丹下セツ子(大衆演劇座長) ・我がブラジル旅役者人生に悔いなし(H27.4.8放送)
女優丹下キヨ子さんの長女、丹下セツ子さんは昭和39年 母キヨ子さんに呼ばれてブラジルに渡りました。
キヨ子さんが日本に帰り、亡くなった後もブラジルに住み続け、10年後に丹下セツ子劇団を立ち上げ、日本人のいる場所を全部回ってから日本に帰国しようと思ったとの事。
しかし、ブラジルは広く、どこへ行っても大盛況だったので、これほどまでに自分を必要としてくれるのならばと、定住を決意して、50年が過ぎました。
ときどき日本に帰って大衆演劇の役者を楽しんでいる丹下さんに伺いました。
毎年ブラジルから日本に来る。 永住権でブラジルに住んでいる。
今回は一番長い。(11月12日~5月16日)
沢竜二劇団と一緒にずっと7000km余りの旅をします。
見聞劇場のこけらおとしに沢竜二劇団と一緒に行きました。
そこでは1日2本 1カ月間違う内容の興行をする。
24歳の時にブラジルに行きました。
母がブラジルに行って、銀行の15周年に呼ばれて1カ月公演に行った。
ブラジルを気に入って、永住したいと言ってブラジルに行く。
私は劇団の座長になりたかったが、当時劇団をもつのに100万円かかった。(私の給料は3000円だった)
母が劇団の仕事を手伝ってくれたら100万円くれるというので、1年間だったら行こうと思った。
母はナイトクラブをやっていて、私は藤間流の名取りさん等と一緒にショーをやっていたが、
母は日本に帰ってしまった。
以前、大江美智子 不二洋子 合同公演を見て、女剣劇、こういうところに入りたいと思っていた。
母はこういう方向に行く事には反対だったので、後で考えるとそれで私をブラジルに置いてきたのではないかと思った。
ブラジルでは1200人ぐらい入る劇場があるが、照明とかいろんなものが凄く悪くて、出演者もカツラをかぶっているわけでもなくて、おしろいだけして、有るものを着てやっていた。
このままでは踊れないと言ったら、どこからか照明をもってきて、私が出る時だけ使ったが、周りからはいじめられました。(母はその時はまだブラジルにいた)
雪乃丞変化を或る劇場でやったら、ファンがついて役に立つのかなと思ったら、母が帰ってしまった。
或るとき、板前の御夫婦と知り合って、どうしてレストランを開かないのかと言われて、レストランを始めたが、(48年前 今年辞める)大変当たった。
10年目に丹下セツ子劇団を旗揚げしたが、浪曲語りが沢山いて、10人位が劇団に入ってくれた。
あちこちから来てほしいという事で、行く事になる。(ただ距離が半端ではない)
行って、寸劇、黒田節などを踊ったりすると、こんな恰好を見れるとは思わなかったと、泣くわけです。
こんなに喜ぶなら、移住地がいくつあるか判らないが、日本人のいるところ全部ボランティアで歩いて全部歩いたら日本に帰ろうと思ったが、50年経ってしまった。
自分を必要としてくれるところにいた方が幸せだと思う。
沢先生と回って、自分はなんだろうと思った、洗濯機はまわせない、携帯電話は使えない。
ブラジルに帰ったら周りがみんなしてくれるので、本当に私は幸せだと思う。
中南米では私の劇団は有名になった。
ギャラは頂く事はなくて、お礼としていただくものはあるが、一緒に行った皆にお金を上げる事はする。
ホテルと食事だけは私の要望を聞いてもらった。
和太鼓の稽古は最初私が教えていた(弟子は50人ぐらい)が、日本から太鼓の今泉豊先生に来てもらったりした。
今は立派な太鼓道場になった。
ブラジルに10年ぐらい前にNHKのTVが入って、いなかの方に行かなくてはいいと、私の役目は終わったと思った。
ブラジルにはファンがいるし、友達がいるし、太鼓道場があるし、仲間がいっぱいるので、帰れない。
劇団員は全部、一世の日本人の人で、日本で浪曲、尺八、琴等を習った人たちで、その人たちは全部亡くなってしまって、30周年で沢先生の人達を呼んだが、これが大衆演劇だと私につかえてくれた劇団員に見せてあげたかった、見せてあげられなくて非常に残念です。
丹下セツ子でなくては嫌だという人が、歳になってきたので、その人たちのために親孝行のつもりでやってきた。
沢竜二劇団を2度呼ぶ事ができたが、幸せだった、客は2日間で6000人入るが、17人呼んで、旅費、滞在時の費用を出して、1500円の入場料では赤字ですが、私が今日有るのは日系社会のおかげだからと思っているので、おじいちゃん、おばあちゃんが幸せになれるならばいいと思った。
レストランみやびというお店が有ったからこれができた。
私にはショーをやる丹下セツ子としてのお客さんと、レストランみやびの女将さんとの二つにはっきりと分かれる。
母が生きているころに、日本に帰って来てくれれば、何でもしてやるからと言われたが、その時に私は、母が私を向こうに連れて行って、かわいそうだったなと思ったのかなと思いました。
そのころはもうブラジルは捨てがたかった、お爺さんお婆さんがこんなに喜んでくれる人がいるんだと、ブラジルで骨を埋めようと思った。
今はブラジルが本拠地です。
2015年6月30日火曜日
2015年6月28日日曜日
ゴルゴ松本(お笑い芸人) ・お笑い芸人の”命”の授業
ゴルゴ松本(お笑い芸人) ・お笑い芸人の”命”の授業
埼玉県出身 48歳 県立熊谷商業高校で野球部に入部、1985年第57回選抜高校野球大会で憧れの甲子園に出場する事が出来ました。
同じく元甲子園球児のレッド吉田さんと1994年にお笑いコンビPIMを結成、ゴルゴさんの命と言う漢字を身体を使って表す芸で、人気を集めました。
2011年に知り合いから頼まれて少年院に講演に行ったのがきっかけで、少年院などでのボランティア講演の活動をスタートさせました。
ゴルゴさんの講演は主に漢字の成り立ちを説明しながら、更生を目指す少年少女に命、人生、日本人をテーマに語っています。
TV番組でも取り上げられて大きな反響を呼びました。
いま仕事の合間に定期的にボランティアで講演活動をしているゴルゴさんに伺いました。
甲子園では試合には出られなかったが、ギリギリでベンチに入れた。
4年前から(2011年11月22日)に慰門に行く事になる。
日本語、日本人の凄さを本にする。「あ、命の授業」
ちょっとした知り合いの人からやってくれないかと、言ってきたが、最初断ったが、刑務所、少年院を出たと、一生懸命人生をやり直したいと、いう就労支援をやっている北村さんが、是非少年院でやってほしいと、再犯防止のためにやってほしいという事で、引きうけることにした。
それまでは一切そのような事には関わっていなかった。
最初は興味本位な部分(自分が野球をやっていた時代に犯罪に手を染めた人が少年院に入ってその後どういう人生を歩んできたのだろうか、と言う様な)もあったが、行った時に、150人いたが、
短髪で、制服を着て、声も大きな声を出してきびきびしている姿を見て、是は野球部の様なスポーツ系の雰囲気が有った。
眼を見ると普通の子だったので何か伝えていこうと思えた。
「天才 TV君」ほか子供番組などにも出ていたので、受け入れてくれる。
口へんに土と書いて 弱音を吐く、と言う話。
野球を始めるが、甲子園の夢がかなわなかった人、芸能人で辞めていってしまった人達を見て、違いはなんだろうと思った時に、普段生きていく上で毎日何かを表に出して行動するが、その中で言葉が非常に大事なのではないかと思った。
最初は口にプラス(+)、マイナス(-)を吐いてもいいが、少しずつネガティブの言葉(-)を減らしてゆくと、口にプラス(+) 叶うになるのではないか。
無難 (苦難困難災難が無い人生) 有難(苦難困難災難が有る)→ 「有難う」になる
幸せ の反対 辛い その差は(-)の差 辛い時に何かが足りない。
辛い時には我慢しろと言うが、我慢はあまり意味ではない、我欲でおごりたかぶる。
日本には言霊と言う、言った言葉には魂が宿るという事が平安の時代から言われているが、その通りだと思う。
「辛抱」 「辛い」を「抱き」かかえてあげる。
辛抱→耐え忍ぶ 忍ぶは「心」に「刃」をもっていつか逆転するように、心に刃をもち続ける。
刃は刀鍛冶が日本刀を作るときに、熱して叩いて延ばしてゆき、冷やして、という作業を繰り返しやって、最後には磨きをかけたら、真剣になる。
忍ぶは鍛え上げられた強靭な刃の事を言うので、忍ぶは鍛え上げられた強靭な心をいう。
耐え忍んで、辛抱して強くなった棒を辛いの、一番上に足してやれば、幸せになる。
辛抱は心抱ともかける。
きょうは今の日 今日 きのうは昨日 作った日 あしたは明日(あかるい日) あさっては明後日。
「あすへの言葉」 言葉 ことの葉 枯れたものは土になり、緑の葉っぱは光合成で酸素を出す。
葉は再生するという意味が有る。
言葉は言ったことは繰り返し再生するよ、と言う意味です、大切な事です。
不思議な感覚ですが、お前やらなきゃだめだよと、言われているかと思っている。
この10年本を読んで、色々勉強させてもらいました。
講演では、紙に書く様にしてもらっていて、良いと思ったことは直ぐ伝えるように言っている。
善と悪 喜びと悲しみ 共通する文字が有るが、善と喜びは「口」が下にある。
悪と悲しみは「心」が下にある。
善い事嬉しい事は言葉に出して伝えっていっていいが、悪いこと、悲しい事は自分の心の中に一旦しまって、自分で心の中を通すことで、あとで言っていいかどうかを考えなさいと、いう漢字ではないかと思って教えている。
一番伝えたいのは、考え方一つだよと言う事、「幸」はさかさまにしても「幸」、幸せの反対は幸せ、自分で不幸と思っているだけ。
幸せは、お金だと思っている人もいるが、そうではない、仲間、家族、笑顔で元気でいたら幸せだと、個人個人の責任、自分の人生は自分の責任みたいなところが有って、子供達には伝えます。
過去は過去で学んで反省して、未来に向かっていくしかない。
少年院で勉強するという事は、ここを出た後に違う人生が有るのだから、未来のためにやっているんだと考えなさいと言っている。
高校時代にお笑いの世界に行きたいと思っていた。
野球をやりながら、人のものまね、先生、ばっかりやって笑わせていた。
家の店の手伝いをするようになったが、芸能界の事が思い出されて、父に話したら自由にやる様にと言われた。
昭和63年に世田谷に引っ越すことになる。
レッド吉田と出会って、お笑いの世界に入る。(1994年4月)
新ネタを考えようとしていて、山の頂きを見ていたら、「命」に見えて、両手をひろげて片足を上げたら「命」に見えた。
それから「命」をやっていたら、そのうちにTVに出られるようになった。
それから10年後ぐらいに、歴史を勉強して、日本語を研究するうちに、不思議な感覚になり調べ始めた。
「命」 ひとたたき 母親のおなかの中にいる時から動き続けている心臓が、鼓動のひとたたき、ひとたたきの連続が、命なんだなという事がパズルのように解き明かされた様に感じた。
お笑いの後輩たちに激励のためのゴルゴ塾をやったのが、後の少年院の講演に繋がってゆく。
言葉は力を与えてくれる。
上杉鷹山 「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは 人のなさぬなりけり」
言葉は生き続ける事に気づかされた。
埼玉県出身 48歳 県立熊谷商業高校で野球部に入部、1985年第57回選抜高校野球大会で憧れの甲子園に出場する事が出来ました。
同じく元甲子園球児のレッド吉田さんと1994年にお笑いコンビPIMを結成、ゴルゴさんの命と言う漢字を身体を使って表す芸で、人気を集めました。
2011年に知り合いから頼まれて少年院に講演に行ったのがきっかけで、少年院などでのボランティア講演の活動をスタートさせました。
ゴルゴさんの講演は主に漢字の成り立ちを説明しながら、更生を目指す少年少女に命、人生、日本人をテーマに語っています。
TV番組でも取り上げられて大きな反響を呼びました。
いま仕事の合間に定期的にボランティアで講演活動をしているゴルゴさんに伺いました。
甲子園では試合には出られなかったが、ギリギリでベンチに入れた。
4年前から(2011年11月22日)に慰門に行く事になる。
日本語、日本人の凄さを本にする。「あ、命の授業」
ちょっとした知り合いの人からやってくれないかと、言ってきたが、最初断ったが、刑務所、少年院を出たと、一生懸命人生をやり直したいと、いう就労支援をやっている北村さんが、是非少年院でやってほしいと、再犯防止のためにやってほしいという事で、引きうけることにした。
それまでは一切そのような事には関わっていなかった。
最初は興味本位な部分(自分が野球をやっていた時代に犯罪に手を染めた人が少年院に入ってその後どういう人生を歩んできたのだろうか、と言う様な)もあったが、行った時に、150人いたが、
短髪で、制服を着て、声も大きな声を出してきびきびしている姿を見て、是は野球部の様なスポーツ系の雰囲気が有った。
眼を見ると普通の子だったので何か伝えていこうと思えた。
「天才 TV君」ほか子供番組などにも出ていたので、受け入れてくれる。
口へんに土と書いて 弱音を吐く、と言う話。
野球を始めるが、甲子園の夢がかなわなかった人、芸能人で辞めていってしまった人達を見て、違いはなんだろうと思った時に、普段生きていく上で毎日何かを表に出して行動するが、その中で言葉が非常に大事なのではないかと思った。
最初は口にプラス(+)、マイナス(-)を吐いてもいいが、少しずつネガティブの言葉(-)を減らしてゆくと、口にプラス(+) 叶うになるのではないか。
無難 (苦難困難災難が無い人生) 有難(苦難困難災難が有る)→ 「有難う」になる
幸せ の反対 辛い その差は(-)の差 辛い時に何かが足りない。
辛い時には我慢しろと言うが、我慢はあまり意味ではない、我欲でおごりたかぶる。
日本には言霊と言う、言った言葉には魂が宿るという事が平安の時代から言われているが、その通りだと思う。
「辛抱」 「辛い」を「抱き」かかえてあげる。
辛抱→耐え忍ぶ 忍ぶは「心」に「刃」をもっていつか逆転するように、心に刃をもち続ける。
刃は刀鍛冶が日本刀を作るときに、熱して叩いて延ばしてゆき、冷やして、という作業を繰り返しやって、最後には磨きをかけたら、真剣になる。
忍ぶは鍛え上げられた強靭な刃の事を言うので、忍ぶは鍛え上げられた強靭な心をいう。
耐え忍んで、辛抱して強くなった棒を辛いの、一番上に足してやれば、幸せになる。
辛抱は心抱ともかける。
きょうは今の日 今日 きのうは昨日 作った日 あしたは明日(あかるい日) あさっては明後日。
「あすへの言葉」 言葉 ことの葉 枯れたものは土になり、緑の葉っぱは光合成で酸素を出す。
葉は再生するという意味が有る。
言葉は言ったことは繰り返し再生するよ、と言う意味です、大切な事です。
不思議な感覚ですが、お前やらなきゃだめだよと、言われているかと思っている。
この10年本を読んで、色々勉強させてもらいました。
講演では、紙に書く様にしてもらっていて、良いと思ったことは直ぐ伝えるように言っている。
善と悪 喜びと悲しみ 共通する文字が有るが、善と喜びは「口」が下にある。
悪と悲しみは「心」が下にある。
善い事嬉しい事は言葉に出して伝えっていっていいが、悪いこと、悲しい事は自分の心の中に一旦しまって、自分で心の中を通すことで、あとで言っていいかどうかを考えなさいと、いう漢字ではないかと思って教えている。
一番伝えたいのは、考え方一つだよと言う事、「幸」はさかさまにしても「幸」、幸せの反対は幸せ、自分で不幸と思っているだけ。
幸せは、お金だと思っている人もいるが、そうではない、仲間、家族、笑顔で元気でいたら幸せだと、個人個人の責任、自分の人生は自分の責任みたいなところが有って、子供達には伝えます。
過去は過去で学んで反省して、未来に向かっていくしかない。
少年院で勉強するという事は、ここを出た後に違う人生が有るのだから、未来のためにやっているんだと考えなさいと言っている。
高校時代にお笑いの世界に行きたいと思っていた。
野球をやりながら、人のものまね、先生、ばっかりやって笑わせていた。
家の店の手伝いをするようになったが、芸能界の事が思い出されて、父に話したら自由にやる様にと言われた。
昭和63年に世田谷に引っ越すことになる。
レッド吉田と出会って、お笑いの世界に入る。(1994年4月)
新ネタを考えようとしていて、山の頂きを見ていたら、「命」に見えて、両手をひろげて片足を上げたら「命」に見えた。
それから「命」をやっていたら、そのうちにTVに出られるようになった。
それから10年後ぐらいに、歴史を勉強して、日本語を研究するうちに、不思議な感覚になり調べ始めた。
「命」 ひとたたき 母親のおなかの中にいる時から動き続けている心臓が、鼓動のひとたたき、ひとたたきの連続が、命なんだなという事がパズルのように解き明かされた様に感じた。
お笑いの後輩たちに激励のためのゴルゴ塾をやったのが、後の少年院の講演に繋がってゆく。
言葉は力を与えてくれる。
上杉鷹山 「なせばなる なさねばならぬ 何事も ならぬは 人のなさぬなりけり」
言葉は生き続ける事に気づかされた。
2015年6月26日金曜日
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(2)
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(2)
日本伝統工芸展の審査委員を永年務めてきた。
現代の作家のもの作りの仕事までにも関わらざるを得ない。
35年ほどやっている。
人間国宝の方々とも深くかかわってきた。
質の高い技を受け継いでいて、それを見事に展開されているので、拝見するたびに感動している。
人間国宝になられた方は、一種の独特の風格を皆さんお持ちで、持てる技を通してにじみ出る人間性をもっておられる、その様子を見ることができる。
人間国宝の制度ができたのは、昭和30年 今年で60年。
最初の人間国宝の一人が松田権六、蒔絵の技で人間国宝に認定されて、文化勲章を受ける。
石川県出身 家は農業で、兄が仏壇職人でその影響で、早くから漆の世界に入る。
東京芸大に行くが、学ぶべきことが何もなかったと自負していた。
日本工芸会を独立して作られた、その張本人が松田さんです。
郷土の工芸に思いをめぐらした先生は少ないと思います。
生存中は春の石川の伝統工芸展に必ず出席され、石川の作家を如何に育てるか、配慮された作家は少ないのではないでしょうか。
蓬莱の棚 漆の技を駆使した美しいたな。
近代の漆工芸の作品ではほうらいのたなは最高の名作だと思っている。
美しい鶴が10数羽で漆で塗られていて細かい細工がなされている。
蒔絵の技術を全分野駆使しています。
蓬莱とはおめでたい しかし鶴が描かれているが亀は描かれていない。
会場に昭和天皇が来て、鶴亀と言うが、亀がいないんじゃないかと言った時に、波が描かれています、その下に亀が隠れていますと、松田さんが言ったそうです。
又松竹梅の竹が描かれていない、同様に、下地は竹を編んでございますので、竹は隠れていますと言って、天皇は大笑いされたそうです。
幅が61.2cm、奥行きが37.3cm、高さが114cm 漆の他の作品にくらべるとダントツに大きい。
釧路湿原の鶴を写生したと、おっしゃっていた。
俵屋宗達、尾形光琳 琳派の作風を自分なりに、この棚で生かして、図案構成してみたと言われる。
日本伝統工芸展の10回目を石川県で開催したいとの松田さんからの依頼があったが、棚橋源太郎先生からは、学芸員はよそ様のものをもち込んで簡単に引き受けるものではないと、徹底して仕込まれていたので、松田さんに簡単に会場をお使いくださいという返事はしたくありませんと言ったら、松田先生が大変御立腹して、先生の一番弟子の大場松魚先生が スーツの後ろを引っ張って、君言葉を慎んだ方がいいよと言われた。
その後、知事のところに行ったようで、知事からおしかりの言葉を受けて、10回展から始める事になった。
その後今日までずーっとやるようになる。
蓬莱の棚の持ち主が、東京大空襲で火災に会わない様にし、又疎開した新潟でも大空襲に会ったが直ぐ持ち出せるように縁側に置いて、棚を担いで出て被災を免れた、そういうことなら東京近代美術館に寄託したらと言う事で、長く寄託されていたが、購入の話が有り、7000万円以下なら知事の決済で購入ができるが、それ以上で有れば議会の承認を取らなければいけないので、交渉したが、無理だと言われたが、満場一致で賛成となり、石川県の美術館に入ることができた。
蓬莱の棚の裏には、戦争末期の状況が日記の様に日本が負けてゆく様相が書いてあり、もう仕事ができなくなるだろうと、それ以前に自分の持てる技を全力投球してこの棚を作るんだと書いてある。
先生はお話をもって遇するというタイプの先生で、延々と話をする。
一番の思い出に残る言葉は、「ものから学べ」 物は物を見る人間がそのものからいろんなことを引き出して、物から学ぶという事が実践出来る最高の場である、それが博物館の世界でもあるし、非常に大事なことであり、物を見る目を徹底して訓練する事を怠ってはならないと、くどく何べんも聞かされました。
蓬莱の棚は2年に一度ぐらいは展示している。(温度、湿度、紫外線等の関係もあり)
美術館の展示のありようを、今後考えていかないといけないと思う。
ものから学ぶための方法論を引き出すような、創意工夫を学芸員は考えるべきであると、名言だと思う。
名品がケースの中に寝転んでいる様な、気配りのない展示がされているところもある。
観賞しやすい方法の場を考えるという教育活動の面だとも思う。
博物館学は昭和26年に博物館法ができて、学芸員を置かなければならなくなり、それを立教大学が受けて立ち、棚橋先生は物から学ぶという現場が博物館の世界だと、松田権六さんと同じことを言っている、この影響は今日でもあり、物を見る目を常に養う、それにはいいものを沢山見る事。
毎日ものを見ていると、作品がちゃんと語ってくれる。
伝統いうものは人間の生活に根差したものだと思う、根ざすという事は生活体験を通してどういう見方、考え方で対応するかと言う事に繋がってゆくと思います。
伝統はその年代年代の積み重ねで残ってきたエキスであると思うので、エキスの素晴らしさを大切にしながら、それを受け継いでゆく生活の中に生かしてゆく、それが本当の意味での鑑賞の仕方、対応の仕方で有るではなかろうかと思っています、エキス即ち心だと思います。
日本伝統工芸展の審査委員を永年務めてきた。
現代の作家のもの作りの仕事までにも関わらざるを得ない。
35年ほどやっている。
人間国宝の方々とも深くかかわってきた。
質の高い技を受け継いでいて、それを見事に展開されているので、拝見するたびに感動している。
人間国宝になられた方は、一種の独特の風格を皆さんお持ちで、持てる技を通してにじみ出る人間性をもっておられる、その様子を見ることができる。
人間国宝の制度ができたのは、昭和30年 今年で60年。
最初の人間国宝の一人が松田権六、蒔絵の技で人間国宝に認定されて、文化勲章を受ける。
石川県出身 家は農業で、兄が仏壇職人でその影響で、早くから漆の世界に入る。
東京芸大に行くが、学ぶべきことが何もなかったと自負していた。
日本工芸会を独立して作られた、その張本人が松田さんです。
郷土の工芸に思いをめぐらした先生は少ないと思います。
生存中は春の石川の伝統工芸展に必ず出席され、石川の作家を如何に育てるか、配慮された作家は少ないのではないでしょうか。
蓬莱の棚 漆の技を駆使した美しいたな。
近代の漆工芸の作品ではほうらいのたなは最高の名作だと思っている。
美しい鶴が10数羽で漆で塗られていて細かい細工がなされている。
蒔絵の技術を全分野駆使しています。
蓬莱とはおめでたい しかし鶴が描かれているが亀は描かれていない。
会場に昭和天皇が来て、鶴亀と言うが、亀がいないんじゃないかと言った時に、波が描かれています、その下に亀が隠れていますと、松田さんが言ったそうです。
又松竹梅の竹が描かれていない、同様に、下地は竹を編んでございますので、竹は隠れていますと言って、天皇は大笑いされたそうです。
幅が61.2cm、奥行きが37.3cm、高さが114cm 漆の他の作品にくらべるとダントツに大きい。
釧路湿原の鶴を写生したと、おっしゃっていた。
俵屋宗達、尾形光琳 琳派の作風を自分なりに、この棚で生かして、図案構成してみたと言われる。
日本伝統工芸展の10回目を石川県で開催したいとの松田さんからの依頼があったが、棚橋源太郎先生からは、学芸員はよそ様のものをもち込んで簡単に引き受けるものではないと、徹底して仕込まれていたので、松田さんに簡単に会場をお使いくださいという返事はしたくありませんと言ったら、松田先生が大変御立腹して、先生の一番弟子の大場松魚先生が スーツの後ろを引っ張って、君言葉を慎んだ方がいいよと言われた。
その後、知事のところに行ったようで、知事からおしかりの言葉を受けて、10回展から始める事になった。
その後今日までずーっとやるようになる。
蓬莱の棚の持ち主が、東京大空襲で火災に会わない様にし、又疎開した新潟でも大空襲に会ったが直ぐ持ち出せるように縁側に置いて、棚を担いで出て被災を免れた、そういうことなら東京近代美術館に寄託したらと言う事で、長く寄託されていたが、購入の話が有り、7000万円以下なら知事の決済で購入ができるが、それ以上で有れば議会の承認を取らなければいけないので、交渉したが、無理だと言われたが、満場一致で賛成となり、石川県の美術館に入ることができた。
蓬莱の棚の裏には、戦争末期の状況が日記の様に日本が負けてゆく様相が書いてあり、もう仕事ができなくなるだろうと、それ以前に自分の持てる技を全力投球してこの棚を作るんだと書いてある。
先生はお話をもって遇するというタイプの先生で、延々と話をする。
一番の思い出に残る言葉は、「ものから学べ」 物は物を見る人間がそのものからいろんなことを引き出して、物から学ぶという事が実践出来る最高の場である、それが博物館の世界でもあるし、非常に大事なことであり、物を見る目を徹底して訓練する事を怠ってはならないと、くどく何べんも聞かされました。
蓬莱の棚は2年に一度ぐらいは展示している。(温度、湿度、紫外線等の関係もあり)
美術館の展示のありようを、今後考えていかないといけないと思う。
ものから学ぶための方法論を引き出すような、創意工夫を学芸員は考えるべきであると、名言だと思う。
名品がケースの中に寝転んでいる様な、気配りのない展示がされているところもある。
観賞しやすい方法の場を考えるという教育活動の面だとも思う。
博物館学は昭和26年に博物館法ができて、学芸員を置かなければならなくなり、それを立教大学が受けて立ち、棚橋先生は物から学ぶという現場が博物館の世界だと、松田権六さんと同じことを言っている、この影響は今日でもあり、物を見る目を常に養う、それにはいいものを沢山見る事。
毎日ものを見ていると、作品がちゃんと語ってくれる。
伝統いうものは人間の生活に根差したものだと思う、根ざすという事は生活体験を通してどういう見方、考え方で対応するかと言う事に繋がってゆくと思います。
伝統はその年代年代の積み重ねで残ってきたエキスであると思うので、エキスの素晴らしさを大切にしながら、それを受け継いでゆく生活の中に生かしてゆく、それが本当の意味での鑑賞の仕方、対応の仕方で有るではなかろうかと思っています、エキス即ち心だと思います。
2015年6月25日木曜日
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(1)
嶋崎 丞(石川県立美術館・館長) ・”工芸王国”の美と技の心を伝える(1)
昭和7年石川県生まれ 83歳 県立美術館に学芸員として就職したのは昭和34年の事でした。
以来、56年間県立美術館一筋の人生を歩み、定年後も嘱託を受けて館長を続けています。
石川県は加賀百万石の繁栄を誇った江戸時代から優れた工芸の伝統が育まれ工芸王国とも呼ばれています。
嶋崎さんは その豊かな伝統を受け継ぐ美術館の活動を推進するとともに芸術文化に関する各種の委員、国の文化財保護審議会専門委員、日本伝統工芸展の監査委員、審査委員を長年勤めて来られました。
半世紀を越える美術館人生の体験や今の思いを伺いました。
金沢駅を飾るとすると、工芸品だろうと、代表的な作家に作品を作って貰ったが、ギリギリでした。
美術館を作るときに、いろいろ議論が有ったが、やっぱり江戸時代からの延長線上に在る、伝統文化、その中でも、伝統工芸であろうという事で、伝統工芸というものを美術館の運営の柱にしようという事で、工芸を意識して集めてきました。
昭和34年に県立美術館に就職する。
大学では日本史を専攻していたが、卒業したころは朝鮮戦争の頃で、不景気で就職するところがあまりなかったが、石川県で学芸員の資格をもったスタッフを美術館に入れなければならないという新しい博物館法と言う法律ができて、私を紹介してくれた人がいて、この世界に入るきっかけになったわけです。
旧制小松中学のころに、運動場を耕して食料生産をやろうという事で耕したら埋蔵文化財が出てきて、今後は歴史学は物が語る時代が出てくるだろうという事から大変興味がわいて、一時考古学をやろうと思った時代が有った。
立教大学で棚橋源太郎という博物館学の有名な先生がいて、そこにいけばスタッフに成るための養成講座が有るという事で、そこを受けるべきだという事で、受けて学芸員の資格を取った。
当時は学芸員は認知度が低くかった。
開館記念には何を展示するかが、一番の課題だったが、石川の地域は素晴らしい古美術品があり、空襲にも震災にもあっていないので、見事に伝承されている。
できるだけ地元の文化財で構成した展覧会をやろうという事で、その代表作の一点に、山川庄太郎さんがおもちの雉香炉、かつての前田家の持っていたものと言われていた物を構成しました。
天皇陛下が石川に来ることになり、いままで人に見せたことはなかったが副知事が山川庄太郎さんがおもちの雉香炉を天皇陛下に見せられないかと交渉をして、お見せする事になったが、天皇陛下がご覧になって、個人の見事な古美術品であるが、これを県民、国民の宝として、公開できないものだろうかと言う事をおっしゃったみたいで、副知事が山川庄太郎さんにお伝えしたら、感動して寄付しようという事になり、それが美術館を建てるきっかけにもなり、公開することにもなった。
雉香炉は大変話題になり、全国から多くの方が見に来られた。
正式には色絵雉香炉 野々村仁清という江戸時代初期の京焼の名工が作ったもの。
今は、色絵雌雉香炉も一対で置いてある。
仁和寺の門前に窯が有ったらしくて、この雄と雌がつくられたと言われる。
それが離れ離れになっていたが、250年ぶりにペアになって展示されることにつながった。
美術館の象徴になっている。(一部屋にこれだけが飾ってある)
雄は前田家に入って、雌ももともと前田家に有ったのでは無かろうかと言う事だったが、その後前田家から出てしまい、雄だけが国宝になっていて、江戸末まで前田家にあって、それが山川家を経由して、今県立美術館にある。
京都文化が加賀にいかに影響をはたしているかと言う、象徴的な存在がこの野々村仁清なんですよと言うと皆さん納得される。
雌は重要文化財、平成3年に御寄付を頂いた。
山川庄太郎さんは他にも沢山美術品を持っていて、山川美術財団の組織にして、借用して展示したい旨を伺うと、羽織袴で、打ち水をして出迎えてくれ、お茶の接待をしてくれた記憶が有る。
旦那衆の厳しい御意見を聞いて、やっぱり勉強(目利き)になりました。
古美術は茶道技術を中心として、そのコレクションが大成されているお宅が非常に多い。
九谷焼が石川は有名で、誇れるコレクションだと思う。
古九谷(江戸前期)は豪快な色絵の絵付けの技法等々含めて醸し出す雰囲気は、日本の焼き物の中でトップだと思う。
有田の技法を学んだといわれるが、京都の雅、地方の伊万里等をミックスして、加賀の独特の美意識で作り上げたのが古九谷だと思う。
50数年の間にコツコツとそれなりの名品を意識してコレクションにつないできたと思っている。
漆、友禅等見事な伝統工芸が有る。
初代加賀藩主 前田利家の遺言状が残っていて、長男の利長に与えたが、書いたのが奥方の「お松」だったが、文武両道に長けた人間は素晴らしいという事で文にも力を入れる、文に長けているかどうかも見るべきだと遺言状に書いてある。
「文」は文化、芸術と言う事だろうと、3代前田利常あたりが痛切に考えたようだ。(幕府への認知度を高める)
日本の美術を凝縮した形で加賀の文化としてまとめあげてゆくが、5代まであたりに完成して作り上げてゆく事で、加賀の文化であろうと、それが今日の姿に転化して繋がって来ているのであろうと思う。
百工比照 もの作りの技をどういう形で残してゆくかと言う、職人の見本の為のコレクションとして、いろんなものを集めて、技の記録を残してくれている。
実践的に完成したのが5代の前田綱紀だったが、彼は百工比照という大コレクションを作る。
書物などのコレクションもしている。
織物、着物、裃、和紙、真珠の玉、建築金具、錠前、紐等ありとあらゆるものを集めている。
漆の工芸見本帳、金属の薬品処理等の見本帳等今日につたわっている。
加賀の工芸の凄さと言うものを改めて、百工比照のコレクションから垣間見ることができる。
昭和7年石川県生まれ 83歳 県立美術館に学芸員として就職したのは昭和34年の事でした。
以来、56年間県立美術館一筋の人生を歩み、定年後も嘱託を受けて館長を続けています。
石川県は加賀百万石の繁栄を誇った江戸時代から優れた工芸の伝統が育まれ工芸王国とも呼ばれています。
嶋崎さんは その豊かな伝統を受け継ぐ美術館の活動を推進するとともに芸術文化に関する各種の委員、国の文化財保護審議会専門委員、日本伝統工芸展の監査委員、審査委員を長年勤めて来られました。
半世紀を越える美術館人生の体験や今の思いを伺いました。
金沢駅を飾るとすると、工芸品だろうと、代表的な作家に作品を作って貰ったが、ギリギリでした。
美術館を作るときに、いろいろ議論が有ったが、やっぱり江戸時代からの延長線上に在る、伝統文化、その中でも、伝統工芸であろうという事で、伝統工芸というものを美術館の運営の柱にしようという事で、工芸を意識して集めてきました。
昭和34年に県立美術館に就職する。
大学では日本史を専攻していたが、卒業したころは朝鮮戦争の頃で、不景気で就職するところがあまりなかったが、石川県で学芸員の資格をもったスタッフを美術館に入れなければならないという新しい博物館法と言う法律ができて、私を紹介してくれた人がいて、この世界に入るきっかけになったわけです。
旧制小松中学のころに、運動場を耕して食料生産をやろうという事で耕したら埋蔵文化財が出てきて、今後は歴史学は物が語る時代が出てくるだろうという事から大変興味がわいて、一時考古学をやろうと思った時代が有った。
立教大学で棚橋源太郎という博物館学の有名な先生がいて、そこにいけばスタッフに成るための養成講座が有るという事で、そこを受けるべきだという事で、受けて学芸員の資格を取った。
当時は学芸員は認知度が低くかった。
開館記念には何を展示するかが、一番の課題だったが、石川の地域は素晴らしい古美術品があり、空襲にも震災にもあっていないので、見事に伝承されている。
できるだけ地元の文化財で構成した展覧会をやろうという事で、その代表作の一点に、山川庄太郎さんがおもちの雉香炉、かつての前田家の持っていたものと言われていた物を構成しました。
天皇陛下が石川に来ることになり、いままで人に見せたことはなかったが副知事が山川庄太郎さんがおもちの雉香炉を天皇陛下に見せられないかと交渉をして、お見せする事になったが、天皇陛下がご覧になって、個人の見事な古美術品であるが、これを県民、国民の宝として、公開できないものだろうかと言う事をおっしゃったみたいで、副知事が山川庄太郎さんにお伝えしたら、感動して寄付しようという事になり、それが美術館を建てるきっかけにもなり、公開することにもなった。
雉香炉は大変話題になり、全国から多くの方が見に来られた。
正式には色絵雉香炉 野々村仁清という江戸時代初期の京焼の名工が作ったもの。
今は、色絵雌雉香炉も一対で置いてある。
仁和寺の門前に窯が有ったらしくて、この雄と雌がつくられたと言われる。
それが離れ離れになっていたが、250年ぶりにペアになって展示されることにつながった。
美術館の象徴になっている。(一部屋にこれだけが飾ってある)
雄は前田家に入って、雌ももともと前田家に有ったのでは無かろうかと言う事だったが、その後前田家から出てしまい、雄だけが国宝になっていて、江戸末まで前田家にあって、それが山川家を経由して、今県立美術館にある。
京都文化が加賀にいかに影響をはたしているかと言う、象徴的な存在がこの野々村仁清なんですよと言うと皆さん納得される。
雌は重要文化財、平成3年に御寄付を頂いた。
山川庄太郎さんは他にも沢山美術品を持っていて、山川美術財団の組織にして、借用して展示したい旨を伺うと、羽織袴で、打ち水をして出迎えてくれ、お茶の接待をしてくれた記憶が有る。
旦那衆の厳しい御意見を聞いて、やっぱり勉強(目利き)になりました。
古美術は茶道技術を中心として、そのコレクションが大成されているお宅が非常に多い。
九谷焼が石川は有名で、誇れるコレクションだと思う。
古九谷(江戸前期)は豪快な色絵の絵付けの技法等々含めて醸し出す雰囲気は、日本の焼き物の中でトップだと思う。
有田の技法を学んだといわれるが、京都の雅、地方の伊万里等をミックスして、加賀の独特の美意識で作り上げたのが古九谷だと思う。
50数年の間にコツコツとそれなりの名品を意識してコレクションにつないできたと思っている。
漆、友禅等見事な伝統工芸が有る。
初代加賀藩主 前田利家の遺言状が残っていて、長男の利長に与えたが、書いたのが奥方の「お松」だったが、文武両道に長けた人間は素晴らしいという事で文にも力を入れる、文に長けているかどうかも見るべきだと遺言状に書いてある。
「文」は文化、芸術と言う事だろうと、3代前田利常あたりが痛切に考えたようだ。(幕府への認知度を高める)
日本の美術を凝縮した形で加賀の文化としてまとめあげてゆくが、5代まであたりに完成して作り上げてゆく事で、加賀の文化であろうと、それが今日の姿に転化して繋がって来ているのであろうと思う。
百工比照 もの作りの技をどういう形で残してゆくかと言う、職人の見本の為のコレクションとして、いろんなものを集めて、技の記録を残してくれている。
実践的に完成したのが5代の前田綱紀だったが、彼は百工比照という大コレクションを作る。
書物などのコレクションもしている。
織物、着物、裃、和紙、真珠の玉、建築金具、錠前、紐等ありとあらゆるものを集めている。
漆の工芸見本帳、金属の薬品処理等の見本帳等今日につたわっている。
加賀の工芸の凄さと言うものを改めて、百工比照のコレクションから垣間見ることができる。
2015年6月24日水曜日
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる
本多京子(医学博士・管理栄養士) ・”ダウンサイジング”で身軽に生きる
1948年 東京生まれ 実践女子大学家政学部を卒業したあと、東京医科大学に進み、医学博士号を取得した本多さんは、これまでに栄養と健康に関する著書60冊以上出版してきたほか、TVや雑誌などでのレシピ作りやアドバイス、プロ野球を始めスポーツ選手に対する栄養指導を行う等、食育の第一線で活躍を続けてきました。
本多さんは最近自宅を1/3にダウンサイジング、これに合わせて、身の廻りのものも1/3に減らしました。
老後に備えてのダウンサイジング、その狙いは何か、そこから得たものは何か、本多さんが管理栄養士として歩んできた道を交えて伺いました。
長生きをせざるを得ない時代になったので、身の丈に合った暮らしをストレスなく送って行きたいと思った。
今まで3階建ての全てを使っていたが、1/3にして残りの2/3部分を、貸して減らない財布を作ろうかなと思った。
一番大事なのはものを処理しようとか、暮らしを小さくしようと思っても、どこから手を付けていいかわからないので、これからの人生自分がどういう風に何を一番大切にして生きていきたいかをしっかり考える事だと思った。
私は食が一番大事なので、台所がどこからも見えるように家の真ん中にあるが、設計士からは本当にこれでいいのかと言われた。
出掛ける時も、火の始末、水、電気などを一望に判るし、料理をしながら他のことをしていても火の心配が無い。
1/3にするために、いろんなものを来てくださる方に声をかけて、持って行ってもらったり、被災地の知り合いの方NPOの方々に生かしていただく様に本とか食器などを利用してもらったりする。
貰ってもらうのに3年掛かった。
食器、フォーク、ナイフ、スプーンなどは山の様に有ったし、家具なども結構あった。
家に来てもらって食べてもらうのが好きで、食器類6人分のものは残すことにした。
写真 アルバム 等は本箱を整理するときに、どうしてもとっておきたいものだけを剥がして、小さな木箱に入るものだけを選んだ。
書籍もいっぱいあったが、本箱は1/5ぐらいになった。
自分の今後の仕事の在り方にも、整理するときに感じました。
最初にピックアップしたのは辞書で、相手(NPOとか)が役に立つものだろうと思われるものを次に選んで少なくしていった。
今後は自分が積み上げた経験を世の中の役に立てる種類になるのではないかと思った。
自分が積み上げた仕事のファイルが、一番の財産なのかと思ったので、本箱には並べてある。
幼稚園、小学校から高校までは学校が嫌いだった、仕方が無く学校にいっていた。
一人の世界が好きだった。
母の意向で大学を選んで大学に入って大学の授業を聞く様になって、勉強ってなんて面白いんだろうと思った。
化学が面白かった、先生との出会いが良かったと思う。
どの授業も最前列で全ての講義を聞いていた。
自分の未来を照らすような指導して下さる先生に出会えたという事は人生最大の宝だと思います。
知らないことが判ることが一番楽しい。
何故だろう、どうしてだろうと思う事を勉強するようになって、色々やってみたら楽しさが判った。
料理と科学との兼ね合い、面白い世界だなあと大学生の時に体感した。
聞いただけだと時間とともに薄れてゆくが、教えて頂いた事をやってみたり、さらに工夫を重ねたりすることによって、もっと知りたくなったりして、勉強することの楽しさがある。
出会った教授が、「今あなたが勉強している事を社会にどういう風に役立てたいか」という論文を書くときに、色々考えて、病気と栄養とのかかわりに興味が有って、実習にも行ったが、結論は就職するのはやめようと思った。
こういう食になればこういう病気にやがてなるだろうと、いうことが医学的に判っているのに、どうしてなっちゃった人を治療するのだろう、なる前の人の啓蒙活動することにお金を注いだり、活動をするところが無いんだろうかと、思っていた。
病気にならない人を作る為に、栄養学でどんな仕事が成り立つだろうかと、自分で切り開いていこうかと考えた。
教授が後押しをしてくださった。
栄養学の背景には医学的な要素が有るので、予防医学的な栄養学の分野を切り開くには、医学の世界の勉強をしなければいけないというのが先生の考えなので、医学部を目指した。
千葉大学食品微生物教室で食べものと細菌の関係の研究をして、早稲田大学の体育生理学教室
でスポーツと健康の関係をやっていて、栄養とスポーツをテーマで勉強したいと思って、研究員を7,8年して、東京医科大学介護学教室に入って博士論文を作る事にした。(コラーゲン代謝について)
水を除いた人間の体を構成する固形成分の一番多いのがタンパク質で、そのうち比率が多いのがコラーゲン。
骨などもコラーゲンが基本になっている。
歳を取るに従って、代謝が鈍くなって古いコラーゲンを使い続けると、架橋が起きて、皮膚が弾力が無くなりしわが深くなる。
代謝の謎を解く研究をしました。
生活習慣病は食原病でもある、自分の体質を知り、食習慣が大事で、啓蒙活動が大事なので、知り合いの編集長から本を出しなさいと言う事から本を出版するようになり、60冊以上になる。
講演会にも呼んでくださったりして、どんどん広がって行った。
スポーツ栄養学を導入する事を、プロ野球の球団から依頼が有り、選手の献立を作るとか、選手を支えているご婦人たちに栄養学を勉強してもらったりした。
他のスポーツの色々な選手が強くなるためにはトレーニングも大事だが、トレーニングを支えていい成果を出すためには、基本的な食生活が大事だという事が選手の方も判ってきて、そういう仕事もたくさんしました。
あまりに世の中が便利になって作らなくても食べられる時代になって、何にも考えなくても24時間食べものが売られている時代になったので、弊害、栄養の偏りができてしまって、メタボになって、やがて脳梗塞、心筋梗塞、心不全になるのが判っているのに、今何でもないので気がつかない、という時代になってしまって、食が意識しないで生きていけるのが問題なのかなと思います。
歳を取ると基礎代謝が下がってゆくが、必要なたんぱく質、ビタミン、ミネラルは減らない。
カロリーの摂り過ぎは押さえながら栄養はきちっと摂る事が大事で、賢く摂ることが大事。
栄養とカロリーは違うので、栄養はちゃんと摂ってカロリーは控えるという事が大事。
自分で料理するという事が脳の老化を防止する事に凄くつながると思う。
料理は段取りが凄く大事で、自分で段取りをして自分で料理して自分で食べることが、一番意識しないとできなくなるので、意識する事が大事です。
自分でやってみることが大事で、美味しいという背景、味が濃い薄いとかこくが有るとか無いとか感じたりする、美味しいという背景の見えないものが見えてくる。
砂糖、塩、油は生活習慣病の元凶なので、自分で作る時には砂糖、塩、油を減らして、なおかつ美味しくするためにはどうしたらいいのかなあと、工夫する事、実践する事で、自分で作ったものは美味しくなるはずです。
水野南北の言葉
「食は命なり、運命なり」 私の好きな言葉です。
食が自分の健康、命を支えているだけでなく、ものの見方を変えたり、それによって運命が変わったりする。
1948年 東京生まれ 実践女子大学家政学部を卒業したあと、東京医科大学に進み、医学博士号を取得した本多さんは、これまでに栄養と健康に関する著書60冊以上出版してきたほか、TVや雑誌などでのレシピ作りやアドバイス、プロ野球を始めスポーツ選手に対する栄養指導を行う等、食育の第一線で活躍を続けてきました。
本多さんは最近自宅を1/3にダウンサイジング、これに合わせて、身の廻りのものも1/3に減らしました。
老後に備えてのダウンサイジング、その狙いは何か、そこから得たものは何か、本多さんが管理栄養士として歩んできた道を交えて伺いました。
長生きをせざるを得ない時代になったので、身の丈に合った暮らしをストレスなく送って行きたいと思った。
今まで3階建ての全てを使っていたが、1/3にして残りの2/3部分を、貸して減らない財布を作ろうかなと思った。
一番大事なのはものを処理しようとか、暮らしを小さくしようと思っても、どこから手を付けていいかわからないので、これからの人生自分がどういう風に何を一番大切にして生きていきたいかをしっかり考える事だと思った。
私は食が一番大事なので、台所がどこからも見えるように家の真ん中にあるが、設計士からは本当にこれでいいのかと言われた。
出掛ける時も、火の始末、水、電気などを一望に判るし、料理をしながら他のことをしていても火の心配が無い。
1/3にするために、いろんなものを来てくださる方に声をかけて、持って行ってもらったり、被災地の知り合いの方NPOの方々に生かしていただく様に本とか食器などを利用してもらったりする。
貰ってもらうのに3年掛かった。
食器、フォーク、ナイフ、スプーンなどは山の様に有ったし、家具なども結構あった。
家に来てもらって食べてもらうのが好きで、食器類6人分のものは残すことにした。
写真 アルバム 等は本箱を整理するときに、どうしてもとっておきたいものだけを剥がして、小さな木箱に入るものだけを選んだ。
書籍もいっぱいあったが、本箱は1/5ぐらいになった。
自分の今後の仕事の在り方にも、整理するときに感じました。
最初にピックアップしたのは辞書で、相手(NPOとか)が役に立つものだろうと思われるものを次に選んで少なくしていった。
今後は自分が積み上げた経験を世の中の役に立てる種類になるのではないかと思った。
自分が積み上げた仕事のファイルが、一番の財産なのかと思ったので、本箱には並べてある。
幼稚園、小学校から高校までは学校が嫌いだった、仕方が無く学校にいっていた。
一人の世界が好きだった。
母の意向で大学を選んで大学に入って大学の授業を聞く様になって、勉強ってなんて面白いんだろうと思った。
化学が面白かった、先生との出会いが良かったと思う。
どの授業も最前列で全ての講義を聞いていた。
自分の未来を照らすような指導して下さる先生に出会えたという事は人生最大の宝だと思います。
知らないことが判ることが一番楽しい。
何故だろう、どうしてだろうと思う事を勉強するようになって、色々やってみたら楽しさが判った。
料理と科学との兼ね合い、面白い世界だなあと大学生の時に体感した。
聞いただけだと時間とともに薄れてゆくが、教えて頂いた事をやってみたり、さらに工夫を重ねたりすることによって、もっと知りたくなったりして、勉強することの楽しさがある。
出会った教授が、「今あなたが勉強している事を社会にどういう風に役立てたいか」という論文を書くときに、色々考えて、病気と栄養とのかかわりに興味が有って、実習にも行ったが、結論は就職するのはやめようと思った。
こういう食になればこういう病気にやがてなるだろうと、いうことが医学的に判っているのに、どうしてなっちゃった人を治療するのだろう、なる前の人の啓蒙活動することにお金を注いだり、活動をするところが無いんだろうかと、思っていた。
病気にならない人を作る為に、栄養学でどんな仕事が成り立つだろうかと、自分で切り開いていこうかと考えた。
教授が後押しをしてくださった。
栄養学の背景には医学的な要素が有るので、予防医学的な栄養学の分野を切り開くには、医学の世界の勉強をしなければいけないというのが先生の考えなので、医学部を目指した。
千葉大学食品微生物教室で食べものと細菌の関係の研究をして、早稲田大学の体育生理学教室
でスポーツと健康の関係をやっていて、栄養とスポーツをテーマで勉強したいと思って、研究員を7,8年して、東京医科大学介護学教室に入って博士論文を作る事にした。(コラーゲン代謝について)
水を除いた人間の体を構成する固形成分の一番多いのがタンパク質で、そのうち比率が多いのがコラーゲン。
骨などもコラーゲンが基本になっている。
歳を取るに従って、代謝が鈍くなって古いコラーゲンを使い続けると、架橋が起きて、皮膚が弾力が無くなりしわが深くなる。
代謝の謎を解く研究をしました。
生活習慣病は食原病でもある、自分の体質を知り、食習慣が大事で、啓蒙活動が大事なので、知り合いの編集長から本を出しなさいと言う事から本を出版するようになり、60冊以上になる。
講演会にも呼んでくださったりして、どんどん広がって行った。
スポーツ栄養学を導入する事を、プロ野球の球団から依頼が有り、選手の献立を作るとか、選手を支えているご婦人たちに栄養学を勉強してもらったりした。
他のスポーツの色々な選手が強くなるためにはトレーニングも大事だが、トレーニングを支えていい成果を出すためには、基本的な食生活が大事だという事が選手の方も判ってきて、そういう仕事もたくさんしました。
あまりに世の中が便利になって作らなくても食べられる時代になって、何にも考えなくても24時間食べものが売られている時代になったので、弊害、栄養の偏りができてしまって、メタボになって、やがて脳梗塞、心筋梗塞、心不全になるのが判っているのに、今何でもないので気がつかない、という時代になってしまって、食が意識しないで生きていけるのが問題なのかなと思います。
歳を取ると基礎代謝が下がってゆくが、必要なたんぱく質、ビタミン、ミネラルは減らない。
カロリーの摂り過ぎは押さえながら栄養はきちっと摂る事が大事で、賢く摂ることが大事。
栄養とカロリーは違うので、栄養はちゃんと摂ってカロリーは控えるという事が大事。
自分で料理するという事が脳の老化を防止する事に凄くつながると思う。
料理は段取りが凄く大事で、自分で段取りをして自分で料理して自分で食べることが、一番意識しないとできなくなるので、意識する事が大事です。
自分でやってみることが大事で、美味しいという背景、味が濃い薄いとかこくが有るとか無いとか感じたりする、美味しいという背景の見えないものが見えてくる。
砂糖、塩、油は生活習慣病の元凶なので、自分で作る時には砂糖、塩、油を減らして、なおかつ美味しくするためにはどうしたらいいのかなあと、工夫する事、実践する事で、自分で作ったものは美味しくなるはずです。
水野南北の言葉
「食は命なり、運命なり」 私の好きな言葉です。
食が自分の健康、命を支えているだけでなく、ものの見方を変えたり、それによって運命が変わったりする。
2015年6月23日火曜日
大城光代(更生保護法人理事長) ・沖縄女性初の裁判官としての私の人生
大城光代(更生保護法人理事長) ・沖縄女性初の裁判官としての私の人生
大城さんは沖縄初の女性初の裁判官として活躍されてきました。
82歳になられた現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めていらっしゃいます。
更生保護法人というのは主として刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人の社会復帰をを助ける施設です。
大城さんは弁護士だった父親の跡を継いで、24歳で司法試験に合格しました。
沖縄で初の弁護士として活動した後、思うところが有って、35歳の時に那覇家庭裁判所の裁判官になりました。
その後、福岡、東京、静岡、横浜の高裁、地裁、家庭裁判所で、裁判官として事件を担当してきました。
定年後は故郷の沖縄に戻って様々な社会活動をしています。
更生保護法人は保護観察所の指揮監督のもとに、刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人、保護観察をつけられたものなど、受け入れて社会復帰を手助けする仕事です。
父親は安里積千代 沖縄社会大衆党委員長、その後衆議院議員になる。
父親っ子だったので、必ず父みたいになると言っていた。
台湾の高尾に父は行っていて、農民たちに関する仕事をやっていて、バナナ、マンゴウ等を持って来てくれて、子供心に弁護士はいい仕事だと思った。
弁護士は弱い人たちを助けるいい仕事だと思った。
当時は沖縄の通貨はドルだったので、月30ドルだけ送ってくれたので在学中に何とか受かりたいと思ったが、失敗してして就職してから受験を続けたが、なりふり構わず一生懸命勉強しました。
沖縄初の弁護士となる。(昭和32年)
新民法ができて沖縄中を説明して歩いた。
女性の弁護士の力を世間が認めない。
父や夫の補助者としか見られなかったのが一番いやだった。
早くから裁判官の要請があった。
父が国会議員になったのでその後釜として政治の世界への要請が有ったが、政治家には成りたくなかった。
そういった色々なことが有り裁判官の道に進むことにした。
本土復帰の時に転勤の話はあった。
夫が福岡に行けと言ってくれて、息子が熊本の学校に行っていたし、むしろ喜んで行く事にした。
裁判官として務まるか、不安はあったが、地裁で民事事件をやりたかったが、家裁の少年係を担当する事になる。
44歳の時に突然夫が亡くなる。
たまたま帰った時に、食事で呼んだが、返事が無く2階にいて意識はなかった。(心筋梗塞)
一番忘れられないのは、ホテルニュージャパンの火災による死者の遺族の方々の起こした損害賠償事件を担当したことです。
TVのニュースを見ていて是は自分が担当するのではないかと、予感が有った。
現場を見に行ったが、外観は立派だが本当にずさんな建築だった。
壁はベニヤ板、スプリンクラーが無かった。
火元は外国人の人の寝たばこ、9階から出た火がまたたく間に燃え広がり、33人が亡くなりその一部の人の担当をする。
横井英樹社長の言動が問題となる。(のらりくらりとした責任逃れ)
社長の資産が無かったので、金額に不満の方もいたが全員和解する事になる。
嘉手納飛行場、土地所有権確認訴訟が有った。
那覇地裁では請求棄却になって、見たら、嘉手納飛行場は日本軍がもともと作った跡、原告の人たちは滑走路部分に土地をもっていた。
最初に取り上げられた土地で、原型が変わっていて、判らなくなっていて、集団和解方式で争いのない様にして、全体としての土地が原告のものであるか、国が買ったものであるかの争いになる。
国のいい分は昭和19年に買ったという事だったが、登記はできている部分もあるが、売買契約書が無い、宮古八重山の土地の代金支払いに関する書類が有って、それを根拠に国が同じころに買い受けたという主張だった。
土地の代金支払いに関する書類の日付けが昭和19年10月11日だった、十・十空襲の翌日だった。
これに疑問をもって、大空襲の翌日にこれだけの書類が発送されたのか、届いたのか、お金の支払いが有ったのか、全く分からなくて、其れを根拠にするのはおかしいじゃないか、売買の形を取ったとしても強制収用じゃないかと、現金ではなく国債で払うという事は何の役にも立っていない、これは取り上げられたに違いない。
戦後米軍が接収して、国が借り上げて米国に貸すという形になって、、地主たちが全部土地代金を貰って、米軍上陸は4月、僅か半年違いでこれだけの差が有っていいものだろうかと、国を相手に和解を勧告した。
土地が原告たちのものであることをみとめるが、その代わり住民は過去の土地代金は請求しない、将来に向かって土地代金を請求するという和解案を出したが、住民は納得したが国は(大蔵省)は認めなかった。(他への波及を恐れ考慮したのではないか)
途中の段階で、担当した3人共に転出させられてしまって、後任が行い、国のいうことを認めることになってしまった。
住民たちは上告したが、棄却されてしまった。
非常に残念でならない、もし私がそのまま続けていたら、地主たちの請求を認める判決を変えたと今でも思います。
昭和27年3月にパスポートをもって青雲の志をもって、横浜に来て、横浜で定年を迎えられたのは嬉しかった。(65歳)
県の機関の法律律相談を受けようとして、弁護士の登録をしました。
本土に15年間いたので、沖縄で恩返ししようと15年間勤めようと、80歳までは弁護士としてお役に立ちたいと思った。
現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めています。
尊厳死協会に入る(無駄な延命治療はしたくない)、献体登録もする。(もったいない精神)
自然葬で沖縄の海に散骨してもらいたいと思っている。
大城さんは沖縄初の女性初の裁判官として活躍されてきました。
82歳になられた現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めていらっしゃいます。
更生保護法人というのは主として刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人の社会復帰をを助ける施設です。
大城さんは弁護士だった父親の跡を継いで、24歳で司法試験に合格しました。
沖縄で初の弁護士として活動した後、思うところが有って、35歳の時に那覇家庭裁判所の裁判官になりました。
その後、福岡、東京、静岡、横浜の高裁、地裁、家庭裁判所で、裁判官として事件を担当してきました。
定年後は故郷の沖縄に戻って様々な社会活動をしています。
更生保護法人は保護観察所の指揮監督のもとに、刑期を終え、又は仮釈放で刑期を残して刑務所から出所した人、保護観察をつけられたものなど、受け入れて社会復帰を手助けする仕事です。
父親は安里積千代 沖縄社会大衆党委員長、その後衆議院議員になる。
父親っ子だったので、必ず父みたいになると言っていた。
台湾の高尾に父は行っていて、農民たちに関する仕事をやっていて、バナナ、マンゴウ等を持って来てくれて、子供心に弁護士はいい仕事だと思った。
弁護士は弱い人たちを助けるいい仕事だと思った。
当時は沖縄の通貨はドルだったので、月30ドルだけ送ってくれたので在学中に何とか受かりたいと思ったが、失敗してして就職してから受験を続けたが、なりふり構わず一生懸命勉強しました。
沖縄初の弁護士となる。(昭和32年)
新民法ができて沖縄中を説明して歩いた。
女性の弁護士の力を世間が認めない。
父や夫の補助者としか見られなかったのが一番いやだった。
早くから裁判官の要請があった。
父が国会議員になったのでその後釜として政治の世界への要請が有ったが、政治家には成りたくなかった。
そういった色々なことが有り裁判官の道に進むことにした。
本土復帰の時に転勤の話はあった。
夫が福岡に行けと言ってくれて、息子が熊本の学校に行っていたし、むしろ喜んで行く事にした。
裁判官として務まるか、不安はあったが、地裁で民事事件をやりたかったが、家裁の少年係を担当する事になる。
44歳の時に突然夫が亡くなる。
たまたま帰った時に、食事で呼んだが、返事が無く2階にいて意識はなかった。(心筋梗塞)
一番忘れられないのは、ホテルニュージャパンの火災による死者の遺族の方々の起こした損害賠償事件を担当したことです。
TVのニュースを見ていて是は自分が担当するのではないかと、予感が有った。
現場を見に行ったが、外観は立派だが本当にずさんな建築だった。
壁はベニヤ板、スプリンクラーが無かった。
火元は外国人の人の寝たばこ、9階から出た火がまたたく間に燃え広がり、33人が亡くなりその一部の人の担当をする。
横井英樹社長の言動が問題となる。(のらりくらりとした責任逃れ)
社長の資産が無かったので、金額に不満の方もいたが全員和解する事になる。
嘉手納飛行場、土地所有権確認訴訟が有った。
那覇地裁では請求棄却になって、見たら、嘉手納飛行場は日本軍がもともと作った跡、原告の人たちは滑走路部分に土地をもっていた。
最初に取り上げられた土地で、原型が変わっていて、判らなくなっていて、集団和解方式で争いのない様にして、全体としての土地が原告のものであるか、国が買ったものであるかの争いになる。
国のいい分は昭和19年に買ったという事だったが、登記はできている部分もあるが、売買契約書が無い、宮古八重山の土地の代金支払いに関する書類が有って、それを根拠に国が同じころに買い受けたという主張だった。
土地の代金支払いに関する書類の日付けが昭和19年10月11日だった、十・十空襲の翌日だった。
これに疑問をもって、大空襲の翌日にこれだけの書類が発送されたのか、届いたのか、お金の支払いが有ったのか、全く分からなくて、其れを根拠にするのはおかしいじゃないか、売買の形を取ったとしても強制収用じゃないかと、現金ではなく国債で払うという事は何の役にも立っていない、これは取り上げられたに違いない。
戦後米軍が接収して、国が借り上げて米国に貸すという形になって、、地主たちが全部土地代金を貰って、米軍上陸は4月、僅か半年違いでこれだけの差が有っていいものだろうかと、国を相手に和解を勧告した。
土地が原告たちのものであることをみとめるが、その代わり住民は過去の土地代金は請求しない、将来に向かって土地代金を請求するという和解案を出したが、住民は納得したが国は(大蔵省)は認めなかった。(他への波及を恐れ考慮したのではないか)
途中の段階で、担当した3人共に転出させられてしまって、後任が行い、国のいうことを認めることになってしまった。
住民たちは上告したが、棄却されてしまった。
非常に残念でならない、もし私がそのまま続けていたら、地主たちの請求を認める判決を変えたと今でも思います。
昭和27年3月にパスポートをもって青雲の志をもって、横浜に来て、横浜で定年を迎えられたのは嬉しかった。(65歳)
県の機関の法律律相談を受けようとして、弁護士の登録をしました。
本土に15年間いたので、沖縄で恩返ししようと15年間勤めようと、80歳までは弁護士としてお役に立ちたいと思った。
現在は更生保護法人ガジュマル沖縄の理事長を務めています。
尊厳死協会に入る(無駄な延命治療はしたくない)、献体登録もする。(もったいない精神)
自然葬で沖縄の海に散骨してもらいたいと思っている。
2015年6月22日月曜日
沢 知恵(シンガーソングライター) ・日韓を歌でつなぎたい
沢 知恵(シンガーソングライター) ・日韓を歌でつなぎたい
1971年 神奈川県で日本人の父と韓国人の母との間に生まれ、日本、韓国、アメリカで育ちました。
3歳からピアノに親しみ、東京芸術大学在学中に、歌手デビューします。
98年には歴史的経緯から日本の大衆文化が規制されていた韓国で、初めて公式に日本語で歌って第40回レコード大賞アジア音楽賞を受賞しました。
その後も日本語や韓国の言葉で、曲を作り日韓両国で公演を行っています。
6月22日は1965年に日本と韓国が国交を正常化して、丁度50年になる節目の日です。
小さい頃は無我夢中で、楽しく国から国へと渡り歩いて、それぞれの文化を謳歌して、育った幸せな子供でした。
日本と韓国が仲良くしていなかったら、こんなふうに生きていなかったかもしれない。
1960年代、韓国に行く若者はいなかったが、父は一人の日本人として、償いたい、隣り人(となりびと)になりたいと純粋な気持ちで海を渡った。
大学で出会った母を見染めて日本に来て結婚して私が生まれました。
2歳の時に韓国で仕事をしたいと、一家4人(妹を含め)で宣教師として働きました。
父は朝鮮半島全体のキリスト教研究したいという事で、資料がアメリカのワシントンの図書館に在るという事で留学しました。
私は学校に行っても最初はちんぷんかんぷんだったが、直ぐにおしゃべりになった。
言葉は言葉だけではなくて、自然、文化全部を背負ってるものなので、生活の中で一致して、両親に自然にそれぞれの文化にどっぷりつからせてもらって有難うと言いたいです。
三カ国語の他にピアノの言語だったのかと思います。
小学校3年の時に日本に帰国、東京芸術大学に在学中に歌手デビューする。(1990年ぐらいでバブルの最後の頃)
英語で歌うのがかっこいいという様な時代だった。
母方の祖父が 金素雲という詩人だった。
祖父の詩集を手にとって見たら、訳された詩が美しかった。
こんな日本語を私は歌って見たいと思って、ピアノに向かって、読んだ。(「心」と言う詩)
「私の心は湖水です。 どうぞ漕いで おいでなさい。貴方の白い影を抱き 玉と砕けて船べりへ
散りましょう。 私の心はともしびです。 あの扉を閉めてください。 貴方の綾衣の裾にふるえ 心静かに 燃え尽きて あげましょう。」
読んでいたらそのままメロディーがついて5分、10分で一曲の歌になった。
これを境に日本語に引っ張られて行って、デビューして23年になりますが、日本語ばっかり歌っている、日本語の響きを伝えたいと思った。
出発点が「心」で、もともとの詩が朝鮮であったというのは、私にとって運命だったと思う。
祖父の身体の中で日本語と韓国語が溶け合って、私の中でもさらに溶けあって生まれてきた歌ではないかと思います。
韓国でも歌って見たいと思ったが、1996年は日本人がコンサートをするとか、日本語で、韓国で歌うのはあり得ない時代だった。
韓国語に訳して歌う事にして、うまく行った。
アンコールが有って、韓国語に直せなかった歌が有るといって、ラララで歌いますと行ったら、日本語で歌えという声が有ったが、ラララで歌って締めくくりました。
聴衆は残念だったと思います。
日本と韓国の歴史が動き出そうとしている、私たちも変わっていかなくてはいけないのではないか。
韓国もそろそろ変わっていかなくてはいけないのではないかと、感じ取ってくれたのではないか。
2年後日本語で歌う機会が有った。
当時は韓国でコンサートをする時に、政府に全楽曲の歌詞、メロディー、訳を提出しなくてはいけなかった。
1998年 光州でコンサートをする時に、日本語の歌を歌う事を許可するとの連絡が有った。
「心」、「ふるさと」だった。 (金大中大統領 日本の大衆文化を段階的に解放する政策行う)
「ふるさと」を歌い始めたら、一緒に歌い始める声が聞こえ始め、吃驚した。
植民地時代に「ふるさと」を歌っていた。
楽屋に何人もきてくれて 日本語の響きは抑制されていて美しいと感動しましたと言ってくれて嬉しかった。
日本でも韓流ブームが起きたりして、韓国文化がかっこいいという様にもなった。
歴史認識の問題は今も棘の様に刺さっている。
何が有ったかと言う事実を確認できないと、なにをという事になる。
相手の心に入るまで、伝え続ける事が大事だと思う。
もう一歩日本と韓国が刺さった棘を気にしながら歩み寄りたいのに、歩み寄れないでいるもどかしさ、音楽家として何かできるのではないかと言われている様な気がする。
「父の言葉」
「韓国を学びそれを日本に伝え、日本を学び韓国に伝えるという事は言うに優しいが、行うには至難の業である。
韓国での事実をそのまま日本につたえても、ニュースには成るが、日本人の心に入ってゆく事はない。
韓国を知るには、私と言う中間に立つものの屈折を経て、知識と感情の濾過を通してのみ、伝達可能になるのであろう。」
是は私へのメッセージだと思いました。
「知識と感情の濾過」 一番自然な形で出来るのが音楽ではないか。
日本と韓国の違いをお互い伝えあう事になったのであれば幸せな運命だと思います。
父は私が高校生の時に癌で49歳で亡くなったが、父が仕残した一部を歌で受け継ぐことができたら幸せです。
違いをもった人の心を一つに繋げるのが歌だと思います。
一回でも多く重ねてゆきたい。
ようやくスタートラインに立ったような気がする、私らしく歌そのものを届けたいと思う様になった。
1971年 神奈川県で日本人の父と韓国人の母との間に生まれ、日本、韓国、アメリカで育ちました。
3歳からピアノに親しみ、東京芸術大学在学中に、歌手デビューします。
98年には歴史的経緯から日本の大衆文化が規制されていた韓国で、初めて公式に日本語で歌って第40回レコード大賞アジア音楽賞を受賞しました。
その後も日本語や韓国の言葉で、曲を作り日韓両国で公演を行っています。
6月22日は1965年に日本と韓国が国交を正常化して、丁度50年になる節目の日です。
小さい頃は無我夢中で、楽しく国から国へと渡り歩いて、それぞれの文化を謳歌して、育った幸せな子供でした。
日本と韓国が仲良くしていなかったら、こんなふうに生きていなかったかもしれない。
1960年代、韓国に行く若者はいなかったが、父は一人の日本人として、償いたい、隣り人(となりびと)になりたいと純粋な気持ちで海を渡った。
大学で出会った母を見染めて日本に来て結婚して私が生まれました。
2歳の時に韓国で仕事をしたいと、一家4人(妹を含め)で宣教師として働きました。
父は朝鮮半島全体のキリスト教研究したいという事で、資料がアメリカのワシントンの図書館に在るという事で留学しました。
私は学校に行っても最初はちんぷんかんぷんだったが、直ぐにおしゃべりになった。
言葉は言葉だけではなくて、自然、文化全部を背負ってるものなので、生活の中で一致して、両親に自然にそれぞれの文化にどっぷりつからせてもらって有難うと言いたいです。
三カ国語の他にピアノの言語だったのかと思います。
小学校3年の時に日本に帰国、東京芸術大学に在学中に歌手デビューする。(1990年ぐらいでバブルの最後の頃)
英語で歌うのがかっこいいという様な時代だった。
母方の祖父が 金素雲という詩人だった。
祖父の詩集を手にとって見たら、訳された詩が美しかった。
こんな日本語を私は歌って見たいと思って、ピアノに向かって、読んだ。(「心」と言う詩)
「私の心は湖水です。 どうぞ漕いで おいでなさい。貴方の白い影を抱き 玉と砕けて船べりへ
散りましょう。 私の心はともしびです。 あの扉を閉めてください。 貴方の綾衣の裾にふるえ 心静かに 燃え尽きて あげましょう。」
読んでいたらそのままメロディーがついて5分、10分で一曲の歌になった。
これを境に日本語に引っ張られて行って、デビューして23年になりますが、日本語ばっかり歌っている、日本語の響きを伝えたいと思った。
出発点が「心」で、もともとの詩が朝鮮であったというのは、私にとって運命だったと思う。
祖父の身体の中で日本語と韓国語が溶け合って、私の中でもさらに溶けあって生まれてきた歌ではないかと思います。
韓国でも歌って見たいと思ったが、1996年は日本人がコンサートをするとか、日本語で、韓国で歌うのはあり得ない時代だった。
韓国語に訳して歌う事にして、うまく行った。
アンコールが有って、韓国語に直せなかった歌が有るといって、ラララで歌いますと行ったら、日本語で歌えという声が有ったが、ラララで歌って締めくくりました。
聴衆は残念だったと思います。
日本と韓国の歴史が動き出そうとしている、私たちも変わっていかなくてはいけないのではないか。
韓国もそろそろ変わっていかなくてはいけないのではないかと、感じ取ってくれたのではないか。
2年後日本語で歌う機会が有った。
当時は韓国でコンサートをする時に、政府に全楽曲の歌詞、メロディー、訳を提出しなくてはいけなかった。
1998年 光州でコンサートをする時に、日本語の歌を歌う事を許可するとの連絡が有った。
「心」、「ふるさと」だった。 (金大中大統領 日本の大衆文化を段階的に解放する政策行う)
「ふるさと」を歌い始めたら、一緒に歌い始める声が聞こえ始め、吃驚した。
植民地時代に「ふるさと」を歌っていた。
楽屋に何人もきてくれて 日本語の響きは抑制されていて美しいと感動しましたと言ってくれて嬉しかった。
日本でも韓流ブームが起きたりして、韓国文化がかっこいいという様にもなった。
歴史認識の問題は今も棘の様に刺さっている。
何が有ったかと言う事実を確認できないと、なにをという事になる。
相手の心に入るまで、伝え続ける事が大事だと思う。
もう一歩日本と韓国が刺さった棘を気にしながら歩み寄りたいのに、歩み寄れないでいるもどかしさ、音楽家として何かできるのではないかと言われている様な気がする。
「父の言葉」
「韓国を学びそれを日本に伝え、日本を学び韓国に伝えるという事は言うに優しいが、行うには至難の業である。
韓国での事実をそのまま日本につたえても、ニュースには成るが、日本人の心に入ってゆく事はない。
韓国を知るには、私と言う中間に立つものの屈折を経て、知識と感情の濾過を通してのみ、伝達可能になるのであろう。」
是は私へのメッセージだと思いました。
「知識と感情の濾過」 一番自然な形で出来るのが音楽ではないか。
日本と韓国の違いをお互い伝えあう事になったのであれば幸せな運命だと思います。
父は私が高校生の時に癌で49歳で亡くなったが、父が仕残した一部を歌で受け継ぐことができたら幸せです。
違いをもった人の心を一つに繋げるのが歌だと思います。
一回でも多く重ねてゆきたい。
ようやくスタートラインに立ったような気がする、私らしく歌そのものを届けたいと思う様になった。
2015年6月21日日曜日
崎原真弓(バスガイド) ・ウチナンチューの心を語り伝えるバスガイド
崎原真弓(バスガイド) ・ウチナンチューの心を語り伝えるバスガイド
沖縄県では6月23日を沖縄での組織的な戦闘が終了したことにちなんで、戦没者の霊を慰めるため慰霊の日としています。
沖縄生まれでフリーのバスガイド崎原さんは、戦跡や観光地を回ってガイドするだけでなく、沖縄のルーツや先人たちが育んできた沖縄の心を、自ら工夫して歌や芝居にして、バスの中で伝えている型破りのバスガイドです。
他のガイドさんがやっていないことを バスの中でするように成りました。
沖縄の歴史や文化をちゃんと伝わるようにするためにはどうするかを考えました。
先ずは三線 沖縄の三味線 沖縄の歴史を語る上では欠かせない、ゆりかごから墓場までと言われている。
誕生祝いの席で、三線が始まります、お墓が完成すると完成祝いの時に三線を奏でます。
地域の行事にも必ず三線が出てきますし、暮らしの中に根付いていました。
久米島に育って、高校を出てバスガイドになるために本島に来ました。
バスガイドを8年で辞めて、県外に就職したが、沖縄の民謡、踊りが良かったとの話を聞いて、どうして取り入れないのかなと感じた。
バスガイドをもう一度見直してみようかなあと思った。
戻って一から芸能(家でも三線、踊り等はやっていたので)を活かしたガイドをしようと思った。
姉が2000年にガイドクラブを立ち上げようと言う事になって、ひまわりガイドクラブを立ち上げた。
自由なスタイルでガイドができる条件が揃った。
三線、踊り、空手を披露したり、お婆ちゃんの格好をして沖縄の琉球王国時代の歴史を語る。
時代風景が判るようにBGMを自分で作って、お婆ちゃんの言葉で先人たちの生きざまが伝わるようにお芝居にして語っています。
芝居は40分ぐらい掛かるが、移動場所、場所によって時間を柔軟に対応する。
最初沖縄の言葉で挨拶する。
沖縄の歴史は割愛するところは割愛して、琉球王国の時代から始めています。
1400年~1500年代 いろんな国々(中国、朝鮮、日本、東南アジア)と大貿易をした時代が有る。
薩摩が琉球を攻めてきたが、その時は武器をもたない、和をもって尊しとなす、和を大事にしながら国際交流を深めていた時代だった。(戦争をしない国つくりをしていた)
1609年薩摩の占領下の後、15カ条の掟に縛られて厳しい税金取り立てに物凄く苦しめられるが、和を大事にする教育を受けてきたので、共存共栄の精神が根づいていたせいか、負の感情がこみあげる物をプラスの感情に、すでにあった護身術と中国の拳法を加えて試行錯誤をして琉球空手が生み出される。
琉球空手の奥義は空手に先手なし、あくまで完全防御、先に決して手を出さないのが琉球空手の教えです。(お婆さん姿で空手のしぐさをする)
戦争が有ったから、命は宝だというのではなくて、琉球王国時代から命の尊さを大事にしていたし、先祖を崇拝にしていたし、命を授けてれくれる自然の恵み、自然の神々に対する崇拝の念もとても強かった。
御嶽(うたき)と呼ばれる自然のパワーがみなぎる場所、そこに神々が宿るという事で女性たちが感謝を伝える祈り、歌、踊りを奉納して、祭祀を受け継いできた。
自然の恵み、海の恵み、山の幸、それはただで頂いているわけではないのでありがとうの感謝、が祈り、歌、踊り、芸能へと変わって行ったと思います。
そういったことを聞いて、県外の人は驚かれます、沖縄の人は改めて再確認されます。
命のもとに、尊ぶ心、感謝する心を持ち続けた人々、そこに戦争が起こって、まさかと言う想いはあったと思いますし、おばあたちは祈るような思いで家族が無事であるように祈る思いが有ったし、戦争によって命の大切さが更に深まったと体験談をきいてそう思います。
その時代に生きてきた人たちの思いを後世に伝えてゆく事が私としてのガイドの役目だと思います。(語り部でもある)
老人クラブのお爺さん、お婆さん達から色々と皆さんから聞きました。
4人に1人が沖縄では亡くなっている。
極限状態で、自分の腕の中でお子さんをあやめた人もいたと聞いてますし、集団死と言う事もありますし、親が子を、夫婦で、子が親、祖父母を、という様な事も聞いています。
経験した人達はそれをなかなか語れないと思います、体験談を聞きながら、本人の思いを感じ取って自分なりに伝えて行きたいと思っている。
戦争を知らない人が多くなって戦争を知っている人が少なくなって来てしまって、風化してしまって、判らないから同じことを繰り返してしまう可能性があるので、少しでも戦争の悲惨さを伝えていこうと思っている。
人に思いやりを持てないと、平和の心を育んでいかないと思います。
先人たちが体験したからこそ、大切なものを歌にして諺にして残しているので、私たちは次の人に伝えてゆく。
沖縄には基地経済に頼っている人が沢山いるし、基地もないと沖縄の経済も成りたたないのかなあと言う考え方もあったが、基地が返還されたところでも雇用拡大につながって基地が有る時よりも、経済効果は倍に増えて行っているという実績が那覇とか北谷(ちゃたん)町とかに在るので、別に基地が無くても、それに代わる経済を生みだすことができるんだと実績が有る。
戦争が終わった後、アメリカ軍は沖縄中に基地を作っていって、日本は独立するが、沖縄にそのまま米軍がとどまって、沖縄の人がOKをして作らしたのではなく、米軍が勝手に作ってきたものであって、辺野古に基地を作らせるという事は、或る意味沖縄のひとが良いですよと、了解して作らせる様な事になりかねない。
土地を返してほしいという運動を続けていたが、土地代をドンドン上げてゆく、それを繰り返しをしながら、これぐらいの土地代が入るなら、良いんじゃないかと妥協した方々がいると思う。
諦めてしまって今日に至ったのではないかと思う。
爆音被害、子供達を巻き込んだ暴行事件、墜落事故等を話した上で、安心安全を守るために、基地を縮小してゆく事を訴え続ける話をしています。
基地の中に働いている人は8000人いますし、軍用地主 軍用地料で生計を立てている人たち、アメリカの人達を相手に商売をしている人達等がいて、観光業の次に経済を支えているのが、基地経済であるという事実も話をしています。
金網、金網、金網がずーっと続いている基地の多さに県外から来た人は驚いている。(日本国内のアメリカの専用米軍基地が74%ある)
軍用地料等で潤っている地域、予算を頂いている地域、は福祉厚生関係に注ぎこめるし、基地が無くなくなった方がいいですよと、本音で話せない部分もある、その人たちの本当の気持ちが判らないから。(無い方がいいと思ってるんだろうけれども、難しいところです。)
一期一会の精神で、お客さんと対応している。
客層(小学生からお年寄りまで)に合わせて臨機応変に話をしてゆきます。
自分なりの解釈で、心を伝えるという事を続けていこうと思っています。
沖縄県では6月23日を沖縄での組織的な戦闘が終了したことにちなんで、戦没者の霊を慰めるため慰霊の日としています。
沖縄生まれでフリーのバスガイド崎原さんは、戦跡や観光地を回ってガイドするだけでなく、沖縄のルーツや先人たちが育んできた沖縄の心を、自ら工夫して歌や芝居にして、バスの中で伝えている型破りのバスガイドです。
他のガイドさんがやっていないことを バスの中でするように成りました。
沖縄の歴史や文化をちゃんと伝わるようにするためにはどうするかを考えました。
先ずは三線 沖縄の三味線 沖縄の歴史を語る上では欠かせない、ゆりかごから墓場までと言われている。
誕生祝いの席で、三線が始まります、お墓が完成すると完成祝いの時に三線を奏でます。
地域の行事にも必ず三線が出てきますし、暮らしの中に根付いていました。
久米島に育って、高校を出てバスガイドになるために本島に来ました。
バスガイドを8年で辞めて、県外に就職したが、沖縄の民謡、踊りが良かったとの話を聞いて、どうして取り入れないのかなと感じた。
バスガイドをもう一度見直してみようかなあと思った。
戻って一から芸能(家でも三線、踊り等はやっていたので)を活かしたガイドをしようと思った。
姉が2000年にガイドクラブを立ち上げようと言う事になって、ひまわりガイドクラブを立ち上げた。
自由なスタイルでガイドができる条件が揃った。
三線、踊り、空手を披露したり、お婆ちゃんの格好をして沖縄の琉球王国時代の歴史を語る。
時代風景が判るようにBGMを自分で作って、お婆ちゃんの言葉で先人たちの生きざまが伝わるようにお芝居にして語っています。
芝居は40分ぐらい掛かるが、移動場所、場所によって時間を柔軟に対応する。
最初沖縄の言葉で挨拶する。
沖縄の歴史は割愛するところは割愛して、琉球王国の時代から始めています。
1400年~1500年代 いろんな国々(中国、朝鮮、日本、東南アジア)と大貿易をした時代が有る。
薩摩が琉球を攻めてきたが、その時は武器をもたない、和をもって尊しとなす、和を大事にしながら国際交流を深めていた時代だった。(戦争をしない国つくりをしていた)
1609年薩摩の占領下の後、15カ条の掟に縛られて厳しい税金取り立てに物凄く苦しめられるが、和を大事にする教育を受けてきたので、共存共栄の精神が根づいていたせいか、負の感情がこみあげる物をプラスの感情に、すでにあった護身術と中国の拳法を加えて試行錯誤をして琉球空手が生み出される。
琉球空手の奥義は空手に先手なし、あくまで完全防御、先に決して手を出さないのが琉球空手の教えです。(お婆さん姿で空手のしぐさをする)
戦争が有ったから、命は宝だというのではなくて、琉球王国時代から命の尊さを大事にしていたし、先祖を崇拝にしていたし、命を授けてれくれる自然の恵み、自然の神々に対する崇拝の念もとても強かった。
御嶽(うたき)と呼ばれる自然のパワーがみなぎる場所、そこに神々が宿るという事で女性たちが感謝を伝える祈り、歌、踊りを奉納して、祭祀を受け継いできた。
自然の恵み、海の恵み、山の幸、それはただで頂いているわけではないのでありがとうの感謝、が祈り、歌、踊り、芸能へと変わって行ったと思います。
そういったことを聞いて、県外の人は驚かれます、沖縄の人は改めて再確認されます。
命のもとに、尊ぶ心、感謝する心を持ち続けた人々、そこに戦争が起こって、まさかと言う想いはあったと思いますし、おばあたちは祈るような思いで家族が無事であるように祈る思いが有ったし、戦争によって命の大切さが更に深まったと体験談をきいてそう思います。
その時代に生きてきた人たちの思いを後世に伝えてゆく事が私としてのガイドの役目だと思います。(語り部でもある)
老人クラブのお爺さん、お婆さん達から色々と皆さんから聞きました。
4人に1人が沖縄では亡くなっている。
極限状態で、自分の腕の中でお子さんをあやめた人もいたと聞いてますし、集団死と言う事もありますし、親が子を、夫婦で、子が親、祖父母を、という様な事も聞いています。
経験した人達はそれをなかなか語れないと思います、体験談を聞きながら、本人の思いを感じ取って自分なりに伝えて行きたいと思っている。
戦争を知らない人が多くなって戦争を知っている人が少なくなって来てしまって、風化してしまって、判らないから同じことを繰り返してしまう可能性があるので、少しでも戦争の悲惨さを伝えていこうと思っている。
人に思いやりを持てないと、平和の心を育んでいかないと思います。
先人たちが体験したからこそ、大切なものを歌にして諺にして残しているので、私たちは次の人に伝えてゆく。
沖縄には基地経済に頼っている人が沢山いるし、基地もないと沖縄の経済も成りたたないのかなあと言う考え方もあったが、基地が返還されたところでも雇用拡大につながって基地が有る時よりも、経済効果は倍に増えて行っているという実績が那覇とか北谷(ちゃたん)町とかに在るので、別に基地が無くても、それに代わる経済を生みだすことができるんだと実績が有る。
戦争が終わった後、アメリカ軍は沖縄中に基地を作っていって、日本は独立するが、沖縄にそのまま米軍がとどまって、沖縄の人がOKをして作らしたのではなく、米軍が勝手に作ってきたものであって、辺野古に基地を作らせるという事は、或る意味沖縄のひとが良いですよと、了解して作らせる様な事になりかねない。
土地を返してほしいという運動を続けていたが、土地代をドンドン上げてゆく、それを繰り返しをしながら、これぐらいの土地代が入るなら、良いんじゃないかと妥協した方々がいると思う。
諦めてしまって今日に至ったのではないかと思う。
爆音被害、子供達を巻き込んだ暴行事件、墜落事故等を話した上で、安心安全を守るために、基地を縮小してゆく事を訴え続ける話をしています。
基地の中に働いている人は8000人いますし、軍用地主 軍用地料で生計を立てている人たち、アメリカの人達を相手に商売をしている人達等がいて、観光業の次に経済を支えているのが、基地経済であるという事実も話をしています。
金網、金網、金網がずーっと続いている基地の多さに県外から来た人は驚いている。(日本国内のアメリカの専用米軍基地が74%ある)
軍用地料等で潤っている地域、予算を頂いている地域、は福祉厚生関係に注ぎこめるし、基地が無くなくなった方がいいですよと、本音で話せない部分もある、その人たちの本当の気持ちが判らないから。(無い方がいいと思ってるんだろうけれども、難しいところです。)
一期一会の精神で、お客さんと対応している。
客層(小学生からお年寄りまで)に合わせて臨機応変に話をしてゆきます。
自分なりの解釈で、心を伝えるという事を続けていこうと思っています。
2015年6月20日土曜日
綾戸智恵(ジャズシンガー) ・山あり谷あり歌があり
綾戸智恵(ジャズシンガー) ・山あり谷あり歌があり
57歳 パワフルな歌と巧みなトークが魅力でコンサートはいつも満席です。
2001年には第51回芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)受賞、2003年紅白歌合戦で熱唱したテネシーワルツは大きな話題になりました。
しかし様々な仕事しながら歌い続け、初めてCDを出したのが、40歳の時と遅いデビューで、決して順風満帆な半生ではありませんでした。
今は母親の介護をしながらライブ活動を続けています。
母と父が親子ほど離れていて、33歳の時の子供でした。
両親ともジャズが好きでしたので、物ごころついた時にはジャズが聞こえてきていた。
塗り絵も好きなようにやりなさいと父親から言われて、自由に描いていた。
大阪万博では外国人が一気にきた。
パビリオンに行くより歩いてる海外の人達としゃべるのが喜びだった。
身ぶり手ぶりで知っている単語を一杯並べてしゃべっていました。
ピアノは3歳ぐらいからクラシックを始めた。
ピアノの思い出の先生は真木利一先生 クラシックで有名ですがジャズが好きだった。
中学に入った時の一年生の担任が吹奏楽部の顧問だった。
中村八大先生を紹介すると言われたが、中村先生は子供は無理と言われて、真木利一がいると言われて、真木利一先生に会って、偉い気に入られた。
真木利一先生は本を重視しなかった、情緒的だった、アンバランスに弾いても怒らなかった。
中学生の頃はレストランでピアノが置いてあって、そこで弾かして貰ったりした。
歌のデビューは会社に入ってからでした。
中学3年生の時にアメリカに行く。(1カ月と言う風に話す)
6月30日に出かけて90日間滞在する事になる
モーテルに泊って、ジャズクラブに行こうとするが、21歳以上でないと入れないと言われたが、厨房から聞かして貰ったりした。
歌手ではないのに歌わしてもらったこともある。
高校卒業後、大学が決まっていたが、入学資金でアメリカに行った。
すし屋でアルバイトしたり、通訳もした。
映画での曲が好きでレコード屋でその曲を探していたら、好きかと言われて、そうだと言ったら、明日教会に行くから一緒に行くかと言われてつれていってもらった。
ゴスペルに出会う。
気の合うボーイフレンドができて、結婚する事になるが、喧嘩(夫のDVが原因)をして離婚する。
1年間別居すれば、離婚が成立するので、息子を連れて日本に帰ってきた。
神戸を拠点に活動することにした。
子供は母に見てもらって、クラブでおしゃべりしたり、カウンターの中からお客さんとしゃべったりしていた。
お客さんの中に、ある企業の人がいて、パーティーに来てくれないかと言われて、ピアノを弾きに来る先生よりも面白いと言われて、そのうちに伴奏をするようになってたり、自分で歌ったり、会社のパーティーに呼ばれるようになった。
他に色々アルバイトもしたり、ジャズも家で教えることもしていました。
自分の歌いたい様に歌うことが大事。
98年 40歳でCDデビュー 44歳の時に第51回芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)受賞。
46歳で紅白歌合戦に出場 テネシーワルツを熱唱する、嬉しかった。
声帯が弱くて、使い過ぎで声が出なくなったのをきっかけに、デビューした。
身体全体でしゃべると、喉に負担がかからない。(オペラ歌手みたいなもの)
介護に頑張り過ぎて倒れてしまって、入院してしまって、3日と母をあけたことが無かったのに、10日以上入院するはめになり、母とは会わないことになる。
介護の限界を感じて、人の手も借りることになる。
母は90歳 脳梗塞してから10年近くなる。
介護は安心する事が一番いい。(リラックスさせる)
3年前に母が、本当の父が別にいることを告白した、舞台で女形の役者をしていた。
よく50年以上も黙っていてくれたなあと、その間私は自由の羽根の生えた鳥ですが、母はがんじがらめで、よく黙ってくれたなあと、そのことに感激して受け入れられたのかもしれない。
3年前会社を立ち上げて、40年前を振り返って、40年前のロサンゼルスの場所でレコーディングをした。
自分からは、山あり谷ありとは思っていない、来るものは来るので、山あり谷ありというのは、結果として、他人が言ってくれる事はあるが、自分からはそうは思わない。
57歳 パワフルな歌と巧みなトークが魅力でコンサートはいつも満席です。
2001年には第51回芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)受賞、2003年紅白歌合戦で熱唱したテネシーワルツは大きな話題になりました。
しかし様々な仕事しながら歌い続け、初めてCDを出したのが、40歳の時と遅いデビューで、決して順風満帆な半生ではありませんでした。
今は母親の介護をしながらライブ活動を続けています。
母と父が親子ほど離れていて、33歳の時の子供でした。
両親ともジャズが好きでしたので、物ごころついた時にはジャズが聞こえてきていた。
塗り絵も好きなようにやりなさいと父親から言われて、自由に描いていた。
大阪万博では外国人が一気にきた。
パビリオンに行くより歩いてる海外の人達としゃべるのが喜びだった。
身ぶり手ぶりで知っている単語を一杯並べてしゃべっていました。
ピアノは3歳ぐらいからクラシックを始めた。
ピアノの思い出の先生は真木利一先生 クラシックで有名ですがジャズが好きだった。
中学に入った時の一年生の担任が吹奏楽部の顧問だった。
中村八大先生を紹介すると言われたが、中村先生は子供は無理と言われて、真木利一がいると言われて、真木利一先生に会って、偉い気に入られた。
真木利一先生は本を重視しなかった、情緒的だった、アンバランスに弾いても怒らなかった。
中学生の頃はレストランでピアノが置いてあって、そこで弾かして貰ったりした。
歌のデビューは会社に入ってからでした。
中学3年生の時にアメリカに行く。(1カ月と言う風に話す)
6月30日に出かけて90日間滞在する事になる
モーテルに泊って、ジャズクラブに行こうとするが、21歳以上でないと入れないと言われたが、厨房から聞かして貰ったりした。
歌手ではないのに歌わしてもらったこともある。
高校卒業後、大学が決まっていたが、入学資金でアメリカに行った。
すし屋でアルバイトしたり、通訳もした。
映画での曲が好きでレコード屋でその曲を探していたら、好きかと言われて、そうだと言ったら、明日教会に行くから一緒に行くかと言われてつれていってもらった。
ゴスペルに出会う。
気の合うボーイフレンドができて、結婚する事になるが、喧嘩(夫のDVが原因)をして離婚する。
1年間別居すれば、離婚が成立するので、息子を連れて日本に帰ってきた。
神戸を拠点に活動することにした。
子供は母に見てもらって、クラブでおしゃべりしたり、カウンターの中からお客さんとしゃべったりしていた。
お客さんの中に、ある企業の人がいて、パーティーに来てくれないかと言われて、ピアノを弾きに来る先生よりも面白いと言われて、そのうちに伴奏をするようになってたり、自分で歌ったり、会社のパーティーに呼ばれるようになった。
他に色々アルバイトもしたり、ジャズも家で教えることもしていました。
自分の歌いたい様に歌うことが大事。
98年 40歳でCDデビュー 44歳の時に第51回芸術選奨文部科学大臣新人賞(大衆芸能部門)受賞。
46歳で紅白歌合戦に出場 テネシーワルツを熱唱する、嬉しかった。
声帯が弱くて、使い過ぎで声が出なくなったのをきっかけに、デビューした。
身体全体でしゃべると、喉に負担がかからない。(オペラ歌手みたいなもの)
介護に頑張り過ぎて倒れてしまって、入院してしまって、3日と母をあけたことが無かったのに、10日以上入院するはめになり、母とは会わないことになる。
介護の限界を感じて、人の手も借りることになる。
母は90歳 脳梗塞してから10年近くなる。
介護は安心する事が一番いい。(リラックスさせる)
3年前に母が、本当の父が別にいることを告白した、舞台で女形の役者をしていた。
よく50年以上も黙っていてくれたなあと、その間私は自由の羽根の生えた鳥ですが、母はがんじがらめで、よく黙ってくれたなあと、そのことに感激して受け入れられたのかもしれない。
3年前会社を立ち上げて、40年前を振り返って、40年前のロサンゼルスの場所でレコーディングをした。
自分からは、山あり谷ありとは思っていない、来るものは来るので、山あり谷ありというのは、結果として、他人が言ってくれる事はあるが、自分からはそうは思わない。
2015年6月19日金曜日
東 ちづる(女優) ・どんな”わたし”でも大切に生きる
東 ちづる(女優) ・どんな”わたし”でも大切に生きる
1960年生まれ 広島県因島出身 短大卒業後、会社勤めを経て芸能の世界に入り、TVの司会やドラマ等で幅広く活躍します。
しかしその笑顔の裏で生きづらさを感じ苦しんでいました。
その原因が子供の頃の親子関係に在ることに気づき、母親とともにカウンセリングを受け、互いの心と向き合いました。
4年前生きずらさを抱えている人たちと、アートや音楽で活動する団体「Get in touch」を設立しました。
大手電機メーカーに入社、会社では販売促進、広報の仕事をしていました。
組織から離れて、季節労働者になろうと思った。
スキー、テニス、ウインドサーフィンに夢中になっていたので、春夏秋冬のインストラクターで食べていこうと思った。
先ず辞めてフラフラしていたら、タレントオーディションが有って飛び入り参加をし、芸能界に入るきっかけになった。
報道番組でレポーター、「金子信雄の楽しい夕食」に出演。
その後バラエティー番組などに多く出演する。
芸能界だけでなく自分自身の存在そのものが判らなくなっていた。
「お嫁さんにしたい女性有名人NO1」といわれるが、もやもやしていた。
独りになったら涙が出てきて、眠れなくなるし、早く朝になってほしいと思ったが、朝になると又今日一日が始まることが怖かった。
自分の中に二人いる様な感じがした。(明朗闊達悩みが無い自分、全く裏側の自分)
「夜の壁」の本 アダルトチルドレンという言葉が有り是は自分だと思った。
家族の中でなにかしらの理由で、自分らしく生きられないまま大人になった人。
父はアルコール依存症(ただただ酒の好きな人)、母が悪気なく完璧さを求め、長女だからと期待する。
母の言う事に対して無自覚に期待に答えていい子をやっていた。
いい人をやっていた、お嫁さんにしたいといわれるタレント、女優になって、そこで生きづらさを感じることになった。
肩書きを全部取ってしまったら、自分は何だろうと、結局どこかで役割をしてしまっていたり、誰かと比較したりしているかもしれない、誰かを目標としているかもしれないし、それと比較しているかもしれない、自分が判らなくなってしまっていた。
先ずはめちゃくちゃ本を読んで、心理学、カウンセリングの本、とか、読んで私がこうなったのは主に母が悪気なくそうしたという事が判って、母も、いい母、いい妻、良妻賢母を目指していた事が判って、親子の連鎖を立ち切ろうと思って母に話しかけた。(30代前半の事)
孫に対して、母の物差しを押しつけるのはどうかなといったら、母は「はあーっ」ですよね。
父は居場所が無かったのではと母に言ったりして、親子喧嘩3年だった。
もともと仲がいいだけに大変だった。
カウンセラーの人に「詰まらない優等生をやっていたみたいです、高校の時の記憶が無いんですよね」といったら、「よく頑張りましたね」と言われた。
「記憶を無くさないと貴方は自分を壊してしまう可能性が有った、それぐらい辛い思春期だったから忘れている、其れは自分を守るためでしたよ」と言われて、号泣しそうになったのをこらえて、トイレに入って泣いた。
これは何とかなると、母にカウンセリングを受けてもらおうと思った。(心理学者の長谷川博一さん)
途中から急激に変わって行った。
良い事は言えるが、ネガティブのことを言えなかった状況から、段々言えるようになった。
「私は辛かった」と言い始めて、いろんなことを思い出して、子供の頃におねしょが止まらなくて、そういったことまで先生に話した。(母は完璧を求めていた)
本当に母は変わりました。
否定しない、受け入れる、許す、これをやって行くのかと、言う。
途中で母を憎む、嫌いになる過程があり、これも悪い事ではないと思った母を好きでなければいけないと思っていた、許せないところもあるけど、とっても大事な存在と思えるようになった。
父は62歳で他界したが、亡くなってから一人の人間としての父を知らないと気付いた。
父が生きている間に、一人の人間、男性としての父と向き合いたかったと思った。
今は母は元気で若返った感じです、新しい扉を開いた感じです。
自分の人生は自分が主役になった。
私は自分らしく生きるようになって友達は滅茶減ったが、いざというときにはお互いが駆け付ける、理解しあえないところもあるが、心の癒しになるし、楽になりました。
相手を理解する事は出来ないと思う、でも理解しようとする気持ちが大事だと思う。
多様性社会、まぜこぜの社会を作りたいと思っている。
被災地の避難所がまぜこぜだった、日本の縮図だった、眼の見えない人、聞こえない人、歩けない人、寝たきりの人、外国の人、いろんな人たちが避難所に集まった。
マイノリティーの人は結果的に排除されてしまった。
普段からまぜこぜに成っていなかったから、どう対応していいのかわからなかった、、と思う。
「Get in touch」をたちあげる。
大震災が有った時に、活動していて理不尽だったのは、縦割りだった、横のつながりが無い。
巻き込む活動をしようと思った。
仕事以外で繋がるのは難しい。
一緒にいる、排除しない、これが大事だと思います。
選挙に行かない様な人をどう巻き込むかと言う事で、アート、音楽、ファッション、美味しいもの等
わくわくする空間、時間を提供して、そこでまぜこぜの人間環境を作る。
まぜこぜは居心地がいいと感じる様になる。
違うという事を面白がる、興味をもつ。
日本は国土が狭いのでバリアーフリーにはならないが、だけど私たち自身にバリアーフリーが有ればいい、段差があったら上げてやればいい、白い杖の人にはどうすればいいか聞けばいい、色々な人がいるので聞けばいい。
どんな状況になっても、自分らしく生きていたい、自分の家族、愛する人、大切な人が自分らしく生きてほしい、みんながその方がいい。
見える人と見えない人、聞こえる人と聞こえない人、歩ける人と歩けない人、等々、全ての人が生きづらさを感じない方がいいわけです。
交流はあらゆる手段で出来る。(手話、筆談等)
遠慮は時として人を生きづらくさせる。
生きづらいということで死ぬことばかり考えた時期が有ったが、死にたいのではなく、生きていたいから生きるのがつらくなっていって、選択肢が無い様な気に陥ってしまう。
それと付き合いながら、今は生きるのが面白い。
イベントの時は300人のボランティアで1カ月前から何かあると大変と眠れなくなる。
夫は6年前ぐらい前から、難病指定になっていない難病になって、病名が判るまで2年掛かる。
ジストニア痙性斜頸 脳神経の病気で自分の思い通りに身体が動かない。
夫は2年間寝たきりだったが、いまは歩く事はできないが運転はできるようになりました。
覚悟はあったほうだが、病名が判らない病気になるとは思わなかった、判ったら治る前例が無いといわれて、治療法が無いと言われたが、直してやろうと思った。
弱音を吐かないとやっていられない。
どうして自分はこんなふうにならなければいけないのかと、夫が言ってくると思って、「今あなたはそういう問う時ではない、貴方が問われている、そういう身体になった時に、どう生きていくかと貴方は問われている」と言って、考えようどう生きるかという風に、考えました。
夫婦で一緒に泣くと泥沼になってしまいそうなので、そうならない様にしている。
「Get in touch」の目標は早く解散したい、その必要無くなる社会。
種をまくと必ず芽がどこかで出る、最近実感している。(10年、20年蒔いた種)
1960年生まれ 広島県因島出身 短大卒業後、会社勤めを経て芸能の世界に入り、TVの司会やドラマ等で幅広く活躍します。
しかしその笑顔の裏で生きづらさを感じ苦しんでいました。
その原因が子供の頃の親子関係に在ることに気づき、母親とともにカウンセリングを受け、互いの心と向き合いました。
4年前生きずらさを抱えている人たちと、アートや音楽で活動する団体「Get in touch」を設立しました。
大手電機メーカーに入社、会社では販売促進、広報の仕事をしていました。
組織から離れて、季節労働者になろうと思った。
スキー、テニス、ウインドサーフィンに夢中になっていたので、春夏秋冬のインストラクターで食べていこうと思った。
先ず辞めてフラフラしていたら、タレントオーディションが有って飛び入り参加をし、芸能界に入るきっかけになった。
報道番組でレポーター、「金子信雄の楽しい夕食」に出演。
その後バラエティー番組などに多く出演する。
芸能界だけでなく自分自身の存在そのものが判らなくなっていた。
「お嫁さんにしたい女性有名人NO1」といわれるが、もやもやしていた。
独りになったら涙が出てきて、眠れなくなるし、早く朝になってほしいと思ったが、朝になると又今日一日が始まることが怖かった。
自分の中に二人いる様な感じがした。(明朗闊達悩みが無い自分、全く裏側の自分)
「夜の壁」の本 アダルトチルドレンという言葉が有り是は自分だと思った。
家族の中でなにかしらの理由で、自分らしく生きられないまま大人になった人。
父はアルコール依存症(ただただ酒の好きな人)、母が悪気なく完璧さを求め、長女だからと期待する。
母の言う事に対して無自覚に期待に答えていい子をやっていた。
いい人をやっていた、お嫁さんにしたいといわれるタレント、女優になって、そこで生きづらさを感じることになった。
肩書きを全部取ってしまったら、自分は何だろうと、結局どこかで役割をしてしまっていたり、誰かと比較したりしているかもしれない、誰かを目標としているかもしれないし、それと比較しているかもしれない、自分が判らなくなってしまっていた。
先ずはめちゃくちゃ本を読んで、心理学、カウンセリングの本、とか、読んで私がこうなったのは主に母が悪気なくそうしたという事が判って、母も、いい母、いい妻、良妻賢母を目指していた事が判って、親子の連鎖を立ち切ろうと思って母に話しかけた。(30代前半の事)
孫に対して、母の物差しを押しつけるのはどうかなといったら、母は「はあーっ」ですよね。
父は居場所が無かったのではと母に言ったりして、親子喧嘩3年だった。
もともと仲がいいだけに大変だった。
カウンセラーの人に「詰まらない優等生をやっていたみたいです、高校の時の記憶が無いんですよね」といったら、「よく頑張りましたね」と言われた。
「記憶を無くさないと貴方は自分を壊してしまう可能性が有った、それぐらい辛い思春期だったから忘れている、其れは自分を守るためでしたよ」と言われて、号泣しそうになったのをこらえて、トイレに入って泣いた。
これは何とかなると、母にカウンセリングを受けてもらおうと思った。(心理学者の長谷川博一さん)
途中から急激に変わって行った。
良い事は言えるが、ネガティブのことを言えなかった状況から、段々言えるようになった。
「私は辛かった」と言い始めて、いろんなことを思い出して、子供の頃におねしょが止まらなくて、そういったことまで先生に話した。(母は完璧を求めていた)
本当に母は変わりました。
否定しない、受け入れる、許す、これをやって行くのかと、言う。
途中で母を憎む、嫌いになる過程があり、これも悪い事ではないと思った母を好きでなければいけないと思っていた、許せないところもあるけど、とっても大事な存在と思えるようになった。
父は62歳で他界したが、亡くなってから一人の人間としての父を知らないと気付いた。
父が生きている間に、一人の人間、男性としての父と向き合いたかったと思った。
今は母は元気で若返った感じです、新しい扉を開いた感じです。
自分の人生は自分が主役になった。
私は自分らしく生きるようになって友達は滅茶減ったが、いざというときにはお互いが駆け付ける、理解しあえないところもあるが、心の癒しになるし、楽になりました。
相手を理解する事は出来ないと思う、でも理解しようとする気持ちが大事だと思う。
多様性社会、まぜこぜの社会を作りたいと思っている。
被災地の避難所がまぜこぜだった、日本の縮図だった、眼の見えない人、聞こえない人、歩けない人、寝たきりの人、外国の人、いろんな人たちが避難所に集まった。
マイノリティーの人は結果的に排除されてしまった。
普段からまぜこぜに成っていなかったから、どう対応していいのかわからなかった、、と思う。
「Get in touch」をたちあげる。
大震災が有った時に、活動していて理不尽だったのは、縦割りだった、横のつながりが無い。
巻き込む活動をしようと思った。
仕事以外で繋がるのは難しい。
一緒にいる、排除しない、これが大事だと思います。
選挙に行かない様な人をどう巻き込むかと言う事で、アート、音楽、ファッション、美味しいもの等
わくわくする空間、時間を提供して、そこでまぜこぜの人間環境を作る。
まぜこぜは居心地がいいと感じる様になる。
違うという事を面白がる、興味をもつ。
日本は国土が狭いのでバリアーフリーにはならないが、だけど私たち自身にバリアーフリーが有ればいい、段差があったら上げてやればいい、白い杖の人にはどうすればいいか聞けばいい、色々な人がいるので聞けばいい。
どんな状況になっても、自分らしく生きていたい、自分の家族、愛する人、大切な人が自分らしく生きてほしい、みんながその方がいい。
見える人と見えない人、聞こえる人と聞こえない人、歩ける人と歩けない人、等々、全ての人が生きづらさを感じない方がいいわけです。
交流はあらゆる手段で出来る。(手話、筆談等)
遠慮は時として人を生きづらくさせる。
生きづらいということで死ぬことばかり考えた時期が有ったが、死にたいのではなく、生きていたいから生きるのがつらくなっていって、選択肢が無い様な気に陥ってしまう。
それと付き合いながら、今は生きるのが面白い。
イベントの時は300人のボランティアで1カ月前から何かあると大変と眠れなくなる。
夫は6年前ぐらい前から、難病指定になっていない難病になって、病名が判るまで2年掛かる。
ジストニア痙性斜頸 脳神経の病気で自分の思い通りに身体が動かない。
夫は2年間寝たきりだったが、いまは歩く事はできないが運転はできるようになりました。
覚悟はあったほうだが、病名が判らない病気になるとは思わなかった、判ったら治る前例が無いといわれて、治療法が無いと言われたが、直してやろうと思った。
弱音を吐かないとやっていられない。
どうして自分はこんなふうにならなければいけないのかと、夫が言ってくると思って、「今あなたはそういう問う時ではない、貴方が問われている、そういう身体になった時に、どう生きていくかと貴方は問われている」と言って、考えようどう生きるかという風に、考えました。
夫婦で一緒に泣くと泥沼になってしまいそうなので、そうならない様にしている。
「Get in touch」の目標は早く解散したい、その必要無くなる社会。
種をまくと必ず芽がどこかで出る、最近実感している。(10年、20年蒔いた種)
2015年6月18日木曜日
高橋元彰(日本銭湯文化協会会長) ・三代目が伝える 銭湯の文化
高橋元彰(日本銭湯文化協会会長) ・三代目が伝える 銭湯の文化
江戸時代から庶民に親しまれた銭湯ですが、内湯をもち家庭が増えるに従って年々その数も減ってきています。
東京港区で万歳湯を経営する高橋さんは77歳、祖父の代からこの銭湯を守っていますが、日本独自の銭湯の良さや文化を伝えたいと、日本銭湯文化協会の会長を務め、智慧を絞ってきました。
銭湯検定試験を実施したり銭湯巡礼スタンプを考案したり、新たな銭湯ファンの開拓に努める一方、失われつつある地域の交流の場として、災害時の緊急避難所として役立つのではないかと考えています。
銭湯の三代目として50年近く、全国の公衆浴場の連合会の理事長を8年間勤めた高橋さんに、銭湯文化をどう守り伝えてゆくかなどを伺います。
銭湯を継いだのは昭和43年ぐらいからです。
祖父が銭湯を始める。
日露戦争で203高地の攻撃に参加して東京に帰ってきたが仕事が無くて、風呂屋さんでもやれよ、との意見が有りスタートした。
最盛期には20軒を経営していた。
私は中央大学を卒業して公務員になっていたが、遺産分割で母の後を継ごうと思い、銭湯経営を継ぎました。
釜焚き、掃除、番台でのお客さん接待まで教えてもらいました。
銭湯の良さは、身に衣装を纏わないわけで全てが一つになってゆく、老若男女を問わないというところが一番いいところ、しつけもよくなる事だと思います。
洗い桶、腰かけを入った人がきちんと所定の場所にそろえて積んで出ている。
早い時間帯には、年配の方が多数待っていて、クラス会みたいなもので、楽しみにしている。
3時30分開店だが、3時には待っている。
旧 芝区、赤坂区、麻布区 3区で 昭和5年には156軒、昭和39年に79軒 、現在6軒。
番台 フロント法式が増えてきて、平成24年では番台が143軒 フロント派が501軒。
入浴料460円 小学生が180円 それ以下は80円
「銭湯は裏切らない」 立川談志がよく言っていた言葉。
昭和43年が最盛期 東京では2786軒 現在では650軒ぐらい。
全国の公衆浴場の連合会の理事長を務める。
公衆浴場の確保に関する特別措置法、昭和57年に議員立法でできた法律で、公衆浴場が減ったので公衆浴場を確保するためのもの。
「健康増進とコミュニティー」 公衆浴場が持っていた力をもう一回再生させようと、平成16年に変えさせてもらった。
「1010」雑誌 千と十(銭湯) 10月10日は銭湯の日 最新号ではネット化される。
銭湯巡礼 多くに方々に銭湯を知ってもらいたいと思って、スタートする、評判が良くて今も続いている。(スタンプを押して、達成すると認定書を渡す)
仕事帰りに銭湯もというのもいいのではないか。(午後11時迄 午前1時までやっているところもある)
日本銭湯文化協会の会長を務める。
銭湯検定試験 4~2級とあります。 1級は銭湯博士を考えていますがまだです。
台東区 29軒残っていて、外国人の利用もある。
菖蒲湯(室町時代からある) 柚子湯 銭湯の文化として続けてゆきたい。
「銭湯を 沼になしたる あやめかな」(宝井其角の句) 「においよし 年に一度は 菖蒲の湯」
ユニークな銭湯
精巧な鉄道模型が行き来するお風呂屋。
漫画を1万冊用意しているお風呂屋。
レトロ系のお風呂屋。 等々。
かつてはコミュニティーの中心だったが、単身高齢者、高齢世帯が増えてきていて、健康カードみたいなものを作って、お客様、行政、業界も負担する、カードを端末に通して、回数管理して例えば1週間来なかった場合はボランティアとタイアップして、助ける行動とかも出来るのではないか。
災害時には備蓄品をそろえて置いて、緊急避難場所として利用する、そのようなことも考えている。
大田区では実施する段階に来ていると思う。(59軒あり都内でも一番多い部類)
歌舞伎、相撲、湯屋は江戸を代表する庶民の楽しみ、文化だった。
銭湯だけが落ち込んでいるので、東京オリンピックには国の垣根を越えて、競技を愛し、平和を
愛する集いができたらいいなあと思っています。
夢ですが、選手村の一角に銭湯を作って、銭湯文化を味わってもらいたいと思います。
江戸時代から庶民に親しまれた銭湯ですが、内湯をもち家庭が増えるに従って年々その数も減ってきています。
東京港区で万歳湯を経営する高橋さんは77歳、祖父の代からこの銭湯を守っていますが、日本独自の銭湯の良さや文化を伝えたいと、日本銭湯文化協会の会長を務め、智慧を絞ってきました。
銭湯検定試験を実施したり銭湯巡礼スタンプを考案したり、新たな銭湯ファンの開拓に努める一方、失われつつある地域の交流の場として、災害時の緊急避難所として役立つのではないかと考えています。
銭湯の三代目として50年近く、全国の公衆浴場の連合会の理事長を8年間勤めた高橋さんに、銭湯文化をどう守り伝えてゆくかなどを伺います。
銭湯を継いだのは昭和43年ぐらいからです。
祖父が銭湯を始める。
日露戦争で203高地の攻撃に参加して東京に帰ってきたが仕事が無くて、風呂屋さんでもやれよ、との意見が有りスタートした。
最盛期には20軒を経営していた。
私は中央大学を卒業して公務員になっていたが、遺産分割で母の後を継ごうと思い、銭湯経営を継ぎました。
釜焚き、掃除、番台でのお客さん接待まで教えてもらいました。
銭湯の良さは、身に衣装を纏わないわけで全てが一つになってゆく、老若男女を問わないというところが一番いいところ、しつけもよくなる事だと思います。
洗い桶、腰かけを入った人がきちんと所定の場所にそろえて積んで出ている。
早い時間帯には、年配の方が多数待っていて、クラス会みたいなもので、楽しみにしている。
3時30分開店だが、3時には待っている。
旧 芝区、赤坂区、麻布区 3区で 昭和5年には156軒、昭和39年に79軒 、現在6軒。
番台 フロント法式が増えてきて、平成24年では番台が143軒 フロント派が501軒。
入浴料460円 小学生が180円 それ以下は80円
「銭湯は裏切らない」 立川談志がよく言っていた言葉。
昭和43年が最盛期 東京では2786軒 現在では650軒ぐらい。
全国の公衆浴場の連合会の理事長を務める。
公衆浴場の確保に関する特別措置法、昭和57年に議員立法でできた法律で、公衆浴場が減ったので公衆浴場を確保するためのもの。
「健康増進とコミュニティー」 公衆浴場が持っていた力をもう一回再生させようと、平成16年に変えさせてもらった。
「1010」雑誌 千と十(銭湯) 10月10日は銭湯の日 最新号ではネット化される。
銭湯巡礼 多くに方々に銭湯を知ってもらいたいと思って、スタートする、評判が良くて今も続いている。(スタンプを押して、達成すると認定書を渡す)
仕事帰りに銭湯もというのもいいのではないか。(午後11時迄 午前1時までやっているところもある)
日本銭湯文化協会の会長を務める。
銭湯検定試験 4~2級とあります。 1級は銭湯博士を考えていますがまだです。
台東区 29軒残っていて、外国人の利用もある。
菖蒲湯(室町時代からある) 柚子湯 銭湯の文化として続けてゆきたい。
「銭湯を 沼になしたる あやめかな」(宝井其角の句) 「においよし 年に一度は 菖蒲の湯」
ユニークな銭湯
精巧な鉄道模型が行き来するお風呂屋。
漫画を1万冊用意しているお風呂屋。
レトロ系のお風呂屋。 等々。
かつてはコミュニティーの中心だったが、単身高齢者、高齢世帯が増えてきていて、健康カードみたいなものを作って、お客様、行政、業界も負担する、カードを端末に通して、回数管理して例えば1週間来なかった場合はボランティアとタイアップして、助ける行動とかも出来るのではないか。
災害時には備蓄品をそろえて置いて、緊急避難場所として利用する、そのようなことも考えている。
大田区では実施する段階に来ていると思う。(59軒あり都内でも一番多い部類)
歌舞伎、相撲、湯屋は江戸を代表する庶民の楽しみ、文化だった。
銭湯だけが落ち込んでいるので、東京オリンピックには国の垣根を越えて、競技を愛し、平和を
愛する集いができたらいいなあと思っています。
夢ですが、選手村の一角に銭湯を作って、銭湯文化を味わってもらいたいと思います。
2015年6月17日水曜日
ロイ・ビッショジト(盲学校教員) ・母国に伝えたい、日本のあんま鍼灸技術
ロイ・ビッショジト(滋賀県立盲学校教員) ・母国に伝えたい、日本のあんま鍼灸技術
バングラデシュ出身の37歳 、先天性の全盲です。
日本の按摩、鍼、灸の技術を学び、母国の視覚障害者の自立に役立てたいとの思いを胸に、20年前に来日しました。
高知県立盲学校、筑波大学理療科教員養成施設を経て 2002年から盲学校の教壇に立っています。
2005年にはNPOを設立、バングラデシュの視覚障害者に奨学金を贈る活動に取り組んでいます。
昨年日本での生活を支えてくれた妻の英代さんをがんで亡くし、現在2人の子供とともに滋賀県彦根市で暮らしています。
生理学、臨床(外の患者さんの治療の指導)、病理学、点字指導等を担当しています。
点字は6点の組み合わせで、日本語とベンガル語は違います。
来日当初は日本語はほとんど判らなかった。(早口のため)
日本に来て半年以降は、友達と話せるようになった。
特別な授業を週3時間、日本語の勉強をするが時間が足りないので、録音テープを使って朝4時から勉強しました。
一番大変だったのはお箸の使い方だった。(バングラデシュでは手で食べていた)
一時諦めたが、友達とラーメンを食べに行った時に、フォークを頼んだら子供用のフォークが出てきて、恥ずかしい思いをしながら食べた。
恥ずかしい思いをばねにお箸の練習を再開した。
バングラデシュの田舎の村(首都から600km離れている)で、当時は電気もなかった。
8人兄弟の末っ子だった。 眼が見えないのは私だけだった。
10歳ぐらいの時に父は亡くなる。
友達とは泥まみれで遊んだりしたが、田舎には視覚障害者の施設が無かったので、寄宿舎のある町の学校に行った。(母親は泣いたが4歳から行く)
長い夏休みなどは家に帰って、かわいがられ、寄宿舎に帰る時はさびしい思いをした。
ダッカ大学に入って、日本人の先生の方が来て、奨学金制度が有り、日本に行けるかもしれないと言ってくれた。
バングラデシュの弁論大会で準優勝してTVで放映されたり、成績優秀等で新聞に載ったりしたのを眼に留めてくれた。
日本の事は学校で情報入手はしていた。
大学の先生も日本人はとても親切だと言っていた。
試験、面接受け、日本に来ることができるようになる。
按摩、鍼、灸の事は全然知らなかった。
バングラデシュにはこのようなものはなかった。
奨学金の目的は技術を母国に広めて障害者の自立につなげるという目的がある。
障害者に対して制度的に、職業的にも、教育的にもは日本にくらべて厳しい。
一般の人に按摩、鍼、灸の事を先ず知ってもらう事が必要。
2005年にはNPOを設立 「バングラデシュ視覚障害者支援協会ショプノ」 奨学金支援、点字盤を送ったりしている。
将来的には按摩、鍼、灸を広めることを含めて立ち上げることにしました。
現在まで、奨学金支援としては45名の学生に提供しています。
点字盤は140名に送っています。
支援の資金は会員の会費が主で、イベント、バングラデシュの手工芸品を販売したり、募金などを行った。
支援を受けた人からは手紙、メール等から非常に役立っていると、感謝してます、頑張っていきたいとの声を受けている。
妻が昨年の1月に亡くなる。
事務的なこと、イベントの準備等中心に行っていたので大事な存在だった。
滋賀大学のあるイベントで知り合う、結婚は2004年、闘病は4年間、大腸がんと闘う。
亡くなった時は子供は8歳と5歳だった。
妻は優しく、ボランティア精神があり、心の広い人でした。
子供たちも頑張ってくれていて、周りからの支援もある。
家族内では日本語、ベンガル語でも話しています。
子供達は食事の事、マラソンの手引き(手を紐で結んで走る)等やってくれます。
5kmのマラソン大会にも一緒に出た。(日本に来てから持久走を覚えて、長く走ることの面白さを覚えた) 5km、10km、ハーフマラソン、フルマラソンも14回走りました。
達成感に魅かれる。
20年間、楽しいこと、苦しいこと、いろいろあったが、周りが親切で、サポートしてもらったり、全体としてはいい時間だったと思います。
NPO活動を通して母国の支援をもっといい方向に持って行けたらなあと、按摩、鍼、灸を広める様な活動、教育的な支援をもっとできるようにして行けたらなあと思います。
自分自身も磨いていきたい。(勉強、趣味、マラソン、精神的なもの等)
バングラデシュ出身の37歳 、先天性の全盲です。
日本の按摩、鍼、灸の技術を学び、母国の視覚障害者の自立に役立てたいとの思いを胸に、20年前に来日しました。
高知県立盲学校、筑波大学理療科教員養成施設を経て 2002年から盲学校の教壇に立っています。
2005年にはNPOを設立、バングラデシュの視覚障害者に奨学金を贈る活動に取り組んでいます。
昨年日本での生活を支えてくれた妻の英代さんをがんで亡くし、現在2人の子供とともに滋賀県彦根市で暮らしています。
生理学、臨床(外の患者さんの治療の指導)、病理学、点字指導等を担当しています。
点字は6点の組み合わせで、日本語とベンガル語は違います。
来日当初は日本語はほとんど判らなかった。(早口のため)
日本に来て半年以降は、友達と話せるようになった。
特別な授業を週3時間、日本語の勉強をするが時間が足りないので、録音テープを使って朝4時から勉強しました。
一番大変だったのはお箸の使い方だった。(バングラデシュでは手で食べていた)
一時諦めたが、友達とラーメンを食べに行った時に、フォークを頼んだら子供用のフォークが出てきて、恥ずかしい思いをしながら食べた。
恥ずかしい思いをばねにお箸の練習を再開した。
バングラデシュの田舎の村(首都から600km離れている)で、当時は電気もなかった。
8人兄弟の末っ子だった。 眼が見えないのは私だけだった。
10歳ぐらいの時に父は亡くなる。
友達とは泥まみれで遊んだりしたが、田舎には視覚障害者の施設が無かったので、寄宿舎のある町の学校に行った。(母親は泣いたが4歳から行く)
長い夏休みなどは家に帰って、かわいがられ、寄宿舎に帰る時はさびしい思いをした。
ダッカ大学に入って、日本人の先生の方が来て、奨学金制度が有り、日本に行けるかもしれないと言ってくれた。
バングラデシュの弁論大会で準優勝してTVで放映されたり、成績優秀等で新聞に載ったりしたのを眼に留めてくれた。
日本の事は学校で情報入手はしていた。
大学の先生も日本人はとても親切だと言っていた。
試験、面接受け、日本に来ることができるようになる。
按摩、鍼、灸の事は全然知らなかった。
バングラデシュにはこのようなものはなかった。
奨学金の目的は技術を母国に広めて障害者の自立につなげるという目的がある。
障害者に対して制度的に、職業的にも、教育的にもは日本にくらべて厳しい。
一般の人に按摩、鍼、灸の事を先ず知ってもらう事が必要。
2005年にはNPOを設立 「バングラデシュ視覚障害者支援協会ショプノ」 奨学金支援、点字盤を送ったりしている。
将来的には按摩、鍼、灸を広めることを含めて立ち上げることにしました。
現在まで、奨学金支援としては45名の学生に提供しています。
点字盤は140名に送っています。
支援の資金は会員の会費が主で、イベント、バングラデシュの手工芸品を販売したり、募金などを行った。
支援を受けた人からは手紙、メール等から非常に役立っていると、感謝してます、頑張っていきたいとの声を受けている。
妻が昨年の1月に亡くなる。
事務的なこと、イベントの準備等中心に行っていたので大事な存在だった。
滋賀大学のあるイベントで知り合う、結婚は2004年、闘病は4年間、大腸がんと闘う。
亡くなった時は子供は8歳と5歳だった。
妻は優しく、ボランティア精神があり、心の広い人でした。
子供たちも頑張ってくれていて、周りからの支援もある。
家族内では日本語、ベンガル語でも話しています。
子供達は食事の事、マラソンの手引き(手を紐で結んで走る)等やってくれます。
5kmのマラソン大会にも一緒に出た。(日本に来てから持久走を覚えて、長く走ることの面白さを覚えた) 5km、10km、ハーフマラソン、フルマラソンも14回走りました。
達成感に魅かれる。
20年間、楽しいこと、苦しいこと、いろいろあったが、周りが親切で、サポートしてもらったり、全体としてはいい時間だったと思います。
NPO活動を通して母国の支援をもっといい方向に持って行けたらなあと、按摩、鍼、灸を広める様な活動、教育的な支援をもっとできるようにして行けたらなあと思います。
自分自身も磨いていきたい。(勉強、趣味、マラソン、精神的なもの等)
2015年6月16日火曜日
朽木新一(若木昭和会 会長) ・開拓78年、サクランボに歴史あり
朽木新一(山形県東根市 若木昭和会 会長) ・開拓78年、サクランボに歴史あり
76歳 サクランボを中心にりんご、ラフランス、桃などの果樹栽培の専業です。
現在に至るまでには朽木さんの父親たち初代の開拓、入植、戦争の苦労が有りました。
戦後の朽木さんたちの 2代目の体験、美しい赤い実のサクランボ生産の裏に在る「開拓78年、サクランボに歴史あり」を伺いました。
佐藤錦の生産量が全国の70%を山形県、全体の20%が東根市になっています。
若木(おさなぎ)
佐藤錦は6月中旬が収穫期になる。
春の作業の中で今年の天気を予想して、大玉の美味しい実にするために実を摘む。
蕾が一か所に8つ出るが、半分以上を摘んでしまう。
乾燥は危険、ひと雨降ってくれて何とか今年も大丈夫だと安心した。
今年の出来は平年作になりそうだと思っている。
剪定作業がその年の作柄に影響する度合いは強い。
昭和9年大冷害に伴う凶作の振興策の一環として、国の事業で東北6県に開拓地を100戸単位で作ろうと、言う事で若木地区に55戸、新庄市塩野地区に45戸 作ったが、若木地区は県の計画では果樹を主体にしたモデルを作ろうとやってきた。
父親は満州国に開拓と言う事で加藤完治先生の弟子になって茨城県の友部というところで研修を受けて満州に渡った。
山形県でも新しいモデルを作るという事を聞いて父親などが再入植をした。
山形盆地の平たん部に赤松林があり、井戸を掘っても水が出なかった。
やせ地に赤松林が広がっていた。
戦争をくぐりぬけて、開拓の貴重な資料が残っている。
開拓で苦労したことが有るので、そのことを後世に伝えるのが昭和会の役割でもあると思います。
昭和会は1/3にあたる17名が3代目になっている。
初代入埴者は非常に苦労しているが、2代目も、終戦後激動の社会情勢の中で食糧事情がかなり変わった。
価格保証が無くて、天候に左右されてそれなりの果樹栽培の苦労が有った。
農協も破綻の危機に遭遇したこともある。
原因は売るものすべてが安く、構造的に世の中に適合していない作物を作っていた。
当時の主力はりんごで、種類も嗜好に合わなくて、過剰生産なってしまった。
りんごが上野動物園で猿、像のえさになっていて、お客さんに受けいれられる商品を作らなければいけないと、りんごでは「富士」に、さくらんぼ、桃に移って行った。
消費動向を正確に掴んだうえで計画を立てないと農家の経営は立ち行かなくなると言われて、サクランボ、富士 の系統選抜して行った。
101年前に佐藤栄助が開発した佐藤錦に全面的に変えていった。(ナポレオン→佐藤錦)
セルフサービス ディスカウント ストアの考えに合わないものはこれからも駄目だと思います。
安全、安心、美味しい、お手軽な価格でないと消費者には受け入れてもらえないと思っています。
若木地区では30%が温室栽培中心、無加温、雨よけテント等 経営面積に合った様な対応をしている。
自家労力では限界があるので、周辺部の農家以外の方たちの協力を得ていま行っている。
果樹作業の難点は管理作業が手作業。(高所作業、高齢化もある)
ここ10年近隣の比較的若い主婦の協力を得るようになった。
土地を軍の海軍航空隊に近い場所はおおく接収されたりして、遠いいところは少なかったりして、色々果樹作業含め勉強を重ねて、土地に関しても平等に配分し直しを2度行った。
土地が分散したが、不作の時のリスクが少なくなった。
76歳 サクランボを中心にりんご、ラフランス、桃などの果樹栽培の専業です。
現在に至るまでには朽木さんの父親たち初代の開拓、入植、戦争の苦労が有りました。
戦後の朽木さんたちの 2代目の体験、美しい赤い実のサクランボ生産の裏に在る「開拓78年、サクランボに歴史あり」を伺いました。
佐藤錦の生産量が全国の70%を山形県、全体の20%が東根市になっています。
若木(おさなぎ)
佐藤錦は6月中旬が収穫期になる。
春の作業の中で今年の天気を予想して、大玉の美味しい実にするために実を摘む。
蕾が一か所に8つ出るが、半分以上を摘んでしまう。
乾燥は危険、ひと雨降ってくれて何とか今年も大丈夫だと安心した。
今年の出来は平年作になりそうだと思っている。
剪定作業がその年の作柄に影響する度合いは強い。
昭和9年大冷害に伴う凶作の振興策の一環として、国の事業で東北6県に開拓地を100戸単位で作ろうと、言う事で若木地区に55戸、新庄市塩野地区に45戸 作ったが、若木地区は県の計画では果樹を主体にしたモデルを作ろうとやってきた。
父親は満州国に開拓と言う事で加藤完治先生の弟子になって茨城県の友部というところで研修を受けて満州に渡った。
山形県でも新しいモデルを作るという事を聞いて父親などが再入植をした。
山形盆地の平たん部に赤松林があり、井戸を掘っても水が出なかった。
やせ地に赤松林が広がっていた。
戦争をくぐりぬけて、開拓の貴重な資料が残っている。
開拓で苦労したことが有るので、そのことを後世に伝えるのが昭和会の役割でもあると思います。
昭和会は1/3にあたる17名が3代目になっている。
初代入埴者は非常に苦労しているが、2代目も、終戦後激動の社会情勢の中で食糧事情がかなり変わった。
価格保証が無くて、天候に左右されてそれなりの果樹栽培の苦労が有った。
農協も破綻の危機に遭遇したこともある。
原因は売るものすべてが安く、構造的に世の中に適合していない作物を作っていた。
当時の主力はりんごで、種類も嗜好に合わなくて、過剰生産なってしまった。
りんごが上野動物園で猿、像のえさになっていて、お客さんに受けいれられる商品を作らなければいけないと、りんごでは「富士」に、さくらんぼ、桃に移って行った。
消費動向を正確に掴んだうえで計画を立てないと農家の経営は立ち行かなくなると言われて、サクランボ、富士 の系統選抜して行った。
101年前に佐藤栄助が開発した佐藤錦に全面的に変えていった。(ナポレオン→佐藤錦)
セルフサービス ディスカウント ストアの考えに合わないものはこれからも駄目だと思います。
安全、安心、美味しい、お手軽な価格でないと消費者には受け入れてもらえないと思っています。
若木地区では30%が温室栽培中心、無加温、雨よけテント等 経営面積に合った様な対応をしている。
自家労力では限界があるので、周辺部の農家以外の方たちの協力を得ていま行っている。
果樹作業の難点は管理作業が手作業。(高所作業、高齢化もある)
ここ10年近隣の比較的若い主婦の協力を得るようになった。
土地を軍の海軍航空隊に近い場所はおおく接収されたりして、遠いいところは少なかったりして、色々果樹作業含め勉強を重ねて、土地に関しても平等に配分し直しを2度行った。
土地が分散したが、不作の時のリスクが少なくなった。
2015年6月15日月曜日
真山 仁(作家) ・記者が私の原点
真山 仁(作家) ・記者が私の原点
1962年大阪生まれ 大学を卒業した後、中部読売新聞に入社、岐阜支局で警察取材等を担当した後、退職して小説を書きながらフリーライターを13年間務めました。
2004年企業買収を巡る人間ドラマを描いた「ハゲタカ」でデビュー、この「ハゲタカ」は2007年にNHKでドラマ化され、大きな反響を呼びました。
その後も経済を中心に多くの小説を書いてきた真山さんは、今年東日本大震災をテーマにした「雨に泣いている」を出版しました。
新聞社の遊軍記者が主人公の小説で真山さんの記者としての体験が色濃く反映された作品です。
記者として身に付けた取材や表現が小説にどう結実したのか、伺いました。
警察取材は新人のお決まりの状況だった。(修行)
ミステリーが好きだったので警察取材は楽しい取材だった。
守秘義務に対して、最初は資料を隠されてしまうが、明らかに見ていいよと言う風になってくる。
油断してもらう方法を考えることが、多分一番大事だと思います。
取材するときは限りなく多くの情報を取れと言われる、書くときはできるだけ端的に書けと言わる。
読者に伝えるときに、一番大事なことは沢山取材したことをすてて、大事なことだけを残して判り易くかけるか、という事、これは物凄く難しい。
あっという間に直されて原型をとどめないが、直されると判り易くなるが、ショックだが、くやしいというのはありました。
べた記事(小さな記事)を毎日写せと言われる。(素振り千回と全く同じ様なものです)
デスクは鬼コーチで、半人前ぐらいになると、特ダネの様なものを喜んで書いて出すと、日本語が判らないと言って捨てられたりもする。
「読者だと思え、物判りの悪い読者だと思えと言われ、俺が判らない限り絶対使わない」と言われて、この言葉ほど大事なものはないと今は思っている。
2年半後、新聞社を辞めることになる。
高校時代に小説家になりたいと思っていて、その修行を10年やろうと思っていて記者になった。
自分が異和感をもち続けられるかどうか、異和感は大事で、その一方で長いものにはまかれ無ければいけない、このバランスをどうするか、上の言う事を聞いてしまうのは楽だと思った。
事件がある時に、この記事はおかしいと思っても戦うことができなくなってきて、このまま10年いると新聞記者としてはいい記者になるが、小説家には成れないのではないかと思い、辞めてしまった。
1年半で辞めようかと思っていて、友人たちは辞めた方がいいと言ってくれたが、中学校時代からの友人から、組織の中のルールの中で自分がどう適合するか、力が無いくせに飛び出そうとしている、やるだけのことをやって自分が判断して、これ以上適合力をきたえたとしてもだめなら辞めればと言われた。
その後1年間、取材の方法なども変えたりしてやってきたが、自分の力が無いかもしれないけれど辞めようと思った。
辞めて翌月に短編の懸賞小説に3日で書いて応募した。
一次選考を通過した。 これが私の人生を弱めてしまった。
楽勝だと思ったが、実はそうではなかった。
フリーライターになった。(記事広告 エンターテーメント系の告知記事をやるようになった)
その間、作品も書き続けた。
3年目ぐらいから、江戸川乱歩賞に応募して、時々残るようにはなったが最終選考までは行かなかった。
2004年「ハゲタカ」を出版する。
前年、生命保険の破たんテーマの小説で、次にあまり皆が書いていない金融の小説だったら、もう一冊どうぞと言われたのが「ハゲタカ」だった。
取材に1年、原稿を書いたのは40日ぐらいだった。
当時の経済の流れが正面からこの作品に反映されたものだった。
小説を書くときに、底流に流れているものは、根幹は何なのか、そういったことに注力していた。
2007年 NHKでドラマ化された。(3年後) 2005年末にはNHKから話が有った。
デビュー作がNHKのドラマになると言う事に対して舞いあがった。
原作とは全然違っていた。
映像にするからこそ見せられるものと、小説だからこそ伝えられるものがある。
約2000ページの小説をを5時間で纏めるので、どこを切るか、映像のプロが変えてゆくだろうと、但し外資のせいで日本が悪くなったとは一言も書いてない、甘えるなと日本人はこれからは戦わなければいけないんだという一点だけは変えないでくれと言った。
「ハゲタカ」で伝えたかったことは、まっすぐ伝わった。
経済には興味はなく、金に依って人が狂ってゆく事に対して興味がある。
お金が社会も政治も国家も変えて行っているが、この面白さが、これに代わるものが無い、その魅力だと思います。
小説が私の発言の場所なので、小説で伝えようとこだわっていました。
3.11が起きて、自分が思っている事、もっと人に伝えることに対してもっと勇気をもって、みなさんこう言う事はもっと知った方がいいですよと、言うことをちゃんと言おうと、自分自身をもっともっと多くの人にさらけ出してでも、伝えなければいけないことを勇気をもって伝えようと、言う覚悟が全然変わりました。
メディアの依頼を断らなくなった、政府のやっている事、エネルギー行政に、毎日噛み付いていました。
「雨に泣いている」 新聞社の遊軍記者が主人公の小説 東日本大震災をテーマにする。
1995年に起きた阪神淡路大震災の時に、震源地から10kmしか離れていない、マンションの1階にすんでいたが、本来押しつぶされて命を落としている可能性が高かったが、活断層が東にずれていたので、被害が無く、生き残ってラッキーだと思ったことと、なぜ生き残ったんだろうという事を思った。
自分の味わってることを小説にしなさいと言われたのかなと思った。
3.11が起きてしまって、今被災地で起きている事を、阪神淡路大震災を経験したものとして、被災した方に毒づく事であっても、メディアがどうしても造ろうとしている美談に、自分は立ち向かう役割がやってきたんだと、他の人が書かない被災地の物語を書こうと決めた。
記者に対する理想は眠っていたんですが、こういうことがもしかすると揺るがない記者魂というものが出てきたのかなあと思います。
知り合いの記者に対して、震災の翌日入った人に、小説に協力してほしいと、記者に時間を頂いてどうやって現地に入ったとかこと細かに、取材をした。
私が取材している記者が突然ワーッと感情が出てくる、自分たちが体験した大変なことを人にしゃべって無かったんだろうなと思いました。
現地に行って、全く取材ができなくなってしまう記者もいた。(取材をしていてきつかった)
小説のひとつの状況は、この本が10年経った後に、震災を全然知らない若い人が、記者が何をしたかを知ってほしいので、いろんなタイプの人間をわざとちりばめています。
その一人一人はその人に取材していなくても、これは自分のことだと思う現象を出来るだけ小説の登場人物に反映させるようにしました。
小説に五感を出す様にしている。(匂いとか)
この本はミステリー仕立てに成っているが、最初から結論が出ているミステリーになっている。
「何故」という部分、ページをめくっていただくための駆動力の役割をしていると思います。
現代史を勉強しましょうと言うのはなかなか難しい、、何故戦争が起きたのか、日露戦争以降ぐらいの日本の歴史の小説を書きたいと思っている。
歴史の大家に何人にも教えてくださいと言って勉強して、昭和史の小説を書こうと思っている。
5~6年後に本ができていたら良いと思っていて、10年は覚悟している。
そのころにはものを観る眼が、寛容かつ広くなっていたい、円熟、ものに対して寛容力のある物書きになりたいと思っている。
1962年大阪生まれ 大学を卒業した後、中部読売新聞に入社、岐阜支局で警察取材等を担当した後、退職して小説を書きながらフリーライターを13年間務めました。
2004年企業買収を巡る人間ドラマを描いた「ハゲタカ」でデビュー、この「ハゲタカ」は2007年にNHKでドラマ化され、大きな反響を呼びました。
その後も経済を中心に多くの小説を書いてきた真山さんは、今年東日本大震災をテーマにした「雨に泣いている」を出版しました。
新聞社の遊軍記者が主人公の小説で真山さんの記者としての体験が色濃く反映された作品です。
記者として身に付けた取材や表現が小説にどう結実したのか、伺いました。
警察取材は新人のお決まりの状況だった。(修行)
ミステリーが好きだったので警察取材は楽しい取材だった。
守秘義務に対して、最初は資料を隠されてしまうが、明らかに見ていいよと言う風になってくる。
油断してもらう方法を考えることが、多分一番大事だと思います。
取材するときは限りなく多くの情報を取れと言われる、書くときはできるだけ端的に書けと言わる。
読者に伝えるときに、一番大事なことは沢山取材したことをすてて、大事なことだけを残して判り易くかけるか、という事、これは物凄く難しい。
あっという間に直されて原型をとどめないが、直されると判り易くなるが、ショックだが、くやしいというのはありました。
べた記事(小さな記事)を毎日写せと言われる。(素振り千回と全く同じ様なものです)
デスクは鬼コーチで、半人前ぐらいになると、特ダネの様なものを喜んで書いて出すと、日本語が判らないと言って捨てられたりもする。
「読者だと思え、物判りの悪い読者だと思えと言われ、俺が判らない限り絶対使わない」と言われて、この言葉ほど大事なものはないと今は思っている。
2年半後、新聞社を辞めることになる。
高校時代に小説家になりたいと思っていて、その修行を10年やろうと思っていて記者になった。
自分が異和感をもち続けられるかどうか、異和感は大事で、その一方で長いものにはまかれ無ければいけない、このバランスをどうするか、上の言う事を聞いてしまうのは楽だと思った。
事件がある時に、この記事はおかしいと思っても戦うことができなくなってきて、このまま10年いると新聞記者としてはいい記者になるが、小説家には成れないのではないかと思い、辞めてしまった。
1年半で辞めようかと思っていて、友人たちは辞めた方がいいと言ってくれたが、中学校時代からの友人から、組織の中のルールの中で自分がどう適合するか、力が無いくせに飛び出そうとしている、やるだけのことをやって自分が判断して、これ以上適合力をきたえたとしてもだめなら辞めればと言われた。
その後1年間、取材の方法なども変えたりしてやってきたが、自分の力が無いかもしれないけれど辞めようと思った。
辞めて翌月に短編の懸賞小説に3日で書いて応募した。
一次選考を通過した。 これが私の人生を弱めてしまった。
楽勝だと思ったが、実はそうではなかった。
フリーライターになった。(記事広告 エンターテーメント系の告知記事をやるようになった)
その間、作品も書き続けた。
3年目ぐらいから、江戸川乱歩賞に応募して、時々残るようにはなったが最終選考までは行かなかった。
2004年「ハゲタカ」を出版する。
前年、生命保険の破たんテーマの小説で、次にあまり皆が書いていない金融の小説だったら、もう一冊どうぞと言われたのが「ハゲタカ」だった。
取材に1年、原稿を書いたのは40日ぐらいだった。
当時の経済の流れが正面からこの作品に反映されたものだった。
小説を書くときに、底流に流れているものは、根幹は何なのか、そういったことに注力していた。
2007年 NHKでドラマ化された。(3年後) 2005年末にはNHKから話が有った。
デビュー作がNHKのドラマになると言う事に対して舞いあがった。
原作とは全然違っていた。
映像にするからこそ見せられるものと、小説だからこそ伝えられるものがある。
約2000ページの小説をを5時間で纏めるので、どこを切るか、映像のプロが変えてゆくだろうと、但し外資のせいで日本が悪くなったとは一言も書いてない、甘えるなと日本人はこれからは戦わなければいけないんだという一点だけは変えないでくれと言った。
「ハゲタカ」で伝えたかったことは、まっすぐ伝わった。
経済には興味はなく、金に依って人が狂ってゆく事に対して興味がある。
お金が社会も政治も国家も変えて行っているが、この面白さが、これに代わるものが無い、その魅力だと思います。
小説が私の発言の場所なので、小説で伝えようとこだわっていました。
3.11が起きて、自分が思っている事、もっと人に伝えることに対してもっと勇気をもって、みなさんこう言う事はもっと知った方がいいですよと、言うことをちゃんと言おうと、自分自身をもっともっと多くの人にさらけ出してでも、伝えなければいけないことを勇気をもって伝えようと、言う覚悟が全然変わりました。
メディアの依頼を断らなくなった、政府のやっている事、エネルギー行政に、毎日噛み付いていました。
「雨に泣いている」 新聞社の遊軍記者が主人公の小説 東日本大震災をテーマにする。
1995年に起きた阪神淡路大震災の時に、震源地から10kmしか離れていない、マンションの1階にすんでいたが、本来押しつぶされて命を落としている可能性が高かったが、活断層が東にずれていたので、被害が無く、生き残ってラッキーだと思ったことと、なぜ生き残ったんだろうという事を思った。
自分の味わってることを小説にしなさいと言われたのかなと思った。
3.11が起きてしまって、今被災地で起きている事を、阪神淡路大震災を経験したものとして、被災した方に毒づく事であっても、メディアがどうしても造ろうとしている美談に、自分は立ち向かう役割がやってきたんだと、他の人が書かない被災地の物語を書こうと決めた。
記者に対する理想は眠っていたんですが、こういうことがもしかすると揺るがない記者魂というものが出てきたのかなあと思います。
知り合いの記者に対して、震災の翌日入った人に、小説に協力してほしいと、記者に時間を頂いてどうやって現地に入ったとかこと細かに、取材をした。
私が取材している記者が突然ワーッと感情が出てくる、自分たちが体験した大変なことを人にしゃべって無かったんだろうなと思いました。
現地に行って、全く取材ができなくなってしまう記者もいた。(取材をしていてきつかった)
小説のひとつの状況は、この本が10年経った後に、震災を全然知らない若い人が、記者が何をしたかを知ってほしいので、いろんなタイプの人間をわざとちりばめています。
その一人一人はその人に取材していなくても、これは自分のことだと思う現象を出来るだけ小説の登場人物に反映させるようにしました。
小説に五感を出す様にしている。(匂いとか)
この本はミステリー仕立てに成っているが、最初から結論が出ているミステリーになっている。
「何故」という部分、ページをめくっていただくための駆動力の役割をしていると思います。
現代史を勉強しましょうと言うのはなかなか難しい、、何故戦争が起きたのか、日露戦争以降ぐらいの日本の歴史の小説を書きたいと思っている。
歴史の大家に何人にも教えてくださいと言って勉強して、昭和史の小説を書こうと思っている。
5~6年後に本ができていたら良いと思っていて、10年は覚悟している。
そのころにはものを観る眼が、寛容かつ広くなっていたい、円熟、ものに対して寛容力のある物書きになりたいと思っている。
2015年6月14日日曜日
前田のぶえ(主婦、シンガーソングライター) ・私のうた日記人生
前田のぶえ(主婦、シンガーソングライター) ・私のうた日記人生
前田さんは昭和28年長野県小川村生まれ 62歳
信州の自然豊かな村で育った前田さんは小学校の頃、ピアノに魅せられ家でも紙で作ったピアノ鍵盤をこたつの上に広げて練習するほどだったと言います。
その後保育専門学校でピアノのレッスンや音楽の授業を受けて腕を磨き、浮かんだメロディーや言葉を書きとめたのが、歌作りの始まりでした。
長野県の福祉施設で働いていた前田さんは障害のある人ない人、子供、お年寄りが農業を中心に共に暮らす 取り組みが有ることを知って滋賀県に移ります。
その後、グループ訪問を始めた前田さんは色々な人との出会い、日々の暮らしの中で感動した時、悩みで落ち込んだ時などに自然に歌が浮かぶようになりました。
歌は前田さんの思いや人生を伝える日記ともなっています。
200曲以上になる。
タイトル 「今日も笑顔で」(1992年11月)、「命の道」・・・・・。
歌詞を拝見すると、苦労と言うか、汗と涙が歌になった様な感じがする。
「家の母さんドジなのよ」 「完璧目指しちゃだめなのよ」 「疲れた時の応援歌」
「幸せは作るもの」 「子育て60点」
「命の道 皆友達 いつもおいでよ ぬくもりはどこに 今私にできる事は 一枚の雑巾
アオギリは教えてくれた 有難うともちゃん 今が有るから 歌に乗せて」
最初歌う時は恥ずかしかったが、私よりしっかりしている様な人が、共感して私もそういうことが有ったという事で私が救われた。
「今日も笑顔で」
「山懐に抱かれて 共に汗する仲間たち 今日も笑顔でおはようさん 小鳥の声に眼を覚まし さざめきあって 野に畑 今日も笑顔で こんにちわ」
長野県小川村生まれ 北アルプスがいつも出てくる。
小学校2年~4年を担任した山崎先生が放課後ピアノを教えてくれた。
紙鍵盤をこたつの上にひろげて練習をしました。
高校時代、保育専門学校で音楽を学ぶ。
保母の仕事をしている時に田村一二さんに出会う。
障害の有る人ない人、子供、お年寄りが農業を中心に共に暮らす、取り組みが有ることを知る。
一緒に暮らすという事に魅かれた。
田村さんは障害児教育に携わって来て、最後に自分で出された答えが、共に暮らすことが大事だと思われたそうで、皆に伝えようと講演して歩いた。
できる範囲で一緒に暮らすようになったり、段々こんなふうになりました。
自分のための歌なので、歌にすると不思議な事に乗り越えられる、自分への応援歌です。
父親が癌の末期だということがわかって、父は歌が好きだったので、17,8曲あったので父に聞かせてあげたいと思って、知り合いの、丸田勉さん 川又康助さん 和田優孝さんに頼んで、録音して父親に届けて聞いてもらい事が出来た。 (初めての録音だった)
山崎先生(小学校の音楽を教えてくれた先生)、吉本光彦先生(施設の上司、恩人)へ生きているうちに、恩返しをしたいと思って、初めてコンサートをした。
訪問して歌を歌う様になる。
認知症のかたも懐かしそうに歌う、難病、障害者の方も普通あまり反応が無かったのに、顔を上げて元気に歌ったりする。
前田ファミリー主催で、自分たちで配って歩いて、司会なども自分たちでしゃべって、やっています。
「60点」 実の子でも里子でも頑張って100点目指そうとすると、無理をして自分も潰れてしまうので、お互いに許して60点でやろうというとできると思う。
「疲れた時の応援歌」(自分への応援歌)
「疲れが取れるまでゆっくりすればいい やる気がわくまでゴロゴロすればいい 人と比べると落ち込むよ 自分を責めると苦しいよ 人とは比べないほうがいい 自分を責めないほうがいい
動かないで 食べるだけで 気になるときも それはそれで仕方ない うんざりするのも仕方が無い 周りが気になるのも仕方が無い 今の自分をどうしようもないのも仕方が無い
ゆっくり休みましょう 今はゆっくり休みましょう」
前田ファミリー 11人 色々トラブルはあるが「60点」でやっている。
2014年6月29日 4年ぶりに前田ファミリーで手作りコンサートをした。
手紙が一通届いた。(アリサちゃんの母親だった) 「アリサちゃん 有難う」作る。
家族ぐるみの交流をするが、病状の進行が有る。 CDにして聞いてもらう。
2015年4月3日アリサちゃんは自宅に戻り、一週間後4月11日13年間の人生を精一杯生きて天に召された。
「貴方がくれたプレゼント」
「貴方がくれたプレゼント その姿その言葉その心 貴方が私にくれたプレゼント 有難う
貴方の姿 ありがとう貴方の言葉 ありがとう 貴方の心 貴方と一緒にいると 幸せ気分になるよ あなたと一緒いると あったかさも感じるよ あなたがくれたプレゼント ありがとうあなたからのプレゼント」
広島 親子旅行で参加 語り部の沼田鈴子さんと出会って、被爆して片足切断したがもう亡くなってしまったが、「幸せの種まきをしましょうね。 平和の種まきをしましょうね。 大事なのは真実を知る事ですよ。 みんなでたねまきをしましょう。」といつも言われていて、何して良いか判らず、何か実践する事、一粒の種まきをすること、種まきは私にしては歌がその方法かなあと思って、自分にできることを一つしたいと思っています。
「幸せの種を一つ蒔こう 幸せの種を一つ蒔こう 幸せの種は皆が持っている
幸せの種を今日も蒔こう 幸せの種を今日も蒔こう 幸せの種は皆が持っている
幸せの種を皆で蒔こう 幸せの種を皆で蒔こう 幸せの種は皆が持っている」
自分ができることをできる形で、一粒 皆で種を蒔いて、みんな揃ったら沢山になる。
前田さんは昭和28年長野県小川村生まれ 62歳
信州の自然豊かな村で育った前田さんは小学校の頃、ピアノに魅せられ家でも紙で作ったピアノ鍵盤をこたつの上に広げて練習するほどだったと言います。
その後保育専門学校でピアノのレッスンや音楽の授業を受けて腕を磨き、浮かんだメロディーや言葉を書きとめたのが、歌作りの始まりでした。
長野県の福祉施設で働いていた前田さんは障害のある人ない人、子供、お年寄りが農業を中心に共に暮らす 取り組みが有ることを知って滋賀県に移ります。
その後、グループ訪問を始めた前田さんは色々な人との出会い、日々の暮らしの中で感動した時、悩みで落ち込んだ時などに自然に歌が浮かぶようになりました。
歌は前田さんの思いや人生を伝える日記ともなっています。
200曲以上になる。
タイトル 「今日も笑顔で」(1992年11月)、「命の道」・・・・・。
歌詞を拝見すると、苦労と言うか、汗と涙が歌になった様な感じがする。
「家の母さんドジなのよ」 「完璧目指しちゃだめなのよ」 「疲れた時の応援歌」
「幸せは作るもの」 「子育て60点」
「命の道 皆友達 いつもおいでよ ぬくもりはどこに 今私にできる事は 一枚の雑巾
アオギリは教えてくれた 有難うともちゃん 今が有るから 歌に乗せて」
最初歌う時は恥ずかしかったが、私よりしっかりしている様な人が、共感して私もそういうことが有ったという事で私が救われた。
「今日も笑顔で」
「山懐に抱かれて 共に汗する仲間たち 今日も笑顔でおはようさん 小鳥の声に眼を覚まし さざめきあって 野に畑 今日も笑顔で こんにちわ」
長野県小川村生まれ 北アルプスがいつも出てくる。
小学校2年~4年を担任した山崎先生が放課後ピアノを教えてくれた。
紙鍵盤をこたつの上にひろげて練習をしました。
高校時代、保育専門学校で音楽を学ぶ。
保母の仕事をしている時に田村一二さんに出会う。
障害の有る人ない人、子供、お年寄りが農業を中心に共に暮らす、取り組みが有ることを知る。
一緒に暮らすという事に魅かれた。
田村さんは障害児教育に携わって来て、最後に自分で出された答えが、共に暮らすことが大事だと思われたそうで、皆に伝えようと講演して歩いた。
できる範囲で一緒に暮らすようになったり、段々こんなふうになりました。
自分のための歌なので、歌にすると不思議な事に乗り越えられる、自分への応援歌です。
父親が癌の末期だということがわかって、父は歌が好きだったので、17,8曲あったので父に聞かせてあげたいと思って、知り合いの、丸田勉さん 川又康助さん 和田優孝さんに頼んで、録音して父親に届けて聞いてもらい事が出来た。 (初めての録音だった)
山崎先生(小学校の音楽を教えてくれた先生)、吉本光彦先生(施設の上司、恩人)へ生きているうちに、恩返しをしたいと思って、初めてコンサートをした。
訪問して歌を歌う様になる。
認知症のかたも懐かしそうに歌う、難病、障害者の方も普通あまり反応が無かったのに、顔を上げて元気に歌ったりする。
前田ファミリー主催で、自分たちで配って歩いて、司会なども自分たちでしゃべって、やっています。
「60点」 実の子でも里子でも頑張って100点目指そうとすると、無理をして自分も潰れてしまうので、お互いに許して60点でやろうというとできると思う。
「疲れた時の応援歌」(自分への応援歌)
「疲れが取れるまでゆっくりすればいい やる気がわくまでゴロゴロすればいい 人と比べると落ち込むよ 自分を責めると苦しいよ 人とは比べないほうがいい 自分を責めないほうがいい
動かないで 食べるだけで 気になるときも それはそれで仕方ない うんざりするのも仕方が無い 周りが気になるのも仕方が無い 今の自分をどうしようもないのも仕方が無い
ゆっくり休みましょう 今はゆっくり休みましょう」
前田ファミリー 11人 色々トラブルはあるが「60点」でやっている。
2014年6月29日 4年ぶりに前田ファミリーで手作りコンサートをした。
手紙が一通届いた。(アリサちゃんの母親だった) 「アリサちゃん 有難う」作る。
家族ぐるみの交流をするが、病状の進行が有る。 CDにして聞いてもらう。
2015年4月3日アリサちゃんは自宅に戻り、一週間後4月11日13年間の人生を精一杯生きて天に召された。
「貴方がくれたプレゼント」
「貴方がくれたプレゼント その姿その言葉その心 貴方が私にくれたプレゼント 有難う
貴方の姿 ありがとう貴方の言葉 ありがとう 貴方の心 貴方と一緒にいると 幸せ気分になるよ あなたと一緒いると あったかさも感じるよ あなたがくれたプレゼント ありがとうあなたからのプレゼント」
広島 親子旅行で参加 語り部の沼田鈴子さんと出会って、被爆して片足切断したがもう亡くなってしまったが、「幸せの種まきをしましょうね。 平和の種まきをしましょうね。 大事なのは真実を知る事ですよ。 みんなでたねまきをしましょう。」といつも言われていて、何して良いか判らず、何か実践する事、一粒の種まきをすること、種まきは私にしては歌がその方法かなあと思って、自分にできることを一つしたいと思っています。
「幸せの種を一つ蒔こう 幸せの種を一つ蒔こう 幸せの種は皆が持っている
幸せの種を今日も蒔こう 幸せの種を今日も蒔こう 幸せの種は皆が持っている
幸せの種を皆で蒔こう 幸せの種を皆で蒔こう 幸せの種は皆が持っている」
自分ができることをできる形で、一粒 皆で種を蒔いて、みんな揃ったら沢山になる。
2015年6月13日土曜日
中川尚史(准教授) ・”抱擁”するニホンザル!?
中川尚史(京都大学大学院理学研究科准教授) ・”抱擁”するニホンザル!?
今年の春、日本ザルの研究で新しい発見が有りました。
宮城県の金華山、鹿児島県の屋久島で日本ザルは抱擁し合う、そういう文化が有るという事でした。
ニュースでも伝えられ多くの人に衝撃を与えました。
発見した京都大学大学院理学研究科の中川さんに伺いました。
群れの中で緊張が高まるとお互いに抱擁して、争いを避けようとしている。
宮城県の金華山、鹿児島県の屋久島、共通点 抱き合うのかが見られ、毛づくろいをして終わる。
金華山は対面して抱き合う、そのあと身体を大きく前後にゆする、抱き合い方。
屋久島は対面の以外に、体側から抱きつくパターンと、稀に後ろから抱きつくパターンの3つが有る。
金華山の様には大きくゆすらない、相手の体を掴んだ手のひらを閉じたり開いたりする。
宮城県の金華山、鹿児島県の屋久島 2か所とも表情はリップスマッキング、口を突きだして音を発する。
そこそこ仲がいいという間柄の時に抱擁してから毛づくろいをする。
多くはメスで、金華山の方ではオス同士、オスメスの抱擁はほとんどなし、屋久島の方はオス同士は少しはあるが、ほとんどメス同士で行う。
先ずは緊張をほぐすための行動、そのあと毛づくろいに移る。
毛づくろいはどこの日本ザルでも行う。
抱擁は一つの型に決まっていない。
小学校4年の時にアフリカサバンナのTV番組が有り、シマウマ、ライオン、ゾウ、等の映像にはまってしまって素晴らしい世界だと思った。
彼らの生態を調べる研究者になりたかった。
京都大学に行けば、アフリカに行けると思って、理学部に入ろうと思いました。
1浪しても入れず、農学部に入って、その後大学院を受けて進むことができた。
杉山幸丸先生から日本ザルの研究をしっかりするように言われて、サバンナの夢はまだ実現する事は出来なかった。
金華山に行く事になる。
ブナの大豊作の年で、無くなってきたときに猿はどういう振る舞いをするのか、考えた。
採食速度 ブナを拾う速さ 10月は4秒に1個 2月中旬には12秒に1個となる。
採食時間割合 食べる行動にどの程度時間を費やすのか調べると7割を費やす。
1986年に博士課程の1年でサバンナに行き始めて、断続的に1997年まで行っていた。
平成16年助教授になり、日本ザルの研究を再び始める。
文献上も抱擁は無かったが、金華山に行くと猿が抱き合っている。
不思議に思って、宮城教育大学の先生に伺ったところ、金華山だけでなく、下北半島、石川県の白山の猿もやるよと教えてもらった。
抱擁行動のデータを取るようになる。
中村美知夫さんがチンパンジーの社会行動の文化の研究をしていて、道具使用の文化のほかに社会行動について研究をしていた。
ソーシャルスクラッチ 背中を掻いてもらうような行動はチンパンジーであるところと無いところがある。
ある場合でも、普通に背中を掻くタイプと指先でつっつく様なパターンが有る。
日本ザルのイモ洗いの発見 2歳の雌が小川に浸けると砂が取れ、海水に浸けると砂が取れるし、塩味がついてそれを学習して、同年齢に広がり、母親の世代にも広がって、集団内に広がることになる。
文化人類学者の人からだいぶ反対される。(文化とはいえないという批判)
イモ洗いが6割に広がるのに4,5年掛かっている。(模倣ではなく個別学習である)
抱き合うと言う事は、同じような行動をするという事、社会的な伝達が起こっているという事が考えやすいそういう文化だと思っています。
金華山、屋久島の違った行動パターンが同じ機能でないと、文化だとは言いづらいと思ったので同じ機能だという事を、証明する必要があると思った。
文化はある効用の発明と言うものが有って、発明されたものが伝達されて集団中にかなり広まって、世代を越えて続いていくのが、文化だと思います。
日本ザルの系統の旧世界ザルと、類人猿をふくむ人の系統と分かれたのは2500万年前と言われるが、そのあたりまでは社会行動の文化と言うものを、さかのぼって考えていいんだと思います。
大阪大学の中道先生と一緒に、日本ザルのまれな行動について、集めています。
まれな行動の広がる過程が見られればと思っています。
岡山県の勝山 大阪大学が研究している調査地での研究が今後の計画です。
人間は霊長類の一員なので、他の霊長類と連続的な部分は多々あるので、チンパンジーとの線引きとか、線引きを控える必要はあると思います。
今年の春、日本ザルの研究で新しい発見が有りました。
宮城県の金華山、鹿児島県の屋久島で日本ザルは抱擁し合う、そういう文化が有るという事でした。
ニュースでも伝えられ多くの人に衝撃を与えました。
発見した京都大学大学院理学研究科の中川さんに伺いました。
群れの中で緊張が高まるとお互いに抱擁して、争いを避けようとしている。
宮城県の金華山、鹿児島県の屋久島、共通点 抱き合うのかが見られ、毛づくろいをして終わる。
金華山は対面して抱き合う、そのあと身体を大きく前後にゆする、抱き合い方。
屋久島は対面の以外に、体側から抱きつくパターンと、稀に後ろから抱きつくパターンの3つが有る。
金華山の様には大きくゆすらない、相手の体を掴んだ手のひらを閉じたり開いたりする。
宮城県の金華山、鹿児島県の屋久島 2か所とも表情はリップスマッキング、口を突きだして音を発する。
そこそこ仲がいいという間柄の時に抱擁してから毛づくろいをする。
多くはメスで、金華山の方ではオス同士、オスメスの抱擁はほとんどなし、屋久島の方はオス同士は少しはあるが、ほとんどメス同士で行う。
先ずは緊張をほぐすための行動、そのあと毛づくろいに移る。
毛づくろいはどこの日本ザルでも行う。
抱擁は一つの型に決まっていない。
小学校4年の時にアフリカサバンナのTV番組が有り、シマウマ、ライオン、ゾウ、等の映像にはまってしまって素晴らしい世界だと思った。
彼らの生態を調べる研究者になりたかった。
京都大学に行けば、アフリカに行けると思って、理学部に入ろうと思いました。
1浪しても入れず、農学部に入って、その後大学院を受けて進むことができた。
杉山幸丸先生から日本ザルの研究をしっかりするように言われて、サバンナの夢はまだ実現する事は出来なかった。
金華山に行く事になる。
ブナの大豊作の年で、無くなってきたときに猿はどういう振る舞いをするのか、考えた。
採食速度 ブナを拾う速さ 10月は4秒に1個 2月中旬には12秒に1個となる。
採食時間割合 食べる行動にどの程度時間を費やすのか調べると7割を費やす。
1986年に博士課程の1年でサバンナに行き始めて、断続的に1997年まで行っていた。
平成16年助教授になり、日本ザルの研究を再び始める。
文献上も抱擁は無かったが、金華山に行くと猿が抱き合っている。
不思議に思って、宮城教育大学の先生に伺ったところ、金華山だけでなく、下北半島、石川県の白山の猿もやるよと教えてもらった。
抱擁行動のデータを取るようになる。
中村美知夫さんがチンパンジーの社会行動の文化の研究をしていて、道具使用の文化のほかに社会行動について研究をしていた。
ソーシャルスクラッチ 背中を掻いてもらうような行動はチンパンジーであるところと無いところがある。
ある場合でも、普通に背中を掻くタイプと指先でつっつく様なパターンが有る。
日本ザルのイモ洗いの発見 2歳の雌が小川に浸けると砂が取れ、海水に浸けると砂が取れるし、塩味がついてそれを学習して、同年齢に広がり、母親の世代にも広がって、集団内に広がることになる。
文化人類学者の人からだいぶ反対される。(文化とはいえないという批判)
イモ洗いが6割に広がるのに4,5年掛かっている。(模倣ではなく個別学習である)
抱き合うと言う事は、同じような行動をするという事、社会的な伝達が起こっているという事が考えやすいそういう文化だと思っています。
金華山、屋久島の違った行動パターンが同じ機能でないと、文化だとは言いづらいと思ったので同じ機能だという事を、証明する必要があると思った。
文化はある効用の発明と言うものが有って、発明されたものが伝達されて集団中にかなり広まって、世代を越えて続いていくのが、文化だと思います。
日本ザルの系統の旧世界ザルと、類人猿をふくむ人の系統と分かれたのは2500万年前と言われるが、そのあたりまでは社会行動の文化と言うものを、さかのぼって考えていいんだと思います。
大阪大学の中道先生と一緒に、日本ザルのまれな行動について、集めています。
まれな行動の広がる過程が見られればと思っています。
岡山県の勝山 大阪大学が研究している調査地での研究が今後の計画です。
人間は霊長類の一員なので、他の霊長類と連続的な部分は多々あるので、チンパンジーとの線引きとか、線引きを控える必要はあると思います。
2015年6月12日金曜日
坂井智宏(金剛頂寺住職) ・現代に生き続けている空海
坂井智宏(金剛頂寺住職) ・現代に生き続けている空海
室戸岬 今から1200年前、空海が修行した場所として有名。
白装束、白杖のお遍路さんの姿が絶えませんが、ここ数年、自分探しの旅、定年を迎えた癒しの旅、そういった方が多いようです。
全国に3000ある真言宗豊山派宗務の総長として、東京と高知を行き来され、高知県の観光特使としても活躍されています。
「現代に生き続けている空海」 金剛頂寺67代目住職 78歳 に伺いました。
金剛頂寺は807年にできる。
空海が室戸の洞窟で修行する。
不動堂があり、本当はそこで修業した。
室戸ジオパークがある。
空海は19歳前後から京都に勉強に行く。 奈良の方にも勉強に行ったりして、自然の中を歩きながら密教と言う世界を追っかけて行ったと思います。
おしえの中では最終的には即身成仏という考え方が出てくるが、空海の場合は死を言葉で入定、釈尊の場合は涅槃、往生、いろんな言葉が出てくる。
平安時代になって、空海は密教、最澄は天台宗。
お遍路さんの姿は時代によって違ってくる。
お大師さんが修行されたところを、お大師さんの跡をたどって行くという事で最初起こってくるが、江戸時代になってくると、生活の苦しみ、病気の事から一生を過ごす事もある。
昭和39から40年前後、自分を見つめるための遍路、供養のための遍路が生まれてくる。
今は年間20万人近くが回っていてそのうちの5000人が歩いて回っている。
自分を見つめようとか、定年退職したので新しい人生を歩んでいくと言う方もいる。
子供さんが亡くなられて供養と言う事で回っている人もいる。
般若心経を中心にして回っている。
「色即是空 空即是色」 考え方の基本 空 執着してはいけない。
600卷のお経を短くしたものだし、素直に拝んでいればいいのではないか。
他の事を考えずに無心に拝む。
杖の意味 宇宙を構成している地、水、火、風、空 (五大)書かれていて お大師さんの教えと、お大師さんと一緒に歩いているんだよという感じで回って行く。
遍路の中途で亡くなると、杖を卒塔婆の代わりに立てて終りになる。
無縁の御墓はかなりあります。
歩いて行って最低60日掛かる。
当寺も年間4000人ぐらいは泊っている。
バス会社が昭和38年ごろからバスのお遍路さんを始めるが、当初は旅館が無いのでお寺を開放してほしいという事で宿として提供するようになる。
自然の中に生かされているという感覚をもつと、柔らかくなる。
おもてなしを受けると、自分も変わる。
空海と名乗ったのは20歳前後 唐へ渡ったのは30歳頃
如実に自身を知るという事は大事。
生き方は四恩を中心に 父母への恩、国への恩、衆生への恩、仏法相三品に対する感謝。
人生というのは生まれたからは死にますから、その間にどのような生き方をするかで、それぞれの歳に応じた段階で生きて行くかしか、しょうがない。
府中八十八か所、多摩川沿いの八十八か所、豊島区の八十八か所、巣鴨の八十八か所があります。 大阪にもあります。
素直に生きたら楽ですよ。
室戸岬 今から1200年前、空海が修行した場所として有名。
白装束、白杖のお遍路さんの姿が絶えませんが、ここ数年、自分探しの旅、定年を迎えた癒しの旅、そういった方が多いようです。
全国に3000ある真言宗豊山派宗務の総長として、東京と高知を行き来され、高知県の観光特使としても活躍されています。
「現代に生き続けている空海」 金剛頂寺67代目住職 78歳 に伺いました。
金剛頂寺は807年にできる。
空海が室戸の洞窟で修行する。
不動堂があり、本当はそこで修業した。
室戸ジオパークがある。
空海は19歳前後から京都に勉強に行く。 奈良の方にも勉強に行ったりして、自然の中を歩きながら密教と言う世界を追っかけて行ったと思います。
おしえの中では最終的には即身成仏という考え方が出てくるが、空海の場合は死を言葉で入定、釈尊の場合は涅槃、往生、いろんな言葉が出てくる。
平安時代になって、空海は密教、最澄は天台宗。
お遍路さんの姿は時代によって違ってくる。
お大師さんが修行されたところを、お大師さんの跡をたどって行くという事で最初起こってくるが、江戸時代になってくると、生活の苦しみ、病気の事から一生を過ごす事もある。
昭和39から40年前後、自分を見つめるための遍路、供養のための遍路が生まれてくる。
今は年間20万人近くが回っていてそのうちの5000人が歩いて回っている。
自分を見つめようとか、定年退職したので新しい人生を歩んでいくと言う方もいる。
子供さんが亡くなられて供養と言う事で回っている人もいる。
般若心経を中心にして回っている。
「色即是空 空即是色」 考え方の基本 空 執着してはいけない。
600卷のお経を短くしたものだし、素直に拝んでいればいいのではないか。
他の事を考えずに無心に拝む。
杖の意味 宇宙を構成している地、水、火、風、空 (五大)書かれていて お大師さんの教えと、お大師さんと一緒に歩いているんだよという感じで回って行く。
遍路の中途で亡くなると、杖を卒塔婆の代わりに立てて終りになる。
無縁の御墓はかなりあります。
歩いて行って最低60日掛かる。
当寺も年間4000人ぐらいは泊っている。
バス会社が昭和38年ごろからバスのお遍路さんを始めるが、当初は旅館が無いのでお寺を開放してほしいという事で宿として提供するようになる。
自然の中に生かされているという感覚をもつと、柔らかくなる。
おもてなしを受けると、自分も変わる。
空海と名乗ったのは20歳前後 唐へ渡ったのは30歳頃
如実に自身を知るという事は大事。
生き方は四恩を中心に 父母への恩、国への恩、衆生への恩、仏法相三品に対する感謝。
人生というのは生まれたからは死にますから、その間にどのような生き方をするかで、それぞれの歳に応じた段階で生きて行くかしか、しょうがない。
府中八十八か所、多摩川沿いの八十八か所、豊島区の八十八か所、巣鴨の八十八か所があります。 大阪にもあります。
素直に生きたら楽ですよ。
2015年6月11日木曜日
守安信介(ボーイスカウト指導者) ・ボーイスカウトを通して子どもを育てる
守安信介(ボーイスカウト指導者) ・ボーイスカウトを通して子どもを育てる
67歳 今年の夏4年に一度世界中から3万人のボーイスカウトが集まる大会、世界スカウトジャンボリーが山口県で開催されます。
前回日本で開催されたのは44年前で、守安さんはその時指導者として参加し、世界の仲間たちとの出会いが人生に大きな影響を与えたと言います。
その後も守安さんは国際的なイベントに携わって貴重な体験を積み重ね、今も活動を続けている数少ない一人です。
守安さんはボーイスカウトの子供たちにも 、異文化に触れてたくましく成長してほしいと願っています。
自分の体験の恩返しをしようと、今年の夏、世界スカウトジャンボリーで海外の子供たちのホームステーの受け入れ準備に力を注いでいます。
ボーイスカウトは世界最大の青少年育成団体で、世界162の国と地域で3000万人が活動している。
運営と教育をしている、小学生から25歳までが、年齢によって5つの隊に分かれている。
キャンプ、奉仕活動等するが、その費用をやりくりしたり、指導者の養成をしています。
当世田谷はカトリック三軒茶屋協会が育生成会、母胎になっている。
親御さんとのコミュニケーションも大事なので保護者会も開いている。
母の勧めで9歳から始めました。
先輩から自然の中でテントの張り方、ロープの使い方などを教えてくれました。
一晩中30kmをひたすら歩いたり、キャンプファイアーで歌ったり踊ったり毎回わくわくしていました。
高校生年代は50km、大学年代は100km(24時間がタイムリミット)。
イギリスで100年以上前にボーイスカウトを始めたベーデン・パウエルが残した言葉で、「指導者が少年の心をもち、少年たちと同じ立場に自分を置かねばならない」と言う言葉あり、私の座右の銘と成っています。
1921年(大正10年)にイギリスを訪問した昭和天皇、(当時皇太子)に謁見して、「スカウト教育は信頼される人間を作ること、その目的は世界平和であること」を強調したと伝えられている。
言う事を聞かない子がいるが、違う年代のグループの中で、少し年上の子が注意するようにと指導している。
私のような指導者が言うよりも効き目が有ります、それでも言う事を聞かないようであれば大人が指導します。
様子を見てまめに声をかけて、できたことを褒めて褒めて褒めまくる。
紳士的なガキ大将になってもらいたい。
英語を勉強したかったが、西ドイツは留学生は授業料がただ、滞在費も安い、22歳から2年間西ドイツに留学することになる。
大きく違う点は、スカウトの子供達が戦争中にヒットラー少年団として、利用された非常に悲しい歴史が有り、国旗を掲揚しない、行進をしないというやり方でした。
ベルリンの壁、大きな壁を見たときには、とても悲しくなって言葉が無かったです。
この時から世界の平和がいかに大切か、自分はどう行動したらいいかを深く考えるようになりました。
44年前、静岡の朝霧高原で開催された世界スカウトジャンボリーにドイツから参加。
相互理解をテーマに87の国と地域から23000人が集まる。
ドイツ人と日本人の間で会話が進まないのでサポートをした。
大キャンプファイヤーなど、お国自慢したり、充実していました。
開催中に台風が直撃し、緊急避難命令が出され、近くの学校にバスで移動、不安を感じさせないように一緒に歌を歌ったりして一夜を過ごしました。
物おじせずに行動できた。
ドイツのメンバーは東京に移動、私一人取り残されて、後かたずけが大変だった。
ドイツの隊長からお詫びの手紙が来て、ドイツに帰った後、自宅に隊長が来てくれた。
ドイツ人はとっつきにくい様な感じがしたが、そのような行動は新鮮な驚きだった。
20年前にオランダで開催された世界スカウトジャンボリーに日本から派遣される、東京から40人の団体を他の指導者とともに引率、その後イギリスにホームステーする。
寝室は屋根裏部屋で、布製のベッドで寝ている時に布が破れて、床に落ちてしまった。
子供達の中にはプールが有る豪邸に泊った人もいました。
一番問題だったのは飛行場についてあと2時間無いと言いう時にパスポートが無いと言いだして、
緊急にやってもらってホストファミリーが届けてくれ、助かったことが有ります。
帰って来て、前よりも結束感が強まり、積極的にとりくむようになりました。
世界の平和を考える貴重な体験になったと思います。
13年前に大阪で開催された日本ジャンボリーで、海外からの指導者のお世話をする。
23の国と地域から来た102人を6人で対応したが、てんてこ舞いだった。
モンゴルから来た女の子がいなくなってしまったが、好きになった日本人の女の子のテントで見つかる。
モンゴル人の指導者と身ぶり手ぶりで話をして、日中はその女の子と過ごすことで纏まった。
誠意をもって話し合うと、どんな言語でも、どんな人種とでも判り得ると確信しました。
消極的な子供が増えている様な気がする。
声が小さい、自分が何を主張したいのかが聞き取れない、何を考えているのか分かりにくい。
公園に子供達が少ない。
子供達の魂は変わらないと思う、取り巻く環境が違ってきたと思う。(少子化、周りの自然)
子供は揉まれると大きな声を出す様になる。(旗取り合戦等のゲーム)
違反行為のない様にルールを厳しく管理する。
今年山口県で世界スカウトジャンボリーが開催される。
中学生、高校生162の国と地域から集まる予定していて、その内1万人がホームステーを予定、東京世田谷区で50人の受け入れで代表を勤めていて忙しい。
イギリス40名、チェコ10名 英語で交流できるように取り組んでいる。
国際的なイベントに数多く参加させてもらって、その恩返しを、と思っている。
ホームステーで日本の普通の生活を体験してもらいたいと思っている。
「できれば死ぬ前までに、他の人に幸福を分け与えられる人生でありたい」
(ベーデン・パウエルが残した言葉)
これからも人の為になることを続けていきたい、子供達が伸び伸びと遊んで成長する様な支援をして行きたい、平和の世界の大切さを判ってもらえるよう、子供たちと指導者への指導に力を注ぎたいと思っています。
67歳 今年の夏4年に一度世界中から3万人のボーイスカウトが集まる大会、世界スカウトジャンボリーが山口県で開催されます。
前回日本で開催されたのは44年前で、守安さんはその時指導者として参加し、世界の仲間たちとの出会いが人生に大きな影響を与えたと言います。
その後も守安さんは国際的なイベントに携わって貴重な体験を積み重ね、今も活動を続けている数少ない一人です。
守安さんはボーイスカウトの子供たちにも 、異文化に触れてたくましく成長してほしいと願っています。
自分の体験の恩返しをしようと、今年の夏、世界スカウトジャンボリーで海外の子供たちのホームステーの受け入れ準備に力を注いでいます。
ボーイスカウトは世界最大の青少年育成団体で、世界162の国と地域で3000万人が活動している。
運営と教育をしている、小学生から25歳までが、年齢によって5つの隊に分かれている。
キャンプ、奉仕活動等するが、その費用をやりくりしたり、指導者の養成をしています。
当世田谷はカトリック三軒茶屋協会が育生成会、母胎になっている。
親御さんとのコミュニケーションも大事なので保護者会も開いている。
母の勧めで9歳から始めました。
先輩から自然の中でテントの張り方、ロープの使い方などを教えてくれました。
一晩中30kmをひたすら歩いたり、キャンプファイアーで歌ったり踊ったり毎回わくわくしていました。
高校生年代は50km、大学年代は100km(24時間がタイムリミット)。
イギリスで100年以上前にボーイスカウトを始めたベーデン・パウエルが残した言葉で、「指導者が少年の心をもち、少年たちと同じ立場に自分を置かねばならない」と言う言葉あり、私の座右の銘と成っています。
1921年(大正10年)にイギリスを訪問した昭和天皇、(当時皇太子)に謁見して、「スカウト教育は信頼される人間を作ること、その目的は世界平和であること」を強調したと伝えられている。
言う事を聞かない子がいるが、違う年代のグループの中で、少し年上の子が注意するようにと指導している。
私のような指導者が言うよりも効き目が有ります、それでも言う事を聞かないようであれば大人が指導します。
様子を見てまめに声をかけて、できたことを褒めて褒めて褒めまくる。
紳士的なガキ大将になってもらいたい。
英語を勉強したかったが、西ドイツは留学生は授業料がただ、滞在費も安い、22歳から2年間西ドイツに留学することになる。
大きく違う点は、スカウトの子供達が戦争中にヒットラー少年団として、利用された非常に悲しい歴史が有り、国旗を掲揚しない、行進をしないというやり方でした。
ベルリンの壁、大きな壁を見たときには、とても悲しくなって言葉が無かったです。
この時から世界の平和がいかに大切か、自分はどう行動したらいいかを深く考えるようになりました。
44年前、静岡の朝霧高原で開催された世界スカウトジャンボリーにドイツから参加。
相互理解をテーマに87の国と地域から23000人が集まる。
ドイツ人と日本人の間で会話が進まないのでサポートをした。
大キャンプファイヤーなど、お国自慢したり、充実していました。
開催中に台風が直撃し、緊急避難命令が出され、近くの学校にバスで移動、不安を感じさせないように一緒に歌を歌ったりして一夜を過ごしました。
物おじせずに行動できた。
ドイツのメンバーは東京に移動、私一人取り残されて、後かたずけが大変だった。
ドイツの隊長からお詫びの手紙が来て、ドイツに帰った後、自宅に隊長が来てくれた。
ドイツ人はとっつきにくい様な感じがしたが、そのような行動は新鮮な驚きだった。
20年前にオランダで開催された世界スカウトジャンボリーに日本から派遣される、東京から40人の団体を他の指導者とともに引率、その後イギリスにホームステーする。
寝室は屋根裏部屋で、布製のベッドで寝ている時に布が破れて、床に落ちてしまった。
子供達の中にはプールが有る豪邸に泊った人もいました。
一番問題だったのは飛行場についてあと2時間無いと言いう時にパスポートが無いと言いだして、
緊急にやってもらってホストファミリーが届けてくれ、助かったことが有ります。
帰って来て、前よりも結束感が強まり、積極的にとりくむようになりました。
世界の平和を考える貴重な体験になったと思います。
13年前に大阪で開催された日本ジャンボリーで、海外からの指導者のお世話をする。
23の国と地域から来た102人を6人で対応したが、てんてこ舞いだった。
モンゴルから来た女の子がいなくなってしまったが、好きになった日本人の女の子のテントで見つかる。
モンゴル人の指導者と身ぶり手ぶりで話をして、日中はその女の子と過ごすことで纏まった。
誠意をもって話し合うと、どんな言語でも、どんな人種とでも判り得ると確信しました。
消極的な子供が増えている様な気がする。
声が小さい、自分が何を主張したいのかが聞き取れない、何を考えているのか分かりにくい。
公園に子供達が少ない。
子供達の魂は変わらないと思う、取り巻く環境が違ってきたと思う。(少子化、周りの自然)
子供は揉まれると大きな声を出す様になる。(旗取り合戦等のゲーム)
違反行為のない様にルールを厳しく管理する。
今年山口県で世界スカウトジャンボリーが開催される。
中学生、高校生162の国と地域から集まる予定していて、その内1万人がホームステーを予定、東京世田谷区で50人の受け入れで代表を勤めていて忙しい。
イギリス40名、チェコ10名 英語で交流できるように取り組んでいる。
国際的なイベントに数多く参加させてもらって、その恩返しを、と思っている。
ホームステーで日本の普通の生活を体験してもらいたいと思っている。
「できれば死ぬ前までに、他の人に幸福を分け与えられる人生でありたい」
(ベーデン・パウエルが残した言葉)
これからも人の為になることを続けていきたい、子供達が伸び伸びと遊んで成長する様な支援をして行きたい、平和の世界の大切さを判ってもらえるよう、子供たちと指導者への指導に力を注ぎたいと思っています。
2015年6月10日水曜日
鈴木 巌(考えるそろばん日本普及会) ・”そろばん”の新たな可能性を求めて
鈴木 巌(考えるそろばん日本普及会) ・”そろばん”の新たな可能性を求めて
昭和13年東大阪市生まれ、そろばんとかかわって60年を越え、現在珠算5段、日本珠算連盟東大阪珠算協会常任理事を勤めています。
中学生になってからそろばんを始めましたが、そろばんの魅力を知り、メキメキ上達しました。
大阪府立高津高校を卒業後、国鉄勤務、乗車券の販売を担当しましたが、そろばんで鍛えた計算能力が買われ、当時珍しかったコンピューターソフトの開発業務に抜擢されました。
昭和39年にそろばん教室を開設、以来50年余りに渡って教えています。
時代とともにそろばんは計算機にとって代わりましたが、そろばんには計算機とは違った魅力が有り可能性があるのではないかと世界を見て歩きました。
中国では両手を使って計算する両手算法や、ハンガリーでは考えるそろばん教育に出会いました。
算数教育にそろばんを役立てている、ハンガリーのそろばん教育に共鳴した鈴木さんは、何度もハンガリーを訪ね、交流を深め日本での普及に努めています。
そろばんを始めて64年、子供にそろばんを教えているのが51年。
読み上げ算も面白い、競算日も待ち遠しい思いがある。
弟がそろばんを習いに行くという事で一緒について行くのがきっかけとなる。
筆算よりは眼に見えて、指ではじくのが楽しかった。
現在自宅で、40~50人 東大阪で70~80人教えている。
1980年頃がピーク(204万人が日商の試験を受ける)だったが、2006年には17,8万人減りました。
尼崎で教育特区があり、そろばんをすることによって他の教科まで上がってきた。
そろばんが上達する事によって集中力も上がる。
小学校3,4年生に対して、ボランティアで教えている。(そろばんを教える先生がいないので)
そろばんは5500年前にメソポタミアにあったと言われていて、砂そろばん 砂の上に枠を書いて線を引いてその上に石を載せるとかしていた。
中国では西周陶丸(西周宮室遺跡出土陶丸) お茶碗を作る土を固めたものが100個ぐらい墓の中から出てきて、使い方がわからなかったが、そろばんだと中国の文献に載っている。今から3000年前。
その後 上の5玉 2個 下の1玉 5個 1000年前に発明。
日本に来たのが秀吉の時代の前の様だ。
そろばん文化は残したいと思っている。
中国では両手でそろばんをやるが、私の教室でも早くから教えている。
左の指を使うと右脳の85%を使うという事です。
ハンガリーではそろばんを使う様になったのは、今から25年前、マルカリアン・キミエ先生が1990年に指導を行った。
400校の小学校で採用されている。
暗算、足し算、掛け算、割り算、見取り算、玉を見て頭で考える 数を玉に置き換えて考える。
玉4個を使って 二桁で23より大きい数で奇数 答えは6個あるが答えを出してください、という問題。(ハンガリーの小学校1年生) 31 35 71 75 とかある。
3度ハンガリーを訪ねているが、来年も行く計画が有る。
電卓、コンピューターの時代だが、そろばんの火を消してはいけないと思う。
国鉄に行っていたときに切符を売っていて、夜になるとお金を集計して、売り上げ金額、集めた金額を計算するが合わない訳だが、其れを計算するのが得意だったのでピタッと合うのが嬉しかった。
コンピューターを導入するという事でプログラマーになる。
同僚から重宝がられる。
「すずらん」そろばんニュース 毎月発行している。 30年近くになる。
ハンガリーとのかかわりを続けたいと思っています。
昭和13年東大阪市生まれ、そろばんとかかわって60年を越え、現在珠算5段、日本珠算連盟東大阪珠算協会常任理事を勤めています。
中学生になってからそろばんを始めましたが、そろばんの魅力を知り、メキメキ上達しました。
大阪府立高津高校を卒業後、国鉄勤務、乗車券の販売を担当しましたが、そろばんで鍛えた計算能力が買われ、当時珍しかったコンピューターソフトの開発業務に抜擢されました。
昭和39年にそろばん教室を開設、以来50年余りに渡って教えています。
時代とともにそろばんは計算機にとって代わりましたが、そろばんには計算機とは違った魅力が有り可能性があるのではないかと世界を見て歩きました。
中国では両手を使って計算する両手算法や、ハンガリーでは考えるそろばん教育に出会いました。
算数教育にそろばんを役立てている、ハンガリーのそろばん教育に共鳴した鈴木さんは、何度もハンガリーを訪ね、交流を深め日本での普及に努めています。
そろばんを始めて64年、子供にそろばんを教えているのが51年。
読み上げ算も面白い、競算日も待ち遠しい思いがある。
弟がそろばんを習いに行くという事で一緒について行くのがきっかけとなる。
筆算よりは眼に見えて、指ではじくのが楽しかった。
現在自宅で、40~50人 東大阪で70~80人教えている。
1980年頃がピーク(204万人が日商の試験を受ける)だったが、2006年には17,8万人減りました。
尼崎で教育特区があり、そろばんをすることによって他の教科まで上がってきた。
そろばんが上達する事によって集中力も上がる。
小学校3,4年生に対して、ボランティアで教えている。(そろばんを教える先生がいないので)
そろばんは5500年前にメソポタミアにあったと言われていて、砂そろばん 砂の上に枠を書いて線を引いてその上に石を載せるとかしていた。
中国では西周陶丸(西周宮室遺跡出土陶丸) お茶碗を作る土を固めたものが100個ぐらい墓の中から出てきて、使い方がわからなかったが、そろばんだと中国の文献に載っている。今から3000年前。
その後 上の5玉 2個 下の1玉 5個 1000年前に発明。
日本に来たのが秀吉の時代の前の様だ。
そろばん文化は残したいと思っている。
中国では両手でそろばんをやるが、私の教室でも早くから教えている。
左の指を使うと右脳の85%を使うという事です。
ハンガリーではそろばんを使う様になったのは、今から25年前、マルカリアン・キミエ先生が1990年に指導を行った。
400校の小学校で採用されている。
暗算、足し算、掛け算、割り算、見取り算、玉を見て頭で考える 数を玉に置き換えて考える。
玉4個を使って 二桁で23より大きい数で奇数 答えは6個あるが答えを出してください、という問題。(ハンガリーの小学校1年生) 31 35 71 75 とかある。
3度ハンガリーを訪ねているが、来年も行く計画が有る。
電卓、コンピューターの時代だが、そろばんの火を消してはいけないと思う。
国鉄に行っていたときに切符を売っていて、夜になるとお金を集計して、売り上げ金額、集めた金額を計算するが合わない訳だが、其れを計算するのが得意だったのでピタッと合うのが嬉しかった。
コンピューターを導入するという事でプログラマーになる。
同僚から重宝がられる。
「すずらん」そろばんニュース 毎月発行している。 30年近くになる。
ハンガリーとのかかわりを続けたいと思っています。
2015年6月9日火曜日
保坂正康(作家) ・ (第10回)日本とアメリカの戦争への道(26.12.7放送)
保坂正康(作家) 昭和史を味わう (第10回)日本とアメリカの戦争への道(26.12.7放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/12/10.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/12/10.htmlをご覧ください。
2015年6月8日月曜日
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう(第9回) (26.11.2放送)
保阪正康(作家・評論家)・昭和史を味わう(第9回)日本と国際関係~当時の国際情勢と日本の孤立
(26・11・2放送)
昭和8年~太平洋戦争が始まる前までが対象。
日本が攘夷の思想、内向きになる。
昭和6年9月の満州事変が日本の軍事的行動が眼にあまる、中国の主権を侵害しているのでは無いかと、国際連盟で問題になり、リットン調査団が送られてくる。
報告書の採諾が問題になり、委員会の採諾の段階で、100%日本が悪いという内容ではなかったが自分たちの意見が入れられてないと日本は反対する。
それが国際連盟からの離脱と言う事になる。
昭和8年2月24日に松岡洋右が脱退の演説をする。
松岡自身は国際連盟の脱退に対して必ずしも納得してたわけではないが、国の指令で脱退するという形を取る。
日本に戻ったら、石を投げられるのではないかと松岡は思ったようだが、横浜で万歳万歳と迎えられて、えっと思った様だが、その後は過激になってゆく。
攘夷の思想で内向きになる人と、国際社会の中で協力していかなければ生きていけないと考えた知識人がいた。
「世界政局に踊る人々」昭和12年に刊行 時局評論社
世界の指導者を纏めた本。
ルーズベルト、国務長官ハル、スターリン、ヒットラー、ムッソリーニ、蒋介石とか当時の国際社会で指導権を握っている指導者たちはどのような考えをしているのかを説明している本。
彼らは日本に対してそれほど深い関心をもっていなかった。
彼らはヨーロッパ情勢、自国の政治闘争等に関心をもっていた。
民間の交流はまだあった。
昭和7年5月15日 (5・15事件) 5月14日にチャップリンが日本に来ている。
15日には犬養健(犬養首相の息子)と相撲を見ていたが,犬養健と一緒にチャップリンも首相官邸に行って励ましたりしている。
5・15事件の被告たちは、チャップリンが首相官邸でパーティーが開かれた時に襲う事を考えていたという人がいた。
もしチャップリンが襲われたら国際的な問題になっていた。
昭和11年2月26日に2・26事件が起きるが、チャップリンは3月6日にも日本に来る。
昭和12年4月15日 ヘレン・ケラーが来日。(約1カ月間滞在 57歳)
昭和9年11月 アメリカ大リーグが来日。 ベーブルースが含まれている。
当時の日本の排外主義は短期間で極端になってゆく。
英語を使うなと言う様な事になってゆく。
昭和15年には芸能人の横文字の名前が禁止される。
外国文化の排斥となり、ますます狭い日本的な文化の中にしか入り込めない事になる。
(26・11・2放送)
昭和8年~太平洋戦争が始まる前までが対象。
日本が攘夷の思想、内向きになる。
昭和6年9月の満州事変が日本の軍事的行動が眼にあまる、中国の主権を侵害しているのでは無いかと、国際連盟で問題になり、リットン調査団が送られてくる。
報告書の採諾が問題になり、委員会の採諾の段階で、100%日本が悪いという内容ではなかったが自分たちの意見が入れられてないと日本は反対する。
それが国際連盟からの離脱と言う事になる。
昭和8年2月24日に松岡洋右が脱退の演説をする。
松岡自身は国際連盟の脱退に対して必ずしも納得してたわけではないが、国の指令で脱退するという形を取る。
日本に戻ったら、石を投げられるのではないかと松岡は思ったようだが、横浜で万歳万歳と迎えられて、えっと思った様だが、その後は過激になってゆく。
攘夷の思想で内向きになる人と、国際社会の中で協力していかなければ生きていけないと考えた知識人がいた。
「世界政局に踊る人々」昭和12年に刊行 時局評論社
世界の指導者を纏めた本。
ルーズベルト、国務長官ハル、スターリン、ヒットラー、ムッソリーニ、蒋介石とか当時の国際社会で指導権を握っている指導者たちはどのような考えをしているのかを説明している本。
彼らは日本に対してそれほど深い関心をもっていなかった。
彼らはヨーロッパ情勢、自国の政治闘争等に関心をもっていた。
民間の交流はまだあった。
昭和7年5月15日 (5・15事件) 5月14日にチャップリンが日本に来ている。
15日には犬養健(犬養首相の息子)と相撲を見ていたが,犬養健と一緒にチャップリンも首相官邸に行って励ましたりしている。
5・15事件の被告たちは、チャップリンが首相官邸でパーティーが開かれた時に襲う事を考えていたという人がいた。
もしチャップリンが襲われたら国際的な問題になっていた。
昭和11年2月26日に2・26事件が起きるが、チャップリンは3月6日にも日本に来る。
昭和12年4月15日 ヘレン・ケラーが来日。(約1カ月間滞在 57歳)
昭和9年11月 アメリカ大リーグが来日。 ベーブルースが含まれている。
当時の日本の排外主義は短期間で極端になってゆく。
英語を使うなと言う様な事になってゆく。
昭和15年には芸能人の横文字の名前が禁止される。
外国文化の排斥となり、ますます狭い日本的な文化の中にしか入り込めない事になる。
2015年6月7日日曜日
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第17回太平洋戦争の日々(3)
保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第17回太平洋戦争の日々(3)
兵士たちの姿
昭和史を語り継ごうと思うと、戦争が中心になり、軍事を勉強しないといけないと思って、軍事とはどういうものか、素人の眼から見て判り易く解説して行こうと思って研究してきた。
一般の人は一番下が二等兵、戦いの現場に立たされて苦労する。
大将は陸軍大学校をでたエリートが、軍の中で出世して行って辿り着くポスト、50代後半、60代で自分たちが戦争を指揮をする。
兵役の召集が来て一日目はお客様扱いだが、2日目からはガラッと変わって厳しい制裁、命令、軍隊内部の暴力を含めて、軍そのもののなかの一番下の階層に置かれる。
自分と言うものを全く出せなくなってしまう、それが兵隊教育でもあった。
考えずに、命令に従え、と言うのが兵隊教育だった。
昭和16年1月に陸軍大臣東条英機の名で軍内に受達した「戦陣訓」が有る。
昭和の軍隊の基本的な精神になっている。
捕虜にならない、玉砕 戦う以外になかったといわれる。
「戦陣訓」
序 本訓その1 本訓その2 本訓その3(二つに分かれていて、①戦陣の戒めが9条、②戦陣のたしなみ9条) むすび
日中戦争が始まってしまっていて、一生懸命戦わないとか、モラルの低下があり、兵隊教育を根本から立て直すという事で東条陸将時代に作られたと思う。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」 最も有名な一節。。
捕虜になってはいけない、死ぬまで戦え、一生懸命戦わなければ、家族、出身地の共同体が咎を受けるので、兵士たちにすれば自分だけではなく、家族、郷土の栄誉も傷つけるという事が有って捕虜に成れないという事だと思います。
軍事に反する事は全部つぶされてゆく、ヒューマニズム、戦争に対する大義的な意見等は全部つぶされる。
国家全体が総力戦で戦っているので兵士たちに要求されるものは、とりもなおさず国民全部に要求されるものであると言う風に形が段々変わってくる。(国民の心も縛る)
東条英機に対して不快感を持っている軍人もおり、石原莞爾は兵隊に対して読む必要が無いと言っていた。
戦陣訓の文章は最後に島崎藤村が直したといわれている。
軍は一般の招集兵と職業軍人に大きく分かれる。
職業軍人は13歳で幼年学校、18歳で士官学校、原隊に戻って将校の訓練を受けて、30歳前後にうける権利があって、海軍兵学校、陸軍兵学校等を出た人達。
連隊は郷土出身者で作られる。(郷土連隊同士を競わせる)
アメリカの軍隊はある時間内は階級を守るが、それ以外はかなり個人と個人が会話するが、日本の軍隊は24時間階級の差がずーっと続く。
日本は100%個人の自由が無い。
日本では精神力で戦え、と言う様なことが有るので精神力至上主義になってゆく。
昭和10年代の日本の軍人は精神力を説く人が偉くなっていった。
東条英機は宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系の家に生まれた。
父親は明治維新にかかわって、南部から東京に出てきて、陸軍教導団(下士官の養成所)に入って西南戦争に参加活躍する。
父親は陸軍大学第一期生で成績は一番で卒業する事になる。
父親は出世が遅れ、大将になれなかったことを、東条英機は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。
従って東条英機も長州閥を嫌っていた。
東条は精神論を繰り返し繰り返し偉くなるたびに言う。
「戦争というものは負けたと思った時が負けだ」という、「そうではなく負けたと思った時は負けるので、常に精神力では常に優位にいる、勝つという気持ちでいないと駄目だ」、というが、これは矛盾したことである。
国家の責任者が戦争の時に、もっと客観的にものを言わなくてはいけないのではないか。
サイパンが落ちた時(昭和19年7月)、その後結局、東条は失脚するが「なーにこれぐらいの事、大したことはない、泥水がちょっとひっかけられたようなものだ」と、強気のことを言っていた。
昭和19年7月サイパン島の陥落、3万人が玉砕、民間人が2万5000人いる中で1万人が死亡する。
戦陣訓が現実化した。
サイパン陥落は日本本土への爆撃が日常的になる起点と成る。
戦陣訓は死を強要する、戦陣訓が持っている死生観は日本の文化、伝統に反すると思います。
兵士たちの生命を国家が預かったわけなので、それに対して国家は責任をもたないといけないが、責任感が希薄で自由に扱っていいんだと、言う形で戦争を考えたのではないかと思う。
兵士たちの姿
昭和史を語り継ごうと思うと、戦争が中心になり、軍事を勉強しないといけないと思って、軍事とはどういうものか、素人の眼から見て判り易く解説して行こうと思って研究してきた。
一般の人は一番下が二等兵、戦いの現場に立たされて苦労する。
大将は陸軍大学校をでたエリートが、軍の中で出世して行って辿り着くポスト、50代後半、60代で自分たちが戦争を指揮をする。
兵役の召集が来て一日目はお客様扱いだが、2日目からはガラッと変わって厳しい制裁、命令、軍隊内部の暴力を含めて、軍そのもののなかの一番下の階層に置かれる。
自分と言うものを全く出せなくなってしまう、それが兵隊教育でもあった。
考えずに、命令に従え、と言うのが兵隊教育だった。
昭和16年1月に陸軍大臣東条英機の名で軍内に受達した「戦陣訓」が有る。
昭和の軍隊の基本的な精神になっている。
捕虜にならない、玉砕 戦う以外になかったといわれる。
「戦陣訓」
序 本訓その1 本訓その2 本訓その3(二つに分かれていて、①戦陣の戒めが9条、②戦陣のたしなみ9条) むすび
日中戦争が始まってしまっていて、一生懸命戦わないとか、モラルの低下があり、兵隊教育を根本から立て直すという事で東条陸将時代に作られたと思う。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」 最も有名な一節。。
捕虜になってはいけない、死ぬまで戦え、一生懸命戦わなければ、家族、出身地の共同体が咎を受けるので、兵士たちにすれば自分だけではなく、家族、郷土の栄誉も傷つけるという事が有って捕虜に成れないという事だと思います。
軍事に反する事は全部つぶされてゆく、ヒューマニズム、戦争に対する大義的な意見等は全部つぶされる。
国家全体が総力戦で戦っているので兵士たちに要求されるものは、とりもなおさず国民全部に要求されるものであると言う風に形が段々変わってくる。(国民の心も縛る)
東条英機に対して不快感を持っている軍人もおり、石原莞爾は兵隊に対して読む必要が無いと言っていた。
戦陣訓の文章は最後に島崎藤村が直したといわれている。
軍は一般の招集兵と職業軍人に大きく分かれる。
職業軍人は13歳で幼年学校、18歳で士官学校、原隊に戻って将校の訓練を受けて、30歳前後にうける権利があって、海軍兵学校、陸軍兵学校等を出た人達。
連隊は郷土出身者で作られる。(郷土連隊同士を競わせる)
アメリカの軍隊はある時間内は階級を守るが、それ以外はかなり個人と個人が会話するが、日本の軍隊は24時間階級の差がずーっと続く。
日本は100%個人の自由が無い。
日本では精神力で戦え、と言う様なことが有るので精神力至上主義になってゆく。
昭和10年代の日本の軍人は精神力を説く人が偉くなっていった。
東条英機は宝生流ワキ方の能楽師として盛岡藩に仕えた家系の家に生まれた。
父親は明治維新にかかわって、南部から東京に出てきて、陸軍教導団(下士官の養成所)に入って西南戦争に参加活躍する。
父親は陸軍大学第一期生で成績は一番で卒業する事になる。
父親は出世が遅れ、大将になれなかったことを、東条英機は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。
従って東条英機も長州閥を嫌っていた。
東条は精神論を繰り返し繰り返し偉くなるたびに言う。
「戦争というものは負けたと思った時が負けだ」という、「そうではなく負けたと思った時は負けるので、常に精神力では常に優位にいる、勝つという気持ちでいないと駄目だ」、というが、これは矛盾したことである。
国家の責任者が戦争の時に、もっと客観的にものを言わなくてはいけないのではないか。
サイパンが落ちた時(昭和19年7月)、その後結局、東条は失脚するが「なーにこれぐらいの事、大したことはない、泥水がちょっとひっかけられたようなものだ」と、強気のことを言っていた。
昭和19年7月サイパン島の陥落、3万人が玉砕、民間人が2万5000人いる中で1万人が死亡する。
戦陣訓が現実化した。
サイパン陥落は日本本土への爆撃が日常的になる起点と成る。
戦陣訓は死を強要する、戦陣訓が持っている死生観は日本の文化、伝統に反すると思います。
兵士たちの生命を国家が預かったわけなので、それに対して国家は責任をもたないといけないが、責任感が希薄で自由に扱っていいんだと、言う形で戦争を考えたのではないかと思う。
2015年6月6日土曜日
上野 誠(奈良大学教授) ・”聖典”として読む万葉集
上野 誠(奈良大学教授) ・”聖典”として読む万葉集
万葉集の研究に30年以上に渡って取り組んでいる 奈良大学教授上野さん、54歳のお話です。
万葉集は今から1300年ほど前の奈良時代に編纂された歌集です。
天皇や貴族、宮中の役人だけでなく広く一般の人々にも詠まれた歌、4500首余りが20卷に納められています。
上野さんの研究の特徴は歌に詠まれた場所に必ず赴いて、現地の様子を細かく観察する事です。
授業でも学生達を現地に連れ出します。
独自の研究方法で、万葉集と取り組んできた上野さんが最近思う様になったことは、万葉集は仏典や聖書と並ぶ聖典ではないかと言う事です。
万葉集を読むことで心の奥の何かが、引き出され歴史の中に生きている自分を認識させてくれると言うのです。万葉集の真髄について伺います。
自分が面白いと思わないと、古典研究でもそうですが、未熟なのではないかと思う。
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」
(倭は国の良いところである。 青垣山がかさなっている、倭は良いところである。)
盆地で住んでいるところ、周りは青い垣根の様なところ。
東は春日山、龍王山の峯、三輪山、西は生駒山、平群、二上山、葛城山があり守られているような感覚、その場所に立って思った時に初めて理解に行きついたと思う。
その場所に行って感ずると言う様な学習と言うところまで行きついた時に初めて楽しいと思う。
実感するレベルまで行きつかせると言うか、そういうところまで行かないと嘘ではないかと、私の古典感、研究感です。
聖典と言ってしまうと堅苦しくなるが、万葉集と言うのは生活カタログ、思い出アルバムかもしれない。
その時に思った事を撮ったと言う事で考えればスナップ写真と言えるかもしれない。
そのものを読むことによって、自分自身の持っている感覚、心の奥に在る感覚を再び意識する事が出来る。
恋、高い理想等、それを読むことによって自分自身の心に在る何かが引き出されてくるという、むしろ聖典とはそういうものだと勝手に思っている。
仏教経典を読めば釈迦の言動はいったいどうしてこういう事をしたんだろうと、そういう風になりたいと思う瞬間が生まれてくると思う。
こういう風になりたい、こういう恋をしたい、こういう様な生き方をしたいと言う瞬間があるが、万葉集が聖典になった瞬間だと思う。
母親は「ほととぎす」の同人、親戚の多くも俳句、文学に携わっていると言う環境で育ちました。
中学校時代から歴史学者か考古学になりたいと思って、中学2年の時に、考古学者の先生のところに訪ねて行ったが、あんまり勉強しすぎたら賢く成り過ぎて、お金にならない学問をしたくなくなるからあまり勉強しないのがコツだと言われた。
それを真面目に守った結果、大学から通知が来て、駄目だった。
一番歴史学や考古学の連携が進んだ文学が万葉集研究で、研究だけで1000年の歴史がある。
3大古典学が有るとすれば仏教の古典学、聖書の古典研究、もう一つ上げろと言われれば万葉集の研究で、歌の方でもいいかと思った。
遣新羅使の旅程は、続日本紀に書いてあるが、万葉集には その人の恋人や奥さんが送るときの歌が有る。
「君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ」
(貴方が行く海辺の宿にもし霧が立ったならば、わたしがこの平城京でたち嘆いてる息だと思って私の事を思い出してください)
歌に接した時に、生きて帰るかどうか判らない旅人を送る言葉だと思った時に、歴史資料と言うものの中に心を感ずる。
こっちの方がより人間に近いぞと思った瞬間が有って、勉強に対してより前向きになった。
明日香の河原の集落を歩いていたら、神社を囲んだ塀が有るが、一本の木が生えていて木にお賽銭をあげている人がいた。
ここは昔お社が有ったが火事で燃えてしまって、再建しようと寄付を集めたりしていたが、榊の木が生えてきて、そのままかこいだけ残して、そこを拝むように変えたと言う。
「泣沢(なきさわ)の 神社(もり)にて神酒(みわ)据え 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」
泣沢の神社にお酒をお供えする 祈る
泣沢の神社(もり)は、泉の神様で当時はこんこんと湧水がわき出て、生命の象徴。
神社は森が有って泉が有ってこんこんと水がわき出ている。
親族が事切れた、事切れるかもしれない時に泉に対して生命の復活を祈る。
我が大君の復活はありえなかった、死をとどめることはできなかったという風に歌っている。
泉に手を合わせることが有った。 泉の信仰、もりの信仰
その場所に神が宿ると言う、主体的で有って、自分自身が見つけてゆく小さな神。
多神教 沢山神がいる事ではなく、とめどもなく神が生まれることだと思う。
その時には泉が神だった。
説明できないものを表現するのが歌、論理を越えたものを感覚で伝える。
香具山
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」
(俺は昔の事はよくわからない そんな俺でも この場所は懐かしい感覚が有って大切な場所であると言う事が判る)
ドイツを旅していて、素晴らしい大聖堂がある町に列車が止まって、途中下車 「コーレン」駅と読めた。
歴史的に凄い場所だと思って大感激をして帰ってきた。
或る人に「コーレン」という町が有って、素晴らしいところだと行った。
綴りを書いてほしいといわれて書いたら、それは「ケルン」だった、ケルン大聖堂だった。
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」が頭にひらめいた。
絵でも仏像も同様で、有名な絵、重要文化財、国宝だから尊いのか、指定が受けてない物の価値の見る人の眼を曇らしてしまう事が有ると思う。
原文で書かれているものをどういう風に正しく訳せるか、言葉を正しく置き換える、しかし正しく心を置き換えると言う事になれば、単に正しく訳せば済むか。
「こいのやっこのつかみかかりて」
恋の奴めが掴みかかってくる と訳すが 感覚で言うと「つかみかかってきやあがる」です。
「どこのどいつの恋心が俺の心につかみかかってきやがったんだ」と私は訳す。
古典学者と言えども、今に無関心であるという事は、古典を学ぶ本当の意味がわかっていないと思う。
最終的に解釈するのは自分、最終的に感ずるのは自分で有り、そのために自分はどういう風にしたらいいのか、常に思って常に自分を磨いていかないとだめだと思う。
60代になれば全訳注を作って完成させたい。
社会と作家と作品とをどういう回路で結ばれているか、生活実感が無いところに文学の感動も無い
と言うのが私の立場です。
古代の役人の生活が判らないと、役人の文学は判らない、古代の旅の仕方が判らないと旅の文学は判らない、古代の結婚の在り方が判らないと古代の結婚の歌は判らない。
幸い木簡発掘の事例が増え続けていて、それを最大限に取り入れて、見える様に研究していくというのはわたし自身が目指しているところです。
私の実家の家が取り壊されることになってしまったが、
「采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」
明日香から藤原に都が移った時に、どういう風な感慨を持ったか?
(昔この場所に采女という女官たちがいて、風が吹いたら袖が舞いがっていた。
都が藤原に移ってしまったので遠くなったので,いまでは風だけが無駄に吹きすぎている。)
過去へのいとおしみの気持ち。
自分の心の中に在る一つの感情が、万葉集の歌によって形作られるという事が有る。
万葉集の研究に30年以上に渡って取り組んでいる 奈良大学教授上野さん、54歳のお話です。
万葉集は今から1300年ほど前の奈良時代に編纂された歌集です。
天皇や貴族、宮中の役人だけでなく広く一般の人々にも詠まれた歌、4500首余りが20卷に納められています。
上野さんの研究の特徴は歌に詠まれた場所に必ず赴いて、現地の様子を細かく観察する事です。
授業でも学生達を現地に連れ出します。
独自の研究方法で、万葉集と取り組んできた上野さんが最近思う様になったことは、万葉集は仏典や聖書と並ぶ聖典ではないかと言う事です。
万葉集を読むことで心の奥の何かが、引き出され歴史の中に生きている自分を認識させてくれると言うのです。万葉集の真髄について伺います。
自分が面白いと思わないと、古典研究でもそうですが、未熟なのではないかと思う。
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし」
(倭は国の良いところである。 青垣山がかさなっている、倭は良いところである。)
盆地で住んでいるところ、周りは青い垣根の様なところ。
東は春日山、龍王山の峯、三輪山、西は生駒山、平群、二上山、葛城山があり守られているような感覚、その場所に立って思った時に初めて理解に行きついたと思う。
その場所に行って感ずると言う様な学習と言うところまで行きついた時に初めて楽しいと思う。
実感するレベルまで行きつかせると言うか、そういうところまで行かないと嘘ではないかと、私の古典感、研究感です。
聖典と言ってしまうと堅苦しくなるが、万葉集と言うのは生活カタログ、思い出アルバムかもしれない。
その時に思った事を撮ったと言う事で考えればスナップ写真と言えるかもしれない。
そのものを読むことによって、自分自身の持っている感覚、心の奥に在る感覚を再び意識する事が出来る。
恋、高い理想等、それを読むことによって自分自身の心に在る何かが引き出されてくるという、むしろ聖典とはそういうものだと勝手に思っている。
仏教経典を読めば釈迦の言動はいったいどうしてこういう事をしたんだろうと、そういう風になりたいと思う瞬間が生まれてくると思う。
こういう風になりたい、こういう恋をしたい、こういう様な生き方をしたいと言う瞬間があるが、万葉集が聖典になった瞬間だと思う。
母親は「ほととぎす」の同人、親戚の多くも俳句、文学に携わっていると言う環境で育ちました。
中学校時代から歴史学者か考古学になりたいと思って、中学2年の時に、考古学者の先生のところに訪ねて行ったが、あんまり勉強しすぎたら賢く成り過ぎて、お金にならない学問をしたくなくなるからあまり勉強しないのがコツだと言われた。
それを真面目に守った結果、大学から通知が来て、駄目だった。
一番歴史学や考古学の連携が進んだ文学が万葉集研究で、研究だけで1000年の歴史がある。
3大古典学が有るとすれば仏教の古典学、聖書の古典研究、もう一つ上げろと言われれば万葉集の研究で、歌の方でもいいかと思った。
遣新羅使の旅程は、続日本紀に書いてあるが、万葉集には その人の恋人や奥さんが送るときの歌が有る。
「君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ」
(貴方が行く海辺の宿にもし霧が立ったならば、わたしがこの平城京でたち嘆いてる息だと思って私の事を思い出してください)
歌に接した時に、生きて帰るかどうか判らない旅人を送る言葉だと思った時に、歴史資料と言うものの中に心を感ずる。
こっちの方がより人間に近いぞと思った瞬間が有って、勉強に対してより前向きになった。
明日香の河原の集落を歩いていたら、神社を囲んだ塀が有るが、一本の木が生えていて木にお賽銭をあげている人がいた。
ここは昔お社が有ったが火事で燃えてしまって、再建しようと寄付を集めたりしていたが、榊の木が生えてきて、そのままかこいだけ残して、そこを拝むように変えたと言う。
「泣沢(なきさわ)の 神社(もり)にて神酒(みわ)据え 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」
泣沢の神社にお酒をお供えする 祈る
泣沢の神社(もり)は、泉の神様で当時はこんこんと湧水がわき出て、生命の象徴。
神社は森が有って泉が有ってこんこんと水がわき出ている。
親族が事切れた、事切れるかもしれない時に泉に対して生命の復活を祈る。
我が大君の復活はありえなかった、死をとどめることはできなかったという風に歌っている。
泉に手を合わせることが有った。 泉の信仰、もりの信仰
その場所に神が宿ると言う、主体的で有って、自分自身が見つけてゆく小さな神。
多神教 沢山神がいる事ではなく、とめどもなく神が生まれることだと思う。
その時には泉が神だった。
説明できないものを表現するのが歌、論理を越えたものを感覚で伝える。
香具山
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」
(俺は昔の事はよくわからない そんな俺でも この場所は懐かしい感覚が有って大切な場所であると言う事が判る)
ドイツを旅していて、素晴らしい大聖堂がある町に列車が止まって、途中下車 「コーレン」駅と読めた。
歴史的に凄い場所だと思って大感激をして帰ってきた。
或る人に「コーレン」という町が有って、素晴らしいところだと行った。
綴りを書いてほしいといわれて書いたら、それは「ケルン」だった、ケルン大聖堂だった。
「いにしえの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」が頭にひらめいた。
絵でも仏像も同様で、有名な絵、重要文化財、国宝だから尊いのか、指定が受けてない物の価値の見る人の眼を曇らしてしまう事が有ると思う。
原文で書かれているものをどういう風に正しく訳せるか、言葉を正しく置き換える、しかし正しく心を置き換えると言う事になれば、単に正しく訳せば済むか。
「こいのやっこのつかみかかりて」
恋の奴めが掴みかかってくる と訳すが 感覚で言うと「つかみかかってきやあがる」です。
「どこのどいつの恋心が俺の心につかみかかってきやがったんだ」と私は訳す。
古典学者と言えども、今に無関心であるという事は、古典を学ぶ本当の意味がわかっていないと思う。
最終的に解釈するのは自分、最終的に感ずるのは自分で有り、そのために自分はどういう風にしたらいいのか、常に思って常に自分を磨いていかないとだめだと思う。
60代になれば全訳注を作って完成させたい。
社会と作家と作品とをどういう回路で結ばれているか、生活実感が無いところに文学の感動も無い
と言うのが私の立場です。
古代の役人の生活が判らないと、役人の文学は判らない、古代の旅の仕方が判らないと旅の文学は判らない、古代の結婚の在り方が判らないと古代の結婚の歌は判らない。
幸い木簡発掘の事例が増え続けていて、それを最大限に取り入れて、見える様に研究していくというのはわたし自身が目指しているところです。
私の実家の家が取り壊されることになってしまったが、
「采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く」
明日香から藤原に都が移った時に、どういう風な感慨を持ったか?
(昔この場所に采女という女官たちがいて、風が吹いたら袖が舞いがっていた。
都が藤原に移ってしまったので遠くなったので,いまでは風だけが無駄に吹きすぎている。)
過去へのいとおしみの気持ち。
自分の心の中に在る一つの感情が、万葉集の歌によって形作られるという事が有る。
2015年6月5日金曜日
増永迪男(福井山岳会・会長) ・ふるさと「福井」の山を歩き尽くす
増永迪男(福井山岳会・会長、山岳エッセイスト) ・ふるさと「福井」の山を歩き尽くす
81歳、13歳の時に白山の自然の美しさに感動して以来、山の魅力に取り憑かれ、広島大学に進学後は、山岳部で活躍しました。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
その後国内、特に福井の山々を歩いています。
もう一つの顔が山岳エッセイスト、福井の野鳥、野の花などを幅広く観察し、地元紙聞等で執筆して本も出版されています。
平成12年には福井県文化賞を受賞されました。
NHKラジオでは永年に渡り、故郷福井の自然の魅力や話題を電話リポートで伝えています。
福井市の南の生まれ。 裏山(八幡山)が有り保育園行く前に、一人で遊んでいた記憶があり、藪の中を平気で歩き回った。
代々続く造り酒屋 北陸道に面していて少し作っていた。
小学校3年の時、先生が1/5万の地図を遠足の前に、地図の見方、等高線など教えてくれた。
中学2年の時に白山に行ったのが最初だった。(昭和22年)
当時5日間かけて往復し、植物採集をした。
白山は数え切れないほど登ったが、其時の感動が一番だった。
中学3年生で福井地震が有り、私の家も酒蔵も潰れて、酒が200石あまり流れた。(その年は山登りは出来なかった)
高校では山岳部に入って、それからずーっと山ばっかりだった。
高校3年では受験の年だったが、1年間で65日山登りしていた。
広島大学の工学部に進む。
国立大学で醸造学科があるのが、大阪大学と広島大学(山岳部が有る事を確認)だけだった。
大学では基礎体力が違っていて吃驚した。
夏山合宿で当時2週間行くが、主食は米で、米を一食2合一日6合食べたので、1斗5升ぐらい米だけで担いで、そのほかにテント、ザイル、登山用品等を担ぐので30kg、40kg担いで行った。
OBはいまでも交流が有る。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
第3次中東戦争が起きて、イスラム諸国が緊張状態になり、ネパール、西パキスタン等が海外登山隊をシャットアウトした。
アフガニスタンに着目して、6024mの未登鋒があることが判り、行く事に決定する。
登山隊を受け入れる習慣、状況のない国だったので、山に行くまでが大変だった。
シェルパーもいなかった。
福井県の山をどの程度知っているかなあと思った時に、何にも知らなかった事に気付いた。
福井の地方版に毎週一回山の事を書いてほしいとの要望が有り、山に対する自分の気持ち、山を紹介しながら、山の歴史などをテーマに書き続けることになる。
福井には1000mを越える山が110ぐらいあり、藪が多い。
幼少時代の藪に対する懐かしさがあり、34山が登山道をつかった山で、それ以外の120ぐらいは登山道を使わない山で、登って「福井の山 150」と言う本を出版する。
一人で歩いていて登山道が無くても、赤い糸が連なっている様な感じで、安心感はある。
根本的に卑怯な人間だと思っていて、本当に危険なことはしていないと思う。
岩登り、雪渓、クレバスで落ちたりするが、決定的な危ないことはしていないと思う。
高校1年生の冬、3年生2人、リーダーだった社会人の歯医者さん1人、取立山のスキーツアーで3人が亡くなってしまった。
山で13人亡くなってしまいました。
妻も山をやっていましたが結婚後、子供が3人いましたが、昭和49年妻が八ヶ岳に一人で行って、八ヶ岳で亡くなりました。
残雪で道をはずして、谷の方に回っていって大きな滝で落ちて、下の雪渓で亡くなった。
妻の遭難の2年後、広島大学の山岳部の後輩が3月に針ノ木岳の大雪渓のところで雪崩を起こして、一行6人中4人が亡くなった。
捜索の指揮を取ることになり、鉄の棒を刺して探していくが、最初の一人は直ぐ発見できたが、残りの3人は40人体制で1日掛かって掘りだしました。
その後はちょっと変わった、厳しい条件が現れたときには、山に負けまいぞと言う気持ちが表れてきた。
4人の追悼登山を父兄とともに30年間行った。
その内の一人は、息子さんが亡くなってから登山を始め、親しくなった。
「山に行くと息子と話をしている様な気持になるんですよ。」とおっしゃって、この言葉は忘れられない。(一人で行くと、そういう気持ちは分かります)
月に2回のペースで行っています。
心筋梗塞になってから、妻(現在の妻)から厳しい指導が有り、一人ではだめと、誰と行くか申告してから行くようにしている。
感動は、冬は感動します。
吹雪いているが雲が抜けると、すぱーっと見える瞬間があるが、その時は本当に吃驚します。
4月末 若狭の山は鹿が一杯いて。下草を全部食べてしまって、大きな木だけが残っていて、一斉に芽吹いて、それが綺麗で、突然山の木が示し合せたように新緑になり、感激しました。
夏は沢登りに行く、進歩して沢用の靴が有り、恐かったところが怖く無くなり、沢登りが進歩しました。
沢登りは観察しながら登らないといけない、最初の人をよく観察して、どういう風に登っていくかをしっかりと見る。
秋はキノコ採りに夢中になっています。
木くい虫が楢の木を枯らしてしまって、その楢の木に必ずと言っていいほどなめこが生えるので、チームを組んでいきます。
楽しさの根本は、知らないところに行くと言うのが一番、一歩ごとが発見、一歩ごとに出会いなので楽しい。
山の経験は非日常的な経験で、鮮明には残っているが、記憶は一こま一こまなのでそれを大事にしている。
最初はガイドブックに従って山登りをして、段々その方でしか味わえない感動が有るはずで、そういう感動に合いそうな山を続けていくと、より深くなり、自分に向いた山が発見できて、楽しめると思う。
81歳、13歳の時に白山の自然の美しさに感動して以来、山の魅力に取り憑かれ、広島大学に進学後は、山岳部で活躍しました。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
その後国内、特に福井の山々を歩いています。
もう一つの顔が山岳エッセイスト、福井の野鳥、野の花などを幅広く観察し、地元紙聞等で執筆して本も出版されています。
平成12年には福井県文化賞を受賞されました。
NHKラジオでは永年に渡り、故郷福井の自然の魅力や話題を電話リポートで伝えています。
福井市の南の生まれ。 裏山(八幡山)が有り保育園行く前に、一人で遊んでいた記憶があり、藪の中を平気で歩き回った。
代々続く造り酒屋 北陸道に面していて少し作っていた。
小学校3年の時、先生が1/5万の地図を遠足の前に、地図の見方、等高線など教えてくれた。
中学2年の時に白山に行ったのが最初だった。(昭和22年)
当時5日間かけて往復し、植物採集をした。
白山は数え切れないほど登ったが、其時の感動が一番だった。
中学3年生で福井地震が有り、私の家も酒蔵も潰れて、酒が200石あまり流れた。(その年は山登りは出来なかった)
高校では山岳部に入って、それからずーっと山ばっかりだった。
高校3年では受験の年だったが、1年間で65日山登りしていた。
広島大学の工学部に進む。
国立大学で醸造学科があるのが、大阪大学と広島大学(山岳部が有る事を確認)だけだった。
大学では基礎体力が違っていて吃驚した。
夏山合宿で当時2週間行くが、主食は米で、米を一食2合一日6合食べたので、1斗5升ぐらい米だけで担いで、そのほかにテント、ザイル、登山用品等を担ぐので30kg、40kg担いで行った。
OBはいまでも交流が有る。
34歳でアフガニスタンの標高6000mを越えるヤジュンに登りました。
第3次中東戦争が起きて、イスラム諸国が緊張状態になり、ネパール、西パキスタン等が海外登山隊をシャットアウトした。
アフガニスタンに着目して、6024mの未登鋒があることが判り、行く事に決定する。
登山隊を受け入れる習慣、状況のない国だったので、山に行くまでが大変だった。
シェルパーもいなかった。
福井県の山をどの程度知っているかなあと思った時に、何にも知らなかった事に気付いた。
福井の地方版に毎週一回山の事を書いてほしいとの要望が有り、山に対する自分の気持ち、山を紹介しながら、山の歴史などをテーマに書き続けることになる。
福井には1000mを越える山が110ぐらいあり、藪が多い。
幼少時代の藪に対する懐かしさがあり、34山が登山道をつかった山で、それ以外の120ぐらいは登山道を使わない山で、登って「福井の山 150」と言う本を出版する。
一人で歩いていて登山道が無くても、赤い糸が連なっている様な感じで、安心感はある。
根本的に卑怯な人間だと思っていて、本当に危険なことはしていないと思う。
岩登り、雪渓、クレバスで落ちたりするが、決定的な危ないことはしていないと思う。
高校1年生の冬、3年生2人、リーダーだった社会人の歯医者さん1人、取立山のスキーツアーで3人が亡くなってしまった。
山で13人亡くなってしまいました。
妻も山をやっていましたが結婚後、子供が3人いましたが、昭和49年妻が八ヶ岳に一人で行って、八ヶ岳で亡くなりました。
残雪で道をはずして、谷の方に回っていって大きな滝で落ちて、下の雪渓で亡くなった。
妻の遭難の2年後、広島大学の山岳部の後輩が3月に針ノ木岳の大雪渓のところで雪崩を起こして、一行6人中4人が亡くなった。
捜索の指揮を取ることになり、鉄の棒を刺して探していくが、最初の一人は直ぐ発見できたが、残りの3人は40人体制で1日掛かって掘りだしました。
その後はちょっと変わった、厳しい条件が現れたときには、山に負けまいぞと言う気持ちが表れてきた。
4人の追悼登山を父兄とともに30年間行った。
その内の一人は、息子さんが亡くなってから登山を始め、親しくなった。
「山に行くと息子と話をしている様な気持になるんですよ。」とおっしゃって、この言葉は忘れられない。(一人で行くと、そういう気持ちは分かります)
月に2回のペースで行っています。
心筋梗塞になってから、妻(現在の妻)から厳しい指導が有り、一人ではだめと、誰と行くか申告してから行くようにしている。
感動は、冬は感動します。
吹雪いているが雲が抜けると、すぱーっと見える瞬間があるが、その時は本当に吃驚します。
4月末 若狭の山は鹿が一杯いて。下草を全部食べてしまって、大きな木だけが残っていて、一斉に芽吹いて、それが綺麗で、突然山の木が示し合せたように新緑になり、感激しました。
夏は沢登りに行く、進歩して沢用の靴が有り、恐かったところが怖く無くなり、沢登りが進歩しました。
沢登りは観察しながら登らないといけない、最初の人をよく観察して、どういう風に登っていくかをしっかりと見る。
秋はキノコ採りに夢中になっています。
木くい虫が楢の木を枯らしてしまって、その楢の木に必ずと言っていいほどなめこが生えるので、チームを組んでいきます。
楽しさの根本は、知らないところに行くと言うのが一番、一歩ごとが発見、一歩ごとに出会いなので楽しい。
山の経験は非日常的な経験で、鮮明には残っているが、記憶は一こま一こまなのでそれを大事にしている。
最初はガイドブックに従って山登りをして、段々その方でしか味わえない感動が有るはずで、そういう感動に合いそうな山を続けていくと、より深くなり、自分に向いた山が発見できて、楽しめると思う。
2015年6月4日木曜日
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2)
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(2)
作家の田畑麦彦さんと結婚、娘も生まれ作家としてこれからと言う時に、田畑さんが興した会社が倒産して膨大な借金を背負う事になります。
夫はこれ以上迷惑をかけないために、形だけと言い、佐藤さんと離婚、しかし別の女性と再婚したことが判ります。
佐藤さんは元夫の借金を背負い、一人で娘を育て生きていきます。
生きるためにひたすら続けた40歳代から伺います。
借金返済は?
戦場の様なものですから、辛い思いをしたのは娘だったとしみじみ思います。
倒産したのは娘が小学校2年でした。
辛い時戦争当時の歌を歌った、私の応援歌みたいなもの、愚痴みたいなもの。
「どこまで続く、ぬかるみぞ・・・・」
娘も修羅場に巻き込まれたわけで、生きてゆく上での強さになってくれればと、それだけを祈るような思いだけです。
苦労話をして泣いたりする人は割にいるが、それと対極のところにいるわけです、何でもおかしくしてしまう、生きるための佐藤家の知恵だと思います。
或るとき夫にバケツの水をぶっかけて、掴みかかってくるだろうと思って階段を上って行って「恥しらず」と叫んだら、「何だよう靴の中に水が入ってしまって脱げないじゃないか」と下で言っているが、それはおかしいでしょう、悲劇を喜劇に変えてゆく、佐藤家の血ですね。
3/4は父の激情、1/4は母の理性を受け継いでいるのではないかと思う。
母は評論家タイプだった、アメリカとの戦争を始めた時に、父は日本は勝つに決まっていると言っていたが、母は顔をしかめて、負けるにきまっていると、地図を見れば判ると(国土の大きさの差、国力)、戦争をして勝てる訳が無いと言っていた。
何とか小説を書けてこれたのは、父と母のお陰だったと、今は思える様になりました。
小説を書く上に必要な感性は父から貰ったと思います。
「晩鐘」の中に出てきますが、辰彦の2人の友達が家を抵当に入れさせてくれて、そして倒産して、其人の家は取られてしまうが、何とかして救わなければいけないと、これは父から受けた考え方だと思います。
無謀なことで、1000万~2000万円の肩代わりの借金をしょっていて、その上に金貸しのところに行って、1500万円借りてきて、その二人を助けなくてはいけない、直木賞を貰う前で返せることが出来るわけないが行動した、これは父の影響です。
二人の家庭には子供がいて、そうせずにはいられないと言う衝動だけです、理屈ではない。
この私の性格には、母は恐ろしくて一緒にいられないと言う事でした。
父はすべて激情、恋も怒りも、人を助けるときにも、後先を考えずに行動する。(私の中にもある)
そのことを書いて直木賞を貰えたわけで、だから借金を返せるようになったわけで、我ながらぞーっとします。
文壇付き合いはしていない、出来ない。
特殊な価値観の持ち主だと思う、相手がそれを判ってくれれば深く付き合えるが、判らないだろうなあと言う気持ちがいつもあるので、一人でいる方が楽だと言う方に成ってしまう。
私はこう生きると言う事は言えるが、こうしなさいとは言えない。
孤独な老人は核家族になって、増えてきたと思う。
大家族のマイナスがあったので、それを無くそうと言う事だと思うが、物事は一つよければ一つ悪いことが必ず伴うので、どっちの悪さを選ぶことだと思う。
かつて介護は身内の問題だったが、核家族になって社会の問題になっている。
歳を取ってすることが有ると言う人は幸せだと思います。
いなかの生活は年寄りでもすることがいろいろあり元気だが、都会の生活はすることが無い、だから孤独と向き合う、まぎれるものが無い。
大家族の時には年寄りの役割が有ったが、今は孤独の問題がある。
仕事が一段落して、のんびりしてくださいと言われるが、私はのんびりする事はどうする事か判らない人生を過ごしてきたので、どうする事か教えてもらわないと判らない状態だった。
最近はすることが無くて、TVも見る気が無いし、段々鬱病の様になって来て、人間働く様に出来ているんだなと言う事がつくづく判ってきた。
定年退職した人は鬱病になったりするが、生活のリズムが無くなるから。
リズムを取り戻さないといけないと思っていたら、「晩鐘」の出版後のインタビュー等が一日おきにあるような生活が続いて危機を脱した。
のんびりは生きている実感が無い。
苦労から逃げないで、かく生きたと言う事だけです。
逃げないでいると力が付くんですね、逃げていると力がつかない。
倒産した時に、家は取られるし、同窓会があるが行く気がしなかった、どうしようかと思ったが、無理してでも行きなさいと通っていた整体の先生から言われて、行く事にした。
夫が倒産したと言うのによく来られるねと言われた。
(釧路地震情報)
作家の田畑麦彦さんと結婚、娘も生まれ作家としてこれからと言う時に、田畑さんが興した会社が倒産して膨大な借金を背負う事になります。
夫はこれ以上迷惑をかけないために、形だけと言い、佐藤さんと離婚、しかし別の女性と再婚したことが判ります。
佐藤さんは元夫の借金を背負い、一人で娘を育て生きていきます。
生きるためにひたすら続けた40歳代から伺います。
借金返済は?
戦場の様なものですから、辛い思いをしたのは娘だったとしみじみ思います。
倒産したのは娘が小学校2年でした。
辛い時戦争当時の歌を歌った、私の応援歌みたいなもの、愚痴みたいなもの。
「どこまで続く、ぬかるみぞ・・・・」
娘も修羅場に巻き込まれたわけで、生きてゆく上での強さになってくれればと、それだけを祈るような思いだけです。
苦労話をして泣いたりする人は割にいるが、それと対極のところにいるわけです、何でもおかしくしてしまう、生きるための佐藤家の知恵だと思います。
或るとき夫にバケツの水をぶっかけて、掴みかかってくるだろうと思って階段を上って行って「恥しらず」と叫んだら、「何だよう靴の中に水が入ってしまって脱げないじゃないか」と下で言っているが、それはおかしいでしょう、悲劇を喜劇に変えてゆく、佐藤家の血ですね。
3/4は父の激情、1/4は母の理性を受け継いでいるのではないかと思う。
母は評論家タイプだった、アメリカとの戦争を始めた時に、父は日本は勝つに決まっていると言っていたが、母は顔をしかめて、負けるにきまっていると、地図を見れば判ると(国土の大きさの差、国力)、戦争をして勝てる訳が無いと言っていた。
何とか小説を書けてこれたのは、父と母のお陰だったと、今は思える様になりました。
小説を書く上に必要な感性は父から貰ったと思います。
「晩鐘」の中に出てきますが、辰彦の2人の友達が家を抵当に入れさせてくれて、そして倒産して、其人の家は取られてしまうが、何とかして救わなければいけないと、これは父から受けた考え方だと思います。
無謀なことで、1000万~2000万円の肩代わりの借金をしょっていて、その上に金貸しのところに行って、1500万円借りてきて、その二人を助けなくてはいけない、直木賞を貰う前で返せることが出来るわけないが行動した、これは父の影響です。
二人の家庭には子供がいて、そうせずにはいられないと言う衝動だけです、理屈ではない。
この私の性格には、母は恐ろしくて一緒にいられないと言う事でした。
父はすべて激情、恋も怒りも、人を助けるときにも、後先を考えずに行動する。(私の中にもある)
そのことを書いて直木賞を貰えたわけで、だから借金を返せるようになったわけで、我ながらぞーっとします。
文壇付き合いはしていない、出来ない。
特殊な価値観の持ち主だと思う、相手がそれを判ってくれれば深く付き合えるが、判らないだろうなあと言う気持ちがいつもあるので、一人でいる方が楽だと言う方に成ってしまう。
私はこう生きると言う事は言えるが、こうしなさいとは言えない。
孤独な老人は核家族になって、増えてきたと思う。
大家族のマイナスがあったので、それを無くそうと言う事だと思うが、物事は一つよければ一つ悪いことが必ず伴うので、どっちの悪さを選ぶことだと思う。
かつて介護は身内の問題だったが、核家族になって社会の問題になっている。
歳を取ってすることが有ると言う人は幸せだと思います。
いなかの生活は年寄りでもすることがいろいろあり元気だが、都会の生活はすることが無い、だから孤独と向き合う、まぎれるものが無い。
大家族の時には年寄りの役割が有ったが、今は孤独の問題がある。
仕事が一段落して、のんびりしてくださいと言われるが、私はのんびりする事はどうする事か判らない人生を過ごしてきたので、どうする事か教えてもらわないと判らない状態だった。
最近はすることが無くて、TVも見る気が無いし、段々鬱病の様になって来て、人間働く様に出来ているんだなと言う事がつくづく判ってきた。
定年退職した人は鬱病になったりするが、生活のリズムが無くなるから。
リズムを取り戻さないといけないと思っていたら、「晩鐘」の出版後のインタビュー等が一日おきにあるような生活が続いて危機を脱した。
のんびりは生きている実感が無い。
苦労から逃げないで、かく生きたと言う事だけです。
逃げないでいると力が付くんですね、逃げていると力がつかない。
倒産した時に、家は取られるし、同窓会があるが行く気がしなかった、どうしようかと思ったが、無理してでも行きなさいと通っていた整体の先生から言われて、行く事にした。
夫が倒産したと言うのによく来られるねと言われた。
(釧路地震情報)
2015年6月3日水曜日
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(1)
佐藤愛子(作家) ・91歳 書き続け、たどり着いた人生の晩鐘(1)
昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、平成12年には12年間かけて取り組んだ3400枚もの長編小説「血脈」で菊池寛賞を受賞されています。
昨年12月「晩鐘」を出版、この作品は45年前受賞した「戦いすんで日が暮れて」に連なる、かつて夫だった一人の男の姿を追求した小説で、90歳を超えて書き上げた円熟の小説と評判を呼んでいます。
88歳から「晩鐘」を書きはじめる。
50歳の時に貴方は90歳まで生きられると言われたが、その時は実感が無かったが、88歳になっても人生の終りに来ているとの自覚は無かったが、突然そのことを思い出して、あと2年しか生きられないと、愕然とする思いが有った。
こうしてはいられないと思った、このままでは死ねないと思った。
かつて夫だった田畑麦彦さんとの出会いから別れまでを書いたのが「晩鐘」で、「戦いすんで日が暮れて」は始まりです。
夫をどう理解すればいいかという問題がずーっと有って、いろんな現象が次々に起きて、夫婦喧嘩が忙しくてじっくり彼について考えると言う暇が無かった。
別れてしまったあと、作家に成れたのは彼のおかげだったとの思いがずーっとあるんです。
私の人生は彼に依って半分は作られたと言う思いが有ります。
本もあまり読まないし、文学少女ではなかった。
結婚してうまく行かなくて、独りになって一人で生きていかなくてはいけなくなって、性格的に協調性が無くて、母が考えたが、何にも出来ることが無いと思っていた。
夫の事(夫はモルヒネ中毒だった)、姑等の事を手紙に書いて送っていたが、父(小説家の佐藤紅緑)はそれを読んで、愛子は嫁に行かせないで物書きにした方がいいのではないかと言っていた。
母からそのことを言われて、それから書く様になった。
女学校卒業の時に日米戦争が始まった。(軍国少女だった)
文章に対する感性は持って生まれた血の中に有ったのではないかと思う。
ちょっと誉める様な人もいて、「文藝首都」という同人雑誌に入る。
田畑麦彦氏も入っていた。
「ロマンの残党」と名前を付けたグループが出来てそこに入って、其仲間に対して感謝している、いろいろなことを学んだ、詰まらないことを書くとぼろくそに言われることが勉強になる。
すこしずつすこしずつ進んでいった訳で、長いこと下住みみたいな生活で非生産的な生活を送っていた。
田畑麦彦氏と共に花札をやって、田畑麦彦氏が帰ることになりバス停まで見送りするシーンが有るが、現実との断絶感覚が自然描写と共に描かれているが、この部分は苦労した。(繰り返し書きなおした)
母とけんかをして家を出たので自分で稼ぐしかなくなって、働きに病院に行って、その帰り築地のその頃は川がいっぱいあり、橋を渡って電車賃を倹約するために銀座の方に歩いてゆくが、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見て、一体いつまでこのように夕日を見るのだろうかと思ったが、河野多恵子さんも同じような思い出が有り、其れを書いているので思い出して胸が痛くなったと、よく話をしていた。
皆認められるまでは、そういう想いを抱えて暮らしているんですよ。
私は自分のために書いているんです、生きるために書いているんです。
段々判らないことの方が多くなって、歳を取って厄介なのは本当に正確に言おうと思うと言えなくなってしまう。
何を書いても結局は作家は己を語ると言う事に結果は成ってしまう。
「晩鐘」でも初めは田畑麦彦を書こうとしたんだけれども、結局は杉という女が如何に変な女かというのがよくかけていて、辰彦を書いているうちに杉というものが出てきて、己を語ると言う事になってくる。
人間という者には、悪い可能性、良い可能性も無尽蔵に秘めていて、そんなものは判りっこないと思う。
人間はいうにいえない自分でもわからないものを抱えて生きているのではないかと思う。
「晩鐘」は、かく生きたという事実だけをうけいれるだけでいいんだと言う結論で、それでいいのだと思います。
我々は現象だけを見て、憎んだりするが、憎しみ、怒り、非難とは別に何故こういう人間ができたんだろうと、彼(麻原彰晃)はそういう自分をどう思っているんだろうと、好奇心としか言いようがない。
私はあらゆる人に対してそう思います。
「晩鐘」 人間をもっと判りたい、あえて言うなら人間そのものへの愛情だと思います。
ホームレスの人を見ると何故かしら、お友達になりたいと思う。(どう歩んできたのか?)
駅のホームの反対側に見るからにホームレスと言う老人が立っていて、よれよれのマンガの本を読んでいて、突然大きな口をあけて、ワハッハッハッと一人でわらっていて、彼を笑わせたマンガはどういうマンガだろうと知りたいなあと思っちゃう、思うに任せぬ日々の中であそこまで笑える時間があったという事は胸が暖かくなるような思いがして、今でもその人のことが忘れられない。
昭和44年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を受賞、平成12年には12年間かけて取り組んだ3400枚もの長編小説「血脈」で菊池寛賞を受賞されています。
昨年12月「晩鐘」を出版、この作品は45年前受賞した「戦いすんで日が暮れて」に連なる、かつて夫だった一人の男の姿を追求した小説で、90歳を超えて書き上げた円熟の小説と評判を呼んでいます。
88歳から「晩鐘」を書きはじめる。
50歳の時に貴方は90歳まで生きられると言われたが、その時は実感が無かったが、88歳になっても人生の終りに来ているとの自覚は無かったが、突然そのことを思い出して、あと2年しか生きられないと、愕然とする思いが有った。
こうしてはいられないと思った、このままでは死ねないと思った。
かつて夫だった田畑麦彦さんとの出会いから別れまでを書いたのが「晩鐘」で、「戦いすんで日が暮れて」は始まりです。
夫をどう理解すればいいかという問題がずーっと有って、いろんな現象が次々に起きて、夫婦喧嘩が忙しくてじっくり彼について考えると言う暇が無かった。
別れてしまったあと、作家に成れたのは彼のおかげだったとの思いがずーっとあるんです。
私の人生は彼に依って半分は作られたと言う思いが有ります。
本もあまり読まないし、文学少女ではなかった。
結婚してうまく行かなくて、独りになって一人で生きていかなくてはいけなくなって、性格的に協調性が無くて、母が考えたが、何にも出来ることが無いと思っていた。
夫の事(夫はモルヒネ中毒だった)、姑等の事を手紙に書いて送っていたが、父(小説家の佐藤紅緑)はそれを読んで、愛子は嫁に行かせないで物書きにした方がいいのではないかと言っていた。
母からそのことを言われて、それから書く様になった。
女学校卒業の時に日米戦争が始まった。(軍国少女だった)
文章に対する感性は持って生まれた血の中に有ったのではないかと思う。
ちょっと誉める様な人もいて、「文藝首都」という同人雑誌に入る。
田畑麦彦氏も入っていた。
「ロマンの残党」と名前を付けたグループが出来てそこに入って、其仲間に対して感謝している、いろいろなことを学んだ、詰まらないことを書くとぼろくそに言われることが勉強になる。
すこしずつすこしずつ進んでいった訳で、長いこと下住みみたいな生活で非生産的な生活を送っていた。
田畑麦彦氏と共に花札をやって、田畑麦彦氏が帰ることになりバス停まで見送りするシーンが有るが、現実との断絶感覚が自然描写と共に描かれているが、この部分は苦労した。(繰り返し書きなおした)
母とけんかをして家を出たので自分で稼ぐしかなくなって、働きに病院に行って、その帰り築地のその頃は川がいっぱいあり、橋を渡って電車賃を倹約するために銀座の方に歩いてゆくが、真っ赤な夕日が沈んでいくのを見て、一体いつまでこのように夕日を見るのだろうかと思ったが、河野多恵子さんも同じような思い出が有り、其れを書いているので思い出して胸が痛くなったと、よく話をしていた。
皆認められるまでは、そういう想いを抱えて暮らしているんですよ。
私は自分のために書いているんです、生きるために書いているんです。
段々判らないことの方が多くなって、歳を取って厄介なのは本当に正確に言おうと思うと言えなくなってしまう。
何を書いても結局は作家は己を語ると言う事に結果は成ってしまう。
「晩鐘」でも初めは田畑麦彦を書こうとしたんだけれども、結局は杉という女が如何に変な女かというのがよくかけていて、辰彦を書いているうちに杉というものが出てきて、己を語ると言う事になってくる。
人間という者には、悪い可能性、良い可能性も無尽蔵に秘めていて、そんなものは判りっこないと思う。
人間はいうにいえない自分でもわからないものを抱えて生きているのではないかと思う。
「晩鐘」は、かく生きたという事実だけをうけいれるだけでいいんだと言う結論で、それでいいのだと思います。
我々は現象だけを見て、憎んだりするが、憎しみ、怒り、非難とは別に何故こういう人間ができたんだろうと、彼(麻原彰晃)はそういう自分をどう思っているんだろうと、好奇心としか言いようがない。
私はあらゆる人に対してそう思います。
「晩鐘」 人間をもっと判りたい、あえて言うなら人間そのものへの愛情だと思います。
ホームレスの人を見ると何故かしら、お友達になりたいと思う。(どう歩んできたのか?)
駅のホームの反対側に見るからにホームレスと言う老人が立っていて、よれよれのマンガの本を読んでいて、突然大きな口をあけて、ワハッハッハッと一人でわらっていて、彼を笑わせたマンガはどういうマンガだろうと知りたいなあと思っちゃう、思うに任せぬ日々の中であそこまで笑える時間があったという事は胸が暖かくなるような思いがして、今でもその人のことが忘れられない。
2015年6月2日火曜日
鈴木比佐雄(出版社代表・詩人) ・優れた詩人たちを育てたい
鈴木比佐雄(出版社代表・詩人) ・優れた詩人たちを育てたい
東京都荒川区に生まれる。法政大学文学部哲学科卒業。1987年、詩誌「コールサック」(石炭袋)を創刊。
詩作を続けている詩人たちの作品を紙面に載せ、詩の精神を後世に伝えたいとの願いからでした。
2006年には法人化し、これまでに詩集、評論集、芸術書など100数十冊発行しています。
なかでも『原爆詩一八一人集』、『大空襲三一〇人詩集』など公募作品を元にしたアンソロジー選集は大きな反響を呼びました。
鈴木さんは日本現代詩人会の理事、宮沢賢治学会の会員でもあり、広報活動を通じて新しい詩人の発掘にも努めています。
詩的な精神を皆さん持っているので、大半の人は詩人だと思います。
詩の言葉は個人言語、内面、肉体のリズムの中から生まれてくるものなので、それに気づけば詩が書けるはずなんですね。
詩という方法で芸術作品として残すことは感動を他の人に伝えられる有効な方法なんですね。
感動を伝達させるのが、詩の大きな役割かと思います。
石炭屋の息子だったので、高校生になるまでほとんど本を読んだ記憶がなかった。
山谷の近くだったので、働いている人たちが真っ黒になった、そういう人たちのために、薪と一緒に上に石炭を入れて石炭風呂を焚いて、その人たちの汗を流させると言う事が私の仕事だった。
6年の時と中学校3年生の時に、会社がつぶれて、高校生のころには毎日、本を1~2冊読むようになり、1年後には哲学書を読むようになった。
本格的に詩を書き始めたのは大学生になってからです。
弟が亡くなったこともあり、人間の内面を見つめる、不安、絶望、死、神だとか、考えたいと思って哲学に入った。
詩と哲学は非常に似ているなと思った。
「水泡-隅田川公園にて」 30代後半の作品
東京大空襲と関連する詩。
本質的なものが立ち現われて来て呼びかけられて、自分のリズムではあるが、亡くなった死者だとか、そういう人たちの思いが乗り移った形で、詩が生まれてくる、そういう書き方です。
「コールサック」(石炭袋)の由来 最も尊敬する宮沢賢治が書かれた、「銀河鉄道の夜」 9章にジョバンニとカンパネルナの会話があって、「白鳥座の向こうに石炭袋が有る」という場面があるが、宮沢賢治が語ろうとしたのは、ブラックホールであるのだが異次元の入り口、幸福の入り口の様なイメージが有って、宮沢賢治の精神を後世に伝える様な出版社を作りたいと思ったと同時に、石炭屋の息子だったので、ダブルイメージで「コールサック」(石炭袋)という名前の雑誌を32歳のころに作った。
詩論を書いていて、多くの詩人たちが応援してくれた要因になった。
原爆を経験した国民なので、原爆は落とされたけど決して復讐をしない、そういう悲劇を二度と繰り返さない世界を作ろうとする精神が、戦後史の根本にあって、そういう詩人たちの詩を結集して後世に残すべきではないかと評論を書いていたが、実現するためには出版社を作るしかないと思う様になった。
『原爆詩一八一人集』2007年に刊行
1997年に浜田知章さん 詩人 戦後広島に行き、原爆の悲劇を世界中に伝えて、原爆のない世界を作って行こうと原爆詩運動を提唱した人物で、「コールサック」社を応援してくれた。
鳴海英吉さん シベリアに抑留された詩人 この人も「コールサック」社を応援してくれた。
峠三吉さん
『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
被爆者ではないが、原爆詩を書いている詩人たちが沢山いる。 新川和江さん
181人のうち50名ぐらいが被爆体験の詩人で、残りの人は被爆経験はないが、原爆詩を書いている作品を集めて、日本語版、英語版を作って2007年に出しました。
世界の空襲、空爆の詩を集めて、2009年に実現しました。 『大空襲三一〇人詩集』
『鎮魂詩四〇四人集』
鎮魂は日本の文学の重要なテーマで柿本人麻呂から始まっている、「妻を悼む」(挽歌)
鎮魂詩は詩の大きなテーマでもある。
現代の万葉集みたいなものを作りたいと思っていた。
「コールサック」で共通のテーマを提示して公募する。
詩人の感受性をしっかり受け止めてあげて、詩人たちが自分とは何かという事に対してアドバイスが出来ると思う。
「生き抜くための歌六十八人詩集」 自殺予防のための詩集と考えてアンソロジーを出した。
詩はある意味で生きるエネルギーをもう一度取り戻せる効果はあると思う。
自分の感受性から始まる、小さな自己から始まって詩を展開してゆく事で、本来的な自己に向かって行って、様々な他者(自然、事物)を発見してゆく、出来れば最後は他者の幸せを願う詩に向かっていけばいいなあと思う。
受けた感動を他者に伝えることが、詩の大きな効果だと思う。
若松丈太郎さんがいて、40年前から福島原発が危険だと言う事で「神隠しされた街」(福島原発が爆発したらどうなるかというシュミレーションした)という詩が有る。
2011年即 「命が危ない 311人詩集」 2012年「脱原発・自然エネルギー218人詩集」出版。
2017年 に「原爆詩 一八一人集」から10年になるので、181人だったものを300人ぐらいに拡大して世界中の海外に詩人と交流しているので、「原爆詩 300人集」の日本語版、英語版を作ってみたい。
詩の世界を活性化させていきたいと思っている。
東京都荒川区に生まれる。法政大学文学部哲学科卒業。1987年、詩誌「コールサック」(石炭袋)を創刊。
詩作を続けている詩人たちの作品を紙面に載せ、詩の精神を後世に伝えたいとの願いからでした。
2006年には法人化し、これまでに詩集、評論集、芸術書など100数十冊発行しています。
なかでも『原爆詩一八一人集』、『大空襲三一〇人詩集』など公募作品を元にしたアンソロジー選集は大きな反響を呼びました。
鈴木さんは日本現代詩人会の理事、宮沢賢治学会の会員でもあり、広報活動を通じて新しい詩人の発掘にも努めています。
詩的な精神を皆さん持っているので、大半の人は詩人だと思います。
詩の言葉は個人言語、内面、肉体のリズムの中から生まれてくるものなので、それに気づけば詩が書けるはずなんですね。
詩という方法で芸術作品として残すことは感動を他の人に伝えられる有効な方法なんですね。
感動を伝達させるのが、詩の大きな役割かと思います。
石炭屋の息子だったので、高校生になるまでほとんど本を読んだ記憶がなかった。
山谷の近くだったので、働いている人たちが真っ黒になった、そういう人たちのために、薪と一緒に上に石炭を入れて石炭風呂を焚いて、その人たちの汗を流させると言う事が私の仕事だった。
6年の時と中学校3年生の時に、会社がつぶれて、高校生のころには毎日、本を1~2冊読むようになり、1年後には哲学書を読むようになった。
本格的に詩を書き始めたのは大学生になってからです。
弟が亡くなったこともあり、人間の内面を見つめる、不安、絶望、死、神だとか、考えたいと思って哲学に入った。
詩と哲学は非常に似ているなと思った。
「水泡-隅田川公園にて」 30代後半の作品
東京大空襲と関連する詩。
本質的なものが立ち現われて来て呼びかけられて、自分のリズムではあるが、亡くなった死者だとか、そういう人たちの思いが乗り移った形で、詩が生まれてくる、そういう書き方です。
「コールサック」(石炭袋)の由来 最も尊敬する宮沢賢治が書かれた、「銀河鉄道の夜」 9章にジョバンニとカンパネルナの会話があって、「白鳥座の向こうに石炭袋が有る」という場面があるが、宮沢賢治が語ろうとしたのは、ブラックホールであるのだが異次元の入り口、幸福の入り口の様なイメージが有って、宮沢賢治の精神を後世に伝える様な出版社を作りたいと思ったと同時に、石炭屋の息子だったので、ダブルイメージで「コールサック」(石炭袋)という名前の雑誌を32歳のころに作った。
詩論を書いていて、多くの詩人たちが応援してくれた要因になった。
原爆を経験した国民なので、原爆は落とされたけど決して復讐をしない、そういう悲劇を二度と繰り返さない世界を作ろうとする精神が、戦後史の根本にあって、そういう詩人たちの詩を結集して後世に残すべきではないかと評論を書いていたが、実現するためには出版社を作るしかないと思う様になった。
『原爆詩一八一人集』2007年に刊行
1997年に浜田知章さん 詩人 戦後広島に行き、原爆の悲劇を世界中に伝えて、原爆のない世界を作って行こうと原爆詩運動を提唱した人物で、「コールサック」社を応援してくれた。
鳴海英吉さん シベリアに抑留された詩人 この人も「コールサック」社を応援してくれた。
峠三吉さん
『にんげんをかえせ』
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
被爆者ではないが、原爆詩を書いている詩人たちが沢山いる。 新川和江さん
181人のうち50名ぐらいが被爆体験の詩人で、残りの人は被爆経験はないが、原爆詩を書いている作品を集めて、日本語版、英語版を作って2007年に出しました。
世界の空襲、空爆の詩を集めて、2009年に実現しました。 『大空襲三一〇人詩集』
『鎮魂詩四〇四人集』
鎮魂は日本の文学の重要なテーマで柿本人麻呂から始まっている、「妻を悼む」(挽歌)
鎮魂詩は詩の大きなテーマでもある。
現代の万葉集みたいなものを作りたいと思っていた。
「コールサック」で共通のテーマを提示して公募する。
詩人の感受性をしっかり受け止めてあげて、詩人たちが自分とは何かという事に対してアドバイスが出来ると思う。
「生き抜くための歌六十八人詩集」 自殺予防のための詩集と考えてアンソロジーを出した。
詩はある意味で生きるエネルギーをもう一度取り戻せる効果はあると思う。
自分の感受性から始まる、小さな自己から始まって詩を展開してゆく事で、本来的な自己に向かって行って、様々な他者(自然、事物)を発見してゆく、出来れば最後は他者の幸せを願う詩に向かっていけばいいなあと思う。
受けた感動を他者に伝えることが、詩の大きな効果だと思う。
若松丈太郎さんがいて、40年前から福島原発が危険だと言う事で「神隠しされた街」(福島原発が爆発したらどうなるかというシュミレーションした)という詩が有る。
2011年即 「命が危ない 311人詩集」 2012年「脱原発・自然エネルギー218人詩集」出版。
2017年 に「原爆詩 一八一人集」から10年になるので、181人だったものを300人ぐらいに拡大して世界中の海外に詩人と交流しているので、「原爆詩 300人集」の日本語版、英語版を作ってみたい。
詩の世界を活性化させていきたいと思っている。
2015年6月1日月曜日
小林一通(染色補正技能士) ・着物をよみがえらせる”しみ”ぬきにかけた我が人生
小林一通(染色補正技能士) ・着物をよみがえらせる”しみ”ぬきにかけた我が人生
1948年東京生まれ、シミ抜きの国家資格、染色補正1級技能士です。
シミ抜きと言いますと、食べものや油などのシミを落とす物という印象ですが、染色補正はシミ抜きに留まらず、古いシミで黄色く変色してしまったり、色焼けした衣類に染色を施し、元の色に戻していくというもので高度な技術が必要です。
2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝して、去年現代の名工を受賞しました。
シミを取ってゆくと色がはげたり、黄色くシミがかわってたりするが、色を抜いていくが、染料で元の色に持ってくる、染料を使って直すのが「地なおし」という。
着物が中心、絹なので一番デリケートで難しい。
絵画の様な工房で、筆一本にもこだわっている。
5色 黄色、赤、緑、紫、黒で全ての色を全部出してゆくので非常に繊細。
足りなくなった色を足してゆく。
黄色いシミは薬品が良くなって、シミは良くなるかもしれないが土台の絹は劣化してしまう。
(この方が商売になるが)
昔風 コテを熱しといて、布きれを敷いて着物のシミ部分を置いて、上からたたきだすが、せいぜい石鹸を塗って、シミを剥がしてゆく。
細かい人形の絵が描いてあって、顔にシミが出たり、黄色くなってしまったりするが、ぜんぶ白く塗ってある胡粉を落として、打代の黄色くなった原因を落として、胡粉を塗ってあげてから、顔の眼だとか口などを書いてゆく。
どこを直したのだとかわからないようにするので、作品と言う様なものが残るわけでは無く、辛いところはある。
私の家は代々職人的な仕事をしていた。
好きな時間に仕事をして好きな時間に休めるように、サラリーマンでなければいいと思っていた。
何か作るものをやりたかった。
進学校だったので、高校3年生の時には勉強がつまらなくて、その後8年間修業を積む。
直した時の快感が嬉しかった。
師匠は18歳ぐらいから扱うのは難しいと言っていた、理屈をこねたりするので、先ずは言われた通りにやると言う事が出来て、その後初めて自分の考え方を出してゆく事が必要で、理屈をこねてしまう事は技能は伸びない。
大きくは間違ったことは教えてはいない。(50年100年の実績がある)
醤油のシミでも生地によって違うし、10年前と、1年前の生地でも違うし、決まりなどは一つもなく、
だが昔から言われている大まかなこと間違っていない。
先輩は自分のやりたい様な違う仕事をやっているが、自分は常に同じことをやっているので、いろいろ違う仕事もしたかったので、通いだったのを、住み込みをするようになる。
日本橋が染色、呉服が東京では一番で、神田川に沿って高田馬場、下落合などが染色関係が有名。
現在、師匠も、私の工房も高田馬場にある。
独立をして半世紀になるが、2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝する。
4つの作業を競う。
シミ抜きの試験としては墨(墨は抜きずらい)とスキヤキのたれ(醤油、砂糖、油、そのほかいろいろ煮込まれて入っているので非常に落ちにくい)は凄くいい問題です。
紋様消し作業 朱色の生地に家紋で白が入っているが、白い数mmの丸だけを消さないという課題だが、すごく難しい。(4つの中で一番難しかった、5日間やっても出来ないこともある)
4つ全て2日間、10時間でやらなければいけない。
京都が発祥で、公家さんの着物、裃の汚れを落としていた。
芸者、舞こ等のきものの汚れを取ることにも広がって行った。
後継者、若手が少しはいるが、着物関係の方がシミ抜き屋になる方が多い。
息子が後を継いでくれることになり、嬉しかった。
息子に仕事を教えることは、いろいろ気を使ってしまって、弟子の様には行かない。
弟子には盗んで覚えろと言っていたが、つい教えてしまったり、甘やかしてしまう。
シミ抜きにかかわらず、高度な技能の継承が出来ていない。
練習とお客さんの仕事では緊張感が全然違うので、高度な技能の伝承が難しい。
今の時代は、いいものが無くなって来て、良いものを見る目がなくなって来ている事が残念です。
1948年東京生まれ、シミ抜きの国家資格、染色補正1級技能士です。
シミ抜きと言いますと、食べものや油などのシミを落とす物という印象ですが、染色補正はシミ抜きに留まらず、古いシミで黄色く変色してしまったり、色焼けした衣類に染色を施し、元の色に戻していくというもので高度な技術が必要です。
2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝して、去年現代の名工を受賞しました。
シミを取ってゆくと色がはげたり、黄色くシミがかわってたりするが、色を抜いていくが、染料で元の色に持ってくる、染料を使って直すのが「地なおし」という。
着物が中心、絹なので一番デリケートで難しい。
絵画の様な工房で、筆一本にもこだわっている。
5色 黄色、赤、緑、紫、黒で全ての色を全部出してゆくので非常に繊細。
足りなくなった色を足してゆく。
黄色いシミは薬品が良くなって、シミは良くなるかもしれないが土台の絹は劣化してしまう。
(この方が商売になるが)
昔風 コテを熱しといて、布きれを敷いて着物のシミ部分を置いて、上からたたきだすが、せいぜい石鹸を塗って、シミを剥がしてゆく。
細かい人形の絵が描いてあって、顔にシミが出たり、黄色くなってしまったりするが、ぜんぶ白く塗ってある胡粉を落として、打代の黄色くなった原因を落として、胡粉を塗ってあげてから、顔の眼だとか口などを書いてゆく。
どこを直したのだとかわからないようにするので、作品と言う様なものが残るわけでは無く、辛いところはある。
私の家は代々職人的な仕事をしていた。
好きな時間に仕事をして好きな時間に休めるように、サラリーマンでなければいいと思っていた。
何か作るものをやりたかった。
進学校だったので、高校3年生の時には勉強がつまらなくて、その後8年間修業を積む。
直した時の快感が嬉しかった。
師匠は18歳ぐらいから扱うのは難しいと言っていた、理屈をこねたりするので、先ずは言われた通りにやると言う事が出来て、その後初めて自分の考え方を出してゆく事が必要で、理屈をこねてしまう事は技能は伸びない。
大きくは間違ったことは教えてはいない。(50年100年の実績がある)
醤油のシミでも生地によって違うし、10年前と、1年前の生地でも違うし、決まりなどは一つもなく、
だが昔から言われている大まかなこと間違っていない。
先輩は自分のやりたい様な違う仕事をやっているが、自分は常に同じことをやっているので、いろいろ違う仕事もしたかったので、通いだったのを、住み込みをするようになる。
日本橋が染色、呉服が東京では一番で、神田川に沿って高田馬場、下落合などが染色関係が有名。
現在、師匠も、私の工房も高田馬場にある。
独立をして半世紀になるが、2007年に開かれた技能グランプリの染色補正職種で優勝する。
4つの作業を競う。
シミ抜きの試験としては墨(墨は抜きずらい)とスキヤキのたれ(醤油、砂糖、油、そのほかいろいろ煮込まれて入っているので非常に落ちにくい)は凄くいい問題です。
紋様消し作業 朱色の生地に家紋で白が入っているが、白い数mmの丸だけを消さないという課題だが、すごく難しい。(4つの中で一番難しかった、5日間やっても出来ないこともある)
4つ全て2日間、10時間でやらなければいけない。
京都が発祥で、公家さんの着物、裃の汚れを落としていた。
芸者、舞こ等のきものの汚れを取ることにも広がって行った。
後継者、若手が少しはいるが、着物関係の方がシミ抜き屋になる方が多い。
息子が後を継いでくれることになり、嬉しかった。
息子に仕事を教えることは、いろいろ気を使ってしまって、弟子の様には行かない。
弟子には盗んで覚えろと言っていたが、つい教えてしまったり、甘やかしてしまう。
シミ抜きにかかわらず、高度な技能の継承が出来ていない。
練習とお客さんの仕事では緊張感が全然違うので、高度な技能の伝承が難しい。
今の時代は、いいものが無くなって来て、良いものを見る目がなくなって来ている事が残念です。