り組んできました。
奈良に足場を据え仏教の研究を続ける西山さんに伺いました。
大仏は奈良時代に聖武天皇が作ったが、どうして大仏を造ったのかという根本のところが一番大事な部分だと思う。
聖武天皇以外の人間には、極論すれば判らないはず。
聖武天皇がとても苦しんでいる人だったから、とても魅力を覚えるようになった。
干ばつ、飢饉、大きな地震、天然痘大流行、内乱がおき戦いがあり、自分の子供も亡くなる。
聖武天皇は本当にすべての生あるものは、幸せになってほしいと本当に思っていた人ですが現実は凡て逆、逆、逆で、聖武天皇は自分の政治が悪いので、天が罰を与えるのだと、思った。
聖武天皇は苦しむわけですが、どんなふうに苦しんでいたのかを想像してみる必要がある。
僅かでも聖武天皇の苦しみを想像する事ができた人だけが、聖武天皇、大仏のことなどを理解できるようになるのではないかと思っている。
聖武天皇は大仏を造ることにするが、「大きな力で造るな、沢山の富で造るな」と不思議なことをいう。
さらにこう言います。
「一本の草を持ってきて、私も大仏造りを手伝いたいと言う人がいたら、その人に手伝ってもらいなさい、土を持ってきて、私も大仏造りを協力したいと言う人がいたら、その人に協力てもらいなさい」
造っている最中に日に3回 来拝せよと言う、又かかわった人が皆心の中に自分の大仏を造れとおしゃっている。
大きな力、沢山の富ではなく、一本の草を持ってきた人達と大仏を造りたかったことは事実であり、
そういうやり方で大仏はできた。
かかわった人は260万人という記録が残っているが、当時の人口はおよそ500万人と推定されるので半分、多くの人たちが小さな力を集めて大仏はできた。
大仏ができてもちっとも変らなかったが、大仏を造ろうとした理由は全ての動物、植物が共に栄える様なわく?徳?(聞き取れず)を造りたい、だから私は大仏を造ることにしたと言っている。
天平勝宝4年 752年 1260年余り前に大仏はできるが、大仏は2度戦に巻き込まれ焼かれている。
平安時代末 東大寺は源氏の側についていたので平家に焼かれてしまう。
東大寺に隠れていた1000人が焼かれ、大仏も溶けてしまう。
重源が又大仏を造りたいと思って動いた。
日本全国での寄付集め 「尺布、寸鉄といえども」という言葉が残っている。
表現は違うが聖武天皇と同じやり方で大仏ができるが、又戦国時代に焼かれる。
重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。
公慶という坊さんが出てきて復興する事になるが、全国寄付集めをする。
「一針、一草の喜捨でいい」と言って同様に寄付集めをする。
聖武天皇の願いが1300年近くもたって、表現は違うが受け継がれているが、その根底にあるものとは、仏教が悲しみの中から誕生したという事ではないかと思う。
約2500年前インドで、若い女性が子供を生んだが、酷い難産で赤ちゃんは元気だったが、母親は7日後に亡くなった。
赤ちゃんはお釈迦様だったが、母親を知らなかった。
自分を生んだから母親は死んだと考えて、抜け出られない様な袋小路に入り込んでゆく可能性があるが、お釈迦様は袋小路から出てきた。
結局は人は皆死ぬ、一人の例外もなく死ぬ、そうしたら人生とは何なんだろう、生きていく意味とは何なんだろう、楽しいことがあってもやがて老いて病んで死んでゆくので、楽しいこと等意味が無いのではないかと考え始める。
老いて病んで死んでゆく人生に深い喜びがある、幸せに死んでゆくという道はきっとあるはずだと思って、出家して、悟りを開き仏教が誕生する事になる。
お母さんが死んだことが仏教を誕生させた、仏教は初めから悲しみ、苦しみと共にある。
仏教はとても優しい、悲しみ苦しみの中から生まれてきたので。
仏教は耐えがたい悲しみ、耐えがたい苦しみの中で、もう自分一人ではとても生きられないと思う時に仏教は初めて意味を持つ。
死にかけている人はそのまま死んでゆくが、それにもかかわらずそこに安らぎの道がある、仏教はその道を示しているものであると私は思っている。
大仏も聖武天皇の苦しみの中から生まれたものであり、そういうものは歴史の中で無数にある。
それが1000年、2000年経っても、同じような悲しみ、苦しみを感じている人にフィットするんじゃないんですかね。
苦しみ、悲しみを通して歴史を見るのが私の基本になっていることは確かです。
父は歴史学者、母は毎晩寝る前に般若心経と観音経を唱える信仰心の篤い人でした。
3歳の時に、母が大病、入院、大手術する事になる。
戻ってきて10年再発しなければ助かると言われていた。
母は小さな観音像をもって嫁いできた人で、寝る前に毎晩般若心経と観音経を唱えていた。
父も病気だった。
何を残せるかを両親は考えて、私に仏教童話全集を買ってくれて、私は仏教に出会った。
人は病気である事が当たり前だと思っていたが、病気で無いと言うのは余ほど恵まれている事だと思う様になりました。
病気が治らなくても幸せにはなれるし、年老いて歩けなくなってもそこであたらしい幸せはあるはずです。
大学の時に、明恵上人を知った。
全部正確に知りたいと思うようになって大学院に進みました。
明恵上人はピュアでひたむきなところが好きで、もっともっと知りたいと思う様になりました。
インドの仏蹟を回ったり、修士論文も明恵上人だったが、そんなことしているうちに奈良国立博物館に入ることになった。
明恵上人も8歳の時に両親を亡くしているが、それが無かったら坊さんには成らなかったかもしれない。
叡尊 奈良の西大寺を復興した坊さんで7歳の時に母親を亡くしている。
「3人の小児を懐の内におきて、逝去しおわぬ」と書いてあって、抱きしめながら死んだと言う事です。(7歳が叡尊 5歳 3歳)
叡尊の人生を決定付け、社会福祉的なことをやり続けてゆく。
85歳の時に簡潔に書いているが、文章以上に心に沁みるものはないです。(涙ぐみながら話す)
悲しみは悲しみだけで終わらない、悲しみが行動の原動力、力になる。
悲しみや苦しみはその人を奮い立たせ、進ませる、やり遂げる力になる。
小さい時に母親を亡くして偉いお坊さんになった人は結構います。
悲しみ、苦しみはマイナスではない、そこから生まれてくるものがある。
日本の仏教が今目指しているものは、悟りではないと思う、異論反論があるかと思うが、求めているものは「安らぎ」だと私は思う。
「心満たされて安らかに生き、心満たされて安らかに死ぬ」 これが目指すところであり、仏教によって可能になると私は思っている。
老いて病んで死ぬことに変わりはないが、そのなかで大きな安らぎを感じつつ死んでゆく道はあると思っています。
金子 みすゞさんが大好きで、素晴らしい詩がいっぱいあります。
金子みすヾの「さびしいとき」の詩
「私がさびしいときに、よそその人は知らないの。 私がさびしいときに、お友達は笑ふの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。 私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」
これは日本仏教の一つの到達点だと思う。
「私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」そのことが安らぎになるんです。 これが救いなんです。
共にある。 いつでもそばにいる。 いつもそばにいる。 それって大きな安らぎになる。
仏教は悲しみと苦しみの中から生まれた、悲しみや苦しみの中にいる人に仏教は優しい、いつもそばにいる、それに支えられて、苦しみ、悲しみが消えなくても、人は心安らかに生きてゆく事が出来る。
苦しみ、悲しみの中から何か新しい大切なものが生まれてくるかもしれない。
62歳 昭和28年徳島県生まれ、 京都大学に進む。
去年の春まで 30年余り、奈良国立博物館で仏教の文化財を中心に、調査、研究、展示の企画に取り組んできました。
奈良に足場を据え仏教の研究を続ける西山さんに伺いました。
大仏は奈良時代に聖武天皇が作ったが、どうして大仏を造ったのかという根本のところが一番大事な部分だと思う。
聖武天皇以外の人間には、極論すれば判らないはず。
聖武天皇がとても苦しんでいる人だったから、とても魅力を覚えるようになった。
干ばつ、飢饉、大きな地震、天然痘大流行、内乱がおき戦いがあり、自分の子供も亡くなる。
聖武天皇は本当にすべての生あるものは、幸せになってほしいと本当に思っていた人ですが現実は凡て逆、逆、逆で、聖武天皇は自分の政治が悪いので、天が罰を与えるのだと、思った。
聖武天皇は苦しむわけですが、どんなふうに苦しんでいたのかを想像してみる必要がある。
僅かでも聖武天皇の苦しみを想像する事ができた人だけが、聖武天皇、大仏のことなどを理解できるようになるのではないかと思っている。
聖武天皇は大仏を造ることにするが、「大きな力で造るな、沢山の富で造るな」と不思議なことをいう。
さらにこう言います。
「一本の草を持ってきて、私も大仏造りを手伝いたいと言う人がいたら、その人に手伝ってもらいなさい、土を持ってきて、私も大仏造りを協力したいと言う人がいたら、その人に協力てもらいなさい」
造っている最中に日に3回 来拝せよと言う、又かかわった人が皆心の中に自分の大仏を造れとおしゃっている。
大きな力、沢山の富ではなく、一本の草を持ってきた人達と大仏を造りたかったことは事実であり、
そういうやり方で大仏はできた。
かかわった人は260万人という記録が残っているが、当時の人口はおよそ500万人と推定されるので半分、多くの人たちが小さな力を集めて大仏はできた。
大仏ができてもちっとも変らなかったが、大仏を造ろうとした理由は全ての動物、植物が共に栄える様なわく?徳?(聞き取れず)を造りたい、だから私は大仏を造ることにしたと言っている。
天平勝宝4年 752年 1260年余り前に大仏はできるが、大仏は2度戦に巻き込まれ焼かれている。
平安時代末 東大寺は源氏の側についていたので平家に焼かれてしまう。
東大寺に隠れていた1000人が焼かれ、大仏も溶けてしまう。
重源が又大仏を造りたいと思って動いた。
日本全国での寄付集め 「尺布、寸鉄といえども」という言葉が残っている。
表現は違うが聖武天皇と同じやり方で大仏ができるが、又戦国時代に焼かれる。
重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆との戦闘で松永久秀によって再び焼き払われてしまった。
公慶という坊さんが出てきて復興する事になるが、全国寄付集めをする。
「一針、一草の喜捨でいい」と言って同様に寄付集めをする。
聖武天皇の願いが1300年近くもたって、表現は違うが受け継がれているが、その根底にあるものとは、仏教が悲しみの中から誕生したという事ではないかと思う。
約2500年前インドで、若い女性が子供を生んだが、酷い難産で赤ちゃんは元気だったが、母親は7日後に亡くなった。
赤ちゃんはお釈迦様だったが、母親を知らなかった。
自分を生んだから母親は死んだと考えて、抜け出られない様な袋小路に入り込んでゆく可能性があるが、お釈迦様は袋小路から出てきた。
結局は人は皆死ぬ、一人の例外もなく死ぬ、そうしたら人生とは何なんだろう、生きていく意味とは何なんだろう、楽しいことがあってもやがて老いて病んで死んでゆくので、楽しいこと等意味が無いのではないかと考え始める。
老いて病んで死んでゆく人生に深い喜びがある、幸せに死んでゆくという道はきっとあるはずだと思って、出家して、悟りを開き仏教が誕生する事になる。
お母さんが死んだことが仏教を誕生させた、仏教は初めから悲しみ、苦しみと共にある。
仏教はとても優しい、悲しみ苦しみの中から生まれてきたので。
仏教は耐えがたい悲しみ、耐えがたい苦しみの中で、もう自分一人ではとても生きられないと思う時に仏教は初めて意味を持つ。
死にかけている人はそのまま死んでゆくが、それにもかかわらずそこに安らぎの道がある、仏教はその道を示しているものであると私は思っている。
大仏も聖武天皇の苦しみの中から生まれたものであり、そういうものは歴史の中で無数にある。
それが1000年、2000年経っても、同じような悲しみ、苦しみを感じている人にフィットするんじゃないんですかね。
苦しみ、悲しみを通して歴史を見るのが私の基本になっていることは確かです。
父は歴史学者、母は毎晩寝る前に般若心経と観音経を唱える信仰心の篤い人でした。
3歳の時に、母が大病、入院、大手術する事になる。
戻ってきて10年再発しなければ助かると言われていた。
母は小さな観音像をもって嫁いできた人で、寝る前に毎晩般若心経と観音経を唱えていた。
父も病気だった。
何を残せるかを両親は考えて、私に仏教童話全集を買ってくれて、私は仏教に出会った。
人は病気である事が当たり前だと思っていたが、病気で無いと言うのは余ほど恵まれている事だと思う様になりました。
病気が治らなくても幸せにはなれるし、年老いて歩けなくなってもそこであたらしい幸せはあるはずです。
大学の時に、明恵上人を知った。
全部正確に知りたいと思うようになって大学院に進みました。
明恵上人はピュアでひたむきなところが好きで、もっともっと知りたいと思う様になりました。
インドの仏蹟を回ったり、修士論文も明恵上人だったが、そんなことしているうちに奈良国立博物館に入ることになった。
明恵上人も8歳の時に両親を亡くしているが、それが無かったら坊さんには成らなかったかもしれない。
叡尊 奈良の西大寺を復興した坊さんで7歳の時に母親を亡くしている。
「3人の小児を懐の内におきて、逝去しおわぬ」と書いてあって、抱きしめながら死んだと言う事です。(7歳が叡尊 5歳 3歳)
叡尊の人生を決定付け、社会福祉的なことをやり続けてゆく。
85歳の時に簡潔に書いているが、文章以上に心に沁みるものはないです。(涙ぐみながら話す)
悲しみは悲しみだけで終わらない、悲しみが行動の原動力、力になる。
悲しみや苦しみはその人を奮い立たせ、進ませる、やり遂げる力になる。
小さい時に母親を亡くして偉いお坊さんになった人は結構います。
悲しみ、苦しみはマイナスではない、そこから生まれてくるものがある。
日本の仏教が今目指しているものは、悟りではないと思う、異論反論があるかと思うが、求めているものは「安らぎ」だと私は思う。
「心満たされて安らかに生き、心満たされて安らかに死ぬ」 これが目指すところであり、仏教によって可能になると私は思っている。
老いて病んで死ぬことに変わりはないが、そのなかで大きな安らぎを感じつつ死んでゆく道はあると思っています。
金子 みすゞさんが大好きで、素晴らしい詩がいっぱいあります。
金子みすヾの「さびしいとき」の詩
「私がさびしいときに、よそその人は知らないの。 私がさびしいときに、お友達は笑ふの。
私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。 私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」
これは日本仏教の一つの到達点だと思う。
「私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」そのことが安らぎになるんです。 これが救いなんです。
共にある。 いつでもそばにいる。 いつもそばにいる。 それって大きな安らぎになる。
仏教は悲しみと苦しみの中から生まれた、悲しみや苦しみの中にいる人に仏教は優しい、いつもそばにいる、それに支えられて、苦しみ、悲しみが消えなくても、人は心安らかに生きてゆく事が出来る。
苦しみ、悲しみの中から何か新しい大切なものが生まれてくるかもしれない。
2015年10月9日金曜日
深谷研二(江ノ島電鉄 前社長) ・鉄道は「生き物」
深谷研二(江ノ島電鉄 前社長) ・鉄道は「生き物」
66歳 江ノ島電鉄の前の社長、深谷さんは社長時代毎年年末になると、全行程10kmを歩いて点検していました。
鉄道は生き物というのが深谷さんの持論でした。
鉄道の一番のサービスは安全だという観点からも保守点検には人一倍気を付けてきた人でした。
最初の勤務は保守点検、土木の専攻で小田急に入社したので、鉄道の整備が進んでいたので、花形の作る方をやりたいと思って鉄道会社に入ったが、配属されたのは保線区でした。
正直腐りました。
技術の進歩はあるが最後は人力で油と泥にまみれて、枕木の交換、雨の日はスコップで側溝の清掃をしました。(線路冠水対策)
夜はレールの交換等電車が来ない状態で大規模な工事を行い、昼間は主として草刈り、砂利の締め固める作業など汗まみれです。(電車の往来の合間に行う)
勘一つで整備する職人がいて、その素晴らしさ、責任感は保線区を経験してよかったと思います。
安全は企業の基盤ですから、最後はいくら機械化が進んでも人の眼で見て確認をする。
線路の基本をそこで学んだ。(後で気がつく事でしたが)
材料は鉄、コンクリート、土で(土路盤)土は水を含んだりして条件が変わってきて線路の痛み具合が違う。
「今日大丈夫だから明日が大丈夫という保証はない」と口うるさく言ってきました。
保線区長をやっていた時に、或るとき、運転手からカーブでおかしな所があると指摘されたが、担当者の判断で明日やればいいと言う事で、翌日にしようとしたら、暑い日で線路が外側に一部はみ出る現象が起きてしまい、電車を止める様なことになって、応急処置をしたが(水をかける)、お客様に大変な迷惑を懸けた経験があるので、事故防止は未然処置が大事だと言う事です。
アクシデントになる前のインシデントの時に徹底的に原因、対策ができているかどうか、その姿勢です。
昭和46年入社、当時会社は乗せてやると言う様なスタンスだったように思う。
最近は会社が総合的にレベルが高くないと落ちこぼれます。
国鉄民営化は昭和62年、輸送力増強対策が各社に来ていて、長編成化、複線化、列車の密度を上げるために信号機の増設、信号機のシステムの高度化で列車がスムースに走れるようにしている。
混雑率は以前は200%を越えている事があったが、150~160%ぐらいを目標にやっている。
高架橋作ったり、利用しやすい駅にするとかは入った時に直ぐにやりたかったが。
保線区の3重苦 本数が増えて荷重が繰り返し多く来る、重くなるので線路が痛む、継ぎ目(環境問題)、労力が取れない。
枕木がコンクリートだったが、板にして直接レールを敷く方法を作るように、ロングレールにする、それが3重苦を解決する手段になった。
技術的な裏付けが必要なので、繰り返し試験施工してお墨付きをもらって認可を頂くと言う様に行ってきた。
機械でドンドン突いていってしまうとか、走りながらレールの表面をグラインダーで砥いでゆく装置で行う。
レールの表面が固くなってしまうので、剥がれる現象が起きるので、固い部分を削り落す。
機械化が進んでいるが、最後は人です。(確認、調整)
中小の企業に出向して、鉄道がサービス事業であることを改めて実感したと言う思いです。
沿線の方々と付き合いを大事にしないと、お客様が気持ちよく乗っていただけるかどうかということが大事です。
地方の中小鉄道が如何に常に灯をともし、身を削って経営に努力されているかトップから最前線まで話も聞きますし、自分で行って見て、社長会があった時に意見交換をしてきます。
お客様の絶対量が減っているので、ご苦労は察します。
江ノ島電鉄は10kmであるが、現在黒字です。(開業は明治35年)
一番の危機は昭和39年前後、モータリゼーション、バスの利用等で経営が苦しくなって廃線の検討がされたが、結論がなかなか出なかった。
そのうちに道路渋滞が起こってきて、又鉄道に戻ってきた。
観光資源も鎌倉、江ノ島があり、これも大きい。
アテンダントが乗って方言でお客さまの案内をする。(越前鉄道がパイオニア、津軽鉄道、山形鉄道等)
大量輸送で「安全」、次に「安定」 量から質の時代になってきて、癒し、その究極が「安心」。
海外からのお客さまへの言語対応、特に東南アジアへの対応が難しい。
66歳 江ノ島電鉄の前の社長、深谷さんは社長時代毎年年末になると、全行程10kmを歩いて点検していました。
鉄道は生き物というのが深谷さんの持論でした。
鉄道の一番のサービスは安全だという観点からも保守点検には人一倍気を付けてきた人でした。
最初の勤務は保守点検、土木の専攻で小田急に入社したので、鉄道の整備が進んでいたので、花形の作る方をやりたいと思って鉄道会社に入ったが、配属されたのは保線区でした。
正直腐りました。
技術の進歩はあるが最後は人力で油と泥にまみれて、枕木の交換、雨の日はスコップで側溝の清掃をしました。(線路冠水対策)
夜はレールの交換等電車が来ない状態で大規模な工事を行い、昼間は主として草刈り、砂利の締め固める作業など汗まみれです。(電車の往来の合間に行う)
勘一つで整備する職人がいて、その素晴らしさ、責任感は保線区を経験してよかったと思います。
安全は企業の基盤ですから、最後はいくら機械化が進んでも人の眼で見て確認をする。
線路の基本をそこで学んだ。(後で気がつく事でしたが)
材料は鉄、コンクリート、土で(土路盤)土は水を含んだりして条件が変わってきて線路の痛み具合が違う。
「今日大丈夫だから明日が大丈夫という保証はない」と口うるさく言ってきました。
保線区長をやっていた時に、或るとき、運転手からカーブでおかしな所があると指摘されたが、担当者の判断で明日やればいいと言う事で、翌日にしようとしたら、暑い日で線路が外側に一部はみ出る現象が起きてしまい、電車を止める様なことになって、応急処置をしたが(水をかける)、お客様に大変な迷惑を懸けた経験があるので、事故防止は未然処置が大事だと言う事です。
アクシデントになる前のインシデントの時に徹底的に原因、対策ができているかどうか、その姿勢です。
昭和46年入社、当時会社は乗せてやると言う様なスタンスだったように思う。
最近は会社が総合的にレベルが高くないと落ちこぼれます。
国鉄民営化は昭和62年、輸送力増強対策が各社に来ていて、長編成化、複線化、列車の密度を上げるために信号機の増設、信号機のシステムの高度化で列車がスムースに走れるようにしている。
混雑率は以前は200%を越えている事があったが、150~160%ぐらいを目標にやっている。
高架橋作ったり、利用しやすい駅にするとかは入った時に直ぐにやりたかったが。
保線区の3重苦 本数が増えて荷重が繰り返し多く来る、重くなるので線路が痛む、継ぎ目(環境問題)、労力が取れない。
枕木がコンクリートだったが、板にして直接レールを敷く方法を作るように、ロングレールにする、それが3重苦を解決する手段になった。
技術的な裏付けが必要なので、繰り返し試験施工してお墨付きをもらって認可を頂くと言う様に行ってきた。
機械でドンドン突いていってしまうとか、走りながらレールの表面をグラインダーで砥いでゆく装置で行う。
レールの表面が固くなってしまうので、剥がれる現象が起きるので、固い部分を削り落す。
機械化が進んでいるが、最後は人です。(確認、調整)
中小の企業に出向して、鉄道がサービス事業であることを改めて実感したと言う思いです。
沿線の方々と付き合いを大事にしないと、お客様が気持ちよく乗っていただけるかどうかということが大事です。
地方の中小鉄道が如何に常に灯をともし、身を削って経営に努力されているかトップから最前線まで話も聞きますし、自分で行って見て、社長会があった時に意見交換をしてきます。
お客様の絶対量が減っているので、ご苦労は察します。
江ノ島電鉄は10kmであるが、現在黒字です。(開業は明治35年)
一番の危機は昭和39年前後、モータリゼーション、バスの利用等で経営が苦しくなって廃線の検討がされたが、結論がなかなか出なかった。
そのうちに道路渋滞が起こってきて、又鉄道に戻ってきた。
観光資源も鎌倉、江ノ島があり、これも大きい。
アテンダントが乗って方言でお客さまの案内をする。(越前鉄道がパイオニア、津軽鉄道、山形鉄道等)
大量輸送で「安全」、次に「安定」 量から質の時代になってきて、癒し、その究極が「安心」。
海外からのお客さまへの言語対応、特に東南アジアへの対応が難しい。
2015年10月8日木曜日
野田あすか(発達障害のピアニスト) ・あなたはあなたのままでいい
野田あすか(発達障害のピアニスト・母恭子) ・あなたはあなたのままでいい
33歳 あすかさんは子供のころから人とコミュニケーションがうまくとれず様々な戸惑いや苦しみを感じてきました。
高校時代はいじめにも会い、憧れの国立宮崎大学でも過呼吸の発作などから退学をせざるをえませんでした。
自分を傷つける自傷行為も何回かありその原因が広汎性発達障害と判ったのはあすかさんが22歳のときでした。
そんなあすかさんの心の支えになったのは幼いころから続けてきたピアノでした。
数々のコンクールでグランプリや輝かしい成績を収め、4年前遂に念願のソロリサイタルも成功させました。
あすかさんのピアノに心の音を吹き込むきっかけになったのはピアノの恩師田中幸子先生の「あなたはあなたのままでいいのよ」という言葉でした。
初めて自分を肯定してくれたこの言葉はあすかさんに新たな生きる勇気と自分の心を音楽で表現する力を与えてくれました。
演奏会の前日ピアノの練習場であすかさんとお母さん(恭子さん)に伺いました。
あすか:ピアノを弾く時は優しい気持ちで弾きます。
4歳からピアノをやってきました。
母:あすかは子供のころ、優等生でした。
得意な教科は音楽、数学 理科 苦手な教科は美術、体育、社会、 5と2がはっきりしていました。
夫が待ちに待った女の子だったので宝物の様に育ててきました。
あすか:学校のチャイムの始まりと終わりが同じだったので授業が始まりなのか、終わりなのか判りませんでした。 違う音にしてほしい。
母:こだわりと集中力は人一倍強かったです。 ピアノがあすかだと思っています。
あすかは自分の心をつたえるのが苦手ですが、ピアノで伝えることは人一倍得意です。
自分の気持ちを優しくして、優しい気持ちをつたえようとする、その思いは本当にこの子でないとできないと思います。
あすか:お母さんの気持ちが機嫌のいい時と悪い時と音で判る、お母さんがいるからしゃべると怒られます。(笑)
始まりが違います。 機嫌が悪い時は高さがG音一個ずれます。機嫌のいい時は普通です。
母:小学校のころからのあこがれの大学だったので、合格した時には涙を流しながら喜びました。
過呼吸が月に1回から1週間に1回、そして毎日の様に過呼吸を起こしていました。
*あすかさん、苦しかった? 覚えてない?
うん。
*病院に入院したと言うのは覚えているでしょう。
あすか:何となく。
*病院にいた時はピアノ弾いていたの?
あすか:先生がカギを締めるまでは。 駄目と言われても私がピアノを弾くから。
*ピアノが原因だと言われたが、お医者さんたちはそういう風に診たんですか?
母:今は広汎性発達障害という風に診断がでていますが、当時は乖離性障害の方が頻繁に出ていて、何が原因でかえり現象が起こすのかという事で、ピアノではないかとか、私が厳しかったので私が原因ではないかとか、原因追求する為にピアノから離したんです。
このピアノが原因だとしたという事で、鍵を閉めてピアノから離そうとされました。
*乖離性障害とは?
母:ストレスを感じた時に自分が自分で無くなる現象が起きるんです。
中学2年の時に髪の毛をしらない間に抜いたり、過呼吸、リストカット、2階から飛び降りて骨折もしました。右足が不自由になりました。 左足を使います。
努力家で集中力がすごいので、毎日毎日物凄い時間ピアノを弾いています。
12時間とかずーっとピアノを弾いていて飽きないです。
ピアノと一緒に生きている、ピアノに支えられて、ピアノに助けられました。
あすかが元気でいられるのは本当にピアノとともに生きてきたからだと思います。
*「手紙 小さいころの私へ」(作詩 作曲 演奏 歌もあすかさん)
どういう気持ちを込めて作ったのですか?
あすか:あれは小さいころの私に、今の私が手紙を書いたのが歌詞になっていて、内容は私が小さいころに周りに助けてくれた人がいたかもしれないが、自分の気持ちを言っても嫌われると思ったからいわなくて、嘘ついたりして、すごく悪い子だったから、今の私はピアノを弾いて気持ちを伝えられるようになったから、そんなに頑張らなくても周りに味方がいるという風に、小さい頃の私に言いたくて書いて、聞いている人もきっと同じ様にうまくいかなくて苦しんでいる人がいたら、救われるといいなと思いました。
*あすかさん 歌も凄い上手ですね。 声学も勉強したの?
あすか:ううん、歌の授業を受けようとしたけれど、下手だから受けなくていいと先生に言われました。
あすか:20歳超えてから田中先生に会いました。 最初怖い先生とおもいました。
母:宮崎大学からどうしても音楽の勉強をしたいという事で、地元の私立の短期大学に長期履修生として転校しました。
*初めは怖かった先生がとっても好きになった原因は?
あすか:私のいろんな障害を聞いて、皆がどうしようとか思っているのを見て私は少しさびしくて、田中先生は判っていても判っていなくても一緒だったから、この先生は病気ではなくて私のピアノだけを見てくれていると思った時に大好きと思いました。
「貴方は色々あるかもしれないけれども、貴方のピアノは私は大好きだから、貴方は貴方のままでいいんだよ」と言ってくれました。
*それを聞いた時はうれしかった?
あすか:うん、吃驚した。
*自分でリサイタルをやったのは最近ですよね? やりかったの?
あすか:やりたかったけれども無理だと思った、準備とか人を集めたりとかできないから。
一人でホールで弾いてお客さんが一人もいないのはさみしい。
母:前から開きたいと言っていたが、1時間~1時間半の曲を一人で弾くのは体力もですが、覚えられないので無理だと思ったが、色々な方の協力ででき上った時には本当にうれしかったです。
コンサートを開く事で自信につながったので、この自信は本当に大きかったです。
*広汎性発達障害が判ったのはいつごろですか?
母:22歳の時です。
ずーっと病院にも通っていたし、入退院もしていたので、ウイーンに短期留学していて、向こうで倒れてウイーンの国立病院に運ばれて夫婦が迎えにいったが向こうの先生から言われました。
発達障害の名前さえ知らなくて、治らないと言われた時にはショックでした。
それから毎日の様に夜中に夫婦で色々な話し合いをしたが、一番大きな心配は私たちが生きている間はいいのですが、一人になった時に生き抜く力があるのだろうかとか、これから一人で行くにはどうしたらいいのかとか、それには結論が出ないんですね。
それが一番辛かったです。
*発達障害と判った時にあすかさんはどう思いましたか?
あすか:良かったと思った。 今までいろんなことを皆と同じようにできるように努力してきましたけれど、なかなか皆と同じようにできないことがいっぱいあって、私はみんなよりがんばってないんだとおもって、もっともっと頑張ったができないことがいっぱいあって、できないことがある障害だと言われた時に、私の努力もそこまでやらなくても、良かった、こんなに頑張っていたものでと思った。
気が楽になりました。
*リサイタルが終わった時田中先生は何とおっしゃいました。
あすか:なんか言いたそうに褒めてくれた。(笑)
「上出来です」と言ってくれました。でもその前に「宿題はありますけど」、と言った。
そこ何かあるでしょう。
母:リサイタルが終わって涙が出まして、花束をあすかから貰ったんですが、あすかに私が「いい先生に出会って良かったね」といったら、あすかがぽろぽろ涙を流しながら「そうだよ、いい先生に出会って良かったよ、大学も社会も私を全部知っていたけれど、この先生だけは私を受け入れてくれた」という一言に本当に涙が出ました。
あすかの一番苦しい時は、一人でいろいろ乖離現象と闘っていた頃、何かみんなと違うのではないかと比べていた時が一番苦しかったと思う。
気がついてあげられなかったことが残念でした。
この子の優しい音を聞いていると、苦しさと一緒にあるから、優しい音が出されるのではないかと思い、そのサポートをするのが親の役目ではないかと最近では感じています。
自宅で7名ぐらい生徒を教えています。
あすか:でも辞めようかと思っています。 演奏活動を一生懸命頑張っていきたくて。
私がレッスンを休んでしまうと小さい子はやる気が無くなってしまうので、最初から毎週レッスンしてくれる先生に預けることが丁寧だと思いました。
*あすかさんの経験を、同じような悩みを持っている方々に講演などで話をされているそうですね?
母:あすかの音を聞いていただきたい。 音楽を伝えたいそのサポートの方に回ろうと思います。
よりあすかが輝く様に、そういう講演をしたいと思います。
*ピアノを通してどんなことを聞く人に判ってほしい? 伝えたいですか?
あすか:どんな人にもほっとしてもらいたいです。聞いて、今日も頑張ろうと思ってほしいです。
これからも はい 弾き続けます。
母:演奏活動をしてゆく中で、心と心のふれあい、自分の音が相手につたわった喜びを感じ始め出したので、それを沢山の人に知ってほしいと思います。
どんな障害の方でも生きる力になること、何か生きる力はあすかの場合はピアノだったので、そういったものを探して一緒に頑張っていけたらいいなと思っています。
「生きるためのメロディー」(作詩 作曲 演奏 歌もあすかさん)
あすか:私が初めて作った曲で、人がそれぞれ違うんだよという事を題にしていて、みな親も違うし、生活も違うし、障害のあるかないかも違うし、いろいろ違うけど一人ひとりみんな一生懸命生きていて、一人ひとり違ってそれでいいと言うのを歌にしました。
33歳 あすかさんは子供のころから人とコミュニケーションがうまくとれず様々な戸惑いや苦しみを感じてきました。
高校時代はいじめにも会い、憧れの国立宮崎大学でも過呼吸の発作などから退学をせざるをえませんでした。
自分を傷つける自傷行為も何回かありその原因が広汎性発達障害と判ったのはあすかさんが22歳のときでした。
そんなあすかさんの心の支えになったのは幼いころから続けてきたピアノでした。
数々のコンクールでグランプリや輝かしい成績を収め、4年前遂に念願のソロリサイタルも成功させました。
あすかさんのピアノに心の音を吹き込むきっかけになったのはピアノの恩師田中幸子先生の「あなたはあなたのままでいいのよ」という言葉でした。
初めて自分を肯定してくれたこの言葉はあすかさんに新たな生きる勇気と自分の心を音楽で表現する力を与えてくれました。
演奏会の前日ピアノの練習場であすかさんとお母さん(恭子さん)に伺いました。
あすか:ピアノを弾く時は優しい気持ちで弾きます。
4歳からピアノをやってきました。
母:あすかは子供のころ、優等生でした。
得意な教科は音楽、数学 理科 苦手な教科は美術、体育、社会、 5と2がはっきりしていました。
夫が待ちに待った女の子だったので宝物の様に育ててきました。
あすか:学校のチャイムの始まりと終わりが同じだったので授業が始まりなのか、終わりなのか判りませんでした。 違う音にしてほしい。
母:こだわりと集中力は人一倍強かったです。 ピアノがあすかだと思っています。
あすかは自分の心をつたえるのが苦手ですが、ピアノで伝えることは人一倍得意です。
自分の気持ちを優しくして、優しい気持ちをつたえようとする、その思いは本当にこの子でないとできないと思います。
あすか:お母さんの気持ちが機嫌のいい時と悪い時と音で判る、お母さんがいるからしゃべると怒られます。(笑)
始まりが違います。 機嫌が悪い時は高さがG音一個ずれます。機嫌のいい時は普通です。
母:小学校のころからのあこがれの大学だったので、合格した時には涙を流しながら喜びました。
過呼吸が月に1回から1週間に1回、そして毎日の様に過呼吸を起こしていました。
*あすかさん、苦しかった? 覚えてない?
うん。
*病院に入院したと言うのは覚えているでしょう。
あすか:何となく。
*病院にいた時はピアノ弾いていたの?
あすか:先生がカギを締めるまでは。 駄目と言われても私がピアノを弾くから。
*ピアノが原因だと言われたが、お医者さんたちはそういう風に診たんですか?
母:今は広汎性発達障害という風に診断がでていますが、当時は乖離性障害の方が頻繁に出ていて、何が原因でかえり現象が起こすのかという事で、ピアノではないかとか、私が厳しかったので私が原因ではないかとか、原因追求する為にピアノから離したんです。
このピアノが原因だとしたという事で、鍵を閉めてピアノから離そうとされました。
*乖離性障害とは?
母:ストレスを感じた時に自分が自分で無くなる現象が起きるんです。
中学2年の時に髪の毛をしらない間に抜いたり、過呼吸、リストカット、2階から飛び降りて骨折もしました。右足が不自由になりました。 左足を使います。
努力家で集中力がすごいので、毎日毎日物凄い時間ピアノを弾いています。
12時間とかずーっとピアノを弾いていて飽きないです。
ピアノと一緒に生きている、ピアノに支えられて、ピアノに助けられました。
あすかが元気でいられるのは本当にピアノとともに生きてきたからだと思います。
*「手紙 小さいころの私へ」(作詩 作曲 演奏 歌もあすかさん)
どういう気持ちを込めて作ったのですか?
あすか:あれは小さいころの私に、今の私が手紙を書いたのが歌詞になっていて、内容は私が小さいころに周りに助けてくれた人がいたかもしれないが、自分の気持ちを言っても嫌われると思ったからいわなくて、嘘ついたりして、すごく悪い子だったから、今の私はピアノを弾いて気持ちを伝えられるようになったから、そんなに頑張らなくても周りに味方がいるという風に、小さい頃の私に言いたくて書いて、聞いている人もきっと同じ様にうまくいかなくて苦しんでいる人がいたら、救われるといいなと思いました。
*あすかさん 歌も凄い上手ですね。 声学も勉強したの?
あすか:ううん、歌の授業を受けようとしたけれど、下手だから受けなくていいと先生に言われました。
あすか:20歳超えてから田中先生に会いました。 最初怖い先生とおもいました。
母:宮崎大学からどうしても音楽の勉強をしたいという事で、地元の私立の短期大学に長期履修生として転校しました。
*初めは怖かった先生がとっても好きになった原因は?
あすか:私のいろんな障害を聞いて、皆がどうしようとか思っているのを見て私は少しさびしくて、田中先生は判っていても判っていなくても一緒だったから、この先生は病気ではなくて私のピアノだけを見てくれていると思った時に大好きと思いました。
「貴方は色々あるかもしれないけれども、貴方のピアノは私は大好きだから、貴方は貴方のままでいいんだよ」と言ってくれました。
*それを聞いた時はうれしかった?
あすか:うん、吃驚した。
*自分でリサイタルをやったのは最近ですよね? やりかったの?
あすか:やりたかったけれども無理だと思った、準備とか人を集めたりとかできないから。
一人でホールで弾いてお客さんが一人もいないのはさみしい。
母:前から開きたいと言っていたが、1時間~1時間半の曲を一人で弾くのは体力もですが、覚えられないので無理だと思ったが、色々な方の協力ででき上った時には本当にうれしかったです。
コンサートを開く事で自信につながったので、この自信は本当に大きかったです。
*広汎性発達障害が判ったのはいつごろですか?
母:22歳の時です。
ずーっと病院にも通っていたし、入退院もしていたので、ウイーンに短期留学していて、向こうで倒れてウイーンの国立病院に運ばれて夫婦が迎えにいったが向こうの先生から言われました。
発達障害の名前さえ知らなくて、治らないと言われた時にはショックでした。
それから毎日の様に夜中に夫婦で色々な話し合いをしたが、一番大きな心配は私たちが生きている間はいいのですが、一人になった時に生き抜く力があるのだろうかとか、これから一人で行くにはどうしたらいいのかとか、それには結論が出ないんですね。
それが一番辛かったです。
*発達障害と判った時にあすかさんはどう思いましたか?
あすか:良かったと思った。 今までいろんなことを皆と同じようにできるように努力してきましたけれど、なかなか皆と同じようにできないことがいっぱいあって、私はみんなよりがんばってないんだとおもって、もっともっと頑張ったができないことがいっぱいあって、できないことがある障害だと言われた時に、私の努力もそこまでやらなくても、良かった、こんなに頑張っていたものでと思った。
気が楽になりました。
*リサイタルが終わった時田中先生は何とおっしゃいました。
あすか:なんか言いたそうに褒めてくれた。(笑)
「上出来です」と言ってくれました。でもその前に「宿題はありますけど」、と言った。
そこ何かあるでしょう。
母:リサイタルが終わって涙が出まして、花束をあすかから貰ったんですが、あすかに私が「いい先生に出会って良かったね」といったら、あすかがぽろぽろ涙を流しながら「そうだよ、いい先生に出会って良かったよ、大学も社会も私を全部知っていたけれど、この先生だけは私を受け入れてくれた」という一言に本当に涙が出ました。
あすかの一番苦しい時は、一人でいろいろ乖離現象と闘っていた頃、何かみんなと違うのではないかと比べていた時が一番苦しかったと思う。
気がついてあげられなかったことが残念でした。
この子の優しい音を聞いていると、苦しさと一緒にあるから、優しい音が出されるのではないかと思い、そのサポートをするのが親の役目ではないかと最近では感じています。
自宅で7名ぐらい生徒を教えています。
あすか:でも辞めようかと思っています。 演奏活動を一生懸命頑張っていきたくて。
私がレッスンを休んでしまうと小さい子はやる気が無くなってしまうので、最初から毎週レッスンしてくれる先生に預けることが丁寧だと思いました。
*あすかさんの経験を、同じような悩みを持っている方々に講演などで話をされているそうですね?
母:あすかの音を聞いていただきたい。 音楽を伝えたいそのサポートの方に回ろうと思います。
よりあすかが輝く様に、そういう講演をしたいと思います。
*ピアノを通してどんなことを聞く人に判ってほしい? 伝えたいですか?
あすか:どんな人にもほっとしてもらいたいです。聞いて、今日も頑張ろうと思ってほしいです。
これからも はい 弾き続けます。
母:演奏活動をしてゆく中で、心と心のふれあい、自分の音が相手につたわった喜びを感じ始め出したので、それを沢山の人に知ってほしいと思います。
どんな障害の方でも生きる力になること、何か生きる力はあすかの場合はピアノだったので、そういったものを探して一緒に頑張っていけたらいいなと思っています。
「生きるためのメロディー」(作詩 作曲 演奏 歌もあすかさん)
あすか:私が初めて作った曲で、人がそれぞれ違うんだよという事を題にしていて、みな親も違うし、生活も違うし、障害のあるかないかも違うし、いろいろ違うけど一人ひとりみんな一生懸命生きていて、一人ひとり違ってそれでいいと言うのを歌にしました。
2015年10月7日水曜日
鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター) ・フラに癒された介護の日々
鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター) ・フラに癒された介護の日々
横浜市出身 商事会社に勤めていた時に母親が倒れて40代半ばで会社を辞めて父親と一緒に介護を始めました。
以来17年間におよぶ介護が続きます。
先が見えない介護の日々を慰めてくれたのが近所のスポーツクラブで出会ったフラダンスだそうです。
鮫ヶ井さんはご両親を看取った後、日本フラダンス協会公認のインストラクターとして舞台でフランダンスを披露したり、教室で教えたりしてフラダンスの魅力を伝えています。
43歳の時に母が脳梗塞で倒れて、半身不随になり介護を始めました。
もともと血圧が高くてお医者さんに掛かっていたが、倒れた時に主治医に電話して、救急車で行きたくないと言う事で医者が来て、布団を敷いてくれてそこから家での介護が始まりました。
病院に行くと帰れないとの思いが強くて、家にいたいと言う意志が凄く強くて、父と私で介護しました。
出勤前に朝食を作って、お昼も作って出勤して帰りに買い物をして夕飯を作りという様にして3年ぐらい続きました。
父がタオルで熱くして患部にあてて、曲げたり伸ばたりしてリハビリをして、良くなってきて杖をついて歩けるようには成りました。
その時母は73歳 父は80歳近かった。
今思うと家で介護できたのは良かったと思う。
おむつをあてたくないと言う事で夜中にも2時間おきぐらいにトイレに連れて行ってました。
自分も病気になったりして入院したので、ヘルパーさんを頼むようになり、結果的には良かったと思います。
ヘルパーさんは初めての経験の人でお互い手探りで、いい関係でやれたと思いました。
その後その人はケアマネージャーの資格を取ったので、又次の人が来るようになりました。
デーサービスの情報が入ってきて、デーサービスも週に1回行くようになり時間的にも余裕が持てるようになりました。
介護をして時間ができて来た時に、散歩に出かけたりして、身体全体を動かしたくなりスポーツクラブに入って、1時間ぐらいスポーツクラブに行っていた。(行き帰りを含め2時間)
その時にフラにめぐり合うことができ、はまってしまってそれからの付き合いになりました。
癒される音楽、一つ一つの手の動きとかに意味があり、興味を持った。
ハワイ語を使うので、一つ一つ勉強しているとそれも覚えてゆく楽しみもあった。
段々判ってくるともっと楽しくなってきた。
花、雨、風、ヤシの木、波等を手の指先、手全体、身体とかで色々表現する。
心があるので眼とか顔の表情で気持ちを表す。
喜び、悲しみとかを顔で表現するが、フラは笑顔が多いので癒されと思う。
「アロハ」 は色々な意味がある。
旅行と言えば1泊はできず、母がデーサービスがあった時に横浜とか鎌倉あたりに行ってくるぐらいだった。
スポーツクラブで新しい友達ができるようになった。
忙しくても、短くてもいいから如何に楽しい時間を作るかが大事だと思います。
母が気力を失わない様に、料理にしても母に味付けをして貰うとか、母ではないとできないと言う様に、母が必要な人間だと言う事を思ってもらう様に心掛けました。
季節感を味わってもらう様に1年の行事を色々やりました。
正月の行事、お雛様、お花見、十五夜(母はウサギ年)、等季節感を大事にしていました。
身体は段々衰えれて行きましたが、頭は亡くなるまでしっかりしていました。
倒れたあとも白内障の手術をしました。
完全看護は一緒に泊まれない時があり、頼み込んで廊下の待合室に寝たりしたこともあります。
父は元気だったが、或るときに健康診断で急性骨髄性白血病であることが判り、それから入院、輸血もしたが、89歳で亡くなりました。(父の方が先に逝ってしまった)
父は明治の人で弱音を吐かない人だった。
母もあまり弱音を吐かなかったが、90歳で亡くなった。(17年間の介護だった)
来るべき時が段々ときたなと思ってある種の覚悟ができていたのか、その時は涙は出なかった。
介護はこれでいいと言う事は無いと思う。
親戚、近所の方から、もう貴方はこれだけ介護したんだから、好きなことをしなさい、何でもやっても誰も文句を言う人はいないと言われて、直ぐに自然とフラの方に行きました。
インストラクターとして現在活動しています。
教えながらも癒されています。
ハワイにもたびたび行っています。
舞台、イベントでは付けまつげ、口紅、髪の毛をアップしたり、ドウランを塗ったり衣装を着てある種の変身、日常から離れた世界に入るので、それが楽しいと言う人もいます。
80歳ぐらいの人もいるので年齢に関係なく自分のレベルに合った踊り方をすればいいと思います。
教室の来年発表会があるので頑張りたいと思います。
横浜市出身 商事会社に勤めていた時に母親が倒れて40代半ばで会社を辞めて父親と一緒に介護を始めました。
以来17年間におよぶ介護が続きます。
先が見えない介護の日々を慰めてくれたのが近所のスポーツクラブで出会ったフラダンスだそうです。
鮫ヶ井さんはご両親を看取った後、日本フラダンス協会公認のインストラクターとして舞台でフランダンスを披露したり、教室で教えたりしてフラダンスの魅力を伝えています。
43歳の時に母が脳梗塞で倒れて、半身不随になり介護を始めました。
もともと血圧が高くてお医者さんに掛かっていたが、倒れた時に主治医に電話して、救急車で行きたくないと言う事で医者が来て、布団を敷いてくれてそこから家での介護が始まりました。
病院に行くと帰れないとの思いが強くて、家にいたいと言う意志が凄く強くて、父と私で介護しました。
出勤前に朝食を作って、お昼も作って出勤して帰りに買い物をして夕飯を作りという様にして3年ぐらい続きました。
父がタオルで熱くして患部にあてて、曲げたり伸ばたりしてリハビリをして、良くなってきて杖をついて歩けるようには成りました。
その時母は73歳 父は80歳近かった。
今思うと家で介護できたのは良かったと思う。
おむつをあてたくないと言う事で夜中にも2時間おきぐらいにトイレに連れて行ってました。
自分も病気になったりして入院したので、ヘルパーさんを頼むようになり、結果的には良かったと思います。
ヘルパーさんは初めての経験の人でお互い手探りで、いい関係でやれたと思いました。
その後その人はケアマネージャーの資格を取ったので、又次の人が来るようになりました。
デーサービスの情報が入ってきて、デーサービスも週に1回行くようになり時間的にも余裕が持てるようになりました。
介護をして時間ができて来た時に、散歩に出かけたりして、身体全体を動かしたくなりスポーツクラブに入って、1時間ぐらいスポーツクラブに行っていた。(行き帰りを含め2時間)
その時にフラにめぐり合うことができ、はまってしまってそれからの付き合いになりました。
癒される音楽、一つ一つの手の動きとかに意味があり、興味を持った。
ハワイ語を使うので、一つ一つ勉強しているとそれも覚えてゆく楽しみもあった。
段々判ってくるともっと楽しくなってきた。
花、雨、風、ヤシの木、波等を手の指先、手全体、身体とかで色々表現する。
心があるので眼とか顔の表情で気持ちを表す。
喜び、悲しみとかを顔で表現するが、フラは笑顔が多いので癒されと思う。
「アロハ」 は色々な意味がある。
旅行と言えば1泊はできず、母がデーサービスがあった時に横浜とか鎌倉あたりに行ってくるぐらいだった。
スポーツクラブで新しい友達ができるようになった。
忙しくても、短くてもいいから如何に楽しい時間を作るかが大事だと思います。
母が気力を失わない様に、料理にしても母に味付けをして貰うとか、母ではないとできないと言う様に、母が必要な人間だと言う事を思ってもらう様に心掛けました。
季節感を味わってもらう様に1年の行事を色々やりました。
正月の行事、お雛様、お花見、十五夜(母はウサギ年)、等季節感を大事にしていました。
身体は段々衰えれて行きましたが、頭は亡くなるまでしっかりしていました。
倒れたあとも白内障の手術をしました。
完全看護は一緒に泊まれない時があり、頼み込んで廊下の待合室に寝たりしたこともあります。
父は元気だったが、或るときに健康診断で急性骨髄性白血病であることが判り、それから入院、輸血もしたが、89歳で亡くなりました。(父の方が先に逝ってしまった)
父は明治の人で弱音を吐かない人だった。
母もあまり弱音を吐かなかったが、90歳で亡くなった。(17年間の介護だった)
来るべき時が段々ときたなと思ってある種の覚悟ができていたのか、その時は涙は出なかった。
介護はこれでいいと言う事は無いと思う。
親戚、近所の方から、もう貴方はこれだけ介護したんだから、好きなことをしなさい、何でもやっても誰も文句を言う人はいないと言われて、直ぐに自然とフラの方に行きました。
インストラクターとして現在活動しています。
教えながらも癒されています。
ハワイにもたびたび行っています。
舞台、イベントでは付けまつげ、口紅、髪の毛をアップしたり、ドウランを塗ったり衣装を着てある種の変身、日常から離れた世界に入るので、それが楽しいと言う人もいます。
80歳ぐらいの人もいるので年齢に関係なく自分のレベルに合った踊り方をすればいいと思います。
教室の来年発表会があるので頑張りたいと思います。
2015年10月6日火曜日
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第18回 太平洋戦争の日々(H27/7/5 放送)
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第18回 太平洋戦争の日々(H27/7/5 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_5.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/07/blog-post_5.htmlをご覧ください。
2015年10月5日月曜日
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第17回太平洋戦争の日々(3)(H27/6/7 放送)
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第17回太平洋戦争の日々(3)
兵士たちの姿(H27/6/7 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_7.htmlをご覧ください。
兵士たちの姿(H27/6/7 放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/06/blog-post_7.htmlをご覧ください。
2015年10月4日日曜日
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第21回 新しい教育制度
保阪正康(ノンフィクション作家) ・昭和史を味わう 第21回 新しい教育制度
6・3・3・4制の誕生 昭和20年 8月ポツダム宣言が戦後日本の大本。
13条からなっているが、6条、7条 日本人の国民の意識が自由に表明できるような制度、意識を持つまで私たちは占領を続けると言っている。
教育内容について強い意志で監視すると言っている。
国家主義、軍国主義の教育は廃止せよ、市民の権利を自覚する様な新しい国民に成れと言うのが、アメリカ側の意志だったと思います。
民主化に関する 5大改革を急ぐように指示。
①女性への参政権、
②労働組合を作りなさい
③司法 秘密警察を撤廃
④経済制度を民主主義化しなさい
⑤学校教育の軍国主義教育を止めて自由主義教育に切り替えなさい。
⑤を進めるにあたって
a教科書の全面的な改定
b複雑だった教育制度を一本化するように指示
a教科書の全面的な改定
アメリカが命令していない中で文部省の意図を受けた先生たちが自発的に軍国主義的なところの、教科書に墨を塗ってゆく様に指示する。(3~4カ月続く)
昭和21年入学生は先生がガリ版印刷でそれを教科書としていて、かなり混乱していたようだ。
b複雑だった教育制度を一本化するように指示
マッカーサの要請でアメリカの教育学者30人位が昭和21年3月 日本に来て、視察、分析する。
日本でも教育者委員会を作って、調整の会議などもやってアメリカ側と話し合った。
一番重要なのは6・3・3・4制の制度
国家主義的な教育の全面的な中止
民主的な学校にしてゆく、男女共学制の導入。(女性の地位を高めるためもある)
教育基本法 昭和22年3月
①自主性を尊重する。
②個人の能力を発揮する様な教育の場の提供。
③国家があまり教育の現場に介入しない。
学校を造る予算が無くて、段階的に制度を導入するように要請したが、GHQ側はすぐ実行するようにとの指示があった。
「山びこ学校」 無着成恭先生 地方での一つのテストケースといわれる。
つづり方教室 自分で意見を表現する、どの様に成長して行くかを一番良く示すと思う。
『山びこ学校』の中学生の答辞 佐藤藤三郎さん 昭和26年3月
「私達が中学校に入る頃は、先生というものをほとんど信用しない様になっていました。
私達は昭和17年の4月小学校の一年生に入ったのです。・・・
戦争が終わったのが昭和20年8月15日でした、私達が小学校4年生でした。
先生というものは分殴るから恐ろしいものだと思っていたのが、急に優しくなったので変に思いました。
そのころから急に「勝手だべー」という言葉がはやり出しました。・・・
お父さんの煙草などをふかしたりしました。
お父さんに見つけられてしかられると、「勝手だべー」と言って逃げていく子になってしまったのでした。
先生から掃除をしろと言われても 「勝手だべー」と言って逃げていくのでした。
・・・
なにをやっても「勝手だべー」というような風潮があったが、無着成恭先生からは本物の勉強をさせてもらった。
それが証拠には今では誰一人「勝手だベー」
という様な人は一人もいません。
私達が中学校で習った事は人間の命というものは素晴らしく大事なことだと学んだ。
素晴らしく大事な命も生きてゆく態度を間違えば、さっぱり値打ちのないものだという事を習った。 これからは自分の脳みそを信じ、自分の脳みそで判断しなければならなくなります。
先生と別れる事はさびしいことですが、しかし私たちは教えられてきた一つの方向に向かってやって行きます」という様な内容。
「勝手だべー」というのは自由のはき違いであり、それを先生が直してゆく。
自由には責任がある。
責任は基本的には人間の命を大事にするという精神から出発しているという事を教えてゆくのが教育だったんだろうと思います。
「真相はこうだ」 ラジオ番組 GHQの民間情報教育局が台本を作った。
日本人自身が自分たちで真相を調べる力が無くGHQに頼った。
日本人が自由を理解してゆくためには過去を全部知らなくてはいけないと言う前提で、過去の隠されていた真実を教えるわけです。(アメリカの手法が感じられる)
ガダルカナル、ミッドウエー沖海戦、南京虐殺、沖縄戦なども伝えられる。(次の放送「真相箱」含め)
その後「質問箱」に代わる。 今の問題のこととかかわる内容になる。
6・3・3・4制の誕生 昭和20年 8月ポツダム宣言が戦後日本の大本。
13条からなっているが、6条、7条 日本人の国民の意識が自由に表明できるような制度、意識を持つまで私たちは占領を続けると言っている。
教育内容について強い意志で監視すると言っている。
国家主義、軍国主義の教育は廃止せよ、市民の権利を自覚する様な新しい国民に成れと言うのが、アメリカ側の意志だったと思います。
民主化に関する 5大改革を急ぐように指示。
①女性への参政権、
②労働組合を作りなさい
③司法 秘密警察を撤廃
④経済制度を民主主義化しなさい
⑤学校教育の軍国主義教育を止めて自由主義教育に切り替えなさい。
⑤を進めるにあたって
a教科書の全面的な改定
b複雑だった教育制度を一本化するように指示
a教科書の全面的な改定
アメリカが命令していない中で文部省の意図を受けた先生たちが自発的に軍国主義的なところの、教科書に墨を塗ってゆく様に指示する。(3~4カ月続く)
昭和21年入学生は先生がガリ版印刷でそれを教科書としていて、かなり混乱していたようだ。
b複雑だった教育制度を一本化するように指示
マッカーサの要請でアメリカの教育学者30人位が昭和21年3月 日本に来て、視察、分析する。
日本でも教育者委員会を作って、調整の会議などもやってアメリカ側と話し合った。
一番重要なのは6・3・3・4制の制度
国家主義的な教育の全面的な中止
民主的な学校にしてゆく、男女共学制の導入。(女性の地位を高めるためもある)
教育基本法 昭和22年3月
①自主性を尊重する。
②個人の能力を発揮する様な教育の場の提供。
③国家があまり教育の現場に介入しない。
学校を造る予算が無くて、段階的に制度を導入するように要請したが、GHQ側はすぐ実行するようにとの指示があった。
「山びこ学校」 無着成恭先生 地方での一つのテストケースといわれる。
つづり方教室 自分で意見を表現する、どの様に成長して行くかを一番良く示すと思う。
『山びこ学校』の中学生の答辞 佐藤藤三郎さん 昭和26年3月
「私達が中学校に入る頃は、先生というものをほとんど信用しない様になっていました。
私達は昭和17年の4月小学校の一年生に入ったのです。・・・
戦争が終わったのが昭和20年8月15日でした、私達が小学校4年生でした。
先生というものは分殴るから恐ろしいものだと思っていたのが、急に優しくなったので変に思いました。
そのころから急に「勝手だべー」という言葉がはやり出しました。・・・
お父さんの煙草などをふかしたりしました。
お父さんに見つけられてしかられると、「勝手だべー」と言って逃げていく子になってしまったのでした。
先生から掃除をしろと言われても 「勝手だべー」と言って逃げていくのでした。
・・・
なにをやっても「勝手だべー」というような風潮があったが、無着成恭先生からは本物の勉強をさせてもらった。
それが証拠には今では誰一人「勝手だベー」
という様な人は一人もいません。
私達が中学校で習った事は人間の命というものは素晴らしく大事なことだと学んだ。
素晴らしく大事な命も生きてゆく態度を間違えば、さっぱり値打ちのないものだという事を習った。 これからは自分の脳みそを信じ、自分の脳みそで判断しなければならなくなります。
先生と別れる事はさびしいことですが、しかし私たちは教えられてきた一つの方向に向かってやって行きます」という様な内容。
「勝手だべー」というのは自由のはき違いであり、それを先生が直してゆく。
自由には責任がある。
責任は基本的には人間の命を大事にするという精神から出発しているという事を教えてゆくのが教育だったんだろうと思います。
「真相はこうだ」 ラジオ番組 GHQの民間情報教育局が台本を作った。
日本人自身が自分たちで真相を調べる力が無くGHQに頼った。
日本人が自由を理解してゆくためには過去を全部知らなくてはいけないと言う前提で、過去の隠されていた真実を教えるわけです。(アメリカの手法が感じられる)
ガダルカナル、ミッドウエー沖海戦、南京虐殺、沖縄戦なども伝えられる。(次の放送「真相箱」含め)
その後「質問箱」に代わる。 今の問題のこととかかわる内容になる。
2015年10月3日土曜日
玉本英子(ジャーナリスト) ・誰でも加害者になる ~戦火の中東 取材報告
玉本英子(ジャーナリスト) ・誰でも加害者になる ~戦火の中東 取材報告
48歳 玉本さんは1994年からアジアプレスインターナショナルというフリーのジャーナリストが集まる組織に所属しています。
アフガニスタン、シリア、イラクなど戦地の様子を撮影し、TV、新聞、著書等を通じて伝え続けています。
21年間にわたる中東取材で何が見えてきたのか伺いました。
今年も5月ごろまでイラクの北部でIS支配地域との最前線まで行っていました。
クルド自治区とISの支配地域が隣り合わせになっているので、クルド自治区を拠点にIS支配地域ギリギリまで行っていた。
荒野に3mの高さに塹壕が掘られていて毎日の様に戦闘が行われています。
IS側が夜に忍び込んで来ると言う事があるので対応できるようにしている。
塹壕の近くの最前線でも普通の人が暮らしているのには吃驚した。
ISが非常に勢力を伸ばしてきたのが昨年辺りから、去年6月にイラク北部の第二の都市モスルを襲撃して、その後に近辺にイスラム教徒とは違う、ヤジディ教を信仰している、クルド人がいるが、この人たちが暮らしている村々を去年8月にISが襲撃した。
フセイン政権時代でもヤジディは悪魔崇拝だと言う考え方を持つ人たちが沢山いて、抑圧されて迫害されるという事がありました。
2012年にヤジディの村に結婚式に呼ばれた。
何にもない砂漠地帯に一つテントが張られ、花嫁は白いウエディングドレス(17歳)、男性はスーツを着て、500人位の人が着飾って、手をつないで踊って結婚を祝っていた。(私も参加)
去年の8月にはこの村もISに襲撃されて、女性たちは拉致されて、男性達は殺されました。
結婚式で出あった彼らが元気にしているのかどうかは判らない。
男性たちにはイスラム教徒に成れと、ならなければ殺すというが、イスラム教には成れないと言うとその場で射殺される。
女性たちは戦利品(奴隷)としてISの支配地域に連れ去られ、その数は3000~4000人といわれる。
女性たちは大きな施設に収容されて、ISの戦闘員がやってきて、自分の奥さんを探しに来る。
イスラム教の教えでは売春は認められていないので、奥さんにすれば性的関係を持てるので、強制結婚をすることによって所謂レイプする事になる。
ISの戦闘員が暮らしている宿舎に連れてゆき、レイプして、1カ月ぐらいすると他の戦闘員に売るとか、そのようなことが起きている。
このような情報はISの支配地域から逃れて来る女性がいるので、彼女等から様々な経験を聞いています。
ヒアンさん(19歳) 拉致されたが、その時にはすでに結婚していてお腹には赤ちゃんがいたが、強制結婚させられレイプされてしまった、身体に傷も負わされた。
世界に彼女たちの事を知らせなくてはいけないと言う思いが高まりました。
ISだけでなく戦争というものは人々を残酷にしてゆくものではないかと思います。
戦争は敵の人を殺すことなので、相手を人として見なくなり残酷になる。
湯川さん、後藤さんが殺害された時にイラクにいましたが、何かあった時に国に迷惑をかけるのではないかと思いましたが、ネット等で中傷されてたりしましたが、見た時には本当に辛かったが、まだ答えが出ていないが、安全面を十分に気を付けながら現場に出ていきたいと思っている。
この行動は自分の責任で有ることは紙に残しています。
もともとは大阪のデザイン会社でポスターやパンフレットなどのデザインをしていました。
たまたまTVニュースを見てその映像に非常にショックを受けたのがきっかけでした。
ドイツでクルド人が抗議行動を起こしていて、その中の数人が自分の体にガソリンをまいて火を付けて、ドイツの機動隊に突っ込むという衝撃映像だった。
色々疑問に残って、もっともっと知りたいと思って、ヨーロッパに出かけた。
クルド人が集まるカフェがあって、話を聞いたりして通っていたが、たまたまTVでみたその人がやってきた。
行動を起こした理由を聞いたら、私の故郷にいったら私がなぜやったのか、君も同じ事をやるだろうと言われて、彼の故郷であるトルコの南東部に行った。
トルコの人口の1/5がクルド人で1000万人以上いて、国を作りたいとトルコからの分離独立を目指していて、クルドゲリラが現れてトルコ軍との烈しい戦闘が行われていた。
トルコの南東部にはクルド人が多く生活していて、クルドゲリラに登録しているのではないかということで、そこにトルコ治安警察が村の人たちを捕まえて拷問したり刑務所に入れたりして人権侵害が行われていた。
パン屋さんの男性は電気拷問を受けて、爪が真っ黒になって潰れていたが、そういった人たちから聞いた話は経験したことのない様な事で本当に吃驚した。
日本の人たちも知るべきではないかと思って、ジャーナリストになりたいと思った。
取材をする中で拷問を受ける人は弱者だったが、弱者が加害者になると言う側面があると言う現実を知った。
シリアではISが拡大しているが、若いクルドの女性たちが銃を持ってISと対峙している状況を見ました。
復讐すると言う事で銃を持つが、銃を持つと言う事は人を殺すということです。
それを止めることは非常に難しいと思う。(負の連鎖)
父は5歳の時に広島の爆心地から1.1kmのところで被爆しましたが、今の活動を始めた時はそこまで考えたことはなかったのですが、今にして思えば影響しているのかなと思います。
2006年6月、7月にイラクの東部のハラブジャで原爆展を私が開きました。
ハラブジャという町は1988年にフセイン政権が 毒ガス爆弾を落として5000人が亡くなった。
(ハラブジャ事件)
「ハラブ島」とそこの住民は呼んでいて、ハラブジャと広島をミックスした造語であり、イラクの広島だと言っていたが、 父の事も話をしたりするうちに、ここで原爆展を開けたらと思う様になった。
広島の復興した様子などの写真も掲載し、説明した。
被害と加害の両方を知ってもらいたいと思って、中国に進出した写真も掲載して、平和の大切さを心に刻むことができるのではないかなあという風な思いがありました。
戦争を止めるヒント、戦争が始まるヒントが見えてくるかも知れないと思って、そういったものが伝えられたらいいなと思います。
今年の3月と4月にクルド自治区の治安当局に拘束された元IS戦闘員の面会取材を行いました。
神様のためなら死も恐れない人達という怖いイメージがあったが、本当に普通の人だった。
イラクに何回もスパイ容疑で捕まって、拷問を受けて死にそうになるぐらい首を絞められて、母親も逮捕されて、復讐したいと思ってISに入ったとの事だった。
以前文房具屋をやっていて銃を扱ったことはなかったが、急に銃を渡されて前線に行かされることになり、恐ろしかったと言っている。
怖さを逃れるため、痛みをしのぐためなどでにコカインを使用したりしている。
特別な人達が殺し合っているのではなくて、本当に普通の人達が戦争というのは殺し合う、残酷で絶対できないと言う様に感じている事でも、やってしまうんだなという事を知りました。
戦争は何もプラスにはならない、戦争は何なのかという事を伝えたいと思っています。
平和授業での子供達の感想文 友達になることが一番大事だと、友達になることが戦争をやめたり、戦争をとめたりする一つのきっかけになるかもしれない、という内容のもので、学ばされました。
いま現実に世界で起きている事(戦争、紛争 そこから派生する諸々の悲劇等)を知ることは非常に大事なことです。
48歳 玉本さんは1994年からアジアプレスインターナショナルというフリーのジャーナリストが集まる組織に所属しています。
アフガニスタン、シリア、イラクなど戦地の様子を撮影し、TV、新聞、著書等を通じて伝え続けています。
21年間にわたる中東取材で何が見えてきたのか伺いました。
今年も5月ごろまでイラクの北部でIS支配地域との最前線まで行っていました。
クルド自治区とISの支配地域が隣り合わせになっているので、クルド自治区を拠点にIS支配地域ギリギリまで行っていた。
荒野に3mの高さに塹壕が掘られていて毎日の様に戦闘が行われています。
IS側が夜に忍び込んで来ると言う事があるので対応できるようにしている。
塹壕の近くの最前線でも普通の人が暮らしているのには吃驚した。
ISが非常に勢力を伸ばしてきたのが昨年辺りから、去年6月にイラク北部の第二の都市モスルを襲撃して、その後に近辺にイスラム教徒とは違う、ヤジディ教を信仰している、クルド人がいるが、この人たちが暮らしている村々を去年8月にISが襲撃した。
フセイン政権時代でもヤジディは悪魔崇拝だと言う考え方を持つ人たちが沢山いて、抑圧されて迫害されるという事がありました。
2012年にヤジディの村に結婚式に呼ばれた。
何にもない砂漠地帯に一つテントが張られ、花嫁は白いウエディングドレス(17歳)、男性はスーツを着て、500人位の人が着飾って、手をつないで踊って結婚を祝っていた。(私も参加)
去年の8月にはこの村もISに襲撃されて、女性たちは拉致されて、男性達は殺されました。
結婚式で出あった彼らが元気にしているのかどうかは判らない。
男性たちにはイスラム教徒に成れと、ならなければ殺すというが、イスラム教には成れないと言うとその場で射殺される。
女性たちは戦利品(奴隷)としてISの支配地域に連れ去られ、その数は3000~4000人といわれる。
女性たちは大きな施設に収容されて、ISの戦闘員がやってきて、自分の奥さんを探しに来る。
イスラム教の教えでは売春は認められていないので、奥さんにすれば性的関係を持てるので、強制結婚をすることによって所謂レイプする事になる。
ISの戦闘員が暮らしている宿舎に連れてゆき、レイプして、1カ月ぐらいすると他の戦闘員に売るとか、そのようなことが起きている。
このような情報はISの支配地域から逃れて来る女性がいるので、彼女等から様々な経験を聞いています。
ヒアンさん(19歳) 拉致されたが、その時にはすでに結婚していてお腹には赤ちゃんがいたが、強制結婚させられレイプされてしまった、身体に傷も負わされた。
世界に彼女たちの事を知らせなくてはいけないと言う思いが高まりました。
ISだけでなく戦争というものは人々を残酷にしてゆくものではないかと思います。
戦争は敵の人を殺すことなので、相手を人として見なくなり残酷になる。
湯川さん、後藤さんが殺害された時にイラクにいましたが、何かあった時に国に迷惑をかけるのではないかと思いましたが、ネット等で中傷されてたりしましたが、見た時には本当に辛かったが、まだ答えが出ていないが、安全面を十分に気を付けながら現場に出ていきたいと思っている。
この行動は自分の責任で有ることは紙に残しています。
もともとは大阪のデザイン会社でポスターやパンフレットなどのデザインをしていました。
たまたまTVニュースを見てその映像に非常にショックを受けたのがきっかけでした。
ドイツでクルド人が抗議行動を起こしていて、その中の数人が自分の体にガソリンをまいて火を付けて、ドイツの機動隊に突っ込むという衝撃映像だった。
色々疑問に残って、もっともっと知りたいと思って、ヨーロッパに出かけた。
クルド人が集まるカフェがあって、話を聞いたりして通っていたが、たまたまTVでみたその人がやってきた。
行動を起こした理由を聞いたら、私の故郷にいったら私がなぜやったのか、君も同じ事をやるだろうと言われて、彼の故郷であるトルコの南東部に行った。
トルコの人口の1/5がクルド人で1000万人以上いて、国を作りたいとトルコからの分離独立を目指していて、クルドゲリラが現れてトルコ軍との烈しい戦闘が行われていた。
トルコの南東部にはクルド人が多く生活していて、クルドゲリラに登録しているのではないかということで、そこにトルコ治安警察が村の人たちを捕まえて拷問したり刑務所に入れたりして人権侵害が行われていた。
パン屋さんの男性は電気拷問を受けて、爪が真っ黒になって潰れていたが、そういった人たちから聞いた話は経験したことのない様な事で本当に吃驚した。
日本の人たちも知るべきではないかと思って、ジャーナリストになりたいと思った。
取材をする中で拷問を受ける人は弱者だったが、弱者が加害者になると言う側面があると言う現実を知った。
シリアではISが拡大しているが、若いクルドの女性たちが銃を持ってISと対峙している状況を見ました。
復讐すると言う事で銃を持つが、銃を持つと言う事は人を殺すということです。
それを止めることは非常に難しいと思う。(負の連鎖)
父は5歳の時に広島の爆心地から1.1kmのところで被爆しましたが、今の活動を始めた時はそこまで考えたことはなかったのですが、今にして思えば影響しているのかなと思います。
2006年6月、7月にイラクの東部のハラブジャで原爆展を私が開きました。
ハラブジャという町は1988年にフセイン政権が 毒ガス爆弾を落として5000人が亡くなった。
(ハラブジャ事件)
「ハラブ島」とそこの住民は呼んでいて、ハラブジャと広島をミックスした造語であり、イラクの広島だと言っていたが、 父の事も話をしたりするうちに、ここで原爆展を開けたらと思う様になった。
広島の復興した様子などの写真も掲載し、説明した。
被害と加害の両方を知ってもらいたいと思って、中国に進出した写真も掲載して、平和の大切さを心に刻むことができるのではないかなあという風な思いがありました。
戦争を止めるヒント、戦争が始まるヒントが見えてくるかも知れないと思って、そういったものが伝えられたらいいなと思います。
今年の3月と4月にクルド自治区の治安当局に拘束された元IS戦闘員の面会取材を行いました。
神様のためなら死も恐れない人達という怖いイメージがあったが、本当に普通の人だった。
イラクに何回もスパイ容疑で捕まって、拷問を受けて死にそうになるぐらい首を絞められて、母親も逮捕されて、復讐したいと思ってISに入ったとの事だった。
以前文房具屋をやっていて銃を扱ったことはなかったが、急に銃を渡されて前線に行かされることになり、恐ろしかったと言っている。
怖さを逃れるため、痛みをしのぐためなどでにコカインを使用したりしている。
特別な人達が殺し合っているのではなくて、本当に普通の人達が戦争というのは殺し合う、残酷で絶対できないと言う様に感じている事でも、やってしまうんだなという事を知りました。
戦争は何もプラスにはならない、戦争は何なのかという事を伝えたいと思っています。
平和授業での子供達の感想文 友達になることが一番大事だと、友達になることが戦争をやめたり、戦争をとめたりする一つのきっかけになるかもしれない、という内容のもので、学ばされました。
いま現実に世界で起きている事(戦争、紛争 そこから派生する諸々の悲劇等)を知ることは非常に大事なことです。
2015年10月2日金曜日
浜 美枝(女優) ・逢えてよかった
浜 美枝(女優) ・逢えてよかった
日本人初のボンドガールとして「007は2度死ぬ」に出演、1967年のことでした。
女優、司会、パーソナリティーと幅広い活動の一方で、4人のお子さんを育て上げてきました。
この間日本古来の手仕事や農業に魅かれるようになり、地方で元気で魅力な女性たちに出会います。
今年72歳になる浜さんの「逢えてよかった」の講演です。
箱根に暮らして40年になります。
宮本常一さんの足跡の旅、民芸運動家の創始者の柳宗悦先生の足跡の旅など、また全国の農村女性たちとネットワーク作りをしていて逢いに行きますが、いつも小田原の駅が見送ってくれます。
歴史のある城下町の小田原が大好きです。
身体の調整をになっているのは毎日の山歩きです。(雨、仕事が無い限り)
朝6時過ぎから歩きます。
今の季節、夜に運が良ければ流れ星が見ることができます。
箱根神社に参拝、太陽に手を合わせて、箱根の山のエネルギーを頂いている様な気がします。
人生って旅ではないでしょうか。
今振り返ってみると、4人をなりふり構わず育て上げ、007に出演するためにイギリスに渡って、右も左も判らずおろおろしていて、女優が合わないのでは、才能が無いのではないかと思ったり、農業や食に興味を持ち、福井県若狭の地で畑仕事に汗を流した時代、友達と笑ったり泣いたり、そんな全ての自分が愛おしい、旅をしている様なそんな人生の様な気がします。
30年前、富山の地方鉄道 浦山と言う無人駅があり、善功寺(ぜんぎょうじ)の住職で前は新聞記者でギリシャに取材で行った時にご一緒した人。(ゆきやまさんご一家)
以来お寺に入ってからも家族ぐるみのお付き合いをさせてもらいましたが、病で50歳で亡くなられてしまいました。
そこの5歳の坊やが駅に迎えに来てくれて、お寺案で迎えに来てくれました。
夕食の時に、坊やが「この家で一番最初に生まれたのは誰」、と言って、お爺さん、お婆さん、お父さん・・・お姉ちゃんと説明してゆき 次はと自分の番になった 「僕だよ。」と母親がいうと、「みんな会えたねー。」とその少年は言った。
母親が「そうかい、皆会えてよかったね。」と言って、家族の会話を聞きながら何故か涙がこぼれてきてしまった。
皆御縁があってこうして出会えているんですね。
15歳から仕事をしてきましたが、この人に出会えたから今の私がいる出会いがありました。
40歳を迎える前、新潟県の北部 奥三面(おくみおもて)という42戸の集落
1968年 治水と電源開発の名のもとに、この村はダムの底に沈むことになってしまいました。
決定17年後 1985年の秋 閉村式を迎え村は無くなりました。
姫田忠義先生がここの生活を何年もかけて映像として記録を残そうとしました、私もご一緒させてもらい3年間22回通いました。
自然に生かされた所でした。
92歳小池さちさんは、死んだ後だったらよかったのに、生きているうちに出ていかなければいけないので本当に困っているといっていたが、村が無くなる4か月前1985年7月7日に亡くなりました。
村を後にする悲しみを拒絶する死だったと私は思いました。
伊藤きいさん 当時74歳 50年の歳月を田んぼに入り畑を耕して頑張ってきました。
お宮参りの前に赤ん坊が亡くなると、お墓に入らず牛小屋馬小屋の下に祭ります。
家族が寝静まったあとに、幼くして亡くした我が子に語れるのは牛小屋馬小屋の下です。
閉村式になって家、子が祭ってある牛小屋、馬小屋、田んぼが無くなってゆくが、何もかもおしまいですねと言うと、子供達の幸せのためなら我慢すると一言ポツンと言いました。
その時に私は演ずるという女優を止めようと思いました、それからひたすら全国を旅しています。
1987年から始まった遺跡調査では旧石器時代からの遺跡(奥三面遺跡)が発掘され、旧石器時代からこの地に営みが有ったわけです。
1984年 沖縄の与那嶺貞さん 花織
戦争で何もかも失ってしまったが、父が私に与えてくれた教育だけは誰も奪う事が出来なかったとおっしゃっていました。
工芸学校で学んだ技術が後の幻の花織(はなうい)の再現に結びつけました。
20数年与那嶺さんのところに通いました。
「女の人生 ざりがなね(もつれた糸をほぐして一本の糸にすること)」 といわれました
根気良くほぐせば元の一本になる。 一本になれば又織ることができる。
もつれた糸をほぐしてちゃんとした布にする女
人間国宝になりもう亡くなられました。
中原淳一さん(画家) 昭和21年「ソレイユ」が発刊 爆発的に売れた。
展覧会に行って、文章に出会い素敵な人間哲学があると思った。
「大丈夫かい 女性でいてください」というフレーズにとても心に残ります。
松本民芸生活館の館長 池田三四郎先生に話を伺うと魔法を掛けられた様に元気になって戻ってくることができます。
(1948年、柳宗悦に師事し、民芸運動に参加。柳の「用の美」の思想を実践。)
池田先生は
「人間が自己の力を過度に評価し、科学を過信し、一切を知性によって合理的に極め得ると錯覚した時代は、その後の日本が歩いた道であった。
自然に対する人間の勝利とは虚妄の勝利で有ったのではないか。
人間の自力に信頼を置く事は一種の虚妄に過ぎ無くはなかったか。
日本の近代精神のもたらしたものは人間の傲慢であった。
その傲慢さゆえに自己の作った科学文明のために、自分自身が復讐されつつあるとは言えないか。」と書かれていました。
先生は私には
「一本のネギにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美がある。
問題は人間がそれを美しいと感じる心を体で会得しているかどうかなんだよ 」
と淡々と語られました。
「私は毎日散歩をしながら道端の草や花やすれ違う動物なんかと話しながら歩いているんだよ。
私の暮らしの身の周りに在るものたち、それが現実なんだ。
その現実が大事なんだよ」とおっしゃられました。
今、今の身の周りにあるものを真摯に見つめて、それらを大切にして暮らして生きなさい。
自分が一歩一歩歩いているこの道の先には必ず未来がある。
貴方はそれを信じていままで通りに生きていけばいいんだよ、暮らしていけばいいんだよ」
とおっしゃられました。
日本人初のボンドガールとして「007は2度死ぬ」に出演、1967年のことでした。
女優、司会、パーソナリティーと幅広い活動の一方で、4人のお子さんを育て上げてきました。
この間日本古来の手仕事や農業に魅かれるようになり、地方で元気で魅力な女性たちに出会います。
今年72歳になる浜さんの「逢えてよかった」の講演です。
箱根に暮らして40年になります。
宮本常一さんの足跡の旅、民芸運動家の創始者の柳宗悦先生の足跡の旅など、また全国の農村女性たちとネットワーク作りをしていて逢いに行きますが、いつも小田原の駅が見送ってくれます。
歴史のある城下町の小田原が大好きです。
身体の調整をになっているのは毎日の山歩きです。(雨、仕事が無い限り)
朝6時過ぎから歩きます。
今の季節、夜に運が良ければ流れ星が見ることができます。
箱根神社に参拝、太陽に手を合わせて、箱根の山のエネルギーを頂いている様な気がします。
人生って旅ではないでしょうか。
今振り返ってみると、4人をなりふり構わず育て上げ、007に出演するためにイギリスに渡って、右も左も判らずおろおろしていて、女優が合わないのでは、才能が無いのではないかと思ったり、農業や食に興味を持ち、福井県若狭の地で畑仕事に汗を流した時代、友達と笑ったり泣いたり、そんな全ての自分が愛おしい、旅をしている様なそんな人生の様な気がします。
30年前、富山の地方鉄道 浦山と言う無人駅があり、善功寺(ぜんぎょうじ)の住職で前は新聞記者でギリシャに取材で行った時にご一緒した人。(ゆきやまさんご一家)
以来お寺に入ってからも家族ぐるみのお付き合いをさせてもらいましたが、病で50歳で亡くなられてしまいました。
そこの5歳の坊やが駅に迎えに来てくれて、お寺案で迎えに来てくれました。
夕食の時に、坊やが「この家で一番最初に生まれたのは誰」、と言って、お爺さん、お婆さん、お父さん・・・お姉ちゃんと説明してゆき 次はと自分の番になった 「僕だよ。」と母親がいうと、「みんな会えたねー。」とその少年は言った。
母親が「そうかい、皆会えてよかったね。」と言って、家族の会話を聞きながら何故か涙がこぼれてきてしまった。
皆御縁があってこうして出会えているんですね。
15歳から仕事をしてきましたが、この人に出会えたから今の私がいる出会いがありました。
40歳を迎える前、新潟県の北部 奥三面(おくみおもて)という42戸の集落
1968年 治水と電源開発の名のもとに、この村はダムの底に沈むことになってしまいました。
決定17年後 1985年の秋 閉村式を迎え村は無くなりました。
姫田忠義先生がここの生活を何年もかけて映像として記録を残そうとしました、私もご一緒させてもらい3年間22回通いました。
自然に生かされた所でした。
92歳小池さちさんは、死んだ後だったらよかったのに、生きているうちに出ていかなければいけないので本当に困っているといっていたが、村が無くなる4か月前1985年7月7日に亡くなりました。
村を後にする悲しみを拒絶する死だったと私は思いました。
伊藤きいさん 当時74歳 50年の歳月を田んぼに入り畑を耕して頑張ってきました。
お宮参りの前に赤ん坊が亡くなると、お墓に入らず牛小屋馬小屋の下に祭ります。
家族が寝静まったあとに、幼くして亡くした我が子に語れるのは牛小屋馬小屋の下です。
閉村式になって家、子が祭ってある牛小屋、馬小屋、田んぼが無くなってゆくが、何もかもおしまいですねと言うと、子供達の幸せのためなら我慢すると一言ポツンと言いました。
その時に私は演ずるという女優を止めようと思いました、それからひたすら全国を旅しています。
1987年から始まった遺跡調査では旧石器時代からの遺跡(奥三面遺跡)が発掘され、旧石器時代からこの地に営みが有ったわけです。
1984年 沖縄の与那嶺貞さん 花織
戦争で何もかも失ってしまったが、父が私に与えてくれた教育だけは誰も奪う事が出来なかったとおっしゃっていました。
工芸学校で学んだ技術が後の幻の花織(はなうい)の再現に結びつけました。
20数年与那嶺さんのところに通いました。
「女の人生 ざりがなね(もつれた糸をほぐして一本の糸にすること)」 といわれました
根気良くほぐせば元の一本になる。 一本になれば又織ることができる。
もつれた糸をほぐしてちゃんとした布にする女
人間国宝になりもう亡くなられました。
中原淳一さん(画家) 昭和21年「ソレイユ」が発刊 爆発的に売れた。
展覧会に行って、文章に出会い素敵な人間哲学があると思った。
「大丈夫かい 女性でいてください」というフレーズにとても心に残ります。
松本民芸生活館の館長 池田三四郎先生に話を伺うと魔法を掛けられた様に元気になって戻ってくることができます。
(1948年、柳宗悦に師事し、民芸運動に参加。柳の「用の美」の思想を実践。)
池田先生は
「人間が自己の力を過度に評価し、科学を過信し、一切を知性によって合理的に極め得ると錯覚した時代は、その後の日本が歩いた道であった。
自然に対する人間の勝利とは虚妄の勝利で有ったのではないか。
人間の自力に信頼を置く事は一種の虚妄に過ぎ無くはなかったか。
日本の近代精神のもたらしたものは人間の傲慢であった。
その傲慢さゆえに自己の作った科学文明のために、自分自身が復讐されつつあるとは言えないか。」と書かれていました。
先生は私には
「一本のネギにも、一本の大根にも、この世の自然の創造物のどんなものにも美がある。
問題は人間がそれを美しいと感じる心を体で会得しているかどうかなんだよ 」
と淡々と語られました。
「私は毎日散歩をしながら道端の草や花やすれ違う動物なんかと話しながら歩いているんだよ。
私の暮らしの身の周りに在るものたち、それが現実なんだ。
その現実が大事なんだよ」とおっしゃられました。
今、今の身の周りにあるものを真摯に見つめて、それらを大切にして暮らして生きなさい。
自分が一歩一歩歩いているこの道の先には必ず未来がある。
貴方はそれを信じていままで通りに生きていけばいいんだよ、暮らしていけばいいんだよ」
とおっしゃられました。
2015年10月1日木曜日
大角幸枝(金工家・人間国宝) ・伝統の技で金属に命を吹き込む
大角幸枝(金工家・人間国宝) ・伝統の技で金属に命を吹き込む
1945年静岡県生まれ 東京芸術大学で学び、工芸の世界に入りました。
日本伝統工芸展で受賞を重ね、今年女性で初めて金属工芸 鍛金の無形重要文化財保持者
人間国宝に認定されました。
金属工芸には表面に彫りを入れる彫金や鋳物の技法など様々有りますが、鍛金は板状に伸ばした金属を金床等に置き、金槌や木槌で打って、器等を作り上げてゆく技法です。
古くから仏具、武具、茶器が作られてきました。
大角さんは銀等の板を槌で打って、壺等の形を造り、さらに表面に異なった金属をはめ込んだり、槌の跡を変化させたりして装飾を加えるなど、独自の創意工夫を凝らしています。
それによって作品は金属の冷たさ硬さが和らぎ、ひと肌の様なぬくもりさえ感じられる情感に富んだものとなって高い評価を得ています。
それなりの責任がどっと被ってきますし、事実物凄く忙しくなりましたし、仕事ができない状態で非常にいらいらするようになりました。
7月17日の夜にはNHKで発表になったが、知らせがあったのはその一週間か10日前です。
えっという感じでした。予想もしていませんでした。
周りの人は今度はあなたではないのと言われたが、そういうことがあるならもっと昔だと思うし、無いということなら女性は別枠という考え方がこの国の全般に及んでいると思いますから、私は別にそのことに対して何の驚きが無いので、こっちの方が驚きでした。
この仕事は音が物凄いので、近所迷惑なのでどうしても防音しなければならないのでここに決めました。(国分寺)
音を小さくすることはできるが、完全には消えないのでどこかの部屋に聞こえるので、夜中にはできない。
師匠は住宅街の普通の平屋でやっていたので、しょっちゅう近所から苦情が来ていました。
常に弟子が3~5人が常時一緒に先生と仕事をしていたので、すごい音になる。
今年の日本伝統工芸展 「渡海」という作品 長さ40cm 船の形をしている吊り花活け。
渋い銀色で何とも落ち着いた作品。
波がところどころ金で描かれている。
日数は一カ月ちょっと掛かりましたが、これはそれほど時間はかかりませんが、高さのあるものほど時間がかかります。
銀と金と鉛を使っています。(装飾に金と鉛)
高さが30cmのものだとボディーだけで4カ月ぐらいはかかり、表面に模様を付けるのに一月掛かります。
金属の展延性、可塑性とか金属の持っている性質が面白いので興味を持った。
最初彫金から入ったが、もっと大きなものを作ってみたいと器物に移って、彫金で飾るボディーも自分で作った形にしたいと鍛金を教わりました。
美術史の工芸史 金工史を選んで、いろいろ他にもやってみたが金属が一番面白かった。
人の作ったものを論文を書いてどうのこうのやるよりも、自分で作った方がずーっと面白くなってそちらの方に移ってしまった。
実技はできる環境はなかったが、居候みたいにして振り分けられてやっていましたが、私の学生時代は工芸は有りませんでした。
先輩の家に行ったりしてやらせてもらったり、助手の人が教室をやっていて彫金、鍛金等をやらせてもらって、伝統工芸の先生に教わるようになりました。
井伏圭介先生(井伏鱒二の息子)が新宿の彫金講師をしていて、日本の彫金をそこで初めて知って、先生が辞めてしまって、その後桂盛行先生を紹介してもらって、本物の彫金を習いました。
当時から彫金家は下地を鍛金家に作ってもらって、それにうえの加色を彫金でやるのが普通で
いまでもそうやっていますが、ボディーも自分の思う様な形を自分で作りたいと思って、関谷四郎先生を紹介してもらって、関谷先生に鍛金を教わりました。
伝承授業があって、若い人を対象に人間国宝になった先生方が教える授業で、鹿島一谷先生は代々布目象嵌という彫金の一技法をやっている方で、その時にその技法を教わりました。
関谷先生に教わった鍛金の上に、鹿島先生の布目象嵌技法で彫金を施す事が私の今日の作風ができ上ったわけです。
鹿島一谷先生は「彫金をやるものは、絵や書に対して絶対に学ぶべきものだと、絵を描きなさい、書を書きなさい」と言われ、いろいろな教養を身につけることも言われました。
お茶、お花、能、歌舞伎、文学等全てが凝縮したものが作品に出るので、「人間が上等にならないといいものができない」と他の先生にも言われました。
鹿島一谷先生は、表現が巧くできないがしゃれた方だった、江戸の気風をお持ちの方だった。
イギリス 大英博物館があったのでそこで半年色々見せて頂きました。
他にヨーロッパ各地をみてまわりました。(半年)
金属に対する感覚が全く違うと思いました。
行くときに日本の伝統をやっているのに、なぜ外国にわざわざ行くのかと言われましたが、一時外の眼からこちらを見てみたいと言うのが一番大きな動機でした。
大陸に在っては財産的価値に非常に重きがあることを知りました。
むこうの世界では銀に鉛を象嵌する事はあり得ないことです。(金は象嵌してもいいが)
日本の金属に対する考え方は金属の色なんです、いろんな色を発見して使ってきた、だから絵画の様なものができてきたわけで、その延長線上にいるのが、山本晃さんだと思います。
金属は錆びるが、日本では湿潤ですが、ヨーロッパでは割と乾いていて容易には錆びなくて、毎日ぴかぴかに磨く、日本の様にいぶし銀にして曇ったところと光っているところとの差を愛でると言う様な世界ではない。
発想の発端が違う様な気がする、西洋では工芸に金を何g使ったかが、かなりの比重になっているが、日本では金を薄く延ばして箔にして使うので、何g使ったかは問題ではなく、山吹色をどのように広げてうまく効率的に愛でるかという事が先で、金属は色なんです。
合金を作り出して、それを色々組み合わせて、自然のものを金属の色に置き変えて作ると言う事にしたのは日本の一番ユニークなやり方だと思います。
明治時代の金工の作品は偉い技術だと思ったが、これでもかという様な超絶技巧を駆使してどんなもんだと様なものをみせるという時代で、イギリスのビクトリア時代もある種そういった時代だと思うが、現代はそういったものは要請されていない。
西洋では生活の中に金属は溶け込んでいるが(フォーク、皿、食器など)、日本では金属を日常生活には取り入れていない。
貴重な金属を使うと価格も高くなってくるし、日本では人件費も高くなってしまい高価になってしまう。
時間といういうものは、もっと味わってゆくものなんですが、一刻も早くやってしまいたい、結果だけがすべて、結果を出すという言葉は大嫌いなんです、すべて経過が重要、どの様に慈しんだか、楽しんだか、苦しんだかが大事で、結果はそこに在るだけのものなので。
あまりのもそわそわとせかせかと、生きているのではないでしょうか。
豊かな時間、豊かな生活をもう一度深刻に考えないと、もっと貧しくなって、見かけだけゴージャスな生活がいいと思っちゃっている、そういうことはないでしょうか?
なにかしら感動を持って頂ける様な仕事を残したいと思っていますが、恐らく死ぬまで満足いく事はないと思っています。
恩返しの意味で若い人たちに伝えることを、深刻に考えてやっていきたいと思っています。
1945年静岡県生まれ 東京芸術大学で学び、工芸の世界に入りました。
日本伝統工芸展で受賞を重ね、今年女性で初めて金属工芸 鍛金の無形重要文化財保持者
人間国宝に認定されました。
金属工芸には表面に彫りを入れる彫金や鋳物の技法など様々有りますが、鍛金は板状に伸ばした金属を金床等に置き、金槌や木槌で打って、器等を作り上げてゆく技法です。
古くから仏具、武具、茶器が作られてきました。
大角さんは銀等の板を槌で打って、壺等の形を造り、さらに表面に異なった金属をはめ込んだり、槌の跡を変化させたりして装飾を加えるなど、独自の創意工夫を凝らしています。
それによって作品は金属の冷たさ硬さが和らぎ、ひと肌の様なぬくもりさえ感じられる情感に富んだものとなって高い評価を得ています。
それなりの責任がどっと被ってきますし、事実物凄く忙しくなりましたし、仕事ができない状態で非常にいらいらするようになりました。
7月17日の夜にはNHKで発表になったが、知らせがあったのはその一週間か10日前です。
えっという感じでした。予想もしていませんでした。
周りの人は今度はあなたではないのと言われたが、そういうことがあるならもっと昔だと思うし、無いということなら女性は別枠という考え方がこの国の全般に及んでいると思いますから、私は別にそのことに対して何の驚きが無いので、こっちの方が驚きでした。
この仕事は音が物凄いので、近所迷惑なのでどうしても防音しなければならないのでここに決めました。(国分寺)
音を小さくすることはできるが、完全には消えないのでどこかの部屋に聞こえるので、夜中にはできない。
師匠は住宅街の普通の平屋でやっていたので、しょっちゅう近所から苦情が来ていました。
常に弟子が3~5人が常時一緒に先生と仕事をしていたので、すごい音になる。
今年の日本伝統工芸展 「渡海」という作品 長さ40cm 船の形をしている吊り花活け。
渋い銀色で何とも落ち着いた作品。
波がところどころ金で描かれている。
日数は一カ月ちょっと掛かりましたが、これはそれほど時間はかかりませんが、高さのあるものほど時間がかかります。
銀と金と鉛を使っています。(装飾に金と鉛)
高さが30cmのものだとボディーだけで4カ月ぐらいはかかり、表面に模様を付けるのに一月掛かります。
金属の展延性、可塑性とか金属の持っている性質が面白いので興味を持った。
最初彫金から入ったが、もっと大きなものを作ってみたいと器物に移って、彫金で飾るボディーも自分で作った形にしたいと鍛金を教わりました。
美術史の工芸史 金工史を選んで、いろいろ他にもやってみたが金属が一番面白かった。
人の作ったものを論文を書いてどうのこうのやるよりも、自分で作った方がずーっと面白くなってそちらの方に移ってしまった。
実技はできる環境はなかったが、居候みたいにして振り分けられてやっていましたが、私の学生時代は工芸は有りませんでした。
先輩の家に行ったりしてやらせてもらったり、助手の人が教室をやっていて彫金、鍛金等をやらせてもらって、伝統工芸の先生に教わるようになりました。
井伏圭介先生(井伏鱒二の息子)が新宿の彫金講師をしていて、日本の彫金をそこで初めて知って、先生が辞めてしまって、その後桂盛行先生を紹介してもらって、本物の彫金を習いました。
当時から彫金家は下地を鍛金家に作ってもらって、それにうえの加色を彫金でやるのが普通で
いまでもそうやっていますが、ボディーも自分の思う様な形を自分で作りたいと思って、関谷四郎先生を紹介してもらって、関谷先生に鍛金を教わりました。
伝承授業があって、若い人を対象に人間国宝になった先生方が教える授業で、鹿島一谷先生は代々布目象嵌という彫金の一技法をやっている方で、その時にその技法を教わりました。
関谷先生に教わった鍛金の上に、鹿島先生の布目象嵌技法で彫金を施す事が私の今日の作風ができ上ったわけです。
鹿島一谷先生は「彫金をやるものは、絵や書に対して絶対に学ぶべきものだと、絵を描きなさい、書を書きなさい」と言われ、いろいろな教養を身につけることも言われました。
お茶、お花、能、歌舞伎、文学等全てが凝縮したものが作品に出るので、「人間が上等にならないといいものができない」と他の先生にも言われました。
鹿島一谷先生は、表現が巧くできないがしゃれた方だった、江戸の気風をお持ちの方だった。
イギリス 大英博物館があったのでそこで半年色々見せて頂きました。
他にヨーロッパ各地をみてまわりました。(半年)
金属に対する感覚が全く違うと思いました。
行くときに日本の伝統をやっているのに、なぜ外国にわざわざ行くのかと言われましたが、一時外の眼からこちらを見てみたいと言うのが一番大きな動機でした。
大陸に在っては財産的価値に非常に重きがあることを知りました。
むこうの世界では銀に鉛を象嵌する事はあり得ないことです。(金は象嵌してもいいが)
日本の金属に対する考え方は金属の色なんです、いろんな色を発見して使ってきた、だから絵画の様なものができてきたわけで、その延長線上にいるのが、山本晃さんだと思います。
金属は錆びるが、日本では湿潤ですが、ヨーロッパでは割と乾いていて容易には錆びなくて、毎日ぴかぴかに磨く、日本の様にいぶし銀にして曇ったところと光っているところとの差を愛でると言う様な世界ではない。
発想の発端が違う様な気がする、西洋では工芸に金を何g使ったかが、かなりの比重になっているが、日本では金を薄く延ばして箔にして使うので、何g使ったかは問題ではなく、山吹色をどのように広げてうまく効率的に愛でるかという事が先で、金属は色なんです。
合金を作り出して、それを色々組み合わせて、自然のものを金属の色に置き変えて作ると言う事にしたのは日本の一番ユニークなやり方だと思います。
明治時代の金工の作品は偉い技術だと思ったが、これでもかという様な超絶技巧を駆使してどんなもんだと様なものをみせるという時代で、イギリスのビクトリア時代もある種そういった時代だと思うが、現代はそういったものは要請されていない。
西洋では生活の中に金属は溶け込んでいるが(フォーク、皿、食器など)、日本では金属を日常生活には取り入れていない。
貴重な金属を使うと価格も高くなってくるし、日本では人件費も高くなってしまい高価になってしまう。
時間といういうものは、もっと味わってゆくものなんですが、一刻も早くやってしまいたい、結果だけがすべて、結果を出すという言葉は大嫌いなんです、すべて経過が重要、どの様に慈しんだか、楽しんだか、苦しんだかが大事で、結果はそこに在るだけのものなので。
あまりのもそわそわとせかせかと、生きているのではないでしょうか。
豊かな時間、豊かな生活をもう一度深刻に考えないと、もっと貧しくなって、見かけだけゴージャスな生活がいいと思っちゃっている、そういうことはないでしょうか?
なにかしら感動を持って頂ける様な仕事を残したいと思っていますが、恐らく死ぬまで満足いく事はないと思っています。
恩返しの意味で若い人たちに伝えることを、深刻に考えてやっていきたいと思っています。