2015年8月30日日曜日

井上八千代(井上流 五世家元)  ・京舞・井上流の初春(H27.1.1放送)

井上八千代(井上流 五世家元)  ・京舞・井上流の初春(H27.1.1放送)
重要無形文化財保持者に認定されました。 
祖母の四世 井上八千代さん 父観世流能楽師 片山幽雪さんに続いての3代続いての人間国宝になります。
井上流は日本舞踊の流派の一つで、200年の歴史があり、京都で発展したところから京舞いとも呼ばれています。
明治時代 三世 井上八千代の時に京都祇園の都踊の振付を担当してから広く知られるようになりました。
井上八千代さんは四世井上八千代の孫にあたります。
2歳の時から舞いの稽古を始め、14歳で名取りに、20歳で祇園の舞踊教師になり、2000年に5代目井上八千代を襲名しました。
井上八千代の名跡を継いでから、丸15年になりますが、伝統を守りつつ、新しい芸風を確立しようと日夜研さんに励んでいます。

元日は普通にお盃ごとをしてお雑煮を頂きますが、近年は、東京に家があるので、関東風のお雑煮を頂きます。
2日は舞い初めをすることになっており、どこにいようが舞い初めをするようになっている。
12月13日が京、大坂の習慣で、お正月の事をその日から始める。(すす払いなど含め)
祇園の芸舞妓さんも鏡餅を持って、ご挨拶に見えて「おめでとうさんどす、どうぞ相変りませず、よろしゅうお頼み申します」と挨拶します。
名取りは稽古場の舞台のひな壇に鏡餅を並べます。
挨拶に来られた祇園の芸舞妓さんに対してお返しに扇を差し上げます。
正月のご挨拶は、祇園の始業式があり7日に行う。
井上八千代の名跡を継いでから、丸15年になり、早くて吃驚します。
京舞いはゆっくりした地味な舞いで、今の時代のテンポからすると、緩やか過ぎると言う事はあると思いますが、良さを考え直して、どこかに今のものを見つけていかないといけないと思っている。

名跡を継ぐ10年前から先代から継いでくれるようにいわれていた。
2000年には95歳にっなっていたので、祖母がどうしても継いでくれと言ってきて、主人に向かって直談判をして、五世を引き受けることになった。
名跡を継いでから10年過ぎから、周りの空気となじむ、心の優しさみたいなものを考えながら舞を舞わないと人になれないなという気持ちがわいてきて、還暦を過ぎて生まれ変わって子供の様な気持で舞えるようにと思っています。
初代 二世はあまりよく判っていない、三世井上八千代が語ったこと、作った舞い、振りから判っていることが井上流の歴史としての初世、二世の事なんです。
初世は本名が井上で舞をしていて、 御所務めをして色々学んで、宿下がりをしてから井上流の舞を始めた。

子供がいなかったので姪を養女にして、二世八千代が舞台に掛けられる様な舞を工夫して作ったと言われ、能、義太夫等を参考にして、華やかなものもこしらえた。
三世八千代 片山晋三と結婚した人が井上春子(三世八千代)。
明治維新以降京都を華やかにしようと、博覧会を考案して、芸子をレビュー式に舞台に上げて見るものを作りたいという発想で、振付の白羽の矢が立ったのが三世八千代でした。
それから祇園との結びつきが大きくなりました。
「みやこ踊り」と名付けたのが三世でした。
それまで女性が舞台で踊る事は興行としては無かったらしい。
四世は三世が70歳ぐらいになって入門、これなら後をさせられると言う事で家に留まって四世となった。(私の祖母)
四世には男の子しかいなくて、子供達は能楽師になり、孫の私が継ぐことになる。

祖母の50~60歳代の盛りの歳は技術的にもきらびやかな大変技術に秀でた人でした。
70,80,90歳と段々優しいなと、90歳代の頃はただあるがままにそこに人があると言う事を見せてくれたなあという気持ちでいます。
四世の芸風は大地に根の生えたような力強さと、生まれたての瑞々しさを併せ持つという様な人だったと思います。
小学校に上がる前、三世の追善会、お客様に見せる会に出してもらったが、突然怖くなった。(物凄く怒られた)
それからは怒られ通しでした。
井上流の基本姿勢は腰を落とす、かかとを上げる。
言葉も発しないので、お客様のイメージに訴えることが大きいので、お客様との緊密な空気感みたいなものが必要とされるのが舞いの世界かと思います。

「虫の音」 能楽の松虫で男の舞いですが、祖母が何度も作りなおしながら自分が舞ってきた。
なにごとにも縛られずに、舞を舞って人がある事で命の尊さを見せてくれたなあと言うのが私の見方です。
後継者には娘がいて、先ずは自分が受け継いだものを伝えたい、周りの人の舞台を観ることによって吸収して自分が何をしたいかという事を自分自身が考えながら舞を舞ってほしいと願っています。

2015年8月29日土曜日

中道治久(京都大学准教授)    ・火山に暮らし、火山を知る(H27・2・14放送)

中道治久(京都大学・桜島観測所准教授)    ・火山に暮らし、火山を知る(H27・2・14放送)
桜島のふもとに在る観測所で調査研究を続けています。
ここでは研究者が24時間交代で桜島の火山活動を観測しています。
対岸の鹿児島市の市街地に住む中道さんも毎日のようにフェリーで通い、週に一度は泊まり勤務をしながら、この火山を見つめています。
これまでに東北の岩手山や、御嶽山などを研究の対象にして来た中道さんに山の異変をどうキャッチして防災に生かしてゆくべきなのか、火山とどう向き合えばいいのか、伺いました。
8月15日に噴火レベル4の噴火警報が発表されました。

桜島観測所、正面に桜島が見えていて、いつでも見れるようになっている。
インターネット回線と自前の電話回線で、各火山観測施設から常時データが集まってきています。
地震の揺れ、地盤の傾き、GPSといったデータがすべて来ています。
他に3つ、すす書きの地震記録装置で、50年前と変わらない方法で、紙の上にかぶったすすを引っ掻くように地震の波を書く事をしています。(ドラム形式)
理由
①その時の地震や微動の多いか少ないか、振幅が大きいか少ないか、紙に描いている方が一目で判る、デジタルですといちいち起こして処理しなくてはいけない。
②50年前と変わらない方法で取っていれば、直ぐに30年前、20年前と言った時点と記録の比較ができる。
維持するには手間がかかるが、やっているのはここだけです。
ガスバーナーで炎を出してその先に紙をあてて、ドラムが回りながらすすを付けてゆく。(所員作業する)

地面のふくらみや傾きを計る機械があり、その記録が常時モニターされている。
昭和火口は1946年に噴火して溶岩が流れたが、火口での噴火が2006年に再開して、2008年には爆発噴火し始めていて、今に続いているのでライブカメラがあり、噴煙が流れている映像がある。
いろんな手法で多角的に見ている。
桜島では過去に、天平、文明、安永、大正、昭和と噴火を繰り返してきています。
去年は大正の噴火から100年になります。
今は急ではないが、マグマに入っている火山ガスが出ている状態です。
安永の噴火は海底で起こり、地面を持ちあげるので津波が起こる。
1914年(大正3年)で大きな爆発があり、人的な被害もあった。
1913年から霧島等で地震や噴火が始まりました。
同年6月、薩摩半島でマグニチュード6近くの地震が続けて起こる。
1914年1月11日に桜島で身体に揺れを感じる地震が起こり始めて、噴火につながると言う事で一部の集落では避難を開始する。

有感地震が増えてきて1月12日に中腹で白煙が上がってくる。
(井戸の水位も下がってきていて、白煙が上がる頃には井戸の水位がグーッと上がってきた。)
海岸では水蒸気が上がる事が観測された。
午前10時すぎには山腹から噴煙が上がってきて、警察の要請で島民の非難が始まった。
3000人が助かった。
大正噴火は島の形を変える様な大きなな噴火だった。
島の東側と西側から噴煙を上げて、噴煙が収まる頃には溶岩流が流れてきた。
東側の溶岩は、桜島は島であったのが、大隅半島とくっついてしまった。
西ノ島 火山島ができてどんどん広がるのを真近で見られたのは、近代的な観測装置で観測できるのは世界中が注目している。
昭和30年、人が亡くなる様な噴火があったが(北岳)、それ以降南岳で噴火が続いている。
桜島観測所が1960年設立、70年代活発になったので、危なくなってきたので、ふもとの方に観測所が移ってきた。

活火山、休火山、死火山と昔は習ったが、こういう区別は無くなっている。
1979年御嶽山の水蒸気爆発で無くなりました。(記録には無かったが突如噴火した)
火山と共に生きてゆくという視点が必要ですね。
火山の中味をよく知っておく事と、よく観測を続けること、噴火の危機が事前に判れば直ぐに非難する事が大事です。
日本には活火山と呼ばれるものが、110有り、気象庁が24時間常時観測している火山が47有り、その中に大学等が連携協力している火山がその一部にある。
京都大学では昭和35年から桜島をずーっと観測してきている。
2005年から名古屋大学に在籍して、御嶽山の観測調査に当たる。

当時御嶽山は地震が起こる場所だと言われていて、2007年初めに沢山地震が起こって、3月に小さな噴火があった、その2か月前に山の地下で水蒸気爆発が起こるときに現れる様なゆっくりとした地震を見つける。
緊張して気象庁と情報交換をした。
山のふくらみは解消されないままになっていた。
水蒸気爆発は一般的に予測は難しいと言われる。
山頂直下で地震がいっぱい起こったと言う事はマグマの動きが始まったというサインで、水蒸気爆発の可能性が高まったと言う意味では、噴火を警戒するレベルは上がってもいいと思います。
あんな水蒸気爆発が起こるとは、思ってもいなかった。

桜島など爆発噴火を繰り返す火山を対象に、噴火に至る場合と、しずしずと火山灰を出すような場合とで、前兆となる地震、山体の膨張がどう起こるか、どう違うのかを明らかにするのと、爆発する噴火としずしずとだす噴火で、仕組みがどう違うかという研究に注目している。
災害を防ぐ意味では地球物理、岩石学、地球化学、気象、等だけでなく、砂防等の工学、避難の時の社会学、心理学とともにやってゆく必要がある。
学者だけでなく住民、自治体と一緒になって協力してゆく事が重要だと思っている。
その実践の場が桜島だと思っていて、ここでやっている事が世界の災害軽減につながってゆくと思ってます。
机の上に座っている人ではなくて、現場に行って現物を見てくる人が増えてくると嬉しいです。

桜島の最新情報
8月15日に懸念されていた大きな噴火の可能性は低くなり、今は目だった噴火は起こっていません。
警戒レベル4になった時は、午前7時過ぎから地震が起こり始めて、午前8時40分頃から傾斜計等に大きな変化が起き、9時頃から地震が多発して一気に噴火に向かうのではないかと緊張が走ったので警戒レベル4になる。
噴火しても不思議ではなかったがその後変化は、減速してきて大きな噴火はしていません。
現在は継続的に水蒸気を火口から出していて、爆発も8月15日以来現在までありません。
爆発が減ったのは火口が目詰まりして来たための様です。
8月19日火口の調査をしたが、噴石、礫等が火口の中に溜まっているのがはっきり確認できます。
防災には最新情報が必要で、現在どこが立ち入り禁止になっているかとか、噴火したらどこに影響が有るかを確認してもらいたい。








2015年8月28日金曜日

中川李枝子(作家)        ・名作絵本は子育てから生まれた(H27・5・6放送)

中川李枝子(作家)           ・名作絵本は子育てから生まれた(H27・5・6放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2015/05/blog-post_6.htmlをご覧ください。

2015年8月27日木曜日

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(2)

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医・東大准教授) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(2)

医学部に行った際、臨床はできないという心構えで行ったが、学生は全員病院実習をする。
大学病院のすべての科を回って、1~2週間ずつ臨床のはじっこを経験する。
小児科を回った時に、原因体験を連想させられた。
リハビリの時の記憶、治るために一生懸命耐えた風景に、他の科に感じない、心に留まった経験をした。
臨床をやれるかどうか、やってみたらという意見もあり、やってみることにした。
一人暮らしの教訓は不安なことがあったら飛びこんでみて、不安を課題に変えましょうという教訓だったので、飛びこんだら課題が明確になって、優先順位が付けられるのではないかと、一人暮らしの教訓を生かそうと思った。
大きく違ったのは、一人暮らしと仕事の違い、これは非常に次の学びだったと思います。
失敗もまた楽しい(一人暮らし)、仕事では失敗は患者さんに危害を加えることになる。
お手本通りに近づけるようにしようとする、そこに悪循環が始まる、あせり、不安として解釈して、身体が動かなくなるので、目標から遠ざかる、その悪循環が始まり、臨床は難しいと思う様になった。

職場が変わって、地域の忙しい病院の小児科に行く事になる。
無理だと思ったら進路を変えようと思ったが、忙しいところではお互い監視する間が無くて、早く育てて自分が少しでも休めるようにしたいと周りが思うし、人が足りないので助け合わなければ仕事がこなせないと理解しているように感じました。
その空間が助かった、お手本があるのではなく、タスクが先ずあり、タスクをこなすには柔軟でいい、という助けあって臨むという柔らかい組織だった。
お互いが癖を理解していて、スタッフは完璧な人はいなくて、癖を抱えながら補い合ってチームを組んでいる。
結果として、私がいるときにはこんなふうなサポートをすればいいという、スタッフが了解してゆく空間を作っていけた。
見本通りではなくても、例えば採血がちゃんとできればいいという事になる。
初めて一人で当直をしたが、救急車も何台も来たが何とか一晩こなせて、一睡もせず朝を迎えた時にほっとしたら、一緒に一晩迎えたスタッフがやってきて、救急車が来た時に立ちあがっていましたと言われて、自分では記憶にはなかったが。

目の前の痙攣している赤ちゃんに注意が向かっている時に、自分を振り返る余裕がなくて、タスクをどうこなすかという事だけに注意が向かっていて自分という存在が消えた時に、脳性まひの体は一番動きやすくなる。
能力、障害は身体の中に在るのではなくて、人と人の間に能力が生成したり、タスクと集団との間に能力みたいなものが生成したり、だと思う。
身体の外に能力とか障害があるという一例だと思う。
どれだけ周囲に頼れるか、ということが能力を決めるし、本人の特質で生じるものではなくて、関係で生じるものだという事が基本的な考え方だと思います。
障害があろうが無かろうが、子供の発達は依存しなくなるという事ではなくて、依存先を増やすことだと思う。

成長するに従って親だけではなく、他にも依存できる人が増えて行ったり、道具、乗り物にも依存してそれまでできなかったことができるようになって、依存先を増やして行くプロセスが発達、自立であったりする。
障害をもっていると世の中の道具、人々のデザインが体に合わない、健常者の人にあう様に作られている、依存先が増えていかない。
健常者の方が依存先が沢山ある、少数派は駒が少なくて、多数派は社会の中に依存する駒がたくさんある。
公共交通機関なども同じ、依存先の数が健常者のほうが多い。
一つの駒に対する依存度の深さは、依存先が少ない方が深くなる。(奪われた時のダメージが大きい)

脳性マヒの研究も続けているが、私の中に見えやすい問題の部分と見えにくい問題の部分がある、見えにくい問題に痛みという問題があり、研究が少ない。
発達障害、依存症などにも関心をもっています。
見えやすい、見えにくいの違いは、一つは広い意味での言語化ができるかどうかとかかわっている。
人に伝えられれば、依存先も増えてゆく。
言語化できる障害と言語化しにくい障害の間の序列化の問題が気になっている。
言語化できるニーズは強い、交渉するにあたっての配慮、ニーズは言語化できる人は議論のテーブルに着いた時に、自己主張できるが言語化できないと我がままを言っているという様なうまく言葉にならなくて、感情的になったり落ち込んだり、という事になりがち。
私たちの社会が身体障害の人に合った公共交通機関のデザインを持っていないと同様、言語のデザインも少数派に合っていない、言語も多数派に合ったものとしてデザインされている。
不利になってしまう事を気にしています。

当事者研究、例えば自閉症本人が研究者になって、自分の経験について新しい言葉を生みだすという発想。
聴覚で言うと「感覚飽和」という言葉を発表した。
外から入ってくる感覚が頭の中を埋め尽くす状態。
外から見た時は自閉症という言葉が、内側から見るとこういう言葉になりますという事を打ち出すわけです。
言葉ができると見えるものになる、見えにくい障害が見えるようになると混乱、混沌としていたこれまでの人生が本人の中でも整理がつく様になり、周囲と共有する事が可能になる。
脳性まひの二次障害の現象、少し障害が重くなる、これまでなかった症状が新たに出てくる現象。
二次障害の側面・・・①前よりできなくなる。 ②痛い。
①→恐れるに足りない(新しい生活を組みたてればなんとか解決する)
②→病院で治すしかないのか?  手術をして良くなる人もいるが悪くなる人もいる。
痛みの問題 文献を読んだり当事者研究等を重ねてきて、私は「痛みはあるけれどもそれがどうした」という付き合い方をしている。
困難(痛み)を無くそうと思うと痛みが強くなる。(逆説的だが)

痛みは原因ではなく結果かもしれない、痛みを問題化しすぎないで、痛みとどう付き合って行くかという事に注意を向けるという事で実践しています。
痛みにしてもそうですが、身体の異議申し立てに対してねじ伏せ様とすると、問題が肥大化する。
身体の声はわずらわしいが、声を無理強いして消すような方向でやってしまうと際限なくなる。
身体の異議申し立ては何か生活を見直すきっかけをくれているかもしれない。
問題を解決するよりも問題をシェアーすることが、楽になるという事が凄くあります。
失禁も秘め事だったが、自分の恥ずかしいこと、情けないことがあらわになり、共有してもらう事で生きていける、希望が湧いてくる。
隠されたもの、多くの人が自分だけで解決しようとしてきている事が膨大に有って、言語化もなされないまま、水面下でねじ伏せられていたり、膨大な苦しみが世の中にあって、ねじ伏せられる方に動いているが、隠されても隠しきれない人間の事実だと思うので、それが明るみになるというのは研究そのものというか、人間はこういう存在なんだという知識が増えてゆく。

人間はこうでなければならないと言う対極、どんな人生に転がって行っても、何とかそのあとも続くんだという安心感、いろんな人生があって、どれも先があると言う、安心感。
苦労が少ないと言う事には価値を置いていない、知ると言う事は私の中では、世界はこうなっている、人間はこうなっている、という事をより多く知ると言う事が価値だと思っている傾向があって、苦しみが減ると言う事は2番目ぐらいに大事だと思っていて、知ることが一番大事なことだと思っている。
知ると言う事のためには苦しみが無いと知れないと言う事はあると思う、自分の思い通りにならないから色々考えたり思考したりする、其れに依って知ると言う事が待っている。
せっかくの苦しみを知ることも無くつぶしてしまったらもったいない、そこから何を知識として得られるのか、封じたまま苦しみだけの解決をしてしまったら、何だか違う様な気がする。
知る機会を与えてもらっているのであれば、ラッキーだと思います。






2015年8月26日水曜日

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(1)

熊谷晋一郎(脳性まひの小児科医・東大准教授) ・誰もが“生きていける”社会を目指して(1)
1977年山口県生まれ 38歳 生まれた直後の高熱などが原因で、脳性まひとなり手足が不自由になりました。
健常者に近い動きができるように物ごころつく前からあざができるほどの厳しいリハビリを受けますが、成長とともに除々にリハビリを止め自分らしい暮らし方を模索し始めました。
障害について深く学びたいと医学部に進学、東京大学を卒業後は小児科医として診療にあたりながら、障害と社会の関係を研究しています。

トイレ、食事等はサポートが必要なので長時間移動の時にはサポートが一人つきます。
車椅子を使う様になると、立てなくなるという風に間違った思い込みがあり、2000年以降に段々違う事が判ってきたが、当時は皆が信じていて車椅子を使わない様な指導がなされていた。(腹這いで床を移動、或いは乳母車みたいなものを利用)
中学生から車椅子を使う様になった。
生まれて3日目に高熱が出て、そのまま意識を失って、救急救命室に入って、2カ月後退院時には脳性まひの障害が残っていた。(感染症、髄膜炎等のトラブルがあったのではないか)
脳のどこかに損傷があり、その場所に依って表れ方が違って、私の場合は運動野という場所で手足を動かす指令をする場所。
特徴は首から下が緊張している状態(寒くは無いが、寒い時に体がこわばる様な状態)
今のリハビリはその人らしい生活のスタイルを健常者と同じでなくていいから、実現しようと言うものだが、当時は健常者にしてしまおうという様な目標を打ち立てがちな時代だった。(90%治るという様な文献が出ていた時代だった。)

実現しない時に、努力が足りないのではないかという風に自分を責めるし、親も巻き込まれてゆく。
1時間半ぐらいの訓練を、母と一緒に毎日4~5回ぐらいするので5~6時間になっていた。
嫌だけれどやる習慣がついたが、段々とこの習慣は何でやってるんだろうと気付く事があった。
3歳ぐらいの時に、意を決した表情でリハビリは止めたいと母に言ったそうです、母は一瞬ひるんだがねじ伏せて母は続けることを選んだが、私の顔つきがぱっと変わって目線が宙を向いたそうです。
この児は何も言っても駄目だと、あきらめの表情をしたのを今でも焼きついていると、最近母が言っていました。(ここ数年当時の両親の思いを聞く機会がある。)
修羅場の様なリハビリの風景なので、祖母などはそんなにやらなくていいのではないかといさめていたが、当時の母はやれば治るのにやらないなんて考えられないと思って、リハビリへの情熱は揺るがなかった。
憎いと言う気持ちと同時にここまですべてをなげうって、自分のためにやってくれている事は、子供心に判るので、最大の財産として親から貰っていて、どこかしら屈託なく信じられる自分のキャラクターがあるとすれば、それは親からもらっているものだろうと思う。

70年代は治るということが信じられていたが、80年代からあれは嘘でしたという論文が書かれるようになり、実際に治っていない自分があり、不安になって行き、親が死んだ後自分はどうなるのだろうと考えて、親の介護が無くなることで自分も死ぬのではないかと思う様になる。(小学校低学年の頃)
夜な夜な怖くて泣くというのがしばらく続きました。
中学のころに、父が市役所の職員で、障害をもった担当の部署だった。
父を介して大人の障害の人達との出会う機会ができてきたのが中学生の頃だった。
障害者のまま普通に生活している光景を目の当たりにした。
感じた希望は凄く大きなもので、健常者にならなくても生きていけるらしいと、非常に安心感を覚えた。
そこから早く先輩たちの様な暮らしをしたいと思う様になった。
中学生のころから、親がいない状況で生活がしたいと思う様になった
その欲望が高まってゆき、大学では一人暮らしを始める。(東京大学)
引っ越しは親が手伝ってくれたが、当時販売を開始した携帯電話を枕元に置いてゴロンと寝転んだのがとっても新鮮だった。
トイレ、食事、その他の欲求不満を経験できることが新鮮だった。(それまで全て親に頼っていた)
欲求を絞ってゆくと ①トイレ ②ご飯、③お風呂、④外出 
優先度を考えると ①トイレ  トイレを解決すれば何とかなるかもしれないと、課題が明確になって行った。

トイレまでの距離の実感、リハビリの膝たちの実感、便器への座り方など、限界まで体を動かしてみることで腰のひねり具合、手の動き、足の踏ん張りなど新たな発見があった。
失禁をしたりしながら、目標を達成しようとするが達成できなかったりして、その失敗にも快楽を感じる様なこともあって、じんわりと来るような喜びみたいなものを感じたりした。
自分の体が社会的な規範に対してまだ足りないのではないの、というメッセージが生理的な欲求の方から知らせてくれている、突き上げてくる、そこに快楽がある。
失敗があるお陰でそれに突き動かされるように、トイレを改造してトイレがバリアーフリーになって行った。
社会の形と自分の形が歩み寄ってゆく様な、その楽しさです。(一人暮らしで初めて気が付く)
失禁をした時に、見ず知らずの人がどの程度サポートしてくれるのかに関心をもった。
トイレに行きたいと思った時に声を懸けた時、相手の変化があり、たじろぐ人と前のめりになる人がいて、そういう人は安全だと思うしそういう人に声をかける、相手が一人だと断られることが多いのでカップル、複数のグループの人たちに声をかける。

集団でいる人の方が声をかけやすい。
介助者との関係においては、言葉の開発をして行かないといけない。
介助者の癖、限界を考えて、相手に指示を出すにはどうしたら伝わるのか、安全のためにいつも考えている。
介助者と阿吽の呼吸(親と同じように)の距離ではなく、言語化すると相手との間に距離が開いてそれがちょうどいいと思っている。
山ほど助けてくれる人がいるという事を知った、社会は案外優しい場所だと身を以て知ることができた。
最近どんな状態になっても生きていけると思うようになった。
8歳に思っていた、親が死んだ後自分はどうなるのだろうという不安な思いの明確な解答が得られた、それが私にとっての一番の財産です。



2015年8月25日火曜日

鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター)  ・フラに癒やされた介護の日々(台風情報のため休み)

鮫ヶ井嘉子(フラダンスインストラクター)  ・フラに癒やされた介護の日々(台風情報のため休み)

2015年8月24日月曜日

野崎健作(漆芸作家)        ・今、伝えたい 犬養木堂のことば

野崎健作(漆芸作家・元県立高校講師)    ・今、伝えたい 犬養木堂のことば
昭和18年岡山県たまの市生まれ 中学卒業後電力会社に就職、定年後、社会人教員の募集に応募して、岡山県高橋工業高校電気科の教員として採用されて11年間教壇に立ちます。
22年前平成5年岡山市の犬養木堂記念館で開かれた講演会に行きました。
講演は昭和7年5・15事件 首相官邸で犬養首相襲撃の生き証人の今木あさ子さんの体験談でした。
その時の犬養木堂(毅)の言葉「話せば判る」は暴力を否定した民主政治の原点という想いで、自らの体験を通じてこの言葉を語り伝えていたのでした。
野崎さんは今木あさ子さんの話に感銘を受けてその体験を録音させてもらいます。
戦後70年野崎さんは幼いころの記憶、戦争で手足を無くした傷痍軍人の姿が今でも忘れられず、いまきさんの残してくれた犬養木堂の言葉を今こそしっかり伝えて行きたいと思っています。

犬養木堂記念館で講演会があり、参加したが、最後に夕方来られたら詳しい話をして上げますという事で出かけたら、話(テープにとった)をしてくれた。(その時友人と二人だけだった)
今木あさ子さん(お手伝いさん)が隣りでお茶を入れている時にパンパンと音がして、行ってみると、首相が血まみれになって「いまの若いものを呼んでこい、話せばわかる話せばわかる」という話を伺った。
犬養木堂記念館は平成5年10月に開館、その記念講演だった。
今木あさ子さんは明治44年生まれ 宮城県立石巻高等女学校を卒業後、犬養家に勤務、電話交換手兼お手伝いさんとして犬養総理の世話係の一人、当時22歳、平成10年87歳で亡くなる。

「昭和7年5月15日 日曜日の夕方のことです。 耳鼻科の大野先生が来られる日でその用意やら3時のおやつを出し、5時頃お茶にしました。
・・・・軍人が入ってきて軍靴のままけ破って「総理どこだ総理どこだ」と言って来た、「悪漢だ、悪漢だ」いっていたが、其れまではなにがなにやら判らなかった。(まさか軍人が総理を殺しに来るとは思わなかった)
・・・首相が血まみれになって「いまの若いものを呼んでこい、話せばわかる話せばわかる」と言う最後の言葉として言葉を聞いた。
軍法会議に毎日呼ばれたが、軍人を悪く言えない時代だった。・・・・。」
あの悲しむべき狂変を知っている人は極めて少なくなりました。
私は総理の最後を知る生き証人として、あの時のお言葉を多くの人に語り続けて今日に至りました。
武力暴力を否定した民主政治の原点と言うべき「話せばわかる」のお言葉が永遠に不滅の大教訓として生き残る事を切に願っています。
「話せばわかる」という言葉は今の若い人でも知っている人が多い。
今木あさ子さんは郷里の墓のところにこの言葉を、後世に残すために碑にして残した。

私は直接の戦争の記憶はないが、小学校の頃は戦争の後遺症は残っていた。
学校教育に於いても非常に影響(軍事教練的な)したと思う。
長男は大学に行った、次男も高校にいったが私は中学を卒業して就職する事になり、その辺の運命は非常に違う、大学を出ていれば違った人生を歩んだとは思うが、これがいいと思わなければいけないと理解している。
夜間高校を2校卒業(当時夜間高校卒業するのは半分程度だった)
岡山県の教育委員会が一般からたまたま教師を募集する、電気、工芸、福祉に関する各分野を募集していた。
電気は電気会社にいた、工芸は漆芸をやっていた、福祉は手足の不自由な人のボランティアをして全国を回って、お母さん方に数百人聞いてきたりして、心のケアをして認められて、デンマークに半月行かせてもらった経験がある。
大野昭和斎 倉敷市出身の人間国宝の人と一緒に作品も撮っている。

お母さんたちが心の中で悶々としていて、殺したり、捨てたりする事件がいっぱいあるが、泣きながら叫びながら話す場が必要だと思って聞いてきました。
遺伝学の先生の言われるには、おなかの中で交通事故に遭う様なもので、何万人に一人は生まれています。
お母さんたちは話して自分の気持ちが晴れる場が欲しい、子供を育てる励みになると思う、そいう意味で聞いてきた。
サラリーマンと教師は仕事の内容はまるで違う、一番最初教壇に立った時公式を書いたりしたが、或る生徒がそれは違いますと言われてしまった。
生徒の参考書の内容と説明は違っていたので特にことなきを得たが。
問題を起こした生徒に特別教育をする、学校には出るが教室には入らずに、別の部屋で個人的に行うが、印象に残った先生は誰かと聞いたら、2人居てその中に私もいてその生徒は良かったと言ってくれた。
「話せばわかる」 すべて人間が生活する上で、かならず対話、会話、心と心の話、個人のレベルでも国と国との話でも同じで、話すことの大切さ、言葉の大切さが大事です。
戦争ほど残酷、悲惨なことはない、平和こそ幸せなものはない。






2015年8月23日日曜日

松村 久(マツノ書店店主)     ・古書復刻40年

松村 久(マツノ書店店主)     ・古書復刻40年
1933年山口県生まれ 大学時代から古書を扱い始めましたが、40年ほど前から古書の出版も手掛ける様になりなした。
地方で出版するならその土地にかかわり、自分にしかできない本を出そうと考え、すでに流通しなくなっている、明治維新関係の古い文献を中心に復刻出版してきました。
今では松村さんの古書店は全国の近代史研究者にとって、関係古書の入手のために欠かせない存在になっています。
こうした実績が評価されて2007年には社会的文化的貢献が著しいと、菊池寛賞を受けています。
人生の半分を古書の復刻に尽くしてきた松村さんの話を伺います。

菊池寛賞をいただいたのはラッキーでした。
父親が行商の本屋をやっていたので、身辺にはいつも本があり、本にはなじんでいた。
大学2年広島に行っていたが、父が店を1年で4回ぐらい変わったりして、古本屋に戻って、大学3年の時に、貸し本屋を作って、マンガのブローカーの様な事をやって、大学にも行かずにやっていた。
マンガの貸し本屋では面白くなくて、マンガの無い大人本位の貸し本屋をやろうと思った。
うまくいって、全国貸し本図書館雑誌があり、そこから3人学者が来て7ページにわたって「驚異的な町の図書館を現地に見る」というタイトルで写真入りで出て、図書館ももっと頑張って大人の人を開拓しなければだめだという記事だった。
貸し本屋は反応が早いので出版社からは重宝がられる。
当時、月に2万冊貸しだしていて忙しかった。
貸し本屋の店は借家だったので、家賃を高くする要求があって、場所を変わって行ったが、古本客が増えていって、貸し本は辞めることになる。

探してもなかなか思う様な本が出てこないので、お客さんの探される本では山口県関係の本が多いので、自分が復刻して作ればいいという事に気付いて、それが出版に入った。
周りに偉い先生がいたお陰で、忠告もいろいろしていただき潰れるような事はなかった。
宮本常一先生とか、色々知恵を貸していただいた。
山口県の人の需要から地元の復刻を出す様になった。
その流れで会津(幕末山口との戦争)の本を出す様になる。
最初の復刻本 「大内氏実録」 山口は毛利の前は大内氏だったので、いい加減でない資料として残っているものだけをきちんと求めた。
「防長地名淵鑑」を次に出す。 地名の言葉を何から来たかを書いた。
入手困難な本を出すので、喜んでもらえるのは何にも替えられない、店の宣伝にもなる。
「大内氏実録」は500冊ぐらいだった。
資料物なので300冊以上作らない様に言われた、余計作って売れなかったら損になるので、あまり余計作らない様に三坂圭治先生からよく言われた。
ほとんどみな直ぐ売れた。

250~260点ぐらい復刻した。(山口県は出版物に恵まれていたと思う)
他の店では出しても1点か2点ですね。
5原則
①潰れないようには300冊程度
②歴史物がいい。(毛利以来資料には恵まれている)
③1ページ当たり30円、40円はざらにあるが、うちは20円を越えることはない。
④出発当時 2000円以下のものは出さない、(今は5000円) 元をとれない。
⑤急いではいけない(質のいい本を選ぶ)
影響を受けた先生 三坂圭治先生(毛利家の専門家) 宮本常一先生(民族学者)等
雑談の中でも色々為になる事を言ってくれました。
傍流でいなさい。(主流になったら物が見えなくなる)

本は有難いものだと思う。
いい本は復刻して流布させておけばどこかで役に立つ。
資料から活字化するまでに随分力を入れて作る、修生のしようがない、そのままの方が値打ちがある。
誰かが早く直した方がいいという様な本は、古本屋の眼から見たら駄目な本です。
本の良さを知ってもらいたいと思っている。
女性のお客さんが増えている。
木戸考允の日記を出したら、吃驚した。
地方小出版流通センターから知らせが来るが、全般に新刊書店の件数がどんどん減っている。
古書店の数も減っている。
古本屋は本の閻魔大王だと言っているが、どうなるんですかね。
ペースを落とさず、年に7~8冊、同じペースで進むのが無難なところだと思います。
この復刻の仕事は私以外にやる人はいないと思う、続けるだけでも無いよりはいいと思う。




2015年8月22日土曜日

オール巨人(漫才師)        ・漫才も闘病も全力投球!(H26・9・6放送)

オール巨人(漫才師)        ・漫才も闘病も全力投球!(H26・9・6放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/09/blog-post_6.htmlをご覧ください。

2015年8月21日金曜日

深野晃正(つりしのぶ職人)     ・江戸の涼を守り伝えて

深野晃正(つりしのぶ職人)     ・江戸の涼を守り伝えて
つりしのぶとは竹や木炭を芯にして表面をコケで覆い、その上からしだ科の植物しのぶ草を巻きつけたものです。
そこに若い緑の葉が出てきて作品が完成します。
軒先になどにつるして涼しさを演出するもので、江戸の昔から伝わる夏の風物詩です。
深野さんは今年74歳、、今東京都内にただ一軒残るつりしのぶ園の二代目として、丹精込めてつりしのぶを作り続けてきました。
伝統的な形のものはもちろん、最近では大学生等若い世代と協力しての新作作りにも取り組んでいます。

一番ある時は3500ぐらい。
いろんな形、大きさがある。
屋形船、灯篭、帆掛け船等、をイメージして作る。
芯に竹を入れて、竹にコケを巻き付けて、適度な太さ(ソーセージぐらい)にし、縦横に使い分ける、巻き付けるのにエナメル線を使う。
思いがけないところから葉が出てきたりするが、それがまた面白い。
江戸時代、庭の手入れをする庭職人が遊び心で、自分で作ったものを人に見せたいあげたいという事で、お中元に差し上げたという事から世に広まったという文献がある。
浮世絵などにも、描かれているのを調べるのも楽しみの一つですね。
しのぶの葉は色々あり、常盤しのぶとか、根株だけでなく、根茎が伸びてくると、葉の出もよくなる。
5年ぐらいかかる。
岩山でロープを張って数10メートル下りたりして、コケを集めることが仕事の一つだが、人出を必要としている。
専門にやっている人はいなくて、炭焼きの人、まむし取りの人等に頼んで、ついでに集めてもらうが、人は少なくなってきている。(後継者もいなくなってきている)
葉が色づいてくると集めてもらう、10月~11月に取る。

この仕事を続けるには、苔もいっぱいほしいが、集めてくれる人がいなくなってきてしまって、一番頭の痛いところです。
父親がやっていたころは、取り手がいっぱいいて苔等は、注文すれば注文するだけは入ってきた。
数も1万個近く作れたが、今となっては環境とか全て変わってきているので厳しい。
20年前ぐらいから変わってきた。
3~5年手元で楽しむことができるが、苔の元に水が届く様にしないと水持ちがしない、バケツの水に2~3分浸けてくださいと言うが、めんどくさいと言われてしまう事もある。
秋めいてきて黄色く葉が黄ばんで来たら、2~3日陰干しして、乾かして、乾いた新聞紙にくるんで、ポリ袋で密封して、なるべく寒いところにしまっておいて、桜の咲くころに出してもらって、水を与えると、日だまりの温かいところで、葉がまた出てくる、その繰り返しで3年~5年楽しめる。
形が自由に出来るのがしのぶです。

父親から食いっぱぐれが無いと言われたが、山に入って怖いこともあるが、材料を探すのが面白い。
一人っ子で、母親が中学の時に他界して心細いところもあって、父親のところでやっていれば、という気持ちがあったと思う。
作ったものを良くできたと言われるのはめったになかった。
細いと水の含みも悪いし、太すぎても格好良くないし、その時代に作っていたものは昔からのものばかりで新作はなかなかできなかったが、美大の生徒と新作を考えている。
プロジェクトを13年やっているが、「くっつきしのぶ」を学生が作った。
しのぶの丸い球に洗濯バサミを付けると、どこでも挟んでくっ付けられる。
「青流」 竹の筒にちょっとしのぶを詰めていろんな形ができる。
つりしのぶだからと言ってつるすだけではだめで「青流」みたいに置いておくとか、お客さんが判断していいと思わないと販売にはつながらない。

家の杉の廃材を利用して作ったこともあり、好評だったので大分作った。。(井型の形状)
息子も一緒にやってくれていて、継いでくれるものと思っている。
厳しくても好きな仕事に全うできればいいと思う。
私は途中でこの仕事をやめて転職を考えたことはない。
今都内でも一軒となってしまったが、皆大勢いたころは持ちつ持たれつで分けあって、智慧、力を出し合っていた、競い合って作ったのでいいものができる。
協力してくれる山人がいつまでも、お付き合いしてくれるように願っています。
冷房に入ると暑い時は気持ちいいが(体感)、目で見る涼感を味わえる環境と違うのではないかと思う。
しのぶは私の言う事を聞いてくれるから、かわいいのかなあ。
思った様な形にもできるし、芽も出てくるし、お客さんに嘘をついてる事は一切ないし、丈夫にお客さんのもとで育ってくれるし、裏切ることが無いし、一番の魅力だと思う。
学生に新しいものを考えてもらうが、一緒にやる事は刺激が多すぎる思い。
父が昭和10年に開業したが、もっとしのぶを一本やりで頑張っていきたいと思います。




2015年8月20日木曜日

長谷川裕子(映画監督)      ・映画「いきたひ~家族で看取る」のこころ

長谷川裕子(映画監督)       ・映画「いきたひ~家族で看取る」のこころ
フリーのアナウンサー長谷川さん51歳は2年がかりで準備 して来た映画「いきたひ~家族で看取る」を今年完成させ、全国各地の自治体や介護施設に呼び掛けて順次公開を続け多くの方に感銘を与えています。
長谷川さんは6年前最愛のご主人当時47歳を癌でなくしました。
その時家族とともに自宅で夫を看取るまでの介護記録をビデオ映像にして保存していました。
ご主人を亡くした後、死についてのさまざまな事実、人の思いや経験を知り、死について家族のきずなについて、真剣に考えている人にたくさん会いました。
その時、看取り師柴田久美子さんの存在を知りました。
看取り師とは余命宣告を受けた人の納館までの看取りを心の面から支援する職業です。
多くの死に行く人の姿を見続けた柴田さんは、ご主人の映像を柱に看取りの映画を造りなさいと後押しし、製作に協力してくれました。
映画の中で長谷川さんは死について多くの言葉を伝えています。

「いきたひ~家族で看取る」 生きるという漢字「生」の下に カタカナの「タ」と「ヒ」を書くと、生と死の合体文字になるので、それで私はひらがなで「いきたひ」としました。
上映するたびに再上映が決まって、全国で200人位から20人位のミニシアター迄含めて、上映しています。
映画を見ながら自分のこととしてみているので、腑に落ちるという感じです。
余命宣告された後で、夫は薬学博士だったので、末期患者を何人も生還されたのを見ていたので、主人が余命宣告された後でも、この人なら絶対生還すると思って、治って行くであろうと信じて、癌の様子を撮影していた。
自宅で亡くなったので見直す機会はなかったが、お蔵入りしてみない様にするか、公開して死とは何かを伝えるドキュメンタリーにするか、子供達4人と相談した。
一人を皆で見送ることが自宅で出来たので、家族のきずなが深まったと思います。
生きている時は顔を合わせていると言葉のすれ違い間違いがあるが、遺影に向かって語りかけることが多くなったので、物言わぬ遺影に向かって話していると、通じ合って行く様な信頼関係が深まっていく様な感覚、いると思えばいるんだなあという感覚になりました。

病院は治すところで、死に場所ではないので、治らない人を外に出す傾向があるが、その器として介護施設の数が足りない、スタッフも足りないし、自宅では面倒が見切れないとか、死に場所難民が47万人、2025年問題、もうすぐなので、死を目の当たりにして人はどう受け止めるのかとか、他人事ではないと思う。
看取り師との出会いがあった。 
死んでない人を看取る人がいるという事で柴田さんに会いに行った。
現在69名の方が弟子というか職業として外に出て行ってます。(看護士さんだった人が多い)
余命宣告をされた人と家族との契約で、納棺までのケアと家族のフォローアップをしている。
柴田さんは20数年前から行っている。
柴田さんを映像化したいと思って撮影した。
看取った人々もインタビューして、映画にでていただいた。
プライベートな映像なので、公開していいかどうか考えたが、柴田さんから助言をいただき、自分の体験談も入れました。
癌の闘病生活も写しているので、見ている方も吃驚するシーン(出血シーン等)もある。

映像製作の経験はまったくなかったが、思いだけで一人でやってきた。(構成、脚本、音楽、語り、撮影、編集迄独りで行う)
兎に角ありのままを語ってもらいたいし、写しだしたいと思ったので荒探しをしたら一杯あります。
集めたものを構成しなければならず、随分悩みました。(一人一人にドラマがあるので)
死を映像化するのは難しい、悲しくて苦しいものであるならば、人生そのものが苦しくて悲しい最後に向かってゆく事になるので、いかに死を明るく前向きに身近なものとして、怖くないものとして感じてもらうにはどうしたらいいか、全体を明るくするために自然の描写(空、花、蝶とか)を多くしたり、生きることの美しさ、耐えることの美しさを表したいと思っていた。
人形作家の安部朱美さん (1912年3月19日 明日への言葉 放送)
昭和の時代を描いた人形の写真集を見た時にあまりにも美しくて、人形に語らせたいと思った。
私の代弁してくれそうな人形を選んで撮影しました。(色のついていない白い人形たち)
冒頭の人形のシーンで嗚咽する人もいます、何かと自分を重ね合わせることがあるのでは。

人生の完結シーンは決して悲しいものとか苦しいものではなくて、人の人生のラストシーンに寄り添う事でその人からいろんなものを受け取るとっても大事なシーンなので、是非怖がらずに逝く人にちゃんと触れてあげて、看取ることの尊さをすべての人が知ったならば、世界はきっと大きく変わるだろうと思います。
見つめる、寄り添う事で、残された人は生きることを学んで行くだろうと思います。
柴田さん人は死んでどこに行くかというと大事な人の体内に帰るという、考え方で、主人は私の体内に入ってきたと感じます。(普遍的なものだと思います)

2025年問題 死に場所が無い。 
独居老人の孤独死、孤立死が当たり前の時代になった時に、延命をすることが大事なことではなくて、寄り添う事、大丈夫だよと言って終えられたらいいと思います。
どういう終わり方をしたいのかという事を描く事は縁起でもないという事ではなくて、自分の中で決めてそこに向かっていく方が無駄のない人生ではないかと思います。
最期を自宅で迎えたい人が7割いるが、(厚生労働省調査)実際は病院、介護施設で8割で亡くなっている。
自宅で最後まで食べて笑って五感をフル活動して終えられたら、ベストなのではないかと思うので、そのために看取り師さんは大切ではないかと思う。

救急車を呼ばないシーンがあって、それと同じシーンを経験した人がいて、それを映画を観て号泣して、私は救われましたと言ってくださった人がいた。(自宅で看取れた)
ともに生きている様な気がして、私、そして子供も主人が生きていた時よりも近い様な気がする。
映画を作ると言ったら子供達は、かっこいいねと言ってくれて、協力的でした。










2015年8月19日水曜日

五味弘文(プロデューサー)     ・”怖い”で人を楽しませたい

五味弘文(お化け屋敷プロデューサー)   ・”怖い”で人を楽しませたい
お化け屋敷は仕掛けが加わった恐ろしい情景を順番にみてゆくという、いわば展示型の施設でしたが、五味さんはお化け屋敷にそれぞれオリジナルの物語を作って、お客さんに登場の役割をになってもらい、体験型のスタイルを確立して、お化け屋敷に新風を吹きこみました。

今が一番忙しい時期です。
お盆があって、死者があの世からこの世に戻ってくるという言い伝えがある。
四谷怪談が8月に歌舞伎で行われたのが、もうひとつの要因ではないか。
仕掛けをみて、火の玉が飛んできたりとかと思っていたら、違っていて、人がお化けに扮して、隠れていて、現れるというのが特徴になっている。
今出たら嫌だなというタイミングを計って驚かす、それが人間がお化けに扮する強みです。
子供の頃 長野、諏訪の自分の家の部屋をお化け屋敷として何年か作った。
大学卒業後劇団を作って芝居をしばらくやっていました。(台本を書いて演出を担当)
アルバイトの一つにイベントのアルバイトをしていて、お化け屋敷に興味があり、白塗りをして頭、眉毛をそってくねるように動く、怖い様な雰囲気があり、白塗りをしたダンサーが現れたらさぞかし怖いだろうなと言うのが最初の取っ掛かりだった。
人間がお化けに扮するのが一番怖いだろうなと思って、1992年にそういったお化け屋敷を行った。
判っているのに怖いという事は面白い。

2時間、3時間待ちは当たり前だった。
お化け屋敷はストーリーが無かったが、「赤ん坊地獄」は入り口で人形の赤ん坊を渡して、出口で
お母さんに届けて欲しいとのミッションをお客さんに与えられて、赤ちゃんは魔界の男性と、人間界のお母さんが結婚して生まれた赤ちゃん、その赤ちゃんを大勢のお化けが取り戻そうとして襲いかかってくるというもの。
それ以後、色々ストーリーのあるものを企画する。
古いものは人を経たものなので、前に使った人の気配を感じる。
恐ろしい物語を想像すると恐ろしい感じがする、それをお化け屋敷が行う事で恐ろしいものとして映ってきます。

お化け屋敷は昔からあった。
江戸時代、大森にあった、化け物茶屋を作って人を楽しませた、という歴史があるがもっと古い平安時代からあったという人もいる。(定義によって違ってくるが)
怖いというのはなんか魅力があって、海外でも日本でもある。
自分がコントロールできない物の怖さ、それが怖い事。
物語性を作る事によって更に怖さを増す。
地方のお化け屋敷を作るときは、地方の歴史とか、そこの土地のいわれなどから考えていって、ストーリーを編み出すという事はよくやる。
物語の場面を一つずつ体験してゆく様な形、重要な役割をもって、ひとりの登場人物として、演劇的な空間になっていると自分でも考えている。

初めは認知度が無くて、そんなことやってんの、と変わった目で見られることが多かった。
この仕事の先人がいないので、どうやったらお化け屋敷がもっともっと面白くなって多くの人に受け入れられるようになるのか、社会的に認知されるような存在になるのか、相当模索している時期は長かった。
お化け屋敷にいってお客さんの反応を見ているが、思ったように自分の演出が効かなかったり、タイミングがずれていたりとかあって、修正したりするが、反応のないお客さんを見ると色々考えてしまう。
ゴキブリの怖さ  家の中にいて人間の生活から距離が無い、動きが速かったり、飛んだりする、飛んでいるとどこへ飛んでゆくかわからない、コントロールできない怖さ、安心できる家に入り込んでくる怖さ、お化けも同じだと思います。
髪の毛 腐敗しない、亡くなってしまっても残り続ける。 髪の毛にかかわる事は海外にも多くある。

女性が主人公になっている事が多いが、海外の場合は男性の場合が多い、ドラキュラとか、怖いもの=強いもの、西洋的な構造、日本の場合は弱いものが怖い、四谷怪談、お岩さんが毒を盛られて、衰弱していって髪の毛が抜け落ち、立ち上がることができなくなり亡くなる、伊右衛門に依ってさいなまれている物語で、怨念という形になって幽霊として現れる。
お岩さんが健康的で、朗らかな女性が亡くなって、お化けになっても怖くない。
か弱い女性で痛めつけられたからこそ、怨念がたまって強くなる、怖くなる、という構造がある。
物語を背負っているというのが、日本の怖い話の背景にあってそれがあるからこそ女性の幽霊は怖いという、そういう風な成りたち方をしている。
ひとりではなく、2,3人の関係の中で怖さをみる、ここが大事でより怖くなったり楽しめることになったりする事が出来る。
私は物凄く多くのカップルを成立させたと思っています。


















2015年8月18日火曜日

中川モモコ(千田是也氏長女)   ・二つの国に生きて

中川モモコ(千田是也氏長女)   ・二つの国に生きて
現代演劇をリードした千田是也さんの長女、昭和7年、ドイツ人のイルマさんとの長女として東京に生まれました。
7歳の時に両親は別の道を歩むことになり、イルマさはモモコさんを連れて、ベルリンに戻ります。
その後、モモコさんは第二次世界大戦の烈しい空襲を体験しました。
戦後、帰国した モモコさんは、父親との再会も果たし新たな道を歩み始めます。
激動の日々の思い出をお聞きしました。

私はあまり自分を主張するタイプではなかった。
父に似ているところはのんきでどんなことがあってもくよくよしないところだと思います。
父は俳優、演出家としても活躍して日本の演劇界をリードした人。
父には沢山兄弟がいて、末っ子でもまれて育った。
一番上の兄は才能があり、皆彼を見本にして芸術家になった、踊り、音楽、絵等を勉強して、父は演劇を勉強して役者になった。
私の父は伊藤圀夫 父の長兄 伊藤道郎(国際的な舞踊家) 父の四兄 伊藤熹朔(舞台美術で活躍)
父は友人らと俳優座を作りその代表になった。
1927年~31年までドイツに行って演劇を勉強するが、そこで母と出会った。

希望をもって母は日本についてきたが、政治的に色々動きがあって、左翼演劇活動で間もなく父が追われて、1年後に私が生まれて、母はタイピストの仕事をし始める。
父は逮捕されて獄中での生活を余儀なくされる。
父が自由になった時には私は3歳になっていた。
困ると思って父も仕事を探すがうまくいかなくて、又夢中になって演劇活動を続けているうちに、母は耐えられなくなって、ドイツに帰る準備を始めた。
1939年に私を連れてベルリンに帰りました。
戦争の準備が始まった時期で、秋にドイツ軍がポーランドに侵入して戦争が始まった。
母は離婚して、父が色々私達に残したものを贈ってくれたが、其中に人形があり祖母が大事にしていたもので、戦争が終わって祖母が亡くなる前に母に渡したもので、それを私にくれたものでした。
父から「ベルリン 私は又思う、 東京 貴方は私のことを思う」と人形に書いてあった。
戦後まで父はどうなっているのかわからなかった。

母は仕事があり、祖母がいつも一緒にいてくれて祖母からドイツ語の読み書き、等を教えてもらった。
日本語は話すことが無いので段々忘れてしまった。
母は再婚して近所に住んでいたが、私は学校に通う様になり、段々空襲がはげしくなって、弟が生まれるなかで、弟を乳母車に入れて地下に移動したりした事を覚えている。
叔父さんに連れて行ってもらった時に、バルコニーに出てきたヒットラーをみる機会があった。
子供には戦争の状況については情報入ってこなかったし、周りも子供には聞かせない様にしていた状況だった。
1944年秋 1945年 最後の何ヶ月はとても厳しかった。
家が破壊され、又祖母と私たち家族は一緒に住むようになったが、空襲の時には防空壕に入った。(4~5階建てで厚さが2~3mある地表の防空壕)
ベルリン町は本当に何もないくらいに破壊された。
逃げてゆくときに戦いのさなかに道路を渡らなくてはいけなくなって、大砲の撃つ合間の補給の時に、見計らって道を渡った。

戦争が終わって、周りの人の助けを借りて、ベルリンから大変だったが、ガイドを頼んで夜中にこっそり田舎道を通って西ドイツに渡る事が出来た。
1950年日本のラジオ協会に、父親を探してもらう様に手紙を出した。
日本放送協会から父に私の手紙を渡して、日本放送協会から間もなく手紙が届くでしょうとの手紙が来た。
父から手紙が届いて、今まで何もできなかったから、日本に来て勉強し直したらどうかとの事だった、演劇界で大活躍していたので、一人で日本に来た。(昭和27年)
日本語が全く判らなくて、父に通訳してもらったりした。
今も本は全部ドイツ語です。 ドイツ語は直ぐにスーッと入ってくる、日本語は曖昧です。
時々日本に母を呼んで、日本の親戚、昔の友達も集まって暖かく迎えてくれました。
どちらの国も故郷である様な感じです。
2009年ドイツに行き、今行かないとチャンスが無いと思って、もう一回皆に会いたいと思って、ベルリンに行きました。
ドイツ劇場でアンネ・フランクの記念公演があって、終わって劇場からでて左側に防空壕があって、それが逃げ込んだ防空壕だったことが判った。
敵を作るのは一番良くない様な気がして、皆思いやりをもって生きなくてはいけないなあと思います。

















2015年8月17日月曜日

尾田 悟(ジャズプレイヤー)    ・海軍軍楽隊員、ジャズに生きた戦後

尾田 悟(ジャズプレイヤー)    ・海軍軍楽隊員、ジャズに生きた戦後
88歳(来月) 現役のジャズのテナーサックス奏者、昭和2年福岡県生まれ。
昭和18年中学生の時に海軍軍楽隊の募集に合格し、横須賀の軍楽隊で猛訓練を受けます。
卒業後、戦艦武蔵に乗り組む予定だったが、変更になり戦死をまぬかれます。
軍楽隊の仲間の多くは失いました。
戦後、福岡のアメリカ軍の将校クラブでジャズを演奏するようになりますが、後に東京に出てきて本格的にジャズの道を目指します。
1985年、50歳代半ばの尾田さんは初めてアメリカに渡って、モントレージャズフェスティバルに出演します。
ここで出会ったピアノのハンク・ジョーンズに認められて、以後共演を重ね、海外での活動の場を広げていきます。

ディック・ミネさんとはつきあいがあり、一緒に公演をしたりしました。
初めてサックスを吹いたのは軍隊の時、これをやれと命令された。
福岡県だが大分県立中津中学校(名門)に行くが、いじめにあった。(荒れていた)
逃げ場所が自宅の近くの幼稚園で、幼稚園の先生にオルガンを教えてもらって、その音に感動した。
海軍軍楽隊の募集があり、全国100人の中の募集に合格、其中から90人が選ばれた。
横須賀海兵隊に入り、軍楽隊で学校があり練習生が1年間行うが、それが凄かった。(15歳)
合同演奏するが、できないと教官が怒られるので、教官が必死なので私たちは命がけになるが、其厳しさがあったからウイリアムテル序曲を1週間でやり、カルメン等クラシックを毎週3曲、年間140~150曲やっている。
新兵としての訓練も行った。
南西方面艦隊があり、戦艦武蔵に乗る事になったはずだったが、水泳の部署ごとの大会があり、昭和19年9月での遠泳大会でその選手になり、武蔵には乗る事が無かった。

サイパンが落ちてから空襲が来る様になるが、電波はアメリカのものになる。
或る中尉がラジオをかけて、これがジャズだと教えてくれたが、吃驚した。
クラシックではやってはいけないことを、ジャズではやっていた。
九州に帰ってきてサラリーマンになるが詰まらなくて1カ月で辞めることになる。
進駐軍に将校クラブができて、そこで演奏するようになるが、当時45円だった月給の時に1000円貰っていたが、全部使っていた。
先輩から東京に来るように言われて、辞めるのが大変で、ドロンした。
東京では3~6カ月で契約して、銀座等で廻って歩いたが、失業する事はなかった。
契約の条件も良くなり技術も上げることができた。
昭和30年代本格的なジャズブームになるが、血を吐いてしまって、結核になる。
「血は後から作れる、出すだけ出せそうしないと、そこで固っちゃう」 その一言が物凄く胸に来た。
血を止めてしまうと固まってしまって息ができなくなる。

名前が知れ渡ってきていて、出演依頼が次から次にあり、血を吐いてしまって其繰り返しで、
そーっと吹いていましたが、そこで出てきた名前が「四畳半のテナー」(力いっぱい吹けない)。
私が居たバンドで歌手をしていた人がマーサ三宅さん、当時大橋巨泉さんの奥さんで、つきあいがあり、それで彼が評価してくれた。
「日本のレスター・ヤング」という大橋巨泉さんの批評がその後ずーっと尾田さんについて回る。
結核の方も何となくおさまってくる。
1985年にアメリカのモントレージャズフェスティバルに出演する事になる。
プレイヤーが10人位の著名人、観客は1万人以上いた。
ピアノのハンク・ジョーンズと出会い、お前はいい奴だかっこいい、俺と一緒にやるかと言われて、一緒にレコーディングしたいと言われて、吃驚、上の空状態だった。
ハンク・ジョーンズとのレコーディングをして、その後ずーと付き合う様になる。(最初は「ラバーマン」)
ハンク・ジョーンズは人格者です、あんな人はいるのかなと思ってしまう。

以後アメリカ、ヨーロッパでの演奏活動を始める。
オスカー・ピーターソン等も私の演奏しているステージに、上がってきて自分も演奏するといってやったりしました。
終戦の翌日8月16日に、特殊潜航艇(二人乗り)が出て行ったが、俺たち出ていくから、軍艦マーチを吹いてくれと言われて、軍艦マーチを吹いたが、吹くのは怖くてそれ以来吹いていない。
演奏活動は今後も続けていくが、大腸がんも動脈瘤(写真を見せられて絶望的であったが)も克服してきた。





2015年8月16日日曜日

高津一郎(劇団麦の会 元代表)  ・あの日から70回目の夏

高津一郎(劇団麦の会 元代表)  ・あの日から70回目の夏
91歳 終戦を迎えたのは中国南京南西のところです。
その後日本への帰国を待つ間、命じられて演芸会で初めて芝居を手掛けました。
帰国後敗戦のショックで病んでいた高津さんは、演劇とかかわる事で精神的にも立ち治り、家業の本屋を再開します。
横浜のYMCAの演劇研究会で演劇の勉強を始めて、劇団麦の会を立ち上げ、横浜を題材にしたオリジナル作品を数多く手がけてきました。

復員が決まってからは1300人の兵隊を無事に日本に戻すことに集中しました。
11月の末に上海に移動、復員船に乗ったのは3月ですが、それでも早い方です。
その間を何かやりたいという事で、みんな歌謡曲、短歌、俳句などをやるようになる。
ステージを作って、呼び集めると100人位になり、歌謡曲、手踊りなどしたのが始まりで、段々大きくなってきて、演芸会という形で一晩掛かってやり、よその部隊にも動くようになってきた。
中隊長が芝居をやるぞといい始め、高津少尉と通信隊長二人で台本を書けという事になった。
15分ぐらいのストーリーを書いて持って言ったら、駄目と言われて、帰ったらどうなるかを知らせなければだめだという事で、30分ぐらいのものを中隊長が書いて、役者を集めて稽古をして、中隊長が演出して、私らは演出助手みたいなものをさせられて「故郷の春」という題名で、行った。

内容はいきなり復員兵が舞台に出てきて、国の自分の家の前におり、奥さんが出てきてしばらく動けない、見ている1000人の人の自分の姿を見ている様なわけで1分ぐらいすると、二人がワーッと抱き合う、お客さんもワーッと立ちあがって大騒ぎになる。
無事で会えたことを喜びあう世界。 亡くなった父母の墓前で頑張りますという事で生活が始まって、色々あったが、赤ちゃんが生まれて、日本にいる駐留軍がいなくなるぞ、帰るぞという事までやっている。
芝居を通してこういう生活があるという事を見せて教えた。

博多に帰ってきて、横浜に戻ってくるが、焼け跡だらけ(昭和21年3月末)で呆然とした。
心の中に空洞があり、軍務に追われて直すという様な時間が無くて、帰ってきて、我が家に家族がいて落ちついたらばどーっと落ち込んだ、3カ月ぐらい何にも考えられない。
友人も来て励ましてくれたりするが駄目だった。
新劇の合同公演があるので、友人が引っ張って行ってくれて、それを見て段々心が動く様になってきて、浮浪者が人間のイメージを作るところがあって、その中に自分がすぽーっと入って行って、それが凄い刺激になって、回復しないとだめなんだという事が段々思えてきた。
いくつか芝居を見るようになって、段々芝居が面白くなってきて、横浜YMCAの会員募集があって、その中に演劇研究会があって、(労働組合の自立演劇が京浜地帯に150ぐらいできて、レッドパージが始まり組合幹部が追われて自立演劇が衰退する)、リーダーを養成する目的があり、集まったのは23,4歳の兵隊上りの人達、女性は軍需工場で働いている人たち、集まり自体が非常に楽しかった。

俳優座、文学座等の演劇を観に行き、演劇を体感してその後話しあって、演劇論等を読んだりして知識を深めた。
だから始まったら、公演を持とうとの話があったが、その人たちは脱退して、2年ぐらい経ち、左翼演劇的な人、戦後始めた人たちもいて、勢力争いみたいな動きがあった。
(演劇研究会は7年後には麦の会となる。)
太宰治の「春の枯葉」 人間として存在する不安みたいなもの、私たちの中にもあり、これに魅かれて上演したが、100人位のお客さんが来てくれた。
ガリ版で私が台本を書いて、演出もやりました。(軍隊での経験)
その後勉強しようという事で、5年間一幕物をやってゆく様になる。
自分たちで書いたものがあったが、上演しようと言うところまでは行かなかった。
メンバーも増えて(30人弱)、1959年 TVドラマを始めて、どこでもやっていて役者が足りなくなり、横浜のアマチュア演劇に目を付けて、タレントスカウトがきて、結構酷い使われ方をして、それがきっかけで「道化の青春」 一種の人間侮蔑  これをやろうという事になる。
芝居のやりたいこととが一致した。

当時、横浜は62%が占領されていて、駐留軍が一番多くいたのは32万人、そんな街だった。
そのことを踏まえて「荒地」という題名で横浜の悲劇を芝居にした。
占領政策に対する、60年安保に対するでもを扱ったもの、70年安保に向かう姿勢のもの「雨の中へ」、もそういう意図を込めてやったわけです。
大人たちの横暴に対する若者たちの戦いみたいな事を二つやっている。
ミュージカル仕立てで、踊りを含めた芝居を作り上げた。(深刻な問題なので柔らかく仕立てる)
今年の出し物、「夏の日の陽炎」 出演は孫の世代
兵隊検査を判っていなかったが、其れを理解しなければ戦争に行くという事が見えてこない。
19歳で兵隊検査を受けなければいけなくて、入隊しろとの連絡があり、完全に軍の掌握の中にはいってしまう、志願もしないのに軍隊に持って行かれてしまう。

「鳥になった少年」 パプアニューギニアに軍隊をおくりこんだ時には、敗戦が目に見えていたのにもかかわらず、16万7000人の兵隊を送り込む。
弾薬の補給、食糧の補給もなくて、74%の人が戦死するが、そのことを問題にしたくて「鳥になった少年」を書いたが、調べてゆくと伝えなければいけない問題がたくさんある。
平和はいいが油断したら、いつひっくり返されるか判らない。









2015年8月15日土曜日

白井久夫(ジャーナリスト)      ・残された「空襲警報」~録音盤は語る~

白井久夫(ジャーナリスト)      ・残された「空襲警報」~録音盤は語る~
神戸市東灘区に住んでいた当時中学生の溝口重夫さんが録音したもの。
空襲警報の録音。
白井さんは昭和8年生まれ82歳、自身も横浜で空襲に遭う経験をする。
戦後NHKに入り、広島の原爆投下直後に大阪局を呼び続ける声がラジオから流れたことを追って、番組を制作し、「幻の声NHK広島8月6日」という本をまとめました。
戦時中の放送の仕組みについて取材を重ねてきた白井さんは当時の放送が録音され残っていたことに驚いたと言います。

中部軍情報、何時何分、どこの地点でどこに向かっているか入っている。
昭和20年2月4日昼の米軍機による神戸への空襲と、2月18日夜 大阪へ1機が飛来した際にそれぞれラジオが伝えた中部軍司令部発令の警報放送。 
当時の録音
「敵の編隊11機が14時10分潮岬に到達し、北に進んでいます。その先頭は阪神面に向かうとすれば14時20分ごろ、名古屋方面に向かうものとすれば14時25分ごろ到達するものと思われます。」
「14時25分ごろ、熊野灘を東北に進んでいた敵の編隊は、尾鷲付近から奈良県下にはいる模様で有ります。ただいま時刻は14時31分であります」
「京都の高射砲が急制射を行いますから注意してください」
等々。
高野山から北に向かう編隊は大阪平野上空を通過、神戸に目標を定める。その様子の警戒警報
神戸の空襲を終えた米軍機は南に去ってゆく。

昭和19年11月1日から本土へのB29の空襲が始まるが、その前その年の6月16日にB29が大量にやってきて、八幡の工場群を攻撃するが警戒警報、空襲警報を発令するが、解除までの時間があり、不安をおこさせる可能性があるという事で、解除までの間に情報放送を入れるようにする。

軍管区 東部軍管区(東京)、中部軍管区(大阪)、 西部軍管区(福岡) 後に北部軍管区 東北軍管区、東海軍管区
四国軍管区、中国軍管区という風に細分化される。
驚きは形を守って情報を出していた事と、その情報の内容が本当にアメリカ側の攻撃を十分に伝えるものであったのかどうかという事、どこの目的に向かってどういう風に編隊が指向したか、そいうものが読み取れない単なる情報だった。
被害についての新聞報道も僅少であるとかぼかしていた。
昭和20年2月4日昼の米軍機による神戸への空襲が都市への本格的な焼夷爆弾投下だった。
東京大空襲、夜中の零時8分 空襲警報の出ないまま下町に落ちた。(警報は零時15分に出た)
夜中に空襲警報を出すと、天皇に色々心配を掛けるという事で出し遅れる。(戦後判明した事)

東京、大阪、名古屋等大都市を焼き尽くす。
6月中旬からは中小都市が狙われる。(夜間の焼夷弾空襲)
6月17日 鹿児島、大牟田、浜松、四日市
6月19日 豊橋、福岡、静岡
6月28日 佐世保、門司、延岡、岡山
岡山への警戒警報は出されなかった。

8月6日 広島  
この日未明マリアナ諸島テニアンの基地を飛び立ったB29エノラゲイは目標の広島上空に接近する。
白井さんはあの朝爆心地から1.3kmの距離に在った放送局の技術職員寺川政雄さんの証言を
戦後30年目の番組制作の折に取材し、聞きとっていました。
彼は前の晩から警報を出す係として、軍管区司令部につめていた。
疲れ果てて帰ってきて、普通休むが、そのままスタジオの前の部屋にいた。
突然外でB29が飛んでいると叫ぶ声が聞こえて、彼はあわてて警報を出さないといけないと、軍管区司令部に電話をする、放送所にこれから警報が行くという事を連絡する。
その時にバーンと落ちて、放送局、放送所もやられる。
近隣の局に連絡するが通じなかった。
課長が怪我をしているので抱えて各局に電話連絡するが、その声が放送の電波に乗った為に其れを私どもは「幻の声」という番組を作った。
怪我をした課長を抱えて、一緒に逃げだそうとして玄関のところで、血だらけの赤ん坊が這いあがってきた、その後ろに今朝放送局にラジオの修理に来て並んでいた人達が皆死んでしまっていた。

這いあがってきた赤ちゃんが如何にも哀れで抱上げて何とかしたいが、ラジオは持ってるし、課長を抱えているので、母親らしい人のところにおいて、放送所に逃げるがそれが一生苦になって、放送局の玄関が彼にとっては物凄い苦痛になる。
広島放送局の技術職員寺川政雄さんの証言に出会ったのは40年前、1975年春。
ドキュメンタリー番組にまとめました。
戦争のない社会を築きたいと歩み出す。

横浜に5月29日朝突然空襲警報が出て、8時20分 物凄い数の飛行機が飛んできて、一斉に焼夷弾が落とされて、警報があっても何も役に立たない。
信濃毎日新聞社 桐生 悠々 社説「関東防空大演習を嗤ふ」 1933年(昭和8年)8月11日 関東一帯で行われた防空演習を批判、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化、航空戦は...空撃したものの勝であり空撃されたものの負であると、信州郷軍同志会が信濃毎日新聞の不買運動を展開、そのため、桐生は謹慎の後、社を去ることになった。



2015年8月14日金曜日

赤木春恵(女優)         ・満州からの引揚で決意したこと(2)

赤木春恵(女優)           ・満州からの引揚で決意したこと(2)
「ペコロスの母に会いに行く」 89歳の時の映画。  主演女優をする。
台本を頂いた時に中味を知らずに、もりさきあずまさんが監督をするという事で簡単に映画を引き受けた。
主演女優賞を頂き、ギネスの世界記録、映画で134本を脇役を演ずる。
「ペコロスの母に会いに行く」 認知症の役で、息子が面倒をみる。
女優になったのが昭和15年、当時情報が伝わらなくて、なんで中国と戦争しているのか、なんでアメリカと闘わなくてはいけないのか、意味もわかっていなかった。
NHKの放送、TV等を見て、最近判った様なものです。

満州から京都に戻ってきて大叔父、大叔母さんのもとで(二人とも教育者)で母と私は離れの一室に寄宿して、学校に通っていたが、母は溺愛型だったので、心配して大叔母が私を厳しくしつけてくれたが、それがあとになって良かったと思います。
学校に行っても神社の掃除と、陸軍病院の慰問とかばっかりだった。
見合いして結婚するコースが決まっていて、それをなんとかしたくて兄の所の撮影所に遊びに行き、監督さんに女優になるかと言われて、自由になるために女優になる事を決めることになる。
試験を受けないといけなくて、芸術概論、演劇概論、日舞、三味線、馬術など色々あった。
基礎をきちっとやれたことが有難かった。
当時の映画は皆戦争に結びつけていた。
竹やり訓練、バケツリレー等をやらされた。
デビューは腰元の役で、金魚鉢をもって廊下を歩く役だったが、なかなかOKにならなかった。
男の人がたりないので笠をかぶって、遠くの方で参加した。

軍部の要請でトラックに乗って慰問してほしいとの事で、各師団を回る。
鈴鹿航空隊の明日出発するという特攻隊の慰問に行った時は、しびれるような思いだった。
丸坊主で20歳そこそこで、シーンと静まり返って、笑うところは笑わないし、泣くとこも泣かないし、拍手する時も拍手は無いし、シーンと静まりかえったところで色々やるのですが、すごくこたえましたね。
本人たちもそれどころではなかったと思います。
大映を辞めて満州に行って、戻って来てから片岡千恵蔵さんの口添えで再び大映に入る事になる。
目標をずーっと先に置く事がいいと思っていて、40,50歳になった時にいい役者だといわれるように
なりたいと思っていた、自分自身をよく知っていますから。
森光子さんとは慰問団でトラックの上で初めて会いました。
森さんは南方に私は満州に行きました。
お互いに生きて帰ってきて、森さんが病気になり、もう亡くなったのではないかという、噂まで飛んだが、お互いに会って抱き合ってから本当のお友達になりました。

森繁さんは森繁劇団を大阪で発足して、或るとき浪花千恵子さんが出られなくて、ピンチヒッターの話があったが事情があり断りに行ったが、森繁さんの演説を聞いてすっかり傾倒してしまった。
森繁さんは知性があります。
森繁劇団を10年手伝う事になるが、朝のTV小説(「藍より青く」)の話がきたので、両方できないので、森繁劇団とは離れることになる。(50歳ぐらいの時)
いい作品でやりがいがあった。
その後、橋田壽賀子さんが「四季の家」を書いて私を推薦してくれた。
明けても暮れても明けても暮れても、橋田-石井のコンビで全部出ているというありさまでした。
舞台が好きだったので、「渡る世間・・。」の途中15年間務めたが、配役の中で病気にしてもらって、
降ろさせてもらいました、最後の方にもう一度出ましたが。
舞台の魅力は瞬間的なものです、常に本番で、大勢の観客の前でお芝居ができるという事はすごく楽しみです。

人に迷惑をかけたくないという事で86歳で舞台を辞めることにしました。(足が駄目になって)
「藍より青く」の初日にアキレスを切った時からずーっと仕事があったもので、断れなくてリハビリをせずに仕事をしました、その後遺症です。
3年B組金八先生』に校長の君塚美弥子役でレギュラー出演する。
いろんな人生を演じられるので面白い。



2015年8月13日木曜日

赤木春恵(女優)         ・満州からの引揚で決意したこと(1)

赤木春恵(女優)           ・満州からの引揚で決意したこと(1)
1924年 大正13年旧満州生まれ、京都に家族と戻り、昭和15年松竹のニューフェースで女優になりました。
太平洋戦争が始まり、軍需工場や国内各地の部隊を慰問しているうちに、戦争は激しくなるばかりです。
昭和20年2月、以前暮らしていた満州に旅立ちます。
8月9日のソ連軍の突然の侵攻、8月15日の玉音放送、終戦、満州で慰問劇団の座長だった赤木さんは無事に日本に着くまで苦労の連続でした。

本当は戦争のことをあまり語りたくない、家族にもあまり喋っていない。
マスコミから取材が来ると、おしゃべりした後は寝つきが悪い、細かいことを思い出してしまう。
8月15日大事な放送があるという事で、玉音放送を聞いたが、雑音が烈しくよくわからなかった。次兄が劇団の創設で借金をしていて、劇団の借金の話をどのタイミングで話したらいいか、考えて話したらそんなときではない、そんなことはどうでもいい、身の振り方、どうやってこれから生きていくかを考える方が先だと言われて、借金の話のことで頭がいっぱいだった、私はほっとした。

伊藤大輔の助監督を次兄(9歳上)はしていたが、戦争高揚の映画ばっかりで不満をもっていた。
私は大映にいたが、満州に行こうということになって、昭和20年2月に出掛ける。
母だけは京都に残った。
ハルピンは天国みたいなところだった。
慰問に出かけるが、満映の理事長と、満州演芸協会のトップ 甘粕正彦さんだったので、その前で整列して敬礼して出発した。
満州の名のある場所は全部回っている。
最後にソ連との国境に近い春化に行ったが、ソ連に近いという事は判らなかった。
部隊長が慰問どころではなく、夕食を食べたら琿春(司令部がある)にお帰り下さいと言われた。
食事中にドンドンと鳴って、なんですかと問い合わせたら戦争ですと言われて、まさかソ連だとは思わなかった。
部隊長に絶えず電話がかかってきていた。

翌朝、あまりにも騒がしくて、戦争だという事で、宿屋の日本人は逃げてしまっていた。
司令部に行ったら、こちらでは慰問どころではないので、琿春にお帰り下さいという事で、琿春行きのトラック13台を出すので、それに乗って下さいと言われて、それに乗って朝鮮まで走った。
関東軍から派遣されたので、勝手に行動することが許されないと思って、南に向かう人たちと袂を分かって、北の新京に向かって行こうとして、、列車のダイヤが滅茶滅茶で、北に行く列車に乗ろうとして司令部に行ったら、どこから来たのかを問われ、春化から琿春に来て朝鮮に来たと言ったら、春化では後2時間遅かったら死んでいたと、司令部の方から言われた。
満州開拓団の人たちも逃げることで精一杯だった。
北に行く列車が来てハルピンについて2日後に大事な放送があるとの事だった。
ハルピンは夢の国みたいに静かだった。

昭和21年10月21日に日本に帰ってくるが、それまではハルピンで働かなければならず、ウエートレス、洋服屋さんの手伝い、ダンサー等もやった。
八路軍は規律が良かったが、市中引きまわしみたいに、首からプラカードをぶら下げられて、戦争文化犯罪者、歴史の嘘をおしえた、と書かれていて、日本人の校長先生とか、広場で人民裁判で石を投げぶつける、そういうのを見るとたまらなく不愉快で寒気がした。
奥地から開拓団がハルピンに流れてきて、悲しい話を一杯持ち込んできて、大勢で逃げている時に、池の中に身をひそめていたら、赤ちゃんが泣きそうになったので、赤ちゃんが泣いたら場所が判って襲撃されるというので、自分の赤ちゃんを水につけてしまったという様な話とか様々な話を聞いた。
慰問先で発疹チフスを移されてしまったが、熱が高いと生きてる鶏の胸を裂いて、胸部に当てると熱を吸収して治るという話があり、代わりに山鳩を使って無理やり押さえられてやられて、1週間ぐらい経ったら・・・。(地震情報)
入院するが窓にはカーテンが無く、日差しが強くて、衛生兵がもんぺをカーテンの代わりにしてくれて、もんぺの白い椿の花が自分の中で全部鳩に見える。
「ごめんね、ごめんね」、と言い続けたそうで、「私は死なない、私は日本に帰るんだ」と言い続けたそうです。
命を助けられてた、生きて帰れただけで有難いと思わなければならない。

二人の兄である、長男 次男 共に亡くしてしまう。
長男は病気で日本に帰ってきて亡くなってしまう。(戦病死)
男の人が戦争を起こすんじゃないですか、私たちの頃は本当に女の人は何も知らない、ただただ銃後を守る、人間同士の殺し合いなので、いやですね。
もう戦争は駄目です、戦争をしないでほしい。


























2015年8月12日水曜日

金田茉莉(戦争孤児の会 代表)  ・戦後70年、戦争孤児が歩んだ苦難の道

金田茉莉(戦争孤児の会 代表)  ・戦後70年、戦争孤児が歩んだ苦難の道
1935年 昭和10年東京都浅草生まれ  父親が3歳の時に病気で亡くなり、以後母親の手で3姉妹の一人として育てられました。
1944年から学童疎開が始まり、小学3年生だった金田さんは家族と離れ宮城県白石市に集団疎開しました。
1945年3月10日東京大空襲で母と姉妹を失い、孤児となりました。
そのごは戦争孤児というハンディーを背負いながら様々な仕事をして来て、結婚し、子育てで追われる40年間孤児であることを明かしませんでしたが、急病にかかりながらも、奇跡的に一命を取り留めた事を機に封印を解き、自らの体験を本にし、出版しました。
戦争孤児の会に入り、集団疎開、空襲の実態、を調査し、孤児たちがたどった過酷な人生の記録を後世に残そうと努めています。
戦争孤児は過去の問題ではなく、現在、未来につながる問題でもあるとも言います。

大学で学生たちに空襲や戦争孤児の話をする機会がある。
立教大学、埼玉大学等に話をしてきました。
非常に熱心に聞いていただいて、埼玉大学では後世に語り継いでいこうと語り部活動(紙芝居など)をしています。

父が脳溢血で急死して母が3姉妹を育ててくれました。
父は卸業をやっていた、3人位を雇っていたが、兵隊にとられた。
小学3年生で親と離れて集団疎開し、旅館内で勉強から寝ることまでそこで行っていました。
6年生が卒業で帰る事になり、母が女ばかりだから大阪の郊外に疎開しますという事で先生にお願いした後で、6年生と一緒に帰ってきた。
3月9日夜行列車に乗って、10日の朝に上野駅に着いた。
その時 一面の焼け野原になってしまっていて、富士小学校は焼けて死体の山だという。
浅草小学校は奇跡的に焼けのこっていて、そこへ行きました。
非難している人たちがすすで真っ黒になっていて、焼け焦げて、目がこの世の人ではない様な宙に浮いた虚無の目をしていた。
学童疎開から帰って来たよ、という声にその人たちは動き出して、皆我が子と抱き合ってあっちでもこっちでも泣き崩れてゆく。

母に抱き締めてもらいたくて、探すが、どこにもいなかった。
叔父が来てくれて、先に西新井に逃げているかもしれないという事で、浅草から歩いたが、その途中に黒焦げの死体が一杯だった。
7月に疎開先の兵庫県にいっていたが、6月に隅田川から死体が見つかったという知らせを受けて、(母と姉)、妹はいまだに行方不明です。
昭和20年は親戚をあちこち転々とした。(親と一緒に死んで呉れたらよかったのにとか言われた)
針のむしろに座っている様な辛い毎日だった。
戦争が終わった時から、人間の心が壊された、戦後の方がひどかった。
戦争孤児をかってに利用とする人達が出てくる。(クレームを付ける人がいなくて人身売買とか)
母が見つかった時に貯金通帳が見つかり、それで高校を卒業して、上京する。
布団をもって行かないと雇ってくれず、何もないので、住み込みで布団なしで行けるところを探して、場末の飲み屋、汚い仕事するところに安い賃金で働く事になる。
戦争孤児は差別されてしまうので、40年間孤児であることを隠していた。

49歳の時に、急病になり、(胆石が胆嚢に詰まる 一日遅れると生命がなかったかもしれないと言われた)七転八倒の苦しみを味わう。
手術して、それから人生観が変わって、母に報告しておかないと「母にささげる鎮魂記」という自分史を書いて、それを出版しました。
学童疎開研究する会に本を見た人から誘われて、孤児のことを知った。
「夜空のお星様」という子供向けの本を出したが、70人位の人に本を送って、必死になって孤児の人たちを探し、40人の人たちとコンタクトをとることができた。
アンケートを送ったが、自分のことをさらけ出すのが嫌という事で、物凄い拒絶反応だった。
何とか21人からはアンケートの解答があった。
戦争孤児の人数は12万3511人ですが、1948年に厚生省が占領軍に命令されて仕方なく調査したもので、公表していない。
1946年8月23日に第90回帝国議会で、餓死したり、戦争孤児はどうなっているか、国会議員が質問しているが、答弁は戦争孤児は3000人、1500人は親戚に預けられ、1500人は養護施設に保護されているという答弁だった。
2年8カ月後に調査したら12万3511人だった。

公表されず、それを遺族会が持っていて、それが出てきたのが戦後58年経っていて、やっと戦争孤児のことが取り上げられるようになった。
交通事故等で残された孤児は家、故郷もあり、近所の人は良くしてくれるし、事故金、生命保険金があるが、戦争孤児は親家族一家全滅は同じだが、家も、故郷も、希望も夢も全部戦争で奪われ
それが戦争孤児です。
だが国は隠してしまって、戦争孤児は自分で生きなければいけない、何の保証もない。
戦争孤児は自殺するか、親戚でつらい目にあっても我慢してそこに残るか、浮浪児になるかの選択しかない。
国からも捨てられ、世間からも捨てられて、馬鹿にされてきたのが戦争孤児です。
篤志家が私財をなげうって、施設を作ってくれる例もあるが、1割程度の救済となっている。

軍人には今まで総額53兆円の保証金が出ているが、戦争孤児たちには何の保証も無く、国に訴えても14回も廃案になって、法律が通らなかったので、裁判を起こした。
東京空襲の場合は戦争孤児はほとんどの人が遺体が見つかっていない。
遺骨が出てきても判らないため引き取り手が無いので、空襲の犠牲者の慰霊碑、供養塔を作ってもらいたいと思っている。
「終わりなき悲しみ」本を出版 戦争孤児と震災被害者の類似性をテーマにしている。
東日本大震災の津波の後を、TVで一瞬見た時に空襲だと錯覚を起こしました。
過去、現在、未来が繋がっているので、だから今の人たちは過去を学んで、未来のことを決定するのは今の人達なので、未来の子供達を守るのは今の人たちだから同じ歴史を繰り返さないでほしい。





















2015年8月11日火曜日

山領まり(絵画修復家)        ・戦没画学生の絵を修復する

山領まり(絵画修復家)       ・戦没画学生の絵を修復する
1934年 昭和9年福島市生まれ、 東京芸術大学専攻科を卒業、絵画の修復と出会い、自らの工房を立ち上げて半世紀にわたって絵画の修復に取り組み、絵画修復の基準を作り上げてきました。
太平洋戦争当時、日本軍が描かせ、戦後はGHQに接収された戦争記録画の修復や、パリ日本館の藤田嗣治の作品の日仏共同修復事業のほか、浮世絵、版画、文書など紙の美術作品、文化財の保存修復に取り組んできました。
平成9年長野県上田市に開館した無言館に展示する、戦没画学生の作品の修復を依頼されました。
戦争に行かざるを得なかった画学生の作品は、描きたいという思いが強く伝わってくる一方で、戦後時間の経過とともに絵代が変わり、保管状態が悪いことも多くて修復は極めて難しいものです。
その時代を物語るものとして、修復して保存する意味は非常に大きい、だからこの仕事はずーっとかかわっていきたいと言われます。

45年前山領絵画修復工房を立ち上げ、昨年代表を退く。
絵画の修復というのは、物を直すという観点から見ると、特殊なものとは思えないが、絵画の特殊性、世界中に一つしかないという観点から見ると、修復家がすべきことはその作品を子細に観察する事から始まる。
絵画を構造的に考えると、一番下に麻布、目止めをしなくては行けなくて、目止め材はにかわ、(現在は合成樹脂)、次に地塗り層があり、その上に絵具層が何層かあり、そのうえにニス層がある。
キャンバスの状態から最初に筆を置いた薄い褐色等が、あたり線(どういう言う構図にするかとか、鉛筆の場合もある)では多い。
その状態が想像できるぐらい観察しなければならない、そのうえでそれが今どういう状態なのかをきっちり掴む。

カビ、絵具がひび割れてある面積で落ちてしまったり、裏から破れたり、埃等様々なことが起きる。
現状をあまり大きく変えないで、劣化が遅くなるように手助けするのが、修復家の立場です。
修復が確立したのが1970年代だと思います。
どういう補強方法がいいか、現状の画面なりの印象をなるべく変えないというのが、難しいがやって行かなければいけない。
今の問題は、現代美術の問題が出てきて、別の要素が加わってきている。
明らかに退色する事が予測されているような画材で描いているとか、作品がモーターで動く、電球が消えたり点いたりするとか、平面的な絵画の知識だけではやっていけないので、若い人に譲るべきだと思いました。

無言館 窪島誠一郎さんとは随分前から知り合いで、最初デッサン館を立ち上げて、其時に手伝いしながらきました。
無言館の作品は物置などに置かれていたものが多くて、時代も経っているので痛んでいる作品が多いので、修復しなければならないものがほとんどです。
野見山暁治画伯、窪島誠一郎さんとの出会い。 
無言館に寄託しようと思った遺族の方の中には普通の修復(ぴかぴかに戻す)して、寄贈した作品が混じっていて、とっても飾られて違和感がある。
作品に介入するという形ではなく、本当に裏から落ちそうなものは支えている、そういう修復をしたいと思っている。(名だたる名画すべて)
「最後の晩餐」等は、顕微鏡をのぞきながら吟味しながら、絵具層を洗いとって行って、オリジナルな姿が残っているのが、今の私たちが見せてもらっている「最後の晩餐」です。

日高安典さんの作品 「ホロンバイルの夕暮」(満州) 14cm×31cmの小さな作品ですが、拡大鏡を使って仕事をしました。
夏の風景を描きながら寒い冬を思っている。
満州からフィリピンに行って、27歳で亡くなっている。
絵を描く事によって自分を残しておきたい。
無言館の絵の修復は10数点になると思う。
材料としては必ず元に戻し得るものを使わなければいけないのが修復の原則ですが、其れをやると遠近法で描かれている風景画の一点の欠損が埋まると、ふーっと風景の遠近がはっきりしてきて、風が吹くみたいな感じがすることがあるが、無言館の作品に対しては風まで吹かしては困るわけです。
無言館の修復の難しさは、埃などをどこまで取っていいのかという事ですね。
飛行兵の肖像画があるが、大変無残に剥落していて、顔、手、あらゆるところに剥落があって、それを見て皆さん衝撃を受けるかもしれないが、あの作品を綺麗にして描かれている様にしてしまったら、あれだけの力は持たないと思う。

無言館は空調していないので環境が厳しいので、年中手当てしていかないといけない。
当時の画材はいいいものが手に入らなかったと思う。
麻の布の織り目も粗いし、絵具もなかなか手に入らず、画学生には絵具の配給はあったとは思えない。
いしいまさお?さんの作品 「模型建鑑」(戦艦)? カビ 剥落がある。 戦艦の模型を作っている絵。
20歳そこそこで亡くなっている。 
無言館 或る時期の20代の若い人たちの作品として見ると、美術史を輪切りにしたような面白さが別に有るのではないかと思う。
自画像、肖像画が多い。(これで死んでいかなければならないかもしれない、自分を見つめたい)
無言館は無言館を訪ねた自分自身が何かを見出す、発見する美術館だと思います。
修復する事によって絵に力が戻ります。
戦後70年経って、又力を取り戻してゆくもののお手伝いを出来る事は、意味があったと思います。











2015年8月10日月曜日

三上智恵(ジャーナリスト・映画監督)  ・沖縄から戦争と平和を考える

三上智恵(ジャーナリスト・映画監督)  ・沖縄から戦争と平和を考える
名護市辺野古への新しい基地の建設を始め沖縄の置かれた状況が再び大きくクローズアップされています。
三上さんは東京の出身、20年前の 1995年から沖縄の民間放送のキャスターとして、沖縄が抱える問題を報道してきました。
去年3月長年勤めていた放送局を退職して、新たに映画監督として独立し、沖縄の実情を訴え続けています、
最新の作品は「戦場(いくさば)ぬ止(と)み」というドキュメンタリー映画、今注目を集めている辺野古の住民の目から、この1年の辺野古の動きを追っています。

映画を作るかどうかわからないけれども、フリーになって辺野古の方にいくという、何も決めないで辞めました。
「戦場(いくさば)ぬ止(と)み」 全国で放映中。
タイトルは辺野古のゲート前フェンスに掲げられた琉歌の一節に由来している。
戦場のとどめ 戦場になっている沖縄の苦しい状況にとどめを刺すという意味。
8、8、8、6 琉歌  5、7、5、7、7の句体の短歌とは違う。
「今年(くとし)しむ月(ぢち) 戦場(いくさば)ぬ止(と)み 沖縄(うちなー)ぬ思(うむ)い 世界(しけ)に語(かた)ら」 
「今年11月の知事選挙で 沖縄の長い間続いた戦場を、終わらせようじゃないか。
平和を望む沖縄の気持ちを、世界中に知らしめようじゃないか。」
基地の問題、アメリカの戦争に加担させられているという、戦争から解放されたことが無い。
更に新しい大きな基地、軍港ができるのを迎えて、沖縄の運命はさらに戦争と密接になってしまうのではないかというのが、沖縄の人達の歴史から出てくる言葉だと思う。
これをドキュメンタリーの芯にしたかった。

70年の歴史、戦争からこっち生きてきたかを垣間見ないと、全国の人に判ってもらいたいので、資料映像、歌、写真とかで70年を判ってもらえうように工夫した。
島袋文子さん 86歳 主人公の一人。
戦争で体の不自由な母と10歳の弟の手を引いて、15歳だった文子さんが解放先で火炎放射器で焼かれて、そのあとに人生を大変苦労する。
だからこそ今の86歳になってもゲートの前に立って、資材を積んだトラックが入ってくる時に、立ちはだかるという、勇敢なお婆さん。
歌、踊りとか、緊張した場面で歌ったり踊ったりする、空手の演舞等もする場面もある。
沖縄県民の戦いは鋭角では折れるので、鈍角で、鈍器で大きい壁に穴をあけていかなくてはいけないと、言っている。(余裕のある戦い)

1995年 阪神大震災で避難所暮らしをして、秋に開局した沖縄の民間放送局に移った時に、9月にアメリカ兵の暴行事件があり、沖縄の人は怒りをもって立ちあがった。
太田知事は代理署名をしないことを宣言した。
(地主がアメリカ軍に土地を貸したくないと言っても、最終的には沖縄県知事の権限で代理で署名するという手続きがあったが。)
1966年にアメリカ軍は今の大浦湾のほとんど同じ形の軍港と滑走路の基地を造る計画があった。
防衛省とアメリカとの間で、1960年代のあの計画を参考にしようというメールがある事が判っていて、何が何でもあそこに基地を作らなければいけないという理由は、深さのある大浦湾というところにしか軍港ができない、ということがまずあって、暴行事件があろうがなかろうが、あそこには作りたいという意図があったことは、譲れない事実だと思っている。
日本の税金で作る口実の一つになってしまったのではないかと思っている

1945年3月になると、沖縄で一番激しい戦いがあるが、
1944年に日本軍がたくさんやってきて沖縄を守ってくれるというのでいい部屋を貸して、食べものも美味しいものを食べてもらって日本軍を大変歓迎した。
3月になると慶良間に上陸、4月1日本島に上陸、北部まで3日間で行ってしまう、5月末前田高地の戦い、今の新都心あたりのシュガーローフの戦い安里52高地の戦い)、とか、沖縄戦を追体験するようにあえてドキュメンタリーを私は自分でやっていて、どんなふうにアメリカ軍が来て戦ったのか、自分に叩き込もうとしていると事があって、3月から6月は辛いです。
沖縄の地表は沢山の血を吸っているので、地下からの声をいつも聞いているような気がする。
二度と沖縄を戦場にしたくはないので、それはあなたが頑張りなさいと言われているように感じます。
だからこういう映画を作っているんだと思います。
この数年、物凄い勢いで戻ってしまっているのではないかと危機感に襲われることがあります。
「戦場(いくさば)ぬ止(と)み」 本も出版。

「ちゅーばー」 勇ましくて強い人を言う。 島袋さんを含め3人の方。
中村文子さん 1フィート運動の事務局長で昨年亡くなる。(97歳)
米軍の撮った沖縄戦の映像を沖縄市民のカンパで1フィートずつ買い戻す運動。
学校の先生だったが、優秀な女生徒を放課後も教えて、那覇の師範学校に入れるが、戦争を終わってみるとひめゆりの一員として命を落としてしまう。
自分の教え子をひめゆりの部隊に入れるようになってしまった、後悔の思いから反戦平和運動の先頭に立ってゆく。
「空に1機の戦闘機も飛ばない、陸に1台の戦車も走らない、海に軍艦の1つも浮かばない、もともとの沖縄に戻すんだ」とおっしゃっていて、それを引き継いで実現させたいと思っている。
東恩納文子さん 名護市の市議会議員、東恩納琢磨さん 辺野古にやぐらを立てて座りこんで基地闘争をやっていた人のお母さん。
2000年沖縄サミットの時に、私にクリントンに会えるのかと聞いてきた人。
自分の息子は仕事を辞めてまで、反対運動をやっていて哀れで仕方がない、自分の命をもって終わらせることができるのであれば自分の命は惜しくないから、クリントンに合わせてほしいとの事だった。
3人の文子さんから学んだことは多い。

これ以上の負担は、だれかがいつか止めないと、次の世代に丸投げしてしまう、平成島ぐるみ闘争の流れを確固たるものにしたいとこの映画には有ります。
「標的の村」という映画を見て頂いた方のカンパから元になってこの映画の製作資金になっている。
民族学を教えていて、宮古島がフィールドになっていて、学術用語でシャーマン 沖縄の共同体、神様、自然とを結び付ける役割の女性たちの世界を映像にしたい。


2015年8月9日日曜日

星出 豊(指揮者)        ・長崎からのメッセージ、オペラ「いのち」

星出 豊(長崎県オペラ協会芸術監督・指揮者) ・長崎からのメッセージ、オペラ「いのち」
1941年生まれ 東京声専音楽学校(現昭和音楽大学)オペラ研究科終了後ドイツに渡り、ニュルンベルク歌劇場副指揮者を経て、「魔弾の射手」でヨーロッパデビューしました。
日本では1971年に「ナブッコ」、82年に「オルレアンの少女」を日本初演しています。
20年以上にっ渡って長崎で被爆した方々を取材して構想をあたため、オペラ「いのち」の台本を書き、2013年に初演して大好評意を博しました。
戦後70年の今年、東京、長崎での再演の思いを伺います。

半年長崎で練習して、最後東京の劇場を借りて練習します。
原爆のことがずーっと頭をよぎっていて、終戦を山口県で過ごして、広島に原爆が落ちた後、トロッコで真黒い焼けたものを姉と一緒に見て、姉が「よく見て、覚えておいてちょうだい」と言われたきりだったが、長崎に30年通っているが、長崎で被爆された方たちに出会うことが多くなって、話を聞き心に響くものがあり、最終的にお婆さんに出会ったときに、昨年96歳で亡くなったが、好きで好きでたまらなかった人がいたが、結婚をあきらめたんです、好きな人にこんな肌を見せることができないでしょうという話を伺って、オペラにしたいと思った。
アメリカが悪い、原爆が悪いというオペラにしないでくださいと言われて、それも感動的だった。
戦争が悪いという事を焦点にするなら、協力しますと言われて、被爆された方を集めてくださって、順次話を聞く事が出来ました。
トロッコを見たのは4歳の時だったが、あの黒いものは人間の遺体だったのかと、後に姉から知らされた。

長崎はお寺の鐘と教会の鐘の音が朝、昼、夕方等に同時に鳴り、そういう町は世界にないと思って物凄く感動した。
オペラが最初に日本で演奏されたのも出島のオランダ館だった。
宗教弾圧もあって、日本人同士でもこんな殺し合いがあったという事で、命の大切さにも触れたかった。
序幕、最後にも祈りをいれているが、亡くなった方たちへの祈りと生きていく命の大切さをしっかり守ってほしいという祈りを掲げた。
その祈りの時の音楽も日本の音楽なのか、キリスト教の音楽なのか思わせる、予告のような感じ。
祈りのところで子供たちが元気よく遊んでいる姿があり、明るく一生懸命生きているのが子供だと思うので、平和を感じてもらえればいいと思った。

主役は看護師さん(夏子)、被爆をしている。
松尾先生は松尾先生の師匠である山田先生と葛藤しながら、医者の生きる道の本筋があるはずだという様な事をやりながら、松尾先生は夏子さんとの恋に陥り、結婚をしてほしいとの話はあるが、自分の肌を好きな人に見せることができなくて断り続ける。
人の愛は、結果は勝つという事で、取材したお婆さんは結婚したかったのにできなかったが、この子には替りに結婚させてあげようと、最後の愛の語りの中で、「私は愛に生きたい」という事で肌を見せることを決心する。
結婚するが、短い命と感じていた夏子は翌年亡くなってしまう。
(山田先生は被爆しているクリスチャン 松尾先生はたまたま被爆を逃れられた仏教を信じている) 

先生は患者をおいて、妻を探しに行ってしまうという後悔をするが、先生は被爆して告知され1年もないという状況で先生が必死に寝ずに看病されているのを見ていて、、医者は医者として自分のやるべきことをやるのが医者なんだと、先生との二人の葛藤を1シーンで表してみた。
2015年新国立劇場で行う。(7月)
9月に定期演奏会を長崎で行う。
酷い酷いと言いながらどっかで心がいやされるような美しい旋律が無いと、オペラにはならないと思う。
心の葛藤の中に作曲家に依頼した部分もあるが、かならず救いの音楽を入れてもらう様にした。
作曲は錦かよ子さん。
お婆さんの言葉「自分が結婚できなかったから、海を愛し、自然を愛し、死ぬことも出来ず頑張って生きています。」という言葉が凄く印象的だったので、そのまま言葉を入れさせてもらいました。

息 自らの心 悲しい息をすると涙が出てくる、楽しい息をすると笑える、だから私と一緒に息を吸ってくれますか、といってそれは素晴らしいと言ってくれましたが、その表現がより豊かに表現できるのがオペラだと思っています。
新国立劇場のこけらおとしでも指揮しました。
オペラ「いのち」 被爆手帳をもっている方に是非歌ってもらいたかったので、夏子さんを看撮る医師の役で、やってもらいます。
長崎の後は、外国で出来たらいいと思っています。










2015年8月8日土曜日

岡田尊司(精神科医)       ・境界性パーソナリティ障害を乗り越える

岡田尊司(精神科医)         ・境界性パーソナリティ障害を乗り越える
境界性パーソナリティ障害は生育期における愛着形成のプロセス等から極端に低い自尊心、見棄てられることへの過敏さ、感情の激しい浮き沈み、薬物乱用などで生きてゆくために自分を傷つけてしまう事を特徴とする症状です。
近年特に若い人に増えているこの症状について、精神科医の岡田さんが障害を正しく理解し、それを乗り越えて本人も周りの人も、生きやすくなる方法についてお話します。

2年ほど前にクリニックを開いてそこで日々診療しています。
境界性パーソナリティ障害について理解を深めてゆくヒントになればいいと思います。
見棄てられることへの敏感な状態、情緒、対人関係の不安定さ、自傷行為、自殺企図に代表されるような自分を損なう行為を特徴とする状態。
自分は生きる価値のない存在なのではないか、というい深い自己否定と同時に自分を認めてほしいという様な愛情飢餓、承認されたいという様な気持がある。

①見棄てられることへの不安  
メールで返事が来ないという事に、自分の事はどうでもいいと直ぐ思ってしまう。
助言してくれることに対して、自分は駄目なんだと、自分を否定する方向に受けとめてしまう。
烈しい怒りが生じてくる場合と、何とか認めてほしいという行動になって現れる場合がある。
②気分、対人関係が両極端に変動する。
最高の状態から一気に最低の状態になってしまう。
根底には二分法的認知、全か無か、100点か0点 そういう風な受けとめ方が関係している。
③自己破壊的な行動を繰り返す
自傷行為、自殺企図の様な明らかに自分を壊す行為から間接的に自分を損なう行為もあります。
薬物の乱用、大量飲酒、自分をわざわざ落しめる行為、不特定多数の異性と性行為、非行に走る様なケース。
不安から周囲を結果的にコントロールしてしまうという事も起き易い。
④空虚感や自分への違和感
生きるというあたりまえのこと、自分が何者かという事に確かな感じが持てない。
喜びや信よりも、虚しさ、空虚感、違和感がいつも取り付いている。
⑤乖離とか精神病症状も時折り出現する事がある。
境界性 精神病と神経症の境界 どっちとも言えない様な状態だという事から名付けられたネーミング。
精神病に間違われるような症状だったりする。(又逆の場合もある)
幻聴、被害妄想が多いので、統合失調症と間違われて診断されることもある。
乖離症状は意識や記憶が飛んだり、人格が不連続になる、知らない間に行動してしまう。
⑥強い親へのこだわりをもつ
養育要因が関わってるのではないかという事を示しているともいえる。
否定的な感情が強い、親の事を考えただけでむらむらと怒りがわいて来る場合。
逆に理想化している場合もある。 入れ替わったりする場合もある。

要因
双子の研究によって遺伝要因と環境要因がどのようにかかわっているか、調べることができる。
遺伝要因は0から70%とバラツキがあるが、平均すると40%、環境要因が60%といわれている。
環境要因の中でも養育要因がおおきい。
虐待、幼いころの離別、支配的否定的養育、親の不安定さも要因になりうる。
心的外傷体験 性暴力の被害、戦争体験、突然愛している人を残酷な形で失う、不本意な中絶
挫折体験  優等生だった人が境界性パーソナリティ障害になってしまうのは挫折体験が多い。
関係の根幹である愛着という部分が不安定だ、ということが関係しているのではないかという事が注目されてきている。
愛着というものが境界性パーソナリティ障害を理解する一番のカギだと思っている、と同時に改善、解決につながってゆく一番重要なアプローチになるのではないかと思っている。

愛着
心理学的な絆の様に思われがちだが、もっと深いおおきな、生物学的絆なんです。
オキシトシンというホルモンによって支えられているが、境界性パーソナリティ障害もオキシトシン系の働きが悪いという事が判ってきている。
親との不安定な愛着、そこが巧く行っていないと思われる。
優しさ オキシトシンリッチな状態だと人は優しくなる、寛容になる。
逆だと厳しくなる、過敏になる。
優しくされて育った子供さんはオキシトシン系の働きがいいので、周りの人とか愛する存在に優しくすることができる。

境界性パーソナリティ障害が増加したのは、アメリカでは1950年代、日本では1970年台でドンドン加速している。
働くお母さんが増えた時期からちょっとタイムラグを置いて起きている。
離婚の増加とも連動している。
社会が変わってきているがそれに対するサポートが弱すぎた。
お父さんも子育てにあまり関与しなくなった、父親不在も結構要因だと言われている。
境界性パーソナリティ障害という問題が増えている根底にはこの社会で愛着の崩壊が起きているのではないかと言われている。


愛着 二つに分かれる 
①安定型 
②不安定型(a抵抗両価型(とらわれ型) b回避型 c混乱型、無秩序型)
a抵抗両価型(とらわれ型)
原因は愛情不足、途中まで愛していたがその人がいなくなったり、その人の愛情が別の人に移ってしまったり、変動の激しい気まぐれな愛情のかけ方、等が要因になっていると思われる。
抵抗両価型(とらわれ型)は不安障害、依存症、過食症、境界性パーソナリティ障害のリスクが上がると言われている。
b回避型(愛着軽視型)
親密な関係を避けようとする、無関心、肝心な問題に向き合う事を避けるのが特徴。
原因は関わり不足、関わっているが本能が乏しい。
主体性を侵害された場合(本人が自分の主体性を発揮する場所が無い、うっとうしい存在)本当の親しみをもった愛情が育たなくなる。

c混乱型、無秩序型
両方(a、b)がいりまじって無秩序になっている様な状態。
虐待のケースが典型的、家庭環境が予測不能なので自分がこういう風な対応で乗り切ろうと、子供にはできない様な状況。
大きくなって統制型に変わってゆく、子供が親をコントロールするようになる。
統制型
イ、親の機嫌をとる、良い子を一生懸命して親を安定させようとする、家庭を平和にしようとする。
ロ、逆に親を暴力とかで困らせる事でコントロールする場合がある。
大人で無秩序型に相当するのが、未解決型、親子の間の未解決な心の傷を生々しく引きずっている、特徴は情緒が不安定で、心の中に強い怒りを抱えている、対人関係も不安定。
境界性パーソナリティ障害はどんなふうに発症するか?
ほとんどのケースは境界性パーソナリティ障害はある時期から発症する。
スイッチを入れているのが何らかのトラウマ体験。
恋人との別れ、家族との離別死別、性暴力、挫折体験などにより、トラウマ的なことが起きて、見棄てられる体験が再現してしまい、発症に至るケースが多い。
愛着を重視するようになったのは、愛着へのアプローチがとても有効だったから。

18歳の少女のケース
覚せい剤の使用で逮捕、自殺企図を繰り返す。
生後20日で母親が置き手紙を置いて行方不明になる。
祖父母が自分の子として育てるが、小学校2年の時に、友達が本当の親ではないだろうと言ってしまって、嘘だろうと言ったが本当だという言葉が返ってきた。
小学校5年の時に母親と再会するが、精神病院で覚せい剤の依存症で入院していた。
交流が生まれるようになるが、頭がよくて、スポーツも活躍していたが、挫折をしたという事で反抗的になり祖父母とも折が合わなくなり、祖父母は母親とそっくりだ、母親のところに行けと言ってしまって、母親との確執がそのまま持ち込まれてしまった。
家出をして母親のところに行ってしまったが、そこからこの子の転落が始まる。
母親には彼氏がいて、この子に手を出してしまうが、庇うのではなく怒りを娘に向けてしまって、追い出してしまって、ドンドン悪い方向に行き覚せい剤の買人の恋人とつかまってしまう。
母親に愛してもらいたかった。

何が正しいかは別にして、本人の気持ちを聞いてあげて下さい、辛さを受けとめてあげて下さいとアドバイスをして段々接し方が変わって行って、本人も落ちついていった。
症状を治すというよりも、愛着を修復するということが、治療のカギを握るんだなあと言う事です。
本人がまだ治療に積極的でなくても、親やパートナーに働きかけることによって改善を期する事が出来る。
愛着を安定化させてゆく鍵をにぎるのが、安全基地、即ちどんな時でも大丈夫と言ってくれる存在。
①安全感を脅かさない。 否定したり、攻撃、非難してはいけない。
②主体性を脅かさない。 本人が決めるべき事を周りが言わない、考える間もなく周りが口出ししない。
③応答性    求めれば答える、求めないことまでとやかく言わない。
④共感性   その人の気持ちを汲んで接する。

愛着が作られるのは生後6カ月から1歳半ぐらいの間です。
愛着を取り戻そうとしているわけですから、赤ん坊を育てなおしている様な覚悟をもって、3年ぐらいかかわるという事です。
大変なことなので、限界設定して、この時間は一生懸命関わるという事が大事だと思います。
最終的には本人自身が乗り越えようという気持ちになって、変わってゆく必要がある。
治ってもいい様にしてやる必要があり、そういう状態を作ってやると、不思議と本人は自分でこの状態を卒業しようと言う気持ちになる。
関連する本を読んだり、日記を付けたり自分を客観的に見る事も役に立ちます。
境界性パーソナリティ障害  二分法的認知ではなく 100点でなくてはだめというのではなく、10点でも少しずつ積み上げてゆく事に価値があるんだという事に受けとめ方を変えてゆく事が大事。
いいところを見つけてゆく。

境界性パーソナリティ障害の本質的な問題の一つに両価型愛着がある。
求めるがゆえに攻撃、拒否をしてしまう。
求めすぎる気持ちがあるのですべてを与えられない事に怒りを感じてしまう。
根底に幼いころに満たされなかったことへの怒りがあり、状況が変わっても怒りが出てしまう。
愛着の現象は総合的なもの、どっちにも恩恵がある、互恵的な関係がある。
人に何かしてあげるという中に、自分もそこで救われてゆくという事が役に立つのではないでしょうか。
身近な存在の助け、安全基地を手に入れた時、綱渡りのような生活を卒業できるんだと思います。






2015年8月7日金曜日

原田眞人(映画監督)       ・映画に思いを込める

原田眞人(映画監督)         ・映画に思いを込める
「日本のいちばん長い日」の監督
静岡県沼津市出身 66歳 子供のころから多くの映画に親しみ、映画評論家として映画の世界に入り、1979年に監督デビュー。
「金融腐蝕列島」(呪縛)、「突入せよ あさま山荘事件」、「クライマーズ・ハイ」、「我が母の記」など様々な話題の映画を作ってきました。
「ラスト・サムライ」では大村という重要な役で俳優としてハリウッドデビューをしています。
今年、「駆込み女と駆出し男」、「日本のいちばん長い日」の二つの大作を続けて発表しています。

高校では柔道をやっていた。
「日本のいちばん長い日」 8月8日から上映。
一番古い映画 5歳のころ見た。 「山がはるかなり」GI姿かっこいいと思った。
中学、高校の頃 日本映画も多く見るようになる。
日本の戦争映画は軍人の芝居が大げさで、ちゃんと映画化したいと思って、宮城事件、玉音盤の取り合いがあったんだと、そういう事実だけでもきっちり描く映画を見てみたいという想いが根本にあった。
戦後50年、60年でも「日本のいちばん長い日」のリメークはなかった。
2年前、東宝が「日本のいちばん長い日」のリメークをするのではないかと、知人に問い合わせたがそのような話はないとの事だった。
映画化権があいていて、2カ月後に松竹からOKが出て、2013年秋にプロデューサー達との話につながり、2013年暮れに脚本を書き始めた。
戦後70年というタイミングになった。
いつも最高傑作になるように丹念に作っているが、今回は本当に自分の中で一番、或る一つのレベルに到達したかなと思う。

「日本のいちばん長い日」 終戦までの4か月の話。
1967年の岡本喜八版は24時間プラスの作品です。
昭和天皇が聖断を下すことができたという背景にある鈴木貫太郎総理の力はすごく大きな物があったと思う。
陸軍大臣に阿南が起用された。 
1945年4月に二人がそろう事になるが、これは昭和天皇の意志だと思っていて、昭和天皇が鈴木貫太郎さんにお前しかいないという口説くところから始まって、昭和天皇が玉音放送を聞いている姿で終わる、4か月の話という事になります。
鈴木貫太郎総理、陸軍大臣阿南、昭和天皇が揃わないと終戦はもっと遅れたという感じはした。
私の父は知覧にいて塹壕を掘っていたので、本土決戦になった場合は一番最初に父親は死んでいたと思う。

昭和天皇の戦争を終わらせた責任を描いている、昭和天皇の意志を汲んで鈴木さんと阿南さんは其れに従って行動した。
阿南さんは高潔な軍人で、、次男(小尉)を戦場で亡くしており、自身も戦場で死にたいとの意志が強かったらしい。
鈴木さんが7年間侍従長だった時の4年間は、阿南さんは侍従武官だったので3人は親しく言葉を交わしていて、お互いの気心も知れている。
最終的にはクーデターが起きてしまうが、判っていたことで、クーデターを起こした畑中少佐たちは自分が育てた息子の様な存在で、一緒になって戦いたいがその気持ちをどこでどう抑えつけて、昭和天皇の聖断に向かっての気持ち通りに和平の道に進むか、魂の相克です。

1967年の岡本喜八版では昭和天皇を前面に出すことは当時できなかったので、今回は人間を描く、人間のつながりを描くには4カ月の話でないといけないと感じました。
軍をなくして国を残したわけですから、そこから平和憲法につながっているわけで、平和憲法を時代が変わったからと言って、いじっていいものかという議論も生まれてくるでしょうし、若い世代が歴史に背を向けてしまった様な人達がもう一回この事を考え直すきっかけになってほしいので、映画を見て分析して今我々がどういう方向に行っていいものだろうかと、真剣に考えてもらいたい。

家は旅館をやっていたので、女中さんが大勢いて、その人たちの戦争体験を聞いている。
映画の世界ではハリウッドスター礼賛で、その二つが同時に入ってきた。
小学校4年ぐらいから洋画、邦画を見始め、高校では大分はまって行った。
段々監督中心の映画を見るようになり、監督になりたいと思う様になる。
1972年にロンドンで半年間暮らし、南カリフォルニア大学、カリフォルニア大学、ニューヨーク大学の映画学科に行きたくて、英語の勉強と、映画(600本以上)を見ることに専念する。
「コンドル」を見て、映画の現場はこうでなければいけないと思う様になる。
ハワード・ホークスが私にとっての心のお師匠さんです。
自分にとっての師匠になる様な存在を求めて、苦労して旅をして会って話を聞いた、そういうプロセスが大事で、若いころそういう事をやっておくと10年、20年経って本当に役にたちます。 

1978年 29歳の時に映画監督になる。 「さらば映画の友よ」
19歳の頃の自分を2つのキャラクターに分離させて、セリフは全部覚える映画狂と映画のデータは全部入っているがセリフは覚えない、2人の繋がり、友情と不良少女とのかかわりの話。
映画を作っている人間で英語が判る、ニュアンス判る人間はいないか言う事で、字幕の翻訳も行う。
今まで日本語の字幕には出てこない猥雑な言葉を使った、という事で話題になる。
2003年 「ラスト・サムライ」  大村の役 見てくれは温厚だが実は腹黒い人物がいないという事で私のことを思い起こしてくれて、テストを受けたが緊張して駄目だったが、2度目のオーディションを受けたら受かってしまった。
監督だったらこう撮るのになあと思ってしまったりして、演ずるのは苦手です。

ポツダムの中でのトルーマンとスターリンとの覇権争いで、スターリンを唯一見返せるトルーマンの道具は原爆になってゆくので、原爆を落とす事でアメリカの優位を保ちたいと固まってゆくので、そのプロセスを映画化したいなあと思っています。
終戦4部作をやりたいと思っている。

2015年8月6日木曜日

津田久美子(被爆体験伝承者)    ・被爆者に代わって語り継ぐ

津田久美子(被爆体験伝承者)   ・被爆者に代わって語り継ぐ
被爆者の高齢化が進み、被爆体験を語る直接語る人が少なくなってきています。
広島市では、被爆者から体験や思いを引き継ぎ被爆者に代わって語り継ぐ、被爆体験伝承者の養成を3年前から進めてきました。
伝承者は被爆者から体験を聞いたうえで、話し方の実習をうけるなど3年間の研修を受けたうえで広島市から認定を受けます。
50人いる伝承者の一人、津田さんは58歳 、母が学徒動員で被爆した被爆二世の主婦です。
津田さんが被爆体験伝承者になるまで、被爆二世として被爆体験をどのように伝えようとしているのか伺いました。

寺前妙子さんの被爆体験について話します。(一部)
「現在85歳の寺前さんは、当時中学校の3年生、15歳でした。
学徒動員と言って、戦時中は中学校以上の生徒や学生が戦争に関する仕事に駆り出されていました。
寺前さんもその中の一人で電話の交換手として働いていました。
爆心地から540mの距離です。
6日の朝仕事の交代目で2階の廊下に整列していたときに原爆が落とされました。
フラッシュをたいたようにパッと光り輝き、その後真っ暗闇と成ると同時にドーンと地を揺り動かすような大きな音がしてガラガラと建物が崩れる音があちこちから聞こえました。
寺前さんは建物の下敷きになりました。
最初は一生懸命身体を動かしても、自由にならず、必死で身体を動かしているうちに自由な身になる事が出来ました。」

平和記念公園の中に在る資料館で行っています。
最近は外国人の方もいらっしゃっています。
感想や質問が色々あります。
最初は体験したことが無いので語れるか不安だったが、始めて見ると皆さんが一生懸命聞いてくれますし、伝えなければと言う使命感が芽生えてきて一生懸命やっている状況です。
母は被爆していて、父は8月6日以降に広島市に入っていて被爆しています。(私は被爆二世)
私は大学では福祉関係の事を勉強しました。
仕事は広島県の歴史を編纂する県の機関で3年間働きました。
結婚して3人子供がいます。2人はすでに結婚、父は去年亡くなりました。
母からはほとんど被爆の事は話は聞いていません。
母は姉二人を原爆で亡くしており、嫌な思い出を我が子には話したくなかったのではないでしょうか。(被爆体験の話をするように進めたこともあるが、駄目でした)
最近は少しずつ話をするようになりました。

「母は学徒動員先の印刷工場の朝礼中に被爆しました。
建物の影で有った為か怪我はしませんでした。
先生の指示で郊外の山へゆき小屋へ避難しました。
落ちつかず友達と下に降りるのですが、爆心地から800mで建物疎開作業していた1年生が避難してくる光景に出会います。
皆真黒に焼けた身体で這うようにして歩いてきました。
その時の光景が忘れられないそうです。
翌日自宅に帰る時にほとんど裸で皮膚をたらして歩いている人を見たり、倒れている人から足を引っ張られて水を下さいと言われます。
自宅の建物は焼けおち家族の姿もなく、避難所に行きます。
8日から姉を探しますが、その遺体は焼かれた後で骨も拾うことができなかった。
1週間後父の実家がある山口に家族4人で行くが、もう一人の姉は頭痛倦怠感を訴え、8月末床につき歯ぐきの出血脱毛などの症状が加わり、苦しみ9月7日早朝、呼吸困難になり息を引き取りました。」

被爆体験された方から直接聞ける最後のチャンスなので、聞いていきたいと思います。
母の姉たちに背中を押されるようにして、被爆体験伝承者に応募しました。
1年目は被爆の実相、核の世界情勢、広島市の歴史的状況。
被爆体験された方23人の方の話を一人ひとりお聞きする。
2年目はどの方の被爆体験を証言するか決めて、講話文を考えました。
寺前さんは被爆者になって、負傷して運ばれた時に、学徒動員で建物疎開の方々が「お母さん」と言って亡くなってゆく声を聞いていて、その時の声を皆さんに伝えたいという事だったので、私もそれを引き継いでお話したいと思いました。
母と共通する部分が多かった。
寺前さんは左目を失ったが、自分でも判らないぐらいの状況で、痛みも感じることもなく、パニック状態だった。
3か月後にやっと自分で顔を見たいという事で、見て、左目が無くなり、鼻の上あたりが切り裂かれた状態でショックを受けて、死んだ方が良かったというほど思われたそうです。

3年目は講話の実習。
アナウンサーに来ていただいて、専門的なことを教えてもらい、体験証言者の方々の前で話をして反省、感想をいただきました。
広島市から伝承者としての認定を受ける。(50名)
30~70歳台までいますが、被爆二世は半分ぐらいです。
寺前さんは学徒動員を救済するために、県や国会に出向いて、処遇をよくするために頑張られました。
寺前さんは妹も亡くしており、若い方々が大勢戦争で亡くしているので、二度と戦争はいけない、原爆はいけないと、私たちに訴えています。

戦後70年被爆者も高齢化が進んで、語りたいけど語れない部分があるので、思いを引き継いでやって行きたいと思います。
今後の目標として、
①小さな子どもたちにも被爆体験を伝えていきたいと思います。
絵本を見せながら、戦争はいけない、平和は大切なことなんだと判ってもらえればいいなと思います。
②外国人が多く来ているので、英語で語れることができたらいいと思っています。
英語の文章にして語るという事は難しいが、一つの目標にして頑張りたいと思います。
③戦争の事、平和の事について改めて考えて頂きたいと思います。
④何かどんな小さなことでもいいから、行動をしてもらえたらいいと思います。
 (平和について話をする、本を読む、映画を見る、そういう事からきっかけを掴んで、考えて貰えればいいと思います。)

「その後、寺前さんは重症患者として瀬戸内海に浮かぶ金輪島に船で運ばれます。 
その時今まで聞いた事のない様な悲しくつらい声を耳にします。
「お母さん」「お母ちゃん」という動員学徒の叫びです。
今の声はどうした声ですかと尋ねると、「むごいことよのう、中学生も女学生も「お母さん」と云いながら死んでいきよるんだ」との事でした。
金輪島に着いてからもやはり「お母さん」「お母ちゃん」と叫びは続き、寺前さんの耳にはその時の悲痛な声が今も深く残っているという事です。
そして今日まで証言を続けてこられたのは、生き残った者のひとりとして、あの時の声を一人でも多くの人に伝えなければという想いがあるからなのです。」




















2015年8月5日水曜日

フィスク・ブレット(英会話教室経営)   ・アメリカ人が見た日本空襲

フィスク・ブレット(英会話教室経営)    ・アメリカ人が見た日本空襲
42歳 神奈川県小田原市で英会話塾を開いている。
23年前に日本に来た時に、アメリカでは広島、長崎ではかならず触れられるが、日本各地の大空襲はほとんど知られていないことを知って、外国人にもその悲惨さを知ってほしいと、ウェブサイトを立ち上げました。
独学で日本語を勉強し、日本語で本を2冊出しました。
どちらの本も主人公は日本人です。
最初の「潮汐の間」という本ではルソン島で起こった悲劇、「紅蓮の街」では東京大空襲の際、火焔地獄の中を逃げまどう、親子3人の行動を克明に描き、無差別爆撃の惨状を訴えています。
戦争は始まってしまうと理性を失う、だから絶対に起こしてはならない、というフィスク・ブレットさんに伺います。

19歳で日本に来て、2年間大阪で宣教師をやっていた。
アメリカに帰って、大学生になったり、行ったり来たりの時代になった。
95年ぐらいから日本にずーっと住むようになって、神奈川県小田原市で英会話塾を開いている。
「潮汐の間」 2011年に本を出す。
東京に住んでいる牧師一家が空襲にあったんだろうという、その人たちの物語を書くとしたら、自分としたら空襲に詳しくならなければいけないので、空襲に関する本を購入したり、資料館に行ったり、体験者に会ったりして、調査をした。
地上にいた人たちの話は日本語の資料になる。
その悲惨さを知ってほしいと、ウェブサイトを立ち上げました。(英語と日本語)
体験者のインタビューをしてその映像も公開して、英語の字幕をかならず付けるようにしている。
東京大空襲(3月10日)、横浜、名古屋、大坂とか 英語では空白になっていたが、埋めようと思った。

高校の歴史の教科書には広島は出ていたが、大空襲については知らなかった。
焼夷弾に依る空襲もこれだけの被害に及んだのは、驚きでもありショックだった。
体験者の話などを聞いて、夜眠れないような思いだった。
私の誕生日は12月7日 (1972年) 日本だと12月8日(真珠湾攻撃の日) 周りから意識させられた。
歴史好きだったので、色々疑問点などを自分なりに調べた。
日本語は朝5時から単語を覚えたり文法を勉強して、そとへ出て色々話をして、独学をした。
知らない単語はメモをして、翌朝に調べたりした。
「潮汐の間」 (干満の間)    習字は4段です。
漢文、漢詩も読めないといけないので、先生と一緒に漢文、漢詩、日本の古典も読めるように頑張った。(15年前ぐらい)

「紅蓮の街」 空襲に遭った街 紅蓮地獄
炎で隅田川に飛び込んで凍ってしまって亡くなった方がいるので、3月10日に当てはまる。
日本語で本を書く事になる。
疑問が出てくると、実際の歴史を調べるが実際とのギャップがあり、自分にとって歴史を誤魔化すことは最大の罪で、人をだましたり、人を利用してこき使う様な手段になるから、歴史を誤魔化すこと、必要以上に美化する事、隠すことは最大の罪だと思っています。
原爆投下が戦争を早く終わらせるための手段だったのか、避けられなかったのか、色々調べたくなる。(国がそういっているだけとの可能性もあるし)
焼夷弾の空襲も、原爆による被害と同等以上、そこまでの被害があったことは知らなかった。
アメリカ、日本の資料を調べなければいけないと思って、自分が感じさせられた事、歴史と向きあって、感じたことを小説に書いた。

攻撃した側は知らない、知るすべもなかった。
インターネットには全世界から15万人位アクセスがある。
本は私の考え方を書きこんであるが、日本空襲デジタルアーカイブには、ありのままの資料を提供するのが目的なので、それを読んで、ちゃんとした情報のうえで色々判断して考えてほしい。
資料は、サイトを知って、いろいろ調べて祖父の持っていた写真のコーナーを作ってほしいとか、日本人の体験者の生の声を聞いて、映像をそのまま載せているので、一番ありがたい協力です。
戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのかどうか、疑問があった。
いろんな人の話を聞いて、調べることがどんどん広がってしまって、戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのかどうかの原爆の話よりも、一般的な空襲の話が先に始まって、あれだけ大きな被害が出た普通の焼夷弾の空襲も、戦争を早く終わらせるための避けられない戦略だったのか、という其れを納得いくまで調べなければいけないと思った。
戦略爆撃思想はいつから考えられ始めたのか、そういうのを考えないとこの結論は出ない。
ライト兄弟の時代から原爆を落とした飛行機の時代まで40年しかない、飛行機の技術の進化は恐ろしいものがある。

B29 作るのに原爆以上の費用がかかった。
施設を爆撃する事から、全国の一般の都市に広がる。
中島飛行場等を狙って行ったが、司令官がルメイに替って、下町などに空襲をするようになった。
もしかして戦争を早く終わらせるためでは無いかもしれないと思ったが、でもそうだったと思った。
アメリカは戦争が始まる前から、空軍の人たちはそうするために、いろいろ研究したり頑張ってきた。
だが戦争が始まってしまうと、ジェット気流とか、予想できない事が生じてしまい、理想だった物が現実とぶつかりあって出来なくなってしまう。
日本人への人種差別だという様な見方もあるが、原爆ができ上った時には、ドイツとの戦争が終わっていて、もっと早くでき上っていればドイツにも落としたと思います。
戦争が始まってしまえば、新しい兵器を落として見る、という程度だった。

アメリカにも、日本にも反省すべきことはたくさんあると思う。
しかし、一番大事なことは戦争を避けること、一度戦争になってしまうと、とんでもない結果がでる。
イラク戦争、当時はブッシュ大統領を信じていたが、共和党の政治家、ブッシュ大統領の弟だって、
兄貴がイラク戦争を起こしたが、イラク戦争は間違いだったとTV等で認めて発言している。
間違いを認めて、頑張れば戦争を避けられると思う。
アメリカにとって必要悪だったとしても、悪は悪。
歴史をよく見て、善いところ、悪いところすべてを受け入れて、今後のために生かす、それが歴史の真の勉強法だと思う。
























2015年8月2日日曜日

保阪正康(ノンフィクション作家)      ・昭和史を味わう 第19回 太平洋戦争の日々(5)

保阪正康(ノンフィクション作家)       ・昭和史を味わう 第19回 太平洋戦争の日々(5)
「終戦8月15日と9月2日」
戦後70年になるが、 玉音放送原版が公表された。
宮内庁の金庫に保存されていた。
昭和天皇が食糧問題について国民に言葉を発した原版も出てきた。(昭和21年5月24日のもの)
9月2日は降伏文書に調印した日
8月14日は第二回御前会議で昭和天皇の聖断によって敗戦を受け入れることを決めた日。
東郷外務大臣が午後11時スイスに向けてポツダム宣言を受け入れることで電報を打った。
8月15日 国民に向けてポツダム宣言を受諾して、戦争を終えることを告げた日。(国内の問題)
国際法的には9月2日と言われている。(国際的には第二次世界大戦が終了した日となる)

半藤一利 著作 「日本のいちばん長い日」  
「12月8日と8月15日」の本の中から8月15日の玉音放送の時の状況を事細かに記述している。
私は(保坂)5歳だったので、8月15日の事について記憶はなかった。(父が毎日学校に行く時にゲートルを巻いていたが、父がゲートルを巻かなくなったという事の記憶のみ)
国内でも抵抗運動やら暴動も起きる。
8月9日に満州でソ連が日本に戦線言布告した。

9月2日 東京湾のミズリー号の艦上で、日本政府と日本の軍の代表とが、連合国との間で降伏文書に調印した日。(ポツダム宣言を受け入れる 国際法的に日本の敗戦が正式に決定)
重光葵  日本政府の代表。 梅津美治郎参謀総長が軍の代表
ソ連は9月2日まで軍事行動を続ける。(千島列島の占守島、サハリンの日本統治下にあったところ、北海道にも入ろうとするがアメリカ国務省が阻止する)
8月15日は法的な意味はないという事で、ソ連は軍事行動を起こしていて、北方4島を考える上でいろんな問題として根っこに残っている。
8月15日鈴木貫太郎内閣が総辞職し、東久邇宮盛厚内閣が8月17から10月5日まで行う。
9月9日 東久邇宮盛厚内閣一億総懺悔の施政方針演説

敗戦の説 4つ目 昭和27年4月28日説 
サンフランシスコ講和条約が発行して日本が独立を回復した日、一部の学者が主張する論(軍事が負けたのが8月15日 政治が負けたのが昭和27年4月28日)
あまり説得性のない説となっている。



2015年8月1日土曜日

白籏史朗(山岳写真家)      ・南アルプス~我が永遠の山

白籏史朗(山岳写真家)        ・南アルプス~我が永遠の山
昭和8年山梨県大月市生まれ 写真家となってからは、ヒマラヤなど世界の山々をめぐってきましたが、特に山梨の南アルプスの撮影は白籏さんのライフワークと言う事です。
82歳の今に至るまで、60年以上にわたって四季折々の南アルプスを撮影し続けてきました。

私にとって山は心の支えでした。
子供のころから大月の周辺の山で、うさぎ、雉を追いかけ山菜を採って、山を歩いていると楽しかった。
素晴らしい景観、小鳥や獣たちと戯れる事、咲く花、新緑紅葉、そういったものを自分の目で見て楽しめること、自然から離れられないのではないかと思った。
職業として写真を選んだ。
ただ綺麗に撮るだけでは、本当の自然ではないんじゃないかと思って、精神、特質があるのではないかと、それを本当に捉えなければ山の写真と言えないのではないかと考えました。
山の本を一生懸命本を読みました。
山からの心を自分に受け止めないと写真は撮れないのではないかと考えました。
美しくて、かつ山の魂を取りとめなければ、本当の写真ではないと、ようやく気付いた。

朝暗いうちから夜暗くなるまで、夢中になって山を歩きました。
山の写真を撮って食えるかというと自信が無かった。
何とか私が一人前になれたのは、周りに山が好きで叱咤激励してくれるような友達が沢山いたからです。
人が撮らない様な写真を撮りたいと思ったが、なかなか撮れなかった。
「山と渓谷社」という雑誌社があり、アルパインカレンダー 365日山の写真で飾ったものに初めて応募してみました。
1枚でも入ればいいと思ったが、5枚も入ってしまった。
芯のあるものが通っていなければいけないという事に、徐々に徐々に気が付いてきた。

「山と渓谷社」の社長から、ヨーロッパのアルプスを撮らしてみては、という事でただで連れて行ってもらって2カ月いて写真を撮ってきた。
社長はこれだ、これだと言って、それで私だけのカレンダーを作ってくれた。
私の弟子の一人がヨーロッパアルプスを主体に撮っていたが、ヒマラヤに行きたいといって、有名なフランスの登山家ボーガンと一緒に行って亡くなってしまいました。
こういう仕事一生懸命なればなるほど命がかかってくる、私も何回も死んでしまう様な場面に出っ食わしました。(クレバスの宙吊り、雪崩、深雪に埋まる等)
ヨーロッパアルプス、ヒマラヤはかっこいいが、花や新緑、紅葉、海もあり、日本には素晴らしい四季があって、こういうものが全部そろっているのは日本だけです。

時々、撮った写真を見て、こんな写真を撮ったのかと、腕が落ちたのかと思うが、或いは贔屓目に見て自分の見る目が少し変わってよくなったのかと思いもあり、両方だと思っている。
64年やってきて先は短いので、今後は質で補わなくてはいけない時が来たのだと考えます。
質の高いものを撮って行きたいと思います、素晴らしいものを撮って皆さんにお見せしたい。
一生は考えた通りに生きていきたいがそれには自分だけの力だけではできない、かならず周りの人の助力があって出来るんだと、感謝の気持ちを忘れないでいます。