大竹おさむ(木工家) 木の不思議に魅せられて(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/06/blog-post_5.htmlwをご覧ください。
2014年7月31日木曜日
2014年7月30日水曜日
2014年7月29日火曜日
2014年7月28日月曜日
大林素子(スポーツキャスター) ・萩本欽一の人間塾
大林素子(スポーツキャスター) 萩本欽一の人間塾
バレー オリンピックに選手団としていけるのは12人です。
12人に入ることが先ず、大事。
芸能生活18年目 会えたのは2回目 ちゃんとお話しするのは今日が初めて。
夢なんか持ってもしょうがない時代だった。(萩本)
もともとはバレーの選手ではなかった。 アイドル歌手になりたかった。
自分の思った方にはなかなか行けない。
小学校の時に、小学校の6年の時に170cmになってしまった。
いつも身長はトップで、いじめに遭った。
でか林、ジャイアント素子、うどの大木と呼ばれていた。
言われるのが嫌で、性格的に内向的だったので、言われたら、私 アイドルになれないし、女としてみなされない、みたいな扱いだった。
友だちができないし、立つと目立つので、休み時間とかは座っていて、立たないです。
たまたまアニメのアタックナンバーワンをみて、バレーは背が高い方が有利だと知った。
私をいじめていた4人組がいて、私はオリンピックにでて、彼等にギャフンと言わしたいと思って、中学からバレーを始めた。
20歳で初めて、ソウルオリンピックに出場が決まった時に、体育館で練習をしていて、ファンが見にきていい様になっていたが、或る日 その4人が来ていた。
練習が終わって、4人組が近ずいてきて、サインくれよと、言ってきて、気分としては勝ったなと思いました。
俺ね、人生の中でかたき討ちは嫌いなんですよ。
割と嫌いなのが、大石蔵之助。 いじめは人生の最後で恩人になる。
人間って、いじめられるとか、すると悔しいと思う。
そのくやしいという気持ちが、でかいことをやってくる。
立派になった時にあなたのおかげだねと、恩人になる。
あの人たちがいたから、時々このやろうと言うものいたから、私はバレーで日本一になるのだと言うエネルギーに変わったので、オリンピックを出た後に、ファンクラブを造った時に、会員ナンバー 1,2,3,4が彼ら(4人組)だった見たいに、今は本当に有難うと、一番の応援団になってもらっています。
大石蔵之助が吉良さんのところに行った時、ぱっと首を切るのではなく、吉良さんあなたのおかげで頑張れた、気持良かった、あなたに会うだけでよい、後は首を取るのは一つの作業だ、吉良さん有難うと言って、去ったら俺は泣けたんだよ、あそこで仇を討ったんで凄く泣けない、あそこで「や―有難う」と言って、吉良さん又元気でね、といったら俺凄く泣けた。 歴史になって無いでしょうけど。
会ってみたい歴史上の人物 土方歳三が大好き。
負けると思っていても、トップに忠誠を誓って戦い抜けるという志の強さ。
私も多摩の人間なので、割と新鮮組は武州、仲間内みたいなイメージがあったので大好きです。
1年に一、二度 必ずお墓参りに行きます。
そこで色々語っています。
僕が一番聞きたいのは秀吉、日吉丸が織田信長の草履を温めた、二人の出来事をなんでこんなに長い間歴史に伝えられているか、草履を温めてもらった信長が、他の人に言ったのか、日吉丸が草履を温めただけなんだと言って、その話がずーっと続いたのか、第三者が見てて、すごいの見ちゃった信長の草履を温めていやがんの、あの野郎、あいつはなんかやりそうだなと、第三者が言ったのか、誰が語ったんでこんなに長い間届いたんだろう。
本人だとすれば、之は彼は曲者だよ。
第三者が綺麗だと思うが。
努力は隠れてしろ と言うけれども、隠れた努力は身にならない、隠れた努力を語る人がいないと、隠れっぱなしの努力になる。
最終的にはいい友達とか、いい仲間がいないと努力は報われない、と言う事。
コメディアンとして3000円だったのが、あるとき6000円になった。
朝早く来て舞台を掃除をしている姿をおばちゃんが見ていて、支配人に言ってくれて、語ってくれたおばちゃんがいたという事に今気付いた。
ソウル、バロセロナ、アトランタ 3回出ている。 4位、5位、9位だった。
行くときは盛大に見送られるが、帰り、メダルを持ってこなかった事に対して、記者から嫌味を言われたりした。
1回戦の対戦相手が当時のソ連で、兎に角ソ連を倒すことに集中し、1日10時間ぐらい練習した。
ソ連に勝つ事が出来て、そこでピークを迎えてしまったようで、その後格下のチームに負けてしまって4位になってしまった。
オリンピックの選手に言っておきたいのは、御免なさいとか、済みませんでした、とは言わない方がいい、お客さんでそういう気持ちで見ている人は一人もいないから。
試合中、相手チームの一人がけがをし、交代できない場合、その人を狙うかどうか?
勝つためには狙いますね。 動けなくなった人に対しては狙ってほしくはない。
日本も開催国になるので、金メダルを沢山取ろうとするのか、痛い奴がいたので狙いたくないんで負けちゃったでも日本ておしゃれな国だなあ、というオリンピックをやるのかはっきりしとかないと。
運動をやめて、18年間なるが、舞台などで、息切れをしてしまって、今ウオ-キング、ジョッギング等をやる様になった。
血の循環を良くするための運動はやった方がいい。
北条政子 やってみたい。 かわいい役はできない。 卑弥呼をやってほしい(萩本)
マリー・アントワネットをやりたい。
人生はちゃらだと思っている。 いろんな痛い目に遭ったり、損する事があるが、でもそれが固まると、その分だけ幸せが来ると、思っている。
中学の時に、おとなしい子だったが、いたずらして、誰がやったんだと先生が怒鳴ったので、私がやりましたと言ったら、男ならそのぐらいの勇気がなければだめですね、はい坐んなさいと言われ、怒られるとき怒られなかった、其れから明るい子になっちゃった。
怒りたい時に、怒らないと言う事は、人の人生変えられる、自分が変えられたのに、先生の恩返しだと思うから、其れから明るい子になっちゃった。(萩本)
バレー オリンピックに選手団としていけるのは12人です。
12人に入ることが先ず、大事。
芸能生活18年目 会えたのは2回目 ちゃんとお話しするのは今日が初めて。
夢なんか持ってもしょうがない時代だった。(萩本)
もともとはバレーの選手ではなかった。 アイドル歌手になりたかった。
自分の思った方にはなかなか行けない。
小学校の時に、小学校の6年の時に170cmになってしまった。
いつも身長はトップで、いじめに遭った。
でか林、ジャイアント素子、うどの大木と呼ばれていた。
言われるのが嫌で、性格的に内向的だったので、言われたら、私 アイドルになれないし、女としてみなされない、みたいな扱いだった。
友だちができないし、立つと目立つので、休み時間とかは座っていて、立たないです。
たまたまアニメのアタックナンバーワンをみて、バレーは背が高い方が有利だと知った。
私をいじめていた4人組がいて、私はオリンピックにでて、彼等にギャフンと言わしたいと思って、中学からバレーを始めた。
20歳で初めて、ソウルオリンピックに出場が決まった時に、体育館で練習をしていて、ファンが見にきていい様になっていたが、或る日 その4人が来ていた。
練習が終わって、4人組が近ずいてきて、サインくれよと、言ってきて、気分としては勝ったなと思いました。
俺ね、人生の中でかたき討ちは嫌いなんですよ。
割と嫌いなのが、大石蔵之助。 いじめは人生の最後で恩人になる。
人間って、いじめられるとか、すると悔しいと思う。
そのくやしいという気持ちが、でかいことをやってくる。
立派になった時にあなたのおかげだねと、恩人になる。
あの人たちがいたから、時々このやろうと言うものいたから、私はバレーで日本一になるのだと言うエネルギーに変わったので、オリンピックを出た後に、ファンクラブを造った時に、会員ナンバー 1,2,3,4が彼ら(4人組)だった見たいに、今は本当に有難うと、一番の応援団になってもらっています。
大石蔵之助が吉良さんのところに行った時、ぱっと首を切るのではなく、吉良さんあなたのおかげで頑張れた、気持良かった、あなたに会うだけでよい、後は首を取るのは一つの作業だ、吉良さん有難うと言って、去ったら俺は泣けたんだよ、あそこで仇を討ったんで凄く泣けない、あそこで「や―有難う」と言って、吉良さん又元気でね、といったら俺凄く泣けた。 歴史になって無いでしょうけど。
会ってみたい歴史上の人物 土方歳三が大好き。
負けると思っていても、トップに忠誠を誓って戦い抜けるという志の強さ。
私も多摩の人間なので、割と新鮮組は武州、仲間内みたいなイメージがあったので大好きです。
1年に一、二度 必ずお墓参りに行きます。
そこで色々語っています。
僕が一番聞きたいのは秀吉、日吉丸が織田信長の草履を温めた、二人の出来事をなんでこんなに長い間歴史に伝えられているか、草履を温めてもらった信長が、他の人に言ったのか、日吉丸が草履を温めただけなんだと言って、その話がずーっと続いたのか、第三者が見てて、すごいの見ちゃった信長の草履を温めていやがんの、あの野郎、あいつはなんかやりそうだなと、第三者が言ったのか、誰が語ったんでこんなに長い間届いたんだろう。
本人だとすれば、之は彼は曲者だよ。
第三者が綺麗だと思うが。
努力は隠れてしろ と言うけれども、隠れた努力は身にならない、隠れた努力を語る人がいないと、隠れっぱなしの努力になる。
最終的にはいい友達とか、いい仲間がいないと努力は報われない、と言う事。
コメディアンとして3000円だったのが、あるとき6000円になった。
朝早く来て舞台を掃除をしている姿をおばちゃんが見ていて、支配人に言ってくれて、語ってくれたおばちゃんがいたという事に今気付いた。
ソウル、バロセロナ、アトランタ 3回出ている。 4位、5位、9位だった。
行くときは盛大に見送られるが、帰り、メダルを持ってこなかった事に対して、記者から嫌味を言われたりした。
1回戦の対戦相手が当時のソ連で、兎に角ソ連を倒すことに集中し、1日10時間ぐらい練習した。
ソ連に勝つ事が出来て、そこでピークを迎えてしまったようで、その後格下のチームに負けてしまって4位になってしまった。
オリンピックの選手に言っておきたいのは、御免なさいとか、済みませんでした、とは言わない方がいい、お客さんでそういう気持ちで見ている人は一人もいないから。
試合中、相手チームの一人がけがをし、交代できない場合、その人を狙うかどうか?
勝つためには狙いますね。 動けなくなった人に対しては狙ってほしくはない。
日本も開催国になるので、金メダルを沢山取ろうとするのか、痛い奴がいたので狙いたくないんで負けちゃったでも日本ておしゃれな国だなあ、というオリンピックをやるのかはっきりしとかないと。
運動をやめて、18年間なるが、舞台などで、息切れをしてしまって、今ウオ-キング、ジョッギング等をやる様になった。
血の循環を良くするための運動はやった方がいい。
北条政子 やってみたい。 かわいい役はできない。 卑弥呼をやってほしい(萩本)
マリー・アントワネットをやりたい。
人生はちゃらだと思っている。 いろんな痛い目に遭ったり、損する事があるが、でもそれが固まると、その分だけ幸せが来ると、思っている。
中学の時に、おとなしい子だったが、いたずらして、誰がやったんだと先生が怒鳴ったので、私がやりましたと言ったら、男ならそのぐらいの勇気がなければだめですね、はい坐んなさいと言われ、怒られるとき怒られなかった、其れから明るい子になっちゃった。
怒りたい時に、怒らないと言う事は、人の人生変えられる、自分が変えられたのに、先生の恩返しだと思うから、其れから明るい子になっちゃった。(萩本)
2014年7月27日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(山口県)
五木寛之 歌の旅人(山口県)
首相を8人輩出した県
初代から5代まで長州人脈 伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中儀一
岸信介、佐藤栄作、安陪晋三 政界財界問わず、保守革新問わず、菅直人とか。
宮本常一さん 民族学者
県人かたぎ 山口県人と議論して勝つのは難しい。 頭脳明晰、弁が立つ。
作家も多い。 ユニークな人がいる。 赤江瀑 伊集院静 古川薫 田中慎弥 高樹のぶ子(論客) 宇野千代 金子みすず 種田山頭火 中原中也
音楽関係では作詞家 星野哲郎、吉岡治 有馬三恵子、大津あきら まど・みちお(童謡詩人)
「おんなの宿」 作詞 星野哲郎
「真夜中のギター」 作詞 吉岡治(サトウハチローの門下生だった)
明治維新の主役が登場している。
吉田松陰の薫陶を受けた人が一杯出ている。
長州閥 それに対する風当たりも結構あった。
日本最古の金属貨幣 和同開珎 山口から出ている。
壇ノ浦の戦い(源平合戦)
瑠璃光寺 五重の塔(国宝) 大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院。
歌手 二村定一、藤原芳江、林伊佐緒、松島詩子、山本譲二、あさみちゆき
下関 外国に向けての玄関口だった。
「ダンスパーティーの夜」 作曲、歌 林伊佐緒
数学 フィールズ賞受賞 広中平祐 マルクス経済学者 河上肇 歴史学 奈良本辰也
広辞苑編纂 新村出 画家 狩野芳崖
錦帯橋 205mある。
五右衛門風呂 山口県に最初に造られた。(宋の国の鉄の湯船をまねて造らせた)
おみくじ 全国シェアー8割
ふぐ、あんこう 体温計を初めて造った。
宇部興産、日本水産、ニッサンの創業者鮎川義介 藤岡市助(後に東芝になる)
ユニクロ 柳井正 日立創業者 久原房之助(経済界の歴史を作った人)
乃木希典(軍人だが漢詩をたくさん作った)
俳優タレント 田中絹代、大友柳太郎、木暮実千代、細川俊之、松田優作・・・
「みちのく一人旅」 歌 山本譲二
首相を8人輩出した県
初代から5代まで長州人脈 伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、田中儀一
岸信介、佐藤栄作、安陪晋三 政界財界問わず、保守革新問わず、菅直人とか。
宮本常一さん 民族学者
県人かたぎ 山口県人と議論して勝つのは難しい。 頭脳明晰、弁が立つ。
作家も多い。 ユニークな人がいる。 赤江瀑 伊集院静 古川薫 田中慎弥 高樹のぶ子(論客) 宇野千代 金子みすず 種田山頭火 中原中也
音楽関係では作詞家 星野哲郎、吉岡治 有馬三恵子、大津あきら まど・みちお(童謡詩人)
「おんなの宿」 作詞 星野哲郎
「真夜中のギター」 作詞 吉岡治(サトウハチローの門下生だった)
明治維新の主役が登場している。
吉田松陰の薫陶を受けた人が一杯出ている。
長州閥 それに対する風当たりも結構あった。
日本最古の金属貨幣 和同開珎 山口から出ている。
壇ノ浦の戦い(源平合戦)
瑠璃光寺 五重の塔(国宝) 大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院。
歌手 二村定一、藤原芳江、林伊佐緒、松島詩子、山本譲二、あさみちゆき
下関 外国に向けての玄関口だった。
「ダンスパーティーの夜」 作曲、歌 林伊佐緒
数学 フィールズ賞受賞 広中平祐 マルクス経済学者 河上肇 歴史学 奈良本辰也
広辞苑編纂 新村出 画家 狩野芳崖
錦帯橋 205mある。
五右衛門風呂 山口県に最初に造られた。(宋の国の鉄の湯船をまねて造らせた)
おみくじ 全国シェアー8割
ふぐ、あんこう 体温計を初めて造った。
宇部興産、日本水産、ニッサンの創業者鮎川義介 藤岡市助(後に東芝になる)
ユニクロ 柳井正 日立創業者 久原房之助(経済界の歴史を作った人)
乃木希典(軍人だが漢詩をたくさん作った)
俳優タレント 田中絹代、大友柳太郎、木暮実千代、細川俊之、松田優作・・・
「みちのく一人旅」 歌 山本譲二
2014年7月26日土曜日
大塚睦子(元養護学校教諭) ・原点は森永ヒ素ミルク中毒 被害児の訪問調査(再放送)
大塚睦子(元養護学校教諭) 原点は森永ヒ素ミルク中毒 被害児の訪問調査(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/08/35.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2013/08/35.htmlをご覧ください。
2014年7月25日金曜日
小林幸一郎(フリークライマー) ・登って伝わる、伝えたいこと
小林幸一郎(フリークライマー) 登って伝わる、伝えたいこと
46歳 フリークライミングの国際大会で優勝するなど、世界を舞台に活躍しています。
視覚に障害があって、現在の視力は微かに光を感じる程度です。
28歳の時の徐々に視野が失われる網膜の病気を発症、将来的には失明するとの告知を受けます。
失意の小林さんを支えてきたのは、16歳の時から続けてきたフリークライミングでした。
岩や壁を道具を使わずに、自分の手足だけで登ってゆく楽しさを伝えたいと、2005年にNPOを設立 、普及活動に取り組んでいます。
今年の春には、つくば市に直営の施設をオープンし、障害のあるなしにかかわらず、誰でも参加できる場として注目されています。
フリークライミングは自然の岩や、人工の壁を人間が本来持っている能力、手や足だけを使ってするスポーツです。
登山の技術の一つ。
①ハーケンを使って、小さな梯子を使って、大岸壁を昇り切る、人工登坂
②フリークライミングは落ちて死なない様な守るすべは使うが、昇るのは人間の手足で登る。
登山からスポーツに、冒険から街中で行うものに、誰にでも開かれたものに発展してきたのが、現代のフリークライミング 人工の壁ができてからは街中で、スポーツクラブに行く様な感覚で身近に変わってきている。
自分の目標に向かって、壁の中で楽しんでいる。
16歳の時に、本屋さんで立ち読みした山の雑誌が、アメリカから入ってきた新しいスポーツ フリークライミングを始めよう、という特集を読んで、これなら自分にもできるかなあと思って、参加したのがきっかけでした。
当時30年前、人工の壁が世の中になかった時代、自然の岩に登るのが、フリークライミングでした。
最初、長野県川上村 小川山に行くが昇れなかった。
運動は当時苦手だった。
自然の中で過ごす時間の素晴らしさを感じたし、出来ようが出来まいが、自分なりの頑張り方があるんだと、そういうはまりどころがあった。
高校3年の春休みから本格始動でした。 アルバイトと、クライミングをやっていた。
大学を卒業して、旅行会社に就職して3年間、営業マンをするが、転職して顧客向けのサービスでアウトドアの教室、ツアーとかの企画運営の責任者をやらしてもらって、仕事は充実していた。
28歳で目の病気が判るときも、夜の運転、雨の運転の時に見えづらいなあと感じるようになった。
メガネ屋に行ったが、検査をして、病院に行くように言われて、そこで検査されて、直ぐに精密検査をされて、あなたは遺伝を原因とする目の網膜の病気です、この病気は進行性で、治療法はありません、近い将来失明しますと言われた。
言われても実感がなかった。
時間と共に物凄く重いものが、自分にのしかかってきた感じでした。
将来失明しますと言う事で、ガイドの仕事をやっていて、一生生きていくんだろうと思い描いていた、未来予想図が描けなくなった。 葛藤した時期が3年間あった。
新聞、雑誌の文字が読めない、車の免許が書き変えできない、沢山の事が起き始めて、自分の肉がそがれてゆく様な感じだった。
不安が、考え志向を、物凄く消極的にさせた。
仕事も続けていたが、病気が遺伝だと言われて、自分がふさぎこんだ姿を親が観たら、自分の親は親は自分のせいにするというのは、簡単に想像できるので、親の前でふさぎこんだり姿はあまり見せなかったので、其れまでの暮らしぶりとなんら変わらない暮らしをしていた。
親としてどういう風に向き合っていったらいいのか、判らなかったという風にいいます。
何をしてやったらいいのか、一生懸命考えるしかなかった、という風に言っていました。
進行している実感は当時もあった。
人との出会い 医者は、目は覗き込もうと知るけれども、人の心の中は覗き込もうとすることにできない、生き物なんだなあと思っていたぐらいだった。
病院、医療に失望を感じていた。
5つ目に友人に言われた病院に行って、見えにくい人たちに対する支援する仕組みのロービジョンケアーがあるが、そういった病院だった。
ケースワーカー 社会復帰支援、どういう風に生きていったらいいかの専門職がいて、そこで話があった時に、これから何ができなくなるのか、その日のためにどんな準備をして行ったらいいのか聞いた。
しかし言われたことは、大事なことは、これから何ができなくなるのではなくて、あなたがなにをしたいのか、どう生きていきたいのかなんですよ。
あなたにやりたいこと、生きていきたい道があるのであれば、其れのために私たちも、社会の仕組みも、周りにいる人たちも、あなたのことを支えてくれるはずですよ、もっと自分の道を生きなさいと言われた。
この事が物凄く頭に残った。
やりたいことがあったら、やり方を変えればいいんだと、転換できると、気付かされた。
その先生と出会ってから1年しないうちに、友人の結婚式に誘われて、アメリカのコロラドに行く事があった。
空港に迎えに来た日本人のクライマーが、アメリカには全盲でエベレストに登った人がいる、と言ったので、えーっとものすごい驚きだった。
世界7大陸の全部を登った人。
その話を聞いて、視覚障害者は自分が思っていたよりも、もっともっといろんなことができるかもしれないと思った。
友人は、その人の本を探して、プレゼントしてくれた。 著者はエリック・ヴァイエンマイヤー
「タッチ ザ トップ オブ ザ ワールド」 書名
エリックさんにお会いしたいと、メールを出した。
彼に会いに再びアメリカに行った。
TVの取材があるから、一緒に付き合ってくれないかと誘われる。
彼とは歳も同じで、似たような環境だった。
アメリカでは沢山の障害者がクライムを通じて、自信を持ったり、自分の中に可能性を感じたりとか、出来ている、もし日本でそういうものが、なされていないんだとしたら、小林、其れはお前の仕事だよと言ってくれた。
フリークライミングは細々とは続けていたので、自分の歩いてゆく方向と、視覚障害があっても自分はこういう風に生きていこうと言う方向とを、決定付けてくれた、病院の先生との出会い、エリックとの出会いが今の私につながっているかなと思います。
2005年からNPO立ち上げ。 「モンキーマジック」と言う名前
視覚障害者にフリークライミングを普及させる事が、設立当初の活動の大きな目的と言う形で動き始めたので、関東で月に3から4回やっていた。
情報伝達、HKK 方向、距離、形 時計の針の方向で、方向の指示をする。
距離は5段階、直ぐ近く、近くとか5段階に分けて指示する。
石(ホールド)崖についているが、肉まんみたいなのがついているとか、具体的な形状を指示する。
視覚障害者がイメージしやすい、楽しいやり方を一生懸命編みだしたらいいと思ってやっています。
スクールの参加者は延べ2500名を越えるぐらい。
3年前から新しいイベント 障害のある人とない人が、クライミングを通じて、交流をするという事を毎月1回東京で始めている。 年間500名が参加している。
目の見えない人と聞こえない人との交流。全く見えないわけではないので、その人に合わせたコミュニケーションの方法を見つけてゆく。(一つの手段として、紙に大きな文字を書くとか)
人が社会の中で暮らしてゆくなかで、あるべき姿は存在しているのでは無いかと、NPOとして当初、視覚障害にクライミングを普及することを中心に於いていたが、最近は視覚障害を中心に障害を持っている人達にクライミングを普及する事に依った、様々な環境に在る人達がもっと普通に、もっと元気に、もっと笑顔に暮らせる社会の実現を目指そうよと言う風に、成長、発展してきた。
パンフレット
小さい子から老人、男女関係なく挑戦している。
最高齢は82歳 クライミングを楽しんでいる。
人って、できないと思っていたことができた時に、獲得できる自信とか、可能性とかって、本当に大きいと思います。
できないと思ってしまっている見えない壁を作っているのは、皆さんの気持ちの中に在ると思う。
越えようと自分で行動するかどうか、と言うところが大きいのではないかと思う。
クライミングを通じて見えない壁を越える力、越えようとする気持ちとかを見つけてもらえたらいいなと思います。
つくば市に直営の施設をオープンさせた。
どなたにでも来てもらって、可能性、自信を持ってもらったりするきっかけ作りになる空間だと思っている。
楽しんでもらえるように、いろいろ工夫をしている。(温泉巡りのチェックポイトとか)
今年スペインで世界選手権がある。
2011年の大会の時には金メダルを獲得したので又金メダルを取ってきたい。
46歳 フリークライミングの国際大会で優勝するなど、世界を舞台に活躍しています。
視覚に障害があって、現在の視力は微かに光を感じる程度です。
28歳の時の徐々に視野が失われる網膜の病気を発症、将来的には失明するとの告知を受けます。
失意の小林さんを支えてきたのは、16歳の時から続けてきたフリークライミングでした。
岩や壁を道具を使わずに、自分の手足だけで登ってゆく楽しさを伝えたいと、2005年にNPOを設立 、普及活動に取り組んでいます。
今年の春には、つくば市に直営の施設をオープンし、障害のあるなしにかかわらず、誰でも参加できる場として注目されています。
フリークライミングは自然の岩や、人工の壁を人間が本来持っている能力、手や足だけを使ってするスポーツです。
登山の技術の一つ。
①ハーケンを使って、小さな梯子を使って、大岸壁を昇り切る、人工登坂
②フリークライミングは落ちて死なない様な守るすべは使うが、昇るのは人間の手足で登る。
登山からスポーツに、冒険から街中で行うものに、誰にでも開かれたものに発展してきたのが、現代のフリークライミング 人工の壁ができてからは街中で、スポーツクラブに行く様な感覚で身近に変わってきている。
自分の目標に向かって、壁の中で楽しんでいる。
16歳の時に、本屋さんで立ち読みした山の雑誌が、アメリカから入ってきた新しいスポーツ フリークライミングを始めよう、という特集を読んで、これなら自分にもできるかなあと思って、参加したのがきっかけでした。
当時30年前、人工の壁が世の中になかった時代、自然の岩に登るのが、フリークライミングでした。
最初、長野県川上村 小川山に行くが昇れなかった。
運動は当時苦手だった。
自然の中で過ごす時間の素晴らしさを感じたし、出来ようが出来まいが、自分なりの頑張り方があるんだと、そういうはまりどころがあった。
高校3年の春休みから本格始動でした。 アルバイトと、クライミングをやっていた。
大学を卒業して、旅行会社に就職して3年間、営業マンをするが、転職して顧客向けのサービスでアウトドアの教室、ツアーとかの企画運営の責任者をやらしてもらって、仕事は充実していた。
28歳で目の病気が判るときも、夜の運転、雨の運転の時に見えづらいなあと感じるようになった。
メガネ屋に行ったが、検査をして、病院に行くように言われて、そこで検査されて、直ぐに精密検査をされて、あなたは遺伝を原因とする目の網膜の病気です、この病気は進行性で、治療法はありません、近い将来失明しますと言われた。
言われても実感がなかった。
時間と共に物凄く重いものが、自分にのしかかってきた感じでした。
将来失明しますと言う事で、ガイドの仕事をやっていて、一生生きていくんだろうと思い描いていた、未来予想図が描けなくなった。 葛藤した時期が3年間あった。
新聞、雑誌の文字が読めない、車の免許が書き変えできない、沢山の事が起き始めて、自分の肉がそがれてゆく様な感じだった。
不安が、考え志向を、物凄く消極的にさせた。
仕事も続けていたが、病気が遺伝だと言われて、自分がふさぎこんだ姿を親が観たら、自分の親は親は自分のせいにするというのは、簡単に想像できるので、親の前でふさぎこんだり姿はあまり見せなかったので、其れまでの暮らしぶりとなんら変わらない暮らしをしていた。
親としてどういう風に向き合っていったらいいのか、判らなかったという風にいいます。
何をしてやったらいいのか、一生懸命考えるしかなかった、という風に言っていました。
進行している実感は当時もあった。
人との出会い 医者は、目は覗き込もうと知るけれども、人の心の中は覗き込もうとすることにできない、生き物なんだなあと思っていたぐらいだった。
病院、医療に失望を感じていた。
5つ目に友人に言われた病院に行って、見えにくい人たちに対する支援する仕組みのロービジョンケアーがあるが、そういった病院だった。
ケースワーカー 社会復帰支援、どういう風に生きていったらいいかの専門職がいて、そこで話があった時に、これから何ができなくなるのか、その日のためにどんな準備をして行ったらいいのか聞いた。
しかし言われたことは、大事なことは、これから何ができなくなるのではなくて、あなたがなにをしたいのか、どう生きていきたいのかなんですよ。
あなたにやりたいこと、生きていきたい道があるのであれば、其れのために私たちも、社会の仕組みも、周りにいる人たちも、あなたのことを支えてくれるはずですよ、もっと自分の道を生きなさいと言われた。
この事が物凄く頭に残った。
やりたいことがあったら、やり方を変えればいいんだと、転換できると、気付かされた。
その先生と出会ってから1年しないうちに、友人の結婚式に誘われて、アメリカのコロラドに行く事があった。
空港に迎えに来た日本人のクライマーが、アメリカには全盲でエベレストに登った人がいる、と言ったので、えーっとものすごい驚きだった。
世界7大陸の全部を登った人。
その話を聞いて、視覚障害者は自分が思っていたよりも、もっともっといろんなことができるかもしれないと思った。
友人は、その人の本を探して、プレゼントしてくれた。 著者はエリック・ヴァイエンマイヤー
「タッチ ザ トップ オブ ザ ワールド」 書名
エリックさんにお会いしたいと、メールを出した。
彼に会いに再びアメリカに行った。
TVの取材があるから、一緒に付き合ってくれないかと誘われる。
彼とは歳も同じで、似たような環境だった。
アメリカでは沢山の障害者がクライムを通じて、自信を持ったり、自分の中に可能性を感じたりとか、出来ている、もし日本でそういうものが、なされていないんだとしたら、小林、其れはお前の仕事だよと言ってくれた。
フリークライミングは細々とは続けていたので、自分の歩いてゆく方向と、視覚障害があっても自分はこういう風に生きていこうと言う方向とを、決定付けてくれた、病院の先生との出会い、エリックとの出会いが今の私につながっているかなと思います。
2005年からNPO立ち上げ。 「モンキーマジック」と言う名前
視覚障害者にフリークライミングを普及させる事が、設立当初の活動の大きな目的と言う形で動き始めたので、関東で月に3から4回やっていた。
情報伝達、HKK 方向、距離、形 時計の針の方向で、方向の指示をする。
距離は5段階、直ぐ近く、近くとか5段階に分けて指示する。
石(ホールド)崖についているが、肉まんみたいなのがついているとか、具体的な形状を指示する。
視覚障害者がイメージしやすい、楽しいやり方を一生懸命編みだしたらいいと思ってやっています。
スクールの参加者は延べ2500名を越えるぐらい。
3年前から新しいイベント 障害のある人とない人が、クライミングを通じて、交流をするという事を毎月1回東京で始めている。 年間500名が参加している。
目の見えない人と聞こえない人との交流。全く見えないわけではないので、その人に合わせたコミュニケーションの方法を見つけてゆく。(一つの手段として、紙に大きな文字を書くとか)
人が社会の中で暮らしてゆくなかで、あるべき姿は存在しているのでは無いかと、NPOとして当初、視覚障害にクライミングを普及することを中心に於いていたが、最近は視覚障害を中心に障害を持っている人達にクライミングを普及する事に依った、様々な環境に在る人達がもっと普通に、もっと元気に、もっと笑顔に暮らせる社会の実現を目指そうよと言う風に、成長、発展してきた。
パンフレット
小さい子から老人、男女関係なく挑戦している。
最高齢は82歳 クライミングを楽しんでいる。
人って、できないと思っていたことができた時に、獲得できる自信とか、可能性とかって、本当に大きいと思います。
できないと思ってしまっている見えない壁を作っているのは、皆さんの気持ちの中に在ると思う。
越えようと自分で行動するかどうか、と言うところが大きいのではないかと思う。
クライミングを通じて見えない壁を越える力、越えようとする気持ちとかを見つけてもらえたらいいなと思います。
つくば市に直営の施設をオープンさせた。
どなたにでも来てもらって、可能性、自信を持ってもらったりするきっかけ作りになる空間だと思っている。
楽しんでもらえるように、いろいろ工夫をしている。(温泉巡りのチェックポイトとか)
今年スペインで世界選手権がある。
2011年の大会の時には金メダルを獲得したので又金メダルを取ってきたい。
2014年7月24日木曜日
小池真理子(作家) ・今、親の死に思う(2)
小池真理子(作家) 今、親の死に思う(2)
子供の頃は神経質な子で、身体が弱かった。 控え目な子だった。
夜驚症 深夜にぱっと目を覚まして、家じゅう泣きながら走り回る。 当人は判らない。
神経質な子がなる病気だと言われた。 ほっとけば治ると言われ、高学年になったら治った。
書く事は好きで、小学校の頃、絵日記、作文などで先生から褒められた。
読むことも、幼稚園のころから読んでいて、本格的に読み始めたのは、小学校高学年のころから。
父が本が好きだったので、一室が書庫の様になっていて、「チャタレー夫人の恋人」を読んでいたら、凄く怒られて、まだ早いと言われて、高校になってから読みなさいと言われた。
中学では三島由紀夫等も読むようになった。
最初 「仮面の告白」を中学3年で読んだが、高校に入ったらラブレターに読んだ本の感想などを書き綴ったりした。
最近廻りを見ていると、人生をどう生きるかと言う、ハウツーの勉強をするためにとか、単に楽しいひと時を過ごしたいから本を読んでいたり、と言う若い人たちがとても多い様な気がして、残念です。
知的刺激で自分の中をろ過しながら、もう一回自分自身に問いかけることがたくさん出てくる。
其れを又、答えにならない答えを自分なりに編み出して、親しい人と夜を徹して語り合う事が楽しかったが、そういう楽しみが今はドンドン失われているのではないかと思う。
男女、不倫関係の話を多く書くが、不潔だとか、道徳的なことを言われてしまう事はショックだったが、モラル、常識、世間体で本を選び、其れを読んで、モラルでもって受け取ってゆくと言う、感情的にしか反応しない、もっと文学、小説と言うものは深いものを持っているはずだと思う。
読んだ人がそこから、何を得るか、何を考えるか、正確な言葉にして、人に伝えられるだけの客観性を本のなかから学びとってゆく、そういうプロセスを経て、読書の楽しみが生まれてくると思うが、そういう読者が減りつつあるなあと感じます。
小説は、作家が、今俗世で普通に行われている事、俗世で信じられている概念の様なものをぶち壊してゆくものだと、思っていたので、そういう目で本を読んできたので、道徳の教科書ではない。
不倫関係を書いたり、普通だったらこういう考え方は悪である、人間が持っている本質的な悪意について書くと、若い読者を中心に、こういう主人公には感情移入できませんと、言われてしまったりする。
三島由紀夫 彼の持っている本質的な絶望感、死生観に読んでいるうちにぐいぐい引きつけられてゆく。
感情移入ができるかできないかと、読書の楽しみは違うと思う。
書く側としては本質的な読み方をされたいなあと思います。
高校のころから作家になりたいと思っていた。 同人雑誌で詩を作っていた。
私服に着替えて、学校をさぼって喫茶店で煙草を吸って、原稿用紙に散文的なものを書きつけてきた。(高校3年生の時)
ポール・エリリアール フランスの詩人 フランソワーズ・サガン とか外国の翻訳物を読んでいた。
日本の作家を本格的に読むようになったのは社会人になってから。
出版社に就職する。 活字の世界に入れるので、少しでも作家の道がひらけるのではと、思った。
1年半で辞める。
「知的悪女のすすめ」 エッセー集 戸川昌子 霧島洋子 どちらかに書いてもらいたいと言う事で出版社時代に「知的悪女のすすめ」という題を私が考えて、案を出して、会議にかけたが駄目で、辞めて自分で生きていきたいと思ったので、あるところであなたが書けばいいじゃないと言われて、ここから小説家の道が開けるのではないかと思って、自分で書く事になった。
いろいろなメディアから取材の申し込みがあり、生真面目に最後まで責任を持たなくてはいけないので、全部取材を受けた。
講演会で9割が女性で、一人の女性がたちあがって、結婚もしていない、子供のいない人の話など聞けないと、怒鳴って会場から出て行ってしまった。
慰められたりして、「知的悪女のすすめ」がわたし自身を体現している様に思われて、虚像が独り歩きをしてしまって、嫌気がさして一切やめて、小説を書こうと言う様になったのが、30歳ぐらいだった。
暫く世間が怖くなっていた。
全て止めようと思ったときに、藤田宜永と出会って、当時フランス人と結婚していたが、相手の女性も付き合っていた人がいて円満に別れて、東京で一緒に暮らすようになって、一緒に小説を書くようになった。(31,2歳の時)
エッセー集を父が喜んで読んでくれたが、ショックを受けたようだ。(体験しないと判らないようなことも書かれていた)
1985年「第三水曜日の情事」
当初、お金がなかったが、目的がはっきりしていたし、楽しかった。
1996年 「恋」 直木賞受賞
ジャンル的にはミステリー 壁にぶち当たっていた直後で、五里霧中の時だった。
テーマが浮かばなかった。 吹雪の日に、私一人でいて、たまたま流していた音楽がバッハの「マタイ受難曲」だったが、神が降りてきたように、一瞬にして物語が決まり、登場人物の人物情景が決まった。
書斎に走っていって、忘れないように殴り書きした。
其れがその作品になったが、これから一生ないと思います。不思議でした。
それまで苦しんでいたので、苦しみの果てには、こういう救済が用意されているのかなあと、ささやかな思いはありますが。
2001年 「愛の領分」で夫が直木賞受賞
人間の本質を追いかけていきたい。 どう描くかは、その時その時の精神状態によると思うが、生、性、死 その3つは追いかけてゆくと思います。
孤独死が問題になっているが、基本的には人間は一人で死んでゆくものだと思っているので、一人で死ぬことの快楽に近いようなものも、追いかけてゆきたい気持ちはある。
3・11以後 絆、家族のつながりを大事にしようと言う機運が高まったが、結局人が生きて、死んゆくのは、周りがこうしなくてはいけないとか、決めてゆくものではなく、自分自身の考えや、死生観に基ずいて、自然にかたちができてゆく物ではないかなあと思うので、小説を書く人間として、自分自身の事を中心に据えながら、人の生、性、死を追いかけてゆきたいと言うのが、今の想いです。
子供の頃は神経質な子で、身体が弱かった。 控え目な子だった。
夜驚症 深夜にぱっと目を覚まして、家じゅう泣きながら走り回る。 当人は判らない。
神経質な子がなる病気だと言われた。 ほっとけば治ると言われ、高学年になったら治った。
書く事は好きで、小学校の頃、絵日記、作文などで先生から褒められた。
読むことも、幼稚園のころから読んでいて、本格的に読み始めたのは、小学校高学年のころから。
父が本が好きだったので、一室が書庫の様になっていて、「チャタレー夫人の恋人」を読んでいたら、凄く怒られて、まだ早いと言われて、高校になってから読みなさいと言われた。
中学では三島由紀夫等も読むようになった。
最初 「仮面の告白」を中学3年で読んだが、高校に入ったらラブレターに読んだ本の感想などを書き綴ったりした。
最近廻りを見ていると、人生をどう生きるかと言う、ハウツーの勉強をするためにとか、単に楽しいひと時を過ごしたいから本を読んでいたり、と言う若い人たちがとても多い様な気がして、残念です。
知的刺激で自分の中をろ過しながら、もう一回自分自身に問いかけることがたくさん出てくる。
其れを又、答えにならない答えを自分なりに編み出して、親しい人と夜を徹して語り合う事が楽しかったが、そういう楽しみが今はドンドン失われているのではないかと思う。
男女、不倫関係の話を多く書くが、不潔だとか、道徳的なことを言われてしまう事はショックだったが、モラル、常識、世間体で本を選び、其れを読んで、モラルでもって受け取ってゆくと言う、感情的にしか反応しない、もっと文学、小説と言うものは深いものを持っているはずだと思う。
読んだ人がそこから、何を得るか、何を考えるか、正確な言葉にして、人に伝えられるだけの客観性を本のなかから学びとってゆく、そういうプロセスを経て、読書の楽しみが生まれてくると思うが、そういう読者が減りつつあるなあと感じます。
小説は、作家が、今俗世で普通に行われている事、俗世で信じられている概念の様なものをぶち壊してゆくものだと、思っていたので、そういう目で本を読んできたので、道徳の教科書ではない。
不倫関係を書いたり、普通だったらこういう考え方は悪である、人間が持っている本質的な悪意について書くと、若い読者を中心に、こういう主人公には感情移入できませんと、言われてしまったりする。
三島由紀夫 彼の持っている本質的な絶望感、死生観に読んでいるうちにぐいぐい引きつけられてゆく。
感情移入ができるかできないかと、読書の楽しみは違うと思う。
書く側としては本質的な読み方をされたいなあと思います。
高校のころから作家になりたいと思っていた。 同人雑誌で詩を作っていた。
私服に着替えて、学校をさぼって喫茶店で煙草を吸って、原稿用紙に散文的なものを書きつけてきた。(高校3年生の時)
ポール・エリリアール フランスの詩人 フランソワーズ・サガン とか外国の翻訳物を読んでいた。
日本の作家を本格的に読むようになったのは社会人になってから。
出版社に就職する。 活字の世界に入れるので、少しでも作家の道がひらけるのではと、思った。
1年半で辞める。
「知的悪女のすすめ」 エッセー集 戸川昌子 霧島洋子 どちらかに書いてもらいたいと言う事で出版社時代に「知的悪女のすすめ」という題を私が考えて、案を出して、会議にかけたが駄目で、辞めて自分で生きていきたいと思ったので、あるところであなたが書けばいいじゃないと言われて、ここから小説家の道が開けるのではないかと思って、自分で書く事になった。
いろいろなメディアから取材の申し込みがあり、生真面目に最後まで責任を持たなくてはいけないので、全部取材を受けた。
講演会で9割が女性で、一人の女性がたちあがって、結婚もしていない、子供のいない人の話など聞けないと、怒鳴って会場から出て行ってしまった。
慰められたりして、「知的悪女のすすめ」がわたし自身を体現している様に思われて、虚像が独り歩きをしてしまって、嫌気がさして一切やめて、小説を書こうと言う様になったのが、30歳ぐらいだった。
暫く世間が怖くなっていた。
全て止めようと思ったときに、藤田宜永と出会って、当時フランス人と結婚していたが、相手の女性も付き合っていた人がいて円満に別れて、東京で一緒に暮らすようになって、一緒に小説を書くようになった。(31,2歳の時)
エッセー集を父が喜んで読んでくれたが、ショックを受けたようだ。(体験しないと判らないようなことも書かれていた)
1985年「第三水曜日の情事」
当初、お金がなかったが、目的がはっきりしていたし、楽しかった。
1996年 「恋」 直木賞受賞
ジャンル的にはミステリー 壁にぶち当たっていた直後で、五里霧中の時だった。
テーマが浮かばなかった。 吹雪の日に、私一人でいて、たまたま流していた音楽がバッハの「マタイ受難曲」だったが、神が降りてきたように、一瞬にして物語が決まり、登場人物の人物情景が決まった。
書斎に走っていって、忘れないように殴り書きした。
其れがその作品になったが、これから一生ないと思います。不思議でした。
それまで苦しんでいたので、苦しみの果てには、こういう救済が用意されているのかなあと、ささやかな思いはありますが。
2001年 「愛の領分」で夫が直木賞受賞
人間の本質を追いかけていきたい。 どう描くかは、その時その時の精神状態によると思うが、生、性、死 その3つは追いかけてゆくと思います。
孤独死が問題になっているが、基本的には人間は一人で死んでゆくものだと思っているので、一人で死ぬことの快楽に近いようなものも、追いかけてゆきたい気持ちはある。
3・11以後 絆、家族のつながりを大事にしようと言う機運が高まったが、結局人が生きて、死んゆくのは、周りがこうしなくてはいけないとか、決めてゆくものではなく、自分自身の考えや、死生観に基ずいて、自然にかたちができてゆく物ではないかなあと思うので、小説を書く人間として、自分自身の事を中心に据えながら、人の生、性、死を追いかけてゆきたいと言うのが、今の想いです。
2014年7月23日水曜日
小池真理子(作家) ・今、親の死に思う(1)
小池真理子(作家) 今、親の死に思う(1)
小池さんは恋愛小説家の第一人者と云われていて、直木賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、吉川映治文学賞などを受賞しています。
1952年 東京都生まれ 61歳、 25歳の時にエッセー「知的悪女のすすめ」を出版し、一躍有名になりますが、小説家になりたいと言う気持ちを持ち続け、7年後に「第三水曜日の情事」で、小説家に転向、1996年に「恋」で直木賞を受賞しました。
そして、一昨年父をモデルに描いた、「沈黙の人」を出版し、吉川映治文学賞を受賞しました。
今年は7つの短編を纏めた「そなちね」が話題となっています。
ここ数年で両親を相次いで亡くした、小池さんに、死に対する思いや書くことへの変化などを伺います。
夫は隣りの仕事場、私は家の書斎で仕事をする。 午前中は家事をやる。 午後に6時ごろまで書斎で、書いたり、読んだりしている。 夜も書きたくないが、書きものをする。
夫は作家の藤田宜永。 1984年に結婚 30年近くになる。
夫はパリにかつて住んでいて、エール・フランスの航空会社に務めていたが、文学志向が強かった。
日本に来た時に友人に紹介してもらって、恋に落ちて、一緒になる。(入籍はしなかった)
両方とも、子供は持ちたくないと言う想いがあった。
歳をとるといつ何があるかわからないことから数年前には入籍した。
ライバル意識はどうしても出てくる。(売れ行き、評価され方、文学賞の受賞など)
直木賞受賞は私が先となった。
「恋」と言う作品は、私としても、いとおしい作品で、ほぼパーフェクトに近い感じで書けた。
夫の方が候補になっていて、滑り込みで私も候補になった。
新聞とか、事前のインタビューを夫と一緒に受けた。
選考会で、私の方がいい様な状態で進んでいるようで、電話がかかってきて、嬉しいと言うよりも夫の事が気になった。
記者会見の前に20~30分、時間があって、妹から電話があって、夫の事を聞かれ、駄目だったと言ったら、そこでお互いが泣きだしてしまった。
ある瞬間に、自然な人間の気持ちと言うものは、出るものなのだんなあと言うのは、良く覚えている。
1978年 「知的悪女のすすめ」で作家デビュー、1985年 「第三水曜日の情事」で、小説家でデビュー
1996年 「恋」で直木賞を受賞 其れから18年になる。
直木賞受賞前はミステリーのジャンル その後は手かせ、足かせが無くなって、自由になったという感じがある。
自由な気持ちで書けるようになった。
文学賞の対象にはならないだろうという思いがあり、受賞するとは思ってなかったので、嬉しかった。
2009年父、2013年に母を亡くす。
父はパーキンソン病を発症してから亡くなるまで12年ぐらいあった。
手足が動きにくくなってきて、声が出にくくなって、筆談も出来ない。
会話ができなくなってゆく。 コミュニケーションが全くできなくなってしまった。
2000年前後ぐらいから症状が始まっていて、病院にいく検査に一緒に立ちあったりして、母が認知症の症状が段々出てきて、親が元気の時は、親はいつでもいるものだとの想いがあったが、まさか親の介護をするものとは、夢にも思わなかった。(介護に関する知識はあったが、まさかと言う感じ)
取り上げるテーマ、使う言葉とか、明らかに変わっていった。
明らかに変容してゆく姿を見ながら、正直なところ、自分の人生を選びたいとおもっていたが、相当目の前が暗くなったと言う、感はあった。
2012年 「沈黙の人」 吉川英治文学賞を受賞。
私の父をモデルに書いた。 フィクションはあるが。
話ができなかったので、何を考えているのか、複雑な彼の気持ち表すことを失っていた、できないまま亡くなってしまったので、物凄く娘としてせつなかった。
手が動けるうちに、ワープロを使って、短い文章、手紙を書いて、私のところにそれが来ていた。
最後にまりちゃんに話しておきたいことがある、パパの昔のことだけど、と言う事で、短い文章だった。
父は何を話したかったんだろうと、考えているうちに、編集者からそんな大事なテーマだったら、きちんと小説にして、残されたらどうですかと言われて、謎めいた言葉を残して亡くなった父の全貌を私なりに解釈して書けるのかなあと思って、連載を始めたのが、「沈黙の人」と言う作品だったんです。
父が病院のベッドの奥の方に段ボール箱にしまってあったもの、性具、性的な道具、ビニ本、ビデオ が入っていた。
妹と一緒に其れを見て爆笑してしまった。 ショックはなかった。
車椅子の中で動けなくなって、いつも自分の膝を見ていた様な人が、影ではこんな楽しみがあったんだと、判って凄くうれしかったし、感動した。
そういう事も含めて書く事になる。
編集者との波長が一つになったというか、書くべきものだと言う事が判った瞬間だった。
「そなちね」 7つの物語が収められている。(2007年からのもの)
全体を貫くテーマはエロスと死 愛や死をテーマに人生を訪れる一生を捉えた短編を集めている。
オール読物で年に一回、官能特集、エロス特集と言う様な物をやっていて、都度原稿依頼されて、エロティックな話が多い。
エロスを書く事によって、人の死も書く、そこに表裏一体のものを感じながら書いている。
死のにおいが濃厚にある。
ヒロインは年齢的には中高年。
テーマが下りてくるのではなく、あるシーンが下りてくる、特に短編などはそうです。
精神的に抱えているものが濃厚に出てくる、特に短編は。
若いころ考えられなかったような、精神的な問題も抱えていかなくてはいけないし、楽しい事ばかりではないし、生きると言う事は苦悩の連続で有って、苦悩の連続の中にさんさんと光が射す瞬間があると言う事を、年が取ればとるほど判ってくる。
そういう事が、小説のテーマになったり、情景になったりする。
社会的な問題意識を持って、何かを調べて、人に取材をしてゆくと言う形を取っていないので、基本は私と言う人間が今何を書くか、何を残すかと言う事で書いているので、身体、頭が正常に機能している間は、書く事は無くならないだろうと思っています。
小池さんは恋愛小説家の第一人者と云われていて、直木賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、吉川映治文学賞などを受賞しています。
1952年 東京都生まれ 61歳、 25歳の時にエッセー「知的悪女のすすめ」を出版し、一躍有名になりますが、小説家になりたいと言う気持ちを持ち続け、7年後に「第三水曜日の情事」で、小説家に転向、1996年に「恋」で直木賞を受賞しました。
そして、一昨年父をモデルに描いた、「沈黙の人」を出版し、吉川映治文学賞を受賞しました。
今年は7つの短編を纏めた「そなちね」が話題となっています。
ここ数年で両親を相次いで亡くした、小池さんに、死に対する思いや書くことへの変化などを伺います。
夫は隣りの仕事場、私は家の書斎で仕事をする。 午前中は家事をやる。 午後に6時ごろまで書斎で、書いたり、読んだりしている。 夜も書きたくないが、書きものをする。
夫は作家の藤田宜永。 1984年に結婚 30年近くになる。
夫はパリにかつて住んでいて、エール・フランスの航空会社に務めていたが、文学志向が強かった。
日本に来た時に友人に紹介してもらって、恋に落ちて、一緒になる。(入籍はしなかった)
両方とも、子供は持ちたくないと言う想いがあった。
歳をとるといつ何があるかわからないことから数年前には入籍した。
ライバル意識はどうしても出てくる。(売れ行き、評価され方、文学賞の受賞など)
直木賞受賞は私が先となった。
「恋」と言う作品は、私としても、いとおしい作品で、ほぼパーフェクトに近い感じで書けた。
夫の方が候補になっていて、滑り込みで私も候補になった。
新聞とか、事前のインタビューを夫と一緒に受けた。
選考会で、私の方がいい様な状態で進んでいるようで、電話がかかってきて、嬉しいと言うよりも夫の事が気になった。
記者会見の前に20~30分、時間があって、妹から電話があって、夫の事を聞かれ、駄目だったと言ったら、そこでお互いが泣きだしてしまった。
ある瞬間に、自然な人間の気持ちと言うものは、出るものなのだんなあと言うのは、良く覚えている。
1978年 「知的悪女のすすめ」で作家デビュー、1985年 「第三水曜日の情事」で、小説家でデビュー
1996年 「恋」で直木賞を受賞 其れから18年になる。
直木賞受賞前はミステリーのジャンル その後は手かせ、足かせが無くなって、自由になったという感じがある。
自由な気持ちで書けるようになった。
文学賞の対象にはならないだろうという思いがあり、受賞するとは思ってなかったので、嬉しかった。
2009年父、2013年に母を亡くす。
父はパーキンソン病を発症してから亡くなるまで12年ぐらいあった。
手足が動きにくくなってきて、声が出にくくなって、筆談も出来ない。
会話ができなくなってゆく。 コミュニケーションが全くできなくなってしまった。
2000年前後ぐらいから症状が始まっていて、病院にいく検査に一緒に立ちあったりして、母が認知症の症状が段々出てきて、親が元気の時は、親はいつでもいるものだとの想いがあったが、まさか親の介護をするものとは、夢にも思わなかった。(介護に関する知識はあったが、まさかと言う感じ)
取り上げるテーマ、使う言葉とか、明らかに変わっていった。
明らかに変容してゆく姿を見ながら、正直なところ、自分の人生を選びたいとおもっていたが、相当目の前が暗くなったと言う、感はあった。
2012年 「沈黙の人」 吉川英治文学賞を受賞。
私の父をモデルに書いた。 フィクションはあるが。
話ができなかったので、何を考えているのか、複雑な彼の気持ち表すことを失っていた、できないまま亡くなってしまったので、物凄く娘としてせつなかった。
手が動けるうちに、ワープロを使って、短い文章、手紙を書いて、私のところにそれが来ていた。
最後にまりちゃんに話しておきたいことがある、パパの昔のことだけど、と言う事で、短い文章だった。
父は何を話したかったんだろうと、考えているうちに、編集者からそんな大事なテーマだったら、きちんと小説にして、残されたらどうですかと言われて、謎めいた言葉を残して亡くなった父の全貌を私なりに解釈して書けるのかなあと思って、連載を始めたのが、「沈黙の人」と言う作品だったんです。
父が病院のベッドの奥の方に段ボール箱にしまってあったもの、性具、性的な道具、ビニ本、ビデオ が入っていた。
妹と一緒に其れを見て爆笑してしまった。 ショックはなかった。
車椅子の中で動けなくなって、いつも自分の膝を見ていた様な人が、影ではこんな楽しみがあったんだと、判って凄くうれしかったし、感動した。
そういう事も含めて書く事になる。
編集者との波長が一つになったというか、書くべきものだと言う事が判った瞬間だった。
「そなちね」 7つの物語が収められている。(2007年からのもの)
全体を貫くテーマはエロスと死 愛や死をテーマに人生を訪れる一生を捉えた短編を集めている。
オール読物で年に一回、官能特集、エロス特集と言う様な物をやっていて、都度原稿依頼されて、エロティックな話が多い。
エロスを書く事によって、人の死も書く、そこに表裏一体のものを感じながら書いている。
死のにおいが濃厚にある。
ヒロインは年齢的には中高年。
テーマが下りてくるのではなく、あるシーンが下りてくる、特に短編などはそうです。
精神的に抱えているものが濃厚に出てくる、特に短編は。
若いころ考えられなかったような、精神的な問題も抱えていかなくてはいけないし、楽しい事ばかりではないし、生きると言う事は苦悩の連続で有って、苦悩の連続の中にさんさんと光が射す瞬間があると言う事を、年が取ればとるほど判ってくる。
そういう事が、小説のテーマになったり、情景になったりする。
社会的な問題意識を持って、何かを調べて、人に取材をしてゆくと言う形を取っていないので、基本は私と言う人間が今何を書くか、何を残すかと言う事で書いているので、身体、頭が正常に機能している間は、書く事は無くならないだろうと思っています。
2014年7月22日火曜日
千葉作龍(五代目ねぶた名人) ・ねぶたの魔力に魅かれ続けて(2)
千葉作龍(五代目ねぶた名人) ねぶたの魔力に魅かれ続けて(2)
一番最初考えたのは、いずれ人間死ぬんだと考えたら、ちょっとずつ気が楽になって、流れに流されようとした。
そのうちどこかに打ち上げられるだろうと言う、開き直りだった。
7年間作品に勢いがなかった。 技術はあったので作品は作れることはできたが、でも辛かった。
先輩方に近ずいていきたかったが。
人の言葉は案外当てにならないと思っていた。
自分でどうにかしなければいけないとは判ったいた。
音楽、映画 はかなり癒してくれた。
千葉は賞を取るのが早すぎたとか、千葉は慢心していると言う様な雑音は聞こえてきた。
ある日突然、映画を見ていたら、泉谷しげる 陣内孝則(映画はハードロックでやっているもの)
泉谷しげるの顔のアップが出てきて、その目を、その年の作品に試した。
そうしたら納得でき、その後はとんとん拍子で、何を作ってもよかった。
落ちなければ駄目と、今は自信を持って言える。
自分で這いあがってこなければ駄目。
死んだ気になれば、なんでもできるとう言葉があるが、大抵の人は死んだ気にならない。
苦しんだ時期は32歳ぐらいの頃だった。
ねぷた(弘前)とねぶた(御所河原、青森)の違いは 方言の発音の違いで、お互い形が全く違う。
弘前は末広がりの平面の絵です。 津軽為信が秀吉にお目通りしたときに、ほら話をした。
うちの方にはでっかい灯籠があります、ということがきっかけだった、という話もありますが、はっきりしたところは判っていないかもしれない。
江戸末期葛飾北斎が有名になったが、その人の 三国志の挿絵が、版画になって出廻って、弘前の人たちが好んで描くようになった。
現在、95%ぐらいは三国志、水滸伝の図柄になっている。
青森、油川に(今は市内) 港があってねぶたをやったという、残っていて文献では一番先。
最初は全部立体だったが、弘前だけが扇になっちゃって、周りは取り残されているので立体なんです。
五所川原はたちねぶた、10年前から凄く人気があり、でかいんです。
明治の頃は青森でも、たちねぶたもやっていた。
弘前は 「やーやどー」と言って跳ねまわったりしないで、はやしも哀愁が満ちている。
青森は どんちゃん騒ぎ 「らっせらー」 語源については諸説ある。
弘前は、これから出陣する、青森は凱旋 に当てはまる。
七夕の行事 旧暦の7月1日~7日まで行う。
私も一観客の目線で見て、よしあしを判断できる。
お客さんが喜んでいる姿を見るのが一番うれしい、やりがいがある。
祭りが終わると全部壊す。 自分としては無くなった方が有難い、できの良しあしにかかわらず。
ねぶたは6日間のために作っているので、祭りの終わったねぶたは、同じものでも魅力はない。
桜は1週間で散ってしまうので、熱狂して花見に行くが、年がら年中咲いていたら、見に行かないと思う、其れと同様だと思う。
「じょっぱり」 意地っ張り 半世紀やってきたのでじょぱりかもしれない。
音楽で一番好きなのは、オペラ マリアとか、「きたろう」とか、「姫神」とか、かなり傾倒していました。
情景が浮かんできて、匂いを感じる。 きたろうは精神世界に入ってゆく、完全に引きこまれる。
自分の世界にとじ込める、心地よさはある。
映画は好きです。 子供のころから見ている。 高校生のころから、良く見た、ほとんど洋画ですが。
人生勉強は全部映画でしました。 映画が人生の師です。
若いころから真言密教に興味があって、自分なりに勉強した。(書物、映画など)
東北が鬼門と言われるが、京都から見たら、方位で東北が鬼門であることが判って、そのときいた人たちはアテルイとか攻められていた人達。
時代を経ても阿部一族、藤原四代 その辺のところを勉強していたら、愛着がわいてきて、そこにアテルイが登場してきたわけです。
其れをねぶたにしたり、 其れが縁で姫神の星さんともなかよくなれた。
阿部貞任(盛岡の人) の話を酒を酌み交わしながら星さんと話をしていたら、それがそのまんまその年のねぶたにってしまった、そんなこともあった。
思い、性格も絶対作品に出る。 鬼を誇りと思うべし、と言う様な意識。 鬼は嫌いではない。
鬼を悪く描くねぶたは作ったことはない。
大震災から何カ月してから、ねぶたを被災地の人に見せたいと思った、しかし台風がきそうだった。
台風除けの祈願を、中尊寺に行っておこなって、そこで中尊寺の様に立派に復興してとの思いと、アテルイ、清衡、そこで題材を貰えたと思った。
翌年、其れを題材にしてねぶた作りを迷いなく行う事が出来た。
年を取ってきたら、楽しくなってきた、ねぶたを作っていられることは、この上ないし幸せだなあと若いころより感じますね。
「名人が語る、ねぶたにかけた半世紀」 出版 自分の想い、先人たちの想いを伝えたいとの思いがある。
初代から5代までを250ページに記載、 構想は4年ぐらいだが、書いたのは4か月間。
毎日3時間ぐらい書きました。(ねぶた作っていたほうが楽だった、全くの素人)
次世代の人に対して?
ねぶたの本来の心が理解できているのかなあとの危惧がある。
ねぶたは芸術であるとか、そんな理屈ばっかり言うが、そんなことはどうでもよくて、ねぶたにしかない精神を受け継いでほしい、其れを感じ取ってほしい。
観光用にほとんどなって、受け狙いだとか、豪華になればいいんだとか、そういう事ではなくて
本当にねぶたの精神を感じられる製作者になってほしい。
若い人も地獄に落ちた方がいい、そこから上がってきたやつが本物ですから。
一番最初考えたのは、いずれ人間死ぬんだと考えたら、ちょっとずつ気が楽になって、流れに流されようとした。
そのうちどこかに打ち上げられるだろうと言う、開き直りだった。
7年間作品に勢いがなかった。 技術はあったので作品は作れることはできたが、でも辛かった。
先輩方に近ずいていきたかったが。
人の言葉は案外当てにならないと思っていた。
自分でどうにかしなければいけないとは判ったいた。
音楽、映画 はかなり癒してくれた。
千葉は賞を取るのが早すぎたとか、千葉は慢心していると言う様な雑音は聞こえてきた。
ある日突然、映画を見ていたら、泉谷しげる 陣内孝則(映画はハードロックでやっているもの)
泉谷しげるの顔のアップが出てきて、その目を、その年の作品に試した。
そうしたら納得でき、その後はとんとん拍子で、何を作ってもよかった。
落ちなければ駄目と、今は自信を持って言える。
自分で這いあがってこなければ駄目。
死んだ気になれば、なんでもできるとう言葉があるが、大抵の人は死んだ気にならない。
苦しんだ時期は32歳ぐらいの頃だった。
ねぷた(弘前)とねぶた(御所河原、青森)の違いは 方言の発音の違いで、お互い形が全く違う。
弘前は末広がりの平面の絵です。 津軽為信が秀吉にお目通りしたときに、ほら話をした。
うちの方にはでっかい灯籠があります、ということがきっかけだった、という話もありますが、はっきりしたところは判っていないかもしれない。
江戸末期葛飾北斎が有名になったが、その人の 三国志の挿絵が、版画になって出廻って、弘前の人たちが好んで描くようになった。
現在、95%ぐらいは三国志、水滸伝の図柄になっている。
青森、油川に(今は市内) 港があってねぶたをやったという、残っていて文献では一番先。
最初は全部立体だったが、弘前だけが扇になっちゃって、周りは取り残されているので立体なんです。
五所川原はたちねぶた、10年前から凄く人気があり、でかいんです。
明治の頃は青森でも、たちねぶたもやっていた。
弘前は 「やーやどー」と言って跳ねまわったりしないで、はやしも哀愁が満ちている。
青森は どんちゃん騒ぎ 「らっせらー」 語源については諸説ある。
弘前は、これから出陣する、青森は凱旋 に当てはまる。
七夕の行事 旧暦の7月1日~7日まで行う。
私も一観客の目線で見て、よしあしを判断できる。
お客さんが喜んでいる姿を見るのが一番うれしい、やりがいがある。
祭りが終わると全部壊す。 自分としては無くなった方が有難い、できの良しあしにかかわらず。
ねぶたは6日間のために作っているので、祭りの終わったねぶたは、同じものでも魅力はない。
桜は1週間で散ってしまうので、熱狂して花見に行くが、年がら年中咲いていたら、見に行かないと思う、其れと同様だと思う。
「じょっぱり」 意地っ張り 半世紀やってきたのでじょぱりかもしれない。
音楽で一番好きなのは、オペラ マリアとか、「きたろう」とか、「姫神」とか、かなり傾倒していました。
情景が浮かんできて、匂いを感じる。 きたろうは精神世界に入ってゆく、完全に引きこまれる。
自分の世界にとじ込める、心地よさはある。
映画は好きです。 子供のころから見ている。 高校生のころから、良く見た、ほとんど洋画ですが。
人生勉強は全部映画でしました。 映画が人生の師です。
若いころから真言密教に興味があって、自分なりに勉強した。(書物、映画など)
東北が鬼門と言われるが、京都から見たら、方位で東北が鬼門であることが判って、そのときいた人たちはアテルイとか攻められていた人達。
時代を経ても阿部一族、藤原四代 その辺のところを勉強していたら、愛着がわいてきて、そこにアテルイが登場してきたわけです。
其れをねぶたにしたり、 其れが縁で姫神の星さんともなかよくなれた。
阿部貞任(盛岡の人) の話を酒を酌み交わしながら星さんと話をしていたら、それがそのまんまその年のねぶたにってしまった、そんなこともあった。
思い、性格も絶対作品に出る。 鬼を誇りと思うべし、と言う様な意識。 鬼は嫌いではない。
鬼を悪く描くねぶたは作ったことはない。
大震災から何カ月してから、ねぶたを被災地の人に見せたいと思った、しかし台風がきそうだった。
台風除けの祈願を、中尊寺に行っておこなって、そこで中尊寺の様に立派に復興してとの思いと、アテルイ、清衡、そこで題材を貰えたと思った。
翌年、其れを題材にしてねぶた作りを迷いなく行う事が出来た。
年を取ってきたら、楽しくなってきた、ねぶたを作っていられることは、この上ないし幸せだなあと若いころより感じますね。
「名人が語る、ねぶたにかけた半世紀」 出版 自分の想い、先人たちの想いを伝えたいとの思いがある。
初代から5代までを250ページに記載、 構想は4年ぐらいだが、書いたのは4か月間。
毎日3時間ぐらい書きました。(ねぶた作っていたほうが楽だった、全くの素人)
次世代の人に対して?
ねぶたの本来の心が理解できているのかなあとの危惧がある。
ねぶたは芸術であるとか、そんな理屈ばっかり言うが、そんなことはどうでもよくて、ねぶたにしかない精神を受け継いでほしい、其れを感じ取ってほしい。
観光用にほとんどなって、受け狙いだとか、豪華になればいいんだとか、そういう事ではなくて
本当にねぶたの精神を感じられる製作者になってほしい。
若い人も地獄に落ちた方がいい、そこから上がってきたやつが本物ですから。
2014年7月21日月曜日
千葉作龍(五代目ねぶた名人) ・ねぶたの魔力に魅かれ続けて(1)
千葉作龍(五代目ねぶた名人) ねぶたの魔力に魅かれ続けて(1)
青森市でねぶたを50年作っている。 千葉さん 65歳
8月に入るとねぶた祭りの夏がやってきます。
青森市、五所川原市、弘前市のねぶた祭りには、大勢の人が集まり故郷に残るお祭りに参加して、真夏の夜を楽しみます。
ねぶたを作るねぶた師は、およそ1年を掛けて作品に取り組みます。
構想から始まって、下絵を書き、針金と木で骨組みを作り、1000個以上の電球を取り付けが終わると、和紙の切り貼り作業、そして真っ白な強大なはりこに色塗りをして、最後は「まなこ」を入れて、気の抜けない日々が7月一杯続きます。
先の事は考えないで、作業する。 先のことを考えると精神的に落ち着かなくなってしまう。
最後は顔を書くが、絶対的に精神を安定させなければ駄目、集中できるために、余裕がないと駄目、あえてそういう環境作りするために音楽を掛けたりする。
描きあがった時の気持ちは、安堵感。
満足できるかどうかは、明かりが入って路上を練って歩く、其れを見ないと駄目。
8月2日から7日まで行われる。
自分の作品が出てゆくときには、もう自分を離れている。
娘を嫁に出すような心境。
ねぶたの準備は?
ねぶたの終わった直後は、ねぶたのねの字も聞きたくない、のんびりして山へ行ったりして、日常に戻る訓練をする。
若い頃に比べると、早く戻れるようになったが、涼しくなったころから、自分を取り戻す実感がある。
家の中を整理したりして、構想を練り始める。
構想はその時から始まって、次の年の夏に完了するのではなくて、何年も続く事がある。
あと旅をして、知らないところに行くと、新しいものが自分に入ってきて、役に立つ事がある。
狙ってゆく事もある。 そうすると近ずいたような気になる。
11月ごろに纏めて、絵にする。
30年以上前に一回やったことがある物を、自分の中ではまったくあたらしいもの、を今年はやろうとしている。
毎年毎年まっさらな気持ちでやっている。
ずーっとねぶた漬けでいるんですが、感覚は新鮮なものです。
本番に練り歩く時に、全く自分から離れたものに感じる、勝手に魂が入って、独り歩きしている、その時に初めて自分は客観的に見れる。
その時によしあしが、自分の中では判断できる。(作っている時には、判断できない)
ねぶたの出来が良かった時には、作っていてよかったなあと思います。
幸せだなあと思います。 でも本当に幸せは、今、作っている時ではないかと思う。
下絵が出来上がれば、弟子が来てパーツを作る。 手とか、握りこぶしとか 結構時間がかかる。
2月には作り始める。
青森港のところに、一杯大きなテントがある。 テントは高さが20m 両幅が10mずつあり、はりこの大きな作品があり、色を塗り始めた処。
時代と共に様変わりしている。
平成4年に青森港の近くに、集まって作業しているが、以前は1台ずつ、市内に点在、空き地を利用したりしてやっていた。
20歳の時にはじめて大型ねぶたを作ったが、今年で48年目ですね。
父がやはりねぶたを作っていたので、12歳ぐらいから手伝っていた。(50年以上になる)
父は絶対に教えなかった、教えたくないのでなく、教えてもしょうがない、口で言っても駄目、見て覚える。
言葉で教えられるものは、本当に初歩的なものだけ、後は見て覚える、或いは自分の中で組みたてて、成るほどと言う風に納得しないと、できるようにはならない。
父は褒めてくれることは一切なかったが、自分でもそう理解していたので、皆さんそうです。
ねぶたの作り方が文章にならないのは、そのわけです、書きようがない、言葉では表現できない。
父の時代は竹で作っていた。 今は100%針金 昭和42,3年ぐらいまで竹は続いた。
昭和35,6年あたりから竹と針金を併用した。
併用した人が、名人と言われた、初代、第2代名人の北川金三郎さん、北川啓三さんと言う人。
竹は自由自在にはならないが、針金は自由自在に曲げられるので、凄いリアリティーがあり、其れを作りたい、と子供心に思った。
北川さんが作ってるところを、隙間から覗いて、頭に叩きこんで、忘れたり、判らないところを何べんとなくのぞきに行った。
父のまねをするのではなかったので、父としては面白くはなかったようだが、好きにやれと言う様な感じだった。
父は本業があったので、ボランティア、四六時中、やるわけにはいかなかったので、母親は私がやることによって、もってこいだったのかもしれない。
父としては気にいらないが、やる気があるので、父は買ってくれた。
父は看板屋 絵を描きたかったらしいが、私が後を継げば、自分はそのうち絵を描けると思っていたようだ。(話はなかったが、判った)
看板屋を継ぐ事になるが、父は亡くなってしまう。
5,6年は看板屋で職人としてやってきて、その後看板屋として独立するが、ねぶたを作るためだった。(自分の時間がほしかったから)
当時 ねぶたを作る人は7~8人だった。
弟子志願は結構いた、団塊の世代の連中。 私もその一人ですが。
ねぶたを作っていると出会いがあり、ライバル意識もあった。
残る人もあり、辞めていった人もあるが、その差は情熱ですかね。
ねぶたを作ると言う事は、生活できないものなので、本業を持っていなければいけなくて、両立と言うのはなかなか難しい。
看板屋として独立したのは、自分の時間がほしいからです。
ねぶた 文献に出てくるのは200年前。 大正時代の写真では1,2人で担げるようなものだった。
第二次世界大戦の後は、青森は焼け野原になってしまっていた。
昭和21年にはねぶたをやっている。 19年にも実際はやっていた、公式には記録はないが。
ねぶたは食べものと一緒でねぶたがないと生きていけない感じ。
生まれた時からねぶたがあるし、うまく理解できないが、考えてみると不思議ですね。
半年近くは雪の中、其れが夏場に一気に噴き出る、そういう感じがしないわけではない。
だからあの様なエネルギッシュな祭りになったのかなあという思いがある。
ねぶたはあって当たり前。
戦時中は戦意高揚、戦後はGHQきて、戦闘的な場面は駄目と言う事があったようだ。
刀を持ってはいけないとか、でもあっという間に元に戻る。
最初 20歳の時は 船弁慶 平知盛 が好きだった。
製作中は先輩たちが来て、色々言ってきたが、その人たちのおかげで勉強できた。
中には逆なことを言って来て困ったこともある。
でき上った時は、訳もなく涙ぼろぼろだった。
気付いた時には、意識を越えてしまった状態に自分の居ることがやっと判ったという様な、安堵感というか、涙ボロボロでした。
先輩がたのねぶたと一緒に歩けた、そういうスタートが切れたと言う安堵感だけでした。
最優秀賞、ねぶた賞など頂いたが、スランプが来る。
病気をしてしまった。 ストレスからくる自律神経失調症(当時はそういう名称は無かった)
心臓が数えきれないほど早くなるが、病院に行くと治ってしまう。
いろいろ病院を廻ってある医者から、あなたは性格がこまやかだから、其れを治しなさいと言われる。
それで気は楽になったが、しかし直ぐには治らず、7年ぐらいは苦しんだ。
死の恐怖と闘いながら、ねぶたを作らなければいけないので、当然好いものはできるわけがなかった。
精神的なものであろうと、わらをも掴む思いで、祈祷師のところに行ったが、ろうそくの炎が変な燃え方をしたり何か異常なんです、祈祷師から言われた。
あなたは馬を粗末にした事はありませんでしたか、と言われた。
実は、馬のねぶたを作って寸法が合わないので、馬の足を切り取って、その日に放っておいてごみにした事があった。
馬が苦しんでいる姿が見えると言われた。
逆にその世界にのめり込んだ。
密教の世界を勉強して、空海と出会う事になる。
空海、真言宗のことを勉強して、いろんなことがわかってきて、学んだところが全てねぶたの題材だった。
青森市でねぶたを50年作っている。 千葉さん 65歳
8月に入るとねぶた祭りの夏がやってきます。
青森市、五所川原市、弘前市のねぶた祭りには、大勢の人が集まり故郷に残るお祭りに参加して、真夏の夜を楽しみます。
ねぶたを作るねぶた師は、およそ1年を掛けて作品に取り組みます。
構想から始まって、下絵を書き、針金と木で骨組みを作り、1000個以上の電球を取り付けが終わると、和紙の切り貼り作業、そして真っ白な強大なはりこに色塗りをして、最後は「まなこ」を入れて、気の抜けない日々が7月一杯続きます。
先の事は考えないで、作業する。 先のことを考えると精神的に落ち着かなくなってしまう。
最後は顔を書くが、絶対的に精神を安定させなければ駄目、集中できるために、余裕がないと駄目、あえてそういう環境作りするために音楽を掛けたりする。
描きあがった時の気持ちは、安堵感。
満足できるかどうかは、明かりが入って路上を練って歩く、其れを見ないと駄目。
8月2日から7日まで行われる。
自分の作品が出てゆくときには、もう自分を離れている。
娘を嫁に出すような心境。
ねぶたの準備は?
ねぶたの終わった直後は、ねぶたのねの字も聞きたくない、のんびりして山へ行ったりして、日常に戻る訓練をする。
若い頃に比べると、早く戻れるようになったが、涼しくなったころから、自分を取り戻す実感がある。
家の中を整理したりして、構想を練り始める。
構想はその時から始まって、次の年の夏に完了するのではなくて、何年も続く事がある。
あと旅をして、知らないところに行くと、新しいものが自分に入ってきて、役に立つ事がある。
狙ってゆく事もある。 そうすると近ずいたような気になる。
11月ごろに纏めて、絵にする。
30年以上前に一回やったことがある物を、自分の中ではまったくあたらしいもの、を今年はやろうとしている。
毎年毎年まっさらな気持ちでやっている。
ずーっとねぶた漬けでいるんですが、感覚は新鮮なものです。
本番に練り歩く時に、全く自分から離れたものに感じる、勝手に魂が入って、独り歩きしている、その時に初めて自分は客観的に見れる。
その時によしあしが、自分の中では判断できる。(作っている時には、判断できない)
ねぶたの出来が良かった時には、作っていてよかったなあと思います。
幸せだなあと思います。 でも本当に幸せは、今、作っている時ではないかと思う。
下絵が出来上がれば、弟子が来てパーツを作る。 手とか、握りこぶしとか 結構時間がかかる。
2月には作り始める。
青森港のところに、一杯大きなテントがある。 テントは高さが20m 両幅が10mずつあり、はりこの大きな作品があり、色を塗り始めた処。
時代と共に様変わりしている。
平成4年に青森港の近くに、集まって作業しているが、以前は1台ずつ、市内に点在、空き地を利用したりしてやっていた。
20歳の時にはじめて大型ねぶたを作ったが、今年で48年目ですね。
父がやはりねぶたを作っていたので、12歳ぐらいから手伝っていた。(50年以上になる)
父は絶対に教えなかった、教えたくないのでなく、教えてもしょうがない、口で言っても駄目、見て覚える。
言葉で教えられるものは、本当に初歩的なものだけ、後は見て覚える、或いは自分の中で組みたてて、成るほどと言う風に納得しないと、できるようにはならない。
父は褒めてくれることは一切なかったが、自分でもそう理解していたので、皆さんそうです。
ねぶたの作り方が文章にならないのは、そのわけです、書きようがない、言葉では表現できない。
父の時代は竹で作っていた。 今は100%針金 昭和42,3年ぐらいまで竹は続いた。
昭和35,6年あたりから竹と針金を併用した。
併用した人が、名人と言われた、初代、第2代名人の北川金三郎さん、北川啓三さんと言う人。
竹は自由自在にはならないが、針金は自由自在に曲げられるので、凄いリアリティーがあり、其れを作りたい、と子供心に思った。
北川さんが作ってるところを、隙間から覗いて、頭に叩きこんで、忘れたり、判らないところを何べんとなくのぞきに行った。
父のまねをするのではなかったので、父としては面白くはなかったようだが、好きにやれと言う様な感じだった。
父は本業があったので、ボランティア、四六時中、やるわけにはいかなかったので、母親は私がやることによって、もってこいだったのかもしれない。
父としては気にいらないが、やる気があるので、父は買ってくれた。
父は看板屋 絵を描きたかったらしいが、私が後を継げば、自分はそのうち絵を描けると思っていたようだ。(話はなかったが、判った)
看板屋を継ぐ事になるが、父は亡くなってしまう。
5,6年は看板屋で職人としてやってきて、その後看板屋として独立するが、ねぶたを作るためだった。(自分の時間がほしかったから)
当時 ねぶたを作る人は7~8人だった。
弟子志願は結構いた、団塊の世代の連中。 私もその一人ですが。
ねぶたを作っていると出会いがあり、ライバル意識もあった。
残る人もあり、辞めていった人もあるが、その差は情熱ですかね。
ねぶたを作ると言う事は、生活できないものなので、本業を持っていなければいけなくて、両立と言うのはなかなか難しい。
看板屋として独立したのは、自分の時間がほしいからです。
ねぶた 文献に出てくるのは200年前。 大正時代の写真では1,2人で担げるようなものだった。
第二次世界大戦の後は、青森は焼け野原になってしまっていた。
昭和21年にはねぶたをやっている。 19年にも実際はやっていた、公式には記録はないが。
ねぶたは食べものと一緒でねぶたがないと生きていけない感じ。
生まれた時からねぶたがあるし、うまく理解できないが、考えてみると不思議ですね。
半年近くは雪の中、其れが夏場に一気に噴き出る、そういう感じがしないわけではない。
だからあの様なエネルギッシュな祭りになったのかなあという思いがある。
ねぶたはあって当たり前。
戦時中は戦意高揚、戦後はGHQきて、戦闘的な場面は駄目と言う事があったようだ。
刀を持ってはいけないとか、でもあっという間に元に戻る。
最初 20歳の時は 船弁慶 平知盛 が好きだった。
製作中は先輩たちが来て、色々言ってきたが、その人たちのおかげで勉強できた。
中には逆なことを言って来て困ったこともある。
でき上った時は、訳もなく涙ぼろぼろだった。
気付いた時には、意識を越えてしまった状態に自分の居ることがやっと判ったという様な、安堵感というか、涙ボロボロでした。
先輩がたのねぶたと一緒に歩けた、そういうスタートが切れたと言う安堵感だけでした。
最優秀賞、ねぶた賞など頂いたが、スランプが来る。
病気をしてしまった。 ストレスからくる自律神経失調症(当時はそういう名称は無かった)
心臓が数えきれないほど早くなるが、病院に行くと治ってしまう。
いろいろ病院を廻ってある医者から、あなたは性格がこまやかだから、其れを治しなさいと言われる。
それで気は楽になったが、しかし直ぐには治らず、7年ぐらいは苦しんだ。
死の恐怖と闘いながら、ねぶたを作らなければいけないので、当然好いものはできるわけがなかった。
精神的なものであろうと、わらをも掴む思いで、祈祷師のところに行ったが、ろうそくの炎が変な燃え方をしたり何か異常なんです、祈祷師から言われた。
あなたは馬を粗末にした事はありませんでしたか、と言われた。
実は、馬のねぶたを作って寸法が合わないので、馬の足を切り取って、その日に放っておいてごみにした事があった。
馬が苦しんでいる姿が見えると言われた。
逆にその世界にのめり込んだ。
密教の世界を勉強して、空海と出会う事になる。
空海、真言宗のことを勉強して、いろんなことがわかってきて、学んだところが全てねぶたの題材だった。
2014年7月20日日曜日
姉崎久志(神奈川県ライトセンター) ・盲人の心に光を残して
姉崎久志(神奈川県ライトセンター顧問) 盲人の心に光を残して
神奈川県ライトセンターの職員として、40年近く視覚障害者の知的レベルの向上を計り、情報を送り続けてきた、姉崎さんが、定年を機に北海道のなよろ市に帰り、地域の視覚障害者のために力を注ぐことになりました。
42年前の昭和47年北海道小樽市で視覚障害者のためにボランティア活動を始めた姉崎さんは、横浜に転勤したときに、視覚障害者を支援する組織、神奈川県ライトセンターに誘われて、職員に転職しました。
おおくの視覚障害者のために、ほねみを惜しまず尽くしてきた姉崎さんに40年を振り返って伺います。
神奈川県ライトセンターに転職する動機?
北海道小樽市で点字図書館の朗読ボランティアの講座を受けて、ボランティア活動をしていた。
横浜の民間の会社に転勤したが、神奈川県点字図書館が神奈川県ライトセンターとして、大きくなるので職員にならないのかと誘われて、迷うことなく決めた。
貸し出す図書をボランティアの協力を得て、作ると言う処から始まるのが、点字図書館の仕事、私は録音図書をつくるという、製作の現場に10年ぐらいいた。
利用数は右肩上がりだったので忙しかった。
視覚障害者が外に出るのは当時少なかった。
テープ、点字図書は郵便で送るのが、行われていた。(郵袋)
現在の建物は平成5年に建て替えられた。
今は視覚障害者専用のスポーツ施設を併設、25mの温水プール、グラウンド、体育館、卓球室、トレーニング室と皆さんいきいきと活動されている。
ロンドンオリンピックで金メダルを取った人がいる。
フリークライム 岩登りの装置も付けて、新しいスポーツにも挑戦している。
あらゆるスポーツがクラブ活動として、存続している。
ルールをちょっと変える。 バレー、卓球などは平面的にやり取りする。
ヨットの場合はヨットマンの見える方が声でサポートすれば、大海原を楽しむことができる。
40年前はまだまだでした。
ハイキング、キャンプだとかの行事はやっていたが、皆さんが積極的に出る時代ではなかった。
1981年、国際障害者年があったが、其れがきっかけになって、広まっていった。
ボランティア活動として外出を援助しますよ、と言う事でやっているので、外に出るチャンスは増えたと思う。
中途失明者の方が多くなっている。 視覚障害者 全国で36万人 18歳未満は5000人(1.4%)
成人になってから視覚障害者になる人が圧倒的に多い。
誰でも落ち込むが、落ち込む期間を短く、自分も生きていこうとする気持ちを持っていただきたい、之が大きな役割だと思う。
料理は視覚障害者の人が作った方が、美味いと言われる。
見えていると、分量に目を奪われて、味の方がおろそかになるのではないか。
ボランティア お金を貰わないでよくできますねと言われるが、自分が社会の一員として、活動出来ている事、視覚障害者の方に感謝されることがあるが、お金には替えがたいものですと言っている。
2年前の春に神奈川県ライトセンターを早めに退職しました。
やりがいのある仕事だったが、こういう仕事をしていてお金を貰っていいかと、ずーっと考えていた。
対価を頂かないで、御恩返しをするのが、自分の務めだと前から決めていたので、今は毎日楽しく通わせていただいています。
公的なところは制限(外出に関する時間制限とか)があるので、公的な部分で出来ない部分を補うのが、ボランティア活動ではないかと思う。
ボランティア活動に、最近は厳しい要求があるが、世の中はドンドン変わってきていると言う事です。
音声図書、 コンピューターの声が良くなってきているが、肉声には及ばない。
インターネットの記事を、私たちは目で見るが、視覚障害者の方は文字情報を音声に変換してコンピューターの声できく。
コンピューターの方がいいと言われないように、頑張っている。
ボランティアがいらなくなると言う事は無いと思う。
本の中に、文字だけではなくて、写真、図、イラストとか色々あるが、其れを機械が自動的に変換するのは難しい。(人間も難しいところはあるが)
ボランティア養成講座 専門的な知識、技術が身につかないといけないので、講習会で基礎を学んで実活動を通じ、勉強会で、応用編を学んでいただく。
視覚障害者に聞いていただくためには、品質の悪いものだと困る。
音訳 1980年ごろから 視覚障害者の為に判り易く読む。
押しつけの読みは良くない(感情を入れ過ぎたり)、頭の中にドンドン入ってくる読みが、上手な読み。
慣れない方は、難しい文字があると、つい何でも説明しようとするが、視覚障害者のかたは、中高年のかたがおおいので文字は沢山知っているので、いちいち説明すると流れが止まるので、流れが止まらないようにしないといけない。
説明が必要な場合は、簡潔に、判り易く、短めに、流れが止まらないように説明する。
オープンリール→カセット→CD→DG図書
DG図書 スウェーデンで開発された技術で コンピューターの圧縮技術によって、1枚のCDに50時間以上も収録できるというもの。
視覚障害者の専用の録音図書で、専用の読書機がないと聞けない。
検索性に優れている、ページを選択できる、利点が沢山ある。
国際的な取り決め、日本の河村宏さんが中心になって普及させた。
視覚障害者に限らず、DGは学習障害、知的障害の人とかにも、利用されている。
糖尿病を放置して見えなくなると言う人が多い。
一生見え続けるという保証はないので、やはりいろんな方に理解してもらう事が大切なのかなあと思います。
視覚障害者のかたもパソコンを使う人がいるが、まだまだ少ない。
視覚障害者情報総合ネットワーク(サピエ) どなたでも訪問できる ポータルサイト 私がやれと言われた。
ボランティアの方がこれからも、やりがいのある活動として生きいきと活動するための、後押しをする役目をしようと思っている。
北海道で次のステージを歩もうと思っている。
神奈川県ライトセンターの職員として、40年近く視覚障害者の知的レベルの向上を計り、情報を送り続けてきた、姉崎さんが、定年を機に北海道のなよろ市に帰り、地域の視覚障害者のために力を注ぐことになりました。
42年前の昭和47年北海道小樽市で視覚障害者のためにボランティア活動を始めた姉崎さんは、横浜に転勤したときに、視覚障害者を支援する組織、神奈川県ライトセンターに誘われて、職員に転職しました。
おおくの視覚障害者のために、ほねみを惜しまず尽くしてきた姉崎さんに40年を振り返って伺います。
神奈川県ライトセンターに転職する動機?
北海道小樽市で点字図書館の朗読ボランティアの講座を受けて、ボランティア活動をしていた。
横浜の民間の会社に転勤したが、神奈川県点字図書館が神奈川県ライトセンターとして、大きくなるので職員にならないのかと誘われて、迷うことなく決めた。
貸し出す図書をボランティアの協力を得て、作ると言う処から始まるのが、点字図書館の仕事、私は録音図書をつくるという、製作の現場に10年ぐらいいた。
利用数は右肩上がりだったので忙しかった。
視覚障害者が外に出るのは当時少なかった。
テープ、点字図書は郵便で送るのが、行われていた。(郵袋)
現在の建物は平成5年に建て替えられた。
今は視覚障害者専用のスポーツ施設を併設、25mの温水プール、グラウンド、体育館、卓球室、トレーニング室と皆さんいきいきと活動されている。
ロンドンオリンピックで金メダルを取った人がいる。
フリークライム 岩登りの装置も付けて、新しいスポーツにも挑戦している。
あらゆるスポーツがクラブ活動として、存続している。
ルールをちょっと変える。 バレー、卓球などは平面的にやり取りする。
ヨットの場合はヨットマンの見える方が声でサポートすれば、大海原を楽しむことができる。
40年前はまだまだでした。
ハイキング、キャンプだとかの行事はやっていたが、皆さんが積極的に出る時代ではなかった。
1981年、国際障害者年があったが、其れがきっかけになって、広まっていった。
ボランティア活動として外出を援助しますよ、と言う事でやっているので、外に出るチャンスは増えたと思う。
中途失明者の方が多くなっている。 視覚障害者 全国で36万人 18歳未満は5000人(1.4%)
成人になってから視覚障害者になる人が圧倒的に多い。
誰でも落ち込むが、落ち込む期間を短く、自分も生きていこうとする気持ちを持っていただきたい、之が大きな役割だと思う。
料理は視覚障害者の人が作った方が、美味いと言われる。
見えていると、分量に目を奪われて、味の方がおろそかになるのではないか。
ボランティア お金を貰わないでよくできますねと言われるが、自分が社会の一員として、活動出来ている事、視覚障害者の方に感謝されることがあるが、お金には替えがたいものですと言っている。
2年前の春に神奈川県ライトセンターを早めに退職しました。
やりがいのある仕事だったが、こういう仕事をしていてお金を貰っていいかと、ずーっと考えていた。
対価を頂かないで、御恩返しをするのが、自分の務めだと前から決めていたので、今は毎日楽しく通わせていただいています。
公的なところは制限(外出に関する時間制限とか)があるので、公的な部分で出来ない部分を補うのが、ボランティア活動ではないかと思う。
ボランティア活動に、最近は厳しい要求があるが、世の中はドンドン変わってきていると言う事です。
音声図書、 コンピューターの声が良くなってきているが、肉声には及ばない。
インターネットの記事を、私たちは目で見るが、視覚障害者の方は文字情報を音声に変換してコンピューターの声できく。
コンピューターの方がいいと言われないように、頑張っている。
ボランティアがいらなくなると言う事は無いと思う。
本の中に、文字だけではなくて、写真、図、イラストとか色々あるが、其れを機械が自動的に変換するのは難しい。(人間も難しいところはあるが)
ボランティア養成講座 専門的な知識、技術が身につかないといけないので、講習会で基礎を学んで実活動を通じ、勉強会で、応用編を学んでいただく。
視覚障害者に聞いていただくためには、品質の悪いものだと困る。
音訳 1980年ごろから 視覚障害者の為に判り易く読む。
押しつけの読みは良くない(感情を入れ過ぎたり)、頭の中にドンドン入ってくる読みが、上手な読み。
慣れない方は、難しい文字があると、つい何でも説明しようとするが、視覚障害者のかたは、中高年のかたがおおいので文字は沢山知っているので、いちいち説明すると流れが止まるので、流れが止まらないようにしないといけない。
説明が必要な場合は、簡潔に、判り易く、短めに、流れが止まらないように説明する。
オープンリール→カセット→CD→DG図書
DG図書 スウェーデンで開発された技術で コンピューターの圧縮技術によって、1枚のCDに50時間以上も収録できるというもの。
視覚障害者の専用の録音図書で、専用の読書機がないと聞けない。
検索性に優れている、ページを選択できる、利点が沢山ある。
国際的な取り決め、日本の河村宏さんが中心になって普及させた。
視覚障害者に限らず、DGは学習障害、知的障害の人とかにも、利用されている。
糖尿病を放置して見えなくなると言う人が多い。
一生見え続けるという保証はないので、やはりいろんな方に理解してもらう事が大切なのかなあと思います。
視覚障害者のかたもパソコンを使う人がいるが、まだまだ少ない。
視覚障害者情報総合ネットワーク(サピエ) どなたでも訪問できる ポータルサイト 私がやれと言われた。
ボランティアの方がこれからも、やりがいのある活動として生きいきと活動するための、後押しをする役目をしようと思っている。
北海道で次のステージを歩もうと思っている。
2014年7月19日土曜日
熊井英水(近畿大学水産研究所) ・くろまぐろ完全養殖への道(再放送)
熊井英水(近畿大学水産研究所、顧問) くろまぐろ完全養殖への道(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/02/blog-post_8.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/02/blog-post_8.htmlをご覧ください。
2014年7月18日金曜日
大隅清治(農学博士) ・海の幸、クジラと歩んだ60年(2)
大隅清治(日本鯨類研究所顧問・農学博士) 海の幸、クジラと歩んだ60年(2)
*オランダからマレーシアにむかっていた、旅客機がウクライナ東部の上空で、消息をたったあと、墜落したことが確認された。 マレーシア航空ボーイング777型機で、乗客280人乗員15人が乗っていた。 日本人乗客が乗っているかどうかは、不明。
国際的なクジラの管理は戦前から進められたが、戦後に国際捕鯨取締条約が署名されて、その条約のもとで,国際捕鯨委員会(IWC)が1948年に設立されて、国際捕鯨取締条約のもとでの調査が進められている。
クジラの資源を保護しながら捕鯨産業を継続的に進めてゆく事が、この条約の趣旨です。
十分な調査、研究の方法が確立されないうちに、鯨の資源がドンドン悪くなっていった。
1960年にはいってから、資源力学の方法を取り入れた研究が急速に発展して、鯨の資源の管理について、かなり適切な勧告をすることができるようになった。
対応しきれなくなって、水産庁に遠洋水産研究所が出来て、鯨類研究室が設立されて、最初の研究室長になった。
資源調査研究法 最初捕獲したクジラのデータから資源量を調べる方法だったが、1960年代に入ると、別に鯨の目視調査が発達するようになった。
調査海域全体を推定する。
目視調査の理論も発達して、かなり精度よく推定できるようになった。
南極を毎年調査して、現在は50万頭 と推定されている。
日本の捕鯨に対して反対の声が多い。 現在、国際捕鯨取締条約のもとで、捕鯨する国はノルウェーとアイスランドです。
日本はアメリカの圧力で撤回してしまったので、商業捕鯨はできない状態です。
国際捕鯨取締条約の管理の対象は、鯨の種類は83種~87種 その中でひげクジラを対象にした13種、それ以外は管理の対象外で、日本は小型捕鯨 (つちくじら、ごんどうくじら) が現在も存続している。 いるか類も捕鯨の対象になっている。
国際捕鯨取締条約に加盟していない国は捕鯨ができる。 インドネシアはマッコウクジラを獲っているし、カナダでは北極クジラを獲っている。
現在商業捕鯨の規制があるので、鯨はドンドン増えている。
豪州の西海岸ざとうクジラ 増えすぎていると言う事がある。
餌が取れなくなって、餓死して海岸に打ち上げられる個体が増えている。
資源としては無駄なやり方をやっている。
淡水域 イルカの仲間は4種類いるが、それぞれの国の社会開発が進んで、環境が悪化しているので、絶滅の危険が迫っている。
汽水域でも、すなめりとか、絶滅の危険が迫っている。
クジラは音で会話をしている、アメリカ海軍は音響兵器の開発をやっているが、音響兵器が発達するほど、鯨にとっては脅威になっている。
クジラが増えている状況にもかかわらず、捕鯨の環境は良くない。
ヨーロッパの思想、鯨はもともと食料として見てこなかった。
海の環境は手付かずに置いておこうというような考え方が強い。
クジラの実態の真相を、なかなか彼等に示せない事もあって、鯨に対する正しい理解が乏しい。
日本に対する偏見もある。 色々なものが重なって反捕鯨が醸成されてきている。
クジラ資源の供給 海には生産力がある。 人間が利用が許されると思う。
クジラは海の生産物の一部だと思うので、許されると思う。
陸は畜産業があって牛、豚を育てる。
現在の捕鯨量の状態は、畜産でいえば放牧の状態に在ると思う。
更に技術を発達させて、陸上の畜産の様な形にクジラの利用も、技術的に可能であると思っている。
和歌山県太地町ではクジラ牧場を計画している。
東京ドームの7倍の面積に、鯨、いるかを放し飼いにして、観光に使うと同時に、やがてひげクジラも飼育して、牛や豚の様に利用すると言う事も、構想として考えられている。
牧場計画は以前から紙に書いて発表している。
いるかを湾に放ち飼育を開始している。 やがては50~60頭のいるかを飼って観光の目玉にするという事も考えられている。
世界一のクジラの研究所を太地町に作るという、スケールの大きな計画を現在太地町では進めている。
やがては生け簀で、みんくクジラを考えている。
餌はオキアミとか鰯ではなくて、人工的なペレットを開発して与えるとか、いろんな技術開発をして牛と同じような牧場ができるのではないかと考えている。
水質汚染が心配だが? 口をあけて餌を流し込む方法を考えている。
餌を撒く様な事はしない。
文化に対する理解は難しいと思うが、努力して、鯨の食文化を理解ていただくと同時に、将来発展途上国、飢餓にさらされている国には、鯨の缶詰めを作って、提供すると言う事で、鯨の食文化を味わっていただくと言う様に、機会を増やさなくてはいけないと思っている。
クジラの世界的な利用が必要だと思います。
クジラの缶詰めを、1960年代に、太平洋諸島の人たちに利用していただいた事があるが、クジラの肉が高くなってしまって、安い缶詰めが提供できなくなってしまったが、そういう形でクジラの肉の利用を考えれば、食文化のなかった国でもクジラの肉は利用できるようになるのではないか。
クジラは人間が利用できる食料資源である、陸上での鹿など、野生動物を利用しないと、却っていろんな問題が出てくるので、鯨の場合でも利用しないでいると、漁業にも悪い影響をするので、其れは間違いであると考えます。
クジラ、いるかは色々妨害行為をしていることが知られている。
釣り漁業で釣った魚をいるかが途中で奪ってしまうとか、色々妨害行為が報告されている。
さんまのぼうけ網漁業があるが、時々ぼうけ網にみんくクジラが突っ込んできて、集まったサンマを食べるという被害がある。 そのほかいろいろある。
バランス良く色々な資源を利用しないと、いけないと思う。
クジラに接して大変幸福な人生を送ることができたと思っている。 クジラに感謝している。
クジラ牧場計画は、太地ばかりではなくて、山口県の長門市で進められている。
正しい理解で、世界に広めることは可能だと思います。
水産資源は自然の生産力を使って、バランスをうまく利用しながら人間が生活する事は許されると思う。
*オランダからマレーシアにむかっていた、旅客機がウクライナ東部の上空で、消息をたったあと、墜落したことが確認された。 マレーシア航空ボーイング777型機で、乗客280人乗員15人が乗っていた。 日本人乗客が乗っているかどうかは、不明。
国際的なクジラの管理は戦前から進められたが、戦後に国際捕鯨取締条約が署名されて、その条約のもとで,国際捕鯨委員会(IWC)が1948年に設立されて、国際捕鯨取締条約のもとでの調査が進められている。
クジラの資源を保護しながら捕鯨産業を継続的に進めてゆく事が、この条約の趣旨です。
十分な調査、研究の方法が確立されないうちに、鯨の資源がドンドン悪くなっていった。
1960年にはいってから、資源力学の方法を取り入れた研究が急速に発展して、鯨の資源の管理について、かなり適切な勧告をすることができるようになった。
対応しきれなくなって、水産庁に遠洋水産研究所が出来て、鯨類研究室が設立されて、最初の研究室長になった。
資源調査研究法 最初捕獲したクジラのデータから資源量を調べる方法だったが、1960年代に入ると、別に鯨の目視調査が発達するようになった。
調査海域全体を推定する。
目視調査の理論も発達して、かなり精度よく推定できるようになった。
南極を毎年調査して、現在は50万頭 と推定されている。
日本の捕鯨に対して反対の声が多い。 現在、国際捕鯨取締条約のもとで、捕鯨する国はノルウェーとアイスランドです。
日本はアメリカの圧力で撤回してしまったので、商業捕鯨はできない状態です。
国際捕鯨取締条約の管理の対象は、鯨の種類は83種~87種 その中でひげクジラを対象にした13種、それ以外は管理の対象外で、日本は小型捕鯨 (つちくじら、ごんどうくじら) が現在も存続している。 いるか類も捕鯨の対象になっている。
国際捕鯨取締条約に加盟していない国は捕鯨ができる。 インドネシアはマッコウクジラを獲っているし、カナダでは北極クジラを獲っている。
現在商業捕鯨の規制があるので、鯨はドンドン増えている。
豪州の西海岸ざとうクジラ 増えすぎていると言う事がある。
餌が取れなくなって、餓死して海岸に打ち上げられる個体が増えている。
資源としては無駄なやり方をやっている。
淡水域 イルカの仲間は4種類いるが、それぞれの国の社会開発が進んで、環境が悪化しているので、絶滅の危険が迫っている。
汽水域でも、すなめりとか、絶滅の危険が迫っている。
クジラは音で会話をしている、アメリカ海軍は音響兵器の開発をやっているが、音響兵器が発達するほど、鯨にとっては脅威になっている。
クジラが増えている状況にもかかわらず、捕鯨の環境は良くない。
ヨーロッパの思想、鯨はもともと食料として見てこなかった。
海の環境は手付かずに置いておこうというような考え方が強い。
クジラの実態の真相を、なかなか彼等に示せない事もあって、鯨に対する正しい理解が乏しい。
日本に対する偏見もある。 色々なものが重なって反捕鯨が醸成されてきている。
クジラ資源の供給 海には生産力がある。 人間が利用が許されると思う。
クジラは海の生産物の一部だと思うので、許されると思う。
陸は畜産業があって牛、豚を育てる。
現在の捕鯨量の状態は、畜産でいえば放牧の状態に在ると思う。
更に技術を発達させて、陸上の畜産の様な形にクジラの利用も、技術的に可能であると思っている。
和歌山県太地町ではクジラ牧場を計画している。
東京ドームの7倍の面積に、鯨、いるかを放し飼いにして、観光に使うと同時に、やがてひげクジラも飼育して、牛や豚の様に利用すると言う事も、構想として考えられている。
牧場計画は以前から紙に書いて発表している。
いるかを湾に放ち飼育を開始している。 やがては50~60頭のいるかを飼って観光の目玉にするという事も考えられている。
世界一のクジラの研究所を太地町に作るという、スケールの大きな計画を現在太地町では進めている。
やがては生け簀で、みんくクジラを考えている。
餌はオキアミとか鰯ではなくて、人工的なペレットを開発して与えるとか、いろんな技術開発をして牛と同じような牧場ができるのではないかと考えている。
水質汚染が心配だが? 口をあけて餌を流し込む方法を考えている。
餌を撒く様な事はしない。
文化に対する理解は難しいと思うが、努力して、鯨の食文化を理解ていただくと同時に、将来発展途上国、飢餓にさらされている国には、鯨の缶詰めを作って、提供すると言う事で、鯨の食文化を味わっていただくと言う様に、機会を増やさなくてはいけないと思っている。
クジラの世界的な利用が必要だと思います。
クジラの缶詰めを、1960年代に、太平洋諸島の人たちに利用していただいた事があるが、クジラの肉が高くなってしまって、安い缶詰めが提供できなくなってしまったが、そういう形でクジラの肉の利用を考えれば、食文化のなかった国でもクジラの肉は利用できるようになるのではないか。
クジラは人間が利用できる食料資源である、陸上での鹿など、野生動物を利用しないと、却っていろんな問題が出てくるので、鯨の場合でも利用しないでいると、漁業にも悪い影響をするので、其れは間違いであると考えます。
クジラ、いるかは色々妨害行為をしていることが知られている。
釣り漁業で釣った魚をいるかが途中で奪ってしまうとか、色々妨害行為が報告されている。
さんまのぼうけ網漁業があるが、時々ぼうけ網にみんくクジラが突っ込んできて、集まったサンマを食べるという被害がある。 そのほかいろいろある。
バランス良く色々な資源を利用しないと、いけないと思う。
クジラに接して大変幸福な人生を送ることができたと思っている。 クジラに感謝している。
クジラ牧場計画は、太地ばかりではなくて、山口県の長門市で進められている。
正しい理解で、世界に広めることは可能だと思います。
水産資源は自然の生産力を使って、バランスをうまく利用しながら人間が生活する事は許されると思う。
2014年7月17日木曜日
大隅清治(農学博士) ・海の幸、クジラと歩んだ60年(1)
大隅清治(日本鯨類研究所顧問・農学博士) 海の幸、クジラと歩んだ60年(1)
84歳 学生時代クジラに興味を抱いて、研究を始め、水産庁遠洋水産研究所長、日本鯨類研究所理事長を歴任するなど、長く水産資源としてのクジラの研究を専門にしてこられました。
今年3月、国際司法裁判所が南極海での日本の調査捕鯨の中止を命じるなど、日本人が親しんできたクジラを取り巻く環境は、大きく変わりつつあります。
60年以上の長い間、鯨と付き合い、その生態から商業捕鯨のあり方まで、深く関わってきた大隅さんに、クジラと人間の現状と将来にわたってどう付き合ってゆくことが一番良いことなのか、伺いました。
今年3月、オランダのハーグの国際司法裁判所から、日本の調査捕鯨の中止を命じる判決がある。
捕鯨そのものが中止になるのではないかと、心配したが、そうではなかった。
1勝1敗と言うところで、日本の主張も通っていた。
①目的に対して、標本数が多すぎるのではないか。
②シーシェパードの妨害行為があったが、それによって我々が計画していた標本数が確保でき ない、そのような調査は中止すべきである。
そういった趣旨、二つの理由で、調査そのものを否定するわけではない。
クジラの研究を始めたきっかけは?
生まれは群馬県、旧制の高等学校に入り、新潟だったので、海が大変素晴らしいと言う事が理解で来て、東京大学に入って水産学科を選んだ。
終戦間もなくなので、食料産業に関係したところが魅力的だった。
海の食糧は調査があまりされてなく、調査をすることには、魅力を感じた。
水産学科では、食料の産業と結び付く。
東大などは役人の養成館でもあったが、食料生産と結び付く学科だった。
初めは解剖学、魚を一匹ずつ貰って、魚の体の構造を調べた。
アルバイトを大学の先生から紹介されて、財団法人鯨類研究所があり、そこで組織標本の製作の技術者を募集していた。
応募して、研究所に入った。
クジラが魅力的な動物であることを、体験する。
哺乳類で有りながら、魚と同じ様な生活をしている。
千葉県に捕鯨会社があった。
捕獲の現場で、鯨の泳いでいるところを体験して、非常に感激した。
きわめて不思議な動物であると言う事ですね。
卒業論文も私がアルバイトで作った組織標本を使って、卒業論文を作った。
当時、小笠原近海で にたりクジラを捕獲したクジラについて、成熟度合い、オスとメスでどう違うかなど、卒論のテーマにできた。
成熟するかどうかで、取っていいかどうか、捕鯨上の管理のために必要なので。
成熟していれば、十分に利用できる。 にたりクジラなどはまだ成熟度が判らなかった。
にたりクジラはいわしくじらとは別種であることが我々の調査で判って、取ってはいい体長に対して、いわしくじらの体長適用では、にたりクジラには大きすぎることが判った。
クジラの資源生物学 資源学はクジラの場合には種類がどの位の数がいて、どのぐらい取ったら適正に管理しながら捕獲が持続的に利用可能であるか、その結果を出すと言うのが資源学。
資源生物学は、基準を示す一部。 生物学的な資源の解析に必要な、生物学的な研究を行う。
大学院を卒業してから、アルバイト先に務めることになる。(趣味と実益が合致)
占領軍が捕鯨を許す(食料不足を補う為)が、条件としてクジラの資源調査をしっかりやるべし、との事だった。
調査は捕鯨会社がスポンサーになり、鯨類研究所が作れた。
鯨類研究所には同年代の人がたくさんいて、切磋琢磨した。
鯨類研究所は漫画家のときわ荘とよく似ていた。(手塚治虫ら)
大村秀雄さんが、戦前から国際法令会議に参加していて、ヨーロッパの色々な情報、研究成果を戦前から集めておられた。
鯨類研究所は最初から研究論文は英語で書いたから、最初から国際的な場にさらされてきた。
月報で色々なクジラに関する、研究成果、鯨の常識など、一般の方に提供していた。
クジラの資源がドンドン減少するにつれて、ヨーロッパの捕鯨船団は採算が合わなくなって、撤退して行った。
彼らが利用するのは、鯨からとれる油だけだったが、日本は、鯨はすてるところがないと、江戸時代から食文化として続けてきたので、捕獲量が少なくなっても、十分に採算が合う事が出来て、捕鯨競争から残った。
クジラの年齢査定は、資源の研究のためには、基本的に必要なものだった。
戦前から、ヨーロッパで研究を進めてきて、日本も戦後になってから参加する事になる。
その後日本はリードできる様なレベルまでになった。
クジラは、歯クジラ、ひげクジラがいる。
ひげが上顎の片側400枚ぐらい生えている。
動物プランクトンを濾して、水は外に出して、餌を集めることができる。 大型になりやすい
白ながすクジラはひげクジラ。
歯クジラ 歯の断面を作ると、そこに木の年輪の様なものが現れるが、それが判ったのは戦後。
ひげクジラには 耳垢がある、それが年齢計出になることが、1954年に英国の研究者によって発見された。
その前まではひげを利用していたが、ひげの場合にはすり減ってきて、十分な年齢計出としては使えなかった。
耳垢が1年に2層できるといわれていたが、それは間違いで、1層出来ることを日本が研究発表する。
クジラのもり先はとがっていたほうが、よく突き刺さると言うことだったが、背面に向かって放つと、はねてしまう。
東大の工学部の平田先生が、戦争中、大砲の研究をやって、戦後捕鯨の方に応用できるのではないかと、平頭もり、先を平らにすると、反射しないで鯨に突き刺さると言う事が出来た。
84歳 学生時代クジラに興味を抱いて、研究を始め、水産庁遠洋水産研究所長、日本鯨類研究所理事長を歴任するなど、長く水産資源としてのクジラの研究を専門にしてこられました。
今年3月、国際司法裁判所が南極海での日本の調査捕鯨の中止を命じるなど、日本人が親しんできたクジラを取り巻く環境は、大きく変わりつつあります。
60年以上の長い間、鯨と付き合い、その生態から商業捕鯨のあり方まで、深く関わってきた大隅さんに、クジラと人間の現状と将来にわたってどう付き合ってゆくことが一番良いことなのか、伺いました。
今年3月、オランダのハーグの国際司法裁判所から、日本の調査捕鯨の中止を命じる判決がある。
捕鯨そのものが中止になるのではないかと、心配したが、そうではなかった。
1勝1敗と言うところで、日本の主張も通っていた。
①目的に対して、標本数が多すぎるのではないか。
②シーシェパードの妨害行為があったが、それによって我々が計画していた標本数が確保でき ない、そのような調査は中止すべきである。
そういった趣旨、二つの理由で、調査そのものを否定するわけではない。
クジラの研究を始めたきっかけは?
生まれは群馬県、旧制の高等学校に入り、新潟だったので、海が大変素晴らしいと言う事が理解で来て、東京大学に入って水産学科を選んだ。
終戦間もなくなので、食料産業に関係したところが魅力的だった。
海の食糧は調査があまりされてなく、調査をすることには、魅力を感じた。
水産学科では、食料の産業と結び付く。
東大などは役人の養成館でもあったが、食料生産と結び付く学科だった。
初めは解剖学、魚を一匹ずつ貰って、魚の体の構造を調べた。
アルバイトを大学の先生から紹介されて、財団法人鯨類研究所があり、そこで組織標本の製作の技術者を募集していた。
応募して、研究所に入った。
クジラが魅力的な動物であることを、体験する。
哺乳類で有りながら、魚と同じ様な生活をしている。
千葉県に捕鯨会社があった。
捕獲の現場で、鯨の泳いでいるところを体験して、非常に感激した。
きわめて不思議な動物であると言う事ですね。
卒業論文も私がアルバイトで作った組織標本を使って、卒業論文を作った。
当時、小笠原近海で にたりクジラを捕獲したクジラについて、成熟度合い、オスとメスでどう違うかなど、卒論のテーマにできた。
成熟するかどうかで、取っていいかどうか、捕鯨上の管理のために必要なので。
成熟していれば、十分に利用できる。 にたりクジラなどはまだ成熟度が判らなかった。
にたりクジラはいわしくじらとは別種であることが我々の調査で判って、取ってはいい体長に対して、いわしくじらの体長適用では、にたりクジラには大きすぎることが判った。
クジラの資源生物学 資源学はクジラの場合には種類がどの位の数がいて、どのぐらい取ったら適正に管理しながら捕獲が持続的に利用可能であるか、その結果を出すと言うのが資源学。
資源生物学は、基準を示す一部。 生物学的な資源の解析に必要な、生物学的な研究を行う。
大学院を卒業してから、アルバイト先に務めることになる。(趣味と実益が合致)
占領軍が捕鯨を許す(食料不足を補う為)が、条件としてクジラの資源調査をしっかりやるべし、との事だった。
調査は捕鯨会社がスポンサーになり、鯨類研究所が作れた。
鯨類研究所には同年代の人がたくさんいて、切磋琢磨した。
鯨類研究所は漫画家のときわ荘とよく似ていた。(手塚治虫ら)
大村秀雄さんが、戦前から国際法令会議に参加していて、ヨーロッパの色々な情報、研究成果を戦前から集めておられた。
鯨類研究所は最初から研究論文は英語で書いたから、最初から国際的な場にさらされてきた。
月報で色々なクジラに関する、研究成果、鯨の常識など、一般の方に提供していた。
クジラの資源がドンドン減少するにつれて、ヨーロッパの捕鯨船団は採算が合わなくなって、撤退して行った。
彼らが利用するのは、鯨からとれる油だけだったが、日本は、鯨はすてるところがないと、江戸時代から食文化として続けてきたので、捕獲量が少なくなっても、十分に採算が合う事が出来て、捕鯨競争から残った。
クジラの年齢査定は、資源の研究のためには、基本的に必要なものだった。
戦前から、ヨーロッパで研究を進めてきて、日本も戦後になってから参加する事になる。
その後日本はリードできる様なレベルまでになった。
クジラは、歯クジラ、ひげクジラがいる。
ひげが上顎の片側400枚ぐらい生えている。
動物プランクトンを濾して、水は外に出して、餌を集めることができる。 大型になりやすい
白ながすクジラはひげクジラ。
歯クジラ 歯の断面を作ると、そこに木の年輪の様なものが現れるが、それが判ったのは戦後。
ひげクジラには 耳垢がある、それが年齢計出になることが、1954年に英国の研究者によって発見された。
その前まではひげを利用していたが、ひげの場合にはすり減ってきて、十分な年齢計出としては使えなかった。
耳垢が1年に2層できるといわれていたが、それは間違いで、1層出来ることを日本が研究発表する。
クジラのもり先はとがっていたほうが、よく突き刺さると言うことだったが、背面に向かって放つと、はねてしまう。
東大の工学部の平田先生が、戦争中、大砲の研究をやって、戦後捕鯨の方に応用できるのではないかと、平頭もり、先を平らにすると、反射しないで鯨に突き刺さると言う事が出来た。
2014年7月16日水曜日
吉見正信(宮沢賢治研究家) ・医療・介護・被災の現場に生きる賢治の言葉
吉見正信(宮沢賢治研究家) 医療・介護・被災の現場に生きる賢治の言葉
吉見さんは昭和3年 東京生まれ 戦後大東文化大学を卒業した後、雑誌記者生活を経て、昭和26年岩手県に移り住んで県内の高等学校などで教壇に立ちました。
宮澤賢治の作品に惹かれて、20代半ばには、賢治の研究を生涯のテーマと決めたそうです。
多くの著書に加えて、去年の秋からは全部で7卷の吉見正信著作集が刊行されています。
その第二卷、宮澤賢治の「心といそしみ」の中で、吉見さんは津波からの悲しみを押し返した、賢治詩という一文を書いています。
吉見さんは2010年11月から、国の補助を受けて始まった、岩手県地域人材育成事業の中で、医療・介護における倫理学講義を担当して、賢治の「雨にも負けず精神」を挙げて講義を進めました。
翌年3月11日に発生した東日本大震災で、受講者たちの多くが被災しましたが、賢治の言葉をまなぶことを通して、どのように悲しみや苦しみから、たち立ち上がったかが報告されています。
子供のころから文学少年だった。 武蔵野生まれだとか、問題意識は、気に入った自分の気持ちとして身に付けていた子供だったと、懐かしんでいます。
昭和16年旧制中学校に入学、1年生の12月には大東亜戦争が勃発している。
4年生で繰り上げ卒業となった。 軍国主義教育の申し子 勤労動員ばっかりだった。
3交代で夜中にも働いて、軍用機の部品を作っていた。
2度も大空襲で被災して、焼跡を逃げ回った。 沢山の焼死、爆死した屍を避けながら逃げ歩いた。
大学は、漢文専門の学校 昭和29年に漢文教育はやっと選択科目で1時間ぐらいの授業はしてもいい様になった。
雑誌社に入るが、敗戦国民の屈辱を嫌と言うほど味わって、アメリカ兵の居ないところで、勉強したかった。
平泉に科学調査団をいれたという報道が新聞で連載されて、ミイラ、金色堂などの新聞記事に、カルチャーショックを受けて、こんな日本があったのかと言う事で、宮澤賢治、石川啄木も出ているから、憧れて岩手に決めた。
高校の先生を務めた。
宮澤賢治体験。 田舎町に住んだが、駅まで歩くのに20分以上かかるところを、試しに近道して、藪だの、肥え溜め、崖を降りたりして、4分で着いてしまった。 リスとも目が合い喜ぶ。
得も言えぬ解放感を味わう事ができた。(戦時下の規制とは全く違う)
花巻で大正10年ころの帳簿が出てきて、賢治の妹のとし子さんの学籍簿 驚く様な成績抜群で、先生は、後のとし子さんを彷彿とさせる所見を書いている。
賢治、ユニークな個性、素晴らしい感性の持ち主だと思う。
しらぬ間に賢治の魅力に取りつかれてしまった。
医療・介護における倫理学講義を担当 今、メンタルケアの時代になっているが、そういう事の先駆者が宮澤賢治だと、思いついた。
宮澤賢治は自分の詩を心象スケッチだと言っている。
サブタイトルにメンタルスケッチと書いている。
賢治の「雨にも負けず精神」を挙げて、一つのビジョンにして、講座の倫理学を担当。
この詩は、丈夫な心を持つ 賢治の第一の基本 行って、〇〇する。 →ボランティア活動の先駆者
この詩は医療倫理学の基本になる。
この講座の第一期生が終わろうとする寸前に大震災が起きた。
未曾有の大きな悲しみを受けた。
「津波」と言う言葉を使いたくないとの申し入れが、受講者からあったが、それはできませんと言った。
大変な災害によって、経験したことのない最中なので、そのなかで介護しなくてはいけない、そこで現実から目を離して、介護ができますか、と言った。
賢治の妹、とし子さん 25,6歳で亡くなっている方。
今度生まれてくるんだったら、世の中の不幸、人々の悲しみに苦しむならいいけど、自分の病気ぐらいで苦しんでいる様な生まれ方はしたくない、と言う事を最後の言葉に言っている。
賢治をいろいろ教材化した。 癒しのためになる様な花壇、
「ティアフル アイ」 (涙ぐんだ目) 少年院に目の形をした花壇を作った。
妹の言葉をシンボライズした花壇 (世の中の不幸、人々の悲しみに涙する アートセラピスト)
講座は第5次まで行う。
宮澤賢治は自然の権利、野の福祉を詩で言っている。 驚いた、こんな言葉は戦前は無かった。
80年以上前にこのような言葉を使っている。
宮澤賢治の感性に感服する。
自然に向かって許しを請うている。(木を切ってもいいか、火を焚いていいか、住んで畑をおこしていいか、と山に向かって叫ぶ) 童話の楽しい部分にジャンジャン出てくる。
アメリカが自然保護、自然の権利の概念を打ち出したのは、1970年代。
宮澤賢治はエコロジストでもある。
自然との共生をすでに持っていた。
宮澤賢治が亡くなる1カ月前、木は木の心を持っている、岩は岩の心を持っている、と言っている。
紀元前の先人が同様なことを言っているが、現代社会に於いてはドンドン無くなってしまっている。
次世代に、賢治の想いを普段の語らいの中でかみしめてほしいと思っている。
吉見さんは昭和3年 東京生まれ 戦後大東文化大学を卒業した後、雑誌記者生活を経て、昭和26年岩手県に移り住んで県内の高等学校などで教壇に立ちました。
宮澤賢治の作品に惹かれて、20代半ばには、賢治の研究を生涯のテーマと決めたそうです。
多くの著書に加えて、去年の秋からは全部で7卷の吉見正信著作集が刊行されています。
その第二卷、宮澤賢治の「心といそしみ」の中で、吉見さんは津波からの悲しみを押し返した、賢治詩という一文を書いています。
吉見さんは2010年11月から、国の補助を受けて始まった、岩手県地域人材育成事業の中で、医療・介護における倫理学講義を担当して、賢治の「雨にも負けず精神」を挙げて講義を進めました。
翌年3月11日に発生した東日本大震災で、受講者たちの多くが被災しましたが、賢治の言葉をまなぶことを通して、どのように悲しみや苦しみから、たち立ち上がったかが報告されています。
子供のころから文学少年だった。 武蔵野生まれだとか、問題意識は、気に入った自分の気持ちとして身に付けていた子供だったと、懐かしんでいます。
昭和16年旧制中学校に入学、1年生の12月には大東亜戦争が勃発している。
4年生で繰り上げ卒業となった。 軍国主義教育の申し子 勤労動員ばっかりだった。
3交代で夜中にも働いて、軍用機の部品を作っていた。
2度も大空襲で被災して、焼跡を逃げ回った。 沢山の焼死、爆死した屍を避けながら逃げ歩いた。
大学は、漢文専門の学校 昭和29年に漢文教育はやっと選択科目で1時間ぐらいの授業はしてもいい様になった。
雑誌社に入るが、敗戦国民の屈辱を嫌と言うほど味わって、アメリカ兵の居ないところで、勉強したかった。
平泉に科学調査団をいれたという報道が新聞で連載されて、ミイラ、金色堂などの新聞記事に、カルチャーショックを受けて、こんな日本があったのかと言う事で、宮澤賢治、石川啄木も出ているから、憧れて岩手に決めた。
高校の先生を務めた。
宮澤賢治体験。 田舎町に住んだが、駅まで歩くのに20分以上かかるところを、試しに近道して、藪だの、肥え溜め、崖を降りたりして、4分で着いてしまった。 リスとも目が合い喜ぶ。
得も言えぬ解放感を味わう事ができた。(戦時下の規制とは全く違う)
花巻で大正10年ころの帳簿が出てきて、賢治の妹のとし子さんの学籍簿 驚く様な成績抜群で、先生は、後のとし子さんを彷彿とさせる所見を書いている。
賢治、ユニークな個性、素晴らしい感性の持ち主だと思う。
しらぬ間に賢治の魅力に取りつかれてしまった。
医療・介護における倫理学講義を担当 今、メンタルケアの時代になっているが、そういう事の先駆者が宮澤賢治だと、思いついた。
宮澤賢治は自分の詩を心象スケッチだと言っている。
サブタイトルにメンタルスケッチと書いている。
賢治の「雨にも負けず精神」を挙げて、一つのビジョンにして、講座の倫理学を担当。
この詩は、丈夫な心を持つ 賢治の第一の基本 行って、〇〇する。 →ボランティア活動の先駆者
この詩は医療倫理学の基本になる。
この講座の第一期生が終わろうとする寸前に大震災が起きた。
未曾有の大きな悲しみを受けた。
「津波」と言う言葉を使いたくないとの申し入れが、受講者からあったが、それはできませんと言った。
大変な災害によって、経験したことのない最中なので、そのなかで介護しなくてはいけない、そこで現実から目を離して、介護ができますか、と言った。
賢治の妹、とし子さん 25,6歳で亡くなっている方。
今度生まれてくるんだったら、世の中の不幸、人々の悲しみに苦しむならいいけど、自分の病気ぐらいで苦しんでいる様な生まれ方はしたくない、と言う事を最後の言葉に言っている。
賢治をいろいろ教材化した。 癒しのためになる様な花壇、
「ティアフル アイ」 (涙ぐんだ目) 少年院に目の形をした花壇を作った。
妹の言葉をシンボライズした花壇 (世の中の不幸、人々の悲しみに涙する アートセラピスト)
講座は第5次まで行う。
宮澤賢治は自然の権利、野の福祉を詩で言っている。 驚いた、こんな言葉は戦前は無かった。
80年以上前にこのような言葉を使っている。
宮澤賢治の感性に感服する。
自然に向かって許しを請うている。(木を切ってもいいか、火を焚いていいか、住んで畑をおこしていいか、と山に向かって叫ぶ) 童話の楽しい部分にジャンジャン出てくる。
アメリカが自然保護、自然の権利の概念を打ち出したのは、1970年代。
宮澤賢治はエコロジストでもある。
自然との共生をすでに持っていた。
宮澤賢治が亡くなる1カ月前、木は木の心を持っている、岩は岩の心を持っている、と言っている。
紀元前の先人が同様なことを言っているが、現代社会に於いてはドンドン無くなってしまっている。
次世代に、賢治の想いを普段の語らいの中でかみしめてほしいと思っている。
2014年7月15日火曜日
湊 宏(カタツムリ研究家) ・カタツムリ人生60年を語る
湊 宏(カタツムリ研究家) カタツムリ人生60年を語る
和歌山県白浜町 元県立高校校長 1939年昭和14年生まれ。
貝殻を集めるのが、好きな少年でした。
中学2年生の時にその楽しみが、突然できなくなりました。
教師をしていた母親が山間地の学校にに転勤してしまったためでした。
がっかりしていた湊さんに、母は「陸にも貝はいるよ」と教えてくれました、それがカタツムリでした。
湊さんは高等学校の教員を定年後、京都大学で理学博士号を取得して、本格的にカタツムリの生態の研究に取り組みました。
これまでに100種類をこえるカタツムリの新種を発見しています。
現在環境省の絶滅の恐れのある、野生生物の選定の仕事、貝類分科会の委員をしています。
カタツムリを愛してカタツムリの研究に取り組んでいる、湊さんにカタツムリはどんな生き方をして、自然界ではどんな役割をはたしているかなどをうかがいました。
カタツムリは頭の先端に触覚があり、触覚の先端に目があるが、目が光を感ずるだけの作用しかない。
大触覚、その下に小さな触覚があり、においを感じる触覚があり食べものを探すためのもの。
カタツムリは貝なんです。 海にいる貝と同じ仲間なんです。 約3万種類いる。
海には、或いは陸に、世界中に10万種類 その1/3が陸に在る貝です。 それがカタツムリです。
日本には約800種類ぐらいいる。
湊さんの部屋には、貝の書籍類、約5万点の標本がある。
カタツムリは細長くて形の変わったものがある。
大きなカタツムリは直径が5cmぐらいの 「まいまい」と呼ばれているが、小さいのは直径が1mm
ごま貝、けし貝、のみ貝、すな貝と言う様な名前が付いている。
身体の下が平べったくなっていて、足になっていて、.キャタビラの様に前に前進して行く。 腹足類
宝貝 お金の代わりになった。
天敵、ねずみ、小鳥などにカタツムリは食われる。
子供の時は海岸に近いところに住んでいて、貝の美しさに接した。
あるときに両親が転勤になり、山の学校に行く事になり、「山にも貝がある、すなわちカタツムリも貝ですよ」との事を母親から言われて、神社の木に「マルクチコギセル」という綺麗なカタツムリを教えたもらって、そこからカタツムリに接する様になった。 きせる貝の仲間。
紀伊半島の山岳地帯の木に住んでいる。 今では環境省の絶滅危惧種に指定されている。
私の研究の1/3はきせる貝の仲間です。 きせる貝は世界に約2000種ある。
広葉樹の特定な木にしかいない。
最近も新種の貝を発見した。
山の貝の方が面白い。 海は深いところに在るので採取が大変だが、山の方ならば、自分の足で頑張ったらカタツムリに接する事ができる。
北海道から南までほとんど廻った。
礼文島 51年ぶりにここへ行ってきた。 その土地特有のカタツムリがいるので、旅行が楽しい。
新種判定、カタツムリの解剖をしなければならない。1cm程度以上のもの
オス、メスの生殖器器官(雌雄同体の2つの器官がある)によってカタツムリの種類が違う。
新種には名前がないので、カタツムリのふさわしい名前を考える。
地名を付ける場合が多い。
全国から標本が送られてくるので、、その人の名前(献名)をつける場合がある。
特徴的な貝の場合にはその特徴的な名前をつけたりする。
ナメクジもカタツムリのなので、ナメクジの新種を発見して「イボイボナメクジ」と言う名前をつけた。
20年前、鹿児島、枕崎のある無人島で採取した貝を学生が送ってきて、そのうちの5,6種類が新種だった。
ビロードの様な毛が生えていて、「ビロードマイマイ」と言う名前をつけてた。
ユニークな名前を考えるのが楽しみですね。
小笠原に滞在したときに、綺麗なマイマイを発見した、母親の名前を貝に残したいと思って「マンダリナスエノエ」という名前を付けた。 これは学名 和名に「きのぼりかたまいまい」とつけた。
両親が教師なので、私も教師になって、何か一生残る様な物を勉強したいと思って、カタツムリを研究しようと思った。
大学の専攻は世界史だったが、教師になって、夜はカタツムリの研究に没頭した。
論文を1カ月にひとつは書いた。 700~800のレポートがある。
京都大学、博士号をとる。
波部忠重先生(当時日本貝類学会会長)が、毎号投稿していたものを見て、之を纏めて見たらどうかと言う話があり、校長になって4年間かけてきせる貝に関する論文を作成した。
(原稿用紙 1000枚) 「日本産キセルガイ科貝類の分類と分布に関する研究」
ほとんど一人で山に行きました。 最近は妻と一緒に行きます。
妻とは知り合ったころから、貝を採っていたので、そういう事も理解を示してくれた。
フランスではエスカルゴ 食べ物にしているが、日本では食べ物にしないが、カタツムリは落ち葉を食べて、落ち葉を分解する役割をする。(カタツムリがいる環境はいい環境)
カタツムリのよく住んでいる環境は、いい環境、人工林にはいない。
原生林、広葉樹林に多い、又石灰岩地帯にもカタツムリは多くいる。
自分の殻を作らなければいけないので。
60年掛かって102種のカタツムリの発表したが、その土地にしかいない様な種類なんです。
絶滅の恐れのある動物を環境省が纏めるが、それに加わって3冊目が刊行される。
生息地が破壊されてきて、住む環境が悪化してきて、段々と少なくなってきている。
カタツムリにめぐり合う事によって、全国各地を見て歩く事が出来たと言う事と、いい友達ができた事はよかったと思う。
自然保護を学ぶことができた。
南方 熊楠 粘菌、植物学、民俗学、人文関係 南方記念館がある。
カタツムリはやればやるほど奥深い。
新種発見は少なくなってきたが、自然に接してカタツムリからいろんなことを学びたい。
和歌山県白浜町 元県立高校校長 1939年昭和14年生まれ。
貝殻を集めるのが、好きな少年でした。
中学2年生の時にその楽しみが、突然できなくなりました。
教師をしていた母親が山間地の学校にに転勤してしまったためでした。
がっかりしていた湊さんに、母は「陸にも貝はいるよ」と教えてくれました、それがカタツムリでした。
湊さんは高等学校の教員を定年後、京都大学で理学博士号を取得して、本格的にカタツムリの生態の研究に取り組みました。
これまでに100種類をこえるカタツムリの新種を発見しています。
現在環境省の絶滅の恐れのある、野生生物の選定の仕事、貝類分科会の委員をしています。
カタツムリを愛してカタツムリの研究に取り組んでいる、湊さんにカタツムリはどんな生き方をして、自然界ではどんな役割をはたしているかなどをうかがいました。
カタツムリは頭の先端に触覚があり、触覚の先端に目があるが、目が光を感ずるだけの作用しかない。
大触覚、その下に小さな触覚があり、においを感じる触覚があり食べものを探すためのもの。
カタツムリは貝なんです。 海にいる貝と同じ仲間なんです。 約3万種類いる。
海には、或いは陸に、世界中に10万種類 その1/3が陸に在る貝です。 それがカタツムリです。
日本には約800種類ぐらいいる。
湊さんの部屋には、貝の書籍類、約5万点の標本がある。
カタツムリは細長くて形の変わったものがある。
大きなカタツムリは直径が5cmぐらいの 「まいまい」と呼ばれているが、小さいのは直径が1mm
ごま貝、けし貝、のみ貝、すな貝と言う様な名前が付いている。
身体の下が平べったくなっていて、足になっていて、.キャタビラの様に前に前進して行く。 腹足類
宝貝 お金の代わりになった。
天敵、ねずみ、小鳥などにカタツムリは食われる。
子供の時は海岸に近いところに住んでいて、貝の美しさに接した。
あるときに両親が転勤になり、山の学校に行く事になり、「山にも貝がある、すなわちカタツムリも貝ですよ」との事を母親から言われて、神社の木に「マルクチコギセル」という綺麗なカタツムリを教えたもらって、そこからカタツムリに接する様になった。 きせる貝の仲間。
紀伊半島の山岳地帯の木に住んでいる。 今では環境省の絶滅危惧種に指定されている。
私の研究の1/3はきせる貝の仲間です。 きせる貝は世界に約2000種ある。
広葉樹の特定な木にしかいない。
最近も新種の貝を発見した。
山の貝の方が面白い。 海は深いところに在るので採取が大変だが、山の方ならば、自分の足で頑張ったらカタツムリに接する事ができる。
北海道から南までほとんど廻った。
礼文島 51年ぶりにここへ行ってきた。 その土地特有のカタツムリがいるので、旅行が楽しい。
新種判定、カタツムリの解剖をしなければならない。1cm程度以上のもの
オス、メスの生殖器器官(雌雄同体の2つの器官がある)によってカタツムリの種類が違う。
新種には名前がないので、カタツムリのふさわしい名前を考える。
地名を付ける場合が多い。
全国から標本が送られてくるので、、その人の名前(献名)をつける場合がある。
特徴的な貝の場合にはその特徴的な名前をつけたりする。
ナメクジもカタツムリのなので、ナメクジの新種を発見して「イボイボナメクジ」と言う名前をつけた。
20年前、鹿児島、枕崎のある無人島で採取した貝を学生が送ってきて、そのうちの5,6種類が新種だった。
ビロードの様な毛が生えていて、「ビロードマイマイ」と言う名前をつけてた。
ユニークな名前を考えるのが楽しみですね。
小笠原に滞在したときに、綺麗なマイマイを発見した、母親の名前を貝に残したいと思って「マンダリナスエノエ」という名前を付けた。 これは学名 和名に「きのぼりかたまいまい」とつけた。
両親が教師なので、私も教師になって、何か一生残る様な物を勉強したいと思って、カタツムリを研究しようと思った。
大学の専攻は世界史だったが、教師になって、夜はカタツムリの研究に没頭した。
論文を1カ月にひとつは書いた。 700~800のレポートがある。
京都大学、博士号をとる。
波部忠重先生(当時日本貝類学会会長)が、毎号投稿していたものを見て、之を纏めて見たらどうかと言う話があり、校長になって4年間かけてきせる貝に関する論文を作成した。
(原稿用紙 1000枚) 「日本産キセルガイ科貝類の分類と分布に関する研究」
ほとんど一人で山に行きました。 最近は妻と一緒に行きます。
妻とは知り合ったころから、貝を採っていたので、そういう事も理解を示してくれた。
フランスではエスカルゴ 食べ物にしているが、日本では食べ物にしないが、カタツムリは落ち葉を食べて、落ち葉を分解する役割をする。(カタツムリがいる環境はいい環境)
カタツムリのよく住んでいる環境は、いい環境、人工林にはいない。
原生林、広葉樹林に多い、又石灰岩地帯にもカタツムリは多くいる。
自分の殻を作らなければいけないので。
60年掛かって102種のカタツムリの発表したが、その土地にしかいない様な種類なんです。
絶滅の恐れのある動物を環境省が纏めるが、それに加わって3冊目が刊行される。
生息地が破壊されてきて、住む環境が悪化してきて、段々と少なくなってきている。
カタツムリにめぐり合う事によって、全国各地を見て歩く事が出来たと言う事と、いい友達ができた事はよかったと思う。
自然保護を学ぶことができた。
南方 熊楠 粘菌、植物学、民俗学、人文関係 南方記念館がある。
カタツムリはやればやるほど奥深い。
新種発見は少なくなってきたが、自然に接してカタツムリからいろんなことを学びたい。
2014年7月14日月曜日
村岡恵理(作家) ・祖母 村岡花子が伝えたかったこと
村岡恵理(作家) 祖母 村岡花子が伝えたかったこと
花子のアンの原案となった、「アンのゆりかご」の作品の作者 昭和42年東京生まれ。
大学を卒業した後、ライターとして活躍しますが、平成3年年から翻訳家の姉と共に、祖母、村岡花子の著作物の研究や保存に取り組みます。
赤毛のアンの著者、モンゴメリの子孫やカナダとの交流に力を入れ、アン誕生 100周年、村岡花子没後40年の平成20年に村岡花子の生涯をたどったアンのゆりかごを書きあげました。
絵里さんは祖母の足跡をたどるなかで、歴史のうねりの中に巻き込まれながらも、新しい時代を開拓してきた女性の生き方に、多くのことを学び、文学や読書が人生をどれだけ豊かにし、力となってくれるかを再認識したと言います。
「アンのゆりかご」 2008年に書きました。
展覧会に合わせて、この本を出そうと、あわただしくして、やることはやったと思っていたが、思いがけなく朝ドラが決まった。
赤毛のアンの原作者モンゴメリーの生誕140年、記念すべき年だった。
カナダとの友好関係を結んだ85周年 記念すべき年。
展覧会をやりましょうと、ちょうど上がっていた。
村岡花子の原稿、原書を貸し出して、モンゴメリさんの遺族も協力して、カナダとと日本の友情のシンボルとして、赤毛のアンがどうやって、日本で出版されたかと言う事を含めて、展覧会をやりましょうとの企画が進んでいた。
思いがけなく「アンのゆりかご」が原案として、朝ドラが決まって、企画会社などは大喜びしています。
女性の生き方として、明治時代、学問を勉強して、英語を先駆者として学ぶ。
本だけは沢山ある家だった。
石井桃子、渡辺茂男、乾富子絵本だとか子供の読み物と一緒に祖母の作品があった。
亡くなる2日前の随筆に、私のことも書いてある。
祖母が私の子守りを頼まれて、祖母が途方にくれるぐらい、泣き叫んだようだ。
大学を卒業後、ものを書く仕事を始める。 姉は翻訳の仕事。
村岡花子記念館 祖母が女学校時代からノートとか、歌を読んだもの、英文学の本とかが全部残っていた。
祖母の書斎がそっくり残っていて、資料が残っていた。
母の方が、公開してもいいと言う事になり、始まった。
タイトルが問題になり、編集者と話し合い、「窓辺による少女」に決定していたが、出版社の社長から連絡があり、「赤毛のアン」でどうかとの問いあわせがあり、祖母は気にいらなかった。
家族で話し合って、子供の意見では、「赤毛のアン」の方がいいと言う事だった。
ギリギリセーフで「赤毛のアン」に決まった。
戦争中に、敵国の翻訳をしていたことは聞いてはいたが、細かな足跡でどういう風に仕事をしていたのか、どういう風に生きていたのか、そこまで振り返ることはしていなかった。
記念館をきっかけに、母と整理をしながら、母は記憶のファイルを開いていく様に話始めて、いろんなことのきっかけでした。
3年後に母が突然亡くなる。
母は、祖母と私の結び目でもあったので、非常に悲しかった。
私がいつかおばあちゃんの物を書こうと宣言した。(26歳) それから14年後になるが。
先ずは本の整理、手紙類、資料の整理。
祖母、母が生きていた時代の事は何にも知らないと言う事に愕然とした。
先ずはそこから知ること、時代背景、生活感情、教育、考えている事等を知らないと書けないと思った。
一番驚いたのは、読む本がなかった。 教育の機会が均等では無かった。
今当たり前だと思っている環境、制度がなかった。
花子の父親はいろんなことに興味があって、キリスト教にも入っていた。
父は行商 母は農業の設定だが、父(静岡の茶商人)も母も商人だった。
父親は商人だけれど商売は苦手だった。 新しい思想、キリスト教、だとか本が好きだった。
宣教師都の流れで、実家を捨てて静岡から甲府にうつって、結婚して生まれたのが花子。
花子は2歳の時に幼児洗礼を受けている。 カナダの教会の流れだった。
赤毛のアンと出会う運命みたいなものが動き始めた様に思う。
甲府教会で幼児洗礼を受けるが、そこの教会の牧師さんが東洋英和女学校の創設者だったりして、その縁があって、10歳で東洋英和女学校のカナダ系ミッションスクールに特別に入れてもらえると言う事になる。
そこで様々な出会いがあり、才能が開花する。
出会いに恵まれた人だと思う。
実際は花子が5歳の時に一家で、東京に来ていた。
クリスチャンのヒューマニズムと言うものを叩きこまれて、日本文学を勉強したいと思っていたときに、白蓮さんとであって、歌、日本文学を勉強していて、佐佐木信綱先生、歌の先生にもついていた。
白蓮さんの導きもあって、佐々木先生の門下生になる。
歌を一生懸命に勉強した。 一時期は歌人になろうと思った。
英語力と同じように、歌を読むことで、研さんされた日本語の感覚と言うものを磨いた。
翻訳家の道の上では、非常に大切な文学的素養だと思う。
佐々木門下で培われた、日本語を選ぶ感覚は、すごく大事だったと思う。
今、英語は大事だと言う様な傾向はあるが、日本語の豊富さをもう一度見直されるべきだなあと思うし、英語ができる人は増えているが、何が明治の人と違うかと言うと、漢文の素養、短歌、俳句 日本語の豊かさを勉強している。
子供時代に沢山の本を読んで、想像力を養って、主人公がどんな境遇でも一生懸命頑張っていれば、誰かが見ていて、必ず報われる、一筋の光明が見える、と言う様な物語が多いが、祖母自身がそういったものをたくさん読んで、そういうものから生きる力、精神を得たんだと思う。
生きる力を与えてくれるような本を若い人たちにも、届けたいという想いが、実体験からより強くなったんだと、思います。
40歳で書いて、これからどう生きるか、と言う事を考える上で、歴史を知ることは大事な時期だったと思う。
花子のアンの原案となった、「アンのゆりかご」の作品の作者 昭和42年東京生まれ。
大学を卒業した後、ライターとして活躍しますが、平成3年年から翻訳家の姉と共に、祖母、村岡花子の著作物の研究や保存に取り組みます。
赤毛のアンの著者、モンゴメリの子孫やカナダとの交流に力を入れ、アン誕生 100周年、村岡花子没後40年の平成20年に村岡花子の生涯をたどったアンのゆりかごを書きあげました。
絵里さんは祖母の足跡をたどるなかで、歴史のうねりの中に巻き込まれながらも、新しい時代を開拓してきた女性の生き方に、多くのことを学び、文学や読書が人生をどれだけ豊かにし、力となってくれるかを再認識したと言います。
「アンのゆりかご」 2008年に書きました。
展覧会に合わせて、この本を出そうと、あわただしくして、やることはやったと思っていたが、思いがけなく朝ドラが決まった。
赤毛のアンの原作者モンゴメリーの生誕140年、記念すべき年だった。
カナダとの友好関係を結んだ85周年 記念すべき年。
展覧会をやりましょうと、ちょうど上がっていた。
村岡花子の原稿、原書を貸し出して、モンゴメリさんの遺族も協力して、カナダとと日本の友情のシンボルとして、赤毛のアンがどうやって、日本で出版されたかと言う事を含めて、展覧会をやりましょうとの企画が進んでいた。
思いがけなく「アンのゆりかご」が原案として、朝ドラが決まって、企画会社などは大喜びしています。
女性の生き方として、明治時代、学問を勉強して、英語を先駆者として学ぶ。
本だけは沢山ある家だった。
石井桃子、渡辺茂男、乾富子絵本だとか子供の読み物と一緒に祖母の作品があった。
亡くなる2日前の随筆に、私のことも書いてある。
祖母が私の子守りを頼まれて、祖母が途方にくれるぐらい、泣き叫んだようだ。
大学を卒業後、ものを書く仕事を始める。 姉は翻訳の仕事。
村岡花子記念館 祖母が女学校時代からノートとか、歌を読んだもの、英文学の本とかが全部残っていた。
祖母の書斎がそっくり残っていて、資料が残っていた。
母の方が、公開してもいいと言う事になり、始まった。
タイトルが問題になり、編集者と話し合い、「窓辺による少女」に決定していたが、出版社の社長から連絡があり、「赤毛のアン」でどうかとの問いあわせがあり、祖母は気にいらなかった。
家族で話し合って、子供の意見では、「赤毛のアン」の方がいいと言う事だった。
ギリギリセーフで「赤毛のアン」に決まった。
戦争中に、敵国の翻訳をしていたことは聞いてはいたが、細かな足跡でどういう風に仕事をしていたのか、どういう風に生きていたのか、そこまで振り返ることはしていなかった。
記念館をきっかけに、母と整理をしながら、母は記憶のファイルを開いていく様に話始めて、いろんなことのきっかけでした。
3年後に母が突然亡くなる。
母は、祖母と私の結び目でもあったので、非常に悲しかった。
私がいつかおばあちゃんの物を書こうと宣言した。(26歳) それから14年後になるが。
先ずは本の整理、手紙類、資料の整理。
祖母、母が生きていた時代の事は何にも知らないと言う事に愕然とした。
先ずはそこから知ること、時代背景、生活感情、教育、考えている事等を知らないと書けないと思った。
一番驚いたのは、読む本がなかった。 教育の機会が均等では無かった。
今当たり前だと思っている環境、制度がなかった。
花子の父親はいろんなことに興味があって、キリスト教にも入っていた。
父は行商 母は農業の設定だが、父(静岡の茶商人)も母も商人だった。
父親は商人だけれど商売は苦手だった。 新しい思想、キリスト教、だとか本が好きだった。
宣教師都の流れで、実家を捨てて静岡から甲府にうつって、結婚して生まれたのが花子。
花子は2歳の時に幼児洗礼を受けている。 カナダの教会の流れだった。
赤毛のアンと出会う運命みたいなものが動き始めた様に思う。
甲府教会で幼児洗礼を受けるが、そこの教会の牧師さんが東洋英和女学校の創設者だったりして、その縁があって、10歳で東洋英和女学校のカナダ系ミッションスクールに特別に入れてもらえると言う事になる。
そこで様々な出会いがあり、才能が開花する。
出会いに恵まれた人だと思う。
実際は花子が5歳の時に一家で、東京に来ていた。
クリスチャンのヒューマニズムと言うものを叩きこまれて、日本文学を勉強したいと思っていたときに、白蓮さんとであって、歌、日本文学を勉強していて、佐佐木信綱先生、歌の先生にもついていた。
白蓮さんの導きもあって、佐々木先生の門下生になる。
歌を一生懸命に勉強した。 一時期は歌人になろうと思った。
英語力と同じように、歌を読むことで、研さんされた日本語の感覚と言うものを磨いた。
翻訳家の道の上では、非常に大切な文学的素養だと思う。
佐々木門下で培われた、日本語を選ぶ感覚は、すごく大事だったと思う。
今、英語は大事だと言う様な傾向はあるが、日本語の豊富さをもう一度見直されるべきだなあと思うし、英語ができる人は増えているが、何が明治の人と違うかと言うと、漢文の素養、短歌、俳句 日本語の豊かさを勉強している。
子供時代に沢山の本を読んで、想像力を養って、主人公がどんな境遇でも一生懸命頑張っていれば、誰かが見ていて、必ず報われる、一筋の光明が見える、と言う様な物語が多いが、祖母自身がそういったものをたくさん読んで、そういうものから生きる力、精神を得たんだと思う。
生きる力を与えてくれるような本を若い人たちにも、届けたいという想いが、実体験からより強くなったんだと、思います。
40歳で書いて、これからどう生きるか、と言う事を考える上で、歴史を知ることは大事な時期だったと思う。
2014年7月13日日曜日
片岡義男(作家) ・作家として40年新作に挑む
片岡義男(作家) 作家として40年新作に挑む
昭和15年東京の生まれ 山口県、広島県、父親が日系2世だった関係で、一時期ハワイで教育を受けた経験があります。
片岡さんは大学在学中から翻訳や、ライターの仕事を始め、「僕はプレスリーが好き」で評論家としてビューしました。小説家としても1974年に「白い波の荒野へ」でデビュー、翌年、「スローなブギにしてくれ」で野生時代新人文学賞を受賞、その後も幅広い分野で活躍してきました。
最近は、「日本語の外へ」などの日本文化論等、日本語についての著作でも注目されています。
小説家としてデビュー40周年の今年は写真集に続いて、東京を舞台に、・・・(地震情報有)
大学は早稲田、法学部 1970年代にいろんな雑誌に文章を書いている。
書き始めたのは1960年ぐらい、大学生のころから書き始める。
昔、翻訳の仕事をやった。 おじいさんがハワイに移民した。 お爺さんは日本に帰ってきた。
父親は日系2世、英語しか喋らなかった。 母親は日本人 近江八幡出身
父は、戦争が始まって、帰る船に乗りそこなって、お見合いを勧める人がいて結婚した。
お爺さんは山口県の出身で、ハワイから帰ってきて家を立ててのんびりしていた。
私は、戦争で山口県に疎開したので、お爺さんの影響が非常に大きい。
お爺さんは、何でも自分でやる人だった。
アクションの仕方を幼いころから影響を受けた。
父はGHQの通訳を中心に、仕事をしていた。
母は日本語、お爺さんは日本語とハワイ系の英語 父はカルフォルニア風の英語だった。
少年時代はあまり本は読まなかった。
母親からは本を読むように言われていた。
母親は関西だが、関西弁の影響は受けてなかった。
大学生の頃から文章は書く様になった。(20歳)
最初は翻訳 英語の勉強はあまりしていなかった。 娯楽小説だったので。
就職は、求人表があり、大ぜいが見ていたが、秋になると少なくなってきた、秋になっても私は決まっていなかったので、友人と共に商事会社に面接に行った。
卒業式を境に、世の中に放り出される。 黄金時代がある日突然終わる。
仮採用 3カ月あるが、このままいると迷惑をかけるだけだと、3か月で認識した。
辞めて、時間が自由に使えるので、多少真面目に書く様になる。
コラム、エッセー 等を書いた。
植草甚一 平凡パンチを書いていたころ、よくコメントをもらった
1974年 小説を出す。 34歳 「白い波の荒野へ」
文芸雑誌を創刊するから書けと言われた。 ここで書かなかったらお前は駄目になると言われた。
物語を作らなければいけないので、人物を作らなければいけないし、人物がどうすれば物語になるかを、自分なりに発見していかなければならない。
人と人の関係がどのように変化してゆくか、その変化の仕方が、物語になってゆく。
最新の小説集 東京を舞台にした小説。 十条、谷中、経堂、三軒茶屋等が 舞台になっている。
場所の取材はやっている。
30歳代の登場人物がおおい。
ファッションの記述とか、おしゃれ。 向き合っている関係がでる、だから書くわけです。
音楽も喫茶店などで出てくるが、特に私の趣味ではない。
料理、飲み物、も特に私の好みではない、人物には論理があるので、論理の中で何を飲むか選択する。
カレー、香辛料とかの記述もある。
外に在るものが私にちょっと近ずいた時に、気が付くか、気がつかないかだと思います。
40周年 写真集発売、対談集も間もなく出版、翻訳家の鴻巣友季子さんと翻訳問答。
翻訳論議、日本語って、同じ英語の文章を読んでも、翻訳家の方によって選ぶ言葉とか表現が、簡単なようで違う言葉を使っている。
小説家片岡さんの魅力はアメリカ文化、英語の文化を持ち、独特の視点で現代日本の人間模様を捉えているところだとおもいますと、書かれているが?
そういう捉え方もあるかもしれない。
5歳ぐらいの自分と同じだと思う事もあるし、10歳、30歳の自分と変わらないと思う。
写真、小説 翻訳 どこかでつながっていると思う。
昭和15年東京の生まれ 山口県、広島県、父親が日系2世だった関係で、一時期ハワイで教育を受けた経験があります。
片岡さんは大学在学中から翻訳や、ライターの仕事を始め、「僕はプレスリーが好き」で評論家としてビューしました。小説家としても1974年に「白い波の荒野へ」でデビュー、翌年、「スローなブギにしてくれ」で野生時代新人文学賞を受賞、その後も幅広い分野で活躍してきました。
最近は、「日本語の外へ」などの日本文化論等、日本語についての著作でも注目されています。
小説家としてデビュー40周年の今年は写真集に続いて、東京を舞台に、・・・(地震情報有)
大学は早稲田、法学部 1970年代にいろんな雑誌に文章を書いている。
書き始めたのは1960年ぐらい、大学生のころから書き始める。
昔、翻訳の仕事をやった。 おじいさんがハワイに移民した。 お爺さんは日本に帰ってきた。
父親は日系2世、英語しか喋らなかった。 母親は日本人 近江八幡出身
父は、戦争が始まって、帰る船に乗りそこなって、お見合いを勧める人がいて結婚した。
お爺さんは山口県の出身で、ハワイから帰ってきて家を立ててのんびりしていた。
私は、戦争で山口県に疎開したので、お爺さんの影響が非常に大きい。
お爺さんは、何でも自分でやる人だった。
アクションの仕方を幼いころから影響を受けた。
父はGHQの通訳を中心に、仕事をしていた。
母は日本語、お爺さんは日本語とハワイ系の英語 父はカルフォルニア風の英語だった。
少年時代はあまり本は読まなかった。
母親からは本を読むように言われていた。
母親は関西だが、関西弁の影響は受けてなかった。
大学生の頃から文章は書く様になった。(20歳)
最初は翻訳 英語の勉強はあまりしていなかった。 娯楽小説だったので。
就職は、求人表があり、大ぜいが見ていたが、秋になると少なくなってきた、秋になっても私は決まっていなかったので、友人と共に商事会社に面接に行った。
卒業式を境に、世の中に放り出される。 黄金時代がある日突然終わる。
仮採用 3カ月あるが、このままいると迷惑をかけるだけだと、3か月で認識した。
辞めて、時間が自由に使えるので、多少真面目に書く様になる。
コラム、エッセー 等を書いた。
植草甚一 平凡パンチを書いていたころ、よくコメントをもらった
1974年 小説を出す。 34歳 「白い波の荒野へ」
文芸雑誌を創刊するから書けと言われた。 ここで書かなかったらお前は駄目になると言われた。
物語を作らなければいけないので、人物を作らなければいけないし、人物がどうすれば物語になるかを、自分なりに発見していかなければならない。
人と人の関係がどのように変化してゆくか、その変化の仕方が、物語になってゆく。
最新の小説集 東京を舞台にした小説。 十条、谷中、経堂、三軒茶屋等が 舞台になっている。
場所の取材はやっている。
30歳代の登場人物がおおい。
ファッションの記述とか、おしゃれ。 向き合っている関係がでる、だから書くわけです。
音楽も喫茶店などで出てくるが、特に私の趣味ではない。
料理、飲み物、も特に私の好みではない、人物には論理があるので、論理の中で何を飲むか選択する。
カレー、香辛料とかの記述もある。
外に在るものが私にちょっと近ずいた時に、気が付くか、気がつかないかだと思います。
40周年 写真集発売、対談集も間もなく出版、翻訳家の鴻巣友季子さんと翻訳問答。
翻訳論議、日本語って、同じ英語の文章を読んでも、翻訳家の方によって選ぶ言葉とか表現が、簡単なようで違う言葉を使っている。
小説家片岡さんの魅力はアメリカ文化、英語の文化を持ち、独特の視点で現代日本の人間模様を捉えているところだとおもいますと、書かれているが?
そういう捉え方もあるかもしれない。
5歳ぐらいの自分と同じだと思う事もあるし、10歳、30歳の自分と変わらないと思う。
写真、小説 翻訳 どこかでつながっていると思う。
2014年7月12日土曜日
山口巌(帽子職人) ・神戸で帽子を作り続けて60年
山口巌(帽子職人) 神戸で帽子を作り続けて60年
店の3階の工房で婦人用を中心に、オリジナルデザインの帽子を作ってきました。
是まで大阪万博のスタッフ、アトランタオリンピック選手団、航空会社の客室乗務員の制帽を始め、皇室に収める帽子など、これまでに数万個から10万個と言われる、帽子を手掛けてきました。
2012年に現代の名工に選ばれ、今年の春には 黄綬褒章を受章、マイスターと呼ばれ、80歳を過ぎた今も工房に立ち、木型に生地をかぶせ、蒸気を当ててヘラで押さえながら、帽子を次々に製作してゆきます。
神戸らしいエレガントな帽子を次々に生み出す職人さん、いったいどんな人なのか、一つ数万円以上すると言う高級な帽子、どのように造り出されているのか、伺いました。
陳列ケースには色々な色、材料の帽子が並べられています。
3階の工房では至るところにホースの先から蒸気が出ている。
型入れの時になくてはならないもの、それが蒸気。
木型に布を当てている。 帽体、膨らんだ部分(クラウン かぶる部分) 生地が立体的になってくる。
蒸気を当てながら、木型にそうしてゆく。
小さいアイロンで木型に布を丁寧に収めてゆく。
香川県の出身 兄弟が7人 3男 職を探しに京阪神の方に出てきた。
昭和20年、終戦時小学6年生 定時制の農業高校を卒業して、昭和28年の春、神戸に出てきた。(就職難の時代 義理の兄が神戸にいたので義理の兄に頼んで職を探してもらった。)
採用されて、3ヶ月間見習い、雑用、掃除、荷作り、材料の不足品を買いに行ったりしていた。
営業、帽子作りどちらかを選ぶように言われて、作る方を希望した。
最初は帽子の型入れ、テスト的にやらされた。 生地を引っ張り過ぎて破れてしまった。
当時1個の帽子は給料と同じぐらいの値段だった。
当時、お客さんは外人の方が多かった。
外人のキャンプに売り込みに行った。
芦屋の高級住宅街にも、持って行って買っていただいた。
真知子巻きがはやる。「君の名は」連続ラジオドラマが、映画化されて、ターバンの様なものを巻いて、それが人気になって、それから帽子を頭に、と言うそういう婦人の方が多くなった。
ベレー帽が大ヒットする時代がある。
自分が入ってから2年目ぐらい、昭和30年ぐらいから、流行る。
毎日毎日ベレー帽の木型への型入れをやらされた覚えがある。(手に水ぶくれが出来る。)
一つ 600円ぐらいだった。
ほとんど材料はウールで色は黒が圧倒的に多かった。 紺色が少し。
年齢を問わずに購入された。
年配の方はカラフルだった。
昭和34年皇太子の結婚 美智子さんがかぶられた帽子が若い女性の方にブームになって、結婚したらハネムーンには必ず帽子を被ってゆく、と言う事がありました。
10人中8~9人は白のフェルトの帽子で花で飾って、店でもそういうものを良く売っていた。
昭和39年東京オリンピック 入場式に選手団が必ず帽子をかぶっていた。
自分がようやく自分でデザインして、市場に出ても認められるようになった時、百貨店でオートクチュールのショーをするというので、帽子も作ってほしいとの事で、洋服に合ったものを作って勉強させていただいた。
万博ではタイムカプセルに入れる帽子も作ってほしいとの要望がありベレー帽も作った。
日用品からあらゆる分野のものを入れるという事で、いろんなもの、2000点がタイムカプセルに納められた。
同型のものがあるがショッキングピンク、桜の形の5枚の花弁(5大陸)の切り抜き、トップに紐がついている。 生地はうさぎの毛 肌触りのいいのと温かいのと。
100年後にどうなっているんだろうかと、興味はあった。
平成5年 雅子妃殿下の伊勢神宮に結婚された報告をしにいかれた時の帽子を作りました。
心配だったのが、お辞儀をしたときにずれたり、落ちてしまうのではないかと、心配だった。
皇室の帽子は顔を隠したらだめという事らしいので、浅い小ぶりのものが多いものだから。
ピンチは?
1995年の阪神淡路大震災ですね。
制帽のかきいれ時だったので、全日空のスチュワーデスの制帽はこれが最後だという事で、4500個ぐらいを納める時期があり、取りかかっていた頃です。
水道が出ないので、ボイラーが炊けない。
蒸気が使えないので、地下水が出るところがあり毎日貰いに行った。
ガスが止まっていたので、灯油で対応した。 10日間は工程が遅れてしまった。
木型も壊れてしまったものがある。 修理可能なものもあったが、使えないものもあった。
木型はイチョウの木と桂の木を使っている。 乾燥と湿気に左右されない木を使う。
一番いいのが桜だといわれるが。 40年、50年でも使える宝物です。
木型は一個一個違うし、力の入れ方、ミシンの掛け方で感じが変わるので、60年やっていて、10個作ってお客さんに満足してもらって、買ってもらえるというのが、まだ6個ぐらいしか無いと思う。
4個は力不足と言うか、何かが足りないのかなあと思います。
厳しく見ていかないといいものはできない。
快心の出来だと思っても、売れ残ってしまったりすることがある。
今は帽子を被る人が少なくなった。
帽子は、盛装した最後のアイテムとして、きちっと被って頂けると本当に素敵に見える、その人に合うものが必ずあるので、それを自分なりに、被りこなしてほしいですね。
店の3階の工房で婦人用を中心に、オリジナルデザインの帽子を作ってきました。
是まで大阪万博のスタッフ、アトランタオリンピック選手団、航空会社の客室乗務員の制帽を始め、皇室に収める帽子など、これまでに数万個から10万個と言われる、帽子を手掛けてきました。
2012年に現代の名工に選ばれ、今年の春には 黄綬褒章を受章、マイスターと呼ばれ、80歳を過ぎた今も工房に立ち、木型に生地をかぶせ、蒸気を当ててヘラで押さえながら、帽子を次々に製作してゆきます。
神戸らしいエレガントな帽子を次々に生み出す職人さん、いったいどんな人なのか、一つ数万円以上すると言う高級な帽子、どのように造り出されているのか、伺いました。
陳列ケースには色々な色、材料の帽子が並べられています。
3階の工房では至るところにホースの先から蒸気が出ている。
型入れの時になくてはならないもの、それが蒸気。
木型に布を当てている。 帽体、膨らんだ部分(クラウン かぶる部分) 生地が立体的になってくる。
蒸気を当てながら、木型にそうしてゆく。
小さいアイロンで木型に布を丁寧に収めてゆく。
香川県の出身 兄弟が7人 3男 職を探しに京阪神の方に出てきた。
昭和20年、終戦時小学6年生 定時制の農業高校を卒業して、昭和28年の春、神戸に出てきた。(就職難の時代 義理の兄が神戸にいたので義理の兄に頼んで職を探してもらった。)
採用されて、3ヶ月間見習い、雑用、掃除、荷作り、材料の不足品を買いに行ったりしていた。
営業、帽子作りどちらかを選ぶように言われて、作る方を希望した。
最初は帽子の型入れ、テスト的にやらされた。 生地を引っ張り過ぎて破れてしまった。
当時1個の帽子は給料と同じぐらいの値段だった。
当時、お客さんは外人の方が多かった。
外人のキャンプに売り込みに行った。
芦屋の高級住宅街にも、持って行って買っていただいた。
真知子巻きがはやる。「君の名は」連続ラジオドラマが、映画化されて、ターバンの様なものを巻いて、それが人気になって、それから帽子を頭に、と言うそういう婦人の方が多くなった。
ベレー帽が大ヒットする時代がある。
自分が入ってから2年目ぐらい、昭和30年ぐらいから、流行る。
毎日毎日ベレー帽の木型への型入れをやらされた覚えがある。(手に水ぶくれが出来る。)
一つ 600円ぐらいだった。
ほとんど材料はウールで色は黒が圧倒的に多かった。 紺色が少し。
年齢を問わずに購入された。
年配の方はカラフルだった。
昭和34年皇太子の結婚 美智子さんがかぶられた帽子が若い女性の方にブームになって、結婚したらハネムーンには必ず帽子を被ってゆく、と言う事がありました。
10人中8~9人は白のフェルトの帽子で花で飾って、店でもそういうものを良く売っていた。
昭和39年東京オリンピック 入場式に選手団が必ず帽子をかぶっていた。
自分がようやく自分でデザインして、市場に出ても認められるようになった時、百貨店でオートクチュールのショーをするというので、帽子も作ってほしいとの事で、洋服に合ったものを作って勉強させていただいた。
万博ではタイムカプセルに入れる帽子も作ってほしいとの要望がありベレー帽も作った。
日用品からあらゆる分野のものを入れるという事で、いろんなもの、2000点がタイムカプセルに納められた。
同型のものがあるがショッキングピンク、桜の形の5枚の花弁(5大陸)の切り抜き、トップに紐がついている。 生地はうさぎの毛 肌触りのいいのと温かいのと。
100年後にどうなっているんだろうかと、興味はあった。
平成5年 雅子妃殿下の伊勢神宮に結婚された報告をしにいかれた時の帽子を作りました。
心配だったのが、お辞儀をしたときにずれたり、落ちてしまうのではないかと、心配だった。
皇室の帽子は顔を隠したらだめという事らしいので、浅い小ぶりのものが多いものだから。
ピンチは?
1995年の阪神淡路大震災ですね。
制帽のかきいれ時だったので、全日空のスチュワーデスの制帽はこれが最後だという事で、4500個ぐらいを納める時期があり、取りかかっていた頃です。
水道が出ないので、ボイラーが炊けない。
蒸気が使えないので、地下水が出るところがあり毎日貰いに行った。
ガスが止まっていたので、灯油で対応した。 10日間は工程が遅れてしまった。
木型も壊れてしまったものがある。 修理可能なものもあったが、使えないものもあった。
木型はイチョウの木と桂の木を使っている。 乾燥と湿気に左右されない木を使う。
一番いいのが桜だといわれるが。 40年、50年でも使える宝物です。
木型は一個一個違うし、力の入れ方、ミシンの掛け方で感じが変わるので、60年やっていて、10個作ってお客さんに満足してもらって、買ってもらえるというのが、まだ6個ぐらいしか無いと思う。
4個は力不足と言うか、何かが足りないのかなあと思います。
厳しく見ていかないといいものはできない。
快心の出来だと思っても、売れ残ってしまったりすることがある。
今は帽子を被る人が少なくなった。
帽子は、盛装した最後のアイテムとして、きちっと被って頂けると本当に素敵に見える、その人に合うものが必ずあるので、それを自分なりに、被りこなしてほしいですね。
2014年7月11日金曜日
東山香子(金属加工会社・社長) ・町工場 女性の技術で輝きます(2)
東山香子(金属加工会社・社長) 町工場 女性の技術で輝きます。(2)
女性を募集、子連れOK、出勤時間も融通できる事を雇用の条件にした。
実際にはハローワークに出した時、女の人が応募してきたが、そのうちの3人は機械をみて、こんな難しいのは無理と、3人は辞退した。
残った一人は、機械を扱ったことがない人で有ったが、働いてもらった。
ミシンが使えれば、扱えると思う。
機械も進化して、簡単に使える様になってきているので、本人にやる気さえあれば、できると思う。
全員が全部の仕事ができるように、営業、経理、事務、見積もり、加工など全部やる様にした。
休みに対応できるようにしたかったが、効率を考えると、人間の感とか熟練してゆくところがあるので、特化した方がいいかなと言う迷いが出来て、全部できると言うことは、逆に責任感の欠如などもあり、今は試験的に2年ぐらいは、特化している。
将来的にはどっちに行ったらいいか、難しい。 長い目で人を育てることも必要。
介護の問題も出てくるので、その時にどうするかという問題があり、家で出来る仕事につながる様なことができればいいと思っているが、見積もりは電話と図面があればできるので、見積もりなどはできるのではないかと、考えている。
子育て世代なので、情報を共有する事がメリットとしてあると思う。
規模を大きくしていかないと、なかなか思っている様な事はまだできない。
男性は補完、昼と夜に対応してもらっている。
8年なので、経験はまだ浅いので、確認作業はおこたらない、慎重ですね。
小さい穴の依頼が増えたので、女性向きかなと思います。
女の人が日本の社会で、本人が働きたいと思えば、女性も日本は高等教育を受けている人は高いので、ドンドン出てきて働くべきだと思います。
国のバックアップも出来てきているので、環境は良くなってきていると思います。
仕事をすることで得る学びは、大きいと思うので、子育て、家庭での家事に生かされたらいいと思う。 両方を行き来して、男性と違う感じで生きていて、それは斬新だと思う。
女性が働きやすい環境、メディアで取り上げられて来ているが、まだまだ珍しいので、流れ的にはそうなってきていることは感じます。
理想は高く掲げているが、現実は厳しいものがある。
短納期、皆が定時で帰って私だけで夜対応してきて、女性の働く環境をよくするために、私が夜働いてあれっと思ったり、男性を雇えばよかったとか、思ったりした事もある。
長く続く会社にするためには、自分だけ無理しても駄目だと思っているが、なかなか難しいところもある。
男性も受け入れてゆく方向も、検討する必要があるのではないかと思う。
介護の問題も絶対出てくると思うので、柔軟性のある会社にしたいと思います。
その時その時の環境に依って働ける時間が左右される事はある。(幼稚園、小学生の環境など)
介護で辞めた人もいる。(創業時の人) 介護が終わったら戻ってきてと、早く言えるようにしたい。
事業の拡大に対しても相談するが、拡大しない方がいいと言う人と、拡大すべきだと言う人がいて
判断が難しい。(両方とも一理あると、思っている)
NPOみたいなものを作りたいと思っているが、資金繰りが大変なので、今の会社を育て上げ、社会貢献できるようにしたいと思っているが、まだまだ遠い先にあると思う。
8年間で、いろんなものが見えてきた。
今の自分で出来る確実な道は何かなと言う風に、今は物を考えている。
世の中が加速してきているような気がする。
女性を募集、子連れOK、出勤時間も融通できる事を雇用の条件にした。
実際にはハローワークに出した時、女の人が応募してきたが、そのうちの3人は機械をみて、こんな難しいのは無理と、3人は辞退した。
残った一人は、機械を扱ったことがない人で有ったが、働いてもらった。
ミシンが使えれば、扱えると思う。
機械も進化して、簡単に使える様になってきているので、本人にやる気さえあれば、できると思う。
全員が全部の仕事ができるように、営業、経理、事務、見積もり、加工など全部やる様にした。
休みに対応できるようにしたかったが、効率を考えると、人間の感とか熟練してゆくところがあるので、特化した方がいいかなと言う迷いが出来て、全部できると言うことは、逆に責任感の欠如などもあり、今は試験的に2年ぐらいは、特化している。
将来的にはどっちに行ったらいいか、難しい。 長い目で人を育てることも必要。
介護の問題も出てくるので、その時にどうするかという問題があり、家で出来る仕事につながる様なことができればいいと思っているが、見積もりは電話と図面があればできるので、見積もりなどはできるのではないかと、考えている。
子育て世代なので、情報を共有する事がメリットとしてあると思う。
規模を大きくしていかないと、なかなか思っている様な事はまだできない。
男性は補完、昼と夜に対応してもらっている。
8年なので、経験はまだ浅いので、確認作業はおこたらない、慎重ですね。
小さい穴の依頼が増えたので、女性向きかなと思います。
女の人が日本の社会で、本人が働きたいと思えば、女性も日本は高等教育を受けている人は高いので、ドンドン出てきて働くべきだと思います。
国のバックアップも出来てきているので、環境は良くなってきていると思います。
仕事をすることで得る学びは、大きいと思うので、子育て、家庭での家事に生かされたらいいと思う。 両方を行き来して、男性と違う感じで生きていて、それは斬新だと思う。
女性が働きやすい環境、メディアで取り上げられて来ているが、まだまだ珍しいので、流れ的にはそうなってきていることは感じます。
理想は高く掲げているが、現実は厳しいものがある。
短納期、皆が定時で帰って私だけで夜対応してきて、女性の働く環境をよくするために、私が夜働いてあれっと思ったり、男性を雇えばよかったとか、思ったりした事もある。
長く続く会社にするためには、自分だけ無理しても駄目だと思っているが、なかなか難しいところもある。
男性も受け入れてゆく方向も、検討する必要があるのではないかと思う。
介護の問題も絶対出てくると思うので、柔軟性のある会社にしたいと思います。
その時その時の環境に依って働ける時間が左右される事はある。(幼稚園、小学生の環境など)
介護で辞めた人もいる。(創業時の人) 介護が終わったら戻ってきてと、早く言えるようにしたい。
事業の拡大に対しても相談するが、拡大しない方がいいと言う人と、拡大すべきだと言う人がいて
判断が難しい。(両方とも一理あると、思っている)
NPOみたいなものを作りたいと思っているが、資金繰りが大変なので、今の会社を育て上げ、社会貢献できるようにしたいと思っているが、まだまだ遠い先にあると思う。
8年間で、いろんなものが見えてきた。
今の自分で出来る確実な道は何かなと言う風に、今は物を考えている。
世の中が加速してきているような気がする。
2014年7月10日木曜日
東山香子(金属加工会社・社長) ・町工場 女性の技術で輝きます。(1)
東山香子(金属加工会社・社長) 町工場 女性の技術で輝きます。(1)
これまで男の職場だった町工場にも、女性が進出し始めています。
物作りの街として知られる、大阪、東大阪市、ここに在る東山さんの金属加工の町工場で働くのは、30代から40代の子育て世代の女性4人です。
6500以上ある町工場がある東大阪市でも、まだ珍しい存在です。
東山さんは41歳、美術専門学校をでて、信楽焼の窯元などに務めた後、大阪の加工機メーカーで働き、その後独立して町工場の経営を始めました。
子供を持つ女性が働きやすい様に、工夫された東山さんの町工場、どのように仕事が進められているのか、経営者の考えは、伺いました。
50平方mに工場は所狭しと、機械や工具が並んでいます。
ここで行われているのは、金属への穴あけの作業です。
穴あけの機械が4台あります。
直径が0.25mmの電極を取り付けていて、電極を回転させて、金属を溶かして金属に穴を開けます。
用途は、機械部品、半導体の部品、金型、吸着ノズルなどの穴あけをしている。
放電加工の一つの方法 切削で穴あけが一般的ですが、方法が違って電気で溶かす事が特徴です。
細穴放電加工をうちの会社は請け負っている。
8年経って、延べ700社の取引があります。 まだまだ不安定です。
2006年に会社を設立。 生まれは愛知県 その後奈良で過ごして、操業するときに金属製造業の数を調べて、一番多いところの東大阪市にしました。
父は金属加工業を継いで、2代目の社長をやっています。 鉄工所と言った感じです。
母親は4人の子供を育て上げました。
手に職をつけたら、と言う様な事を小さいころから言われていた。
起業するという発想はまったくなかった。
大学に一旦はいるが、中退する。
高校の時に海外青年協力隊の事を知って、それに参加したいという夢があり、大学に行って教員免許を取って、教育者に行こうと思っていたが、面白くないと感じて3カ月で辞める。
夢は捨てきれずに、海外青年協力隊員の受験資格を取ろうと、色々探しながら、2年間陶芸を学校で勉強して、その後信楽焼の勉強をして、3年間の実績があれば資格対象になるので、やろうと思った。(製造業3年間勤務以上)
3年間は楽しく過ごすことができた。
受験しようと思って、受験内容を調べたら、陶芸を武器にしようと思ったが、土の事からできないというレベルで、自分のレベルではとても無理だと判った。
30歳までに行こうと思って、色々なことをやった。
29歳の時にマレーシアの障害者の施設で美術講師の枠があって、陶芸ができるとなおよいという条件が付いていたのでぴったりと思って、受験して受かった。
語学の訓練、健康診断があり、そこで病気(癌細胞になるかもしれない細胞が見つかる)が発覚して、派遣中止になった。
ショックで落ち込んでしまった。(それまでは挫折の経験はなかった)
人の役に立つようなことがしたいと思っていたので、それができなければ日本でやればいいのかなあと思った。
NGOで働いて、似たようなことがしたいと思ったが、なかなかうまい就職口が見つからない。
40歳までのもう一度受験しようと思って、2年掛かりで病気のほうを治して行こうと思っていたら、一時実家に戻って、アルバイトで放電加工の仕事をした。
経営者から、女の人だけで放電加工の仕事をやってみたらどう、と言う話が出てきた。
日本で起業したら、全部できるよと云われて、雇用も増やせるし、女性の雇用、社会問題も解決したらと言われて、起業する事が世の中の役に立つ、という発想がなかったので、衝撃が走った。
穴あけは、二次元で場所を決めて、下に下げてゆくだけなので、簡単。
私が仕事を喜ぶものだから、経営者のその話になったと思う。
続く会社をつくれば、世の中に貢献し続けることができると思って、又社長して見ないかと言うチャンスは恐らくないと思って、協力隊は諦め切れないところもあって、在職しながらも行けると言う事もあり、それもあきらめきれずに、3人で起業しました。
資本金600万円 用意して、機械を買って、始めました。
運営の仕方も判らないので、毎日仕事がないね、と言う日が続いた。
チラシ配り、一軒一軒お客さんになりそうなところに伺った。
1日3軒ぐらい、営業をしたことがなかったので、心が折れる。
見積もりをどうしたらいいかと、いう様な所から始まった。
最初は成功報酬 やってみないと判らない様な状況だった。
口コミが一番強いなと実感している。
良い仕事をすると、それをお客さんが勝手に、あそこはちゃんと穴をあけてくれるよと、知ってもらうのが一番大きい。
ホームページを最初に作ったので、インターネットさまさまと言うところもある。
7年ぶりに仕事を頂いたお客さんもいる。
納期は約束事なのだが、トラブルはあるので、お客さんと調整して、最悪この期間とか、話をして、無茶な納期では受けない。
万一遅れるようであれば、あるとき事前に連絡する。
会社を始めるときに3年間は赤字でもやろうと思った。
でも着実にお客さんも増えるし、できることもドンドン増えていった。
地道にやっていけば、お客さんは増えるように思えて、3年目は凄く忙しくなって、4年目にリーマンショックにあって、吃驚するほど少なくなって、えーっと思って、どうしようという感じだった。
これを乗り越えたら100年は大丈夫だといわれた。
大赤字を残して、いまだにリーマンショックの深手は癒えていない。
横のつながりも出来てきたので、より小さな或いはより大きな穴あけのお客さんの要望をなんとか応えるようにしている。
口こみであって、インターネットがあって、そして人間が介在して新しい仕事のあり方。
これまで男の職場だった町工場にも、女性が進出し始めています。
物作りの街として知られる、大阪、東大阪市、ここに在る東山さんの金属加工の町工場で働くのは、30代から40代の子育て世代の女性4人です。
6500以上ある町工場がある東大阪市でも、まだ珍しい存在です。
東山さんは41歳、美術専門学校をでて、信楽焼の窯元などに務めた後、大阪の加工機メーカーで働き、その後独立して町工場の経営を始めました。
子供を持つ女性が働きやすい様に、工夫された東山さんの町工場、どのように仕事が進められているのか、経営者の考えは、伺いました。
50平方mに工場は所狭しと、機械や工具が並んでいます。
ここで行われているのは、金属への穴あけの作業です。
穴あけの機械が4台あります。
直径が0.25mmの電極を取り付けていて、電極を回転させて、金属を溶かして金属に穴を開けます。
用途は、機械部品、半導体の部品、金型、吸着ノズルなどの穴あけをしている。
放電加工の一つの方法 切削で穴あけが一般的ですが、方法が違って電気で溶かす事が特徴です。
細穴放電加工をうちの会社は請け負っている。
8年経って、延べ700社の取引があります。 まだまだ不安定です。
2006年に会社を設立。 生まれは愛知県 その後奈良で過ごして、操業するときに金属製造業の数を調べて、一番多いところの東大阪市にしました。
父は金属加工業を継いで、2代目の社長をやっています。 鉄工所と言った感じです。
母親は4人の子供を育て上げました。
手に職をつけたら、と言う様な事を小さいころから言われていた。
起業するという発想はまったくなかった。
大学に一旦はいるが、中退する。
高校の時に海外青年協力隊の事を知って、それに参加したいという夢があり、大学に行って教員免許を取って、教育者に行こうと思っていたが、面白くないと感じて3カ月で辞める。
夢は捨てきれずに、海外青年協力隊員の受験資格を取ろうと、色々探しながら、2年間陶芸を学校で勉強して、その後信楽焼の勉強をして、3年間の実績があれば資格対象になるので、やろうと思った。(製造業3年間勤務以上)
3年間は楽しく過ごすことができた。
受験しようと思って、受験内容を調べたら、陶芸を武器にしようと思ったが、土の事からできないというレベルで、自分のレベルではとても無理だと判った。
30歳までに行こうと思って、色々なことをやった。
29歳の時にマレーシアの障害者の施設で美術講師の枠があって、陶芸ができるとなおよいという条件が付いていたのでぴったりと思って、受験して受かった。
語学の訓練、健康診断があり、そこで病気(癌細胞になるかもしれない細胞が見つかる)が発覚して、派遣中止になった。
ショックで落ち込んでしまった。(それまでは挫折の経験はなかった)
人の役に立つようなことがしたいと思っていたので、それができなければ日本でやればいいのかなあと思った。
NGOで働いて、似たようなことがしたいと思ったが、なかなかうまい就職口が見つからない。
40歳までのもう一度受験しようと思って、2年掛かりで病気のほうを治して行こうと思っていたら、一時実家に戻って、アルバイトで放電加工の仕事をした。
経営者から、女の人だけで放電加工の仕事をやってみたらどう、と言う話が出てきた。
日本で起業したら、全部できるよと云われて、雇用も増やせるし、女性の雇用、社会問題も解決したらと言われて、起業する事が世の中の役に立つ、という発想がなかったので、衝撃が走った。
穴あけは、二次元で場所を決めて、下に下げてゆくだけなので、簡単。
私が仕事を喜ぶものだから、経営者のその話になったと思う。
続く会社をつくれば、世の中に貢献し続けることができると思って、又社長して見ないかと言うチャンスは恐らくないと思って、協力隊は諦め切れないところもあって、在職しながらも行けると言う事もあり、それもあきらめきれずに、3人で起業しました。
資本金600万円 用意して、機械を買って、始めました。
運営の仕方も判らないので、毎日仕事がないね、と言う日が続いた。
チラシ配り、一軒一軒お客さんになりそうなところに伺った。
1日3軒ぐらい、営業をしたことがなかったので、心が折れる。
見積もりをどうしたらいいかと、いう様な所から始まった。
最初は成功報酬 やってみないと判らない様な状況だった。
口コミが一番強いなと実感している。
良い仕事をすると、それをお客さんが勝手に、あそこはちゃんと穴をあけてくれるよと、知ってもらうのが一番大きい。
ホームページを最初に作ったので、インターネットさまさまと言うところもある。
7年ぶりに仕事を頂いたお客さんもいる。
納期は約束事なのだが、トラブルはあるので、お客さんと調整して、最悪この期間とか、話をして、無茶な納期では受けない。
万一遅れるようであれば、あるとき事前に連絡する。
会社を始めるときに3年間は赤字でもやろうと思った。
でも着実にお客さんも増えるし、できることもドンドン増えていった。
地道にやっていけば、お客さんは増えるように思えて、3年目は凄く忙しくなって、4年目にリーマンショックにあって、吃驚するほど少なくなって、えーっと思って、どうしようという感じだった。
これを乗り越えたら100年は大丈夫だといわれた。
大赤字を残して、いまだにリーマンショックの深手は癒えていない。
横のつながりも出来てきたので、より小さな或いはより大きな穴あけのお客さんの要望をなんとか応えるようにしている。
口こみであって、インターネットがあって、そして人間が介在して新しい仕事のあり方。
2014年7月9日水曜日
新田ユリ(指揮者) ・北欧の調べ、シベリウスに魅せられて
新田ユリ(指揮者・日本シベリウス協会事務局長) 北欧の調べ、シベリウスに魅せられて
新田さんは1961年東京生まれ、フィンランディアや交響曲第二番など、フィンランドを代表する作曲家で来年、生誕150年を迎えるシベリウスの演奏をライフワークにしています。
現在は指揮者として活躍する新田さんですが、当初志していたのは、音楽教師でした。
新田さんがシベリウスをライフワークにしたのは、およそ20年前、シベリウスの奏でる北欧のメロディーが
幼いころ暮らした、北海道の大自然と重なり、心に響いたからです。
新田さんはフィンランドでシベリウスの演奏を数多く行う、ラハティ交響楽団で研修を行った経験から、フィンランドの音楽家との演奏活動も精力的に行っています。
シベリウス作曲の「クレルヴォ交響曲」 シベリウスの出世作 フィンランドを表現する様な素晴らしい曲
子供のころから楽器を演奏する事は好きだった。
近所のピアノ教室に通って、弾くと言う事が好きだった。
4歳からピアノを習い始めた。
札幌に引っ越して、素晴らしい先生に出会って、巨匠と言われるピアニストの演奏を聞かせてもらった。
今から思うと非常に大事なことを教えてもらったと思う。
バイオリンが好きだったので、レコードをきいたりした。
弦楽器の広がりのある全体的な響きに非常に憧れをもっていた。
札幌交響楽団を聞いていた。 東京に戻ってきて、N響に注目していて、コンサートマスターに注目
していた。
高校にオーケストラがあり、バイオリンを持つ機会があって、見よう見まねで、弾いた。
憧れのコンサートマスターの席に座れた。
職業として、音楽は頭の中にはなかった。
将来、教師としてつきたいなと、初めは音楽大学の教育学部に入る。
指揮研究会がサークルとして有り、小松一彦先生が習ってきた斎藤秀雄先生が作られた、斎藤メソーッドを、4年間の中で勉強した。
手が、何かを考えたこと、思ったことを 思う通りに動かないと相手に伝えるものなので、どのようにしたら明確に伝えることができるか、運動的なことを最初にたたきこまれる。
30分、同じ速さで手を振りなさいと言っても、疲れてくると、遅くなったりするので、それは困るので必要なテンポを正しく示す。
なにより力を抜きなさいと、言われる。
腕の力は必要最小限で支えられるような状態の訓練を受ける。
大学4年生の時に、小松先生に期待しているよ、といわれて、教師になることはやめて、アシスタントとして現場での修業を行いながら、小松先生の元にレッスンを通う。
尾高 忠明先生の前でドボルザークの新世界を振って、そのあとに先生に呼ばれて、話をしてその後先生から指揮棒を送られてきた。
桐朋で尾高先生(日本を代表する指揮者の一人)のもとで勉強する事になる。
子供のころからロシア音楽が自分の周りに在ったので、傾倒していたが、ある時期から北欧、英国 弦楽アンサンブルに触れる機会があって、ヨーロッパで勉強するための航空券を頂き機会があり、中央ヨーロパの劇場、オーケストラを廻って勉強する機会を得た。
自分の中に惹かれる音の世界があったんだと、気がついて、それが北欧、英国の弦楽作品だった。
古くから伝わる民族的な楽器の響きだったり、環境、自然が、上手に盛り込まれた作品が多かった。
20世紀になると、中央ヨーロッパは調性が崩壊して、無調になって、しかしその時代に在っても判りやすい旋律、判りやすい和声 、判りやすい響きを使いながら、新しい物を生みだしていっているという国が北欧であって、惹かれるものがあった。
日本が中央ヨーロッパから距離があるが、それと同じように中央ヨーロッパの周辺の国々、地続きではあるが文化的にもすこし距離のある国々の音楽の在り方に、日本が学ぶべきことがあるのではないかと、思った。
北欧の作品を集めて、演奏して、皆さんに知っていただく様な活動を始めた。
1994年以降なので、約20年経つ。
シンプルさは北欧の音楽にはある。
北欧、フィンランド等の作品は、音符がそう多くはないが、描かれてる世界はとっても広く大きく感じる。
シベリウス(1865年生まれ、亡くなったのが1957年)生きた時代は19世紀、20世紀にかけてなので、自然 特別に効果音がなくても、何となく音が聞こえる。(風、とか)
自然が生み出す音は、意識するととっても複雑に音楽的に鳴っていると言う事をシベリウスは凄く楽譜に書きこんでいる。
デリケートな変化をシベリウスは大事にしている。
作品として共通して言えるのは、同じことを絶対に二度書かない。
交響曲 スタイルがあるが ソナタ形式 初めに出てきたテーマが再現部に戻って来た時に、だいたい同じ物だが、そういう書き方をしていない。
フィンランドの人達、 フィンランドの三大3S シベリウス サウナム(サウナ) シス(sisu 忍耐強い 不屈な精神を持っているという意味)
フィンランドの人達は、日常の生活でも静かであることを大事にする。
邪魔する人にはちゃんと、苦情をいう、そういう文化がある。
演奏会場でも、小さな子を連れてくるが、大前提として静かに聞いていられると言う事が条件として暗黙の了解になっている。
都会から離れた時間を週末を過ごすと言う事をかなりの人達がしている。(電気、水道のない様な小屋 自然環境の中で過ごす)
静かな森の中で、小さい子供でも鳥の声を聞いて楽しんでいたり、静かな方が自分はリラックスできると発言したりだとか、静けさを大事にする。
北海道、広大な野原がある環境で育ったので、自分が体験してきた空気、音がフィンランドにあった。
喧騒が苦手で、フィンランドに行って凄くホッとした、懐かしかった。
窓にある雪の結晶が、少しずつ違う様に、シベリウスのの曲には書きこまれているが、遠くから見ると
とても白い色であったりと見える。
シベリウスは来年、生誕150年 企画が色々あって忙しくしている。
現在 日本シベリウス協会会長が 舘野泉 この秋から会長を引き継ぐ。
新田さんは1961年東京生まれ、フィンランディアや交響曲第二番など、フィンランドを代表する作曲家で来年、生誕150年を迎えるシベリウスの演奏をライフワークにしています。
現在は指揮者として活躍する新田さんですが、当初志していたのは、音楽教師でした。
新田さんがシベリウスをライフワークにしたのは、およそ20年前、シベリウスの奏でる北欧のメロディーが
幼いころ暮らした、北海道の大自然と重なり、心に響いたからです。
新田さんはフィンランドでシベリウスの演奏を数多く行う、ラハティ交響楽団で研修を行った経験から、フィンランドの音楽家との演奏活動も精力的に行っています。
シベリウス作曲の「クレルヴォ交響曲」 シベリウスの出世作 フィンランドを表現する様な素晴らしい曲
子供のころから楽器を演奏する事は好きだった。
近所のピアノ教室に通って、弾くと言う事が好きだった。
4歳からピアノを習い始めた。
札幌に引っ越して、素晴らしい先生に出会って、巨匠と言われるピアニストの演奏を聞かせてもらった。
今から思うと非常に大事なことを教えてもらったと思う。
バイオリンが好きだったので、レコードをきいたりした。
弦楽器の広がりのある全体的な響きに非常に憧れをもっていた。
札幌交響楽団を聞いていた。 東京に戻ってきて、N響に注目していて、コンサートマスターに注目
していた。
高校にオーケストラがあり、バイオリンを持つ機会があって、見よう見まねで、弾いた。
憧れのコンサートマスターの席に座れた。
職業として、音楽は頭の中にはなかった。
将来、教師としてつきたいなと、初めは音楽大学の教育学部に入る。
指揮研究会がサークルとして有り、小松一彦先生が習ってきた斎藤秀雄先生が作られた、斎藤メソーッドを、4年間の中で勉強した。
手が、何かを考えたこと、思ったことを 思う通りに動かないと相手に伝えるものなので、どのようにしたら明確に伝えることができるか、運動的なことを最初にたたきこまれる。
30分、同じ速さで手を振りなさいと言っても、疲れてくると、遅くなったりするので、それは困るので必要なテンポを正しく示す。
なにより力を抜きなさいと、言われる。
腕の力は必要最小限で支えられるような状態の訓練を受ける。
大学4年生の時に、小松先生に期待しているよ、といわれて、教師になることはやめて、アシスタントとして現場での修業を行いながら、小松先生の元にレッスンを通う。
尾高 忠明先生の前でドボルザークの新世界を振って、そのあとに先生に呼ばれて、話をしてその後先生から指揮棒を送られてきた。
桐朋で尾高先生(日本を代表する指揮者の一人)のもとで勉強する事になる。
子供のころからロシア音楽が自分の周りに在ったので、傾倒していたが、ある時期から北欧、英国 弦楽アンサンブルに触れる機会があって、ヨーロッパで勉強するための航空券を頂き機会があり、中央ヨーロパの劇場、オーケストラを廻って勉強する機会を得た。
自分の中に惹かれる音の世界があったんだと、気がついて、それが北欧、英国の弦楽作品だった。
古くから伝わる民族的な楽器の響きだったり、環境、自然が、上手に盛り込まれた作品が多かった。
20世紀になると、中央ヨーロッパは調性が崩壊して、無調になって、しかしその時代に在っても判りやすい旋律、判りやすい和声 、判りやすい響きを使いながら、新しい物を生みだしていっているという国が北欧であって、惹かれるものがあった。
日本が中央ヨーロッパから距離があるが、それと同じように中央ヨーロッパの周辺の国々、地続きではあるが文化的にもすこし距離のある国々の音楽の在り方に、日本が学ぶべきことがあるのではないかと、思った。
北欧の作品を集めて、演奏して、皆さんに知っていただく様な活動を始めた。
1994年以降なので、約20年経つ。
シンプルさは北欧の音楽にはある。
北欧、フィンランド等の作品は、音符がそう多くはないが、描かれてる世界はとっても広く大きく感じる。
シベリウス(1865年生まれ、亡くなったのが1957年)生きた時代は19世紀、20世紀にかけてなので、自然 特別に効果音がなくても、何となく音が聞こえる。(風、とか)
自然が生み出す音は、意識するととっても複雑に音楽的に鳴っていると言う事をシベリウスは凄く楽譜に書きこんでいる。
デリケートな変化をシベリウスは大事にしている。
作品として共通して言えるのは、同じことを絶対に二度書かない。
交響曲 スタイルがあるが ソナタ形式 初めに出てきたテーマが再現部に戻って来た時に、だいたい同じ物だが、そういう書き方をしていない。
フィンランドの人達、 フィンランドの三大3S シベリウス サウナム(サウナ) シス(sisu 忍耐強い 不屈な精神を持っているという意味)
フィンランドの人達は、日常の生活でも静かであることを大事にする。
邪魔する人にはちゃんと、苦情をいう、そういう文化がある。
演奏会場でも、小さな子を連れてくるが、大前提として静かに聞いていられると言う事が条件として暗黙の了解になっている。
都会から離れた時間を週末を過ごすと言う事をかなりの人達がしている。(電気、水道のない様な小屋 自然環境の中で過ごす)
静かな森の中で、小さい子供でも鳥の声を聞いて楽しんでいたり、静かな方が自分はリラックスできると発言したりだとか、静けさを大事にする。
北海道、広大な野原がある環境で育ったので、自分が体験してきた空気、音がフィンランドにあった。
喧騒が苦手で、フィンランドに行って凄くホッとした、懐かしかった。
窓にある雪の結晶が、少しずつ違う様に、シベリウスのの曲には書きこまれているが、遠くから見ると
とても白い色であったりと見える。
シベリウスは来年、生誕150年 企画が色々あって忙しくしている。
現在 日本シベリウス協会会長が 舘野泉 この秋から会長を引き継ぐ。
2014年7月8日火曜日
江戸屋猫八(ものまね師) ・親父から受け継いだ芸ともうひとつの事(2)
江戸屋猫八(ものまね師) 親父から受け継いだ芸ともうひとつの事(2)
被災地訪問、3年前の3月11日 東日本大震災 起き、そのほぼ一カ月後、4月下旬に、宮城県の被災地を訪れて、小学校、避難所で公演をしている。
いとこが2人気仙沼にいて、連絡しても連絡が取れない状況が続いて、気になっていた。
その後無事であることが判ったが、大変な状況で有ることが分かって、被災された方になんか応援ができればいいと思って、慰問ができる道筋が出来て、飛んで行った。
避難所へいって、せめてもの応援と言って、息子と二人で、物マネを行った。
被災した皆さんがたが、まだ駆け出しだった息子の肩を叩きながら、逆に息子に対して、「がんばれよ」と声を掛けてくれたのが、本当に嬉しかった。
牡鹿半島の小学校 子供達に物マネをした。
いろんな動物を行って、一つ一つに喜んでくれた。
校長先生が気がついたら泣きながら喜んでくれた。
あの時以来の喜ぶ笑顔をはじめてみた、と言っていた。
大変な経験をしたと思うが、この経験を力にしてほしいと、将来強く生きてゆくためのことにしてほしいといって、子供達を励ました。
戦争と災害は違うが、壊滅的な打撃を受けるということでは、ある意味共通しているところはあると思う。
どう逞しく立ちあがって行くか、復興支援はあるが、一人ひとりの気持ちを強く持って頑張っていかなくてはいけない。
その気持ちを何故伝えるのか、それは親父から学んでいたからかと思います。
親父は身体がふらふらする事はあったかもしれないが、自分がしてきたことを何とか力にして頑張りぬくんだと、絶えず持っていたし、僕にも伝えてくれた。
「戦争なんて本当に愚かなもんだ。 あんなものは絶対やっちゃいけない。 闘って何が始まるものか、何がそんなことで解決するものか、人間が行う行為の中で、この戦争と言うもの関しては自分が経験した中で、戦争なんて絶対いけない」 と親父はいっていた。
原爆の後遺症に悩んでいたが、それにつながる話。
福島の方々は放射能の脅威にさらされ、その事との戦いですね。
宮城、福島、岩手に現在も行っている。
民謡の方と一緒に行って感じたのは、民謡の響きは東北で、地元の皆さんの自分達の心の歌なんですね、だから民謡を聞かせてあげると元気になる。
自然を歌う民謡の中で、鶯、虫を鳴いたりすると、このコラボレーションがいいですね。
元気が出たよと、喜んでくれて、嬉しかった。
ものまね芸を始めるときに、親父が教えてくれたのは、ものまねとは本物から学ぶものだと、これから修行に入ると俺から芸は学ぶだろうが、例えば俺の鶏の鳴きまねをお前が一所懸命学んでも、しょうがない、俺の鳴きまねをしているだけなんだから、本物の鳴き声を聞いて、それをやらなければならない、それが全てですね。
舞台に上がって芸の修行、笑わせるためのネタ組みとかの勉強をしなければいけない。
まだ鶯の鳴き声にちょっと足りないものがあると思い、鶯は観察が少なくて、目の前で鳴く鶯をみて、あの小さな身体から絞り出す様に喉を一杯ふくらまして、天に響けとばかりに、ホーホケキョと鳴く、この声の出し方こそが真髄なんだと、更に鶯の勉強をした。
指笛を使って出すが、技術ではなく納得であると思う。
鳴き方にも本物を聞くと、色々バリエーションがある。
山へ行くと、周りが大師匠だらけで大変。
きびたき 凄い綺麗な声で鳴く。
舞台でどうするか、考えたが、きびたきの声はお客さんが判らないので、身体の色など鳥に関して色々説明しながら鳴きまねをする。
新たに色々な鳥の鳴きまねをするようになり、お客さんは野鳥の世界を楽しんでくれる。
ガラパゴス、コスタリカ、ブータン、パプアニューギニアとか色々なところに行って、勉強しています。
パプアニューギニアのゴクラクチョウ(カラスの仲間)、アカカザリフウチョウ アオフウチョウ 等の鳴き声。
生態系、文化を学べるので、環境の全てのバランスがとれているところに鳥は生きている、如何に環境が大事か、人間も自然環境の中で、生き物の一員として、地球の上で一緒に生きている。
そういう自然の大切さを、学んだんだなあとつくずく思っている。
ブータンは標高2000mぐらいのところにあり、農業も手作業でやっている。
機械化、コンピューター化していると、生きている人間にとっては、ちょっとオーバーランではないかと思う。
ブータンみたいに、農作業をしているところは、ある意味一番ベストだったような生き方があったような気がする、そんな気持ちにふっとなった。
茶色鎌はしフウチョウ くちばしが鎌の刃みたいなくちばしをしているが、現地の人に教えてもらった。
道路工事をしている様な鳴き声。
新しいネタを取り入れるのは、楽しくてしょうがない。
自然があるからこそ、私たちも命をつないでゆく事が出来るし、沢山の生き物も同じように生きている。
感謝をしなくてはけない事を、鳥、植物、虫たちや色々な生き物から学ぶことができた。
自然への恩返しとしては、学んだことを沢山の皆さんに笑って頂きながら伝えることができれば、これが一番の恩返しと思っています。
受け渡し、ものまね芸そのものが初代から受けつないできて息子に繋いできているが、息子はアフリカの動物 哺乳類の鳴きまねをする。
哺乳類の鳴きまねは聞く勉強がしにくい(あまり鳴かない) 息子は年間70回ぐらい動物園に通った。
芸の継承はそっくり伝えるだけではない、5代目は5代目の特色を持ってやってゆくと思う。
被災地訪問、3年前の3月11日 東日本大震災 起き、そのほぼ一カ月後、4月下旬に、宮城県の被災地を訪れて、小学校、避難所で公演をしている。
いとこが2人気仙沼にいて、連絡しても連絡が取れない状況が続いて、気になっていた。
その後無事であることが判ったが、大変な状況で有ることが分かって、被災された方になんか応援ができればいいと思って、慰問ができる道筋が出来て、飛んで行った。
避難所へいって、せめてもの応援と言って、息子と二人で、物マネを行った。
被災した皆さんがたが、まだ駆け出しだった息子の肩を叩きながら、逆に息子に対して、「がんばれよ」と声を掛けてくれたのが、本当に嬉しかった。
牡鹿半島の小学校 子供達に物マネをした。
いろんな動物を行って、一つ一つに喜んでくれた。
校長先生が気がついたら泣きながら喜んでくれた。
あの時以来の喜ぶ笑顔をはじめてみた、と言っていた。
大変な経験をしたと思うが、この経験を力にしてほしいと、将来強く生きてゆくためのことにしてほしいといって、子供達を励ました。
戦争と災害は違うが、壊滅的な打撃を受けるということでは、ある意味共通しているところはあると思う。
どう逞しく立ちあがって行くか、復興支援はあるが、一人ひとりの気持ちを強く持って頑張っていかなくてはいけない。
その気持ちを何故伝えるのか、それは親父から学んでいたからかと思います。
親父は身体がふらふらする事はあったかもしれないが、自分がしてきたことを何とか力にして頑張りぬくんだと、絶えず持っていたし、僕にも伝えてくれた。
「戦争なんて本当に愚かなもんだ。 あんなものは絶対やっちゃいけない。 闘って何が始まるものか、何がそんなことで解決するものか、人間が行う行為の中で、この戦争と言うもの関しては自分が経験した中で、戦争なんて絶対いけない」 と親父はいっていた。
原爆の後遺症に悩んでいたが、それにつながる話。
福島の方々は放射能の脅威にさらされ、その事との戦いですね。
宮城、福島、岩手に現在も行っている。
民謡の方と一緒に行って感じたのは、民謡の響きは東北で、地元の皆さんの自分達の心の歌なんですね、だから民謡を聞かせてあげると元気になる。
自然を歌う民謡の中で、鶯、虫を鳴いたりすると、このコラボレーションがいいですね。
元気が出たよと、喜んでくれて、嬉しかった。
ものまね芸を始めるときに、親父が教えてくれたのは、ものまねとは本物から学ぶものだと、これから修行に入ると俺から芸は学ぶだろうが、例えば俺の鶏の鳴きまねをお前が一所懸命学んでも、しょうがない、俺の鳴きまねをしているだけなんだから、本物の鳴き声を聞いて、それをやらなければならない、それが全てですね。
舞台に上がって芸の修行、笑わせるためのネタ組みとかの勉強をしなければいけない。
まだ鶯の鳴き声にちょっと足りないものがあると思い、鶯は観察が少なくて、目の前で鳴く鶯をみて、あの小さな身体から絞り出す様に喉を一杯ふくらまして、天に響けとばかりに、ホーホケキョと鳴く、この声の出し方こそが真髄なんだと、更に鶯の勉強をした。
指笛を使って出すが、技術ではなく納得であると思う。
鳴き方にも本物を聞くと、色々バリエーションがある。
山へ行くと、周りが大師匠だらけで大変。
きびたき 凄い綺麗な声で鳴く。
舞台でどうするか、考えたが、きびたきの声はお客さんが判らないので、身体の色など鳥に関して色々説明しながら鳴きまねをする。
新たに色々な鳥の鳴きまねをするようになり、お客さんは野鳥の世界を楽しんでくれる。
ガラパゴス、コスタリカ、ブータン、パプアニューギニアとか色々なところに行って、勉強しています。
パプアニューギニアのゴクラクチョウ(カラスの仲間)、アカカザリフウチョウ アオフウチョウ 等の鳴き声。
生態系、文化を学べるので、環境の全てのバランスがとれているところに鳥は生きている、如何に環境が大事か、人間も自然環境の中で、生き物の一員として、地球の上で一緒に生きている。
そういう自然の大切さを、学んだんだなあとつくずく思っている。
ブータンは標高2000mぐらいのところにあり、農業も手作業でやっている。
機械化、コンピューター化していると、生きている人間にとっては、ちょっとオーバーランではないかと思う。
ブータンみたいに、農作業をしているところは、ある意味一番ベストだったような生き方があったような気がする、そんな気持ちにふっとなった。
茶色鎌はしフウチョウ くちばしが鎌の刃みたいなくちばしをしているが、現地の人に教えてもらった。
道路工事をしている様な鳴き声。
新しいネタを取り入れるのは、楽しくてしょうがない。
自然があるからこそ、私たちも命をつないでゆく事が出来るし、沢山の生き物も同じように生きている。
感謝をしなくてはけない事を、鳥、植物、虫たちや色々な生き物から学ぶことができた。
自然への恩返しとしては、学んだことを沢山の皆さんに笑って頂きながら伝えることができれば、これが一番の恩返しと思っています。
受け渡し、ものまね芸そのものが初代から受けつないできて息子に繋いできているが、息子はアフリカの動物 哺乳類の鳴きまねをする。
哺乳類の鳴きまねは聞く勉強がしにくい(あまり鳴かない) 息子は年間70回ぐらい動物園に通った。
芸の継承はそっくり伝えるだけではない、5代目は5代目の特色を持ってやってゆくと思う。
2014年7月7日月曜日
江戸屋猫八(ものまね師) ・親父から受け継いだ芸ともうひとつの事(1)
江戸屋猫八(ものまね師) 親父から受け継いだ芸ともうひとつの事(1)
64歳、父の3代目江戸屋猫八に弟子入りして、芸を学び、江戸屋子猫という芸名で若いころから舞台に立つとともに、TV、ラジオ、映画などで幅広い活躍をしてきました。
父である3代目江戸屋猫八はNHKの人気番組だった、お笑い三人組を初め、鬼平犯科帳など数多くのドラマに出演し、温かみのある真面目な演技の持ち味の俳優でもありました。
3代目、猫八が戦時中に徴兵されて出征し、広島で原爆に遭遇した兵士であったことは必ずしも広く知られていません。
今日は猫八さんに、先代の江戸屋猫八さんの事を、師匠、父、と両面から語っていただきます。
季節感、もっとも重要、鶯、虫の音、田んぼの蛙の声など、季節感の上に乗って鳴きまねができるぐらい重要。
初代猫八は私のおじいさんで、蛙の鳴き声をするのが得意だった。
父が3代目、私が4代目、息子がいずれ5代目になると思う。
初代が亡くなった時に昭和7年、父は12歳で子供だったので、初代の弟子が2代目を継いだ。
初代は歌舞伎の役者をやっていた。 (脇役)
20代後半、身体を壊して、動きの激しい役者はできなくなり、その後物マネを始めた。
大道で最初はものまね芸を築いていった。
寄席芸人がそれを聞いて寄席でも受けるだろうと、寄席の方に上がれるようになった。
私は猫八を襲名して5年になる。
江戸屋子猫でずーっとやってきた。
長野県の熊の湯で舞台をやっていて、親父から言われて、猫のものまねをおやじとやったのが初舞台。
虫の声は吸って音を出す。 中学になってやっと音が出るようになる。
蛙の音、両手を使いながら音を出す。
高校卒業後、修行に入る。 (父のもとで3年は付き人)
他の人が、立ち振る舞いをみて、今度来たお弟子さんはなかなかよくやりますね、と言われるような立ち振る舞いをするようにと言われた。(弟子であること)
一番重要だったのは、芸そのものは教えようがない、技術的なことはある程度教えることはできるが、舞台でのしゃべる事などはお前自身が考えろと言われた。
父は本を何冊か書いている。(7冊 自分の体験談)
年賀状は多い時で1000通は書いていた。(筆まめだった)
父は50代ぐらいから、原稿用紙に向かう様になる。
ことわざが好きだった。 「一事が万事」 失敗を厳しく言っていた。
全ての事の考え方とか、自分のプランと言うものは、関係ないこと(写真を撮る)でも、こういうところに出てくる。(いい加減な撮り方をしたら、芸にも影響する 「一事が万事」)
「覆水盆に還らず」 失敗すると済みませんでは済まない。
子供心に厳しすぎると思っていたが、芸の場数を踏んできたら、やっぱり親父の考え方は正しかったんだと思う様になった。
私には弟子であっても、父が芸のちょっとした評価、体調のことなどを聞いてきたりはした。
お笑い三人組、昭和30年代の初めから40年代にかけて。
一龍齋 貞鳳、三遊亭小金馬、江戸屋猫八の3人が主役。
お笑い三人組が始まった時は、小学校1年生の時だった。
父の身体の具合は必ずしも調子のいい状況ではなかった。
船舶兵だった、陸軍だが輸送船を守るために、船に乗ってゆくが、いろんなところにいった。
終戦を迎える前に、広島の宇品に駐屯した。
その時に、原爆に遭遇する。 (付き人になった頃には、ぼつぼつと話す様になった)
特に、駐屯して原爆に遭遇(24歳)して、その話は壮絶と言うか、すごい話だった。
原爆が投下されて、ピカッと光って、すずーんと凄い響きで、宇品にいて、爆風で数m飛ばされたと言っていた。 爆心から4~5km。
上官から見に行くように言われて、市内に出掛ける。
歩いていると、廻りの家が全部倒れて、煙がいぶってる中から、人の悲鳴、上半身がやけどして、お互いが家族を呼びかう、倒れている数が凄くて、惨状の中で、直ぐに又戻って中隊長に報告して、本格的に救助活動に出向いた。
手立ての仕様がなかった。
テントに運んであげて、一日中その中で、やけどの手当てを、その場で出来る程度の処置をする程度だった。
親父のその言葉を聞くだけで、すごいことだと思った。
全身やけどで、喉が渇くが、水をあげると、死を早めてしまうが、どうしようもない状態の時は、水をあげて看取ってやるしかないと、軍医が目で合図する。
ごくっと一口飲んで「あー、美味しい」と言って、亡くなるんだそうです。
昭和58年、NHK広島放送局 「爆心地の夜」 で先代の猫八師匠が証言をこうでしたと、語っていているうちに、「地獄ですよ、こんな凄惨な姿はどこに在りません」と、絶句してしまった。
途中から言葉が詰まって、「済みません」と、番組のディレクターに謝ったが、「師匠の気持ちがあの絶句された中から十分に汲みとれました、あの姿を拝見したことが、あの当時のことを想わせてくれました」、と言ってくれました。
猫八さん自身が原爆の後遺症に悩まされた。(周りに判らない様に頑張っていたんだと思います)
最初白血球が2000以下に落ちてしまい、髪の毛が抜ける。
身体がだるい、寝ても起きていても、だるさが続く。
調べるために血だけは取られて、注射は打ってくれない薬はくれないし、病院は行くのは止める。
食べる事だけは、何とか調達して、食べて体調を維持しようとして、状態はそのうちやや良くなってきた。(非国民と言われるほど食べたと言っていました。)
ベンチが有ればベンチに座ったし、壁に寄り掛かって休んだりして、やっていたと聞いています。
父は80歳で亡くなる。
原爆症の不安と闘いながら50数年間過ごしてきた。
お笑い三人組が終わるころ、お袋が亡くなりまして、親父は頼って生きてきたが、落ち込んでいて
身体を元気にさせるのは歩く事だと、競歩の選手だった細川俊夫さんから言われて、本格的に教えてくれて、身体を鍛えた。
自信がついてきて、その自信そのものが親父をさらに助けてくれた。
運動を取り入れて体力を気遣いながら、段々体に自信を持てるようになって治って行った。
後半は恐怖心とかの自律神経的なものが合わさっていたのではないかと思います。
芸を習うと言う事=父から人生、生きざまを学んだと言う事だと思います、何事に対しても凄くまじめでした、一生懸命頑張るんだと言って、その言葉を厳しくしたのが、「覆水盆に返らず」「一事が万事」であって、一生懸命頑張ってもまだ足りないんだと、芸に対しても、ここまで出来たら大したもんだと言う様なことは無くて、芸事はいつも山登りで言えば常に途中だと、僕にとってみれば全て自分の芸をやらせて頂く中での、全部基本になっています。
64歳、父の3代目江戸屋猫八に弟子入りして、芸を学び、江戸屋子猫という芸名で若いころから舞台に立つとともに、TV、ラジオ、映画などで幅広い活躍をしてきました。
父である3代目江戸屋猫八はNHKの人気番組だった、お笑い三人組を初め、鬼平犯科帳など数多くのドラマに出演し、温かみのある真面目な演技の持ち味の俳優でもありました。
3代目、猫八が戦時中に徴兵されて出征し、広島で原爆に遭遇した兵士であったことは必ずしも広く知られていません。
今日は猫八さんに、先代の江戸屋猫八さんの事を、師匠、父、と両面から語っていただきます。
季節感、もっとも重要、鶯、虫の音、田んぼの蛙の声など、季節感の上に乗って鳴きまねができるぐらい重要。
初代猫八は私のおじいさんで、蛙の鳴き声をするのが得意だった。
父が3代目、私が4代目、息子がいずれ5代目になると思う。
初代が亡くなった時に昭和7年、父は12歳で子供だったので、初代の弟子が2代目を継いだ。
初代は歌舞伎の役者をやっていた。 (脇役)
20代後半、身体を壊して、動きの激しい役者はできなくなり、その後物マネを始めた。
大道で最初はものまね芸を築いていった。
寄席芸人がそれを聞いて寄席でも受けるだろうと、寄席の方に上がれるようになった。
私は猫八を襲名して5年になる。
江戸屋子猫でずーっとやってきた。
長野県の熊の湯で舞台をやっていて、親父から言われて、猫のものまねをおやじとやったのが初舞台。
虫の声は吸って音を出す。 中学になってやっと音が出るようになる。
蛙の音、両手を使いながら音を出す。
高校卒業後、修行に入る。 (父のもとで3年は付き人)
他の人が、立ち振る舞いをみて、今度来たお弟子さんはなかなかよくやりますね、と言われるような立ち振る舞いをするようにと言われた。(弟子であること)
一番重要だったのは、芸そのものは教えようがない、技術的なことはある程度教えることはできるが、舞台でのしゃべる事などはお前自身が考えろと言われた。
父は本を何冊か書いている。(7冊 自分の体験談)
年賀状は多い時で1000通は書いていた。(筆まめだった)
父は50代ぐらいから、原稿用紙に向かう様になる。
ことわざが好きだった。 「一事が万事」 失敗を厳しく言っていた。
全ての事の考え方とか、自分のプランと言うものは、関係ないこと(写真を撮る)でも、こういうところに出てくる。(いい加減な撮り方をしたら、芸にも影響する 「一事が万事」)
「覆水盆に還らず」 失敗すると済みませんでは済まない。
子供心に厳しすぎると思っていたが、芸の場数を踏んできたら、やっぱり親父の考え方は正しかったんだと思う様になった。
私には弟子であっても、父が芸のちょっとした評価、体調のことなどを聞いてきたりはした。
お笑い三人組、昭和30年代の初めから40年代にかけて。
一龍齋 貞鳳、三遊亭小金馬、江戸屋猫八の3人が主役。
お笑い三人組が始まった時は、小学校1年生の時だった。
父の身体の具合は必ずしも調子のいい状況ではなかった。
船舶兵だった、陸軍だが輸送船を守るために、船に乗ってゆくが、いろんなところにいった。
終戦を迎える前に、広島の宇品に駐屯した。
その時に、原爆に遭遇する。 (付き人になった頃には、ぼつぼつと話す様になった)
特に、駐屯して原爆に遭遇(24歳)して、その話は壮絶と言うか、すごい話だった。
原爆が投下されて、ピカッと光って、すずーんと凄い響きで、宇品にいて、爆風で数m飛ばされたと言っていた。 爆心から4~5km。
上官から見に行くように言われて、市内に出掛ける。
歩いていると、廻りの家が全部倒れて、煙がいぶってる中から、人の悲鳴、上半身がやけどして、お互いが家族を呼びかう、倒れている数が凄くて、惨状の中で、直ぐに又戻って中隊長に報告して、本格的に救助活動に出向いた。
手立ての仕様がなかった。
テントに運んであげて、一日中その中で、やけどの手当てを、その場で出来る程度の処置をする程度だった。
親父のその言葉を聞くだけで、すごいことだと思った。
全身やけどで、喉が渇くが、水をあげると、死を早めてしまうが、どうしようもない状態の時は、水をあげて看取ってやるしかないと、軍医が目で合図する。
ごくっと一口飲んで「あー、美味しい」と言って、亡くなるんだそうです。
昭和58年、NHK広島放送局 「爆心地の夜」 で先代の猫八師匠が証言をこうでしたと、語っていているうちに、「地獄ですよ、こんな凄惨な姿はどこに在りません」と、絶句してしまった。
途中から言葉が詰まって、「済みません」と、番組のディレクターに謝ったが、「師匠の気持ちがあの絶句された中から十分に汲みとれました、あの姿を拝見したことが、あの当時のことを想わせてくれました」、と言ってくれました。
猫八さん自身が原爆の後遺症に悩まされた。(周りに判らない様に頑張っていたんだと思います)
最初白血球が2000以下に落ちてしまい、髪の毛が抜ける。
身体がだるい、寝ても起きていても、だるさが続く。
調べるために血だけは取られて、注射は打ってくれない薬はくれないし、病院は行くのは止める。
食べる事だけは、何とか調達して、食べて体調を維持しようとして、状態はそのうちやや良くなってきた。(非国民と言われるほど食べたと言っていました。)
ベンチが有ればベンチに座ったし、壁に寄り掛かって休んだりして、やっていたと聞いています。
父は80歳で亡くなる。
原爆症の不安と闘いながら50数年間過ごしてきた。
お笑い三人組が終わるころ、お袋が亡くなりまして、親父は頼って生きてきたが、落ち込んでいて
身体を元気にさせるのは歩く事だと、競歩の選手だった細川俊夫さんから言われて、本格的に教えてくれて、身体を鍛えた。
自信がついてきて、その自信そのものが親父をさらに助けてくれた。
運動を取り入れて体力を気遣いながら、段々体に自信を持てるようになって治って行った。
後半は恐怖心とかの自律神経的なものが合わさっていたのではないかと思います。
芸を習うと言う事=父から人生、生きざまを学んだと言う事だと思います、何事に対しても凄くまじめでした、一生懸命頑張るんだと言って、その言葉を厳しくしたのが、「覆水盆に返らず」「一事が万事」であって、一生懸命頑張ってもまだ足りないんだと、芸に対しても、ここまで出来たら大したもんだと言う様なことは無くて、芸事はいつも山登りで言えば常に途中だと、僕にとってみれば全て自分の芸をやらせて頂く中での、全部基本になっています。
2014年7月6日日曜日
保坂正康(作家・評論家) ・昭和初年代の人々の生活(2)
保坂正康(作家・評論家) 昭和史を味わう 第4回 昭和初年代の人々の生活(2)
都市生活の実態、日常の生活環境(昭和4~8年)
農村は困窮の極に至るが、都市は若干違いがあり、ある種の繁栄と、その繁栄から来る複雑な様相を呈していた。
都市文化の担い手は中間層、第一次世界大戦が終わってから、高等専門教育を受けた人の能力を各企業は必要とするようになり、定期的な採用をするようになった。
事務職として満たしてゆく、知的産業の仕組みが出来上がってきて、それが都市文化の背景になった。
当時、思想、哲学とか、日常生活の中で知的な生活とはどういう事かとか、かなりレベルの高い特集記事をやっている。
ハードの面、物質面でのラジオ、地下鉄、タクシーができ上ってゆくと同時に、都市文化はレベルアップをしてゆく様相を呈していた。
中央公論 昭和4年10月号 どういう形で近代化しているのか、などをいろんな側面から分析している。
片岡鉄兵の記事 都市のビルの中で、サラリーマンの生活は忙しく動いているという形を描写している。(現代に通じる様な描写)
服装は背広の三つ揃い 帽子をかぶる。
高円寺、三鷹、吉祥寺界隈に家を設ける。 中間に新宿、渋谷があり、娯楽の中心になってゆく。
映画、演芸、カフェがあり、そこで息抜きをしたようだ。
「道頓堀行進曲」 、「東京行進曲」 都市文化を正直に歌った歌。
「しゃれ男」(俺は村中で一番、モボといわれた男・・・) ある意味東京は怖いところという表現する。
インテリ層、 ブルーカラー、職を失った人の層、 大きく二つに二極化する。
矛盾が広がってゆく。 問題意識が広がってゆく。
映画は無声映画からトーキー映画に変わってゆく時代。
主人公は新らしい時代を先取りしている。「マダムと女房」(国産初のトーキー映画)
昭和5年、失業者は全国で32万人。 貧しい長屋暮らし。
労働争議も増えてくる。
社会を変えなければいけない、という考えが浮かんでくる。
林芙美子が活躍、「放浪記」 50万部売れた。(凄い数字)
自分の生活を赤裸々に語った。。
古賀政男が大活躍する。(27歳) 「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「サーカスの歌」・・・。
都市生活の実態、日常の生活環境(昭和4~8年)
農村は困窮の極に至るが、都市は若干違いがあり、ある種の繁栄と、その繁栄から来る複雑な様相を呈していた。
都市文化の担い手は中間層、第一次世界大戦が終わってから、高等専門教育を受けた人の能力を各企業は必要とするようになり、定期的な採用をするようになった。
事務職として満たしてゆく、知的産業の仕組みが出来上がってきて、それが都市文化の背景になった。
当時、思想、哲学とか、日常生活の中で知的な生活とはどういう事かとか、かなりレベルの高い特集記事をやっている。
ハードの面、物質面でのラジオ、地下鉄、タクシーができ上ってゆくと同時に、都市文化はレベルアップをしてゆく様相を呈していた。
中央公論 昭和4年10月号 どういう形で近代化しているのか、などをいろんな側面から分析している。
片岡鉄兵の記事 都市のビルの中で、サラリーマンの生活は忙しく動いているという形を描写している。(現代に通じる様な描写)
服装は背広の三つ揃い 帽子をかぶる。
高円寺、三鷹、吉祥寺界隈に家を設ける。 中間に新宿、渋谷があり、娯楽の中心になってゆく。
映画、演芸、カフェがあり、そこで息抜きをしたようだ。
「道頓堀行進曲」 、「東京行進曲」 都市文化を正直に歌った歌。
「しゃれ男」(俺は村中で一番、モボといわれた男・・・) ある意味東京は怖いところという表現する。
インテリ層、 ブルーカラー、職を失った人の層、 大きく二つに二極化する。
矛盾が広がってゆく。 問題意識が広がってゆく。
映画は無声映画からトーキー映画に変わってゆく時代。
主人公は新らしい時代を先取りしている。「マダムと女房」(国産初のトーキー映画)
昭和5年、失業者は全国で32万人。 貧しい長屋暮らし。
労働争議も増えてくる。
社会を変えなければいけない、という考えが浮かんでくる。
林芙美子が活躍、「放浪記」 50万部売れた。(凄い数字)
自分の生活を赤裸々に語った。。
古賀政男が大活躍する。(27歳) 「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」「サーカスの歌」・・・。
2014年7月5日土曜日
杉本節子(料理研究家) ・京町屋の暮らしと心を伝える
杉本節子(料理研究家) 京町屋の暮らしと心を伝える
49歳、料理研究家として、京都で育まれたおかず、おばんざいをNHKの今日の料理や、エッセー等で紹介しています。
生まれ育った杉本家住宅は京都でも最大級の町屋で国の重要文化財に指定されています。
杉本家には暮らしの決まりごとを書き印した、「歳中覚え」 備忘録が江戸時代から受け継がれています。
杉本さんは公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会事務局長として、建物を守るだけでなく、京町屋の暮らしと心を後世に伝えていこうと、活動しています。
国の重要文化財に指定されている。 明治3年に建てられて、築144年になります。
2度火事で失っており、蛤御門の変で焼けた跡に再建されて建物になっている。
間口 30mぐらいある。 間口が商売の規模で有ったり、なりわいがどういったものかといったものかを表すと言う事で大型の京町屋の建物になる。
京格子 ベンガラが塗られている。
構造としての美しさ、そしてべんがらから生み出される独特の色見の風情があったんだろうなあ、というのが彷彿とされる部分がある。
玄関を入ってすぐのところが、商売に使う部屋がある。
寛保3年1743年に呉服商を創業した家、祖父の代までが呉服商、地方百貨店を経営していた。
土間を通って走り庭がある。 不動さんがある。 使っていた人は20人以上いた。
中にに入ると庭がいくつもある。 座敷庭、壺庭が代表的な庭
当家の場合、仏間が部屋として独立していて、仏間の隣りに仏間庭が繋がっている。
庭は庭として名勝指定されている。 作業場としての庭もある。
仏壇 大事な部屋 父が9代目 もともとは三重県の山の合間に在る農家の息子が京都にでっち奉公としてきて、独立して後々呉服商としてきた。
西本願寺の信仰を持っていた家なので、浄土真宗の門徒という事で代代過ごしてきた。
信仰の熱心なありようが、仏間を設けてある。
父はフランス文学者で 杉本秀太郎 芸術院会員
家業は閉じた状態になっている。
遺産を財団法人にして、建物、京町衆の文化を伝えようと、次の家業と考えてやっている。
「歳中覚え」 3代目が寛政2年1790年に書き始めている。
天明の大火で焼きだされて、災害に在って復興してゆく中で、年中の暮らしを書きとめて、又新しく暮らしを始めた。
書き改められて、4回目のあらためが寛保2年、之が手元に在る。
300ページほどある。
奈良屋杉本家の個人の家としての習わしが書かれている。
1月~12月まで時系列で描かれている。
先祖の命日、法事の時の献立、報恩講(年中行事の中でも最も重要な法要)の準備から、どの様な法要をするかが書かれている。
節句の献立、祇園祭で伯牙山(はくがやま)(山鉾) というやま(山鉾)をだす矢田町に建っているので、門徒であると同時に祇園祭のやま町の氏子であることが、くらしの中では大きく、年中行事の中では祇園祭が一番晴の祭りという事で、祭りの準備からいろいろなもてなし料理の事まで書かれている。
正月は 元日 大福茶(こんぶ2きれと梅干2個を入れたお茶)をまず頂く 白味噌雑煮(具は 餅、頭芋、小芋、大根) 三種の祝い魚 (ごまめ 3匹 数の子5切れ ごぼう2切れ)
祇園祭 お客様を迎える献立が書かれている。 祇園祭は、はも祭りとも言われる。
はも寿司 あゆ寿司 当家の場合はあゆ寿司 吸い物として、はもが具として入っている。
日常 決まりごと 朝夕茶ずけ、香の物 昼一汁一菜 9月10日~3月2日まで朝、茶粥
月に3度(10日、20日、月末) 皆にお魚がつく様にする。
おきまり料理 習わしがある。 決まった日に決まった献立をする。
業種、信仰によって食べるもの、の決まりは異なる。
当家の場合は毎月16日と21日がお決まりの日になっている。
16日は浄土真宗の親鸞の命日に当たる。 21日はご生誕の日に当たる。
16日は自家製味噌を使った味噌汁であずき(親鸞が好きだった)、小芋、焼き豆腐がはいる。
21日ご飯が茶飯 お汁は豆腐の細の目切り 5~8月は、なすびの泥亀(どんがめ スッポン)汁に変えてゆく(旬の食材)
3月3日 この日を境に火鉢をしまう。
火事が起こった時に外からの火が入らない様に、土蔵の窓を締めると言う事が、重要な行い事として書かれている。
窓を開け放って、お雛様をだして、春を迎えると言う、季節季節のけじめみたいな事をはっきり覚書から見てとれる。
6月は梅、11月は大根を漬ける、と言う事も書いてある。
人付き合い 親類縁者だからこそ余計なやり取りは一切やらなくてよい、と言う事が書かれている。
商売で付き合いが沢山あるので、身うちでは行わない。
店の運用については別に書かれている。 定め書き 定例書がある。
接客の態度、行儀作法、商品管理等が書かれている。
料理 祖父、母が料理が好きだったので、見よう見まねで、料理のイロハを覚えた。
商家の日常的な暮らしの食事は贅沢を慎む、質素倹約。
料理は1円でも出費しない様な食材使いまわしをする。
おばんざいは、そういう心得があって成りたっているものなんですよと云う事をお伝えしたい。
お漬物 年中保存しながら使って行く。
おこうこのたいたん (古い沢庵の塩気出して細かく刻んで炊いたもの)
最後まで使い切る、食べきる、食材を無駄にしないで暮らしてゆく。
食に対して仕事をしている方々、専門分野を 小、中、高、大学、社会人まで含めて、出張授業をする。 京都府から認定される。(京都府食育先生)
昨年 京の食文化味わい館が出来て、おばんざいの料理などを教えたり、講演などもやっている。
町屋ブーム、おばんざいブームになっている。
無くなってきているからこそ、懐かしんだりするのだろうと思います。
和食文化が世界無形文化遺産に登録された事もある。
食文化 学校給食における和食の検討会議で検討している。
食育 伝統的な食文化をいかに、子供達に伝えて、継承してゆくか、重要だと思います。
和食の代表的なものが京料理だと思うが、作り方を教えるだけでなく、歴史背景をきちんと踏まえて教えてゆく様な活動をして行きたい。
「教文記」 食べ物に対する戒めが書かれている。
「色々料理を好むは、不養生の第一。」(好き嫌いの戒め)
集団生活の中で、自分だけの気ままわがままをするという事について、 戒めの象徴的なこととして、食べる事を例に取って言っている。
好き嫌いがあると、自分の健康も損なうが、健康に産んでくれた親に対しても最も親不幸なことになりますよと、戒めている。
「歳中覚え」は自然に対する畏敬の念を、思いはせるようなものだと思っている。
49歳、料理研究家として、京都で育まれたおかず、おばんざいをNHKの今日の料理や、エッセー等で紹介しています。
生まれ育った杉本家住宅は京都でも最大級の町屋で国の重要文化財に指定されています。
杉本家には暮らしの決まりごとを書き印した、「歳中覚え」 備忘録が江戸時代から受け継がれています。
杉本さんは公益財団法人奈良屋記念杉本家保存会事務局長として、建物を守るだけでなく、京町屋の暮らしと心を後世に伝えていこうと、活動しています。
国の重要文化財に指定されている。 明治3年に建てられて、築144年になります。
2度火事で失っており、蛤御門の変で焼けた跡に再建されて建物になっている。
間口 30mぐらいある。 間口が商売の規模で有ったり、なりわいがどういったものかといったものかを表すと言う事で大型の京町屋の建物になる。
京格子 ベンガラが塗られている。
構造としての美しさ、そしてべんがらから生み出される独特の色見の風情があったんだろうなあ、というのが彷彿とされる部分がある。
玄関を入ってすぐのところが、商売に使う部屋がある。
寛保3年1743年に呉服商を創業した家、祖父の代までが呉服商、地方百貨店を経営していた。
土間を通って走り庭がある。 不動さんがある。 使っていた人は20人以上いた。
中にに入ると庭がいくつもある。 座敷庭、壺庭が代表的な庭
当家の場合、仏間が部屋として独立していて、仏間の隣りに仏間庭が繋がっている。
庭は庭として名勝指定されている。 作業場としての庭もある。
仏壇 大事な部屋 父が9代目 もともとは三重県の山の合間に在る農家の息子が京都にでっち奉公としてきて、独立して後々呉服商としてきた。
西本願寺の信仰を持っていた家なので、浄土真宗の門徒という事で代代過ごしてきた。
信仰の熱心なありようが、仏間を設けてある。
父はフランス文学者で 杉本秀太郎 芸術院会員
家業は閉じた状態になっている。
遺産を財団法人にして、建物、京町衆の文化を伝えようと、次の家業と考えてやっている。
「歳中覚え」 3代目が寛政2年1790年に書き始めている。
天明の大火で焼きだされて、災害に在って復興してゆく中で、年中の暮らしを書きとめて、又新しく暮らしを始めた。
書き改められて、4回目のあらためが寛保2年、之が手元に在る。
300ページほどある。
奈良屋杉本家の個人の家としての習わしが書かれている。
1月~12月まで時系列で描かれている。
先祖の命日、法事の時の献立、報恩講(年中行事の中でも最も重要な法要)の準備から、どの様な法要をするかが書かれている。
節句の献立、祇園祭で伯牙山(はくがやま)(山鉾) というやま(山鉾)をだす矢田町に建っているので、門徒であると同時に祇園祭のやま町の氏子であることが、くらしの中では大きく、年中行事の中では祇園祭が一番晴の祭りという事で、祭りの準備からいろいろなもてなし料理の事まで書かれている。
正月は 元日 大福茶(こんぶ2きれと梅干2個を入れたお茶)をまず頂く 白味噌雑煮(具は 餅、頭芋、小芋、大根) 三種の祝い魚 (ごまめ 3匹 数の子5切れ ごぼう2切れ)
祇園祭 お客様を迎える献立が書かれている。 祇園祭は、はも祭りとも言われる。
はも寿司 あゆ寿司 当家の場合はあゆ寿司 吸い物として、はもが具として入っている。
日常 決まりごと 朝夕茶ずけ、香の物 昼一汁一菜 9月10日~3月2日まで朝、茶粥
月に3度(10日、20日、月末) 皆にお魚がつく様にする。
おきまり料理 習わしがある。 決まった日に決まった献立をする。
業種、信仰によって食べるもの、の決まりは異なる。
当家の場合は毎月16日と21日がお決まりの日になっている。
16日は浄土真宗の親鸞の命日に当たる。 21日はご生誕の日に当たる。
16日は自家製味噌を使った味噌汁であずき(親鸞が好きだった)、小芋、焼き豆腐がはいる。
21日ご飯が茶飯 お汁は豆腐の細の目切り 5~8月は、なすびの泥亀(どんがめ スッポン)汁に変えてゆく(旬の食材)
3月3日 この日を境に火鉢をしまう。
火事が起こった時に外からの火が入らない様に、土蔵の窓を締めると言う事が、重要な行い事として書かれている。
窓を開け放って、お雛様をだして、春を迎えると言う、季節季節のけじめみたいな事をはっきり覚書から見てとれる。
6月は梅、11月は大根を漬ける、と言う事も書いてある。
人付き合い 親類縁者だからこそ余計なやり取りは一切やらなくてよい、と言う事が書かれている。
商売で付き合いが沢山あるので、身うちでは行わない。
店の運用については別に書かれている。 定め書き 定例書がある。
接客の態度、行儀作法、商品管理等が書かれている。
料理 祖父、母が料理が好きだったので、見よう見まねで、料理のイロハを覚えた。
商家の日常的な暮らしの食事は贅沢を慎む、質素倹約。
料理は1円でも出費しない様な食材使いまわしをする。
おばんざいは、そういう心得があって成りたっているものなんですよと云う事をお伝えしたい。
お漬物 年中保存しながら使って行く。
おこうこのたいたん (古い沢庵の塩気出して細かく刻んで炊いたもの)
最後まで使い切る、食べきる、食材を無駄にしないで暮らしてゆく。
食に対して仕事をしている方々、専門分野を 小、中、高、大学、社会人まで含めて、出張授業をする。 京都府から認定される。(京都府食育先生)
昨年 京の食文化味わい館が出来て、おばんざいの料理などを教えたり、講演などもやっている。
町屋ブーム、おばんざいブームになっている。
無くなってきているからこそ、懐かしんだりするのだろうと思います。
和食文化が世界無形文化遺産に登録された事もある。
食文化 学校給食における和食の検討会議で検討している。
食育 伝統的な食文化をいかに、子供達に伝えて、継承してゆくか、重要だと思います。
和食の代表的なものが京料理だと思うが、作り方を教えるだけでなく、歴史背景をきちんと踏まえて教えてゆく様な活動をして行きたい。
「教文記」 食べ物に対する戒めが書かれている。
「色々料理を好むは、不養生の第一。」(好き嫌いの戒め)
集団生活の中で、自分だけの気ままわがままをするという事について、 戒めの象徴的なこととして、食べる事を例に取って言っている。
好き嫌いがあると、自分の健康も損なうが、健康に産んでくれた親に対しても最も親不幸なことになりますよと、戒めている。
「歳中覚え」は自然に対する畏敬の念を、思いはせるようなものだと思っている。
2014年7月4日金曜日
塚本勝巳(教授) ・ウナギの卵を探し求めて40年(2)
塚本勝巳(日本大学生物資源科学部教授) ウナギの卵を探し求めて40年(2)
1年に3週間ぐらい船に乗る。
以前は今の様に沢山の航海期間が頂けなかったので、3年に1回、1カ月の航海が平均的でした。
成果が上がるにつれて、沢山の航海日数がいだけるようになった。
25歳の時に白鳳丸に乗る。 乗り組み員 30数名 研究者は30名ぐらいが乗る。 約70名
3交代で夜も昼も調査ができるのが基本。 10人3グループ 24時間体制。
1973年 ウナギの航海をやろうと機運が高まり、産卵場の調査をやろうと言う事で3月にウナギの第一次航海があった。 その時から参加している。(学生だった)
当時、台湾の近くでウナギのレプトケファルスが1匹だけ取れていた。
太平洋に船をこぎ出すのは、間違いのないところだった。
沖縄、台湾の海域が産卵場だろうと、云われていた。
南へ南へ、推定産卵場が移って行った。
東へ東へ移っていって 最終的にグアム島の西100kmが産卵場だろうと落ちついた。
1967年に最初に1匹発見された。
1991年 10mm前後の小型レプトケファルスが1000匹近く取れた。(フィリピン海のほぼ中央部)
そこから海流をさかのぼってゆくと、大体、西マリアナ海嶺が産卵場だろうと言う事になる。
主席研究員と言う立場にあったので、論文を国内の科学雑誌に出そうと思っていたら、京都での国際学会にカナダの先生が来ていて、1986年に知り合いになっていて(当時はアユの研究)、1991年に小型レプトケファルスを沢山発見して、現在論文を書いているところで有ることを話したら、イギリスのネイチャーに出すべきだと言う事で、ネイチャーに論文を掲載してもらった。
その先生のおかげで、審査もフリーパスで取り上げられた。
カバー 写真も綺麗なブルーをバックに半透明なレプトケファルスが、表紙に取り上げられた。
世界の友人からいろんな電話、FAXを頂いた。
日本人がウナギに興味を持っていたと言う事がある。
1971年 盛大なシンポジウムが行われ、ウナギの研究者が全国から集まって、喧々諤々やりました。
シンポジウムの懇親会を新宿のうなぎ屋で行った。
デンマークのヨハネス・シュミットさんがウナギの産卵場所を発見した事に刺激されて、我々ウナギ好きの日本人も我々が食べているウナギは、どこから来ているのか、突き止めたいと思うのは当然です。
一番苦しかったことは?
1991年にネイチャーにだした論文があった時から、14年間ほとんど成果が出なかった期間があったが、その時は苦しかった。
ウナギの研究をやっていると、全てを知りたくなる。
分類、形態、集団はどうなっているか、系統、ウナギの先祖は、そのような事を調べてみたくなる。
ウナギの先祖は外洋の1000mから数100mに住んでいる、ふくろううなぎ、ふうせんうなぎ、のこばうなぎ、しぎうなぎとか口ばしがそっくりかえったような深海漁がいるが、そういうものが共通の祖先だった。
ウナギの一番近い親戚は外洋の深海に住んでいる深海魚。
深海で回遊しなかった祖先よりも、明るい餌の豊富な熱帯の川に偶然あがったウナギの母親の方が、沢山卵を持ったと言うのは、そういう意味なんですね。
回遊する習性が身についた。
ウナギの種類は19種類(亜種も含めて)
ヨーロッパウナギ、アメリカウナギ、南太平洋にも沢山種類がいる。
熱帯にだけ住んでいるウナギ、ボルネオウナギ、セレベスウナギ、等
親ウナギ、卵まで見つかっているのは日本ウナギだけ。
産卵期は夏の新月、産卵場所は海山。 新月仮説を立てる。
14年間は揺籃期と言っていいのかもしれない。
2005年プレレプトケファルス 生れて2日目のウナギの赤ちゃん取れる。
そのことにより海山仮説、新月仮説が証明できる。 時間、場所が特定できた。
一番大きな事だったと思う。
2008年 親うなぎ 2009年早朝に卵2個 採取に成功する。
養殖の可能性?
短絡的に、たたみかけられると、そうではないという気持ちがおこるが、将来的には、卵が取れたり、卵がある環境が判ることで、完全養殖の技術開発に大きなヒントを与えることになるし、卵の数
レプトケファルスがどのくらいいるか、そのような情報は、来年のシラスウナギはどのくらいか、とかが予測できるのではないか、そうすると計画的に養殖ができる。
親ウナギの産卵シーンを実際に見てみたくて、オス、メスがどのような行動をするのか、何匹ぐらいの集団なのか、行動学的な知見は、オスとメスをどんなふうに掛けあわせてやれば、いい卵、自然に近い卵が取れるのかと言う事になるので、野外での研究は、実際のラボのなかでの仕事に役立つ。
現在、解析中です。 ピンポイトに一瞬にたちあわなくてはいけないので、非常に難しい。
卵などよりもずーっと難しい。
プレレプトケファルスの環境、栄養 だいたいつきとめられている。
プランクトンが死んで、ごみの様になって、バクテリアの分解を受けた、マリンスノーと呼ばれるもやもやしているものを食べているのだろうと思う。
そういった餌は水を汚すので、どう応用していいかわからない。
日本人は世界のウナギの7割を食べている。
ウナギの養殖は、天然の稚魚を取って、それに餌をやって大きくしたのを我々は食べている。
(半養殖)
ウナギは気を付けて食べなければいけない食べもの。
ウナギの場合は天然のしらすウナギを大きくしているので、天然の材料をあんな風に大量に安くして、食べるようになってしまったら、それに耐える食材ではない。
海の環境が変わるのは、いかんともしがたいが、地球温暖化なんかに端を発していると思うが、
人間がしたことなので責任をもって何とかしなければいけないが、超難問です。
40年間はあっという間だった。 わくわくしながら、やってきた。
色々魚を研究してきたが、うなぎぐらい面白いものはない。 よくわからないから、引き付けられる。
大河内総長の甥が桜の蜜腺の研究をしているが、成功しても直接役に立たないような研究でも許してくれる、そういうおおらかさがあるところだ、そういう大学での研究を自分は大事にしたいと、そういう風なことをおっしゃった。
研究者になって、40年経ったが、大学での研究は 大河内総長がおっしゃったような、役に立たない研究、おおらかさがあることが、いい研究を育む下地になるのではないかと思う。
世の中が世知辛くなってきているが、短期的な成果を求められていると言う事は厳しいと思う。
おおらかに考えていい研究をしてもらいたいと思う。
1年に3週間ぐらい船に乗る。
以前は今の様に沢山の航海期間が頂けなかったので、3年に1回、1カ月の航海が平均的でした。
成果が上がるにつれて、沢山の航海日数がいだけるようになった。
25歳の時に白鳳丸に乗る。 乗り組み員 30数名 研究者は30名ぐらいが乗る。 約70名
3交代で夜も昼も調査ができるのが基本。 10人3グループ 24時間体制。
1973年 ウナギの航海をやろうと機運が高まり、産卵場の調査をやろうと言う事で3月にウナギの第一次航海があった。 その時から参加している。(学生だった)
当時、台湾の近くでウナギのレプトケファルスが1匹だけ取れていた。
太平洋に船をこぎ出すのは、間違いのないところだった。
沖縄、台湾の海域が産卵場だろうと、云われていた。
南へ南へ、推定産卵場が移って行った。
東へ東へ移っていって 最終的にグアム島の西100kmが産卵場だろうと落ちついた。
1967年に最初に1匹発見された。
1991年 10mm前後の小型レプトケファルスが1000匹近く取れた。(フィリピン海のほぼ中央部)
そこから海流をさかのぼってゆくと、大体、西マリアナ海嶺が産卵場だろうと言う事になる。
主席研究員と言う立場にあったので、論文を国内の科学雑誌に出そうと思っていたら、京都での国際学会にカナダの先生が来ていて、1986年に知り合いになっていて(当時はアユの研究)、1991年に小型レプトケファルスを沢山発見して、現在論文を書いているところで有ることを話したら、イギリスのネイチャーに出すべきだと言う事で、ネイチャーに論文を掲載してもらった。
その先生のおかげで、審査もフリーパスで取り上げられた。
カバー 写真も綺麗なブルーをバックに半透明なレプトケファルスが、表紙に取り上げられた。
世界の友人からいろんな電話、FAXを頂いた。
日本人がウナギに興味を持っていたと言う事がある。
1971年 盛大なシンポジウムが行われ、ウナギの研究者が全国から集まって、喧々諤々やりました。
シンポジウムの懇親会を新宿のうなぎ屋で行った。
デンマークのヨハネス・シュミットさんがウナギの産卵場所を発見した事に刺激されて、我々ウナギ好きの日本人も我々が食べているウナギは、どこから来ているのか、突き止めたいと思うのは当然です。
一番苦しかったことは?
1991年にネイチャーにだした論文があった時から、14年間ほとんど成果が出なかった期間があったが、その時は苦しかった。
ウナギの研究をやっていると、全てを知りたくなる。
分類、形態、集団はどうなっているか、系統、ウナギの先祖は、そのような事を調べてみたくなる。
ウナギの先祖は外洋の1000mから数100mに住んでいる、ふくろううなぎ、ふうせんうなぎ、のこばうなぎ、しぎうなぎとか口ばしがそっくりかえったような深海漁がいるが、そういうものが共通の祖先だった。
ウナギの一番近い親戚は外洋の深海に住んでいる深海魚。
深海で回遊しなかった祖先よりも、明るい餌の豊富な熱帯の川に偶然あがったウナギの母親の方が、沢山卵を持ったと言うのは、そういう意味なんですね。
回遊する習性が身についた。
ウナギの種類は19種類(亜種も含めて)
ヨーロッパウナギ、アメリカウナギ、南太平洋にも沢山種類がいる。
熱帯にだけ住んでいるウナギ、ボルネオウナギ、セレベスウナギ、等
親ウナギ、卵まで見つかっているのは日本ウナギだけ。
産卵期は夏の新月、産卵場所は海山。 新月仮説を立てる。
14年間は揺籃期と言っていいのかもしれない。
2005年プレレプトケファルス 生れて2日目のウナギの赤ちゃん取れる。
そのことにより海山仮説、新月仮説が証明できる。 時間、場所が特定できた。
一番大きな事だったと思う。
2008年 親うなぎ 2009年早朝に卵2個 採取に成功する。
養殖の可能性?
短絡的に、たたみかけられると、そうではないという気持ちがおこるが、将来的には、卵が取れたり、卵がある環境が判ることで、完全養殖の技術開発に大きなヒントを与えることになるし、卵の数
レプトケファルスがどのくらいいるか、そのような情報は、来年のシラスウナギはどのくらいか、とかが予測できるのではないか、そうすると計画的に養殖ができる。
親ウナギの産卵シーンを実際に見てみたくて、オス、メスがどのような行動をするのか、何匹ぐらいの集団なのか、行動学的な知見は、オスとメスをどんなふうに掛けあわせてやれば、いい卵、自然に近い卵が取れるのかと言う事になるので、野外での研究は、実際のラボのなかでの仕事に役立つ。
現在、解析中です。 ピンポイトに一瞬にたちあわなくてはいけないので、非常に難しい。
卵などよりもずーっと難しい。
プレレプトケファルスの環境、栄養 だいたいつきとめられている。
プランクトンが死んで、ごみの様になって、バクテリアの分解を受けた、マリンスノーと呼ばれるもやもやしているものを食べているのだろうと思う。
そういった餌は水を汚すので、どう応用していいかわからない。
日本人は世界のウナギの7割を食べている。
ウナギの養殖は、天然の稚魚を取って、それに餌をやって大きくしたのを我々は食べている。
(半養殖)
ウナギは気を付けて食べなければいけない食べもの。
ウナギの場合は天然のしらすウナギを大きくしているので、天然の材料をあんな風に大量に安くして、食べるようになってしまったら、それに耐える食材ではない。
海の環境が変わるのは、いかんともしがたいが、地球温暖化なんかに端を発していると思うが、
人間がしたことなので責任をもって何とかしなければいけないが、超難問です。
40年間はあっという間だった。 わくわくしながら、やってきた。
色々魚を研究してきたが、うなぎぐらい面白いものはない。 よくわからないから、引き付けられる。
大河内総長の甥が桜の蜜腺の研究をしているが、成功しても直接役に立たないような研究でも許してくれる、そういうおおらかさがあるところだ、そういう大学での研究を自分は大事にしたいと、そういう風なことをおっしゃった。
研究者になって、40年経ったが、大学での研究は 大河内総長がおっしゃったような、役に立たない研究、おおらかさがあることが、いい研究を育む下地になるのではないかと思う。
世の中が世知辛くなってきているが、短期的な成果を求められていると言う事は厳しいと思う。
おおらかに考えていい研究をしてもらいたいと思う。
2014年7月3日木曜日
塚本勝巳(教授) ・ウナギの卵を探し求めて40年(1)
塚本勝巳(日本大学生物資源科学部教授) ウナギの卵を探し求めて40年(1)
先月の中旬、国際自然保護連合が日本ウナギを、絶滅危惧種に指定すると発表して大きなニュースになりました。
塚本さんは、1948年 昭和23年岡山県生まれ、東京大学農学部水産学科を卒業、大学院生だった1973年、東大の調査船でウナギ産卵場調査に参加したことが、ウナギ研究のきっかけになりました。
1991年責任者として、調査船に乗り、この調査で日本ウナギの産卵場を発見した成果を執筆、14年後ついに史上初めて日本ウナギの卵を、マリアナ海嶺で採取する事に成功しました。
東大教授を退官後は、日本大学生物自然資源科学部でウナギ学研究室を創設して、研究の日々を送っています。
航海から戻ったばかり、グァム島の西の海域で、そこがウナギの産卵場になっている。 約1カ月。
今回はウナギの産卵シーンを見に行った。 ウナギにポップアップタグと言われる、衛星を使ってデータを送ってくるタグを付けて、産卵場でどのようにウナギが行動をするかと言う、データを取りに行きました。
産卵シーンは解析中、途中経過ではまだ目指すのは見つかっていない。
国際自然保護連合が絶滅危惧種指定のニュース、日本のウナギ業界に与えた影響はかなり大きかったのではないか。
我々にとってはショッキングではなかった。
2013年 日本の環境省では絶滅危惧種に指定している。
20年前の講演でこのまま放っておくと、資源が減少してゆく事は予言していた。
①取り過ぎ。
②河川環境が悪化した、川の小さな生物(ウナギのえさになる生物)が少なくなった、などウナギが生きる環境が悪くなったために、卵を沢山持てるような良いウナギがマリアナ沖の産卵場まで帰っていけなくなって、すこしずつウナギの資源にとって悪いことが起こり、今日に至った。
③海洋環境の変化、 30年、40年に渡る右肩下がり(①,②)
アリストテレスの動物誌の本の中にウナギは大地のはらわたから生まれる、みみずが変じてウナギになる、泥の中から自然発生すると書かれている。 (自然発生説)
ウナギがどこで産卵しているか、起点を特定したかった。
ウナギの赤ちゃん レプトケファルス 透明な柳の葉っぱの様な幼生になる。
より小さいレプトケファルスを求めてずーっと研究が進んできた。(産卵場に近い)
デンマークのヨハネス・シュミットさんが我々よりも前に大きな成果を上げた方。
北大西洋中をくまなくレプトケファルスを求めて、廻った。(ヨーロッパウナギとアメリカウナギ)
1cm前後のレプトケファルスが取れたところが、産卵場に違いないと、サルガッソー海だった。
2009年 卵が取れる。 西マリアナ海域に海底山脈が伸びているが、グァム島の西、100kmに同じような海嶺が走っている。
日本ウナギの卵は2粒だった。3粒取れたが、遺伝子解析装置に掛けたら1粒は違っていた。
日本ウナギ 平均1.6mm 最大でも1.8mm 怪しいと思ったのは1.8mmから2.2mmぐらいだった。
10km四方に卵が分布していた。 160mぐらいの深さにかたまっていた。 人類史上初めての発見
本格的にウナギの研究を始めたのが1986年 23年掛かった。
毎年 取れる場所が違ってきているので、産卵地点は1か所ではなくて、複数の箇所で産んでいる。 西マリアナ海嶺の南端部だと言う事には変わりはないが、300kmの長さのどこかで産むことが解ってきた。
産卵生態に関するいろんな基礎的な情報が一気に判ってきた。
耳石から色々な情報が解る。
炭酸カルシウムの結晶 魚の場合は固まって内耳の中にできる。
輪紋 同心円状に見える。 日輪(年輪ではなく)を読んで、生まれて何日経っているかが解る。
しらすウナギ を取って耳石から輪紋をかぞえたら、180~200本 約6カ月前に生まれたことが判る。 それまでは漠然と冬生まれると信じていたが、実は夏だと言う事が判った。
それまでは冬に研究航海をやっていたが、夏に変更した。
そうしたら小型のレプトケファルスが取れるようになり、大きな進展になった。
夏産卵説を発表した。
シラスウナギが冬に来るので、産卵して1年経ったのが来るものと思っていたんでしょうね。
実際には半年で向こうに着いて産卵して、しらすになった赤ちゃんが半年で帰ってくる、合わせて1年のスケジュールだった。
1991年の航海で、1cm前後の赤ちゃんが1000匹近く取れて、それでウナギは夏産卵すると変えた。
塩分フロント 塩分の濃いところ、薄いところ、 そのあたりに産卵する場所があるらしい(仮説)
2005年 台風がやってきて4日無駄にして、塩分フロント沿いに海流をさかのぼっていけば、最終的に一番小さいレプトケファルスが生まれたところに辿りつけるのではないかと思った。(反グリッド作戦)
プレレプトケファルス(孵化したてのもの 5mm) がとれた。
それまで10mm程度のレプトケファルスしかとれず、14年間 進展がなかった。
塩分の濃いところ、薄いところ 潮目 南はスコールがあり、塩分濃度の低い塊ができる。
高温のため、塩分濃度の高い塊ができる。
塩分フロント 潮目 ウナギは塩分フロントを目安に、北から回遊してきて、塩分フロントを越えると、自分の故郷の水に帰ってきたと思って、産卵するのではないかと、思った。(塩分フロントの直ぐ南で産卵)
塩分濃度の低い塊は、ゆっくり西に流れる北赤道海流になっているので、そこで産むことによって西に流されたレプトケファルスは成長を続けて、フィリピンの沖合で北に向かって黒潮に取り込まれて、台湾、中国、韓国、日本の東アジアにやってくると、そのような稚魚の輸送経路を考えた。
塩分フロントは親ウナギにとっては自分の故郷の水を知るための重要な印、レプトケファルスにとっては自分を運んでくれるゆりかごの様な、輸送経路だと言う事です。
行き帰りで数千kmの旅をする。
人工養殖 短絡的だと思うが、ゆくゆくは資源管理、完全養殖の技術には役に立つとは思うが。
産卵場の環境、どんなものを食べているか、プレレプトケファルス、レプトケファルスの環境、塩分濃度、どんなものを食べているか、細かいことが判ってくると、人工的完全養殖の技術開発の研究にいろんなヒントを与えると思う。
最初、魚の運動生理学をやっていた。
泳ぐ時にどこの筋肉がどの程度活動しているとか、呼吸量はどの位とか、やっていたが、室内の実験では本当の魚の姿を見ているのではないんじゃないかと思い、天然の魚の泳ぎ、稚あゆの遡上行動だった。
実に生き生きと泳いでいるアユの姿をみて、天然のフィールドで調べる生態の方が面白くて、あゆの生態、行動を研究することになる。
行動を研究するうちに、回遊(旅をする)と言うものに興味を持った。
動物たちが何故旅をするのかと言う事が私のライフテーマです。
3年か、4年すると何故あゆが旅をするか、理由が判ったような気する。
元いた場所が嫌になると旅をする、不具合を感じるようになると旅をする。(脱出理論)
動物はどうして旅をするのかと言う、答えの一つだと思う。
魚の中にもいろんなタイプの回遊がある。 あゆ、さけ、うなぎ 三大話みたいなもの。
回遊原理が判ると、何故魚は旅をしなければいけないのか、と言う事が判るのではないかと、さくらますも、ウナギも始めた。
最初に移動を始めた理由は脱出理論で説明できると思うが、そこから先、移動することが種の宿命になっていったかと言うのは、移動した方が移動しなかったものより、より多くの子孫を残せた、より多くの子供が残った。
ウナギは海の魚なんだけれども、熱帯の温かい川に向かったウナギの方が、帰って卵を産んだ方が深い海に残っていたウナギよりも、粒が大きくて沢山の卵を産んで、子孫がたくさん残って行ったのではなかろうか。
移動する習性が身について行ったのではないだろうか。
先月の中旬、国際自然保護連合が日本ウナギを、絶滅危惧種に指定すると発表して大きなニュースになりました。
塚本さんは、1948年 昭和23年岡山県生まれ、東京大学農学部水産学科を卒業、大学院生だった1973年、東大の調査船でウナギ産卵場調査に参加したことが、ウナギ研究のきっかけになりました。
1991年責任者として、調査船に乗り、この調査で日本ウナギの産卵場を発見した成果を執筆、14年後ついに史上初めて日本ウナギの卵を、マリアナ海嶺で採取する事に成功しました。
東大教授を退官後は、日本大学生物自然資源科学部でウナギ学研究室を創設して、研究の日々を送っています。
航海から戻ったばかり、グァム島の西の海域で、そこがウナギの産卵場になっている。 約1カ月。
今回はウナギの産卵シーンを見に行った。 ウナギにポップアップタグと言われる、衛星を使ってデータを送ってくるタグを付けて、産卵場でどのようにウナギが行動をするかと言う、データを取りに行きました。
産卵シーンは解析中、途中経過ではまだ目指すのは見つかっていない。
国際自然保護連合が絶滅危惧種指定のニュース、日本のウナギ業界に与えた影響はかなり大きかったのではないか。
我々にとってはショッキングではなかった。
2013年 日本の環境省では絶滅危惧種に指定している。
20年前の講演でこのまま放っておくと、資源が減少してゆく事は予言していた。
①取り過ぎ。
②河川環境が悪化した、川の小さな生物(ウナギのえさになる生物)が少なくなった、などウナギが生きる環境が悪くなったために、卵を沢山持てるような良いウナギがマリアナ沖の産卵場まで帰っていけなくなって、すこしずつウナギの資源にとって悪いことが起こり、今日に至った。
③海洋環境の変化、 30年、40年に渡る右肩下がり(①,②)
アリストテレスの動物誌の本の中にウナギは大地のはらわたから生まれる、みみずが変じてウナギになる、泥の中から自然発生すると書かれている。 (自然発生説)
ウナギがどこで産卵しているか、起点を特定したかった。
ウナギの赤ちゃん レプトケファルス 透明な柳の葉っぱの様な幼生になる。
より小さいレプトケファルスを求めてずーっと研究が進んできた。(産卵場に近い)
デンマークのヨハネス・シュミットさんが我々よりも前に大きな成果を上げた方。
北大西洋中をくまなくレプトケファルスを求めて、廻った。(ヨーロッパウナギとアメリカウナギ)
1cm前後のレプトケファルスが取れたところが、産卵場に違いないと、サルガッソー海だった。
2009年 卵が取れる。 西マリアナ海域に海底山脈が伸びているが、グァム島の西、100kmに同じような海嶺が走っている。
日本ウナギの卵は2粒だった。3粒取れたが、遺伝子解析装置に掛けたら1粒は違っていた。
日本ウナギ 平均1.6mm 最大でも1.8mm 怪しいと思ったのは1.8mmから2.2mmぐらいだった。
10km四方に卵が分布していた。 160mぐらいの深さにかたまっていた。 人類史上初めての発見
本格的にウナギの研究を始めたのが1986年 23年掛かった。
毎年 取れる場所が違ってきているので、産卵地点は1か所ではなくて、複数の箇所で産んでいる。 西マリアナ海嶺の南端部だと言う事には変わりはないが、300kmの長さのどこかで産むことが解ってきた。
産卵生態に関するいろんな基礎的な情報が一気に判ってきた。
耳石から色々な情報が解る。
炭酸カルシウムの結晶 魚の場合は固まって内耳の中にできる。
輪紋 同心円状に見える。 日輪(年輪ではなく)を読んで、生まれて何日経っているかが解る。
しらすウナギ を取って耳石から輪紋をかぞえたら、180~200本 約6カ月前に生まれたことが判る。 それまでは漠然と冬生まれると信じていたが、実は夏だと言う事が判った。
それまでは冬に研究航海をやっていたが、夏に変更した。
そうしたら小型のレプトケファルスが取れるようになり、大きな進展になった。
夏産卵説を発表した。
シラスウナギが冬に来るので、産卵して1年経ったのが来るものと思っていたんでしょうね。
実際には半年で向こうに着いて産卵して、しらすになった赤ちゃんが半年で帰ってくる、合わせて1年のスケジュールだった。
1991年の航海で、1cm前後の赤ちゃんが1000匹近く取れて、それでウナギは夏産卵すると変えた。
塩分フロント 塩分の濃いところ、薄いところ、 そのあたりに産卵する場所があるらしい(仮説)
2005年 台風がやってきて4日無駄にして、塩分フロント沿いに海流をさかのぼっていけば、最終的に一番小さいレプトケファルスが生まれたところに辿りつけるのではないかと思った。(反グリッド作戦)
プレレプトケファルス(孵化したてのもの 5mm) がとれた。
それまで10mm程度のレプトケファルスしかとれず、14年間 進展がなかった。
塩分の濃いところ、薄いところ 潮目 南はスコールがあり、塩分濃度の低い塊ができる。
高温のため、塩分濃度の高い塊ができる。
塩分フロント 潮目 ウナギは塩分フロントを目安に、北から回遊してきて、塩分フロントを越えると、自分の故郷の水に帰ってきたと思って、産卵するのではないかと、思った。(塩分フロントの直ぐ南で産卵)
塩分濃度の低い塊は、ゆっくり西に流れる北赤道海流になっているので、そこで産むことによって西に流されたレプトケファルスは成長を続けて、フィリピンの沖合で北に向かって黒潮に取り込まれて、台湾、中国、韓国、日本の東アジアにやってくると、そのような稚魚の輸送経路を考えた。
塩分フロントは親ウナギにとっては自分の故郷の水を知るための重要な印、レプトケファルスにとっては自分を運んでくれるゆりかごの様な、輸送経路だと言う事です。
行き帰りで数千kmの旅をする。
人工養殖 短絡的だと思うが、ゆくゆくは資源管理、完全養殖の技術には役に立つとは思うが。
産卵場の環境、どんなものを食べているか、プレレプトケファルス、レプトケファルスの環境、塩分濃度、どんなものを食べているか、細かいことが判ってくると、人工的完全養殖の技術開発の研究にいろんなヒントを与えると思う。
最初、魚の運動生理学をやっていた。
泳ぐ時にどこの筋肉がどの程度活動しているとか、呼吸量はどの位とか、やっていたが、室内の実験では本当の魚の姿を見ているのではないんじゃないかと思い、天然の魚の泳ぎ、稚あゆの遡上行動だった。
実に生き生きと泳いでいるアユの姿をみて、天然のフィールドで調べる生態の方が面白くて、あゆの生態、行動を研究することになる。
行動を研究するうちに、回遊(旅をする)と言うものに興味を持った。
動物たちが何故旅をするのかと言う事が私のライフテーマです。
3年か、4年すると何故あゆが旅をするか、理由が判ったような気する。
元いた場所が嫌になると旅をする、不具合を感じるようになると旅をする。(脱出理論)
動物はどうして旅をするのかと言う、答えの一つだと思う。
魚の中にもいろんなタイプの回遊がある。 あゆ、さけ、うなぎ 三大話みたいなもの。
回遊原理が判ると、何故魚は旅をしなければいけないのか、と言う事が判るのではないかと、さくらますも、ウナギも始めた。
最初に移動を始めた理由は脱出理論で説明できると思うが、そこから先、移動することが種の宿命になっていったかと言うのは、移動した方が移動しなかったものより、より多くの子孫を残せた、より多くの子供が残った。
ウナギは海の魚なんだけれども、熱帯の温かい川に向かったウナギの方が、帰って卵を産んだ方が深い海に残っていたウナギよりも、粒が大きくて沢山の卵を産んで、子孫がたくさん残って行ったのではなかろうか。
移動する習性が身について行ったのではないだろうか。
2014年7月2日水曜日
青木享起(絵画修復士) ・思い出の絵を蘇らせて
青木享起(絵画修復士) 思い出の絵を蘇らせて
日本航空の運行管理士を58歳で退職した青木さんは、イタリアのフィレンツエで3年半絵画の修復を勉強し、トスカーナ州の修復士の資格を得て、62歳で帰国されました。
横浜の自宅に工房を作りました。
この15年間で修復した美術作品はおよそ600点、2012年には後進を育てるために、NPO法人 を立ち上げています。
著名な画家の作品は勿論ですが、美術作品としては価値がなくても、個人にとって宝物の絵画を修復して喜んでもらった時の達成感は何ものにも代えがたいとおっしゃっています。
修復中の絵画、 ベルナール・ビュフェと言う作家、かなり有名な作家。
40号 1m☓72cm 花を絵を描いている。 はがれてきている。 額の下に溜まってきている。
保護する作業があり其れを終えて、和紙で表打ちという作業、和紙と接着剤で張り込んでおく。
進行しない様にしておく。
美的修復、無くなったところをどういう風に再現するか。
保存修復、これ以上壊れないように将来までずーっと維持する処置。
2つに分けている。
裏打ち、キャンバスも痛んできたら、裏から新しいキャンバスを張り付ける。
裏にサイン等がある時はそれを残さなければいけないので、持ち主と相談する。
写真に残すとか、そのまま残す、色々方法がある。
古い絵だと何回も修復している。
ブラックライトで照らすと、修復のところが蛍光反応を示す。
一番難しいのは作者の表現を壊さないで、どう直すかと言う事です。
作者の表現を読み取る、訓練をする。
修復作業は昔からある。 ヨーロッパで出てきたのは1700年代の後半に専門の修復がでた。
レオナルド・ダビンチ 最後の晩餐 20年ぐらいかかった。
レオナルドが生きているころから、壊れ始めて、そのころから修復している。
修復士はイタリアの資格で、日本にはない。
昔から絵が好きで、絵の仕事をしたいとは思っていた。
大学は商船大学、 父親も船長でした。
航海士になって、日本航空の中途採用があり、それに受かった。
その間もずーっと絵をやっていた。
30歳の時に、カルフォルニア大学の芸術学部、版画のスタジオがあり、大学に入って版画の勉強をした。
転勤で日本に帰って来て、日本画の勉強をした。
日本では油絵は明治になってからで、油絵の歴史は新しく、ヨーロッパは何百年と歴史があり、古典技法を学びたくて、定年が待ちきれなくて、退職してイタリアに行く事になる。
修復の仕事があり、之は自分の仕事に向いていると思った。 3年半勉強する。
修復理論、実技、美術史、等を勉強する。 一生で一番勉強したが、楽しくてしょうがなかった。
1998年に帰って来て、アトリエを工房にして、道具を買い集めて直ぐに始めた。
仕事はすぐには来なかったので、苦労した。
県立近代文学館に夏目漱石の資料がある。
夏目漱石が大事にしていた絵を寄贈したのが、残っている。
安井 曾太郎が若いころ、フランスに留学しているころの絵で、後の絵とは全然違う。
修復を頼まれた時に、夏目漱石が持っていた時の印象を残してほしいと言われた。
夏目漱石が亡くなった時に、仏壇の上に飾ってあって、ロウソク、線香ですすけて、茶色になっていて、その感じを残したまま、ひび割れとかを直してほしいとの事だった。
汚れを取ったら、スザンヌ風の鮮やかな色が出てきて、若いころの安井 曾太郎の絵、色使いを発見した。
時間と共に色が変わってくる。 どこに戻すかと言う事が難しい。(持ち主と交渉する)
日本人は古いもの好み。
新しい油絵の具だと、周りが変化しないで、そこだけが変化するので、今はそうはしない。
油絵の具とは別の絵の具で、油絵の具の感じを出すような風に、簡単にオリジナルの油絵の具にダメージを与えないような材料で描く。
過去の修復は油絵の具でやっているので、クリーニングをすると、差が出てきたりする。
イタリアの有名な修復家が日本人は一番修復家に向いていると言う。
日本人は誠実である、辛抱強い、手先が器用、美的センスがある、という。
2年前のNPO法人を立ち上げて、後進の育成をする。(個人的には前からやっていたが)
和物の修復、学校が出来て教えるところがある。
日本には修復士の免許がない。 修復家の数が少ない。
仕事は潜在的にはいっぱいあると思う。
見積もりを出すが、そんなに高いのか、或いはそんなに安いのかと、捉え方が違う。(同じ物で)
家族にとっては宝物、と言う事もあり、市場の価値とは異なるものがある。
そういった物は有名な絵を直すのとは、違ったやりがいがある。
そういった物は衝撃的で、泣きだす人もいるので、こちらも泣いてしまう。
今、ヨーロッパでは直した絵がよく売れる。 その方が絵を大事にしていた証拠なので。
日本でもそのような風潮が出てきている。
贋作 ①コピー 模写 (ヨーロッパでは修復した時に模写をする)
②弟子たちは親方とそっくりな絵を描かないといけないので、描いた絵に親方がサインをす る。
③意識的に偽物を作って描く。
後進には、基本的な勉強をしっかりしてもらいたい。 デッサンの勉強、一杯模写をしてもらいたい。
修復は一種の部分的な模写。 美術史の勉強。
画家と修復士は美に対する姿勢が全く違う。
画家は自分の絵で表現する手段として絵を描くクリエーティブな作業、修復家はクリエーティブな事をしてはいけない。
画家がどういう表現をしようとしたかを、学びとらないといけない。
有名な絵を一杯見てきたので、何かが溜まっているので、昔よりも腕は上がっていると思う。
日本航空の運行管理士を58歳で退職した青木さんは、イタリアのフィレンツエで3年半絵画の修復を勉強し、トスカーナ州の修復士の資格を得て、62歳で帰国されました。
横浜の自宅に工房を作りました。
この15年間で修復した美術作品はおよそ600点、2012年には後進を育てるために、NPO法人 を立ち上げています。
著名な画家の作品は勿論ですが、美術作品としては価値がなくても、個人にとって宝物の絵画を修復して喜んでもらった時の達成感は何ものにも代えがたいとおっしゃっています。
修復中の絵画、 ベルナール・ビュフェと言う作家、かなり有名な作家。
40号 1m☓72cm 花を絵を描いている。 はがれてきている。 額の下に溜まってきている。
保護する作業があり其れを終えて、和紙で表打ちという作業、和紙と接着剤で張り込んでおく。
進行しない様にしておく。
美的修復、無くなったところをどういう風に再現するか。
保存修復、これ以上壊れないように将来までずーっと維持する処置。
2つに分けている。
裏打ち、キャンバスも痛んできたら、裏から新しいキャンバスを張り付ける。
裏にサイン等がある時はそれを残さなければいけないので、持ち主と相談する。
写真に残すとか、そのまま残す、色々方法がある。
古い絵だと何回も修復している。
ブラックライトで照らすと、修復のところが蛍光反応を示す。
一番難しいのは作者の表現を壊さないで、どう直すかと言う事です。
作者の表現を読み取る、訓練をする。
修復作業は昔からある。 ヨーロッパで出てきたのは1700年代の後半に専門の修復がでた。
レオナルド・ダビンチ 最後の晩餐 20年ぐらいかかった。
レオナルドが生きているころから、壊れ始めて、そのころから修復している。
修復士はイタリアの資格で、日本にはない。
昔から絵が好きで、絵の仕事をしたいとは思っていた。
大学は商船大学、 父親も船長でした。
航海士になって、日本航空の中途採用があり、それに受かった。
その間もずーっと絵をやっていた。
30歳の時に、カルフォルニア大学の芸術学部、版画のスタジオがあり、大学に入って版画の勉強をした。
転勤で日本に帰って来て、日本画の勉強をした。
日本では油絵は明治になってからで、油絵の歴史は新しく、ヨーロッパは何百年と歴史があり、古典技法を学びたくて、定年が待ちきれなくて、退職してイタリアに行く事になる。
修復の仕事があり、之は自分の仕事に向いていると思った。 3年半勉強する。
修復理論、実技、美術史、等を勉強する。 一生で一番勉強したが、楽しくてしょうがなかった。
1998年に帰って来て、アトリエを工房にして、道具を買い集めて直ぐに始めた。
仕事はすぐには来なかったので、苦労した。
県立近代文学館に夏目漱石の資料がある。
夏目漱石が大事にしていた絵を寄贈したのが、残っている。
安井 曾太郎が若いころ、フランスに留学しているころの絵で、後の絵とは全然違う。
修復を頼まれた時に、夏目漱石が持っていた時の印象を残してほしいと言われた。
夏目漱石が亡くなった時に、仏壇の上に飾ってあって、ロウソク、線香ですすけて、茶色になっていて、その感じを残したまま、ひび割れとかを直してほしいとの事だった。
汚れを取ったら、スザンヌ風の鮮やかな色が出てきて、若いころの安井 曾太郎の絵、色使いを発見した。
時間と共に色が変わってくる。 どこに戻すかと言う事が難しい。(持ち主と交渉する)
日本人は古いもの好み。
新しい油絵の具だと、周りが変化しないで、そこだけが変化するので、今はそうはしない。
油絵の具とは別の絵の具で、油絵の具の感じを出すような風に、簡単にオリジナルの油絵の具にダメージを与えないような材料で描く。
過去の修復は油絵の具でやっているので、クリーニングをすると、差が出てきたりする。
イタリアの有名な修復家が日本人は一番修復家に向いていると言う。
日本人は誠実である、辛抱強い、手先が器用、美的センスがある、という。
2年前のNPO法人を立ち上げて、後進の育成をする。(個人的には前からやっていたが)
和物の修復、学校が出来て教えるところがある。
日本には修復士の免許がない。 修復家の数が少ない。
仕事は潜在的にはいっぱいあると思う。
見積もりを出すが、そんなに高いのか、或いはそんなに安いのかと、捉え方が違う。(同じ物で)
家族にとっては宝物、と言う事もあり、市場の価値とは異なるものがある。
そういった物は有名な絵を直すのとは、違ったやりがいがある。
そういった物は衝撃的で、泣きだす人もいるので、こちらも泣いてしまう。
今、ヨーロッパでは直した絵がよく売れる。 その方が絵を大事にしていた証拠なので。
日本でもそのような風潮が出てきている。
贋作 ①コピー 模写 (ヨーロッパでは修復した時に模写をする)
②弟子たちは親方とそっくりな絵を描かないといけないので、描いた絵に親方がサインをす る。
③意識的に偽物を作って描く。
後進には、基本的な勉強をしっかりしてもらいたい。 デッサンの勉強、一杯模写をしてもらいたい。
修復は一種の部分的な模写。 美術史の勉強。
画家と修復士は美に対する姿勢が全く違う。
画家は自分の絵で表現する手段として絵を描くクリエーティブな作業、修復家はクリエーティブな事をしてはいけない。
画家がどういう表現をしようとしたかを、学びとらないといけない。
有名な絵を一杯見てきたので、何かが溜まっているので、昔よりも腕は上がっていると思う。
2014年7月1日火曜日
石川文洋(報道写真家) ・ベトナム戦争取材から50年、我が人生を語る
石川文洋(報道写真家) ベトナム戦争取材から50年、我が人生を語る
戦場カメラマンの石川さんは、ベトナム戦争に従軍取材をしてから、今年で50年になります。
当時27歳だった石川さんはベトナム戦争の現実、悲惨さを伝えようと、1965年から当時の南ベトナムのサイゴンに滞在し、フリーの立場で取材活動をしました。
「ベトナム最前線カメラルポ」などの写真集は、当時大きな話題を呼びました。
ベトナムから日本に戻った後はベトナム戦争の支援基地となった沖縄の米軍基地や、兵士の姿などを撮影してきました。
ベトナムにはその後も定期的に訪れ、戦争がもたらした後遺症や復興状況などを取材しています。
現在ホーチミン市にあるベトナム戦争を展示する戦争証跡博物館には、石川さんの写真を展示する常設の写真コーナーも設けられ、沢山の見学者が訪れています。
戦争証跡博物館館長 フィン・ゴック・バン(Huynh・Ngoc・Van) 女性館長(52歳) 日本に来て全国5か所でトークショーを行う。
ベトナムのことを力を込めて話をした。
若い人たちはベトナム戦争について知らない人が多い。
沖縄では若い人が関心を持ってくれる人が多い。
1965年1月からベトナムに住んで直接取材する事になる。
当時外国に行くのは非常に難しい状況だった。(経済的にも)
前年、沖縄に行って、移民船にただで乗せてもらって、香港に行った。(世界旅行をしたかった)
ただで行ける方法はないか、(27ドルしかもっていなかった) 香港でも知り合いは無くて、何とかなるだろうとおもった。
香港で仕事を探して、次の国に行こうと思っていた。
8月に初めてアメリカがベトナムを攻撃する、トンキン湾事件が起きる。
爆撃の1週間後にベトナムに行く。
世界からジャーナリストの記者会見があり、刺激を受けて、10月にもう一回行った。
ベトナムに行こうと決めて、丸4年間滞在した。
最初行った時にはアメリカの戦闘部隊はいなかった。
政府軍とアメリカに対抗する、南ベトナム解放民族戦線が1960年に結成されて、その部隊が強くなってしまった。
是はいけないと言う事で、1965年3月に沖縄から直接戦闘部隊を投入した。
その後も増えて、一時期 55万人がベトナムにいた。
アメリカ軍に同行取材をしていた。
ベトナム戦争はカメラマン、記者が最前線まで行って、長期にわたって取材できた唯一の戦争だった。
1963年にケネディーがカメラマンや記者には協力しろと、指示した。
私は少佐待遇だった。 軍隊では中隊長が大尉だったので、厚遇された。
民主主義を護ることが大切だと言う想い。
但し、戦争なので、アメリカに都合の悪い事も報道されて、アメリカでも反戦運動が起きるが、後になって気が付いた。
ベトナム戦争の特徴は、農村が戦場になった。
ベトナムは国土の80%は農村、アメリカ軍に反対する、南ベトナム解放民族戦線は農村が基本になっている。
ベトコン(ベト 越南 コン 共産のことをコンサン を略す) 農村にいるから、そこを攻撃してやっつけるのが作戦だったが、やればやるほど、農村攻撃になるので、民衆を攻撃する事になり、気持ちがアメリカ軍、政府軍から離れる。
民衆が200万人死んだと言われる。 日本では原爆含めて、民間人は90万人と言われている。
米軍は協力してくれるし、食事はただで食べさしてくれたが、カメラマンは目の前で起こっている事を手加減しようと言う事は思わなかった。(皆自由に報道した)
ベトナム戦争が終わって、アメリカはそれを教訓として反省した。
ジャーナリストを自由に報道させたたら、いろんなことを報道されてしまう、と言う事を。
最初に政府軍に同行したが、1カ月同行して、政府軍に勝ち目はないと、直ぐに判った。
農村攻撃、民意が離れるので、これでは勝てないと思った。
沖縄戦 地上戦だったので、沖縄もこんなだったのかなあと思いながら、取材をした。(私は生まれが沖縄)
アメリカ軍は非常に苦労していた。
アメリカ軍の中に沖縄出身の兵士がいた。
2世として徴兵された兵士、日本国籍を持っていても、アメリカに半年以上いると、徴兵される。
拒否はできるが、軍に入ると市民権、永住権、アメリカ国籍が得られる。
勤務は1年間なので、そういう人とはあちこちで出会った。
沖縄出身の土池敏夫と言う人と出会う、お父さんはハワイ生まれの2世、沖縄戦の時通訳としてくる。
沖縄で入隊手続きをして、アメリカで訓練を受けて、来ることになる。
彼はアメリカ軍国籍を得るために参加する。
彼は2カ月後に戦死した。(19歳) 彼とは沖縄のことを大分話をした。
その後、ベトナムにいったり、沖縄に行ったりする。 沖縄取材 1969年
まだまだ沖縄から派兵していた。(1969年2月が一番派兵が多かった)
B52が嘉手納基地から出動して行った。 沖縄-ベトナムは直結している。
那覇軍港にはベトナムに送る物資が一杯あった。
負傷者もいっぱいいた。
兵士は2回休暇があり、コザのバー街は本当に凄かった。 お金を使い放題使う。
ベトナム戦争は1975年7月30日に終わる。
北ベトナムに1972年、73年に行っている。 取材許可が下りたのは私だけだった。
サイゴンに入った時は、時代が変わったなあと思った。
ハノイまでジープで横断した。
戦争が終わって本当によかったと思う。
ベトナムがどうなったかを記録している。 今、行くと吃驚する。
戦争証跡博物館 1日2000人~4000人 昨年は70万人が来たそうです。
今私の写真は138点が展示されている。
一つの国の変化を写真にして、記録出来て良かったと思う。
カメラマンというのは、こんなことが起こっていますよと言う事を、多くの人に知ってもらい、次の世代にベトナム戦争はこうだったと、いう事を伝えてゆく、そういう役目があると思っている。
戦争を防ぐためには、戦争の実態を知ることは大切と思っている。
戦争の実態をベトナム戦争では記録出来たと、思っている。
日本の戦争が終了してから70年になるが、戦争の実態を知って、想像力を高めてゆく(悲惨さ等)、日本の戦争はどうだったか、そういったことを知って、勉強し直してほしいと思っている。
戦争は殺し合いです。 歯止めをと言ってるが、戦争になってしまったらどうなってしまうのかわからない。
戦争にならない様な「たが」をしっかり締め直しておかなくてはいけないと、思っている。
戦場カメラマンの石川さんは、ベトナム戦争に従軍取材をしてから、今年で50年になります。
当時27歳だった石川さんはベトナム戦争の現実、悲惨さを伝えようと、1965年から当時の南ベトナムのサイゴンに滞在し、フリーの立場で取材活動をしました。
「ベトナム最前線カメラルポ」などの写真集は、当時大きな話題を呼びました。
ベトナムから日本に戻った後はベトナム戦争の支援基地となった沖縄の米軍基地や、兵士の姿などを撮影してきました。
ベトナムにはその後も定期的に訪れ、戦争がもたらした後遺症や復興状況などを取材しています。
現在ホーチミン市にあるベトナム戦争を展示する戦争証跡博物館には、石川さんの写真を展示する常設の写真コーナーも設けられ、沢山の見学者が訪れています。
戦争証跡博物館館長 フィン・ゴック・バン(Huynh・Ngoc・Van) 女性館長(52歳) 日本に来て全国5か所でトークショーを行う。
ベトナムのことを力を込めて話をした。
若い人たちはベトナム戦争について知らない人が多い。
沖縄では若い人が関心を持ってくれる人が多い。
1965年1月からベトナムに住んで直接取材する事になる。
当時外国に行くのは非常に難しい状況だった。(経済的にも)
前年、沖縄に行って、移民船にただで乗せてもらって、香港に行った。(世界旅行をしたかった)
ただで行ける方法はないか、(27ドルしかもっていなかった) 香港でも知り合いは無くて、何とかなるだろうとおもった。
香港で仕事を探して、次の国に行こうと思っていた。
8月に初めてアメリカがベトナムを攻撃する、トンキン湾事件が起きる。
爆撃の1週間後にベトナムに行く。
世界からジャーナリストの記者会見があり、刺激を受けて、10月にもう一回行った。
ベトナムに行こうと決めて、丸4年間滞在した。
最初行った時にはアメリカの戦闘部隊はいなかった。
政府軍とアメリカに対抗する、南ベトナム解放民族戦線が1960年に結成されて、その部隊が強くなってしまった。
是はいけないと言う事で、1965年3月に沖縄から直接戦闘部隊を投入した。
その後も増えて、一時期 55万人がベトナムにいた。
アメリカ軍に同行取材をしていた。
ベトナム戦争はカメラマン、記者が最前線まで行って、長期にわたって取材できた唯一の戦争だった。
1963年にケネディーがカメラマンや記者には協力しろと、指示した。
私は少佐待遇だった。 軍隊では中隊長が大尉だったので、厚遇された。
民主主義を護ることが大切だと言う想い。
但し、戦争なので、アメリカに都合の悪い事も報道されて、アメリカでも反戦運動が起きるが、後になって気が付いた。
ベトナム戦争の特徴は、農村が戦場になった。
ベトナムは国土の80%は農村、アメリカ軍に反対する、南ベトナム解放民族戦線は農村が基本になっている。
ベトコン(ベト 越南 コン 共産のことをコンサン を略す) 農村にいるから、そこを攻撃してやっつけるのが作戦だったが、やればやるほど、農村攻撃になるので、民衆を攻撃する事になり、気持ちがアメリカ軍、政府軍から離れる。
民衆が200万人死んだと言われる。 日本では原爆含めて、民間人は90万人と言われている。
米軍は協力してくれるし、食事はただで食べさしてくれたが、カメラマンは目の前で起こっている事を手加減しようと言う事は思わなかった。(皆自由に報道した)
ベトナム戦争が終わって、アメリカはそれを教訓として反省した。
ジャーナリストを自由に報道させたたら、いろんなことを報道されてしまう、と言う事を。
最初に政府軍に同行したが、1カ月同行して、政府軍に勝ち目はないと、直ぐに判った。
農村攻撃、民意が離れるので、これでは勝てないと思った。
沖縄戦 地上戦だったので、沖縄もこんなだったのかなあと思いながら、取材をした。(私は生まれが沖縄)
アメリカ軍は非常に苦労していた。
アメリカ軍の中に沖縄出身の兵士がいた。
2世として徴兵された兵士、日本国籍を持っていても、アメリカに半年以上いると、徴兵される。
拒否はできるが、軍に入ると市民権、永住権、アメリカ国籍が得られる。
勤務は1年間なので、そういう人とはあちこちで出会った。
沖縄出身の土池敏夫と言う人と出会う、お父さんはハワイ生まれの2世、沖縄戦の時通訳としてくる。
沖縄で入隊手続きをして、アメリカで訓練を受けて、来ることになる。
彼はアメリカ軍国籍を得るために参加する。
彼は2カ月後に戦死した。(19歳) 彼とは沖縄のことを大分話をした。
その後、ベトナムにいったり、沖縄に行ったりする。 沖縄取材 1969年
まだまだ沖縄から派兵していた。(1969年2月が一番派兵が多かった)
B52が嘉手納基地から出動して行った。 沖縄-ベトナムは直結している。
那覇軍港にはベトナムに送る物資が一杯あった。
負傷者もいっぱいいた。
兵士は2回休暇があり、コザのバー街は本当に凄かった。 お金を使い放題使う。
ベトナム戦争は1975年7月30日に終わる。
北ベトナムに1972年、73年に行っている。 取材許可が下りたのは私だけだった。
サイゴンに入った時は、時代が変わったなあと思った。
ハノイまでジープで横断した。
戦争が終わって本当によかったと思う。
ベトナムがどうなったかを記録している。 今、行くと吃驚する。
戦争証跡博物館 1日2000人~4000人 昨年は70万人が来たそうです。
今私の写真は138点が展示されている。
一つの国の変化を写真にして、記録出来て良かったと思う。
カメラマンというのは、こんなことが起こっていますよと言う事を、多くの人に知ってもらい、次の世代にベトナム戦争はこうだったと、いう事を伝えてゆく、そういう役目があると思っている。
戦争を防ぐためには、戦争の実態を知ることは大切と思っている。
戦争の実態をベトナム戦争では記録出来たと、思っている。
日本の戦争が終了してから70年になるが、戦争の実態を知って、想像力を高めてゆく(悲惨さ等)、日本の戦争はどうだったか、そういったことを知って、勉強し直してほしいと思っている。
戦争は殺し合いです。 歯止めをと言ってるが、戦争になってしまったらどうなってしまうのかわからない。
戦争にならない様な「たが」をしっかり締め直しておかなくてはいけないと、思っている。