森 公美子(歌手) 萩本欽一の人間塾
私は欽ちゃんに育てられました。
欽ちゃんのバラエティー番組に初めて出て、そこからドンドンと、出はじめたということです。
23歳の時です。当時は今より20kgぐらい少ない状態だった。
いろんなダイエットをやってきた。
卵ダイエット ゆで卵だけを食べるが、ガスが出て箱根の大涌谷を越えてしまって、凄い臭いで辞めてしまった。
パイナップルの時は、口の中が酸でかなりただれて、駄目だった。
はやったものには食いついてきた。 バナナの時もやった。
帝劇でやった時は、8kg増えてしまった。(萩本→舞台をやると痩せる 10kgとか)
笑いの最高を知ってしまうと、お客さまに申し訳ないと思う。(ただいるだけでいいと言ってもそうはいかない)
朝、普通はヨーグルトとバナナだけ。(森)
朝は、うどんかそば 夜は納豆、海苔でご飯 夜、肉が出てくるとがっかりする。肉は1年に2回ぐらい。(萩本)
肉を地方から送られてくると、若いものを呼んで食べてもらい、その汁で食べる。(萩本)
しゃけ缶にはソース(萩本) しゃけ缶には マヨネーズに醤油でしょう。
小学生の時にちょっとだけ英語ができた。 同時通訳になりたかった。
外国に行って、好きなものを食べるには、酔っぱらって指差す、そうすると全部持ってくる。
(酔っ払いとは関わりたくないから 萩本)
イタリア、アメリカ留学しているが、判らない時には、大きな声でうなるか、日本語で怒る。(森)
朝、ウオーキングしているが、追い抜きおじさんがいる。(気になる人)
結構私を待っている。
カレーウドン 風邪をひいていて、欽ちゃんが、この子にカレーウドンを食べさせてあげてと言われて、カレーウドンを食べて、汗が出てきて、風邪が治った。
私は風邪薬ではなく、カレーウドンをを食べる。 汗をかけばいい。(萩本)
40歳まではカレーウドンで風邪は治していた。 歳をとると、治らなくなる。
お腹が痛かったりするときには、痛い場所にマジックで☓印をつけて病院にゆくと、対応が速やか。
生まれ変わったら、女で、美人に生まれたい。(森)
今の時代に生まれ変わるなら、女性。
生まれ変わったら、人間が終わったので、草か、動物か。 木か花になりたい。(萩本)
最近、草木と仲良くしている。
弱点 褒められない事、皆が褒めてくれない。
一生懸命やったのに、出来て当然みたいに思われる。
3.11で津波で持って行かれた友だちがいて、結構大変な役で2時ぐらいまで歌詞を見たりして、がんばっていて、寝ていたら、夢で「がんばって、見てるからね」と言われて、朝起きた時に、そのことで涙が出てきてしまった。
彼女は中学校の先生だったが、私が代りに出来ることを考えて、私が行って授業するのがいいと思って、出掛けて、音楽は楽しいよという、授業した。
ぐっすり眠ってしまって、夢を見ない。(萩本)
2014年6月30日月曜日
2014年6月29日日曜日
五木寛之 ・歌の旅人(愛知県)
五木寛之 歌の旅人(愛知県)
ノーベル賞受賞者が多い。 利根川進、小柴昌俊、益川俊英、
日本の歴史の中で愛知県は伝統のある場所。
詩 漢詩 詩吟の道場がたくさんある。 森 春濤。
学問、文化の伝統の街。
音楽でも沢山の人たちがいる。 作曲家、作詞家、歌手、 小説家
ザ ピーナツ 1965年にモスクワに行ったが、ザ ピーナツの歌がレストランとかで凄く演奏されていた。
「ウナセダディ 東京」 ハーモニーの美しさ モダンな感覚を注ぎ込んだ。
山口洋子 渡辺俊幸
作家 城山三郎 宮城谷昌光 新美南吉 (中京の宮澤賢治) 坪内逍遥 二葉亭四迷
尾崎四朗 大沢在昌
黒川紀章(建築家) 浅井慎平(写真家) 加納典明(写真家)
古い伝統にとらわれずに、新しい自分のオリジナリティーを打ち出す。
尾張(是と思ったっらまっすぐ付き進むエネルギーがある)、三河(愚直にして頑固に近い、真面目で嘘つかず実践)、 文化が違うところがある。
舟木一夫 「高校三年生」
かつては挙母(ころも)市 町全体がトヨタ 大家族と言う様な感じ
1959年に豊田市になった。 豊田佐吉
尾張の商法 勤務の余暇を利用して、家庭で営む副業を職芸として推奨していた。
ロボット生産も日本一
焼き物 織物 お茶 刷毛 もくぎょう 金魚 ・・・。
作詞、作曲家 竜 真知子、 チェリッシュ
「あずさ2号」 「白いギター」
御園座
愛知県 はでなイメージがあるが、質素で実利的なところ。
今陽子 小鳩くるみ アミン 八神純子、小坂一也、北原ミレイ、
「水色の雨」 「待つわ」
浅田真央、安藤美姫 伊藤みどり 鈴木明子
吉田秀彦、谷本歩実、室伏 広治
先進的気風のあるところ。
ノーベル賞受賞者が多い。 利根川進、小柴昌俊、益川俊英、
日本の歴史の中で愛知県は伝統のある場所。
詩 漢詩 詩吟の道場がたくさんある。 森 春濤。
学問、文化の伝統の街。
音楽でも沢山の人たちがいる。 作曲家、作詞家、歌手、 小説家
ザ ピーナツ 1965年にモスクワに行ったが、ザ ピーナツの歌がレストランとかで凄く演奏されていた。
「ウナセダディ 東京」 ハーモニーの美しさ モダンな感覚を注ぎ込んだ。
山口洋子 渡辺俊幸
作家 城山三郎 宮城谷昌光 新美南吉 (中京の宮澤賢治) 坪内逍遥 二葉亭四迷
尾崎四朗 大沢在昌
黒川紀章(建築家) 浅井慎平(写真家) 加納典明(写真家)
古い伝統にとらわれずに、新しい自分のオリジナリティーを打ち出す。
尾張(是と思ったっらまっすぐ付き進むエネルギーがある)、三河(愚直にして頑固に近い、真面目で嘘つかず実践)、 文化が違うところがある。
舟木一夫 「高校三年生」
かつては挙母(ころも)市 町全体がトヨタ 大家族と言う様な感じ
1959年に豊田市になった。 豊田佐吉
尾張の商法 勤務の余暇を利用して、家庭で営む副業を職芸として推奨していた。
ロボット生産も日本一
焼き物 織物 お茶 刷毛 もくぎょう 金魚 ・・・。
作詞、作曲家 竜 真知子、 チェリッシュ
「あずさ2号」 「白いギター」
御園座
愛知県 はでなイメージがあるが、質素で実利的なところ。
今陽子 小鳩くるみ アミン 八神純子、小坂一也、北原ミレイ、
「水色の雨」 「待つわ」
浅田真央、安藤美姫 伊藤みどり 鈴木明子
吉田秀彦、谷本歩実、室伏 広治
先進的気風のあるところ。
2014年6月28日土曜日
佐伯チズ(美・生活アドバイザー) ・願えばかなう
佐伯チズ(美・生活アドバイザー) 願えばかなう
60歳定年まで頑張ってきた。 おじいさんから前で手を合わせる人間になってくれと言われた。
後ろから手を合わせる人間にはなってほしくないと言われた。
甲賀市は薬の街、 軒先にげんのしょうこう、十薬、オトギリソウ、おおばこが下がっていて、お腹が痛いとかいうと、之を飲んでおきなさいと言われて、医者にいくことがあんまりなかった。
味噌蔵があったので発酵食品を食べて、鰹節、お味噌やら、おつけ物が何よりです。
アメリカに髪の毛を分析するところがあり、あなたは日本人にはない酵素が多い、と言われた。
食べるものはいかに大切かと思う。
71歳になる。 手術、ピアスは一切していない。
毛穴があるから、油、水分、汗が出てきてくれるから、自然のクリームがあるから綺麗でいられる。
お金を掛けないで綺麗になりましょうと、60歳の時から言い続けた。
つやつやな顔をしていれば、欠点が見えない。
99歳でおばあさんは亡くなったが、一番食べたのはイワシ、ジャコ、煮干し、 鳥のささみは誤魔化して食べさせたが。
絶対に人に迷惑をかけぬように、と言う想いがあり、小学生の時から、人に迷惑をかけないで、喜んでもらえるように、一人で自分を始末して、あー良かった好い人生、って生きたいと言う想いでここまで来ました。
まず健康でいなかったら、人生は始まらない。
どこの健康が必要かと言ったら、心なんです。 心の持ちようで健康に生きられる。
①先ず、しっかりと食べる。 好きな食べ物、旬の食べ物。
有難う、有難うと言って、しっかり噛みながら食べる。 消化も違ってくる。
歳を取ると、五感識が衰える。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、
触角は最後まで衰えない。(特に男性) ハグは愛情表現の中でも素晴らしいものが得られる。
②意識する事 意識を以って生きる。
③両手を使う事 老化しない一つの方法。
男洗い 顔を洗う時に行う。 下に力をいれない。 上に向けて洗う。
ドーパミンが(綺麗になろうと)出てくる。
④ただの美容液 温めて、両頬、額、顎につけて、好きな人を思いながら、TVの俳優を思いなが ら、行う。
⑤続けること。 三日坊主では駄目。
美容論は予防論
「頂きます」
おじいさんが、お前が生きているのは、食べるものを頂いているから、生かしてもらっているだよ。
「ご馳走様」
このものの命を頂いて、今日も生かしていただきました、だからご馳走様でした、と言いに行く。
主人は52歳で肺がんで、天国に行ってしまいました。
中学校1年の時に、オードリーヘップバーンにあこがれて、野球から卓球に変更、努力してそばかすが8年で無くなった。 二重にもなった。
主人の看病、私が42歳の時に主人が亡くなって、老婆の様な顔になって、髪の毛が黄色くなって、
これではいけないと、努力して水分を補給して元に戻って行って、45歳で外資系の会社に復活した。
主人にお金をつぎ込んで、その時はもう文なしだった。
3回、肩を叩かれたが、60歳までは自分の力でやりました。
人と比較する事はない。自分がやりたいと思う方法を見つけて、ステップ バイ ステップでやっていけばいいと思う。
綺麗も健康もおなじことだとおもう。
顔は心の証明であり、健康のカルテで有り、生きてきた人生の看板であると、顔を見ると心のありよう、健康状況等が皆判る。
60歳定年まで頑張ってきた。 おじいさんから前で手を合わせる人間になってくれと言われた。
後ろから手を合わせる人間にはなってほしくないと言われた。
甲賀市は薬の街、 軒先にげんのしょうこう、十薬、オトギリソウ、おおばこが下がっていて、お腹が痛いとかいうと、之を飲んでおきなさいと言われて、医者にいくことがあんまりなかった。
味噌蔵があったので発酵食品を食べて、鰹節、お味噌やら、おつけ物が何よりです。
アメリカに髪の毛を分析するところがあり、あなたは日本人にはない酵素が多い、と言われた。
食べるものはいかに大切かと思う。
71歳になる。 手術、ピアスは一切していない。
毛穴があるから、油、水分、汗が出てきてくれるから、自然のクリームがあるから綺麗でいられる。
お金を掛けないで綺麗になりましょうと、60歳の時から言い続けた。
つやつやな顔をしていれば、欠点が見えない。
99歳でおばあさんは亡くなったが、一番食べたのはイワシ、ジャコ、煮干し、 鳥のささみは誤魔化して食べさせたが。
絶対に人に迷惑をかけぬように、と言う想いがあり、小学生の時から、人に迷惑をかけないで、喜んでもらえるように、一人で自分を始末して、あー良かった好い人生、って生きたいと言う想いでここまで来ました。
まず健康でいなかったら、人生は始まらない。
どこの健康が必要かと言ったら、心なんです。 心の持ちようで健康に生きられる。
①先ず、しっかりと食べる。 好きな食べ物、旬の食べ物。
有難う、有難うと言って、しっかり噛みながら食べる。 消化も違ってくる。
歳を取ると、五感識が衰える。 視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、
触角は最後まで衰えない。(特に男性) ハグは愛情表現の中でも素晴らしいものが得られる。
②意識する事 意識を以って生きる。
③両手を使う事 老化しない一つの方法。
男洗い 顔を洗う時に行う。 下に力をいれない。 上に向けて洗う。
ドーパミンが(綺麗になろうと)出てくる。
④ただの美容液 温めて、両頬、額、顎につけて、好きな人を思いながら、TVの俳優を思いなが ら、行う。
⑤続けること。 三日坊主では駄目。
美容論は予防論
「頂きます」
おじいさんが、お前が生きているのは、食べるものを頂いているから、生かしてもらっているだよ。
「ご馳走様」
このものの命を頂いて、今日も生かしていただきました、だからご馳走様でした、と言いに行く。
主人は52歳で肺がんで、天国に行ってしまいました。
中学校1年の時に、オードリーヘップバーンにあこがれて、野球から卓球に変更、努力してそばかすが8年で無くなった。 二重にもなった。
主人の看病、私が42歳の時に主人が亡くなって、老婆の様な顔になって、髪の毛が黄色くなって、
これではいけないと、努力して水分を補給して元に戻って行って、45歳で外資系の会社に復活した。
主人にお金をつぎ込んで、その時はもう文なしだった。
3回、肩を叩かれたが、60歳までは自分の力でやりました。
人と比較する事はない。自分がやりたいと思う方法を見つけて、ステップ バイ ステップでやっていけばいいと思う。
綺麗も健康もおなじことだとおもう。
顔は心の証明であり、健康のカルテで有り、生きてきた人生の看板であると、顔を見ると心のありよう、健康状況等が皆判る。
2014年6月27日金曜日
堀田健一(オーダ自転車製造業) ・生き方を変えられる自転車作り35年
堀田健一(オーダ自転車製造業) 生き方を変えられる自転車作り35年
堀田さん69歳は東京足立区の小さな工場で、体の不自由な人のための自転車を作って35年になります。
一般的な自転車に乗れない、手や足が不自由な人達から注文を受けて、一台ずつ手作りする堀田さんは全国で只一人の製造者です。
これまでに完成させた自転車は,障害に合わせて手でペダルを押す手動式のもの、足で方向操作ができるものなど、その人だけの乗り物、形も二輪、三輪、四輪、と色々です。
利用する人達も全国に広がって,3歳の幼児から90歳まで年齢も性別も様々ですが、堀田さんの自転車で利用者は,行動範囲が広がるだけでなく、日々の暮らしも変化してきています。
一人でも多くの手や足が不自由な人に、生活を楽しんでほしいとオリジナル自転車で、日々研鑚を重ねる堀田さんに、自転車作りへの想いを伺います。
50歳ぐらいの人からの注文で、家の周りだけに限らず、電車で遠くまで用事をしたいと言う人、買い物もしたいと、モーターも使うので坂道も登れる、行動力のある自転車。
35年間で造った数は2400台になる。 2000人の人に利用してもらっている。
一人で数台を利用している方もいる。
障害がある方々の乗り物なので、どこがどういう風にしなければいけないか、その時まで判らない、合わせて作ってゆく。
ペダルがいろんな役割をする。 両手がなくても使う事が出来る。
モーターを付けたり、エンジンを付けたりするので、警察との問題もある。
生まれは茨城県霞ケ浦の淵 高校の頃は水上自転車等を作って楽しんでいた。
本田技研に入った。 組み立て、溶接、旋盤だとかやらされたが、私の好きな水上オートバイを提案したが、そこまでは本多技研はやらなかった。
20年たってから水上オートバイを他の会社が作った。
3年で会社を辞めてから、別の会社(梱包関係)で10年近くやった。
その時に自転車作りの縁ができる。
学校では自転車には乗ってはいけないという事で、子供にせがまれて、3輪自転車なら子供も乗ってもいいとの事で、作った。(子供は小学校3年の時)
上下に踏み込むだけで、走る自転車だった。
障害のあるご婦人がその3輪車をみて、乗らせてくださいと言われて、乗って頂いて、すごい喜んでくれて私も吃驚した。
会社の隣りが鉄工所で溶接機などを貸してくれたので、作ることができた。
口コミで自転車を造ってほしいとの、要望が増えてきた。
自転車メーカーに作ってもらえるように連絡したが、作ってくれるという会社は無かった。
私が作るしかないと思った。(お客さまの熱意で)
最初駐車場でやっていたが、雨が降ったりすると駄目で、ある人が足立区にある工場を使わないかと言う人がいて、足立区に引っ越すことになる。
毎日毎日戦いでした。 望んでたものを完成させると、最後にはお客さんが喜んでくださる。
必ず喜んでもらえるまで、それは執念でした。
市販の部品も使うが、フレーム、機構、ギア等は全部自分で考えて、全部手作りです。
最初は順調な時もあったが、停まってしまう時もあり、障害の施設に行って、試乗車を持っていって、乗ってもらって、何とか注文を取って、生活を何とかした。
福祉関係の展示会があり、見本を持って各地を廻った。
コミュニケーションが一番大事だと言う事が解った。
その方の今の現状に合わせて、自転車を合わせて作ると言う事は、リハビリをやっていくうちに、足に力も出てきたり、動く範囲が上がって来たりするので、後の事も考えてやる事が大事。
最初は言われるままにやっていた。
勝手にこちらでやってはいけないので、コミュニケーションを取ることによって、機能のレベルをある程度上げた様に、作ることにするようになる。(色々体験させてもらった。)
辛いのは、身体の具合が悪くなって、それに乗れなくなってしまうような時です。
商売と割り切っていたら、これまでの続けて来られなかったと思う。
堀田健一支援コンサートを文京区で、応援してあげようとやっていただいて、売上金を寄付してくださった。(20年前から実施、8回になる)
1台 15~6万円、モーター付けると30万円台。
最初7~8万円ぐらいだったが、それでは生活が成り立たない。
7~10日で1台 それでは生活ができないので夜中までやる。
昼間はアフターケアーとか試乗用を持って行ったりしているので。
従業員を雇えない状況です。
250ccのオートバイを妻が乗れるので、部品の調達、生活上の買い物等、妻もフル回転で、カタログの発送、お金の計算やら二人で精一杯頑張ってきたので、続けられたと言うのは事実ですね。
学校の給食費が遅れてしまうような場合があり、先生からいつになったら、払えるのかと言う様な事を子供に話すので、子供には辛い思いをさせた。
親に聞くのを忘れた、と言って誤魔化したこともあるようだ。(後に子供から聞いた)
始めて25年経った時に、「シチズンオブ ザ イヤー」 社会で貢献し、感動を与えた無名の良き市民に授与される賞を受けることになる。
突然電話がかかってきて、吃驚した、賞金が100万円 副賞ペアの時計。
嘘だろうと思って相手にしなかったが、又電話がかかってきたが、こちらから電話しますと、聞いて切った。
104で調べて電話したら、その人が出てきて、私はバツが悪かった。
騙されていると思ったが、表彰式の時に、時計が動いて、社長さんにもあって、之は本当だったと思えた。
そこから社会が変わったと思う、そういう自転車は大事なものなのかと、その方にとっては役に立つんじゃないかと、見て頂けたと思います。
3歳の生まれつき小児まひのお子さん、自転車が届いた瞬間に乗り出して、おばあさんは大喜び、母親も吃驚していた。
自転車を作らなかったら、車椅子になっていたと思う。
足が使えるのに足を使わない車椅子になってしまう事は、是は考えなくてはいけない問題だと思う。
足が使えるのなら、手が使えるのなら、そういう身体を使って生活してゆく事がどれほど大事か、
是はお金の問題ではなくて、身体が力が付いてくるので、力が付いた身体で生活をして行くのと、力があるのにそれを使わないで生活してゆくのでは、先々ドンドン変わってゆくと思います。
その人にとって役にたっていることは確かだと思う。
3歳の子は、高校、大学そして社会人になっても、愛用してくださっている。
物を造るのは苦労とは思わなかったが、其れに没頭させてもらえなかったこともある。
是は考えなくてはいけない苦労でした。
足の力が弱いので、坂道を買い物に行けないので、坂道を登るモーターを付けるのは当然の考え方ですが、モーターを付けると、原付だという規制が警察の方から、かけられる。
矛盾しているのではないかと、思う。
健常者 アシストモーターがついても、規制がないが、障害のある人がモーターを付けると、だめと。
大企業からは、借金して作ったカタログが、名前が似ていると言う事で、カタログを使うなと言う事で3万部ほど作ったものを、雨ざらしにした姿を見て辛かった。
東京の坂道は100~150w程度で登れる。
1馬力が750w 小さなモーターでも確認書を取らされる。
市長とか折衝して、両手のない方の原付バイク 1人だけ試験場でやって、通りましたが。
自転車を作る事以外の事、がいろいろ付いて回って是は厳しかった。
どなたも生活に必要で来れるので、断ることは無かった。
辞めようと言う気持ちは無いが、これでは食えないねと言う事は切実なことでした。
妻が昨年の10月に脳内出血で倒れたが、命は助かって、障害もなかった、ただ言葉が駄目で電話、お客様の対応はむずかしくなってしまった。
若いころ靴磨きをしていた足の悪い人が、私の自転車を乗ってから、後に詩を書いていて、
「わが身をば、守りて走るこの愛車 長く保てと 祈りまいらん」 自転車のかけがえの無さを歌ってくれて、私の励みでもありました。
最初は当人だけが喜ぶが、やがては家族の方々の笑顔が変わってくると言う事もあるし、家族のお付き合いなんですね。
私は楽しい人生を歩まさせていただいている。
こういう道をなんとか、消さないで行けないものかなあと、今は考えているのですが。
この道を応援したいという、若い人が出てきてくれた。
どうなるかわからないが、できる限り後進の人に協力していきたいと思う。
同じものを一つずつでは、絶対に利益は出ないが、何台ずつならば成りたつか、資本と見比べながら作ってゆくならば、成りたつと思う。
私の様に開発ばっかりしていたのでは駄目で、今後はある程度のものに絞って、量産してゆく事を前提すれば、商売として成り立って、もっともっといいものが届けてゆけるという、好い循環が出来てゆくのではないかと思う。
堀田さん69歳は東京足立区の小さな工場で、体の不自由な人のための自転車を作って35年になります。
一般的な自転車に乗れない、手や足が不自由な人達から注文を受けて、一台ずつ手作りする堀田さんは全国で只一人の製造者です。
これまでに完成させた自転車は,障害に合わせて手でペダルを押す手動式のもの、足で方向操作ができるものなど、その人だけの乗り物、形も二輪、三輪、四輪、と色々です。
利用する人達も全国に広がって,3歳の幼児から90歳まで年齢も性別も様々ですが、堀田さんの自転車で利用者は,行動範囲が広がるだけでなく、日々の暮らしも変化してきています。
一人でも多くの手や足が不自由な人に、生活を楽しんでほしいとオリジナル自転車で、日々研鑚を重ねる堀田さんに、自転車作りへの想いを伺います。
50歳ぐらいの人からの注文で、家の周りだけに限らず、電車で遠くまで用事をしたいと言う人、買い物もしたいと、モーターも使うので坂道も登れる、行動力のある自転車。
35年間で造った数は2400台になる。 2000人の人に利用してもらっている。
一人で数台を利用している方もいる。
障害がある方々の乗り物なので、どこがどういう風にしなければいけないか、その時まで判らない、合わせて作ってゆく。
ペダルがいろんな役割をする。 両手がなくても使う事が出来る。
モーターを付けたり、エンジンを付けたりするので、警察との問題もある。
生まれは茨城県霞ケ浦の淵 高校の頃は水上自転車等を作って楽しんでいた。
本田技研に入った。 組み立て、溶接、旋盤だとかやらされたが、私の好きな水上オートバイを提案したが、そこまでは本多技研はやらなかった。
20年たってから水上オートバイを他の会社が作った。
3年で会社を辞めてから、別の会社(梱包関係)で10年近くやった。
その時に自転車作りの縁ができる。
学校では自転車には乗ってはいけないという事で、子供にせがまれて、3輪自転車なら子供も乗ってもいいとの事で、作った。(子供は小学校3年の時)
上下に踏み込むだけで、走る自転車だった。
障害のあるご婦人がその3輪車をみて、乗らせてくださいと言われて、乗って頂いて、すごい喜んでくれて私も吃驚した。
会社の隣りが鉄工所で溶接機などを貸してくれたので、作ることができた。
口コミで自転車を造ってほしいとの、要望が増えてきた。
自転車メーカーに作ってもらえるように連絡したが、作ってくれるという会社は無かった。
私が作るしかないと思った。(お客さまの熱意で)
最初駐車場でやっていたが、雨が降ったりすると駄目で、ある人が足立区にある工場を使わないかと言う人がいて、足立区に引っ越すことになる。
毎日毎日戦いでした。 望んでたものを完成させると、最後にはお客さんが喜んでくださる。
必ず喜んでもらえるまで、それは執念でした。
市販の部品も使うが、フレーム、機構、ギア等は全部自分で考えて、全部手作りです。
最初は順調な時もあったが、停まってしまう時もあり、障害の施設に行って、試乗車を持っていって、乗ってもらって、何とか注文を取って、生活を何とかした。
福祉関係の展示会があり、見本を持って各地を廻った。
コミュニケーションが一番大事だと言う事が解った。
その方の今の現状に合わせて、自転車を合わせて作ると言う事は、リハビリをやっていくうちに、足に力も出てきたり、動く範囲が上がって来たりするので、後の事も考えてやる事が大事。
最初は言われるままにやっていた。
勝手にこちらでやってはいけないので、コミュニケーションを取ることによって、機能のレベルをある程度上げた様に、作ることにするようになる。(色々体験させてもらった。)
辛いのは、身体の具合が悪くなって、それに乗れなくなってしまうような時です。
商売と割り切っていたら、これまでの続けて来られなかったと思う。
堀田健一支援コンサートを文京区で、応援してあげようとやっていただいて、売上金を寄付してくださった。(20年前から実施、8回になる)
1台 15~6万円、モーター付けると30万円台。
最初7~8万円ぐらいだったが、それでは生活が成り立たない。
7~10日で1台 それでは生活ができないので夜中までやる。
昼間はアフターケアーとか試乗用を持って行ったりしているので。
従業員を雇えない状況です。
250ccのオートバイを妻が乗れるので、部品の調達、生活上の買い物等、妻もフル回転で、カタログの発送、お金の計算やら二人で精一杯頑張ってきたので、続けられたと言うのは事実ですね。
学校の給食費が遅れてしまうような場合があり、先生からいつになったら、払えるのかと言う様な事を子供に話すので、子供には辛い思いをさせた。
親に聞くのを忘れた、と言って誤魔化したこともあるようだ。(後に子供から聞いた)
始めて25年経った時に、「シチズンオブ ザ イヤー」 社会で貢献し、感動を与えた無名の良き市民に授与される賞を受けることになる。
突然電話がかかってきて、吃驚した、賞金が100万円 副賞ペアの時計。
嘘だろうと思って相手にしなかったが、又電話がかかってきたが、こちらから電話しますと、聞いて切った。
104で調べて電話したら、その人が出てきて、私はバツが悪かった。
騙されていると思ったが、表彰式の時に、時計が動いて、社長さんにもあって、之は本当だったと思えた。
そこから社会が変わったと思う、そういう自転車は大事なものなのかと、その方にとっては役に立つんじゃないかと、見て頂けたと思います。
3歳の生まれつき小児まひのお子さん、自転車が届いた瞬間に乗り出して、おばあさんは大喜び、母親も吃驚していた。
自転車を作らなかったら、車椅子になっていたと思う。
足が使えるのに足を使わない車椅子になってしまう事は、是は考えなくてはいけない問題だと思う。
足が使えるのなら、手が使えるのなら、そういう身体を使って生活してゆく事がどれほど大事か、
是はお金の問題ではなくて、身体が力が付いてくるので、力が付いた身体で生活をして行くのと、力があるのにそれを使わないで生活してゆくのでは、先々ドンドン変わってゆくと思います。
その人にとって役にたっていることは確かだと思う。
3歳の子は、高校、大学そして社会人になっても、愛用してくださっている。
物を造るのは苦労とは思わなかったが、其れに没頭させてもらえなかったこともある。
是は考えなくてはいけない苦労でした。
足の力が弱いので、坂道を買い物に行けないので、坂道を登るモーターを付けるのは当然の考え方ですが、モーターを付けると、原付だという規制が警察の方から、かけられる。
矛盾しているのではないかと、思う。
健常者 アシストモーターがついても、規制がないが、障害のある人がモーターを付けると、だめと。
大企業からは、借金して作ったカタログが、名前が似ていると言う事で、カタログを使うなと言う事で3万部ほど作ったものを、雨ざらしにした姿を見て辛かった。
東京の坂道は100~150w程度で登れる。
1馬力が750w 小さなモーターでも確認書を取らされる。
市長とか折衝して、両手のない方の原付バイク 1人だけ試験場でやって、通りましたが。
自転車を作る事以外の事、がいろいろ付いて回って是は厳しかった。
どなたも生活に必要で来れるので、断ることは無かった。
辞めようと言う気持ちは無いが、これでは食えないねと言う事は切実なことでした。
妻が昨年の10月に脳内出血で倒れたが、命は助かって、障害もなかった、ただ言葉が駄目で電話、お客様の対応はむずかしくなってしまった。
若いころ靴磨きをしていた足の悪い人が、私の自転車を乗ってから、後に詩を書いていて、
「わが身をば、守りて走るこの愛車 長く保てと 祈りまいらん」 自転車のかけがえの無さを歌ってくれて、私の励みでもありました。
最初は当人だけが喜ぶが、やがては家族の方々の笑顔が変わってくると言う事もあるし、家族のお付き合いなんですね。
私は楽しい人生を歩まさせていただいている。
こういう道をなんとか、消さないで行けないものかなあと、今は考えているのですが。
この道を応援したいという、若い人が出てきてくれた。
どうなるかわからないが、できる限り後進の人に協力していきたいと思う。
同じものを一つずつでは、絶対に利益は出ないが、何台ずつならば成りたつか、資本と見比べながら作ってゆくならば、成りたつと思う。
私の様に開発ばっかりしていたのでは駄目で、今後はある程度のものに絞って、量産してゆく事を前提すれば、商売として成り立って、もっともっといいものが届けてゆけるという、好い循環が出来てゆくのではないかと思う。
2014年6月26日木曜日
宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長) ・日本酒を世界の”SAKE”に(再放送)
宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長) 日本酒を世界の”SAKE”に(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_20.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_20.htmlをご覧ください。
2014年6月25日水曜日
野口義弘(ガソリンスタンド経営) ・信じ続ければ応えてくれる(再放送)
野口義弘(ガソリンスタンド経営) 信じ続ければ応えてくれる(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_15.htmlをご覧ください。
6月25日、26日は小旅行為、休みます。
後追いで、行います。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/05/blog-post_15.htmlをご覧ください。
6月25日、26日は小旅行為、休みます。
後追いで、行います。
2014年6月24日火曜日
森下辰衛(三浦綾子・特別研究員) ・氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(2)(再放送)
森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員) 氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(2)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/2_25.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/2_25.htmlをご覧ください。
2014年6月23日月曜日
森下辰衛(三浦綾子・特別研究員) ・氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(1)(再放送)
森下辰衛(三浦綾子記念文学館特別研究員) 氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(1)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/blog-post_24.htmlをご覧下さい。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/blog-post_24.htmlをご覧下さい。
2014年6月22日日曜日
堀 祐吉(建築デザイン室代表) ・娘の心を伝え続けて
堀 祐吉(建築デザイン室代表 1級建築士) 娘の心を伝え続けて
71歳 25年前の夏 不慮の事故で娘明子さんを亡くしました 。16歳でした。
その後14冊の学習ノートが見つかります。
明子さんが小学校3年生から4年生にかけて、書きとめた詩220点が残されてありました。
堀さんはそのすべてを一冊にまとめ、詩集、四季の色として出版、之をきっかけに全国各地で詩集展、詩の朗読会、詩に曲を付けての音楽会などが開かれるようになりました。
25年にわたって詩に込められた、亡き娘の心を伝え続ける堀さんに伺いました。
四季の色
「桃色と若草色の春が来て、うららかな日々が楽しく過ぎてゆく。 エンジ色とマリンブルーの夏が来て、木々の緑が濃くなってくる。 もみじ色と黄金色の秋が来て、実りの日々は飛ぶように過ぎてゆく。 純白と夕焼け色の冬が来て、こごえながら日々が過ぎてゆく」
明子さんが小学校4年生の時の詩です。
明子は本が大好きだった。
藤沢の図書館に良く行っていて、読むべき本は全部読んでいたし、学校の図書館の本も読んでいた。
最初 文字が二つ、三つ重なると、言葉になると言う事を発見した。
「は」と「る」を重ねると「はる」になるとか、それが嬉しくてしょうがなかった。(3,4歳の頃)
言葉の発見が本好きになっていったと思う。
花が開く時の観察、通学路の野の花の観察、とか好きでノートに書き留めていた。
私が花の写真を撮ったりしたが、花の名前などを調べて、私に教えてくれたりした。
「ゆすらうめ」
「裏庭のゆすらうめ 薄紅色の小さい実 さみしいな さみしいな そろそろ揺れる小さな木
去年の実の中の小さな種が芽生えている。」
今は裏庭から、表に植え替えていつでも見れる様にしている。
36種類は庭の植物を観賞した詩ですね。
全部で14冊のノートがあるが、半分くらいは 220編の詩を書いている。
110編が作文、日記、童話 文章もたくさん書いている。
何をやっても一生懸命、真剣に取り組む子だった。
担任の近藤先生が家庭での学習を大切にして、その習慣を身に付ければいいですね、と言う事で始めた自由なノートだった。
ある時自作の詩を作った時に、詩に対して先生が褒めてくれて、詩を書くようになった。
私は忙しくて、土、日ぐらいいか接しなかった。
北原白秋の童謡集を膝に乗せて、二人で交互に一行、二行 読むことが、2,3年続きました。
それが触れ合いの時だった。
1988年 高校1年の夏、水の事故にあう。 一言でいうと信じられない、という思いです。
明子の祖母が作った歌
「ことごとにあきらめがたき思いあり 手帳の端の 父の字にそや?」(聞き取れず)
14冊の学習ノートが見つかり、ワープロで文字を打ってすこしずつ纏めてきたが、17歳の誕生日を迎えられなかった明子の誕生日のお祝いに、詩集にしてプレゼントしようと思った。
一番最初は詩集ができて、クラスメート、先生方にお配りした。
大きな広がりを見せたのは、全国紙の新聞のコラムに、自然の素晴らしさを捉える感受性のみずみずしい事に打たれたと紹介して頂いて、大きな反響があった。
詩の授業をされている学校があって、そこで3,4時間の時間を取って紹介してくださったりした。
詩集展の開催等も行われ、発展して行った様に思う。
田中澄江さんに本を届けたくてお訪ねして、本を渡してそれをご長男に渡してくださって、ご長男は絵画教室をやっていて、その生徒さんが詩集を元に絵を書いてくださった。
それを詩に添えて展示会をした。 それが第1回だった。
全国で25回になる。
最近小学校、中学校でもやっていただけるようになった。(毎年 4、5校 全部で18校)
福島県では5校 「すみれ一輪 春の花」 を輪唱みたいに、朗読してくれた。
「弟」と言う詩を読んで、姉とは仲良くなかったが、風邪をひいた時に姉の想いを感じて、これからは仲良くなれそうです、との感想文を頂いた。
「弟」
「せっかくの日曜なのに せっかく青空がまぶしいのに きんもくせいが匂うのに
緑の木さえもまぶしいのに ただ弟だけが疲れはてている 何の病だろう
布団にもぐり眠っている 昨日の元気はどこにいったのだろう 昨日ふざけていた元気はどこへ行ったのだろう 弟よ 元気に早くなっておくれ」
弟とは2つ違いです。 家族の事も他にも書いています。
「生きる喜び」と言う詩
5年生の感想 私は「生きる喜び」と言う詩を勉強して、今まで生きてきたけど、生きるってこんなにいいことなんだなあと思った。
この詩を勉強しなければ、思わなかったと思う。
堀さんは私と同じ小学生なので、こんなことを思えたと思う。
「生きる喜び」
「あー生きる喜び 生きているから喜びがある 美味しいものを食べる喜びも 美しい感動し
見いることの幸福も 生きているから味わえる 生きる喜びに比べれば
少しばかりの不幸などなんでもない」
辻邦生さんがお手紙を下さった。
明子さんの詩的直観で、あの幼さで、深く理解しておられるのですね、と言葉を寄せてくださった。
今は詩に写真をそえる様な形でやっています。(私の花の写真と、弟の外の写真)
2002年の会場での観想 素直さ、優しさ、繊細さ、人を思いやる心を持っていますね、それでいて鋭い。
植物のことを本当によく知っていますね。
これから野の花のなかに、雨風の中に、葉の影にあなたと出会うでしょう。 等々
多分1000通を越える感想文があります。
歌にもなっているが、今まで、主なもので、10回ぐらいのコンサートを開いて下さっています。
「おじぎ草」 横浜市立川上小学校?の合唱クラブの歌。
歌とか朗読詩とかしてくださって、その声を聞いていると明子の命が蘇るという想いが強くします。
教科書にも取り上げていただいた事もある。
知らず知らずに心が穏やかになって、そんな気持ちを味わってくれているのかなあと感じます。
変わりやすいもののなかには、人の心を全面的に癒してくれるものがある、という言葉に出会ったが、花の美しさ、儚さ、でもその美しさは花が枯れてしまっても、消えることは無い。
明子も花の詩、野の花の詩をたくさん書いているが、人の心をそういうもので癒しているのかなあと思います。 何かとは、はっきり分からないが。
私が出会った言葉の中で、ふっきれたのが、「悲しみの深さは愛の深さ」 「愛するものは消えない」
「愛する人は積極的になって、愛する時全ての力が生まれる。」
かけがいのない財産である自然、そのことを伝えることができれば、感じていただければいいかなあと思います。
「空の色 今は青い 美しい空だけど 100年ほど時が過ぎれば 何色になっていることやら」
「はなび草」
「本当はあぜかやつぎ でもずーっと私は、はなび草って言っていた その方が合っているし
私もその名が好きだから 線香花火の様なその草が好き だってその草が道端に見られるようになると 水泳だって花火だって 出来る季節になったってことが、はっきり判るから」
71歳 25年前の夏 不慮の事故で娘明子さんを亡くしました 。16歳でした。
その後14冊の学習ノートが見つかります。
明子さんが小学校3年生から4年生にかけて、書きとめた詩220点が残されてありました。
堀さんはそのすべてを一冊にまとめ、詩集、四季の色として出版、之をきっかけに全国各地で詩集展、詩の朗読会、詩に曲を付けての音楽会などが開かれるようになりました。
25年にわたって詩に込められた、亡き娘の心を伝え続ける堀さんに伺いました。
四季の色
「桃色と若草色の春が来て、うららかな日々が楽しく過ぎてゆく。 エンジ色とマリンブルーの夏が来て、木々の緑が濃くなってくる。 もみじ色と黄金色の秋が来て、実りの日々は飛ぶように過ぎてゆく。 純白と夕焼け色の冬が来て、こごえながら日々が過ぎてゆく」
明子さんが小学校4年生の時の詩です。
明子は本が大好きだった。
藤沢の図書館に良く行っていて、読むべき本は全部読んでいたし、学校の図書館の本も読んでいた。
最初 文字が二つ、三つ重なると、言葉になると言う事を発見した。
「は」と「る」を重ねると「はる」になるとか、それが嬉しくてしょうがなかった。(3,4歳の頃)
言葉の発見が本好きになっていったと思う。
花が開く時の観察、通学路の野の花の観察、とか好きでノートに書き留めていた。
私が花の写真を撮ったりしたが、花の名前などを調べて、私に教えてくれたりした。
「ゆすらうめ」
「裏庭のゆすらうめ 薄紅色の小さい実 さみしいな さみしいな そろそろ揺れる小さな木
去年の実の中の小さな種が芽生えている。」
今は裏庭から、表に植え替えていつでも見れる様にしている。
36種類は庭の植物を観賞した詩ですね。
全部で14冊のノートがあるが、半分くらいは 220編の詩を書いている。
110編が作文、日記、童話 文章もたくさん書いている。
何をやっても一生懸命、真剣に取り組む子だった。
担任の近藤先生が家庭での学習を大切にして、その習慣を身に付ければいいですね、と言う事で始めた自由なノートだった。
ある時自作の詩を作った時に、詩に対して先生が褒めてくれて、詩を書くようになった。
私は忙しくて、土、日ぐらいいか接しなかった。
北原白秋の童謡集を膝に乗せて、二人で交互に一行、二行 読むことが、2,3年続きました。
それが触れ合いの時だった。
1988年 高校1年の夏、水の事故にあう。 一言でいうと信じられない、という思いです。
明子の祖母が作った歌
「ことごとにあきらめがたき思いあり 手帳の端の 父の字にそや?」(聞き取れず)
14冊の学習ノートが見つかり、ワープロで文字を打ってすこしずつ纏めてきたが、17歳の誕生日を迎えられなかった明子の誕生日のお祝いに、詩集にしてプレゼントしようと思った。
一番最初は詩集ができて、クラスメート、先生方にお配りした。
大きな広がりを見せたのは、全国紙の新聞のコラムに、自然の素晴らしさを捉える感受性のみずみずしい事に打たれたと紹介して頂いて、大きな反響があった。
詩の授業をされている学校があって、そこで3,4時間の時間を取って紹介してくださったりした。
詩集展の開催等も行われ、発展して行った様に思う。
田中澄江さんに本を届けたくてお訪ねして、本を渡してそれをご長男に渡してくださって、ご長男は絵画教室をやっていて、その生徒さんが詩集を元に絵を書いてくださった。
それを詩に添えて展示会をした。 それが第1回だった。
全国で25回になる。
最近小学校、中学校でもやっていただけるようになった。(毎年 4、5校 全部で18校)
福島県では5校 「すみれ一輪 春の花」 を輪唱みたいに、朗読してくれた。
「弟」と言う詩を読んで、姉とは仲良くなかったが、風邪をひいた時に姉の想いを感じて、これからは仲良くなれそうです、との感想文を頂いた。
「弟」
「せっかくの日曜なのに せっかく青空がまぶしいのに きんもくせいが匂うのに
緑の木さえもまぶしいのに ただ弟だけが疲れはてている 何の病だろう
布団にもぐり眠っている 昨日の元気はどこにいったのだろう 昨日ふざけていた元気はどこへ行ったのだろう 弟よ 元気に早くなっておくれ」
弟とは2つ違いです。 家族の事も他にも書いています。
「生きる喜び」と言う詩
5年生の感想 私は「生きる喜び」と言う詩を勉強して、今まで生きてきたけど、生きるってこんなにいいことなんだなあと思った。
この詩を勉強しなければ、思わなかったと思う。
堀さんは私と同じ小学生なので、こんなことを思えたと思う。
「生きる喜び」
「あー生きる喜び 生きているから喜びがある 美味しいものを食べる喜びも 美しい感動し
見いることの幸福も 生きているから味わえる 生きる喜びに比べれば
少しばかりの不幸などなんでもない」
辻邦生さんがお手紙を下さった。
明子さんの詩的直観で、あの幼さで、深く理解しておられるのですね、と言葉を寄せてくださった。
今は詩に写真をそえる様な形でやっています。(私の花の写真と、弟の外の写真)
2002年の会場での観想 素直さ、優しさ、繊細さ、人を思いやる心を持っていますね、それでいて鋭い。
植物のことを本当によく知っていますね。
これから野の花のなかに、雨風の中に、葉の影にあなたと出会うでしょう。 等々
多分1000通を越える感想文があります。
歌にもなっているが、今まで、主なもので、10回ぐらいのコンサートを開いて下さっています。
「おじぎ草」 横浜市立川上小学校?の合唱クラブの歌。
歌とか朗読詩とかしてくださって、その声を聞いていると明子の命が蘇るという想いが強くします。
教科書にも取り上げていただいた事もある。
知らず知らずに心が穏やかになって、そんな気持ちを味わってくれているのかなあと感じます。
変わりやすいもののなかには、人の心を全面的に癒してくれるものがある、という言葉に出会ったが、花の美しさ、儚さ、でもその美しさは花が枯れてしまっても、消えることは無い。
明子も花の詩、野の花の詩をたくさん書いているが、人の心をそういうもので癒しているのかなあと思います。 何かとは、はっきり分からないが。
私が出会った言葉の中で、ふっきれたのが、「悲しみの深さは愛の深さ」 「愛するものは消えない」
「愛する人は積極的になって、愛する時全ての力が生まれる。」
かけがいのない財産である自然、そのことを伝えることができれば、感じていただければいいかなあと思います。
「空の色 今は青い 美しい空だけど 100年ほど時が過ぎれば 何色になっていることやら」
「はなび草」
「本当はあぜかやつぎ でもずーっと私は、はなび草って言っていた その方が合っているし
私もその名が好きだから 線香花火の様なその草が好き だってその草が道端に見られるようになると 水泳だって花火だって 出来る季節になったってことが、はっきり判るから」
2014年6月21日土曜日
西山明彦(唐招提寺・宗務長) ・鑑真が残したもの
西山明彦(唐招提寺・宗務長) 鑑真が残したもの
62歳 天平の昔、仏の教えを広めるために、日本にやってきた中国の僧、鑑真 度重なる渡航の失敗にも屈せず、6度目でようやく奈良の都に辿り着いた時には、すでに60代の半ばを越えていました。 西暦754年のことでした。
それから亡くなるまでの10年間、鑑真は僧侶だけでなく広く世俗の人々に、仏教の戒を授けました。
人としての基本となる生活習慣、倫理、道徳を護る大切さを伝えました。
利他行、人のためになることを行う様説きました。
鑑真が広めた仏の教えとは、どの様なものだったのか、鑑真が現代人に語りかける心のメーッセージとは、なにか伺いました。
鑑真和上像 6月5,6,7日 3日間だけの御開帳だったが、亡くなられて1250年経って、和上のお身代わりを作らしてもらって、1年間経った。
お釈迦様の教えが伝わっていないところには、命を惜しまないで、伝えたいとの思いがあった。
鑑真和上が指導してくれた事が花開いている。
中国の揚州にいた鑑真は仏教の戒律を伝えてほしいという、朝廷の招きで日本に渡る決意をします。
6度目の試みでようやく日本に辿り着き、鑑真が九州の太宰府に入ったのは天平勝宝5年、(753年12月の事) 日本にゆく決意をしてから10年余りがたっていました。
鑑真を日本へ駆り立て、苦難を乗り越えさせたのは、仏の教えを人々に広めたいと言う強い思いでした。
鑑真は奈良の都で天武天皇の皇子、新田部親王の屋敷の後を与えられ、戒律を修行する道場を開きます、之が唐招提寺の始まりです。
仏教の戒律 戒と律は違う意味があった。
戒:毎日の正しい習慣を 戒 と言った。 律:罰則を伴う事をしてはいけない事を律と言った。
戒律 律の方が重くなってしまったが、戒という本来の良い習慣、倫理道徳的なことを意味した。
当時から200年前に仏教がつたわってきているが、仏教の戒は最低限守らなければいけないのが5つある。 五戒
二つの流れがあり、一つはその当時にテキストが持ち込まれた。
もうひとつの流れは鑑真がもう一つの違うテキストが持ち込まれた。
在家の人も、人間としてこうあらねばならぬと、いう最低の5つの戒だった。
①ことさら生き物を殺してはいけない。不殺生戒 (ことさらがあらたについた)
②他人のものを盗んではいけない 不偸盗戒(同じ)
③男女の関係を正しくしなさい (妻帯してはいけない) 不邪淫戒 在家にも適用するので、夫婦 間の結婚を 認める。
④嘘をついてはいけない(同じ) 不妄語戒
⑤酒を飲んではいけない 不酤酒戒 心を惑わすものを服用してはいけません、が漢字に訳す と酒と言う字 に変わってくる。 今の時代で言うと薬物。
一般の生活をしながら、お釈迦様の教えを伝えてゆこうと言うためには、梵網経と言う戒律を守る事が基本と成る。
授戒 未来に約束をする事。 5つの戒を絶対守ると言う誓約しなさい、という。
三世の仏様に約束してほしい。 鑑真から授戒を受けた者は守る、守ろうとする。
布薩 懺悔行 仏に許しを乞う。(半月ごとに) 鑑真が授戒と懺悔式を取り入れた。
利他行 他の人を考えて生活しましょう。 そのために5つの戒を守って、自分自身も清くするけれども、他の人も幸せにすることがとても大事なことですよと、初めてひも説いたのが鑑真です。
知れば知るほど鑑真は大きすぎる。
西山さんは昭和26年 農家の次男として三重県に生まれました。
熱心な仏教徒だった母親の姿を見て育ったと言います。
高校を卒業して、大阪の会社に就職、下宿したのが奈良市内のお寺、伝香寺(唐招提寺の末寺) 住職 徳田明本さんが西山さんの母方の伯父という縁から。
徳田さんとの出会いが仏道への入り口だった。
大学に行って、教職の免許を取って、お寺とは離れる事を思っていた。
師匠の遺言状がでてきて、後継ぎにしてほしいとの内容。 僧侶になろうと決心する。
昭和51年4月 伝香寺の留守居役と成り、唐招提寺の僧侶としても活動する事になる。
薬師寺 高田好胤 伽藍復興で本堂を立ち上げる時の現場で、若い人たちを集めて、話をしていて、輝いていて、こんなお坊さんがいるんだと思った。 会えてよかったといまだに思う。
御影堂 東山魁夷さん作品が収められている。
12年の歳月をかけて描いた。 昭和51年 に絵を最初に収める。
一人の人間が命を掛けて日本に来て、教授したことは忘れがたい出来事だし、いまだに日本で使われている、精神が、受け継がれている事はあまり他にないと思う。
幼稚園の園長も務めている。
裏にあった2mあるお地蔵さんを子供たちが拝めるように、前に持ってきた。
5つの戒を守る様に、幼稚園も、大人も一緒。
同じことをずーっと言い続ける事、之が教えであり鑑真がおっしゃった戒で有るわけです。
人間の基本的倫理は時代が変わろうが、国が変わろうが 戒は変わらない。
62歳 天平の昔、仏の教えを広めるために、日本にやってきた中国の僧、鑑真 度重なる渡航の失敗にも屈せず、6度目でようやく奈良の都に辿り着いた時には、すでに60代の半ばを越えていました。 西暦754年のことでした。
それから亡くなるまでの10年間、鑑真は僧侶だけでなく広く世俗の人々に、仏教の戒を授けました。
人としての基本となる生活習慣、倫理、道徳を護る大切さを伝えました。
利他行、人のためになることを行う様説きました。
鑑真が広めた仏の教えとは、どの様なものだったのか、鑑真が現代人に語りかける心のメーッセージとは、なにか伺いました。
鑑真和上像 6月5,6,7日 3日間だけの御開帳だったが、亡くなられて1250年経って、和上のお身代わりを作らしてもらって、1年間経った。
お釈迦様の教えが伝わっていないところには、命を惜しまないで、伝えたいとの思いがあった。
鑑真和上が指導してくれた事が花開いている。
中国の揚州にいた鑑真は仏教の戒律を伝えてほしいという、朝廷の招きで日本に渡る決意をします。
6度目の試みでようやく日本に辿り着き、鑑真が九州の太宰府に入ったのは天平勝宝5年、(753年12月の事) 日本にゆく決意をしてから10年余りがたっていました。
鑑真を日本へ駆り立て、苦難を乗り越えさせたのは、仏の教えを人々に広めたいと言う強い思いでした。
鑑真は奈良の都で天武天皇の皇子、新田部親王の屋敷の後を与えられ、戒律を修行する道場を開きます、之が唐招提寺の始まりです。
仏教の戒律 戒と律は違う意味があった。
戒:毎日の正しい習慣を 戒 と言った。 律:罰則を伴う事をしてはいけない事を律と言った。
戒律 律の方が重くなってしまったが、戒という本来の良い習慣、倫理道徳的なことを意味した。
当時から200年前に仏教がつたわってきているが、仏教の戒は最低限守らなければいけないのが5つある。 五戒
二つの流れがあり、一つはその当時にテキストが持ち込まれた。
もうひとつの流れは鑑真がもう一つの違うテキストが持ち込まれた。
在家の人も、人間としてこうあらねばならぬと、いう最低の5つの戒だった。
①ことさら生き物を殺してはいけない。不殺生戒 (ことさらがあらたについた)
②他人のものを盗んではいけない 不偸盗戒(同じ)
③男女の関係を正しくしなさい (妻帯してはいけない) 不邪淫戒 在家にも適用するので、夫婦 間の結婚を 認める。
④嘘をついてはいけない(同じ) 不妄語戒
⑤酒を飲んではいけない 不酤酒戒 心を惑わすものを服用してはいけません、が漢字に訳す と酒と言う字 に変わってくる。 今の時代で言うと薬物。
一般の生活をしながら、お釈迦様の教えを伝えてゆこうと言うためには、梵網経と言う戒律を守る事が基本と成る。
授戒 未来に約束をする事。 5つの戒を絶対守ると言う誓約しなさい、という。
三世の仏様に約束してほしい。 鑑真から授戒を受けた者は守る、守ろうとする。
布薩 懺悔行 仏に許しを乞う。(半月ごとに) 鑑真が授戒と懺悔式を取り入れた。
利他行 他の人を考えて生活しましょう。 そのために5つの戒を守って、自分自身も清くするけれども、他の人も幸せにすることがとても大事なことですよと、初めてひも説いたのが鑑真です。
知れば知るほど鑑真は大きすぎる。
西山さんは昭和26年 農家の次男として三重県に生まれました。
熱心な仏教徒だった母親の姿を見て育ったと言います。
高校を卒業して、大阪の会社に就職、下宿したのが奈良市内のお寺、伝香寺(唐招提寺の末寺) 住職 徳田明本さんが西山さんの母方の伯父という縁から。
徳田さんとの出会いが仏道への入り口だった。
大学に行って、教職の免許を取って、お寺とは離れる事を思っていた。
師匠の遺言状がでてきて、後継ぎにしてほしいとの内容。 僧侶になろうと決心する。
昭和51年4月 伝香寺の留守居役と成り、唐招提寺の僧侶としても活動する事になる。
薬師寺 高田好胤 伽藍復興で本堂を立ち上げる時の現場で、若い人たちを集めて、話をしていて、輝いていて、こんなお坊さんがいるんだと思った。 会えてよかったといまだに思う。
御影堂 東山魁夷さん作品が収められている。
12年の歳月をかけて描いた。 昭和51年 に絵を最初に収める。
一人の人間が命を掛けて日本に来て、教授したことは忘れがたい出来事だし、いまだに日本で使われている、精神が、受け継がれている事はあまり他にないと思う。
幼稚園の園長も務めている。
裏にあった2mあるお地蔵さんを子供たちが拝めるように、前に持ってきた。
5つの戒を守る様に、幼稚園も、大人も一緒。
同じことをずーっと言い続ける事、之が教えであり鑑真がおっしゃった戒で有るわけです。
人間の基本的倫理は時代が変わろうが、国が変わろうが 戒は変わらない。
2014年6月20日金曜日
鵜澤 久(総合指定能楽保持者) ・母と娘 能楽に生きる
鵜澤 久(重要無形文化財 総合指定能楽保持者) 母と娘 能楽に生きる
日本の伝統芸能、能楽は奈良時代に始まり600年を越す、最高の古典演劇と言われます。
2008年ユネスコの無形文化遺産に登録されて、歌舞伎、浄瑠璃も選ばれて、共に世界に誇る日本の芸術の一つと成りました。
しかし、能楽は敷居が高いと言われ、能を見に行く人が少ないのが現状です。
そうした中で、10年前、全国で22人の女性の能楽師が誕生し、現在能楽普及のために活躍されています。
「高砂」はおめでたい曲 1時間45分のしっかりした曲 皆さんが歌うのはその中の一部分。
「高砂屋この裏船に帆を上げて」 帆を上げて出帆する事が目出たいと知っている人ならば、目出たいと思うけれど、知らない人にとっては、何だかわからないことになる。
結婚式で歌うのは、「老松」と言う曲があって、お爺さんの松の精が主人公の曲、その最後のところにあるの文章が、君が代の国歌が出てくる。 とわに幸せをを願う。
腹式呼吸で声を出すが、腹筋を鍛えればいいというものではない。
基礎トレーニングなどは一切ない。
3歳で初舞台をふむ。
父は鵜澤雅 能楽師 若い時には反抗していたが、父は能楽師になることは晩年まで反対していた。(女性で有るので)
能楽の魅力?
子供の時から、ずーと聞いてきて、歌いは子守唄の様に聞いていたし、どなり声をきいて、自然に歌いも覚えてしまうし、洋楽の歌は歌えない、能の音階しか身につかなかった。
歌番組が始まると、ラジオでもTVでも切ってしまう。
音符も判らないし、音楽はいつも1か2だった。
言葉にメロディーが付く。
息使い、如何に深い息が大事かを思い知らされて、それを判ってきたら、音階も少し判ってきた。
長い間演劇をやってきた人と一緒に出来るのかと思っていたが、能をやってきただけで一緒に出来るんだと言うことが判った。
歌舞伎と能楽と比べると、能楽は一般受けしないのでは?
能は見ましょう、判りましょう、感じましょう、創造しましょう、と言いう見る方の働きかけがかなり働くと凄く面白いはず。
あらすじだけ知って、後は見ていれば、題材としていることが、古今東西の問題なわけで、能と言うものは、本質的なものだけが一本通っていると思う。
高砂の様に「長寿はめでたいことだ」と言う事が一本通っているとする、伊勢物語の井筒の女がどういう事を戯曲の中で言いたいのか、男女の問題、神と人間との関係、生きるか死ぬか、戦争、戦いの問題、人と自然の交わり、と言う様に一つのテーマみたいなものがピーっと 通っていて、そこのところを掴もうとして見れば、スーッと感じてくる。
自分の人生と何かを照らし合わせながら見れば、こんなに面白いものは無い。
時間、時間と言うものが流れる。
長いかもしれないし、一瞬かもしれない。
能舞台は神社仏閣の様なものが目に触れる。(恐れおののく様な)
誰もいない舞台のところに、一人、二人、三人と人が増えてきて、一曲が始まる、自分がはまってみていたら、一人、二人と減ってゆき、気がついたら、能舞台だけが残っていて、あーなんだったんだろう、とそういう意味での時間、私はそう思いますけど。
無から有を生み出して、そしてまた無に戻るみたいなそういう芸能ですね。
能は一期一会で、一回こっきりの演能のために、何カ月も稽古をする。
その日に風邪ひいていようと、熱があろうと、お腹が痛かろうが、舞台に立って演じる。
ベストコンディションに持っていけるかどうかわからないが、その日しかない、その時間しかない、其時をそこのお客さんだけと共有する。
総合指定能楽保持者 平成16年 初めて22人女性能楽師にならせていただいて、私は最年少。
能は一人ではできなくて、最低20人ぐらいの人がいないと、能と言う古典芸能は能とは言えない。
支えるにふさわしい人と選ばれているという事だと思います。
して方は一人だったりする。(主役) わきかた 狂言方 囃子方がある。
自由たい 後見 舞台上のいろんな装束の脱ぎ着、作り者の大道具、小道具のかたずけ、プロンプター、演者が舞台上で倒れて演じられなくなった時に、代わって演じなければならない。
演出家はいないので、してが演出家にもなるし、プロデュース的なこともやる。
「して」は主役を張ることができる分、責任がいっぱいある。
小学校の5年生の時に、作文を書かされた時に、私は男になりたい、なぜなら能楽師になりたいから、と書いたが、先生からは一蹴された。 そのとき私は悲しかった。
父は稽古してはくれなかった。
東京芸術大学に入ると道ができるのかなあと、思って父に話したら、それは大変だと言う事になって、教えに行っているのは能楽師仲間なので、娘に恥をかかしたくない、自分も恥をかきたくないと言う事で、高校1年から受かるために、厳しく教えてくれるようになって、本当に嬉しかった。
はいってから、観世寿夫先生から、能の世界の厳しさを諭された。
先生の目線 自分がまっ裸にされている様な目線で、見られて寒気がするような思いで見てくれた。
舞台に立つ時の構えの基本 すり足 基本を腰が折れるぐらい教えてもらいました。
地球の中心に落ちている様な立ち方、あらゆる方向から無数の見えない糸で引っ張られてそこにいる。
その緊張の糸が一本も緩みの無い状態で、立つんだと、その感覚、ただ立っているだけで、自分に集中していることが判る。
現代劇をやらしていただいたときにも、勝負できるんだと思いました。
構えと運びが能の基本なんです。
高校生ぐらいになると、型を教えてもらう、一点に集中するのと、空間を広めてゆく (差し込み ひらき というが)
右手がでたら、右足、最後の足場は右で終わらなくてはいけない。 型にはめてゆく。
ともかく稽古をしなければならない。
光さん(娘)に厳しく稽古をしている。 35歳になる。
母、娘で能やっているのは世界でうちだけです。
二人で舞う。 「松風」のつれをやる。
知らないものを知ろうとするとか、なにかあるんじゃないかと、感性の働き方があると、もっともっと面白くなる。
日本の伝統芸能、能楽は奈良時代に始まり600年を越す、最高の古典演劇と言われます。
2008年ユネスコの無形文化遺産に登録されて、歌舞伎、浄瑠璃も選ばれて、共に世界に誇る日本の芸術の一つと成りました。
しかし、能楽は敷居が高いと言われ、能を見に行く人が少ないのが現状です。
そうした中で、10年前、全国で22人の女性の能楽師が誕生し、現在能楽普及のために活躍されています。
「高砂」はおめでたい曲 1時間45分のしっかりした曲 皆さんが歌うのはその中の一部分。
「高砂屋この裏船に帆を上げて」 帆を上げて出帆する事が目出たいと知っている人ならば、目出たいと思うけれど、知らない人にとっては、何だかわからないことになる。
結婚式で歌うのは、「老松」と言う曲があって、お爺さんの松の精が主人公の曲、その最後のところにあるの文章が、君が代の国歌が出てくる。 とわに幸せをを願う。
腹式呼吸で声を出すが、腹筋を鍛えればいいというものではない。
基礎トレーニングなどは一切ない。
3歳で初舞台をふむ。
父は鵜澤雅 能楽師 若い時には反抗していたが、父は能楽師になることは晩年まで反対していた。(女性で有るので)
能楽の魅力?
子供の時から、ずーと聞いてきて、歌いは子守唄の様に聞いていたし、どなり声をきいて、自然に歌いも覚えてしまうし、洋楽の歌は歌えない、能の音階しか身につかなかった。
歌番組が始まると、ラジオでもTVでも切ってしまう。
音符も判らないし、音楽はいつも1か2だった。
言葉にメロディーが付く。
息使い、如何に深い息が大事かを思い知らされて、それを判ってきたら、音階も少し判ってきた。
長い間演劇をやってきた人と一緒に出来るのかと思っていたが、能をやってきただけで一緒に出来るんだと言うことが判った。
歌舞伎と能楽と比べると、能楽は一般受けしないのでは?
能は見ましょう、判りましょう、感じましょう、創造しましょう、と言いう見る方の働きかけがかなり働くと凄く面白いはず。
あらすじだけ知って、後は見ていれば、題材としていることが、古今東西の問題なわけで、能と言うものは、本質的なものだけが一本通っていると思う。
高砂の様に「長寿はめでたいことだ」と言う事が一本通っているとする、伊勢物語の井筒の女がどういう事を戯曲の中で言いたいのか、男女の問題、神と人間との関係、生きるか死ぬか、戦争、戦いの問題、人と自然の交わり、と言う様に一つのテーマみたいなものがピーっと 通っていて、そこのところを掴もうとして見れば、スーッと感じてくる。
自分の人生と何かを照らし合わせながら見れば、こんなに面白いものは無い。
時間、時間と言うものが流れる。
長いかもしれないし、一瞬かもしれない。
能舞台は神社仏閣の様なものが目に触れる。(恐れおののく様な)
誰もいない舞台のところに、一人、二人、三人と人が増えてきて、一曲が始まる、自分がはまってみていたら、一人、二人と減ってゆき、気がついたら、能舞台だけが残っていて、あーなんだったんだろう、とそういう意味での時間、私はそう思いますけど。
無から有を生み出して、そしてまた無に戻るみたいなそういう芸能ですね。
能は一期一会で、一回こっきりの演能のために、何カ月も稽古をする。
その日に風邪ひいていようと、熱があろうと、お腹が痛かろうが、舞台に立って演じる。
ベストコンディションに持っていけるかどうかわからないが、その日しかない、その時間しかない、其時をそこのお客さんだけと共有する。
総合指定能楽保持者 平成16年 初めて22人女性能楽師にならせていただいて、私は最年少。
能は一人ではできなくて、最低20人ぐらいの人がいないと、能と言う古典芸能は能とは言えない。
支えるにふさわしい人と選ばれているという事だと思います。
して方は一人だったりする。(主役) わきかた 狂言方 囃子方がある。
自由たい 後見 舞台上のいろんな装束の脱ぎ着、作り者の大道具、小道具のかたずけ、プロンプター、演者が舞台上で倒れて演じられなくなった時に、代わって演じなければならない。
演出家はいないので、してが演出家にもなるし、プロデュース的なこともやる。
「して」は主役を張ることができる分、責任がいっぱいある。
小学校の5年生の時に、作文を書かされた時に、私は男になりたい、なぜなら能楽師になりたいから、と書いたが、先生からは一蹴された。 そのとき私は悲しかった。
父は稽古してはくれなかった。
東京芸術大学に入ると道ができるのかなあと、思って父に話したら、それは大変だと言う事になって、教えに行っているのは能楽師仲間なので、娘に恥をかかしたくない、自分も恥をかきたくないと言う事で、高校1年から受かるために、厳しく教えてくれるようになって、本当に嬉しかった。
はいってから、観世寿夫先生から、能の世界の厳しさを諭された。
先生の目線 自分がまっ裸にされている様な目線で、見られて寒気がするような思いで見てくれた。
舞台に立つ時の構えの基本 すり足 基本を腰が折れるぐらい教えてもらいました。
地球の中心に落ちている様な立ち方、あらゆる方向から無数の見えない糸で引っ張られてそこにいる。
その緊張の糸が一本も緩みの無い状態で、立つんだと、その感覚、ただ立っているだけで、自分に集中していることが判る。
現代劇をやらしていただいたときにも、勝負できるんだと思いました。
構えと運びが能の基本なんです。
高校生ぐらいになると、型を教えてもらう、一点に集中するのと、空間を広めてゆく (差し込み ひらき というが)
右手がでたら、右足、最後の足場は右で終わらなくてはいけない。 型にはめてゆく。
ともかく稽古をしなければならない。
光さん(娘)に厳しく稽古をしている。 35歳になる。
母、娘で能やっているのは世界でうちだけです。
二人で舞う。 「松風」のつれをやる。
知らないものを知ろうとするとか、なにかあるんじゃないかと、感性の働き方があると、もっともっと面白くなる。
2014年6月19日木曜日
村田喜代子(作家) ・書く事は生きる事
村田喜代子(作家) 書く事は生きる事
村田さんは昭和20年福岡県の八幡 (北九州市)生まれ。
昭和52年「水中の声」で九州芸術祭文学賞を受賞し、本格的に作家デビューします。
昭和62年 「鍋の中」で芥川賞を受賞、その後この作品を原作として、黒澤明監督の「8月のラプソディー」が作られました。
平成19年には紫綬褒章を受賞しています。
3年前に 癌が見つかりましたが、治療に成功し、現在も精力的に執筆活動を続けていらっしゃいます。
3年前に癌になって、感じたのは、検査だとか、治療だとかに凄い時間を拘束されるのが、一番つらかった。
健康のありがたさよりも、時間を全部自分で使える喜びの方があるので、仕事をするのも贅沢と言う感じでやっている。
家族に対しての時間の拘束はありますが、健康だったので、今まではそのようなことがなかった。
癌の事と大震災が丁度一緒に遭遇(TVで映像を見る)した。
放射線治療を受ける。
地球ができた時に太陽から放射線が降り注ぐが、生物が出来て、避けて海の中にいて、オゾン層が出来て、放射線がさえぎられるようになってから、生物の上陸作戦が始まったらしい。
原発の事故の事もあり、放射線の事を一緒になって考える時期に合わさってしまった。
4次元ピンポイントの治療 時間も加わる。
癌になった奥さんを持ったご主人の立場から書かれた「光線」
照射台で受ける時間は3分ぐらい。
その間、一人の時間が持てて、自分があんなに勉強した時間は無かった。
小説の形にしたくはなかったので、夫の立場から、作業日誌の様な形で、心情的な文章は止めて、妻のそれを書いたとすれば、情緒的にもならないので良いかなあと思った。
病気のドキュメントではなく、小説として、作品としての世界はどうあるべきか、を考えた。
書くからには調べなければならないので、癌の事も随分調べたので、作家はいいなあと思った。
体調が悪くなる前には、夫が体調が悪くて、鯉コクを料理する。
メスの鯉がいいので10時間 煮詰めるが、それを見ながら、メスの鯉だったら、なんていうのだろうと、語り始める。
どこにいても作家の自分がいる。
小学校で先生に作文を褒められて、何か見ても、これをどう書けばいいんだろうと、考えた。
私はリアリストだと思います。 空想ではないが、過去にも宇宙にも行ける。
「鍋の中」 結婚するまでは料理はできなかった。
結婚して料理をすることが面白かった。
鍋に興味が無くなると、興味が水洗トイレに行ったり、オートバイに行ったりして、視点が動く。
カテゴリーのない作家だと言われる。
子供には、痒い人だと思われていた。
電話で話していて「書いた」とか「これから書く」とか、しょっちゅう言っていたので。
作品はよくこのような発想が、浮かぶなと思う様な作品ばかり。
新しくでき上った 「屋根屋」 単行本。 中味がほとんど夢の話。
屋根の修理のかわら職人と家の屋根の修理を頼む主婦が登場する。
20年前 屋根を修理してもらったことがあり、其職人が気が弱くて、代金を払ってもらえないことがあったりして、精神治療をするがその時に夢治療をする。
夢日記を書く。
その経験を題材にして、「屋根屋」を作品にする。
日本の屋根はのきが深い、何故なんだろうとおもったら、日本は(アジアも含め)雨が多い。
傾斜も雨水をながす。 傾斜が強いと、あまり昇ところではない。
場所でない場所に惹かれていった、そこに登れるのは、鳥しかいない。
人間で登れるのは、屋根屋さんだけだと思った。(鳥の親戚)
夢の中で、シャルトル大聖堂に登りましょうとか、五重の塔に行きましょうかと言う事になる。
夢を見るためには脱力しなくてはいけない、二人で夢をみて合流してゆくためには、一人はある程度覚めていなければいけない、脱力しない部分がいりますね、と言う様な事を、ある夢の専門家からいわれた。
それで之は小説になると思った。
小説の構想、種は、たまたま突然に浮かんでくるイメージの片りんなんですよ。
考えようとして、無理に考えて作るのは面白くない、理屈が先に来るので。
空想はどこかで無理があるが、イマジネーションと言うのは現実にあるものから、パッとひらめくものなんですね、自分の心の中に受け皿がある。
そういったことに、いつ出会えるかわからないので、生きているのが楽しい。
村田さんは昭和20年福岡県の八幡 (北九州市)生まれ。
昭和52年「水中の声」で九州芸術祭文学賞を受賞し、本格的に作家デビューします。
昭和62年 「鍋の中」で芥川賞を受賞、その後この作品を原作として、黒澤明監督の「8月のラプソディー」が作られました。
平成19年には紫綬褒章を受賞しています。
3年前に 癌が見つかりましたが、治療に成功し、現在も精力的に執筆活動を続けていらっしゃいます。
3年前に癌になって、感じたのは、検査だとか、治療だとかに凄い時間を拘束されるのが、一番つらかった。
健康のありがたさよりも、時間を全部自分で使える喜びの方があるので、仕事をするのも贅沢と言う感じでやっている。
家族に対しての時間の拘束はありますが、健康だったので、今まではそのようなことがなかった。
癌の事と大震災が丁度一緒に遭遇(TVで映像を見る)した。
放射線治療を受ける。
地球ができた時に太陽から放射線が降り注ぐが、生物が出来て、避けて海の中にいて、オゾン層が出来て、放射線がさえぎられるようになってから、生物の上陸作戦が始まったらしい。
原発の事故の事もあり、放射線の事を一緒になって考える時期に合わさってしまった。
4次元ピンポイントの治療 時間も加わる。
癌になった奥さんを持ったご主人の立場から書かれた「光線」
照射台で受ける時間は3分ぐらい。
その間、一人の時間が持てて、自分があんなに勉強した時間は無かった。
小説の形にしたくはなかったので、夫の立場から、作業日誌の様な形で、心情的な文章は止めて、妻のそれを書いたとすれば、情緒的にもならないので良いかなあと思った。
病気のドキュメントではなく、小説として、作品としての世界はどうあるべきか、を考えた。
書くからには調べなければならないので、癌の事も随分調べたので、作家はいいなあと思った。
体調が悪くなる前には、夫が体調が悪くて、鯉コクを料理する。
メスの鯉がいいので10時間 煮詰めるが、それを見ながら、メスの鯉だったら、なんていうのだろうと、語り始める。
どこにいても作家の自分がいる。
小学校で先生に作文を褒められて、何か見ても、これをどう書けばいいんだろうと、考えた。
私はリアリストだと思います。 空想ではないが、過去にも宇宙にも行ける。
「鍋の中」 結婚するまでは料理はできなかった。
結婚して料理をすることが面白かった。
鍋に興味が無くなると、興味が水洗トイレに行ったり、オートバイに行ったりして、視点が動く。
カテゴリーのない作家だと言われる。
子供には、痒い人だと思われていた。
電話で話していて「書いた」とか「これから書く」とか、しょっちゅう言っていたので。
作品はよくこのような発想が、浮かぶなと思う様な作品ばかり。
新しくでき上った 「屋根屋」 単行本。 中味がほとんど夢の話。
屋根の修理のかわら職人と家の屋根の修理を頼む主婦が登場する。
20年前 屋根を修理してもらったことがあり、其職人が気が弱くて、代金を払ってもらえないことがあったりして、精神治療をするがその時に夢治療をする。
夢日記を書く。
その経験を題材にして、「屋根屋」を作品にする。
日本の屋根はのきが深い、何故なんだろうとおもったら、日本は(アジアも含め)雨が多い。
傾斜も雨水をながす。 傾斜が強いと、あまり昇ところではない。
場所でない場所に惹かれていった、そこに登れるのは、鳥しかいない。
人間で登れるのは、屋根屋さんだけだと思った。(鳥の親戚)
夢の中で、シャルトル大聖堂に登りましょうとか、五重の塔に行きましょうかと言う事になる。
夢を見るためには脱力しなくてはいけない、二人で夢をみて合流してゆくためには、一人はある程度覚めていなければいけない、脱力しない部分がいりますね、と言う様な事を、ある夢の専門家からいわれた。
それで之は小説になると思った。
小説の構想、種は、たまたま突然に浮かんでくるイメージの片りんなんですよ。
考えようとして、無理に考えて作るのは面白くない、理屈が先に来るので。
空想はどこかで無理があるが、イマジネーションと言うのは現実にあるものから、パッとひらめくものなんですね、自分の心の中に受け皿がある。
そういったことに、いつ出会えるかわからないので、生きているのが楽しい。
2014年6月18日水曜日
名城政次郎(沖縄尚学・校長) ・高校経営の危機を救った男(2)
名城政次郎(沖縄尚学・校長) 高校経営の危機を救った男(2)
客観的な状況からは非常に難しいという事でしたが、立て直しの自信はありました。
昭和57年の12月でしたが、1年待ってほしいと言ったが、58年の3月には廃校が決まります、と言う事だった。
定員550名のところに、自分の予想では 50名しか来ませんとのことだった。
57年進学校として、入学試験を行ったが、応募者がいなくてこの入学試験は取りやめになった。
当時、尚学院では5000名の生徒がいて、すごい勢いだった。
リスクが大きいので職員からは反対があった。
定員が1650名のところに、400名しかいなかったので破たん状態だった。
予備校だけでは学力向上にはならないと思い、正規の学校(3年又は6年)を経営したいとの思いはあった。
周りの反対はあったが、妻は了解してくれた。
最初は生徒集め、学校は信用の泉がないと駄目。
予備校では、信用が出来ていたと思っている。
しっかりした生徒を入れる必要があった。
昭和57年12月27日に新聞記者を集めて、沖縄尚学院高等学校と言う名前で名城政次郎がやりますと言う事で、発表した。
沖縄で一番早い時期に入試をやることにする。
50名と言っていたのが、300名来た。
授業料も段階的に上げた。 2年目は750名ぐらい来た。
先生もほとんど残ってくれて、新たに予備校からも多数先生を導入して、授業はあちこちのビルを借りてやった。(校舎は古く、予備校の先生も通いやすいので)
中学の仮校舎では廊下を歩くと、ギシギシと音がする状態だった。
新しい校舎は4,5年後になる。
点数至上主義ではだめだと思っていたので、学校教訓を朝夕全生徒が斉唱する。
①恐れず、あなどらず、気負わず、やるべき事に取り組みます。
②温かみ、厳しさ、知性を身に付け、感謝と奉仕の心を実践します。
教師も起立して斉唱する。
当時はいろんな事を考えて、笑わなかった。
まだ当時よりも安心感があるが、まだ道半ばです。
4つの柱がある。
①教養、②倫理観、③文化力(沖縄独特の空手など 空手は必修科目になっている)、④コミュニケーション力(英語)
外国人が7名いる。 アメリカの大学と提携しているが、毎年4名の人が来る。
短期、長期交流で多くの外国から生徒が来る。
今、教育改革が進みつつある。
現行の入試の在り方は良くないと、点数至上主義で、他のことを考慮して選抜しなくてはいけないと言う方向。
面接、学校での活動、ボランティアをしたかとか。
高校野球で、甲子園で春2回優勝している。 1999年、2008年
野球、柔道、テニス、なぎなたに力を入れている。
柔道も県内ではずーっと優勝している。
スポーツだけ突出している学校にはしたくない。
周りの人を考える、安心させ喜ばせる人になってほしい。
根本には人間作りをきちんとさせながら、進学の顔を広げてゆく。
沖縄尚学院高等学校から沖縄尚学高校に名前を変える。
沖縄を教育県にしたい。
社会全体の知的なレベルの引き上げに役立つと思う。
人材作りは考えなくてはいけない。
レベルの高い大学にいって、その中で人間的な部分を磨いて、広い視野で、そういう逸材になってほしい。
世界を目指す高校、外国から生徒を取ったり、外国に生徒を送り込んだり、交流をやっている。
マレーシアから数十名くるとか、フィンランドから13名来たりする。
沖縄の人材はまだ不足していると思う、中央に行って働く人間、沖縄出身の官僚は少ない。
全国的な視野を元に沖縄を考えてほしい、そういう事も必要だと思います。
県内の人材もまだまだ不足していると思う。
今価値観が多様化しているが、確かな目で之がいいんだと判断する、普遍性を以って皆に認識されるような教育をしないといけない。
期待すると同時に、やってのけないといけない。
客観的な状況からは非常に難しいという事でしたが、立て直しの自信はありました。
昭和57年の12月でしたが、1年待ってほしいと言ったが、58年の3月には廃校が決まります、と言う事だった。
定員550名のところに、自分の予想では 50名しか来ませんとのことだった。
57年進学校として、入学試験を行ったが、応募者がいなくてこの入学試験は取りやめになった。
当時、尚学院では5000名の生徒がいて、すごい勢いだった。
リスクが大きいので職員からは反対があった。
定員が1650名のところに、400名しかいなかったので破たん状態だった。
予備校だけでは学力向上にはならないと思い、正規の学校(3年又は6年)を経営したいとの思いはあった。
周りの反対はあったが、妻は了解してくれた。
最初は生徒集め、学校は信用の泉がないと駄目。
予備校では、信用が出来ていたと思っている。
しっかりした生徒を入れる必要があった。
昭和57年12月27日に新聞記者を集めて、沖縄尚学院高等学校と言う名前で名城政次郎がやりますと言う事で、発表した。
沖縄で一番早い時期に入試をやることにする。
50名と言っていたのが、300名来た。
授業料も段階的に上げた。 2年目は750名ぐらい来た。
先生もほとんど残ってくれて、新たに予備校からも多数先生を導入して、授業はあちこちのビルを借りてやった。(校舎は古く、予備校の先生も通いやすいので)
中学の仮校舎では廊下を歩くと、ギシギシと音がする状態だった。
新しい校舎は4,5年後になる。
点数至上主義ではだめだと思っていたので、学校教訓を朝夕全生徒が斉唱する。
①恐れず、あなどらず、気負わず、やるべき事に取り組みます。
②温かみ、厳しさ、知性を身に付け、感謝と奉仕の心を実践します。
教師も起立して斉唱する。
当時はいろんな事を考えて、笑わなかった。
まだ当時よりも安心感があるが、まだ道半ばです。
4つの柱がある。
①教養、②倫理観、③文化力(沖縄独特の空手など 空手は必修科目になっている)、④コミュニケーション力(英語)
外国人が7名いる。 アメリカの大学と提携しているが、毎年4名の人が来る。
短期、長期交流で多くの外国から生徒が来る。
今、教育改革が進みつつある。
現行の入試の在り方は良くないと、点数至上主義で、他のことを考慮して選抜しなくてはいけないと言う方向。
面接、学校での活動、ボランティアをしたかとか。
高校野球で、甲子園で春2回優勝している。 1999年、2008年
野球、柔道、テニス、なぎなたに力を入れている。
柔道も県内ではずーっと優勝している。
スポーツだけ突出している学校にはしたくない。
周りの人を考える、安心させ喜ばせる人になってほしい。
根本には人間作りをきちんとさせながら、進学の顔を広げてゆく。
沖縄尚学院高等学校から沖縄尚学高校に名前を変える。
沖縄を教育県にしたい。
社会全体の知的なレベルの引き上げに役立つと思う。
人材作りは考えなくてはいけない。
レベルの高い大学にいって、その中で人間的な部分を磨いて、広い視野で、そういう逸材になってほしい。
世界を目指す高校、外国から生徒を取ったり、外国に生徒を送り込んだり、交流をやっている。
マレーシアから数十名くるとか、フィンランドから13名来たりする。
沖縄の人材はまだ不足していると思う、中央に行って働く人間、沖縄出身の官僚は少ない。
全国的な視野を元に沖縄を考えてほしい、そういう事も必要だと思います。
県内の人材もまだまだ不足していると思う。
今価値観が多様化しているが、確かな目で之がいいんだと判断する、普遍性を以って皆に認識されるような教育をしないといけない。
期待すると同時に、やってのけないといけない。
2014年6月17日火曜日
名城政次郎(沖縄尚学・校長) ・高校経営の危機を救った男(1)
名城政次郎(沖縄尚学・校長) 高校経営の危機を救った男(1)
83歳 甲子園の選抜春の高校野球大会で、2度全国優勝した、私立沖縄尚学高校の校長、名城さんは昭和26年 19歳の時に、父と一緒に英語塾を立ち上げ、昭和40年、35歳の時には英語塾を大学受験にも目を向けた予備校へと変え、温かみ、厳しさ、知性の感じられる人間作り、を目指した指導を取り入れた結果、1980年には5000人規模の予備校に成長しました。
昭和47年本土復帰を果たした沖縄は、公立高校の充実で沖縄尚学高校の前身で、昭和31年創立の沖縄高校も経営難に陥りました。
そこで名城さんの予備校経営の手腕を認め、再建を依頼しました。
職員関係者が猛反対する中で、昭和58年4月名前を変えて、再出発しました。
いかにして沖縄の教育をレベルアップしてきたのかなどを伺います。
終戦の時は台湾にいたので、沖縄激戦は経験していない。
沖縄に戻ったのは、昭和25年、愛知県から沖縄に戻るため闇船で長崎から2泊3日船で糸満についた。
伯父のところに行って、伯父の働いている琉球生命保険の会社社長が、後日 沖縄尚学高校の前身校である沖縄校を創設した方だった。(その後沖縄高校の経営が悪化。引き継ぐ)
沖縄に帰ってきたら、父は身体が弱く、帰らないでくれと言われて、戻る事になる。
(終戦後、昭和21年11月に父は先に愛知県から先に沖縄に還っていた)
琉球政府立の英語学校に受験して、半年の学校、そこに3月に入って、昭和26年9月28日に卒業して、10月1日に那覇尚学塾を始めた。 (19歳の時に)
生活と、沖縄県のステータスを高めようと、と言うのは正しい英語を使わないとアメリカから馬鹿にされるので、校舎を夜借りて始める。
昼は琉球米国民政府に勤務していた。 法務部に入った。
沖縄で犯罪を起こした人、密貿易とか、犯罪の裁判をする。
沖縄の人を救おうとして、頑張った。 毎日英語と葛藤する。
沖縄で殺人事件があり、おばあさんが殺された。
そして検事調書を作成する事になり。 2人で担当して署名する、そんなことを21歳ぐらいでやったりした。
度々遅刻するので、今度遅刻したら辞めさせると言われて、私も忙しかったので、辞めたいといったら、人事係のところに連れて行かれて、あんたやめないでくださいと言われて、、給料も上がったし、地位も上がった。
アメリカ人の考えと日本人の考え方が違うなと思ったのは、何回かありますね。
通訳を間違って仕舞ったこともある。 保釈金無しで釈放と、拘留を間違えた。
沖縄は学力最低県と言われていた。
国立の医学部には国医制度、沖縄県内だけ特別の選抜方法で選ばれる。
沖縄県だけで試験をして、文部省から試験官が来て、口頭質問したりして選ぶ、別枠がある。
英語塾は1500人ぐらいいたが、米国留学受験科を作った。
翻訳通訳科も作ったが、どうしても沖縄は学力でも本土並みに追いつかないといけないと思った。
予備校と言えども、受験勉強を前向きにとらえて、真剣にやりぬく事で、人間が磨かれると思って、予備校に変更した。
先生方が一生懸命に頑張ってくれて、成果がでた。
一日18時間ぐらい働くころが多かった。
天は棚からぼたもち式に、成果を上げさせてくれはしない、努力して努力して努力して、そして成果が上がる、そういう風に感じた。
予備校を作って進学率を高めた。
国医制度も無くなることになり、生徒もがんばって、学力が向上した。
沖縄高校から助けてほしいとの要望があった。
1650名の定員に対して、400名しかいないので、給料がでない。
校舎は危険建器物に近い状態なので、全部立て替えなので。
沖縄高校を引きついたが、新しい学校として発足させた。
1期生は沖縄尚学院高等学校 とした。
県立が増えてきて、私立にくる生徒がいなくなって、全然先生方がの給料が出なくなってしまった。
昭和57年には助けてほしいとの要望があった。
当時教職員組合は強かったが、一回も団交をしなかった。
社会に貢献できる人材をどのようにして作るか、そこに念頭を置いた教育を進めている。
英語塾は初等、中等、高等 3つのコースがあり 週3回やるが、選択科目として、他の科目を入れていた、数学、国語、社会、法律、簿記など。
受験は意識しないで、学校的な事をしていた。
父が初代塾長だったので、父のアイディアだった。
私は英語だけを担当していた。
予備校では受験に合った英語、にする。
受験を目指す根柢の考えとしては、沖縄は特に若い人たちが亡くなっているので、若い人材が失われている、其中で教育をしっかりしなくてはいけないと思って、塾を始めた。
知的なレベルを上げるのにはちゃんとした教育をしなければいけない。
知性が感じられる社会ができないものか、といふうに思う。
戦争を経験しているので、戦争に反対する知性が理想的な姿勢に移行する訳ですよ。
受験勉強は教育の正常化をうばう、平和教育に徹するべきだと、人間は。
予備校で有っても教育の一端をになっている人間作り、そういう考えで沖縄はやらないと、高校も少なかったので、教育という点では学校だけではなくて、予備校も教育の一端を担うと言う気概を以って、やらないといけないと思っていた。
予備校で有りながら、温かみ、厳しさ、知性の感じられる人間作り、を目指した。
83歳 甲子園の選抜春の高校野球大会で、2度全国優勝した、私立沖縄尚学高校の校長、名城さんは昭和26年 19歳の時に、父と一緒に英語塾を立ち上げ、昭和40年、35歳の時には英語塾を大学受験にも目を向けた予備校へと変え、温かみ、厳しさ、知性の感じられる人間作り、を目指した指導を取り入れた結果、1980年には5000人規模の予備校に成長しました。
昭和47年本土復帰を果たした沖縄は、公立高校の充実で沖縄尚学高校の前身で、昭和31年創立の沖縄高校も経営難に陥りました。
そこで名城さんの予備校経営の手腕を認め、再建を依頼しました。
職員関係者が猛反対する中で、昭和58年4月名前を変えて、再出発しました。
いかにして沖縄の教育をレベルアップしてきたのかなどを伺います。
終戦の時は台湾にいたので、沖縄激戦は経験していない。
沖縄に戻ったのは、昭和25年、愛知県から沖縄に戻るため闇船で長崎から2泊3日船で糸満についた。
伯父のところに行って、伯父の働いている琉球生命保険の会社社長が、後日 沖縄尚学高校の前身校である沖縄校を創設した方だった。(その後沖縄高校の経営が悪化。引き継ぐ)
沖縄に帰ってきたら、父は身体が弱く、帰らないでくれと言われて、戻る事になる。
(終戦後、昭和21年11月に父は先に愛知県から先に沖縄に還っていた)
琉球政府立の英語学校に受験して、半年の学校、そこに3月に入って、昭和26年9月28日に卒業して、10月1日に那覇尚学塾を始めた。 (19歳の時に)
生活と、沖縄県のステータスを高めようと、と言うのは正しい英語を使わないとアメリカから馬鹿にされるので、校舎を夜借りて始める。
昼は琉球米国民政府に勤務していた。 法務部に入った。
沖縄で犯罪を起こした人、密貿易とか、犯罪の裁判をする。
沖縄の人を救おうとして、頑張った。 毎日英語と葛藤する。
沖縄で殺人事件があり、おばあさんが殺された。
そして検事調書を作成する事になり。 2人で担当して署名する、そんなことを21歳ぐらいでやったりした。
度々遅刻するので、今度遅刻したら辞めさせると言われて、私も忙しかったので、辞めたいといったら、人事係のところに連れて行かれて、あんたやめないでくださいと言われて、、給料も上がったし、地位も上がった。
アメリカ人の考えと日本人の考え方が違うなと思ったのは、何回かありますね。
通訳を間違って仕舞ったこともある。 保釈金無しで釈放と、拘留を間違えた。
沖縄は学力最低県と言われていた。
国立の医学部には国医制度、沖縄県内だけ特別の選抜方法で選ばれる。
沖縄県だけで試験をして、文部省から試験官が来て、口頭質問したりして選ぶ、別枠がある。
英語塾は1500人ぐらいいたが、米国留学受験科を作った。
翻訳通訳科も作ったが、どうしても沖縄は学力でも本土並みに追いつかないといけないと思った。
予備校と言えども、受験勉強を前向きにとらえて、真剣にやりぬく事で、人間が磨かれると思って、予備校に変更した。
先生方が一生懸命に頑張ってくれて、成果がでた。
一日18時間ぐらい働くころが多かった。
天は棚からぼたもち式に、成果を上げさせてくれはしない、努力して努力して努力して、そして成果が上がる、そういう風に感じた。
予備校を作って進学率を高めた。
国医制度も無くなることになり、生徒もがんばって、学力が向上した。
沖縄高校から助けてほしいとの要望があった。
1650名の定員に対して、400名しかいないので、給料がでない。
校舎は危険建器物に近い状態なので、全部立て替えなので。
沖縄高校を引きついたが、新しい学校として発足させた。
1期生は沖縄尚学院高等学校 とした。
県立が増えてきて、私立にくる生徒がいなくなって、全然先生方がの給料が出なくなってしまった。
昭和57年には助けてほしいとの要望があった。
当時教職員組合は強かったが、一回も団交をしなかった。
社会に貢献できる人材をどのようにして作るか、そこに念頭を置いた教育を進めている。
英語塾は初等、中等、高等 3つのコースがあり 週3回やるが、選択科目として、他の科目を入れていた、数学、国語、社会、法律、簿記など。
受験は意識しないで、学校的な事をしていた。
父が初代塾長だったので、父のアイディアだった。
私は英語だけを担当していた。
予備校では受験に合った英語、にする。
受験を目指す根柢の考えとしては、沖縄は特に若い人たちが亡くなっているので、若い人材が失われている、其中で教育をしっかりしなくてはいけないと思って、塾を始めた。
知的なレベルを上げるのにはちゃんとした教育をしなければいけない。
知性が感じられる社会ができないものか、といふうに思う。
戦争を経験しているので、戦争に反対する知性が理想的な姿勢に移行する訳ですよ。
受験勉強は教育の正常化をうばう、平和教育に徹するべきだと、人間は。
予備校で有っても教育の一端をになっている人間作り、そういう考えで沖縄はやらないと、高校も少なかったので、教育という点では学校だけではなくて、予備校も教育の一端を担うと言う気概を以って、やらないといけないと思っていた。
予備校で有りながら、温かみ、厳しさ、知性の感じられる人間作り、を目指した。
2014年6月16日月曜日
東海林さだお(漫画家) ・クスッと笑わせ40年
東海林さだお(漫画家) クスッと笑わせ40年
東海林さんが毎日新聞に連載している漫画、あさって君が今日連載40年を迎えました。
昭和49年の連載開始以来、東海林さんの夏休みなどを除いて、毎朝クスッとした笑いを読者に届けて来ました。
東海林さんは1937年東京生まれ 早稲田大学在学中に、漫画家としてデビューし、あさって君をはじめ、サラリーマンを主人公にした漫画を描いてきました。
まるかじりシリーズを始め、多くのエッセーでも多くのファンを獲得してきました。
日々連載漫画やエッセーはどのように生み出されているのか、東海林さんが漫画に掛けてきた人生とは何か、お聞きしました。
一日一本 書いて、今日でお終い、後はまた次の日、点なんですね。だからそれがつながって何年と言う発想があまりなかったんでしょうね。
一日が点なんですね。
土曜日は2枚入れて日曜日は休み、祭日があっても、40年間週休一日。
ネタは?
朝刊なので、前々日の9時が締め切りなので、アイディア帖があってそれがほとんど頼りになっている。
普通のノート その時々の時事ネタとか、いろんなものが書きつけてある。
漫画のネタは連想なんですよね。
例えば「今年の新入社員は自動ブレーキ型」 と新入社員が絵があって、之を元に連想していく。
何かがつながってゆく。
一つができるまでの時間はアイディアだけで 早い時は30分、2~3時間かかる時もある。
辛いとか、という事はない、好きなことを商売にしているので。
アイディアさえ出来てしまえば、2時間ぐらいで出来る。
新聞漫画プラス週刊誌漫画 あまり時間は掛けられない。
漫画でいきずまっても、文章に取り換えると、又急に新鮮な考え方になる。
新聞漫画なので、なるべくニュースを取り入れる様にしている
新聞は週刊誌とは違った倫理規制があるので、それを考慮に入れるとなると、週刊誌より狭くなる。
「集団的自衛権」 とか言葉から入ってゆく。 「個人的自衛権」 反対語を入れておく。
読者の数が多いので、いろんな職業の人がいるので、その点を新聞は考慮しないといけない。
反応はあまりない。 あさって君は年に1通か、2通があるかどうか、週刊誌は3年に1通ぐらい。
アシスタントはいない。(以前はいたこともあるが、10年前ぐらいからやめた)
気を使う方なので、アシスタントカが待っていると、早く仕上げてとか、疲れてしまうので、自分のペースでやっている。
手塚治虫さんが私が小学校の3、4年の頃 出現したが凄い斬新だったので、それがきっかけです。
分野は考えていなかった。
大人漫画をやりたいと思うようになって、早稲田の満研に入って、園山俊二さんが2年先輩、福地泡介、同級生、 友だちには恵まれていた。
楽しかった、全然授業には出ないで、満研の部室があって、毎日そこに入り浸っていた。
園山さん、福地さんも もう仕事を持っていて、私はまだなかった。
具体的にどうするのか、どういう漫画を描いたらいいか、わからなかった。
サトウサンペイさんがサラリーマン漫画を始めたので、それをみていたら自分でもできるのででゃないかと思った。
時々採用されるようになり、連載を、という様な話になっていって、連載が何本か増えていって、職業漫画家になった。
トウサンペイさんとは仲良くさせてもらった。
「まるかじりシリーズ」20年ぐらいになる。
文章をやろうと思ったのは一度もなかったが、話があって段々増えてきて、連載と言う事になっていって、「まるかじりシリーズ」につながった。
食に対する好奇心、興味があった。
「オムライス」の食べ方 普通は端からだが、それでは面白くない、違う食べ方があってもいいのではないか。
いろんな角度から見ていると、面白おかしく書ける。
好奇心、童心を失わない。
アフリカに行った時、鹿は草食動物、草をぱっと食べる、4、5秒で警戒する、一定で、興味を持ったから判ったことです。
ワンセンテンスを書いて、次、行変えして、あまり字がつまっていないが、最初からそうだった。
自分でも気がつかず、人に言われて判った。
漫画と文章は違っていて、楽しい。 書いているうちに、文章はドンドン変わってゆく。
息抜きは草野球、ちょっと今は腰を痛めているが。
早稲田満研OBチーム 地元のチーム、ニートルズチーム 3つある。
漫画人生 良くやってきたなあと思う、恐れていたのは仕事が無くなることだった。
仕事が無くなったら恐怖、それが一番の支えになっているのではないかと思う。
顔だけの別のネタ帖がある。
1ページに10数人のかたのいろんな顔がある。 11冊 何万という感じ。
今後やってゆきたい事、現状の質を高めてゆく。
歳を取ってゆくと段々衰えてくるし、作品の質も落ちてくると思うので、行ける所まで行ってみようと言うのが今の方針です。
東海林さんが毎日新聞に連載している漫画、あさって君が今日連載40年を迎えました。
昭和49年の連載開始以来、東海林さんの夏休みなどを除いて、毎朝クスッとした笑いを読者に届けて来ました。
東海林さんは1937年東京生まれ 早稲田大学在学中に、漫画家としてデビューし、あさって君をはじめ、サラリーマンを主人公にした漫画を描いてきました。
まるかじりシリーズを始め、多くのエッセーでも多くのファンを獲得してきました。
日々連載漫画やエッセーはどのように生み出されているのか、東海林さんが漫画に掛けてきた人生とは何か、お聞きしました。
一日一本 書いて、今日でお終い、後はまた次の日、点なんですね。だからそれがつながって何年と言う発想があまりなかったんでしょうね。
一日が点なんですね。
土曜日は2枚入れて日曜日は休み、祭日があっても、40年間週休一日。
ネタは?
朝刊なので、前々日の9時が締め切りなので、アイディア帖があってそれがほとんど頼りになっている。
普通のノート その時々の時事ネタとか、いろんなものが書きつけてある。
漫画のネタは連想なんですよね。
例えば「今年の新入社員は自動ブレーキ型」 と新入社員が絵があって、之を元に連想していく。
何かがつながってゆく。
一つができるまでの時間はアイディアだけで 早い時は30分、2~3時間かかる時もある。
辛いとか、という事はない、好きなことを商売にしているので。
アイディアさえ出来てしまえば、2時間ぐらいで出来る。
新聞漫画プラス週刊誌漫画 あまり時間は掛けられない。
漫画でいきずまっても、文章に取り換えると、又急に新鮮な考え方になる。
新聞漫画なので、なるべくニュースを取り入れる様にしている
新聞は週刊誌とは違った倫理規制があるので、それを考慮に入れるとなると、週刊誌より狭くなる。
「集団的自衛権」 とか言葉から入ってゆく。 「個人的自衛権」 反対語を入れておく。
読者の数が多いので、いろんな職業の人がいるので、その点を新聞は考慮しないといけない。
反応はあまりない。 あさって君は年に1通か、2通があるかどうか、週刊誌は3年に1通ぐらい。
アシスタントはいない。(以前はいたこともあるが、10年前ぐらいからやめた)
気を使う方なので、アシスタントカが待っていると、早く仕上げてとか、疲れてしまうので、自分のペースでやっている。
手塚治虫さんが私が小学校の3、4年の頃 出現したが凄い斬新だったので、それがきっかけです。
分野は考えていなかった。
大人漫画をやりたいと思うようになって、早稲田の満研に入って、園山俊二さんが2年先輩、福地泡介、同級生、 友だちには恵まれていた。
楽しかった、全然授業には出ないで、満研の部室があって、毎日そこに入り浸っていた。
園山さん、福地さんも もう仕事を持っていて、私はまだなかった。
具体的にどうするのか、どういう漫画を描いたらいいか、わからなかった。
サトウサンペイさんがサラリーマン漫画を始めたので、それをみていたら自分でもできるのででゃないかと思った。
時々採用されるようになり、連載を、という様な話になっていって、連載が何本か増えていって、職業漫画家になった。
トウサンペイさんとは仲良くさせてもらった。
「まるかじりシリーズ」20年ぐらいになる。
文章をやろうと思ったのは一度もなかったが、話があって段々増えてきて、連載と言う事になっていって、「まるかじりシリーズ」につながった。
食に対する好奇心、興味があった。
「オムライス」の食べ方 普通は端からだが、それでは面白くない、違う食べ方があってもいいのではないか。
いろんな角度から見ていると、面白おかしく書ける。
好奇心、童心を失わない。
アフリカに行った時、鹿は草食動物、草をぱっと食べる、4、5秒で警戒する、一定で、興味を持ったから判ったことです。
ワンセンテンスを書いて、次、行変えして、あまり字がつまっていないが、最初からそうだった。
自分でも気がつかず、人に言われて判った。
漫画と文章は違っていて、楽しい。 書いているうちに、文章はドンドン変わってゆく。
息抜きは草野球、ちょっと今は腰を痛めているが。
早稲田満研OBチーム 地元のチーム、ニートルズチーム 3つある。
漫画人生 良くやってきたなあと思う、恐れていたのは仕事が無くなることだった。
仕事が無くなったら恐怖、それが一番の支えになっているのではないかと思う。
顔だけの別のネタ帖がある。
1ページに10数人のかたのいろんな顔がある。 11冊 何万という感じ。
今後やってゆきたい事、現状の質を高めてゆく。
歳を取ってゆくと段々衰えてくるし、作品の質も落ちてくると思うので、行ける所まで行ってみようと言うのが今の方針です。
2014年6月15日日曜日
大野和士(指揮者) ・指揮棒は世界を駆け巡る
大野和士(指揮者) 指揮棒は世界を駆け巡る
フランス国立リオン歌劇場の主席指揮者を務める大野さんは日本を代表する指揮者の一人として世界中で活躍しています。
東京芸術大学在学中から、民放のクラシック番組の専属指揮者を務めました。
その後大学を卒業し、25歳からはクラッシック音楽の本場ヨーロッパに渡って、様々な国で研さんを積んできました。
これまでの活動をざっと、見てみますと、1987年にはイタリアの指揮者コンクールで優賞、翌年からはクロアチアのオーケストラの音楽監督、1996年からはドイツの歌劇場の音楽総監督、2002年からはベルギー王立歌劇場の音楽監督、2008年からはフランスのリオン歌劇場の首席指揮者を務めています。
5年前に、一度来日 今回はホフマン物語とオッフェンバックの作曲した最後のオペラをプロダクションとして日本の皆さまにお届けしたいと思って、います。
リオンのオペラを率いて、公演するのは5年ぶりとなります。 今回合唱団と共に来ます。
総勢200名で来日する事になっています。
リオンに年、4から5カ月居て 二つの大きなプロダクションを新製作のオペラを振って、他にツアーをしたり、フェスティバルに参加したしたり、他の国の客演とかで飛び回っています。
25歳からヨーロッパに渡って、それから30年ぐらい経つ。
以前はオペラを組織的に論理的に構築的に学ぶ機会がなかった。
オペラの専門劇場で、どういう風に出来てるのかを見たくて、ミュンヘンの歌劇場に2年間もぐりこませていただいたのが、きっかけです。
1987年 27歳 イタリアのトスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝、第一次参加者が40~50名が参加した。そこから振り落されてゆく。
その仲間とは今でも交流がある。
1988年~1996年までクロアチアのザグレブ フィルの指揮者をする。
東ヨーロッパの大激動の時代。
内戦状態に陥って、ザグレブは爆弾は落ちることは無かったが、周辺地域は危ない状況で、音楽どころではないと思いきや、団結が凄く、コンサートは続けるべきと、一回もキャンセルせずやり通した。(町は灯火管制、半明かりのなかを会場に来る)
演奏会場ではいつもより遥かに熱気は凄く、演奏が終わると、声を雄たけびの様に上げて、演奏会を終わると、薄暗い中を黙々と帰って行った。(内戦中)
ドゥブロヴニク で音楽祭が夏に開かれている。 カラヤンも来たことがある、伝統のあるところ。
その街に行くのに、幹線道路に爆弾があって、車が通れず遠回りして行った思い出がある。
オーケストラの中にはいろんな国の人達が一緒に弾いているわけで、政治的な理由でそういう状態が訪れたが、指揮者日本人、ソリストがロシア、色々共和国の人がいる、一緒に音楽を皆がやっている。
この国ではナショナリズムという言葉に依って、ある問題が発生しているが、ここで私たちがやってる行為はインターナショナリズムですと、確信して、アンコール曲を2曲用意、 ブラームスの第三場の交響曲 第三楽章 憂いに満ちた曲(すべての犠牲者の皆様のためにと言って演奏した)
第二曲は やはりブラームスの大学祝典序曲 私たち皆の未来のためにと、演奏した。
お客さんたちは、今まで見たことのない様な大騒ぎになった。
人間で有る喜び、今ここで生きているという実感をそこで身体をもって、一緒に表していたのが、目に焼き付いて今でも忘れないでいる。
人間の存在自体が、何らかの理不尽な力によって脅かされた時にこそ、音楽によって、人間には感受性が際限なく伸びてゆく可能性のある、導火線みたいなものを持っていて、火がついた時には
究極の自由をもって想像力の中に羽ばたく事が出来る。
天才たちはそのようなことを残してくれていて、人間が難し立場に置かれた時に、それを聞く事によって、」喜びを感じ、自分の運命にもう一度思いをはせて、人間として生きているという事を確認すると言う事なんだと思うんですね。
その後ドイツ、ベルギー、フランスで指揮をする。
日本人に生まれてよかったと、思う事がこの仕事をしていて思った。
隣国の文化といえども、ある国とある国が隣り合っているにもかかわらず、隣の国の音楽を隣りの国がオーケストラをやるが。
例えばドイツとフランス、 ドイツのオーケストラでドビュッシーとか、最初の練習では行き先の見えなさがある。
なかなかドビュシーの繊細な、官能的なニュアンスとか、流線形につながってゆく音楽と言うものは、ドイツの詩にはなかなかない。
理解することに時間がかかる。
フランスのオーケストラでドイツの音楽をやる場合、ベートーベンの5番の様に真髄を叩く様な音から始まる音楽を、フランスのオーケストラで、来るかと言うと、そうならない。
隣りの国と言えども、理解しあえることはなかなか難しい。
日本人は色々な国の文化が違うと言う事を、同じまな板の上に載せて、違いがあると言う事が解る。
判った後で、そこで何が自分がやりたいか、と言う事を回り道しないで済む。
その道を見つけたら、それぞれ奥深く勉強して、其国の文化に通じるように自分を鍛えていかなければいけない。
隣りの国だと、違うと言う事を余り思わないんじゃないかと思います。
日本人は等距離で客観的に見られる。
指揮者は決定しなければいけないという責務がある。 一つの道を作ってゆく。
2007年1月にNHK番組プロフェッショナルに出演 その時の言葉
がけっぷちのむこうに喝さいがある。
昇るべき 山を示す。
全てにおいて相手を圧倒しなければ、相手はついてこない。
作品と本当に対話をしているのか。
結果がすべて、全ての責任を取るのが指揮者。
「がけっぷちのむこうに喝さいがある。」
集団真理としてポジティブになってゆくと、本番に考えたことのない様なクライマックスを迎え撃とう可能性が秘められていて、上昇カーブを築けるか、築けないか、一瞬一瞬が注目され、一言一言がその結果を確認され、と言う事、それが全体の納得に代わって行って、演奏者たちの気持ちが一つになって、楽曲の作曲家が考えた事がそのまま音として、屹立してくるという空間に輝き現れてくる。
「昇るべき 山を示す。」
いろんなことを言わなくても、自分たちの耳で聞きながら、一つの大きなヤマとなって盛り上がってくる。(登り方を丁寧に教えなくてもいいと言う事)
作曲家が何をいわんとているのか、「高み」を示す。作品と本当に対話をしているのか。につながる
ホフマン物語
人間の深い悲しみ、絶望、憧れとかに根差した 達しえない恋 人間の感情の真実をオペラに残したい、彼の一生の願いだった。
ほぼ完成前に亡くなってしまう。
改ざんされる。 が新しい姿を発表した。
人間の感情の機微を悟る大天才であったという構造が現れてきて、女性に騙される、絶望のドン底におちいり、新たな恋をする、と言った物語を完全版で上演する。
棒を振ることに集中している時には、音と言うものは逃げてゆく気がする。
泰然と構えて、自然な形で、指揮をしながら、いろんな音が聞こえてくる、聞いているだけで、その方が圧倒的にいい音がする、音が集まってくる。
自分の周りに空気の柱が出来てくるような気がして、その中を音が通過してゆく様な感じ。
そのような時がオーケストラの方が燃え盛っている、と言う事を体験したことがある。
作曲家と会話している様な自分がいて、輝いている様な感覚がある。
現在54歳 今まで音を注ぎ込んできて、まだまだ全く知らなかった世界があるだろうと思うが、自分で取り込めたと思っているものを、依り深めたい、沈潜させたい、より違った見方をしながら作品に別の光を当てられるように、作品の内包しているものをより透視したい。
フランス国立リオン歌劇場の主席指揮者を務める大野さんは日本を代表する指揮者の一人として世界中で活躍しています。
東京芸術大学在学中から、民放のクラシック番組の専属指揮者を務めました。
その後大学を卒業し、25歳からはクラッシック音楽の本場ヨーロッパに渡って、様々な国で研さんを積んできました。
これまでの活動をざっと、見てみますと、1987年にはイタリアの指揮者コンクールで優賞、翌年からはクロアチアのオーケストラの音楽監督、1996年からはドイツの歌劇場の音楽総監督、2002年からはベルギー王立歌劇場の音楽監督、2008年からはフランスのリオン歌劇場の首席指揮者を務めています。
5年前に、一度来日 今回はホフマン物語とオッフェンバックの作曲した最後のオペラをプロダクションとして日本の皆さまにお届けしたいと思って、います。
リオンのオペラを率いて、公演するのは5年ぶりとなります。 今回合唱団と共に来ます。
総勢200名で来日する事になっています。
リオンに年、4から5カ月居て 二つの大きなプロダクションを新製作のオペラを振って、他にツアーをしたり、フェスティバルに参加したしたり、他の国の客演とかで飛び回っています。
25歳からヨーロッパに渡って、それから30年ぐらい経つ。
以前はオペラを組織的に論理的に構築的に学ぶ機会がなかった。
オペラの専門劇場で、どういう風に出来てるのかを見たくて、ミュンヘンの歌劇場に2年間もぐりこませていただいたのが、きっかけです。
1987年 27歳 イタリアのトスカニーニ国際指揮者コンクールで優勝、第一次参加者が40~50名が参加した。そこから振り落されてゆく。
その仲間とは今でも交流がある。
1988年~1996年までクロアチアのザグレブ フィルの指揮者をする。
東ヨーロッパの大激動の時代。
内戦状態に陥って、ザグレブは爆弾は落ちることは無かったが、周辺地域は危ない状況で、音楽どころではないと思いきや、団結が凄く、コンサートは続けるべきと、一回もキャンセルせずやり通した。(町は灯火管制、半明かりのなかを会場に来る)
演奏会場ではいつもより遥かに熱気は凄く、演奏が終わると、声を雄たけびの様に上げて、演奏会を終わると、薄暗い中を黙々と帰って行った。(内戦中)
ドゥブロヴニク で音楽祭が夏に開かれている。 カラヤンも来たことがある、伝統のあるところ。
その街に行くのに、幹線道路に爆弾があって、車が通れず遠回りして行った思い出がある。
オーケストラの中にはいろんな国の人達が一緒に弾いているわけで、政治的な理由でそういう状態が訪れたが、指揮者日本人、ソリストがロシア、色々共和国の人がいる、一緒に音楽を皆がやっている。
この国ではナショナリズムという言葉に依って、ある問題が発生しているが、ここで私たちがやってる行為はインターナショナリズムですと、確信して、アンコール曲を2曲用意、 ブラームスの第三場の交響曲 第三楽章 憂いに満ちた曲(すべての犠牲者の皆様のためにと言って演奏した)
第二曲は やはりブラームスの大学祝典序曲 私たち皆の未来のためにと、演奏した。
お客さんたちは、今まで見たことのない様な大騒ぎになった。
人間で有る喜び、今ここで生きているという実感をそこで身体をもって、一緒に表していたのが、目に焼き付いて今でも忘れないでいる。
人間の存在自体が、何らかの理不尽な力によって脅かされた時にこそ、音楽によって、人間には感受性が際限なく伸びてゆく可能性のある、導火線みたいなものを持っていて、火がついた時には
究極の自由をもって想像力の中に羽ばたく事が出来る。
天才たちはそのようなことを残してくれていて、人間が難し立場に置かれた時に、それを聞く事によって、」喜びを感じ、自分の運命にもう一度思いをはせて、人間として生きているという事を確認すると言う事なんだと思うんですね。
その後ドイツ、ベルギー、フランスで指揮をする。
日本人に生まれてよかったと、思う事がこの仕事をしていて思った。
隣国の文化といえども、ある国とある国が隣り合っているにもかかわらず、隣の国の音楽を隣りの国がオーケストラをやるが。
例えばドイツとフランス、 ドイツのオーケストラでドビュッシーとか、最初の練習では行き先の見えなさがある。
なかなかドビュシーの繊細な、官能的なニュアンスとか、流線形につながってゆく音楽と言うものは、ドイツの詩にはなかなかない。
理解することに時間がかかる。
フランスのオーケストラでドイツの音楽をやる場合、ベートーベンの5番の様に真髄を叩く様な音から始まる音楽を、フランスのオーケストラで、来るかと言うと、そうならない。
隣りの国と言えども、理解しあえることはなかなか難しい。
日本人は色々な国の文化が違うと言う事を、同じまな板の上に載せて、違いがあると言う事が解る。
判った後で、そこで何が自分がやりたいか、と言う事を回り道しないで済む。
その道を見つけたら、それぞれ奥深く勉強して、其国の文化に通じるように自分を鍛えていかなければいけない。
隣りの国だと、違うと言う事を余り思わないんじゃないかと思います。
日本人は等距離で客観的に見られる。
指揮者は決定しなければいけないという責務がある。 一つの道を作ってゆく。
2007年1月にNHK番組プロフェッショナルに出演 その時の言葉
がけっぷちのむこうに喝さいがある。
昇るべき 山を示す。
全てにおいて相手を圧倒しなければ、相手はついてこない。
作品と本当に対話をしているのか。
結果がすべて、全ての責任を取るのが指揮者。
「がけっぷちのむこうに喝さいがある。」
集団真理としてポジティブになってゆくと、本番に考えたことのない様なクライマックスを迎え撃とう可能性が秘められていて、上昇カーブを築けるか、築けないか、一瞬一瞬が注目され、一言一言がその結果を確認され、と言う事、それが全体の納得に代わって行って、演奏者たちの気持ちが一つになって、楽曲の作曲家が考えた事がそのまま音として、屹立してくるという空間に輝き現れてくる。
「昇るべき 山を示す。」
いろんなことを言わなくても、自分たちの耳で聞きながら、一つの大きなヤマとなって盛り上がってくる。(登り方を丁寧に教えなくてもいいと言う事)
作曲家が何をいわんとているのか、「高み」を示す。作品と本当に対話をしているのか。につながる
ホフマン物語
人間の深い悲しみ、絶望、憧れとかに根差した 達しえない恋 人間の感情の真実をオペラに残したい、彼の一生の願いだった。
ほぼ完成前に亡くなってしまう。
改ざんされる。 が新しい姿を発表した。
人間の感情の機微を悟る大天才であったという構造が現れてきて、女性に騙される、絶望のドン底におちいり、新たな恋をする、と言った物語を完全版で上演する。
棒を振ることに集中している時には、音と言うものは逃げてゆく気がする。
泰然と構えて、自然な形で、指揮をしながら、いろんな音が聞こえてくる、聞いているだけで、その方が圧倒的にいい音がする、音が集まってくる。
自分の周りに空気の柱が出来てくるような気がして、その中を音が通過してゆく様な感じ。
そのような時がオーケストラの方が燃え盛っている、と言う事を体験したことがある。
作曲家と会話している様な自分がいて、輝いている様な感覚がある。
現在54歳 今まで音を注ぎ込んできて、まだまだ全く知らなかった世界があるだろうと思うが、自分で取り込めたと思っているものを、依り深めたい、沈潜させたい、より違った見方をしながら作品に別の光を当てられるように、作品の内包しているものをより透視したい。
2014年6月14日土曜日
東 快應( 安倍文殊院・執事長) ・ 文殊様のたなごころ(再放送)
東 快應( 安倍文殊院(華厳宗)執事長) 文殊様のたなごころ(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.htmlをご覧ください。
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/01/blog-post_18.htmlをご覧ください。
2014年6月13日金曜日
八木正自(日本古書籍商協会) ・古文書から伝わる人間再発見
八木正自(日本古書籍商協会・会長) 古文書から伝わる人間再発見
源氏物語から夏目漱石、三島由紀夫などの初版本や古い書物、手紙など多くの古書籍に触れることで日本人の心を知って欲しいと、日本古書籍商協会が今から50年前に誕生しました。
当時全国に在る代表的な古書店10店から始まった協会は古い書籍絵画と言う文化遺産を大切に保存して、新たに見つかる古文書や手紙類を判定、評価するため、歴史研究と審議官、本物と偽物を見分ける目を養ってきました。
古文書から伝わる人間再発見 40年以上この仕事に携わり、協会の会長に就任された八木さんに伺います。
龍馬の最後の手紙を発見、その鑑定、評価をした。 龍馬は大好きです。
日本人が好きなトップ3 3位が秀吉、2位が信長、1位が龍馬ですね。
3人は特色がある。
幕末閉塞した徳川の世の中をどうにかしなければならない。
薩長、土佐、徳川を自分なりに情報を収集して、自分のやり方でやったと言う事。
龍馬のの最後の手紙 1500万円の評価
信長、家康は家来がいっぱいいるので、祐筆という書き手専門の秘書がいる。
彼らが文面を書いて、そこに署名捺印するもの。
10年前 龍馬が千葉道場にいたころに、「さな子」と言う娘が活発でなぎなたの名手で、馬にも乗り顔かたちも良かったという内容をお姉さんに出した手紙があった。
故郷には「加尾」といういいなずけがいたが、「千葉さな子」と言う人と婚約してしまうが、遠ざかったり、全国を回っていたりするうちに、「お龍」と知り合って結婚する。
掘り出し物を見つける人。 個人のコレクター、大学、図書館、博物館、の研究者など。
鑑定する力、年月重ねた経験 展覧会などで実物を見て目を鍛えておくこと。
オークションと言う毎日行われている場で、1000点ぐらい出てくるがそこでは偽物、本物が入り乱れており、瞬時に見極めて、仕入れをする。
私の師匠 反町茂雄さん 古書業界では伝説的な人 1992年90歳で亡くなられた。
私はそばにいて15年間、いろんなことを教わっていた。
古文書勉強会、日本史勉強会で勉強したり、海外に一緒に行って、図書館の目録を作るために、アメリカのニューヨークにパブリックライブラリーと言うところがありが、ウィリアム・オーガスタス・スペンサーと言う人が世界中の美しい本全部を集めなさいと、基金をもちまして、世界中の美しい本を集めた文庫がある。
スペンサーコレクション 日本書の部門があって、江戸時代の絵も着物から北斎の絵本とか、日本の素晴らしい貴重品が300点ぐらいある。
スペンサーはタイタニック号で亡くなった。
遺言で財産を本を集めるために使ってほしいと言う事になった。
反町さんが写真に撮りなさいと言われて、撮ってきた。
世界中の図書館、博物館などにも一緒に連れて行ってもらって、目を養った。
フランシスコ・ザビエルの手紙をロンドンで買ってきて、サインが本当なのかどうか、確かめたくて、バチカンまで行って、イエズス会の文書館にっ行って、実物を出してもらって、筆跡を比べたりした。
日本ではこれ一通しかない。
浮世絵などは日本に有るものより外国の方が多いと言われている。
日本人の絵画センス、工芸的センスに対しては一目、違うなと感じてる様です。
能、歌舞伎などに対して評価をしている。
もっと日本文化を勉強して、日本文化を知っていたほうがいい。(英語は中学生ほどで十分)
大学は理工系に行って、父親の影響で、家では本だらけだった。
反町さんは、あなたは点で知っているかもしれないけれど、線で知りなさいと言われた。
いまある雑誌に15年間連載している。 書くと言う事は色々調べるので、蓄積としては非常に大きなものになったと思う。
点線ぐらいにはなりつつある。
外国人の日本への紀行文は、日本人が書かないような事まで詳細に書いてあるので、日本人にとっても参考になる。
歴史は線になっていて、人間の想いを解明して、信長はどういう風に見ていたか、比叡山焼き討ちだけを見ないで、どういう事を信長は描いていたか、其様なことがどう家康の時代に繋がっていったか、と言う事になる。
お雇い外国人が来るが、モース (大森貝塚発見) 列車の左側に座っていて、崖を見て発見した。
日本に行くと貝類がいっぱいあるという情報で、それだけで日本に来た。
外国人は庶民の事を観察している。
日本人は貧しいけれども、勤勉、好奇心が旺盛。
冷泉家の本を展示するとなると、ワーッとくるが、案内を読んでゆっくりゆくが、やはり好奇心は旺盛だと思う。
福沢諭吉は、著作が多い、教育者としてたてまつられるが、普通必死の思いで政府に入って重要なポストにつくが、幕臣なので二臣につかえず、と言う事で在野で私立学校を大きくして行った。
教育と出版、演説 (人々が主張する) 事業 明治2年日本で最初の株式会社、丸屋商社(丸善)を作って、早矢仕 有的を社長に据えるが、福沢の店と言う概念で当時持たれてたと言う文章がこないだ出てきた。
出版社も作っている。
学者でありながら、事業をも多角的にやっていた。
(義塾と言う学校を大きくしてゆく原動力になった)
「慶応義塾」けしからんという怒っていた人がいるが、福沢は徳川に恩義があると言う事を感じる。
龍馬の手紙の中に、三岡八郎(由利 公正) 福井藩の藩の経済を立て直した人 龍馬の場合には、三岡八郎を「三八」と 略して書いたり、当時手紙は本来硬い文面で有るが、非常に人間性があふれて人気がある。
龍馬の手紙は一目でわかる、自由奔放過ぎて真似の仕様がない。
岩倉具視、西郷隆盛など 明治維新で活躍していた人の表裏が解る。
西郷隆盛の手紙は非常に偽物が多いので、鑑定が一番難しいものに入る。
私の最後の課題 まるっぽい字で小さめな字、繊細なんでしょうね。
豪快ではあったと思うが、人に対する気配り、思いやりは十分に有ったと思う、そうでなければあれほどのカリスマにはならない。
三島由紀夫 川端康成 字は精神がこもっている。 本物を見ると迫力を感じる。
気が伝わらなければ、本物ではない。 それは大きな要素。
書のスピード感、其中に強弱があるが、偽物は写そう写そうとしてゆっくりなぞるので判断の材料になる。
秀吉は学問は無かったが、ひらがなしか書かなかったが、それでも味のあるひらがなを書いている。
一人だけ例外で、大隈重信は自筆の手紙などは発見されたことがない。
誰かに興味を持って、図書館に行っていろんな本を見る。
先ず、知ると言う事、そうすると疑問が出てくる、そうして調べてゆくうちに、学者が解らないと言う様な場所が出てくる。
疑問点を自分でどっかで見つけてこようと言う事で、原資料等を読んで行ったりする。
新しい学説を出せば、素人でも発見のニュースになる。
神田の東京古書会館、 古書展をやっている。
日本古書籍商協会は世界古書籍商連盟と繋がっている。
源氏物語から夏目漱石、三島由紀夫などの初版本や古い書物、手紙など多くの古書籍に触れることで日本人の心を知って欲しいと、日本古書籍商協会が今から50年前に誕生しました。
当時全国に在る代表的な古書店10店から始まった協会は古い書籍絵画と言う文化遺産を大切に保存して、新たに見つかる古文書や手紙類を判定、評価するため、歴史研究と審議官、本物と偽物を見分ける目を養ってきました。
古文書から伝わる人間再発見 40年以上この仕事に携わり、協会の会長に就任された八木さんに伺います。
龍馬の最後の手紙を発見、その鑑定、評価をした。 龍馬は大好きです。
日本人が好きなトップ3 3位が秀吉、2位が信長、1位が龍馬ですね。
3人は特色がある。
幕末閉塞した徳川の世の中をどうにかしなければならない。
薩長、土佐、徳川を自分なりに情報を収集して、自分のやり方でやったと言う事。
龍馬のの最後の手紙 1500万円の評価
信長、家康は家来がいっぱいいるので、祐筆という書き手専門の秘書がいる。
彼らが文面を書いて、そこに署名捺印するもの。
10年前 龍馬が千葉道場にいたころに、「さな子」と言う娘が活発でなぎなたの名手で、馬にも乗り顔かたちも良かったという内容をお姉さんに出した手紙があった。
故郷には「加尾」といういいなずけがいたが、「千葉さな子」と言う人と婚約してしまうが、遠ざかったり、全国を回っていたりするうちに、「お龍」と知り合って結婚する。
掘り出し物を見つける人。 個人のコレクター、大学、図書館、博物館、の研究者など。
鑑定する力、年月重ねた経験 展覧会などで実物を見て目を鍛えておくこと。
オークションと言う毎日行われている場で、1000点ぐらい出てくるがそこでは偽物、本物が入り乱れており、瞬時に見極めて、仕入れをする。
私の師匠 反町茂雄さん 古書業界では伝説的な人 1992年90歳で亡くなられた。
私はそばにいて15年間、いろんなことを教わっていた。
古文書勉強会、日本史勉強会で勉強したり、海外に一緒に行って、図書館の目録を作るために、アメリカのニューヨークにパブリックライブラリーと言うところがありが、ウィリアム・オーガスタス・スペンサーと言う人が世界中の美しい本全部を集めなさいと、基金をもちまして、世界中の美しい本を集めた文庫がある。
スペンサーコレクション 日本書の部門があって、江戸時代の絵も着物から北斎の絵本とか、日本の素晴らしい貴重品が300点ぐらいある。
スペンサーはタイタニック号で亡くなった。
遺言で財産を本を集めるために使ってほしいと言う事になった。
反町さんが写真に撮りなさいと言われて、撮ってきた。
世界中の図書館、博物館などにも一緒に連れて行ってもらって、目を養った。
フランシスコ・ザビエルの手紙をロンドンで買ってきて、サインが本当なのかどうか、確かめたくて、バチカンまで行って、イエズス会の文書館にっ行って、実物を出してもらって、筆跡を比べたりした。
日本ではこれ一通しかない。
浮世絵などは日本に有るものより外国の方が多いと言われている。
日本人の絵画センス、工芸的センスに対しては一目、違うなと感じてる様です。
能、歌舞伎などに対して評価をしている。
もっと日本文化を勉強して、日本文化を知っていたほうがいい。(英語は中学生ほどで十分)
大学は理工系に行って、父親の影響で、家では本だらけだった。
反町さんは、あなたは点で知っているかもしれないけれど、線で知りなさいと言われた。
いまある雑誌に15年間連載している。 書くと言う事は色々調べるので、蓄積としては非常に大きなものになったと思う。
点線ぐらいにはなりつつある。
外国人の日本への紀行文は、日本人が書かないような事まで詳細に書いてあるので、日本人にとっても参考になる。
歴史は線になっていて、人間の想いを解明して、信長はどういう風に見ていたか、比叡山焼き討ちだけを見ないで、どういう事を信長は描いていたか、其様なことがどう家康の時代に繋がっていったか、と言う事になる。
お雇い外国人が来るが、モース (大森貝塚発見) 列車の左側に座っていて、崖を見て発見した。
日本に行くと貝類がいっぱいあるという情報で、それだけで日本に来た。
外国人は庶民の事を観察している。
日本人は貧しいけれども、勤勉、好奇心が旺盛。
冷泉家の本を展示するとなると、ワーッとくるが、案内を読んでゆっくりゆくが、やはり好奇心は旺盛だと思う。
福沢諭吉は、著作が多い、教育者としてたてまつられるが、普通必死の思いで政府に入って重要なポストにつくが、幕臣なので二臣につかえず、と言う事で在野で私立学校を大きくして行った。
教育と出版、演説 (人々が主張する) 事業 明治2年日本で最初の株式会社、丸屋商社(丸善)を作って、早矢仕 有的を社長に据えるが、福沢の店と言う概念で当時持たれてたと言う文章がこないだ出てきた。
出版社も作っている。
学者でありながら、事業をも多角的にやっていた。
(義塾と言う学校を大きくしてゆく原動力になった)
「慶応義塾」けしからんという怒っていた人がいるが、福沢は徳川に恩義があると言う事を感じる。
龍馬の手紙の中に、三岡八郎(由利 公正) 福井藩の藩の経済を立て直した人 龍馬の場合には、三岡八郎を「三八」と 略して書いたり、当時手紙は本来硬い文面で有るが、非常に人間性があふれて人気がある。
龍馬の手紙は一目でわかる、自由奔放過ぎて真似の仕様がない。
岩倉具視、西郷隆盛など 明治維新で活躍していた人の表裏が解る。
西郷隆盛の手紙は非常に偽物が多いので、鑑定が一番難しいものに入る。
私の最後の課題 まるっぽい字で小さめな字、繊細なんでしょうね。
豪快ではあったと思うが、人に対する気配り、思いやりは十分に有ったと思う、そうでなければあれほどのカリスマにはならない。
三島由紀夫 川端康成 字は精神がこもっている。 本物を見ると迫力を感じる。
気が伝わらなければ、本物ではない。 それは大きな要素。
書のスピード感、其中に強弱があるが、偽物は写そう写そうとしてゆっくりなぞるので判断の材料になる。
秀吉は学問は無かったが、ひらがなしか書かなかったが、それでも味のあるひらがなを書いている。
一人だけ例外で、大隈重信は自筆の手紙などは発見されたことがない。
誰かに興味を持って、図書館に行っていろんな本を見る。
先ず、知ると言う事、そうすると疑問が出てくる、そうして調べてゆくうちに、学者が解らないと言う様な場所が出てくる。
疑問点を自分でどっかで見つけてこようと言う事で、原資料等を読んで行ったりする。
新しい学説を出せば、素人でも発見のニュースになる。
神田の東京古書会館、 古書展をやっている。
日本古書籍商協会は世界古書籍商連盟と繋がっている。
2014年6月12日木曜日
村石 保(ブックカフェ店主) ・ブックカフェで人と本の居場所を作りたい
村石 保(ブックカフェ店主) ブックカフェで人と本の居場所を作りたい
63歳 長野県生まれ 文学少女だった母親の影響を受けて、幼いころから、おおくの本に囲まれて育ちました。
地元の高校を卒業後、芝居の製作を志して上京、舞台を初め映画の製作にも携わりますが、20代半ばに故郷の長野に帰ります。
地元の出版社勤務を経て、40代の時に独立、編集者として一緒に仕事を行ってきた妻の寺島純子さんと夫婦で出版社を設立しました。
去年、出版社のビルの1階にブックカフェを開きました。
町から小さな書店が消えて、大型書店ではベストセラーばかりが目立つ時代、行き場を無くして本の居場所を作り、読書と言う一人の時間を楽しんでもらいたいと考えたからです。
1000~1200冊はあると思う。
書斎に来たとういう様な感じがする。 10.5坪 6人も座れば一杯。
私の仕事場も兼ねているので、奥の方に私のデスクもある。
基本的には8割~9割は古書で、後は自社の本を含めて新刊がある。
私の独断、偏見でその本が売れていようが売れていまいが選びます、ほぼベストセラーは無い。
小説が多いと思う。
小説が売れない時代で、逆にあえて小説を並べている節もある。
約20年前に、ヨーロッパのブタペストに行った時に、小さな書店らしきものがありそこに入った。
真中がソファーになっていて、談笑しながら珈琲を飲んでいる、中には本を読んでいる人もいる。
心地いい、こんな空間があるんだなあと思った。
一昨年、ビルを借りた時に、之はいい機会だと思って、やり始めたのがきっかけです。
どこへいっても、書店の風景はおんなじに感じて、本に埋もれてしまう様で、人間て程よい空間、広さが必要なんだと思う。
昔は書店ごとに個性があった。 本と人との交わりがあった。
カフカの全集が店頭に置かれていると言う事は、日本の書店で夏目漱石、芥川龍之介等の全集がレイアウトされている書店がどれほどあるか?
幼稚園の時の運動会に写真があるが、これほど将来を予想した写真は無いと思っている。
皆用意ドンの姿勢をしているが、私だけズボンのポケットに入れて、あらぬ方を見ている。
怠け者、行動的ではない、人のやっていることを見ているのが好きだった。
本が好きになったのは、母親、姉が本好きで、本がたくさんあった。
本を読んでくれたり、話をアレンジして話してくれて、ことのほか面白かった。
物語の楽しさを知った。(耳から入ってきた)
本が読めるようになると、本の虫になった。
小説を読み始めると、その人の本をみんな読みたくなる。
ノンフィクションを読み始めると、それをずーっと読み始める。 随筆、又小説に戻ってきたりする。
10冊以上の本は併読している。(関連したものをに広がって行ったりする)
自分が昔東京で買った本が長野の書店から又買われてどっかに旅をしてゆく、古書店は面白いと思う。
高校卒業して、結構大きな劇団に所属したことがある。
田舎暮らしをしていると、中央の文化にとても憧れた。
杉村春子の「女の一生」 滝沢修の「炎の人」など 中学、高校時代に名優の芝居を姉と一緒に良く見ていた。
その影響は大きかった。 芝居を作ることが自分の仕事だと思う様になった。
アングラ劇場 唐 十郎 寺山修司が台頭してきたときで、新劇が否定され始めた。
そういう時期だったので、花園神社で赤テントの唐 十郎の芝居をみて、其ショックを受けた。
古典的なロシアの演劇だとかに携わっていて、ほとんど自分のやっていることが嫌になってしまって、2年で辞めてしまった。
映画少年で映画も年間250本とか映画を見るぐらいだった。
自分で映画を作りたいと思って、映画の学校に行くが、映画で就職できるような世の中では無くて、体調を崩したり、失恋もして都落ちする。
20代より30代、30代より40代 50代よりも今がいいと思っている。
ひょんなことで印刷屋さんのお世話になったりして、そこから編集の道が開けてくる。
妻とも知り合う事になる。
妻が会社を辞めてフリーで編集をやったりライターをやったりしていて、数年後に私も辞めて、出版社をやることになる。
昨年からはブックカフェを始めるが、儲かるわけがないことはわかっている。
ブックカフェは道楽だと思いこみ始めている。
きっとくるお客さんも楽なんじゃないかなあと、勝手に思っている。
出版の仕事、編集の仕事ではとても出会えなかった人と、出会えるようになったことは、面白い。
お客さんの本の選択の相談相手などになって、話し相手になり、出会いが深まる。
心が病んで、ぽろぽろ泣きながら話始める人がいたりして、この子がそういってくれたら、ここを開いた甲斐があったのかなあとは思いますね。
赤の他人が隣り合わせることがあるが、本質的な話になったりすることがあって、なかなか良いんじゃないかと思う。
ページをめくる行為は自分の時間、本と人間の1対1の関係、それを邪魔しないのが読書の時間。
ある意味孤独な時間、マイナスのイメージで孤独死を捉えるのは、どうなのかなと思う。
本を読むことは孤独な作業、だが楽しいと思う。
還暦過ぎると、人のたたずまい、人の行為を割と見ていられる、余裕というか、だから道楽と言っている。
なにより店主が一番楽しんでいるのかもしれない。
目的地に効率よくいくよりも、迷ったり、悩んだりして辿り着いた方が面白い、今、ちょっと立ち止まろうよという、本も人も行き場を無くしているからこそ、そんな場所が提供できれば、と思います。
63歳 長野県生まれ 文学少女だった母親の影響を受けて、幼いころから、おおくの本に囲まれて育ちました。
地元の高校を卒業後、芝居の製作を志して上京、舞台を初め映画の製作にも携わりますが、20代半ばに故郷の長野に帰ります。
地元の出版社勤務を経て、40代の時に独立、編集者として一緒に仕事を行ってきた妻の寺島純子さんと夫婦で出版社を設立しました。
去年、出版社のビルの1階にブックカフェを開きました。
町から小さな書店が消えて、大型書店ではベストセラーばかりが目立つ時代、行き場を無くして本の居場所を作り、読書と言う一人の時間を楽しんでもらいたいと考えたからです。
1000~1200冊はあると思う。
書斎に来たとういう様な感じがする。 10.5坪 6人も座れば一杯。
私の仕事場も兼ねているので、奥の方に私のデスクもある。
基本的には8割~9割は古書で、後は自社の本を含めて新刊がある。
私の独断、偏見でその本が売れていようが売れていまいが選びます、ほぼベストセラーは無い。
小説が多いと思う。
小説が売れない時代で、逆にあえて小説を並べている節もある。
約20年前に、ヨーロッパのブタペストに行った時に、小さな書店らしきものがありそこに入った。
真中がソファーになっていて、談笑しながら珈琲を飲んでいる、中には本を読んでいる人もいる。
心地いい、こんな空間があるんだなあと思った。
一昨年、ビルを借りた時に、之はいい機会だと思って、やり始めたのがきっかけです。
どこへいっても、書店の風景はおんなじに感じて、本に埋もれてしまう様で、人間て程よい空間、広さが必要なんだと思う。
昔は書店ごとに個性があった。 本と人との交わりがあった。
カフカの全集が店頭に置かれていると言う事は、日本の書店で夏目漱石、芥川龍之介等の全集がレイアウトされている書店がどれほどあるか?
幼稚園の時の運動会に写真があるが、これほど将来を予想した写真は無いと思っている。
皆用意ドンの姿勢をしているが、私だけズボンのポケットに入れて、あらぬ方を見ている。
怠け者、行動的ではない、人のやっていることを見ているのが好きだった。
本が好きになったのは、母親、姉が本好きで、本がたくさんあった。
本を読んでくれたり、話をアレンジして話してくれて、ことのほか面白かった。
物語の楽しさを知った。(耳から入ってきた)
本が読めるようになると、本の虫になった。
小説を読み始めると、その人の本をみんな読みたくなる。
ノンフィクションを読み始めると、それをずーっと読み始める。 随筆、又小説に戻ってきたりする。
10冊以上の本は併読している。(関連したものをに広がって行ったりする)
自分が昔東京で買った本が長野の書店から又買われてどっかに旅をしてゆく、古書店は面白いと思う。
高校卒業して、結構大きな劇団に所属したことがある。
田舎暮らしをしていると、中央の文化にとても憧れた。
杉村春子の「女の一生」 滝沢修の「炎の人」など 中学、高校時代に名優の芝居を姉と一緒に良く見ていた。
その影響は大きかった。 芝居を作ることが自分の仕事だと思う様になった。
アングラ劇場 唐 十郎 寺山修司が台頭してきたときで、新劇が否定され始めた。
そういう時期だったので、花園神社で赤テントの唐 十郎の芝居をみて、其ショックを受けた。
古典的なロシアの演劇だとかに携わっていて、ほとんど自分のやっていることが嫌になってしまって、2年で辞めてしまった。
映画少年で映画も年間250本とか映画を見るぐらいだった。
自分で映画を作りたいと思って、映画の学校に行くが、映画で就職できるような世の中では無くて、体調を崩したり、失恋もして都落ちする。
20代より30代、30代より40代 50代よりも今がいいと思っている。
ひょんなことで印刷屋さんのお世話になったりして、そこから編集の道が開けてくる。
妻とも知り合う事になる。
妻が会社を辞めてフリーで編集をやったりライターをやったりしていて、数年後に私も辞めて、出版社をやることになる。
昨年からはブックカフェを始めるが、儲かるわけがないことはわかっている。
ブックカフェは道楽だと思いこみ始めている。
きっとくるお客さんも楽なんじゃないかなあと、勝手に思っている。
出版の仕事、編集の仕事ではとても出会えなかった人と、出会えるようになったことは、面白い。
お客さんの本の選択の相談相手などになって、話し相手になり、出会いが深まる。
心が病んで、ぽろぽろ泣きながら話始める人がいたりして、この子がそういってくれたら、ここを開いた甲斐があったのかなあとは思いますね。
赤の他人が隣り合わせることがあるが、本質的な話になったりすることがあって、なかなか良いんじゃないかと思う。
ページをめくる行為は自分の時間、本と人間の1対1の関係、それを邪魔しないのが読書の時間。
ある意味孤独な時間、マイナスのイメージで孤独死を捉えるのは、どうなのかなと思う。
本を読むことは孤独な作業、だが楽しいと思う。
還暦過ぎると、人のたたずまい、人の行為を割と見ていられる、余裕というか、だから道楽と言っている。
なにより店主が一番楽しんでいるのかもしれない。
目的地に効率よくいくよりも、迷ったり、悩んだりして辿り着いた方が面白い、今、ちょっと立ち止まろうよという、本も人も行き場を無くしているからこそ、そんな場所が提供できれば、と思います。
2014年6月11日水曜日
堀越千秋(画家) ・「スペイン」を描き日本を焼く(2)
堀越千秋(画家) 「スペイン」を描き日本を焼く(2)
ロマと呼ばれる流浪の民、スペインに渡って、翌年には、偶然あるライブハウスでアグヘータのファミリーがいて、彼らの歌を聞いた。
ヒターノだと言っていた。 永年聞きたかった歌を聞いた。(泥臭い感じ)
そして彼らと友だちになった。
100年前の歌だと言うし、彼らは字も読めないし、本を読むと言う様なな文化ではないので、泥臭い極みですね。
スペインでフラメンコと言えば歌です。 日本の民謡と変わらない。
カンテ=歌 カンタオール=歌い手(フラメンコの歌い手に限り呼ぶ)
バル 酒場の片隅で歌ったりしているのが多い。
フランコ将軍がいたころは、人々が集まってはいけなかった。
3人以上集まると、つかまってしまう。
バルの地下で、歌ってたりしていた。
歌は実際に聞いたりしているうちに、覚えてしまった。
カンタオールにいつの間にかなってしまった。
玄人はだしで、CDも出したし、TV、ラジオにも出たりした。
コンクールに友人が出ろと言う事で、出て名誉賞を受賞した。
東洋的な音律の歌 日本民謡とも共通する様な感じ。
ヒターノの人達は音楽が大好き。 耳で覚える一つの文化。
陶芸を始めたのは10年前ぐらい。
1年ぐらいかかって穴窯を作った。
茶碗、ぐい飲みとかつくるが、実用的なものは作らない。
高校の先生をやっている友だちがいて、そこで薪を使う窯があって作って焼いてみたら、素晴らしいものが出来てしまって、吃驚してはまり込んだ。
粘土自体が面白いし、薪窯で焼いたら、そのまま山の中で暮らすようになってしまうのでは、面白くて。
薪窯では熱で形も歪んでしまったりする。(電気窯、ガス窯ではある程度予想できるが)
陶芸では日本は世界一だと思う。
2003年 陶芸展を開催 1回目のタイトルが「空腹に地を食う」 大赤字でしょう。
これまでに 5回ぐらいは陶芸展を開催した。
土と火の神様が作ってくれる、私はやるのは1割か、2割。 こうしようと思ってなるものではない。
歌、陶芸 好きになると言う事ですかね。 夢中になる、集中する事につながる。
55歳ぐらいで新しい分野に挑戦する。 歳は勘定してはいなかった。
「翼の王国」 航空会社の表紙絵が7年になる。
むこうからの要請があるが、意外なテーマが面白い。 「そば」とか と言う様な事があったり沖縄の祭りであったりする。
その表紙絵が100点近くになっている。
日本とスペインを比較すると、例えば公衆電話で話をしている時に、日本人であれば後ろに人が来れば早めに話を打ち切ろうとするが、スペイン人で有れば後ろの人の事など気にせずに人が来れば来るほど、自分がのさばろうと、自分の権利を主張したいと、日本と逆の思考法があって面白い、マイペースが一番大事。
スペインでは老人に席を譲るのは当たり前だし、重い荷物を持っていたりすると助けてくれるし、そういう気持ちは常にある。
スペインは時々吹き出物みたいに、バーっと何の分野でも凄い人がでる。
ワインの醸造家であれ、医者であれ、何の分野でも時々凄い人がでて、その人を追ってレベルが上がると言う、そういう様な感じ。
スペイン人は物を語る言葉よりも、自分の心を語ろうとする。
職人はもっぱら物に拘るが、スペイン人は物に拘るよりも自分に拘るので、どうもうまくいかないのは材料が悪いので、俺のせいではないよ、俺は俺なんだと言う事が先に出る。
技術的な事は一般的に苦手、物に即すことは無く、自分に即する。
スペインの変化は速い、風景は変わらないが。 日本では景色、ビルが建ったり、壊れたり激しいが、気質はそんなに変わっている様には見えない。
マドリードなどを見ていると、のんびりしている良い国だったと思うが、物質主義に傾きつつある。
1992年 オリンピック、万博を一緒にやって、盛り上がって、万々歳の国だと思ったが、そのあとはシュンとなった、あと500年は駄目だと言っている。
朝目が覚めると、ここはどこなのかなあと、日本だったか、スペインだったかとか、起きた時に毎朝ドタバタする、之は不思議です。
最近は日本が増えてきたが、日本とかスペインとか思わないで、「ここにいる」と言う感じ。
母親からは、「お前は寅さんみたいなもんだ」と言われる。
同じところにじーっといると、いらいらしてくる、自分はそういう気質だと思う。
ロマと呼ばれる流浪の民、スペインに渡って、翌年には、偶然あるライブハウスでアグヘータのファミリーがいて、彼らの歌を聞いた。
ヒターノだと言っていた。 永年聞きたかった歌を聞いた。(泥臭い感じ)
そして彼らと友だちになった。
100年前の歌だと言うし、彼らは字も読めないし、本を読むと言う様なな文化ではないので、泥臭い極みですね。
スペインでフラメンコと言えば歌です。 日本の民謡と変わらない。
カンテ=歌 カンタオール=歌い手(フラメンコの歌い手に限り呼ぶ)
バル 酒場の片隅で歌ったりしているのが多い。
フランコ将軍がいたころは、人々が集まってはいけなかった。
3人以上集まると、つかまってしまう。
バルの地下で、歌ってたりしていた。
歌は実際に聞いたりしているうちに、覚えてしまった。
カンタオールにいつの間にかなってしまった。
玄人はだしで、CDも出したし、TV、ラジオにも出たりした。
コンクールに友人が出ろと言う事で、出て名誉賞を受賞した。
東洋的な音律の歌 日本民謡とも共通する様な感じ。
ヒターノの人達は音楽が大好き。 耳で覚える一つの文化。
陶芸を始めたのは10年前ぐらい。
1年ぐらいかかって穴窯を作った。
茶碗、ぐい飲みとかつくるが、実用的なものは作らない。
高校の先生をやっている友だちがいて、そこで薪を使う窯があって作って焼いてみたら、素晴らしいものが出来てしまって、吃驚してはまり込んだ。
粘土自体が面白いし、薪窯で焼いたら、そのまま山の中で暮らすようになってしまうのでは、面白くて。
薪窯では熱で形も歪んでしまったりする。(電気窯、ガス窯ではある程度予想できるが)
陶芸では日本は世界一だと思う。
2003年 陶芸展を開催 1回目のタイトルが「空腹に地を食う」 大赤字でしょう。
これまでに 5回ぐらいは陶芸展を開催した。
土と火の神様が作ってくれる、私はやるのは1割か、2割。 こうしようと思ってなるものではない。
歌、陶芸 好きになると言う事ですかね。 夢中になる、集中する事につながる。
55歳ぐらいで新しい分野に挑戦する。 歳は勘定してはいなかった。
「翼の王国」 航空会社の表紙絵が7年になる。
むこうからの要請があるが、意外なテーマが面白い。 「そば」とか と言う様な事があったり沖縄の祭りであったりする。
その表紙絵が100点近くになっている。
日本とスペインを比較すると、例えば公衆電話で話をしている時に、日本人であれば後ろに人が来れば早めに話を打ち切ろうとするが、スペイン人で有れば後ろの人の事など気にせずに人が来れば来るほど、自分がのさばろうと、自分の権利を主張したいと、日本と逆の思考法があって面白い、マイペースが一番大事。
スペインでは老人に席を譲るのは当たり前だし、重い荷物を持っていたりすると助けてくれるし、そういう気持ちは常にある。
スペインは時々吹き出物みたいに、バーっと何の分野でも凄い人がでる。
ワインの醸造家であれ、医者であれ、何の分野でも時々凄い人がでて、その人を追ってレベルが上がると言う、そういう様な感じ。
スペイン人は物を語る言葉よりも、自分の心を語ろうとする。
職人はもっぱら物に拘るが、スペイン人は物に拘るよりも自分に拘るので、どうもうまくいかないのは材料が悪いので、俺のせいではないよ、俺は俺なんだと言う事が先に出る。
技術的な事は一般的に苦手、物に即すことは無く、自分に即する。
スペインの変化は速い、風景は変わらないが。 日本では景色、ビルが建ったり、壊れたり激しいが、気質はそんなに変わっている様には見えない。
マドリードなどを見ていると、のんびりしている良い国だったと思うが、物質主義に傾きつつある。
1992年 オリンピック、万博を一緒にやって、盛り上がって、万々歳の国だと思ったが、そのあとはシュンとなった、あと500年は駄目だと言っている。
朝目が覚めると、ここはどこなのかなあと、日本だったか、スペインだったかとか、起きた時に毎朝ドタバタする、之は不思議です。
最近は日本が増えてきたが、日本とかスペインとか思わないで、「ここにいる」と言う感じ。
母親からは、「お前は寅さんみたいなもんだ」と言われる。
同じところにじーっといると、いらいらしてくる、自分はそういう気質だと思う。
2014年6月10日火曜日
堀越千秋(画家) ・「スペイン」を描き日本を焼く(1)
堀越千秋(画家) 「スペイン」を描き日本を焼く(1)
昭和23年 東京生まれ 東京芸術大学大学院を卒業後、政府の給費留学生として、スペインに渡り、以来38年間マドリード在住して、世界各地で個展を開き画家として活躍しています。
武満 徹の全集の挿画で経済産業大臣賞を受賞、2007年からは日本の航空会社の機内誌「翼の王国」の表紙の絵の連載もしています。
自らもフラメンコの歌「カンテ」を玄人はだしで歌い、永年スペインの暮らしを楽しいエッセーにして好評を得ています。
その一方で数年前から埼玉県に窯を開いて、陶芸にも力を入れており、最近は日本とスペインとの生活が半々程度だと言います。
スペインの魅力、地元の人々との交流から感じたこと、陶芸を通して日本との文化の比較などを伺います。
28歳からスペイン暮らし。 妻と娘はスペインに在住。
最近は陶芸にはまっている。 年に1~2回やっている。 本も執筆してる。
スペインを色で表現すると、「赤」
父親が小学校の絵の先生で、祖父も日本画をやっていた。
好きでもあったので、絵をやっていた。
油絵をやっていて、東京芸術大学大学院でもやっていた。
1973年、大学院の学生の時に、ヨーロッパの絵を観たいと思って、最初フランスに出掛けた。
雰囲気にのまれた感じだった。
そのあと、スペインに行ったが、フランコが生きている時代だった。
イタリアに来たら、生きている心地がした。
試験に受かり、スペイン政府の給付留学生と成る。
貧しく生活を営んでいる様な状況で良かった。 物価もすごく安かった。
25ペセタ(125円ぐらい)で、安いレストランでフルコースを食べられた。
マドリードで国立の夜学に行っていた。
油絵は昼間自分の住んでいるところでやっていた。
当時7万5000円 スペイン政府から貰った。 普通の人が住めるところに住んでいた。
35歳のころに結婚した。(ある日本人と知り合って)
スペイン人は基本的に優しい。 おおらかさがある。
酒が安すぎて、中にはアル中になってしまう人がいる。
食べ物はオリーブが合わなくて、夜中の3時になると必ず気持ちが悪くなっていた。
米、魚もスペイン人は食べる。
スペインの空気自体が盛り上がっている様な感じがあり、自分の中のものと共鳴し合って、呼び起こされるような感じを持った。
個展はスペインが最初、フラメンコの歌い手を呼んできてやったら、黒山の人だかりになってしまった。
その後、スイス、フランス等でも個展を開いたりした。
彫刻やったり、粘土で作ったりもする。
絵の挿絵 音楽家の武満 徹さんの全集の5巻の絵を描いた。
経済産業省大臣賞を受賞をする。
「世界で一番美しい本」 代表に選ばれた。 デザイン、企画も素晴らしかった。
「スペインうやむや日記」 赤いエビが表紙になっている。
小説家、逢坂 剛 スペインが大好きで一緒に取材に行ったりした。 挿絵を担当もした。
フラメンコギターが彼は得意で、一緒にコンサートをやったりした。
スペインに住んでいて、スペイン人との友人もいるし、スペイン関係から広がったと言うのが多い。
作家の村田 喜代子さんとも交友がある。
一番親しいのは、フラメンコの歌い手で、義兄弟になった。 名付け親になったりした。
ずーっとファミリー付き合いをしている。
父親が倒れたら、代わりに面倒を見なければいけない。 (ヒターノの人たち)
ワイン 評価が高い。 私はワインはスペインだと思う。
味わい、経済的な事を考えると、スペインは抜群だと思う。
リオハ リオハ・ワインの生産地として有名である。
スペインは全体的にはレベルは高くなくても、ところどころに天才が出てきて、そうすると後を追ってレベルが上がる。
天才的な醸造家が出てきていて、その影響で最近の味は素晴らしいし、値段も安い。
バスクとアンダルシア 国が違う様に感じる。
バスクは美食家、あんなところは無いほど美食の話をする。
海が近いし、山があり 魚類、チーズなど種類にも恵まれていて、スペインの重工業は全部バスク地方にあり、仕事があり、お金があり、食事もおいしい、人柄が緻密で几帳面、研究熱心。
男性だけの美食クラブがある。
100人~200人ぐらいそれぞれのクラブにいて、それぞれが立派なレストランを自分たちで作って、自分たちが勝手に料理する。
そこをくつろぎの場にする。 本当においしい。
アンダルシア 地中海、大西洋に面しており、美味しいものはいくらでもある。
食べもの一つでも地方、地方で色々ある。
スペインでであって、山海塾主宰の天児 牛大さん 井田照一 版画家 などとも、友だちになる。
イタリアで無く何故スペインかと言うと、スペインのほうが泥臭くて、田舎くさくて、ヒターノのフラメンコがあった事だと思う。
フラメンコは日本では踊りのイメージが強いが、フラメンコと言うと歌の事を言う。
バイレ(フラメンコ) 踊りをいう。
昭和23年 東京生まれ 東京芸術大学大学院を卒業後、政府の給費留学生として、スペインに渡り、以来38年間マドリード在住して、世界各地で個展を開き画家として活躍しています。
武満 徹の全集の挿画で経済産業大臣賞を受賞、2007年からは日本の航空会社の機内誌「翼の王国」の表紙の絵の連載もしています。
自らもフラメンコの歌「カンテ」を玄人はだしで歌い、永年スペインの暮らしを楽しいエッセーにして好評を得ています。
その一方で数年前から埼玉県に窯を開いて、陶芸にも力を入れており、最近は日本とスペインとの生活が半々程度だと言います。
スペインの魅力、地元の人々との交流から感じたこと、陶芸を通して日本との文化の比較などを伺います。
28歳からスペイン暮らし。 妻と娘はスペインに在住。
最近は陶芸にはまっている。 年に1~2回やっている。 本も執筆してる。
スペインを色で表現すると、「赤」
父親が小学校の絵の先生で、祖父も日本画をやっていた。
好きでもあったので、絵をやっていた。
油絵をやっていて、東京芸術大学大学院でもやっていた。
1973年、大学院の学生の時に、ヨーロッパの絵を観たいと思って、最初フランスに出掛けた。
雰囲気にのまれた感じだった。
そのあと、スペインに行ったが、フランコが生きている時代だった。
イタリアに来たら、生きている心地がした。
試験に受かり、スペイン政府の給付留学生と成る。
貧しく生活を営んでいる様な状況で良かった。 物価もすごく安かった。
25ペセタ(125円ぐらい)で、安いレストランでフルコースを食べられた。
マドリードで国立の夜学に行っていた。
油絵は昼間自分の住んでいるところでやっていた。
当時7万5000円 スペイン政府から貰った。 普通の人が住めるところに住んでいた。
35歳のころに結婚した。(ある日本人と知り合って)
スペイン人は基本的に優しい。 おおらかさがある。
酒が安すぎて、中にはアル中になってしまう人がいる。
食べ物はオリーブが合わなくて、夜中の3時になると必ず気持ちが悪くなっていた。
米、魚もスペイン人は食べる。
スペインの空気自体が盛り上がっている様な感じがあり、自分の中のものと共鳴し合って、呼び起こされるような感じを持った。
個展はスペインが最初、フラメンコの歌い手を呼んできてやったら、黒山の人だかりになってしまった。
その後、スイス、フランス等でも個展を開いたりした。
彫刻やったり、粘土で作ったりもする。
絵の挿絵 音楽家の武満 徹さんの全集の5巻の絵を描いた。
経済産業省大臣賞を受賞をする。
「世界で一番美しい本」 代表に選ばれた。 デザイン、企画も素晴らしかった。
「スペインうやむや日記」 赤いエビが表紙になっている。
小説家、逢坂 剛 スペインが大好きで一緒に取材に行ったりした。 挿絵を担当もした。
フラメンコギターが彼は得意で、一緒にコンサートをやったりした。
スペインに住んでいて、スペイン人との友人もいるし、スペイン関係から広がったと言うのが多い。
作家の村田 喜代子さんとも交友がある。
一番親しいのは、フラメンコの歌い手で、義兄弟になった。 名付け親になったりした。
ずーっとファミリー付き合いをしている。
父親が倒れたら、代わりに面倒を見なければいけない。 (ヒターノの人たち)
ワイン 評価が高い。 私はワインはスペインだと思う。
味わい、経済的な事を考えると、スペインは抜群だと思う。
リオハ リオハ・ワインの生産地として有名である。
スペインは全体的にはレベルは高くなくても、ところどころに天才が出てきて、そうすると後を追ってレベルが上がる。
天才的な醸造家が出てきていて、その影響で最近の味は素晴らしいし、値段も安い。
バスクとアンダルシア 国が違う様に感じる。
バスクは美食家、あんなところは無いほど美食の話をする。
海が近いし、山があり 魚類、チーズなど種類にも恵まれていて、スペインの重工業は全部バスク地方にあり、仕事があり、お金があり、食事もおいしい、人柄が緻密で几帳面、研究熱心。
男性だけの美食クラブがある。
100人~200人ぐらいそれぞれのクラブにいて、それぞれが立派なレストランを自分たちで作って、自分たちが勝手に料理する。
そこをくつろぎの場にする。 本当においしい。
アンダルシア 地中海、大西洋に面しており、美味しいものはいくらでもある。
食べもの一つでも地方、地方で色々ある。
スペインでであって、山海塾主宰の天児 牛大さん 井田照一 版画家 などとも、友だちになる。
イタリアで無く何故スペインかと言うと、スペインのほうが泥臭くて、田舎くさくて、ヒターノのフラメンコがあった事だと思う。
フラメンコは日本では踊りのイメージが強いが、フラメンコと言うと歌の事を言う。
バイレ(フラメンコ) 踊りをいう。
2014年6月9日月曜日
堺 正一(元県立盲学校校長) ・高齢者のケアに紙芝居を
堺 正一(元県立盲学校校長) 高齢者のケアに紙芝居を
70歳 永年身視に障害のある子供達の教育に携わる中で、紙芝居を始め、人形劇、絵本の読み聞かせなどに取り組んで来ました。
今はボランティアで高齢者施設を廻り紙芝居を上演しています。
認知症の兆候がみられる人もいますが、持ち時間の60分間、集中して、うなずいたり、涙を拭ったり、大笑いしたり、時には過剰とも思える反応をしてくれます。
正ちゃん紙芝居として人気の高い、堺さんのボランティア紙芝居活動について、伺いました。
障害のある子供達を学校で教える中で、子供達に笑顔を出したい、目を輝かせたいと思い、色々取り組んできました。
その中で紙芝居は、他とちょっと違う反応がみられた。
こちらから子供に話しかけて、それに対して子供が反応してきて、次に進んで行くと言う、しやすいのが紙芝居というメディアかなと思います。
母は92歳で亡くなりましたが、晩年5年は寝たきりで、認知症が進んでゆく中で、自分の子供の名前が解らなくなった様な状況でも、絵を見せて話をする、一緒に童謡を歌うと言葉が出てくる。
おじさんの時も同じような反応があったので面白いメディアだと思った。
視覚障害教育、埼玉県立盲学校に赴任した。
多くの方が目標として、塙 保己一を目標に努力したという。
点字図書館の本間一雄先生も同様に目標にしたと言われる。
校歌にも塙 保己一の名前が出てくる。
生きる目標を子供達に植え付けられれば、指導は半分成功し様に思うので塙 保己一について、子供達に伝えたいと思った。
高校先生の時代、若い学生が自ら命を断ってゆくケースがたまたま続けてあった。
命を大切にする事を子供達に伝えたい、と言う事を子供達に伝えたいと言うのが、この紙芝居を描いた動機です。
塙 保己一は15歳で全盲の身で埼玉の現在の本庄市から、一人で江戸に出てきて、そこで重い障害がある為に、いじめをうけたり差別を受けたりという経験の中で、自ら命を断とうと言う事を何度かあって、そこを乗り切った時に塙 保己一の人生は大きく開けたと言う事がある。
晩年の肖像画があるが、本当に幸せな顔をしている。
多くの若い人に知ってもらいたかった。
「生きているって素晴らしい塙 保己一の青春」という紙芝居。
「塙 保己一が道端で下駄の鼻緒を切ってしまって、周りの人に助けを求めるが、周りは聞こえないふりをしている、ある人が怒鳴って縄を塙 保己一に放り投げると、塙 保己一の額に当たって、水たまりに落ちてそれを悔しさをこらえて、無言で懐に入れて逃げるように立ち去る。
涙をこらえながら、この悔しさを忘れずにいつかあの人たちを見返してやると思う。
それを追ってある茶店の女将が来る。
よく我慢したと、いつかいいことが必ずあると慰めながら、かぶっていた手拭いを引き裂いて、はなおをすげてくれた。
短気を起こすところでしたと、有難うございました。 その優しい言葉にどんなに励まされ、慰められたことでしょう。」 と言いった内容の一部
自分で絵を描いて作った。
共感の世界 演じ手と観客がいて共感の世界が出来上がる。
高齢者同士の横のつながりができて、普段おしゃべりできない人ともおしゃべりをするようになる。
紙芝居は 演じる 語りかける。(間を取ると言う事が重要) 紙をゆすったり、カタカタしたりする。
紙芝居は意外と新しい、昭和5年に出来る。 日本で初めて出来る。
(映画は明治の後半に入ってくる)
今の高齢者は子供の頃、紙芝居を皆見ている。
戦争がはじまると、国策紙芝居 戦争を進めてゆく上での、メディアとして利用。
街頭紙芝居 駄菓子を売るために、子供達の心を掴む、物凄い人気があり、国家が之を利用する。
宗教紙芝居も街頭紙芝居が始まって間もなく作られてゆく。
紙芝居は日本の伝統文化。
高齢者を15分集中させるのは、大変と高齢者施設関係の人は言うが、私は60分、時間を頂いている。
紙芝居と紙芝居の間は、話をやり取りすると、終わった時に「もう終わり。」と言われる。
「舌切雀」 子供の話を高齢者にするという時は、高齢者に話すやり方があると思う。
子供の頃の教科書を持って行ったりして、高齢者の記憶をよみがえらせる様に話を持ってゆく。
高齢者向けの紙芝居は随分出てきている。
昭和と言う時代を生きてきた、それを振り返るとういう作品がある。
涙を流しながら、聞いてくれて、終わった後に、ああいう事あったよねと話し合う。
紙芝居にチャブ台が出てくるが どうして丸いのか問いかけたら、チャブ台は大家族でも、そこにおかずを置けば皆で食べれる、とある人が言ったが、普段は寝ている様な102歳のおじいさんが、それだけではない、部屋にチャブ台を置いて、食事をして、終わればチャブ台をかたずけて、部屋は居間になったり、布団を敷いて寝室になったりする、そのたびにかたずけるのに、丸いチャブ台をころころころがすために、丸いんだと、言った。(ちゃんと聞いててくれてよかったと思った。)
紙芝居は本来、絵があって、語るのを見てもらうが、目に入ってくるもの、耳に入ってくるもの以上のものを感じてもらえるのかなと言う感じがする。
介護を目的にした紙芝居の講習会が開かれたが、応募者が沢山いて、会場からあふれるくらい集まっている。
一つの大きなな流れになっている様な気がする。
人に喜んでもらうと言う事は、自分自身の喜びでもあるし、喜んでやらないと、相手の人にも喜んで貰えないので、喜びは掛け替えのないものになっている。
私の先生からの言葉 「色々なことが今までありましたけど、僕は一寸先は光だと言う事に気が付きました。」 と言っていました。
やなせたかしさんは同じような言葉を言っている。
70歳 永年身視に障害のある子供達の教育に携わる中で、紙芝居を始め、人形劇、絵本の読み聞かせなどに取り組んで来ました。
今はボランティアで高齢者施設を廻り紙芝居を上演しています。
認知症の兆候がみられる人もいますが、持ち時間の60分間、集中して、うなずいたり、涙を拭ったり、大笑いしたり、時には過剰とも思える反応をしてくれます。
正ちゃん紙芝居として人気の高い、堺さんのボランティア紙芝居活動について、伺いました。
障害のある子供達を学校で教える中で、子供達に笑顔を出したい、目を輝かせたいと思い、色々取り組んできました。
その中で紙芝居は、他とちょっと違う反応がみられた。
こちらから子供に話しかけて、それに対して子供が反応してきて、次に進んで行くと言う、しやすいのが紙芝居というメディアかなと思います。
母は92歳で亡くなりましたが、晩年5年は寝たきりで、認知症が進んでゆく中で、自分の子供の名前が解らなくなった様な状況でも、絵を見せて話をする、一緒に童謡を歌うと言葉が出てくる。
おじさんの時も同じような反応があったので面白いメディアだと思った。
視覚障害教育、埼玉県立盲学校に赴任した。
多くの方が目標として、塙 保己一を目標に努力したという。
点字図書館の本間一雄先生も同様に目標にしたと言われる。
校歌にも塙 保己一の名前が出てくる。
生きる目標を子供達に植え付けられれば、指導は半分成功し様に思うので塙 保己一について、子供達に伝えたいと思った。
高校先生の時代、若い学生が自ら命を断ってゆくケースがたまたま続けてあった。
命を大切にする事を子供達に伝えたい、と言う事を子供達に伝えたいと言うのが、この紙芝居を描いた動機です。
塙 保己一は15歳で全盲の身で埼玉の現在の本庄市から、一人で江戸に出てきて、そこで重い障害がある為に、いじめをうけたり差別を受けたりという経験の中で、自ら命を断とうと言う事を何度かあって、そこを乗り切った時に塙 保己一の人生は大きく開けたと言う事がある。
晩年の肖像画があるが、本当に幸せな顔をしている。
多くの若い人に知ってもらいたかった。
「生きているって素晴らしい塙 保己一の青春」という紙芝居。
「塙 保己一が道端で下駄の鼻緒を切ってしまって、周りの人に助けを求めるが、周りは聞こえないふりをしている、ある人が怒鳴って縄を塙 保己一に放り投げると、塙 保己一の額に当たって、水たまりに落ちてそれを悔しさをこらえて、無言で懐に入れて逃げるように立ち去る。
涙をこらえながら、この悔しさを忘れずにいつかあの人たちを見返してやると思う。
それを追ってある茶店の女将が来る。
よく我慢したと、いつかいいことが必ずあると慰めながら、かぶっていた手拭いを引き裂いて、はなおをすげてくれた。
短気を起こすところでしたと、有難うございました。 その優しい言葉にどんなに励まされ、慰められたことでしょう。」 と言いった内容の一部
自分で絵を描いて作った。
共感の世界 演じ手と観客がいて共感の世界が出来上がる。
高齢者同士の横のつながりができて、普段おしゃべりできない人ともおしゃべりをするようになる。
紙芝居は 演じる 語りかける。(間を取ると言う事が重要) 紙をゆすったり、カタカタしたりする。
紙芝居は意外と新しい、昭和5年に出来る。 日本で初めて出来る。
(映画は明治の後半に入ってくる)
今の高齢者は子供の頃、紙芝居を皆見ている。
戦争がはじまると、国策紙芝居 戦争を進めてゆく上での、メディアとして利用。
街頭紙芝居 駄菓子を売るために、子供達の心を掴む、物凄い人気があり、国家が之を利用する。
宗教紙芝居も街頭紙芝居が始まって間もなく作られてゆく。
紙芝居は日本の伝統文化。
高齢者を15分集中させるのは、大変と高齢者施設関係の人は言うが、私は60分、時間を頂いている。
紙芝居と紙芝居の間は、話をやり取りすると、終わった時に「もう終わり。」と言われる。
「舌切雀」 子供の話を高齢者にするという時は、高齢者に話すやり方があると思う。
子供の頃の教科書を持って行ったりして、高齢者の記憶をよみがえらせる様に話を持ってゆく。
高齢者向けの紙芝居は随分出てきている。
昭和と言う時代を生きてきた、それを振り返るとういう作品がある。
涙を流しながら、聞いてくれて、終わった後に、ああいう事あったよねと話し合う。
紙芝居にチャブ台が出てくるが どうして丸いのか問いかけたら、チャブ台は大家族でも、そこにおかずを置けば皆で食べれる、とある人が言ったが、普段は寝ている様な102歳のおじいさんが、それだけではない、部屋にチャブ台を置いて、食事をして、終わればチャブ台をかたずけて、部屋は居間になったり、布団を敷いて寝室になったりする、そのたびにかたずけるのに、丸いチャブ台をころころころがすために、丸いんだと、言った。(ちゃんと聞いててくれてよかったと思った。)
紙芝居は本来、絵があって、語るのを見てもらうが、目に入ってくるもの、耳に入ってくるもの以上のものを感じてもらえるのかなと言う感じがする。
介護を目的にした紙芝居の講習会が開かれたが、応募者が沢山いて、会場からあふれるくらい集まっている。
一つの大きなな流れになっている様な気がする。
人に喜んでもらうと言う事は、自分自身の喜びでもあるし、喜んでやらないと、相手の人にも喜んで貰えないので、喜びは掛け替えのないものになっている。
私の先生からの言葉 「色々なことが今までありましたけど、僕は一寸先は光だと言う事に気が付きました。」 と言っていました。
やなせたかしさんは同じような言葉を言っている。
2014年6月8日日曜日
関西佳子(水間鉄道社長) ・私の鉄道経営体験を語る
関西佳子(水間鉄道社長) 私の鉄道経営体験を語る
1963年 昭和38年 大阪市の生まれ 短期大学卒業後、証券会社に務めた経験のある関西さんは専業主婦と成り、その後フリーのシステムエンジニアの仕事を始めます。
その技術を生かして、経営破たんした水間鉄道の再建事業にかかわることになります。
水間鉄道は貝塚から水間観音までの5.5km、水間観音参拝の足として大正14年開業しました。
多い時は1万人もの乗降客を数えましたが、モータリゼーションの波に依る乗客の減少や、事業拡大の失敗などもあり、2005年およそ258億円の負債を抱えて、経営破たんします。
地域の足を護ろうと、鉄道再建に取り組んだのが、現役を引退した関西さんの父親を含む5人の鉄道マンたちでした。
3年後、2008年 再建事業の管財人が社長として白羽の矢を立てたのが、関西佳子さんでした。
全国的にも珍しい女性の鉄道事業経営者の誕生となりました。
水間観音のための交通手段として大正14年に始まった。
日本で2番目か3番目に短い鉄道です。 駅の数は10駅の単線。
駅の建物はお寺の様な形をしている。
水間観音は行基 に依った設立されたお寺。
聖武天皇の勅願で病気平癒を願って、川と川の間に凄くいい土地があるから、探してきてくれと言う事で探しに来られた。
水の音、渓流の音で心が洗われる。 泉葛城山からの渓流が流れてくる。
水がいいので野菜はとっても美味しい。
貝塚駅、水間観音駅は有人だが、それ以外は無人。
清児駅(せきご駅 貝塚駅から4つ目) 聖武天皇が行基菩薩にお願いした時に、清児にまず着いたらしい。
「水間」にやってくると観音の化身である16人の童子に遭遇
千本餅つきをしていた子供たちが、行基菩薩の手を引いて、水間口まで連れて行ったという伝説がある。
毎年正月に千本餅つきを水間寺で行っている。
突いた餅の中にお金を入れて、投げて配る行事がある。(当たった人はその一年幸運に過ごす)
三重の塔
水間寺はもともと地域の方にお金を貸して、翌年利息を付けて返す、と言う風習が昔からあったと言われる。
ある人が結構な大金を借りて、帰って、翌年には返さなくて、十数年たってから馬にお金を一杯積んでお礼に戻ってこられた、そのおかげで三重の塔が建てたれた。
塔の前には立派な馬の像がある。 この話は「日本永代蔵「に出ている。 「泉州水間寺利生の銭」はそこから来ている。
「利生の銭」とは、水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しすることによって、ご利益を頂戴するものである。
地域の行事なので、密着な関係にあるので、大みそかの鐘つき、餅まき、とか年中行事には参加している。
寺僧 60歳になったら修行してお寺にお仕えする、珍しいお寺です。
2005年 258億円の負債で経営破たんする。
宅地開発の投資で、(バブル期)損失をしてしまう。
1970年代 年間400万人乗っていただいていたが、今は半分以下に減ってしまっている。
地域の方にとっては無くなってしまっては困るので、日々努力している。
父はもともと、南海電鉄のOBで、地域の大事な足を失ってしまうのは、忍びないと言う事で、再生に乗り出した。
再建案 当初父をはじめに5人 南海電鉄のOBを集めて、再建を実行した。
5人の中にシステムエンジニアがいなかった。
ICカードが使えないので、その要件の一つに入っていた。(システムエンジニアが必要だった)
父の要請があり、手伝う事になる。 (当時 父は70歳)
システム導入 2年掛かるかなと思って、請け負っていたが、水間鉄道の親会社の会長から依頼されたが、父からは反対された。(地元に人間でないものが引き受けることは良くない)
会長が病気になられて、後を頼むと言われて、お受けしました。(それが最後の交わした言葉)
3カ月給料が遅配になっていて、厳しい状況だった。
朝晩は結構乗車が多くて、残さなければいけないと決心した。
ICカードの機器の導入が最初の仕事。 他社と連携できた方がいいと思っていた。
協議会に入らないと、実施はできなくて、会社が厳しい状況の中だったが、何とか入れていただいた。
東急7000系の車両を利用している。
ATS導入、安全対策が一番大事だと思っているので、行政の力を借りながら、サービス面などを充実してきた。
大みそか終夜運転、みそか亭(一日限りのうどんや、蕎麦屋)やったり、地元の米、水で作った地元の酒を作って、振る舞い酒にする。
枕木オーナー 枕木の両端にプレートを貼って10文字好きな文字を2年間貼って、状態が良ければ、お返しする。(応援してほしい 大変さを共感してほしいと思って始めた)
マルシェ(市場) あまり店がないので、、車両を市場にする。(地域の方に場所を提供)
「誇りを持って仕事をしよう」
社会貢献しないという様な仕事はないと思うが、鉄道は間違いなく地域の足を護って、観光の方も来ていただけるので、インフラは大事なので、誇りを持って、皆やっていると思いますし、大事な仕事だと思う。
父は2年前に亡くなる。 突然だったのでショックだった。
あれほど鉄道のことを愛して、鉄道に従事した人はいないかなあと、思います。
「鉄道は地域の沿線の文化の担い手なんだよ」と一貫して、父から聞かされてきたので、ぶれは無い。
地方鉄道を存続させてゆく責任の重さは感じます。
「まち愛カフェ」 木で出来た温かい雰囲気の店を作りました。
1963年 昭和38年 大阪市の生まれ 短期大学卒業後、証券会社に務めた経験のある関西さんは専業主婦と成り、その後フリーのシステムエンジニアの仕事を始めます。
その技術を生かして、経営破たんした水間鉄道の再建事業にかかわることになります。
水間鉄道は貝塚から水間観音までの5.5km、水間観音参拝の足として大正14年開業しました。
多い時は1万人もの乗降客を数えましたが、モータリゼーションの波に依る乗客の減少や、事業拡大の失敗などもあり、2005年およそ258億円の負債を抱えて、経営破たんします。
地域の足を護ろうと、鉄道再建に取り組んだのが、現役を引退した関西さんの父親を含む5人の鉄道マンたちでした。
3年後、2008年 再建事業の管財人が社長として白羽の矢を立てたのが、関西佳子さんでした。
全国的にも珍しい女性の鉄道事業経営者の誕生となりました。
水間観音のための交通手段として大正14年に始まった。
日本で2番目か3番目に短い鉄道です。 駅の数は10駅の単線。
駅の建物はお寺の様な形をしている。
水間観音は行基 に依った設立されたお寺。
聖武天皇の勅願で病気平癒を願って、川と川の間に凄くいい土地があるから、探してきてくれと言う事で探しに来られた。
水の音、渓流の音で心が洗われる。 泉葛城山からの渓流が流れてくる。
水がいいので野菜はとっても美味しい。
貝塚駅、水間観音駅は有人だが、それ以外は無人。
清児駅(せきご駅 貝塚駅から4つ目) 聖武天皇が行基菩薩にお願いした時に、清児にまず着いたらしい。
「水間」にやってくると観音の化身である16人の童子に遭遇
千本餅つきをしていた子供たちが、行基菩薩の手を引いて、水間口まで連れて行ったという伝説がある。
毎年正月に千本餅つきを水間寺で行っている。
突いた餅の中にお金を入れて、投げて配る行事がある。(当たった人はその一年幸運に過ごす)
三重の塔
水間寺はもともと地域の方にお金を貸して、翌年利息を付けて返す、と言う風習が昔からあったと言われる。
ある人が結構な大金を借りて、帰って、翌年には返さなくて、十数年たってから馬にお金を一杯積んでお礼に戻ってこられた、そのおかげで三重の塔が建てたれた。
塔の前には立派な馬の像がある。 この話は「日本永代蔵「に出ている。 「泉州水間寺利生の銭」はそこから来ている。
「利生の銭」とは、水間寺に初午詣(旧初午の日)をして、来年の初午の日にはこの利生の銭を倍額にしてお返しすることによって、ご利益を頂戴するものである。
地域の行事なので、密着な関係にあるので、大みそかの鐘つき、餅まき、とか年中行事には参加している。
寺僧 60歳になったら修行してお寺にお仕えする、珍しいお寺です。
2005年 258億円の負債で経営破たんする。
宅地開発の投資で、(バブル期)損失をしてしまう。
1970年代 年間400万人乗っていただいていたが、今は半分以下に減ってしまっている。
地域の方にとっては無くなってしまっては困るので、日々努力している。
父はもともと、南海電鉄のOBで、地域の大事な足を失ってしまうのは、忍びないと言う事で、再生に乗り出した。
再建案 当初父をはじめに5人 南海電鉄のOBを集めて、再建を実行した。
5人の中にシステムエンジニアがいなかった。
ICカードが使えないので、その要件の一つに入っていた。(システムエンジニアが必要だった)
父の要請があり、手伝う事になる。 (当時 父は70歳)
システム導入 2年掛かるかなと思って、請け負っていたが、水間鉄道の親会社の会長から依頼されたが、父からは反対された。(地元に人間でないものが引き受けることは良くない)
会長が病気になられて、後を頼むと言われて、お受けしました。(それが最後の交わした言葉)
3カ月給料が遅配になっていて、厳しい状況だった。
朝晩は結構乗車が多くて、残さなければいけないと決心した。
ICカードの機器の導入が最初の仕事。 他社と連携できた方がいいと思っていた。
協議会に入らないと、実施はできなくて、会社が厳しい状況の中だったが、何とか入れていただいた。
東急7000系の車両を利用している。
ATS導入、安全対策が一番大事だと思っているので、行政の力を借りながら、サービス面などを充実してきた。
大みそか終夜運転、みそか亭(一日限りのうどんや、蕎麦屋)やったり、地元の米、水で作った地元の酒を作って、振る舞い酒にする。
枕木オーナー 枕木の両端にプレートを貼って10文字好きな文字を2年間貼って、状態が良ければ、お返しする。(応援してほしい 大変さを共感してほしいと思って始めた)
マルシェ(市場) あまり店がないので、、車両を市場にする。(地域の方に場所を提供)
「誇りを持って仕事をしよう」
社会貢献しないという様な仕事はないと思うが、鉄道は間違いなく地域の足を護って、観光の方も来ていただけるので、インフラは大事なので、誇りを持って、皆やっていると思いますし、大事な仕事だと思う。
父は2年前に亡くなる。 突然だったのでショックだった。
あれほど鉄道のことを愛して、鉄道に従事した人はいないかなあと、思います。
「鉄道は地域の沿線の文化の担い手なんだよ」と一貫して、父から聞かされてきたので、ぶれは無い。
地方鉄道を存続させてゆく責任の重さは感じます。
「まち愛カフェ」 木で出来た温かい雰囲気の店を作りました。
2014年6月7日土曜日
大南信也(NPOグリーンバレー理事長) ・日本の田舎をステキに変える
大南信也(NPOグリーンバレー理事長) 日本の田舎をステキに変える
61歳 徳島県 神山町 昭和30年頃 人口2万1000人が現在 6000人 林業の衰退などで減り続けている。
10年前町の有志とNPO法人を設立 「日本の田舎をステキに変える」を合言葉に町おこしに取り組んでいます。
日本と世界の芸術家を招いて、町に滞在しながら作品を作ってもらおうと言う、アーティスト イン レジデンスは全国的にも知られるようになり、移住者を増やす取り組みや、企業誘致でも成果を上げています。
人口の減少も緩やかになり、2011年には半世紀ぶりに、転入者の数が転出者の数を上回り、全国で町おこしをを取り組む人達から注目されています。
昨年度の安陪内閣故郷作り有識者会議のメンバーでもありました。
創造的過疎とはどういう取り組みなのか、お聞きしました。
いま、10社 IT関係が多いが、NPOサポートの会社もあります。
大方の方がパソコンで仕事をしている。
光ファイバー網が徳島県では進んでいて、インターネット網が出来ていて、都市部と関係なく仕事ができる。
大容量でも高速で送れることができる。
ここでのメリットは?
仕事と遊びを分けずに自然の状態で、生きる様に働くと言うか、其様な生活が可能、通勤地獄がない、休みたいと思って、外に出ると自然がある。
日大の理工学部を卒業後、アメリカのスタンフォード大学の大学院に進む。
卒業後地元に戻ってきて、家業を継ぐ。(建設業)
道路工事を行って、道路が開通して、山の集落がきらきら輝いて大喜びするが、時間が経過するうちに、段々と集落から引っ越しが始まり、老夫婦、独居老人しか残ってないと言う様な状態になる。
過疎対策で道路を作っているのに、結果的にその道路が過疎を助長する。
公共工事に頼らないような町のあり方を、探る必要があると思い、少しずつ街作りに傾斜して行った。
1927年にアメリカから友好親善の人形 青い目の人形が母校に残っていたが、パスポートを持っていて、出身地が書かれていたので、この人形を送ってくれた人が解るのではないかと調べたら判って、人形をアメリカに里帰りさせたいと、運動を起こして、1991年8月に30名の訪問団を結成してアメリカに渡した。
共有体験をしたこと、それが核になっている。
1997年 徳島県が国際文化村を神山町に作ると言うプロジェクトをうちあげた。
こちらから県、町に提案しようという動きを始めて、そのあたりから変化が始まった。
1985年ぐらいから、アメリカでは高速道路を区間ごとにスポンサーをあてはめて、その人たちが行政に代わって掃除をする仕組みが出来上がっていた。
日本でも必要になるだろうと思って、いつかやろうと思っていたので、之をスタートさせた。
企業の社会的評価、モチベーションを高める。
国際芸術家村を作ろうと始める。
アーティスト イン レジデンス 海外から芸術家を招待して、その人たちに作品を作ってもらって、その製作のサポートを住民が行う。(1999年)
今まで合計で50名は越えてる。 毎年100名の応募がある、海外が多い。
住民と触れ合いながら、作品を作り上げてゆくので、今まで体験しなかったような体験ができる。
町民と同じ生活をするので、一緒に料理を作ったり、人手が必要になった時に住民が手伝いをする。
町内を遍路道があり、昔から接待の文化があり、お遍路さんに向けていたが、アーティストに向けて柔らかく、くるんでしまう様な感じです。
事業費用、一人当たり70万円 3名くるので210万円プラス諸経費で、全体で350万円。
140万円は神山町役場から、不足分はグリーンバレーが行う。
ITベンチャー企業にも同じサービスを振り向けて、結果的にこれがうまく機能した。
1993年ぐらいから、英語の先生が配属されてきて、新任研修を神山でやっていて、3泊4日で町民のお宅に民泊してもらうので、神山温泉に町民の人が入りに行くと、50人ぐらいの外国人が一緒に入っていると言う事が毎年出現している。
それが普通の情景に段々なってゆく。
毎年100人中3人が選ばれるが、選ばれなかった人でも補助がなくても来たいと言う人たちがいるので、需要として、製作の場所、宿泊の場所を有料で準備して、いつでも来られるような場所を作っていこうとしている。 「アーティスト イン 神山」
アーティストは日本に来たいが、どこで、滞在、製作できるかなどの情報が、外国に発信できていない。
もっと日本全体に来ると思う。
2004年 NPOグリーンバレー 「創造的過疎」を目指す。
数だけではなく、内容的なことに注目する必要がある。
人口構成、或いは多様な働き方を生みだすことで、過疎の問題はある適度克服できるのではないかと思う。
町から移住交流支援センターの仕事を受託されている。
2010年に神山町 小学校1学年で28.9人 このまま何もしなければ2035年には12.5人になると推定、其れを20人いるというモデルを作って、何世帯きてくれればいいかを、考えた。
5世帯20名 うち子供10名が入ってきてくれれば達成できる、其れを目標にする。
フレンチの店をオープンしたりして、夜行く場所がないと言う様な事に対応する。
店の種類を事前に絞り込むことによって、結果的に町をデザインできる。
5年間で70世帯 125人が神山町に転入、2011年転入者が転出者を12人上回った。(画期的な事)
2012年、2013年は少し減少したが、何もしなかった当時に比べて緩和している。
神山は山間部にあるのにもかかわらず、自由にさせてもらうと言う気がする。
外国人からも、なんでこんなに心を開いてくれるのかと、言われる。
神山塾 人材育成事業 厚生労働省の関連の民間の職業訓練機関 6か月間掛けて養成しようとする事業。
5期が終了して、6期生は14名 66名はここを巣立っていったが、そのうちで4割がそのまま移住者として残る。
6組のカップルも誕生した。
よそからやってきた30歳前後の、クリエーティブな子たちがいろんな新しいことを始めて、町に変化を起こしている。
町民が自信を持ち始めた。
やりようによってはどうにかなるものだと、見つけられた人が結構いると思う。
それぞれの自分の力をつかいながら自分たち出来る事を、神山の至るとこで始めているので、町全体が熱を持ってきている状態だと思います。
「兎に角 始めましょう」 やらずに心配している人が多いが、先ずはやることによって、周囲の情景を変えて、そこで何をやって行ったらいいのかを見つけ出す。
壁にはぶつかるが。
最初から反対する人がいると言う事は、当たり前と考えていれば、めげることはない。
アイディア よそから持ってきてくれる。 自分たちのプログラムと合わせれば、新しいことが生まれるかもしれないと、読み変えながら、考える。
これからスーパーハイビジョンの時代 映像のアーカイブ事業が神山に アーカイブする場所ができる。
最先端の場所になりつつある。
カフェ、パブは人間の情報が得られるので、人の出会いが生まれて、新しいものが生まれやすくなる。
そこにどんな人がいるか、によって価値が決まってくるような気がします。
変化を生む町にしたい。
61歳 徳島県 神山町 昭和30年頃 人口2万1000人が現在 6000人 林業の衰退などで減り続けている。
10年前町の有志とNPO法人を設立 「日本の田舎をステキに変える」を合言葉に町おこしに取り組んでいます。
日本と世界の芸術家を招いて、町に滞在しながら作品を作ってもらおうと言う、アーティスト イン レジデンスは全国的にも知られるようになり、移住者を増やす取り組みや、企業誘致でも成果を上げています。
人口の減少も緩やかになり、2011年には半世紀ぶりに、転入者の数が転出者の数を上回り、全国で町おこしをを取り組む人達から注目されています。
昨年度の安陪内閣故郷作り有識者会議のメンバーでもありました。
創造的過疎とはどういう取り組みなのか、お聞きしました。
いま、10社 IT関係が多いが、NPOサポートの会社もあります。
大方の方がパソコンで仕事をしている。
光ファイバー網が徳島県では進んでいて、インターネット網が出来ていて、都市部と関係なく仕事ができる。
大容量でも高速で送れることができる。
ここでのメリットは?
仕事と遊びを分けずに自然の状態で、生きる様に働くと言うか、其様な生活が可能、通勤地獄がない、休みたいと思って、外に出ると自然がある。
日大の理工学部を卒業後、アメリカのスタンフォード大学の大学院に進む。
卒業後地元に戻ってきて、家業を継ぐ。(建設業)
道路工事を行って、道路が開通して、山の集落がきらきら輝いて大喜びするが、時間が経過するうちに、段々と集落から引っ越しが始まり、老夫婦、独居老人しか残ってないと言う様な状態になる。
過疎対策で道路を作っているのに、結果的にその道路が過疎を助長する。
公共工事に頼らないような町のあり方を、探る必要があると思い、少しずつ街作りに傾斜して行った。
1927年にアメリカから友好親善の人形 青い目の人形が母校に残っていたが、パスポートを持っていて、出身地が書かれていたので、この人形を送ってくれた人が解るのではないかと調べたら判って、人形をアメリカに里帰りさせたいと、運動を起こして、1991年8月に30名の訪問団を結成してアメリカに渡した。
共有体験をしたこと、それが核になっている。
1997年 徳島県が国際文化村を神山町に作ると言うプロジェクトをうちあげた。
こちらから県、町に提案しようという動きを始めて、そのあたりから変化が始まった。
1985年ぐらいから、アメリカでは高速道路を区間ごとにスポンサーをあてはめて、その人たちが行政に代わって掃除をする仕組みが出来上がっていた。
日本でも必要になるだろうと思って、いつかやろうと思っていたので、之をスタートさせた。
企業の社会的評価、モチベーションを高める。
国際芸術家村を作ろうと始める。
アーティスト イン レジデンス 海外から芸術家を招待して、その人たちに作品を作ってもらって、その製作のサポートを住民が行う。(1999年)
今まで合計で50名は越えてる。 毎年100名の応募がある、海外が多い。
住民と触れ合いながら、作品を作り上げてゆくので、今まで体験しなかったような体験ができる。
町民と同じ生活をするので、一緒に料理を作ったり、人手が必要になった時に住民が手伝いをする。
町内を遍路道があり、昔から接待の文化があり、お遍路さんに向けていたが、アーティストに向けて柔らかく、くるんでしまう様な感じです。
事業費用、一人当たり70万円 3名くるので210万円プラス諸経費で、全体で350万円。
140万円は神山町役場から、不足分はグリーンバレーが行う。
ITベンチャー企業にも同じサービスを振り向けて、結果的にこれがうまく機能した。
1993年ぐらいから、英語の先生が配属されてきて、新任研修を神山でやっていて、3泊4日で町民のお宅に民泊してもらうので、神山温泉に町民の人が入りに行くと、50人ぐらいの外国人が一緒に入っていると言う事が毎年出現している。
それが普通の情景に段々なってゆく。
毎年100人中3人が選ばれるが、選ばれなかった人でも補助がなくても来たいと言う人たちがいるので、需要として、製作の場所、宿泊の場所を有料で準備して、いつでも来られるような場所を作っていこうとしている。 「アーティスト イン 神山」
アーティストは日本に来たいが、どこで、滞在、製作できるかなどの情報が、外国に発信できていない。
もっと日本全体に来ると思う。
2004年 NPOグリーンバレー 「創造的過疎」を目指す。
数だけではなく、内容的なことに注目する必要がある。
人口構成、或いは多様な働き方を生みだすことで、過疎の問題はある適度克服できるのではないかと思う。
町から移住交流支援センターの仕事を受託されている。
2010年に神山町 小学校1学年で28.9人 このまま何もしなければ2035年には12.5人になると推定、其れを20人いるというモデルを作って、何世帯きてくれればいいかを、考えた。
5世帯20名 うち子供10名が入ってきてくれれば達成できる、其れを目標にする。
フレンチの店をオープンしたりして、夜行く場所がないと言う様な事に対応する。
店の種類を事前に絞り込むことによって、結果的に町をデザインできる。
5年間で70世帯 125人が神山町に転入、2011年転入者が転出者を12人上回った。(画期的な事)
2012年、2013年は少し減少したが、何もしなかった当時に比べて緩和している。
神山は山間部にあるのにもかかわらず、自由にさせてもらうと言う気がする。
外国人からも、なんでこんなに心を開いてくれるのかと、言われる。
神山塾 人材育成事業 厚生労働省の関連の民間の職業訓練機関 6か月間掛けて養成しようとする事業。
5期が終了して、6期生は14名 66名はここを巣立っていったが、そのうちで4割がそのまま移住者として残る。
6組のカップルも誕生した。
よそからやってきた30歳前後の、クリエーティブな子たちがいろんな新しいことを始めて、町に変化を起こしている。
町民が自信を持ち始めた。
やりようによってはどうにかなるものだと、見つけられた人が結構いると思う。
それぞれの自分の力をつかいながら自分たち出来る事を、神山の至るとこで始めているので、町全体が熱を持ってきている状態だと思います。
「兎に角 始めましょう」 やらずに心配している人が多いが、先ずはやることによって、周囲の情景を変えて、そこで何をやって行ったらいいのかを見つけ出す。
壁にはぶつかるが。
最初から反対する人がいると言う事は、当たり前と考えていれば、めげることはない。
アイディア よそから持ってきてくれる。 自分たちのプログラムと合わせれば、新しいことが生まれるかもしれないと、読み変えながら、考える。
これからスーパーハイビジョンの時代 映像のアーカイブ事業が神山に アーカイブする場所ができる。
最先端の場所になりつつある。
カフェ、パブは人間の情報が得られるので、人の出会いが生まれて、新しいものが生まれやすくなる。
そこにどんな人がいるか、によって価値が決まってくるような気がします。
変化を生む町にしたい。
2014年6月6日金曜日
山本祐ノ介(指揮者) ・ミャンマーのクラシック・オーケストラを支援
山本祐ノ介(指揮者) ミャンマーのクラシック・オーケストラを支援
1963年東京生まれ 東京芸術大学を卒業、同大学院を修了、現在はソロのチェリストとして、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団常任指揮者として活躍しています。
父は作曲家で指揮者だった山本直純さん、母も作曲家の山本正美さん、そして祖父も兄も作曲家。曽祖父はバイオリニストという音楽一家に生まれました。
昨年、ミャンマーの国立交響楽団を指揮し、その後継続的に、指揮、編曲などの支援を行ってミャンマーの音楽教育に携わったいます。
小学校のころからチェロをやってきたが、中学生の時は指揮もやってきた。
たまたま小学校の時にオーケストラがあって、ピアノを弾く係になる予定で有ったが、鉄棒で左腕を折ってしまって、チェロを弾く事は出来たので、初めてチェロを弾いた。
斎藤秀雄先生のところに突然連れていかれて、斎藤建寛先生に習う事になる。
東京交響楽団にいて、自分はこうしたいと言う想いもあり、指揮の方も一生懸命やる様になった。
編曲もやるようにもなる。
楽しい音楽をやりたいと思っている。
音楽自体が生き生きしていて、演奏者が楽しく演奏して、お客さんも楽しく聞いてて、心がうきうきして、ジーンとするとか、曲の内容、ジャンルとかは意識しないで、ボストンポップスが憧れです。(ボストン交響楽団のメンバーが作っている、ファミリー向けのコンサートをやっている)
アメリカの文化の懐の深さがあり、日本でもそういう事をやりたいなあと、ずーと思っていることです。
ミャンマーの音楽との関係?
偶然、ある人が自分はミャンマーをよく知っているんだけれど、ミャンマーにいってみないかとの話があった。
父がビルマの竪琴の音楽監督をしたんです。(1985年) その時にチェロを私もやっていた。
ビルマの事は頭の中では気になっていて、オーケストラがあることが解り、2013年5月にミャンマーのオーケストラの見学に行った。
ビルマ族がかなりいて、後は少数民族が色々いる。
仏教が主だが、ほかの宗教もある。 イギリスの統治下があった。
キリスト教の人たちは教会で英語、バイオリン、ピアノを習っていたりする。
ミャンマー国立交響楽団 リハーサルを見せてもらう事になる。
指揮してほしいと言われて、やってみて、色々アドバイスもした。
指導者が少ないし、手伝ってほしいと言われる。 しかし払うお金はないと言われた。
放送番組ならお金がかからないから、放送番組を一緒に作りませんかと、提案した。
編曲したり(足りない楽器にあわせて)、譜面を用意したりした。
アセアンの曲をやりたいというので、アセアン10カ国の民謡を集めて、メドレーを編曲して作った。
メドレーをメインに9月に収録を行った。
文化大学を卒業した人が、交響楽団に入るが、大学に入る時に音楽を始める人もいる。
バイオリンなどもミャンマー流の弾き方、5線譜ではない。
モーツアルトを知っているか知っていないか、と言うぐらいの感じ。
そういう人たちが卒業して、オーケストラと言う就職があって、そこに入ってきて、そこで初めてモーツアルトを弾く、5線譜と言うものがあるぞと、そこから始まってる。
音楽は義務教育には入っていない。
クラシック音楽自体知らない人が多い。
ピアノを両手の各々2本の指で弾く。
何故かと思ったら、木琴の様な楽器があり、民俗音楽の中にあり、それをピアノの弾き方に取りこんでいた。
9月にいったときには、最初10日後に録音するのは無理だなと思った。
曲を覚えてゆくと、割と弾ける。
収録の時には最初とは考えられないぐらい巧くなった。
自己満足するだけでいいのかなあと、自分自身思った。
相手もつぎは何をしてくれるのだ、と言う様な感じだった。
オーケストラの方はお金もないし、お金もいる事だし、どうしたものかと思った。
自分もこれる時間を見つけてくるから、楽譜の読み方から含めて、一緒にやりましょうと提案した。
政府も認めてくれたが、貯金をすこしずつ取り崩す事になる。
一流ホテルが60ドルで泊まれたところが、今年は300ドルする。
スポンサー探しをしながら、やっている。
2週間 年4回行く事になる。 3月には、いってきた。
3拍子を理解できない人がいる。(西洋音楽のスタイルが解らない)
国立劇場で演奏会を行う。 妻(小山京子)もピアニストなので巻き込んで、やろうとしている。
民謡、映画音楽などを編曲して、そういったものもやろうとしている。
気が付くといろんなことが、自分の中でスキルがあがってるというか、とても感じます。
敷居の高くないクラッシックを普及させたい、そういう風なことを考える時に、ミャンマーでどうやってゆくかを考える事は、そのまま日本でどうしていったらいいか、と言う事に対して、もの凄く参考になる。
ミャンマーの人は日本人を凄く好きですし、製品も日本の製品をもの凄く信じている。
車などは全部日本車です。
ミャンマーの友だちが沢山出来たので、ミャンマーの国をとっても好きになりました。
平和と言うのは、そういうところからでてくるというのは、あると思います。
1963年東京生まれ 東京芸術大学を卒業、同大学院を修了、現在はソロのチェリストとして、東京ニューフィルハーモニック管弦楽団常任指揮者として活躍しています。
父は作曲家で指揮者だった山本直純さん、母も作曲家の山本正美さん、そして祖父も兄も作曲家。曽祖父はバイオリニストという音楽一家に生まれました。
昨年、ミャンマーの国立交響楽団を指揮し、その後継続的に、指揮、編曲などの支援を行ってミャンマーの音楽教育に携わったいます。
小学校のころからチェロをやってきたが、中学生の時は指揮もやってきた。
たまたま小学校の時にオーケストラがあって、ピアノを弾く係になる予定で有ったが、鉄棒で左腕を折ってしまって、チェロを弾く事は出来たので、初めてチェロを弾いた。
斎藤秀雄先生のところに突然連れていかれて、斎藤建寛先生に習う事になる。
東京交響楽団にいて、自分はこうしたいと言う想いもあり、指揮の方も一生懸命やる様になった。
編曲もやるようにもなる。
楽しい音楽をやりたいと思っている。
音楽自体が生き生きしていて、演奏者が楽しく演奏して、お客さんも楽しく聞いてて、心がうきうきして、ジーンとするとか、曲の内容、ジャンルとかは意識しないで、ボストンポップスが憧れです。(ボストン交響楽団のメンバーが作っている、ファミリー向けのコンサートをやっている)
アメリカの文化の懐の深さがあり、日本でもそういう事をやりたいなあと、ずーと思っていることです。
ミャンマーの音楽との関係?
偶然、ある人が自分はミャンマーをよく知っているんだけれど、ミャンマーにいってみないかとの話があった。
父がビルマの竪琴の音楽監督をしたんです。(1985年) その時にチェロを私もやっていた。
ビルマの事は頭の中では気になっていて、オーケストラがあることが解り、2013年5月にミャンマーのオーケストラの見学に行った。
ビルマ族がかなりいて、後は少数民族が色々いる。
仏教が主だが、ほかの宗教もある。 イギリスの統治下があった。
キリスト教の人たちは教会で英語、バイオリン、ピアノを習っていたりする。
ミャンマー国立交響楽団 リハーサルを見せてもらう事になる。
指揮してほしいと言われて、やってみて、色々アドバイスもした。
指導者が少ないし、手伝ってほしいと言われる。 しかし払うお金はないと言われた。
放送番組ならお金がかからないから、放送番組を一緒に作りませんかと、提案した。
編曲したり(足りない楽器にあわせて)、譜面を用意したりした。
アセアンの曲をやりたいというので、アセアン10カ国の民謡を集めて、メドレーを編曲して作った。
メドレーをメインに9月に収録を行った。
文化大学を卒業した人が、交響楽団に入るが、大学に入る時に音楽を始める人もいる。
バイオリンなどもミャンマー流の弾き方、5線譜ではない。
モーツアルトを知っているか知っていないか、と言うぐらいの感じ。
そういう人たちが卒業して、オーケストラと言う就職があって、そこに入ってきて、そこで初めてモーツアルトを弾く、5線譜と言うものがあるぞと、そこから始まってる。
音楽は義務教育には入っていない。
クラシック音楽自体知らない人が多い。
ピアノを両手の各々2本の指で弾く。
何故かと思ったら、木琴の様な楽器があり、民俗音楽の中にあり、それをピアノの弾き方に取りこんでいた。
9月にいったときには、最初10日後に録音するのは無理だなと思った。
曲を覚えてゆくと、割と弾ける。
収録の時には最初とは考えられないぐらい巧くなった。
自己満足するだけでいいのかなあと、自分自身思った。
相手もつぎは何をしてくれるのだ、と言う様な感じだった。
オーケストラの方はお金もないし、お金もいる事だし、どうしたものかと思った。
自分もこれる時間を見つけてくるから、楽譜の読み方から含めて、一緒にやりましょうと提案した。
政府も認めてくれたが、貯金をすこしずつ取り崩す事になる。
一流ホテルが60ドルで泊まれたところが、今年は300ドルする。
スポンサー探しをしながら、やっている。
2週間 年4回行く事になる。 3月には、いってきた。
3拍子を理解できない人がいる。(西洋音楽のスタイルが解らない)
国立劇場で演奏会を行う。 妻(小山京子)もピアニストなので巻き込んで、やろうとしている。
民謡、映画音楽などを編曲して、そういったものもやろうとしている。
気が付くといろんなことが、自分の中でスキルがあがってるというか、とても感じます。
敷居の高くないクラッシックを普及させたい、そういう風なことを考える時に、ミャンマーでどうやってゆくかを考える事は、そのまま日本でどうしていったらいいか、と言う事に対して、もの凄く参考になる。
ミャンマーの人は日本人を凄く好きですし、製品も日本の製品をもの凄く信じている。
車などは全部日本車です。
ミャンマーの友だちが沢山出来たので、ミャンマーの国をとっても好きになりました。
平和と言うのは、そういうところからでてくるというのは、あると思います。
2014年6月5日木曜日
大竹おさむ(木工家) ・木の不思議に魅せられて
大竹おさむ(木工家) 木の不思議に魅せられて
1953年生まれ 大学を卒業後、サラリーマン生活を経て、木工家具を作る仕事に転身しました。
その後20年安曇野の工房で一人、木と向き合い椅子やテーブルなどを作っています。
その手触りの良い滑らかな肌合いと木の木目をいかした作品は、多くの人に愛され各地での展覧会や個展で注目されています。
木は生命活動の不思議さ、人とのかかわりの不思議さなどに満ちていると言います。
大竹さんはその不思議さを感じ取りながら、木には人を幸せにする力があると信じて、家具作りに取り組んでいます。
35歳でサラリーマンから転身。
大学を出てから、技術系の企業に就職したが、12年務めていて、当時仕事が厳しくて、心理的にも参ってしまった。
海外出張が多かった。 様々な国に、ひっきりなしにいっていた。 夜遅くまで残業していた。
脱サラを妻に話をしたら、それいいんじゃないかしら、と言われて、気の抜けるような感じだった。
NHKの番組で CWニコルさんが物作りの工房を訪ねて、インタビューする番組だったが、こんな仕事をしたいと思った。
調べてみたりしているうちに、段々この道に入っていった。
最初に感じたのは、木と言うのは不思議なものであると、感じた。
木と言うのは、目に見えない、空気中の二酸化炭素と、水と、太陽の光、 光合成の作用で葉が茂り、木が大きくなるが、直径が1mを越える大木でも、同様で空気中の二酸化炭素と、水と、太陽の光ででき上っていて、実に不思議だなあと感じた。
こんなに硬くて重くて丈夫なものが、目に見えない、ほんの二酸化炭素などからできている、この不思議さ段々感じるようになりました。
木を利用させてもらって生活をしているが、木がそんな風にして地面から生えてというのが、とっても不思議です。(生命活動の不思議さ)
木には年輪がある。 春夏秋冬の季節の変化で1年ごとに広がってゆく。
私は61歳ですが、樹齢100年の木ですと、途中に私が生まれた時と同じ年輪がある。
この年輪の時に生まれて、この年輪に小学校にいってと、自分が生きてきた歴史が年輪の中に物差しの様に、残っていると言う事、之が又不思議なこと。
同じ時間を共有してきた、と言う事が木の断面に見てとれる。
神社には大きな大木があり、御神木としてしめ縄があるが、人間と共に暮らしてきた、人間よりはるかに以前から生きている、そういう事に神様を感じて、たてまつっていると思います。
北欧でも同様で「トネリコ」が神聖な木として、扱われている。
木のなかには、精霊が宿っていて、こんこんと叩いて精霊を呼び覚まして、不吉なこと、他人の悪口等を許してもらう、そういう風習がヨーロッパにはある。
日本は木の文化の国 世界最古の建物は法隆寺。
正倉院の木工品、宝物として残っており、日本人と木のかかわりは非常に深い。
椅子、テーブル 使う木は広葉樹 針葉樹は比較的柔らかい、まっすぐに延びるので建築に向く。
桜、栗、楢、楓など使っている。
予め板を十分に乾燥させてからでないと、使えない。
厚さ1寸(3cm)につき、1年乾燥させる。 2寸だと2年乾燥させることが必要。
伐採の時期は冬が一番いいと言われる。(水を吸い上げていない状態)
かんな、のみなどで加工する時は、工夫した自分なりの道具でないと、思い通りの加工ができない。
手で扱う刃物は、自分で砥がないといけないので、巧く砥げるようになるのは一番大事です。
家具に使う広葉樹は固いので、刃物の切れ味が悪いと仕事にならない。
テーブルの表面を削るという作業に入った時は、30分に一回は砥ぎます。
家具を作る時に一番大事なのは使いやすさだと思います。
いくら見た目に美しくても使いにくかったら失敗です。
椅子 座りごこち。 長時間座っても疲れない。 簡単ではない、奥が深いものです。
背もたれ、座面 位置、角度、形 総合的に判断して、設計しなければいけない。
座りごこちの良い椅子を作って、それを基本にして守りながら、考えて形を色々変えてきた。
滑らかな手ざわりも、いい座りごこちの一つ。 工場で機械ではできないものだと思います。
木目を生かすと言う事も、手作りならではの世界だと思います。
外国人は緑、青とか平気で塗ってしまうし、木目を気にしないが、日本人は木目、肌触り等に非常に関心を持つ。
①新しく物を作りだす、創造性があり楽しい。
②実用品を作っていることが又楽しい。(お客様に使ってもらえる、役に立つ)
③木は環境に優しい。 空気を汚すようなものは出てこない。 捨てられても環境を汚さない。
生活している環境の中で木が使われてない、電車など、木で出来てはいない。(昔は木で造られていた) 車も同様なので、ちょっと寂しい。
マンションも同様、全部合成品。 木がないので落ちつかない気がする。
我が家に戻ってくると身近に木に接するのでホッと安心する。
せめて日々暮らす住宅の中には、木で出来たものをなるべく多く使ってもらったらいいんじゃないかと思う、人間の気持ちを楽にする、癒す効果があると思っているので、なるべく木のものを使っていただきたいと思います。
山と海は一見関係ないと思われがちだが、関係がある。
人間が生活してゆく上では、森と海は密接な関係がある。
山で育った木が枯れ葉を落として、地面に落ちて、分解されて特定な物質になり、川に流れ出て、海に行って、そこで植物性プランクトンを育てる源になり、其れを食べた魚が成長する。
漁師が取れた海の幸を祭りの時などに、山の神社に奉納する風習があるが、漁師さんたちは直感的に森の恩恵を知っていたのではないだろうか。
木を使って物を作ると言う事は人間にとって大事な事と思うので、将来も続いていってほしい。
我が家には大きなテーブルがあって、それぞれそこに集まって、自分の仕事なり、学習なり、いろいろやっていた、大黒柱の様な存在だった様に思う。
集まって、家族がコミュニケーションを持てるような家具を作れれば幸せなことだと思います。
1953年生まれ 大学を卒業後、サラリーマン生活を経て、木工家具を作る仕事に転身しました。
その後20年安曇野の工房で一人、木と向き合い椅子やテーブルなどを作っています。
その手触りの良い滑らかな肌合いと木の木目をいかした作品は、多くの人に愛され各地での展覧会や個展で注目されています。
木は生命活動の不思議さ、人とのかかわりの不思議さなどに満ちていると言います。
大竹さんはその不思議さを感じ取りながら、木には人を幸せにする力があると信じて、家具作りに取り組んでいます。
35歳でサラリーマンから転身。
大学を出てから、技術系の企業に就職したが、12年務めていて、当時仕事が厳しくて、心理的にも参ってしまった。
海外出張が多かった。 様々な国に、ひっきりなしにいっていた。 夜遅くまで残業していた。
脱サラを妻に話をしたら、それいいんじゃないかしら、と言われて、気の抜けるような感じだった。
NHKの番組で CWニコルさんが物作りの工房を訪ねて、インタビューする番組だったが、こんな仕事をしたいと思った。
調べてみたりしているうちに、段々この道に入っていった。
最初に感じたのは、木と言うのは不思議なものであると、感じた。
木と言うのは、目に見えない、空気中の二酸化炭素と、水と、太陽の光、 光合成の作用で葉が茂り、木が大きくなるが、直径が1mを越える大木でも、同様で空気中の二酸化炭素と、水と、太陽の光ででき上っていて、実に不思議だなあと感じた。
こんなに硬くて重くて丈夫なものが、目に見えない、ほんの二酸化炭素などからできている、この不思議さ段々感じるようになりました。
木を利用させてもらって生活をしているが、木がそんな風にして地面から生えてというのが、とっても不思議です。(生命活動の不思議さ)
木には年輪がある。 春夏秋冬の季節の変化で1年ごとに広がってゆく。
私は61歳ですが、樹齢100年の木ですと、途中に私が生まれた時と同じ年輪がある。
この年輪の時に生まれて、この年輪に小学校にいってと、自分が生きてきた歴史が年輪の中に物差しの様に、残っていると言う事、之が又不思議なこと。
同じ時間を共有してきた、と言う事が木の断面に見てとれる。
神社には大きな大木があり、御神木としてしめ縄があるが、人間と共に暮らしてきた、人間よりはるかに以前から生きている、そういう事に神様を感じて、たてまつっていると思います。
北欧でも同様で「トネリコ」が神聖な木として、扱われている。
木のなかには、精霊が宿っていて、こんこんと叩いて精霊を呼び覚まして、不吉なこと、他人の悪口等を許してもらう、そういう風習がヨーロッパにはある。
日本は木の文化の国 世界最古の建物は法隆寺。
正倉院の木工品、宝物として残っており、日本人と木のかかわりは非常に深い。
椅子、テーブル 使う木は広葉樹 針葉樹は比較的柔らかい、まっすぐに延びるので建築に向く。
桜、栗、楢、楓など使っている。
予め板を十分に乾燥させてからでないと、使えない。
厚さ1寸(3cm)につき、1年乾燥させる。 2寸だと2年乾燥させることが必要。
伐採の時期は冬が一番いいと言われる。(水を吸い上げていない状態)
かんな、のみなどで加工する時は、工夫した自分なりの道具でないと、思い通りの加工ができない。
手で扱う刃物は、自分で砥がないといけないので、巧く砥げるようになるのは一番大事です。
家具に使う広葉樹は固いので、刃物の切れ味が悪いと仕事にならない。
テーブルの表面を削るという作業に入った時は、30分に一回は砥ぎます。
家具を作る時に一番大事なのは使いやすさだと思います。
いくら見た目に美しくても使いにくかったら失敗です。
椅子 座りごこち。 長時間座っても疲れない。 簡単ではない、奥が深いものです。
背もたれ、座面 位置、角度、形 総合的に判断して、設計しなければいけない。
座りごこちの良い椅子を作って、それを基本にして守りながら、考えて形を色々変えてきた。
滑らかな手ざわりも、いい座りごこちの一つ。 工場で機械ではできないものだと思います。
木目を生かすと言う事も、手作りならではの世界だと思います。
外国人は緑、青とか平気で塗ってしまうし、木目を気にしないが、日本人は木目、肌触り等に非常に関心を持つ。
①新しく物を作りだす、創造性があり楽しい。
②実用品を作っていることが又楽しい。(お客様に使ってもらえる、役に立つ)
③木は環境に優しい。 空気を汚すようなものは出てこない。 捨てられても環境を汚さない。
生活している環境の中で木が使われてない、電車など、木で出来てはいない。(昔は木で造られていた) 車も同様なので、ちょっと寂しい。
マンションも同様、全部合成品。 木がないので落ちつかない気がする。
我が家に戻ってくると身近に木に接するのでホッと安心する。
せめて日々暮らす住宅の中には、木で出来たものをなるべく多く使ってもらったらいいんじゃないかと思う、人間の気持ちを楽にする、癒す効果があると思っているので、なるべく木のものを使っていただきたいと思います。
山と海は一見関係ないと思われがちだが、関係がある。
人間が生活してゆく上では、森と海は密接な関係がある。
山で育った木が枯れ葉を落として、地面に落ちて、分解されて特定な物質になり、川に流れ出て、海に行って、そこで植物性プランクトンを育てる源になり、其れを食べた魚が成長する。
漁師が取れた海の幸を祭りの時などに、山の神社に奉納する風習があるが、漁師さんたちは直感的に森の恩恵を知っていたのではないだろうか。
木を使って物を作ると言う事は人間にとって大事な事と思うので、将来も続いていってほしい。
我が家には大きなテーブルがあって、それぞれそこに集まって、自分の仕事なり、学習なり、いろいろやっていた、大黒柱の様な存在だった様に思う。
集まって、家族がコミュニケーションを持てるような家具を作れれば幸せなことだと思います。
2014年6月4日水曜日
増井 元(元出版社辞書編集者) ・辞書を作る
増井 元(元出版社辞書編集者) 辞書を作る
昭和20年東京生まれ 東京大学文学部を卒業し、大学院に進み日本の古典文学を研究していましたが、中退して、岩波書店に入社しました。
入社後間もなく辞典編集部に配属されました。
増井さんは辞書作りはやりたい仕事では無いかったと、いう事ですが、辞書編纂者として著名な日本語学者の見坊 豪紀さん「辞書鏡論」を知り、この言葉を常に念頭に置いて、辞書作りに取り組まれたと言う事です。
辞書はどのようにして造られ、辞典の編集者はどのような仕事をしているのでしょうか?
辞書のページ数、新しく採用する語数、言葉の数の設定、辞書に載せる言葉選び、新しく載せる言葉の説明作りなど、製作から読者とのやりとりまで、全て編集者の仕事ですと言われます。
30数年辞書を作ってきた。
広辞苑、国語辞典 ほとんどこれだけ。 それ以外にお見せするほどのものは無い。
広辞苑を改定しようとすると、短くて8年掛かる。
何十年掛かっても、この2冊しかない。
辞典は規模が小さくても、長い年数が掛かります。
広辞苑の第六版を最後に退職と成る。
綿密に、かかる期間、項目数、ページ数はこのくらいだとか、見通しを持ったうえでないと、取りかからないといけない。
辞書はある程度、世の中ではこうなってますよと、そのままに出すのが、素直な辞典だと思う。
学術書、小説などは内容的な責任者は著者、それを助けたり企画をしたりするのが、本の形にするための諸々の作業は編集者が受け持つ。
辞典も同じだが、基本的にはその本の著者は「編者」という。
編者は大勢の方々が行うが、其原稿を手を入れたり、整理したりして一つの辞典に編むが、辞典の一番の中心人物、「編者」 出版社の中の編集者と名前が重なってしまう。
編者と編集者は違う。
編集者は普通の本の編集者と同じような事をする。
読者とのやり取りは結構大変な仕事、この箇所はおかしいんじゃないか、私の知っている事柄と違っているとか、手紙、電話などが吃驚するほど沢山届く。
その対応が凄く大変ではあるが、辞書が成長してゆくに当たっては、非常に貴重な情報となる。
辞典部 40人ぐらいいた。 辞典の仕事ははっきりしたイメージがなかった。
見坊豪紀先生の「辞書は鏡である」とおっしゃった。
私の仕事の30年間を支えてくれた言葉。
①世の中の言葉のあり方をありのままに写す。
世の中の言葉を常に観察していて、観察が辞書作りの基本なんだ、とおっしゃる。
②世の中の言葉をただすための規範としての鏡である。
辞書は規範としての鏡と、客観的な世の中のものを写しだす鏡としての、二つの鏡の間の自分の位置を定めている。
正しい日本語とはなんなの、として辞書を引く人が圧倒的に多い。
辞書を作る立場からすると、上から目線で教えているつもりはない。
若者言葉、俗に近い言葉が入りこんでくる、世の中の言葉の使われ方がそうなんだ、辞書はそういったものも取り入れる役割として持っていると、おっしゃる。
言葉は変化するもの。
世間の人が之は聞き苦しいと言う中に、「ら」?抜き言葉 があるが、書く→書ける 行く→行ける
話す→話せる
そういう事ができますよ 可能動詞と言っているが、 可能動詞はいいという。
見れる 寝れる 着れる、はいやだと 見るはいいが見れるはどうしていけないのか。
書く 書ける 話す 話せる 定着したのは明治時代。 第一陣の可能動詞
第2陣の可能動詞 見れる 話せる 書けるが定着しつつある。
7割、8割の人が使って、増えてきている。
全ての動詞について増えてきている、それは法則性のある乱れ、法則性のある乱れは変化なんです。
「全然」 打ち消しの言葉と一緒に使うが、最近は 、全然いい。 全然よくできた。肯定と一緒にもつかう。
明治の文学作品を見ても、同様な使用をしている。
版を追うごとに新しい言葉を補っている。
補い方の方針が変わってきている。
専門語がかつては多かったが、いまは日常よく使う言葉が乗っているかどうか、気を配る様になった。
かつては辞典が勉強部屋に在って、知らない言葉を学習するとか、身につける時に辞書を取り出して調べると言う事を想定していたが、今はTVの脇に置いておいたりして、日常生活で疑問に思った時などに、開いてみるといった事が辞典の役割と想定のもとに、するようになった。
新聞から項目を取ると言う事が非常に多くなった。(生活面、家庭面)
国語辞典がどの程度新しい言葉に密着して付き合うかは、編集者、編者の中で話し合われる。
辞典は世間の後について行く。
「介護」 第3版に乗っている。 1983年発行
日常的な会話には無かったが、時に之から流れてゆく先を見ると言う、先見の明があった。
観察力が必要、これから先、どういう世に中になってゆくかは勉強する必要がある。
辞書はなるべくいろんな情報を伝えたいので、短く簡潔に正しく伝える文章にする。
製本 厚い本を想定していないので、製本の機械から制約があり、8cm以内となる。
紙の厚さを薄く、丈夫な紙を要求する。
言葉をは増やすけれど、ページ数は増えないようにする、解説を削って、小さくしてゆくしかない。
第六班は24万語入っている。 2.5kg以上ある。
電子辞書 データ容量 困らない。 引き方が楽だと言う人がいる。
機能性 データの違いというものをもっと考えていいのではないか、と思っている。
長い期間、大勢でやっているので、いよいよ本として目途がつくと、ほっとする。
辞書の誤植は本が入品した日に見つかる、という変な法則がある。
辞書に間違いがあってはいいのか、申し開きが立たない。
リカバーをどうしたらいいか、お詫びの手紙を書く、4000通。
辞書をつくっていて厳しいのは間違いが辞書のなかに在ったと気付いた時。
言葉と蝶のウオッチングをしてゆきます。
昭和20年東京生まれ 東京大学文学部を卒業し、大学院に進み日本の古典文学を研究していましたが、中退して、岩波書店に入社しました。
入社後間もなく辞典編集部に配属されました。
増井さんは辞書作りはやりたい仕事では無いかったと、いう事ですが、辞書編纂者として著名な日本語学者の見坊 豪紀さん「辞書鏡論」を知り、この言葉を常に念頭に置いて、辞書作りに取り組まれたと言う事です。
辞書はどのようにして造られ、辞典の編集者はどのような仕事をしているのでしょうか?
辞書のページ数、新しく採用する語数、言葉の数の設定、辞書に載せる言葉選び、新しく載せる言葉の説明作りなど、製作から読者とのやりとりまで、全て編集者の仕事ですと言われます。
30数年辞書を作ってきた。
広辞苑、国語辞典 ほとんどこれだけ。 それ以外にお見せするほどのものは無い。
広辞苑を改定しようとすると、短くて8年掛かる。
何十年掛かっても、この2冊しかない。
辞典は規模が小さくても、長い年数が掛かります。
広辞苑の第六版を最後に退職と成る。
綿密に、かかる期間、項目数、ページ数はこのくらいだとか、見通しを持ったうえでないと、取りかからないといけない。
辞書はある程度、世の中ではこうなってますよと、そのままに出すのが、素直な辞典だと思う。
学術書、小説などは内容的な責任者は著者、それを助けたり企画をしたりするのが、本の形にするための諸々の作業は編集者が受け持つ。
辞典も同じだが、基本的にはその本の著者は「編者」という。
編者は大勢の方々が行うが、其原稿を手を入れたり、整理したりして一つの辞典に編むが、辞典の一番の中心人物、「編者」 出版社の中の編集者と名前が重なってしまう。
編者と編集者は違う。
編集者は普通の本の編集者と同じような事をする。
読者とのやり取りは結構大変な仕事、この箇所はおかしいんじゃないか、私の知っている事柄と違っているとか、手紙、電話などが吃驚するほど沢山届く。
その対応が凄く大変ではあるが、辞書が成長してゆくに当たっては、非常に貴重な情報となる。
辞典部 40人ぐらいいた。 辞典の仕事ははっきりしたイメージがなかった。
見坊豪紀先生の「辞書は鏡である」とおっしゃった。
私の仕事の30年間を支えてくれた言葉。
①世の中の言葉のあり方をありのままに写す。
世の中の言葉を常に観察していて、観察が辞書作りの基本なんだ、とおっしゃる。
②世の中の言葉をただすための規範としての鏡である。
辞書は規範としての鏡と、客観的な世の中のものを写しだす鏡としての、二つの鏡の間の自分の位置を定めている。
正しい日本語とはなんなの、として辞書を引く人が圧倒的に多い。
辞書を作る立場からすると、上から目線で教えているつもりはない。
若者言葉、俗に近い言葉が入りこんでくる、世の中の言葉の使われ方がそうなんだ、辞書はそういったものも取り入れる役割として持っていると、おっしゃる。
言葉は変化するもの。
世間の人が之は聞き苦しいと言う中に、「ら」?抜き言葉 があるが、書く→書ける 行く→行ける
話す→話せる
そういう事ができますよ 可能動詞と言っているが、 可能動詞はいいという。
見れる 寝れる 着れる、はいやだと 見るはいいが見れるはどうしていけないのか。
書く 書ける 話す 話せる 定着したのは明治時代。 第一陣の可能動詞
第2陣の可能動詞 見れる 話せる 書けるが定着しつつある。
7割、8割の人が使って、増えてきている。
全ての動詞について増えてきている、それは法則性のある乱れ、法則性のある乱れは変化なんです。
「全然」 打ち消しの言葉と一緒に使うが、最近は 、全然いい。 全然よくできた。肯定と一緒にもつかう。
明治の文学作品を見ても、同様な使用をしている。
版を追うごとに新しい言葉を補っている。
補い方の方針が変わってきている。
専門語がかつては多かったが、いまは日常よく使う言葉が乗っているかどうか、気を配る様になった。
かつては辞典が勉強部屋に在って、知らない言葉を学習するとか、身につける時に辞書を取り出して調べると言う事を想定していたが、今はTVの脇に置いておいたりして、日常生活で疑問に思った時などに、開いてみるといった事が辞典の役割と想定のもとに、するようになった。
新聞から項目を取ると言う事が非常に多くなった。(生活面、家庭面)
国語辞典がどの程度新しい言葉に密着して付き合うかは、編集者、編者の中で話し合われる。
辞典は世間の後について行く。
「介護」 第3版に乗っている。 1983年発行
日常的な会話には無かったが、時に之から流れてゆく先を見ると言う、先見の明があった。
観察力が必要、これから先、どういう世に中になってゆくかは勉強する必要がある。
辞書はなるべくいろんな情報を伝えたいので、短く簡潔に正しく伝える文章にする。
製本 厚い本を想定していないので、製本の機械から制約があり、8cm以内となる。
紙の厚さを薄く、丈夫な紙を要求する。
言葉をは増やすけれど、ページ数は増えないようにする、解説を削って、小さくしてゆくしかない。
第六班は24万語入っている。 2.5kg以上ある。
電子辞書 データ容量 困らない。 引き方が楽だと言う人がいる。
機能性 データの違いというものをもっと考えていいのではないか、と思っている。
長い期間、大勢でやっているので、いよいよ本として目途がつくと、ほっとする。
辞書の誤植は本が入品した日に見つかる、という変な法則がある。
辞書に間違いがあってはいいのか、申し開きが立たない。
リカバーをどうしたらいいか、お詫びの手紙を書く、4000通。
辞書をつくっていて厳しいのは間違いが辞書のなかに在ったと気付いた時。
言葉と蝶のウオッチングをしてゆきます。
2014年6月3日火曜日
萩尾望都(漫画家) ・創作の泉は尽きることなく
萩尾望都(漫画家) 創作の泉は尽きることなく
昭和24年福岡県大牟田市で生まれる。 昭和44年 「ルルとミミ」でデビューーし、文学性の高い作品で少女漫画の世界を広げ、多くの読者の心を捉えてきました。
代表作には、「ポーの一族」、「トーマの心臓」 「11人いる」、「イグアナの娘」などの作品があります。
平成24年には紫綬褒章を受賞しました。 少女漫画界の偉大なる母、少女漫画界の至宝ともいわれます。
デビューから45年経った現在も連載を抱えて創作活動を続けています。
「王妃マルゴ」 カトリーヌ・ド・メディシスの娘で、16世紀のフランスが宗教の内戦になっていたころの御姫様でちょっと面白い背景を持っているので之を題材に、書いている。
カトリックとプロテスタントの対立が激しいフランスの当時。
母であるカトリーヌ・ド・メディシス メディチ家からお嫁入りしてきた。
歴史書を読んでいるうちに、マルゴのイメージがわいてきて書いてみようかと思った。
この時代には、バルテルミーの大虐殺、カトリックとプロテスタントが争ったユグノー戦争の内乱、のエピソードが一番有名で、なんでこんなことが起こったんだろうと、調べているうちに、カトリーヌ・ド・メディシス エリザベス女王、スコットランドのメアリ女王も絡んでいる、非常に人物像がたくさんあって面白かった。
歴史長編は初めてで、3年掛かっていて、あと3年で終わらせたいと思っているが。
当時の調度品、着物など、本格的なトイレは無くて、着替えはどうしているのかとか、判りそうで判らないところが判らない。
歴史との格闘は続きます。
「トーマの心臓」が舞台になって、公演中です。 新宿の劇場でスタジオライフ(男性だけの俳優たち)
映画化もされた。(金子修介が監督)
ドイツの全寮制の学校が舞台になっていて、少年の微妙な心、思春期のことを描いている。
(40年前に描いている)
ヘルマン・ヘッセが大好きで、その人が書いている世界観が好きで、そんな気持ちで書きました。
フランスの映画「悲しみの天使」が上映されていて、ほのかな初恋の物語で、学校を舞台にした話を書きたいと思った。
自分を追求する、傷つきやすくもある。
子供の頃、絵が好きで、絶えず紙を貰っては絵、漫画を描いていた。
それが延長して、漫画家になった。
漫画を見ないで育った世代の人は、漫画は詰まらないものと言う考えが固定化されて、発想が抜けないみたい。
漫画家になって、会うたびに早く結婚しなさいと言われた。
両親は時々は読んでもらったようだけれど、理解したかどうかは分からない。
親は紫綬褒章と作品世界とは結びついていなかった。
母にとっては、詰まらないことを勝手にやっていた、と言う様なイメージだった。
SF、ファンタジーであったりするが、舞台は海外野作品がおおい。
アメリカ文化の世界が面白くて、そちらへの好奇心から、海外の舞台が多くなる。
「11人いる」 宇宙が舞台 宇宙でテストを受ける 10人集まって1チームで有るはずが、蓋をあけると1人多い、誰か一人本物の受験生でないものがいる、疑心暗鬼。
受験生はいろんな星から来ている。(キャラクターを考えるのが面白かった)
思春期になったら、男か女に、性を選択すると言うキャラクターを考えた。
TVドラマにもなった「イグアナの娘」 お母さんが子供を産んだら、イグアナでどうしても愛せないと言う話で、菅野美穂が娘役
私は両親との間に葛藤があって、いろんな話をしたり、説明をしたが、すれ違ってしまう。
言っていることが、理解してもらえないのは、私は人間では無いのでは、という様な思いがあり、TVでガラパゴスのイグアナの特集をやっていた。
イグアナは人間の胎児に似ている。
私はイグアナかもしれないと思い、イグアナの娘のアイディアが出てきて描いてしまった。
思ってもいなかったところから降ってくる時もあるし、気になることがあっていつか形にしたいなあと思いながら、いろんなピースを集めているうちに、ある時最後の一つが結びついてでき上ったり色々ですね。
毎日接している世界以外にも、何かあるじゃないか、幻想でもいいし、歴史上隠されたものでもいいし、ついついそういう事を考えてしまう。
キャラクターと対話をしながら、作ってゆくんで、自分がキャラクターに身近で有るほど、キャラクターがいろんなことをしゃべってくれる。
昼過ぎから明け方まで描く。 最近は筋力が衰えてきている。
アイディアは変わりなく出てくる。
1990年代の後半から漫画のポジションが変わった。
海外でもいろんな漫画のフェスティバルをあちこちでやっている。
パリ、アメリカのフェスティバルに行ったことがある。
漫画を駅のキヨスクとかコンビニで売っている。
日本の漫画文化は戦後始まって、世界にぬきんでているので、がんばって今のうちに売ろうと言う事はいいことだと思っている。
昭和24年福岡県大牟田市で生まれる。 昭和44年 「ルルとミミ」でデビューーし、文学性の高い作品で少女漫画の世界を広げ、多くの読者の心を捉えてきました。
代表作には、「ポーの一族」、「トーマの心臓」 「11人いる」、「イグアナの娘」などの作品があります。
平成24年には紫綬褒章を受賞しました。 少女漫画界の偉大なる母、少女漫画界の至宝ともいわれます。
デビューから45年経った現在も連載を抱えて創作活動を続けています。
「王妃マルゴ」 カトリーヌ・ド・メディシスの娘で、16世紀のフランスが宗教の内戦になっていたころの御姫様でちょっと面白い背景を持っているので之を題材に、書いている。
カトリックとプロテスタントの対立が激しいフランスの当時。
母であるカトリーヌ・ド・メディシス メディチ家からお嫁入りしてきた。
歴史書を読んでいるうちに、マルゴのイメージがわいてきて書いてみようかと思った。
この時代には、バルテルミーの大虐殺、カトリックとプロテスタントが争ったユグノー戦争の内乱、のエピソードが一番有名で、なんでこんなことが起こったんだろうと、調べているうちに、カトリーヌ・ド・メディシス エリザベス女王、スコットランドのメアリ女王も絡んでいる、非常に人物像がたくさんあって面白かった。
歴史長編は初めてで、3年掛かっていて、あと3年で終わらせたいと思っているが。
当時の調度品、着物など、本格的なトイレは無くて、着替えはどうしているのかとか、判りそうで判らないところが判らない。
歴史との格闘は続きます。
「トーマの心臓」が舞台になって、公演中です。 新宿の劇場でスタジオライフ(男性だけの俳優たち)
映画化もされた。(金子修介が監督)
ドイツの全寮制の学校が舞台になっていて、少年の微妙な心、思春期のことを描いている。
(40年前に描いている)
ヘルマン・ヘッセが大好きで、その人が書いている世界観が好きで、そんな気持ちで書きました。
フランスの映画「悲しみの天使」が上映されていて、ほのかな初恋の物語で、学校を舞台にした話を書きたいと思った。
自分を追求する、傷つきやすくもある。
子供の頃、絵が好きで、絶えず紙を貰っては絵、漫画を描いていた。
それが延長して、漫画家になった。
漫画を見ないで育った世代の人は、漫画は詰まらないものと言う考えが固定化されて、発想が抜けないみたい。
漫画家になって、会うたびに早く結婚しなさいと言われた。
両親は時々は読んでもらったようだけれど、理解したかどうかは分からない。
親は紫綬褒章と作品世界とは結びついていなかった。
母にとっては、詰まらないことを勝手にやっていた、と言う様なイメージだった。
SF、ファンタジーであったりするが、舞台は海外野作品がおおい。
アメリカ文化の世界が面白くて、そちらへの好奇心から、海外の舞台が多くなる。
「11人いる」 宇宙が舞台 宇宙でテストを受ける 10人集まって1チームで有るはずが、蓋をあけると1人多い、誰か一人本物の受験生でないものがいる、疑心暗鬼。
受験生はいろんな星から来ている。(キャラクターを考えるのが面白かった)
思春期になったら、男か女に、性を選択すると言うキャラクターを考えた。
TVドラマにもなった「イグアナの娘」 お母さんが子供を産んだら、イグアナでどうしても愛せないと言う話で、菅野美穂が娘役
私は両親との間に葛藤があって、いろんな話をしたり、説明をしたが、すれ違ってしまう。
言っていることが、理解してもらえないのは、私は人間では無いのでは、という様な思いがあり、TVでガラパゴスのイグアナの特集をやっていた。
イグアナは人間の胎児に似ている。
私はイグアナかもしれないと思い、イグアナの娘のアイディアが出てきて描いてしまった。
思ってもいなかったところから降ってくる時もあるし、気になることがあっていつか形にしたいなあと思いながら、いろんなピースを集めているうちに、ある時最後の一つが結びついてでき上ったり色々ですね。
毎日接している世界以外にも、何かあるじゃないか、幻想でもいいし、歴史上隠されたものでもいいし、ついついそういう事を考えてしまう。
キャラクターと対話をしながら、作ってゆくんで、自分がキャラクターに身近で有るほど、キャラクターがいろんなことをしゃべってくれる。
昼過ぎから明け方まで描く。 最近は筋力が衰えてきている。
アイディアは変わりなく出てくる。
1990年代の後半から漫画のポジションが変わった。
海外でもいろんな漫画のフェスティバルをあちこちでやっている。
パリ、アメリカのフェスティバルに行ったことがある。
漫画を駅のキヨスクとかコンビニで売っている。
日本の漫画文化は戦後始まって、世界にぬきんでているので、がんばって今のうちに売ろうと言う事はいいことだと思っている。
2014年6月2日月曜日
小嶋光信(両備グループ代表) ・赤字ローカル線を再生する請負人の思い
小嶋光信(両備グループ代表) 赤字ローカル線を再生する請負人の思い
地方ではマイカーの普及に伴って、電車やバスなどの公共交通機関を利用する人が減少し、鉄道やバスの会社の経営はドンドン苦しくなっております。
2001年に始まった規制緩和で、赤字路線はさらに増え、地方の公共交通はぎりぎりの経営を強いられているところが多くなっています。
そんな赤字路線の再生、経営の立て直しを数多く手掛けているのが、岡山県に本拠を持つ両備グループの代表小嶋さんです。
線路や電車、道路は公共機関が持ち、営業やサービスは民間が行うと言う公設民営をモットーにする一方、かわいい三毛猫を駅長にするユニークなアイディアなどで、日本各地の赤字ローカル路線、バス路線、採算が取れない船の路線の経営を立て直してきました。
車の運転のできない弱い立場の人々の幸せを願って、自分は無報酬で再生に当たると言う、活力の原点はどこに在るのか、公共交通機関のあるべき姿はどんなものか、伺いました。
10年前 和歌山電鉄の貴志川線 三毛猫の駅長が有名。
以前は南海電鉄岸川線 14kmの鉄道 2004年3億の収入で5億の赤字を出して、廃止を発表になり、俄かに「貴志川線の未来を作る会」が出来て、6000人の方が1000円ずつ金を集めて、乗って残そう貴志川線という運動を始めた。
相談に来られた。
乗って、又歩いたりして調査した。
駄目もとで、再生をして行った。(公設民営案) 運行だけ分ける。
日本は公共交通のガラパゴス。
昔マイカーのない時代は、公共交通はめちゃめちゃに儲かった。
100のうちの50はマイカーに行ってしまった。
以前は売上100、経常経費90、経常利益10 売上50 経常経費90 経常利益マイナス40
どうやっても黒字にならない、補助金で支えてもらうと言う事でどうにか延命をしていた。
ヨーロッパ社会は賢明で、アメリカから自動車社会が入ってきた時に、車を運転してない人達の移動をどうするの、と言う事で、彼等は考えた。
公設民営 運行だけは民間がやると言う形で、交通弱者に対する対策をしっかり残した。
日本では規制緩和になって、競争して駄目ならもうやめたらいいんじゃないと、地方は雪崩をうっていった。
世界の先進国では最も先行きを考えなかった、逆行してしまった。
和歌山電鉄の和歌山駅に降りた時に、猫の額みたいなホームで、男性1人、女性2人が掃除をしていた、助役と思しき人がほかの人とでしゃべっていた。(可なりの浪費があると思った)
500m離れてところで話したら、(鉄道が)まだあったの、と言われた。
沿線が豊かな農村で有ったために、全く開発されていない、いいところ。
大和朝廷ができるころに、主戦場になったところ。
ここは忘れ去られた鉄道として、営業努力、企業努力の余地が残っていると、覆面調査で判った。
公設民営と言うやり方でやれば、再生はできるという診断をした。
三毛猫駅長 2006年4月1日に出発式をやって、その帰りに、売店のおばちゃんが、三毛猫のたまちゃんが家なくなっちゃったので何とかして、と言われた。
公共の駅に私物の猫を入れるのは、どうも問題があると思った。
三毛猫は男だったら300万円はする、女だから100万円とおばちゃんから言われた。
血統書付きで家には11万円、なんで三毛猫が100万円かと、玉ちゃんに対面したら、素晴らしい目力だと思った、見た瞬間にこの子は駅長かもしれないと思った、
再生駅にするために無人駅にしたが、玉ちゃんを駅長にすれば、と思った。
制帽を作った。(制服はつくるのを断れる)
和歌山電鉄の貴志川線 貴志の駅長ですよと、広報した。
1月5日 駅長就任式 知事、両市長が来て、マスコミが黒山の人盛りとなる。
玉ちゃん駅長の主たる業務は客招き 招き猫ですと言った。
皆が爆笑、之を全国放送する事になり、大人気になる。
5%ずつ減っていたものが、15% 昇り調子になった。
駅員もがんばり、行政も応援してくださって、玉駅長の経済効果は11億円あると、判断される。
玉ちゃんは1年で課長になる、社員8500人で玉ちゃんだけ、出世頭。
世界にも報道されるようになり、香港のお客さんだけで2万6000人くる。
アジア、アメリカ、ヨーロッパ等から来てくださる。
ヨーロッパでは映画になった。
社長代理のウルトラ駅長 14駅の総駅長に任命されている。
綺麗な駅長室を作った。 再生のシンボルになった。
無報酬でやっている。
規制緩和は大都市では正しかったが、地方にとってはミスリードになった。
法律を変えないといけない。
公設民営 中部国際空港の会場アクセスの時に、相談を生けて、純粋な公設民営をつくったら、大成功した。
和歌山電鉄の時に、法的に認められるようになった。
交通政策基本法 岡山県の路線バス 岡山の半分をやっていたが、倒れることになり、緊急に
交通政策基本法 昨年12月に法制化された。
制度改革する為には汗をかかなければいけなかった。
ある程度の補助をして行かないと公設民営の形のベースができないと気に、禄をはむと言う事は
とんでもないことであって、そうでないと鏡が曇ると思って、そうしてきた。
私の仕事は、どこに公共交通に病気があるのか、治せるか、治せないのか、どう行く形を取って行ったら治せるか、経営のスキームを作るまでが私の仕事です。
経営の執行は私どもに優秀な人がいるので彼らがきちっとやる。
三百数十年前の岡山藩重臣 津田永忠の業績を知ったことが、「汗を流す」と言う事のきっかけ。
元禄前後に池田光政、綱政公 2君に仕えた忠臣。
禄高の低い身分に生まれたが、殿様に見出されて、最終的には岡山藩財政破たんの立て直しをして、後楽園、閑谷学校だとかの文化遺産、1900町歩の寄進田をはじめとする2500町歩の開発、豊かな岡山、教育県岡山を成し遂げた隠れたる侍。
全部殿様の手柄にして、自分が死んだ時、殿様を護るところに墓を作って、死んでも殿様を護った。
「治世とは民の苦しみを救う事にござる」と言って、個人で大阪商人から莫大なお金を借りて、1900町歩の開発をして、耕作で返済をする。(今の農業事業者ローンみたいなもの)
小作人は地主になって、それが岡山の元になった。
陽明学の知行合一 よいと思う事は必ず実行する。
自分でも何か役に立つ事はないかと、足ものを観たら、公共交通がガラガラと崩れている。
自分たちの事業だけ助かればいいと言うわけにはいかず、日本の地域の問題なんだと身をもって知って、誰かがやらないといけないと、処方箋を書いてあげないといけないと思って、再生を仕手、心ある政治家の皆さんと一緒に法律を作ってゆき、今回トンネルの出口が見えるようになった。
これから超高齢化社会を迎え、道路はあってもそこを運転する人がいなくなる。
公共交通は規制緩和をして潰してしまう様な形になったが、ほころびを治してスタート点に立ったと言うところです。
JR東日本の山田線が3年経っても一部復旧のめどが立たないでいるが、山田線を第三セクターに移管する話が持ち上がっているが、基本的には、人間にとっては肋骨みたいな路線、きちっと残さなくてはいけないと思うが、どこがきちっと設置をして守りぬくか、当然復興資金で国が直していかなければいけない。
オペレーションをどこがやるかは、一番効率的なことをすればいい。
大事なことは、日本全体の鉄道のネットワークとしてきちっと機能しなければいけない。
今日本はぶつぶつにしてしまおうとしている。
財政的にどうするかと言う問題とは別に、直さなければいけない。
暫定的に復旧を早くする、50年掛かって、間違いのない路線として復興すると言う、二段構えで行わなければならない。(3年間も時間が空転しているのはいかがなものか)
災害復興は別問題。
これまで地方の鉄道、路線バスは孤軍奮闘だった。
国、地方行政、市民、利用者が一体になって、どういう交通計画を作ってゆくか、財源は、どう残してゆくか法制化された。
本当にこれから必要な公共交通をやってゆくスタートラインに立ったので、是非もう一度勇気を奮い起してほしい。
皆半分諦めちゃっている。 資金繰りに苦しみ、いつまでたってもらちあかない。
望ましい地域公共交通を日本の中にどうネットワークを作るか、努力と知恵を発揮して、これからが出発点だと思っていただきたい。
必要なものは皆で使っていけば、アイディアが出る、使わない人たちが考えているケースが多い。
「知恵は汗に依って生まれる。」 自分が努力しているうちに、いろんな人がいろんなテーマを言っ「て下さる、それを丁寧に考えてゆくと、玉ちゃんはどこにでも生まれるケースはある。
汗と努力のなきところに、いいアイディアは絶対出てこない」
地方ではマイカーの普及に伴って、電車やバスなどの公共交通機関を利用する人が減少し、鉄道やバスの会社の経営はドンドン苦しくなっております。
2001年に始まった規制緩和で、赤字路線はさらに増え、地方の公共交通はぎりぎりの経営を強いられているところが多くなっています。
そんな赤字路線の再生、経営の立て直しを数多く手掛けているのが、岡山県に本拠を持つ両備グループの代表小嶋さんです。
線路や電車、道路は公共機関が持ち、営業やサービスは民間が行うと言う公設民営をモットーにする一方、かわいい三毛猫を駅長にするユニークなアイディアなどで、日本各地の赤字ローカル路線、バス路線、採算が取れない船の路線の経営を立て直してきました。
車の運転のできない弱い立場の人々の幸せを願って、自分は無報酬で再生に当たると言う、活力の原点はどこに在るのか、公共交通機関のあるべき姿はどんなものか、伺いました。
10年前 和歌山電鉄の貴志川線 三毛猫の駅長が有名。
以前は南海電鉄岸川線 14kmの鉄道 2004年3億の収入で5億の赤字を出して、廃止を発表になり、俄かに「貴志川線の未来を作る会」が出来て、6000人の方が1000円ずつ金を集めて、乗って残そう貴志川線という運動を始めた。
相談に来られた。
乗って、又歩いたりして調査した。
駄目もとで、再生をして行った。(公設民営案) 運行だけ分ける。
日本は公共交通のガラパゴス。
昔マイカーのない時代は、公共交通はめちゃめちゃに儲かった。
100のうちの50はマイカーに行ってしまった。
以前は売上100、経常経費90、経常利益10 売上50 経常経費90 経常利益マイナス40
どうやっても黒字にならない、補助金で支えてもらうと言う事でどうにか延命をしていた。
ヨーロッパ社会は賢明で、アメリカから自動車社会が入ってきた時に、車を運転してない人達の移動をどうするの、と言う事で、彼等は考えた。
公設民営 運行だけは民間がやると言う形で、交通弱者に対する対策をしっかり残した。
日本では規制緩和になって、競争して駄目ならもうやめたらいいんじゃないと、地方は雪崩をうっていった。
世界の先進国では最も先行きを考えなかった、逆行してしまった。
和歌山電鉄の和歌山駅に降りた時に、猫の額みたいなホームで、男性1人、女性2人が掃除をしていた、助役と思しき人がほかの人とでしゃべっていた。(可なりの浪費があると思った)
500m離れてところで話したら、(鉄道が)まだあったの、と言われた。
沿線が豊かな農村で有ったために、全く開発されていない、いいところ。
大和朝廷ができるころに、主戦場になったところ。
ここは忘れ去られた鉄道として、営業努力、企業努力の余地が残っていると、覆面調査で判った。
公設民営と言うやり方でやれば、再生はできるという診断をした。
三毛猫駅長 2006年4月1日に出発式をやって、その帰りに、売店のおばちゃんが、三毛猫のたまちゃんが家なくなっちゃったので何とかして、と言われた。
公共の駅に私物の猫を入れるのは、どうも問題があると思った。
三毛猫は男だったら300万円はする、女だから100万円とおばちゃんから言われた。
血統書付きで家には11万円、なんで三毛猫が100万円かと、玉ちゃんに対面したら、素晴らしい目力だと思った、見た瞬間にこの子は駅長かもしれないと思った、
再生駅にするために無人駅にしたが、玉ちゃんを駅長にすれば、と思った。
制帽を作った。(制服はつくるのを断れる)
和歌山電鉄の貴志川線 貴志の駅長ですよと、広報した。
1月5日 駅長就任式 知事、両市長が来て、マスコミが黒山の人盛りとなる。
玉ちゃん駅長の主たる業務は客招き 招き猫ですと言った。
皆が爆笑、之を全国放送する事になり、大人気になる。
5%ずつ減っていたものが、15% 昇り調子になった。
駅員もがんばり、行政も応援してくださって、玉駅長の経済効果は11億円あると、判断される。
玉ちゃんは1年で課長になる、社員8500人で玉ちゃんだけ、出世頭。
世界にも報道されるようになり、香港のお客さんだけで2万6000人くる。
アジア、アメリカ、ヨーロッパ等から来てくださる。
ヨーロッパでは映画になった。
社長代理のウルトラ駅長 14駅の総駅長に任命されている。
綺麗な駅長室を作った。 再生のシンボルになった。
無報酬でやっている。
規制緩和は大都市では正しかったが、地方にとってはミスリードになった。
法律を変えないといけない。
公設民営 中部国際空港の会場アクセスの時に、相談を生けて、純粋な公設民営をつくったら、大成功した。
和歌山電鉄の時に、法的に認められるようになった。
交通政策基本法 岡山県の路線バス 岡山の半分をやっていたが、倒れることになり、緊急に
交通政策基本法 昨年12月に法制化された。
制度改革する為には汗をかかなければいけなかった。
ある程度の補助をして行かないと公設民営の形のベースができないと気に、禄をはむと言う事は
とんでもないことであって、そうでないと鏡が曇ると思って、そうしてきた。
私の仕事は、どこに公共交通に病気があるのか、治せるか、治せないのか、どう行く形を取って行ったら治せるか、経営のスキームを作るまでが私の仕事です。
経営の執行は私どもに優秀な人がいるので彼らがきちっとやる。
三百数十年前の岡山藩重臣 津田永忠の業績を知ったことが、「汗を流す」と言う事のきっかけ。
元禄前後に池田光政、綱政公 2君に仕えた忠臣。
禄高の低い身分に生まれたが、殿様に見出されて、最終的には岡山藩財政破たんの立て直しをして、後楽園、閑谷学校だとかの文化遺産、1900町歩の寄進田をはじめとする2500町歩の開発、豊かな岡山、教育県岡山を成し遂げた隠れたる侍。
全部殿様の手柄にして、自分が死んだ時、殿様を護るところに墓を作って、死んでも殿様を護った。
「治世とは民の苦しみを救う事にござる」と言って、個人で大阪商人から莫大なお金を借りて、1900町歩の開発をして、耕作で返済をする。(今の農業事業者ローンみたいなもの)
小作人は地主になって、それが岡山の元になった。
陽明学の知行合一 よいと思う事は必ず実行する。
自分でも何か役に立つ事はないかと、足ものを観たら、公共交通がガラガラと崩れている。
自分たちの事業だけ助かればいいと言うわけにはいかず、日本の地域の問題なんだと身をもって知って、誰かがやらないといけないと、処方箋を書いてあげないといけないと思って、再生を仕手、心ある政治家の皆さんと一緒に法律を作ってゆき、今回トンネルの出口が見えるようになった。
これから超高齢化社会を迎え、道路はあってもそこを運転する人がいなくなる。
公共交通は規制緩和をして潰してしまう様な形になったが、ほころびを治してスタート点に立ったと言うところです。
JR東日本の山田線が3年経っても一部復旧のめどが立たないでいるが、山田線を第三セクターに移管する話が持ち上がっているが、基本的には、人間にとっては肋骨みたいな路線、きちっと残さなくてはいけないと思うが、どこがきちっと設置をして守りぬくか、当然復興資金で国が直していかなければいけない。
オペレーションをどこがやるかは、一番効率的なことをすればいい。
大事なことは、日本全体の鉄道のネットワークとしてきちっと機能しなければいけない。
今日本はぶつぶつにしてしまおうとしている。
財政的にどうするかと言う問題とは別に、直さなければいけない。
暫定的に復旧を早くする、50年掛かって、間違いのない路線として復興すると言う、二段構えで行わなければならない。(3年間も時間が空転しているのはいかがなものか)
災害復興は別問題。
これまで地方の鉄道、路線バスは孤軍奮闘だった。
国、地方行政、市民、利用者が一体になって、どういう交通計画を作ってゆくか、財源は、どう残してゆくか法制化された。
本当にこれから必要な公共交通をやってゆくスタートラインに立ったので、是非もう一度勇気を奮い起してほしい。
皆半分諦めちゃっている。 資金繰りに苦しみ、いつまでたってもらちあかない。
望ましい地域公共交通を日本の中にどうネットワークを作るか、努力と知恵を発揮して、これからが出発点だと思っていただきたい。
必要なものは皆で使っていけば、アイディアが出る、使わない人たちが考えているケースが多い。
「知恵は汗に依って生まれる。」 自分が努力しているうちに、いろんな人がいろんなテーマを言っ「て下さる、それを丁寧に考えてゆくと、玉ちゃんはどこにでも生まれるケースはある。
汗と努力のなきところに、いいアイディアは絶対出てこない」
2014年6月1日日曜日
保坂正康(評論家) ・昭和初年代の人々の生活(1)
保坂正康(作家・評論家) 昭和史を味わう 第3回 昭和初年代の人々の生活(1)
農村編 昭和4年~8年 農業人口は7~8割だった。
昭和3年即位式 11月10日 実況放送 京都御所即位式典
昭和 君民一致世界平和 現実には農村は厳しい。
昭和4年農政学者が農村調査をやった。
東京、大阪などの大都市周辺の農村は、急激に都市化しているが、都市から離れれば離れるほど、江戸時代と変わらぬような習慣、生活システムを持っている。
江戸時代の農村では、そこで生まれたら死ぬまでの完結する人生の空間があった。
多くの日本の都市から離れた農村では、このような状態で有った。
①自然条件(豊作、凶作)の波をかぶる。
②資本主義の市場の中での、農業という形が増える。(景気に左右される)
ダブルパンチで農村を襲った。
銀行がつぶれて、預金が無くなってしまう。
凶作で食べるものがないので、障子ののりをお粥にして食べる、野草を炒めて食べるとか、悲惨な状況になる。
農民は真面目で税金を一生懸命払う様にする。(炭焼きとかお金を溜めて税金を払う)
統計上はちゃんと生活できているじゃないか、と錯覚する様な農林省の役人もいた。
どんな苦境にあっても、税金を払い、自分は食べないで子供に食べさせる。
浜口首相がラジオで緊縮財政を訴えている。(昭和4年8月28日)
世情が不安定になってゆく中で、テロリズムに逢う。 (昭和5年)
浜口首相は傷がもとで、昭和6年に亡くなる。
日本人のものの考えのゆがみがある様な気がする。
昭和4年10月24日、ニューヨークの株式市場で大崩落、世界恐慌になる。
どうやって乗り越えるかと言う事がその後の歴史の形になる。
アメリカは公共投資で失業者を吸収する。
日本、ドイツは軍事が主導になって、その強さで市場を拡大して行こうと、拙速的な解決法を求めた。
目の前の現実をよくしようと、目の前ばかりを見ていたことになることが、昭和史の教訓。
繊維が巻き込まれる。 一気に農村の生産農家に響いてくる。(長野が特に)
会社が雇用を保証できなくなり、辞めてもらう。(農村出身者)
汽車賃がないので歩いて帰る。
農村自体も不況なので、二重、三重の悲劇が起きる(一家心中とか)
娘を身売りする、学校では欠食児童が体育の授業で生徒が倒れる、そういったことが全国的に広がる。
欠食児童 山形県では4万人に及んだ。
大根をそのままかじっている写真、身売りの相談所の写真。
ある村の女性15歳~24」歳 467人がいて、250人が東京、東京周辺の芸鼓さんに売られている。
(東北のある地方の村)
昭和の苦しさに思いをはせることは大事ことだと思います。
ぐらぐらする時にどういう解決法があるのかと言う時の選択肢、 日本は軍儒主導型の形で解決していこうとしたのが、昭和初期の姿だと思います。
昭和4年5月 小林多喜二の「蟹工船」 プロレタリア運動
昭和6年9月18日 満州事変勃発。
漫画ノラクロがはやる
昭和7年5月15日 5・15事件
昭和7年ロサンゼルス オリンピック
昭和8年9月21日 宮澤賢治が亡くなる。
昭和8年12月23日 皇太子誕生
昭和5年 「すみれの花咲くころ」 昭和6年「女給の歌」 昭和8年「東京音頭」
農村編 昭和4年~8年 農業人口は7~8割だった。
昭和3年即位式 11月10日 実況放送 京都御所即位式典
昭和 君民一致世界平和 現実には農村は厳しい。
昭和4年農政学者が農村調査をやった。
東京、大阪などの大都市周辺の農村は、急激に都市化しているが、都市から離れれば離れるほど、江戸時代と変わらぬような習慣、生活システムを持っている。
江戸時代の農村では、そこで生まれたら死ぬまでの完結する人生の空間があった。
多くの日本の都市から離れた農村では、このような状態で有った。
①自然条件(豊作、凶作)の波をかぶる。
②資本主義の市場の中での、農業という形が増える。(景気に左右される)
ダブルパンチで農村を襲った。
銀行がつぶれて、預金が無くなってしまう。
凶作で食べるものがないので、障子ののりをお粥にして食べる、野草を炒めて食べるとか、悲惨な状況になる。
農民は真面目で税金を一生懸命払う様にする。(炭焼きとかお金を溜めて税金を払う)
統計上はちゃんと生活できているじゃないか、と錯覚する様な農林省の役人もいた。
どんな苦境にあっても、税金を払い、自分は食べないで子供に食べさせる。
浜口首相がラジオで緊縮財政を訴えている。(昭和4年8月28日)
世情が不安定になってゆく中で、テロリズムに逢う。 (昭和5年)
浜口首相は傷がもとで、昭和6年に亡くなる。
日本人のものの考えのゆがみがある様な気がする。
昭和4年10月24日、ニューヨークの株式市場で大崩落、世界恐慌になる。
どうやって乗り越えるかと言う事がその後の歴史の形になる。
アメリカは公共投資で失業者を吸収する。
日本、ドイツは軍事が主導になって、その強さで市場を拡大して行こうと、拙速的な解決法を求めた。
目の前の現実をよくしようと、目の前ばかりを見ていたことになることが、昭和史の教訓。
繊維が巻き込まれる。 一気に農村の生産農家に響いてくる。(長野が特に)
会社が雇用を保証できなくなり、辞めてもらう。(農村出身者)
汽車賃がないので歩いて帰る。
農村自体も不況なので、二重、三重の悲劇が起きる(一家心中とか)
娘を身売りする、学校では欠食児童が体育の授業で生徒が倒れる、そういったことが全国的に広がる。
欠食児童 山形県では4万人に及んだ。
大根をそのままかじっている写真、身売りの相談所の写真。
ある村の女性15歳~24」歳 467人がいて、250人が東京、東京周辺の芸鼓さんに売られている。
(東北のある地方の村)
昭和の苦しさに思いをはせることは大事ことだと思います。
ぐらぐらする時にどういう解決法があるのかと言う時の選択肢、 日本は軍儒主導型の形で解決していこうとしたのが、昭和初期の姿だと思います。
昭和4年5月 小林多喜二の「蟹工船」 プロレタリア運動
昭和6年9月18日 満州事変勃発。
漫画ノラクロがはやる
昭和7年5月15日 5・15事件
昭和7年ロサンゼルス オリンピック
昭和8年9月21日 宮澤賢治が亡くなる。
昭和8年12月23日 皇太子誕生
昭和5年 「すみれの花咲くころ」 昭和6年「女給の歌」 昭和8年「東京音頭」