2014年5月31日土曜日

五諸川津平太            ・「ウイー キャン スピーク 甲州弁」

*今日で「明日への言葉」投稿総数が1000回という節目を、お陰さまで迎えることができました。
このなかには例えば「オリンピックの為中止」とか、表題のみのものも含まれますが、
なんとか続けて来られました。
この内容が、自分の身にすこしでも溜まっていけば、(仏教でいう「熏習」ような)いいと思いながら
やっていますが、このブログを読んでくださる方々にも、多少興味を持っていただいたり、参考になることがあればと思っています。
本当は生の番組を聞いていただけることが、一番だと思いますが、朝の4時からと言う事で、なかなか難しい面があろうかと思います。
番組の全て、その場の情景、雰囲気は残念ながら表現できませんが、自分の好きな時間にいつでも見ることができると言う事は利点かと思います。
兎に角、読んでくださる方々がいると言う事で、背中を押されてきて、今日までこられました。
相変わらず、誤字等あるとは思います、そして聞き取れないで?もありますが、あまり時間を取れないので、その点はご了承ください。
これからも精進していきたいと思います。   秋田宏

五諸川津平太  「ウイー キャン スピーク 甲州弁」
朝、TVをつけると甲州弁が聞こえてくる。  「花子とアン」
「神様 どうしていいずらか  おしえてくろうし」 子役が言った言葉がかわいかった。
昨年は富士山が文化遺産に登録された。 リニア中央新幹線ルートがきまったり、「花子とアン」が放映されて、山梨が注目されている。

五諸川津平太(ごっちょがわつぺった) ペンネーム  
ごっちょ=手間がかかってめんどくさい時にいう。 つぺった=足が田んぼにはまちゃた時にいう。
之をくっつけたのがペンネームになった。
5年前に「キャン ユー スピーク 甲州弁」を自費出版した。 
ある大きい書店で10周連続1位になった。 (村上春樹が出たため駄目になる)
昨年 パート2を出した。 5000部  実家の家の廊下に5000部置いた。
「てー こんなにすっとるてー」 てーが2回出る。 驚きぷらすあきれた感情。
「てー 1週間に100万部てー」 驚きぷらす羨みの感情

「いっさいきいちゃいなー」 全然聞いてないじゃないかな。
「しらなー」 知らない  短い言葉で感情を表現してしまう。
山梨の人は東西南北を入れこむ傾向がある。
「今日は電気がまの西側が新しいご飯だ」といったお姑さんがいた。
「ざぜぞ」が「だでど」になってしまう。 ざしき→だしき ぜんぶ→でんぶ ぞうきん→どうきん
「めーのえーのへー」 →前の家の塀。
「こげーこー」→ここへ来い。  「まっとめーこー」→もっと前に来い。
「いっけんなし」 →一軒の漏れもなく
っちむ」→死ぬ 「っかる」→(意識を失って)倒れる。 太文字にアクセントを強くする。
ベッカム)と同じように発音する。

甲州弁かわいい化計画
「ずら」をかわいくいうには、小首をかしげていう。
「ももっちい」(くすぐったい) かわいいと言う言い方でいう。
「だっつこん」(そうだってば) 告白の時に使う。

甲州弁は荒っぽいと言われるが、私は半分は気のせいだと思う。








2014年5月30日金曜日

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)    ・自分にもできることからの出発(2)(再放送)

小森邦衛(漆芸作家・人間国宝)    自分にもできることからの出発(2)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/2_10.htmlをご覧ください。

2014年5月29日木曜日

2014年5月28日水曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)   ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(2)(再放送)

おおつきちひろ(スペイン料理店)     ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(2)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/2.html

2014年5月27日火曜日

おおつきちひろ(スペイン料理店)   ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)(再放送)

おおつきちひろ(スペイン料理店)     ・”スペイン”の料理と人に惚れこんで(1)(再放送)
http://asuhenokotoba.blogspot.jp/2014/04/blog-post.htmlをご覧ください。

2014年5月26日月曜日

堀内孝雄(歌手)         ・萩本欽一の人間学

堀内孝雄(歌手)  萩本欽一の人間学
誰かが目標にいると言う事は大事です。
詩に向かって曲を付けるので、最近は距離をもって出来るようになった、若いころは詩に近ずきすぎていた。
小さいころは三橋美智也の歌を真似して、おばあちゃんに聞かせていた。

「悔しい想い」
飲まない人は刺身をどうしたら、いいの、ご飯と一緒だったら食べれるが。
萩本 堀内 共に飲めないタイプ。
タイミング良くご飯を要求する。(堀内)
刺身は食べない(萩本)
米の最高級のものを米屋に要望して10年間食べていたが、ある時店の主人が安い米を店員が萩本さんのところに入れていたようだ(ピンはね)、申し訳ありませんと言ってきたが、ずーっと最高の米だと叫んでないから、なんにも被害をこうむってないよと言ったんだけれど。
俺って米の本当のお美味しいの判ってないね。
いい方にいつも理解する。
いい方に取っていると、いい風にしか道は行かないから。
辛い時に文句を言わない、怒りたいときに怒らないと、我慢すると小さな運になって、それが重なると、大きな幸せになる。(萩本)

隠れて皆努力している。
私は500曲ぐらい作っているが、吉田正先生とか、遠藤実先生は5000とか6000曲ですよ。
40代半ばに 萩本さんの誕生日に、プリンを持って行ったが、有難うと言って、直ぐに横に置いたので、まずいと、直ぐに家に帰って、詩の書かない人間が「大将に歌」を作った。
(みんなの大将)
これを効くとジーンとする。

「弱点」
涙もろいところ  歳を重ねるごとにもろくなる。 若いころは泣かない様に舌を噛んだ。(堀内)
一番最近で泣いたのは、被災したときに中学生が海岸で「負けないで」のトランペットを吹いている処、ぼろぼろ出てきた。(萩本)
マラソンをやってきた時に、あと5kmと言うところで、同年代の頭の白いおばちゃんが跳んできて「欽ちゃん、がんばんなくていいよ がんばるな」と一緒に暫く走って叫んでくれて、そうしたらなんか元気が出てがんばちゃった。
60代は怒られない年代 野球でルールを知らないでやっていたが、怒られなかった。
60歳代はいい年代。
100歳の人と100人インタビューしたが、100人が共通する事を見つけたら、100歳に生きる秘訣だと、
指先を動かしている人、 草むしりなんか最高だと思う。

朝ごはんは トースト一枚(堀内)  朝はうどん、そば(萩本)
ご飯食べる人 会場では半分。  
好きなものを食べる。 食べるもので注意している人は一人もいなかった。(100歳インタビューで)
中学卒業したら散髪屋になりたかった。(堀内)
画家になりたかった。 画家はしゃべらないで済むから。 しゃべらない子だった。(萩本)
怒って、涙をポロっと流した母親の顔が好きだった。(萩本)
美味しく食べなさいと、いつも言われた。 (堀内) 周りにも影響する。
歳を取れば取るほど、聞いた方がいい。 恥をかいても、恥と思わない。




 

2014年5月25日日曜日

五木寛之            ・歌の旅人(千葉県)           

五木寛之     歌の旅人(千葉県)
昭和32年ごろに、市川市に住んでいたことがある。
永井荷風の終焉の地でもある。  
荷風に会わないかなあと思っていたら駅のベンチで見かけたこともある。(晩年浅草によく通っていた。)
幕張当たりは、一変してしまった。
起伏の少ない県 一番高い山でも500m程度。
イセエビ、あさり漁獲量が多い。
夏目漱石が明治20年ごろ、東大の学生だった時に、房総かた関東を友人と旅をするが、木節録?漢文の紀行文で書いている。
歌手 岡晴夫 「会いたかったぜ」

潮干狩り  東京デズニーランド、加茂川シーワールド
成田山 新勝寺 寺社詣出 神様仏様にお参りしつつ、身を清めて、帰りがけには精進おとしと言って、歓楽街で遊ぶのが一セットになっていた。 船橋あたりで精進おとしをした。
加曽利貝塚  縄文時代の貝塚 世界でも最大規模の貝塚
作家 国木田独歩 伊藤左千夫 椎名誠 高橋治 中野孝次 伊坂幸太郎 海堂尊 中沢けい等
画家 菱川師宣    宗教家 日蓮上人   
歌手 鹿内孝 「本牧メルヘン」

酪農の発祥の地
徳川吉宗の時代にインドから白い牛を持ってきて放牧、繁殖して牛乳を絞ったり乳製品を作った。

歌手 守屋浩 金沢明子 荻野目陽子 華原朋美 ・・・

「月の砂漠」 御宿の砂浜で着想した。
スポーツ 長嶋茂雄 増田明美 小出義雄 鈴木大地 青木勲 丸山茂樹 池田勇太
俳優 千葉真一 宇津井健 清川虹子 市原悦子 山崎勉 滝田栄 ・・・ 東山千栄子 早川雪州星野道夫
斎藤信夫
伊能忠敬 色川大吉(思想家)   
弦哲也(作曲) 五木寛之(作詞) 「夜のララバイ」 










2014年5月24日土曜日

名和哲夫(博物館・館長)      ・昆虫翁 名和靖の執念    

名和哲夫(名和昆虫博物館・館長)  昆虫翁 名和靖の執念
名和靖は江戸末期から大正にかけて生きた昆虫研究の第一人者で、名和昆虫博物館を作った初代館長です。
ギフチョウの発見者として有名ですが、熱心に取り組んだのは昆虫採集だけではありません。
五代目館長 名和哲夫さん 岐阜大学大学院で昆虫について学んだあと、名和昆虫研究所に入られました、平成 15年に研究所の所長、名和昆虫博物館の館長に就任されました。

名和靖の後を継いだのは、長女たかの婿養子の名和梅吉、13歳のころから靖氏のもとで昆虫を勉強していろんな発見をして、岐阜蝶の幼虫が食べる草を見つけたいと靖が思っていた時に、梅吉少年が見つけた。
三代目は名和政夫(長男)  四代目は秀夫(婿養子) 五代目(私で婿養子) 六代目(婿養子)
孫が生まれて、女の子でした。
1919年 大正8年 日本でもっとも長い歴史を持つ昆虫博物館。 岐阜公園の近くにある。
建物も古くて、文化庁の登録有形文化財の岐阜県指定の第一号になっている。
靖は事業家としての側面があり、浅草 木馬館 明治40年に通俗教育昆虫館ができた。
標本など展示物は名和靖が提供、入場者が少なくて、撤退した。

江戸末期、庄屋の孫として生れた。 昆虫が大好きであったが、農家の為になる様な仕事に就きたいと思って、収量を上げるためにもなり、青年期になると、岐阜県農事講習所(岐阜県農林の前身)
に第1回生として20歳で入る。(寄宿生活) 害虫の研究をする。
靖が研究で飼っていた毛虫がはい出して、友人から物凄く叱られた。
校長、堀清太郎?が研究熱心さからの事であると言う事で取りなしてくれた。
名和圭樹?(靖の祖父)はバラを愛していた。 
バラにアブラムシが沢山付いていて、家に戻った時にアブラムシを取る。 
其繰り返しをしていたが、対応しきれず、アブラムシの生態を調べることになる。
1本のバラの木に沢山の昆虫がいることを知ることになる。(後に本になる)
岐阜県農事講習所が岐阜県農学校に改名して、その学校を卒業した。
県庁に入るなら20円、岐阜県農学校の教員になるなら10円 好きな研究も出来ると言う事で、学校の先生をやりながら、幻灯機を使って、農会へいって、害虫、益虫に関する教育を行った。

38歳で靖は先生の職を捨てて、私財を投入して、明治29年名和昆虫研究所を立てる。
民間からの寄付だけで何とか経営する事になる。
旧帝大の人達とも対等に付き合って、研究に励んだ。
名和の名前は外国の方が有名。
アメリカの万博、パリ万博で(明治20年代) 名和靖は自分で取った昆虫標本をセットしたものを万博に展示で発表している。

名和靖は名和昆虫研究所という民間で農事試験所の様な事をやって、先駆的に食料増産に貢献したと言う事が社会的に評価されていると言う風に思っているが、マニアとしては岐阜蝶の発見者として有名です。
靖が卒業1年後  学校の仕事で2週間、旅をする。明治16年4月24日 岐阜県かな山町で見慣れない蝶を取って、東京の大学の先生に見せる。 石川千代松、若手の学者 彼も判らない。
イギリス人プライヤーに聞いたところ、これは Luehdorfia puziloiだと言う事になる
靖が新種を発見したと言う事で、持ちきりになり、周辺から岐阜蝶を発見したそうだ、と言う事になり其名前が岐阜蝶と言う事になった。(ダンダラ蝶という話もあったが)

靖の発見から6年後 1889年にイギリス人の昆虫学者がリーチが Luehdorfia puziloiとは違うと言う事になり、 Luehdorfia japonicaとして新種となった。日本にのみ生息 和名は「岐阜蝶」
春先の2~3週間しか成虫の舞う姿を見せてくれないと言う事で、春の女神、春の舞姫と言って愛称を付けて、マニアが呼んでいた。
岐阜蝶 自然保護が叫ばれるようになってきて、眉をひそめる状況になる。
岐阜蝶がいると言う事は、こういう自然環境があるから、これを護ろう、維持してゆく、そういう努力をする。
里山には岐阜蝶がいる、蝶がいなくなったと言う事は里山が変わったと言う事。
自然を語るのに、ピラミッドの一番底辺をなぞる動物群を研究をおろそかにして自然を語ると見誤ってしまうので、先々人間が絶滅する、時間を縮めてしまう、早く絶滅の時間をたぐり寄せてしまうのではないかと言うのが、靖の教えではないかと思う。

名和昆虫博物館の存続に向けて頑張っています。
靖は自分のお父さん(正也?)は圭樹?から受け継いだ庄屋業をやりながら、息子のやっている昆虫のことをサポートして、事あるごとに網を持って、昆虫採集を死ぬまでやった。
靖は昆虫採集は身体にいいぞと言っていた。









2014年5月23日金曜日

関 勉(コメットハンター)        ・ほうき星に夢を託して65年(2)

関 勉(コメットハンター)      ほうき星に夢を託して65年(2)
子供のころに、何回となく星空との出会いがありました。
父のいなか、高知市の米田 真っ暗なところで、提灯を持って歩いていた。
赤おに山の上に凄い星空がった。 三ツ星があるよと言われた。(オリオン座とは言わなかった)
星空の美しさを物凄く感じた。
小学校に上がったばっかりの頃、土讃線が 全通した記念博覧会が昭和12年に有ったが、両親に連れられて行ったが、幽霊館があり、逃げだした先にドームがあった。(今から思うと天文台)
頭に三角の白いものを付け、幽霊の格好をしたおじさんが案内していて、おそるおそる中に入ったら、望遠鏡があり、太陽の方に向けて白い紙を当てて、投影法で太陽の黒点を見ることができた。
その幽霊のおじさんは 五藤斉三という、高知県出身の天文官だった。(天文学者と言っていいくらいの人)

五藤さんは光学メーカーに務めたが、その後独立して望遠鏡を作り始めた。
有名な望遠鏡のメーカーになったが、現在は後を継がれた方がプラネタリュームを作っている。
日本では2社しかない。 プラネタリュームを海外にも輸出している。
40年経って、突然、五藤さんから電話がかかってくる。
会って話をしたいからホテルに来てくれますかと言う事で、話を面々と自分の業績を話していたら最後に、あなたに個人的に日本最大級の望遠鏡をプレゼントしたいと言いだした。
彗星を発見していることから、私がある程度技術を持っていて、きっと高知県の中で発見するに違いない、高知県の科学の振興のために、使ってほしいと、第二、第三の池谷さんの様な人が生まれてきたら素晴らしいとの考えだった。
ここの芸西天文学習館ができたのは、発端がそれなんです。

今は反射鏡を使うが、(ハワイに在るスバル望遠鏡もそうですが、直径が8m)
五藤さんが送ってくれたのは直径60cmの反射望遠鏡 高さは3m 倍率は600倍まで使える。
新しい天体が発見できるのではないかという期待があった。(未発見の小惑星)
小惑星は、火星と木星の間が開いており、その間に惑星があったのではないかと、何らかの理由で其惑星が崩壊してばらばらになって、公転しているのではないかと言われている。
明るいものはほとんど発見されつくした。 発見されると番号、其星に名前が付けられる。
お礼として、五藤さんの名前をつけて、五藤さんの業績を宇宙の中で、検証するのは素晴らしいと、それをやった。  「五藤」と言う星が生まれた。(2つ目の発見の時)
最初の発見は、高知県の「高知」を付けた。
ハレー彗星がやって来た時には、妻と一緒に見たいと言う事だったが、病気になり、ハレー彗星の来る前年に亡くなられた。
奥さんが来てくれて、1週間滞在して、ハレー彗星の後姿を見つめた。 
拝んでいた、「あなた ただいまハレー彗星を観測しました。 どうかご安心ください」

岡本啓先生 自然の好きな人、夏休みに1週間山の中にさまよって、滞在して新しい昆虫を発見する事に努力されたが、その話を理科の時間に話をしてくれて、物凄く引かれた、発見と言う事に対して。
私は体が弱くて、全く勉強が面白くなかったが、小学校3年の時に岡本先生が担任と成り、先生の印象が強かった。
日中戦争があり、先生は招集されて、帰ってこなかった。
先生は、又帰ってくる、又皆さんと勉強しましょうと言って、校門から去ってゆく姿が昨日の様に思い出される。
私たちは先生を追いかけた、あるものは膝まですがって、校庭で泣いたです。
先生に星が好きなことを一回だけ言ったことがあるが、先生は「関は星が好きだったね、先生は一冊天文の本を挙げよう、之を君に上げよう」、と 「天文学新話」 (松隈健彦著) と言う本だった。
小惑星 「岡本」と言う名前を付けた。
二つが回りあっている珍しい小惑星 小さい方は岡本先生を慕う私の姿ではないかと勝手に思っている。  「岡本」(6244番)  「五藤」が 2621  「竜馬」が2830 今は何十万です。

小惑星センターがアメリカのスミソニアンにあるがそこに申請する。
会議があり、OKと成ると連絡がある。
高知、四国に関する名前が(「漱石」、「黒岩 涙香」「とめ子」(五藤さんの奥さん)「興子」(妻)・・・
音楽に関する名前 もある。 「アンドレス・セゴビア」 スペインが産んだ世界的なギターの奏者。
1959年にセゴビアは日本に来るが、それを聞いて感激した。 (20歳でギターを始めた。) 
ギターは音質、たえなる音、が空から微かにやってくる星の光に似ている様に思う。
クラシックギターを愛好する様になった。
土地の名前も付けている。 郷土の名前、大分ついている。
宇宙を四国の地名で一杯にしたい。
小惑星は223個見つけたが、2/3以上は付いている。

観測している時にも暇な時もあり、常にギターがそばにあった。
弾くギターの音が宇宙まで沁み込んでいく様な気がして、楽しかった。
仕事はギター教室をやっていたりした。 
講演会、出版物などでカバーしたが、他は妻に援助してもらった。  妻はギターの生徒だった。 
ギターを弾く姿に惹かれるようになり、結婚しました。
二人で二重奏をやったっこともあります。
「バッハの曲」は何でも好きです。 一生かけてもマスターしたい曲「シャコンヌ ニ短調」
芸西天文学習館  5回/月に公開しています。  講師は10名  80名入れる。
天文学者、宇宙飛行士になりたいと言う人たちが多い。
好きでやってくる人の熱心さが凄い。 
息子のあんな熱心な目を見たことがないと父兄が言っていた。

感謝とお返しで、何かしないといけないと思っている。 天文を教えるという事に力を入れたい。
昭和5年生まれ 83歳になりました。
今もずーと観測をしています。  一生やらないといけないと思っている。
水泳もやっています。 山を歩いたり、ジムにも週に1回通っている。
健康でないとやろうという意欲が出ない、意欲が起こらなくなったらお終いなので常に前向きにやっている、健康が第一ですね。
発見から遠のいているので、発見したい、彗星、小惑星、新星でもいい。
池谷さんが彗星を7つ発見しているので、私がもう一つ発見して並んで、いいライバルになりたいと思っている。












2014年5月22日木曜日

関 勉(コメットハンター)        ・ほうき星に夢を託して65年(1)

関 勉(コメットハンター)      ほうき星に夢を託して65年(1)
1965年に出現して、世界中の目を驚かせた池谷・関彗星の発見者の一人、関勉さんにお話を伺います。
ほうきほしとも呼ばれる彗星は何年かごとに必ず見られるものや、突然夜空にあらわれて消えてゆくものなど、様々なものがあります。
いつ現れるかわからないほうき星を一晩中探し求めるのが、コメットハンター 彗星の狩人です。
関さんはこれまでに6個の彗星を発見しています。
65年も彗星を追い求めてきた関さんに、発見の喜び、発見までの苦労などを伺います。

彗星 まるできつね火というか、人玉というか、非常にボ-っとした青い光。
中心に芯があって、周りはぼやけている、尻尾を引いている場合がある。
美しい姿に惚れてきた。
望遠鏡の視野は低倍率ほど視野が広い、そうでないと能率が上がらない。
彗星に関しては、極端に言えば、低いほど見やすい。
倍率は15倍で発見しました。 すべて手作りでした。   月が10個入るぐらいの視野。
砂浜を毎日散歩する人は、足元の模様に気が付いている。
貝殻にしても今日、打ち上げられたものか、毎日散歩していないと判らない。
彗星の捜索は星空の毎日の散歩なんです。
空の星をよく覚えているものですね。 漫然と覚えている。
異常のものがあれば、それでハッとする。 望遠鏡のピントは完全に合っていないといけない。
星がシャープで有ればシャープであるほど、心が落ち着いてくる。

目で見るよりも、心で見る、心に引っかかる、そうすると、おかしいなあと思って見ると、ボーとした小さな人玉見たいな物がいた、とその様な発見です。
彗星は、或る日宇宙のかなたから突然あらわれるので、予測がつかないので、常に休みなしにパトロールしていないといけない。
一晩中やるが見つからない。 私は10何年かかりました。
晴れた日は毎晩やった、根気との戦いです。
日没の間もなく、西の空から天地をくまなく探す、このパターンと
彗星は太陽の反射で輝いているので、太陽から遠ければ遠いいほど見えなくなる。
太陽に近い、低空を探す。  
夕方でいなかったら、夜なかから明け方にかけて、東の方を探す。
満月の頃はまず見えない。
昼間も仕事はやっている。

去年、大変な予報が出る。 アイソン彗星(ロシアで発見)  
発見されて1週間経ったら、いつどういう位置に来るのかはっきり分かる。
今の彗星の研究が凄い。
アイソン彗星は消えるのは当然だと思っていた。 摂氏100万度 コロナの中を何時間にもわたって氷たる彗星が通過する。  太陽の高熱にあぶられた。
池谷関彗星は消えなかった。 
彗星の本体は汚れた雪だるま とよく言われるが、アメリカのホイップルという学者がそういっている。
氷たる彗星が長い年月宇宙を散歩していたら、どうしても宇宙の中のごみを拾ってゆく。
1965年 池谷さんは私より日本の東に住んでいる。  その日台風がやってきていた。
高知市は荒れていた。
 
普通は観測しないが、晴れるかもしれないと万一を期待して待っていた。
午前4時、急に静かになった。 晴れたかもしれないと思って、雨戸を開けたら、台風一過、星は所狭しとあり、誰かが何かを発見したと思った。(負けたと思った)
明け方なので、東に望遠鏡をセットした。  奇跡の発見だった。
一回横に探して行って、そのままバックして、地平線すれすれのところで、日周運動で彗星が視野の真ん中に入ってきたところで、いきあたる。
私が発見した望遠鏡は、おそらく世界中で一番、彗星を発見した望遠鏡では、小さい望遠鏡、
それでよく見えたと思う、助けてくれたものは、台風一過の物凄く綺麗な星空だった。
いろんな条件が重なって、彗星を発見したが、普通の彗星と思ったが、意外な彗星であることが1週間たって判った。

軌道を計算すると、1カ月後、太陽の中に突っ込む。  太陽に突っ込むのが10月21日正午。
何故池谷関彗星は残ったのかと、聞かれるが、どうか無事であってほしいと祈りが通じたものであろうと答えたが。
太陽ー地球の平均距離=1億5000万km それを1とすると 0.007という数値  太陽の表面から約35万km完全なコロナの中、 消えてしまってもおかしくない距離。
物凄い高熱を受けたが、火の中をくぐっていった。
段々太陽から離れていって、明け方の東の空に見えるようになり、彗星クラブで山の上に登って、はらはらしながら、そこで東の日の出を待った。
太陽の向かって右方の上に、キラーっと金星の様な光、誰かが見えたと叫んだ。
双眼鏡を当てると、物凄い強い光、想像できない光、金星の何倍か或いは何十倍の強さだと思った。
それが光って、よく見るとその周囲がぽーっと人玉の様にぼやけていて、尾が太陽から正反対に
ほうに伸びている。
その何分もたたないうちに太陽が昇ってもう見れないと思ったが、なお青空をバックに彗星が30分見えた。
池谷関彗星は健在であったと、さよなら 万歳と 叫んだ。 あれほどの感激はなかった。
バックが明るいので尾は薄く小さかったが。

11月になると、尾の長さが40度(天空の角度)あった。(壮大な距離、眺め) 
尾がちょっと曲がっていた。 彗星の運動に対して追いつかずに遅れていた。
日本の彗星捜索会の大御所、本田 實先生は白昼、太陽のそばで写真を撮られた。
満月の数十倍する明るさと表現された、如何に太陽のそばで明るかったか、と言う事。
池谷関彗星は半世紀たつので、今の若い人は見ていないが、まだやってくる可能性はある。
太陽をかすめる彗星のグループの一つ  それがたくさんある。
たまに大きいものがあれば、人々に見られることが起こり得る。

池谷さんとはその後、実に壮烈な捜索競争をやっていった。
結局5つ目めまで競争して行った。 
池谷さんは病気をされて観測から離れたが、35年経って池谷彗星には吃驚した。
望遠鏡は左右上下にスムースに動けばいい。 倍率は高くしない、広い視野を取る。
後は熱心に探すだけ。
本田さんは戦後復員されて、その晩から観測を開始して、発見された。(広島県で活躍)
広島から1950年に岡山の倉敷天文台に移られて、長い間活躍された。
昭和23年ごろから、本田さんは次々に発見された。 
高校生の頃凄く心を打ち、手紙を書いて、本田先生に投函した。
1週間経って1通の手紙が来た。
それで、こんな大先生に励まされた、絶対にそれを無駄いしてはいけないと、それから12年の苦闘が始まった。
1通の返書、これが実に重かった。

今も手紙を学生から質問を頂くが、参考書を送ってやらなければ判らないような質問が、葉書で来るが、必ず返事を書く、その1通の返書がどんなに人を成長させるかもしれない、それは本田さんの無言の教えです。  本田さんには感謝しています。
あちこち講演で走りまわった。
夏の空はいい。  天の川の美しさ、肉眼で見る実物の美しさ、ロマンを感じる。
天の川と言う宇宙の中に我々はいるんだと、星の一つ一つは実際には非常に遠い、何千光年、何万光年、すなわち何万年前の光を見ている。
そういう事を考えながら宇宙を見ると不思議な気持ちになる、そうすると宇宙を研究してみたいと言う心が浮かんでくるのではないか。
真っ暗い所へ行くと(スバル望遠鏡のあるところ) 星空に立体感がある。







2014年5月21日水曜日

安藤竜二(蜜ロウソク職人)      ・蜂蜜の森に生きる

* 明日は休みます。 後日 投稿予定


安藤竜二(蜜ロウソク職人)      蜂蜜の森に生きる
朝日町は山形県ほぼ中央 りんごなど果樹を中心とした農業の街、最上川が流れ、標高1800mを超す朝日連峰がそびえています。
1964年朝日町の養蜂家の家に生まれました。
いなかや古いものは時代遅れ、という見方を変えるには、地域の財産である、豊かな自然を発信して、人と森の距離を縮めるしかないと考え、25年前からミツバチの巣を用いてろうそくを作り始めました。
みつろうだけを使ったろうそくの製造は、日本では安藤さんが初めての試みだったと言う事です。
今では工房はロウソク作りの体験の場として、開放され自然の不思議や、命の循環の仕組みを学んでもら場となっています。

養蜂は、今は果樹園、朝3時に起きてサクランボからりんご畑に移動する時期、花粉交配にミツバチをリースする。
一番の収穫は、5月末からは山のなかに咲くとちの木が沢山あり、一番はちみつが好きなんです。
そうなると毎日3時に起きて出掛ける。
6月はキャンドルナイト、ジュンブライドとかの季節ででろうそくの需要があり、収穫と重なって忙しくて、睡眠が4~5時間になります。
8月は夏の草花の蜂蜜の収穫があるが、それまでと成る。
ミツバチは1カ月ぐらいしか生きられない。
女王蜂がいて、1日1000個、卵を産む。 毎日1日1000匹生まれ、1日1000匹死んでゆくのがミツバチの世界です。
秋になると花が無くなるので、産卵をやめて、冬越しの準備を始める。
千葉県の南房総へ、トラックに乗せて持ってゆき、冬を越す、サクランボが咲くと又トラックに乗せて帰ってくる、其繰り返しになる。

尻振りダンス 蜜のありかを仲間に知らせるダンス  
朝、蜜を探しに出かけて蜜のありかを探して、蜜を吸ってきた蜜蜂が戻ってきてダンスを踊る。
沢山蜜を集めた蜂が一番凄い勢いで回る。
其蜂が取ってきた場所に、皆取りに行く。
蜜蜂の巣 蜜蜂が蜂蜜を食べて作る、おなかからロウを分泌する。(食べた蜂蜜の1/10の量)
蜂蜜を蓄えなくてはいけないので、ロウの巣を作る。
すずめ蜂の巣は木の皮をはいできて、噛み砕いて、自分のつばをのり替わりにして、紙製の巣を作る、彼等は餌を蓄える事をしないのでそれで大丈夫。
ミツバチは蜜を蓄え、保存する習性があるので、洩れないようにロウで作る必要があった。

ミツロウは優しくともると思う。 ススもたたない。 色がすかしだされる。 
花粉の色がもたらした色。 癒される。
ミツロウロウソクは紀元前からろうそくの始まりとして、できたんだろうと言われています。
日本でも一番最初に奈良時代、仏教がお灯明として、遣唐使船で持ち込まれたのが始まりとされて、正倉院のお宝のなかにもミツロウは眠っている。
菅原道真が平安時代に遣唐使を廃止した時にろうそくが入らなくなって、松やにのろうそくが作られ、江戸時代に中国と国交が戻って、明治時代まで、うるし、はぜの実で作るもくろうそくが主流だった。
日本には野生の蜜蜂がいるが、飼いにくい。 西洋蜜蜂は人と一緒に暮らしたい習性がある。
日本では産業になるほど取れなかったので、ミツロウソクは作れなかった。
150年前に西洋蜜蜂が入ったが、パラフィンロウソクが安く簡単に作れるので、ミツロウソクは作れなかった。

1988年に私が作ったのが始まりだった。
巣箱のなかに不必要は部分があり、それを切り取る。(無駄巣)
遠心分離機で蜜と分離するが、分離された蓋の部分(ミツ蓋)  是が材料になる。
精製を直ぐにやる。 お湯で煮て洗う、一晩経つと上にロウが浮いて、下に汚い水が落ちる。
そこからいろんなものを取り出す様に精製を重ねる。
このように1~10まで作って、この仕事を生業にしている人はいない。
材料としてミツロンは輸入されるので、ミツロウソクの作家は今は沢山います。

ある時(23歳)、試しに作ってみたら、夕暮れ時に、火を付けてみたら綺麗で、感動してしまって、
其時は商売になるとは思っていなくて、もっとこだわって作ってみようと思った。
自然が大好きになって、自然のことを伝えたいなあと思って、本格的に始めた。
(前は、高度成長期で、時代から取り残されている様に思っていた。)
釣りに行った時の河原での自然とのかかわりが、心に感じて、この街の自然が凄く気にいってしまった。
この時の心の変化は、自分でも驚くほどだった。(周りからもそう見られたが)
山の木が切られてゆく状況が解った。(拡大造林事業)
広葉樹が切られて、杉、唐松に植え替える事業。
切られてゆく木を自分のものとして捉えるようになった(養蜂業で有ったし)
大きな林道、砂防ダムの建設 高度経済成長時代。
自然を守る会を作って活動したが、一握りなので、なんで開発の妨げになることを言うんだと言われた時代だった。

西澤信夫さん?が地元の子供達を、地元の自然や文化を体験させるという取り組みをしていた。(高度経済成長期にしては、珍しい取り組みだった)
特別講師として、蜜蜂に関する活動をした。(蜂蜜の森体験教室)
自然の魅力を伝えたいなあと思った。
技を習得させるものではなくて、其体験させたものと一生涯親しく過ごすために体験させるものだ、という考え方。
ミツロウソク、養蜂業を通して、自然と蜂蜜のつながりを見てもらう、感じてもらう事にした。
蜂蜜の森キャンドル 蜂蜜の森から頂いた、ロウソク 其部分が伝わればば感謝の気持ちが
湧くのではないかと思った。
子供の母親から蜂蜜を大事に、一滴まで嘗めてもらったと、感謝の手紙をいただいたので、良かったと思った。

いま、とちの木の咲き具合はいい。 4年に一度とちの木は沢山咲く。
この20年ぐらいはばらばら、この10年はずーっと花が気持ち悪いほど咲く。
もしかしたら木が弱っているんじゃないかと母がいっている。
温暖化が一番心配、花の咲く時期も2週間以上早くなっている。
蜜蜂にも病気があり、近頃増えている。(2年に一回出る)
切り売り蜂  一つの群れをいくつにも分けて、そこに女王蜂を入れて小さい群れで貸すと言うのが、物凄く産業として成り立っている。(通常は2~3万匹でひとつの家族)
小さい群れだと役割分担がうまくいかなくなるので、(掃除をする事など)病原菌から付けこまれて病気が出てしまう事がある。
その蜂達は、花粉交配が終わった後に、焼却処分する事になっているが、そのまま飼っている場合もあり、私たちの蜂が蜜を奪ってしまう、大きな群れが小さな群れから蜂蜜を奪う習性がある。
病気の入った蜂蜜を取ってきて、自分たちの子供に与えると病気になってしまう、そういう事が今起きていて問題になっている。

電磁波が蜜蜂の方向感覚を鈍らせて、もどってこなくしているのではないかとか、農薬が影響しているのではないかとか、言われていて、根拠はみつかっていないが。
自然界の昆虫、生き物は影響を受けて、大変な思いをしているのかも知れない、不安、心配。
本当に自然とは有難いと思うので、自然に対して何かしてあげたい。
私はミツロウソクを作って、ミツロウソクの優しい光で自然の魅力を伝える、森の復旧委員見たいな役割りをになれたらいい、と思う様になった。
ミツロウは1年間で1箱から500gしか取れない。東北中の他のところからミツロウを送ってもらっている。
エコミュージアム 朝日町全体を博物館として捉えて、環境と人のかかわりを探る博物館。
仕事、生活等の話を聞いて文章にしたり、パネルにしたり、パネルディスカションをしたり見学会などをしているが、高度経済成長時代に田舎は本当の宝を捨てられてしまったと思うので、もう一回拾い直して、泥を落として光輝かせる様に、淡々と一緒にやることがアイデンティティーを、獲得し直しことにつながるのではないかと、20年以上やっている。































2014年5月20日火曜日

宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長)  ・日本酒を世界の”SAKE”に

宮坂直孝(日本吟醸酒協会理事長)     日本酒を世界の”SAKE”に
宮坂さんは58歳、 長野県諏訪で創業およそ350年に歴史を持つ日本酒の蔵元です。
宮坂さんは大学を卒業後、アメリカへ留学 MBAを取得、東京新宿のデパートで修行を積んで27歳の時に家業に入ります。
品質を高めるためにいち早く純米吟醸酒の製造に力を入れます。 
1990年代半ば、地酒ブームが過ぎると売り上げが落ち込みます。
窮地の中で宮坂さんに大きな気付きを与えたのが、フランスのワインの経営でした。
海外の安いワインに押され、売り上げ不振に悩むフランスのワイナリーでは、品質の向上やワイナリーに観光客を呼び込むワインカントリーツーリズム、さらに外国への輸出など、生き残りをかけて取り組んでいました。
宮坂さんは、地元信州諏訪の5つの蔵と共同で、飲み歩きのイベントを行ったり、フランスのボルドーで開かれている世界ワイン博覧会、に初めて日本酒ブースを設けて、日本酒を国内、海外でも親しまれる酒にしようと奔走しています。

長男ですが、家は分家なので、酒屋を継ぐと言う様な思いは無かった。
高校で生物の時間に微生物について、先生から酒の蔵元なのだから、説明するように言われたが、説明ができないような状況だった。
大学では、ゼミはマーケティングのゼミだが、酒をどう売ってゆくかを考えざるを得なくなって、意識し始めた。
父からアメリカの大学に行くようにと、説得されて、いやいや大学に行く事になる。(2年間)
酒についてのレポートを書いたりしているうちに、意識が高まっていったと思う。
デパートへ入社、婦人服の売り場に1年間、2年目は日本酒の売り場で仕事をする。
地酒ブームが始まったころ、(1983年) 売り場に季節感がなかった。
婦人服の売り場では、2週間に一度大規模な変更があるが。

季節感のある日本酒は、家でもなくて、生酒を商品化したりした。
家に戻ってきても、当時は最盛期は過ぎたが、それでも良く売れていた。
地元のお客さんに買っていただいていたので、長野県以外は出荷はしてなかった。
問屋さんと付き合いを始めて、全国の有名な地酒メーカーの社長さんと付き合う事が出来た。
其方達は考え方、行動も先を読んでやっておられる。
純粋なでんぷんの部分だけを低温発酵して作るのが、吟醸酒。
香りがよくて、味のバランスも良く、飲みやすいが、コストも高くなる。
将来、吟醸酒の時代が来るから、準備をしておかなくてはいけないと、皆さんおっしゃる。
色々教えてもらってくることに依って、段々危機感が生じてきて、わが社のやっていることは足りない部分が多いと気付く。

当時の幹部の了解も得ず、新商品の開発、廃版したりして叱られたりしたけど、色々ありました。
1970年代、清酒メーカー 一升瓶で10億本、日本国内で売れていた。
30数年経って、年間3億本しか売れてない。 
中味を見ると純米酒、吟醸酒 とか高級のものが売れるようになって、安い酒から高級酒にシフトしてきている。
純米酒、吟醸酒は生産効率が悪いが、安い酒が売れなくなることに依って、ある種、純米酒、吟醸酒の生産確保ができると言う事もあった。
1995年ぐらい、地酒ブームは一段落して、毎年落ちてくることになり、危機感があった。
業界の会合に出ていたら、ある同業者が心配して、ワインについても造詣の深い人で、フランスのワインメーカーがどうやっているのか、一緒に見に連れてってあげますと、言ってくれた。
ボルドー等に 一週間見て回った。
素晴らしくいい旅行だった。 大切なポイントを気付かしてくれた。

ワインは華やかな印象があるが、実際はそうではない。
ヨーロッパ全体でみるとワインメーカーは膨大な数がある。 
競争がすさまじく脱落してゆくメーカーが沢山ある。
オーストラリア、南米からワインがドンドン入ってきて、地元のワインメーカーとの競争も激しくなる。
日本酒が置かれている状況よりも苦しい事が解った。
残ってゆくためにいろんな工夫をしていることが判った。
①品質を磨くための努力(ブドウ品種、土壌改良、有機無農薬、酵母の工夫・・・・)
②輸出を一生懸命やっている(小さなメーカーでも努力している)
ワインの世界的な流通の拠点はロンドンで、イギリス人の、カナダ人の営業部長を持っているとか、そう言う蔵が結構あった。
自分のところの価値を認めてくれる国に売りに行くと言う事をやっている。
③ワインカントリーツーリズム   自分たちのワイナリーにお客さんを呼んできて、そこでテースティングをしてもらって、ワインを売ったり、レストランを付けたり、コテージを付けて宿泊までやる、ワイナリーとワインビジネスと観光とをドッキングさせる。

以後、毎年海外に見学に行く事になる。
日本酒メーカーは3つのことをちゃんとやるべきだと高まってきて、①品質、②輸出、③日本酒をフレンドリーにする、その後この3つを20年ぐらいやってきた。
日本では作る人、酒問屋、小売業と壁が出来ていて、お互いが越えてはいけない様な慣習になっていたように思う。
お客様と直接接する楽しみを体験しているし、ヨーロッパのワイナリーの生き方を見てきているので、蔵元ショップを1995年にまず、作った。 
流通からはバッシングを受けたが、これがあったために我々にストレートに入ってきた。
次のステップへの参考になる。
徐々に4軒もショップを作ってくれたりして、諏訪5蔵を立ち上げいろんなイベントを開催するようになる。
年2回開催の「飲み歩き」イベント 2000円で飲みたい放題状態で、5軒をめぐれる。
今では諏訪市を代表する大きなイベントになっている。

この3年ぐらいは、もしかすると本当に日本酒は世界の酒になれるのではないかと思ってきた。
得意先ののレストラン回ったり、展示会をすると、あたかもワインの有名シャトーのオーナーと同じようなリスペクトをしてくださる、サインしてくださいとか、一緒に写真に映ってくださいとか、吃驚しています。
1999年にボルドーでワインを中心としたアルコール飲料の商談会が2年に一度あるが、ある方のお勧めでブースを出して日本酒のアピールを始めた。 8回出した。
最初は嫌われていた。  
たどたどしいフランス語で日本の「さけ」と言って販売したが、フランスに在る中華料理屋、ベトナム料理屋の「さけ」=中国製の焼酎(ばいちゅう) 飲むと直ぐに酔っぱらうまずいさけ。 
そういう「さけ」と勘違いされて、嫌われていることが解った。
ヨーロッパ全体で誤解されていることが判って、説明して飲んでもらうと、これは「さけ」ではないことを理解してくれる。
異口同音に日本酒は美味しいと言ってくれた。

2000年を越えてから、お寿司が世界中に広がって、お寿司では日本酒でしょうと言う事で日本酒の需要が高まった。
去年、国連本部で日本酒を振る舞った。
品評会でいい成績を取っている様なメーカーが集まって、吟醸酒を広めようと言う事をやってきた団体、試飲会をやっているが、吟醸酒ファンの中に少なからず外交官がいる。
ワインは非常においしいワインは値段も非常に高い、日本酒は大吟醸でさえ4合瓶で5000円だせば、本当に高級なものが買えると、彼らが言ってくださる。
是非吟醸酒を国連の本部でお披露目をして、他の国の外交官に見せてやりたい、バックアップするからという事になり、是非やろうと言うことになり、昨年11月1日に、50社の吟醸酒を並べて味を見ていただくと言う事になった。
300名はお見えになったと思う。 

日本人は豊かな風土の中で、味覚を磨いてきたと思う。
鋭い味覚を持った日本人が2000年かけて磨いてきた日本酒がまずいわけがない。
これからも品質を上げて、胸を張って世界中に紹介していく。
ビールもワインも ウイスキーもそうだが一地域で作られたものが世界中に広がっている。
日本酒がどうしてそういう立場になってはいけないのか、と言うのは私の想いです。
日本酒が海外で造られるのでは? 北米では作り始めている。
世界で造られる日本酒とはレベルの違う品質の酒を作ってゆきたい。
米も素晴らしく、量も必要だと思います。
7号酵母が生まれた酒蔵。(宮坂さんの酒蔵)




























2014年5月19日月曜日

壇太郎・晴子(エッセイスト)      ・楽しい料理を受け継いだ幸福(2)

壇太郎・晴子(エッセイスト)     楽しい料理を受け継いだ幸福(2)
島の山の標高は195m  句碑がある。 12月28日書いて 翌年1月2に他界。
「もがり笛 いくよめぐりて、 花に逢わん。」  
もがり笛 ひゅーひゅー風が竹に当たって笛の様に鳴る。 季語
5月第3日曜日に集まる。  花逢忌
自分に本当に正直で嘘のつかない人、万人に優しい人だった。
気使いが細かくて、本当に喜ばせることが好きな人でした。
父が中学時代に両親が離婚して、父は家のことを省みない人だったので、自分が3人の幼ない妹たちに食事を作って食べさせていた。
料理をを自分でやらざるを得なかった。
私は小さい時から、父から周りの植物を見ながら、食べられる植物、食べられない食物を教えてもらった。
3歳になるかならない時に、母(律子)が肺結核で死んだ。
その後父と暮らすが、全部父が食事を作っていた。

昭和22年、23年は物がなく、食べ物に苦労した。
おにぎりとめざしを貰って食べて、世の中にこんなうまいものがあると、知りました。(4歳の時)
それが美味い物の原点。
壇流クッキングはレシピがない。(経験から)
料理の本 うんちくは無い、内容の本
壇流クッキングを継承しているのは晴子です。
この家の料理は特別な料理と判ったのは、ずーと後になって判って、美味しいものは全部義父の食卓で出会っている。
美味しい物を食べたかったら、自分でやればできるのではないかと言う事を、姿勢を教えてもらった。     物を感覚で作る。

海外に行った時は食材を土産には下げてこれないが、お土産の代わりに料理して再現してくれる。
それが我が家に定着してゆく。
よそで美味しかったものを、再現してくれる。
壇流クッキング 本にない物があり、再現してみようと言う事になっている。
160種ぐらいはやらなくてはいけないが、来年には出版してみたいと思っている
お客さんがきて、父が料理を作って接待するが、一緒に来るわけではないので、遅れた人にも同じ馬刺し、をたべさせるために、新たに買いに行くがなじみの店に馬刺しがなく、食べさせたいと言う一心で汽車に乗って、信州の伊那谷まで行ってしまって、翌日は帰ってこなくて、3日目に「ただいま」と言って帰ってきた。

父が危篤の時に、親戚の方が来るが、もてなしのために、父からおせち料理の指示がある。
病院には来なくていいから、お客さんをもてなしなさいと言う事でした。
亡くなってから35年になるが、いまだに父の会があるが、何人も集まってくる。
存在を残す、2歳の孫が、おおじいじい、おおじいじいと どっかにいるといっていた、どっかにいるんだなあと思う。
父が入院する前に、もっとここにはサウナ、客間、書斎を作って、金があったら家を作りなおしたいと言っていたが、我々はその後、ほぼそのように作りなおした。
律子(母親)の歌 「つくづくと 櫨の葉朱く 染みゆけど 下照る妹の 有りと云はな
(日増しに はぜの葉っぱが赤く染まってゆくけど 美しいお前はもう此の世にはいない)
万葉風の歌  昭和23年に作っている。

「火宅の人」のイメージでとらえている方は、家庭生活を思いっきり破壊しているようなイメージだが、決してそうではない、よき家庭人、いいおやじだった。
海外旅行はよく行ったが、旅行は誰かに誘われて行っていた、過去に拘らない、後ずさりをしない人だった。
私は家を建てる材料は、北海道で20~30年前から買い集めていた。
材木を買っていたのは、この家を建てるという計画は無かった。
「なんのその 100年後は ちりあくた」 
なんだかんだ言っても100年経ったらちり、あくたになってしまう、物欲とか、財産とか持たなくていい、というようなことを言っていた。
「本来無一物」 大黒柱に書いてある。 われわれにも戒めです。

父が40畳しきのキッチンを作って、客をもてなすと言う想いがあり、自分が暇な時には大漁旗を揚げてきてもいいぞと、旗を作って、旗を立てるところも作った。
ここに来る人は時間がゆっくりと成る、言うふうに感じる。
息子たちも料理は好きです。 教えたわけではないけれども。
息子たちも、もてなすことは自然に身に付いた。
食は次世代を育むものなので、大事だと思います。

















2014年5月18日日曜日

壇太郎・晴子(エッセイスト)      ・楽しい料理を受け継いだ幸福(1)

壇太郎・晴子(エッセイスト)     楽しい料理を受け継いだ幸福(1)
能古島 博多湾の真ん中にあるのこの島は人口800人 周囲12kmの小さな島、万葉集にも歌われている歴史の島、現在は四季折々の花の咲く島として人気のある島。
今から5年前、住み慣れた東京を離れ、父である作家の壇一雄さんが晩年を過ごされた、能古島に家を建て、畑や果樹園を作り暮らし始めました。
都会生活と比べると、不便だけれど豊かな暮らしが待っていました。

能古島に来た時には、自然がむき出しで、吃驚しました。 
朝焼けは今でも毎日感動しています。
郵便局、なんでも屋さんが一軒 酒屋さんが3軒。 だけです。
インターネットでは注文ができるので、その点は便利。
父がここに家を買ったのが35年ぐらい前、2年弱住んで他界する。
夏休みをちょっと過ごすぐらいにしていた。
たまたま夏休みに来て、海に行ったりすると、アサリが取れたり、東京に長い夏いるのが嫌で、夏を過ごして帰る、と言うことをしていた。
63歳の時に能古島に引っ越すことにする。
店がないので、能古島に畑をやろうと言う事で、事前に体験農園で農作業を行う。

仕事柄、外国に120カ国いったが、やはり老後を暮らすには日本が最高だと思っていた。
自分の食卓の責任は自分で持つ、自分のことは自分でやる、しかし大変ではある。
体験農園では畑は出来ているし、殿様農業だった。
体験農業とここの土は全然違っていた。
ゼロからやろうとすると大変だった。
能古島はミネラルが豊富で、できたものは硬いが物凄く美味しい。
便利さを追求するばっかりに、野菜にしても、果物にしても、旬と言うものをどっかないがしろにしている。
本当に時満ちて、育ったものを食べる方がずーと嬉しい。 ない時期は無くていい。
高々100年前の暮らしを考えると、冷蔵庫、冷凍庫など、何にもなかった。
今は季節が全く逆転したものを食べることが、当たり前になってきている。

今は70歳なので、自力で色々やることが大変になる。
身体がぽろぽろ壊れてきて、修繕もしないといけない。
70歳になると、それまでとは違う。
冷蔵庫、冷凍庫があるが、冷凍庫はマイナス60℃仕様のもの、マグロはこの温度で冷凍する。
新鮮な魚は簡単に入手できると思っていたが、それは誤算だった。
漁師は市場に持っていってしなう。
釣りをやって、アジはわたを出して、冷凍してしまう。
こちらでは生きている魚、生きている野菜を食べている。
東京では海老は食べられなかったが、こちらに来て美味しくて海老を食べられるようになった。

東京は全てサービスをお金で買うところなんだなと思った、サービスは本来自分で出来るかもしれないことを、人にやっていただく、それの代償のお金なんですよね。
能古島では80歳過ぎの人達が、本当に元気で、仕事をしている。














2014年5月17日土曜日

原田正道(曹源寺住職)      ・座禅は国境を越えて

原田正道(曹源寺住職)        座禅は国境を越えて
曹源寺は禅寺で常に30人ほどが住んでいて、修行に励んでいます。
その多くがアメリカ、ポーランド、インド、イスラエルなど、世界各地からやってきた外国人です。
海外からの修行僧を積極的に受け入れるだけでなく、原田さんは自ら海外に出かけ、座禅の道を説いています。
奈良県の禅寺で生まれた原田さんですが、10代のころは僧侶になる事は望んでいませんでした。
そんな原田さんを変えたのは、母校である花園大学の学長も務めた、山田無文老師との出会いです。
大学を卒養後、神戸の専門道場、祥福寺や中国地方の山中にこもった修行などを経て、30年ほど前に曹源寺の住職になりました。
若いころの迷いはどのように開けたのか、外国の人々と接する事で座禅の世界はどのように、深まったのか、アメリカではホスピスを設立するなど、活動の場を広げてきた原田さんに聞きました。

外国人は27 ,8人が修行に来ている。 国は16、7カ国。
昔は船で何日も掛かると言う様な状況で有ったので、海を越えると言う事は自分の人生の上で最も重要なことをするという事なので決意はあったと思います。
自分に対しての想い、自分の国で思っていたことと、こんなことまでするのかと、国では自分を表現するのが基本なのですが、ここではそれを捨てよと言うので、全く違います。
戸惑うと思います。
自分を捨てることのむずかしさ。  
日本人にとっては自分を捨てることは別に大きな問題ではなくて、みなとどう同調してゆくかと言う事は日本人の基本なので、そう大きい負担ではない。

ここでは20年は当たり前です。 寛容性、受け入れてゆくという姿勢、そこから開かれてくる捉え方、日本人の様なものの見方が備わってきますね。
そうなると物の見方が広くなってきて、国の違い、民族の違い、歴史の違い、ではなくて時間さえ経てば人間には見えるもの、気がつかなかったものが感じられるようになる。
私たちは外から取り入れる知識と、自分の本来持っている心のありようと、それに依って生きているので、知識ばかりに頼り過ぎると、私たちの内容は見えない。
知識にとらわれることが少なくなってくると、それぞれの国の違いはあっても、同じようなものの捉え方がちゃんとできるようになる。
社会の情報に頼らず、自分と言うものを見つめ続けていれば、おのずからそんな心境になってくる。

座ると言う字を見ると、昔は屋根のある字、屋根のない字 二つ別々 座席、座布団 名詞
屋根を取った場合には 坐る 坐るは動詞なんです。
動詞は坐ったらどうなるのかと言う心の内容。 「坐禅」
西洋では土はけがれた処 (土に身を置くと言う事は負ける事) 人が二つ 。  
東洋では土は母なる大地 大地からあらゆる植物が発生するが如く、私たちの命も大地にしっかりと根ずいて生まれ育つ、人生を終わると大地に抱き取られる、農耕民族の物の見方だと思います。
坐ると言う事は私たち自身が、この世界と一体の命を持って生きている。
丁度鏡がゼロであるならば、この世界がそのまま鏡になってしまう。
自分の主張があると言う事は、鏡そのものに自分の意見を一杯持っている。
そうなればこの世界は、映ろうにも映りはしませんね。
自分を空っぽにするのは虚しい様に思うが、この世界をそのまま受け入れられる、その偉大さを
自分の中に発見してゆく、それが坐禅の真実だと思います。

昭和15年 奈良の禅寺に生まれました。幼いころは寺の子供が特別な者として周囲から見られることに大きな抵抗があったと言います。
「らご」 寺の子供をこういう。 (お釈迦様の子供をラゴーラソンジャ?という)
自分の力で、これからの人生を開いていかなけれないけない、そういう気持ちのあるものが、親のやっている事を、これでいいのかなあといつも思いを抱いていた。
山田無文老師との出会いは、人生に大きなきっかけを作っていただいた。
人に会うと言う事の大切さ、わたし自身に有ったという事は、今日あるのはそのお陰です。
父親の代理として妙心寺に向かう満員のバスの中での事(17歳の時)
老僧の明朗さ、堂々とした風格、雑踏のなかで静かに本を読んでいるが、その存在感は明るく、大きく見えた。
老僧はどなたですかといきいたら、あの人は花園大学の学長だと言われた。
それで行く先を決めました。
大学では禅学 4年間、 神戸の祥福寺に迷うことなく行きました。

人間には一筋の道を願っても自分の思う様には成るわけではなし。
老髪を迎えて、お釈迦さまが悟りを開いて、悟りにあやかって、皆が共に人間の真実、自己に目覚める、その為に12月8日にお釈迦様が悟った、その因縁にみずからもあやかろうと、皆が熱意を持って修行する。
老髪を迎えらものは真の修行者として認められると言う、物の見方があった。
老髪になれば真実の目が開けると、そう信じていました。
それが、自分の開かれるものもない、悲しさ、虚しさ、徹しなかった自分の虚しさ、悔しさを覚えている。
山にこもって、明けても暮れても 座禅を組んでいた。
ある青年が、修行者の方ですねと、声をかけてきた。
「あなたは修行だけに打ち込んでいいですね」 と言われて、「そういえばそうだなあ」と、自分のわだかまりが吹き飛んだ、自分と言うものをなんとかしたいと思っている時に、「いいですねえ」と言ってくれて、言葉をそえてみたら、思いあがっている自分に初めて気が付いた。
自分はそんなに知恵があるわけではない、智慧のない自分がこだわり、思いあがってもしょうがない、大いなる智慧のある人がおられるのに、その知恵をなんで頂こうとしないのだと、気が付いたら、もう道場に帰るしかない。 
不思議な事に、もうすべて任したような気持なので、二度と迷わなくなりました。

坐禅の修行が20年にも及んだ昭和57年4月、岡山の曹源寺の住職に着いた。壇家はいません。
日本人社会は 漢字文化とアルファベット文化がある。 翻訳のむずかしさがある。
禅の文化 海外から人たちに体験してもらうには、ある程度訳さないといけない、そしてその人がそういう心境になって頂けなければいけない、時間をかけて。
時間をかければ通じないものが通じる。
こちらも学ぶ、修行者も学ぶ。
平成元年から世界各地の道場で禅を広げるようになる。
修行に来た人が国に帰って、指導する立場になるが、その支援のために海外に行く。
その場所に縁を作ってあげたいと出掛ける。 海外に25年行ったりしている。

禅の基本は坐ると言う事なので、座ってみると、外のことばかりバタバタ関わっている自分が、こういう視点があったのかなあと、気がつかなかったものに気が付いてくる。
気がつくのに、坐禅が一番適していると感じます。
釈迦が仏教を開いた原点は、生まれた人間が病み、老い、やがて死んでゆく姿に衝撃を受けたことだと伝えられています。
人の死を見つめることが、生きることの本質へ辿り着く上で欠かせないのではないかと考えるようになりました。
平成13年 アメリカでホスピスを始めます。 アメリカ人医師との出会いがきっかけ。
ベティーという女医 乳癌になられて、自分の治療闘病で癌を押さえていた。
ベティーさんの禅のお師匠さんの死を看取られて、隠すことなく自分の死に向かってゆく事を本当に明朗に感じられて、人間が死と言うものに覚悟した時に、人間は生きてきたあらゆるものから解放されている、其囚われの中で生きてきているので、その囚われが全てを解放されるそういう人間の美しさを感じる。

私は修行の時に、自分が囚われて居るものから解放された、その人も同じことを言っている。
人間がもう最後の死を覚悟しなければならないと、人間が思った時にあらゆるもの、負担から解放される。
女医さんが実感して見ておられる。  それがホスピスならば、それは大事なことでやりましょうと。
シアトルの道場の隣りにホスピスを始めることにした。
交代で修行者が24時間そばについている。
修行者が感じているのは、人間生きているのは、身体じゃないと言う事は感じた、肉体ではない、家族、ナース、ドクター、当人 息を引き取っても、周りの人達が一つになっている、其環境、空間、空気が生きていると言う事が実感しました、と言った。
空間と共に一つになっていられる、其空間が坐っていると言う実感を味わっていただける、これが生きた座禅だと思う。
空間がその人をあらわていると言う事が判ったてくれただけでも、立派だと思っている。
坐禅とは固体が坐るものではなく、其空間が坐ると言う事に気がつかしていただく。
社会が坐る、地域が坐る、国が、世界中の人が座れるような社会が生まれなければならないと思う。
人間の最大の知恵は祈りです。

自分の人生に祈りが持てない、我儘で生きて、そうして祈りをもってするということは不可能。
人生のなかで、いろんな意味の中で、自分の欲望や苦しみ、悲しみはあるけれど、もっと背景に大きな宇宙大の生命を感じ取る、それを私は祈りだと思う。
自分の生命の真実に目覚めて行く、これが私たちの人生であろうと。
人生は自分の欲望を満足する場所ではなく、その偉大な私たちの生命に気付かしていただく、
そのことに依って私たちの人生の価値、そういう大きな背景を抱いた生命であると言う自分
と言うものの大きさを人は実感している。
坐禅とはそうだと思うんです。
坐禅は自分の肉体ではなく、その背景をなしている私たちの偉大なる大きな生命力を私たちが実感する事は坐禅だと思います。

祈りは、何かを頼ろうとするのではなく、すでに自分が大きな命を頂いている事に対する信頼を深めてゆく、心の中の囚われを放つ事に依って、その大きさを信頼してゆく、それが座禅だと思う。
人間の横のつながり、つながりに依って、一国がひっくり返ることもあるので、つながりがあっても根がない、根がないと言う事は絶えず皆が不安になる。
不安である一人一人が目覚めていただく、時間はかかるが、その努力を私たちは怠ってはならないと思います。
繰り返し繰り返し坐禅をして、一人ひとりが根をおろしてゆく、皆の力で開いていかなければいけないと、思うところです。















2014年5月16日金曜日

岩波律子(イベントホール支配人)   ・高野悦子さんの遺志を受け継いで

岩波律子(イベントホール支配人)   高野悦子さんの遺志を受け継いで
去年2月、岩波ホールの総支配人でホールの顔として活躍していた、高野さんが亡くなりました。
その、後高野さんの遺志を受け継いで、責任者として活動しているのが、岩波さんです。
岩波さんはホールの前社長だった、故岩波雄二郎氏の長女としてて生まれ、高野さんの姪にも当たります。
フランスに留学した後、入社し、外国部、宣伝部、編集部を経て、1990年に支配人に就任しました。
ホールの創設当初から、総支配人として活躍してきた高野さんの右腕と成って、仕事を支えてきました。
岩波さんが高野さんの仕事を引き継いでから1年余りたちますが、その後もホールは連日満員の映画を上映するなど話題を呼んでいます。

支配人の肩書を貰ってから20年になるが、高野がいなくなっても総支配人にしなかった。
高野がこの仕事を始めたのが30代後半。 その時 総支配人の肩書だった。
上映している映画が好評、「ハンナ・アーレント」連日満員。
現在、映画界は成況と言うわけではないので、このヒットを見て、映画を見たいと言う方はやはりどこかにいると言う事と、テーマに依っては今の時代の風潮に疑問を持っている人たちの気持ちにあったのかという気がしたが、このヒットが励ましになった。
ドイツ系ユダヤ人の女性政治哲学者 ハンナ・アーレント   ナチスのアイヒマンの裁判を描いた映画。
難しい映画ではあるが、真実とは何かとか、凡庸の悪とか、現状と引き比べて関心を呼んだと思う。
年齢層の広いお客さんで、ヒットした理由を考えさせられます。
自分の頭で考えなければいけない時代になったと思うので、そういう時代に、結果的には求められる映画になったと思う。

高野は、私の叔母でもあるので(母の一番下の妹)、一番活発、元気でよくしゃべる人だった。
映画などに気軽に誘ってくれた。
好奇心の強い人で、何にでも興味を持っていた。
特に60歳過ぎてからは、還暦で、赤い服を着ていて、パーティー等でも非常に目立った。
こまめに報告するようにと、よくいわれた。(その割には当人は報告しない)
映画の活動を始めたころは、映画会社から持ってきてくださって、其中から選んでいたが、映画祭に高野が行ったりして選んだりした。
1968年にホールが創立したが、最初は多目的ホールでいろんな活動をやっていた、1974年になって、「エキプ・ド・シネマ」「映画の仲間」と言う活動をはじめて、川喜多かしこさんと高野で、インドの「大樹のうた」 インド映画から始めた。(日本で見る機会のなかなか見ることのできない国の映画)
ヨーロッパ映画でも、見る機会のない映画 商業性がなくても社会的、芸術的に威儀のある映画、という目標を立てました。
内容的には皆さんが日々生きてゆく心の糧になるような作品と言う事でしょうか。

40数カ国、200本以上 最近ではサウジアラビアの映画も上映した。「少女は自転車に乗って」
女性監督が描いた、制約の中でもたくましく生きてゆく少女の話。
大学でフランス文学をやっていた。  卒業後フランスに留学する。
パリ商工会議所、所属の高等秘書養成所 、に行く事になり、実務を学ぶ。
日本に帰った時に、高野からちょっと手伝いに来ないと言われて、そのまま続けてゆく事になる。
最初活字から入ろうと言う事で、雑誌の編集から入った。
英語も出来るだろうとやらされた、外国部、宣伝部、編集部を経てきた。
編集の方では、恐い先生方に原稿をお願いして、当時は手書きだったので読めないので、先生にお聞きしたら、「そのぐらい読めませんかねえ」とよく言われた。 そんなことが随分あった。

高野の友人たち(映画関係)が、映画の紹介してくれたり、してくれた。
思い出に残る作品とかは? 非常に印象深いのが アフリカの巨匠、セネガル人の映画監督のウスマン・センベーヌさん 2007年に亡くなられた。 3本上映した。
1984年 「エミタイ」 1989年「チェド」 2006年「母たちの村」 
日本に来て、セネガルの映画監督なんですが、元は作家 ペンクラブの会長で、当時井上靖さんが日本のペンクラブの会長で、エスコートにもついて行った。
羽田澄子さん 10数本上映させてもらった。 
現在上映中の「ワレサ・連帯の男」 を作ったアンジェイ・ワイダさんがこれで14,5本目 
羽田さんは、老人問題 1986年 「痴呆性老人の世界」  1990年「安心して老いるために」
「終わりよければすべてよし」  老いの問題をずーっと、とりあげてきた。
心の栄養だけでなく、実務的にも勉強になり、感謝している。

好きな3本を選んでくださいと言う試みがあったが、その時に手紙を頂いた。
内容「岩波ホールの映画は、弱いものに寄り添い、見えにくいものに光をあてていらっしゃる。岩波ホールと共に生活を歩んできました。」 と言ったもの。
中年以上の人は映画館にこられるが、若い人は映画館に来ないような状況で、映画館で映画を見ることを若い人に味わっていただきたくて、2時間、3時間を別世界を生きることだと、思いますので、その良さを是非わかっていただきたい。
映画をみて、人生が変わったとか、辛さから立ち直ったと言う人がいると思うので、学生さんを中心に着ていただけるように工夫する。
ドキュメンタリーが多くなかったので、「ミツバチの大地」 ミツバチの世界各地の様子を描いたものとか(自然科学)、新しい監督などにも注目して、プログラムを整えているところです。
























2014年5月15日木曜日

野口義弘(ガソリンスタンド経営)   ・信じ続ければ応えてくれる

野口義弘(ガソリンスタンド経営)    信じ続ければ応えてくれる
25年近くにわたって、少年院や少年鑑別所から出所してきた少年少女等を、従業員として雇ってきました。
受け入れた少年少女たちは120人になります。
保護司をしている妻の言葉がきっかけになって、少年少女の受け入れを始めた野口さん、これまでガソリンスタンドの売り上げを持ち逃げされたりして、挫折しかけたこともありましたが、少年少女の成長を止めてはならないと、一人ひとりのケースに向き合ってきました。
野口さんは少年少女達とどう向き合ってきたのか、その歩みの中で野口さんが得たものは何だったのか、伺いました。

非行歴があっただけで、ハローワークに行っても、面接で断られるので、お父さんのガソリンスタンドで、雇ってくれないかと妻から言われたのが、初めでした。
昭和58年、福岡県の小倉南警察署から少年警察指導員というボランティアを受けていたので、立場上、恐る恐るやといました。
16歳の女性 16歳とは思われない化粧をして、シンナー、無免許運転、家出、家庭は豊かだったが、一人娘で、ちやほやされて育った大変な子だった。
暴走族のリーダーと夫婦気取りで、夜遊びを転々としている状況だった。

9店舗あり、ガソリン以外にも商品を売っていて、実はその子が販売1位になって、其ことで彼女自身が自信を持った。
「子供たちはみんな寂しい、絶対茶々を入れないで、目線を一緒にして、兎に角ゆっくり黙って話を聞いてほしい」と、妻の一言がとても大事にしている。
聞いてくれたと思うと、困った時はこの人は助けてくれると、思った時に初めて心を開くと言う事をその少女から実際に習いました。
認めてもらったことがないと言う事で、ゆっくり話を聞く事に依って、自分を認めてくれたんだ、信じる人ができると言う事は子供達にとっ、てとても大事なことだと思います
その少女は、今は普通の結婚をして、普通の家庭生活を送っています。(現在39歳)
この子のお陰で、大勢の少年たちと目線を一緒にして話せるようになりました。

私は高校に行きたかったが、父親を中学1年生の時に、肺結核で亡くして、母親も高血圧で半身不随になりました。
学校に行く状態ではない貧しい生活をしていて、其時に地域の方々がいろんな形で応援してくれて、バス会社に13人入社したが、中卒は私だけだった。
地域の人の愛情を受けて、それが今の子供達と相通じる思いがあります。
結婚して、子供ができたが、ミルク代が大変だった。
北九州に転居して、ガソリンスタンド業界に入りました。 1年もたたずに大いな店舗の所長になって、平成7年に独立する。 
毎月80万円、5か月赤字続きで、磨きの洗車をやったら、福岡県下でNO1になった。

120人は 不登校、引きこもり、鑑別所、少年院  8割が中学校卒業して20歳未満。
雇ってくれることが、噂になり、そういった子どもたちがきました。
想像を絶する生活をしていた子供達、自分で食べることができないので、コンビニの冷蔵庫から万引きしてくる、挨拶ができない。
働く事に依って、住居を与える、収入を得る、 就職するとに依って友だちができる、会社のルールを知る、不特定多数のお客さんとのかかわり、ができる。
教育をするのは私だけでなく、長男(48歳)、次男(42歳)、妻。  
現在33名の社員(アルバイト含む)のうち17名が少年院を出たりした子供達。
大変でしょうと言われるが、そうではない、最初は私が教育するが、今は先輩がやっている。
少年院を出たばかりの子には、其直近の先輩が指導する様にしている、その方がお互いが問題点を理解しやすい。
初めて給料もらう、大事にして使おうね、と言う事で話す。
子供の給料を取り上げて、親がパチンコに使ってしまうと言う様な事もある。

私のとことはお金を扱います、信じると言う事はすべて、信じますから、半年経ったら売り上げの計算までする。
如何に自信を持たせるか、と言う事が私たちの雇用する立場で大事なこと。
悪いところを治すよりも、必ずいいところがあるので、一ついいところを見つけなさい、それをしっかり褒めなさい、と言っている。   彼等は裏表がない。
裏切られることはいっぱいあります。
店のお金の持ち逃げ、誤魔化し、商品を取られたり、色々あります。
普通の会社だったら、もう駄目ですが、罪は罪としていけないと、言う事で信じると言う事です。
6人グループがうちのガソリンスタンドを叩き割って20kgの金庫を持ち去った。
女の子が警察から指名手配された子だけど、いい人がいるとの話があった。
金庫破りをした子、16歳の面接をする。(面接の中途で判る)
自首してもらう様に話して、拘留されることになる。(自首は罪が違ってくる)

彼は鑑別所に入って、手紙を貰って「自分はもう少し早く野口さんとかに会っていたら、こんなことはしなかっただろう、お母さんを今から泣かせたくないし、自分がちゃんとして行かなければいけないと気付きました」 という内容だった。
歎願書を出して身元引受人になり、協力事業所で8か月働いて、塗装の仕事をしたいと言う事で2年間修行をして、その後独立して、男の子も出来て、立派な生活をして、自分と同じ環境の子供達を今使っている。
店長「あの子だけはやめときましょう」と言われるが、その子は行くところがないんですね。」
私は、大変な時に地域の人の温かい物があった。「愛は与えっぱなし」と言う言葉をうけた。 
罪は罪として償って帰った時に、思いは違うものを持っています、だから私は雇います。
どんな大人と出会うかで、人生が変わってくるんじゃないかと思います。

協力雇用主でもある。 犯罪に手を染めた人たちの更生、手助けをする制度。
平成7年独立の時に、協力事業所に登録。 当時福岡県500万人の人口で僅か22か所
北九州市 100万人の政令指定都市で5か所しかなかった。
現在は全国で11000を越え、福岡県では350社、九た九州市では80社を越える様になった。
地域の人たちが理解してくれるようになった。 住居、食べもの等のの低価格で提供。
就労支援=更生支援  
デメリット スタンド保険が高い 事件、事故が多い。
メリット  労働力の確保 事件、事故が起きた時は、勉強する、社員の教育と思っている。
信じる、人間関係が出来てくる、お金ではない。
子供達の感受性は普通の人には想像できない感受性を持っている。
私のところでは、成果主義を取っていない。
私が少年たちと関わるようになって、私の生活も変わってきた、私も変わってきた。
小さな会社ですが、役員報酬は辞退しています。 辞退する事に依って、5~6人は雇える。
自分の生活の中で、子供達の生活のあり様を見ていたら、自分自身が子供達から教えられた。














2014年5月14日水曜日

石飛博光(書家)         ・書に生きる

石飛博光(書家)      書に生きる
石飛さんは昭和16年 北海道赤平市生まれ 72歳 小学4年で書を始め、高校卒業後、東京学芸大学書道家で学び、書家金子鴎亭に師事しました。
書道の基本的な古典を始め、金子氏の提唱する誰にでも読める私文書の創作に精力的に取り組みました。
大学卒業後は高校の教師をしながら、書道の展覧会に出品し、数々の大きな賞を受賞しています。
38歳の時に教師を辞め、本格的に創作活動を展開しているほか、書道の入門書や解説書など多数出版、NHKのTV番組趣味ゆうゆうの出演などを契機に多くのファンから支持されています。
石飛さんの作品は洗練された現代的な表現に加え、文字としての読み見やすさを兼ね備えた作風が評価されています。
現在は日展評議員、毎日書道会理事、そうげん書道会理事長など多くの書道界で重責を務めるほか、大正大学で客員教授として、教壇に立っています。

書道が今、高校生の中で書道に関心を持っている。
書道は一人でこつこつと書くのが、通常であるが、グループでひとつの作品を仕上げる。
「書道ガールズ」で若い女性に関心が高まる。
書は立体的である、運動であると言う事で、皆さん親しんでもらうと、益々面白くなってゆくのではないかと思う。
そういったことは、書道界では邪道だと言われがちです。
若い人たちを引きつける、音楽を演奏する様な感覚で書を楽しんでもらう、事も必要なのではないかと私は思います。
習字で描くという事に対して、形にこだわって仕舞う。
振り子の様に、リズムに乗って楽しい字が書けるのではないか。
先に形ありきではなくて、先に運動、腕を振って一本の線をのびのびと書くんだと、いうところから始めると、字を書くと言う事について、興味が変わってくるのではないかと思う。

漢字には漢字の良さがあり、おしゃれな構成で作品を描くと言うのも大事なことかと思う。
伝統を大事にしながら、今風の空気を盛り込んで、自分の顔、自分のイメージを表現してゆく、それができればいいのではないか。
詩、とか好きな言葉を描いてみようと思うが、巧く書けない、どうしたらいいんだろうと、そこで伝統、古典を、歴史を見つめ直して、参考にして描いてみる。
自分の書きたいもの、昔に還ってヒントを取り入れる、その繰り返しやってゆくのが、いい勉強になると思う。
書の場合に、一番の問題は読めると言う事だと思う。
自分の気持ちを素直に言葉で、字形で、筆の味わいで字が書けたら楽しいと思う。
書くときは3から5時間とぶっとうしで書く時がある。  書くまでに時間がかかる。
書きだすまで1週間かかることもある。 筆を持ったまま1日が過ぎてしまう事もある。
お手伝いしてもらう人から、褒めてもらう、悪い気はしないので、それによって乗ってゆく。

子供の頃は、非常にまじめだった。 それが嫌に思っていた。
小学校の4年生で書道を始める。 
仲間が書道をやっていて、遊び相手がいなくて、母親に頼んで塾に通い始めた。
中学の時には書道をやるのは、私一人になったが、大人と一緒に指導してもらったのが良かった。
高校3年生の秋 東京から金子鴎亭先生が講習にこられて、先生がお書きになる姿を拝見して吃驚しました。
こいう書き方もあるのかと、目からうろこだった。
陰陽伏仰法 筆を持ったら筆の軸を動かしたら行けないと、指導されていたが、
軸を色々な進む方向に倒す、掌が上を向いたり、伏せたりする。
しなやかに手首を使って書く。
作品を持っていって、先生に見てもらった。
書を本格的に勉強するなら、東京だぞと、言われた。
是非東京に行きたいと思って、父親を説得して、翌日先生のところに行って、先生、東京に行きます、よろしくお願いします、と言った。

東京芸術大学に受かって、先生の門下生になる。
全国から来た同級生との付き合いが良かった。  書風に色々特徴があった。
先生の若手三羽からす 金子卓義 矢壁柏雲、私  期待の星だった。
矢壁氏は48歳で亡くなる。 金子孝義氏は63歳で亡くなる。
高校の教員になるが、昭和39年 生徒に恵まれ、その時の高校1年生が一番弟子で、一緒に今もやっている。    器用な人は続かない。
高校生と一緒に書の勉強していた。
昭和55年に教師を辞めて、書道教室をやりながら、本格的に書家としてスタートする。
子供は書道は今はやっていない(高校生ぐらいまではやっていたが)

2011年7月 銀座で個展をする。 2.4m×16m の作品も展示 小さい作品で5m
自然をテーマに作品として仕上げたいと思って、1年がかりで書きこみました。
大震災でやってもいいのかなあと思ったが、作品を書き続けた。
個展は20回ぐらいやってきたが、必死で書いた展覧会だった。
75歳までぐらいは、書道界の為の仕事をやらなければならないと思うが、その後は自分の時間を大事にして少しでも気合いの入ったいい作品も作りたいと思うし、書道を通じて何か仕事ができればいいと思っています。






























2014年5月13日火曜日

佐藤とく子(津軽カイト支部代表)   ・凧揚げて、世界の子供に安らぎを(2)

佐藤とく子(津軽カイト支部代表)      凧揚げて、世界の子供に安らぎを(2)
桜が終わって5月半ばから、リンゴの花が咲く。
南極の空にも舞う。  宗谷の船が偶然青森にも来て、オーロラをTVで流していて、素晴らしい南極の空に凧を揚げてみたいと、思った。
3点(紐が3か所)で引く津軽凧は揚げるのが難しいと言われるが、見事に揚げた。
南極の基地では、日本の年中行事を全て取り入れているそうです。
餅つきの場所に、きちんと並べて、写真を送ってもらった。
食堂は広くて、会議など、くつろぎの場でもあり、そこに触れられるように飾ってあります。
南極は国境のないところ  「ノーボーダー イン ザ スカイ」

日本との絆の取り方を何を媒介にして、自分たちの仕事を全うするかと言う時に、そこの子供たちが楽しく凧上げをしてるのが、自衛隊の方(後方支援ででかけた)がご覧になって、お国のお土産として、津軽凧をと言う事に決められたそうです。
戻られた隊長さんが、津軽凧で私たちの命がまもられているんですよ、と言う言葉で表現してくださった。(頭の下がる思いでした)
イラク、ハイチ 日本の文化のお土産を持っていって、交流のきっかけになる。
横の繋がりにも一役買う事ができた。 
和紙に手描きなので、現地の人は結構感銘してくれると思う。
子供達と隊員とのつながりも深まっていた。
日本の遊び 日本風なものを色々、凧にそえて送ったので、それを喜んで受けてくれて、こちらで届けた絵具と、和紙を使って、こちらにハイチの子供たちが絵を描いて届けてくれた。
ハイチとの同時凧あげを計画が、時差の関係で危ない時間帯があるので、残念ながら取りやめになってしまった。

モンゴル 全体が一日子供達と遊びましょうとの事で、津軽凧が呼ばれました。
一週間いたので、学校(幼稚園から大学)で製作指導を行った。
モンゴルと日本の国旗を半分ずつ作って、国旗凧を送りました。
子供たちの反響 もの凄い行列で素晴らしいパレードだった。
アメリカのテキサス工科大学大学院 カイトマスター、美術関係の方(色彩学、舞台装置等の専門家)、子供達の遊戯関係(幼稚園指導者とか)で200名が集まる。
ナイロンなので、のりは使えず、ミシンで縫います。
日本は平面だが、向こうは立体です。    9年間教えに行った。
材料は全部こちらから用意した。  
伝統凧に対する見方が随分違うと思う。 日本の凧は形状が違うので非常に関心は強い。

今も藤崎町の小学校で指導している。 
寺子屋からスタートして小学校になった学校があるが、20年間続けて、授業の中に取り入れて、国語の本にもなった事があります。
先生も子供と一緒に指導を受ける。
先生が転勤して、新しいところで、凧クラブを作ったと言う、連絡を頂いたり、色々発展がある。
親子凧作りに変えたことがあるが、親の熱が入って子供からとりあげて、自分が必死でやり始める、子供はぷんぷんになって怒る、そんな感じの時もありました。
風の強さによって、しっぽの重さが変わってくる。(縄でなったものを使用する)
ブラジルへの移民は青森では今年100年  九州が100年と言う事で、其時に同行した。
畳3枚ちょっとの大きなものを、現地で組み立てをして、のりが乾かないうちに揚げてほしいとの要望があり、何百人が紐を引っ張り、4回目で何とか揚がりました。(大歓声が上がった)

藤崎町で国際交流凧上げ大会がある。 
今年は19回 来年は記念の20回なので、何か考えなきゃと思っています。
凧を媒介にして、文化交流がある。  43カ国参加
ホームステーしてもらって、日本の生活習慣を体験してもらう。
一人一役参加  孫の手を引きながらおばあちゃんが大会を見るだけでも、立派な一役、豚汁、餅つきに婦人会が参加したり、町ぐるみで参加する。
夜は文化講座 何カ国かの話を聞いて、交流を深める。
今年、国連NGO世界平和女性連合の 青森第二連合会の議長を担当。
世界は、世界女性連合も、一つの地球と言う、一つの家庭の中に皆がいるという、平和と言う女性の活躍の場なので、何かこれまでの活動と、生かすことができる目的を持った団体なので、受けることになりました。












 
















2014年5月12日月曜日

佐藤とく子(津軽カイト支部代表)   ・凧揚げて、世界の子供に安らぎを(1)

佐藤とく子(津軽カイト支部代表)      凧揚げて、世界の子供に安らぎを(1)
1937年昭和12年、青森県弘前市生まれ  子供の頃から描く事が好きでねぶたの絵師にも憧れた佐藤さんは、娘が進む道ではないと反対され、その夢はとん挫しますが、絵柄や色彩の魅力はいつまでも心に残り、夫の 凧上げの想い出話が津軽凧の製作へと後押しをしたと言う事です。
親子凧作り教室からスタートした、佐藤さんはその後、地元だけでなく、アメリカの大学など海外でも凧作りを指導するようになりました。
地元でぶんぶという津軽凧は空高く上がり、うなりを発します。
戦時中は飛行機の爆音と間違えると、凧揚げ禁止となった歴史もあります。
空には国境がないと言う想い、佐藤さんの作った津軽凧、これまでイラク、ハイチ、スーダン等20
カ国以上の空で舞いあがっていると言う事です。

藤崎町 「富士のりんご」の発祥の地 
津軽凧 大きくて、色彩が凄い。 空に舞う芸術作品。
津軽凧は揚がって眺めるだけでなく、音を楽しむことができる  「ぶんぶ」と呼んでいる。
風の振動に依って鳴り響く音。
津軽凧を作って50年。 主人が凧の想い出話をしたことがあって、父を見送って3年目だった。
父からは聞いた事がなかったが、あるとき思い出話があった。
河原に冬はオオハクチョウが来るが、同じ河原に近所の子を引き連れて、畳一枚の凧を皆で上げたとの事。
津軽凧の絵柄は昔の参勤交代の時にさかのぼる。
江戸で文化を吸収した若い武士が帰ってきて、日本画の絵の趣味を身につけて帰ってくるが、戻ってきてから津軽で日本画を描き始める。

津軽の味がドンドン日本画に沁み込んで「津軽錦」と呼ばれる新しい絵が出来てくる。
よりいいものを、と望まれてくる。 書く方も腕を上げてゆく。
凧の絵柄に反映してくる。 ねぶたの絵柄は江戸にはない。 
ねぶたの同様な段階を経てくる。
ねぷた(弘前) ねぶた(青森) 全く同じ 始まりは弘前  観光的な扱いになってから濁音になった。
岩木川の河原で、凧が舞いあがり、そこで酒を飲んで凧見をしたという古文書の記載がある。
私は本当は藤原歌劇団に入りたかったが、道を誤ると言われて断念、絵は好きでコンクールなどに出したりしていた。
主人の話(主人の父親の凧の思い出話)を聞いたころから、何故か凧に関する文字が目につくようになる。
親子凧作り の講習会が年に1回あり、その講習会を4年間続けた。
墨の線と原色に打たれていって、津軽凧の素晴らしさを感じた。
津軽凧を作ったのは5000どころではなかった。

津軽凧のいいうなりの音は飛行機の爆音の様な音。
戦時中はB29の飛行機の音に似てしまっていて、禁止令が出てしまって、戦後になってもそのままだった。
郷土の伝統文化がすたれてしまうのではないかと声を挙げたのが地元の新聞社で、教育委員会、商工会が一緒になって親子凧作りが始まった。
タイミング良く弘前に習いに行く事になって、ドンドン横のつながりが出来て、広がった。
大きさ10m×6mの凧を作った。 重さは2トン 揚げるために人と続く風が必要でなかなか思うようにならなくてまだ揚げてない。
場所がなくて、大きなりんご倉庫に展示されている。
文化祭 会場が弘前で展示しようと言う事になり、計画した大きさで大丈夫と言う事で、大きな凧を作った。 一人で作った。
新しい凧でお祝いしようとの想いがあった。  製作には18日間かかった。

材質は和紙  裏打ち、裏にのりを使って紙を重ねていって裏貼りをするが、紙と紙の間に空気がはいらない様にはけをうちつけて、何枚張っても、一枚に見えるように、取りつけたブンブと一緒に共鳴していい音が出る。
ぶんぶ  古文書を使うが、和紙の種類によって、強さがないものもあるので、和紙を選択しながら、ぶんぶの仕掛けをつくる。
確実なのは神田の古文書巡りをする。
裏は板が付けられていて、ひばの木を使用している。
竹は育たないので、竹と同じ条件の木 それがヒバの木の真目 最近は高価です。
作る楽しみ、揚げる楽しみ、見る楽しみ 
揚げ方はある程度、図絵柄、絵柄が見えないといけない。 酒を飲みながら見る為。

アトリエ内の展示されている物の大きなものは、大きさは3m×1.5m 
描き始めるときに目から描き始めるが、気にいらないと目を描いて失敗と成る。
図柄は先人たちが苦労を重ねて行った図柄なんです。
図柄の心を伝えていかなければならない。 
私は深い雪を歩いて薙刀の稽古に通って、夜は日本舞踊を習った。
祖父母から聞かされて育ったので、凧を始めたのは侍と言う事で、凧に惹かれる思いはあります。
「ノー ボーダー ザスカイ」 空に国境は無いと言う事で世界の国々に凧を揚げようと。
津軽カイトクラブ 主人は外国に釣りに行って、外国の海岸では凧揚げを楽しんでいると言うので、津軽の凧もここだけで小じんまりしているのではなく、世界に津軽の伝統のある凧があることを知らしめるというか、それも必要ではないかと、賛同してくれて、この名前になった。 
1991年 津軽カイト支部設立 
凧の仕事をするのはどうしても夜になるが、あっという間に夜が明けてしまう。
寝ないで3日は持ちます。 食事も少なくなるが、その方が調子がいいです。
津軽凧は民画ですね。


















 

2014年5月11日日曜日

花戸貴司(医師)         ・最後まで我が家で暮らしたい

花戸貴司(東近江市永源寺診療所長、医師)   最後まで我が家で暮らしたい
最後まで健康で我が家で暮らしたいと願う人は多いですが、かなえられる人はごくわずかです。
14年前、琵琶湖の東側に広がる東近江市の人口約6000人の永源寺地区に赴任した花戸医師は寝たきりや、一人暮らしの人の為に看護師、ヘルパー、薬屋さん、マッサージをする人などと共に毎日の様に白衣を脱いで訪問診療、訪問ケアーを続けています。
今日で27人の人を看取った花戸さんは皆でそばに寄り添い、見守り、見送り、安らかな最期の寝顔を見ると、死は怖いものでも、敗北でもないと言う事が解ると言います。

赴任した平成12年4月から訪問診療を行っています。(14年間)
今日は5軒、多い時は10軒回るときもある。(今日は緊急が1軒)
訪問して「大丈夫ですよ」、と言ってあげると安心してもらえる。
寝たきり、癌、認知症、一人暮らしなど色々な方がいます。
家に行くと、若いころ、生き甲斐とか、全てが見えてくるので、診察室よりも、いろんなことがうかがえるので、患者さん自身の病気以外のことを沢山教えてもらう時間になります。
家にいて自分の好きいな事をやってもらう事で元気が増えてくるのかなあと思います。
高齢の方は話を聞いてもらいたいのだと思う。
看護師、ヘルパー、薬屋さん、ケアーマネージャー、マッサージをする人などと一緒に患者さんを支えている。
お互いが連絡し合う、連携する事で患者さんがより安心して生活ができる。

地域の人達の近くに行くためには、白衣を脱いだほうがいいのかなあと感じて、白衣を脱いで訪問診療している。(診療所に来てから1年後には実施)
赴任した時の訪問診療の人は7人、現在は定期的に訪問診療しているのは80人
当時は月に1回だったが、現在は月に2~3回の人もいるので、延べでは年間1500回以上は往診に行っている。
年齢を2歳~99歳まで幅広い年齢で見させてもらっている。
病気も心臓、整形、消化器、脳外科、認知症、いろんな病気を見させてもらっている。
赴任前は、湖北総合病気で小児科、内科、等を担当。

病気がなくても地域に住む人たちがいやされる場所になればいいかなあと思います。
一人ではありますが、医療に対して、消費者意識を持たれていないと言うか、何でもかんでも、私に要求はされないことの方が多い。(地域の皆さんにも支えられている)
専門は小児科ですが、永源寺では在宅医療が専門の様に言われるが、答えることとしては永源寺、この地域が専門ですと、この地域の人が健康問題で困っている時は、誰に相談したらいいか、どういう様な介護、医療のスタッフを集めることができるのか、そういう事を14年間やってきているので、どの医者よりも永源寺のことを知っているので、私の専門は永源寺ですと言っています。
頼られる事は、嬉しさと、責任両方ある。
当初、高度の医療を提供する事が、医療の役割と思っていたが、皆さん決してそのように望まれているわけではないことが判った。

都会の方は、医療を消費者意識がどうしても強いのではないか。
都会では人と人の関係が薄くなった。
永源寺の場合は元気のうちから色々聞いている。
ほとんどの方はご飯が食べられなくなっても、寝たきりになっても家にいたいと、往診に来てほしいと言われる方が多い。
生病老死 老いを迎えた時に自分自身でどう過ごしたいのか、老いを治す薬は無いので、老いを迎えても、自分自身で自分のことはやるとか、自分の役割りを持っていると元気に生活してゆく。
老いを医療で何とかするのではなくて、老いを抱えていても、自分らしく生活おくれる、それをささえてゆくのが、私の役割りかなあと思います。

先には必ず死が訪れるが、お迎えをどこで迎えたいか、私は聞きますが、家でまいらしてほしいと言われるので、私が看取りますとか、そういう風に話をして、最後まで家にいて、家族の方も納得してもらいます。
原因が老いである場合が多いので、家族のかた、地域のかた全体が、家にいることが当然のことなんだ、そういう風に思われている。
子供の方が純粋で、おじいさん、おばあさんが段々弱ってくる、最後は息を引き取ってゆく、そういう姿を子供達に見せることが、生きてきた姿を見せることが大切なことと思います。

家にいて普段から接していると、おじいさん自身が生きてきた姿が子供達(孫)の心にはずーっと残っていると思いますので、身を持て命の大切さ、生きると言う事を次の世代に教えてくれる、命の教育なんじゃないかと思います。
小学校に行って、命の大切さを授業で教えています。
仕事以外に、支え合ってゆく、地域のつながりは 田舎の場合と都会では違っていると思う。
衣料、介護、等は行政で出来るのは限られているので、全てが我々に何とかしてくれと言われても、難しいので、その医療、介護、行政で出来ない隙間をどうやって埋めるかと言うと、人と人とのつながり、近所とのつながり、が大切だと思います。
患者さん、家族が納得してもらって、覚悟をもって、家で過ごされる、そういう事が大切だと思います。
どうやって安心して、家で生活ができるか、病院では安全ですが、(医師、看護師、検査など)、家にいた方が安心して生活ができる。

近所の人が精神的な支えとなっていただく事が多い。
自分の事は自分でやって、自分の生きがいを持った生活をして、一人ぼっちじゃない、そこが大切だと思います、お互いを支えるコミュニティーがあって、安心して生活をする、それが元気で長生きをしていただく事になる。
自分自身、人の役に立ちたいと思って、医師になったがどう役に立つか考えたが、地域の人たちを見ていると、自分自身がもっと地域の人たちに寄り添う様な仕事、そういう仕事をすることが役に立つ事なのかなあと思って、地域の人を支える、それが私の仕事だと思います。
























































2014年5月10日土曜日

濱田滋子(教科書翻訳ボランティア)  ・読み書き障害の子らをパソコンで支えて

濱田滋子(教科書翻訳ボランティア)  読み書き障害の子らをパソコンで支えて
障害のある子たちに教科書をパソコン上で読めるように、聞けるようにするためのデータ作りをしている奈良県NPO法人ラディーの代表濱田さん、57歳です。
濱田さんは現在25歳になる娘さんが小学校低学年の時、文字を読むことが困難な読み書き障害があると気付きました。
こうした障害がある人達にはパソコンやタブレット端末などの画面上で文字を拡大したり、音声で再生したりすることができる、国際規格デイジーで造られたデジタル図書が理解に役立つと知りました。
それ以来、全国のボランティアのネットワークを通じて、教科書のデジタル図書化の作業に取り組んできました。
様々なハンディーが有って、文字の認識が困難な人達にも詠む権利を保証してほしい、そういう濱田さんの想いを聞きました。

音声再生、読んでいる場所の色が変わってゆく。 文字もかなり大きくできる。 色も変えられる。
設定で色々変えることができる。  戻ることも出来る。 飛ぶことも出来る。スピードも変えられる。
注釈は別ページに表示。
左側にはその本の構成、等が見られるようになっている。
数学は数式があるので数学専用ソフトで行っている。
もともとは録音図書の為に開発されたもの。
デジタル化する場合に、こういう企画を考えた。 テキストと画像を同期させ更に発展させた。
知的障害、肢体不自由な方、聴覚障害、自閉症、発達障害の方など、読み書き障害の人達にもとても役に立つと言う事で造られています。
外国語を勉強するときにも、古典を読むとき、高齢者のかた、にも役に立つ。

小さなときから絵本が大好きで、沢山絵本を読んであげていたが、小学校に上がって字を覚えるときになってなかなか覚えられない、とても読み方がたどたどしい、判らないと言いだして、文章をどこで区切っていいかわからない。 内容を理解できない。
色々よめないタイプがある。
読み書き障害が見た目には判らない。 どちらかと言うと口達者だったりする。
誤解されることが多い。 本人も読み書き障害と気がつかない場合が多い。
読み書き障害と判ったのは、TVで学習障害が取りあげられていたのと、本を読んで読み書き障害を知ったのが丁度同じ時期だった。
本人のペースに合わせる。 最初は頑張らせようとしたが、あなたはここまででいいよ、と言ってあげるように意識して変えていかないといけなかった。
先生は個別指導はどうですかとか、提案してくるが、皆と同じがいいと娘は言っていた。

なにか本を読んだりするのに助けになる方法は無いかと探していたところ、同様な症状のお母さんからの情報でデイジーと言うものがあるらしいと教えてもらった。
日本障害者リハリビテーション協会が図書を作る講習会をしていると言う事で、それに参加して作り方を教えてもらって、今の活動が始まった。(子供が中学2年生の時)
反抗期で、教科書とかを造り変えて、自分の声で録音していたら、もうこれ以上お母さんの声を聞きたくないと、大失敗でした。
2003年に会を発足させた。
娘は最初読もうとしてくれなかった。
読む事に困っている人にはとても役に立つものだという確信が持てたので、困っている人たちには役に立つと思ったので活動を続けました。

内容を理解すると「ごんぎつね」にとても感動して最後 ごんが死んだらかわいそうだと、いって感想をいったりして、読めて内容が理解できると皆と同じところに立って、次のステップに行けるが、それが皆読めないことでスタート地点にたてない。
デイジー図書に子供の時に出会っていたら違った人生を歩んだんだろうなあと、うらやましいなあと40歳代の読み書き障害の人は言っていた。
教科書が読めるか読めないかは根本的な問題だと思う。
デイジー教科書ネットワークを立ち上げて全国の19の団体が連携を取って、教科書をデイジー化しているが昨年198冊、全部で 小学校が280点、中学校が130点の教科書がある。
高校は1200点になる。
4年ごとに改定があるので、なかなか先に進めない。 又1から作り直すことになる。
高校からも要望がるが、手が回らない。
19団体で100人ぐらい。  仕事にひと段落ついた人が参加して下さる。(高齢者が多い)

パソコン、タブレット端末も色々出てくるので対応が追い付かない。
ソースはマルチメディアデイジー図書として出力しているが、音声図書、点字図書、としても出力できる。
世の中の情報は、文字情報が多い、本だけではなく、地域の広報誌、書類、取り説など色々ある。
この活動を読む権利の保障をするものだと考えて活動しています。
いろんな人達が平等に情報を取り入れることができる、そういう事を保障された社会作りをして行きたいと思っています。
教科書については、教育の大切な部分なので、国が責任を持って保証してほしいと思います。
2010年著作権改正で、文字の認識ができない人(視覚障害者以外)、も対象になった事は大きな前進。
2008年教科書バリアーフリー法が出来て、発達障害とかで教科書を読めない人にも、教科書を読める形にしていいと言う事になった。

誰が作るのか、ボランティア頼み。  
国語の教科書 1冊デイジー図書で作るとしたら100時間ぐらいはかかる。
皆寝る暇がない様な感じです。  授業と追っかけっこ。
出版社がもともと作るときに、そういう形で作ってくれれば、とても助かる、それで済む。
教科書以外も出版社がデイジー規格で作ってくれれば、それに音を付けるとか、人のニーズにあう形にするとか、そういう点は私たちがサポートして行けばいろんな出版物の読みやすい環境が作れる。
文科省が2012年度 調査 学習に困っている中で、読み書きに困っている子は2.4%居るという結果が出ている。
周りが、自分が判らないまま人に誤解を受けながら、大きくなってしまうと言う事は、それはなんとかしたい。
しっかり自分で判って、自分で自分をはぐくんでいける環境を是非作ってほしいと思います。































2014年5月9日金曜日

一盛和世(元WHOジュネーブ専門官) ・昆虫がもたらす病と闘って30年(2)

一盛和世(元WHOジュネーブ専門官) 昆虫がもたらす病と闘って30年(2)
生物が好きだった。 東京生まれ、東京育ちで余り生物に関わっていきたいと思って農学部に入って、そこで昆虫を勉強しました。
卒論で蚊を使った研究を東大の医科学研究所ですることになって、蚊にかかわる。
多くの昆虫は血を吸わないのに蚊が血を吸うので興味を持った。
玉川大学はミツバチ研究が有名。 農学部の中に昆虫学の部屋があります。
血を吸う事から蚊が病気を媒介することになってゆく、其ことがどういうかかわりをしているか、興味があってそっちの方に行く様になった。
東大の医科学研究所に佐々学先生がいて、フィラリアの研究をされていて、勉強するようになりました。
日本ではその病気は無かったが世界ではまだあり、是非、何かしたいと思った。
サモアに行って、これは不幸だと思って、何とかこれを取り除こうと思った。

佐々先生からフィラリア症対策のプロジェクトがサモアで始まるよと、聞いたので参加する事にした。
病気があることに依って色々不幸が起きてくる。(歩けない、仕事ができない、経済的に厳しくなる等)
薬を村々に回って薬を配ってゆく事が仕事でした。
検査をしてどれだけ減ってきたかも調べる。
サモアではフィラリアに対して長い歴史があって、1970年代からプログラムがあって、かつてやっていたものがどれだけ効果があったかを、調べるために、かなりの検査は行った。(評価)
蚊の調査をしていました。(どれだけ蚊が運ぶのか?)
「六色クレヨンの島、サモアの蚊日記」 と言う本を出した。 それがNHKのラジオドラマになった。

蚊を顕微鏡の下で解剖して、虫がいるかどうかを調べたが、最近は解剖しなくても判るようになっている。
蚊が人に依ってくるときに捕まえる。
オスとメスがいるが、メスしか血を吸わないので、血を吸ったのが身体の中で、栄養として使われて、卵巣が発育して、卵が生まれる。
蚊は毎日血を吸いに来るわけではなく、2日ぐらいに血を吸いに来る。
吸血に来る時のタイミングで捕まえることが、大事なことです。
解剖すると何回血を吸ったか、は判ります。

現場がどう動くかと言う事、サイエンスを知る事、が大事です。
73カ国はフィラリアがある国なので、そこの国には同じように薬を配って、やっています。
いくつかの国の経験をしておくと、そこから推し量れる、想像力が育つ。
サモアの経験は非常に大きかったと思いっます。(ボランティアとして青年海外協力隊に参加)
判らない事がたくさんあり、面白いと思ったので、プロになろうと思ったが、一から勉強することだと思い、ロンドン大学に熱帯病の学校があり、そこにプロになるべく留学する事になる。
マラリア(蚊が媒介)の研究をした(昆虫媒介病対策)、博士号をそれで取った。
「マラリアのクロロ菌耐性」に関する論文。
グアテマラ、ケニア(ツェツェバエ 睡眠病)、タンザニア(マラリア)等に行く。  
熱帯病に関する経験をする。
WHOの仕事として、サモアに行く事になる。 (1992年 WHOの職員になる)

日本が持っているノウハウは現在世界中で使っている。
(科学、行政、住民が一体となってプログラムを作ってゆくと言う事)
薬配りはまさしく、そうなので、ソフト面、世界でドンドン使えると思う。
フィラリアでは日本の企業が、このプログラムに対して無償で提供している。
「橋本イニシアティブ」 フィラリア対策は大きくなってきている。
2020年までに無くすと言うのが我々の目標で、できる限り頑張っているところです。
日本の産官民学が一丸となって、このプログラムに手を差し伸べて、ゴールに辿りつけるような後押しをしていただければと思います。
若者が少なくなってきていると言われるが、残念には思っている。 
地球レベルで考えて見ると、日本人がここまで築き上げてきた物を世界で使える場所がたくさんあるので、今の若い人たちは世界の舞台に考えてほしいなあとは思います。
(世界は開かれているので)

インドネシアに行って、講演を予定。
ベクター(媒介昆虫) WHOの今年のテーマなので、インドネシアに呼ばれている。
フィラリアに出会って一貫して、その仕事をしてこれたのは幸せだったと思います。
人類対寄生虫、蚊 の戦いと言うものを繰り広げている、これは素晴らしいと思う。
人類は味方 味方同士で戦っている場合ではないと思う。
他の生物を全く無くしてしまう事にも、それをしている事に、真面目に真摯に取り組んでいかなくては行けないと思う。








2014年5月8日木曜日

一盛和世(元WHOジュネーブ専門官) ・昆虫がもたらす病と闘って30年(1)

一盛和世(元WHOジュネーブ専門官) 昆虫がもたらす病と闘って30年(1)
一盛さんは川玉大学農学部を卒業後、東京大学医科学研究所で人間が感染するリンパ系フィラリア症を研究し、ロンドン大学衛生熱帯医学校で博士号を取得しました。
1992年から世界保健機関WHOの職員として、21年間働き、去年2013年9月に定年退職しました。

30年ぶりに日本に帰ってくる。
日本て美しい国だなあと思う。  季節を見ずに来た事は残念だったとも思う。
30年間主に熱帯地に行っていた。 熱帯病の専門官 
熱帯地から日本を見ると全く別の世界だと感じる、完成度の高い国だと思っている。
WHO 国連機関の健康にかかわる専門機関の一つ。
194カ国が現在加盟している。 人類の健康を今後どうしてゆくか、を話し合って年1回総会があり、方針を決める。
それに従って、ガイドライン、指針、基準等を作って、各国政府に降ろしていって、各国政府にそういった仕事をしていただく、そういった機関、世界の厚生省。
世界中から情報も集めなくてはいけない。

熱帯地に在る病気は、経済的に発展していない国が多いので、貧困と非常にかかわる病気。
人道的な意味でも放っておけないので、個々の病気対応から2006年に熱帯病を集めて一つの組織にしました。
リンパ系フィラリア症が専門 虫は細い糸の様な形をしているが犬の場合でも人間でもほとんど同じで、5~10cm。
犬の場合は心臓に入ってしまって、死んでしまうが、人間の場合はリンパ節、リンパ管に入ってリンパの仕組みを壊してしまうので、足が大きくなってしまったり、生殖器が大きくなったりしてしまう。      歩けなくなってしまう。
フィラリア 親虫がリンパ節に入ると子虫を生みだして、子虫は血液の中を回っていて、蚊が血液を吸血するときに子虫も蚊のなかにはいってしまい、成長して、すこし大きくなった段階(感染幼虫)で次の人を蚊が刺したときに、次の人に移ってゆき、リンパ節に辿りついて親虫になる。

熱帯病は10億人がかかっていると推定される。
リンパ系フィラリア症は世界73カ国に蔓延している。
感染している数はかなり少なくなってきていると思われる。
グローバルプログラム 病気自体を無くしてしまう。
フィラリアの伝搬を止める、それをずーっとしているとかかる人がいなくなり、虫もいなくなり、病医がこの世から亡くなる、という戦略でやっている。
感染の可能性のある地域に薬を全員に配る。
薬が子虫を無くす、血液の中に子虫が亡くなり、蚊が刺しても子虫を運ばなくなる。
現在53カ国でその仕事をしている。

薬の調達から、薬を配る人たちのトレーニングから色々なことをきっちりとやる必要がある。
2011年で53カ国に5億人に配っている状況です。
国、風習が違う中で行うので、どういう風に理解してもらえるかが、大変です。
医師、看護師だけでなく、地元のボランティア、学校の先生、教会の人に配ってもらったりしている。
年1回、5年間薬を飲んでもらう。
1回飲めば子虫はゼロになるが、親虫は残っているので、回復してきて又子虫を生むようになる。
12か月たつと50%回復する。
2年目に子虫はゼロになり、それを繰り返すと、5年目には伝搬が行われない状態になると言う事で無くしてゆく。 
親虫の寿命が5~10年なので無くなってゆくだろうろ考えている。

WHOに入る前はフィラリアの研究していたし、WHOに入ってからも現場の仕事をしてきた。
日本では昔はあった、西郷隆盛はフィラリア症だったと言われている。
1970年代までは日本でもフィラリア症は有った。 日本では絶滅出来た。
宮古島に フィラリア制圧の碑がある。
日本の取った方法がいい例になっている。
NDT それぞれの病気は違うプログラムで、病気ごとの取り組みをする。
1997年 当時の橋本首相の名前を取って 「橋本イニシアティブ」
サミットで寄生虫対策を提案した。 それから感染症対策の大きな流れになったと思われる。
熱帯病の取り組みも出来てきた。
日本の貢献も大きいと思う。
洞爺湖サミットでも顧みられない熱帯病がひの目を見た。
2013年 WHOで決議案ができた。
2020年までに熱帯病を根絶、制圧、対策をきちっとやってゆこうと決議案ができた。

日本のやり方を世界のやり方として使っている。
日本が何をしていかなければいけないか、役割を考えている。
国の発展は人の健康が大事、その観点から地球と言うものを、どう維持、発展させてゆくかは、地球の上に乗っている一人ひとりの健康を、考えていかなくてないけないので、日本のノウハウは使えるので、日本人がこれからやるべきことではないかと思っている。





















2014年5月7日水曜日

出縄雅之(進和学園理事長)    ・知的障害者に働く喜びと自立

出縄雅之(進和学園理事長)     知的障害者に働く喜びと自立
障害者白書によると全国に知的障害者はおよそ54万7000人 そのうち18歳以上の働く年齢の方は41万人居ると言う事です。
知的障害者は働ける場が少なくて多くの人が働ける能力を持ちながら、働きたくても働けないというのが実情です。
進和学園ではこうした知的障害者に働く機会と働く場を作りたいと、様々な事業を立ち上げて、知的障害者が自ら働いて得たお金で生活を送ることができる仕組みを造り出しています。
中でも40年間に渡って、続けられている自動車部品の組み立て、加工の事業ではバッテリープレートセットやブレーキホースなど300種類の自動車や二輪車の部品を製造しまして、30カ月不良品ゼロを達成するなど、高い実績を上げています。
知的障害者に働く機会と働く場を造り出している進和学園はどんな工夫をしているのでしょうか。
出縄さんに伺います。

ここは120名の知的障害者の方が自動車部品の組み立てを行っています。
56年前に開設、働く喜びを掲げていました。
現在かかわり合っている人は500名ぐらい。
就労支援、そんなことで150名、 生活介護でも300名ぐらいが何らかの形で作業にかかわっている。
昭和49年(40年前) 前の理事長 出縄明、其兄の光貴がホンダに勤務していたという関連で、本田宗一郎さんの支援を受けることになり、40年前からホンダの自動車の小組み立てを中心に就労を本格的に取り組んできた。
陶芸、パンを造ったり、色々事業をやっている。
リーマンショック以来、ホンダの部品が減少してきて、他の部門に振り分けて、多角化をしようと思った。
パン、クッキー、陶芸、シイタケ栽培、農園芸などをやってきた。
6年前からは、命の森造りプロジェクト ドングリの実を拾って、ポット苗を作って、その土地に合った森造りの苗を作っている。
市内の老人ホームの清掃作業などもやっています。

雇用形、と非雇用形(福祉的就労 就労支援B形)がある。
雇用形 賃金も最低賃金を出来るだけ守ってゆく。 非雇用形は福祉施設の利用者、携わった作業の収益を工賃と言う事で配分してゆく、雇用関係は有りません。
雇用形、工賃は15,6万円と言うところです。
非雇用形は1万3000円から1万5000円ぐらい。
彼等の能力を補うのは、治具、器具だとかで、簡単にできるようにする。
ボランティアで企業の経験のあるOBの方に取り組んでもらって、器具開発をしてもらう。
レベルを維持できる原点になっていると思う。
物流、仕入れなどを管理する中間の会社を進和学園とリンクさせながらやっている。
ある意味では福祉施設の人間だけではできない部分をクリア出来ていると思う。
事業体としての流れを作っている。(他の事業でも同様)

深夜番組「心の時代」で横浜国立大学の宮脇昭教授が出演されて、前理事長がそれを聞いて、感銘してルネッサンスという施設を造った時に、その植樹をご指導していただいた。
(命の森造りプロジェクト)
働く事は、働く喜びを満喫して、誇りを持ていると言う感じがする。
収入を得てゆく事に依って自信につながる、人間としての誇りに関連してゆく。
自動車部品を造るきっかけは?
公園の清掃、学校のトイレの清掃をやったりしたが、十分な収入が得られないので、一番上の兄綱紀が本田さんにお願いしてみると言う事になった。
兄はホンダの社員だった。

最初、ホンダの社員が泊まり込んで直接指導をしてもらった。
実習にも出してもらって、特別な支援があった。
ISO9000 認証を取ったが、ボランティアの皆さんの応援が有って取れた。
本人の特性、検査器具を使ったりして、30カ月以上の不良品ゼロを達成した。
40年前は1企業とタイアップすることなど、許されない時代だった。
我々はそれを乗り越えてやってきて、有難い事、又努力も有ったと思う。
昨年、法定雇用率が1.8%から2%に切り上げられたが、法定雇用率を維持している企業が、40%しかないと言われる。

直接雇ってもらうのがいいが、それはなかなか難しいので、仕事を出していただいた企業の方たちに雇用率を含めて、貢献が報われる様な形での制度が望まれる。
在宅就労制度 企業が事業みたいな物を委託すると、発注した会社の障害者雇用率に反映される、という制度。
現状は反映されない。
先進国との比較 賃金として見るか、所得として見るか 日本の場合は所得として見る。
障害者の場合は基礎年金制度プラス働く 成果を得られる。 

働きたいのにチャンスが与えられない、機会がない、大げさにいえば人権問題だと思う。
すこしでも増やしていただければ有難い。
地域の社会と協調して何かできないか、農産物の加工を手掛けてみたい。
みかんパン こんな美味しいパン食べたことが無い。
きっかけはミカン農家の製品にならないミカンの選別に行った時のこと。
廃棄するものを何とかできないいかと、いろんな方が他のお世話になり、智慧を借りて造った。
ポット苗造りならどこでもできるので、他の施設にも参加して貰う様に展開してゆければ、と思っている。

元阪神タイガースの選手、癌になって手術をすることになり、死ぬ訳には行かない、1日でも長く生きなければならない。
息子が一人いて、ダウン症なので、彼の面倒を見るために1日でも長く生きなければいけないとおっしゃっていた。
障害を持った親御さんとしては、子供が一人になった時に、どう自立して生きてゆくのかと、心配している方が沢山いると思いますが。
時代の流れの中で、一緒に働いた仲間が晩年を迎えていて、最後の一生を支援できる施設が必要だと思って、2月にようやく建て替えがかなったのですが、社会の皆さんにもご協力をいただく環境ができないといけないと思います。
3月に30年間一緒に作業してきた57歳になる人が亡くなりました。
葬儀の席に行きましたが、遺影が、ホンダと同じ作業服を着て働いていたわけですが、その制服制帽だったんです。 それを見て胸が詰まる思いがした。

やはり就労支援をして良かった、何か確認をできたような気がした。
障害者が世の中で特別にしていただくことはない、世の中の一人として認めていただく、それに尽きると思います。
 












2014年5月6日火曜日

ホキ 徳田 (ミュージシャン)     ・自由人生に乾杯!(2)

ホキ 徳田 (ミュージシャン)    自由人生に乾杯!(2)
3歳から7歳まで絶対音感教育を受けた。
上野で生まれ、物ごころついたときには元八王子村に疎開していた。
父が国際連盟の職員、外交官 母が家政科(お嫁さん学校)に行っていた人で、当時疎開先で目立っていたので私はいじめに遭っていた。
物ごころついたときにはピアノを弾いていた。
戦争後は聖歌隊に入った。
母の先生「チャペルセンタークワイアー 日本のアメリカ人のセビリアン 駐屯地の教会にクリスマスキャロル、マタイ 歌うとか   第9等を10代で歌っていた。
桜美林学園 に高校から行く。
元八王子村が戦争で焼けて、近所まで焼けて、それを目の当たりに見て、家が焼けるのを見ていた。
一人でいるのが好きで、明るい性格なのに、その辺がちょっと変わっていると思う。

カナダに留学するのはバラックからお城に行く様な、天と地の違いだった。
母方のおじいさんが那須与一の30何代目と言う事で 其おじいさんも留学している。
オーディションをうけて、帝国ホテルでピアノを弾いたのを覚えている。
カナダから帰国する寸前に母が亡くなってすごいショックだった。
父はNHKの論説委員をやっていた (徳田六郎)
父がお前は何をやるんだと言われて、ピアノは弾けるし歌も歌えるので、直ぐにNHKの番組に出て、出だしたら、いろんなところから声がかかった。
ホキ徳田 になったのが カナダで付けられた。 
本名がひろこで、巧く言えないようでなまって「ホキ」になった。

アメリカに行きたくて、コーラスで、2年間ハワイ、ロス等に行ってそこで一杯歌を覚えた。
映画女優としても活躍する。 
篠田正浩さん(監督)とマージャンしている時に君は映画をやったことはあるのと聞かれて、映画はやったっことがないと言ったら、助監督の前田陽一さんが温めている作品があり、陽の役、陰の役が必要で、陽の役にぴったりなので明日松竹に言って見たらと言われた。
考える暇もなく撮影に入った。
「日本パラダイス」と言う映画で元気な役だった。   全然緊張がなかった。
4本映画を撮ってからアメリカにいってしまった。
器用貧乏と言うか、なんでも何故か何でも出来るが、アメリカに行った。
(女優業に徹すれば、大スターになっていたかもしれないが)

ヘンリー・ミラーに逢うべきしてあったような感じがする。
アメリカ人のあけっぴろげな自由さ、その頃日本にはなかった。
映画を取ったのは昭和39年で、昭和40年にアメリカに渡った。
1989年に帰国するまでアメリカで過ごす事になる。
人間があふれていて、東京で生活できるかどうかを、先ず調べに来た。
日本に帰って来た時に、誤解されたと思ったが、文豪と富豪 お金持ちと思われた。
結構いろんな意味で騙されたが、それは私が脇が甘いと言うか、人を信じやすいと言うか日本人には悪い人がいないと思っていた。
アメリカで、アパートメントを借りに行ったりする、日本人だと喜ばれた。
日本人は犯罪に何も関係ないからと言われた。 10年で3人とかで、無いと同じだと言われた。
しかし、日本もこれからはしっかり守らないといけないと思う。

父も母もいなくなって、皆に逢いたいと思って、一応荷物は送らないで、帰ってきて、70年代買った家を手放したのが2003年 2000年になってから日本に完全に居ることになる。
アメリカは合理的で、一人で住むには、アメリカは寂し過ぎる。
これからは、子供の番組とか、おばあさんたちの番組とかに関わりたいと思う。
若い人たちと一緒というのは息切れすると思う。
人ごみ、原宿に買い物に行くには覚悟がいる。
私の歌はその日の感じで、キーも変えるし、歌い方も変えるし、二度同じフレージングをしないので、頭の運動にはいいと思う。
束縛しない代わりに、束縛されることは嫌ですね。  束縛されたことが無い。
ショーを遊びと思って楽しくやる。
ヘンリー・ミラーの絵は非常に自由で伸びやか、歌いながら書いている。







 







2014年5月5日月曜日

ホキ徳田(ミュージシャン)      ・自由人生に乾杯!(1)

ホキ徳田(ミュージシャン)         自由人生に乾杯!(1)
京出身、高校卒業後カナダに留学、ピアノ、作曲、美術を学びました。
帰国後歌手、女優として、映画、やTV等で活躍しましたが、昭和40年アメリカに旅だちます。
アメリカでの暮らしの中で文豪ヘンリー・ミラーと結婚しました。
現在は東京六本木で弾き語りをしています。

日本に還って来てから20年近く、夜人間ですね。 
弾き語りをするので、又酒が好きなので
スタジオにはヘンリー・ミラーさんのゆかりの絵とかが、沢山並んでいるが、彼とは最後の妻なので、メモリアルみたいなものを造った方がいいのではないかと、思った。
「ヘンリー・ミラーの8人目の妻」 30年目に週刊誌に連載したものを纏めた。
ヘンリー・ミラーさんとの結婚は、普通の結婚を飛び越えた、おじいさんと孫娘と言った感じだったので、ぎとぎとした恋愛、夫婦関係、子作りとは無いので。

出会いのきっかけは卓球だった。
3回オーディションを受けたが、3回目の時に英語が出来て、演技ができる、ピアノが引けて、歌が歌えるということで、ハリウッドを受けて見ればと言う事で、行った。
卓球ができるなら任してもらいたい、おじさんがいるので、誰とも知らないで、知人のお宅でお会いする事になる。
卓球で出会った途端に、僕のフィアンセだとか言った。
「北回帰線」 発禁になって、とけたのが1960年ぐらいで、日本で初めて13冊全集を出して、日本はなんて素晴らしい国だと思った、見たことないし、エキゾチックで、丁度その時だった。
結婚まで、2年があって、結婚。

私の場合は7番目の妻だった。 
後で調べたら10代で駆け落ちしている、中には離婚していない人がいて重婚罪で、やりなおした。
東洋が好きだったのは確か、日本の古風で雅やか、にあこがれていたことは確か。
ハリウッドで仕事をしていると、来るようになって、話はできなくて手紙を都度送ってくれた。
年齢は50歳近く離れている。
ヘンリー・ミラーは父と文通するようになった。
NHKの論説委員をやっていたが、その前は国際連盟で英語、ドイツ語ができるので、「将を射んと欲せば、馬を射よ」ではないが、文通していて、最終的に私が折れたのは2年経ってからです。

ヘンリー・ミラーは日本に行きたいと言いだした。
いろんな人と話し合った結果、家に住み込んで、同棲みたいな感じで、ベッドを共にしないとか、最終的には結婚と言う形を取ろうと、言う様になった。
有る意味打算と愛情といろんなものが一緒になって、結婚した。
ジャンヌモローとか、レスリー・キャロンとか、エリア・カザン とかが毎週の様に家に来ていたりして、映画で見る様な人が家にきたりして、私を彼が見せびらかす。

日本のマスコミは避けるように彼は指示していたが、吉行淳之助さんとか五木寛之さんとかは会いに来てくれた。
二人とも金銭感覚はゼロ、アーティスティック 
人を見る目 金持ちとか何も知らないのに偉そうにする人を見抜く目は有ったようです。
何ともいえぬ駄目なところが、似ている。 歳はすごく違うのに感覚が似ているところがあった。
話題は豊富だった。
彼の本をあまり読まないから、そこだけが彼は許してくれたこと、後は判りあえた。
「ホキ徳田」は彼が持っている贅沢品だと、彼は記者には言っていた。
彼の家にはいつも外国の記者とかが出入りしていたので、家を借りたが、別居したとか騒がれたが、必ず一緒にご飯を食べたりしていた。
本当に離婚したいと思ったのはバーをやりたいと思った。
花屋、ギフトショップをやりながら別居生活をしていたが、失敗すると彼に迷惑がかかるので、バーをやるときに、私の方から離婚してくれと言ったが、そのあと1年半後に亡くなったので、後悔はしている。

ヘンリー・トニーと言う一人息子がいて、その人が結婚した。
その人のお母さんが会計士と弁護士をやっていて、ヘンリーのずさんな生活ぶりを整理し始めたが、ホキ徳田は何だと言う事もあり、別々に住んでいたし、離婚の一因ともなった。
ヘンリー・ミラーは88歳で亡くなる。
もっと面白いことができたのにと、悪かったなあと思う部分がある。
ヘンリー・ミラーの絵が好きなのでずーっと一緒にいたいと思います。







2014年5月4日日曜日

保阪正康(作家・評論家)      ・昭和史を味わう(第2回)大正15年と昭和元年

保坂正康   昭和史を味わう(第2回)大正15年と昭和元年
「震災復興と金融恐慌で始まった昭和」
昭和元年は1週間しかなかったので、大正15年から昭和3年ごろまでの昭和の始まりを見てみたい。
大正15年12月25日、大正天皇が崩御される。 葉山の御用邸で亡くなる。
貞明皇后はじめ、皇族の方々政府関係者が最後を看取ったと言われる。
昭和と言う年号は中国の書経から取った。
若槻内閣が之について、国民にむけて発表する。(首相、若槻礼次郎
君臣(天皇、国民)一致して世界平和を目指すと、そういう意味です、それが「昭和」
「若槻礼次郎回顧録」  若槻は秀才中の秀才だとどの本にも書かれている。
明治23年ごろに東京帝大、(法科大学)をでた。 成績が全優だったと言われる。
日本歴代政治家中、最高の頭脳明晰な人だったと言われる。
大正天皇の崩御、喪に服すると言う事だが、国民には12月30日までで、12月31日以降は普通通りに生活していいと言う事で、繁華街では栄華、劇場も開いていた。
はでな音楽、はでな芝居は押さえていたと書いてある。

昭和2年 近代化と金融恐慌の時代
近代化 目に見える世界、建物、生活 目に見えない意識 日本人の間で急激に変わっていった。
関東大震災(大正12年9月1日)で東京、横浜が瓦礫の様になって仕舞った。
都市の再興をしなければいけなくて、結果的に新しいビルディング、住居、映画館とかが、新しいものになり、結果的に近代化を促進していった。
意識の上で変わっていくと言うのは、天皇が変わるときに、国民の意識が新しい精神的な作用が起こったと思う。
読む本、映画、人々の会話などを調べると、大正末期と昭和初めは違うなあといくつも感じる。
青山、新宿、渋谷にアパートが建って、都市再開発が急激に進んだ。

日本人が日本的家屋から切り離されて、新しい形で集合住宅の様な生活をするのは、初めてなわけですので、日本人の生活を変えてゆく事になって、目に見えないところで変わっていったと思う。
通勤 円タク(どこへ行っても1円) 地下鉄が昭和2年12月に開通する。(上野ー浅草 2.6km)
ロンドン 1864年に地下鉄が世界で初めて通る。
日本にとって近代化の象徴になる。
昭和3年正月は浅草あたりは例年にない様な人ごみだったと言われる。
地下鉄に乗る、演芸を楽しむのが定着したのではないかと思う。
ラジオは昭和の歴史と重なりあう。
ラジオ放送が始まったのが、大正14年3月22日 東京、大阪、名古屋の放送局が別々だったが、NHKになったのは大正15年8月20日

昭和2年8月13日  甲子園中等学校の野球大会  大阪で野球の実況中継を行う。
昭和3年1月12日から相撲の実況中継が始まる。
昭和3年11月1日からはラジオ体操が始まる。

京都で即位の大令が行われる。昭和3年11月10日
昭和2年 金融恐慌  関東大震災で企業がかなりダメージを受けて、手形を落とせなくなった企業が相次いで、救済する必要があり、日銀、政府が保証すると言う事で、手形の落ちる期限を延ばすと言う事で昭和2年9月と言う風にしていた。
精算が近づいたが、企業も大変で、伸ばそうとして、論争になり、答弁していた大蔵大臣のところに大蔵官僚から紙が渡ってきて、東京渡辺銀行があって、今倒産しましたと言ってしまった。(紙には書いていなかったが)
その為に、銀行がつぶれると言う事であわてて払い戻しに殺到した。
日銀が特別お金を回してゆくが、そんなにお金があるわけではないので、不安を抑えようとするが、其時に若槻内閣がつぶれて、田中儀一内閣が登場して、大蔵大臣に高橋是清がでて、修羅場を生きてきた人で、非常に斬新な事を行う。
表は印刷して、裏は時間がないので印刷できなくて、其お札を銀行窓口に積んで、安心しなさいとなだめてゆく。(心理作戦でパニック状態を抑えてゆく)
指導者の不用意の発言がパニックを起こすことがある。

公務員の初任給が当時、75円  葉がき代が1銭5厘
庶民の生活はそんなに苦しいと言う事ではなかった。
近代化の変化の中で、不安定な心理状態が有ったのではないか。
芥川龍之助が自殺するが、「ぼんやりした不安がある」と言う事で自殺する。(昭和2年7月24日)
時代の空気。(ぼんやりした不安心理)
昭和3年7月から8月 アムステルダムオリンピック 金メダル、織田幹夫(三段跳び)、鶴田義行(平泳ぎ200m) 銀メダル、人見 絹枝(陸上800m) 銅メダル、高石勝男(自由形100m) 

昭和歌謡曲 大正15年「ほこをおさめて」、「酋長の娘」 昭和2年「どん底の歌」、「佐渡おけさ」 
昭和3年 「出船の港」 「はぶの港」 「すととん節」、「私の青空」
モダンボーイ、モダンガール  モボ、モガ(アメリカ映画の模倣) 銀座の風景にふさわしい様なスタイルで歩く。
アメリカの風俗が直ぐに入ってくる。













2014年5月3日土曜日

アレキサンダー・ベネット(関西大学准教授) ・日本の武道に魅せられて

アレキサンダー・ベネット(関西大学准教授) 日本の武道に魅せられて
44歳 日本の武道を研究する学者で有ると同時に、自らも剣道7段、居合道5段、薙刀5段の武道家でもあります。
日本武道学会理事、全日本剣道連盟国際委員、国際薙刀連盟副会長も務め、NHKに国際放送を始め、英語の著書やインターネットを通じて、日本の武道の魅力を世界に発信しています。
ニュージーランド出身で母国で剣道の代表チームの監督も務めるベネットさん、なぜ日本の武道に惹かれるのか、その魅力はどこにあるのか伺いました。

「剣道ワールド」 インターネットだけでなく書籍も年に2回出している。
2001年ぐらいから出している。  当時剣道に関する情報がなかった。
目的は剣道の技術的なこと、歴史、文化、哲学的な情報を伝える。
色々外国語に翻訳して世界に発信している。
柔道、空手などは情報はあったが、剣道はあまりなかった。
大学では、日本人学生に対してと、留学生に対しての授業がある。
留学生に対しては、英語で日本の歴史、文化全般、武士道、武道の授業をやっている。
日本人に対しては比較文化論と武道論を教えている。

子供の時に柔道を少しやったことがあるが、関心を持っていた。(7歳)
本格的に武道に興味を持ったのは、日本に来てからです。
剣道の写真が入っていて、何だろうと思って、なまで見たのは高校生の時(17歳)
サッカーがやりたかったが、芝生がなくてできないので、日本の伝統的な事をやったらどうかとの話があり、剣道部があったので、見学に行って吃驚した。(汗の匂い、音、声)
恐さが有ったが、軽い気持ちでやってみようかと思った。
1週間で素振りだけだったので、止めたいと思った。
部活、ニュージーランドでは季節によって部活が変わるのでバリエーションがある。毎日ではない。
日本では部活は1種目で、練習は半端ではない。 きついだけで楽しいとは思わなかった。

日本の夏の初体験 (ニュージーランドは過ごしやすい 温度、湿度) 20分でめまいがした。
気合いを入れて先生にかかっていったら、先生が一瞬下がったので、勝ったと言う想いがあった。
その後も続けて、壁があり、逃げたが、逃げたら負けだと言われて、掛かっていって、やっているうちに、無心で打っているうちに、稽古も恐くなくなり、達成感がたまらなかった。
感動して涙が止まらなかった。
1年間留学が終えて、初段を取って、ニュージーランドで剣道部を造った。
最初4人で始める。 週1回稽古をした。 
うわさが広まって1カ月に30人ぐらい来て、道具を色々工夫してまかなったりした。
「武士道精神」を学べるのではないかと、聞いてきたので、最初は誤魔化していたが、そういうわけにもいかなくなり、再度日本で修業し直さないと行けないと思った。

吉川英治の宮本武蔵の英語版があり、「武道」、「剣の道」とはこういうものかと、日本で武者修行しようと思って日本に来た。
京都大学の大学院で学び、「武士道」についての論文で博士号を取った。
武道の国際化などを研究してくる。
文武両道、両方をやることが重要だと思っている。
武道、人間形成の道、武道をやる事に依って、自分の人間性を高めてゆく。
私にとっての剣道は人生のバロメーター、人間としての長所、弱点もある、それを明確に教えてくれるのは剣道、相手がいる、相手とのやり取りの中で、必ず一回一回の稽古は「一期一会」的なことがあり、学ぶ事がある。
色々反省する事がある。(完ぺきではない、間合い、打った後がだめ、瞬間の冴え、・・・)
武道は相手がいるからこそできる。  
勝たなければいけないが、相手は敵ではなく協力者、どうして負けるのか、自分に問題がある。
日常生活にも共通するものがある。(隙、弱点) 道場を出てからの方が大切かもしれない。

私にとって武道は人生の哲学の枠組み、「礼に始まって礼に終わる」
打ったその後はどういう態度を取っているかは審判がみている。 
反撃が有るかもしれない、と言う事を覚悟しないといけない。(残心  対応できる身がまえ)
残心がないと一本にはならない。(ガッツポーズはあり得ない  相手に対して失礼)
勝った人も、負けた人も、嬉しさ、悔しさなどを表に出さない。
日常生活でどのように生かすか、残心
道を渡るときに、右をみて、左を見て、もう一度左を見て(確認して) 渡る。(油断しない)
忘れ物、残心がない。  結局自分の責任、人のせいにしない。
剣道の教えを自分の日常生活に生かす、そうでないと道とは言えない。
武道には深い教えがある。

中学で必修化になる。 武道を通じて、日本の伝統的な行動様式とか、礼儀作法を学ぶ。
一番期待してるのは、本格的な厳しい武道を教えるのではなくて、限られた時間で、面白いところを教える、緊張感を持って相手に対する思いやり、信頼感と言う事が生まれるはず。
感謝、共感、残心的な考え方 をちょっと味わって、中には本格的にやろうということが出てくればいいと思う。
今の若い人は回りのことを意識しなくなっているので、共に生きているわけなので、周りのことをもっと意識してもらって、武道で学ぶことができるのではないかと思う。
いじめ、体罰 難しい問題 有る程度厳しさがないと駄目。
本当の武道ではいじめはないはず、一緒にやって強いきずなが生まれる、共感が生まれる。
指導者の問題が大きいとも思う。

海外では日本の武道はどう思われているか?
日本の武道は日本文化の輸出品でもっとも成功していると思う。
どんな田舎町にいっても日本の道場があり、やっている。
精神的な部分を求めて、自分の修行の道として励んでいる人も増えてきている。
武道、日本文化ではあるがその裏に 普遍的な素晴らしい教えが、残心、どこの国の人であろうと十分に日常生活に生かすことができる素晴らしい教えだと思う。
武道の国際化、日本性がなくなってくる。
勝利至上主義、 方法はどうでもいいから勝てばいい、と言う様な、武道精神に違反する様な事もあるかもしれないが、相手は敵ではなく協力者、自分と同じ道を歩んでいる人として、協力し合って、直してゆく。
国際化すると無くなってゆくのでは、と言う想いがあると思うが、外国から教わる事があるのではないかと思う。
打って反省する、打たれて感謝する、国籍関係ないはず、互いに勉強しあってゆく事が目的なので、普遍的な部分が、それこそが武道の美しいところだと思う。
そこのところを日本人にも気付いてほしい。

武道は人によって違う、私にとっての武道は私の人生そのものだと思います。








































2014年5月2日金曜日

繁野美和           ・今日も元気!86歳の人気ブロガー

繁野美和            今日も元気!86歳の人気ブロガー
ブログと言うと、自分のことや周りのことを日記の様に描き、インターネットで公開するものです。
ブログを書く人をブロガーと言います。
繁野さんは昭和2年生まれの86歳、60歳からパソコンを習い始め、4年前から美海(みみ)、と言う名前でブログを書き始めました。
ブログでは繁野さんの幼いころのこと、戦前戦後の事、夫を亡くした後の一人暮らしの事等様々なことを書いています。
繁野さんは離れて住んでいる家族や友だちに自分の近況を知らせたらと言う想いで、はじめたんだそうですが、今では多くの知らない人とつながることがとっても楽しいと言っています。
いつも若々しい繁野さんに伺います。

多くのファンがいらっしゃる。 「気がつけば86歳」がタイトル
4年前からやっている。 纏めたものを出版した。  「毎日がハッピー、毎日が宝物」
コメントしてくれるのは日に4,5件、ランキングで上位になったり、時たま1位になったりすると吃驚しました。
高齢の方が随分読んでくださっている。
年齢は忘れています。 足腰が痛かったりすると、歳を感じますが、自分で、えっと、86歳になっちゃったのとかという感じ。
鏡を見て、えっ是誰と言う感じです。
ホームページは作るのが厄介なので、ブログが始まってきて、容量制限なし、ただ書けばいい、この簡便さに惹かれました。
自分の世界がそこで作れる、手書きはめんどくさいし、いつでもさかのぼってみられると言う事が非常に魅力でした。

家族が近くにいるし、遠くにもいるので、心配していることは分かっているので、ブログを見てくれれば、元気にしていることは分かってもらえる。
親戚、友人、も全国に散らばっているので、メールを送るより、これを見てよと言った感じで、そういうメッセージを送っています。
他人については立ちいったことは絶対立ち入ってはいけないと思います。
気持ちの良いことだけを書いている。
昭和時代の服装、髪形、小学校の運動会、デパートの事、昭和時代の内容が多い。
三国同盟の前の平和な時代、楽しい思い出がいっぱいあります。
昭和初期の戦争のはじまるまでの間は、庶民がどんな服装をしていて、どんなことをしていたのか、TVで見て居ても違和感を感じる時がある。
残しておきたいと思う事を、書いてみたくなった。

戦争体験も書いている。
女学校の2年生の時に、日米戦争が始まる。  
勝った勝ったと言うが、父親などは恐怖感を抱いていた。
ラジオで聞いていると、子供としては高揚感はあった。
昭和初期の華やかだった時代から、ドンドン緊縮されてきて、全てが禁止、禁止、本もこんな本は読んではいけないと締め付けが厳しくて、軍人が威張っている時代で、子供心にあんまり楽しくなかった。
空襲がある、勉強も出来なくなって、学徒動員で、工場にいって、深夜業もやる、くたくたになった生活、そういう事をやっていて、先に希望の持てない時代だった。
小学校2年生で戦争がはじまり、その後京都の学校にいって、3月に入って12月まで勉強して12月に学徒動員で、工場生活でした。
着の身着のままで汚い服で寝たりしていた。
本当に苦しかったのは終戦までだった。 
苦しかったが、それはを体験したことはそれで良かったと思う。
私にとってはプラスだった、クラスメートの生き方を見ても、皆さん強いです。

幸せって、本当はどちらが幸せかなと言う事は、絶対戦争をしてはいけないと言う事はありますが、其苦労は、自分たちの味方には成ったと思います。
赤紙が来ない時代、徴兵されない時代、言論統制がされない時代、これは本当に貴重な事、絶対守らなくてはいけないと思っています。
勉強も出来ないと初めて分かった時に勉強をしたいと気持ちがわくのだと思います。
活字が読めない辛さはその時に本当に感じました。
趣味、生き甲斐、 年齢を忘れる趣味の時間
洋裁、編み物をやって創造力を満たしていました。
昭和初期は女の子はお稽古ごとをするのが当たり前だったので、日本画を習いましたが、戦争が激しくなると、ストップして、結婚、子育てが終わって、油絵を描きたい、人形作りがしたいと思い、最初人形を造るために、絵を習いに行った。

絵を描きだしたら面白くて仕方がなかった、55歳ぐらいからだった。
絵は段々巧くなって、年数がたって、しかし今描けない初期のものもある。
絵は技ではない、心だと先生はおっしゃる。 自分の気持ちをぶつければいい。
月に3回先生に習っている。
膵臓癌で10年前に亡くなって、その間、夫と二人で楽しく暮らしました。
家族がお母さん早く絵に行った方がいいよと言われた。(家族は心配したようだ)
夫を亡くして、本当に悲しい、辛いことでした。
絵をやることに依って心が癒されました。 
いい先生、いい仲間に恵まれて本当に幸せだと思いました。

パソコンのネットにはいっていて、いいのは全国に友だちが広がっていて煩わしさがない。
気持ちを自然に通じ有って聞いてもらえる。(夫が亡くなってから助けられたと思います)
60歳ごろにパソコンを始める。
夫はパソコンとゴルフが好きだったので、パソコンとゴルフを始めた。
ゴルフと車の運転は性に合わなかったが、夫に2年前まではやっていた。
絵の関係でネットの広がりが大きくなった。
アーティスト向きのパソコンを使って、夫とは別の専用パソコンを使用した。

元気の秘訣?  自分ではわからない。
海外旅行へは行かないし、贅沢はしないし、年金生活で十分ハッピーな生活はできる。
肉体的には食事、栄養は気を付けている、運動はあまり好きでは無いが、心して散歩しなくてはいけないと身体を動かさなくてはいけないと思って、出来る範囲で心がけている。
人との繋がり、おしゃべりをすることが元気な秘訣だと思います。
ネットのつながりで、遠くの友だちとも電話で話ができるので、気が付くと2時間話してしまったりする。
これからやりたいことはいっぱいある。  本を読みたい。 新しい知識を優しく書いてあるもの。
(宇宙、素粒子、ひも理論の事など)
好奇心だけです。
油絵から水彩をやり始めたが、難しいので、自分の思う様にもうすこし書きたいと思っている。
















2014年5月1日木曜日

川向正人(小布施まちづくり・所長)  ・住む人が主役、小布施の街づくり

川向正人(小布施まちづくり研究所・所長)   住む人が主役、小布施の街づくり
1950年昭和25年 香川県の生まれ 東京大学建築学科を卒業後、ウイーン大学に留学し、ヨーロッパの街づくりを研究されました。
帰国ご、小布施町の街作りに関心を持ち、2005年 平成17年、東京理科大学と小布施町で街作り研究所をたちあげ、その所長に就任しました。
町と大学が連携して、街作りに取り組むのは初めてのケースで、研究所には学生が常駐して、街作り大学などを開いて、町民と共に街作りに取り組んでいます。
小布施町は長野県の北部にある人口約1万2000人の街、栗の産地として知られているが。30数年前に始めた街作り事業が成果を上げ、今では年間120万人余りの観光客が訪れるようになり、街作りの成功モデルと言われています。
街作りの基本的な考え方は住みやすい街を自分たちの手で作る、その為に町民はじっくり時間をかけて話し合う独特の手法を作りだしました。
世代が代わり新たな課題もあります。  
その解決に向け、街作りの研究所は10年目を迎えます。

4月から5月にかけては凄い人出になる。 年間120万人を越える観光客が来る。
葛飾北斎が最晩年に小布施に来て、残していった肉筆画と祭り屋台などを収納している北斎館がある。
メタセコイア 中国で化石として発見されて、1950年前後に、伝わってきて、大木になった。
高井 鴻山 (豪農、豪商、文人) 子供たちは幼い時から京都、江戸で勉強させる。
戻ってきて街作りをする。
修景 必要に応じて手を入れてゆく。
街並み保存 運動として起きてくるが、保存と言う考え方 歴史的なある時代の様式に戻して、それを保存してゆくが、修景の場合には古いものを受け継ぎながら、そこに新しい要素を加えてゆく。
修景は古い家を壊すのではなく、家を引いて、或いは解体して、その時代にあった生活のスタイルに変えて、現代の生活にも合う様に、でもできるだけ昔のたたずまいを残してゆく。
自分たちも参加してゆく。

敷地の中だけ良ければと考えるが、それだと街全体として見たときにはちぐはくな状態が生れてくる。
其時に、周りの風景にどういう風に影響を与えるか、修理工事を機会に風景を良くするようにやりましょうよと、呼び掛けてゆく、その基本原理が修景。
そのお手伝いをする、その為に研究所ができた。
住民の皆さんの自分の家を治し、家の前を修理し、から始まるが、其時にこういう事を考えてはどうですかと言うところから始まる。

1980年代前半 高度経済成長で日本全体が豊かになると、西洋的なファッション、ライフスタイルが地方にも広がってくる。
地域の特徴が消えてゆく。 空気がよどんでいるような状態になる。
他の可能性に賭けて失敗してしまう街と、自分たちでしっかりやらなければいけないという街、小布施の場合は後者だった。
町長のリーダーシップ、建築家の宮本さん がいた。
最晩年に北斎が肉筆画を残し、天井画を描くが、ブローカーに持ち出される可能性がある時代になるので、北斎館(収蔵館)ができる。
代々の町長がその考えを引き継いでいる。(街作り)
住民がかなり中心になっている。 (行政、信用金庫、住民)
ちょっとずつの触発は行政だが、自分たちでやるのが基本だと、その精神が大事。

小布施の街作りは、住んでいる人の意思の統一をはかる。
土地については売買をしない事に住民が決める。
敷地の形状の具合が悪いと、土地を交換して、整える。
複雑な要素を組み立ててゆく。(伝統的なものの継承、現代の生活の状況 新旧の取り合わせ)
水路、小道があちこちにある。  栗の木のブロックで一つずつ作ってあって足に優しい。
里道 が大切に残されている。 歩いて楽しい街。
オープンガーデン 自分の庭を手入れをして解放して見せる。
花の苗、種から育てる施設を作って、そこで育てた苗を公共の歌壇に植えたり、安く分けたり、行政的なサポートがある。

私は大学院の時代に、ヨーロッパに留学したが、ヨーロッパの街を知ることになる。
第二次世界大戦の復興から街作り。
帰って来て、1980年代の前半に 修景事業が始まるが、直後から(1980年代末)、小布施にお邪魔している。
2005年に研究所ができる。  学生が常駐するようになる。
街作り大学 年に5回やっている。
分析して、ちゃんとした情報、データで未来の姿を作ってゆく、学問的な体質を持った街作りにこれからすべきだと、研究所ができるときに有った、基本的な考え方です。
学生たちがコツコツとデータを集める。
関東圏からの学生が多く集まる。

小布施に来て癒される、ここにきてどこにもない場所だという街であることが大切、その大切なものを作るために、陰で力仕事をしている、手入れする事が必要。
舗装、水路まで気を使う。
街全体の観光地化とそこに住んでいる住民の住み心地は?
観光の有り方 住民側からすると真意が理解されていない事もあるかもしれないが、この街がこれからも発展してゆくためには、どうあるべきかと、考えてゆく。
観光をどうするかと言う問題の立て方はしていない。
生活を中心に観光があってもいいし、交流があってもいいし、地道な街作りがあってもいい、と言う考え方。
世代交代が一番、問題だと思う。  30年経っている。
街作り、同じように耕してゆく様な役割りを次の世代にもやってもらいたいが、作り上げた環境を生かして、交流、海外との交流とか、時代のなかで自分たちで考えてゆかなくてはいけないと思う。
街作りとしては小布施は相当のレベルに来ていると思う。